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愚妻のパソコンから。

 投稿者:備中処士  投稿日:2014年 2月 8日(土)20時02分32秒
返信・引用
   急にパソコンが入力できなくなつたので、愚妻のパソコンにて入力します。修理せねば、小生も休み。何せ、名代のパソコン音痴ゆゑ、お許しを。漢字も出てこない。

 さかもと兄「しばらく書き込みを遠慮致します」と。お休みの間に、葦津珍彦翁『国家神道とは何だったのか──現代史通説の虚像を論破する』は名著、是非とも読んでみて下さい。

 明治元年の神仏分離令は、神道人にとつての悲願にして、わづか十数日後に、排仏行動は犯罪と公示されました。国家神道は、明治三十三年からの世俗合理主義による官僚行政です。神仏分離令と国家神道とは、直接、結びつきませぬ。両者の所論は、共に左翼・戦後御用学者の独擅場です。「誤解」を生むも、当然です。先づは先入観を捨てて、ご研究ください。

 ひぐらしさん、ご免ね。でも、彼の俄かの西暦保守、小生は苦手です。靖国神社の「正中」で、しかも「来賓」でいらつしやるのでしよ。過去の言動を、テレビで聞いてをります。やつぱり感心しませんね。

 どうも入力に不便、ほんと、入力に疲れます。匆々、ご容赦を。備中処士、拝

 

安寧の場所は何処に

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 8日(土)15時40分47秒
返信・引用
  またストーカーが出てきたようだ。

どこにいっても後をついてくるな。なんで私の後ばかり付いてくるんだ?

こういう「接ぎ木のナショナリズム」はクソなんだ、と申しているのですよ。

「日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。」と本音を漏らした後で、それへの反撃を食らわないよう「子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。」と、大急ぎで予め用意してあったタテマエを付記するその鵺的な論じ方が気持ち悪いといってるのですよ。

備中さん、また私の熱烈な「追っかけファン」が出てきたようですので、しばらく書き込みを遠慮致します。

ありがとうございました。
 

田母神論文の該当部分を引用します

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月 8日(土)15時14分23秒
返信・引用
   初めて投稿させていただきます。「靖國神社の正統護持のために」というスレッドのテーマから外れてしまいますがご容赦下さい。
 「幕僚長辞任のきっかけとなった「『田母神論文』」において「『わが国とアメリカは親子の関係なんだ(田母神)』といった、『目的と手段の転倒現象』が当然のごとく論じられ」ているとのことですが、当該論文の該当部分を引用してみましょう。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

<引用開始>
(前略)諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きができなようになっている。このマインドコントロール(引用者注:大東亜戦争の責任を全て日本に押しつけようとした東京裁判によるマインドコントロール)から解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。(後略)
<引用終了>

 当該論文は一般人向けに平易に書かれており、一読すれば文意は明快でしょう。それでは、この文章に対する以下の批判は的を射ていると言えるでしょうか。

(曰く)
これと似たような現象は安全保障のあり方を論じる際にも顕著に現れます。例の「安全保障確保にはアメリカとの同盟が欠かせないんだ」とか、「我々は自由や民主主義という価値をアメリカと共有してるんだ」とか、「わが国とアメリカは親子の関係なんだ(田母神)」といった、「目的と手段の転倒現象」が当然のごとく論じられ、それに異を唱えようものなら、「お前は理想主義者だ」といって罵倒する。現実一点に人間精神を傾注させていくことがあたかも保守であるかのように錯覚してるのですね。

(曰く)
「わが国とアメリカは親子の関係」なぞと、都知事候補とあらうものが公言してをるんですか、本道に‥‥。こりや、全く駄目ですね。流石は、國史を西暦一本で表現するだけの事はありますなあ。トホホ‥‥。最近流行の「保守」とは、已むを得ず、敢へて戰略的に申すのなら、罪、一等を減じてもよいが、本道に、心底から仰つてゐるのでせうから、小生の如き田舍者は、思考の埒外に居ります。
 我が國と建國三百年も滿たぬ人造國家、果して「親」は、どつち。いつぺん聞いておいて下さいね。試驗に出たら、答へるに窮しますから。

(曰く)
件の発言は幕僚長辞任のきっかけとなった「田母神論文」からの一節を引いたものですが、結局、この国ではこうした官僚にせよ政治家にせよ知識人にせよ、これらはなべて戦後思想を色濃く染めている負のニヒリズム・・・手段という、本来なら二義的でしかない価値を目的にまで高め、その結構な代用品を守るため、ああでもないこうでもないと理屈をこねくり回す不治の病気・・・の末期にあるのですね。

 これらの批判にあるように、田母神氏は当該論文で「わが国とアメリカは親子の関係なんだ」と言われているでしょうか。本当に論文を読まれての批判なのでしょうか。こういう批判の仕方は妥当なものでしょうか。
 付言すれば、このスレッドのテーマに沿った議論をお願いしたい。保守思想をテーマにした議論を続けられるのであれば、管理人様が、スレツドを作ると仰っているわけ<tt>ですからそちらで<tt>お願いします。
 失礼致しました。
</tt>
</tt>
 

おお~

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)19時35分4秒
返信・引用
  備中處士さん

いやあ、感動しました。「Fn」と「End」の同時押しで一瞬にして最下段に飛びましたよ。

上に戻るときは、「Fn」と「Home」で瞬間ワープです。

○○師の○○に何が入るかは想像し難くないですが、その○○師に騙されたと解かってからもなおその行為をやめようとしないのはどういうことでしょうね。どうしても騙されたいんでしょうかね、オレオレ詐欺の被害者みたいに。

きっと映画制作資金の3億5千万など端金なんでしょう。羨ましいですねえ(爆笑)。



 

老婆心‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 7日(金)18時48分5秒
返信・引用 編集済
  sakamoto樣

 パソコンによつて違ふかも知れませんが、最下段に行くには、

一、「コントロール」+「エンド」

 または

一、右端のスクロールにカーソルを合はせ、左クリツクして、下までドラツグ

で、一瞬に行くと思ふのですが‥‥。件の片假名をやうやく覺えた小生の老婆心、うまくゆけば萬々歳。



 嚴寒の候、體調にはお氣をつけ下さい。小生も寒さで首が凝り、頭痛が酷いです。賢兄は、病でも筆を措かず、凄いなあ‥‥。「スレツド」を作りますから、「櫻粹會」における「近代保守思想の學術的考察」の總括を、鋭意、投稿くだされば宜しいのに‥‥。お堅いものを。チヤンネル櫻は、塾頭が氣をつけて見張れとの仰せでしたが、あれは○○師でせうに‥‥。騙される方が惡い矣(「矣」は、「‥‥であるぞ」の謂ひ)。西尾某とか申す、不敬罪適用の週刊誌・月刊誌一派も蟠踞してゐるし‥‥、見る氣がしない、小生は、御免蒙らさせて戴いてをります。

 小生宅は大家族の部類でせうが、家中には風邪も蔓延、家中で一番元氣だつた祖母も白壽、然し昨年末よりは食事も喉を通らず、誤嚥も再々、老々介護の日々です。特に女連中は大變、小生は車の運轉の手傳ひしか出來ない、實に情けなき男ですが、聲掛け、見守りぐらゐは‥‥。不一



【權田直助先生傳】── 國學大系第二十卷『權田直助集』(昭和十九年十一月・地平社版)解説の抄録か。
  ↓↓↓↓↓
http://www.library.moroyama.saitama.jp/moroyamawoshiru/pdf/naosukesenseiden.pdf#search='権田直助'
  
 

悪文の見本

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)18時17分46秒
返信・引用
  文法的にも文脈的にも「悪文の見本」のような文章を手直ししたいのですが、下まで下がるのが面倒なのでご勘弁願います。

結局、何が言いたいかといいますと、田母神のような単なる「実体保守」を真の保守派に祭りあげ、「田母神閣下」とおだてあげ神輿に担ぐチャンネル桜、そしてそういう左翼的にして革新的な戦後の枠組みを保守することを趣味や日課とするような「近代主義的保守主義者」という鵺保守にエールを贈る訳の分からない者たち。

こういうドタバタ喜劇が延々と繰り返されてきた戦後に終止符を打つには、かかる保守主義にとっての土台となるものは何か、これをきちんと確認したうえで日米安保論なり核武装論なり靖国神社論をせねばならない、ということだ。

そのことを等閑にしてかかるから、この国のナショナリズムはあたかも国体論に近代主義を接ぎ木したようなグロテスクなものとなってしまうんだ。私の言う「思想の安定剤・・・スタビライザー」というのはつまりそういうことである。

日ごろは「日米安保を見直せ」だのと威勢のいいことを言っている偽保守の化けの皮は「危機との直面」においてすぐさま剥がされる。

少し前ならイラク戦争、直近なら尖閣問題だな。イラク戦争肯定に一時期慎重論もあった保守派の構えも、アーミテージだかに「ショウ・ザ・フラッグ(どっちにつくのかさっさと旗を見せろ」と恫喝されるや否や、「ハイ」と二つ返事でアメリカのイラク侵略の方棒を担がされ、今や軍事大国となった中国との摩擦が激化すればそれまでの威勢のよさはどこ吹く風、「靖国問題でアメリカ様を怒らせるな」とくる。

こういう「サブ・スタンシシズム」・・・本来、「サブ(二義的)」でしかないものをメイン価値に押し上げてそれを後生大事に神棚に祀るという、生命至上主義を親として生まれてきた救い難い病気。

絶対平和主義の左翼と似たり寄ったりの平和主義。いや、仮にガンジー主義をモットーとするのが真の平和主義だとしたら、こういう「アメリカの袖の下にうずくまっていれば安全なんだ」という、偽保守の劣性の平和主義は左翼のそれより遥かに下劣で低劣な平和主義である。

 

重いなあ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)15時00分32秒
返信・引用
  思想的に重厚な掲示板だけにPCの動作も重いなあ。

なんていうの?メモリーというの?

それをもっとデカイのにしなけりゃダメだな。

それと「100件表示」の設定だと下まで降りて編集機能を使うまでが一苦労。

あ、人様の庭で愚だ撒くのもみっともないな。
 

撃つべき相手は誰だ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)14時49分47秒
返信・引用
  つまるところ、中韓のあの粘着質的な反日思想の温床となった「東京裁判の判決」を正面から否定できなかったところにこの国の諸悪の根源があったといっていいだろう。

むろん、裁判の判決には「拘束力」があるからいかにその判決に瑕疵があろうともいったん下りた判決は簡単には覆らないのだが、その瑕疵が重大かつ明白な場合はその判決は「無効」である。この点、その制定過程に重大かつ明白な瑕疵のある占領憲法も同じく無効だ。

この東京裁判を政治的に「無効である」と宣言できなかった背景には「日米同盟」という、アメリカとの間に結ばれた深い友情の絆がむろんあるのだが、この子供でも解かるあたりきしゃりきのことが、政治家や高級官僚や名高い学者といった東大出身のセンセイ方には解からないとみえる。

中韓の図に乗った態度を正当化する「東京裁判史観」を疎んじつつ、そのイデオロギーの作出者としてのアメリカに対しては侵略の謝罪表明と自由と民主主義への反逆への反省に明け暮れるという、その鵺のようなどっちつかずの態度がかくも長き戦後の根本的原因であるはずが、「わが国はアメリカと自由民主主義を愛する同盟国であり、価値観を共有する友である」という。

アメリカと価値観を共有しているのだから「反省」するのは当然だろう。アメリカの有す歴史観は「天皇制という野蛮かつ前近代的な制度のもと、自由と民主主義に反抗して日本はあの大戦争を惹起させた」というものだから、自称の保守どもが「アメリカと日本は親子の関係」と、事も無げに言うのももっともなことである。

むろん、中韓の理不尽な言いがかりには誰だって頭にくるが、そもそもそういうふうな中韓の対日感情に水をやり肥料をやりで育て上げてしまったのは我々日本人ではないのか。キミらが敵と認識しなくてはならなかったのは我々でなく、我々の仲を引き裂き、その対立の隙間から実り出る美味しい果実を得ようとし、人為によってこしらえられた「東京裁判史観」というイデオロギーではないのか。

 

政治を知るためにも政治から離れろ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)13時39分47秒
返信・引用
  さすがにもう出るモンも出ないとみえ(お食事中のかたは失礼)大事には至りませんでした(笑)。

「素人の床屋政談」が好きで好きでたまらないのが戦後の大衆ですが、結局、何故人間社会や人間思想に社会科学的な考察が欠かせないのかというと、どういう公約を掲げるどういう者に一票投じるか、そういった政治的判断をするにもその判断の前提となる何らかの根拠なり要素が必要なのであって、思想のない者には単なる「好事趣味」としか映らないであろうが、平田篤胤や権田直助らの偉大な思想家たちから学んだ思想なり哲学というものが、畢竟、今日の大衆の政治的能力に直接的間接的かは解からずとも多少なりとも反映されることに期待して我々は過去の言葉に耳を傾けなければならないということです。

つまり、政治を知るためにも政治から距離を置くというパラドックスですね。

かくいう私も、恥ずかしながら明治の「国家神道」や「神仏分離令」を、「それは歴史性のない近代主義に基づく設計主義ではないのか」と誤解していた節があります。

モダニズムを忌避するおのれがモダニズムに洗脳されている。実に怖ろしきはイデオロギー(何らかの意図をもった者たちの人為によるこしらえものの思想)ということですね。



 

「ノロ」でも書く

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)12時25分53秒
返信・引用
  いやあ、参りました。

「流行(モード)」のノロウィルスにやられました。間断なくやってくる下痢と嘔吐に体中の水分がほとんど奪われ、今や乾燥しきったミイラ状態です。

持続性のない、一瞬の流行に散々悪罵を投げつけてきた私ですが、これでは「保守主義者」の面目丸つぶれです(泣)。

件の発言は幕僚長辞任のきっかけとなった「田母神論文」からの一節を引いたものですが、結局、この国ではこうした官僚にせよ政治家にせよ知識人にせよ、これらはなべて戦後思想を色濃く染めている負のニヒリズム・・・手段という、本来なら二義的でしかない価値を目的にまで高め、その結構な代用品を守るため、ああでもないこうでもないと理屈をこねくり回す不治の病気・・・の末期にあるのですね。

生命が価値のてっぺんにくれば、その安全と生存を保持していくためにはたかだか250年の歴史ともいえない「単なる時間の経過」しかないアメリカを最強の親と崇めなくてならなくなる。アメリカが「A級戦犯の顕彰はいかん」といえば、「首相の靖国神社参拝は過去の反省と不戦の誓いである」といわざるを得なくなる。グローバリズム(それに基づく市場経済)がどれだけ我々の国体にそぐわないものだとしても、親であるアメリカがそれを要求すれば「もっと市場の開放を」と叫ばざるを得なくなる。

こういう負の循環を延々70年近くもやってきてるのですよ。

手段(日米安保)と目的(国家の自立と自尊)とが逆転し、手段のためなら肝心の国柄が破壊されようが国民精神がアメリカ化しようが、法から国家制度のすべてがアメリカ印のものとなろうがそんなことは一切おかまいなし。「プライドで飯が食えるかよ」というのですね。

こういうマテリアリストが「俺は反共主義なんだ、保守なんだ」と言ってるのですからもう笑いしかありません。

いけね、また腹がゴロゴロいってきた。このへんで失敬致します。
 

西暦保守の本性、しかと見据ゑたり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 5日(水)22時37分22秒
返信・引用 編集済
   「わが国とアメリカは親子の関係」なぞと、都知事候補とあらうものが公言してをるんですか、本道に‥‥。こりや、全く駄目ですね。流石は、國史を西暦一本で表現するだけの事はありますなあ。トホホ‥‥。最近流行の「保守」とは、已むを得ず、敢へて戰略的に申すのなら、罪、一等を減じてもよいが、本道に、心底から仰つてゐるのでせうから、小生の如き田舍者は、思考の埒外に居ります。

 我が國と建國三百年も滿たぬ人造國家、果して「親」は、どつち。いつぺん聞いておいて下さいね。試驗に出たら、答へるに窮しますから。

 今日は嚴寒、惡寒がします。其の上、「親子關係」てふ言靈、寒氣も彌益、おやすみなさい。
 
 

思想のモデル化を排せ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 5日(水)17時22分24秒
返信・引用
  これはいつも書いてることだが、近代主義に汚染されオツムがモデル化した戦後人はとかく二者択一が好きだ。

万事について「民主か独裁か」とか「主権者は国民か天皇か」とか「国教は神道か仏教か」といった単純化した思想で物事をみるのがどうやら国民性となっているようだ。

その統治方式にあるいは様式に伝統が確保されてさえいれば、国民主権であろうが国家主権であろうが、統治権の所在がどこにあるかなどは二義的なことなんだ、ということがモダニストたちには理解できない。

これを「あるべき病」と名付けよう。

この思想のマニュアル化はなにもテクノクラートに陥ったお役人だけに限らず、本来「自由」であるはずの民間人にもその毒を撒き散らしている。

思考がモデル化した官僚主義に自らどっぷり染まりながら「脱官僚」を言うほど滑稽なものはない。

お話は逸れましたが、本来、神社とその附合物としての別当寺とは衝突するものでも反目するものでもなく、持ちつ持たれつの間柄であって、例えば阿夫利神社と大山寺との関係もその例に漏れず共存共栄を保持していくべきではなかったのか。

まあ例えばだが、寺が神社の広報担当を引き受け、神仏ともに参拝者で常に賑わうようにすることも一つのあり方・・・むろん、儀式の様式を一方が一方に押し付けるようなことはあってならないが・・・としてはありだろう。

まずは善悪二者択一論という「思考の貧困化」を排し、自由な議論・・・むろん、唾棄すべきアメリカ的な意味での自由ではない・・・をどんどんやっていきましょう。







 

確かに力作ですが

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 5日(水)09時42分56秒
返信・引用
  備中處士さんの引かれたそのブログですが、出典文献もきちんと明示され、丁寧に書かれているという感は確かにありますね。

惜しむらくは(歴史アドバイザーだからしょうがないのだが)単なる年表の羅列でなく、直助を始めとする幕末の勤王運動家たちに対する自分たちなりの感想意見、つまり思想を盛り込んで貰いたかったですね。

それと、努力と意欲は買いますが、いくらなんでも平田篤胤を平田胤篤としたのはいただけません。しかも、一度や二度でなく、全編通しで「胤篤」ですから直助を調べるまで篤胤の存在など知らなかったのではないでしょうか。立派なブログなのですから見ている人に「生兵法怪我の元」などと揶揄されないよう、そういった基本的なことには注意すべきでしょうね。

まあしかしこれ以上言いますとまた喧嘩になりますから控えます(笑)。

私も備中さん同様、医者であり国学神道家であり、そして熱烈な勤王の士であった権田直助を偉大な人物と見る一方で、先に申しましたようにそうした美点にだけ目を向け、バンダリズム(廃仏毀釈)に目をつぶるのは思想的にフェアじゃない、という観点から真相究明に乗り出そうとした次第です。

もちろん、歴史ですから科学的に証明することは不可能ですしそもそもそんなものにはいかほどの意味もありませんから、重要なのは当時の庶民にどう思われていたか、大山を御神体に持つ地元大山の人々の暮らし方や生き方にどういった影響を及ぼしたのか、その「物語」を知るということです。

まだ資料にざっと目を通した段階ですからこれは私の推測に留まるのですが、幕府により手厚く庇護された仏教に対し、反対に軽んじられてきた神道家たちの不満が明治の神仏分離令とともにルサンチマンとなって一気に噴出したのではないか。

篤胤や直助たちは人為を好まず「かむながらのみち」にまかせてはいたが、神社の神官たちにはそれまでの不遇が我慢ならなかった。神仏分離令を拡大解釈してあのような蛮行に及んだ。つまり、神仏分離を政治的に利用し、その反動で一気に立場の逆転を狙おうとしたのではないか。

篤胤や直助に廃仏毀釈を直接命じたという事実はなく、神官たちは篤胤や直助のネームバリューを前面に押し出し、自分たちの行いを正当化しようとした。

今の大山阿夫利神社の宮司は私の同級生の実兄がやってるのですが、あまり大きな声では言えませんが、評判があまりよろしくない。その詳しい理由は聞いてませんが、伝統軽視の合理主義的な運営がどうやらその理由のようです。

もっと精緻な研究が必要ですね。
 

橿原の 御代に復ると 思ひしは あらぬ夢にて ありけるものを‥‥

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 4日(火)23時25分57秒
返信・引用 編集済
   標題は、矢野玄道翁の哥でありますが、明治皇學者の悲しみを表して餘りあるものがあります。なほ明治の皇學者・神道家は──現代の學者・神職と違ひ──、激しい論爭を繰りひろげてをります。少し難しいですが、藤井貞文博士『明治國學發生史の研究』(昭和五十二年三月・吉川弘文館刊)は、引用も多く且つ長く、實に勉強になり、當時の國運興隆の志氣を垣間見ることが出來ます。それに引換へ、現代の神道界、行儀は宜しいのでせうが、全く奮ひませんね。葦津珍彦翁のやうな、「笏を持たざる神主」の出現が待たれます。

「私の実家のほうも、明治の神仏分離令を根拠とした廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたようで、無残にもことごとく頭部をはねられた古い石仏が多数存在します。依拠すべきは神道か仏教かを別としまして、保守を自認する者としましては、こういうバンダリズム(文化的破壊主義)を容認するわけには到底まいりませんから、真相はどうだったのか、やはり平田神道及びその衣鉢を継いだ権田直助たちの仕業だったのか、というのが、いま非常に気になっているのです」と。

 前にご紹介申し上げた「いせはら歴史解説アドバイザー養成講座(第2期)の修了レポート」には、權田直助翁に於ける神佛分離の業績を、簡略ですが、よくまとめて書かれてゐます。學者にして皇醫道の復興、志士、即ち五十九歳にして幕末の動亂に關はり、岩倉友山公との道交、やがて幽閉。而して晩年最後のご奉公が、相模國大山阿夫利神社祠官としての神佛分離、實務者としても模範となる勳功を上げてをられます。誠に物凄い御方です。



【寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』/「佛教者の神社參拜」に於ける頭山立雲翁の評】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1478
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/2
 
 

誤字訂正

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)22時31分14秒
返信・引用
  ×廃仏稀釈

○廃仏毀釈
 

一年生から勉強してみます

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)21時31分8秒
返信・引用
  備中處士さん

内心、「あんたが来ると場が荒れる」と断られるんじゃないかとひやひやしておりましたがお許しを頂きましてホッとしております。

実は、私の実家のほうも明治の神仏分離令を根拠とした廃仏稀釈の嵐が吹き荒れたようで、無残にもことごとく頭部をはねられた古い石仏が多数存在します。

依拠すべきは神道か仏教かを別としまして、保守を自認する者としましてはこういうバンダリズム(文化的破壊主義)を容認するわけには到底まいりませんから、真相はどうだったのか、やはり平田神道及びその衣鉢を継いだ権田直助たちの仕業だったのか、というのがいま非常に気になっているのです。

国学や神道に関する知識は備中さんと違いほとんどない私ですから、そう深いところまで入り込んでいくつもりも毛頭ありませんが、地元縁の大思想家のことぐらいはきちんと知っておかないとやはりまずいですからね(笑)。

ご推薦の書物は一度読んでみたいと思います。しかしあまり難しいのは勘弁(笑)。
 

屈折したナショナリズム

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)21時07分51秒
返信・引用
  「戦後日本には背骨がない」とは自称の保守の常套句ですが、かく言うご本人様に何があるのかと言いますと背骨どころか備中さんが取り上げられていたような、中韓への対抗心だけの形式的な靖国神社参拝に喝采を贈るような他愛のない者どもが保守面をしていられるわけです。

要するに、その思想の内実とはいっさい無関係に、「参拝」という外形さえ備えていればいいというのですね。

これと似たような現象は安全保障のあり方を論じる際にも顕著に現れます。例の「安全保障確保にはアメリカとの同盟が欠かせないんだ」とか、「我々は自由や民主主義という価値をアメリカと共有してるんだ」とか、「わが国とアメリカは親子の関係なんだ(田母神)」といった、「目的と手段の転倒現象」が当然のごとく論じられ、それに異を唱えようものなら、「お前は理想主義者だ」といって罵倒する。現実一点に人間精神を傾注させていくことがあたかも保守であるかのように錯覚してるのですね。

中曽根が二礼二拍手一礼を抜いた無形式で無礼な靖国参拝をしたとき、(首相の参拝時には恒例となってる)松平宮司は挨拶にすら顔を出さなかったそうですね。

「官から民へ」を合言葉に三公社を民営化させ、ローカル線や不採算郵便局を廃止においやり、地方の過疎化に拍車をかけた新自由主義の中曽根のみならず、歴代の自民党などほぼ全部が「戦後保守」つまり、左翼的にして革新的な戦後体制を積極的に保持しようとする左翼集団以外の何ものでもないのを、この国の無思想な保守どもは保守政党と見誤った(保守派どもというのは不正確な表現でして、正確には本来なにが左翼で何が保守かすらも解からない阿呆どもですが)。

こういうバカどもを「保守政治家」と規定して選んできた「民主主義」なるものをアメリカと共有しているそうです。素晴らしいことじゃありませんか。



 

『仙境異聞(仙童寅吉物語)』の世界。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 4日(火)20時41分34秒
返信・引用 編集済
  sakamoto樣

 これはゝゝゝ、早くお出ましになられましたね。邪魔とか、滅相もありませんが、小生ごときでは、御相手も叶ひませぬ(泣)。

 何やら‥‥、大國隆正翁とか、權田直助翁とか、── 小生は、はつきり云つて、餘り精しくありませぬ(涙目)。名越廼舍翁の豫習をしてをりましたが、何せ、當代きつての御醫者樣、‥‥無理です。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/20

 大壑先生の門下、多しと雖も、大學者の一人でせう。研究させて戴くには不足はありませんが、やつぱし無理。sakamoto樣、醫道のご造詣は、果して如何。

 大國翁は、實は大壑門下では無いやうです。大國翁は村田春門門下で、抑も春門は、平田先生をして鈴屋本家と溝を生じさせようとした張本の一人、大國翁が平田門に還るには、相當の時間を要しました。『増補・大國隆正全集』が最近復刻されてをりまして、小生の書齋に飾つてをります(大笑)。定年後に讀まうと‥‥。松浦光修博士の『大国隆正の研究』(平成十三年九月・大明堂刊)が、秀逸でせう。小生は、氣に食はぬ所がありますが‥‥。

 然し大國翁にしろ、權田翁にしろ、平田篤胤先生の『仙境異聞(仙童寅吉物語)』(岩波文庫他)を、sakamoto樣が、何より先づ讀まれて興味が湧かないやうでしたら、兩翁の研究は、勞多くして實を結ばないやうに存じます。閑暇の折に、是非とも仙童寅吉の世界を覗いてみて下さい。

 先づは取り敢へず御挨拶まで。不具。
 
 

昔の名前で出てきました

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)14時51分18秒
返信・引用
  備中處士様

こんにちは備中さん。

当掲示板運営者との契約がまだたっぷり残ってる(本年11月いっぱいまで)にも関わらず、遺憾ながら当方(桜粋会)を閉めてしまったのでこちらに書かせて貰いますが、もし、邪魔なら邪魔といってください。塾頭の手を一番焼かせたのはおそらくこの私でしょうから(笑)。

本来なら、名誉棄損した者の発信者情報の開示をプロバイダに請求できるのでしょうが、日ごろからそうした実定法に悪罵を吐きかけてる以上、自分に都合のいいときだけ縋りつくのも格好悪いですからやめておきました。しかし前払いした利用料はもったいない(笑)。

しかしあれですねえ、「戦後」というものを一言で言い表すと、「スタビリティなるものの欠如」の一言じゃないでしょうかね。

論争好きの私でさえもが辟易し、「もう書くな」と懇願したのことなど平気の屁の河童で人の嫌がることを延々と書いてくる、放埓としかいいようのない行為までが、「個人の自由」という戦後の魔語によって正当化していく社会。

正にアメリカニズムという、私が攻撃し続けたもの自体に負けてしまいました。備中さん、この国はもう政治じゃ変わりませんね。こういう輩が主権者として巷間をのし歩いてるのですからこれで変わったら逆におかしい。

というわけでして、これからは自分の好きなことだけを考察したり、好事趣味的に研究していくことに決めました。素人の政治好きか、それとも単なる学問好きのディレッタントか、同じアホなら踊らにゃ損損と(笑)。

私の地元に縁の深い権田直助にいま関心があるのですが、平田篤胤同様、廃仏稀釈の旗振り役だったとか、偏狭な神道家だったとか、色々言われてますが、果たして実際の直助像はどうだったのか、とかその辺を勉強してみたいと思っています。







 

繰返される非禮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 3日(月)22時54分57秒
返信・引用 編集済
  **********

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140131-00000019-pseven-soci
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小林よしのり氏、安倍首相の靖国参拝は、英霊を侮辱したと批判/NEWS ポストセブン 1月31日(金)16時6分配信

