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御神縁、無量なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 1月25日(月)18時51分28秒
返信・引用 編集済
   瓶子廼舍の兄が紹介されたブログ、甦りし「神道家・眞橘道義」氏のブログ『櫻水鏡』、是非、御清覽たまはらむことを。

 未だ面謁も得ないが、小生、熱いものが込上げて來るを、如何とも止め難い。
  ↓↓↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/qq6a9kv9k/65712283.html
 
 

平成大御代の新年、謹みて賀し奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 1月 1日(金)18時04分6秒
返信・引用 編集済
  平成紀元 二十八年
中興紀元(皇紀) 二千六百七十六年
天降(あもり)紀元 五千十六年
天皇正月、歳、丙申に次(やど)る、元旦、大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。更めて謹み、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて御閲覽各位の福壽無量を祝祷申し上げ候ふ。



■『訂正古訓・古事記』上卷(本居宣長大人訓。享保三年十月刊)

 此の時、伊邪那岐命、大(いた)く歡喜ばして詔りたまはく、「吾れは、子(みこ)生み生みて、生みの終(はて)に、三(みはしら)の貴子(うづのみこ)得たり」とのたまひて、即ち其の御頸珠之玉の緒もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は、高天原を知らせ矣」と、事依さして賜ひき也。故れ其の御頸珠の名を、御倉板擧(たな)之神と謂(まを)す(天照大御神の左の御みづらに纏かせる物實、即ち八尺の勾璁之五百津之美すまるの珠より、皇太子・正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、成りませる也)。



【美甘政和大人『天地組織之原理』卷之第五「三種神寶考」】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/34
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/35
 
 

祓給清給へ──吉き御歳を。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月31日(木)21時06分28秒
返信・引用 編集済
   年末に、不可解なる闖入者を見ましたが、之に凝りませず、來る歳も、何卒、宜しく御引廻し下さい。



 先般、病院の待ち時間を利用して讀了した、長濱浩明氏『韓國人は何處から來たか』(平成二十六年一月・展轉社刊)にある、次の文字(『舊約聖書』民數記第三十一章)が印象に殘つた。我が日本を除いて、洋の東西を問はず、現代の世相を映し出して、餘す所が無い。曰く、

「さて主(エホバ=ゴッド=アラー)は、モーセに言はれた、『ミデアン人(びと)に、イスラエルの人々の仇を報いよ』と。‥‥

 そこでモーセは、ミデアン人に復讐する爲め、一萬二千人のイスラエル軍を編成し、主がモーセに命じられたやうに、ミデアン人と戰つて、五人の王を含め、其の男を、皆な殺した。‥‥

 又たイスラエルの人々は、ミデアンの女共と其の子供たち(ママ)を捕虜にし、其の家畜と羊の群れと財貨を、悉く奪ひ取り、其の住まゐのある町々と其の部落を、悉く火で燒いた。かうして捕虜と略奪物を持つて、イスラエルの町に歸つて來た。‥‥

 時にモーセ・祭司と會衆の司達は、皆な宿營の外に出かけて迎へたが、モーセは、軍勢の將達に對して怒つた。『あなた方は、女共を、皆な生かして置いたのか。此の子供たち(ママ)のうちの男の子を、皆な殺し、亦た男と寢て、男を知つた女を、皆な殺しなさい。但し未だ男と寢ず、男を知らない娘は、全てあなた方の爲めに生かして置きなさい』」と。



 かやうな砂漠の禍神・預言者を信奉する蕃人共と、我々は、戰ひ、附合ひ、言向け和はして行かねばならないのである。任重くして、道遠し。祓給清給へと、恐み恐みも白す。
 
 

四方節 元始祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2015年12月30日(水)13時58分36秒
返信・引用
  四方節
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/24

元始祭
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/25

元始祭祝詞
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/30
 

明日は大祓

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2015年12月30日(水)13時15分46秒
返信・引用
  聖上の大綾威を仰ぎ、大祓の儀を遥かに拜みて、大祓詞を奉唱致しませう。

引き潮は 十二月三十一日 二時七分、十四時三十二分

天皇大御身の祓詞
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/33

萬古天皇を仰ぐ
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/17

禊祓浄化・祝福安泰
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/10

大祓の一大事
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/33

國之大祓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/32

大祓式幽祭
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/34

大祓に對する一考察
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/8
 

大祓の前日に‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月30日(水)03時03分57秒
返信・引用
  謹告

 「愛国主義者」てふ御方は、九段塾頭が世に出る契機(櫻掲示板のスレツド)をつくられた方であり、塾頭も恩義を感じて容認された人でありましたが、今、出現の「愛国主義者」てふ御方は、或は別人か、或は熟知した上での發言か存じませんが、「本掲示板の主旨に反する書込み」が目に餘り、此の管理人も對應いたし兼ねますので、已むことを得ず、退場を乞ふことと致します。

 御閲覽各位には、御諒承を御願ひ申し上げる次第であります。敬白
 
 

この奇怪な乱入者について

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)23時35分54秒
返信・引用 編集済
  備中處士様、常連の皆様

長々と無粋なる投稿を、
続けたることにお詫び申し上げます。

しかるに、この桜坂 秀翠なる正体不明の
人物の行動は奇怪の一言であります。

年末の挨拶と称し、言葉の
揚げ足を取る挑発的なる言動。

天長節に対する祝意は一切述べない。
自分自身で議論を吹っかけておきながら、
それに対する質問には答えない・答えら
れないという奇異なる行動・言動。

奇怪千万、正体不明、まさに得体のしれない人物。
小生が言うのもなんですが、当掲示板には似つかわ
しくない御仁とみなしております。

いったい何の目的があって突如として当掲示板に
出現したのか?ふざけた愉快犯のつもりなのか。
 

・・・・・つまりあなた自身が説明できない

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)22時12分18秒
返信・引用 編集済
  ・・・・そういうことですか?
唖然とするというか、あきれ返るというか・・・

>あいにくですが不毛な議論をするほど暇ではありませんし、また徒労に終わるのは目に見えてますから、貴公からのせっかくのご要望に答えられず申し訳ありませんが、要望は悪しからず却下させていただきます。

いやいや、もう一度言いますが貴殿が、今この場で簡潔に
説明していただければ、内容次第でなっとくします。

暇ではない・・・本日は小生と長きに
わたり意見を交わしているではありませんか?
話がかみ合ったかは別ですが。

無論、納得できなければ貴殿の言う
『不毛な議論』になってしまうと思いますが。
徒労であるかは誰にもわかりませんよ。

・・・・『凛として愛』の件も貴殿の方が
わかりやすく説明できると思うのですが??
逆に当方から質問ですが、何をしに当掲示板に来られたんですか?
 

ご遠慮します

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2015年12月29日(火)22時07分53秒
返信・引用
  >いや、貴殿が簡潔に今説明していただければ問題ないのでは?
答えが掲示板にあると指摘されても、恥ずかしながら
皆目見当もつきませぬので、むしろ貴殿から具体的に説明を
受けたほうが、何を指摘されているのかがわかりやすいと
感じております。


あいにくですが不毛な議論をするほど暇ではありませんし、また徒労に終わるのは目に見えてますから、貴公からのせっかくのご要望に答えられず申し訳ありませんが、要望は悪しからず却下させていただきます。
 

いま説明してください

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)21時59分14秒
返信・引用 編集済
  いや、貴殿が簡潔に今説明していただければ問題ないのでは?
答えが掲示板にあると指摘されても、恥ずかしながら
皆目見当もつきませぬので、むしろ貴殿から具体的に説明を
受けたほうが、何を指摘されているのかがわかりやすいと
感じております。

正直、貴殿の説明が今一わからんのですが・・・・
 

えっ???

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2015年12月29日(火)21時36分14秒
返信・引用
  >堕落した執行部とありますが、具体的にどの部分が堕落しているのですか?
それはいつごろから?それを放置した宮司は誰なんでしょうか?
近代主義的神社という意味が分からんのですが?


ということはまさかとは思いますが愛国さん、あなた塾頭や備中さんの言ってきたことや映画「凛として愛」のことをまったく読まずここに来たのですか?

ご質問の答えはこの掲示板にすべてありますから、私へのご反論はひとまずそれを読んでからにして頂きたいものですな。


 

えっ?

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)21時14分44秒
返信・引用 編集済
  桜坂さん、

ご返信いただけるとは、恐縮であります。
さて、貴殿の御投稿拝察いたしましたが、
正直何を仰っているのか、よくわからないのですが。

>国や人種の違いを超え、そこを訪れる者すべてが額ずかざるを得ない、
拝跪せざるを得ない、霊気漂う「神聖なる場所」、それが靖国神社の本来の姿でしょう。
靖国神社がそういう場所であるなら本来守衛も門番も監視カメラも、
そういう人為的なものは一切要らないのです。

まあ理想論の域を出ないご意見だとは感じてはいます。
神社本来の姿はこうあるべき、という主張は理解致します。
もっとも神社そのものは人為的に建てられたものですが・・・
特段異論はこの部分に関してはさほどありません。ただ、次の

>しかし堕落した執行部によって政治的あるいは
興行的に神社が利用され、英霊は客寄せパンダとされ、
神社は近代主義的神社という訳の分らない神社に変貌したのです。

堕落した執行部とありますが、具体的にどの
部分が堕落しているのですか?
それはいつごろから?それを放置した宮司は誰なんでしょうか?
近代主義的神社という意味が分からんのですが?

>これを治すのは愛国さんのいう(設計主義的な)制度などではなく、
われわれ国民の気風しかないのですよ。
つまり私が言いたかったのはそういうことです。

最後にはまた理想論という印象ですが。国民の気風は結構ですが、
神社に侵入する暴漢や無頼の衆を放置して、なすすべもなく
神社が棄損されるのは意味合いが違うのではありませんか?
 

つまり

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2015年12月29日(火)20時56分19秒
返信・引用 編集済
  戦後採用したアメリカニズムによって近代主義(歴史の英知を外し、たかだか今を生きてるに過ぎない人間の理性に依拠して何事も決定する不治の病)が横行闊歩する日本列島ですが、それでも地方などへ行きますと、断末魔一歩手前ではありますがまだまだ「共同体」の名残に触れることができます。

「左翼」というものをその語源であるフランス革命に倣って言いますと、「人工的(人為的)な理念に基づき、社会の総体を合理的に設計しようとする設計主義」を左翼と言いますから、生じた何らかの不都合をあるシステムによって合理的に解消しようとする思想は左翼思想であり、そういう設計主義(コンストラクティビズム)には背を向けるのが真正の保守主義です。

共同体にお話を戻しますが、そこでは誰がいつ決めたものでもない、歴史によって自生的に醸成されたルール(不文の慣習法=村社会の掟)に従って人々は日々を暮らしている。そういう人間社会にあってはおおよその家では夜間を除き家に鍵をかけません。外部とは遮断された地縁血縁でつながった社会ですから鍵をかける必要もないし、仮に掟を破る者がいたとしたらその者には厳しい罰(村八分などの)が課せられますからね。

こういう人為のない「自生的秩序」が人間集団の理想なのですよ。

しかし、こうした地方も自由主義による国際化の波というか人の流動というかそういう流行には抗えませんから、やがてそうした侵入者への警戒心から人々は家に鍵をかけるようになっていく。これも時代の流れだから「仕方がない」とみるほかないでしょう。

愛国主義者さん同様、私とてこういう止むに止まれずの「セキュリティ」まで否定するつもりは毛頭ありませんが、じゃあ果たして靖国神社ではどうでしょうか。

国や人種の違いを超え、そこを訪れる者すべてが額ずかざるを得ない、拝跪せざるを得ない、霊気漂う「神聖なる場所」、それが靖国神社の本来の姿でしょう。

靖国神社がそういう場所であるなら本来守衛も門番も監視カメラも、そういう人為的なものは一切要らないのです。しかし堕落した執行部によって政治的あるいは興行的に神社が利用され、英霊は客寄せパンダとされ、神社は近代主義的神社という訳の分らない神社に変貌したのです。

これを治すのは愛国さんのいう(設計主義的な)制度などではなく、われわれ国民の気風しかないのですよ。

つまり私が言いたかったのはそういうことです。







 

年末の御挨拶が揚げ足取り

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)19時22分9秒
返信・引用 編集済
  これはしたり、恥ずかしいかな、不調法者ゆえ、
粗忽極まりない、文章を投稿してしまいました。

しかしながらなんでしょうか、少なくとも当方は
天長節を心よりお喜び申しあげ、ついつい余計な文言を
付け加えてしまった。それについて、なんとも揚げ足取りとも
取れるお言葉も、またいかがなものでしょうか?

掲示板に投稿しなかったから、天長節を祝っていないということ
ではありませんが、桜坂さんのお名前は随分とお見受けしないのですが。
まず、貴殿がすべきことは、他人様の言葉の揚げ足取りではなく、
素直な気持ちで、天長節に対する祝意を述べること。

それを差し置くとは、面白おかしい御仁だ。

>備中さんのいう「かむながら」が理解できるはずもない。

さて、一体何について指摘をされているのか?
靖国神社を参拝される方々や神社の警備を改めるべし・・・
という一般常識を投稿したつもりですが?
 

年末のご挨拶

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2015年12月28日(月)21時18分46秒
返信・引用 編集済
  >お喜び申し上げ奉ります。


↑「頭痛が痛い」とか「靖国通りアベニュー」とか「アメリカに訪米する」といったような可笑しな言葉遣いと次元的に同じだな。

こういうトートロジー(同義語反復)を使うようなお方に、備中さんのいう「かむながら」が理解できるはずもない。

「左翼的反左翼」が保守の主流を占める戦後にあっては、戦後の保守思想はなべてシナ式の「からごころ」や、欧米式の「設計主義」といった「こしらえものの思想」をベースとして生まれてくる。こうして「自然(じねん)」という概念は日本思想から死滅していくんだ。

「保守主義」の「設計主義化」これは相当に根深いビョーキといっていい。

備中處士 さん、「九段塾」ご常連の皆さん、本年も残りわずかとなりました。

皆様にとって新たな年が輝かしいものとなりますように。

どうか良いお年をお迎えください。


 

祝禱 天長節。

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月23日(水)17時48分10秒
返信・引用
  備中處士様、常連の皆様

本日は天長節であります。
今上陛下の82歳の御聖誕日を心より、
お喜び申し上げ奉ります。

天皇陛下万歳!  
 

祝禱 天長節。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月22日(火)19時21分55秒
返信・引用 編集済
   明日は、天長節、謹みて賀し奉る。

天皇尊には、御寶算八十三、彌益の御長壽を祝禱すると共に、神敕を奉じて、億兆の大君に坐します、
天皇尊の大御代を、嚴し御代の足し御代に、守り幸はへ奉り給ひ、皇御國を彌榮えに榮えしめ給ひ、
天皇尊の大御心の隨にまに、世界皇化、八紘億兆、一人も其の處を得ざること無からしめ給はむことを。



 『老子道徳經』韜光章第七に曰く、「天は長なへに、地は久し。天地の能く長なへにして、且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長なへに久し」と。
 
 

Re: 大祓を控へて‥‥。

 投稿者:宮城野の月  投稿日:2015年12月21日(月)01時02分0秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

御多用の中を御教示いただきまして、まことに有難う御座いました。
墓所のことなども、他にも伝える様に致します。

別途、横文字のアドレスでメールを差し上げておりました。

備中處士様始め皆々様もどうぞ御自愛くださいませ。
種々有難うございました。

             宮城野の月 拝


 

有難う御座いました。

 投稿者:宮城野の月  投稿日:2015年12月21日(月)00時43分18秒
返信・引用
  はゆまつかひ様

首肯して御礼申し上げます。
神社での御祓いしか経験が無い故に、そのようなことも判らずにおりました。
今後とも御指導の程、宜しく御願い申し上げます。
本当に有難う御座いました。

                 宮城野の月 拝
 

大祓を控へて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月20日(日)19時23分0秒
返信・引用 編集済
  宮城野の月樣
はゆまつかひ樣

拜復

 御供へに非ざれば、山川に散ずべしと、理の趨く所、自己流に思考しつゝ、大掃除にかまけてをりました所、はゆまつかひ樣の、丁寧かつ正確なる御囘答に接しました。感謝に勝へません。



 餘談‥‥出雲大社岡山縣支廳長の權大教正樣の御教へを二三。

一、御下りの神饌の五穀を、庭に撒くとよい。實れば福來らむ、と。いつも稔らず、乃至は氣づきませんでしたが、或る時、父母が氣づき、みつとも無いので拔くぞと云ふので、暫く待つて戴きました所、御蔭樣にて、愚娘の縁談が調ひました。

一、かつて墓所を清めんとして、小生、鹽を撒きしに、甚(いた)く叱られました。墓所に鹽を撒くものでは無い、と。直ちに先靈に對して、御詫びを取次して戴きました。

一、最近は花筒に、ステンレスを用ゐるは、甚だ惡し、と。墓所は、金氣(かなけ)を特に嫌ふ。速かに棄つるべし、と。これは仄聞する所なり。

 件は流派もありませうが、また支廳長の受けし神示か、出雲古傳か、得て知らざる所でありますが、小生の心に殘る御教へです。



 寄る年次みに克てず、大掃除は、年々疲勞度を増します。兩親は不可能、家内も、最近は衰へが顯著、愚息や娘夫婦の手傳ひが必須と相成り、歸省するを待たねばなりません(泣)。暖冬とは申せ、風吹けば、寒さも一入です。皆樣には、御自愛ください。敬みて白す。
 
 

Re: 小人「豆津魔」──精米にて祓ふべし。

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2015年12月20日(日)17時06分31秒
返信・引用
  > No.2407[元記事へ]

宮城野の月様

御神前へのお供へではなく祓ひの料ですから、白紙で包んで川や海に流すか土に埋めて下さい。其の前に屋内の四方もしくは八方に散じて祓ひを重ねるも尚、宜し。

はゆまつかひ 拝


宮城野の月氏への返書。

> 備中處士様
>
> >枕邊に「精米」を置いて、自ら祓はれむことを。
> >各位の周圍に、同樣の御方が居られましたら、是非とも勸めて戴きたい。
>
> この祓いに使った「精米」は、どのように扱えば宜しいのでしょうか。
> 勧めようと思いましたが後始末の仕方が解りません。
> ご教示いただければ幸いでございます。
>
>
 

Re: 小人「豆津魔」──精米にて祓ふべし。

 投稿者:宮城野の月  投稿日:2015年12月20日(日)09時34分41秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

>枕邊に「精米」を置いて、自ら祓はれむことを。
>各位の周圍に、同樣の御方が居られましたら、是非とも勸めて戴きたい。

この祓いに使った「精米」は、どのように扱えば宜しいのでしょうか。
勧めようと思いましたが後始末の仕方が解りません。
ご教示いただければ幸いでございます。

 

200cc乗り様

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月11日(金)21時06分25秒
返信・引用
  初めまして、御返信ありがとうございます。

少なくとも好き勝手に日本と朝鮮半島を行き来できる
状態は何とかしてもらいたいですね。朝鮮人の
入国に関しては、指紋・顔写真、血液サンプルと
目的地の確認。最低でもこの程度の監視は必要でしょう。
 

何故また来日したのか・・・

 投稿者:200cc乗り  投稿日:2015年12月 9日(水)22時04分23秒
返信・引用
  まさに何が何やら・・・と言った感じですね。
この罰当たりな輩には、しっかりとして取り調べをして、証拠が固まれば起訴を行って欲しいものです。
 

靖国爆弾テロ犯逮捕

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 9日(水)19時33分39秒
返信・引用
  靖国爆弾テロ犯『チョン・チャンハン』という
男が逮捕されました。逮捕された経緯が再入国
だったというのだから、いささか驚いた。

単に我が国を舐めているだけなのか?
帰国したままという手段もとれたはず。
とりあえず厳しく取り調べをしてもらいたい。

靖国神社で爆発音 韓国人の男を逮捕
12月9日 11時33分

先月、東京・千代田区の靖国神社のトイレで爆発音がして火が出た事件で、
事件直後に帰国していた韓国人の男が、9日朝、再び来日し、警視庁は、
正当な理由がないのに神社の敷地内に侵入したとして、建造物侵入の疑いで逮捕し、
不審物を仕掛けたとみて捜査しています。

警視庁によりますと、調べに対し男は「よく分からない」などと供述し、
容疑を否認しているということです。

逮捕されたのは、韓国人のチョン・チャンハン(全昶漢)容疑者(27)です。
(後略)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151209/k10010334811000.html
 

おかしなもの言い

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 8日(火)19時02分28秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

貴殿の知識・博学さに比べれば小生のごときは
何も理解できぬ俗物でございましょう。
しかし、貴殿の御意見が通るのはあくまでも
神道を学んだ人だけの間の理屈にしかすぎません。

生きるも、死ぬも運命論的なご意見ですが、
果たして靖国神社の宮司の方々も同意見なのでしょうか?
神様が見ているのはよくわかりましたが、人間が努力すべきは
努力しなければいけません。警備も甘いところ、見落とした
部分があるのでしょう。今一度吟味しなおして、参拝者の
方々の安全を図るべきであります。

小生は単に警備を、より厳格にすべしと申し上げたまで。
何らおかしなことはないと思いますが?

