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  • 大高山傳・合纂――高山赤城先生を仰ぐ。

  • 投稿者:備中處士
 
一、本傳――贈正五位・復堂杉山千太郎忠亮翁『高山正之傳』(文政元年八月)――[本傳]は赤字を以て書し、[云々]は原註たり。また合纂を通じて、(云々)は愚案なり。

一、贊評――贈正四位・山梔窩主人紫灘眞木和泉守平保臣先生『高山正之傳・欄外贊評』(天保十三年正月。本傳『高山彦九郎正之傳』昭和十七年七月・高山彦九郎先生慰靈會刊に所收――「三條の會」木川智氏の惠贈に因る。學恩鳴謝)――「青字・保臣曰」は、即ち是れ「今楠公」と稱せられし、紫灘先生の斷簡遺墨なり。珍重至極。

一、附註――贈從四位・有馬新七(武麻呂)平正義先生『高山正之傳・附註』(恐らくは安政六年頃ろ成るか。久保田收博士『有馬正義先生遺文』昭和四十五年三月・藝林會刊に所收)――【云々】は、即ち是れ「今高山」と稱せられし、有馬正義先生の考證なり。

一、參考――「■」は赤城先生遺文抄、「●」は小生の纂輯する所、「○」は小生の愚案なり。

一、遺芳――「大高山」を景仰して其の遺志を繼述し、先哲遺文を以て之を顯彰して、天下に「小高山」を陸續簇出せしめ、皇國中興の烽火の上がらんことを期す、亦た可からずや乎。

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  • [24]
  • 内田遠湖先生『高山仲繩逸事』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 4月 6日(日)19時17分47秒
  • 編集済
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■遠湖内田周平先生編輯『高山仲繩逸事』(大正二年四月刊。原文は漢文にして、愚による試訓なり。[云々]は原文割註、●第某則は愚補、○は欄外註、◎は評、(云々)は愚註)
  ↓↓↓↓↓
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935879

一、高山仲繩が妹・錦子に贈りたる和歌、及び短刀[伊與久家藏]
一、舊伊勢崎藩學校・學習堂
一、「伊賀鎭印」(八角印影)[郡司楳所君の摸刻。寄贈]

高山仲繩逸事   内田周平仲準(仲準は、遠湖先生の字なり)著

●第一則。仲繩、名は正之、彦九郎と稱す。仲繩は、其の字なり(赤城・金山と號す)。上野新田郡細谷村の人なり。父は正教、彦八と稱す。母は劍持氏。正教、年、未だ壯ならずして歿す。三男・三女有り。祖母に鞠育せらる。長は正晴、專藏と稱し、家を嗣ぐ。次は即ち仲繩也。長女、名は錦、伊勢崎藩士・伊與久政明[嘉吉と稱す]に嫁ぐ。

●第二則。錦女の嫁ぐや也、仲繩、貽るに短刀を以てす。刀身に刻して曰く、「之を貞固に守り、之を節義に發せよ」と。又た和歌一首を贈り、以て其の貞節を勗(勖。はげ)ます[歌に曰く、「いとけなき こゝろにもよく たらちねの み(身)にはち(耻)あらぬ み(己)とをこそおもへ」と]。初め夫妻、諧(かな。和)はず。家、又た災に遭ふ。而して兄訓を服膺し、貞順、渝(かは)らず、遂に能く其の夫を感悟せしめ、一家輯睦なり。嘉永二年、壽八十二、以て歿す。墓は伊與久村の龍昌院に在り。仲繩の貽る所の短刀は、館林の名工・水心子正秀[世に新刀正宗と稱さる]の鍛ふる所、和歌とゝもに、今に猶ほ伊與久氏の家に存す。
○(細田)劍堂の曰く、庭訓、此の如し。宜べなり矣、其の女の賢なるや也。
○土屋鳳洲(岸和田藩儒。名は弘)の曰く、仲繩の化、其の妹に及べり。

●第三則。仲繩、年十六、江戸に抵(いた)る。齎す所の金、擧げて以て書を購ひ、僅かに二百文を餘すも、午餐の費に充つ。大袱(ふろしき)を負ひて還る。途に板橋驛に過ぎ、骨董舗に故册子有るを見、復た餘錢を以て之を購ふ。枵(けう。空)腹、重きを負ひて歩む。行くこと二十里[本邦の里を用ふ]、飢うること甚だしくも、以て意と爲さずと云ふ。
○劍堂の曰く、仲繩の養ふ所、此の如し。其の忠孝節義の偶然ならざるを知る也。
○(服部)悔庵の曰く、余が性、庸懦、事事に仲繩に及ばす。而して此の癖は、則ち同じ。聊か以て氣を吐く可し。

●第四則。仲繩、妻を娶らず。而して一男子を獲んと欲し、妾を蓄ふること再三、初め二女を生み、最後に一男を擧ぐ[二女の名は、誠と曰ひ、佐登と曰ふ。男は、義介と稱す。仲繩、甞て江戸に在りて、三兒を命じて和歌を作り、以て寄示す。其の歌は、載せて『江戸日記』に在り]。仲繩、大いに之を悦ぶ。而して妾は、皆な姿色無し。里中、醜婦を呼びて、「彦九の内方」と曰ふに至る。内方は、室を謂ふ也。
○鳳洲の曰く、其(仲繩)の見、孔明(諸葛亮)と相類す(愚案、『靖獻遺言』に、朱憙の言を引く。曰く、「孔明、婦を擇び、正に醜女を得。身に奉ずる調度、人の堪へざる所なり。彼、其の正大の氣・經綸の蘊、固より已に天資に得たり矣。然るに其の智慮の日に、益々精明する所以、威望の日に、益々隆重なる所以の者は、則ち寡欲・養心の助、與かること多しと爲す焉」と)。

●第五則。伊與久氏、『仲繩日記』數册を藏す。其の中に記す所、僑寓、毎に祖考の神位を設け、旦夕出入、必ず餻果を供へて拜跪す。又た拜跪の數を記し、「今日、幾百・幾十拜に至る」と云ふの類ひ也。
○劍堂の曰く、行動纎悉、此に至る、又た以て大行細謹を知る可き也。
○悔庵の曰く、『日記』は天下の珍、誰か歟、刊して以て天下に公にする者ぞ。

●第六則。天明癸卯の春、仲繩、京師に如(ゆ)き、其の友・高芙蓉が家に宿し、書を吉田神祇伯の家令・鈴鹿石見守に呈す。祖父・貞正を祀り、伊賀鎭(いがし)靈社[仲繩、甞て夢に一神祝の、其の祖號を命じて、「伊賀鎭靈社」と曰ふを見る]と爲さんことを請ひ、允さるゝを獲たり。其の書、首めに三人の姓名を連署す。曰く、本願主・劍持長藏平正業。曰く、願主・高山彦九郎平正之。曰く、大島逸記源孟彪。其の上に、又た郷貫、或は住址を注す。正業は、仲繩の叔父なり。武州旛羅郡長井莊に住む。孟彪は、即ち芙蓉なり。鐵筆を善くして名有り。仲繩が家の傳ふる所の「伊賀鎭」の印は、其の手づから刻すと云ふ[佐々木喬の刻する所の『仲繩日記』に、屡々「伊賀鎭靈神を拜す」と書す。靈神は、即ち祖・貞正也。日記の標注に、以て「楠公の造る所の鎭宅靈神の鐸」と爲し、金井之恭(梧樓)の編む所の『高山操志』卷下に、伊賀鎭の印を影模して、以て正業の神號と爲すは、竝に誤れり]。

●第七則。仲繩『鈴鹿家令に呈するの書』に、其の世系、及び祀るを請ふ所以の由を敍して曰く、「祖・高山傳左衞門平貞正は、葛原親王より出づ。親王の十世・孫三郎重遠、始め上野に居る。其の後、□[ウ+浸。やうや]く微なり。貞正に至り、故ゑ有り、武州に隱れて終る焉」と。叔父・正業、其の祀を承く。貞正、生平、古を崇め神を敬ふ。「若し祀るに神道の禮を以てすれば、其の靈、必ず享けん焉」と。因りて祖母及び正業と議し、京に上りて、以て之を請へり。
○劍堂の曰く、念祖聿修、亦た以て其の至性を見る可し。

●第八則。伊勢崎藩儒・浦野知周、神村と號す[仁右衞門と稱し、晩に又た隅叟と號す]。一日、門人の爲めに『論語』を講ず。仲繩、適々至る。亦た席に列し之を聽く。「齊の景公、政を問ふ」の章に至り、潸然として涕を流し、遂に聲を放ちて泣く。門人環視、怪しみて之を問ふ。仲繩、襟を正し叱して曰く、「汝等は、愚生なり」と。皆な聵聵として事を解せず。「夫の景公は、錦衣玉食、深き宮中に居り、猶ほ君臣父子の道を聞き、感激すること、此の如し。汝等、徒らに其の講を聽き、其の義を解せずして、我が悲泣の由る所を知らず。安ぞ異日、亂臣賊子爲らざるを知らんや耶。汝等は、眞に是れ皇國の蠧賊なり矣」と。劍を按じて睥睨、聲色、倶に厲し。既にして涙、復た簌簌として下る。是に於て衆、皆な慴服し、其の過ちを謝せり。
○悔庵の曰く、「天徳寺、琵琶を聽く」と、累世、揆を同じうす。
○鳳洲の曰く、仲繩の精神奕奕、状況宛目なり。讀書、此の如くして、始めて實用に益有る也。

●第九則。神村、嘗て那波郡上樋越村に隱居す[村民、神村の教に服し、往往讀書力行、後ち村學を建てゝ、嚮義堂と曰ひ、以て農隙講習の處と爲す]。仲繩の家を距つること、六里許りなり。一夕、中秋に屬り、月色、晝の如く、將に三更にならんとす。門を叩く者有り。出でゝ之を迎ふれば、則ち仲繩也。曰く、「今夕、月を觀る。共に賞する者無し。忽ち先生を念ひ、與に月下に談ぜんと欲す。因りて來り訪ふ也」と。神村、喜びて之に座を延く。既にして談、王覇隆替の蹟に及ぶ。仲繩、慷慨激憤、目を張り髯を奮ひ、肩を怒らし手を戟ち、音吐、鐘の如し。之を頃くして天明く。家人、早飯を薦む。仲繩、驚きて顧み、一揖して辭去す。時に隣の嫗、來りて曰く、「疇昔の夜、高聲爭鬪、戸を隔てゝ之を聞き、猶ほ震慄を禁ぜず。敢へて問ふ、何事に屬す」と。
○鳳洲の曰く、一夕の談、以て仲繩の人と爲りを想見す可し。
○劍堂の曰く、側寫、妙なり。

●第十則。伊勢崎の醫・岸昌永[養孫・平格、醫業を繼ぎ、今に伊勢崎(群馬縣佐波郡)に住めり]、仲繩と親善なり。仲繩、伊勢崎に來れば、必ず投宿す焉。而して寒暑を論ぜず、一茵(しとね)・一几・一燈を借るを例と爲す。一夜の深更、家人、竊かに其の室を窺へば、則ち茵上に端坐し、机に憑り燈に對して、書を讀み或は字を寫す。其の宿、前後數十次、皆な然らざる莫し。一日の薄暮、婢、發火の絮を厨下に索むも得ず。家人、旦を俟ち購はんと欲す。仲繩、之を聞き、遽かに婢を呼びて曰く、「頃刻(しばら)くも無かる可からざる者、大は則ち天皇、小は則ち發火の絮なり矣。汝、愼みて忘るゝ勿れ」と。乃ち自ら行李を探りて、發火の絮を取り、以て之に與ふ。
○鳳洲の曰く、其の人、清澹、且つ意を細事に用ふるも、亦た是の如し。敬ふ可きかな夫。
○悔庵の曰く、妙、倫ひならざるに在り。
○劍堂の曰く、先行後言、皆な此の如し。其の至誠、見る可し矣。

●第十一則。昌永の曰く、仲繩、身材魁梧、昴肩隆鼻、潤口厚脣、額の髮を剃らず、雙眉、甚だ長く、顔色、赭くして鬚髯に美し。音吐高朗、眼光炯射、一見、甚だ畏る可きが如し。而して情意懇欵、人をして愛慕せしむ。雙刀衣服、皆な素樸、應對極恭、而して儼然として狎るゝ可からざる者有り焉。
○鳳洲の曰く、敍寫精細、宛ら其の人を見る。
○中村櫻溪(名は忠誠)の曰く、一幅の仲繩が寫眞なり。
○劍堂の曰く、「巧言令色、鮮し矣、仁」、「剛毅木訥、仁に近し」とは、仲繩の爲めにして發するに似たり。

●第十二則。關重嶷は、睡峒と號し、伊勢崎藩の儒臣也。其の仲繩と、初めて相見る。美しき衣袴を著、茶褐短襖を被、雙刀を佩び、肩衣に鶴丸の章を描く。仲繩、之を視、刀を脱して一揖し、「何を以てか、此の章を用ふるか」と問ふ。睡峒の曰く、「某、實は篠塚伊賀守の遠孫なり。故に此れを以て家の章と爲す」と。仲繩、聲に應じて呼びて曰く、「足下、我と則ち元弘以來の知己ならん矣。何ぞ相見るの晩きや也」と。因りて喜び、極まつて泣く。遂に欵談、晷(き。日刻)を移して去る。此れより相交はること、終生、親戚の如し。蓋し仲繩の先・遠江守は、伊賀守とゝもに、新田十六騎の黨爲るが故なりと云ふ。
○鳳洲の曰く、祖先の心を以て心と爲すは、仲繩一生の爲す所なり。皆な此の心よりして生ず。

●第十三則。仲繩、江戸の儒・小松原醇齋[名は充義、剛治と稱す]・服部栗齋[名は保、善藏と稱す]と相識る。屡々醇齋に就いて、諮諏する所ろ有り。又た嘗て栗齋と奧の松島に遊び、旅亭に投ずる毎に、輒ち其の地の聞人・名士・孝子・義僕、及び狹客・博徒の魁を問ひ、其の人の在る所を得れば、遠近・晴雨を問はず、必ず往きて之を訪ひ、往往數日を經て還る。栗齋、之に竚み、淹留、日を曠うし、徒らに房金を費す。因りて數々其の行を促すも、而るに仲繩は肯ぜず、往きて反り、遂に數旬に彌る。栗齋、人に語りて曰く、「此の行の觀賞は、松島に在らずして、高山に在り矣」と。
○劍堂の曰く、傍若無人、此の如き者有り矣。而して虱を捫(ひね)る一流の人と、日を同じうして語る可からざる也。
○悔庵の曰く、慄齋は、正にして奇、仲繩は、奇にして正、二人相合ふは、洵に偶然に非ず。
○鳳洲の曰く、余、將に仲繩の觀賞は、松島に在らずして、人物に在りと謂はんとす。

●第十四則。仲繩の、始めて京師に遊ぶや也、書を祖父に留めて曰く、「某、京師に遊學せんと欲すも、之を告ぐれば、恐らくは止むる所と爲らん。故に辭せずして發す。京師に舊識有り。將に往きて之に依らんとす。尊念を勞すること勿れ。刀を佩ぶは、是れ學士の常なり。請うて以て行かんと欲すも、亦た恐らくは聽かれざらん。因りて潛かに庫中に入り、備前兼光・菊一文字の二刀を取りて、之を佩ぶ。幸ひに以て贐と爲られんことを。修學三四年、當に歸りて慈顔を拜すべきのみ耳」と。此れ仲繩十八歳の時事と爲す。後ち東西に浪遊し、其の間、京師に留ること四たび、竟ひに筑後久留米に自殺す。年四十七。

●第十五則。伊勢崎藩老・長尾景範[一雄と稱し、粕洲と號す。致仕後、無適と號す]、藩士・岡田玄理と、嘗て江戸の村士玉水[名は宗章、行藏と稱し、別に一齋と號す]に就きて、儒學・兵法を受く。安永中、藩主・酒井侯[信濃守忠寧]、玉水を聘き、賓師と爲す。藩儒・浦野知周等、就きて學ぶ焉。未だ幾ならずして、玉水の門人・服部栗齋を招き、之を友とす。又た知周の家塾を修拓して講堂と爲し、重臣・關重嶷をして、堂名を玉水に請はしむ。玉水、命ずるに「學習」を以てす。門人・小松原醇齋を薦め、其の教授と爲す。是に於てか乎、藩の子弟、學に勸みたり矣。文化中、伊與久村民・宮崎有成等、孝經を石に刻して、以て郷鄰を教導せんと欲し、之を幕府儒官・柴栗山[名は邦彦、彦助と稱す]に謀る。栗山、門人・青木永教[留守隊與力]をして、開成石經を模臨せしむ。白河源公[越中守定信]に請ふ。其の額に隷書して、以て之を授く。侯、又た重嶷等に命じ、其の事を督す。特に地百歩を給し、郷學を創建す。扁を五惇堂と曰ふ。是に於てか乎、郷鄰の民、孝に興れり矣。仲繩の忠孝、學を好むは、固より天性に出づ。然れども亦た安ぞ風化の美、諸儒の教と、獎めて以て之を成すに由るに非ざるを知らんや乎。
○鳳洲の曰く、逸事、「忠孝」の二字を以て終る、好く局を結ぶと謂ふ可し。
○劍堂の曰く、結び、十分を得たり。

 右、逸事十五則、録して上毛の中澤子明(蓮塘)に寄す。

◎細田劍堂の曰く、高公(高山赤城先生)の一身は、「忠孝節義」の四字の鑄成する所にして、逸事十五則は、則ち又た此の四字を以て精神と爲す。故に文字、甚だ奇處無くして、一讀、人をして感奮興起、自ら措く能はざらしむ。文章、世教に關はるとは、是れ之を謂ふ也。
◎服部悔庵の曰く、逸事十五則は、皆な創聞に屬す。而して敍べ得て精妙なり。仲繩、其の人、奕奕として生けるが如く、以て頑を醫す可く、以て懦を振ふ可し。是れ必傳の作なり。
◎中村櫻溪の曰く、瑣事遺聞、亦た其の風節を見る、以て『高山操志』の闕を補ふ可し。
◎鹽谷青山(名は時敏)の曰く、幽を闡(ひら)くの筆なり。
◎日下勺水(名は寛)の曰く、仲繩の言行、一見、矯激を疑ふ。而して皆な忠孝大節に原づき來る。故に甚だ貴ぶ可き也。
◎石川文莊の曰く、仲準(内田遠湖先生)は、忠孝、學を好む。而して其の言行、往往仲繩に相似たり。今ま其の逸事を記すは、所謂る尚友する者か耶(愚案、吉田松陰先生『士規七則』に曰く、「人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫のみ耳。書を讀みて尚友するは、君子の事也」と)。


 高山仲繩の忠孝大節、天下の人心を風動する者、先儒、既に論述せり焉。但だ其の日常の行事に至つては、則ち未だ之を記す者有らず。(内田)遠湖先生、旁捜周訪、逸事を掇拾し、乃ち此の書を撰す。是に於てか乎、仲繩の面目、全然發露、片鱗雙甲も、躍躍生動、讀者をして百歳の後、其の人に親炙するの想ひ有らしむ。蓋し(遠湖)先生も、亦た平生、忠孝大節を以て自ら任ず。其の仲繩に於て、心、私かに繾繾、措く能はざる者有る、宜べなり矣。今ま此の著有り也。友人・上毛の中澤子明が女婿・武君は、伊勢崎の人也。伊勢崎と仲繩の郷・細谷村と、相距つること遠からず、流風餘韻、猶ほ焉れを存する者有り。頃者、此の書を一見し、風教に補ひ有るを喜び、刷印して、以て郷人に頒たんと欲す。余、甚だ其の擧に贊し、謹みて點乙を施して、以て讀者に便す。蓋し亦た賢を希ふの微意なるのみ而已。
大正紀元の歳臘月
 (遠湖先生の)門人・佐伯仲藏(篁溪と號す)、謹みて識す。


 今茲四月、遠湖内田先生の、我が州に遊ぶや也、外舅・中澤蓮塘、導きて伊勢崎に至る。先生、嘗て高君仲繩の逸事を考へ、私かに記す所ろ有り。是に至り親しく一二の故老を見、問ふに舊藩の學政、及び人物を以てし、且つ捜訪往牒、既に歸りて増補綜合、十五則を録し、寄示せらる。蓮塘の曰く、「此れ獨り郷土史料に供ふのみならず、亦た以て世教に裨益するに足れり矣」と。因りて相謀り、之を刷印し、郷人及び教育に從事する者に頒贈すと云ふ。
大正改元十二月
 伊勢崎・武 宜教、謹みて識す。

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大正二年四月廿五日印刷
大正二年四月三十日發行 非賣品
 編輯人 内田 周平
 發行人 武  孫平
 印刷人 小谷野善八
 印刷所 前橋印刷所
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【備中處士『崎門の道統繼承者・内田遠湖翁』──己が修めし學術を實際に履み行ひ、國家教育の爲に政府に反對せしこと三度びなり矣──戰前最後の碩儒】
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/uchida.htm

 遠湖内田先生『高山仲繩逸事』一卷、謹みて寫すこと、件の如し。

 内田遠湖先生は、愚が恩師・紹宇近藤啓吾先生の先師にして、崎門道義の學を奉ぜし大儒碩徳なり矣。楠本碩水先生の門に出でて、殊に絅齋淺見先生の影響を承け、就中、感謝に勝へざるは、強齋若林先生を發見顯彰せらし一大事なり。強齋先生は、直方・尚齋等の、闇齋先生の學を誤らしむを憂ひ、闇齋先生その人に復さんとせし神儒なり。遠湖先生の強齋先生發掘に因りて、闇齋先生の學問、漸く天下に明かとなれり矣。現代に在つても、強齋先生に學ばざれば、闇齋先生の學問は、殆んど知る可からず。闇齋・絅齋・強齋の三先生は、道義研鑽、日本學に缺く可からざる聖賢なりと謂ひつ可し矣。而して遠湖先生の坐さゞれば、三先生の復活も、亦た無かる可し。嗚呼、遠湖先生の學勳、眞に偉にして大なるかな哉。愚生は、遠湖先生を偲び、直ちに赤城高山先生を想ふ。何となれば則ち「遠湖先生は、忠孝、學を好んで、其の言行、往々赤城先生に相似たり」。「遠湖先生は、平生、忠孝大節を以て自ら任じ、其の赤城先生に於て、心、私かに繾々措く能はざる者」有ればなり。而して赤城先生の坐さゞれば、明治中興の數年遲れたらんも、亦た得て知る可からずと爲さん矣。

 祖妣忌中、髮長に依る御祭の濟みたるも、我が國俗の五十日には未だ至らず、暫く服忌を護持せんと欲す。神明を祭るを得ざれば、氣力・體力、倶に本復せず。嗚呼、赤城先生を想起して、猶ほ已まざるもの有り矣。

 眞金吹く吉備中の玄月書屋に於て、備中處士、謹愼百拜。
 

  • [23]
  • 『三條橋上宮城遙拜の詞』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 6月27日(木)22時47分44秒
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●稻村眞里翁『──假作──高山彦九郎、三條橋上皇居遙拜の詞』(『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊)

掛け卷くも綾に畏き、九重の雲深き大宮の大前を、遙かに拜(をろが)み奉りて、數にもあらぬ劣(をぢな)き御奴、高山の彦九郎、恐み恐みも白さく、

うつせみの世の事業(ことわざ)、盡く大朝廷(おほみかど)を蔑(なみ)し奉りて、天つ日影を、有るか無きかに、欝悒(おほゝ)しく覆ひ奉り遮り奉れる事を、歎き奉り慨み奉り憤り奉りてあれど、未だ時を得ねば、懼り奉り惶み奉りて、身一つだに、措き處も覺え侍らず。

茲に遠く大御門の大前を、振り放(さ)け拜み奉りて、え聞こえ上げぬ心の緒ろを、恐み恐みも、遙かに訴へ奉らくと白す。



 愚案、 高山赤城先生の坐ませし御世と、中今の御代と、共に「未だ時を得ず」。明かなる敕語あり矣と雖も、大政を委任されてゐる執政者を始めとする國民は、知り奉らず、存じ奉らざるが如き有り樣なるは、抑も如何なることぞや。識者は沈默、誰も言擧げしまいが、九段塾の管理者は狂人にして、畏れを知らざるが故に、大方、知らねば、いざ、教へて遣はさむ。

 此の御國は、宇宙いと廣しと雖も、神國中の神國、即ち皇大御國、恐れ多くも宇内を知らし食し賜へる、天上降臨の天子樣の大坐します、神皇顯在の大御國なるぞ。此の皇國に在つて、九重の雲深き大宮に大坐します‥‥、嗚呼、遙けき畏こき大御心を、只管ら一途奉戴せざるは、懺悔待罪、猶ほ盡きざるなり。「數にもあらぬ劣き御奴なるも、遠く大御門の大前を、振り放け拜み奉りて、え聞こえ上げぬ心の緒ろを、恐み恐みも、遙かに訴へ奉らくと白す」。
 



  • [22]
  • 大義名分の激突。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月15日(水)23時27分25秒
  • 編集済
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●山田孝雄博士『神皇正統記論』(『神皇正統記述義』昭和七年十月・民友社刊に所收)に曰く、

「世には本書(北畠准后親房公『神皇正統記』)を以て皇統の正閏を論ずるものとし、これを以て本領と認むるもの少なからず。この論をなす人の、その精神は諒とすべきものあり。然るに本書一部を通じてこれを見るに、皇統の正しき事と當に正しかるべき事とは、到る處にこれを論説すれども、正と閏とを分つが如き相對的態度をとれる點は、一も存することなし。著者の態度は、皇統の正を闡明するにありて、閏と正とを甄別せよといふが如き薄弱なる言論は、一毫もこれを見ず。徹頭徹尾、堂々たる絶對的態度を以て臨めり。されば後人が、この書の説く所を以て、皇位の正閏を識別する尺度としてこれに準據せしは、これもとより當然にして然るべき事なれども、本書を以て正閏を論じたりといふは、その見、甚だ徹底せざるものなり」と。


 愚案、「只だ我が國こそ、「南北朝」などいふ論こそ、いかゞいふべき。正閏の論にも及ばで、書くべきにや」とは、贈正三位・白河樂翁松平左近衞權少將源定信公『退閑雜記』に見る、大見識である。固より『神皇正統記』・『大日本史』・『保建大記』の精神を嗣ぐもの、然るに最近の保守家は「南北朝」と云つて、何ら問題も存せぬが如き振舞ひである。況んや「神器」の御存在・御歸趨をや。斯くの如き認識では、我が國は、「萬世一系」の國では無いことになるではないか。殷鑑、遠からずとやせん、出雲の國造家に、「北島國造」・「千家國造」兩家あり矣。樂翁公の爪の垢でも煎じて、靜かに呑まれるがよい。
  ↓↓↓↓↓
http://www.izumokyou.or.jp/rekishi.html

【吉野時代と所謂南北朝正閏問題】
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 所謂る閑院宮尊號一件は、我が國史に於ける悲劇であり、尊皇戀闕を志す者にとつては、沈思默考を要する關門である。有志には、下記三卷他を參互照看の上、己の學問識見を高め、御志を固むる一資とされむことを。

