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神武天皇に仰ぎ奉れ ── 皇國中興の本幹。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 5月 4日(日)19時22分48秒
返信・引用 編集済
   前に、贈從三位・大學中博士・毅軒玉松操眞弘翁の名が出て來たので、こゝに眞木紫灘先生を掲げて、世の喚起注視を、特に促して置きたいと思ひます。

 神武天皇御創業に立囘るてふことは、即ち「神武天皇、神代の例をのみ、とり行ひ給ふ樣にあらまほしき事」(『經緯愚説』)を申し上げるのであります。平成中興の理想に在つても、亦た然りであること、勿論であります。決して「普通の國」になる事では無いのであります。



■贈正四位・靖國神社祭神・久留米水天宮第三十二代祀家大宮司・山梔窩紫灘眞木和泉守平保臣先生『南僊雜稿』

茫茫たる彼の蒼天、視聽、自ら有り焉。
悠悠たる此の人世、大道、則ち坦然たり。
死して以て仁を爲す、屈すと雖も、亦た猶ほ伸びん。
生きて以て僥倖なる、萬世、公論を奈(いかん)せん。
我、唯だ吾が志を展(の)ぶ、生死、一に義を取らん。
我、其の他を知らず、以て丈夫の事を爲すのみ。



■眞木紫灘先生『木村三郎に與ふる書』(文久三年十月二十日)

一朝、忽ちに奸人に忌まれ、天下、既に足を容るゝの地無し。
數畝の山園、猶ほ求む可し、如何、聖主、中興の事。

‥‥必死の地に陷り、却つて綽々仕り候ふ樣、相覺え申し候ふ。『大日本史』、恐ろ敷く候ふ間、此の節は、見事、戰死の積りに御座候ふ。



●平泉澄博士『眞木和泉守の理想』(神道史學會『神道史研究』昭和三十九年五月號所收)

「眞木和泉守は、二心なく君を慕ひ君を思ふ純情を、菅公によつて養はれ、一身一家を棄てゝ皇統を護持し奉らんとする熱情を、楠公によつて鍛へられた。眞木和泉守にとつて、最も大切なる恩師であつた。しかし菅公は、和泉守の生れた文化十年より、九百年も前の人であり、楠公にしても、四百七十餘年前になくなつてゐるのである。年代の斯くの如きへだたりは、現實との結びつきを困難ならしめ、敬慕は敬慕として、とかく現實の批判とは遊離せしめやすい。こゝに媒介の勞をとつて、先哲先賢の教を、今の世に切實ならしめたものは、水戸學であつた。‥‥

 既に『大日本史』に觸れて激發せられ、『大日本史』によつて開眼せられたとすれば、和泉守の見る所は、悠々二千數百年、國史の全體を達觀するものであり、その目標とする所が、特に建國創業の際にあつて、現在の改革が、その精神、その規模を、神武天皇の創業に則るべしとするものであつた事に、少しの不思議もない。されば文久元年の『經緯愚説』(★註一)には、

一、創業の御心得の事の條に、神武天皇、九州より東征して、中州に皇化を敷き給うた功業を目標にし給ふべきを説き、
二、節儉を行ふ事の條に、太古の朴素に挽囘すべきを説き、
三、百敗百成の事の條に、神武天皇、御東征の際、軍いくたびか利あらず、御兄弟の宮、相ついで戰死し給うたに拘らず、それに屈せずして、終ひに大業を成就し給うた、其の不屈の御精神を繼承のあらせらるべきを説き、
四、舊弊を破る事の條に、奈良・平安以降の例格になづむ事なく、遠く古に立囘り、天智天皇以前、神武天皇もしくは神代の例を御考へありたしと説き、

くりかへしゝゝゝゝゝて、神武天皇の御創業を規模とすべきを論じてゐるのである。

 同樣の趣旨は、文久三年七月の『五事建策』にも見え、また文久三年八月以後、坂木氏に與へたる書翰にも見えて、和泉守が建武中興に目標を置かず、それを遙かに越えて、遠く神武天皇の創業に着目した事は、明瞭である。只こゝに問題となるのは、和泉守の此の目標が、いつ頃より説かれたものであるか、また果してそれが中央にまで達したものであるか、といふ二つの點である。

 何故かと云へば、明治維新の際に、人々多くは建武の中興を目標として進んでゐたのに、これを一轉して、神武天皇の創業にまで遡らせたのは、玉松操の功績であつて、操は此の理想を、その師・大國隆正より受けて、之を岩倉具視に進言し、具視、之を以て朝議を決した爲である(★註二)とするのが、從來の通説であつて、此の通説の前には、和泉守の理想は、殆んど無視せられて來たからである。

 玉松操を、かやうに重視するのは、よりどころのある事であつて、それは井上毅の『梧陰存稿』(明治二十八年刊)に見え、更に『岩倉公實記』(明治三十九年刊)に述べられてゐるのであり、その事、疑ふべき所ろ無いやうに見えるが、しかし玉松操が初めて岩倉具視に會つたのは、慶應三年二月であつて、眞木和泉守の歿後すでに二年半を經過してゐるのである。和泉守の、神武天皇の創業に復すべしとの論は、すでに述べた如く、文久元年の『經緯愚説』に見えてゐるが、それが最初かといふに、さうではなくして、安政五年六月、『野宮定功に呈した書』の中に、承久・建武の着眼、狹小であつて、範とするに足らず、よろしく古昔の隆世に挽囘せらるべしと説いてゐるのを以て、その初見とすべきであらう。

 しかも同樣の趣旨は、安政五年の四月に、大宰府延壽王院信全僧都に託して、『三條實萬に呈した書』の中に、すでに述べられた筈である[『(眞木和泉守)遺文』四十八頁・『年譜』二十頁參照]。當時、野宮定功は參議であり、三條實萬は前内大臣であつて、地位から云つても、人物から云つても、實萬(★註三)を重しとしなければならぬ事、いふまでも無い。そして實萬が、和泉守の建白を見て感動した事は、翌年正月二十八日、實萬より延壽王院に與へた書翰に見えてゐる。‥‥(紫灘先生自寫『澹空公御俗翰三通・安政六年九月十八日』──平泉澄博士、之を發見、祕匣に藏して、『丹精帖』と名づけられたり)‥‥和泉守の「丹精」をこめた「一策」は、内々實萬の手に入り、實萬は之を「熟覽」し、「感佩」してゐる事、明かである。そしてそれが、參議野宮定功に呈したものと同趣旨でなければならぬ事は、『遺文』の編者の記述によつて知られるのであるから、主要なる内容は、承久・建武に則る事なく、直ちに神武天皇建國創業の古に溯り、こゝに理想を仰ぎ、こゝに目標を定め、百敗屈せず邁進すべしとの進言であつたに相違ない。

 果して然らば、明治維新の規模・理想・目標、一に之を神武天皇に仰ぐべしとするは、決して慶應三年二月、玉松操の岩倉具視への進言に始まるものでなく、それはそれで岩倉を動かしたであらうが、實ははやく安政五年四月に、和泉守の喝破して、三條實萬に進言し建策した所であり、實萬は不幸にして間もなく倒れたが、その子・實美、父の志をついで奮起し、和泉守の輔翼をうけて達成しようとした事を思へば、維新の主流は、やはり此の筋にあつたとしなければならないであらう。和泉守が大山の峰の岩根に埋めた所の、その年來丹精をこめた「大和魂」が、いかなる深刻、いかなる純忠、いかなる規模をもつものであつたかは、是に於いて想察せられるであらう」と。



★註一。
「經」
一、宇内一帝を期する事。一、創業の御心得の事。一、徳を修むる事。一、經筵の事。一、紀綱を嚴にする事。一、賞罰を明かにする事。一、節儉を行ふ事。一、親征の事。一、百敗一成の事。
「緯」
一、言路を開く事。一、舊弊を破る事。一、封建の名を正す事。一、古來の忠臣義士に神號を賜ひ、或は贈位・贈官、或は其の子孫を祿する事。一、九等の爵位を修むる事。一、文武一途にして、其の名を正す事。一、勳位を復する事。一、服章を正す事。一、文武の大學校を建て、天下の人材を網羅する事。一、伊勢・尾張の神器御扱方の事。一、親衞の兵を置く事。一、僧を以て兵とし、寺院を衞所とする事。一、兵器を改め造る事。一、古訓師を學校に置きて、舶來の器械に名を命ずる事。一、財貨を公にする事。一、邦畿を定むる事。一、帝都竝びに離宮を定むる事。一、租税を輕くする事。一、官制を改むる事。‥‥

★註二。『三宮(義胤)覺書』(伊藤武雄氏『復古の碩師・玉松操』上卷──昭和二年八月・金鷄學院刊に所收。玉松操(深青)翁は、大國隆正翁の所謂門人に非ずして、特立の皇學者なり。是れ大国翁、亦た平田大壑先生の所謂門人に非ざるに、亦た同じ。而して玉松翁は、就中、栗山潛鋒先生に畏服せりと云ふ)に曰く、
「始め玉松先生の、北山に岩公を訪はるゝや、即夜、天下の形勢を論じ、談次、公が後醍醐天皇中興の偉業に復せんとするの宿望あるを聞き、先生、襟を正して曰く、『凡そ天下に事を爲さんとする、須らく志望、遠大なるを尊ぶ。今ま公が建武中興の事を企圖するが如き小慮ならんには、奚んぞ能く天下の大事を爲す可けんや。何ぞ神武天皇創業の大に傚ひ、大政復古の基礎を建てざるや』と、確論、凛乎として動かす。是に於て公、初めて夢の醒むる心地し、遂に先生の卓論に服し、始終、先生を師父として敬せりといふ」と。

 『岩倉公實記』中卷に曰く、
「(慶應三年)九月、具視は、中山忠能・正親町三條實愛・中御門經之と共に、王政復古の大擧を圖議するや、忠能等、『建武中興の制度を採酌し、官制を建定せん』と論ず。具視、以謂へらく、『建武中興の制度は、以て模範と爲すに足らず』と。之を操に諮問す。操の曰く、『王政復古は、務めて度量を宏くし、規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、當に神武帝の肇基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機、維新に從ふを以て規準と爲すべし』と。具視、之を然りとす。是に於て新政府の官職制度は、操の言に從うて、之を建定すといふ」と。

 井上毅翁『梧陰存稿』に曰く、
「(岩倉)公は、玉松の功を推して、『己れの初年の事業は、皆な彼の力なり』とまでのたまへり。薨去の前年に、一夕ことさらに余をめして、玉松の履歴を物語り、『其の人の績を空しくなせそ。書きしるして、後の世の語り繼ぎの料とせよ』と、慇懃に仰せられけり」と。

 甕江川田剛翁『從五位・玉松君碑銘』に曰く、
「(岩倉)公、甞て人に語りて曰く、『博識多才、狷介、自ら守ること、吾が眞弘(操)の如き者は、世、未だ其の比ひを見ず』と。而して君も亦た曰く、『鞠躬盡瘁とは、甞て其の語を聞く。今ま其の人を見る、岩倉公、是也』と」と。

★註三。文部省維新史料編纂事務局『維新史料聚芳』(昭和十一年十二月・巧藝社刊)に曰く、
「實萬、天資英邁、學徳竝び高く、光格・仁孝・孝明三朝に歴仕して、信任、特に厚く、聲望識見、遠く菅丞相に比せらる。嘉永・安政の交、武家傳奏を兼ね、廷中の振肅、時艱の匡救に、其の力を効せり。安政の末、幕府内外の措置を失し、公武の間、乖離するに及び、慨然として叡慮の貫徹、幕府の革新に志し、獻替劃策これ勗め、上、亦た一に倚頼し給へり。幕府の大獄を起すや、最もその忌む所と爲る。屡々叡旨を下して救解し給ふも、遂に及ばず。落飾して澹空と稱す」と。



●平泉澄博士『維新の先達・眞木和泉守』(『先哲を仰ぐ』所收)に曰く、

凡そ明治維新の偉大なる改革の殆んど全部は、眞木和泉守の方寸より出て來たものであります。どれを見ても、さうであるとさへいつてよい。第一に、神武天皇創業の昔に歸れといふのが、眞木和泉守の精神でありました。これは從來、誤解されてをりまして、元は建武中興を目標としてをつたのが、神武天皇の昔に歸れといふことをいひ出したのは玉松操であつて、その玉松操が、慶應三年に、岩倉具視に進言したところより、初めて建武より更に一變して、神武天皇の昔に復古することを目標とするに至つたといふことは、明治を通じていはれてきたところであります。これは、であります。玉松操が出て來、岩倉具視と提携して、神武天皇の昔に歸らうといふことをいひ出すに至りましたのは、今ま申し上げました如くに、慶應三年でありまして、それ迄は、玉松は働いてをりませぬ。玉松が働いてをらぬばかりではない。岩倉その人が、明治維新には反對の立場にをつた人とであります。眞木和泉守のをられます間は、岩倉具視といふ人は、眞木和泉守と、むしろ正反對であるところの公武合體、即ち現状維持に力をいたしてをつた人であります。それが王政復古派として立ち、玉松操の建言を入れて、神武創業の昔に歸れといふことをいひ出したのは、慶應三年であります」と。



●阪本健一翁『津和野藩主從と眞木和泉守』(『神道史研究』昭和三十九年五月號。『明治維新と神道』・『明治神道史の研究』所收)に曰く、

「『岩倉公實記』には、具視が王政復古の基礎を玉松操に諮問した事がのせてあるが、それはそれとして、吾々は、明治の新政に於て、次々と發せられた諭告文や布告・達等を檢討すればする程、和泉守、朝廷の側近にありて、文案を起草せしにあらざるかと疑ふのである」と。

○愚案、阪本健一翁は、平泉澄博士の所論に同調せられしものならむ。『王政復古の大號令』渙發の前日に、三條實美公等の所謂七卿の復權が認められたが、紫灘先生大見識の影響は、在朝の同盟公家の腦裡に、嚴として猶ほ存してをり、中興復古の「文案を起草」せしめたであらう。春秋の筆法を以て之を書すならば、眞木和泉守、玉松操を靈導し、岩倉具視をして「神武創業」の大精神に囘轉せしめたり、と謂つてよい。而して「神武天皇に仰ぎ奉る」は、復た百五十年後の我々が指標であつて、辛苦艱難の重疊なると雖も、必ずや期すべき使命課題である。
 
 

神道人の悲願──神佛分離。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月14日(金)22時37分20秒
返信・引用 編集済
   sakamoto樣「明治の『国家神道』や『神仏分離令』を、『それは歴史性のない近代主義に基づく設計主義ではないのか』と、誤解していた節があります」と。



 それはゝゝゝ、祝着至極です。小康小閑を得たので、書き掛けのものを書き込んでおきます。世の流布する國家神道論は、葦津珍彦翁の著作『国家神道とは何だったのか』が出るまでは、左翼御用學者の獨壇場にして、其の所論は、淺薄皮相を免れませんでした。「神佛分離令」と「國家神道」とは、直接つながらざるものであつて、所謂る國家神道なるものは、明治三十三年、

「内務省のなかに神社局(後の神祇院)の官制を立て、社寺局の宗教行政下から、公的神社と認めない神道の一部と區別して、宗教行政を改めた時に、決定的に確立したもの」、「國家神道なるものは、明治以來の、眞摯なる神道人の志を前提源流として出發したものではあるが、有力な非神道の政治勢力や宗教勢力からの強いブレーキ(殊に眞宗僧・島地默雷の工作、即ち神道非宗教論てふ、宗教的神道を封殺するための佛教徒の對神道政略)との交錯が重なつて、それらの諸勢力に中和されて、その精神は、全く空白化してしまつた無精神な世俗合理主義で、無氣力にして無能なものであつたといふのが、歴史の眞相に近い」

のであつて、現代通説の國家神道論とは全く異なるもの、俗説は「虚像・幻想」と謂ふ可きものでありませう。神道人の悲願──「神佛分離」は、明治初年には形骸化してをり、所謂る國家神道の爲せる所業では無く、一朝の「神計り」と申すものと謂ひつ可きものであります。若し「廢佛毀釋」が、神佛分離から逸脱し過ぎ、「文化的破壞」と見なされようと、「神武創業」に無かりし不純物を清めむと欲する、庶民の熱禱・復古精神(其の指導者は、地方の國學者・神主であつたでありませう)に出づるものであれば、小生は、咎む可きものとは思ひません。

 戰後の神道指令なるものは、「國家神道なる用語は、日本政府の法令に依て、宗派神道、或は教派神道と區別せられたる神道の一派、即ち國家神道、乃至神社神道として、一般に知られたる、非宗教的なる國家的祭祀として類別せられたる神道の一派」と定義し、之を彈壓したが故に、眞摯なる神道人の苦惱は測り知れないが、

「國の神祇制度上、神宮・神社を、法制的に國の宗祀として復古する希望が消えたとしても、神社の精神の本質が、日本人の社會國家の精神的基盤であるとの信條を死守する線からの退却は、決して許されない。神社が、自ら私人の一宗教の類と認めることは、決して許されない

との、笏を持たざる神主・葦津珍彦翁の決意悲願は、吾々神國に生くる者として、心して覺悟繼承せねばならぬと思ひます。



●葦津珍彦翁『国家神道とは何だったのか──現代史通説の虚像を論破する』(昭和六十二年四月・神社新報社刊。平成十八年七月増註新版)に曰く、

「この(王政復古の大號令)卓拔な宣言の實際のプランを立てた神道家・玉松操の提案した「神武創業の始めにもとづく」との語には、岩倉や維新派武士團一般が、同感した程度の意味以上の深刻な意味があつた。この大號令の文章の終りには、今後、皇室・政府の官制や朝廷の禮式の御改正あるべきことを豫告してゐるが、玉松には、その構想があつた。この大號令から、わづか三四ケ月で、明治元年三月には、「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祇官に所屬せしむ」と表明され、次いで「神佛分離令」が、太政官から發せられてゐる。玉松のみならず、神道の諸大家が岩倉にせまつて、神道人多年の悲願を、この維新にさいして一擧に實現すべく急進した(矢野玄道『獻芹□[瞻の右]語』・大國隆正『神祇官本義』他)。

 これは、神道人としては、少なくとも百年以上も前からの悲願であつた。徳川幕府時代は、切支丹禁壓のために、佛教國教制を強く固めてゐて、神社と佛道との集合の下に、佛寺への從屬を強ひられて來た(一例。神主でも、原則として佛葬で、寺院の監督下にあつた)。徳川幕府は、學者の學問的言論には比較的寛容で、神道や國學の立場からの佛教批判や非難でも許した。しかしその思想的影響をうけて、地方の神主なとが社會實踐の場で、佛教への不服從を實現しようとすると(特殊例外的な神道好意の藩でないかぎり)、きびしい強壓と制約をうけた。そのために自刃したり、終身流島されたり、地位を剥奪されて社家が倒産したやうな例は、少なくない。神佛を別だとして、神道の高揚を欲する神主のなかから、幕政に反抗する神道人がいくらも出て來た。そしてかれらの神佛分離論に、多分の排佛的な感情があつたのは、歴史的にも理由がある。その社會勢力は、全國に及んでゐた(水戸・岡山・長州・薩摩他)。

 しかしながらその社會勢力が、政治的に見て、どの程度の力關係にあつたかは、また別の一問題である。神佛習合の精神傳統は、千有百年の根づよさがある。しかも佛教教團が、徳川幕藩體制下の國教的特權の上に築いて來た、社會的組織影響力も財的勢力も強大である。幕府が大政を奉還したからとて、未だ中央權力としての實力のない(兵權も財力もなく、地方の諸藩に依存するほかない)太政官の一片の文書で、このやうな精神的大變革は、佛教側の同意なくしては進めがたい。しかしあへてこの史上未曾有の大變革を斷行したのは、神道雄飛の最高調をしめしたといつてもいいかもしれない。神佛分離の思想を排佛であると見た佛教教團からは、即刻に抗議の意が内示され、太政官は、忽ちに(わづか十數日後に)「排佛行動は、これを犯罪とする」と公示した。とくに六月になると、眞宗の反抗をおそれて、太政官名にて、佛教(眞宗)本山への宥和妥協工作をせねばならなかつた。

 眞宗は、佛教でも最大の教團だつた。しかも維新にさいして西本願寺は、特に長州の討幕急進派と同盟して、強力な支援をして來た(月性──大洲鐵然、他)。明治新政府へ出て來た長州系權力者は、そのほとんどが眞宗の盟友である。眞宗としては、たゞ薩摩系が、維新前から國學・水戸學流の神道排佛家が多い(例。伊地知正治の宮中での神佛分離の徹底を求めた明治四年九月の『建白』は、西郷隆盛の筆跡と云ふ。愚案、大西郷は、陽明學・禪の徒と云ふ者あるも、佛は胡神として嫌ひし所、實は平田篤胤大人歿後の門人にして、其の私塾・氣吹舍の門を、自ら叩くこと四度び、又た薩摩藩士を多く門人として氣吹舎に送り込みし由──國立歴史民俗博物館研究報告第百二十二・三集『平田國學の再檢討・一~二』平成十七年三月・十八年三月刊)ので、輕々しく政府への抗爭は愼まねばならないが、「新政權、必ずしも恐れるら足らず」との自信がある。それは事實、政權内の西郷薩摩系の後退した明治六七年後から、次々に實證されて行く。