衞士がゐるし、參拜者の目もあります

残念ながらこのたびは、その衛士も参拝者の
目も当てにはなりませんでした。
そもそもなぜ衛士がいるのか?それは神社内の
公共秩序を守るため。当然だと思います。

しかし、衛士の方々が爆発物の処置の心得
があるのでしょうか?おそらくないでしょう。

靖国の社に誰か彼きがねなく、参拝できるようにするための
参拝者の方々を守るための警備であります。

不心得者へ神罰を下すは神様のなさることである。
現世において身の周りを護るは人の務めではありませんか?
そのために衛士もいるんではありませんか?
 

天詔降下、義勇、公に奉ぜし日なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月 8日(火)18時51分47秒
返信・引用
  ■吉田松陰先生『對策一道・附論』(『戊午幽室文稿』安政五年四月中旬)に曰く、

天子の敕は、乃ち皇神の旨なり」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2324



 夫れ天下は、一人の天下なり。天皇御一人の天下は、乃ち皇祖皇宗の天下なり。皇祖皇宗の天下は、天皇御一人の天下なり矣。蓋し皇國體の骨髓、皇民の安心なり。世界皇化の淵源なり。



●星野輝興掌典『日本の祭祀』(昭和四十三年七月・祭祀學會編・遺著刊行會刊)の「皇室の祭祀」に曰く、

「祭神は、嘉永癸丑以來、王事に盡瘁して、隕命の勤王志士、伏見の役以來、君國の爲めに戰死された方々をお祀り申し上げたのである。‥‥此の祭神の内のお一柱が、生前は一兵卒であつたとかで、吉野某が、ある雜誌で、其の生前の芳しくないことがあつた爲め、同伴のお子たちが、社前に於いて頭を下げ澁つたといふことを記されたことがある。しかし我が國の神社は、其の祭神の生前の生活全部の爲めにお祀り申し上げるのでなく、其のお方の、國家に對する功とか徳とかいふものを抽出し、それを主とし、出發點としてお祀り申し上げるのである。

 
例へば東照宮の徳川家康公である。御祀り申し上げたのは、豐臣氏に對して、どうした、かうしたといふのでなく、實に三百年の太平の基礎を築き上げられた功と徳、我が御國體の眞髓、天津日嗣の本始、惟神の大道の一部分に協つた功と徳とに對し、公を神としてお祀りしたのである。で、多少、生前云々があつた一兵卒といへども、君國の爲めといふ一念の下に倒れられた其の至誠は、皇祖の思召しと一致するものである。御國體のまことの姿である。惟神である。神である。それをお祭り申し上げたものである。之れに對し、何者が頭を下げることを肯んぜざるものがあらうか。しかしかういふ見解、吉野某に類した考へ方を、別格官幣社に對してするものが、當事者といはれる方々の内に、ひよつとすると見受けることがないでもないのは、甚だ遺憾とする所である」と。
 
 

神は見てをる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月 7日(月)22時17分11秒
返信・引用 編集済
  愛国主義者さん

 靖國神社には、衞士がゐるし、參拜者の目もあります。何より、神樣は、見てをられます。「關所」を設けて拜觀料をむしり取る、遺産遺物の寺では無く、神社は、活きた齋庭です。愚見は、既に申し述べてをります。小生が、「政治家は來るな」と懇祷するのは(それは熱烈に懇祷しますが)、所詮、希望に過ぎません。日本の神社は、世界の萬人に開かれてをるのですから。「爆彈犯人は來るな」、「不敬な者は入る可からず」と申しても、網をかいくゞても、やつて參ります。御祓ひをしない、それは偉い總理大臣も存在しましたし、何を恐れるのか知りませんが、こそゝゝ訪問する、疚しき首相もをられます。參道の「正中」に天幕を張り、來賓と稱せらるゝ御方もをります。

 屋上、屋を架するならば、生死は、人間の力では、どうにもなりませぬ。靖國神社に參拜するに、安全を期待する人ならば、參拜を控へるでせう。警備を幾ら嚴しくしても、人間は、死傷するときは、死傷し、助かるときは、助けられます。奇特な參拜者と雖も、死ぬべきときは、生きたくても死に、生くべきときは、死にたくても生くるものです。犯人と雖も、之に同じ。何もかも「惟神ら」であります。但し幽顯無敵ですから、御國替への折には、幽律に因つて、きつちりと精算されます。御安心ください。

 愛国主義者さん、‥‥小生は、參りました(泣)。

 御閲覽の御方がをられましたら、小生の如き風流人に關はらず、吉き御意見を、愛国主義者さんに應へて戴き度く、宜しく御願ひ申し上げます。小生、今日は寒氣がしてをりますので、休ませて戴きます。 不具
 
 

参拝者の安全は?

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 7日(月)20時03分16秒
返信・引用
  備中處士様

ご意見が食い違うことはよくあること。
このこと自体は良しと致しましょう。

ただ神社の警備は厳しくするべきではありませんか?
このたびの爆弾テロが、たまたま不発・たまたまトイレ
を使用している人たちがいなかった。

まさに不幸中の幸いですが、同じ手口でまた違うところで
爆発物を仕掛けられて、そのとき、参拝をされる方に死傷者が
出た場合、どうなさるのでしょうか?運が悪いとかの
レベルでは済まされません。

やはりそれなりの現在より厳しいセキュリティにせざるを得ません。
靖国神社側としてもそうせざるを得ないでしょう。
理想は理想、現実は現実です。参拝をされる一般の方の安全を
守るためにも警備は厳しくしていかなければ。
 

見直し聞直して‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月 6日(日)21時14分9秒
返信・引用 編集済
  愛国主義者樣

 靖國神社への相繼ぐ放火は、悲しいかな、靖國神社が、政治的に利用されてゐる證據でありませう。今は、敢へて「一宗教法人」を楯に取つて、劇場型の政治家共を排除して、靜謐と清淨を取戻したいと、幾度びも小生が懇祷してをること、御承知の通りであります。

 「空港のセキユリテイー竝みの警備が、靖國神社には必要」となれば、そこは、最早や、神社では無くなりませう。靖國神社には、朝鮮籍の祭神二萬一千一百八十一柱ましませば、靈威赫々、大事には至りますまいと確信してをります。大東亞戰爭にても大事に至らず、今、若し大事に至ることあるとすれば、それは神意として、之に應へ奉らねばなりますまい。

 
勿論、對朝鮮には、是々非々にて臨まなければなりませぬが、國家百年、千年の大計を思へば、共産支那の解體を見据ゑ、また米露に對抗するには、先づ朝鮮を、再び皇化に浴せしめんことが重要と信じてをります。一衣帶水の朝鮮すら、皇化せしむること能はずとなれば、八紘一宇・世界皇化は、夢幻となりませう。

 
皇國の使命、即ち皇祖皇宗の神敕を、地上に於て完遂せむと力め給ふ、皇上陛下の大御稜威の下、吾人國民は、皇運の一端を翼贊し、幾萬年の皇恩に報いなければならい。小生は、神代からの結縁、戰前からの日鮮同祖論、大亞細亞主義の道統を承け繼ぎ、朝鮮の民を「見直し聞直して」戴き度く冀ふものでありますが、愛国主義者樣には、論調から拜するに、御無理なやうですので、此の議論は竝行線にして、精神衞生上からも終了とし、小生の如き風流人は御見捨て戴き、再論は御容赦たまはらむことを、切に御願ひ申し上げます。懇祈々々。
  
↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/222
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t41/l50
 
 

不逞朝鮮人を警戒するのは当然

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 6日(日)16時18分42秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

えらく朝鮮人を警戒してをられますが、
不逞な者は、何處の國にもをりませう。

不逞朝鮮人は以前も靖国神社の神門に放火をしたことがあります、
日本と朝鮮の歴史を見直せば、今日も朝鮮人の野蛮な性癖は
全くといっていいほどかわっておりません。
のみならず、皇室に対するテロ未遂も
何度も起こしているではありませんか?

在日韓国・朝鮮人の事件年表

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E5%B9%B4%E8%A1%A8

それこそ草薙の剣盗難事件から1000年たっても変わらない。
道徳心の欠如、恥の無さ、犯罪行為に対する善悪の無さ、
根拠なき優越心、日本に対する逆恨み・妬みと嫉妬と羨望。

耶蘇教の流布が原因とおっしゃるが、遠因の一つではあっても
今までのことを考えれば、民族的な性癖と断言できるでしょう。

どこの国にも・・・とは言い難い。支那・南朝鮮・北朝鮮の
3か国を称して『特定アジア』といわるほどの精神の歪んだ
反日思想の塊でありましょう。

やはり開国の手順が間違っていたのだろうか?
警備は日ごろからしていたのだろうが、これからは
空港のセキュリティー並みの警備が靖国神社には必要と
なりましょう。
 

神敵とは。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月 5日(土)23時00分7秒
返信・引用 編集済
  愛国主義者樣

 御元氣で、何よりです。

 愛国主義者樣には、えらく朝鮮人を警戒してをられますが、不逞な者は、何處の國にもをりませう。思想的には、韓國が、邪蘇教に牛耳られた結果でせう。朝鮮人の問題と申すより、邪蘇教徒による使嗾でせう。靖國神社への攻撃は、蓋し奴等の陰謀です。所謂從軍慰安婦にしろ、其の與黨は、正に亞米利加人でせう。亞米利加人が、靖國神社を容認することは、畢竟、ありますまい。

 大詔降下の十二月八日も、間近です。歐米の基盤は、邪蘇教に在り。朝鮮人より、砂漠の惟一神とやらに、もつと注意を拂ふべきと存じます。日本の保守家も、相當、邪蘇にやられてをるやうですね。彼の戎夷の教義は、世界皇化の爲めには、正面の神敵です。最近話題のテロとやらも、近親憎惡、民主主義とやらを宣布せんと欲する空爆に對抗するに、政治的弱者には、テロしか無いのでせう。兩者共々、呆れ果てた連中です。御仲間同士の血肉を爭ふ内輪揉め、日本人は、靜觀するしかありますまい。

 本日は、小生も勉強會に參加、「靖國暦」の話も出てをりました。其の末尾に「年齡干支九星早見表」がありますが、何と、「滿年齡」が主となつてをります。靖國神社社務所も、御時勢に掉差してをるやうです。それに引換へ、乃木神社を始めとする神社は、正統な年齡表示を護持してをります。靖國神社社務所も、少しは考へて戴かねばなりませんね。「六十年目が還暦」と、テレビでよく聞きますが、干支を何と心得てをるやら、これも歐米流なのでせう。



●宮地嚴夫掌典『神道普及の方法に就いて』に曰く、

「神道を、今日に興隆し普及せねばならぬは、今更らに申すまでも無きことで有りますが、如何やうにも、遲々として更に興隆致しませぬは、全く其の普及の方法の宜しからぬが故であらうと思ひます。 これに反して、其の傍らに於いて、佛教を廣めます所の僧侶とか、又たキリスト教を主張する所の宣教師とか言ひますが、遣り方は兎に角く、其の方法の宜しきより、追々と意外に、其の潛在力が膨張して、御承知の通り、既に本年の初めに至りては、三教合同などと言ふことの一問題なりたるは、全く其の潛在力の表發したものに違ひ有りませぬ。

 そもゝゝ維新の初め、即ち明治三年庚午正月三日を以て御發し在らせられし、鎭祭詔や大教宣布詔、または其の後、時々に漏れ承りたる多くの御製などに伺ひ奉りますれば、畏れながら先帝陛下の叡慮は、我が神道、即ち惟神の道を以て、我が國家の道徳を保たせ給はんとの叡慮にて在らせられたること、火を見るよりも炳焉で有りますにも拘はらず、斯の道は、一向に振はず、荏苒として打過ぎますに反し、傍らなる佛教は、大いに首を擡げ、又たキリスト教も勢力を表はすに至りますより、當局者の或る部分に於いては、又候ろ外教の方を借つて、我が國の道徳を保たなければならないと言ふ威を起こさしむるに至つたは、先帝の叡慮に對し奉りて、斯道に從事する者に在りては、實に申し譯無き次第にて、殘念とも遺憾とも、恐縮、此の上無き事で有ります」と。



●勅使河原大鳳翁『國魂神の冥護』に曰く、

「たとへ伊勢神宮の荒垣外でも、或いは其の他の有名大社・古社・靈地に於いても、神域外に邪靈は圍集してゐるのである。萬物は不増不減であるから、熱量不變と云ふ原則からしても、プラスエネルギーの強い場には、同時に同じ強さのマイナスエネルギーが 發生する。それが邪靈集團發生の靈理である」と。
 
 

靖国爆弾テロ犯は朝鮮人

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 5日(土)19時49分7秒
返信・引用
  備中處士様

ご無沙汰しております。愛国主義者であります。
去る11月23日、靖国神社のトイレにて爆弾テロ
が起きました。すでにご存じのことと思います。

幸い死傷者がでず、また爆発の規模も
大したことは無く不幸中の幸いでした。
警視庁が捜査しておりますが、犯人は韓国籍の男。
つまり朝鮮人でした。

かかるにかの国の者共は日本人を害することに
優越心を持っておおり、きわめて野蛮・危険な人種であります。
日ごろから靖国神社には警察の方々が警備しておられたはずですが、
このたびの爆発物の早期発見及び被疑者の身柄の確保にことごとく
失敗しております。

昨今話題となっておりますイスラム国等のテロリストの動向も
気になる次第ではありますが、不定朝鮮人に対する警戒・警備
を怠ってはならないと痛快しているところであります。
 

不敬な行動は、叱ります。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年11月11日(水)22時14分39秒
返信・引用 編集済
  ●山城國宇治郡に坐す、宇治上神社の社務所置文「小さなお子樣をお連れの親御樣へ」(今、進駐文字遣ひを改めたり)に曰く、

「こゝは、神社です。皆樣が、心を靜めてお參りをされる場所です。テーマパークでも、フアミリーレストランでもありません。サービス業ではないのです。『お客樣は神樣』の自論は通用しません。本當の神樣は、目の前においでです。當然、不敬な行動は叱ります。親御さんが、お子樣をしつかり御監督なさつて下さい。お子樣を叱るのは、親の責任ですし、親が不行き屆きで、周りの人に叱つていたゞいたなら、逆切れではなく、『ありがたうございます』です。自分本位な考への大人になられないやうに、正しい教育で、共にお子樣の健やかなる成長を見守りませう」と。
  ↓↓↓↓↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151111-00000001-withnews-l26



 悲しいかな哉、蓋し現代に於ける名文である。

 靖國神社に於かれましても、時節柄、「おとな用」も併せて、是非とも御取上げ賜はらむことを、切に懇祷いたします。謹白
 
 

櫻山招魂場──山海致死の靈所。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年10月24日(土)14時01分32秒
返信・引用 編集済
   長門國赤間關後地村梨子ケ迫なる、櫻山神社の招魂場は、奇兵隊士の英靈を祀る齋庭にして、靖國神社の源流である。而して『櫻山の歌集』は、阿部恭久宮司より賜はる所、敬みて抄し、益良武雄の志を繼がむことを、おほけなくも、しかと誓ふなり。



●『さくら山の哥集』(櫻山神社祭神への獻詠。題「櫻」。百二十四首。奇兵隊藏板。長門赤間關・佐伯屋藤八刊。谷省吾翁『さくら山の歌集』覆刻と解説──『神道史研究』昭和五十六年七月號。また『櫻山の歌集』平成二十年七月・櫻山神社刊に所收)

──慶應元年八月六日、招魂場、最初の大祭あり。祝詞奏上は、萩・椿八幡宮の社司・青山上總介藤原長清なり──

○櫻山哥集はしがき
こゝの櫻山はしも、かく名におへるやうに、大和こゝろの花、あまた植なへて、咲にほへる所也けり。その木かげを、須賀々々しうはらひて、しるしの石、たてならべにたるは、此花のこゝろを心として、
大御國のみためにいそしみつゝ、みまかれりし人々のみたまになん、ありける。かゝる人たちにしあれば、そのこゝろざしをしたへるまにゝゝ、哥やなにやと、よみてたむけつるを、おなじくは世におほやけにこそと、したしき友どち、はからひて、かくかきあつむる事とは、なりにたり。そのよし、一くだりかいつけゝるは、これの國の殿人白石資風(號は橘圓)。

(慶應二)丙寅年七月

‥‥

○櫻山に詣でゝ──谷(高杉)東行
おくれても おくれても またおくれても ちかひしことを あにわすれめや

○野むら芳共(野村望東)
ふしをがむ こゝろのそこに せきあへぬ なみだは神や しろしめすらむ

人々の、たま、まつる所とて、はり成したる所を、招魂場といふ。さくら、あまたうゑなしたれば、よの人、櫻山とぞよぶ。もとは岡のはら山といひて、赤間が關の、にしのはてなる、尾上にして、つくしのくにゞゝ、みわたす所也けり。いまだまうでぬ人々の爲にもとて、かくは、ゑ、かゝせたるになむ。

‥‥

○白石(正一郎)資風
さくら山 友のすみかと 也にけり あらくなふきそ はなの下風

○白石(庫之進・東一郎)資貞(のち資東。資風の長男)
誰もみよ きみのみためと ますらをが ちりにし花の 色の深さを

○白石(廉太郎)資正(資風の弟・白石廉作資敏の長男)
はる風に 身をばまかせて 櫻山 あなおもしろの ちりのまかひや

‥‥

○青山清(上總介長清。初代靖國神社宮司)
あふぎみよ さきてちりにし 櫻山 やまとこゝろの 花のありかを

‥‥

○長歌并反哥──片山(貫一郎)高岳(文久二年九月二十五日、氣吹舍入門。奇兵隊に學を講ぜり。白石資風翁と共に、此の歌集の編纂者なり)
花とふも さはにあれども ことさはぐ からにはさかで 日の本の ひかりとなれる さくらこそ めでたかりけれ 人とふも 多くあれども きみがため まめにつかふる 人こそは 尊とかりけれ しかばかり めでたき花を ものゝふの こゝろ赤間の 關ちかき 尾上にうゑて かくばかり 尊き人を しが蔭に かくしをさめし その本の ゆゑよしきけば えみじらが 船つらなへて たゝなへて いこぎまゐきて おふけなく みくにせめんと ゆく鳥の あらそふはしに いはまくは かしこけれども あきつ神 吾おほきみ そこをしも きこしめさけて やつこわが つかへまつらふ うみをなす 長門周芳の 國つ神 とのゝみごとに えみしらを うちきためよと おほみこと おふせ給へば おほみこと かしこみまして ふた國に のらし給へば 千萬の いくさおこして ますらをが いさみきほひて いでやつこ とりてつかみて このみゆる うみにしづめて あらしほの からきめみせんと をたけびて きしにいむかひ うちなすや つゞみのひゞき ふきなすや くだのおとなひ くにつちも とゞろゝゞゝと 空かぞふ おほづゝをづゝ なる神の おつるがごとく 玉だれの をだまおほ玉 いなづまの とひかふなして たゝかひの さかりなるころ 玉ぢはふ 神のみいづと 雨まじり あらちふきゝて おほ空も くもりふたがり あらなみの あらくしたてば えみじらは おそれをのゝき 引しほの ひきていにけり しかばかり すゝみきそひて 國のため きみのみために さく花の ちらふがごとく 玉きはる いのちすてつる 人こそは 尊とかる人 その人の おくつきしめし この山の みねにも尾にも めでたかる 花をうゑなへ はることの 手向となして もろ人の まつるゆゑよし きかくしよしも
おほきみの へにこそしなめと うたひつる ますら武雄が たま所これ