一、蘇峰徳富猪一郎翁『近世日本國民史』松平定信時代篇(大正十四年九月脱稿。講談社學術文庫・昭和五十八年八月・講談社刊)――翁の曰く、「尊號問題については、世間紛々の説、本書によりて、はじめて青天白日を覩るの感あるべきを疑はず」と。

一、青淵澁澤榮一子爵『樂翁公傳』(昭和十二年十一月・岩波書店刊)――三上參次博士の原稿を、黒板勝美博士の推薦により、平泉澄博士が編纂し、中村孝也博士の修訂を加へたものなり。

一、大悲三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)

 「尊號事件は、寛政元年二月、内裏造營工事の着手と同時に起り、前後五年の久しきに亙る懸案として、幾多の波瀾を重ね、寛政五年三月に至りて、漸く終結せるものなり。その間に於ける折衝の困難も、察するに堪へたり。抑も光格天皇は、閑院宮典仁親王の御子におはしまし、安永八年、御年甫めて九歳にして、後桃園天皇の皇太子に立たせたまひ、幾もなくして御踐祚あらせられ、こゝに御生父・典仁親王の御待遇につて、宸襟を惱ませたまふに至れり。元來、「禁中竝公家諸法度」の規定する所によれば、殿上に於ける親王の席次は、現任三公の下位なるを以て、典仁親王は、畏くも皇父におはしましながら、その席次は大臣の下に在り、途上の禮儀も、亦た之に準ぜられざるべからず。天皇は、いたく之を歎かせたまひ、夙に太上天皇の尊號を御生父に上らんとして、叡慮を廻らされ、天明八年四月、中山前權大納言愛親卿に仰せ下されて、その先例を調査せしめられ」たる事に發し、幕府の執政・松平定信は、「大義名分を重んじ、御私の御恩愛を以て、之を亂すべからざることを根據として、皇位の神聖と國體の尊嚴とを無窮に保持せんが爲めには、無實の尊號の存すべからざる所以を説き」、朝廷の御再考を促し奉つた(『樂翁公傳』)。

 本一件は、固より、畏れ多くも、光格天皇の「御孝心」の大御心に出で給ひしものにして、時の幕府と折衝往復を重ね、之が爲めに、光格天皇には、萬斛の恨みを呑ませ給ひ、草莽志士の慷慨悲憤を呼起し來つた、國史上の一大問題である。抑も樂翁公は、徳川時代を通じて、稀有に見る「尊王」の執政者である。樂翁公は、其の學問の修養によりて、皇室尊崇の念、極めて厚く、己の見識を以て、「御名器」(皇位)の輕々しく動くは、社稷を危くする所以なり、「御國體にとり、容易ならざる儀」として、皇家の御爲め、尊號宣下の斷然中止を請願して、天朝を諫め奉つたもの、こゝに朝幕關係の一大緊張を惹起し來り、幕府による強要によつて、尊號宣下は、遂に行はれなかつたのである。

 今上天皇の大御心を奉戴するか、或は皇家傳統の先例を第一義するか、共に大義名分を決する關門であつて、中今に在つても、有志の懊惱する所に相違ない。後年、明治天皇には、御宇十七年三月十九日に至りて、光格天皇の大御心を追想し給ひ、一品太宰帥・閑院宮典仁親王へ、太上天皇の御號を贈らせ給ひ、追尊天皇「慶光(きやうくわう)天皇」と稱へ奉る御事となり、天裁を下し給うたのであつた。

「(松平定信は)保守的政治家であつた。もとより頑冥固陋、たゞ舊習を株守するとふではなかつたが、しかし時勢に先んじて、時勢を制するがごとき離れ業は、彼の長所ではなかつた。彼は思想の系統からすれば、水戸光圀ではなく、むしろ保科正之であつた。彼は朝廷の尊崇すべきを、百も承知してゐた。而して彼もまた立派な尊王家であつた。然も彼の政治の根本主義は、幕府中心主義であつた。彼は幕府を本位として、日本を統治するをもつて、第一義といふのみならず、唯一義とした。‥‥

 惟ふに松平定信當人は、朱子學の教養を受け、大義名分に、最も明らかなる者であつた。されば踐祚なき御方に、太上天皇の尊號を上るべき條理は、決してこれなしとは、彼の主張であつた。この主張は、まさしく筋の通りたるもの、たとひ反對の意見あるも、この意見、また一個の意見として成り立つべき根據がある。しかも餘りにこの大義名分のみを主張する結果、かへつて朝威を蔑(ないがしろ)にし、朝權を侵犯し、至尊を冒涜し奉りたる結果を來したるは、いはゞ小なる大義名分のために、大なる大義名分を犠牲としたるものともいひ得られないこともない」と。

即ち是れ、蘇峰翁の斷案である。我が皇國に於いては、人格・忠義、如何に勝れてゐようとも、「保科正之」の道を歩む者は、其の結末、必然として悲劇に終はらざるを得ない。

【義公傳來・徳川慶喜公の本心】
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【會津藩の不徹底は、吉川神道の影響下にあつた藩祖・保科正之に在り】
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 然りと雖も、幸ひなるかな哉、樂翁公の至誠心事は、天に通ずる所ありしと見え、天保四年十一月六日には、吉田家より、「守國靈神」の神號を得、翌年四月二十五日、陞つて「守國明神」、更に安政二年十二月十日、神宣を受けて、「守國大明神」の神號を受くるに至る。明治十三年十月五日、桑名の鎭國守國神社を縣社に列せらるゝの御沙汰あり、遂に四十一年九月九日、定信に對しても、正三位を追贈せられた。大正十一年、白河に南湖神社(翌年に縣社)を建てゝ、又た公を祀る。公の餘榮、亦た大なりと謂はねばならぬ。
 

  • [21]
  • 東の高山、西の唐崎。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月10日(金)23時12分49秒
  • 編集済
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●贈正四位・安藝國竹原磯宮八幡宮祠官・赤齋唐崎常陸介(八百道)藤原士愛先生の哥(三上大悲翁『高山彦九郎』所收)

きずつけて さぞやうらみの 有明の 月にさらせる 君がはらわた



●赤齋先生『楠公父子訣別の圖に贊す』

百年、物を弄するに堪へたり、惟れ大夫の家珍。
孝を達す、勤王の志、忠に至る、報國の臣。
生前、一死を輕んじ、身後、三仁を許す。
畫出す、赤心の色、圖を披いて、感慨、新たなり。



●本居宣長大人『内宮權禰宜・琢齋蓬莱雅樂荒木田尚賢神主あて書翰』(安永五年七月。尚賢翁は、谷川淡齋先生の弟子にして、且つ女婿なり)

 あきの國、柄(唐)崎八百道(赤齋先生)生、此方へも尋ねられ、一夜、ゆるゝゝ晤語仕り候ふ。仰せの如く埀加流にて、殘心に存じ奉り候ふ。併し道を大切に存ぜられ、氣概甚だしく候へば、眞の學者と存じ候ふ。今時、古學の徒は、道を憂ふる心はなく、たゞ己が見解をのみ高くして、輕薄に御座候ふ。是れ、古學の弊と存じ奉り候ふ。



○愚案、「曠世の度、冲天の氣、談論は河漢を傾け、揮洒は龍蛇を走らし、覺えず人をして狂氣せしむ。何ぞ啻に鄙吝を消するのみならんや。宜しくそれ一方に木鐸し、神教を振起せしむべし」(小倉藩儒・石川彦岳翁)と稱揚されたる赤齋先生は、「實に日本紀家にて、傍々經傳の古訓に及ぶ」(尾關權平正義翁)一大家であつて、固より贈從四位・振々靈社淡齋谷川士清先生の弟子にして、鈴屋學派以外より、卓然として畏敬され、其の講義振りは、「忠孝の教をしめし給ふ時は、聲くもり、落調し給ふ。至誠の全き、つたなき我等まで、胸もふたがる程に覺えて、いみじさを云ふもはゞかりあり」(頼杏坪翁)と傳へらる。

 嘗て曾祖父・唐崎河内守定信翁(――主膳清繼――辛齋上總介信通――赤齋)が、闇齋先生より賜つた宋の文天祥の眞蹟「忠孝」の二字を、赤齋先生は、宮溪の千引巖に勒し、以て衆庶を激勵せり。蓋し先生の本領、此の二字に在るを以て也。皇室の式微を憂ひ、勤王の説を唱へ、四方に遊説す。又た其の屠腹に先だち、平日の記録及び志士往復の書を、擧げて火くが故に、事蹟多く傳はらずと云ふ。是れ亦た赤城先生と、同一の轍を踐むものなり。赤城先生を慕ふ者、同時に唐崎赤齋先生を想はざる可からず矣。嗚呼、東西兩赤子の志、中今に唱道恢弘し、覺醒見在せしめんことを。



山崎埀加先生─┐
┌───────┘                     ┌─蓬莱尚賢翁
│                                 │
├正親町白玉公――玉木五十鮨翁―─谷川淡齋先生─┼─唐崎赤齋先生────┐
│                                 │                │
│                筑後久留米藩崎門學の祖 │                │筑後勤王黨の首領
└淺見絅齋先生―┬――――窓南合原藤藏餘脩翁─―┼―不破與三兵衞守直翁─┴―有馬剩水翁
            │                     │
            │望楠軒        望楠軒     │
            └─若林強齋先生──西依成齋翁─┴─藪孤山翁――赤崎海門翁



●久留米藩國老・即似庵剩水有馬主膳源守居翁『柄崎赤齋あて書翰』(三上大悲翁『高山彦九郎』所收。剩水翁の孫・主膳守善翁、亦た眞木紫灘先生を庇護す)

 先般は、高山彦九郎、便りの御状下され、忝く拜見致し候ふ。其の砌も、未だ病氣、快からず罷り在り、其の上、同人(赤城先生)逗留も之れ無く、長崎へ發途■■貴答、申し入れず候ふ。其の節、御書中にも仰せられ候ふ通り、(赤城先生は)日本魂の人にて、權平(尾關正義)、咄も合ひ申し候ふ樣子に候ふ。小拙にも面會いたし度き由に候へども、未だ身體も復し申さず、斷りに及び、殘念に存じ候ふ。‥‥(寛政四年)七月五日、有馬主膳。柄崎赤齋樣



●有馬剩水翁『高山正之書捨拔萃の跋』(三上大悲翁『高山彦九郎』所收)

 高山正之、彦九郎と稱す。野州新田郡の處士なり。夙に孝義を以て稱せらる。平素、皇國の學に志厚く、操守質直、眞に一奇士也。甞て雅量ありて、遠遊を好み、四方を周流して、奇跡を探る。寛政中、九州に來り、經歴する所の事跡、詳かに小册に記して、筐中に畜ふ。其稿、文に非ず章に非ず、鄙俚忿雜、些か忽忘に備ふるのみ。敢へて外見を憚るものゝ如く、しかり。

 正之、歿せんとする時、悉く是を破碎し[大悲翁の云く、「實は自刃の前年までの日記は、悉く豐前中津の簗家に托し、たゞ西國日記のみは、肌身につけて持參せしものゝ如し」と]、殘るところ、纔かに豐・肥・日三州の殘篇、餘は三四葉の闕簡破牘のみ。僕、適々是を得て思ふ、「徒らに函底に祕して蠹に供せんよりは、寧ろ同志とともに靈□[匚+僉]を講究し、寂寞閑夜の友となさば、恐らくは正之が素志にも叶ひなん」と。此の頃、竊かに是を抄出し、一册となしぬ。妄りに大方の覽觀を憚るのみ。

 嗚呼、正之、歿してより、爰に十念、しばゝゞ僕と交友する事ありしも、更に前日の如し。彼れ一度び冤を蒙り、其の事、暢ぶること能はず、耻なきを耻づるものゝ如し。其の志も、又た憐れむべし。終りを能くせざるを以て、一概に貶すべからず。其の遺書に臨み、悼然として後へに記すること、しかり。時に享和二壬戌年仲秋望前一日、阪低窩に識す。



【草莽の士・唐崎赤齋先生】
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  • [20]
  • 拾遺、二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月 8日(水)19時46分21秒
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●復堂杉山千太郎忠亮翁『高山處士の眞蹟の後に書す』(今『高山操志』に據る)

 右は、高山處士の眞蹟なり。桃溪石川(久次右衞門久徴)翁の藏する所ろ也。一日、翁、余に示して曰く、

「是は、高山處士、喪中に居し書す所ろ也。處士、孝行を以て聞ゆ。子、蓋ぞ余が爲めに、其の概略を記さゞる。昔し寛政中、余、下總結城寺の僧・瑞岳なる者と邂逅し、語るに處士の事に及ぶ。瑞岳、余の爲めに言ふ、「某は昔年、上野に到り、新田郡細谷村を過ぎ、適々墓側に廬する者を見る。其の人、形容枯槁、藁を藉(し)きて地に坐し、繩を以て棚に架け、書數十卷を置く。余を呼びて入らしめ、因つて言ふ、『某は高山氏、彦九郎と稱す。幼にして孤となり、祖母に頼つて鞠育せらる。不幸にして亡す。情の忍びざる所、爲に喪に服すること再期、大祥(三年忌)、既に過ぐるも、餘哀、未だ盡きず、猶ほ此に至れるのみ耳。先祖母は、平生、酷だ酒を嗜む。故を以て日に之を墓前に供し、行人を呼びて之を飲まさしむ。今日、上人の過ぐるを見る。願はくは一杯を擧げよ』と。某、酒のむ性無し。從者をして之を盡さしむ。處士は又た云ふ、『先祖母は、已に天年を以て終れり。郷園の事、以て念を爲す者無し。今より以後、將に天下を跋渉し、以て平生の志を償はんとす也。天、若し良縁を假さば、或は再會を得ん』と。因つて筆を援つて、郷貫及び名字を書す。某、愛藏し、以て今に至る也」と。時に余、瑞岳の爲めに周旋せしこと有り。深く之を徳とし、遂に之を以て贈と爲す。是れ、余の此の蹟を藏する所以ん也」と。

 嗚呼、處士、少くして奇氣を負ひ、忠孝大節有り。東西跋渉、常に天下の爲めに報ずる所ろ有らんと欲す也。落々、合を募り、志を齎し以て沒す。固より仁人志士の悲しむ所ろ也。此の書は倉卒に出づと雖も、而れども端重剛勁、其の人と爲りに類す。其の人、既に亡きも、心畫、猶ほ存せり。宜しきかな乎、翁の焉を寶愛すること也。北條伯基、模刻し、以て同好に傳へんと欲し、遂に爲めに之を書す。天保甲午(五年)仲冬。



●黄陽夕陽村舍茶山菅沼太中菅晉帥翁『筆の須佐飛』(今『高山操志』に據る)

 彦九郎は、上野新田の人なり。余、はたち許りの時、來りて一宿す。其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚だしき時は、涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一つも誤らず。亂世には武者修行と云つて、天下を周遊するものあり。今ま治世なれば、徳義・學業の人を尋ねありくも、少年の稽古なりとおもひて、六十餘國を遊觀せんと志し、一冬、袷一つを着て、露宿して試みしに、風をもひかざりしによつて、出遊をはじめしなりと云ふ。

 其の人、鼻高く、目深く、口ひろく、丈たかし、總髮なり。此の人、備前の閑谷の學校に宿して、其の學制・規則を尋ねしかば、教授の人、本一册を出だして示し、其の翌早く、寢たる所にゆきて見れば、彦九郎は、なほ燈に對して其の本を寫し、既に半頁ばかり殘りたるを、やがて寫し終りぬ。凡そ五十葉許りの寫し本なりしよし。それより播磨に赴き、姫路の北郊に相識の人ありて一宿す。翌日晩際に、いとまを乞ひて出でんとするを、主人とゞめて、「時は節季なり。日はくれかゝれば、明朝、たゝれ」といへども、『但馬にゆきて、年内に京へ出でて、内侍所の御神樂を聞くに、日數限りあれば』とて、強ひて出でてしか。

 扨て其の翌春、かの姫路北郊の百姓、小罪ありて獄に入り、其の赦され歸りて、獄中の事どもかたる中に、「山賊と同じ獄に在つて、いろゝゝの話に、「そこら、多年をなして深山に夜を明かして、おそろしき獸などにあへしや。又た天狗などいふ者を見しや」と問ひしに、賊のいへるは、「十餘年、山に棲みて、一度もおそろしき者を見ず。只だ一度有りし。去年、何某月何某夜、何某の山中にたゝずみ、人を待ちしに、大なる男一人、出で來たるを見て、吾等四人、立ちふさがりて、酒錢を乞ひしに、其の人、大音にて、『慮外者め』と叱りて、傍らに人なきが如し。のりゝゝとして過ぎ行きしかば、四人はおのゝゝ尻もちつきて、暫く物もいはざりし。其の聲の大けさ、山に響きてすさまじく、やゝあつて其の人を見れば、半町許りも行き過ぎて、跡を見かへりし眼、光りておそろしき事、限りなかりし。是こそ、天狗などいふものにてもありつらめ」といひし。其の賊の顔も、おそろしげなりし」と。此の事、彼の主人聞きて、月日を數へ、其の時刻と其の地とを考ふるに、「其の人は、必ず彦九郎ならん。かの山中を、節季の夜半に、一人すぐる人、外にはよもあらじ」と、舌を卷きしよし。

 彦九郎、江戸に在りし時、新田のあたりに、百姓一揆起りしと聞いて、取るものも取りあへず、急ぎ歸る頃は、未すぎ申の時許りなりしが、相識人のもとに立ちよりて、其の人の妾に、しかゞゝと語りて出づ。其の夫の歸るを待ちかねて、其のよしをいふに、其の夫、驚きて、「夫れは聞き捨てにならず。彦九郎は正直にて、氣はやきおのこなれば、事によりて命を捨てしも計りがたし。吾は是より追ひ付いて、事をはからん。汝はだれかれにも告げしらせよ」と云ひつゝ出てゆけり。夫れより人々にいひつぎて、追々にしたがひゆくほどに、凡そ同志の輩、三十人許り、夜道をいとはず、路程二十里餘り、彦九郎は、翌早く馳せつけ、外も追々午時ばかりに追ひ付き集まりしが、一揆は既にをさまりしかば、晩に打ち連れて、江戸へかへりし由。頼萬四郎(惟柔・號杏坪)、其のころ江戸に在つて、くはしく其の事を知りて、「此の輩、亂世にあらば、一方をふりむけて、大功を立つべし」と、時々かたりて嘆稱す。

 扨て其の地に偉人あるは、村吏などの惡むこと、いづかたも同じ事なるや。彦九郎が郷里は、ある御旗本の領地なり。其の名主・年寄などいふ者、いかに言いれしや。ある時、領主の邸へ呼び寄せて、彦九郎は百姓にて、平生、長き大小を横たへ、家業を勤めず、書物のみ讀むは、不審の者とて、門側の一室におしこめて、數月の間、置けるに、懇意の朋友、酒肴を携へ問ひ來るもの、虚日なし。或る日、大府の一有司(白河樂翁松平定信侯)の邸に召されて、「其の方、何故に諸國を遊行し、名ある人を尋ねゆくや、子細あるべし。一々申し上げよ」と命ぜられければ、彦九郎、『亂世には、武者修行といふ事の候ふ由、承り候ふ。今ま大平の御代に候へば、諸國に名ある人を捜し求めて、よき事を聞かんずるにて候ふ。其のよき事と申すも、忠孝の事より外にては候はず』と申しければ、「此の書を講釋せよ」と、『論語』を一卷、出だされけるに、彦九郎、ちつとも臆せず、辨舌あざやかに講説し終りけるによつて、またもとの領主の邸にぞ下げされける。かくて數日ありて、又かの有司の邸に召されて、講釋させられて、次の間に人ありて、其の説を書きとめらる。其の後、又た數日ありて、召し出だされて命ぜられけるは、「其の方が事、苗字を名のり大小を帶し、諸國遊歴する事、くるしからざる」旨、命ぜられける。

 また年を經て、薩摩に遊びて、かへるさ、久留米の何某(森思齋)が家に宿りて、腹切つて死してけり。其の故をしらず。或る人の話に、「村吏の誣し事を、何の尤めもなく免されしは、何某侯の當途の時なり。其の後、かの侯、職を辭したまひければ、其の身も便りなき事におもへて、失にけるにや」と。されど命を捨つる程の事にもあらざるべきに、猶ほ此の人の奇事偉行、聞き及びし事もあれども、よくも覺えざれば、録せず。
 

  • [19]
  • 拾遺。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月 2日(木)23時33分9秒
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■赤城先生の哥(『高山朽葉集』卷五)

――二十五日、楠子の忌日也とて、山下通廣「思ひ出てゝ けふしも忍ぶ 君が爲め ちりより輕く 身を捨てし人」とぞ讀める返し。
身を捨てゝ 殘せしものは 何ぞとよ 思へや思へ 君(楠公)を思ふこと



●栗田栗里博士『義烈二公の神社を建設せんことを議するの状』に曰く、

「上野に高山正之(赤城)あり、天下に周遊して、義士の氣を鼓舞し、下野に蒲生秀實(靜修)あり、皇朝の典禮を明かにし、王室を興復せんと計りしは、蓋し皆な(源)義公の風を聞いて起れる者なり」と。
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●影山正治翁『草莽の心』・『草莽の志』
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『志士の道統』
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『天皇論への示唆』
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●梅窓杉浦重剛翁『乃木將軍を弔ふ』

赤城()の熱血、餘瀝を存す、
松下(松下村塾)の遺風、不言に傳ふ。
心事明明、還た白白、
神州の正氣、君に依つて尊し。



○愚案、「赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩」てふ先哲を、お氣づきの事とは存じますが、「赤城先生」と申し上げて、「彦九郎」と呼捨てにすること、小生は如何しても出來なのであります。當時の先輩・同輩なら、いざ知らず、後代の者が、「彦九郎、彦九郎」と申すことは、躊躇逡巡、頗る違和感がございます。

 皇國にては、呼稱、自から異なつてをります。生きては通稱を云ひて、諱(忌み名・實名)を文字通り忌み、死しては雅號(屋號・諡號)ないし官名、不明ならば諱を申すが古風にして、後人が通稱を申すは、餘りに憚り多くして、時には當に居傲と謂はねばなりますまい。人はどうあれ、小生は、呼稱の古風、或は轉じては『靖獻遺言』の筆法、やうやく廢れたるを悲しむこと、甚大なものがあります(一方、漢文ないし支那風ならば、高山仲繩と申せば、敬を籠むる謂ひ、唐の韓愈を韓退之と云ふが如し。高山子・韓子と申すは、更に尊びて申し上げます)。或は吉田松陰先生は、松陰と申して、橋本景岳先生は、左内と呼び捨てる。平仄の合はざること千萬でありせう。左内の稱を流行せしめた後輩の罪は、免れざる所でせう。況んや其の顯彰會「景岳會」あるに於いてをや(元景岳會々長は、松平永芳靖國神社宮司、即ち是なり)。

 小生は、高山先生の雅號を、三上大悲翁『高山彦九郎』にて、初めて知りました。寛政三年七月十八日、「前參議持豐」(芝山三位)と署名したる西遊の送歌に、「寛かなる政の三の年初秋、赤城先生、九州の旅におもむくことありけられし。先生は、上野國新田郡の人云々」とあり、亦た豐後岡藩(竹田)の鏡河伊藤寛叔の送詩に、「新田の高山赤城を送る[名は正之、彦九郎と稱す。上野國新田郡の人、赤城と號す]」とある由です。赤城は上野國の奇勝・赤城山に出で、先生地縁の名であります。今、杉浦梅窓(重剛)翁の詩にも、「赤城★の熱血」とあります。申すまでも無く、赤城先生は、縣社高山神社の祭神に坐します。故に小生に限っては、所謂る「彦九郎」の呼稱は遠慮申し上げて、「赤城」の號を以てお呼び申し上げてをります。單に赤城だけでも、號ですから、敬意は其の中に籠つてをります。閲覧の各位には、諒承たまはらんことを。



●荒木精之翁『第一歌集・一日本人』(昭和四十一年一月・日本談義社刊)から

――久留米にて――高山彦九郎先生百五十年祭に列し、心にふるゝものありて三首
おほみうへ おもふこころは 狂夫とも よばるるまでに ふかかりしかも
このきみの まけるこころは 時をへても もえあがりけり ひがしに西に
ゆくところ 眠れるものを ゆりおこし ゆりおこしつつ 國をめぐりぬ



●大野俊康靖國神社第七代宮司『靖國神社「散華の心と鎭魂の誠――大東亞戰爭終戰五十年展の記録」はじめに』(シリーズ・ふるさと靖國第四集・平成七年十二月・展轉社刊)に曰く、「

 明治維新の原動力となつた眞木和泉守による高山彦九郎先生五十年祭と、本年の靖國神社への感謝と顯彰の五十年祭は、奇しくも「正氣の繼承」の同一の祭祀であります。
 幕末維新の嚴たる「囘天の道」を指針と仰ぐ時、昨今の日本の有樣が、いかに國威地に墮ち、反日本の逆風が吹き荒れようとも、靖國神社に凝集する凛たる正氣のある限り、「平成維新」は必ず達成できると、信じて疑ひません。
 昭和の大漢詩家・松口月城師は、「靖國之宮」の名詩を、高らかに歌ひ上げられました。
正氣凛たり靖國の宮、祠前に拜跪して思ひ窮り無し。
遺勳千載なんぞ銷滅せん、新日本は生る遺烈の中。
 終戰五十年の大きな節目の年に當り、改めて靖國の神々のみこころを、國民ひとしく受け繼ぎ、互ひに力を合はせ、道義ある新日本の建設へ邁進していただきたく‥‥」と。



○愚案、佐藤芳二郎翁『ポンソンビ博士の眞面目――日本の神を敬ひ、日本の皇を尊び、日本の國を愛し、日本に住み、日本で死んだ、一英人日本學者』(昭和三十三年五月・本尊美記念會刊)に據れば、此の本尊美博士、我が國の神社を隈なく探索研究し、天子樣京都還幸の砌、道端に土下座してお迎へ申し上げ、「碧い眼の彦九郎」と稱せられた由なり。

●參考・佐々木望翁『ぬかづくといふこと』――平泉澄先生の「ぬかづき」方に學ぶ。
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  • [18]
  • 赤城先生遺芳。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月30日(火)10時52分2秒
  • 編集済
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一、天保十三年六月二十七日、眞木紫灘先生、筑後國久留米なる眞言宗・光明山遍照院に於て、五十年祭執行。

一、明治二年二月、久留米藩主・有馬頼成、高良山下の茶臼山に、御楯神社を營み、赤城先生・紫灘先生等、志士の靈を祀る。

一、二年十二月、太政官より、旌表文を賜り、子孫へ三人扶持を下さる。

一、三年六月、金井梧樓翁編纂『高山操志』二卷發刊。

一、四年、栗里栗田寛博士編『高山仲繩遺墨』日・月・星の三卷刊。

一、十一年三月八日、正四位を贈らる。

一、十一年三月十九日、神社創建につき、宮内省より金八百圓、宮家より金三百圓御下賜。

一、十一年十一月、岩倉友山公の執奏により、賜錦堂矢島吉太郎行康翁、『玉廼御聲』百卷・『拾遺』を天覽に供し奉る。二十年十二月、土方宮内大臣の執奏により、『高山日記』・『高山錦嚢』二十六軸を天覽に供し奉り、『江戸日記』一帙三卷・『高山錦嚢』第四の一軸を奉獻す。

