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贈書に祈りを籠めて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月30日(金)19時21分41秒
返信・引用 編集済
  ■淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷三「史を讀みて述ぶ、夷齊の章――晉の處士陶濳」に曰く、

「韓愈『伯夷の頌』に曰く、

 士の特立獨行は、義に適(かな)ふのみ而已。人の是非を顧みざるは、皆な豪傑の士、道を信ずること篤くして、而も自ら知ること明かなる者也。一家、之を非とするも、力行して而も惑はざる者は、寡(すくな)し矣。一國一州、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、蓋し天下に一人のみ而已矣。若し擧世、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、則ち千百年に、乃ち一人のみ而已耳。伯夷の若き者は、天地を窮め、萬世に亙りて、而も顧みざる者也。昭乎たる日月も、明かと爲すに足らず、崒(しゆつ)乎たる泰山も、高しと爲すに足らず、巍乎たる天地も、容(い)るゝと爲すに足らざる也。

 殷の亡び周の興るに當りて、微子(殷の紂王の庶兄)は賢也、祭器を抱きて、而して之を去れり。武王・周公は聖人也、天下の賢士と天下の諸侯とを率ゐて、而して往きて之を攻めしに、未だ嘗て之を非とする者有るを聞かざる也。彼の伯夷・叔齊なる者は、乃ち獨り以て不可と爲せり。殷、既に滅び矣、天下、周を宗とせしかども、彼の二子なる者は、獨り其の粟を食ふを恥ぢ、餓死して而も顧みず。是に繇(よ)りて言へば、夫れ豈に求むること有つて、而して爲さむや哉。道を信ずること篤くして、而して自ら知ること明かなる者なれば也。

 今世の所謂る士といふ者は、一凡人、之を譽むれば、則ち自ら以て餘り有りと爲し、一凡人、之を沮めば、則ち自ら以て足らずと爲す。彼れ獨り聖人を非として、而も自ら是とすること、此くの如し。夫れ聖人は、乃ち萬世の標準也。余れ故に曰く、「伯夷の若き者は、特立獨行して、天地を窮め、萬世に亙つて、而も顧みざる者也」と。然りと雖も二子、微(な)かりせば、亂臣賊子、迹を後世に接(つ)がむ矣、と」と。



 愚案、先に、謝疊山『初めて建寧に到りて賦する詩』を拜記し、靖國神社遊就館に於いて、橋本景岳先生の掛軸を拜觀したことを記した。此の詩は、淺見絅齋先生の『靖獻遺言』に依つたのであるが、其の典據は、多く、中山菁莪・落合東堤兩翁遺著・雪窓沼田宇源太翁編『靖獻遺言講義』および紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』である。殊に紹宇先生の講義は精微を極め、『靖獻遺言』を學ばむと欲する者の巨燈と申してよい。紹宇先生の序を謹記し、江湖に紹介して、有志が再び『靖獻遺言』を手に執つて戴く契機をつくりたい。

 蘇れ、古書先賢。期す、日本中興。



●紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』の「序」(昭和六十二年九月・國書刊行會刊)に曰く、

「初めて『靖獻遺言』を繙いてから、四十餘年になる。從軍中、常に携へてゐたのは、慶應紀元乙丑年新刻といふ刊記のある、薄葉一册の小形本であつた。敗戰復員後に得ることができて精讀したのは、沼田宇源太氏編輯に係る、中山菁莪・落合東堤遺著と冠した洋裝本の『靖獻遺言講義』である。いく度か繰返した講義も、この本によつたことなので、手澤滿紙、綴ぢ絲も切れてしまつてゐる。

 『靖獻遺言』に收められてゐる韓退之『伯夷頌』と『唐宋八大家文讀本』に收めてゐる同文との間には、わづかであるが、文字に異同がある。そのことに氣づき、その理由を調べたことは、絅齋の、『遺言』成就に、四年かかつたぞ、といふ辛苦の跡を如實に知る契機となつた。また、たまたま手に入つた原刊の一本の書入れを精査することによつて、谷秦山が本書の初刻本を見て、その記述の上に、いく個所かの疑問を持ち、絅齋がその質疑によつて訂正を加へるところがあつたものが、現行本の本文であることを知つた。そしてこれ等の事實を知つたことは、本書の全卷にわたつて、その記述の依據とした原典をすべて明らかにし、それによつて絅齋の取捨の跡を知りたいといふ氣持をかき立てた。

 しかし絅齋は、依據とした原典の名を全くといつてよいほど記してゐないので、漸く探し出した、これと思はれる書物があつても、『靖獻遺言』の文と照してゆくうちに、大きな異同があることがわかり、あらためて原典を探さねばならなくなつたことも、少なくなかつた。しかし努力の末、ともかくも記述の殆んどといつてよい部分の典據を探し出し得たが、そのために二十數年を要したことであつた。

 『靖獻遺言』には、絅齋みづから本書を講じた『講説』・『講義』の外に、若林強齋・谷秦山・西依墨山等、門下門流の學者の講義も、その筆録が存してゐる。その寫本も次第に弊架に收めることができ、それによつて絅齋の本書編纂の意も、次第に明らかになつて來た。

 このやうにして知ることができたことは、家藏本の行間に書入れたり、專帖に箚記しておいたので、それはいつしか厖大の量となつて來た。そこでわたくしは、それを整理し編集して、一書としておきたいと考へるやうになつたが、なかなかその機を得ずにゐたところ、それを知つて、一日も早く成就してほしいと激勵し、かつその協力まで申出られたのは、かつてわたくしの講義を聽いた一人である、金本(愚案、靖獻堂金本正孝學兄。廣島縣三原の人。故人――『かたくなにみやびたる人――蓮田善明と清水文雄』・『強齋先生語録』・共編『淺見絅齋集』竝びに遺著『評傳・乃木希典』あり)兄であつた。わたくしはこの言に激せられて、昨年十月、『山崎闇齋の研究』を脱稿したことを機とし、引續き『靖獻遺言講義』の完成を志し、爾來、舊い書入れや箚記を整理し、新たに本文の現代語譯や語釋を書加へて、今年八月、一應、その稿を書上げたのである」と。



【參考・崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50



追伸。

 『靖獻遺言』は、竹内羞齋先生、かつて之を堂上に講じて處罰せられたる書なりと雖も、幕末の志士、之を讀みて志を益々堅うし、亦た平泉澄先生、戰後、攻撃重圍、辛苦艱難の中に在つて、能く支へたる一卷であつたと云ふ。

 中山菁莪(平田篤胤大人の舊師)・落合東堤兩翁遺著・雪窓沼田宇源太翁編『靖獻遺言講義』は、先般、我が友に贈つた。今、紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』を、小生は未見の友に送らうとしてゐる。恙なく屆き、幸ひに嘉みして之を披繙し、將來の糧と爲してもらへればよいが‥‥。祈りを籠めて、之を贈る。
 
 

『靖国神社の真実』初版の誤植訂正願ひ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月26日(月)00時18分59秒
返信・引用 編集済
   下記、自ら氣がついたり、或はご指摘がありましたら、隨時、増補してをります。本書のご訂正を賜はれば幸甚です。

 謹みて御詫び申し上げます。亦たご指摘いたゞきました方、幾重にも御禮申し上げる次第であります。

 各位には、偶にクリツクして戴きたいと存じます。



【『靖国神社の真実』初版の正誤表】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/99
 
 

靖國神社偕行文庫へ、『靖国神社の真実』を獻本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月25日(日)01時30分44秒
返信・引用 編集済
   三月二十四日、上京、宮城遙拜の後、靖國神社參拜。懸案だつた偕行文庫へ、九段塾藏版『靖国神社の事実』二册を、恙なく獻本いたしました。其の後、遊就館拜觀。橋本景岳先生の「雪中松柏愈青青云々」の掛軸を拜して、一昨日、拜記したばかり、感慨一入でありました。

 午後は、河原博史同血社主の講演あると聞き、こつそり聞いて、帝都を辭す心算でしたが、運惡く講師に遭遇してしまひました。然し講演は、東西來會、洵に盛會、熱氣あふれるものでありました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/255

 河原講師は、「維新」の眞義を「尊皇・敬神・崇祖」の有無に求め、維新てふ言葉の獨歩きに懸念憂慮を示すと共に、右翼民族派の奮起を促し、支那の王道・西洋の覇道、皇國の皇道の相違に及んでは、我が日本の、神國・皇國たる認識を深く護持することを求め、吉田松陰先生の書翰(『(水戸藩士)堀江克之助に與ふる書』安政六年十月十一日)、

神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる也。

を紹介して、皇國は盛衰あるも興亡なし矣、神洲の決して滅びざる所以を闡明すると共に、神國に生れ、育ち、死んで行くことに感謝するが故に、維新運動の意義を見出し、而して戰後、昭和天皇の、

五十年で日本再建といふことは、私は困難であると思ふ。恐らく三百年はかかるであらう。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/874

との仰せを拜承しては、維新は一朝一夕に成らざれば、只今の時勢に頓着すること無く、「尊皇・敬神・崇祖」の基礎を涵養して、將來へ襷を渡すことの重要性を強調された。

 講演前後、陣營の先輩諸氏や、『靖国神社の真実』の「遺響篇」に玉稿を賜はつた若き俊英烈士とも、初めて會し、洵に有意義な一日でありました。皆樣、禮儀正しく、求道心篤く、且つやさしい方々ばかりで、右翼は恐ろしいてふ世間の評判は、眞赤な嘘僞りであることを、身を以て知ることが出來た次第(はじめから自明のこと)です。所謂保守と呼ばれる連中のはうが、餘程、下品で、輕佻浮薄、不敬頑迷、中にはゴロツキも居ると感ずるのは、小生だけでありませうか。御蔭樣にて、歸宅は午前樣、有り難う樣でございます。
 
 

雪中の松柏、愈々青々。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月22日(木)20時04分52秒
返信・引用 編集済
   下記は、大野俊康靖國神社第七代宮司の『宮司就任の辭』であります。見事と申し上げる外、言葉を知りません。どうか熟讀されて、吾人一同、靖國神社奉贊の資と爲すべく、存養留意の程、只管ら歎願いたします。

 然し大野宮司の唯一の失敗は、後任に其の人を得なかつたことであります。千慮の一失と申せませう。「松平永芳宮司を尊敬する」と云ひながら、彼の面從腹背の人によつて、松平・大野兩宮司の方針は、次々に踏みにじられて行きました。無念です。俗流の權力や權威に弱き者では、靖國神社正統護持は、到底、之を望むべくもありません。後は急轉直下、戰後世代によつて、現状の爲體であります。之に媚びへつらふ應援團も後を絶たず、異樣な風潮を釀し出し、祭祀は荒れ果てゝをります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/21
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/22
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/23

 庶幾くば、松平永芳・大野俊康宮司の時代へ、速かな復古を、痛切に悃祷します。九段塾・塾頭血涙の聲を、『靖国神社の真実』から、どうか、お聽き取り下さい。靖國神社正統尊崇奉贊の聲を擧げることから、其の第一歩を進めねばならぬと恐察いたします。

 靖國神社の祭祀の嚴修を‥‥、熱祷を‥‥、

 境内から、民主主義を奉ずる政治家・文筆家の排除を‥‥、

 境内外に、清淨と静謐を‥‥、

 遊就館に、泉水隆一監督『凛として愛』再上映の聲を‥‥。



●大野俊康翁『職員に對する宮司就任の辭』(平成四年四月一日附『宮司通達』第一號。『特攻魂のままに――元靖國神社宮司大野俊康講演集』平成二十四年二月・展轉社刊に所收)に曰く、

「前宮司・松平永芳宮司の後任として、本日ただ今、靖國神社の第七代宮司に就任させて戴きました、大野俊康でございます。先程、宮司就任奉告祭を御丁重に御齋行戴き、感激も一入なものがありますが、靖國神社宮司といふ重職に、いかにお答へしていくか、改めて責任を感じてゐる處であります。

 歴代の宮司各位は、まことに高位高官、名門の御出身であられました。私は地方から出てまゐりました、一介の田舍神主であります。熊本縣天草島の總鎭守・舊縣社ですが、本渡諏訪神社の社家・大野家の第十八代宮司として、四十五年間奉仕してまゐりました。又、昭和六十一年十一月より五年五ケ月、熊本縣神社廳長も務めさせて戴きました。

 昨年春、靖國神社の宮司といふ御話を戴きましたが、歴代の社家でありますので、生涯他所へ出ることなど、全く考へてみたこともなく、まして靖國神社宮司に、私ごとき田舍神主ではと、固くお斷り致しました。しかし私の恩師・石井壽夫先生と、日頃格別の御指導を戴いてをります、靖國神社責任役員・森田康之助先生よりも、強い御勸めがありました。ことに松平宮司樣の三顧の禮を盡くされての御要請に、遂に不肖を顧みず、宮司の重職を御受けさせて戴きました。何卒、今後とも宜敷くお願ひ申し上げます。

 私は、大正十一年五月二十日生まれで、來月でちようど七十歳となります。風光明媚な天草に生まれ、田舍ではありますが、人情豐かな天草に育ち、良き氏子の方々に圍まれて、大變な幸せに惠まれた、一介の田舍神主として奉仕して參りました。

 昭和十八年、神宮皇學舘大學豫科を終了、學部の祭祀專攻科に進みましたが、大東亞戰爭が熾烈となり、その年の十二月一日、學徒出陣によりまして、熊本の陸軍歩兵部隊に入隊しました。大隊砲といふ、日本の軍隊で一番小さな大隊砲小隊でした。しかも次々に入隊してくる補充兵は老兵ばかりでありまして、その樣な部下を率ゐて戰地に向ふよりは、一人で潔く、思ひ切り戰鬪機に乘つて、少しでも御國のために役立ちたいと決意し、陸軍航空特別操縱見習士官に轉屬いたしました。しかし一人前の飛行將校となることができず、つひに敗戰となりました。

 神宮皇學舘大學も、神道指令のために廢校となりましたので、九州大學に轉校致しました。昭和二十二年二月、未だ在學中に父が急逝しました。父は、實に立派な神主でありました。當時、占領政策により、戰死者の御葬儀も、公葬は禁ぜられ、まことに御氣の毒な時代でしたが、氏子の方々は、立派な氏子葬を營んでくださいました。私は、この樣な氏子に對して、少しでも御恩返しのできる立派な神主にならねばと決意しました。それと同時に、父の立派な氏子葬に對して、戰歿者の方々は、公の葬儀も出來ず、まことに御氣の毒なことで、心から申し譯ないと思ひました。

 ことに熊谷飛行學校で、私の指導教官は、沖繩決戰に特攻隊員として出陣されましたが、その最期の別れに、手をしつかりと握られ、『大野、後は頼むぞ!』と言つて飛び立たれました。その最後の御言葉、手の感觸は、未だに忘れることはできません。また竹馬の友・學友・知己と、數多くの人々が戰死。二つ年下の實弟も、遠くシベリアのイルクーツクで戰病死しました。その樣なことで、英靈の慰靈鎭魂と、御遺族の御慰めのために、神主として出來得る限りの御奉仕をしなければならぬと決意しました。私の神主としての出發は、實にこの二つの決意に立つものであります。

 翌二十三年のお盆には、淨衣を着けて、御遺族の家を一軒一軒御參りして廻りました。氏子の家は、大方が佛教。その佛壇の前で、神道にての慰靈鎭齋を奉仕したことが、大いに感謝されたのでした。そして翌二十四年、境内に御靈(みたま)神社を創建し、氏子戰歿者の御靈を合祀申し上げ、靖國神社秋季例大祭の十月十八日を例祭日と定め、今日まで慰靈と顯彰の御祭を續けてをります。

 それから、昭和六十年、終戰四十年記念にと、本渡町遺族會の申し入れで、『靖國の碑』を境内に建立することになり、松平永芳前宮司樣の御揮毫を頂戴し、八月十五日に除幕式を嚴修し、爾來、八月十五日に、終戰記念祭を齋行致してをります。また、昭和五十年と昭和六十三年の二度、本渡諏訪神社大神樂の「天草太鼓」を御社頭にて奉奏、御神前に御奉納致しました。

 又、社報の『靖國』にも御縁があります。天草招魂祭での祭員代表の挨拶文を、四十六年五月號に、『靖國のこころ』として御掲載戴きました。さらに六十三年春、遊就館で『やしの實』を拜觀し、感激のあまり、拙い筑前今樣十七節『奇跡のヤシの實』を作詞して獻納申し上げた處、昭和六十三年七月號に御掲載くださいました。又、熊本縣神社廳天草支部長に就任後、支部神職にはかり、神職全員四十名で、『熊本縣神社廳天草支部靖國講』を結成いたしました。恐らく神職だけの靖國講は、全國でも數少ないものと存じます。

 この樣に、私の歩いてきた神主としての道をふり返つてみますと、靖國神社とは深い御縁で結ばれてをりますことに、私自身が改めて氣が付いた次第であります。まことにおこがましいと存じますが、今では、靖國神社の神々が、私を御呼び戴いたのではないかと、畏んでゐる次第であります。本日午前十時の月次祭に參列。引き續き正午に、宮司就任奉告。ついで十二時半、古屋(哲男)總代樣より、宮司の辭令を頂戴致しました。一介の神主として、これ以上の感激はありません。ことに初めての月次祭での感激は、筆舌に盡くせぬものがありました。十餘名の神職と三名の仕女が、古儀のまにまに誠心誠意の御奉仕に、御祭神もいたく御感應遊ばされ、その靈氣に強く打たれるものがありました。まさに「祭祀の至極」と、感涙にむせびました。この樣な立派な祭儀を、戰後も一貫して今日まで御續け戴いたことに、心から感謝申し上げ、心から厚く御禮申し上げる次第です。

 戰後の占領政策に惑はされ、日本精神を骨ぬきにされて、靖國の神々への感謝を忘れ去るもの多き中、默々として、この「至極の祭祀」が見事に遵守されてをればこそ、靖國の神々が、今日の日本の繁榮を成就されたものと、改めて肝に銘じた次第であります。『神は非禮を受け給はず』。假にも靖國神社の祭祀が亂れ、衰微する處があれば、立ち處に靖國の神々の御怒りを買ひ、祖國は滅亡の一途を辿るに相違ありません。私は、この祭祀の嚴修を旨とし、御祭神の慰靈・鎭魂に全身全靈を捧げ、松平前宮司の目標『國民總氏子運動』(註一)に、皆さまと一體となり邁進しなければと、決意を新たにした次第です。

 また先ほどの辭令交付式に當り、森田總代樣より、『雪中の松柏たれ』(註二)といふ、まことに有り難い御言葉を賜りました。靖國神社をとりまく現状が、いかに困難を窮めても、「大雪の中にあつても、常に青々と榮え繁る松や柏の樣に、榮えある靖國神社の宮司たれ」との仰せと畏みました。私もその覺悟で奉仕致します。何卒、皆樣も、この『雪中の松柏』となつてください。私と一緒に一致團結、この靖國神社にお仕へ申し上げませう。

 最後に、特にお願ひ申し上げたいことは、前宮司松平先生は、人格識見、統率力等、全てに傑出された御方であります。先生を百點滿點とする時、私は三十點以下です。そのマイナス七十點を埋めるためには、皆樣方の御協力を得なければなりません。これまで皆樣方は最善を盡して御奉仕してをられますが、あと一%、さらに百尺竿頭、一歩を進めての御協力をお願ひ申し上げます。百十名の方々が、この拙い私を助けて戴き、更に今一歩の御努力を戴いたならば、何とか、松平前宮司時代に追ひつけるのではないかと存じます。私も、宮司を拜命した以上、懸命に務めさせて戴きます。何卒、皆樣方も、この拙い宮司を、『自分が助けるのだ! 一緒にやるのだ!』と、いま一歩の御務めを戴きまして、榮えある靖國神社が、國の鎭めとして、さらに榮えて行く樣に、御協力のほどを、切に御願ひ申し上げます。

 又、私は人格的にも至らぬ點が多いのですが、何か不屆の點がありました時は、御遠慮なく御指摘をお願ひ致します。私も九州男兒の端くれです。腹の中は、からつとしてをります。御遠慮は無用です。どうぞ、靖國神社第七代の宮司・大野俊康を、皆樣の御力添へで、御祭神に對し奉り、恥かしからぬ宮司たらしめて戴きたく、切にお願ひ申し上げ、就任挨拶と致します」と。



**********



●註一・松平永芳宮司の申送り『國民總氏子運動』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7



■註二・疊山謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』(淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之六)

魏參政、執拘して北に投ず。行くに期有り、死するに日有り。此の詩を爲(つく)りて、其の門人・故友に別る。

 中山菁莪翁・落合東堤翁増補云、これが序なり。「執拘」は、無理にとらへること。

雪中の松柏、愈(いよゝゝ)青青。
綱常を扶植するは、此の行に在り。


 若林強齋先生云、孔子の「歳寒くして然る後に松柏の彫(しぼ)むに後るゝことを知るなり」(『論語』子罕)と仰せられたから、云はれたぞ。「愈」とあるが、別して孔子の餘意まで發せられたぞ。孔子の「松柏後凋」と仰せられたが、雪中でも操をかへず、愈々青々として見える。節義を守る者は、常から人には越えて見えるものぢやが、亂世で、愈々忠義の程が見える。三綱・五常の大節義を扶け立つるは、此の度びのことぢや。

 菁莪云、昔から忠義の人の詩も多いが、これ程、よく揃うた詩は無い。よくゝゝ暗誦すべし。疊山の行かるゝ時も、丁度、雪中ぞ。「愈々青々」、この愈の字が肝要ぞ。普段、青けれども、雪中になりて、愈々色が増す。平生しらけた枋得ぢやが、此の時になりて、愈々ぞ。「扶植」、扶け立つる事。「此の行に在り」、俺が、此の度は一大事ぢや。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五常」は、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。道義。人たるの道。

 愚案、此の「青々」は、平泉澄先生の塾名「青々塾」の出典なり矣。色は、現代一般に云ふ青に非ずして、緑なり。間違ふこと勿れ。此の「九段塾」掲示板の背景の色、即ち是れ也。

天下久しう無し、□[龍+共]勝が潔。
人間、何ぞ獨り伯夷のみ清からむ。


 淺見絅齋先生云、「天下久しう無し」、忠義仲間がさみしい。

 強齋云、さゝへて久しう□[龍+共]勝の樣な忠義の仲間が無うて淋しかつたが、されども拙者が居るからは、何の伯夷ばかりが清からふず、とあること。忠義のなりを任じた語意ぞ。前の「綱常を扶植する、此の行に在り」と云はれた氣象は、こゝで見えるぞ。

 菁莪云、忠義の人も多い中に、此の兩人を擧げられたは、忠義の爲に餓死した人々、自分の事實に叶ふ故なり。久しく無いから、此の度び俺がする。孟子が、「伯夷は、聖之清なる者也」(『孟子』萬章下)と云はれたが、今、俺が其の連れになりて死なう。

義高うして便ち覺る、生の捨つるに堪ゆるを。
禮重うして方に知る、死の甚だ輕きを。

 強齋云、「義高くして便ち覺る、生、捨つるに堪ふるを」、義のなりにかへられず、義なりに高い場になつては、命ほど大事なものはなけれども、何とも思はれぬ、惜しい氣はない、とあること。「禮重くして方に知る、死、甚だ輕きを」、子としては孝、臣としては忠と云ふなりに、身を盡すが禮。其の禮なりに、かへ樣もなく、大事な時に至りては、死はものの數とも思はれぬ、禮にくらべてみれば、甚だ輕いことぢや、とあること。

 菁莪云、生の、捨て易きを知つた。

 『孟子』告子下に、「生を舍てゝ義を取る者也」と。『孟子』告子下に、「禮と食と、孰れが重き。曰く、禮重し云々。曰く、禮を以て食めば、則ち飢ゑて死す云々」と。禮は、人の人たる世界を構成してゐる秩序。即ち子として孝、臣として忠を盡くして、それが筋目に違はず、具現されてゐるを謂ふ。

南八男兒、終ひに屈せず。
皇天上帝、眼(まなこ)分明(ぶんめい)。


 絅齋云、「屈せず」、俺があるもの。

 強齋云、南霽雲、忠義な者で、遂に節義なりに身を屈せず死した。天道の能く見すかしてござるではないか、とあること。

 菁莪云、かゝる時に當つて、嘗て忠・不忠の人の評判は、證據にならぬ。どこ迄もたしかな證人は、天道ぢやに因つて、あなたは分明に見てござる、あなたが證人ぢや、とのこと。

 南霽雲は、南氏の八番目の男子、「南八」と排行で呼ぶと、親しみの意が籠もる(愚案、我が八郎と云ふが如し)。唐の張巡の部下の將。皇天上帝は、單に天といふに等しい。宇宙を主宰統括してゐる至上の神を謂ふ。


【參看出典】
○遠湖内田周平翁校・雪窓沼田宇源太翁編『中山菁莪・落合東堤遺著・靖獻遺言講義』明治四十四年九月・昭文堂刊
○寒林平泉澄博士編・解説『日本學叢書』第三・九・十三卷・佐々木望翁校訂註釋『淺見絅齋・靖獻遺言竝講義』上・中・下・昭和十四年三月・十五年七月・十五年九月・雄山閣刊
○紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』昭和六十二年九月・國書刊行會刊



 友、有り。來る二十四日、講演を爲す、と。因つて『雪中の松柏』の詩を贈り、之を激勵すと云ふ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/255
 
 

もう一つの『凛として愛』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月19日(月)22時52分23秒
返信・引用 編集済
   久方ぶりに、凛氏『凛として愛』を訪れた。『靖国神社の真実』も、何と紹介して下さつてゐるではないか。再開されたやうだ。有り難い。無理せず、氣長に書き續けて欲しいと願ひます。

 此の凛氏、もしかして‥‥。あ、道理で‥‥。「泉水隆一監督の語り部」でしたか‥‥。

 此のブログに在る「泉水隆一監督のお手紙」(平成十四年九月)は、『靖国神社の真実』にも引用させて戴いたもの、小生は之により、我が塾頭を發見したのでありました。
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/



 件に曰く、

「泉水隆一監督は、若い人たちの靖国神社への参拝についてや、今の保守の活動について、色々と思うところがあったようです。監督が、「アレは、ダメだ」と言われた事を、私も知らずにやっていたので、監督に、「みんな、知らないだけだと思います。そういう話は聞いた事もないし、知れば、きっと変わります」と申し上げたら、

そうか。では、君の言葉を信じて、文句を言うのではなく、教えよう。私は、すぐにそんなことも知らないのか!と思ってしまうんだよ。本当に変わると信じて、教えよう

と、笑顔で話されていました」と。



 愚案、聽く耳を持つ素直な人もをれば、長老に食つてかゝる者もゐる。民主主義の世代も、十人十色だ。監督は、「反日をばさん」にも優しく接し、其の本心を聽き出したと云ふに‥‥。あ、しまつた、憶ひ出してしまつた――、何處ぞの「保守」とやらの言葉を‥‥、敵はんなあ~~、嫌だ々ゞ。お休みなさい。
 
 

緊急告知、『靖国神社の真実』増刷について。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月17日(土)16時26分54秒
返信・引用 編集済
  ご閲覽の皆樣へ

緊急告知

 今の度び、或る御方のご希望により、九段塾藏版『靖国神社の真実』を【増刷】することに致しました。

 ご閲覽各位には、此の増刷の機に、もし【頒布の希望、或は追加】がございましたら、ご融通申し上げたく、

 至急本掲示板へでも、或は『靖国神社の真実』四百九頁の連絡先へでも、ご一報たまはりますやう、御願ひ申し上げます。

 泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭の遺志恢弘――「靖國神社正統護持」に奉贊する爲めでありますから、遠慮は全く要しません。

 なほ、現在、小生の在庫若干分のある限りは無代(送料着拂ひを御願ひすることもあります)、

 今の度びの増刷分につきましては、一册當り「一、金一千圓」(送料着拂ひを御願ひすることもあります)を賜はり、不肖備中處士と共同企劃とさせて戴きたいと、取り敢へずは考へてをります。ご賢察ください。

 ただし頒布希望の期限は、勝手ながら、【三月二十五日】とさせて戴きます。以降、増刷は致しかねますので、豫めご諒承ください。

     備中處士 謹白
 
 

嬉しい悲鳴‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月 7日(水)18時50分59秒
返信・引用 編集済
   九段塾藏版『靖国神社の真実』、取り敢へずは好評のやうで、更に「増刷」も考へねばならぬ事態と相成るかも知れません。本道に有り難いことであります。本書は、誰も云はず、何處にも書かれてゐない、文字どほり、「靖國神社の眞實」が書かれてをりますので、一部には敬遠されるでありませう。

 然しさゝやかなる此の上梓は、小生が、一に、泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭への報恩感謝の爲めと、而して何より其の志を紹述せんと欲して企劃したものであります。滿天下、識見ある方々の御目に留まつて、何卒、塾頭の本志を恢弘して戴きたいと、切に懇願して已みません。

 九段塾塾頭・金城翁の本志とは、抑々何ぞや。賀茂百樹――鈴木孝雄――松平永芳――大野俊康宮司の精神を繼承し、恢弘し、且つ復古すること、即ち是であります。此の至願は、遙かに明治天皇の聖旨に應へ奉り、今上天皇の神業を翼贊し奉ることに外ならないのであります。

 而して最も恐るゝ所は、「何處も同じだなあ、困つたものだ」で、終はつてしまふことであります。抑々靖國神社は、天皇の神社、明治神宮と密接なる關係あつて、皇國護持の所據であります。尊皇戀闕の有志は、深く肝に銘じて戴かねばなりませぬ矣。
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm

 なほ一言、申し上げておきますが、本書は無代、即ち非賣本であります。奧附には、なるほど「頒價」の文字がありますが、これは、或る御方が形の上からも入れろ、との仰せに、迂闊にも挿入したもの、今になつては悔いてをります。之を信じて金子を封入して來られた御方がをられて、小生は困惑、謹んで返送させて戴きました。續編を熱望されましたが、それは寶籤でも中りましたら(苦笑)、鋭意、考へたいと存じます。

 本書を熟讀された有志――遺響篇の執筆者・九段塾參加者および見守つて下さつた御方、また本書を落掌した未知の方々は、あらためて讀後の感想や自身の御志を、是非とも此の九段塾へ投稿して戴きたいと存じます。塾頭の箴言・名句、頗る多くして、今後に於ける奉皇報國の所據ともなりませう。九段塾は、塾頭ご照覽の掲示板であります。たとへ短文であらうとも、塾頭の御靈、必ずや、御嘉納たまはるものと確信してをります。期日は申しません、どうか、ゞゝゝ、宜しく御頼み申し上げます。

 本書は、謂はゞ靖國神社正統護持の爲の序論であつて、本掲示板所收の「最終講義」が、塾頭渾身の雄叫び、教化の本論であることは云ふまでもありません。續いて御高覽たまはれば、小生の喜び、之に過ぐるものはございません。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/

 下記は、本書を謹呈した御方から賜はつたもの、其の一部を紹介させて戴きます。



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「送っていただいた『靖国神社の真実』、さっそく拝読しております。すでに掲示板で読んでいる内容ですが、あらためて書物として読み進めてまいりますと、実に切実なる感想を覚えます。九段塾塾頭の声が、まさによみがえってまいります。愉快、痛快なるあり、また真に沈思黙考せざるを得ない口演もあり、憤懣やるかたなし、もあり。

 また、あまりにも膨大なる掲示板の投稿であったことにも、いまさらのごとく驚いております。やがて、人々の手にわたり、ネット上の掲示板ではなく、書籍の形態なるがゆえに、あらたなる読者をえて、故塾頭の志操が広まりゆくことと思います。本書の刊行が、これからの情勢にどのような反響を呼ぶかは、はかり得ぬも、見識を持つ方々には、見過ごせないものとなるのは間違いないと思います」と。

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【參考『一、一兵士翁、掲示板に登壇』(『靖国神社の真実』十七頁から五十六頁)――『二、靖國神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか』以前の文章――からの摘記】

一、靖國神社は、額に矢じりは受けても、後ろには受けない草莽の兵士の勇武、皇軍兵士の武勲を祀っている、天皇の軍隊の神社である。誰一人、後ろ傷を持つ兵士は祀られていない。賊軍の会津藩士も、天皇の軍隊でもない自衛隊隊員は、祀ることが出来ない。英霊の武勲をいただき、それを社会に役立てる、これが顕彰であり、英霊参拝の意義がある。

一、武器弾薬なくも、自決もしないで餓死するまで、皇軍兵士は戦ったことを誉れと、なぜ思わないのか。餓死は恥ではなく、誉れである。戦争は、戦いは勝つか負けるかではなく、突き進むこと、向い続けることが正義であり、常に正義のためにある。「転進」は、靖國神社に祀られることが第一義なために、皇軍兵士の名誉を守るために、大東亜戦争で生まれた用語である。しかし戦争には、絶対勝たなければだめである。

一、靖國神社の祭神は、未だ皇軍兵士の精神と矜持を維持したまま居られる。兵士を可哀想だと思わないで下さい。よくぞ戦って下さったと思って下さい。勇猛果敢な皇軍兵士の神々に、慰霊はおかしい。靖國神社は、御霊を慰めるためではなく、皇軍兵士の雄渾、武勲の魂をお祀つりしているのであって、戦死者を祀っている訳ではない。靖國神社を、今次大戦の戦没者を祀る「慰霊の場所」などと、得心なさらぬように。吶喊の声をあげて鴨緑江を駆け参じ、額に敵弾を受けて真っ先に伏された草莽の兵士の御霊は、凱旋帰国して、靖國神社に祀られている。その方々に「慰霊」などと口にすれば、たちどころに「無礼者」と、社殿に額づく皆さんでも足蹴りされて、「下がれ」と言われるかもはなく、間違いなく言われることを覚悟せよ。

一、遺書に「護国の鬼となって、皇国を護る」とあったら、絶対に遺骨を捜してはいけない。護国の鬼は、地中深くに立ったまま、文字通り「鬼」として、未来永劫、無限の果てまで祖国日本を護り続けている。

一、日本人は現地人を馬鹿にはしたが、「差別」はしなかった。現地人に恐れられたのは、関東軍が現地人を殴るときは拳骨だったからであり、関東軍に対する恐怖心は、国民党にも中共軍にも浸透している。

一、歴史は実感なんです。その時の国民が、どう実感したかである。「日本が敗戦したから」、悲惨な目にあったのです。戦争だから、悲惨なのではない。

一、敵を殺すのではなく、一人でも多くの敵を倒し(殺すのではなく倒すのである。殺すより倒したほうがいい。傷を負わせれば、救助のために戦闘員が割かれ、能力が低下するからである。地雷は、まさにそのための兵器。即死では敵の兵力が一人減っただけでしかない)、一分でも長く戦闘が出来る兵を作り上げるために、「しごく」のである。それは自身の命を守るための訓練である。

一、皆さんが、靖國神社を想い、英霊を顕彰し、本当に心から祭神を尊いと思うなら、酒を飲みながら靖国護持だの、英霊の話をするのはおやめなさい。タバコをくゆらせ、酒を酌み交わし、英霊のことを話すなどは厳禁。また「英霊たち」・「兵隊たち」・「彼らは」・「ご英霊」・「横文字のシャツ」・「酒席での議論」、これだけは禁止事項にされることが望みである。「靖國神社」と、必ず正式名称を呼称して下さい。真性に靖國神社を尊ぶ者は、「靖国」などと、呼び捨てには出来ない。小生が、もし暗黒の時代になり、どれが味方かどうかを審議するなら、まず、「靖国」と呼び捨てにする者は、例え宮司であろうが、「斬れ」と命じる。裏切り者だからである。

一、「表裏」「表と裏」などの言葉は禁句である。帝国軍人に、「うら・おもて」はない。常に自分を諌め、己を慎み、軍人精神に徹することが、皇軍兵士の真髄であり、正道と思い至らしめることにある。

一、英霊を尊ぶなら、遺書を使うなら、遺族の了解を取り付けてからにして下さい。

一、祀られている英霊は、「世界が、皇国が平和であることは願った」が、平和を祈って戦ったのではない。

一、日本は、天皇の国であり、皇土を守護するのは、皇軍兵士である。皇軍が降伏したことは、日本が降伏したのである。皇軍兵士に、条件付き降伏はない、皇軍軍紀の神髄は、命令絶対服従というのが鉄則である。無条件降伏だから、兵士は号泣し、天皇陛下に申し訳なく、慟哭した。軍人は栄誉・潔さを重んじる。国家のために命を差し出す。「日本は無条件降伏していない」という論は、皇軍兵士の名誉を貶めるものと思って下さい。

一、英霊のことを書くのであれば、身を引き締めろと、小生強く言いたい。英霊は、天皇統率の下に、純白の正義を保ちて、そのままに陣中に没しておられ、神として祀られている。いま靖國神社に行かれれば、あなたを見ている英霊は、紅顔の青年ではなく、唇を引き締めた皇軍兵士である。峻厳端正、光輝ある英霊を侮るようなことは、絶対にされないように、身を膝下において、英霊を常に仰ぎ見ていれば、失態は絶対に起こさないはずである。あなたと小生の話を、英霊は聞いているかもしれない、そいう発想を、常に持ちなさい。

一、英霊を守るために身を捧げた松平永芳宮司も、生前、ひそかに口にしていたのは、「敵は左翼ではなく、保守だ。これに気をつけにゃいかん」と、話されていた。当時の広報課長馬場さんが、松平宮司に「旧宮家」の威風を吹かせたので、松平宮司に嫌われたのが、あの恨みの「コノヤロー」となった。

一、「一部将校」の方々も、英霊として目と鼻の先に祀られているにも関わらず、なぜ、「関東軍の一部将校は」などと、なじる歴史を「遊就館内」に書くことができるのですか。

一、。靖國神社は、戦争を肯定している神社である。だから「靖國神社」たりえる。間違っても「平和を祈る神社」などと、思わないように。皆さんの感性で神社を理解するのではなく、時代の中に遡及して理解されるように。

一、関東軍が「やった」というのではなく、「やったに違いない」が、「やった」の歴史になっただけである。それは全て「告白」・「日記」・「メモ」・「証言」などで構築された、戦後人による「日本近代史」でしかない。命令書とか、公文書で明らかになった歴史ではない。

一、天皇陛下のご発言メモとしたら、情報が正確に伝達されていないことである。誰が天皇陛下に情報操作を行っているのか、それが重要。あのメモに書かれていることは、嘘の情報なのである。真実は違う。

一、第一鳥居が汚れているのは、神々に不敬であると申されて、一晩中かけて、たった一人で、あの大鳥居を洗われた方がいる。英霊にこたえるためには、理屈が必要なのです。実感が必要なのです。論理が必要なのです。感性だけでは、こたえることが出来ない。

一、若いうちは恥を掻くのも、修行の一つです。お励みなさい。

‥‥‥‥
 
 

御内裏樣への祈願‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月 1日(木)00時03分9秒
返信・引用 編集済
   帝都では、桃は咲かねど、太陽暦三月三日、太陰太陽暦では三月二十四日、關西では月遲れの四月三日。然り、御雛樣である。

