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天皇不在の尊皇、神なき祭の蔓延を憂ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月 7日(月)21時52分8秒
返信・引用 編集済
   大地社の木下厚氏が、『芳論新報』平成二十八年十一月號に、「曾子曰、吾日三省吾身」と題して特別寄稿され、殊に豬狩史山翁『日本皇室論』や泉水隆一翁『靖國神社の眞實』を引用されて、大いに氣炎を吐いてをられる。尊く嬉しい氣持が湧いて來り、小生も反省多きが故に、些か紹介したい。曰く、



「今日の右翼陣營において、尊皇・敬神崇祖こそが大義であると膽に銘じて、運動に挺身してゐる活動家は、どれ程ゐるのか──。これは、我らに對して心情的共鳴を寄せる一般人の、多く關心の抱くところである。いくら言葉や文章では、尊皇を叫んでゐても、宮城の一般參賀へ赴いては、畏れ多くも天皇陛下にカメラを向け、我先にとSNSに、御眞影を投稿掲載して憚らず、或は神聖にして靜謐たるべき宮城付近で、大音量を流す輩が強辯する「尊皇」に、一體如何程の説得力が存してゐるといふのであらう。‥‥

 靖國神社に關しても、實際に境内に赴けば、今日の右翼カブレした自稱愛國者の意識が、どれだけ低いのか、否が應でも垣間見る事が出來る。いつから靖國神社は、街宣右翼の休憩所や賀詞交換會の會場になつたのか‥‥、いつから街宣右翼優先駐車場になつたのか‥‥。‥‥

 街宣車で軍歌を大音量でかけ乍ら、靖國神社へ參じては、英靈を語る。英靈が、今日の日本を見て悲しんでゐるに違ひない、英靈は我々の運動を喜んでくれてゐるに違ひない‥‥、さういふ身勝手且つ尊大な會話が、お茶屋の側の喫煙所では飛びかつてゐる。自分の感性で、靖國神社を、そして英靈を語るやうな人達が、一體どうしたら、靖國神社の正統護持など出來ようか。

 抑も戰爭を知らぬ世代が、好き勝手に自分の感性で英靈を弄び、あらうことか靖國神社を、政爭の具に陷れて來たのではないか。所謂保守系と呼ばれる人々は、英靈を大東亞聖戰の主役として語り、英靈が如何に可哀想であつたかと熱辯する。亦た明治御新新も、勤皇志士が主役で、彼等が自らの意志で行動し、皇國中興を成し遂げたかのやうに語る。保守系の論には、天皇が存在しない。偶々存在したとしても、「神聖」は皆無である。‥‥

 保守系の人々の事情はわからぬが、少なくとも右翼陣營には、朝鮮が嫌いだとか、支那が嫌いだからといふ輕薄な理由だけで、足を踏み入れた者は居ないと信じたい。然し乍ら現状は、朝鮮や支那、政治家への不滿が、右翼を動かす燃料といつた状態である。もう少し言へば、『産經新聞』や『正論』なる媒體、人物で言へば、櫻井何某・小林何某といつた者達のラジコンに過ぎなくなりつゝある。陣營に身を置く多くの人が、大義を忘却してしまつた爲であらう。天皇不在の尊皇、神なき祭が蔓延し、その結果、今日のスローガン重視の右翼が産まれたのだ。

 このまゝでは、平成中興の實現はおろか、保守系やネツト愛國者だけではなく、世間の嘲笑を浴び、誰からも相手にされなくなるだらう。日韓・日中國交斷絶、そして現行憲法「破棄」が、我等の目標ではない。これらのスローガンは、戰後に初めて唱へられたのであつて、日本及び日本人は、わづか七十餘年の歴史しか有さないものではないのである」と。



 小生も叫びたい、靖國神社から、參道正中に陣取つて憚らず、齋庭を私物化せんと欲する奴輩を摘み出せ、と。
 
 

銀杏殿へ、參らせ候ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月 4日(金)17時33分7秒
返信・引用 編集済
  銀杏殿、いと悲し。もう少し耐へ給へ。
歐米唯物思想、祓除せられて、
皇都の景觀、必ずや蘇らむ。
  ↓↓↓↓↓
https://www.change.org/p/100%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%A1%97%E8%B7%AF%E6%A8%B9%E3%82%92%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AE%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84/u/18329792?tk=lvXcPLX01JE1MZQHPcpyfYlgiSwiih79DM-P-pxK3YQ&utm_source=petition_update&utm_medium=email

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2499
 
 

からだ、だわるな。是れ我が指針なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月23日(日)19時54分3秒
返信・引用 編集済
   ●平泉澄博士『三徳の記』(昭和二十五年七月記。『日本』六十一年十二月號「市橋保次郎翁の盛徳──歳寒の記・三徳の記」所收)私抄

 修徳のうち、特に三つの點に就いて述べたいと思ふ。

一、禮儀
 そもゝゝ我が國が禮儀の正しい國として、外國より尊敬せられたのは、由來、久しい事である。唐の人、我が國の使節を見て、「人民豐樂、禮義敦行の君子國が海東にあるとは、かねて聞いてゐたが、今、あなたを見るに、まことに其の噂に背かない」と云つたとは、『續日本紀』にいふ所であり、殊に唐の玄宗が、我が遣唐副使に與へた國書に、「日本は、禮義の國、神靈の扶(たす)くる所」と記されたとは、『文苑英華』の傳ふる所である。近くは明治初年に福井に來た米人グリフイスの如きも、その名著『ミカドス・エムパイヤ(皇國)』に於いて、日本人の禮儀の正しく、禮讓の厚いのを、深く歎賞してゐる。しかるに戰後は、一國の人、殆んど狂せるが如く、社會の風潮は、俄かに激變した。即ち其の態度は、横柄にして驕慢、其の言語は、野卑にして不敬、互ひに輕んじ、互ひに疑ふに至つた。古語にも、「禮は人の幹なり。禮無くば、以て立つこと無し」とあるが、禮を無視する事は、自他の人格をふみにじる事である。自分の人格も棄てゝ顧みず、相手の人格もふみつけて構はないのであるから、人に融和なく、世に平安なきは、當然であつて、こゝに相尅の世、危亂の時が現れた。

一、勇氣
 禮儀から、忽然として勇氣へ移つては、人、或はその變化に驚くであらう。普通には、禮儀と勇氣とは縁の遠いもの、寧ろ反對のものとさへ考へられるからである。しかるに深く考へて見ると、禮儀は、實に勇氣より發するのである。何故かと云へば、自己の慾情を規制し得て、初めて禮をふみ行ふ事が出來るのであり、若し之を抑へ得なければ、放縱・專恣・怠惰・驕傲に流れ、即ち禮にそむくからである。『論語』に「克己復禮」とあるは、實に之をいふ。勇氣の中でも一番強い力を必要とするのは、己の慾情と戰ひ、之を抑へつける時である。山中の賊を討つは易く、心中の賊を平ぐるは難い。從つて心中の賊を討ち、己の慾情にうちかつ人は、之を大勇大剛の人といはなければならぬ。

一、正直
 禮の本が勇にある事は、既に述べたところであるが、勇の源は、正直であらう。若し不正直であれば、眞の勇氣の湧いてくる筈がなく、一切の徳の生ずべき由がない。正直は、蓋し神を信じ、神を恐るゝより發する。之を「せいちよく」とよまずして、「しやうぢき」とよむ點から考へれば、この言葉は、佛教より出たものであつて、『法華經』の方便品に、「正直捨方便、但説無上道」とあるもの、恐らくその出典であらう。かやうに言葉としては佛典より出たものであらうが、教としては、專ら神道に於いて重視せられて來た。即ち有名な『三社の託宣』のうち、天照大神の神教として、「正直は、一旦の依怙(えこ)にあらずと雖も、終ひには日月の憐を蒙る」とある。一旦の依怙云々といふのは、正直者は、一時的には不利であるやうに見えても、終局に於いて神助を期待し得るといふ意味である。これが神道、殊に伊勢神宮の神教として尊ばれて來たのであつて、さればこそ、謠曲の『御裳濯(みもすそ)』にも、「夫れ人は、天下の神物たり。かるが故に正直をもつてさき(先)とす。日月はししうを照すといへども、分きて只だ正直のかうべにやどり給ふ」と歌はれてゐるのである[「ししう」は四衆であつて、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四つを指し、即ちすべての人の意味であらう]。

 初めは之を別々のものとして、横に竝べて見てゐたが、そのうちに内部的相關から、縱に配列すべきもの、即ち相互の間に本末始終の關係があると考へ、以上のやうに順序を立てたのである。さてかやうに順序を立てゝくると、それは期せずして橘曙覽先生の『遺訓三箇條』に合致し、たゞ其の順序が、丁度裏返しになつてゐるのに氣がついた。遺訓にいふ、

うそ いふな
もの ほしがるな
からだ だわるな


「うそいふな」は、即ち正直である。「ものほしがるな」は、克己心であり、即ち慾情を制する勇氣である。「からだだわるな」のだわるは方言であるが、語脈は遠く『古事記』の「山の多和」、源順の『家集』の「ねし黒髮のねくたれのたわ」、『後撰集』の「垣根もたわに咲ける卯の花」などの「たわ」と通じ、撓むの「たわ」と同じく、緊張の反對、即ち弛緩・屈曲・倦怠・怠慢・疲勞・無作法を意味し、從つて「からだだわるな」は、懈怠を戒め、勤勉を説いたものであるが、同時に無作法を戒め、禮儀を正しくするやうに諭したものと解して差支へないであらう。見來れば先哲後賢の揆を一にする、驚くべきである。



【忠孝と義勇との關係──平泉澄博士による谷秦山先生『炳丹録序』講義──『萬物流轉』險難の一路に所收】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/4



 愚生の病弱なる、年來、書を讀めば頭痛の劇しき、業に動けば疲勞の重き、如何ともし難き身なれども、さして病名のつく程では無く、所謂る未病のうちに手当經過するが故に、愚生の宿病は、蓋し懈怠にして勤勉ならず、無作法に在るのであらう。橘曙覽先生の、隱逸にしてなほ「身體、弛緩倦怠する勿れ」の嚴烈なる遺訓、謹みて拜戴するものであります。
 
 

「生前退位」は「歴史の書物にない表現」

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年10月22日(土)11時16分25秒
返信・引用
  依然として捏造用語を使用する反日マスメディア。
時事通信あたりはようやく『譲位』という言葉を、
出し始めているがほかのマスコミは訂正する気配はない。

原因はやはりNHKだった!
国会でこれを追及する議員はおらんのかね?
保守派は正式に抗議の声を上げるのが筋ではないか??

「生前退位」は「歴史の書物にない表現」
皇后さま、違和感表明 NHKの反応は…

楊井人文  | 日本報道検証機構代表・弁護士
2016年10月22日 7時8分配信

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20161022-00063507/

皇后さまは10月20日、お誕生日の談話を宮内庁を通じて発表した。その中で、7月中旬に
「天皇陛下が生前退位の意向を示された」と一斉に報道されたことについて、「新聞の一面に『生前退位』と
いう大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接し
たことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感が
あったことを明らかにした。天皇陛下が意向を関係者に示されたときに実際に使った言葉は「譲位」
だったことが明らかになっている。しかし、
現在も各メディアは天皇陛下の意向を「生前退位」という表現で報道しており、見直しの動きは出ていない。

NHKは7月13日午後7時のニュースで、「独自 天皇陛下『生前退位』の意向示される」と字幕をつけて第一報を流した。この後、主要各紙や放送各局も一斉に後追い報道したが、全てのメディアが「生前退位」という表現を使っていた。

ただ、「生前退位」という表現には、当初から疑問の声が一部の識者などから出ていた。宮内庁関係者が「天皇陛下は生前退位という言葉を使われたことはない」と指摘していたとされる。6年前に天皇陛下からご意向を聞いていたという東京大学名誉教授の三谷太一郎氏が「天皇陛下は『譲位』という言葉を使われた」も証言している。

日本報道検証機構は、皇后さまの談話を受け、受け止めや「生前退位」という表現が適切だったかどうかについて、NHKをはじめ主要新聞各社に質問した。NHK広報部からは「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、視聴者に意味が伝わりやすいよう、この表現を使っています。ニュースの文脈に応じて、『譲位』という言葉も含め、適宜使い分けています」との回答があった。今後も使い続ける方針かどうかも質問したが、明言しなかった(新聞各社の回答が出そろい次第、追記予定)。


<視点>「生前退位」は「真意」を反映した表現だったか ~スクープ記者の寄稿を読み解く~

7月中旬以降、この国のメディア空間には「生前退位」という四字熟語が連日のように駆け巡ってきた。当初からこの表現に違和感をもった人もいと思う。…そもそも「退位」という言葉自体に「生前」の意味は含まれているから、「生前退位」は屋上屋を重ねた不自然な表現である。「生前」は「死」を、「退位」は「断絶」を想起させ、不吉な予感を与える。…

しかし、メディアで当たり前のように繰り返し使われ、違和感が薄れつつあったかもしれない。そんな状況のもとで、皇后さまの談話は一石を投じられた。少なくないメディアも、「生前退位」という言葉を新聞1面で見た時の「衝撃」「驚きと痛み」に注目して報道した。

談話の英文をみると、その思いはより直接的に表されていた。


It came as a shock to me, however, to see the words seizen taii (in Japanese, literally, abdicate while living) printed in such big letters on the front pages of the papers. It could have been because until then I had never come across this expression even in history books that, along with surprise, I briefly experienced pain upon seeing those words.


出典:宮内庁

この皇后さまの率直な心情吐露に、報道関係者も「痛み」を感じなかっただろうか。

もちろん、皇后さまはそれに続けて「私の感じ過ぎであったかもしれません」(Perhaps I might have been a bit too sensitive.)と付け加えておられる。ご自分の言葉が報道の自由への干渉にならないようにと、慎重に配慮されたと思われる。しかしそれでもあえて、強い表現で違和感を表明された事実は、重い。その事実からは、皇后さまだけでなく、天皇陛下の思いもそれに近いものであったのかもしれないとの想像が働く。もし「生前退位」という表現が真に「ご意向」を反映したものであれば、皇后さまがこんなことを記されるはずがないからである。
 

「支那」は、差別語に非ずして、贊美の稱なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月21日(金)17時48分42秒
返信・引用 編集済
  ●『神皇正統記』孝靈天皇御條に曰く、

「凡そ此の國(皇國)をば、『君子不死の國』とも云ふなり。孔子、世の亂れたる事を歎きて、『九夷に居らん』との給ひける。日本は、九夷の其の一つなるべし。異國には、此の國をば東夷とす。此の國よりは、又た彼の國をも、西蕃と云へるが如し。四海と云ふは、東夷・南蠻・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば蟲を從へ、西は羊をのみ飼ふなれば羊を從へ、北は犬の種なれば犬を從へたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大、弓を從ふと云へり」と。



 「異國(支那・諸越・漢土)には、此の國(大日本)をば東夷とす。此の國よりは、又た彼の國をも、西蕃(『新撰姓氏録』)と云へるが如し」とは、名言ならずや。男兒なら、一遍、言つてみろ。

 支那の呼稱の正当なる所以、皇國人が支那を「中國」と云はねばならぬとする不當なる所以、其の基礎を深めなければならぬ。支那と云ふ言葉は、何時から用ゐられてゐるのか、皇國の人が何故ゑ支那の要求に、唯々諾々として從ふのか、誰が喧傳したのか等、研究すべきことは少なからず。

 それを踏まへた上で、人によつては「中國」と云はねばならぬと考へる人も、或はあらう。先づは正攻本法で行くべし。權道は、策畧家・工作員の仕事。其の權道も、基礎がなければ、途中で腰が碎けよう。小生が元號に拘り、西暦を駆逐せよと叫ぶのは、西暦の使用を當り前と考へ、疑問すら有たぬ人が、餘りにも多い爲めに他ならぬ。西暦を使はなければならぬ時も、或はあるかも知れぬが、それは飽くまで權法であつて、決して皇國人の正しい道とは考へない。正名は、皇國中興の關鍵である。

**********

 「支那」と云ふ言葉は、千五百年以上も前の印度で、現在の支那の邊りを「シナ」、或は「シナスタン」と呼んでゐたのが起源。「スタン」は、土地・地域の謂ひ。今日でもアジア中部には、パキスタン・アフガニスタン・トルキスタン・カザフスタン等、スタンの付く所が多くあるが、これらのスタンも、皆な地域の意である。支那の佛教飜譯僧は「支那・至那・脂那」等とし、シナスタンは「震旦・眞丹・振丹・神丹」等と表記した。

 我が國に「支那」の語が入つて來たのは、蓋し平安時代以前に溯る(『榮花物語』・『今昔物語』等)。それに比べて、「中華」・「中國」は、「支那」とは比べ物にならない程、差別的な語源を持つ言葉、侵掠主義・覇權主義の象徴(中華思想)である。支那に關する學問を、京都帝國大学教授内藤湖南博士以來、「支那學」と云つた。若し「中國」と云ふ者があれば、戰後、世間に媚び諂つて文を賣らむが爲か、祖國が支那と思つてゐる反日革命家か、無自覺者であらう。健全な日本人が從ふ必要は、毫も無い。

●出典
「支那」=虎關師錬『元亨釋書』・『濟北集』。北畠親房公『東家祕傳』等。
「震旦」=『榮花物語』・『今昔物語』。北畠親房公『神皇正統記』等。
「神丹」=承陽大師『正法眼藏』等。

●『元亨釋書・王臣傳・論』に曰く、「彼の支那は、葱嶺の東、數十の邦、咸(み)な法度を取り、推して中國と稱し、又た文物國と言ふ」と。

●『飜譯名義集』に曰く、「衣冠文物の地なるが故に、讚美して支那と言ふ」と。

●新井白石『西洋紀聞』に曰く、「按ずるに、其の人(邪蘇教宣教師の伊人シドツチ)の言に、チイナと云ふは、即ち支那なり」と。

**********

 「中國」とは、支那人が自稱するのは構はない。現在の革命王朝名は、大陸「中華人民共和國」ないし臺灣「中華民國」である筈で、「中國」とは、支那人の略式自稱に限定される。それでもなほ支那人が、或は之に同調するマスコミが、日本人に對して、「『支那』は差別語だ。『中國』と呼べ」と云ふなら、我が日本も、その呼稱に相當する言語で呼んでもらひたい。「よし、解つた。貴國を『中國』と呼んでつかはさう。但し我が日本を『神國』と呼び給へ」と。

 亦た「中國人」を原語の發音主義で呼べば、チヨンコオレンだらうが、何時の間にか、チヤンコロになつてしまふでは無いか。これこそ、問題であらう。かく申すマスコミ、天氣豫報に、毎日、「南シナ海」と曰つてゐるが、支那に對して、どう言ひ訣してゐるのか。英米が支那を「チヤイナ」、佛西が「シーノ」等、即ち「シナ」の方言を使つてゐるから吉いのか、世界の公的機關が認めれば吉いのか。「ユーラシア大陸」は、欧州・支那大陸の略稱であらうが、これは問題ないのか。こゝら邊りの差別語論者のいゝ加減さ、小生は、頭が惡いので判らない。何、「支那の政府が嫌がるからだ」と。然らば日本海は、韓國人の仰せの通り、「朝鮮海」と改稱するか。其の變はり、我が國は太平洋を、幕末の地圖の如く「大日本海」と改稱しようではないか。

     吉備の中國の土人・備中處士、謹白



●寒林平泉澄博士『東家祕傳の識見』に曰く、

「凡そ我が國に關する限り、支那といふ稱呼そのものが、輕蔑の意味をもつてゐた事は、曾て無かつたのであります。支那といふ稱呼が、惡意に滿ちてゐるといふ事は、我々日本人の夢想もしなかつたところであります。かやうな解釋は、それこそ惡意に滿ちた宣傳であつて、かゝる惡意の宣傳が、東洋の平和を亂した事は、かへすがへすも殘念なりとしなければならないのであります」と。
 
 

靖國神社HP劈頭から、聖旨が消えた。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月14日(金)22時19分16秒
返信・引用 編集済
  ■慶應四年三月二十日、紫宸殿に於ける軍神祭(天照大御神・大國主大神・武甕槌之男神・經津主神の四柱を神籬に招請されての祭祀)の祭文。

隨從ふ大丈夫武雄は、恆に利心振り起して、山行かば草生す屍、海行かば水附す屍、君の御爲め、國の御爲めに、顧み无く、天津雄々敷き言立ての隨に、今も仕へしめ給ひて、天之波志弓引末賀那ひ、天の眞鹿兒矢千尋射渡し、悉に伐ち罸め、言向しめ給ひて、大八島國中、悉、石根木根立草の片葉も言止の安國と平けく、八絃の琴の調べとゝのふ言の如く、鎭撫めしめ治めしめ給へ



●泉水隆一翁『靖國神社の眞實』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「今、日本中が、『靖國神社は、日本軍や日本を守るために、戰場で死んだ軍人・軍屬を祀つてゐる』と考へられてゐます。そこに大きな問題があるのです。靖國神社は、日本軍を祀つてゐるのでは無く、『皇軍兵士の武勳を祀つてゐる神社』なのです。つまり『天皇の軍隊の神社』なのです。ですから、坂本龍馬や吉田松陰が祀られてゐるのも、日本軍ではなく、勤皇のために非業の最期を遂げられたので祀られたのです。皇軍兵士・勤皇兵士以外は祀ることが出來ないのです。自衞隊員を將來は祀らうと云ふ話もありますが、それは、『靖國神社が、日本のために戰死した人を祀る神社』と云ふ、誤つた考へがあるから、そのやうな發想になります。もう、お分かりですね。自衞隊は、天皇の軍隊でも、皇軍でもありませんから、自衞隊員を祀ることは出來ないのです。この一點を、よくお考へ下さい。空襲で死んだ平民は、殘念ながら皇軍兵士でないので、お祭り出來ません。

 もう一つ、皇軍兵士が戰場で死んだから、お祀りしてゐるのではありません。額に矢じりは受けても、後ろには受けない草莽の兵士の勇武・武勳をお祀りするために、神社があるのです。單に死んだからではありません。『皇軍兵士として譽れ高く戰場に伏した潔さを、天皇が愛でて、神として顯彰する』のです。この解釋が、今の靖國神社では發言できません。左翼の一齊攻撃を受け、神社を猛火に包ませるから言へません。たゞ日本は、今次大戰で敗れました。皇軍兵士の武勳を大聲で稱へることが出來ないので、『慰靈祭』と云ふ呼稱が生まれました。戰前は負け知らずの皇軍ですから、當然、慰靈祭と云ふのはありません。但し『靈祭』と云ふのはありました。この慰靈祭と云ふ呼稱も、昭和二十四年頃では、『神となられた方々に、慰靈祭とは何事か!』と、苦言を呈じる舊軍人の方々がをられました。今は盛んになつた『みたま祭』も、最初の頃は、反撥する軍人が多くゐたのです」と。



 遂に政治家が動く。靖國神社執行部は、如何。久しぶりに靖國神社のホームページを開いたが、何と、彼の劈頭の、明治天皇の聖旨・御製が消えてゐるではないか。これは、何としたことか。誰だ。かつて宮司湯澤貞は、菊の御紋章を、參集所(参集殿)から剥ぎ取つた。今度は、宮司徳川康久の所業か。是れが答か、許せぬ。

 靖國神社崇敬者は、如何。是れが許せるのか。小生は、許すこと能はぬ矣。



**********


●NHKニユース「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら(平成二十八年十月十二日)

 龜井靜香衆議院議員や石原元東京都知事らは、十二日、靖國神社を訪れ、『西郷隆盛や白虎隊など、明治維新前後の戰ひで敗れた人たちも、近代日本のために志を持つて行動したことは認めるべきだとして、神社に合祀するやう』申し入れました。

 申し入れを行ったのは、龜井衆議院議員と石原元東京都知事のほか、自民黨の平澤元内閣府副大臣と民進黨の原口元總務大臣の四人です。四人は、『戊辰戰爭で敗れた白虎隊や新選組、それに、西南戰爭で敗れた西郷隆盛などは「賊軍」とされて、靖國神社に祭られてゐないが、近代日本のために志を持つて行動したことは、勝者・敗者に關係なく認めるべきだ』として、神社に合祀するやう申し入れました。

