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  • 古籍復興。

  • 投稿者:備中處士
 
――贈正五位・青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽大人――

吾欲守節如杉之直

古書(ふるぶみ)の かつゝゝ物を いひ出る 御世をつぶやく 死眼人(しにまなこびと)

廢(すた)れつる 古書どもゝ 動きいでゝ 御世あらためつ 時のゆければ

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  • [8]
  • 八紘爲宇、世界皇化の爲めに‥‥。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月27日(日)20時56分24秒
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~承前~

●黒龍會編『東亞先覺志士傳』(昭和十一年)に曰く、

「[樽井藤吉先生]號は丹芳。嘉永三年四月十四日、奈良縣宇智郡南宇智村大字靈安寺に生る。明治元年、『五箇條の御誓文』に感奮して、東京に上り、井上頼圀の神習塾等に學んだ。明治十年、西南の役に際しては、これに呼應すべく、東北地方に赴いて、大いに劃策するところがあつたが、目的を遂げなかつた。明治十五年五月、長崎縣島原に於て、同志らと「東洋社會黨」の結黨式を擧げ、『社會の平等と、公衆の最大利福』を綱領に、來會者數百名を得たが、翌月、内務卿より、結社と集會を禁止された。これに屈せず、翌十六年一月、多少の修正を加へて、『東洋社會黨々則草案』なるものを公表、集會條令により、投獄處罰せられた。出獄後、『佐賀新報』に入り、副島種臣の知遇を得た。朝鮮・シナの問題に挺身すること多年、下獄數囘に及んだ。玄洋社の頭山滿・黒龍會の内田良平らと提携、また韓國志士金玉均らと同盟した。明治二十五年、奈良縣より衆議院議員に選出せられたが、一期にして斷念した。明治二十六年、『大東合邦論』を公刊。したがつてこの書は、本人が國會議員現職中の刊行であつて、決して無責任な放言空語でないこと、またその決意と勇氣の深さがよくわかる。晩年は、大和五條に歸臥。天忠組の爲めに、『明治維新發祥地記念碑』の建立を發願(愚案、平成二十五年は、天忠組の義擧一百五十一年なり矣)、その實現に努めたが、中道にして病に斃れた。後人、その篤志に感じ、後に天忠組擧兵の史蹟たる元代官所跡[町役場]の一角に、立派にその碑を建立した。大正十一年十月二十日逝去、享年七十三」と。



 本日、倉敷市に於ける「日本(やまと)心の集ひ」に參加。其の席上、大東塾の都羅山人・三宅萬造翁の令孫より、難有いことに圖らずも、影山正治翁『現代譯・大東合邦論』の貸與を得た。現在は絶版の由。

 『大東合邦論』試訓の折は、影山翁の和譯あるを知つてはゐたものゝ、收むる所の『全集』第十七卷は有つてをらず、蠻勇を奮つて訓讀はしたが、正直、自信の無い所もあつて、些か忸怩たるものがある。然し貸與されし翁の御本は、訓讀に非ずして、現代語譯であつた‥‥。然し昭和三十八年に在つても、翁は「日韓問題の書・昭和維新への參考書」であるとの仰せ、歡喜雀躍、大いに我が意を得た次第である。蓋し是れ、影山翁が小生に、丹芳翁の志を紹介せよとの幽啓なりと信ずる。嗚呼、命なるかな哉。

 實は寒林平泉澄先生も、日本の將來の再建には、日韓の聯盟が、畢竟的に必要、先生は其の紐帶を視野に容れられてゐたと、先輩から聞いたことがある。虎童村尾次郎博士が、日韓文化協會に關係してをられたのも、蓋し道理である。嫌韓反韓の風潮も分らぬでは無いが、韓國の我への無禮は、今に始まつたことでは無い。否、幕末・維新の頃は、むしろ現代を遙かに上廻ると申してよい。明治の先人は、百の承知の上で、日韓聯盟、或は合邦を探つてをられたのである。歐米思想への過剰なる傾斜依存は、實に危きかな哉。

 かつて朝鮮人に讀まるべき書は、平成の現在に於いて、日本人にこそ讀まるべき書と謂はねばならぬ。抑も皇國には、天上將來、固有の皇道あり矣。日本人には、皇業翼贊の道を弘むる天命ありて、其の實踐の中にこそ、宇内の平安彌榮あり。歐米流の「普通の國」、即ち功利覇權に墮するは、必ず不義亡國の道なること、火を睹るより炳かなりと知る可きなり。