 安倍首相が靖国(ママ。靖國神社)参拝をして、保守派の知識人・言論人たちが、「これは慰霊の参拝であり、なおかつ不戦の誓いをしているのだから、そのようにアメリカやヨーロッパに説明すればよい」と主張している。
 だが、靖国神社は顕彰の施設(ママ)であって、特段に秀でた英霊たち(ママ。「たち」は不要)を「よく戦ってくださいました」と顕彰する、讃える場所だ。「あなたたちの霊を慰めます」などと、失礼なことをしてはいけない。そこを、根本的にわかっていない。自分の命を投げ出して戦った兵隊たちに対して、とてつもない侮辱をすることになってしまう。そのことぐらいは前提にして、語ってもらわなくてはいけない。
 安倍首相の参拝ひとつをとってみても、「本当の愛国者とは誰なのか」を、まったくわかっていない。ものの知識がない。「学者」という名がついている人まで、そうだ。
 本当の愛国者とは何なのか。本当のナショナリズムとは何なのか。単なる嫌韓感情・嫌中感情というものだけで、ナショナリズムを作り上げて、中韓への反発心で、靖国神社に行くような「愛国心」は、偽物だ。
 本当の愛国者とは、どういうものだったか。明治以来の近代化のなかで、国家観をどのように持って、どうやって尊王攘夷の思想を持って、脱藩して国を意識してきたか──そういう人たちを描いたのが、『大東亜論』だ。
※小林よしのり氏『大東亜論──巨傑誕生篇』特別動画より

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 小林氏の著作『戰爭論』を以て、かつて我が娘・嫡男に讀ませたことがあるが、些か輕佻浮薄な所が氣になつて、以後は餘り見なくなつたが、件の記事を友人から指摘され、此の「言葉に限つて」は、快哉を叫びたい。塾頭の玉文を讀まれた方々には、珍らしくも何でも無い、當然の批判である。まさか『靖國神社の真実』を見た訣でも無からうが、人に因つて言を拒まず、此の零細掲示板の叫ぶ所は、所詮、蟷螂の斧であるが、此の人氣作家の記事には、素直に喜びたい。「中韓への反発心で」の所で、或る翁から、頗る興味深い話を聞いた。小泉首相は、此の「反発心」だけで、靖國神社へ「訪問」した由。其の前後に、「訪問」の事歴は無いさうだ(呆)。

 然し我が首相は、相も變らず、「『御』英霊‥‥。日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも『不戦の誓い』を堅持していく決意を、新たにしてまいりました。‥‥『自由と民主主義を守り』云々」。そして今日拜戴した『靖國』平成二十六年二月號には、何故か、「不戰の誓ひ」の重要文句を省いてをる。かやうな引用の仕方は、見苦しい。松平宮司と相違し、SPを從へし首相は、「徳川宮司らの出迎を受けた」さうであるが、下記の『安倍内閣総理大臣の談話~恒久平和への誓い~』を見て、安倍首相ならずとも、小生は、「痛恨の極み」たる思ひを、獨り噛みしめてゐる。
  ↓↓↓↓↓
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/discource/20131226danwa.html



【松平永芳宮司『誰が御靈(みたま)を汚したのか――「靖國」奉仕十四年の無念――/あの總埋大臣の無禮な公式參拜は忘れられない。政治權力との癒着を後任に戒め、私は職を離れた/――「公式參拜」といふ名の非禮を、私は忘れない――』(平成四年十月三日「東京レディーズ・フォーラムに於る講演」に加筆。文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號所收)】‥‥何度でも、お讀み下さい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7
 
 

困つたもんなり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月27日(月)18時24分17秒
返信・引用
  ・ 殿
??殿

 「・」および「??」殿の投稿は、暫くして削除させて戴きます。 投稿名を考へて戴きたい。

 高天原地上説は、我が國にも、多く存在します。近くでは、岡山縣にも、蒜山や、備前一宮吉備津彦神社にもあり、決して珍しいものではありません。殊に後者は、神主・總代が當然の事として吹聴し、識者をして呆れさせてをります。加耶大學校の總長も含めて、共に噴飯物です。

 現代、東大の保守を自認する博士も、神代は歴史に非ず、「天照大御神は、皇室の直系に非ず」と、魔説を喧傳して憚りませぬ。我が國に於いても斯うなんですから、況んや韓國の博士をや。お仲間の説は、他でやつて戴きたい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/26

 削除の件、惡しからず、ご諒承を乞ひます。

     九段塾管理者 拜
 
 

R困惑‥‥。

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月26日(日)12時00分43秒
返信・引用
  【小生は、「皇國の上空に坐しますなむ」と信じ、かく申し上げてをりますが、地上の高天原は、人間世界の四國くらゐの面積ありとの御説もあるやに聞いてをりますので、中らずとも遠からず、さやうに喧嘩腰に云はれることも無いでせう】
--------

やっぱり警戒心一杯の過剰防衛本能心でっか?。
短兵急に意味とり違えられましたか、わかり申した。お邪魔虫これを最後に退散いたしまする(涙)。

ご貴殿に喧嘩腰してんじゃありません。
そのツアーの韓国人ガイドの説明に「ぐ・ぐ・ぐ」と詰まされた己れの不甲斐ない苛立ちよ
だからこうゆう場合の論争をどうやったらいいんかを一兵士翁殿に申しこんだのよ。

だって相手は微笑をもってこう弁論しとるのよ
「史家の第一人新井白石先生は、こう仰った
神とは人である。高天原は遠い昔に天皇家の先祖がいた場所である。
故に、高天原を地上の特定の場所にあったとする。」
(日本に住み、歴史の勉強でもしたのであろうか 在日二世か?)

そしてこう言うた。
「北緯36度以北慶尚北道高霊邑の水と共に稲作伝来の伝承に
乗って北緯34度以南の九州説の筑紫に移って何が不自然ですか? 新井白石大家も
認めておられる」

ええですか、ここは公園なんですよ「高天原公園」なんですよ、神様公園や。
勝手にメカルト図法の平面史観で屁理屈されとる。公園の転居だと・・
そんなもん高千穂峰の阿蘇上空の立体史観でいかにゃアカン。

こんなことコリアに日本人観光団に言わさせとってええのか?
新井白石は「異端だ!騙りだ!」と叫ぶが、一兵士くん君の本当の仕事やないんけ?
某掲示板にゴマを摺ってるヒマあるんけ? 日本人観光団、「高天原公園史観」上ツケで
帰国するで、目を玄界灘のそとに向けんでもええんか?

の論争せようとしたらご公儀の目にとまり「反皇国不敬のおそれあり」で削除された。
アカン私への警戒心が強過ぎたんでしょう、抵抗すればまたアク禁になる。
キャインキャインキャインとおとなしくなった(笑)。

今、従軍慰安婦像の設置反対運動で、全国議員連名世界各地をまわる。
そんな世界最古の職業のああでも、こうでもありませんぜ、こっちは神々の故郷の
「高天原世界」の最大事を、「神様公園」でオチョクラレとる。こっちの撤去が先だ。

でも、塾頭・一兵士翁泉下の人・一番弟子に
「堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは、高千穂の峰の垂直の雲の上だ!」と。

これは史学(新井・平田・本居)を含む世論への喚起を求め、高弟備中處士殿が、一兵士翁の意思を継がれどう思われるかの意味合レスであったが、どうも伝達能力不足
「櫻粋会炎上荒らし」マンの登場と疑われたよし・・ここはきれいさっぱり退散いたします。

頭が痛くなるようなヤリトリ・・どうも拙者の頭では、自信がござらぬも正直な答え。
どう思うかをお聞きしたが







 

困惑‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月25日(土)21時45分32秒
返信・引用 編集済
   「北緯36度以北、慶尚北道高霊邑の水と共に、稲作伝来の伝承に乗って、北緯34度以南の九州説の筑紫に落ちる」と。さやうな御説も、一説として承りました。「慶尚北道高霊邑」にて檢索したら、色々あるものですね。ご示教、有り難うございました。小生も、日韓の姉弟關係につき、かつて名越翁の文を紹介させて戴いたことがありました。須戔鳴尊の天降られた御地は、今の朝鮮白頭山でせうから、まんざら、縁なき事とも申せません。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/222

「堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは、高千穂の峰の垂直の雲の上だ、と」。

 小生は、「皇國の上空に坐しますなむ」と信じ、かく申し上げてをりますが、地上の高天原は、人間世界の四國くらゐの面積ありとの御説もあるやに聞いてをりますので、中らずとも遠からず、さやうに喧嘩腰に云はれることも無いでせう。然し所詮、地上人の、しかも素人の臆説妄想、お聞き流し下さるか、相手にならぬと諦觀されむことを。此の調子ですと、小生は、塾頭では無いのですから、とても御相手かなひませぬ。こらへて下さい。

 何はともあれ、老臺には、何か、不快に思召されました御樣子、御許し下さい。
 
 

R高天原謹考

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月25日(土)19時01分7秒
返信・引用
  そうも警戒心強く、肩肘張っての防衛本能旺盛でレス応対
「こりゃまたお呼びでない、どうも失礼いたしました」と退散せにゃアカンのかな?(笑)

先の塾頭さんは余裕綽々と莞爾の笑いで受け申した。
これは2度目のレスよ・・。

まだ先代が某掲示板と蜜月状態のとき・私のほうが名ウテのゴロツキ投稿者・皇尊心掲示板の趣旨に合わぬとただちに介入削除された。まだ私の本意が伝えぬうちに、スレ主自体が
不満であられた。丁々発止でやろうとした時に。

『垂直』の意味の真意がまだ説明不十分のうちに。
貴殿の申す
「平面史觀、實に艸木ものいふものであります。「垂直に」と貴意が如く、埀直か否かは兎も角く、立体史觀であらねばなりませんね」

そうメカルト図法の平面史観ではないの、もじ通りの立体史観でいかにゃアカンのさ。
ここをはっきりさせないから、北緯36度以北慶尚北道高霊邑の水と共に稲作伝来の伝承に
乗って北緯34度以南の九州説の筑紫に落ちるんや。
堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは高千穂の峰の垂直の雲の上だと。

2002年、会社リタイア、その記念に32年ぶりに韓国旅行した。
前にも行った慶州を奥さんと嫁を連れていった。そして、その周辺を、そこで腰をぬかし
かけた。そこに高天原の碑が公園があった。
私はツアーの韓国人案内人に猛烈に抗議した。21世紀に建てる碑なんて信用ならん。
高天原は九州阿蘇山中の高千穂の上空に有るんだと。

でもその韓国人、日本に居たのか日本の歴史を勉強していた。
新井白石流の地上説を陳べる
「神とは人である」と説く。高天原は遠い昔に天皇家の先祖がいた場所であるとし、高天原を地上の特定の場所にあったとする。

「九段塾」塾頭・一兵士翁彼岸の先に行った。まだ私との論に入らぬ前に、もの凄き尊皇心
強き御仁の「やめい!不敬罪である」との命令によって。
そこで何年ぶりだ5年かな6年かな、まあええ、その翁の一番弟子に尋ねる。

「高天原の水田の水が垂直に落ちたはどこだ?」

 

高天原謹考。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月25日(土)16時02分22秒
返信・引用 編集済
 


●本居鈴屋先生『天祖都城辨々』に曰く、

「此の(天照)大御神は、今もまのあたり仰ぎ瞻(み)る天津日にましゝゝて、とこしへに高天原をしろしめせば、大宮所は、天上(あめ)にあること、申すもさら也。いかでか、此の國土(くに)にはあらむ」と。



●平田大壑先生『靈能眞柱』に曰く、

「天照大御神は、御依(みよさし)の髓(まゝ)に、高天原の君と坐して、普く御照らし坐すを以て、天照大御神とは申し奉るなり。また上に次々いへるごとく、天(あめ)とは、やがて日のことなるを、其れをしろし看す神に坐すゆゑ、また日神とも申し奉るなり。

 さて師(鈴屋先生)のいはれたる如く、天にも、この國土の如く國の有りて、高天原とは其を云ふなるを、この大地にある國は、みな地の外表方(うはべ)に屬(つ)きたるを、天にある國は、内裡方(うちべ。内部)に屬きたりとおもはる。そのゆゑは、天若日子が、雉を射上げたりし矢の、高天原に坐す、高木神の御許に至れるを、初めに射上げつる天の穴より衝き返し降し給ふとあればなり[内裡方に國あること、この大地なる國の例(ためし)に泥づみて、疑ふべきにあらず。物の理は、窮まりなく、妙なる物なればなり、と『考』(服部水月翁『三大考』)にいへる、實に然ることなり]」と。



 
愚案、所謂る高天原は、廣狹種々あつて、

一、天之御中主神の坐す、天津眞北の「高天原」(別天神界・北極紫微宮)

一、天照大御神の坐す、天津日の「高天原」(太陽神界)

一、天照大御神の分靈および天津神達の坐す、天上大氣圏内に在る「高天原」(地球神界)

一、天照大御神を地上にて奉齋する、神宮上空に在る「高天原」(伊勢神界)

一、天照大御神の顯現たる現人神天皇尊の坐す、地上の「高天原」、即ち千代田の宮城

一、或は、大宇宙を稱する「高天原」

一、或は、一靈(大元靈・天照御靈)を戴ける人間の體内の「高天原」(「心は、神明の舍なり」)

等の別があらうかと存じます。「高天原の水田の水は、垂直に地上のどこに落ちたか? さすれば、その高天原の場所がわかる」と。お申し越しの謂ひが判然としませぬものゝ、件の「三番目」に當らうかと存じます。然らば皇國の上空に坐しますなむ、と拜察いたしてをります。高天原が、地上の何處かに在ると申すは、平面史觀、實に艸木ものいふものであります。「垂直に」と貴意が如く、埀直か否かは兎も角く、立体史觀であらねばなりませんね。天孫降臨は、今から五千年ないし一萬年前と恐察いたしますので、それ以前の稻作は、諸々の神々・神僊が、天上から招來せるもの、或は大國主大神・少名彦那大神が、世界の民艸を啓導せられたものと拜します。

 
「れきし(蓋し「歴史」か)の観察者」樣は、我が塾頭が氣にかけてをられた有縁の御方、又た塾頭より年上の御方ゆゑ、敢へて申し上げるまでも無いとは存じますが、本掲示板は、最上段に掲げてをりますやうに、

本掲示板およびスレツドは、『靖國神社の正統』を、九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂め、靖國神社の正統を恢復護持し奉らむとする掲示板であります。

 なほ①

神宮
皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げ、②本掲示板の主旨に反する書込み、③禮儀・品位に著しく缺ける言語、④論理・文法が判らないもの、⑤青少年へ惡しき教育效果を與へる書込み
等は、嚴禁であること、勿論であります。かやうな場合は、管理者權限にて削除、または書込禁止の處置をさせて戴きますので、豫め御承知おき賜りますやう、謹んで御願ひ申し上げます」。

③④⑤は常識の範疇でありますが、①②に關しましては、他の掲示板よりも嚴格であります。他の參加者・閲覽者各位の靈眼も之れ有り、宜しく御願ひ申し上げます。

   眞金吹く吉備中國の玄月書院にて、備中處士、敬白
 

 

(無題)

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月25日(土)11時54分41秒
返信・引用
  高天原の神の國では、男の神々は、水田で米作りをして働かれ、女の神々は、機(はた)を織つてをられました。地上へ降つた天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、國中を廻つて普及させることが、天照大神の教へであります。これが日本の國の始めで、また建國の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。

高天原の水田の水は、垂直に地上のどこに落ちたか?
さすればその高天原の場所がわかる。
 

日本の歴史物語。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月17日(金)22時52分22秒
返信・引用 編集済
   先般、岡山縣愛國者協議會例會にて、岡田則夫翁により、或る國史物語が紹介されました。この御本は、正に少年少女への贈り物でありませう。一部、平假名を漢字に置換へ、紀元節を控へるに當つて、ほんの一寸だけ、ご紹介申し上げます。「子供向け」と申しても、小學生には、少し難しいでありませうが、義務教育のお子さんがいらつしやれば、是非とも購入して、讀んで上げて下さい。小生も入力しながら、何だか、樂しく嬉しくなつて來る、美しい文章です。そして表紙の裝畫は、我が岡山縣美作國の版畫師・第二代山田昭雲翁の令息尚公氏であります。



●保田與重郎翁『ふるさとなる大和──日本の歴史物語』(平成二十五年十月・展轉社刊)の「神武天皇」

 (神武天皇が)あちこちで永く滯在されるのは、その土地を拓いて、自分らの糧食を作り、また土地の人々に、農業の技術を教へられたのです。これには、深い謂れがありました。天皇のご先祖樣が、高天原から、この地上の國へ降りて來られる時、御祖母の天照大神から、お米の種子(たね)を戴かれ、「地上の國へ降りられたら、この種子を地上に植ゑ、高天原で神々がなさつてゐる手振りに習つて、米作りを生業としなさい。さうすると、地上の國も、高天原と同じ神の國になるのです」と教へられました。

 高天原の神の國では、男の神々は、水田で米作りをして働かれ、女の神々は、機(はた)を織つてをられました。地上へ降つた天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、國中を廻つて普及させることが、天照大神の教へであります。これが日本の國の始めで、また建國の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。

 米作りを生活の本とする時、わが子孫も、この國も、天地と共に永久に榮えるのです。これが、神の教へでした。この米作りを正しく行ふことを、「神習ふ」とか、「神の手振りに習ふ」と言ふのです。

 この神の教への實行は、その後の奈良時代から平安時代へとつゞいて、東北開發の目標でした。神武天皇のご東征と言ふのは、この高天原の水田で米を作られた技術を、各地の土地の人々に教へながら進まれたといふのが、この事實の内容であります。

 ‥‥

 この橿原宮で、ご即位の大典を擧げられるに當つて、前後に行はれた色々の準備は、『古語拾遺』といふ古典に詳しくしるされてゐます。奈良の都を京都へ遷された第五十代の桓武天皇の次の、平城天皇は、「『日本書紀』や『古事記』に、國の歴史はしるされてゐるが、なほ諸々の氏族の傳へて來た古事で、これらの本に出てゐない傳承は、文字にうつして後世に傳へねばならぬ」と、お考へになりました。これは、都遷りといつた大事件があつたりすると、世の中が騒々しくなり、色々の變革が起こつたりして、古い傳承は顧みられなくなつて、忘れられるといふ心配があるからです。この平城天皇の詔に從つて、齋部氏といふ古い氏族の長だつた齋部廣成が著したのが、この『古語拾遺』で、他の家の本はどうなつたか判りませんが、この本だけ、今日まで殘りました。その内容を見ると、『日本書紀』や『古事記』に殘つてゐないことが澤山書かれてあつて、まことに日本民族のために有り難いこの本が、よく殘つてくれたといふ感謝の氣持ちが起ります。

 この本の即位の時の記述によりますと、まづ大殿が建てられ、諸國を開拓して産業を興された樣子がしるされてゐます。これは大嘗祭(おほにへのまつり)を行ふための開發だつたのです。

 天皇陛下のご先祖が、高天原から地上に降りて來られる時、天照大神は、高天原の水田の稻の種子を與へられ、この種子を地上の國に育てゝ、高天原で神々のしてをられる通りの作り方をすれば、神の國が出現すると教へられた、これが、我が國の建國の大本だといふことは、前にもしるした通りです。この時、大神は、鏡を與へられて、「私を見たいと思つた時は、この鏡を見るがよい」と教へられました。

 天上から天降(あも)りして來られる天皇陛下のご先祖神は、お産まれになつたばかりの赤坊の神でした。それで、大きい椅子のやうなつくりの御座(みくら)に、柔らかいお蒲團を敷いて、それにお乘せし、兩手に劍と玉をお持たせして、天上から地上へ、湧き立つ雲の間を、まつしぐらに降りて來られたのです。この鏡と玉が、天皇陛下の皇位の璽(しるし)の傳世の寶物です。これが、所謂る三種の神器(じんぎ)です。

 古來から帝位の璽とされたものは、各國に澤山ありましたが、我が國で、鏡と劍と玉をそれにしてゐたことは、日本人の我々にとつては、格別と思ひませんが、外國人が他國の例と比べた時、この三種の神器を傳へた日本人の叡智に驚嘆すると言ひます。この三種の寶物は、單に珍貴な財物といふものでなく、その象徴する意味の深さに驚いたやうです。その三種には、深い思想と哲學がことよせられてゐるからであります。

 『日本書紀』には、神武天皇のご即位の時のお言葉がしるされてゐますが、その中に、「六合(くぬち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と爲さむ」とのお言葉があり、これは「世界を一つにした都を開き、天の下を一つの家としよう」といふ理想を著されたものと解釋する人が多くゐます。このことは、力で世界を統一するといふ思想とのけぢめが紛らはしいのですが、我が國の建國の理想には、力による支配の思想がないといふことは、高天原で神々がなされてゐたと同じやうに、この土地に米を作つて、この地上の國を、高天原と同じ神の國とするといふ、神の教へが先にあるからです。この神の教へが、我が國のすべての大本となつてゐるのです。

 この天上の神のお教へを事實として現すのが、大嘗祭です。大嘗祭は、ご即位の後に行はれるもので、大嘗會とも言ひ、古來から即位式についで、大嘗祭が行はれることによつて、皇位繼承が完了し、天皇の御位が確立するとされてゐました。天皇が踐祚されてから、大嘗祭が行はれるまでには、新しい御代となつてからの米の收穫との關係がありますので、その秋か、翌年か、時にはもつと延びることもあります。

 ‥‥この大嘗祭の祭場は、全國民が拜觀できるやうに公開されるのですが、これは神武天皇の橿原宮のご即位の時の先例をひきついだものです。この祭場や拜觀の模樣は、寫眞術のない江戸時代などには、町繪師が錦繪などに刷り上げ、遠い國々の人は、それで盛儀の樣を知つたのです。

 神武天皇の即位大嘗祭の樣子は、『日本書紀』には、「今ま諸々の虜(あだ)、已に平(む)け、海内(あめのした)に事無し。天神を郊祀(まつ)りて、大孝(おやにしたがふこと)を申(の)ぶべし」とおつしやつて、鳥見の山中に、靈畤(まつりのには)を立て、皇祖の天神を祭られた、と書いてあります。このお言葉の中の「大孝を申ぶ」とあるのは、大昔から「みおやのみ教へに從ひしことをのぶ」と讀んで來ました。みおやの教へといふのは、高天原から降りる時に、天照大神から米の種子を授り、これを地上で作れとのお教へであります。このお教へをお守りして、このやうに美しい米が、澤山取れましたといふことを、その産物を、神前にお供へして奉告することが、「大孝を申ぶ」といふことであります。

 『日本書紀』は、この一句で、昔の日本人なら、誰でも分つたことをしるしたのですが、『古語拾遺』は、天皇の大和平定後の諸國開發と産業振興の事情を、實に詳細にしるしてゐます。平安朝の始め頃になると、この史實を書き殘す必要があつたのです。それは、多くの人が忘れたからです。『古語拾遺』を書いた齋部廣成は、齋部氏といふ、神代からつゞいた氏族の最長老で、この頃すでに八十歳を超えた翁でした。今人は昔を忘れ、若者は昔の話をする老人を輕んじると憤つてゐます。そして平城天皇のお言葉で、古語を語れることに、生命のあつた生甲斐を味はつてゐるのです。廣成は、立派な學者です。江戸の晩期に出た平田篤胤は、本居宣長の學問をうけついだ大學者ですが、『古語拾遺』を讀んで、廣成の心持ちを察し、涙を流して感動し、感謝したと、繰り返し語つてゐます。



 愚案、昨今は、やゝもすれば農業を損得勘定にて把握してをるやうであるが、農業を忘れた日本は、違詔の大罪を負はねばならぬ。吾々誰人も、父祖を溯れば、必ず稻作に從事した經驗を持つ。周圍の農を生業とする人々を、しかと見よ。苦しい事も多々あらうが、實に樂しさうである。儲かるか損するかと考ふるは、父祖を忘却せる都會人だけであらう。農は國の大本であり、生命であります。歴代の天皇樣の詔敕には、累々と之を拜することが出來ます。父祖の祖業を繼承するのみならず、神國の人は、世界に農を廣め、一人も飢うる者が無きやう、また之に加へて環境の保全に努むることこそ、世界皇化の第一歩としなければならない。
 
 

動き始めてゐる──『凛として愛』擴散プロジエクト。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月14日(火)23時04分1秒
返信・引用 編集済
 

 下記、ご協力、宜しく御願ひ申し上げます。

 小生も、普段お世話になつてゐる氣功の國手に、花時計『凛として愛』DVDを差上げて、聽いて戴きました所、非常に感激して、他の患者さんへも貸出して戴いたやうであります。實に嬉ばしいことです。長船の有名な刀匠も、お弟子と共に、何度も見た由、等々。

 閲覽各位にも、此の機會を利用して、『凛として愛』の擴散に協力たまはれば、道福、此の上なきものと存じます。

     九段塾頭=泉水隆一監督より、御教へを受けし者──備中處士──懇祷、々々。



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情報提供のお願い!──『凛として愛』拡散プロジェクト

 泉水隆一監督作品──映画『凛として愛』を、もっともっと広めたいと思います。

 いま百田尚樹さんの「永遠の0」が映画公開され、ヒットしています。戦争の事、日本の事を考えてもらえる、よいチャンスだと思います。どうして日本は、戦わなければいけなかったのか。

 『凛として愛』は、明治開国から大東亜戦争までの事を、その当時の資料を元に制作されたものです。ぜひとも多くの方に見て頂き、日本について見つめ直してほしいと思います。

 そこで、みなさんに情報提供して頂きたい事があります。

① 学校の先生または塾の先生などで、もしかして保守?と思われる先生がいらっしゃいましたら、ご紹介して頂けないでしょうか(左寄りでなければ、保守でなくともいいです)。花時計から、『凛として愛』のDVDとお手紙をいれて、お送りしたいと思います。もちろん情報提供者の情報は、一切だしません。あまりに左に偏っている先生は、送ってもムダだと思いますので、可能性のある先生たちに、『凛として愛』を見てもらいたいと思っています。子供たちにも見せてくれるといいのですが、まずは先生に広めたいと思います。都道府県、学校名、先生の名前を教えて頂ければ、花時計から、『凛として愛』のDVD、紹介文とお手紙をいれてお送りします。

② みなさんの地域にあるケーブルテレビの住所、連絡先の情報を教えて頂けないでしょうか。『凛として愛』の放送をしてもらえないか、交渉してみようと思います。

member@hanadokei2010.com

まで、よろしくお願いします。



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天孫降臨、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月 1日(水)04時50分33秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 是に天照大御神、高皇産靈神の命以ちて、太子・正哉吾勝勝速日天忍穗耳命に詔りたまはく、

今、葦原中國、平け訖へぬ、と白す。故れ言依さし賜へりし隨に、降り坐して知ろし看せ

と詔りたまひき矣。爾に天忍穗耳命の白したまはく、

吾れは、降りなむ裝束(よそひ)せし間(ほど)に、子、生(あ)れ出(ま)しつ焉。名は天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命[天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊]。此の御子を降すべし

と白し給ひき矣。此の御子は、産巣日神の御女・萬幡豐秋津比賣命の子、玉依毘賣命に御合ひて、生ましめたまへる御子にます也。天照大御神・高皇産靈神、特に憐愛(めぐ)みて、崇養(かたてひた)し奉り給ひき矣。



 故れ是を以て白したまふ隨に、日子番能邇邇藝命に科詔せて、天都高御座に坐せ奉りて、

此の豐葦原水穗國は、汝し知らさむ國也

と言依さし賜ふ。故れ「命の隨に、天降ります可し焉」と詔りたまひて、天兒屋命・天太玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命、并せて五伴緒、天忍日命、及た諸部緒の神等を支(くま)り加へて、其のをぎし八咫鏡、及た天叢雲劒、二種の神寶を以て、永へに天日嗣の御璽しと爲さしめて、亦た其のをぎし八尺勾璁、及た平國の廣矛、常世思兼神・布刀玉神・天手力男神・萬幡豐秋津比賣神、護齋の鏡三面・子鈴一合を副へ賜ひ、又た天照大御神、

吾が天原に御(しろ)しめす、齋庭の穗をも、吾が兒に御(まか)せまつる

と敕りたまひて、依さし賜ひき矣。



 是に天照大御神、御手に鏡劒を捧げ持ち賜ひて、言壽ぎ詔りたまはしく、

大八島豐葦原水穗國は、吾が子孫(みこのつぎゝゞ)、王(きみ)とます可き地也。

皇ら我がうつの御子・皇美麻命、就(い)で坐して、此れの天津高御座に御坐(ましま)して、安國と平らけく、天日嗣の瑞穗を、天御膳の長御膳の遠御膳と、萬千秋の長五百秋に安らけく、齋庭に知ろし食せ。

此れの鏡は、專ら吾が御魂と爲て、吾が御前を拜くが如と、同殿・同床に坐さしめて、齋き奉りたまへ。

寶祚の隆え坐さむ事、天壤の無窮(とこしへ)なるべし矣

と詔りたまひて、復た天兒屋命[常世思兼神]・天太玉命に敕りたまはく、

惟爾(やよいまし)二柱神も、同じ殿内に侍ひて、御前の事を取り持ちて、爲政(まを)したまへ焉


と詔りたまひき矣。故れ此の二柱神は、さくゝしろいすゞの宮に并せ祭る。次に天手力男神・萬幡豐秋津比賣神は、佐那縣に坐す。此は、御戸開之神也。次に天懸大神・國懸大神は、木國の名草宮に拜き祭る。次に登由宇氣神。此は、外宮の度相に坐す。次に若御魂神。此は卷向穴師社に坐す神也。