 岩倉は、さすがに政治能力者である。岩倉が、討幕から王政復古の大號令まで、玉松を最高ブレーンとしたのは、非常に成功であつた。しかし新政府の建設工作では、玉松流の神道家には、あまりにも敵が多きにすぎると見た。玉松以下の神道要人は、全國の尊攘神道家を結集して、祭政一致の公約を基にして、京都皇學所をして日本の神道的教學の本據とすることを要求する。この皇學所を中心とする神道學には、新政府の開明派エリートの、強い反對がある。岩倉は、政府の神祇政策は、開明派と妥協的な津和野藩の龜井茲監──福羽美靜等に實務をとらせて、玉松等の強硬神道家を敬遠しはじめる。玉松は、剛氣で氣迫の強い人で、岩倉も相對すると、壓力を感じた。岩倉は、晩年に玉松の維新當初の功をたゝへて、追慕の談を井上毅に筆談させてゐる(『梧陰存稿』卷一「岩倉公逸事」)が、玉松その人は、すでに明治三年、岩倉を痛烈に難詰して、決裂を宣告して京都に歸り、門を閉ぢて憤りの念禁じがたきまゝ、明治五年に歿した。そのころ、激派の地方神道人には、外山光輔卿を立てゝ蹶起をはかり、また愛宕通旭卿を立てゝ、謀叛を企てたとして、死罪となつた者が多いが、政治的暗黒裁判の疑念が多い。

 明治四年には、玉松と親しかつた矢野玄道・權田直助・角田忠行および丸山作樂等の一連の神道家が、突如として檢擧された(丸山は、その後も長い在獄生活をした。他の多くのは、五年七月二十四日には免罪となつたが、發言力を失つてしまふ。所謂る平田派の國事犯事件)」と。



【丸山作樂翁と須多因博士】
  
↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/780
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/792
 
 

謹んで訂正します。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月10日(月)23時00分28秒
返信・引用 編集済
  いちのへ樣

 ご退出の諒承、有り難うございます。

一、貴殿は「三八云々」と、執拗に仰せですが、塾頭は、一言も仰せではありませんよ。「黒色火薬は、黒煙があがる」てふ一件です。どこかで筋が違つてをります。この件の蒸返しは、ご遠慮ください。

一、「あなたの要求通り退出しましょう、ですから私に対するいいがかり、【チヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】は、取り消してください。私はそのような行為に、チャンネル桜の掲示板上で賛同を表明したことはありません」。これは、小生の勇み足でありました。いちのへ樣の名譽の爲めに、謹んで訂正いたします。

一、明日は、紀元節。こゝ二三日の騒動に關する一件は無かつたものとして、各位には、ご諒承たまはりたう、宜しく御願ひ申し上げます。

 いちのへ樣、ご退出の御件、お聞き屆たまはり、重ねて御禮申し上げます。小生も、體調不良、介護する母の看護も重なり、暫く謹愼させて戴きます。なほ掲示板管理は、出來る限り行ふ心算ですので、御安心ください。

     九段塾管理者・備中處士、謹白
 
 

訂正を求め、退出とします

 投稿者:いちのへ  投稿日:2014年 2月10日(月)22時43分45秒
返信・引用 編集済
  備中處士さん

初めに申し上げますが、退席要求されるのも結構、受け入れるに吝かではありませんが、
退席を要求した相手には最期に言説の場を与えられることが公正だと思いますので、
以下書かせて頂くことをご了承ください。駄目なら即刻削除で結構です。

まず、

【塾頭は、『藝林』(昭和五十七年十二月號)の論文にて引用されましたし、
小生も、其の論文の主が、山岡貞次郎こと井星英翁であることから、 信用出來る旨、申し上げてをります】


わかりました、要は山岡氏という人が論文で叙述した三八式実包に関する内容を、
終戦時は4歳だった泉水氏が戦後に『藝林』で引用した、ということですね。

備中處士さんが、
『○○は△△である。何故ならば、それを云った誰それを私は無条件に全幅で信じるから』
という理由で、弾着距離測定用6.5ミリ特殊実包は存在したとするならば 、それはそれでいいのです。
『信じることで何かが物質的的に実存した』とする思考プロセスならば これ以上申し上げることはありません。


最期に。
備中處士さんは直前の投稿にて

【抑もチヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】

とまたもヘンなことを仰っていますが、これを唱えたのは『原風景』氏でしょう。私はちゃんと記憶しています。
私は彼のこの提案に唱和したこともないし、一緒に徒党を組んで参拝したこともない。
寧ろ、『靖国というところは徒党を組んで参拝するとこぢゃない、一人でひっそりいけばいいんだ』
と、ある人とネットの会話チャットで批判的に語っていたくらいです。そんな示威行動は恥ずかしいことだ、と。
私が徒党を組んでの昇殿参拝などしていないことを、あなたはご存知ないしょうが.......。

ですから、あなたが言う【チヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】は正しくありません。

あなたがいくら過去を検索しても私が『靖国闊歩』に賛同している書き込みなど探し出すことは出来ないでしょう。
何故なら、私はそんなことは一言も発言していませんから。
何故このような有りもしないことを頭ごなしに決めつけて、他者を誹るのでしょうか?

再度。
備中處士さんの要求通り退出しましょう、ですから、あなたも私に対する有りもしないいいがかり

【チヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】

は取り消してください。チャンネル桜の掲示板上で私はそのような行為に賛同を表明したことはありません。
 
 
<textarea id="adlesse_unifier_magic_element_id" style="display:none;"></textarea>

http://

 

これにて辞去いたします

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月10日(月)21時21分9秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

 ご丁寧なご挨拶をいただきありがとうございます。
 私は長らくこのスレッドの読者でした。そこに、自らの掲示板を閉じた方が突然やってきて、「靖國神社の正統護持のために」とは無関係の自らの思想を語り出しました。もちろん、それは備中處士様が

> ②本掲示板の主旨に反する書込み

をお認めになられたのであり、私にはそのことに口を差し挟むことはできません。しかしながら、彼の書込は、備中處士様が別にスレッドを作るからそこでやって欲しいという段階にまで及んだと、私は理解しました。
 彼の言説に聞くべきものがあればともかく、言説の内容以前に、公の場に言論・意見を開陳するにはあまりにも「言論の作法」をわきまえないその姿勢(知的怠惰とでも申しましょうか)に苦言を呈したものです。

> 塾生と否とは問ひませぬが、せめて九段塾の『常識』の範圍、殊に喧嘩は、絶對に御法度
> です。論爭も一二囘はあり得ませうが、君子の爭ひにて、宜しく御願ひ申し上げます。な
> ほ我慢ならぬ所もありませうが、堪忍も修業の内、私見は程々に。感情が昂揚した折は、
> 一日おいて、冷靜を取り戻して意見を述べて下さい。切磋琢磨は當然ですが、抑も論爭の
> 勝ち負けは、此の掲示板ではありませぬ。かう云ふ意見もあるのかと、勉強の一助として
> お聞き置き下さい

 これは、彼と私の両方に向けて呼びかけられたものと理解し、私が年来のこのスレッドの読者であることを明らかにした上で、彼の「言論の作法」に疑問を呈しているのであり、彼の思想に問題にしているわけではない旨を再確認させていただき、それにて辞去しようと思っておりました。しかし、これは私にのみ向けられた「警告」だったのですね。

> 「度が過ぎる」論爭ないし喧嘩は、ご法度です。

 とのことですが、汚い言葉で私を侮辱し、私の思想信条を勝手に決めつけて「論争」(というか「目を覚ませ」等の命令ですね)と「喧嘩」をふっかけてきたのは彼の方ではありませんか。やむを得ず対応した、というのが私の認識です。

 備中處士様は、彼の私への態度を

> ③禮儀・品位に著しく缺ける言語

とは認識されず、また彼の言説が、

> ④論理・文法が判らないもの

に該当しないと認識されました。そして、彼には、

> 「度が過ぎる」論爭ないし喧嘩は、ご法度です。

というこの掲示板のルールは適用せず、私にだけ、

> 場を少しは辨へて戴かないと‥‥、再度、御願ひ申し上げたいと存じます。

ということなのですね。彼は場を辨えているが、私は場を辨えていないと・・・。了解致しました。認識が違うのは仕方ありません。

 この掲示板の管理人は備中處士様であり、この掲示板の中でこれ以上異論を申し上げるわけには参りますまい。丁寧なご挨拶をいただいたばかりですが、これにて辞去し、泉水隆一氏の肉声である「靖国神社の真実」を読み返すことと致しましょう。
 今後のご活躍をお祈り致します。
 

九段塾掲示板の作法。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月10日(月)18時59分28秒
返信・引用 編集済
  いちのへ樣

 本掲示板は、最上段に掲げてをりますやうに、

「本掲示板およびスレツドは、『靖國神社の正統』を、九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂め、靖國神社の正統を恢復護持し奉らむとする掲示板であります。
 なほ①
神宮
皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げ、②本掲示板の主旨に反する書込み、③禮儀・品位に著しく缺ける言語、④論理・文法が判らないもの、⑤青少年へ惡しき教育效果を與へる書込み
等は、嚴禁であること、勿論であります。かやうな場合は、管理者權限にて削除、または書込禁止の處置をさせて戴きますので、豫め御承知おき賜りますやう、謹んで御願ひ申し上げます」。

③④⑤は常識の範疇でありますが、①②に關しましては、他の掲示板よりも嚴格であります。他の參加者・閲覽者各位の靈眼も之れ有り、宜しく御願ひ申し上げます。

 「此所は、友人からたまたま紹介され、昨日、覗いただけのこと‥‥この掲示板に連投するつもりなどは、更々ありません」由、掲示板の趣旨は、件の如し。「九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂」めむと欲せず、他の投稿を閲覽する氣も、始めから無く、「情報を貼っただけで、他意はありません」とのこと、一見の投稿なら幸甚、切にご遠慮ご退場を乞ひます。

 「私が、何処でどう、揶揄罵倒したのか、具体的に示して頂けませんか? もしそのような非礼を仕出かしていたならば、記録を示してください」と。貴殿は、もう、お忘れでせうか。貴殿等の仰る「奥座敷」とやらの、――塾頭の言葉で申すなら、「三銃士」間の遣り取りを‥‥。塾頭も覗かれて

扉を開けたら、なんだ石ころが三つ転がっていただけか、という感想ですかな。要は「脇が甘い」から、こういう失態を晒す。しかし、傑作だった。なんか、熊野山中の盗賊の棲家を覗いたみたいで、酒盛りの真っ最中だった。向こうも笑っていたが、こちらもゲラゲラ」笑つてをられました。


小生は、不愉快千萬でしたが、諦觀の氣持ちもございました。古參の方々は、周知のことです。「【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】との人格誹謗」とのことですが、「奥座敷」での言辭は、あれは何だつたのでせうか。人間は、悲しいことながら、感情を持ち合はせてをりますので、貴殿と交はることは、畢竟、無理と申すものでせう。「先に仕掛けたのは、アンタ」と。違ふのですか。抑もチヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿が、「一兵士」翁を快く思はない、否、チヤンネル櫻主宰者某と同類ならむと、小生は考へてをりますが‥‥。

 小生が「一言『挨拶』あつて然るべき」と申したのは、「ご挨拶が遅れた段、先ずはお詫びいたします」てふ、取つてつけたやうな無機質な遲延のことでは無いのです。況んや「挨拶が無いと、先ずは叱責」と。誹謗・叱責など、とんでも無い、闖入・喋々再言に、貴殿が「呆れる」以上に、小生も、たゞ呆れてゐるだけです。

 「私は『一兵士の三八式実包に関する記述はおかしい、この人は、経験を偽っているのではないか?』と、疑義を呈しただけ、あなたはそれが面白くないようですが」と。塾頭は、『藝林』(昭和五十七年十二月號)の論文にて引用されましたし、小生も、其の論文の主が、山岡貞次郎こと井星英翁であることから、信用出來る旨、申し上げてをります。貴殿は自己主張が強烈で、聞く耳を持たぬだけの事です。

 「もしそれが虚偽であったならば、他の体験談や断定も、本当に確かなものかどうか、不明と思われることは当然でしょうし」と。仰せの如くであれば、貴殿はご存知あるまいが、塾頭が如何なる御方か、この掲示板の閲覽者は、既にご承知です。然しsakamoto樣との應答によれば、どうも知つて、敢へて申されてゐるやうですから、なかゝゝの御方です。此の言は、世に云ふ「荒し・煽り」の類でせう。屋上、屋を重ねて、なほ挑發されますか。

 「一兵士氏への疑念/批判が【執拗な揶揄罵倒】であるとするならば、今まさにあなたが、私の示した技術的疑念について回答する責務を負うことになった」由、「執拗な揶揄罵倒」と「技術的疑念」とは、全く連動しません。前者は「奥座敷」でのこと。小生の愚鈍なる、貴殿の、

○○さま、読んでいらっしゃると思いますが、少しは面白くなってきたかナ?と。........んなこたないか.......?笑 ウヌボレにすぎませんが、長年、『正論だんわ室』でモマれてきた、カラミ技術の成果がチッタァでないと、今迄使った時間がバカみたいですもんネ(泣)」、

其の蕃流の「リベート」とやらの御相手は、到底、出來かねません。貴殿と小生とでは、餘りにも思想の根底が違ひ過ぎます。

 「出鱈目なことを書いている、やっている相手に対しては、ストレートに批判指摘を行うのが、当方のスタイル」の由。さうですか、どうか、他所で頑張つて下さい。貴殿の明晰なる頭腦では、本掲示板も「出鱈目」だらけなのでせう。貴殿の口は、天下無敵、誰も叶ふまいと、小生は諦めてをります。管理者・備中處士は、暇つぶしの恰好の鴨、與し易しと思はれたのでせう。一度だけ、及ばすながら、お相手させて戴きました。光陰、矢の如し。もう、ご放念ください。ご返事は、ご無用に願ひます。

 いちのへ樣、「この掲示板に連投するつもりなどは、更々ありません」實證を、是非とも御示し賜はらむことを。



 Sakamotoさん、塾頭への配慮、洵に有り難うございます。願はくば「いちのへ」樣への應對、何卒、中止して下さい。伏して幾重にも御願ひ申し上げます。

 ひぐらしさん、「初めての投稿」で、「九段塾の読者」の由。挨拶が遲れましたが、それはゝゝゝ、有り難うございます。然し前の「九段塾の本義」にて、「塾生と否とは問ひませぬが、せめて九段塾の『常識』の範圍、殊に喧嘩は、絶對に御法度です。論爭も一二囘はあり得ませうが、君子の爭ひにて、宜しく御願ひ申し上げます。なほ我慢ならぬ所もありませうが、堪忍も修業の内、私見は程々に。感情が昂揚した折は、一日おいて、冷靜を取り戻して意見を述べて下さい。切磋琢磨は當然ですが、抑も論爭の勝ち負けは、此の掲示板ではありませぬ。かう云ふ意見もあるのかと、勉強の一助としてお聞き置き下さい」と申しましたが、ご理解いたゞけませんか。此の掲示板は、「塾」と銘打つてをる以上、塾頭なき後では、勉強會・切磋琢磨の場でありませう。何處の團體でも、勉強會でも、「度が過ぎる」論爭ないし喧嘩は、ご法度です。こゝは2チヤンネルでも、櫻のやうな巨大掲示板でも無いのです。場を少しは辨へて戴かないと‥‥、再度、御願ひ申し上げたいと存じます。

 閲覽者各位、此の掲示板管理者の不徳無能により、紀元節の前日、かくも醜惡無樣なる體を曝し、「九段塾」掲示板を穢しまして、慙愧に堪へません。幾重にも御詫び申し上げます。何卒、ご容赦ください。懇祈、懇祷。
 
 

日韓併合条約

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)18時26分20秒
返信・引用 編集済
  第六條

日本國政府ハ前記?合ノ結果トシテ全然韓國ノ施政ヲ擔任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身體及財?ニ對シ十分ナル保護ヲ與ヘ且其ノ福利ノ增進ヲ圖ルヘシ

第七條

日本國政府ハ誠意忠實ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ相當ノ資格アル?ヲ事情ノ許ス限リ韓國ニ於ケル帝國官吏ニ登用スヘシ

日韓併合条約の第六条第七条に着目してみた。この条約の文言をもってなお、いちのへさんの言う、

「戦中の雇用に関して『日韓条約』の枠外と『条理解釈』して日本企業に賠償を求めることと同じ」というような結論を導くことが果たして妥当だろうか。

この二つの条文には明文としては朝鮮人の雇用に関する具体的な文言はないが、これに反対解釈もしくは類推解釈を加えることによって、朝鮮人の強制労務や強制徴用を合法のものとする根拠が見出すことが可能となる。

条文にある「法規ヲ遵守スル韓人」とか「制度ヲ尊重スル韓人」には十分な福利を与えるとか、官吏に登用する、といった「負担付き」の契約だな。これら法律に付記された条件を「附款(ふかん)」というのだが、当時の韓国政府は合意の上でこの条約に調印し、国内的にも批准しているのだから、ここ(日韓併合条約)に、いちのへさんの言うように「条理解釈」を持ち込む余地はない。

そしてこれらの条文を「反対解釈」すれば、「法規ヲ遵守シナイ韓人」や「制度ヲ尊重シナイ韓人」には強制労働を課してもそれは法律の許す範囲内である、ということになる。解釈的に可笑しかろうが苦しかろうが、法律とはそういうものです。

従って、いちのへさんのお説はとんだ的外れということになる。
 

荒らしは即刻削除

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)17時43分41秒
返信・引用 編集済
  これだからオツムのよろしくない方とのやり取りは嫌なんだ。

一次的には法律の文理解釈という方法を取る。これがまずは基本だ。次に、法律に直接的な規定が置かれていない場合、他の条文の反対解釈もしくは類推解釈が準用できないか、とやる。

そして、反対解釈や類推解釈の元となる規定がないとなった場合に、ようやく条理解釈の出番となる。

こんなことは法律を少しかじったことがあれば常識中の常識だ。そしてその条理解釈は法律の趣旨・目的・条理等を根拠として、言外に意味を読み取って解釈することが許される。このぐらいはどこの法学部の学生だって知っている基礎のそのまた基礎だ。

あなたの言うのは、法律用語でいうなら「趣旨の操作」あるいは「文言の操作」というものです。従ってそれは条理解釈とはまったく違う。「自分流の解釈」などと余り無礼を言うなよ。

備中さん

私が来たことで、とんだ騒動となってしまい申し訳ありません。おそらく塾頭を快く思わない者が、乱入するタイミングを虎視眈眈と狙っていたのでしょう。

田母神は単なるその「ダシ」です。間違いない。荒らしは即刻削除がよろしいかと存じます。
 

知的誠実性

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月10日(月)15時11分12秒
返信・引用 編集済
  sakamoto様

 私の問いかけには無視を決め込んでおられるようですね。同じことの繰り返しになりますが、再度、貴殿にご意見申し上げることとします。

 何故、貴殿は、泉水隆一氏の生年を調べる努力をされてから書込をなされないのですか。その努力や手間を惜しみ、「条理解釈」などという言葉を持ち出してこのように一兵士氏を擁護されていますね。

> まあこれは私の勝手な推測ですが、おそらく一兵士さんはその時(それも60年以上昔
> の記憶を辿って)の「印象(impression)」を述べたに過ぎなく、事実がどうであったか
> などは二義的なことであり、大事なこととは一兵士さんがその時それをどう感じていた
> のか、といった、そういう表象的な事実のほうを大事にしようじゃないか、ということ
> だ。

> 年齢的にいって一兵士さんの従軍経験は不自然だ、との指摘には正直一兵士さんのお歳
> を知らないからコメントは控えるが、戦場での実戦で撃ったのか、少年練兵の一環とし
> て撃っただけに過ぎないのか、そこらへんが定かでない以上(故人である以上、確かめ
> ようもない)死者についてたかだかの生者があれこれ詮索するのはいかがなものかと思
> う。

 一兵士こと泉水隆一氏は、平成22年7月16日に逝去されました。享年69歳。終戦時には4歳か5歳でしょう。これは、まさにこの掲示板に備中處士氏が書かれていることです。
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/l50

