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  • 先哲景傳同血抄

  • 投稿者:暘廼舍
 
平成二十五年七月二十日、「戀闕第一等の人」平野國臣先生殉難一百五十年の日、建立。

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  • ◆◆◆ 古學の提唱者、下河邊長流翁 ◆◆◆ 其の一 

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 9月10日(火)22時36分29秒
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 戸田茂睡翁に就ては一旦、筆を措かなければならない。歌人としての翁、文章家としての翁、いづれも一興の價値があるけれ共、普く之を記さんとすれば「先哲の足蹟を辿るを以て道の入り口とす」とした本旨より逸脱し兼ねず、又た予の如き凡才では之を軌道修正することが出來なくなる。よつて話題を次に進めるものである。

 東に於ける茂睡翁の登場を記せば、同時期に登場した西の下河邊長流翁を記さねばなるまい。



●清原貞雄先生、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『國學に在て、中世以來、古事記日本書紀以下の我古典に對して出來上つた不完全なる研究を根據とした所の祕傳切紙の傳統を斥け、直接古典其ものに依つて純粹語學の上から我古道の眞相を■(手偏+國=つか)まうとする主張と全く同一である。國學に於ける此精神は、先づ和歌に於ける自由研究に其端緒を見出す、而して其端緒は江戸に於ては戸田茂睡大阪に於ては下河邊長流を以て始まるのである』と。



 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 


■下河邊長流
  生歿  〈生〉二二八四 後水尾、元和九年
       〈歿〉二三四六 靈  元、貞享三年、六
       〈年〉六三 [位牌には世壽六十二歳とあり]
  住所  〈生地〉大和宇多 〈居住〉攝津難波
  姓名  〈本姓〉小崎氏 〈母姓〉下河邊氏を稱ふ  〈通稱〉彦六 〈名〉具平、後、長流 〈法號〉吟叟長流居士

                      《出典》『國學者傳記集成』明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行

 

 



●明治卅三年十一月十日『國學家略傳』(「國光社」發行、編者小澤政胤氏)
『長流、名は共平[後、具平多と改む]、通稱を彦六といふ。長流は其號なり。元和九年、大和國龍田の郷に生る[一説に宇ともいふ]。姓は小崎氏、故ありて母の氏を冒し、下河邊と稱す。
 弱冠にして、京攝の間に遊學し、專ら、漢學を講究し、傍ら國學を修め、青雲の志ありしかども、一朝、感ずる所ありて、士官の意を、全く絶ち、大阪難波邑の片ほとりに、隱居し、戸を閉ぢて、讀書に耽り、靜に月日を送り、殊に古學を研究し、詠歌は、古体をよくす。資姓、強記にして、萬葉集、古今集、伊勢物語等は、之れを暗記し、一字も誤ることなし。其の國書の解釋、徴考に至ては、先人未發の説多し。實に古學の起る、長流に權輿すといふべし。此を以て、其名おのづから、世上に喧傳して、浪花の富豪輩、其門に入て、教を乞ふもの、漸く多し。然れども、人と爲り氣格清高にして、俯仰時に從はず。意適すれば、村童野父と、談笑嬉戯して、相樂しみ、心おもむかざれば、貴顯紳士、之れを招けども、就かず來り訪へども、應ぜず。或は高枕安臥し、或は書を讀て顧みず。其状、實に傍人無きが如くなりき。故に、人或は畸人を以て目するに至れり。然るに契冲阿闍梨の來り訪ふに及んで、喜色面に溢れ、筆を投じ、卷を釋て、談笑終日、曾て倦色なし。其頃、水戸の源義公、世に萬葉集の、良註なくして、其詞義明かならずを、憾みとし、百方、之れが解釋を得る事に、苦慮せられしが、遙に、隱士の名を聞て、大に喜び、禮を厚くして招聘されしかども、高貴の人に接するは、性來好む所にあらずとて、固く辭して、就かざりければ、特に、安藤爲章を使としておもむかしめ、其幽棲に就き、紙筆を賜はりて、萬葉集の註をかゝげんことを、慇懃に請ひたまふ。隱士、初は辭しけれども、爲章あつく、公の意を傳へて、切に之れを説きければ、さらば、心のおもむきし折に、心長く、之れを註すべしとて、諾したり。果して、其言ひしにたがはず、意の欲する時のみ、僅に一二首づゝを註するのみにて、多く怠慢勝にて過しければ、卒に成稿に至らずして、貞享三年六月三日大阪の幽棲に病歿す。享年六十三。其著す所の書、左の如し。


  累塵藻水草
  續歌林良材
  枕詞燭明抄
  萬葉集名寄
  歌仙抄
  林葉累塵集
  百人一首三奥抄
  萍水和歌集
  晩華和歌集


 等其他猶多し』。

●仝
『長流、壮年の頃、京師の友人、隱士の爲に、仕官の事を周旋し、其事、略ぼ整ひて、近日、徴書下るべきに定まりければ、其人、隱士に告げて、紹介者に、然るべき、謝物を贈らしめんとす。隱士、之を聞き、憤然として曰く、余が、仕官の道は、學問によりて得べし。賄賂を以て得る事を欲せず。若し、謝儀を贈らざれば、整ひがたしとならば、之れ即賄賂を以て、官を得るなり。此の如き、不正の官職は、假令、授くる者ありとも、余は斷じて、之れを受くべからずとて、徑ちに、其紹介者の家に至り、斷然、之れを謝絶して去る。
 是より、全く、意を官途に絶ちしと云。然れども、曾て青雲の志ありし事は、述懷の歌にて知るべし。


  桂川 こゝろにかけし 一枝も をられぬ水に 身は沈みつゝ
  位山 峯なる人を ふもととも わかみよしのゝ 岩のかけ庵』

●仝
『長流、妻子なくして、其裔を存せすど雖、後世古學を云ふ者、必、二下、兩倉を稱す[二下は、下河邊と下川とを云ふ。即、隱士と契冲となり。兩倉は、羽倉春滿、同在滿を指す]。然り而、今、古學の道統を推さば、先つ指を隱士に屈せざるを得ず。目今の國文學は專、古學に基くものなれば、隱士は、即國文學の祖述者と稱すべきなり。苟に然りとせば、隱士の國文學に於るの功績と、其道統の昌榮と、果して如何とかすべき。區々廟食の如きは、もとより論ずるに足らざるべし』

 

 


●伴蒿蹊翁、『近世畸人傳』(寛政二年)卷之三に曰く、
『蒿蹊云はく、予聞ける中、よしと覺ゆるは、


  下野や 那須野に繁る 篠をとりて 東男は 矢にぞはぐなる
  つひに我が 著ても還らぬ 唐にしき 立田や何の 故郷の山


 此の立田の歌を、右の桂川の歌に合せて思へば、はじめは出身の望ありしかども、其の才を知る人なければ、思ひ捨てて隱士に終りけるなるべし。その萬葉の註語は、代匠記にまゝ見ゆ。又季吟拾穗抄に或説とて出されしは、此の人の説とおぼし。其の流義の説にあらねば、不用とのみ書かれしに、かへつて道理にあたれるが多し。歌の體は契沖師と此の人同じ筋也。契沖十七歳の時の歌を見て才を感じ、方外の友となるよし、契師の徒義剛も書けり』と。




●安藤爲章翁、『年山紀聞』卷之二「隱士長流」項に曰く、
『わかき時は下河邊彦六共平と名告(なのり)たり。和州宇多の産、父は小崎氏。[割註]名を忘れたり。」いかなる故にか母の氏をとなへ侍りける。もとより妻子なくして、中年より津の國難波のかたはらに隱居をしめ、靜かに書をよみ、中にも哥學をこのみ、萬葉集、古今集、伊勢物語などは暗記したり。その學問おのづから傳へ聞えて、大阪の富人おほく弟子となれり。生得世にへつらはぬ人がらにて、心のおもむかぬ折は、富家の招にも應ぜず。訪來れる人にも物いはず。まくらを高して、あるひは眠り或は書をよみて、心にまかせて過しける。西山公その才を聞しめして召けれども、終にしたがはざりしかば、紙筆をたまはりて萬葉の註を乞たまふにも、心におもむきたる時は一二首づゝ註して、またをこたりがちに侍しまゝ、はたさずして貞享三年[丙寅]六月三日身まかり侍りぬ[六十三歳]。圓珠庵の契沖師とまじはりふかゝりければ、遺稿をあつめて晩華集と名づけたり』と。

 



  • [15]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の十四 「梨本書」十 終 

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 8月30日(金)03時07分7秒
  • 編集済
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承前。

●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷下



『一、
睡が又云。
佛法の事は、今世と後世の違ひなればいふにをよばず、儒の道は人の道なれども、是を學んでおこなはんとするにも、生れながらの聖賢の人ならでは、その道にあたる事あるまじ。中々に道をまなばんとせば、齊の宣王の孟子を用て國をうしなひ、鄭の大叔が子産がをしへの、猛火のはげしうして人をころさゞるといふ事をそむきて、悔たるごとくの事あるべし。文武を内外にし左右にもちゐて、それゞゝに應ぜよといふも、君子の徳なるべし。われらごときのもののそれを似せんと思はゞ、文にもあらず武にもあらず、一生のうち心おさまらず、物にも行あたり落着せず、善惡剛弱みな國にたがふべし。いかゞしてよかるべしやといへば、

茂右衞門が云。
日本紀の御書に云。神道は萬法の根源たり、儒教は枝葉なり、佛教は花實也。枝葉をもつて本源をあらはすと云々、まづ加樣におもはれ候へかし。
さて武といふは侍の總名なり。是に御大將といふが有。是は一ケ國も二ケ國もおさめ給ふ人なり。其下にあるを武者大將といふ。是は人數の二百も三百も下知する人也。それより下を士ともいひ兵ともいひ、みな同じやうなる侍也。その御大將は、たとへば長袴を着し、乘物にものりて出給ふが禮也。武者大將は、常の半袴の肩衣を着し馬にのりてあるくが禮也。士兵は又是に應ずべし。歩若黨中間小者は、小袖のすそを取て帶にはさみ、尻をまくり出すが禮也。如此(※このごとく)それゞゝの位によつてかはる事なるゆへ、心持各別にて、士兵の理といふは、大將の理といふとはかはり、名といふもとりやう又かはる也。それをしらずして、士兵の身にして、およびなき聖賢の道、佛菩薩のおこなひをまなぶ事とて、まなばんとおもふゆへ、鵜の眞似する烏が水をのむとやらんにて、まなばぬにはをとりたる事也。さるゆへ御大將の事をばさしをき、侍といふものには士兵といふ事をたつる也。士といふ時は座敷のうへ、常安穩の時也。兵といふ時は、兵仗をとつて命を捨んとする時の名なり。こゝに一つの相傳あり。侍は名を第一として理をつぎとす、名をとつて後に理をうる事也。理を得んとて名を捨るは町人の事也。此わけなるゆへ、名のためならば人をも殺し、堂塔をも燒亡し、人の物をもうばいとり、人をもたらし、はりぬき、いつはりをもいひ、いかやうの惡事をしても、それにて名のよくならん事をばおこなふべし、是が侍の道の肝要、心の一筋に落着て、物に行あたりまよはざる所也。今の人は理に心かたぶきて名をわするゝゆへ、不忠不孝不義の名をとつて、その小利にばかりかゝはりて、終に大利を得る事なし。わるくとりまはせば、小利をもうしなつて牢々する事もあり、身をうしなふ事もあるべし。名をおもふ物はそのまゝの理はあらずとても、その名をうしなふ事なければ、終には利をうる事なり。おもふべしゝゝゝゝゝ。




か樣に愚癡文盲なる理もなき事どもを、心やすき中とて口まかせに語り、夜も更ぬ。
さむさもさむし、いざ寐やすまんとて、茂法しはさきになり、睡法しはあとにつきて、一つになつてふすまをかぶりたれば、茂も睡もふすま一つの中に有。かゝる所へ茂右衞門も來りて、何とて我をばその中へ入ぬといへば、御身はさぶらひにて色々樣々の事にうつりて、しづかなるわれらがさまたげになるといふ。
茂右衞門が云。まことに兩人ながら坊主なれば、我を邪魔とおもふは左もあるべけれど、今迄の物語のわけなれば、きらはるべき我にもあらずとて、三人一つになりたるとおもへば、うへからみればたゞふすま一つ也。




元禄七甲戌年霜月日



 此書は、渡邊茂右衞門、法名茂睡と云者の作也。茂法しと云、睡法しと云、茂右衞門と、名を三人にわけたるは、心意情の三つを思へるにや。茂と睡と一つになりて寐たるうちへ、茂右衞門を入まじきといひたるは、佛法にて情を斷んと云心なるべしや。然れ共其佛法を用ざるゆへに、終に三人が一つふすまの中へ入たる成べし。ふすまと云心に、瓊々杵尊を天より下し給ふ時に、ふすまを以てつゝみ申たるといふ心にや。

 


                幻高庵隱融書之』

 



~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 

 

 


 『梨本書』もこれで全てを書き終へた。
 本書の跋文は茂睡翁、自ら記したものだと云はれてゐる。而して、この跋にて三人が根本に於て排佛に一致した事になる、と佐佐木信綱翁は説明してゐる。佐佐木信綱翁の『梨本書』に關する意見としては曩に掲げてあるので、全篇を通讀した今日、今一度、讀みかへしていたゞければ、より一層『梨本書』への親しみが増して戴けるものかと考へる。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t44/5



 元禄時代を前後し、巷間に於てさまゞゝな意識變革が芽生えはじめた。既に戰亂の世は去つて久し。旗本八萬騎も名のみに墮し、好む者と好まざる者との別を生じさせながら、未曾有の天下泰平の世が到來したのである。町人は擡頭し、士農工商なる既存の階級は空虚となりつゝあり、物資や趣向の擴充は次第々々に日々の生活に於ける價値觀を變ぜしめた。茂睡翁の『今の人は理に心かたぶきて名をわするゝゆへ、不忠不孝不義の名をとつて、その小利にばかりかゝはりて、終に大利を得る事なし』てふ一節をして、如何に當時に於て幕府要人が保身に奔り、武士がその本領と面目を亡失してゐたかを吾人は察するに難くはない。而、それは取りも直さず、時の幕府を支へた階級制度に亀裂が入り始めてゐたことを意味するのだ。斯くの如き時代の岐路に差しかゝり、如何でか思想上に於てのみ舊態依然にとゞまる可き。


 成る程、茂睡翁の主張や持論は、到底一般にいはれる國學の分野にそのまゝ屬される類ひではない。又た佐佐木翁が指摘してゐるやうに、必ずしも道徳觀として確立されたものでもない。然りながら隆盛を極めた江戸八百八甼の大半を三日にして燒き盡し十萬の命を奪つた明暦の大火が、案外にも本を正せば振袖に引火したことから端を發したやうに、思はぬ因が心外なる果となる場合も世の中、まゝある。かく觀じ來たれば、國學發展に寄與せしめたる因として、茂睡翁をその唯一人や第一人と云ふことが出來ずとも、主たるその一人であつたことは認めて宜からうと思ふ。


 勿論、國學の發達や思想の革新には時代に負ふところも大にしてあつたらう。若しも茂睡その人が哥學界の維新とも呼ぶ可き難事を擔任せなかつたにせよ、いづれ誰れかがその任を擔當したに相違ない。されど、時代が人を動かすのか、人が時代を動かすのか、或は兩方であるのかの論議は別として、時代の變轉期に際してその任に當たつた先覺に、予は惜しみなき拍手を捧げ感謝の念を表したいと思ふのである。

