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日本魂を錬磨するに、簡にして要なる文髓を以てす。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 7日(月)21時13分21秒
返信・引用 編集済
  ●隈山谷干城將軍『精神』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 我れ我れ日本人は、日本魂といふ、最も鞏固なる精神を持てり。此の精神を持ちて、此の日本國を護り來りしかば、古へより他國の侮りを受けざるのみならず、世界無比の國なりといふ名譽をさへ得るに至れるなり。今後、此の名譽を保たんも、失はんも、此の精神の如何にあるべきを、おひゝゝ此の精神を持てる者の少なくなりゆくは、いかにぞや。

 日本魂と云ふ精神を持てばこそ、眞の日本人なれ。此れなくば、形こそあれ、眞の日本人とはいふべからず。何とならば、さる人は、亞米利加へ行かんには、亞米利加人となり、英吉利へ渡らんには、英吉利人となるべければなり。昔し、山崎闇齋といふ學者ありき。或る時、その弟子に向ひて、「若し孔子・孟子が大將となりて、此の國に攻め來らば、如何にかする」と問ひしに、弟子ども、答ふる能はず。闇齋、容(かたち)を改め、「何をか躊躇する。たとひ孔子・孟子なりとも、此の國に害をなさんには、直ちに撃ち攘ふべし。是れやがて孔子・孟子の教ならずや」といへり。また物徂徠といふ學者ありき。こは、きはめたる支那崇拜者にて、何事も彼れを尊ぶあまり、遂に「東夷の物茂卿」と自稱して怪しまざるに至れり。闇齋といひ、徂徠といひ、同じく漢書を讀みたるものなり。さるに其の言ふところ、此く異なるは、一は此の精神を保ち、一は此の精神を失ひたるがためなり。徂徠のごとき人のみ多くならんには、此の日本國の前途を如何にせん。

 世人は、ともすれば「富國強兵」を口にせり。余、思ふに、いかに學理は進歩すとも、實業は發達すとも、之れに從事する人にして、此の精神を失はんには、國家にとりて、何の利益もなからん。又た海に千萬の艨艟を浮かべ、陸に億萬の巨砲をならぶとも、それを運用する人にして、此の精神なからんには、たゞ一の形容の具に過ぎざらん。言ひかふれば、富國策も、強兵論も、日本魂といふ精神を定めたる後にすべきなり。それを定めざるうちは、到底、其の實をあぐること能はざらん。

 要するに、日本魂ありて、始めて日本人なり。日本人ありて、始めて日本國なり。我れ我れ日本人たるもの、此の日本魂といふ精神を失ひて可ならんや。



●谷干城熊本鎭臺司令長官『熊本守城概要報告』(同上)

 今般、鹿兒島縣賊徒暴擧の勢あるにつき、當臺防戰の儀に就いては、進んで之れを薩界の險に要し、或は之れを半途に迎ふるの略なきに非ず。然るに當城の兵、去冬不意の襲撃を受けしより、兵卒の氣力、未だ全く舊時に復せず。諸士官、專ら士氣を鼓舞するに注意し、或は招魂祭に依り、或は競馬、或は烟花(花火)、或は角力(相撲)等を以て、士氣を勵ますの事に勉むと雖も、賊徒、素より強兵の名あり。且つ其の怒氣の發する所、容易に當り難し。加之(しかのみならず)縣下の士族、賊に消息を通ずる者少なからず。故に進んで熊本市街を保護せんとすれば、賊、脚下に生ずるの患ひあり。且つ決死の兇徒を平原曠野に防ぐ、其の勝算、固より期し難し。一旦迎へ、戰つて敗るゝ時は、士氣沮喪して、大いに賊勢を長ずべく、已に沮喪せし兵を以て、始めて守城を謀る時は、遂に堅守を期し難し。是れ今般、熊本城を堅守し、以て賊の據る處を失はしめんとせし所以なり。

 陸軍卿、曩に我れに示すに、攻守、共に適宜にすべきを以てせらる。蓋し本臺の存亡は、西國一般の人心に關するを以てなり。我が輩の所見、亦た全く此にあり。故に橋梁を撤し、砦柵を結び、通路を塞ぎ、要地に地雷を埋め、障碍の家屋を毀ち、展望を便にす。準備、稍々成るに埀んとして、本城、忽ち火を失し、糧食、悉く灰燼に歸し、餘す所、唯だ彈藥諸器のみ。故に已むを得ず、一時、民家に徴收し、以て數旬を支ふるを得たり。賊、素より本臺を輕侮し、一朝にして之れを拔くべしと爲し、二月二十二日・同二十三日、力を極めて攻撃す。我が兵、期する所の略に依り、歩・砲・工、各々兵を配置し、十分防戰す。賊、遂に退き、長圍の策を決する似たり。是に於て本臺、賊中に孤立し、外情を探知するに由なし。加ふるに我が小倉營所の兵、二月二十二日を以て著臺すべき心算なりしかども、途中障碍を受けしを以て來る能はず。故に兵數寡少、守るべくして、攻むるに足らず。益々堅守の方略を固うす。

 賊、別に兵を分かちて、官兵の熊本に入るものを防ぐ。賊兵、已に分かると雖も、縣下の士族等、賊に黨するもの多く、我が隙を窺ふの虞(おそれ)あり。且つ官兵の小倉より來る者、其の何の地方に在るを知らず。來援の官軍と賊兵との間隔も、亦た知るべからず。或は賊の後路を突かざるの悔ひなしとも謂ふべからず。因つて官兵の情況を知らんと欲して、人を遣ること數度に及ぶと雖も、其の功を遂ぐること能はず。獨り典獄宍戸正輝の、其の目的を達するあり。彼我兩情、悉く知ることを得たり。是に於て策を決し、官兵の大軍山鹿・木の葉等の賊を破るを待ち、我れ敗賊の側面を攻撃し、尾して川尻・八代を占め、賊をして足を止むるに地なからしめんとす。

 既にして官兵、漸次進撃すと雖も、賊、田原其の他の險に據り、拔き難きを聞く。且つ當臺、糧食の如き、百方收聚の策をなすと雖も、遂に盡くる期あらんとす。是に於て策を決し、糧食、未だ全く盡きざるに及び、周圍の守線を短縮し、兵若干を以て、本月八日を期し、植木口に向ひて圍を突かんとす。適々前一日、川尻口に當りて、砲聲の盛んなるを聞き、又た之れに應援するの要を生ぜり。且つ川尻口は、道路平夷にして、容易に官兵を合するを得べきを以て、遂に前策を轉じ、八日拂曉、急に川尻口に突貫し、以て官兵の進路を開くに至る。是れ當城戰略の大概なり。書して以て、總督殿下に獻ず。



 愚案、巷間流布する所に曰く、靖國神社創立當初、「或は競馬、或は烟花、或は角力等」を、庶民の憩ひ・娯樂の爲めに催す、と。何ぞ知らむ、「專ら士氣を鼓舞する」爲めの策略なるを。本末を失へる俗説、こゝに明かなる可し矣。宜なり、之が亂雜放縱、卑俗淫猥となるや、直ちに禁止一掃となりしは。



●龍江芳賀矢一博士『遊就館』(同上)

 靖國神社の鳥居を入れば、右の方、立ち竝ぶ木立の間に、嶷然たる煉瓦造の一館あり。之れを遊就館となす。

 館前の假小屋には、日露戰爭の戰利品、及び記念品を陳列せるが、最も人目を惹くは、旅順口第三閉塞船米山丸附屬の端艇にして、兩舷は敵彈の爲めに破碎せられ、船體に無數の彈痕を留む。一見、人をして當時を追想して、酸鼻に堪へざらしむ。

 本館を右に廻りて、入口より入れば、こゝにも各種の銃砲・砲車・彈藥車等を陳列したり。多くは皆な日清・日露兩役の戰利品にして、一として我が國民が忠勇報國の記念物たらざるはなし。

 本館には、階上に五室、階下には十五室あり。銃砲は加農(カノン)砲・野砲・速射砲・機關銃を始めとして、種類、甚だ多く、枚擧に遑あらず。刀槍には、古代の飾太刀・庖丁正宗・十字槍・大身槍等あり。其の他、軍旗・甲冑・弓矢・軍服・馬具等に至るまで、古今を問はず、新舊を論ぜず、苟くも武器に關する一切の種類は、大抵、備はらざるなし。

 圖畫は、皆な高く壁間に掲げらる。其の昔し、壹岐の守護代・平景隆が、手勢百騎を率ゐて、元の大兵と決戰し、全島の士の皆な斃れたる圖の如き、最も壯烈悲慘を極む。肖像畫は、有栖川宮殿下を始め奉り、陸海軍將校、及び戰死者等にして、其の胸間を飾れる勳章は、明治の歴史と共に、長へに名譽の光を放つに足る。寫眞は、從軍者の撮影せしもの多きが中に、乃木・ステツセル兩司令官の水師營會見、乃木司令官入城の光景等、實に世界歴史に於ける好箇の大畫題と謂ふべし。

 館内に收むる所の武器を觀ては、東西古今、兵器の變遷を知り、古城址・戰場の圖に對しては、上下幾百歳、興亡盛衰の歴史を思ふ。忠勇の念、懷古の情、交々起りて、俯仰低徊、人をして去ること能はざらしむ。

 青年諸氏、東京に來らば、必ず靖國神社に詣でよ。靖國神社に詣でば、必ず遊就館を觀よ。



【參考/稻村眞里翁『平景隆公殉國六百五十年記念祭の祝詞』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1837



●東郷平八郎提督『海軍戰死者を祭る文』(同上)

 海陸の戰雲、已に散じて、滿都の和氣、藹々たり。童幼、歡び迎へて、六親、門に待つ。是れ諸子と生死を共にしたる將卒が、大纛の下に凱旋したる、頃日の光景なり。

 囘想すれば、諸子が冱寒を冒し、炎熱を凌ぎ、勁敵と戰ふに方(あた)りてや、戰局の前途は、猶ほ未だ知るに由なく、諸子の逝く毎に、先づ其の忠死の榮を得たるを羨み、我れ等も、亦た必ず諸子に傚うて、君國に報ゆるを期せり。然るに諸子の勇戰奮鬪は、常に其の效果を奏し、皇軍、戰ふ毎に勝たざることなく、旅順の連陳、十閲月にして大勢を定め、日本海の鏖戰、一擧に勝敗を決し、爾後、海上、敵影を見ざるに至れり。是れ固より無量の皇徳に基づくと雖も、亦た諸子が、身を外に忘れて奉公したるの致す所ならずんばあらず。今や、征戰、其の終りを告げ、我れ等、凱旋の將卒、四顧歡喜の光景を見るに方り、諸子と此の悦びを頒つ能はざるを懷ひ、悲喜、交々至りて、感慨、言ふべからざるを覺ゆ。然れども今日あるは、即ち諸子が一死の榮ある所以にして、諸子の忠烈は、永く我が海軍の精神と爲り、帝國を無窮に守護せん。

 茲に典を擧げて、諸子の靈を祭り、聊か懷を陳べて、弔辭に代ふ。尚(こひねが)はくは、來り饗(う)けよ。



【參考/東郷司令長官『聯合艦隊解散の辭』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t11/1



●徳富蘇峯翁『祖宗の宏謨』(同上)

 恭しく、天皇陛下御踐祚の翌日、朝見式の敕語を奉讀するに、「祖宗の宏謨に遵ひ」の一句あり。又た議會開院式の敕語にも、此の句あり。吾人は、祖宗の宏謨の、如何に陛下の御心に掛かりつゝあるかを、恐れながら忖度し奉らざるを得ず。而して私かに自ら顧みて、祖宗の宏謨とは何ぞやと、胸に手を當て熟思精想するを禁ずる能はず。蓋し之れを解釋し得るは、我が陛下の臣民を統率し給ふ大本、大綱を解釋し得る所以なればなり。

 吾人、豈に敢へて解釋を試みると謂はんや。然れども諺に、「一寸の蟲にも、五分の魂あり」と曰へり。姑く自ら領會したる梗概を擧ぐれば、祖宗の宏謨には、二個の要素あり。第一は、帝國の統治なり。即ち、

瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地也。宜しく爾ぢ皇孫、就いて治むべし焉。行け矣。寶祚の隆えは、當に天壤と窮り無かるべし矣

の一節にて嚢括(なうくわつ。包括して言ふ)す。我が帝國の、萬世一系の皇統の下に統治せられ、宇内無比の國體として特立する所以は、實に此に存す。吾人は之れを稱して、皇室中心主義と曰ふ。然れども唯だ皇室を中心として、大和民族が一孤島に蟄伏するは、決して祖宗の宏謨にあらず。蓋し皇室中心主義は、なり。其のに至りては、更に他に存す。吾人は之れを稱して、日本中心主義と曰ふ。是れ世界に對して然るなり。而して此の主義や、我が帝國の上代文學に、最も高朗昭著に之れを説明したり。

辭別けて、伊勢に坐す天照大御神の太前に白さく、皇太御神の見霽(みはる)かし坐す四方の國は、天の壁(か)き立つ極み、國の退(そ)き立つ限り、青雲の靄(たなび)く極み、白雲の墜(お)り坐(ゐ)向伏(むかふ)す限り、青海原は棹柁(さをかぢ)干さず、舟の艫(へ)の至り留まる極み、大海原に舟滿ちつゞけて、陸(くが)より往く道は、荷の緒(を)縛(ゆ)ひ堅めて、磐根・木根(いはね・きね)履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道(ながち)間(ひま)無く立ちつゞけて、狭(さ)き國は廣く、峻(さか)しき國は平らけく、遠き國は八十綱(やそつな)打ち挂けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉りたまはゞ、荷前(のさき)は、皇大御神の太前に、横山の如く打ち積み置きて、殘りをば平らけく聞こし食さし、又た皇孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に齋ひ奉り、茂(いか)し御世に幸はへ奉るが故に、皇吾が睦、神漏伎・神漏彌命と、うじもの頸根衝き拔きて、皇御孫命のうづの幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣る。

今ま夫れ「智識を世界に求め、大いに皇基を振起す」と云ひ、開國進取と云ひ、若しくは帝國主義と云ふ。然も皆な此の祈年祭の文句の外に出でず。此くの如き崇高・雄大・莊嚴の文字、單に文學として之れを觀るも、眞に萬古の心胸を開拓するの概あり。況んや列聖の鴻業、祖宗の遺烈、悉く皆な此の中に含蓄せらるゝに於てをや。吾人は、帝國主義を古への羅馬人に求むるに及ばず、現今の英獨人に倣ふを要せず。苟くも之れを一讀せば、思ひ半ばに過ぎん。

 但し、誤解なきを望む。皇室中心主義は、皇室を中心とする主義なり。皇室を中心とするが故に、人民を無視するにあらず。皇室を畏くも宗家とし、之れを仰ぎ、之れを崇め、之れを本體とし、大和民族、悉く之れを簇擁(擧衆擁護)し、皇室の隆昌と與に民族の繁榮を期するが如く、日本中心主義も、日本を中心とするが故に、世界を無視するにあらず。凡そ世界のあらゆる長所・善所・美所は、八十綱打ち掛けて之れを我れに採用し、而して我が國光を、白雲の埀るゝ限り、青波の洗ふ極みまで、發揚せんとするに外ならず。苟くも然らざらんか、日本中心主義は、是れ夜郎自大主義なり。支那人の自ら中華を以て居り、他を夷狄視するものと、何ぞ擇ぶ所かある。

 惟ふに維新の大改革や、畢竟、内に皇室中心主義を宣明し、外に日本中心主義を實行するの端を啓きたるに過ぎず。我が陛下の御踐祚と同時に、屡々祖宗の宏謨なる大御言を宣らせ給ふは、蓋し陛下御統率の下に、嚮ふ所を知らしめ、由る所を示し給ふ聖慮たらざるなきを知らんや。吾人は、斯く忖度し奉るを以て、敢へて大なる咎なきを信ぜずんばあらず。

 皇室中心主義の歸著する所は、忠君なり。日本中心主義の歸著する所は、愛國なり。忠君愛國は、偶然に生ずるものにあらず。必ず其の淵源なかるべからず。吾人は、之れを一に祖宗の宏謨に溯りて求むるを以て、最も確實に且つ根據ある斷定と認む。而も此の忠君や、日本帝國を一家とし、皇室を家長として然るなり。此の愛國や、世界を大觀し、日本を其の原動力として然るなり、中心點として然るなり。



【參考/徳富蘇峯翁『あらゆる荊棘の道を辿つて、ヘトヽヽになつて、漸く行き着いた、皇室中心主義』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/8
 
 

皇民參宮の心得。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 3日(木)18時24分53秒
返信・引用 編集済
  ●『參宮の栞』(昭和六年三月・神宮司廳内神宮神部署刊)

○一般參拜者心得

一、參拜にあたつては、先づ心身を清淨にし、服裝を正しうして、お鳥居をくゞる樣に心がけねばなりません。

一、手水舍で口を滌ぎ手を淨めて、板垣御門に達しましたら、必ず帽子・外套を脱いで、適當の場所に置き、外玉垣御門前まで進んで拜禮をします。

一、宮域では、喫煙・痰唾・放歌・高聲を愼しみ、又た寫眞を撮る等のことは、すべて差控へられたい。‥‥

一、神宮では、一切、寄附の勸誘などは致さない事を、御承知置き下さい。

一、宮域内の取締りに關しては、すべて神宮衞士の指圖に從ひ、苟くも不敬亂雜に渉るやうな事の無い樣、御注意下さい。

○正式參拜の服裝心得

一、男子は正裝・通常禮服・通常服・制服・紋服羽織袴。
 * 通常服(フロツクコート)の場合、黒山高帽子は差支へなきも、靴は黒革製とす。制服とは、法令にて定められたる服裝をいひ、神佛各宗派管長は、其の教規宗制に依る服裝。
 * 學生は、其の學校の制服を認めらる。
 * 軍人は、武裝して正式參拜をなすを得ず。又た在郷軍人たる下士は、帶劍せざるものとす。

一、 女子は、通常服(袿袴、又はブイヂツチングドレス)、若しくは白襟紋付(袴着用、差支へなし)、又は制服。
* 紋服着用の場合は、草履。但し靴は差支へなし。



【參拜の心得、竝びに荒木田神主『神拜式條』・正中】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/233
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/235
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/240
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1060
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1652
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/1



 愚案、御遷宮の佳節、今一度、神社參拜の本義に立ち戻りたい。昨今、寫眞機や携帶電話の普及に因つて、神宮に於いても、遠慮も無く、パチパチ音が鳴る。參拜は、物見遊山では無からうに‥‥。「宮域では、喫煙・痰唾・放歌・高聲を愼しみ、又た寫眞を撮る等のことは、すべて差控へられたい」と。たとひ寫眞撮影の御許可が下りたとしても、特に正殿正面からの撮影だけは、嚴に愼まれたい。蓋し神社の「正中(尊道・置道)」に關はる祕事に屬する重事、幾重にも御留意を乞ふ。

 今一つ、巷間よく聞く所の「神社に行く」とは、是れ如何。せめて「參る」ないし「詣づ」と申すことは出來ぬものか。不躾な報道のせゐか、無意識か、或は教育されてをらぬか知らないが、「苟くも不敬亂雜に渉るやうな事の無い樣」に。もろ肌だしての訪問、パワースポツトとか、靈磁場とか、彼とか此とか、些か五月蠅いぞ。「天地と共に改まるまじき常の典と、立て給ひ敷き給へる御法」(『神宮式年遷宮大御饌祝詞』)、「皇家第一の重事、神宮無雙の大營」(『遷宮例文』)なるぞ。それとも、我れ關せず焉か。外宮遷御の御儀の終はるまでは、沈默無言、獨り謹愼しようと控へて居たが、喧しく云ふ者もゐないやうなので、我慢ならず、敢へて言上げする次第なり。
 
 

奉祝・第六十二囘神宮式年遷宮──諄辭、其の十三。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月30日(月)23時20分12秒
返信・引用 編集済
  ●神宮『第五十九囘神宮式年遷宮(大御饌)祝詞』(昭和二十八年十月。[云々]は、外宮の祝詞。梅田義彦博士編『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊に所收)

 大御饌
  皇大神宮 (二日)
  豐受大神宮(五日)
   祝 詞

度會の宇治の五十鈴の川上[度會の山田が原]の、下津磐根に大宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、稱辭竟へ奉る。

掛けまくも畏き、天照坐皇大御神の大御前を愼敬(みゐやま)ひ[豐受大御神の大前に]、恐み恐みも白さく。

遠天皇(とほすめろぎ)の大御代より、天地と共に改まるまじき常の典(のり)と、立て給ひ敷き給へる御法(みのり)の隨に、御殿を二十年(はたとせ)に一度び、新しく造り仕へ奉らむ爲めの故に、天皇命の大命(おほみこと)以ちて、昭和の十まり六年四月、御杣山を定め奉り、大峡・小峡(をかひ)に生ひ立てる大木・小木を、本末打切り、中間(なから)を持ち參ゐ來て、天の御蔭・日の御蔭と隱り坐さむ、皇大御神[大御神]の瑞の御殿、清く美はしく造り仕へ奉り、御裝束(おむよそひ)・神寶捧げ奉りて、遷御(みうつし)の神事(かむわざ)仕へ奉りき。

故れ御壽ぎの壽詞(よごと)、稱へ奉らくと、職・○○○○を、大御使と爲て、うづの大幣帛、奉出(たてまだ)し給ふに依りて、朝日の豐榮登りに、持ち齋(ゆ)まはり持ち清まはりて、大御饌供へ奉る状を、平らけく安らけく聞し食して、高く尊き大御光を、彌や益々に伊照り輝かしめ給ひて、天皇命の大御壽(おほみいのち)を手長の大御壽と、湯津磐村の如く、常磐に堅磐に齋ひ奉り給ひ、崇敬者等(まめびとら)の上は白さくも更なり、天の下、萬の國の諸人に至るまで、直く正しき誠の道に教へ導き給ひ、夜の守り・日の守りに、護り惠み幸はへ給ひて、作り食ぶる五穀(たなつもの)を始めて、作りと作る種々の物を、豐かにむくさかに成し幸はへ給へと、恐み恐みも申す。



【參看・神宮參宮の拜詞】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1824



 愚案、昭和四年十月に於ける第五十八囘神宮式年遷宮の祝詞には、其の結句「常磐に堅磐に齋ひ奉り、茂し御代に幸へ賜ひ、生れ坐さむ皇子等をも惠み賜ひ、百官人等、天の下、四方の國の公民(おほみたから)に至るまで、長く平らけく護り惠み幸はへ賜ひ」とあり、之と比べて些か繁簡あるも、戰前・戰後、殆んど同じ壽詞である。即ち「天の下、萬の國の諸人に至るまで、直く正しき誠の道に教へ導き給ひ、夜の守り・日の守りに、護り惠み幸はへ給」はむことを懇祷して、世界皇化を期されてをられるのであり、其の稱辭を奉らせ給ふは、皇御孫命に大坐しますこと、勿論である。誠に忝く有り難き極み、尊く畏き極みと謂はねばならぬ。皇國の御民は固より、四方の蕃民に至るまで、心して謹聽感泣するがよい。

 本日、『不二』九月號拜戴。劈頭に影山正治翁の哥(「壬子元旦」)あり、謹みて掲げさせて戴く。

伊勢神宮 おんたてかへの ときせまる 擧國のともら 眉あげて起て
 
 

「中今」こそ、天壤無窮の表現なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月21日(土)00時20分1秒
返信・引用 編集済
  ■『續日本紀』卷第二・文武天皇即位の詔(元年八月十七日。「中今」の出典は、他に卷第四・和銅改元の詔、卷第九・神龜元年五月・聖武天皇即位の宣命、卷十七・天平勝寶元年四月一日の宣命)

高天原に事始めて、遠天皇祖(とほすめろぎ)の御世(みよゝゝ)、中今(なかいま)に至るまでに、天皇が御子のあ(生)れ坐さむ彌や繼々に、大八嶋國知らさむ次(つぎて)と、天つ神の御子隨(なが)らも、天に坐す神の依さし奉り隨(まにま)に、聞こし看し來る、此の天津日嗣、高御座の業と、現御神と、大八嶋國知ろしめす、倭根子天皇命の授け賜ひ負(おほ)せ賜ふ、貴き高き廣き厚き大命を受け賜はり恐み坐して、此の食す國天の下を調(とゝの)へ賜ひ平げ賜ひ、天の下の公民を惠み賜ひ撫で賜はむとなも、隨神らも思ほしめさくと、詔る。



 從三位勳二等・愛宕神社名譽宮司・神宮皇學舘大學學長・山田孝雄博士の曰く、

「中今とは何ぞ。現實の世界をば觀じて、「中」にありとなす。「中」とは何ぞ。之を歴史的に見れば、悠久の過去と永遠の未來とを連絡せる中心點なり。之を道徳的にみれば、人世を發展の中途にありとし、過去を顧みて徒らに悲しまず、將來を夢みて漫りに放浪せざる、穩健なる思想を含む。中今と觀ずるが故に進歩に努力す、中今と觀ずるが故に滿足せず、中今と觀ずるが故に失望せず、中今と觀ずるが故に志氣旺盛にして、活動、これによりて生ず。中今の人生觀は、進歩的なり、現世的なり、實際的なり、改善的なり、向上主義なり、發展主義なり、小成に安んぜざるなり、理想を將來にかくるなり」

との覺書を有するも、其の出典を知らず(明治四十三年の小册子の由)、博士の「中今」發見は、或は『大日本國體概論』に出づと云ふが、之も有する所に非ざれば、別に小倉鏗爾翁『國體神祇辭典』(昭和十五年十月・錦正社刊)より、博士の所説を引きて、之を示さむ。ともあれ、生成化育、「中今」彌榮の大精神を以て、現實の經營努力を尊ぶは、神道の眼目とする所なる可し矣。因みに葵園賀茂百樹靖國神社宮司の別號「中今亭」は、蓋し此に出づるならむ。而して小生が關防印は、此の「中今」を用ゐたり。



●山田孝雄博士『國體の本義』に曰く、

「抑も『中今』といふ語を考ふるに、これには『今』といふ觀念と『中』といふ觀念とありて、さてその二者の統合によりて、その『今』を『中』と觀ずるものたるや明かなり。而してその『今』といふ語は、如何なる觀念をあらはすかといふに、これは時間上の概念としての現今をさす語たること明かなり。而してその時間といふものは、過去より現在に、現在より未來にわたる一延長をなせるものたることは明かにして、その時間の一部分たる現在をば、『今』といへることは明白なることなり。

 次に『中』といふ觀念は如何といふに、『中』といふ語は、相對的の觀念をあらはすものにして、この『中』といふ觀念は、必ずそれに對して相反する二方面を考へざるべからざるなり。たとへば空間的にいへば、前・後・中とか、上・中・下とか、左・右・中といふが如し。時間にいへば、以前と以後との中間といふ觀念なくば考へられず、いはれざる語たるや明かなり。

 而してこの『今』といふ語と『中』といふ語を結びつけたるものを考ふるに、『今』は時間についての現在をさせる語にして、これを『中』といふ語を用ゐて、それを制限せる以上、その『中』といふ語は、時間の上に用ゐられたるものなるはいふをまたず。然る時に、時間は一延長のみのものなれば、その『中今』といふ語は、『現今』といふものを以て、その時間そのものゝ『中』なりと觀ずるものたるや明かなり。さればこれは、この『今』は以前即ち過去と、以後即ち未來との中なりと觀じたるものといふべきなり。而してこれは、現在の世を『中』なりと觀ずる思想をあらはしたるものにして、即ち現在を以て過去より將來にわたる永遠の時の中間なりとするものたること明かなり。

 なほ又た中今の世といふ、その『よ』といふ語も、この思想の存することを證するものなり。『よ』といふ語は、竹にて節と節との間をいふ意に用ゐたるものが、最も具體的に簡單に、その本義を示すものといふべく、これを今も人生について『よ』といへるは、人が生るといふ節より死ぬといふ節までの中間をいふものなりと知られたり。こゝには個人の生命の存する間を『よ』といひ、それは永遠の生命のうちの節間なりと見たるものなること明かなり。かくの如くなれば、この思想は、古今に通じて存すといふべし。即ちこの『中今』といふ語は、過去を離れての現在なく、現在を離れての將來なく、過去及び將來を考へざるの現在なしといふ精神を、一言にして明かにしたる至大の金言なりといふべし。

 吾、かつていさゝか西洋の哲學を研究して、現在といふことの説明を見て、豁然として悟るところあり。以てわが『中今』の義を解するに重大の關係あるを知るに至りて、深くわが國語の周到精密なる思想を含めるに驚きたり。現在とは何か。時の實在點なり。時は實に現在といふ一點によりて、實有のものたるを證明せらるゝものにして、過去も將來も、この現在といふ支點を基として、始めて了解せらるゝものなり。古、虚無の論をなしたるものあり。曰はく、「過去は、今や有るものにあらず、將來は、未だ有るものとならず。現在は過去と將來との境界たる一の點にすぎず。この故に現在は、實有にあらず」といふなり。實に過去と將來とが、實有のものにあらずして、しかして現在が、それら實有にあらぬものゝ、たゞの境界點にすぎずとせば、これ現在は、實有のものにあらずともいはるべし。かくの如くにして多くの懷疑説は、これより起り、多くの虚無論も、これを出發點とせり。

 されど、これは誤なり。過去とは何か。一旦、現在たりしことありしものなり。將來とは何か。いつか、現在となりて來ることあるべしとの義なり。而してこの過去も現在も將來も、たゞ無限の延長をなせる『時』といふものゝ、或る點につきて名づけたるものにすぎず。然らば、時とは何か。獨逸の哲學者キルヒマン、之を解して曰はく、「時とは、不斷の流なり。而して時は、現在といふ一點のみが實有のものにして、この現在といふ一點が、それ自身にて流るゝ爲に、過去より將來に亙れる線状を呈するに至る」といへり。時の實在性は、現在といふ一點を以て支持せらるゝこと、かくの如く明かなり。

 かくの如く見るときは、現在といふものは、時といふものゝ上に於ては、絶對的の價値ありといふべきにあらずや。而してこれ、實にわが『中今』の思想を、恰も哲學的に解釋したるが如き觀あるは、頗る驚くべき事なりとす。西洋の哲學史を見るに、現在とは如何なるものかといふことを哲學的に説明することは、古代の希臘以來、何人も完全に解釋し能はざりしものにして、それが爲に、上述の如き懷疑思想・虚無思想の跋扈せしなりき。然るに六十年許り前に、獨逸のキルヒマン出で、前述の如き解釋を下して、はじめて『時』の哲學的説明を得たるものなり。而してこれ即ち『中今』の思想の、時間的方面の哲學上の根據を示す用に供せらるべきものなるが、この偉大なる思想は、わが國語として、一千二百年の昔に、既に言明せられてあることと、西洋の哲學者が、その二千年間も解釋に苦しみ來りしこととを對比するときは、吾人は、わが民族思想の偉大なることを思ひ、この國語の偉大なる所以の偶然ならざるを惟ふものなり」と。



●山田孝雄博士『國語と國民性』に曰く、

「古事記を繙くと、その最初に書きあげられてゐるのは、天御中主神である。この神の御名の主眼點は、『中』である。この『なか』といふことが、わが古典の最初にあらはれてゐるといふことは、非常に深い意味があると思ふ。私は、この『中』といふことが、日本人の思想の中核であると思ふ。この『中』は、空間の中心であり、同時に時間の中である。天照大御神御出現の前に、伊弉諾尊が、日向の橘の小門の檍原で禊を遊ばされた時には、『上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し』と仰せられて、中瀬に下り潛(かづ)きて禊を遊ばされた。禊をする時に、中瀬に下りることは、古典に屡々見る所である。これは空間の上の中を尊ぶ思想のあらはれであることは、疑ふべくもない。

 更に續日本紀に至れば、文武天皇御即位の宣命をはじめ、多くの宣命に、『中今に至るまでに』といふ御詞が見ゆる。これは、時間の本質が現在といふ點に存し、それが無限の流れをなすといふ眞理の表現であると共に、天壤無窮の皇運といふことの思想の裏打する所のあると共に、わが國民性の中核が、努力的・改善的無窮の生命に存することを示すものであると思ふが、なほそれと共に、この中を最も重く見る國民性は、極端なることを好まないといふ思想を示すものである。

 國語の『中』といふ語は、或る點は、支那の「中庸」といふ觀念に似てゐるやうであるけれど、質は違ふのである。かの『中瀬』と仰せられた場合の『中』といふのは、適當なといふ意をあらはしたものである。人は、往々中なるが故に適當だといふけれども、それは本末をとりちがへたいひ方である。わが國語で、かやうな場合にいふ『中』は、適當なといふ意味でいふのである。たとへば『加減のよい』といふのが、浴場の中である。過不及の中間が『なか』なのでなくて、『なか』でない場合が、過か不及かになるのである。かくしてこの『中』を貴ぶ思想は、いづれの方面から見ても、國民性の中核をなすものである」と。



●山田孝雄博士(紀平正美博士『國體の眞意義』に所引)の曰く、

「自分は、從來多くの國體に關しての議論を聞いて居るが、何れもぴつたりと自分の頭へ來るものはない。‥‥若し國體なるものが本當に存在するならば、それは我々の國語の上に、其の儘ま現れて居らなくてはならない。さうした語が何處に在るかと捜して居たのであるが、茲に十數年、やつとそれを見出したのが、文武天皇の即位の宣命の中にある『中今』といふ語である。この中今の精神こそ、日本の國體を明瞭に現したものである。‥‥此の『中今』と云ふことを、私の專門の論理の上から見ると、更に意義のあることである。只今の御世といふべき場合に、『中今』と書いた精神こそ、天皇の御即位といふ如き重大な場合に出た思想として、誠に愉快なるものと考へられるのである」と。



山田孝雄博士『國體の本義解説叢書・肇國の精神』(文部省教學局編纂・昭和十三年八月・内閣印刷局刊)に曰く、

「中といふことは、如何なる意味を有するか。これを單に平面的に見れば、圖形の中點をさすこととなるが、平面そのものは實在でないから、立體の中心をさすことにならうが、それもたゞ空間に止まるものであつてはならぬ。精神を有し、生命を有するものは、空間の中などに止まるもので無い。こゝに時間の上の中があらはれなければならぬ。その中は、空間的の中でありながら、そのまゝ時間の上の中であるべき筈である。天之御中主神の『中』は、即ちこの中である。この中は宇宙、即ち空間と時間とを具象したものゝ中である。かくしてその中は、
無始無終であらうが、それは靜的に無始無終なものではない。靜的に見れば、空間的の中と思はるゝものが、時間の上に無限に展開して息まない中である。かやうな『中』が、即ち天之御中主神の中であらねばならぬ。かやうに考へてくれば、天之御中主神は、即ち天壤無窮そのものを表はしたものと云へるであらう。‥‥

 『中今』といふ語は、現在を過去と未來との中と觀ずるものであるが、これは時そのものを永遠の存在と觀ずる思想が根柢をなしてゐて、しかも時間の現實性を、『今』によりて認むる思想である。即ちこれは永遠そのものを閾下に有しつゝ、現在を現してゐる語である。かくして今を中と觀じて、永遠の過去と永遠の未來との存在を同時に肯定してゐる思想をあらはしてゐる。抑々無窮と云ふことを、時間的連續に於てのみ抽象的に考へるのは、我が天壤無窮といふ言葉を以て表はされてゐる意味とは異なるところがある。中今の『今』は、その中(うち)に永遠を含む。『中今』の今は、過去を含み、未來を含む。否、過去から生まれて、未來を孕むところの中である。中今が在つて、はじめて過去の存在が實證せらるゝのである。中今が在つて、はじめて未來そのものが生ずるのである。過去といふことは、單に觀念だけとして見ても、現在を基礎にしなければ考へられぬ觀念である。未來といふことも、亦た單に觀念だけとして見ても、現在を基礎にしなければ考へられぬ觀念である。しかもその今を中今と觀ずる時に、その今は、必ず過去から生まれて來た今であり、未來を必ず生ずる今であるといふことが明らかになる。こゝに於て『中今』は、永遠そのものゝ認識を、確かに示す實在點であるといはねばならぬ。この『中今』こそは、天壤無窮といふことの思想的原理であらねばならぬ。かくて神國の自覺を有し、血族的一團に基づく愛を力の源とする一の精神が、この中今の思想によつて、一歩々々現實性を確保しつゝ、展開して進んで行く。これが天壤無窮の寶祚、萬世一系の皇統の永遠である原理である。

 『中今』が血族的にあらはれたのが、現實の親子の關係とその親子の間の愛である。その中今たる親子の關係が、現實として永遠に展開して行くことが、萬世一系の原理である。その中今たる親子の間の愛が、永遠にその力を發揮しつゝ活動して行くことが、天壤無窮の生命の原理である。かくしてわが現在の天皇の大御心・大御業の中には、過去永遠からの皇祖皇宗の大御心が、活々として働き遊ばされ、過去永遠からの皇祖皇宗の大御業が、その結果をあらはさるゝのであり、又その大御心・大御業の中に、わが國の無限の將來が生きてゐるのである。臣民に於ても同樣であつて、我等臣民の祖先は、我等の今の心・今の活動の中に活きてゐるのであり、我等の今の心・今のしわざは、我等の子孫の心・我等の子孫のしわざを生むのである。かやうな意味に於て、この大日本帝國といふ國の肇國の大事實は、今、現にこの我が國に生きて働いてゐるのである。わが皇運が天壤無窮である所の意味は、實にこの昔も今も後々も一である所に、その根源を有してゐる。而してそれは實に『天つ神、諸々の命以ちて』の神慮の展開に外ならぬ。かくして億兆、心を一にして、天皇の大御業を翼贊し奉りつゝ、一日も息まぬところに、天壤無窮の皇運が展開しつゝ進むのである。まことにこの『中今』の精神あつてこそ、我が國が永遠の生命を有し、永遠に發展することも、深い根柢を得るのである。我が歴史は、永遠そのものが『今』といふ形に於てあらはるゝ所の展開であり、我が歴史の根柢には、いつもその永遠そのものが、不斷の生命を以て流れてゐる
」と。
 
 

靖國神社行幸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月15日(日)17時55分44秒
返信・引用 編集済
   あな、嬉しや哉。我が不快感を同じうする所の、碩學の文章を偶見、年來の溜飲を下ぐるを得たり。こゝに特記して、之を高く掲げて置きたい。其の違和感を同じうする御方には、今日よりは、直ちに之を改め、何事に於いても、一字一句に拘り、戰々恐々、些かも不敬に亙ること莫からむことを。懇祈々々‥‥。



●山田孝雄博士『國語と國民性』(『國語尊重の根本義』昭和十三年十一月・白水社刊に所收)に曰く、

「『菅原傳授手習鑑』に、「王は十善、神は九善」といふ諺がある。これはもとより佛教で、十善の王位といふことに基づいて言つた話であるけれど、さやうな佛教思想には、少しも累せられてゐないものであつて、神よりも國王が上にましますといふ思想をあらはしたもので、『世話盡』に、「神より君」とも云ふ如く、わが天皇は、現人神でましますのみならず、普通の神々よりも上位にましますといふ思想のあらはれであつて、わがすめらみことの御地位をよくあらはしてゐるものである。近頃、新聞などに、往々、「某神社に御參拜遊ばされた」などいふことを書くものを見受けるが、古から御在位の天皇の「神社御參拜」といふ語は、かつて聞かない。たとへば「賀茂行幸」・「石清水行幸」などと申し上げたものであつた。近頃は西洋語などにかぶれて、かやうな國語の正しい意義や用法を心得ないものが見えるやうになつて、神聖をけがし奉るかの如き嫌ひあることの、往々耳目に觸れるのは、甚だ遺憾とする所である」と。



 愚案、「參拜(參詣して拜禮)」にしろ、「親拜(親から拜禮)」にしろ、共に一般名詞、全く敬語を含まず。而して何でも「御」をつけ、敬意を表したりと、獨り安心すること勿れ。皇室に對し奉つては、皇室に對し奉るの敬語あり。況んや天子樣に關はる御事に於いてをや。先人の教へ、一字一句、決して忽せにす可からず矣。
 
 

「九段塾」開板五周年を迎へて。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月12日(木)18時37分14秒
返信・引用 編集済
   本日、「九段塾」開板以來、こゝに滿五年を迎へ、洵に感慨無量なるものがございます。玉稿を賜ひし御方はじめ、大方(たいはう)のご閲覽各位には、謹みて御禮申し上げます。

 塾頭・金城福井忠翁、逝いて既に滿三年餘、懸命に書き繼いで參りましたものゝ、力及ばず、各位には、ご不滿もあられませうが、何卒、御許し賜はらむことを、切に懇祷申し上げます。

 「夫れ皇國の尊嚴なる所以は、開闢以來、幾千年、上下、相信じて、君民和樂し、父子、相親しんで、代々、志を傳へ、内に絶えて革命の亂逆を見ず、一朝、外に事あれば、忠勇、無敵なりしに因る。これ固より神威の尊く、君徳の高きに依ると雖も、抑も亦た先哲、道を弘め、教を布くの深きが致す所なり。然るに輓近、人心浮薄にして、邪説横行し、國勢陵夷して、遂に未曾有の大難を招くに至れり」とは、平泉澄先生の述懷にして、所謂る戰後てふ時代、保守とよばれる大方(おほかた)の人は、先哲の教へを顧みること無く、其の軸足は泰西の思想下に在つて、我が皇國は、益々混迷の度を深めつゝあります。

 其の中に在つて、九段塾の塾頭の出現は、思想の正邪と峻別に、大なる鐵鎚を下して、我々の、己の據つて立つ位置を省み、覺醒堅固にする契機になつたのであります。「保守の敵は、保守なり」とは、松平永芳宮司の箴訓、憂國の言靈にして、流行保守の正體が、漸く白日顯然となつたかと恐察します。聖旨奉戴、國體明徴を叫ばざるを得ない趨勢、是れ即ち九段塾の存して、未だ閉鎖に至らざる所以であります。

 「九段塾・塾頭」の雄叫び徹底せざるは、殘されし「靖國神社正統護持」者の罪にして、未だ靖國神社參拜を、「靖国参拝」と稱して憚らず、昭和殉難者を、「○級戦犯」と申して耻ぢず、參拜を以て集票、或は政治問題化せんと欲する政治家の絶えざる中今、塾頭不在の、名ばかりの「九段塾」でありますが、今後とも御見限りなきやう、有志諸賢には、ご鞭撻ご示教の程、只管ら乞ひ奉る次第であります。

 而して明日は、乃木靜堂將軍の歸幽日にして、塾頭「九段塾」臨在講義始めの日。嗚呼、塾頭には、再び臨板叱咤されるでありませうか。

 平成二十五年九月十二日、吉備中國御民・備中處士、恐惶恐懼、謹みて白す。



平泉澄博士『日本國民精神』(『日本精神講演集』所收)

「足利の外交と云ひますのは、丁度、支那の明の時でありますが、明に對する外交は、明に對して「臣」と稱する。さうして年號も、日本の年號を用ひないで、皆な支那の年號を使つて居ります。是は、それだけ聞くと、笑ひ事でありますが、實際は、今日も笑へた義理ではない。今日の我が國民は、大部分西暦を使つて居るから、餘り昔のことを笑へた義理ではないと思ひます。實際、今日の現状を見ても、慨歎に堪へない。どういふ年號を使ふかといふことは、是は非常に重大な問題であつて、其の國家觀念、其の歴史觀念の根本が、是で決まることであります。支那に於て、正朔を奉ずるといふことは、その暦を用ひ、其の年月日を用ひるといふことは、即ち之に服屬するといふことを意味するものであつて、今、我が國が一般に西暦を用ひるものゝ多いといふことは、今日の日本が、西洋思想に屈服して居ることの證據であります」と。
 
 
 

靖國神社は、悉く皇運扶翼の極致にして、君民一體の實現なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月11日(水)23時45分38秒
返信・引用
  ●今泉定助翁『國體原理』(日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』第三卷・昭和四十五年三月・同研究所刊に所收。小倉鏗爾翁『國體神祇辭典』昭和十五年十月・錦正社刊の「靖國神社」條にも引用)

靖國神社は、明治の初年、明治天皇の思召では、最初、宮中に御祭りにならうと遊ばされた趣である。處が側近の人々が、それでは誠に恐れ入つた事柄で、宮中に臣民の靈を御祭り遊ばされることは、何としても恐れ入る次第であるから、他に場所の御選定を冀ひ、外に御祭り遊ばすやうにと云ふことを、徳大寺侍從長や其の他の人々が、頻りに御懇願申し上げて、陛下も御聽濟みになり、それならば成る可く高燥な綺麗な場所を選ぶやうにと云ふ御沙汰で、今の九段の上に選定せられたものであると承つて居る。さうして靖國神社が出來て、今日は御承知の通り、十二萬何千の御祭神になつて、社格は別格官幣社である。人臣を祭つた神社は、皆な別格官幣社である。楠公でも、和氣公でも、又た織田氏・豐臣氏でも、皆な同樣である。

 何故、私が、靖國神社を君民一體の實現であると云ふかと云ふと、歴代の天皇が、神社に御參拜[小倉鏗爾翁の云く、「御參拜と申し上ぐるは適當でなく、行幸と申し上ぐべきであると思ひます」と]になることは、非常に重いことで、‥‥然るに靖國神社へは、明治天皇は七度も御參拜になつて居る。靖國神社の祭神は、立派な人もあるけれども、多くは兵士である。身分の低い人々が多數である。その身分の低い祭神に對して、明治天皇が七度までも、御自ら御參拜になり、大正天皇も、今上陛下も、例祭には御參拜になると云ふことは、他の神社に例のないことである。さう云ふ特例を、明治天皇が御開きになつたと云ふことは、どう云ふ譯であるか。