 一兵士氏は、「印象(impression)」を述べた」のでしょうか。「少年練兵の一環として撃った」のでしょうか。「故人である以上、確かめようもない」とのことですが、本当にそうですか。少しの努力や手間を惜しむので、結果としてこのような突拍子もない文章になるのです。
 「死者についてたかだかの生者があれこれ詮索するのはいかがなものかと思う」となにやら「保守思想」的なことを語っておられますが、「死者」について自分の思い込みを書き殴ることは「死者」への冒涜ではないですか。「生者」として「死者」について語るときには、基本的なことくらい調べてから語らなければ「死者」に対して失礼だとは思われませんか。いや、貴殿の場合、「生者」にも勝手な自分の思い込みを語っておられますね。

 「条理解釈」という法律用語を持ち出しておられますが、「条理解釈」は

> (条約=国際法も含め)法令等の条文に書かれていない事案に直面した場合、それらが
> 反対解釈や類推解釈の適用も困難な場合に限って言外に意味を読み取って解釈すること
> が許されるというものです。

 との説明は全く間違っています。法律用語としての「条理解釈」とは、「法令の文言にとらわれることなく、法令の目的・趣旨・道理(条理)などに重きをおいて解釈すること」です。すなわち、「望ましい法規範を創造するために、文理解釈で不十分と考えられる場合」に例外的に用いられる法解釈です。「条文に書かれていない事案に直面した場合」に「許される」法解釈の方法などではありません。

(条理解釈の定義については、例えばここに記載されています。)
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=nen&query=/lib/khk071a3.htm

 しかも、法律用語としての「条理解釈」の適用範囲を法律ではない文章にまで拡大させ、

> 重要なのは直接書かれたことそれ自体を根拠に事実かそうでないかを論うのでなく、
> 言外に意味を汲み取って解釈する『条理解釈』なんだ

とは、私の理解の範疇を超えています。しかしながらこれで得心しました。田母神論文を徹底的に読み間違え、私の書込の論旨をまるで理解できなかった理由が。「言外に意味を汲み取って」ご自分の解釈したいように解釈していたということですね。
 なるほど、話が通じないわけです(嗚呼)。

平成26年2月10日 15時23分
 句読点修正

平成26年2月10日 16時06分
 文言修正。論旨に変更なし。
 

成文法主義を排せ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)13時39分30秒
返信・引用
  法律的な意味で「条理解釈」という言葉を使う場合は、(条約=国際法も含め)法令等の条文に書かれていない事案に直面した場合、それらが反対解釈や類推解釈の適用も困難な場合に限って言外に意味を読み取って解釈することが許されるというものです。

日韓条約をきちんと読んだことはないが、おそらくそこには「戦後の損害賠償」に関する規定など書かれていないでしょう(敗戦を予定していたなら話はまた別でしょうけど)が、仮にそこに反対解釈や類推解釈できる文言が条文に書かれていれば、「日韓条約の枠外」を理由に日本企業に損害賠償請求することはできない。

ですから「なんでもあり」というのは的外れであって、「条理解釈」の適用が妥当なのは今のこの論点・・・一兵士さんが実戦で撃ったかどうかが論争となっている三八式歩兵銃についての・・・に限ってのことであり、日韓条約に関して言うなら、反対解釈や類推解釈が可能であれば、それらで対応すべきことであって、ここに「条理解釈」を持ってくるのは条理解釈の適用の範囲を逸脱している、ということだな。

そもそも、国際法にせよ国内法にせよ、無限にあるであろう様々な事象に対応するための個別具体的な条文を用意せよ、などとやっていたら、それこそ条文が何千何万あっても足りなくなってしまう。解釈学(ハーマニューティクス)というのは抽象的な言い回しの条文を、個別の案件にどう具体的に落とし込んでいくかについて考察するためには不可欠な学問なんだな。

おそらく日韓条約にも具体的な規定こそないにせよ、戦時徴用や戦時労務に関する免責事項(つまり意思の合意があった妥当なもの)と解釈可能な条文があった、とみておくのがまともな思想ではないか。

年齢的にいって一兵士さんの従軍経験は不自然だ、との指摘には正直一兵士さんのお歳を知らないからコメントは控えるが、戦場での実戦で撃ったのか、少年練兵の一環として撃っただけに過ぎないのか、そこらへんが定かでない以上(故人である以上、確かめようもない)死者についてたかだかの生者があれこれ詮索するのはいかがなものかと思う。

 

Re: 戦後の悪弊としての科学主義を撃つ

 投稿者:いちのへメール  投稿日:2014年 2月10日(月)12時16分17秒
返信・引用 編集済
  sakamoto氏への返書。

おそらく一兵士さんはその時(それも60年以上昔の記憶を辿って)の「印象(impression)」を述べたに過ぎなく

↑ということは、一兵士氏は従軍経験があって、実際の三八式歩兵銃を撃ったことがあるということですね?
氏の生年あるいは軍歴は御存知ですか? 氏は何歳で平成22年に逝去されたのか御存知ですか?

重要なのは直接書かれたことそれ自体を根拠に事実かそうでないかを論うのでなく、言外に意味を汲み取って解釈する「条理解釈」なんだ

↑ それが世の中に通るなら韓国の司法が戦中の雇用に関して『日韓条約』の枠外と『条理解釈』して日本企業に賠償を求めることと同じ、
 そして、それは法理よりもさらに【重要なこと】なのですね。それならば、世の中なんでもアリですね。






<textarea id="adlesse_unifier_magic_element_id" style="display:none;"></textarea>

http://

 

戦後の悪弊としての科学主義を撃つ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)11時53分34秒
返信・引用
  「もう出てこない」と言いながら、たびたびの出現で申し訳ないが(笑)、いちのへさんのそれは文理解釈といって、書いてある文言ただその一点だけを捉えて、それがある事柄についての定説や理論と合致しないとなると直ちに虚偽で片付けてしまう、言わば、戦後の悪しき悪弊としての科学主義に依存した物の見方ではないか。

違うのだ。

重要なのは直接書かれたことそれ自体を根拠に事実かそうでないかを論うのでなく、言外に意味を汲み取って解釈する「条理解釈」なんだ。

科学主義は人間精神を一つの範型に押し込み、その規定にないようなもの、その型からはみ出したものを一切認めようとしない、杓子定規的な物の見方をモットーとする。今言った「文理解釈」や「法規的解釈(定義解釈)」などがその見本だな。

まあこれは私の勝手な推測ですが、おそらく一兵士さんはその時(それも60年以上昔の記憶を辿って)の「印象(impression)」を述べたに過ぎなく、事実がどうであったかなどは二義的なことであり、大事なこととは一兵士さんがその時それをどう感じていたのか、といった、そういう表象的な事実のほうを大事にしようじゃないか、ということだ。

確かに科学は大事ですよ、しかし、科学に人間が使われるようになっちゃお仕舞いですよ。
 

これは失礼しました

 投稿者:いちのへメール  投稿日:2014年 2月10日(月)02時02分7秒
返信・引用 編集済
  備中處士さん
ご挨拶が遅れた段、先ずはお詫びいたします。
早速ですが...........。

「いちのへ」氏、貴殿は、チヤンネル櫻と一味して、我が一兵士翁を、執拗に揶揄罵倒した「三銃士」の一人ではないか。
 何の顔せあつて、此の掲示板に闖入し來れるや


わかりました。ですが、ならば私が何処でどう揶揄罵倒したのか、具体的に示して頂けませんか?
私の記憶では『一兵士』が三八式歩兵銃の弾着を見るに特殊弾(黄色い煙が出る?)を使って距離を計った云々の記述がありましたので、
はて、当時は既に三八式用6.5ミリ実包には無煙火薬が使われている、あるいはトレーサー(曳光弾)を使ったのか、
しかし今迄読んだ支那大陸の戦記では歩兵が携行する三八式実包にトレーサーが含まれていたような記述は一度も読んだことがない、
この『一兵士』なる人物は本当に実戦で三八式用6.5ミリ実包を撃ったことがあるのだろうか?という疑念を素直に桜の掲示板に書いたつもりです。
(もしそれが虚偽であったならば、他の体験談や断定も本当に確かなものかどうか不明と思われることは当然でしょうし。)

まずは、上記の一兵士氏が云う『特殊弾』がどのようなものか、御存知でしたら御教示ください。
それについて当方が無知であるか勘違いしていたのならば勿論平伏して陳謝致します。
此所は友人からたまたま紹介され昨日覗いただけのこと、核武装についてあきらかに誤った断定がありましたので
参考までに情報を貼っただけで他意はありません。

しかしですね.......。挨拶が無いと先ずは叱責、それはいいでしょう、しかし次段で【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】との人格誹謗とは畏れ入りました。
いままで、私が、このような言葉を受けるに値する何か批判や攻撃的なこと、失礼なことをあなたに云ったことがありますか?
もしそのような非礼を仕出かしていたならば、記録を示してください。平伏陳謝致します。
私は『一兵士の三八式実包に関する記述はおかしい、この人は経験を偽っているのではないか?』と疑義を呈しただけ、
あなたはそれが面白くないようですが、ならば一兵士氏のかわりに、先ずは私が『疑念を呈した』三八式実包に関する
技術的説明をすれば良いではないですか。

御存知でしょうが、三八式実包6.5ミリの初速は762m/sで音速の倍以上の速度で射出されていく、
実戦に於いては着弾する場所が砂埃が立つ場所とは限らない、ましてや戦闘地域は支那の山野、
プローン(伏せ)姿勢での射撃では着弾地点は尚更視認しづらい。
プラス、日本軍における小銃弾が6.5ミリから7.7ミリに変更された経緯は備中處士さんも御存知でしょう、
威力不足のみならず、6.5ミリでは曳光弾は仕込めないことがひとつの理由だったわけです。
曳光弾が仕込めないならば、着弾確認の為に『黄色い煙?』だかが出る発煙実包も製作が困難だったろう、
一兵士氏の体験談通り、そのような発煙実包が本当に製造されたのだろうか?という疑念を持つのは自然だと思いませんか?

当方の考えでは、プローンで撃とうがニーリングで撃とうが、音速の2倍の速さで飛ぶ小銃弾の実戦射撃開始距離は
400メートルくらいなそうですが、その400メートル先の地点で着弾したとしても、さらに跳弾してポンポン先へ飛ぶ、
だからたとえ発煙する弾頭であろうとも、煙によって弾着を把握することは実用的ではない、と推測しています。
仮令、トレーサーを使用したとしても、機関銃のように連続射撃が出来ないボルトアクション式単発射撃において
音速の2倍で飛んでいくトレーサー弾頭を射撃した本人が直視確認することは反動で銃が大きくリバウンドするので不可能だと思います。

私は、根拠なく、他人の人格や性格を誹謗罵倒することは『どちらかというと』やらないほうですが、
今回はあなたのほうが

【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】

と私の人格を断定しています。自己省察をすることなどない人間である、と人間の性向を断定している。
つまり、ランボー風に云えば、『You drew first blood=先に仕掛けたのはアンタだ』ということになると思います。
 
この掲示板に連投するつもりなどは更々ありませんが、私が記述した上記の技術的な疑問については綺麗にお答えいただければと思います。
この技術的疑問に対して明解な回答が無いのであれば、一兵士氏の発言のあやふやさ/論拠の不明さに起因する氏への批判が甚だしく
不当非礼であるとはいえないでしょう。すなわち、一兵士氏への疑念/批判が【執拗な揶揄罵倒】であるとするなば、
今まさにあなたが私の示した技術的疑念について回答する責務を負うことになったと思います。
 
 
尚、何処かで『一兵士』という人が泉水隆一という映画監督で、『凛として愛』という映画をリリースした人であることは
後日知りましたが、この方の生年は存じ上げませんが、従軍経験はあるのでしょうか?
また、水島総の『映画:南京の真実第一部』に批判があるならば、
何故『私は泉水隆一という者で、自分でも映画を撮っているものだが』と素直にモノを書かず『一兵士』などというハンドルで
他人の本業を批判するのかわからないですね。
私の場合は水島総の『映画:南京の真実第一部』の論理的反駁性の無さ、第二部の放擲に対しては実名も出して
徹底的に批判していますし、水島の金勘定の出鱈目さを突くために検察庁特捜部に水島を告発もしています。
詳しくは下記ブログを御覧ください。
 
憂鬱いちのへ空間
 
出鱈目なことを書いている、やっている相手に対してはストレートに批判指摘を行うのが当方のスタイル、
一兵士氏の云う『三八式実包特殊弾』への疑念もたまたま当方のセンサーにひっかかっただけ。
私は一兵士なる人がどのような人かは当時知らなかったし興味もなかった、ただ『弾着は特殊弾で計る』という言説に
『それは真実なのか?』と疑念を抱いただけ。その疑念を提示したことにより、数年後に遣り取りもしたこともない方から
 
【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】
 
と性向を断定されるとは。正直に申し上げて、呆れております。
 
 
 
 
 
 




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九段塾の本義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 9日(日)23時19分59秒
返信・引用 編集済
  ●九段塾頭の曰く、「

 喫茶室・酒場は困りますが、皆さんが、塾の講義を聞いているだけでは疲れるでしょう。私も以前から、気楽にみなさんがお話を出来る「休憩室」みたいなものを作ったら、案外、いろいろなことをおしゃべりできていいかな、とは思っています。酒の「話だけ」なら構わないが、持ち込みは厳禁です。お茶とお菓子ぐらいで、あとは手弁当を食べるぐらいはいいでしょう。あくまでも「九段塾の休憩室」ですから。居酒屋ではありませんよ(笑)。

 そこで『時計の間』という部屋を、スレッドの中につくってもらいましょう。「時計の間」の意味は、休憩室ではあるが、常に柱には「時計」が架っていますので、いつまでもグダグダ、この休息の場でだべってばかり、寝そべっていては困るという話です。

 焼酎の話でも、孫の話でも、世間話でも、それは一向に構わないと思いますが、それでもこれから天下に名を馳せようと考えている九段塾ですから、あまり品位の無い話はまずいでしょう。政治の話、神社の話し、時世の話、日常の話、旅の話し、よもやま話――九段塾の掲示板では、少し不似合いな話。それは、なんでも自由でいいでしょう。あくまでも皆さんの休憩室。講義の間の休憩室です。そこらへんは、皆さんなんですから、善く飲み込んで理解して下さい。九段塾の「常識」の範囲で。

 喧嘩は、絶対ダメですよ。つい、激論、激昂にはしりそうなメンバーもいそうなので、塾生同士の喧嘩は、絶対にご法度。

 「時計」がありますから、あくまでも時計を眺めて、お話を適度にされて。

 ‥‥それと、これは私の気持ちだが、あまり食い物と飲み物の話ばかりというのは、私は好きではない。歳をとると(若ければなおさらだが)、必ず「どこそこの酒はいいとか、名物はいいとか」話し出す。昔、大先輩より云われた言葉があって、「人間、食い物・酒の話の自慢話をやるようになったらおしまいだ」というのがあります。それはプチ人間になるからです。やはり食い物が無くて困った生活をしている人たちが、世間には沢山いるし、自分もそういう経験をしてきている。みなさんはそれなりの生活を作ってきているのでしょうけれど、自分たちだけが幸せな話をされるのは、私は好まない。「たまには、すこしは、いいでしょうが、あまり食い物・酒の話をするのは困ります」。これは私の性格で、もともと酒宴が嫌いなもので、申し訳ない。食い物にもあまり興味が無い。なんでも、あれば食べるので。どれがおいしい、まずいを云うと、怒られる。今でも。「なんでもおいしいおいしい」と食べるのが普通ですからね。それと‥‥結構、うるさいですが、「今日は俺がおごるとか、ごちそうするとか」の会話。これも好きではない。申し訳ないね。なんだかんだ、うるさくて。

 「じゃ、ちっとも自由にしゃべれないじゃないか。そんなら休憩室はいらねえよ」とは言わないで下さいよ。九段塾ですからね。そこらここらにあるもんじゃない。××社を始め、多くの正統保守が見ている掲示板ですから。そこはそれ、お願いします。じゃんじゃん、やってもいいですよ。お茶とお菓子と弁当で。なんとか間を持たせて、休憩して下さい」と。

**********

 九段塾管理者、謹んで白す。

 件は、別スレツド「時計の間」卷頭に掲ぐる、塾頭の言であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/l50

 本掲示板は、九段塾頭、亦た花椿一心・一兵士・泉水隆一と號す所の、金城福井忠翁が、『靖國神社の正統護持』を期さむと、それはゝゝゝ、大切にされてをられる掲示板であります。塾頭の『尊皇・勤皇の風を吹かせよ』との遺言を承け、備中處士、固より不肖を顧みず、管理をさせて戴いてをります。他の凡百の掲示板と違ひ、其の趣旨に反するものは、之を許さず、又た「塾生」と否とは問ひませぬが、せめて「九段塾の『常識』の範圍、殊に喧嘩は、絶對に御法度」です。論爭も一二囘はあり得ませうが、「君子の爭ひ」にて、宜しく御願ひ申し上げます。なほ我慢ならぬ所もありませうが、堪忍も修業の内、私見は程々に。感情が昂揚した折は、一日おいて、冷靜を取り戻して意見を述べて下さい。切磋琢磨は當然ですが、抑も論爭の勝ち負けは、此の掲示板ではありませぬ。かう云ふ意見もあるのかと、勉強の一助としてお聞き置き下さい。

 然しこゝからは言葉を改める。「いちのへ」氏、貴殿は、チヤンネル櫻と一味して、我が一兵士翁を、執拗に揶揄罵倒した「三銃士」の一人ではないか。何の顔せあつて、此の掲示板に闖入し來れるや。一言、「挨拶」あつて然るべきであらう。塾頭、現身はあらずとも、此の掲示板を見てをられる。貴殿を許容することは、管理者の責任を問はれる。己を省みることとは無縁の貴殿のこと、面白半分にて書込まれることは、ご遠慮あらむことを切に乞ふ。此の零細掲示板に、貴殿のやうな有名な御方は、抑も似つかはしくありませんでせう。 ご活躍を御祈り申し上げたい。



●松陰先生『講孟箚記』梁惠王上・第六章に曰く、「

[孟子、梁の襄王を見る。卒然として問ひて曰く、『天下、惡(いづ)くにか乎、定まらん』と]

 梁の襄王の暗愚、固より論を待たず。但だ其れ尤も暗愚を見るべき者、果して何れにありや。曰く、『天下、惡くにか、定まらん』の一句にあり。‥‥此の時、梁國、四方に難多し。然るに襄王、一も憂勤□[立心+易。てき]□[勵の左。れい]の色、あることなし。其の『天下、惡くにか、定まらん』と云ふは、世上話なり。かゝる田別(たわけ)者、安(いづ)くんぞ與に語るに足らん。蓋し此の章を擧げて、孟子、梁を去る所以を示すなり。

 抑も有志の人、言語、自ら別なり。心・身・家・國、切實の事務を以て世上話となす者、取るに足る者、有ることなし。是れ人を知るの眞訣なり。然れども是を以て人を知るの眞訣とするも、亦た世上話の類のみ。宜しく親切反省すべし。辭を修め誠を立つる(『易經』文言傳)、是れ君子の學なり」と。



 愚案、「心・身・家・國、切實の事務を以て世上話となす者、取るに足る者、有ることなし」とは、松陰先生の嚴訓、仲間内の密室ならいざ知らず、テレビ等の公的媒體にて、政治・國防等、皇國の重大事を、漫才師よろしく、誇つて漫談を爲す者は、小生の好まざる所、反省する所であります。
 
 

だからもう休ませてくれってば

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 9日(日)16時00分40秒
返信・引用 編集済
  おそらくそれは、NATOに見るようなNS(ニュークリア・シェアリング)制度を言ってのものでしょうよ。

私がアメリカが決して許容しないだろうというのは、アメリカ本土を射程に収めるような大陸弾道弾(つまりしょぼい戦術核なんかではなく、ニューヨークやワシントンを数発で瞬時に灰にできる能力を持った戦略核を言っている)のことであり、コレまでをアメリカが認めるなどということは絶対にないということですよ。

しかしそれでは意味がないんだ。中朝韓への抑止力に期待するだけなら射程2000キロもあれば十分だろうが、アメリカの内政干渉を跳ね除けるために持つ核はアメリカを射程に入れたものでなければ意味がない。

核に中韓への威嚇効果だけを求め、アメリカとの離別の手段というのをお座成りにしてるから、何時まで経ってもそのイデオロギーから自由になれないんだ。

 

核武装は大事なイシュウなので事実提示

 投稿者:いちのへメール  投稿日:2014年 2月 9日(日)13時50分57秒
返信・引用 編集済
 
【日本人特有の楽観主義といえばそれまでだが、アーミテージやナイらの言葉からも自明のように、
 わが国の核武装を歓迎するお人好しのアメリカ人など一人も居ないということだ。】