 このあと、龜井氏は記者團に對し、『神社側は、「直ちに承知するとは言へない」といふことだつたが、いろゝゝ皆さんと相談されると思ふ。靖國神社は、日本人の心のふるさとのやうな所だ。この問題には、右も左もなく、國民の中にも理解が廣がつていつてるので、われゝゝは、さういふ聲を、靖國神社に屆けたい』と述べました。


**********
 
 

靖國神社外苑の銀杏竝木を伐る者は、誰ぞ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月11日(火)23時36分56秒
返信・引用 編集済
   或人の曰く、「千代田區で見られる街路樹の銀杏竝木は、大正十二年の大震災後の復興、都市再生計劃で植樹されたもの。その竝木の出發點は、大正七年、既に植栽が始まつてゐる靖國神社外苑の銀杏竝木です。更に言へば、當時、青山に明治神宮外苑が整備され、聖徳記念繪畫館前に、銀杏竝木が作られたことに倣つてゐます。つまり今、東京都の木になつてゐる銀杏の竝木は、明治維新によつて成立する首都東京の基盤風景だと云ふことです。それを何の議論もなく、伐採するとは‥‥。

 帝都復興がなり、中でも最大の工事と云はれて改修された九段坂の兩側には、靖國神社外苑の銀杏竝木に連續して、若い銀杏が十メートル間隔で植ゑられました。それが、九段下から神田一ツ橋・永田町の國會議事堂周邊に及んでゐます。今、東京都の紋章になつてゐる銀杏は、靖國神社の英靈も然り、帝都の地に伏して歸らざる、數多のみたまが蘇生した木です。たゞの風景では無い。夕べ、日比谷圖書館からの歸り道、既に伐採準備で下枝を皆な打ち落とされて、電信柱のやうになつてしまつてゐる所に通りがかり、こみあげてくるものがありました。どこにでも見かける銀杏ですが、銀杏は、自生地が未だ確認されてゐない絶滅危惧植物です。好きに植ゑて、好きに伐つてよい木ではありません」と。



 亦た或人の曰く、「靖國神社に植ゑてある銀杏・山桃・珊瑚樹・ユズリハ等は、いづれも火災・火炎に強い樹木です。色々考へて植樹されてゐます」と。



 都廳・千代田區役所・經濟界は、富を弄び、傳統・佇まひを思ふ心、絶えて無し矣。嗚呼、悲しいかな夫。乞ひまつる、有志、起つて、明治神宮・靖國神社有縁の銀杏竝木を守護すべし、と爾か云ふ。



【千代田の街路樹を守る會】
  ↓↓↓↓↓
http://chiyodatrees.wixsite.com/trees

【百年の街路樹を、五輪開發から守つて下さい! 贊同の御署名を乞ひまつる】
  ↓↓↓↓↓
https://www.change.org/p/100%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%A1%97%E8%B7%AF%E6%A8%B9%E3%82%92%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AE%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84?recruiter=407743211&utm_source=share_petition&utm_medium=facebook&utm_campaign=autopublish&utm_term=des-lg-share_petition-no_msg
 
 

靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する、天皇の神社なり。政治家、必ずしも來るを要せず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 7日(金)23時21分12秒
返信・引用
  ~承前~

 下山陽太氏は、靖國神社正統護持につき、めでたき御文を書かれてゐる。靖國神社は「天皇の神社」、敕許なくば、何も出來ないことを、一言以て喝破せられた。曰く、

「靖國神社は、明治天皇の宣らせ給ふた『安國』の聖旨を以て、創建された天皇尊の神社である。幕軍を合祀したければ、新たに宗敎法人を作り祀れば良いだけの事であつて、天皇尊の神社たる靖國神社に祀る必要は無い。亦、幕軍合祀の話が出ると云ふ事は、帝都不祥事件(俗に云ふ二・二六事件)の賊徒も祀るべきだと云ひ出す人士も、將來的に現れる可能性が非常に髙い。だからこそ、云ひたいのは、靖國神社には、個人の情念は必要無い」と。



 泉水隆一翁の曰く、

靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社です。遺家族や國民にも參拜させるのは、天皇陛下の思食しによるものにすぎない」と。


 松平永芳宮司の曰く、

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/8
「靖國神社に參拜する時は、『今日の日本の平和と繁榮に對して、御靈方のおかげでありがたうございます』といふ感謝の祈りと同時に、『平和であるけれども、萬が一の時には、皆さんと同じやうに國に一命を捧げますといふ誓ひをするべきだ』と、私は思つてゐます。宮司時代の祝詞も、神社外で行ふ祭典で奏する祭文も、すべてそのやうな氣持ちで奏しました。一例をあげますと、毎年、私が祭主となつてやつてゐる、橋本景岳先生の墓前祭(愚案、景岳會主催の景岳祭)での祭文は、かうです。『謹みて景岳橋本左内先生の靈に告げ奉る』で始まり、日本の情勢はかうだと述べて、『以て祖國の精神復興‥‥に寄與挺身せむことを誓ひ奉る』とし、最後は『冀はくは先生、我等が志を壯なりとし、嚴烈なる批判を下し、以て道義を重んずる傳統國家復活への活動を守護したまはらむことを』と、結ぶやうにしてゐます。單なる苦しい時の神頼みではいけない。結びは自分の誓ひを述べ、それを『見守り守護したまはんことを』と、終るべきなんです。だから靖國御社頭での祈りとは、誓ひだ。御靈と同じやうに、『いざといふ時は、國に命を投げ出します』といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御滿足は得られないと、私は思つてゐます。

 ところが、御遺族を票田にしてゐる政治家諸氏の參拜は、必ずしも純粹であるとは思へないのです。私が宮司に就任したときの總理は福田さんで、それから中曾根さんまでの總理は、春秋の例大祭に必ず來られてゐたんですが、總理を辭めたら來られない。一度總理をした方で、その後、參拜に來た方は、殆んどをられません。そこがをかしい。總理を辭めても、國會議員ではあるんだから、『みんなで靖國神社に參拜する國會議員の會』の先頭に立つて來られゝばいいんですが、『俺はもう元老で、雜魚どもとは一緒には行かない』とばかりに、來なくなる。だから參拜は、心からのものではなく、自分の點數稼ぎのため、御遺族を票田にしてゐるだけなんだと言はれても致し方ないでせう。

 もつと無禮なのは、代議士方の大半が參集所まで來て、參拜しないことです。どこゞゝの遺族會は何時に昇殿參拜をすると、前からの申込みで分かつてゐますから、その豫定を聞きたゞし、地元の代議士がやつて來るんです。北門を通つて遊就舘の前に車を置いて、參集所に集まつてゐる御遺族の前で一席ぶつて、さあ參拜となると、忙しいからと、そのまゝ歸つてしまふ。御遺族の先頭に立つて昇殿參拜をするのが原則だけれども、ご多忙の先生方だから、これはまあ許せますが、せめて參集所を出た時に、五十メートルほど歩いて、御社頭でおじぎぐらゐしてから、車に乘つて歸つて頂きたいのですが、そんなことをされる先生なんて、殆んどゐない。御遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました。

 さういふ政界の實態を見てきましたから、私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしないと決めてゐました。天皇さまに、公私はない。『天皇陛下に、私的御參拜も公的御參拜もない。陛下は思召しで御參拜になられたんだ』と言へば、それで濟むんですが、總理も宮内廰長官も侍從長も、毅然とした態度で、『天皇陛下に、公私はないんだ』といふ、それだけのことをキツパリと言ひ切るとは思へない。そこでモタヽヽして變なことを言はれたら、かへつて後々の害となる。變な例を作つてしまふと、先例重視の官僚によつて、御親拜ができなくなつてしまふ恐れがある。それで私が宮司の間は、絶對にお願ひしないことにしてきました」と。
 
 

昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の英斷

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 6日(木)18時29分57秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 今の度びの賊軍合祀に關して、「宮司の判斷」につき、其の論據として、昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の名を擧げてゐるやうなので、舊稿と重複するが、確認の意味で、今、こゝに自由民主黨の、卑劣なる責任轉嫁、救ひ難き不見識を暴いておきたい。時には、松平宮司の「祕密裡の獨斷」のやうに、貶める理由に使はれるからである。現代の政治家、眞に姑息なりと謂ひつ可し矣。

 松平永芳宮司は、靖國神社中興の祖と仰がれる大人にして、寒林平泉澄先生の内弟子である。次は、松平宮司、義憤の肉聲。宮司徳川康久は、松平宮司の爪の垢でも呑むがよい。靖國神社宮司職を拜命した以上、松平・大野兩宮司の如く、靖國神社の事歴を、徹底的に調査研究してから物申す可く、不見識なる政治家・評論家の言動に惑はされてはならぬ。



前稿【注】昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の英斷──陸軍省合祀基準に則つて、軍務嚴修。有志に乞ひ奉る所は、松平精神、即ち靖國神社正統護持の雄叫びを恢弘せられむことを。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/4
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7

靖國神社が、政治問題の渦中に卷き込まれることを避けること、このことは宮司の私が、常に心を碎いてきてゐるところである。二百四十六萬柱の神々を背に負ふ身としては、これは當然の心得であつて、マスコミに對してコメントしない理由は、『ジャーナリストは、言つた通りを傳へない』といふ不信の念が根柢にあるのは勿論だが、それ以上に、私の發言が元になつて神社が騒々しくなつては、祭神に對して申譯が立たないといふ氣持がはたらくためである。

 したがつて昨年の大晦日に朝日新聞が、『A級戰犯合祀の意向、靖國神社宮司が示唆』の見出のもとに、あたかも私がインタビユーに應へたかのやうな記事を掲載したが、根も葉も無いつくりごとで、そのやうな事實は全く無い。年が改まつて正月六日の讀賣新聞朝刊は、『A級戰犯合祀取りやめ、自民、靖國に要請、神社側は拒否』といふ記事で一面を飾つたが、これも事實ではなく、靖國神社が、自民黨とかゝる取引をしたことや相談に應じたことなど、一切無い。たゞし自主憲法期成同盟の清原事務局長が、自民黨の金丸幹事長の使者に立ち、『A級戰犯を、祭神から外すことはできないか』と、權宮司の許に言つてきたことが一度あつた。勿論、『そんなことはできない』と答へた。神道の本來の考へ方からいへば、一度靖國神社に祀られた上は、御靈はそこに留りますのであり、たとへお移し申し上げても、それは分靈に過ぎないからである。この讀賣の記事は、卒讀すると、神社と自民黨に裏交渉があるやうな印象をあたへるが、事實無根といふほかはない。『火の無いところに、煙は立たない』と俗にいふが、こと靖國神社に關する限り、火の無いところに煙の立つてゐるといふのが、現在の情況である。このやうにいはゆる『A級戰犯』の合祀についての論議はやかましいことだが、これは自民黨のトツプ筋が、無分別なことを口にするために、世間一般が混亂してゐるに過ぎず、靖國神社は正式な手續にのつとつて、『A級戰犯』の合祀を行つたまでのことである。

 講和條約發效後の昭和二十八年五月十八日から八月十日に亙る期間、第十六國會が開かれたが、この國會において、『東京裁判受刑者等に關する特別措置』が審議された。これはいはゆる『戰犯』(役所の呼稱では『法務死亡者』)も、戰沒者と全く同樣の取扱をするといふ議案の審議で、七月二十三日の衆議院厚生委員會で決議され、この決議に基いて、恩給受給資格を持ついはゆる『戰犯』に對しては恩給法により、それ以外の『戰犯』に對しては遺族等援護法によつて、それぞれの遺族に對し、戰沒者遺族に對する場合と變らない待遇がはかられるやうになつた。この體制によつて、厚生省は戰後を開始したのだ、と言つてよいだらう。『法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法および恩給法の適用について』といふ、昭和二十八年九月十五日付の京都府民生部から送られてきた通知が、資料として私の手許にある。その内容は要するに、昭和二十八年四月一日の時點に遡つて、『戰犯』の遺族にも恩給あるいは年金が下給できるはこびとなつたから、『厚生大臣宛に、遺族年金請求書をお出しなさい』といふ内容の通知で、同樣な公文は、各地方自治體から管内に居住する『戰犯』遺族の許に、それゞゝ屆けられたに相違ない。この立法措置により、いはゆる『戰犯』は、戰沒者と同等の資格をもつに至つた。この立法と行政の措置に沿つて、靖國神社は對處してゐるに過ぎない。

 それにも拘らず、若年議員ならいざ知らず、自民黨のトツプ・レベルのお歴々が、靖國神社の獨斷的行爲であるかのやうな口吻を洩らすに至つては、言語道斷、一體、何を仰言つてゐるのか、もう少し勉強願ひたいと言ひたいところである。靖國神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時點を以て、『戰犯』として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである。その際、『戰犯』に冠せられたA級・B級・C級といふ形容は、總て聯合國側が向ふで勝手にランキングしたものに過ぎず、當方には、何等かゝはりのない事柄に屬する。

 靖國神社は、然るべき法的根據によつて、『昭和殉難者』を合祀申上げた。こゝに昭和殉難者と呼稱するのは、新聞ジヤーナリズムが『A級戰犯』と呼び、公文書では『法務死』と呼ばれる、東京裁判で亡くなられた方々のことである。戰犯などといふ心ない言葉を、神社は、到底許容することができないし、法務死といふ言葉も、官廳間の用語としてはそれでよいだらうが、當方で使ふにはどうも落着きが惡い。そこで色々思案した擧句、明治維新の際、國に殉ぜられた方々を幕末殉難者・維新殉難者と呼稱してゐる當社記録に徴し、昭和殉難者とお呼びする旨、昭和五十三年十一月二十三日の『宮司通達』で、社内に徹底させた。

 この昭和殉難者十四柱の御靈を含めて、計百七十六柱を合祀申上げたのは、昭和五十三年、秋の例大祭の時であつた。昭和二十八年四月から、然るべくお祀り申上ぐべき方々を、この時點まで放置してゐた理由は、當初は「東條さんの名前は、國民感情に、相當刺戟が強いだらう」といふ、靖國神社と厚生省の配慮に基いたもので、それで合祀が暫く見送られてゐた。私が宮司に就任したのは、昭和五十三年七月のことだが、その八年ほど前の昭和四十五年六月三十日に、靖國神社の總代會で、ある方が、『東條さん以下の方々の御靈を、いつまで放つておくんだ』と發言し、それに對して、當時は靖國神社國家護持運動の盛んな時であつて、時期が適當ではないから、然るべき時期を見計らつて合祀する旨、前任の筑波宮司が、總代會に囘答をしてゐる。

 はからずも宮司を拜命することになつて、私は過去の神社記録、總てに目を通した。この議事録を見るに及んで、宮司預けになつてゐる事柄だし、國家護持法案も流れて、機を見る必要は何も無いから、就任早々三ケ月、秋の例大祭で昭和殉難者の合祀を、總代會の了承を得て斷行した。就任早々で、いさゝか荷が重かつたが、その時の氣持は、今やつてしまはないと、二・三年經つて合祀申上げたときに、『お前は就任以來、その間を、どういふつもりで運營してゐたんだ』と問はれたときに、答に窮するであらうと思つたからにほかならない。新聞は、半年後の春の例大祭にこのことを知り、クリスチヤンの大平首相の參拜と絡めて、『A級戰犯を、ひそかに祀つてゐた』と報じたが、戰前であれば、『官報』によつて合祀の神々を報じたわけだが、戰後にはさういふ手段は無い。合祀後、遺族に通知を差上げることで、御了承いたゞいてゐるのが現状であり、『ひそかに、どうかう』といふ性質のものではない」と。



「いはゆるA級戰犯合祀のことですが、私は就任前から、『すべて日本が惡い』といふ東京裁判史觀を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考へてをりました。それで、就任早々書類や總代會議事録を調べますと、その數年前に、總代さんのはうから、『最終的にA級はどうするんだ』といふ質間があつて、合祀は既定のこと、たゞその時期が、宮司預りとなつてゐたんですね。私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいたゞいたのですが、今でも慣習によつて、上奏簿を御所へもつていく。さういふ書類をつくる關係があるので、九月の少し前でしたが、『まだ間にあふか』と、係に間いたところ、『大丈夫だ』といふ。それならと、千數百柱をお祀りした中に、思ひきつて、十四柱をお入れしたわけです。巣鴨で絞首刑になられた東條英機(元首相・陸軍大將)・板垣征四郎・土肥原賢二・松井石根・木村兵太郎(以上、陸軍大將)・武藤章(陸軍中將)・廣田弘穀(元首相)の七柱。それに囚はれの身や、未決のまゝで亡くなられた梅津美治郎(陸軍大將)・小磯國昭(元首相・陸軍大將)・永野修身(元帥海軍大將)・平沼騏一郎(元首相)・松岡洋右(元外相)・東郷茂徳(元外相)・白鳥敏夫(元駐イタリア大使)と、あはせて十四柱。

 その根據は明白です。昭和二十年八月十五日に、天皇樣のご命令によつて、われゝゝは一切の交戰行爲をやめた。しかし『むかうが撃ち込んできたときは、應對せよ』といふ、但し書がついていたんです。ソ聯が十五日以降に千島列島に上陸したので、應戰したのはその例で、相當な戰死者が出てゐます。九月二日に、ミズーリ號での調印があり、占領行政が始まる。そして二十六年の九月八日に、サンフランシスコで平和條約の調印がある。その發效は、翌二十七年の四月二十八日、天長節の前日です。ですから、日本とアメリカその他が、完全に戰鬪状態をやめたのは、國際法上、二十七年の四月二十八日だといつていゝ。その戰鬪状態にあるとき行つた東京裁判は軍事裁判であり、そこで處刑された人々は、戰鬪状態のさ中に敵に殺された。つまり『戰場で亡くなつた方と、處刑された方は同じなんだ』と、さういふ考へです。

 そして翌二十八年の十六國會では、超黨派で援護法が一部改正されました。それで、『いはゆる戰犯死亡者も、一般の戰沒者と全く同じ取り扱ひをするから、すぐ手續きをしなさい』といふ通知を、厚生省が出してゐるんですね。それまでの、いはゆる戰犯の遺族は、まつたく惨めな思ひをしてゐたんです。あまり知られてゐませんが、財産も凍結されてゐて、家を賈つて糧を得ることさへもできなかつた。それを、終戰直後の國會には、婦人議員が多かつた關係もあり、彼女たちが先頭にたち、超黨派で改正されたわけです。

 國際法的にも認められない東京裁判で戰犯とされ、處刑された方々を、國内法によつて戰死者と同じ扱ひをすると、政府が公文書で通達してゐるんですから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、『靖國神社は、僭越にも、御祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか』となつてしまひます。

 役所用語でいふと、戰犯で處刑された方は「法務死亡者」といふのですが、從來からの「維新殉難者」・「幕末殉難者」と使つてゐるのにあはせて、『昭和殉難者』とお呼びしようといふ『宮司通達』を出しました。

 十四柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると豫想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後、全く言はないと、これまた文句を言ふ人が出てくる。そこで合祀祭の翌日、秋季例大祭の當日祭と、その次の日においでになつたご遺族さん方に報告したわけです。『昨晩、新しい御靈を千七百六十六柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に』――ここを、前の晩、ずいぶん考へたんです。『東條英機命以下‥‥』といふと、刺激が強すぎる。戰犯遺族で結成してゐる『白菊會』といふ集りがありますので――『祀るべくして、今日まで合祀申し上げなかつた、白菊會に關係おありになる十四柱の御靈も、その中に含まれてをります』。さういふご挨拶をしたんです。すると、白菊會の會長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待つていらして、『今日は寢耳に水で、私が生きてゐるうちに合祀されるとは思はなかつた』と、非常に喜ばれた。

 それから半月後に、十四柱のご遺族すべてに、昇殿・參拜いただきたいといふ通知を出し、お揃いでご參拜いただいたと、かういふ經過でございます。そのころは、新間は知らなかつたのか、一切騒ぎませんでした。半年後の春季例大祭の直前に、大平クリスチヤン首相の參拜と抱き合はせで、いはゆるA級合祀をマスコミが大々的に取り上げ、大騒ぎいたしました」と。



「心すべきば權力への迎合。それでも、その翌年も、中曾根(康弘)さんは公式參拜したいと思つたけれど、取り止めたんだといふ。さうしたら、中曾根さんに近い讀賣新間から出てゐる『THIS IS』誌に、『靖國神社宮司に警告す』といふ一文がのつた。それも卷頭言としてです。光榮の至りといふべきでせう(笑)。讀んでみます。

『靖國神社當局は、政府も知らぬあいだに勝手に合祀し、國の内外の反發を呼んだ』――先ほど申しましたやうに、勝手にではなく、國會で決めた援護法の改正にしたがつて合祀をした。しかもそのとき、中曾根さんは、ちやんと議員になつてゐるんです。續いて『外交的配慮と靖國の合法的參拜の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が、松平宮司に對し、A級戰犯の移轉を説得したが、頑迷な宮司は、これを間き入れなかつたので、首相は參拜中止を選擇した。』

 頑迷固陋は自覺してをります(笑)。が、『A級戰犯』といふ東京裁判史觀をそのまゝ認めたうへ、邪魔だから合祀された御祭神を移せといふ。とても容認できることではありません。參拜をやめたのも、官司が惡いからだと、ひとのせゐにする。

『靖國神社は國家機關ではなく、一宗教法人であつて、政府の干渉を排除できるといふのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式參拜を求めるのは、越權・不遜である。』

 そんな人々には、案内出してませんよ(笑)。昔は權宮司が敬意を表して、總理に案内状をもつていつた。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時點では、そんな案内を出してゐません。同誌の結論は、かうです。

『頑迷な一人の宮司のために、靖國間題で國論を分裂させたのは許しがたい。かうした不合理を正せないなら、早急に適當な土地に、戰沒者と公共の殉職者を祀る公的施設を建設し、靖國神社による戰沒者獨占をやめさせるべきだ。その建設費のための國債の發行には贊成する。』

 『戰沒者獨占』なんて、御靈を何だと考へてゐるのか、まるでモノのやうに思つてゐるんでせうか。そんな腹立たしい例は、きりがありませんが、もう一つ紹介しますと、元外務次官で國策研究會理事長の法眼晋作氏の書いたものです。法眼氏は中國の公使に、『滿洲事變・日中戰爭は、わが國の貴國に對する侵略だから、貴國の青年諸君が詰るのは文句をつけない。しかし戰歿者を祀る神社を、首相以下が公式に參拜して、何が惡いのか』と話問したところ、中國の公使は、『同神社には、戰犯が祀られてゐるからだ』と説明した。それで、

『調べてみると、戰犯の人達は、昭和の殉難者として合祀されてゐる。これは筆者にとつて、大きい驚きであつた。一つには、筆者は、同神社は戰歿者のみを祭神としてゐると信じてゐたからであり、二つには、戰犯達は被害者ではなく、加害者であるからだ。中曾根首相は中國との紛爭を避けるため、戰犯者の合祀を止めるやう要請したが、同神社の宮司は、それを峻拒したといふ』。

とありまして、法眼氏は、さらに『東京裁判は國際法違反だから認めない。しかし戰犯は、日本を戰爭へ驅りたてた軍の横暴を阻止しえず、むしろ助長した』。さう述べたあと、

『日米戰爭も充分避けえたのであり、米國の要求した中國からの撤兵・三國同盟の無效化・南部佛印進駐の北への引き揚げは、すべて實行出來た筈なのだ』――つまり『ハル・ノート』の言ふ通り、アメリカの言ふがまゝにできたはずだ、と。『また交渉が行きづまつた場合、直ちに米國攻撃へ直進する必要もなかつた』――眞珠湾になだれ込む必要もなかつた、といふわけです。

 しかしこれは、結果の出た後代だからこそ言へることであつて、果して當時の状況で、本當にそんなことができたのかどうか。またアメリカの言ふ通りにしてゐたら、本當に大東亞戰爭は避けられたのか。あるいはもつと悲惨な事態になつてゐたかもしれません。アジアは依然として西歐の植民地だつたかもしれないし、逆にアジア全域が共産化してゐたかもしれない。歴史がどちらにどう動くかなんて、誰にも判らないことでせう。結果として、武運つたなく敗れたにせよ、おのゝゝの立場で國を思ひ、責を負つて、國のため命をささげた人々です。それを敵國が貼つた『戰犯=戰爭犯罪者』といふレッテルをそのまゝにして、あゝもできたはずだ、かうもできたはずだ、加害者だと、一方的に後代から裁く。それはあまりにも反史學的で、同情心のない見方だと思ひます。