一、十二年十一月、齋藤多須久佳比・矢島行康翁等の發起により、上野國新田郡太田町金山(天神山中腹)に、高山神社を建て、赤城先生の靈を祀る。昭和七年三月十四日、天神山々巓に遷座。

一、十三年三月二十二日、縣社に列す。大祭三月十五日。

一、二十五年七月、伯爵・有馬頼萬、久留米に於て、百年祭執行。細谷村蓮沼家墓地に、遺髮塚建立。

一、大正八年、遺跡保存會結成。

一、十五年四月、新井雀里翁編『高山芳躅誌』一卷發刊。

一、昭和三年十一月八日、京都三條大橋畔に、銅像建立。三十六年十一月二十七日、再建。

一、十五年八月、三上大悲翁『高山彦九郎』一册發刊。

一、十七年十一月十五日、高山神社にて、百五十年祭。遺徳顯彰會結成。

一、十九年七月、矢島行康翁編『高山朽葉集』八卷一册發刊。

一、三十五年、高山彦九郎先生史蹟顯彰會發足。
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一、平成九年五月八日、高山彦九郎研究會發足。
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一、二十四年三月二十四日、三條の會發足。
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●紫灘眞木保臣先生『高山處士五十年忌辰祭文』に曰く、

「嗚呼、公(赤城先生)や、果は義たり、而して勇は仁たり。識見高邁、風節超然、凛乎として寒松の墓山に立つが如し。公、尊皇攘夷を以て自ら任じ、蝦夷に事有るを聞くや、獨り大刀を提げ、晝夜兼行、怒浪を蹶り、鯨鼈を叱し、以て深く不毛を究む。其の京師に在るや、禁闕の蕪を視、以て朝典の衰を慨し、痛心疾首、涙、常に衣を濕す。而して□[手+晉]紳の徒、此に奮起す。公、竊かに焉れを知る有り。晩に遂に天下を周遊し、觀風察俗を以て事と爲す。東西南北、至らざる所ろ無し。深山大川、艱勞避けず、所在、孝を勸め、過ぐる所、義を起す。而して異學を斥け、世教を敷き、其の功、孟子と異ならず。一日、義に感ずる所ろ有り、慷慨、我が地に客死す。

 嗚呼、公や、其の才徳、天、實に之を生じ、而して之をして位を得せしむること能はず。地、實に之を育し、而して之をして榮に居らしむこと能はず。然れば則ち其の之を生育する所以の者は、何ぞや。世衰へ、倫喪ぶに及べば、則ち天、有徳を生じ、以て之を匡正せしむ。公、蓋し其の任に當り、而して庶□[王+民]を木鐸する者也。公の世に在るに方つてや、其の意を知る者は、數人に過ぎず、而して今や、五尺の童子も、其の名を稱し、以て其の誠を仰がざるは無き也。公は今を距ること五十年、古碑、榛荊に委すと雖も、精氣の世を蓋ふや、赫々乎として、雷霆の蒼黄を動かすが如し。乃ち知る、天地の之を生育する所以は、此に在つて、彼に在らざるは明けし。

 今年壬寅(天保十三年)六月二十七日、實に公の正辰に當る。乃ち同志とともに、敬しく薄奠を陳べ、以て厚志を表す。予、公の義を慕ふや、深し。時、此の日に刄る。感勵の至に堪へず、泣いて以て酒を薦む。神、尚くば思へ。眞木和泉守平保臣、外か同志一同」と。



●眞木紫灘先生

――草莽臣高山彦九郎正之を詠める。
高山の 大人なにひとぞ 人ならば よぢてもみてん 我何人ぞ



●贈正四位・月廼舍平野國臣先生――安政五年十月一日詠、赤城の墓を奠し、石燈一基を獻ぜり。國臣先生は、「戀闕第一等の人」(「今楠公」眞木紫灘先生『南遷日録』卷五・萬延元年九月二十六日條)にして、「神異の人」(「今西郷」頭山立雲翁『國士平野國臣傳の序』)なり。

一筋に おもひしみちは さりながら まだき時よは せんすべもなし
よしやその 時こそ至らね 益荒雄の 捨てし命は 大きみのため
苔の下に なほ魂あらば 大御爲 つくす我身に 添ひて守れや
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○梧樓金井之恭(別號金洞)翁編纂『高山操志』二卷(明治三年六月刊)の目

[卷上]
一、神祇伯一位・中山忠能の書「高山操志」
一、澤 宣嘉の哥――『高山操志』を見る。
ますら雄の 道は迷はじ あふぎ見る この高山を ましるしにして
一、松平春嶽の詩――『高山正之傳』を讀む。
一、秋月古香の題
一、神祇少副・福羽美靜の題・哥
一、鷲津毅堂の題
一、頼 支峰の序
一、金井梧樓の序
一、金井梧樓の後序
一、太政官『御沙汰書』寫
一、『高山正之像』
一、高山正之の哥――拓本・正之の劒持長藏に贈りし書翰の字を集めたり。
われをわれと しろしめすかや すへらきの 玉の御こゑの かゝるうれしさ  正之
一、頼 山陽『高山彦九郎傳』
一、齋藤拙齋『高山正之傳』
一、杉山復堂『高山正之傳』
一、鹽谷宕陰『高山正之傳』
一、菅 茶山『高山彦九郎傳』
一、柴野栗山『高山生を送る序』
一、樺島石梁『高仲繩に贈る序』
一、皆川淇園『高山仲繩の東歸を送る序』
一、井澤 謙『仲繩高山君に呈す』
一、若槻幾齋『高山仲繩に贈る』
一、藤田幽谷『高山處士を祭る文』
一、齋藤拙齋『高山彦九郎招魂墓銘并びに序』
一、杉山復堂『高山處士の眞蹟の後に書す』

[卷下]
一、大原重實の題
一、松岡毅軒の序
一、川田甕江の題
一、源 俊純の題
一、蒲生□[耳+火+衣]亭の題
一、松浦 弘の題
一、『緑毛黄甲龜の圖』
一、諸家の詩
一、龜谷省軒の跋
一、伊能穎則の題
一、小中村清矩『高山操志』に題するの歌、并びに反歌。
高山の 高き心を 虚蝉の 世人知らめや 人みなの 奈何に云ふとも 縱(よし)ゑやし 命死ぬとも 此の心 豈に變めやも 天地に 到れるいさを 息の緒に 立てずはやまじと 利心に 念ひし君よ 不知火の 筑紫の海に 立つ浪の 跡なきが如と、荒たまの 年は經ぬれど 生きの緒に 思ひし事は 靈幸ふ 神相うづなひ 春花の 匂ふが如く 大御代の 往昔に還る 御榮えを 今の現に 天翔けり うれしと君は 見つゝ有るらむ
大御門 遙(はろ)に拜みて 草臥しの 惜しまぬ身にや 月は光(て)りけむ
一、小野 ■の歌
一、依田學海の跋



●雀里新井小一郎正道翁編『高山芳躅誌』(大正十五年四月・雀里會刊)に曰く、

「君(赤城先生)、人と爲り、慷慨奇節の士にして、精悍倔強、好んで氣を使ひ、人の惡を疾むこと深かりし故に、郷黨、之を畏憚して、相親しむ者、少なかりしと云ふ。其の人と交接の際、然諾を重んじ、能く師友の諫を容れ、過を悔い善に與する、流るゝ如く、毫も吝惜の意なし。獨り王覇隆替の形勢を論ずるに至つては、其の身、布衣の分に在り乍ら、王家を奉戴して、尊崇敬肅するの形容、其の身、親しく朝廷に仕へて、至尊に咫尺し奉るものゝ如し。覇府を嫉視し、叱咤憤懣する、恰かも不倶戴天の仇に似たり。毛膚に浹り、骨髓に徹せる、又た其の太甚だしきを見る、と。其の奇幹突兀として、口吻、都て人表に閃發せり。

 書を讀む、電覽一過するのみなれども、能く其の大義を發揮す。又た好んで詠歌すれども、造詣を覓めず、眞率、獨り情を遣るのみ。曾て撃劒を學びしかど、殺活の機、只だ一撃に寓せりと云つて、遂に習熟を要せざりし、と。

 夙に遠遊を好み、西は肥薩を究め、東は羽奧を探り、北は二越に憩ひ、南は房總に客たり。各國所在の名山大川、縱横跋渉せざるなく、足跡、海内に遍ねしと云ふ。然るに其の志の存し、意の注する處は、吉野・隱岐・佐渡・讚岐・土佐など、天皇巡狩、親王遷徙の遺蹟に在つて、其の地に至るや、必ず洒掃して塵を淨め、草華を捧げ、俯伏流涕、佇立低囘、其の情の濃やかなる、宮人の舊恩を感じて忘るゝ能はず、之に泉下に隨はんと欲する者の如し。君、曾て云ふことあり。

吾、京師に遊ぶ、數囘なり。九重の宮闕を拜する毎に、雲霧を披いて青天を望むが如く、人間世界に、此の如きの愉快を覺えねども、又た忽ちに數石の血涙、滿面に漲り來り、斷哭絶慟を促す。此の悲み、如何』と。

 最後に再び西遊して、肥薩の故人を訪はんと、筑後の久留米に至り、同國御井郡櫛原村の閑士、森嘉膳と云へる人の宅に寓し、終ひに屠腹して歿す。實に寛政五年六月二十七日也。享年四十有七。久留米寺町・眞言宗遍照院中に葬る。僧、諡して松陰以白居士と云ふ。

 嗚呼、君が家を忘れ、身を擧げて國に許し、山を裂き海を屠らんと欲する、勤王の志氣、遂に達せず、海内、又た一人の相傳ふなくして斃る。然りと雖も其の正大の氣、宇宙に□[石+旁]□[石+薄]たり。豈に百載の下、之れが志を繼ぎ、感發勃興せしむるなからんや。‥‥

 君の妹氏(伊與久嘉吉政明の室・高山氏錦刀自)云ふ、兄の死する、其の故あるを覺ふ。「兄、遠遊より歸る毎に、怏々として樂しまず。『文士・儒生、恬熙宴安の人より、却つて遊侠・賭博の徒には、約を信にし、諾を重んずる者少なからず、然して文士・儒生は、皆な名教の流なり。賭博・遊侠は、多く刑餘の儔なり。其の人、得難きを悲しむ』と云はれしが、一日、幕政大いに改正し、兄の志を同じうし、相謀る新善なる友、冤枉に罹り、死刑・流罪に行はれたる者六七人、是を聞いて、『吾が志、休みぬ矣』と云つて、衾を擁して打伏すること十餘日、漸くに起き出で、西遊を志すとて、暇乞に來られしが、いつもより氣勢無く、相訣れたり。此の行、遂に永訣と成りし」と。

 君の遺墨、今尚ほ其の家に存する者數種、中に就て、左の數首、尤も其の志操を見るに足る。因て之をこゝに寫す。
神風に なびくや廣き 天の下 民の草木の 數ならぬ身も
君につかへ 神につかふる 心もて なきあと問へよ 人の世の中
君を思ふ 心の人を たづぬるに 親を養ふ ものにぞありける
我をのみ 思ふばかりに あめつちの めぐみも露ぞ 知らぬ民草
同じきは 親をば思ふ 心にて 誰もかはらぬ ものにぞありける
願ふ事の 惡しきは止めよ 道ならば 叶はぬことの あらじと思へ
」と。



○愚案、新井雀里翁は、上野國伊勢崎藩の儒臣にして、幕末には函館御雇奉行に拔擢、明治御一新後は、一宮貫前神社權宮司となりしも、幾ならずして之を罷め、郷里に南淵塾を開き、地方の育英に盡されし人なり。此の篇は、雀里翁が、弱冠の時、躬親から高山赤城先生の令妹・錦子刀自、及び親交ありし浦野神村翁を首め、岸昌榮・關睡□[山+同]・長尾西山の如き、學徳共に地方の師表たる諸老の舌端より出でたるもの、洵に珍重の書と謂ひつ可し矣。

 赤城先生の慟哭・悲しみは、天朝式微てふ、累代不臣の懺悔から來り、遂に囘天の決意となる。而してそれを貫くものは、戀闕のこゝろ、即ち是なり。先生を慕ふ者、皆な自ら湧き出づる、此の戀闕の情から來り、特に志を立てゝ、我が國體に殉ぜんと欲するものなり。神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥、之を顯はして餘蘊なかるべきかな哉。

君がため 朝霜ふみて ゆく道は たふとく嬉しく 悲しくありけり



●矢島吉太郎海野行康翁編・瑤光福井久藏博士校註『高山彦九郎歌集――高山朽葉集』八卷(高松宮家御藏本。昭和十九年七月・日本書院刊)の目

福井博士序・凡例・改題・矢島行康翁小傳
[卷一]六十八首――安永二年二月から寛政元年に至る。
[卷二]四百四十一首――服喪中。
[卷三]百二十八首――寛政二年。
[卷四]七十八首――寛政四年。
[卷五]二百四十六首――寛政四年から五年。
[卷六]贈高山正之歌――九十九首。
[卷七]贈高山仲繩文――二十二章。
[卷八]贈高山正之詩――百十二首・附長歌六首。
附録――註・高山氏略系譜・年譜・海野訪問の記
附録――『高山正之・寛政四年――日豐肥旅中日記』



●仲田昭一翁『高山彦九郎――天明二年・江戸日記』(平成二年十二月・茨城縣立歴史館史料部史料室複製)に曰く、

「高山彦九郎は、簗又七次正(後ち正記)[寶暦二年~文政十二年。中津藩軍學者で、中津藩・水戸藩の指南役]と親交があり、彦九郎の自刃後は、殆んどの遺品が、次正に預けられた。

 その後、簗紀平[又七の甥]が、高山彦九郎の遺品を引き繼いだが、紀平が、幕府の儒學者で民政家でもある林鶴梁[文化三年生。尊王家でもある]の門下生でもあつたことから、鶴梁は、簗紀平宅の彦九郎遺品を見て請ひ、これらを讓り受けた。鶴梁の盟友であつた櫻任藏(諱眞金、號月波)[文化九年生。父は、江戸の相良氏より眞壁町醫・小松崎氏の養子となる。尊王家で、相良一雄とも稱す]は、鶴梁に懇願して、彦九郎の遺品を讓り受け、また自らも上州へ赴き、遺品を收集してゐる。

 任藏の親友であつた長島尉信(二齋)は、高山彦九郎遺品の多くを、任藏から讓り受けたと思はれる。それらの一部が、更に岩倉具視・有馬新七・松浦武四郎・藤田東湖・藤森天山らへ讓られてゐる。‥‥

 また尉信が、櫻任藏より讓り受けた高山彦九郎の遺髮は、天保十一年五月二日に、水戸藩士・杉山千太郎(諱忠亮。號復堂)に預けられたが、杉山の死後、藤田東湖の推薦もあつて、尉信の手を介して、高山彦九郎崇拜者である猿島郡岩井の間中雲帆へ讓られ、その後、谷干城(隈山)へ渡り、更に山内家へ渡つたとされてゐる」と。



○赤城先生と採薇谷萬六大神好井翁
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●仲田昭一翁『高山彦九郎と常陸の人々』(『水戸史學』平成三年五月號)に曰く、

「高山彦九郎が、京都を中心に皇道の振起に努めると共に、水戸を訪れては、藤田幽谷らを激勵して、水戸の學問の興隆にも大きく影響するところがあつた。しかも彦九郎の歿後、その遺書等が蒐集されることによつて、その精神を體得し、實踐する尊王運動を喚起していつたことは注目されるところである。

 それが、常陸においては、杉山忠亮・藤田東湖・櫻任藏・加藤櫻老・長島尉信らが競つて蒐集し、水戸の尊皇會に於いて互ひにそれらを示し合ひ、勤王精神を鼓舞したのである。それはやがて眞木和泉守や有馬新七・矢嶋行康ら、他藩の者にも大きな影響を與へ、彼らをして幕末尊王運動に挺身させることになつた‥‥。

 このやうに、遺書など史料の蒐集は、重要な意義を持つものであり、單なる好事家のものであつてはならない。これについて林鶴梁は、蒐集にやつて來た矢嶋行康に對して、

『夫れ仲繩は、忠義の人也。足下外は、仲繩に深しと雖も、内は或は忠義に淺からんか乎。則ち家に萬卷を藏するも、何ぞ天下に益せんや哉。苟くも天下に益無きは、仲繩の喜ばざる所以ん也。然れば所謂る忠と義とは、古今の人々の爲し難き所ろ也。僕、老いたり矣。爲す能ふる無し焉。足下、毎に仲繩の書を披けば、輒ち果して能く仲繩の人と爲りを庶幾せん。以て誠實摯篤の行に從事せば、則ち仲繩、復た今日に生くる也。知らず、足下、以て如何と爲さん』

と述べ、常に彦九郎の書を披いて、忠義心を厚くし、天下に貢獻せよと教誡した。

 同じく有馬新七も、『高山彦九郎が手跡の後に書す』の中で、

『抑も其の手跡を慕ふは、乃ち其の人を慕ふ所以ん也。後の觀る者は、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て、念ひと爲すべし。乃ち王を尊びて名分を正し、禮儀を崇びて、人倫をの實を明かにするに於ては、其れ亦た將に慨然興起して、補益する所ろ有るべし矣』

と述べ、手跡を慕ふことは、その人物の志を體して實踐することであると力説してゐる。

 それ故に矢嶋行康(愚案、平田銕胤大人門。上野高山神社祀官)も、次のやうに決意を述べ、高山彦九郎の顯彰を實踐して行つたのである。

『予は、高山正之を只だ信ずるにあらず、正之の生を捨てし、その大義をとる。「正名分、明大義」の六文字をとるのみ‥‥。高山遺墨の蒐集は、徒らに物を集めんとする蒐集欲に出でたるにはあらず、其の純忠至誠の一點の、私心無く、生涯を勤王運動の實踐に徹したる、その高風遺徳を慕ひ、後世、勤王運動の龜鑑たる典籍を著し、尊王運動の思想の鼓吹と臣道實踐の大道を明らかにするにある』(矢嶋憲三郎氏『矢嶋行康と高山彦九郎』)」と。


○更めて白す。
 高山赤城先生の曰く、

盥嗽し禮服にて(明の方を拜し)、恐れみ惶れみ敬み愼みて、帝京の方を拜し、寶祚長久を祈り奉りて、諸神の拜、祖先の拜に及ぶ事、常の如し」(寛政四年春正月元日『日記』を主にし、之を集成す)と。

 吉田松陰先生の曰く、

晨起盥梳、先祖を拜し、‥‥東にむかひ、天朝を拜する事、假令ひ病に臥す共、怠るべからず」(『松下村塾規則』)と。

 赤城・松陰兩先生の嚴命する所、三條戀闕の志を繼ぐ者の已む能はざる所、吾人、中今の現に在つて、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。

 嗚呼、高山赤城先生、□[糸+遣]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、至誠、自ら已む能はざる所より、勃々然として湧き起る「戀闕勤皇のこゝろ」、即ち三條遙拜の實踐から、事は始まる。重ねて白す、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。

み濠(ほり)べの 寂(しづ)けき櫻 あふぎつつ 心は遠し わが大君に ―― 三浦義一翁

――備中處士『大高山傳・合纂』稿、件の如し。『高山彦九郎日記』全五卷てふ、基本的文獻も所持せず、愚稿は、主として學生時代に收輯せる些かの藏本に據りしものにして、信に疎漏迂闊、此の上なきも、平素の志は、之を述べ得たりと信じ、後日の補正追録に期さんと欲す。諸賢各位からの、赤城高山彦九郎平正之先生に關する御示教・御投稿、或は遺志紹述の御披露を、只管ら乞ひ奉ると爾か云ふ。懇祈、々々、百拜敬白。
 



  • [17]
  • 赤城先生の志を繼ぐ――正名の軍を張らむ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月29日(月)22時25分54秒
  • 返信
 
●有馬正義先生『高山彦九郎の手跡の後に書す』(安政六年四月)に曰く、

「右、高山正之の、其の祖母に送るの手跡にして、予、之を土浦藩士・長島(仁右衞門尉信・號二齋)氏に獲る所の者也。正之は書に巧みならずと雖も、其の遺墨の僅かに存する者、人、必ず之を敬重珍藏す。而して此の書の如きは、尤も以て其の孝敬の誠を見るに足る。孰か敢へて敬重せざらんや乎。

 夫れ古人の手跡の、天下後世に重んぜらるゝ所以の者は、豈に其の人を以てせざらんや乎。皇室振はず、名分明かならざるの秋に當りて、正之、特に南朝忠臣の裔を以て、慷慨、大志を懷き、一匹夫を以て、四方に周遊し、挺然、身を顧りみず、皇室を翼戴し、邦國を靖んずるを以て、己が任と爲し、孤忠を奮ひ、誓つて將に名分を正し、大義を天下に明かにせんとす。嗚呼、亦た偉なるかな哉。其の平素、魯仲連の人と爲りを慕ふと雖も、英邁卓越、天下の忠義の心を鼓舞するに至りては、則ち仲連を過ぐること也、蓋し遠し矣。宜なるかな哉、其の手跡の僅かに存する者、人の敬重珍藏する所と爲る。六十餘年を重ねて、新しきこと、猶ほ一日のごとき也。

 抑も其の手跡を慕ふは、乃ち其の人を慕ふ所以ん也。後の觀る者、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て、念と爲すべし。乃ち其の王を尊びて名分を正し、禮義を崇びて人倫の實を明かにするに於いては、其れ亦た將に慨然興起して、補益する所ろ有らんとす矣。

 今ま此の書を、予が友・平山清寧に贈る。因つて其の後に書し、周ねく此の書を讀む者に告ぐと云ふのみ爾。己未四月、藤原武滿呂、敬みて書す」と。



○愚案、吉田松陰先生を導いた人に、宇都宮默霖翁がゐる。其の默霖翁の、高山赤城先生を説ける一條あり、こゝに紹介したい。

【贈從五位・湊川神社權宮司兼權中講義・史狂王民宇都宮眞名介源雄綱――默霖翁】
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●宇都宮王民翁『二十一囘烈士(吉田松陰)に復する書』(安政三年八月二十六日~九月一日の間。川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』第二十二――國學研究叢書・昭和四十七年七月・錦正社刊――『吉田松陰全集』卷二「講孟餘話[實は講孟箚記と申す也。考證の不足なり]附録第八・默霖書撮抄一條」)に曰く、

「山陽・山陰・四國・九州、諸侯、何人ありや。一人どもは、朝夕、天家を遙拜する國君あるか。江戸に往反の間、畿内を過ぎるときに、京都を拜する人あるか。輿(かご)に坐し馬に騎して、王室をば目下に見て過ぎる程の大名、何ぞ王室に復する志を抱かんや。侍儒にも、一人も夫れを勸むる人はあるまい。終日、その君の惡をすゝむるやうなる儒生多し。何ぞや。偶々明賢の邦君ありても、儒生より時勢々々と、時勢ごかしにして、なにもかも時勢と云うてすめる。左樣の志ある人は、往昔の天子の失徳も、口に信(まか)せて譏(そし)るなり。今の史學家の論を見玉へ。豈に臣たる人の心ならんや。今迄の事は、みなゝゝ禍を王室に嫁してすめる心なり。學問は、いかやうなる事を教へたるぞ。願ふにそれを知らぬは、人に非ず。却つて道を枉げる事、天下の通弊となれり。今時の儒生の多き事は、日本開闢以來の盛なるありさまなり。名分を紊るは、誰人がするや。一人紊したるを、次第々々に繼いで行き、‥‥此の如くなり行きし事なり。

 しかればこれより後に興れる伯(=覇)者の時には、前轍を履んで、儒生の論は今時より盛に媚びるなり。これ、勢なり。伯者三四人更はれば、必ず自ら天子に比するやうになる勢なり。これらの事は、少々王室に志を傾けたらむ人は明知する事なり。しかれば筆誅せねば、後は繼いで筆誅するものもなきやうになる。武臣、竊權より一千年にならぬ。然るに此の如くなり行きし世のありさま、中々腸を斷つほどなり。今、千年二千年せば、いかなる儒生の論をなすやらん。いとゝゝ恐しき事なり。それも、天子の位も三種の神璽も外にわたし、革命の國と見たらば、筆誅には功なき事なり。筆誅の本懷を明かに人に察せらるゝ事は、我が本心に非ず。とてもそれに與する事はならぬ世なり。

 嘗(こゝろみ)に蒲生(君平)と林子平との爭をみよ。又、林平が中山公に詰りし事をみよ。子平が、高山(赤城)が顛末を惡んだる事を見よ。その時には、皇家には、御難題山々なり。中山卿(准大臣正二位・中山愛親)、中年時より惡まるゝ事なり。六十歳斗(ばかり)の時に、一勇を振ふ。もしかの時に、君命を辱めたらば、蒲生・高山・諸同志を引き來て、正名の軍を張る心なり。勢は不可なれども、その志は感泣するほどなる事なり(所謂る閑院宮尊號一件)。江戸には、全く大貳(山縣柳莊)などにもこりてあり。故に蒲・高を、益々好まず、その上に、二子を感じて謁見を許せる諸侯多ければ、江戸には内をもおそれたる心もあり。且つは公卿の器量をも、これにて見定めんとなり。徳大寺のやうなる人あらば、宜しかるまじ、となり。もし五説(寛政四年、後櫻町天皇の幕府に下されたる御詠に對し奉り、幕府が朝廷に上りし五箇條の難題、是れ也)に、之に當るの答なくば、その後は江戸より自在に、王家を指揮せんと云ふ心なり。その危き事、累卵とやいはん。天子の御心を、少々察し見てくれよ。徒らに昔の事を言うて談話する心では、高・蒲や中山の大忠の心いきは、よもしれまじ。人、木石に非ず。なにとて、御叡慮が察せらぬやらん。我には血熱斗にて、誰にか之を吐かんや。平生、怏々たり。しかれども神明あり。二十一日斷食して、『僕が議論、もし公道を害し候はゞ、速かに命を斷ち玉へ。もしその論、公案ならば、守護して、その志を助け玉へ』と誓ふ。その事、誰にもしられたき心なし。義卿(吉田松陰)にも云ひたくなし。他人に説く勿れ」と。



○愚案、蒲生靜修翁の曰く、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と。然るに明治「御一新」を、現代の史家・文人は、「革命」と云つて憚らず。嗚呼、何たる言靈ぞや。抑も我が國には、絶えて革命の亂逆を見ざるなり矣。然るに輓近、人心浮薄にして邪説横行し、國勢陵夷して、遂に未曾有不敬の言辭を弄ぶに至れり。豈に慨歎に堪ふべけんや哉。

 川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』は、正に「大義」答問であつて、有志には、是非とも研鑽を乞ひたき書ゆゑ、古書を探索し、八方、手を盡して、何としても座右に置いて戴きたいもの。錦正社、何故ゑ再版せざる、眞に遺憾千萬なるべし矣。