 靖國神社の祭神は、皆な悉く皇運扶翼の極致である。此の位ゐ徹底した皇運扶翼はない。それであるから、身分の低い人々が多數であるけれども、皇運扶翼の極致であると云ふ意味に於いて、明治天皇は、御自分と一體であると云ふ思召であつたのであらう。そこで幾度も御參拜になつたのであると拜察し奉る。

 君民一體と云ふ事は、誰でも云ふことであるが、唯だ机上の空論でなく、實現させねばならぬ。大臣も議員も、知事も市町村長も、富豪も一般国民も、君民一體と云ふことを觀念的の事柄のやうに思はずに、實現させねばならぬのである。理想と實行とを別々に考へるのは、相對觀である。理想と云ふことは實行の表現であり、実行は理想の一部分でなければならぬのである。理想と實行とは、二つではない。それを二つに見る所に、矛盾が起り、間違ひが生ずるのではないか。眞實に、義は君臣にして、情は父子の如し、と云ふ御言葉を實現せねばならぬのである」と。



 愚案、臣民にして、天子の靖國神社行幸を仰ぎ奉ると云ふことは、洵に畏れ多くして、臣民は固より、祭神にとつても、名譽道福、此の上なき御事であります。我々は、天皇陛下の行幸を、百年でも二百年でも、靜かに御待ち申し上げれば宜しい。小倉鏗爾翁の曰く、「(靖國神社)御參拜と申し上ぐるは適當でなく、行幸と申し上ぐべきであると思ひます」と。塾頭も、正しくは「行幸」なりと仰せでした。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/21
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/9
 
 

正學とは──皇學・日本學。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 8日(日)23時30分41秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●栗里栗田寛博士『天朝正學』(明治二十九年十二月・國光社刊)

 學問とは、世に文字ありて後、始めて之あるにあらず。天地開闢の始め、未だ文字あらざるの時、天祖あり、天神あり。天祖の行ふ所、天神の言ふ所のもの、萬民、從つて之に經由し、之に遵奉して違ふことなきを、道と云ひ教と曰ふ。是れ乃ち學也。天祖・天神ありて、而後に國家あり。國家ありて、而後に萬民あり。萬民、其の覆育の恩を蒙むるは、天祖・天神の賜もの也。故に天祖・天神は、國家の大本也、萬民の祖先也。天下の大なるも、國家より貴きはなく、萬民の衆きも、祖先より重きはなし。既に君民あり、父子あり。君令して臣從ひ、父命じて子順ふ。君は即ち天祖の皇裔にましゝゝて、萬古一系、かはらざるの天日嗣にませり。父は即ち天神の神胤にして、朱髯緑眼の非類に異なり。君に事へて節義を致し、忠誠を盡すときは、天下、爲めに感動し、祖に事へて祭祀を致し、敬禮を極むるときは、神明、其の祭を享く。神人、是に於て感應し、天地、是に於て和洽する者、之を道と云ひ教と云ふ。この道を行ひ、この教を言ひ、子孫繼承して倍(そむ)かざる、之を學と云ふ。大凡そ世に、詩歌文章を作爲し、講釋演説をなして、揚々自得し、時々機軸を出して、新奇の説を吐き、世を惑はし俗を玩び、權家に媚び當世に阿り、世と浮沈し時と推移し、博士と稱し學士と呼び、天下に衒ふ者を學問と思ふは、非也。 學とは、神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に倍かず、天業を恢弘し、皇運を翼贊するもの、是れ之を正學と謂ふ。請ふ、試みに之を述べん。

 夫れ天地剖判の始めに當りて、神聖あり。神々相傳へて、創業開物の事をなし、諾冉二尊に命じて、天下國土を經營せしむ。二神、已に天神の命を奉じ、國魂の神を生み、草木を繁殖し、河海物産の事を明かにし、國土の疆域を定め、各々其の國民を治めしむ。是に於てか乎、三貴子を生みて、天下の君を定め、以て君臣の分を明かにし給へり。

 二尊經畫する所の天下は、天神授くる所の天下にして、他人民の私にす可き所にあらず。天神の授くる所の天下を以て、之を經畫し之を平定し、以て天下の君とますべき天照大神に授け奉れるにて、天下の地、一民も天子の民にあらざるなく、尺土も天子の有にあらざるなきは、彼の西洋諸國、白黒人種の水草を逐うて、移住結合して國をなすものとは、もとより異なること、顯然たり。世人、或は此の義を明かにせず、一個人の主義を立て、自由を唱へ、民權を主張するを、無上の大義と心得、自國の國體をば打忘れて、彼の外國の事を模範とし、稱するに文明以てし、自ら居るに半開野蠻を以てするは、是れ君父の國を輕蔑するもの、もとより學問の主意を失へる者なり。

 學問の主意とは、神聖彝訓を奉じて、天地の大道に倍かざるを云ふ。神聖の彜訓とは、君臣の大義なり、父子の至親なり、祖先の祭祀なり。天照大神、五穀の種を獲て、敕して曰く、「此の物や、顯見蒼生(うつしきあをひとくさ)、食ひて活くべき也」と、かの生民を愛するの情、靄然として言外に溢る。其の君徳の大なるや、知るべし。天祖の天窟に隱るゝや、百神奔走して、各々其の誠敬を致し、幣物を供す。人臣の禮、明かなり。其の皇孫をして下土を治めしむるや、群臣に敕して、皇孫を輔翼すること、天上の儀の如くならしむ。君臣の義、儼乎として正しきを見るべし。天智帝の蘇我氏に令するに、「開闢以來、君臣、始めより有り」と云ふものは、之が爲めなり[かゝる道理あることを知らずして、自由の説を唱ふる者は、政府の干渉を慊しとせず、民權を唱ふる者は、上に抗するを旨とするに至る。是れ、大いに學問の主意を失へるものなり]。

 天祖の、神器を皇孫に授くるや、敕して曰く、「汝、此の寶鏡を視ること、朕を視るが如く、以て齋鏡とせよ」と。齋鏡は、即ち天祖の神體をうつしたまへる所のもの、皇孫は、即ち其の神胤にましませり。神胤を以て、其の寶鏡を視る、其のうつる所の玉體は、即ち天祖の遺體なり。天祖の遺體を以て、天神の神器を奉ず。父子の親、一系綿々、萬古、絶えることなし[たゞ朝廷、萬古一系、父子の血脉を傳へ給ふのみにあらず、下、萬民の賤しきに至るまで、何れも天神の裔・地祇の冑にあらざるもの有ることなし。君臣共に天地を窮めて、萬世血脉を保ち、一種族相うけて、他血屬の、之を間するものなし。豈に萬國、無上無比の至尊至貴なる神明の國ならずや。然るを外國學をする者、輙もすれば則ち曰く、「君臣の大義は、野蠻蒙昧の俗なり」と。何ぞ不遜無禮、大體を知らざるの甚だしきや。かゝる學者をして、舌を鼓し辯を弄せしめ、默々して世に視息するは、日本人民、朝廷に敬事するの大道に背き、學問の道理に違ふものなり]。

 又た天祖の、皇孫を筑紫に降し給ふや、高皇産靈尊、敕して曰く、「吾は、天津神籬・天津磐境を起樹(たて)て、吾が孫の爲めに奉齋せん。汝、天兒屋命・太玉命、宜しく天津神籬を持て、葦原の中國に降つて、皇孫の爲めに奉齋せよ」と云つて、二神を陪從せしむ。又た敕して曰く、「吾、高天原に所御齋庭(きこすゆには)の穗(いなほ)を以て、我が兒に御せ奉るべし」と云へり。この神籬は、神社なり。磐境は、疆域なり。神社を設けて、天祖・天神の恩に報い、其の國土に生ずる所の衣食の物を以て、祭禮を致せとの御事なり。祖先に敬事するの道、是に於て盡せりと謂ふべし。

 神武天皇の東征、天下を平定し給ふに當つて、先づ第一に主として、皇祖・天神を鳥見山中に祀りて、大孝を申べ給へるは、天祖・天神の天敕に從ふなり。崇神天皇の、神祇を崇敬して、同殿共床を畏み給へるは、祖宗の神敕と異なるが如くなれども、其の孝敬の心、惻怛の情、實に同殿にますに忍びざることあるに起れり。神敕と異なるが如くにして、神敕を奉遵するの道なり。景行天皇の、威風を耀かして、東西を征伐し給ひ、成務天皇の、山河を疆ひし邑里を定め、國造・縣主を置き、以て皇化を扇ぐもの、亦た祖宗の神慮に本づけり。是れ皆な未だ文學あらざるときに、神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に順ひ給ひしもの、此の如し。是れ、天朝の正學なり。我れ故に曰く、學問とは、文字ありて、始めて之あるにあらず。未だ文字あらざるの時より、天祖・天神の、皇基を建て、日本國民をして遵行せしめしもの、之を學と云ふ。此の故に諾冉二神は、よく天神の道を遵奉し、國土を經營せり。大己貴命は、素戔鳴尊の命を守つて、よく大國主の大業を致せり。經津主・武甕槌命は、天祖の敕を以て、天下の邪徒を掃蕩し、皇威を八洲の内に輝かせり。神武・崇神・景行・成務・神功は、天祖・天神の大道を恢弘して、大いに稜威を海外に施し給へり。是れ之を學と云ひ、是れ之を道と云ふ、是れ之を大和魂と云ふ。この神聖の彜訓を奉じて、世界萬國に及ぼすに非ずんば、日本の民と云ふべからず、日本の學と云ふべからず。日本の道に叶ひがたく、君臣の大義に背き、大和魂に違ふものぞ。然らば此の心なくして、學問をなし、詩をよくし文を作りたりとも、忠心義膽なければ、其の詩は、戲作者の小説を作るが如きものゝみ耳、伊勢物語・源氏物語のあとなし言のみ。安んぞ人をして感動せしむることを得ん。感ずる人ありとも、之を眞と思ふ愚惑の徒のみ、言ふに足る可からず。たとひよく演説をなし講義をなし、其の儀容は見るべきが如きも、亦た冠玉の如くならんのみ耳、所謂る俗儒曲學、阿世の徒のみ耳、忠臣を誹謗し、義士を排却し、得々揚々たるの類のみ耳。もとより君子儒者の流には齒ひすべきにあらず。然るに世には、かゝるたぐひを以て、學問の正理を得たるものと思ふは、甚だしきあやまりなり。思ひ惑ふこと勿れ。是の如きものは、決して天朝の正學とは云ひがたきものぞかし。‥‥

 應神天皇の御世、漢土の學を弘め玉ひし後、國史・律令・格式等のめでたき書、多く出來つれど、未だよく神聖の彜訓を掲げて、天地の大道を論ぜし者あらず。其れ之れあるは、北畠准后の『神皇正統記』に始まる。准后、南北播遷の際、常陸に流離し、北軍、四方環攻するの時に當り、一旅の衆を以て、關の孤城に據り、義徒を糾合するも、時の盛衰と戰の勝敗を觀望する者衆く、其の困苦艱難、實に名状す可からざるものあり。而して准后、忠義の心、凛然として屈せず、確乎として撓まず、僅かに王代記に據つて、正統記を著はし、神器の嚴、犯す可からず、皇統の尊、干す可からざるの理を明かにす。正氣の磅□[石+薄]、萬古磨滅せざる者あり。是れ眞に天朝の正學と謂ふべし。爾後三百二三十歳にして、源義公の如き、朝廷あることを知つて、自家あることを知らず、名分を正して、君臣の義を明かにし、天朝を尊崇して、亂賊を筆誅するの『大日本史』あり。‥‥みな神聖の彜訓を奉じて、天地の大道を明かにするに非ざるなし。北畠准后以後、始めて此の大著作あり。古人の、義公の學を稱して、天朝の正學と謂ふ。實に當れり。

 嗚呼、天地間の事物、取つて人世の用に供すべき者、兵也、刑也、禮也、樂也、天文地理也、山川草木禽獸也、文章畫圖・文字諸工藝・農商の業也、學に非ざる者なければ、洋の東西と國の遠近に論なく、其の科目を設けて之を文學に置き、人の好む所に隨つて之を學ばしめ、而して神聖の彜訓に照らして誤らず、天地の大道に準じて違はず、而して後に之を大小事物の上に施して干格すること無からしめば、天朝の正學、全く備はりて、善を盡し美を盡せるものと謂ふべき也。世人、或はこの義を知らず、神聖の大道を主張すれば、頑と云ひ、東洋の美をのぶれば、僻と云ひ、身は日本人なることを忘れて、心を歐米の風に迷溺し、宗教の中に陷沒して、殆んど萬古一系の天子と、天壤無窮の皇統あることを知らざるものあり。豈に慨歎せざることを得んや。‥‥



 愚案、「正學」とは、君臣の大義・父子の至親・祖先の祭祀の本源、開闢以來の神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に倍かず、天業を世界萬國に恢弘して、皇運を翼贊せんとする、天上將來の學問を謂ふなり。蓋し是れ、即ち平泉澄先生の祖述開展せられたる「皇學」に外ならず、何れの日か、天朝に採用宣布せられて、宇内に光輝せずんばあるべからざるなり。

【寒林平泉澄博士『皇學指要』】
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栗田栗里博士『祭禮私攷』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 7日(土)12時33分20秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●從四位勳四等・栗里栗田寛博士『祭禮私攷』(明治八年七月二十一日成稿。二十八年一月・皇典講究所刊。大正七年十一月・茨城縣神職會再刊。今ま其の綱文──本文のみを掲げ、大部なる考證・補註は、之を略させて戴いた。謂はゞ「祭禮私攷成文」十五段、即ち是なり。穗積陳重博士、之を携帶愛玩して、『祖先祭祀と日本法律』てふ講演・著述を成せりと云ふ)

[一]世に生きとし生ける人、誰か父母を敬まふ心なからむ。父母を敬ふ人にして、誰か又た先祖(とほつおや)を崇めざるものあらん。假初(かりそめ)にも父母を敬ひ、とほつ親を崇むる者、いかでかその靈祭(みたままつり)に情(こゝろ)を極め、誠を盡さゞらむや。その誠の情を盡すが、自然(おのづから)の天理(ことわり)なれば、神代の昔より、神魂(みたま)を祭る禮儀(ゐやわざ)もありけるにこそ。

[二]故れ伊弉冉尊の神を祭るに、菓(このみ)の時は菓を以て祭り、花の時は花もて祭り、又た鼓うち笛吹き幡旗(はた)たて竝(な)め、歌舞ひしつゝ祭る事もありしなるべし。

[三]凡て人の神魂は、尊き卑(みじか)き差別(けじめ)なく、天上(あめ)にも國土(くに)にも往來(ゆきかふ)ものにて、其の運用(はたらき)の異(あや)しく奇(くす)しき事、凡人(たゞひと)の得喩(えさと)るべきわざならねば、いにしへの樸實(すなほ)なりし御世には、特に社また祠を定めて、神とも神と齋ひ鎭めしものとみえたり。しか齋きかしづき奉らるゝにつきては、世にすぐれて健く雄々しき人の神魂は、いと神々しき威靈を顯はす事も、往々(をりゝゝ)聞ゆれば、天神・地祇(あまつかみ・くにつかみ)の神たちを崇むるは、いふもさらなり、人の子孫たらむもの、其の先祖・父母の神社、また奧つきをば、よく敬ひまつるべき事になむありける。

[四]こゝをもて朝廷(みかど)にも、皇太神宮、及(ま)た畏所を始め、世々の御陵には、馬及た種々の兵器を奉り、御即位(みよつぎ)を告げ、御病を祈り申し、或は海外(とつくに)の信物(くにつもの)を獻り、また禍亂(まがわざ)・御祟りある時には、使を遣(まだ)し、幣帛(みてぐら)を捧げて、恭しく仕へ奉らしめ、

[五]陵守・陵戸をも置きて、山陵を守らしめ、

[六]そのうへ、諸陵司といふをおきて、其の正(かみ)なる人には、陵靈(おほみたま)を和(なご)め祭り、荷前(のさきの)幣を奉る事をも掌らしめ給ひき。

[七]後に皇子また功ありし臣たちの墓を定めて、遠近の陵墓の制を始め、それゞゝの儀式なども、いとよく備れるを、

[八]淳和・仁明(天皇)の二御世、佛法を好み給へるをもて、さる禮制(みおきて)を停めさせ給ひつるより、やゝゝゝに山陵に御使を遣さるゝ事も衰へにたるは、あかぬわざなれど、

[九]古へより、墓に就いて神魂を祭るが、皇國風(みくにぶり)なる故に、下さまにも、其の遺風(なごり)、しかすがに絶え亡せずて、後の世までも、年の終(はて)に玉祭りすること聞こえ、其の供物には、弓弦葉(ゆづるは)をしき設(ま)けて、なにくれとなく備へ奉り、

[十]また氏々の祖神(おやがみ)を、そのほどゝゞに、二月・四月・十一月の三度に祭りて、氏神祭とも、庶人の宅神(やかつかみの)祭と云ふは、みな古への遺風なるを、

[十一]氏神とは、吾が遠つ祖神を申す稱(な)なる事を忘れて、産土の神の如く思ふめるは、いみじきあやまりなり。

[十二]大凡そ古へ人は、其の俗(ならはし)淳朴(すなほ)にして、祖を思ふ心深かりければ、吾が氏神に仕ふとしては、神殿(みあらか)を建て齋き祭れるも、家内(いへぬち)に神棚を構へて崇むるもありしなるべく、その祭式は、奧山の賢木(さかき)が枝に白(しを)が(香)つけ、木綿(ゆふ)とりしで、齋瓮(いはひべ)を齋ひ堀りすゑ、竹玉(たかたま)をしゞにぬき埀れ、荒稻・和稻・明衣・照衣・甘菜・辛菜・魚鳥の類まで、種々の味物(ためつもの)を、横山の如と、八取机に置き足らはして祭りたるものと見ゆれば、

[十三]今の世にありて、古への禮典(ゐやわざ)を行はむとするもの、毎日(ひごと)に先祖・父母の靈を拜み、又その忌日には、かならず其の墓所(おくつき)に詣でて、誠敬を盡し、

[十四]又た世々の靈を、とりすべて祭る時には、殊に忌み清まはり、家屋の穢れざる所に、神位(かみしろ)をませ奉り、五百玉串をたてゝ、神の御室と、すがゝゞしく齋ひ祭り、其の直會には、親戚(うからやから)打つどひ、神酒いたゞきつゝ、祖先の功業(いそしみ)を語らひ、我も人も、祖の名たゝじと、思ひ勵むべき事になもありける。

[十五]然はあれど、中世より以降、氏神祭する事も廢れて、先祖を齋くべきものとしも思ひたらず、先祖祭とては、たゞ年忌・追善など唱へて、佛舍(てら)にて素饌を備へ、僧徒等(ほうしども)に誦經せしむる事とのみ思ひあやまりてあり來しを、今しも朝廷の大御政、古へに立復り、絶えて久しき諸陵の幣帛をたて遣し給ふばかり、厚き御禮の世に行はるゝは、いとおむかしき事(わざ)に侍れば、下が下まで、其の御教化(みおもむけ)にしたがひて、我が祖先に誠敬を盡し、かりそめにも彼の異(け)しき教・邪(よこしま)なる説(こと)に惑はさるまじき事にこそは、あるべけれ。



●耻叟内藤彌太郎正直博士撰文『故文科大學教授・從四位勳四等・文学博士・栗田君墓碑銘』(水戸・六反田の六地藏寺境内に建立。大概は同上の茨城縣神職會版に據れり。なほ照沼好文翁『栗田寛博士と「繼往開來」の碑文』平成十四年三月・錦正社刊に詳し)

 大いなるかな哉、我が神州、國を肇むること、寶祚、天壤と窮まり無く、至隆、宇内に冠絶する者は、蓋し祖宗、立極埀訓の致す所ろ也。之を古史に稽へ、之を古禮に參ゆるに、歴歴として徴す可し。是れ、史の修めざる可からず、禮の講ぜざる可からざる所以ん也。

 我が栗里先生は、實に修史審禮を以て自に任じ、畢生、精(こゝろ)を此に竭せり。古史、因つて以て明かに、古禮、因つて以て存す。何ぞ其の功の偉なるや也。君、諱は寛、字は叔栗、通稱は利三郎、栗里と號す。栗田氏、其の先は、信濃の人、諏訪の神裔・神氏の後と云ふ。中ごろ亂離に遭ひ、常陸茨城郡六段田村に遷り、農を以て業と爲す。五世の祖・勝重、元祿中、水戸城東に轉居す。祖・諱は惟肖、考・諱は雅文、妣は中村氏、君は其の第三子也。天保六年九月庚子を以て生る。幼にして敏慧超倫。年十三、意を古典に用ゐ、夙に復古の志有り。乃ち『神器説』を著はす。年十七、詩を作りて、志を述ぶ。「何れの日か、三千歳を貫穿して、神州典章の虧けを補はん」の句有り。甞て慨然として人に謂ひて曰く、「吾が邦人にして、古典に通ぜずんば、何ぞ以て學者と稱するに足らん」と。是より學業、日に進み、志、史を修めて、以て國に報ずるに在り。

 時に豐田天功、修史の總裁爲り。君を薦めて、舘に入らしむ。年二十七、『國造本紀考』を作る。江戸の黒川春村(淺草庵)・鈴木重胤(橿廼家)等、極めて之を讚稱せり。君、又た「神祇志」を修むるに志有り。考究周悉、『神祇志料』を著はす。慶應二年、感ずる所ろ有り、『葬禮私考』を著はす。會々宮車晏駕、君、乃ち之を當路に上り、以て參稽に供す。古禮、因つて行はる。明治元年、藩公(節公・鑾山昭武)、意見を上つて、封建・郡縣の利害を論ず。一に君の議を用ふ。其の經世の略、以て見る可し。二年八月、書を藩公に上り、『大日本史』の「志表」を刊し、以て歴世未成の業を成さんと請ふ。公、乃ち委するに校訂の事を以てす。初め國史の「紀・傳」、既に成り、「志・表」、未だ備はらず。烈公、之を憂へ、天功に命じて之を修正せしむ。未だ竟らずして歿す。是に至つて君、專ら之に任じ、拮据校讐、四十年、一日の如く、「十志五表」、皆な完し焉。公、成るに隨つて、之を朝廷に上る。遺す所は「國郡志」及び「三表」、將に相踵いで上呈せんとすと云ふ。

 是より先、藩、廢す。君、教部の權大録に拜し、『特撰神名牒』を修む。十月一月、修史舘の掌記に遷り、何(いくばく)も亡(な)ふして辭し還る。十七年、再び元老院に徴せられ、古制度を考ふ。期畢りて罷む。二十三年、車駕、水戸に幸す。君、其の『神祇志料』を上つて、以て御覽に備ふ。既にして『教學の大詔』(教育敕語)降れり矣。君、感激已まず、『敕語述義』を作りて、其の義を發揚せり。初め侍講・元田永孚(東野)、君に就いて、教道の要を問ふ。君、爲めに『神聖寶訓廣義』を作つて、之に應ず。蓋し啓沃に資すと云ふ。二十五年、復た大學の教授を拜し、職に居ること八年、正五位に累進せり。一朝、疾を獲、事、聞す。文學博士を授け、高等官一等に陞り、從四位・勳四等に敍し、瑞寶章を錫ふ。尋いで卒す。實に明治三十二年一月二十五日也。享年六十有五。二十八日、敕使、第に臨んで賻を賜ふ。即日、柩を護して郷に還る。三十一日、六段田先塋の側らに葬る(六地藏寺境内)。四方聞く者、歎惜せざるは莫し焉。君、小澤氏を娶つて、子無し。兄・龜井直(有斐)の子・勤(晦屋。明治三十九年十二月二十六日、『大日本史』四凾全四百二卷を天堂に捧呈し、彰考舘史局を閉鎖す)を養つて、嗣と爲す。

 君、人と爲り、温雅厚重、行儀端正、言論、苟くもせず。識見高邁、學問淵博、著す所ろ一百部・五百餘卷、皆な明道經世の書也。昔、義公、深く皇室の式微を慨へ、國史を修め、禮典を緝め、以て興復の志を寓し、將に一世を振起せんと欲す。烈公繼述、大義、未だ達せずして薨ぜり。君、深く其の遺志を體し、旃(これ)に加ふるに昭代の休明に遭逢し、乃ち大いに憤を發し、至道を弘めて、以て聖猷を贊(たす)けんことを庶幾ふ。常に謂へらく、「祖宗、地を開き民を育し、以て區夏(天下)を肇造す。立極埀訓、固より萬國と異なれり矣」と。故に其の國體を論ずるときは、則ち必ず天祖の訓に原き、以て大順を建て、正名定分、最も僭越を戒む。政事を論ずるときは、則ち尊祖敬神を以て重しと爲し、風俗を厚ふし民心を正しふす。道義を論ずるときは、則ち忠孝を以て極と爲し、佐くるに仁義の教を以てし、然して後ち開智明物の學に及ぶ。苟くも長ずる所ろ有れば、遠西異方の言と雖も、肯へて遐棄せず。甞て曰く、「學問の要は、建國の大體を知るに在り。苟くも之に通ぜざるときは、則ち政治・學術、皆な其の本を失ふ。博く内外に渉り、旁(あまね)く古今に通ずと雖も、皆な我が用を爲すに足らざる也。抑も神道は即ち彝倫、帝訓は即ち人極、二揆有ること莫し」と。故に其の論述する所は、必ず世道に益し、治術を裨けて、而して已む。治亂盛衰の故、制度典章の詳、委曲辨明、□□[女+尾。詳述]千言、燦として掌を示すが如し。又た曰く、「尚古以來、祀る所の神祇は、咸な我が至尊、及び有功の群民、即ち亦た臣民の祖先也。其の徳、誼(はか)る可からず、其の恩、報いざる可からず。故に歴朝秩祀、以て民情に達し、以て國基を固ふす。是れ我が祀典の重き所以、彼の邪神姦鬼、天を誣ひ人を欺くの類に非ざる也」と。甞て西教(耶蘇伴天連)の國體を害するを歎じて曰く、「神州、忠孝を以て國を建つ。彼は則ち之に反すること、水火も啻ならず、其の深患大禍爲ること、豈に佛・老の比ならんや乎」と。深く憂ひ遠く慮ること、率ね此の如し。要は皇訓を奉じて、教化を敦ふし、國體に原きて、治本を立つるに在る也。其の少壯、郷閭に在る、國事、難多し。君、其の間に處して、公正、偏せず、君子・小人を審かにして、自ら分辨有り。是れ、一藩の事のみ已、必ずしも論列せず。

 君卒するの明年、嗣子・勤、余に墓上の文を爲(つく)らんことを謁ふ。余の君に於ける、其の交はり、尤も親し。義、辭す可からず。乃ち議論行事の略を敍し、以て其の萬一を述ぶ。會々前の征夷大將軍・徳川(慶喜)公、君の學業、國家に益することを嘉みし、「繼往開來」の四字を書して之を賜ふ。勤等、感泣の餘り、勒して碑額と爲す。

 又た銘を繋けて曰く。
神聖、極を立て、品物、咸な亨る。皇運、疆(きは)まり无く、時に止り、時に行く。
義公、熈を緝め、烈公、精を繼ぐ。神を敬ひ儒を崇め、倫を明かにし名を正す。
往を繼ぎ來を開く、君、實に生を畢ふ。發揚振發して、八紘を彌綸せり。

 明治三十六年一月二十五日、兄・龜井直、丹に書し(能筆たりし令兄の絶筆と云ふ)、男・勤、石を立て、矢須郁次郎、鐫る。
 
 

發見・公刊されざる、栗里栗田寛博士『古史』六卷。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 3日(火)19時03分18秒
返信・引用
  ~承前~

■美甘政和大人「絶筆遺詠」
しきしまの 大和ごころを みがきなば わが日の本の ひかりますらむ

■栗田栗里博士「遺詠」(──『遺言』に曰く、「神を敬ひ、皇室を尊び、大義を昭かにし、名分を正し、惟神の大道を奉じて、異端邪説を排し、以て天下人心を維持するを得ば、おのづから崇祖の道にもかなひ、國土は堅石常石の搖ぐことなく、萬世安んじ、我が常陸に降り鎭まり坐す、鹿島大神の御神慮にも添へ奉るべしと思惟す」と)
あまてらす 神の尊の みすゑなる 吾大君は 現人(あらひと)の神



 我が九段塾のスレツドには、「南雄」樣が、平田大壑先生『古史成文』を拜記して下さつてゐる。感謝に堪へない。有志には、此の機會に、是非とも『古史成文』を手に執つてもらひたい。
  ↓↓↓↓↓
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 先に平田大壑先生『古史』を嗣ぐ者であるとして、美甘政和大人『天地組織之原理』を紹介したが、更に栗里栗田寛博士『古史』あるを、特に述べておきたい。『古史』六卷の存在は、照沼好文翁『栗田寛の研究』(昭和四十九年十一月・錦正社刊)にて知る所、其の實物は公刊されたことも無く、幻の書と云つてよい。栗田家はじめ、其の探索博捜が求められる所である。學生時代に、山田孝雄博士が、栗田栗里博士を紹介された論文を拜見して、之に泪したが、今ではネツトにても拜讀することが出來る。山田博士が感動された「國語讀本の卷首の栗田先生『父子』といふ文章」にまつはる、いとも尊い逸話と共に、有志には、ご高覽を賜はらむことを。曰く、

「(栗田栗里博士は、明治)十二年一月には、『古史』二卷を脱稿せられた。‥‥『古史』六册、これは版になつてゐない。‥‥『古史』六卷がある。これは明かに平田先生の後繼者であることを物語つてゐる。その『古史』について、栗田先生の「著書目録」の初めに、前述の(令嗣)勤といふ方が説明してをられる文句がある。それを讀んでみると、「この書は、平田氏の『古史成文』に倣ひて、神武天皇より推古天皇までの事をしるせり。『記』・『紀』に載る所は云ふまでもなく、務めて件の史に洩れたる事實を、『風土記』また古記中より探集せるものなり」とある。これはどういふことかといふと、平田篤胤の『古史成文』――これは元來、『古史』といふものが本名である。成文といふのは本文といふ意味で、この古史に對して、平田篤胤先生が詳しく説明したのを『古史傳』といふので、この傳に對して、本文を古史成文といつたわけである。それで、平田先生の目録によると、『古史成文』は全部で十五卷、神代から推古天皇の御代までのことをも、古典の文を集成して綴るのが本旨であつたが、その刻成せられたのは神代の部だけであつて、その他は世に傳はらないのである。恐らく、平田先生も、それを書かれずに終られたのではないかと思ふ。ところが、その神武天皇以後の古史を書き繼いだ人が、栗田先生である。さういふ意味に於いて、栗田寛といふ人は、學問の系統は違ふけれども、平田の學問を繼承した人だと考へるのである。この點に於いて、平田篤胤に傾到してゐる人々は、また栗田先生に感謝もしなければならず、傾到もしなければならない。私が栗田先生に感謝してゐる點の著しい一として、そのことを申すのである」と。
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【山田孝雄博士『栗田寛のこと―――私の欽仰する近世人・その三』】
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【參考・栗里栗田寛博士】
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美甘政和大人『天地組織之原理』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 1日(日)12時40分33秒
返信・引用 編集済
   小生が一覽、感銘尊崇、措く能はざるの神書たる、美甘政和大人『天地組織之原理』の序を紹介拜記せんと欲す。殊に幽政主宰の大權を御分任せられたる大地官・大國主大神の御段(卷四)は、小生、夙に之を拜讀、感激、愈々深くして、愛藏、益々切なり。然れども茲には、「緒言」・「書目」のみ紹介して、謹みて筆を擱く可し矣。有志の士、更に進んで、全卷、繙覽熟讀せられむことを懇望すと云爾。
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●國幣中社中山神社宮司・從六位勳六等・權少教正(大社教大教正・贈一等教勳/美作國神典研究會主宰)・樂天翁旭香美甘與一郎源政和大人『天地組織之原理』(明治二十四年七月・神典研究會事務所刊。卷首には、嵯峨院寶庫藏の和氣清麿公眞筆「我獨慙天地。清滿呂書」題字、及び先哲平田大人染筆の和歌を掲げたり)の「緒言」

 夫れ人は、天地の間に生を禀け、天地の間に生活するものなり。故に政治に教法に、凡百の事、皆な天地造化の原理に法(のつと)らざるべからず。然るに其の天地の間に住する人として、此の天地は、開闢の始め、如何なる理由ありて、如何なる組織に成りたるものと云ふ大原理を發見せざる間は、假令ひ天文地理の學科によりて、今日の現象を見るの眼ありと雖も、未だ眞の文明を稱ふることは許すべからざるものなり。然れば何等の學科に就いて、これを求めんか。各國共に、多少、天地開闢の傳へ無きには非ざれ共、未だ道理に訴へて、全く信を措くべき説あるを聞かず。獨り吾が日本帝國は、開闢以來、萬世一系の皇位なるを以て、國體と共に、天地開闢より、神世の遺傳を存するもの、他各國の比に非ず。故に天地組織造化の原理を求めんと欲すれば、吾が太古の傳説を除き、他にこれを求むべきもの無し。

 然れば文化日新の今日、吾が神國して、最も講ずべきは、神典に非ずして何ぞや。偶々本居・平田兩先哲の説ありと雖も、先哲在世の昔日に在りては、本傳の講究、未だ創業の際、講じられたるものにして、本辭解釋の如きは盡されたりと雖も、大綱の眞理を論じられたるに至りては、其の説を改むるに非ざれば、適せざるもの無きに非ず。是れ吾が神典の世に行はれんと欲して、未だ盛んに行はれざる所以なり。政和、不肖なりと雖も、天地組織之原理を發見せんと欲して、神典の明文に隨ひ、道理に訴へて、これを講究し、天地分判の眞理は素より、地球海底内部の組織如何の原理、且つ太古の天象と現今の天象に、一大變革のありし理由を始めて、政治・道學、其の他萬物の因りて起る所の原則に至る迄、聊か發見したりと自信するものあるを以て、同學と他學とを論ぜず、遍く世の識者に質し、其の教を受けんが爲め、こゝに自家發見の説を擧げて、『天地組織之原理』五卷・附録壹卷を著はす。識者、幸ひに其の誤りを叱正して、益々眞理薀奧を窺ひ、内外人の別無く、之を信ずるに至らしめんことを、懇望の至りに堪へざるなり。

其の二。
 吾が大日本帝國をして、太古より神國と稱ふるは、凡そ日本の國土に生を禀けたる人として、知らざるもの有るべからず。然れば「何が故に、吾が國を神國なりと稱ふ」と問はゞ、何等のことを以て、これに答へんとするか。必ずや「太古神世にありて、神祇、此の國土を經營し玉ひ、天祖、皇孫に敕りして、降臨座さしめ玉ひし璽來、萬世一系の皇位にして、君臣共に、神世より連綿相承の國なるが故なり」と答ふるなるべし。然るに近時に至りては、時弊に流れ、其の神國たる所以を忘るゝもの多きが如し。これ、吾が國體に於て大害の兆なり。如何となれば、時流者、偶々吾が神典を一讀するも、其の意の解すべからざるを以て、匆卒、一言の下(もと)に論じて曰く、「吾が神典に、所謂る諾册兩神國生の傳は、全く上古、男女兩人、始めて吾が日本の國土を發見し、其の荒蕪の地を開拓したる經營の事業を、國生と云ひ傳へたるに過ぎず」と論じ、或は「兩神國生の傳は、國民を生むを云へるものなり」と説き、又た或は「神典なるものは、上古の小説にして、譬喩を以て作爲したるものにて、彼の俵藤太秀郷が蜈蚣山の昔噺に類するものなり」と評し、甚だしきに至りては、「神典なるものは、上古の英雄が、奇事を説きて神に託し、野蠻の民を治むるの具に用ひたる策略の書なり」と云ふに至る。

 前三者の如きは、太古の傳説を見るの具眼無きものとして、暫くこれを恕するも、英雄、愚民を治むるの具に用ひたる作爲なりと云ふに至りては、歴世天皇の御徳化に關するものにして、不倶戴天、赦すべからざる放言なり。斯くの如き妄説行はるゝ今日なるが故に、自ら神國の臣民たることを忘れ、終ひに其の心意を問へば、外人と異なること無きに至る。今にして此の弊を矯正せずんば、吾が一系正統の皇位は、日本の習慣なりとして、君臣の大義も、只に習慣と法律の上に存して、精神の上に存せざるに至らん。此の惡弊をして、漸々養生すれば、眼前に大害なきも、終ひには神世相承の國體に大害を及ぼし、如何ともすべからざるに至らん。恐れ愼みて此の弊をして、未だ盛んならざるの今日に挽囘せずんばあるべからず。其れこれを挽囘せんと欲するの道、他なし、吾が神代の遺傳を講究し、神典の何物たることを知らしむるにあり。余や、又た神國の臣民たるを以て、壯年の頃より、本居・平田兩先哲の遺教を奉じ、神代の遺傳を講じ、間々論ずべき所あるを以て、止むことを得ず、此の講述を成すに至りしなり。

其の三。
 曩に本居・平田兩先哲、『記(古事記傳)』・『史(古史傳)』兩傳の著述ありしによりて、余が如きも、聊か神典の眞理を窺ふ端緒を得たるは、全く先哲の賜ものなり。然るに兩先哲の説と雖も、未だ時運の熟せざる昔日にありて、神典の講究は、創業の際なるを以て、今日に至りては、天地組織の大原理に於ては、其の説を改めざるを得ざるものあり。故に余、これを徒弟に嘱して、自家の意見を筆記せしむ。記中、間々先哲の説に反するものありと雖も、忌憚する所無きは、先哲に對するに不遜の憚りはありと雖も、兩先哲の著書中、「後の人、よく考へ正してよ」と、幾囘か後學に依託し置かれたり。これ則ち先哲の遺言なれば、後學の徒は、必ず此の遺言に對する勉めなかるべからず。然るに後學者、多くは先哲の舊説を墨守するを以て勤めとするが如き傾向あるにより、偶々神典を講ずるも、國學者流の名を以て、時流者に愚弄せらるゝに至る。これ、愚弄するものゝ罪にあらず、同學者、勉めざるの罪なり。神典の講究にして、天地の眞理に合する迄の確論あらば、時流者の信用は勿論、洋人と雖も、亦これを信ずるに至らん。

 故に吾が邦人は、相共に天地に貫く眞理を發見するに至る迄、此の傳を講究すべきなり。然ればたとひ先哲の説に反するも、其の不可とする所あらば、必ずこれを論究し、其の説を改むるを以て、先哲の遺志を繼ぐものと云ふべし。先哲の深意は、只に神典をして、後世、益々明かならしめんとするにありて、自家の説を立てんとせらるゝものに非ざることは、凡そ『記』・『史』兩傳を拜讀したる程の人に於ては、必ずこれを知らるゝならん。然れば後學者は、此の旨を體して、益々此の傳を講ぜざるべからず。余も亦た先哲の遺志を繼がんと欲するものなれば、自家の説を維持せんと欲するが如き野心あるに非ず。只だ神典の講究は、舊説を墨守するに止まらざるを示し、今の時に當りて、改正を加ふべきを忠告すると共に、余が一家説の叱正を乞はんとするの素志なれば、此の筆記を一讀あらん諸賢は、余が説の至らざるを補ひ玉はるは勿論、其の誤りを叱正して、益々神典の眞理薀奧を窺ひ、先哲、後人に依託せられたる遺言をして、空しくせざらしめんことを。

 然るに近時後世の風潮を察するに、神武天皇以後に於ては、御記の講究、大いに振起し、陸續、高論卓説を聞くことを得、雀躍の至りなりと雖も、神代のことに至りては、暫く措きて問はざるものゝ如く、偶々二三の説無きに非ざるも、或は言詞の細末を論じ、或は一二の考證を擧ぐるに過ぎざるもの多くして、天地組織の大綱に至りては、一向、先哲の説を墨守するに止まるものゝ如し。こゝに於てか、偶々兩先哲の後學に依託せられたる遺言、空しからんとす。慨歎の至りに耐へざるなり。見ずや、近時に至りては、洋人すら、吾が太古の傳説を拜讀し、これを評し、これに注解を加ふるにあらずや。今にして先哲の遺志を繼ぐにあらずんば、何を以てか、天地組織の眞理を明かにし、吾が國體の根據を確かめんや。これ、獨り同學者のみに放任すべきにあらず。凡そ日本臣民たるものに於ては、何等の學派を問はず、一日も此の傳を講ずることを、忽せにすべからざるものなり。

 夫れ菊花は千載のものとし、其の根の培養無くとも、凋枯の愁ひ無きものと云はんか。これを其の根を培養して、天壤無窮、年々歳々の盛花を見ると、何れぞ。然るに神代のことを措きて問はざるは、根を斷ちて國體を挿花たらしむるに異ならず。こゝに人あり、或は云はん、「神武天皇以後と雖も、三千年の久しき習慣あり。たとひ神世の事を講ぜざるも、國體に於て何かあらん」と。これ、深く思はざるの甚だしきものと云ふべし。習慣の久しきは、一時に變ずべからずと雖も、其の根を培養せずんば、終ひに或は凋枯を免るべからず。故に此の時に當りて、益々國體の根原を培養せずんばあるべからず。其れこれを培養せんと欲すれば、神代の傳を講ぜざるべからず。神代の傳にして、天地に貫く正論あらば、何ぞ國體の尊嚴を維持するに苦しむことかあらん。然るも尚これを等閑に付し、舊説を墨守するに止まるものとすれば、到底、時流理學の爲めに壓せられ、國體の起原、確からざるのみにあらず、吾が神道の後榮は望むべからざるに至らん。天地と共に開けて、萬世の今日に貫く大道は、獨り吾が神道あるのみ。其の大道を(「を」は、衍ならん歟)、吾が國に存する所以のものは、又た吾が神典あるが爲めなり。故に余、不肖を顧みず、其の眞理を發見せんと欲して、神世を五期に別ち、一家の意見を吐露して、識者の訂正を仰ぎ、併せて諸家の高論を喚起せんと企て、此の不遜の言を發する所以なり。幸ひに萬恕を乞ふ。

明治廿二年十二月、美甘政和、敬白。

○『天地組織之原理』を講述し、其の筆記を、先哲の神靈に奉るにつけて、政和。
教へ祖の 傳への書を しをりにて たづね入けり 奇しき神路に
八十國に 繼て弘めと をしへ置し 大人が言葉ぞ わすれかねつる



●『天地組織之原理』全五卷・附録壹卷・書目

卷之第一・開闢第一期・天地分判・物質凝固世記之部
卷之第二・開闢第二期・神祇彰呈・變化玄妙世記之部
卷之第三・開闢第三期・天地定位・種業興基世記之部
卷之第四・開闢第四期・造化大成・顯幽分政世記之部
卷之第五・開闢第五期・皇孫降臨・顯幽通婚世記之部
附録・幽中の玄妙を示すに、實踐の考證を擧げ、以て本説の參考に供す。
 
 

諄辭、其の十二──古學の正統・道統傳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月28日(水)19時18分43秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●本居宣長大人『縣居大人の御前に乞み申せる詞』(『鈴屋文集』上卷。梅田義彦博士編『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊にも所收)

さきゞゝ『萬葉集』に、いぶかしきくさゞゝかきつらねて、つぎゝゞにとひあきらめ、又宣長がつたなき心に、「おふけなく思ひえたる事どもをも、かつゞゝかきまじへて、よき・あしき、ことわり給へ」と、こひ申せるをぢゝゞ(條々)の中に、「いとよこさまにしひたることども、これかれまじれり。今より後、かくさまのことは、つゝしみてよ」と、深くいさめ給ふ、みことをかゞふりて、いともゝゝゝかしこみ、はぢ思ふが中に、かの『集』の卷のつぎゝゞ、かりこものみだれてあるを、淺茅原、つばらゝゞゝにわきため正し給へる、うしの御心にたがひて、これはたおのが思ほしきまにゝゝ、こと(異)さまにしも論ひさだめて、こゝろみに見せ奉りし事はしも、いま思へば、いとゐや(禮)なく、かしこきわざになも有ける。かれ(故)今のみの詞をさゝげて、「かしこまりまをすことを、たひらけくきこしめさへ。又うたがはしき事は、猶はらぬちにつちたくはひおきて、ひらく時をしまつべきものぞ」と、をしへ玉へる、まことに然(しか)はあれども、しかうたがひつゝのみあらむに、おろかなる心は、いつもはるく時あらまし。然るに今大人の、みさかりに上つ代の道をとなへます世に生れあひて、雲ばなれそきをる身は、御むしろのはしつかたにも、えさもらはぬものから、其人かずにはかずまへられ奉りて、心ばかりは、朝よひさらず、御許にゆきかひつゝ、百重山、かさなる道の長手はあれど、玉づさのたよりにつけては、とひ申す事どもを、いさゝかもかくさふことなく、菅の根の、ねもころにをしへ玉ひさとし給へば、しぬばしきいにしへの事は、ますみの鏡にむかへらむごとくに、たまちはふ神の御世まで、のこるくまなくもなも有ける。かゝるさきはひをしもえてしあれば、おろかなる心に、つもるうたがひは、おのづから開けむ世を、まつべきにしあらずと思へば、かつゞゝもおもひよれるすぢは、さらに心にのこすことなく、おもほしきまにゝゝまをし、こゝろみあげつらふになも。そが中には、しひ(誣)たるもひが(僻)めるも、おほかるべけれど、本よりすみぞめのくらき心には、それはたえしもわきまへ知らねば、よきもあしきも、たゞ明らけき大人のことわりを待ちてこそと、ひたぶるにうち頼みてなも。かれいまゆくさきも、なほさるふしのあらむには、しかおもほしなだらめて、罪おかしあやまてむをも、神直日の大直日に、見直し聞直したまへと、かしこみゝゝゝゝもまをす。



●水月服部義内源中庸翁『秋津彦美豆櫻根大人命の大御靈の大御前に申す詞』(本居宣長大人二十三年祭。平田篤胤大人『毀譽相半書──本教道統傳』上卷「箕田水月翁祝詞」。同上)