と、こんなことを言ふからでせう、法眼氏は最後に、『靖國神社の間題の宮司を含み』――問題の宮司‥‥(笑)、『日本には、他にウルトラ・ナシヨナリスト(超國家主義者)乃至シヨービニスト(熱狂的愛國者)が多數存在する‥‥』。結局、私はウルトラのシヨービニストにされてしまひました、東條さん以下を合祀したといふことで。

 これまで述べたやうなことで、少し分つていただけたかもしれませんが、靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見『愛國』・『憂國』を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく『權力に迎合したらいけない、權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない』といふことを、次の宮司(大野俊康宮司)への一番の申し送りにいたしました。

 祖父の春嶽松平慶永は、時の大老井伊直弼と對決したのが、『安政の大獄』の引金となり、結局隱居、護愼處分を受けながらも、己れの信念を曲げなかつた。そんなことも時に思ひ出して過してきた、この十四年間でございました」と。
 
 

靖國神社境内から、政治家を叩き出せ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 5日(水)21時02分34秒
返信・引用 編集済
   同志・下山陽太氏より、電話到來。癡呆の靖國神社宮司、遂に祭祀大權を犯し、反逆を圖らむとす、と。仰天情報『週刊ポスト』の記事を紹介せられたり。

 國立國會圖書館調査及び立法考査局『新編・靖國神社問題資料集』(平成十九年三月・國立國會圖書館刊)の第一に掲ぐるは、『癸丑(嘉永六年)以來、唱義精忠、國事に斃るゝ者の靈魂を慰し、東山に祠宇を設けて、之を合祀せしむ』(太政官布告・『法令全書』第三八五・明治元年五月十日・京都東山招魂社創建の御沙汰書)である。明治天皇には、何と仰せ出だされしか、能く見られたい。曰く、

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 大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ばされ度く、既に豐太閤・楠中將の精忠英邁の御追賞、仰せ出だされ候ふ。就ては、

癸丑以來、唱義精忠、天下に魁けして、國事に斃れ候ふ諸子、及び草莽有志の輩、寃枉、禍ひに罹る者、少なからず。此れ等の爲す所、親子の恩愛を捨て、世襲の祿を離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨、四方に濳行し、專ら舊幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或は搢紳家を鼓舞し、或は諸侯門に説得し、出沒顯晦、萬苦を厭はず、竟ひに身を抛ち候ふ者、全く名義を明かにし、皇運を挽囘せんとの至情より盡力する處、其の志、實に嘉みす可し。尚ほ況や國家に大勳勞有る者、爭(いかで)か湮滅に忍ぶ可けんや

と、歎き思し食され候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、且つ其の忠魂を慰めされ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等の靈魂を永く合祀致さる可き旨、仰せ出だされ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事。


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 また『靖國神社誌』(天覽・台覽を賜ふ。明治四十四年十二月二十六日發行・四十五年六月五日改訂再版。平成十四年八月、神社本廳教學研究所より「近代神社行政史研究叢書Ⅳ」として復刻影印)に收むる所の『關東鎭臺日誌』明治元年六月二日──諸道戰死の者、招魂合祭、千代田城大廣間に於て修行され、其の『祭文』に曰く、



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 懸卷くも恐き令旨を以て宣はく、天皇が大命にませ。宣はく、

鷄が啼く吾嬬の國に、仕へ奉らず、不禮なる(徳川)慶喜が罪を問はせ

と宣り賜ひて、大總督竝びに道々の軍の總督に任し賜ひ、日月の大御旗を降し給ひ、將士を依し賜へば、隨へる皇御軍は、倭手纏(しづたまき)、身も棚知らず、勇み健らひ、山往かば艸生す屍と、荒山の嶮岨き坂も、駒の爪岩根さぐくみ、海往かば水漬く屍と、八重浪の逆卷く灘も、大船に眞梶繁貫、進みに進めば、梓弓射向ふ者なく、武藏野の原の、薄の吹く風に、靡くが如く、其の首魁慶喜は、兼ねて恐み恐れて罪に伏しぬれば、江戸の大城に入りしかども、道知らず醜の奴の、五月蠅なす騒ぎ競ひて、大雪の亂るゝ如く、浮雲の散亂(あら)くる如く、東の國、諸々の道、此處の隈、彼處の岳に、屯み集ひて、尚ほ皇御軍に害なひ奉らむとす。

 故れ其の形を聞食して、更に御軍を班ち遣し、彼の山のそぎ、此の河の瀬に、追ひ拂ひ討ち窘めて、速けく功成しぬれども、亦た道々の御軍の中に、命過ぐぬる人等有りと聞食して、悔しび賜ひ和び給ひて、宣はく、

「恐き將士等の、身も棚知らず、いそしみ仕へ奉りしに依りて、此如く大きなる業は成し得し物と、歡び勇み御座しましつゝも、今、將士等の命過ぐぬる事を所思し食せば、古へ、楠のあそ(朝臣。正成公)が、國の爲めに仕へ奉りし勞きにも竝びぬべく思ほしめしつゝ、歎き賜ひ悲しみ賜ひ、御音哭かし賜はく

と宣る。又た宣はく、

恐き臣等の如く、如此く身を捨て勞き仕へ奉れる事をば、朝夕・夜晝と无く、歎き賜ひ悲しみ賜ひ、辛み痛み御座ますに依りて、いかで、其の魂の往方を、後輕く心も安穩に思ひ、安息まるべく慰め賜ひ治め賜はむとして、此の殿内を、假の靈床と祝ひ定め、神籬指し榮し、備へ奉る物は、青海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狭物、大野の原に生る物は、甘菜・辛菜・毛の和物・毛の荒物に至るまで、横山の如と雜へ取り備へ、此の千代田の片山に生ひ立つる五百枝榮木を折り取りて、明る和幣・照る和幣を取り付け、うづの太玉串と持ち添へて、備へ賜ふ大御幣帛を、足幣帛の豐幣帛と、請ひ給へりて、今日の此の御行事の床に、招ぎ奉りたる兵士の幸御魂・奇御魂、天翔り國翔り、天皇が御代をば、常磐に堅磐に守らひ幸はひ、仕へ奉る臣等を始めて、此の大城に集ひ侍らむ御軍の内にも、喪なく事なく、平けく安けく、彌や勤めに勤め、彌や猛びに猛ばしめよ」

と宣り給ふ、令旨を宣る。


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 靖國神社創建の聖旨は、靖國神社宮司・徳川康久、及び其の一味によつて、今、當に踏み躙られようとしてゐる。「討つ者も、討たるゝ者も、心せよ、同じ皇國の、人と思へば」とは申せ、抑も敕宣の大御言により、皇御軍を祭祀する齋庭が、別格官幣社・靖國神社である。

 徳川幕府・明治内戰の賊軍を慰靈す可からずとは、誰人も云はぬ。會津の悲劇は、孝明天皇の信頼し給ふと雖も、當今天子の日月錦之大御旗に抗し奉つた罪は、遂に免れざる所である。大西郷を崇敬すること、小生も人後に落つる所では無い。最近の研究では、大久保甲東は奸物小人にして、有馬義正先生を讒言、田中河内介を瞞着、之を謀殺して出世(西郷南洲顯彰會『敬天愛人』第三十四號・平成二十八年)し、且つ刺客を遣はして大西郷の殺害を圖り、大久保追討の擧に至らしむと云ふではないか。洵に皇國の悲劇、之に過ぐるものは無いと謂はねばならぬ。

 然し賊軍を慰靈祭祀する庭が、靖國神社では無いことは、聖旨の依つて來る所、明々白々である。此の道理が、何故ゑ分らぬか。「日本の爲め」ならば、皇師に反して、錦之御旗に抗するも已む無しとせば、國民道徳、何を以て樹てむとするか。夫れ靖國神社合祀の規準は極祕にして、陸軍省の内規に基づき、戰後も其の軍務を繼續嚴修する所にして、合祀基準を見直さんか、彼方は如何、此方は如何と、收拾は着く可からず、俄かフアンの政治家や呆けた新米宮司の出る幕では無い。

 靖國神社存立の危機、當に迫らんとす。常識的に見て、靖國神社總代會は、賊軍合祀を受付けぬと確信するが、何しろ「鎮霊社」の再開を認めた總代會だ。油斷はならぬ矣。幕府軍に、勤皇の志士を殺しまくつた新撰組まで、靖國神社に祀れとは、不見識極まりない──これら戰後人は、小説・漫畫の讀み過ぎにして、呆れ果てゝ言葉も失ふ。

 「日本の爲め」、「近代日本の爲めの志士」と申し、聖旨を無視して、私見を逞しうするならば、幸徳秋水は如何する、二二六の將校は如何する。「癸丑以來」も擴げて、「紀元以來」にするか。高山赤城先生は、物部守屋大連は、如何する。ついでに最近人氣の賊將、平將門・足利高氏も祀るのか。答へてくれ給へ。合祀は、本殿なのか、「鎮霊社」なのか、新しき祠なのか、教へて賜れ。

 靖國大神には、諾ひ給はざる所、亦た尊皇の亡魂も、聖旨を畏み奉つて、合祀を遠慮される所なれば、靖國神社正統護持を掲ぐる者、いかでか之を默視すべき。當に「保守の敵は保守」(松平永芳宮司)である。宮司徳川某や政治家共を、靖國神社から叩き出せ。私見我慾の爲めに、靖國神社を利用する者、或は調査研究もせず、不見識者に同調する者、決して之を許す可からず。文章亂れて不通、怒りが込み上げ、泪が溢れ來つて、筆が全く進まぬ。乞ふ、愚が微意を汲んで、此の義憤を共にせられむことを。血涙不具。



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●『靖國神社百五十周年、西郷隆盛や幕府軍の合祀計畫が急浮上』(『週刊ポスト』平成二十八年十月十四・二十一日號)

○「賊軍」も合祀なら、靖國神社の意義も一變

 來る平成二十九年に、創立百五十周年を迎へる靖國神社が、歴史的な大轉換點を迎へるかもしれない。靖國に祀られるのは、「國のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた當時の「國=明治政府」に刃向かつた幕府軍・會津軍や、西南戰爭で敗れた西郷隆盛らは、「賊軍」となるため、祀られる「資格」がない。

 だが、彼らの合祀を求める會を、國會議員らが立ち上げ、靖國神社に申し入れをするといふのだ。發起人を務める保守派の重鎭、龜井靜香・衆院議員が言ふ。

「日本は戊辰戰爭・西南戰爭といふ内戰を經て、近代國家に生まれ變はつた。當時は、薩長と幕府・會津が二手に分かれて對立したが、敗者がゐるからこそ、爭ひが鎭まつた。明治維新から百五十年も經つのに、内戰の死者が、『賊軍』として祀られないのはをかしい。そこで有志に呼びかけて會を立ち上げ、靖國神社に合祀を求める申し入れをすることにした。」

 歴史を繙くと、靖國神社のルーツは、明治二年に建てられた「東京招魂社」に遡る。戊辰戰爭・士族の亂などで命を落とした薩摩・長州軍らを、「官軍」として慰靈顯彰し、明治維新を偉業として後世に傳へるための社だつた。そのため官軍と戰つて破れた幕府軍・會津軍らは、「賊軍」とされ祀られなかつた。明治十二年に、社號が「靖國神社」に改められて以降も、「賊軍史觀」は變はつてゐない。

 これに一石を投じたのが、現在の靖國神社宮司・徳川康久氏である。第十五代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ徳川宮司は、徳川家康を祀つた芝東照宮に奉職した後、靖國神社の宮司となつた。「賊軍の長の末裔」が、「官軍を祀る神社のトップ」に就任したのである。

 二十五年一月の就任時、「幕末の動乱期、曾祖父の慶喜は、身を挺して朝廷と御所を守つた」と發言して注目された徳川宮司は、今年六月に、共同通信のインタビユーで、自らの「明治維新史観」を一歩進めて、かう語つた。

「文明開花といふ言葉があるが、明治維新前は、文明がない遲れた國だつたといふ認識は間違ひだつた、といふことを言つてゐる。江戸時代はハイテクで、エコでもあつた。」

「私は賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。ただ價値觀が違つて戰爭になつてしまつた。向かう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になつた。」

 「公式見解」を覆す、靖國神社の根幹にかゝはる大膽な發言だつたが、記事は一部の地方紙にのみ掲載されたのみで、反響は少なかつた。しかし本誌『週刊ポスト』七月一日號が、「徳川宮司『明治維新といふ過ち』發言の波紋」とのタイトルで、大々的に報じると、状況は一變し、靖國關係者や政界關係者に、大きな波紋を呼んだ。

○宮司は、「私も、さう思ふ」

 龜井氏も、本誌報道に影響されたと明かす。

「私は、以前からこの問題に關心があり、ポストの記事が出た後、徳川宮司に會つて、『それでは、具體的に靖國合祀を呼びかけますよ』と話した。三年ほど前、徳川宮司に、『賊軍が祀られてないのはをかしい』と尋ねると、『私も、さう思ふ』と言はれたことがあつて以來、ずつと構想を練つてゐた。」

 靖國神社への『合祀申し入れ書』は、すでに作成濟みで、こんな文面となつてゐる。

白虎隊や新選組・西郷南州(西郷隆盛)・江藤新平などの賊軍と稱された方々も、近代日本のために志をもつてゐたことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸靈が、靖國神社に祀られてゐないことは、誠に殘念極まりないことです。

有史以來、日本人が育んできた魂の源流を、今一度鑑み、未來に向けて憂ひなき歴史を繼いでいくためにも、靖國神社に、過去の内戰においてお亡くなりになつた全ての御靈を合祀願ふやう、申し出る次第です。

 龜井氏によると、今囘の申し入れには、森喜朗氏や福田康夫氏ら首相經驗者、二階俊博・自民黨幹事長ら與黨幹部、さらに野黨議員など、七十人を超える政治家の贊同を得てゐるといふ。

「山口(長州)出身の安倍首相にも、『申し入れ書』は渡してある。政教分離の原則があるから、立場上、『やれ』とは言へないだらうが‥‥。多くの政治家に受け入れられてゐるが、自民黨の日本會議系議員の何人かは、反對のやうだ。彼らは皇國史觀に立ち、『なぜ今さら、賊軍を祀るのか』といふ考へ方なので、話にならない(苦笑)。」

 この十月初旬にも、龜井氏・森氏、そして民進黨の原口一博・衆院議員の三氏が、靖國神社に赴き、徳川宮司に文書を手渡す豫定だ。

○會津は「戊辰戰爭の總括を」

 政界重鎭たちによる申し入れは、無視できない重みがありさうだが、そもゝゝ靖國神社への合祀は可能なのか。靖國神社は、この動きについて、「存じてをりません」とした上で、「當神社は、明治二年の御創建から終戰に至るまで、當時の國の合祀判斷に基づき、その都度合祀が重ねられてまゐりました。當時に遡り、その基準を變更することはございません」と、否定的だ。

 だが戰後、靖國神社は、國家機關から民間の宗教法人となつた。そのため、合祀の可否は、神社の最高責任者である宮司の判斷に委ねられる部分が大きい。昭和五十三年十月には、當時の松平永芳宮司の判斷【注】で、A級戰犯十四人が合祀されてゐる。龜井氏は、自信を見せる。

A級戰犯とは異なり、中國も文句は言はないだらう。神社と一體となつて事業を行なふ靖國神社崇敬奉贊會の理解が必要なので、同會の扇千景會長(元國交相)にも根囘しを進めてゐる。ただし最終的な權限は宮司にあるはずなので、徳川宮司の背中を押したい。

 今囘の申し入れについて、當事者の受け止めは樣々だ。明治維新後、司法卿として司法制度確立に盡力した江藤新平は、征韓論を唱へた西郷隆盛に同調して下野した後、「佐賀の亂」を起こして敗れた「賊軍」だが、佐賀縣選出の原口一博・衆院議員(民進黨)は合祀に贊同し、提出者を買つて出た。

「『亂』といふ表現は、支配者サイドからの觀點であり、佐賀縣民は、江藤の反亂を『佐賀の亂』ではなく、『佐賀の役』と言ひます。支配者側の一方的な見方ではなく、日本の夜明けのために命を失つた方々を、改めて評價するのは重要なことです。英靈を鎭魂する場である靖國に敗者を合祀することで、平和への祈りにもなるはずです。」

 一方、戊辰戰爭の「賊軍」代表、會津出身の小熊愼司・衆院議員(民進黨)は、「合祀には贊成」としつゝも、複雜な思ひをのぞかせる。

「戊辰戰爭では、會津側の戰死者が、長期間、放置されるなど、非人道的行爲もあつた。元治元年の蛤御門の變では、會津と薩摩が御所を守り、長州が御所に發砲した賊軍です。それなのに、維新後、その長州で維新への功績もない人物までが祀られたのは、明らかにをかしい。單なる官軍と賊軍の戰ひといふ見方を改めるためにも、合祀の前に、戊辰戰爭の總括が必要です。」

 會津藩が、戊辰戰爭で降伏した九月二十二日に、會津で行なはれる會津戊辰戰爭慰靈の集ひでは、さつそくこの話題が上がつたといふ。しかしながら合祀は、靖國神社の意義を揺るがしかねない問題を孕む。『靖國誕生――幕末動亂から生まれた招魂社』の著者で、歴史家の堀雅昭氏が指摘する。

「靖國神社は、紛れもなく明治維新の官軍對賊軍といふ戰ひの延長線上にある神社です。西郷以下、西南戰爭を戰つた面々は、鹿兒島の照國神社に祀られてゐる。それゞゝの故郷で祀られ、語り繼がれることで、賊軍として戰つた意味や、維新の『負の側面』が語り繼がれます。安易な合祀は、賊軍の行爲まで蔑ろにしかねない。なによりこれを認めたら、靖國神社が依つて立つ歴史的基盤が、をかしくなつてしまひます。

 贊否兩論が渦卷く靖國合祀。當の龜井氏も、敗者側の複雜な思ひを認める。

「新たに合祀する側の遺族の意向は聞きません。なかには、複雜な感情を抱へて、『もう、觸れないでくれ』といふ方もゐるだらうが、これまでも、合祀に遺族の了承は取つてゐない。われゝゝが崇敬の心をもつてお祀りするといふこと。合祀については、あとは宮司の對應を待つのみです。

 折しも平成二十八年の大河ドラマが「西郷隆盛」に決まり、賊軍側に注目が集まつてゐる。靖國神社の歴史觀と自らの信念の間で、宮司は、どのやうな判斷を下すのだらうか。


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【注】は、次稿にて、更めて述べてみたい。
 
 

御讓位の濫觴。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 3日(月)23時30分35秒
返信・引用
  ■『日本書紀』

 伊弉諾尊、神功、既に畢へたまひて、靈運當遷。是を以て幽宮を淡路之洲に構り、寂然かに長く隱りましき。亦た曰く、伊弉諾尊、功、既に至りぬ。徳、亦た大きなり。是に天に登りまして、報命したまふ。仍りて日之少宮に留り宅みましぬ。‥‥



■『古事記』

 天照大御神、高木神の命以ちて、太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に詔りたまはく、「今、葦原中國、平け訖へぬ、と白す。故れ言依さし賜へりし隨に、降り坐して知看せ」とのりたまひき。爾に其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命の答白したまはく、「僕は降りなむと裝束せし間に、子、生れましつ。名は、天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命、此の子を降すべし」とまをしたまひき。



●伊藤博文公『皇室典範義解』

 恭みて按ずるに、皇室の典範あるは、益々其の基礎を鞏固にし、尊嚴を無窮に維持するに於て、缺くべからざるの憲章なり。‥‥將來、已むを得ざるの必要に由り、其の條章を更定することあるも、亦た帝國議會の協贊を經るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は、祖宗に承け、子孫に傳ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又た臣民の敢て干渉する所に非ざるなり。‥‥

第六十二條。將來、此の典範の條項を改正し、又は増補すべきの必要あるに當りては、皇族會議及び樞密顧問に諮詢して、之を敕定すべし。

 恭みて按ずるに、皇室典範は、天皇、立憲を經始したまへる制作の一として、永遠に傳へ、皇室の寶典なり。本條、其の紛更を愼しむの意を致すなり。抑々憲法に據るに、其の條項に改正を要することあるときは、之を議會の議に付し、特に鄭重なる方式に依り議決せしむ。而して皇室典範に於ては、獨り皇族會議と樞密顧問に諮詢するに止まり、憲法と同一の軌轍に依らざるは、何ぞや。蓋し皇室の事は、皇室、自ら之を決定すべくして、之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり。



 愚、謹みて案ずるに、今の度の玉音放送、天皇陛下には、昭和天皇の攝政時代の御囘想を親しく聞召され、或は香淳皇后の御晩年を經驗され給うた上の叡慮に坐しました(『文藝春秋』平成二十八年十月號)。非理法權天なり。畏し矣。

 皇室典範起草に當つた法制家の柳原前光伯、或は井上梧陰子は、「至尊と雖も人類」として、讓位あるが望ましい(皇室典範原案)と述べ、戰後進駐下に、憲法と皇室典範が變更された時も、貴族院に於いて、南原繁議員(東大教授)と佐々木惣一議員(京大教授)の二人が、讓位を認めるべきだと論じた記録が殘つてゐる(市村眞一博士『平成二十八年の秋に思ふ──陛下の「おことば」を拜聽して』──『日本』平成二十八年十月號)由。

 「御意向は、天皇としてのお務めを長年にわたり、全身全靈をもつて果してこられた御體驗をもとに、日本の神々に最も近き座にをられ、人の上に立たれる天皇のお立場について、熟慮を重ねてこられた御省察によるものと拜される。御高齡ゆゑに、『讓位制適用』の御希望を示唆された今囘の御提起は、事柄の性格上、天皇のお立場にあられるお方にしか出來ないことであつた。‥‥退位して、陛下の御一身が樂になるといふためではない。國にとり、國民にとり、また陛下のあとを歩まれる皇族方にとつて、『高齡天皇の御讓位』といふ對策案が、『最も望ましい天皇御在位の在り方』には、必要不可缺と思はれるが故の、率直な大御心の表明であつた」(大岡弘翁『天皇陛下の「讓位の御意向」に想ふ──今上陛下への讓位制の適用について』──『國民同胞』平成二十八年九月十日)。

 天皇陛下には、畏れ多くも「國民の理解を得られることを、切に願つてゐます」との玉音を下し給へり。國民、之を謹まずんば、何をか謹しむ可き。萬が一、此の御「切願」を奉らざることあらむか、皇國の存在意義は、音を立てゝ崩れ、國民精神は、復び興ることはあるまい。
 
 

『御皇室』は不敬、『御英靈』・『英靈達』は誤用なり矣。改めざる可からず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 2日(日)01時42分34秒
返信・引用 編集済
   近年、「御皇室」なぞと申し上げる御方、殊に宗教關係者に多く見られるが、年來、些か可笑しいのではないかと、獨り存じ寄つた所、かつて九段塾塾頭・泉水隆一翁の言擧げに曰く、

「英靈を口にする時、丁寧語のつもりで『ご』をつけて、『ご英靈』と云ふ風潮がありますが、をかしいからやめなさい。『お社長』と云ふやうなものです。『英靈』が尊稱です。それと『英靈たち』と云ふ、『たち』と云ふ言葉は俗語と竝列語なので、これもやめなさい。『英靈』は複數形なので、『たち』をつける必要もなく、また失敬にあたります。確かに合祀祭の祝詞奏上の一文に、『英靈たち』と云ふ言葉はありますが、それは神々に對して、人間側の卑稱として使はれてゐます。小生らにしてみれば、聞き苦しい。靖國神社の廣報でも、ずいぶん注意してゐますが、やはり若い神官が多いので、つい『たち』をつけてしまひがちです。皆さんが正道にもどして下さい。東條由布子さんが、テレビなどで『ご英靈』とよく口にされてゐるので、正しい呼稱のやうに思はれてゐますが、『英靈』と直裁的に口にするのは、ご婦人には言ひにくいので、東條さんは『ご英靈』と言はれてゐるのでせう。あの方は言葉がきれいなので、耳障りが良く聞こえますが、それでも間違ひは間違ひなのです。戰前は、ご婦人方が英靈のことを口にするのは憚かれるきらひがありましたから、なかゝゝ難しいんですね。とりあへず下々の一般人である皆さんが、『英靈たち』・『兵隊たち』・『彼らは』・『日本軍』・『ご英靈』、これだけは禁止事項にされることが望みです。‥‥松平永芳宮司が、最も嫌つたこと、『ご皇室』は無禮。皇』の前に出る言葉は、日本語にはない」と。

 洵に然り。小生は、「御説の通り、『御英靈』は、『御皇室』等と共に、宜しからずと存じます。『御』の一字は氣をつけたいものですね」と應じました。小生が、泉水隆一翁に御挨拶申し上げた、これが當に最初の出會ひでありました。『御皇室』・『御英靈』については、翁の口酸つぱく仰る通り、過ぎたるは及ばざるが如し、却つて慇懃無禮にして不敬と存じます。如何してもと云ふ方には、『皇大御室』・『英御靈』をお勸め致します。然し此の漢語呼稱は、一般に不通ですね。

 敬語の復活こそ、喫緊の課題であります。是れ、皇室の尊嚴を守る所以に他なりませぬ。然し松平永芳宮司は、「『御皇室』てふ日本語は無い」と仰つた。泉水隆一翁は、「『皇』の前に來る字は無い」と申された。かやうな苦言忠告は、聞いても耳に入らぬやうな御方は、一度、伊勢の神宮に拜趨して、彼の大御札を拜戴し、目を瞠つて能く見るがよろしい。さう云へば、「御皇室」なる辭、平泉澄先生の書で、かつて一度も見たことはありませぬ。

 本日、岡田則夫翁より、柿之舍中澤伸弘博士『一般敬語と皇室敬語がわかる本』(平成二十八年七月・錦正社刊。國學院大學にて、神職を志望する學生に向けて行つた講義をまとめたものが基と云ふ)を拜戴した。曰く、

「この頃、『御皇室』・『御皇族』などと、皇室用語に、やたらと『御』を付けることが目立ちます。使用する側は、敬意を表したつもりなのですが、これは誤用です。そもゝゝ『皇』の字は、古代支那において、天帝を意味する重要な字で、容易に使へる文字ではありませんでした。我が國でも鎌倉時代に、伊勢の内宮と外宮の間で、この字の使用をめぐる『皇字沙汰文』などと言ふ爭ひが生じたのも、このためです。『皇』の文字そのものに、恐れ多い敬意がありますから、こゝに『御』をつける必要がありません。その字が、古代支那において、天帝などと關連する敬意のある語の場合は、『御』はつける必要はないのです」と。

 洵に然り。當に援軍、溜飲を下げる思ひであります。亦た最近に目にし、皇民に對して、殊に注意を喚起したいものを、こゝに掲記しておきたいと存じます。



■文部省・昭和十七年六月『標準漢字表・簡易字体』(小池和夫氏『異體字の世界──舊字・俗字・略字の漢字百科・最新版』平成二十五年九月・河出文庫刊に所引)に曰く、

一、皇室典範・帝國憲法・歴代天皇の御追號・詔勅を印刷または書寫する場合には、簡易字体を使用しない」と。



【參考/國語問題協議會編『皇室敬語』(平成二十一年八月刊)】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1069
 
 

有識者会議の人選について

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年 9月26日(月)20時03分37秒
返信・引用
  目下気になるのは、今上陛下の譲位を検討する『有識者会議』。

座長が経団連で、メンバーの中に女系天皇推進論者の御厨がいる。
それ以外の人選で、保守系や皇族方、皇室にゆかり
のある学者・人物が含まれていない。
このメンバーで果たして問題はないのだろうか?