以下、御参考まで証拠提示。


http://megalodon.jp/2012-0517-0640-09/sankei.jp.msn.com/politics/news/111009/plc11100920310007-n3.htm

安全保障読本(55)米国から提唱する「日本の核武装」

【有力政治評論家クラウトハマー氏による米ワシントン・ポスト紙などのコラムはその典型だ。
氏は「日本が唯一の核兵器被爆国として過去、 自国の核武装に強く抵抗する理由は明白だったが、
常軌を逸した隣国が核兵器保有を公式宣言するに至った今、再考が必要になった」と言明。

「国際社会の模範的一員というだけでなく、米国にとり英国に次ぐ最も重要で最も信頼できる同盟国となった」と指摘しつつ、
「主要国は全て核保有国になったのに、日本は真の異端」とまで踏み込んだ。

同じ頃、ブッシュ前大統領のスピーチライターだったフラム氏も米ニューヨーク・タイムズ紙への寄稿で、
日本にNPT(核拡散防止条約)破棄と核抑止力構築を奨励せよと、驚くべき提案をしている】

【日本への独自核の勧めを説いたのは、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しした2002年のブッシュ大統領の
 一般教書演説の草稿を執筆したことで知られるデビッド・フラム氏。
10日付の米紙、ニューヨーク・タイムズへの寄稿で日本に核拡散防止条約(NPT)の破棄と核抑止力の構築を奨励せよと
ブッシュ政権に求め、「中国や北朝鮮が最も恐れることだ。地域の核バランスを崩そうとする無法国家の試みを、
米国や友好国が積極的に正そうとすることを示す」と、その理由を説明した。】


【米政治評論家・クラウトハマー氏 日本に核武装奨励を 中朝抑止、東アジア安定
2006/10/22, 産経新聞

【ワシントン=古森義久】米国の有力な政治評論家でコラムニストのチャールズ・クラウトハマー氏は20日、
北朝鮮の核実験に関連して米国は最も信頼できる同盟国としての日本に核武装を促すことが東アジアの安定に
つながるという見解を発表した。ブッシュ政権の周辺ではこれまでの思考を根本から変えたこの種の日本核武装奨励論が目立ってきた。

クラウトハマー氏は20日付のワシントン・ポストなどに掲載された「第二次世界大戦はもう終わった」と題するコラムで
北朝鮮の公式の核兵器保有宣言という新たな事態に対し「日本が唯一の核兵器被爆国としてこれまで自国の核武装に
強く抵抗する理由は明白だったが、常軌を逸した隣国が核兵器保有を公式に宣言するにいたった現在、再考が必要となった」と述べた。

同コラムは「世界の主要国はみな核保有国になったのに、日本は真の異端だ」として、「米国も日本が核クラブに入ることに
疑念を抱いてきた」と述べる一方、「日本は国際社会の模範的一員というだけでなく、米国にとってイギリスに次ぐ
最も重要で最も信頼できる同盟国となった」ため、もはや核兵器保有を奨励した方がよいと示唆した。

同コラムは日本の核武装は日本がその関心を表明するだけでも

 (1)中国に朝鮮半島の非核化継続を強めさせる(中国は北朝鮮の核武装が米国の東アジアでの関心を奪うという理由からだけでも、
   北の核を放置している気配がある)
 (2)中国は日本の核武装を止めるために北朝鮮に本格的圧力をかけてその核武装を破棄させようとする
 (3)日本の「核カード」が北の核開発阻止の唯一の方法かもしれない-などと述べた。

同コラムは東アジアでの日本の政策目標は「軍事と政治の安定、陶酔したように膨張する中国の平和的な封じ込め、
無法な北朝鮮政権への反対、民主主義の拡散などという点で米国と同じ」だとして、だから日本の核武装を促した方が
中国や北朝鮮への抑止が効果を発揮する、と論じている。

そして結論として「なぜ米国は太平洋地域で安定し、信頼でき、民主主義の同盟国である日本が核武装により米国自身の
負担をも削るという展望に反対しつづけるのか」と 疑問を提起する形でブッシュ政権が日本の核兵器保有を奨励するよう訴えている。

クラウトハマー氏はブッシュ政権とも近い保守派の大物政治評論家だが、同じ保守派ではブッシュ大統領補佐官だった
デービッド・フラム氏も米国政府が日本核武装を奨励すべきだと提言したばかりだった。】

以上、『
わが国の核武装を歓迎するお人好しのアメリカ人は一人ならず居た』証明完了。





 

言論の作法 再び

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月 9日(日)13時36分37秒
返信・引用 編集済
  > No.2066[元記事へ]

sakamoto様

 私を誰と勘違いされたのかはわかりませんが、私に対して「またストーカーが出てきたようだ。」、「どこにいっても後をついてくるな。なんで私の後ばかり付いてくるんだ?」、「私の熱烈な『追っかけファン』が出てきたようですので(後略)」と私にとって非常に不愉快な言葉を投げたことへの言及はなしですか・・・。ネット上とは言え人間関係です。初めて言葉を交わす人にこれですか。

 私を「その方」とは別人と認識されて「覚醒せよ」を書かれたのであれば、貴殿が認識できる私の意見は、私の二つの書込だけの筈です。私は二つの書込で、貴殿の「言論の作法」を問題にしたのであって、「私の意見」を述べたのではないことは普通の読解力があれば自明でしょう。私は自分の思想信条を述べていないのです。それなのに、何故、「ご貴殿のような『産経新聞系保守』の方を私は散々見てきましたから(後略)」と私の思想信条を決めつけることができるのですか。このことを見てもやはり、貴殿の「言論の作法」には問題ありとせざるを得ません。「覚醒せよ」において、その後貴殿が書かれていることは貴殿が貴殿の意見を書かれただけで、私の書込の論点とは無関係ですから私の意見は差し控えます。しかし、何故、私は、貴殿に「安直な思想はそろそろ止」めろとか「いい加減に目を覚ませ!」とまで言われなければならないのでしょうか。私の思想信条を勝手に決めつけ、初めて言葉を交わす私に「安直な思想は止めろ」、「いい加減に目を覚ませ!」と命令することの異常さをお感じになられませんか。

 「そんな『高級』なことを言ってるわけじゃないのか。」というのはある意味当たっています。思想を語る前に、思想を語る言論には作法がある筈だというのが私の今回の書込の主旨です。
 いろいろ書かれていますが、書かれる前に、貴殿は再度田母神論文を全文読み通されましたか。読むのに便利なようにURLを記載しておきましたがクリックされましたか。ほんの9ページ程度のものです。さらに、貴殿はこの論文が何をテーマに書かれたものか確認されましたか。この論文は「真の近現代史観」をテーマにしたものです。ですので、私が引用した部分は、この論文の「核心部」ではありません。さらに、論文を読めば、私が引用した部分の後に「自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。」という文章が続いていますが、これを確認されましたか。さらに、「田母神が核武装肯定派かどうかは知らないが(後略)」とさらっと書かれていますが、「田母神俊雄 核武装」で検索すれば、彼が、こういう本を書いていることくらい10秒もかからずわかります。10秒の手間を惜しんだのですね。
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A0%B8%E6%AD%A6%E8%A3%85%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E2%80%95%E7%9C%9F%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%A8%E8%87%AA%E7%AB%8B%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E7%94%B0%E6%AF%8D%E7%A5%9E-%E4%BF%8A%E9%9B%84/dp/4396614691
 私は、このように10秒もあればわかることすら調べもせず、批判すべき文章(田母神論文や私の書込)をよく読みもせず、どう読めばそう解釈できるかはわかりませんが、高圧的に決めつけ、自分の思想を理解しない人は馬鹿だと言わんばかりの貴殿の「言論の作法」を問題にしているのです。

 このスレッドは、「靖國神社の正統護持のために」をテーマとするスレッドです。それを私は静かに読んできました。ご自分の思想を語りたいのであれば、ご自分の掲示板を再開されてはいかがでしょうか。

平成26年2月10日
 「私は自分の意見を述べていないのです」を「私は自分の思想信条を述べていないのです」に修正。
 句読点修正。

平成26年2月10日 15時56分
 「田母神俊雄」を「田母神俊雄 核武装」に修正。
 

「一国独立」それこそが国体を護持するということである

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 9日(日)11時55分58秒
返信・引用 編集済
  そんな「高級」なことを言ってるわけじゃないのか。

「親子関係である」と田母神が言ったか言わないか、といった、低級な質問なんだから、ひと言「言ってるじゃん」でお仕舞いで良かったな。

田母神:

①私は日米同盟を否定しているわけではない。

②アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。

③但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。

④子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

問題となっている田母神論文の「核心部」である部分を4段落に分けて考えてみよう。

第一段落において既に田母神氏の思想の中心にあるものが正直に吐露され、続く第二段落でその理由が述べられる。「中韓の脅威への対抗手段としての良好な日米関係が不可欠である」と。

そして問題の第三段落にある、「但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい」だが、これを普通の読解力をもってどう捉えるか。

確かに言い回しとしては「親子の関係である」とは言ってないが、「親子関係のようなものであることが望ましい」と、田母神氏自身の希望として「親子関係が望ましい」と正直に述べられているではないか。

確かに、「必要なときに助け合う」という条件を前置してはあるが、そんなものは言い訳にもならない詭弁であって、アメリカの核の傘にうずくまりながらの、アメリカの圧倒的軍事力に依存しながらの、そういった対等にない者同士の助け合いが果たして最後の段落にあるような、「子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている」の実現にどれだけ寄与するというのか。

日本人特有の楽観主義といえばそれまでだが、アーミテージやナイらの言葉からも自明のように、わが国の核武装を歓迎するお人好しのアメリカ人など一人も居ないということだ。

田母神が核武装肯定派かどうかは知らないが、仮にそうだとして、日米安保を友好な状態に保持したまま核武装を成し遂げようなどと氏が考えているとしたならそれは人間性に対する度し難い過信であり、その思想は左翼の基本形としての啓蒙主義の所産である。

核武装によって対等な関係を獲得せずして、氏の懸念する「日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく」などといったアメリカナイゼーションが治癒することなどあり得ないのですよ。残念ながら人間という生き物はそこまでご立派な生き物じゃないのですよ閣下。

核武装なくして東京裁判の否定も我々日本人の「靖国神社崇拝思想」をアメリカに認めさせることも日本を日本たらしめる根拠としての国体(一国独立というもっともベーシックなそうあるべき国の姿)の連続性を取り戻すことも到底叶わぬことと自覚すべし。

備中さん、遠慮すると言っておきながらどうもすみません。これで当分出てきませんからどうかご安心を。

それから風邪とノロウィルスにくれぐれもお気をつけください。奥方様にもそうお伝えください。

ありがとうございました。

 

覚醒せよ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 9日(日)10時16分13秒
返信・引用 編集済
  ひぐらしさん

ご貴殿のような「産経新聞系保守」の方を私はもう散々見てきましたから、本来なら何らのコメントもないのですが、貴殿は真面目そうな方ですから敢えてひと言言わせてもらいます。

「貴方は甘い」

田母神氏が言いたいこととは、(貴殿の理解をそのままお借りして言えば)、アメリカとの関係を友好なものにとどめつつ、これまでの片務的な関係を改善し双務的な同盟関係にしていこうじゃないか、そして何よりもその実現には「集団的自衛権の行使」が不可欠であって、田母神氏の発言の本旨はそこにあった、だから「親子関係」という言葉は肯定的に使ったのではなく、否定的に使ったのだ、とこう貴殿は言いたいのでしょう?集団的自衛権行使の中身に深い考察を加えることなく、直ちにそれ自体が「良かれしもの」であるかのごとき結論を結んでしまう「思想のチップインバーディ」・・・結論に至るまでのきちんとしたアプローチを省略し、直ちに結論を出してしまうような安直な思想・・・はそろそろお止めになったほうがよろしい。

いいですか、ひぐらしさん。

アメリカがわが国に対して有する様々な軍事的プレゼンスや政治的イニシアチブの根拠がどこから来るのかと言いますと、日米間における軍事的非対象性にあるということはもはや自明でしょう。

例えばですが、私はわが国の核武装肯定の立場ですが、仮にわが国が近隣の脅威を退けるに充分な核を手に入れたとしたら、アメリカのわが国に対するこのアドバンテージは滅失する。これまでの上下関係の根拠だった軍事力の不均衡が治癒し、アメリカと日本は文字通り対等となるのですからね。

そうすると、これまでは上命下服(上からの命令に下が服すということ)の関係だった米軍と自衛隊との関係にイコーリティが生まれ、「その案件には我々の合意が必要である」などと自衛隊が言うようになったらアメリカはどう思うか。当然面白くないでしょう。これまで主体と客体とに明確に分離していたた米軍と自衛隊とがイーブンな関係になることなどアメリカは欲しもしないだろうし考えもしないだろう、と見ておくのがまともな思想というものです。

戦後民主主義に保蔵されるヒューマニズムの毒をたっぷり食らってきたナイーブな「田母神閣下様」のように、アメリカとの仲睦まじい同盟関係を堅持しながら主体性をもって国防にあたろうなどと虫のいいことを考えてるからこの国は何時までたっても独立と無縁なのですよ。

いいですか、はっきりいいますが、我々が念願の核武装を果たし、自主独立を叶えたいと本気で願うなら、アメリカとの同盟破棄を覚悟に入れてそれに挑まねばならない、ということですよ。アメリカとの同盟を維持しながらわが国の主体性も保持するということなどは白日夢に等しいと認識すべきなのですよ。

核はないは、国軍はないは、民主主義の毒が全身に回った国民精神のままで集団的自衛権などに突入したらまたイラク戦争の二の舞を繰り返すだけです。アメリカの義のない戦争、つまり、侵略戦争の片棒を担がされるだけが関の山なのですよ。

繰り返す。核武装でアメリカと決別する覚悟がありますか、それともこのままアメリカの属国を維持し、安全と生存を保持していきますか、その二つに一つしか答えはないんだ。

いい加減に目を覚ませ!
 

言論の作法

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月 8日(土)21時42分43秒
返信・引用
  > No.2063[元記事へ]

 私は、sakamoto氏が主催されていた掲示板に書込をしたことは一度もありませんし、旧桜掲示板でもsakamoto氏とやりとりをしたことは一度もありません。私は、一兵士氏が桜掲示板から追放されて以来のこの掲示板の読者です。その私が、何故、何の根拠もなく「ストーカー」とか「おっかけファン」とかのレッテルを貼られなければならないのでしょうか。それが「保守思想の正しい現れ方」だというのなら何も申しません。
 備中處士様、別に謝られる必要はありません。私の書込を読まれれば、私はあの書込で田母神氏を擁護したのではないというのはすぐにわかるでしょう。田母神氏が「俄かの西暦保守」であり「苦手」で「意見に感心しない」のは理解できます。私の書込の趣旨は、田母神氏の論文をきちんと読まず、「わが国とアメリカは親子の関係なんだ」という田母神氏が言ってもいないことを根拠に批判することに問題ないですか、という問題提起です。あの論文を読めば、田母神氏が「親子関係」という言葉で比喩したものは片務的日米同盟であり、これを双務的日米同盟にすべき(まず、集団的自衛権を認めるべき)というのは自明ではないですか。「親子関係」という言葉を使わなくても説明できることに「親子関係」という言葉を使ってしまった。その片言隻語を捉えて、あそこまで批判するのは正当でしょうか。もし、あそこまで批判するなら、片言隻語ではなく、それなりの根拠を示して行うべきではないでしょうか。すなわち、私は言論の作法を問題にしたのです。
再掲します。
<これらの批判にあるように、田母神氏は当該論文で「わが国とアメリカは親子の関係なんだ」と言われているでしょうか。本当に論文を読まれての批判なのでしょうか。こういう批判の仕方は妥当なものでしょうか。>
 

愚妻のパソコンから。

 投稿者:備中処士  投稿日:2014年 2月 8日(土)20時02分32秒
返信・引用
   急にパソコンが入力できなくなつたので、愚妻のパソコンにて入力します。修理せねば、小生も休み。何せ、名代のパソコン音痴ゆゑ、お許しを。漢字も出てこない。

 さかもと兄「しばらく書き込みを遠慮致します」と。お休みの間に、葦津珍彦翁『国家神道とは何だったのか──現代史通説の虚像を論破する』は名著、是非とも読んでみて下さい。

 明治元年の神仏分離令は、神道人にとつての悲願にして、わづか十数日後に、排仏行動は犯罪と公示されました。国家神道は、明治三十三年からの世俗合理主義による官僚行政です。神仏分離令と国家神道とは、直接、結びつきませぬ。両者の所論は、共に左翼・戦後御用学者の独擅場です。「誤解」を生むも、当然です。先づは先入観を捨てて、ご研究ください。

 ひぐらしさん、ご免ね。でも、彼の俄かの西暦保守、小生は苦手です。靖国神社の「正中」で、しかも「来賓」でいらつしやるのでしよ。過去の言動を、テレビで聞いてをります。やつぱり感心しませんね。

 どうも入力に不便、ほんと、入力に疲れます。匆々、ご容赦を。備中処士、拝

 

安寧の場所は何処に

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 8日(土)15時40分47秒
返信・引用
  またストーカーが出てきたようだ。

どこにいっても後をついてくるな。なんで私の後ばかり付いてくるんだ?

こういう「接ぎ木のナショナリズム」はクソなんだ、と申しているのですよ。

「日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。」と本音を漏らした後で、それへの反撃を食らわないよう「子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。」と、大急ぎで予め用意してあったタテマエを付記するその鵺的な論じ方が気持ち悪いといってるのですよ。

備中さん、また私の熱烈な「追っかけファン」が出てきたようですので、しばらく書き込みを遠慮致します。

ありがとうございました。
 

田母神論文の該当部分を引用します

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月 8日(土)15時14分23秒
返信・引用
   初めて投稿させていただきます。「靖國神社の正統護持のために」というスレッドのテーマから外れてしまいますがご容赦下さい。
 「幕僚長辞任のきっかけとなった「『田母神論文』」において「『わが国とアメリカは親子の関係なんだ(田母神)』といった、『目的と手段の転倒現象』が当然のごとく論じられ」ているとのことですが、当該論文の該当部分を引用してみましょう。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

<引用開始>
(前略)諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きができなようになっている。このマインドコントロール(引用者注:大東亜戦争の責任を全て日本に押しつけようとした東京裁判によるマインドコントロール)から解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。(後略)
<引用終了>

 当該論文は一般人向けに平易に書かれており、一読すれば文意は明快でしょう。それでは、この文章に対する以下の批判は的を射ていると言えるでしょうか。

(曰く)
これと似たような現象は安全保障のあり方を論じる際にも顕著に現れます。例の「安全保障確保にはアメリカとの同盟が欠かせないんだ」とか、「我々は自由や民主主義という価値をアメリカと共有してるんだ」とか、「わが国とアメリカは親子の関係なんだ(田母神)」といった、「目的と手段の転倒現象」が当然のごとく論じられ、それに異を唱えようものなら、「お前は理想主義者だ」といって罵倒する。現実一点に人間精神を傾注させていくことがあたかも保守であるかのように錯覚してるのですね。

(曰く)
「わが国とアメリカは親子の関係」なぞと、都知事候補とあらうものが公言してをるんですか、本道に‥‥。こりや、全く駄目ですね。流石は、國史を西暦一本で表現するだけの事はありますなあ。トホホ‥‥。最近流行の「保守」とは、已むを得ず、敢へて戰略的に申すのなら、罪、一等を減じてもよいが、本道に、心底から仰つてゐるのでせうから、小生の如き田舍者は、思考の埒外に居ります。
 我が國と建國三百年も滿たぬ人造國家、果して「親」は、どつち。いつぺん聞いておいて下さいね。試驗に出たら、答へるに窮しますから。

(曰く)
件の発言は幕僚長辞任のきっかけとなった「田母神論文」からの一節を引いたものですが、結局、この国ではこうした官僚にせよ政治家にせよ知識人にせよ、これらはなべて戦後思想を色濃く染めている負のニヒリズム・・・手段という、本来なら二義的でしかない価値を目的にまで高め、その結構な代用品を守るため、ああでもないこうでもないと理屈をこねくり回す不治の病気・・・の末期にあるのですね。

 これらの批判にあるように、田母神氏は当該論文で「わが国とアメリカは親子の関係なんだ」と言われているでしょうか。本当に論文を読まれての批判なのでしょうか。こういう批判の仕方は妥当なものでしょうか。
 付言すれば、このスレッドのテーマに沿った議論をお願いしたい。保守思想をテーマにした議論を続けられるのであれば、管理人様が、スレツドを作ると仰っているわけ<tt>ですからそちらで<tt>お願いします。
 失礼致しました。
</tt>
</tt>
 