秋津彦美豆櫻根大人命の大御前(愚案、「大」字は、宜しく削くべし)に、源中庸、恐み恐みも今ま告げ奉る事あり。うまらに聞こし看せ。

秋津彦美豆櫻根大人命や、大人命、世に在(いま)しける時、中庸に教へ給へるは、

常に神代の御史(みふみ)を見て、神代の古事を好く考へ糾して、上つ代の道を、廣く深く釋き明かし道引き諭して、大八洲國、嶋の八十嶋の殘る曲(くま)なく押廣めて、くなたぶれ惡(きたな)き漢國の風(てぶり)、彌や穢しに穢したる佛の風等を、科戸の風の、天の八重雲を吹拂ふ事の如く、朝たの御霧・夕べの御霧を、朝風・夕風の吹拂ふ事の如く、禍津日神の相雜(あひまじこ)りし禍業は、悉に祓ひ清めて、皇神の大御教へに押戻して、天地と共に極み無き大御代を仰ぎ奉らむ事をし、朝宵に心に挂けて、勤め學ぶ可き

よし、御教への隨意(まにゝゝ)、いそしみ學びてむと思ひ給へ侍(さもら)ひしに、早くより殿の命の大命令を蒙りて、其の事に就きては、晝夜を別かず、紀道・伊勢道を駈け廻りて暇(いとまのひま)無く、徒らに過ぐしつる事は、二十餘年なりき。然かして享和元年九月十三日夜、藤垣内(本居大平翁の號)にて、月見の圓居(まどゐ)し給ふ歸(かへさ)に、中庸、伴なひ申しゝ道すがら申し侍ひしは、「此の秋より勤めの道、漸や暇ま有りぬ可く思ひ給へれば、歌詠み文章(ふみ)書く事をしも、聊か學び侍ひなむ」と申し侍りしに、大人命、宣り曰く、

「いな、歌詠み文章書く事は、汝しはせずとも有れな。兎に角に其の學び好く人こそあれ、如此て宗と立てつる古學(いにしへまなび)する人の、ふつに無きは、歎きても猶ほ歎かるゝ事にし有れば、先々も教へ掟てつる如く、汝しは、歌詠み文章書く事は心とめずて、神代の道を考へ勤めてよ。此は、此の學びに深く心止むる教へ子の無き所以(ゆゑ)、取り別きて諫む

と語り給ひき。如是て其の夜、家に歸り給ひて後、風の心地とて、假初めに病み給ふ樣にて、次第におもらせ給ひて、終ひに同じ月の廿九日と云ふ日に、御命失せ給ひぬ。

故れ中庸、倩々考へ思ふに、去ぬる十三日の夜に教へ給ひし御心は、必ず遺言し給ふにこそ有りつらめ。大人命の教へ子五百餘人、其の人・彼の人と、數へ以て見れど、風流(みやび)をのみ好きて歌詠み文章書く人は、春庭翁(後鈴屋)を始めて、其の他の諸國(くにゞゝ)にも一家(いへ)を張(な)す人、多なれど、神代の御史に心止めて、大人命の御心を續ぎて、古學を專らと爲る人は、徒だの一人も有らず也。皆な『古事記傳』にて、事、終(す)みたりと思へり。其を如何にと思ひ給ふるに、大人命の御詞に、「古への傳説(つたへ)は、一言一文字といへど、傳へ越し隨に才智(さかしら)を加へず、説き諭す可き」よしを教へ給へるを、惡しく僻が心得て、中庸が『三大考』を取用ひ給ひしを、藤垣内を始め、爭ひ止められしは、此を新しき説(つくりごと)とのみ心得て、古傳(いにしへのつたへ)より考へ出でたりと云ふ處に、心著く人無き故ゑ也。大人命の『三大考』を取揚げ給ひし所以由は、後の世に成りて、上つ代の道に心を寄せ、古學する人は、古傳を能く考へ糾して、猶ほ世に有りと有る所の書を、漢のにまれ天竺のにまれ、猶ほ其の先々の國のにまれ、史云(ち)ふ史は、有る限り探り見極めて、扨て皇國の神代の古き傳へに著きて考へ合せ、其の由・此の縁・種々の事共は、皆な吾が大御神の道にして、如此く證し有りて、違ふ事無きを正しとして、繼々に深く釋き諭しめ給はむとの御心しらびにぞ有りける。故れ其の本つ書には、古傳の隨々、違ふ可からずと教へ給へるに、『三大考』は、日を天とし月を黄泉とし、須佐之男命と月讀命を同じ神と定め申すなど、總て古傳に言はざれども、悉く古傳より考へ出でて、今の現に見る所の、天傳ふ日・久方の月、其れと指す由縁(ゆゑ)の有ればぞ、揚用ひ給ひたる也。神代の形成(ありさま)、神々の御名の由縁なども、如此く考へ以て往かば、遂には天地の神、相うづなひ、其の實に違はざる考への定まる時を待ち給はむ事を、思ひ計り給ふぞ有りける。

然か有れど此の學びは、倭魂を能く堅めて、外つ國の國の八十國・嶋の八十嶋、落つる隈無く、天の下に有りと有る國の書云ふ書等、悉く見極めて、且つ決斷(ことわり)の智り大きならざれば、難業(なしがた)きゆゑ、然る人は千萬の人に一人にし有れば、最も難有きも理りと思ひ給へれど、御教子の中に、實の道を續ぐ人の、唯の一人だに無きは、最(い)と本意無く、大人命の御魂も、嘸ぞ云ひ甲斐無き者に、天翔りても見給ふらむと、最と悲しくさへ思ひ給へ侍ひしに、去ぬる文化十年と云ふ年、大江戸に、姓は平、名は篤胤(厚胤・篤胤、混用せり。以下、篤胤に統一。★)云ふ人、『玉の(靈能)御柱』と云ふ書を著(か)きて、藤垣内、并びに中庸にも贈りて、全(もは)ら大人命の教へを信(う)け、御心を續ぎて、又た『三大考』に心同(あひ)たり。其の志、實に厚し。然れど藤垣内、未だ能同意(うべな)はずして、論ひ辨ふ事侍ひしに、篤胤、答への三度び、大人命の深意を探り、中庸が心を釋く事、厘毫(すこし)も違はず、大人命の恩頼の助け給へるにか、遂には篤胤、(藤垣内本居)大平に勝ちぬ。中庸、喜悦びに堪へざる處に、京都も伊勢も、押靡べて、「篤胤は、博く學びたれども、心(はら)惡しき者也」と流言(いひふら)す。

一年(ひととせ)、本つ國の有田郡・阿刀宿禰長彦の家に、篤胤の著(つく)りし『眞(新)鬼神論』云ふ書を見給へしに、其の理り、實に的當れり也。是を以て篤胤は虚談(そらごと)無きを知り侍ひき。然かして熊野に止まること、九箇月也。翌(つぎ)の年の五月、伊勢に往き侍ひて、篤胤の事を議り云(まを)しゝに、春庭翁は、是非(よしあし)論(の)給はず。殿村安守(篠舍)は、其の才(ざえ)、博く學びの廣(おほ)きなるを稱め申しき。然て後ち京に歸りつるに、大江戸の清水濱臣(月齋)云ふ者、京に上りて、「篤胤は、博く學びたれど、最と心惡しき者也」と、(鐸舍城戸)千楯に語りしよし、千楯、中庸に申し侍ひき。

文政四年の秋、又た伊勢國に到(ゆ)きさもらひしに、足代弘訓・橋村正兌神主等、篤胤、天狗を歸依する風聞(さた)を語り侍ひし。京に歸りて後も、其の説(さた)侍ひき。唯ゞ藤井高尚は、大江戸に在りて、篤胤に親しく睦びの所以、其の事實(ひとわり。參照『仙童異聞』)を知れば、恠しからぬ事を申しき。然れども猶ほ疑ひの事侍ひて、今は中庸等も、心解けぬ事に成り以て往きて、外に考(かゝな)べ正す縁(よし)も侍はねば、暫らく猶豫(ためらひ)侍ひしに、今年文政六年八月七日、藤井高尚、鐸舍に在りて病ひし侍ふを、問ひ侍ひしに、「平田篤胤、京に上る」と、告げ來る者侍ひしかば、高尚、「此方へ」と申すに附きて、篤胤、入り來侍ひぬ。容貌温良(かたちやはら)かに恭しくて、且た好言令色(へつらひかざり)無し。於是に始めより思ひつる人の形勢に違はざるを、心に喜び侍ひぬ。博覽廣才(ひろくまなびざえのおほきなる)は、今の代には、天の下に比類ひ無く思ひ給へて、一たび相見て、此の人こそはと、喜悦び堪へず思ひ給へれ。

翌の朝、又た高尚が病ひを問ひ侍ひし序でに、篤胤の才學(ざえ)を稱美め侍ひしかば、高尚、於是に篤胤の美(よ)き事を、ねもごろに語り侍ひけらく、「一年、高尚、公け事に附きて、大江戸に到(おもむ)き、篤胤が家に養育はるゝこと、百餘日なりき。其の恩義(めぐみ)忘らえねば、今ま此の鐸舍に如此く在れば、篤胤をも此所に止めて、諸共に、大人命の御教導を釋かまく思へど、今朝、疾く千楯、來りて云ひけらくは、『此の鐸舍は、紀國の大平翁・伊勢國の春庭翁、扨ては此の高尚の外は、入れ立てず』とて、堅く制止めたりき。然ては高尚、如何に説くとも、諾(う)け引くまじき勢(さま)也。如是ては吾も、篤胤に向ひて面目(おも)無し。嗟嘆(あはれ)、汝し、我に代はりて、兎も角くも計らひたびてんや」と申し侍ひき。中庸、答へけらく、「吾れ、未だ篤胤が奧き意を知らざれば、今ま一度び面會ひて問ふ可き事も問ひ、尋ぬ可き事も尋ねて、彌(いよゝ)魂合ひなば、如何にも計らひなむ」と申し侍ひき。高尚、「然らば篤胤を招く可し」とて文書きて、篤胤許(がり)遣りければ、次の九日云ふ日に、篤胤も高尚も、中庸許來りて、相共に語り侍ひき。然て心に挂かる隈も無く成り侍へば、篤胤の事、先づ土山武貞主に語(まを)し試みて、「此の主、諾はれ侍はゞ、其の指揮(さしづ)に任す可し」とて、土山主に申し侍ひしに、其の後ち彼家(かしこ)にて三四輩と、中庸・篤胤を同伴ひて參ゐ會ひたり。於是に中庸、始めより鐸舍の近藤・大橋云ふ者にも、篤胤の事を語り侍ひしに、近藤は深く心止めし形也。然るに土山氏に集(あども)ひし人々、各々家にて順會(まはり)に圓居せらるゝ故に、他の人は其の席に推して參(ゆ)くことをえせずて、憚り思ふ由也。「然らば中庸が隱家にて行(な)す可き」由、近藤に申し侍ひしに、諾なひ侍ひて、「大橋にも、如此く、と告げて給べ」と申しゝにより、大橋許云ひ遣り侍ひぬ。其の翌の日、大橋來りて、「近藤、約を變(たが)へし」と申しき。中庸、思ひけらく、近藤は約を變ふる人に有らねば、彼れ必ず千楯と計りて、如是く近藤をも障へりし成る可しと智り給へて、其の事は止み侍ひき。後に近藤、中庸許來りて、其の所以を語り申しゝに、中庸が思ひ給ひつる所にぞ有りける。

大膽(おほけ)なくも大人命の御名を以て事計り、鈴屋を像(かたど)りて鐸舍とし、入り來る人を欺き誑かして、詞花(みやび)言の葉の遊戲をのみ、大人命の教への道とし、宗と立て給ひつる古學の道は、露も學ばずて、邂逅(たまさか)に篤胤が如き英明(ざえある)人の出來れば、己に甚(いた)く立ち増さりたる事を憎(そね)み妬みて、大人命の道を學ぶと云ひつゝも、拒み防ぎ入れ立てず、剩へ侫(ねぢ)け言を流言す。如是る事は、他の異見(みるところ)、實に愧づ可し。大人命の御名の穢れと成る事を、辨へ知らぬには有る可からざれど、唯だ己が學びの拙さの顯れむ事と、業ひの助けに成らざるを憤りてなり。□[立心+可]怜有(あわれ)、如此る惡き奴は、大人命の荒御魂を以て、大(いた)く罪なひ給ひ、鐸舍に集會(うごな)はれる蠅聲(さばへなす)蟲の子等は、伊吹戸神に申し給ひて、伊吹き放ち給ひね。然して篤胤が學びを、彌や益々に、大人命の古學の正統(まさみち)と守護らせ給ひて、漏れ落ちむ事・違はむ節をば、神直日・大直毘に見直し聞直し坐して、恩頼を以て助け導き給へ。中庸は年老い耄(ぼ)けて物にも有らねど、往昔、大人命の教へ給ひし隨々、其の千々の一つ二つを、篤胤に傳へ侍ひしかば、一つを聞きて百を知るの大才、實に以て大人命の古學の教へは、篤胤よりぞ榮え弘まり侍ひなむ。如此れば大人命の御遺言(いひのこしたまへるみことば)は、中庸、不學不才(まなびのざえなく)て、自ら御跡は、え續がざれど、今ま博覽廣才(まなびひろくざえすぐれたる)篤胤に讓り侍へば、大人命の御志も、空しく成し奉らじと思ひ給ふれば、明日より黄泉に往(おもむ)き侍ふとも、今ま思ひ殘す事侍はじ者ぞ。

又た言の序でに聞こえ奉る。篤胤が著はし述ぶる所の『古史成文』・『古史徴』・『古史傳』は、恐くも此の度び、雲の上に聞こえ上り侍ひき。又た冨小路貞直卿、此れが序文を書かせ給ひしに、先づ岡部(衞士賀茂眞淵。縣居)大人を、古學の開祖(おや)と定め給ひて、次に(本居中衞平宣長。鈴屋)大人命の大きなる功を言揚げし給ひ、次ぎて(平田大角平)篤胤が博學大才を稱美め給へり。實に古學の光暉り、篤胤の功は、大人命も、嘸ぞな滿足(うれし)と然こそ思し給はめ。又た『三大考』の追考は、御教への隨々、天津日を中心(なかご)とし、『七大旋考』と號づけて、著はし侍ひき。又た「青山に日がかくらば」の御歌も、中庸が考への如と免し給ふにより、然か定め申しつ。

文政六年九月廿九日、秋津彦美豆櫻根大人命の御魂の御前に、平篤胤と共に、源中庸、牡鹿成す膝折伏せ、鵜自物頸根衝き拔きて、恐み恐みも申し給はくと申す。



★ 服部中庸翁『贈本居太平書』に云ふ、「藤井高尚申し候ふは、篤胤は、殊之外、信心者にて、毎朝神拜をいたし候ふ事は、誠に丁寧成る事にて」と。曾孫平田盛胤翁の云ふ、「(銕胤翁室・遺子千枝子大刀自の曰く、父上は)毎朝盥漱の後、神前に向ひ、今の三四十分許り拜禮するを常とせるが、傍觀者の眼にも、眞に神靈、そこに坐しますと覺えしめたり」と。

 平田大壑先生は、嫉忌の偏心より來る所の、城戸千楯・村田春門輩の貶謗冷罵、陰險なる遣口に閉口しながらも、鈴屋大人の遺教を、服部水月翁より傳授され、且つ後日、紀伊の藤垣内本居大平翁(大人の御笏靈代、竝びに大人畫像を授與)・伊勢の後鈴屋本居春庭翁(大人古筆三本を授與)からも歡待されて、鈴屋大人の道統を嗣ぐに至ることを證するに足る、至重至要なる『祝詞』である(伊藤裕翁『大壑平田篤胤傳』昭和四十八年七月・錦正社刊)。

「『平田の學問も、わたし(盛胤翁)が最後だらうと思はれる。子孫に家學を繼ぐだけの者がゐない。どうか、御兩所(山田孝雄博士・伊藤裕翁)にたのみます』といつて、秋田縣に疎開された盛胤翁は、その後いくばくもなくて歸幽された。‥‥『時機は、必ず來る。それまでまて。じつくりと研究して、本當の決定版(平田篤胤)全集を出さうよ』といつて居られた山田先生も、その後しばらくして歸幽された。兩先生から埀教を受けることが出來なくなつた。今や、兩先生亡し矣」(伊藤裕翁「あとがき」)と。



 伊勢國松阪の「本居宣長ノ宮」は、舊・縣社山室山神社・本居神社なり。平成七年に改稱すと云ふ。誰か反對する者は居なかつたのか、何とも「宮」號が氣にかゝる。蓋し祭神たる秋津彦美豆櫻根大人命・神靈能眞柱大人命の、諾ひ給ふ所に非ざる可し矣。指を屈するに、來る九月六日は、相原修神主の五年祭(四周年)。神主は、如何に思はれたのであらうか。
 
 

諄辭、其の十一 ──天皇の守護・皇國の鎭護に坐す、靖國大神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月27日(火)19時00分9秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●靖國神社『靈璽奉安祭』(梅田義彦博士編『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊に所收)

[遷靈詞]

掛けまくも畏き靖國神社の、此れの相殿に齋ひ鎭め奉る、諸々の命等の中に、今し御前の靈璽(みしるし)に、奇しき御名を稱へ奉り列ね奉る、
陸軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈(みたま)、
海軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈はや、
共々に御手携へ坐して、此れの靈璽に御懸り坐せと、恐み恐みも白す。

昭和三十四年四月六日

[第一祝詞]

今し此れの靈璽に遷し奉りし、
陸軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈、
海軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈の御前に、
宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、敬(ゐやま)ひも白さく。

汝し命等の、千代萬代に、かぐはしき御名を、是れの靈璽に列ね奉り、神殿(みあらか)の内つ正床(まさどこ)に、靖國の神と、稱へ辭竟へ奉りて、齋ひ鎭め奉り、永遠へに祭祀(みまつり)絶たず、仕へ奉らむと爲る事の状(さま)を、御心も清々しく聞こし食し諾ひ給ひて、安らけく平穩(おだ)ひに遷り出で坐せと、恐み恐みも告げ奉らくと白す。

昭和三十四年四月六日

[第二祝詞]

掛けまくも畏き、靖國神社の内つ正床に、今し新たに齋ひ奉り鎭め奉る、
陸軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈、
海軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈の御前に、
宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、恐み恐みも白さく。

汝し命等の奇しき神靈(みたま)をば、今し此れの神殿の内つ正床に、齋ひ鎭め奉りしを以ちて、齋(ゆ)まはり清まはりて、捧げ奉る御衣(みそ)は、和妙・荒妙、御食は、高坏の彌や高に襲(よそ)ひ高盛り、御酒は、□[瓦+長。みか]の八腹に滿て湛へ、大海原に住む物は、鮨(はた)の廣物・鮨の狹物、海底に生(お)ふる物は、奧津藻菜・邊津藻菜、山野の物は、甘菜・辛菜、種々の物を、机代(つくゑしろ)に置き足らはして、崇敬者總代・○○○○を始めて、縁(ゆか)り深き各都道府縣の御遺族代表等、參ゐ列なり、神靈和めの樂(がく)を奏で奉り、菅の根の懇ろに御祭り仕へ奉らくを、御心も平穩ひに聞こし食し諾ひ給ひて、此れの神殿を、永遠への嚴(いつ)の神座(おまし)と、天地の極み、月日と共に、彌や遠永に神鎭まり坐して、御祭り嚴(いか)しく美はしく仕へ奉らしめ給へと、謹み敬ひも齋ひ鎭め奉らくと白す。

辭別きて曩(さき)に齋ひ奉る、諸々の神靈等の大前に、恐み恐みも白さく。

今し稱へ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御食津物をも、平らけく安らけく、相嘗(あひな)へに聞こし食めし諾ひ坐して、今も將來(ゆくさき)も共に、御國の鎭めと、永遠へに鎭まり坐して、四方の海、風立たず、浦安の國と守り幸はへ給へと、恐み恐みも白す。

昭和三十四年四月六日



●靖國神社『臨時大祭』(同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、齋まはり清まはりて、昭和二十一年四月より以降(このかた)、内の正床に、遷し齋ひ鎭め奉りし、
陸軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
海軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
及(ま)た今囘び新たに遷し齋ひ鎭め奉りし、
陸軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
海軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈等の御前に、畏み畏みも白さく。

汝し諸々の命等は、日の本の大和心の、清き赤き眞の心以ちて、皇朝廷(すめらみかど)の御爲(おほむた)め、皇國(すめらみくに)の爲めに、いそはき勤め、生きの緒の限りを極め盡して、終ひに身失せ給ひし、偉(うらぐ)はしき命等にし有れば、四月七日の、今日の生く日の足る日の、朝日の豐榮登りに仕へ奉る、臨時(ときじく)の大祭りに、言は卷くも文(あや)に畏き、天皇の大御心以ちて、掌典・矢尾板敦を、敕使(みつかひ)として、うづの大幣帛を奉らしめ給ふ事が故に、神職(かむづかさ)等、諸々齋まはり清まはりて、捧げ奉る神寶は、御鏡・御劔、御衣は、和妙・荒妙、御食は、和稻・荒稻の飯(いひ)に仕へ奉りて、高坏の彌や高に襲ひ高盛り、御酒は、□[瓦+長]の八腹に滿て湛へ、大海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狹物・海川・山野の種々の味物を、百取り机代に置き足らはして、崇敬者總代・北白川祥子を始めて、御遺族・崇敬者等、廣前も狹らに參ゐ集ひて、御祭り嚴しく美はしく仕へ奉らくを、平らけく安らけく聞こし食し諾ひ給ひて、今も往く先も變はる事無く、朝廷の守護り、御國の鎭めと、彌や遠永へに鎭まり坐して、天皇命の大御代を、嚴し御代の足らし御代と、堅磐に常磐に齋ひ奉り、手長の大御代と幸はへ奉り給ひ、四方の海、浪風立たず、浦安の國と守り給へと、畏み畏みも稱言竟へ奉らくと白す。

辭別きて曩に鎭り坐す、諸々の神靈等の御前に、畏み畏みも白さく。

今し告げ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御饌津物をも、平らけく安らけく、相嘗へに聞こし食めし諾ひ給ひて、共に永く久しく守り幸はへ給へと、畏み畏みも白す。

昭和三十四年四月七日



●靖國神社『秋季例大祭當日祭』(十月十八日。同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、恐み恐みも白さく。

恆の例しのまにゝゝ、十月十八日に、仕へ奉る秋の大祭りに、言は卷くも綾に畏き、天皇命の大御心以ちて、掌典・矢尾板敦を、敕使(みつかひ)として、うづの大幣帛を奉らしめ給ふ事を、嬉しみ奉り忝み奉りて、今日の朝日の豐榮登りに、齋まはり清まはりて、捧げ奉る御衣は、和妙・荒妙、御酒は、□[瓦+長]の八腹に滿て湛へ、御食は、和稻・荒稻の飯に仕へ奉り、山野の物は、毛の和物・毛の荒物・甘菜・辛菜、海川の物は、鮨の廣物・鮨の狹物・奧津藻菜・邊津藻菜、種々の物に、御縁り深き人々より獻奉れる味物をも、机代に置き足らはして、神靈(みこゝろ)慰(なご)みの樂典(ねいろ)を奏で奉り、崇敬者總代・○○○○を始めて、御遺族・崇敬者等、廣前も狹らに參ゐ集ひ、菅の根の懇ろに拜み偲び奉る状を、御心も平穩ひに聞こし食し諾ひ給ひて、今も往く先も、御國の鎭めと、永遠へに鎭まり坐して、天皇命の大御代を、常磐に堅磐に齋ひ奉り、嚴し御代の足らし御代と、幸はへ奉り給ひ、御縁り深き御遺族を始めて、天の下の國民(おほみたから)に至るまでに、守り導き給ひ、四方の海、波風立たず、浦安の國と成し幸はへ給へと、恐み恐みも稱言竟へ奉らくと白す。

辭別きて今度び、新たに合せ祀り齋ひ鎭め奉りし、○○○○の神靈(みたま)等の御前に白さく。

今し告げ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御食物をも、平らけく安らけく、相嘗へに聞こし食めし諾ひ給ひて、天地の極み、月日と共に、常磐に堅磐に鎭まり坐して、國内(くぬち)平穩ひに、浦安の國と守り幸はへ給へと、恐み恐みも白す。

昭和四十三年十月十八日



●靖國神社『みたま祭』(神社新報社編『最新祝詞例文集』下卷。同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、宮司・從三位・勳三等・筑波藤麿、恐み恐みも白さく。

年毎の例しの隨に、みたま祭り仕へ奉らむとして、今日の夕日の降(くだち)の清祓に、神職を始め、此の御祭に預り仕へ奉らむ諸人等を、祓ひ清め、今日より四日の間(ほど)、御垣邊には、花火打ち揚げ、御燈懸け列ね、種々の演藝(わざをぎ)を行ひ、御前には、數々の花を活け生(は)やし、裝ひも美しく飾り立て、今宵はしも、神靈和めの御神樂を始めて、調べ床しき雅樂の舞歌仕へ奉りつゝ、崇敬者總代・池田清始め、縁故(ゆか)り深き人々、齋庭に狹らに參ゐ集ひ、菅の根の懇ろに、前夜の御祭り仕へ奉る状を、あなうむがしと見行(みそな)はし給ひて、御祭り事、落つる事なく、美はしく仕へ奉らしめ給へと、御食・御酒・海川・山野の味物を獻り、恐み恐みも稱言竟へ奉らくと白す。



●靖國神社『御創立九十年奉祝大祭』(神社新報社『新作諸祭祝詞撰集』所收。同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、職・○○○○、恐み恐みも白さく。

言はまくも綾に畏き、明治御宇、天皇の御心以ちて、此の神社を創めて、齋ひ建て給ひしより、年竝(な)めて今年はしも、九十年の歳月を重ねたる、うまし歳の慶(よ)き年にし有れば、霜月の五日の今日を、生く日の足る日と選定めて、記念(かたみ)の御祭の第一日の儀、仕へ奉らくと、神職等、齋まはり清まはりて、獻奉る物は、明妙・照妙、御饌は、高坏の彌高によそひ高盛り、御酒は、□[瓦+長]の八腹に滿て湛へ、大海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狹物、海底に生ふる物は、奧津藻菜・邊津藻菜、山野の物は、甘菜・辛菜、種々の物を、机代に置き足らはして、神靈慰めの鎭魂頌を奏で奉り、崇敬者總代を始め、縁故り有る人々、御前も狹らに參ゐ列なり、豐祝(ほ)ぎ神祝ぎ奉り、御祭り美はしく仕へ奉らくを、御心も平穩ひに聞こし食し給ひて、今も往く先も變はる事無く、此の宮を常呂の靜宮と、千代萬代に鎭まり坐して、皇朝廷の大御代を、嚴し御代の足らし御代と、常磐に堅磐に守り幸はへ給ひ、御遺族・崇敬者等をも、夜の守り・日の守りに守り幸はへ給ひ、四方の海、浪風立たず、浦安の國と成し幸はへ給へと、今日の朝日の豐榮登りに、恐み恐みも稱言竟へ奉らくと白す。
 
 

教育正常化のために‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月24日(土)00時24分13秒
返信・引用 編集済
   塾頭の曰く、「女性は、デモや抗議などに參加するのではなく、女性にしか出來ない事をやりなさい。子供の教育の事などに力をいれたはうがいゝよ」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1285



 花時計の「藤」樣よりの情報です。

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■やっぱりいらない!『はだしのゲン』閲覧制限支持! 松江市応援! 署名
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 少しく調べてみたところ、作者「中沢某」なる者の發言は、不敬至極、殆んど人間に非ず。事もあらうに、幽都・大社の御膝下ではないか。我慢ならぬ。「子供に閲覽させよ」てふ者を、よく見ておくがよい。早速、與黨の中にも手を擧げてゐる。深沢某『風流夢譚』と同樣、中沢某『はだしのゲン』の發禁焚書につき、皆樣のご協力を御願ひ申し上げます。
 
 

諄辭、其の十 ──古聖先哲を祭るの本義は、其の繼志紹述に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月18日(日)17時43分36秒
返信・引用 編集済
  ●稻村眞里翁『安房先賢偉人慰靈祭の祝詞』(近體。昭和十年十月十七日、孝子たる伴直家主・儒者の三朶花石井彌五兵衞收・國學者の杉庵山口志道・烈女の畠山勇子ら十六柱の顯彰の碑を建て、慰靈祭を執行し、又た『安房先賢偉人傳』・『安房先賢遺著全集』を刊行せり)

この神床に齋きまつる、我が安房の國の功勳の大人たち、十六柱の命の御靈の前に、謹みて白さく。

秋津島大和の國は、遠皇祖の御世より、世々の天皇は、國民を吾が子と慈しみたまひ、我ら國民は、天皇を尊びて吾が親とも親と懷(なつ)きまつり、遠き祖先の遺績を奉じて、清明・正直なる心を以て、億兆一心、各々その業務を勵み來れり。これ、實に我が國體にして、熟々この國體の眞意を窺へば、貴賤を云はず、貧富を問はず、皆な忠實にその業務に勵みて、坐臥常住、一擧一動、皆な君國のため、人とある道を完うするところの努力にあらざるはなく、而してそのため、功績の大いなるは、愈々祖先の遺風を顯彰する所以にして、當に永く世の尊崇を受くべきなり。然はあれども、世には汚隆あり變遷あり、人の家には榮枯盛衰さまゞゝにして、事、必ずしもその道を得ず、功績ある人も世に酬いられずして、おのづからその名さへ忘られ果つる例(ためし)なきにあらず。かくの如き事、己れ等、今ま眼のあたりに遭遇して、慨然として默しえず、同志相議りて、世にも貴く大いなる功績を寄與したまへる、我が十六人の大人たちが御靈を祭るとして、今この祭儀を仕へまつるは、豈にたゞ我が一人の喜びのみならむや。

今この祭壇に齋かれたまふ大人たちのうち、伴直家主の大人は、遠き千有餘年の昔、孝子たる故を以て、時の帝・仁明天皇の褒賞・旌表を忝うしたまひ、世を降りて他の大人たちは、幼き時より、天性穎悟、學の業、世に立ちたまふ業、その自らの務めを務めとして、各々とりゞゝに同じからぬ道には進みたまひしかど、その御名、世に聞こえ、人のため世のため、等しく大いなる訓化・功績を成したまへるを、なかにも、石井三朶花の大人は、山荻の山里より出でて、一世の名諸侯・徳川光圀卿に仕へたまひ、彼の不朽の名著『大日本史』の編纂にも與りたまひ、漢詩を詠みては、唐人をさへ驚かしたまひしばかりなるを、星移り物變りて、水戸の里なる御墓に詣づる者ならでは、その御名は全く故郷にだに忘れられてありき。

かくの事、さきつ頃、ゆくりなくも、我が同志に知らるゝに至りつれば、遠方(をち)にも近方(こち)にも驚き歎かれつるまゝに、更に郡内に、世に名立ちたる人々を數へ覓めて、學問は和漢詩文を問はず、醫術の士、藝術の人、政治・經濟の士、慷慨憂國の志士、烈々たる女丈夫、總べて今日、こゝに齋きまつる十六人の貴き大人たちを得つれば、いかでその大いなる功績を世に顯はし、後の世にも眞清明かに稱へ傳へまほしと思ふ、我が安房の國なる有志者の心、忽ち相一致して、○月○日、この先賢偉人のために、郷社・八幡神社の神域に、顯彰の碑を立て畢はり、差次ぎて、今この北條黌の講堂の教壇を、嚴(いづ)の磐境と祓へ清めて、神籬挿し立てゝ、暫時し大人たちの御靈を請(しやう)じて、御前に山海の御饗物を獻奉りて、御祭り仕へまつりて、謹みて白さく。

大人たちが世に遺したまへる功績・偉勳は、譬へば日月の光の雲間を洩るゝが如く、その燦然たる光輝は、蓋し鶴ケ谷なる豐碑とともに、眞に千歳不朽なるべく、無言の教化を無窮に施しつゝ、後人を感奮興起せしめて、更に忠實卓越なる國民、偉人・傑士を出でさしめむこと、それはた幾何(いくばく)ならん。今この御靈の前には、大人たちが遺族・遠裔、謹みて祭儀に侍り、朝野の貴紳を始めて、郡内の有志者、雲の如くに集まり、東京・千葉は更なり、大阪の地方よりさへ、遙々にこの式典に參列して、恭しく追遠の辭を述べ、眞心籠めたる玉串を獻奉りて拜禮せらる。大人たち・御靈たち、このさまを平らけく見そなはしまして、御心も和やかに安らかに、喜び嬉しみたまへと、齋主・千葉縣神職會安房郡支部會長・官幣大社安房神社宮司・從五位・稻村眞里、謹み恐みて白す。

辭別けて白さく。今日の御祭、かく仕へまつるによりて、大人たちが家族・親族の人々を、禍神の禍事なく守りたまひ、その家門、永遠に繁榮ならしめたまひ、又た己れらが顯彰事業の一つと、大人たちの傳記、及び大人たちが心盡して書き留められたる遺著・遺文・詩歌など、美はしく輯め整へて刊行せんとする事ども、滯ることなく成し竟へて、普ねく永く世に行はれしめたまひ、又この北條黌の別室には、大人たちを偲びまつるよすがと、大人たちが遺著・遺墨・遺品等を陳列して、衆庶に觀覽せしむることを諾ひたまへと、謹みて白す。

[當祭典に出席せる曼洞小池重醫學博士の感想に云ふ、「建碑の當日、稻村氏が奉讀せられたる祝詞の内容、竝びにその祝詞の句讀・發聲は、氏獨特の朗誦法にして、滿場、肅として聲なく、滿座、森として頭を埀れ、一句一節ごとに、人をして感激せしめたものであつた。あの虚弱なる身體、あの扁平なる胸郭より、如何にしてあのやうな、時として朗々たる、時として切々たる聲韻が迸り出でしかを、今日もなほ自分は不可思議に思ふくらゐである」と。稻村眞里翁、之に就きて云ふ、「余は、文を重んじ句讀を考へ、抑揚緩急、すべての文の内容を十分に心得て、これによりて聲音を調ふべきものなることを信ず。但し小池博士の右の評は過賞、敢へて當る所にあらざれども、余が祝詞奏上の所信・精神を聽取せられたるは、知己の感、感謝にたへず」と。]



 翁には、古聖先哲を景仰する諄辭佳文、いと多なり。吾人は、翁の祝詞に學び、之に傚ひて文を修め、何より心を正して祭祀に勉め、其の古聖先賢の志を繼述して、皇國中興に、鋭意微力を盡さむことを、茲に固く誓ひ申し上げたい。



‥‥高天原に神留り坐す、神漏岐・神漏美の命以ちて、我が大倭の國は、遠皇祖の御世より、君・臣の分(けぢめ)正しく、神ながらも安國と平らけく榮え來しを、大朝廷の大御政治、武士の門(かど)に遷ろひてよりのち、漸々に下は上を凌ぎて、世はひたすらに降ち行きつゝ、建武の大御世には、一たび麗らかなる天つ日影を仰ぎまつりつれど、禍雲、また忽ちに天を覆ひ、四方の波風、頻りに騒ぎて、國民(おほみたから)の彷徨ひ艱(なや)むことは、白さくも更なり、天つ日の嚴し日影も隱ろひて、惶き忌々しき極みに成りつるをりしも、大和雄心、振り起して、天皇の御ために、身も棚知らず、恪しみ仕へまつりし、臣・武士も、いと多なるなかに、汝が命(千早大神・橘朝臣正成公)が高き大き御功勳は、天そゝる金剛の嶺も、見霽かす兵庫の海も物かはと思ふばかりなりしを、樹てましゝ御志は徹りあへず、今はの際(きは)にしも、御弟の君・正季命の、「七度び、この世に生(あ)れ出でて」の言の葉を、寛(ゆる)やかに微笑み諾ひ聞かして、逝きて還らぬ湊川の水沫と消え果てたまひにしかど、かくの事はしも、御子・御孫(みうまご)・親族・家族・家の子たちの末が末に至るまで、畏き嚴しき家の訓へと、深く固く崇まへ守りて、背きまつることなく、その言靈は失(う)せず消えせず、天地日月を貫きて、彌や遠に彌や永に、日本男子の心を、いかばかりか訓へ導き勇め勵ましけむ。されば、汝が命の誠實(まめ)なる御心は、そのかみ建武の大御世を興しまつり、降りては六百年ののちに、明治の新たまりなむ大御世の原動(もと)つ力の一つと、大御世を、遠皇祖の御世の昔に復しまつれるものと稱へ白さむも、誰かは否みもどきまつらむ。故れ世を經るまにゝゝ、御功勳の光、いよゝ輝きわたりて、天の下、仰ぎまつらぬ者なく、かくて、明治天皇の大御世の初めに、掛けまくも畏き大御心と、いちはやく湊川神社と、齋き祀らしめたまひて、別格官幣社の列(つら)にさへ崇まへしめたまひ、汝が命の立籠りまして、世に雄健び魁けて、この世の臣とある者の、君を思ふ心を振り起さしめたまひ、攻め寄り來し天の下の百萬の賊(あだ)の心をも寒からしめたまへりし、大城(おほき)の址なる、これの千早の山にも‥‥(稻村眞里翁『擬・千早神社昇格奉祝祭の祝詞』昭和六年十二月三日)。



【寒林平泉澄博士『存道館記』・『楠公祭の祝詞』】
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【谷省吾翁『平泉澄先生の葬祭詞』・名越時正翁『弔詞』】
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●松平永芳翁『中根雪江先生百年祭の祭文』(『中根雪江先生』昭和五十二年十月・中根雪江先生百年祭事業會刊に所收。雪江翁は、平氏、名は師質、靱負と稱し、隱居して雪江と號す。明治十年丁丑十月三日卒。贈從四位・諡は堅岩松蔭命)

維れ時、昭和五十二年十月三日、福井神社(祭神は、松平春嶽公)の神域なる、恆道神社(祭神は、中根雪江・鈴木主税・橋本景岳の三柱)の御前に、清淨の祭壇を設け、中根雪江先生を敬ひ慕ふ有志の士相會し、謹みて先生の靈に告げ奉る。

夫れ先生は、幕末多難の際に當り、拔擢せられて越前藩の要職に陞り、千辛萬苦して、國事に盡瘁せられたるも、藩主・春嶽公に對する輔佐の道に徹せられたれば、克く適材を藩の適所に配し、これに指示し、これを指導し、よくそれ等をして活躍精進むせしめしも、自らは謹愼謙虚、終世、その功を誇ることなく、その行動を喧傳せらるゝことなかりき。故に先生の功たるや、幕末越前藩の冠たりしにも拘らず、その活躍を記し、その功業を傳ふるものは、絶えて無くして今日に至れり。是れ、我等が先生の爲めに悲しむべしとなし、惜しむべしとなす所なり。

是に於て吾等、先生を慕ふの有志は、この百年忌を迎へんとするに當り、先生の傳記を編纂して、先生の人物・功業を世に廣め、後に消ゆることなからしめんことを期し、その業に着手せり。幸ひにしてその刊行は、近きにあり。而して同書の内容たる、唯に先生個人を傳ふるに止まらず、正に幕末の福井藩史を傳ふるものと言ふべき。又た春嶽公の人格形成の由る所と、公の理想の在る所とを明知すべき好個の資料たることを疑はず。我等、本傳の完成に勉勵したるも、力足らずして、未だ上梓に至らずと雖も、その公刊については、既に福井市當局の絶大なる理解と、四百五十名にも及ばんとする有志者、及び有志法人の協贊支援を得たるは、先生の靈前に供へ奉ることは、蓋し旬日の内にあらんとす。先生、もし我等が追慕の念の切なるを、これによつて察したまはゞ、我等の喜び、何か之に加へん。

冀くは先生の靈、先生を敬慕するの福井に生を承けし後進と全國の有志とに、國に報ぜんとするの志願を激勵し、併せて懇切なる指導を埀れ賜はらんことを。中根雪江先生百年祭事業代表責任者・景岳會會長・松平永芳、謹みて白す。



【中根雪江翁『三五本國攷の序』】
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第六十二囘神宮式年遷宮──御白石持行事奉獻。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月13日(火)22時31分35秒
返信・引用 編集済
   岡山縣神社廳による、十一日の濱參宮、そして外宮參拜、十二日の内宮御白石持行事奉獻、滯り無く奉仕、また第一番車の爲か、熱波の中でも清々しく、祭神・大山祇大神の式内縣社・足高神社宮司引率の下、無事相勤めました。井上亮二宮司のご配慮にて、豫定になかつた遷宮館も拜觀、また伊勢神領民の御接待にも、感激を新たにしてをります。

 外宮奉拜にて、御帳が嚴かに上る體驗に、圖らずも戰慄、遷宮新宮を仰ぎ見た後、外宮拜辭にも、再び「ふあつと」御帳が上るてふ不思議‥‥。同伴の愚妻も、其の奇瑞に、思はず祈念を籠めた由、申してをりました。岩間弘翁『國ありて我あり』(平成二十一年七月・創榮出版刊)を拜讀して、御帳の奇蹟あるを承知してをりましたが、小生等の場合は、單なる偶然に過ぎないでありませうが、何とも難有き經驗を頂戴した次第であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/947



 花時計の藤樣より、「泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』上映會」のご報告がありました。ご披露申し上げます。

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 平成二十五年八月十日、泉水隆一監督作品・映画「凛として愛」の上映会を、東京都渋谷にて行いました。参加者は、約70人でした。愛知・福島・宮城から参加された方や、台湾からの留学生の方も参加してくれました。本当にありがとうございました。

 懇親会では、花時計で会計を担当してくれている結城純子さん、街宣で活躍してくれているさこさん、にゃんにゃんさんの三人による余興もあり、歌によって衣装を変える凝った演出で盛り上がりました。また山際澄夫さんも、前日、「朝まで生テレビ」に出演されて、体力的に厳しかったと思いますが、三周年記念にかけつけてくださり、怒りあり笑いありで、懇親会を大いに盛り上げてくれました。参加してくださったみなさま、本当にありがとうございました。

 多くの方に支えられ、会員数も620人(十一日の時点)となりました。どうぞ、今後とも花時計をよろしくお願いいたします。

 現在、動画をアップ中です。まだ途中までしかアップできていませんが、ご覧頂ければと思います。

【三周年記念・映画鑑賞会】
  ↓↓↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=w-UEgbORTsA

【泉水隆一監督作品・映画「凛として愛」について重要なお知らせ】
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/entry-11591046032.html

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諄辭、其の九。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月10日(土)16時31分24秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●稻村眞里翁『無縁戰病死者弔意日拜の詞』(昭和二十五年秋。恐らくは編者の手に因るであらう、訂正の書込みに據れり)

頼(よ)るべなき弔ふものもなき、悲しき御靈たち諸々の前に白さく。

汝が命たちは、御國の重き大命を惶みまして、東亞細亞の大き戰に出で立ち、恪しみ勵みまして、御國のため、身亡せたまひしは、悲しとも悲しく、痛ましとも痛ましきかぎりにしありけり。

しかはあれど、汝が命たちの御功勳は、天地・日月と共に、永久へに消えせず、天地の神々も、愛ほしみ憐みまさむを、今は弔ひまつる人もなきなめれば、かくの事を歎き悲しみて、日にけに、御饗物(みあへもの)獻奉りて、御靈の前を弔ひまつらくを、平らけく安らけく諾ひ聞こしめせと、謹みて白す。



 明日曉天、恐れ多くも畏くも、第六十二囘・神宮式年遷宮──御白石持奉獻の爲め出立。二見興玉神社にて、濱參宮。外宮參拜。明後日には、愈々内宮最終日の御白石持神行、特別神領民として、實に恐懼謹愼、措く能はざるものあり。無事竟へ奉らむことを、只管ら懇祈仕り候ふ。

●鎌田純一博士講演『兩御正宮遷御の儀を終へられて』
  ↓↓↓↓↓
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f14-1.pdf#search='%E7%99%BD%E7%9F%B3%E6%8C%81+%E7%9A%87%E9%81%93%E6%97%A5%E5%A0%B1'



 而して歸り來たれば、家族・親族も相集ふ御盆奉孝の御季、産土大神の御前に、先祖累代の御靈たちは申すも更なり、別辭きては、有縁・無縁の萬靈たちの靈格冥福の御啓導・御守護を祈念し奉らむ。

 酷暑熱波の候、ご投稿ご閲覽の各位には、ご自愛ご專一、幾重にも御願ひ申し上げ候ふ。 備中處士、百拜
 
 

腹切る術を、丈夫は忘る可からず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月 5日(月)18時31分48秒
返信・引用 編集済
   下記は、岡田則夫翁が、先般の岡山縣愛國者協議會例會に披露されたもの、感銘深く拜聽。色々な教へが籠つてをる一章ゆゑ、こゝに拜記させて戴く。劍道は、切腹の作法を教ふる事は無く、既にもう武道では無い。武道の劍道は、現代では、古武術の師匠に就くしか、術は無いのである。

 又た柔道も、講道館に蹂躙されて久しいが、其の創始者・嘉納治五郎なる親分、何を血迷つたか、耄碌したるか、次の言を吐いてをる(虎童村尾次郎博士の受賣り)。曰く、「かつての志士は、繩目を恐れなかつた。マルキストも、今は取締まれてをりますが、何時の時代にか、英雄となりませう」と。斯くの如き者に、柔道界が率ゐられたかと思ふと、柔術・柔道、餘りに悲しいと謂はねばなりませぬ。

 又た漫畫界、これも非道い。巷間流行の宮崎駿監督、この人の「もののけ姫」に嫌惡感を抱き、「千と千尋の神隱し」の描き方に、其の人格を垣間見た小生であるが、韓國人の取材に、「日本は、もつと早くに慰安婦問題を解決しておくべきだつた。日本は韓國と中國(ママ)に對し、謝罪すべきだ」(「人民網/日本語版」七月二十九日)となん。さすがは神武天皇ご東征を、奴隷史觀で描いた手塚治虫のご一黨だ。空いた口も塞がらぬ。一斑は全豹を卜するに足れり矣。知らぬことは、にこゝゝしても、天網恢々、喋々云ふ可からず(心配になつて、ウイキペデイアを覗いてみた所、何と‥‥確信犯でありました。小生も知らぬことは、喋る可からず、だ‥‥反省しきりなり)。
  ↓↓↓↓↓
http://j.people.com.cn/94475/8344399.html



●梅溪高須芳次郎博士『乃木將軍詩歌物語』(昭和十三年九月・新潮社刊。平成二十五年四月・島津書房復刻)「乃木魂」に曰く、「

花を活け 茶をのむ道は ならふとも 腹切るすべを わするなよ君

 詞書きに、「某氏と談話中、偶々茶事に話が移りし折、これを書きて示す」とあります。乃木さんは、明治天皇の御あとを慕ひまゐらせて、切腹・殉死した人で、その一生を振返つて見ると、最初から切腹と離れることの出來ぬ關係を持つてゐるやうにも解(と)れます。

 乃木さんは、嚴父から、先づ少年時代に、赤穗義士の切腹について、度々話を聞かされました。申すまでもなく、江戸時代には、場合により、君父のため、切腹するのを武士の花としたのです。この點から、乃木さんの父は、深く赤穗義士に共鳴し、「是非、四十七士にあやからせたい」と思つたと見えます。

 丁度、乃木さんが生れた土地──江戸麻布日ケ窪の長府毛利邸は、赤穗義士に關係がありました。乃木さんは、それについて、『自分の幼時は、義士の中の竹林唯七ら十名の切腹した、麻布日ケ窪の長府邸内に生れて、十歳になるまで、其處に住んだので、稍々物心のつく頃から、赤穗義士といふことは、おのづから自分の頭に刻み込まるゝに至つた』と話してゐます。義士切腹の跡! そこに生れた乃木さんは、最初から武士道の實地教訓を受けたのです。‥‥

『素より頑是ない子供の時代だつたから、その深い意味は知らう術もなく、僅かに親たちの話などを聞いて、さう云ふえらい人達であつたか、して、この邸内で切腹したのであるか、と云ふくらゐの考へにすぎぬので、能く人が御庭拜見と云つて、折々裏門の方から出入りしたことを覺えてゐるが、然しその切腹した場所は、果して何の邊であつたかと云ふことなどは、別に聞かうともしなければ、また覺えても居らない。‥‥唯だ最も深く義士といふ事を、自分の幼い頭に彫り付けたのは、五日と十六日との御命日には、未明に泉岳寺の墓所へ參詣して、明け方に歸ることにされて居つたことが、大いに關係がある。』

その墓參の日、乃木さんは、大抵、父に伴はれ、父が義士の墓の前で線香を立てゝ、恭しく禮拜する後について、自分も拜んだのです。場合によると、父に所用がある際は、唯ひとりで參拜したこともあります。それに家庭では、父が好んで義士の話をする。母も亦た容(かたち)を正して語るといつた工合でしたから、乃木さんは、不知不識、義士好きになり、一枚摺りの錦繪なども買つて貰つて、大切にしたものでした。

 かうして忠孝のため、目的を遂げて、潔く切腹した義士のことが、深く乃木さんに感化を與へたのです。その次に乃木さんに切腹の手本を示したのは、父の友人・玉木文之進(韓峰。松下村塾主)でした。文之進は、長州の勤皇運動に貢獻した人で、乃木さんの恩師でもあり、親戚でもあります。文之進の自刄は、乃木さんの弟・眞人(正誼)から起つたのでした。正誼は、玉木家の養子となつた後、郷黨の先輩・前原一誠に心を傾け、その謀叛に與みしたのです。

 乃木さんは、正誼が袂別に來たとき、切に反省を促したが、『一旦、盟約した以上、斷じて後へ引くことが出來ぬ』といふのです。到頭、涙の中に盃を酌みかはして、『しつかりやれ、立派に死ね』と云つて、手を分つたのであります。間もなく明治九年十月、正誼は、前原の亂に、二十三歳で討死しました。その時、文之進ひとりは、何の關係もなかつたが、

自分の家から賊徒を出したことは、朝廷に申しわけない。

と云つて、代々の墓所の近くで、見事切腹したのであります。勤王の志厚く、義理堅かつた文之進は、かうして乃木さんに、武士の手本を見せたのです。

いざといふ時は、立派に腹を切れ!