生前退位 菅義偉官房長官、有識者会議設置を発表


 菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で、天皇陛下がご意向を示された「生前退位」への対応に関し、同日付で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設置すると発表した。会議設置の目的について菅氏は「天皇陛下が82歳とご高齢であることを踏まえ、天皇の負担軽減について、予断をもつことなく議論を進める」と話した。

 会議のメンバーは経団連の今井敬名誉会長、東京大の御厨貴名誉教授と山内昌之名誉教授、千葉商科大の宮崎緑教授、慶応大の清家篤塾長、上智大法科大学院の小幡純子教授の計6人で構成する。来月中旬にも初会合を開き、安倍晋三首相も出席する方向で調整している。

 6人の有識者を決定した理由に関し、菅氏は「高い識見を有すると同時に組織の経営、管理や会議の取りまとめに経験豊富な方々だ」と説明。有識者会議の進め方については「憲法、歴史、皇室典範などさまざまな専門的知見を有する方々からヒアリングすると同時に、課題や問題点を整理して国民に伝えて議論を深め、提言を取りまとめる」と述べた。
 

徳川宮司は『明治維新は過ち』と発言したのか?

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年 9月26日(月)19時46分31秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

ご無沙汰ぶりです。昨年以来ですが
少し気になりましたので、投稿させていただきます。

記事を見る限り徳川氏の言葉に、
どこも明治維新が過ちなどという言葉は無い。

徳川宮司が、靖国神社の宮司であり、違った視点からの異論を
話しただけなのに、まるで徳川氏が『明治維新は過ち』と発言してる
ように印象操作している。その『本のタイトル』に『明治維新の過ち』
と記載してあるだけではないか!

本人が発言していないのに、あたかもそういう趣旨で発言し
たように読者に混乱を起こさせている。

確かに、明治維新にも見直さなければならない部分もあろう。
当時のお抱え外国人である、ドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツ
氏も明治のインテリ・エリート層が自国を卑下し、西洋に迎合している
様をみて当惑し・不快感を抱いていた。

そういう趣旨で見直す分野においては十分に行うべし。

>「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。

そんな動きはありません。明治維新を否定的
にとらえた書物が2冊出版された程度ではないか!

例えば近頃やたらに『田中角栄』を誉めそやす
番組が出ているのと同じ流れかな???
 

安倍民主幕府の不逞不忠。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 9月26日(月)18時11分20秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下には、先月八日、御讓位の大御心を宣明あそばされた御事に關して、風岡典之宮内廰長官は、「これから主に内閣官房での檢討になるが、出來るだけ優先的に對應して戴きたい。速かに檢討が進むことを願つてゐる」(平成二十八年九月二十一日・定例記者會見)と述べた。

 安倍晉三「日本國總理大臣」は、之を容認すること能はず、今、目を疑ふべき次の記事に遭遇した。若し事實とすれば、一葉の落つるを見て、天下の秋を察するに足り、一斑を見て全豹を卜するに足れり。首相とは、内奏が可能であるし、畏れ多きことながら更なる大御心の眞意を伺ひ奉る立場であつて、草莽の我々とは違ふ。安倍首相には、其の勇氣も識見も、固より無いと云ふことか。

 所謂るオフレコか否かは知らぬが、「お氣持ち表明に關し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」とか申すゴロツキ、「陛下が思ひとどまるやう、動くべきだつた」とか嘯く不敬の徒輩を明かにせよ。傲然たる態度が見てとれる。之を聞かせ給はゞ、天皇陛下には、如何に思召さるゝや。

 法律は、權・天に勝たず。非理法權天の大旆、高くはためくは、或は近きに在るかも知れぬ。聖上の大御心を遮る者を、君側の奸と謂ひ、明かなる敕語に從はざる者を、逆賊と謂ふ。鼓を撃ち、攻めて可なり矣。



**********


●時事通信・平成二十八年九月二十五日

 宮内庁長官の風岡典之氏が二十六日付で退任し、山本信一郎次長が長官に昇格、後任の次長には、西村泰彦内閣危機管理監が就任する。

 天皇陛下のお氣持ち表明に至る過程で、宮内廰の對應に不滿を持つた首相官邸が、人事で「てこ入れ」を圖つたやうだ。

 宮内廰幹部の異動は春が通例で、風岡氏も、當初は來年三月末まで務めるとみられてゐた。政府關係者は、退任が早まつた理由について「お氣持ち表明に關し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」と語つた。

 陛下の生前退位のご意向が官邸に傳へられて以降、杉田和博官房副長官らは、退位の自由は憲法上認められてゐないと判斷し、負擔輕減策の檢討を進めてゐた。さうした中で、陛下のお氣持ち表明の動きが表面化した。官邸は宮内廰に對し、「陛下が思ひとどまるやう、動くべきだつた」(關係者)と、辛口評價だ。

 宮内廰次長には、事務次官經驗者が、各省の顧問などを經て就任する例が多く、西村氏の「官邸直送」は異例。警察出身者の起用は二十二年ぶりで、同じく警察出身の杉田氏の意向が反映されたとの見方がもつぱらだ。西村氏は、來月から始まる「天皇の公務の負擔輕減等に關する有識者會議」の事務局に、宮内廰を代表して參加する。


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戰後保守の僭上、遂に大權干犯に至る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 9月 5日(月)22時01分22秒
返信・引用
  『「靖國神社」の内紛──「歴史修正」と訴訟沙汰で大搖れ』(『選擇』平成二十八年八月號)

 徳川(康久。慶喜公曾孫)宮司は、「自らの主張は個人的なものにとゞめて、戊辰戰爭をめぐる靖國神社の見解を修正するやうなことはしない」と明言してゐる。ところが、護國神社關係者によれば、今年の職員に對する年頭挨拶で、「理念を見直すことも必要」と、公言したされる。神社關係者の間には、「今後、發言を重ねることで、『歴史修正』を圖らうとしてゐるのではないか」との疑念が募り始めてゐる。

 事は、それだけで收まらない。神道政治連盟國會議員懇談會の龜井靜香衆院議員が、「官軍と同じやうに國を思つてゐた徳川軍や會津軍、西郷南洲翁を祀つてゐないのはをかしい」と、「賊軍」も合祀するやう、徳川宮司に直接要求すると、徳川宮司は、「私もをかしいと思ふ」と、同調したといふ。しかもこの懇談會の會長は、安倍晉三首相その人である。

 龜井氏は、さらに石原愼太郎元東京都知事を卷き込んで、雜誌『月刊日本』八月號の「靖國神社は西郷ら賊軍を祀れ」と題する對談記事で、持論を繰り廣げた。幕府軍・會津藩はじめ、奧羽越列藩同盟・西郷隆盛翁らに觸れて、「彼らも國を想ひながら戰つたことに變はりはない」と、徳川宮司とまつたく同じ見解を示した上で、「恩讐を超えて、全ての犠牲者をお祀りすべきだ」と力説したのだ。‥‥

 石原氏も、「戊辰戰爭・西南戰爭の犠牲者。だつてみんな仕方なしに戰つたんだ。さういふ人たちを慰靈しないのはをかしい」と、首肯してみせた。‥‥平仄を合はせた龜井氏と石原氏の對談が、靖國神社で浮く徳川宮司にとつて、追ひ風に働いたことは間違ひなく、靖國神社の存立の礎を、その根幹から變容させる、強力な援軍になり得るのだ。‥‥

 歴史觀や教義などの形而上的な問題ではなく、徳川宮司が被告となつてゐる、地位確認請求訴訟といふ、極めて通俗的な問題も、この社の背に重くのしかゝる。訴訟は、職員に對するパワーハラスメントを理由に、神職から事務員に降格された元權禰宜が、懲戒處分の無效と權禰宜の地位にあることの確認を求めて、東京地裁に訴へたものだ。‥‥

 裁判は、六月から始まつてゐるのだが、事情を複雜にしてゐるのは、この元權禰宜と徳川宮司が、國學院大學文學部神道學科の同級生であること。しかもその縁で、芝東照宮の權禰宜を務めてゐた徳川氏が、靖國神社の宮司に招かれたといふ經緯があるからだ。いはゞ元權禰宜は、本來なら徳川宮司の側近中の側近であるはずだが、パワハラを理由に降格と譴責といふ、嚴しい懲戒處分を受けたのだ。

 さらには、そのパワハラの内實が、昨年十月、秋季例大祭に參列した皇族に供するお菓子を、掃除中の女性職員が、擔當でもないのに受け取り、これを目撃した元權禰宜が叱責したことなのだといふ。皇族の口に入る食品の安全確保といふ、危機管理の觀點からすれば、今後、同樣のことがないやう注意を促すのが當然だが、元權禰宜だけが處分された。さすがに靖國神社内にも、この扱ひを疑問視する聲が噴出したといふ。

 處分を主導したのが、元權禰宜と疎遠だつた幹部職員であつたことから、「徳川宮司といふトツプを挾んだ權力鬪爭の結果」といふ見立てのほか、「神社のあり方と運營方針をめぐる對立・混亂の象徴」との解説まで囁かれてゐる。眞相は、まだ藪の中だが、この不可解な處分の背景にある神社内の確執が、裁判を通じて表沙汰になる公算が大きい。


**********


 愚案、靖國神社創立の由緒、即ち明治天皇の聖旨である「理念を見直すことも必要」と嘯く、徳川康久宮司。「『わが國の眞の自立と再生』をキヤツチフレーズとする民族系の保守雜誌として、右派の關係者に愛讀されてをり、その影響力は看過できない」と云ふ『月刊日本』。共に其の識見、其の志向を知るに足る。

 抑も此の戰後保守共、一體、靖國神社を何だと思つてをるのか。何でも吼えれば、己が思ひ通りになるとでも‥‥。何なら、何處ぞの宗教法人でも乘取つて、「新たなる崇敬神社」でも創めては如何。別格官幣社たる靖國神社には、關はり無いことである。
 
 

大御心を仰ぎ奉らば、直ちに御應へ申し上げる道を講ず可し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 8月11日(木)18時46分20秒
返信・引用 編集済
  平成二十八年八月八日の玉音

 戰後七十年といふ大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎へます。私も八十を越え、體力の面などから、樣々な制約を覺えることもあり、こゝ數年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思ひを致すやうになりました。

 本日は、社會の高齡化が進む中、天皇もまた高齡となつた場合、どのやうな在り方が望ましいか、天皇といふ立場上、現行の皇室制度に具體的に觸れることは控へながら、私が個人として、これまでに考へて來たことを話したいと思ひます。

 即位以來、私は國事行爲を行ふと共に、日本國憲法下で、象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつゝ過ごして來ました。傳統の繼承者として、これを守り續ける責任に深く思ひを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあつて、日本の皇室が、いかに傳統を現代に生かし、いきゝゝとして社會に内在し、人々の期待に應へていくかを考へつゝ、今日に至つてゐます。

 そのやうな中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加へて高齡による體力の低下を覺えるやうになつた頃から、これから先、從來のやうに重い務めを果たすことが困難になつた場合、どのやうに身を處していくことが、國にとり、國民にとり、また私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考へるやうになりました。既に八十を越え、幸ひに健康であるとは申せ、次第に進む身體の衰へを考慮する時、これまでのやうに、全身全靈をもつて象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じてゐます。

 私が天皇の位についてから、ほゞ二十八年、この間、私は、我が國における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして來ました。私はこれまで、天皇の務めとして、何よりもまづ國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考へて來ましたが、同時に事にあたつては、時として人々の傍らに立ち、その聲に耳を傾け、思ひに寄り添ふことも大切なことと考へて來ました。天皇が象徴であると共に、國民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が國民に、天皇といふ象徴の立場への理解を求めると共に、天皇も、また自らのありやうに深く心し、國民に對する理解を深め、常に國民と共にある自覺を、自らの内に育てる必要を感じて來ました。かうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は、天皇の象徴的行爲として、大切なものと感じて來ました。皇太子の時代も含め、これまで私が、皇后と共に行つて來た、ほゞ全國に及ぶ旅は、國内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同體を地道に支へる市井の人々のあることを、私に認識させ、私がこの認識をもつて、天皇として大切な、國民を思ひ、國民のために祈るといふ務めを、人々への深い信頼と敬愛をもつてなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齡化に伴ふ對處の仕方が、國事行爲や、その象徴としての行爲を限りなく縮小していくことには、無理があらうと思はれます。また天皇が、未成年であつたり、重病などにより、その機能を果たし得なくなつた場合には、天皇の行爲を代行する攝政を置くことも考へられます。しかしこの場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまゝ、生涯の終はりに至るまで、天皇であり續けることに變はりはありません。

 天皇が健康を損なひ、深刻な状態に立ち至つた場合、これまでにも見られたやうに、社會が停滯し、國民の暮らしにも樣々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に當たつては、重い殯(もがり)の行事が、連日ほゞ二ケ月にわたつて續き、その後、喪儀に關連する行事が、一年間續きます。その樣々な行事と、新時代に關はる諸行事が同時に進行することから、行事に關はる人々、とりわけ殘される家族は、非常に嚴しい状況下に置かれざるを得ません。かうした事態を避けることは出來ないものだらうかとの思ひが、胸に去來することもあります。

 始めにも述べましたやうに、憲法の下、天皇は國政に關する權能を有しません。さうした中で、このたび我が國の長い天皇の歴史を改めて振り返りつゝ、これからも、皇室が、どのやうな時にも、國民と共にあり、相たずさへて、この國の未來を築いていけるやう、そして象徴天皇の務めが、常に途切れることなく、安定的に續いていくことを、ひとへに念じ、こゝに私の氣持ちをお話しいたしました。

 國民の理解を得られることを、切に願つてゐます。


**********


●『梅松論』卷六「天下一統の事・元弘三年」に曰く、

「古に興癈を改めて、(後醍醐天皇には、)『今の例は、昔の新儀なり。朕が新儀は、未來の先例たるべし』とて、新なる敕裁、漸く聞えけり」と。



●廣瀬豐海軍大佐講述『松陰先生士規七則』に曰く、

「吉田松陰先生は、後年、幕府が敕命に從はずに、米國と通商條約を結びましたときに、長州藩の役人どもが、『今にも天皇樣の思し召しがお變はりになるかも知れないから、しばらく天下の形勢を見てゐたらどうだ』といふ意見がありましたときに、先生は、『たゞ今は、たゞ今の敕命を奉じてをればよい。もし後で思し召しがお變はり遊ばされたならば、またその通りに行へばよい。これが日本人の第一義である。なにも躊躇する必要はない』と、意見を上申されてをります」と。

 愚案、『要路の役人に與ふ』(安政五年七月十三日。全集第四卷に所收)に曰く、

「(叡慮)改まり候ふ共、叡慮に隨ひ候はゞ、道義において、何の不可あらんや哉」と。

天皇陛下には、固より法律に超然たり。叡慮遵奉、是れ皇國の道義、皇民の基礎なる可し矣。



 テレビも新聞も、「生前退位の意向」と大書せり。何だ、この言の葉は──。これが進駐日本語なるものか。何故ゑ、「御讓位の叡慮」と書かぬ。歴史的用語、敬語を知らぬ訣ではあるまい。故意に、汚き言靈を撒き散らして憚らぬ、癡者共なるかな哉。呆れ果てゝ、五内、爲めに裂かんとす。

 明治天皇には、不磨の憲法典を定めさせ給うた。昭和天皇には、進駐憲法の破棄せられざる中、皇國の再建に當らせ給ひ、今上天皇、亦た「象徴」てふ新しき在り方を探らせ給ふ。明治天皇、皇室典範を埀訓し給へり。然れば平成の天皇陛下、讓位の舊制を復興させ給ふこと、如何でか成し能はずと云ふこと無からむ矣。神さびたりとも、神さびたり。

 小堀桂一郎は、かつて己の意見が通らねば、所謂南北朝の再來を先導せむと放言せし逆賊。「何よりも、天皇の生前御退位を可とする如き前例を、今敢へて作る事は、事實上の國體の破壞に繋がるのではないかとの危惧は、深刻である。全てを考慮した結果、この事態は、攝政の册立を以て切り拔けるのが最善(平成二十八年七月十六日・産經新聞)とは、不敬が過ぎて、耄碌も甚だしいと謂ひつ可し。夫れ「太上天皇」の濫觴は、伊弉諾尊の「日之少宮」御隱棲に在り。宇内統治の大權は、天皇陛下、之を執らせ給ふは、伊弉諾尊の御依任を承け給へる、至高至貴の天照大神に同じい。

 案の定、チヤンネル櫻の政治ゴロが吼えてゐる。何でもかんでも、女系云々に結びつけ、謀略と妄斷して、保守を僞裝しながら、世を扇動して已まぬ。又候ろ、デモもやりかねない勢ひ。西尾と云ひ、小堀と云ひ、水島と云ひ、此の類、どうにかならぬか。如何に言葉を飾らうとも、不敬至極、實に憎む可し。吁、腹悶、醫し難し。

 水島総等の曰く、「陛下の御心を忖度すべきでは無い」と。ほんとかね。皇國の大事に關することは、遙かなる大御心を思ひ、小生は之を考へることにしてをるのだが‥‥。彼奴等は、蓋し天○機關説の連中だから、私見が何より優先なるべし。私見、即ち「從我の心は、何より起ると尋ぬるに、私欲のみ」(『講孟箚記』)。また一歩を轉ずれば、則ち謀叛の萌芽なり。未然に討つて可なり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2459

 『正論』平成二十八年九月號に、八木秀次なる者の投稿。「天皇陛下は、ご自身が在位して頂くだけで十分にありがたい」として、「公務の輕減が、陛下のご意向にかなふのではないか」と、獨り勝手に推論し、あまつさへ「別なテーマでもご意向が示されることがあるとすれば、皇室の尊嚴が傷つくことにもなりかねない」さうだ。何だ、これは。法律馬鹿の機關論者、御仲間が、何と衆きことよ。

 安倍晉三首相は、第二囘目の夏季休暇にて、ゴルフに興じ、更に歸省を圖る由。大御心を仰ぎ奉らば、直ちに御應へ申し上ぐべく、直ちに命令を發す可きに、天皇陛下の御下問に對し奉り、言を左右にして、公論世論の動向を待つ爲體。時間を措いたら、「憲法に抵觸する」ことを免れる由。笑止千萬、何をか曰はんや。此の識見からしても、全く期待することは出來ない。

 「萬機、公論に決すべし」。是れ即ち明治天皇の、有り難くも示され給うた大原則だ。昭和天皇、畏くも紹述され給ふ。然し、だ。知らずや、宇内には、此の公論にも優先される大事あつて、新たなる大御法となることを。大御心を、只管ら仰ぎ奉れ。大御心には、皇大御神の經綸が沿はせ給ひ、新儀・先例となる矣。「承詔必謹」、此の四大字、是れ有るのみ而已。畏くも發せられ給ひし「」なる叡慮に對し奉り、皇民たる者、直ちに御應へ申し上げる道を講ず可きなり。
 
 

泉水隆一監督を御偲びして‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 7月12日(火)23時50分35秒
返信・引用 編集済
   今から數へて十五年前、平成十四年の「七月十三・十四日」は、靖國神社遊就館に於いて、泉水隆一監督作品『凛として愛』が上映されましたが、「十五日」には、總代の小田村四郎等の策謀に因つて中止させられました。有志には、泉水監督の肉聲を、是非とも御聞き下さい。
  ↓↓↓↓↓
【ニコニコ動畫】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
【九段塾版筆記】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1076

■泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』
【九段塾版筆記】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1075

 而して平成二十二年七月「十六日」に歸幽、今から七年前の事であります。復び遊就館に於いて、『凛として愛』が上映される日は、果して來るのであらうか。否、只管ら其の日を期し、祭神の導く所、熱く御待ち申し上げたいと存じます。

 現在の靖國神社宮司は、「官軍」を「西軍」と稱し、敢へて歴史の改竄を犯すのみならず、遂に「聖旨」を、明確に否定するに至りました。宮司の思惑の如何にかゝはらず、理の趨く所、遊就館の閉鎖も‥‥。當に靖國神社「祭祀の危機」と謂はねばなりませぬ。一人でも多くの御方が、今こそ、九段塾々頭・泉水隆一監督の志を繼承し、且つ恢弘されむことを、懇祷して已みません。敬白
 
 

絶望的だからこそ‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 7月 9日(土)13時44分11秒
返信・引用 編集済
   本日、岡山縣愛國者協議會の岡田則夫翁より、荒魂之會『會報あらたま』平成二十八年七月十日發行第百五十九號(千葉市の駒井鐵平翁主宰)を郵送して戴いた。本間一誠氏『「あらたま刊行四十周年」の囘顧』より、