‥‥


 愚案、囘天學舍・西村梧樓代表の曰く、「來島又兵衞政久、御所を犯す、と。否、會津・桑名の賊の挑發する所、之を狙ひし彈、御門に當りたるのみ。皇居を犯し奉る意、固より全く無からむ。商賣作家の創作に惑ふ勿れ」と。此の言の葉、甚く心に殘れり。かつて葦津珍彦翁も、亦た此の老雄・來島蓮城を推せり(『永遠の維新者』昭和五十年九月・二月社刊)。靖國神社合祀。贈正四位なり。

 水戸の正學を承けし眞木紫灘先生は、久坂秋湖先生の與する所にして、秋湖先生の志は、亦た松陰・東行兩先生の志なり。而して東行先生の、「是れ此の時、日本の日本たらんと欲する日也」てふ叱咤蹶起は、奇兵隊を奮起せしめ、皇軍の源流を爲す。是れ、山海致死の英靈、櫻山の齋庭に鎭り、遂に靖國神社に祀らるゝに至る所以なり矣。

 嗚呼、草莽崛起は、松陰先生の唱道する所、佛蘭西語たる「右翼」てふ名號、此の垢に塗れし呼稱、相對的名稱を脱して、「眞の日本人」と爲る秋、日本中興、推して知る可く、有志草莽、誓つて期す可きなり。



●平泉澄博士『眞の日本人』(『傳統』昭和十五年一月・至文堂刊に所收。六十年五月・原書房復刊)に曰く、「

 甚だしいかな、天下形勢の急轉、朝に連衡の約あつて、夕に合從の盟となり、こゝに權變の術あれば、かしこに反間の策存し、一方に衆力を集めて、猛虎を攻めようとかる者あれば、他方に兩虎、相搏つて、共に疲弊するを待たうとする者がある。斯くの如く詐謀の祕術をつくして、一上一下、動亂やむ時なき外交の怒濤に棹さす者は、抑も何を頼み、何に依るべきであるか。これ今日、護國報恩の志をいだく士人の、日夜、肝腦をくだく問題でなければならぬ。‥‥

 一億一心、上下一和するならば、何ぞ外敵を恐れんや、むしろ進んで、大に國威を發揚すべし。然るに之に就いては、世に異論があらう。蓋し人心は互に相違する事、まさに其の面貌の異なるが如く、從つて之を一つにするといふが如きは、恐らくは單に修飾の辭であつて、實際に於いては、到底、不能の事に屬すると考へられ易いからである。しかしながら事實それは、決して不可能ではない。人々にして若し其の私心を去り、深く祖國の傳統に復歸するならば、こゝに祖國傳統の力は、上下貧富の差、老若男女の別を越えて、よく一億を一心ならしめるのである。天下の人心を一にするの説は、國民のすべてを、國家の正しき傳統に復歸せしむるといふに歸着するのである。國體の大義を明かにし、日本の道義に一命を捧ぐる、これ即ち私を去つて傳統に歸順するものに外ならず、よくかくの如くであるならば、之をこそ眞の日本人と呼ぶべきであるが、國民のすべてが、眞の日本人となる時に於いては、一億こゝに一心となつて、外國の權變、恐るゝに足らず、合從連衡、多く意に介せずして、一路邁進し得るのである。‥‥

 皇國臣子の道の、その後再び忘却せられ、傳統の光の、近年、又も衰微して來た。しからば我等は、此の道を再び明かにし、此の光を今日に輝かしめなければならぬ。我等日本人のすべてが、この忠死の心に立ち、この傳統にかへる時、換言すれば眞の日本人となる時、一億をうつて一心とする事は、始めて可能である。一億をうつて一心となし得たる時、海外の怒濤、それ何物であらうか」と。



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 初代靖國神社宮司「青山清」の哥を見たり。かつて「靖國神社祀職」てふスレツドを建て、宮司列傳を試みしが、些か増補して再掲せむと欲す。


 青山清翁は、長門國萩の人。文化十二年五月生る。諱は長清。上總介と稱す。其の家代々、萩城下の總鎭守椿八幡宮の宮司たり。上總、夙に國學を修め、近藤芳樹等と交はる。慶應元年八月六日、下關の櫻山招魂場(文久四年二月三日、長門國招魂社創建)にて、奇兵隊士を祭る(招魂大祭)。伊藤博文主の依頼あつて、兵部省より山口藩御用召し之れ有り、明治四年八月、上京し、同八月二十二日、兵部省十一等出仕・東京招魂社祭事掛に補せらる。同七年七月十二日、陸軍省十等出仕。同十年一月、招魂社雇ひ申付けらる。同十二年六月十六日、別格官幣社靖國神社初代宮司に任ぜらる。同十二月二十七日、權少教正に兼補せらる。同十五年一月二十四日、教導職。同十六年、七月六日、正八位に敍せらる。同二十年三月三十日、職制改正に依り、更めて宮司に補せらる。神社誌編纂を企て、禰宜・黒神直臣をして之に當らしめしが、幾許も無く黒神氏の不幸に接して已む。從七位に至る(特旨進位)。同二十四年二月六日(或は四日)、宮司在職中に歸幽。享年七十七。

●『京都に於ける吉田松陰慰靈祭紀事』文久二年十月十七日條(以下の[云々]は編者の註。(云々)は愚案にして、◎は靖國神社祭神。但し脱漏あるを恐懼す)
○覺
‥‥
一、祭主   寺島忠三郎。
一、[空白] 青山上總。(蓋し神主ならむ)
‥‥
○十月十七日、參詣人
久坂玄瑞(◎・正四位・義助通武・號秋湖)
佐世彦七(經一)
青山上總(從七位・長清)
福原音之進(◎・從四位・乙之進信冬)
寺嶋忠次[三カ]郎(◎・正四位・昌昭・號刀山)
福原三五郎
岡部繁之進(富太郎利濟・號巨川か)
河上彌市(◎・從四位・正義)
杉山松介(◎・從四位・松助律義・號寒翠)
吉田榮太郎(◎・從四位・稔麿秀實・號風萍軒)
澄川敬助(澄川謙藏正義ならば、◎)
楢崎八十槌
佐々木次郎四郎(雅風)
瀧彌太郎(從五位・厚徳・號壕里)
三戸詮藏
結城市郎[筑前の人也]
小國甲[剛]藏[彈正殿(◎・正四位・増田右衞門介親施・號霜台)より代香](從五位・融藏武彝・號嵩陽)
松嶋剛藏(◎・正四位・久誠・號韓峰)
福原龜太郎
今日、大坂より、廣岡(◎・從五位・浪秀正恭)上京に付き、政府廻り、乍(たちま)ち明日あたり、參詣の筈也。
‥‥
○覺
一、狩衣、壹領。
一、差貫き、壹下り。
一、烏帽子、壹頭。
一、中ケイ。
右、青山上總、着用。
‥‥

●『白石正一郎日記』慶應元年條
十月廿五日、今日晝過ぎより、招魂場[今の下關市櫻山]にて、吉田先生(◎・正四位・寅二郎矩方・號松陰)の御祭り執行す。
青山[上總]・
高杉[晉作](◎・正四位・春風・號東行)・
山縣[狂介](從一位・公爵・有朋・號含雪)・
福田[俠平](◎・正四位・公明・號悠々)・
伊藤春介(從一位・公爵・春輔博文・號春畝)君・
小子(正五位・白石正一郎資風・號橘圓)也。
 歸路、伊藤君にて、馳走、之れ有り。

●乃木神社社務所『乃木希典全集』上卷(平成六年六月・國書刊行會刊)の「日記・明治十一年」
十月第廿一日條、午後、青山清を訪ぬ。不在。‥‥
十月第廿二日條、午後、乘車。青山を訪ぬ。又た不在。‥‥
十月第廿三日條、午後、青山に、招魂社に逢ひ、祭事を托す。歸る。

●樟堂吉田祥朔翁『増補・近世防長人名辭典』(昭和五十一年六月増補版・マツノ書店刊)の「青山上總」に、歌一首「暮秋」を引きたり。
古さとの 垣根の小萩 かれしより もとあらはにも くるる秋かな   長清

●青山幹生・青山隆生・堀雅昭の三氏『靖國の源流――初代宮司・青山清の軌跡』(平成二十二年七月・弦書房刊)
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/920
 
 

招魂場・櫻山神社。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年10月18日(日)21時49分43秒
返信・引用 編集済
   平成二十七年十月十七日、時局對策協議會・河原博史議長代行の促す所、皇道民族連盟・近藤勝博代表と共に、長門國赤間關後地村梨子ケ迫なる、櫻山神社秋季大祭に參列せむと欲し、一路、下關へ。囘天學舍・西村梧樓代表の案内(下關隨一の案内人とは、仄聞に違ばざる所なり)にて、先づ安徳天皇御陵に伏し、赤間神宮を拜して、宮司・禰宜御兩所に挨拶、而して次々に史蹟を巡り、遂に櫻山神社に至る。

 明日の準備の爲めに上つて居られた、阿部恭久宮司に遭遇、懇篤なる案内を賜はる。靖國神社の元ともなりし、招魂場。松陰吉田先生を始めとする祭神の招魂碑に壓倒されて、感慨、新たなり。

 翌日、櫻山神社創建百五十周年の大祭に參列、玉串奉奠を許され、無上の榮と謂ひつ可し矣。蓋し是れ、囘天學舍・西村代表の御蔭ならむ、深謝に堪へざる所なり。同血新聞社・塚本保嗣相談役に、初めて御目にかゝり、共に相語ることを得たり。同血新聞社・下山陽太主(彼の「廢佛毀釋」は、主の代名詞たるは、夙に知らるゝ所なり)とも再會、將に神出鬼沒の青年なり。健康を祈るや、切なり。下りて、周防國熊毛郡なる、式内社縣社・石城神社、亦た神道天行居の諸神社を登拜す。

 特記すべきは、小生、車輛の燃料携行罐てふものを、生れて初めて見たることなり。備へあれば憂ひ無しとは、此れを云ふか。感心頻りなるは、獨り小生のみ。田舍道、御要愼‥‥呵々。

 時局對策協議會各位の厚恩に接し、歡喜、甚だ大なり。記して感謝の意を表すと、備中の一處士、爾か云ふ。



上=官幣大社・赤間神宮參拜。
中=櫻山神社にて、宮司より案内を賜り、又た『櫻山の歌集』(平成二十年七月・櫻山神社刊。覆刻と解説は、谷省吾翁なり)を戴く。
http://sakurayamajinja.com/
下=招魂場。第一列中央は「松陰吉田先生神靈」、向つて右に「高杉晉作春風神靈」・「入江九一弘毅神靈」、左に「久坂義助通武神靈」・「吉田稔麿秀實神靈」はじめ、招魂碑三百九十一基。
 
 

神社本廳は、何處に行かうとしてゐるのか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年10月 4日(日)20時01分6秒
返信・引用 編集済
   久振りに同志に遇ひ、樂しい日々を送つた。これぞ、道樂の極みなりけり。其の席で、下山陽太氏からは、『闢邪』第四號を戴く。目を疑ふやうな神道界の亂脉、遂に神社界も、明治維新の大精神を踏みにじるが如き體爲、呆れて言葉を失つた。また此の號には、かつて其の『檄文』を紹介させて戴いた、眞橘道義神主の、事件の顛末、現在の心境を綴られた文章も拜讀し得た。有志には、是非とも一讀されむことを乞ふ。

●『闢邪』第四號目次
一、下山陽太氏「本教界の松永久秀たる田中恆清を膺懲す──廢佛毀釋の正統性を喧傳し、神佛習合を排す」
一、眞橘道義氏「再び神の道へ」
一、下山陽太氏「念佛宗膺懲義擧を正當化し、廢佛毀釋を擧行す」
一、下山陽太氏「編集後記」

◎『闢邪』の問合せ先
同血新聞社=一○三-○○○七・東京都中央區日本橋濱町三の二十七の二
      中銀日本橋濱町マンシオン四○五號室
電話番號=○三―五六四五―七七四五
douketsushinbunsha.hekija@gmail.com
 
 

自から 敕かしこむは、我が大君、雲上の神にし座せばなり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月28日(金)22時18分55秒
返信・引用
  ■『萬葉集』抄


○皇は 神にし座せば 天雲の 雷の上ヘに 宮敷き坐す(柿本朝臣人麻呂。流布本云、「廬(いほり)せるかも」。古義軒或本に據れり。卷三・二三五)

○皇は 神にし坐せば 眞木の立つ 荒山中に 海を成すかも(人麻呂・三・二四一)

○皇は 神にし座せば 赤駒の 腹ばふ田ゐを 京師となしつ(大將軍贈右大臣大伴卿・十九・四二六○)

○大王は 神にし座せば 水鳥の すだく水沼を 皇都と成しつ(十九・四二六一)


○晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大王の 命恐み 夜見つるかも(田口益人大夫・三・二九七)

○大船に 眞梶(まかぢ)繁貫(しゞぬ)き 大王の 御命恐み 磯廻(いそみ)するかも(石上大夫・三・三六八)

○物部(ものゝふ)の 臣の壯士(をのこ)は 大王の 任けのまにゝゝ 聞くと云ふものぞ(三・三六九)

○千萬の 軍(いくさ)なりとも 言擧げせず 取りて來ぬ可き 男(をのこ)とぞ念ふ(高橋連蟲麻呂・六・九七二)

○大君の 命畏み 愛し妹が 手枕はなれ よだち來ぬかも(十四・三四八○)

○大君の 命畏み 大船の 行きのまにゝゝ 宿りするかも(雪宅麻呂・十五・三六四四)

○大君の 命畏み 磯に觸り 海原わたる 父母を置きて(助丁丈部造人麿・二十・四三二八)

○大君の 命畏み 出で來れば 我に取りつきて 言ひし子らはも(種准郡上丁物部龍・二十・四三五八)

○霰ふり 鹿島の神を 祈りつゝ 皇御軍に 吾は來にしを(那賀郡上丁大舍人部千文・二十・四三七○)

○今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は(火長・今奉部與曾布・二十・四三七三)

○大君の 命にされば 父母を 齋瓮(いはひべ)と置きて 參ゐ出來にしを(結城郡雀部廣島・二十・四三九三)

○大君の 命畏み 弓の共(むた) 寢か渡らむ 長きこの夜を(相馬郡大伴部子羊・二十・四三九四)

○唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ來ぬや 母なしにして(國造丁小縣郡他田舍人大島・二十・四四○一)

○大君の 命畏み 青雲の 棚引く山を 越よて來ぬかむ(小長谷部笠麿・二十・四四○三)

○大君の 命畏み 愛(うつく)しけ 眞子が手離り 島傳ひ行く(助丁秩父郡大伴少歳・二十・四四一四)

○大君の 命畏み 於保の浦を 背向に見つゝ 都へ上る(掾安宿奈杼麿・二十・四四七二)



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 淺野晃翁『楠木正成』に曰く、「湊川の戰の前における彼を指して、岡倉天心が、あの正成の『やつれた』姿と言つたのを、忘れることが出來ない。やつれた姿。ひたすら重きをになひつづけ、默々として沒落へと急ぐ孤忠の臣の姿である」と。畏命卒伍の臣從は、當然當爲の道と云はむより、抑も吾人固有のこゝろ、草莽戀闕の至情なり。

 湊川大神に獻る哥二首。愚詠。

大君の 命畏み 五月雨の やつるゝまでに 盡くし大人はも

大君の 命畏み ますらをの 餘香は今に 盡きざらむとす
 
 

保守の敵は、保守なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月15日(土)00時53分2秒
返信・引用 編集済
   戰後七十年安倍内閣談話を聽く。絶句‥‥。「保守の敵は保守」てふ言の葉を、更めて噛みしめる。期待も無かつたが、此の憤怒、何處より來れる、知らんと欲して知るを得ず。今夜、『凛として愛』を觀て、獨り哭きたり。



●平泉澄博士『日本の悲劇と理想』(昭和五十二年三月・原書房刊。平成六年十一月・錦正社復刊)
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●泉水隆一監督『凛として愛』(平成十四年七月十三日。靖國神社遊就館に於いて上映)に曰く、

「森本文子の曰く、『そのために出たのに、今はもうちょっと世間の常識としたら、厄介者扱いのような、あれでしょう。本当、身内になってみりゃ、情けないですよ。なんのために命まで捨てたんかなあと思うてね。まあ、日本の国はええ国ええ国って云われとりますけど、これをわからん国民が多いんかなあと思ってね。いつも思います。情けないなあ。私は、あんな人間になっちゃならんと思うてね。大げさ云うちゃあれじゃけど、日本の国のためになるんじゃちゅう気が、兄貴にはあったんだろうと思います。とても今の若いものじゃったら、悪いことはする、人を殺したりなんかはするけど、自分の命を絶ってまで国のために尽くそうと思うものは、今はあまりいないんだろうと思いますよ』と。戦争は悲惨なもの、悪と云われ続けている。しかし戦わなければ、国家国民は、それ以上の悲惨な目に遭遇しなければならなかった。極東の小国日本が生き残った理由は、幾度かの国難に常に武器を取り、立ち向かったからである。‥‥

 明治開国以来、欧米列強の植民地化を避けるために、必死に刻苦努力して来た。こづきまわされても、じっと我慢を重ねて来た。日本人は多くの天災に襲われ、幾度とない飢饉にも見舞われたが、全て耐えぬいて来た。だが、日本民族の息の根を止めようとするアメリカの要求だけは、耐えることが出来ない。戦争をしない道は残されていた。全ての権益を放棄して、許しを乞う道はあった。しかし、それは戦争をしなくても、戦争に敗けたと同様の悲惨な末路を意味していた。国民には、それが出来なかった。武器を取ることを選択したのです。軍令部総長永野修身は、『戦うも亡国かも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は、魂までも喪失する永久の亡国である。たとえ、一旦の亡国となるとも、最後の一兵まで戦いぬけば、我らの子孫は、この精神を受け継いで、再起三起するであろう』と語った。大東亜戦争は、逃げも隠れもしない日本が戦争を決意した、一億の日本人が武器を取り、決意した戦争です。恥じることも、たじろくこともない。凛として、日本人は、襲い来る外敵を撥ね除けるために、日本生存を賭けて戦った、自存自衛の戦いです。それが極東の国日本の揺るがすことの出来ない、ただ一点の戦争理由です。‥‥

 子供を愛し、妻を愛し、兄弟を慈しみ、両親を尊敬する多くの先人。誰一人、日本が侵略戦争をしたとは思っていません。外国の土地を強奪した事実もありません。礼・義・智・信と云う厳しい道徳観の中で育った日本人は、不正義を憎み、卑怯卑劣を嫌う武士道を軍人魂として教育されて来ています。あなたが、もし日本人ならば、そして、正義を愛するならば、かっての日本人も、同じ日本人です。あなた方が誇れる、先人の方々です。あなたが自分を信ずるならば、日本を守った先人を信じて下さい。英霊を、先人の愛を、見つめて下さい」と。
 
 

淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』、人

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 8日(土)17時15分39秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

六十四
南の海の もりあがる汐のうねりから
月がのぼる
はるかなものの影が波の上に
生まれ出る

六十五
おお 晩夏の海に
まぶしくまぶしく燃えてゐるもの

六十六
 アジアの岸の歌

曾て不毛の河邊に
寢ずの番してゐた彼らであつた

天のどんな豫兆をも聞きのがすまいと
全身を耳にしてゐた彼らであつた

影に充ちた夜であつた
草はやはらかく幼な子のやうに
眠つてゐた
君たちもどこか草のやうに幼な子めいて
見えてゐた

滿天の星は身をふるはせて
縛された女性を凝視してゐた
アジアといふ名の漠たる女性は
漠たる永い夜に縛されてゐた

あの刻 彼らの耳は 何をきいたのか

さかしらな人間があやつる舞臺が
音 たてて
廻つただけなのか けれど
そんなことが 君らの願ひと
何のかかはりがある

君たちは裝ひを改めた
爭つて祖國の急に赴いた

花のやうな羞ぢらひの中に
五月の夜よりもかぐはしく

やさしい思ひ出とも別れ
答へなき天に
おのれの影を投げながら

ひとり世を超え
おそれもなく ためらひもなく
意味ありげなものの虚妄を
惡しく意味づけられたものの虚妄を
はげしく拒み また拒み

人みなが冷たしと見る
アジアの岸の夜明け前に
虚妄の意味を燒きつくし
おのれひとつの焰と燃えて
おそれもなく ためらひもなく
花のやうな羞ぢらひの中に
五月の夜よりもかぐはしく