これが、文之進の實物教育です。乃木さんが、こゝに掲げた歌で、『腹切るすべを忘るなよ君』と云つたのは、平生の用意を、自然に流露したのでせう。

 かの軍旗問題で、二度まで切腹しかけたとまで噂された乃木さん。日清・日露兩役に死所を得ようとした乃木さん。最後に切腹した乃木さん。これを考へると、この歌に、深い意味が籠つてゐるやうです」と。
 
 

再掲・幻の映畫『凛として愛』上映會、帝都にて開かる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月 4日(日)00時21分24秒
返信・引用 編集済
   見事なチラシですね。小生なんぞ、作りたくても叶ひませぬ。ご都合のつく御方は、泉水隆一監督作品『凛として愛』、是非とも大畫面にて御覽ください。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/pdf/20130810.pdf

http://www.hanadokei2010.com/schedule_detail.php?schedule_no=299



 こゝだけの咄なんですが、泉水隆一監督は、我が九段塾の塾頭なんですよ。皆さん、ご存知でしたか~(我ながら苦笑)。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50
 
 

諄辭、其の八──國史の樞軸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月27日(土)00時11分39秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●從四位・稻村眞里翁『後醍醐天皇六百年祭遙拜の詞』(昭和十四年七月二十七日)

掛けまくも畏き、大和の塔尾の陵の大前を、遙かに拜みまつりて、○○神社・職・位・勳・功・爵・○○○○、恐み恐みも白さく。

掛けまくも畏くはあれど、我が大神・後醍醐の天皇命は、現世(うつしよ)に生(あ)れ出でまして、御智(みさとり)、神ながらも明らけく、御心、剛く雄々しく、人と成りまして、時世の勢ひ、関東(あづま)の武士(ものゝふ)のほしきまゝに、天の下を政ち振舞ふ事を、憤ろしく思ほしまして、いかで後鳥羽の天皇命の大御心のごと、大御政を古へに復さむと、ひそかに圖りましつるを、事成らず、なかゝゝに世は、益々難しく煩はしく成りぬれば、元弘の御世、天の下の武士を召して、立てそめたまひし大御計畫(おほみはかり)のまにゝゝ、健び進みたまふとはすれど、時到らずして、彼の笠置の山に遷り籠らし、それより更に隱岐の島に彷徨ひましゝゝつる事、今更ら偲びまつるだに惶くなむ。

かくて天の下の忠誠(まめ)なる心の武士たち、戈執りて四方に起り立つまゝに、幾程もなく、鸞輿(おほみこし)、嚴しく華やかに都に還りまし、鎌倉も忽ちに滅亡びて、こゝに建武の輝かしき大御世に成りぬれば、天の下、始めて再び古へながらの天つ日影をなも仰ぎまつれる。しかはあれど、こはたゞ暫時(しまし)のほどにして、あはれ、あはれ、世は大御心に違ひて、天の下、そゞろに安からず、成りとゝはぬを、時こそ好けれと、狂漢(くなたぶれ)、醜の高氏い、頼(よ)そりまつる厚き廣き大御蔭、狎れまつり蔑(なみ)しまつりて、なかゝゝに己が私を成さむと、軍(いくさ)を起して叛きまつりつれば、これよりのち、世の道・人の心、亂れに亂れて、畏き大御勢力は、漸々に頽(くづ)ほれ蹙(しゞま)りて、我が大神・天皇命は、惶くも吉野の山に遷り入りまし、かくてそが前後(あとさき)、畏きや、大君の弓杖(ゆづゑ)と頼み思ほす皇子たちの、悲しくも御身亡(う)せたまふもあり。猛き恪しき武士の臣も、相次ぎて討死するが多ければ、吉野の山の山風も、伊吹きおろす力、漸々に衰へ、慨(うれた)き憤ろしき事のみ伊繼ぎ聞え繼ぎつゝ、延元の四年といふ年の、この月の今日の日なも、遂に神上り上りましぬる。あはれ、悲しきかも、悼ましきかも。

しかはあれども、つらゝゝ思へば、掛けまくも畏き、我が大神・天皇命の大御業は、現しその世にこそ、成し畢へたまはざりけれ、崩御(かむさ)りましてより五十年のゝちには、大御心に煩はし惱ましゝゝけむ、天つ日嗣承け繼がす大御血統(おほみちすぢ)も、たゞ一系(ひとすぢ)の昔に復り、身を棄てゝ、大御業、助け輔(あなゝ)ひまつりし武士の臣たちが功勳は、千代萬代に消えせず朽ちせず、世を經るまゝに、彌や益々に光を顯はして、天の下の國民を、直き正しき鋭心(とごころ)、限りなく振り興さしめ、明治の天皇命は、我が大神・天皇命の大御心を、畏くも成し竟へたまひて、遠く神武の天皇の大御世の古へに復したまひ、朝日の豐榮昇るなす御國のさまは、我が大神も、いかにか愛で喜び思ほすらむ。

しかのみならず、明治の天皇命は、そのかみの事の蹟を思ほしまし、我が大神の大御心を、深く厚く偲びまつりたまひて、大神の皇子たち・功勳の臣たちを、縁故(ゆかり)の處々に齋き祀らしめたまひ、殊に吉野の山に、大神の神宮(かむみや)を建てゝ、彌や遠に彌や廣に、大御神徳(おほみいつ)を仰ぎまつらしめたまふ事は、別きても大御心、足らひに諾ひ思ほすらむと、古へをも今の世をも、とさまかくさま偲びまつり惶みまつりつゝ、齋知り嚴知り、遙かに大前を拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ聞こしめして、天皇命の大御世を、淨く清明(さや)けく、嚴し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまひ、國民諸々を、君を念ひ國を念ふ眞心、永久へに渝(かは)ることなく移ろふことなく、恪しみしまり勵みしまらしめたまひて、天の下、悉とに安國の足る國と、互(かた)みに睦び和び、榮ゆる御世に成し幸はへたまへと、恐み恐みも祈みまつらくと白す。



●稻村眞里翁『假作──頼山陽・塔尾山陵奉拜の詞』

掛けまくも畏き、塔尾の山陵(みさゝぎ)の大前に、御民・頼の久太郎、恐み恐みも白さく。

劣き久太郎い、おほけなくも我が大日本の世繼の史書(ふみ)作らむことを思ひ立ちて、夜を日に恪しみ勵みつゝ、我が大君・後醍醐の天皇命の大御代の事に至りては、醜の逆臣(さかおみ)どもが逆事(さかしまわざ)を憤り、忠實(まめ)なる臣どもの、心盡し・力盡しを思ひつゝ、執る筆、放棄(なげう)てゝ、息突き慨(なげ)かひまつりつること、幾囘びにかありけむ。

ゆくりなくも今年、今囘び、埀乳根の母に侍(かしづ)き從ひて、この御山に登りて、この大前に參ゐ出でては、心は忽ちに現實(うつゝ)を忘れて、親しくその大御代に遭ひまつる心地して、激(たぎ)ち溢るゝ胸の内、いかさまにとも訴へ白さむ言の葉を知らず、只々塞(せ)きあへぬ涙、しとゞに袂を濡らして、い這ひ侍(さも)らひ、頸根衝き貫きて、恐み恐みも、大前を拜みまつらくと白す。



●秋廼屋本居豐穎博士『北畠神社臨時祭詞』(伊勢國一志郡上多氣村に鎭座。明治十四年一月、臨時祭の祝詞なり。『諄辭集』所收)

北畠と、家の名は申せど、天傳ふ日の影面(かげとも)の南の朝(みかど。愚案、「南」字は不要なり矣)に、世々を經て、忠(まめ)に勤しく、赤き心の眞心以て仕へ奉らしゝ、

從一位(贈正一位・准三宮)・源朝臣親房命
贈從一位・(贈)右大臣・源朝臣顯家命
從一位・行・右大臣・源朝臣顯能命

を始めて、其の親族と座す君等諸々の神靈(みたま)を齋ひ鎭めて、北畠神社と稱言竟へ奉る、是れのうづの大前に、官職位・○○○○、今日の齋主、仕へ奉ると爲て(◎奉りて)、畏み畏みも白さく。

掛け卷くも忌々しく、言は卷くも憤ろしかれど、大御代の名を、元弘と云ひ建武と稱ひし年の比(ころ)は、如何なる時にか有りけむ。天津日の光、立ち覆ふ雲の亂れに、四面の海の暴き風、彌や吹きに吹き惑ひて、武士の醜のたぶれが逆状(さかわざ)と、隱岐の荒磯(ありそ)の波に、うづの大御文を漂蕩(たゞよ)はしめ奉り、又た三芳野の山下露に、綾の大御袖を濡らさしめ奉りし、常闇成す世の禍事に遇ひて、固より忠に雄々しき心の緒ろの一筋に、顧みは爲じ、大君の邊にこそ死なめと、仕へて在りし、淨き公民は數多きが中に、汝が命等や、世々を重ねて、陸奧の遠の鎭めと、其の御名は、東の空、著明(いちじる)く顯(あらは)え、此の伊勢の國司と、其の御勳は、南の朝に隱れ無く、伊勢の海、渚の玉の清き御志は、掛け卷くも恐き天皇も、吉野山、谷の眞清水流れて、後の世々までも、深く遠く頼み思ほし、汝が命等も、良く武士の八十伴男の心を得てあともひ給ひ、又た此の近き國々の益荒男も、汝が命等の御蔭には、好く靡き寄り奉りて在りければ、北の朝(愚案、「朝」の字、祭神の亨け給はざる所、決して用ふ可からず矣)の軍人等も、汝が命等の御名には怕(お)ぢ奉りて在りき。殊に親房命は、軍の道に、猛く雄々しく座すのみに非ず、古へ今の史、讀み渉して、事の蹟・物の理りにも聰く明けく座しければ、然ばかり荒振る世の中にして、種々の書をも記し著はして、朝廷に奉り賜ひし大き御功は、又た比類ひも無かりけり(◎無かりき)。

然るを、顯家命・顯能命、打ち續きて猛く雄々しく、賊(あだ)の軍を撃ち破り追ひ退(そ)け給ひしも(◎給ひしを)、漸々に大御方の武夫等、戰死(みまか)り、南の空を巡る日のくだちの髓々、光を覆ふ雲立ち渡りて、汝が命等の清き御心も、吉野川末徹りあへず、後ち遂に又た形々(さまゞゝ)に遷り變りし代の形と共に、其の御裔(みすゑ)さへ、曉の雲尻の星の影、薄く混(まが)ひて消えにし事の状(さま)は、然こそ、汝が命等の神靈も、御心晴れず、此の霧山の城(き)の邊の草の露霜の、結ぼほれつゝ、年經座しけめ。

萩の下水、本(もと)の心を汲み知る里人等の眞心以て、如此く仕へ奉り來し御社を、今ま又た同じ心の人々諸々、相議り相談らひて、此の嚴し代の大御世の光と共に、瑞の玉垣、美はしく造り改め奉らむと爲て、先づ今年、明治の十四年は、汝が命等の御裔の、遂に絶え果て給ひし、天正の四年より、三百有四年に成りぬるを以て、遠き昔を仰ぎ忍び、此の里人等が、年まねく蒙り奉りし御惠みに報い、又た其の神靈をも、廣く厚く慰め奉り、稱言竟へ奉ると、十月の五日の今日より、來む十一日まで、日は七日・夜は七夜、御前に侍らひ、御祭の式、仕へ奉る禮代と、幣帛は照る妙・明る妙に、御酒・御饌より始めて、海・川・山・野の種々のためつ物を、机代と捧げ奉り、秋萩の下行く水の、清き心・深き思ひに、書の卷卷繰り返し、昔を忍ぶ人々の心々に、歌ひ出で詠め出でたる和・漢の言の葉をも、御前に□[敬+手。さゝ]げて、笛吹き遊び□[人+舞]ひ奏で、仕へ奉る事の状を、御心も穩ひに聞こし食し、うづなひ給へと、畏み畏みも稱言竟へ奉らくと申す。

[稻村眞里翁の曰く、「四大人、出でてより、古學、勃然として興り、爾來、許多の歳月を經たれども、諄辭の文は、明治に至りても、なほ未だ眞の發達を見るに至らず。これ、吾人の大いに遺憾とするところなり。此の時に當りて、本居豐穎大人、家學を傳へ、文藻ゆたかに、殊に力を諄辭文に用ゐられ、此の方に於いて、一新機軸を出されたるさまなり。たゞ大人の文、往々冠辭・縁語・序語等を用ゐ、又た對句を多く用ゐられたるは、古文としては如何あらむ。全然、贊意は表しかぬれど、古意を離れて看れば、筆々自在、絢爛の美を極めて眩きばかりなり。‥‥殊に修辭に心せられたるが如き、文の流麗なるは、素朴を離れ、上古文に遠ざかること、いふ迄もなく、而して初學の甚だ學び易からざる所なり。そもゝゝ諄辭の文を作るに、大人が示されたる、此くの如き境地に至らんは、深く諄辭の文に習熟したる上に、更に平安朝時代及び其の以降の歌文をも味はざるべからず。初學の士、たゞ文の美しきに感けて、順序を顧みることなく、直ちに大人の如き文にならはむとせば、なかゝゝに思はぬ失敗に陷ることあるべし。返す々ゝも秩序ある考究を要すべきなり」と。]



 愚案、「凡そ皇國に生れて道義を思ふ者は、深く國體を考へざるを得ず、深く國體を考ふる者は、必ず國史に歸らざるを得ず、國史に歸る者は、建武中興の昔に胸をうたれざるを得ず、建武に胸をうたるゝ者は、後醍醐天皇の聖徳を仰ぎ奉つて、感銘措く能はない」(建武義會編『後醍醐天皇奉贊論文集』昭和十四年九月・至文堂刊)とは、有馬良橘大將の言であるが、後醍醐天皇の大御代は、溯りては大化・延天を仰ぎ、承久の御企を承け、降りては明治維新を覺醒せしむるもの、正に國史の樞軸と謂はねばならぬ。平泉澄先生、畢生一代の金音を拜記して、百代の國師・北畠親房公を景仰すること、次の如し。



●寒林平泉澄博士『百代の國師親房公』(日本學研究所『北畠親房公の研究』昭和二十九年十一月・日本文化研究所刊。増補版・五十年三月・皇學舘大學出版部刊に所收)に曰く、

「昔は顔囘、深く孔子の盛徳に服し、喟然として嘆じて、之を仰げばいよゝゝ高く、之を鑽ればいよゝゝ堅しと云つた。此の讚歎の語は、之をそのまゝ移して、我が親房公に捧げてよい。私は十三歳の春、神皇正統記を手にし、反復、之を熟讀した。爾來、今に至つて、殆んど五十年である。しかも年を經るに隨ひ、研究を重ねるにつれて、公に對する畏敬の念は、益々深まるのみである。‥‥

 私共が仰ぎ見る親房公は、實は至大至高、殆んど言語に絶するのである。公の誠忠は、菅公と比肩すべくして、其の功勞は遙かに上に出づる。艱難の日に三軍を指揮して大義を守るは、楠公に類する所あつて、其の學問は遠く超越する。菅楠二公を併せ、加ふるに義公の修史を以てすれば、先づは公の全貌をうかゞふべくして、神道哲學の深遠は、猶ほ其の外に在る。かゝる偉大なる人物、碩學であり、哲人であり、國家柱石の重臣であり、苦難不屈の武將であり、而して祖宗より子孫に至り、數百年の間、仕ふる所に殉じて皇統を護り、のみならず其の著書を通じて天下の正氣を喚起し、百代に亙つて國體を護持したる人物、かゝる人物を、何として讚美すべきであらうか。こゝに思ふは、國師と云ふ稱號である。それは從來、特に佛教に於いて、二三の高僧に對して用ゐらるゝ所であるが、其の人物を見、其の行動に照らして、必ずしも名實の適はざるを遺憾とする。親房公の如き人物こそ、眞に國家百世の指導者、即ち國師と謂ふべきであらう」と。
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【所謂南北朝正閏問題と内田遠湖先生】
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諄辭、其の七──至純の忠誠。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月24日(水)22時04分34秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●稻村眞里翁『大宰府神社・菅公一千年祭の祝詞』(明治三十六年三月二十五日)

筑前國(つくしのみちのくち)筑紫郡大宰府の郷に、底つ岩根に宮柱太敷き立てゝ鎭まり坐す、大宰府神社の珍の大前に、宮司(・位・勳・功・爵)・○○○○、恐み恐みも白さく。

 白さくも畏かれど、汝が命の、これの現世に、官位(つかさくらゐ)、いまだ世の常に坐しましゝほどは、天つ日嗣の高御座こそ、常磐に堅磐に障(さや)りたまふことは坐しまさゞりけれ、吹きすさぶ嵐に叢雲(むらくも)起ちはびこりて、大内山の御空、そゞろに小暗(をぐら)き世なりければ、萬の御政治も、天皇の大御心のまゝならず、綾の御袖に時雨の雨の零(ふ)りそゝぐ折々も坐しましけむを、汝が命は、久方の月の桂、華やからに折りかざして、官位も人の目を驚かすばかりに立昇りたまひて、明き淨き大和魂、嚴(いか)しく雄々しく振起しまして、世々の御祖の誠實(まめ)に恪しく仕へまつり來し、漢學(からまなび)の道の業は申すも更なり、萬の事(わざ)異なる節を立てず、和やかに穩ひに、親に事ふる道も、君に仕へまつる道も、たゞ一すぢと、大御政治の道を輔け翼(あなゝ)ひまつりたまひつゝ、大御世のみため、國民(おほみたから)のために、御心を碎きて、何事もさまゞゝに勵み恪しみ仕へまつりたまひしまにゝゝ、御園生の草も木も、漸々に打靡き、天つ日も影覆ひぬべく、稍や繁(しみ)みに立ち廣ごれる池の藤波さへ、稍や色あせて見えにしを、あはれ、月花の雲に、嵐に嫉まるゝ譬を、忽ち我が御身の上に歎きたまふことゝなりて、昨日の御勢ひにひきかへて、塵泥(ちりひぢ)なす放(はふ)らされたまひて、流れ逝く水屑(みくづ)は、藐姑射(はこや)の山の山松も、しがらみとゞむべき術もなく、天つ星には、道も宿りもありながら、如月・彌生はろゞゝと、道なき道をたどりて、これの筑紫國にぞ、さまよひ著きたまひしにし。

 かくてこれの地(ところ)に坐しましけるほど、いさゝかも大朝廷を恨みまつりたまふことなく、人をも咎めたまふことなく、ひたぶるに我が御身の幸なくて、著(き)たまひつる濡衣の干(ひ)るよしもなきことをのみ歎きたまひ悲しみたまひ、都府楼觀音寺も、纔(はつ)かに甍を望み、朝た夕べの鐘の音を聽きたまふのみにて、八重葎鎖せる門(かど)も、開きたまふことなく、畏み愼み大坐しまして、風雅(みやび)の道に御思ひを寄せ、漢・倭の書に御心を慰めたまひつゝ、山別れ飛び行く雲にも、さりともと、はかなき頼みをかけ、野山に立つ煙を眺めては、更に御歎きを増したまひ、御庭の花・空鳴き渡る鳥にも、御袖をしぼり、しかあるのみならず、燈火に油盡きて、書もえ讀みたまはず、ぬばたまの闇の一夜を思ひ明かしたまひしこともあり。雨の雫、板屋の軒を漏りて、御衣も御書も、しとゞに濡れそぼちし折もあり。竈には煙さへ絶えて、空しき御夢のみ、花と散り玉と見えつゝ、雪降る里に往き通はすばかりを、天皇の大御手づから、被(かづ)けたまへりし大御衣を、日にけ(異)に捧げ戴き坐しまして、大御惠みの餘香(なごり)を拜み偲びたまへりし眞心には、天地も感(かま)け動き、後の世の人も哭き悲しみて、ひとへに臣の鏡・人の鏡となも慕ひまつり、哀しび仰ぎ尊びまつりぬる。

 汝が命の薨(かむさ)りましてのち、侫人(ねぢけびと)どもは、おのれと心を責めて怖れ戰き、空吹く風・鳴く鳥の音にも、むらきもの心を消ちつゝ、終ひには篤しく病み臥(こや)して死(みまか)りぬるもあり。又おのづから鳴雷(なるかみ)の、落つるはためきに撃たれて死るもありければ、天皇も怪しみ歎き思ほして、二十年のゝち、汝が命を、故(もと)つ官位に復へしたまひ、天暦の天皇の大御世には、京なる北野に御社を建て、後に正一位(おほきひとつのくらゐ)・太政大臣(おほきおほいまうちぎみ)をさへ贈らしめたまひ、かくてこれよりのち、御世々々の朝廷(みかど)にも、世の常ならず、崇め祀らしめたまへるに、掛けままくも畏き、今の天皇の大御世になりては、特に官幣中社の列(つら)にさへ加へたまひ定めたまへるまにゝゝ、御稜威は彌や高に彌や廣に輝きて、天の下の人ども、學問(まなび)の祖とも神とも仰ぎまつりて、今は、汝が命の分靈を齋き祀らぬ地もなきに至れり。

 かくて白さくも畏かれど、汝が命の薨りましてより、移り來し世の年次(としなみ)を掻き數ふれば、今年はしも、まさに千年に當りぬれば、世の人、皆な同じ心に、そのかみ(當昔)を偲びまつらぬはなきを、別きてこれの筑紫國を預り知らしゝ縁(ゆかり)によりて、侯爵・黒田長成の君を始めて、志厚き人々諸々、廣く天の下の人々に議(たばか)りて、菅公會といふ會(まとゐ)を設けて、嚴しく美はしく、これの瑞の御殿を修めつくり仕へまつり、この里人諸々も、心のかぎり翼ひ輔けて、御祭の式(わざ)、可美(うま)らに仕へまつるとして、宮司、劣き○○○○を始めて、神職(かむづかさ)諸々、持ち齋(ゆ)まはり持ち淨まはりて、獻奉る禮代の物は、和妙・荒妙、御酒は、甕(みか)の上(へ)高知り、甕の腹滿て雙(な)べて、洗米(あらひよね)・御水(みもひ)、山の物は、甘菜・辛菜・果實(このみ)、大海原に棲む物は、鮨(はた)の廣物・鮨の狹物、沖つ藻菜(もは)・邊つ藻菜に至るまでに、横山のごとく置き足らはして獻奉り、また種々の歌舞ひ仕へまつりつゝ、三月といふ月の二十五日の今日より、四月といふ月の二十四日まで、日にけに御祭の式、心盡して仕へまつるさまを、平らけく安らけく欣納(おむかし)み諾ひ聞こしめせと白す。

 かく聞こしめしてば、天の下の人の心を、汝が命の、この現世に、天皇の大朝廷に仕へまつりたまひしことのごとくに、直く正しく護りたまひ導きたまひて、大御世を茂し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまひ、また今囘びの事業を翼ひ輔け勤しめる、黒田侯爵たちの人々、この里の人草諸々の家にも身にも、禍つ靈の禍事あらしめたまはず、彌や茂盛(むくさか)に立ち榮えしめたまへと、鹿じもの膝折り伏せ、鵜じもの頸根衝きぬきて、恐み恐みも乞ひ祈みまつらくと白す。



●友清歡眞翁『古道眞髓』(昭和十年一月筆。昭和十四年九月・山雅房刊)に曰く、

「藤原保則が、菅公の御性格を(「當今の碩儒であるが、其の内心をみると、危殆の士なり」と)非難したのは、保則の私言である。換言すれば保則は、菅公に對して面白からぬ感情を抱いて居たから、彼れの言ひさうなことである。菅公の如く、高潔正直な御性格で、八方美人主義でない御方には、斯ういふ非難は、必ず起り勝ちである。菅公の如く、諫を好み給ひ、直言を好まれ給ふ御性格では、其の時代の如き、腐敗墮落し切つて居た社會の各方面から、悉く歡迎を受けられる筈はないのである。‥‥

 當時の學問・思想・信仰は、支那流・印度流全盛であつたけれど、菅公の根本理想が、皇國第一主義であつたことは申す迄もない。『菅家遺誡』の中にある、「凡そ神國、一世無窮之玄妙者云々」とあるは、恐らく菅家の家學の上からの主張であるにちがひない。此の書は後人の僞作との説が有力ではあるが、菅家の思想を書き傳へた多數の斷簡が材料になつて居るものらしい。申す迄もなく、菅公の家は代々歴史家で、紀傳道が家學なのである。この國學の家筋は、菅家と大江家とに分かれたけれど、大江氏の學問も、元來菅家から出たのである。‥‥

 菅公は正直な御方であつた。或は少し正直過ぎるといふ點もあつたかも知れない。即ち過直といふ氣味があつたやうである。此の御性格の一面が、後世の俗な人間から、彼れ此れと非難を受けられたやうである。鼻かけ猿が、鼻のかけぬ猿を笑つたといふ話があるが、人間の世の中は、如何なる時代も五月蠅いものである。‥‥

 菅公が大宰權帥に貶黜になつたのは、只の貶謫ではない。時平等の誣奏の内容は、世人の知るところの如く、言語道斷のものである。誠忠一途の正直なる菅公として、至大の憂患であるのみならず、恐らく人間世界に、此れほど悲痛な事件といふものが、又とあるべきものでない。

 しかし其れは、菅公の眞面目の發揮さるべき一大時機でもあつたのである。平素は立派なことを云つて居ても、多少の災厄みたいなものに遭遇すると、うろたへて正體を現はし、醜態を演ずる人間が多いものであるが、古人の『窮を以て節を變ぜず』と云つたやうにやるのは、タマが底から良くないと六かしいものだが、菅公の大人格は、此の場合に、愈々光明を發したのである。一身一家の不幸は悲しまれたけれど、主上を怨み奉るといふやうなことは微塵もなく、公の誠忠の至情は、益々光りを放つた。賜衣の餘香、孤臣中夜の涙を濺ぎたまふに至つて、臣子の儀表として、百世に輝き給うた」と。



【參考・菅公と拘幽操】
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『先哲景傳同血抄』の開板。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月20日(土)19時06分55秒
返信・引用 編集済
   「暘廼舍(あけのや)」樣には、時、恰も「戀闕第一等の人」平野國臣先生殉難一百五十年の日に、スレツド『先哲景傳同血抄』の開板を賜はることになりました。四年前の當月十六日に身罷られし、九段塾々頭・福井金城翁からの援軍でありませうか。眞實に有り難いことです。有志各位には、ご注目たまはらむことを。
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【參考・備中處士『戀闕の悲願』】
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 スレツド主「暘廼舍」樣の屋號は、神ながらかも。主は、蓋し扶桑神洲の暘谷に、かつて住まひされし御方ならんか。

 平田大壑先生(『大扶桑國考』・『三神山餘考』・『三五本國考』等)に據れば、蓬莱──蓬丘・蓬壺・日窟常暘之山・玄牝大壑暘谷咸池の上(ほとり)に在る山──の湯谷・陽谷・谷口、即ち、
『老子』竝『莊子』引く所の『黄帝書』に云ふ「谷神不死・玄牝之門・天地之根」、
『老子』に云ふ「百谷王」、
『列子』の「大壑・無底之谷・歸墟」、
『莊子』の「尾閭」、
『初學記』の「天池・巨壑・朝夕池・咸池・榑桑之墟」、
『初學記』引く所の『山海經』大荒東經に云ふ「少昊之國・甘水・甘淵・黒齒之國」、亦た大荒南經の「羲和之國」、
乃ち我が皇大御國の、祓戸四柱大神の坐す大壑「速吸名門」──蓬莱山の神域、やがて「荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の鹽の八百會」、筑前國の北面志賀島なる玄界洋の海底、豐前國企救郡と長門國豐浦郡との間なる豐前國企救郡速鞆の湍門(せと。迫門)──女嶋(比賣嶋)の邊りの人、即ち神ながらにも名乘られし「暘廼舍」樣、是なるべし。穴々、かしこ。



●小串仙助大倉重威翁『比賣嶋考』に曰く、

「伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神のうみませる島の次第、大嶋の次に女島を生給ふとあり。按ずるに大嶋は周防國大島郡にして、伊波比洋の東北にあり。女島は豐後國國東郡にして、伊波比洋の西南にあり」と。




●平田大壑先生所引『關令尹喜傳』・『老子東遊之文』に曰く、

「東遊して、日窟常暘之山に至りて、榑桑之丹椹(赤き桑の如き實)を綴ひ、若木(榑桑と同木。扶桑・椹樹・櫻木・□木、九千歳に一度び實を生ず。王母の仙桃の如し)之朱華(葉。桐の葉に似るも赤し)を散じ、碧海(我が長門・周防・安藝・吉備・播磨)を觀、東井を悒(汲)み、欝池宮(兩碕の邊)に過れば、暘谷神王・東海青童君・衆仙、丹椹の朱實・金津の碧醴を陳ぬ。次に祖山(また祖州、即ち東岳廣桑山、乃ち我が淤能碁呂島。淡路國屬島西北の浦・津名郡來馬郷繪島。天柱國柱)に登り、芝田を觀て、養神艸を採り、蓬莱宮に息ひ、復た風山に遊び、青丘(我が筑紫の北面、火國・豐國を本にて四國・木國邊まで)に登り、紫府に過れば、太元眞人紫府先生(谷希子・景林眞人、即ち黄帝・東方朔などの師)、九光の甘液・白文の玉英・青林の白子を陳ぬ」と。
 
 

諄辭、其の六。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月19日(金)21時22分59秒
返信・引用 編集済
 

~承前~

●稻村眞里翁『物部守屋大連の奧津城參拜の祝詞』(明治四十二年秋。公の奧津城は、大阪府中河内郡龍華町大字太子堂に在り)

これの荒野に、寂しく鎭まります、物部大連守屋大人命の御奧津城の前に、○○○○、謹み恐みて白さく。

劣(をぢな)き己ら、常に『日本紀』の御書を繙きまつるごとに、そのかみの御國のさまを考へつゝ、常に汝が命の一世(ひとよ)を偲びまつり、哀しみまつるがゆゑに、今囘び國學(みくにまなび)の道の美はしき朋友(ともがき)、相語らひて、この月の今日の生日の足日に、これの御前に參ゐ出でて、草深き御前を掃ひ清めて、携へ持て來し禮代の御饌・御酒を獻奉り、季節(とき)の花・眞榊を手向けまつりて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り額づき拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ聞こしめせと白す。

畏き大連命の御靈、天皇の大御世を、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまはむは、更にも白さず、天翔り國翔りて、現今(いま)の世のさま、眞委曲(まつぶさ)に看そなはしまして、剛毅(たけ)きその御心のごとく、國民諸々を、彌や益々に大和心、雄々しく振り起さしめたまひ、各も々ゝ直く正しく雄健び進みて、その業(なり)に勤めしめたまひ、己ら國學の道におり立てる、我が同志(どち)を、建てそめし靈の眞柱、搖がず撓まず、汝が命の太き嚴しき御心に肖(あ)えしめたまひ、可美(うま)らに、その業(わざ)、恪しみしまり勵みしまりて、御國のために功勳あらしめたまへと、恐み恐みも白す。



【髮長の神社參拜】
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【備中處士『宜しく物部大連守屋公を祀りて、大いに國を靖んずべし矣而已』 】
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●稻村眞里翁『齋部廣成大人慰靈祭の祝詞』(昭和十五年)

謹みて、從五位下・齋部宿禰廣成大人命の御靈の前に、元官幣大社安房神社宮司・從四位・稻村眞里、謹みて白さく。

汝(な)が命は、天つ皇御祖の大御神の御側に仕へまつらしゝ、天太玉命の御末裔(みすゑ)にまして、世々家の職(つかさ)齋部の長と仕へまつりたまひしは、白さくも更にて、神ながらの道、いとおほほしくなり、外つ國の教説(をしへ)など、漸々に入り來行はれて、世はひたぶるに華やぎ浮きたるかたに成り行きつゝ、往古の事ども、おほかた忘らえ果てなむとせる頃しも、御齡ひ八十歳を超えたまひながら、掛けまくも畏き、平城の天皇の、問はしたまひ仰せたまふまにゝゝ、大同二年二月十三日といふに、豫ねてより慨たみ思ふ御心の緒ろを、包まず隱さはず、明白(あからさま)に、遠き代のありしさま、齋部の御家に言ひ傳へたる事ども、また朝廷(おほみかど)の御祭祀の事(わざ)の、漏れ遺ちたりけむ條々(をぢゝゞ)を、記し連ね言擧げして獻奉らしゝ、『古語拾遺』一と卷は、『古事記』・『日本書紀』の二典(ふたみふみ)に次(す)がひて、永久へに、こよなく貴ぶべく重みすべき御書にして、國民の蒙ぶり來りし恩頼は、實に數へても數へ盡すべからず、稱へても稱へ盡すべきにあらず。

かくて今年は、神倭磐余彦の天皇の、天つ日嗣の高御座知ろしめしゝより、また天富命の、この安房國に渡り來まして、安房の神社を建てたまひしより、方に二千六百年といふ年にしも成りぬれば、安房國主基村(すきのさと)の人・松川清らの人々、汝が命を偲びまつりて、『古語拾遺』の御書の古語會といふを設け、これの主基村の、これの主基小學校におきて、汝が命の御靈を祭るがゆゑに、己れ眞里い、安房の神社に仕へまつり、且つはおほけなくも、『古語拾遺』の講説(かうぜち)し、その講説の書の卷を著(つく)りつる因みあるがゆゑに、遙々にこの席(むしろ)に參ゐ出でて、齋しり嚴知り、汝が命の御靈の御前を拜みて、謹みて白さく。

あはれ、世は千歳の昔、汝が命の、「後の今を見むこと、今の古へを見るがごとけむ」と宣はしゝ言の葉は、まことにさながらになもありける。うべ、彼の二千六百年の昔、神倭磐彦の天皇の、肇國知らしめしゝ、嚴しき貴き御事(みわざ)、國民、擧ぞりて輔(あなゝ)ひまつり恪しみまつりしさまのごとく、中今の大御代、吾が天皇の大御旨趣(おほみおもむけ)のまにゝゝ、國民諸々、清き明き眞心に、相和び相睦びて、天の下の諸國、悉に和らぎ交はりなむとす。

あはれ、廣成大人命の御靈、天翔り國翔り、天の下四方の、かくの状・かくの事の趣、審(つば)らかに眞委曲に見そなはしまして、御國人を、大和心、直く正しく助け導きたまひ、神祭りの事ども・百千の事ども、『古語拾遺』録したまひし、往昔の御心のごとくに、成し幸はへたまへと、謹み恐みも白す。



●稻村眞里翁『「古語拾遺」講説考案奏上の祝詞』(昭和五年十二月二十九日)

掛けまくも畏き、安房大神の大前に、宮司・從五位・稻村眞里、恐み恐みも白さく。

明治二十二年の十月三十日に、明治の天皇の下したまへる、掛けまくも畏き、厚き深き大御言は、廣く空蝉の世のさまを看そなはして、御國の國の初めより、遠皇祖の御代々々をも考へたまひ、遙けき將來(ゆくさき)をも思ほしませる、高き貴き上なき御訓へにしあれば、天の下の國民は、老いも若きも男も女も、悉とにこれの御訓へのまにゝゝ、惑ふことなく躊躇(たゆた)ふことなく、一すぢになも進み來たりける。

かくて歳月は流るゝごとく來經行き移ろひて、今年、昭和の五年といふ年は、彼の大御言下したまひてより、はやくも四十年にしもなりぬれば、この年を、人の心に忘るまじき、いと好き可美し年と、この安房國神戸村(かんべのさと)のわたり(邊)に住める、古へ學びに志(こゝろ)ある眞實人(まめびと)ら、掛けまくも畏き、神倭磐余彦の天皇の大御代の初めより、これの里に鎭まり坐す、吾が大神の御裔、從五位・齋部宿禰廣成大人が撰(つく)りて獻奉れる、『古語拾遺』の一と卷を、讀み究め明らむべきことを語らひ定めて、その講説を、拙き劣き眞里に乞へり。眞里い、大神の御傍(みそば)に仕へまつる職に在れば、おほけなくも辭(いろ)はず諾ひて、その講説に添へて、御國の國體(くにがた)の概略(あらまし)、また古へ史の事ども、その百千が一つをだに説き明さまほしく思ひて、時こそあれ、今囘びこの神狩り祭の神事、仕へまつると、御社に齋み籠れゝば、暇々(いとまゝゝゝ)に、この講説の概略を思ひ計り定めむとす。

掛けまくも畏き、吾が大神、かくの事を平らけく諾ひたまひて、劣き眞里が身にも家にも、八十禍つ靈の禍事あらしめたまはず、平らけく安らけく、幸く眞幸く守りたまひ、千歳の遠き昔に、廣成宿禰が、心を碎き思ひを潛めて、撰り成したる、この美書(うましぶみ)、過つことなく違ふことなく、直く正しく明らけく讀み考へ悟り得しめたまひ、説き添へむ講説の條々をも、美らに思ひ構へ組み成さしめたまへと、鵜じもの頸根突くきぬきて、恐み恐みも白す。



●稻村眞里翁『假作──祖靈前「古語拾遺」奉獻奉告の祝詞』(昭和二十年頃)

掛けまくも畏き、遠つ大御祖・天太玉命の珍(うづ)の大前に、御裔孫(みはつこ)・從五位下・齋部宿禰廣成、恐み恐みも白さく。

皇御國の傳へ、上つ代には文字といふものなきがゆゑに、貴きも卑きも、老いたるも若きも、悉とに往古への事業は、口より口に言ひ傳へて、忘るゝことなかりしを、文字ありてよりこのかた、人々、口に往古へを語ることを好まず、浮きたる華やぎたる事のみ競ひ興りて、なかゝゝに舊き事・遠き世の事どもは、卑しみ嘲りて、果て々ゝは時を逐(お)ひ世を經て、事、彌や新たに、物變り遷るに至りて、その事の故實(もと)を問ふに、根をも源をも打忘れぬ。國つ史・家の牒(しるしぶみ)など、その由を載せてはあれど、なほいさゝか漏れ遺ちたるもあり。拙く劣くはあれど、今しも、廣成い、申さずは、恐らくは絶えて世に傳ふることなけむ。幸はひにも、掛けまくも畏き、我が天皇命の大御言以ちて問はしたまふまにゝゝ、胸に思ひたゝなはる憤りの心を□[手+慮。の]べ聞こえまつらまく欲りして、我が家に傳ふる舊説(ふるごと)を録して、かくさまに、この一卷と成して、『古語拾遺』と名づけて、これより、掛けまくも畏き大御前に獻奉らむとす。

己れ廣成、老いさらぼひて、已に八十路を逾(こ)えて、君を思ひまつること、朝暮、少時(しばし)も休(や)む時あらず。若し一度びこの世を罷らば、地の下に悔ゆとも恨むとも、何とかはせむ。巷の邊(わたり)の、そこはかとなき説き言・物語なども、なほ採るべき事はあるべく、卑しきはしたなき賤(しづ)が夫の思へる事どもも、空しく棄つべきにあらずと思ひて、心盡して、この一卷を成しつれば、乃ち今ま汝が命の御前に獻奉らくを、平らけく安らけく諾ひたまひて、この一卷、掛けまくも畏き大御前に、嘉納(おむかし)み看そなはしまさしめたまひ、彌や遠永に守り幸はへたまへと、恐み恐みも乞ひ祈みまつらくと白す。



■香取神宮少宮司・大講義・豐城渡邊重石丸國前直重任翁『固本策』──古語拾遺論に曰く、

神皇之道は、禮樂より大なるは莫し焉。‥‥廣成、禮樂、未だ明かならざるを以て、之を斥くる者は、蓋し婉言以て之を憤りし也。夫れ禮樂の名は、異域に出づと雖も、而も其の實は、神皇の、以て億兆を陶冶し天下を經緯したまふ所以の大法也。廣成、禮樂を神代に復せんと欲す。卓見確論、實に一代の偉人と謂ふ可し矣。嗚呼、廣成の志の行はれざりしより、儒佛の迹、日に興り月に熾んにして、禮樂の化、[火+潛の右。や]みぬ矣。其の極や也、帝王を絶海に移しまつる者、之れ有り、天下を股掌に弄ぶ者、之れ有り。皇室陵替したまひ、華胄も亦た隨ひて凋衰す。其の禍ひ、豈に特(ひと)り忌部氏の不幸のみならむや也。然らば則ち之を如何にせば可ならむ。曰く、鄙俗を往代に易へ、粃政を當年に改む者は、廣成の志也。學者今日の務めは也、无も當に廣成の志を以て心と爲し、時に隨ひて制を埀れ、絶えたるを興し廢れたるを繼ぎて、以て千載の闕典を補ふべきのみ耳。若し明治維新の年に當りて、望秩の禮を制すること能はずんば、又た何をか學と、之れ云はむ哉。‥‥

 嗚呼、天下の曠き、三千八百萬人の衆きも、擧げて之を大觀すれば、則ち比比として、人、外國の奴隷爲らざる者莫し焉。之を「夷狄を中國に養ふ」と謂ふ也も、亦た何ぞ不可ならむ。抑も儒者も人也、佛者も人也、洋學者も、亦た人也。而して其の徒、皆な覿たる面目有りて、浮華、之を尚び、舊老、之を嗤ひ、大日本人爲るを愧づ。甚しきは、則ち降を賣りて後れむことを恐るゝ也。然らば則ち今日、滿天の怪雲愁雨は、安んぞ廣成が大同三年、憂國の涙に淵源せざるを知らむ哉。古人言ふ有り、「禮樂崩れて、夷狄横(ほしいまゝ)なり」と。豈に信ならず乎。‥‥