 爾に神魯岐・神魯美の命以ちて、高天原に事始めて、天都詞之太詞事、言依さし賜ひて、天神社・國神社、稱辭竟へ奉らしめて、高皇産靈神、敕りたまはく、

吾れは、天津磐境を造りて、天津神籬を起し樹て、皇美麻命の爲めに齋ひ奉らむ。

汝し天兒屋命・太玉命、天津神籬を持ちて、葦原中國に降りて、亦た皇美麻命の爲めに齋ひ奉れ


と詔りたまひて、復(こと)に太玉命に、

諸部の神を率て、其の職(つかさ)に供へ奉ること、天上之儀(あめのみわざ)の如くせよ

と敕りたまひて、諸々の神をも與に陪へ從はしめたまひき矣。



 爾に日子番能邇邇藝命、天降り坐さむとする時に、先驅者(さきばらひのかみ)、還りて白さく、「天之八衢に、鼻の長さ七咫、背の長さ七尺餘りの神居て、上は天原を光らし、下は葦原中國を光らし、眼は八咫鏡なせり」と白しき矣。即ち從神を遣して問はしめたまふ時に、得目勝ち問はざりき矣。故れ天照大御神、高皇産靈神の命以ちて、天宇受賣神に詔りたまはく、「汝しは、手弱女に有れども、いむかふ神と面勝つ神也。故れ專ら汝し往きて、『吾が御子の天降りまさむとする道を、誰ぞ耶、如此くて居る』と、問ひてよ」と詔りたまひき矣。故れ天宇受賣命、往き向ひて問はす時に、八衢之神、答へ白さく、「吾は國神、名は猨田毘古神也。出で居る由は、天神の御子、天降り坐すと聞きつる故に、參ゐ向ひ待ちて侍らふ焉」と白し給ひき矣。天宇受賣命、復た問ひけらく、「汝ぢ先だち行かむか乎、抑(ま)た吾れ先だち行かむか乎」。答へ白さく、「吾れ先だちて、啓行(みさきはら)はむ焉」。天宇受賣命、復た問ひけらく、「汝ぢは何處に到り、皇美麻命は何處に到りまさむ耶」。答へ白さく、「天神の御子は、筑紫日向高千穗の槵觸之峯(くしふるのたけ)に到りまさむ。吾は、伊勢の狹長田・いすゞの川上に到らむ。我れを發顯はせる者は、汝し也。故れ汝し、吾れを送りたまへ」と白し給ひき矣。爾に天宇受賣命、還り詣りて、其の状を報しき矣。



 故れ爾に天津日子番能邇邇藝命に詔して、天磐座を離(はな)ち、眞床覆衾に褁みまつりて、天磐戸を引開けて、天降し奉りき矣。故れ此の神を稱へて、天國饒石彦火瓊瓊杵尊と曰す。故れ其の猨田毘古神、御先に立たして、天忍日命、背に天磐靭を取り負ひ、臂に稜威高鞆を著け、手に天梔弓を取り持ち、天波波矢を手挾み、八目鳴鏑を副へ持ち、頭槌之劒を取り佩き、大久米部を帥て、御前に立ちて仕へ奉り、天牟羅雲命、太玉串を取り、天忍雲根命、天津諄辭を宣りて祓ひ清めつゝ、天之浮橋[天之磐船]に、うきじまりそりたゝして、天之八重多那雲を排し分けて、稜威の道別き道別きて、果たして先に猨田毘古神の言ひしが如と、筑紫日向之高千穗のくじふる峯に、天降り坐しき矣。然して後ち大來目部を、天靭負部と爲たまふ。天靭負部といふ號、此の時より起(はじ)まりき也。故れ其の天押日命[天槵津大來目命]、此は産巣日神の御孫也。‥‥次に天村雲命は、天曾己多智命の玄孫也。‥‥次に天忍雲根命[天押雲命]は、天兒屋根命の子也。



 爾に天津彦火瓊瓊杵尊、高千穗の二上峯に天降り坐しゝ時に、天(そら)暗冥く、晝夜別たずて、人物(ひとゞも)道に失(まど)ひ、物の色別き難し。茲に土蛛有り。名を大鉗・小鉗と曰ふ。二人、皇美麻命に奏しけらく、「命の御手を以て、稻千穗を拔かして籾に爲て、四方に投げ散らしたまはゞ、虚(そら)、開晴(あかり)なむ」と白しき矣。その時、大鉗等が奏せる如く、千穗の稻を搓(ぬ)き、籾と爲して投げ散らしたまへば、即ち天(そら)、開晴(はれあか)り、日月、照光(てりわた)れり焉。因(か)れ高千穗の二上峯と曰ふ。既にして襲(そ)の高千穗の槵日二上峯に移り幸(いで)ましき矣。



 是に皇美麻命、襲の高千穗のそほりの山の峯の天浮橋より遊行(いで)まして、膂宍空國(そじしのむなくに)、頓丘(ひたを)より國覓ぎ行去(とほ)りて、吾田の笠狹之御碕に到り坐し、長屋之竹島に登り坐して、其の地を巡り覽まして詔りたまはく、「朝日の直刺す國、夕日の日照る國也。故れ此地は、甚と吉き地也」と詔りたまひて、國主・事勝國勝長狹神を召して問ひたまはく、「此地は、誰が國ぞも歟」。對へ曰さく、「此は、長狹が住める國也。然れども今ま乃ち天神の御子に奉上らむ。取捨(ともかく)も意の任(まにま)に遊ばせ」と白しき矣。故れ底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて坐しましき矣。故れ其の事勝國勝長狹神、亦の名は鹽椎神[鹽土老翁]、此は伊邪那岐大神の御子也。



 故れ爾に皇美麻命、御宇受賣命に詔りたまはく、「此の御前に立ちて仕へ奉りし猨田毘古大神は、專ら顯し白せりし。汝し、送り奉れ。亦た其の神の御名は、汝し負ひて、仕へ奉れ」と詔りたまひき矣。即ち天宇受賣命、猨田毘古神の乞はしの随に侍(そ)ひ送りき矣。是を以て猨女君等、其の猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事、是れ也。



 是に天宇受賣命、狹田毘古神を送りて、還り到りて、乃ち悉とに鰭廣物・鰭狹物を追ひ聚めて、「汝し等は、天神の御子に仕へ奉らむや耶」と問ひたまふ時に、諸々の魚等、皆な「仕へ奉らむ」と白す中に、海鼠(こ)白さず。故れ天宇受賣命、海鼠に謂りたまはく、「此の口や乎、答へせぬ口也」と云ひて、紐小刀以ちて、其の口を拆きゝ矣。故れ今に、海鼠の口拆けたり也。是を以て御世々々、嶋之速贄獻れる時に、猨女君等に給ふ也。‥‥



 爾に天兒屋根命、皇美麻命の御前に仕へ奉りて、天忍雲根命を、神魯岐・神魯美の命の御前に、受け給はり申しに、「天之二上に奉り上げて、皇美麻命の御膳水は、うつし國の水に、天津水を加へて立奉らむ、と白せ」と、事教へ給ひき矣。是に天忍雲根命、天之浮雲に乗りて、天之二上に昇り坐して、神魯岐・神魯美の命の御前に白せば、天玉串を事依さし奉りて、「此の玉串を刺し立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天都詔戸之太詔刀言を以て告れ。如此く告らば、麻知則・弱韮(まちば・わかひる)に、ゆつ五百篁生ひ出でて、其の下より天之八井出でむ。此を持ちて、天津水と聞こし食せ焉」と、事依さし奉り賜ひき矣。

[一(また)の傳へに云はく、皇大神、皇美麻命、天降り坐せる時に、天牟羅雲命、太玉串を取り、御前に立たして、天降り仕へ奉りき矣。是に諸神、白さく、「葦原中國は、潮(うしほ)也。何かにす可き焉」と白す時に、皇美麻命、天村雲命を召して詔りたまひつらく、「食す國の水は、熟(にこ)からず。荒き水に在りけり矣。故れ御祖命の御許に參ゐ上りて、此の由を言して來よ焉」と詔りたまひて、登らしめたまひき。即ち天牟羅雲命、參ゐ上りて、御祖命の御前に、皇美麻命の白せと宣たまふ事を、子細に申し上ぐる時に、神魯岐・神魯美の命、詔りたまはく、「雜々に仕へ奉らむ政は、行ひ下し奉りて在れども、水取(もひとり)の政は、遺して在りけり矣。何れの神を下し奉らむと思ふ間に、勇ましく參ゐ上り來にけり焉」と詔りたまひて、天忍石之長井之水を八盛取りて、玉の瓫(もたひ)に入れて、誨へたまはく、「此の水を持ち下りて、皇大神の御饌に八盛、皇美麻命の御饌に八盛獻りて、遺る水は、天忍石水と、術云(まじの)りて、食す國の水のうへに灌ぎ和はして、朝夕の御饌に獻り初め、御伴に仕へ奉りて、天降れる神等・八十伴の諸人にも、此の水を飲ましめよ焉」と詔りたまひて、神財の玉もひ共に授け給ひて、下し奉り賜ひき矣。天村雲命、受け賜はりて、持ち下りて獻る時に、皇美麻命、詔りたまはく、「何れの道よりぞ耶、參ゐ上りつる乎」と、問ひたまふ時に白さく、「大橋は、皇大神、皇美麻命の天降り坐せるを畏みて、後(しりへ)の小橋より參ゐ上りき也」と申す時に、皇美麻命、詔りたまはく、「後にも畏み仕へ奉る事、勇(いさを)し也」と詔りたまひて、天村雲命・天二登命・後小橋命と云ふ、三つ名を負ふせ賜ひき矣。即ち日向高千穗宮の御井定め、崇(いは)ひ居(す)ゑて、朝夕の御饌に仕へ奉り、而して後に、丹波の氷沼に移し居ゑて、仕へ奉りき矣。]



【神床の御前に、『古事記』を口誦し奉らむ。】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1480
 
 

天孫降臨、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月 1日(水)04時35分36秒
返信・引用
  平成 二十六年
中興紀元 二千六百七十四年
天孫降臨以來 五千十四年
天皇正月、歳、甲午に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。



■青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽大人の哥

春にあけて 先づ看る書(ふみ)も 天地の 始めの時と 讀出づる哉

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



 南雄樣から、昨年は、『古史成文』の復刻を賜はりました。平成二十六年の祝頭に當り、此の神史を拜讀音誦させて戴きます。今ま茲に拜記するは、架藏の平田大壑先生『古史成文』卷之三(全三卷・無刊記。本文後半に、些か異同あり)に據りますが、音讀の都合上、一部、訓に工夫を加へ、亦た本文・割註、少しく省かさせて戴きました。寛恕を乞ひ奉ります。



天孫降臨の大御卷 ――平田大壑先生『古史成文』卷之三に據る――



 天照大御神の命以ちて、

豐葦原之千秋長五百秋之水穗國は、我が御子・正勝吾勝勝速日天忍穗耳命の知らす可き國也

と言依さし賜ひて、天降し給ひき矣。是に天忍穗耳命、天浮橋にたゝして、臨睨(ほぜ)りて詔りたまはく、「彼の地(くに)は、未だ平(しづ)まらず矣、いたくさやぎて在りけり矣。いなかぶしゝこめき國かも歟」と詔りたまひて、更に還り上らして、天照大御神に請(まを)し給ひき矣。爾に高皇産靈神・天照大御神の命以ちて、天安河の河原に八百萬神を神集へ集へて、天思兼神に思はしめて、神議り議りたまはく、「此の葦原中國は、我が御子の知らす可き國と、言依さし賜へる國也。故れ彼の國に、道速振る荒振る國神・螢なす光く神・邪しき神等、多(さは)に在りて、磐根木株・草の片葉も、能く言語ふがごと、夜は火瓮(ほべ)の若(もころ)に之(そ)を喧響(おとな)ひ、晝は狹蠅なして、之を沸き騰ぐ。先づ誰(いづ)れの神を遣はしてか、其の邪しき鬼を言趣けまし也」と詔りたまひき矣。爾に思兼神、及た八百萬神等、皆な議り白(まを)さく、「天穗日命は、傑れたる神也。是れ遣はしてむ也」と白しき矣。故れ天穗日命を遣はしつれば、乃(やが)て大國主神に媚び附きて、三年に至(な)るまで、復奏(かへりごとまを)さゞりき矣。故れ復た其の子・武三熊之大人[天鳥船命]を遣はす。此の神も、其の父の事に順ひて、返言申さゞりき矣。



 是に高皇産靈神、更に諸々神等を會へて問ひたまはく、「葦原中國に遣はせる天穗日命、久しく復奏さず。亦た何れの神を使してば吉(え)けむ」。爾に諸神、僉(み)な白さく、「天津國玉神の子・天稚日子は、壯士(たけきかみ)也。遣はしてむ」と白しき矣。故れ是に、天之加久弓・天之加久矢を、天稚日子に賜ひて遣はしき。爾に天稚日子も、忠誠(まめ)ならず。其の國に降り到きて、即ち大國主神の女・下照比賣[稚國玉神]に娶ひて、留まり住みて、「吾れ、此の國を馭めむと欲ふ」と云ひて、八年に至るまで、復奏さゞりき矣。



 是の時、高皇産靈神、其の久しく來報(かへりごとまを)さゞることを怪みて、亦た諸々の神等に問ひたまはく、「天稚日子、久しく復奏さず。又た曷(いづ)れの神を遣はして、其の淹(ひさ)しく留まる由(ゆゑ)を問はしめむ」と問ひ給ひき矣。是に諸々の神等、及た思兼神、答白さく、「雉名鳴女を遣はしてむ焉」と白す時に、詔りたまはく、「汝し、行きて天稚日子に問はむ状は、『汝しを葦原中國に使せる由は、其の國の荒振る神等を言趣け和はせ、と也。何ぞ八年に至るまで、復奏さゞる焉』と問ひてよ」と詔りたまひて、乃ち名鳴き雄雉(をきゞし)を遣はしつれば、此の雉、飛び降りて、粟田・豆田を見て、留まりて返らず。‥‥



 故れ其の雉、天より飛び降りて、天稚日子が門なる湯津杜(かつら)の木の杪(すゑ)に居て、委曲(まつぶさ)に天神の詔命の如と告りき矣。爾に天佐具賣、此の鳥の言(いふこと)を聞きて、天稚日子に語言ひけらく、「此の鳥は、鳴く音(こゑ)、甚と惡しかり也。故れ射殺したまひね」と云ひ進むれば、即ち天稚日子、天神の賜へる天之波士弓・天之波波矢を持ちて、其の雉を射殺しつ焉。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆さまに射上げらえて、高皇産靈神の座前(みまへ)に到りき矣。昔(さき)に高皇産靈神、其の矢を取らして見行(みそな)はすれば、其の羽に、血箸きたりき也。爾に高皇産靈神、「此の矢は、昔、天稚日子に賜へりし矢ぞかし也。今、何にして來つらむ歟。矢の羽に血染(まみ)れたるは、蓋し國神と相戰ひて、然(な)るかも歟」と詔りたまひて、諸々の神等に示(み)せて、咒(とこ)ひて曰りたまはく、「或(も)し天稚日子、命を誤へず、惡ぶる神を射たりし矢の至(き)つるならば、天稚日子に中らざれ。邪なき心有らば、天稚日子、此の矢にまがれ也」と云りたまひて、其の矢を取らして、其の矢の穴より衝き返したまひしかば、天稚日子が胡床(あぐら)に寢たる高胸坂に中りて、立ち處に身死(みまか)りき矣。此は、天稚日子、新嘗して休み臥せる時也。‥‥



 是に高皇産靈神、更に諸々の神等を會(つど)へて、葦原中國に遣はすべき神、選びたまふ時に、天思兼神、及た諸々の神等、僉な白さく、「‥‥經津主神、是れ佳けむ。亦た天安河の河上の天石窟に坐す、名は伊都之尾羽張神、是れ遣はす可し。若し亦た此の神に非ずは、‥‥武甕槌之雄神、是れ遣はすべし。且(ま)づ其の天尾羽張神は、天安河の水を逆さまに塞き上げて、道を塞き居れば、他し神は得行かじ。故れ別に天迦久神を遣はして問ふ可し」と白しき矣。故れ爾に天迦久神を使はして、天尾羽張神に問ふ時に、天尾羽張神、答白さく、「恐し。仕へ奉らむ。然れども此の道には、吾が子・武甕槌神を遣はす可し」と白して、乃ち貢進りき矣。‥‥



 是に其の天穗日命は、天之八重雲を押別けて、天翔り國翔りて、天の下を見廻りて、返事白したまはく、「豐葦原之水穗國は、晝は狹蠅なす水沸き、夜は火瓮なす光く神在り。石根・木根立ち・青水沫も言問ひて、荒振る國也。然れども鎭め平けて、皇美麻命に、安國と平けく、知ろし坐さしめむ」と白して、己れ命の子・天夷鳥命[天鳥船神]を、經津主神・健御雷之男神に副へて、天降し遣はして、荒振る神等を撥ひ平け、國作之大神(くにつくらしゝおほかみ)をも媚び鎭めて、大八島國の現事・顯事(うつしごと・あらはごと)、事避らしめき矣。



 是に經津主神・健御雷之男神、出雲國の伊多佐之小汀に降り到りて、十掬劒を拔きて、浪の穗に逆さまに刺し立てゝ、其の劒の前(さき)に趺坐(あぐみゐ)て、其の大國主神に問ひたまはく、「高皇産靈神の命以ちて、問ひに使せり。『汝(な)がうしはける葦原中國は、我が御子の知らさむ國也』と、言依さし賜へり。故れ先づ吾れ二神を遣はして、駈ひ平けしむ。汝が意、何如に。避り奉らむや、不や乎」と問ひたまふ時に、大國主神、對へ白したまはく、「疑はし。汝し二神は、吾が處に來たるに非じ。故れ須許(うべな)ひまつらじ。唯だ吾が住所をば、天神の御子の天津日繼知ろしめさむ、とだる天之御巣なして、底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて治め賜はゞ、吾は、百足らず八十坰手に隱りて侍ひなむ焉」と白し給ひき矣。



 是に經津主神、還り昇りて報告したまふ時に、高皇産靈神、乃ち二神を還し遣はして、大國主神に敕りたまはく、

今、汝しが言ふことを聞くに、深(まこと)に其の理(いはれ)有り。故れ更に條條(おぢゝゞ)にして敕りたまふ。

夫の汝しが治らせる現事(うつしごと)は、吾が皇美麻命に治らしめ、汝しは、神事(かみごと)を治らせ。

又た汝しの住むべき十足る天日隅宮は、今ま供造らせてむ。其の宮造りの制(のり)は、乃ち縱横の御量り、千尋栲繩以て、百結々・八十結々下げて、柱は高く太く、板は廣く厚くし、田供佃(たつく)らせむ。

又た汝しが海に往來(かよ)ひ遊ぶ爲めの具へに、高橋、及た天鳥船をも供造らせむ。天安河にも打橋を造り、又た百八十縫ひの白楯を供へ造り、

又た汝しの祭祀をも主(な)さむ者は、天穗日命也


と詔らしめたまふ時に、大國主神、白したまはく、「天神の敕教(みさとし)、如此くしも慇懃なるを、敢(いか)で命を不從(そむ)きまつらむ乎。吾が兒・八重言代主神に、鳥遊び・漁(すなど)り爲て、三津之碕に在り。今ま之れに問ひて、報命さむ」と白して、熊野の諸手船[天鳩船]に、使者・稻背脛命[天鳥船神]を載せ遣はして、天神の敕を、言代主神に致(の)りて、報命之辭(かへりごとまをさむことば)を問はしめたまひき矣。



 是に積羽八重言代主神、其の父の大神に言さしめたまはく、「恐し。天神の命の如(まにま)に、此の國は、天神の御子に立奉りたまへ。吾れも違ひ奉らじ」と云ひて、即ち其の船の枻(へ)を蹈み傾けて、天逆手を、八重青柴垣に打ち成して隱り坐しき矣。此は宇奈提の神奈備、及た葛城の鴨社に坐す神也。‥‥



 是に稻背脛命、復命す時に、大國主神、其の子の辭(い)ひしが如と、二柱の神に白したまひき矣。故れ爾に健御雷之男神、「亦た白す可き子、有りや乎」と問ひたまへば、大國主神、白したまはく、「亦た我が子・健御名方神[御穗須々美命]あり。此を除きては無し也」と白したまふ間(をり)しも、其の健御名方神、千引石を手末(たなすゑ)に擎(さゝ)げて、來て言ひけらく、「誰ぞ、我が國に來て、忍び々ゞ如此く物言ふ。然らば力競べ爲む。故れ我れ、先づ其の御手を取らむ」と云ふ。故れ其の御手を取らしむれば、即ち立氷(たちび)に取り成し、亦た劒刄に取り成しつ。故れ懼れて退き居り。爾に其の健御名方神の手を取らむと、乞ひ返して取れば、若葦を取るが如と、搤批(つかみひし)ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去(い)にき矣。故れ追ひ往きて、信濃國の諏方海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、健御名方神、白しつらく、「恐し。我を、莫(な)殺したまひそ。此地を除きては、他し處に行かじ。亦た我が父・大國主神の命に違はじ、兄(いろね)・八重事代主神の言に違はじ。此の葦原中國は、天神の御子の命の隨に獻らむ焉」と白し給ひき矣。此は、諏方祝部がいつく神也。此の神の后神を、八坂刀賣命と謂す。



 是に健御雷之男神、更に且た還り來て、其の大國主神に問ひたまはく、「汝が子等、事代主神・健御名方神二神は、『天神の御子の命の隨に、違はじ』と白し訖へぬ。故れ汝が心、奈何にぞ」と問ひ給ひき矣。爾に答へ白したまはく、「吾が子等、二人の白せる隨に、吾れも違はじ。此の葦原中國は、命の隨に、既に獻らむ焉。如(も)し吾れ防禦(ほせ)がましかば、國内の諸神、必ず同(とも)に禦ぎなむを、今ま我れ避り奉らば、誰か順はぬ者あらむ。亦た吾が子等、百八十神は、八重事代主神、神の御尾前と爲りて仕へ奉らば、違ふ神は有らじ」と白し給ひき矣。



 是に大國主神、「皇美麻命の鎭まり坐さむ大倭國」と白して、己れ命の和御魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉命と名を稱へて、大三輪の神奈備に坐せ。己れ命の子・味鉏高日子根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ。事代主命の御魂を、宇奈提の神奈備に坐せ。賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、天神の御子の近き守神と貢り置き給ひき矣。



 故れ大國主神、越の八國を平けて、還り坐しゝ時に、長江の山に來坐して詔りたまはく、「我が造り坐して令(し)らしゝ國は、『皇美麻命、平世(しづみよ)に所知らせ』と、依さし奉れり。但だ八雲立つ出雲國は、我が靜まり坐す國、青垣山廻らして、玉置きて守る也」と詔りたまひき矣。故れ其處を、もりと云ふ。其の越の八國を平けむとして往でましゝ時に、林の地の樹林茂りき矣。爾(そ)の時、「吾が御心のはやし」と詔りたまひき矣。故れ其處を、はやしと云ふ也。



 是に産巣日神の天御量り以ちて、大國主神の請(まを)したまひし如(まにま)に、出雲國の多藝志之小濱に、天之御舍を造らしめて、御子・天御烏命を楯部として、天降し給ひき矣。爾の時、退り下りて、大神の宮の御裝ひの楯造りき。仍(か)れ今に楯桙を造りて、皇神等に立奉る。爾(すなは)ち楯縫の地、是れ也。



 是に大國主神、其の平國けたまひし時、杖きたまへる廣矛を、二柱神に授けて白したまはく、「吾れ此の矛を以て、卒ひに治功(いさを)を有(な)せり。皇美麻命、此の矛を用て國を治めば、必ず平安(まさけく)ましなむ。吾が治れる顯明事は、皇美麻命治すべし。吾は退りて幽冥事を治らむ」と白して、乃ち岐神を二柱神に薦めて、「此の神、吾れに代りて從(つか)へ奉るべし」と言訖へて、即ち躬から瑞之八坂瓊を披(お)きて、遂に八百丹杵築宮に、長へに隱り鎭まり坐しき矣。此の宮作らしゝ時に、諸々の神等、宮處に參ゐ集ひて、杵築きたまひし故に、杵築と云ふ。亦た百八十神等、集ひ坐し、御厨を立て給ひて、酒を釀しめ給ひて、百八十日喜燕(あそ)びて、解散(あら)け坐しゝ地を、佐香と云ふ也。



 爾に大國主神、鎭まり坐しゝ時に、神魯岐・神魯美命、天穗日命に詔りごちたまはく、

汝し天穗日命は、天皇命の手長の大御世を、堅石・常石にいはひ奉りて、いかしの御世に、幸はへ奉れ

と仰せ賜ひき矣。此は、出雲國造が、統々(つぎゝゞ)杵築宮に仕へ奉りて、神の禮(ゐや)じり・臣の禮じと、天皇命に御祷の神寶を獻りて、神賀ぎの吉詞を奏す縁也。



 是に水戸神の孫・櫛八玉神を膳夫と爲て、天の御饗獻る時に、祷ぎ白して、櫛八玉神、鵜に化(な)りて、海の底に入りて、底の波邇を咋ひ出でて、天の八十平瓮を作りて、海布(め)の柄を鎌(か)りて燧臼(ひきりうす)に作り、海蓴(こも)の柄を以て燧杵(ひきりぎね)を作りて、火を鑚り出でて白しけらく、「是の我が燧れる火は、高天原には、神皇産靈御祖命の、とだる天之新巣の凝烟(すゝ)の、八擧(やつか)埀るまで燒き擧げ、地の下は、底津石根に燒き凝らして、栲繩之千尋繩打ち延(は)へ、釣り爲る海人が、口大之尾翼鱸(くちぶとのをはたすゞき)、さわゝゝに控き依せ騰げて、拆竹(さきたけ)のとをゝゝゝゝゝゝに、天之眞魚咋獻らむ」と白しき矣。



 是に經津主神・健御雷之男神、岐神を郷導きと爲て、周流りつゝ削平けて、逆命はぬ者は斬り戮(はふ)り、歸順ふ者は神和はし和はし、荒振る神等をば、神問はし問はし、神攘ひ攘ひて、語問ひし磐根樹立ち、艸の片葉をも語止ましめて、中に服はざりし、星神・天香香背男[天津甕星]は、倭文神・健葉槌命を遣はせば、乃ち服ひき矣。‥‥



 故れ其の普都大神、葦原中津國を巡り行でまし、山河の荒ぶる類(ものども)を和はし平(しづ)め畢へて、天上(あめ)に歸らむと心存(おも)ほして、即ち身に隨(そ)へる嚴の杖・甲・戈・楯・劒、及た執とらせる玉、悉く常陸信太郷に留め置きて、即ち白雲に乘らして、二柱神、共に天上に還り參ゐ上りて、「葦原中津國は、皆な已に言向け竟へぬ」と奏したまひき矣。



 故れ是の時、歸順へりし首渠者、大物主神・大國御魂神、及た言代主神、乃ち八百萬神を、天高市に合へて、其の諸神を帥て、共に天に昇りて、其の誠欸の至(まつろひのまこと)を陳す時に、高皇産靈神、大物主神に敕りたまはく、

汝し、若し國神を妻(め)とせば、吾れ、猶ほ汝し、疏ぶる心有りと謂(おも)はむ。故れ今、吾が女・三穗津比賣を、汝しに配(あは)せむ、妻と爲よ。

八百萬神を領(ゐ)て、永へに皇美麻命の爲めに護り奉れ


と詔りたまひて、乃ち還り降らしめ給ひき矣。



 故れ即ち手置帆負神を作笠者(かさぬひ)と定め、彦狹知神を楯縫者(たゝぬひ)と爲(さだ)め、天目一箇神を金匠者(かなたくみ)と爲め、天日鷲神を由布作者(ゆふはき)と爲め、櫛明玉神を玉作者(たますり)と爲め、乃ち天太玉命の弱肩に、太手繦被(とりか)けて、御手に代はりて、大物主神を祭らしむること、是の時より始起りき矣。且た天兒屋命は、神事の宗源を主(し)る者也。故れ太兆の卜事(うらわざ)を以て、仕へ奉らしめき矣。是の時の齋之大人を、齋主神と號す。此の神、今ま東國の檝取の地に在す。亦た健御雷之男神は、香島の天の大神と稱す。天にしては、香島宮と號ひしを、此の地にしては、豐香島宮と名づけき矣。此は、鹿島連がいつき奉る神也。



 故れ是の時、大國御魂神、白したまはく、「天照大御神は、天原を悉(み)な治めたまはむ。皇美麻命は、葦原中國の八十魂神を、專ら治めたまはむ。我は、大地官(おほとこのつかさ)を親から治めむ焉」と言訖へたまひき矣。大地主神とまをす號は、此の時より起(まを)しき。是は、大和社に坐す神也。‥‥
 
 

敵國降伏、時は大祓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年12月31日(火)14時32分0秒
返信・引用
   大晦日、各位には、年始の用意にお忙しいと存じ上げます。小生も、疲勞困憊、ふらゝゝの爲體‥‥。

 靖國神社を巡つては、政治的に大變なる情況を釀し出してをりますが、これも亦た大祓ひ、東西内外の敵の正體が露現して來てをります。膿は出るだけ出るにこしたことはありませぬ。然れども皇國は、神敕宮城、固より明明赫赫に大坐しませば、至誠の通ずる所、靖國大神が神劍、必ずや御發動あるものと、恐懼懇祈するのみであります。

 本年も、學恩多謝、各位には、吉き御歳をお迎へ下さい。

     吉備中國、玄月書屋に於て、備中處士、敬白
 
 

高原正作靖國神社權宮司『靖國神社の歴史』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年12月27日(金)00時29分58秒
返信・引用 編集済
  ■靖國神社叢書第一篇・高原正作靖國神社初代權宮司『靖國神社の歴史──附招魂社沿革大要』(昭和十九年四月・十月改訂・靖國神社社務所刊)



○序

 靖國神社の御祭神は、我が國運の進展と共に、御柱數の益々加はらせ給ふことは、國民の齊しく感慨に堪へぬ所である。

 明治二年六月に、九段坂上に、東京招魂社が創建せられ、明治十二年には、靖國神社と改稱し、別格官幣社に列せられ給うて、こゝに七十六年の歳月を閲した。

 此の間、忠靈合祀の大祭を擧げさせられたこと六十四囘、御祭神は三十一萬三千八百十一柱の多きに及ばせられ、御神威は、今や大東亞の全域にも光被し、國民の崇敬はもとより、東亞民族の、あげて崇仰し奉る所となつたのである。