 御内裏樣、即ち天子樣へ、祈ぎ事を奏す人あり(武藤嚴男翁編『肥後先哲遺蹟』明治二十七年二月・普及舍刊に見ゆ)。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/792



●荒木精之翁の哥

「ひなまつり」――三月三日、雛壇をつくる。時に肥後の勤皇家・富田大鳳先生のことをしのぶことあり。或る年、先生、三月の雛祝に招かれて、奧の座敷に雛見にとて立ちゆきしが、いつまでも歸らず、主人ゆきて見るに、先生は内裏樣の方を向き、小聲になりて、『御氣遣ひめさるな、この大鳳が一生の間には、如何樣とぞ、御恢復のことはかり奉るべし』とて、落涙せられゐたりとぞ――

女の子ふたり わが家にありて ひなまつり まつるとすれば ひとのおもほゆ



 愚案、かつて左右、孰れか尚きか、論ぜしこと有り。
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 童謠に曰く、「御内裏樣と御雛樣、二人竝んで云々」と。然れども熟々考ふるに、天皇陛下は、宇宙に於ける北辰の如く、固より絶對唯一に大坐します御方にして、昭和の御大典に於る天皇・皇后兩陛下出御の御立ち位置を以て、以降、尚右とすることは出來ないのではないか。高御座は、飽くまで中央に座し、皇后の御帳臺は、其のやゝ左に退つて置かれてゐることからも判る。

 雛飾りの飾り方、昭和御大典以降の關東方式に習ひ奉るにしても、御内裏樣は出來るだけ中央に、御雛樣は、御内裏樣より奧に少し退いて、向つて右に御飾り申すべきでは無からうか。然しこれは理屈であつて、推奬は出來ますまい‥‥(苦笑)。小生も何を申してゐるか、支離滅裂の爲體‥‥。然しながら天子樣の一寸した御行動にて、數千年來の樣式に變更を來たすこと、之れ有り。是れ、稜威の大なる、臣民は、其の影響に驚く所あらねばならぬ。



●稻村眞里翁『雛祭の祝詞』(『國民の祝日・年中行事・新作祝詞選集』昭和二十六年五月・京文社刊――占領下の出版ゆゑに、工夫の程が偲ばるゝ)

――清祓の後、「雛祭に雛人形を拜む詞」。
この壇(うてな)に坐します雛の君たち、この家(や)の童兒(わらべ)らに、平らけく安らけく和やかに齋かれ坐しませと白す。――

この神床に鎭まり坐す、掛けまくも畏き大神たちの大前に、恐み恐みも白さく。

掻き數ふ四つの時のうち、心(うら)樂しきは、春の時(ほど)に優るものなく、春のうちにも、心落ちゐて樂しきは、桃の花咲く時にこそあれ。

三月の三日の日は、遠き古へは、上巳(じやうみ)の節句とて、大宮人たちは、遣水(やりみづ)の流れのほとりに、觴(つののさかづき)を浮かべ、漢詩を謠ひ交はし、また物合せなどして遊べりと、物などには記したれど、今には倣ふ者もなし。

たゞ中昔に始まれる雛遊びは、いともゆかしき風雅(みやび)わざにして、殊に少女(をとめ)の祭といひはやして、天の下の家といふ家は、甘き白酒など釀して供へまつるは更なり、緑なる蓬の餅(もちひ)・紅き白き豆の菓子(このみ)・美はしき草花などさへ取添へて、御祭する慣習(ならはし)にしあれば、

この○○の家にも、今日の生日の足日に、ねもころに雛祭することを、愛(め)ぐし欣(うむが)しと諾ひ看そなはしまして、生ひ先こもれる少女の齡(よはひ)、いよゝ永く、立居・振舞ひ、いよゝ風雅に、艶(ゐや)やかに人とならしめたまひ、家族・親族、睦び和(にぎ)びつゝ、家門高く廣く、彌遠永に、立ち榮えしめたまへと、

産土大神の宮司○○○○、乞ひのまにゝゝ、嚴(いか)し桙、仲執り持ちて、恐み恐みも白す。



●高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、

「三月上巳の雛祭を、女子の遊びとのみ解してゐる人が多いが、この日を戰の祝と云ひ、菱餅は、實は鏃の形であるとし、男子は竹の弓矢を持つて、歌ひ乍ら遊ぶところがある。歌は『じやんゝゝゝめつこかいめつこ、節句の團子、引つちぎつて來い』と云ひ、お供への團子は、必ず引きちぎつた。弓矢は神を迎へるものであり、矢を射るは、魔障を祓ふのであり、團子を引きちぎるのは、神を送るのであらう。このあたりでは、雛は家々の火の番だと云ふが、恐らくは古意は、火の神・家つ神であつたらうと思ふ。これは甚だ古い形を殘したものと思ふが、‥‥

 雛人形の由來を考へる時、思ひ出されるのは、天兒(あまがつ)である。上古から天兒と云つて、幼兒の形を作つたものがある。兒女の身に副へておくもので、平安時代には、出産の時、子供の枕もとに、必ず置いた。三歳になるまでは、必ず兒の枕もとにおき、お守りとした。小供の災厄は、この天兒が負ひ、子供が健康に育つやうに守つてもらふのである。後にはこの人形に衣裳を着せて、十歳迄の子供の遊び友達ともした。‥‥天兒這子から轉じて、立雛が出來、神雛・紙雛などとも云つた。室町頃には、座した雛も出來た。江戸時代に入り、綱吉將軍の頃、三月三日に行ふこととなり、其の後、段々發達して、今日のやうになつたのであるが、本來は祓の人形や天兒から起きたものであり、更に溯れば、神の憑代である。『ひな』と云ふ言葉は、小さい意味とだけ解してゐるが、雛は火の番だと云つてゐる所の用法から考へても、神と云ふ意味を含んでゐる言葉だと思ふ。

 室町時代には夫婦の雛を飾り、桃酒・母子餅を供へた記録があり、内裏雛・五人囃などは、徳川時代に入つて出來たものである。古來の沿革に考へ、本義を考へて、今日、雛祭を如何にして行へばよいかと云ふに、今のやうに多くの人形を飾るよりも、立雛二體に、桃花柳の枝を折りそへて、供へ物をして、神を祭ればよい。家の作法としては、鏡餅に菱餅・熨斗鮑を添へ、桃の花を折りそへて供へてゐる例もある」と。
 
 

徳、必ず隣あり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月27日(月)18時19分7秒
返信・引用
   中島一光翁のご紹介にて、或る遠方の御方より、下記の書を戴きました。

「泉水隆一監督の作品をコピー、拡散を続けております。

 映像に『今から援軍をおくる』というナレーションがあります。泉水監督の遺志を継いで、台湾・ブラジルはじめ、あらゆるご縁・機会をとらえ、全国に拡散の波動を広げる運動をおこなっております。現在2000枚配布したところで、息の長い拡散運動になるかと存じています。

 各地で心ある方々により自主拡散が始まっています。小生、戦後生まれではありますが、英霊の志しに感謝し尽すことはない、という思いでおります。

 DVD『戦艦大和主砲音1分/凛として愛67分』――大和は、小生が付け加えました」と。



 愚案、映畫『凛として愛』は、日本青年社・東條由布子刀自・愛国女性の集い花時計が、擴散・配布されてをられます。又ユーチユーブでは、クルーンP・よーめん兩氏がアップ(後者は英語字幕附)されてをり、誰でも見ることが叶ひます。今、お一人、件のやうな御方がをられる事を知りました。映畫『凛として愛』の力量の所爲もありませうが、天下は、實に廣い‥‥。我が九段塾の志も、孤ならずと謂はねばなりません。有り難く、洵に喜ばしい事であります。
 
 

塾頭、ご照覽を‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月26日(日)22時33分26秒
返信・引用 編集済
   暘廼舍河原博史同血社主も、泉水隆一翁『靖国神社の真実』出版を喜んでくれてゐる御方である。河原兄の無かりせば、書中の「遺響篇」は幻に終つたと申してよい。各分野の方々、長老俊英に、八方、聲をかけて戴き、各位の追悼文を得、我が塾頭の志に華を添へることが出來た。小生は感激したが、それよりも編輯中、何度も激勵を戴いた。此の書の成る、眞に暘之舍主人の賜である。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/17242360/

 塾頭の最晩年、相原修神主の歸幽を告げられた。小生は、直ちに相原神主の書を得んが爲めに、暘之舍主人に連絡、それ以來、眷顧を忝うしてゐる。其の直後、塾頭は入院、やがて顯幽、界を異にされた。塾頭が、小生に對して暘之舍主人を紹介、導いて下さつたと、獨り勝手に思つてゐる。河原兄も、亦た塾頭を慕ふお一人である。然し『靖国神社の真実』の上梓を喜んでばかりではをられない。其の遺志の繼承は、始まつたに過ぎぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/568
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/573


同血社主人の一艸獨語
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/
 
 

泉水隆一翁『靖国神社の真実』紹介。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月26日(日)15時39分51秒
返信・引用 編集済
   小生が敬慕する御二人の大先輩より、泉水隆一翁『靖国神社の真実』出版につき、温かい御紹介を賜はりました。我が塾頭の御靈、さぞや御悦びの御事と拜察します。小生も、亦た本道に嬉しうございます。兩翁に對し、謹みて深く御禮申し上げます。



 『靖国神社に参拝しよう』(平成十八年四月・栄光出版社刊)の著者であり、何時も目にかけて戴いてをる、オロモルフ博士からは、圖らずも『靖国神社の真実』書影の掲示を戴きました。装幀は、洛風書房の魚谷哲央翁に御任せしたもの、氣に入つてをります。
  ↓↓↓↓↓
http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/12232


オロモルフ翁のホームページ
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/



 草地宇山翁の門下にして、『尊皇・愛國のホームページ「彌榮」』を主宰されてをられる、中島一光(枝島賢二)翁より、玉翰と玉章を拜戴いたしました。曰く、「泉水隆一監督の御略歴を拜見し、小職と同世代であることが解り、何か通ずる思ひが有るのではと感じました。終戰時に、まだ幼兒、まさに御靈に護られた世代なのです」と。之を拜して、我が塾頭を想ふこと、切なるものがあります。又た「『御靈に護られた』との思ひを綴つた」文章も賜はりました。謹みて御披露申し上げます。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Motoyouji.htm


中島一光翁のホームページ
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/
http://www1.ocn.ne.jp/~kazumitu/
 
 

九段塾藏版『泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』頒布。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月23日(木)18時27分35秒
返信・引用 編集済
   泉水隆一翁『靖国神社の真実』頒布、長い間、お待たせ申し上げました。數日中には、「遺響篇」の玉稿を賜はりました方々、頒布を希望された方々の御手許に屆くかと思ひますので、ご嘉納ご閲覽たまはれば幸甚であります。ご協力、本道に有り難うございました。なほ失禮不備の段もあるかとは存じますが、自費出版に免じまして、何卒、御海容の程、只管ら御願ひ申し上げます。 九拜



■□■靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版

『「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』
■□■


一頁は、三十二字×二十五行×二段の縱書きにして、全て四百十六頁なり。
四六版(152ミリ×220ミリ)・淡クリーム菊判、塾頭原稿の文字、實に五十萬餘字なりき。
出版社は、京都なる「洛風書房」(代表・魚谷哲央翁)、即ち是れ也。
發行日は、平成二十三年辛卯十二月八日なり矣。
なほ此の自費出版における内容責任は、全て、編輯者たる不肖「備中處士」に在り。



***************

【 扉 】

―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社なり ――

我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、
是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、
映畫『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。
塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、歸幽。享年七十。
謹みて此の書を、塾頭の靈前に捧げ、ご照覽を乞ひ奉る。


本書は、一兵士翁が、戰後の人々に、或は靜かに滾々と、或は荒び迸り、
或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、
「靖國神社の眞實」の記録、
そして、
「靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか」の覺悟を問ひ、
皇猷神算を翼贊し奉らむと欲するものであります。
ご閲覽の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聽き取り下さい。



【目  次】

一、年 譜 篇  九段塾塾頭・福井金城翁事歴抄 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥   一

二、本 篇 一  一兵士翁、掲示板に登壇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  一七

三、本 篇 二  靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか ‥‥‥  五七

四、遺 響 篇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 三六九

五、參考文獻・跋 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 四○八


 就中、【四、遺響篇】の内容――本文・敬稱省略/五十音順

一、真の歴史観を伝へた「凛として愛」
   全日本愛国者団体会議最高顧問 靖國會特別顧問 国民協議会名誉顧問 阿形 充規

一、日本を失ってはならない
   女性塾幹事長 伊藤 玲子(元・鎌倉市議)

一、映画「凛として愛」を観て
   日本ネイビークラブ理事長 大橋 武郎(元・空将補)

一、保守による大衆運動を
   大東亜青年塾々生 岡本 美麗

一、日本人は今こそ「萬邦萬人 天皇歸一」の大理想を成就せよ
   神奈川縣維新協議會政策實行局長 海法 文彦

一、翁見えずとも、其の言や今猶ほ生命躍動す
   同血社會長 河原 博史

一、泉水隆一氏の遺文集に寄せて
   大行社本部青年隊長 木川 智

一、天皇の神社
   九段塾參加者 見目 和昭

一、泉水監督の作品に想を馳せ
   青年意志同盟青水塾々長 坂田 昌己

一、現代を生きる私達があの戦争の真実を伝える援軍になりたい
   ジャーナリスト 佐波 優子

一、映画「凛として愛」に思う
   ミュージシャン 實吉 幸郎(實吉安純海軍軍醫中将の令曾孫)

一、泉水隆一監督の遺稿輯發刊にあたり
   原道社代表 鈴木田 舜護

一、靖國神社を語る重さ
   靖国神社清掃奉仕有志の会代表 維新政党・新風代表 鈴木 信行

一、英霊が残したあるべき未来――「凛として愛」泉水隆一監督に捧ぐ
   株式会社カルチャージ代表取締役 東條 英利(東條英機首相の直系令曾孫)

一、英霊の為に生き 英霊の為に逝く
   時局對策協議會議長・防共新聞社主幹 福田 邦宏

一、映画「凛として愛」普及に協力したい
   大東塾 福永 武(不二歌道會代表)

一、泉水隆一監督の思い出
   愛国女性のつどい花時計代表 藤 真知子

一、「凛として愛」に思う
   大東亜青年塾東京本部青年部長 森川 俊秀

一、映画「凛として愛」を鑑賞して
   公益財団法人水交会――慰霊顕彰・援護委員会委員長 山口 宗敏(山口多聞海軍中将の令息)

一、大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり
   大東亜聖戦大碑護持会顧問 山本 邦法(山崎幸一郎日本民族覺醒の會々長の令従甥)

***************



 「九段塾」ご參加ご閲覽各位にて、『靖国神社の真実』頒布ご希望の御方は、
芳名・送付先・册數を、遠慮なく、本篇掲示板の最下段なる「管理者へメール」
にて、ご一報たまはれば、在庫がある限り、無代にて御送付申し上げます(但し郵送代は、着拂ひとさせて戴く場合もございます)。

     眞金吹く吉備中つ國なる玄月書屋に於いて、備中處士、謹みて白す。



*** 靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書 ***

【第一輯】――今囘の自費出版『靖国神社の真実』の元原稿――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
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◎ 以下は、小生の夢にして、容易に期す能はざるもの、些か開陳して、我が心を慰めむと欲するも、亦た可からずや。


【第二輯】――第一輯續篇・本「九段塾掲示板」の塾頭遺文/未版――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・金城翁最終講義』
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【參考/泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』臺本】
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【第三輯】――未版――
■靖國神社宮司賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』覆刻
昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
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【第四輯】――未版――
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‥‥‥‥
 
 

戀闕の悲願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月18日(土)23時06分28秒
返信・引用 編集済
  み濠(ほり)べの 寂(しづ)けき櫻 あふぎつつ 心は遠し わが大君に

 三浦義一翁の哥である。小生の最も好きな哥の一つにして、幾度び詠んでも飽くことは無い。靜寂ではあるが、激しい情熱が滾つてゐるを見る。將に「戀闕」の歌、千古の絶唱と申すに相應しい。謹誦するごとに、吾が心は、遙か大内山に至る。國手の術、事無きを得つゝある御由、少しく安堵すると共に、天皇陛下の、ひたすらなる御平癒御平安を祈り奉る。

 「戀闕」とは、眞木紫灘先生『南遷日録』卷五・萬延元年九月二十六日條に、

「日暮れ、北筑の人・平野國臣、東火の人・松村深、來訪。國禁を以て焉を辭す。焉を強ふ。竊かに面す。國臣は、戀闕第一等の人也。而して曾つて午年の禍に係り、今ま人に忌まるところと爲り、薩に入らんと欲して、關、硬くして入る可からず、東火の間に逡巡すと云ふ。」

と見ゆ。此の「戀闕」とは、紫灘先生獨特の辭とも云はれるが、其の淵原は定かでは無い。定かでは無いが、其の響きから、皇國ならでは發し得ない辭と申してよい。贈正四位・獨醒軒月廼舍平野二郎大中臣國臣先生は、京都六角獄中にて、日々怠ること無く、同じく捕縛されし志士達に對して、『神皇正統記』を講義したと傳へられる。頭山立雲翁は、「國臣平野次郎先生は近代の人にして、而して古代の人なり」(『平野國臣傳』序文)と云ひ、大川周明博士は、「明治維新の志士、雲の如し。而も其の純情の無垢の點に於て、予は最も國臣の人格に傾倒す」(『純情の人・平野二郎國臣』)と云ふ。

 平泉澄先生からも、「人は『純粹』で無ければ、話にならぬ」との教へを戴いてゐる。此の「純粹」なる者が、或は自覺特立に因るか、或は教育影響に基づくかは知らねども、「戀闕」の至情が迸り、畏くも大内山の大御心に沿ひ奉らむとするとき、自己維新は成り、而して衆ければ、必ず平成維新は成るのである。



●影山正治翁『天皇論への示唆』(維新叢書第一輯・昭和四十六年九月・大東塾出版部刊)に曰く、「

 實は、「天皇」と申し上げることに、僕(影山正治翁)などは、少なからず躊躇を感じるわけです。本來、日本の庶民は、「天皇」と申し上げることに、非常にはばかりを感じてゐた、したがつて申し上げなかつた。「天皇樣」とか、「天子樣」とか、「天朝樣」とかいふふうに申し上げてゐたわけです。「天皇」といふ言葉そのものに、本來は深い尊敬の意味がふくまれてゐるわけですが、一般的には、さうでない、即ち愼みと尊敬の念のうすい使ひ方に、戰前に於いてもなつてゐたし、特に戰後に於いては、極度にさうなつて來て居るわけです。しかし今は一つの「學術語」といふ意味を主として、僕自身も「天皇」と申し上げて話を進めたいと思ひます。大體に於いて僕は、「すめらみこと天皇」とか、「あまつひつぎ天皇」とか申すことに出來るだけして、そこに、愼みと尊敬の思ひを、ひそかにこめようとしてゐるわけです。‥‥

 日本古來の言葉でいふと、「戀闕」といふこと、即ち切なきまでに、生命の底から、「天朝・天子を戀ひ慕ふ心」‥‥。「戀闕性」といふことは、單的に云へば、「ほれる」といふことなんです。「天子さまにほれる」といふことです。「ほれる」といふことは、無條件であるわけです。論理を越えることなんです。理屈を越えることなんです。それはもう、「詩の世界」であり、もつと云ふならば、「宗教的な境地」に近いわけです。で、天皇の本質を探究してゆくためには、「理」を主體とした理論的な探求の仕方の半面に、「情」を主體とした戀闕的な探求の仕方が、切實にないといけないわけなのです。といふのは、天皇の御存在を、我々の外にだけ見て、これをあちらから見たり、こちらから見たり、上から見たり、下から見たりして探求して行く面だけでは、「天皇の本質」の全體的把握といふのはできないわけです。なぜかといふと、(松永材教授『日本主義の哲學』には)「超越性と内在性の合體」といふ表現をしてゐるやうに、それは「現人神」であり、「明つ御神」であるから、「人の面」は客觀的・理論的な分析や研究でつかめるけれども、「神の面」がつかめないわけです。その「神の面」をつかむ爲には、禪の方でいふと、「直視人心」と云つた、論理を超越して、直接に「ものの實相」を突きぬいて直入してゆく、さういふ直観力といふか、信仰といふか、論理を超越した「ほれる」と云ふ言葉がよく示してゐるやうな、さういふ觸れ方、つかみ方といふものが、半面になければつかめないわけです。このことは、「天皇の御本質」を探究してゆく上に於ける根本の一つの重要ポイントであるわけです。

 ですから、「すめらみこと天皇」を、我の外にだけ見ると思ふことではつかめない。「天皇は、我の外に在ると共に、我の生命の中にをられるんだ」といふことが、實感としてつかめてこなければわからないと云ふことなんです。そして日本の庶民は、それをおのづからしてつかんでゐるんです。非常なナイーブな形、うぶな形であるけれども、それをつかんで居るんです。

 たとへば‥‥、戰國時代から江戸時代にかけて、皇室の式微といふもの、衰微といふものが極度に達してゐた時、現在諸君が考へても、到底わからない程に式微してゐたからこそ、高山彦九郎といふ存在が、きは立つたわけです。三條大橋の上から、御所の燈が見えたといふことは、皇居があばら屋になつてゐたからです。そこで、三條大橋の上に土下座して、伏拜して泣きふした。そして「將來、必ずや維新を成しとげて、御皇室(愚案、マヽ。「皇室」とあるべきなり)の御囘復をはかり、み心を安んじたてまつるであらう」と誓つた。しかし遂にそのことが出來ず、「我れ狂へり」とだけ云つて、みづからの命を絶つわけです。その彦九郎の「戀闕の悲願」といふものが受け繼がれて、明治維新といふものになつて行く譯ですが、その高山彦九郎が「寛政の三奇人」の一人として傳へられてゐる。「奇人」といふことは、常識からはずれてゐる人、變り者であるといふことです。當時の人々は、さういふ意味で、幕府・將軍あるを知つて、皇室・天皇あるを忘れて居るやうに見える世相の中にあつて、「奇人だ」と云ひながら、その心の底で、「氣慨は高山彦九郎」で、彦九郎に同情し、ひそかに拍手を送つてゐたのです。さういふ時代だから、當時の支那思想を濃厚に研究して居つた伊藤仁齋などは、天皇を稱して、「山城王」と呼んでゐた事實があるわけです。日本國の國王ではなくして、日本國六十餘州の内の一つである山城の國の國王であると呼んだ事實までがあるわけです。‥‥明治維新は、そのやうな日本の名もなき庶民、民草の心の中の「戀闕の思ひ」が背景になつてでき上つたわけなのです。‥‥

 天皇を我の外にだけ、特に皇居の中にだけ見るといふのではなく、我が内にも見るといふこと、むしろ僕は、これが根本だと思ふわけです。明治維新の時の本流の先輩達は、その線を行つた人々です。彦九郎先生の線の先輩達は、みんなさうなんです。さうでない人々、いはゆる外にだけ見た人々、これは、いはゆる「天皇機關説」です。‥‥戀闕派の西郷と天皇機關説派の大久保では、最初から本質的には、非常に違ふんです。さうして大久保利通の方は、合體すべくして、合理主義・實利主義・近代主義・西洋主義の福澤諭吉と合體したわけです。この系列が、近代日本といふものを、ずつとひつぱつたわけです。明治七年から十年にかけて、西郷黨の人々は全滅しましたからね。しかしこの人々の悲願といふか、眞意といふものを、一番よく理解して居られたのが、明治天皇であられたわけだと思ひます。そのことは、純粹な日本の歴史眼をもつて、明治史をじつと奧底まで洞察すれば、よくわかることです。さういふ明治天皇のお心を、一番よく體感してゐたのが、西郷黨の系列に立つ戀闕派の頭山滿とか、内田良平とかいつた人々を主體とする、明治のすぐれた浪人たちであつたわけでせう。

 この點は、三島事件の見方にも現はれてくるのですが、三島由紀夫といふ人は、『文化防衞論』の中で鮮明に申してゐるが、「私は政治ではないのだ。文化なんだ」とね。「政治」をどう解するかといふことには問題がありますが、要するに三島由紀夫といふ人は、「戀闕」といふことを云はうとしてるんです。「天皇陛下萬歳」で生死を決するわけで、滿十年前、昭和三十五年秋の山口二矢君を繼いだわけです(――影山正治翁は、三島氏の國學的傾向の始まりを、昭和三十八年の『林房雄論』以降とするも、四十一年の『英靈の聲』は「亡靈の聲」と斷じ、支那的革命思想の磯部が怨靈からの脱却を試み、遂に四十五年の「天皇陛下萬歳」絶叫の自決を以て、國學の本義、即ち天皇の御本質に直結した、と見てをられる――)。簡單にいふならば、明治維新の正統派の人々の行き方をついだわけで、あるいは神代以來の日本人の正統をついだわけですが、しかし大久保利通の現實的な天皇観といふもの、さういふ天皇觀を持つた人々を、これを全面否定したりするのは間違ひだと思ふ。たゞ問題は、かういふ人々に方向を與へるといふこと、これが必要なのです。これが、やはり「天皇の御存在」であるわけです。明治天皇は、西郷一統の眞情を十分に御理解されながら、しかもこの大久保利通的やり方に方向づけをしてをられたといふことなのです。大日本帝國憲法の欽定や、義戰としての日清・日露兩戰の實施などが、それです。

 しかし方向づけが、日露戰爭に於いて限界性がきた。この限界性がきたといふことを、率直に表現されたのが、人々は全くそれを讀みとらなかつたが、明治四十三年に發せられた『戊申詔書』であるわけです。「維新ノ皇猷ヲ恢弘シ」と申されてゐます。幸徳秋水の「大逆事件」の起きた年のことです。

罪あらば 我をとがめよ 天つ神 民は我が身の 生みし子なれば

のお歌は、この大逆事件のことをおききになられて、お作りになられたものと傳へられてゐます。またそれは、「日韓合邦」の年でもあるのです。いふなれば、戀闕の先輩達の手によつて、朝鮮のアジヤ主義的同志とともに進められた「日韓合邦」、樽井藤吉さんの『大東合邦論』の純粹路線で進められ、明治天皇によつて裏づけられて進められた「日韓合邦」が、忽ちにして「韓國併合」の植民地主義的路線におちていつたといふことの時代的意味が、『戊申詔書』をすこし深く讀むと、すぐわかるのです。「このまゝでゆくと、明治維新は崩壞する、なくなる。こゝでもう一度、明治維新にかへるべきだ」といふことをいふてをられるのです。その意味での「第二の維新」の宣言が、『戊申詔書』であるわけです。

 昭和維新といふことで云ふならば、昭和維新の明治に於ける民間的出發點は、明治七年から十年にかけての西郷一統の蹶起なのです。これは、「第二維新」をやらうとしたのです。‥‥天朝・天皇の面からいふと、明治四十三年の『戊申詔書』といふものが、昭和維新の一つの原點であるわけです。さうして大正時代、大正十二年の關東大震災の後で發せられた、現(愚案、今上)陛下の攝政の宮の時の『國民精神作興の詔書』などに、この『戊申詔書』の御精神が受けつがれてゐるわけです。「今ニ及ビテ時弊ヲ革メズムバ、或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル」と申されて居るのです」と。



【「戀闕」――大君がいとしうてならぬ、至誠惻怛の心――備中處士】
  ↓↓↓↓↓
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/renketu.htm

【肥後勤王黨の源流・富田大鳳先生の「戀闕」――備中處士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/2
 
 

大内山立ち覆ふ、暗欝しき雲・霧‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月16日(木)21時52分7秒
返信・引用 編集済
   「はゆまつかひ」樣には、稻村眞里翁『聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞』のご紹介を賜はりました。洵に難有うございます。

 有志の御方には、一人でも多く、諸共に、或は宮城の大前に於いて、或は神社の廣前に於いて、或は神床の御前に於いて、謹みて、且た熱祷もて奏上して戴きますやう、伏してお願ひ申し上げる次第であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/18



【 參  考 】
  ↓↓↓↓↓
●稻村眞里翁『明治天皇御惱御平癒奉祷の祝詞』(稻村眞里翁著・稻村徳氏校註『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊――題辭は佐佐木行忠翁、題簽は石川岩吉翁、序文は鷹司信輔・石川岩吉・高山昇・今泉定助・塚本清治・宮地直一・鳥野幸次諸翁、後序は稻村眞里翁、跋文は川合茂樹・矢田部盛枝諸翁――に所收)

この小床を、嚴(いつ)の眞屋と祓へ淨めて、神籬(ひもろぎ)挿し立てて、招(を)ぎまつり坐せまつる、掛けまくも畏き、天つ神・國つ神・八百萬の大神たちの大前に、齋主[姓名]恐み恐みも白さく。

掛けまくもあやに畏き天皇、‥‥、大御心地(おほみここち)、例(つね)のごと坐しまさず、この頃、篤しく不豫(やくさ)みますと、承り畏みて、天の下、悉とに慨(うれ)たみ惑ひつつ、せむすべのたづきを知らず。

故(かれ)○○○○ら、これの○○○○に來集へる、○○○○ら、諸々相議りて、天つ神・國つ神・八百萬の大神たちを、一柱も漏れ遺ちたまふことなく、これの眞床に招ぎまつり齋(いは)ひまつり、

別きて○○○○らが、日にけに持ち齋(いつ)き仕へまつる大神たちを拜(をろが)みまつりて、禮代(ゐやじろ)の御饌・御酒・諸々の物を獻奉りて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り御祭り仕へまつらくを、平らけく安らけく諾(うづな)ひたまひて、

掛けまくもあやに畏き天皇の大御體(おほみま)、速(すむや)けく舊(もと)のごと、清々しく癒えまさしめたまひ、大内山立ち覆ふ暗欝(おほほ)しき雲・霧を、科戸(しなど)の風の、忽ちに息吹き拂ひ退(そ)けたまひ、ただ一つ心に慨たみ惑ふ、天の下の青人草の心を安からしめたまへと、乞ひ祈(の)みまつることのよしを、彌高々に聞こしめせと、集侍(うごな)はれる○○○○ら諸々に代りて、恐み恐みも白す。



【『宮城遙拜詞・宮城參拜詞』】――平成二十四年二月十七日、『宮城參拜詞』追記
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/23

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/19
 
 

紀元節に哭く。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月11日(土)12時55分57秒
返信・引用 編集済
   紀元節を祝し奉るに、こゝに舊稿を掲げ、些か修訂を以てす。亦た可からずや。

 神武天皇紀元以前に、悠久積年の歴史あり。我が「すめらみこと(天皇尊)」の起原は、固より天上、即ち天津日の高天原に存す。而して皇位の淵源大宗は、其の主宰・天照坐皇大御神(あまてらしましますすめおほみかみ)に在り。何となれば、抑々皇祖と申し上げる所以は、其の血統上の御事もさることながら、則ち「天下の主たる神」として、本來、御生れになり給うたが故ゑなればなり。

 神武天皇には、此の大地、即ち地球を治めさせ給ふ地神として、即ち第六代の現津御神に坐しませり。中今に仰ぎ奉る所の今上の天皇陛下には、人皇第一百二十五代の大君にして、第一百三十代の地神に大坐します矣。畏しとも、畏き極みなりけり。

 平成二十四年壬辰歳は、皇紀2672年、天降(或は中興)5012年なり矣。「天地も昔に變らず、日月も光を改めず。況んや三種の神器、世に現在し給へり。極まり有るべからざるは、我が國を傳ふる寶祚也。仰ぎて貴び奉るべきは、日嗣を受け給ふ『すべらぎ』になん、おはします」(『神皇正統記』)。



■『日本書紀』卷一・第五段・四神出生章・本文に曰く、

「伊弉諾尊・伊弉冉尊、共に議りて曰く、『吾れ已に大八洲國、及(ま)た山川草木を生めり。何にぞ、天の下の主(きみ)たる者(かみ)を生まざらむや』[御紀卷一・第五段・一書第一『吾れ、宇宙之珍子(あめのしたしろしめすうづのみこ)を生まむ』とのたまふ]と。是に共に日の神を生みます。大日□[靈の上+女]貴と號す。

 此の子、光華明彩、六合の内に照り徹らせり。故れ二神、喜びて曰はく、『吾が息(みこ)多なりと雖も、未だ若此(かく)靈異(くしび)なる兒は有さず。久しく此の國に留めまつるべからず。自ら當に早く天に送りまつるべし』とのりたまひて、天上の事を授けまつりき」。



●北畠親房公『神皇正統記』天忍穗耳尊條に曰く、

「吾勝尊、降り給ふべかりし時は、天照大神、三種の神器を傳へ給ふ。又た後に瓊々杵尊にも授けましゝゝに、饒速日尊は、是を得給はず。然れば日嗣の神にはましまさぬなるべし。天照大神・吾勝尊は、天上に留り給へど、『地神』の第一・二に數へ奉る。其の始めは、『天下の主たるべし』とて、生れ給ひし故にや」と。



●古愚軒栗山柴野邦彦先生の詩(寛政四年)

遺陵[神武天皇]、纔かに里民に問ひて求む、
半死の孤松、數畝の丘、
聖神ありて、帝統を開きたまはずんば、
誰か品庶をして、夷流を脱せ教(し)めむ。
厩王[聖徳太子]の像設は、金閣を專らにし、
藤相の墳塋[大織冠の多武峯十三層堂塔]は、玉樓を層にす、
百代の本支、麗(かず)、億ならず、
誰か能く此の處に、一たび頭を囘らす。

――平泉澄先生『少年日本史』に、意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、やうやくの事でお參り出來たが、來て見ると、小さい丘の上に、枯れかかつた松が、一本立つてゐるだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導し、そして『日本』と云ふ國家を建設して下さらなかつたならば、日本民族は、いつまでもバラバラに分散して、低級な生活から脱出する事が出來なかつたであらうから、神武天皇は、我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は皆、神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千數百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の數は、幾億人と云ふ多數にのぼつてゐる。即ち神武天皇は、我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかへりみる人が無いと云ふのは、何と悲しい事では無いか」と。



●『水鏡』に曰く、

「神武天皇‥‥位につき給ひし辛酉のとしより、嘉祥三年庚午の年まで、千五百二十二年(愚案、實は千五百十年)にやなりぬらん」と。


●藤田東湖先生『囘天詩史』邦家隆替非偶然條に曰く、

「其の説、以爲らく、神武天皇、辛酉元年より今に至るまで、二千四百九十餘年なり。近年庚子の歳(天保十一年)、將に二千五百に盈たんとす。宜しく斯の時に及びて、山陵を修め、以て忠孝を天下に明かにすべし」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、正しく皇紀2672年なるべし矣。


●藤田東湖先生の詩(「庚子新年」即ち天保十一年)

鳳暦、二千五百の春、
乾坤、舊に依りて、韶光、新たなり。
今朝、感を重くするは、何事にか縁る、
便ち是れ、橿原即位の辰。


○古義軒醜翁鹿持雅澄翁の哥(山齋短歌集)

大君の 宮敷きましゝ 橿原の 雲飛(うねび)の山の 古おもほゆ


○獨醒軒月廼舍平野二郎國臣先生の哥(文久元年、肥後松村大成の家にありて元旦を迎へ)

いくめぐり めぐりて今年 橿原の 都の春に あひにけるかな


○神祇道學師・神習舍薑園佐久良東雄大人の哥

死に變り 生き反りつゝ 諸共に 橿原の御代に かへさゞらめや

――天皇、御位につかせたまふの日、この御式のあとをろがみて、かたじけなみ、たふとみおもひまつるあまりに、かしこかれど、かうなん、おもひつゞけはべりし――
いつはりの かざり拂ひて 橿原の 宮のむかしに なるよしもがな



■『日本書紀』神武天皇御紀に曰く、

「天祖の降跡りまし自り以逮(このかた)、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳」と。


●『倭姫命世記』に曰く、

「天津彦彦火瓊瓊杵尊、筑紫日向高千穗槵觸の峯に天降り到り給ひて、天下を治しめすこと、三十一萬八千五百四十三年。彦火火出見尊、天下を治しめすこと、六十三萬七千八百九十二年。彦波瀲武鸕草葺不合尊、天下を治しめすこと、八十三萬六千四十二年」と。

――愚案、然らば、御紀の「餘歳」は、七年なること、疑ひ無し。


●平田大壑先生『弘仁歴運記考』に曰く、

「決め難(か)ねつれば、毎もかく苦しき瀬には行ふ如く、久延毘古神(天勝國勝奇靈千憑毘古命――飛行自在の神通を得たる谷神なり)に祈りて寢たるに、夢現の間に、『萬の大數を捨て、千の小數を取れ』と告ぐる聲、しきりに響き聞えたり。此は實に天保二辛卯年の九月朔日の夜の事にて、素より神の照覽はし給ふ所なり。

 此の事のみに非ず。己が考へには、往々かゝる夢想の事あり。『管子』の内業心術などの篇に、「之を思へ、之を思へ、又た重ねて之を思へ。之を思ふて通ぜざれば、鬼神、將に之を通ぜむとす。鬼神の力に非ず、精氣の極み也」と云へるが、かゝる事にや。‥‥

 本文の小數たる二千四百七十餘歳(『帝王編年記』云、神武天皇御宇七十六年、或は七十九年。『天神祇王代記』云、天祖の天降以來、神武天皇に至り、合せて壹百七十九萬二千四百七十九年)は、天祖降臨辛酉年より、神武天皇の崩御までを數へたる實數の古説なること疑なし」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降4996年ならむ。


●平田大壑先生『春秋命歴序考自敍』に曰く、

「余、雅(もと)より謂ふ、士君子、知己を千載に待つ、豈に善價を今日に求めむや哉。苟も帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ者有らば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとす。彼の凡庸の徒は、耳を提げて之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむること能はざる也。我れ惟だ我が宗とする所を宗とす。亦た豈に信を不信の人に求めむや哉。昔に太昊(大國主大神)、甲暦を作る甲寅歳よりして、四千八百四十年。天保四年」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降5019年ならむ。


●眞爾園竹屋大國仲衞藤原隆正翁『新眞公法論』に曰く、

「平田翁の大數・小數の説によりて、『日本書紀』にみえたる百七十九萬二千四百七十餘年の數に從ひながら、これを天孫下世よりの年數とせず。大數を爾前にとり、第一別天五神はさしおき、第二神世七代より、第三天照大神の神代、第四大汝・少彦名の神代までの年數とし、小數二千四百七十餘年を、伴信友の説をとりて、二千四百七十六年とし、その間を日子火火出見尊、一名にて凡百代あまり、二千四百七十六年とし、神武天皇の十八年を、二千五百年と定め(中興紀元――『馭戎問答』)、同十九年己卯のとしを二千五百一年として、かぞへゝゞゝて、先帝の安政六年己未のとしを、天孫下世よりの五千一年とし、このとし、江戸よりとりはからはれし異言の國條約を、天上よりあやどりたまへる、五千年革運のはじめとおもひしるべきなり。これを神慮にあらじとおもふは、まことの神慮をしらぬものなり」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降5154年ならむ。