 神州の正氣、委靡振はざる者は、蓋し異邦の學有りて、以て之を蠧すれば也。何を以てか之を謂ふ。曰く、上古の世、各々承くる所ろ有り。貴賤老少、口口に相ひ傳ふる者は、上古の學也。是の時に當りて、人、各々其の君を君とし、其の祖を祖とし、其の國を國とし、其の家を家とし、其の内を内とし、其の外を外として、天子は此れを以て天下を治めたまひ、國造は此れを以て其の國を治め、蒼生は此れを以て其の家を治む。大小の事、古を師とするに非ざる者無く、亦た神を師とするに非ざる者無き也。予の意へらく、所謂る貴賤老少とは、朝野に通ずるの名にして、其の人、口口に相ひ傳へて、戒愼勅勵すれば、則ち其の功、或は讀書の功に倍する者有らむ矣。其の風を傳へ俗を成すに及びて、則ち誰か疑ひを前言往行に容るゝ者有らむ哉。皇天傳國の詔・二尊經營の跡・醫藥禁厭の類の如き、朝野に播(ほどこ)し談論を發し、耳に觸れ心に勒(しる)し存して忘れざれば、則ち千百世も、猶ほ一日の如し。是れ、其の純一の俗を成せし所以ん也。‥‥

 
蓋し浮華を黜(しりぞ)ければ、則ち實學擧らむ矣。舊老を尚べば、則ち輕躁の風熄まむ矣。故實を問へば、則ち國體立たむ矣。根源を識らば、則ち萬世不易の國是定まらむ矣。嗚呼、果して斯道を興さむと欲すれば、則ち亦た施設の法、陶冶の術、何如を顧みるに在るのみ耳」と。
 

 

諄辭、其の五。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月16日(火)22時32分23秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●中島廣足翁『遊學神拜の祝詞』(『橿園文集』所收。◎稻村眞里翁の曰く、「文字精錬、末節、或は句を重ね、或は句を疊みたるところ、殊に古文の法にかなひてめでたし」と)

天つ神・地つ祇、諸もろの皇神等の大前に、○○○○、恐み恐みも申し賜はく。

某、負ふ氣無くも、吾が皇大御國の古之道をし、仰ぎ恐み尊み、うむが(欣)しみ奉るに依りて、掛け卷くも綾に恐き、久方の天津神代の御書(みふみ)より初めて、皇孫命の大八洲國知ろし食す御代御代の御書・御掟書・歌書・種々の古へ書等を、讀み明め解き明めむと爲てなも、天の下四方の國々、い行き囘らひ、問ひ放(さ)け見論らひ定むなる。

故れ其(◎○○○○)の、い行き囘らふ四方の國々、海より行く路は、朝渡る洋(なだ)の迅風(はやち)に逢はせ(◎逢はしめ給は)ず、夕渡る瀬門の浪折(なをり)に逢はせ(◎逢はしめ給は)ず、山より行く路は、朝越ゆる峰の佐霧に惑はせ(◎惑はしめ給は)ず、夕越ゆる御坂の氷雨に惑はせ(◎惑はしめ給は)ず、留まらむ國々、旅居せむ郷々にて、不平(やくさ)む事なく、惱む事なく、夜の守り・日の守りに、守り幸はへ賜ひて、學びの業を、彌や助けに助け給ひ、彌や獎めに獎め賜ひて、遲き心を速(と)く、暗き心を明けく、思ひ得悟らしめ給へと、

鹿自物、膝折り伏せ、鵜自物、頸根衝き拔きて、恐み恐みも申し給はくと申す。



●草鹿砥宣隆翁『井神祭の祝詞』(『祭文例』所收。◎稻村翁の曰く、「簡淨にして、極めて體を得、結構、井然として、祝詞の體樣を美はしく得たり」と)

掛けまくも畏き、彌都波能賣神・御井神・鳴雷神の大前に、(◎齋主・○○○○、)畏み畏みも白さく。

此の御井を、廣く厚く守り賜ひ幸はへ賜ひて、千代・萬代も、ぬる(温)む事无く濁る事无く、涸るゝ事无く淺(あ)する事无く(◎淺する事无く涸るゝ事无く)、和ごき水の甘き水の、清き水の(◎此の一句、省かば美しくなるべし、或は、淨き)さや(清)けき水を、彌や多に彌や廣に、授け賜ひ與へ賜ひ、諸もろの穢れを祓ひ給ひ清め給ひ、過ち犯す事の有らむをば、見直し聞き直し坐して、夜の守り・日の守りに守り幸はへ給へと、禮代の幣帛を捧げ持ちて、恐み恐みも稱辭竟へ奉らくと白す。



●久保季茲翁『少彦名神を祭る祝詞』(『祝詞作文便覽』所收。◎稻村翁の曰く、「大神の功績を簡明に稱讚して、遺るふしなく、尤も細心の作といふべし」と)

掛け卷くも畏き、少彦名大神の御前に、稱辭竟へ奉らく。

高天の神王(かぶろ)御産巣日大神の御子、一千五百座(ひとちいほくら)坐しゝ中に、御祖の命の御指間(みたちまた)よれり漏(く)き坐せる御子と坐して、彼の日の入る諸もろの國等(くにども)造り堅め給ひ、雀(さゞき)の羽を衣とし、天之羅摩(あめのかゞみ)の船に乘り、此の日出づる國に歸り來給ひ、所造天下(あめのしたつくらしゝ)大穴貴命と兄弟(あにおと)と成り、心合はせ力戮はせて、大八島國を蘆・菅殖(う)ゑて造り堅め、又た顯見蒼生(うつしきあをひとぐさ)、及(ま)た畜産(けもの)の爲めに、藥法(くすり)・咒術(まじなひ)の方(みち)を定め給ひ、又た人皆の給(た)びゑらぐ酒(みき)を造り初め給ひ、伯耆國の粟島に至り給ひ、粟莖(あはがら)に乘りて、再び常世の郷(くに)に渡り給ひ、其の國國の土毛(くにつもの)を、千船・八千船に積み載せて、此の皇國(すめぐに)に獻貢らしめ給ひ、大凡そ内外の萬國々に、盡とに御恩頼を蒙らしめ給ふ、高き貴き御徳(みいつ)を畏み忝み奉りて、今日の生く日の足る日を吉き日と定めて(◎生日の足日に、或は、今日を生日の足日と定めて)、御酒・御食・種々の物を御前に捧げ奉り、稱辭竟へ奉る状を、平らけく安らけく聞こし食し、守り幸はへ給へ(◎彌や守り幸はへ給へ、或は、此の祈願の句を省かば、却りて美しくなるべきか)と、畏み畏みも申す。
 
 

諄辭、其の四。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月13日(土)22時27分39秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●櫻東雄翁『香取大神に奏す祝詞』(『大阪府皇典講究分所録事』所收。◎稻村眞里翁の曰く、「文勢悠揚、一句の冗漫なるものなく、所思を述べつくして遺憾なく、措辭また古文の趣を得たり」と)

掛けまくも畏く、言はまくも貴き(◎此の句、縣居翁に始まると雖も、古典に證も無くして穩かなず)、現つ御神、吾が天皇の大御詔(おほみこと)以ちて、此の下總國なる香取郡に、大宮柱太敷き坐して鎭まり坐せる、經津主大神の大前に宣りたまふ大敕(おほみこと)は、頃年之間(このとしごろ)、海の外なる諸國(もろくに)の蠻夷等(えみしら)、商ひの業を乞ふと言ひて、大海の波、掻き別きて、島の八十島・國の八十國に、船□[手+旁。こ]ぎ寄せ來つゝ、強ちに言ふ辭等(ことゞも)は、吾が大皇國(おほみくに)を□[豈+見]覦(うかゞ)ふに有るらしと思ほして、大御意も安からずなも大座します。故れ天つ神・國つ神の大前を治め奉りてば、天の下は、自らに安寧(やすか)らむと思ほし食す隨(まに)まに、此の吾が大神の大前に、大幣帛の物、横山の如と置き足らはして、此の食す國に、事無からしめむ事を祷み奉る事の由縁(よし)を、神主・祝部等、恐み恐みも申さく。

諸國の夷等の、大皇國に渡り參ゐ來て、なめ(無禮)き言をも禮(ゐや)なき業をも作(し)ぬる事、多年(あまたとせ)に成りにたれども、尚ほおだ(穩)ひ敷く見直し聞き直し坐して、彌や歳月重なり行く隨まに、情進(すゞろ)なる者共は、彼の夷等の、智慧(さとり)深げなる究理と云へる、珍らかなる業爲すを見聞きて、愛で惑ひつゝ、黒(きたな)き心の蠻夷等、近づけ親しみて、商ひの業をも縱(ゆる)して成さしめ、好(よしみ)をも結ばむと言ひ思ふ者も、多(さは)に成り來にたれば、今より後は、彌よ益ます蠻夷風りの事等のみ蔓衍りて、神隨らなる神の御國の人心、皆な悉とに夷心に移ろひなむ。然か移りもて行きなば、國内(くぬち)悉とに、吾が國の人意ざまには非ず成り行きなむ。斯く成りもて行きなむ後に、若し慮(おも)はぬ事出で來たらむには、海路・陸路に、千萬の軍人をば居(す)ゑて守らしむとも、防ぐ事得じと、(◎以下の數句、自己の心情を獨語的に吐露することが主になりて、神をさしおくことになる故に、敬意を失ふべし。愛國の衷情はともあれ、神に敬意を失ふことは本意なきことなり)慨たくも憤ろしくも念ほゆる哉(かも)、悲しくも悔しくもせむ便(すべ)なくも念ほゆる哉。

在昔(いにしへ)、水垣宮に御宇(あめのしたしろしめし)天皇の御代・玉垣宮に御宇天皇の御代の二た御世に、海の外の戎狄等(えみしども)の參ゐ來、仕へ奉りしを始めて、息長足姫尊は、新羅・百濟・高麗の國々を、服從(まつろ)へ賜ひ、文永・弘安と云へる年の頃には、蒙古(むくり)の國より遣(おこ)せたりける千萬の軍人を、皆な悉とに殺し盡したりしかば、大皇國の大稜威、至らぬ隈も无く、天の下、皆な震ひとゞろきたりき。其は皆な天地の神祇等の幸はへ助け座すに依りて、此の大きなる勳功は有りけるを、中今の世の人意、昔に及(し)かず在りとも、變らぬ神の御言と傳へ來し、 萬千秋の長秋に、吾が御子の知ろし食さむ國と、神御祖・天照皇大御神の大御口、自ら詔り賜ひ定め坐し大御言の隨まに、天地の依り合ひの極み、動くこと无く傾くこと无く、吾が天皇の大御代を、夜の守り・晝の守りと(◎に)守り坐して、吾が大神、奇靈なる御意以ちて、道の八衢に踏み惑へる人の意の雲霧をも拂はし坐して、照る日成す、明く淨く健く雄々しく直く忠誠(まめ)なる皇御國の、人民(おほみたから)の本つ意に直さしめ賜ひて、皆な人毎とに、吾が天皇の大御意を意と爲て、八十戎國の穢き夷意に、相率こり相口會ふ事無く、蠻夷が船の千船百船□[手+旁]ぎ寄り來て、相讐なひ奉るとも、吾が大神の比類(たぐひ)無き御稜威を以ちて、若葦成す取り挫(ひし)ぎ坐し、泡雪成す蹴散(くゑはらゝか)し棄(う)て坐して、此の大御世を、手長の大御世の重(いか)し御世の足らし御世と、守り福はへ奉り(◎給ひ)、吾が天皇の大御意、平らけく安らけく笑み榮えしめ(◎坐さしめ)賜ひ、百の官の人等・天の下の萬民に至るまでに、己が乖々(むきゝゝ)有らしめ(◎給は)ず、樂しく仕へ奉らしめ賜へとして、獻出(たてまだ)す、うづの大幣帛の物捧げ奉りて、嘉永六年十二月二十七日の朝日の豐榮登りに、神主・祝部等諸共に、大神の廣前に、宍自物、膝折り伏せ、宇自物、頸根突き拔きて、畏み畏みも白す。



●稻村眞里翁『平景隆公殉國六百五十年記念祭の祝詞』(公は、贈正四位、平内左衞門尉と稱す。大正十二年九月三十日)

掛けまくも畏き、新城神社の大前に、社司・吉野蜜太郎、恐み恐みも白さく。

高天原に神留まります、神漏岐・神漏美命以ちて、遠皇祖(とほすめろぎ)の御世々々、天つ高御座に大坐しまして、安國と平らけく、天の下知ろしめすまにゝゝ、豐葦原の瑞穗の國は、禍神の千早振る荒ぶることなく、外國との交際(まじはり)も、世の遷ろひ行くなべに、疎き・親しき折々はあれど、一囘(ひとたび)もその侮辱(あなどり)を受けたることはあらざりき。さるを唐土(もろこし)は、宋といふ國の世に、蒙古(むくり)の戎狄(えみし)、漸々(やゝゝゝ)に猛くなりて、金の國・宋の國をも滅して、遂に高麗(こま)の國をも從へ靡けて、勝利(かち)の荒(すさ)びに、御國にも迫り來て、幾囘か高麗人を遣はし、また己れも屡々使ひをおこせて、交際を求めき。然はあれど、御國をば高麗・唐土の國々と等格(ひとしなみ)に思ひ蔑(な)みして、禮(ゐや)無く驕りてあれば、何かは許し諾ふべき。終ひには言はまくも忌々(ゆゝ)しき、文永・弘安の役(えだち)となもなりぬる。

掛けまくは畏かれど、汝(な)が命は、現世には、平の景隆と御名は申して、大和心、嚴(いか)く雄々しく、これの壹岐の國の守護(かみ)の代はりと、勤しみ仕へまつらしゝ折しもあれ、御世の號(な)は、文永の十有一年の十月、蒙古の醜の狂奴(たぶれ)ら四百餘人、先づしも對馬の國に攻め入り荒び健び、尋ぎてその十四日の日、これの壹岐阜の國に寄せ來て、今より考ふれば、香椎・鯨伏と思しき里べより陸(くぬが)に上りて、赤幟(あかはた)押立て、東の方に進み來つれば、汝が命い、凶徒(あた)ども寄せ來ば、國人・家人、相催して防ぎ戰へと仰せたる、鎌倉の令書の旨(のりのふみ)を固く守りまして、家人ら、僅かに百有餘人の人々と倶に雄健び、矢合せして防ぎ戰へど、士卒(いくさびと)多に討死し、汝が命も、痛矢串蝟(いたやぐしくさふ)のごと負ひましつれば、家の子・宗の三郎して、包圍(かこみ)を脱がれて、海つ路(ぢ)より博多に赴きて、筑紫の遠の朝廷に、事の由を告さしめたまひ、かくて次の日、親族・家族・家の子らと倶に、みづから身亡せたまひにき。

これよりのちの賊(あた)どもの、醜めき汚きかぎりを盡せる狂行(たはわざ)は、聞くも痛ましく言ふもえ忍びず、悔しく憤ろしく、千歳五百歳ののちにも、これの壹岐の國人のみかは、天の下、悉とに牙噛(きか)み髮逆立ちてなも思ほゆるなる。あはれ、あはれ、この時、國内は搖(ゆす)りて驚き憂ひ、公には、筑紫の武士には、海邊の防備(そなへ)怠らず警めしめ、天の下の寺々社々には、敵(あた)をば掃ひ平(む)けむことを祈み白さしめたまひ、掛けまくも畏き、龜山の天皇命は、惶きかも、現し大御體(おほみま)、世のため御國のため、この禍事に代はらむと、伊勢の皇大御神の宮に、誓約(うけ)ひ白さしめたまひたりき。汝が命、かゝる折しも、大君の醜の御楯と、天の下に先立ちて身亡せましゝは、まことに忠誠(まめ)なる臣の鑑と稱へ申すべく、當時(そのかみ)にも後の世にも、永久に世の人の鋭心(とごころ)振り興さしめたまふ御功勳、誰しの人か、仰ぎ尊ばざらむ。

かくて事態(ことわざ)さまゞゝに移ろひつゝ、時世來經行きて、かの忌々しき恐しき年より掻き數ふれば、今年は、方(まさ)に六百有五十年に成りぬれば、特(こと)なる大き御祭仕へまつりて、汝が命の御靈を慰めまつらむことを、これの壹岐の國人に議れば、國人、悉とに喜び諾へり。故れ汝が命の身亡せましゝ、この月の十五日といふ今日の日を選び定めて、これの大前に、遠方(をち)より近方(こち)より、人々諸々參ゐ來集侍(うごな)はりて、海・川・山・野の種々の物ら獻奉りて御祭仕へまつり、また相撲(すまひ)・撃劍(たちかき)、またさるべき雄々しき技ども演出(しい)でて、大前に奉獻らくを、愛ぐし欣(おむ)かしと、諾ひ知ろしめせと白す。

掛けまくも畏き、我が大神、かくの状を平らけく安らけく、御心も樂(うら)げ諾ひまして、天皇命の大御世を、嚴し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまひ、天の下の人心、汝が大人の命の御心のごと、彌や益々に猛く雄々しくあらしめたまひ、あからさまにも横邪(よこさ)の道に惑ふことなく、君臣の道の大義(おほきことわり)、眞清明(まさや)けく明らめ正して、平生(つね)は、一向(ひとむき)に家の業に勤しみしまりて、幸く眞幸く睦び和び富み足らはしめたまひ、事とある時は、大君の醜の御楯と、功勳しく勤はき仕へまつらしめたまひ、武士の道、彌や遠永に、守り幸はへたまひ、御國の禍難(わざはひ)は兆さぬさきに、神風の伊吹き拂はしめたまひ、御國の大御稜徳(おほみいつ)、天輝(あまかゞ)し國輝し、永久に輝き滿たしめたまへと、鵜じもの頸根突きぬきて、恐み恐みも祈みまつらくと白す。



 先般、岡山縣護國神社にて、皇道日報社・秋田智紀主の誘ふ所、式内縣社足高神社へ無理を申して、御遷宮お白石持行事への參加が叶ひ、備中の一處士、圖らずも一日「特別神領民」とならせて戴けさうです。是れ、二十年に一度、否、一生の譽れ、無上の神縁、而して天地幽契の神都・内宮の中樞に參ゐ登る歡喜と共に、今より身の引締まる思ひです。
 
 

諄辭、其の三──武神を祭りて、雄心を振起せしめよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 9日(火)21時26分9秒
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  ~承前~

 祝詞諄辭に口熟れて、謹みて神の御前に奏せば、嬉しきかな哉、噫、清々しきかな哉。


■稻村眞里翁『評釋・近世名家諄辭集』(昭和七年十一月・明治書院刊)より。なほ「◎」は、翁の批なり。翁の曰く、「今の人の文、往々、大君に對する敬語『奉り』を省くは、『祝詞式』中に、「大御代を幸へ給へ」と云ふやうなる文のあるにひかれて、ふと取りおとすことならむか。『祝詞式』は、主として朝廷の祝詞なれば、敬語の使用法を簡約せるところあるやうなり。注意して看るべきなり」と。



●平田篤胤大人『豐香島の天之大神の御前に祈み白す詞』(『古學諄辭集』所收──大人の説に、「鹿島大神と香取大神とは、二神にして一神の趣あり。一神にして又た二神とも見ゆ」と論ぜられたれば、奏上する祝詞も、自ら同一なりしなるべし。以下[云々]は、香取大神に白す時の詞にして、即ち兩宮に同じ樣に申されたるなり)

衣手の常陸國鹿島郡香島郷[下總國香取郡香取郷]の底津石根に、大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて鎭まり坐す、豐香島の天之大神[香取大神]と、稱辭竟へ奉る。掛けまくも畏き武甕槌之男大神、亦の名(みな)・豐布都神、亦の名・健布都神[布都主大神、亦の名・伊波比主大神]の大御前に、舊と此の邊り領在(しり)たりし、千葉介平常胤が裔孫(はつこ)・平篤胤、畏み畏みも祈み白す事の由を、天迦具神[御前の事執り給ふ神等]、耳、彌や高に聞き取りて執り奏(まを)し賜へと白す。

高天原に神留り坐す、神魯岐・神魯美命の大詔命(おほみこと)以ちて、「豐葦原の水穗國は、吾が皇美麻命の治ろし食さむ國」と言依さし賜ひて、八百萬の神等を、天の高市に神集へ集へ賜ひて、「彼の國は、伊都速振る荒ぶる神の多在(さは)なると(◎天忍穗耳命の)思ほすは、誰(いづれ)の神を使はして言向けまし」と詔り賜ふ時に、八百萬の神等、神議り議り坐して、「天穗日神、是れ遣はす可し」と申しき。故れ此の神を、國體見(くにがたみ)に遣はしゝに、三年に至るまで返り言申さず。次に遣はしゝ、健三熊命も、父の事に從ひて、返り言申さず。又た遣はしゝ、天稚日子は、邪(よこしま)の所爲(しわざ)有りしに依りて、返し矢に中りて、立處に身亡(みまか)りき。是を以て更に八百萬の神等に、思はしめ賜ふ時に、八意思兼神、深く思ひて議り給ひつらく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す神、名は伊都之尾羽張神の子・武甕槌男之神[石拆・根拆神の子、石筒之男・石筒之女神の子、布都主神]、是れ遣はす可し」と白し給ひき。

於是(こゝ)に大神、出雲國の伊那佐の小濱に降り到(つ)き賜ひて、國造らしゝ大國主神、其の子・言代主神を問ひ和はし坐して、現(うつし)國の事、避らしめて、健御名方神を、諏訪の海まで追ひ退(そ)け給ひ、久那斗神を御導きと爲て、大八島の國中(くぬち)悉とに見廻(みめぐ)り賜ひて、千早振る荒振る神・螢なす光(かゞや)く神、狹蠅なす喧(さや)げるを、神攘ひ攘ひ神和はし和はし坐し、石根・木立(このたち)・青水沫(あをみなわ)・草の片葉(かきは)も言止めて、安國と治め賜ひ、歸順(まつろ)ひ坐せる八百萬の神等を帥(ゐ)て、白雲に乘りて、天に參ゐ上りて、返り言白し給ひて、首渠(ひとご)の神・大物主命の齋ひ主として、齋ひ鎭め賜ひ、皇美麻命に、安國と平らけく治ろし看させ奉り賜ひ、橿原宮に初國治ろし看しゝ天皇の、大和國に打入り賜ふ時に、助け奉り賜ひて、御軍人の邪(あやしき)神の氣吹に□[病埀+卒]伏(をえこや)せるを、國平(くにむ)け坐せる御太刀・布都の御靈を降し賜ひて、其の荒振る神を、皆な切仆し賜ひ、天之香島宮より、此の御郷に移り坐して、志貴島宮に大八島國治ろし看しゝ天皇命の御世に、大坂山の頂に、白桙・御服(みそ)を生ふし賜ひ、「食す國の大政事、平らけく安らけく守り坐さむ」と、識(さと)し賜ひて、天神之御子の現御神と、神隨ら治ろし看す御世御世を、手長の大御世と、萬千秋の長秋に、堅磐に常磐に齋ひ奉り、茂かし御世に幸はへ守り(◎奉り)賜ふ、高き貴き御稜威に依りて、荒振る神の喧ぎ無く、穩ひに安らけく住まひ來る事の、廣き厚き御惠みを、悦こび嘉(うれ)しみ(◎て)、大宮の方に向ひて、日に異に拜み奉るになも。

如此(かく)は在れども、三つ栗の中御世より、外(とつ)國國の横さの道の渡り來て、蟹が行くなす邪説(よこさまごと)を、上へ無き物と説き弘むる事知り人の、さ蠅の如く噪(さや)ぎ漫(ほびこ)り、皆な人、其れに率(まじこ)りて、諸越の戎(から)のえみしを、日知りと敬ひ、いなしこめ、穢き底の國邊の國の乞食(かたゐ)の祖(おや)に諂ひて、客神(まろひとがみ)と尊みて、奇靈に畏き皇神の、神隨らなる大道の中に生れて在りながら、其の御蔭を思はずて、神の惠みをおほろかに思ひ居る人、多在なる事の懷悒(いきどほろ)しく慨(うれた)きに、此の頃、又た於蘭陀と云ふ底より、國の學び事さへ始まれるを、立廻(ま)ひて稍や看るに、其の言ふ説の、百足らず八十の中には、少かの善き事も有りげに見ゆれども、善き事に惡(まが)事、い繼(つ)ぐ例し在れば、流れての世に、何状(なにさま)の邪説の蔓り來むも計り難く、神の御國の神の御末と生(あ)れしめ給へる、神の御靈の忝さを、五百濱・千濱の限り無き眞砂(まさご)の數の、其の一つも報い奉らまく欲(ほり)する心に、安からず思ひ慮りて、燒き太刀の利心(とごころ)興し、身に敢へぬ事(わざ)には有れど、然からむ時の倭心の柱の固めに、とほしる(遠著)き神世の道を説き明し、記し置かまく思ひ興して、年まねく間無く閑無く功(いそ)しみ學ぶ、直き厚き心の底を、神に奏して、彌や益益に御靈の徳(ふゆ)を蒙ふらむと、殊更に思ひ立ちて、渡邊之望と共に、御前に參ゐ來て、祷り拜み奉り、

其の禮代(ゐやじろ)と奉る物は、此度び新たに古き状を考へ出でて、鍛冶(かぬち)・川邊正秀に作らせたる眞金の鏡を、青和幣・白和幣と共に、榊の枝に取り著けて奉る、清き赤き心の誠を、此の奉る眞金の鏡の眞清明(まさやか)に、見し明らめ聞こし看し悟り坐して、憐み賜ひ惠み賜ひ、異(こと)國風りの枉説(まがごと)を攘ひ却(やら)ひて、神の御世の直き風(てぶり)を説き明かさむと、功しみ學ぶ篤胤が學びの業を、彌や進めに進め賜ひ、彌や助けに助け賜ひ、古説の學びを、むくさか(繁茂)に榮えしめ賜ひて、神代の昔、大神の、荒振る神を神問はし問はし給ひ、狹蠅なす噪げる神を神攘ひ攘ひ給ひ、石根・木立・青水沫・草の片葉をも言止めて、安國と治め賜へる事の如く、外國學びの徒(ともがら)を、皆な悉とに問ひ和はし言向けしめ賜ひ、戎説(からごと)の氣吹の狹霧に□[病埀+卒]癡(をえし)れたる人等の、忽ちに心醒め和み安みて、長寢(ながい)爲つる哉と悔い驚き、此の正道に面向きて、諸もろ同じ心に助けまつろ(◎ら)ひ、神の御稜威を、大空の壁立つ際(きは)み、青雲の墜坐(おりゐ)向か伏す限り、谷蟆の狹渡る極み、鹽沫の至り留まる限り、彌や弘に説き弘めしめ賜ひ、篤胤が拙き心に思ひ得たらむ考へを、記(か)き著はさむ書の卷卷、有りの盡と、あぶさはず(散らさず・漏らさず)、思ふが任(まゝ)に板に彫(ゑ)りて弘めしめ賜ひ、萬世の永き世に、常磐に傳へしめ賜ひ、咎・過ち在るをば、神直毘・大直毘に見直し聞き直し賜ひて、業(こと)成し竟ふるまで、壽命(いのち)長く身健かに、煩はしき事無く、又た妻子等(めこら)・親族・朋友(ともがき)・教子等が身にも、禍神の禍事無く幸はへ賜はゞ、今ま立奉る御鏡を、八咫鏡に替へて賽(かへりまを)しに奉らむと、誓言(うけひまを)して祈み奉る事の由を、平らけく安らけく聞こし看せと白す事を、天迦具神[御前に事執り給ふ神等]、眞男鹿の耳振立てゝ、聞取り給ひ奏し賜へと、

畏(かじこ)じ物、進退(しゞま)ひ匍匐(はらば)ひ、鵜じ物、項根突き拔きて、天之八平手打上げて、畏み畏みも言告(いの)り祝(ほざ)き奉る(◎奉らく)と白す。



●六人部是香翁『武神祭祝詞』(『私祭要集祝詞』所收)

此の神床に神籬立てゝ、招請(をき)奉り坐せ奉る、建御雷之男神・經津主神の御前に、稱言竟へ奉らくと白す(◎奉らくは)、

高天原に神留り坐す、皇が親(むつ)神魯岐・神魯美の命以ちて、「皇御孫命は、豐葦原の水穗國を、安國と平らけく知ろし食せ」と、天の下、依さし奉りし時、八百萬の神等を、天の安河の河原に、神集へ集へ賜ひ神議り議り賜ひて、「彼の國は、知速振る荒振る神、多在なりと聞こし食すを、誰れの神を遣はしてか、言向けまし」と、問はし給ふ時に、八意思兼神、深く思ひ遠く議り給ひつらく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す、伊都之尾羽張神の御子・建御雷之男神、石拆根拆神の御子・經津主神、是れ善(え)けむ」と白し賜ひき。

是を以て二柱の大神等、神漏岐・神漏美の大命を以ちて、出雲國伊那佐の小濱に、天降(あも)り著き給ひて、國造らしゝ大國主神、其の御子・言代主神を、神問はし問はし賜ひて、現國の事避らしめ、久那斗神を郷導(みちびき)と爲て、大八洲國中(くぬち)、悉と廻り給ひて、螢なす耀く神・狹蠅なす邪(あ)しき神等(かみども)をば、神掃ひ掃ひ給ひて、語(こと)問ひし石根・木立・草の片葉をも言止めて、安國と平らけく鎭め給ひき。

又た畝火の橿原宮に、初國治ろし看し天皇命の、大和國に打入り賜ひし時に、邪しき神の氣吹に、□[病埀+卒]臥し坐せるを、國平けの横刀(たち)・布都の魂を、天降し寄さし(◎奉り)給ひて、荒振る神を、皆な切仆し賜ひき。又た師木水垣宮に、大八洲國知ろし看し天皇命の大御代にも、大坂山の頂に、白妙の大御服を著(き)坐し(◎て)、白桙を御杖に取り坐し(◎て)、識し賜ふ命は、「我が御前を治め奉らば、汝(みまし)知ろし食す國平らけく、大國・小國、事依さし給はむ」と識し賜ひき。

故れ此の大稜威の高く(◎き)貴き御靈のふゆを忝みて奉る幣帛(みてぐら)は、射放ち物と弓矢、打斷つ物と太刀、馳せ出づる物と御馬、由紀の御食・御酒は、甕戸(みかのへ)高知り甕腹滿ち雙(な)べて、大野の原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は鮨(はた)の廣物・鮨の狹物・奧津海菜(もは)・邊津海菜に至るまでに、横山の如く几物(つくゑしろ)に置き足らはして奉る幣帛を、大神等の御心も明かに、安幣帛の足る幣帛と、平らけく聞こし看して、

今も去前(ゆくさき)も、武士(ものゝふ)の道、彌や守りに護り、彌や助けに扶け給ひて、靱(ゆき)負ふ伴の男・劒(たち)佩く伴の男等、常に鋒心(とごころ)振り起して、額には箭は立つとも、背は箭は立てじと言立て爲つゝ、劒のたかみ(柄)取りしばりて、順(まつろ)はぬ人等をば、坂の尾毎とに追ひ伏せ、川の瀬毎とに追ひ撥(はら)ひて、悉とに言向けしめ給へと、しゝゞ物、膝折り伏せ、うじ物、頸根突き拔きて、稱言竟へ奉らくと白す。



 かつて偶見せし、次の諄辭あり。拜書して、記し置かまし。

●物集高見博士『平田神社に報告し奉る詞』

贈正四位(後に從三位に陞り給へり)・平田先生の神靈の御前に、弟子・文學博士・物集高見、謹みて申す。高見、初めて先生の貴書を拜讀せしは十七歳の春にして、其の書は、『西籍概論』・『出定笑語』・『古道大意』・『伊吹颪』などにて、『西籍概論』にては儒學の大要を識り、『出定笑語』にては佛教の顛末を辨へ、『古道大意』・『伊吹颪』などにては古道のあるやう、特に惟神の道は、言談の上にあらずして實行の上に存せるを覺りて、『高橋氏文』に載せたる景行天皇の敕語の如きは、古道を説く毎に誦せざる事なくして、五十年を經侍りにき。然かはあれど學淺く識乏しき高見等の心しわざは、行事をもて名に負ふ國の手すさびを、遍く世人に知らせんの便りも知らねば、兎せん角せんと思ひ煩ひてありし程に、往年、一日ゆくりもなく、世に聞えたる先生たちの、皇典講究所といふに來集りて、講演といふ事をせられし事ありしをもて、高見も、其の席末に列りしよすがに、平生の志望は今日をこそとて、「日本學」といふを題にて、

「日本人は、何はありとも、先づ日本の事より學ばざる可からずと述べ、また斯道の學者は、世人に學ばしむべき道を講ぜざる可からずと述べて、竟ひに國書の事に及びて、古來の國書は、天保の末年に至るまでにても、既に三萬餘部十五萬卷あるをもて、百年三萬六千日の齡も覺束なき今人にしては、到底讀了する事あたはず。たとひ好學の閑人ありとしても、此の國家の多事なる今日、決して生涯を讀書三昧に送るを許す可からず。されば奈何もして、別に時を減じ、勞を省きて速成せしむべき方法を講ぜざる可からず。而して方法を講ずべき人は、誰ぞ。今日、此の席に來會せられし碩學諸公を除きて、他にまた人なければ、冀くば諸公は、後進の爲に國家の爲に、大に努力せられん事を願ふなり。高見の淺學固陋なる、本よりかかる大問題に對して、何の辨ふる事なしと雖も、諸公に努力を促して、一身を安逸の地に居らんとする者にはあらず。此の故に高見は、誓ひて今日より名譽も棄て財産も抛ちて、生涯を斯道の犧牲に供せんと期するなり

と述べたる事侍りき。爾りしよりこなた、日夜、工夫に工夫を重ねて、辛うじて一種の書の編纂に想到し、郡書の索引を企て、星霜を經る事三十年にして、和書・佛書八千餘部十餘萬卷を閲了して、『群書索引』・『廣文庫』の二書を作り、また別に國學の梗概を識得せしめん爲に、『國學撮要』と題する小册子を著し、また別に國書の年表をも製したり。是れ高見が國民として、國恩に報じ(以下、缺詞)。
 
 

『凛として愛』上映會のご案内。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 7日(日)22時33分21秒
返信・引用 編集済
   塾頭、ご照覽を賜はらむことを。

 下記、「愛国女性のつどい 花時計」樣による、泉水隆一監督作品『凛として愛』の上映會がある由、都合のつかれる有志には、是非とも、ご鑑賞ください。

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★ 花時計3周年記念の会&「凛として愛」上映会のお知らせ ★

 2010年(愚案、此の紀年、蓋し平成二十二年の事ならむ)5月、子供手当に反対する「日本のお母さんパレード」から、「愛国女性のつどい 花時計」の活動は始まりました。子供をベビーカーに乗せた若いお母さんがデモをする姿は、当時まだ斬新だったせいか、かなり注目を集めました。以来、3年が経ちました。皆様のご支援のお蔭で、今年、無事に3周年を迎えることができたことに感謝し、お世話になった方々と一緒に過ごす時間を持ちたいと思います。また私どもが拡散活動をしている映画「凛として愛」の上映会も、併せて行います。「凛として愛」は、靖国神社創建130周年記念の映画として製作されながら、たった2回上映されただけで、お蔵入りになってしまった「幻の名画」です。まだご覧になったことがない方、この機会に一緒に映画を見ませんか?
 東條英機元首相のお孫さんで、「凛として愛」の拡散に尽力なさっていた東條由布子さんが、今年、2月に逝去されました。東條由布子さんを偲びながら、皆様と一緒に「凛として愛」を見たいと思います。小さなお子さんがいる方のために「子供部屋」を用意しました。映画を上映している間、運営スタッフがお子さんを見ていますので、子連れの方も、どうぞ、遠慮なくいらして下さい。
 映画終了後、有志による懇親会を行います。レストランは、上映会会場の1階上です。懇親会に参加なさる方は、上映会終了後、エレベーターで9階に上がって下さい。エレベーターを降りると、斜め右にレストラン入り口が見えます。食べ放題・飲み放題の立食形式です。花時計会員による楽器演奏や花時計グッズのプレゼントなど、楽しい企画を用意して、皆様のお越しをお待ちしております。

【日時】8月10日(土)
    第1部 「凛として愛」上映会 11:00 開場  11:40 開演  12:50 終了予定時間
【会費】無料
【会場】コンベンションルームAP渋谷
    渋谷駅西口バスターミナル前「渋谷東急プラザ8階」A+Bルーム
    第2部 懇親会 13:30 受付開始  14:00 開始  16:00 終了予定時間
【会費】大人4千円 子供1千円 *乳幼児は無料です
【会場】イタリア料理 イル・グアッテロ
    「渋谷東急プラザ9階」 電話 03-3780-0759
 参加ご希望の方は ①1部のみ参加 ②懇親会も含めて参加 を明記の上、下記までお申し込みください。
hanadokei2010@gmail.com

 よろしくお願い致します。

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『皇道日報』復元成る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 2日(火)22時45分26秒
返信・引用 編集済
   本日、『防共新聞』改め、其の紙名復元の成つた『皇道日報』第一號を戴いた。皇道日報社は、昭和八年、福田素顯翁が創められもの、現在は、其の令孫・福田邦宏(草民)翁に至る。素顯翁は、其の晩年の昭和三十五年、愛國團體二十八組織を糾合し、『時對協』を發足せしめた。生活指針は、素顯翁の「國民の模範であれ」(別册寶島編集部編『平成元年の右翼』平成元年五月・JIC出版局刊)。其の目覺ましき一例を、こゝに掲げたい。



●時局對策協議會『宮内廳長官に與ふる警告文』(時局對策協議會『時對協十年史』昭和四十八年十一月・同刊行會刊)に曰く、

「新聞の報ずるところによれば、郵政省は、今秋、天皇・皇后兩陛下が外遊されるのを記念して、兩陛下の肖像切手を發行することを決めたとのことであるが、これが事實とすれば、誠に遺憾至極であり、重大問題であると言はざるを得ない。

 消印で汚損されることが歴然としてゐる切手に、天皇・皇后兩陛下の御尊像を印刷する等とは、思ふだに恐懼に堪へない大不敬行爲であり、その罪、萬死に價ひすると言ふも、過言ではないのである。郵政省當局が、かかることをわきまへない筈は無いのにも拘はらず、敢てこれを決定したと云ふのは、皇室の權威失墜を狙ふ思想謀略に基づくものにあらざるか、疑ひ無きを得ない。

 一部には、外國の國王、或は元首の切手が發行されてゐることを例示とするものも居るが、これは思はざるも甚だしいものであり、我が國柄は、諸外國とその成り立ち・歴史を根本的に異にして居り、したがつて、天皇の御身分、その御地位は、外國の國王・元首等と、同一次元に於て思考し判斷すべき性質のものではないのである。

 貴長官は、常に兩陛下の側近に奉仕し、國體の明徴と皇室の尊嚴護持には、最高の使命と責任を持つてゐるといふ立場からしても、この問題については、おそらく我々とその憂ひを等しくするものと、信じて疑はない。果して然らば貴長官は、郵政省のかかる大不敬企劃に斷固反對し、これを阻止するやう、速かに對處すべきてはないか。この際、皇室の尊嚴維持のため、和氣清麻呂公的忠誠心と勇氣を持つて、挺身すべきではないか。

 もしそれ長袖貴族的怯懦・無信念で、この問題を拱手傍觀し、結果するところ、兩陛下の肖像切手發行といふ不祥事が出來したとするならば、貴長官の責任、また輕からざるものがあるを銘記すべきである。ここに本協議會の決議をもつて、勸告し警告するものである。

 昭和四十六年三月二十三日、大日本愛國團體聯合・時局對策協議會
  宮内廳長官・宇佐美毅殿」と。



■攘夷戰鬪紙『皇道日報
  ↓↓↓↓↓
http://somerogi.exblog.jp/
舊・『防共新聞』
http://acpress.exblog.jp/

■大日本愛國團體聯合『時局對策協議會
  ↓↓↓↓↓
http://jitaikyou.org/
 曰く、「時對協の基調と精神は、「承詔必謹」、これある而已。
天照大御神の、天壤無窮の神敕に宣はく、
「豐葦原の千五百秋の瑞穗の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就きて治らせ。行矣。寶祚の隆えまさむこと、まさに天壤と窮まりなかるべし」
普天の下、率土の濱、皇臣・皇土に非ざるなし。萬世一系の天皇、皇祖の神敕を受け給うて、日本を統治し給ふ。萬古不易、世界に冠絶する吾が國體の本義が、こゝにある。悠久、實に三千年、日本、即ち皇國たる歴史的・傳統的精神に立脚して、こゝに國體の闡明を期し、民族の道統を守護することを以て、時對協の第一義とす」と。



 愚案、件の『警告文』以降、小生の寡聞なる、我が國に於いて切手上の不敬は、絶えて無い。而今、時局對策協議會議長・皇道日本社主幹・福田邦宏翁の下、鋭意、尊王精神發揚・國體明徴を本願として、皇國中興を目指し、殊に神道・國學に深く研鑽、之れ力めてをられる。益々の發展を祝祷し、何を措いても、皇室の尊嚴を守る運動に挺身されんことを、切願して已まない。謹白。
 
 

有志有縁の方へ‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 1日(月)20時05分33秒
返信・引用 編集済
   本日、歸宅した所、日本學協會『日本』平成二十五年七月號到來。就中、井星英翁『先師を偲びて(上)』を拜讀しつゝ、涙埀れたり(先師は、平泉澄先生)。其の内容は、餘りに機微に亙るが故に、こゝに紹介を憚るもの、敢へてご遠慮申し上げますが、皇民として、正に必讀の價値あり、有志有縁の御方には、是非ともご閲覽を賜はりたく、伏して御願ひ申し上げる次第です。
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http://members.jcom.home.ne.jp/nihongakukyokai/

「戰後になつて、自由・平等・民主主義などといふ言葉が當り前のやうに流行し、現在も同樣であります。(平泉)先生は、これらの言葉、とくに民主主義といふ言葉を嫌はれ、『同學のある人が、自分への手紙の中に、始終、民主主義といふ言葉を書いてくる』、といつて嘆いて居られました。‥‥フランス革命は、從來、財政・經濟・貧富の較差に因ると考へられてきたが、實際には、ブルボン王朝の宮廷自ら自由思想に溺れたこと、支配階級がヴオルテールやルソーの自由・平等の思想に惑はされ、自ら特權階級から逃れたいと思ふやうになつたことが原因である、と教へられてゐます。確かに今日、自由・平等・人權、さらには國民主權・民主主義といふ言葉が、何の疑問も持たれず、大手を振つて流行してゐるのは、左翼革命思想の勝利であります。日本本來の思想からすれば、自由は自在であり、平等は公平でなければならぬ。人權を言ひ出したら、訴訟・裁判で埋めつくされ、國民主權・民主主義を言ひ出したら。もはやわが國は、革命騒亂への道を進む外ない」と。

 先に田中卓博士には、『平泉史學の神髓』(續田中卓著作集第五卷。平成二十四年十二月・國書刊行會刊)を上梓され、殊に平泉澄先生の祕録『孔雀記』を、遂に顯世に出されました。併せてご閲覽を賜はりたう存じます。
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http://syoukansei.fan.coocan.jp/hiraizumisigaku068.pdf

     備中處士、恐懼頓首、謹みて白す。
 
 

諄辭、其の二。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月30日(日)22時33分25秒
返信・引用
  ~承前~

●稻村眞里翁『伊勢參宮・内宮を拜む詞』(昭和二十五年夏、一般崇敬者に、神宮御鎭座の由縁を、深く知らしめむことを念願に作成せられしものなり。『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊)

神風の伊勢の度會の拆鈴(さくすゞ)五十鈴の川上に、底つ岩根に大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて鎭まり坐す、天照坐皇大御神の大御門の大御前に、恐み恐みも白さく、

大御神は、遠き昔、掛けまくも畏き崇神の天皇の大御代に、九重の大内より、大和の國笠縫邑に遷り出でましてのち、大御杖代と、倭姫命の仕へまつりたまふまにゝゝ、國々處々を移りまして、最後(いやはて)に、この五十鈴の川上に鎭まり坐しましてより後は、異處(ことところ)に遷りますことなく、世々の天皇命の御代々々、彌や次々に、神ながらも平らけく安らけく、天の下、四方の國々を見霽(みはる)かしまして、彌や廣に彌や遠に、惠みたまひ幸はへたまふことを、仰ぎまつり忝みまつりて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り、今日の生日の足日に、大前を拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ知ろしめせと、恐み恐みも白す。



●稻村眞里翁『伊勢參宮・外宮を拜む詞』(同上)

神風の伊勢の度會の山田の原に、底つ岩根に大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、神ながらも鎭まり坐します、掛けまくも畏き豐受大神の宮の大御前に、恐み恐みも白さく、

大御神は、青人草の食ひて活くべき御饌の御靈の大神に坐しませば、雄略の天皇の大御代に、天照皇大御神の御諭しのまにゝゝ、丹波の比沼(ひぬ)の眞名井の原より、この山田の原に遷し坐せまつり、かくて世々の大御心にも、別きて崇め仰ぎまつらしめたまふまにゝゝ、瑞の大御殿も、皇大御祖神の大御殿に、ほとゝゝ同じき状に準(なぞら)へて齋(いは)ひまつりたまひ、時々折々の大御祭、はたおほかた等しく仕へまつりたまふ。

故れかくの事を仰ぎまつり恐みまつりて、今日の生日の足日に、大前を拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ知ろしめせと、恐み恐みも白す。