聖なる戰の眞實を
おのれひとつに證しして
闇の汐に呑まれていつた

君ら 運命を超えて逝つたものよ
いまこそ 魂を鎭めるとき

六十七
われらが盡きぬ夏の日は
青い海が白い船を逝かせ 渚に光あふれ
瞳燃え いかにながい別離が
われらを捉へ
はるかな夜にさまよはせようとも
いつもここで わたくしらは出會ふ
生きるかぎり のちの世までも

六十八
ミンドロの岬から シブヤンの水道から
スリガオの海峽から デナガツトの海から
ミンダナオの海から
サン・ベルナルデイノの迫門(せと)から
パラワンの島から スルアンの島から
エンガノの沖から サマールの沖から
レイテの沖から サイパンの島から
テニヤンの島から グアムの島から
アンガウルの海から ハルマヘラの海から
パラオの島から ヤツプの島から
トラツクの島から ルオツトの島から
クエゼリンの島から タラワの島から
マキンの島から ペリリユーの沖から
モロタイの沖から ビアクの島から
ニユーギニアの岸から
ブーゲンヴイルの島から
ソロモンの海域から ツラギの島から
ガダルカナルの島から ルンガの泊地から
ミツドウエイの海から アツツの島から
歸つて來い
歸つて來い
歸つて來い


六十九
赤道の秋
ひややかにうねりを返す浪の背に
祖國の聲が 青い天から
呼んでゐる
捧げた君らの 尊い名を

七十
靜謐で清淨な空間を充たす 無盡の光
このひたすらな挺身者
時は いま 重い足どりで 歩いてゐる
僞りの歴史を じつくりと溶かすべく

七十一
すべては逝く
知つてゐたその人も逝く
録されたすべては亡びる
けれど記憶は殘る
けれど天は忘れない
すこやかにありし日のまま

七十二
死を超えて
なほも多くの日付がある



 愚案、愛協會主宰・岡田則夫翁は、

「八月には、故國の爲めに散華せられた英靈に、各人のおもひをこめて、『天と海――英靈に捧げる七十二章』を朗讀して捧げて下さい。この詩を朗讀してゐると、本當に大聲で、『歸つて來い! 歸つて來い!』と叫びたくなり、英靈が頭上にあらはれるやうで、胸が熱くなる」

と云ひ、九段塾頭・泉水隆一翁は、

「第六十八章の『ミンドロの岬から、シブヤンの水道から‥‥』といふ、太平洋の激戰場を連呼する箇所は、何度讀んでもたまらない。頭の中には、大砲の發射、砲彈が海濱に炸裂し、米兵が吹つ飛ぶ、椰子が裂かれる、手榴彈を投げる皇軍兵士が、燒け爛れた椰子の林を突切つて、米軍陣地に飛込んで行く兵士の姿が、『撃てつー』と叫ぶ隊長の顔が――殲滅されるまで、阿修羅のやうに肉彈となつて、米軍におほひかぶさつて行く皇軍將兵の顔が、メチヤクチヤに現はれる。發狂しさうだ! 餓鬼と戰ひ、髑髏のやうになつた眼孔を光らせたまゝ、絶命する兵士の姿が浮かぶ。南雲忠一中將を始めとする、多くの大將・中將・參謀・司令官・守備隊長が、敢鬪しつゝも、遙かに宮城を拜して割腹、自決する姿が浮かぶ。艦と共に海底に沈む將官・兵士の姿が閃く。血みどろの眼球がえぐられた顔で、敬禮しながら沈んでいく兵の姿が浮かぶ。『天皇陛下萬歳』の聲が、がんゞゝと響いてゐる。‥‥溢れ出る涙の粒で、パソコンの畫像が見えにくい」

と云つた。「歸つて來い、歸つて來い、歸つて來い」。彼の國民感情に、異論は固より無い。感動、落涙を禁じ得ない。然し誤解を恐れず申し上げるならば、靖國神社祭神に對し奉る「慰靈と感謝」──素直に表現するに、小生は、些か違和感を覺え、躊躇逡巡せざるを得ない。

 天子樣には、畏れ多くも英靈として「慰靈鎭魂」され給うたならば、其の本魂は、直ちに欣然として歸國昇天し、永く護國の神と坐します。臣民たる我々が、既に敕祭され給うた祭神の「靈を慰め」奉るとは、御鎭座以前ならまだしも、抑も烏滸がましいのではなからうか。これは、小生が『靖國神社考』に於いて、特に申し上げたかつたことであります。平時に在つては、祭神の大和魂を「顯彰」し、吾人の大和魂を堅むることこそ、國民の責務なりと信じます。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

 亦た「感謝」──かつて塾頭は仰つた。

「靖國神社に祀られる英靈つて云ふのは、天皇の爲めに戰つた人達、即ち皇軍兵士が祀られてゐるわけですね。日本の爲めに戰つた人達が祀られてゐるわけでは無いんです。明治天皇は、『よくやつた、可哀想だから祀つてあげよう』と仰つて、祀つたわけでは無いんです。生きてゐる國民に、『お前達の忠義の心、その魂を受け繼がせろ』と。その爲めに、皇軍兵士を祀つたわけです。佛教でもあるまいし、追悼施設なんて、誰も言つて無いです。『感謝もしてくれなくていゝ』と。要は、靖國神社に祀られる祭神、英霊は、『後を頼む』、即ち『後に續いてくれ』と云ふことで逝つたわけです」

と。靖國の祭神に神習うて、「一旦、緩急あれば」、「承詔必謹」、即ち父母妻子を措くこと、萬葉の防人の如く、亦た「妻は病床に臥し、兒は飢に叫(な)くとも、身を挺して、直ちに戎夷に當らむと欲す」ること、幕末の志士の如く、斷々然と「後に續」き、己が一命を捧げ奉らなければならないのであります。是れ即ち靖國神社祭神と國民の關係に於ける本義、靖國神道の要諦でありませう。「慰靈と感謝」てふ字づらに拘つて申すのでは無い、「皇國護持の道」發揚の爲めに、敢へて言擧げさせて戴いたのであります。
 
 

淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』、地

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 8日(土)17時14分20秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

二十五
 銀河と花の露の歌

大いなる向日葵の花ひとつたそがれ
天の銀河はかたむき流れる

ほのぐらい薊の花に蝶ねむり
どこかで名知らぬ母が呼んでゐる

こよひ銀河のもとに息づく
人のいのち 花の露

銀河の末は滿ちてくる青い汐に 洗はれる

百千の花のいのちをさながらに
銀白の波のぞめき 時のながれ

露といふ露のきらめき
はたおりは織り うまおひは追ひ

天の銀河 答へるいのち
汐は滿ち 時はすぎる

二十六
海が日をうたふ 海が夜をうたふ
海が生をうたふ 海が死をうたふ

二十七
この夜 晩夏の海は炎熱を收めた
まつくらな天に 汐だけが鳴つてゐる

二十八
秋よ來い そして 秋の花
朝顔の花 水引の花 露草の花
桔梗の花 撫子の花 コスモスの花
色のつめたい つまくれなゐ
赤のまんま ねぢり花 そばの花
カンナの花 龍膽の花 萩の花
また女郎花 くず 吾亦紅に 菊の花

二十九
南の海は暗かつた 母の胎内のやうに
月も星もみえなかつた
うねりだけが身をゆさぶつた
ながい夜だつた かれらは眠らなかつた
東から太陽がのぼる時までを

三十
ながいながい夜だつた
かれらは耳を傾けてゐた
じつにいろいろの聲が
語りかけて來たから
父なる聲
母なる聲
姉なる聲
師なる聲
友なる聲
逝いて遠い友の聲さへ
かれらは見たのだ
めいめいの持場にあつて
美しい形を まだ生れない前に見た
數々の 美しい形を
見たのだ
責務といふ名のもとに

三十一
舷側を打つ重いうねり

三十二
こだまするこだまする君が代の合唱

三十三
出撃 出撃 出撃

三十四
シツカリ ヤツテ クダサイ────
母の聲がきこえてゐる

三十五
海暗く 夜暗し 海深く 夜深し

三十六
不沈をうたはれた巨艦を中にして
艦隊速力二十五ノツトの雄大な輪形陣が
いま肅々と 進んでゆく

三十七
艨艟をのせて走る 夜の海の
たくましい 背中

三十八
平和といふ名の大洋に
はやくも立ちかがやく
水柱 水柱 水柱 水柱

三十九
祕められた天の明りをことごとく集め
燦然と立ちかがやく
水柱 水柱 水柱 水柱

四十
海坂(うなさか)の浪折(なをり)にふれて ただ一筋
針をひいた 雷跡

四十一
めくるめく衝撃のただなかに
赤道は天にあり
母國はかぐはしい一片の 朴の花びら

四十二
ぶちあてたものを すぐにも引取つて
沈痛なうねりを返す 海の水たち

四十三
雲は月を隱し 刻々とおしうつる時を
淨瑠璃の沈默が 充たす

四十四
海といふ戰場での 海といふ戰士の
巨いさ 虚しさ

四十五
赤と黒との焰の下に まだ光つてゐる
浪の穗の 青

四十六
つひに 天と海と
ひしと抱きあつてゐる 暗さ

四十七
どこからきたのか
飛んでゐる赤とんぼ

四十八
多く被彈し被雷し 傾き沈み落伍して
殘るは幾隻ぞ 艦隊速力いま辛うじて
二十二ノツトの減速輪型陣
前後左右を百尺の水柱に
ひしひしと取卷かれ
されど────(いいんだ いくんだ)
ワレ舵故障! いまつひに速力
二十一ノツト 二十ノツト
十九ノツト 十八ノツト
ワレ舵故障!
されど────(いいんだ いくんだ)

四十九
呼んでゐる 呼んでゐる
一つの聲が
むかしからいつも一つであつた國土が
呼んでゐる 呼んでゐる

五十
この生を祖國に捧げるだらう
といふことは たしかに
誰の知つたことでもない
けれども 自分が責務を果たすだらう
といふことは 誰よりも
自分がよく知つてゐる
わたくしらはみんな
不滅な風景を見てきてゐる
子供の時分から──そして今も
それが見えてゐる
そこに

五十一
うつくしい國土よ 山河よ
去つてゆくな どこへもゆくな
わが父母よ

五十二
天に白蓮 海に眞珠
閉ざされた雙のひとみの
なんといふやさしさ 若々しさ

五十三
ハタオリは機織れ ウマオヒは馬追へ
マツムシは人待て スズムシは鈴ふれ
カネタタキ鐘たたけ
クツワムシくつわ鳴らせ

五十四
生きてゐるといふのではない
存在してゐるのだ
と そのやうに感ずるとき
ひとは連嶺の雪みたいに ただ
光りかがやいてゐるのらしい
晝となく 夜となく 天の
一枚の青の下で

五十五
あのやうな きびしい形で
しつかと目をつむり 底ふかく
見てゐる 聞いてゐる
山 沈んだ山
こちらの山の谷をつたつて
あちらの艦のなかへ出る
みんなしつかり持場をまもり
水漬いてゐる
わたくしはそれをかかへ
すばやく 飛ぶやうに尾根を
かけあがる

五十六
暗雲は月を蔽ひ 視界に一點の光もない

五十七
けれどもまだ明るいうねりの上を
嬰兒のやうに這つてゐる 巨艦
五千トンの海水を呑みこんで
まだ沈まない七萬三千トンの 巨艦
 (大和よ 沈むな!)

五十八
櫻花散り 菊花散り
すべて季節の花散り

五十九
岸には カンナの花の赤と黄と
水は 太平洋の水

六十
夏草の列をうつして
水は逝き 河骨のかげ
さらばラバウルよ とうたつてゆく

六十一
録されてその名は殘り
録されたその人は還らず

六十二
録されなかつた名もあつた
その人も還つて來なかつた

六十三
ときとして忘却のなつかしさ
それの周邊へと思ひは歸る
きつとそれは
沈んでしまつた場所の確かさの
記憶からだ
 
 

淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』、天

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 8日(土)17時07分52秒
返信・引用
  ~承前~

■□■ 御製(平成六年、硫黄島に行幸啓。七年年頭御發表)

精根を 込め戰ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき

戰火に 燒かれし島に 五十年(いそとせ)も 主なき蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ




□□□ 皇后陛下御歌

慰靈地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり 君ら水を欲りけむ(同上)

海陸(うみくが)の いづへを知らず 姿なき あまたの御靈 國護るらむ(平成八年、終戰の日。九年年頭御發表)


**********


●淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』(昭和三十九年夏成る。今は、岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁『愛協通信』平成四年六月・七十一號/七月・七十二號に據れり)


琅玕をふふむ 海の微笑
絲切齒に
日光をひきとめ 月光をひきとめ
どの瞬間もが 我を忘れる


たんぽぽの花を手にして
川口をゆく
春の證しの この黄いな花


海の影に染まり 草地をゆく
子供の手がかぶとむしをつかむ
小さな指のあひだで蟲が
角をかちあげる 波打際まで出る
ふりかへる 子供が石になつてゐる
はつとするとき 汐の香
胸をなでおろし 歩き出す


はまなすの花の 香氣のなかをゆく
すつくとたちあがり 乙女のひとみが
微笑をおくる 君のひとみに見入るとき
逝くものの なんと杳かであることか
紅い紅いこの花
手にはとらず そして歸る


桐の花の落ちた 小川の路をゆく
地にくつきりと印された
豆粒よりも小さな 這ふ蟲の影
それが のろのろと動いてゆき
瞬間 翅をひろげ 點ともならず消える


濃くなつた夕闇のなかで
かたまつて咲く除蟲菊の花 かと思つたら
一枚のホワイトシヤツで
草に埋もれた軌條の方へ
しだいに遠く動いていつた
見送り 頭をふつて 括弧を閉ぢる
そしてまた 歩きだす


亞麻の畠におりたち
亞麻の花のあひだをゆく
燃える正午の天の青さ
そこにはつねに思慕がある
それは咏嘆の盡きぬ源である
日は倦まずめぐり
亞麻の花は地平に 海の色を注ぎこむ


峽にはいり しげみに沿つてゆく
花すぎたアカシアが
ひつそりと潛んでゐる けれど見つけた
光はこぼれ 葉はみんな濡れてゐる
峽の道は暗くとも 誰が君を見忘れよう


明けがたの海の ほの白い渚をゆく
海は ただ 青く 遠い
世の人の永訣の時を いまこの時と
何が決めるのか けれど
海にはおもいいとなみがある
星には彼の光度がある
人には責務がある われらは みな
責務を愛した また この國土と
東洋の滿月を われらは みな
愛した 責務と 永訣の時を


湖畔の丘では 白樺の若葉のしげり
朴散華 雷が鳴り 地が震ひ 時を碎く

十一
夜となり不變の星が ふたたびあらはれる
さきだち逝つたもの 遠く杳かにあるもの
かれらを歡び迎へる ものがわが胸うちに
あり歡喜をおぼえる
不變の星と 不變の友情と

十二
脚速に更けてゆく夜
のなかにすべてがある
と考へるのはつつましい 哲學だ
見えてゐるのは 青い疊と
掛布團に描いてある 秋の七草 それが
一雙の屏風を倒したやうで
それがすべて そして
脚速に更けてゆく夜

十三
じわじわと夜が 水の上に
その壓を加へる
みんなみんな行つてしまつた そして
一人も歸つては來ぬ

十四
南の海の ねむたい午後だ
君の雙眼鏡のなかにゐるのは
瑠璃光の天と 雲の大入道
むかし小學校の校庭の空にゐた
天と雲だ

十五
歸つて茶を喫まう
かとも思つたが ひどい 濕地帶だから
水が よくない でも
沖の方から呼びかけて みんな
ぞろぞろ還つて來て いきなり
むずと抱きつかれたら
こちらもずぶ濡れだらう
さうなればやはり つれて歸つて 熱い
茶でも喫ませる ほかはあるまい

十六
この汐鳴り この滿ちてくるもの
われらが故國の天のしたで
聲をあげるもの 遠くで雷がなり
ここら一杯まだ漂つてゐる 夜光蟲

十七
北の夏は 無言の火花をそそぎ
南の夏は 赤道の黒いうねりか

十八
そこでは くろい浪は重くうねり
夜の艨艟―――
艦橋にふれて 南十字がよぎり
白く傾いた 銀河

十九
燈火は默々と蛾をいざなひ
網戸はかたく彼を拒む
いざなふものと 拒むものとがあつて
光に寄る生きものら かく 拒まれ また
いざなはれる

二十
君らは自分のからだをうまく敵にぶちあてるやうに
對角表をこしらへる
ちやうど學期試驗の前みたいな氣分で
君らはゐる 信號の教課も
そろそろ終る頃だらう
ここでは正午の草いきれの中で
すいつちよが鳴いてゐる

二十一
虚しい時空の一點に
積めるだけの紺青を積み
重すぎるまで生き そして 沈む
ああ すべて 吃水の深さのよさ
歸りの道は 考へることはない
明日は上らぬ落日のやうに
闇へ行く 闇はどれほど 深いか
虚しく偉大な夜を 雷火が打ち
おれは燃えあがり この夜を 照らす

二十二
在るといふことのよさ
在るといふことのいさぎよさ
在るといふことの確かさ まぎれなさ
在つたといふことの
絶對さと 不滅さ

二十三
月のあかるい椽先で
桃の冷えたのをたべてゐる
ひとしづくをも惜しんで
すするやうにしてたべてゐる
どこかで君らの聲が してゐる

二十四
くらい燈火のしたで 腕時計のねぢを卷く
もう明日である 燈火を消し 横になる
君らの顔が 笑ひながら過ぎる
 
 

嗚呼、招魂鎭魂の國民歌謠。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 5日(水)22時10分45秒
返信・引用 編集済
   先般の岡山縣愛國者協議會例會は、倭建命、天翔りて‥‥から、「鎭魂」と「責務(責任と義務)」について考へるてふ主題の下に、淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』他、盛澤山の朗讀會と相成つた。古事記講義は、故に休講。其の語られた一部であるが、御紹介したい。

 岡田則夫翁は、三時間ぶつ通しで喋つても、聲が嗄れることが、絶えて無い。嗄れるどころか、其の聲が、實に佳い。殊に『天と海』を獨朗されること、凡そ三十分。次月は、一同にて朗讀會、これは大變である。かつて其の一部を、拜記させて戴いたことがあり、塾頭も大層喜ばれた想出が、目に浮かぶ。大詔奉戴日までには、岡田翁に傚ひ魂を籠めて、全七十二章、謹寫したい。



■大木惇夫氏『戰友別盃の歌──南支那海の船上にて』

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
滿月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ醉ひて勢(きほ)へよ、
わが征(ゆ)くはバタビヤの街(まち)、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜(よ)か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
默々と雲は行き雲はゆけるを。



●大木惇夫氏改作・古關裕而氏作曲『海を征く歌』
https://www.youtube.com/watch?v=EWO4WjQImrw

君よ、別れを言ふまいぞ
口にはすまい、生き死にを
遠い海征(ゆ)くますらをが
なんで涙を見せようぞ

熱い血潮を、大君に
捧げて遂(とぐ)るこの胸を
がんと叩いて、盃に
くだいて飲まう、あの月を

僕は遙かなつんどらの
北斗の空を振(ふる)はすぞ
君は、むらがる敵艦を
南十字の下(もと)に撃て

誓ひ誓ふて、征くからは
きつと手柄をたてようぞ
萬里の雲にうそぶけば
波は散る散る、雪の華



□岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁『愛協通信』(昭和十年十月・百四十六號/十一月・百四十七號)

 藍川由美の『レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」──古關裕而歌曲集二』の解説には、かう書いてある。