 

 

 

 



  • [14]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の十四 「梨本書」十 

  • 投稿者:暘廼舍メール
  • 投稿日:2013年 8月29日(木)00時44分25秒
  • 編集済
  • 返信
 

承前。

●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷下。

『一、
睡が云。
八幡大菩薩の御託宣に、「他の國よりわが國、他の氏子よりわが氏子」との御誓願ときく。是は心得にくし。神としては、天の月日のごとくあきらかなろ御心にて、我の他のとわけへだてなく、あまねくもらさず御まぼり(※お守り)御利益あるべき事なるに、是はいかなるこゝろやらんと問。

茂法しがいはく、
是が神道第一の所也とぞ。此ことはりをよくきゝうれば善人となり、あしく聞そこなへば惡人となるといへり。然れば大事の所也。わけへだてあるとの御不審は不合點也。佛も我を常々念ずるものには利益あるべしとの御誓願也。就中阿彌陀如來などは、よくわが名をとなへたらばすくひとらんとの事なれば、是は猶以此方(※なほ-もつて-こちら)からたのみあげ次第にて、そのものを御ひき被成也(※成されるなり)。八幡はあなたからおぼしめしよりての御あはれみなれば、佛の御心より猶まさる所あり、是はまづ是まで也。佛法のおしへは人我無相とかいひて、我もなく人もなく善もなく惡もなく。邪正不二とたつるは、大乘の法なりといへり。左もこそあるべけれ。それにては人道はたつべからず。人道には、上下の品をたて親踈のわけ有。依之(※これにより)人の主より、わが主をたつとみ、人の親よりわが親に孝をつくし、妻子眷屬までも、我方には一しほむつまじくする法なり。是を以て他の氏子よりわが氏子との御託宣也。わけへだてのあるやうなる事なれども、神慮にわけへだてはなし。儒者の云、中庸の中は、上中下といふ中にはあらず、善惡有無の中にもあらずといへるも、同じ道理也。此日本六十六ケ國山々島々の、あるとあらゆるものをば、みなあはれみおぼしめし、くるしみかなしむ事なく、たのしみさかゆるやうにまもらせらるゝ中にて、我かたをば一しほまもらせらるゝとの御事也。是が人道の第一也。能(※よく)主人のおさめまもらるゝ國、又一家なりとも、その下にあらん程の者をばみなふびんにおぼしめして、法度をもゆるがせに、惡事をも見のがしきゝのがしに被成(※見逃し聞き逃しになされ)、中にてもとりわけまへちかくつかはるゝ者にはなさけをかけらるゝ、此心にかはらず。

然れ共、人と成ては、まことの心すくなくなり、自他をわくる(※別ける)心いやましになりて、他より何事をもまさらん(※勝らん)心出來、相たがひに是をあらそひ、よく心(※慾心)つよく、他を亡してその國をとり、上をしりぞけてわが上にたゝんとおもふ惡心おこりて、亂國となりて上下ともにくるしみし也。此時の人の心、今日は人のうへ、明日はわが身のうへとおもふは尤也。おやこ(※親子)しんるゐ(※親類)ちいん(※知音。親友、戀人の意也)ちかづきも、きのふはだれゞゝうたれ、けふはこれゝゝがむなしくなりたるときかば、たのみがたなき此世の命。まことに草葉にをける(※於ける)露の風をまつ間のごとく、身をはかなくおもふ時節をよき折からとおもひ、法然、日蓮の出て念佛題目の事とをしへ、一宗一派をとりたてられし也。亂世の時なるゆへ、用ひずして追はらはるれば、又他の國へ行て、すすめやすくかたぶきやすき者にをしへて、終にあまねくひろまれり。今の御代のごとく、天下一面に御法度をまぼるならば、中々一宗はたつまじき事也といふ。  ~~續く』




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 既に先人の學恩を忝うする現代の吾人にしてみれば然して瞠目す可き一節で無いにせよ、文末に於て朧げながらも往昔への憧憬を窺ふことが出來る。今日は兎も角、當時に於てかうした一大發見(注。「發明」では無く、「發見」である)が次第に懷古主義を經て、復古主義へと轉じてゆくのは、時間の問題であつた。


 『梨本書』より凡そ七十五年後に脱稿されたと知られる賀茂眞淵翁の『國意考』では、その峻烈なる儒への批判に比し佛意に對して些か寛容であるも、吾人の注目す可きことがらとして益々この往昔への憧憬が強められてゐることに他ならない。而して、本居宣長大人、平田篤胤大人などの登場と國學の普及には、未だ少なからずの年月を俟たねばならなかつた。

 

 

 


●縣居 賀茂眞淵大人『國意考』(明和六年?)に曰く、


こゝの國は、天地の心のまにゝゝ治めたまひて、さるちひさき、理りめきたることのなきまゝ、俄かに、げにと覺ることどもの渡りつれば、まことなりとおもふむかし人の、なほきより、傳へひろめて侍に、いにしへより、あまたの御代々々、やゝさかえまし給ふを、此儒のこと、わたりつるほどに成て、天武の御時、大なる亂出來て、夫よりならの宮のうちも、衣冠調度など、唐めきて、萬うはべのみ、みやびかになりつゝ、よこしまの心とも多くなりぬ。凡、儒は人の心のさがしく成行ば、君をばあがむるやうにて、尊きに過ぎしめて、天が下は、臣の心になりつ』と。

 又た曰く、


『唐人にては、萬物の靈とかいひて、いと人を貴めるを、おのれがおもふに、人は萬物のあしきものとかいふべき。いかにとなれば、天地日月のかはらぬまゝに、鳥も獸も魚も草木も、古のごとくならざるはなし。是なまじひにしるてふことのありて、おのが用ひ侍るより、たがひの間に、さまゝゞのあしき心の出來て、終に世をもみだしぬ。又治れぬがうちにも、かたみにあざむきをなすぞかし。もし天が下に、一人二人物しることあらむ時は、よきことあるべきを、人皆智あれば、いかなることもあひうちとなりて、終に用なきなり。今鳥獸の目よりは、人こそわろけれ、かれに似ることなかれと、をしへぬべきものなり。されば人のもとをいはゞ、兄弟より別けむ。然るを別に定をするは、天地にそむけるものなり。みよゝゝ、さることをおかすものゝおほきを』と。

 

 

 

 

 

 

 



  • [13]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の十三 「梨本書」九  

  • 投稿者:暘廼舍メール
  • 投稿日:2013年 8月27日(火)16時05分47秒
  • 編集済
  • 返信
 

承前。

●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷下。

『一、
茂法しが云。
兩人の申さるゝ事、理は聞えたれ共、僻言也。佛方便の佛法なれば、その法をつたへその方便の説をとくは、出家の役也。姥かゝの愚癡もんまう(※文盲)の者は、ほしき(※欲しき)とおもへば人の物をもぬすみとり、又いつはりをつくりてかたりとり、にくしとおもふものをば毒をかい、人をたのみてころしたがり、わが身をやすくせんとては人をくるしめ、人道にそむく事のみおほし。かやうのものに、人の道といふ事をなにほどいひきかする共、がつてんする事にあらず。まことの道などといふ事は、かりそめにもまなばんと思ふ心のつくべき事になければ、聖徳太子聖人にてましますゆへに、是をさとりおはしまして、佛法を崇敬あそばし、神道人道へ佛法を入て、惡心をもたず、よく人道をまもる御つもり也。それゆへ因果といふ事をおしへ、此世にて人にあしくあたれば、來世にてそのむくひあり。そのむくひといふは、酒をのめばそのむくひにて顏があかくなる也。あしき食物をくらへば腹中あしくなるごとく、善事には善事がむくひ、あしき事にはあしき事が報ひ、むくひのはやくめぐるは此世にてむくひ、をそきは來世にて必ずむくふ也。さるほどにあしき心をもたず、人のためよかれとばかりおもひて、人のめいわくにおもひくるしむ事をなすべからずと教へさせられて、人道のすぐにたゞしく、人の心のまがらぬつもりになされたる事也。佛の道のいましめも、みなその事すぐれば、身のわざはひになる事とばかりしろしめして、いましめと被仰し(※おほせられし)事也。前に愚癡を大きなる科に被成たる(※成されたる)事も、愚癡の心から、さまゞゝの惡心のいづるゆへに、その愚癡心が第一の罪とおほせられたる事也。それにてもをろかなる姥かゝは、つゝしむ心すくなきゆへに、地獄と云所ありて、此世にて惡業を作りたるものをば、それ程に鬼といふものがくわしやくして、うきくるしめをする、みる目と云者がありて、善事も惡事をもそのまゝ見通しに閻魔王へ云、又極樂淨土といひて、佛のおはします國なるゆへ、なにのくるしみもなき國にて、寒きと思へばあたゝかになり、あつしと思へばすゞ敷風(※暑しと思へば涼しき風)が吹、つねに心をたのしむ國あり。此極樂へゆくには、心を正直にもち、慈悲のこゝろふかく、佛の色々いましめ給ふ事をよくつゝしみまもれば、行事也。あしき心もちたるものは行事(※行くこと)はならず。その者は地獄へ行也とをしへて、人の心すなほに、國のわざわひなく、人道をたゞ敷(※正しく)渡らせんとの事を、愚癡無知の者にいひきかする役人なれば、此世はかりの宿、金銀珠玉もなににせん。ひとり生れてひとりかへる。身にそふものは此世にての善根、身にはなれざるものは惡業邪念なるゆへ、その善惡によつて極樂へも地獄へもゆくものとおしへしめすは、出家の役なれば、尤也。此ゆへに今物とりにする開帳千日萬日のゑこうとて、人よせをする僻言をも御ゆるしなさるゝは、天下の御慈悲也。出家の身もち、佛の御法をしめす役人なれば、第一よくとく(※慾得)をはなれ、施物を非人にとらせ、寒き者には衣をきせ、飢たる者には鉢のものをくれて、佛の道をまなぶものはかくのごとくせよと、人にみせしらせばよかるべけれ共、出家とても同じ凡夫なれば、俗人にかはる事なし。されば有難事のなきは尤也。俗人の今後生をたいせつの事と云人も、まことに心から思ふ人はなし。あの人は佛の道を大事に後生をもよくねがはるゝ人成ゆへ、無理非道の事もめさるまじ、よくとくの道も大ていの人よりは淺くして、人をもあはれみなさけもふかヽるべしとおもはれんとて、佛道後生のまなびをする人あり。就中(※なかんづく)年寄たる男女は、つらやく、年寄やくに寺まいりするもあり。わかき女、わか後家、いたづらなる娘、奉公人は、後生にかこつけて不行儀をせんたくみをする。是は出家の身のおこなひのあしきゆへ也と云。  ~~續く』




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●猪狩又藏翁『日本皇室論』(昭和七年六月十五日「日本皇室論刊行會」發行)に曰く、


『欽明天皇の御代に傳來したと稱せられる佛教は、儒教の如く簡單にはいかぬ。元來現世的であつて、未來の樂土、即ち極樂や淨土などを夢にも知らなかつたところの我等の祖先に初めて來世の禍福を説き聽かせた。現世的であるが故に、活動的であつた日本人に無常の觀念を吹き込んだ。そして日本祖神の外に印度の諸佛を禮拜することを教へた。これ丈でも大變化といふべきものであらう。


 たまゝゝ蘇我馬子の大逆事件が起つた。これは佛教に關係したことでは無いと辨解してゐる人も少くないが、自分は矢張り關係のあることだと思ふ。其の理由は佛を信ずると信じないと其處に事の原因が伏在するのである。即ち佛を信じられない 崇峻天皇を崇佛大臣馬子が弑したのである。故にこの場合、崇佛排佛の議論を進めると、終に佛法重きか、王法重きかといふ問題になる。其處で愚管抄の著者の如く、佛法は重い。王法は輕い。重い佛法の爲に輕い王法を捨てるのは理の當然である。さすれば馬子は立派な大臣で、聖徳太子が彼と手を携へて事を共にせられたのも何の不思議は無からうといふ議論が出て來るのは、怪しむに足らぬことである』と。


 



  • [12]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の十二 「梨本書」八 

  • 投稿者:暘廼舍メール
  • 投稿日:2013年 8月13日(火)23時20分51秒
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承前。

次いで茂右衞門による排佛論である。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷下、續き。

『一、
茂右衞門が云。一とせしのばずの池(※一年、不忍池)のかや町へ用ありて行たるに、湯島祥鱗(※原文マヽ)寺[頭書、祥麟寺は麟祥院の誤りならん]の先住とか、とうゐん和尚といふ隱玄派の出家、此近所の寺におはします。元來の知識、その上に隱元和尚の法を傳へ給へば、有難き御説法。釋尊の再來かと諸人うやまひ奉るといふをきゝ、是はさいはゐ(※幸ひ)の仕合(※しあはせ)と思ひ、案内をもとめて見參申、少々佛法の事をきゝつれども、をろかなる心ゆへ一つもおぼえず、物語に成て、とうゐんの云、今程疫癘邪病はやるとて、門々ににんにくをつるしてまじなひ事とす。大きなるあやまり也。同氣相求とて、惡臭には邪神惡神たより寄やすし。但々にんにく惡臭の氣にひかれて、邪神惡神たより寄やすし。但々にんにく惡臭の氣にひかれて、邪惡の神來り給へとまねくが如し。是のみならず、佛神に御酒をそなふる事あり。酒は五戒のその一つにて、いましむる事なるに、かやうにあやまりたる事を、俗人のわざにする事おほし、心得給へとしめされ侍し、此事まことの知識の御詞ともおもはれず、にんにくの事は、日本武尊信濃國の山中へ入給ひし時、山の邪神みことをなやまし奉らんとせし時より始り、その例を以て如此し(※この如し)。御酒の事、仁王のはじめ 神武天皇の天神をまつらせらるゝにも、瓫(※上「分」+下「瓦」=ほどき)を作り御酒すゑ、まつらせ給ふといへり。萬葉集第三、大伴坂上の郎女の神祭歌にも「榊の枝に、しらがつけ[しでをつくる事を云]ゆふとりつけて、齋戸(いはひへ)を[神にさゝぐる酒を入るもの也]いはひほりすゑ、竹玉(たかだま)を[竹をくだにきつてつらぬき神に奉る]しゞにぬきたれ、[竹のくだをしげくつらぬきかけて、神にたてまつる也]しゞじものひざおりふせて、[神を祭るにつゝしんでひざをおる事を、鹿の膝をおりてふすにたとへて、鹿のやうにといふ也]たをやめがあふひとりかけ、かくだにも」とあり、此國は伊弉諾尊伊弉册尊生出させ給ひて、天照大神へ御ゆづり被成たる(※なされたる)國にて、天照大神の御孫瓊々杵尊へ、此國を「やす國とたいらかにしづめおさめ給へ」とて、天より下し奉せ給ひてより、地神五代經て 神武天皇、今の人のかたちに生れ出させ給ふより、人と云もの出來たり。それ故 神武天皇を仁王のはじめといふ。此御名につきて、をろかなる心におもんみるに、上代は知惠深く、末代をかんがみ何事をもしをきたる事也。かみは又たましゐ也。神武天皇も此日本をしづめ、おだやかにおさめさせ給はんとて、筑紫よりまづ今の五畿内へおはしましたるに、いか程の軍なされ敵を亡し給ふ、御兄の御子も二人討死なされ、武を以天が下をおさめ給ふなれば、神ながら武也。今の世にとつてかんがうるに、神といふは帝王の御事たるべし。武といふは公方樣の御事也。神は神にして日本の主也。武は人間の頂上にして國を治る源也。日本のうちには、山に猛獣あり、海に人を取魚あり。鳥にも蟲にも、人をなやまし人をとるもあり。これらをしたがゆるは人なり。此人の中に惡人とて、かたちは人にして心の畜生あり。又人の中に武士といふもの有て、此惡人を殺ししりぞけて、天下太平なり。然れば此國は神國也。生あるものの中にては人の國也。人の中にしては武士の國也。是をかんがへて 神武天皇と名づけ奉りたる成べし。此國のはじめ、此國の御ぬし、人たるものの御おやは 天照大神也。此御心に佛法のあはぬ事こそ道理也。その仔細は、