●熱田神宮大宮司贈從四位・鎭石室角田由三郎紀忠行翁『古史略』(文久二年七月)に曰く、「

○第一、天御中主大御神‥‥初年甲寅歳より、渾りて在りしほど、一萬八千歳。

○第二、高皇産靈大御神・神皇産靈大御神‥‥天地分判の初年甲寅歳より、天地と成し定り終る間、一萬八千歳。

○第三、伊邪那岐命・伊邪那美命‥‥自凝島に坐して世の中の事始め給へる元年甲寅歳より、報命白し給ひて日少宮に留宅り給ふに至りて、一萬八千歳。

○第四、健速須佐之男命‥‥蕃國しろし看し給ふ元年甲寅歳より、大國主大神に其の御業を讓りまして夜見國に行幸し給ふ癸丑歳に至りて、三千三百歳。
(愚案、『神祇譜傳圖記』に、「素戔鳴尊。一書に曰く、天下を治しめすこと、一萬八千五百三十二年」と)。

○第五、大國主大神‥‥御世繼ぎ給へる元年甲寅歳より、皇美麻命に國土を避り奉らしめ給ふ庚申歳に至りて、千六百八十七年。

○第六
 天津日高日子番の邇々藝命は、大國主神の千六百八十七年庚申歳に、大地(おほくに)の大君主と定り給ひて、翌る天降元年辛酉春、天照大御神の高御座にして、天津日嗣受け繼ぎ給ひ、鏡・劍・玉の三種の神器[此は天津日嗣の御璽として賜へるなり]、大國主神の奉る國むけの尋ね、種々の寶物、及び大御神の齋庭の稻穗を賜はり、[此の時、天皇命、いと稚く坐ませれば]眞床覆衾に裹(つゝ)まれ給ひ、天兒屋根命・天太玉命・天宇受得賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命[以上、五柱を五部長の神と稱す]・天手力雄神・萬幡豐秋津比賣神・登由宇氣神・若御魂神を御側に陪(したが)へ、猿田毘古大神御啓行し、天忍日命、背に天磐靭を負ひ、臂(たゞむき)に稜威の高鞆を著け、手に天梔弓を持ち、天波々矢を手挾み、八目の鳴鏑を副へ持ち、頭槌の劍をはき、天靭負部を帥て、御先陣仕へ奉り、天村雲命、太玉串を取り、天忍雲根命、天津諄辭を宣り祓ひ清めつゝ、天磐船に乘り、天八重雲を排し分けて、筑紫の日向の高千穗のくしふる峯に天降りまし、吾田笠狹長屋竹島に都し給ひて、大地球(おほくに)知ろし食し給ふ。天村雲命は、御井を定めて、朝夕の御饌に仕へ奉る[是れ主水司・内膳司の始なり]。此の年、かの賜はりし齋庭の穗を、御田に作りて、その十一月中卯日に、大嘗祭あり。總ての御政事、みな天上の御儀に準ひ給ふ。‥‥この天皇命の御世は、元年辛酉より、ことし辛卯に至りて、千五百三十一年なり[此のあくる壬辰より、火遠理命の御世なり]。天皇命崩御せり。日向の埃の山陵に葬(かく)し奉る。

○第七
 天津日高日子穗々手見命[則ち火遠理命なり]は、壬辰年に、高千穗宮に坐まして、天津日嗣受け繼ぎ給ふ。‥‥この天皇命は、壬辰元年より、ことし辛未年に至りて、五百八十歳、大御代知ろし食し給ふ。崩御まして後、日向の高千穗山の西、高屋の山の上の陵に葬し奉る。

○第八
 天津日高日子波限建鵜草葺不合命、高千穗宮に坐まして、壬申歳より、天津日嗣受け繼ぎ給ふ。‥‥この天皇命は、壬申元年より、ことし庚申歳に至りて、二百八十九年、大御世知ろし食し給ふ。崩御まして後、日向の吾平山の上の陵に葬し奉る。


●友清磐山大人『靈學筌蹄』に曰く、

「神仙界に傳はる『年代記』[註イ]によると、
天降天皇は、大歳元年(辛酉)から辛卯に至りて、千五百三十一年御在位、
次ぎに彦穗々出見尊は、翌壬辰年から辛未に至る、五百十八年御在位[註ロ]、
次ぎに鵜草葺不合尊は、翌壬申年から庚申年に至る、二百八十九年御在位となつて居る」と。

――愚案、註イ=神仙傳『年代記』は、角田忠行翁『古史略』と、ほゞ同じ紀年の御由であるが、『古史略』には、彦穗々出見尊の壬辰年から辛未に至る、「五百八十年」御在位とあり、十八と八十と、或は誤記ならむか、或は誤算ならむか、得て知るべからざるなり。

――註ロ=田中洗顯翁云「干支から計算するに、實は五百二十年、先師(磐山大人)の誤算」と。又た田中翁『天孫降臨』云、「天孫降臨五千年は、平成十二年なり矣。天降三千年を西暦の紀元と爲す、西暦には、或る程度の神縁があるが如し。先師は、所謂る新人を人間と認むるが如し。猿人は勿論人間に非ず、舊人も亦た人間に近くなつて來てゐるものゝ、未だ人間とは謂ふべからず」と。是れ丁度六十年の差あり。

――然らば、平成二十四年は、天降5012年ならむ。而して今、之を採れり。
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●或は云ふ、

「書紀の紀年法が不正確であると云ふ學説には、必ずしも反對せぬも、神武(天皇)紀元を、二三百年または五六百年も値切らんとする各方面の學者の考へには、輕々しく贊同いたしかねる。不實なるものを改めて實とする事には、異議は申さぬが、甲の不正確に代るに、乙の不正確を以てする程ならば、妄りに古傳を更改しない方がよろしい。現行紀年法は、少くとも千年以來、我が國土の上に凝り固つて、大きな靈氣となつて居る。‥‥

 又た神武(天皇)紀明記の月日干支等も、後世、支那暦渡來後に逆算され記述されたもので、且つ出鱈目のものと見る學説が通用して居るが、我が國には太古以來、天上傳來の暦法もあつたもので、大年神の御子『聖神』と申すは、日知(ひじり)神にして、天時暦法に精通せられた神であり、大年神と共に、農民から至大の尊敬を受けられたものである」と。



●眞木紫灘先生『經緯愚説』に曰く、

「太祖(神武天皇)も、中興なり。然れども草昧の運、洪荒の世に、筑紫より中州へ入りたまひ、皇化を敷きたまひしは、創業なり。中宗(天智天皇)も、中興なり。然れども封建の弊、出でて修むべからざるを察して、新たに郡縣にかへたまへるは、創業なり。‥‥

 太祖の中州に入りたまへる、暴風にて稻飯命を失ひたまひ、流矢にて五瀬命を失ひたまひ、御軍も幾度か利あらざりき。されども少しも御志をかへさせたまはず、終ひに大業を成就したまひぬ。‥‥創業の主の、事を起す始め、死ぬばかりうき目を見ぬはなし。‥‥

 然らば此の際に於ては、何事も打破り、遠く古へに立ちかへり、天智天皇以上、神武天皇の神代の例をのみとり行ひ給ふ樣にあらまほしき事也」と。


●『岩倉公實記』下卷に曰く、

「(玉松)操、屡々(岩倉)具視の門に出入し、機事を計議す。(慶應三年)九月、具視は、中山忠親・正親町三條實愛・中御門經之と共に、王政復古の大擧を圖議するや、忠能等、建武中興の制度を採酌し、官職を建定せんと論ず。具視、以謂らく、『建武中興の制度は、以て模範と爲すに足らず』と、之を操に咨問す。操の曰く、『王政復古は、務めて度量を宏くし、規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、當に神武帝の肇基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機の維新に從ふを以て、規準と爲すべし』と。具視、之を然りとす。是に於て新政府の官職制度は、操の言に從ふて、之を建定すと云ふ」と。



 愚案、然るに神皇舊臣扶桑眞人梅廼舍矢野茂太郎平玄道大人、詠みらく、

橿原の 御代に返ると 思ひ[一作、頼み]しは あらぬ夢にて 有りけるものを

と。嗚呼、此の絶唱を朗誦する、こゝに幾度びぞ。此の夢を繼がんと欲して、中興の大業翼贊に自ら任じて立つ者、果して滿天下に幾人ぞや。紀元節を迎ふるごとに、今日滿天の怪雲愁雨の、如何ともする無きに哭き、筆を呵して書す、と云爾。
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我が國と、何故ゑ申さぬ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月 7日(火)23時44分48秒
返信・引用 編集済
   先日の勉強會での話。岡田則夫翁は、怒つてをられた‥‥。

 最近は、司馬遼の影響かどうかは知らないが、我が國を、「此の國」と云ふ者ばかり。特に保守と稱する輩に多い。今では、右翼も言ひ出してゐる。嘆かはしい‥‥許すこと能はぬ、と。

 然り。小生も、腹に据ゑかねてゐる。小生は決めた、西暦を云つて元號を申さぬ奴、靖國神社を靖國と呼捨てゝ憚らぬ者、我が國を此の國と稱して耻ぢぬ輩、これら「謀叛豫備罪を犯す」不敬不義の醜原の書いた物は、もう、讀まぬ。
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●戸田義雄博士『よみがえる三島由紀夫――靈の人の文學と武と』(昭和五十三年十一月・日本教文社刊)に曰く、

「『故忠』とは、『孤忠』や『獨忠』と同じ意味の言葉である。人の力をからず、獨り忠義を盡すことが、『故忠』の元々の意味であるが、かうした故忠・孤忠・獨忠の意味に加へて、終始變らずに、長い間、忠節の心を持ち續けるといふ意味があるやうである」と。



●平泉澄先生の哥

青々の子等 皆緋縅(ひをどし)の 鎧着て 今日のいくさに 馳せ向ふらむ

丈夫(ものゝふ)は かへりみなくて 一筋に けはしき道も ひとりこそ往け

滿洲の 曠野に立ちて 祝詞よみ やまとの神に 乞ひのみ申す

天津日の 光かゞやく 世となさで 益良雄なんぞ 朽ち果つるべき

鍬執りて 七年八年 荒れし手に 今ぞ掲げむ 日の丸の旗

爲すわざの 一つ一つに 祈りあれ 祈らば國は またも興らむ

丈夫は 寂しきものか さしてゆく まことの道の 友まれにして

單騎なほ 千里行くべし しかあるを 友あり同じ 斯の道を行く

怒り無し 怖れあらめや 我は只 いにしへの道 今にふむのみ

白山の 神のしるしの 杉の木の 直ぐなる道を 行かむとぞ思ふ[白山、平泉澄、九十才。遺詠]
 
 

寸楮拜呈。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月 3日(金)20時54分10秒
返信・引用 編集済
   本日は節分、鬼やらひの日であります。
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靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版
「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――

は、既に本文は刷上がり、製本豫定の由、些か遲れましが、二月中には送本、「遺響篇」執筆いたゞいた各位、また希望された方々の御手許に屆く豫定であります。今ま暫く御待ち下さい。
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――――――以下、「扉」より

本書は、一兵士翁が、戦後の人々に、或は静かに滾々と、或は荒び迸り、
或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、
「靖國神社の真実」の記録、
そして、
「靖國神社の正統を、次代者はどう受け継ぐべきか」の覚悟を問ひ、
皇猷神算を翼賛し奉らむと欲するものであります。
ご閲覧の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聴き取り下さい

―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する神社なり ――

我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、
是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、
映画『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。
塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、帰幽。享年七十。
謹みて此の書を、塾頭の靈前に捧げ、ご照覧を乞ひ奉る。


■□■□■□■□

     寸楮拜呈、敬つて白す。備中處士、九拜

 

景仰、平安神宮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月30日(月)22時21分7秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 孝明天皇祭に當り、御父仁孝天皇の宣命を拜記し、亦た孝明天皇の詔敕を謹録して、其の聖徳の一端を偲び奉らむ。



■仁孝天皇『故徳川光圀に權大納言從二位を追贈し給ふの宣命』(天保三年五月七日『常磐神社記録』)

 天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故權中納言從三位・源朝臣光圀に詔(のりたま)へと、敕命(おほみことのり)を聞し食さへと宣りたまふ。

 義(たゞしきことわり)を嗜むの至れる、身を修むるの潔(きよ)さ、行ひ瑕玷(きず)なくして、學(まなびのわざ)古今を通せる、闕廷(みかど)の尊きも久しく徽烈(うるはしきいさを)を感(かま)けたまひ、里閭(むらざと)の鄙しきも永く流風(てぶり)を仰げり。本朝(わがくに)の典籍(ふみ)を研究(きはめたゞ)して著述(かきあらはすわざ)の盛んなる事、大いに成しとげ、古へを稽へることの精力(ちから)を覃(の)べ及ぼして、緒餘(あまりのわざ)の遺迹(あと)、益(くぼさ)有り。此の先賢を禮し、其の舊き勳を賞せむと、故れ是を以て、權大納言從二位に上げ給ひ贈り賜ふ天皇が敕命(おほみこと)を、遠(はろ)かに聞し食さへと宣る。
  ↓↓↓↓↓
【更に正一位を贈らせ給ふ。勤王之倡首・復古之指南たり矣】
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■孝明天皇『和氣清麿に護王大明神の神號を贈り、且つ正一位を追贈し給ふの宣命』(嘉永四年三月十五日『孝明天皇紀』四十一)

 天皇が詔旨らまと、贈正三位行民部卿兼造宮大夫・和氣朝臣清麿に詔(のりたま)ふと、敕命(のりたまふおほみこと)を聞し食さへと宣りたまふ。

 奈良の宮の御宇に、淨く貞かに明らかなる心を以て仕へ奉りしが、宇佐に詣でし時にしも、猶ほ正しく直き眞事を以て請(う)け問ひ奉るに、大神も相うづなひ愛しみ大坐して、貴く畏き御教言を以て、悟し給ひ慈(めぐ)み給ひしに依りて、君と臣との道、驗(しる)く立ちぬ。此の時に當りて、汝(いまし)微(な)かりせば、下として上を凌ぎ、上として下を欺くことの有りつらむに、身の危きを顧みず、雄雄しく烈(はげ)しき誠の心を盡くせるは、古への人の云ひて在るらく、危きに臨みて命を致せるものなり。また云へらく、至忠に至正にして、能く道を以て君を濟ふと云へるは、汝の事ならむ。

 然るに世に顯るる事の足らざることを歎き給ひ愍み給ひ、彼れ是を以て吉き日・吉き辰(とき)を擇び定めて、護王大明神に崇め給ひ尊び給ひ、又た御冠(みかゞふ)り位を、正一位に上し給ひ治め給ひ、從四位上行神祇少副兼淡路守・卜部朝臣良祥を差し使はして、御位記(しるしのふみ)を捧げ持たしめて、出だし奉り給ふ。

 此の状を平けく安けく聞し食して、天皇朝廷(すめらみかど)を、堅磐に常磐に動(ゆる)ぎ無く、夜の守り日の守りに護り幸へ給ひて、天下泰平に、いかし御世の足らし御世に、護り恤(めぐ)み給へと、恐み恐みも申し給はくと申す。



■孝明天皇の宸翰(徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十一日。『孝明天皇紀』百七十七所收「山階宮國事文書」)

 嗚呼、汝、方今の形勢、如何と顧(み)る。内は則ち紀綱廢弛、上下解體、百姓塗炭に苦しむ。殆んど瓦解土崩の色を顯し、外は則ち驕虜、五大州の凌侮を受け、正に併呑の禍ひに罹からんとす。其の危きこと、實に累卵の如く、又た燒眉の如し。之を思うて、夜も寢ぬる能はず、食も咽を下らず。

 嗚呼、汝、夫れ是れを如何と顧る。是れ則ち汝の罪に非ず、朕が不徳の致す所、其の罪、朕が躬に在り。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ゆることを得んや。由つて思へらく、汝は、朕が赤子、朕、汝を愛すること子の如く、汝、朕を親しむこと父の如くせよ。其の親睦の厚薄、天下挽囘の成否に關係す。豈に重きに非ずや。

 嗚呼、汝、夙夜、心を盡し、思ひを焦がし、勉めて征夷府の職を盡し、天下人心の企望に對答せよ。夫れ醜夷征服は、國家の大典、遂に膺懲の師を興さずんばある可からず。然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕、其の可否を論ずる詳悉、以て一定不拔の國是を定むべし。

 朕、又た思へらく、古へより中興の大業を爲さんとするや、其の人を得ずんば有る可からず。朕、凡百の武將を見るに、苟しくも其の人有りと云へども、當時、會津中將・越前前中將・伊達前侍從・土佐前侍從・嶋津少將等の如きは、頗る忠實純厚、思慮宏遠、以て國家の樞機を任ずるに足る。朕、之を愛すること子の如し。願はくは汝、是を親しみ、與に計れよ。

 嗚呼、朕、汝と誓つて衰運を挽囘し、上は先皇の靈に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして成功なくんば、殊に是れ朕と汝の罪なり。天地鬼神、夫れ是を殛すべし。汝、勉旃(つとめよ)、勉旃。



■孝明天皇の宸翰(再び徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十七日。『孝明天皇紀』百七十七所收「議奏役所文書」)

 朕、不肖の身を以て、夙に天位を踐み、忝くも萬世無缺の金甌を受け、恆に寡徳の、先皇と百姓とに背かんことを恐る。就中、嘉永六年以來、洋夷、頻りに猖獗來港し、國體、殆んど云ふべからず。諸價沸騰し、生民塗炭に困しむ。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。

 嗚呼、是れ誰の過ちぞや。夙夜、是を思うて止むこと能はず。嘗て列卿・武將と、是を議せしむ。如何せん、昇平二百餘年、威武の以て外寇を制壓するに足らざることを。若し妄りに膺懲の典を擧げんとせば、却つて國家不測の禍ひに陷らんことを恐る。幕府、斷然、朕が意を擴充し、十餘世の舊典を改め、外には諸大名の參覲を弛め、妻子を國に歸し、各藩に武備充實の令を傳へ、内には諸役の冗員を省き、入費を減じ、大いに砲艦の備へを設く。實に是れ朕が幸ひのみに非ず、宗廟・生民の幸ひ也。

 且つ去春、上洛の廢典を再興せしこと、尤も嘉賞すべし。‥‥然りと雖も、皆な是れ朕が不徳の致す處にして、實に侮慙に堪へず。朕、又おもへらく、我の所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比すれば、未だ慢夷の膽を呑むに足らず、國威を海外に顯すに足らず。却つて洋夷の輕侮を受けしか歟。故に頻りに願ふ、入りては天下の全力を以て、攝海の要津に備へ、上は山陵を安んじ奉り、下は生民を保ち、又た列藩の力を以て、各々其の要港に備へ、出でては數艘の軍艦を整へ、無□[食+孚。へう]の醜夷を征討し、先皇膺懲の典を大にせよ。

 夫れ去年は、將軍、久しく在京し、今春も亦た上洛せり。諸大名も亦た東西に奔走し、或は妻子を其の國に歸らしむ。宜べなり、費用の武備に及ばざること。今よりは、決して然る可からず。勉めて大平因循の雜費を減省し、力を同じうし、心を專らにし、征討の備へを精鋭にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱しむること勿れ。

 嗚呼、汝、將軍及び各國の大小名、皆、朕が赤子也。今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す。民の財を耗(へら)すこと無く、姑息の奢りを爲すこと無く、膺懲の備へを嚴にし、祖先の家業を盡せよ。若し怠惰せば、特(たゞ)に朕が意に背くのみに非ず、皇神の靈に叛く也、祖宗の心に違ふ也。天地鬼神も、亦た汝等を何とか云はんや。



●徳富蘇峰翁『近世日本國民史・孝明天皇御宇終篇』序文(昭和十四年・明治書院刊)に曰く、

「何れの時代も、前代に對しては債務者である。然も別けて明治時代の孝明天皇御宇に對する債務は、更に格段である。明治天皇の盛徳大業は、固より日本歴史の最高峰である。然も其の基礎工事の殆んど全部は、皆な孝明天皇時代に成就し、然らざれば準備せられ、計企せられ、用意せられたるものである。別言すれば、孝明天皇時代を閑却しては、到底、明治天皇時代を諒解することは不可能だ。‥‥

 而して世の史家たるもの、須らくこの孝明天皇御宇史と明治天皇御宇史との間に、至緊至密の關係ある事を會得して、其の連絡、接續の經緯・曲折を研究し、闡明せねばならぬ。明治天皇御登遐の際に、明治神宮建立の事を江湖に向つて唱説したる著者が、更にこの數年來、孝明天皇の神社建立を絶叫したるも、畢竟、如上の理由がある爲めだ」と。



 愚案、後鳥羽天皇の御製、

奧山の おどろが下も ふみわけて 道ある世とぞ 人に知らせむ

亦た後水尾天皇には、

葦原や しげればしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず

と詠ませ給うた。孝明天皇の、件の「葦原の頼む甲斐なき武藏野の原」の御製は、之を踏まへさせ給うたものに他ならず、慟哭を禁じ得ないのである。孝明天皇には、かくも懇篤親切なる敕書を、再三に埀れ給うた。之に應へ奉らざる者は、遂に倒れざるを得ない。かつて徳富蘇峰翁は、「維新の大業を立派に完成した其の力は、薩摩でもない、長州でもない。其の他の大名でもない。又た當時の志士でもない。畏れ多くも明治天皇の父君にあらせられる孝明天皇である」と云はれたが、承久・建武以來の御悲願は、孝明天皇によつて果されたと申し上げてよい。

 昭和十三年五月一日、孝明天皇には、平安神宮の祭神・桓武天皇と相竝び坐して鎭り給うて、祭神とならせ給ひ、日夜、神徳を仰ぎ奉ること、誠に畏き極みである。
 
 

『養神延命録』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月29日(日)23時17分45秒
返信・引用
  幽瀛觀遯人 樣

 初めまして。

 攝津國東成郡上之宮神職・龍雷神人山口日向守大神貫道大人の『養神延命録』のご紹介、有り難く拜受いたしました。ご勞作、後日、ゆつくりと拜讀させて戴きます。

 『至道物語』にも、大人の事が、黒住宗忠大人と共に出て參りますね。然し「明和九年壬辰」との御表示直後に在る括弧内の紀年、大人には沒交渉の紀年法にして、大人には悲しまれると存じ上げます。

 こゝは、靖國神社正統護持の爲の掲示版ですので、此の話題の更なるご發言は、スレツド「時計の間」の方へ御願ひ申し上げます。懇請、敬つて白す。
 
 

龍雷神人 大神貫道大人『養神延命録』

 投稿者:幽瀛觀遯人メール  投稿日:2012年 1月29日(日)21時55分58秒
返信・引用
  突然失礼致します。
以下のブログに明和九年壬辰(1772)刊の大神貫道著『養神延命録』の原文を一部不完全(返り点など)ながら拙文禄に掲載しましたので、こちらにてご案内させて頂きます。

この『養神延命録』は、現在日本の神仙道の嚆矢とされる平田篤胤大人の『仙境異聞』に先立つことちゃうど五十年、埋もれたる日本神仙道最初の書でありまして、いやしくも日本神仙道を奉じるものであれば一度は眼を通して置くべき貴重な書と愚考いたします。

併せて埋もれたる大神仙家・大神貫道大人の顕彰にもご助力の程宜しくお願申上候。

http://iueikwan.blog.fc2.com/

 

明治天皇の敕諭を仰ぎ、靖國大神を想ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月27日(金)21時46分58秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 舊稿を再び掲げて、明治天皇の聖徳を偲び奉り、其の聖徳に應へ奉り、勇武を九段の玉垣に留めた、靖國神社祭神の恩頼を乞ひたいと存じます。



■明治天皇の宸翰(慶應四年三月十四日。『岩倉公實紀』所收。「明治維新の宸翰」、或は「國威宣布の宸翰」と云はれる)

 朕、幼弱を以て、猝(には)かに大統を紹(つ)ぎ、爾來、何を以て萬國に對立し、列祖に事へ奉らんやと、朝夕、恐懼に堪へざる也。竊かに考ふるに、中葉、朝政、衰へてより、武家、權を專らにし、表は朝廷を推尊して、實は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるや、云ふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯だ名のみに成り果て、其が爲に、今日、朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますゝゝ)衰へ、上下相離るゝこと、霄壤の如し。かゝる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。

 今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、今日の事、朕、自ら身骨を勞し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし。往昔、列祖、萬機を親らし、不臣のものあれば、自ら將として、これを征し玉ひ、朝廷の政、總て簡易にして、如此(か)く尊重ならざるゆゑ、君臣相親しみて、上下相愛し、徳澤、天下に洽く、國威、海外に輝きしなり。然るに近來、宇内、大いに開け、各國、四方に相雄飛するの時に當り、猶ほ我が國のみ、世界の形勢にうとく、舊習を固守し、一新の效をはからず、朕、徒(いたづ)らに九重の中に安居し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂ひを忘るゝときは、遂に各國の凌侮を受け、上は列祖を辱しめ奉り、下は億兆を苦しめん事を恐る。故に、朕、こゝに百官諸侯と廣く相誓ひ、列祖の御偉業を繼述し、一身の艱難辛苦を問はず、親ら四方を經營し、汝億兆を安撫し、遂には萬里の波濤を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かんことを欲す。

 汝億兆、舊來の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし、神州の危急をしらず、朕、一たび足を擧ぐれは、非常に驚き、種々の疑惑を生じ、萬口紛紜として、朕が志をなさゞらしむる時は、是、朕をして君たる道を失はしむるのみならず、從つて列祖の天下を失はしむる也。汝億兆、能々朕が志を體認し、相率ゐて、私見を去り、公義を採り、朕が業を助けて、神州を保全し、列聖の神靈を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。


 右、御宸翰の通り、廣く天下億兆、蒼生を思し食させ給ふ、深き御仁惠の御趣意に付き、末々の者に至る迄、敬承し奉り、心得違ひ之れ無く、國家の爲に、精々其の分を盡すべき事。
 三月       總裁
          輔弼。



●平泉澄博士『明治天皇の宸翰』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、「

 「國是五箇條」は、之を天地神明に誓はれたのでありますが、それと同時に、國民全體に宸翰を賜はつたのであります。しかるに『五箇條の御誓文』のみ喧傳せられて、誰知らぬ者は無い有樣でありますのに、國民全體に呼びかけさせ給うた宸翰の方が、殆んど忘れ去られた事は、不思議でもあり、申譯の無い事と云はねばなりませぬ。‥‥

 さて此の宸翰の中に、「汝億兆」と仰せられた所が、前後二箇所にあります。これは『教育敕語』に「爾臣民」と仰せられたのと同樣、全國民を對象とし、全國民に親しく呼掛けさせ給うたからであります。それでは何をお呼掛けになつたのであるかと云ひますと、‥‥其の中に極めて重大なる政治の原理原則が示されてをります事は、注意し、審思していただかねばなりませぬ。それは「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば」と仰せられた點であります。此の一句には、至つて深い意味が籠められ、至つて高い原理が示されてゐるのであります。かやうな原理は、不幸にして今日、世界のどの國に於いても考へられず、況んや實行せられてゐないのであります。今日、ある國々に於いては、多數決が政治の原則となつてゐます。若し其の多數が正しい時には、結果的にいへば、それはそれで良いやうに見えますが、其の多數が正しからず、却つて少數が正しい場合には、正しいものが、少數なるが故に、踏潰されるのであります。またある國々に於いては、名目は民主主義を唱へ、委員會を稱するにせよ、實質は少數幹部の專斷強制によつて、政治が行はれてゐるのであります。そこには異議を唱へ、異論をさしはさむ餘地は無く、もしそれを敢てすれば、鐵槌は直ちに下されるでありませう。然るに今、明治天皇のお示しになりました政治の原理原則は、「天下、一人も其の所を得ざる者、無からしむるを期す」といふのであります。是に於いては、多數も少數も、強者も弱者も、一樣に正道の批判の前に立たされるのであります。

 此の如きは、ひとり明治天皇の御理想であつたばかりでなく、御歴代天皇の常に目指し給うた所であつた事は、たとへば後醍醐天皇の御事蹟から考へても明かでありますが、言葉の上に先蹤をたどりますと、仁明天皇の敕の中に見出されます。仁明天皇の承和九年、橘逸勢は、謀反の罪に問はれて伊豆へ流され、配所へ赴く途中、遠江の板築に於て病歿しました。その孫・珍令(よしのり)、祖父に隨つて伊豆へ下らうとしてゐましたが、はからずも祖父の死にあひ、幼少の身の置きどころ無きを苦しみました。その時、仁明天皇、之をきこしめして、

罪人の苗胤と雖も、猶ほ一物の所を失ふを悲しむ。よろしく更に追還して、舊閭に就かしむべし

と、敕せられたのでありました事、『續日本後紀』に見えてをります。あゝ、ギリシヤの古代に於いて理想とせられたる哲人政治、その高遠なる理想は、我が國に於いて、御歴代天皇によつて實現せられたと云つてよいでありませう。

 これに就いて深い感銘を示されたのは、近衞文麿公でありました。昭和十二年正月、國會議事堂の新築落成の際、貴族院議長として祝辭を述べられる事になりました近衞公は、その草案の作製を私(平泉澄博士)に求められました。よつて即刻筆を執りました私は、その草案の中に、次のやうに書きました。

――――――

「この堂々たる新建築に對しまして、我々の反省いたします所、反省して深く責任を感じます所は、尠なくないのであります。こゝには、その中の最も重大なる一つに就いて、申し述べようと思ひます。

 一體、議會を考へます時に、我々の頭に、直ちに浮かんで參りますものは、明治の初めの『五箇條の御誓文』、就中、その第一條に掲げられました所の、「廣ク會議ヲ興シ、萬機、公論ニ決スベシ」との御言葉であります。いふまでもなく、此の御誓文は、萬人周知の事でありますが、しかしながらこの第一條の意味は、一般には餘りに簡單に、また餘り淺薄に考へられてゐるのではないかと思ひます。即ち之を只だ多數の意見に從ふやうにとの御趣旨にのみ解しまして、多數決であれば事がすむやうに考へてゐるのではないかと思ふのであります。しかしながらこの萬機公論に決すべしとの御言葉は、只だ多數決といふやうな簡單な機械的な意味ではないと拜察いたします。何故ならば、當時賜はりました御宸翰に、「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば」と仰せられてゐるのであります。もし多數決で物がきまつて、少數が否決せられるといふ事であれば、少數の意見は、常に其の所を得ないのであります。しかるに明治天皇は、一人も其の所を得ざる時は、朕の罪なりと仰せられてゐるのであります。して見れば、萬機公論に決すべしとの御言葉は、之を只だ多數決といふ風に、機械的に解釋し奉る事は出來ないのであります。

 こゝに思ひ當りますのは、同じ御宸翰の中に、「汝億兆、能々朕が志を體認し、相率ゐて、私見を去り、公義を採り、朕が業を助けて、神州を保全し」云々と、勅せられました事であります。即ち「萬機、公論に決すべし」との御言葉は、此の「私見を去り、公義を採り」との御言葉と相照應するものであります。して見ますれば、我々は、只だ多數で物をきめてゆけばよい、といふわけではない。形の上からいへば、いかにも多數で物がきまるのであるが、しかしそれだけでは、聖旨に副ひ奉る事は出來ないのである。どうしても我々は、私見を去り、公義を採らなければならないのであります。私見を去り、公義を採る事によつてのみ、第二條に仰せられました所の、「上下、心を一にして、盛んに經綸を行ふ」事は出來るのであります。而してかやうに上下心を一にして、盛んに經綸を行ひます事によつて、初めて第三條に仰せられましたやうに、天下の人心を倦まざらしめる事が出來るのであります。而してかくして、初めて舊來の陋習を破り、天地の公道に基づき、また智識を世界に求め、大いに皇基を振起しようとの御叡慮にそひ奉る事が出來るのであります。天下億兆、一人も其の所を得ざるものなきを得るのであります。

 新築せられました議事堂に對して、色々感ずる所が多いのでありますが、その一つは、實にこの私見を去り、公義を採らなければならないといふ事であります。」

――――――

 此の草案をお屆けしました時に、近衞公は、すぐに之を一讀せられましたが、腑に落ちかねる御樣子で、「此の明治天皇の御宸翰は、何に載つてゐますか」と訊ねられました。「『岩倉公實記』に載せてあります」とお答へしますと、公は、その正確さに安心せられて、再度之を讀みかへし、いかにも感嘆に堪へざる如く、大きく目を見張つて云はれました。

「是れは宸翰と呼ばずに、敕語と申し上げるべきものですね。そして『教育敕語』と竝べて、全國民の服膺すべきものですね。」

その時、示された近衞公の深い感動を、私は今に至つて忘れる事は出來ませぬ。

 ‥‥宸翰を拜して受けられた感動は、近衞公の胸に深く刻み込まれて、大政翼贊の根本理念となつたに違ひありませぬ。それは、昭和十五年九月二十七日に下されました詔書に、

惟ふに、萬邦をして、各々其の所を得しめ、兆民をして、悉く其の堵に安んぜしむるは、曠古の大業にして

と仰せられてあります事、また同日締結せられましたる日獨伊三國條約の前文にも、「萬邦をして、各々其の所を得しむるを以て、恆久平和の先決要件なりと認めたるに依り」とある事によつて明かであります。輔弼の重臣として考へます時、近衞公純忠の貴い精神と、聰明にして深い洞察力とには、頭が下がる事であります」と。



●内閣總理大臣・近衞文麿公『大命を拜して』(昭和十五年七月二十三日夕のラヂオ放送。平泉澄博士『日本の悲劇と理想』昭和五十二年三月・原書房刊に所引)に曰く、「

 蓋し國内に種々の意見が對立して、互ひに相爭ふといふ事でありましては、摩擦相剋して力を外に專らにし得ず、左顧右眄して勇斷の機會を失ふからであります。思ふに從來、政黨の弊害は二つであります。その一つは、立黨の趣旨に於きまして、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社會主義をとりまして、其の根本の世界觀が、既に國體と相容れないものがあるといふ點でありまして、これは今日、急速に轉囘し、拔本的に改正しなければならない所であります。其の二つは、黨派結成の主要なる目的を、政權の爭奪に置く事でありまして、かくの如きは、立法府に於ける大政翼贊の道では、斷じて無いのであります。

 以上、二つの弊害を去りまして、すべて國體に則り、大御心を仰いで、一億一心、眞實の御奉公を期しなければならないと思ひます。隨つて私の考へます新體制は、決して從來の黨派の離合集散によつて、新たに一個の新黨の成立を企てるといふのではなく、實に無黨を期するのであります。これは國體の本義から申しまして、當にしかあるべき事と信ずるのでありますが、幸ひに各方面の贊同を得、協力を得ました事は、私の深く欣快とする所であります。‥‥

 それは變轉極まりなき國際情勢の中に在つて、國家防衞の手段を確保して、國家永遠の繁榮を期すると共に、皇道の發揚によつて、世界の情勢に新生面を開發し、新理想を賦與し、之を正しきに指導するものでなければならないのであります」と。
  ↓↓↓↓↓
【近衞文麿公『大命を拜して』全文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/367

【近衞文麿公『英米本位の平和主義を排す』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/248



 愚案、近衞文麿公は、明治天皇の宸翰、即ち『教育敕語』と相竝ぶべき、極めて重大なる敕諭に驚歎して、國民の全てに、即ち外ならぬ我々に御下賜遊ばされた事に想ひを致して、明治天皇の聖徳を景仰し、やがて八紘一宇の眞諦を、此の謂ひに於いて理解された事は、今日に在つても、我々の大いに繼述しなければならない理想と考へます。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/190
 
 

神たる天皇陛下‥‥嗚呼、一視同仁の聖徳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月25日(水)19時10分20秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 今日より五日の後は、大内山の孝明天皇祭の日であります。孝明天皇の聖徳を仰ぎ奉ると共に、昭和天皇の聖慮、平成の天皇陛下の龍徳を偲び奉りたいと存じます。



●木下道雄侍從次長『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』(昭和四十三年二月初版・新小説社刊。平成十年一月新編・日本教文社刊――些か假名を漢字に變換させて戴きました)に曰く、

「昭和の初めの頃の話であるが、‥‥個人の名譽に關することであるから、その人の姓名や事件の起つた時期を、こゝで明らかにすることは避けるが、とにかく私(木下道雄翁)が侍從として、陛下のお側にをつた、或る秋の夕暮の頃のことである。

 そのとき、内閣書記官が、あはたゞしく侍從職に馳せつけてきて、一個の上奏箱を私に手渡していふには、「この箱の中には、一刻を爭ふ内閣總理大臣の至急の上奏書が入つてゐるから、速やかに御裁可を仰ぐやうに、特に配慮していたゞきたい」とのことであつた。私は、その箱を受け取つて、直ちに陛下のお室(へや)に參り、陛下のお机の上にある鍵箱から鍵を拜借して、これを開いた。これは通例のことで、上奏箱は、この鍵でなければ開くことが出來ないのである。

 箱の中から出て來たのは、たゞ一通の上奏文書であつた。「何某起訴處分の件。右、謹んで裁可を仰ぐ。年月日。内閣總理大臣・何某、印」といふ表題の上奏紙の裏に、數枚に亙る司法大臣の起訴理由書が綴つてあつた。當時の慣例として、正三位・勳一等といふやうな身分の人が、犯罪の疑ひを以て起訴される場合には、陛下のお許しがなければ、手を付けることが出來ない内規があつたので、大至急、そのお許しを得るための上奏であつたのである。

 この事件は、既に新聞がやかましく報道してゐた汚職事件であるが、何分にも火中の人物が政治上の權力者であるので、首相及び司法大臣が、果たして起訴を斷行する勇氣ありや否やが、世人の注目の的であつた。私は、この上奏書を一見した瞬間、總理もいよゝゝ決心されたかと、いさゝか痛快な氣持ちで、これを陛下のお机の上に差し上げた。

 汚職といへば、陛下の最も忌み嫌はれる問題であるから、すぐ裁可の印をお捺しなるだらうと思つてゐたところ、意外にも、陛下は、その書類を一見遊ばすや否や、非常にご當惑の御態度をお示しになつた。困つたな!といつたやうな御樣子である。これを拜見した瞬間、私の胸中では、「はて、何故だらうか」といふやうな、かすかな疑問が湧いたが、陛下は、上奏書に附屬した司法大臣の起訴理由書を、繰り返し々ゝ々ゝご覽になり、なかゝゝ裁可の印をお捺しにならうとはなさらない。

 段々時が經つにつれ、お側に立つてお待ちしてゐる私も、色々考へ始めた。自分は、陛下より十以上も年上の男でありながら、先刻來、いさゝかなりとも痛快味を覺えたことは、何と淺ましく、恥づかしいことか。陛下は、我々と違つて、何時、人とお會ひになつても、對立感といふものを、少しもお持ちにならない。それだから、汚職そのものは、徹底的にお嫌ひだが、汚職をした人を憎いとは、お思ひにならないらしい。たゞ汚職の行はれる世の中を、いとも悲しと觀じておいでになるのではなからうか。我々は、人と會へば、直ぐ持ち前の對立感に捉はれて、この人は自分より身長(せい)が高いか低いかから始まつて、果ては馬鹿か利口かに至るまで、あらゆる比較を腹の中でするものだが、ほんとのところ、神樣の眼から見れば、お互ひに五十歩百歩の違ひに過ぎないことは、とんと氣がつかない。あゝ、何と恥づかしいことかと、恥ぢ入る他はなかつた。