●贈正四位・松陰吉田寅二郎藤原矩方先生『小田村伊之助・久保清太郎・久坂玄瑞に與ふ』(安政六年三月二十九日)に曰く、

「高杉とも、先達て絶交。僕の事功に念なきや、久し。只だ尊攘の爲めに、一死を遂げさへすれば、名節、自ら天地に愧ぢずと存じ付き候ふ。事功に心あらば、包荒の量を用ゆる事も容易なれども、事功は、迚も出來申さず。生きては滿世の人士に背馳し、死しては高山・蒲生・默霖等の後塵をつく事を得ば、十分々々。事功々々と志す人も、一生、火打箱で味噌を燒いて居る、何の妙味かあらん」と。



●吉田松陰先生『入江杉藏に與ふ』(安政六年十月二十日)に曰く、

「兼ねて御相談申し置き候ふ尊攘堂の事、僕は彌々念を絶ち候ふ。此の上は、足下兄弟の内、一人は是非、僕が志、成就致し呉れられ候ふ事と、頼母敷く存じ候ふ。‥‥朱子學ぢやの、陽明學ぢやのと、一偏の事にては、何の役にも立ち申さず。『尊王攘夷』の四字を眼目として、何人の書にても、何人の學にても、其の長ずる所を取る樣にすべし。本居學と水戸學とは、頗る不同あれども、尊攘の二字は、いづれも同じ。平田は、又た本居とも違ひ、癖なる所も多けれども、『出定笑語』・『玉襷』等は、好書也。關東の學者、道春以來、新井・室・徂徠・春臺等、皆な幕に侫しつれども、其の内に一二ケ所の取るべき所はあり。伊藤仁齋などは、尊王の功はなけれども、人に益ある學問にて害なし。林子平も、尊王に功なく、攘夷に功ありて、兼ねて御話し申し候ふ、高山・蒲生・對馬の雨森伯陽(芳洲)・魚屋の八兵衞(贈正五位・奧氏)の類は、實に大功の人なり。各々神牌を設くべし」と。



●贈正四位・東行高杉晉作源春風先生『手録』(東行先生五十年祭記念會編『東行先生遺文』大正五年五月・民友社刊に所收)に曰く、

「予、常に高山正之の氣象を慕ひ、今ま亦た其の生ずる所の上野細谷村の墳を過ぎ、憾慨に堪へず。因つて一絶を賦し、以て其の英魂を吊(とむら)ふ」と。
 

  • [16]
  • 皇室を翼戴し、大義を立つるを以て念と爲すべし。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月29日(月)16時01分10秒
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【有馬正義先生『高山正之傳・附註』の附録】

●山陽頼襄翁『高山彦九郎傳』(天保十二年五月。『山陽遺稿』所收。今『高山操志』所收より引けり)

 高山正之は、上野の人也。字は彦九郎、家、世々農なり。正之、生れながらにして俊異、喜(この)みて書を讀み、略ぼ大義に通ず。人と爲り白皙精悍、眼光、人を射、聲、鐘の如し。奇節有り。

 母(祖母)死して、冢(つか)の側に廬すること三年なり。[食+壇の右。せん]粥も給せず、骨立して枯木の如し。事、聞こゆ。官、之を旌(あら)はさんと欲す。其の郷俗、博弈・健訟を喜み、素より正之の爲す所を嫉み、吏に誣告して、之を獄に繋がしむ。獄胥、之に食はしむも、食はざりき。已にして出づるを得たり。即ち家を辭して四方に遊び、豪俊・奇傑の士を求めて、之に交はる。江門の人・江上關龍、豐前の人・梁又七が輩、最も親善なり。

 天明四年、歳饑ゑ、所在に盗起り、上野も亦た靖んぜず。正之、袂を奮ひ起ちて曰く、「吾が郷をして、此の不良の事有らしむ可からず」と。往いて之を理(をさ)めんと欲し、關龍に辭す。關龍、之を援けんと欲す。正之、欲せず。贐(おく)るに衷甲を以てす。之を受けて獨行し、板橋驛に至れば、時、已に夜なり矣。二男子有り、橋上に在りて、相に嚮ひて臥す。兩尻高くして頭凹めり。正之、念へらく、「□[足+日+羽。以下、「踏」に代用]まずんば行く可からず」と。之を患ふ。已にして曰く、「是れ官道也。彼れ之を塞ぐは無状なり」と。凹處を踏みて過ぐ。其の人、蹶起し、竝び呼びて曰く、「誰れか、吾が頭を踏む者ぞ」と。刀を拔き鋒を連ねて追撃す。正之、顧みて睨んで曰く、「喝」と。其の人、辟易して敢へて迫らず。遂に往き郷に至るに、一旅店を過ぐ。喧呼して酒を飲む者有り。則ち關龍と又七と、徒を帥ゐ途を殊にして先づ往き、事の平ぐに會ひ、會飲する也。正之を呼びて同に醉ひ、倶に還りぬ。後ち官、劇賊の渠帥を獲たり。自ら語る、「平昔、未だ嘗て難當漢に遇はず。甞て板橋に在りて、人を要して劫を行ふに、一の眇たる小丈夫に遇ふ。目を瞋して我を呵せり。之を憶へば、今ま猶ほ股栗するがごとし也」と。

 關龍、劍を善くす。毎に正之に謂ひて曰く、「子は氣を以て人を服すと雖も、武藝に熟せず。眞の英雄に遇はゞ、乃ち窮せん矣」と。正之、服せず。關龍の罵りて曰く、「彦九郎は、無用の男子のみ。能く斬らば我を死せ」と。正之、憤然として刀を拔かんと欲す。關龍、手を以て刀□[木+覇。は]を壓へ、笑ひて曰く、「止めよ焉」と。正之、□[口+暗]唖するも、終ひに拔けざる也。是に於て節を折り劍を學び、毎夜、自ら試みること千返、乃ち寢ぬ。

 正之、又た喜みて文學士と交はる。人の孝子・義僕の事を説くを聞けば、遠陬と雖も、往いて之を問ひ、轉じて之を人に述べ、殷々として涙、聲に隨ひて墮つ。古今の君臣順逆の跡を談ずれば、慷慨して己と時を同じうして、其の事に關はるが如し。

 少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、「皇居は何れ方か」と問ふ。人、指さして之に示す。即ち地に坐し拜跪して曰く、「草莽臣・正之」と。行路、聚り觀て、怪みて笑ふも、顧みざる也。京郊に遊び、足利尊氏の墓を過ぎ、其の罪惡を數めて、大いに之を鞭うつこと三百なりき。

 故に平時、人の惡を見れば、之を疾むこと仇の如し。一權人、利を專らにす。中外愁怨するも、而れども敢へて言はず。正之、同志と語り、涕を攬(ぬぐ)ひて曰く、「噫、公上百、知らざる也。今ま故紙を接(つ)ぎて幟と爲し、山廟の門外に樹(た)てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得可し。豎子を誅するに於いて、何か有らん」と。聞く者、耳を掩ふ。其の後ち弊事、悉く革まり、一號令の出づるを聞く毎に、喜び、顔色に形(あらは)る。

 正之、游道、極めて廣し。公侯、時に之を招致すれば、辭せず。甞て一侯の當路者に抵(いた)る。兩童子、澣濯の衣袴褶を穿ち、食を饋ること甚だ謹めり。侯の指して曰く、「是の小兒輩、長者の之を教誨せんと欲す」と。正之、逡巡す。侯の曰く、「然すること勿れ。余と雖も、闕失有らば、之を聞かんことを願ふ也」と。正之、揖して曰く、「然らば則ち敢へて言ふ所ろ有り。往年、某所の民、兄弟の、父が讎を復せし者あり。之を護送すること、囚徒に同じうす。是等の事は、名教に關はる。願はくは意を加へられんことを焉」と。侯の謝して曰く、「一時、指揮の到らざりき。後ち當に之を謹しむべし」と。其の世の重んずる所と爲る。而はち己を直くして阿らざること、此の如し。

 然れども正之、東に在りて意を得ず。西游して筑後に至り、一關を過ぐ。關吏、止む。正之、館に歸りて自ら刺す。館の主人、驚きて故を問ふ。答へず。曰く、「吾れ子を館し、子、自刃して死す。他の證左無く、又た其の故を知ざれば、吏來りて尸を檢するに、何の辭か、之に答へん。願はくは殊とせず、以て待て」と。正之の曰く、「諾」と。刀を腹に□[事+立刀。さ]し、與に劇談して夜分に至る。吏來り、燭を秉りて之を檢し、又た故を問ふ。答へず。固く問ふ。曰く、「狂發せしのみ而已」と。乃ち刀を□[手+偃の右。ぬ]き、深く入ること尺餘にして、即ち死す。死に臨み、館主、言はんと欲する所を問ふ。正之の曰く、「語を海内の豪傑に寄す、好在せんのみ而已」と。

 正之、既に死す。事、三都に傳はるも、其の死する所以を知る莫し。或は曰く、「關吏の辱めを受け、慙憤して死せし也」と。關龍の曰く、「吾れ數々人を罵りて之を試みるも、眞に我を斬らんと欲せし者は、獨り正之のみ。渠れ已に人を殺すに果なり。故に亦た自殺するに果なるのみ耳」と。又七、之を聞きて曰く、「否、々。彦九郎は、蓋し夢寐中に感ずる所ろ有りしのみ爾。噫、渠は夢と雖も、猶ほ能く死する者也」と。

 外史氏の曰く、「予、幼きとき、先人の善く彦九郎を語るを聞けり。先人も亦た甞て數々三都の間に逢ふ。其の郷貫記して、新田郡細谷村の人に係けり。先世は、蓋し南朝に屬せし者なり。其の義を好むこと、由る所ろ無しとせずと云ふ。甞て客と語り、元弘帝の伯耆に逃がれたまひし事に及び、其の地名の訓讀を爭ふ。正之の曰く、「吾れ甞て再び伯耆に赴き、土人を訪ひて之を識る」と。客、復た爭ふこと能はず。其の人の確實なること、此れ類せり。先人、甞て之が傳を爲らんと欲して、果たさず。近ごろ或る書に、正之が事を書せるを讀むに、不軌の民と疑ふは、冤たり矣。予、故に略ぼ聞く所を敍ぶること、此の如し。



○愚案、「今楠公」と呼ばれた眞木紫灘先生は、夙に有名であるが、「今高山」と稱せられた人に、贈從四位・有馬新七(武麻呂)平正義先生がゐる(『殉難録稿』に云ふ、「(正義は)幼きより勤王の志を抱き、常に幕府の所爲を憎みて、之を罵詈する事、毫も忌憚なかりしかば、人、皆な今高山と稱せりとなん」と)。「(天保)十年己亥の歳に、初めて『神皇正統記』・『保建大記』を讀みて、我が皇國の大道、有るべき由を略ぼ考へたり」てふ、崎門埀加の人・有馬正義先生(『自敍傳』)は、高山赤城先生を傳べするに缺かすことが出來ない。久保田收博士の所論を聽きたい。



●久保田收博士『有馬正義先生』(昭和十九年・至文堂刊。『有馬正義先生遺文』昭和四十五年三月・藝林會刊に所收)

「(有馬正義)先生の正之崇敬を語る一は、正之の傳記編纂のことである。正之の傳記として先生の編纂に係るものが二部存してゐるが、その一は、杉山忠亮著『高山正之傳』に、先生が註を附せられたものである。不幸散逸して、その一部を殘すに過ぎぬが、その中、「余も亦た甞て常陸に遊ぶの日、小沼實の藏する所の正之の肖像を觀るに」云々とあるから、安政五年、常陸周遊の後、恐らくは六年、歸麑(麑=鹿兒島)の後の著述であらう。先生は、杉山の本文の所説を、鹽谷世弘(宕陰)の著『正之傳』・頼山陽の『正之傳』・柴野栗山の『正之を送るの序』・正之の『富士山紀行』などに基づいて再檢討し、附註において之が斷を下されたもので、附録として右の諸文を附載されてゐる。この先生の附註はかなり詳細緻密であるが、その中に、正之の最期の條下に、

『抑も正之、一匹夫を以て四方を遊歴る。其の志は、一筋に皇室を復興し奉り、大義を天下に明かにし、名分を正すに有り。其が忠義誠確の心、凛乎として須臾も朝廷を忘れ奉らず、幕府のために忌諱せらるゝ、宜べなり。依つて幕府より探索ること、甚と密なりしなるべし。豈に正之、此れを聞いて、既に捕はれに就くに至らむとする物から、日乘等をも燒去て自殺せられしなるべし。依つて嘉膳に、「忠義と思ひしも、今ま皆な不忠不羲云々」と云はれしなるべし』

と述べ、更に筆を進めて、鹽谷世弘の所論に及び、世弘が、「正之、幸ひにして寛政・享和、至平の世に出で、文明の運に會ひ、其れをして節を折り道を學び、刻苦、以て其の□[口+彦]に克たらしむれば、則ち或は大に世用に適はん。然る能はずして、辛を甞め苦を食し、徒らに脾肉を撫し、以て強死に至る。亦た怜れむべきなり」と云つたのは、先生より見るとき、『深く正之が心腑を知らざるが故』であつて、これ、儒者の通弊といふべきであるとし、更に、

『世の儒者ちふ者は、動もすれば己が崇尚る學び以て、我が皇國の忠臣義士を非議るが、常多き習ひにて、深く事情を考へず、己れ實事を經歴せず、紙上にのみ眼をさらし、今日の事に迂闊き類ひ、往々皆な是なり。獨り世弘のみにはあらずかし』

と述べ、儒者がその事とする學問の性質より、自然、支那を尊崇し、日本の國體を忘れ、從つて國史の實態にふれることなく、徒らに抽象的思辨を事とすることを、痛く排議せられた。この世弘の所論に對しては、吉田松陰が、安政四年の『幽室文稿』(卷三)中、『鹽谷の文を讀む』といふ一文において、「是れ、神州の爲に言を立つる者に非ざる也。亦た高山仲繩その人を知る者に非ざる也」と論破したが、先生が世弘の説に推服し得ず、神州の爲に、また正之その人を知る者として、俗儒を批判せられたことと、その揆を一にするものといへる。

 正之傳のその二は、國文による傳記である。‥‥殘るところ僅少に過ぎぬため、内容を詳細にすることはできぬが、前書の附註に參照せられた諸書を以て、新たに先生自身の力を以て正之傳を編し、その『專ら大義を明かにし、名分を正すを以て自らの任と』せられた人であることを闡明せられたのである。

先生の正之崇拜を示すものは、右に止まらない。安政四年、江戸滯在中の覺えである『遊歴中偶録竝草稿文留』を見ると、正之が楠公追善の爲め『中庸』を講じたといふ逸話を傳へ、鎌倉・浦賀旅中の作に、


『東人いかにやいかに大君の しらせますべき御代としらずや』
 

とあるのは、正之の「薩摩人いかにやいかに刈萱の 關もとざさぬ御代としらずや」の歌に出づるものであり、『雜録』を見ると、安政五年、常陸笠間でみた正之の歌が記されてをり、『安政擧義記事』には、間中與右衞門(諱宜之、號雲帆)の名をあげて、『正之の剃髮所持にて、墓石建立之賦、長島仁翁話にて候ふ事』とあり、安政六年の『擧義要録』には、正之の人物を記した草稿があつて、

『高山正之、天資英邁、早く朝廷を崇敬し、忠肝義膽、金石を貫き、名分を明かにし、大義を正し、既に將に廢れんとするの綱紀を維持し、至誠感得、靈龜獲られ、宸極の餘光を拜し、慷慨悲憤、尊氏(ママ)の墓を鞭うつ。其の四方を周遊する、蓋し亦た微意あり焉。不幸にして其の志、未だ遂げず、幕府の忌諱する所と爲り、自盡して逝く矣。然れども天下萬世をして『春秋』の大義を知らしむ。其の鼓舞作興の功、豈に魯仲連が輩の及ぶ所ならんや乎。嗚呼、亦た偉なるかな矣哉』

とあり、その大義名分を明かにして、忠肝義膽を深く敬慕されてゐることが伺はれる。更に安政六年四月、土浦の長島仁右衞門(諱尉信、號二齋)より得た、正之が祖母に送つた書簡を、友人平山清寧に與へて、その書簡の後に記して、この書簡に、正之の孝敬の心の深きことを見得ると述べ、かつ、

皇室振はず、名分明かならざるの秋に當りて、正之、特に南朝忠臣の裔を以て、慷慨大志を懷き、一匹夫を以て四方に周遊し、挺然、身を顧りみず、皇室を翼戴し、邦國を靖んずるを以て己が任と爲し、孤忠を奮ひ、誓つて將に名分を正し、大義を天下に明かにせんとす。嗚呼、亦た偉なるかな哉。其の平素、魯仲連の人と爲りを慕ふと雖も、英邁卓越、天下の忠義の心を鼓舞するに至りては、則ち仲連を過ぐること也、蓋し遠し矣

と云ひて、先生の正之を仰ぐ所以を明かにし、

後の觀る者、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て念と爲すべし。乃ち其の王を尊びて名分を正し、禮義を崇びて人倫の實を明かにするに於いては、其れ亦た將に慨然興起して補益する所ろ有らんとす矣

とて、正之を仰慕するのは、直ちに尊皇の大義へ挺身するに外ならざるべきことを強調せられたのである。

 以上の如く、先生の高山正之に對する敬仰は極めて強く、楠公崇拜と相俟つて、先生の精神の純化形成に資益してきたのであつて、楠公を繼ぎ、正之を承けるを己が任として、その志業を推進せしめられたのであつた」と。
 



  • [15]
  • 正に是れ、勤王第一人。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月28日(日)22時09分41秒
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[本傳]贊に曰く、高山正之、天資、忠孝の人也。其の天下に遊歴し、苟くも忠臣・孝子有るを聞かば、遐陬僻壤と雖も、必ず往きて之を見る。甞て水戸に至り、若手村に乙吉なる者有りと聞かば、其の家に至り、乃ち禮服を着、之をして上坐に坐らしめ、手を執りて言ひて曰く、『二百年、太平の澤に浴し、孝行、子の如き者と、相見るを得たり。天幸と謂ひつ可し矣』と。江戸に父の讎に報いる者有ると聞かば、正之、上野より馳せて之に赴き、爲めに『孝經』一部を與ふ。涕泣を埀れて奬喩せり焉。或は正之を謂ひて曰く、「子、奚ぞ仕ふるを求めざる」と。正之の曰く、『我れ未だ甞て仕ふるを欲せざるにあらざる也。其の事ふる所以の者、何如を顧みるのみ耳。設(も)し忠孝文武、天下を有つを知りて、身有るを知らず、常陸の源義公(徳川光圀)、及び備前の烈侯(芳烈・池田光政)の若き者の出づる有らしめば、則ち之が爲めに執鞭せらると雖も、亦た將に自ら甘んぜんとす也』と。

 今ま其の行事を跡づけ、一に孝敬の餘に出づ。而して其の志の存する所、未だ甞て春秋の大義に本づかざるにあらざる也。世の徒、逸民獨行を以て之を目す、豈に眞に正之を知る者ならんや哉。安藝の頼襄(山陽)、甞て其の傳を著はす。襄は文章を以て、關西に名あり。傳を立つの意も、亦た凡ならずと爲す矣。然るに其の傳聞する所、闕遺無き能はず。憾む可しと爲す也。吾れ是を以て、平昔、父師に聞く所の者を敍べ、天下後世をして考ふる所ろ有らしむ焉。




 天保(十三年)壬寅、眞木保臣。

 保臣の曰く、正之公は、忠孝の士なり。百事、此の意を以て、天下の事を行へば、事、則ち成らざる無く、又た百姓親睦し、義理を貴ばん。義を捨つれば、又た何をか爲さん。

 保臣の贊に曰く、高山君の卓邁、群ならず。蓋世の才有り、氣象凛々、當る可からず。夙に皇室を尊び、博く天下の聖君・賢士を要め、皇室を尊大せんと欲す。其の精神、毫も私する所ろ無し。君は(諸葛亮)孔明の氣象有るも、時勢、適せず、竟ひに憤滿の氣、一朝、破烈して屠腹せり矣。嗚呼、惜しいかな哉。此の人にして、此の死有り。百事、皆な水泡に屬するも、亦た痛ましからずや乎。保臣、謹白。




○愚案、高山赤城先生の志は、藤田幽谷先生、最も能く紹述し得て、彼の『正名論』と成り、水戸學中興の礎を爲したのである。赤城先生逝いて二百二十周年、平成の御代に於いて、先生を顯彰するとは何か、小高山たる者、各々深く省察涵養する所あらねばならない。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/10



●贈從四位・藤森天山先生の詩

――高山彦九郎の肖像に題す。
悲歌慷慨、世、奇に驚く。
報國赤心、人、知らず。
一死、猶ほ能く返顧無し。
嗚呼、彦九、是れ男兒。



●從一位・松平春嶽公の詩

――『高山正之傳』を讀む。
慷慨、萬腦、等倫無し。
三條橋上、楓宸を拜しまつる。
當時、誰か翁の名義を知らん。
正に是れ、勤王第一人。
 

  • [14]
  • 志士勤王の端を、後日に啓く。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月28日(日)12時02分4秒
  • 返信
 

[本傳]正之、既に死して、世、其の所以を知るもの莫し。數月を後れて、其の墓下に自死する者有り。其の人、状貌魁偉、蓋し唐崎常陸介(赤齋先生)也。唐崎も、亦た慷慨の士なり。正之、初め其の名を聞き、未だ其の面を識らず。一日、聖護院法親王に詣り、一士人に遭ふ(實は寛政三年六月二十九日、若槻幾齋の家)。骨相、常に非ず。正之を見て曰く、「高山殿に非ざるか乎」。正之の曰く、「君は唐崎殿か乎」と。因りて手を執りて、相泣きて曰く、『天下の事、何爲れぞ、此の極に至る也』と。卒ひに相與に結んで、膠漆の交を爲す。適々正之の死を聞き、豈に亦た相感ずる所ろ有るか歟。

 

 明年、人有り、墳に就いて之を祭る。即ち正之の叔父・劒持長藏也。正之、子有り、義助と名づく。甞て林祭酒(大學頭・林述齋)の門に遊ぶと云ふ。



【按ずるに、此の事、予が友人・大久保雄と、嘗て久留米の人に問ふに、「絶えて此のこと無し」といへりとぞ。蓋し傳聞の誤りなるべし。】(赤城先生自盡の數月を後れて、其の墓下に自死する者は、西道俊、即ち是れ也。贈正四位・竹原磯宮八幡宮祠官・赤齋唐崎常陸介藤原士愛先生は、寛政八年十一月十八日、安藝竹原の庚申堂に於いて屠腹せり。赤齋先生は、固より崎門埀加の門流にして、鈴屋本居大人とも道交あり。曰く、「首は、宮闕に向ふ」と。)



■赤城先生『長子儀助(義介)に與ふる訓戒』に曰く、


其許(儀助)、學問に志し候ふ上は、能々心掛くべき肝要の事、是あり候ふ。章句に拘り實事を研究せざるは、學文の何たるを知らざるものに候ふ。人倫の大道は、修身・齊家、專一に候ふ。然る上は、天下も治め得らるゝものに候ふ。益なき詩文を作り、學文を文(かざ)るは惡きに候ふ。必ず實直に學文する事、肝要に候ふもの也」と。



●富田大鳳先生『晩秋、祇山に上つて感あり、賦して諸生に示す』(『日岳文集』所收)

尚ほ想ふ、弟兄の采薇を歌ふを、
――赤城(彦九郎)と私(大鳳)とは、幕府の祿を食むことが嫌ひで、討幕の一事を生命としてゐた點に於て、伯夷・叔齊の兄弟にも似たる同志であつたが、
誰か憐れまん、狂客、夙心違ふを。
――赤城は討幕の忠志の爲に、空しく「狂」と稱して、自刄してしまつた。
衣を鵬際に振へば、驕濤湧き、
――赤城が昨年、薩摩(=鵬際=南溟)に遊ぶや、彼の地に於て小人の驕慢なる奸策に陷れられ、
脚を龍峰に擧ぐれば、驟雨飛ぶ。
――更に熊本(龍田山)に於ても、一部の人士の爲に、驟雨の如き非難を蒙り、幾多の辛酸を嘗めたものであつた。
小魯千秋、文、未だ喪びず、
――赤城の死後と雖も、熊本(=小魯)の同志の、尊皇討幕の大誓願は變りは無いが、
椎秦、今日、事、空しく非なり。
――討幕義軍の發動(=椎秦=張良が博浪沙の故事)の大事は、赤城なくては、遂に空しき昨夜の夢に過ぎない。
登臨、坐ろに解す、羊公の恨み、
――私は今日、祇山、即ち産土神の坐す山上に登つて、當時を憶ひ、更に天地の悠久なるに比して、人生の短かきを歎ずるに想到し、
寂莫たる寒山、落輝に對す。
――轉た寂莫を感じて、落涙に堪へず、折柄の夕陽に對して、默念として佇立するのみである。



○愚案、天上將來の本宗正嫡たる、我が大君の大御代、其の現状を拜し奉れば、懺悔落涙、皇民として萬死に餘りあると謂はねばならぬ。大鳳先生、「大君」の御字、天皇を以てのみ書し奉る。件の漢詩は、高山赤城先生の自刄の二箇月後、富田大鳳先生が、前年八月の熊本に於る先生との離別を追憶しつゝ、慨然として喝成したるもの、其の意とする所を隱匿してをるので、一讀して難解晦澁を極め、三上大悲翁の譯(一部増補)を附したり。大鳳先生は、自ら病を釀して死すと傳ふ。



●幽谷藤田一正先生『高山處士を祭る文』(菊池謙二郎翁『幽谷全集――幽谷先生遺稿』昭和十年六月刊に所收)に曰く、

「維れ寛政六年、歳は甲寅に次る、三月戊子の朔、越えて十一日戊戌、水戸の藤田一正、謹んで清酌庶羞の奠を以て、上野の高山處士(赤城先生)の靈に告げて曰く、

 嗚呼、吾れ子(赤城先生)と別れて、一日三秋、豈に圖らんや、不幸、自ら大憂に遭ひ、孤廬に泣血せんとは。再期、未だ周らず。側(ほの)かに聞く、處士の暴(には)かに西州に死するを、夢みるが如く覺むるが如く、驚嘆、休まず。一たび之を思ふ毎に、人をして悸を病ましむ。喪(幽谷先生の尊父)、既に服を除し、月を閲すること凡そ四たび(四箇月)、乃ち始めて酒を取り、祭哭して位を爲す。

 鳴呼、子よ、奚を以てして、暴かに死せるや邪。豈に誠に已む能はざる有りて已むか邪、將た已むを得て已まざらんとするか邪。獨り夫の先哲、身を守るの義を聞かずや邪。假使ひ衾を啓き簀(病床)を易へ、以て全歸せざるも、何爲れぞ乎、腹を割き腸を屠し、以て死に就けりや。西海と東海と、風馬及ぶ莫し。傳へ聞く、之が紛紛たるを、曷んぞ異議を免れん。人、堯・舜に非ざれば、誰か能く善を盡くさん。