●影山正治翁『現代譯・大東合邦論』(昭和三十八年三月・大東塾出版部刊)の「例言」に曰く、「

一、樽井藤吉著『大東合邦論』は、日韓兩國の民間有志に、日韓合同運動の根本理念を與へた歴史的名著‥‥

一、本書は、明治中期の刊行物としてはめづらしく、漢文を以て書かれて居る。それは、特に朝鮮人・シナ人に讀みやすからんことを期したためであつた。‥‥

一、本書の發賣書店は、内地では、東京の丸善書店と大阪の前川書店、シナでは、上海・天津・漢口・重慶・福州の各々樂善堂、朝鮮では、仁川の朝鮮新報社であつた。樂善堂とは、岸田吟香を主宰とする、當時有名な日本人有志の在支活動機關で、表面は賣藥を業として居た(愚案、再刊は、丸善・京城の日韓書房・北京の順天時報社なり)。

一、本書の根本主旨は、「世界連邦」實現の大理想を前提としての「アジア連邦」實現を考へ、その「アジア連邦」實現の前提として、先づ「日韓連邦」の實現を念ずるところにあつた。それを以てアジア復興・世界維新の根底としようとしたのである。それは最も純一無雜に理想され、祈念されて居たので、日本への朝鮮の併合など、つゆいさゝかも考へられてゐなかつた。兩國合邦に當つては、それゞゝ「日本」・「韓國」の國名をのこし、その上に總名として「大東」國と名乘ることが提唱さた。この故に「日韓合邦」と云はず、「大東合邦」を以て稱したのである。徹頭徹尾、道義的・大乘的・王道的であつて、その間、一點の侵略的・野望的・覇道的臭氣も存しない。この理念を信奉して、獻身盡瘁した代表的人物は、日本側に於て國龍會主幹・内田良平、韓國側に於て一進會々長・李容九兩先覺であつた。

一、いさゝか事態を明らかにするため、こゝには、三つの書物から、關係部分の引用を行つて置く。
①、黒龍會編『日韓合邦祕史』上卷(昭和五年)に曰ふ、
「李容九‥‥[明治三十九年九月下旬の某日]午後十時に及びて、單身内田[良平]を叩きたり。内田、乃ち寒喧を敍するを省き、謂ひて曰く、『若し一進會の方向にして、予の所見と一致せば、宋[秉畯。李容九の參謀長。當時下獄中]君を救ふこと、飜掌の間にあり』と。李容九、大いに悦んで曰く、『謂ふ、會を以て從はむ』と。内田曰く、『‥‥天下の形勢は、變幻、極りなし。一旦、日韓連邦を作るの日あるに至るも、貴下は會員を擧げて、違背の行動なからしむるを保すや』と。李容九曰く、『余の素志、亦た丹方(ママ)[樽井藤吉]氏の所謂大東合邦[大東合邦論]に在り』と。‥‥盡く胸の祕密を語りて、衷心より信頼の意を表し、午前一時を過ぎて別るゝに至りたり」と。

一、②、内田良平著『日本の亞細亞』(昭和七年)に曰ふ、
「一進會々長・李容九を招きて、『日韓の將來に對しては、如何に考へらるゝや。其の目的にして一致するに於ては、宋秉畯の奇禍を救ひ、併せて一進會を援護せん』と述べしに、李容九は、『自分の意見は、丹方氏の所謂大東合邦にある』と答へた。丹方氏とは、大和の人・樽井藤吉の雅號で、樽井は『大東合邦論』を著はし、『東洋諸國、力を一にして、西力に對抗すべき亞細亞連邦を結成すべし』といふ意見を發表したのであつた。李容九は、日清戰爭後、日本視察に來た時、此の書を得て、深く共鳴したので、今、此の言を發したのである。豫ねて樽井と親交ある著者は、李容九の言を聞いて、直ちにその意を解し、大いに喜んで、『亞細亞連邦を成就するには、先づ日韓連邦の一家を實現し、諸國をして之れに倣はしめねばならぬ』と云ふと、李容九は、『勿論』と答へ‥‥、熱誠、面に溢れ、人をして感動せしむるものがあつた」と。