 稍や暫くして、とうゝゝ陛下は、上奏書に裁可の印をお捺しになつた。これで起訴は決定した譯だ。何某氏は、今夜にでも逮捕されることになつたのである。私はその書類を戴いて、箱に入れ鍵をかけ、一刻も早く私を待つてゐる内閣書記官に渡さうと思ひ、一歩、お室を踏み出さうとしたところ、私をお呼び止めになつたから、何か別の御用かと思ひ、お側に近づいたところ、たゞ一言、沈痛なお聲で、

私が惡いのだよ。

と仰つて、考へておいでになる。

 この時、私は、本當に、何ともいはれぬ、つらい思ひに胸を傷めた。我々の仲間の犯した過ちが、かほどまでに陛下のお胸を傷めるのか、相濟まぬことだと思つてゐたら、つとお椅子から立つて、椽側(えんがは)においでになつたから、私も無言のまゝ、お伴をして椽側に出た。この椽側は、今度びの戰災で燒失してしまつたが、明治神宮の繪畫館に掲げてある數多の油繪のうちの一つ、「教育敕語下賜の圖」といふ大きな額面に描かれてゐるお二階――御學問所と呼ばれる――の椽側が、それである。

 非常によく晴れた秋の日暮れ、夕陽がお庭の松に照りそつてゐたが、天を仰いで仰しやるには、

私が惡いのだよ。どうすれば、政治家の墮落が防げるであらうか。結局、私の徳が足りないから、こんなことになるのだ。どうすればよいと思ふか。

と、お尋ねになる。このお尋ねを受けても、つひ先ほど、持ち前の對立感から、いさゝかなりとも痛快味を覺えた私ごとき者に、何とお答へが出來よう。溢れる涙を抑へて、たゞ無言でお室を退出したことがあつた。この時の記憶は、餘りにも鮮やかで、今でも秋の非常によく晴れた夕暮れ、空を仰ぐと、時々、このことが思ひ出される」と。



●敕語(平成十六年十月二十八日、赤坂御用地に於る秋の園遊會)

  米長邦雄東京都教育委員會委員
    「日本中の學校にですね、國旗を擧げて、國歌を齊唱させると云ふのが、私の仕事でございます。」

天皇陛下「あゝ、さうですか。」

  米長「今、頑張つてをります。」

天皇陛下「やはり、あの、あれですね、その、強制になると云ふやうな事でない方がね、望ましい、と。」

  米長「あゝ、もう、勿論、さうで‥‥。本當に、素晴らしいお言葉を戴きまして、有り難うございました。」



 愚案、政治家と云ひ、教育者と云ひ、其の職を汚すもの、古今、少なからずと雖も、雲上の「神樣の眼から見れば、お互ひに五十歩百歩の違ひに過ぎ」ず、大内山の畏き邊りに於かせられては、對立相克の着眼は、抑も無いのである。一視同仁とは、父母が子に對する眼差しに他ならぬ。そこには、一方に「してやつたり」てふ痛快感はおろか、亦た一方に與力同調する對立感さへも、絶えて無い。

 孝明天皇の宸翰(徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十一日。『孝明天皇紀』百七十七所收「山階宮國事文書」)に、

是れ則ち汝の罪に非ず、朕が不徳の致す所、其の罪、朕が躬に在り。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ゆることを得んや。由て思へらく、汝は、朕が赤子、朕、汝を愛すること子の如く、汝、朕を親しむこと父の如くせよ。其の親睦の厚薄、天下挽囘の成否に關係す。豈に重きに非ずや。‥‥

 嗚呼、朕、汝と誓つて衰運を挽囘し、上は先皇の靈に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして成功なくんば、殊に是れ朕と汝の罪なり。天地鬼神、夫れ是を殛すべし


と謂ひ、明治天皇の宸翰(慶應四年三月十四日。『太政官日誌』五)に、

天下億兆、一人も其の處を得ざる時は、皆、朕が罪なれば

と謂ひ、大正天皇御即位大禮の當日、紫宸殿御儀に於いて賜りたる敕語(大正四年十一月十日。官報)に、

爾ぢ臣民、世々相繼ぎ、忠實、公に奉ず。義は則ち君臣にして、情は猶ほ父子のごとく、以て萬邦無比の國體を成せり

と謂はれる所以、こゝに御民、天降りの正嫡を仰ぎ奉り、皇國に生れたる道福恩頼に鳴謝すると共に、八紘一宇の大宏謨の、由つて興らざるを得ざる所以である。而して、大君の爲には、何か惜しからむ、斯くばかり惱ませ給ふ大御心を、必ずや休め奉らむとの義心が、勃然と溢れ來り、血涙を以て、天朝を戀ひ奉る至情が、自然と湧いて來るを、御民吾は、如何とも爲し難いのである。
 
 

神床の御前に、『古事記』を口誦し奉らむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月23日(月)20時14分45秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 天武天皇の御企て坐しまして、御試撰遊ばされし神典『古事記』が、贈從三位・太朝臣安萬侶公によつて、奉敕謹録して、今日より五日の後が、丁度、一千三百一年、一千三百周年の日に當ります。此の佳日、萬障を排して、口を灌ぎ、謹みて『古事記』を誦し奉りませう。こゝに掲ぐるは、本居宣長大人『訂正古訓・古事記』に據ります。

 我が塾頭の遺訓の一つに、「日本が日本であるために、大和民族のふるさとへ還れ――神國日本へ――」と、ありました。神國日本へ復古する爲めには、『古事記』への研鑽囘歸は、必要、缺く可からざるものと謂はねばなりません。遺訓繼承の志を奉じて、太陰太陽暦の元日に、其の警笛を鳴らしたいと存じます。




■天武天皇御試撰――稗田阿禮の口誦する所――太安萬侶の謹録する所の『古事記』卷頭奉誦

【古事記(ふることぶみ)上つ卷、序を併せたり】

 臣・安萬侶、言(まを)す。

 夫れ混元、既に凝りて、氣象、未だ效はれず。名も無く爲(わざ)も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤、初めて分れて、參神、造化之首を作(な)し、陰陽、斯(こゝ)に開(あ)けて、二靈、群品之祖と爲る。所以(このゆゑ)に幽顯に出入して、日・月、目を洗ふに彰れ、海水に浮沈して、神・祇、身を滌ぐに呈(あら)はる。故れ太素杳冥なるも、本教に因りて、土を孕み嶋を産みたまひし時を識り、元始は綿邈なるも、先聖に頼りて神を生み人を立てたまひし世を察(あきら)かにす。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて、百王相續ぎ、劔を喫み蛇を切りて、以て萬神蕃息することを與。安の河に議りて天下を平け、小濱に論ひて國土を清めき。是を以て番仁岐命、初めて高千の嶺に降りたまひ、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまふ。化熊、山を出でて、天劔を高倉に獲、生尾、徑を遮り、大烏、吉野に導きき。儛(まひ)を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏す。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまふ、所以に賢后と稱す。烟を望みて黎元を撫でたまふ、今に聖帝と傳ふ。境を定め邦を開きて、近つ淡海に制(をさめ)たまひ、姓を正し氏を撰びて、遠つ飛鳥に勒(しる)したまふ。歩驟、各々異に、文質、同じからずと雖も、古を稽へて、以て風猷を既に頽れたるに繩(たゞ)し、今を照らして、以て典教を絶えむとするに補はずといふこと莫し。

 飛鳥の清原の大宮に、大八洲御(しろ)しめしゝ天皇の御世に曁(およ)びて、濳龍、元を體し、洊雷、期に應ず。夢の歌を聞いて業(あまつひつぎ)を纂(つ)がむことを想ひ、夜の水に投(いた)りて基を承けむことを知ろしめす。然れども天の時、未だ臻(いた)らず、南山に蝉のごとく蛻(もぬ)けたまひ、人事、共に洽くして、東國に虎のごとく?みたまひき。皇輿、忽ち駕して、山川を凌(こ)え渡り、六師、雷のごとく震ひ、三軍、電のごとく逝く。杖矛、威を擧げて、猛士、烟のごとく起り、絳旗、兵を耀かして、凶徒、瓦のごとく解けつ。未だ浹辰を移さずして、氣沴、自から清まりぬ。乃ち牛を放ち馬を息へ、愷悌して華夏に歸り、旌を卷き戈を戢(をさ)め、儛詠して都邑に停りたまふ。歳、大梁に次(やど)り、月、夾鍾に踵(あた)りて、清原の大宮にして、昇りて天つ位に即きたまふ。道は軒后に軼(す)ぎ、徳は周王に跨えたまふ。乾符を握りて六合を摠(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまふ。二氣の正しきに乘じ、五行の序を齊へたまふ。神理を設けて、以て俗を奬め、英風を敷きて、以て國を弘めたまふ、重加(しかのみにあら)ず、智海、浩瀚として、潭(ふか)く上古を探り、心鏡、煒煌として、明かに先代を覩(み)たまふ。

 於是(こゝ)に天皇、詔りしたまはく、「朕、聞く、諸家の賷(もた)る所の『帝紀』及び『本辭』、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふ、と。今の時に當りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾(いくばく)の年を經ずして、其の旨、滅びなむとす。斯(こ)れ乃ち邦家之經緯、王化之鴻基なり焉。故れ惟れ『帝紀』を撰録し、『舊辭』を討覈して、僞を削り實を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむとす」とのりたまふ。時に舍人有り。姓は稗田、名は阿禮、年は是れ廿八。人と爲り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳を拂(ふ)るれば心に勒す。即ち阿禮に敕語(みことのり)して、『帝皇の日繼』及び『先代の舊辭』を誦み習はしむ。然れども運(とき)移り世異(かは)りて、未だ其の事を行はざりき矣。

 伏して惟ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して、徳は馬蹄の極むる所に被り、玄扈に坐して、化は船頭(ふねのへ)の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮びて暉を重ね、雲散りて烟に非ず。柯(えだ)を連ね穗を并すの瑞(しるし)、史、書すことを絶たず、烽(とぶひ)を列ね譯(をさ)を重ぬるの貢、府、空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠(まさ)れりと謂ひつ可し矣。

 於焉(こゝ)に『舊辭』の誤り忤(たが)へるを惜しみ、『先紀』の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣・安萬侶に詔して、稗田阿禮が誦む所の敕語の舊辭を撰録して、以て獻上せしむといへれば、謹みて詔旨に隨ひ、子細に採り摭(ひろ)ふ。然るに上古の時、言(ことば)・意(こゝろ)、竝びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字に於いて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞、心に逮ばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣き、更に長し。是を以て今、或は一句の中に、音・訓を交へ用ひ、或は一事の内に、全く訓を以て録(しる)す。即ち辭の理、見え叵(がた)きは、注を以て明かにす。意況、解り易きは、更に注せず。亦た姓の日下に、「玖沙訶」(くさか)と謂ひ、名の帶の字に、「多羅斯」(たらし)と謂ふ、此の如きの類ひは、本に隨ひて改めず。

 大抵、記す所は、天地の開闢より始めて、以て小治田の御世に訖る。故れ天御中主神より以下(しも)、日子波限建鵜草葺不合尊以前(まで)を、上つ卷と爲、神倭伊波禮毘古天皇より以下、品陀御世以前を、中つ卷と爲、大雀皇帝より以下、小治田大宮以前を、下つ卷と爲、併せて三卷を録し、謹みて以て獻上す。臣・安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日、正五位上・勳五等・太朝臣安萬侶、謹上。



【天地の初發の段】

 天地の初發(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、竝(みな)獨神(ひとりがみ)成り坐して、身(みゝ)を隱したまひき。

 次に國稚く、浮脂の如くして、くらげなすただよへる時に、葦牙の如と、萠え騰る物に因りて、成りませる神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。此の二柱の神も、獨神成り坐して、身を隱したまひき。

 上の件り、五柱の神は、別(こと)天つ神。


【神世七代の段】

 次に成りませる神の名は、國之常立神。次に豐雲野神。此の二柱の神も、獨神成り坐して、身を隱したまひき。

 次に成りませる神の名は、宇比地邇神、次に妹須比智邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神。次に淤母陀琉神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。

 上の件り、國之常立神より以下、伊邪那美神以前、併せて神代七代と稱(まを)す。


【淤能碁呂嶋の段】

 是(こゝ)に天つ神、諸々の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二柱の神に、「是のただよへる國を修理(つく)り固め成せ」と詔りごちて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき也。故れ二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下して畫きたまへば、鹽こをろゝゝゝに畫き鳴して、引き上げたまふ時に、其の矛の末(さき)より埀落(したゞ)る鹽、累積(つも)りて嶋と成る、是れ、淤能碁呂嶋なり。
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●本居宣長大人『古事記傳』二之卷に曰く、「

 敕語は、天皇の大御口づから詔(のたま)ひ屬(つく)るなり[有司をして傳へ宣(のら)しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ敕とはいへども、そは敕語とはいはず]。‥‥

 もと此の敕語は、唯に此の事を詔ひ屬けしのみにはあらずて、彼の天皇[天武]の大御口づから、此の舊辭を諷誦(よみ)坐して、其を阿禮に聽取らしめて、諷誦坐す大御言のまゝを、誦みうつし習はしめ賜へるにもあるべし。もし然るにては、此の記は、本と彼の清御原の宮に御宇しめしゝ天皇の、可畏くも大御親ら撰びたまひ定め賜ひ、誦みたまひ唱へ賜へる古語にしあれば、世にたぐひもなく、いとも貴き御典にぞありける」と。



●平田篤胤大人『古史徴』一之卷春・夏(「序」の解説は、夏に在り)に曰く、「

 天武天皇紀に、「十年三月丙戌、天皇、大極殿に御し、以て川島皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上野君三千・忌部連首・安曇連稻敷・難波連大形・中臣連大島・平群臣子首に詔ちて、『帝紀』及た『上古諸事』を記し定めしめたまふ。大島・子首、親ら筆を執りて録す焉」と見えたるは、大極殿に御して、詔ち給へると有るを思ふに、嚴重き公事の命になも有りける[此の時の詔命は、御紀に漏れたれど、『古事記』の序に、「是に天皇、詔りしたまはく」といへるより、「後葉に流へむとす」と云ふまで、七十五字、かならず此の時の詔命なるべく所思えたり。‥‥]。‥‥

 熟案(つらゝゝおも)ふに、こは、彼の十年三月に、川島皇子等十二人に命(おほ)せ給ふへる度(とき)の大御言なりけむを、彼の紀には記し漏らされたるを、偶々に此の序文に傳へ記されたると知られて、甚(い)とたふとし[其は大極殿に御(いま)して、詔おほせ給へるは、最(いと)も重き公事と聞ゆれば、斯ばかり深く所欲(おもほ)し看し起ちませる御擧ならむと、思ひ合はさるればなり]」と。



●蓮田善明中尉『古事記學抄』(昭和十八年十二月・子文書房刊――「『天地初發之時』について」・「古事記撰修の經過事情」・「眞福寺本古事記書寫考」・「古事記展覽會記」の論文を收めたり。いづれも秀逸、感佩すること久し矣)に曰く、「

 天武天皇は、十年三月に、川島皇子以下十二人に修史の事を下詔あらせられた。然るに事は遲々と運び惱んだが、それは種々諸臣家との關係等に問題もあつたからである。そこで結局、天皇に請ひ奉つて、規準的な一試撰と親修遊ばされることを願ひ得、天皇は稗田阿禮を命じて、口づから、又或は或書の或部分等を指して纏めつゝ、御代筆の代りに暗誦させながら纏め上げ給うた。併し遂に最初の企畫の修史者達の撰修は、餘り進捗せず、そのうちに天皇も崩御あそばされ、修史も頓挫した。三十年程經つて、元明天皇は、先の天武天皇親撰のものを録し定め置くべきを痛感遊ばされて、太安萬侶に命じて、阿禮の暗誦してゐるものを録定せしめ給うた。安萬侶は、謹んで文字に寫し取り、取り急ぎ四ケ月の後に獻上した。‥‥

 とまれ、かくて成立した『古事記』が、表面こそ御試撰とはいへ、皇國史を親ら治らしめたまひ、統べたまふ天皇の御撰史が、ここにあらはれたといふ、誠にかしこい事實となつたのである。『古事記』が、まことに古傳の趣を傳へたまうてあることの尊さは、申すべき言葉もないほどである。たゞそれが、本居宣長の指摘するやうに、當時の漢夷思潮の中に、この天武天皇御撰のものは、御試撰であるといふことが知られてゐたものらしく、遂に右の思潮の中に蔽はれて行き、天武天皇の法典撰修の御企てが、持統天皇の御世の令、養老・大寶の律令と成つて行つたやうに、天武天皇御發企の修史も、養老の『日本書紀』といふ形で完成していつたと見られる。

 かくて天武天皇に起されたる皇國の「ふること」が、一つには『古事記』となり、一つには『日本書紀』となり、殊に古事記が漢夷心をまじへぬ、明く淨き古傳の趣を以て『日本書紀』の上にかがやき、又『日本書紀』は、ともかくも博く、幾多の古史の資料をとりあつめて、所謂「旁摭群書」をなしてゐる點、相竝んで尊く仰がれる次第である」と。



●蓮田善明中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、「

 宣長も、『古事記傳』の總論に於て、『古事記』が非常な不遇の中を經て、而も遂に滅びることなく傳り來つた由緒を、大變心深くかへりみて、「今の世までも傳はれるをおもふべし」と言つてゐる。私はこの一言を讀むだけで、宣長に於ける『古事記』が何であつたかゞ味ははれて、感動させられるのを常とする。まことに『古事記』は、千年餘の長い間を、まことに心細く傳はつて來てゐる。而もそれが、遂に傳はり貫いたことを、宣長は、「古への正實(まこと)を記せるがゆゑなるべし」と信じてゐたやうである。

 このやうに『古事記』が「古への正實」を傳へてゐることと、苟しくも一つの上古の古典が困難を凌いで、千年以上も傳はつてゐたといふその傳承とは、恰も日本の歴史そのものゝ生命を諷してゐるかにさへ思へる。それは却つて『日本書紀』のやうな漢ぶりの史書でなく、日本風であつたために不遇であつたとさへもいひ得よう。坦々と傳はつてゐたものは、『日本書紀』の方であつた。しかも遂にその日本風が、千年を凌いで傳はりぬいた所以でもあつて、實に尊いのである。しかしてこの事情は、『古事記』の撰録當初から、否、それ以前の傳承の初めから、『古事記』の負うてゐる運命のやうなものであつたことを、我々は今氣づくのである。

 『古事記』撰録の起りは、天武天皇の叡慮に出づるところであつた。『古事記』の序によれば、天皇は、海の如き廣大な御叡慮(愚案、「叡慮」に「御」は不要なり。敢へて申し上げたい。蓮田中尉、許させ給へ)と、明鏡の如くかゞやく大御心を以て、ふかく上古を探り、明らかに先代を覩たまうて、當時傳承されてゐた諸家の古傳(『帝紀』及び『本辭』)が、正實に違つて虚僞をさへ加へてゐることを御知りになり、「今の時に、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年を經ずして、其の旨滅びむと」してゐる。そもゝゝこの古傳は、「邦家の經緯、王化の鴻基」たるものである故に、正實の古傳を撰んで、後代につたへんと欲し給うたのである。我々は既にこゝに古傳の危機を想察することができる。そして天皇が、これを國の大事として重大に御考へ遊ばされたことをゆかしく、まことに恐懼し拜しまつるのである。

 さて天皇は、「年は是れ廿八、人と爲り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒す」といふ一人の舍人、稗田阿禮を召され、「阿禮に敕語して」、古傳を「誦み習はしめ」たまうた。かくて深い御志と行屆いた方法とによつて、着々と出來てゐた御事業も、未だ完成に至らずして、天皇は崩御遊ばされ、この尊い大事な御事業は、こゝに又そのまゝ滅びようとした。

 それから約三十年經つて、天皇御みづから傳へ給うた、唯一の傳承を保有してゐる稗田阿禮も、早六十歳に及んでゐるその頃、元明天皇は、天武天皇の御遺志を繼ぎ給うて、阿禮を召し出で給うて、彼が口に誦みうかべてゐるものを、太安萬侶に文字に書き寫さしめ給うたのである。安萬侶は、此の古い言葉で傳へられた傳承を、漢字を以て寫す事が、いかにあやまち多いものであるかを自覺してゐた。しかもそれを寫すには、漢字を以てするよりほか無い。そこで非常な苦心と工夫とを以て、之を文字に書き寫した。その情況は、『古事記』序に具さに記されてゐる所でもあり、又本文について、眞淵・宣長以後、學者によつて研究發見され、屡々驚異されつゝあるところである。‥‥

 宣長の胸中には、『古事記』に於て、正しい傳への道といふものが、じつと想ひ描かれてゐる。宣長も自らその大註釋書に、『古事記傳』と命名したのは、その志がどこにあつたかを察せしめられる。宣長に於いて、「古事」(ふること)とは、「誰が云ひ出でし言(こと)ともなく、たゞ上つ代より語り傳へ來つるまゝなり」と思はれてゐる。たゞ上つ代より傳へ來つるまゝなりとは、實に強いものを、その中に述べてゐる。それは漢意漢風の史書などのやうに、「理」(ことわり)や「潤色」(かざり)を「言痛(こちた)くうるさきばかり」に盡して、「事備は」りたる樣にして權威づけ、幸福な保存を強ひようとするものが、遂にその努力の空しさがあらはれて、まことの悠久性に缺くる所の大きいのに比べて、此の『古事記』は「潤色なく、たゞありに記して」ゐるし、「漢の國史などの體とは、いたく異なる物なれば、もし誤り多からむには、さしも漢籍好みましし世に、はやく廢(すて)られて、とり見る人も有るまじく、まして後の代までは傳はるまじき物なるに」、遂に「千年の後までも傳はり來つる」ことは、全くさうした「さかしらを」、いさゝかも加へない「上つ代の清らかなる正實」であるに由縁するのである。たとひ『古事記』が、假に『日本書紀』にとられた資料の「中の一つにして、重き公の書典にはあらずと」しても、「尚び用ふべき」所以を、宣長は知つてゐた。況や『古事記』が「淨御原宮に、御宇しめしゝ天皇の、厚き大御志より起」つた、あの嚴かな意味を「思へば、いよゝますゝゝ尊び仰ぐべき」ことを知つたのである。

 このやうに古道とは、それ自身に悠久を嚴に保存する正實そのものであつた。神ながらなるものであつた。單に遠い過去のみに理想の時世があつたといふやうな、支那の尚古主義などとは、全く異なるものであつた。支那に於けるその尚古主義は、易姓革命思想を支援する論理の一つにすぎないものであつた。それは一つの人爲の潤色と言ふこともできる。古事の正實としては、別に論ぜられるべき、餘りに見えすいたものであつた。

 しかし、わが神ながらなる古事は、人爲の潤色とは異つて、神ながらなるものとして、「誰が云ひ出でし言ともな」いのであつて、而も神ながらなる故に、別におのづから「文」(あや)があり、「いと美麗(うるは)しきもの」であつた。決して所謂上古は、唯だ素樸ではなかつたと、宣長は眞に古事の美しさを見出でてゐる。『古事記』の序の中に、太安萬侶が「上古の時、言・意、竝に朴にして」と記してゐるのは、後に『日本書紀』の撰者ともなつた漢文學者としての安萬侶の目を以て評してゐる所で、實際今、我々が『古事記』を讀んでも見出す、あの古言・古事の美はしさ、いさましさは、安萬侶には既にくらいものであつた。日本の歴史には、嚴密な意味で、蒙昧野蠻な原始時代といふものはなかつたのである。さういふ我が「古事」の神ながらの悠遠さ、美しさを閉し塞へようとする、ゆるしがたい「さかしら」なものが、實に「漢意」(からごころ)であつた」と。
 
 

孝明天皇の聖徳を仰ぎ奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月18日(水)21時31分32秒
返信・引用 編集済
   來る一月二十七日は、明治天皇には、初めて靖國神社へ行幸を賜ひ、畏くも御宸筆の御製を賜はりました。

我國の 爲をつくせる 人々の 名をむさし野に とむる玉かき

 また二十八日には、『古事記』撰録一千三百一年、一千三百周年の日を迎へます。

 『古事記』序に、「和銅五年正月廿八日、正五位上・勳五等・太朝臣安萬侶」とあり、或は民部卿に至つた『太安萬侶墓誌』に、「左京四條四坊・從四位下・勳五等・太朝臣安萬侶、以(養老七年)癸亥年七月六日卒之。養老七年十二月十五日乙巳」とありますやうに、贈從三位・太安萬侶公が、今を去る一千三百一年前に、『古事記』を奉敕撰録して、元明天皇に獻上したのでありました。

 而して三十日は、孝明天皇の例祭であります。

 孝明天皇には、外夷襲來動亂の時節に際會して、「神州の國體に瑕瑾なく、國民を損せざるやう」てふ、只二つの政治指導の眼目を打出させ給ひ、天下に號令を發せられ給うたのであります。こゝに我々は、孝明天皇の無私無慾、純粹清明、眞に神の如き大御心を仰ぎ奉るのであります。志士忠臣は、感激の餘り、鋭意、之に應へ奉らむとして、殉國奉公の誠を所在に捧げ盡したことは、餘りにも當然の事に外ならなかつたのであります。大義に勇む先哲に學び、之に習はむことを期したいと存じます。
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■孝明天皇御製

あさゆふに 民やすかれと おもふ身の こころにかかる 異國の船

この春は 花うぐひすも 捨てにけり 我がなすわざぞ 國たみのこと

國のこと ふかく思へど いましめの 雪のつもるか 園のくれ竹

こと國も なづめる人も のこりなく はらひつくさむ 神風もがな

ねがはくは 朝な朝なの 言の葉を あはれみうけよ 神ならば神

あづさ弓 ま弓つき弓 としをへず 治まれる世に ひきかへさなむ

國のかぜ 吹きおこしても 天つ日を もとの光に かへすをぞ待つ

あめつちに みつる寒さの 厚ごほり あつくもおもひ つくす願よ

あぢきなや 又あぢきなや 葦原の たのむかひなき むさし野の原

ほことりて 守れ宮人 九重の みはしのさくら 風そよぐなり




●寒林平泉澄博士『孝明天皇の聖徳』(昭和四十一年十一月『神道史研究』孝明天皇と平安神宮特輯號)に曰く、「

 細部末端の事は、之を幕府の機關に委任してよいが、國體の根本に關する國策の大本は、天皇の御指導によらねばならぬとするは、道理に於いて當然の事でありながら、嘉永・安政の當時にあつては、驚くべき革新と思はれた。それを早く弘化三年より始めて、嘉永・安政と、ひきつづき決行あらせられたのが、孝明天皇であり、而して下々に於いて、同じ精神を以て、めざましき運動を展開したのが、橋本景岳であつた。

 抑も孝明天皇の御代は、英傑の士、數多く輩出して、國史の中に於いても、特に光輝ある時代であつたが、その中にあつても異彩を放つ者は、橋本景岳と吉田松陰とであつて、此の兩士の亡くなつた後に於いては、眞木和泉守であらう。以上の三桀は、いづれも孝明天皇の御代に活躍して、孝明天皇の御代に一生を終つたのであり、しかも其の死は、尋常一樣の最期ではなく、實に一命を孝明天皇に獻じ奉つたのであつたが、就中、景岳は天保五年に生れて、孝明天皇御踐祚の年、十三歳であり、松陰は天保元年に生れて、孝明天皇御踐祚の年、十七歳であつたから、此の二人の一生は、その幼少の時代を除却すれば、孝明天皇の時代に終始したものと云つてよい。

 さて其の景岳は、世界の大勢を洞察達觀して、開國進取の國策を立て、而して強豪の列國に對抗して國家を護持せんが爲には、國體の本義によつて天朝を尊崇し、敕命を仰いで政治の基本を確定し、天下有爲の人材をあげて要路に立たしめようとした。そして其の祕策實現のために、安政五年、上京奔走したが、その報告を讀めば、當時二十五歳の景岳が、いかに愼重に行動し、いかに適切に人物を鑑定し、いかに巧妙に人々に入説していつたかが分つて、只々感歎の外は無いのであるが、その中に恐れ多い事ではあるが、孝明天皇を評し奉つた所がある。

 主上御義は、御壯年にもあらせられ、御英名の御沙汰は伺ひ居り候へども、内實は如何と、恐れ多くも疑ひ居り候ふところ、實に驚状し奉り候ふ事ども、數件御座候ふ。此の節、世上取沙汰の事ども、一々御耳に入り居り候ふよし、此の節は、夜分、御忍びにて(侍從も知らざる位)、内侍所へ御日參遊ばされ候ふよし、過日は東坊城(傳奏)、太閤(鷹司政通)に恐れ、賄賂を取り、あまつさへ恐れながらも、今度關東(幕府)の申す如く成されざる時は、承久の後鳥羽帝の事、恐るべしなど申し候ふところ、大に御笑叱、「其は間違なり。彼は武家に歸したる權を御所へ御取返しの御趣向、今度は皇國の御一大事故、皇國人心の歸する所にて處置致し候ふつもり(當時正論家の眼目、此の一語に盡き居り申し候ふ。列侯の存御尋も、此の邊の見込に御座候ふ)、依つて相考へ候へば、彼は内地にて公武の爭、此の度は皇夷の爭に候ふ。必ず承久度の事これなき間、安心申すべし。それにても強ひて其の事を行ひ候はば、其の時は畏るるに足らず」と、御埀論遊ばされ候ふよし、此の御一語の御徳音、實に鳳鳴龍吟、我が神州の爲め、光を増し候ふ事萬々、吾儕、一命位は、實に惜しむに足らずと存じ奉り候ふ。

 景岳の報告は、此の後、天皇が九條關白(尚忠)を鞭撻して、鷹司太閤を恐れず、正路を進ましめ給ふ事、傳奏ではとかく賄賂に流れる弊風あるについて、毎々直接に御叱り遊ばされる事、此の節は深夜まで舊記を御研究遊ばされる事、御酒も御減しか、又は御止めの由承る事、鷹司右大臣(輔煕)より「海外貿易を御許しになれば、時計などは澤山輸入されますから、自由に手に入るやうになります」と申し上げたところ、『時計の爲に國策を決定する事は出來ぬ』と仰せられた事など、いろいろ記してあるが、孝明天皇英明の御徳は、景岳の一語、「一命、惜しむに足らず」との感嘆に現れて明瞭であつて、一々の實例を細敍するには及ばないであらう。

 次に吉田松陰を見る。松陰は、嘉永六年十月朔日、京都に入り、翌二日朝、御所を拜した。そして感激を詩に托して曰く、

山河襟帶、自然の城、東來日として、帝京を憶はざるなし、
今朝盥嗽して、鳳闕を拜し、野人悲泣して、行くこと能はず、
鳳闕寂寥にして、今ま古へに非ず、空しく山河有りて、變更無し、
聞説(き)くならく、今上聖明の徳、天を敬ひ民を憐みたまふこと、至誠に發す、
鷄鳴乃ち起きて、親ら齋戒し、妖氛を掃つて、太平を致さむことを祈りたまふ、

從來英皇、不世出、悠々機を失す、今の公卿、
人生萍の如く、定在無し、何の日か、重ねて天日の明を拜せむ。

松陰は、公卿の門に出入して、朝廷の内情を精通する點に於いては、景岳に遠く及ばなかつた。しかも哲人の達識と、忠臣の至情とによつて、孝明天皇不世出の高徳を感得し、かくの如き聖明の天子をいただきながら、今の公卿のだらしなさ、皇國興隆の理想をいだかず、あたら千載一遇の好機を、爲すなくして漫然と看過してゐる事を歎いたのは、流石に松陰と、驚歎せられる。

 次に眞木和泉守は、文化十年の生れであつて、景岳・松陰より、遙か先輩であるが、その殉國が兩人よりは五年おくれて、元治元年であつたから、今三人を序列するに、殉國の前後によつたのであるが、和泉守は、弘化四年九月、孝明天皇御即位の大典を拜せむがために、はるばる九州より上京し、野宮定功の殊遇を得て拜觀すると共に、三條實萬にも謁する事が出來た。この時の感激が、後年の建白の中に現れてゐるが、ここに其の一例を示せば、安政五年六月、野宮定功に宛てた上書に、

かねて至尊御英偉にあらせられ、御列位の御方々御達識の程、僻壤に於いても嘖々相唱へ、感喜罷りあり候ふ。さて幕府にては、外夷の恐嚇に相怖れ、姑息の計のみに打過ぎ、人氣沮喪仕り候ふ處、天朝に於いては、夷情御洞察遊ばさせられ、堂々正義を押立てさせられ候ふにつき、天下の人氣、稍以て振起仕り候ふ樣、相見え候ふ段、誠に以て有り難き仕合に存じ奉り候ふ。

とある。かくて和泉守は、此の聖明の天皇を奉じて、皇國中興の大事を成さうとするのである。その幽囚中の詩に曰く、

一朝、忽ち奸人に忌まれ、天下、すでに足を容るるの地無し、
數畝の山園、猶ほ求む可し、如何せむ、聖主中興の事。

和泉守は、その水田幽囚十年の間に、聖主を奉じて皇國を中興すべく、萬般にわたつて思索考究し、大計成つて水田を脱出し、やがて兵をひきゐて上京し、會津・桑名の諸藩と戰ひ、戰やぶれて天王山に自決し、

大山の 峰の岩根に 埋めにけり 我が年月の やまと魂

の辭世の一首に、無限の感慨を托したが、しかも其の立案大計は、間もなく明治維新を招來し、そして明治の大政を指導したのであつて、その意味よりいへば、明治の指導者として、首座を占めるべき人物である。その和泉守の考は、すべて天朝の聖意を奉じて動かうとするものであつて、蓋し孝明天皇の聖徳を仰ぎまつつての感激が、その根本の力となつてゐるのである。

 眞木和泉守と同じく、元治元年の秋、國事に殉じた人に、平野國臣がある。殺されたのは、七月二十日、和泉守に先だつ事、一日であり、殺された事情もちがふが、その志は、全く同一であつた。そのよんだ歌、

大内の さまを思へば、これやこの 身のいましめの うきは物かは
我が胸の もゆる思に くらぶれば 煙はうすし 櫻島山
かかる世に 生れあはずば 大丈夫の 心をつくす かひなからまし
君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりけんものを
これやこの おのがさまざま 樂しむも みな大君の めぐみならずや

等、いづれも其の志を見るべきであるが、殊に孝明天皇の御製、

すみの江の 水に我が身は 沈むとも 濁しはせじな 四方の國民

といふ一首を、謹んで書寫し奉つて、その奧に書き添へた、

かくばかり 惱める君の 御心を 休めまつれや 四方の國民

に至つては、孝明天皇の聖徳が、いかに正しく強く國臣に反射反映してゐたかを明示してゐるのである。

 その平野國臣を、いはば立會人として、安政五年十一月十六日、西郷隆盛と相抱いて、薩摩の海に身を投じたる月照に、

大君の 爲には何か 惜しからむ さつまの瀬戸に 身は沈むとも

といふ歌があれば、不思議にその時、息を吹きかへして、島に流された西郷隆盛には、

朝に恩遇を蒙りて、夕に焚坑せらる、人生の浮沈、晦明に似たり、
縱(たと)ひ光を囘らさざるも、葵は日に向ひ、若し運を開く無きも、意は誠を推す、
洛陽の知己、皆な鬼と爲り、南嶼の俘囚、獨り生を竊む、
生死、何ぞ疑はむ、天の附與なるを、願はくは魂魄を留めて、皇城を護らむ。

といふ詩がある。月照にしても、隆盛にしても、その境遇は絶體絶命の悲境でであり、期する所は、只一死あるのみである。しかるに彼等は、その死が、孝明天皇に奉仕する所以である事に、限りなき滿足をいだき、そして死後も魂魄を留めて、天朝の護衞に當りたいと願ふのである。

 曾て韓退之は、『拘幽操』を作つて文王の心を解明し、臣道の極致を宣揚した。それは正に臣道の極致であつて、その場合、君徳は問題の外に在る。いはばそれは、一方的であり、片務的である。臣道としては、それを極致とし、規準とするのであるが、然しそれは痛ましき人生の悲劇たるをまぬがれない。しかるに今、孝明天皇の御代に於いては、天下英傑大才、ことごとく天皇の聖徳を仰ぎ見、一見一家を棄てて、天朝に奉仕しようとしたのである。ここには、國體の護持と國民の安寧幸福との爲には、敢へて御身をかへりみ給はざる孝明天皇の聖徳と、その聖徳を仰ぎ、聖徳に感激して、すべてを捧げて奉仕しようとする臣民の至誠との、世にも美はしき諧調を見るのである。

 孝明天皇の御代に起る幾多の事件、安政の大獄といひ、櫻田門の變といひ、坂下門の變といひ、やがて禁門の變といひ、つづいて長州征伐といひ、悉く此の君徳臣道より發し來り、而して一途に維新囘天の大事を目指して進むのである。君臣の關係、水魚の如しといひ、天地覆載の如しといはれるが、その最も美しき發露を、孝明天皇の御代に見る事が出來るのは、まことに國史の壯觀であり、國史をかへりみる者の、大いなる喜である」と。



 愚案、かつて小生は、「天皇陛下ご即位二十年に際しての勅語」(平成二十一年十一月六日)を拜承して、謹んで掲げ奉つたことがある。



 皇位繼承の制度にかかはることについては,國會の論議にゆだねるべきであると思ひますが、將來の皇室の在り方については、皇太子と、それを支へる秋篠宮の考へが尊重されることが重要と思ひます。二人は長年、私と共に過ごしてをり、私を支へてくれました。天皇の在り方についても、十分考へを深めてきてゐることと期待してゐます。
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 然るに現代、今上天皇の敕語を、謹んで拜承する者は、殆んどゐない。私見私論の囂々たる、何と云ふ無樣な世相なるかな哉。かつて大御心を覆ひ隱すもの、徳川幕府が在つた。今は民主主義政權てふ幕府が、壁立萬仞、明かなる敕語さへも、傲然、顧みようともしない。孝明天皇の御代には、忠臣義士が存したが、今は無い。「承詔必謹」てふ言葉は、死につゝある。之を復活せしめ、世に喧傳する者こそ、正に靖國神社祭神の遺裔と謂ふべく、靖國大神の神徳を仰ぎ奉ること、彌々深く、益々切なるものがある。



●相原修神主『葬祭と墳墓の奪還――平田篤胤の神道論』(第三囘「草莽崛起の集ひ」講演・平成十六年五月二十三日・於神奈川縣民センター。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』平成二十一年十二月・同血社刊に所收)に曰く、「