●千家尊澄大人『天日隅宮に白し奉る祝詞』(『松壺文集』所收)

八雲立つ出雲の國の青垣山内(やまぬち)に、下つ石根に大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて鎭まり坐す、天の下造營(つく)らしゝ、大國主大神の大前に、出雲宿禰尊澄、畏み畏みも白さく、

皇親(睦)神魯伎・神魯美の命持ちて、吾が遠つ祖・天穗日命に仰せ賜ひし次(つぎて)の隨(まにま)に、天の下知ろしめす、皇御孫命の、手長の大御世を、堅石、常石にいは(齋)ひ奉る事を、平らけく安らけく聞こし食して、足らし御世の茂かし御世と、幸はへ奉り賜ひて、萬世に大坐さしめ賜へし、稱辭竟へ奉る。

更に白さく、公民(おほみたから)の水沫(みなわ)畫(掻)き埀り、向股に泥埀(ひぢか)き寄せて、取り作らむ奧つ御年を始めて、種々の物を、惡しき風・荒き水に相(あは)せ賜はず、八束穗のいかし穗にさき(幸)はへ賜ひて、四方の國の片國なる百姓(おほみたから)に至るまで、平らけく安らけく、夜の守り・日の護りに、護り惠み賜へと、鵜じ物頸根築き拔きて、恐み恐みも白さくと白す。



●久保季茲翁『内外の汚穢れを清むる詞』(『祝詞作文便覽』に所收)

掛け卷くも畏き、天に坐す神・國に坐す神の、惠み給ひ養ひ給ふ、顯見しき蒼人草はも、天の下に在らゆる萬の物の中に勝り優れて、其の靈(みたま)は、即(やが)て其の天つ神の、授け給ひ與へ給へる御賜物と、清き直き美(うるは)しき、奇魂くしびに、幸魂幸はふ、人の本つ主(ぬし)に在れば、傷むる事無く損なふ事無く、放(はふ)らさず汚さず、治め留め齋ひ鎭めて、目には諸々の不淨(けがれ)を見、耳には諸々の不淨を聞き、鼻には諸々の不淨を嗅ぎ、口には諸々の不淨を舐め、且(ま)た諸々の不淨を言ひ、身には諸々の不淨を觸れ、心には諸々の不淨を思ふとも、速やけく直らに美(うま)らに清らに明らに祓ひ清めてば、諸々の事物は、形に影の添ふ事の如く、花の後に菓(このみ)生(な)る事の如く、吉き事には福(さき)はひ從ふ神つ理りの隨に、此の身・此の心盡に、清く明く直く正しく、我が靈(みたま)は、畏けれども天地の大神等と同じ根種(ものだね)・萬の物の靈の物と、平らけく安らけく、天つ神・國つ神、相うづなひ相幸はへ給ひて、請ひ願(ね)ぐ事共、心の隨に、成就(な)し給ひ惠み給はむ物ぞと、大神等の授け給ひ傳へ給へる、可美(うま)し道・可美し御法(みのり)、天つ宮事以て、天つ璽(しるし)の神寶なす、上无き奇靈(くす)しき、天津祝詞の太祝詞事、言ひ祓ひ、祈(ね)ぎ祷(いの)り奉らくと白す。
 
 

『日本書紀』に曰く、「諄辭」

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月29日(土)20時21分21秒
返信・引用 編集済
   明日は、夏越の大祓。累積の罪咎を、只管ら懺悔して、徹頭徹底、祓ひ清めてむ。

 而して今こゝに、稻村眞里翁の所著、
一、『評釋・近世名家諄辭集』昭和七年十一月・明治書院刊
一、『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊
一、『祝詞作文』昭和三十一年七月・神社新報社刊
に據りて、諄辭(祝詞)を些か掲げみむ。



●本居宣長大人『藥神を拜む詞』(『鈴屋集』)

掛け卷くも畏き、大穴牟遲命・少名毘古那命、二柱の大神の大前に、○○○○、恐み恐みも白さく、

遠つ神代に、二柱相竝ばして、御心を合はせ賜ひ、御力を合はせ賜ひて、諸共に、大八洲國、修理(つく)り堅め賜ひて、國作り坐しゝ大神と、稱辭竟へ奉る大神等(たち)、諸々の病を治むる藥の方(みち)をも、始め賜ひ定め賜ひて、天の下に、所有(あらゆ)る顯見(うつ)しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、あつか(熱)ひ惱むことを、助け賜ひ救ひ賜へば、此の某等が醫藥(くすり)の業(わざ)も、大神等のめぐ(惠)み賜ひ、ちは(靈幸)ひ賜はむ御靈に依りてし、過つ事無く、驗(しるし)は有らむと、廣き厚き恩頼(みたまのふゆ)を、恐み恐みも歡び奉り、うれ(嬉)しみ奉らくと、○○○○、恐み恐みも白す。



●渡邊重春翁『諸神通用・神拜の祝詞』(明治七年。書肆の需むるに應ず)

掛け卷くも綾に畏き、大神の御前を、愼み敬ひ拜(をろが)み奉りて、惶み惶みも白さく、

遠つ神代に、天つ神、諸々の大詔(おほみこと)以ちて、伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神に、此の漂へる國を修理り固め成せと、詔(の)りごち給へるは、青人草を住ましめて、蕃息(うま)はり隆(さか)えしめむの大御心に坐せば、二柱の大神を初めて、八百萬の神等も、其の大御心を受け給ひ續ぎ給ひて、爲しと爲し給ふ御業(みしわざ)に、青人草をめぐ(惠)し愛(うつく)しと念ほし食さぬはなし。

故れ青人草の食物・着物・住家を初めて、有りと有らゆる萬の物は、皆な神等の御恩頼に依りて、生り出づる物にしあれば、遠つ祖(おや)より、一日・片時も落つる事無く、洩るゝ事なく、蒙(かゝぶ)り來つる廣き厚き御恩頼を、嬉しみ奉り忝み奉りて、謝(ゐや)白し奉るとして、拜み奉る眞澄の鏡の、清き赤き心の底ひ知ろし看して、今も往く前(さき)も、枉神の爲さむ枉事に、相率(あひまじこ)り相口會はしめ給はず、遠く遙けく追ひ退け給ひ打拂ひ給ひて、惱ます事なく、害はしむる事なく、日々の行ふ事(わざ)、手の躓(まが)ひ・足の躓ひ有らしめ給はず、親族・家族に至るまで、己が乖(む)き々ゝ有らしめ給はず、彌や益々に和び睦びて、家の業(なり)を彌や務めに務めしめ、彌や進めに進めしめ給ひて、子孫(うみのこ)の八十屬(つゞ)き、彌や嗣々に、茂(いか)し八桑枝の如く、立ち榮えしめ給ひ、過ち犯す事の有るをば、神直日・大直日に、見直し聞き直し坐して、夜の守り・日の守りに、守り給ひ幸はへ給へと、鹿じ物膝折り伏せ、鵜じ物頸根衝き拔きて、畏み畏みも白す。

[稻村翁の曰く、「此の一節、祈願の主意を考ふるに、要するに、一身一家の上を祈願するに止まれり。これは自己繁榮せば、延いて國家の爲に國民の本分を盡すには至るなるべけれど、題意にかなはん祝詞としては、先づ以て、上御一人の御上を祈願し奉りたきなり。願はくば、國民擧りて、陛下の御爲に祈願し奉り、億兆一心、大君の御楯となりて、横邪の僻説の窺ひ寄り來むひまも隙もなきやうにあらまほしきなり」と。愚案、然れば、「辭別きて」(此の「辭別」、こゝは、補遺の意に採らずして、特別に事を取り立てゝ白す謂ひに用ふ也。此の「辭別」の表現を用ゐて巧みにして、而も一定の形式を確立せしは、平田篤胤大人の御由)以下、次の如き祝詞(『内宮御遷宮遙拜詞』──『宮西惟助先生祝詞集』所收)を加上す可きなり。]

辭別きて、天皇朝廷(すめらみかど)の大御榮を、天地の在りの極みに守り導き給ひ、國の光を、天つ日の照らさむ限り耀かせ給へと、恐み恐みも拜み奉り聞え奉らくと白す。



●稻村眞里翁『贈正四位・眞木保臣大人靈祭の祝詞』(近體)

謹みて贈正四位和泉の守・眞木の保臣大人の御靈の前に白さく、

嗚呼、大人の一生は、たゞ精忠の二字に輝きたまへり。世の忠臣・義士たるもの、固より數へも盡すべからず。然れども至誠・至醇、國體の眞髓を明かにし、これが基礎の上に、尊皇の偉業を畫策し、識見、時流を拔きて亭々たるもの、眞に匹儔多からざるなり。己、遠く東國に在りて、二十年前、大人の名を耳にし、近き年頃、この縣に來りて、漸く大人の偉業を聞知し、昨年、大人の奉仕したまひし水天宮に詣で、大人の外孫樋口氏を訪れて、大人の功績を審かにし、大人の遺墨・遺品を拜して、更に愈々敬慕・欽仰の情に堪へず。

嗚呼、大人、世を去りたまひて、乾坤一轉、皇政復古の大業成り、かくて日月怱々、已に五十餘年を經過し、人文の進歩涯なく、世態の變遷、人情の推移、亦た驚くに堪へたり。然はあれどもその進歩は、果して眞の進歩といふべきか。世態・人情、これはた善美の方向にあるか。大人が在天下の英靈、如何にか看そなはすらむ。

嗚呼、聖天子、上に坐しまし、賢良、朝野に充ちてはあれど、大人の高風を欽慕するもの、大人が學術の淵源を究め、大人が至誠・至醇の精神を學び、以て世に處する所以の道を明らめずして、可ならむや。本年本月本日、久留米市の有志諸氏、大人のために靈祭を執行せらるゝに當り、己、亦た席末に列し、俯仰、感慨に堪へず、拙歌一首を獻げて、謹みて欽仰の意を聞えまつる。

足引の み山の露と 消えませど 君が千年の 名こそ朽ちせね

大正九年七月二十一日、國幣大社高良神社宮司・從六位・稻村眞里、謹みて白す。



『聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞』
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『明治天皇御惱御平癒奉祷の祝詞』
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『雛祭の祝詞』
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『高山彦九郎、三條橋上皇居遙拜の詞』
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宮内省藏版『殉難録』は、平家物語・太平記を嗣げる史傳史詩なる可し。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月20日(木)23時50分37秒
返信・引用
    宮内省藏版『修補・殉難録稿』(昭和八年十一月・吉川弘文館刊)は、嘉永六年癸丑より慶應三年丁卯までの殉難者の傳記なり。明治四十二年十二月功成、二千四百八十餘人採録。編纂主任は、梨本宮家令・西尾爲忠、宮中顧問官・文學博士・川田剛、主獵官兼諸陵頭・男爵・足立正聲、圖書助心得・高島張輔を經たり。
一、前篇。卷一~卷二十三・附録。
一、中篇。卷二十四~卷四十一。
一、後篇。卷四十二~卷五十五・附録。

 就中、「殉難」の御字は、畏くも代々木大神の「赤き直き眞心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各もおのも死亡りにし、其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば安國と知し食」され給へる大御祭文、其の漢譯「殉難死節」、「殉難安國」に出づと恐察す。而して其の筆法は、平家物語・太平記に傚へる史傳にして、考證確實、壯大かつ敍事詩的維新通史と爲る、實に川田甕江博士の力に因る所、最も多し矣と云ふ。此の筆法、今日すたるゝ所なりと雖も、之を復興せしめば、少年少女への影響、尠なからずと確信す。各傳大部のものなれば、一の短編を謹寫して、其の面影を傳べし、有志博雅の士の、一夜燈下の伴と成すよしもがな。




○蘇峰徳富猪一郎菅原正敬翁『修補・殉難録に題す』に曰く、

「人生、古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らす。蘇峰正敬、題す」と。



○虚心黒板勝美博士『修補・殉難録の卷頭に辯す』に曰く、

「夫れ事は、成れる日に成るにあらず、必ずや幾多犠牲となれるものありて、その事、すなはち成る。而かも事、大なれば大なる程、多數の犠牲を出す、固よりまた言ふを俟たざるなり。明治維新の鴻業は、實に我が國史に於て、前古未曾有の事に屬す。嘉永癸丑、米艦、浦賀の埠頭を壓して、黒烟を吐きしよりこの方、徳川氏の大政奉還に至るまで、その間、僅かに十五年の短日月にして、而かも勤王憂國の志士、非命に斃れたるもの、幾千ぞ。明治維新の鴻業は、是等勤王憂國の志士が、所謂る人柱となりて築き上げたりといふ、豈に過言ならんや。

 嗚呼、明治天皇、聖徳、日の如し。是等志士の神靈を崇めて、靖國神社に合祀せしめ給へり。志士の神靈は、天翔り國翔り、永く護國の神とまします。『殉難録稿』は、實に是等勤王憂國の志士を傳したるものなり。明治十七八年の交、はじめて宮内省に於て輯録せられ、明治二十六年より、稿成るに從つて、順次、之を上木し、完成に至るまで、凡そ十有五年、採録するところ、實に二千四百八十餘人に上れり。而して本書は、後ち更に修補訂正を加へ、淨寫して、宮内省圖書寮に架藏せられしもの、こゝに二たびその公刊を見るは、國民精神鼓舞作興の上に、大旱雲霓を得たる感なくんばあらず。一は以て明治維新の鴻業が、如何に多數の人柱によつて築き上げられたるかを知らしめ、一は以て是等幾多の憂國慨世の志士が、如何に皇國の大義に本づき、至誠一貫、國家の爲めに盡瘁せしかを覺らしむ。余は、本書の弘く國民の間に讀まれて、天地むた窮まりなき皇運の、ますゝゝ榮えまさんことを祈るものなり」と。



○卷之三・戊午黨獄『櫻眞金』に曰く、

「櫻眞金は、常陸の國眞壁郡眞壁の人にして、本姓・小松崎氏。幼名を一雄、字を飛卿といひ、相良六郎、または村越芳太郎と稱す。後に氏を櫻と改め、任藏と稱す。父・玄瑞は醫師なれど、眞金、其の業を繼ぐことを欲せず。年十六七の頃、水戸藩なる藤田彪(東湖先生)が弟子となりしに、酒を飲み人を罵り、或は劍を拔き柱を斫り、或は歌ひ或は泣き、傍若無人にふるまふをもて、人、これを狂生といへり。されど人、もし急難あれば、嚢中に一錢の蓄へなしと雖も、衣を賣り物を鬻ぎて、これを救ひ、聊かをしむことなし。

 その頃のことにや、潮來村の山中なる養魚池に、毎夜、妖怪來りて魚を取食ふといひ傳ふ。人里遠く、物すごき處なれば、村民等おそれて、敢へて往き見るものなし。眞金、これを聞き、「我に酒錢とらせなば、池守となりてん」とて、そこに廬を結び、唯だ一人、書を讀み、古人を友として、二歳ばかりこもりゐたり。さてその友とする中にも、兒島三郎高徳が風を慕ひていへらく、「楠・新田諸公の勳業は、敢へて企て及ぶ可きにあらず。我は、たゞ三郎が流離艱難、百折不撓の忠節に傚はんと思ふのみ」と。又た高山正之(赤城先生)・蒲生秀實(靜修翁)が事跡を尋ね訪はんがため、其の舊里に赴き、正之が自筆の日記數卷を得て、これを珍重すること、漢儒が孔壁の古文を視るにことならず。天保の末、江戸にゆきて、松本來藏(寒緑)・尾藤高藏(水竹)・藤森恭助(天山翁)など、數多の名士に交はり、かなたこなたに寄食しつゝ、傭書・按摩をもて業とす。その貧窮なること、思ひやるべし。

 是より先、眞金、父におくれ、老母一人を故郷に殘しおきつれば、抱關撃柝、いへばさらなり。いかなる賤役をもして、これを迎へ養はゞやと思ふ折しも、幕府の小普請奉行・川路左衞門尉聖謨(敬齋)の薦めに由りて、ある官署の門卒となり、小普請物書役に擧げらる。聖謨もさる物なれば、彼が凡人にあらざることを察し、よくもてなししかば、眞金、漸く俸祿を得て母氏を養ひ、聊か餘財あるときは、これを貧士に分ち與ふ。ある夜、兩國橋を過ぐるに、若き女の、身を投げんとするがあり、いそぎ引きとめ、事の子細を尋ぬるに、女、つゝみかね、「妾は何某の娘なるが、兄にて候ふもの、無頼にして、此の身を苦界に沈め、酒色の料にせんとす。からうじて内をば逃れ出でたれど、よるべなき身の、生きて父母の恥をさらさんよりはと、思ひ定めて、かくこそ」といふ。眞金、其の志を憐れみ、伴ひ歸りて、女弟のやうにもてなし、年經て後、これをさるべき士人にめあはせける、となり。

 弘化元年、水戸中納言齊昭(烈公)、讒口に由りて押しこめらる。眞金、目を病みてこもりゐたりしが、これを聞き、うち驚き、「こは、一藩の興廢のみならず、天下の治亂にも關係すべし。救はずばあるべからず」とて、日夜奔走、樞機を求めて、さまゞゝに歎き訴へけれども、甲斐なし。然るに阿部伊勢守が臣・石川和介といふ者、日頃親しかるにより、此の人に就きて、其の罪なきよしをいひ解きけるに、程經て幽閉をばゆるされたり。かゝる處に、外國使船渡來し、幕府、其の措置に苦しみ、和戰の議、決せず。小吏・中西忠藏といふ者、眞金と同志の友なりけるが、或る時、打ち寄りかたらひ、「今の時勢を濟はんには、水戸中納言ならで、其の人あるべしとも覺えず」など、又た彼の和介して、これを伊勢守にいはせければ、幕府、遂に齊昭に命じて、軍國の大議に參預せしむ。

 其の頃、攘夷の論を主張するもの、薩摩に西郷隆盛(南洲翁)、長門に吉田矩方(松陰先生)、肥後に長岡是容あり。眞金、是等の人々に交はり、殊に隆盛と親しかりければ、薩摩藩主・島津齊彬(順聖公)、その志を感じ、名刀一口を贈らる。安政二年の冬、江戸大地震あり。齊昭、眞金に米百俵を贈り、その禍を慰問せらる。眞金、大いに喜び、「明君の恩賜、徒費す可きにあらず」とて、盡く之を窮民に施し、升合も家にとゞめず。齊昭、ますゝゝ感稱し、明年、これに七人扶持を送り、客禮をもて待遇せらる。五年、老中・堀田備中守、外交勅許を申請はん爲めに上京す。眞金、かくと聞き、中西忠藏と同じく馳せ登り、同志の人々をかたらひ、公卿に關東の情状を告げ、勅許の事、然るべからざるよしを申す。

 かくて東に歸りしに、程なく黨獄興りて、浪士を追捕す。眞金、ひそかに江戸を立出て、木曾路より伏見にいたれば、こゝも詮議きびしく、剩へ其の容貌雄偉なるをもて、捕手の者ども、追跡してやまず。眞金、一計を案じ出し、旅宿につき、やがて娼妓を招き、歌舞遊興、他事なく見せかけ、遂に虎口を逃れ、山陰・山陽の諸國を經めぐり、又た京師に往き公卿に見え、時勢を陳することを得たり。其の後、播磨より吉野に遊び、後醍醐天皇の山陵を拜し、十津川を踰え、紀伊を經て浪華に至り、形を變じて商家の小者となり、姓名を渡邊純吉と改め、忍びて時機を伺ひたりしが、明くる六年七月六日、俄かに病みてうせぬ。この人、詩歌の道にもくらからず。別號を月波山人といへり。死する時、年四十八。水戸藩、其の志を追賞し、其の子・春雄(允緝。義子)に食祿を與へ、これを士籍に列せしむ」と。



【參考・贈正四位・高山赤城先生と贈從四位・櫻月波翁】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/4
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/18
 
 

天晴れ、烈婦登波は、大和魂の凝固せる、士大夫にも愧ぢざる節操なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月 8日(土)14時01分35秒
返信・引用 編集済
  ●吉田松陰先生『諸生に示す』(安政四年丁巳閏五月三日。『丁巳幽室文稿』上卷に所收。山口縣教育會編『吉田松陰全集』第三卷・昭和十年三月・岩波書店刊に所收)

 士、別れて三日なれば、刮目して相待つ。一日見ずんば、三歳の如し兮。朋友相與の情、學問日新の機、誠に是くの如き者有り。況んや一月に於いてをや乎。余、頃ろ心に一文を構ふも、事、考據に待つ有り、遽率(にはか)かに能く辨ずる所に非ず。因つて嚴に一月を課し、諸君を謝絶し、他業を廢棄し、以て之(烈婦登波傳『討賊始末』)を成就せんと欲す。牀に對し燈を分つ、平日の精、裁割すこと易きに匪ず。是を以て文を作つて、諸君に辭す。諸君、顧(おも)ふに亦た時に乘じて精苦し、以て我が目を刮して、三歳の情を慰むる有れ。

 昔、宋の太宗、一年を以て『(太平)御覽』千卷を讀完す。諸れを一月に率すれば、殆んど九十卷なり。『御覽』は、毎卷十數張に過ぎず、多きも僅かに二十許張のみ耳。然れども政を聽くの暇、之を爲せば、則ち勤めたり矣。諸生に在つては、言ふに足らず。先輩・雨森芳州先生は、門人と『漢書』を讀み、一月にして終へり。謂へらく、「晝夜、併せ讀まば、十五日にして乃ち可なり」と。是れ、以て書生の規と爲す可き也。諸君は精鋭なり。意ふに、必ず古人に輸(ま)けざらんも、獨り余の昏惰なる、志の如くする能はざるを恐る。然れども一月にして能くせずんば、則ち兩月にして之を爲さん。兩月にして能くせずんば、則ち百日にして之を爲さん。之を爲して成らずんば、輟めざる也。諸君、願はくは併せて此れを知れ。閏月初三、二十一囘生、書す。



 愚案、嗚呼、烈婦登波、偉なるかな哉、實に懿なるかな哉。彼の烈婦の義擧、岡田則夫翁より拜聽して、感激、尠しとせず。些か次に抄記して、諸賢と感激を共にせむ。『討賊始末』・『烈婦登波の碑』は、抑も松陰先生畢生の大事業、即ち松下村塾の講義を、一箇月間、休講を爲してまでの、決意の撰文である。烈婦登波の爲人は、張至増・勝間田灣翁・靜間衡介・周布觀山・松陰先生・松下村塾門下、亦た高須久子刀自等の認むる所、其の貞烈勳功は、身分種族に非ずして、正に人、其の氣節行義に在るを知るに足らむ矣。

 然るに此の碑の撰文顯彰は、故意か否か、長らく忘れられてゐた。天保十二年復讐の足掛け七十六年後、松陰先生撰文の六十年後の大正五年に至り、長府藩報國隊士・桂彌一孝俊(「長門尊攘堂」建立者)翁の進言に從ひ、地元の中山太一氏の寄附によつて、長門國豐浦郡の郷社・瀧部八幡宮に建碑された。明治四年、登波は七十三歳で終つたと云ふから、實に烈婦沒後四十六年の顯彰であつた。



●吉田松陰先生『烈婦登波の碑』(周布公輔──贈正四位・觀山周布政之助藤原兼翼、字は公輔翁──に代りて起稿す。『全集』第三卷に所收)

 烈婦、名は登波、長門國大津郡角山村の(向津具上村川尻浦の山王社──現・日吉神社)宮番・幸吉の妻也。父を(豐浦郡瀧部村八幡宮の宮番)甚兵衞と曰ひ、弟を勇助と曰ふ。亦た幸吉と職を同じうし、豐浦の瀧部に居る。宮番の職(「乞食非人などに比べて、××(此の二字、『全集』原刻のママ。以下、同然)より又た一段見下けらる程の者」)は、神祠を掃除し、兼ねて盗賊を緝捕するも、良民の齒ひする所と爲らず。而して三人は任侠自負し、劍客博徒、往々焉れに過ぎる。幸吉に、妹・松有り。枯木龍之進の妻と爲る。龍は備後の××也。自ら石見の浪人と稱し、妻を携へて諸國を往來し、撃劍を以て人に教ふ。

 文政(四年)辛巳十月二十九日の夜、枯木夫妻は、幸吉と同じく甚兵衞の家に會す。龍に、先妻の一女有り。甫めて八歳、時に諸れを乞兒小市の所に匿す。龍は、乃ち其の妻を幸吉に託して、獨り上國に遊ばんと欲す。實は之を去る也。其の妻と幸吉とは之を知り、切に其の非義を責む。龍が意色、殊に惡し。座客、爲めに之を慰解す。而して龍は、遂に松と婚を絶ちて、將に去らんとす。時に夜暗く、雨、甚だし。甚兵、留めて之を宿す。丑夜、龍、起きて、盡く甚兵・勇助・幸助及び去妻を刃(き)りて去る。三人は即ち斃れ、獨り幸吉のみ殊(た)えず。

 烈婦、變を聞き、急遽趨き、拯(すく)ふも及ばず。首め復讎を以て請ふ。藩、爲めに龍を追捕するも、獲る所ろ無し。之を久しうして幸吉が創(きず)、稍や已むも、轉じて他の症と爲り、蓐に在ること五年、烈婦が看護、具さに到る。然れども烈婦、心に常に大讎の未だ復せざるを悼み、又た夫の病の輙(たやす)く起つ可からさるを料り、間に乘じ、夫に語るに、志を以てす。幸吉、大いに悦びて曰く、「夫(か)の賊は、既に汝が父弟の讎爲り、又た我が妹の讎爲り。我、汝と久しく偕老を契る。汝が父弟は、猶ほ我が父弟のごとき也。今ま我、不幸にして病廢す。假令ひ汝を助けて讎を復すること能はざるも、寧んぞ汝が志を礙(さまた)ぐるに忍びん。汝、速かに出でて、賊を探せ。我が病ひ少しく平かば、當に追うて汝を助くべけんのみ耳」と。烈婦、且つ泣き且つ拜し、行裝して家を出づ。實に(文政八年)乙酉三月也。時に年二十七。

 烈婦、既に家を出でて、山陰より東上し、近江・美濃を過ぎ、伊勢より紀伊を囘り、京畿諸國、捜索、遺す無し。是に於て賊、復た近くに在らざるを測り、中山より東下し、直ちに南部の恐山を極め、奧羽を探り、關東を捜り、北陸を經、東海を歴り、転じて南海を周り、反りて安藝を過ぐ。外に在ること、蓋し十二年、辛苦、具さに嘗め、然る後に賊の在る所を□[言+絅の右]察するを得たり矣。龍の女にて乞兒の所に匿せし者は、彦山の山伏が收養する所と爲り、既に長じて人に嫁し、龍の母は、備後の三次に居る。故を以て龍、時に或は其の間を往來す。烈婦、既に具さに實を得、大いに悦びて國に歸り、事を以て官に白し、復た復讎を以て請ふ。未だ許さず。烈婦、家を出でて後ち一年、幸吉も、亦た病を力めて、出でて賊を探りしも、其の終はる所を知る莫し。烈婦、痛哭して、志を秉ること益々堅く、急ぎ彦山に如(ゆ)きて、賊を撃たんと欲す。烈婦の東海を歴、獨り常陸に留まること三年、援を求めて龜松を得たり。龜松は、筑波郡若柴驛の民なり。固より壯健、義を好む。烈婦の志を憐れみ、復讎を助くるを許す。是に至り、首として其の謀に贊成し、因つて與に下關に至りしも、代官所の追止する所と爲れり。藩、乃ち追捕を彦山に遣はし、賊状を探問せしむ。天保(十二年)辛丑三月、賊、捕へられて自殺す。因つて瀧部村に梟首す。烈婦、走りて首の下に就き、匕首を之に擬し、睨み且つ罵りて曰く、「汝、豈に我を記するや乎。吾は甚兵衞の女、勇助の姉、而して幸吉の妻也。汝、吾が父と吾が弟とを殺し、吾が夫を傷つけ、又た吾が夫の妹を殺す。吾、爲めに讎を報いんと欲し、五畿七道、探討、粗ぼ盡す。而して一撃を汝の身に逞うする能はざりしは、是れ吾が憾み也。然れども天道國恩は、遂に汝を此に致すを得たり。汝、其れ其の罪を知れ矣。汝、豈に我を記するや乎」と。

 時に本郡の代官・張君至増、之を義とし、建白して一口米を賜ひ、其の身を終はらしめんとす。安政(三年)丙辰、藩命して孝義を旌表す。代官・勝間田君盛稔(權右衞門、號灣翁)、烈婦を建白し、其の門戸に旌表し、特に米一苞を褒賜す。明年、余(周布觀山翁)、君に代り來つて、此の郡を宰す。謂へらく、「幸吉は、身、先に歿すと雖も、而も志は、實に其の妻と同じければ、則ち夫妻は、宜しく永く其の宮番の職を免じて、良民に齒ひすることを得しむべし」と。藩議審重、月日、可すを得たり。余、乃ち因つて郡を巡りて、烈婦を引見す。烈婦、時に五十九歳なり。身體健全にして、容貌、未だ衰へず。其れをして其の復讐始末を語らしむるに、感慨悲□[立心+腕の右]、聲涙、倶に下る。余、既に其の志を悲しみ、又た其の事の久しうして、或は□[三水+民]滅せんことを恐る。是に於て碑を建てゝ、文を勒し、其の跡を紀し、其の烈を表し、之に重ぬるに銘を以てす。銘に曰く、

混々たる原泉、海に朝宗す。
洋々たる大魚、龍門に龍と爲る。
懿なるかな矣、烈婦、習坎、惟れ通ず。
身、賤し兮と雖も、門閭、庸(勳)を表す。

 右、擬稿、粗(ほ)ぼ成る。而るに宮番の良民に齒ひせしは、藩に故事無し。是を以て廰議遷延し、建碑の事も、亦た姑(しばら)く停止す。然れども烈婦の事跡は、此に至りて其の粗(あらまし)を得たり。後に作る者有らば、將た取る所ろ有らん焉。(安政四年)丁巳七月既望、識す。
 (五年)戊午の冬、登波、特に良民に齒ひす。而して公輔は、則ち去りて他の職と爲り、建碑の事、遂に復た議せずと云ふ。重ねて識す。(六年)己未五月。



●吉田松陰先生『討賊始末の敍』

 安政(三年)丙辰、藩命、孝義を旌表す。是に於て都濃郡に、正(まさ)有り。吉敷郡に、石(いし)有り。皆な孝婦也。而して大津郡に、又た登波有り。登波の事、最も烈なり。夫れ正は、一身にて老父母を養ひ、贅壻、一たび去るも、永へに不嫁を誓ふ。石は、空閨、病める舅姑を奉じ、貞節、夫を感ぜしむ。夫、復た出でず。是れ皆な今世、少(まれ)なる所にして、正は年九十四、石は年六十八、生存して今に迄る。今ま竝に旌表を蒙る。亦た榮ならざらんや乎。而して兩婦の貧苦艱難は、多く年所を歴、誠に人の堪へざる所ろ多し。然れども猶ほ平常の事なるのみ耳。登波に至つては、則ち然らず。強敵□[風+場の右]去して、其の所在を知らず。捜りて獲ざれば、死すと雖も、返らんことを顧はず、捜りて獲ては焉、復た其の反撃を懼る。豈に特に流離奔走、困厄艱難のみ而已ならんや哉。其の初めや、蓋し懦夫の忌む所、俗人の怪しむ所にして、其の志、遂に功成るに及んでは、則ち悦服せざる莫し。一旦にして進み、二孝婦の間に列りて、光り有り焉。

 今茲丁巳、余、大津郡代・周布公輔の爲めに、烈婦登波の碑稿に擬す。登波の志を遂げしは、蓋し今を距ること、僅かに十七年なり。登波、年五十九、今ま猶ほ生存す。而も事實轉訛、文書錯亂して、徴す可からざるに至る焉。郡代の胥徒・靜間衡介なる者、古を好み義を重んじ、前代の時より、深く其の湮滅を惜しむ。故牘を點檢し、又た登波及び父老及び其の事を知れる者に歴問して、大抵の記を爲る。余、又た懇ろに知友を求めて、當時の文書數通を得、資りて以て碑稿を擬す。碑稿、已に成りしも、事實の猶ほ挂漏して棄つるに忍びざる者有り。是に於て又た『討賊始末』を作る。噫、登波の烈は、二孝婦に列りて、光り有り焉。之を千秋に傳へて、訛らず錯はず、取りて以て徴す可き者は、其れ或は諸れを此に觀むか也歟。安政四年丁巳六月念五、二十一囘猛士・藤寅(藤原寅二郎)、書す。

[(『討賊始末』に曰く、)抑も登波が事、平民に加へらるゝは、頗る大議にて、初め周布政之助兼翼、御代官たりし時、政府へ申出でたれども、政府にて先例なければ、事、姑く止めになりたり。已にして政府より郡方へ、先例はなきかと問ひければ、郡方本締・佐藤寛作、對へて曰く、「昔、秦人、松を以て五大夫とす。是れ、何ぞ先例に預からん。天下、孝義より重きはなし。登波賤しと云へども、豈に松の比ならんや。松の功、豈に登波の孝義にしかんや。且つ宮番、かゝる復讎せしことも、又た先例なし。非常の事なれば、非常の賞、素より當れり」と。政府、一咲して已む。獨り唐船方・中村道太郎清旭(贈正四位・淡海中村九郎清旭)曰く、「孝義、固より重し。然れども本邦、尤も名分を重んじ、種族を別つ。此の議、輕易にすべけんや。此の議を愼重するは、即ち孝義を重んずる所以なり」と。是に於て儒者・近藤晉一郎芳樹(萬本と號す)に命じて、是を議せしむ。芳樹、古史を引いて例とし、此の議、疑ふべからざる由を建白す。政府、乃ち其の議を採り、且つ登波の素性、播磨の百姓にて、幸吉も、元來、奧阿武郡の百姓なれば、一旦、宮番となると云へども、賤を放つて良に還すの譯なれば、疑ひなしと決したるなり。嗚呼、是れ登波の榮のみならず、實に政府の美事と稱すべきなり。]



●吉田松陰先生『松浦松洞、大津に之き、烈婦を貌するを送る敍』(『丁巳幽室文稿』上卷に所收)

 吾が邑の松浦松洞(贈正五位・龜太郎知新)は、幼きより□[石+間。はざま]西涯に從ひて畫法を學び、夙に神童の稱有り。西涯、甞て『畫斷』を著はす。其の言に曰く、「日月星辰の冕服に於ける、龍虎鳥龜の□[施の也の代りに斤。き]□[施の也の代りに兆。てう]に於ける、畫に無用の者無し。殷高(殷の高宗)の説を獲るや也、物色に於いてし、畫用、益々著はる。其の後ち麟閣雲臺、累々として繼出し、以て功徳を頌す可く、以て規箴に備ふ可し。畫の用爲る、是に於てか書と竝べり矣。唐の王維、出づるに及び、山水樹石、風流の畫と爲り、畫、始めて山人野客の玩物と爲る。歳變り月遷り、古意蕩然として、復た存する者無し。甚だしきは則ち文人もて自ら處り、有用の者を黜けて、俗工と爲す。而して畫、終ひに無用の長物と爲りて止む」と。

 松洞、其の説を服膺し、因つて之を廣めて曰く、「山水を舍いて、人物を貌すれば、畫、始めて用有り。他人を舍いて、邦人を貌すれば、其の用、益々近し」と。是に於て遍く國史を讀み、忠孝義烈の事に遇はゞ、輙ち一圖を作りて、之を表さんと欲す。又た天下を跋渉して、古祠名刹の祕藏を捜り、英雄の遺像を索め、寫して諸れを後世に傳へんと欲す。事、皆な未だ緒に就かず。

 今茲(ことし)七月、余、大津の烈婦(登波)の事を紀して成る。松洞、蹶起して曰く、「古人を舍いて、今人を貌す。是れ、有用の尤なる者なり」と。因つて筆を提(ひつさ)げ紙を持ちて、將に直ちに大津に走らんとす。曰く、「當今二國(周防・長門)、貌す可きの人、亦た尠からず矣。況んや天下の大をや乎。吾れ乃ち隗より始めん也」と。偶々清狂和尚(贈正四位・月性知圓)、破衲弊笠、禿髮數寸にして、新たに京師より還る。余、松洞の袂を引いて之を留め、『狂僧西錫の圖』を爲らしむ。圖、成る。酒を酬して序を作り、餞して其の行を送る。且つ曰く、「他日、有用の圖卷成らば、其れ清狂を以て首と爲せ」と。因つて此の序を以て、遂に之を冠す。



●吉田松陰先生『烈婦登波の書に跋す』(安政四年九月十六日。『丁巳幽室文稿』下卷に所收)

 是は、烈婦登波、自ら其の名を書せるもの也。登波は賤徒にして、何ぞ曾て書を識らん。顧ふに、其の貞烈奮激、諸れを心に發し、諸れを手に運ぶのみ。乃ち爾か觀る可き也。登波が復讎の事、固より已に烈なり矣。頃ろ又た將に石見に往いて、夫の墓を索めんとす。夫の死して三十年、未だ其の死せし所を知らず。而かも登波の年、且(まさ)に六十なり。斯の行、亦た難し矣。歳丁巳九月十六日、登波、吾が松下を過ぐ。余、止めて之を宿せしむ(愚案、登波の如き者を宿すこと、それ自體、當時に在つては、一種の事件と謂ひつ可し。高須久子刀自が野山獄入獄の經緯を以て、之を知る可き也。松陰先生、刀自を「うし」、即ち大人と稱せり)。登波は寡言沈毅、状貌は猶ほ丈夫のごとく、利き匕首(あいくち)を懷にし、起臥、暫しも離さず。道太(中村淡海)來り見て、其の事に感じ、其れをして自ら其の名を書せしめ、余をして之に跋せしむ。



●吉田松陰先生『烈婦登波の書に跋す、三首』(安政四年十一月七日。『丁巳幽室文稿』下卷に所收)

 是は、烈婦登波の手書也。登波の事は、余、諸れを『討賊始末』に著はせり。丁巳十一月五日、登波、重ねて吾が松下村に來る。權介、婦を拉して其の家に宿せしむ。因つて其れをして之を書せしめし也。初め吾の檻輿、江戸より還る、權介は衡卒の中に在り。有隣(陶峰富永彌兵衞悳彦翁の字)は、吾と同じく野山獄に在り。權介、偶々來りて獄胥と爲る。獄胥衞卒の習ひ、囚を待つこと土芥寇讎の如く。而して其の吾を待つに、士禮を以てする者は、權介のみ而已。其の獄胥と爲るや、常に有隣に從ひて讀を受く。有隣の獄を脱するに及び、小人比周、必ず諸れを海外に投ぜんと欲す。松下諸生、政府と交章し、有隣を村塾に迎へ、立てゝ以て師と爲さんことを請ふに方り、權介、奮然として曰く、「吾れ鈍なり矣と雖も、亦た師恩を蒙る者なり。寧んぞ力を出ださゞる可けんや」と。一室を掃ひ、以て有隣を待つに至る。有隣、既に村塾に來るや、權介、乃ち獄胥を罷め、首として隣保に糾(あつ)め、其の『孝經』を講ぜんことを請ふ。權介の孝義を重んずること、斯くの如し。吾と有隣と、固より胥卒を以て權介を待たず。而して權介の烈婦を宿せしめ、又た其の書を寶とする、皆な徒然に非ざる也。月七日、二十一囘猛士、書す。

 烈婦の上野に宿するや、上野邑の人、皆な往いて焉れを觀る。吾が友・冷泉清稚(天野御民清稚翁、本清と號す)の母、烈婦の事に感じ、煙草一團を贈り、又た其れをして名を書かしむ。此の二字、是れ也。清稚は、新左衞門(冷泉古風)の遺子にして、我が父執・林百非(眞人)翁の從子なり。我に從ひて書を讀むこと、甚だ勤む。今ま其の母も、亦た此くの如し。是れ、其の家訓、知る可き也。故に跋す(天野本清翁『松下村塾零話』に曰く、「大津郡に、烈婦登波なる者あり。千辛萬苦して、父及び夫、并に夫の弟妹四人の仇を報ず。蓋し登波は、宮番と稱する者にして、往昔、××非人と伍を同じうす。先生、其の卑しきも顧みず、招きて之を家に致し、其の節義を賞譽し、爲めに其の傳を立つ。門人、其の高義を感じ、各々競ひて登波を招き、或は之を饗し、或は之に物を贈り、或は之が書を求むるに至る」と)。

 是れ、大津郡の烈婦登波の手書なり。余、甞て烈婦の行事を紀す。故に藏する者、余に跋を求め、諸れを久遠に傳ふるは、權介の志也。



●『吉田松陰全集』第十卷・關係人物略傳「登波」

「長門國大津郡向津具上村(現・油谷町)川尻の山王社(現・日吉神社)・宮番幸吉の妻なり。文政四年冬、夫・幸吉の妹のことより、舅・弟・義妹を殺害し、幸吉を傷けたる備後の××枯木龍之進なる者あり。登波、永く夫の病を看護し居りたるが、後ち文政八年・二十七歳の春、復讐の旅に上り、普く海内を探索すること十七年、遂に龍之進は、その頃、豐前の英彦山に在るを知り、仇を報ぜんとせるに、藩、これを止めて、逮捕の吏を遣はす。龍之進、捕へられて後ち自殺す。藩、その首を豐浦郡瀧部村に梟す。天保十二年三月なり。安政三年、藩主、その孝義を表彰し、翌年、平民に歯ひす。登波、時に六十歳なり。松陰、この事歴に感じ、『討賊始末』なる一書を作り、又た松浦松洞をして、その肖像を作らしめ、四年九月中旬、登波の夫・幸吉の墓を索めて石見に赴く途上、萩に過ぐるや、松陰、杉家にこれを止宿せしめたり」と。
 
 

山跡魂をかたむる一端の爲めに。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 5月 9日(木)21時33分25秒
返信・引用
  ●本居宣長大人『うひ山ふみ』

 物學びとは、皇朝の學問をいふ。そもゝゝむかしより、たゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分たむために、皇國の事の學をば、和學、或は國學などいふならひなれども、そは、いたくわろきいひざま也。みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、たゞ學問とはいひて、漢學をこそ、分けて漢學といふべきことなれ。それもし漢學のことゝまじへていひて、まぎるゝところにては、皇朝學などはいひもすべきを、うちまかせて、つねに和學・國學などふは、皇國を外(よそ)にしたるいひやう也。もろこし・朝鮮・於蘭陀などの異國よりこそ、さやうにもいふべきことなれ。みづから吾が國のことを、然かいふべきよしなし。すべてもろこしは、外の國にて、かの國の事は、何事もみな外の國の事なれば、その心をもて、漢某・唐某といふべく、皇國の事は、内の事なれば、分けて國の名をいふべきにはあらざるを、昔より世の中、おしなべて漢學をむねとするならひなるによりて、萬づの事をいふに、たゞかのもろこしを、みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外にするは、ことのこゝろたかびて、いみじきひがこと也。此の事は、山跡魂をかたむる一端なる故に、まづいふなり。



 先般、「國史」と「日本史」の意味を考へてみたが、小生は、學生時代に拜讀せる、件の鈴屋大人の言靈が、多年、頭腦より離れたことが無い。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1696

 本日、河原博史主の日乘にて、重松信弘翁の好個の文を拜見させて戴いた。寫させてもらひます。
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http://sousiu.exblog.jp/



●重松信弘翁『國學思想』(昭和十八年七月・理想社刊)に曰はく、

「宣長は、漢學が、當時、單に學問と云はれたのと區別する爲に、和學・國學等云ふのはよくない。漢學をこそ分けて漢學と云ひ、皇朝の學は、ただ學問と云ふべきである。紛れる時は「皇朝學」とも云へばよく、和學・國學など云ふは、皇朝を外にした云ひ方である。皇國の事は内の事だから、國の名を云ふべきではない。此の事は大和魂を堅める一端になるから云ふのだ、と説いてゐる。玉かつまでは、「國學と云へば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も、事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり」としてゐる。春滿の創學校啓の流布本には、國家之學・皇國之學・國學等とあり、草稿本には、國家之學・皇倭之學・倭學等とある。「倭」「和」はよくないとしても、國學は宣長自身も「尊ぶかたにもとりなさ」れるとするのであり、今日に於いては、その「尊ぶかた」の意にとり、宣長の云ふ、皇朝學の意に用ゐてゐるものと云へる。春滿が國家之學・皇國之學等と云ひ、國學が、それらの約言と考へられる用法をしてゐるのも、宣長の云ふ、皇朝學の意と異るものではないと思ふ‥‥。

 併し問題は、國學と云ふ事の當否にあるのではなく、宣長が自己の學について、それ程潔癖に云ふ事の精神そのものにある。即ち國學の名稱が、皇國の學とか、日本國の學とかの意にとられるとしても、それ程の指稱さへも、他との對立意識の上に立つが故に、宣長には不愉快なのである。儒學・佛學、其の他、種々の外國の學は、「皆よその事」なのであり、自國の事は、それらと位次を異にする獨自の地位を占むべきものとするにある。「吾は、あたら精力を外の國の事に用ひんよりは、わがみづからの國の事に用ひまほしく思ふ」のであり、「よその事にのみかゝづらひて、わが内の國の事をしらざらんはくちをしきわざ」なのである。‥‥

 宣長には、外國の學問をするのも、それは自國の學問の爲であつた。漢籍を讀まねば、日本の古代の事は判らないから讀むべきであるとして、「からぶみを見るには、殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことにまどはさるゝことぞ。此の心得、肝要なり」と云ふ。平田篤胤が漢籍・佛典・切支丹の書迄を研究したのも、敍上の意味に於いてであつた。その學は支那を認識する爲に支那學を研究し、印度を識る爲に印度學をやる立場ではない。その立場は、あくまで自國を識り、自己の道を識る事、殊にそれが古學たるが故に、自己存立の根元を究める事に外ならない。宣長の國學は、皇國の學であり、自國の學ではあつても、日本國の學の意とはしたくないのである。何となれば、日本國の學と云ふ名稱は、第三者の立場からの名で、他國人が研究する場合の學問の性格を表はすが、宣長の學は、他國人の日本研究とは立場を異にする「御國の學」であるからである」と。