「文化部隊の一員として、ジヤワに參加した大木惇夫が、歸國後、發表した詩集『海原にありて歌へる』の中の「戰友別盃の歌──南支那海の船上にて」に感動した古關は、大木に改作を依頼して、この歌を書いた。『私の作つた、いくつかの戰時歌謠の中でも、好きな曲の一つである』と、古關はいふ。

 しかし、この歌には、歌詞の誤植や樂譜上の問題があつた。中でも、レコードの演奏が八分の六拍子なのに、全音樂譜出版社『古關裕而作品集』のピアノ伴奏譜が、四分の二拍子になつてゐる點が重要で、記念館で調べたところ、八分の六拍子の自筆オーケストラ・スコアが出てきた。すると、出版の際、便宜的に四分の二拍子に書き替へられた可能性もある。そこで今囘の録音には、改めて現存する自筆スコアから、ピアノ譜をおこして用ゐることにした。」

 こゝにある「今囘の録音には云々」といふのは、『ああ此の涙をいかにせむ』で、日本コロムビアからCDで、定價三○五九圓で發賣されてゐる。古關が「好きな曲の一つである」と言ふだけあつて、此の曲を初めて聞いた時の感動は、一言では表はせない。曲がながれだした時から、一點集中となり、曲が終了して、すぐ解説書を開いた。そこで、またゝゝ衝撃をうける。その詞が、以前から私の好きな『戰友別盃の歌』の改作であつたからである。

 大木惇夫の心(精神・魂)が、古關裕而の心が、藍川由美の美聲にのつて、聞くものゝ心をうつ。大木惇夫の言魂(詞)は、古關裕而の魂を振はせ、藍川由美の言魂(美聲)は、それゞゝの魂を融合して、さらに大きな言魂となつて、聞くものゝ魂を振はせる。嗚呼、‥‥。この感動を、ぜひともあなたの耳と心で、確かめて頂きたい。

 そして、祖國防衞のために生命を捧げられた英靈の心を偲び、慰靈のあり方を考へて頂きたい。さらに、現在もなほ遠くはなれた地に埋もれたまゝになつてゐる、多くの英靈の遺骨があるといふことを忘れてはならない‥‥。我々は、いま何ができるのだらうか。一人一人が、ひとりの日本人として、英靈と向かひ合ひ、答へをださなければ‥‥。英靈と向かひ合ふ事は、不可能ではない。何故ならば、殘つてゐる英靈の『遺書』に向かふことだ。一人一人と語ることができる。一人一人の言魂(ことだま)を、あなたの魂(こゝろ)で受け止めて頂きたい。そして、あなたの聲で、英靈に答へを告げてください。‥‥

 さきに紹介した、『ああ此の涙をいかにせむ』の藍川由美の解説書の中から、古關裕而の言葉を拔粹し、ご紹介いたします。ある時、陸軍病院へ慰問にゆき、

「隊長が、突然、私をステージの上にあげて紹介した。私は、なにか挨拶をしようとしたが、酷暑の炎火に座つて聞いてゐる、多くの兵隊の顔を見たとき、その一人一人の肉親が、無事に歸ることを祈つてをり、はたしてその中の何人が?と思ふと、萬感が胸に迫り、絶句して、一言もしやべれなく、たゞ涙があふれてきた。」

「私も何度か、戰地や戰跡に出向き、悲慘な樣子を目の當たりにしてきた。それらの體驗が、『露營の歌』や『曉に祈る』・『ラバウル海軍航空隊』等の歌となり、國民のために少しでも役に立てたことはよかつたと思ふ。」

『露營の歌』について──「「土も草も火と燃える」とか、「鳴いてくれるな草の蟲」など、詩は旅順で、見たまゝの光景で、私には、あの戰跡の、かつての兵士の心が、そのまゝ傳はつてくるのであつた。夏草の搖れ・蟲の聲も、そこにあつた。」

『曉に祈る』について──「私は、この詞を見た時、中支戰線に從軍した經驗がそのまゝ生きて、前線の兵士の心と一體になり、作曲が樂だつた。兵隊の汗にまみれ、勞苦を刻んだ日燒けした黒い顔、異郷にあつて故郷を想ふ心、遠くまで何も知らぬまゝに運ばれ、歩き續ける馬のうるんだ眼、すべては私の眼前に髣髴とし、一氣呵成に書き上げた。」

 古關裕而その人の、心のやさしさを感じる文章である。このやさしさが、彼の曲の根底にあるから、彼の「戰時歌謠」は、聞く人の胸をうち、魂をゆさぶるのだと思ふ。

‥‥

 詩歌は、默讀でなく、聲をだして拜讀したい。そしてできれば、詩歌を書き寫したい。書き寫してゆくと、作者の思ひが、惻々として心に響く。それに關連してだが、先月、萬葉學會の長老・犬養孝博士が亡くなられた。讀賣新聞(十月六日)に、中西進・大阪女子大學學長が、次の樣な事を書かれてゐた。

「『萬葉集』の歌を文字として見るのは、寄席の落語を書物で讀むのと一緒である。半分死んでゐる。いはゆる「枕詞」といふのも、無意味につけるはずがない。なかば音樂に依存しながら、聞きなれたリズムの中に相手を引き入れつつ、歌いかけていく。なにしろ「うた」は、「うつた(訴)へる」ものなのだ。ことばのひゞきやリズムは、もつとも人の心を動かしやすい。ところが現代人は、ことばを意味だけに置きかへて使つてゐる。ひゞきの美しさなど、日常語では邪魔にさへされかねない。せいゞゝことばのひゞきの美しさを考へるのが、四股名と藝名だといふのは、情けない。この現代人と正反對なのが、萬葉びとだつた。

 ことばの音樂性を十分大切にし、ひゞきも、意志を傳へる大きな武器であつた。そこで萬葉の歌を生かさうとするには、朗々と聲をあげて味はふしかない。事實、聲に出して詠んでみると、新しい發見をすることも、少なくない。古代、歌をチヤンネルとして、人間と神は會話をかはした。また相手をやつつけることを、「言向け」といつた。歌を相手に向けて歌ふと、相手をことばで壓倒してしまふのである。萬葉の歌の魔力は、朗々とした歌のひゞきにやどり、歌はれた歌は、言靈をいかんなく發揮した。博士(犬養先生)が野外に立つて朗詠されるのも、よく聞いた。とくに博士は、古代そのまゝの風土を愛されたから、その大自然の中に、歌の言靈は、はるゞゝと放たれ、木精(こだま)となつた。その意志を繼承しなければならない。」

 『海を征く歌』を、そんな思ひで聞き直して見てください。新しい何かが發見されると思ひます。そしてそれは、すべての事にあてはまるのではないでせうか。人に思ひを傳へるといふことに。演劇や歌謠曲から演説まで、あらゆるものに、すべてあてはまるのではないでせうか。



■柳井道弘氏『招魂の賦』

一、
南の海はおもくうねり 南天の星はみをふるはせて
美しい魂の炎(も)えつきるのを 言葉もなくみまもつてゐた
焦げつく飢と生への渇望を 枯木のやうな祈りにこめて
清純な花の羞ぢらひに散つて逝つた乙女たち
そのやはらかな乳房や小さな脣はすでに風化してしまひ
遙かな海がうたふ もりあがる汐のうねりが
ああ空がうたふ 南の夜空の滿天の星たちが
戰野に散つた靈たちの 魂乞(たまご)ひのうたを
おおけなげなみ靈たち
海坂(うなさか)の浪折をふんで歸つてこい
歸つてこい
なぐはしい大和島根に
さうして
涙にぬれた苦しみの重さを
ふる里の山河に返し與へるがいい
み戰に散つた優しい乙女たち

二、
櫻の花を 見たいとゆふ
日本の乙女 心は故郷
南天の星 みをふるはせて
思慕(おもひで)だけが 靜かに流れ
ああ海が 歌ふ
ああ空が 歌ふ
歸つてこいよ ふる里の山河
歸つてこいよ ふる里の山河
きれいな魂 炎えつきて
言葉もでなく みまもつてゐ た
戰野に散つた 若き靈たちの
あなたの命 むだにはしない



 岡田則夫翁の曰く、「昭和五十七年五月二日、岡山縣奈義町『直毘塾』で、物故者合同慰靈祭・塾長就任奉告祭があり、當日に『招魂の賦』と題された詩に、中村武彦塾長と共に出席されてゐた作曲家の濱圭介氏が、武山巖氏令室の從軍看護婦の話により、其の二番を即興にて作曲、ギターを彈きながら歌はれた。私は感動に胸熱くなり、涙を禁じ得なかつた。柳井氏は、詩人。岡山縣出身。大正十一年生。明治大學卒」と。



□岡田則夫翁『愛協通信』(平成四年六月・七十一號/七月・七十二號)

 三島由紀夫氏は、かつて「ポエムジカ」と名付け、この詩を朗讀。音樂は山本直純氏。山本氏は、「ポエムジカは、たつた一人でピアノやギターの彈き語りもできるし、またあり合せのレコードをかけて朗讀してもよい。好きな詩と好きな音樂が一つづつあれば、それでよいのである。日ごろ愛唱してゐる、古典の朗讀であつてもよい。要は音樂と朗讀の結合を、どう表現するかといふことで、最もたいせつな事は、その詩の精神を、どう表現するかといふ點である」と語つてをられる。三島氏は「この七十二章を讀み返すごとに、私の胸には、大洋のやうな感動が迫り、國が敗れたことの痛恨と悲しみが、ひたゝゝと寄せてくる。淺野晃氏は、日本の詩人としての最大の『責務』を果たしたのである。」

 八月には、故國の爲めに散華せられた英靈に、各人のおもひをこめて、『天と海――英靈に捧げる七十二章』を朗讀して捧げて下さい。この詩を朗讀してゐると、本當に大聲で、「歸つて來い! 歸つて來い!」と叫びたくなり、英靈が頭上にあらはれるやうで、胸が熱くなる。



●淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』(昭和四十年四月・翼書院刊)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t18/8
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t18/9
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1268

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●淺野晃翁『楠木正成』(昭和十八年三月・日本打球社刊)

「わたしは、この『櫻井の訣別』を、眞下飛泉の作にかゝる『戰友』と、土井晩翠の作といふ『荒城の月』とともに、明治時代に於ける三つの偉大な國民歌謠てあると信じてゐる。三者ともに、太平を謳歌する、豪華な饗宴の調べではない。危機に直面して、國の重きをになふ民庶の、野にあつて低唱する、沈痛ななげきである。だからそこには、實朝の歌に於けるあの叫びや、人麿の歌に於けるあの慟哭や、防人の歌に於けるあの嘆きやが、抗しがたい力を以て脉打つてゐる。わたしの謂はゆる卒伍の決意である。そしてそれは、明治の精神のあらゆる偉大さの中での、最も偉大なるものであつた。

 中に就いて、『櫻井の訣別』の一作は、偉大な孤忠の臣正成の囘想に於いて、盡くるところのない草莽の恨みと、身を以て語らうとする、その一死の志とを傳へてゐる。

木の下かげに駒とめて
世の行末をつくづくと‥‥

 「世の行末をつくづくと」──この一句のなかに、臣從の衷情がこめられてゐることを、われゝゝは少年の日の生活のなかで、無意識のうちに、それと知つたのである。それは、(岡倉)天心の謂ふところの劍の精神に於いて、われゝゝの國史を今日まで護り通して來たところの、われゝゝの父祖の孤忠のこゝろなのである。わたしは、かやうな意味から、この歌を、明治の國民文學中に於いて、ながく愛誦されるであらう傑作の一つに數へたいと思ふ。もしこれが、坊間傳へる如く、まことに落合直文の作であつたとするならば、直文は、(頼)山陽と竝稱されてよいのである」と。
 
 

小人「豆津魔」──精米にて祓ふべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 7月24日(金)18時28分26秒
返信・引用 編集済
   幼き頃、二階の欄干に倚りて道を眺めてゐたとき、小生は、確かに「鬼」を見た。向ふから歩いて來た近所のをばさんの頭から、一本の「角」が生へてゐたのだ。周りに云つても、誰も信じてくれなかつた。以來、其の家に行くのに、足が竦んだ。今も小生は、「鬼の實在」を、確と信じて疑はない。

 最近、「やりすぎコージー都市傳説が面白い」と、愚息が云ふので、録畫を見る機會があつた。「小人(こびと)が實在してをる」と云ふ趣旨の映像、複數の出演者も、「私も小さなをぢさんを、見た、々ゝ」と、確信を以て主張してをるやうだ。見るからに胡散くさい男のロケもあり、他愛の無いものであつたが、ネツトで檢索したら、出るは、々ゝゝ。これは注意を要する。笑ひ所では無い。枕邊に「精米」を置いて、自ら祓はれむことを。各位の周圍に、同樣の御方が居られましたら、是非とも勸めて戴きたい。

 西洋の精神世界の研究は、古來より進んでをると云ふが、所詮、それは、人靈の研究に過ぎず、神靈の研究は遲れてをる由。潮の凝まりし野蠻の國々なれば、無理もなからうが、低級靈・邪靈に誑かされぬやう、たゞ祈るばかりだ。魑魅妖魔を退くる、大壑平田先生の學識・心構へに非ずんば不可にして、凡人は「精米による祓へ」に頼るが吉からう。關西では「輪くゞり樣」の季節、周圍の清祓に力めたいものだ。



■平田大壑先生『玉襷』七之卷
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/3

 往(さきつ)年ごろ、我(大壑先生)が許に、幼くて幽境(かくれぐに)の山人(地仙・杉山組正──杉山「そうしやう」と清みて唱ふ。俗に杉山僧正と云へり。常陸國岩間山十三天狗の取締役。光仁天皇寶龜八年二月入幽。嘉永年間以降、杉山石麿清定君と改名。亦た常陸國筑波山・愛宕山・男體山に住めり。大山では杉山常昭、或は諸越等の山では雙岳山人と名乘り、唐土上代の高官にも轉生すと云ふ。誕辰は三月十三日。三千餘歳。本山は信濃國淺間山にして、實は眞薦苅る信濃國いつ速き淺間山に鎭まり坐す磐長比賣神に副ひて守らす天仙・日々津高根王命の分身に坐せり矣)に伴はれて、年久しく役(つか)はれたる、寅吉(仙名は高山嘉津間。越中屋與惣次郎二男、文化三寅年十二寅月三十寅日朝七ツ寅刻生、車屋と號す。後ち蛭子流神道・筑波六所社人白石丈之進の養子、顯名は白石平馬。宮負定雄翁『奇談雜史』卷十云、醫者の石井數馬篤任。文政三年三月出山。『氣吹舍日記』云、十月一日、平田先生と對面。『異境備忘録』云、亦名は定元知坊、日石。明治になりて、大山常照僧正の應へて、奇乙上位・白石玄達と曰ふ)と云ふ者居たりしが、文政四年五月の或る日に、人々と火の穢れの物語りに及びて、「穢火のもとは、伊邪那美命の、火神を産み給へる時の、後の物より起れり。(『仙境異聞』三之卷に、「京の愛宕の社は、火の神・迦具土命なるが、火の穢れを忌ひ給ふ中にも、産火を殊に惡み給ひ、」)伊勢の神宮の御定めにも、産火を重き汚れと立てられ、胞衣(えな)を納めたる者の穢れを、□(某)日の定められしも、故ある事なり」と語り相ひて在りけるに、寅吉、傍らにきゝ居て、「『豆つま』と云ふ物あり。知り給へりや」と云ふに、吾も人も、「其は、何(いか)なる物ぞ」と問ふに、

(寅吉の云く、)「己、さきに山に居たりし時に、友どち連れ立ちて、月夜に里近き野に出でけるに、長(たけ)四五寸許りなる小さき人の、髭生ひたるが、七八寸許りなる小さき馬に乘りて、甲冑を著し、弓・鎗・太刀など、種々の武器を持ちて、いと數(あまた)現はれ出でて、入り交り合戰するを見たり。甲冑の製、また鎗の鋒(さき)、太刀の刃の光りなど、人間のに異(か)はること無し。いと怪しく覺えて、捕へ見ばやと思へど、神速なる樣、なかゝゝ捕へ得べくも覺えねば、友どちと小石交りなる土の塊りを取りて、散々に打ちつくるに、何處とも無く、皆な見えず成れり。打ち殺したるが有りやと求むるに、一とつも無くて、石塊などに血つきて有りしなり。山に歸りて、其の事を師の山人に申せるに、

其は、「豆つま」と云ふ妖物にて、産の穢物。また胞衣を隱(かく)し納むること等閑なれば、鼹鼠(うごろもち)を生ずるを、其の中に、然る怪をなすが有りて、小兒を魘(おそ)ひ驚かして、夜啼きせしめ、猶ほ種々の妖(わざ)をなして、小兒を誑かし惱ましむ。其は、小兒の時のみならず、其の人の生涯にも妖をなす物なり。彼の謂ゆる鎌鼬(かまいたち)の態とて、物も見えず身を切らるゝ事あるも、此れが年經たる物の爲る事なり。然るに豆つま、甚(いた)く精米(しらげよね)を嫌ひ畏るゝ故に、胞衣を埋むる時に、少(いさゝ)か精米を、その器に入れて藏むれば、其の物生ぜず。總べて鼹鼠は、人の血の、土に塗れたるより生じて、子をも生み蕃(ふや)す物なり

と教へられき(豆つまは、丑寅の方よりも來る。又た産の穢物どもは、究奇(かまいたち)とも化るといふ)」と語れり[こは、寅吉が、山より歸り來れる近き頃(ほど)にて、殊に其の性の奇異(あや)しかりし時なり。此の物語りの時に居り合ひたりしは、屋代弘賢ぬし・竹内健雄・佐藤信淵・上椙篤興など、其の餘にも人ありしが、誰に有りけむ、忘れたり。此れより後に聞きたる人は、いと數多あり]。居り合ひたる人々、みな甚く驚けり。

 己れ按ふに、『今昔物語集』(卷二十七)に、

「ある人、方違ひに、下の京邊りに、幼兒を具して行きけり。其の家に靈(たま)ありしを、彼の人は知らざりけり。幼兒の枕の上(ほとり)に、火を近く燈(とも)して、傍らに二三人ばかり寢たり。乳母は目を寤(さま)して、兒に乳をふくめて居たるに、夜半(よなか)ばかりに、塗籠(ぬりごめ)の戸を細めに開けて、長五寸計りなる男の裝束(そうぞき)したるが、馬に乘りて十人ばかり、枕のほとりを渡りければ、乳母、恐ろしと思ひながら、傍らに置きたる打ちまきの米をつかみて、投げかけゝるに、此のわたる物ども、さつと散りて失せけり。打ちまきの米ごとに、血つきけり。幼き兒の邊りには、必ず打ちまきを置くことなり」

と有り[中つ世に、方違ひといふ事のありしは、皆な人の知れるが如し。其の中つ世には、人の住み捨てたる家の、所々に有りしかば、其の明(空)家に、方違ひに行きたるなり。斯くて其の出でたる物を、靈と云へれど、寅吉が言に依れば、此は「豆つま」にぞ有りける。さて豆つまと云ふ名の義を、いかならむと語り相ひけるに、屋代ぬしの言に、「小さきゆゑに豆といひ、ツは助辭にて、豆つ魔といふ義には非じか」と云はれき。此は然も有りなむ]。

 此の事は、上に引きたる『大殿祭の詞』を講ずる(『延喜式』なる其の祝詞の分註に、「今世、産屋、米を以て屋中に散らす」と)ごとに、『貞觀儀式』に、其の祭の時に、「殿の内、また御門に、米と酒とを散らす」事を載せられたる文と共に、引き出でたりしかど、唯に散米の功をのみ述べて、馬に乘り出でたる物は、何物とも考へ及ばで在りけるに、此の時、始めて豆つまと云ふ名を知り、散米する事は、其の妖(まが)を消する術と知れるは、實に寅吉が賜物にぞ有りける[斯くて後に、漢土の雜書ども(『聊齋志異』等)、彼れ此れと見し中に、然る小人の形せる妖物の、いと多く出でて、怪を爲したる事實を、あまた見出したり。其が中に、鼠婦ちふ蟲の、さる怪を爲したる事もありき。此こには所狹く煩はしければ、其の事どもは、『仙境異聞』(三之卷)に集め記して、此こには出ださず]。