おお~

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)19時35分4秒
返信・引用
  備中處士さん

いやあ、感動しました。「Fn」と「End」の同時押しで一瞬にして最下段に飛びましたよ。

上に戻るときは、「Fn」と「Home」で瞬間ワープです。

○○師の○○に何が入るかは想像し難くないですが、その○○師に騙されたと解かってからもなおその行為をやめようとしないのはどういうことでしょうね。どうしても騙されたいんでしょうかね、オレオレ詐欺の被害者みたいに。

きっと映画制作資金の3億5千万など端金なんでしょう。羨ましいですねえ(爆笑)。



 

老婆心‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 7日(金)18時48分5秒
返信・引用 編集済
  sakamoto樣

 パソコンによつて違ふかも知れませんが、最下段に行くには、

一、「コントロール」+「エンド」

 または

一、右端のスクロールにカーソルを合はせ、左クリツクして、下までドラツグ

で、一瞬に行くと思ふのですが‥‥。件の片假名をやうやく覺えた小生の老婆心、うまくゆけば萬々歳。



 嚴寒の候、體調にはお氣をつけ下さい。小生も寒さで首が凝り、頭痛が酷いです。賢兄は、病でも筆を措かず、凄いなあ‥‥。「スレツド」を作りますから、「櫻粹會」における「近代保守思想の學術的考察」の總括を、鋭意、投稿くだされば宜しいのに‥‥。お堅いものを。チヤンネル櫻は、塾頭が氣をつけて見張れとの仰せでしたが、あれは○○師でせうに‥‥。騙される方が惡い矣(「矣」は、「‥‥であるぞ」の謂ひ)。西尾某とか申す、不敬罪適用の週刊誌・月刊誌一派も蟠踞してゐるし‥‥、見る氣がしない、小生は、御免蒙らさせて戴いてをります。

 小生宅は大家族の部類でせうが、家中には風邪も蔓延、家中で一番元氣だつた祖母も白壽、然し昨年末よりは食事も喉を通らず、誤嚥も再々、老々介護の日々です。特に女連中は大變、小生は車の運轉の手傳ひしか出來ない、實に情けなき男ですが、聲掛け、見守りぐらゐは‥‥。不一



【權田直助先生傳】── 國學大系第二十卷『權田直助集』(昭和十九年十一月・地平社版)解説の抄録か。
  ↓↓↓↓↓
http://www.library.moroyama.saitama.jp/moroyamawoshiru/pdf/naosukesenseiden.pdf#search='権田直助'
  
 

悪文の見本

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)18時17分46秒
返信・引用
  文法的にも文脈的にも「悪文の見本」のような文章を手直ししたいのですが、下まで下がるのが面倒なのでご勘弁願います。

結局、何が言いたいかといいますと、田母神のような単なる「実体保守」を真の保守派に祭りあげ、「田母神閣下」とおだてあげ神輿に担ぐチャンネル桜、そしてそういう左翼的にして革新的な戦後の枠組みを保守することを趣味や日課とするような「近代主義的保守主義者」という鵺保守にエールを贈る訳の分からない者たち。

こういうドタバタ喜劇が延々と繰り返されてきた戦後に終止符を打つには、かかる保守主義にとっての土台となるものは何か、これをきちんと確認したうえで日米安保論なり核武装論なり靖国神社論をせねばならない、ということだ。

そのことを等閑にしてかかるから、この国のナショナリズムはあたかも国体論に近代主義を接ぎ木したようなグロテスクなものとなってしまうんだ。私の言う「思想の安定剤・・・スタビライザー」というのはつまりそういうことである。

日ごろは「日米安保を見直せ」だのと威勢のいいことを言っている偽保守の化けの皮は「危機との直面」においてすぐさま剥がされる。

少し前ならイラク戦争、直近なら尖閣問題だな。イラク戦争肯定に一時期慎重論もあった保守派の構えも、アーミテージだかに「ショウ・ザ・フラッグ(どっちにつくのかさっさと旗を見せろ」と恫喝されるや否や、「ハイ」と二つ返事でアメリカのイラク侵略の方棒を担がされ、今や軍事大国となった中国との摩擦が激化すればそれまでの威勢のよさはどこ吹く風、「靖国問題でアメリカ様を怒らせるな」とくる。

こういう「サブ・スタンシシズム」・・・本来、「サブ(二義的)」でしかないものをメイン価値に押し上げてそれを後生大事に神棚に祀るという、生命至上主義を親として生まれてきた救い難い病気。

絶対平和主義の左翼と似たり寄ったりの平和主義。いや、仮にガンジー主義をモットーとするのが真の平和主義だとしたら、こういう「アメリカの袖の下にうずくまっていれば安全なんだ」という、偽保守の劣性の平和主義は左翼のそれより遥かに下劣で低劣な平和主義である。

 

重いなあ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)15時00分32秒
返信・引用
  思想的に重厚な掲示板だけにPCの動作も重いなあ。

なんていうの?メモリーというの?

それをもっとデカイのにしなけりゃダメだな。

それと「100件表示」の設定だと下まで降りて編集機能を使うまでが一苦労。

あ、人様の庭で愚だ撒くのもみっともないな。
 

撃つべき相手は誰だ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)14時49分47秒
返信・引用
  つまるところ、中韓のあの粘着質的な反日思想の温床となった「東京裁判の判決」を正面から否定できなかったところにこの国の諸悪の根源があったといっていいだろう。

むろん、裁判の判決には「拘束力」があるからいかにその判決に瑕疵があろうともいったん下りた判決は簡単には覆らないのだが、その瑕疵が重大かつ明白な場合はその判決は「無効」である。この点、その制定過程に重大かつ明白な瑕疵のある占領憲法も同じく無効だ。

この東京裁判を政治的に「無効である」と宣言できなかった背景には「日米同盟」という、アメリカとの間に結ばれた深い友情の絆がむろんあるのだが、この子供でも解かるあたりきしゃりきのことが、政治家や高級官僚や名高い学者といった東大出身のセンセイ方には解からないとみえる。

中韓の図に乗った態度を正当化する「東京裁判史観」を疎んじつつ、そのイデオロギーの作出者としてのアメリカに対しては侵略の謝罪表明と自由と民主主義への反逆への反省に明け暮れるという、その鵺のようなどっちつかずの態度がかくも長き戦後の根本的原因であるはずが、「わが国はアメリカと自由民主主義を愛する同盟国であり、価値観を共有する友である」という。

アメリカと価値観を共有しているのだから「反省」するのは当然だろう。アメリカの有す歴史観は「天皇制という野蛮かつ前近代的な制度のもと、自由と民主主義に反抗して日本はあの大戦争を惹起させた」というものだから、自称の保守どもが「アメリカと日本は親子の関係」と、事も無げに言うのももっともなことである。

むろん、中韓の理不尽な言いがかりには誰だって頭にくるが、そもそもそういうふうな中韓の対日感情に水をやり肥料をやりで育て上げてしまったのは我々日本人ではないのか。キミらが敵と認識しなくてはならなかったのは我々でなく、我々の仲を引き裂き、その対立の隙間から実り出る美味しい果実を得ようとし、人為によってこしらえられた「東京裁判史観」というイデオロギーではないのか。

 

政治を知るためにも政治から離れろ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)13時39分47秒
返信・引用
  さすがにもう出るモンも出ないとみえ(お食事中のかたは失礼)大事には至りませんでした(笑)。

「素人の床屋政談」が好きで好きでたまらないのが戦後の大衆ですが、結局、何故人間社会や人間思想に社会科学的な考察が欠かせないのかというと、どういう公約を掲げるどういう者に一票投じるか、そういった政治的判断をするにもその判断の前提となる何らかの根拠なり要素が必要なのであって、思想のない者には単なる「好事趣味」としか映らないであろうが、平田篤胤や権田直助らの偉大な思想家たちから学んだ思想なり哲学というものが、畢竟、今日の大衆の政治的能力に直接的間接的かは解からずとも多少なりとも反映されることに期待して我々は過去の言葉に耳を傾けなければならないということです。

つまり、政治を知るためにも政治から距離を置くというパラドックスですね。

かくいう私も、恥ずかしながら明治の「国家神道」や「神仏分離令」を、「それは歴史性のない近代主義に基づく設計主義ではないのか」と誤解していた節があります。

モダニズムを忌避するおのれがモダニズムに洗脳されている。実に怖ろしきはイデオロギー(何らかの意図をもった者たちの人為によるこしらえものの思想)ということですね。



 

「ノロ」でも書く

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 7日(金)12時25分53秒
返信・引用
  いやあ、参りました。

「流行(モード)」のノロウィルスにやられました。間断なくやってくる下痢と嘔吐に体中の水分がほとんど奪われ、今や乾燥しきったミイラ状態です。

持続性のない、一瞬の流行に散々悪罵を投げつけてきた私ですが、これでは「保守主義者」の面目丸つぶれです(泣)。

件の発言は幕僚長辞任のきっかけとなった「田母神論文」からの一節を引いたものですが、結局、この国ではこうした官僚にせよ政治家にせよ知識人にせよ、これらはなべて戦後思想を色濃く染めている負のニヒリズム・・・手段という、本来なら二義的でしかない価値を目的にまで高め、その結構な代用品を守るため、ああでもないこうでもないと理屈をこねくり回す不治の病気・・・の末期にあるのですね。

生命が価値のてっぺんにくれば、その安全と生存を保持していくためにはたかだか250年の歴史ともいえない「単なる時間の経過」しかないアメリカを最強の親と崇めなくてならなくなる。アメリカが「A級戦犯の顕彰はいかん」といえば、「首相の靖国神社参拝は過去の反省と不戦の誓いである」といわざるを得なくなる。グローバリズム(それに基づく市場経済)がどれだけ我々の国体にそぐわないものだとしても、親であるアメリカがそれを要求すれば「もっと市場の開放を」と叫ばざるを得なくなる。

こういう負の循環を延々70年近くもやってきてるのですよ。

手段(日米安保)と目的(国家の自立と自尊)とが逆転し、手段のためなら肝心の国柄が破壊されようが国民精神がアメリカ化しようが、法から国家制度のすべてがアメリカ印のものとなろうがそんなことは一切おかまいなし。「プライドで飯が食えるかよ」というのですね。

こういうマテリアリストが「俺は反共主義なんだ、保守なんだ」と言ってるのですからもう笑いしかありません。

いけね、また腹がゴロゴロいってきた。このへんで失敬致します。
 

西暦保守の本性、しかと見据ゑたり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 5日(水)22時37分22秒
返信・引用 編集済
   「わが国とアメリカは親子の関係」なぞと、都知事候補とあらうものが公言してをるんですか、本道に‥‥。こりや、全く駄目ですね。流石は、國史を西暦一本で表現するだけの事はありますなあ。トホホ‥‥。最近流行の「保守」とは、已むを得ず、敢へて戰略的に申すのなら、罪、一等を減じてもよいが、本道に、心底から仰つてゐるのでせうから、小生の如き田舍者は、思考の埒外に居ります。

 我が國と建國三百年も滿たぬ人造國家、果して「親」は、どつち。いつぺん聞いておいて下さいね。試驗に出たら、答へるに窮しますから。

 今日は嚴寒、惡寒がします。其の上、「親子關係」てふ言靈、寒氣も彌益、おやすみなさい。
 
 

思想のモデル化を排せ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 5日(水)17時22分24秒
返信・引用
  これはいつも書いてることだが、近代主義に汚染されオツムがモデル化した戦後人はとかく二者択一が好きだ。

万事について「民主か独裁か」とか「主権者は国民か天皇か」とか「国教は神道か仏教か」といった単純化した思想で物事をみるのがどうやら国民性となっているようだ。

その統治方式にあるいは様式に伝統が確保されてさえいれば、国民主権であろうが国家主権であろうが、統治権の所在がどこにあるかなどは二義的なことなんだ、ということがモダニストたちには理解できない。

これを「あるべき病」と名付けよう。

この思想のマニュアル化はなにもテクノクラートに陥ったお役人だけに限らず、本来「自由」であるはずの民間人にもその毒を撒き散らしている。

思考がモデル化した官僚主義に自らどっぷり染まりながら「脱官僚」を言うほど滑稽なものはない。

お話は逸れましたが、本来、神社とその附合物としての別当寺とは衝突するものでも反目するものでもなく、持ちつ持たれつの間柄であって、例えば阿夫利神社と大山寺との関係もその例に漏れず共存共栄を保持していくべきではなかったのか。

まあ例えばだが、寺が神社の広報担当を引き受け、神仏ともに参拝者で常に賑わうようにすることも一つのあり方・・・むろん、儀式の様式を一方が一方に押し付けるようなことはあってならないが・・・としてはありだろう。

まずは善悪二者択一論という「思考の貧困化」を排し、自由な議論・・・むろん、唾棄すべきアメリカ的な意味での自由ではない・・・をどんどんやっていきましょう。







 

確かに力作ですが

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 5日(水)09時42分56秒
返信・引用
  備中處士さんの引かれたそのブログですが、出典文献もきちんと明示され、丁寧に書かれているという感は確かにありますね。

惜しむらくは(歴史アドバイザーだからしょうがないのだが)単なる年表の羅列でなく、直助を始めとする幕末の勤王運動家たちに対する自分たちなりの感想意見、つまり思想を盛り込んで貰いたかったですね。

それと、努力と意欲は買いますが、いくらなんでも平田篤胤を平田胤篤としたのはいただけません。しかも、一度や二度でなく、全編通しで「胤篤」ですから直助を調べるまで篤胤の存在など知らなかったのではないでしょうか。立派なブログなのですから見ている人に「生兵法怪我の元」などと揶揄されないよう、そういった基本的なことには注意すべきでしょうね。

まあしかしこれ以上言いますとまた喧嘩になりますから控えます(笑)。

私も備中さん同様、医者であり国学神道家であり、そして熱烈な勤王の士であった権田直助を偉大な人物と見る一方で、先に申しましたようにそうした美点にだけ目を向け、バンダリズム(廃仏毀釈)に目をつぶるのは思想的にフェアじゃない、という観点から真相究明に乗り出そうとした次第です。

もちろん、歴史ですから科学的に証明することは不可能ですしそもそもそんなものにはいかほどの意味もありませんから、重要なのは当時の庶民にどう思われていたか、大山を御神体に持つ地元大山の人々の暮らし方や生き方にどういった影響を及ぼしたのか、その「物語」を知るということです。

まだ資料にざっと目を通した段階ですからこれは私の推測に留まるのですが、幕府により手厚く庇護された仏教に対し、反対に軽んじられてきた神道家たちの不満が明治の神仏分離令とともにルサンチマンとなって一気に噴出したのではないか。

篤胤や直助たちは人為を好まず「かむながらのみち」にまかせてはいたが、神社の神官たちにはそれまでの不遇が我慢ならなかった。神仏分離令を拡大解釈してあのような蛮行に及んだ。つまり、神仏分離を政治的に利用し、その反動で一気に立場の逆転を狙おうとしたのではないか。

篤胤や直助に廃仏毀釈を直接命じたという事実はなく、神官たちは篤胤や直助のネームバリューを前面に押し出し、自分たちの行いを正当化しようとした。

今の大山阿夫利神社の宮司は私の同級生の実兄がやってるのですが、あまり大きな声では言えませんが、評判があまりよろしくない。その詳しい理由は聞いてませんが、伝統軽視の合理主義的な運営がどうやらその理由のようです。

もっと精緻な研究が必要ですね。
 

橿原の 御代に復ると 思ひしは あらぬ夢にて ありけるものを‥‥

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 4日(火)23時25分57秒
返信・引用 編集済
   標題は、矢野玄道翁の哥でありますが、明治皇學者の悲しみを表して餘りあるものがあります。なほ明治の皇學者・神道家は──現代の學者・神職と違ひ──、激しい論爭を繰りひろげてをります。少し難しいですが、藤井貞文博士『明治國學發生史の研究』(昭和五十二年三月・吉川弘文館刊)は、引用も多く且つ長く、實に勉強になり、當時の國運興隆の志氣を垣間見ることが出來ます。それに引換へ、現代の神道界、行儀は宜しいのでせうが、全く奮ひませんね。葦津珍彦翁のやうな、「笏を持たざる神主」の出現が待たれます。

「私の実家のほうも、明治の神仏分離令を根拠とした廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたようで、無残にもことごとく頭部をはねられた古い石仏が多数存在します。依拠すべきは神道か仏教かを別としまして、保守を自認する者としましては、こういうバンダリズム(文化的破壊主義)を容認するわけには到底まいりませんから、真相はどうだったのか、やはり平田神道及びその衣鉢を継いだ権田直助たちの仕業だったのか、というのが、いま非常に気になっているのです」と。

 前にご紹介申し上げた「いせはら歴史解説アドバイザー養成講座(第2期)の修了レポート」には、權田直助翁に於ける神佛分離の業績を、簡略ですが、よくまとめて書かれてゐます。學者にして皇醫道の復興、志士、即ち五十九歳にして幕末の動亂に關はり、岩倉友山公との道交、やがて幽閉。而して晩年最後のご奉公が、相模國大山阿夫利神社祠官としての神佛分離、實務者としても模範となる勳功を上げてをられます。誠に物凄い御方です。



【寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』/「佛教者の神社參拜」に於ける頭山立雲翁の評】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1478
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/2
 
 

誤字訂正

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)22時31分14秒
返信・引用
  ×廃仏稀釈

○廃仏毀釈
 

一年生から勉強してみます

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)21時31分8秒
返信・引用
  備中處士さん

内心、「あんたが来ると場が荒れる」と断られるんじゃないかとひやひやしておりましたがお許しを頂きましてホッとしております。

実は、私の実家のほうも明治の神仏分離令を根拠とした廃仏稀釈の嵐が吹き荒れたようで、無残にもことごとく頭部をはねられた古い石仏が多数存在します。

依拠すべきは神道か仏教かを別としまして、保守を自認する者としましてはこういうバンダリズム(文化的破壊主義)を容認するわけには到底まいりませんから、真相はどうだったのか、やはり平田神道及びその衣鉢を継いだ権田直助たちの仕業だったのか、というのがいま非常に気になっているのです。

国学や神道に関する知識は備中さんと違いほとんどない私ですから、そう深いところまで入り込んでいくつもりも毛頭ありませんが、地元縁の大思想家のことぐらいはきちんと知っておかないとやはりまずいですからね(笑)。

ご推薦の書物は一度読んでみたいと思います。しかしあまり難しいのは勘弁(笑)。
 

屈折したナショナリズム

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)21時07分51秒
返信・引用
  「戦後日本には背骨がない」とは自称の保守の常套句ですが、かく言うご本人様に何があるのかと言いますと背骨どころか備中さんが取り上げられていたような、中韓への対抗心だけの形式的な靖国神社参拝に喝采を贈るような他愛のない者どもが保守面をしていられるわけです。

要するに、その思想の内実とはいっさい無関係に、「参拝」という外形さえ備えていればいいというのですね。

これと似たような現象は安全保障のあり方を論じる際にも顕著に現れます。例の「安全保障確保にはアメリカとの同盟が欠かせないんだ」とか、「我々は自由や民主主義という価値をアメリカと共有してるんだ」とか、「わが国とアメリカは親子の関係なんだ(田母神)」といった、「目的と手段の転倒現象」が当然のごとく論じられ、それに異を唱えようものなら、「お前は理想主義者だ」といって罵倒する。現実一点に人間精神を傾注させていくことがあたかも保守であるかのように錯覚してるのですね。

中曽根が二礼二拍手一礼を抜いた無形式で無礼な靖国参拝をしたとき、(首相の参拝時には恒例となってる)松平宮司は挨拶にすら顔を出さなかったそうですね。

「官から民へ」を合言葉に三公社を民営化させ、ローカル線や不採算郵便局を廃止においやり、地方の過疎化に拍車をかけた新自由主義の中曽根のみならず、歴代の自民党などほぼ全部が「戦後保守」つまり、左翼的にして革新的な戦後体制を積極的に保持しようとする左翼集団以外の何ものでもないのを、この国の無思想な保守どもは保守政党と見誤った(保守派どもというのは不正確な表現でして、正確には本来なにが左翼で何が保守かすらも解からない阿呆どもですが)。

こういうバカどもを「保守政治家」と規定して選んできた「民主主義」なるものをアメリカと共有しているそうです。素晴らしいことじゃありませんか。



 

『仙境異聞(仙童寅吉物語)』の世界。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 4日(火)20時41分34秒
返信・引用 編集済
  sakamoto樣

 これはゝゝゝ、早くお出ましになられましたね。邪魔とか、滅相もありませんが、小生ごときでは、御相手も叶ひませぬ(泣)。

 何やら‥‥、大國隆正翁とか、權田直助翁とか、── 小生は、はつきり云つて、餘り精しくありませぬ(涙目)。名越廼舍翁の豫習をしてをりましたが、何せ、當代きつての御醫者樣、‥‥無理です。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/20