●平泉澄博士『皇學指要』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/869
 
 

氣骨とは。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 5月 4日(土)23時32分5秒
返信・引用 編集済
   只今、歸宅したら、『靖國』平成二十五年五月號が到着してをりました。大野俊康元宮司の「訃報記事」を拜見しようとしましたが、來月號になるのでせう。棚橋信之元主典であつたら、さぞ、憤慨されてをられたことでせう。小生も急告なきを、大いに遺憾とするものである。‥‥「南の島に雪が降る」てふ映畫上映の記事枠はあつても‥‥。
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 此の「社報」、「靖國」の配字が、以前から納得がいかぬ。二十字詰×二十行の原稿用紙を頭に浮かべてほしい。これが一字詰×二十行の原稿用紙だつたら、當然、「國靖」となる筈だ。家の鴨居に掛かる扁額があつたら、よ~く見て戴きたい。最近の書家は、扁額を求められたら、「左書きにしませうか、右書きにしませうか」など、意味不明な言を發すると云ふ。抑も我が國語には、縱書き有つて、横書き無し矣。嗚呼、國語の書法も、遂に蠻風になつて久しい。左書きの此の掲示板管理者が云ふのも、可笑しいが‥‥(泣)。是を理由として、インターネツト自體を無視する御方も、段々といらつしやる。
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 それにしても、大野元宮司ご歸幽の記事が少なく、これは尋常では無い。熊本縣神社支廳長も勤められた御方にもかゝはらず、『神社新報』も、四月の末に至つて、やうやくベタ記事を掲上するのみ。著作に感動したてふ御方も衆いと聞くに、誰も語らうとされぬ。やはり靖國神社現執行部に氣を遣つてをるのか。氣骨のある人士は、當世には、もうゐないと云ふことか‥‥。歎かはしい時代となつてしまつた證である。
 
 

大野俊康靖國神社第七代宮司ご歸幽。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 4月17日(水)21時17分31秒
返信・引用 編集済
   平成二十五年四月十六日、大野俊康靖國神社第七代宮司(現・熊本縣本渡諏訪神社名譽宮司)には、ご歸幽の御由、享年九十二。謹みて御冥福を懇祷申し上げる次第であります。

 靖國神社宮司としてのご奉公は、平成四年四月一日から、平成九年五月二十日の、足掛け六年間でありました。

 九段塾塾頭・福井金城翁の本志とは、抑々何ぞや。賀茂百樹――鈴木孝雄――松平永芳――大野俊康宮司の精神を繼承し、恢弘し、且つ復古すること、即ち是であります。此の至願は、遙かに
明治天皇の聖旨に應へ奉り、
今上天皇の神業を翼贊し奉ることに外ならないのであります。

 塾頭の曰く、「大野宮司は、宮司職である間は、祕かに懷に短刀を忍ばせてをられた。いつでも宮司として相成らぬ事、不屆きあれば、不始末・遺漏あれば、自裁する心算であつたと聞く。いつも覺悟の短刀を懷に意識することで、言動の緩み無きを、ご自身に言ひ聞かせつゝ、勤めをされたのである」と。



【大野俊康宮司『職員に對する宮司就任の辭』】
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【大野俊康宮司『宮司通達』平成五年六月一日】
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 大野宮司の通達、即ち
明治天皇の聖旨を嚴守せんと欲する、靖國神社奉贊者は、今、をられるのか、どうか。をられるのなら、どうか、再び大きな聲を擧げて戴きたい。是れ、大野宮司に報いる一大事、とりもなほさず、靖國神社正統護持の分岐である。



●大野俊康靖國神社第七代宮司『後に續くを信ず――戰歿學徒が殉じた「神國日本」』(『祖國と青年』平成十一年十月號。同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』所收)に曰く、

「今、世の中は「二十一世紀、二十一世紀」と騒いでゐますが、來年(平成十二年)は「皇紀二千六百六十年」です。‥‥「二十一世紀」ではなく、「皇紀二千六百六十年」と、誇りをもつて言へる日本に戻すべく、お互ひに力を盡くして參りませう」と。
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 愚案、謹みて申し上げる。有志の士は、大野宮司の遺訓を守り、「二十一世紀」や「2013」てふ辭の使用を控へて戴きたいと、痛切に思ふ。中興紀元、即ち皇紀を奉ずる方も、あれゝ、「二十一世紀」と云つて憚らず、また元號も、西暦の御飾りになりつゝある。大寶律令の御代ならば、現代人は、正に「叛亂豫備罪」が適用される。これは深刻なる問題である。此の皇國から、再び「元號」が無くなるかも知れぬ。否、其の兆候は、至る所に見られよう。天皇による時間支配を拒まざる御方は、深く顧みて戴きたい。
 
 

山口藤園大人、追記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月21日(木)23時38分49秒
返信・引用 編集済
   此の掲示板の最下段なる「自分の投稿の編集」が、間を置いて、突然出來なくなるのは、どうしてだらうか。恐らくは「セキユリテイ」ちふものゝ仕業か、或はクツキーとか申す洋菓子についた蟲のせゐか、困つたもんなり。吁。



【山口藤園大人】
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宜しく神異史實を畏拜すべし矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月20日(水)23時51分8秒
返信・引用 編集済
 

●友清歡眞翁『天乃手抉』(昭和十五年四月十六日。『靈の世界觀』に所收)に曰く、

「近年の東京の出版物では、『古事記』も『書紀』も、勝手な俗解をもつて説き歪められて、如何にも古典の眞意を闡明したかの如くに廣告してあるやうであるが、あれ位ゐ眞の神國日本の姿を冒涜するものはない。官廳の咎めを受けぬために、敬語を巧みに使用しつゝも、其の全體の構想は、全く神國日本の古傳を冒涜するものである。古傳の冒涜は、國體の冒涜である。

 伊勢神宮を始め、全國の官國幣社の傳へにも、古來、その神異史實は澤山にあるのであるが、政府は、何故にそれを嚴重に撰修して公刊しないのか、吾々はそれを殘念がつて居るほどである。國體明徴も國民精神作興も、其れが一番、適切有效である。むろん其の傳説の中には、眉唾ものも混雜して居るから、其れを嚴修して、眞實にあらずと證明し得られるものを削除し、その他は批判を加へずに、ありのまゝに撰修して公刊するがよい。相當の大事業ではあるが、眞の神國日本の姿を顯現するに、最も適切で且つ有效な仕事であると、私共は思ふのである。政府としては、天關打開の爲めに、岩戸びらきの爲めに、是非やらなければならぬ筈のものである。

 伊勢神宮についても、澤山な神異史實の正眞の傳へがあるが、畏れながら其の中の一つについて、簡略に述べることを許していたゞきたい。‥‥(昭和十四年六月十七日)或る人から、突然一軸を送られた。それは長元託宣の神歌を、明治初年頃の皇大神宮主典・山口起業大人が書かれたものなので、それを床にかけて、本部の皆樣へ説明したやうな次第であつた。九百年前と今日とでは、暦法も異なるけれど、神歌の下されたのも六月十七日で、私の方へ一軸到着も六月十七日で、偶然とは云へ、其れをも奇異に感ぜざるを得なかつたからである。私は山口起業大人の謹書された、その神歌を拜觀しながら、何とも云へぬ感慨を催し、その爲め、其の夜は一時間しか眠れなかつた‥‥。この一軸には、墨付五枚の記録が附してあり、この記録は、後年、山口起敬氏[起業大人の令嗣か]が、叔父さんにあたる尾花修平氏の需めによつて書かれたことが附記してある。

 この長元託宣のことは、天行居で刊行してある『口譯・神判記實』の中にも收載してあるから、此處に記述しないが、九百年前における皇大神宮神異史實の一つとして、極めて重大なものゝ一つである。後一條天皇・長元四年六月十六日から十七日にわたり、齋宮・□[女+專。せん]子女王に、荒祭宮の大神があらはれ給ひ、電光雷雨の中に、くしび極まる神異があり、祭主・輔親朝臣に對し、十七日は、畏くも神歌を賜はつたのであるが、その十六日から十七日までの御ありさまは、實に畏くも畏きことで、世間に多くあるところの低級卑俗なる憑靈現象の如きわけのものでなく、神威恐るべき御ありさまであつたのである。本當の敬神の念といふものは、理窟や議論で養はれるものではない。神國日本の本當のことを、ありのまゝに國民に知らせることによつて、理窟拔きに、全國民の精神が火の塊りのやうになつて、如何なる國難をも突破して行く氣魄が、全土に蔽ふやうにならなければならぬのである。要するに此れが、私共の念願である。全國同志諸君とともに、今後いよゝゝますゝゝ此の方針をもつて奮鬪努力し、『神のたもてる國』の光輝を、六合に光徹せしめなければ相ならぬ」と。



●皇大神宮主典兼權大講義・藤園山口傳兵衞起業大人の原撰。鴨居正桓・鈴木重道兩翁の口譯『口譯・神判記實――神異靈驗實話集』(昭和四十七年六月・山雅房刊)の「皇大神宮荒祭の宮、齋内親王に憑り給ふ」に曰く、

「伊勢の齋内親王と稱し奉るのは、天皇の御手代に代らせ給うて、皇大神に奉仕したまふ職掌にましゝゝて、崇神天皇の朝に、豐鋤入姫命、始めて其の職を奉じ給ひ、埀仁天皇の朝に、倭姫命が、其の職をお嗣ぎになつてから、代々に其の跡を推して、其の職をお置きになつたのである。

 さて其の仕へ給ふ状(さま)は、九月、神嘗祭、又た六月・十二月の月次祭毎に、多氣の郡なる齋宮をお出ましになり、度會の郡の離宮(りくう)にお着きになり、大祓を修せしめられて、豐受の宮の祭を奉仕して、離宮にお歸りになり、翌十七日に、皇大神宮の御祭を仕へ奉り給ふ例(ためし)でおはしました。

 しかして後一條天皇の朝には、村上天皇の皇子・二品中務の卿・具平親王の女・□[女+專]子の女王(ひめみこ)と稱し奉るお方が、長和五年に、四十六代に當る齋王に立たせ給うたのであつた。

 齋王にお定まりになつてから十六年を經て、長元四年六月十六日に、例の如く、豐受の宮の御祭、故(こと)なく遂げ給ひ、離宮院に歸りおはしまして、翌十七日に、皇大神宮の祭庭に就かせ給うたが、既に御玉串供奉の前に當つて、忽ちに大雨が注いで來て、電光は雲を穿ち、雷聲は天地を震動するばかりなので、上下の人々は、これがために心神を迷はして恐怖するほどに、齋王候殿の方に當つて荒涼(すさま)じい聲がして、祭主を召し給ふので、祭主・輔親朝臣は驚き恐みながら、禰宜等を率ゐて齋王候殿に參らうとすると、暴雨が餘りに烈しいので、笠を二つまで吹き損ぜられながら、漸く齋王の御前に候すると、齋王の御氣色は常のやうでなく、御聲、猛高(たけだか)におはしまして宣ふやう、

我は、皇大神宮の第一の別宮・荒祭の宮におはしますなり。大神宮の敕宣に依りて、今、齋王にかゝりて託宣する所なり

と宣うた。祭主以下、禰宜等は、恐怖して愼みて奉承るに、宣ふやう、

公家(こうけ)を護り奉る事、更に他念なし、帝王と吾と交ること、絲の如し。しかるに近時(ちかごろ)、公家の懈怠の事あり

とて、種々御咎めになり、

中にも光清といふもの、罪を犯したる事、又た齋宮寮の頭・相通、妻・古木古曾と共に狂亂の企てをなし、「我等夫婦には、二所大神宮、翔(かゝ)りましますなり。吾が男女の子供には、荒祭高の宮の大神の付き通ひ給ふなり。所從の女房共には、五所の別宮の付きたまふなり」と稱ひて、雜人を招き集め、連日連夜、神樂を唱へて狂ひ舞ひ、二宮の御爲めに化異(けい)の行ひをなす事、神明の奉爲(おほんため)、帝王の奉爲、極めて不敬不忠の企てなり。皇大神、高天原より天降御(あまくだります)の後、未だ人に寄り翔りおはしまさず。しかるに件の相通・古木古曾等、無實の詞を出だし、狂言を以て人の耳目を驚かすこと、甚だ輕からぬ罪なり。故に今ま止むことなき祭庭に於て、齋内親王に翔り、天下の爲め、後代のために託宣して、神罰を與ふる處なり。しかして今の齋王の敬神の誠は、前の齋王にまさるといへども、寮の頭の事によりて、過状を進ぜしむべし

と宣うた。輔親、謹みて申すやう、

「齋王、御本心おはしまさゞるの間、讀み申すといへども、聞し食され難き歟と申し上げる」

と申し上げると、神宣し給ふやう、

吾、齋王の神(しん)を取收めたれば、やがて蘇生せしむべし

と宣ふほどに、齋王は本心が出で給うた。よつて輔親は、過状を奏し奉つた。

 さて後、また神宣し給うて、

汚穢の事多し。七箇度、御祓(みそぎ)を奉るべし

と宣うた。輔親、うけたまはりて之を修すると、三ケ度奉仕する間に、大雨のために、河水が湛へて來て、齋王の御座(おまし)を浸すので、御座を退け奉り、其の事、極めて不便なるまゝに、殘れる四度の數は、還御の後、修行し奉るべき旨を奏した。すると、重ねて神宣し給ふやう、

大御酒を獻るべし

と。よつて御酒を三たび供(くう)じ奉るに、毎度(たびごと)に五盃づつ所聞食して、合せて十五盃に及び給うた。其の次に、御製一首を詠じて、御酒盞を祭主に下し給うた。

 その大御歌

さかづきに さやけきかげの みえぬれば ちりのおそりは あらじとをしれ

祭主・輔親は、やがて御和(おんかへし)を奉つた。

「おほぢ父 むまごすけちか みよまでに いたゞきまつる すべらおほむ神」

かくて此の外、何くれと御託宣が條々(さまゞゝ)あつたといふことである。事、訖つて、神はお昇りになつた。

 しかるに齋内親王はお勞れになり、且つ神慮を恐まれて、御玉串、又た酒立五節等も供奉し給はず、明くる十八日辰の時(午前八時)に及んで、御心地平らぎ給うたので、四の御門の東妻の玉垣二間(ふたま)を破り開いて、御輿を寄せ奉り、やがてそれに御(め)して退出し給うた。凡て宮庭には、御輿を用ゐ給はぬ制法なので、腰輿にめされる例であるのを、齋王非常の御事なので、止むを得ず御門を憚つて、御垣を開いて、御輿をば寄せたのであつた。

 しかるに此の日、大川の洪水によつて、酉の時(午後六時)許りに、漸く離宮院に歸着し給ひ、祭主竝びに宮司供奉して、豐明の解祭(げさい)の直會を、亥の時(午後十時)を以て仕へ奉り、同十七日の御託宣の由を記し、三員の司神主寮官主神司、連署して、祭主の解状・寮の解等を相副へて、上奏したのであつた。

 其の後、祭主を禁中の陳頭に召され、託宣の始終を奏聞する時に當つて、頓に雷電大雨烈しく、之が爲めに官人竝びに隨身等を召されて、宜陽殿壇上に候せしめられた。諸卿たちは、皆な色を失つて、怖畏極まりないところ、陳前後陳、水溢れて、頭辨は陳後に妨げられて、敕語を傳へる事が出來ず、南殿を徘徊して、陳腋の床子(しやうじ)を以て橋として、漸く陳に出て、神宣を傳へたのであつた。神威の炳然(いやちこ)なのに、天皇陛下も、殊に恐み給ひて、速かに相通を遠い島に逐(やら)ひ給ひ、御使を立てゝ、神慮を慰め給うたので、其の後は事無く、穩かに過ぎたのであつた。

 謹みて此の事の始終を以て、恐(かしこ)き大神の御上を窺ひ奉るのに、後世の人が、妄りに「大神の託宣ぞ、或は御夢の告げぞ、又た大御歌ぞ」などいつて、人に示して打騒ぐのは、皆な狂妄のわざであつて、此の長元の一事を以て、後世、畏き神の大御上を論らひ汚し奉つてはならぬ御戒めなることを知らぬ罪人といふものである。恐き御託宣に、皇大神、高天原より天降御の後、天下・後代のために、やんごとない祭庭に於て、天皇の御手代なる齋内親王にかゝりおはしまして、始めて託宣し給うた旨を、愼み顧みて、深く戒めねばならぬ事ではある」と。



 愚案、最後の邊りの爲體は、大型の本屋に行けば、彼の所謂る罪人が竝んでをつて、何時でも見ることが出來よう。是れ、其の著者の由つて來る所、容易に推して知る可く(油揚げ・穢肉でも供へ、線香を點して、讚美歌でも唸り、敬して之を遠ざく可し矣)、其の後世、實に懼るべき事と謂はねばならぬ。

 友清翁の仰せの如く、我が皇國の古傳説の中から、混雜せる眉唾もの、或は眞實に非ずと證明し得られるものを削除嚴修し、古眞傳は批判を加へず、有りのまゝに撰修して、博雅の篤志家は、是非とも之を公刊してほしいものである。眞の神國日本の姿を顯現する爲めに、國體明徴・國民精神作興の爲めに、又た何より天關打開の爲めに、適切かつ有效の處方箋であるに相違なからう。

 東岳宮地嚴夫掌典『本朝神仙記傳』は、考證明徹、小生の愛讀して已まざる典籍である。亦た全國の古社・産土社には、古傳神驗・神異史實も事缺かぬ。一例を擧ぐれば、廣島縣賀茂郡三原市大和町下徳良なる龜山神社宮司・松風潮武臣翁『鎭守の杜の神々』(昭和五十五年五月・社務所刊。平成九年十一月増補版・山雅房復刊)の如き、拜讀するに、眞に神さびたり。或は靖國神社に坐しても、不可思議にして畏怖すべき神異奇聞は、往々にして仄聞する所、之を集めて大成してほしいと懇願するや、愈々切なるものがある。
 



【唖然たり矣、悲慘たり矣、合理的・理性的な近代人の歴史觀】
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天壤無窮の神敕を奉戴して、國體の尊嚴を辨ふべし矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月14日(木)19時48分13秒
返信・引用 編集済
  ●出雲大社大宮司・男爵・出雲國造第八十代・千家杖代彦出雲宿禰尊福大人講述『大道要義』第九章「天壤無窮の神敕を奉戴して國體の尊嚴を辨ふべき事」條(全二十二章の一。明治十四年十月刊)に曰く、

「皇統の、萬世一系、連綿なる事は、皇祖天神の期し玉ふ所にして、天壤無窮の神敕は、皇基の因つて立つ所、國體の因つて定まる所の根據なり。

 抑々高皇産靈大神の、幽顯を區別し、主宰を分擔し玉ふは、他なし、斯民を愛養し玉ふに在りて、皇基を萬世不易に定め玉ふは、斯民の心を一にし、頼る所を確定して、其の保護に安んずる事、萬世、一日の如くならしむるの神慮なり。然れば列聖、神敕を相承け、國を治め、人を愛育し玉ひて、崇神天皇は、皇祖の宸極に光臨し玉ふは、一身の爲めならずして、天下を經綸し玉ふにありと詔し玉ひ、仁徳天皇は、君を百姓を本とすと詔り玉ひて、斯民を以て國家の本とし、富強を以て行政の主眼とし玉へるは、則ち皇祖天神の神敕を、歴代に遵守し玉ふ所にして、皇統の永昌も、また此に因るといふべし。

[崇神天皇紀四年に、「詔して曰はく、惟れ我が皇祖、諸々の天皇等、宸極を光臨す者は、豈に一身の爲めならむや乎。蓋し神人を司牧へて、天の下を經綸めたまふ所以なり。故れ能く世に玄功を闡き、時に至徳を流きたまひき。今ま朕れ、大運を奉承りて、黎元を愛み育ふ。何當してか、皇祖の跡を聿べ遵ひて、永へに窮り無き祚を保たむ。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭して、竝な天の下を安かにせむこと、亦た可からずや乎」と。

 仁徳天皇紀七年に、「天皇の曰はく、天の君を立つることは、是れ百姓の爲めなり。然らば君は、百姓を以て本と爲す。是を以て古への聖王は、一人も飢ゑ寒ゆれば、顧みて身を責めき。今ま百姓貧しきは、則ち朕が貧しき也。百姓富めるは、則ち朕が富める也。未だ百姓富みて、君の貧しきこと有らじ矣」と]。

 然るに此の神敕は、獨り治國の本を主宰し玉ふ帝王の遵守し玉ふべきのみにあらず、其の保護を受くる者も、また必ず奉戴して、博愛の神意に答ふべきなり。況むや斯民の曩祖を尋ぬれば、皇御孫命降臨の時に於て、皇祖天神の神慮を翼贊し、大國主大神と共に、皇基を守護する神にあらざれば、國體を景慕し、皇徳に歸化せし者ならざる無く、歴代の祖も、また神敕を繼承し玉ふ聖子皇孫を奉戴翼贊せる者に於るをや。

 然れば此の神敕を奉戴して、國體を確守するは、祖先の遺志を繼承し、孝道を失はざる者にして、即ち皇基を守護し、大政を補佐するなれば、一に神敕を奉戴する時は、忠孝を兩全する理を辨へ、今の天皇に忠なれば、歴代の天皇に貫き、今の親に孝なれば、祖先に徹するの大道を思ふべし。加之のみならず、天地神明の神慮を體認し、敬神の徒と稱する者にして、此の神敕を奉戴せざれば、何を以てか、信徒たるの實を表せむ。斯國に生を稟けたる者にして、國體の尊嚴を確守せざれば、何を以てか、國民たるの分を全くせむ。

 吁、神敕を奉戴して、益々皇基の永昌を補佐し、國體を確守して、益々其の光輝を表すべきは、國民の義務にして、又た敬神の主眼ならずや」と。


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【目録】

第一章 天地萬物の元始を明かにして、造化大神の神徳を辨ふべき事
第二章 修理固成の神敕を奉戴して、人たる務を怠るべからざる事
第三章 博愛の神意を遵守して、同胞の信義を全くすべき事
第四章 天地分掌の神晦を確信して、報謝する所を知るべき事
第五章 幽顯分任の神敕に因て、遵奉する所を定むべき事
第六章 經國の功徳を謝し、治幽の恩頼を仰ぎて、死生依頼すべき事
第七章 幸魂・奇魂の神助を仰ぎて、自己の功業を勉むべき事
第八章 國避の神意を辨へて、貪婪の妄念を去るべき事
第九章 天壤無窮の神敕を奉戴して、國體の尊嚴を辨ふべき事
第十章 靈魂は神賦にして、祖孫命脉を貫くを信ずべき事
第十一章 靈魂の歸着を明かにして、神寵榮福の地を求むべき事
第十二章 善惡の執念は幽冥を貫くを思ひて、心行を正直にすべき事
第十三章 祓禊式を定め給へる神意を奉じて、汚濁の所業をなすべからざる事
第十四章 萬物の増進を見て、神恩の無窮なるを感ずべき事
第十五章 醫藥・禁厭を創め給へる神慮を奉體して、衞生の務を全くすべき事
第十六章 報本反始の務を全くして、自己の分を誤らざるべき事
第十七章 産土神を崇敬して、氏子たるの禮を盡すべき事
第十八章 夫婦の道を正しくして、人倫の大本を亂るべからざる事
第十九章 政令を遵奉して、保護の恩を忘るべからざる事
第二十章 祖先の恩澤を失はずして、子孫の永久を保つべき事
第二十一章 教育を嚴にして、文化の進歩を求むべき事
第二十二章 交遊扶助の情義を辨へて、親愛の誠を缺くべからざる事

**********



●千家尊福國造『出雲大神』
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●千家尊福國造『稱贊神徳皇恩詞』
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 愚案、昨日、偶々「陰陽師Ⅱ」てふテレビを見たが、不敬極り無き噴飯物であつた。現代人は、何故、あゝ云ふ物しか作れなくなつてしまつたのか。「出雲王朝」とか「怨念」とか、言葉自體も然ることながら、「アマテラス」とか「スサノヲ」とか、片假名の呼捨て、實に不愉快千萬なり。亦た映畫「天地明察」も見るには見たが、愚妻でさへ詰まらぬと申してをつた。闇齋先生は忍者に殺され、公家は相變らずの長袖者流‥‥。これでは、韓國の時代物に茶の間が席捲されても、文句は云へまいて‥‥。
 
 

『九段塾』再開の御報告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月 2日(土)00時14分12秒
返信・引用 編集済
   三月始めよりの掲示板故障も、六日午後、どうやら解消されたやうです。「御茶碗」樣、洵に難有うございました。

 塾頭「最終講義」、是非とも御精讀を、と申し上げましても、齒拔けの爲體でありました故に、之を悲しんでをりました。
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 未だ精査はしてをりませぬが、小生、ほつとしてをる次第、なほ削除されてゐる記事に御氣附きの御方には、何なりと、ご通知たまはれば幸甚に存じます。

 ご閲覽各位には、これに懲りませず、鋭意、ご投稿たまはれば、九段塾管理者として、喜び、之に過ぐるものはございません。宜しく御引廻しの程、幾重にも御願ひ申し上げます。

     九段塾管理者・備中處士 敬白
 
 

承詔必謹、遺志繼承の誓ひ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月26日(火)19時13分22秒
返信・引用 編集済
  ●寒林平泉澄博士『松下村塾記講義』(昭和三十五年夏於存道館。『先哲を仰ぐ』に所收)に曰く、「

 先だつて雜誌『日本』(愚案、平泉博士が大川周明博士より、「日本」てふ雜誌名を讓渡されたもの。大川博士が、唯一「先生」と呼んだのは、平泉博士であつた)に、二・二六事件のときの阿南大將の言動を書いておきました。これは私、今まで書かずにをりました。この問題について述べることをひかへてをりましたが、今度の事件に感じて、今こそこれを明白にすべきであると思ひまして、あの事を書きました。阿南將軍は、あの時、少將でありました。東京陸軍幼年學校の校長でありました。その校長に對して、陸軍省から、この事件に關して一切批評することを差控へられたいといふ通牒が參りました。その話は、阿南將軍より、直接私の聞いた所であります。阿南將軍は、これに答へて、

「自分は、幼年學校長を拜命してをります。學校長のなすべきことは、生徒に何を爲すべきか、何を爲す可からざるかを、明確に教へることであります。今、目の前に起つてゐる、この爲す可からざる反亂を見て、生徒は動搖してをります。かくの如きものは、爲すべきものでないといふことを教へました。それについて、御處分あることは致し方ない。私は甘んじて御處分を受けます」。

かう云つて、二・二六事件を批判し、その書かれたものを、全校の生徒に手渡されたのでありました。實に立派な態度と云はなければならぬ(愚案、「若し眞に國體を擁護せんが爲に、非常の手段をとれりとせば、遂行の曉に於ては、直ちに割腹自決するか、しからざれば二重橋の御前にひれふして、謹んで罪を待つべきのみ。しからずして要地を占領し、朝廷に要請し奉りてやまざるが如きは、全く外國革命の手段に同じく、叛軍逆徒にあらずして、何ぞや。之を誅戮する事なくして、皇國の中興いつをか期すべき」と云ふのが、蓋し平泉先生の最大の理由であり、先生は、畏き邊りに奔走獻策した後、尊父に遺詠を殘し、具體的策を立てゝ、肉彈以て突入せんと計劃されました)。あの時に、數多くの人が殺されてをります。その數多くの人が殺されました時に、陸軍省はやはり通達を發して、誰の處へも弔問に行つてはならぬ、お弔ひに行くなとといふ命令が出ました。阿南大將は云ふ、

「高橋是清翁を初め、その他の方々の處へは、自分は特に關係がありませんから、參る考へは持つて居りませぬ。初めから持つてをりませぬ。獨り教育總監渡邊大將に至つては、私の直屬長官であります。如何なる事情にせよ、自分の直屬長官が殺されたと云ふことを耳にしながら、その弔問に行かぬと云ふことは出來ません。私は參ります」。

かう云つて、特に屆を陸軍省に提出して參られたのであります。實に天晴れの態度と云はなければならぬ。大丈夫の進退と云ふのは、かくの如きものであります。處分されることは、これは致し方が無い。しかし自分の爲すべき事は、それにかゝはらずして、これを爲す。實に堂々たる態度と申さねばならぬ。その話は、皆、將軍みづから私に話をされたことであります。

 その渡邊大將の所でお通夜をしてをられます時に、憲兵が飛込んできて、その座に居る或る少將に向つて、「閣下を反亂部隊はねらつてをります、御注意下さい」、かう云つて來ました。その少將は、この憲兵の報告を聞いて、顔色がさつと變りました。どうしてよいか判斷に迷ひ、非常に慌てゝをる。それを見て、阿南將軍が云はれるには、

「このまゝこゝに、今晩は御通夜をされますか、それともお宅へ歸られますか。このまゝ居られるのであれば、それも結構であります、もしお歸りになるといふことであれば、私の車で、私がお守りして、お宅までお屆けします」。

かう云はれます。これは、實に堂々たる態度と云はねばならぬ。その少將の名前は、私は聞き忘れました。又、結果どうされたかも、私は覺えてをりません(愚案、平泉先生の、此の言葉、非常に勉強となります)。しかし阿南將軍の、何といふ立派な態度であるか。校長の態度として、光り輝くものといはねばならぬ。

 かくの如き學長が、今度のデモに一人でも出てをるか。東大總長の最高筆頭に居つて、天下の學界・教育界の牛耳をとつてゐる者、その態度の、何といふ老態醜態でありますことか。日本の國は、こゝまで落ちてをる。驚くべきことであり、悲しむべきことゝ云はなければならぬ」と。



【點描――嗚呼、阿南惟幾大將】
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 嗚呼、阿南惟幾大將、正に古武士の如し矣。幸ひなるかな哉、此の陸軍大臣あつて、「承詔必謹」の大精神が喚起覺醒し、皇國が護持されたと謂はねばならぬ。



 七十八年前の本日、二・二六事件が起きた。而して此の日、「福田草民」樣の、尊き篤論を見るを得た。
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「決起した青年將校の中で、詔を奉戴して、己の大罪を認め、即時自決をしたのは、野中四郎大尉のみであつた」と云ふが、此の「陸軍歩兵大尉歩兵第三連隊第五中隊長・野中四郎命七十七年慰靈祭」が、一昨日、岡山市平井なる野中家墓地に於いて、嚴かに執り行はれた。集まる者、全て二十七名、大尉の悲しき志を、しかと心に刻んだ。小生も其の末端に加へられ、大尉を御偲び申し上げた。

 野中大尉は、事件前の二月十九日、週番指令室にて、『迷夢昏々萬民赤子の遺書』を書き殘し、『蹶起趣意書』は、大尉の草案に村中孝次大尉が加筆したものである。『蹶起趣意書』に、筆頭人として野中大尉の名がある。二月二十九日午後、陸相官邸の一室に於いて、『實父勝明陸軍少將・養父母・妻あての遺書』を井出大佐に手交し、拳銃を以て自決。「天壤無窮」と認めた絶筆が存してゐる。享年三十四。又た昭和五十四年七月十六日、蹶起決意の手記『自己を否定し盡くした眞の人としての遺書』も、野中大尉の圖嚢から、四十三年目に發見されてゐる。野中大尉の弟・五郎海軍大佐は、昭和二十年三月二十一日、第一囘神雷櫻花特別攻撃隊として出撃、兄・大尉の寫眞を肌身離さず持つてをられたと云ふ。

 本祭典は、昭和五十二年二月、岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁(五草庵主都羅山人三宅萬藏翁の門)が自ら任じて立つて、獨り始められたもの、今年で、第三十七囘を重ねる。一度、當日を偲ばせる雪があつたものゝ、祭典中、かつて一度も雨は無かつた由。祭典中に、種々不可思議な事象も惹起、小生も身震ひしたこともあつた。而して本年からは、其の主催を「日本心の集ひ」に交替し、足高神社・井上直亮禰宜が齋主を、三宅翁の令孫・松下眞啓主が祭主を、防共新聞社岡山縣總支局長・秋田智紀主が典儀を勤められた。小生も參列は四囘目、と云ふことは、初めて岡田翁を拜し、知遇を得て、三年が過ぎたことになる‥‥。感慨無量である。



 追記。思ひに耽つてゐるうちに、同血社主人は、橋本徹馬氏『天皇と叛亂將校』(昭和二十九年五月・日本週報社刊)の紹介を試み、皇軍のあるべき姿を模索されてゐる。
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東條由布子刀自歸幽。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月14日(木)22時34分24秒
返信・引用 編集済
   平成二十五年二月十三日、東條由布子刀自、ご歸幽の御由。享年七十五。謹みて御冥福を御祈り申し上げます。
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 塾頭の遺作・映畫『凛として愛』の普及に努めて戴き、本道に難有うございました。言葉も見つかりませんが、今後とも御靈導の程、何卒よろしく御願ひ申し上げます。 百拜


*****「愛国女性のつどい花時計」樣より速報 *****

御通夜:平成25年2月19日(火)18:00~ 代々幡齋場
御葬儀:平成25年2月20日(水)11:00~ 代々幡齋場
http://www.tokyohakuzen.co.jp/funeralhall/yoyohata_map.html

■花時計一周年記念『凛として愛』上映會に於ける、東條刀自のスピーチ
http://www.youtube.com/watch?v=sQ2NR7IMlUk

*****

■東條刀自と塾頭(愛国女性のつどい花時計代表の追悼文)
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http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/archives/3698511.html

■叔母の他界(東條大將直系曾孫・東條英利氏のブログ)
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http://ameblo.jp/toojoon/entry-11471043469.html
 
 

我が「國史」と「日本史」

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月13日(水)20時47分13秒
返信・引用 編集済
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 贈從三位・秋津彦美豆櫻根大人鈴屋本居中衞平宣長翁は、『うひ山ふみ』の中に、「物學びとは、皇朝の學問をいふ」と述べてゐる。今日流石に各々の學問の名付には細心の論理を追ふ學者達も、我が古學に就ては、大凡そに「國學」と言ひ馴れて濟ましてゐるが、宣長翁自身は、「和學・國學などいふは、皇國を外にしたるいひやう」であり、其は實に「むかしよりたゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分たむために、皇國の事の學をば、和學或は國學などいふならひ」に從つてゐるもので、第二義的に乃至は相對的に、或は「外にして」呼ばうとしてゐるもので、「いたくわろきいひざま」であり、却つて「皇國の學」こそ、たゞ「學問」と云ひ、もし「漢學」の事と言ひ交へて紛れ易い場合に、「皇朝學」等とは謂ふ可きであると、言つてをられる。大人が戎意の學者の「國學」と云ふ言葉を嫌惡し峻別されたのは、其が結局は「山跡魂をかたむる一端なる故に」と、決心を披瀝されてをられる意味に於て、極めて重要な事と思はれる。

 某は日頃ろ、贈正一位准三宮・北畠准大臣源朝臣親房公の「言語は、君子の樞機なり云々。亂臣賊子といふものは、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくるなり」(『神皇正統記』後醍醐天皇條)てふ教誡、或は承陽大師の「愛語、能く囘天の力あることを學すべきなり」(『修證義』)、支那の孔丘仲尼の「必也正名乎云々。君子於其言、無所苟矣」(『論語』子路三)の箴誨を奉ずる者なれば、心底の鬱なる想ひを披露し、安易なる「國學」、或は「國史」と云ふ名稱に、注意を喚起したいのである。

 而して坂本太郎博士は、「國史」と云ふ名稱は、「背後に古き歴史を有し、天皇親政・皇威隆昌の世を象徴する、六國史の名稱たる矜持をもつものでさへあつた」(「國史の名義」雜誌『歴史』十九―一)と云はれるのであるが、かやうな深刻なる謂ひに於て、其の名義を考へると云ふのであれば、暫く可しとし得ようか(但し此の坂本博士、戰後、『日本史概説』てふ題の著書ありて、全く平氣のやうである)。

 因みに承陽大師は、己の宗を禪宗・曹洞宗と呼ぶ事を忌み嫌つた。『正法眼藏』佛道に云ふ、
「佛祖正傳の正法眼藏涅槃妙心、みだりにこれを禪宗と稱す云々。しるべし、この禪宗の號は、神丹(神國の謂ひ。支那)以東におこれり。竺乾(印度)にはきかず云々。これみな僻見を根本とせる枝葉なり。西天東地、從古經今、いまだ禪宗の稱ならざるを、みだりに自稱するは、佛道をやぶる魔なり。佛祖のまねかざる怨家なり云々。この曹洞の稱は、傍輩の臭皮袋、おのれに齊肩ならんとて、曹洞宗の稱を稱するなり云々。佛道は、なんぢが佛道にあらず。諸佛祖の佛道なり。佛道の佛道なり」と。

 言葉名稱の片言も忽緒に出來ぬ事は、先哲の親切叱咤に明かである。例へば、
「神武紀・仲哀紀。かくの如く、天皇の御名をいひすてにする事、古學者には似つかはしからぬわざなり。公式令を、何と見たるにや。そもゝゝ物學ぶ物の本意は、鬼神の情□を窺ひ、天下の大道を知り、君臣の大綱、皇統の紹運を明らめ、經世のみちを講ずべきを、かくなめげなる書法は、何事ぞや。神武天皇御紀、また神武天皇紀とも、略してはかくべし。なんぞ君上の御名を、私にみだるゝや。近世古學者流に、ものゝかたはなる事を禁しめて、漢心々々と口くせに云へど、かやうなるなめげなる事をば、心ある儒者はせぬ事也。それにても、まさりたりとや」(贈正五位・道足別嚴橿根大人鈴木勝左衞門穗積重胤翁『閑窗獨語』)と。

 又た支那を中華・中國と云ふが如き、大東亞戰爭を太平洋戰爭と呼ぶが如き、吉野時代を南北朝時代と曰ふが如き、妄りに邪宗門暦を奉ずるが如き、吾人の懺悔猛省を促さねばならぬ。


【元號大權――天皇の定め給へる年號を奉ぜざる者は、謀叛豫備罪に當れり矣】
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【參考】
一、蓮田善明翁『本居宣長』
一、平泉澄先生『國史概説』第四章「國史概説と稱して日本史概説と稱せざる理由」
一、平泉澄先生「足利高氏名分論」(『建武』四―一)
一、平田俊春博士「吉野時代の原理」(『吉野時代の研究』所收――但し此の平田博士は、「吉野時代」と唱へなければならぬ理を力説するも、戰後は「南北朝時代」と申して、一向平氣であること、坂本太郎博士に同じ)
一、里見岸雄博士『支那の王道論』序言

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 件は、小生が、かつて學生時代に論じたものゝ一部であるが、上記「參考」書とは別本の、平泉澄博士『「國史概説」講義ノート』を拜見することが出來た。謹みて掲示し、諸賢の參考に供すること、愈々切なるものがある。



●平泉澄博士『「國史概説」講義ノート』(東京帝國大學教授の自筆、越前白山神社・平泉家所藏本。『藝林』平成二十四年十月號に所收)に曰く、

「これ(本講義)は、國史概説であつて、日本史概説ではないといふ事である。深く考へざる者に於いては、國史概説は、即ち日本史概説であり、名はどちらを取つてもよく、むしろ日本史概説といふ方が、明確であり、正しいやうにすら考へられるのである。しかしながらこれより説くは、國史概説であつて、日本史概説ではないのである。

 いふ所の意味を闡明ならしめんが爲には、これより日本といふ國號の起原に溯つて考究しなければならぬ。‥‥是等の考察のうちに自ら明かになるのは、日本なる國號が、對外的なるものであるといふ事である。外國人が唱へ始めたとすれば、いふまでもない事であるが、しからずして、我が國にて自ら唱へたとしても、それは外國に對して「日の本」と考へるのであり、外國を考慮のうちに入れ、之と對比する事なくしては考へられないものである。高麗王より日本といひ、新羅王より日本と呼び、隋の煬帝に對して日出處天子と稱せられた事を考へるがよい。

 もとより物の名は、すべて他に對しての稱ではあるが、しかし「やまと」(皇都のあつた國の名が、全國の名稱となつたもの)の如きは、必ずしも他國を考慮の中に入れ、之と對比し對揚しての名稱ではない。さればこそ、令の規定に於ては、日本なる國號を外交用と定められたのである。

 以上は、日本なる國號を、其の起原及び規定の上より見て來たのであるが、その起原は忘れられ、その規定も、亦た今は知られなくなつてゐるものゝ、我等の意識の上に於いては、この國號は、依然として對外的なるものであり、此の點に於ては、終始變りはないといつていゝ。

 それ故に今、日本史概説といへば、それは二つの場合が考へられる。
第一、外國人が日本の歴史を見る場合。逆にいへば、我等が英國史・獨逸史などいふと同じ場合。
第二、外國人に示す事を目的とし、或は少なくとも目的の一部として著はされたる場合。

 しかるに今、予が講ぜんとするは、日本人たる予が、日本の大學に於いて、日本人たる諸子に向つて、日本の歴史を講ずるのである。或は二三の外國人もまぢつて聽講しようとも、それは例外であつて、本體ではない。それ故に、これは國史概説であり、日本史概説ではない。

 或はかくの如き議論を、無意味なる贅論と考へるかも知れない。しかし之は決して等閑に附せらるべき問題ではない。何となれば、今日の學界に於いては、祖國意識を喪失する事を以て、我が國を諸外國と全然一樣に考へ、一樣に取扱ふ事を以て、進歩せる思想とし、科學的な態度であるとする、驚くべの怖るべき僻説が横行して居り、その極は、日本國の歴史の眞に解明されるのは、公平なる立場に在る外國人の手を待たねばならぬと考へ、或は東京の某大學の如く、外人の筆になる日本史を教科書として用ふるが如き事の存するからである。

 即ち我等の、これより講ぜんとするは、國史である。我等の之を繼承する事によつて、初めて眞に我等たり得る所の、祖國の歴史を明かにし、祖先の精神を尋ねんとするのである。

 これに就いては、本居宣長先生が、『古事記傳』の首に、『日本書紀』を評論して、
まづ日本書紀といふ題號(な)こそ、心得ね。こは漢の國史の、漢書・晉書などいふ名に倣ひて、御國の號を標(あ)げられたるなれども、漢國は、代々に國の號のかはる故に、其の代の號もて名づけざれば、分り難ければこそあれ。皇國は、天地の共(むた)遠長く天津日嗣續き坐して、かはらせ賜ふことし無ければ、其れと分けて云ふべきにあらず。かゝることに國の號をあぐるは、竝ぶところある時のわざなるに、是れは何に對(むか)ひたる名ぞや。たゞ漢國に對へられたりと見えて、彼れに邊(へ)つらへる題號なりかし
といはれた事、また藤田幽谷先生が、寛政九年、其の二十四歳の秋に、彰考館の同僚に與へて、『大日本史』の題號に反對し、四不可をあげて、具さに之を難じ、就中、第三條に於いて、全然本居先生と同じ見地に立ち、支那が班固以來、代號を以て其の書に命ずるは、易姓革命の國なるが故に、之を殊別するのであり、我が國の如き萬世無窮の國に於いては、國號を冠すべきでないとし、『日本書紀』以下、六國史の日本を冠かるは、深く考へざるの過なり、と説かれた事(『校正局の諸學士に與ふ』――幽谷先生遺稿。愚案、因みに『大日本史』は、敕賜の題名なり)が思出されるのである。

 是等の説は、二つに分けて之を考へなければならぬ。その一つは、我が國の歴史を説いて國史といはず、みだりに日本史と稱する者に對する、深刻なる警告としてゞある。この點に於いては、予は全然之に同感である。而して今一つは、『日本書紀』に對する非難としてゞある。この點に於いては、予は反對である。『日本書紀』の題するに、日本の二字を以てせられたのは、其の文の漢文を以て修飾せられたると共に、外國にも示さんが爲に外ならず、むしろその意圖、頗る雄大なりとして、讚歎すべきを思ふからである。而してこの點に於いては、伊勢の度會延佳神主が、『神代講述鈔』に於いて、
日本の二字を以て、此の書に冐するものは、吾が葦原の中つ國の名、許多(そこばく)あれども、其の中に、日本は、倭漢通用の美名なれば、取り分けて用ひたると見えたり。此の書を漢字に書きて、其の下に「泥土(はんと)、此を于毘尼(うひぢ)、沙土、此を須毘尼」など書きたるは、倭語の古きを、世に知らしめむとするさまなれど、實は佛氏の梵語を飜譯して、梵漢語を通用し、其の道を漢土迄におしひろめむとするに似たり。其の志、大なるかな。其の誠、通達して、此の書、終ひに漢土にもひろまりけるにや。近古の書に、日本紀を引きて正史と云へり。吾が國、中古よりは、博學宏才、又は其の徳ありける人達も、異國の道を、此の土にひろめむとの志のみにして、いかにぞや。吾が國、天地開闢より、神聖傳授の至道を、異國までもひろめむとの志は、有もこそせめ、聞くにも及び侍らず。苟くも道に志あらん人は、此に興起すべき事ならんかし」(序説)
と論じたのを、卓見なりとしなければならぬ。

 延佳神主の慨歎したる如く、中世以來、我が國の學者、卑屈にして、膝を外國に屈し、學問といへば外國の學問、學者の事業といへば外國の道を、我が國にひろめんとするもののみ多くして、近來、此の弊、いよゝゝ極まれる時に於いて、三百年前に於ける延佳神主の卓見により、千二百年前に於ける舍人親王の雄渾正大の精神を知り、之を仰ぎ得ることは、眞に尊ぶべき事であり、學者の規模とすべき所である」と。
 
 