 國體の闡明、國體の護持と、口で云ふのは簡單だけれども、自分自身は如何なんだ?と。「天皇樣に御祀りだけしなさい、皇太子殿下・妃殿下に、外交なんかやらないで、宮中祭祀に徹せれば良い」と、御意見を抱く――申し上げるんだつたら、家の御祀りを神式で行ひなさい。其れもせずして、宮中に御意見申し上げるてふことは、不遜不忠の極み。

 よく明治時代、明治天皇樣が相撲を良かれとしてゐるのはいけないてふ事で、當時の豪桀な明治天皇樣を投げ飛ばした、さう云ふ事を例に喩へる(愚案、意見者は之に喩へて、忠義面してゐる心算との謂ひならむ)。或は頭山滿先生や内田良平先生やが、宮中に於て何かあつたら、宮内廳達に對して、「それはいかん」と云つてやる。しかしね、其れは全て白裝束を着てゐるんですよ、皆が。平民である我々が、宮中に對して、何事か申し上げる時は、死ななければならない。これは三島由紀夫も云つてをります。行動は一度限り。さう云ふ意味では、野村(秋介)先生が云ふのも、さう云ふ事ではないか、と拜察致します。其れ位、嚴しい問題です」と。
 
 

皇神たちは、佛道を嚴しく嫌はせ給へり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月12日(木)22時11分51秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 「僧尼より進る所の物は、之を奉らず」とは、尼や僧(ほうし)は、よし何かなる貴人の出家にも有れ、佛法の人にて、抹香くさく、其の佛法は、天照大御神の嚴しく嫌ひ給ふが故に、其の道に汚れ付きたる尼や僧の手より進れる物をば、何かほど珍しき物にまれ、神へは奉らぬ御定めなり。大御神の佛法を嫌ひ給ふことは、著明かなる事なるに、世の人おほくは、神佛一體など云ふ。僧徒の説に欺かれ居れば、因みにその惡(きら)ひ給ふ證文を一つ二つ云はむに、まづ菅家の御撰みありし『類聚國史』の、嵯峨天皇の弘仁七年六月丙辰日の處に、「伊勢大神宮司從七位下・大中臣清持、穢れを犯し、并びに佛事を行へること有り。神祇官、之を卜ふに、祟り有り。大祓ひを科せ、任を解かる」と見え――[この清持と云ひし人、大中臣と有れば、天兒屋根命の神孫にて、神家の歴々なるに、況して伊勢大神宮司と在りながら、佛法の事を行へる故に、神の御祟りあり。其の事、神祇官の御卜(みうら)によりて露はれしかば、大祓を成されて、其の穢れを清められ、其の官をも召し放し給へるなり]――、宇治左大臣頼長公の『台記』に、近衞院の天皇の天養二年三月七日の所に、「左馬權頭顯定、來つて云く、左大將雅定、伊勢の敕使にて精進(ものいみ)の間、他處に渡ると雖も、衣裳雜具等、猶ほ中の院の第に在り。仍りて佛經等は、家の中に置かず。而る間、中の院の寢殿に、煙り有り。件の煙、屋の上に見ゆ。鄰里、驚き放火の由を存し、天井を放ち之を見るに、繪像の佛色旗等有り。件の物を門外に出すの後、煙り散じ盡く」とあり――[これは、左馬權頭顯定と云ひし人、頼長公の許に來て、左大將雅定卿の、伊勢大神宮への敕使を承はりて、精進せられし間、かゝる御祟りの有る由を語られしを、其のまゝに記るされし物なり。此は師の『玉勝間』にも記るし置かれたり]――。また高倉院の天皇の治承元年三月に、三條内大臣實房公、伊勢の公卿敕使たりし時の日記に、十五日の處に、「去る夜、僧侶を夢みたり。佛經の類に於ては、先の日、併(み)な取り去り了んぬ。然して夢の告に驚き、捜り求めしむるの處、居の廊の長押しの上より出で、楊柳觀音一體を見出でたり。則ち以て取り退け了んぬ。信心、彌々凝り、謹愼、殊に重くす。恐る可し、恐る可し。又た障子の色紙形の畫圖に、僧法師等有り。或ひと云く、是の繪像、佛と仝じ事也と。強ひ事と雖も、取り退け了んぬ。敬神の至り、重くするを以て先と爲すの故也」と見え――[是れまた敕使を受け賜はりて、物忌みにこもり居たまふ間の事なり]――、あくる十六日の處に、「去る夜、夢相に、又た僧侶、眼前に謁談の由を見る也。佛像は併な取り去り了んぬ。之を如何に爲ん、と。倩々(つらゝゝ)之を思へば、裡(うら)錦の護り等は、憚る可からざるの由、先日、兼康に聽く所ろ也。仍りて予が朝夕、懸る所の護り、神事に奉ずるの後は、之を懸けず。只だ寢所の枕の上に置く也。若し是等の佛像の所見なるか歟。今夜の告を相試みむ爲めに、併な他所に渡し了んぬ。小女の護りも、仝じく以て渡し了んぬ」と記るされ――[此の文を見れば、常に懸け給へる護りには、多く佛像を著(し)るせりしこと知らる。裡錦の護りと云ふも、佛像ありしとは聞ゆれど、此はさしも多くは無かりけむ故に、憚り有るべからずと、兼康は申されけむ。此の兼康は、今の神祇權大副吉田殿の先祖なり]――、其の翌日の處に、「去る夜は、僧徒に謁するの夢無し。知る、去んぬる兩夜の夢相、彼の護り等の所見なることを歟。毎度嚴重なり。彌々信を成す者也」とあり。天照大御神の、佛を惡ひ給ふこと、何かに著明かなるに非ずや。――[猶ほかゝる類ひの證文多かれど、然のみ引き出でむも煩はしければ、中に尤(けや)けき二三條を引き出でたり。]――

 然れば眞の道に志さむ人は、是らの故實をよく覺え居て、伊勢參宮などせむにも、其の守袋までに心をつけて、佛臭きこと無かるべく、用意すべき事なり。神は誠に寛仁大度に坐しまして、下ざまの卑しき者などは、然しも嚴しき御罰めはなしと見ゆれども、佛臭き事ありては、御心よくは思し召さず。その拜禮を受け給ふまじき道理なればなり。――[然るは我ら神職ならねば、謂ゆる忌みがたきなど言ふ筋にて云ふに非ず。また謂れなく佛を忌々しく云ふにも非ず。古への道を學びて、其の學び取れる故實を、人々の心得になれがしと思ふ信心(まごころ)より、かく言ふなり。夢々あしく聞くこと勿れ。]――

 然れば古へより神宮には、統べて忌詞といふ有りて、『延暦儀式帳』、また『延喜神祇式』にも載せられたるが、寺を瓦葺、塔をあらゝぎ、佛經を染紙、齋(とき)を片膳(かたしき)、僧を髮長、尼を女髮長、佛を骨とも中子とも立てすくみとも云ひ替へて、佛語をいみ、伊勢の神宮には、僧尼の拜所とて、宮前より遠く傍(かた)へにまうけ置きて、法親王と申せども、其の所にて御拜あり。――[近ごろ或る諸侯の法體し給へるが、參詣あらむと爲けるに、其の由を申ししかば、還俗して詣で給ひ、或る法親王の參詣し給へる時も、神官さゝへ申ししかば、僧尼の拜所にて拜み給へりと聞ゆるなど思ふべし。]――

 また大嘗會・新嘗會を始め、朝廷の重き神事の時には、寺々の鐘を撞くことを止(とゞ)められ――[但し鐘つく事を止めらるゝ事は、鐘の、元より佛法の物なることは更にも云はず、僧家の説に、かの『過去現在因果經』といふ物の、「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅爲樂」といふ四句の語音に響くと云ふを以てなり。其はいたく取り下したる説には有れど、『道成寺』といふ謠曲に、「初夜の鐘は諸行無常と響き、後夜の鐘は是生滅法と響き、入相の鐘は生滅々已・寂滅爲樂と響く」とやうに作れるを以ても知るべし]――、諸大社の神事および堂上方の物忌にも、「僧尼及び不淨の徒(とも)がら、門内に入るべからず」と禁札を出だされ、神宮への敕使發向の時は、路次の道端なる立てすくみに類せる物をば、觀音・地藏に至るまでも、菰包みとなし、或は取り去(す)てもして、途を清むる御例(みさだ)めなり。――[猶ほくさゞゝの事ども有れど、中々にこゝに説き盡すべくも非ざれば、まづ是らを以て、佛法の、神事に忌々しき事の大概を知るべし。猶ほ次々に論ふを待てよ。]――

 さて、天照大御神の、然しも佛法を惡ひ給ふことは、凡人の心をもて、如何なる由緒ならむと云ふこと知りがたきに似たれど、篤胤、はやく佛法の謂ゆる一切經どもを、普ねく見て考へ得たる説(ときごと)あり。――[但し大御神の、佛法を忌みたまふ事を、ふるく法師らが説に、大神宮の三寶を忌むことは、昔、この國、未だ成らず、大海の底に、大日の印文あり。天照大神、鉾をもて是を探れば、其の滴り、露の如し。第六天の魔王、はるかに見て以爲らく、「此の滴り、もし國と成らば、必ず佛法流布して、人、生死を出づべし。此れを破るべし」と。時に大神、魔王に謂ひて云く、「我れ三寶を近づけじ。必ずその名を稱へじ」と。魔王、即ち歸りぬ。此の約に因りて、僧を傍へに近づけず。經を染紙といひ、佛を立てすくみと云ひ、僧を髮長といひ、堂をこりたきと云ふ。外は三寶を忌むと云へども、内は三寶を守ると云ふこと、『元亨釋書』を始め、數たの書に記るせれど、此は、彼の行基・最澄・空海などが造言せる妄説なること、『巫學談弊』に、既に委しく説き辨へたるを見るべし。]――

 然るは御國に、今行はるゝ僧法の趣はも、世に見馴れて、然しも異かる法の如くは覺えぬ物から、總じて僧の行状は、其の道の本を有りのまゝに云ふときは、人の人たる道に外れたる所行ひなる故に、嫌ひ給ふ事と思はる。其は佛祖釋迦氏の立てたる道の本義及びその起原は、『印度藏志』と云ふ書を著して、其れに委しく記るせば、‥‥

 さて、御國に立て置きたまふ佛道は、現人神の御心と、寛裕大度に宥めまして、然しも辛苦ならず定め給へる故に、佛祖が立てたる趣きとは、甚く異りて、行ひ易けれど、其の道の有りの任(まゝ)に云ふときは、右の如く忌々しく、其の行ひ、人の道に外れて、天つ皇祖神たちの、世の人を生成蕃息せしめ、愛惠しみます御心に背(たが)ふが故に、天照大御神は、甚く惡ひたまふ事と所思ゆるなり。‥‥

 抑々我が皇神の道の趣きは、清淨を本として汚穢れを惡ひ、君親には忠孝(まめ)に事へ、妻子を惠みて、子孫を多く生み殖やし、親族を睦び和はし、朋友には信を專らとし、奴婢を憐れみ、家の榮えむ事を思ふぞ、神ながら御傳へ坐せる眞の道なる。‥‥然る正道を傳へ給ひし皇神たちの、其の御旨に違へる佛法を、あに嫌ひ坐さざらむや。



【皇大神宮内宮三禰宜・薗田將監荒木田守夏翁『神拜式條』】
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【縣居賀茂眞淵大人七世孫・中今亭葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定宮司『僧侶の參拜云々に就いて』他】
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●寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』(昭和二年七月)に曰く、

「近時世間に現れたる論説の傾向を見るに、一部の間に於いては、神佛關係の歴史に對して明察を缺き、近世三百年の努力を無視して、再び中世の混沌雜駁に復歸しようとする傾向を見る。いはれなき逆轉と斷ぜざるを得ない。‥‥近時この問題について世に現れる論説は、多く明治維新の當時の處置のみについて論難し、その歴史的背景に言及する事なく、而して或は明瞭に之を以て足れりと斷言してゐる。‥‥この近世三百年の間の思潮が、やがて明治維新を機會として神佛分離を徹底せしめたのであつて、之は決して一朝一夕の事ではなかつたのである。‥‥

 神佛分離あるは、神佛習合にあるによる。習合を究めずして、分離を説く事は出來ないからである。‥‥しからば神佛習合とは何であるか。神佛習合は、神と佛との調和である。然り、名は調和である。しかし實は神を佛に隷屬せしめる事であつた。即ち神佛習合の基調をなすものは、本地埀迹の思想であつた。これは佛を本地とし、神を埀迹とするものである。‥‥神を佛の埀迹と見、權現と考へ、その本地が佛なるによつて、初めて神の權威を認めたのであつた。即ち本地埀迹の思想にあつては、神は單に佛の影であるにすぎない。いはゞ神は、こゝに佛に從屬してゐるのである。神を以て佛に從屬せしめ、從屬の關係に於いて、初めて神の權威を認めようとするが如き思想は、いかにして可能であるか。その爲には、先づ佛教が壓倒的勢力を有たなければならない。しからずんば神道をそのうちに包含し、その下に蹂躙する事は出來ないのである。第二は神道が、その力を失つて居なければならない。しからずんば神道は、佛教の下に屈服し隷屬する筈はない。而して神道がその力を失ふ時は、いかなる時であるか。即ちこれは國民が歴史を忘却した時である。‥‥

 延喜・天暦の前後よりして、本地埀迹の思想は起つて來たのである。それよりして後、急激にこれが發展し、非常な勢ひを以て氾濫していつたのである。しかるにこの延喜・天暦の前後は、一體いかなる時であつたか。この時代は、我が國の歴史に於いて、最も重大なる變轉期の一つである。即ち從來支那大陸との間に、前に隋、後に唐との間に、國使の往來があつたのが、この時代に至つて止められた。これは外國關係の上に非常に重大な變化であつて、いはば一種の鎖國状態に入つたものであるが、それと共に國民の間に、外國に對する注意がうすらぎ、從つて國家觀念が薄弱になり弛緩して來たのである。それと共に深く考へなければならないのは、歴史編纂の事業が、この時より止んだ事である。從來日本書紀より續日本紀・日本後紀と、つぎゝゞに作られて來た國史が、醍醐天皇の延喜六年に三代實録を作られたのを最後として、以後全く止んでゐる。これは外國關係の斷絶と深い關係があるものと考へられる。即ち外國がなくなつたので、國家觀念が弛緩し、國家としての自覺がうすらいだ爲に、國史を編輯する氣力を失ひ去つたのである。恰もこの時である。恰もこの時に、本地埀迹の思想が起り、神佛の習合が成熟して來たといふのは、何を語るか。まさにこれ國民が歴史を忘却し、我れ自らを放下し、神道その力を失つた時、佛來つて神にとつて代るといふ、前述の論理を如實に示すものではないか。而して又た恰もこの頃よりして國家の統制力のうすらいだのに乘じて、私寺の建立が甚だ盛んとなり、佛寺所在に遍滿して、佛教の勢力が甚だ盛んとなり、而してそれらの寺院が、又た國家の規定の亂れに乘じて、多くの莊園を私有して、その俗的勢力を愈々盛んならしめたのであつた。‥‥

 佛教の勢力の衰微は、中世の末、近世の始めに起つた。上代の末より非常の權威を有し、朝廷すら之を奈何ともする事の出來なかつた比叡山延暦寺が、織田信長の爲に一朝にして燒き拂はれ、全山灰燼となつて了つた事は、佛法衰微の時節到來をつぐる鐘聲ではなかつたか。信長一度び出でゝ延暦寺は燒かれ、興福寺は慴伏し、本願寺は討たれ、高野山は圍まれた。これは上代・中世を通じて、未だ曾て見ざる大變革であつて、世運の推移を明瞭に物語るものである。而して思想界には、佛教攻撃の論が相ついであらはれた。‥‥

 もとより勢ひの激する所、或は破壞にすぎ、或は壓迫を事とした所もあらう。寶塔忽ち摧破に遇ひ、靈佛一朝にして灰燼となり、斷礎の間、徒らに草の離々たるを見る時、誰か心を傷ましめないものがあらう。しかも己を虚しうして歴史の大局を達觀すれば、神佛分離は國民的自覺當然の歸結であつて、其の間、些かの疑惑を容れない。しかもこの理は年と共に忘却せられ、今や囂々非難の聲をきく。神佛の關係は、一部の間に於いては、殆んど逆轉せんとしつゝある。而してこれは歴史の正しき認識の缺如より起るものであり、今や歴史の光によつて是正せられなければならないものである」と。



 愚案、明治以降の御代に於ても、神敵たる島地默雷の暗躍、鈴木大拙の變節、天牌(聖壽萬歳の祈祷)の廢儀、佛徒の政界跋扈等を見るにつけ、悲しみ益々深く、藥、瞑眩せざれば、其の疾ひは癒えず、佛教に天誅が降ること幾きに在り、現代に於いて廢佛毀釋論の再び起こる、亦た當然と謂はねばならぬ。
 
 

先づ神事、後に他事。――『禁祕御鈔』謹解。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月11日(水)23時22分1秒
返信・引用 編集済
  ■順徳天皇『禁祕御鈔』

 凡そ禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無し。白地(あからさま)にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず。萬物、出で來るに隨つて、必ず先づ臺盤所の棚に置き、女官を召して奉らる。或は内侍の如き、參つて之を奉る。



 川出清彦掌典『大嘗祭と宮中のまつり』(平成二年六月・名著出版刊)には、順徳天皇御著『禁祕御鈔』の義解があつて、本道に重寶であるが、こゝには、平田大壑先生の『玉たすき』を引いて、祭政一致と謂はうか、否、祭儀の推本優先の大御教へを仰ぎ奉りたい。



●大壑平田篤胤先生『玉襷』一之卷(――[云々]――は、割註なり。一部省略)に曰く、

 天皇の御祖神を御崇敬まし坐す御定めは、天照大御神より四十九世、神武天皇より八十四代の帝、順徳院の天皇の、御自から記るさせ給ひて、『禁祕御鈔』とも、『建暦御記』とも題(な)づけ給へる御典(みふみ)の開卷第一に、

 凡て禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無く、白地(あからさま)にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず。萬の物、出で來るに隨ひ、必ず先づ之を奉らる。僧尼及び憚る人の許(もと)より進(たてまつ)る所の物は、之を奉らず。――[こは、御文のこゝに要とある所のみを引き出でたり。委しくは本書によりて拜見すべし。]――

 かく讀み申す我等こそ卑しけれ、この讀み上げたる御文は、いとも畏き遠つ神、現人神の綸言なれば、各々愼みて承はるべき事なり。――[そは、凡て神皇の御事實を記し奉れる御典どもは更なり、かゝる綸言・令式の類ひなる御書ども、學問上達し畢りて後に、その義を注解する時の議論は暫くさし置き、その讀み上ぐる時は、正にその神語・令式を傳へ承はる心になりて、恭拜敬讀し奉り、また其れに就きては、岡部大人・本居大人など始め、先生たちの、神典古傳説に依りて釋き著されたる書をも、拜讀の意(こゝろ)ばへを忘れず、讀み學ばむこと、勿論なり。今の世に古學者と云ふ徒(ともがら)、いと多かれど、斯くの如き事までに心をつけて言ひ教ふる人は無ければ、かく云ふを聞きて、嗤(あざ)み罵るも有るべけれど、其は漢籍をのみ讀みふけりて、實學なく、句讀を授け詩文を教へて口を糊する徒の、風を見習へる惡弊なり。其れに替りて僧徒は、その奉ずる道こそ異(けし)かれ、謂ゆる經論注疏の類ひを讀むに、身を清め香を燒(た)き机を掃ひ、戴き捧げて讀誦を爲し、白地にも人の蹈む席(むしろ)の上に措かざる倫ひも、しかすがに多かり。其が中には、僧徒の例の方便に、容體づくりて、愚人に信を取らむと構ふる倫ひもなきに非ねど、實にしか崇敬する者も、はた無きに非ざば、其の徒にも恥ぢて、古學の徒は、眞心に拜讀拜聽あらま欲しきわざにこそ。此は、敍でなれば云ふなり。]――

 さて、御文の意は、すべて禁中の御作法の多端なるが中に、何事よりも、まづ神事を第一と成され、夫れより他の事を行ひ給ふ御事ぞ、と宣たまへるなり。「旦暮、敬神の叡慮、懈怠無く」とは、旦暮(あけくれ)に、天神地祇を御崇敬ある叡慮の、懈怠(おこたり)なき樣に御勤めある由なり。「白地にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず」とは、右の如く神祇を御崇敬ある御事ゆゑに、假初めにも伊勢の大神宮の御方、及び内侍所の御方をば、御後とし給はぬが、天皇の御行ひぞ、と宣たまへるにて――[白地とは、かりそめにもと云ふが如し。]――、内侍所と申すは、伊勢の大御神の御靈を、禁中に祭らせ給ふ御所の名なり。天皇の大御祖神を御崇敬ある御有趣、これにて窺ひ奉るべし。其は只に天皇御一己の御謹信のみに非ず、天下に有らゆる人民(おほみたから)を、眞福(まさき)く平穩(おだひ)に在らせまほしと所思し召す御心より、かく爲たまふ御事なり。――[然れば此の事のよしは、神の道の講説の中にも、やごと無き事なれば、各々きつと愼しみて心にしめ、彼の謂ゆる馬の耳に風吹きたる如く、うつかりと聞くこと勿れ。]――

 其の由は、まづ此の世界の始まりは、『靈の眞柱』に説きたる如く、天つ御國、謂ゆる高天原に御坐(おはしま)せる男女二柱の皇産靈大御神、まづ天地の基本(もとゐ)を成し給ひ、伊邪那岐・伊邪那美二柱神に詔命(みことの)らして、この大八嶋國を生ましめ、嶋の八十嶋・外つ國々をも造らしめ給へるは、其の時の御語に、「この漂へる國を、修り固め成せ」とのみ有れども、要(むね)とは、人種(ひとくさ)を生み成せとの御語にぞ有りける。其は國土を造り堅むる御事は、人民を生み成し住ましめ給はむとの御心ならずは、何の用とかせむ。――[こを譬へば、家を造ることは、必ず住ましむべき人あるを以て、造ると同じ道理(ことわり)なること、能く思ふべし。]――

 是を以て伊邪那岐・伊邪那美二柱神、その大御心を御心として、國土を生み成してのち、直ちに青人草を生み殖やし、然して後に、その青人草の蕃息(ふえひろご)り榮ゆべき事をし、種々に物し給へり。其は風・火・金・水・土の神等を始め、數多の神たちを成し給ひ、月の神・日の神を生し給へるも、言ひもて行けば、實には人草のために成し坐せりと申さむも、強ひ言に非ず。――[この妙なる道理は、古今の學者の、かつても言はざる大義なるを、委くは『古史傳』に就きて見るべし。]――。

 是を以て伊邪那岐・伊邪那美二神の御語に、「然かしてば、青人草のために惡しからむ。斯くしてば、青人草のために善けむ」とやうに宣りまたひ、また其の御言に、多く「うつしき青人草」とは宣たまへり。此は、愛(うつ)くしみ惠み給ふ青人草と宣たまへる御言にて、珍(うづ)の御子・愛くしき吾が名兄命・愛くしき我が那邇妹命などある「うつ」と、同じ義(こゝろ)の言なり。さて、青人草としも云ふは、古説に、人の蕃息るを、青草のしげるに譬へたる語なりと云へるは、天の益人とも云ふを思ふに、實に然も有るべし。斯くて伊邪那岐大神、のちに天照大御神を生み給ひ、天つ日の御國を治ろし食さしめ給ひ、御自身は、天上(あめ)なる日の少宮と云ふ御所に靜まり坐せる後に、天照大御神・皇産靈大神の御心として、天の下に蕃息れる人民を御治め有るべき爲めに、大御神の御孫、天津日高彦火邇々藝命を、天上にて、天皇命の御位に即け奉り給ひ、天の下の大君と定めて、此の御國へ天降し奉り給へり。――[これ、天子の始めにて、此の邇々藝命より、當今の天子まで、百二十四代にならせ給へり。偖しか天の下の萬民を統べ治ろし看す尊にます故に、スメラギとも、スメラミコトとも申すと、古人の説なるが、此は誠に然るべし。]――

 抑々この邇々藝命と申し奉るは、大父神を天忍穗耳命と申して、その稚なく御坐せる時は、天照大御神、つねに御脇に懷き坐して御愛みまし、此の忍穗耳命の后神は、皇産靈大神の御女、栲幡千々比賣命とまをす神の生み坐せる、玉依毘賣命とまをす神にて、其の御間に生み給へりし、邇々藝命に坐す故に、天照大御神には御孫にまし、皇産靈大神には御曾孫に坐すなり。――[上代に、ヒコと云へるは、謂ゆる孫なり。後世、この稱へを誤りて、孫をマゴと云ひ、曾孫をヒコと云ふ。然れどマゴとは、眞子の義にて、我が生みの子より次々の子孫までを廣く云ふ言にて、孫をのみ云ふ語に非ざるなり。]――

 さて、此の邇々藝命の御事をし、天照大御神は、「我がうつの御子」と詔たまひ、皇産靈大神の御愛しみ坐せる事は、神代紀に、「皇産靈神、特に鍾憐愛(めぐし)と以(おもほし)て、崇養(すたてひた)したまひき焉」と有るにて知るべし。――[此の御國は、四方の蕃國(みやつこぐに)の陋(いや)しきに比べては、殊に勝れては有るなれども、天つ御國の、また異に卓越れたるに比べては、劣れること云ふも更なるが、然る天上の卓れたる御國より、此の國土へ天降し給へりし二柱の神慮は、如何にと想ひ奉れば、彼の愛しき青人草の蕃息れるを、取りすべて御治め坐すべき、御系の尊く正しき、大君の御坐さでは、猾亂(みだり)がはしく、平穩なるまじき事を所思し食して、其の人民を惠み鎭め治め給はむ爲めに、降し奉り給へる御事なり。その天降し給ふ時に、邇々藝命に、天照大御神の詔たまへる御語に、「豐葦原中國は、汝の知るべき國なり」と詔たまへるは、青人草を治め給ふことの要とある御語なる事を、熟く思ふべし。其は人草の無かりせば、國を治むると云ふも、徒ら事なること、思ひを深めて能く辨ふべし。]――

 畏けれど、世の凡人(たゞびと)の上を以ても知るべく、孫(ひこ)は生みの子よりも愛(めぐ)く、曾孫(ひゝこ)は孫よりも愛しと、誰も云ふを、天・地・人・物の本つ御祖神と坐す、天都神たちに坐せば、殊に御慈愛の深くおはし坐すこと申すも更なり、各々が心に準へても、想像り奉るべし。斯くてその天降し給へる時は、邇々藝命、いと幼稚く御在しませしを、天上に在せる神たちの、殊に卓れたるを盡く附屬(そへ)たまひ、眞牀衾と云ふを覆ひ奉りて、御許を放ちて天降し給へりし神慮は、と申せば、青人草を平穩に治め給はむとの神慮より外なし。――[邇々藝命の天降りませる時は、なほ御幼稚におはし坐せること、神代紀の一書に、「始めは其の御父、天忍穗耳命、天降り坐すべき議定にて、既に降り坐さむと爲ける時に、その雲路にして、邇々藝命生れ坐せるを、父神に替へて天降し給へり」と有るを以ても辨ふべし。]――

 また邇々藝命、幼稚く御坐しましつゝも、其の御祖神たちの御言のまにゝゝ、其の御許を離れて、見もしろし召さざる、此の御國へ天降りませる事は、天照大御神・皇産靈大神の大御心を御心とし給ひ、天の下の人民を惠み治め給はむとの御事なり。――[天照大御神の、青人草を愛しみ給ふことは、穀物(たなつもの)の種ども御覽はせる時に、「此の物等は、うつしき青人草の、食ひて活くべき物ぞ」と詔りたまへる一事をもても悟るべし。此は只に食ひて活くべき物ぞと宣たまはむには、御身づからの上にかゝれど、青人草のと宣たまへるにて、其の大御心、いと著明かに知られたり。]――

 かくて世の青人草の成り出でしもとは、皇産靈大神の御靈に頼りて、伊邪那岐・伊邪那美神の生み成し給ひ、天照大御神に屬(ことよさ)し給へるを、また其の詔命に依りて、邇々藝命より次々に、天皇命の知り治め給ふなれば、實には國土・人民ともに、天照大御神の御物にて、天皇命は、其を治め給ふ御職に坐すこと著く、かつ國土・人民の天皇命に御坐すを、國々の侯(きみ)は、そを持ち別けて領り治むる道理にぞ有りける。――[西戎(もろこし)の國の古き語に、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下也」と云へるは、我が上つ代の意ばへの傳はれるにて、君たる人には、實に然るべき語なるを、下として上を覬覦する者どもの口實とするは、甚く道の意に背けり。]――

 さて、邇々藝命の天降ります時に、御祖神たち、此の國土を治め給はむ御政事の方(さま)も、委曲(つばら)に諭し給へるが、其の趣(さま)、何かに有りしと言ふに、世にある事は、盡く天神地祇の御靈に資(よ)ることなる故に、神祭りの事を專(むね)と御傳へまし、まづ荒ぶる神は、祭り和めて祟りあらせず、諸神たちを、夫れ々ゝに齋ひ祭りて、その御惠みの、いや益々に加(そ)はるべく御定めませり。其れみな天の下の青人草をまつろへ、惠み給ふ御態(みわざ)より他の事なく、外つ國風の小賢しき教へ語は、更に無し。――[然れば祭事、やがて御政事の本なる故に、天下を治め給ふ事に用ふる政の字を、即(やが)てマツリゴトと訓むといふ古説も、實に然る説にぞおぼゆる。]――

 かくて邇々藝命より次々、御代々々の天皇命にも、その御由緒(みいはれ)の如く御行ひありて、神事を第一になし給ひ、まづ上古には、天皇御みづから神事を成されて、天の下の人民の衣・食・住に安然かならむ事を御祈り坐して、年ごとの六月と十二月との晦日には、天の下に有らゆる人民の枉事・罪穢れを拂ひ給はむ爲めに、大祓ひと云ふ神事を成され、其の時に集まれる諸人に讀み聞かしめ給ふ御文を、『大祓詞』といふ。――[俗に此の御文を「中臣祓」と云ふは誤りなること、岡部翁の『祝詞考』、師の『大祓詞後釋』などに辨へられたるにて知るべし。]――

 さて、後の世に、漸々に外國風の事も交へ用ひ給ふ御世となりしかど、右の由緒によりて、朝廷の禮儀作法を記させ給へる御典ども、みな神祇に關(あづ)かる事を先と爲られ、まづ『令義解』と云ふは十卷ありて、令條の御典なるが、其の第一は神祇令とて、神祇にあづかる御令を載(し)るされ、『延喜式』と云ふは五十卷ありて、式條の御典なるが、其の初卷より第十卷までを神祇式とて、神祇に關かる御式を載るされ、あと四十卷も、云ひもて行けば、神祇の事に約(つゞ)まる程の事にて、其の八卷めは、諸々の神々を祭らせ給ふ時の祝詞どもを載(の)せられたるが、第一にある祈年祭の祝詞より、いや末に有る大祓詞まで、盡く天の下の人民のために爲し給ふ神祭りの御文にて、更に天皇御一己の御祈りに非ず、天の下の事を祈り給ふに付けて、御自らの御事にも及ばせる御文なり。――[もろゝゝの祝詞に、深く心を用ひて、孰く此の旨を心得べし。]――

 さて、其の九卷め・十卷めは、神名帳とて、朝廷より御祭りある國々の神社の名を載せられたるが、其の數、三千一百三十二座、社の數、すべて二千八百六十一處あり。こを、延喜式の社と云ふ。――[なほ此の外に國史に見えたる式外の社、また國史に洩れたる御社の、朝廷より祭らせ給ふも、いと多かり。こを、官知の社と云ふ。また未官知の社とて、朝廷の御祭りに洩れたる社の數は、今委しくは尋ね知るべきに非ず。そは、各國の神階記に載せたる社の多きに准らへて思ふべく、諸書に、或は大社・小社、一萬三千七百三十餘社とも、或は神宮二萬七千七百十三社、成宮の神二千七百五十社、不成宮の神一萬九千社とも、或は大小の神祇三千七百餘處、上には一萬三千社、下には粟三石の數など有るを以ても、其の社數の多かる事を辨ふべし。]――

 源親房卿の『職原鈔』にも、神祇官を第一に擧げて、「當官を以て、諸官の上に置く。是れ神國の風儀、天神地祇を重んずる故也」とも、「祭官の職は、上古の重任也。又た神國の故に、當官を以て太政官の上に置くか乎」と記るされたるは、能くも古の道をかき傳へたる文なり。信に此の語の如き、神世の由緒なるが故に、天下を治め給ふ御政事に、神事を先と爲たまふ事、やがて皇産靈大神・天照大御神の、青人草を愛しみ給ふ大御心を御心と受け行ひたまふ、天皇命の御職におはし坐すなり。――[然れば此の由緒に違ひ坐して、神事を第一に爲給はざらむは、恐こけれど御過失と申さむも非が言に非ず。そは如何となれば、天つ皇祖神たちの神敕の御旨を麁略かにしたまふ道理なればなり。]――

 『禁祕御鈔』の開卷第一に、かくの如く「先づ神事、後に他事云々」と載るさせ給へるは、御先代の天皇命たちに、神事を麁略かにし、佛事を專要とし給へるが有りしより、神世の御故實の廢れもて來し事を所思し食したるにて、其は古く孝徳天皇の御世に、天の下の人民を治むる道を問ひ給へるに、臣等みな、「先づ以て神祇を祭り鎭め、然して後に政事を議す應し」と奏せる旨をも所思し食せるにや。然るは御文、いと能く似たればなり。――[師の『玉かつま』に、「風雅集に。後宇多天皇は、大御歌、『天つ神 國つ社を 祝ひてぞ 我が葦原の 國はをさまる』 是ぞ道の意には、能く叶へる大御歌なりける。他の國のごと、くさゞゝ言痛(こちた)きわざは、爲させ給はざりしかど、只だ神を齋き祭り給ひて、天の下の、いと能く治まりつるは、神の御國の勝れたるにて、上つ代は、まことに然かこそ有りしか」と云はれ、また宇治左大臣頼長公の『台記』に、鳥羽院の天皇の大御言に、「如かず、禮佛の勤を闕いて、敬神の忠を全くせむ矣には」と宣たまへるをも擧げて、「こは、佛事の御をり也しに、神事をやごと無くおぼし召されたる詔の、尊くおぼえ奉るまゝに記しつ」と有り。]――

 さて、「萬づ物の出來るに隨ひて、必ず先づ之を奉らる」とは、何に依らず、其の初穗を奉らるゝ由なり。「必ず先づ」と記るさせ給へるに、心をつけて拜讀すべし。――[闕く如となく、必ずきつとまづ其の初穗を奉り給ふ由にて、「必ず先づ」の字、おほき力あり。序でなれば云ふ、神にいち早く物を奉ることを初穗といふは、舊説に、稻の初穗を奉るより出でたる語なりと云へるは、然も有るべし。また若しくは穗のごと拔き出でて進むる故に、云ふならむも知るべからず。]――
  
 

鹿兒島灣上の聖なる夜景。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 6日(金)21時41分56秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 明日は、宮中昭和天皇祭であります。

 塾頭も仰せの如く、神社祭祀は、宮中祭祀を溯源儀表と爲す。殊に官國幣社は、國家の生命にして、此の聖域を、「闊歩」乃至「ビラ配布」を行ひ、「遊戲場」或は「交際場」と爲すは許されず、祭祀の本義を常に念頭に置き、大内山に神習うて、嚴肅謹愼を要し、清淨・靜謐を護持しなければならぬ。神社の俗化猥雜は、國民精神の頽廢を招來するを知るべきである。

 柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀』に曰く、「先帝祭は、御先代の天皇の崩御當日に、御追慕の思し召しで、皇靈殿及び山陵で行はれる大祭です。現在では、先帝の昭和天皇の崩御當日の一月七日に、皇靈殿で、天皇陛下御親祭のもと齋行され、皇后陛下・皇太子同妃兩殿下が御拜禮されます。また武藏野陵に、敕使を參向されて奉幣なさいます。夜は皇靈殿の前で、御神樂の儀が深夜まで行はれ、御父昭和天皇の御靈をお慰め申し上げます。宮中の御神樂は、年に數度行はれますが、兩陛下をはじめ皇族方は、この御神樂が終了したとの連絡があるまで、御所でお愼みになられておはしますと承ります」と。

 君民一體の國體の片鱗として、人口に膾炙してゐることであるが、木下道雄翁『新編・宮中見聞録』を謹記して、昭和天皇の聖徳をお偲び申し上げたい。此の祕話に因つて、我が皇國日本に覺醒した方々も衆いと仄聞する。斯く申す小生も、高校生の時であつたか、其の初版本を拜讀して、泪が止まらなかつた經驗を有つ。正に君臣一如、義は乃ち君臣、情は父子、信に異國に絶えて無き、我が國體の精華と仰ぎ奉る。



●木下道雄侍從次長『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』(昭和四十三年二月初版・新小説社刊。平成十年一月新編・日本教文社刊――些か假名を漢字に變換させて戴きました)に曰く、

「昭和六年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、陛下は、往路は汽車で熊本までおいでになつたが、お還りは演習終了後、汽車で鹿兒島へ、鹿兒島からは軍艦榛名(はるな)で、横須賀へ向はせられたことがあつた。當時、私(木下翁)は行幸事務を主管する大臣官房總務課長として、お伴のうちに加はつてゐた。忘れもせぬ、時は十一月十九日、日沒と同時に、榛名は供奉の驅逐艦四隻を隨へ、縣市民の盛大なる奉送裡に、煙噴く櫻島を後に、いま靜かに鹿兒島灣を南下しつつある。

 艦上に立つて見上げると、ゴツゴツした小山のやうな巨艦の檣頭には、天皇籏が翩翻とひるがへり、忙しく立ち働く水兵たちは、みな喜色滿面。自分たちの艦に、天皇籏を掲げるといふことは、譬へやうもない喜びなのである。御召艦と決してからの、傳染病豫防のための長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、皆これ今日の榮ある日を迎へるためだつたのではないか、喜ばずにをられようか。

 艦内に於ける陛下の御生活は、何時も極めて御愉快であり、御自由である。陸上に於けるが如き警戒・警衞は、一切ない。全艦、皆これ國家の干城、ひとりの狂者もをらぬからである。作業に勤しむ水兵たちの群がる中を、おひとりで割つてお入りになる、そのお樂しみ、肩と肩との擦れ合ひ、若者たちの熱氣のうちに、われ國民と共に在りの御氣分を滿喫されるからであらう。

 榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは、後甲板(こうかんぱん)の眞下の司令長官室であつた。お室の入口の直ぐ近くに、長官專用の階段が上へ通じてゐるから、何時でもご自由に、後甲板においでになることができる。この後甲板は、陛下の最もお好きな場所で、雨が降つても心配がないやうに、上にはズツクの覆ひが一面に張つてある。夜は廣い甲板の中央のところに、電燈にたつた一つつくだけで、薄暗いところではあるが、夜でも、よくここにおでましになる。折たたみの輕いズツクの椅子が數脚、それから、陛下はタバコをお吸ひにならないが、他の者のために、火繩のついた大きな灰落としの眞鍮の壺が二、三あるだけで、裝飾は何もない。ただ遠望の御用のために、脚付の望遠鏡が、右舷にも左舷にも、ところどころに備へつけてあるのと、海圖の机が一つ。この海圖には、擔當の將校が鉛筆で、艦のコースを書き入れてゐる。これを見ると、鹿兒島灣の幅は約二○キロ、鹿兒島市から灣口までの距離は約八○キロ、艦のコースは、丁度灣の中央線を眞つ直ぐに灣口さして南下し、それから太平洋を黒潮の流れに乘つて、横須賀へ向うことになつてゐる。見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、右舷、薩摩半島の山々も、共に十餘キロの彼方、夕闇のうちに、薄暗く見えるだけである。

 間もなく、六時の夕食の時刻となつたので、われわれは艦内に降りて、士官の食堂で食事にとりかかつた。航海中、陛下の御夕食には、艦長以下、上級將校が代る替はるお相伴に召されるのを例としてゐたが、このときは出港直後のことであり、艦長以下一同、業務多忙のため、陛下は御居室で、お一人で御食事中であつた。

 丁度六時半頃であつたか、私は皆と食事中、フト、昔の記憶が頭に浮んできた。それは、大正十四年の夏、陛下が、まだ皇太子であらせられたときのことであるが、軍艦長門で樺太に御旅行になつたことがある。或る日、樺太の南端にある大泊から、西海岸にある本斗・眞岡の方へ囘航の途中、その夜、長門は海馬島といふ絶海の孤島の島影に假泊する豫定になつてゐたので、夕食後、われわれは、陛下を中心に、後甲板で涼しい汐風に吹かれながら、黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、段々近づいて來るのを、物珍らしく眺めてゐた。當日は風波がかなりあつたので、艦は丘の風下にあたる靜かなところに泊まるために、速力を落とし徐行して、ぐるつと島を廻つてゐる、そのとき、突然、夜闇の波の間、艦の直ぐ近くに、何やら泣くやうな、叫ぶやうな大聲が聞えてきた。舷窓を漏れるあかりに照らし出されたところを見ると、日の丸の旗を舳先に立てた一艘の小舟が、荒波にもまれながら艦と竝行して、六人の若者が一生懸命に櫓を漕いでゐる。左手に、しかと、とも櫓を握つて指揮をしてゐるのは、一見、六、七十の老父のやうであつたが、紋付・羽織・袴に、右手に山高帽を高々と差し上げながら、何か叫んでゐる。風が強いため、その言葉は聞き取れなかつたが、嬉し泣きに泣いてゐることだけは、よく判る。

 私は一ケ月前、下檢分で、この島にも立ち寄つたので、島の事情は知つてゐた。昔から、ここの島には、百人餘りの日本の漁民がゐて、ここを根據地として漁業を營んでゐるのである。今日の夜、殿下の御召艦が、ここに假泊することは、皆知つてゐたので、恐らく島の人たちは、總出で船を出して、沖で殿下をお迎へする積りでゐたのだらうが、日が暮れて、波荒れ狂ふ夜闇の海上で、そのうちの一艘が、やつと長門の艦影を發見し、少しでもお側に近づかうとして、えいえいと漕いでゐたのである。われわれは後甲板の上から帽子やハンカチを振つて挨拶をかはしたが、艦がいくら徐行してゐるとはいへ、二つの船の速力には格段の違ひがあるので、一瞬の間に別れてしまつた。私は、もしほんとに手が屆くなら、抱き合つて一緒に喜びたいと思つたが、まことに殘念なことであつた。

 このことを、私は食事の最中に思ひ出し、ここも波の靜かな鹿兒島灣内のことであるから、何時、何處から、船が來ないとも限らない。今は陛下もお食事中であらうし、われわれも皆食堂にゐる。後甲板には、いま誰もをらぬだらう。もし船でも來たら、相濟まぬことになると考へ、皆より早く食事を終へ、大急ぎで後甲板に驅け上がつた。

 艦内は非常によく照明されてゐて明るいが、後甲板の上は、まことに暗く、電燈の下ならともかく、少し離れたら、人の顔も、よく見わけのつかぬ有樣であつた。ところが誰もをらぬとばかり思つて飛び出した私の眼に映つたのが、右舷の手すりのところに、西を向いて立つてゐる、ひとりの人の後ろ姿であつた。望遠鏡から手を離し、擧手敬禮の後ろ姿。ハテ、今ごろ誰が、と思つて、近づいてみると、こは如何に、陛下ではないか。

 さては、奉迎船が下に來てゐるなと、私は直ぐ右舷に馳せ寄つて下を見たが、船らしいものは見えない。ハテ、何を望遠鏡でご覽になつたのかなと思つて、私も近くの望遠鏡に眼を當ててみたが、明るいところから急に暗いところに來ると、眼が慣れてゐないので、なかなか見えない。ジーツと我慢し覗いてゐると、そのうちに段々と目が慣れてきて、薩摩半島の山々のが、ぼんやりながら見えてきた。時刻から推測して、指宿の沖合あたりかなと思つた。そのうちに今度は、海の色と陸の色との區別がつくやうになり、水陸の境目、つまり海岸線一帶に、延々果てしなく續く赤い紐のやうなものが見える。ハテ、これは何だらうかと考へてゐたら、次に見えてきたのは、この赤い紐の上、小高いところに、幾百メートルかの間隔をおいて、點々と燃え盛る篝火。これで、私は萬事を了解した。

 當夜は月もなく、星も稀な、曇りがちの空模樣で、陸からは軍艦の姿は見えないが、時刻から考へて、今頃は、陛下のお船が沖合をご通過になるときだと語り合ひ、薩摩半島の村々に住む人々、老いも若きも、提燈や松明を持つて海岸に立ち竝び、また若者たちは山々に登つて篝火を焚き、半島に住む村人、こぞつて陛下をお見送してゐるのである。陛下は、いま、望遠鏡で、これを發見遊ばされ、薄暗い甲板の上から、ただおひとりで、沿岸一帶の奉送の燈火に對し、遙かに御挨拶をなさつておいでになつたのである。この光景を、思ひがけなくも私が拜した次第であつた。

 ああ、これこそ、本當の日本の姿と、私は思つた。何とか連絡を取つて、今、あすこでお見送りをしてゐる半島村々の人たちに、今、陛下は、艦上からあなたがたのお見送りの燈火に對して、ご挨拶をしておいでになりますよと、知らせたい氣持ちで胸一杯の私は、その方法のないのに、悶へ苦しんだ。無線で打電しようかとも思つたが、今、あの山の上で、篝火を焚いてゐる人たちの耳に、到底、今夜のうちに屆くとは思はれない。フト、そのとき一案を思ひついた私は、すぐさま艦長室へ走つた。艦長に事情を話して、探照燈を全部つけて貰ふことを頼んだところ、艦長も感激して、直ぐ、つけませう、といふ。私はお願ひしますの一語を殘して、また直ぐ後甲板に引き返したところ、そのときは、もう六ケの探照燈の光芒が皎々と、左は大隅半島、右は薩摩半島の空や山や海岸一帶を、隈なく撫でまはしてゐた。遙かに、ワツ、と上がる両岸の歡聲を想像しながら、私はほんとに嬉しかつた。


――海上、聖夜の讚――

 月なく星も稀な夜空の下、默々と鹿兒島灣を南下する軍艦榛名の、薄暗き後甲板は、人なく聲なく、只ひとり、陛下おん擧手の尊影を仰ぐ。

 御會釋を賜る者は、そも誰か。肉眼に之を求めて之を得ず、わづかに望遠鏡のレンズのうちに、薩摩半島沿岸一帶、遙かに見ゆる奉送の燈火。盛んなるかな、山々には篝火、岸邊には提燈の群れ、延々と果てしなく續く。

さらば、陛下、いざさらば、
 おんすこやかに、おかへりませ。
ありがたう、
 皆も、元氣でね。

 げに闇をも貫くは、まごごろの通ひ路。海波、遠くへだてて、君民無言の、別れのかたらひ。ああ、誰か、邦家萬古の傳統を想はざる。時は、これ昭和六年十一月十九日。

――――


 昭和三十九年の或る日、私は指宿の地を訪れたことがある。ここには九州大學の植物園があるが、その園長さんが、永年指宿に住んでをらるるといふことを聞いたので、植物園の園長さんをお訪ねした。
「あなたは、昭和六年には、この地にお住まひでしたか。」
「ハイ、住んでをりました。」
「然らば、その年の十一月十九日の夜、提燈を持つて、海岸にお立ちになりましたか。」
「ハイ、立ちました。県廳から豫め注意があり、當夜はあひにく月がないから、軍艦の姿は見えないだらうが、軍艦には、夜間、燈火が一つづつつく、御召艦と護衞の驅逐艦四隻、合計五ツの燈火が見える筈、第一の燈火は先導の驅逐艦、第二の燈火が御召艦のそれと心得られよ、とのこと。よつてわれわれは、遙か沖を通る、その第二の燈火に心を籠めてゐたところ、突如、その第二の燈火のところから、われわれに向つて、皎々たる探照燈が照らされ、一同、思はず歡聲を上げ、その光の中に互ひに手をとり合つて歡んだことでした。」
といふお話を聞いて、私も心中、大變嬉しかつたことがある」と。



【昭和天皇御製】昭和二十年八月・四首――『宮中見聞録』に所收――

爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

國がらを ただ守らんと いばら道 すすみゆくとも いくさとめけり

外國(とつくに)と 離れ小島に のこる民の うへやすかれと ただいのるなり

 
 

神代在今。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 4日(水)01時06分58秒
返信・引用 編集済
   『古事記』序文に、「元始綿邈たれども、先聖に頼りて神を生み、人を立てたまひし世を察かにす」と。最近は、天孫降臨の歴史を語らなくなつて久しい矣。何でも、神武天皇以來ばかり‥‥、小生の遺憾とする所であります。

 抑も皇位の尊嚴は、天上高天の原に存し、神道祭祀は、宮中祭祀に基づけり。仰ぐべきは、畏くも一に「天壤無窮の神敕」にぞ在りける。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/401


 宮中祭祀の專問書は暫く措いて、下記の書は、必ず讀まれたい。本道は、行を修むる神職にしか分らないのだが‥‥、否、宮中祭祀に限つては、掌典長にしか分るまい、否々、上御一人のみが知らせ給ふ御祕儀である。祕儀は知る由も無く、また知る必要も無いが、然し公刊書から、少しでも神習ひし拜承する研鑽努力は、皇民として生きむと欲する者の務めであらう。

一、井原頼明翁『増補・皇室事典』(昭和十三年六月初版・冨山房刊。十七年四月増補版。五十四年五月覆刻)

一、髙谷朝子内掌典『宮中賢所物語――五十七年間皇居に暮らして』(口述筆記。平成十八年一月・ビジネス社刊)

一、所功博士『天皇の「まつりごと」――象徴としての祭祀と公務』(NHK出版・生活人新書。平成二十一年五月・日本放送出版協會刊)

一、柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀――連綿と續く天皇の祈り』(平成二十二年七月・展轉社刊)

 殊に中澤博士には、此の掲示板に書込みを戴いたこともある。曰く、「この本(『宮中祭祀』)が広く多くの方に讀まれて、宮中祭祀の何たるか、天皇陛下の御本質についてお考へいただければと存じます」と。歳首の祭祀の一端は、所博士『天皇の「まつりごと」』の記事が最も詳細であるが、こゝは中澤伸弘博士『宮中祭祀』から拜承したい。



「宮中では、新年は祭儀から明けます。まづ四方拜の儀があります。これは年のはじめに、天皇が神宮をはじめ四方の神々や御陵を遙拜され、この年の平和と國民の幸福を祈念されるものであつて、平安時代の中期にには確定してゐた祭儀です。古くは寅の刻(午前四時ころ)に出御されてゐましたが、現在は午前五時半に、神嘉殿の南庭の御屋根に設へた御拜所に、脂燭の燈りのもと、御劍[註一]とともに出御になります(大祭には、必ず御劍と神璽とを、小祭には御劍のみを伴はれて出御になります。これが重要なことなのです)。天皇陛下は、これ以前に綾綺殿にお出ましのうへ、御束帶にお召し替へになります[註二]。御拜所は薦(こも)を敷いた上に白布を敷き、その上に眞薦・蘭薦を敷き、御拜座の厚疊を設け、燭臺二基を立て、その周圍を御屏風二雙で圍つたものです。そこで庭上下御、兩段再拜といふ御丁重な御作法(祭りのしかたの祭式を見ても、皇室の祭祀には、神前で手を打つ柏手がありません。陛下・勅使が神社に御親拜なさる時には、神前で深く一禮をされるだけです。また神社に奉られる玉串も、一般神社での作法とは違ひ、その捧げ方は、立てて奉奠される「立て玉串」です)で、神々を御拜なさいます。元旦の早朝は邊りは暗く、星が輝く、肌をさす寒さの中での年始の御祭儀であります。‥‥

 天皇陛下が屏風の中の御拜座で、どのやうな所作をなさるかはわかりません。御召し物の衣擦れの音が聞こえるだけとのことです。この御所作は、天皇のみが口移しで傳へられる御口傳です。古い儀式書には、神宮・四方の神々・先帝の御陵などと書かれてゐます。また屬星[愚案、北斗七星]を拜すともあり、何か呪文があつたやうです[註三]。應仁の亂で中絶しましたが、それ程期間をおかず、後土御門天皇の文明七年に再興し、今日に至つてゐます。その場所は時代の變遷があり、京都御所の時代には、清涼殿の東庭に出御になつて行はれました。また東京にお移りののちは、賢所前庭で行はれたこともありました。‥‥年の初めに、御歴代の天皇は、このやうな御祭儀を修されてきたのです。天皇陛下が喪中や御不例にわたらせられる時には、設へをしたことにより出御があつたと見なし、代はりの者による代拜はありません。この御儀は、天皇一人だけしか御出來になれない點に、その重みがありませう。その後、天皇陛下は引き續いて隣接する宮中三殿の歳旦祭(小祭)にお出ましになります。そのころ、邊りが明るみはじめます。

神殿へ すのこ上を すすみ行く 年の始めの 空白み初む(今上天皇御製)

 歳旦祭は、年の初めをお祝ひして、その年の平安を祈念される祭儀で、全國の神社でも行はれます。天皇陛下は、御劍とともに、賢所・皇靈殿・神殿の順に玉串を以て御拜禮されます。續いて皇太子殿下が同樣に御拜禮なさり、その後、親王殿下ほか參列者が拜禮します。小祭には、皇后陛下や皇太子妃殿下の御拜禮はありません。翌二日・三日には、日頃の日供をご丁重に奉られます。元日だけ御拜禮がありますが、この三日を、かつては「三箇日賢所・皇靈殿・神殿御祭典」とも稱しました。

 三日の元始祭は大祭で、三殿にて行はれます。年初に皇位の元始を祝ひ國家の安泰を祈るもので、明治五年に行はれて以來の御祭儀です。元始の名は、『古事記』の序文から取りました[註四]。これは大祭で、天皇陛下の御拜禮ののち、皇后陛下・皇太子同妃兩殿下の御拜禮があります。大祭は御親祭ですので、天皇陛下が御自身で御告文を奏せられます。また御鈴の儀があります。

 四日には、奏事始が、皇居の鳳凰の間で行はれます。陛下はモーニングをお召しになり出御、掌典長から昨年の神宮に於ける祭典、また宮中の祭祀が滯りなく修された旨をお聞き取りになられる御儀であります。このとき、天皇陛下は御起立遊ばされると漏れ承ります。古くは一月十一日に、神宮奏事始と稱して行はれ、徳川時代には、陛下は前日に御潔齋をなされ、當日は石灰壇で、殊に神宮を遙拜されてからお聞き取りになられました。明治初年には、賀茂奏事始・氷川奏事始なども行はれ、御敬神の思ひの深さがわかります。

 一方、平安時代には、政治が行はれてゐましたが、中世以來杜絶し、それを明治二年に再興し、天皇親臨のもと、政治向きのことをお聞き取りになられ、その中で宮内大臣が、神宮の祭儀のことを申しあげました。大正十五年には、皇室儀制令により、この時に第一に内閣總理大臣が神宮の御祭儀について奏上することとなりました。しかし戰後は、このことが廢止になつたため、あらたに神宮の奏事始として行はれてゐます。年のはじめに、まづ神事のことを御優先あそばされるお心と拜します」と。



[註一]永積寅彦掌典長『八十年間お側に仕へて――昭和天皇と私』(口述記録。「あとがき」は所功博士。平成四年二月・學習研究社刊)に、「『日の御座』しの御劍だけを、平常の御祭典では侍從が捧持してお供をするのですが、四方拜の時も御屏風の外に控へてゐます」と。

[註二]永積寅彦掌典長の曰く、「御旬祭だけはお直衣ですが、小祭以上は黄櫨染御袍で、新嘗祭だけは純白の御祭服です」と。

[註三]永積寅彦掌典長の曰く、「庭上と申しても、地面と殆んど高さの變らない板敷のところがありまして、一面に白布を敷いてあります。その上に眞薦を敷き御座所を置き、一雙の御屏風をもつてお圍みしてあります。東京からですと、南西の方向(神宮の方位)に御屏風を少し開けてあります。そこに御着座になりまして、まづ南西の神宮の方向に御拜禮になり、次に右囘りに四方を御拜禮なさいます。その一つ一つの御拜が、兩段再拜といふ丁重な拜禮でいらつしやいます。また御屏風の中には、掌典長だけがお供して入りますので、お裾をお囘りになる通りにおさばきせねばなりません」と。

[註四]『増補・皇室事典』に、「元始祭の意義は、明治五年、太政官布告に定むる『官國幣社竝府縣社元始祭式』の前文に、「是れ天日嗣の本始を、歳首に祀り給ふ義なるを以て、之を元始祭と稱す」と、明らかにされてゐる」と。



【鎌田純一掌典『皇室祭祀と建國の心』】
  ↓↓↓↓↓
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888
 
 

元始祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2012年 1月 2日(月)23時20分12秒
返信・引用 編集済
  謹みて聖壽の萬歳を祝ひ奉り、閲覽者各位の御清祥を祷上候。

毎年1月3日は、年のはじめにあたり、宮中三殿におひて天皇陛下が天津日嗣の元始を祝ひ奉るお祭り(元始祭)を執り行はせられるにつき、御民われらも天孫降臨に始まる國の大元 を壽ぎ、皇位の無窮をお祷り致しませう。

小學唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/s2_gansi_sai.htm

祝祭日唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/m_gansi_sai.htm
 

拜承謹記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 1日(日)08時52分38秒
返信・引用 編集済
  【敕語】平成二十四年一月一日
  ↓↓↓↓↓
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h24.html



【天皇陛下御製】平成二十三年御抄――年當にあたり宮内廳午前五時發表


――東日本大震災の津波の映像を見て

黒き水 うねり廣がり 進み行く 仙臺平野を いたみつつ見る


――東日本大震災の被災者を見舞ひて

大いなる まがのいたみに 耐へて生くる 人の言葉に 心打たるる


――東日本大震災後相馬市を訪れて

津波寄すと 雄々しくも沖に 出でし船 もどりきてもやふ 姿うれしき


――共に喜壽を迎へて

五十餘年(いそよとせ) 吾(あ)を支へ來し 我が妹(いも)も 七十七(ななとせなな)の 歳迎へたり


――假設住宅の人々を思ひて

被災地に 寒き日のまた 巡り來ぬ 心にかかる 假住まひの人




【皇后陛下御歌】


――手紙

「生きてると いいねママ お元氣ですか」 文(ふみ)に項傾(うなかぶ)し 幼な兒眠る


――海

何事も あらざりしごと 海のあり かの大波は 何にてありし


――この年の春

草むらに 白き十字の 花咲きて 罪なく人の 死にし春逝(ゆ)く



http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gyosei/pdf/gyosei-h23.pdf
   
 

今上天皇第二十四年、獻壽歳旦。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 1日(日)02時45分14秒
返信・引用 編集済
  平成二十四年
紀元二千六百七十二年
天孫降臨以來五千十二年
天皇正月、歳、壬辰に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。



■今上天皇御製

波立たぬ 世を願ひつつ 新しき 年の始めを 迎へ祝はむ


■大正天皇御製『遠州洋上の作』

夜、艨艟(軍艦)に駕して、遠州を過ぐ。
滿天の明月、思ひ悠悠。
何れの時か、能く遂げん、平生の志。
一躍、雄飛せん、五大洲。




●吉田左兵衞佐卜部兼好翁『徒然草』第一段に曰く、

 御門(みかど)の御位(おほんくらゐ)は、いともかしこし。竹の園生の末葉(すゑば)まで、人間の種(たね)ならぬぞ、やんごとなき。



●嶽東岩崎行親翁『國體篇』(大正十年八月。『正氣集』昭和五年三月・日本中學校校友會刊に所收)――鹽澤健翁抄

邈かなり兮、二千六百秋、
日東の肇國、神籌に基く。
國體之優、風土の美、
宇内萬邦、匹儔無し。
豐葦原之瑞穗の國は、
是れ我が子孫、君臨の域なり。
行け兮、爾ぢ就でまして之を治らせ、
寶祚は、天壤と窮極無し。

神訓、炳乎として、日星の如し、
之を萬世に施して、民心寧し。
三種の神器、君道を教ふ、
之を無窮に傳へて、帝徳馨ばし。
我が皇の神孫、姓氏無し、
日本を家と爲し、君を父に比(たくら)ぶ。
億兆、齊しく仰ぐ、一家君、
義は乃ち君臣、情は父子。
親に孝ならんと欲する者は、須く君に忠なるべく、
國を愛せんと欲する者は、須く君を愛すべし。
忠孝一致、君國一なり、
我が國の憲法、古文を存す。
嗚呼。
美なるかな哉、日東の君子國、
上下、心を同じうして、其の徳を一にす。
嗚呼。
優なるかな哉、萬世一系の君、
列聖、相承けて、功勳を埀れたまふ。



 古人の曰く、「稜威(ミは美稱、イヅは嚴。イはユ齋と同言)とは、吾々日本國民が有つ美しい崇嚴な言葉であるばかりでなく、現人神にあらせ給ふ陛下の、實質的な神氣の御發動を意味するものである。このことは堀○○○先生が、最も力をこめて膝をすゝめて、私に説かれたことで、實例を擧げて謹嚴に説明せられ、それ以來、私は心身の清々しい日に、宮城を遙拜する氣分が、一層嚴肅になつて來たのである。――私は心身の清々しからざる日は、恐れ多いから遙拜しない」と。

 愚案、元旦こそ、大祓ひを越えて、天も地も人も、擧國、最も清々しき、神祇感應の季なれば、夫れ宮城遙拜の好恰時節なり矣。顯界を主宰し坐します、現御神の大稜威、宇内に光輝して遍し、最も懇切謹愼、遙拜望祈すべし。皇國の御民は、信不信に拘らず、既に已に現人神の臣子たる、無上至高の光榮に惠まれり。嗚呼、畏し、畏きかな哉。
 
 

大祓の日を控へて。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月30日(金)18時41分52秒
返信・引用 編集済
  ■今上天皇『玉音放送

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html


■昭和天皇御製

峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり



 九段塾ご投稿ご閲覽の皆樣には、本年も、大變お世話に相成りました。衷心より御禮申し上げます。

 大神意と考へざるを得ぬ東日本大震災の發生、これに惹起せられたる福島第一原子力發電所の爆發事故と、本年は未曾有の大災害が襲來し、就中、故郷喪失てふ方々も出來した、餘人には云々するも憚らねばならぬ、悲劇の一年でありました。大御心を遙かに恐察し奉るだに、たゞゝゞ恐れ多き極み、一に國民の反省懺悔と、一日も速かなる産土復興を祈祷申し上げます。

 顧みれば、我が塾頭・福井金城翁が逝去されたことを、小生が知つたのは、本年節分を越えた二月五日の事であり、名状すべからざる衝撃を受けた次第でありましたが、此の日、實を申せば、小生、悲しみに暮れてゐる刻は無かつたのであります。

 六日、肥後國熊本より、或る憂國の士が、何と、單獨自轉車にて帝都に上り、遊學すると云ふ。其の途上、備中國を過ぎるとて、急遽、其の應接に追はれ、何はともあれ、邂逅懇談、翌日、岡田則夫翁を紹介、敢へて悲歎を棚に上げざるを得なかつたのであります。此の若き友人には、其の應待に疎漏が無かつたかと、内心忸怩たるものあつて、洵に相濟まぬ事もあつたかと、反省しりきでありました。

 然し友を見送つて、ふつと我に返れば、襲つて來るものは、やはり塾頭不在てふ悲しみと落膽であつて、暫くは放心状態、やつと氣を取直して、九日、九段塾掲示板に、「招魂――泉水隆一監督」の一文を掲ぐるを得たのでありました。幸ひに九段塾ご參集の各位、或は見目和昭兄、河原博史兄、藤真知子女史の協力も仰ぎ得て、塾頭遺文『靖國神社の眞實』の編纂を畢へ、上梓が叶ひつゝあるは、小生の欣快とする所であります。

 塾頭の坐さぬ、此の九段塾は、本道に寂しいものがございますが、塾頭が遺志繼承の爲めにも、ご閲覽の皆樣、彌益のご戮力ご健筆を乞ひたいと存じます。今後とも、塾頭の九段塾に閑古鳥が啼きませぬやう、鋭意、ご發言ご投稿、幾重にも御願ひ申し上げる次第であります。

 本年最後の投稿に方つて、皆樣の道福修學を御祈り申し上げ、九段塾管理者として、ご挨拶とさせて戴きたう存じます。 九拜


權利てふ 民の曲物 擧げて皆な 還し奉れよ 我が大君に

言論の 自由を守れと くなたぶれ 號(おら)ぶ枉人 息吹き祓ひてむ

大君を 惱しまつる つかさ人 息吹き祓へと たゞ祈るなり


   眞金吹く吉備の中つ國都宇郡なる玄月書屋に於て、備中處士、懇祷、敬つて白す。
 
 

訃報、花うさぎ・安仲徹男さん‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月28日(水)20時57分55秒
返信・引用 編集済
   下記、「花時計」樣よりメール到來、謹んで轉送させて戴きます。

 「花うさぎ」さんこと、安仲徹男氏は、泉水隆一監督、即ち九段塾・塾頭遺文『靖國神社の眞實』を送るやうに仰つて、之を讀むのを樂しみにされてをられました。洵に驚愕、殘念の極みであります。未知の御方でありましたが、上梓の曉には、必ず送らせて戴きます。御嘉納たまはらむことを‥‥。

**********

 花時計を応援してくださっていた保守ブロガーの花うさぎさん(本名:安仲徹男氏)が、12月27日、18時17分に逝去されました。

 花うさぎさんには、何かあると、いつも助けてもらっていました。今は本当に悲しいです。

 花時計が拡散活動に力を入れている「凛として愛」を知るきっかけも、花うさぎさんのブログでした。いつも花うさぎさんは、「この映画は、NHKで放送すべきだ!」と仰っていました。数十回も見ていて、すべてセリフも言えるほどでした。

 「凛として愛」だけでなく、花うさぎさんは、本当に沢山の情報を、ブログで多くの人に拡散していました。花うさぎさんのブログは、多くの保守活動をしている方にとって、情報源だったと思います。花うさぎさん、本当にありがとうございました。

 葬儀・告別式が、30日・31日に行われます。

お通夜:12月30日 午後6時~
告別式:12月31日 午前11時00分~
式 場:コムウェルホール高円寺
住 所:東京都杉並区高円寺南2-2-2
    丸ノ内線 東高円寺駅2番出口徒歩5分

 花うさぎさんが大好きだった、映画「凛として愛」の泉水監督の葬儀・告別式が行われた同じ場所です。きっと泉水監督と、「凛として愛」について、また今の保守活動についてなど語り合って、もりあがっておられるのではないかと思います。

 花うさぎさんのご冥福を、心よりお祈りいたします。花うさぎさん、今までありがとうございました。
  ↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/archives/3217700.html



【花うさぎ「世界は腹黒いⅡ」】
  ↓↓↓↓↓
http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/
 
 

幽冥の照覽、豈に恐れざる可けんや哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月26日(月)22時22分30秒
返信・引用 編集済
   本日早朝、報道に依れば、靖國神社神門に放火があつた由。魑魅魍魎の類の所爲ならんか。

 古人の曰く、「人、陽善を爲せば、人、自ら之に報い、人、陰善を爲せば、神仙、之に報ゆ。人、陽惡を爲せば、人、之を治め、人、陰惡を爲せば、神仙、之を治む。故に天、人を欺かず、之を示すに影を以てす。地、人を欺かず、之を示すに響を以てす。善を爲すも、惡を爲すも、天、皆な之を鑒む矣。善惡の報は、影の形に隨ふが如く、物の響に應ずるが如し。是れ皆な、天地自然の法則なり。信・不信に關せず、誰人なりと雖も、斯の法則より免るゝことを得ず。幽冥の照覽、豈に恐れざる可けんや哉」と。

 神驗著明、幸ひにして大事に至らざると雖も、神職・奉贊氏子、諸共に、戒愼用心なかる可からざるなり矣。恐懼、畏し。



■九段塾塾頭・福井金城翁の曰く、

「靖國神社神門は、葦津耕次郎・珍彦父子が、滿洲事變大成功で沸き立つ全國民の後押しを受けて、第一徴兵保險會社が奉納した楼門、即ち靖國神社神門を作り上げたのである。建築相談役が葦津耕次郎、工事請負は葦津珍彦が代表を務める合資會社社寺工務所である。昭和八年、神門と變更、九年に竣成祭。奉納許可したのが、當時陸軍省の牛島滿副官。竣成祭には、事變で名を擧げた林銑十郎陸軍大臣を始め、錚々たる人々が列席。宮司は賀茂百樹殿。此の神門には、日本最大の大きさを誇る菊花の大紋章が輝いてゐる。「天皇の神社」、「天皇の神門」と謂はれる所以である。

 神門は、靖國神社の正門であり、内陣への大王道である。その眞ん中(正中)は、國民は歩くことが出來ない。天皇の指し示す邊地・外地に赴き、皇國の守護し奉らんが爲めに、戰場で伏した將官・將兵の凱旋である。迎へる皇族・元帥・大將・中將・武官、悉く頭を埀れる中を凱旋する、聲なき英靈之門、それが靖國神社神門である。現在に於いても、例祭日には、天皇陛下のお使ひである敕使が、此の神門を通過される。神門は、殉國の英靈が凱旋する門である。「屍を山野に晒すは、固より軍人の覺悟なり、遺骨の還らざることあるも、心に留めおけ」と、妻子に、家族に言ひ殘し、出征した兵士・將官が、戰野に斃れ、手足をもがれ、頭を吹き飛ばされ、腹を抉られ、五臟六腑を撒き散らされし英靈が招魂されて、漆黒の深夜に、靖國神社に祭神として合祀される時、正に此の神門を御羽車に乘られて歸還・凱旋する門、十六菊花天覽の下、聖域入る神門である。その神門の前には、「下乘」と云ふ制札があり、門を濳つて、更に奧の拜殿の手前には、「皇族下乘」とある」と。
 
 

荒雄の大神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月25日(日)22時08分44秒
返信・引用 編集済
   蓮田善明中尉の歌は、清烈にして、何より平明、必ず聲を出して詠むべかりける。詠めば、四邊も祓はれて、こゝろ清まり、いよゝ研ぎ澄む心地して、樂しきかも、嬉しきかも。

 嗚呼、蓮田中尉、昭和二十年八月十九日、自決。享年四十二。

 大祓ひの日、夫れ近し矣。



【蓮田善明陸軍中尉の哥】

●『おらびうた』(古川叢書『陣中日記・をらびうた』昭和五十一年七月・古川書房刊)から

――門出に――昭和十八年十月下つ方
――敕題「海上日出」を
大海原 豐榮のぼる 朝日影 天足らしたり 國足らしたり

――皇居を拜してのかへるさ
妻よ この大前に敷かれたる
さゞれ石のうるはしからずや
汝が手に一にぎり
拾ひて
われと分たん
また稚子(わくご)らにも分てよ」
さゞれ石
あゝ大前のさゞれ石
手にみれば
うすあをくまたしろく
赤きもまじれり
六粒七つぶ
つぶらかに しづけし」
愛ぐしとて 子ろはあちこち
ひろひまはり
いくさ路にいそげる父を忘れたり
ああ そをかへりみで
征かむとてきほへる父ぞ」
妻よ
この大前に
今ぞ別れ行かな



――熱田にて
神劍(みつるぎ)乃 座します處 夕闇に 著(しる)くし知りて 拜みまつる



歌の祖(おや)と とほときかみは 八股大蛇 はふりたまひし 荒雄(すさのを)の神
十拳劍 かすかに闕けて くすし劍 大蛇の尾より とりいでましつ



歌の祖と いつきまつれる 建速の 荒雄神は 神祖(ろぎ) いざなぎ神の 日向の 橘の小門の あはぎ原に 醜まがの 汚穢なげうて 大御身の みそぎして はらひたまへる いやはてに 左の御目を あらひたまへば さやけく 生れ出ましける 高光る 日の大神の 弟御子と 祖神の 御鼻かみける その機し 生れたまへば 御子ながら いすゝみまして 汝は 海をしらせと 言寄さし たまへるものを きかずして 八拳鬚 心前に 至れるまでに 啼きいさち をめきたまへば 青山は 枯山なし 河海も 啼き乾したまひ わざはひは おこりこぞれば いぶかしみ その泣く故を 何どとかも たづねませるに 吾は妣の こひしく泣くと いらへます みこときくより 火照りて 怒りきためて 汝はここにな住みと 神やらひ やらひたまへり ここをもて 日の大神に 申し告げ 去ぬべく思ひて 日の宮に まゐりたまへば 山川も 鳴りとよもし 國土も 悉々動(ゆ)すり ゆゆしきを うたがひまして 姉神の 問ひたまへば うけひして あかき心を あらはしし その勝さびに さる性の 己れとめ得ず あしきわざ きたなきことの しきまして つひのしわざと ぶち駒を 逆剥ぎ剥ぎ 神御衣の 機屋の屋ゆ 墮したまへる そこを怖ぢ 日の大神も 岩戸を かたくさしこめ 天地に 常闇往くを 八百萬の 神集ひまし 八心 思兼神の 神はかり かしこくまして まつりもの さはにととのへ 太のりと 太くのらしめ 常世の 長鳴鳥 集へ鳴かしめ 天宇受賣 神あそびして 高天原 ゑらぎゆすれば 大神の 心とかして ややのぞき 見ます岩戸を 手力の 男神ひきあけ 御手とりて いだしまつるに おのづから 天地照り明り まがつびも い隱るなべに 須佐之男ノ 神をとらへて 鬚爪また 千座の置戸 置かしめて 逐ひたまふを その途に 大食津比賣の たてまつる 御食汚(をしけが)しと 御くびを きりはねませる 建速の すすしきわざは やみがてに 怒りましつつ 出雲の 肥の川上に 天降(あもり)つき 川上ゆ 箸の流るる 見したまひ 人あるべしと まぎ往まし 會ひたまへば 乙女の 一人を中に 老人の 手とりもち 頭うだきて 泣き居るに 我こそは 高天原に 天照す 大神の弟ぞ いましらが 斯く泣く故を ききたまひ はかりたまはん 語れよと 促しますに 僕(あれ)らこそ 大山津見之 神の裔 足名椎 手名椎神 八乙女の もとはありしを 高志の 八股大蛇 年毎に 來ては食ひ 今は早 一人殘れる 末つ子の 櫛名田比賣 此の子又 とりに來べきを 手力の 弱き翁嫗が せんすべも なくて泣き居つ そのたけき 八股大蛇は 八頭の 八尾のけだもの 頭には 青苔生ひ 背毎に 檜杉生ひ しが目は 赤かゞちなし 腹は 常に血あえて 八尾をこえ 八豁をわたり はひもこふ 畏き神と 申すこと つぶさにきゝて 然あらば その末つ比賣 わが妻と かしこみまつれ また己れ はからふ樣に なしてよと 教へたまひて その比賣を 五百箇(ゆつ)つま櫛に とりなして みづらにさし 老翁らに 教へたまひて 八さずき 門に設け 門毎に 酒槽据ゑ 槽毎に 酒滿ておき 待つときに 大蛇きたりて 八鹽折の そのうま酒に 八つの首 ともにさし入れ 現なく 醉ひ伏す時に 切りはふり はふりませるに 肥の川も 血變(な)して流れ その腹 割き見給へば み劍の 刃先き少しく かけしかば あやしみまして さきたまふ 大蛇の尾より つむがりの 靈(くす)しき劍 一振ぞ 顯はれければ 是は是 天つ御神の しりたまふ 物とのらして 天照 御神のもとに かしこみて さゝげまつれば あやに 心清(さや)けび をとめと 血を覓ぎ 出雲の 須賀に到り 宮立つと 見さけたまへば 四方より 雲立ちのぼり つまごみと 八重垣なせば あそばしし 大御歌はも 神代より 歌のはじめと かみごとに 傳へ來れる みやびの 極みもしらず やまとの 歌の祖は 建速須佐之男神と まなびきたれる 古ことの こころたづねて 習ひて行かな

――反歌
みやびをば かくこそあれな 荒雄の 神ぞくすしく あらはしませる



やすみしし わが大君の 明らけく しらさん御世と 安らけく をさまる御世と みめぐみの のどけき波は 八汐路の きはみなきまで しき波の しげくませるを よこしまの えみしがともが 島とある 島のことゞゝ 國とある 國のことゞゝ むらくもに 蔽ひかくして しがほしき 心のまにま むさぼりは いよいよまして おごりたる さがのみたけり あしきわざ うたゝやまねば いはまくも ゆゆしきかも 大御心 いたみたまひて ねもごろに をしへたまへど やむ時の つひにあらねば 神風の いぶきはらへと 大みこと のらしたまへる かしこさの 泪しながる 今日の日ごとに

――反歌
百なひと 人はいふとも くなたぶれ 血原なすまで うちつくしてむ



海行かば わたつみの神 陸(くが)行かば 國つ神たち 明らけき こころあらはし あとさきに つかへまつらふ あたし國は かくあらめや 皇神の 國のみ斯くと 尊さの 身にしあまりて み民の こころ振起し みいくさに 海原わたる 朝ごとに みかどのあたり はるけくも をろがみまつり 泪しながる