一、 地神五代より親子のわけ有。佛法には親を捨る。


一、 天神七代より陰陽和合の道有。佛法にはこれをはなるゝ。


一、 生をたのしみ死をきらひ、福貴をねがふは人道也。佛法にては、六根六識にひかれ六塵増長して、明性を曇らするといひて、捨身する法もあり。もとより福貴金玉は、煩悩のなかだちなりとて、海になげすて山にかへすといへり。


一、 魚鳥を喰ひ酒をのみ、子孫繁昌千秋萬歳と祝ふ作法なるに、佛法にては、子孫相續なきやうにといひて妻をももたず、魚鳥をもくらはず、千秋萬歳とも賀せず、電光朝露の夢の世といふ。

 是ほど大きにたがひたる法なるゆへ、天照大神のおほきに出家を御きらひなされ、僧尼堂寺などいふ名をさへ、伊勢の齋宮にてはおほせられぬ事と聞侍る、人間と生れ、此國にありて、此土の五穀をくらひて命をたすかりおる出家の、佛の法をたてゝ人に用られんとて、神の法、人の道をうちやぶらんとするは、大外道心也。佛法にまかせ、男はみな出家になり、女はみな尼になりて後生計ねがひて、田をもつくらず機をもおらず、海山の獵師も殺生をやめ、木の葉を衣とし木食をして、身命をつなげとの事にや。尤天命のうくる所、そのあつきうすきによつて、一生はそれにてもたもつべけれども、子孫は絶べければ、人はみななくなりて、虎狼野干の國となせといふ事にやといへば、

 睡が云。
 申さるゝ所いかにもそのとほり也。清水物がたりと云かな草子にもくはしく書たれば、重ねていふにをよばず。佛法は釋尊の説をかせられし事なれば、至極のふかき道理、ありがたき事たるべけれども、直々の御弟子しゆさへ(※直々の御弟子衆さへ)、佛といふにはなり給はずときく。法はありがたき事、佛にはならぬ事とまづおもはるゝ事也。末世の出家には、法然上人、日蓮上人などを大聖人御佛の再來といへども、大俗人にはかつ事ならず、生ておはしましゝ時だに、さまゞゝのくろうくるしみをうけたる人の、死給ひて後人をたすけんとは、なにともおぼつかなきたのみものなり。一切經をくり、經文を會得なされ、いか程の物しり知者にしても、人間にて、佛にてなかりし事は必定也。人間にして生てあるうちにこそ、人のそしやうなげきかなしむ事をば、それゞゝに應じてかなふ事もあるべし。その人死時に至つて、七世まもらん七代たたらん(※祟らん)などといひをきたるとても、死て後は何にかなるらん。一つもあふ事なし。總じて後生をねがふといふ事は、なにのわけもしらぬ百姓のうば、かゝ、町人の隙あるもののなぐさみ事たるべし。侍たらんものの、かりそめにも佛法にはかたむくまじき事なり。いかにといふに、佛法は第一名利をはなるゝおしへしめし也。侍は名利をかんように用る役人也。そのうへ罪と云惡業といふの最上は、三毒といひて貧嗔癡の三つなり。むさぶる心も、いかりはらだつ事も、つつしみ守らんといふとも、愚癡心は何ともつゝしみもまもる事もなるまじ。出家のしめしをうけて、念佛を申題目を唱れば佛になるとおもふ、是程愚癡心はあるまじ。それはなぜに左様にいふとおもはれんが、今千日萬日の廻向ときゝて、うば、かゝのまいるをもつてつもられよ。うばかゝも、出家のしめしに、此ゑこうの時に參れば、千日萬日つとめたる功徳もどうぜんなるといふをきゝて、まことにおもひてまいる事なり。千日は三年、萬日は三十年。これほどの年月をおこたらずつとめぬるといふは、おろそかなるつとめにあらねば、是は功徳も尤成べし。おほくのとし月世上の事にのみかゝりて、佛のいましめ給ふ目にものを見、耳にものをきゝ、あれはにくし是はかはよし、それはうれしゝ、これははらがたつ、あれはほしゝ、これはおしゝと、心に毎日々々のつみをつくりたるものが、ゑこうの日寺まいりして、すきと罪科の消うするとおもふは、愚癡文盲のうばかゝ也。出家のしめしをきゝてまこととおもふは、同前の事也。出家のしめすはみな方便といふもの也。それによりて今ほどの出家をいふは、後生を願(※ねがひ)來世の事は出家の役、俗人の御事は、それゞゝの身にそのつとめ有。親子ある中は親をおやとして、よく心にしたがひてそむく事なく、子をはぐくみてあはれみをかけ、主人ある人は主人のおほせをそむかず、人をも切、畜類をもころし、魚鳥をもくらふべし。町人は商賣のすぎわひなれば、少の理勘をもむさぶり人の目をぬき、あしき物をよきといひ、下直なるものにて高利をとる。是又その役人なり。山川の獵師もいか程の生類の命をとるとても、それもその役人なり。たゞころすまじきものを殺し、むさぶるまじきものをむさぶらず、人をくるしめかなしむ事をなさず、惡心邪念をはらひ捨て、心をやはらかにじひにんにくにさへもてば(※心を柔らかに、慈悲、忍辱にさへ持てば)、後生善所にいたるといへり。是をきゝては、いよゝゝ後生をねがひ、出家のおしへをありがたきとおもはず、今しめさるゝ所は、一つも釋尊の御説法にはあはぬ事也。みな人道の事にて、俗人のおこなひにつきたる事也。儒道といふも此をしへなるべければ、佛法のしめしといふにはあらざる也。主人を持、家を持、妻子を持、家人を持たざるものが、なにとして名利がはなれらるべきや。貧嗔癡の三毒も、毎日々々につとめなるべし。古兵のいはれし事に、命をば今日切とおもへ、所帶をば千年と思ふべしと云し、是金言とこそいへ、夢の世の中露の身とおもひて、一日も俗人のたつべき事なし。むさぶるまじき物をむさぶり、殺すまじき者をころすをいましむるとの出家のしめしも、今天下太平御代萬々歳の御靜謐の時にのぞんでの事也。是は時代の作法也。侍のかたく守る事にてなしといへば、よね藏といふ小者が出て、わたくしの推參ながら、存じ寄候事申上候はん、人は生じては死し、死しては生じ、三界四生をくるりゝゝゝとめふる事也。此生死をのがれぬものを、輪廻のまよひといひ、生死を離るゝを佛といふといへり。一とせ淺草觀音の仁王門の脇にて、太平記とやらん申本を讀候を立寄きゝ申候へば、北條四郎時政といふ人は、そのむかし時政といひし六十六部の勸進坊主なりしが、六十六ケ國を修行し、六十六部を一部づつ一國に治たる、その功力にひかれて、北條時政と生れかはりたるといふ事ありし。是は大方作り物語の僞かと存じ、時政といふ坊主の文字と、時政といふ文字の出合たるは、是が烏のなきあはせとやらん。やくにもたゝぬ云事にて候。仔細は、六十六ケ國を難行苦行の行脚して、それ程の善根をまきたるものならば、佛になるべき筈にて候に、やうやうに生れかはりて侍になりたるとあれば、出家といふ者はさんゞゝのものとおもはれ候。その勸進坊主程も善根をせぬ出家は、なにに生れかはり可申候や(※何に生まれ變はり申す可く候や)。是を思へば、生れかはるといふ證據はまづ僞にてあるべく候。又現在の果をみて過去未來をしるといふも、親と子と孫と三代の事たるべく候。佛は方便譬喩とて、たばかりごとゝたとへ事のみ説をかれたる事にて候。私は今此世にかくており申候へば、是が現在にて御座候。親は死申候へば過去にて御座候。子はいまだ侍不申候へば未來にて御座候。過去未來をしるといふは、わたくしの今かやうにいやしきなりふり仕(※賤しき形振りつかまつり)、なにのわきまへもしり申さず候は、おやが百姓にて、鍬鎌ばかりにて年を過し候事よとしられ申候。今わたくし奉公に精を入、檀那(※だんな)によくおもはれ候はゞ、とりたてられ、六十六部の勸進坊主が善根にて生れかはりたる侍に、いきながら可罷成候(※まかりなる可く候)。左候はば、私の子供の代には刀をもさし、さぶらひにきはまり候はんと存候へば、過去未來共にわたくしの身にてしられ候といふ、まことによき心もちなり。折角よく奉公をせよといへば、嬉しがりて小鼻をうごめかして、勝手へ入なり』



 つまり茂右衞門と睡法師とによつて、ニンニクの話しから、排佛論で盛り上がつてきたといふわけだ。果たして茂法師の意見は如何なるべき。以下、次囘。


 



  • [11]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の十一 「梨本書」七 

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 8月 3日(土)23時50分42秒
  • 編集済
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承前。

 

 

 いよゝゝ『梨本書』の下卷を記すに至つた。

 吾人は茂睡翁の思想の一端を、この下卷に於いて窺ひ識ることが出來る。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷下。

『無縁寺にて、信濃國善光寺の如來の開帳とて、老若男女おびたゞ敷(※夥しき)參詣ときく。善光寺の如來は御利益そのまゝ生佛なれば、あまりたつとく、直におがみ奉らば、惡心のあるものは御罰もあたるべし。又穢不淨の者の見奉らば、佛をけがし申になるとて、祕佛としたるなるべし。開帳とあれば、忌服の者はいふにおよばず。今人を切て血にそまりたる者、又死人を手にかけたる者も、とをりがけ(※通り掛け)に見奉る事なるべし。鹿猿をくらひたるものも、その手にてすぐにおがみ、その口にてなむあみだ(※南無阿彌陀)と唱ふる事もあるべければ、ことごとく佛をけがし申也。祕佛にしたる甲斐もなし。但し祕佛とするはそのわけにてはなし。神にこそ穢不淨はいみ給へ、佛はいみ給はず。就中あみだ樣おぢざう樣(※阿彌陀樣、お地藏樣)は、いみ給はで地獄へも御座なされ、死人を手にかけ御すくひなさるゝ御佛樣なり。葬禮野送りの道筋にも置申事也。祕佛とするも方便の手立なり。つねにあらはす御かたちを人にみすれば、人の心のをろかさに、目なれみなれぬれば、信心うすくなる也。證據は、日月ほどありがたきものもなく、光りをはなちて三千せかい(※世界)をてらし給へども、明ても暮てもみるゆへ、さのみありがたくもとうとくもおもはず。それゆへ人の信心をふかくせんため、祕佛とするといはゞ、いよゝゝふかく祕しをきたき物なり。御堂御建立の爲に、はるゞゝ爰まで如來樣のかね勸進に御こし候といへば、殊の外かるゞゝ敷(※輕々しく)、如來樣も人げん(※人間)とおなじやうに、けつこうなる家をこのませるゝ事かな。

 お伊勢樣は此國の御ぬしなれども、黒木にかや屋の御やしろに御座候は、國のついゑをおぼしめす事なるに、如來樣にては他國の御佛ゆへ、此國の事をば何ともおぼしめさぬにや。大きなる御堂ごのみをなさるゝからは、ありがたき心もうすれば、中々一念發起のわけにゆかず。たとへていはゞ、大名の御息女樣をおくふかくかしづき、人にもみせずあがめをかば、御ようぎもうつくしさうに、御なさけもたぐひなからんとおもはれ、一目見申度(※一目、見申したき)と心をうごかし戀忍び、命をもおしまず、只一すぢにおもひかくる心も出來べし。その御息女樣の、金が御用なるとてこゝへ御越、しよ人(※諸人)に御顏をみせ、是へまいりて金銀をくれたるものがあらば、なさけをかけて被下候はん(※下され候はん)との事といはゞ、その御息女樣は、てんやものにならせられたるにこそあれ、まへかたおくふかくおもひやりて、戀かなしみたる心はなくなるべければ、もつたいなき事なかといへば、いかにもゝゝゝゝ御さげすみのとをりにて候ゆへ、本の如來樣をばおもり申さず、御まへだちの御佛樣をもりきたると云。しからば御息女樣のかはりに御局をつれて來るやうの事なり。本の御息女樣こそ、御うつくしくも御やさしくも御なさけもふかゝるべきとおもひやり、一目見申、戀忍ぶ心ざしをもみせ申たくてこそまいるべけれ、その御局になにのうつくしさもなさけらしき事もあるべき。本如來樣こそ有がたき御相好は拜し申たけれ、御まへだちの佛に何のありがたき事のあるべきや。開帳と世上へはひろめて、本尊は似せ物也。今さかい町に、山姥のいけどり、河童の鹽漬、かやうなる生れそこなひとて、ぜにとり(※錢取り)に似せ物はすれ、世にたうとき御佛に似せ物は、大きなる僻言也。さりながら人の上にも名代といふ事あれば、佛にも御名代といふ事あるにや。それを思へば佛の道も人の道もかはる事なく、同じ作法なり。然らば極樂淨土といふも此國にかはる事はあるまじ。佛にさへ似せ物いつはりのある事なれば、極樂といふも世上へのいひなしまでにて、うれいかなしみのおほき國もしられず、此世にあるものは、この世の作法をよくつとめて、おぼつかなき極樂をばねがはぬがまし(※願はぬがマシ)なるべしといひゝゝ、無縁寺の門迄きたれば、門の上、そのわきの屏のうへに、男どもひしとならべて居たり。是はあまり人込にて何も見られざるゆへに、こゝにのぼりてみるにや、不行儀なる事かなと思へば、大聲をあげ、年よられたる衆、女中衆、子どもしゆは、如來樣の御まへまでは人込にて中中よりつかるゝ事にてなし。開帳ときゝて是まで折角參詣のかひもなし。せめてこゝろざしの初尾ばかりはうけとりて御なんどへおさめよ、如來樣はまことの御いきぼとけ、天眼天耳をもつて、誰があげたるといふ事は、そのまゝ御存知なさるゝ也。御契約のしるしに、こゝにてわたされよ、初尾をさへあげらるれば、おがみ申たるも同前なるとて請取、さて蓮池のむかひ辨才天のうちには、此度の靈寶の第一ゑんま大王のかないんあり、此金印をうくるが金一分づつなり、此金印をもてば、極樂淨土への關々をせんぎなしにとをるゆへ(※詮議無しにて通る故)、つみのふかきものも、御佛樣の御前へそのまゝ行也、その時御佛樣、やれゝゝよくきたり、なんぢは、いたづらものにてよくふかきものなれば、閻魔のまへへ行たらばおびたゞ敷せめにあふべけれども、金印をうけたるゆへ、關をとをりてこゝへきたる、此上にあがりておれとて、御手をもつて蓮花座へひきあげてをかせらるゝ、ありがたき事なりといふ。