 この赫奕たる御神威を、愈々仰ぎ奉るの一助として、こゝに靖國叢書の編纂を思ひたち、その第一篇として、御創祀當時の御模樣をはじめ、御社頭沿革の大要を略述して上梓せしむる事とした。

 大御稜威の輝き給ふもと、大東亞の聖戰は、日にその逞しい勝利の歩調を進め、亞細亞十億の民衆は、日一日と、その本然の姿に蘇りつゝあるの時、吾等は悠久の大義に生き給ふ、靖國神社御祭神の御威烈を、愈々欽仰し奉り、神習ひつゝ、皇國無窮の彌榮に、奉公の至誠をつくしまつらんことを期する次第である。

  創立七十五周年を迎へて   靖國神社宮司・鈴木孝雄



○明治三十七年の御製『折にふれて』

戰の にはにたふれし ますらをの 魂はいくさを なほ守るらむ

 此の御製を拜誦するにつけても、靖國神社の神靈は、平時には、幸魂・奇魂として國運の隆昌を守り、一朝有事の際には、和魂は天翔つて天朝を守護し奉り、荒魂は國翔つて皇軍人の前に立ちて、その武運と戰勝とを守り給ふ事と確信せられる。實に靖國神社は、武人のためには、武運長久の守護神であり、お國のためには、國運發展の守護神であり、遺族の方には、また子孫繁榮の守り神であらせられるのである。



○「靖國」の典據

 靖國の社號に就いては、天皇が、皇祖皇宗より承け繼ぎ給へる、この大日本國をば、

安國と知食す事

は、汝命等が、海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍と、祖孫一貫の忠誠勇武をもつて、国の大事ある毎に、家を忘れ身を擲つて竭しくれたる、大き高き偉勳によるものぞと、

思食すが故に

こゝに社號を、靖國神社と改め(明治十二年六月二十五日の御祭文)、別格官幣社の待遇を以て、彌厚く永久に齋ひ奉らせ給ふといふ、有り難き叡慮に出でさせ給ひしものであつて、「安國」と「靖國」と、その文字は異つても、「やすくに」といふ固有の日本語に變りはない。「日本者浦安國」、「四方國を安國と平けく」、「大倭日高見國を安國と定め奉り」、「瑞穗の國を安國と平けく」等々、古來、『古事記』・『日本書紀』乃至は『延喜式祝詞』等の我が國神典の中に、はやくから用ひられてゐる言葉である。たまゝゝ支那の『春秋左氏傳』に、「靖國」といふ好文字が一二個所も見えて居るので、文字の出典としては、これをとられたのであるが、その精神に於ては、全く固有のやまと言葉の意をとらせられたものである事を思はねばならない。



 愚案、本二十六日、安倍晋三首相は、「鎮霊社」【註】に參拜の由。此の「非神道的一施設」については、塾頭の詳説にあり、此の厄介なるものへの危惧は、塾頭の豫言の如し。「鎮霊社」を、平成に在つて、再び顯現したる者の罪過を思ひ、悲しみに堪へない。祓ひ給へ、清め給へと、たゞ祈るなり。

 嗚呼、「鎮霊社」なるものは、遂に支那・朝鮮・米國への「言ひ訣」に使はれたのである。松平永芳・大野俊康兩宮司の無念、塾頭の憤怒、如何ばかりであらうか‥‥。靖國神社正統護持の悲願を掲ぐる者は、靖國神社の事歴を闡明にし、「松平宮司の願ひ」を呼覺まして、戰後保守の、靖國神社に於ける跳梁を、決して許してはならぬ矣。

【註】昭和四十年七月、本殿に向つて左奧の「元宮」脇に、「鎮霊社」を建立し、「嘉永六年以降、幾多の戰爭・事變に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命斷ちにし命等にして、靖國神社に祀られざる諸命の御靈」一座と、「西暦一八五三年以降、幾多の戰爭・事變に關係して、死歿した諸外國人の御靈」一座とを併せ祀つてゐる。共に無名不特定の集合靈であつて、本殿なる天皇祭祀の「靖國大神」(鈴木孝雄大將宮司のよく奉られた辭)とは、全く異なる。「鎮霊社」の存在は、理の趨く所、非命に斃れしヒツトラーやフセイン、或は政治テロリスト、或は怨念の凝固せる邪靈「も」、歡んで憑依する施設であることを、神道崇敬者は知つておかねばなるまい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t5/3
 
 

『古史成文』飜刻なる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年12月 4日(水)17時54分5秒
返信・引用 編集済
   平田篤胤先生『古史成文』全三卷── 一百六十四段、「南雄」樣による寫本が、本日、此の「九段塾/スレツド」に完成を見ました。洵に御同慶の至りであります。固より有志の活用を希望されての御事と拜察いたします。此の貴重なる文獻を基に、各位には、自らも原本を參互照看され、更に『古史傳』への研鑽を重ねられむことを、切に懇祷して已みませぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t43/l50

 南雄樣、足掛け二百三十六日、更めて本道に有り難うございました。備中處士、頓首、敬つて白す。
 
 

白山打聞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月30日(土)18時24分33秒
返信・引用
  ■平泉澄先生打聞(昭和五十三年十一月。於越前國平泉寺白山神社)

○二十六日
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol13_4interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol15_3interview-1.pdf

○二十七日
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol16_3interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol17_3interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol18_3interview-1.pdf



 上記を、讀まれたい。平泉先生の眞面目を知ることが出來よう。然し聞く者が惡かつた‥‥‥。伊藤隆とかいふ、志の分らぬ東大の後輩が、とやかく外野で云つてをるさうだが、何をか曰はんやだ。現代の學者の限界を表してゐる。平泉寒林先生の玉聲に、靜かに耳を傾けて戴きたい。現代祕史の寶庫、貴重なる證言であらう。
 
 

天に愧ぢず、瓦全三宅高幸翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月27日(水)21時31分14秒
返信・引用
   倉敷市「日本心の集ひ」に於いて、松下眞啓樣により、四囘に亙つて、其の伯父上の三宅將三翁『郷土の勤皇──三代の勤皇・米屋三宅氏・三宅高幸傳』(平成十五年六月『まほろば』第一九九號)の講讀あり。三宅將三翁は、大東塾・三宅萬造翁の令男なり。米屋三宅氏──第四代默翁・第五代西浦翁・第六代瓦全翁を通じて、郷土勤皇の足跡を辿り、御一新の辛苦を學ぶ。三宅瓦全翁は、梅田雲濱先生の門、世に喧傳せざるも、崎門に學ぶ小生に在つては、懷しき人なり。瓦全翁の人と爲りを表せる、雲濱先生の玉章と、翁の抄傳を拜記して、感激の一端を述べむと欲す。



●梅田雲濱先生『三宅高幸に贈る』(瓦全三宅定太郎高幸翁は、備中國淺口郡連島西之浦の人。青蓮院宮の近臣たり)

 三宅高幸、來り訪ふ。酒を酌み、談、元弘の事に及ぶ。予、慨然として曰く、功名を以て人を品する者は、俗情也。學者は、只だ當に忠義を論ずべきのみ而已矣。笠蓑赤足、巡駕を追ひ、詩句を題して、宸襟を慰めまつり、孤軍を提げて、逆賊を討ずる者は、是れ誰と爲す。備後三郎兒島高徳(美作作樂神社・吉野船岡神社の祭神。贈從三位)、是れ也。

 夫れ元弘の役、楠公の忠節の最爲る、天下、皆な之を稱す。然れども楠公は、詔を待ちて後に起つ。高徳は、詔を待たざる也。高徳は僻遠に在りて、門地は小、楠公は京畿に在りて、門地は大、楠公は節に死し、高徳は百敗して死せず。一身、天下に奔走し、勸奬するに大義を以てす。夫れ南朝六十年、勤王の士、新田氏の如き、北畠氏の如き、結城氏の如き、絶えんと欲して復た起り、滅びんと欲して屡々振ふ者は、抑も亦た皆な高徳の力也。嗚呼、子と我との如きは、一匹夫のみ耳。若し一日、王家、難有らば、豈に高徳の爲す所に倣はざる可けんや哉。

 高幸、盃を擲ち叫びて曰く、「善いかな矣。我、忠義を竭すのみ而已」と。姓名を堙沒するも、亦た顧みざるなり矣。史に云ふ、「高徳、後年、終はる所を知らず」と。今ま高幸は、其の裔孫と云ふ。安政三年三月丙辰四月四日、雲濱梅田定明、稿。



●中洲三島毅博士『三宅高幸大人之墓』碑文(六尺餘の自然石に、表に縣令・高崎五六の書、裏に此の碑文あり。旭東法師山に在り。三宅將三翁『三宅高幸傳』の所引の書下しに、一部漢字を以てす。他日、原文に當らむと欲す)

 翁、諱は高幸(愚補、定太郎と稱す)、字は子靜、瓦全は其の號、亦た樂哉と號す。備中淺口郡(連島)西浦邑の人なり。其の先は、南朝(ママ)の忠臣・兒島高徳に出づ。高徳の苗裔・高興、大いに産業を興し、邑主・山崎氏(成羽領主・五千石・交代寄合の旗本。後ち高直りして諸侯に列し、京都御番。子爵)に功有り。郷士と爲し、之を世襲せしむ。是れ翁が五世の祖爲り。考は諱高哲(たかあき。號西浦)、書を讀み、南畫を善くす。妣は高橋氏。

 翁、幼にして學を□[艸+霍]里横溝(西山拙齋翁門下)氏に受く。既に壯にして、大和の森田節齋(贈從四位)、來りて近郷に帷を下し、專ら氣節の文章を以て、門下を督勵す。翁、之に從ふ。人と爲り摯直剛果、深く師の説を信ず。

 偶々外夷、來りて互市を乞ふ。翁、杞憂して已まず。財を主に獻じて、海防の費に供す。又た多く亡命を養ひて、不時の用に備ふ。屡々邑吏と論爭して合はず、遂に嫌を獲。乃ち京都に抵(いた)り、梅田源次郎(雲濱先生)・頼三樹三郎(鴨崖)等と締交し、尊皇攘夷の説を主張す。因つて仁和寺前法親王(中川宮。後の久邇宮朝彦親王)に謁し、亦た東遊して、水府景山公(烈公)に謁す(實は謁するに非ず。雲濱先生、瓦全の志を烈公に聞す。烈公の曰く、「其(高幸)の志は愛づ可きなり。然りと雖も人の志は、變じ易し。其れ唯だ之をして、宜しく皇國の爲め、變ず可からざらしむべし」(瓦全翁『上池田相公書』)と、言を賜る也)。遂に西のかた白石正一郎(資風。號橘圓)を赤間關に訪ね、平野國臣・高崎善兵衞(諱友道)と一見して、舊の如し。善兵衞は、薩藩士なり。四人、乃ち相謀り、陽に薩産交易の場を中備に設け、陰に藩兵上京の路を啓く。

 翁、因りて歸郷し、經營する所ろ有るも、邑吏の疑ふ所と爲り、紀州に脱走して、伊達宗興(陸奧宗光伯の兄)に依る。遂に共倶に入京して、久邇親王に仕ふ。時に十津川の兵(天誅組)起る。翁、嘗て其の徒と交はる。嫌を以て屏居す。慶應丁卯(三年)冬、竊かに岩倉(具視)公に建議して、義擧を圖り、丹後に赴きて兵を募る。明年正月、伏見の事起り、乃ち歸郷す。

 是に於て王業、中興す。而して外夷、則ち益々親しむ。翁、悦ばず。居常、怏々たり。偶々大學寮を置き、翁を用ゐて助教と爲す。未だ幾ならず、學制革まり、專ら洋書を講ず。翁、其の非を論ず。聽かず。遂に致仕す。後ち外山三位(光輔・愛宕通旭兩卿)の爲めに經を講ず。三位、竊かに攘夷を圖り、翁、實に之に與かる(二卿事件)。事、覺(あら)はれて縛に就く。明治四年三月、終身禁獄に處せられ、青森縣に配置せらる(抱石鞭叩の拷問に屈せず)。

 翁、獄に在りて、悔悟刻苦して書を讀み、著述すること數十卷(『南朝十二名將傳』二册・『古哲傳』四册・『四龍傳』四册・『幽囚三百律』一册・『幽囚三百絶』一册・『盲聾論』一册・『虎還舊洞』一卷等、家に藏すと云ふ)、同囚を薫化す。官、之を賞し、罪二等を減ず。十三年五月、出獄す。岡山縣令・高崎(五六友愛。男爵)氏に依る。氏は則ち善兵衞の子なり。翁をして(縣史)編纂の事を掌らせ、内田村に寓居せしむ。十五年秋、朝鮮の亂民、我が節署(公使館)を襲ふを聞き、憤激、狂せるが如し。疾ひ之が爲めに劇を加へ、竟ひに起たず。實に夫れ八月二十二日なり。文政元年二月一日に生を距て、春秋六十五。法師山に葬る。

 妻は三宅氏、三男七女を生む。季男・武彦、嗣ぐ。見(いま)に大庭郡長爲り。長女は、高草氏(矢掛本陣・甫介)に適(ゆ)く。季女は、家に在り。餘は、皆な夭す。妾、二男を生む。曰く八郎は、山形氏を嗣ぎ、曰く十郎は、山田氏を嗣ぐ。

 武彦、頃(ちかごろ)、翁の行状を寄示して曰く、「先人は、終身困阨して、一事も成らず。且つ國の爲め産を蕩じ、今ま之に歿するや、歸□[穴+乏。へん]する先(先祖の墓地。瓦全翁、平野國臣先生より祕預せる、月照が遺物──襟卷を、先塋裡に埋め、之を祕祭す)を得ず。蓋し其の恨み、知る可き也。幸ひにして子(三島中洲)の文を得て、墓に表はせば、或は以て其の目を瞑ずるに足らんか(瓦全翁へ追褒の御沙汰ありと雖も、遺嗣・武彦、國家に罪を得し父の遺言として、之を辭すと云ふ。嗚呼、江戸・明治の人なりと、歎息感泣、久しうする也)」と。

 嗚呼、翁、夙に尊攘を唱ふ。而して王室、已に尊く、夷、則ち攘はず。是れ時勢の已む能はざる者也。然れども翁、初志に固執し、以て嚴刑を犯す。蓋し坐して變通を知らざる也。然りと雖も終始一節、自ら欺かず、人を欺かず、其の心は、則ち天に愧ぢず。是れ以て高徳の孫にして、節齋の弟子と爲す可し。銘に曰く、

嗚呼、梅・頼諸氏、翁と志を一にし、同じく策す。
諸氏、中興に先んじて亡く、幸ひにして追褒顯赫たり。
翁や、中興に後れて存し、不幸、刑禍に困阨す。
嗚呼、翁と諸氏をして、存亡、時を異ならしめば、
焉んぞ其の幸不幸も、亦た地を易へざらむを知らむや。

明治十八年十月、東京大學教授・從五位・三島毅(號中洲)、撰す。内閣大書記官兼修史館監事・從五位・勳五等・巖谷脩(號一六)、署す。



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皇國の建國、其の淵源は、別天神の詔命に在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月20日(水)20時06分6秒
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■『教育に關し下し給へる勅語』(明治二十三年十月三十日)

朕、惟ふに、我が皇祖(天照大御神、或は天照大御神より神武天皇に至る六代)・皇宗(御歴代の天皇)、國を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。

○硬石内田良平翁『國體變革の天皇機關説』に曰く、「我が國家には、肇國があつて、建國が無いのである。建國は人爲的に成るものなれば、革命崩壞等の憂あれども、肇國は神造なるを以て、其の憂が無い」と。



■神典『紀記』──建國・建邦・立國・肇國──

一、夫の邦を建てたまひし神を原ぬれば、天地割判(ひらけわか)れし代、草木言語りせし時、天降來りまして、國家を造り立てたまひし神(伊弉諾尊。或は彦火瓊瓊杵尊)也[紀卷十九・欽明天皇御紀・十六年二月]

一、惟神[惟神とは、神の道に隨ひて、亦た自ら神の道有るを謂ふ也]も、我が子、治らさむと、言寄させき。是を以て天地の初めより、君臨之國(きみとしらすくに)也。始治國皇祖(はつくにしらす・すめみおや。山本信哉博士は「彦火瓊瓊杵尊」、山田孝雄博士は「神武天皇」)の時より、天の下、大同(とゝのほ)りて、都べて彼れ此れといふ者無し也[紀卷二十五・孝徳天皇御紀・大化三年四月二十六日詔]

一、畝傍の橿原に、底つ磐之根に宮柱太しき立て、高天之原に搏風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇(はつくにしらす・すめらみこと)と曰す[紀卷三・神武天皇御紀・元年正月]

一、天つ神・地つ祇、共に和亨みて、風雨、時に順ひ、百穀、用て成り、家給ぎ、人足りて、天の下、大きに平かなり矣。故れ稱へまつりて、御肇國天皇(はつくにしらす・すめらみこと)と謂す也[紀卷五・崇神天皇御紀・十二年九月十六日]

一、爾に天の下、太平ぎ、人民、富み榮えき。‥‥故れ其の御世を稱へて、所知初國之御眞木天皇と謂す也[記卷中・崇神天皇御條]

○山本信哉博士『建國といふ語の出典と其の意義』に曰く、「一部の極めて少數の人々の中には、『我が國は、諸外國の如き建設國家ではない。自然に出來た神ながらの國であるから、「建國」といふより、「肇國」といふ方がよい。建國祭の名は、宜しく肇國祭と改むべきである』といふやうな意見があるやうに存じます。‥‥まづ我が國の歴史を繙き、また現代の詔勅及び文部省の訓令や國定教科書などを見ましても、多く建國といふ語を以て言ひ表はしてゐるのであります。勿論、或る時は肇國といひ、或る時は立國といふ言葉も使つてありますが、建國といふ語の方が古くて、且つ廣く用ひられてをり、‥‥それ故ゑ私は、建國の語は、之を其の歴史的事實に徴しても、また其の意義の上から申しても、更に又その語勢からいつても、建國の方が優つてをる」と。



●『書經』酒誥篇に曰く、「乃(なんぢ)の穆考(ちゝ)・文王、國を肇めて、西土に在り」と。

○山田孝雄博士『國體の本義解説叢書・肇國の精神』(文部省教學局編纂・昭和十三年八月・内閣印刷局刊)に曰く、「周の國基を文王が固くしたことを云つたもので、文王が周の始めの祖で無いことは、昭・穆の順序から考へてもわかる。昭・穆とは、支那の宗廟の制で、中央に太祖の廟があり、それ以下は左右に廟を列ね、左を昭といひ、右を穆といふ。昭を父とすれば、穆は子である。文王を穆とすることは、その上に昭廟あり、なほその上に祖廟のあることを示すものである。それ故に肇國は、國の最初をなすとは限らないのである。‥‥わが國は、神武天皇・崇神天皇の御時に、はじめて生じたのではない。それで『肇國』は『くにをはじむ』とよむけれども、國の創始といふだけに限らない。國家が隆んになり、皇威が新たにかゞやいた御世には、いつでも『はつくにしらす・すめらみこと』と申し奉るのである」と。



 愚案、眞木紫灘先生『經緯愚説・創業の事』に曰く、「太祖(神武天皇)も、中興なり。然れども草昧の運、洪荒の世に、筑紫より中洲へ入りたまひ、皇化を敷きたまひし業は、創業なり。中宗(天智天皇)も、中興なり。然れども封建の弊、出でて修むべからざるを以て、新たに郡縣にかへたまへる業は、創業なり」(景紫堂小川常人翁編『眞木和泉守全集』卷下・平成十年五月・水天宮刊)と。然らば、實に畏れ多き御事ながら、
桓武天皇
後醍醐天皇
明治天皇
におかせられても、『はつくにしらす・すめらみこと』と申し奉るべく、「中興」かつ「創業」の天子樣と仰ぎ奉る。皇國大勢の盛衰を觀望し、神界經綸の大變革・大活動の顯現ならざるべからざるを確信恐察す。

 就中、後醍醐天皇、敕したまへり、
今の例は、昔の新儀なり。朕が新儀は、未來の先例たるべし」(『梅松論』)と。是れ、皇謨の變革、大叡斷なり。詔を承けては、必ず謹しむ可し矣。


 『古事記』に曰く、
「是に天つ神諸々の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二柱の神に、「是のたゞよへる國を修理固成(つくりかためなせ)」と詔りごちて、天沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき也」と。

一、皇産靈大神を始め奉り、「別天津神の大命」を承けて、伊邪那岐大神、豐葦原中國の基を建てさせ給ふ。

一、伊邪那岐大神、やがて「天下之主者」(あめのしたのきみたる神、即ち地神初代)として、天照大御神を生ませ給ふも、惟れ祖、惟れ宗、尊貴靈異の無比なる、遂に天上の日御國に上げさせ給うて、青海原たる地上は、素戔鳴大神に委任し給ふ。然るに素戔鳴大神、母大神を慕うて已まず、遂に其の御胤・大國主大神に、顯國魂神とならしめ、地上主宰の大權を代行せしめ給へり。『神皇正統記』に曰く、「天照大神・吾勝尊は、天上に留まり給へど、地神の第一・二に數へ奉る。其の始めは、天の下の主たる可しとて、生れ給ひし故にや。‥‥下、三代は、西の洲の宮にて、多の年を送り坐します」と。

一、而して高皇産靈大神・天照大御神の皇天二祖、神機、やうやく盈つるや、其の地上の大權を召させ給うて、更めて大國主大神に、大地官を治らす「幽政」を委ね給ひ、皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊(地神第三代)に、宇内を知らす「顯政」を委任せられ、親しく三種の神器を授け賜へり。瓊瓊杵尊、天關を闢き雲路を披けて、筑紫日向の高千穗のくじふる嶽に天降り坐し、吾田長屋笠狹宮に坐しましき。即ち「初國知らす皇御祖」、是なり。凡そ天孫降臨は、寶祚無窮の基始、國土安寧の幸祐なり。村山惣作翁の曰く、「顯政を事依されし皇御孫命は、天照大御神・伊邪那岐神・高皇産靈神に歸一し、幽政を事依されし地祇大國主神は、素盞嗚神・伊邪那美神・神皇産靈神に歸一す。‥‥高皇産靈神の言依しによりて、顯幽は分治せられ、大山祇神の言の葉によりて、皇孫命の御壽命に影響し、石長姫神の言の葉によりて、青人草の命は短くなり、豐玉姫神の言の葉によりて、海陸の交通が杜絶した事は、皆な造化の樞機に參與し給ふ神々の命々の一部改變である」と。

一、其の曾孫・神日本磐余彦尊(地神第六代、即ち初代天皇)、大和橿原宮に即位せられて、「初國知らす皇尊」として君臨し給ひ、以來、其の御子孫、現に萬世一系の天皇として大坐しませり。世界皇化・八紘爲宇の淵源は、固より「別天神界の大命」に基づき、天津日嗣・天皇(第一百二十五代)、人間世界の中府たる皇都宮城に於いて、現に三種の神器を奉じて、天業を恢弘し給へり。『神皇正統記』に曰く、「皇祖天照大神、天孫の尊に詔せしに、寶祚之隆、當與天壤無窮とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。況んや三種の神器、世に現在し給へり。窮まり有るべからざるは、我が國を傳ふる寶祚なり。仰ぎて貴び奉るべきは、日嗣を承け給ふすべらぎになん、おはします」と。『古語拾遺』に曰く、「我が國家は、神物靈蹤、今に皆な見存し、事に觸れて效(しるし)有り」と。神さびたりとも、神さびたり。嗚呼、八紘宇内の民草、只管ら天に於ける神の王の、人間世界に於ける御顯れと申し奉るべき、我が天子樣を仰ぎ奉り、皇謨經綸の下、天壤無窮の皇運を扶翼し奉る可し矣。

【豫言──宇内一帝の原理】
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矢野玄道翁『正保野史』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月15日(金)21時38分44秒
返信・引用 編集済
  久延毘古の 神にとはゝや くたちゆく このよのすゑの はてはいかにと  玄道



 矢野玄道翁『正保野史』一卷は、承久・建武の聖天子の御勇圖を繼承し給ひ、天祖の御威徳を顯彰あそばされし、正保の帝、即ち後光明天皇の御業績を、熱誠もて拜記せしものにして、矢野翁は、固より平田大壑先生後繼の碩學にして、特に王事に篤く、居諸、幕政に慊々たりし鬱懷、凝つて斯の一大文字と成りたるものである。此の卷尾を謹抄して、諸賢に供さむと欲す。



●從六位・稜威道別彦命・扶桑眞人・神皇舊臣・梅廼舍矢野茂太郎平玄道翁『正保野史』(文久二年正月稿。昭和十四年十月刊。愚が試訓なり)

 其の殯宮(大行・後光明天皇)に在しますや也、諸大臣、皆な舊禮に率由し、將に荼毘しまつらんとす焉。或は親臣徳大寺・三條・小倉諸公を距つる者有り。是を以て庭議に與かるを得ず。魚を鬻ぎ、禁門に出入する者有り、八兵衞と呼ぶ。之を聞いて慟して曰く、

「嗚呼、聖天子、何ぞ天命の薄きにましますこと、之を奈何す可き。生平の志、死するに至るも奪はれずとは、匹夫すら、猶尚ほ之を重んず。況んや萬乘の君に於かせらてをや乎。荼毘は、蓋し道に非ざる也。今ま夫の大行には、道徳を行ひ、邪説を闢けさせたまへり。浮屠の虚誕に疾むこと、最も甚だしくして、其の終(はて)を送りまつるに、猶ほ斥けたまふ所に從事せんか邪、小人も、甘心せざる所ろ也。請ひまつる、敢へて百たび諫めて、之を止めまつらむを。能はざれば、則ち之に死せむ」と。

 因つて仙洞・後宮に奔走し、親王家卿百辟の門に曁び、號哭悲泣、敢へて荼毘を止め、以て大行の志に從ひまつらんことを請ふ。又た泉涌が僧徒を嚇して曰く、「火化の、大行在天の靈に恊はざるや也、昭々たり矣。此くして止む莫ければ、則ち天災地妖、何ぞ至らざる所ならむ」と。朝議、之を偉とし、遂に其の言に從へり。蓋し藤原御寓天皇より後、一千有餘歳、朝廷、是に於てか乎、火葬を止む焉。

 蒲生秀實の曰く、「匹夫すら、志有らば、何事か成らざらん。上の人にして爲さゞれば、則ち耻づ可きの甚だしからむ。亦た善からずや乎、其れ之を言ふこと也。夫の八兵衞の如きは、忠且つ仁と謂ひつ可し矣」と。

  ○

 余(作樂居川喜多眞一郎藤原眞彦)、嘗て『正保遺事』及び『山陵志』を讀み、深く八兵衞の忠節に感じ、仰慕すること、年有り。今ま友人・矢野氏に、『正保野史』の撰有り。其の忠節、眞に不朽爲り。亦た偉ならざらんや乎哉。因つて余が考索する所の數事を録し、以て卷尾に附す。

 忠夫(八兵衞翁)が七世の裔、現に京の丸太町富小路の東に在り。世、河内屋八兵衞と呼ぶ。於久(奧)氏と稱す。累世、御魚を貢供するを以て業と爲す。嘗て禁垣の中に家す。是より先き災ひに罹り、家財蕩燼す。故に譜系、絶えて傳ふる无しと云ふ。僅かに傳ふ、忠夫、享年六十又四にして沒し、京東大光寺に葬る、と。蓋し先塋の在る所、纔かに斷碑を存し、勒して「貞享五年戊辰十月八日・賀屋道範、貞享二年乙丑十二月四日・淨屋清春」と云ふ。「道範」とは、則ち浮屠氏の追謚する所に係る。「清春」とは、蓋し其の配ならむ也。茲に因りて之を推すに、其の生るは、寛永二年乙丑に在り。(後光明天皇崩御の)承應三年は、則ち年、實に三十なり矣。其の子は、寛保二年を以て死し、法謚は「淨譽道清」と曰ふ。其の妻は、正徳元年を以て死し、法謚は「到譽涼清」と曰ふ。其の考索する所、僅々此れのみ已。而して血食、輟まず、以て今に至る。豈に忠節の遺澤に非ざらむや哉。余、爲めに一祠を創り、以て忠魂を安んぜんと欲す。竝記し、以て同志君子に告ぐ焉。文久三年春二月、左京の川喜多眞彦、記す。



【贈正五位・奧八兵衞翁の忠節】
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 聞くならく、畏くも、天皇陛下には、萬世將來を鑑み、國民の爲めを祈り給うて、火葬復歸の聖斷を下し給へり、と。臣僚高官の御諫め、必ずや有りしものと確信しつゝも、草莽の情として、實に忍び難く、眞に畏れ多き極みなりけり。然りと雖も難有くも忝くも、尊き大御心を仄聞しては、只管ら拜承必謹、是れ有るのみ而已矣。斯くも宸襟を惱まし奉ること、臣民たる者、懺慙猛省せねばならぬ。こゝに更めて奧八兵衞翁の忠節を囘想し、浮屠氏の穢手に因るものに非ざるを報告して、矢野玄道翁『正保野史』を拜記すと云爾。



 補遺。『尚齋雜談』に曰く、「天皇、素より大志を懷きたまへり。甚だ撃劔を嗜みたまふ。板倉重宗、傳奏氏に就き、奏して曰く、『征夷府をして之を聞かしめば、必ず喜ばざる也。陛下、苟に之を止むること莫ければ、則ち臣、將に屠肚して地に入らんとす』と。天皇、默して應じたまはず。屡々諫むるに及ぶ。然る後ち敕して云はく、