 鳴呼、子よ乎、吾れ其の變に處するを悲しむ。惟だ子の、王母(祖母)に供養し兮、湯藥に侍して倦まず、喪に服し冢に盧すること三年兮、實に今世の鮮しとする所、兄弟の撰(兄上の專藏翁と赤城先生の行ひ)を異にする兮、人心の面におけるが如きを奈んせん。既に棣萼の芳を聯ぬる(兄弟愛)無く兮、鶺鴒の原に在るを嘆ず。其の祖妣に於けるや、孝敬、斯に至る。豈に獨りの同胞のみ、友愛存する莫からんや。噫、彼の小人は、好んで人の惡を成す兮。爰に郷議の愈々喧なるに罹り、西の方に遊び、志を桑孤に償はんと欲す兮。宅一區(資産)、寧んぞ身を田園に終へんや。

 嗚呼、子、匡章に類する有るか(『孟子』離婁篇三十章の齊人)。自ら吾が賢の、孟軻に非ざるを痛み、隷貌交接、他日、之が冤(郷里を捨てし不孝)を雪がんと欲す。獨行異調、固より時俗の能く和する所に非ず。況んや乃ち生死の路を殊にする、千秋□(貌+之繞)乎として、山河を隔つ。昔、予(幽谷先生)、師(立原翠軒翁)に從ひ江戸に宦學し、始めて子と蓋(盃)を傾けて、晤言(對面親語)するを得たり。久しく□(人+周。てき)儻の高節を想像し、忽ち奇偉の盛論に激昂す。吾れ何を以てか、大兒、忘年の交(年齡を問はぬ交流)を辱くするや。獨り禰衡(後漢の人)の偃蹇(驕慢)たるを愧づ。疾めば則ち藥を餽り、歸れば則ち行を送る。子の東するや(寛政二年)、又た余が門を顧みる、堂に上り親しみを拜して、已に數歳、音容、目に在つて□[言+爰。わす]る可からず。

 嗚呼、子、夙に高尚の質を懷き兮、魯仲連の人と爲りを慕ふ有り。難を排し紛を解く、戰國の策士に非ずと雖も、世を輕んじ志を肆まゝにし、太平の逸民と爲らんことを庶ふ。能く王を尊び、而して覇を賤しむを知る。豈に啻に當年の秦を帝とせざるのみ(魯仲連、秦に屈せず)ならんや。□(士+宕+木=袋。たく)中の裝、一錢無く、而して□□(萠+刂。糸+侯。かいこう。祖末な劍)を彈じて、以て津を問ふ。書は纔かに名姓を記するに足り、而も劒は身を防ぐに餘り有り。身、國に爵位有るに非ず。仕へずして、乃ち朝廷に心す(是れ其の「處士」たる所以なり)。赤狄(露奴)の北陲を蠶食し、而して神州を窺□[穴+兪。ゆ]するを聞き兮、其の後世、天下蒼生の害とならんことを恐る。上下宴安、方に鴉毒に耽る兮。子、獨り慷慨、命を受けずして、以て私かに行き、陽つて浪客となり、而して山水を漂遊し兮、陰に國家の爲に虜情を偵探せんことを欲す。衣冠禮樂の文物(歴史傳統)をして、被髮左衽の羶腥(夷狄の風俗)に變ぜざらしめんことを期す。豈に萬里の外に封侯し、以て一身を富貴の榮に取らんと云はんや。杞人は天地を憂ヘ、而して孀(やもめ)は緯を恤へず(天下國家を憂へり)。知らざる者は、誣ふるに狂名を以てす。一別の後、杳として消息無し。或は其の北海より、直ちに帝京に入ると傳ふ。豈に關防嚴禁、其の要領を得る能はざるか邪。

 抑も黠賊の濳謀、未だ狡計の其の形に見はるゝ有らず。志士の世を憂へるや、百里を瞻言し、識慮の深長有り。偸惰、自ら喜び、快を一時に取るは、乃ち愚人の常のみ。爾後三年、果して北使の事(露ラツクスマンの根室來港)有り。關を叩き塞を欵き、而して互市□(手+寉。かく)場(通商貿易)を請ふ。既已に甘言重幣、以て我を誘ひ、加之のみならず虚聲恫喝、以て其の富彊を誇る。彼れ將に還つて我が國を股掌の上に玩び、以て其の志を得んとす。何ぞ我が國勢の陵遲せる、而して威武は張らず、中行の説に伏し、而も其の背に苔うたず、遂に醜虜をして、我が東方を輕視せしむ。廊廟、豈に策を獻じ纓を請ふの士乏しからんや。徒らに草茅の人(庶民)をして、筆を投じて心傷ましむ。是の時に當り、子、其れ何くにか在る。劒に倚り、而して子を長天の一涯に望む。它日、國家、或は子を得て之を用ひば、死を視ること、歸するが如く、水火に赴いて、而も辭せず、當に惰夫をして敵愾の志を立たしめ、古人をして蹈海の奇を專にせしめざらしむべし。

 嗚呼、晝夜の道、死生も、亦た大なり矣。太山鴻毛、輕重、各々其の時有り。羞惡の義は、天性に根ざす兮。道行く餓夫も、亦た猶ほ磋來(無禮)の食を屑しとせず。唯だ豪傑の士は、能く忍ぶこと有つて、大謀を成す兮。胯を出て履を取るの辱、皆な之を爲して疑はず。惟だ子の羇旅するや、備さに險阻の艱難を嘗む兮。千辛萬苦、其れ誰にか語らん。麑島の行・筑州の寓、豈に節を屈し、以て心思を拂亂する有らんや。惜しいかな夫、身を以て君父の急に殉ずる能はず、空しく劍鋩に伏して、以て鮑焦(周の隱士)の徒と、歸を同じうす。絶に臨み、從容として天下の人に謝す兮。萬里、之を聞いて、我が心をして悲しましむ。英魂招くも返らず兮、彼の白雲を仰げば、而して神馳せ、寤寐の間に耿々たり兮。猶ほ其の雄偉の氣と、魁岸の姿とを見るがごとし。吾れ既に兒女子の態を作し、而して子を弔するを欲せず兮。風に臨んで悵然、獨り涕涙の相隨ふを覺えず、疇昔を感念し、哀しみを一奠の詞(弔辭祭文)に寄せり。惟れ子の知る有らば、髣髴として來つて、此の巵(盃)を擧げよ。尚くは享けよ」と。



●甕江川田剛翁『高山仲繩祀堂記』に曰く、

「夫れ仲繩は、曠世の偉人にして、先儒、其の事を録する者、前には則ち淇園(皆川)・栗山(柴野)・石梁(樺島)・茶山(菅)、後には則ち幽谷(藤田)・復堂(杉山)・山陽(頼)・拙堂(齋藤)、序あり、傳あり、祭文・碑銘あり、多くして且つ備はる。顧みるに獨り未だ其の死する所以を推究せず、或は目して病風喪心の致す所と爲す。今ま竊かにこれを憾みとす。

 蓋し仲繩の忠義は、天性に根ざし、而して其の先も、また節を南朝に殉ず。嘗て『太平記』を讀み、大いに感憤する所あり。此の時に當り、光格天皇は、妙齡英發にましゝゝ、佐くるに、一條(關白輝良公)・中山(大納言愛親公)の諸公を以てす。而して幕府は、則ち大將軍浚明公(家治)、田沼意次を寵任し、群小、柄を弄し、綱紀、大いに紊る。仲繩謂へらく、『以て王權を復すべきなり』と。乃ち名を文事に託して、四方を周遊し、地形を觀、民情を察す。人に遇ふ毎に、輒ち正閏・王覇を論じ、以て陰に同志を募る。既にして公薨じ、文恭公(家齊)、繼ぎて立つ。意次を黜けて、松平定信を用ひ、衆賢茅茄、百弊、頓に革り、徳川氏の業績、復た興る。是に於て仲繩、自ら其の時機、未だ至らざるを知り、身を殺して、以て其の跡を滅す。‥‥

 もしそれ遲疑して生を偸まば、府吏の逮捕する所と爲り、則ち承久・元弘の變、立ちどころに待つべし。何ぞ其のあやふきを見ることの早くして、且つ明かなるや。或は其の敕を受けずして、妄りに動くを議するものあるも、是もまた過てり。何となれば、事成れば、則ち功を朝廷に歸し、成らざれば、害を一身に止む。又いづくんぞ其の敕あると否とを問はんや。且つ夫れ九重深嚴にして、尊卑懸隔す。而して仲繩は、東鄙の一匹夫を以て、交を公卿に納め、嘗て竊かに天顔を窺ふことを得たり。則ち其の密旨を奉じて、以て義故を募るも、亦た未だ知るべからず。然らずんば其の將に死なんとするとき、手記を寸裂して、以て水中に投ずる者は、何ぞや。其の東に向ひて、遙かに帝都を拜する者は、何ぞや。其の語を海内の豪傑、好在せよと寄する者は、何ぞや。嗚呼、仲繩の死は、上は公卿流竄の禍を當時に救ひ、下は志士勤王の端を後日にひらく」と。



○愚案、高山赤城先生の「死する所以を推究」し、天下に闡明したるは、實に、備中の碩儒・川田甕江翁の『高山仲繩祀堂記』であらう。


 然るに明治の精神、やうやく崩れ、赤城先生の名のみ高くして、其の眞姿は忘れられ、而して戰後以降、三再び湮滅して、單なる旅行・探檢家になりつゝある(例へば、傳記作家の吉村昭氏『彦九郎山河』の如き)其の秋、平成の小高山、出でよ、出でて、大高山を奉じて、明治維新の遺業を完遂せしめよ、との血の雄叫びを、小生は確かと聽いた。高山赤城先生の眞志を、現代に甦らせるもの、三上大悲翁一卷の書、即ち是である。併せて之を表出し、有志の喚起を促すと云爾。



●大悲三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)に曰く、
「本書は、百年前の先師、高山彦九郎の眞姿を傳ふることのみを目的としない。史傳の眞諦は、千歳を貫いて、更ゆべからざる『生命』(いのち)の傳承脈絡にある。故に本著の使命は、『高山彦九郎』の生命を信解し、心讀し得る讀者の一個半個が、躬から昭和の高山彦九郎になり切ることにある。然らば『高山彦九郎』は、溌剌として、昭和の聖代に生きるであらう。‥‥

 皇政復古へ! 烽火は、既に二度(寶暦・明和兩事件)も掲げられた。かうした時代に、凡ゆる封建的約束を無視して、『天皇の赤子』として行動すべく生れ出でたのが、我が高山彦九郎、その人であつた。


 先生が、生れながらに啓示された使命は、全國の山澤巖穴の間から、時を同じうして湧出する、高山彦九郎的義人の總結集と、朝廷公卿有志との連絡、やがては寶暦・明和・安永の三事件による犠牲者の靈を弔ふに足る一大勢力を提げて、討幕の義軍を興し、陣容堂々、建武未遂の遺業を完遂せんとすることに在つた。

 そして此等の高山彦九郎的義人達は、山縣大貳の『柳子新論』に於ては、「英雄豪傑、忠信智勇の士」と形容され、頼山陽の『高山彦九郎傳』に於ては、「今、故紙を接して幟とにし、これを山廟門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得べし」と傳へ、高山先生の自作の和歌によれば、

てらす日の 本の神々 三千あまり 道をば守る ことゝこそ思へ

とあつて、三千の神々によつて守護された、三千有餘の義人が地底に雌伏して、討幕の妙機を窺つて居ることを暗示してゐるやうである」と。



●三上大悲翁の詩(『高山彦九郎』の卷末に所收)

佯狂屠腹、斯の身を殺す。
豈に是れ、尋常過激の人ならんや。
遺烈、長へに萬民をして起た教(し)む。
皇運を扶持して、日に維れ新たなり。



【――寛政事件(尊號問題)にて、七士憤死し、皇政復古を俟つ――】
一、高山赤城、屠腹。寛政五年六月二十八日歸幽。
一、山本以南、投水。寛政七年七月二十五日歸幽。大愚良寛の實父。
一、唐崎赤齋、自刃。寛政八年十一月十八日歸幽。
一、權藤涼月子、斥藥。寛政十年八月十日歸幽。
一、西 道俊、刎首。享和二年五月二日歸幽。於赤城先生墓前。
一、富田大鳳、自病。享和三年二月二十五日歸幽。
一、龜井南溟、投火。文化十一年三月三日歸幽。――高場仙芝――頭山立雲

 三上大悲翁の曰く、「以上の七士は、尊號問題を契機として遂行されんとした、皇政復古・維新事件――吾人の所謂る寛政事件の犠牲者である。しかも此の七士が、何れも幕府の爲めに刑戮せられることなく、符を合した如く自殺の道を選んだところに、此の事件の深刻な骨格を見るのである。

 さもあらばあれ、高山先生及び此の六士の忠死は、徒爲でなかつた。‥‥先生等の滿身の碧血は流れて、全日本の山澤巖穴に浸透し、やがて五十年の後、明治御維新に起つた、澎湃たる尊王討幕の大風濤と化した。唐崎常陸介が、有馬主膳(久留米藩筆頭國老。守居。赤城先生の同志)へ傳へた埀加神道の傳書奧書に、『永く斯道に矢(ちか)つて、忽焉たること勿れ』とあるによつても、明白なる道統血脈の連結は、士民を問はず、簇々として生起する討幕の義士達の懸命の誠忠となり、遂に幕閣を倒覆して、克く明治維新の大業を翼贊し得たのである。藤田幽谷が、先生を弔ふ文に、『志士の世を憂ふるや、瞻言百里、識慮の深長なる有り云々』とある。

 嗚呼、多きは人、少なきも亦た人。高山先生も、亦た在世の時、屡々此の長嘆を發したことであらう。嗚呼、少なきは人。更に少なきは、人の『むすび』、眞人の血盟である」と。
 



  • [13]
  • 公卿流竄の禍を、當時に救ふ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月27日(土)23時27分21秒
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[本傳]其の後ち之を久しうして、正之、遂に意を當世に得ず。居するも、常に怏々として樂しまず。再び西海に遊びて、筑後久留米に至り、森嘉膳の家に主たり。居ること數日、忽ち病む所ろ有るが若し。一日、齎らす所の『日乘』を出し、寸裂して之を水中に投ず。嘉膳、驚いて其の故を問ひ、且つ曰く、「積年の盡力、一朝にして之を失ふ。豈に甚だ惜しむ可からずや哉」と。正之の曰く、『我も亦た之を愛惜するを知らざるに非ざる也。然れども百事、已みぬ矣。況んや此の鷄肋、何ぞ深く惜しむに足らん』と。嘉膳の曰く、「足下の爲す所を以て、後世、或は不良の事を爲すと疑はゞ、其れ何を以てか、之を解かん」と。正之、即ち止む。嘉膳、既にして退く。須臾(しばらく)して、正之、刀を拔いて腹を屠る(寛政五年六月二十七日・白晝の刻)。嘉膳、驚き見て、問ひて曰く、「何爲れぞ、此に於いてす」。正之の曰く、

我れ、常に國家に報いんと欲し、其の忠を爲し義を爲す所以の者は、今、不忠不義の事と爲る。已んぬるかな矣、我が智の及ばざるや也、是れ天、我を殺すのみ耳。幸ひに我が爲めに、天下の人に謝せよ』と。

嘉膳の曰く、「國に法有り。願はくは、子、治療を加へよ」と。正之、聽かず。嘉膳の曰く、「我れ子を館(やど)して、子、自殺す。若し治を加へざれば、我が法に違ふの罪も、亦た逃るゝ所ろ無き也。願はくは、子、之を亮(諒)せよ」と。正之、之を許す。

 頃之(しばらく)ありて、正之、東方を指して問ひて曰く、『帝都、及び故國は、此れか耶』と。嘉膳、爲めに東北を指示す。正之、拍手再拜して、嚴然端坐し、談話、平生の如し。既にして醫、來りて之を視、吏、來りて之を檢し、故を問ふ。正之の曰く、『發狂するのみ而已』と。其の郷貫を問ふ。曰く、『上野新田郡細谷村』と。是に於て問ふこと數々(しばゝゞ)なれども、復た答へず。吏、乃ち正之の齎らす所の物を閲す。毫も疑ふ可き者無し。唯だ天下の名山・大水・勝區の圖書、及び忠臣・孝子の行状・諸名家の送る所の詩文あるのみ而已。曉に至りて、正之、竟ひに絶す(辰の中刻――午前九時)。年四十七。

 是の歳、寛政五年(六月二十八日絶命)也。久留米侯、聞いて之を憐み、乃ち命じて新田領主に告げ、其の貯ふる所の物件を封じて、郷里に送還し、廼ち正之を府下の遍照院に葬る。




 保臣の曰く、正之公の知、及ばざるに非ず。滿腹の義氣、破憤して屠腹に至る。其の状、最も眞、推して知る可きのみ而已。

 追悼、高山正之公。呈す、癡詠。
新しと 人はいへども 春はたゞ 古き神世に 立かへるらん  保臣。




【鹽谷世弘の著す所の『正之傳』に曰く、「南筑に奇士有り、宮川嘉膳と曰ふ。疎快、客を好む云々」と。川は、蓋し森の誤り也(實は森嘉膳敬庸、一時、宮川と名乘れりと云ふ。子は宮川亙理)。】

【(中闕、落丁)‥‥清原宣條卿自筆の書、竝びに『緑毛龜の圖』を、是枝某に與へらる。一日、正之、是枝氏にいへるは、「某、今日に至るまで、甲冑を負ひて四方に遊歩けり。甲冑は、武士の不慮に備ふる所の者にして、須臾も身を離すべき者にあらず。然れ共も最早や甲冑も不用になりぬ。因つて此の甲冑を、此に遣し置くべし。願はくは衣服を調へ給はるべし」と。依つて衣服を調へ遣はしけるとぞ。夫より我が藩を去りて、筑後に至り、上京し、再び筑後に來りて、自殺せられしなるべし。彼の甲冑を遣し、是枝に云へる語を以て考見るに、我が藩を去らるゝの時より、既(はや)く死を決定(さだめ)られしなるべし。豈に天下の事、なすべからざるを見て、如此(かく)思ひ決定られしにや、將た他の所以ありしにや。或は曰く、「正之、我が藩を去るの後、幕府より探索、頗る密なり」とぞ。抑も正之、一匹夫を以て四方を遊歴る。其の志は、一筋に皇室を復興(おこ)し奉り、大義を天下に明かにし、名分を正すに有り。其が忠義誠確の心、凛乎として、須臾も朝廷を忘れ奉らず、幕府の爲めに忌諱せらるゝ、宜べなり。依つて幕府より探索ること、甚と密なりしなるべし。豈に正之、此れを聞いて、既に捕はれに就くに至らむとする物から、『日乘』等をも燒去て自殺せられしなるべし。依つて嘉膳に、「忠義と思ひしも、今ま皆な不忠不羲云々」とは云はれしなるべし。然るに鹽谷世弘が説に、「正之、幸ひにして寛政・享和、至平の世に出で、文明の運に會ひ、其れをして節を折り道を學び、刻苦、以て其の□[口+彦]に克たらしむれば、則ち或は大いに世用に適はん。然る能はずして、辛を嘗め苦を食み、徒らに脾肉を撫し、以て強死に至る。亦た怜れむ可き也」と云へるは、深く正之が心腑を知らざるが故なり。世の儒者ちふ者は、動もすれば己が崇尚むる學び、以て我が皇國の忠臣義士を非議るが、常多き習ひにて、深く事情を考へず、己れ實事を經歴せず、紙上にのみ眼をさらし、今日の事に迂闊き類ひ、往々皆な是なり。獨り世弘のみにはあらずかし。】



■赤城先生の哥

――赤崎海門に託せし辭世(六月十四日。西山拙齋翁遺文)。
あふ事の おぼつかなみの わかれ路は いとゞ名殘の 惜むとぞ知れ

――寛政五年六月二十七日、心に思ひ定むる事ありて。
松崎の 驛(うまや)の長(をさ)に 問ふて知れ 心筑紫の 旅のあらまし
朽果てゝ 身は土となり 墓なくも 心は國を 守らんものを


――久留米來客中、故ゑ有り、屠腹辭世(執行俊風に遺す)。
さはがしき この雲風は いつはれて さやけき皇(きみ)の 御代となるらん



●思齋森嘉膳敬庸(一時、宮川。晩に嘉善と書せり)の手記『高山彦九郎自殺の事を記す』(瑤光福井久藏博士校註『矢島行康翁撰・高山朽葉集』卷之七・昭和十九年七月・日本書院刊に所收)に曰く、

「(赤城先生、屠腹、遺言して)曰く、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひし事、皆な不忠・不義の事になれり。今にして吾が智の足らざる事を知る。故に天、吾を攻めて、斯の如く狂せしむ。天下の人に、宜しく告ぐべし』と云々。‥‥

(赤城先生)東方を指し、問うて曰く、『帝都、竝びに故國は、此の如きや』と。(森嘉膳・永野十内)答へて曰く、「丑寅へも當る可きか」と。此に於て(赤城先生)席を改め、柏手を打ち、心念じ終つて、又た談話、初めの如し。端座嚴然として、容を亂さず。其の夜、戌の刻許りに至つて、氣力衰へ、倒れ伏す。‥‥其の夜、七鼓の曉に至りて、息絶えたり」と。



●吉田松陰先生『鹽谷の文を讀む』(安政四年閏五月十八日。『丁巳幽室文稿』所收)に曰く、

「鹽谷宕陰は、當今の文宗、學者の矜式する所なり。而して吾れ其の『大統歌』を讀み、言へる有り、「謂ふ勿れ、覇興つて、靈圖、蠹を生ず、と。幕府開かれしより、鼎璽、倍々(ますゝゝ)固し。中材、保ち易く、昏暴、助く可し。睿聖の作(おこ)る、時有り、數有り」と。又た『高山・蒲生の傳』に、言へる有り、「覇府の立ちしより、天子、威福を關東に讓り、南面して己を恭(つゝし)みたまふ。而して幕府も、亦た能く臣節を竭し、帝澤、愈々光(かゞや)く」と。果して此の説の如くならば、則ち在昔、皇室の全盛は、反つて今日の衰頽に如かず。今日、衰頽の皇室は、乃ち劍璽久遠の盛事なり。而るに志士仁人、書を讀み時を憂ふるは、果して何の爲めぞや乎。況んや其の指斥する所の、中材と云ひ、昏暴と云ふは、果して何の謂ひぞや乎。

 古の聖人、和なること、柳下(惠。周の春秋時代の人)の如き者有り。清なること、西山(伯夷・叔齊)の如き者有り。事、固より概論す可からず。今日、江戸の勢の□[火+陷の右。さかん]なる、凡そ臣子爲る者は、憤懣罵詈し、或は號泣諫爭す。皆な正士・仁人爲るを失はず。諛を進め媚を獻じて、愈々光くと爲し、倍々固しと爲すに至りては、天下の正議を如何せん、後世の驕臣を如何せん。文宗爲り、矜式爲る者、寧んぞ是の如くなる可けんや哉。

 『傳中』に、又た曰く、「豈に五畿内の山河、王氣、銷盡し、而して地氣、西よりして東せるか歟」と。又た曰く、「辛を嘗め苦を食ひ、徒らに脾肉無く、以て強死に至る、亦た怜(あは)れむ可きのみ也已」と。是れ、神州の爲めに言を立つる者に非ざる也。亦た高山仲繩、其の人を知る者に非ざる也。宕陰は、當今の文宗、學者の矜式する所ろ也。而も其の言、斯くの如し。余、其の重ねて人を誤らしめんことを恐る。故に特に之を拈出す。(安政四年)閏月十八日、藤寅(藤原寅二郎)書す」と。



●久坂秋湖先生『俟采擇録』(松下邨塾藏版・明治二年正月飜刻)に曰く、

「脩靜蒲生君平先生の墓は、江戸北郊の谷中臨江寺に在り。碑文は、幽谷藤田先生の作る所なり。余が友・大樂源太(西山)、曾て曰く、「常陸府中の竹石長三郎が家に、『蒲生先生詩文稿』を藏す」と。

 議する者の謂へらく、「高山彦九は、奇人、或は狂人と謂ふ。竟ひに狂を以て死す」と。是れ皆な、仲繩先生を知らざる者、何ぞ共に語るに足らん。先生、甞て曰く、

竹を削れば竿と爲り、紙を糊すれば旌と爲る。天下の義兵、立つて致す可き也

と。其の死に方りて、其の齎す所の『日記』を裂くは、即ち平生、天下の偉人・壯士と相交はり、詳しく其の名姓を録する者なればなり。歿後に至り、唐崎常陸介(赤齋)・富田大淵[大鳳と號す。肥後の人なり]も、亦た相繼いで自殺せり。乃ち其の同志にして、事、躓きしを見る可き也。

 又た世に傳ふ、愛親中山卿の東下りに、先生は、其の奴隷中に在り[世に傳ふ、中山卿の國風に曰く、

朝夕の 君の惠みの 深ければ 身は東路の 土となるとも

と。今ま之を録して、後考に俟つ]。此れに由つて之を觀れば、先生の志、凛乎として霄壤の間に在り。豈に奇と狂を以て、之を目するを得んや哉」と。

(秋湖先生は、文久二年二月十九日、久留米寺町・遍照院を尋ね、赤城先生墓石の圖を殘す。
   「寛政五癸丑年
表に 松陰以白居士
    六月十七日」
側に「生國上州新田郡細谷村
    高山彦九郎正之墓」
同年十二月二十三日には、贈正四位・迂山中岡愼太郎藤原道正先生等と共に、上野國細谷村への墓參を果せり。)
 



  • [12]
  • 竊かに宸極の餘光を瞻仰す。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月27日(土)12時24分42秒
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[本傳]是の歳、中山大納言[愛親卿]、詔を奉じて、江府に至る。其の事祕して、世に其の實を知るもの莫し也。

 是より先き(寛政三年)、正之、京に在り。甞て鴨川の湄(きし)を過ぐ。童子の龜を捉へて、之を玩ぶ有り。甲上に文有り。尾毛□[毛+參。さん]々、所謂る緑毛龜なる者也。正之、見て之を奇とし、乃ち錢若干を與へて之を得たり。伏原正二位[(非參議・號佩蘭)清原宣條卿]に謁して、呈覽す。二位、文學を以て尊寵せらる。亦た以て祥瑞と爲し、即ち天覽に御しまつる。叡聖、嘉賞したまふ焉。蓋し竊かに宸極の餘光を瞻仰するを獲たりと云ふ。正之、布衣羇旅の士を以て、其の志、常に皇室を尊び、夷狄を攘ふに在り。其の天下を跋渉して、人心を激勵し、義氣を鼓動する所以の者は、未だ甞て其の至誠に出でざるにあらざる也。其の寶龜を得る、人、以て精誠の感ずる所と爲す焉。