 大壑先生の門下、多しと雖も、大學者の一人でせう。研究させて戴くには不足はありませんが、やつぱし無理。sakamoto樣、醫道のご造詣は、果して如何。

 大國翁は、實は大壑門下では無いやうです。大國翁は村田春門門下で、抑も春門は、平田先生をして鈴屋本家と溝を生じさせようとした張本の一人、大國翁が平田門に還るには、相當の時間を要しました。『増補・大國隆正全集』が最近復刻されてをりまして、小生の書齋に飾つてをります(大笑)。定年後に讀まうと‥‥。松浦光修博士の『大国隆正の研究』(平成十三年九月・大明堂刊)が、秀逸でせう。小生は、氣に食はぬ所がありますが‥‥。

 然し大國翁にしろ、權田翁にしろ、平田篤胤先生の『仙境異聞(仙童寅吉物語)』(岩波文庫他)を、sakamoto樣が、何より先づ讀まれて興味が湧かないやうでしたら、兩翁の研究は、勞多くして實を結ばないやうに存じます。閑暇の折に、是非とも仙童寅吉の世界を覗いてみて下さい。

 先づは取り敢へず御挨拶まで。不具。
 
 

昔の名前で出てきました

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 4日(火)14時51分18秒
返信・引用
  備中處士様

こんにちは備中さん。

当掲示板運営者との契約がまだたっぷり残ってる(本年11月いっぱいまで)にも関わらず、遺憾ながら当方(桜粋会)を閉めてしまったのでこちらに書かせて貰いますが、もし、邪魔なら邪魔といってください。塾頭の手を一番焼かせたのはおそらくこの私でしょうから(笑)。

本来なら、名誉棄損した者の発信者情報の開示をプロバイダに請求できるのでしょうが、日ごろからそうした実定法に悪罵を吐きかけてる以上、自分に都合のいいときだけ縋りつくのも格好悪いですからやめておきました。しかし前払いした利用料はもったいない(笑)。

しかしあれですねえ、「戦後」というものを一言で言い表すと、「スタビリティなるものの欠如」の一言じゃないでしょうかね。

論争好きの私でさえもが辟易し、「もう書くな」と懇願したのことなど平気の屁の河童で人の嫌がることを延々と書いてくる、放埓としかいいようのない行為までが、「個人の自由」という戦後の魔語によって正当化していく社会。

正にアメリカニズムという、私が攻撃し続けたもの自体に負けてしまいました。備中さん、この国はもう政治じゃ変わりませんね。こういう輩が主権者として巷間をのし歩いてるのですからこれで変わったら逆におかしい。

というわけでして、これからは自分の好きなことだけを考察したり、好事趣味的に研究していくことに決めました。素人の政治好きか、それとも単なる学問好きのディレッタントか、同じアホなら踊らにゃ損損と(笑)。

私の地元に縁の深い権田直助にいま関心があるのですが、平田篤胤同様、廃仏稀釈の旗振り役だったとか、偏狭な神道家だったとか、色々言われてますが、果たして実際の直助像はどうだったのか、とかその辺を勉強してみたいと思っています。







 

繰返される非禮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 3日(月)22時54分57秒
返信・引用 編集済
  **********

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140131-00000019-pseven-soci
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小林よしのり氏、安倍首相の靖国参拝は、英霊を侮辱したと批判/NEWS ポストセブン 1月31日(金)16時6分配信

 安倍首相が靖国(ママ。靖國神社)参拝をして、保守派の知識人・言論人たちが、「これは慰霊の参拝であり、なおかつ不戦の誓いをしているのだから、そのようにアメリカやヨーロッパに説明すればよい」と主張している。
 だが、靖国神社は顕彰の施設(ママ)であって、特段に秀でた英霊たち(ママ。「たち」は不要)を「よく戦ってくださいました」と顕彰する、讃える場所だ。「あなたたちの霊を慰めます」などと、失礼なことをしてはいけない。そこを、根本的にわかっていない。自分の命を投げ出して戦った兵隊たちに対して、とてつもない侮辱をすることになってしまう。そのことぐらいは前提にして、語ってもらわなくてはいけない。
 安倍首相の参拝ひとつをとってみても、「本当の愛国者とは誰なのか」を、まったくわかっていない。ものの知識がない。「学者」という名がついている人まで、そうだ。
 本当の愛国者とは何なのか。本当のナショナリズムとは何なのか。単なる嫌韓感情・嫌中感情というものだけで、ナショナリズムを作り上げて、中韓への反発心で、靖国神社に行くような「愛国心」は、偽物だ。
 本当の愛国者とは、どういうものだったか。明治以来の近代化のなかで、国家観をどのように持って、どうやって尊王攘夷の思想を持って、脱藩して国を意識してきたか──そういう人たちを描いたのが、『大東亜論』だ。
※小林よしのり氏『大東亜論──巨傑誕生篇』特別動画より

**********

 小林氏の著作『戰爭論』を以て、かつて我が娘・嫡男に讀ませたことがあるが、些か輕佻浮薄な所が氣になつて、以後は餘り見なくなつたが、件の記事を友人から指摘され、此の「言葉に限つて」は、快哉を叫びたい。塾頭の玉文を讀まれた方々には、珍らしくも何でも無い、當然の批判である。まさか『靖國神社の真実』を見た訣でも無からうが、人に因つて言を拒まず、此の零細掲示板の叫ぶ所は、所詮、蟷螂の斧であるが、此の人氣作家の記事には、素直に喜びたい。「中韓への反発心で」の所で、或る翁から、頗る興味深い話を聞いた。小泉首相は、此の「反発心」だけで、靖國神社へ「訪問」した由。其の前後に、「訪問」の事歴は無いさうだ(呆)。

 然し我が首相は、相も變らず、「『御』英霊‥‥。日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも『不戦の誓い』を堅持していく決意を、新たにしてまいりました。‥‥『自由と民主主義を守り』云々」。そして今日拜戴した『靖國』平成二十六年二月號には、何故か、「不戰の誓ひ」の重要文句を省いてをる。かやうな引用の仕方は、見苦しい。松平宮司と相違し、SPを從へし首相は、「徳川宮司らの出迎を受けた」さうであるが、下記の『安倍内閣総理大臣の談話~恒久平和への誓い~』を見て、安倍首相ならずとも、小生は、「痛恨の極み」たる思ひを、獨り噛みしめてゐる。
  ↓↓↓↓↓
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/discource/20131226danwa.html



【松平永芳宮司『誰が御靈(みたま)を汚したのか――「靖國」奉仕十四年の無念――/あの總埋大臣の無禮な公式參拜は忘れられない。政治權力との癒着を後任に戒め、私は職を離れた/――「公式參拜」といふ名の非禮を、私は忘れない――』(平成四年十月三日「東京レディーズ・フォーラムに於る講演」に加筆。文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號所收)】‥‥何度でも、お讀み下さい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7
 
 

困つたもんなり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月27日(月)18時24分17秒
返信・引用
  ・ 殿
??殿

 「・」および「??」殿の投稿は、暫くして削除させて戴きます。 投稿名を考へて戴きたい。

 高天原地上説は、我が國にも、多く存在します。近くでは、岡山縣にも、蒜山や、備前一宮吉備津彦神社にもあり、決して珍しいものではありません。殊に後者は、神主・總代が當然の事として吹聴し、識者をして呆れさせてをります。加耶大學校の總長も含めて、共に噴飯物です。

 現代、東大の保守を自認する博士も、神代は歴史に非ず、「天照大御神は、皇室の直系に非ず」と、魔説を喧傳して憚りませぬ。我が國に於いても斯うなんですから、況んや韓國の博士をや。お仲間の説は、他でやつて戴きたい。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/26

 削除の件、惡しからず、ご諒承を乞ひます。

     九段塾管理者 拜
 
 

R困惑‥‥。

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月26日(日)12時00分43秒
返信・引用
  【小生は、「皇國の上空に坐しますなむ」と信じ、かく申し上げてをりますが、地上の高天原は、人間世界の四國くらゐの面積ありとの御説もあるやに聞いてをりますので、中らずとも遠からず、さやうに喧嘩腰に云はれることも無いでせう】
--------

やっぱり警戒心一杯の過剰防衛本能心でっか?。
短兵急に意味とり違えられましたか、わかり申した。お邪魔虫これを最後に退散いたしまする(涙)。

ご貴殿に喧嘩腰してんじゃありません。
そのツアーの韓国人ガイドの説明に「ぐ・ぐ・ぐ」と詰まされた己れの不甲斐ない苛立ちよ
だからこうゆう場合の論争をどうやったらいいんかを一兵士翁殿に申しこんだのよ。

だって相手は微笑をもってこう弁論しとるのよ
「史家の第一人新井白石先生は、こう仰った
神とは人である。高天原は遠い昔に天皇家の先祖がいた場所である。
故に、高天原を地上の特定の場所にあったとする。」
(日本に住み、歴史の勉強でもしたのであろうか 在日二世か?)

そしてこう言うた。
「北緯36度以北慶尚北道高霊邑の水と共に稲作伝来の伝承に
乗って北緯34度以南の九州説の筑紫に移って何が不自然ですか? 新井白石大家も
認めておられる」

ええですか、ここは公園なんですよ「高天原公園」なんですよ、神様公園や。
勝手にメカルト図法の平面史観で屁理屈されとる。公園の転居だと・・
そんなもん高千穂峰の阿蘇上空の立体史観でいかにゃアカン。

こんなことコリアに日本人観光団に言わさせとってええのか?
新井白石は「異端だ!騙りだ!」と叫ぶが、一兵士くん君の本当の仕事やないんけ?
某掲示板にゴマを摺ってるヒマあるんけ? 日本人観光団、「高天原公園史観」上ツケで
帰国するで、目を玄界灘のそとに向けんでもええんか?

の論争せようとしたらご公儀の目にとまり「反皇国不敬のおそれあり」で削除された。
アカン私への警戒心が強過ぎたんでしょう、抵抗すればまたアク禁になる。
キャインキャインキャインとおとなしくなった(笑)。

今、従軍慰安婦像の設置反対運動で、全国議員連名世界各地をまわる。
そんな世界最古の職業のああでも、こうでもありませんぜ、こっちは神々の故郷の
「高天原世界」の最大事を、「神様公園」でオチョクラレとる。こっちの撤去が先だ。

でも、塾頭・一兵士翁泉下の人・一番弟子に
「堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは、高千穂の峰の垂直の雲の上だ!」と。

これは史学(新井・平田・本居)を含む世論への喚起を求め、高弟備中處士殿が、一兵士翁の意思を継がれどう思われるかの意味合レスであったが、どうも伝達能力不足
「櫻粋会炎上荒らし」マンの登場と疑われたよし・・ここはきれいさっぱり退散いたします。

頭が痛くなるようなヤリトリ・・どうも拙者の頭では、自信がござらぬも正直な答え。
どう思うかをお聞きしたが







 

困惑‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月25日(土)21時45分32秒
返信・引用 編集済
   「北緯36度以北、慶尚北道高霊邑の水と共に、稲作伝来の伝承に乗って、北緯34度以南の九州説の筑紫に落ちる」と。さやうな御説も、一説として承りました。「慶尚北道高霊邑」にて檢索したら、色々あるものですね。ご示教、有り難うございました。小生も、日韓の姉弟關係につき、かつて名越翁の文を紹介させて戴いたことがありました。須戔鳴尊の天降られた御地は、今の朝鮮白頭山でせうから、まんざら、縁なき事とも申せません。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/222

「堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは、高千穂の峰の垂直の雲の上だ、と」。

 小生は、「皇國の上空に坐しますなむ」と信じ、かく申し上げてをりますが、地上の高天原は、人間世界の四國くらゐの面積ありとの御説もあるやに聞いてをりますので、中らずとも遠からず、さやうに喧嘩腰に云はれることも無いでせう。然し所詮、地上人の、しかも素人の臆説妄想、お聞き流し下さるか、相手にならぬと諦觀されむことを。此の調子ですと、小生は、塾頭では無いのですから、とても御相手かなひませぬ。こらへて下さい。

 何はともあれ、老臺には、何か、不快に思召されました御樣子、御許し下さい。
 
 

R高天原謹考

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月25日(土)19時01分7秒
返信・引用
  そうも警戒心強く、肩肘張っての防衛本能旺盛でレス応対
「こりゃまたお呼びでない、どうも失礼いたしました」と退散せにゃアカンのかな?(笑)

先の塾頭さんは余裕綽々と莞爾の笑いで受け申した。
これは2度目のレスよ・・。

まだ先代が某掲示板と蜜月状態のとき・私のほうが名ウテのゴロツキ投稿者・皇尊心掲示板の趣旨に合わぬとただちに介入削除された。まだ私の本意が伝えぬうちに、スレ主自体が
不満であられた。丁々発止でやろうとした時に。

『垂直』の意味の真意がまだ説明不十分のうちに。
貴殿の申す
「平面史觀、實に艸木ものいふものであります。「垂直に」と貴意が如く、埀直か否かは兎も角く、立体史觀であらねばなりませんね」

そうメカルト図法の平面史観ではないの、もじ通りの立体史観でいかにゃアカンのさ。
ここをはっきりさせないから、北緯36度以北慶尚北道高霊邑の水と共に稲作伝来の伝承に
乗って北緯34度以南の九州説の筑紫に落ちるんや。
堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは高千穂の峰の垂直の雲の上だと。

2002年、会社リタイア、その記念に32年ぶりに韓国旅行した。
前にも行った慶州を奥さんと嫁を連れていった。そして、その周辺を、そこで腰をぬかし
かけた。そこに高天原の碑が公園があった。
私はツアーの韓国人案内人に猛烈に抗議した。21世紀に建てる碑なんて信用ならん。
高天原は九州阿蘇山中の高千穂の上空に有るんだと。

でもその韓国人、日本に居たのか日本の歴史を勉強していた。
新井白石流の地上説を陳べる
「神とは人である」と説く。高天原は遠い昔に天皇家の先祖がいた場所であるとし、高天原を地上の特定の場所にあったとする。

「九段塾」塾頭・一兵士翁彼岸の先に行った。まだ私との論に入らぬ前に、もの凄き尊皇心
強き御仁の「やめい!不敬罪である」との命令によって。
そこで何年ぶりだ5年かな6年かな、まあええ、その翁の一番弟子に尋ねる。

「高天原の水田の水が垂直に落ちたはどこだ?」

 

高天原謹考。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月25日(土)16時02分22秒
返信・引用 編集済
 


●本居鈴屋先生『天祖都城辨々』に曰く、

「此の(天照)大御神は、今もまのあたり仰ぎ瞻(み)る天津日にましゝゝて、とこしへに高天原をしろしめせば、大宮所は、天上(あめ)にあること、申すもさら也。いかでか、此の國土(くに)にはあらむ」と。



●平田大壑先生『靈能眞柱』に曰く、

「天照大御神は、御依(みよさし)の髓(まゝ)に、高天原の君と坐して、普く御照らし坐すを以て、天照大御神とは申し奉るなり。また上に次々いへるごとく、天(あめ)とは、やがて日のことなるを、其れをしろし看す神に坐すゆゑ、また日神とも申し奉るなり。

 さて師(鈴屋先生)のいはれたる如く、天にも、この國土の如く國の有りて、高天原とは其を云ふなるを、この大地にある國は、みな地の外表方(うはべ)に屬(つ)きたるを、天にある國は、内裡方(うちべ。内部)に屬きたりとおもはる。そのゆゑは、天若日子が、雉を射上げたりし矢の、高天原に坐す、高木神の御許に至れるを、初めに射上げつる天の穴より衝き返し降し給ふとあればなり[内裡方に國あること、この大地なる國の例(ためし)に泥づみて、疑ふべきにあらず。物の理は、窮まりなく、妙なる物なればなり、と『考』(服部水月翁『三大考』)にいへる、實に然ることなり]」と。



 
愚案、所謂る高天原は、廣狹種々あつて、

一、天之御中主神の坐す、天津眞北の「高天原」(別天神界・北極紫微宮)

一、天照大御神の坐す、天津日の「高天原」(太陽神界)

一、天照大御神の分靈および天津神達の坐す、天上大氣圏内に在る「高天原」(地球神界)

一、天照大御神を地上にて奉齋する、神宮上空に在る「高天原」(伊勢神界)

一、天照大御神の顯現たる現人神天皇尊の坐す、地上の「高天原」、即ち千代田の宮城

一、或は、大宇宙を稱する「高天原」

一、或は、一靈(大元靈・天照御靈)を戴ける人間の體内の「高天原」(「心は、神明の舍なり」)

等の別があらうかと存じます。「高天原の水田の水は、垂直に地上のどこに落ちたか? さすれば、その高天原の場所がわかる」と。お申し越しの謂ひが判然としませぬものゝ、件の「三番目」に當らうかと存じます。然らば皇國の上空に坐しますなむ、と拜察いたしてをります。高天原が、地上の何處かに在ると申すは、平面史觀、實に艸木ものいふものであります。「垂直に」と貴意が如く、埀直か否かは兎も角く、立体史觀であらねばなりませんね。天孫降臨は、今から五千年ないし一萬年前と恐察いたしますので、それ以前の稻作は、諸々の神々・神僊が、天上から招來せるもの、或は大國主大神・少名彦那大神が、世界の民艸を啓導せられたものと拜します。

 
「れきし(蓋し「歴史」か)の観察者」樣は、我が塾頭が氣にかけてをられた有縁の御方、又た塾頭より年上の御方ゆゑ、敢へて申し上げるまでも無いとは存じますが、本掲示板は、最上段に掲げてをりますやうに、

本掲示板およびスレツドは、『靖國神社の正統』を、九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂め、靖國神社の正統を恢復護持し奉らむとする掲示板であります。

 なほ①

神宮
皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げ、②本掲示板の主旨に反する書込み、③禮儀・品位に著しく缺ける言語、④論理・文法が判らないもの、⑤青少年へ惡しき教育效果を與へる書込み
等は、嚴禁であること、勿論であります。かやうな場合は、管理者權限にて削除、または書込禁止の處置をさせて戴きますので、豫め御承知おき賜りますやう、謹んで御願ひ申し上げます」。

③④⑤は常識の範疇でありますが、①②に關しましては、他の掲示板よりも嚴格であります。他の參加者・閲覽者各位の靈眼も之れ有り、宜しく御願ひ申し上げます。

   眞金吹く吉備中國の玄月書院にて、備中處士、敬白
 

 

(無題)

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月25日(土)11時54分41秒
返信・引用
  高天原の神の國では、男の神々は、水田で米作りをして働かれ、女の神々は、機(はた)を織つてをられました。地上へ降つた天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、國中を廻つて普及させることが、天照大神の教へであります。これが日本の國の始めで、また建國の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。

高天原の水田の水は、垂直に地上のどこに落ちたか?
さすればその高天原の場所がわかる。
 

日本の歴史物語。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月17日(金)22時52分22秒
返信・引用 編集済
   先般、岡山縣愛國者協議會例會にて、岡田則夫翁により、或る國史物語が紹介されました。この御本は、正に少年少女への贈り物でありませう。一部、平假名を漢字に置換へ、紀元節を控へるに當つて、ほんの一寸だけ、ご紹介申し上げます。「子供向け」と申しても、小學生には、少し難しいでありませうが、義務教育のお子さんがいらつしやれば、是非とも購入して、讀んで上げて下さい。小生も入力しながら、何だか、樂しく嬉しくなつて來る、美しい文章です。そして表紙の裝畫は、我が岡山縣美作國の版畫師・第二代山田昭雲翁の令息尚公氏であります。



●保田與重郎翁『ふるさとなる大和──日本の歴史物語』(平成二十五年十月・展轉社刊)の「神武天皇」

 (神武天皇が)あちこちで永く滯在されるのは、その土地を拓いて、自分らの糧食を作り、また土地の人々に、農業の技術を教へられたのです。これには、深い謂れがありました。天皇のご先祖樣が、高天原から、この地上の國へ降りて來られる時、御祖母の天照大神から、お米の種子(たね)を戴かれ、「地上の國へ降りられたら、この種子を地上に植ゑ、高天原で神々がなさつてゐる手振りに習つて、米作りを生業としなさい。さうすると、地上の國も、高天原と同じ神の國になるのです」と教へられました。

 高天原の神の國では、男の神々は、水田で米作りをして働かれ、女の神々は、機(はた)を織つてをられました。地上へ降つた天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、國中を廻つて普及させることが、天照大神の教へであります。これが日本の國の始めで、また建國の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。

 米作りを生活の本とする時、わが子孫も、この國も、天地と共に永久に榮えるのです。これが、神の教へでした。この米作りを正しく行ふことを、「神習ふ」とか、「神の手振りに習ふ」と言ふのです。