朕、未だ嘗て武の人の、腹を割くるを睹ざる也。宜しく壇を南殿に築きて、自盡すべし焉』と。

重宗、慚謝しまつる。事、稍々解くを得たり。征夷府の聞く者、咸な懾服す」と。



本居宣長大人『玉勝間・大神宮の茅葺(かやぶき)なる説』に曰く、

伊勢の大御神の宮殿(みあらか)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒めなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也。質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし。御殿(みあらか)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ。みあらか又た獻り物などを質素にするは、禮(ゐや)なく心ざし淺きしわざ也。そもゝゝ伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重みし守りて變へ給はざる物也。然して茅葺ながらに、その莊麗(いかめし)きことの世にたぐひなきは、皇御孫命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故ゑ也。さるを御(み)みづからの宮殿をば、美麗(うるはし)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは。すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古への意にそむけりと知るべし」と。
 
 

國士たれ──平泉澄博士『士規七則』講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月 9日(土)00時13分17秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『士規七則講義』(昭和三十年十二月十八嚴寒の日、茨木市に於いて、若き大學生達に對する講義。市村眞一博士解説『先哲を仰ぐ』平成十年九月三訂版・錦正社刊に所收)

吉田松陰先生『士規七則』(松陰先生の玉文は、「赤字」にて表示)

 册子を披繙すれば、嘉言、林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)ふに、人、讀まざるのみ。即ち讀むも、行はざるのみ。苟くも讀みて之を行へば、則ち千萬世と雖も、得て盡すべからず。噫(あゝ)、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざるは、人の至情なり。古人は諸(こ)れを古へに言ひ、我れ今ま諸れを今に言ふ。亦た□(言+巨。なん)ぞ傷(いた)まむ。士規七則を作る。

 書を讀んでみると、良い言葉は澤山あり、躍動して人に迫つて來る。その通りであります。書を讀めば、我々の胸を打ち、又た仰いで光とすべき言葉は、實に多いのであつて、これを見、これを知ることは、非常な驚きであり、喜びであります。たゞこれは、どのやうな書物にもいへることではございますまい。たとへば鑛物を探すにいたしましても、鐵・銅・石炭などは、どの土地にでもあるものではありません。どこにでも鑛脈があるのではなく、どこを掘つても、鑛石が出て來るものではない。今日の世の中には、實に猥雜な書物が氾濫してをり、つまらぬ書物を亂讀してゐる人が多い。これが今の世の中の姿であります。こゝに「册子」といひ、「嘉言」といひますのは、永遠の生命をもつた古典についていはれたものであります。時代の波を越えて、萬世に殘るもの、即ち「古典」を指して、册子といはれたものと考へねばなりません。これに接すれば、我々の心は躍動し、我々の心は勇躍してこれを迎へる。かやうに素晴らしい古典が澤山にあるのに、人はちつとも讀まない。否、讀まないのではない。讀んでも、これを實行しないのであります。かりにもこれを讀んで、しかもこれを行ふのであれば、千萬世たつても、讀みつくし行ひつくすといふことはない。あゝ、もう今更ら自分がいふことは、何もないのである。しかし自分が氣付いてゐることがあれば、言はねば氣が濟まぬといふのは、人情であります。「ものいはぬは、腹ふくるゝわざなり」といふのは、たしか『大鏡』に出てゐましたが、そこで古の人が、既に昔に、かうしたことは言はれてゐるのでありますが、私が今こゝで、今それを述べましても、必ずしも差し支へあるわけではございません。そこで私は、こゝに士たる者の規範となること、七ケ條を述べるのであります。

一、凡そ生れて人となる。宜しく人の、禽獸に異なる所以を知るべし。蓋し人に、五倫あり。而して君臣・父子を、最大となす。故に人の人たる所以は、忠孝を本となす。

 一體、我々は、人と生れたのでありますから、人の禽獸と異なる點を知つてゐなければなりません。これは非常に重要なことであります。終戰後、人々は自由を唱へ、解放といつて、たゞ本能の要求に身をまかせて、それが當然であると考へ、從來、本能を抑壓して來たことを、封建的だといつて非難してゐますが、決して左樣のことはありません。先日も、ある縣で教育者の會合があり、それは中・小學校の校長の集まりでありましたが、その折にも、「本能を押さへることはいけない。從つて修身などは教へない方が良い」といふ人がゐました。もし本能を、そのまゝ認めるといふのであれば、それでは禽獸と異なりません。しかしそれが、戰後の混亂の中での、滔々たる潮流であります。人間の人間たる所以は、道を考へるといふところにあります。いかに貧しくとも、斷じて盗みはしてはならない、いかにひもじくとも、人の物をとつて食べてはならない、斷じて道徳にもとる樣な行ひをしてはならない。これが、人と動物と異なるところであります。思ふに、人が禽獸と異なるところについて考へますと、そこに重大な五つの徳目があります。君臣の關係・父子の關係・夫婦の關係・長幼の關係・朋友の關係についてであります。これは『孟子』から出てゐます。『孟子』を見ますと、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」とかゞげてゐます。これを五常といひ、また五倫といふのであります。

 「長幼、序あり」といひますが、戰後、これはなくなりました。後輩は先輩を馬鹿にし、若い者は年寄を馬鹿にしてゐる。「朋友、信あり」。これも失はれてしまひました。友は、友を裏切つてゐます。これは戰後において、特に顯著になりました。「夫婦の別」もなくなりました。人前で醜行を演じて、恥ぢない状況であります。「君臣の大義」も失はれました。「父子の親しみ」もなくなりました。正しい社會は、君臣の道・父子の道を、最も重大とするのであります。故に人の、人としての根本のことは、忠孝であります。これは實に大きな問題で、今日の世界の問題が、すべてこゝにかゝつて來るといつて、過言ではありません。今日の世界における大國は、アメリカとソ聯でありますが、兩者は著しい思想の對立をなしてゐます。一つはデモクラシーであり、一つはマルクシズムであります。しかしそのいづれも、君臣・父子の道を踏みにじつて、これに反逆して生れて來た思想に外ならないのであります。今日、この混亂を鎭めますためには、デモクラシーとマルクシズムの兩思想が、人間として自殺に等しいことを批判し、明かにしなければならない。何故、デモクラシーが尊くて、封建制は非難されるべきであるか、この點についての深い批判・分析は行はれず、たゞ世界の大勢なるが故に、それを正しいとして受け入れてゐるに過ぎないのであります。かゝる人による、かゝる淺薄なる考へを打破せねばならないのであります。

一、凡そ皇國に生れては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は、萬葉一統にして、邦國の士夫、世々祿位を襲ぎ、人君は民を養ひて、以て祖業を續ぎたまふ。臣民は君に忠して、以て父の志を繼ぐ。君臣一體、忠孝一致、唯だ吾が國を然りとなす。

 一體、我々は、皇國日本に生れた以上は、皇國が世界に尊いわけを知らねばならない。皇國といふ言葉は、いみじくも美しく、我が國をいひ表した言葉でありますが、人々は、今日、皇國といふ言葉を聞いて、恐れる如き感じをもちます。一敗、地にまみれたからといつて、何故、かくまでに卑屈な態度をとるのであるか。不可解といはねばならない。我が國が皇國であるといふことは、古より外國の識者の羨望するところでありました。これについては、ラフカデイオ・ハーン、グリフイス等の書いたものを御覽になればよく、又た多くの支那人も同じことを述べてゐるのであります。それらのことは、この皇國といふ言葉に、まことによく表はれてゐるのであります。一體、我が國の天皇が、民をしろしめした御政事のあとを尋ねて參りますと、形は殆んどデモクラシーといつてよい。しかし民主ではなく、民本であります。主とは、主從といふ風に、從に對する言葉である。もし民が主であるならば、從は何であるか。君を從とするのか、かゝる事はあり得ない。古來、我が國では、君は君、臣は臣として、嚴然と分れるのである。たゞ政治は、あくまで民を本として行はれたのであつて、我が國は、決して民主であつた事はなく、又た今日も、さうではありません。我々は、大君を戴く民であります。このやうに暖かい皇室を上に戴いて來たといふ歴史は、世界史の上に求めましても、何處にもない。正に一つの不思議といつてよいのであります。御承知のやうに、天皇の命に、死刑はない。天皇の嚴命による死刑といふものは、極めて寥々たるものであります。幕府の時代にはありましたが、平安時代には、數百年にわたつて、死刑は行はれてゐない。このやうなことは、世界の歴史に絶えてないのであります。これは、我が國體の然らしめるところであります。又た世界において、革命を見なかつた國、反逆のなかつた國といふものは、我が國を措いて他になく、この意味では、我が國の歴史は、全人類の光であり、誇りであるといつてよく、今後の世界の目標となるものでありませう。反逆につぐ反逆の歴史、そしてその結果としての混亂に陷つてゐるといふのが、各國の實情であります。人間が救はれるのは、神の前にひれふす態度になつた時であります。これが政治にあらはれて、祭政一致、忠孝一本を具現してゐますのが、我が國體に他ならないのであります。

一、士の道は、義より大なるはなく、義は、勇に因りて行はれ、勇は、義に因りて長ず。

 忠孝は重大なことですが、これを實地に行ふには、義勇の精神がなくては行へない。義烈の氣象を養ふことなくして、忠孝の實現は不可能であります。義勇の缺けたところに、忠義は爲し遂げられぬのであります。我々が、かなり多くの人々と袂をわかつのは、この故であります。義烈の魂を養ふことが、忠孝の前提であります。先哲の實踐のあとを、より深く考へて參りますと、このことに氣付かざるを得ないのであります。

一、士の行は、質實、欺かざるを以て要となし、巧詐、過ちを文(かざ)るを以て恥となす。光明正大、皆な是れより出づ。

 我々の行は、質實、欺かぬこと、これが非常に大事なことであります。私は、この一句を、最近、特に痛切に考へることであります。「敗軍の將、兵を語らず」とこそいへ、軍人は、自分の實歴を喋ることさへ恥とするものなのに、戰後の軍人の間に見られることは、自分はこんな事の爲たのに、あれがあんな事を爲たからかうなつたと、友をのゝしつて、自分の功績を飾らうとしてゐます。實に恥づべき行爲であります。またある將軍は、乃木將軍を罵詈してゐますが、自分を辯護せんがために、乃木將軍まで罵詈せねばならぬとは、實に淺ましい態度であります。この切實な教へは、今日、全く忘れ去られてゐるのであります。光明正大なる態度は、嘘・いつはりがないといふことより出て來るのであります。

一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざるは、則ち鄙夫のみ。讀書尚友は、君子の事なり。

 歴史に精通し、古賢先哲の書かれたものを讀んで、その教へを受けてのみ、我々は、その心を磨くことが出來るのであります。聖賢を師としない人は、つまらぬ人であります。

一、徳を成し材を達する、師恩友益、多きに居る。故に君子は、交遊を愼む。

 我々が、その徳を成就し、その才能を働かすといふことは、師友の恩益に預かるところが、實に多いのであります。幸ひにして我々は、このやうな良い友を、澤山もつてゐます。歴史の上より、このやうなことを見ますと、人材は、必ず輩出してゐます。何故、輩出するのか、これは友益を得て、切磋するからであります。私は、いつも東海道を往復して嘆かはしく思ひますのは、名古屋であります。名古屋は、今日、これといふことはありませんが、昔は、織田・豐臣の如き英才が出て、天下の統一をなし遂げたところであります。これは、獨り名古屋のみではないのであります。互ひの切磋があつて、初めて才氣は煥發して來るものであります。

一、死して後ち已むの四字は、言、簡にして、義、廣し。堅忍果決、確乎として拔くべからざるものは、是を舍(お)きて術なきなり。

 これについて感ずるところは多いですが、特に今度の戰爭の敗因について、このことを考へます。同學黒木少佐は、人間魚雷「囘天」を獨創した方であります。黒木少佐が人間魚雷を考へましたのは、かなり早い時期でありましたが、長い間、軍はこれを許さなかつたのであります。黒木少佐は、これを實用に供さんとして、自らその途中の訓練で倒れられました。この人間魚雷は、アメリカの海軍を惱まし、遂に最後まで、何らの對策も出來なかつたものであります。最近の『産經時事』に、軍事評論家の伊藤正徳氏が、今度の戰爭における人間魚雷の威力について書いてゐましたが、その中に、「鈴木貫太郎大將が、この必死の武器に反對であつた」と書いてゐます。多くの人は反對であつたさうですが、必死の戰術なくして、戰を始めるといふことが、既に私には不可解でなりません。この小さい國が、米英に對抗して戰を始めた以上、必死の策に出るのは、當然であります。これは相手の大小によるものではありません。戰爭を始めた以上、當然のことであります。私は劍道のことはよく知りませんが、劍道においては、自分を捨てゝかゝらねば勝てません。自分は安全地帶にゐて、自分の生命を全くして敵を斬らうなんぞといふ、そんな卑怯未練な態度はない。劍道の名人にして、既に必死の覺悟で臨むのである。ましてこの大戰について、必死の覺悟もなく、單なるスポーツの如く考へてゐたところに、敗戰の最大の原因があつたのであります。

【嗚呼、慕楠黒木博司少佐】
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 昭和十六年十二月二十三日でしたが、東京帝國大學の大講堂で、私共の發起で講演會をやりましたが、講師は海軍の平出報道課長と私でありました。平出課長は、實に呑氣な講演をやりました。當時にあつて、眞珠灣の成功を稱へ、「國民よ、安心せよ」といふのであります。私はこれを聞いて、唖然としました。否、唖然といふよりも、憤慨したのでありました。

【海軍の油斷──古人の曰く、勝つて兜の緒を締めよ。】
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 「死而後已」の四字は、言葉は簡單でありますが、意味は廣大であります。如何なる困難がむかつて來ようとも、斷乎として千軍萬馬の前に立つには、堅忍果決、確乎とした覺悟なくしては出來ないのであります。

 右、士規七則、約して三端となす。曰く、立志、以て萬事の源となし、擇交、以て仁義の行を輔け、讀書、以て聖賢の訓(おし)ヘを稽ふ。士、苟くもこゝに得るあらば、また以て成人となすべし。

 右の士規七則は、要約して三つのことになります。志を立てることが、萬事の根本であり、交友をえらぶことが、仁義の道を行ふのを助けることになり、讀書することが、聖賢の教を學ぶ道であるといふことであります。こゝに聖賢といひますのは、支那の聖人・賢者のみでなく、日本人の聖人をも含んでゐます。我々は今日、楠公を仰ぎ、北畠親房公を仰ぎ、吉田松陰先生を仰ぐことによつて、益々道を學び、弘めて行かねばなりません。

 この士規七則は、先生が甥の玉木彦介の元服の火に與へたので、成人[一人前の人]とありますが、しかしこれは、子供が大人になる成人式の時にのみ當てはまる言葉ではなく、我々一生を通じて指南とすべきものであります。嘗て乃木將軍が、士規七則について御講義をされたことがあります。その時の御講義の内容を記したものを、私は持つてゐましたが、戰災で燒いてしまひ、殘念なことをしました。その中で、「凡そ道義を肝に銘じ、志あるものは、普通一般の者とは、何か違つたところがなくてはならぬ」と申されてゐます。これは山口縣の後輩に對して行はれたものでありますが、普通の人と、何か違つたところがなくてはならぬ、人の欲しがるものを欲しがる樣ではつまらぬ、人の爲てゐるやうなことを爲てゐるだけではならない。私は、この言葉を感慨深く讀んで、今も忘れません。内に志あれば、外、風格に必ず現れるのであります。

【乃木靜堂大將『士規七則』講話】
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 元來、國家を雙肩に擔ふのは、國民全體であるといふのが理想でありますが、これはいふべくして行ひ得ない。國家を雙肩に擔ふのは、國民の何割かの、一部の人であります。昔、朝廷に仕へた公卿が腐敗墮落し、朝廷に仕へて國を治めることが出來なくなつた時、國を擔つて立つたのは、武士であります。幕府の出來たのは、殘念ではありますが、武士は生命にかけて國を護つて來ました。殊に國難に當たり、幕末に外國の勢力が日本列島に迫つて來た時、我々が先哲と仰ぐ人々が、決然として立つて、國の守りを全くされたのであります。しかるに不幸にして、國を支へる政治家・軍人にして、大正以後、見るべき人なし。政治家に人なく、陸海軍の傳統も薄らぎ、よしたとへあつても、多勢の中では、如何ともする事が出來ない。大勢は、アメリカに媚び、ソ聯に迎合する輩である。國を雙肩に擔ひ、國家の中核となつて、これを護つて行く人物の必要を痛感します。外國においては、この特殊の人々が、嚴然として存在する。イギリスでは、貴族が偉いのである。ドイツでも、我が武士のやうなのがありました。そのあることが、國家の榮える所以であります。社會的に特殊の地位にある必要はない。たゞ我が國に、このやうな人のないことを慨かねばならない。慨いてやまないだけでは濟まない。かゝる道を、我も行き、人も行き、目覺めたる者が手をたづさへて、國の護りにつかねばならない。「士」とは、かゝる人物をいふ。腰に劍を佩かずともよい。職業は何であつてもよい。眞に道義に目覺めて、道によつて國を守らうとする者、しかも義勇の精神により、死して後ち已むの覺悟ある者、これを士といふのであります。

 我々の願ひは、全國の賢才を得て、我が國の士たらしめることであります。こゝにおいてか、大事なすべし。大廈は、現に傾き始めましたが、何とかしてこれを支へ、もつて囘天の大事を爲し遂げねばなりません。これが、私の士規七則を講じた所以であります。



 愚案、平泉澄先生の講義、眼の前に在ますが如き口吻を傳へて、小生は、慄然として襟を正すのであります。小生が、平泉先生の講義を拜聽したのは、昭和五十二年九月の白山神社崎門祭に於ける、吉田松陰先生『赤川淡水の常陸に遊學するを送るの序』の講義でありました。

師道を慢ること勿れ、私見を立つること勿れ。取捨去就、唯だ先生に是れ聽かば、則ち古道、及び難からざる也。

是れ、一學生が往古の塾に在つて、師から痛棒を喰らふが如く、衝撃、甚だ大きくして、一生の師に邂逅した感激歡喜で、それは一杯でありました。先生の御姿・御聲を、兩の眼耳に刻印燒附けて下山、やがて平泉先生の著書を古書肆に、圖書館に見つけては、之を購入拜讀するやうになつたのであります。今も先生の斷簡遺墨を求めて、已む事はありませぬ。先生の皇國護持の遺志を、不肖不敏なりに、繼承する覺悟であります。國體の闡明護持は、國民の當然當爲、即ち第一義の任務・責務であると考へてをります。

【備中處士『望白之記』── 寒林平泉澄博士を 越前白山神社に拜するの記 ──「其の九」參照】
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hakusan.htm
 
 

險難の一路──平泉澄博士『炳丹録の序』講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月 4日(月)16時11分10秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『萬物流轉』の「險難の一路」(其の掉尾を、一部改編して拜記。昭和十一年十一月・至文堂刊/五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)

炳丹録の序』(谷秦山先生の玉文は「赤字」にて表示。『炳丹録』は、所在不明。『序』は、『秦山集』第五册第四十二卷に收む)

 世のいはゆる眞儒、徒らに中庸・時中の語を執り、深くいたること能はず。妄りに解するに時に諧ふを以てし、己の諛悦側媚の謀に便す。擧俗相ひ慣ひ、靡然として風を成す。余、竊かに懼るゝことあり。因つて繙閲あるごとに、其の忠憤激烈、磊磊落落なる者を勾索し、且つ考へ且つ謄し、このごろ積んで册を成す。題して『炳丹録』といふ。蓋しこれを朱子、「唯だ此の一念、炳然、丹の如し」の言に摘むなり。

 文は、凡そ四節に分れる。即ち第一節は、『炳丹録』編輯の由來を述べたものであつて、こゝに於いては、大勢順應論の否定が、最も注意すべき所である。大勢順應論は、根本に於いて、萬物の流轉を信じ、物すべてうつろひゆき、確乎不動の規準となるものはないのであるから、流れのまにゝゝ隨ふを以て賢明なりとするのである。しかるに秦山先生が、擧世滔々として大勢に順應するを見て、竊かに懼れられたのは、外でもない、萬物を專ら流轉と觀じ、處世をたゞ順應ときめてかゝれば、一朝、革命の變到つて、之に防ぐに由ないからである。かくて大勢順應論を蹴破つて、革命の變を防がん爲には、萬物流轉の中に、千古不易の規準、即ち忠孝の道を確立しなければならぬ。是に第二節に移る。

 夫れ子として孝に死し、臣として忠に死するは、乃ち天倫の常分、人道の大節、天地の間に逃るゝ所なし。是を以て紀綱紊亂、風俗頽弊の朝に立てば、則ち謇謇諤諤、以て上、主聽を悟し、下、民生を保たずんばあるべからざるなり。流竄放謫、較べざる所に在り。國家顛覆、宗社、墟となるの秋にあはゞ、則ち節に仗り義に死して、以て外、平日温飽の恩に酬ひ、内、人心本然の安きに就かずんばあるべからざるなり。刀鋸鼎□[金+獲の右]、辭せざる所に在り。是れ皆な臣子當然の實務、貴賤、問ふ所にあらず、班列、顧みる所にあらざるなり。古昔、箕子・比干といふ者あり、天子の貴戚なり。又た伯夷・叔齊といふ者あり、海濱の褐夫なり。倶に青史に鎭埀し、凛乎として萬世人道の大義を振ふ。其の功、特に此に在り。而して凡そ策書の傳ふる所、忠臣といひ、義士といひ、賢人といひ、君子といふ者も、亦た皆な是れのみ。其れ然り、正に當に天地と竝べ稱して人といふべし。而して其の他は、同じく髮を戴き齒を含むといへども、只だ是れ糞壤草木なるのみ。

 第二節に於いては、忠孝は倫理道徳の根本であつて、貴賤貧富を問はず、萬人の履み行ふべきところであり、履み行つては、死を以て守るべきところであり、これあつて初めて人といふ事が出來、もしこれなければ、外觀は人に類するとしても、到底、人を以て許す事が出來ず、むしろ糞壤草木といふべきであると説かれて、忠孝の宣揚、この節の眼目をなしてゐる。

 然りといへども生死、事、大なり。苟くも義、以て其の私を制し、氣、以て其の決を致すにあらざるよりんば、未だ必ずしも變を歴、險を蹈んで、移らざる者あらざるなり。蓋し義は精すべきなり。其の方、知を致すに在り。氣は大にすべきなり。其の術、志を持するに在り。其の傳、孟子の書に出で、其の説、朱子の言に詳かなり。これを窮むるを儒學といひ、これに達するを眞儒といふ。近世腐儒の云云する所と、其れ豈に絲髮の似たるあらんや。

 しかるに第三節に入つて、俄然、論鋒は他に向ふ。即ち忠孝の實踐實現の爲には、一死を甘しとする覺なくては叶はず、一死を甘しとするは、口にいひて易く、實地に行はうとして困難であつて、中々生やさしい事ではなく、必ずや義勇の精神によつて、日常の生活を規律し、平素より鍛錬する所がなければならない。平素十分の鍛錬あつて、初めて異變に驚かず、危險に恐れず、敢然正道を進む事が出來るのである。而して此の義を精究し、此の勇を長養すること、これ即ち眞の學問修養といふべく、之を學び之を修めて、通達し體得せる人、これこそ眞の學者といふべきであり、從つて眞の學者は、彼の大勢順應論を奉じて、時と共に浮沈し、世と共に流轉する輩とは、全然別個の道を歩むものであるとする。

 今ま斯の一編、漢より明に至り、賢人君子、傾くを支へ躯を捐つる、義膽忠肝、頗る備はれり。方に當世の學者とともに講明するに好き者なり。然りといへども夫の數君子、或は謫死し、或は餓死し、或は斬死し、或は妻子、□[サ+俎]醢せられ、或は父母、屠肉せられ、絶えて一箇の飽食、安居する者なきなり。あゝ、是れ今日、滔滔の士の、聞くことを樂しむ所ならむや。遂に繕寫して之を藏す。貞享三年立春の日、谷重遠、序す。

 さて第四節に於いて、再び『炳丹録』にかへり、全體をまとめて筆を收めてあるのであるが、こゝに於いては、大勢に順應せず、忠孝の道、まつしぐらに進める人々の、悉く悲慘なる最後を遂げて、一人として安き一生を終らず、況んや富貴榮達とは、凡そ無縁のものなるを説いて、無限の感慨を寓して居られるのである。

 一篇、極めて簡潔、文字を數へて五百字を僅かに超えるに止まるのであるが、論ずる所は極めて重大、道徳の根本を明かにすると共に、實踐の要諦を示し、俗學の妄説を撃破して、また餘蘊なしといふべきである。而してその大勢順應論の否定といひ、忠孝の唱道といひ、いづれも見事であるが、就中、最も光彩あるは、義勇の精神の必要を説く第三節であつて、讀んでこゝに至る毎に、感歎、已む事が出來ないのである。

 抑も忠孝の二字が、道徳の眼目として重んぜられ、説かれてゐる事は、一般普通の事であつて、萬人の耳に熱し目に飽いてゐる筈でありながら、實際の問題を吟味し來れば、その實行は甚だ疑はしく、むしろ別個の主義によつて生活を指導し、糊塗して日を送るといふ有樣であり、反逆の思想、天下に横溢した頃の如き、敢然よく之に抗する者少なく、却つて忠孝を餘りに喋々する爲の反動であるとさへ説いて、大義の宣揚を避けようとする風さへ見られたのであつた。しかも實際は、從來、忠孝の唱道が、單に之を口に唱ふるに止まつて、實踐の工夫、綿密を缺いたところより、この弊を生じたのである。しからば實踐の工夫、如何といへば、それは結局、義勇の精神によつて、我等日常の生活を規律し、鍛錬し來るといふの外はない。義勇の精神なきところに於いては、忠孝百遍の唱道、何の役にも立たないのである。義勇を明かにしようとならば、しばらく其の反對を考へて見るがよい。義の反對は、利である。功利主義である。利己主義である。勇の反對は、怯である。臆病である。懦弱である。己一身の安全を欲して危險を恐れ、己一箇の利益を欲して道義をかへりみないといふ事であれば、かくして道徳の根本である忠孝の大節が成しとげられる筈は、斷じてないのである。

 予の不敏、長く此の理をさとらず、數年前、漸く之に想ひ到つて、武士道の復活を、今日の急務なりとしたのであつた。しかるに其の後氣附いた事は、此の理、はやく吉田松陰先生の道破せられた所であるといふ事である。即ち『士規七則』の第三條に、

士道は、義より大なるはなし。義は、勇によつて行はれ、勇は、義によつて長ず

とあるもの、それである。『士規七則』は、人の知るが如く、其の第一條に於いて、人の人たる所以は、忠孝を本となす事を明かにし、次に第二條に於いて、皇國國體の然らしむるところ、我が國に於いては忠孝の一致して、分裂し扞格する所、全くなきを明かにせられたのであるが、今、第三條に入つて、一轉して義と勇とを説かれたのは、第一・第二兩條の間に存する、極めて緊密なる論理的關係より考へて、いかにも突然の轉囘であつて、我等の長く不審とする所であつた。しかしながら一たび此の理、明かになつて見れば、先づ忠孝を説いて、次に義勇に及ぶは、極めて自然であり、否、當然であつて、『士規』の文、餘りに簡單なるが爲め、この間の連關を説明してゐないとはいへ、松陰先生の胸中には、必ず此の理存して、現れて此の順序をなしたのに相違ない。先生が之を書かれたのは、安政二年正月の事であつて、當時、先生二十六歳に過ぎなかつた事を思へば、これは實に驚歎の外はないのである。しかるに後に至つて、谷秦山先生の『炳丹録の序』に、此の理説かれて、極めて昭々たるを見いでたのであるが、『炳丹録の序』を書かれた貞享三年は、『士規七則』の書かれた安政二年より百七八十年も前の事であり、且つまた當時、秦山先生の年齢は、僅かに二十四歳、士規を書かれた松陰先生よりも一段と若かつた事を考へれば、海南の哲人、少年にして道に徹せる、眞に驚歎、已む能はざる所である。

 それにしても『炳丹録の序』末尾の一句、何ぞ、その哀痛の調べの切なるや。まことに歴史をかへりみれば、凡そ忠臣といひ、義士といはるゝ人の、慘澹たる苦しみの中に生き、苦みの中に死せざるは、殆んどないといつていゝ。先哲を皮相の名聲に仰ぎ見て、苦心を實地の體驗に思はざるものは、いざ知らず、苟しくも實に履み實に思うて、正學に志すほどの者の、誰人か骨身に徹する切實の感慨なくして、容易に忠孝を談じ得よう。

 忠孝は、道の窮極であり、學の發端である。道、忠孝に窮まるといふは、こゝに道徳、千古の準則あるを示す。而して學、こゝに始まるといふは、これより修練の險難に、足一歩を踏み出だすをいふのである。よどみに浮ぶうたかたを、たゞ束の間の命と看破つて、一時の幻影にあざむかれざるすら、竝大抵の事ではない。まして變化改換、曾てやまざる流轉のうちに、永遠不朽の道徳を認むる事は、猶更ら容易の事ではないのに、かくして見出されたる忠孝の道は、これより漸く險難の一歩を踏み出だすといふのである。然らば眞にこの道に志す者の、猛く精彩を著けて、堅固不拔、千辛萬苦を甘しとするの覺悟なかるべからざるは、もとよりいふまでもない。



●平泉澄先生の哥

青々の子等 皆緋縅(ひをどし)の 鎧着て 今日のいくさに 馳せ向ふらむ 御印澄(帝都青々第一塾に懸ける色紙)