野村玉枝刀自『御羽車』から。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月 9日(土)19時29分20秒
返信・引用 編集済
   明日は、太陰太陽暦正月一日、明後日は、紀元節なり。塾頭が、特に感激されたと云ふ、野村玉枝刀自『御羽車』(昭和十七年三月・六興商會出版部刊)を沈讀してゐる。塾頭所引の玉文を編纂再掲し、靖國神社招魂式の意義を深め、そして『戰陣訓』を拜讀す。



●九段塾・塾頭遺文『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

 野村玉枝と云ふ、戰前の歌人がゐる。富山の人である。夫・野村勇平大尉は、昭和十二年に召集令状が下る。そして昭和十三年十月十四日、漢口攻略戰、岳州の先陣で戰死。遺された若妻・玉枝には、あどけなき娘一人と乳飲み子がゐた。

きさらぎの 雪華落つる 驛頭に 今し下りたたす 白木の箱は

 戰死の公報の日にも、雪の華が舞ひ降る驛頭に白木の箱を迎へても、玉枝は泣かなかつた。滂沱と涙の粒が、雙眸から溢れたのは、深夜、靖國神社に夫が合祀される時、まさに靖國神社神門を御羽車に乘り、十六菊花天覽のもと、聖域に入る時であつた‥‥。夫が明日、出征すると云ふ前夜、玉枝は一人娘の暉美をすつかりねむらせ、日ごとに大きくなるお腹を大事に抱へて、夫の前に座る。夫は玉枝に言ふ。
「今、私は戰場へ出る身だが、戰爭といふことはどういふことか、お前もわかると思ふが、とにかく命をとるかとられるかといふことで、その二つの一つなのだが、まづ覺悟をしておく方が、あやまりがないと思ふのだ。それに戰ひ甲斐のあるいくさだ。一日も早く行きたいと思つてゐた」
と、夫は言ふ。しかし夫は死ぬことばかりを言つてゐる。何故、還ることを言はないのであらうか。玉枝はそのことを、なじるやうに云ふ。既に頬には、涙の雫が溢れ流れてゐた‥‥。戰前の不朽の名作中の名作と言はれた、歌人野村玉枝、珠玉の絶唱詞『御羽車』、その拔粹をしたい。國民が忠節を、忠義を、どのやうに思ひ、戰場へ赴いたか、死して靖國神社に祀られることを、どのやうに見てゐたのかが知れる。靖國神社内苑は、戰ひの庭であり、天皇陛下御一人あらせられる庭である。そのことを、髓まで滲みこませて讀んで欲しい。

(夫の言葉を聞いた玉枝は、涙の粒を溢れさせながら、)「きつとりつぱに、お留守をまもります。家の事はおひきうけ致しました。御安心なさつて、存分におはたらきくださいませ。しかしたゞ一つ、はじめからかへらぬこととばかりおきめにならないで、勝つてかへるといふことばをきかせて下さいませ。御武運を祈つてをります。二人の子供を大きくして、おかへりになるのをまつて居ります」。
(夫は、玉枝の涙が流れ落ちる顔をじいつと見て、)「はじめから死ぬ約束でゆくのではない。しかし人間が最も眞劍にものをする時は、命をかけてなす時だ。命をかけて、我を忘れてなす時に、はじめて本當の仕事が出來る。それは戰爭の場合ばかりではない筈だ。ことに今の場合は、部下をあづかつてゆくからだだ。かへるとは決して思ふな」。
夫は、既に我がものではなかつた。その身は戰場にはないけれど、身心は、既に皇國に捧げつくして、家にも妻にも子にもあるべきではなかつた。私は、本當にはづかしいことを言つてしまつたと、すまなく思つた。夫がいふ、「一命を捧げつくしてこそ、本當のことが出來るのだ」といふ言葉を‥‥。
(玉枝は深夜、心に語りかける。)「蟲の音に更けくだち、もの皆ねむる夜半を目ざめて、私は出で征くますらをの、燃え上がる誠の聲を聞き、姿を見、さとしを耳にし、今更に軍人の妻としての我が身の何物であつたかを知らされて、自分の責任の重さを、はつきりと感じることが出來た。いつか涙も乾き、深く心の落着く樣な思ひが湧き上つて來たのであつた。そして、今は夫のみか、我が身もそのかげに召されて、すべての我を捧げつくし、妻として進むべき新しい道が、眼前にひらき示されたことを、はつきりと知ることが出來たのであつた。」
(玉枝は、いつか自分も夫の陰で召されて、妻としての戰ひに出征することを自覺するのである。そして夫は、やがて生まれ出る赤子のために、「毅」といふ字を、むしりとつた手帳の紙切れに書いて、玉枝に渡し、出征していくのである。海も荒れず波も靜かに、無事、支那大陸に無事着けるやうに、星の一つ一つに玉枝は祈り、新しい墨をおろして歌を詠む。)

家もなく 妻も子もなく 天つ日の 赤きにもえて 征きませわが背

新しい筆に、まごころをこめて歌を書いた。そして、ともしの下によみかへすと、泣くとはなしに涙がわいてきた。それは、いまだかつて感じたことのない、深い感激の涙であつた。大君のみ盾の一人として、夫を奉る。そして如何なることが、よしあらうとも、必ず正しく強い妻の道、母の道をあゆみつゞけて、たふれる日までつとめよう、はげまう。」
(玉枝は、大事な大事な夫の身を、大君の御楯の一人として、奉つたのである。御國に差し出したのである‥‥。そして夫の武運を、いつまでもいつまでも祈り續けたのである。だが、玉枝の祈りとはうらはらに、夫は漢口攻略戰で、戰の庭に倒れたのであつた。そして昭和十六年二月二十八日。「滿洲事變竝支那事變ニ關シ、死歿シタル軍人・軍屬等ニシテ、合祀未濟ノ者ヲ、靖國神社ヘ合祀ノ爲、來ル四月二十三日、招魂式執行、同二十四日・二十五日・二十六日・二十七日・二十八日、臨時大祭擧行ノ儀、敕許アラセラル旨」、陸海軍省告示あり、夫野村勇平大尉は合祀されることになつた。四月二十三日、玉枝は富山の山奧から上京した娘暉美と、夫の忘れ形身三歳になる毅、それに年老いた父母と共に、靖國神社に參るのである。招魂式前日に上野驛に到着した遺族團は、本郷の指定旅館で旅裝を解き、翌日、係官の案内で、靖國神社に引率され、招魂式の座席に、夫々が落着く。玉枝の珠玉の詞が連なる。折りしも夕陽は斜に御社の屋根を照らし、青銅の大鳥居、中門扉なる菊の御紋章に燦然とかゞやき、神域を流れて、櫻若葉のにほひをはなち、全國より上り來れる、今日を晴なる幾萬の遺族の頬を照らす。)
――ひたぶるに 命さゞげし つはものを 我が大君は 神とし給ふ  茂吉――
昭和十三年十月十四日、漢口攻略戰、岳州の先陣に、夫戰死してこゝに三歳、今宵しも夫が靈は、再び召されて神としづまるのである。(やがて、時は移り、打ち上げ花火の壯麗さ。そして空砲二發が轟いて、招魂の儀式が執行される‥‥。)

 突然高々と靈を呼ばす御聲、おのづと頭をたれる。あゝ、陸に海に空に、尊くも命散らせ給ひし幾萬の英靈は、今し天がけり天くだりまして、神と鎭まり給ふのである。やがてどこからともなく高く低くむせぶが如く、或はすゝり泣くが如く流れ來る清き楽の音、莊重なる祝詞、捧げ物と進み、再び祝詞が奏上せられて、いよゝゝ靈うつしの御儀は、とり進められるのである。あかあかと燃え上がるかゞり火に、頬を傳ふ涙を光らせて、遺族はたゞ感激にふるへてゐる。一瞬、はたと幾百のかゞり火はかき消された。そこには何物の姿もない。何たる深い沈默であらう。いつか遠い々ゝ日に、一度味はつたことのあるやうな沈默である。ぬばたまの夜の神祕、寂として聲一つない。やがて瞑目する心の奧底から、靜かに、いとも莊重に流れいづる樂の音。心は世界をさ迷ふ。ふと我にかへつて耳をすまして見ると、音がする。さらゝゝと、川底の砂のゆすれる樣な音がする。それはすゝり泣きの聲であつた。我と我が魂が泣いてゐたのである。とめどもなく涙が湧き、頬を流れ、あごをつたひ、我が身は泣いてゐるのである。戰死の公報の日にも、遺骨を迎へる日にも、人には見せなかつた涙が、このくらやみの中に、そこひもしれずに流れ出るのであつた。あゝ、しかし何といふ幸であらう。今この庭に、なき人の靈は、かへつてゐるのである。ひたぶるに命を捧げたつはものの一人として、わが大君は、ありし日のわが夫をも、今宵は神とし給ふのである。何といふ尊い御ことであらう。涙をぬぐひつゝ、ひざの毅をゆすりあげる。

 とつぜん左遠く前の方向に當つて、はたゝゝと拍手が相ついで起る。その闇の中へ視線をやる。あはれ白いかげ、白いつらなり、ぬばたまの夜目にも白々と、今數しれぬ靈をのせて、御羽車は、こなたへと近づき給ふのである。拍手の音は、雨の樣に次第に左から右へと移つて來る。抱いた子の前に兩手を合はせた。そして心をこめて打ち合はせた。それは私の全身を搖動かす樣な、大きな張りのある音であつた。膝の毅も、私にまねてパチパチと小さい音に、又膝を竝べた暉美も、その隣の父母も枯れた音に、それゞゝの音に拍手された。御羽車はしづゝゞと、次第にお近づきになつた。

ぬばたまの 夜目にも白く まなかひに 近づきませる 御羽車のかげ

何といふ莊嚴な、その列なりであらう。その御姿であらう。右も左も前も後も、たゞ泣いた。泣くより他に、拜むより他に、なすすべはなかつたのである。稱名念佛の聲さへきこえてきた。それは人間が最も感動した時の姿であつた。私は聲ひくゝ、二人の子にさゝやいた。「二度と見ることの出來ないお父樣のお姿、あの御羽車を、よく拜めよ、そしてよく記憶せよ」と。暉美だけは闇にうなづいた。膝の毅はわからないのであらうか、だまつてゐる。毅にとつては、これがこの世に於ける親と子の最初の對面であり、最後の對面であるのに。そのたまゆらの悲しみが、矢の樣に胸の中を走り過ぎた。突然、何を思つたのであらう、腕の中から下に立つた毅が、「お父ちやん」と、御羽車に向つて聲を發した。その幼い聲が、庭にみちみつ低いすゝり泣きの中へ吸ひこまれた。私は毅を抱きとつた。そして、御羽車の方向にむけて差し上げてやつた。「お父ちやん」と、たしかに毅は呼んだ。何といふ、したしなみをもつたその聲であつたらう。これがこの世によび交すことなかりし子が、父への思慕の聲であらうか。私は泣いた。父母も泣いた。

 私は泣きながら、この子の父がこの子を氣づかつて、出發の船中より發した遺書の最後にしるした一行を、新しく胸に思ひうかべた。「なほ生れ出づる子も、大切に育てよ」と。言葉は簡單ではあるが、千均の重みを以て、今宵、我が胸によみがへる。一命を捧げて戰地へきほひ向ふそのきはまで、心を殘したこの子。「大切に育てよ」との言葉の中には、もはや私のものとしての子でなく、「我が身とともに、その子も大切なお國の大みたからなれば」の意がふくめられて居り、又、私が今後なすべきことは、母としてのつとめであるといふことも、最も素直に言ひ殘されてゐた。私は、風の樣に音もなく遠ざかり給ふ御羽車を仰いで、どんな苦難が、よしあらうとも、二人の子は、必ず一人前に育てて御意志をつがせますと、心に誓つた。母の聲が、暉美にさゝやいた。「お前のお父さんは、天皇陛下に忠義なお父さんであつた。お前も、お母ちやんや、おぢいちやん、おばあちやんのおつしやることをよくきいて、おりかうに大きくなつておくれ。それが、天皇陛下に忠義といふことです」。母の聲は、ともすれば涙にとぎれた。暉美はだまつてゐた。父も物をいはなかつた。だまつてゐる父の胸中を、私は思ひやつた。なき人が、あんなにまで大切にしてきた父母、私には父母に對しても、なき夫に代つてつくさねばならない澤山のことが殘されてゐるのだ。

 さう考へるひまにも、御羽車は遠ざかりゆく。拍手はずつと右へ移動して、あたりはひつそりとして、すゝり泣きの聲だけが闇にのこつた。いつまでもいつまでも拜んでゐたい。ああ、もうよほどおはなれになつた。全身の注意を兩の眼に集中して、もう一度御羽車を送る、兩腕に二人の子を抱きしめつゝ。樂の音は、なほも清らかに流れた。しかしもう白い尊い御羽車の御姿は、視野に求められなくなつてしまつた。御羽車の御姿は闇の中に吸ひ込まれて、再び深い々ゝすゝり泣きがきこえるだけであつた。さらゝゝと葉ずれの音をたてゝ、夜風が吹きすぎた。あゝ、毅の父は、遂に神にまつられたのである。二人の子を抱きよせて、私は闇の中に深く目をつぶつた。‥‥

 玉枝の話は、この後『戰陣訓』に移つて行く。その『戰陣訓』の中に、玉枝の感懷が奔流となつて溢れて行く。夫勇平は、『戰陣訓』なき時に、既に『戰陣訓』を實行し、そして軍人の龜鑑として、その忠烈が語られて行く。‥‥

(野村玉枝の夫、野村勇平は、出征の途上、遺書を書き、それを兩親に宛てた。)
「出發したからには、既に死亡したものと思ひ下されたく、自分は既に覺悟をしてゐます。戰場に於ける生死は運命とは言へ、少なくとも一個小隊を率ゐる以上、兵を殺して自分が生還するといふことは考へられません。しかし犬死は致しませんから、御安心下さい。戰場に於ても、死すべからざる時はある筈です。死すべからざる時は、つとめて死をさける樣にすると共に、部下をも殺さざる樣つとめる事は無論ですが、必ず死を賭して戰ふべき時が來ると思ひます――。」
(この遺書を、玉枝は夫が初陣の上海攻撃が始まつた頃に手にしたのである。玉枝は、)
「今更の樣に、皇軍の一人としての夫の覺悟に感じ、その妻としての我が身の、あまりに貧弱なことを嘆いたのであつた。」
(野村玉枝の玉章が續く。)
「夫はその言葉通りに、武人として、最もよき時とよき所を得て、部下の先頭に肉彈となつて敵陣へ飛び込み、山嶽要塞戰の露と消えたのである。それから三年經つた一月八日、陸軍始の佳日に、戰陣訓が世に發表せられて、拜讀するに、その一訓一節、悉く軍人精神の具體的表現であつて、戰陣にある將兵の道義昂揚の座右銘ともいふべき金玉の文字のみである。讀みゆくうち、本訓其三・第二戰陣の嗜(たしなみ)・二に、

後顧の憂を絶ちて、只管奉公の道に勵み、常に身邊を整へて、死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戰野に曝すは、固より軍人の覺悟なり。縱ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる樣、豫て家人に含め置くべし

の項を讀んで、夫の遺書のこゝろが、ぴつたりと之に歸着する事を發見したのである。戰陣訓なくとも、その精神は、今も昔もかはりなく、又反對に今も昔も変りなき武士道精神の節々をまとめられてこそ、この尊き戰陣訓なりしことに思ひ及んだことである。」
(玉枝は『戰陣訓』を拜讀し、悉く其の一節一節は、軍人精神の具體的表現であり、戰陣にある皇軍將兵の道義昂揚の座右銘として、金玉の文字の一文字一文字を目で追つたのである。そして夫勇平は、『戰陣訓』なくも、立派に軍人精神を體現したことに尊貴を受けたのだつた。)

『後顧の憂を絶ちて、只管奉公の道に勵み、常に身邊を整へて、死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戰野に曝すは、固より軍人の覺悟なり。縱ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる樣、豫て家人に含め置くべし』。これが戰前國民の御奉公の大方の姿、心だつたのです。一兵士は思ふ。勇者は、皆、山野に屍を曝して、醜の御楯として大君に殉じたのである。その御靈を安らかに祀るために、靖國神社の招魂齋庭の祭壇に在る御羽車は、支那大陸を始め、昭和の激戰地を、天空の奔馬の如く、轉瞬の時空を驅け巡り、戰場に伏した雄渾無比の皇軍兵士、勇者を迎へに走り回るのだ。その御羽車の脇には、畏くも大君がおはします。天皇御自ら、聲を限りに「おーい」「おーい」と、勇者の名を呼び、御靈を集めて行くのです。それは、あたかも戰後の遺骨收集で、ガダルカナルで、ペリリュウーで、ニューギニアで、戰友たちが、「おーい、吉田ー、河瀬ー、田中ー、迎へに來たぞー」と、聲限りにジャングルに呼びかける、「涙ながらの叫び聲」と同じなものなのです。有り難いこと、至上この上ないことであります。

 「招魂」とは、英靈之御靈が降りて來るのではなくて、迎へに行くのです。現在は「降神・昇神」と、言葉が統一されたが、以前は「迎神・送神」と言はれてゐた。招くのではなく、勇敢なる戰没將兵を迎へに行くのです。勇者皇軍兵士の額を貫く敵の矢は立てど、後ろに刺さる矢はないのです。そして漆黒の夜、激戰地から呼び集められた英靈の乘る御羽車は、たつた一度しかくぐらない招魂齋庭の鳥居を通り、凱旋の途に就くのです。招魂齋庭の鳥居は、參道の鳥居とは違ひます。激戰地から集めて來た英靈が、生涯に一度だけくぐる、凱旋するための門――鳥居なのです。出たり入つたりする參道の鳥居とは違ふのです。そして遺族が鎭まりかへる中を、英靈の乘る御羽車は巡行し、神門を入り、靖國神社本殿に向かふのです。畏敬の神になるのです‥‥。即ち靖國神社の庭は、境内は、内苑も外苑も、常に戰場であり、戰の庭なのです。從つて參拜者は、いつになく腰をかがめ、私語を愼み、伺候する場所なのです。(――亦た塾頭の曰く、「招魂式に、何故、貴人の乘る御羽車があるのか‥‥。ただの車ではなく、羽を冠した車、「御羽車」。それは、天馬の如く時空を驅け巡り、雄渾無敵、皇軍兵士の御靈を、激戰場から集めて來るためです。そのために、天孫降臨・天の磐船の如く、天驅ける羽を付けた貴人の乘り物である御羽車が用意された。その御羽車が、激戰場を驅け巡り、御國(みくに)のために命を捧げた勇者の御靈を集めに、迎へに行く‥‥。それが靖國神社の招魂式だ」と――)

(玉枝は、夫が招魂された夜を思ひ出して書く。)
「今は死んだ人を追ひすがる氣持でもなく、殘された我が身をいたむ氣持でもなく、ただゝゞ日本といふ、有り難い御國に生きてゐたよろこびに、泣けるばかりであつた。

右左 前も後(うしろ)も 我も人も 泣くばかりなり ただ泣くばかり

數知れぬ 英靈(みたま)のかげに 身は生きて 皇國の民の 感激に泣く


土にひれ伏して、ひた泣きに泣いた。拜んだ。泣くよりほか、拜むよりほかに、なすすべはなかつたのである。‥‥『二度と見ることの出來ないお父樣の御姿、尊いあの御羽車を、よく拜めよ。そして記憶せよ』と。
(玉枝は、二人の我が子に言ひ聞かせた。)

ぬばたまの 夜目にも白く まなかひに 近づきませる 御羽車のかげ

白々と 風の如くに 音もなく 我がまなかひを ゆきすぎ給ふ


(そして玉枝は、故郷に歸るのであるが、數日後に、玉枝を世話した係の兵から手紙を貰ふ。陸軍豫科士官學校・石井曹長の手紙の一節を、玉枝は書いてゐる。)

「靈魂は永久に生くるものにして、決して滅するものではありません。故野村勇平大尉は、永遠に靖國の社に生きて居られます‥‥。軍人の人生觀は、「名を竹帛に埀れる」でもなく、「丹心を留守して汗青を照らす」とかいふ、歴史に名を殘す事を以て、人の理想とするのでもなく、陛下から賜つた天職に全智全能を注ぎ、武を以て人生を完ふするもので、すべて死を以て奉じてゐる事で、決して決して死を悔ゆるものではありません。戰場に於て死の直前、「天皇陛下萬歳」の絶叫は、笑つて死する神への權化であると思ひます。故野村大尉殿も、死を以て軍人の人生を完ふなされた軍人の龜鑑です。そして身は死してゐるけれど、その人となりては、必ずその部下、或は奧樣、お子樣が稟けてゐると思ひます。そして常にこの世に在ると思ひます。大楠公死すとも、今なほその忠烈が、小さな子供にまで忠血を注いでゐるのは、決して偶然でないと思ひます。」

(まさに戰前の將兵の心膽が明眸の如く、照らされて披露されてゐます。體感して下さい。野村玉枝は、合祀祭で係となつた三人の兵からの便りをもらひ、最後に、かう書いてゐる。)
「便りにきけば、三人ともノモンハンの戰士である。そのなされる一擧一動に誠心があふれ、如何なる時にも、常に遺族に對し、獻身的の思ひやりがあらはれた。その一擧一言、死を超えて來た人の姿がにじんでゐた。

萬死に一生を得て、歸還の大命に浴することあらば、具に思ひを護國の英靈にいたし、言行を愼みて國民の範となり、愈々奉公の覺悟を固くすべし。

それは戰陣訓本訓其三・第二戰陣の嗜の最後の項目であるが、まさにあの三人の姿は、この項目にいひつくされて遺憾がない。

 戰陣訓は、形は軍人にたまはつたものであるけれども、その精神は、單に軍人にとどまらず、老若を問はず、男女の性を分たず、日本に生を享けた誰しもが目指して進むべき生活の目標である。中外にほどこしてもとらぬ人の道である。臣の道である。それは動搖する世態を一貫して、普遍に嚴然として存する人の道である。『大日本は神國なり』。嚴かに華やかにいひ放たれた、その一句。あの戰陣訓を讀んで、誰が感奮しないでゐられよう。それは我々の體内をかけめぐつて流れる祖先の忠烈の血が、ひとしく湧き立ち騒ぐからに他ならない。さう考へれば、まことに尊いことであり、祖先から受け、子孫へ傳ふべき、お國のあづかりものとしての我が身であることを悟り、この血を汚すことなく、いよゝゝ淨化して後代におくるべき責務に、胸せまる希望と歡喜を感ぜずにはゐられないのである。」

 戰前囘歸の珠玉がちりばめられてゐる。體内を驅け巡る祖先の忠烈の血が、ひとしく騒ぐ臣の道である『戰陣訓』を、戰後人は決して貶めるやうなことをしてはならない。それが大命に從ひ、御國の爲に戰沒した皇軍兵士に對する節義である、儀禮である。鬼と化し、形相化して戰鬪する將兵が、命を落とした瞬間――英靈は、國家の柱石となつた。



■『軍人敕諭』
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●『戰陣訓』
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【野村玉枝刀自】

明治四十四年六月二十一日、越中國西礪波郡東太美村土生新の矢留に、吉井藤三郎の四女として生る。十歳より作歌。
昭和七年、縣立富山高女高等科修了。
八年八月一日、上京して、竹柏園主人佐佐木信綱博士に師事。以來、竹柏會に入り、新體詩集『心の花』に作品を發表し續ける。誌上名は「吉井玉枝」。
十年三月、陸軍歩兵大尉・野村勇平に嫁す。十二年九月十日、勇平應召、十三年十月、中支湖北省に戰死。
十五年より十七年まで、二兒を置き、東京特設中等教員養成所に學ぶも、戰後、『御羽車』により教職追放。後ち教職員適格再審査により、教壇復歸。富山縣立福野高等學校に奉職。
平成二十年逝去。享年九十八。

一、歌集『雪華』(昭和十六年四月・湯川弘文社刊)
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一、歌文集『御羽車』(昭和十七年三月・六興商會出版部刊)
○佐佐木信綱の題歌に曰く、「
ぬばたまの しじまの夜の 御羽車 音なき音を とはに傳へむ
母子草 あはれ母子草 ますらをの 靈天がけり 守りてあらむ」と。
○吉川英治の序に曰く、「
 この書の原稿は、あわたゞしい歳末から、この新春にかけて、印刷工場を通つたものである。にも關らず、組版も校正ゲラも、おそろしく迅速に運んで、豫定期日よりもずつと遲れ勝なのが通例とされてゐる近頃なのに、書肆自身でさへびつくりするやうな進捗ぶりで、忽ち製本所へ廻されたといふ。
 理由は、かうである。あとで聞いたはなしであるが、この書の原稿を手にした印刷所の組版員や校正の人々は、一字々々活字を拾つてする、その忙しい仕事の中なのに、この原稿にふかく心を打たれて、まつたくひたぶるな勵みを、無意識に注ぎこくでくれたが爲であつたといふ」と。

一、第二歌集『ひとすぢの道』(昭和二十年四月・八雲書店刊)
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一、隨筆集『石南花の記』(昭和三十八年十一月・日本文藝社刊・短歌新聞社發賣・棟方志功裝幀)

一、CD『雪華』(平成十四年九月・World・Wide・War・Singers!刊。昭和十八年、作曲家平井保喜(康三郎)作曲「聖戰歌曲集・雪華」を完全復刻)等。
 
 

歌御會始の儀。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月 4日(月)23時18分56秒
返信・引用 編集済
  ●荒魂之會・駒井鐵平翁編輯『あらたま』平成二十二年十二月の「風信帖」に曰く、

「平成の御代の宮中歌會始御儀は、平成三年に始まり、本年平成二十二年で二十囘である。‥‥平成三年の海部俊樹に始まり、本年平成二十二年の鳩山由紀夫に至る十二名の首相の中で、歌會始御儀の陪聽の席に列つた者は一人もゐない」と。



 平成二十四年十二月の『あらたま』には、御儀當日に於ける首相の動靜が掲載されてゐる。無論、菅・野田兩首相も無い。而して平成二十五年は、「歴史と傳統文化」を重んずると云ふ安倍首相なればと期待されたが、案の定、「君臣一體」の美しき雅びの事實は、望むべくも無かつた。一昨日の岡山に於ける勉強會にて、再び之を嚴しく指摘し、激しく怒られたのが、岡田則夫翁であつた。翁の思ひを共有し、之を悲しむこと、萬々なり。



●九段塾・塾頭遺文『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「安倍總理が、會津白虎隊の地で、『(長州の)先輩が迷惑をかけました』といふ挨拶をした。‥‥これも重要な問題です。この設問で重要なのは、安倍總理は、本當は會津で、「どのやうな挨拶をしなければいけなかつたのか」、といふ問題なのです。『先輩が迷惑かけた』といふ挨拶一言で、安倍總理の歴史觀が、全部、吐き出されてしまつた。歴史觀といふより、「何にも無い歴史」といふ方が適正かな? ブレーンに優秀な人がゐないのだらう。でもまあ、ふつー、こんなもんだらう、歴史觀なんていふのは。勤皇・勤王精神は、消えて久しい」と。



 愚案、塾頭の曰く、「會津・東北諸藩は、武士の一分で戰つた。それはそれで、立派である。落葉のやうにおちていく幕府を盛り返さうと、二百五十年の恩顧を受けた徳川家に殉じるこそ、武士。戰塵に立つた新撰組にも、旗幟はある。だが、天皇に叛旗を飜せば、それは賊とならざるを得ない。皇運を挽囘、皇國の扶翼たらんとした盡忠報國の英魂と、武士の一分で戰つた徳川恩顧の藩士とは、共に祀ることは出來ない。靖國神社は、追悼施設では無いからだ。英魂は玉垣に留まり、天皇の御座す皇國を守護奉つてゐる。白虎隊は、會津藩主に忠誠を誓つた武士集團である。彼らに天皇の皇軍になつて、天皇を守護せよとは言へないでせう。靖國神社は、「單に戰爭で死んだ人々を弔つてゐる」のでは無い。靖國神社は、「敵・味方を祀つて追悼する施設でなく、皇國を守護する義烈忠魂の御靈を讚へ、玉垣に顯在し、國民に、その振作を奮勵する所」なのです」と。

 また曰く、「會津士魂と忠義・歸順か抗戰か・諸藩の混迷・勤皇と佐幕・家憲・家訓、そして會津藩が、北端の下北半島に流され、その原野の開墾と、現在の大畑に殘る會津士魂を語りたかつた。この邊りは、小生の最大の得意分野である。まづ右に出るものはゐない、と云ふのは言ひ過ぎだが‥‥」と。蓋し塾頭は、詩吟大和流宗家第二代(福井金城宗匠)にして、得意とされた題目であられたらうが、其の高説は、遂に語られることが無かつた‥‥。

 谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「何程、忠義が正しうても、出處が惡ければ、何んの役に立たぬ」と。亦た吉田松陰先生『講孟箚記』梁惠王下に曰く、「天子の命を奉ぜずして、敵國相征するは、何程の正義に依ると云ふとも、義戰にあらず」と。言ふ勿れ、「勝てば官軍」と。承久・建武と、官軍は、辛酸を嘗め續けたのである。先哲の尊き嚴烈なる教へに導かれて、出處進退には、決して惑はざる可し矣。加へて一斑は全豹を卜するに足る、と申します。殊に君國の大事に關はる輕率不用意な發言は、嚴に之を愼みたいものであります。
 
 

賊軍なりし末裔が、靖國神社宮司になるといふ、驚天動地の人事。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 1月25日(金)20時53分11秒
返信・引用 編集済
   平成二十五年一月十九日附で、靖國神社第十一代宮司に、徳川慶喜公の曾孫・徳川康久氏(男爵家。米國資本の企業管理職を經て、芝東照宮神職。祖父は誠貴族院議員、祖母は名和公の血統、伯父は祭神・熙海軍少佐、父は脩海軍主計大尉なり)が就任された御由。噂には聞いてをりましたが、十八日に、靖國神社發表とは、つゆ知らず‥‥。
  ↓↓↓↓↓
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2013/01/post-134d.html
http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2013/01/post-91f3.html

 慶喜公の尊王心は疑ふべくも無く、敕免を蒙つて久しいものゝ、其の子孫の御方が、靖國神社宮司として適任か否かは、大いに疑はざるを得ない。新宮司には、「禁中竝公家諸法度」公布以來、二百五十三年間に亙る「東照宮」以來の不敬專横、又た王師に抗せる幕軍となり果てた責任を懺悔猛省して、慶喜公傳來の「謹愼のこゝろ」、亦た贈正一位・名和右衞門尉兼伯耆守源長年公が盡忠の至誠を以て、只管ら勤務奉公を願ふばかりである。松平永芳宮司の定められた宮司定年まで、指を屈すること十一年なり。恐懼、懇祷、々々‥‥。

 然し「東照宮」とは、何たる大仰なる神名かな哉。而も「宮」とは‥‥。今からでも、せめて自ら謙退して「社」と名乘らる可く、宜しく申し出て然る可し矣。抑も靖國神社こそ、能久親王・永久王を奉祀して、「宮」の御資格ありながら、遠慮されてをられるではないか。現在の靖國神社神座の御位置は、松平宮司畢生の決定、神ながらの鎭座と、仄聞し奉る。畏し、々々‥‥。



●九段塾・塾頭遺文『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「産經新聞で、元キヤスターの櫻井よしこさんと北康利さんのといふ方の對談を讀んだが、ここでも北さんは、「會津の白虎隊は賊軍で、靖國神社に祀られてゐないので、合祀してもいいと思ひます」と語つてゐる。この方も戰後生まれの若い方なので、靖國神社が、日本のために犠牲になつた人を祀る神社だと、誤解してゐる。「どうしてかういふことになるのか」の原因は、靖國神社側も發言しないし、左はともかく、右の方々も、「平和」にどつぷりと漬かつてゐるので、思考が「平和的」・「人道的」になつてゐるからだと思ひます。「戰爭のないことがいいといふ發想」が、原點にあるせいです。

 土臺、現在の靖國神社も、おかしなことに、「靖國神社は、平和を祈願する神社です」などと、「ええつ」と、疑ひたくなるやうな妄言を、案内に書き出しました。左翼的な人間が根つこに忍び込んで來たのでないか、心配だ。祀られてゐる英靈は、「世界が、皇國が、平和である」ことは願つたが、平和を祈つて戰つたのではない。「安直なことを言うな!」です。そして靖國神社そのものは、「人道的解釋」・「現代的解釋」ではなく、歴史事實として存在してゐます。何度も言ひますが、靖國神社は、「賊軍」と戰ひ、山野に倒れし「皇軍兵士」を祀り、その雄を、武勳を、國民に傳へ、またその精神を受け繼ぎ、皇國の柱石たらんことを國民に願ひ、いつでもその靈魂に接することが出來る神社にしたのです。祀られる方は、日本のために犠牲となつた方ではなく、天皇の軍隊――「皇軍兵士」の方だけです。

 以前、勤皇志士を匿ひ、追つての新撰組に斬られた農婦の方が祀られてゐると書きましたが、この方は、皇軍兵士同樣に、賊軍に裸一つで立ち向かはれたので、皇軍兵士同等として祀られました。一般人として祀られたわけではありません。ですから、賊軍の會津藩士も、天皇の軍隊でもない自衞隊隊員は、「祀ることが出來ない」のです。善い惡いではなく、日本は「すめらぎ(天皇)」の國であり、皇土を守護するのは、皇軍兵士です。‥‥

 盛岡藩は、賊軍です。南部利昭宮司は、靖國神社に來る以前は、當然のやうに「南部藩士の慰靈祭の祭主」をされてゐます。南部藩士祭といふのは、完全な賊軍の状態としての慰靈祭です。これは、會津藩士慰靈祭でも、同樣です。護國の英靈として、祝詞奏上いたします。南部藩士慰靈祭では、朝敵といふのは、南部盛岡藩ではなく、薩摩・長州の官軍側です。ですから、南部さんが、次期宮司の話が出た際には、この「賊軍慰靈祭祭主といふのが問題だ」と、神社でも口にする人が多かつた。 だが、所詮、職員らの意見などはムシケラ同然、何の役にもたちません。結局は、執行部に押し切られて、南部さんが宮司になりました。

 まあね、もともと、南部さんが望んで宮司を希望したわけではなく、劃策する側に、「一時しのぎ」といふ思ひがあつて、それで、宮司就任を依頼したわけですから、南部宮司にしてみれば、靖國神社は「副」といふ感覺があつても、やむをえんでせう。心は、南部藩士の方が大事な筈です。盡忠報國の南部藩士ですから。南部藩士あつての、現在の南部家ですから。何時だつたか、テレビで南部藩出身の新撰組の話が放送されてゐたが、南部は賊軍を誇りとしてゐる。まあ、いづれ南部さんは、靖國神社を辭めて國に歸り、殿樣をしなければなりませんし。ですから、ハナカラ、南部家を、靖國神社宮司にすること自體が過ちで、不適任そのものだつたのですと、小生らは、さう思うてをります。‥‥

 そのうち靖國神社は、賊軍の南部藩士も、密かに合祀し出すのかもしれない。あるいは岩手に出向いて、南部藩士を慰める「なほらひ」を、神職總出で、派手に始めるんぢやないか。「この方達も、日本のために、勤皇と戰つたのです」などと、話し出すのではないか。そして盛岡市内で、バカ騒ぎをするのかな。小生は思ふのだが、南部宮司は、「靖國神社の宮司」として、毎日、自らの家臣であつた南部藩士を斬りまくり、銃彈で射殺した勤皇の志士・官軍兵士の勇武を譽めそやし、慰めてゐるが、それで、國もとの南部藩士の靈魂は、何も言はないものなのだらうか、不思議な氣がする。朝敵にならうとも、士魂を傾け、官軍と戰つた南部藩士の靈魂は、靖國神社の宮司に納まつた殿樣子孫を、何んとも感じないのだらうか、何も批判しないのだらうか、不思議でならない。會津は、今でも會津藩士の雄渾を展示する博物館では、「新潟縣人は、入館禁止の措置」を取つてゐる。會津戰爭で、官軍に付いた新發田藩(愚案、崎門道義の學を奉ぜし藩なり矣)を、「寢返つた裏切り者」として、許してゐないからだ。

 とりあへず小生の言はんとする所は、現下執行部の魔手により、靖國神社が、さう、あたかも炎に包まれるやうな感觸を抱く、あくどい猛火に包まれてゐる。魑魅魍魎、邪神が放つた「火」の爲に、本殿屋上が燃えてゐる。その中に、ケタケタと哄笑してゐる惡魔が居る。魑魅魍魎が、勝ち鬨の聲を擧げて居る。汚辱された猛火の中で、本殿の大黒柱が崩れて行く。猛火襲來。誰か防ぐものはいないか!」と。



【義公傳來・徳川慶喜公の本心】
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【會津藩の不徹底は、吉川神道の影響下にあつた藩祖・保科正之に在り】
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【慙懼に堪へざる心より來る祭祀を懇祷す】

■徳川慶喜公『政權竝びに位記返上の上表』――大政奉還の上表文

 臣慶喜、謹みて皇國時運の沿革を考へ候ふに、昔し王綱、紐を解きて、相家、權を執りて、保平の亂、政權、武門に移りてより、祖宗(家康)に至り、更に寵眷を蒙り、二百餘年、子孫相受け、臣、其の職を奉ずと雖も、政刑、當を失ふこと、少なからず、今日の形勢に至り候ふも、畢竟、薄徳の致す所、慙懼に堪へず候ふ。

 況んや當今、外國の交際、日に盛んなるにより、愈々朝權、一途に出で申さず候うては、綱紀、立ち難く候ふ間、從來の舊習(幕府)を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡し、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と竝び立つ可く候ふ。臣慶喜、國家に盡す所、是に過ぎずと存じ奉り候ふ。

 去り乍ら猶ほ見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く(一に「申し聞かす」と訓ずるは、甚だ非なり。慶喜公の意に反すと謂ふべし)可き旨、諸侯へ相達し置き候ふ。之に依り、此の段、謹みて奏聞仕り候ふ。以上。[詢]

 (慶應三年)十月十四日、慶喜



招魂祭の祭文】――明治元年六月二日
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【大義と義】

●平泉澄博士『忠と義』(昭和九年九月・十年十月増補・非賣品)に曰く、

「あの義士の擧が、所謂小さな忠義であつて、大きな忠義でないといふ非難につきましては、小さな忠義と大きな忠義が離反する場合には、大きな忠義を取るといふことが、即ち小さな忠にもなるのでありますが、今の場合(赤穗義士)には、皇室に對する忠義を損なつてゐないといふことを考へなければならない。それは(山鹿素行先生の精神を承け繼いだ)吉田松陰先生や乃木大將が、義士を敬慕されてゐる點からも明かになりますが、それを今一層明白にしますためには、明治元年に、明治天皇が、初めて東京へ行幸遊ばされまして、四五日目に、直ちに勅使を大石の墓へ遣はされ、幣帛を賜つてをります事を憶起せばよろしいのであります。その時、賜はりました勅書には、恐れ多い事でありますが、「汝、良雄等、固く主從の義を執り、仇を復し、法に死す。百世の下、人をして感奮興起せしむ。朕、深くこれを嘉賞す」と、かう仰せられてをります。即ちその行爲は大忠において少しも損ふ所なく、而してその精神は、全く義により起つたことでありまして、これに對する非難は、少しも當らないと思ひます。法がこれを處斷したことは、それはそれで別のことでありまして、これ等の人を非難するは當らないと思ひます。法に背いてはならない、法はどこまでも守らなければなりませんが、しかも實は、法よりもさらに重いものがあるといふことを、又た考へなければなりません。さきに分といふことを述べましたが、分は守らなければならないが、併しそれも非常な時に臨んでは、これを越えなければならない、君國の大事に臨んでは、人は分を越えなければならない、法は守らなければならぬ、しかし時には之を破らなければならぬ場合がある、これはよく考へなければならぬことであります。若しさういふことが全くなくして、どんなことがあらうとも、國家こゝに轉覆しようとも、皇室こゝに一大事に際會し給はうとも、自分の與へられた分を守つて行き、定められた法律に從つて、知らぬ顔をしてゐるといふが如きことでありましては、これこそ實に恐るべきだと思ひます。こゝにおいて吾々は、根本において深き所のものを掴んでゐなければ、一朝、大變に際して、到底、君國を護持するといふことは出來ないと思ふのであります」と。



 謹みて惟んみるに、「大義」に殉じた官軍の英靈、「義」に殉じた幕軍の傑靈、其の正邪賞罰は、顯界の天皇陛下により、また神界の天神地祇によつて決定され、各々其の所を得て安鎭にして、問題は無い矣。問題は、顯界の人間――各々の司祭者・參拜者・崇敬者の思ひに在るのであらう。其の複雜なる思ひが幽界と交通し、幽顯各々の祭祀に影響が及ばざるやう、切に祈り奉る。靖國神社祭祀の根源たる、代々木大神の聖旨を奉戴して、只管らなる無私の奉仕を、幾重にも懇祷し奉る。恐懼して白す。
 
 

物ごとに清めつくして神習ふ國風しるき春は來にけり――曙覽翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 1月 1日(火)17時55分35秒
返信・引用
  平成二十五年
中興紀元二千六百七十三年
天孫降臨以來五千十三年
天皇正月、歳、癸巳に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。

 架藏の『神宮遙拜詞』(備前の吉備津彦神社より拜戴の『神拜詞』に所收)に曰く、掛けまくも畏き
神宮の大前を、謹しみ敬(うやま)ひ、遙かに拜み奉りて、
天皇命の大御代を、嚴し御代の足らし御代に、守り幸はへ奉り給ひ、
皇御國を、彌榮えに榮えしめ給へと、畏み畏みも白す。



【左左右右詞】――『倭姫命世記』

黒(きたな)き心無くして、丹(あか)き心を以ちて、清潔(いさぎよ)く齋(い)み愼しみ、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に歸り、右に廻る事も、萬の事違ふ事なくして、大神に仕へ奉れ。元(はじめ)を元とし、本を本とする故なり。



【天下神物詞・清淨眞信詞】――『伊勢二所大神宮寶基本紀』

人は、乃ち天下の神物(みたまもの)なり。須らく靜め謐まることを掌るべし。心は、乃ち神明の主たり。心神(こゝろのたましひ)を傷ましむる莫れ。(以下、神埀冥加詞――『倭姫命世記』にも在り)神は埀るゝに、祈祷を以て先となし、冥は加ふるに、正直を以て本となす。‥‥

神を祭る禮は、清淨を以て先となし、眞信(まこと)を以て宗となす。



【一切成就祓】――『神宮古代祝詞集』

極めて汚濁(きたな)き事も、滯(たま)り無ければ、穢濁(きたな)きはあらじ。内外(うちと)の玉垣、清し淨しと申す。
 
 

祓給清給。無上靈寶、神道加持。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月30日(日)23時39分25秒
返信・引用
   年の瀬も押し迫り、明日は愈々大祓へ、本年、關係各位の協贊を得、塾頭遺文『靖国神社の真実』を、京都洛風書房より上梓かつ増刷することが叶ひ、先づは「ほつと」してをります。

 泉水隆一監督こと、福井金城翁、ご照覽あれ。

 來る御歳も、皆樣の福壽、無量ならむことを懇祷申し上げ、ご挨拶に代へさせて戴きます。難有うございました。備中處士、敬つて白す。



■伯家神道『吉備津祓』(吉備津神社祓詞。岡田米夫翁編輯註解『諸祓詞集――附祈願詞・祓神歌・修祓式』昭和三十六年七月・神社本廳刊に所收)

天照る神の教への祓、一度び祓へば、百日の災難を除き、百度び祓へば、千日の咎を捨つる。千代萬代、年を經ても、天の神の惠みはつきじ。生き生き、代々に尊きは、天地の恩、仰ぎても猶ほ餘りあるは、神の徳に越ゆることなし。
 
 

大正天皇例祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月24日(月)22時15分47秒
返信・引用 編集済
   明日、即ち十二月二十五日は、孝明天皇(後月輪東山陵)・大正天皇(多摩陵)の崩御ましませる日なるべし矣。
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 大正天皇を偲び奉りて、謹みて大正五年の御製詩を掲げ奉らむ。


●『金剛山を望み、楠正成に感有り』

金剛の□□[山+律。山+卒。りつしゆつ。高且嶮]、勢、何ぞ豪なる、
絶頂の浮雲、白旄を想ふ。
絶代の忠臣、大義に憑る、
偉勳、長へに、此の山と高し。

一峯、高く、白雲の中に在り、
千歳、猶ほ存す、氣象の雄。
負かず、行宮、半宵の夢、
長く孫子をして、誠忠を竭さしむ。


●『楠正成』

勤王、百戰、甚だ艱辛、
妙算、奇謀、本とより絶倫。
死に臨みて、七生滅賊を期す、
誠忠、大節、斯の人に屬す。


●『楠正行』

王事に勤勞して、節、逾(いよゝゝ)堅し、
表志、扉に題す、歌、一篇。
負かず、當時、遺訓の切なるに、
千秋の忠義、姓名、傳ふ。
 
 

奉祝――皇尊彌榮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月23日(日)21時12分20秒
返信・引用 編集済
  天皇陛下萬歳


【敕語】――平成二十四年壬辰の天長節――

 沖繩は、色々な問題で、苦勞が多い事と察してゐます。其の苦勞があるだけに、日本全體の人が、皆で沖繩の人々の苦勞をしてゐる面を考へて行くと云ふ事が大事ではないかと思つてゐます。地上戰で、あれだけ大勢の人々が亡くなつたことは、ほかの地域では無い訣です。其の事なども、段々時が經つと忘れられて行くと云ふ事が心配されます。やはりこれまでの戰爭で、沖繩の人々の被つた災難と云ふものは、日本人全體で分かち合ふと云ふ事が大切ではないかと思つてゐます。
 
 

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