 保臣の曰く、正之公、尊攘滿腹、其の義氣、嘉賞す可し。



【按ずるに、愛親卿、關東に下り、正之等の其の議を助くと云ふを以て、幕府の嫌疑を受くと云ふ。忠亮、愛親卿の事を載すこと、蓋し亦た意有らんか乎。】



■赤城先生の哥

――(寛政三年春三月)十五日、芝山持豐卿、謹みて語られけるには、先月、『唐鑑』御會の時に、天上の御沙汰ありける。續いて予も、清二位殿、申されける。「天子、能く知食して有りける也」と、語られける。若槻(整齋若槻源三郎邦貞)氏も聞ける事也。十六日‥‥泰安、語るに、「上樣も知食し、ある時、
高山彦九郎といへるものを知れるや
と、御尋ね有りける。「名をば久しく承りぬれ共、相識にはあらぬ」よし、敕答申し上げれば、
聖護院の人になりて、舞樂拜見せしにや。佐々木備後守と竝びて拜見せし。氣質は色々のもの也
など、委しく知食してぞ有りける」と語る。恐れ入りたる事なりとて拜す。‥‥山科氏を立ちて二條を通り、深更に岩倉家へ歸る。雨降る。寛政三年三月十五日、恐れみ畏れみ敬み謹みてよめる。
われをわれと しろしめすとや 皇(すべらき)の 玉の御聲の かゝる嬉しさ
(「しろしめすとや」の「とや」、一に「かや」、或は「ぞや」に作る。又た赤城先生の妹・伊與久錦子刀自の藏する所には、「おぼしめしてや」と傳へたり)

――予、謹みて船橋殿に向ふて、天上の御沙汰に及びたるの忝きを語れば、「度々天子仰せられける。先生の高名なり」とありける。恐れ入りぬといへり。船橋家に於て、醉ひに乘じてよめる。
九重の 春ぞ嬉しき けふはしも 酒のみくらす 事の樂しも

――十六日、‥‥志水南涯(菅原周監)より書を寄せて、江州高島郡知内村・中川六左衞門なる縁家の所より、湖中より得たりし緑毛龜を送り越したるよし、告げ來る。至り見るに、甲の長さ全尺二寸七分・横一寸九分にてぞ有りける。二三日前に得たるよし也。小兒、疱瘡のまじなひの爲めとて、龜と盃せしめんとて群聚す。‥‥緑毛龜をよめる。
君が代の 榮ゆく色や 緑なる 龜の尾長き 春ぞ嬉しき

――二十八日‥‥巳の刻に、身を清め、禮服麻上下にて、仙洞御所新中納言・先帝の寵姫の殿へ至り、岩田の老女へ就て、恐れみ謹みて、天子、聖徳文治の故に、神龜の出現を申して、
「『緑毛龜淵鑑類函』に曰く、「龜に氣有る者は、文治の兆」。寛政三年辛亥春三月、頓首頓首百拜百拜。正之謹考」
と書して出す。‥‥岩倉家より、急ぎ歸りて、仙洞御所へ龜持參の事、申し來る。走りて岩倉殿へ歸り、麻上下になりて、申の刻に、南涯に龜を持たしめて、共に麻上下禮服にて、洞中新中納言の殿に至り、岩田老女及び侍女兩人にて、龜を桶の中へ入れ、仙洞御所、叡覽ある。新中納言の君より、菓子を賜ふ。暮に及びて、下部に文箱を給ふ。‥‥
今上皇帝(光格天皇)御製
むくら生ひ 茂りて道も わかぬ世に ふるは涙の 雨にぞ有りける
予、聖恩の忝きを、恐れみ畏れみ敬み謹み、頓首々々百拜して、讀みて報い奉る。
夏草の 心の儘に 茂れども いつかは秋に 逢はで過ぐべき

――とぞ。悦び是にしく事もあにじとて、欽嬉してよめる。
玉鉾の 道の榮や 萬代に 龜も緑の 色を見すらし

――三十日晦日‥‥岩倉三位殿に從ふて、雜色にて、仙洞御所御樂始めに從行す。歸れば新中納言殿より、ふみ有り。急ぎ日中前、禁中長橋局へ、神龜持參有るべきのよし、申し來る。走りて南涯に告げ、髮を脩め浴し、麻上下にて、‥‥堺町御門へ入り、南門を經て、禁裏御臺所御門を入りて、長橋勾當内侍御内・常木千三、取次にて、長橋局へ神龜を達す。時に巳の刻、雨降り來る。日中に及んで、神龜下る。常木、述べけるは、「珍らしく目出度き物の差出さる。叡覽に備はり、御滿悦に思召さる。猶ほ又た委しき事は、新中納言殿より、申し進んぜらるべし。御大切の龜なれば、先づは御下げ玉ふなり」とぞ。恐れみ敬みて、‥‥常木を以て獻じけるは、
「『緑毛龜淵鑑類函』に曰く、「龜に氣有る者は、文治の兆」。龜主・志水喜間多菅周監。上の州新田・高山彦九郎平正之」
と書して奉りける也。‥‥緑毛の龜なる者は、文治の兆と見侍りて、
天の下 ふみも榮えん 君が代と 龜も緑の 長き毛衣

――七月五日、‥‥仙洞御所より、仕丁にて、仰せ有り。宮本包繼、參るに、果たして龜の事にて有りける。明朝辰の半に、罷出るべきの命なりける。六日、南涯所へ入り、「急ぎ龜持參致すべし」といひて、身を清め、岩倉家へ歸り、元宣が參るを待つ。駒井正康、付き添ふて、洞中御所御門を入り、非藏人口へ申し、内々の所へ上りける。岩倉具選卿出てられ、吉田對馬など對し、辰の刻斗りに、(岩倉)藤丸具集殿出てられ、‥‥「緑毛龜、慥かに請取りぬ」とありて、立たれ、仙洞御所御池へ放ち給ふ。‥‥予、恐れみ惶れみ敬み謹み、よみて奉る。
君が代は 千代に八ちよに 萬代に 龜も緑の 御池にぞ住む

――寛政四年壬子春正月元日辛未、曇る。肥後國熊本城下・藪(孤山)家に、春を迎ふ。麻上下にて、明の方を拜し、恐れみ惶れみ敬み愼みて、帝京の方を拜し奉りて、諸神の拜、祖先の拜に及ぶ事、例の如し。雜煮など祝ふ事、替る事なし。
四方の山 霞長閑に 春の來て 帝都(みやこ)の空に 向ふ嬉しさ
 

  • [11]
  • 王政復古の志。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月26日(金)19時13分32秒
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[本傳]明年辛亥(寛政三年)、京を辭して西海に遊ぶ。余、之を下總の醫生某に聞けり。正之、薩州に遊ぶも、(寛政四年、野間の)關吏、拒みて入れず。正之、留まること數日なり。歌を作りて曰く、

『薩摩びと いかにやいかに かるかやの 關もとざさぬ 御代と知らずや』と。

適々鹿兒島の老臣、正之と相識る者有り。關吏をして國中に入るを許さしむ焉。薩人、今に至るまで其の詞を傳誦すと云ふ。而れども未だ其の字を詳かにせず。故に姑らく此れに注す。

 是の歳三月、夷舶、紀伊大島浦に至り、又た筑前及び長門の邊海に出沒す。幕府、令を下して備へを嚴にす焉。壬子(寛政四年)夏、鄂虜、我が漂民を送り、禰牟呂に到る。明年癸丑、幕府、石川將監・村上大學等を遣はし、事由を按檢せしむ。正之、西海に在ること凡そ三年なり。是に至りて、遂に京師に歸る。




 保臣の曰く、傳聞、眞に寫せり。



■赤城先生の哥

――薩摩へ入りける時、關守の嚴しくとがめければ。
さつま人(薩摩潟) いかにやいかに 苅萱の 關もとざさぬ(關の戸さゝぬ) 御代と(御世を)知らずや

――赤崎彦禮(海門)に逢ひて
さつま人 いざこと問はん いにしへの 鬼すむ里は ありやなしやと

――仲秋月
天足らし 國たらしたる 大御代に 滿ちたらしたる 月の影かな

――霧島嶽(二上山の東峰)に登りてよめる。
皇の 始を開らく 高千穗に 登りて仰ぐ 天のさか鉾



○愚案、贈正四位・伊能忠敬翁『大日本沿海輿地全圖』に、缺けたる所、即ち入山不能の一箇處あり。日向米良の莊、即ち是なり。寛政四年、赤城先生、之を踏破せしこと、『筑紫日記』に見ゆ。

【米良菊池氏――大高山と大西郷】
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●贈從四位・日岳富田大淵藤原大鳳先生『高山仲繩を送るの序』に曰く、

「神京(京都)に陟(のぼ)り、武城(江戸)に游び、州郡を歴、京邑を過ぎ、其の名山・大川、□[王+鬼。くわい。一に「魁」に作る]偉絶特なる者を探り、其の草木・鳥獸、珍奇鉅麗なる者を觀、其の公卿大夫・□[手+晉]紳先生・貴介游間子弟を問ひ、其の處士・逸民・醫卜・酒人・屠者を見、蕪城に上り荒墟を弔ひ、則ち千古の英魂を叩き、而して九原に作(おこ)す可きなりとせしむる者は、是れ高山仲繩の爲す所なり。

 乃ち(赤城は)上毛(上野國)の人なり。大鳳は不侫、蠢爾たる敝邑の草莽、食を偸(ぬす)むの民なり。而して一日、翰如として臨を辱うす。目撃神接、眉宇に見はれ、心契に合す(好漢、好漢を知るものなり)。乃ち相謂ひて曰く、『三千里の□[貌+しんねう。はる]かなる、共に臂を一堂に把り、吾れ豈に禹行して、而して舜趨する區々たる腐儒に、之れ傚(なら)はんや。盍(なん)ぞ心腹を披き、腎腸を敷き、其の鬱勃蓬沛の氣を鬪はしめざるや』と。

 大鳳の曰く、『昔は、大君(大鳳先生は、獨り天皇を尊稱する意義に用ふるなり。學祖の徂徠は無論のこと、江戸學者は將軍を斥し、名分を亂すや大なり)、命あり、于(こゝ)に宇内を正す。矢矧・鷺坂の役、其の事を用ゐる者は、子(赤城)の新田氏に非ずや(大鳳先生は、新田氏配下の後胤たる赤城先生を、新田氏の代表として遇すなり)。我が菊池は、業(すで)に已に偏裨なり。則ち偏裨なりと雖も、よく鋭を挫きて折衝し、先鋒後殿、大將を夾(はさ)み翼(たす)け、王命を對揚する者は、斯の人に非ずや。於乎(あゝ)、五百年にして、而して一日なり。昔の政を爲す者は、子也。今日の事、吾れ盍ぞ牛耳を執らんや。豈に敢へて關東の人に後(おく)れんや(一朝、事あらば、關東の尊皇者――赤城には後れを取らぬぞ)。

 夫れ鎭西、小なりと雖も、地、方數百千里、山嶽、以て城を爲し、河海、以て池と爲す。帯甲百萬、劍を撃ち弦を控へ、馬を駆り戟(ほこ)を横たふの士、森として□[登+郁の右]林の如し。加之のみならず、我が神聖の澤を以て、民に浹(あまね)し、先公(菊池氏)の風を興して俗に被むらしむるや、五尺の童も、夷吾(管仲)と晏嬰とを恥づるなり。吾れ未だ子の關東、何如を知らざるのみ。然りと雖も、今や昇平、文を右にす。武を用ゐるの秋に非ず。則ち昔の爭ひや武、今の爭ひや文なり(此の句、假裝的形容に過ぎざるは、全文に漲る迫力から判明するならむ)。今ま敝邑、王覇を辨じ、正閏を明かにし、名義を審かにし、大道に折衷する者、一二人を得可し(大鳳先生、鎭西の尊皇者の爲めに氣を吐くこと萬丈、亦た自ら任じ居る所なり。但し尊皇の大義を會得したるは一二人に止まるとは、當時の實状にして、誇張は出來ぬ)。禮樂を講じ、詩書を習ひ、洙泗(孔子)の化に涵泳する者、數十人なり。或は文を屬し詩を賦し、或は馬鄭(馬融季長・鄭玄康成)の學を唱へ、或は伊洛(程子・朱子)の教へに習ふ者、數百餘人なり。其の他、聰明英敏、器を懷き用を俟つ者、千人に足[一に「下」に作る]らず。吾れ未だ子の關東、何如を知らざるのみ。

 子、再び神京に陟り、武城に游び、其の公卿大夫・□[手+晉]紳先生・貴介游間子弟を問はゞ、則ち吾が爲めに、我が鎭西を揚□[手+確の右。かく]せよ。吾が言の如きや、乃ち謂へ、「千歳、乃ち菊池氏有ること無からんや」(いざとならば、必ず菊池氏が出て來るぞ)』と。

 仲繩、笑ひて答へず。録し以て贈と爲す」と。



○愚案、件の一篇は、薩摩の同志を通じて、島津公を説服する爲めに用意された、周到なる檄文と考へられる(三上大悲翁『高山彦九郎』)。高山赤城先生は、夙に有名にして、苟くも尊王を骨髓に填めむと力むる者ならば、知らぬ者なぞ居ないが、富田大鳳先生も、亦た赤城先生に、勝るとも決して劣らぬであらう。其の氣慨萬丈、實に尋常に非ず、男兒たる者、斯くあらまほしきものなり。勤王の首倡は、赤城處士のみならんや。赤城先生と、惓々たる情を以て交りたる者、肥後に在つては、高本紫溟翁、竝びに富田大鳳先生であつた。

 徳富蘇峰翁『近世日本國民史』第九十四卷(昭和十九年十月。講談社學術文庫・昭和五十五年三月刊)に曰く、「高本紫溟と同時に、富田大鳳なる一個の儕賢は、肥後に出でた。‥‥高本紫溟は、國體論の首唱者であり、富田大鳳は、尊皇論より一轉して討幕論まで突入したる、現状打破の急先鋒である。徳川氏を無二の恩主と感戴したる細川藩士中から、彼が如き論者を出だしたるは、頗る意外の感あれども、其の一は、彼が菊池尊皇の末流(菊池家三老の一・隈部氏が庶流・富田氏)であり、他の一は、當時世上に漸く幕政を厭ふの氣運を發したると、更に他の一は、彼自身が其の冷靜なる學究たるに甘んぜず、血性あり、熱腸ある志士の意氣を有したるが爲めと認めねばならぬ」と。

 嗚呼、富田大鳳先生こそは、或る山人から、「天朝に非ずんば、帝子(諸親王)と雖も、仕ふることを肯んぜざる也」との言を引き出したる高本紫溟翁と共に、鎭西熊本の潛龍雙壁と謂ふべきである。大鳳先生、遂に事躓き、共に憤りて自殺するに至れり(久坂秋湖先生『俟釆擇録』)。菊池氏傳家勤皇の精神は、鎭西肥後に儼在して、根を深く太く張り、皇國中興の御代を俟つてゐた。然り而して中今、尊王を以て立たむとする者、果たして幾人ぞや、はた何處に潛みて、其の出廬を待ち居るならむか。中今も、往古と同じく、將來も亦た同じかるべし。抑も皇國は、盛衰あるも、興亡なし矣。千載、乃ち勤皇の胤、絶えて有ること無からんや哉。
 

 

 

【肥後勤王黨の源流・富田大鳳先生の「戀闕」――備中處士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/2

  



  • [10]
  • 歔欷して禁まず。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月25日(木)18時33分27秒
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[本傳]下野の人・蒲生秀實(贈正四位・修靜菴)も、亦た素より正之の人と爲りを慕ふ。其の北遊を聞き、追ひて陸奧の石卷に至る。及ばず。適々後醍醐天皇の塔婆の下に出づ。蓋し南北の亂に、官軍、甞て陸奧に鎭撫す。故を以て今に至るまで、天皇の供養を爲しまつる也。秀實、彷徨遲囘して、一樵夫に遇ひ、問うて曰く、「汝、偉人を見ざるか乎」。對へて曰く、「小人、前きに一士人の傭ふ所と爲り、水を荷ひて此に至る。其の人、即ち水に浴して禮服を着し、塔婆の下に就いて跪拜し、懷中の文を出して之を讀み、一字を終はる毎に、歔欷して禁まず。今を去ること、既に十日なり。君の問ふ所は、寧ぞ此の人か乎」と。秀實、其の竟ひに及ぶ可からざるを慮りて、乃ち返る。

 正之、南部・津輕を經て松前に至り、竟ひに蝦夷の境に入る。奔走累日、頗る足力を極む。既にして忽ち囘顧の志(光格天皇、聖護院假御所より帝城還幸を拜觀せん)有り。乃ち松前より海に航す。風帆、飛ぶが如く、三日三夜にして、徑(たゞ)ちに中國に達し、京に留まること數月なり。




 保臣の曰く、正之公の勤王忠誠、視る可く感ず可し。



■赤城先生の哥

――寛政二年十一月、陸奧國白川川原町茶店・虎屋平助に休ふ。山形の人・京都醍醐三寶院より、先月二十日出にて、爰に休ふに逢ふ。還幸、當月二十日後の御事に語る。虎屋に宿して、江戸・簗次正・前野達への書を認む。歌一首を入る。都へ上るとて。
翅あらば 飛んとぞ思ふ うらゝゝと 雲井の空を 仰ぐ嬉しき

――寛政二年十一月三十晦日丑の刻許りに、大津を立ち、白川橋にて手水し、禮服す。三條橋に至りて、恐れみ惶れみ敬み謹みて、寶祚長久を頓首拜し奉りてよめる。
陸奧の 八重の山路を 跋分毛手 けふ九重に 入るぞ嬉しき



●贈正四位・久坂秋湖(玄瑞)先生の詩(文久二年。『辛酉詩稿』に所收)

――三條橋を過ぎ、感有り。
仲繩、皇室を尊び、中興、心に自ら期す。
跋渉、脛毛絶つも、頽厦、手に支へんと欲す。
此の志、蹉(つまづ)く矣と雖も、兒童も、名義知る。
吾れ第三橋に來り、低囘、歩を引いて遲し。
秋峯、方に落木、寒水、江□[三水+眉]に烟る。
時物、鴨の水の如く、古人、追ふ可からず。
公を想ひ、鳳闕を拜しまつり、天風、美髯に吹く。
 



  • [9]
  • 懷中の明珠、海天を照す。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月24日(水)18時36分47秒
  • 編集済
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[本傳]是より先き鄂虜(露奴)、數々(しばゝゞ)蝦夷に往來し、邊海を窺□[穴+兪]す。正之、深く之を憂ひ、躬自ら北地を歴視して、竊かに虜情を探らんと欲す。庚戌(寛政二年)の夏、遂に意を決し北游す。玄珠に詣(いた)り別を告ぐ。玄珠、之を壯なりとし、酒を置いて之を餞す。玄珠の家に、鎭宅靈神鐸を藏す。建武中、楠河内(楠公)の奉獻する所の物也。紋に玄武神有り。正之をして之を拜せしむ。正之、大いに喜びて曰く、『我れ將に北行せんとし、祖道に當りて此の神を拜す。吉、孰れか焉れより大ならん』と。盥嗽して禮服を着し、拜して感泣するに至る。又た玄珠に謂ひて曰く、『我、遊學を以て事と爲す。今日の行、萬死、固より甘んずる所ろ也。身後の事、復た念慮に關はる者無し也。但し一事を君に託す可き者有り。某に息女(名は「せい」)有り。天下の名士を得て、之に與へんと欲す。藤田子定は、國士無雙なり。若し君に因りて、之を箕帚の妾と爲すを得ば、死するも當に結草たるべし』と。子定とは、一正の字也。

 竟ひに去りて水戸に至り、立原萬・藤田一正、及び他の有名の士を訪ひ、留まること數日なり。一日、萬、人に謂ひて曰く、「活ける雲長(漢の關羽の字)來る。子、往いて之を見よ」と。正之、鬚髯を美とす。故に萬、戲れて此れを以てす。

 又た木村謙有り。天下野村に居す。正之、一見して舊交の如し。肝膽相許す[謙の詩に云ふ、「

有、高山子、高山子。東山の壯士、氣翩々。
七尺の(形)躯兮、三尺の劍。一箇の行李、半肩に在り。
天下の山川、躋攀し盡し、堰蹇、口(日)吟す、遠遊の篇。
行々鐵杖、長蛇を驅り、懷中の明珠、海天を照す。
自ら言ふ、四海、皆な兄弟なり、と。愁ひず、郷國の山川を隔つるを。
秋風、先づ到る、白川の上、眞人の紫氣、關邊に滿つ。
關尹、相豫して來往を占し、留め得たり、道徳、玄の又玄。
風塵俗物、誰か讀むを得ん、賓篆一字、直(あた)ひ十千。
天下の野人、醜男子。相見て笑談して、夜、年の如し。
天厨、饌を薦めて、君が爲に供し、玉液滾々、炊煙に對す。
座間、鮮を割いて、肉、堵の如く、樽前の大杯、酒、泉に似たり。
醉中、孝を談ずる、奇癖を同じうす。尋問す、本朝の孝子傳。
人世の高行、誰か羨まざらん。君と同好、亦た自ら(何)然り。
今日相逢うて、今日別る。惜しむ可し、再遊、已に愆多し。
老を忘れて、一時、意氣豪なるも、鬢上□[參+毛]々、二毛を奈(いか)んせん。
吁(あゝ)、高山子、高山子。天下の要道、君が曹に屬す。
草鞋、虎の如く、雲霧を開く。知んぬ、君が至徳、高山、仰げば彌(愈)々高きを」と]。




 保臣の曰く、正之公の鬚髯、美しきこと銀の如きか乎。關羽に相似たるか乎。想像す可し。



●海軍中尉・大悲三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)に曰く、

「この長詩(『高山子吟』――『□[石+監]詩集』に所收。寛政二年七月六~八日)は、晩年の(赤城)先生旅行中の風格性行を能く寫し出して居るが、『天下の野人、醜男子、相見て笑談して、夜、年の如し』の二句に、兩快男子の面目躍如たるを見る。高山彦九郎と云へば、多血質の激情家の代名詞の如く思はれてゐるが、何ぞ圖らん、當時の知人達からは、屡々支那南方の古聖人老子に喩へられたものである。説かずして説き、説いて道學先生らしからざるところが、魁偉脱俗の風貌と相俟つて、『道徳經』五千言を殘して、遙かにペルシヤに向つて去つたと傳へられる、虚靜無爲の思想家老子を彷彿せしめたのであらう。

 木村謙、‥‥近藤重藏守重に從つて蝦夷地を視察し、エトロフ島に大日本國標を建てゝ、遙かに京都朝廷に向つて、拍手跪拜して祈念したと云ふ。藤田東湖の遺文には、『人となり、外、狂簡に托し、内に忠義を存す。慨然として大志あり』とある。高山彦九郎的人桀の一人(愚案、贈正五位・醉古館木村下野介源謙。謙次と稱す。吉澤義一氏『天下の豪傑・木村謙次』昭和六十三年二月・水戸史學會刊に詳かなり)‥‥

 先生の風貌は、その性行と相伴つて、一見して人に非常なる感銘を與へたらしく、當時の知人同志達は、先生を擬するに、或は老子を以てし、或は魯仲連・王猛・伯夷叔齊・荊軻等の戰國策士、豪傑または義人・刺客を以てし、或は漠然と、英雄・神仙・奇士等を以てして、之を畏敬した」と。
 

  • [8]
  • 忘年の交――英雄、英傑を知る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月23日(火)21時02分33秒
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[本傳]寛政己酉(元年)の秋、正之、江戸に游び、長久保玄珠(赤水)を訪ふ。玄珠は江戸の人、甞て立原萬(翠軒)に書を遣して曰く、「某、京師に在り、高山處士と交はる。此の人、僻儻奇偉、一錢を齎さずして、天下を跋渉す。常に自ら魯仲連の人と爲りを慕ふ。適々藤田一正、年十三、詩を作り之に贈るに、亦た目して魯連を以てす」[詩に云ふ、「

聞くならく、君が高節、一心の雄。
奔走、賢を求め、西、復た東。
遊學、元より懷く、奇偉の策。
正に知る、蹈海魯連の風」と。

右、『幽谷先生・丙午集』の中に見ゆ]と(『高山君に詩を呈す』)。

 是に至つて、一正、萬(翠軒)に隨つて江戸に在り。正之、見て甚だ驩(よろこ)ぶ。一正に謂つて曰く、『我れ天下を游歴し、人に閲すること多し矣。未だ卓越、足下の如き者を見ず。足下、自愛せよ。言に因れば、足下、多病なり、と。講學の餘に、宜しく武藝を試みるべし。劍は一人の敵と雖も、而れども陣に臨んでは衆に先んず。身に精藝無かる可からず。且つ身體を健かにするを以て、亦た勤學に益有る也』と。正之、東西跋渉、健歩、人に過ぐ。其の平生、齎す所の者は、重さ、概ね甲冑一領に比す。蓋し軍に從ふ者は、當に躬に甲を擔ふべし。故に用、以て身體に習ふと云ふ。




 保臣の曰く、藤田一正は、幽谷先生也。東湖藤田虎之助の父、世に名あり。水府の碩學なり。



【頼子成の曰く、「正之、江上關龍(觀柳)・梁又七(次正)が輩と、最も相に親善なり。關龍、劒を善くす。毎に正之に謂ひて曰く、「子は氣を以て人を服すと雖も、武藝に熟せず。眞の英雄に遇はゞ、乃ち窮せん矣」と。正之、服せず。關龍、罵りて曰く、「彦九は、無用の男子のみ。能く死せば、我を斬れ」と。正之、憤然として刀を拔かんと欲す。關龍、手を以て刀□[木+覇。は]を壓へ、笑ひて曰く、「止めよ焉」と。正之、□□[口+音。口+惡]するも、終ひに拔くこと能ははざる也。是に於て節を折り劒を學び、毎夜、自ら試みること千遍、乃ち寢ぬ」と。按ずるに、此の説は、信ず可からざる也。但だ正之の劒を學び、毎夜、自ら試みること千遍に至る者は、則ち其の實事爲ること也、疑ひ無し矣。

 

 其の梁又七と交はるは、則ち正之、富士山より歸るの時(安永九年)に有り。而して神奈川驛に於いて、初めて相見る也。此の時、又七、問うて曰く、「君子も、亦た心を動かすこと有りや乎」と。正之の曰く、『君子は、動かすと雖も、能く其の法程に合ふ。活物、何ぞ動かざるの理有らんや乎。強ひて動かす無からんと欲す者は、此れ禪法・異端の學也』と。其の後ち正之は、祖母の喪に居り、又七は、金三兩を贈ると云ふ。其の交道の厚き、亦た見る可き焉也。】

【余、之を聞けり。正之、四方に遊歴し、必ず甲冑一領を齎す。其の吾が薩藩に來り、嘗て出水郷の士・是枝某の處に居す。旬日、其の歸るに及ぶや也、齎す所の甲冑を遣すと云ふ。今ま卯花威しの甲冑、見在せり焉。姑らく聞く所を録し、以て參考に備ふ。】