丈夫(ものゝふ)は かへりみなくて 一筋に けはしき道も ひとりこそ往け

丈夫は 寂しきものか さしてゆく まことの道の 友まれにして

單騎なほ 千里行くべし しかあるを 友あり同じ 斯の道を行く



 愚案、功利主義・利己主義の跳梁蔓延して、誰人も疑はざる現代に於いて、道徳千古の準則、即ち忠孝の道を堅持して、之を貫くに義勇の精神を以てするは、固より千辛萬苦を甘しとするの覺悟を要する。萬物流轉の世に在つて、吾々の依據を闡明にして、世間の聞くことを樂まざる所を、固より當然なりと受け留め、鋭意、當爲當行に力めなければならない。是れ、先哲古賢を景仰繼承する所以にして、正學に生きむと欲する者の道標である。單騎は辭せざる所なりと雖も、友あつて、同じ斯の道を行きたい。
 
 

宮城縣栗原郡の奉公。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月 2日(土)23時35分53秒
返信・引用
   本日は、第四百十六囘岡山縣愛國者協議會・平成二十五年十一月例會に參加。

 岡田則夫翁は、『皇居を愛する人々』を紹介、一氣に朗讀された。いつ讀んでも、泪が止まらない、と。小生も感激、參加者共々、目に光るものがあつた。昭和二十一年十二月八日、宮城縣栗原郡の「みくに奉仕團」六十名、進駐軍の監視下、家族と水盃をしての、決死の奉仕の記録。受ける宮内省も、義勇の精神が溢れてゐた‥‥。正に君臣一體の精華と謂ひつ可し矣。亦た共産黨員も、皇居清掃奉仕にて、開眼轉向の由。早速、注文。未讀の御方には、古本を求めて、是非とも拜讀されむことを。



■□■『皇居を愛する人々──清掃奉仕の記録』(昭和五十三年九月・日本教文社刊)■□■
 
 

天地の常經、古今の通義──神道の大意、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月26日(土)15時40分1秒
返信・引用
  ~承前~

 次に足下の論、不亡不死は、道理に於いてあるへからず、我が國、天壤と窮りなしとの説、もとより信じ難いといふに就いては、詳かに之を辯じなければならない。

「夫れ人や、生るれば必ず死し、王や、興れば必ず亡ぶ。必然の理なり。然れども我が王や、盛衰ありて、未だ興亡あらず。興らず、何の亡ぶことか、これあらん。天地と共に主たり、開闢と共に君たり。天地に主として、萬物に君たる者は、其の創業・埀統を言ふべからず。天地あれば、則ち氣化あり。氣化あれば、則ち形化あり。形化あれば、則ち生々して窮まらず。人物は、固より物なり。天地も、亦た物なり。これ人物と天地と、たがひに始終をなす所以の者なり。清濁、一たび判れて天地となれば、則ち上は天、下は地、位を定めて變ぜず。人物、已に生ずれば、則ち正通偏塞分れて、貴賤移らず。衆人、已に生ずれば、則ち天地の神なる者、君主となり、其の次なる者、臣民となる。君位を上天に準じ、臣位を下地に擬して、萬古改めず。かの桑田變じて海となり、海變じて桑田となるが如きは、則ち改まらんのみ。天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼なり。これ乃ち我が神教の大意なり。我が天祖ののたまはく、「寶祚の隆ならんこと、まさに天壤と窮りなかるべし」と。その祝詞たるは、則ち祝詞たり。しかも實に萬代、祝詞の如くなる者ありてたがはず。凡そ我が神州に生るゝ者は、皆そのかくの如くならんを欲して已まず。これ其の无窮なる所以なり。後來を證するに往事を以てすれば、神代萬々歳、年紀、未だ言ひ易からず。人皇に及んで年月を紀してよりこのかた、今に至りて既に二千三百有餘歳、其の間、天下の政治にあづかり給はざるもの五百歳、しかも其の之を尊奉するや、猶ほ未だ其の初に降らず、日に以て益々厚し。おのづから尊敬せざる能はざる者ありて、已むべからず。壤地褊小なるを以てして、豈に夫れ然らんや。方輿の中、我より褊小なるもの、幾何ぞ。民俗倥□[人+同]、鬼を尚ぶを以てして、豈に夫れ然らんや。我より倥□[人+同]に、我より鬼を尚ぶもの、幾何ぞ。獨り其の神を崇むるの教ありて、以て之を誘き、民、その教に化する二千餘歳といふは、實に之を得たり。神徳至妙なり。故に人、自ら之を崇む。徳なくして、強ひて之を崇むるに非ず。又た神徳至妙なりと雖も、之を崇むるの教なければ、則ち久しうして、後やまんのみ。是を以て神を崇むるの教あり、以て寶祚の窮りなきを致すは、神國神明の立つ所、地精風氣の然らしむる所なり。凡そ天の覆ふ所、日月照らす所の地に於いて、未だ我が國の如く、神にして靈、強にして威、正にして直なるもの有らず。故に威を以て奪ふべからず、力を以て爭ふべからず、逆を以て立つべからず、實に萬國に秀出する者なり。異邦の人をして、此の道ありて、以て此の王統を傳ふることを聞かしめば、則ち其の褒揚贊歎、將に言ふにたへざらんとす。而して彼の簒弑の國、以て恥となすべし。何ぞ譏議を生ずること、これ有らんや。」

 外人、我が國體を傳聞して贊歎したる一例は、之を『宋史・外國傳』に見るのである。即ち宋の大宗、我が國の皇統、萬世一系、文武百官、また世襲して絶えざるをきいて、「これ蓋し古の道なり。中國は、唐宋以來、大に亂れて革命相つぎ、大臣舊家、存續するものなし。今日、よろしく日本を範として、无窮の業をたて、大臣の後をして祿位を世襲せしむべし」といつたといふのである。之に對しては、山崎先生、批判を加へて、「彼の國の亂るゝは、豈に獨り唐宋以來の事ならんや。秦漢以來、皆さうであり、上に溯つて極言すれば、太古以來、常にさうである。我が國の如きは、實に天壤無窮の神敕、萬々歴々たり。則ち全世界に於いて、未だ曾て見聞せざる所である」と論ぜられたのである。即ち外國は、その革命の故を以て恥づべく、我が國は、その萬世一系の故を以て誇るべく、誇つて以て我が國こそ中國なりとすべきに拘らず、足下、世間俗儒の惑を脱せず、依然支那を以て中國とし、その革命の風をよしと考へ、我が國に於いても、「王者起るべし」と論ずるは、甚だ其の意を得ない。我が國、今日、王道衰微すといへども、未だ衰周の如きに至らない。衰周の世に於いてすら、孔子は、未だ必ずしも王者の起るを是認せられなかつたのである。況んや一王の神統、無窮を祝すべき我が國に於いて、「王者起るべし」といつてよいものであらうか。最も諱むべき所である。

 我が國は、開闢以來、日神の一種、萬世、統を傳へ給ひ、終ひに簒弑の事のない國である。もし徳を以て自ら王とならうといふ者があるならば、その人、たとへ堯舜の如くであらうとも、讓られる筈はなく、湯武の如くであつても、誰か之に歸する者があらう。國民は、皆いふであらう、「我が神國の王は、天照大神の尊胤にましますぞ」と。若しまた放伐の事をいふならば、凡そ神國に生れて血氣ある者、誰か奮起して、之を誅しない者があらう。抑も王者の起るを翹望するの説、往年、羽黒養潛、ほゞその端を發したのである。予は、當時、之を聞いて、たゞ一時激發の言となし、深く意に介しなかつたのであるが、しかも時々之を囘想して、終ひに養潛に不滿なるものがあつた。しかるに今や足下、亦た此の説をなすのである。今日、王道の衰微に當り、志ある者、憂慮に勝へざるに、反つて亂賊の首唱者となる。嗚呼、是れ王法の必ず誅する所、明神の必ず罰したまふ所である。昔は文天祥、宋の亡ぶるに當つて、二幼君を立て、頻りに囘復を計つて、事、終ひに成らず、囚はれの身になつて了つたのであつたが、當時、元の博羅の責むるに答へて曰く、「國家、不幸にして喪亡し、予、君を立てゝ、以て宗廟を存せり。存すること一日なれば、則ち臣子、一日の責を盡す」と。また曰く、「人臣の君に事ふるは、子の父に事ふるが如し。父、不幸にして疾ひ有れば、明かに爲すべからざるを知ると雖も、豈に藥を下さゞるの理あらんや。吾が心を盡さんのみ。救ふべからざるは、則ち天命なり。今日、文天祥、こゝにいたる、死あるのみ。何ぞ必ずしも多言せん」と。臣子の道、まさにかくの如くなるべきである。況んや此の神州、我れ人ともに、神代の祖先より、神明風化の中に覆育成長して、一王罔極の恩を受けてゐるのである。今ま萬々世に至るまで、身、匹夫たりといへども、伯夷・叔齊・魯連の志を懷かない者はないのである。足下、いふ所の藤井懶齋にして、未だ死せざれば、これも亦た國賊の一人といふべきである。予、平生、その人となりを聞き、又その著『本朝孝子傳』・『本朝諫諍録』等を見るに、甚だよみすべきものあるに、知見の一差、終ひにかくの如き亂賊となるに至つたのは、惜しむべき事といはなければならぬ。老漢、之を聞くも、頑固、容易にその思想を變へないであらうが、萬一、之を聞いて、其の志を易へ、其の説を改めるならば、これも亦た本邦神化の一であるから、もし縁あらば、足下、之を忠告せられん事を希望する。

(以下、平泉先生の評)

 以上は、木齋が鳩巣に答ふる書の大要である。流石は恭謹順厚、山崎先生に從學し、師説を崇奉してやまざりし篤信の士だけありて、鳩巣の惑を解き、妄を斥け、不臣を責め、亂逆を撃つて、餘すところなしといふべきである。而して前に述べたるが如く、鳩巣の思想が、ひとり鳩巣の思想たりしに止まらず、今日も猶ほ滔々たる一部の潮流を代表するものである以上、鳩巣を論破してやまなかつた木齋の説は、そのまゝ以て今日、學界・思想界の一大指針とすべきである。

 殊には右に、只だ假名まじりに書下したるのみにて、原文の趣を存して引用したる一節の如きは、正しく今ま我等の問題とする、最深最奧の問題を論じたるもの、我等の珍重、措く能はざる所である。即ち鳩巣が、凡そ物、始あれば終あるは、これ天地の常理、不亡不死の理のなき所、人生れたる以上は必ず死し、國興りたる以上は必ず亡ぶ。されば天壤無窮の國體の、あるべき道理はないと論じたのは、萬物流轉してやまざるを宇宙の定則とし、月は盈ちてやがては缺け、人生れてやがて死するが如く、國家も亦た興亡あるを免れず、從つて天子の位も、亦た萬古一定のものにあらずとして、結局、革命を承認したるものであり、ひとり之を承認せるのみならず、その末文、藤井懶齋に託して説けるが如く、之を希望し、之を鼓吹せんと欲したのであつて、もとゝゝ萬物流轉の易理、パンタレイの哲學、諸行無常の思想に立脚するものである。而して木齋が之を反撃して、萬物流轉は、いかにも宇宙の一法則であるが、定位不變も、亦た天地の常經である。桑田變じて碧海となり、紅顔、遂に白髮となり、生れては死し、興りては亡ぶるは、即ち流轉の法則に支配せらるゝものであらうが、しかしながら清濁、一たび判れて、天地變ぜず、人物、已に生じて、貴賤移らず、千萬世を經るといへども、天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、これ實に天地の常經、古今の通誼、神教の大意なり。況んや我が神州、天地と共に開けて、後世の建國にあらず。即ち未だ曾て勃興なきが故に、滅亡といふ事、斷じてあるべからず。されば寶祚は、天壤と窮りなく、無比の國體、威を以て奪ふべからず、力を以て爭ふべからず、逆を以て立つべからずと論じたのは、萬物流轉の世に立ちて、アルキメデスの如くに、確乎たる道徳の依據を求め、自然界に於いて天地、人生に於いて君臣の、定位ありて易ふべからざるを見出し、こゝに倫理の根本を確立して、神道の本旨を闡明し、革命の邪説を筆誅したものである。見來れば、後年、根本通明博士の發揮せられたる所、それより百六十年以前に於いて、遊佐木齋の、既に明瞭に論究したる所である。もとより是れ其の師闇齋先生の學説を承けて、之を祖述したるものであらうが、明師に就いて哲理を究め、篤信、少しも惑はず、異説を排撃し、正學を高唱して已まなかつた態度の見事さ、予は、こゝに斯の人を先生と呼んで、謹んで尊敬の意を致さうと思ふ。



 愚案、木齋先生は、鳩巣と同甲、共に四十歳不惑の論爭を拜記しつゝ、木齋先生の恭謹丁寧なる論、之を仰いで已まず、又た平泉澄先生の大文章、之に和して餘す所が無い。平泉先生の崎門への研鑽は、前の土佐・谷秦山先生、此の仙臺・遊佐木齋先生、而して水戸・栗山潛鋒先生、望楠軒・若林強齋先生を縁として、偉大崇高なる學祖・山崎闇齋先生の骨髓をつかまれて、崎門埀加の皇學が、こゝに闡明確立したと謂はねばならぬ。一字々々謹録しつゝ、知らず、泪の頬を下るを如何ともする事が出來ない。

 信に恐るべきかな哉、室直清の蓄懷、亂逆を藏することの深きを。允に宜べなるかな哉、高山赤城先生、憤怒して腐儒直清を之れ叱るを(室氏、其の號「鳩巣」と呼ぶを用せず、單に通稱にて可なり)。曰く、

「(高山赤城先生)其の書史を覽る、初め意を經ざるも、目を過ぐれば、則ち是非を剖ち、義理を析(と)くこと、精思する者の若し。甞て室直清の論著する所(『駿臺雜話』)を見、其の楠公を論じて、召に應じ、直ちに笠置に造(いた)るを以て、度量の足らずと爲し、諸葛亮が三顧して、乃ち廬を出づるの事を引き、以て之を議するに至つて、憤然として罵りて曰く、

『腐儒、何ぞ事を論ずるの迂なるや也。夫れ元弘の時、豈に三國(支那の魏・呉・蜀)と、年を同じうして論ず可けんや哉。劉漢の末、天下分裂し、豪傑、竝び起る。此の時に當りて劉玄徳なる者は、故(も)と履を販り席を織るの人、自ら稱して「帝室の冑」と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや哉。亦た猶ほ今世の奴僕が輩の、源平を號稱し、以て自ら誇る者のごとき也。孔明の三顧して出づるは、我が心に於いて、猶ほ以て速しと爲す。百顧・二百顧を累(かさ)ぬと雖も、猶ほ未だ緩(おそ)しと爲さず焉。楠公の如きは、則ち是れに異る。赫々たる天朝は、神器の在します所、六合の仰ぎまつる所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳へたまふ。普天率土、孰れか皇民に非ざらん。而して楠公は、則ち廷臣(左大臣正一位・橘諸兄公)の裔にして、畿内の民也。召命無しと雖も、豈に國家の難を視て、恬然として自ら安んず可けんや哉。天皇、蒙塵したまふを聞かば、奮然として袂を投じて起つ。安んぞ彼の諸葛が輩の爲すに效ふを得んや也。書を讀むこと是の如くんば、百萬卷と雖も、何の益かあらんや乎』と。

其の書を取りて、之を堂下に投ず」(杉山復堂翁『高山正之傳』)と。



【蘇つた遊佐木齋先生の學勳】
  ↓↓↓↓↓
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天地の常經、古今の通義──神道の大意、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月24日(木)23時09分22秒
返信・引用
   濯直靈社木齋遊佐次郎左衞門藤原好生先生と、鳩巣室新助直清との往復の書状は、
第一書、元祿八年の學界人物論。
 往・鳩巣八月二十六日/復・木齋先生九月六日
第二書、元祿九年の王者論。
 往・鳩巣五月頃/復・木齋先生十月十五日
第三書、元祿十年の神道論。
 往・鳩巣二月十六日/復・木齋先生六月十八日
是れ即ち所謂る「神儒問答」と爲す(日本學叢書第五卷『神儒問答』昭和十四年十二月・雄山閣刊)。

 今は、其の第三條の神道論を、平泉澄博士『萬物流轉』の流暢なる麗筆により、之を拜記して、有志が求道參究の資に供せんと欲す。實は小生、之を拜讀、魂を搖ぶられて、深く崎門道義の學に入る契機を作したるもの、而して長年、紹介披露せんとして、猶ほ躊躇温存したるものなり。些か長文となるが、名代の國體論爭の玉章なるべし。有志に對して、切に乞ひ奉る、名文玉章の美を見て、神儒大義の存する所を等閑にすること無く、正邪の分岐、己の身に驗さんが爲め、括目して熟讀解義せられむことを。懇祷、々々。



■平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)

 是に於いて(室)鳩巣も、亦た默する能はず、あくる元祿十年二月十六日、三たび書を裁して(遊佐)木齋に與へ、詳しく意見を吐露したが、その書こそは、神道を議すると共に、萬物の流轉してやまず、從つて國に萬世一系、天壤無窮の道理なきを説き、道徳を無視し、國體を否定したものである。よつて今、その概要を述べよう。

(以下、室鳩巣の論)

 神道は、木齋の信ずる所、而して鳩巣の疑ふ所である。木齋は、頻りに其の信ずべきをいふけれども、しかも鳩巣は、之を善しとする事は出來ない。蓋し道の大原は、天に出づるのである。天に出づるが故に、道は一本である。聖人、之を承けて天下後世に教へ、天下後世、之を以て聖人の道となすのである。この故に道は、一統である。されば天の覆ふ所、地の載する所、日月の照らす所、霜露の墜つる所、人に異道なく、道に二稱なく、即ち道は世界に通じて、唯一つあるのみである。後世に及んで楊墨の道現はれ、老佛の道起つたが、しかもこれらは、實は道に反するものであつて、聖人の道と相竝ぶが如きものでは決してない。しかるに今や木齋は、或は「我が神州の道」といひ、または「我が國の神道」といひ、神道を遵奉すること、殆んど儒學の上に出て居るのであるが、いふ所の道、果して何の道であるか。もしそれが聖人の道と合はないものであるならば、則ち是れ異端であつて、我等の力を盡して排斥しなければならない所である。もしまた聖人の道と合致するといふならば、神道即ち儒教であり、特に神道と稱するの必要はない。之を神道と稱するは、「我國」の二字に拘泥してゐる爲に外ならぬ。

 聞くが如くんば、山崎(闇齋)氏は、神道を學ぶに、異國の道を以て習合するを禁じ、儒教を交へて之を説くは、猶ほ佛教に附會するに等しとして、共に之を排斥したといふ事であるが、もし果してこの言ありたりとせば、これ儒教即ち眞の道の外に、更に別の道ある事を許すものであつて、道を二本とするの説であり、その不可なる事、いふまでもない。蓋し山崎氏は、儒教の外に、我が國の道を立て、以て中國に抗衡せんと欲して、之を主張したのであらうが、これ恐らくは我が國民性の、勇を好み氣を尚び、小を得て自ら足れりとする風習、賢者と雖も、亦た免れざる者であらう。畢竟するに、これ「我國」の二字に拘泥してゐる爲に外ならない。

 鳩巣の如きは、たゞ孔孟の道を道とし、程朱の學を學ぶもの、誓つて此を以て一生を終へようとするのである。司馬温公、釋老を喜ばずして曰く、「その正しき説は、儒教以外に出でず。その儒教と合はざるものは、吾れ信ぜず」と。鳩巣は、竊かに之を取りて、以て法とするのである。今や足下(木齋)、山崎氏を稱して、元明の大儒の上にのぼせ、朱子以後の第一人者となし、又た神道を推尊して、之を聖人の道の上に加へ、之を以て我が國の最も貴き所となすのであるが、かくの如きは、世間に曾て聞かざる異説であつて、我等の驚き且つ惜しむ所である。

 予(鳩巣)の前に贈りし書中、「王者の起ることあらば」(『第二書・王者論』)といつたに對して、足下おもへらく、「かゝる言は、外國に在りては可なりとするも、我が國に於いては、斷じて不可である。我が國は、一王の神統、當に天壤と終窮なかるべく、外國の如く、王者、姓を易ふるものではない」(木齋先生の曰く、「唯だ『若し王者起ること有らば』の一語、未だ疑ひ有ることを免れず。其の王者起ると曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては、則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮りなかるべき者、諱む可きの甚だし焉」)と。これは神道者の常にいふ所であり、之を以て我が國の誇としてゐる所である。足下の言も、固より此の神道者の説より出てゐるのであらう。しかるに愚見は、之に反する。もし此の事、果して盛徳の致す所、天命の與みする所であるならば、しからば我が國の徳と道とは、支那の昔、唐虞三代に勝る事萬々であり、今更ら堯舜禹湯の法を學ぶ必要はない筈である。しかも予の聞く所を以てすれば、決してさうではない。

凡そ物、始あれば、必ず終あり。これ天地の常理なり。君子、業を創め統を埀る、繼ぐべきが爲のみ。未だ嘗て亡びざるを以て榮とせざるなり。生を保ち疾を謹む、壽すべきが爲のみ。未だ嘗て不死を以て貴とせざるなり。何となれば則ち永祚引年は、理のある所なり、不亡不死は、理のなき所なり。故に國興りて亡びざるなく、人生れて死せざるなし。三代の盛といへども、世に更へて必ず亡び、大徳の壽といへども、年を終へて必ず死す。惟ふに我が國に一王の統あり、神仙に不死の道ある、豈にそれ故なくして、然らんや。我が國、壤地褊小なるを以て、民俗倥□[人+同]なり。而して鬼を尚び神を崇むるの教ありて、以て之を誘ふ。民、その教に化する二千餘歳、常に天子を以て神孫となして、敢て褻さず。強主迭起し、國柄遞移すといへども、亦た敬して之を遠ざけ、之を度外に置き、天下に輕重なからしむ。そのより來る所は、漸なり。さきに上世をして禮樂刑政あらしめ、以て陽明の化を開いて、好鬼の俗を變ぜしめば、則ちその國を享くることも、亦た當に三代の久しきが如くなるべきのみ。是に由りて之を觀れば、いはゆる一王の統なるもの、是を我が國、風化の致す所といふは、則ち可なり。もし此を誇りて、盛徳の報、至道の應なりといはゞ、則ち恐らくは中國の人をして之を聞いて、反つて譏議を生ぜしむ。」

所謂天壤と終窮なしとは、古人道徳の至れるを讚して之をいふのであつて、道徳に於いては、正にその通りであらうが、形而下のものに於いては、あり得べき事ではない。聖神といふも人であり、國も亦た物である。而して人も物も、すべて造化の迹なるに拘らず、國、天地と窮りなしとすれば、その國は、則ち造化の規則に從はないものであり、道理に於いてあるべき事ではない。

 おもふに神道の辨といひ、一王の議といひ、足下の尊信する所であり、國民の忌諱する所であれば、もとよりみだりに之を論じて禍を招くべきでないが、今ま言論を恣にして、毫も顧慮する所のないのは、我が性、もとより疏直なるによると雖も、亦た足下、能く人の言を受くるを知るが故である。京都の藤井懶齋といふ人は、直接面會した事はないが、聞くが如くんば、有徳の隱君子であつて、孟子、王を以て齊梁の君に説くを慕ひ、慨然として曰く、「幕府、もし命あつて隱士を召さば、老衰すといへども、必ず往かう。江戸に赴いて、一たび此の義を開陳する事が出來れば滿足であり、之を一言せる後は、舌を拔かれても、悔ゐる所はない」といつてゐるさうである。足下の如きは、之を言語道斷の事として、大に憎惡するであらうが、しかも彼れ平生の志、實にこゝに在るのであり、併せて足下の反省を乞ふ所である。

(以下、平泉先生の評)

 以上は、鳩巣が木齋に答へて、神道を議する書の大要である。今ま讀過に便ならしめんが爲に、眼目をなす一節の外は、すべて要を摘み文を改めたのであるが、要を摘んで、猶ほこの長さを存したのは、この論の關する所、今日に於いても、極めて重大なるが爲である。即ち鳩巣の論は、文辭簡古にして、胸をうつ痛切ではないが、若し之を現代語に飜譯するならば、學問に國境なしとして、專ら外國の學に耽溺し、日本の傳統を無視して、之を顧みず、世界主義を奉じて、最も「我國」の二字を忌み、神敕を信ぜず、國體を思はず、外面、之に和するが如くであつて、しかも内心、之を哂ふ所の、滔々たる學界・思想界の風潮を、殆んどそのまゝ代辯するものであり、讀過再三にして、深く之を思へば、邪説の横行、昔なほ今の如く、今なほ昔の如き、歎息、之を久しうするの外はない。

 或はいふであらう、是等の思想は、之を等閑に附するも大過なく、餘りに嚴密に之を責むるは、頑固の譏りを免れず、頑固に過ぎては、却つて反逆の思想を挑發するのおそれなしとしない、と。しからば乞ふ、鳩巣の書の末尾に附記せる、藤井懶齋の志を見よ。懶齋は、何を以て一生の志願としたのであるか。舌を斷たれて、猶ほ且つ悔ゐずといふ彼の、幕府に向つて入説せんとしたるは、抑も如何なる説であつたのであるか。即ちそれは、孟子が齋梁の君に説いた所を説かうとしたのである。これ以上は、最早こゝに解説すべきであるまい。我等は、むしろ彼の舌を、その未だ幕府に説かざる前に於いて拔かん事を欲するのみである。懶齋は、もと眞邊仲庵といひ、筑後久留米の人であつて、醫を以て有馬侯に仕へたが、後ち致仕して京に住した。その學は、初め陽明學を主としたが、やがて闇齋先生に師事して、其の教を受け、後に師説にそむいて、別に一家をなし、最も中村□[立心+易]齋と親しかつた。またその姓名を改め、本姓藤井に復し、之を支那風に飾らうとして、滕といつたといふ[『日本道學淵源續録』・『先哲叢談』]。査檢し來れば、彼が邪説を包藏するは、その經歴の間に於いて、既に現れて明瞭なりといふべきである。しかるに室鳩巣は、いまだ半面の識なくして、いたく之を推尊したのである。しかもその推尊の理由、彼の邪説の最も惡逆危激なる點に存したのである。

 木門(木下順庵の門下)の俊傑として、文名、一世に高く、早く加賀藩に重んぜられ、やがて幕府の儒員に擧げられ、將軍の命をうけて、『六諭衍義大意』等を著はし、當時、天下の木鐸を以て自ら任じ、後世に至るまで大儒の名を恣にした所の鳩巣は、實にかくの如き不正邪僻の思想を懷いて居つたのである。木齋にして、若しよく崎門の正學を傳へ得たりとするならば、必ずや之に對して、堂々の筆陳を張り、僻説を論破して、大義を宣揚しなければならぬ。果せるかな、彼は同年六月十八日、再び一書を裁して、之に答へた。その要旨は、左の通りである。

(以下、木齋先生の論)

 足下、神道を無視して、或は「所謂神國の道とは、果して何の道ぞや」といひ、或は又た「山崎氏、晩年神道を好み、人をして失望せしめた」といふ。之を見るに、足下も亦た滔々たる世間の儒者の見解を免れざるもの、まことに嗟嘆に勝へないのである。それ思想邪僻なれば、心に生じて政を害し、政に發して事を害するもの、楊墨の利己主義・博愛主義の偏僻は、必ず君父をなみするに至り、老氏の害は、禮義を廢し人倫を亂るに至り、佛教の害は、直ちに人倫を絶滅するものであり、その他、權謀術數及び百家の如き、いづれも害があるが故に、聖賢、之を異端として大に排撃し、之を技術として甚だ鄙下したのである。しかるに我が神道の如きは、天理に本づき、陽明を好んで陰濁を惡み、君臣上下の道を重んじ、父子骨肉の親を厚くし、禮義を正しくし、正直を尊ぶ所の教である。今ま足下のいふが如くんば、神道を以て大節を失ひ異端に陷るものとして、之を憎惡するのである。研究する所なくして、みだりに我が王國の道を異端として斥くるは、最も愼むべきであらう。

 足下の論、道は一本、儒教の外に、之と併立する所の道はあるべきでない、神道にして儒教に合はなければ即ち異端であり、合へば即ち儒教、別に神道の名稱を必要としない、之を特稱するは、「我國」の二字に拘泥しての事であるといふ。いかにも道は一本、ひろめて之をいへば世界に通じ、天下の公共なるものであらう。たゞ我が國に於いては、神々よく神理に通じ、天道に合し、自ら天下の君と爲り、天下後世を教へられるのである。よりて後世、之を神道としてたつとぶのであるが、神といひ、天といひ、人といひ、皆な一理なるが故に、或は之を天道といつてもよく、また人道と稱しても差支へないであらう。たゞ神々の教へ給ふ所なるよつて、神道と稱し來るのみである。人倫を正す本旨よりいへば、固より儒教と異なる所はないのである。初め儒といふ名のなかつた以上、之を儒道といふべきではなく、之を我が國の神道といひ、我が神州の道といはなければ、一體、之を何といふべきであるか。我が國に於いて、初め儒道を知らなかつた事は、支那の我が神道あるを知らざると同じ事である。道、もと一本、本旨、全く同趣であつても、土地風氣、相違して、説く所、小異あるは當然である。儒教の中に於いてさへ、孔子は專ら仁を教へ、孟子は兼ねて仁義を説き、子思は誠を説き、周子は無極を説き、程子は敬を説くといふ風であつて、必ずしも一樣でなく、互に相發して、此の道を明かにして居るのである。果して然らば神道を學ぶ者も儒教を學ぶべく、儒教を學ぶ者も神道を學ぶべく、相互に參考發明するは、最も望ましい事ではないか。たゞ其の際に注意すべきは、牽合附會、みだりに兩者を混淆して、その理脈を紛糾せしめてはならないといふ事である。もしそれ足下の、我が輩を指して「我國」の二字に拘はるを歎息すといふに對しては、我が輩は、足下が「我國」の二字を知らざるを歎息するのみである。我が國に生れて、我が國の道を學ばず、之を歎かずして、抑も何をか歎くべき。