 金一分にて極樂へゆくは、調方なる事なり。いざ、かないん(※金印)をうけんとて橋をわたれば、はしの向ひに木戸をゆひ、ちいさくくゞりをあけ、その口へ兩方よりぼうを二本さしはりて、此の木戸せんが十二文づつ、さかひ町追出しの狂言づくしの木戸錢と同じ事なれど、十二文のぜにを出せば、十二街中の道ひろくなりて、行たい所へ行也。その證據には、此木戸をもそのまゝとをるといふ。左の方をみれば、南向にながく小屋をかけ、つくゑ(※机)のうへに硯と帳とを置、それに一人づつの筆取すきまもなくならびゐて、是が御堂の奉加帳所なり。佛前のはしら一本が金百廿七兩づつ也。むな木が金子なんりやう(※何兩)、けたがいく兩(※桁が幾兩)、いた、くぎ、かはらまで、それゞゝの直段(※値段、乎)きはまり、御心ざし次第に帳面に書しるし、如來樣の御目にかくる事也。それに付て如來樣のおはせらるゝは、とてもこゝろざしありて帳面につくならば、大ぶんに金の出るおほきなる物を寄進せよ、是は此如來がよくにていふ(※慾にて云ふ)にてはなし、閻魔大王の前へ行たる時、罪のおもきかるきをごわうのはかりにかけてせんさくする時、此寄進のものが、はかりのおもりになりて、人の方はかるくぴんとはぬるゆへ、そのまゝ極樂淨土へはねやらるゝ也。此段をよくいひきかせよとおほせ出されたるといふ。御本尊をば北向にかけたる小屋にをき、左の方に善光夫婦の御影を置、然れども大勢の人にて、仁王門よりさきへはゆかれず、大がねをたゝきたて念佛を申、ものなりも聞えず、然る所に、御法談は一きり一きりおかはりゝゝゝゝといふと、人くづれがすると、つめかけたる者どもの入こむ事おびたゞ敷、おしたをされそうなれば、ありがたき事もしらず、ふみころされてもせんなし。とにかくありがたきといふ事を聞べしといひて、無縁寺のまへのやきもち屋がこしかけをかりて、とをるうばかゝ(※通る姥母)をよびこみて、みなゝゝはありがたき事を見きゝ申されたるはうらやましき事かな。いかやうの事の候つるやと問ば、たゞ今御ゑんぎをよませられたるはおしやう樣(※和尚樣)で御座る、ありがたやありがたやといふてとうる。又一人にとへば、たくさんなるはたをかけならべ、御衣のけつこうさ御袈裟の見事さ御じゆず(※御數珠)もうつくしかりし也、ありがたやありがたやといふ。又くるものにとへば、南無あみだ佛と御となへなされた御聲のしはがれ、御齒もぬけたるや、あとにてすはゝゝと御口をいはせられた、ありがたやありがたやといふ。これをきゝても、さらゝゝありがたくおもはず。年寄たる坊主が有がたくば、我等もありがたかるべし。袈裟衣がありがたくば、幢天蓋屋へ行てもありがたかるべし。なむあみだ佛といふがありがたからば、角田川、百萬のうたひをきゝてもありがたかるべしやといへば、茂法しが大ごゑをあげてなき出す。

 是は何としたるぞ。蟲にてもかぶるやととへば、なみだをぬぐひて、扨々ありがたき事かなといふ。さては茂法しは發明にて、はやく會得したる事よと尋れば、今のうばかゝがいふ事をきかれよ。あれ程ぐちもんまうなるもの(※愚癡文盲なる者)に、いか程人の道といふ事をいひきかせても、がつてん(※合點)する事にてなし。身のおこなひ、まことといふ事をかたりたるとても、なにとしてきゝわく(聞き分く)べきぞや。佛の御方便にて、あのやうなる愚癡文盲のものも、ありがたきとおもふ心を御つけなさるゝそのありがたさをおもひて、今なき出したるといふ。  ~~續く』



 茂睡翁の思想の一面がそろゝゝ出て來た。廢佛と云はぬまでも反佛であることには相違なく。要するに佛道の日本に有り得ざることゝ、これをば巧みに應用し「地獄の沙汰も金次第」と嘯く金錢本位の佛者共に對して斧鉞を加へたものだ。以爲らく、下卷に於ける問答こそ、茂睡翁の云はんとする本意にある。くはしく卑見を述べてみたいところであるが、予も既に旅の途中にあり。此度びは已む無く、こゝで擱筆する。



  • [10]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の十 「梨本書」六  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月31日(水)01時16分8秒
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承前。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷上、續き。

『一、
 茂法しが云。この比、本町の者まいりはなしたる物語の候、御なぐさみの爲、又御馳走にはなし可申候(※申すべく候)。去年の冬の事、火事用心のため、辻番の者にもかたくいひつけ、たえず町をまはらする、ある夜たな下に寐ていたる者有、辻番棒を以てつゝきおこし、うぬ目はぬす人成べし、何とてこゝには寐たると、とがめたれば、いかにも盗人なり。ぬす人とみて、ぬす人なるべしとは、目もあかぬいひやう也、と云。辻番おどろき、やれぬす人といふによりて、大屋ども出合て彼男をとらへ、さりとはがつてん(※合點)ゆかぬをとこ(※男)也。たとへぬす人にても、ぬす人にはこれなきといふべきに、盗人なりと名乘はくせ者也。とかく辻番所へ入て樣子を尋べきとて入るに、一ゑんどうてん(動轉)なし、さていかなる盗人ぞ。くはしく語れといへば、われらはぬす人の古傳をつたへたる上々のぬす人なりと云。その古傳とはいかやうの事ぞと問ば、その事に候、人と生れ候に、天地陰陽のうすきとあつきとをうけて、福人とも貴人ともなり、又我等ごときの貧賤なるものも候。然れ共、天道のありがたきは、人をあはれみおぼしめし、それゝゞの御さずけ候、田畠ももたねば喰べきものもなし。金銀なければとゝのへて喰ふ事もならず。一日の身命をつなぐに、盗をして世を渡れとの御さづけ也。よくゝゝ貧賤なる生れと思召被下候(※思し召し下され候)へ、然るに古傳をしらぬ盗人は、よく(欲)にふけり、天よりの御さづけの外に、身に應ぜざるものをぬすみ候ゆへ、たちまち天道の御罰あたり、あらはれ罪科におこなはれ候。古傳と云は、夜な々ゝたな下をあるき、戸などをおし候て見申候に、是も天のめぐりにて、物をうしなひ用事をかくべき時刻到來のもの候。その時節にあたり候には、鎖をも樞をもおろさず、天然と盗人にとらるゝ家御座候。そのうちへ入、何にてもあすの飯米ほどあるべきものをとり候て、それからは何方へもまいらず、かやうにたな下にもころび寐いたし候。こよひはよひのうち(※今宵は宵の内)是をぬすみ候とて、ふるきやかんを一つ取出しみせ、此うへに物をとれば、天道の御さづけにそむき候ゆへ、そのまゝあらはれ罪科にあひ申候といふ。いかにもゝゝゝゝ尤なる事。天の厚薄うくる所の貧福をさとり得たるは、をろかならぬ盗人なりとて、茶をのませ酒をくれ、その上に大屋々々思ひ々ゝに錢をとらせたれば、よろこびていたゞく。そこで一人いふやう、今夜の得物は右のいひぶんにあはせては大分の事也。よろこびてうくる事はいかにといへば、是は私の慾心にてぬすみ取たる錢にて御座候。天のあたふるにとらざれば、かへつて害をうくると申事の候といひて、一禮して何方へか行侍るといへり。誠に身の運命をはかり知て、主人をもうらみず、身をも悔ず、身のおこなひをつゝしみ、こゝろに邪慾なく、天道の至るを待べし。待ていたらず(※至らず)ば此まゝに果んと思ふが、よく身をおさめ、天道をふまへ所にして、運命をみきりたる心なるべしやといふ。 ~~上卷終はり』

 



 第一部の最後の物語は、面白ろ可笑しく、落語めいた締め括りとなつてゐる。
 家に入つては翌日の飯米を盗んでそれで滿足し、最早、何處へも行かず寐てしまふを習ひとしてゐる珍客の話題である。
 をはりにいはく、『誠に身の運命をはかり知て、主人をもうらみず、身をも悔ず、身のおこなひをつゝしみ、こゝろに邪慾なく、天道の至るを待べし。待ていたらずば此まゝに果んと思ふが、よく身をおさめ、天道をふまへ所にして、運命をみきりたる心なるべし』と。茂睡翁の人生觀を垣間見ることが出來る一節である。

                                                ~續く。



 



  • [9]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の九 「梨本書」五  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月31日(水)00時41分26秒
  • 編集済
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承前。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷上、續き。

『一、
 又茂右衞門が云。此比(※このごろ)兼好とやらん云物しり法しの書たるつれゞゝ草をみしに、老佛の道を以て書たるとか云て、我等などの合點ゆかぬ事也。その中に心得やすさうなる事にて、さらゝゝ心得られぬ事あり。それは老て知の若きにまさるは、わかうして顏色の老たるにまさるが如しといふ事也。若き時は顏かたちのうつくしくもやさ敷もあれば、老たる人にまされるは必定也。老て知のわかきにまさるとは、心得にくし。いか程年をかさねても、我等がやうに何のわけもしらぬものあり。若き人に分別工夫さいかく(※才覺)ある人おほし。然るゆへ百歳のわらんべ(※童、わらべ)十歳の翁といふ事あり。此段心得ずといふ。

 睡法しが云。それは物をよく讀、物をよく覺えたるものを知者といふと心得られしゆへなるべし。さやうなるものをば、利根もの物覺えのよきものといひて、知者とはいはぬ物也。そのゆへは惡人といふ者は、なる程利根にて物をもよくおぼえて、さかしくみゆるもの也。その惡人をさして知者とはいはるべからず。物をよく讀、物をよく覺えて後に、わがこゝろより知といふもののいづるを知と云。たとへ物を讀ず、物を覺えずとても、老ては知のいたる所あり。そのわけはたとへば若き時は、しる人しらぬ人にかぎらず、人の中にていひそこなひ又しそこなひをしたる人あれば、そのおかしき事こらへかね、座敷を立て口をふさぎ、はらをかゝへ、我身ながらもふとゞきにおかしく思ふをめいわくせし也。年寄老果て後さやうの事ある時は、しる人しらぬ人のわけへだてなく、扨々笑止千萬、さこそめいわくにおもはれんと思ふ心つけば、おかしき事は少しもなく、結句わがみをくるしむる事也。是本心の仁也。ちいさき子の井のうちへおとさゞるを、本心の仁ある證據なりといふ。その仁心の老て出くるは、知のわかきよりまさる也といふ。  ~~續く』

 

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  • [8]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の八 「梨本書」四  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月29日(月)19時15分35秒
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承前。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷上、續き。

『一、
 茂右衞門が云。さる功者なる人のいはれしは、おそろしきといふものをば、鬼といへども、鬼といふものはなきもの也。酒天童子のいばらぎのといふも人の事也。あだちがはらの黒塚の鬼といひしも女の事也。かみなり(※神鳴、雷の事なる可し)といふはなにかはしらね共、落るは必定也、その落所のあてもなければ、隱れしのぶべき所もなければ、おそろしきものはかみなり也といふ人有、是はあしき心得、ぶせんさく(※不穿鑿)のいひぶん成べし。神鳴は、爰にてづしと落る所ときはまりたる所のあらば、そこへ行てつかみころされて、せんもなき事なれば、行事はいらざる物也。いづかたへか落つらんと、しやうどなきがおそろしきとは、さたの限りなる事也。たとへば敵城へむかふに、矢鐵砲のきび敷(※嚴敷く)かゝる所は、すゝみかゝるに大切の塲也。定りたる塲所の外に、いづかたへか矢鐵砲の來らんと、それをおそろしくおもはゞ、その陣中にこらへおる事なるまじ。か樣なる事をいふ人不穿鑿の侍にて、おく病の花也。かりそめのはなしにても、こゝろにせんさくよきとぶせんぎの事は、そのまゝしるゝものなるゆへ、たしなみふかき侍は、卒爾に物をいはぬといふは是也。三思一言といふも此心也。右申鬼よりかみなりより、きづかひにていやなるものは、不心掛の侍也。さぶらひ(※侍)のきずになるといふ事も、さぶらひはかんにんせぬものといふ事もしらずに、無禮又はむだとしたる口をきく也。五六十年以前までは、さやうの者にはきつと詞をただし、びつくともいふならば、一太刀に切ころすこゝろを人々もちたるゆへに、かのふこゝろがけの侍も、さやうの人には手を置、機遣(き-づかひ)をしてたしなむ心もありつれども、今の世はむかしにかはり、侍の道を心がけたしなむものをば、かどらしき男、一てつもの、やつこ風といひて、もちゐぬ事なるゆへに、町人の心のやうになりし也。しかれ共こらへかねなば、かのふこころがけの侍と犬死せんと思へば、主の用にもたゝず、親への孝にもならず、妻子にもなげきをかけん事と思へば、きづかひにいやなるものは、似せさぶらひなりとかたる人のありしといふ。 ~~續く』



 この章は問答ではなく、ひとり茂右衞門の發言だ。鬼はゐないといひ、武士たるものゝ假初の事に恐れをなすべきでないといふことを論じ、轉じて氣をつかふのも嫌なものとして、鬼や神鳴よりも、不心得者の似非侍であることをいふ。元祿時代は武士の町人化が著しく進んだ時代だ。



 餘談であるが、茂睡翁には他の著述として『御當代記』(全六卷)といふものがある。これは延寶八年五月から元祿十五年四月までの廿二年間にわたる當時の記録である。内容は幕府の政治上の事件、役人の任免、禁令の發布、天變地異、市井の雜事一般におよび、元祿時代を知らんとする後人には寔にありがたき資料である。犬公方と呼ばれた第五代將軍綱吉による「生類憐みの令」などは詳しく書かれてあつて、迚も興味深いものだ。


 茂睡翁は決して時事雜事から遁れ出家するかの如き佛者や、日々進みゆく現代と歿交渉にして只管ら懷古し文弱に甘んずる學者でも無かつた。而して、進んで將來のことをも考慮し『御當代記』を殘すこともした。


 上記は、元祿時代の負の側面に際し、翁の率直な感想と嘆息を、茂右衞門を通じて漏らさしめたものであると云へよう。
 


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  • [7]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の七 「梨本書」三  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月28日(日)17時35分26秒
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承前。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷上、續き。

『一、
 茂右衞門が云。さる人のいはれしは、主親の忌日をわすれて魚鳥をくらひたるは、大きなる僻言也。忌日をば思ひ出ても、くらふべきことにてくらひたるはくるしからずといはれし也。亡靈の爲忌日に精進潔齋する事なれ共、忘るゝといふ事は心の外にて、誰が身のうへにもある事也。忌日をしりながらくらふは、法度をしりて、わざゝゞそむくと同じ事なれば、結句大きなる僻言成(※ひが-ごと-なる)に、是はなにとしたるわけぞやといへば、