○愚案、赤城先生、簗又七次正との問答に於いて、異端の學を攻むるなり。北畠准后『神皇正統記』に曰く、

「毫釐も君を忽せにする心を兆す者は、必ず亂臣となる。芥蔕も親を疎かにする形ある者は、果して賊子となる。此の故に古の聖人、「道は須臾も離るべからず。離るべきは道に非ず」と云へけり。但し其の末を學びて源を明めざれば、事にのぞみて、覺えざる過ちあり。其の源と云ふは、心に一物をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の中に留まるべからず。天地あり、君臣あり。善惡の報い、影響(かげひゞき)の如し。己が欲をすて、人を利するを先として、境々(さかひゝゝゝ)に對すること、鏡の物を照すが如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云ふべきにや。代、降れりとて、自ら苟(いやし)むべからず。天地の始は、今日を始とする理なり」と。

識見の高き、前聖後賢、其の揆を一にする、思はず快哉を叫ぶなり。萬物流轉、諸行無常の中に在つて、吾人の據つて立つ所の大本、天地の常經、古今の通誼、「天地あり、君臣あり」、即ち不易の道に參究しなければならぬ矣。



■赤城先生『北行日記』寛政二年七月朔日條に曰く、

藤田熊之助一正を尋ねける。早や予(赤城先生、四十四歳)が來るべしとて、待ち迎へたり。與助と名を替へたり。親を與右衞門と號す。よろこび出でて、冷麺に酒を出だす。夜半に及んで立つ。‥‥一正と、大義の談有りける。一正、能く義に通ず。存慮の筆記を見す。『同じくは、公(あなた。幽谷)、よろしからん』と示しけるに、忽ち筆を取りて改めける。才子にして、道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける。‥‥藤田一正へ、詩箋十枚を寄せける」と。



■赤城先生『高山彦九郎日記』第二卷に曰く、

日本は、君臣の禮、正し。武將、威勢ありといへども、人臣、安んじ居る。然るを近世の俗儒共、文章の飾りに、名分をみだる、大不敬也。先生(長久保赤水、豐臣秀吉公を『豐王』と稱することを)、改め給へ。義公、水戸家は、名分を正すと、兼ねて聞けり。徂徠・春臺等を法とする事なかれ」と。



●贈正四位・藤田幽谷先生の詩――『上野の高山君が王母、八十八初度を賀す(壽し奉る)」幽谷先生十三歳の作。

階庭の玉樹、紫蘭に肥ゆ。
孫子、觴を稱げて、北韋に獻ず。
膝下の醉歌、塵外の興。
香風、時に捲く、老來の衣。

 一正、嘗て高山君の奇節を聞き、未だ見ゆるを得ざるを以て憾みとす。この頃、(長久保)赤水先生、其の王母の壽詩の求め有るに因つて、聊か蕪章を呈し、併せて之を賦して奉呈す。



●贈正四位・會澤正志齋先生『及門遺範』(明治十五年六月刻版)に曰く、

「(幽谷)先生、幼にして神童を以て稱せらる。立原(翠軒)先生、最も其の才を愛す。少年より交はる所、一時の豪傑、高山仲繩・蒲生君臧の如き、慷慨、天下を憂ふる、毎に肝膽を以て相許す。木村子虚(謙。號醉古)、忠憤、國に報じ、僧實源、高邁、義を好むが如き、皆な情好親善なり」と。
 



  • [7]
  • 至孝の人。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月22日(月)18時27分57秒
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[本傳]是より先、正之、甞て祖母の憂に遇ひ、鞠養の恩有るを以て、再期の喪に服さんと欲す。其の兄(蓮沼專藏正晴)、之を止むも、正之、聽かず。叔父・正業[(劍持)長藏と稱す]と、冢側に廬すること三年なり。郷邦、之を稱す。事、江戸に聞こえ、有司、之を旌(あらは)さんと欲す。會々正之を中せんと欲する者有り。告げて兄に友ならずと誣す。有司も亦た其の人の常ならざるを以て、召して之を詰りて曰く、「庶民、刀劔を帶ぶるは、國に定制有り。汝、□[田+犬]畝の中に居りて、雙劔、身に離さゞるは、抑々何の義ぞや也」と。正之、對へて曰く、『某は、高山遠江守より以來、二十餘世、未だ甞て一人の刀劔を帶びざる者有らざる也』と。有司、其の言を奇とし、且つ其の磊落、他無きを憐れむ。因つて之に謂ひて曰く、「汝、仕官せんと欲するか乎。業とする所の者は、何ぞ。技藝か乎、將た儒學か乎」と。正之の曰く、

『士は貧賤なりと雖も、身を以て人に許すこと、豈に容易ならんや哉。君子の仕ふるや也、其の義を行ふ也。道の行はれざる、豈に一毫も爵祿を攫取するの心有らんや哉。且つ學は、人倫を明かにする所以ん也。士の道に志す者、豈に盡く儒者のみならんや哉。某は、平生、讀書を好む。然れども初めより未だ甞て文士を以て、自ら名あるを欲せず。故に書生の章句を治むるに倣はざる也。幼きときより撃劍を喜む。而れども技藝もて身を立つるは、固より欲する所に非ず。故を以て、亦た肯へて竟(仕)へざる也(赤城先生、天朝にのみ仕ふるの志あり。是れ處士たる所以なる可し矣)』と。

有司、微笑して曰く、「汝の言ふ所を以てするに、汝も亦た仕を求むる者、唯だ之を求む可からざるの日に求めざるのみ耳。汝、文學者流に非ずと雖も、亦た道を以て自ら任ず。儒と謂ひつ可し矣」と。試みに『大學』を講ず。有司の曰く、「果して其の名とする所に負かず」と。竟ひに之を釋(ゆる)す。是より正之、遂に家を辭して、日に遊歴を事とし、將に以て齒(よはひ)を沒せんとす也。




 保臣の曰く、三年の喪を行ふ、孝子の事、竟んぬ矣。

 保臣の曰く、正之公は儒者に非ず。然りと雖も又た學力無きに非ず
(原文「無學力」は、蓋し「非」を脱す――『眞木和泉守全集』下卷・平成十年五月・水天宮刊により、之を校す)唯だ實學なるのみ而已。至誠、人を感ぜしむ。

 保臣の曰く、堂々として大聲を發し、『大學』を講ず。音聲、雷の如し。甞て師に聞けり。



【按ずるに、正之の祖母は、天明六年丙午四月(六月二十四日)を以て沒す。時に正之、年方に四十也。或る書に曰く、「小さき藁を以てふける屋を作りて、是に獨居して、祖母の墓を守り居られしかば、村人、是を憐れみ、食品を携へ來りて贈る者有り」とぞ。或は祖母に喪するを以てするは、寛政元年己酉の歳と爲す者は、誤り也。叔父・正業、己酉閏六月十二日夜、詠む所の歌の題に曰く、「公のめしにて、今日、正之の喪屋を出て、江戸へ行ける、其の夜よめる」。歌に曰く、「かぎりなき 歎に喪屋を 思ひ出し わきて今宵は かなしかるらむ」。己酉は則ち寛政元年也。然れば則ち正業の歌は、則ち幕府の召に依りて、正之、江戸に出づる時の歌にして、服除の後なること也、知る可き也。】

【按ずるに、正之『富士山紀行』に曰く、「六月二十四日、祖叔父の許に着く。七月十二日、兄・正晴、江戸に來り、祖叔父の宅に逢ふ。正晴、此の時、弟・彦九郎儀、儒を以て業と仕り、惣髮帶刀いたし候ふ『御屆』を、代官所へ出す。代官・七郎左衞門、之を拒む。正晴、七郎左衞門と爭ひ、去つて家老・小林氏へ語る。小林氏の曰く、「儒を立つる人、知行所に出づること、殿の御外聞にもなる事なり。『屆書』出すべし」と有つて、右の『屆書』を差出す云々」と。此の事、本文の事と略々相類するを以て、因つて此に附見す矣。】

【按ずるに、頼子成・鹽谷世弘の著はす所の『正之傳』に曰く、「上毛の俗、素より博弈・健訟を喜み、常に正之の爲す所を嫉み、官に誣告して、官、之を獄に繋ぐ。獄胥、之に食はしむも、食ふを肯ぜず。已にして出づるを得たり云々」と。或る書に曰く、「官吏、其の人と爲りを怪しみ、江戸に召して問はせらる。「汝、何の故に、四方に遊歴するや」と。正之、答へて曰く、『其の古書に載する忠臣・孝子の事蹟を讀むに、感慨して涙下るに至る。親しく其の人を見るに於ては、猶ほ讀書に増さるべしと思へり。故に是を四方に訪ふなり』と。吏、其の實情を究問すること能はず。其の儘に、事、濟みける」とぞ。此の傳、本文と異同有り。因つて此に附見し、以て參考に備ふ焉と云ふ。】



■赤城先生『神祇道管領への願書』竝『允許書』・『靈神號扁額』

○願書
   武藏國旗羅郡長井莊臺村
  本願主  劒持長藏平正業
   上野國新田郡細谷村
  願主儒生 高山彦九郎平正之
   衣棚竹屋町下ル處
  取次儒生・東坊城家御用人 大島逸記源孟彪(高芙蓉)

 祖考・高山傳左衞門平貞正、其の先、葛原親王十代の後胤・高山三郎平重遠以來、世々上野國に居住仕り候ふ。其の後、因幡守平繁正、天正未年、歿落の以後、同國新田郡に籠居罷在り候ふ。祖考・貞正に至り、衰微、益々相極まり、故ゑ有つて、武州旗羅郡長井莊臺村に隱居仕り候ふ。明和三年丙戌夏四月二十二日を以て身罷り候ふ。元祿七年甲戌冬十二月二十六日出生仕り候ふ。年七十三。叔父・正業、祭奠を主り罷り在り候ふ。祖考・貞正儀、平生、好古崇神候ふ事、拔群に之れ有り候得ば、神道の禮を以て祭祀仕り候へば、祖考の神魂、安鎭(しづめ)んと、祖母及び叔父・正業、存せん。玄孫・正之、上京仕り候ふ。

 元來、大島孟彪、學友の事故ゑ、寓居仕り候ふ處、當正月十三日、朝の夢に、三田神社に於いて、淨衣・帽子、三神人、「伊賀鎭禮社」と書せらる。是れ即ち祖考・貞正神號にて、字訓「イガシ」と申す由、覺えて後ち覺え存じ奉り候へば、天神地祇の與へ賜ふ所か歟、亦た祖考・貞正、來りて致し候ふ所か歟、願ひの通り、神號成し下され候はゞ、忝き至り、之に過ぎず存じ奉り候ふ。然る上は、祖考神魂の安鎭、祖母老後の悦び、叔父始め一族の大幸、此の事に存じ奉り候ふ。其の上にて、叔父・正業、御門入り仕り、世々神道の禮を以て祭祀仕り候へば、此の上へ無き本望に存じ奉り候ふ。偏へに此の儀、御許容成し下され候ふ樣、願ひ上げ奉り候ふ。願書。
 天明三年癸卯二月十一日
  平 正之
  源 孟彪

○允許書
 宗源 宣旨
  伊賀鎭靈神 平貞正亡魂
右、靈號を宣授、者(てへり)。
 神宣の状、斯くの如し。
 天明三年二月十五日
  神部壹岐宿稱奉
 神祇道管領卜部朝臣(吉田良倶)

○宣授扁額(從三位岩倉右近衞少將(右權中將)源具選卿★の筆)
伊賀鎭

 

(★ 「岩倉具選(ともかず)卿は、殊に勤王の志厚く、皇室の式微を慨歎し、興復を以て念と爲し、名を風流に託して、詩歌書畫、篆刻管弦等の道に堪能にして、其の技を以て廣く四方の士人と交はり、潛かに衆中に於て同志を求めつゝありしが、一度び正之を見て、恰も舊知の如く親しく交はる。彦九郎は、京師に來る毎に、具選卿、必ず邸中に掩留せしめ、朝夕相談じ、深く結ぶ所あり。彦九郎屠腹の翌年に至り、卿は疾と稱して出でず、終ひに鐵漿(御齒黒)を以て齒を涅(くろ)くする事を停め、其の姓名を變じ、陽(いつは)りて文人と稱し、潛かに京師を出でて關東に漫遊し、幕府の形情を視察す。家に歸るの後、復た家事を治めず、爲めに人呼んで放蕩と爲す。寛政八年、關白鷹司政煕卿は、具選卿の行状を劾奏して、終ひに敕勘を蒙むるに至り、永蟄居を命ぜらる。明年、落飾して可汲と稱す。後ち文化十三年、讓位受禪の慶典に依り、敕勘を免ぜらる」(『高山彦九郎京日記』編者)と。具選卿を題材として、小説を書く者はゐないか。卿は長袖者流に非ずして、實に一代の英傑なる可し。曾孫に、贈太政大臣贈正一位・友山岩倉具視公を出す、亦た宜なるかな哉。)

 

 

 

■赤城先生『京日記』寛政二年十二月二十五日條(高山彦九郎先生頌讚會編『高山彦九郎京日記』昭和六年三月・參龍閣刊)に曰く、

昨夜、寢る。事ありて、すぐに起きて、早朝に行水し、麻上下になりて、謹みて鎭得靈神(「しとく」靈神は、赤城先生の祖母・大槻藤兵衞の女・りん子刀自)を拜し奉り云々。七萬九千百六十拜に至れり、及び十萬餘の拜と、‥‥早朝より夜に入るまで、座せるまゝ動かず云々」と。



■赤城先生の哥

――苫屋の透間より、雪のもれ入りて、讀み居たりける『孝經』に、ふりかゝりたりけるに。
いにしへの 道わけ詫びて ゐる喪屋の 苫よりもれて 雪はふりけり
降雪に ふるき昔の あととめて 洩れ入る喪屋に ゐるぞかなしき




●雀里新井小一郎正道翁編『高山芳躅誌』(大正十五年四月・雀里會刊)に曰く、

「神村(伊勢崎藩儒・浦野知周)、曾て門人に對し、『論語』を講ずる時、君(赤城先生)、偶々訪ひ來り、門人と均しく列次し聽き居たりしが、「景公、政を問ふに對へたまひ、君々臣々父々子々たり」の一段に及ぶ。君、潸然と流涕し、終ひに聲を放つて號哭せり。門人、傍らより「此の講談、左程に悲しきものにや」と云ふ。君、忽ち膝立直し劍を按じて、『景公の如き錦衣玉食の、世情に疏き公子さへ、「君子、名分を正す」の聖語に感激し、「食を絶ちて死なん」とこそのたまふに、かゝる講談を餘所に聞流すことの情けなさよ。畢竟、汝等は、皇國の糟粕、亂臣賊子(將軍徳川)の奴僕なるべし』と罵り、猶ほ數行の涙を拭ひしとぞ」と。



○愚案、高山赤城先生は、燈涙を剪つて學に勉むる讀書子であると共に、何より至孝の人であつた。其の熱祷は、至孝、神天を動かし、天明三年二月十五日と十月二十六日、神祇權大副正二位・吉田神祇道管領卜部良倶卿に請願して、祖父母の神號・壽號「伊賀鎭靈神・鎭得(靈神)」の宣授に成功してゐる。而して同年十一月、赤城先生は、吉田家に於いて神書皇道の講筵に會す。服喪は、天明六年八月二十四日より、寛政元年六月十二日に至れり。弔客、三千餘人に及ぶと云ふ。

 殊に敬神崇祖は、其の行旅に祖神の靈儀を體携して、常時、供饌菓果を薦め、出入、必ず之に拜禮することを例とした。且つ其の式事、禮拜稽首の度數に於いては、或は十萬餘を算することもあり、赤城先生、此の孝心の根柢あらばこその、「囘天創業、是れ斯の人」(大西郷の贊)、「忠魂一貫」(今泉定助翁の贊)・「至誠動天」(「今西郷」頭山立雲翁の贊)、無位の「眞人」(近衞文麿公の贊)である。
 



  • [6]
  • 上野の高山彦九郎を知らざるか乎。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月21日(日)16時02分56秒
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[本傳]天明季年(八年正月晦日)、京師、災ひあり。正之、之を聞き、馳せて京に赴くこと、晝夜兼行なり。夜、木曾山中を過ぐ。賊、數人有り。刀を拔き、正之を脅かさんと欲す。正之、目を瞋らし叱して曰く、『汝、上野の高山彦九郎を知らざるか乎。今、天闕に災ひ有りと聞き、馳せて之に赴く。汝輩、豈に我が刃を汚すに足らんや乎』と。賊、皆な慴伏す。後ちに巨賊、大阪の獄に繋がれ、自ら語れり、「平昔、未だ甞て恐怖する所ろ有らず。甞て木曾山中に在りて、人を要して劫を爲す。一丈夫に遇ひ、目を瞋らして我を叱す。之を憶ふに、今も猶ほ股栗(慄)するがごとき也。彼れ自ら高山某と呼ぶ。豈に所謂る天狗なる者か乎」と。此の時、田沼氏、既に罷め、白川侯(樂翁松平定信)、之に代り政を執る。改正する所ろ多し。



保臣の曰く、文事有る者は、必ず武備有りとは、之を言ふか乎。



【頼子成の曰く、「正之、嘗て將に上野に歸らんとし、獨行して、板橋驛に至れば、時、已に夜なり矣。二男子有り、橋上に在りて、相に嚮ひて臥す。兩尻高くして、頭凹めり。正之、念へらく、「蹈まずんば行く可からず」と。之を患ふ。已にして曰く、「是れ官道也。彼れ之を塞ぐは無状なり、蹈むも可なり」と。凹處を蹈みて過ぐ。其の人、乃ち起き竝び呼びて曰く、「誰れか吾が頭を蹈む者ぞ」と。刀を拔き、連鋒追撃す。正之、顧みて睨んで曰く、「喝」と。其の人、辟易して敢へて迫らず」と。或るひと説いて云ふ、「正之、山路を夜行かれしに、人の道路に寢たるに蹶きたり。其の人、驚きたる状して曰く、「誰れか我が頭を蹈みしぞ。皆々起きあがれよ」と、大聲揚げて呼ばはりける。時に月、山間に出でたり。正之、其の者の傍らに近寄りて、其が面を熟く見て云へけるは、「汝等、思ふに盗賊と見えたり。今ま天下太平なるに、何の苦しき事有りて、盗賊をなす。速かに業を改め、良民となるべし」と、教諭しければ、其の徒、數人なりしかど、皆な寂として辭なし。正之の勇猛、犯すべからざるを知れば也」と。

 余、嘗て聞く、「正之、中國を經歴し、天闕の炎を聞き、晝夜にして馳せ、京師に至る也。其の賊に遭ふも、亦た正に是の時に有りしか乎」と。然るに正之、四方を遊歴し、其の盗賊に遇ふや也、屡々なり矣。必ずしも一時に限らず。然れば則ち木曾・板橋等の賊も、亦た未だ此の事無しと爲す可からざる也。更に後考を俟つ焉。或る書に曰く、「或は正之に問うて曰く、「足下、常に孤行獨歩して、盗賊標奪の憂なきや」と。正之の對へて曰く、「今ま天下太平にして、四民、其の業を安んず。然るに一口を糊すること能はずして、盗賊をなす者は、皆な不義無頼の徒にして、恥を知らざるの輩なり。義なく恥なくして、勇なる者はあらず。僅かに飢ゑを凌ぐ迄の業なれば、固より生を捨つるの心なし。今ま屡々此の如き者に逢へども、皆な迯れ去りて、一も抗敵せし者無し」と云へり」と。此れを以て正之の、屡々賊に遭ふこと、見る可きなり焉。】



○愚案、天明八年は、赤城先生、祖母が服喪中なれば、乃ち此の天明季(八)年の上京は、蓋し有ること無かる可し。復堂本傳は、赤城先生の傳記なるも、編年に非ざれば、記事の前後するは已むを得ざる所なり。高山彦九郎先生頌讚會編『高山彦九郎京日記』(昭和六年三月・參龍閣刊)所收の「纂註京日記抄竝補遺」は、其の原書・矢嶋行康翁『玉能御聲』(小生未見)の抄録にして便利なるも、原書および新發見の日記への參究が必要不可欠であるは、固より云ふまでも無い。博雅諸賢の研究に期待したい。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/nikkiitiran.htm
 

  • [5]
  • 皇民の大義。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月20日(土)21時26分19秒
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[本傳]正之、長け八尺餘、鬚髯、神の如し。高邁、奇節有り。議論、英發、忠誠、人を動かす。其の書史を覽る、初め意を經ざるも、目を過ぐれば、則ち是非を剖ち、義理を析(と)くこと、精思する者の若し。甞て室直清(號鳩巣)の論著する所(『駿臺雜話』)を見、其の楠公を論じて、召に應じ、直ちに笠置に造(いた)るを以て、度量の足らずと爲し、諸葛亮が三顧して、乃ち廬を出づるの事を引き、以て之を議するに至つて、憤然として罵りて曰く、

『腐儒、何ぞ事を論ずるの迂なるや也。夫れ元弘の時、豈に三國(支那の魏・呉・蜀)と、年を同じうして論ず可けんや哉。劉漢の末、天下分裂し、豪傑、竝び起る。此の時に當りて劉玄徳なる者は、故(も)と履を販り席を織るの人、自ら稱して「帝室の冑」と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや哉。亦た猶ほ今世の奴僕が輩の、源平を號稱し、以て自ら誇る者のごとき也。孔明の三顧して出づるは、我が心に於いて、猶ほ以て速しと爲す。百顧・二百顧を累(かさ)ぬと雖も、猶ほ未だ緩(おそ)しと爲さず焉。楠公の如きは、則ち是に異る。赫々たる天朝は、神器の在します所、六合の仰ぎまつる所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳へたまふ。普天率土、孰れか皇民に非ざらん。而して楠公は、則ち廷臣(左大臣正一位・橘諸兄公)の裔にして、畿内の民也。召命無しと雖も、豈に國家の難を視て、恬然として自ら安んず可けんや哉。天皇、蒙塵したまふを聞かば、奮然として袂を投じて起つ。安んぞ彼の諸葛が輩の爲すに效ふを得んや也。書を讀むこと是の如くんば、百萬卷と雖も、何の益かあらんや乎』と。

其の書を取りて、之を堂下に投ず。




【頼子成の曰く、「正之の人と爲り、白皙精悍、眼光、人を射、聲、鐘の如し」と。鹽谷世弘の曰く、「隻目、紫稜有り。爛々として人を射、聲、雷震の如し」と。此れ固より然る也。然るに子成は、「小眇・小丈夫」と記す。世弘は、「其の人、短にして皙」と言ふ者は、誤り也。柴邦彦(贈從四位。栗山)『正之を送るの序』に曰く、「生れながら劒を喜みて、學を好む。身長八尺、高髻、梁を押して、面、紅玉の如し云々」と。夫れ邦彦は、親しく其の人を見て之を記す。其の實事爲ること、知る可きなり焉。余も亦た嘗て常陸に遊ぶの日、小沼實の藏する所の『正之の肖像』を觀て、所謂る活靈長者にして、邦彦の言ふ所と異なる無き也。子成・世弘、其の實に詳かならず、傳聞の誤りを妄信する者也。】



○愚案、高山赤城先生を、山陽外史は「白皙精悍・一の眇たる小丈夫」と云ひ、鹽谷宕陰翁は「短にして皙」と云ひ、贈正五位・齋藤拙堂翁は「短小精悍、皙きこと女子の如し」と形容するも、それは水戸の徂徠學派・立原翠軒の肖像を見誤りしものにして、菅茶山翁『筆のすさび』に、「其の人(赤城先生)、鼻高く、目深く、口ひろく、たけ(長)たかし。總髮なり」と云ひ、亦た柴野栗山先生『高山仲繩を送る序』に、「身長八尺、高髻、梁を挿して、面、紅玉の如し」と云ひ、池大雅翁寫生の「肖像畫」、竝びに新井雀里翁編纂『高山芳躅誌』(大正十五年四月・雀里會刊)に、

「伊勢崎の醫員・岸昌榮と云ふ者、曾て君(赤城先生)と甚だ親善にして、君、伊勢崎に來るや、必ず投宿す。其の宿する、大に人と異なり。寒暑を論ぜず、覓むる所、必ず定規あつて、蒲團一枚・机一隻・燈一□[火+主]を借るのみ。家人、深更に其の室を窺へば、蒲團上に端坐し、燈下の机上に對し、看書、又は運筆するを見るのみ。來り投ずること數十囘、皆な一樣なり。

 或る時、深夜、婢、厨下に火口を捜索すれども、無しと云ふ。家人、明日を待ち買はんと欲す。君、乃ち婢を呼び、色を正して、『片時も無くて叶はぬもの、至大なるものにては、天皇、至小なるものにては、火口なるぞ』と云ひつゝ、行李より火口を取出し與へしとぞ。

 昌榮、偶々君の容貌を話するを聽くに、「身の長け高く、總髮にして、眉毛太く長し、眼鋭く、鼻隆く、肩怒り、脣厚く、口大に、頬骨荒れ、顔色赭く、鬚髯美しく、音聲遠く響き、情義、極めて懇切なれども、何となく怖ろしき容態あり。雙刀・衣服とも儉素にして、禮義、究めて鄭重なれども、自から昂然として、凡人とは見えざりし」と」

とあるを確實とすべく、其の錯誤を明かにしておきたい。最近、美少年たる九郎判官義經公、實は出齒にして不細工なる男なりと喧傳する者もあるが、これも亦た同時代の、其の名も「山本九郎義經」の肖像畫を見誤りしもの、識者、之を指摘するも、如何ともする能はざるの勢なり。

 往昔、漢の張良は、力士をして百二十斤の鐵椎を擲たしめ、秦の始皇帝を博浪沙に撃ちて、天下を震駭せしめたるも、其の容貌、婦人好女の如くなりきと云ひ、亦た幕末の橋本景岳先生は、其の識見、古今に卓越し、果決よく亂麻を斷つの力量ありて、而も身丈、僅かに五尺、白皙纎妍、一瞥すれば、殆んど婦女子に似たりと傳ふ。震天動地の大事を能くする者、必ずしも魁梧奇偉の豪傑たるを要せず、所謂る英雄、首を囘せば、即ち神仙と云ふものであらうが、圖らざりき、赤城先生こそは、實は豪傑中の豪傑、小男優男に非ずして、二メートルを超える偉丈夫なりき矣。

 又た盗賊の親分の咄は、赤城先生に付きものであるが、其の場は、或は板橋宿と云ひ、或は木曾山中と云ひ、一定ならず。一説に、短小に見ゆとの盗賊の言を正見とするならば、蓋しそれは、赤城先生の守護せし童子眷族の類にして、賊を股慄せしむる程の大喝を發せしに非ざるか、得て知るべからざるなり。
 

  • [4]
  • 戀闕の人。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月19日(金)18時59分11秒
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[本傳]正之、幼にして孤、祖母の鞠(やしな)ふ所と爲る。年十三(寶暦九年)、『太平記』を讀み、中興の忠臣、志業の遂げざるを見て、慨然として憤を發し、功名の志有り。年十八(寶暦十四年三月十五日)、京師に游び、書を讀むこと二歳なり。然る後ち乃ち出でて都下の諸生を見る。交道、日に廣く、聲名、籍甚たり。高門・巨室、多く布衣の交を爲す。天朝の名卿・中山大納言[愛親(なるちか)卿]も、亦た其の人と爲りを奇とし、善く之を遇す也。是に於て正之、劒を仗つき四方に周游し、至る所ろ必ず賢豪・長者と交はる。此の時に當りて田沼氏、政を江戸に爲す。風俗、大いに敗れて、侈靡、日に甚だし。識者、竊かに憂ふ焉。正之、乃ち上野に歸る。