一、③、大東國男[李容九の遺子・李碩奎の日本名]著『李容九の生涯』(昭和三十五年)に曰ふ、
「なほこの滯日中[明治三十二・三年]、特筆大書すべきことは、後年、かれを日露戰爭協力と日韓合邦にふみきらせた思想的根據ともいふべき、樽井藤吉の『大東合邦論』を手にしたことである。この本がかれに與へた影響は、決定的なものであつた‥‥。『大東合邦論』は‥‥、當時は東亞經綸の思想・計劃を代表する文獻で‥‥、内外識者の反響を呼んだ‥‥。李容九は、朝鮮の今後の生きる道について、大きな示唆を得た」と。

一、本書によつてはじめて、アジア近代史中の重大事件であり、いまだ全くその眞評價のなされてゐない「日韓合邦」の、當初の眞精神が明らかにされる。それによつて、内田良平先生や李九先生らの一大悲願が鮮明となり、これら先覺を、大惡人・大奸漢扱ひするやうな淺見と誤解は、次第に拂拭されてゆくにちがひない。問題は、これら先覺者たちの當初の至純至高の眞精神が、その後、どのやうに曲げられ、汚され、蹂躙されていつたかであり、それへの日韓兩民族の痛省と教訓の學びとりこそ、重要であると信ずる。その意味に於て本書は、非常に貴重な、「日韓問題の書」である。

一、本書は、日韓兩民族の、その意味の反省のための、最も大切な根本文獻であるとともに、日韓兩民族の、新たなる再結合と、東亞諸國の再同盟のための、最も重要な根本典據となるであらう。‥‥

一、樽井藤吉は、明治に於ける國家主義・大アジア主義運動の先覺者であつたとともに、また社會運動・革新運動の先驅者でもあつた。その進歩性は、玄洋社・黒龍會等の先人達が、いづれも明治時代に於けるロシヤ革命・支那革命・韓國革命運動の同情者乃至協力者であつた事實を思へば、當然のことであらう。

一、本書は、日韓問題・日中問題の最も重大化しつゝある今日、その根本的考察と對處のため、日本人有志のみならず、朝鮮人有志・中國人有志に、あらためて虚心に熟讀玩味さるべき重要古典であると信ずる。なほ著者樽井藤吉が、日本に於けるいちばん最初の「社會黨」結成者である事實からも、民族派乃至保守陣營のみならず、所謂革新陣營、及びその系統内の良心的な人々からも、進んで切に讀み學ばるべき基本的文獻であると思ふ。

一、本書刊行當時の日本は、日清・日露兩大戰前の小日本であり、一片の植民地すら所有してゐなかつた。しかし明治維新の建設期をすでに完了し、憲法制定・國會開設・教育敕語渙發の一大事を實現、明治天皇御親率のもと、いと高き人倫・道義に裏づけられた、一大浪漫時代にさしかゝつてゐた。この書の道義的高さと、浪漫的雄大さは、決して偶然ではない。

一、本書刊行、こゝに七十一年、當時四千萬・無植民地の小日本は、やがて人口に於て二倍半、國土に於て數倍の大日本國となつたが、その道義的低下・人倫的弱化甚だしく、内に幕府政治化し、外に植民地主義的となつた。かくて自らこれを改めんとする昭和維新の動亂時代に入り、やがて大東亞大戰に一敗、再び本土四島當時のふり出しにもどつた。したがつて本書は、「日韓問題の書」であるとともに、また「日本問題の書」・「昭和維新への參考書」でもある。

一、本書の眼目は、日韓合體と日韓支大同にある。日清戰役直前に於て、シナの命運を憂ふること、まことに切々たるものがある。本書は、また「日中問題の書」でもある。

一、本書論點の重大要目の一つは、白人侵略主義に對する痛烈な彈劾・抵抗にある。白人諸國[特にイギリスとロシヤ]としては、今日改めて虚心に、當時のこの被壓迫アジアの悲痛なる魂の叫びに耳傾け、貴重な反省の資とすべきであらう。この意味に於て本書は、更に「白人問題の書」であり、また「白人にとつてのアジア問題手引きの書」とも云へるであらう。‥‥