 この神の教への實行は、その後の奈良時代から平安時代へとつゞいて、東北開發の目標でした。神武天皇のご東征と言ふのは、この高天原の水田で米を作られた技術を、各地の土地の人々に教へながら進まれたといふのが、この事實の内容であります。

 ‥‥

 この橿原宮で、ご即位の大典を擧げられるに當つて、前後に行はれた色々の準備は、『古語拾遺』といふ古典に詳しくしるされてゐます。奈良の都を京都へ遷された第五十代の桓武天皇の次の、平城天皇は、「『日本書紀』や『古事記』に、國の歴史はしるされてゐるが、なほ諸々の氏族の傳へて來た古事で、これらの本に出てゐない傳承は、文字にうつして後世に傳へねばならぬ」と、お考へになりました。これは、都遷りといつた大事件があつたりすると、世の中が騒々しくなり、色々の變革が起こつたりして、古い傳承は顧みられなくなつて、忘れられるといふ心配があるからです。この平城天皇の詔に從つて、齋部氏といふ古い氏族の長だつた齋部廣成が著したのが、この『古語拾遺』で、他の家の本はどうなつたか判りませんが、この本だけ、今日まで殘りました。その内容を見ると、『日本書紀』や『古事記』に殘つてゐないことが澤山書かれてあつて、まことに日本民族のために有り難いこの本が、よく殘つてくれたといふ感謝の氣持ちが起ります。

 この本の即位の時の記述によりますと、まづ大殿が建てられ、諸國を開拓して産業を興された樣子がしるされてゐます。これは大嘗祭(おほにへのまつり)を行ふための開發だつたのです。

 天皇陛下のご先祖が、高天原から地上に降りて來られる時、天照大神は、高天原の水田の稻の種子を與へられ、この種子を地上の國に育てゝ、高天原で神々のしてをられる通りの作り方をすれば、神の國が出現すると教へられた、これが、我が國の建國の大本だといふことは、前にもしるした通りです。この時、大神は、鏡を與へられて、「私を見たいと思つた時は、この鏡を見るがよい」と教へられました。

 天上から天降(あも)りして來られる天皇陛下のご先祖神は、お産まれになつたばかりの赤坊の神でした。それで、大きい椅子のやうなつくりの御座(みくら)に、柔らかいお蒲團を敷いて、それにお乘せし、兩手に劍と玉をお持たせして、天上から地上へ、湧き立つ雲の間を、まつしぐらに降りて來られたのです。この鏡と玉が、天皇陛下の皇位の璽(しるし)の傳世の寶物です。これが、所謂る三種の神器(じんぎ)です。

 古來から帝位の璽とされたものは、各國に澤山ありましたが、我が國で、鏡と劍と玉をそれにしてゐたことは、日本人の我々にとつては、格別と思ひませんが、外國人が他國の例と比べた時、この三種の神器を傳へた日本人の叡智に驚嘆すると言ひます。この三種の寶物は、單に珍貴な財物といふものでなく、その象徴する意味の深さに驚いたやうです。その三種には、深い思想と哲學がことよせられてゐるからであります。

 『日本書紀』には、神武天皇のご即位の時のお言葉がしるされてゐますが、その中に、「六合(くぬち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と爲さむ」とのお言葉があり、これは「世界を一つにした都を開き、天の下を一つの家としよう」といふ理想を著されたものと解釋する人が多くゐます。このことは、力で世界を統一するといふ思想とのけぢめが紛らはしいのですが、我が國の建國の理想には、力による支配の思想がないといふことは、高天原で神々がなされてゐたと同じやうに、この土地に米を作つて、この地上の國を、高天原と同じ神の國とするといふ、神の教へが先にあるからです。この神の教へが、我が國のすべての大本となつてゐるのです。

 この天上の神のお教へを事實として現すのが、大嘗祭です。大嘗祭は、ご即位の後に行はれるもので、大嘗會とも言ひ、古來から即位式についで、大嘗祭が行はれることによつて、皇位繼承が完了し、天皇の御位が確立するとされてゐました。天皇が踐祚されてから、大嘗祭が行はれるまでには、新しい御代となつてからの米の收穫との關係がありますので、その秋か、翌年か、時にはもつと延びることもあります。

 ‥‥この大嘗祭の祭場は、全國民が拜觀できるやうに公開されるのですが、これは神武天皇の橿原宮のご即位の時の先例をひきついだものです。この祭場や拜觀の模樣は、寫眞術のない江戸時代などには、町繪師が錦繪などに刷り上げ、遠い國々の人は、それで盛儀の樣を知つたのです。

 神武天皇の即位大嘗祭の樣子は、『日本書紀』には、「今ま諸々の虜(あだ)、已に平(む)け、海内(あめのした)に事無し。天神を郊祀(まつ)りて、大孝(おやにしたがふこと)を申(の)ぶべし」とおつしやつて、鳥見の山中に、靈畤(まつりのには)を立て、皇祖の天神を祭られた、と書いてあります。このお言葉の中の「大孝を申ぶ」とあるのは、大昔から「みおやのみ教へに從ひしことをのぶ」と讀んで來ました。みおやの教へといふのは、高天原から降りる時に、天照大神から米の種子を授り、これを地上で作れとのお教へであります。このお教へをお守りして、このやうに美しい米が、澤山取れましたといふことを、その産物を、神前にお供へして奉告することが、「大孝を申ぶ」といふことであります。

 『日本書紀』は、この一句で、昔の日本人なら、誰でも分つたことをしるしたのですが、『古語拾遺』は、天皇の大和平定後の諸國開發と産業振興の事情を、實に詳細にしるしてゐます。平安朝の始め頃になると、この史實を書き殘す必要があつたのです。それは、多くの人が忘れたからです。『古語拾遺』を書いた齋部廣成は、齋部氏といふ、神代からつゞいた氏族の最長老で、この頃すでに八十歳を超えた翁でした。今人は昔を忘れ、若者は昔の話をする老人を輕んじると憤つてゐます。そして平城天皇のお言葉で、古語を語れることに、生命のあつた生甲斐を味はつてゐるのです。廣成は、立派な學者です。江戸の晩期に出た平田篤胤は、本居宣長の學問をうけついだ大學者ですが、『古語拾遺』を讀んで、廣成の心持ちを察し、涙を流して感動し、感謝したと、繰り返し語つてゐます。



 愚案、昨今は、やゝもすれば農業を損得勘定にて把握してをるやうであるが、農業を忘れた日本は、違詔の大罪を負はねばならぬ。吾々誰人も、父祖を溯れば、必ず稻作に從事した經驗を持つ。周圍の農を生業とする人々を、しかと見よ。苦しい事も多々あらうが、實に樂しさうである。儲かるか損するかと考ふるは、父祖を忘却せる都會人だけであらう。農は國の大本であり、生命であります。歴代の天皇樣の詔敕には、累々と之を拜することが出來ます。父祖の祖業を繼承するのみならず、神國の人は、世界に農を廣め、一人も飢うる者が無きやう、また之に加へて環境の保全に努むることこそ、世界皇化の第一歩としなければならない。
 
 

動き始めてゐる──『凛として愛』擴散プロジエクト。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月14日(火)23時04分1秒
返信・引用 編集済
 

 下記、ご協力、宜しく御願ひ申し上げます。

 小生も、普段お世話になつてゐる氣功の國手に、花時計『凛として愛』DVDを差上げて、聽いて戴きました所、非常に感激して、他の患者さんへも貸出して戴いたやうであります。實に嬉ばしいことです。長船の有名な刀匠も、お弟子と共に、何度も見た由、等々。

 閲覽各位にも、此の機會を利用して、『凛として愛』の擴散に協力たまはれば、道福、此の上なきものと存じます。

     九段塾頭=泉水隆一監督より、御教へを受けし者──備中處士──懇祷、々々。



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情報提供のお願い!──『凛として愛』拡散プロジェクト

 泉水隆一監督作品──映画『凛として愛』を、もっともっと広めたいと思います。

 いま百田尚樹さんの「永遠の0」が映画公開され、ヒットしています。戦争の事、日本の事を考えてもらえる、よいチャンスだと思います。どうして日本は、戦わなければいけなかったのか。

 『凛として愛』は、明治開国から大東亜戦争までの事を、その当時の資料を元に制作されたものです。ぜひとも多くの方に見て頂き、日本について見つめ直してほしいと思います。

 そこで、みなさんに情報提供して頂きたい事があります。

① 学校の先生または塾の先生などで、もしかして保守?と思われる先生がいらっしゃいましたら、ご紹介して頂けないでしょうか(左寄りでなければ、保守でなくともいいです)。花時計から、『凛として愛』のDVDとお手紙をいれて、お送りしたいと思います。もちろん情報提供者の情報は、一切だしません。あまりに左に偏っている先生は、送ってもムダだと思いますので、可能性のある先生たちに、『凛として愛』を見てもらいたいと思っています。子供たちにも見せてくれるといいのですが、まずは先生に広めたいと思います。都道府県、学校名、先生の名前を教えて頂ければ、花時計から、『凛として愛』のDVD、紹介文とお手紙をいれてお送りします。

② みなさんの地域にあるケーブルテレビの住所、連絡先の情報を教えて頂けないでしょうか。『凛として愛』の放送をしてもらえないか、交渉してみようと思います。

member@hanadokei2010.com

まで、よろしくお願いします。



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藤真知子:
fuji.machiko@gmail.com
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代表者ブログ「マダムの部屋」:
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【泉水隆一監督・脚本・ナレーター作品『凛として愛』臺本】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50
 

 

天孫降臨、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月 1日(水)04時50分33秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 是に天照大御神、高皇産靈神の命以ちて、太子・正哉吾勝勝速日天忍穗耳命に詔りたまはく、

今、葦原中國、平け訖へぬ、と白す。故れ言依さし賜へりし隨に、降り坐して知ろし看せ

と詔りたまひき矣。爾に天忍穗耳命の白したまはく、

吾れは、降りなむ裝束(よそひ)せし間(ほど)に、子、生(あ)れ出(ま)しつ焉。名は天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命[天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊]。此の御子を降すべし

と白し給ひき矣。此の御子は、産巣日神の御女・萬幡豐秋津比賣命の子、玉依毘賣命に御合ひて、生ましめたまへる御子にます也。天照大御神・高皇産靈神、特に憐愛(めぐ)みて、崇養(かたてひた)し奉り給ひき矣。



 故れ是を以て白したまふ隨に、日子番能邇邇藝命に科詔せて、天都高御座に坐せ奉りて、

此の豐葦原水穗國は、汝し知らさむ國也

と言依さし賜ふ。故れ「命の隨に、天降ります可し焉」と詔りたまひて、天兒屋命・天太玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命、并せて五伴緒、天忍日命、及た諸部緒の神等を支(くま)り加へて、其のをぎし八咫鏡、及た天叢雲劒、二種の神寶を以て、永へに天日嗣の御璽しと爲さしめて、亦た其のをぎし八尺勾璁、及た平國の廣矛、常世思兼神・布刀玉神・天手力男神・萬幡豐秋津比賣神、護齋の鏡三面・子鈴一合を副へ賜ひ、又た天照大御神、

吾が天原に御(しろ)しめす、齋庭の穗をも、吾が兒に御(まか)せまつる

と敕りたまひて、依さし賜ひき矣。



 是に天照大御神、御手に鏡劒を捧げ持ち賜ひて、言壽ぎ詔りたまはしく、

大八島豐葦原水穗國は、吾が子孫(みこのつぎゝゞ)、王(きみ)とます可き地也。

皇ら我がうつの御子・皇美麻命、就(い)で坐して、此れの天津高御座に御坐(ましま)して、安國と平らけく、天日嗣の瑞穗を、天御膳の長御膳の遠御膳と、萬千秋の長五百秋に安らけく、齋庭に知ろし食せ。

此れの鏡は、專ら吾が御魂と爲て、吾が御前を拜くが如と、同殿・同床に坐さしめて、齋き奉りたまへ。

寶祚の隆え坐さむ事、天壤の無窮(とこしへ)なるべし矣

と詔りたまひて、復た天兒屋命[常世思兼神]・天太玉命に敕りたまはく、

惟爾(やよいまし)二柱神も、同じ殿内に侍ひて、御前の事を取り持ちて、爲政(まを)したまへ焉


と詔りたまひき矣。故れ此の二柱神は、さくゝしろいすゞの宮に并せ祭る。次に天手力男神・萬幡豐秋津比賣神は、佐那縣に坐す。此は、御戸開之神也。次に天懸大神・國懸大神は、木國の名草宮に拜き祭る。次に登由宇氣神。此は、外宮の度相に坐す。次に若御魂神。此は卷向穴師社に坐す神也。



 爾に神魯岐・神魯美の命以ちて、高天原に事始めて、天都詞之太詞事、言依さし賜ひて、天神社・國神社、稱辭竟へ奉らしめて、高皇産靈神、敕りたまはく、

吾れは、天津磐境を造りて、天津神籬を起し樹て、皇美麻命の爲めに齋ひ奉らむ。

汝し天兒屋命・太玉命、天津神籬を持ちて、葦原中國に降りて、亦た皇美麻命の爲めに齋ひ奉れ


と詔りたまひて、復(こと)に太玉命に、

諸部の神を率て、其の職(つかさ)に供へ奉ること、天上之儀(あめのみわざ)の如くせよ

と敕りたまひて、諸々の神をも與に陪へ從はしめたまひき矣。



 爾に日子番能邇邇藝命、天降り坐さむとする時に、先驅者(さきばらひのかみ)、還りて白さく、「天之八衢に、鼻の長さ七咫、背の長さ七尺餘りの神居て、上は天原を光らし、下は葦原中國を光らし、眼は八咫鏡なせり」と白しき矣。即ち從神を遣して問はしめたまふ時に、得目勝ち問はざりき矣。故れ天照大御神、高皇産靈神の命以ちて、天宇受賣神に詔りたまはく、「汝しは、手弱女に有れども、いむかふ神と面勝つ神也。故れ專ら汝し往きて、『吾が御子の天降りまさむとする道を、誰ぞ耶、如此くて居る』と、問ひてよ」と詔りたまひき矣。故れ天宇受賣命、往き向ひて問はす時に、八衢之神、答へ白さく、「吾は國神、名は猨田毘古神也。出で居る由は、天神の御子、天降り坐すと聞きつる故に、參ゐ向ひ待ちて侍らふ焉」と白し給ひき矣。天宇受賣命、復た問ひけらく、「汝ぢ先だち行かむか乎、抑(ま)た吾れ先だち行かむか乎」。答へ白さく、「吾れ先だちて、啓行(みさきはら)はむ焉」。天宇受賣命、復た問ひけらく、「汝ぢは何處に到り、皇美麻命は何處に到りまさむ耶」。答へ白さく、「天神の御子は、筑紫日向高千穗の槵觸之峯(くしふるのたけ)に到りまさむ。吾は、伊勢の狹長田・いすゞの川上に到らむ。我れを發顯はせる者は、汝し也。故れ汝し、吾れを送りたまへ」と白し給ひき矣。爾に天宇受賣命、還り詣りて、其の状を報しき矣。



 故れ爾に天津日子番能邇邇藝命に詔して、天磐座を離(はな)ち、眞床覆衾に褁みまつりて、天磐戸を引開けて、天降し奉りき矣。故れ此の神を稱へて、天國饒石彦火瓊瓊杵尊と曰す。故れ其の猨田毘古神、御先に立たして、天忍日命、背に天磐靭を取り負ひ、臂に稜威高鞆を著け、手に天梔弓を取り持ち、天波波矢を手挾み、八目鳴鏑を副へ持ち、頭槌之劒を取り佩き、大久米部を帥て、御前に立ちて仕へ奉り、天牟羅雲命、太玉串を取り、天忍雲根命、天津諄辭を宣りて祓ひ清めつゝ、天之浮橋[天之磐船]に、うきじまりそりたゝして、天之八重多那雲を排し分けて、稜威の道別き道別きて、果たして先に猨田毘古神の言ひしが如と、筑紫日向之高千穗のくじふる峯に、天降り坐しき矣。然して後ち大來目部を、天靭負部と爲たまふ。天靭負部といふ號、此の時より起(はじ)まりき也。故れ其の天押日命[天槵津大來目命]、此は産巣日神の御孫也。‥‥次に天村雲命は、天曾己多智命の玄孫也。‥‥次に天忍雲根命[天押雲命]は、天兒屋根命の子也。



 爾に天津彦火瓊瓊杵尊、高千穗の二上峯に天降り坐しゝ時に、天(そら)暗冥く、晝夜別たずて、人物(ひとゞも)道に失(まど)ひ、物の色別き難し。茲に土蛛有り。名を大鉗・小鉗と曰ふ。二人、皇美麻命に奏しけらく、「命の御手を以て、稻千穗を拔かして籾に爲て、四方に投げ散らしたまはゞ、虚(そら)、開晴(あかり)なむ」と白しき矣。その時、大鉗等が奏せる如く、千穗の稻を搓(ぬ)き、籾と爲して投げ散らしたまへば、即ち天(そら)、開晴(はれあか)り、日月、照光(てりわた)れり焉。因(か)れ高千穗の二上峯と曰ふ。既にして襲(そ)の高千穗の槵日二上峯に移り幸(いで)ましき矣。



 是に皇美麻命、襲の高千穗のそほりの山の峯の天浮橋より遊行(いで)まして、膂宍空國(そじしのむなくに)、頓丘(ひたを)より國覓ぎ行去(とほ)りて、吾田の笠狹之御碕に到り坐し、長屋之竹島に登り坐して、其の地を巡り覽まして詔りたまはく、「朝日の直刺す國、夕日の日照る國也。故れ此地は、甚と吉き地也」と詔りたまひて、國主・事勝國勝長狹神を召して問ひたまはく、「此地は、誰が國ぞも歟」。對へ曰さく、「此は、長狹が住める國也。然れども今ま乃ち天神の御子に奉上らむ。取捨(ともかく)も意の任(まにま)に遊ばせ」と白しき矣。故れ底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて坐しましき矣。故れ其の事勝國勝長狹神、亦の名は鹽椎神[鹽土老翁]、此は伊邪那岐大神の御子也。



 故れ爾に皇美麻命、御宇受賣命に詔りたまはく、「此の御前に立ちて仕へ奉りし猨田毘古大神は、專ら顯し白せりし。汝し、送り奉れ。亦た其の神の御名は、汝し負ひて、仕へ奉れ」と詔りたまひき矣。即ち天宇受賣命、猨田毘古神の乞はしの随に侍(そ)ひ送りき矣。是を以て猨女君等、其の猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事、是れ也。



 是に天宇受賣命、狹田毘古神を送りて、還り到りて、乃ち悉とに鰭廣物・鰭狹物を追ひ聚めて、「汝し等は、天神の御子に仕へ奉らむや耶」と問ひたまふ時に、諸々の魚等、皆な「仕へ奉らむ」と白す中に、海鼠(こ)白さず。故れ天宇受賣命、海鼠に謂りたまはく、「此の口や乎、答へせぬ口也」と云ひて、紐小刀以ちて、其の口を拆きゝ矣。故れ今に、海鼠の口拆けたり也。是を以て御世々々、嶋之速贄獻れる時に、猨女君等に給ふ也。‥‥



 爾に天兒屋根命、皇美麻命の御前に仕へ奉りて、天忍雲根命を、神魯岐・神魯美の命の御前に、受け給はり申しに、「天之二上に奉り上げて、皇美麻命の御膳水は、うつし國の水に、天津水を加へて立奉らむ、と白せ」と、事教へ給ひき矣。是に天忍雲根命、天之浮雲に乗りて、天之二上に昇り坐して、神魯岐・神魯美の命の御前に白せば、天玉串を事依さし奉りて、「此の玉串を刺し立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天都詔戸之太詔刀言を以て告れ。如此く告らば、麻知則・弱韮(まちば・わかひる)に、ゆつ五百篁生ひ出でて、其の下より天之八井出でむ。此を持ちて、天津水と聞こし食せ焉」と、事依さし奉り賜ひき矣。