 茂法しがいはく。さいぜん申たるとをり(※申したる通り)、主君親の恩は一時にてもわするべき事にあらざれ共、凡夫大俗の身ゆへ、此世のつとめにまぎれて思ひ出さぬ事有、それゆへ佛法といふ事ももちゐて、地獄極樂後生善所といふ事をおしへ、忌日精進などいひて、せめて一ケ月に一日なりとも、恩を報ずる心を持せんとて、死たる日を忌日とさだめて、その日善心をもちて惡事をせざれ、とおしゆる事也。今の出家の善根といふは、後生善所の種をまくといふ心にて、善根とはよろしきたねと云事にいへり。その善根とは、佛をつくり、堂寺をたて僧を供養し、佛へ金銀米錢私財道具を寄進する事のやうにおもへり。それにはあるべからず。佛のけつこうなる堂におはしますをこのませ給ふべき事にもあらず。金銀をたてまつりたるとてよろこび思しめして、その者をば御ひいきにて、後生善所へつうかはさると云事んひもあるまじ。釋尊の施物をよろこびおぼしめしたるは、飢たるものに食をあたへ、こゞへたる者に衣をきせ、まづしきものにあたへ給ひて、かんなんをのがれさせらるべき御慈悲心ゆへ也。説法にさへ、家財珍寶をすてゝ心をとゞむべからず、三惡道とおほせられし中にも、貧と云はむさぶる事にて、とりわけいましめ給ふ佛の、金銀を御もらひ候て、なにゝなされ候はんや。大俗人の慾心、はなはだしき者さへ、さやうの事をするものをば、てとりもの、けいはくものとてよくは思はぬ事なれば、佛の道にては大惡人ともいふべき事にや。長者の萬燈ひん女の一燈といふ事もあれば、そのこゝろざし一つのまことをもつて善とする成べし。その善といふは、親のよくつかふるをもつてはじめとする、このゆへに忠臣は孝子の家にありといへり。忌日とさだめたる一日をわするゝ程のおろかさにては、不孝不忠の心しられたり。こゝをもつてわするゝといふを、僻事とする也。忌日といふは、恩徳をわすれまじきとする禮法、精進といふは佛法より出たるその祭也。さるゆへ、忌日はわすれざれ共、くはでかなはぬ席にて魚鳥をくらひたるは、僻事にはあるべからず。忌日に魚鳥をくらへば、亡靈の地獄のくるしみをうくるといふ事にはまつたくなし。しかれ共、昔より、人道のおこなひに用きたる事なれば、忌日にはつゝしんで魚鳥をもくらはず、身をも心をも清淨にもつべし。是人道の作法也。一周忌三周忌よりはじめて、卅三年五十年忌などといふも年を經れば、久敷事(※ひさ-しき-こと)は忘るゝゆへ、思ひ出さんが爲の事なるべし。是が佛の御方便、ありがたき御しめし也。あるものゝ歌に、



   佛法は 此世につきて 人にあり 後生といふは はうべん(※方便)ぞかし
   なき事を とける佛に たゞされて たゞす心を ほとけこそしる



 かやうによみたる者あり。僻事もしらねども、つゐで(※序で)に咄申(※はなし-まをす)なり。釋尊の御誕生は、周の代第四世昭王の廿六年甲寅二月八日にあたりたるといふを、今四月八日とて灌佛のまつりをするは、周の代の建を夏の代の建にとりちがへての事にて。大き成(※おほ-き-なる)あやまりなるとて、是をそしる人もあれ共、そしるは本をこゝろ得ずしてそしるなれば、是又あやまり也。四月八日にもせよ二月八日にもせよ、その月日に何のわけあらんや。灌佛の祭をし、涅槃の儀式とりおこなふも、佛の御事を今にわすれたてまつらず、したひ申禮法也。昔いかほどの知者、佛心にかなひ給ふ人の、そのとをり(※通り、とほり)にてさしをかれたる事を、小知短才の愚盲の小まなこにてそしるは、あらためてせんなき事を、その通りにするといふ事をしらざる故也。神事祭禮も、八幡は十五日、天神は廿五日御縁日といへ共、その日にさはる事あればいつにてもとりおこなふは、日にさだまらぬしるし也。もし必月日にきはまりたるといはゞ、閏月に死生れ、大の月の三十日に死に生れたる者には、小の月には誕生もいはゝす(※祝はず)、忌日の追善もなすまじきにや。何事もみな本をわすれさすまじきとの事也。今年忌日をとぶらふが(※弔ふが)人道の作法なり。やぶるは僻事也。   ~~續く』

 



 謂はゞ問答に於いて、茂右衞門の云ふに、ある人が主親の忌日を忘れて魚鳥を食つたのは大なる僻事であるが、僻事である理由は忌日を忘れた方である。忘れるといふことゝ魚鳥を食つたといふことでは、忌日を忘れた方が罪が重い、と。


 茂法師の之に答へるには、忌日といふものは恩徳を忘れまじとする禮法である。從つて之を忘れるといふことは恩徳を忘れる證據である。食はで適はぬ際に魚肉を食つて精進を犯したとて、忌日を忘れることに比せばその罪は輕い。しかし昔から人道の行なひに用ゐてきたことであるから、やはり忌日には謹んで精進を守り身心清淨を保つやう努力することは大切である。つまり、いづれが重きかといへば、精進その事は寧ろ末で、忌日を忘れざる精進こそ重い、と。かういふことだ。



  • [6]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の六 「梨本書」二  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月26日(金)00時39分47秒
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承前。



●戸田茂睡翁著『梨本書』(元祿七年)卷上、續き。

『一、
 睡が又云。たゞ今武士其塲(※「場」に同じ)にのぞんで、主親のありがたき事をわすれず、その報恩に一命を捨るといはれし事、尤也。然るに武士戰塲におもむく時、三忘と云て、三つわするゝ事ありといふは、いかなる事ぞや。

 茂が云。それはわするゝ事なかれといふにつきて、三つをわすれよといひたるもの成べし。法し(師)の身なれば、そのわけはしらず。武士にたづねられよといふ所へ、本郷より渡邊茂右衞門殿の、歳暮の御禮に御いでといふ』




 いよゝゝ武士、茂右衞門の登場だ。これで登場人物の三人が皆揃うた。




『是へと請じ一禮すみ、睡が云。唯今、爰にて三忘と申事を尋ね申候。茂右衞門の事は、武士のうへに士兵といふわけを立られ、見切ふまへ所と云(※いふ)大切の心をも會得めされ、軍法第一と云、三のさいはいにも、その本といふ事を思案いたされたると聞、それのみならず甲陽軍艦の鈍(なた)の記の跋に書たる。運は是非によるか、是非は運によるかとの問答の落着せざるをも、落しつけられたる人なれば、か樣の初心らしき事尋候もいかゞなれ共、ぼうず法しの寄合は武士の事はしらず候、御物語候へといふ。


 茂右衞門が云、軍(※いくさ)におもむく時の三忘といふは、家をわすれ、妻子をわすれ、命をわするゝ、此三つをわすれざれば、戰塲のはたらきかなふまじといへ共、是等がみな座敷の上にてのおしへ(※教へ)にて、たゞ人に心づかせたるまでにて、その塲にのぞんで何のやくにもたゝぬ事也。さればこそ軍におもむく時とはいへり、物まへ、其節の塲よりはるかにまへかたの事也。風雅集に、

  我ながらわれにかなはぬ心なれやわすれんとすればしゐて戀しき

 此歌のごとく、わすれんと思ふ心あらば猶わすられぬ事たるべし。我等事は、御靜謐の御代に生れて、此年まで世のしづかなるにまかせて、いそがしき世の事をしらず。然れども我等の親十六の年、上杉景勝逆心の時、大御番衆五十人の組を率て、うつのみやまで御供仕(※お-とも-つかまつり)、それより眞田陣、關ケ原へ御供仕、伏見の御城におり、大坂冬御陣御供、夏御陣合戰の時にはたらき、その軍物語、かせぐこゝろのせはしき事、味方の人の心のおそろしき事、敵の心のやさしき事、わがこゝろをしづめる事、弓鐵砲のあたらぬ事、すゝみかゝる敵のつよきはかくの如し。崩あしはかやうのもの、見よき見ぐるし馬の乘やう、仕寄の時の身づくろひ、をそき(※遲き)ははやく、早きはをくるゝ心のならひ。味方の馬の毛、敵のよろひ、かれこれの目付所、色々おもしろき事少しはきゝおぼえ、又我等のわかき此(※ころ)までは、太閤様の高麗陣にわたりたる人も生殘りて、その人のはなし、尤、關ケ原、大坂の御陣にあふ(合ふ)たる人はあまた(※數多)有(※あり)しゆへ、その人の直口(ぢきくち)をたびゝゞ聞たるにも、七書の上の講釋、又軍記軍書にある事共は、みな心づけといひたる事にて、その塲にのぞんではあはぬ事なり。軍記軍書のおしへのとほりのものならば、武士と云人より、儒者出家に人數をあづけて、武士は下知をうくべきにや。三つのさいはいの本といふも、この所にあるべきにやといふ。


 睡が又問。是はさらゝゝ法しの用にもたゝず、いはれざる承事に候へ共、その三つのさいはいの元とは何を申候や。


 茂右衞門が云。三つのさいはいの元といふは、敵に切勝(※きり-かつ)道理にて候。何程物なれ(※何ほどの者なれ)巧者の侍をあまた持、三のさいはい、備立、人數のつかひやうをつたへ、その身、軍なれて強剛のはたらきありといふ共、此元を會得せずしては勝利をうる事かなふべからず。甲州流の軍法に、敵配、味方配と云事あり。是もさいはいの元を會得せずしては、くばりそこなふ事必定也。さて此元をしるといふが、ただおほかたにてはしらるべからず。今何方にもおほくありて、あまねく人の口にもおぼえ耳なれたる三社の託を、とくと講釋をきゝ、そのうへにて我心をねりきたひて、性鏡にくもりなくば、あきらかにうつるべし。さとりといふはしらぬ事ながら、我心より出る事そうなれば、かたき(※難き)事成べし。是はわがこゝろへ、さきさまから(※先樣から)うつる事なれば、てまへの掃地(さう-ぢ)までなり。水はきよくすみきらず共、月の影のうつるが如し、こゝろへ給へ、といふ。 ~~續く』
 



  • [5]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の五 「梨本書」一 

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月25日(木)00時53分17秒
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承前。

 

 いよゝゝ道學者としての茂睡翁を掲げることゝなつた。 これに關しては予の稚拙な文章よりも、翁の著作である『梨本書(なし-もと-しよ)』を紹介することで識ることが出來る。(注。『梨本(なし-もと-しふ)』」の方ではない)

 

○佐佐木信綱翁『戸田茂睡論』に曰く、

 

『梨本書といふ書は、從來一話一言卷十四に「茂睡記」と題して、その一節が引用せられて居ただけで、其書いかなるもので有るかは更に學者の間に知られなかつた。然るに自分は先年、茂睡の兄明の子孫なる下野黒羽の渡邊傳氏から借り得て一讀するを得た。そは梨本書と表記し、半紙本三十六枚に細かく書いたもので、即ちこゝに論ぜむとする書で有る。(表紙に梨本書と記したのは後人の筆であるが、他に書名が無いから、しか名づけて置く) ~畧~

 (※梨本書は)茂法師、睡法師、茂右衞門の三人を點出して、互に神儒佛及び武士道に就いて質疑問答せしめ、人道處世の大義を警句に富み趣味豐かな雅俗折衷の文體で記したもの』 と。

 

 

 この物語は、茂法師、睡法師、茂右衞門の三人が對問するものである。蓋し、茂右衞門は武士、茂法師と睡法師の區別が分明で無いのは殘念であるが、按ずるに神道家と佛者であらう。武士道と儒教とは密接な關係であるから、三者三樣の鼎談といふわけだ。定めし當時の神儒佛一致の風を著はしたものであらう。これは面白い設定である。

 

 

 物語は、茂法師の宅へ淺草から睡法師が歳暮の禮に來て、そこへ茂右衞門も來合はせ議論が始まる。固より三人の登場人物は架空であり、名前からしてそれゞゝ茂睡翁の分身のやうなものだ。卷末には三人が、一つ襖のなかで寢るを以て終はるのであるが、跋文の「幻高庵隱融」(※幻高庵隱融は假りに名したものであり、實際は茂睡その人との説が有力なり)といふ記名に於いて、

 

『此書は渡邊茂右衞門法名茂睡と云ふ者の作なり。茂法師といひ、睡法師と云ひ、茂右衞門と名を三人に分けたるは、心意情の三つと思へるにや。茂と睡と一つになり寐たるうちへ、茂右衞門を入まじきといひたるは、佛法にて情けを斷んと云ふ心なるべしや。然れども其佛法を用ゐざる故に、終に三人が一つふすまの中へ入りたるなるべし。ふすまと云ふ心は、瓊々杵尊を天より下し給ふ時に、ふすまを以てつゝみ申たるといふ心にや

 

 とあることからも、三人が根本に於いて排佛に一致したといふ結びである。中々洒落た書き方をするものだ。

 

 

 畢竟、茂睡翁の根本思想は、『所謂神道、人道、武士道を主張せむとするのに有つた』(佐佐木信綱翁)とみて宜い。

 

 『要するに梨本書は、その記してある所も、未だ道徳觀社會觀としても深いものとはされないだらうが、未だ心學も起らない當時、兎に角專門學者の著書以外に、斯くの如き趣味のある道學書を見るのは、頗る興味を感ずる次第である。殊に不完全ながら三人の人物を書き分けて彼等の對話によつて一種の思想を述べた所は、かの清水物語などと同種にして多少趣を異にしてゐる所が尠なからず面白い』(仝)

 

 

 備中處士樣には「決して無理する莫れ」と散々念を押されたが、天候不順、外出するも億劫なこの頃、閑人は閑人らしく氣の向くまゝに順を追つて全文を掲載してゆきたいと考へる。 諸賢有志、閑暇有之候の折柄、御一讀をつゝしんで乞ひ奉る。

 

 

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 

 

●戸田茂睡翁著、『梨本書』(元祿七年)卷上[『戸田茂睡全集』(大正四年四月廿五日「國書刊行會」發行)]所收

  (※句讀點、改行、米印は小生による。送り假名等の誤記あるも原文を尊重し其の儘とす)

 

 

『左の方の目尻がかよさに[萬葉集第十一に、まれにみん君をみんとそひだりの手 ゆみとるかたのまゆかきつれ]、めづらしき人もやこ(※來)んとおもひ、きのふは待暮してあたら日をもだになしぬ。今朝は又まろうど鳥が、ころゝゝとなけば[萬葉集第十四に、からすとふおほをそ鳥のまさでにもきまさぬきみをころゝゝとぞなく]、けふも一日またんとおもふ所へ、淺草より睡法し(※師)の、禮にわたせといふ。昨日まじりのかよかつたはあはぬ事、けさのからすはなき合せたるものよといひて、しばらく語るうちに、もはや食(めし)が出來たるとて膳をすゆる。汁は大根を駒のつめにきり、鹽いなだを入る。赤いはしの燒物、なますは大こんのさゝがしに、これにも鹽いなだを入、こればかり也。

 