 また『紫式部日記』[皇子御誕生後の事を云ふ處]に、「うへにもわたらせ給ひて御(ご)らむず。若宮おはし坐せば、うちまきしのゝしる云々」[また「源少將雅通など、うちまきをなげのゝしり、たか打ちなさむと爭ひさわぐ云々」。また『源氏物語』横笛の卷に、「いとよく肥えて、つぶゝゞとおかしげなるむねをあけて、乳などくゝめ給ふ。ちごも、いとうつくしうおはすする君なれば、白くおかしげなるに、御乳は、いとかはらかなるを、心をやりてなぐさめ給ふ。男君もよりおはして、いかなるぞなどのたまふ。うちまきちらしなどして、みだりがはしきに、夢のあはれもまぎれぬべし云々」]。是れも豆つまの出で來ざるやう、豫ねて拂ふ事と見えたり。

 また右等に就きて思ひ出づるに、我が本生の祖母は、九十歳餘にて終られたるが、己が十八九歳の頃、既に七十に近かりしが、嫂(あによめ)など、凡て幼兒を養ふ婦女には、「兒の枕上(まくらべ)に、精米を忘れず置け」と云ふことを常に言はれしは、此の故實をとり傳へしにや有らむ。然れば精米を、女詞に「打ちまき」と云ふも、『今昔物語』の事と合はせて考ふるに、妖物を避くるに、打蒔くより出でたる語なり。此の『今昔』の事實によりて、古へ兒(ちご)を育つる婦女の寢る傍らに、米を置きたる事も、詳(さだ)かに知られて、最(いと)も感(めで)たき事なりかし[古道を信ぜむ人々の、兒を生みたらむには、産屋に散米すること、胞衣を藏(をさ)むる土器に、精米を入るゝ事、また兒を育つる婦女の枕上に、米を置くことは、必ず忘るまじき事にこそ。○下總人・千本松恭壽の云く、「我が郷のあたりにて、嬰兒(みどりこ)の生れて僅か一と月計りにて、いまだ物心も有らぬが、時として甚く聲立てゝ、限りなく笑ふ事あり。然るを俚諺に、『えながあやす』と云へり。其の状、ものに捎(こそ)ぐらるゝやうにて、いと異(あや)し。此は何(いか)なる事とも心づかで在りつるを、いま師の講説を承はりて、思ひ得侍りぬ。然るは「えな」は、胞衣。「あやす」は、其の胞衣より成(いでき)たる豆つまが、肖(あや)し笑はしむるにて、其の後には必ず病み煩ひ、蟲など生ずること有るものなり。然か有らむ時には、かの精米もて拂ひ袪(さ)るべき事と、心得侍りぬ」と云へり。此は、實に然るべし」]。

 總じて古道の學問は、かゝる事までに深く心を用ひて、其の實地の道理を探ね究めて、偶々に然る事ありとも、怖ること無く、惑ふことなく、退散せしむるを、倭心の鎭まりと云ふ。然れば常に謂ゆる奇談の實事を記せる籍をも讀み味はひて、其の實徴を明かさむ事も、また古學の肝要なり。其は、さる學問の魂の御柱なき人は、偶々にさる事に出で會ふ時は、大きに惑ひて、彼の謂ゆる戸牖の錯(きかひ)、なり動くにも愕然(びつくり)して、夜目のいすゝき、いつゝしきこと有るめるを、魂に柱の立ちたる人は、まづ斯くの如き奇(あや)しき天地の間(なか)に居て、神祇の妙なる理を辨へて、世には樣々のわざを爲す妖魅のある事も、常に知りて在る故に、怪しき事の有りと聞きても驚かず、譬へば某(それ)の所に、「へうすべ」出でたり、「見越し入道」出でたりと噂ありとも、然る化物(ばけもの)も有る事ぞと知りて在れば、驚くこと無く、驚かぬ故に、惑はされず[是ぞ、彼の兵書に、謂ゆる彼を知り己を知るときは、百度戰ひて、百度勝つといふ場にて、化物も、化しやうに困るべき所と覺えたり]。

 然るに俗(よ)の儒者らが如く心狹く、この天地と云ふ、大きに奇異しき中に居て、己が身の大きに、怪しき物なる事にも心つかず、『玉鉾百首』に、「奇しきを 非じと云ふは 世の中の 奇しき知らぬ 癡(しれ)心かも」と詠まれたる如く、「世に怪しき事とては無きを、奇しと思ふは、惑ひなり。狐、いかで人を化さむ。豈に妖物・幽靈など云ふ物有らむや」など言ふ徒は、適々に怪しき事を見ては、膽を消し、或は化されも爲るなり[『川柳點』といふ口吟(ずさ)みに、「化物の咄しを 儒者はひつしかり」と云へるも、其の見を高しと贊せる句に非ず。その癡心を笑へる句なり。心をつけて味はふべし]。‥‥

 こゝに古學の意(こゝろ)を熟(よ)く得て、大倭魂を突き堅め、彼をも己をも知りて在るは、假令(よし)目の前に、「へうすべ」・「見越し入道」など出でたらむも、人のならひは然る者にて、馬の放屁にも驚くことの有るなれば、見馴れぬ物の不意に出でては、少か悸動(びつくり)する事有るまじきに非ざれども、元より心の修行、殊なる故に、腰の拔くる計(ほど)の事なく、忽ち靜まり反りて、「扨てもわぬし(和主、即ち化物)は、失禮ながら稀有なる面なり。然れどもまづ初めて出で會ふて、滿足に思ふことなり。年ごろ、和主ら如き物の、世に有ること、慥かに心得て在るを、元來、おぬしは、何處に住まふ者にて、今、何の用ありて出で來しぞ。次々に問(たづ)ねま欲しく思ふこと多かり。立ちはだかりては、人に對する道に非ず。まづ下に居て語れ」など諭しおきて、豫ねてよく知らむと思へる幽冥界のこと、また彼らが仲間の有り趣(さま)をし、問ひ試みむと構へむには、其の出でたる化物、もし文盲ならむには、大きに困りて逃げ去るべく、もし然る問ひの答へもなるべき程の化物ならば、其れいと面白き化物なり。隨分に馳走して、幽冥世界の事を問ふべし。然るは此の顯世より、幽冥界の事を知らむと爲るには、古今の籍に記し傳ふる事の迹を見て、知り辨ふる事なれば、迂遠(まはりどほ)なるを、然る幽界の物より、直にその界の事を問はむは、斯くばかり手近き事の無ければなり[然るは甚と古く漢土にては、黄帝が目澤といふ異物に問ひて、萬物の情に達し、天下鬼神の事、また其の古へより精氣、物を爲し、遊魂、變を爲す者、凡そ萬一千五百二十種の事を聞きたるを始め、彼の國の達人たち、神仙・鬼鬽(おに・すだま)の類に出會して、幽界の祕説を聞きたる事ども、今、計ふるに遑あらず。中にも梁の陶弘景が『眞誥』などを見ても知るべく、此方にも然るためし多かり。其は、後白河天皇、住吉大神の眞似して、開發源大夫と稱(な)のれる物より、天狗界の事を聞こし召され、羽黒山の山伏・雲景が、愛宕山の天狗界にて、其の世の治亂の未來を聞きたる抔を思ふべし。斯くの如き皇國の事實、また今ま計ふるに堪へず。己、はやく然る例を思ひてなむ。神に誘はれ、物に伴はれて、幽界に至れる者どもに出會して、其の趣を探ぬるを、俗の愚昧なる學者らが、然る大志をば得知らずて、余をし、徒に奇談を好むと論(さだ)するとか。穴をかし]。

 然は有れ、鬼神に横道なしとは言へど、また絶えて妄語なしとは言ひ難し。其は、中に不正の鬼魅、文盲の鬼神も有るべければなり。然れば其の言を聞かむには、我がかねて學び得たる古道學の眞規格をもて、之を正し、能くその信ずべきを信じ取りて、信ずまじきを擇び捨つるぞ、鬼神幽界の事蹟を探ぬる對問の眞訣なる。然れど此の眞訣はも、父また子にも傳へ得べからぬ、機變の心法にし有れば、行尸に等しき鈍學者流の、得知る所に非ざるなり[抑々この大旨を知らむとするには、常に『古今妖魅考』に記せる趣を、よく讀み味はひて、まづ世に妖怪の出で來たる由來を知り、また『稻生物怪録』などをも見て、その妖怪の、人を化す由縁を辨へ、凡て妖物の状態を知り得る時は、さる對問の眞訣も、腹中に出來ぬべし。其れ、やがて大倭魂の、固めの柱の立つにぞ有りける]。



──參考・『仙境異聞』一之卷──

 さて此の夕がたに、(山崎)美成來たりて、「寅吉、わが方に居たりしほど、大關侯の奧方の七年がほど惱まれし癪を、ただ一度、まじなひの符を奉りつれば、直れる故に、頻りに見たく思ひ給ふ由なり。また水戸家の立原水謙(翠軒)翁も、寅吉が事を聞きて、逢ひたしとて、我が家に尋ねられたれば、今日、伴ひたき」よしいふ故に、遣はしぬ。立原翁、甚く悦び、書(幽界文字)をも多く書かしめ、種々の事を尋ねて、其の答を感ぜられしとぞ。

 さて大關侯へも伴ひ、夜に入りて連れ歸りぬ。翠軒翁、後に屋代(弘賢)翁に語られけるは、

「世の生漢意なる輩は、此の童子の事を疑へども、我は幽界に誘はれたる事實を、目のあたり數々見聞きたる故に、一點も疑ふ心なし。また誘はれて、彼の境に行きたるには非ねども、神仙に藥方を授かりたる者も、正しく見えたり。其は、水戸の上町といふ坊に、鈴木壽安といふ町醫の子に、精庵と云ふ者あり。今は三十歳ばかりなるが、十五六歳なりける或る時に、容貌、凡ならぬ異人、忽然と來りて、『某の日に、下總國神崎社の山に來たるべし。方書を授けむ』といふに、辱しと諾しつれど、覺束なく覺えて、其の日行きざりしかば、また或る日、その異人來たりて『何とて約を違へて、某日に來たらざりしぞ。某の日には、必ず來たれ』と云ひて歸りぬ。

 爰に精庵、不思議に思ひつつ、約せる日の前日、家を出でて、神崎社の山に至れば、かの異人、まち居て、一卷の方書を授けて、『返す々ゝ人に示(み)する事勿れ』と、禁めて歸しぬ。其は、○○病の藥なり。用ふるに從ひて、功を成しゝかば、此の事、遂に侯廳に達えて、役人中より、「其の一卷を出だし見せよ」とありけるに、異人の禁を申したれど、聴き入れられず、是非なく、役所へ出だす事となりける。其の前日に、家に紙の燒くるかほりす。此れ彼れと見れど、知れざれば、近き邊りの事ならむと云ひて有りけるに、翌日、役所へ彼の一卷を持ち出でむと、納めたる所を見れば、彼の方書は、みな燒けて少しも殘らず、殊に奇しきは、反故もて包み置きたるに、其の包紙は、くすぶりたるのみにて、少しも燒けず有りけり。家内、大きに驚きて、此の由を申さば、僞りと聞こし召さむかと、甚く心を痛めけるが、是非なく、其の焦たる包紙の反故をもち出でて、右の由を訟へたる事あり。神仙の不測、かくの如くなれば、寅吉童子が事は、疑ふべきに非ず」

と語られしとぞ。然すがに彰考館の總裁とありし人とて、よくも辨へられたるかな。
 
 

頼神祇之靈、借天皇之威。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 7月 5日(日)00時54分36秒
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  ■日本書紀卷第七

 日本武尊、乃ち斧鉞を受けたまはりて、再拜みたまひて曰さく、

「嘗(むかし)、西に征ちし年、皇靈之威(みたまのふゆ)に頼り、三尺劔を提げて、熊襲國を撃ちしに、未だ浹辰(いくばく)も經ざるに、賊首、罪に伏しぬ。今ま亦た神祇之靈に頼り、天皇之威を借りて、往きて其の境に臨み、示すに徳教を以てせむに、猶ほ服はざること有らば、即ち兵を擧げて撃たむ」

とまうす。仍りて重ねて再拜みまつる。‥‥

 吉備武彦を遣はして、天皇に奏して曰さく、

「臣、命を天朝に受けて、遠く東夷を征つ。則ち神恩を被り、皇威に頼りて、叛く者、罪に伏し、荒ぶる神、自らに調(したが)ひぬ。是を以て甲を卷き戈を戢(をさ)めて、愷悌(いくさと)けて還れり。曷(いづ)れの日、曷れの時にか、天朝に復命(かへりごとまを)さむと冀ひしが、然るに天命、忽ちに至りて、隙□[馬+四](ひまのひかり)、停め難し。是を以て獨り曠野に臥して、誰にも語ること無し。豈に身の亡せむことを惜しまむや。唯だ面(まのあた)りつかへまつらずなりぬることを愁ふ」

と、まうしたまふ。



 昨日の岡山縣愛國者協議會月例會は、奇しくも古事記景行天皇の御段の講義、倭建命(やまとたけのみこと)には、「明衣(みそ)のみ空しく留りて、屍骨は無し」、「白鳥(八尋白智鳥)と化(な)りたまひて」、「遂に高く翔りて、天に上りしかば、徒に衣冠(みそつもの)を葬しまつ」れり(愚案、此の奧義は、宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』參看)。

 倭建命の御訓は、江戸時代以降、鈴屋大人始め、「タケ」が、古來の正訓。「タケル」の訓は、伴信友翁の説を受けし、田中頼庸翁以來、流行の由。魁帥・梟帥の如き夷賊の長が「タケル」にして、「タケル」は賤しき語なれば、獻られし御名は、「武(タケ)き皇子」なるべしとは、講師・岡田則夫翁の、嘗て紹介された所である(飯田季治翁『日本書紀新講』中卷に、「伴信友は、川上梟帥が自己の梟帥と云ふ名を獻上せる如く誤解して、『川上梟帥に對して、日本梟帥と訓むべし』と云はれたので、往々此の妄説に從ふ學者もあるが、右は甚だしき僻事である。日本紀竟宴歌にも、『やまとたけ』とあり、且た如何なる古典にも、日本武(たける)と傍訓せる書は無い」と)。

 天皇「大御葬の四歌」(大正天皇の御節は新歌曲であつたものゝ、昭和天皇の御節に復興せられたり)の一、

「なづきの 田の稻幹(いながら)に、稻幹に はひ廻(もとほ)ろふ ところ葛(づら)」

は、鈴屋大人は未完脱漏の歌と解かれ、神武天皇「かむかぜの 伊勢のうみの 大石に はひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り うちてしやまむ」に照らせば、後に「い這ひもとほり 音(ね)のみし泣くも」と補ふぞ、あるべき、と。

 「頼神祇之靈、借天皇之威」りまつりて、大政に翼贊せむと欲する者は、天下、一人だに存しないものか。費用對效果とか何とか知らぬが、國の大本立ちて、道生ずるなり。虎ならぬ、西蕃の威を借る功利主義者共の退場を、切に熱祷せむ。

 次囘は、八月の祖靈月、岡田則夫翁には、淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』の朗讀を賜ふと云ふ。今から樂しみに俟ちたい。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1268
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/70



 又た荒魂之會『あらたま』七十九號を拜戴。中に見逃し難き一文あり。駒井鐵平翁『元號が蹂躙されてゐる』に曰く、

「西暦が跋扈し、『平成』といふ元號を聞いたことがない小學生、自分の生まれた年を、西暦では言へるが、平成では言へない中學生が出現し、驚愕したのが三年前の話である。状況はますます惡化しつつある。中學校の定期試驗、範圍表等、最も子供が目にするものは、ほとんど西暦で表記されてゐる。

 國立であるはずの博物館も西暦、幕末の志士を顯彰する京都・東山の靈山歴史館のポスターも西暦であつた。

 平成二十六年五月、伊勢神宮に參拜した折に、内宮に隣接した崇敬會が經營する會館に初めて宿泊した。豫約確認書なる書類が事前に送られてきた。右上の送付日の年次、豫約日の年次、二箇所とも西暦であつた。一枚の紙の中に、元號がどこにも見當たらない。早速、會館に問ひ合はせてみると、コンピユーターの關係で西暦にしてゐるとの囘答であつた。

 しかし、伊勢神宮の崇敬會が西暦を用ゐることに、どうしても納得がいかず、神宮司廳、東京の神社本廳に電話て訴へたが、管轄外である爲、直接指導はできないといふ返事があつた。諦めたまま宿泊當日、受付で宿泊手續をすると、擔當者に、『西暦から元號に變更します』と告げられた。眞僞を確かめる術はその後ないが、神宮の御膝元で、これまで西暦を使用し續けて、誰も今まで違和感を覺えなかつたのだらうか。電話の遣り取りの中でも、神宮會館の方には、殘念ながら元號の持つ意味の重要性を認識してゐるとは感じられず、更に落膽させられた。

 年末には又追ひ撃ちをかけられる出來事があつた。以前から境内に西暦で記した石碑のある近所の氏神神社から、氏子一同への囘覽板が囘つて來た。そこには新年の伊勢神宮參拜の日歸り旅行の參加者を募る文面が記されてゐたが、年次は西暦であつた」と。
 
 

夏越大祓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月30日(火)22時05分35秒
返信・引用 編集済
   本日は、夏越大祓の日なり。

 于時、「はゆまつかひ」樣には、玉章の御紹介、殊に「毎朝の神拜後、皇居に向つて、心から頭の下げられぬ御方は、如何に靈の研究とか、神法道術の修錬とかに精出されても、所詮は正眞の神仙道(愚案、神道と申すも同じなり)とは、凡そ無縁」との、畏くも貴き御訓の紹介を賜はつてをります。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/328



【大内山遙拜詞】

掛卷くも畏き、
天津日嗣の高御座に大座しまして、天(あま)が下知ろし食す、
現津御神 皇孫命の大御門の大前を、
愼しみ敬(ゐや)まひ、遙(はろ)かに拜(をろが)み奉らくと、恐み恐みも白す。




 平成二十七年乙未歳に、三箇日の「夏越大祓」あり。

一、太陽暦の六月三十日(本日)

一、關西に於ける一箇月遲れの七月三十一日

一、太陽暦の八月十三日(太陰太陽暦六月晦)

 謹みて「頼神祇之靈、借天皇之威(アマツカミ・クニツカミノ、ミタマノフユニヨリ、スメラミコトノ、ミイキホヒヲカリテ)」、『大祓詞』を奏上いたしませう。

 本年は、天地陰陽の氣、特に順ならず、變の至るや、知る可からず、各位の御自愛御專一を乞ひ奉る。敬みて白す。
 
 

大君の ためとし云へば いと蟲も 貴ぶ命 その命 すてゝ惜しまず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月27日(土)22時04分47秒
返信・引用
   明治は遠くなりにけり‥‥。

 明治の精神と戰後の精神との差を相互參照すれば、其の一目瞭然たるを歎かざるを得ないが、日本中興を目標とする有志は、之を深く切に考察する所があらねばなるまい。それは吾人の精神の劣化であり、古典の破棄であり、先哲の無視であるが、其の由つて來る所は、畢竟、歴史の忘却に在ると謂はねばならぬ。古典を復興し、先哲を呼起し、皇民の精神を長養して、光輝ある歴史に參ぜむとするは、吾人の使命、志であらう。



http://blogs.yahoo.co.jp/takeyukitanaka1105/2800024.html
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●佐藤春夫翁『清水正次郎を悼む長歌并短歌』(『スバル』明治四十四年十二月)

──十一月十日 至尊 門司行幸に際し 門司驛構内に於て 御召列車脱線の事あり、爲に御乘車約一時間遲延す。九州鐵道管理局門司構内主任 清水正次郎、一死以て罪を償はんとて 轢死す。乃ち、清水正次郎を悼む長歌并短歌一首。
 附記す、作者は 斯の如き忠烈悲壯なる事蹟を敍するにあたり 輕佻なる自家の詩風を避け ことらに萬葉の古調を傚ふと云爾。