「四十年以上前の荒魂之會發足以來、ずつと變らない緻密な年間計畫を以て、現在も營々と會が運營されてゐることには驚嘆するばかりで、強い信念と使命感なくして出來ることではない。例會における年間の課題圖書として、毎年提示されてゐる書物を見ても、そのレベルの高さと志操の一貫性には、脱帽の他はない。それに比べれば、ろくな勉強もせず、殆ど空しく流れた己の數十年が悔やまれるが、今更仕方がない。‥‥

 昭和五十七年六月、東京で福田恆存氏を圍む、あらたまの懇談會があつた。席上、福田氏は、『正假名遣については、もう絶望的でせう』と發言された。それを聞いて、咄嗟に、『私どもは、先生の『私の國語教室』を讀んで覺醒したのです。當の先生が、さう仰有られても困るのですが』と、愚かなことを言つてしまつた。忽ち福田氏の面上に、嚴しい色が表れ、

絶望的だから、いいんです。絶望的だからこそ、人生は生きるに値するんです

と、強く叱責された。あの時の恥づかしさは、今に忘れられない。今年、小學校に入學した初孫の國語教科書を見た。學年別漢字配當もそのまま、文章の幼稚さも、四十年前と、何も變らない。何も、である。あの時の福田氏の激語が、耳朶を打つ」と。



 昨日、高校の同窓生より電話あり。何してゐるのと問へば、何と、元空軍一佐の由。親米與黨に一票を、と。世は、選擧一色、絶望感が漂ふ‥‥。共○黨や公○黨と與む者、邪蘇教徒に、入れる心算は、固より無い。

 穗積八束博士『憲法提要』に曰く、 「皇位と國家とは、合して一體と爲す。其の合一する所以は、天皇の意思、即ち國家意思を爲すことに存す。略して之を言へば、天皇、即ち國家たり」と。然し天皇即國家論は、「日本のため」と、皆な云ふ現代では、誤解を招く。事には、本・末、前・後あり。第一義は、尊皇に存し、國益・利民は、其の次だ。先づは尊皇の大義、國體の闡明を掲げよ。

 千家尊福大人の曰く、「上は天皇陛下の御爲め、下は國家・國民の爲め、幸御魂・奇御魂を鮮明にし、忠誠を以て、皇基を擁護すると同時に、和衷共同、以て事に當られんことを」と。國家・國民の事は、暫く措け。上、第一義が確固たらば、下、自から成らむ。第一義を高く掲げぬ者、小生は、之を信用しない。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/54
 
 

艸木もの言ふ、此の現の世に生きて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月24日(金)19時02分13秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●佐久良東雄大人の哥

かゝる時 心のどかに ある民は 木にも草にも 劣りてあるべき



 『週刊ポスト』平成二十八年七月一日號を拜見。

 徳川康久宮司の曰く、「私は、賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。たゞ價値觀が違つて、戰爭になつてしまつた。向かふ(明治政府軍)が、錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が、賊軍になつた。この問題を、堂々と提起していく」と。

 此の「こちら」と云ふ物云ひ、ありもしない「西軍」の稱の改竄‥‥、當に公私混同、靖國神社宮司として不適格の證でせう。「向かふ」である祭神は、如何に思召されたであらうか。慶喜公は公爵の榮を賜はり、名譽囘復はされてをります。此の上に、何を御望みですか。曾祖父公の如き謹愼は、片影も窺はれず、なほも「堂々と問題を提起」されるさうです。此の放言、此の爲體、日々の祭祀は、嚴重敬肅となり得ませうか。何方か、明治天皇の聖旨を、大御心を、御傳へ申し上げて下さい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t2/3

 大原康男氏の曰く、「官軍・賊軍は、當時の見方にすぎず、歴史には、その時々の觀點がある。宮司は、歴史解釋の見直しや、幕府側戰死者の合祀を望んでをらず、特段の問題はない」と。

 大原先生、變られましたなあ。萬物、流轉して已まざるものゝ中に、不易の道を求めることは、もう、諦めましたか。徳川宮司への諂ひにも似て、見苦しいですぞ。此の言葉、祭神に向つて申し上げられますか。「合祀」は望まずと雖も、「鎮霊社」とやらの施設で、「幕府軍戰死者」を呼び込んでをられます。大きなる「問題」ではありませぬか。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t5/3

 なほ安倍晉三首相は、會津に於いて、「先輩が迷惑をおかけしました」と挨拶した由。世の中、此の手の部類が衆いのでせうね。それにも拘らず、首相は、迷惑をかけた先輩を祀る「靖國神社を參拜したい」と。ちと、平仄が合ひませぬなあ‥‥。政治家特有の二枚舌、或は八方美人でせうか。誠と云ふものが、全く見えません。參拜は遠慮されむことを、強く切に御勸めいたします。

 靖國神社宮司が、創建の御趣旨に、堂々と問題提起すると云ふ、耳を疑ふが如き靖國神社存立の危機に對して、吾人は、更めて聖旨を拳々服膺し、あくまで松平永芳・大野俊康兩宮司の精神に立ち復るべきであります。此の精神に復らむと欲するの間には、色々なる艱難辛苦がありませうが、少しも之を恐れず、日々嚴肅に、且つ快活に、各々の本分を盡し、謹んで聖旨を奉戴し、大御心に應へ奉ることを御誓ひ申し上げようではありませんか。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50
 
 

靖國神社宮司不適格の發議を。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月20日(月)22時10分14秒
返信・引用 編集済
   靖國神社、遂にこゝまで來たか、の感を深うする。

 泉水隆一監督『靖國神社の眞實』(平成二十二年十二月・二十四年四月・洛風書房刊)を讀んで下さつた方々は、既に御承知の筈。泉水隆一翁の豫言が、遺憾乍ら、的中してしまひました。本道に無念です。

 泉水隆一監督の曰く、「いづれの宮司も、覺悟信念は、尋常ではなかつた。それが、靖國神社の正統を繼承し續けて來た。それが、今は絶えようとしてゐる。俗化したからである。覺悟を祕めた宮司、不在のためである。松平・大野宮司退任以降、俗塵が舞ひ上がる一方である。神社が俗なら、集ふものも俗人ばかりとなる。次の宮司は、誰か──。まさか、南部家に繼いで、徳川家にゆかりの者でないことを願ふばかりである。神聖神域に、ほど遠くなりつつある現在の靖國神社を、嚴肅正統に復歸させる。明治天皇の聖旨に從ふべき道筋に戻すには、尊皇一筋の者でなくてはならないが、果たしてそのやうな者が、現今、ゐるものかどうか」と。

 松平永芳・大野俊康兩宮司の悲願を否定して來つた、湯澤貞・南部利昭・京極高晴・徳川康久の歴代宮司の罪は、萬死に價する。「鎮霊社」を公開した以上、今日の宮司發言の出づる所以は、蓋し既定路線でありませう。「怨親平等」とか、中子の教義を靖國神社に持込んだ、「神佛分離令」を批判する總長を戴く神社本廳の意圖を感じざるを得ませぬ。

 明治天皇の聖旨を否定し、私見を逞しうする靖國神社宮司‥‥。「公私混同」は現代の流行ださうだが、宮司になるべからざる御方は、固より宮司職を拜辭すべきでありました。吉田松陰先生『講孟箚記』に曰く、「天子の命を奉ぜずして、敵國相征するは、何程の正義に依ると云ふとも、義戰にあらず」と。「價値觀の相違で、戊辰戰爭になつてしまつた」と云へば、大義名分は立たぬではないか。皇國の教學は、何處に在りや。相對價値の個人主義者では、靖國神社宮司は勤まるまい。總代會の臨時開催を、強く希望したい。

 靖國神社第十一代宮司・徳川康久氏は、徳川慶喜公の令曾孫と云ふが、其の「血統」は傳へ得ても、義公以來の水戸學の「道統」は繼承してをられぬやうだ。遊就館に寶藏される「錦旗」は、畏れながら、代々木大神樣へ奉還されるが宜しいか、と。
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靖國神社の徳川康久宮司「明治維新といふ過ち」發言の波紋 /平成二十八年六月二十日

 靖國神社が搖らいでゐる。來る平成三十一年に迎えへる創立百五十周年に向けて、徳川康久宮司が語つたインタビユー記事の發言が、波紋を呼んでゐるのだ。

 記事は、共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(靜岡新聞六月九日付、中国新聞六月十日付)に掲載されたのみだつた。ところが、地方でしか讀まれないはずの記事が、各界の識者の注目を集め、にはかに論爭へと發展してゐる。

 徳川宮司は、靖國神社が抱へる課題や、神社の將來像について語つた後、「明治維新を巡る歴史認識について發言してゐますね」といふ質問を受けて、自らの「明治維新史觀」を開陳した。以下が、宮司の發言だ。

『文明開化といふ言葉があるが、明治維新前は、文明がない遲れた國だつたといふ認識は間違ひだ、といふことを言つてゐる。江戸時代はハイテクで、エコでもあつた。』

私は、賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。ただ價値觀が違つて、戰爭になつてしまつた。向かふ(明治政府軍)が、錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が、賊軍になつた。

 一連の發言が波紋を呼んだのは、靖國神社創建の「原點」に關はるからだ。靖國神社のルーツは、明治二年に建てられた東京招魂社に遡る。

 明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と、徳川家や會津藩が中心の「幕府軍」が爭ふ「戊辰戰爭」が勃發。勝利を收めた明治政府軍が「官軍」、敗北した幕府軍は「賊軍」とされた。

 この時、明治維新を偉業として後世に傳へ、近代國家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰靈顯彰するため、明治天皇が創建したのが、東京招魂社だ。明治十二年に、社號が「靖國神社」と改められて、現在に至る。

 それゆゑに「賊軍對官軍ではなく、東軍對西軍」とする發言は、靖國神社の歴史觀を搖るがしかねないと受け止められたのだ。

 靖國神社にある遊就館に展示されてゐる「錦の御旗」には、「戊辰戰爭で、官軍の象徴として使用された」との解説があるやうに、靖國神社の見解は、あくまで「明治政府軍=官軍」だ。

 發言の背景には、徳川宮司の出自が關係してゐる。徳川宮司は、徳川家の末裔であり、「賊軍」の長であつた十五代將軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀つた芝東照宮に奉職した後、靖國神社の宮司になつた。「賊軍の末裔」が、「官軍を祀る神社のトツプ」に立つたわけである。

 「明治維新史觀」の見直しは、最近のムーブメントだつた。昨年一月に發賣された原田伊織氏の『明治維新といふ過ち──日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)が、ベストセラーになつたことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋經濟新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立つた歴史觀を見直す論考が、相次いで發表されてゐる。

 その流れで、徳川宮司の發言が飛び出したことで、騒動が擴大してゐるのだ。著書で、「薩長史觀」を鋭く否定した原田氏は、徳川宮司に同調するかと思ひきや、意外にも「發言は中途半端」と手嚴しい。

「明治維新當時、東軍・西軍といふ言葉は、ほぼ使はれてゐません。徳川家や會津藩に賊軍といふレツテルを張つたのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問はず、當時、ありもしなかつた言葉に置き換へて流布するのはをかしい。また靖國の持つ歴史觀を見直さないのは、欺瞞です。「官も、賊もない」と言ふならば、まづ靖國神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」

 そんな意見が飛び出すほど、今回の發言は衝撃だつた。波紋が廣がる徳川宮司の發言について、靖國神社は、「創建の由緒から鑑みて、『幕府側に對する表現や認識を修正すること』を、神社として行なふ考へはなく、今後も同樣の考へが變はることはないとの發言と、理解してをります」と囘答した。

 宮司は、百五十年間封印されてゐた、パンドラの箱を開けてしまつたのか。

※ 週刊ポスト/平成二十八七月一日號
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http://news.livedoor.com/article/detail/11663872/

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祭政一致、億兆一心、世界一家を邪魔するもの──天○機關説を討て。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月18日(土)21時46分29秒
返信・引用 編集済
   平泉澄博士『明治の光輝』(昭和五十五年五月・日本學協會刊)には、「戰爭に對して反對があるにしても、國敗れて慟哭し、國家と浮沈苦樂を共にするは、忠良なる國民正常の感情でなければならぬ。彼等には、それが無いのである。無い者が國立大學に據り、學界に横行してゐるのである」として、
一、法學博士宮澤俊義
一、文學博士和辻哲郎
一、法學博士石井良助
一、評論家伊藤正徳
等の、掌をかへすが如き變節改論、諛悦側媚の事例を紹介してをられる。「棺を蓋うて、事、乃ち定る」(昌黎韓退之『同峽冠詩』)。

 葦津珍彦翁も、『神國の民の心』(昭和六十一年十一月・現代古神道研究會發行・島津書房刊)に於いて、
一、柳田國男
一、折口信夫
等の裏切りを指摘して、餘蘊が無い。我々も、うかゝゝとしてはをれません。
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 『漢書』成帝紀・隆朔二年九月條に曰く、「詔して曰く、古の大學を立つるは、將に以て先王の業を傳へ、化を天下に流さんとする也。儒林の官は、四海の淵原なり。宜しく皆な古今に明かにして、故きを温ねて新しきを知り、國體に通達すべし。故に之を『博士』と謂ふ。否らざるときは則ち學者、述ぶること無し焉。下の輕んずる所と爲る。道徳を尊ぶ所以に非ざるなり」と。蓋し博士號の亂發は、嚴に之を愼まねばなりますまい。既に授與の榮を賜つた方々は、博士の謂ひを根源に溯つて能く反省し、鋭意、國體明徴に勵まれむことを、切に祈るものであります。



●沒後五十年記念『頭山滿翁寫眞傳』(平成五年八月・頭山滿翁顯彰奉贊會刊)に曰く、

「神も神、(頭山滿翁の)床の間に安置されたる注連飾りの御箱の中には、畏くも明治天皇の尊像が神鎭まりに鎭まらせ給ふのである。その御傍らに、翁の郷里、福岡博多の人形師が、特に作つて、東郷元帥と翁とに贈つて來た、西郷南洲翁の像が、其の昔、南洲翁が、天皇の側近に奉仕せし當時を偲ばせてゐる。軸物は、翁の心友、杉浦重剛翁の筆蹟で、『大其心、容天下之物‥‥云々』とある。

 『祭政一致、億兆一心、世界一家』は、翁の信條である。即ち翁曰く、

『畏れ多いことであるが、私は、この皇國に生を享け、日本人として育つたことを、唯一無二の幸福と感じて居る。皇祖皇宗より傳へ給へる、宇宙一貫の天業ありて、目ざすところは、神を敬ひ、皇室を尊び、億兆、心を一にして、世界を一家とし、この世を和氣藹々の樂土となさんことである。この事たるや、神の既に定められた所であつて、たゞ其の實現の年月を、人智を以て計り知ることが出來ないだけである。私は一生の念願として、成るべく速かにそれを實現せしめ、以て皇恩の萬分の一に報い奉りたいと思ふ。どうか、日本國民全部、否、世界人類の凡てが、自己一身の利害損得を忘れ、無我の境地に心身を置いて、覆載の下、渾てを人類及び萬生の樂土となすの襟度あるに於ては、如何に吾等の生存をして樂しからしめるであらう。而して此の大使命は、日本民族が、古來傳統の純白無二の國魂を根幹として起つてこそ、始めて達し得るものである』と。

 而して翁が、二十歳頃から今日に至るまで六十年間、愛國の至誠に燃ゆる不屈不撓の努力は、相踵いで起る國家の内憂外患に對して、如何に匡救是正の手段を盡したか、計り知られぬものがある。數年前、或る新聞記者が、翁を訪うて、『近來の思想問題について、先生の御考は‥‥』と質問した時、翁は、言下に、

私にも、責任がある‥‥、根底を離れ、上調子で、洵に困つたものぢや

と慨せられ、翁は、翁自身の力、未だ世を救ふに足らざるを嘆くが如くに思はれて、翁の國士としての責任感の強烈なるに三嘆した、と云ふ記事を見た事がある。

 例へば『學問の自由』の名の下に、非國家的思想を醞釀せる學者等の、恐るべき言説の如きは、全く始末に終へないものであつた。吉野一派の學説に對する、翁を盟主と仰ぐ浪人會の立會演説など、その排撃運動は、二昔も前の事になつたが、近くは美濃部一派の機關説排撃運動は、翁を中心に仰ぐ國體擁護聯盟に依つて、國民運動を代表して居る。昭和十年三月八日夜、日比谷三信ビル内に、頭山翁の名に於て、民間志士の巨頭を會した時、翁の述べた言葉は、簡單ながらも、赤心報國の至誠、來會者の胸を打ち、其の後の運動に、偉大なる力を與へたのである。思ふに、『極天、皇基を護る』は、頭山翁畢生の念願である。翁及び其の同志の努力は、必ずや天壤無窮の國體に關する邪説を一掃して、片影だになからしむるであらう」と。



【參考・國史を顧みざる學者】
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日本に立たず むなしきろかも

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月10日(金)22時35分21秒
返信・引用
   影山正治翁の歌集『みたみわれ』(昭和十六年四月・ぐろりあそさえて刊)の首、

山も裂かん いきどほりあり 捕はれて ひとり默(もだ)して 國を思へば

から始まり(「事破れ獄に下りて」昭和八年七月)、『續・日本と共に』(昭和五十七年五月・大東塾出版部刊)のいやはての哥は、

身一つを みづ玉串と ささげまつり 御代を祈らむ みたまらとともに
民族の 本ついのちの ふるさとへ はやはやかへれ 戰後日本よ


であつた(「辭世」昭和五十四年五月二十五日)。『續・日本と共に』卷頭には、淺野晃翁の序があつて、

「君(影山翁)は、神のまにまに祈り、行じ、戰ひ、斃れた。それは、湊川の道、城山の道であつた。君は、鹿兒島での大西郷百年祭に列し、

百年の 憂ひを憂ひ 百年の 祈りを祈り 斃れたまひき

と詠んだが、それは、そのまま君の生涯を詠んだものとなつた」とある。時勢にかまけて、翁の哥を抄することを許されたい。



●影山正治翁の哥集『續・日本と共に』から(昭和五十一年)

「ひそかに慷慨して詠める歌」
責むるもの 責めらるるもの なべてみな 日本に立たず むなしきろかも
いづれもが いづれも叫ぶ 民主主義の 危機とふ叫び むなしきろかも
ぬばたまの いづれ烏の 雌雄ぞも 黒が黒きを あざ笑ふあはれ
黒と黒が 白旗と赤旗を 振るあはれ ポツダム體制 討つべかりけり
石を投ぐる 資格ありやと 保守内紛 あざ笑ふ革新に 資格あらなくに
反米を 云ひ來しものも 草も木も ふるアメリカに 片なびくあはれ
ロツキード・ アメリカ謀略の なまぐささ にほひただよふ 秋津島根に
草木みな もの言ひにける 天の岩戸 神代のことも 思ほゆるかも
天の岩戸 おし開かれて 朝日さし 草木もの云ふ やめにけるかも
「もてる國」 「もたざる國」と いふがありき 核武装のことに あらざりにけり
「もてる國」が 「もたざる國」に 口をぬぐひ 人道主義を 説きゐたりけり
「もてる國」に 「もたざる國」が たまりかね 自由平等 ぶつけたるかな
核武装 「もたざる國」に 「もてる國」が 恥ぢらひもなく 人道を説く
核武装 「もたざる國」が 「もてる國」に 自由平等 迫る日あらむ
おろかなる 核三原則を おろかにも 與野黨が叫ぶ おろかなるかも
核大國 米・ソに先づは 云ふべかり 核三原則は 汝等守れと
占領下に われは米・ソに 云ひたりき 軍備全廢は 汝等行へと
有つべくは 我等にもまた しからずば 汝等こそは 棄つべかりけり

「日韓の橋を」
獨立が ひき裂かれたる 民族の 分斷を生めり 悲劇なるかも
民族の 分斷の龜裂 まざまざと 韓半島の 秋は深しも
敗れたる 日本は統一を 保ち居り 分斷と半獨立を 内にもちつつ
生れ出づる 惱みは深し 極東の 大き民族 惱みつつ行く
全世界の 再生はあらむ 極東の 兩民族の 再生の上に
新世界の 生れ出づる惱み きびしければ 有志相寄り 行くべかりけり
日韓の 教育・文化の 交流と 一口に云へど 多難なるかも
たてまへと 本音の二筋 道を越え 誠一すぢに 結ぶべきかな
民族を 越えて一すぢに 貫通する 誠誠の 結び見むとす



【孤忠悲しき朴鐵柱之命――日本を愛しぬいた一韓國人の生涯】
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明治維新は、寺田屋の一室より出づ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月 4日(土)23時14分22秒
返信・引用
   先般、京都伏見の逆旅寺田屋にて、坂本龍馬紀直柔氏の詩を得たり。

天顔咫尺、如何とす可けんや、
憤涙潸々、短嚢に濺ぐ。
自ら得たり、樹皮に十字を書(兒島高徳公の故事)するを、
從來、志を述ぶるに、多きを須(もち)ひず。
  龍馬、書す。

 薩摩藩の定宿に指定せられたる旅籠(はたご)寺田屋は、九烈士殉難の地と云ふよりも、現在は、薩藩の賓客・坂本氏を喧傳せり。寺田屋は、何時しか、坂本氏一人の獨擅場の如き爲體にして不可思議、些か遺憾なり。件の詩は、兒島高徳公の戀闕の至情を詠込み、坂本氏の詩として、之を推したい。



 有馬新七平正義先生の哥(文久二年正月二十四日)

天雲の 向伏す國の 丈夫の 思ひ充滿す 眞心は 霞と共に 大空に 立渡ける 隼人の はやくも急ぎ 鳥が啼 東の國に 行向ひ 千千に心を 盡しつつ 荒びなす 醜の醜臣 打拂ひ 功業立てなむ 其時に 我もやがて 敷嶋の 平の都に 馳參て 錦の御旗 大内の 御山をろしに 吹靡かせ 我大君の 大御心 靖奉りて 大御代の 御代の光りも 外國に 彌耀し 常しへに 動きなく 仕へ奉らむかも

外國も 承服ひ奉れ 大君の 御稜威の光り 徹るかぎりは

 「おいごと刺せ」の有馬正義先生、其の凭りかゝりたるは、寺田屋一階の白壁なるを確認す。「今高山」こと有馬先生は、崎門道義の學の正系にして、大西郷の兄事せし俊英なるも、大久保甲東により讒せらる。有馬先生、御一新後に在れば、南洲を指導して宜しきを得べく、維新の情勢、如何ばかり變つてゐたことであらうか。下記は、かつて紹介した所であるが、小補再掲して、清鑑に供す。
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●川田甕江翁『薩藩九烈士遺蹟表』(京都伏見の逆旅寺田屋邸前の碑文)

 大丈夫、事を擧ぐるや、必ずしも身に其の功を收めず、後人をして繼起せしめ、以て吾が志を成さしむ。則ち元(かうべ)を喪ひ、斷脰(斬首)さるゝも、亦た憾む所ろ無きは焉、何ぞや哉。志、天下國家に在りて、一身の謀を爲すに非ざるが故ゑ也。

 往時、幕府の失政、内訌外侮、衆心乖離す。識者、皆な知る、師を起し罪を問ひ、以て王權を復するの急務爲るを。然るに之を士大夫に告ぐるに、則ち曰く「時機、未だ至らず」と。之を侯伯に告ぐるに、則ち曰く「時機、未だ至らず」と。乃ち之を公卿・縉紳に告ぐるに、亦た曰く「時機、未だ至らず」と。嗚呼、坐して時機を待つ、日、復た一日、孰れか能く身を挺して難を發(ひら)かんや。

 是に於て薩藩九烈士、同志を糾合し、奮つて兵を擧げんと欲す。有司、諭止するも、聽かず。格鬪して命を伏見の逆旅・寺田屋に殞す。世、或は其の徒死して、功無きを惜しむ。殊に知らず、一死、以て海内の士氣を鼓動すること、是れ其の素志たるを。他日、五條(天忠組)に、生野(平野國臣)に、天王山(眞木紫灘)に、豪傑、踵(つ)いで起り、百折不撓、薩長の諸藩も、亦た師を出だして王に勤め、中興の大業を成す。果して其の豫期する所に違はず。死する者にして、知る有らんか、應に笑みを地下に含むべし也。烈士は、誰とか爲す。曰く有馬新七(正義)、曰く田中謙助(盛明)、曰く橋口傳藏(兼備)、曰く柴山愛次郎(道隆)、曰く弟子丸龍助(方行)、曰く橋口壯介(隷三)、曰く西田直五郎(正基)、曰く森山新五左衞門(永治)、曰く山本四郎(義徳)、其の死するは、實に文久(二年)壬戌四月廿三日なり。