 保臣の曰く、正之公の風致、愛す可し。又た勇氣凛々、氣象、想ふ可し。

 保臣の曰く、正之公の榮風、誰か之に如かん。

 保臣の曰く、田沼氏は、正之公の罪人なり。




【按ずるに、鹽谷世弘(贈正五位。宕陰)の著はす所の『正之傳』に云ふ、「正之、時を同じうして蒲生秀實(贈正四位・脩靜)なる者有り。其の志趣も、亦た正之と克く肖たり。二人の王室に志す有るは、皆な少き時、『源平盛衰記』を讀むに□[日+方。はじ]まる云々」と。余の謂ふ、「『源平盛衰記』を讀む云々」は、則ち世弘が傳聞の誤り也。且つ秀實の事は、亦た平田篤胤『古史徴』に之を載す。亦た曰く、「少き時、『太平記』を讀む。篤胤と秀實と交道す焉」と。其の記す所は實事爲ること、知る可き也。】

【按ずるに、正之、京師に遊び、一封を祖父(傳左衞門貞正)に遺す。予が友、上野の人・櫻任藏は、正之が祖父に遺すの眞跡を獲たり。其の文(『祖父に奉る置文』)に曰く、

一通を呈し奉り候ふ。拙者、京都へ罷出で候ふ。此の儀、申し上げ度く存じ奉り候得共、却て御留め成さる可く存じ奉り、竊かに罷出で候ふ。京都に知人御座候ふ間(而)、此の人の方へ罷越し申す可しと存じ奉り候ふ。必ず々ゞ御按事成し下さる間敷く候ふ。

一つ、帶刀は學者の法に御坐候得ば、一と通り言上仕り、大小頂戴仕り度く存じ奉り候得共、此の儀、申し上げ候はゞ、罷出候ふ事、御留め下さる可しと存じ、竊かに藏中の御寶物、備前兼光の刀・菊一文の脇差取出し、帶刀仕り罷出で候ふ。何卒、此の御寶物、拙者へ御餞別と思召し下さる可く候ふ。拙者、學文三四年も仕り、罷歸り候うて、慈顔を拜し奉り候ふ。謹言。三月今夜、彦九郎。祖父樣
』と。

且つ櫻氏の云ふ、「正之、京師に遊學するは、年、方に十五也」と。未だ孰れか是なるを詳かにせざる也。(以下、欄外に在り)再び考ふるに、正之の母、明和二年乙酉の歳の秋七月(十日・享年四十。赤城先生、二十三歳の節、父横死すと云ふ。明和六年七月二十日沒。享年五十三)に沒せられ、正之、京より故郷に歸らる。此の時、正之の歳、十九歳なれば、十八の時に、京に參ゐ上られしなれば、其が翌年の七月に歸られしなるべし。然れば「書を讀むこと二歳なり云々」の文は合はず。櫻氏の説の如く、十五歳の時なるべく思はるゝめり。】

【按ずるに、鹽谷世弘の著はす所の『正之傳』に云ふ、「武人俗吏、或は理に昧く、勢ひ、天朝を視まつること有る無きが若し。焉れより甚だしきは、俗儒の徒有り。唐山を慕ひ邦制を蔑視し、筆札を弄し名分を亂る。頗る世人を煽惑するに足る」と。正之、慨然として曰く、『環海萬國、唯だ我が皇統のみ、萬古、革まらず、眞に神州也。豈に彼の朝秦暮□[三水+黄]、腥羶の邦と、日を同じうして語る可けんや哉』と。深く皇室を尊崇するに志す有り。嘗て京郊を過ぎ、足利尊氏の墓を問ひ、其の大逆に聲して、之を數めて曰く、『而ち何物か、敢へて忠良を害し、皇子を□[状の左+戈]ち、萬乘の君を虐する』と。罵り且つ碑を鞭うつこと三百、然る後に毎に平安に入り、先づ三條の橋上に至り、皇闕を遙望し、地に跪づき再拜して曰く、『草莽の臣、高山彦九郎、京に上りまつる』と。途人、頗る□[言+華]笑するも、以て意と爲さず。至つて其の同志と、王家の事を語り、慷慨潛漓、聲涙、倶に隨ふ。頼子成(贈正四位。山陽)の言ふ所も、亦た之に同じ。余、嘗て正之の『日乘』を閲するに、亦た曰く、『平安に入るの日、三條橋に至り、鴨川に浴沐し、宮闕を遙拜し云々。其の京師に在るの日、毎に禮服を着し、宮闕を拜す云々』と。其の皇室を尊崇するの誠、骨髓に徹し、未だ曾て須臾も忘れざるの實、見る可き焉也」と。】

【頼子成の著はす所の『正之傳』に曰く、「一權人、利を專らにす。中外愁怨するも、而れども敢へて言はず。正之、同志と語り、涕を攬(ぬぐ)ひて曰く、「噫、公上、百、然らざる也。今ま故紙を按じて幟と爲し、山廟の門外に樹(た)てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得可し。豎子を誅するに於いて、何か有らん」と。聞く者、耳を掩ふ。其の後ち弊事、悉く革まり、一號令の出づるを聞く毎に、喜び、邑に形(あらは)る云々」と。按ずるに、子成の謂ふ所の一權人なる者は、蓋し田沼氏を指すに似たり也。因つて此に附見すと云ふ。】



■赤城先生の哥

――寶暦十四年詠
東山 上りて見れば 哀れなり 手の平らほどの 大宮どころ

――天明二年三月十九日、服部氏語りける。「神道の物語に及びたる時に、ある神學者の、人に神書を貸す。始めに示しけるやうは、「神書を見るは、國恩を報ゆるといふ心を以て見ざれば、此の書は分らず」といひしと申す。神道といふは、天子御味方の連判帳の如し。神道ならずとも、天子を戴き、國恩を報ゆるは知れたる事なり」と、服部氏語るに、予いひけるは、「四衰へ名分を亂るに及ぶ故に、其の説、起るなるべし」。など名分大義を亂るの學者、世に多きを歎息してよめる。
古しへを 仰げば高き 我國の 道の教を かゝるべしとは

――天明三年正月二日暮に及むで、江口圖書來る。予も熨斗目麻上下にて、江口氏と同じく、下立賣御門を入りて、院參町東坊城勘解由長官(非參議正三位・菅原益長)殿へ入り、布衣きて、禁裏唐門より入る。杉山氏なるもの、案内す。高辻家の家士のむれ居る所にて、大禮の初まるを待つ。斯くて坊城殿、庭上に謁しけるに、兼ねてより知りぬとて、親敷く紫宸殿前庭上を引廻られ、御節會大禮の式を示されける。月花(華)門の邊りにて、平田若狹守なるものに、御節會拜見あるやうに頼みありて、昇殿せらる。内辨は鷹司左府(左大臣・輔平公)殿、上卿は大炊御門廣橋・滋野井廣幡殿とぞ見えし。仰げば天象明らかに星の位正しく、是れぞ、皇統綿々・寶祚長久のしるしと嬉しく、手の舞ひ足の踏む處を知らずぞ有りける。思はず進み寄りて居りけるに、‥‥陣の座より拜し、、舞踏立ち樂迄、殘る處なく拜見して、萬歳樂をよめる。
七重八重 袖に包まん 九重の 雲井をもるゝ 萬代の聲

――土佐の貞婦・横田氏の妻、よめる歌の「神風」といへる言の葉をとりてよめる。
神風の いせの濱荻 筆の海 くみてぞ思ふ 大和歌人

――天照太神の詔に、「豐葦原の中つ國は、吾が兒のしらさん地なり云々」と有りけるに、恐れみ畏れみ敬み謹みてよめる。
神風に なびくや廣き 天が下 民の草木の 數ならぬ身も



●贈正五位・志濃夫廼舍橘曙覽翁の哥(『松籟艸』所收)

 

――高山彦九郎正之。
大御門 そのかたむきて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 眞心たふと



●正三位・西郷南洲翁の詩

 

――彦九郎を詠める。

精忠純孝、群倫に冠し、

豪傑の風姿、畫圖に眞なり。

小盗、膽驚く、何ぞ恠むに足らむや、

囘天、業を創むるは、是れ斯の人。



●森銑三翁『高山彦九郎』(『森銑三著作集』第九卷――近世畸人研究――昭和四十六年五月・中央公論社刊に所收)に曰く、

「奇士とか、奇人とかいふところからして、彦九郎を以て、常軌を逸した、奇行ばかりを演じてゐる、奇人傳中の人のやうに思ふならば、それは大きな誤で、むしろ反對に、行の正しい實直な人だつたのである。旅行の折などにも、行く先々で歡迎せられたことは、「適(ゆ)く所として、愛敬せられざる莫し」と、『續近世叢語』に記されてゐるほどで、彦九郎は、世間的な、いはゆる奇人などいふ人々とは肌合ひを異にした、信頼するに足る人物だつたのである」と。



●保田與重郎翁『日本語録』(昭和十七年七月・新潮社刊)に曰く、

「京都三條橋上より皇居をふし拜み、『草莽の臣・高山正之』と唱へた、この傑人の志は、天下に志ある人士の生命の原理となる思想を、白日の如くに表現したといふことが、今日では一段と明白になつた。わが國の臣の志を述べた思想として、又た文學として、高山彦九郎の、この一句より深いものはないのである。彼が何を思ひ描いた末に、草莽の臣と唱へて慟哭したか、この點を今日考へるがよい。

 この瞬間に、我が國民の草莽の志の中に、一本の筋金の如くに、神ながら、わが大君より傳る光は、貫流するのである。わが大君と、みたみわれの中間には何ものもないといふ自覺、神ながら、わが心に鎭り坐すといふ自覺こそ、あらゆる創造と、その表現と、その激しい行爲の根源である。我々の生命の原理は、こゝにあるのである。それは教へることも、説く必要もない、それをいのちの原理として生きるのが、わが古の道の教へのまゝに、君に仕へ國に報いうるのである。もしその契點を失つたとき、彼らは、わが自我を根柢とする時務の愛國論を、たとへ説き得ても、それは命の原理を了知せぬゆゑに、すでに死した精神の言擧に他ならぬのである。

 我々が『草莽』であるといふ深奧な思想の自覺を教へたのは、高山正之であつた。これほど偉大な思想の行爲は例のないことであつた。彼の志は、今日も生きてゐるのである。勤皇の思想と行爲の中で、最も明らかにそのまゝに生きてゐるものは、この純粹な高山正之の精神である。高山彦九郎の出現こそ、近世勤皇史の、嚴密な意味では第一頁におくべきものであつた。今日も我々は、高山彦九郎を思ふとき、感動と嗚咽を思ふのである。彼の志と精神こそ、今日の我々の生命の原理である」と。



○愚案、「其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚だしき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一も誤らず」とは、菅茶山翁『筆のすさび』に云ふ所、先生は、將に我が國史が生んだ、皇御民であつた。事、皇室の御事に話が及べば、はらゝゝと涙を流す光景は、小生の學生時代、帝都青々塾に於てよく目にしたものであり、珍しくは無いものゝ、其の源流の近き一例を、赤城先生に見るのである。

 我が忠良臣道の龜鑑にして儀表、高山赤城先生を思ふとき、感動と嗚咽を覺えざる者、即ち「わが自我を根柢とする時務の愛國論」を展開して已まない所謂保守は、畢竟、君臣父子の大義に透徹すること能はず、皇國の歴史の組立てに與かることを得ないものとして、之を諦めなければならぬ。而して自ら任じて立ち、赤城先生の精神に生きんと欲する者こそ、此の平成の聖代に、皇國中興を唱道することが出來るのである。其の責任は、亦た重いと謂はねばならぬ。
 



  • [3]
  • 勤王の家の子。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月18日(木)19時55分12秒
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[本傳]高山正之、字は仲繩、彦九郎と稱す(號赤城・金山)。上野新田郡細谷(ほそや)村の人也。其の先、遠江守某は、建武の亂(ママ)に、左中將源義貞に屬して、王に勤む。所謂る十六騎黨の一也。新田氏は、足利氏の滅ぼす所と爲るに及び、遠江守の裔は、遂に微にして民間に在り。然れども其の世々郷里の舊姓爲るを以て、故に降りて編戸(庶人)と爲ると雖も、猶ほ常に雙刀を佩ぶ。官、之を禁ずる莫し也。

 父を正教と曰ふ[良右衞門と稱す](有馬正義先生所據の本文に曰く、「母は劒持氏、延享四年丁卯の歳(五月八日)を以て、正之を生む」と。亦た彦八と稱す。母は劍持重左衞門則康の女・繁刀自なり)。膂力、人に絶す。出づる毎に必ず僕をして弓矢を負はしめ、數々山野に游獵す。時に或は猛獸を格殺す。人、其の勇を稱す。




 保臣の曰く、正之君の祖先、王に勤めたり。正之公の勤王も、亦た一層親密なり。其の事實、本書を讀めば、了然ならん矣。



【按ずるに、正教に、三男三女有り。伯を正晴と曰ひ、仲は則ち正之、一女は先に夭し、一男は後に殤す】



■赤城先生『楠公の墓前に於いて敬録す』に曰く、

嗚呼、南朝(ママ)の忠臣・楠氏。嗚呼、北朝の國賊・足利氏。我が祖・高山遠江守(高山三郎平重遠)、南朝に奉仕す。大いに王に勤め、國策を唱へ、尊氏(ママ)を難苦すと雖も、終ひに尊氏を滅盡する能はず。實に百代の遺憾有り。憤怒、停まる時無し。則ち正成の墓前、砂上に尊氏の首を描き、其の首一百囘、鞭打つ。以て楠公に謝し、勤王の素志を表はさん矣。天明二年壬寅孟春初七日、楠公の墓に謁して敬みて録す。草莽之臣、高山正之」と。



○愚案、建武の「亂」は、必ず「變」とも謂ひつ可し矣。九重雲上御發動の御計劃に、亂とは、抑々何事ぞや。亦た「南朝」とは、所謂る北朝側からの呼稱にして、天下唯一の天朝は、神器の在す所、吉野に大坐しませり。朝廷、自ら南朝と稱すること、絶えて無し矣。亦た足利「尊氏」、叛逆後も自ら尊氏と潛稱すると雖も、天朝の文書に記す所、且つ大義名分の指し示す所、正しく「高氏」と書す可きなり矣。



【逆賊の首――足利三代木像梟首の述志】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1308
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1314
 

  • [2]
  • 嗚呼、囘天創業の首倡者、贈正四位・高山赤城先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月17日(水)23時16分32秒
  • 編集済
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■□■明治天皇御製■□■

國のため こゝろ盡して 高山の いさをもなしに はてしあはれさ



――照憲皇太后御歌――
ながらへて 今世にあらば 高山の 高きいさをゝ たてましものを

――有栖川宮熾仁親王御歌――
高山の いさを思へば 大方の 人にこえたる 人にぞありける

――有栖川宮妃御歌――
大御代に 心つくして 高山の いさをは世々に 鏡とぞなる



■『御沙汰書』

一、高山彦九郎。
草莽一介の身を以て、勤王の大義を唱へ、天下を跋渉し、有志の徒を鼓舞し、世の罔極に遭ひ、終ひに自盡して死す。其の風を聞きて興起する者、少なからず。其の氣節、深く御追賞在らせらる。之に依り、里門に旌表し、子孫へ三人扶持、下し賜り候ふ事。明治二年十二月。太政官。

一、高山彦九郎。
草莽の身を以て、勤王の大義を明かにせしは、曩に御追賞あらせられし處、今般、御巡幸の際、殊に追懷あらせらる。仍つて爲祭資目録の通り、下し賜り候ふ事。明治九年六月五日。右大臣・岩倉具視。

一、故高山正之。
特旨を以て、正四位を贈られ候ふ事。明治十一年三月八日。太政官。

一、今般、高山神社創建に付き、思召しを以て、金八百圓、御寄附遊ばされ候ふ事。明治十一年三月十九日。宮内省。



●寒林平泉澄博士『明治天皇の聖徳』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、


「高山彦九郎は、上野(群馬縣)の人、十三歳にして『太平記』を讀み、慨然として志を立てました。家の系圖に、先祖は新田十六騎の一であつたとあるを見ては、感奮、禁ずる能はざるものがあつたのでありませう。備前兼光の刀と、菊一文字の脇差とを帶びて、ひろく天下を周遊し、仁人義士を尋ね、國體の明かならず、皇威の衰へた事を歎‥‥寛政五年六月二十七日、久留米に於いて自決して果てました。流浪、四十七歳の一生は、當時の常識から見れば、只だ奇人としか思はれず、或はむしろ狂人に近いかと疑はれたでありませう。しかるに明治十一年九月、北陸巡幸の途中、群馬縣に入らせ給ふや、明治天皇は、高山彦九郎の玄孫・守四郎(愚案、赤城先生――常見儀助――恆太郎――石九郎正敬――守四郎正行)を行在所に召され、拜謁を許されたのでありました。曾て三條の橋に平伏して、泣いて御所を遙拜した高山の忠誠を、御嘉納あらせられたのであります。その人、逝いてより八十五年の後、天恩、枯骨に及んだのであります」と。

 


●楓廼舍名越時正翁『日本學入門――その形成と展開』(昭和五十四年四月・眞世界社刊)に曰く、


「彼(赤城先生)は、皇室の御衰微に悲泣し、徳川幕府、とくに田沼(意次)の弊政に憤激し、大義のために奮起する人を全國に探し求めた。彼は、明和元年、十八歳の時を最初として、數囘、帝都に上つた。都に入る時は、必ず三條橋のたもとに土下座して、皇居を拜し、『草莽の臣、高山彦九郎正之』と挨拶することを常とした。それは日記にも見えることだが、天明二年十一月十六日條(『上京旅中日記』)には、
禁門を拜し奉らむと、先づ、仙洞御所の御門前を經る。時に地上に稽首し奉る。日の御門をば向ふて拜し奉り、南門より公卿御門をば經るまゝに稽首し奉る。恐れみ恐れみ敬み謹み奉りて、帝位の尊きを仰ぎ奉りて、歸りて袴になりて他出す
と記され、その戀闕のほとばしりを伺ふことができる。またその翌年正月元旦には、御所内に入つて御節會の大禮を拜觀することが許されたが、彼は、『仰げば、天象明かに星の位正しく、是れぞ皇統綿綿、寶祚長久のしるしと嬉しく、手の舞ひ足の踏む事を知らずぞありける』(『京都日記』)と記してゐる。まして寛政三年三月、四囘目の入京の時、光格天皇が側近に、『高山彦九郎といへるものを知れるや』とのお言葉があつた。このことを聞いた時の、
われをわれとしろしめすぞや 皇(すべらぎ)の玉の御こゑのかゝる嬉しさ
と、狂喜して詠んだ歌は、實感をもつて察することができよう。その頃、彼はたまゝゝ緑毛のある龜を手に入れ、これを瑞兆として朝廷に獻上し、天皇・上皇はじめ、皇族・公卿にお見せしたことは、王政復古を願ふ彼の念願の表はれと考へられよう(皇室と國民との關係は、幕府のめぐらした垣を越えて復活し、接近してゆく)。


 彼は天顔を拜することができたが、一介の草莽の臣が、どうして御所中に出入りし、お姿を拜し得たのか、それは一見、不思議な思ひを懷くであらう。時は寶暦事件から、いくらも經つてゐない。當時、竹内式部(羞齋)の講義を聞いた公卿廷臣は、まだ少なからず存命してゐた。中でも彦九郎を最も厚遇した伏原宣條は、かつて崎門學を、桃園天皇に進講した一人であり、今は明經博士として、光格天皇の侍講であつた。彦九郎が正月の御節會拜觀を許され、その案内をしたのは、宣條の子・宣光であつた。また彼が、天皇に拜謁を許されたのは、寶暦事件で處罰された岩倉尚具の孫・具選の奔走によつたものであつた。式部を失つたあとの公卿たちが、高山彦九郎の出現をどれほど喜んだか、察することができよう。


 このほか、中山愛親は、正親町實連から埀加神道を學び、幕府の横柄を憎んだ硬骨派の公卿で、後には尊號事件で、幕府の處罰を受けた人である。また芝山持豐は歌人でもあつて、本居宣長と親しい間柄の公卿である。彦九郎は、これらの公卿廷臣からも、喜んで迎へられた。彼は、また大坂の中井竹山と、京都に學校を興す運動に奔走したが、竹山とは意見の相違もあり、このことは實現を見なかつた。


 彼は、天明六年八月、祖母が歿してから、墓の側に廬を建てゝ、叔父とともに三年の喪に服したが、その期間以外は、ほとんど毎年、席の温まる暇なく旅行し、しかも詳細な日記を作つた。備後の菅茶山は、彦九郎の來訪を受けたとき、『其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚しき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一つも誤らず。亂世には武者修行と云うて、天下を周遊するものあり。今、治世なれば、徳義學業の人を尋ねありくも、少年の稽古なりとおもひて、六十餘國を遊觀せんと志し』たと言ひ、そして人を尋ねるのは、『忠孝の事より外にては候はず』と語つたと記してゐる。彼は旅行するに當つて、ほとんど金錢を使はず、一枚の袷衣に大刀を差し、夜は野宿を常とした。たまゝゝ山中で盗賊に遭つたとき、唯一喝を加へただけで、賊を震へ上らせたといふ。その交つた人物は、地位・身分・學派等には拘はらなかつたやうだが、志の通じたのは、やはり崎門と水戸學派が多かつた。


 京都では、望楠軒の西依成齋、久米訂齋、谷秦山の孫・伴兄(採薇)、その伴兄と會つた家の主人・玉木愼齋も、崎門であらう。谷川士清(淡齋)の門人で、安藝の神官・唐崎常陸之介(赤齋)との出會ひは餘りにも有名で、その交はりも深かつた。甲州では、加賀美櫻塢と會ひ、山縣大貳(柳莊)の話を聞いて景慕してゐる。また柴野栗山・皆川淇園・頼春水・細井平州・荒木田久老・岡田寒泉等とも交はつた。彦九郎は、かねて水戸義公を景慕し、江戸の水戸邸にも出入りしたが、最も早くから交つたのは、地理學者・長久保赤水である。但し赤水は、彦九郎から『義公以來、水戸家は名分を正すと、兼ねては聞けり。徂徠・春臺を法とする事なかれ』と、手痛い忠告を受けた。また赤水から、神童・藤田幽谷のことを聞くと、寛政元年六月、江戸で面會して大いに激勵したが、翌年、水戸を訪れて、幽谷の宅で、大義の談をなしたといふ。


 彦九郎は、かねてロシヤの蝦夷侵入を憤つて、自ら彼の地に渡らうとし、この年、水戸から北上して三厩に達したが、船の便を得ず、斷念して引き返し、途中、仙臺で、林子平(六無齋)・藤塚式部(鹽亭)を尋ね、年末に京都に着いた。


 彦九郎は、寛政三年九月以降、九州各地に遊歴して有志を尋ねた。そして五年六月、三たび久留米に來て、十九日以來、櫛原の森嘉膳(思齋)の家に滯留したが、その二十七日、携行した文書類を全て引き割いて水に溶かした上、突然、切腹自刃を計つた。嘉膳の手記には、切腹した後に、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひしこと、皆、不忠不義のことになれり』と述べ、端然と坐して、帝都と故郷の方を拜し、やがて絶命した、と記してゐる。年、四十七歳であつた。


 彦九郎の謎の自刃は、尊號一件(★)を聞いたためであらうと、今日は推察されてゐる。彼の最期は、これを聞いた人々、ことに彼と親交を結び、彼の激勵期待を受けた人々に、言ひやうのない深刻な衝撃を與へた。彼との再會を一日千秋の思ひで待つてゐた藤田幽谷は、涙ながらに彦九郎を祭つて祭文を讀み、唐崎常陸之介は、直ちに久留米に駈けつけて墓前に號泣し、歸國して同志を集めて運動中、幕府の探索を受け、寛政八年十一月、竹原で割腹した。爾來、高山彦九郎は、勤王家の熱烈に仰望するところとなり、世を導いた力は、生前・死後の別がなかつた。

 

 彦九郎が、天明七年に、祖母の墓前で詠んだ、
おのがまゝしげりし草も夏を經て 朽行く秋のはじめとはなる
は、後水尾天皇の「葦原やしげらばしげれ」の御歌を意中に置いたものであらうが、幕府の滅亡を祈つた彼の念願を汲みとることができよう。


(★ 光格天皇は、御父・閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊號をたてまつらうとお考へになり、これを幕府に傳へられたので、松平定信は前例を調査したところ、御即位なくして太上天皇と稱することは、國體名分上、正しくないと判斷して反對した。これが意外にも朝幕間のもつれとなり、寛政五年三月、中山愛親・正親町公明兩前大納言の處罰といふ事態に至つて、やうやく落着した)」と。

 

 


○愚案、幕府專權の日に在つて、高山赤城先生遙拜の姿は、斷哭絶慟の悲しみを顯せしものなり。即ち

盥嗽し禮服にて(明の方を拜し)、恐れみ惶れみ敬み愼みて、帝京の方を拜し、寶祚長久を祈り奉りて、諸神の拜、祖先の拜に及ぶ事、常の如し」(赤城先生『日記』集成)。

吉田松陰先生『松下村塾規則』に曰く、

「一、晨起盥梳、先祖を拜し、‥‥東にむかひ、天朝を拜する事、假令ひ病に臥す共、怠るべからず

と。松陰先生の嚴命する所、三條戀闕の志を繼ぐ者の已む能はざる所、吾人、中今の現に在つて、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。


 嗚呼、高山赤城先生、何としても現代に蘇つて戴かねば、戰後の闇は照らされぬ。□[糸+遣]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、至誠、自ら已む能はざる所より、勃々然として湧き起る「戀闕勤皇のこゝろ」、即ち三條遙拜の實踐から、事は始まる。再言す、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。
 



  • [1]
  • 嗚呼、高山赤城先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 4月 7日(日)15時41分29秒
  • 編集済
  • 返信
 
――參考・宮城の方位――
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【參考・宮城遙拜詞、竝びに作法】

宮城遙拜の際は、宮城の方位に向かひ、嚴肅に「最敬禮」を行ふこと二囘

掛けまくも畏き
天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹み敬ひ
遙かに拜(をろが)み奉らくと白(まを)す


「二柏手」、「一拜」



【參考・宮城參拜詞、竝びに作法】

宮城大御前にて、直立「禮」、三歩進み「最敬禮」二囘

掛けまくも畏き
天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹み敬ひ
拜(をろが)み奉らむと白(まを)す


「二柏手」、「一拜」、三歩逆退「禮」、右に廻りて歸途につく



 去んぬる平成二十四年壬辰三月二十四日、帝都に於いて、「三條の會」の結成を見たり。其の主旨に贊同し、之を宣傳せむとす。

【嗚呼、高山赤城先生】
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 なほ[本傳]は、かつて訓讀入力せしもの有るも、櫻花爛漫の候は、例年の如く、小生の體調、芳しからず、些か時間を戴きたう存じます。
 


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