かけかくも あやにかしこき
大君の のります車
あやまりて 動かずなりぬ、
司人(つかさびと) うろたへさわぎ
やうやくに 一時を經て動きけり、
大君は 煙草きこして
この間(ひま)を まちあぐませつ、
司長(つかさをさ) おそれかしこみ
身をころし 詫びまつらむと
夜をまちて 命絶ちぬと。
世人みな 美しとたたふるものを、
若草の 妻もな泣きそ、
尸(しかばね)は 千千にくだけて
見る眼には 悲しかりとも
耐へこらへ 妻もな泣きそ。
この國の 大丈夫(ますらたけを)ら
大君の ためとし云へば
いと蟲も 貴ぶ命
その命 すてて惜しまず、
あなかしこ、大丈夫は
いと蟲に おとれる命 もてるならねど。

──反歌
大君の きこしたまひし 匂ひよき 煙のごとく 消えし君はも



●佐藤春夫翁『現代日本を歌ふ』(『讀賣新聞夕刊』昭和三十九年五月)

──國の盛りに人と成り 國衰へて老となる 春夫「老殘歌」

國破れて山河あり 秀麗なりしを
背は腹に代へがたく 産業大に興り
空にスモツグといふ 毒霞立てこめ
清流は毒液をまじへて 死魚浮かべ
大臣は トランジスターのセールスマンを兼ぬ
官廳とホテルと都には 高樓多きも
土一升 金一升 疊一疊 庶民は枕するに處なし
我ら不毛の野に住まねど 食ふに糧なく
沙漠に生きねど 飲むに水なきを如何せん
物價倍増にあへぐ家々に
慈母を職場に送つて さびしき子らは
みな非行少年となりゆくか
知らず 國の前途を憂ふるは 誰ぞや
教員者は 月給値上げに餘念なく
憐むべし むかし東海の君子國
今 世界の犯罪國となり
婦女を犯し 小見を奪ふ者 あとを絶たず
君子ら 現に爭うて 梁上にあり
廟堂の人ら 汚職を事とす
かかる國土に 咲き出づるを恥ぢてか
わが傳來の名花、花は絶えんとして
遠く異邦の河畔に にほふとぞ
多謝す フランス文化相アンドレ・マルロー氏
速かに國寶女神像を送り來て 美を教へ
この國の映畫女優らをして
美しくもなき裸身をさらすを反省せしむ
テレビジヨンやラジオや
アンテナ 林なして家々に行きわたりぬ
一億白癡化とは言はじ
もと賢明なるにあらねば
「着ものは着れる、物は見れる、彼女は來れる
わりかしイカシハツスル」とやら
卑俗なる國語の普及に 日も夜も足らず
蓋し文部省の 亡國語教育に協力するか
その美化と純化とは忘れられ
國語をだに滿足に語り得ざるは
げに 奇怪無比の文化國なるかな



●平泉澄博士『明治との隔たり』(『日本』昭和四十七年十一月號。『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、

「美しい自然は、都市の膨脹と共に段々と後退し、そして終戰後、いはゆる所得倍増の掛聲のうちに、急速に影を沒したのである。乾燥し切つた鐵筋コンクリートの、行けども行けども果てしなく續き、工場の煙突と自動車の排氣とに汚された今日の都市には、自然は、到底生き續ける事は出來ないのであらう。

 いや、問題は都市にのみ限られてゐるのではない。自然は、田舍に於いても、山上に於いても、また海濱に於いても、虐待せられ、破壞せられ、蹂躙せられてゐるのである。之を都市のみに限つて考へる時、それは文化の進歩に伴ふ必要惡であり、不可避の現象の如く思はれるが、之をひろく田舍にまで擴張して考へると、それは寧ろ趣味の問題であり、徳操の問題であり、人生觀の問題であつて、もし其の精神を向上せしめて、いたづらに金錢の奴隷たるに甘んぜず、誠實にして勤勉なる生活を貴しとする氣風を長養せしめるならば、そして政治、特に税制に英智が働くならば、問題は、その大半を解決せられるのであらう。

 明治には、自然と人生とが、併存し、兩立し、そして其の間に調和があつた。その調和が失はれて、人生が自然を追放し、絶交した所に、今日の問題がある。しかるに更に考へると、精神にすでに變つてゐる所があるのではないか。戰前と戰後との間に、國際的にも國内的にも、想像も及ばぬ大きな變化があつて、人々の心情にも、互に理解しがたき斷絶の存する事は、情勢の變轉がもたらした自然の結果といふよりは、意識的に日本を變貌し、解體し、破壞しようとした占領政策と、それに便乘せる邪惡の徒輩が、玉石共に燒いて、古來の良風美俗を破棄した所に、大きな原因があるとしなければならぬ【註】。歴史的假名遣を廢止し、漢字を極端に制限して、古典をば難解にして近づきがたきもの、異樣にして馴染みがたきものとし、結局、一般には無縁にして無價値なるものとして了つた事は、積極的に歴史を裏返しにし、之を誹謗し、之を告發しようとする運動に基盤を與へ、兩々相まつて、明治の精神は、いつしか斷絶の彼方(あなた)に追ひやられた。‥‥

 失はれたるものは、美しき自然のみではない。貴い精神も、また消えてゐるのだ。その自然と、その精神とを取り戻す事こそ、今日の急務である」と。


【註】
吉田松陰先生『講孟箚記』卷之二上に曰く、
「(『孟子』公孫丑上・首章の「故家・遺俗・流風・善政」)故家は、註に云ふ、舊臣の家也。遺俗は、殘りたる風俗なり。流風は、上より下々へ流れ下る風なり。善政は、よき仕置き也。‥‥抑々國の治安長久なるは、地廣きにもあらず、民衆きにも在らず、惟だ頼みとすべき者は、此の四者(故家・遺俗・流風・善政)にしくはなし。然れば政を爲す者、茲に心を用ひずんば有るべからず。是を知らずして、妄りに祖宗の成法を變じ、國家の美俗を易ふる者は、國賊と云ふべし。今ま我輩、至賤と雖も、苟くも國の爲めにせんことを思はゞ、亦た茲に心を用ふべし。我が家先代の事を考へ、又た君家祖宗の業を稽へ、次は大臣其の他、勳舊の家の傳記を尋ね、古來の制度・風俗等に至る迄、悉く考究して、湮沒を著はし、晦昧を顯はし、務めて古を存する如く心掛くべし。心の用ふるの深く、功を積むの久しくして、遂に一大撰述を成し、遍く世に傳へ、故家・遺俗・流風・善政、益々盛んに、益々明かならしめば、是れ亦た國の爲めなり。是れ、學者、最も務むべきことなり。余、常に茲に志あり。而して未だ及ぶこと能はず。今、此の章を讀みて、益々奮發す。願はくは徐ろに、諸君と之を謀らん」と。
 
 

生まれし國を恥づるは、病なりけり──佐藤春夫詩抄。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月17日(水)22時07分47秒
返信・引用 編集済
   学生時代、或る新刊本を扱ふ書肆にて、愛國の詩人・佐藤春夫翁の、豪壯なる詩『艦たてまつれ』(『奉公詩集』)を拜讀、欲しくてたまらなかつたが、愛藏版の大册のためであつたらうか、價高うして購入を諦めたことが、懷しく思ひ出される。抄すること幾篇、限がない。ネツトにて佐藤翁の記事を見るに、「文學者として從軍し、戰爭を贊美するかのような詩を殘す。戰後は、○級戦○に問はれてゐる知人などを辯護した」と。戰爭を贊美したらいけないとの書振り‥‥。邪鬼か土蜘蛛の言、賣文評論家常套の句。

 何か、惡い事でもしたのかね、我が國が。小林秀雄翁の曰く、

僕は無智だから、反省なぞしない。利巧な奴は、たんと反省してみるがいゝぢやないか」(『近代文學』昭和二十一年二月號「座談會「コメデイ・リテレール──小林秀雄を圍んで」に於て、戰爭に對する態度について尋ねた本多秋五への發言)。

と。無智たるを、小林翁と共に、矜持とせむ。おつと、忘れちやならぬ。我が國の利巧者。米國には「深い悔悟」、亞細亞には「苦しみを與へた」、そして「先の大戰に對する痛切なる反省」‥‥。詔敕を奉じ、身を殺して仁を成せる英靈を祭る、靖國神社。我が首相よ、二度と參拜されませぬやう、幾重にも懇願す。而してもつと「たんと反省」するがよい。

 七十年も經てば、何處の國と戰ひしか忘れ、「過ちは繰返しませぬから」とは、かつて聞きし臺詞、敵の戰略が、五黄殺的に效いてゐる。安倍晉三首相、さう云へば、貴殿の御祖父・岸信介元首相は、平泉澄博士の講義を受けてをる筈だ。讀まれましたか、『日本の悲劇と理想』を。西蕃の議會場で、拍手喝采を浴びてをる閑はありませんぞ。
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 田中忠雄・林房雄兩翁に傚つて、佐藤春夫翁が小曲二章の一・『病』と題する詩の一節を引く。

うまれし國を恥づること。
古びし戀をなげくこと。
否定をいたくこのむこと。


赤チン(赤のチンピラの謂ひ)の云ふ「精神的苦痛」を受け、「訴へてやる!」てふ醉狂も無いが、「悔悟」だけは、金輪際、御免蒙りたい。



●靖國神社の頌(『日本頌歌』)

ここ 日の本の み民らが
高きこころの ふるさとぞ
九段の丘に そそり立つ
御代 やすくにの大鳥居

げに 千萬の み靈ゆゑ
いよよ尊く おごそかに
しき島のみか 四面の海の
人みな仰ぐ 聖域(みやどころ)

見よ 春ごとに 人の子に
散るべき時を 教へては
咲くや み靈の さくらばな
九重にまで 照り映えて

ああ 忠と義と志
成りてくだくる たまゆらに
天馳せかへる 神々が
國を護りの大社(おほやしろ)



●英靈を謳ひて遺族に捧ぐる歌(『日本頌歌』)

哭(な)かずわれ 君をこと祝ぐ
男の子はも 空しかるべき
國のため 人の世のため
大きみが 任(まけ)のまにまに
ささぐとて 日ごろ年ごろ
愛(を)しみ來し 君がいのちは
ゆゆしくも 今捨てられぬ
ますら男が よきこころざし
時を得て 遂げられしかな
わかくさの 妻勿(な)なげきそ
おもひみる そのひと時の
さかんなる ますら男ごころ
たまきはる 命もものか
君こそは 死にしにあらで
生きしなれ その一ときに
ねぎごとに すめら御門(みかど)の
彌榮を おらびさけびて
よろづ代の 國の護りと
生(あ)れませし 神一はしら
たらちねの 母も勿泣きそ



●大詔を戴き奉る(『大東亞戰爭』)

すめろぎの 神のみことは
四方のうみ みなはらからと
おぼしめす おほみこころに
たたかへと 本意(ほい)ならなくに のらせられけり

すめろぎの 神のみことは
國こぞりてぞ かつべきを
汝(なん)たちの 力をぞたのむ
わが民と あやにかしこく のらせられけり

すめろぎの 神のみことの
おほみこと 國内(くぬち)にひびき
山がつも すなどる子らも
わが命 いざささげむと
かしこまり 遠つ宮居を をろがみてけり



●我等は何と戰ふか(『大東亞戰爭』)

我等は 何と戰ふか
我等は 戰ふ──
あのうわ面だけの人道と
物質を萬能とする その思想と
多衆を恃む 下劣に俗惡な根性と
それに我慢がならないのだ。

敵は わが國をとりかこみ
また國内にも 尠くはない。
いや待て、この心中にもゐさうである。

かくて我等の戰(たたかひ)は
最も深刻であり 最も決意を要し
それ故に 最も緊要な戰である。
とことんまでやり拔いて
國外のは無論、國内のにも 心中のにも
必ず勝たなければならない この戰である。



●湊川神社の頌(『奉公詩集』)

南の大木の下に ひれふして
大君の み夢にまみえ奉り
身も靈も捧げては かりそめならず

天つ日を覆ふ 雲打ちはらひ
國のため 道を正すと ますら男の
ひとすぢ心 たぐひなく たけくたふとく

君がため 散れとをしへて
おのれまづ 嵐に向ふ櫻井の
言(こと)を畏み 族(うから)みな 心ぞあかき

國のため 七たび生きん志
永代(とこよ)に生きて 國びとを
をしへみちびく 神ぞ この神



●八月十五日作(『佐久の草笛』)

──稍遠き家にて ラジオを聞きての後
ありがたさ なみだながれて
仰ぎたる 天つ日まぶし
耳底に あぶら蝉なき
己(し)が影を ふみつつかへる



●哭蓮田善明(昭和二十一年八月作。三十八年七月『果樹園』)

すめぐにの
ふみのはやしに
わけいりて
おくがをきはめ
かぐはしき
心の花も
ひらきしを
おほきみの
まけのまにまに
つるぎはき
すめろぎの
とほのみかどに
さむらひて
たたかひの
かたぬうらみに
八月二十日
じよほうるに
己がこめかみ
ぴすとるの
たまにつらぬき
たまきはる
いのちすぎぬる
みたまいま
みまがつかへし
すめぐにの
いづくにかます

──反歌
まさきくもあれ
  といのりし
ますらをの友は
  あらずも
なりにけるかな



●人間天皇の微笑(昭和二十五年)

──序。十月二十一日 午餐を賜はり 咫尺し奉る事 二時間あまり。退いての後、家の子らに 人間天皇のお姿を語りて、なほ足らぬ昂ぶりのままを、燈下にひとり 心ゆくまで歌ひぬ。長くこの日の記念たれ。

これはこれ 神にはまさず
人間と おのれ告(の)らして
人間と われも思へど
その笑(ゑ)みの あやにたふとき

いかなれば かくは笑まする
おほいなる 國の憂を
おごそかに 負はせたまへど
苦しみを 幸と思(おぼ)すや

世につかへ み國につかへて
あまつさへ 民につかへ
己をば ありとおぼさぬ
み心に 咫尺しまつる

口の端(は)に 笑くぼをぞ見る
なごやかさ しばし耀(かが)よひ
み心に うかべる虹の
ゆかしくも 仰がるるかな

民みなを 頼み親しみ
天地に 愧ぢず驕らず
しづかにも 笑ますを見れば
世の常の 笑まひにも似ず

嬰兒(みどりご)を 甘睡(うまい)のなかに
ほほ笑まし 産土神
訪(とは)すとは 言にこそ聞け
まのあたり 今見るもこれ

この君の かかる笑まひは
千萬の 神の詣でて
この君を あやすなりけり
見つつわが そぞろ愛(かな)しも

二千年 塵の世とほく
九重の 雲ふかくして
神ならぬ 人間の世に
人間の笑(ゑみ)ぞ 妙なる

み民われ 人間天皇(すめらみかど)を
巨いなる 可憐人(めぐしきひと)と
言擧す 友な咎めそ
無禮(なめ)なりと 君はも告らじ

花野なる 搖籃(ゆりかご)にして
無心なる 稚兒が笑まひは
野の犬も 風も侵さず
見とれつつ 過ぎゆくものを

儔(たぐひ)なき 笑まひ守らむ
わが願望(ねがひ) 人に知られよ
心より 心にかよへ
わが歌の 未だ足らねば
 
 

高山彦九郎、こゝに在り。遙かに皇居を拜す──高村光太郎詩抄。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月16日(火)18時55分44秒
返信・引用 編集済
   我が塾頭監督の『凛として愛』は、高村光太郎翁の詩、即ち「鮮明な冬」から始まる。此の尊皇の詩人の詩を、些か紹介したく、筆を執る。有志、高らかに「朗誦」せられむことを‥‥。
蕃夷、笑止なり。知らずして、天孫の族と戰つてゐる、此の中今に於いても‥‥。
金滿我利、戰後國民の僭上、御民は、如何ともし難きも、皇神は、斷じて許し給はず‥‥。



●護國神社(昭和十五年二月三日作。『家の光』四月號)

 櫻咲く春のお祭に際して

御國(みくに)のための戰ひに
海ゆかば 水づく屍
山ゆかば 草むす屍と
命ささげた人はみな
護國神社の神となる

人と生れて 神となり
我らの御親 天皇の
御拜をさへも 身にうけて
津々浦々の同胞(はらから)に
父よ 兄よと 親しまれ
仰ぎ見らるる かしこさよ

屋根には高く千木聳え
お前に鳥居 神さびて
庭に常磐の松あをく
おのれを捨てた誠心(まごころ)ぞ
護國神社に生きたまふ



●危急の日に(昭和十六年十二月四日夜作。『讀賣新聞』十二月八日夕刊・詩集『大いなる日に』)

「本日 天氣晴朗なれども 波高し」と
あの小さな三笠艦が かつて報じた。
波大いに高からんとするは いづくぞ。
いま 神明の氣は われらの天と地とに滿ちる。
われは 義と生命とに立ち、
かれは 利に立つ。
われは 義を護るといひ、
かれは 利の侵略といふ。
出る杭を打たんとするは 彼にして、
東亞の大家族を作らんとするは 我なり。
有色の者 何するものぞと
彼の内心は叫ぶ。
有色の者 いまだ悉く目さめず、
憫むべし、彼の頤使に甘んじて
共に我を窮地に追はんとす。
力を用ゐるは われの悲みなり。
悲愴 堪へがたくして、
いま 神明の氣は われらの天と海とに滿ちる。



●大詔渙發(昭和十六年十二月九日作。『朝日新聞』・詩集『記録』)

 昭和十六年十二月八日作。此日の感激は 昭和に生きた日本人たるものの 終生忘れ難いところであらう。此日 恰も第二囘中央協力會議の第一日目にあたり、筆者も各界代表の一人として末席に列り、詔書の捧讀を聽いて 恐懼に堪へず、座席に釘づけとなつたまま、此詩を卓上の紙片に書いた。會議の宣言決議文は 宮城前にて朗讀せられた。

棒立ちになつた議長は 僅に口を動かして
午後一時までの開會延期を宣した。
「それまで靜かに お待ち願ひたい」と
ゆつくりしづかに 議長がのべる。
議場は もうさとつた。
重大な決意が 千餘名をしんとさせた。
歴史的な時間は 分秒に音なく、
午前十一時四十五分、
ラジオは 宣戰布告を報じた。
午後一時、
恭しく捧げられた詔書が 議場に入る。
議長は 少しふるへる手で これを展(ひろ)げる。
大詔を拜して 議場に箇々の人影なく、
ただ肅然たる一團の魂があつた。
開會の式は 順を逐ふ。
宣言決議の案文を待つ時
議場は たちまち熱氣に滿ちて猛然たり。
則ち我は 此記念の席に坐して 此詩を書く。



●十二月八日(昭和十六年十二月十日作。『婦人朝日』十七年一月號・詩集『大いなる日に』)

記憶せよ、十二月八日。
この日 世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの主權、
この日 東亞の陸と海に否定さる。
否定するものは 彼等のジヤパン、
眇たる東海の國にして
また神の國たる日本なり。
そを治しめたまふ明津御神なり。
世界の富を壟斷するもの、
強豪米英一族の力、
われらの國に於て否定さる。
われらの否定は 義による。
東亞を東亞にかへせといふのみ。
彼等の搾取に 隣邦 ことごとく痩せたり。
われら まさに其の爪牙を摧かんとす。
われら 自ら力を養ひて ひとたび起つ。
老若男女 みな兵なり。
大敵 非をさとるに至るまで われらは戰ふ。
世界の歴史を兩斷する
十二月八日を記憶せよ。



●鮮明(あざやか)な冬(昭和十六年十二月十一日作。『改造』十七年一月號・詩集『大いなる日に』)

この世は 一新せられた。
黒船以來の總決算の時が來た。
民族の育ちが それを可能にした。
長い間 こづきまはされながら、
なめられながら、しぼられながら、
假裝舞踏會まで 敢てしながら、
彼等に學び得るかぎりを學び、
彼等の力を 隅から隅まで測量し、
彼等のえげつなさを滿喫したのだ。
今こそ 古しへにかへり、
源にさかのぼり、
一瀉千里の奔流となり得る日が來た。
われら民族の 此世に在るいはれが
はじめて人の目に 形となるのだ。
鵯(ひよどり)が啼いてゐる、冬である。
山茶花が散つてゐる、冬である。
だが 昨日は遠い昔であり、
天然までが 我にかへつた鮮明な冬である。