 今ま茲に(明治二十七年)甲午、三十三囘忌辰、伏見の人、追慕して祭を修め、銅表を寺田屋遺址に建て、文を余れに請ふ。余れ甞て宇治平等院を過ぎり、源三位(頼政)の故跡、所謂る扇芝なる者を弔し、低徊して去ること能はず。蓋し壽永中、平氏專横にして、頼朝・義仲等の擧兵討伐、以て之を亡す。然れども三位の首倡、難を發くに非ざれば、安んぞ能く遽かに偉勳を奏するを得んや。此の地、宇治を距つること咫尺にして、九烈士の事、又た相類す焉。故に余れ、筆を揮ひ大書して、其の功烈を表し、扇芝と竝び、美を千載に傳へん。後人、此を過ぎるも、亦た必ず低囘して去ること能はざる者有らん矣。

 明治廿七年五月

  正四位勳四等・文学博士・川田剛(甕江) 撰
  從五位・長□[艸+一+火。けい](三州) 書
  參謀總長兼神宮祭主・陸軍大將・大勳位・熾仁親王(東征大總督・有栖川宮) 篆額
 
 

杞憂か‥‥

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月 1日(水)23時28分49秒
返信・引用 編集済
  【神宮御發表】
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http://www.isejingu.or.jp/topics/rytp2wwq.html
http://www.isejingu.or.jp/topics/xxy84qp9.html
http://www.isejingu.or.jp/topics/52m6sctx.html

 非常識にも原爆ドーム前にて恫喝したるか──禍々しき核ボタンの鞄は、(以下、六月三日訂正し畢ぬ)畏れ多くも宇治橋を越え、神域に闖入したるも、恐らくは御垣内には侵入してゐないだらう由、盛義一兄より示教あり。

 實に言語道斷と謂ひつ可し矣。安倍晉三首相、此の大罪を、如何にして償ひ奉るや。爾後、アメリカ大統領の参拜だけは、御遠慮いたゞきますやう、切に懇望したいと存じます。此の爲體から拜するに、皇居へも闖入してゐるのでありませうか、杞憂は募るばかりであります。

 各首腦、「我が國の傳統にそつた形で表敬」との御發表ですが、詳しき御發表は、神宮司廳より、後日、あるやうであります。期して待ちたいと存じます。

オロモルフ博士の憂慮
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http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/15032

 宇内の代表の一部が、神宮に集ひしは、洵に祝着なるも、今後の觀光客の動向が‥‥、杞憂であればよいのですが‥‥。これも「世界皇化」の一道程、國民の覺悟を要します。
 
 

義は則ち君臣にして、情は猶ほ父子の如し。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 5月25日(水)21時44分40秒
返信・引用 編集済
   楠公祭の當日、奇しくも松田晃平同志は、拘留期間の滿期となり、起訴された由。洵に無念であります。



■大正天皇即位禮に於て賜りたる勅語(大正四年十一月十日)

爾ぢ臣民、世世相繼ぎ、忠實、公に奉ず。義は則ち君臣にして、情は猶ほ父子のごとく、以て萬邦無比の國體を成せり。



■昭和天皇御製

日々のこの わがゆく道を 正さむと かくれたる人の 聲をもとむる



 謹案、諫言は、子の父に對する如し。然れども敬肅謹愼を必須とす。談笑雜言、憂勤惕厲の色あること無きは、撃つて可なり矣。況んや事實誤認、無知より來る、恣意輕薄なる「忠言・諫言」と自稱するものをや。



●吉田松陰先生『講孟箚記』に曰く、

「苟くも能く一向に義理の當然を求め、終始なく作輟なき時は、又た何ぞ事の成らざるを憂へん。‥‥心身家國、切實の事務を以て、世上話となす者、取るに足る者有ることなし。是れ人を知る眞訣なり。然れども是を以て人を知るの訣とするも、亦た世上話の類のみ。宜しく親切反省すべし。辭を修め誠を立つる、是れ君子の學なり。‥‥我に在つては、道を明かにし、義を正うし、言ふべきを言ひ、爲すべきを爲すのみ」と。



●葦津珍彦翁『日本の右翼──その思想と行動──右翼精神の系譜と現状──日本人の底にひそむ力強い精神潮流』(『經濟往來』昭和四十五年九月號。頭山滿翁生誕百五十年祭實行委員會編『近現代戰鬪精神の繼承──西郷隆盛・頭山滿・葦津珍彦の思想と行動』平成十七年二月刊に所收)に曰く、

「昭和初期、『國體明徴』の旗を立てたが、日本の社會通念では、國家社會主義は右翼なのだが、保守的な元老や大財閥のブルジヨアジーの巨頭は、決して右翼ではないことになつてゐる。學者や思想家であつても、西歐哲學やキリスト教等を根據とする人々は、いかに保守的な立場の人であつても、日本では、右翼とは言はれない。右翼は、保守か急進かと云ふよりも、むしろ『西歐化』に對決するものに限定されて用ゐられて來た總稱と言つてもいいだらう。日本では、西歐的文明に源流するものは、保守でも反動でも、右翼の中に入らない。それ故に同じ右翼と稱せられる人々の中にも、多樣多彩な思想的な差異がある。だそこに、一つの大きな共通性がないわけではない。

 それは西郷南洲を景仰する人々であり、南洲が斃れて後、その遺志を繼承した頭山滿である。この西郷──頭山路線が、日本右翼の主流である。この路線は、公權力の中にも政黨の中にも、『目に見える組織力』を構成し得たわけではなかつたが、脈々として日本人の精神的潮流の中に生きつゞけ、時に應じて強大な壓力となつて、日本人の社會を動かして來た。私は、そこに『右翼』と云ふものがあると思つてゐる。‥‥

 尊皇攘夷に、右翼精神の見識が存する。この第一義『天朝を憂ふる』(松陰先生の語)の精神が、明確なる目標として示されねばならない。攘夷[反共]は、第一義確保のための當然の手段である。それは、第二義的手段である。しかしてその尊皇的體制にとつて、議會制政黨政治・自由主義經濟を有效なる方法と認めるか、あるいは政黨の權限を制約するか、經濟に計畫性を認めるか、それは流動する時代の條件により、『時の宜ろしき』に從つて判斷さるべき、政治手段の論であり、第二義以下の末の問題だと云つてもいい。この本末輕重の名分を明らかに正すところにこそ、日本右翼の獨自の見識がある。戰後右翼の理論に混線があるとか、曖昧さがあるとか評せられるのは、この本末名分についての見識が明示されない弱みがあるからであらう。本末を亂り、いやしくも末に流れて、本を曖昧にしてはならない。

 この本末を正しくする見識が確立しさへすれば、格別に優秀なる理論家を待つまでもなく、その主張には、自らなる條理が立つ。そこには、ポツダム體制下に成長した自由民主黨とは異質の、鮮烈な存在理由が明らかとなるはずだ。そのとき日本右翼は、目に見える姿は小さくとも、國民大衆の心理の深いところに、脈々として底流する潛在勢力の代表者として、再びその威力を囘復し得るだらう」と。



【ワックに對する再聲明──時局對策協議會】
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http://jitaikyou.org/%e8%81%b2%e6%98%8e/
 
 

願はくは青螢と化して、墓畔に生れ、香骨を追隨し、吾が心を快ばしめむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 5月24日(火)21時53分12秒
返信・引用
   寸楮拜呈、仕り候ふ。明日、風薫る五月二十五日は、我が國史の上でも、最も重き日の一つにて御座候ふ間、大楠公を偲び參らせ度く存じ上げ候ふ。敬みて白す。



正成一人、未だ生きてありと聞召され候はゞ、聖運、遂に開かるべしと思食され候へ
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追伸。『九段塾』、いつか左上の計數、二十萬との表示。任重くして、道遠いと謂はねばなりませぬ。呵々。
 
 

擧國、松田晃平青年の御志を恢弘せよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 5月 9日(月)21時37分15秒
返信・引用 編集済
   雲深き邊りに御奉公する者を、特に「御志」と云ふなり。即ち『神皇正統記』後醍醐天皇御條に曰く、「河内國に橘正成と云ふ者ありき。御志ふかゝりければ云々」の筆法、是れなり。 勤皇戀闕の御志ふかき者が、今こそ求められる。



【松田晃平青年が殘せし、もう一つの抗議文】

 今般、貴社が發刊した『WiLL』六月號の
皇室に對する不敬對談記事に、斷固として抗議する。

  WiLL編集部
  西尾幹二
  加地伸行
は、謝罪し、自決せよ。

平成二十八年五月四日
  松田晃平




●平澤次郎翁『月刊言論』(平成元年六月十五日號。大岩優輝氏の特別寄稿『不敬なる言論に自由なし──風流夢譚事件を再考すべし』──『芳論新報』本年五月號に所收から引用)に曰く、

「(小森一孝烈士の風流夢譚)事件は、歴史の彼方に埋もれつゝあり、テロは消えたかに見える。だが、憂國の至情は、日本人の深部に沈殿し、國體の尊嚴を侮る輩に向けて、刃を研いでゐる。右翼のテロは、民族の怒りと共に爆發する」と。



 奢るもの久しからずとは、奢れる者、如何で知るべき。泰西保守・腐儒の跳梁、不敬を重ねる『WiLL』に對して、血性ある有志、之を忍ぶべくんば、何をか忍ばむ。此が討伐は、民族正當防衞權の行使にして、皇室の尊嚴護持は、日本人として、當然當爲の責務なり。擧國、松田晃平青年の志を恢弘せよ。

 時局對策協議會・松田晃平理事の、辯護士を通じて、盛義一副議長への傳言に曰く、「麹町警察は、畏れ多くも皇城の御濠端に在る故、激勵街宣は、遠慮願ふ。街宣車の音量で、宸襟を煩はし奉るは、眞に畏れ多い。その代はり、『WiLL』を徹底的に糾彈して欲しい」と。其の敬肅謹愼の状、見る可く、涙を禁じ得ない。

 かつては、天皇即國家、國家即天皇であつたが、晩近、或は泰西の影響ならむか、畏れ多くも天皇陛下を以て、國家の下位機關と爲すに至る。國體觀念の紊亂、こゝに極まると謂ふ可し矣。西尾・加地等の、やうやく出づる所以なり。而して謹愼の徳目も、亦た併せて失ふに及べり。嗚呼、悲しいかな哉。 備中處士、泣拜敬白
 
 

端午の節句に、義擧の一報あり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 5月 5日(木)19時05分11秒
返信・引用 編集済
   泰西保守・西尾某を討つに、戀闕の心から來る、現代稀有の義擧あり。誰ぞ。神風の伊勢の人・松田晃平青年、即ち其の人なり矣。

 如何なる者と雖も、國人を殺むるは、神道を奉ずる者として、生成化育の玄理に反すれば、自裁せざる可からずと雖も、抑も老人を殺めたるに非ず、其の賣文の本據を討ちたるなり。西尾某は、「もう言はない」と曰ひつゝ、敢へて流言蜚語を繰返す確信犯、はた確信犯に非ずんば、癡呆なり。不敬至極、上、官憲、之を斷罪する能はざれば、下、草莽、之を討たずんばある可からず。松田晃平青年には、至誠、已むに已まれざる戀闕の心あり矣。斷々然として、之を支持するのみ而已。



●田中卓博士『西尾幹二氏に問ふ「日本丸の船主は誰なのか」──「忠諫」を裝ふ「放伐」の詭辯を憂ふ』(日本學協會『日本』平成二十年七・九月號)

「西尾氏は、皇室に慇懃な言葉を使ひ、巧みな論理を操るので、一般には天皇制度(ママ)を擁護する忠諫の士と見られてゐるが、實は天皇制度といふ船の中に、彼の判斷で不適當と思ふ人物[乘客]があれば、その人物を、いつでも下船[放逐]させ、場合によつては、制度そのものゝ『廢棄』も辭さない[『WiLL』平成二十年五・六・八月號]、非情な『無關心』派に過ぎないのだ。そしてその思想は、彼が三十二歳當時の座談會[土屋道雄・所功兩氏との鼎談。『論爭ジヤーナル』昭和四十二年十二月號]の中でも、既に見られる。

『(西尾云)ぼく自身の個人的感覺に則して言へば、天皇に、なんら怨恨もなければ、なんら愛情もないといふ、無關心な感情ですね。非常にその點、ぼくの場合、天皇制に對する感情は、稀薄ですね』と。

 かやうな戀闕の心なき知識人の無關心が、やがて革命論に通底し、事ある時には、萬世一系の國體を『廢棄』するにいたるのだ。いはゞ禪讓放伐の現代版である」と。



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【報道集成】

 平成二十八年五月五日、警視廳公安部は、月刊誌「WiLL」の編集部が在る、ワツク株式會社(東京都千代田區五番町)に侵入したとして、建造物侵入の疑ひで、東京都港區濱松町・右翼活動家・松田晃平容疑者(滿二十四歳)を、現行犯逮捕した由。逮捕容疑は、四日午後十時四十五分頃、オフイスビル四階に在る、出版社の入口窓ガラスを割つて社内に侵入した疑ひ。松田容疑者は、「發行してゐる雜誌の對談記事『皇太子さまへの諫言』の内容が、不敬だ」と供述してゐる。

 公安部によると、松田容疑者は、複數の右翼團體等で構成する「大日本愛國團體聯合・時局對策協議會」の理事を名乘つてゐると云ふ。「出版社に侵入し、黒ペンキを撒いて、机に消火器を噴霧した」と、自ら警察に通報し、驅けつけた警察官に逮捕された。同社は、「皇室の安寧を願っての問題提起を、言論では無く、暴力で封じようとする行爲は、容認できない」と、コメントした。


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【松田晃平青年が殘せし要求文】

WiLL編集長・西尾幹二・加地伸行に諫言する!

一、對談記事の謝罪と撤囘。三者の引退。
一、五大新聞に謝罪廣告を掲載する事。
一、WiLLの廢刊。

不敬極まりない、お前らは、恥を知れ!

 東京都港區
  松田晃平


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【WiLL編集部からお知らせの呟き】

 五月四日深夜、弊社に暴漢が不法に侵入し、器物破損及び威力業務妨害を行ひました。言論による問題提起を、言論でなく暴力で封じようとする行爲は、容認できるものではありません。斷固、抗議します。


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【大日本愛國團體聯合・時局對策協議會の聲明】五月六日

 この度、時局對策協議會同志・松田晃平理事が 皇室の尊嚴を貶める記事を掲載したワツク株式會社に對し、直接行動を行なひ、目的を完遂しました。

 松田晃平理事の直接行動は、事の成否・大小・是非はさておき、國體觀念の動揺、極に達した、保守派論壇に斧鉞を加へたものであると、我々一同は、信じてあやしむものではありません。

 諸賢各位に於かれましては、これを機として、なほ一層、松田理事、竝びに弊協議會々員に對しまして、御指導、御叱責くださいますやう、一同、伏してお願ひ申し上げます。

 なほ松田理事は、本日より第一拘留と同時に、接近禁止となりました。今囘の件に附きまして、お問ひ合はせ等ありましたら、下記會員迄、御一報下さい。更に諸先輩より激勵街宣のお申し出を頂いてをりますが、麹町署は、
宮城のお膝元ゆゑ、御遠慮頂いてをります。御理解の程、お願ひ致します。

  聯絡擔當・時對協事務局長 山川裕克/携帶090(3066)6815

    大日本愛國團體連合・時局對策協議會議長 福田邦宏 拜


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 愚案、或る團體が、麹町警察署へ激勵街宣をされた所、松田晃平氏より、

一云、「激勵して戴くのは有り難いが、
皇居・
神域を御騒がせ奉るのは畏れ多いので、申し訳ありませんが、遠慮して下さい
」と。

一云、「麹町警察は、畏れ多くも
皇城の御濠端に在る故、激勵街宣は、遠慮願ふ。街宣車の音量で、
宸襟を煩はし奉るは、眞に畏れ多い。その代はり、WiLLを徹底的に糾彈して欲しい
」(時對協・盛義一副議長への傳言)と。

との要望が傳へられた由。此の一言を以てしても、一時の激情の迸る所に非ずして、敬肅謹愼、戀闕の至情より發する所なるを知るに足れり。

 マスコミ第四權力の膺懲、燎原の火の如く燃え擴ごりて、昭和の御宇、爲さむとして爲し得なかつた、皇室の尊嚴の護持、冀はくば完遂せられむことを。


【皇道日報】
  ↓↓↓↓↓
http://koudoupress.net/fukei-will/
 
 

靖國神社執行部への戰ひ──正統護持のために。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 5月 5日(木)01時01分36秒
返信・引用
   靖國神社正統護持のためには、何よりも先づ、「鎮霊社(特に俗漢字を用ふ)の祕匿」から始めなければならぬ。松平永芳宮司『宮司願』を承けた、大野俊康宮司の再調査と『宮司通達』の徹底貫徹のために‥‥。從軍神職としての自覺なく、軍務を放棄して、「鎮霊社の公開」を犯した者は、抑も誰ぞや。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t5/3



 泉水隆一監督『靖国神社の真実』に曰く、

「去る日、靖國神社の拜殿横より、鎮霊社に向かつた。初詣で賑はふ拜殿前から、一歩、左脇の淨地に足を向けると、全く不思議な程、雜踏の聲・足音が消滅して、清閑な冷氣に身が包まれる感觸を得る。然し拜殿横から連なる玉垣に近づくにつれ、妖氣を身體全身の毛穴が感じ取る。氷の室に向かふが如く、己が足が止まる。目の前に、玉垣を無殘に切り取つて、鎮霊社への入口とした箇所に來る。痛々しい玉垣の慘状に、心が縮み込む。喉が凍てつく。聲が出ない。何故、このやうな事をしたのか。慘殺現場に臨むやうな、背筋に一脈の冷水が走る、寒々とした氣持ちに襲はれる。荒魂が身内から噴き上がる。憤怒に變化する。危險な情緒を覺える。

 以前、(敗戰直後の國民の淨財で作られた、一層一階建ての、古式ゆかしい造りの)參集所を取り壞し、キンキラキンの(大佛殿に似た二層式の)參集殿を作るために、參集所周邊の櫻の大樹を、邪魔な木だと云ふ理由で、無造作に切つた奴等である。靖國神社の王樹である櫻の大木を、何本も切り倒した現下執行部。その切り株に青い工事用のシートをかぶせて、參拜者からの目を隱した。小生は、その青い工事用シートを思ひ切りめくり返して、參拜者に見せた。『ほれ、貴樣達、見てみろ。切り株から新芽が出てゐるだらう。櫻の樹は、切るなら、切つてみろ、俺は負けんぞ──さう言つてるんだ』と、小生は叫んだ。參拜者の列は、小生を狂人と見た樣子。皆、意味不明な笑ひを口端に浮かべて、小生のひつぺがへしたシートの勢ひに、トラブルの發生を感じたのだらう、騒動に卷き込まれまいとして、無視したやうに通り過ぎて行く。顔見知りの衞視が飛んで來たが、狂態の犯人が、小生であることを知つて、氣づかない振りして、去つて行つた。小生の顔貌に、異常を見たのか。咎めれば、騒動は血を見るからと判斷したのか。小生がめくり返したシート、そこには無殘に地上から十五センチほどの所で、胴體を切斷された櫻樹の切り株が、日に晒されたのである。その切り株の一點から、何んと、瑞々しい緑の葉が育つてゐるではないか。胴體は伐られても、未だ屈つしてゐない、櫻木の執念である。命を燃やしてやる、伸びてやる、大きくなつてやる。伐るなら伐れ。俺は負けない──その叫びの緑の苗木である。生命である、不屈の魂である。これこそ、本殿に祀られる神靈、腕をもがれても、足を吹き飛ばされても、武器なく、彈なくとも、齒があれば、喰ひついてやる。齒がなければ、顎で戰つてやる。さあ、來い、さあ、來い──その勇者の荒ぶれる魂を受け繼ぐ、櫻木の斷末魔の戰ひであつた。小生は、倒された櫻の大樹を譽めてやりたかつた。貴樣を切り倒した現下執行部に、必ずお前の恨みは晴らす。さう誓つた。

 數日後、この新芽を吹かせた櫻木の伐り株は、更に地面すれゝゝに切斷され、何んと、セメントが流し込まれてゐた。櫻木の抵抗は、完全に終はつた。最早や、彼の命は消滅してゐた。あたかも戰場で、たつた一人の兵士に、寄つてたかつて四方八方からなぶり殺された、一兵士の如くである。あの瑞々しい緑の葉を、何處へやつた。誰が、ひねりつぶしたのか。小生は、心の中で絶叫した。彼は、最早や、無抵抗である。セメントに埋められて、木肌も見えない。抵抗を無くすために、セメントを流し込んだのか。息の根を止めるために、セメントで埋めたのか。武士道とは何かなど、遊就館で語るな。靖國會館の二階で、語るな、貴樣らよ。小生の戰ひは、この日より始められてゐる。櫻を切り倒したものは、靖國神社の裏切者であり、謀反者である。例へ宮司であらうとも、權宮司であらうとも、部課長の神職であらうとも。理論・理屈は、無用である。神靈が見てゐる。直毘の神が見てゐる。魑魅魍魎が見てゐる。邪神が見てゐる。本人に、家族に、係累に、罪は及ぶ。新造された參集殿は、斬られた櫻の怨念がへばりついている。さう、小生は思つてゐる。今に何か、この參集殿で、大不祥事が起きると、小生は豫感してゐる。天罰か、天誅か。

 今からでも遲く無い。靖國神社の全神職が、もう一度、松平永芳宮司の言葉を思ひ出されたい。『たたずまひを汚すな』。それならば、直毘の神も許すであらう。切に心から改心を望む。明治天皇の御製、

我國の爲をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉垣

その玉垣に添ふやうに咲く、萬朶の櫻。櫻のやうにパツと咲いて、見事に散らうぢやないか、國のため‥‥。さう歌つて、營門を出て行つた軍靴幾十萬の足音、滑走路を驅けて愛機に飛び乘つた戰士、幾百萬の勇者、大艦の舳先に敬禮を返し、祖國の爲に殉じる身で出撃した幾十萬の兵士(つはもの)。その英魂をとむる櫻木を、無造作に切り倒すことを許す者を、小生は許さぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6

 あの日の事を、またも思ひ出させた、今囘の玉垣の破壞である。靖國神社の連なる玉垣に留まる魂魄は、この國を守護した英魂二百四十六萬六千餘柱。いづれも血縁をもたず、唯だ日本のため、國家のため、天皇のために、醜の御楯となり、地に伏し、海に沈み、空に逝つた、幾百萬の勇者である。『靖國神社で會はう。どうせ、今度は歸れない。家にはカヽアや子供も待つてゐるが、歸れる見込みは無い。死ねば、靖國神社に祀られる。お互ひ靖國神社で會はうぢやないか』。家を捨て、父母を捨て、弟妹と訣別した兵が還る所は靖國神社だ、と話した將兵・將官の事を、お前達は、心に刻んでゐないのか。毎日の奉齋に、心は無いのか。魂魄の契りを破壞した者は、誰か。玉垣を破壞し、鎮霊社への參道をつけた愚者は、誰か。それは、靖國神社現下宮司以下の執行部及び神社總代であらう。明治天皇の心願顯した玉垣に、ナタを下ろし、決壞させた罪は、萬死に價する。その者共に、神靈は怒りを振り下ろさない。たゞ眺め見下ろしてゐる。然し神靈に奉仕する直毘の神は、これを許さないのではないか。それを小生は、今こそ、祈願する。この玉垣を破壞し、鎮霊社への參道作りに關はつた者、工事者を含め、總てに祟りの落ちることを切望する。それなければ、改心を致さぬならば。祟りを切願する者は、自らも祟りを蒙る事も、承知である。小生も墮ちる。またこの門をくゞり、鎮霊社に參する者にも、祟りが及ぶことを切望する。