――反歌
すめがみの 大みいきほひ かゞぶれる われとかしこみ 泪し流る



劍太刀 身にとりはきて みいくさの いよゝさかれと いでたつ今日ぞ
牙(き)かみ たけぶほかなしと叫び おらびたる 佐久良雄うしが うたぞわがうた
朝ごとに みやこのかたを をろがみて 大御諭を 誦むがたぬしさ
夕ごとに さかり行けども みやこべは をろがむごとに かしこさまさる
わが軍(いくさ) 千人(ちたり)死せば えみしらを よろづはきりて 道連れにせむ
えみしらが 碧き目玉の 白むまで わがつるぎ刃を 耀かしてむ
朝夕に 神ほぎまうす いやはてに 妻子(めこ)らのことも ねぎまうすなり
あたらしき 言を用ゐず ひたすらに 古言のみを しのび歌よめ
あたらしき 言な競ひそ ふることの ゆるきうつりに 皇國を知れ
敷島の やまとのうたは 皇(すめろぎ)の 大御すがたを よむにぞありける
皇は 神にしませば 天に足り 國に足らして みやびせすかも
人ごころ あらはすよりも 天足らし 國足らします 神をよまなむ
大君は 北にいますと つはものに をしへてをがむ 今日の船路は
大君を 思ひまつれば 大海の たけび死なまし 生きを思はず
皇の 神のみことは この勝を いかさまばかり めできかすらむ
大君の きこしめすらむ この捷を 思へばゆゆし 泪しながる
大君は 神にしませば 疾風(ち)なし あたをはらへと うべのらしたり
この島を 凡にな踏みそ もののふの つるぎにかけて ことむけはせし
天つ柱 國つ柱と 級津彦 龍田ノ神の 島はかためし
精矛 千足の國の もののふが たけきいさほ(ママ。を)は 萬代までに
大君の 先驅(さき)路つかへて たまきはる いのちさゝげむ 太刀のさやけく
枯野の 速ぶねもがな やすみしし わが大君に みつぎまつらむ
みいくさの あとはしるけし 萬代に たけきいさをを 語りつぐがね
みいくさの あとはさやけし 萬代に 心しふらば かたりつぐべく
大君の さづけたまへる 軍(いくさ)旗 みちびきまつる まけのかしこさ
大君の みことかしこみ たけびつつ すゝむいくさに いとまあらめや



――昭和十六年十二月七日、曉明に、靖國神社に詣づ。嚴寒霜厚く、氣凍る。すでに神拜者、また少國民の清掃に奉仕するもの多し。その翌朝、交戰に入るの報道をうけ、感慨、殊に深甚なりし。
皇は 神にしませば 言さへぐ 夷向くべく 大のらしたり
みいくさの たけくあれと 祈るなり 神ののらしし みことのまにま



――宣戰の大詔を奉讀して兵に示す
いくさらは 物いふ言(こと)は ことごとく 雄たけぶごとく を(ママ。お)らび物いへ



――天皇、大神宮御親拜の日なり。晨旦、口漱ぎ、例の如く遙拜。體操・木刀振り、みそぎす。空しづかにはれわたり、百鳥の聲にぎはひ、のどかなり。
かけまくも あやに尊く ゆゆしきことぞ 天照 日ノ大神の 大御前 清めたまひて やすみしし 吾大君の すゝみたまへる 神さびて つげますことの 神からと ねぎますことの 言はむすべ せんすべしらに ゆゆしく 畏きろかも

――反歌
大君は 神繼ぎませば 御民は 身をたなしらず いはひ仕へつ



――豫てよめる迎年のうた
あたらしき 年のはじめに 八汐路の 汐にかづきて みそぎせむ我



●『陣中詩集』(同上)から


○倭寇賦

彼らは拗(す)ねたる大和の民なりき
彼らは涯り無き海を渡り
大いなる陸を望みて
情(こゝろ)寂びしく遠征せる民なりき
彼らは「八幡大菩薩」の幡を押し立て
言語(ことは)通ぜぬ國々を掠めたりき
彼らは心、物の慾に拘泥(かゝづら)はざれば
寶を供へて賞(め)で迎ふるものを愛(いつく)しみ
財を惜しみて抗ふものを腹立ちて伐ちたりき
彼ら、摩訶不思議なる群どもはかくて大陸を
南に北に掠め廻り
或は昔佛の住みたまへる花鳥異(あや)しき天竺を襲ひ
或は長江を遡りて老仙天がける崑崙を探りしかば
大明國驚き騒ぎて防ぎ肯(あ)へず
日本將軍に請ひて討滅せんと欲し
不逞なる虚名を奉り
貢物山と積みたりしも
遂に將軍之を鎭め得しことを聞かず
彼らはいつしか己れと水に死に行きき
唯ひとり山田長政なる者
暹羅(シヤム)國に王者の勢を恣(ほしい)ままにし
毒を盛られて最期を遂げしと
青史にその遠征を惜しまれぬ


○倭建命の御歌に追和し奉る
――にひばり 筑波をすぎて いく夜か寢つる(命)
――かゞなべて 夜には九夜 日には十日を(火燒翁)
――古事記――

たたかひの 幾日(いくか)すゝみて
幾山を 幾夜か寢(い)ねし
日々(かゞ)竝べて 八日か來つる
今日未明(まだき) また進み往く
群山(むろやま)の 群嶺(むろみね)の上(へ)に
いと高き 山見えそめぬ
 
 

十二月二十五日は大正天皇例祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2011年12月24日(土)22時18分41秒
返信・引用 編集済
  明日、十二月二十五日は大正天皇例祭

皇靈殿で毎年小祭、式年大祭が斎行され、また、多摩陵にも勅使が参向させられ、奉幣の儀がある。

遥拜詞

 掛けまくも畏き
 多摩陵(たまのみさゝぎ)の大前(おほまへ)を慎み敬(うやま)ひ遥(はる)かに
 拜(をろが)み奉(まつ)らくと白(まを)す
 

Re: 玉の御声に泪し流る

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月23日(金)22時49分19秒
返信・引用
  > No.1462[元記事へ]

○ 戀 闕

鷄が鳴く 東の便り 聞くからに 深く思へば 泪し流る

大君の 遙か彼方に 坐しますと 思へばすゞろに 泪し流る

すべらぎの 大き宮居を をろがむも たゞものゝふは 泪おちけり
 
 

玉の御声に泪し流る

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2011年12月23日(金)20時30分46秒
返信・引用 編集済
   毎年の例のまにまに二重橋を渡り、秘詞を密奏して皇室の御安泰と彌栄を祈念し奉る。

 同憂の語るに、出御と同時に宮殿上空の雲が凄まじき速度で散じ、この奇瑞に驚く人、
 幾人か声をあげたと。

 冷たき強風も宮城参賀の間は全く吹きませんでした。
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年12月23日(金)01時10分20秒
返信・引用 編集済
     おほけなくも朝拜仕ります。  

朝拜詞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月22日(木)22時04分36秒
返信・引用 編集済
   明日は、天長の佳節、國旗を高く掲げて、祝ひ奉らむ、たゞひたすらに祈み奉らむ。

あまつひつきの みさかりは あめつちと きはみなからんものそ



●神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥

草も木も 我が大君の ものなりと ふかくおもへる 人もあらなむ

朝夕に 禮(ゐや)を申さむ 何事も 神と君との 御蔭々々と

飯(いひ)食ふと 箸をとるにも 吾が君の 大御惠みと なみだし流る



●蓮田善明中尉『朝拜詞』(『おらびうた』――始め「をらびうた」ちふを、自ら改めたりと云ふ――所收)

神ながら 窮みなき世と すめらへは いやさかえます 大君は 高しらします ふりさきて 仰ぎまつり うなねつき をがみまつれば 泪しながる

いはまくも あやにとほとく かけまくは かしこかれども 天照らし 照らしいまし みいつに い吹きいます 神風の 伊勢の大神 朝ごとに 拜みまつれば 夕ごとに ねぎまつれば 泪しながる

祖の子の 子の孫(うみのこ)の いやつぎゝゞ 父母兄姉(ちゝはゝあにね) 己れ妻子(めこ)ども 大君の めぐみ思へば 泪しながる

うまし汁(またハ肴、その時により) うまし飯にそへ たかだかに たぶる身思へば 天つ神 國つ御神の みたまのふゆ いはむすべしらに 泪しながる
 
 

皇神の道を以て、宇内をして皇化に浴せしめむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月17日(土)22時23分24秒
返信・引用 編集済
  ■本居宣長大人『馭戎慨言』に曰く、

天皇を、かしこくも倭王などとおとし申し奉れるは、いはんかたもなき禮無きなれば、其の書(隋國王の書)、さらゝゝに受入れ玉ふべきにあらず、ほど知らぬ申しざまぞと、きびしくとがめて、使をもすみやかに追ひかへして、かたく御むつびを絶ち給ふべきわざなり」と。



 小生の愛讀書の中でも、平泉澄博士および其の門下の方々は暫く措くとして、特に忘れ難いものは、淺野晃翁『楠木正成』と、蓮田善明中尉『本居宣長』である。何度、讀み返したか判らぬが、深き感銘を今も堅持し愛しみて、些かも色褪せることが無い。これらの書を見なければ、小生も、今少し現代の風潮に棹さして、要領よく世を渡ることが出來たかも知れぬ。公務員の一族の中に生れながら、昂然と曰く、乙酉以來の政府に仕へず、と。然し我が人生を決定づける書に巡り合つてしまつたのだから、愚癡を申しても仕方が無い。恩頼道福に感謝して、斯の道、即ち皇大御國の道を進まねばならぬ。天壤無窮の大神敕のしるべする所、八紘爲宇の大御旗は、絶えて倒さるべきでは無く、皇神ご照覽の下、別天津神の大經綸として宿命づけられてゐる所、何人も之より逃れること能はぬのである矣。

 なほ蓮田善明中尉の最晩年は、本居宣長大人の女々しき所あるを超えて、賀茂眞淵大人の丈夫振りに、斷々乎として進んだやうである(月刊誌『浪漫』最終號――蓮田善明特集――かつて友に貸して歸らず、確認不能なるは遺憾なるべし)。



●蓮田善明陸軍中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、

「安永六年十二月(四十八歳)、宣長は『馭戎慨言』(からをさめのうれたみごと)四卷を書き上げた。これは古代から徳川初期に至る對外折衝史といふべきものであるが、皇國を本位とする強烈な自覺の下に、つぶさに批判を加へ、卑屈な尊外的弊風を、豁然打破した空前の著述である。この書は、在京時代の醫術の師・典醫武川幸順に送られ、幸順の斡旋により、攝政九條尚實の一覽を得、更に光格天皇の叡覽を忝うした。‥‥宣長が、眞に卓然椽大の筆を揮つて、和漢の史料を驅使して、皇國の尊嚴と「馭戎」の正意を、史實の上に論じたものとして、『馭戎慨言』は、その白眉たるものである。なほ、かういふ時、一般に尊内外卑といふ言葉が昔から使はれてきてゐるが、私は、嚴密にはその言葉がもつ、未だ相對主義的な敵本的國粹論の匂ひを好まない。宣長はそれ以上に出て、眞に皇國が世界の本位たる、眞の國粹の由縁を以て立言してゐるのであつて、單に尊内といふよりも、率直に國粹とか、本位とかといつた方が當る。以下、國粹といふ文字を用ひる。

 「馭戎」とは、所謂漢戎・唐戎を馭めならすといふ意である。こゝに唯「排撃」などといふ文字を用ひてゐないのに、注意を要する。單なる敵愾的な國粹論でないのである。勿論迎合などではない。皇國の道を以て、まことは道なき彼の國を馭めて、亂りがはしい國ぶりを我にならはせようとの心と見られる。そして、さういふ見識のある國としての皇國論となつてゐるものである。これを『古事記』・『日本紀』等の古言を以ていへば、「言向和平」(ことむけやはし)と言つてもいゝ。わが道を慕つて「まつらふ」ものは之をならし、未だ暴ぶるものは討つて鎭め、ことごとく皇神の道に、率直に浴化せしめんとするのである。そしてそこに皇國の眞姿を浮彫にしてみせたのである。

 「天つ日の大御神の御子の尊の、所知し食す此の大御國に、外つ國もろゝゝのまつろひ參る事の始めをたづぬれば」といふのが、『馭戎慨言』の書出しである。こゝには現代風の國際主義的外交論などは露ほどもない。外論といふよりも、今日敢然「八紘爲宇」の大詔をかゝげて發足した國風に於て始めてあらはれた、國粹治外論ともいふべきものである。即ち言ひかへれば「馭戎」である。これこそ歴史の淵源に遡り、歴史の跡に尋ねて、つぶさに批正の論を加へ、神國の治外馭戎の大本の思想を、明亮に打ちたてたものとして、正しく今日の先覺である。否、或は今日、尚ほ不徹底なる或る外交思想を百尺竿頭、更に一歩を進めしめ、眞に雄渾無礙の皇國の意氣と使命とを覺知せしめるもの、此の書に出づるものはない。而も單に文治的思想ではなく、宣長が本書中最大の讚辭を呈してゐる豐臣秀吉をさへも凌ぐ武略論さへ示されてゐる。

 しかし本書は、唯だ治外の論述ではない。この雄渾な馭戎論は、おのづから國粹治外論として、國内に於ける主客顛倒せる漢意(からごころ)を徹底的に粉碎したのである。當世當面の漢意の論者を論駁するといふやうなことは、こゝではもはや餘技にしか見えない程である。謂はゞ歴史に於ける漢意を討つたのである。その書の趣旨は、概ね豐前國中津の八幡社司・渡邊上野介(藤原重名)の記した、次の序文に明かである。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/17

 又、尾張の鈴木朖の序にも、「中寓に臨みて、百戎を馭すとは、天皇之事也。本居先生、布衣の身を以て、慨きて之を言へり」とある。‥‥

 宣長は、‥‥日本魂に出でず、或は却つて日本魂を知らずして閉塞をはかる戎心を討ちまつろはせようとし、未だその明かならざるを筆をつくして慨み、正大の評論をうち立てようとしたのが、『馭戎慨言』であつた。これは他の文化論的な著述と趣を異にするため、從來あまり世の宣長論者が取り上げないものであるが、皇國の意氣をあらはに直截に述べた評論として、少くとも宣長の心の一端を示すものとして注意されねばならない。又た幕末の尊皇攘夷論の進路を豫示したものとしては、必ずしも私は此のあらはな評論をのみ選ぶものではないが、もし人が尊皇攘夷の心を探りたければ、この書に就くことを、先づは勸めなければならぬ。更に又今日の聖戰の中にあつて、國の尊嚴と決定的勝利の氣魄と心構へとを知り、何がそれをやぶるかの原因を見んとする者も、此の書を手にすべきである」と。



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/12

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/13

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/368
 
 

嗚呼、清水澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月16日(金)22時28分29秒
返信・引用 編集済
   遠き熊本なる友人のブログに、「大東亞戰爭開戰から七十年目の今月八日、石川縣護國神社において、金澤大學四年、杉田智(さとし)さんが割腹自決をされました。自決された場所は、大日本帝國憲法に殉死を遂げられた清水澄博士の石碑の前でした」と。小生も衝撃を受けること、甚だ大きいものがあります。謹んで紹介させて戴くと共に、舊稿を掲げて、清水博士をお偲び申し上げたい。即ち是れ、杉田青年の志を顯す一端ともならうかと存じます。
  ↓↓↓↓↓
http://gendousha.exblog.jp/17345369/



■清水澄博士の哥

「紀元二千六百年を迎へ、和氣清麻呂公を偲び奉りて」
國の爲 荊(いばら)からたち ふみそけて 正しき道を 歩みつる君

「雨」(『心の花』昭和二十二年七月號)
しめやかに ふる春雨の 音寒み ねざめの床に 國のゆくて思ふ

「秋季皇靈祭の日」(『心の花』昭和二十二年十二月號――佐佐木信綱博士「清水澄博士」に所收)
西のそら 雲きれそめて 夕日さし 筑波の山は くれなゐに見ゆ



■帝都港區青山墓地「清水澄博士墓碑」に曰く、

「清水澄は、明治元年八月十二日、加州金澤に生れ、昭和二十二年九月二十五日、八十歳をもつて薨ず。其の生涯は、公職を以て終始し、内務省・學習院・行政裁判所及び樞密院を通じ、在職五十有三年に及べり。而して官は、行政裁判所長官・樞密院副議長を經て、樞密院議長に至り、帝國藝術院長を兼ねたり。位は、正二位に進み、勳一等旭日大綬章を授けらる。正に人臣を極むるにちかし。然れどもその本領とせる所は、前職に在らずして、一學者たるに在り。その世に重んぜられたるゆゑんは、手腕力量に在らずして、人格學識に在りあり。

 明治三十一年、歐洲に遊びて、國法學及び行政學を專攻し、留ること三年、歸朝するや、その代表的著作たる『憲法篇』を公にして、識者の認むる所となり、明治三十八年、法學博士の學位を授けられ、特に憲法學をもつて、世に著はるゝに至る。すなはち爾後、本職の外、東京帝國大學及び各大學に講ずること多年、また高等文官試驗委員を嘱せららるゝこと三十餘年、さらに大正十五年、帝國大學學士院に列せられたり。然れどもその本懷とし、光榮としたるは、至尊に對する進講の任にして、大正四年以降、大正天皇に、大正九年以降、今上天皇(昭和天皇)に、常時進講すること十餘年に及び、帝王の師として、深く自らを謹しめり。けだしその生涯は、君國に對する忠誠の念をもつて終始し、抱く所、私心なかりしは、人の認むる所なり。

 新憲法實施の年の秋、月夜、伊豆熱海の波濤に身を投じ、遺すに『自決の辭』を以てす。その趣旨とする所は、日本國及び天皇制の將來につき、憂慮すべきものあるも、微力匡救、道無きをもつて、楚の名臣・屈原に傚ひて水死し、幽界より我が國體を護持し、天皇制の永續と、今上天皇の在位とを祈願せんといふに在り。もつてその志を知るに足れり。

 その私生活においては、身を持すること嚴にして、自ら愉樂を求むることすくなかりしが、明治三十一年、大審院長・貴族院議員・三好退藏長女辰子と婚して、三男子をあげ、その生を終ふるまで五十年、伉麗(夫婦)相携ふるを得たるは、生涯の幸たり。先人、去つて既に四ケ月、温顔、今なほ髣髴として、眼前にあるがごとし。

 昭和二十三年一月二十五日、嗣子・清水虎雄、誌す。

佐佐木信綱・千葉胤明・下村宏各翁の追悼歌四首」と。



●平泉澄博士『續々・山河あり』(昭和三十四年九月。三十六年六月・立花書房刊。平成十七年三月・錦正社復刊『山河あり』に所收)に曰く、

「無條件降伏となれば、我が方は手をつかねて俎上にのぼり、眼をつぶつて彼の料理を待たねばならぬ。その時に當つて、生殺與奪の權は彼の手にあり、我が方としては一言の抗議もゆるされない。是に於いて、降伏は萬やむを得ないとしても、國體の根本だけは動かさないといふ保證、最小限度に於いて是れだけは取得して置かなければならぬ。これが當時、最も純粹に君國の前途を憂ふる人々の切なる願であつた。一方、事態は急迫して、一刻一時の猶豫も許されぬ。最小限度の保證を要求するすら、既に手遲れである。寧ろ直ちに無條件を以て降伏し、あとの事は擧げて先方の裁量にゆだねてよい。かやうに考へる人々があつて、而して廟議はそれを採用し、之に決定した。之を採用し、之を決定するに當つて、ひとり事態の急迫して如何ともすべからざるより判斷したのみでなく、そのかげには、先方の心中を推測して、その善意好意を期待し信頼する氣持が、暗々のうちに存してゐたのである。之に反して、國體の前途を憂へて、最小限度の保證を求めようとした人々は、漠然として彼れの善意好意を期待する事は危險であるとした。されば今廟議、無條件降伏に決するや、是等の人々は前途が眞暗になつた心地で、悲しみの極まるところ、その心狂せざるを得なかつた。近衞師團の悲劇は、是に於いて起つたのである。その中心人物の一人、畑中少佐の如きは、純情にして清廉、最も學を好み道を重んじた人であつて、その所爲は暴擧といふの外は無いが、事は君國の將來に對する深刻なる憂慮より發したのであつた。

 暴擧は成らずして、やがて畑中少佐等の自決となり、阿南陸軍大臣までが、陸軍不統一の責をとつて、潔く自刃して果てられた。流石に阿南將軍に對しては、何人も此の明朗にして、心中一點の塵を留めざる純忠の名將に、非難の聲を投げる者は無かつた。たゞ畑中少佐等にむかつては、あらゆる罵詈が、雨霰と降りそゝいだ。しかも無條件降伏の後に、既に陸軍を解散し、海軍を失ひ、丸腰となつた無抵抗の身の上に、漸次迫り來つたものは、決して期待せられたる如き善意好情では無くして、冷酷苛急の要求であつた。前には戰後處理のよき相談相手なるかの如く、手を握つて應待した近衞公を、巣鴨の獄に拘禁して戰爭裁判にかけようとしたのは、かくの如き裏切りの一例であり、適例であつた。近衞公が、死を以て之に抗議せられたのは當然であり、見事であるといはねばならぬ。最も重大なるは、憲法の問題である。近衞公は、はやくより此の問題を憂慮し、日本國自ら改正に着手しようとせられた。しかるに占領軍司令部は、おのれの手に於いて全く別種の憲法を作製し、之をわが國の政府と議會とにおしつけて、わが國獨自の發案として決定發表するやうに強制した。既に一兵を有せざる無防備の國家に、此の強制を拒否する力があらう筈はない。いはゆる日本國憲法は、かくの如くにして成立し、昭和二十二年五月三日、施行せらるゝに至つた。

 樞密院議長・法學博士清水澄(とほる)、もとゝゝ温和寛厚の人であつた上に、齡を重ねて既に八十歳であつたが、新憲法の無理強ひを見、またわが國の高官といひ、議員といひ、學者といひ、唯々諾々として之を承順するを見て、慨然として死を決した。自決の辭にいふ、

新日本憲法の發布に先だち、私擬憲法案を公表したる團體及び個人ありたり。其の中には、共和制を採用することを希望するものあり、或は戰爭責任者として、今上陛下の退位を主唱する人あり。我が國の將來を考へ、憂慮の至りに堪へず、併し小生微力にして、之が對策なし。

 依て自決し、幽界より我が國體を護持し、今上陛下の御在位を祈願せんと欲す。之れ小生の自決する所以なり。而して自決の方法として水死を擇びたるは、楚の名臣・屈原に倣ひたるなり。

  元樞密院議長・法學博士・八十翁、清水澄。
 昭和二十二年五月、新憲法實施の日、認む。


 博士は、念を入れて、遺書を數通したゝめられた。文は長短多少のちがひはあるが、趣旨は同一であるから、今はその一をこゝにかかげたのである。其の文末に記されたやうに、これは二十二年五月三日、即ち浮薄の徒、乃至心無き人々が、旗を立てゝ祝賀する其の日に、執筆せられたものである。博士の志は、既に決定した。あと殘るは、その日時と場所の選定である。かくて其の年九月二十五日、熱海の魚見崎より身を投じて、忠君憂國の至情を、碧海の波濤にゆだねられたのであつた。

 たまゝゝ老病を熱海に養つて居られた徳富蘇峰翁(時に八十五歳)は、此の報を耳にして愕然として驚き、一書を裁して、博士の靈前へ供へられた。それはいはゞ博士の傳の贊に當てゝもよいものである‥‥。

謹啓、卒爾ながら恭しく一書を裁し、清水博士先生の御靈前に、弔意を表し奉り候ふ。近年は老生も退隱、殆んど人事と沒交渉にて、その爲め先生の音容に接する機會もなかりしが、先生の未だ大學に生れたる此(ころ)より、相知の間柄に之れ有り。平生、先生の穩健篤厚の人格には、敬服罷り在るものに候ふ。然るに九月廿六日朝、偶然の用件にて、人を附近の若竹漁場に遣し候ふ處、意外の事を承り、扨は先生、審思熟慮の上、御決心相ひ成り候ふ事と拜察、竊かに悲痛と共に嘆讚いたし候ふ。やがて御遺書の大略にて、いよゝゝ老生推察の誤らざることを認め、今更ながら老生が先生を見ることの、尚ほ足らざるものあることを、慚惶いたし申し候ふ。

 老生の鄙見にては、今囘の御最期は、實に臣道の實踐、學徒の志趣、殘るところなく、剩すところなく、御遂げ成り、寔に々ゝ見事なる、申し分なき御最期と感嘆いたし申し候ふ。老生は草莽の野人なれども、皇國の國體の擁護者として、天皇制の堅持者としては、何人にも讓らざる抱負これあり候ふ處、先生の今囘の御所決に對しては、實に中心より、且つ感激し、且つ慚怍し候ふ儀に御座候ふ。就ては直ちに拜趨、御靈前に燒香致すべきの處、老病にて進退自由ならず、餘儀無く、略式ながら楮上を以て徴志を披瀝申し上げ候ふ。若し拙簡を御靈前に御供へ成下され候はゞ、老生の本懷、之に過ぎず候ふ。


 まことに是れ知己の言といふべきである。同時に、恐らくは其の生前には、博士と特別の親交は無かつたであらうが、博士入水の報を聞いて、博士の爲に之を悲しむと共に、皇國の道義の爲に、深く之を喜んで、數篇の詩を作られた人がある。長崎縣針尾島の寒村に、災後の老體を寄せられたる岡彪邨翁、その人である。翁は當時八十四歳、老衰といひ、貧窮といひ、まことに痛ましい限りであつたが、報を聞いて慨然としてよまれた詩は、次の通りであつた。

一、神代維降、大典新たなり。天皇明徳、賢臣を任ず。前人乃木、眞に其の友。忼慨一瞑、至仁を求む。
(清水博士は、乃木靜堂大將の知遇を得たり。帝都赤坂の乃木神社にて、清水澄博士の慰靈祭、今日なほ行はれてをる由――『八十翁清水澄投身の悲懷――大日本帝國憲法と運命を共に』――不二教職員連絡會・淺野晃翁編『殉國の教育者――三島精神の先驅』昭和四十六年三月・日本教文社刊に所收)。

二、平日眞心、五倫を重んず。三朝に歴任して、臣爲るを致す。典章今日、人の守る無し。東海仁を求めて、那んぞ仁を得む。

三、當今左道、豈に訝るを須(もち)ひむ。君請ふ論ずる休めよ、擧世然りと。周武暴兮なり、權政を擅にす。嗚呼箕子は、朝鮮に往けり。

四、典章の泰斗、研精を見る。人は説く、皇州第一の賢。中心を竭盡して、今ま已んぬ矣。他日誰か立てむ、藎臣傳。


 岡翁は、それより四箇月の後に亡くなられたのであるが、自ら作られた其の墓の銘は、その最後を、「嗚呼、臣民之職責、死後も皇國を護らむ」といふ、壯烈なる宣言を以て結ばれた。清水博士の自決の辭と、文字は異なるが、趣意に於いて同一轍といはねばならぬ。即ち是れ共に藎臣傳中の人、長く歴史の光輝であり、道義の指標といふべきである」と。



○虎文齋彪邨岡次郎直養翁「平泉澄博士宛て書状」(昭和二十二年三月五日)に曰く、

「拜啓、御手紙被下れ、嬉敷く捧誦仕り候ふ。先づ以て先生(平泉博士)御無事、御躬耕之由、御芽出度く存じ上げ候ふ。當今、富貴に居るは一生の恥辱、躬耕、貧賤に暮らすは千年の名譽、今更に御高踏之仙蹤、慕は敷く存じ上げ候ふ。小生も燹後、全家無傷無病、疎開仕り、此の上へ無く幸福に御座候ふ。但し日増しに老衰仕り、平素、存養之學足らず、御恥に御座候ふ。然り乍ら此の上、御勉勵被下れ度く願ひ上げ候ふ。瞑目の時迄、學問は放擲すまじく候ふ」と。
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●福井市立郷土歴史博物館長・松平永芳大人『屈原の心境か?――市川團藏翁と清水澄博士の入水』(日本學協會『日本』昭和四十六年五月號)に曰く、

「三島氏の事件は、惰眠を貪る昭和元禄の世に大きな衝撃を與へ、多くの波紋を卷き起こした。新聞・雜誌・テレビ等は、月餘に亙つて各界の論評・反響を掲げ續けたが、これ等論評の内、眞に讀むに堪へ、傾聽に價するものは少なかつた。しかし、それは當然のことで、三島氏の如く、眞に祖國の前途を憂へ、信念の爲には一命を捧げて悔なしとする人物が筆を執つて居ない爲であらう。

 又、この事件で遺憾とする所は、益田總監の一身を按ずるの餘り、總監部が三島氏等の要求に易々として應じ、隊員に集合を下令したこと、集合した隊員の中に、三島氏等の、死を決しての切々たる訴へに(行動の贊否は別として)、感應する力もなく野次を飛ばせた者の多かつたこと、更に又、防衞廳のスポークスマンが、集合した隊員が野次を飛ばせたことを以て、「自衞隊が外部からの呼び掛けによつて左右されない健全性を確立して居る」かの如き口吻を以て、自己辯護的な態度をとつたことである。

 なる程、人命は貴い。しかし國の組織と言ふものは、總監の一人や二人、斬つて捨てられても、筋違ひの人間の言ふが儘に動いてはならない嚴しさがなければならない。今日のわが同胞は、人命より貴いもののあることを忘れ去つて居るのではなからうか?

 曾て陸上自衞隊に奉職し、市ケ谷臺で十年近く勤務したわが身にとつては、あの事件には人一倍強い衝撃を受け、改めて同地在勤當時の囘想に耽つたのである。當時、隊員に對する思想・精神教育が不充分であることを痛感した私は、自分の隊に對しては何とかしたいと考へ、最後に勤務した部隊に於ては、十日目毎に必ず一編の精神教育資料を印刷頒布して、退職迄の滿二箇年間に、八十編に及ぶ時事問題、隊内問題、歴史・思想・教育・躾問題等に關する私の考へを投げかけて、一同の思考錬成に努力した。‥‥

 以上、屈原の如く、自ら入水して碧海の波濤に身をゆだねられた方々の、美しくも清らかな死を説いたのであるが、諸官は如何に感じ、如何に考へられるか? 萬事ソロバンをはじいて己れの進退を決するを宜しとする人、人生の目的を物質生活の豐冨と快樂のみに求める人、かう言つた人々にとつては、屈原の死も、清水博士・團藏翁の死も、「いのちあつてのもの種」であらうから、一顧の價値も認められないかも知れない。しかし私は、何事にも眞劍な態度を以て、これに當り、その事に殉じ得る人を貴しと考へ、このやうな先人にこそ、あやかりたいと考へるものである。‥‥

 尚、三島氏の死に對する論評が、論ずる人の思想・人格によつて異る如く、清水博士の死についても、同樣であつた。昭和三十九年の『文藝春秋』十一月號に、博士の嗣子虎雄氏(當時東洋大學教授・憲法學)が、表題「明治憲法に殉死した憲法學者」、副題「父は信ずるところに死んでいつた」として、一文を投じ、詳細に當時の事情を述べられて居るが、その文中に、

『父の死後直後に弔問された穗積重遠博士が、「先生は、明治憲法に殉じられたのでせうね」と言はれたのは、自決の辭を動機として直感したのであらう。岡田啓介大將の囘想録中にも、「舊憲法に殉じたのであらうと考へてゐる」と記されてゐる。しかし、後に觸れるやうに、父の五十餘年の親友であり、私の恩師である美濃部達吉博士を、父の死の直後訪問した時、博士は、「私には、君のお父さんが死ななければならなかつた理由が、どうしても分らない」と、嘆息するやうな調子で言はれた。』

と記述されて居る。

 一方、徳富蘇峰先生は、博士急逝直後の九月三十日附書を以て、博士の御遺族を弔慰せられ、『寔ニ寔ニ見事ナル、申分ナキ御最期ト感嘆イタシ申候』と、繰り返へし述べられて居る。一方は、死なれた理由は了解に苦しむとされ、他方にあつては、見事な御最期であつたと遺族を弔慰される。人各々の感じ方・考へ方は、斯くもその思想・人格、學問の深淺によつて異るものである。三島氏の死の眞意も、眞劍深刻に國家の前途を憂へ、身を以て傳統國家の命脈を護持しようと決意する人々以外には、所詮理解出來ず、野次を飛ばすか、興味本位に扱ふか、はた又商魂の材料とするか、かう言つた受け止め方しか出來ないのである」と。



【參考・國史を顧みざる者の齎した所の無慘なる現實】
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畏命の臣從。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月12日(月)23時50分31秒
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  ~承前~

■『古事記』熊曾建の段――景行天皇御卷

 是に天皇、其の御子の、建く荒き情を惶みまして、詔りたまはく、「西の方に、熊曾建二人有り。是れ、伏はず、禮无き人等なり。故れ、其の人等を取れ」とのりたまひて遣はしき。此の時に當りて、其の御髮、額に結はせり。爾に小碓命、其の姨・倭比賣命の御衣御裳を給はり、劍を御懷に納れて幸行しき。

 故れ、熊曾建が家に到りて見たまへば、其の家の邊りに、軍、三重に圍み、室を作りてぞ居りける。是に「御室樂(うたげ)せむ」と言ひ動みて、食物を設け備へたりき。故れ、其の傍りを遊行きて、其の樂する日を待ちたまひき。爾に其の樂の日に臨りて、其の結はせる御髮を童女の髮の如と梳り埀れ、其の姨の御衣御裳を服して、既に童女の姿に成りて、女人の中に交り立ちて、其の室内に入り坐しき。爾に熊曾建兄弟二人、其の孃子を見感でて、己が中に坐せて、盛りに樂げたり。故れ、其の酣なる時に、懷より劍を出し、熊曾が衣の衿を取りて、劍以て、其の胸より刺し通したまふ時に、其の弟建、見畏みて逃げ出でき。乃ち其の室の椅(はし)の本に追ひ至りて、其の背を取らへ、劍以て、尻より刺し通したまひき。

 爾に其の熊曾建、白言しつらく、「其の刀を、な動かしたまひそ。僕れ、白言すべきこと有り」とまをす。爾れ、暫し許して、押し伏せたまふ。是に白言しつらく、「汝が命は、誰にますぞ」。「吾は、纒向の日代宮に坐しまして、大八嶋國知ろしめす、大帶日子淤斯呂和氣天皇の御子、名は倭男具那王にます。おれ、熊曾建二人、伏はず、禮無しと聞こし看して、おれを取殺れと詔りたまひて遣はせり」と詔りたまひき。爾に其の熊曾建、「信に然まさむ。西の方に、吾れ二人を除きて、建く強き人無し。然るに大倭國に、吾れ二人に益して、建き男は坐しけり。是を以て、吾れ、御名を獻らむ。今より後、倭建御子と稱へまをすべし」と白しき。是の事、白し訖へつれば、即ち熟瓜の如と振り折きて、殺したまひき。故れ、其の時よりぞ、御名を稱へて、倭建命とは謂しける。




 愚案、やはり本居宣長大人の訓は、現代注釋者のものより、敬語の遣ひ方も、大いに宜しく、拜讀するに音讀を以てして、本道に氣持ちが好いですね。なほ倭建命、即ち日本武尊は、文字の用法、天皇に準ずる扱ひです。
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●保田與重郎翁『日本語録』(昭和十七年七月・新潮社刊)に曰く、

「日本武尊は、御生涯を征旅の中に終へられた。尊は、最も高貴の皇子に生れましたが、皇朝廷の臣のふみ行ふべき道を、御身御自らでお教へになつたのである。

 初め出雲から九州・山陽の賊を平げられたが、熊襲建兄弟をうつときは、この日本の丈夫といふ丈夫のうちでも、神の如くに雄々しい君は、一箇のやさしい少女の姿となつて、強敵をたふされたのである。

 尊の御生涯を誌した古事記の部分は、古事記の中でも、最も重要な部分であり、悲劇といふ形式の文學としては、どこの國の作品にも匹敵するものがない。普通の悲劇は、英雄と運命の鬪ひを描いてゐる點で、文學の中の最高のものであるが、尊の御傳記は、大君のみことを、わが生命の原理として生きた、最も偉大な英雄の姿が描かれた點で、比較がないのである。尊の御物語の場合には、歴史の傳統があるが、運命はないのである。こゝに於て悲劇は、忽ちに抒情詩として描かれるのである。

 尊は、どのやうな勝利さへ、勝利と考へられない。これは最も雄渾な、わが古典の精神を示されたものである。尊は、御墓を三度移られ、最後には白鳥となつて天へ昇られてゐる。戰ひに生涯を終へて、數多の強敵を限りなく倒されつゝ、しかも勝利といふことを知られなかつたのである。神の思召しのまゝに、大君のみことのまゝに、戰へと命をうけて戰はれた時、戰ひといふものは、臣の生き方として、どういふものであるかといふことを、我々に十分に教へられたのである。

 だから尊が熊襲の建を刺されるとき、建が少し待つて下さいと懇願して、尊の御勇武をたゝへ、尊こそ日本の一等すぐれた勇者だから、日本武といふお稱へをさゝげたいと云つた。尊は、この名を、心よくおうけになつた。しかも熊襲建を許す代りに、これを徹底的に誅伐せられた。これは古典の思想の激しいところであり、こゝには大衆小説的な憐憫心理(あはれみのこゝろ)の思ひ難い激しさがある。さうしてこれこそ、敵を遇する一つの精神であり、尊はつねに敵を敵として認められたから、この激しさがあらはれたのである。古代の風懷が、神のさながらでなければ、この至烈の誠心は、人間に現れぬのである。彼の稱へた御名だけをうけて、彼を許すといふことは、思想として成立たないと考へるところに、上代の生命觀と歴史觀があらはれるのである」と。



●友清磐山大人の曰く、

「須佐之男神が、八俣の大蛇を斬り給ひし時に得給ひし天劔は、後に天葺根命をして、天照大御神に奉られた。大御神は、其れを御覽じて、『これは、我が劔なり、吾が岩屋に屏りし時に、近江國伊布伎山に落しゝ劔なり』と、詔へりと傳へられてある。其の時、この大地の邪氣の結晶ともいふべき大蛇(實は伊布伎山に住める多々美比古命、亦の名・夷服岳神といふ荒ぶる神の化神)が、其の尾に竊しもち、出雲國まで出かけて、人をも取り喫うて居たのである。

 然るに世をへだてゝ、後に又た日本武尊が伊吹山の魔神の邪氣に打たれ給ひて、甚だしき苦痛をあそばされて上天し給へりといふことを考へてみると、今更らながら産靈紋理(むすびかため)のくしびさを痛感せざるを得ぬ。日本武尊が、其の天劔を、熱田なる宮簀姫命に授けて、伊吹山に向はれたことも、神ながらの筋書の進行であつたであらう。大地の邪氣の結晶たる八俣の大蛇は、須佐之男神によつて退治せられたけれど、其の靈は、尚ほ地上を遊行して、因縁の地たる伊吹山で、日本武尊を害し奉つたのである。蜂が人を害して自らも終る如く、此れを以て此の邪靈は能力を失つたのである。日本武尊が、五十猛神の化身とすれば、此處でも須佐之男神は、其の御子の苦しみを以て、地上萬民の苦しみをあがなひ給ひしわけであらうと思はれる」と。



 愚案、詔書・敕命の至重至嚴、正に「承詔必謹」の四文字を、更めて痛切に思はねばならぬ。是れ、掲ぐる目標、叫ぶ標語に非ずして、必ず己が骨髓に填み得て、初めて覺悟實踐が出來るのである。若し萬が一、之を謹まざること有り、或は之に快からぬこと有るは、即ち國體の明徴ならざる證にして、こゝにこそ、學問が必要となるのである。