 睡がいふ。是は御嘉例の料理成(※なる)べし。いづかたにても、おほとしの晩より正月三ケ月は、嘉例とてそさうなる料理のかるき事也。正月は年の始にて祝ふ事かとおもへば、我等のとなりの者は、嘉例とてもち(※餅)をもつかず、三ケ日さかな(※魚)をりやうらず(料らず)、酒をもの(※飮)まぬ事也。又三ケ日手水をつかはず、常器をもあらはず、ぬぐひて(※拭-ひて)ばかりをく(置く)家もあり。本郷の渡邊茂右衞門所にては、門松をたてず竹ばかりたつる。赤坂御門のうち相馬殿にては、主人、かみさまより、はじめて女おとこのこらず、顏になべずみをぬる。家の内にはいりたる禮衆をも、とらへて顏にすみをぬる嘉例也。此嘉例と云は何たる事ぞや。嘉例のごとくせねば惡敷事のあるべきにや、心得にくしといへば、

 

 茂法し(師)がいはく、嘉例のごとくにせねば、惡敷事の必あるといふにもあるべからず。是等が神道のまなびにて、人道と云ものなり。家をもち妻子をもち家人をつかふ程のものが、しきたりたる嘉例をやぶるは、人の道にそむくなり。その心にては、をのづから惡事も出來べし。嘉例をもちゐざるゆへ、惡事の出くるにてはあるべからずといへば、 

 

 

 睡が又とふ。その人道といはるゝはいかやうの事ぞや。

 

 茂がいはく、人の道といふは、常の作法也。仁義禮智の五常をたつるは儒の道也。人の心にまことすくなく成りて、人道にそむくゆへに、此のおしへをたてたり。大道すたつて仁義をこる(起こる)と云は此ゆへ也。神道は大道也。人道といふは神道の大道の末なり。此人道と云は、主君親のありがたき恩徳をふかく心にこめて、わたくしの心なく、かた時もわすれざるを云也。嘉例と云も、先祖のまづしく(※貧しく)よろづ(※萬)ともしかり(※乏-しかりし、の意乎)しむかしの事をおもひ出して、今の身に榮耀榮花の心をもたず、身をつゝしむかゞみに用きたる事也。それゆへ年の始におこなひて、一年の身のつゝしみ、心をあらため、おごる心をおさゆる事也。儒の道にて墓をまつるにも、その元を一つたてゝ、扨祖先父父と三つをまつり、その次の代に、さきに祖父とまつりたるを捨て、わが祖父父と又まつれども、その元の墓をば捨(※捨てる)事なし。これを禮といへ共、みな元をわすれまじきとの事也。もろこしの魏徴といひし人のかたちを圖して、凌煙閣にをかれたると云も、わすれざる事をしめし給ふといへり。杏檀を崩さず、甘棠樹をきらざると云も、その徳ありし人をわすれず、末々までもわすれぬしるしとする也。主親の恩をわするゝを畜生といふ。ちかく犬鶏を見候に、親の子を思ふこゝろざしあさからず、前にかゝへて乳をのませ、羽がひの下へ入てあたゝめ、餌をもとめては子にあたへ、はごくみ(※育-くみ)そだてゝも、おほきくなるにしたがひ、そのおん(※恩)をもしらず、親をわすれて、犬はかみころばし、鶏はけちらかす、是畜類なれば也。人と生れ、主親のおんをわすれなに共(※主親の恩を忘れ何とも)思はざるは、ちくしやう同前の事也。此ことわり(※理)を朝夕、心にかけて、主君親に不足の心出くるならば、わが心はちくしやうと同じ事よとおもひ、心をあらたむべき事也。正月三ケ日嘉例とて、先祖より(※寄り)し來るやうにするも、みな元をわすれぬ禮法也。心に何のわけもしらず、嘉例をももちゐぬ人は、人外の事なれば、此ようなる人をさして惡人といふべし。神の代には惡神邪神あり。是をしりぞけ給ふべきとて、神もさまざまの事をなし給ふ。人の代には又惡人科人(※とが-びと)あり。是をしりぞくべき爲に武士あり。武士といふは、名を第一にして理をつぎにする法也。敵陣にすゝんで命を捨るも、主のおんをわすれず、是に命をすてゝ報ぜんと思ふ心ざし也。又先祖親の名をわすれず、惡名をとらじとはたらく事也といへば、

 

 睡が又云、いかにも申さるゝ所ことはり至極せり。人と生れ、主親の恩をしらぬものはあるまじけれ共、氣隨(※き-まゝ)わがまゝの心あるゆへに、その家の法度をまもるも氣づまりにおもひ、親の心にそむく(※背く)まじきとするもむづかしく、いやになり、それよりして段々心におこたり(※怠り)もいでき(※出でき)、おごる心もつきて、身を自由にもちたく、すこしにても身をつかひ、かんなん(※艱難)をこらゆる(※堪らゆる)事めいわくに、氣まゝの心なる事也。いにしへより四恩といひしは、第一 天子の恩、第二に國土の恩、第三に父母の恩、第四に衆生の恩といへり。今は公方樣の御恩第一成べし。あめが下おだやか(※隱やか)におさめさせ給ふゆへに、兵亂のさはぎ(※騒ぎ)なく、我身ばかりにもあらず、一門一家の物まで、弓箭に命をおとす事なく、天よりうけたるまゝの命を終る。それのみならず、惡人いたづらものを、つよく御いましめなさるゝ故に、盗賊の難儀もなく、夜中に野山を獨(※ひとり)ゆく(※行く)にもきづかひ(※気遣ひ)なく、心しづかに我も人も世を渡る。此御恩徳まことに有難き事也。第二に國土の恩といふは、われをうみ出し、はぐくみそだてゝおんとく(※恩徳)をうけたる父母といふも、五穀をくらひ、いのちをつぎ、衣を着して寒をふせぎ、木竹をもつて家を作りて雨露におかされずして、われをもそだて、やしなひたつる事なればなるべし。第三に父母の恩とたてたれ共、子たらんもの、父母のおんを第二とも第一とも思ふべし。天照大神の此日の本へ、御まごの瓊々杵尊を御下し被成るゝも(※なさるゝも)、惡神邪神をしりぞけ給ひて、此國のわざはひなく、人さかへ國ゆたかに、子々孫々迄もさかへ(※榮へ)たのしむやうにと、神慮をめぐらされし事、ありがたき御心、あがめても、なを(尚)あきたらず。思ふにわが親の心、天照大神の御心とひとしきは、生れ出るよりやしなひたて、何とぞ息災にて成人させたく、おさなきうちの心づかひ、ありがたき事、中々いふにつくされず、やうやく知惠づけば、心をもろく(碌)にもたせ、人のみる目もよろしく、身をもたて(立て)家をもおさむるやうにと心をつけ、その子妻をもち子をもてば、その孫の末のはんじやう(※繁盛)までを思ひ、まご子の末のたから、調方にもなる事をのみたくみとゝのへ、わが身は艱難をこらへても、子には心やすくあらせんとするその厚恩は、思ひ出すに泪もこぼるゝ程ありがたき事也。もしその子こゝろあしく(※心-惡しく)、行儀作法をもつとめず、善惡の差別もわきまへなく、親のいましむる事をもやぶり、家をもうしなひ、身をもほろぼすべきやうならば、おやの心に、いか程かかなしくめいわく成べし(※悲しく迷惑なるべし)。然れども親の慈悲のありがたさは、惡敷とて切殺しもせず、また路頭にたてゝうき目を見せんともおもはず、その子のあしきは、末にいかやうのあしき目にもあはんかとおもひやりて、結句ふびんの心をくはふるは、まことにゝゝゝゝありがたき親の心なり。又その子すなほにして、善惡をもよくわきまへ、親のいひをしゆる(※言ひ教ゆる)事をよく心にうけて、そのおこなひあしからずば(※その行なひ惡しからずば)、親の心には、いか計(※ばかり)嬉しからんや。こゝをもつて人々よく心をつけて、子の善惡につけて、親の心にたのしむと、かなしむとのわけをがつてん(※合點)して、わが身をつゝしみておやの心をやす(※安)んずるが、第一の孝たるべし。人々子を思ふ心ざしは同じ事なれ共、おやにつかふる心をろそか(疎か)なるは、心の誠のなきゆへ也。わが心をわが子の心になして、わが心にそれをあてゝわが親につかへば、そむく所なかるべし。わが親には孝なくしてわが子には孝をなせといひても、わが親に孝なくば、その子にも我には孝心あるべからず。この心を遠くは 伊勢天照大神と念じ奉り、近くはわが親と思ひ、われは子の心をもつて、おやの心を思ひ合はせ、身をつゝしみ邪惡の心をさり、かりそめにも、うしろぐらき心をもつまじと心がけべし。是則儒道に、そのひとりをつゝしむといふ心にかなへり。儒のおしへに獨をつゝしめといひたるまでにては、人々つゝしむ事かたかるべし。わが子のおこなひのあしきをみて、親のくるしみかなしむ所をこゝろへ(※心得)、わが身をよくおさめて、わが親にくるしみかなしむ心なからんやうにこゝろへべし。此ことはりをよく心得おさめたらば、主人にもよく見られ、他人もよき人と思ひ、惡事もさいなん(※災難)もなく、國をおさむる共、家をやしなふとも、非義邪道の事あるまじければ、その國もおさまり、その家もとゝのふべし。是よりさいわゐ(※幸ひ)あり。是則「心だにまことの道にかなひなば」と讀し歌のこゝろ也。 ~~續く』



  • [4]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の四  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月24日(水)12時02分49秒
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承前。



 如上、歌論家として茂睡翁の功績は決して閑却すべからざるものがあつた。


 次には道學者としての戸田茂睡その人に就て觸れる可きであるが、その前にもう少し、この話題に關はることを御容赦いたゞき、歌壇、歌論界の維新とよぶ可き事業が、決して彼れらの爲めのみ利するものでなかつたことを確認しておかねばなるまい。



○重松信弘教授、『國學思想』(昭和十八年七月一日「理想社發行」)「神典學と歌文學」項に曰く、


『~略~ 前節では神典學のみを以て、國學の概念を考定したが、これは内容の一半、即ち歌文學を取殘して置いて、國學全般の規定をしたのであり、甚だ不當な事の如くにも思はれるであらう。勿論、宣長も主とすべきものは道の學問だとして、歌文學は第二義的な意義を認めてゐるにすぎないのではあるが、それにしても歌文學に顧慮する所なく、神典學即ち國學とする如き考へ方は許さるべきものではない。國學の道を拓いた文献學的研究は契沖の歌文學であり、眞淵の學も歌文學の上に立つものであつた。又宣長の學問も最初歌文學から入つて神典學に進んだものであつた。かくの如く歌文學は、國學成立の歴史的意義に於いて、神典學に優るものがあるのみならず、事實上不可缺の内容を爲すものであり、その學問的意義は充分國學の概念規定に参與すべき資格を持つてゐる』と。



又た曰く、


『近世初頭即ち元祿以前に於いて、時代自然の勢に育くまれて、中世的な學問的態度は徐々に崩壞の運に向つてゐたが、元祿の文運復興期には更に一段とかかる勢を進めた。國學の出現はかかる勢を徹底せしめたのであり、中世歌學の崩壞は同時に國學の成立を意味する。元祿時代はかかる國學出現の直接の母胎を爲したが、未だ國學の本質を充分成立せしめる迄には至らなかつた。蓋し中世的なものの破却と 皇國的自覺との間には距離が存するからである。


 元祿文藝が人間的立場を採り、反中世的意義を發揮したとしても、皇國的自覺はその人間的なものを今一段と止揚せしめることを必要とする。元祿時代は近世への過渡時代たるの意義を、それ以前よりも一層強烈ならしめてゐるに過ぎない。少くとも歌學の方面からは破却に徹底して建設に未だしい時代であつた。國學はその建設面を持つことによつて成立する』と。




 既記のごとく、これは國學の勃興が、歌道に於ける自由研究の推進によつて古道へ探究を深めていつたことゝ歿交渉でないばかりか、干繋の少々ならざることを述べてゐる。而して之は元祿時代に於ける、歌道の復古とまで云はずんば、一新であつたことに疑義を狹む餘地はない。



 尚ほ、茂睡翁にとつてみれば辛口ではあるが、續けて重松教授の言を引用したい。


 曰く、
『元祿時代の前後に於いて、中世歌學の破却に徹底したのは評論の方面に戸田茂睡、語學註釋學の方面より延いて評論迄及んで契沖がある。

 茂睡は破却の功績が著しくて建設の面が乏しいが、契沖はその研究に於いて實證に徹し、歌道觀に於いて未だ中世的氣臭を充分に脱し得なかつたとは云へ、一種の見解見識を以て 皇國的意義づけをしてゐる。但し茂睡と雖も歌道の意義に無關心であつたのであはない。(イ)「歌は上代より 天子の御心より出て國を治め身をまもる一つの道」であり、又(ロ)「やまと詞を以ていきどほりをさんじうれへをなぐさむることわざ」であるとし、又(ハ)「歌は神道の枝葉にて 君を祝ひ、身を祝ひ、福貴繁盛御代長久を賀する事」(假言調)等と云ふ。その義、極めて雜駁で統一なく、考究したものとも思はれない。ただ(ロ)の如き見解は流石に新時代的意義を持ち、宣長の物のあはれ論とも相通ずるが、この義に徹底したのではなく、中世とは異るにしてもなほ(イ)(ハ)等の如く實學的意義を多分に含んでゐる。

 茂睡の最も目覺しい功績は勇敢に、又、徹底的に中世の祕傳祕事の傳統的歌學思想、殊に歌語の制約を打破した點にある。その代表的見解は元祿十一年に成る梨本集にある。「歌は大和こと葉なれば、人のいふ程の詞を歌に讀ずといふ事なし。萬葉集をみるにその歌の難に俗語といふ詞いか程もあり」。古今以後言葉に雅俗の別が生じて、歌の用語が狹隘となり、千載新古今時代以後六條二條の兩家互に家學を立てて自説を主張し、末流は更に僻言を重ね、これを祕傳祕事として益々歌語を束縛したが、それは決して歌道の本旨ではないとして、その祕説の制約の古代の和歌に合はない事を實證した。主とする所は歌語の制約の古歌の事實にも、歌道の道理にも合はないことを道破するにあるが、時に中世に立てられた、てにをはの語法の誤謬も指摘し、更に又佛説附會の解釋をも排撃した。かかる革新的見解の地盤は古歌の研究にあつた。即ち傳統によらず(※愚案。この場合の「傳統」とは中世、舊派の傳統を指す)、自ら究めた萬葉以下の古歌の眞實性を立脚地とするが、殊に萬葉を歌の根元と見做し、萬葉集口傳大事の註釋をも作つてゐる。


 古歌の研究が古歌の世界に目を開かしめ、以つて中世以降の祕傳祕説の謂はれなきことを悟らしめたものであり、そこには近世的な眞實に生きる意慾が根柢に深く活いてゐるものとせねばならぬ。併し破邪の勇者ではあつたが、註釋的研究に於いても、又歌道觀に於いても、到底、後の國學程深められて居らず、國學者程打込んだ研究への情熱、換言すれば自己の生きる道としての自覺に立つ眞摯な傾倒もなく、只僅かに作歌の立場より歌語の自由なるべきことを主張し、實證したに止まる。されば茂睡は中世的なものの非合理性を指摘して破却したが、次いで來るべき合理的なものの建設に未だしいのみではなく(又それは恕すべきことであるとしても)、建設への情熱も、それが意義への自覺も乏しく、從つて國學者としては過渡的存在以上の意義を與へることは出來ない。それにしてもかかる中世的なものの拂拭が、次に來るべき古代的なものへの道を拓くものである意味に於いて、充分先駈者としての地位を與ふべきものである』と。