 「我國」の「我」は、親愛の意を表はす詞である。しかるに足下は、予の「我國」といふを非難しながら、己は「我聖人之道」と稱してゐる。父母の本國は、之を親愛せず、萬里遠隔の異邦は、之を親愛するといふのは、結局、「聖道」の二字に拘泥してゐるのである。國の尊卑は、もとより國土の大小廣狹によるものではない。國土の廣大をいへば、我が日本國より廣大なるもの、いくばくあるや計り難いが、それらの國は、皆な我が國より尊いのであるか、それとも卑しいのであるか。道を知る上に於いて、我に勝つてゐるのであるか、劣つてゐるのであるか。我が神州の如きは、四方萬國にすぐれて、神の開き給ふ所、世々統を傳へ給うて、天壤と窮りなきもの、まことに他邦と年を同じうして語るべからざる國である。

 但し足下は、我が國古代の禮樂刑政、典章文物、即ち一言にしていへば、古代の文化が、支那の古代、唐虞三代のそれに及ばないといふであらう。蓋し我が國に於いては、一王一統の治、よく太平無事の化を致し、必ずしも制度典禮の發達を要しなかつたのである。支那に於いても、太古はその通りであつた事、程子のいふ所に見、楊子のいふ所に考へて、明瞭である。それが唐虞に至つて、初めて法度典制を立て、三代に至つて、益々備はつて來たのは、彼の邦に於いては、明王、異姓かはるゞゝゝ起るが故に、新たに位に登つては、天下の耳目を一新しようとして、正朔を改め、法度を更へ、頻りに文物を修飾しようと努めた爲である。我が神州の如きは、もとより一王の治であつて、禮樂を制し、制度を立つるに汲々たる必要がなく、從つて文化の發達がおくれたのである。而してそのおくれてゐる間に、支那に於いて先づ發達した文物を、後世、彼我の交通の盛になつて後、自由に採用して、用ふべきを用ひ、則るべきに則り、自ら製作するの煩勞を省いただけの事である。

 我が神書・皇書は、惜しいかな、大化改新の際、蘇我氏の兵燹に焚かれて、其の全書を傳へないが、『神代卷』及び『中臣祓』等によつて察すれば、古代に於いて、道理、既に悉く皆な具はつてゐたのである。たゞ後世、その訓を失し、その傳を誤り、遂に明かならざるに至つたのであるが、幸に山崎先生出でて、之を註解し、それより相ついで此の道を講明する者が現はれて來たのは、天意といふべきである。而して「この神道を講ずるに當つて、異國の道を習合すべからず」とは、正しく山崎先生の言である。蓋し未だ神道の傳ふる所を解せずして、みだりに儒教を以て之を註釋すれば、牽強附會、條理を紊り、血脈を失ふ弊に陷るが故に、之を禁ぜられたのであつて、中世、神書を解するに佛説を以てしたのが、近世、その非を悟つて、佛説の習合を排するに至つたものゝ、却つて儒教をまじへて之を説く者があるので、特に之を誡められたのである。佛説を混ずるも、儒教をまじふるも、その混雜して醇粹精一ならざるに至つては、則ち一である。

~續く~
 
 

貧に安んずる、皇國傳家の精神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月19日(土)18時22分6秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 平泉澄博士は、『萬物流轉』の「險難の一路」に於いて、谷秦山先生を擧揚された。「谷秦山先生は、世の必ずしも嘖嘖もてはやさゞるところ、而して予の讚歎敬慕、措く能はざる哲人である」として、次の五條を數へられた。

一、求道の態度。
一、貧に安んずるの態度。
一、學問の筋の、最も正しかつた事。
一、義に勇み、正を履んで、少しも恐るゝ所なかつた事。
一、先生の精神、よく其の子孫に傳はり、忠誠、前後を一貫してゐる事。

 今は、其の第二條の論を、拜記させて戴かうと思ふ。「安貧」は、土佐谷家傳來の寶刀、前に谷干城子の清貧、よく父祖を嗣ぐを見た。小生の仰いで已まざる所以、即ち是である。

 分に應じた偶の贅澤は、父祖勤勉の御蔭、之を許されよう。然し清貧に安んずると云ふは、史上稀有の飽食、惠まれた今中に在ると雖も、固より社會生活の基礎であらう。幸ひにして餘剩あらば、社會に還元奉還すればよい。大西郷の無慾は天賦のもの、眞似も出來まいが、愼ましき生活は、古來、皇國武士傳家の精神にして、殊に道義に生きんと欲する者にとつては、實に道樂道福、靖安なるかな哉。



●平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊)

 第二は、其の貧に安んずるの態度である。先生の家は、もと世々土佐の國長岡郡江村郷八幡宮の神職であつたが、中頃、長曾我部氏に仕へて武士となつた。慶長年間、長曾我部氏亡び、山内氏代つて入國するに及び、長曾我部氏の遺臣、やむを得ずして農耕に從ひ、いづれも貧困に陷つたのであつたが、谷家も亦た御多分に洩れず、後に藩老・野中兼山、長曾我部氏の遺臣を擧げて郷士とし、地を與へて田を開かしめ、谷家も亦た之にあづかつたが、しかも家計は決して樂でなかつたらしく、先生の父・重元の代には、先生の筆に成る『谷氏族譜』に、「中年以來、家産、益々落つ」とあり、而して先生の時に至つては、先生の『小傳』に、「元祿元年、父重元卒す。家貧にして、葬ること能はず」と見えて、その窮迫の状、想像に餘りある。前に記した先生の上京遊學も、殊には藩に於いて登用して祿を與へようといはれたのを斷つての再度の上京も、この貧困のうちになされたものである事を思はないでは、眞に先生の熱烈なる求道の精神に觸れる事は出來ないのである。

 先生は、既にかくの如き貧困のうちに在つて、祿を求めずして、道を求められたのである。しからば道を得て貧に安んぜられたのは、もとより當然の事でなければならない。先生が道を樂しんで、窮乏を意に介せられなかつたに就いては、こゝに二つの例を擧げよう。一つは、先生、外出の衣服に事缺かれた例である。即ちその『美代重本に與ふる書』の中に、

「某、明日、將に先塋を豐岡に省せんとす。驢馬は、已に依光に取れり。但だ鶉衣百結、往往、體を蔽はず。貴下、木綿の袷衣、敢て一領を借らん。垢・潔を問はず、只だ破綻せずして足れり。愚拙、由也が恥ぢざるに愧づと雖も、賢兄、よろしく子路が憾なきに志すべくんば、幸甚、幸甚。」(『秦山集』)

とあるもの、之を示す。豐岡の先塋といふのは、谷家先祖の墓、豐岡に在るを指すのであつて、今日、之を尋ぬるに、岡豐の村[古いものには、豐岡と見えてゐるが、今日は岡豐と書いてゐる。ヲカウとよむのである]より西して、右すれば高知に至り、左すれば大津に至る追分道を、左に進む事しばし、間もなく右手に現はるゝ丘の上にあるのであるが、土崩れ落ち薄生ひ茂つて、道とも思はれぬ道を登れば、叢の中にいくつかの墓の散在するを見る。但し一々標記するところなく、果して其のどれゞゝが先生の先塋であるか、明かでないが、たゞ祖父と祖母との墓は、墓石に銘あつて、直ちにそれと知られるのである。即ち祖父の墓には、「谷甚右衞門墓。寛文六年十月二十七日」と記され、秦山先生の筆に成る『谷氏族譜』に、祖父・神右衞門の傳を述べて、「寛文六年丙午十月二十七日甲戌歿、年七十九。前山に葬る」とあるに合ふのである。たゞ「甚」と「神」と、文字を異にしてゐるが、蓋し甚を以て世間に通用し、神を以て家に傳へたのであらう。この祖父・神右衞門は、是れ亦た毅然たる大丈夫であつて、藩老・野中兼山、長曾我部氏の遺臣を召出して郷士とした時、くわしくその系譜と武功とを調査し、長曾我部氏の感状をもつてゐなければ、之を許さなかつたのであつたが、たゞこの谷神右衞門、一言を以て保證すれば、文書の有無を問はずして、之を郷士に擧げたといふ事である。兼山は、もとより豪邁嚴毅の士、容易に人をゆるす筈はないのであるから、その兼山に信用せらるゝ事、かくの如くであるのを見れば、神右衞門の風格も、自ら想察せられるのである。さて秦山先生は、此の豐岡の墓へ參らうとして、己の衣服破れて體を蔽はず、到底、外出し難きを以て、木綿の袷一枚の借用を、友人に依頼せられたのである。

 今ま一つは、先生窮乏の甚だしき、往往絶食せられた事である。即ち『美代重本に與ふる』別の書に、

「某、去年乏絶の中、時に或は粮を斷つ。某は則ち男兒、何を以てか顰蹙せん。たゞ一僕、困頓、見るに忍びず、つねに之に苦しむ。今年は則ち乏絶中の乏絶、故を以て、月の初め、一僕を遣り歸し、兀然獨坐す。」(『秦山集』)

云々とあるもの、之を語る。これは當時、友人、先生の自炊に同情し、金を集めて一人の下男を傭ひ、之を先生に寄附しようとしたのに對して、厚くその親切を謝すると共に、固く之を斷られた書状の一節であるが、今ま之を讀んでは、心、實に黯然たらざるを得ないのである。清貧に安んずといひ、窮乏に甘んずといふ。口にいへば易く、文字に記して美しいが、實地に之を驗し、實境に之を味へば、痛苦、骨を削り、憤懣、心を亂して、自如たり晏如たる事、もとより容易ではない。しかるに秦山先生は、外出するに衣服なきばかりでなく、食するに物なくして、往々絶食するといふほどの困厄の中に在つて、靜かに學を究め、樂しんで道を講ぜられたのである。これ、予の深く先生に服する第二の點である。



 愚案、谷秦山先生の清貧、固より崎門、即ち山崎埀加先生が皇國道義の學を承けしに由る。或は誤つて崎門三傑の名を恣にする三宅尚齋に對して、訓戒、猛省を求め、或は豪邁木強、自ら信ずること最も厚き淺見絅齋先生をして、晩年、遂に神道に志あらしむる契機を作り、而して闇齋先生神儒の學問の骨髓、また闇齋先生捐館の後は、澁川春海先生の天文暦學の神髓を傳へて、遙か海南の地に「日本の學」(『秦山集』卷十四「私講□[片+旁]諭」)の大旆を掲げたる秦山谷先生、實に皇國にとつて忘るゝ事があつてはならぬ哲人である。

【秦山先生の學風】
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 「よく愚妻と喧嘩になるのが、老後のこと。病氣になつたらどうするの、とか、葬式を出すお金も無い、と云ふんだ。僕はなるべく話をそらせるやうにしてゐるが、右翼は老後を考へてはいけないんだ。若し老後を考へるなら、運動をするべきぢや無い、即刻やめたはうがいゝ。右翼は大義のために生きてゐるんだから。色んな挫折感を繰返し味はつて、本物の右翼になつて行くんだ」(別册宝島編集部編『平成元年の右翼』平成元年五月・JICC出版局刊)と語つた、平成元年に四十五歳だつた平澤次郎翁。其の翁の原稿「皇道の語源」を、『皇道日報』復刊第二號にて拜見。平成豐饒の中今、秦山先生の時代とは比較になるまいが、ふと想起した次第、皇民の心得としたい。老翁のご健筆を祈る。
 
 

平泉澄先生の觀る、谷干城子爵。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月17日(木)23時57分14秒
返信・引用 編集済
   平泉澄先生は、大正四年九月、東京帝國大學文科大學(後の文學部)國史學科に入學。下記は、其の翌月、即ち十月、西洋史の坪井九馬三教授(史學の最長老)の史學概論演習問題に對する答案の、極く一部である。因みに全體綜括の批評には、「考證極精。坪井妄評」と。



●平泉澄先生『谷干城の漢詩』(大正四年十月稿。先生二十一歳。『芭蕉の俤』昭和二十七年五月・日本書院刊の「附録・銀杏落葉」に所收)

○偶成 谷干城

爭取銖錙費如塵 絃歌湧出滿城春

煌々金殿夜明晝 不照寒村菜色人

 「銖錙」は、共に量名。こゝには金錢といはんが如し。「如塵」、干城の『詩集』には、「似塵」に作る。「夜明晝」、字の如くなる時は、夜、明かなること晝のごとし、とよむべきなり。されど『干城詩集』には、「夜如晝」とせり。思ふに、草字に於ては、如と似と、明と如との、混じ易きより來れるあやまりなるべく、この詩が仄起なるを以て、如塵が似塵の誤りなるは明らかなるも(如は平、似は仄)、夜明晝は、明とするも、如とするも、共に平にして、平仄の法に悖る事なきが故に、是非を判定する事難し。「菜色」は、青くしをれたる顔色、『禮記』に、「民に菜色なし」とあり。

 谷干城は、土佐高知の士、家系を檢するに、有名なる谷重遠(愚案、海南の哲人・秦山先生、是なり)五世の孫に當れり。この家、代々學を好み、才幹に富む。干城が父祖よりうくる所、知る可きなり。干城、天保八年丁酉二月を以て生る。幼より學を好み、江戸に遊んで、安井息軒の門に入る。歸國後、小監察、大監察に歴任し、東北の亂るゝや、軍に從ひて功あり。やがて陸軍少將となり、熊本鎭臺司令長官となる。明治七年、臺灣の役に赴く。後、一時職を辭せしが、九年十一月、再び熊本に司令長官たり。十年の亂に、孤城固守の功は、普く世の知るところ。翌年、中將に昇進し、十八年、農商務大臣となる。已にして歐洲に遊び、歸朝後、伊藤内閣の歐化主義に反對し、假裝會・舞踏會等の宴遊の弊を痛論し、又た條約改正の議に合はず、遂に職を辭して國に歸り、沿道至る所、盛なる歡迎を受けたり。その後、民間に優游して有志を鼓舞し、二十三年、貴族院議員となりて、正論□[言+黨]議を以てあらはれ、四十四年五月十三日、七十五歳にして薨ず。

 人となり、忠醇廉潔、名譽を見る事浮雲の如く、富貴に對する事塵芥に似たり。躬を律する格勤、論を立つる硬直、實に近世、罕(まれ)に見る所の國士なり。息軒の門に、雲井龍雄と窓を同じうするや、龍雄の氣を以て勝るに對し、干城は徳を以て勝れりといふが如き、『優然集の序』に、「金屋大廈は、人の欲する所ろ也。吾子に利ならざれば、捨てゝ顧みず云々」といへるが如き、『長岡公使を送る詩』に、「飽食暖衣、看ること塵の如し」といへるが如き、墺國にありて、母國歐化主義の狂態を聞き、『憤慨の詩』を作りしが如き、『日露開戰の期、迫りし時の詩』に、「富貴巧名、白雲に對す」といへるが如き、さては柴四朗が「清廉寡慾の人」と評し、柏堂が「至誠憂國の士」と評し、富田鐵之助が「清廉潔白の人」といへるが如き、皆な以て干城の面目を見るべし。

 殊に農民を憐むの情厚く、何れの時にも増税案に反對し、政費を節減して民力を休養せしめんとし、議會開設の當初も、當時、盛に行はれし歐化主義に反對して、勤儉尚武の氣風を作るべしと論じたり。『新春有述の詩』に、「寒去暖來、未だ雪を看ず。農家、果して隱憂有りや不や」といひ、又『貧民行の詩』に、「村落、煙稀れに、雨雪急なり。東風、何れの日か、悲慘を解かん」といへるが如き、仁慈の丹誠を見るべし。

 『偶成の詩』、亦た彼れが滿腔、憂國憐民の至誠の流露せしもの。賦作の年代、明かならずと雖も、『干城詩集』配列の次第より推し、又た三十三年一月一日の日記に、

今年の税、去年の税より重く。今年の寒、去年の寒より寒し。
妻兒は、飢ゑを訴へ、號き且つ□。□、昇平に屬するも、安んずる所ろ莫し。
羨み聞く、城中管絃の響き。羨み見る、高楼、興、更に闌なるを。
嗚呼、普天之下、皆な王土なるに。幸福、獨り□、此の長官。
村落、煙稀れに、雨雪急なり。東風、何れの日か、悲慘を解かん。

の詩あるによりて考ふるに、恐らくは日清戰爭後、數年の間にあるべし。

 時に在朝の士は、戰勝の好夢、醒めやらで、春光の搖蕩する所、永く歡樂の美酒に醉ひ、爭つて金銀を取つて費す事塵の如く、朝遊夕讌、歡愉の極を究め、瓊筵を開いて以て花に座し、羽觴を飛ばして月に醉ふ。煌々たる金殿に、紅蠟滿ちて、夜明らかなる事、さながら晝に異ならず。

 さはれ飜つて寒村の百姓をかへりみるに、税重く、澤少なく、妻は寒をかこち、兒は飢を訴ふ。營々辛苦、努むる所多くして、得る所少なし。顔色、菜に似て青く、形容、枝の如く痩せたり。廟堂の春、こゝに來らずして、衾、水の如く、金殿の燈、こゝに及ばずして、茅屋暗し。

 嗚呼、何等悲慘のコントラストぞ。かくの如きは、干城が憂悶、措く能はざる所、詩を作りて以て懷を放りしもの、詩は、これ蓬莱(我が皇國)の文章にあらざるも、しかも讀む者をして惻々として感動せしむるは、干城が至誠、その中にこもれるが爲なるべし。



【隈山谷干城子】
  ↓↓↓↓↓
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/131.html?cat=44
 
 

忠勇義烈、滅私奉公は、臣子の大節なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月15日(火)19時15分53秒
返信・引用 編集済
 

~承前~

●東京帝國大學總長・國本社副會長・男爵・山川健次郎博士『乃木大將への感謝状』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 旅順は、東清の咽喉にして、露國の據つて以て東亞を窺ひし處なり。其の地たるや、山海の險を阨し、峰巒環合、港灣深固、露國、以て要塞となし、經營十年、人工を窮極し、號して難攻不拔と稱す。將軍、第三軍を督し、聯合艦隊と水陸相應じ、合圍半歳、奮戰挌鬪、其の堅壘を拔き、其の巨艦を殲(つ)くし、遂に敵帥をして手を束ねて降を乞ひ、城を開きて命に歸するに至らしむ。其の戰鬪の烈、勳功の偉、古來、未だ比類を見ず。是れ聖天子威徳の隆赫に由ると雖も、亦た將軍以下、忠誠勇武、鞠躬盡瘁の致す所と謂はざるを得ず。

 夫れ鋭を挫き強を破り、命を土芥(とかい)に比し、公の爲めに私を忘れ、以て君國に盡くすは、臣子の大節、而して將軍以下、實に是れを以て終始とす。豈に所謂「道理、心肝を貫き、忠義、骨髓に填む」(蘇軾『李公擇に與ふる書』に、「道理、心肝を貫き、忠義、骨髓に填め、直ちに須らく死生の際に談笑すべし」と)るに非ずや。獨り國威を中外に發揚するのみならず、東亞治安の端も、亦た將に是れに由つて開かれんとす。

 健次郎等、此の盛時に際し、其の關係する所、重、且つ大なるを以て、感激に堪へず。功勞を稱贊し、復た辭の口を衝いて出づるを禁ぜざるなり。



●山川健次郎博士『東郷大將への感謝状』(同上)

 征露の師は、東亞治亂の關紐(かんちう)にして、我が帝國安危の係る所なり。聯合艦隊は、國家の重寄を負ひ、其の機先を制し、首めに旅順・仁川を衝きて、奇捷を奏せしより、艦を碎き港を封じ、連戰連勝、其の海權を收め、遂に旅順攻圍軍と水陸相應じ、神機百出、利器を妙用し、敵をして氣沮み膽落ち、復た戰ふ能はず、其の東洋艦隊を擧げて全滅するに至らしめ、以て旅順の降服を速やかにす。此れ我が皇上威徳の遠覃(えんだん。遠くまで及ぶ)、廟算素定の致す所に由ると雖も、抑々亦た將軍の指麾、宜しきを得て、萬衆一心、左右相助け、忠勇義烈、命を鴻毛に比し、以て報效を圖るの結果に非ざるはなし。

 顧ふに旅順開戰以來、茲に十有餘月、風濤の險、寒暑の變、朝夕を測られず。而して百難を排し、萬難を凌ぎ、堂々たる艦隊、渤海の形勝を扼し、終始威嚴を失はず、以て露國第二艦隊の東航を邀撃するの餘勇を示す。將來の深謀遠慮を以て、精鋭無比の艦隊を率ゐ、益々我が武を宣揚し、以て有終の美を收めんこと、健次郎等、切望して措かざる所なり。

 茲に東旋(東歸)を機とし、其の偉勳を頌し、併せて前途の成功を祝す。



■平泉澄博士『山川總長』(『芭蕉の俤』昭和二十七年五月・日本書院刊の「附録・銀杏落葉」に所收)

 私が(山川)先生から受けた印象は、悲壯なる憂國の士といふ感じである。それは、單なる愛國では無い、今一歩深くふみこんで、國の前途を憂慮するといふ、痛切なる至誠である。かやうな感じを、強く私に與へられた先生は、考へて見ると、他に類例がすくないと言つてよい。これはやはり會津藩の運命、從つて先生が少年時代の經歴に負ふものであつて、その險阻艱難が、かゝる風格を養ひ來つたものであらう。‥‥

 山川先生は、快く(平泉を)引見して、くわしく(大正八年の壹岐・對馬の史料採訪の)報告を聞いて下さつたが、先生が興味をもたれたのは、主として蒙古襲來の際の史料や史蹟であつた。いふまでも無く、對馬と壹岐とは、文永・弘安の昔に於ける硫黄島であり、沖繩であつた。文永十一年、蒙古・支那・朝鮮、聯合して兵數凡そ三萬、九百餘艘の船を連ねて來襲した時には、對馬に於いては、守護代・宗助國、一族郎等を擧げて、わづかに八十餘騎の小勢ながら、少しもためらはず迎へ討つて、さんゞゝに敵をなやまし、遂に壯烈なる戰死を遂げ、壹岐に於いては、守護代・平景隆、百餘騎を率ゐて善戰し、城陷るに及んで、自害して果てた。弘安四年には、對馬には襲來しなかつたが、壹岐は再び侵寇を受け、小貳資能入道覺惠の孫・資時、奮戰したが、衆寡敵せず、遂に討死した。この時には、祖父の資能も、八十四歳の老齡ながら、博多に防戰して負傷し、その疵の爲に、やがて死んだのであるが、資時は、其の子・經資の三男といふ事であるから、恐らくはまだ二十代の若武者であつたらう。二十代の若武者にして、壹岐守護の全責任を負ひ、遂にこゝに戰死したのである。その墓には、後々に至るまで、武器を供へて祭るならはしで、松の木の下に之を弔ふ時、まことに感慨の深いものがある。山川先生は、さういふ話を、しづかに聽いて下さつたが、最後に私に、一喝をあびせかけられた。

博多には、隨分目ざはりなものがあるではないか。何故、あなたはそれを、玄界灘へ投げ込んで來なかつたか。

一語雷霆の如く、今も私の耳朶をうつのである。



 愚案、學生時代、越前平泉寺の白山神社に於いて、平泉澄先生の先哲遺文講義あり。其の節、「白山寶藏・元寇戰利品の銅鑼」とて、先生、彼の銅鑼をたゝき給うた。其の音色は、今も之を忘るゝことが出來ないでゐる。
 

 

絶代の先哲・橋本景岳先生と、晩學の青年・伊能東河翁と。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月14日(月)22時04分43秒
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  ~承前~

●日南福本誠翁『橋本左内』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收。愚案、題「橋本左内」は、玉章の呼稱と調はず、編者の附する所と爲るか。宜しく必ず「橋本景岳」と題す可きなり矣)

 人生二十二三歳といへば、是れ盛春の一青衿のみ。而も藤田東湖は、之れを偉器とし、川路聖謨は、之れを畏敬し、武田耕雲齋は、之れを贊嘆し、一時の名流、皆な爭ひて之れと交を訂(たゞ)したりと聞けば、(橋本)景岳の人となりや、身材魁梧、意氣軒昴、威風、人を壓し、一世を睥睨するの人なりしならんと想望せらるべし。何ぞ知らん、其の人は、身長五尺を出でず、白皙纎妍にして、状貌、婦人の如く、其の性も、亦た温粹謙和にして、嘗て人と爭ひたることあらざりきとぞ。然も其の人、一たび節に臨み事に當れば、侃論(剛直の論)正言して、少しにても屈撓せず、必ず其の所志を徹底し、其の委曲を竭盡せざれば已まず。是れを以て人、皆な其が誠意に服したりと云ふ。

 之れを證すべき一佳話あり。景岳、一日、江戸の水戸藩邸に在る原田某が曹舍に於て、西郷南洲に邂逅したりしが、共に多く語を交へず。南洲は、景岳の状貌を觀て、一の「ハイカラ」書生と爲し、心に頗る彼れを慢侮せり。後ち數日にして、景岳、往きて南洲を薩摩邸に訪ひ、國事を談ず。南洲、時に健兒を會して、庭前に角力を取りつゝあり。冷然として、景岳に謂つて曰く、「予は、未だ國事を知らず。唯だ角力を事とするのみ」と。景岳、聽かず。諄々として天下の形勢より、未來の安危を論ず。言々肯綮に中り、凱切を極む。蓋し當時の志士たる、概ね外藩草莽の徒なれば、多くは幕府の機密を知らず。故に其の論議畫策する所も、亦た多くは胸臆揣摩(しま。憶測)の外に出ず。南洲翁と雖も、亦た其の一人たるを免れず。獨り景岳は、夙に幕府の懿親(いしん。親戚)たる春岳公に識られて、公の密勿(みつふつ。機密の政務)に參したれば、其の幕情を知ること、指掌の如く、隨ひて其の着眼も、亦た高處・遠處・大處に在り。南洲、景岳の談を聽くこと暫くにして、瞿然(くぜん。驚く貌)として容を改め、畏敬、其の辭色に現はる。翌日、南洲、答訪して深く前の無禮を謝し、是れより二人、莫逆の友となりきと云ふ。此の頃、薩摩の加治木翁、來訪せられたれば、談、此の事に及ぶ。翁、我れに語りけらく、「南洲の晩年に、人の之れに對して、景岳の人となりを問ふ者ありしに、南洲は曰はく、『之れを刀劍に譬へんか。橋本は畏るべき名作の新刀なりき。外觀、甚だ美ならざりきと雖も、其の切味の鋭利なる、實に海内無比なりき』」と。英雄、自ら英雄を知る。南洲の此の語、以て景岳の小傳に充つべし。而して其の刀や、惡魔の殺人刀ならずして、天神の活人刀なりしなり。

 重野安繹(成齋)、命を奉じて、君の碑文を草するや、景岳・南洲の際會に言及して曰く、「嗚呼、君の達見老識、豈に慷慨□[手+益]腕(やくわん)、快を一時に取りて、大計を知らざる者の比ならんや乎哉。誠に其の生をして中興の際に及び、西郷隆盛等と左提右□[契の上+手](互に相助け合ふ)して、鴻業を贊成せしめば、則ち其の勳績赫々、典型(模範)を天下後世に貽(のこ)しゝこと、顧ふに果して如何ぞや耶。而して隆盛、素と君を推服したれば、其の匡益に頼りて、以て晩節を全くするを得たらんも、亦た未だ知る可からず。豈に重く惜しむ可からざらんや哉」と。其れ或は然りつらんか。春畝老人(伊藤博文公)、太(はなは)だ尊大、人に於て許可すること鮮(すく)なけれど、景岳に對すれば、今ま尚ほ「橋本景岳先生」と呼べり。其の人の器宇識見、一世に空しくするものあるに非ずんば、安んぞ斯くの如く、英俊の崇敬推重を一身に萃(あつ)むるを得んや。

 景岳の行事に關し、特筆大書すべきは、所謂公武合體の擧を策成せんが爲めに、大飛躍を試みたるに在り。安政五年の我が國を囘顧すれば、將軍家定公、俄かに薨じて、幕府に儲君なく、人心、爲めに恟々(不安)たり。當時、景岳は春岳公を助け、水戸烈公の長子にして賢明の聞こえある一橋慶喜公を迎立して、公武の間を調和し、以て國難を救はんことを志せり。時に井伊直弼、大老たり。慶喜公の賢明にして制し易からざるを想ひ、紀州の一公子を迎立して、己れ依然威福を擅にせんとせり。景岳、乃ち意を決して京都に上り、青蓮院宮を始め、鷹司・三條等、□[手+晉]紳諸家の間に周旋し、傍ら天下の志士と協謀し、外國との條約は、敕許批准を朝廷に請ひて、而る後ち實行する事とし、將軍の儲貳は、賢明・年長・輿望を兼ね備へたる一橋家を擁立すべしとの降旨を内定し、將に公表せられんとするまでに至らしめたり。是れ實に二十五歳の一青衿・景岳の手に由りて畫策せられし所なりき。惜しいかな、其の事、幾(ほと)んど成るに埀んとして、奸物輩に沮止せられ、井伊直弼は、遂に將軍家茂公を策立し、同時に所謂安政戊午の大獄を起して、海内の志士を羅織(無辜を網羅して、其の罪を織り成す)し、景岳、陪臣の身を以て、僭越亡禮の擧を企てたりと罪状して、之れを獄に下し、翌年十月を以て、終ひに彼れを小塚原に刑死せり。景岳、時に僅かに二十六歳なりき。