 鎮霊社の横には、元宮がある。しかしこの元宮の役目は、既に終はつてゐるものだ。此處に參じる必要は、最早や無いと見なす事が、本殿への正眼であらう。鎮霊社は不要である。廢祀するべきものである。少し文節が亂れるが、心の赴くまゝに書き進める。靖國神社・英靈にこたえへる會・日本會議の諸氏には、もう小生が何者であるか、凡その察しが着いてゐるのかも知れぬ。これほどの靖國神社内部の詳細を知り、英魂を知る者は少ない。然し小生の背中を押す者がゐる。臺灣沖で戰死した、從兄の海軍大尉。一發の砲彈も撃たず、默々と輸送船團の護りに徹した護衞空母勤務。敵米國潛水艦に、夜半轟沈された。一萬五千の關東軍現役兵を護り切れなかつた痛恨。共に海の底に沈んだ。口惜しいだらう。これを『犬死』と呼ぶ者がゐた、新宿驛構内で。小生はいきなり、ぶん毆つた。齒が折れたらしい。小生、四十五歳の時、昔だ。よろしいか。敵潛水艦がゐようとも、兵を送るしかなかつた。レイテに援軍を待つ友軍がゐる。他に方法が無い。沈められるのは、覺悟の上。『自殺行爲だ』とか、『軍部が無能だ』とかは、戰後の者が言ふな。海防艦の救助で助かつた兵は、『送るなら、内地でなくて、戰場に送れ。戰友が待つてゐる』と、後で水交社にて聞いた。レイテに搬送された兵は、全員玉碎したと、後年、知つた。從兄の軍務は、成功したのである。敵兵に對抗する皇軍を運んだのである。見事である。從兄を譽めたい。海に沈んだ戰友の恨みを、生き殘つた兵は、幾何かであつても、やり遂げてくれたのだ。太平洋の屍となつた幾十萬・幾百萬の將兵は、最後まで敢鬪した兵士に、大歡聲を擧げたであらう。皇軍兵士の戰ひに、『犬死』は無い。戰つてみればわかる。『今にしてみれば‥‥、犬死だつたかなあ」は、あるだらう。だが、戰ひの最中にあるのは、『敵愾心・復讐心、殺してやる』だけだ。それは戰場にで無くても、銃後に在つても、同樣である。從兄の最後の葉書に、『敢鬪せり』と、一文字あり。昭和二十一年、靖國神社に合祀されてゐる。この從兄が小生に、靖國神社の眞實・現況を『書け』と、背中を突いてゐる。これまで、何度もパソコンに向かつて、人差指一本で、キーを押してゐる。何を書いているか知らぬ知人が、『そんなに力いれたら、壞れるよ』と言ふが、これでしか打てない。その背中を、本當に誰もゐない部屋の中なのに、小生の背中を、指で突いてゐる。從兄であると、小生にはわかる。『わかつた、書くよ』と、小生は話しかける。小生は、海軍大尉に護られてゐる、神靈に護られてゐる。

 この破壞された玉垣を、國民の運動で、もう一度、元に復歸させるべきである。玉垣が切られたら、靖國神社は滅びる。切り取つた玉垣は、何處へやつた。かつての參集所の解體處置から考へれば、廢材トラツクにはふり投げられて、何處にか運ばれたに違ひない」と。
 
 

最敬禮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 4月29日(金)23時38分56秒
返信・引用 編集済
  奉祝 昭和節



 泉水隆一監督『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「大東亞戰爭時、陸軍侍從武官であつた吉橋戒三さんと云ふ方が、昭和天皇のお傍に在つた時の話を殘してをられる。

『二十年の一月七日の事でしたが、軍司令官が特攻隊員に與へた一枚の感状(戰功のあつた者に與へる賞状)を携へ、御文庫の御政務室(大元帥陛下がをられる所)に向かひました。御政務室は、わづか六坪ほどの小さな部屋で、私は、陛下の机の上に、ルソン島リンガエン灣の地圖を廣げ、この日の上奏事項である、リンガエン灣の戰況について報告をいたしました。そして感状の内容を讀み上げ、特攻隊が突入した場所を地圖にかゞみ込みながら、ご説明を申し上げました。私が顔を上げようとすると、陛下は、すつとお立ちになり、遠くの方を見つめながら、最敬禮をなさつてゐたのです。いつも最敬禮を受けられる陛下が、御自ら最敬禮をされるお姿は、私にとつて名状し難い體驗でした。御文庫を出る時も、電氣に打たれたやうな感覺で、武官府に歸つても、暫くは口も利けない状態でした』。

 軍人に對する最高の名譽は、最敬禮です。それは畏敬の念を表象するものだからです」と。
 
 

松平永芳宮司の諫言。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 4月20日(水)00時04分53秒
返信・引用 編集済
   「畏れ多い」てふ言葉は、現代、既に死語になつてゐるやうだ。行幸を奉迎する國民の態度に、大いに問題が存する。携帶で御眞影を撮り奉るなどは、不敬至極であること、勿論である。かつて昭和天皇巡幸に於ける逸話──左翼の労働組合員が、天子樣の稜威に感激して「握手」を求め奉つたが、天子樣には、『日本流でゆきませう』との御言葉を賜はり、御會釋を戴いたと傳はる。こゝゝに軍人にして從軍神職・松平永芳靖國神社宮司の諫言を想起したい。



●泉水隆一監督『靖國神社の眞實』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「松平永芳宮司が退職する前年の暮れだつたか、ペルシヤ灣の機雷除去のために派遣されてゐた海上自衞隊の掃海派遣部隊が横須賀に歸つて來るのを、松平宮司は、痩身に外套を羽織つて、靖國神社職員と出かけた。同行した職員の中には、女性職員も數人混じつてゐた。既に退職したAさんは、この日の松平宮司を、今でも涙の粒の向かう岸で、搖れる海軍軍人松平永芳を、「初めて見た――」と、以前、話してくれた。岸壁に送迎用のランチが到着すると、松平宮司は、脇で身體を支へてゐた女子職員の手を振り切るやうにして乘り移つた。そして走り出したランチの舳先に、不動の姿勢で立つた。七十七歳の御高齡である。遠く岸壁から、松平宮司のご樣子を心配げに見てゐた女子職員等は、普段とは違ふ宮司を、そこに見てゐた。寒風吹きすさぶランチに立ち盡くす宮司の外套が、風に膨らんで、バタヾヽとはためく。女子職員は、『何故か、涙が滲んで來たんです。あのやうな姿の宮司さんを、私は見たことがなかつた‥‥。あれが本當の宮司さんの姿なんだ、と。きりつと背筋が伸びてゐて‥‥、カツコウ良かつた』。帝國海軍軍人の姿を見た、と云ふ。そして港内にゆつくりと入港して來た自衞艦と竝行するやうに走る、遙か彼方のランチの上で、松平宮司は、直立不動の姿勢で、擧手の敬禮をされたさうだ。搖れるランチの上でしつかりと、いつまでもゝゝゝゞゝ敬禮してゐた、その姿が忘れられないと云ふ。自衞官の敬禮とは違ふと、さう話した。『あれが、松平宮司の本當の姿なんだ。やつぱり宮司さんは、軍人だつた』と、感想を述べた女子職員。私は、この話を伺つた時、うつむいてしまつた。不覺にも涙がこぼれた。孤軍奮鬪された松平宮司。靖國神社は正統に戻さねばならない、と。外部ではない、内側から‥‥。

 靖國神社中興の祖と云はれる、松平永芳宮司の言葉。

靖國御社頭での祈りとは誓ひだ、御靈と同じやうに、いざといふ時は、國に命を投げ出します、といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御滿足は得られない‥‥』。

賀茂百樹宮司も言つた。鈴木孝雄宮司も言つた。數少ない、正統の繼承者。それでも、絶やしてはならないと思ふ。

 少し外れるが、地震などの災害地訪問で、兩陛下が、體育館の床に膝をついて、被災者とにこやかにお話してゐる姿を、テレビニユースで拜見するたびに、つらい思ひをする。皇后陛下の膝にまとはりつく子供がゐたりすると、子供を叱り飛ばしたい。松平宮司の、社報『靖國』に書かれた「謹愼謙虚」といふ話が、胸にコタヘル。

『岩倉公が亡くなる少し前に、明治天皇が岩倉邸に見舞ひの行幸をなさつた。もう自分では起き上がれず、令息夫人に背中を支へられて身を起こしてゐる岩倉公に対して、天皇さまは、軍服姿で直立不動の姿勢でをられる。これが王者の見舞ひです。王者には、王者の見舞ひの態度があるんです。こゝで天皇さまが腰を屈めたり、疊にひざをつけたりしてしまはれたら、王者としての繪にならない。‥‥皇室のお立場では、開かれるべきと云つても、限度があり、國民と同じ床でお振る舞ひをなされゝば良いといふものではないんです。‥‥』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/8

この松平宮司の話も、「何がいけないの。いいぢやないの。開かれた皇室だよ」と言ひ出すのが、「靖国ファン」だらう。この開かれた皇室、天皇が被災者の前に膝をつかれた姿が‥‥、實は、現在のこの國ををかしくしてゐるのではないか。さう思はざるを得ない。

 明治維新は、天皇を國民一人ひとりが仰ぎ奉つて成就した。さう云ふ時代を作り、骨格を形成し、近代日本を作つて來た。その骨格は、敗戰後も、かなりあつた、感じられた。だが、今は、もう無い‥‥。感じにくい。靖國神社ですら、「骨格」が搖らいでゐる。ましてや國民は、骨格など求めてゐないやうにも見える。現に「皇室ファン」・「靖国ファン」が、正統を押しのけて、尊嚴を笑ひ飛ばし、肩で風を切つて歩いてゐる。年寄りは消えろと、野次つてゐる。極右が求められる。囘天である。誰が理解できるか、どの程度、理解できるか」と。
 
 

大御心。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 4月15日(金)21時41分56秒
返信・引用 編集済
   熊本地震を聞きて、天變地異に畏む‥‥。天地の大道、是れ、一視同仁なり矣。



●葦津珍彦翁『天皇陛下』(昭和二十六年五月。『光榮』第二號。『神道的日本民族論』昭和四十四年一月・神社新報政教研究室刊に所收)に曰く、

「天皇陛下は、われら日本人の良心の鏡であらせられる。私は、新聞やラヂオを通じて、陛下を拜する。自動車で行幸せられる陛下を拜したことがある。だが、私は、陛下の玉音を親しく承つたことはないし、終生、そのやうな機會があらうとも考へない。だが、私の心は、常に陛下の玉座の下に赴く。‥‥

 かつてワシントン會談が難航し、平和の危機が重苦しく感ぜられたころ、私は、常に思つた。陛下は、今、どのやうに御考へだらうかと、會談の前途が破綻に瀕して來た時に、私は、朝も夕も、陛下の御心を御察し申し上げては、考へた。十二月八日、陛下の宣戰の詔書を拜したとき、私の一切の思慮は、一段落をつげた。私は、たゞ陛下の御心に從ふと決めた。

 戰地から還つて來る白木の箱を驛頭に迎へる時に、私は、常に思つた。陛下は、今、どのやうに御考へになつてゐるだらうかと。

 東京の空襲の激しくなつたころ、私は、何時もかの凄壯な夜戰を見つめてゐた。B29の巨大な機體に、高射砲彈が命中すると、街上からは、本能的な歡聲が擧がつた。彼方の空の下では、猛火が人家を包んでゐた。燃えおちる空の米兵と、猛火の中を逃げまどふ市民の心を想像してゐる私には、歡聲を擧げることができなかつた。そして私は、考へた。陛下も、亦た今、あの燃えおちる飛行機と、あの猛火を御覽になつてゐるだらうかと。

 私は、今、世界戰爭の危機を報ずる新聞を見、ラヂオを聞いては、考へてゐる。陛下は、どう御考へになつてゐるだらうかと」と。
 
 

戰鬪精神の繼承。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 4月14日(木)19時27分16秒
返信・引用
   こゝにも、「一兵士」翁を發見せり。曰く、



●葦津珍彦翁『明治・靖國社頭のちかひ』(昭和二十四年。『神道的日本民族論』昭和四十四年一月・神社新報政教研究室刊、また頭山滿翁生誕百五十年祭實行委員會編『近現代戰鬪精神の繼承──西郷隆盛・頭山滿・葦津珍彦の思想と行動』平成十七年二月刊に所收)

「戰終の年の秋、私(葦津珍彦翁)は、明治神宮に參拜致しました。かの歴史的な十月三日の、自由の指令が出て間もないころでした。聯合國軍總司令部は、日本天皇の政府に對して、強硬なる指令を發し、その命令に基づいて、内務大臣は罷免され、特高警察は廢止され、天皇制防護の法令が撤廢されて、コムニスト等の政治犯は、すべて釋放されました。皇族内閣東久邇宮内閣は崩壞し、獄外に出たコムニストは、凱旋將軍のやうに歡迎され、一流の大新聞紙も、天皇制に對する嘲笑と攻撃の論説や記事を掲げてゐました。特に日本は、亡國に瀕してゐると思はれたのであります。神宮の參道は寂として人なく、爆撃に傷められた樹木がそのまゝで、荒涼たるものでありました。私は、この神宮に御參りして、日本帝國の中興の英主たる御神靈の前に、謹んでお誓ひ申し上げ、且つお祈り致しました。

「明治天皇樣の大御代のやうな、光榮ある帝國の獨立を恢復致したい。私は、そのための一兵士として、御奉公致したいと念じて居ります。この志に對して、御神靈の御加護を祈り上げます」と。

 私は、靖國神社にも參拜致しました。こゝには、私共と親しくした、幾多の英雄が祭られてある。私共と志を同じうした人々である。かれ等は、祖國の光榮と獨立のために、生命を捧げた人々である。かつて私共と親しく志を語り、誓ひあつた人々である。私は、その英靈の前に、私が、決して祖國を裏切らないことを誓つたのであります。

 かくて私の良心は、明治神宮の御神慮に背き奉ることを畏れる。私の良心は、靖國の神々の照覽し給ふ所である。それ故に、私の良心の畏れる所は、この世の權力者でもなければ、法律でもない。私の肉體的な本能的情意は、權力や法律を畏れるかも知れないが、少なくともそれは、良心に對しては、何の權威でもない。私は、千萬人の大衆から嘲笑され、惡罵されても、私の良心は、少しも恥づる所はない。たゞ私は、靖國の神々に對する誓ひを裏切ることを恥づるでありませう。

 かやうに私の良心に對して、權威を以て命令するものは、神宮や神社の御祭神の神意であつて、それはこの世の俗衆の議論でもなければ、權力者の命令でもあり得ない。わたしの良心は、神宮や神社の神慮によつて支配される。このやうな關係に立つとき、私の思想は宗教的であり、特に神道に屬すると稱すべきだと思ふのであります」と。



【賀茂百樹宮司『明治神宮と靖國神社との御關係』】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm



 泉水隆一監督の曰く、

「あと十五年で、皇軍兵士は消える。では、誰が、明治天皇の聖旨、靖國神社の社憲を、過てること無く繼いでいけるのか。あなた方しかゐないでせう」と。

 愚案、聞かれるがよい。稻麻竹葦の混迷の中に在つて、金鐵、少しも撓はざる誠忠の臣・泉水隆一翁の、血に泣く、其の聲を、其の雄叫びを。『靖國神社の正統を、次代者は、どう受け繼ぐべきか』、是れ即ち吾人の深刻かつ親切なる問題にして、勤皇報國、御志深き者は、血の涙、決してこれから遁るゝこと能はず、皇國の復興、尊皇精神の恢弘は、吾人に依託されたのである。共に立たむか、戰鬪精神の繼承者たちよ。有志、如何。
 
 

神武天皇以來の正史と『凛として愛』

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 4月 2日(土)15時21分17秒
返信・引用 編集済
   明日は、神武天皇二千六百年式年大祭。天皇陛下の橿原神宮行幸を仰ぎ奉る御由。



 泉水隆一監督の曰く、「映畫『凛として愛』は、日本を變へる、日本の近代史を描き、英靈の汚辱を晴らしたい、といふ意向を強く主張された、花田忠正靖國神社權宮司の意向に從つて、制作が開始してゐます。靖國神社は、それまで默つてゐたんですけれども、一つ打つて出ようと、本當の話を言はうぢやないかと云ふ事で、その映画を制作する最高責任者・花田權宮司(平泉澄博士の門下)が、それを考へましてね。日本と云ふ國は、神武東征以來ね、大和民族として、天皇の爲めに戰つて來たんだ、さう云ふ國であると、さう云ふ事を、最初から言はうぢやないかと云ふ事で、この映畫の制作はスタートしたんですけど、たゞ餘りに長いスパンがあり過ぎるんで、大東亞戰爭と云ふか、明治以來の近代戰爭と云ふ事で、そこの部分を取り上げて、常に日本は、武器を取り、戰ひ續けて來たと、さう云ふ事實を、若い人に知つて貰はう。この映畫はね、これを見た人が、日本民族の、大和民族のね、魂に觸れて、勇氣を持つて、映畫館から出て行つて貰ひたかつたと、さう云ふ思ひを籠めて作つたのです。‥‥神武天皇を始め、創世の神々は、常に矛をもち、劍を握り、戰はれて來た。靖國神社は、その天皇の臣靈を守護する神官とて、神威を戴き、眦を決するのは、至極當然のこと、靖國神社は、軍人を祀る神社である事を忘失してはならない」と。



 某氏の曰く、「泉水隆一監督は、映畫『凛として愛』を創作せしものに非ず。正に『英靈の言の葉』を、脚本に寫し取られしものにして、美しくも力強い詩吟の調べに乘せて、朗々と歌ひ上げしもの、即ち『凛として愛』なりと思考する。此の映畫は、一篇の詩、民族慟哭の敍事詩なり。監督の意圖する所、靖國神社の、遊就館の入館者増加を乞ひ願ふ等の小事に非ずして、究極する所、皇室の翼贊に外ならざるものと恐察す。此の映畫は、今日の皇室に奉贊の誠を捧げるものなり。その爲めにこそ作られし映畫にして、靖國神社が、如何あるべきか、如何に護持するかの次元を超えた、神武創業の正史を、正當に理解する爲めの映畫なりき」と。



【泉水隆一監督が、唯一認可した『凛として愛』頒布先】
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/prof.php?no=5

http://ameblo.jp/rintositeai/
 
 

松平永芳大人遺文。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 3月 8日(火)23時46分50秒
返信・引用 編集済
   靖國神社には、やはり、松平永芳宮司を云々する輩が巣食つてをるやうだ。寒心に堪へない。

 今一度、九段塾頭・泉水隆一監督の言靈を思ひ起し、松平永芳宮司の遺文を熟讀されむことを切に懇祷して已まない。「松平永芳大人遺文」こそ、戰後に於ける靖國神社正統護持の據つて立つ最後の砦である。「松平永芳大人遺文」を、恢弘せよ。何人も、讀めば分る筈。分らぬ奴は、暗躍使嗾する戰後保守・俗流右翼の手先なり。撃つて、撃つて、撃ちまくれ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50
 
 

罪、萬死に價す。天壤無窮を確信して瞑す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 2月15日(月)21時44分14秒
返信・引用 編集済
   我が畏友・秋田智紀主より、告知到來す。曰く、

平成二十八年二月二十八日午前十時、岡山市中區平井の野中家墓地にて、第四十囘野中祭(陸軍歩兵大尉歩兵第三連隊第五中隊長・野中四郎命八十年慰靈祭。是れ、周年祭なり)を齋行せんとす、と。

 こは、岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁より、秋田智紀祭主が承け繼ぎたる祭典なり。齋主は、足高神社・井上直亮禰宜。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1701



●野中四郎大尉『遺書』(昭和十一年二月十九日)

 迷夢昏々、萬民赤子、何れの時か、醒むべき。一日の安を貧り、滔々として惰風に靡く。維新囘天の聖業、遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。彼のロンドン會議に於て、一度、統帥權を犯し奉り、又た再び我が陸軍に於て、其の不逞を敢へてす。民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拜外、神命を懼れざるに至つては、怒髮、天を衝かんとす。

 我、一介の武辨、所謂る上層圏の機微を知る由なし。只だ神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁、目に餘るを感得せざるを得ず。即ち法に隱れて私を營み、殊に畏くも至上を挾みて、天下に號令せんとするもの、比々皆な然らざるなし。皇軍、遂に私兵化されんとするか。嗚呼、遂に赤子、御稜威を仰ぐ能はざるか。

 久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意、軍の健全を翹望して他念なかりしに、其の十全徹底は、一意に、大死、一途に出づるものなきに決着せり。我、生來の軟骨、滔天の氣に乏し。然れども苟も一劍奉公の士、絶體絶命に及んでや、玆に閃發せざるを得ず。或は逆賊の名を冠せらるゝとも、嗚呼、然れども遂に天壤無窮を確信して瞑せん。

 我が師團は、日露征戰以來、三十有餘年、戰塵に塗れず、其の間、他師管の將兵は、幾度か其の碧血を濺いで、一君に捧げ奉れり。近くは滿洲・上海事變に於て、國内不臣の罪を、鮮血を以て償へるもの、我が戰士なり。我等、荏苒、年久しく帝都に屯して、彼等の英靈、眠る地へ赴かんか。英靈に答ふる辭なきなり。

 我、狂か、愚か、知らず。
 一路、遂に奔騰するのみ。

 昭和十一年二月十九日、於週番指令室、陸軍歩兵大尉・野中四郎



●野中四郎大尉『遺書』(昭和五十四年七月十六日、野中大尉の圖嚢から、四十三年目に發見せられたる蹶起決意の手記)

一、自己を否定し盡くした、眞の人としての活動。

一、聖旨を奉戴し、之を具顯すべく、輔弼協贊、扶翼し奉る政治たることに於て、毫末も變化は認め得ぬ。

一、我が國、昭和維新は、急速に進展すべからず。幾變轉、幾波瀾の後、又た幾多軍民、煩悶懊腦の後、遂次(愚案、「逐次」か)に機運を促進し、遂に澎湃たる興國維新の波に、黎明を迎ふるに至らん。濫りに陰謀を畫し、術策を弄して、自便征行、一擧に事を爲さんとするの誤りなるや、明白なり。

一、軍隊、先づ更生せざるべからず。神國具現は、先づ神軍具現に發せざる可からず。

一、目標は、一個誠忠、茲に功名爭ひある可き筈なし。利慾勝利を超越、茲に維新の根源存す。

一、人生人事、悉く之れ、人と人との交換、捨我棄自の人無くして、人生人事、進展することなし。

一、一心の成滿、結局は行に移行す。



●野中四郎大尉『蹶起趣意書』(二十六日)

 謹んで惟るに、我が神州たる所以は、萬世一神たる天皇陛下、御統帥の下に、擧國一體、生成化育を遂げ、遂に八紘一宇を完ふするの國體に存す。此の國體の尊嚴秀絶は、天祖肇國、神武建國より、明治維新を經て、益々體制を整へ、今や、方に萬邦に向つて、開顯進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃來、遂に不逞凶惡の徒、簇出して、私心我慾を恣にし、至尊絶對の尊嚴を藐視し、僭上、之れ働き、萬民の生成化育を阻碍して、塗炭の痛苦に呻吟せしめ、從つて外侮外患、日を逐ふて激化す。所謂る元老・重臣・軍閥・財閥・官僚・政黨等は、此の國體破壞の元兇なり。倫敦海軍條約、竝びに教育總監更迭に於ける統帥權干犯、至尊、兵馬大權の僭竊を圖りたる三月事件、或は學匪・共匪・大逆教團等の、利害、相結んで、陰謀、至らざるなき等は、最も著しき事例にして、その滔天の罪惡は、流血憤怒、眞に譬へ難き所なり。中岡・佐郷屋・血盟團の先軀捨身、五・一五事件の噴騰、相澤中佐の閃發となる。寔に故なきに非ず。

 而も幾度か、頸血を濺ぎ來つて、今ま尚ほ些かも懺悔反省なく、然も依然として私權自慾に居つて、苟且偸安を事とせり。露・支・英・米との間、一觸即發して、祖宗遺埀の、此の神州を、一擲破滅に墮らしむるは、火を賭るよりも明かなり。内外、眞に重大危急、今にして國體破壞の不義不臣を誅戮して、稜威を遮り、御維新を阻止し來れる奸賊を芟除するに非ずんば、宏謨を一空せん。恰かも第一師團出動の大命、渙發せられ、年來、御維新翼贊を誓ひ、殉死捨身の奉公を期し來りし、帝都衞戍の我等同志は、將に萬里征途に上らんとして、而も省みて、内の世状に、憂心轉々、禁ずる能はず。君側の奸臣・軍賊を斬除して、彼の中樞を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり、股肱たるの絶對道を、今にして盡さゞれば、破滅沈淪を飜すに由なし。