 茂睡翁の爲めと云はんよりも、國學發展の推移を研究する吾人の爲めに私見を述べれば、國學が發展したのちの後人からみれば、翁に建設的見識は乏しかつたと誹ることは容易いが、當時未だ斯界は陋習に支配され、且つ當時の時代背景を鑑みたとき、人一代、茂睡翁にその革新の前後を要求することは少し無茶なことだと思ふが奈何。



 前記掲載したるが如く、佐佐木翁が『歌論家として戸田茂睡がどれほどの卓見家で有つたかといふ事を十分に理解せむが爲には、吾人は先づ、當時一般の歌人歌學者の間に行はれて居た和歌に關する思想の如何なるもので有つたかを明らかにせねばならぬ。これをなさずして、唯梨本集の所論を讀んだとて、その歴史上の眞意義は到底理解する事が出來ぬ。蓋し茂睡の所説の如きは、之を今日の思想から言へば尋常茶飯の事で、格別注意するには足らないと思はれるからで有る』と述べてゐるとほり、吾人は茂睡翁の功をその道彦として見る可きである。


 且つ吾人がそこから學ぶ可きことゝして、啻に歴史の見物人として足れりとするものではなく、凡そ物事の成る、その端緒は案外なものから案外な結果に繋がるものであるからして。志有るの士は、啻に不平黨や不滿黨に身を置くを以て潔しとせず、茂睡翁の如き戰鬪のあるを知るも決して無意義ならぬことゝ思ふのである。


                                                       ~續く。



  • [3]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の三  

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月23日(火)00時28分21秒
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承前。

 甚だ簡畧ながら、吾人は當時の茂睡翁を取り卷く環境をば確認するに至つた。これ以上精細に記せば煩雜となるばかりか本旨を朧とするの惧れ無きにしもあらず、進んで翁の思想と功績に就いて觸れる可き時となつた。

 

 

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~



○佐佐木信綱翁『戸田茂睡論』に曰く、


『茂睡の出た當時の歌壇の形成は、斯くの如きで有つた。一方に嚴然たる舊派思想が偶像の如く存在し、その黒い影におほはれて、人の心を種と咲き出づるまことの花の無かつた時代である。茂睡は斯かる時代に出でて、刀を振つてその偶像を打壞した人で有る。その偶像の本體たる、もとより恐るゝに足らぬ幽靈で有る。しかもその幽靈を打破するには、幽靈の正體を枯尾花と見極める明が無ければ出來ぬ。茂睡は實に舊派歌學の黒闇の中に存在して居た所謂、制禁の詞のたぐひを、明らかな自覺を以て見破り打破つた勇士で有つた』と。

 


 具體的に之を掲げれば、


『茂睡が和歌の歴史上に重きをなすは、その著、梨本集によりて述べられたる歌論にあり。彼の歌論の要領は、冷泉二條兩家の中世以來の歌學に反抗し、制禁の詞のいはれなきをいひて、歌詞の自由を唱へ、和歌の爲に新天地を開きしことにあり。彼の説に曰く「歌は大和言葉なれば、人の言ふと言ふ程の詞を、歌に詠まずといふ事なく、」二條冷泉家が所謂五てんの詞、主ある詞、よむまじき詞、延慮すべき詞、俊成の好みよむべからず宜ひし詞、定家卿の不庶幾と宣ひし詞、にくしと言ふ詞、いとしからずといふ詞、などいふは、これ詞に關を据ゑて、和歌の道を狹くするもの、以ての外の邪道にして、歌の零廢すべき端緒なり。而してこれらの制詞たる、何らの根據なき無意義の説にして、一顧も價せざるものなりと。彼は實にこの見解を、かの在滿の八論に先立つ四十五年に説破したるなり。彼の説は、未だ積極的に和歌の復興に寄與するところなかりしも、消極的に從來の餘弊を打破して、その道を開きしこと、卓見と言はざるべからず。而して、殊に偉とすべき所は、古今新古今はもとより、溯りて記紀萬葉の古きにも及び、廣く和歌の歴史全汎に渡れる豐富なる知識を以て、定家の末流を汲んで眼孔その以外に出づることを得ず、徒らに定家をのみ盲拜して、その他の知らざりし在來の歌人の妄見を打破したる點にあり。かるが故に彼が議論を爲すや、その根據確實、例證豐富、決して放言快をとるが如きものにあらず。實にその學識と識見との、當時拔群なることを證せり。而して彼がその説を述ぶるや、その文、放膽にして峻鋭、その自ら信ずるところの、如何に強きものありしかも伺はる』(佐佐木信綱翁『歌學論叢』)

 

 かくみれば翁、まこと歌壇に於ける維新者であつたと云ふも可なり。

 




●戸田茂睡翁、寛文五年正月十五日(おん年卅七)に曰く、


歌は大和言の葉なれば、人のいふ詞を歌に詠まずといふ事なし。さるをいづれの頃よりか、歌の詞に制といふ事を書き出して、小點の詞、主ある詞、よむまじき詞、遠慮すべき詞、定家卿の不庶幾と宣ひし詞、にくしといふ詞、いとしからずといふ詞と、詞に多く關を据ゑて、人の赴きがたきやうに道を狹くする事は、歌の零廢すべき端なるべし。武藏野の廣きおほん惠は、延喜天暦の御世にもいかでか劣るべき。心のしづかなるまゝに、蒼生に至るまで歌の道に心を寄する時なれば、僻言を削りすて、迷はせ疑はせずして正道に引入れ、歌の道廣く世に行はれむは此時と思ふに、日にまし月に添ひて僻言おほく遠慮おほく成りゆかば、果はよむべき詞も絶えぬべし。萬葉集三代集によみたる詞は、遠慮なく詠むべき事なり。

あがりたる 御代の古道 あれにけり 廣き昔の 忍ばるゝかな』と。

 



 翁の元祿十一年(おん年七十)に著した『梨本集』五卷は、この根本思想を固持し實例に就いて論証したものである。


 詳しくは、先づ「初五文字におくべからず」といふ詞に就いて、「ほのぼのと」「月やあらぬ」「櫻散る」「我が戀は」など十七ほどの句を擧げ、一例を掲げんに、舊派の歌學では「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島がくれゆく 船をしぞ思ふ」といふ柿本人麻呂の作(實際は小野篁の作)を尊重するあまり、この「ほのぼのと」といふ句は初句におくべからずとしたものだ。


 茂睡翁はこの謂はれ無きことを論破する。『法を將來に垂るといふのは、先人のよき事を末の代の人の學ぶので、これこそまことの道である。佛教儒教いづれも説く所を同じうしてゐる。歌の道も先達の詞をかり、その心をまねびてこそ道には至るべきである。先達の詞であるから遠慮せよといふのは、あり得べからぬことである。果たして昔はかやうな制は無かつた』との旨、眞つ向から之を否定した。加へて源信明ほか十二首の「ほのぼのと」を初五句とせる古歌を掲げた。


 「終りにいふまじきといふ詞」に就いては之を研究し、古歌をみると「玉葉和歌集」「風雅集」にそれらの詞が結句に詠まれてゐることを指摘。よむべからずといふ詞は畢竟、玉葉及び風雅兩集に多くある詞で、この兩集の歌風は、俊成・定家・爲家の風と變はり、新しく詠みかへられた時代である。即はち、京極爲兼卿が二條家末流の歌風にあきたらず一新生を開いたのである。この詠むべからずといふ詞どもは、その爲兼の新風を喜ばない二條家歌人の間に、玉葉風雅の風をそしらむが爲めに主張せられたものであり、固より歌道一般の掟とする謂はれはないと主張したものである。


 「遠慮すべきといふ詞」とは、「短か世」は「世を短し」に繋がる、であるとか、「夜やくらき」は「諒闇の世」といふにさはる、とか云ひて之を忌み避けよ、としたものである。茂睡翁は之を一々、僻言であると上記同樣、その出所に就いても説き、『短か世を夏の夜と書きかへた、まことに陋策である』と痛罵してゐる。


 このやうに、中世歌學で重んじられた制禁の詞の謂はれなきことを説いたのである。

 


 尤も、翁の『梨本集』に先立つ元祿三年に契沖翁の『萬葉代匠記』が既に上梓されてをり、或は茂睡翁は契沖翁によつて開拓された近世學問からの刺戟があつたとする見方もある。斯く考へられぬこともないではないが、いづれにせよ『梨本書』は如上、茂睡翁が寛文五年に宣言した歌學に對する意見書をより肉付けしたものであり、翁が元祿の古學復興運動先驅の唯一の人と云ふべきにあらねば、第一の一人たる可きであることには相違ない。

 



 茂睡翁の研究を志した佐佐木信綱翁は、茂睡翁が舊たる中世歌學の弊を破壞しながらも新展望を如何に打ち出したかといふ點に就いては聊か不足としつゝ、翁の革新的功績を高く評價してゐる。


 曰く、 『然らば更に進んで、彼が和歌に對して抱いて居た積極的の意見は如何と問ふと、此點に於いては、その攻撃的方面ほど明瞭に又完全に述べられては居ない。要するに彼は破壞に專らにして、未だ建設に及ばなかつたといふ觀が有る。しかも破壞には理想が無くてはならぬ。彼もそれほどの理想は勿論有した。然らば彼が歌に對する理想は如何といふに、彼の著書中この點に最も明瞭な説明を與ふるものは、百人一首雜談なる諸節中に見える。 ~略~

 茂睡が當時にあつて數百年因襲の堂上歌學に對して、大膽な思ひ切つた攻撃を爲したのは、まことにこれ元祿文明の新機運に乗じたので、この點に於いて、彼は時勢の代表者で、また先導者である。而してその堂上歌學の破壞者たる點に於いては、彼は確かに第一人たる名譽を負ふべきもので有る。元祿文學史上、茂睡の先輩たる長流契沖に於いて之を考ふるも、長流の如きは、前に述べた如く林葉累塵集の序に已にその意見を述べ、また古今餘材抄の序に附記して、口傳祕授など言へるは愚なる事なりと言つてゐるが、單にそれだけで、其外に特に歌論といふ程のものは無い。契沖に至つては、その中世歌學打破の態度、最も根本的で有つたが、主とする所は古歌の解釋語學の研究で、固より歌論では無い。即ち專門の歌論家として元祿時代の新機運を代表するものは、彼茂睡その人で有る』と。




                                                       ~續く。



  • [2]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の二 

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月22日(月)03時09分0秒
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承前。

~ それまでの歌壇界 ~



○『歌論家として戸田茂睡がどれほどの卓見家で有つたかといふ事を十分に理解せむが爲には、吾人は先づ、當時一般の歌人歌學者の間に行はれて居た和歌に關する思想の如何なるもので有つたかを明らかにせねばならぬ。これをなさずして、唯梨本集(※「梨本集」は茂睡翁の著書)の所論を讀んだとて、その歴史上の眞意義は到底理解する事が出來ぬ。蓋し茂睡の所説の如きは、之を今日の思想から言へば尋常茶飯の事で、格別注意するには足らないと思はれるからで有る』(佐佐木信綱翁『戸田茂睡論』大正二年九月廿五日「竹柏會」發行)

 『當時の一般の歌人の和歌に對する考へ方といふものは、所謂二條冷泉の堂上歌學の思想に外ならなかつたので、堂上家の歌學といへば、藤原定家の後、爲家以後、和歌が全く門閥家の世襲的藝道ともいふべきものとなり、その間に殆ど理由なく意味なき幾多の煩瑣な規則、即ち制禁の詞といふことを生じ、只管に歌道を尊からしめて宗家の流たる權威を保ち、和歌の主權を掌握し、所謂古今傳授の如き、何等學問上に價値なき祕傳も此間に生じ、苟くも堂上家のもとに走つて傳授を受け、制禁の法則を習得しない者は、歌人と稱しまた世人から歌人と認められる事は出來ないといふ有樣で有つた。斯くの如き間に、由來感情の自然の發表といふ事をその生命とする和歌は、自繩自縛に陷り、陳腐の想と平凡の調とを繰返して、殆ど何等生命なきものとなり果てた。而してその模範として平生讀習ふ家書といふものも、古くは古今集、新勅撰集、近くは草庵集以下の當流歌人の集に留まり、しかも夫れ等の古人の集を、勿論長所をとつて學ばうなどいふ識見もなく、單に盲目的に讀習ふを事としたので有つた。萬葉集の如きは、到底解すべからずとして遠ざけられ、新古今集の如き歌風は、詞藻の才に乏しい後代の歌人輩の企て及ばなかつた所で有つた』(仝)




 平安朝以後の歌風を最も重きものとした中世の歌學は、數百年來門閥横行し、その弊甚だしきものがあつた。
 それ一例を掲げんに、二條家、冷泉家の堂上歌學が成立した時代からして「制禁の詞」を設け、たとへば、「初五文字におくべからずといふ詞」(例・ほのぼのと、月やあらぬ、等々)、「終りにいふまじきといふ詞」(例・あり明の月、松風ぞ吹く、等々)、「遠慮すべきといふ詞」(あたらよ、みじかよ、等々)、「ぬし(主)ある詞といふ事」、「よむまじきといふ詞」(色はへて、春の夕ぐれ、等々)《※「梨本集」參考》など、詞の適否を論らひ、制限を生ぜしめ、元來和歌に備はれたる人心もしくは感動の自由なる發表を妨げた。然るに詞を監視することによつて歌道は窮屈となり、歌學と門閥の存在は人から歌そのものを遠ざけしめ、歌の零廢の因を爲した。

○『制禁の詞は本來、歌の修辭論から來て居るのであつて、中古時代の歌の病とする修辭的缺陷の指摘と關聯があるのであるが、中世ではさういふ點よりも、詞にぬし(※ 主)を認め、いはゆるある歌人の用ゐた、秀句といふべきものはその歌人の所有するものであるとして、これを制禁するに至つたのである』(久松潜一翁『國學』昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)

○『從來歌學としいへば、多く聯想せらるゝは、三鳥三木といひ、制禁の詞といふ類の意味なき規則なるが如し。爲に歌學は和歌の發達に害を與へ、從つて無用なるものと考へらるゝが習ひなり。その結果、今に至つてもなほ、歌學の研究の如きは殆ど説く人なく、從來の歌學書の如き、殆どすべて讀む人なくて打捨てらる。而してこは、一般に於いて然るのみならず、專門の國文學者に於いても亦然り。中世の歌學が、和歌衰頽の原因たりしは事實なり。されどこれ歌學そのものゝ罪にあらずして、その歌學に束縛せられし歌人の罪なり。所謂歌學の論ずるところが、或は無意味無價値なるもの多く、又斷片的にして學問的ならざるは事實なり』(佐佐木信綱翁『歌學論叢』明治四十一年九月卅日「博文館」發行)




 いつの時代も、何の世界も、「道」が名のみになりぬれば、その先は形骸化するを免れぬ。歌道然り、その弊と難とを被らざるの例外たり得なかつた。

○『斯くの如き傾向は、鎌倉時代以後文教が衰へて、一切の學藝が傳襲的勢力に囚はれた社會の大勢のうちに益々助長されて、いよゝゝその根柢する所が深くなり、後代に至つては、唯先輩の説に盲從し、苟くも之に反對するが如き事なきを以て學問に忠實なる所以となした。鈴屋翁が所謂、師の説で有るからといつて徒らに之に盲從するは眞に學問に忠實なる所以にあらずと言つた思想の如きは、全然解さなかつた所で有る』(佐佐木信綱翁『戸田茂睡論』)