[一(また)の傳へに云はく、皇大神、皇美麻命、天降り坐せる時に、天牟羅雲命、太玉串を取り、御前に立たして、天降り仕へ奉りき矣。是に諸神、白さく、「葦原中國は、潮(うしほ)也。何かにす可き焉」と白す時に、皇美麻命、天村雲命を召して詔りたまひつらく、「食す國の水は、熟(にこ)からず。荒き水に在りけり矣。故れ御祖命の御許に參ゐ上りて、此の由を言して來よ焉」と詔りたまひて、登らしめたまひき。即ち天牟羅雲命、參ゐ上りて、御祖命の御前に、皇美麻命の白せと宣たまふ事を、子細に申し上ぐる時に、神魯岐・神魯美の命、詔りたまはく、「雜々に仕へ奉らむ政は、行ひ下し奉りて在れども、水取(もひとり)の政は、遺して在りけり矣。何れの神を下し奉らむと思ふ間に、勇ましく參ゐ上り來にけり焉」と詔りたまひて、天忍石之長井之水を八盛取りて、玉の瓫(もたひ)に入れて、誨へたまはく、「此の水を持ち下りて、皇大神の御饌に八盛、皇美麻命の御饌に八盛獻りて、遺る水は、天忍石水と、術云(まじの)りて、食す國の水のうへに灌ぎ和はして、朝夕の御饌に獻り初め、御伴に仕へ奉りて、天降れる神等・八十伴の諸人にも、此の水を飲ましめよ焉」と詔りたまひて、神財の玉もひ共に授け給ひて、下し奉り賜ひき矣。天村雲命、受け賜はりて、持ち下りて獻る時に、皇美麻命、詔りたまはく、「何れの道よりぞ耶、參ゐ上りつる乎」と、問ひたまふ時に白さく、「大橋は、皇大神、皇美麻命の天降り坐せるを畏みて、後(しりへ)の小橋より參ゐ上りき也」と申す時に、皇美麻命、詔りたまはく、「後にも畏み仕へ奉る事、勇(いさを)し也」と詔りたまひて、天村雲命・天二登命・後小橋命と云ふ、三つ名を負ふせ賜ひき矣。即ち日向高千穗宮の御井定め、崇(いは)ひ居(す)ゑて、朝夕の御饌に仕へ奉り、而して後に、丹波の氷沼に移し居ゑて、仕へ奉りき矣。]



【神床の御前に、『古事記』を口誦し奉らむ。】
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天孫降臨、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月 1日(水)04時35分36秒
返信・引用
  平成 二十六年
中興紀元 二千六百七十四年
天孫降臨以來 五千十四年
天皇正月、歳、甲午に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。



■青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽大人の哥

春にあけて 先づ看る書(ふみ)も 天地の 始めの時と 讀出づる哉

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



 南雄樣から、昨年は、『古史成文』の復刻を賜はりました。平成二十六年の祝頭に當り、此の神史を拜讀音誦させて戴きます。今ま茲に拜記するは、架藏の平田大壑先生『古史成文』卷之三(全三卷・無刊記。本文後半に、些か異同あり)に據りますが、音讀の都合上、一部、訓に工夫を加へ、亦た本文・割註、少しく省かさせて戴きました。寛恕を乞ひ奉ります。



天孫降臨の大御卷 ――平田大壑先生『古史成文』卷之三に據る――



 天照大御神の命以ちて、

豐葦原之千秋長五百秋之水穗國は、我が御子・正勝吾勝勝速日天忍穗耳命の知らす可き國也

と言依さし賜ひて、天降し給ひき矣。是に天忍穗耳命、天浮橋にたゝして、臨睨(ほぜ)りて詔りたまはく、「彼の地(くに)は、未だ平(しづ)まらず矣、いたくさやぎて在りけり矣。いなかぶしゝこめき國かも歟」と詔りたまひて、更に還り上らして、天照大御神に請(まを)し給ひき矣。爾に高皇産靈神・天照大御神の命以ちて、天安河の河原に八百萬神を神集へ集へて、天思兼神に思はしめて、神議り議りたまはく、「此の葦原中國は、我が御子の知らす可き國と、言依さし賜へる國也。故れ彼の國に、道速振る荒振る國神・螢なす光く神・邪しき神等、多(さは)に在りて、磐根木株・草の片葉も、能く言語ふがごと、夜は火瓮(ほべ)の若(もころ)に之(そ)を喧響(おとな)ひ、晝は狹蠅なして、之を沸き騰ぐ。先づ誰(いづ)れの神を遣はしてか、其の邪しき鬼を言趣けまし也」と詔りたまひき矣。爾に思兼神、及た八百萬神等、皆な議り白(まを)さく、「天穗日命は、傑れたる神也。是れ遣はしてむ也」と白しき矣。故れ天穗日命を遣はしつれば、乃(やが)て大國主神に媚び附きて、三年に至(な)るまで、復奏(かへりごとまを)さゞりき矣。故れ復た其の子・武三熊之大人[天鳥船命]を遣はす。此の神も、其の父の事に順ひて、返言申さゞりき矣。



 是に高皇産靈神、更に諸々神等を會へて問ひたまはく、「葦原中國に遣はせる天穗日命、久しく復奏さず。亦た何れの神を使してば吉(え)けむ」。爾に諸神、僉(み)な白さく、「天津國玉神の子・天稚日子は、壯士(たけきかみ)也。遣はしてむ」と白しき矣。故れ是に、天之加久弓・天之加久矢を、天稚日子に賜ひて遣はしき。爾に天稚日子も、忠誠(まめ)ならず。其の國に降り到きて、即ち大國主神の女・下照比賣[稚國玉神]に娶ひて、留まり住みて、「吾れ、此の國を馭めむと欲ふ」と云ひて、八年に至るまで、復奏さゞりき矣。



 是の時、高皇産靈神、其の久しく來報(かへりごとまを)さゞることを怪みて、亦た諸々の神等に問ひたまはく、「天稚日子、久しく復奏さず。又た曷(いづ)れの神を遣はして、其の淹(ひさ)しく留まる由(ゆゑ)を問はしめむ」と問ひ給ひき矣。是に諸々の神等、及た思兼神、答白さく、「雉名鳴女を遣はしてむ焉」と白す時に、詔りたまはく、「汝し、行きて天稚日子に問はむ状は、『汝しを葦原中國に使せる由は、其の國の荒振る神等を言趣け和はせ、と也。何ぞ八年に至るまで、復奏さゞる焉』と問ひてよ」と詔りたまひて、乃ち名鳴き雄雉(をきゞし)を遣はしつれば、此の雉、飛び降りて、粟田・豆田を見て、留まりて返らず。‥‥



 故れ其の雉、天より飛び降りて、天稚日子が門なる湯津杜(かつら)の木の杪(すゑ)に居て、委曲(まつぶさ)に天神の詔命の如と告りき矣。爾に天佐具賣、此の鳥の言(いふこと)を聞きて、天稚日子に語言ひけらく、「此の鳥は、鳴く音(こゑ)、甚と惡しかり也。故れ射殺したまひね」と云ひ進むれば、即ち天稚日子、天神の賜へる天之波士弓・天之波波矢を持ちて、其の雉を射殺しつ焉。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆さまに射上げらえて、高皇産靈神の座前(みまへ)に到りき矣。昔(さき)に高皇産靈神、其の矢を取らして見行(みそな)はすれば、其の羽に、血箸きたりき也。爾に高皇産靈神、「此の矢は、昔、天稚日子に賜へりし矢ぞかし也。今、何にして來つらむ歟。矢の羽に血染(まみ)れたるは、蓋し國神と相戰ひて、然(な)るかも歟」と詔りたまひて、諸々の神等に示(み)せて、咒(とこ)ひて曰りたまはく、「或(も)し天稚日子、命を誤へず、惡ぶる神を射たりし矢の至(き)つるならば、天稚日子に中らざれ。邪なき心有らば、天稚日子、此の矢にまがれ也」と云りたまひて、其の矢を取らして、其の矢の穴より衝き返したまひしかば、天稚日子が胡床(あぐら)に寢たる高胸坂に中りて、立ち處に身死(みまか)りき矣。此は、天稚日子、新嘗して休み臥せる時也。‥‥



 是に高皇産靈神、更に諸々の神等を會(つど)へて、葦原中國に遣はすべき神、選びたまふ時に、天思兼神、及た諸々の神等、僉な白さく、「‥‥經津主神、是れ佳けむ。亦た天安河の河上の天石窟に坐す、名は伊都之尾羽張神、是れ遣はす可し。若し亦た此の神に非ずは、‥‥武甕槌之雄神、是れ遣はすべし。且(ま)づ其の天尾羽張神は、天安河の水を逆さまに塞き上げて、道を塞き居れば、他し神は得行かじ。故れ別に天迦久神を遣はして問ふ可し」と白しき矣。故れ爾に天迦久神を使はして、天尾羽張神に問ふ時に、天尾羽張神、答白さく、「恐し。仕へ奉らむ。然れども此の道には、吾が子・武甕槌神を遣はす可し」と白して、乃ち貢進りき矣。‥‥



 是に其の天穗日命は、天之八重雲を押別けて、天翔り國翔りて、天の下を見廻りて、返事白したまはく、「豐葦原之水穗國は、晝は狹蠅なす水沸き、夜は火瓮なす光く神在り。石根・木根立ち・青水沫も言問ひて、荒振る國也。然れども鎭め平けて、皇美麻命に、安國と平けく、知ろし坐さしめむ」と白して、己れ命の子・天夷鳥命[天鳥船神]を、經津主神・健御雷之男神に副へて、天降し遣はして、荒振る神等を撥ひ平け、國作之大神(くにつくらしゝおほかみ)をも媚び鎭めて、大八島國の現事・顯事(うつしごと・あらはごと)、事避らしめき矣。



 是に經津主神・健御雷之男神、出雲國の伊多佐之小汀に降り到りて、十掬劒を拔きて、浪の穗に逆さまに刺し立てゝ、其の劒の前(さき)に趺坐(あぐみゐ)て、其の大國主神に問ひたまはく、「高皇産靈神の命以ちて、問ひに使せり。『汝(な)がうしはける葦原中國は、我が御子の知らさむ國也』と、言依さし賜へり。故れ先づ吾れ二神を遣はして、駈ひ平けしむ。汝が意、何如に。避り奉らむや、不や乎」と問ひたまふ時に、大國主神、對へ白したまはく、「疑はし。汝し二神は、吾が處に來たるに非じ。故れ須許(うべな)ひまつらじ。唯だ吾が住所をば、天神の御子の天津日繼知ろしめさむ、とだる天之御巣なして、底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて治め賜はゞ、吾は、百足らず八十坰手に隱りて侍ひなむ焉」と白し給ひき矣。



 是に經津主神、還り昇りて報告したまふ時に、高皇産靈神、乃ち二神を還し遣はして、大國主神に敕りたまはく、

今、汝しが言ふことを聞くに、深(まこと)に其の理(いはれ)有り。故れ更に條條(おぢゝゞ)にして敕りたまふ。

夫の汝しが治らせる現事(うつしごと)は、吾が皇美麻命に治らしめ、汝しは、神事(かみごと)を治らせ。

又た汝しの住むべき十足る天日隅宮は、今ま供造らせてむ。其の宮造りの制(のり)は、乃ち縱横の御量り、千尋栲繩以て、百結々・八十結々下げて、柱は高く太く、板は廣く厚くし、田供佃(たつく)らせむ。

又た汝しが海に往來(かよ)ひ遊ぶ爲めの具へに、高橋、及た天鳥船をも供造らせむ。天安河にも打橋を造り、又た百八十縫ひの白楯を供へ造り、

又た汝しの祭祀をも主(な)さむ者は、天穗日命也


と詔らしめたまふ時に、大國主神、白したまはく、「天神の敕教(みさとし)、如此くしも慇懃なるを、敢(いか)で命を不從(そむ)きまつらむ乎。吾が兒・八重言代主神に、鳥遊び・漁(すなど)り爲て、三津之碕に在り。今ま之れに問ひて、報命さむ」と白して、熊野の諸手船[天鳩船]に、使者・稻背脛命[天鳥船神]を載せ遣はして、天神の敕を、言代主神に致(の)りて、報命之辭(かへりごとまをさむことば)を問はしめたまひき矣。



 是に積羽八重言代主神、其の父の大神に言さしめたまはく、「恐し。天神の命の如(まにま)に、此の國は、天神の御子に立奉りたまへ。吾れも違ひ奉らじ」と云ひて、即ち其の船の枻(へ)を蹈み傾けて、天逆手を、八重青柴垣に打ち成して隱り坐しき矣。此は宇奈提の神奈備、及た葛城の鴨社に坐す神也。‥‥



 是に稻背脛命、復命す時に、大國主神、其の子の辭(い)ひしが如と、二柱の神に白したまひき矣。故れ爾に健御雷之男神、「亦た白す可き子、有りや乎」と問ひたまへば、大國主神、白したまはく、「亦た我が子・健御名方神[御穗須々美命]あり。此を除きては無し也」と白したまふ間(をり)しも、其の健御名方神、千引石を手末(たなすゑ)に擎(さゝ)げて、來て言ひけらく、「誰ぞ、我が國に來て、忍び々ゞ如此く物言ふ。然らば力競べ爲む。故れ我れ、先づ其の御手を取らむ」と云ふ。故れ其の御手を取らしむれば、即ち立氷(たちび)に取り成し、亦た劒刄に取り成しつ。故れ懼れて退き居り。爾に其の健御名方神の手を取らむと、乞ひ返して取れば、若葦を取るが如と、搤批(つかみひし)ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去(い)にき矣。故れ追ひ往きて、信濃國の諏方海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、健御名方神、白しつらく、「恐し。我を、莫(な)殺したまひそ。此地を除きては、他し處に行かじ。亦た我が父・大國主神の命に違はじ、兄(いろね)・八重事代主神の言に違はじ。此の葦原中國は、天神の御子の命の隨に獻らむ焉」と白し給ひき矣。此は、諏方祝部がいつく神也。此の神の后神を、八坂刀賣命と謂す。



 是に健御雷之男神、更に且た還り來て、其の大國主神に問ひたまはく、「汝が子等、事代主神・健御名方神二神は、『天神の御子の命の隨に、違はじ』と白し訖へぬ。故れ汝が心、奈何にぞ」と問ひ給ひき矣。爾に答へ白したまはく、「吾が子等、二人の白せる隨に、吾れも違はじ。此の葦原中國は、命の隨に、既に獻らむ焉。如(も)し吾れ防禦(ほせ)がましかば、國内の諸神、必ず同(とも)に禦ぎなむを、今ま我れ避り奉らば、誰か順はぬ者あらむ。亦た吾が子等、百八十神は、八重事代主神、神の御尾前と爲りて仕へ奉らば、違ふ神は有らじ」と白し給ひき矣。



 是に大國主神、「皇美麻命の鎭まり坐さむ大倭國」と白して、己れ命の和御魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉命と名を稱へて、大三輪の神奈備に坐せ。己れ命の子・味鉏高日子根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ。事代主命の御魂を、宇奈提の神奈備に坐せ。賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、天神の御子の近き守神と貢り置き給ひき矣。



 故れ大國主神、越の八國を平けて、還り坐しゝ時に、長江の山に來坐して詔りたまはく、「我が造り坐して令(し)らしゝ國は、『皇美麻命、平世(しづみよ)に所知らせ』と、依さし奉れり。但だ八雲立つ出雲國は、我が靜まり坐す國、青垣山廻らして、玉置きて守る也」と詔りたまひき矣。故れ其處を、もりと云ふ。其の越の八國を平けむとして往でましゝ時に、林の地の樹林茂りき矣。爾(そ)の時、「吾が御心のはやし」と詔りたまひき矣。故れ其處を、はやしと云ふ也。



 是に産巣日神の天御量り以ちて、大國主神の請(まを)したまひし如(まにま)に、出雲國の多藝志之小濱に、天之御舍を造らしめて、御子・天御烏命を楯部として、天降し給ひき矣。爾の時、退り下りて、大神の宮の御裝ひの楯造りき。仍(か)れ今に楯桙を造りて、皇神等に立奉る。爾(すなは)ち楯縫の地、是れ也。



 是に大國主神、其の平國けたまひし時、杖きたまへる廣矛を、二柱神に授けて白したまはく、「吾れ此の矛を以て、卒ひに治功(いさを)を有(な)せり。皇美麻命、此の矛を用て國を治めば、必ず平安(まさけく)ましなむ。吾が治れる顯明事は、皇美麻命治すべし。吾は退りて幽冥事を治らむ」と白して、乃ち岐神を二柱神に薦めて、「此の神、吾れに代りて從(つか)へ奉るべし」と言訖へて、即ち躬から瑞之八坂瓊を披(お)きて、遂に八百丹杵築宮に、長へに隱り鎭まり坐しき矣。此の宮作らしゝ時に、諸々の神等、宮處に參ゐ集ひて、杵築きたまひし故に、杵築と云ふ。亦た百八十神等、集ひ坐し、御厨を立て給ひて、酒を釀しめ給ひて、百八十日喜燕(あそ)びて、解散(あら)け坐しゝ地を、佐香と云ふ也。



 爾に大國主神、鎭まり坐しゝ時に、神魯岐・神魯美命、天穗日命に詔りごちたまはく、

汝し天穗日命は、天皇命の手長の大御世を、堅石・常石にいはひ奉りて、いかしの御世に、幸はへ奉れ

と仰せ賜ひき矣。此は、出雲國造が、統々(つぎゝゞ)杵築宮に仕へ奉りて、神の禮(ゐや)じり・臣の禮じと、天皇命に御祷の神寶を獻りて、神賀ぎの吉詞を奏す縁也。



 是に水戸神の孫・櫛八玉神を膳夫と爲て、天の御饗獻る時に、祷ぎ白して、櫛八玉神、鵜に化(な)りて、海の底に入りて、底の波邇を咋ひ出でて、天の八十平瓮を作りて、海布(め)の柄を鎌(か)りて燧臼(ひきりうす)に作り、海蓴(こも)の柄を以て燧杵(ひきりぎね)を作りて、火を鑚り出でて白しけらく、「是の我が燧れる火は、高天原には、神皇産靈御祖命の、とだる天之新巣の凝烟(すゝ)の、八擧(やつか)埀るまで燒き擧げ、地の下は、底津石根に燒き凝らして、栲繩之千尋繩打ち延(は)へ、釣り爲る海人が、口大之尾翼鱸(くちぶとのをはたすゞき)、さわゝゝに控き依せ騰げて、拆竹(さきたけ)のとをゝゝゝゝゝゝに、天之眞魚咋獻らむ」と白しき矣。



 是に經津主神・健御雷之男神、岐神を郷導きと爲て、周流りつゝ削平けて、逆命はぬ者は斬り戮(はふ)り、歸順ふ者は神和はし和はし、荒振る神等をば、神問はし問はし、神攘ひ攘ひて、語問ひし磐根樹立ち、艸の片葉をも語止ましめて、中に服はざりし、星神・天香香背男[天津甕星]は、倭文神・健葉槌命を遣はせば、乃ち服ひき矣。‥‥



 故れ其の普都大神、葦原中津國を巡り行でまし、山河の荒ぶる類(ものども)を和はし平(しづ)め畢へて、天上(あめ)に歸らむと心存(おも)ほして、即ち身に隨(そ)へる嚴の杖・甲・戈・楯・劒、及た執とらせる玉、悉く常陸信太郷に留め置きて、即ち白雲に乘らして、二柱神、共に天上に還り參ゐ上りて、「葦原中津國は、皆な已に言向け竟へぬ」と奏したまひき矣。



 故れ是の時、歸順へりし首渠者、大物主神・大國御魂神、及た言代主神、乃ち八百萬神を、天高市に合へて、其の諸神を帥て、共に天に昇りて、其の誠欸の至(まつろひのまこと)を陳す時に、高皇産靈神、大物主神に敕りたまはく、

汝し、若し國神を妻(め)とせば、吾れ、猶ほ汝し、疏ぶる心有りと謂(おも)はむ。故れ今、吾が女・三穗津比賣を、汝しに配(あは)せむ、妻と爲よ。

八百萬神を領(ゐ)て、永へに皇美麻命の爲めに護り奉れ


と詔りたまひて、乃ち還り降らしめ給ひき矣。



 故れ即ち手置帆負神を作笠者(かさぬひ)と定め、彦狹知神を楯縫者(たゝぬひ)と爲(さだ)め、天目一箇神を金匠者(かなたくみ)と爲め、天日鷲神を由布作者(ゆふはき)と爲め、櫛明玉神を玉作者(たますり)と爲め、乃ち天太玉命の弱肩に、太手繦被(とりか)けて、御手に代はりて、大物主神を祭らしむること、是の時より始起りき矣。且た天兒屋命は、神事の宗源を主(し)る者也。故れ太兆の卜事(うらわざ)を以て、仕へ奉らしめき矣。是の時の齋之大人を、齋主神と號す。此の神、今ま東國の檝取の地に在す。亦た健御雷之男神は、香島の天の大神と稱す。天にしては、香島宮と號ひしを、此の地にしては、豐香島宮と名づけき矣。此は、鹿島連がいつき奉る神也。



 故れ是の時、大國御魂神、白したまはく、「天照大御神は、天原を悉(み)な治めたまはむ。皇美麻命は、葦原中國の八十魂神を、專ら治めたまはむ。我は、大地官(おほとこのつかさ)を親から治めむ焉」と言訖へたまひき矣。大地主神とまをす號は、此の時より起(まを)しき。是は、大和社に坐す神也。‥‥
 
 

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