 亦た友清磐山大人の説は、平田篤胤先生『玉だすき』五之卷を承くるものにして、「尾張の熱田宮を拜む詞」條の「此の王(倭建命)の身實は神にて、須佐之男神の御靈の分かりて生れ坐せる現身ならむ」等とあるを能く見て、研鑽を重ねたいものである。

 神代に於る國讓り・大御政の奉還の由來につき、地上(出雲)から觀た所の、愛でたき斷案を、舊稿の一部であるが、こゝに引きて、「畏命の臣從」の源流を示し、併せて後世の師表も顯し、諸賢の考ふる所、奮勵の資としたいと思ふ。



●千家尊福大人『出雲大神』(大正二年十二月・大社教本院刊)に曰く、

「天夷鳥命は、建御雷神と共に降り來て、出雲國五十田狭の小濱に到りける時、建御雷神、突然に(大國主)大神に問ふに、『此の國を大神に奉らむや否や』と申しければ、大神は聞き怪みて、『汝二神は、我が許に來坐せるに非じ。諾はじ』と答へたまへり。かく怪みたまひしは謂れあることにて、曩に穗日命に申し告げたまひし事もあれば、其の事にかゝる次第を語らざるに依れるなるべし。然らざれば勇武を以て任じませる建御雷神の、唯だ一言を聞きて、天上に還り上ることは非ずと窺はる。

 其は此の國作りには、須佐之男神より大任を受け、又た神皇産靈神の御言さへ蒙りて、幾百年の間、御心を碎き御力を盡したまひて、雨風を侵し艱苦を嘗めて、漸くに大造の績を建てませるに、此の大業に參與ませる御子神は百八十一柱坐し、部下にも亦た八十萬神あれば、故なく避け奉らむには擾亂なきことを保し難く、若し思ひ惑へる者出來むには、皇孫命の御爲に善からじと、遠く深く思ひはたせたまふ至誠の神慮ましませばなり。‥‥石見國人・高子常石の説に、

『世に傳ふる所にては、建御名方神は、天使に反抗せられし如くなれども、全く然らじ。是は、建御名方神の武勇は天下に知られて比類なきが故に、先づ自ら反抗の態度を示して、後ち終に建御雷神には及ばざることを國神に知らしめんと、殊更に謀りたまひしものにて、所謂誠忠の極、此の苦忠に出でたるなるべし。然らざれば反逆の神にして、朝廷の尊崇、此の如くあるべき由なきことをも思ふべし。古史に傳ふる所、往々半面の事實のみに止まれることあるを思ひさとりなば、此の神の苦忠の、世に知られざることも思ひ得べし』

と。此の神は、信濃國諏訪神社に鎭り坐して、今は國幣中社に齋きまつれり」と。



●畏命の臣從――大楠公
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現人神の御子。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月10日(土)18時20分39秒
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  ~承前~

■『古事記』日代宮の段――景行天皇御卷

 天皇、小碓命に詔りたまはく、「何とかも汝の兄は、朝・夕の大御食に參ゐ出來ざる。專ら汝、ねぎ教へ覺せ」とのりたまひき。如此く詔りたまひて以後、五日といふまでに、猶ほ參ゐ出たまはざりき。

 爾れ天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何ぞ汝の兄、久しく參ゐ出來ざる。若し未だ晦へず有りや」と、とひたまへば、「既にねぎつ」と、答へ白したまひき。又た「如何にかねぎつる」と、詔りたまへば、答白したまはく、「朝署に厠に入りたりし時、待捕へて、つかみ批ぎて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とぞ、まをしたまひける。




 岡山愛國者協議會の岡山月例會では、神典『古事記』の朗讀を、平成二十年四月五日から、必ず勵行してゐる。これは主宰・岡田則夫翁の志であつて、小生は、二十二年三月から參列させて戴いてゐる。先週、つひに「倭建命の段」に至つた。

 小生は、此の段、初めて拜讀した高校時代、倭建命の、敕命を畏み、直ちに大御心に深く添ひ奉りたまひし御行藏に、いたく感銘した。普通には、親切に教へ諭すの「ねぐ」と、暴力的な「ねぐ」との取り違ひとして解釋される所(今日でも「かはいがる」が、優しくすると、逆に痛めつけるの謂ひに使はれるが如し)であるが、やがて帝都に在つて、三島由紀夫氏の自決によつて中絶したてふ遺し文を讀み、強く膝を打つた次第であります。



●三島由紀夫氏『日本文學小史』(昭和四十七年十一月・講談社刊)に曰く、

「私は、倭建命の挿話のみをとりあげて、神人分離の象徴的な意味を探りたいと思ふ。實際、この挿話は、全篇のほぼ半ばに位し、神と人との中間に置かれて、その悲劇性は、下卷の「輕太子と衣通姫」の悲劇性と、遠く照應してゐるやうに思はれるのである。

 景行天皇の敍述のほとんどが、倭建命の事跡に占められてゐるのであるが、皇太子倭建命は、いつも天皇に准ずる敬語で扱はれ、『日本書紀』にも、「是の天下は、則ち汝が天下也。是の位は、即ち汝が位也」といふ、景行天皇のお言葉が見られる。そして就中見落してはならないのは、同じく景行天皇が、倭建命を斥して、「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」と言つてをられることである。『日本書紀』によれば、それは、倭建命が「身體長大、容姿端正、力能く鼎を扛ぐ。猛きこと雷電の如く、向ふ所に前(かたき)無く、攻むる所ろ必ず勝」つからであつた。しかし、そればかりではない。天皇は我が子に對して、何かこの世のものならぬものを感じてをられたのである。

 そして『古事記』の景行天皇の一章は、本來の神的天皇なる倭建命と、その父にして人間的天皇なる景行天皇との、あたかも一體不二なる關係と、同時にそこに生ずる憎惡愛が、象徴的に語られてゐるやうにも思はれる。命の悲劇は、自己の裡の神的なるものによつて惹き起されるのである。

 その神的なるものの最初の顯現は、兄宮の弑殺であつた。その純粹素朴な怒りが演じた殘虐行爲は、景行天皇に恐怖を與へた。これが、ただ、我が子の人竝み外れた腕力と、感情の率直さに、父が恐怖を覺えたといふのでは足りない。天皇は、おそらく我が子の裡にあるものを、御自身の裡に見られたのである。天皇における統治の抑制が、十六歳の王子の行爲に震撼され、自己の裡にたわめられた「神的なるもの」の、假借のない發現を、王子の行爲に認められたのである。景行天皇のなさつた行爲は、三野の國造の祖・大根王の女、名は兄比賣・弟比賣の、二人の乙女に戀着されたことだけであつた。御子・大碓命に命じて召し上げようとされたのを、大碓命は、この二人の乙女をわがものにしてしまひ、他の乙女を求めて奉つて、父帝をたばかつた。天皇のなさつたことは、いつはりを知りながら默して、ただその乙女を冷然と扱はれただけであつた。大碓命が罰せられたといふ記述はない。

 天皇は、弟宮にして皇太子なる小碓命(倭建命)に、「朝夕の大御食に、兄宮が出て來ないのは何故か。お前からよく言つておけ」と、家長の抑制を以て穩やかに言はれた。しかるにただちに、倭建命は、用便中の兄を襲うて、その四肢を引き裂いて殺したのだつた。この行爲に接したとき、天皇が、あれほどの穩便な命令を倭建命が逸脱したといふよりも、むしろ、命が父帝の御顔色を察して、その行爲によつて、逆に父帝の内にひそんでゐた神的な殺意を具體化し、あますところなく大御心を具現した、といふことに、慄然とされたにちがひない。命は、神的な怒りをそのまま、電霆の行爲に現はしてしまつたのであつた。しかもその心情、その行動に、一點の曇りもなく、力あるものが力の赴くままに振舞つて、純一無垢、あまりにも適切な大御心に添うたことが、天皇をいたく怖れさせたのである。「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」といふ發見は、これを意味したと私は考へる。

 これがおそらく政治における神的なデモーニツシユなものと、統治機能との、最初の分離であり、前者を詩あるいは文化の役割を擔はせようとする統治の意志のあらはれであり、又、前者の立場からいへば、強ひられた文化意志の最初のあらはれである、と考へられる。‥‥統治機能から、もはやはみ出すにいたつた神的な力が、放逐され、流浪せねばならなかつたところに、しかも自らの裡の正統性(神的天皇)によつて無意識に動かされつづけてゐるところに、命の行爲のひとつひとつが運命の實現となる意味があり、そのこと全體が、文化意志として發現せざるをえなくなつたのだ。神人分離とは、ルネツサンスの逆であり、ルネツサンスにおけるが如く、文化が人間を代表して古い神を打破したのではない。むしろ、文化は、放逐された神の側に屬し、しかもそれは批判者となるのではなく、悲しみと抒情の形をとつて放浪し、そのやうな形でのみ、正統性を代表したのである。命は神的天皇であり、純粹天皇であつた。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であつた。詩と暴力は、つねに前者に源し、前者に屬してゐた。從つて當然、貶黜の憂目を負ひ、戰野に死し、その魂は白鳥となつて昇天するのだつた。

 景行天皇は、その皇太子の、このやうなおそるべき「神人」的性格を見拔いたとき、命には「傳説化」・「神話化」の運命を課するほかはないと思はれたにちがひない。それは又、文化意志を託することでもあつた。すなはち詩と政治とが祭儀の一刻において完全無缺に融合するやうな、古代國家の祭政一致の至福が破られたとき、詩の分離のみが、そして分離された詩のみが、神々の力を代表する日の來ることを、賢明にも豫見されたにちがひない。自分の猛々しい王子は、史上初の、そのやうな役割を擔ふべきである。それはそれ自體が悲境であり、生身の人生を詩と化することであり、孤獨であり、流浪であり、敗北でさへあるが、そこにこそ神々にとつての最後の光輝が仰ぎ見られ、後世、自分および自分まおだやかな子孫が統治をつづけるべき國において、それだけが光榮の根源として無限に囘歸せらるべきもの、それを正に倭建命において實現させたい、と思はれたに相違ない。それはもはや景行天皇御自身によつては實現されえないものであることを、天皇は知つてをられ、「それを實現せよ」と意志されることは、天皇の御命令だつたのである。文化意志は、かくて隱密な敕命によつて發したのだつた。一方からいへば、敕命こそが、このやうな史上最初の文化意志の發生を扶けたのである」と。



 愚案、日本武尊は、「嘗し西に征ちし年、皇靈之威に頼り、三尺劔を提げて、熊襲國を撃ちしに、未だいくばくも經ざるに、賊首、罪に伏しぬ。今ま亦た神祇之靈に頼り、天皇之威を借りて、往きて其の境に臨み、示すに徳教を以てせむに、猶ほ服はざること有らば、即ち兵を擧げて撃たむ」と奏上、「吾は、是れ現人神(景行天皇)の子」と言擧げされたが、「幼くして雄略の氣有り。壯に及びて、容貌魁偉、身長一丈、力、能く鼎を扛げたまふ」(『日本書紀』卷第七。『漢武帝内傳』に、天仙は「皆な長け一丈餘」とあるが、因みに支那漢代の一丈は2.31m、皇國明治以降の一丈は3.03m)。神宮神御裳祭に於いて、祭神に衣裝を奉納しますが、其の大きさは、一丈位の身長の御方が身につけて、丁度良い大きさとなる由であります。
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●薫園物集高見翁『人界の奇異と神界の幽事』(大正十四年十月・嵩山房刊)に曰く、

「總て上代の人は、人身、極めて長大にして、日本武尊も御身長一丈と申し、また御叔母・倭姫命の小袖を借着し給ひきといへば、叔母君の御長も同じ程なるを知るべし。また日本武尊の第二の皇子・仲哀天皇も、御身長一丈と申しゝなり」と。



 愚案、固より祝詞・古事記・日本書紀を、「神異史實」として仰ぐ小生にあつては、日本武尊の白鳥昇天や武内宿禰大臣の白晝昇天は、古人の目の當たりに見た事實として、之を信ずるものであることは、申すまでも無い。高皇産靈大神の神敕によりて、顯幽は分治せられ(顯幽兩界分居)、大山祇神の言靈によりて、皇孫尊の寶算に影響し、石長姫神の言靈によりて、青人草の壽命は短くなり、豐玉姫神の言靈によりて、海陸の交通杜絶(海陸兩界分居)したのは、勿論、悠久神代の御事に屬し、而して神武天皇以降、應神天皇以前(『古事記』中卷の御宇)は、神仙の帷に未だ深くつゝまれて、神と人と、やゝ分離せざる時代であつたやうである。然りと雖も現代、人皇の御代、現人神を仰ぎ奉る中今に於ても、神驗著在、靜かに沙庭(審神)を嚴肅にして、神眞の恩頼、皇神の大御經綸を想ふべきである。神さびたりとも、神さびたり。あなゝゝ、畏こき極みなりけり。
 
 

歴史の極意とは‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月 4日(日)17時39分17秒
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  ~承前~

 件の小林秀雄翁の言の出典は、昨日、岡田則夫翁の岡山例會にて戴いた。小林翁畢生の大作てふ『本居宣長』を前に、鈴屋翁『遺言状』から説き起こす所論に歡んだが、讀み進めるうちに、やうやく興味を失した想出があり、小生は、小林秀雄翁のよき讀者では無いものゝ、歴史を説く姿勢に異論は無い。紹介させて戴き、有志參考の資としたい。



●占部賢志氏『甦る歴史のいのち(一一○)小林秀雄ノート(十一)――承前・「質疑應答」といふ思想劇』(『祖國と青年』平成二十三年十一月號)に曰く、「

 何時の時代も、歴史ブームが再來する時、皮相な人間観が流行つては、早晩廢れて行く。諸君、そんなものは歴史ではない、氣をつけ給へと、小林は注意を喚起した事がある。これも合宿教室における質疑應答での一齣だつた。この時の質問者は、實は筆者(占部氏)で、無知な若造が問ふたのは、歴史の學び方であつたが、小林は當時の歴史ブームに、ずばり釘を刺した。まづロマンテイツクな歴史、すなはち大衆小説に見られる歴史觀は駄目なのだと、容赦なかつた。

太閤秀吉は、テレビに出て來たやうな、あんな男ではありませんよ。あの人は、現代の俳優などが演じられるやうな男ではありません。だから、テレビにのるやうな歴史は信じてはいけません。

 おそらくこれは、NHK大河ドラマとして、昭和四十四年に放映された「太閤記」を指してゐると思はれる。當時としては高い視聽率を誇つた作品だが、當節の俳優などが演じられる人物ではないと、小林は言ふのである。

 秀吉像は、とかく庶民派としてもてはやされたり、一種のサクセスストーリーとして扱はれる事か多い。かつて田中角榮が首相に就任した時、新聞に「今太閤」の見出しが躍つたやうに、世俗に迎合した人間像が演出される。一方で、朝鮮出兵などといふ非道な侵略行爲を思ひつくなど、愚かしい男だといふ見方も根強い。事程左樣に、持ち上げたかと思へば、罵倒するといつた風で、未曾有の戰國時代を生きた傑物の歴史的意義を仔細に檢討しようとする態度は、大衆小説やテレビドラマには微塵も見られない。あれは歴史を描いてゐるのではなく、娯樂ドラマに過ぎない。さう、小林は戒めたのである。

 小林にとつて、秀吉は、實に不思議な存在として映つてゐた。近世以降の日本を考へる場合、その轉換期は、應仁の亂である。あの時、日本の身代は、すつかり入れ替はつてしまふ(愚案、内藤湖南博士の論は、夙に有名である)。その荒野の中から、新たな日本を創り出す傑物が出現する。それが、秀吉の擔つた歴史的役割である。

 因みに秀吉の如く先例のない人物が、學問の領域に現れたのが中江藤樹である。藤樹の言葉、「天地の間に、己れ一人、生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば、外人(愚案、他人の謂)に頼る心なし」との覺悟は、寄る邊なき荒涼たる世界から身を起した者のみが釀し出す凄みが感じられる。徒手空拳で道を拓いた豪傑、この二人の出現は、小林を強く捉へた。『本居宣長』のなかで、横道に逸れながら、彼らが生きねばならなかつた時代を、『武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなつてゐた』と、簡潔明瞭に敍して、『日本の歴史は、戰國の試煉を受けて、文明の體質の根柢からの改造を行つた』のだと觀る。さうした亂世に一應のけりをつけたのが、秀吉だつた。このやうな秀吉を、單純でロマンテイツクな物語を好むテレビドラマが描けるわけもない。歴史ドラマを裝ひながら、實は茶の間に合はせた現代の物語であつて、それを歴史と混同してはならぬとの教へは、今も筆者の物學びの指針だ。

 文祿・慶長の役にしても、單純な朝鮮侵略を目論んだものではない。結果として甚大な被害をもたらしたが、そもそもは中國への侵攻を企てるスペインの戰略を知つた秀吉が、東北アジアの防衞策として、先に中國を豫防占領すべく、朝鮮半島を途上しようとして起きた騒擾が發端である。この事實は、高瀬弘一郎氏の勞作『キリシタン時代の研究』(岩波書店)に翻刻された、當時のキリシタンによる軍事占領計畫文書に明らかである。キリシタンによる明の征服計畫は、信長時代に知られてゐたらしく、これが實現すれば、ひいては日本にも牙は向けられる。そこで信長のあとを引き繼いだ秀吉は、キリシタンの動向に細心の注意を拂ふ。いはゆるバテレン追放令を出したのも、彼らの意圖をいち早く見拔いたからである。秀吉がスペインの據點マニラに、降服勸告の使者を派遣したのも、列強による侵略を排除するための布石だつた。これだけの遠大な防衞策を構想し得た人物を、テレビ番組に仕立てることなど、出來はしない。スケールが違ひ過ぎる。

 かくて小林の教示は、歴史ドラマや歴史小説から、筆者を遠ざけた。同世代に比らべて、司馬遼太郎などの小説家の作品を讀む經驗が乏しい理由は、そんなところにある。

 さらに小林は、現代流行の考古學的な歴史觀にも、痛烈な矢を放つ。『神武天皇なんて嘘だ、といふやうな歴史。嘘だといふのは、今の人の歴史に過ぎません。歴史は、みな信じられたものです。信じられた通りに信ずることができなければ、歴史は讀まない方がいいのです』と。長い文業の果てに、小林が辿り着いた対象、本居宣長は、古事記に傳承された神話を讀んで、みなあの通りだと信じたといふ。それが神話時代の歴史なのだから、信じられないとしたら、神話など讀む必要はないと斷言した口調は、印象に殘つてゐる。こんな言ひ方だ。

國生みといふ事が信じられてゐたといふ、その事が歴史ですけれども、そんな馬鹿なことはない、實はかうであつたといふ、新井白石流のやり方。新井白石が、この頃評判がいいのは、現代の歴史家は、みなあれをやつてゐるからなのです。本當はかうであつたといふ歴史。これは考古學であつて、本當の歴史にはふれない。だから、歴史を己れの鏡にするといふことは、非常にむづかしいことです。昔の人が信じた通りに、自分もそれを經驗することができなければ、歴史など讀まない方がいいのです。

 此處に見るやうに、考古學と歴史とを峻別するのが、小林の歴史觀である。やたらにあちらこちら掘り起こして、間違ひなく此處に藤原の都があつたのだと、實證出來れば安堵する。さうした仕事は考古學であつて、歴史とは一線を劃する。歴史は『自分も、それを經驗すること』であつて、知的な實證が出來れば、それで濟むものではない。‥‥

 歴史は形骸を認識するだけでは、畫龍點睛を缺く。かつて其處に存在したといふ事實を知つて、それで君は滿足か。君の心に、千年前の人々が、生命が誕生するやうに甦つて來なければ、いつたい歴史を讀む意味があるのか。小林は念を押すやうに語りながら、イタリアの歴史哲學者ベネツト・クローチエも引いて、かう結んだ(愚案、クローチエを日本に紹介したのは、實は平泉澄博士であつた。其の譯を書いた新進の羽仁五郎氏の紹介文も書いてをられる)。

さういふ點で徹底してゐるのは、クローチエです。歴史といふのは、みな現代史なのだと、クローチエは言つてゐるのです。現代の人が、ある史料を持つて過去に生きることができるのなら、歴史家と言へるのです。けれども貝殻を生きることはできないぢやないか。だから、考古學的歴史といふものは、みな空虚なものです。みな空虚とは言へないまでも、まあ、一種の學問なのです。

 けれども昔から、僕らは歴史を鏡と言つたのです。鏡の中に、自分自身が映るのです。讀んで自己が發見できないやうな歴史は駄目なのです。歴史は、どんな歴史も、みな現代史であるといふことは、現代のわれわれが、歴史をもう一ぺん生きてみることができるといふ、さういふ經驗をさしていふのです。‥‥君の顔が見えなければ駄目なのだ。君の顔が見えれば、歴史は君のためなにるぢやないか。日本の歴史は、諸君のためになるぢやないか。

 けれども『古事記』の言つてゐることは、どこまで本當で、どこまでが嘘だなどといふことを研究しても、それは一種の學問ではあるけれども、僕の言ふ歴史ではないのです。歴史といふ言葉が一番はやつてゐるくせに、今一番忘れられてゐるのは、鏡としての歴史です。『増鏡』とか『今鏡』とか、昔は歴史のことを鏡と言つたのです。昔の人がどういふ精神で歴史を書いてゐたか、さういふ人の心持を、今の人が忘れてしまつたことがいけないことなのです。


 自己が發見出來ないやうな歴史は駄目なのだと、小林は繰り返し教へた。すなはち「鏡」としての歴史だ。遺跡を發掘して裏付けをとる。それはそれで必要なことだ。しかし、私の言ふ「歴史」ではない。それは一種の「學問」の世界の話だ。僕は貝殻を發見する道など、興味ないな。貝殻を生きることは出來ないから‥‥。今もそんな呟きが聞こえて來るやうな氣がする。筆者は、ここで思ひ出す。岡潔を相手に、小林が特攻隊について語つた言葉である。

特攻隊といふと、批評家はたいへん觀念的に批評しますね、惡い政治の犠牲者といふ公式を使つて。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になつてみるといふ想像力は、省略するのです。その人の身になつてみるといふのが、實は批評の極意なのですがね。』(『人間の建設』)

 特攻隊を出撃せざるを得なかつた背景と事情を仔細に分析して、實態を解明する。しかも、あらかじめ「惡い政治の犠牲者といふ公式」を用意して。それは批評ではないと、小林はきつぱりと言ふ。この「批評」を「歴史」と置き換へても差し支へあるまい。すると、歴史に肉迫する極意も、「その人の身になつてみる」といふ事にならう。小林が歩いたのは、かういふ道だ。たしかに、その人の身になつてみるためには、想像力が要る。しかし、その想像力だけで十分なのかと、不安を覺えた學生の一人が質問に及んだ時、小林は言つた。

十分です。ただ想像力といふ言葉を、よく考へてください。想像力といふのは、空想力ぢやないんです。空想力といふのは、でたらめなことを空想する、だけど想像力といふものの中には、理性がある。そこには、感情も理性も直覺も、みな働いてゐる。さういふ充實した心の働きを、想像力といふのです。

 學生は、もう一度確認した――「自分の想像力を信じてよろしいのでせうか」。小林は、和やかな表情を浮かべて應じた、『ああ、いいですとも』と」と。



 愚案、此の文には、豐太閤の歴史的意義も見える。豐太閤こそは、近代に於ける大西郷や日本主義者・興亞主義者の源流だと、小生は、常日頃から密かに思うてゐる。鈴屋翁『馭戎慨言』は、もつと讀まれるべき書である。然し、それのみでは無い。豐國大明神は、「はゆまつかひ」樣も漏傳くださつてをるやうに、實は高位の神仙のお一人であつたのだ。神僊なればこそ、其の眞姿を知る者は鮮い。
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 況んや一視同仁、不偏無私に坐し、何より現御神に坐します、天皇の演劇・映像化など、之を許すことは出來ぬ。我が塾頭・泉水隆一監督作品『凛として愛』には、天皇陛下を拜し奉るに、御肖像畫を以て表現し奉つてゐるのみ。幡掛正浩翁も云ふ、

「『明治天皇と日露大戰爭』といふ映畫は、貴君も知つてるだらう。僕も觀客席のくらがりで、ひそかに感動の涙をぬぐつた一人であることを告白するが、一方で、僕の心のすみでは、臣下である俳優が、お上に紛して、お上を演ずるといふことに、どうしても許しがたい本能的な拒絶感があつた。これは、單に僕がもうふるい型の人間だからといふだけでなく、もつと深いところで、喪つてはならぬ大事なつつしみの臣道感覺とでも言つたものと思ふが、それには、それの根本的な理由がある。

 そもそも大御心といふものは、上御一人だけのものであり、これはもう、陛下といふ上御一人をもつてよりほかに體現されようのないといふ、きはめて簡單な『御位の事實』について考へてほしい。陛下が御位を嗣がせられる際に、大嘗祭といふ、神祕神聖な祭儀が行はれるが、端的に言つて、この祭儀は、新しい帝が、皇祖天照大神の御魂を、御自らの中に鎭めたまふ祕儀として傳へられてをる。だとすると、そのたつた一つの御位から發するはたらき――大御心といふものは、頗る宗教的なもので、とても餘人をもつて『演ずる』などのこと、かないつこない、嚴肅な神業なのだ」(『神國の道理』昭和五十二年三月・日本教文社刊)と。
 
 

甚だしい違和感を共有できるか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月27日(日)22時43分13秒
返信・引用 編集済
   本日は、「日本心の集ひ」に參加。講師の岡田則夫翁より、資料を戴いた。是非とも紹介し、其の違和感を共有して、警世反省の資としたい。



●西川泰彦翁『甚だしい違和感』(『葦附だより』平成十四年五月號)に曰く、「

――御歴代を比較し、又、天皇陛下と臣下とを比較するとは――

 小誌の「大正天皇御製詩拜讀」を讀んだ友人が參考資料として、有名なA先生が某月刊誌に執筆した、大正天皇に關する一文を紹介して呉れた。内容は敬愛の念を以て書かれた、好感の持てる文章であつた。たゞその文中、私としては甚だしい違和感を覺えざるを得ない箇所があつた。それは先づ次なる筆者が引用した對談の部分であるが、肯定的に引用してあり、筆者も同樣な考へであると見て差し支へなからう。その對談の中で、T氏曰く、

『大正天皇は、書が素晴らしい。歴代の帝王の書の中でも、最もいいもののひとつではないでせうか云々。』

とあるが、T氏は、百二十五代にも亙る御歴代の書を、一體、何割程度拜見したのであらうか。抑々御歴代の宸筆のうち、果してどの程度が現存し、しかもそれら全てが拜見可能なのであらうか。そしてたとへ御歴代の宸筆全てを拜見し得たとしても、それらを比較し優劣を論ずるなど、いかゞなものか。對談の内容からすると、T氏は皇室に好意を持つ人であらうことは疑ひない。しかし先に引用した文の「云々」の中には、「不思議な魅力のある人ですね」ともある。何も「現人神・あらひとがみ」と申し上げよと迄は言はぬが、少なくとも私には、天皇陛下を「人」などと表現する感覺は無い。あまりにも輕率と言ふべきにあらずや。

 次の別の部分には、これは傳聞であるやうだが、

『ある人が、大正天皇の宸筆が、西郷隆盛ほか明治維新の英傑らの名筆能書と一緒に展示されてゐるのを拜觀し、諸士の中で最も雄大の感を湛へた西郷の達筆さへも、大正天皇の書の前には微小に思はれたと感想を述べてゐる云々。』

とある。天皇陛下と臣下とを比較するといふ神經は、私の理解の範圍を超えてゐる。大正天皇の宸筆が「規模宏大にして、一點の澱みも穢れもないさまは、息をのむばかり」(A先生の言)であれば、さう言へば、事足りる。臣下の書と比較する必要など、更々ない。宸筆に湛へ給ふ神韻を畏み奉る言葉と共に、別次元に在る忠臣・元勳の書も正當に稱贊する、それで良いのではないか。

 尤もA先生やT氏を責めるのは酷なのかもしれない。試みに『讀史備要』を繙くと、その「名稱一覽」の部の「二聖」(二人の書聖の意)といふ所には、「嵯峨天皇・僧空海」と列擧されてゐる。又「三筆」の方には、「嵯峨天皇・橘逸勢・僧空海」とある。『讀史備要』は、東京帝國大學史料編纂所が、その必要に迫られて作成したもので、第一類「歴朝一覽・大名一覽」等。第二類「皇室御系譜・諸氏系圖」等。第三類「公卿索引・寛政重修諸家譜索引」等が、その内容であり、昭和八年初版である。東京帝國大學史料編纂所の權威をそれなりに認めるのは吝かではないが、少なくとも、上御一人と臣下とを同次元に扱ふなどは、不見識の謗りを免れぬ。心すべきことにこそ。

 御歴代を比較し、又、天皇陛下と臣下とを比較したり、同次元に扱つたりするなどの事には、たとへ惡意は無いとは言へ、私にはたゞたゞ甚だしい違和感を覺えるのみである」と。



 愚案、討議の場では、色々意見交換があつた。
曰く、「不思議な魅力のある人」の「人」」が、「御方」だつたら、如何だつたであらう。違和感はあつたか。讀み過ごしたかも。
曰く、「不思議な魅力」とは、抑々如何なる意か。
曰く、「魅力」とは、餘りに俗過ぎる辭では無いか。
曰く、「三筆」への違和感は、正直、迂闊であつた。
曰く、うつかりと讀み過ごして、甚だしい違和感を共有できなかつた、此の己を恥づ。
曰く、映畫・NHK大河ドラマ等で、天皇を演ずる者あり。無私の天皇は、本來、演ずる能はざるもの、段々國家を擧げて不敬となつた。
曰く、かつて太閤記あり。小林秀雄氏、之を喝破して云ふ、豐太閤は、非常に大きなる人物、一俳優の、到底、之を演ずる能はざるもの、所詮虚構にして、本道の歴史に非ず、興味は無い、と。或は云ふ、考古學や考證學はあつてもよいが、考古學はあくまで考古學であつて、歴史では無い。古事記をそのまゝ信ずる、是れ歴史なるべし、と。

 大東塾の都羅山人三宅萬造翁の道統につながる岡田則夫翁が、獨人で主宰される「岡山縣愛國者協議會」の岡山例會は固より、倉敷にて開催される「日本心の集ひ」例會も、共に、切磋琢磨の道場てあり、反省討議の研修場であり、各々「日本心(やまとごころ)」を築き堅めむと、必死懸命である。地方に在つても、戀闕の心は熱く、絶えることは無い。



**********



■東湖藤田先生『桑原毅卿の京師に之(ゆ)くを送る序』に曰く、「

 宇宙の大、萬國の星布、其れ多し。而れども國體の重き、未だ神州に若くものは有らざる也。神州の廣き、國郡縣邑、勝げて數ふ可からず。而れども至尊至嚴、未だ京師に若くものは有らざる也。京師は天皇の都したまふ所、神器の在します所、億兆の仰ぎまつる所、蠻夷戎狄の望みて服しまつる所なり。京師の宇宙に在るは、譬へば猶ほ北辰の天に在るがごとき也。昔、大道の行はるゝや、徳化、内に洽く、稜威、外に宣ぶ。聖皇明弼、相ひ踵いで起り、既に上古神聖之跡に遵ひ、以て天常民彜を植ゑ、更に西土周孔之教を資り、以て我が固有之道を培ふ。上下之分、内外之辨、嚴乎として其れ越ゆ可からざる也」と。


●神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥

あきつかみ わが大君の おはします みさとの土は 踏むもかしこし

日の本の やまとの國の 主にます わが大君の みやこはこゝか



 愚案、大阪市長選擧は、所謂「大阪都」構想を掲げる某が壓勝したと聞く。主權在民とやらの世、どうでも勝手にやればよいが、「大阪都」と申すは、斷々乎として之を許すこと能はぬ矣。「都」とは、天皇の坐します所を謂ふ(「神都」とは、伊勢を申し上げる)。東京都は戰時中より云ふと聞くが、制度はどうあれ、假令へ獨立すると雖も、呼稱は、斷然「大阪府」と爲すべきである。

 かつて江戸を「江都」と云ふは、腐儒の、幕府(天子樣より殺生與奪の權を賜ひし征夷將軍の府)に媚びて大不敬を犯す所、同じ過誤は繰返してはならぬ。再言す、皇都は宇内に一のみ而已矣。呼稱「大阪都」は、須らく遠慮すべきもの、「二都一道一府四十三縣」となる僭上は、必ず避くべし。夫れ名分は、之を正さねばならぬ矣。
 
 

遂に出現、『凛として愛』臺本の原本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月25日(金)23時05分9秒
返信・引用 編集済
   「花時計」にて、小生も拜記させて戴き、スレツドを建てた所の『凛として愛』臺本の原本が掲示されました。泉水隆一監督の「語り」としての別號は、「花椿一心」なるを認むなり。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/dvd.php
の左の「台本」をクリツク

【花うさぎ樣】http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/entry/2520417/

 藤真知子代表が聞かれた、泉水隆一監督の言葉に曰く、「『凛として愛』のナレーションを考えているときに、自分ではないような感覚があった。自分では思ってもいない言葉が、次から次へと出てきた。ナレーションには、英霊の気持ちが反映されている」と。

 此の臺本(誤植も些か之れ有り)と實際のナレーシヨンとに、相異まゝあり。此の臺本を元としたナレーシヨンなるか、或はナレーシヨンの清書が此の臺本なるか‥‥。有志の御方は、其の相異を明かにして、之を樂しむ、亦た可からずや。是れ「凛愛學」の、其の一なるべし矣。

 又た『凛として愛』は、所謂る保守派の掣肘に遭うて、表現を抑ふる所あり。然らば夫れは、何處なるやを究明する、其の二なるべし矣。

 而して一兵士、或は九段塾塾頭として、『凛として愛』を超える識見を打出すに至つた、其の晩年定論を闡明にする、其の三なるべし矣。例へば『凛愛』に使用されてゐた辭、曰く、散華、曰く、日本軍、等々、之を否定するに至る。其の志操の深化を尋ね、其の由て來る源を知らねばならぬ。

 更に塾頭の悲願を天下に訴へて、靖國神社正統護持の實を擧ぐ、其の四なるべし矣。

 任重くして、道遠しと謂ふべきも、自ら任じて立つ有志の士を待つこと少しとせず、共に切磋琢磨、力むべきか、鋭意、之れ努むべきなり矣。
 
 

吉報。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月24日(木)18時20分52秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下には、本日午後、ご退院の御由、愁眉を開きました次第、御同慶至極、寒天を仰ぎつゝ、大内山の御平安を、只管ら御祈り申し上げます。



 或る地方に御住ひの、泉水隆一監督をよく知るてふ御方より、某掲示板での「靖国神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか」を拜見したと、御便りがございました。塾頭の眞面目を云ひ當てゝをられると感佩して、紹介させて戴きます。曰く、

監督は、いつも膨大なおしやべりをする方でした。然し一方的にまくしたてるのではなく、常に相手に相槌なり、反論なりを求めてをられたやうに思ひます。熱意をもつて、全靈をかたむけて話してゐるのに、相手の反應が無いと、監督は寂しさうにもされてゐました。相手を論破するのが好きと云ふのでは無く、異なる意見には、その異見の存する所以を確認したいと云ふやうな探究心‥‥、それによつて自論の正論たる所以を確固としたものにする、と云ふやうな言動であつたと思ひます。

 御承知のやうに、監督はやさしい人でしたから、他者をいつも受け入れて、それでゐて、相手を感化するの不斷の努力を傾注する人でした。また相手の言葉に觸發されて、己の志操を更に展開する、と云ふこともよくありました
」と。



実存主義者樣

 然し此の監督、即ち我が塾頭を以てしても、何うにもならなかつた連中も、此の世の中には存するやうですね。どうも世代間における意見の相違のみでは片づけられないやうです。先般ご紹介させて戴いた、郡順史翁の文章『今あらためて「後に續くを信ず」』に、其の一端が示されてをりませう。あれほど諄々と、懇切丁寧に、「靖國神社の正統」を語られても、馬耳東風、糠に釘、擧句の果てには、嫌味嘲笑、罵詈雜言‥‥、我が塾頭も、遂には見放されましたこと、遺憾千萬でありましたが、畢竟、其の「眞の目的」が違ふのでせう、或は相手にするだけ光陰の無駄か、とも。

 「意見の衝突」ぐらゐで、「たってのお願い」なぞと申される御遠慮は、全くございません。上梓の節には、喜んで送らせて戴きます。最終原稿を、本日、洛風書房に御渡し致しました。暫く御待ち下さい。それと「遺響篇」は、実存さんも御存知の、河原博史兄ご盡力の賜、共に歡んで下さい。

 でもね、実存さん。「よろしくお願い」されても、住所・宛名が判らねば、御送りしようにも‥‥、小生、困つた、々ゝゝ‥‥。此の掲示板の最下段に、「管理者へメール」がありませう。此のボタンを押して、御知らせ下さい。
 
 

たってのお願い

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年11月24日(木)15時25分4秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

ご無沙汰しております。

水戸学の系譜を巡っては(徂徠学の影響があるかないかで)備中さんとは少々意見衝突しましたが、桜掲示板以来塾頭に対しましては私はずっとシンパの立場を崩してきませんでした。

私も「靖国神社の真実」を一部所望したいと存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。
 

京都で「凛として愛」上映会

 投稿者:藤 真知子メール  投稿日:2011年11月21日(月)21時00分6秒
返信・引用
  お知らせさせて頂きます。

~京都で「凛として愛」の上映会が行われます~
「凛として愛」という映画を知っていますか?
明治開国以来、日本人は戦い続けてきた。武器を取り一丸となって戦うことで、
独立した国家としての日本と日本人を守ってきた――その歴史を70分にまとめた渾
身の名作が「凛として愛」(平成14年)です。靖国神社創立百三十年記念事業の
一環として2年の歳月をかけて制作されたこの映画は保守陣営の圧力等により、
たった2日半で上映中止に追い込まれてしまいました。

「この映画を見た人が、大和民族の魂に触れて、勇気を持って映画館から出て
行って貰いたい」と語った故泉水監督の思いに応えて、1人でも多くの方にご来
場いただければ嬉しいです。皆様お誘いあわせのうえご参加くださいますようお
願いいたします。


【開催日】
平成23年11月23日(水・祝)

【時間】
午前 9時30分開場
午前10時00分上映開始

【場所】
京都市子育て支援総合センターこどもみらい館4階第2研修室A

【費用】
会場協力金として、お一人様 500円をお願いいたします。
尚、高校生以下は無料とさせて頂きます。

【主催】
誇りある日本を取り戻す会
http://nippon55.exblog.jp/

【アクセス】
地下鉄 丸太町駅(5番出口) 徒歩3分
市バス 烏丸丸太町下車 徒歩3分

※地下に駐車場がございます。30分200円
※定員は24名です。消防法の規定上、24名を越えた場合は入場をお断りさせてい
ただきますので予めご了承ください。

http://www.hanadokei2010.com/

 

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