 

 



 中世歌學の最後の巨人ともいふべき細川幽齋の門に出で、北村季吟を育てた松永貞徳なる京都の歌學者がある。吾人は尚ほ彼れの著述から中世の歌學と門閥の風紀に就いて知るところあらねばならない。


○松永貞徳、『戴恩記』(天和二年刊)上卷に曰く、
『つらゆき(※紀貫之のことなり)云、小野小町ハ古の衣通姫のながれなりとあれば、和歌に師弟なきにハあらず、今も人丸(※人麻呂。柿本人麻呂のことなり)の御弟子あるべしと幽齋法印ハ、つねにのたまひしなり。又有(ある)説に、和歌に師匠なしとハ和歌の本分なり、あもなるやをと七夕のうなかせる(※「天なるや 弟棚機の 頸がせる 玉の御統 御統に 孔玉はや み谷 二わたらす 阿遲志貴高日子根の神そ」〈日本書記「神代紀」〉の意なり)と下照姫のよみたまひし已然にハ、歌と云事もなしといへり。是又不審なり。さやうに申さば一切の事みな太極より出たり。わか(※和歌乎、吾が乎、不明也)一道を師匠なしといふべき謂なし。かやうに色々に了見すれとも、相傳せされハ、し(識)ることあたはず。師匠なしとあるとて師匠ハなきものとおもふハ、佛法に文のごとく、義をとるハ三世諸佛の怨といへるにおなじ。爰ハ詠歌大概の内に大事の祕説あるところなり。又此語ハ、天子に父母なしといへるにおなじ。天子とて、天よりふりたまふにハあらず。父母おはしませども常の人間にあらぬ道理あればかく云り。和歌にも師匠もあれども、このみちにかはりて師匠いらざる理あるによりて師匠なしとハ云へり。此正義ハおぼろげの人にハ、つたふべからずと云々』

家書にハ定家卿以來、二條家、冷泉家の兩流日月の光をあらそふかごとく天下にかくやく(赫奕)たり。丸(※麻呂、自分のこと)わかき時までハ、いかなる初心のともがらまでも師説を受ずして歌書をのぞくことハ、むち(無恥)おもふこゝろあり。今のわかき衆ハ、人にもの習ふことをかへりて(※却つての意)耻かハしくおもへり。下聞に不耻とハ孔子の金言にあらずや』(仝)と。



 「戴恩記」は、貞徳が三條西實條卿、細川幽齋など、名流と稱された巨人に師事した事を述べ、上下卷を通じ一貫して師承戴恩の精神を吐露してゐる。師承戴恩は道にある人としてゆめ忘れる可からざる精神である爲め、それは宜い。されど「戴恩記」より看取す可きは、歌學の大家たる貞徳をして、眞理に忠實ならんとする精神を抱きつゝ、嚴密に見れば「師傳萬能主義」の域を大きく出でるものでは無かつた。尤も、歌道に師を求めることは決して好ましからざることではなく、寧ろ師を道標として教へを乞ひ、己れを高めることにも繋がるものであるゆゑ、これに就いては舊も新も變はりはあるまい。さりながらこゝで云ふ貞徳の意は、師傳萬能主義・門閥至上主義と云ふ能はずんば、ほゞそれに近くある。「師説を受けずして歌書をのぞくことは無恥」だといふ囘想言が歌壇に於ける當時の風潮如何に極端であり狹見なるものであつたか、吾人は想像するに難くはない。

 



 餘談ながら前述した貞徳門下の北村季吟は、茂睡翁とほゞ同世代であり、同年代を生きた學者である。季吟は徳川綱吉に徴されて幕府の歌學方であり、それ儒學に於ける林家の如く國文及び和歌の官學を代表した。されど季吟には歌論の著書が無い。彼れは註釋家であり、その學風も古説集成を專務とする點からみれば、やはり中世歌學(舊派)を代表してゐる。その學問の範圍も萬葉集、八代集や物語ものに及び広範であり、さすがに元祿時代に於ける學問隆盛期の大家たるの面目に恥ぢざるものがあつた。しか雖も季吟、その博學にして惜しむ可きは、なほ師の傳襲、師を踏襲する以外創説するところ無かりしことである。『彼にして歌論あらば、その説くところ到底堂上歌學の説を出ざるべく、その學問の根本思想に至つては、蓋し貞徳の師承萬能主義であつたので有る』と佐佐木信綱翁は述べてゐる。

 

 




                                                       ~續く。



  • [1]
  • ◆◆◆ 黎明期に於ける道彦、戸田茂睡翁 ◆◆◆ 其の一 

  • 投稿者:暘廼舍
  • 投稿日:2013年 7月21日(日)03時24分36秒
  • 編集済
  • 返信
 

 

 備中處士樣、嘗て予の爲めに云へらく、『人の爲めに書くのではありませぬ。己の爲めに書くのです』と。


 固より淺學菲才の身、爲めに秋の收穫を願ふ農夫の、春は掌に豆をつくりて額に汗し種を蒔くの努力に見習ひ、予、今はひたすら己れに努力を課するある耳矣。狹見たるの誹りを被るは止むを得ず、兎も角先哲の足蹟を辿るを以て道の入り口とす。
 請ふ諸賢、拙稿に謬りあらば御教示下さらむのことを。


 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●清原貞雄先生、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、

『徳川時代の初期に於て既に日本の歴史を闡明しようとする風潮が起り、又内外尊卑の辨を明かにして自國の尊重すべき事、惹て世界に於ける日本根元説が擡頭し、更に我神代を以て支那の聖人の世に劣らざる完全なる道徳を備へた時代であつたとする思想が現はれて、後の國學者の思想の先驅をなして居るが、別に復古國學を起した所の一つの重要なる風潮があつた。それは寛文の前後から盛になつた自由研究の風潮である。詳しく云へば古典に對する中世註釋家の説を離れて古典其のものに就て自由に研究する事である。 ~畧~

 國學に在て、中世以來、古事記日本書紀以下の我古典に對して出來上つた不完全なる研究を根據とした所の祕傳切紙の傳統を斥け、直接古典其ものに依つて純粹語學の上から我古道の眞相を■(手偏+國=つか)まうとする主張と全く同一である。國學に於ける此精神は、先づ和歌に於ける自由研究に其端緒を見出す、而して其端緒は江戸に於ては戸田茂睡、大阪に於ては下河邊長流を以て始まるのである』と。



■戸田[渡邊]茂睡[恭光]
  生歿  〈生〉二二八九 後水尾、寛永六年
       〈歿〉二三六六 東  山、寶永三年、四、一四
       〈年〉七八
  住所  江戸
       〈墓〉淺草金龍寺、[今ハ墓標ナシ]
  姓名  〈名〉恭光、茂睡 〈號〉露寒軒、梨本、隱家、不索橋(モトメヌハシ) ※他書には「不求橋」とも記せり。

                      《出典》『國學者傳記集成』明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行




●閑田子 伴蒿蹊翁、『近世畸人傳』(寛政二年)卷之五に曰く、

『隱家茂睡

 茂睡は江戸御家士にて、隱遁せる人なり。隱家(かくれが)とも、梨本(なしもと)とも、もとめぬ橋とも名を負へるは、そのよめる歌によれり。 ~畧~

 凡そ哥道に古學を稱ふるは、此の人、近世の魁にして、秦の陳渉に比すべし。 ~畧~

 哥書におきては、古より近世に及びて、甚だ博識と見ゆ。書きざまは通じやすからむ事を思ふ故にや、俗言にして、又くだゝゞしき所もあれど、其の見所は抜羣のものなれば、志ある人は求めて見るべし。其の外、著書の名目、おはづかし茂吉がひとり言僻言しらべ庄九良物語紫の一もと若紫など、梨本集の奥にいでたるは、世に傳はりてありや知らず。梨本集を著す時、元禄十一年戌寅五月、齡七旬にあまりて、赤貧の由を記すはいかゞ有りけむ。「無學無智にして道理に通じ、哥學をもつとめざれば、哥をよむことなし」といへるは、卑下にして、自負なり。奥書には露寒軒とも見えたり』と。


 元祿時代を前後して國學はその萌芽を見、やがてその學問は發展に發展を遂げ、漢學全盛期に對する大きな抵抗力となつて開花した。
 國學の發展と普及は當時の人心に頗る影響を與へた。殊に思想、信仰上に就て最も甚だしいものがあつた。具體的には復古中興の氣運が養はれ、敬神尊皇の氣風が激成されたことである。
 かく觀じきたれば、平成の御代に於て、吾人は今一度、國學を見直す必要がある。猫も杓子も「世直し」を標榜し、日の丸を手にし、シユプレヒコールを連呼し、一見一聽するだけでは本者と僞物、有志と無志の違ひが分からぬ時代だ。今日街をねり歩く彼れらの全てが僞物とは云はない。されど全員が本物であるとも云はない。連日の抗議も宜しいが、他に求める前に先づ己れからの筆法で、現下、自身の研鑽、大和魂の基礎を築かむと努めることも又た重大事と思はれる。

 國學の息吹をみる、その主なる一人として遺佚軒 戸田茂睡翁の名を擧げざる可からず。只その遺憾とす可きに就て掲げんに、翁の遺した功績ほど、其の名の知られざることを以てす。



●久松潜一翁、『國學』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、

茂睡の學問を見ると、一面には中世學問の批判と反省とを示して居るとともに、一面には近世學問、特に國學發生の地盤を開拓して居ると見られるのである。それは茂睡に限らず、長嘯子(※木下勝俊のこと)にしても長流にしても同樣であるが、茂睡に於てその著しい一人を見出すことが出來るのであり、さういふ學問の樣式を茂睡によつて見出すことが出來るのである。たゞ茂睡に於ては新しい近世學問に對する熱意は見えながら、それが如何なる根本態度を以て建設されるか、また如何なる方法論のもとに樹立されるかに就いては十分でない點は見られるのであるが、しかしさういふ新しき學問としての國學の根本態度と方法論の建設に對する重要なる示唆を與へ、地盤を築いて居ると見られるのである』と。


 飄々にして孤高、中世に因を爲したる堂上歌學を批判し、以て近世國學の先鞭をつけたる翁の足跡を知らむと欲すれば、吾人は當時に於ける時代の趨勢を知らなければならない。乃はち元祿時代に目を向ける必要がある。


~ 元祿時代前の氣風 ~

○『中世から近世への過渡期に於ては幾多の學者文人が輩出して居るのであるが、これを歌學の方から見ても木下長嘯子や松永貞徳や戸田茂睡や下河邊長流の如きは最も興味深い歌學者であり、さうして藤原惺窩(元和元年歿、五九)や、林羅山(明暦三年歿、七五)等の漢學者とともに、中世から近世への過渡時代の諸傾向を示して居るのである。惺窩や羅山は僧侶出身であるが、一方に武士の出身が多いのである。さうしてこの時代は豐臣氏から徳川氏に代る時代であるが、この推移の時期に於て豐臣氏の遺臣が浪人になるものが多かつたのである。かういふ浪人になつたものの一部はやはり武を以てたつものもあつて、近世初期の由井正雪の如きもあつたが、一部は武士をはなれて、隱士となり、學藝の方に力を盡して悠々自適するといふ態度をとつたのである。もとよりかういふ隱士にしても中世の長明や兼好等と比較すると、長明や兼好が佛教的に諦觀して居る點があるに對して、宗教的色彩の尠い點などをはじめ相違する點があるが、なほ世を逃れて學問に終始しようとする態度に共通するものがあるのである。さうしてその間に武士としての力強い意氣を以て中世文化の因襲的な方面に確信を與へんとして居るのである。 ~畧~

 さうしてこゝで考へたい戸田茂睡も同じく武士の出身であつたのである。茂睡は徳川氏の一族に仕へた武士であつたのである』(久松潜一翁、仝)




~ 元祿時代の江戸 ~

○『まづ、文藝的産物とそれを生じた國民的生活とを文明の中心となすといふ立場から之を見ると、元祿時代の文明の檜舞臺は、之を京阪の地に求めねばならぬ。京都は古文明の故地として、その年久しく耕された畑地からは、儒學神道を調和して一家の學をなした垂加神道をはじめ、朱子學に反して復古的自由討究の精神の鮮やかな伊藤仁齋の古學が出た。同時に、商業が隆盛し市民の生活が富裕なる大阪を舞臺としては、いづれも當時の社會を描寫して、新寫實文學の一生面を開いた近松の戯曲、西鶴の浮世草紙等が出た。而して殊に國學の方面では、下河邊長流は寛文十年に林葉累塵集を撰び、從來の歌集と云へば殆ど凡て堂上歌人の集に限られてゐた舊習を破つて、武人隱遁者平民等の歌を集めて公けにし、その序にこの主義と抱負とを堂々と宣言した。長流の友契沖(※マヽ)は、根本的なる自由討究の精神を以て、語學の研究や萬葉の註釋を大成した。斯くの如きは、凡てこれ泰平の治、漸く續いて、自由解放充實伸張した市民の生活状態から生れ出た産物で有つた。

 江戸に至つては、固より當時の執政者の幕府の地で有つて、新興の機運鬱勃として居たので有るが、何を云つても開府以來未だ百年にみたず、文化の方面に於いて獨立的の産物を出し成績を擧ぐるに至つて居らなかつた。近世の文化の上で江戸が立派な地位を占むるに至つたのは、寧ろ元祿以後の時代、徂徠一派の古文辭學の隆盛をはじめとして、國學の方では眞淵一派の國學が勢力を得て來た頃からで有る。例へば、諸諸の川が集まつて一つの大瀧となつて落つるやうに、京阪文明の流が新興の一大都會の勢力の中に段々集注して、ここにそれゞゝ文明上の華が江戸の地に咲出づるに至つたので有る。而して江戸が西來の文明を取入れるに於いては、固より之を單に其まゝに模倣し複製して已めりとしたのではなく、江戸の氣風とか文明的傾向とかいふべき一大溶鑪の中に、それらの外來の文明的傾向を取入れて之を作り出たので、江戸文明の産物に多少とも江戸の地方的色彩の存してゐるのは此の故である。

 然らば、斯くの如き江戸の文明の本來の特質ともいふべきものは何であるかといふと、ここに吾人は、初期の江戸文明に就いて一考を試みねばならぬ。江戸の文明は、初めからどうしても武士を中心とした社會の上に成立した隨つてその文明の思想上の根柢を爲したものは、武士道の精神で有つた。殊にその武士道は、家康の儒教奬勵の影響として、もとから兄弟同志であつた儒教と相伴なつて一大勢力をなしたもので有つた。即ちこれらの武士道や儒教の教義に基づく一種道義的精神と、一種の意氣といふものが、武士の階級はもとより、市民の全階級に行渡つてゐたので有る。而してこれに伴なふに、一方に京阪文明の華美な影響をうけ入れた新興大都の伸張的大勢の間になし出でた一種豪華雄偉な氣風といふものが有つた。これらの傾向と特色とは、元祿時代の江戸の文明的事物の上に、いづれの方面にも多かれ少なかれ認められた所で、蓋し開都以來養成されて來た所である』(佐佐木信綱翁「戸田茂睡論」)



                                                    ~續く。
 




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