 茲に同憂同志、機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して、大義を正し、國體の擁護開顯に肝腦を竭し、以て神州赤子の微衷を獻ぜんとす。皇祖皇宗の神靈、冀くば照覽冥助を埀れ給はんことを。

 昭和十一年二月二十六日
  陸軍歩兵大尉 野中四郎
  外      同志一同



●野中四郎大尉『遺書』(二十九日)

 實父勝明に對し、何とも申し譯なし。老來、益々御心痛相掛け、罪、萬死に價す。

 養父類三郎、義母ツネ子に對し、嫡男としての努めを果さず、不幸の罪、重大なり。俯して拜謝す。妻子は勝手乍ら、宜しく御頼み致します。

 美保子、大變世話になりました。貴女は、過分無上の妻でした。然るに此の始末、御怒り、御尤もです。何とも申し譯ありません。保子も可哀想です。かたみに愛してやつて下さい。井出大佐殿に御願ひして置きました。



●野中四郎大尉『絶筆』(二十九日、於陸相官邸の一室)

天壤無窮


**********


■平泉澄博士『孔雀記』(昭和十一年三月六日夕筆。田中卓博士『平泉史學の神髓』平成二十四年十二月・國書刊行會刊に所收)

 檄

 利己主義・自由主義・民主主義の、多年に亙る跳梁跋扈の爲めに、皇國のまことの姿の失はれたるを歎き、慨然として時弊を改革し、大いに皇政を翼贊し奉らんとするは、我等、平素の本願にして、其の爲めにこそ、刻苦努力し來りしなれ。從つて今次(二二六)の變、その形の一半に於ては、我等と相通ずるところなしとせず。しかれども若し眞に國體を擁護せんが爲めに、非常の手段をとれりとせば、遂行の曉に於ては、直ちに割腹自決するか、しからざれば二重橋の御前にひれふして、謹んで罪を待つべきのみ。しからずして要地を占領し、朝廷に要請し奉りてやまざるが如きは、全く外國革命の手段に同じく、叛軍逆徒にあらずして、何ぞや。之を誅戮する事なくして、皇國の中興、いつをか期すべき。

 しかも之が討伐は遷延して、一向に開始せられず、勅命降下して、猶ほ且つ躊躇逡巡しつゝあるを見ては、我等、到底傍觀する能はず。微力なりといへども、蹶起して凶徒を誅戮せんとす。もとより武力の、見るに足るものなし。只だ肉彈を以て突入せんとす(愚案、實は或る具體策を立てられし由)。期する所は、一死以つて、皇國臣子の道、かくの如くなるを示し、眠れる日本魂を覺醒せしめんとするに在り。

 嗚呼、我等、生きて不逞の徒を鎭壓する能はず、無力無能、慚愧に堪へざるも、死して長く國家を守護し、天地無窮の皇運を扶翼し奉らん。冀くは天下、志を存する者、身の軍籍に在ると否とを問はず、苟くも日本人なる以上、幾千年來、祖先忠義の精神を繼承し、この難局に當つて、決然奮起し、違勅の凶徒を討伐して、天皇陛下の宸襟を休め奉らん事を。昭和十一年二月。

 (昭和十一年)二月二十八日深更、(平泉先生)奮起討死の方略を決し、檄文を草す。‥‥

 三月二日、中川中尉(平泉先生宅へ)來訪。‥‥中川中尉が、二十七日、禁足中を脱走して、首相官邸に至り、叛徒に自決を勸告せし事は、その夜、西内教授より聞きしが、今、中川中尉より聞くに、二十九日には、田中・岩田・畑中・一宮等の中尉、打揃ひて自決勸告に赴きし由。また聞く、二十八日深更、田中中尉は、單騎討入りを覺悟し、中川中尉等に對し、遺書を認め居るところへ、中川・岩田兩中尉、予の宅よりのかへりにおとづれ、予の決意を告げたるに、大いに喜びたりと云ふ。又た聞く、岩田中尉も、其の夜、遺書を認めたりと云ふ。

 三月三日早朝、(大阪府警察部長)富田氏より電話あり。「仄聞するに、陛下は、荒・眞兩大將に對し、深く御不快に思召さるゝ由。また聞く、秩父宮殿下より、野中大尉に、御叱りの御言葉あり。野中、之を承りて、殿下よりは、恐らく御ほめいたゞく事と思ひ居たるに、『殿下よりも、御叱りいたゞく上は、致し方なし』とて自決せし、との説あり。斯くては事の成らざりしは、或は平泉の爲めかと思ひて、憤激するもの無きを保せず、身邊、警戒せよ」と云々。予、厚くその芳情を謝すといへども、警戒は出來る事にもあらず、また敢へて恐るゝに足らず。但し予の判斷、并びに行爲は、之を明記し置くべし。

 二十七日、(秩父宮・高松宮)兩殿下に言上の要旨は、次の如し。

一、天皇が、下々の脅迫強要によりて、御方針をかへ給ふ事は、斷じてあるべからず。若し萬一、左樣の事あらば、是れ國體の根源を破り、天皇の神聖を汚すもの、此の膝、一たび屈して、また伸ぶべからず。強要は、斷じて許さるべきにあらざるなり。

二、然れども其(丙子二二六事件)の精神は、之を汲まれざるべからず。昭和六年以來、頻々として繼起せる事件は、これ、朝廷に一大英斷の無き爲めに起れるものなり。よろしく勇敢に時弊を革新せらるべし。

三、而して此の大方針の下に、時局を收拾し、國難を救ふものは、文に在りては近公、武に在りては荒木・末次の兩將軍なり。よろしく近公を中心とし、兩將軍をして左右、之を支持して進ましめらるべし。

 以上の三點、これ、言上の要旨なり。

 [一]は、二十九日、實現したり。而して三月四日午後、近公に組閣の大命下りし時は、[二]・[三]共に、或は實現すべきかと思ひしが、西園寺公の注文、恐らくは[二]を防ぎ阻みしと見えて、近公、御辭退申し上げられ、翌日、廣田外相に、大命下るに及び、事、遂に成らず。天を仰いで長歎すれば、天、黯慘たり。人を避けて兀坐すれば、燈明滅す。この心、何人か能く之を察すべき。禿筆、もとより盡すなきのみ。しかれども事の成らざりしは、時の到らざるなり。我は、たゞ此の非常の難局に遭遇して、道義の判斷、曾て惑ふことなく、微力は微力ながらに、聊か以て國體を守護し得たりしを喜びつゝ、これよりまた靜かに學窓にこもらんとす。
 
 

奉祝 紀元節。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 2月10日(水)22時49分12秒
返信・引用 編集済
  ●贈正五位・秦山谷丹三郎大神重遠先生『劒匠・山口國益に贈る序』(『秦山集』四十二・信五卷・明治四十三年十二月・隈山谷干城子刊)

 我が國、寶祚、數千萬載、一劒を以て、天下、平かなり矣。劒の徳、其れ盛んなるかな矣哉。上、王公より、下、皁隷に至るまで、食は去る可きも也、劒は去る可からざる也。劒の用、其れ廣いかな矣哉。‥‥

 嗚呼、劒は、身を護る所以ん也。身を護ること能はずんば、利しと雖も、亦た奚をか爲さん。此れ、往古神人の説、予が諸れを鹽土に聞く所にして、國益が傳ふる所と、約せずして會す。何ぞ其れ奇なるや也。予、竊かに神代の學に志有り。此に相證する有るを喜ぶ焉。因つて書して以て之を遣る。元祿辛巳正月二十日。鏡郡山田野の農夫・谷重遠、序す。



 平成丙申の紀元節を祝ひ奉るに、秦山先生の玉文を以てす。
 
 

『日本美のこころ』──日本美を巡る旅。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 2月 9日(火)22時16分4秒
返信・引用 編集済
   先般、岡田則夫翁によつて、下記の、美しい御本の御紹介に與かつた。其の極く一部で恐縮であるが、拜記し、清覽に供したい。



●彬子女王殿下『日本美のこころ』(平成二十七年十二月・小學館刊)

 神宮は、平成二十五年、六十二囘目の式年遷宮の年を迎へた。二十年に一度、神樣のお住まひになる社殿と、神樣のお召しになる御裝束・神寶を造り替へ、新しい社殿に御遷座頂くといふ式年遷宮は、戰亂や財政難で中斷したことはあつたものゝ、持統天皇の御代から約千三百年の長きに亙り、連綿と續いてきた。これだけの長い間、御遷宮を支へてきた力とは、一體、何なのだらう。

 今日、式年遷宮といふと、神宮のすべての建物を造り替へることだと思つてをられる方が多いと思ふ。實際、私も最近まで、さう信じてゐた。『律令』の施行細目を定めた『延喜式』といふ書物には、式年遷宮について、神樣のお鎭まりになる正殿、お供へした御神寶や幣帛を納める寶殿と外幣殿といふ、神樣に直接關係のある御垣内の三つの建物を、新材を使つて、二十年に一度造り替へるやう決められてゐる。つまり「すべての建物を、新材で造り替へる」とはされてゐないのだ。

 時代と共に、より鄭重にすべきといふ考へ方から、御垣の外の鳥居や別宮も新しくするやうになつたものゝ、すべての建物を新材で造り替へることになつたのは、昭和四年の御遷宮からなのださうだ。大日本帝國が一番力を持つてゐたときに、國力を揚げて行つた事業だつたため、前例と違ふ大規模造營となつた。このときの事例が踏襲されて現代に至つてゐるので、明治・江戸、それより前の御遷宮はどうであつたのかを、きちんと調べ直し、本來の御遷宮の形を復興しようといふ動きもあると聞いた。

‥‥

 帝室技藝員の作品に共通することは、その卓越した技術の力だ。少々殘念なことではあるが、現代の作家が、「明治の工藝家の技術には、とてもかなはない」と言ふのを、しばゝゞ耳にする。でも、それほどまでに評價されてゐるのにもかゝはらず、どうして誰も「知らない」のだらう。これは、日本美術史が、長い間、明治を境に分斷されてきたことと關係してゐる。

 例へば日本の國立博物館の作品蒐集の對象は、江戸時代末期まで。一方、近代美術館の蒐集對象は、大正時代以降が中心。近年、多くの研究者の努力により、やうやく再評價され始めてはゐるものゝ、明治時代の美術は、研究對象として、てふど狹間にあり、影が薄い。結果として帝室技藝員の存在も、その作品の「凄さ」も、長い間忘れられてきたのである。‥‥作品の完成度、そして、それらが持つ力は、帝室技藝員の實力を垣間見る‥‥。日本の工藝史において、技術的水準が最高潮に達した時代が明治時代であり、その中心にゐたのは、帝室技藝員だつたのである。

‥‥

 日本での(竹工藝の)需要が減る一方、海外で評價をされたことで、竹工藝が、その壽命を長らへることができたのは、幸運であつたといへるかもしれない。でも、産業としても、美術の一分野としても、竹工藝界の苦しい現状に變はりはなく、世界に誇る日本の竹工藝の存續は危ぶまれるばかり。竹ひごを準備し、編み上げ、仕上げに染色したり、漆をかけたりと、一つの作品にかゝりきりで制作しても、完成まで何ケ月もかゝることもあると聞く。でも、その勞力に、正直に値段をつけようとすると、「竹なのに、こんなに高い」と驚かれる。結果として作品制作だけで生活できる作家は、本當に一握りなのださうだ。これでは、優秀な若手を育成する餘裕は生まれるはずもなく、竹工藝界に明るい將來は見えやうもない。他の多くの工藝品と同じやうに、日本の竹籠は、存續の岐路に立つてゐる。日本の文化に育まれてきた、素晴らしい美術を生かし續ける力となるのは、いつなくなるかわからない外國からの需要ではなく、日本人であつてほしい。さう、願ふばかりだ。

‥‥



 愚案、神宮式年遷宮に於ける二十年てふ期間は、如何なる故ぞ。『延喜式』に據れば、世代技術傳承説は、もろくも崩れ去りたり。然れども現代に於いては、却つて必須と爲さゞる可からざるものあり。金滿日本に於いて、傳統技術の傳はる、縷の如し矣。悲しいかな夫。

 女王殿下の御本は、文章も寫眞も美しく、是非とも手に執つて拜戴されたい。洵に畏れ多いことではありますが、中に元號もあるものゝ、西暦が主となつた所もあり、又た「太平洋戰爭」の辭も、遺憾ながら存する。御諫め申し上げる御方の出現を乞ひ奉り、只管ら御待ち申し上げたい。恐懼謹言
 
 

神明奉仕の覺悟。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 2月 3日(水)22時36分4秒
返信・引用 編集済
   神明奉仕には、平生の覺悟が肝要にして、「いざ」てふ時の對應は、臨機應變なるを要す。「笏を持たざる神主」葦津珍彦翁の、いとも尊き教へを、『葦津珍彦先生追悼録』(平成五年十二月・宮崎正顯翁刊)から數條拜見し、靖國神社正統護持のための一助としたい。



○乃木神社宮司・高山亨翁「乃木神社に神明奉仕するにあたつて」

 昭和六十年九月に、乃木神社宮司を拜命した間もなく、久しぶりに葦津珍彦伯父に會ひ、話をする機會を得た。‥‥(珍彦伯父の曰く、)

「君は、乃木神社の宮司として、何を最も大事に奉仕、努めたらよいか、私の參考意見を申し述べるので、よく聞いて欲しい。御祭神・乃木將軍は、古來、稀な英雄・偉人として、又、日本人の鏡として、その神徳を高揚致すことが、一番肝要と思ふのが、一般的な考へであらうと思ふが、果してそれのみで、御祭神が喜ばれるであらうか。乃木將軍自刃後、自分は神として祀られることを、御自身想定したであらうか。

 日露戰爭凱旋の折、『‥‥愧づ、我、何の顔あつてか、父老に看えん。凱歌、今日、幾人か還る』と詠まれてゐる。又、明治天皇に、悲痛の復命書を奏上してをる。その中に、『‥‥忠勇の將卒を以てして、旅順の攻城には、半歳の長月日を要し、多大の犠牲を供し、‥‥臣が終世の遺憾にして、恐懼、措く能はざる所也。‥‥天恩の優渥なるを拜し、顧みて戰死・病沒者に、此の光榮を分つ能はざるを傷む。‥‥』。この御祭神の意を體するならば、この混迷せる世にあつて、乃木將軍の國體觀を充分に勉強しなほし、今、この世に御祭神が在ますならば、何と考へるであらうか、どのやうな行動をとられるであらうか、といふことを、先づ第一に考へて神明奉仕することが、御祭神が、一番にご嘉納になる道である。‥‥」



○葦津元成翁「珍彦伯父の教育の一端」

 以前に東伏見の學生が、國大の研修で、先生から、「神靈代は、限りなく尊く、火災時、神職は、命がけで護るのが第一義」と教はつてきた。これに對し、父(葦津大成)は、

「萬一、社殿が火災となつた場合、神靈代を搬出できるにこしたことはないが、命の危險もある場合には、無理をせず、ご昇神いたゞくのが至當と思ひ、職員にも、さう指導してゐるのだが、如何」と、伯父に尋ねた。

「それで良い。教條的でないが良いよ。但し歴史の重みとでも言ふか、神靈代にも、種々ある。例へば神宮の場合なら、何百人かの犠牲を覺悟してゞも、ご神體護持につとめることが當然だらう」と、教へられた。
 
 

『寤寐憂國』──崎門の宿老・有馬良橘大將の奧津城。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 1月27日(水)22時11分24秒
返信・引用 編集済
   下山陽太兄は、今日、明治神宮宮司・有馬良橘大將奧津城の掃苔をされた由。感謝に堪へませぬ。加へて寫眞まで寄越して下さつた。謹んで御披露させて戴きます。

 有馬大將こそは、山崎闇齋先生の御墓を、偶然、見つけられて之を修理し、自ら闇齋先生を研究して、徳富蘇峰翁と共に顯彰に力められ御方であります。而して大將の促す所、内藤湖南・平泉寒林兩博士によつて、廣く天下に紹介され、山崎先生の研究が起りました。闇齋先生の奧津城は、其の後、近藤紹宇先生によつて護持されてをります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/240



 葦津珍彦翁が、最晩年に居間から外されたと云ふ、「寤寐憂國」の四文字は、實は有馬大將の揮毫にかゝります(尊父・耕次郎翁に贈りしもの)。『葦津珍彦先生追悼録』(平成五年十二月・宮崎正顯氏刊)の扉に、其の寫眞が出てをります。



 水戸義公『明の故き徴君・文恭朱(舜水)先生を祭る文』に曰く、

「嗚呼、先生は、明の遺民なり。難を避け□[木+査=筏]に乘り、來つて秋津に止む。寤寐、國を憂ひ、老涙、巾を霑す‥‥」と。
 
 

御神縁、無量なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 1月25日(月)18時51分28秒
返信・引用 編集済
   瓶子廼舍の兄が紹介されたブログ、甦りし「神道家・眞橘道義」氏のブログ『櫻水鏡』、是非、御清覽たまはらむことを。

 未だ面謁も得ないが、小生、熱いものが込上げて來るを、如何とも止め難い。
  ↓↓↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/qq6a9kv9k/65712283.html
 
 

平成大御代の新年、謹みて賀し奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 1月 1日(金)18時04分6秒
返信・引用 編集済
  平成紀元 二十八年
中興紀元(皇紀) 二千六百七十六年
天降(あもり)紀元 五千十六年
天皇正月、歳、丙申に次(やど)る、元旦、大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。更めて謹み、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて御閲覽各位の福壽無量を祝祷申し上げ候ふ。



■『訂正古訓・古事記』上卷(本居宣長大人訓。享保三年十月刊)

 此の時、伊邪那岐命、大(いた)く歡喜ばして詔りたまはく、「吾れは、子(みこ)生み生みて、生みの終(はて)に、三(みはしら)の貴子(うづのみこ)得たり」とのたまひて、即ち其の御頸珠之玉の緒もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は、高天原を知らせ矣」と、事依さして賜ひき也。故れ其の御頸珠の名を、御倉板擧(たな)之神と謂(まを)す(天照大御神の左の御みづらに纏かせる物實、即ち八尺の勾璁之五百津之美すまるの珠より、皇太子・正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、成りませる也)。



【美甘政和大人『天地組織之原理』卷之第五「三種神寶考」】
  ↓↓↓↓↓
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/35
 
 

祓給清給へ──吉き御歳を。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月31日(木)21時06分28秒
返信・引用 編集済
   年末に、不可解なる闖入者を見ましたが、之に凝りませず、來る歳も、何卒、宜しく御引廻し下さい。



 先般、病院の待ち時間を利用して讀了した、長濱浩明氏『韓國人は何處から來たか』(平成二十六年一月・展轉社刊)にある、次の文字(『舊約聖書』民數記第三十一章)が印象に殘つた。我が日本を除いて、洋の東西を問はず、現代の世相を映し出して、餘す所が無い。曰く、

「さて主(エホバ=ゴッド=アラー)は、モーセに言はれた、『ミデアン人(びと)に、イスラエルの人々の仇を報いよ』と。‥‥

 そこでモーセは、ミデアン人に復讐する爲め、一萬二千人のイスラエル軍を編成し、主がモーセに命じられたやうに、ミデアン人と戰つて、五人の王を含め、其の男を、皆な殺した。‥‥

 又たイスラエルの人々は、ミデアンの女共と其の子供たち(ママ)を捕虜にし、其の家畜と羊の群れと財貨を、悉く奪ひ取り、其の住まゐのある町々と其の部落を、悉く火で燒いた。かうして捕虜と略奪物を持つて、イスラエルの町に歸つて來た。‥‥

 時にモーセ・祭司と會衆の司達は、皆な宿營の外に出かけて迎へたが、モーセは、軍勢の將達に對して怒つた。『あなた方は、女共を、皆な生かして置いたのか。此の子供たち(ママ)のうちの男の子を、皆な殺し、亦た男と寢て、男を知つた女を、皆な殺しなさい。但し未だ男と寢ず、男を知らない娘は、全てあなた方の爲めに生かして置きなさい』」と。



 かやうな砂漠の禍神・預言者を信奉する蕃人共と、我々は、戰ひ、附合ひ、言向け和はして行かねばならないのである。任重くして、道遠し。祓給清給へと、恐み恐みも白す。
 
 

四方節 元始祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2015年12月30日(水)13時58分36秒
返信・引用
  四方節
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/24

元始祭
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/25

元始祭祝詞
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/30
 

明日は大祓

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2015年12月30日(水)13時15分46秒
返信・引用
  聖上の大綾威を仰ぎ、大祓の儀を遥かに拜みて、大祓詞を奉唱致しませう。

引き潮は 十二月三十一日 二時七分、十四時三十二分

天皇大御身の祓詞
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/33

萬古天皇を仰ぐ
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/17

禊祓浄化・祝福安泰
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/10

大祓の一大事
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/33

國之大祓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/32

大祓式幽祭
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/34

大祓に對する一考察
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/8
 

大祓の前日に‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月30日(水)03時03分57秒
返信・引用
  謹告

 「愛国主義者」てふ御方は、九段塾頭が世に出る契機(櫻掲示板のスレツド)をつくられた方であり、塾頭も恩義を感じて容認された人でありましたが、今、出現の「愛国主義者」てふ御方は、或は別人か、或は熟知した上での發言か存じませんが、「本掲示板の主旨に反する書込み」が目に餘り、此の管理人も對應いたし兼ねますので、已むことを得ず、退場を乞ふことと致します。

 御閲覽各位には、御諒承を御願ひ申し上げる次第であります。敬白
 
 

この奇怪な乱入者について

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)23時35分54秒
返信・引用 編集済
  備中處士様、常連の皆様

長々と無粋なる投稿を、
続けたることにお詫び申し上げます。

しかるに、この桜坂 秀翠なる正体不明の
人物の行動は奇怪の一言であります。

年末の挨拶と称し、言葉の
揚げ足を取る挑発的なる言動。

天長節に対する祝意は一切述べない。
自分自身で議論を吹っかけておきながら、
それに対する質問には答えない・答えら
れないという奇異なる行動・言動。

奇怪千万、正体不明、まさに得体のしれない人物。
小生が言うのもなんですが、当掲示板には似つかわ
しくない御仁とみなしております。

いったい何の目的があって突如として当掲示板に
出現したのか?ふざけた愉快犯のつもりなのか。
 

・・・・・つまりあなた自身が説明できない

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月29日(火)22時12分18秒
返信・引用 編集済
  ・・・・そういうことですか?
唖然とするというか、あきれ返るというか・・・

>あいにくですが不毛な議論をするほど暇ではありませんし、また徒労に終わるのは目に見えてますから、貴公からのせっかくのご要望に答えられず申し訳ありませんが、要望は悪しからず却下させていただきます。

いやいや、もう一度言いますが貴殿が、今この場で簡潔に
説明していただければ、内容次第でなっとくします。

暇ではない・・・本日は小生と長きに
わたり意見を交わしているではありませんか?
話がかみ合ったかは別ですが。

無論、納得できなければ貴殿の言う
『不毛な議論』になってしまうと思いますが。
徒労であるかは誰にもわかりませんよ。

・・・・『凛として愛』の件も貴殿の方が
わかりやすく説明できると思うのですが??
逆に当方から質問ですが、何をしに当掲示板に来られたんですか?
 

ご遠慮します

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2015年12月29日(火)22時07分53秒
返信・引用
  >いや、貴殿が簡潔に今説明していただければ問題ないのでは?
答えが掲示板にあると指摘されても、恥ずかしながら
皆目見当もつきませぬので、むしろ貴殿から具体的に説明を
受けたほうが、何を指摘されているのかがわかりやすいと
感じております。


あいにくですが不毛な議論をするほど暇ではありませんし、また徒労に終わるのは目に見えてますから、貴公からのせっかくのご要望に答えられず申し訳ありませんが、要望は悪しからず却下させていただきます。
 

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