 是に至りて我れは、懇ろに天下の有爲の青年に告げんと欲す。景岳が十餘歳、螢雪の苦行は、最後の一年間の大飛躍を準備し、最後の一年間の大飛躍は、其の人を不朽にし、帝國歴史の在らん限りは、之れを天下後世に傳へ、人をして景仰已まざらしむ。彼れが絶倫の天資は、人々の企及し易からざる所なりとはいへ、彼れに不朽の生命を得しめたるものは、抑々彼れの自奮に由れり。天下の青年、手を咬みて痛痒を感じなば、爾(なんぢ)の身體には、温血あり。爾の身體あらば、爾は、爾其れ自身に樹立する所以を思へ。自奮なるかな、自奮なるかな。



【矢嶋立軒先生『啓發録の敍』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/2



【平泉澄博士『景岳先生と大西郷』】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/951



【備中處士「橋本景岳と書して、橋本左内と呼ばない理由」】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/29



●露伴幸田成行博士『伊能忠敬の晩學』(同上)

 忠敬(東河と號す)、年十八にして、伊能氏の養嗣子となり、五十歳にして、家を其の子景敬に讓るまで、自ら抑へて平々凡々の人となり、一意專心、唯だ伊能家の衰へたるを興し、己が任務を、最も圓滿に最も美はしく果たさんことを期し居りき。

 凡そ才氣あるものゝ常として、己が欲せざることには、一擧手一投足の勞をもをしみ、單に己が欲することにのみ身を委ねんとするは、免れがたき習ひなり。たとひ己が欲せざることなりとも、其の爲さゞるべからざることなる以上は、甘んじて我が情を屈し、我が氣を抑へて、我が爲すべきことをなすは、其の人、啻に才氣あるのみならず、また實に徳量ある人なりと謂ふべし。

 世に才氣ある人は多し。才氣ありて、徳量ある人は少なし。年少くして才のみ優れたるは、譬へば鋭き刀の肉薄きが如し。物を截ることはよくすべし、折るゝ恐れは免るべからず。されば世の奇才を抱きながら、成功を見ずして、中途に事を廢する例は、數へも盡くしがたし。忠敬が算數・暦術の學を嗜み、且つ之れをよくすべき資を抱きながら、自ら甘んじて市井の凡人に伍し、「伊能氏を嗣ぎたる上は、伊能氏を榮えしむべし」といふを、唯一の望みとして、三十餘年、一日の如く、ひたすら家業に丹誠したるが如きは、實に其の徳量の大なるを見るべきなり。

 かくの如くにして、伊能家は興りぬ。景敬は家を嗣ぎぬ。一家の事、また憂ふべきものなし。忠敬が伊能家に對する義務は、是に於て圓滿に果たされたりと謂ふべし。

 忠敬は、始めて閑散の身なりぬ。忠敬の身は、是れより忠敬の自由に用ふることを得べし。是の時は、忠敬、年既に五十歳、常人にありては、もはや老境に入るべき時なり。されど心の壯んなる人には、何歳の時も、前途多望なる青年の春なり。爲すある人には、如何なる場合も、我が力を試むべき處たり。忠敬は、常人が世の務めを辭し、花月の遊びを事とすべき時に當つて、始めて學に就き、而して後ち漸く世に出でんとせり。後の爲すあらんと欲する者、苟くも眞に爲すあらんと欲せば、青年空しく過ぎて、身の將に老いんとするを歎ずることなかれ。

 さるほどに忠敬は、その郷里佐原を出でて、飄然として江戸に到り、寓を深川に定めて、一學生となれり。

 年こそ老いたれ、實に一學生となれるなり。尋常一樣に笈を負ひて郷關を出で、都門に遊びて師を尋ね學に就く書生と異なる所は、唯だ其の若きと老いたるとの差のみ。かくして忠敬は、身を己が好める學に委したるが、己が滿足し信仰すべき師を得ることは容易ならざりき。をりから幕府には、暦法改正の擧ありて、之れが爲め、特に大阪より高橋作左衞門(諱は至時)といふものを召されたり。作左衞門、東岡と號す。算數・暦象の學に精(くは)し。忠敬、急ぎ東岡を訪ひ、其の學の深きに服して、直ちに師弟の契りを結びぬ。時に忠敬五十歳にして、東岡は三十二歳なりき。普通の人情にては、己れより年若き人に會ひては、たとひ己れが學業など、其の人に及ばずとも、猶ほ強ひて自ら高ぶり、敢へて頭を下げざるが習ひなれど、徳量ある忠敬は、いかで誠に敬ふべき學識ある人に向ひて拜伏するを厭ふべき。喜びて、それが門下生となれり。然れども同門の學生等は、師たる東岡の若くして、弟子たる忠敬の老いたるをば、屡々笑柄となしたりと云ふ。

 晩學の難きは、實にいづれの世にありても、かゝる事實の存するがためなり。是を以て非凡の士にあらざれば、大抵、自ら耻ぢて、師に就き學を修むる勇氣を失ひ、空しく志を抱いて墓穴に入るに至るなり。本來の上より云へば、老いて學ぶは、適々其の志の淺からざるを顯はすのみ、復た何の不可かあらん。況んや復た何の耻づべき所かあらん。思ふに區々たる群小の嘲笑も、忠敬に於ては、唯だ蛙鳴蝉噪を聞くが如くなりしなるべきのみ。かゝれば忠敬と同門學生との優劣勝敗は、比較するまでもなく明らかなることなり。忠敬の學術は、さながら堤防の決潰して、洪水のおし寄するが如き勢をもつて歩を進め、終ひに其の學の蘊奧を極めて、東岡門下に肩を比すべきものなきに至れり。

 かくて忠敬が、はじめて幕府より測量の命を蒙り、其の修得したる學術を實地に運用する機に際したるは、實に其の年、五十五歳の時なりき。五十五歳といへば、人は頽齡、用ふるに堪へずとする年齡なり。されど忠敬は、氣力旺盛、さながら壯年の人の如く、測量の命下るに會ひて、喜色滿面に溢れ、即日にも出發せんとする勢ありきといふ。忠敬が、事に當りて勇往直前、險阻に屈せず、風濤に辟易せず、遂に其の志す所を完成したりしは、一に此の元氣勃々として、燃ゆるが如き熱心を、胸裏に藏(をさ)めたるによれるなり。誰か日本人を、早熟早老の人種なりといふ。是れ豈に我れに、伊能忠敬あるを知らざるものにあらずや。
 
 

福井縣に於ける、泉水隆一監督作品『凛として愛』上映。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月11日(金)23時57分12秒
返信・引用 編集済
   花時計の「藤」樣からの御知らせです。福井縣鯖江市にて、泉水隆一監督作品『凛として愛』が上映されます。お知り合ひの御方がいらつしやれば、ご連絡くださいますやう、幾重にも御頼み申し上げます。



── 記 ──

 明日から三日間、福井県の平和祈念館で行われる「戦争資料伝えたい。平和の尊さ‥‥特別展示会」の中で、 泉水隆一監督作品『凛として愛』の上映が行われます。お近くの方は、ぜひご参加ください。

~戦争資料伝えたい。平和の尊さ‥‥特別展示会。『凛として愛』上映会もあります。~

【日時】平成25年10月12日(土)~14日(月)10:00~17:00

【場所】福井県平和祈念館(鯖江市水落町・嶺北忠霊場内)
    福井県鯖江市水落町1丁目18番22号(TEL=0776―22―0822)

【主催】一般財団法人・福井県遺族連合会
【協賛】英霊にこたえる会福井県本部
【後援】福井県
    鯖江市
    福井新聞社
    FBC福井放送
    福井テレビ

チラシhttp://www.hanadokei2010.com/images/calender/20131012.jpg

~泉水隆一監督作品「凛として愛」上映スケジュール~
≪上映時間≫
10:15~11:25
11:30~12:40
12:45~13:10
14:00~15:10
15:15~16:25

【協力】愛国女性のつどい花時計

チラシhttp://www.hanadokei2010.com/images/calender/20131012.pdf

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藤真知子:fuji.machiko@gmail.com
花時計HP:http://www.hanadokei2010.com/
代表者ブログ「マダムの部屋」:http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
週刊花時計:http://www.yamatopress.com/column/pg41.html
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思ひ立ちぬる、草枕かな哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月11日(金)21時28分11秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 遲塚麗水翁の紀行文の玉章に、暫く立ち留まられむことを。學ぶ所、亦た多かる可し。燈下に之を讀めば、精神脱魂、其の地に在つて、宛ら行くが如し。風韻千古、恍として、往昔に憶ひ及ぼさしめ、思ひ立ちぬる、草枕かな哉。殊に『不二の高根』は、名文中の名品、世に聞こえたるも、大作第一段のみ之を抄して、無盡の餘韻を、少しく燻らせんと欲す。吁。



●麗水遲塚金太郎翁『筥崎の宮』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 筥崎の宮は、應神天皇の胎衣を埋め奉りし處にして、頗る神靈の地なり。廟の四邊、大樹森然として、極めて幽高なり。林の盡くる處に、邃然(すゐぜん。奧深き貌)として廟門を望む。金碧の彩色、多く剥落すと雖も、老丹古紺、一脈崇高の氣、人の懷中に入る。廟門の□[匚+扁]額は、醍醐帝(愚案、龜山上皇)の宸筆「敵國降伏」の四字にして、其の縁を紺にし、其の地を朱にし、御筆の痕、豐腴敦和(肉太く豐かに穩かなり)のうちに、自ら矯勁(強く力あり)の氣あり。人をして仰ぎ看て、襟を正しうせしむ。廟前の函松、蒼々たり。謂ふ、「是れ、應神天皇の胎衣を埋め奉りし處なり」と。廟門を入れば、廟門の關貫(くわんぬき)は、有名なる千頭猿(せんびきざる)なり。畫梁繪欄(梁・欄干への彫刻彩色)、莊麗を極む。宮司の家に、「敵國降伏」の神符を賣る。

 廟の邊は、即ち「千代の松原」公園にして、支那人の、目して十里松といふものなり。滿目の赤松、異態千萬、豐臣秀吉、名護屋に在りし時、屡々千の利休を拉(らつ)して、來りて此に遊び、松風のうちに茶を煎しめき、と。三百年風流の跡は、今ま此の林中に在り。「千宗易點茶地」といふ、一小碑立てり。傳へ曰ふ、「利休、毎々此の松枝に小釜を懸け、松子を燃きて茶を煮、以て豐公に獻じたり」と。松釵(しようさい。松葉)萬地、沙の軟らかなること、蒲團の如し。猿面炯目の人、便服(平生の服)して箕踞(脚を投出して坐す)し、清□[病埀+懼の右。く]、鶴の如き一衲子(坊主)と共に、蕭然として松籟(松風)を聽く。風韻千古、恍として、當時に憶ひ及ぼさしむ。



●遲塚麗水翁『吉野山』(同上)

 星かと咲き、霞かと蒸し、雪かと散る、日出の國の名花と稱せられし櫻花が、二十四番の春風に殿して開き、一夜の風雨に潔く散り果つるは、之れを沈毅淵默、然諾を苟くもせずして、一たび諾哉を呼ぶに及べば、腰間の寶刀と共に亡びて、些かも悔ゆることなき古武士に比喩せられたり(櫻を古武士喩ふるは、吉野を記するに於て、最も當を得たり矣)。

 實に朝日に匂ふ此の花を仰ぎ見ては、唐人も高麗人も、大和心になりぬべき吉野の山は、別に汗青(史籍)の上に、萬古の事蹟を傳へ、名勝の區は、更に又た一の靈地となり、「あさぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」の風流温雅の雪は、「眉雪の老僧、時に箒を輟め、落花、深き處に、南朝を説く」の悲愴感慨の山となりたり。

 京都、若しくは大阪より、奈良・下田驛を歴て、高田驛に至る南和鐵道に乘じ、新庄・御所・壺坂の諸驛を過ぎて、吉野口の停車場より汽車を下る。是れより吉野山に至るまで、僅かに二里、吉野川の邊、六田の渡、□[目+屬。しよく]目(目に映る景色)、既に凡にあらず。水碧に山青く、遠櫻の色、さながら幾團不動の屯雲(堆積せる雲)を作る。上峰萬朶の花の露、隕(お)ちて水中に入り、水も亦た香しからんと疑はるゝ吉野川を渡れば、路、漸く嶮なり。路に傍うて、稚櫻あり。昔は、老樹竝立して天を掩ひ、花時には、宛ら花洞を作りしが、維新の際に、多く伐斫(ばつしやく)せられしかば、後ち栽うるに幼木を以てしきと云ふ。路傍に石碣(石標)を立て、町程を誌す。二十町にして、老樹多し。長峰の樓の邊より、稍々佳境に入り來る。路傍の山に、村上義光の墳あり。碑を路側に立つ。別に豐太閤の、侯伯を率ゐて、觀花の盛宴を張りたる舊蹟あり。行くこと數町にして、「口の千本」に至る。茶亭あり。竹欄に凭(よ)つて、下瞰すれば、皆な櫻花なり。花氣氤□[气+温の右](いんうん。氣の盛んなる貌)、山谷に充滿し、身は白雲の上に坐するが如し。峰脚溪頭、馬を牽くもの、草を負ふもの、施々(舒行する貌)として路を行き、花を穿ち、また花を出づ。三十三町の石碣を過ぐれば、一水、路を絶ち、橋ありて通ず。欄干の邊に、豐臣秀頼再修の銘を誌す。之れを過ぐれば、則ち吉野町南北十餘町、簇々として數千百家あり。旅館と商舗と相交はる。吉野の坊門の中に、「隱れ松」といふものあり。櫻雲に埋沒して、矯姿(氣高き姿)を覓(もと)め得ず。花散して、始めて晩翠を見るが故か。此の邊の櫻を、「關屋の櫻」といふ。

 藏王堂に詣れば、先づ山門を見る。甚だ荒涼たり。村上義光が、大塔の宮の御鎧を□[手+環の右。くわん]し、詐り名のりて健鬪し、終ひに腹を割き腸を抉出し、賊に抛(なげう)ちて、「最期の模範にせよ」と呼ばりしは、正に此の門上欄干の邊なり。門を入れば、一庭落莫、藏王權現堂あり。堂は粉壁朱楹(白壁・朱塗りの丸柱)、簷(のき)高く啄(ついば)む。堂の前の中庭は、即ち大塔の宮が、生別の酒宴を催したまひし處なり。山風晩寒を催し、櫻花やうゝゝ碧なる時、人をして徘徊顧望して、去る能はざらしむ。

 更に溪畔の逕を行き、杉の森を過ぎて、一坂を陟(のぼ)れば、則ち後醍醐帝の英靈の、長へに在します處なり。御陵は、北に向へり。「常に北闕(京都の皇居)を望む」と宣ひ、慷慨して劒を按じて崩じ給ひし事を憶へば、誰れか涙を墮(おと)さゞらん。御陵の上、松柏森然、□[風+叟。しう]々(風の音)として、天風に鳴る。御陵の左右、櫻花多し。

 御陵の下、數十歩にして、小楠公の髻(もとゞり)塚あり。數百歩にして、如意輪寺あり。本尊の如意輪觀音は、後醍醐帝の宸作なり。巨勢金岡の、吉野より熊野までの山水を繪きし龕(がん)の扉に、亦た御題の詩ありと云ふ。後醍醐帝の御像あり。又た小楠公の梓弓の歌扉あり。鏃痕、今ま猶ほ鮮明なり。寺僧、髻塚の碑と歌扉の摺本とを賣る。「中の千本」は、此の邊なり。

 如意輪寺に近く、竹林院あり。山中の一名勝なり。園は小堀遠州の經營したるもの、樹石の按排(配置)、自然に出で、老櫻數十幹あり。花、稠密(ちうみつ)にして、空を見ず。假山に上りて、軟草の氈の如きところに、箕踞して騁望(ていばう。眺め渡す)すれば、藏王堂は眼下にあり。南は千丈ケ谷、東は溪を隔てゝ、低松一路、麥疇(麥の畝・畑)あり、茅屋あり。山櫻、處々に屯雲を作り、峯に陰晴あり。

 如意輪寺の南に、吉水神社あり。元と吉水院と稱し、後醍醐帝の吉野山に入り給ふや、先づ行宮を此に定め給ひし處、「花に寢て よしや吉野の よし水の 枕の下に 石ばしる音」とは、此の院に在しましゝ時の御詠なり。後醍醐帝の靈を祀る。

 義經の臣・佐藤忠信が、主に代はりて詐り名のり、僧兵と力鬪したるところの花矢倉の邊を過り、子守神社に詣る。社殿廻廊、亦た華美なり。社背に行けば、衆谷の花を看盡くすべし。「奧の千本」とは、此の邊なり。是れより花、漸く稀に、路も亦た險なり。更に上峯に至り、「淺くとも よしや又汲む 人はあらじ 我れにことなる 山の井の水」なる苔清水の細流を渡れば、則ち西行庵あり。白雲青山、世と隔離す。吉野の花は、此に盡く。

 勝手明神の背後の路を右すれば、後醍醐帝の行幸の芝生あり。又た行くこと四五町にして、櫻茶屋あり。老櫻あり。枝は、さながら解きたる索(なは)を懸けたるが如し。埀枝櫻なり。花、甚だ密著し、玉簾、中宵(中空)より埀る。「雲井の櫻」といふは、是れなり。櫻の下に立ちて眺望すれば、白雲平布して、谷を見ず。諦視(明かに能く見る)すれば、皆な花なり。雲の缺くるところ、吉野の町を見る。金剛の峯、葛城の山、龍王・多武の峯、遙青近碧、來りて人を照らす。



●遲塚麗水翁『不二の高根』(同上)

 帝、紫微の宮に坐し、群仙を會して曰はく、「東方精華の鍾(あつ)まる處、坤輿(大地)の中樞なり。それ大山を作りて、永く萬邦の鎭めとなすべし」と。一夜にして大地を擘(へき)して、此の不二の高根を成す。史あるの前、幾千萬載、斯の山、既に秀でて靈あり。惟れ孝靈帝の御宇、東海の氣、漸く清明に、始めて斯の山を中宵に見る。頂は分かれて八峰を成し、其の雪を戴くが爲めに、宛も玉芙蓉の如し。爾來二千年、仰げばいや高く、望めばいや尊し。歌仙も、其の高きさまを歌ひ盡くす能はず、畫聖も、其の尊き形を畫き盡くす能はず。岳神は、容易に祕奧の符を示さずして、唯だ人の、獨詣して冥契を得るに任(まか)せ、三千年にして、一人、之れを歌ふものあり、五千年にして、一人、之れを畫くものあるを俟つ。‥‥




 愚案、文に恍たるも、偶には宜けれども、然り而して吉田松陰先生、かつて大和に、文人として名ありし森田節齋翁を見、暫く逗留、「文事を治むるに精力を注がんか、又た文事を棄絶して、專ら兵學を用ゐんかと、心緒錯亂」したが、「斷然一決」して、本務たる兵學に復したと傳へらる。文事を治むるは有益であらうが、こゝに佐久良東雄先生の嚴訓を記し置くものなり。

かならずゝゝゝゞ學者にも、詩人にも、歌よみにも、何にも、成らんと思ふ事、狂人の心也。唯々々々、楠正成の尊の如き忠臣にならうと、一向一心に思慮ふべし、思うて修行すべし。無事なる時には、家業の餘暇には、他人の寢る間、遊ぶ間、千萬の御恩奉謝の一端に、著述すべし。御國に事ある時は、御爲に、天神地祇をいのり奉り、はかりごとをめぐらし、事を成すべし。事ある時、書物をよみ、著述などのみして、默々としてあるは、畜生とも、何とも、名付け難し。誠に學者は無用なものと思はるべし。愚父(佐久良東雄先生)が自歌に、
人丸や 赤人の如 いはるとも 詠歌者(うたよみ)の名は とらじとぞおもふ
一筋に 君に仕へて 永世(ながきよ)の 人の鑑と 人は成るべし」(『遺書』)と。
 
 

河原博史翁の講筵『尊皇と勤皇』ご案内。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 9日(水)23時34分26秒
返信・引用 編集済
  『皇國復古中興の集ひ』の御案内

──「九段塾」縁故の河原博史翁の講演です。近隣の御方には、是非ご參加ください。講演だけでも、お聞きになつて下さい。──

     記

演題:『尊皇と勤皇』

講師:河原博史氏

     ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/

日時:平成二十五年十月二十日(日曜)五時半開場・六時開演

會場:新宿區立新宿文化センター四階(東京都新宿區新宿六の十四の一)
會費:千五百圓(飲物附)

懇親會費:三千圓(懇親會々場は豫約の爲め、十月十日迄に、主催者への電送にて御連絡を)

主催:むさしの倶樂部(代表・貴田誠)
 住所:東京都新宿區歌舞伎町二の二の六の六〇一
 電送:〇三―五二八五―四九一二
 電話:〇八〇―一二五七―九六二七
協贊:盛道烈士會
   亞細亞史觀研究會
   山縣大貳大人顯彰會
 
 

吾人臣民の、皇室に對し奉る本務。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 9日(水)21時15分29秒
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  ~承前~

 古人學問の教養として、『唐宋八家文』・『文章軌範』あり。然るに小生、就中、好む所の支那先哲が文を讀むのみして、全く無學を耻づる所なるも、今ま幸ひに小生が机上に、陸軍中央幼年學校の讀本『今古文粹』を存す。是には、嘗て高校の圖書館にて借出した所の、高山樗牛の論説も收め得たり。『瀧口入道』以來、樗牛の名文は、小生の好む所であつたものゝ、論に些か異見あつて、暫く繙くことも無かつたが、次の前者の文章は、簡にして要、日本精神を涵養するに足る。後者の名文は、一讀、小生をして慕情を懷かしめたり。記して有志と與に、音讀朗誦に資せんと欲す。



●樗牛高山林次郎博士『皇室に對する本務』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 熟々史を案ずるに、天祖天照大御神、瓊瓊杵尊に詔して宣はく、「豐葦原の瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。爾ぢ皇孫、宜しく就きて治むべし。行け。寶祚の隆えは、當に天壤と窮りなかるべし」と。皇孫、此の詔を奉じて、此の土に降臨し給ひてより、列聖相承け、神武天皇に至り、奸を討じ逆を誅し、以て四海を統一し、始めて政を行ひ民を治め、以て我が大日本帝國を建て給ふ。神武天皇の即位を以て、國の紀元と定む。

 神武天皇の即位より今日に至るまで、年を閲すること殆んど二千六百年、歴聖相承け給ふこと、茲に一百二十餘代、皇統連綿として一絲紊(みだ)れず。道に盛衰あり、時に汚隆なきに非ずと雖も、未だ曾て臣下にして、神器を覬覦したるものあらず。偶々是くの如き狂暴の徒あれば、天誅、立(たちどころ)に至りて、皇道、益々蕩々(盛なる貌)たり。萬世一系の皇統と、無窮不易の寶祚とは、大日本帝國の、世界萬國に秀絶する所なり。

 之れを世界の歴史に徴するに、古今を貫き東西を通じて、何處に我が國の如き崇嚴なる國體あるか。外國の中には、間々廢讓常なく、革命相追ひ、君臣の情、見るべきもの無く、國體の美、取るに足らざるものあり。之れを我が帝國に比すれば、其の差、啻に天淵(天地)のみに非ざるなり。されば我が國民たるものは、常に皇祖皇宗の宏謨悠大なる遺業と、歴代聖主の宏深篤厚なる遺徳とを思ひて、報效の實を擧げんことを期すべきなり。

 且つ夫れ皇恩の大なるや、殆んど物の得て比すべきなし。其の遠きを言へば、天祖、此の國を肇め給ひしより、以て今日に至る。其の廣きを言へば、億兆を擧げ四海を包みて、遠く異邦に及ぶ。其の政教を施すや、刑憲の密なる、非違を抑へて遺漏なく、聖恩の普き、普天の下、率土の濱に及ぶ。世々の臣民、禍害を免れ壽康を保つを得たる者は、一に皇恩に非ざるはなし。實に歴代の聖主は、天下の心を以て心とし、萬民の休戚(安否)を以て一身の利害となし給ふ。是を以て聖主、或は高臺に登りて炊烟を望み、或は寒夜、下民の窮苦を憐みて御衣を脱がせ給ひき。宵衣□[日+干]食(夜未だ明けざるより日暮るゝまで、事を執り給ふ)、偏へに國民一般の利益の爲めに、叡慮を惱まし給ふことの深厚なるは、國民の能く想ひ到る所に非ざるなり。國に禍災あれば、内帑を割きて窮民を賑はし、國防軍備、其の急を告げて、而も國庫歳入、未だ遽かに其の鉅費を辨じ易からざるに當りては、宮禁の儲餘を擧げ、内廷の歳費を省きて、其の費に充(あ)て給ふ。山高く海深きも、未だ以て國家臣民を軫念し給ふ、聖慮の優渥なるに比するに足らず。吾人臣民たるもの、思ひ一たび茲に至れば、感涙、袂を濕さずんばあらざるなり。

 國體の美、皇恩の大、其れ此くの如し。されば苟くも事、皇室に關する時は、國民は國法の容(ゆる)す限り、躬を挺(ぬき)んでて、忠良の誠を致さゞるべからず。若し夫れ一朝緩急ある時は、粉骨碎身、以て義勇奉公の精神を鼓舞し、各々皇室の干城たらざるべからず。男子生れて、皇室の爲めに一命を犠牲に供するは、實に千載一隅の名譽と謂ふべきなり。且つ我が帝國、今日の盛運は、歴聖の偉業に成るが故に、之れを天壤無窮に奉戴守衞するは、吾人臣民の務めなり。而して之れを爲すの道、唯だ一身を修め、一家を齊へ、其の躯を健にし、其の産を治め、平素、忠勇無雙の精神を涵養するにあり。臣民にして、文弱に流れて、尚武の氣象に乏しく、忠憤、死を辭せざるの精神なきに至らば、遂に國家の萎靡(漸く衰ふ)を來し、皇室の衰替を速(まね)かん。是くの如きは、君國に對して不忠不義の甚だしきものと謂はざるべからざるなり。



●臨風笹川種郎博士『鎭守の森』(同上)

 滿目蕭然(物淋しき貌)として、田も畠も霜枯の風情、見るかげもなき間に、一むら緑樹の鬱葱たるものは、鎭守の森なり。金も石も□[火+樂。と]けんばかりの夏の眞晝中に、一陣の涼風、殿角より起りて、行人田夫の汗を拂ふものは、鎭守の森なり。春の朝には、祠前一二株の彼岸櫻咲きこぼれて、一村に花信(花の便り)を傳へ、秋の夕には、社後の蔦葛、紅を染めて、夕日の色もまばゆし。花朧(おぼろ)なる曉、月細き夜、松杉暗くして、瑞籬(みががき)のほとり神さびたり。詩趣、獨りこゝに饒(ゆた)かにして、何事のおはしますかは知らねど、神々しく覺ゆるなり。

 日落ちて、月漸く上る時、涼を趁(お)ふ人々の影、婆娑(影映れる貌)として、鎭守の森は、村人一日の勞を慰する處たり。祠頭の旗幟、翩翻として、風に靡く時、村の老幼、織るが如く、鎭守の祭禮は、一歳中、復たと得がたき歡樂たるなり。年豐かなれば詣り謝し、天旱すれば雨を乞ふ。洵に鎭守の森は、一村の望を聚め、一郷の中心として、神聖なる、しかも面白き處たるなり。

 かゝる鎭守の森にゐます神は、多くは、其の土地、其の土著の民と、何等かの關係あり。遡つて之れを考ふれば、氏族部民の祖先を祀りたるものも少なからず。諸國に鎭座したまふ神社は、畢竟、鎭守の森の大いなるものなり。鹿島・香取の神宮は、經津主神・武甕槌神の子孫が創めたる處にして、宇都宮二荒神社は、毛野君の一族が、其の祖先を祀れる處なるべし。其の一層大いなるものには、出雲大社あり。其の最も大いにして、日本の鎭守たるものには、五十鈴川の上に宮柱太しく高き、伊勢大神宮もあらせ給ふなり。

 之れを小にしては、一村の中心にして、之れを大にすれば、帝國の中心なり。祖先の神靈・前賢の精魂は、長へに鎭守の社中に留まりて、子孫・後人の精神に通ひ、彼れ等をして奮勵自進せしむべし。天佑神助の信仰は、勇氣鼓舞の最良法なり。しかも信仰とは、權道に非ず、方便にあらずして、直ちに神に接し、靈に感ずる唯一の法なり。

 祖先崇拜なるかな。是れ獨り原始の觀念のみにあらず、祖先の功勳は、後人奮勵の料たり。子孫の名譽心を發揮すべき興奮劑なり。但し其の崇拜をして保守的たらしむる勿れ、囘顧的たらしむる勿れ、進歩的たらしめざるべからず、自覺的たらしめざるべからず。

 是に於てか、鎭守の森をして、一層、一村一郷の中心たるの寶あらしむべきなり。森をして神さび、靈の窟宅たるに適せしむべきなり。之れが爲めには、樹の苗を植ゑ、草莱を去り、祠宇を修め、園池を美にすべし。一村一郷の崇敬地たらしめ、遊樂地たらしめ、集會所たらしめ、心なき田夫にも美の觀念を與ふる處、村人の誇りとする處、他郷に在りても、猶ほ戀々の思ひあるべき處たらしむべし。小學兒童の運動會も、之れを中心として、此の附近に行はしむべし。小やかなる村落圖書館の如きも、このほとりに設けらるれば、最も妙なるべし。鎭守の森をして、一村一郷の中心たるの寶あらしむるは、蓋し風化の上に得る處、極めて大いなるものあらん。



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