●彼等を撃つ(昭和十六年十二月十五日作。『改造』十七年一月號・詩集『記録』)

 昭和十六年十二月十五日作。宣戰の布告と共に 軍の敏速なる行動により、ハワイ眞珠灣攻撃、マライ敵前上陸、英國大戰艦撃沈等の大戰果あり。國民は 初めて窒息的雰圍氣から解放せられて 頓に生氣蘇る。此詩は 十二月二十四日 大政翼贊會にて開催された文學者愛國大會の席上、筆者自ら朗讀した。此大會は 日本文學報國會の結成を促した。

大詔(おほみことのり) ひとたび出でて 天つ日のごとし。
見よ、一億の民 おもて輝き こころ躍る。
雲破れて 路ひらけ、
萬里のきはみ 眼前(まなかひ)にあり。
大敵の所在 つひに發(あば)かれ、
わが向ふところ 今や 決然として定まる。
間 髮を容れず、
一撃 すでに敵の心肝を寒くせり。
八十梟帥のとも 遠大の野望に燃え、
その鐵の牙と爪とを 東亞に立てて
われを圍むこと 二世紀に及ぶ。
力は 彼等の自らたのむところにして、
利は 彼等の搾取して飽くところなきもの。
理不盡の言ひがかりに
東亞の國々 ほとんと皆滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亞の民 概ね骨を拔かる。
わづかにわれら 明津御神の御稜威により、
東亞の先端に位して
代々 幾千年の練磨を經たり。
わが力 いま 彼等の力を撃つ。
必勝の軍なり。
必死必殺の劍なり。
大義明かにして 惑ふなく、
近隣の朋 救ふべし。
彼等の鐵の牙と爪とを撃破して
大東亞 本然の生命を示現すること、
これ われらの誓なり。
霜を含んで 夜しづかに更けたり。
わが同胞は 身を捧げて遠く戰ふ。
この時 卓(つくゑ)に倚りて文字をつづり、
こころ 感謝に滿ちて 無限の思 切々たり。



●神これを欲したまふ(昭和十七年十二月二日夜作。『讀賣新聞』・詩集『をぢさんの詩』)

神明の氣 天地にみつる時
神の欲したまふところ 必ず成る。
われら民族 これを信じ、これに據り
力をつくし、身を捧げて 古來行ふ。
一たび其聲をきくや 斷じてかへりみず、
偏に神の欲したまふところを果すは
神の裔なる われらの常だ。
神明の氣 いんうんとして 空と海とを壓し
ほとほと息づまるばかりの時
かの 十二月八日が來たのだ。
天佑を保有したまふ 明津御神
神の裔なる われらをよばせたまふ。
即刻、厖大な一撃二撃は起り
侵略者米英蘭を 大東亞の天地から逐ふ。
かくの如き力ある一年を 歴史は知らず、
算數は知らず、唯物は知らない。
世界の制覇者 アングロ サクソンの理念は
未だ己が地下 磐石の崩れんとするを信ぜず、
ひたすら財を傾けて 消耗の戰に勝たんとする。
此戰が 理念の轉囘たるを知るや知らずや、
彼等盲目の復讐に ただ喘ぐ。
神は 精神の主權を欲したまふ。
神は 物力の制覇を否みたまふ。
神の欲するところ 必ず成る。
われら民族 これを信じて 斷じて行ふ。
世界は 物欲の卑(ひく)きを去つて
精神の高きにつかざるべからず。
神これを欲したまふ。
われら 神意によつて戰ふ。
世界の道 必ずわれらの血によつて樹つ。
たとへば空と海とをわかつ日の如く、
神しろしめしたまふ精神の高さが
今や 世界の理念に 一線を畫するのだ。



●臣ら一億楠氏とならん(昭和十九年二月五日作。『朝日新聞』)

外苑の常磐の松の みどりのかなた
畏怖くも はるかにそれとをろがみまつれば
何かはしらず
滂沱として落つるは
臣が あつき涙なり。
臣らがねがひ
ただ 宸襟を安んじ奉るにあり、
よしや 戰にいかなる曲折ありとも
臣ら一億 こころを合せ力を合せ
今こそ 臣らが絶大の潛力に點火して
かならず 叡慮に添ひ奉らん。
「正成ありとだに きこしめさば」と
そのむかし 聞え上げけん 楠氏のすがた
いまも外苑に 宮居をまもる。
まことに臣ら一億 楠氏とならん。
臣ら一億 今日よりはことごとく
「やつがれありとだに」と
思ひきはまりて 身をささげん、
げに 春風を斬らん。



●品性の美(昭和十九年二月二十二日夜作。『新緑』)

品性の美 日本にありて われらを護る。
櫻花 馥郁たれども 鼻をささず、
珠の如き茶の花は 葉かげにかくる。
鶯來り囀れども 饒舌ならず、
ただ神韻 春を呼びむかふるのみ。
かしこくも 五十鈴川のほとり、
白木のおん宮 いまも上つ代の如く
森々として 美 きはまりなし。
狂躁 飽くなき世界の上に
品性 かくの如きものあるを
神 今にして示したまはんとす。
日本の美 世界をきよめ、
日本の道 世界を救ふにあらざれば
世界 とこしへに我利の巷たらん。
われら恥を知り、われら自らつつしむ。
餓ゑて悲鳴をあげず、傷つきて莞爾たり。
われら 神州清潔の民、
品性の美に護られて 今 醜虜と戰ふ。



●合せ祀らるる靖國の神に(昭和十九年四月二十日夜作。放送)

春四月、水ぬるみ、風 黒潮の香りを帶び、
昔ながらの櫻、野に山に咲きととのふ。
この時、いと畏き おん思召あり、
二萬五柱の 護國のおん魂(たま)、
新たに靖國の神の社に合せ祀られ、
身は もと臣子(おみのこ)にして 今、
たふときかな、
神の社の一座の神とならせたまふ。
さればその夜(よ)、淨闇の齋庭をうづめて
おん魂が うから國々よりまゐのぼり、
下(した)に居り、もろ手つき、涙たれ、
ほの白きお羽車の しづしづと過ぎゆくを
父よ 子よ 兄よ 弟よ わが夫よと 迎へまつる。
いみじきかな、きよらけきかな、
生きては 醜の御楯と、出でてたたかひ、
たふれては 國を鎭むる神となる。
臣子の道 ここにきはまり、
うつくしさ、まことに萬朶の櫻に似たり。
二萬五柱の おん魂、
いづれおとらぬ ますらをなれど、
こたびの畏き おん思召、
船員、技師、郵便夫の軍屬に及び、
わきて七柱の看護婦 これに加はり、
半島 臺灣の同胞(はらから) また來りしづまる。
ああ 限りなきかな、皇恩の至るところ。
そのふかきこと 紫にほふ曙の空の如く、
その大いなること 霞の奧の山の如し。
かつて出陣のあした 誓ひましけむ
ゆきて返らぬ おん志、
げにや まことに果たしたまひし
二萬五柱の おん魂、
いま 陽春のよき日、
大君の うるはしくまします都に還り、
しづかに、しづかに 神しづもりたまふ。
われら一億 老(おい)も若きも、言(こと)には出でね、
ただふかく 頭をたれて をろがみまつり、
心にかたき誓を おん誓ひたてまつる。
ねがはくは 此の誓 かならず成ることをなさしめたまへ。



●われらの祈(昭和十九年四月二十一日作。放送)

わたくしは 聞いた。
「大君は いよようるはしく おはします。」
「自分は死んでも あとにつづく同胞が居る。」
戰場で かう思ふ時ほど
心の安らかになることはないといふ。
今はかうよと見えた時、
聖壽の萬歳をとなへまつり、
あとには無數の同胞が われにつづくといふ
その心強さに 莞爾として斃れたに違ひない
二萬五柱の おん魂が 今、
畏き おん思召によつて
靖國神社に合祀せられた。
臣下の身として 神とまつられ、
尊き おほん幣をさへうけたまふ。
われら 神前に拜跪して 自らの思を忘れ、
ふかく 神慮のある處に身をまかせて
ただ その指さしたまふ われらの道、
その告(の)りたまふ われらの事に猛然たらう。
しりへにつづく者ありと 頼ませたまうた
そのつづく者とは われらがことだ。
われら 老若男女 めいめいの身が
斷じてこれに應へ奉るほか、
日本國に 人ありとも覺えず、
いまは ただ今日(こんにち)のいのりをかけて
われら すなはち神の兵とならう。
幼きを育つる者に 重き責(せめ)あり、
幼きは 神の子なれば 汚すべからず、
神々のみこころを 幼な心に固く知らしめ、
荒ぶる禍(まが)の隙間算(すきまかぞへ)を ゆめ許すまじ。
身に力あるもの ことごとく敵に向はう。
敵の兵、敵の武器、敵の思想、敵の反間、
ことごとくこれを破らう。
國民 一致一體、苟くも神意を紊らず、
和を失はず、利に媚びず、
われら まことに神の裔なる品性にめざめ、
いよいよ戰つて いよいよ美しく
神州の正氣に 八紘(あめのした)をつつまう。
ああ 二萬五柱の新祭神、
いま われらに眼をそそぎたまふ。
われら ただ おん前に 恥少からんことを祈る。



●琉球決戰(昭和二十年四月一日作。『朝日新聞』)

神聖 オモロ草子の國 琉球、
つひに大東亞戰 最大の決戰場となる。
敵は 獅子の一撃を期して 總力を集め、
この珠玉の島 うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
萬座毛(まんざまう)の緑野、梯伍の花の紅に、
あらゆる暴力を 傾け注がんずる。
琉球や まことに日本の頸動脈、
萬事 ここにかかり 萬端 ここに經絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の 全日本人よ、
琉球のために 全力をあげよ。
敵 すでに犠牲を惜しまず、
これ 吾が神機の到來なり。
全日本の 全日本人よ、
起つて 琉球に血液を送れ。
ああ 恩納(おんな)ナビの末孫 熱血の同胞等よ、
蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
彈雨を凌ぎ、兵火を抑へ、
猛然 出でて 賊敵を誅戮し盡せよ。





●一億の號泣(昭和二十年八月十六日午前作。『朝日新聞』・『岩手日報』)
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綸言 一たび出でて 一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ 岩手花卷町の鎭守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の疊に 兩手をつきて、
天上 はるかに流れきたる
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに 五體をうたる。
五體 わななきて とどめあへず。
玉音 ひびき終りて 又音なし。
この時 無聲の號泣 國土に起り、
普天の一億 ひとしく
宸極に向つて ひれ伏せるを知る。
微臣 恐惶 ほとんと失語す。
ただ 眼(まなこ)を凝らして この事實に直接し、
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鐵の武器を失へる時
精神の純 おのづから大ならんとす。
眞と美と到らざるなき 我等が未來の文化こそ
必ずこの號泣を母胎として その形相を孕まん。



●犯すべからず(昭和二十年八月十八日作。『週刊少國民』八月號)

神聖 犯すべからず。
われら日本人は 御一人をめぐつて
幾重にも 人間の垣根をつくつてゐる。
この神聖に 指觸れんとする者 萬一あらば
われら日本人 ひとり殘らず 枕を竝べて
死に盡し 仆れ果てるまで これを守り奉る。
われら一億 老弱男女の
死屍累々をふみ越えなくては
この神域は 干(をか)しがたい。
蠻力に勝ちほこれる者よ、心せよ。
心なき汝の一指(いつし)の動きは
古今絶無の悲劇を生まう。
つつしみ立つ者 必ずしも低からず、
傲然たるもの 必ずしも高からず。
どんなことに立ち至らうとも
神國日本の高さ、美しさに變りはない。
やがて皎然と かがやき出でる
神聖 日本文化の力をみよ。



 次、襲ひ來れる今の頭痛、癒れば、佐藤春夫翁の詩を抄せむと欲す。
 
 

名分のテロ──梟首の意義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 5月29日(金)22時41分47秒
返信・引用 編集済
   逆賊足利三代木像梟首事件について、少しく調べたものゝ、阪本是丸博士『角田忠行と明治維新』を偶見しながら、其の紹介も出來ずにゐたが、やうやくこゝに其の一節を拜記し得、拾遺と爲す。小生は、足利三代木像梟首の志を慕うて已まず、今も等持院や鹿苑寺を訪れることさへ忌嫌つてゐる癡人である。何が、世界遺産だ、笑はせるな。行けば、立小便ぐらゐしかねない。小生が如き狂者は、危ふきに近寄らず、だ(大笑)。

 然し憚り乍ら、御仲間はゐた。強齋若林先生だ。曰く、「夜裏ならば、或は(皇土を占領せる大名の城下へ)往かむ。吾れ諸侯の城□[土+世+木。てふ]の堊土を以て塗れる者(白晝、立派なる城)を視れば、則ち頻□[戚+頁。しゆく]して唾罵に堪へず」(『先達遺事』)と。古人に知己を得たり(ニヤリ)。

【逆賊の首――足利三代木像梟首の述志】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1308
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1314

【角田忠行翁の佩刀】足利氏梟首と鈴木重胤氏暗殺と‥‥。
  ↓↓↓↓↓
http://jun-fromkugenuma.blogspot.jp/2006/07/blog-post.html



●阪本是丸博士『角田忠行と明治維新』(『角田忠行翁小傳』抄・平成元年二月・熱田神宮宮廳刊。『明治維新と國學者』平成五年七月・大明堂刊に所收)に曰く、

「文久二年十一月二十七日、(角田)忠行は、平田鐵胤に伴つて江戸を立ち、京都に上つた。

 江戸をたちて都にのぼる時
大皇の われは御民そ むさし野の 葎のなかに くちはてめやは
かも川の きよきなかれを くむ身には すたのかはへを いかてたのまむ

 かう詠んで、『天朝の御民』としての自覺を高めて、京都へ旅立つた(『忠行歌集』)。そのころ京都には、平田派の國學者が續々と集結してをり、勤王の女流國學者として名高く、後に忠行をかくまふことになる信州伊那出身の松尾多勢子をはじめ、三輪田元綱・師岡正胤・宮和田胤影らが、二條衣棚の夷川下る町の寓居を本據として、志士的活動をおこなつてゐた。平田家の當主・鐵胤は、秋田藩の京都の政情探索の必要から、藩士に取り立てられ、御物頭格・本學頭取となつて、忠行・野城廣助・梅村眞守(小林與一郎)らを伴つて、十二月十三日、入京したのである。京都での忠行は、鐵胤の祕書のやうな存在で、鐵胤には、いつも付き添つてゐたといふ。‥‥

(文久三年)平田鐵胤は、錦小路柳の馬場の寓居から、洛西の等持院村に移り住んでゐた。おそらく鐵胤を訪ねての歸りであらう、忠行らは、足利將軍の木像が安置してある等持院を、二月十九日の夕刻訪れ、住職に木像の拜觀を申し出た。住職は拜觀料として錢二百銅を要求したので、忠行は『醜像をみるに、何ぞ賽するを用ひむ』と述べ、憤慨して歸つた後、忠行は、長尾郁三郎と相談して同志を集め、木像を梟首することにしたのである(角田秀男氏『木像事件』)。

 二十二日の夜、忠行・長尾・高松信之・長澤眞事・中村愼吾(建部楯雄)・小室理喜藏(信夫)・師岡正胤・青柳高鞆・大庭恭平の九人が、等持院に浸入し、師岡・青柳が門の見張りをしてゐる間に、忠行らは木像に向つて罪状を宣告し、朝冠をはずして、尊氏(ママ。高氏)・義詮・義滿三代將軍の木首をはねて、門外に持ち出したといふ(實際は、首を拔いたのだといふ。森茂夫「勤皇烈士異種事件木像梟首祕聞」──『週刊朝日』一一一六號・昭和十六年七月)。この時、長澤は、首をひとつ門内に落としたので、再度入つて持つてきたといふ。この後、門外に整列して、長尾が、まづ『エイエイ、オウ』と、凱歌を擧げ、つゞいて一同が、三囘、凱歌を擧げた。そして大雨の中を雨衣なしで、堺町御門外に至り、朝廷を拜して、野呂直貞の家に向つた。途中、會津藩の見廻りに遭つたが、無事であつた。野呂の家には、中島錫胤・岡本太郎・西川吉輔・野城廣助がをり、みんなで祝杯を擧げた後、三條河原に至つて、首を奈良・吉野の方に向けて梟首したのである。このあと、梟首の傍らに、大庭が書いた制札を掲げ、また三條の橋の畔の掲示場には、忠行が作文し、中島が加筆した罪状を、宮和田が立てた。それには、

『今世に至り、此の奸賊(足利氏)に、猶ほ超過する者あり。其の黨、許多(あまた)にして、其の罪惡、足利等の右に出づ。其の黨の輩、直ちに舊惡を悔い、忠勤を抽て、鎌倉以來の惡弊を掃除し、朝廷を補佐し奉り、古昔に復し、積罪を償ふの所置なくんば、滿天下の有志、追々大擧して、其の罪を糺す可きもの也』

とあつた。これはまさに幕府にたいする、公然たる挑戰であつた。そして吉野の方を拜禮して、一同はそれゝゞ解散したといふ。この時のことを、忠行は、

 文久三年二月二十二日よる、足利等木像の首をぬきて、三條橋南鴨川にさらして
しこ首を ぬきてさらして み吉野の 君と臣とに 今日はたむけつ
今し世に ほこるたふれら こゝろせよ 此しこさまを おのが身にして

と、詠んでゐる(『忠行歌集』)。

 事件後の二十四日には、角田忠行・師岡正胤らは、なに喰はぬ顔で、松尾多勢子などと、嵐山で花見をしてゐたり、二十六日には、忠行は、岩崎長世・松尾多勢子らとともに、能狂言を見物したりしてゐる。ところが事態は、次第に深刻になつてきてゐた。守護職は、事件關係者の檢擧に乘り出したのである。事件の首謀者の大多數が、平田家門人の尊攘派による所業であることは、すぐに判明した。といふのも、一味の大庭恭平は會津藩士であり、かれが事件のことを密告したからである。大庭は、松平容保が尊攘派の動向を探索するために放つた密偵であつたといふが、その眞僞は不明である。大庭は、師岡正胤らが横濱の外國人居留地を燒き打ちする計畫に、會津藩も協力するといつて仲間に加はり、そのまゝ行動を共にしてゐたのであつた。

 翌二十七日、守護職の手の者は、衣棚の寓居を襲つた。高松は槍で突かれて重傷を負ひ、連行されて後に死亡した。一緒にゐた仙石佐多雄は奮戰したが、力盡きて自刃した。青柳・師岡は捕縛された。二條新地にゐた三輪田元綱のところにも、捕縛隊が襲ひ、これも槍で突いて捕縛したといふ。さらに祇園の奈良富にゐた長澤・宮和田らも捕縛され、長尾も自宅で捕へられた。また西川・野呂・小室・中島も、後には捕縛された。かうして多くの平田派門人が、事件關係者として捕縛され、事件に直接關係しなかつた平田派門人にも、幕吏の追及の手が及んだ。松尾多勢子・丸山作樂・梅村眞守などは、同門で長州藩の渡邊玄包の計らひで、同藩邸に避難して、ことなきをえた。たゞ關係者の野城廣明だけは、讚岐丸龜に逃れ、後に同地で病沒してゐる。さて角田忠行であるが、二十六日に、松尾多勢子たちと逢つてからは、衣棚の同志たちとは行動を共にしてゐなかつたやうで、おそらく同志の捕縛の情報を得て、すぐさま信州へと逃れたのであらう。

 逮捕された師岡正胤・大庭恭平は上田藩、三輪田元綱は豐岡藩、青柳高鞆・中村愼吾は伊勢久居藩、宮和田胤影は菰野藩、野呂直貞は越前勝山藩、長澤眞事は遠江横須賀藩、小室信夫・中島錫胤は徳島藩に、それゝゞ預けられた。また西川吉輔は近江八幡で親類預けとなつた。かれらは、慶應三年の王政復古の大赦により自由の身となり、それゝゞの明治維新を迎へる。そして角田忠行は、慶應二年九月まで、信州伊那谷に潛伏、ついで京都へ上り、公家の澤(爲量)家の家令となつて、再び志士としての活動をはじめる」と。
 
 

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