一、‥‥なほ譯に當つては、大東塾同人・神屋二郎君の協力を得た。‥‥

一、本書に云ふ「朝鮮」又は「韓」には、もとより南北二分のあるべきはづがない。しかし現在の朝鮮は、世界がさうであるやうに、不幸にして峻嚴に二分されて居る。止むを得ざる次善策として、まづ南より結んで北に及ぶべきは、對韓處理上の歴史的通則と云ふべきであらう」と。



○身余堂保田與重郎翁『大東合邦論を讀みて』に曰く、

「大兄(影山翁)の手によつて、郷土の先覺を顯彰されしこと、ありがたく存じます。征韓論以後の先覺の言説には、一般に思想信仰稀薄[例へば乾十郎先生などと、原著者をくらべても]の外觀あります故、大兄などが顯彰されますれば、先覺の眞精神、始めて生きると申すべきであります。忝し、忝し」と。
 

  • [7]
  • 『大東合邦論』其の七。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月26日(土)20時22分51秒
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~承前~

●韋菴岡本監輔翁『大東合邦論序』に曰く、
――三宅雪嶺翁の詠みらく、「阿波人に 相應しからぬ 二人かな 大鹽中齋 岡本韋庵」と。北の防人・韋菴翁のことは、林啓介氏『樺太・千島に夢をかける――岡本韋庵の生涯』(平成十三年六月・新人物往來社刊)參看。
http://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/exhibition/k_020/03.htm
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/coe/naibu-kindai-6.htm

 森本丹芳は、嘗て東洋諸國の衰□(小里+貴。すゐたい。衰頽)を慨き、謂へらく、「今日の急務は、我と朝鮮とを合して、一大聯邦と爲すに如くは莫し」と。一書を著して、『大東合邦論』と曰ふ。展きて之を閲すれば、古今を上下し、中外を貫穿し、通觀遠覽、公明無私なり。讀者をして、數十年後の世界に巡遊し、旺衰(盛衰)の實況を目撃するの想ひ有らしむ。余、嘗て清國に遊び、其の土宇の廣遠にして、政令の普くし難きを觀る。竊かに一策を畫す。謂へらく、「宜しく闔國を分ちて四五と爲し、自ら美田數百夫を領し、其の餘は、盡く賢者に讓り、而して君統の傳はりし已後は、大權、彼の身に止まるべし。蓋し其の合縱締盟し、交々相扶持し、以て内治を保ち、外侮を禦がんと欲す」と(後に『亞細亞之存亡』明治三十三年・哲學書院刊に見る也)。丹芳が合邦の意と、相に表裏を爲す者也。然れども余の策は、徒らに他人の過失を陳ぶるのみにして、其の言は、幾千に過ぎず。固より太だ簡、丹芳の諸れを己に反し、其の非を知りて、堂堂數萬言、剴切・詳明・的確なるに如かずと爲す也。丹芳の如き者は、先覺の士にして、能く斯の民を覺らしむる者と謂ふ可し矣。顧みるに、朝鮮人は、固陋、性と成り、其の海外の事情に通ずる者は、極めて寡(すく)なし。則ち其の丹芳の言に於て、未だ必ずしも狐疑する所ろ有るを免れざるを恐る。余、丹芳の爲めに、其の閲歴を敘して、讀者をして、其の言の淵源する所ろ有るを知らしめんことを請ふ。其れ益有るに庶からん矣。

 丹芳、本姓は樽井氏、名は藤吉。大和國宇智郡の人なり。家は世々木商爲り。幼きとき、學を嗜まず。村人に、岡田重郎有り。國詩(和歌)に巧なり。就きて焉(こ)れに學ぶも、甚だしくは進まず。隣邑が豪族北氏、醉陶園と號す。經學に邃(くは)し。毎夜、之に就きて經を修む。大政の維新するに會ひ、頓に報國の志を懷く。謂へらく、「吾れ商買爲れば、以て巨萬を致すも、是れ一己の私利のみ耳。國益を輿し、一世と之を共にするに如かざる也」と。時に母は既に沒し、父も亦た知命(歳五十)を過ぎ、而も祖母の猶ほ存する有らば、家を辭して遠遊するに忍びず。明治六年、意を決して事を商販に托して、京に登る。井上頼圀の門に入り、居ること二載なり。屡々上書して、時弊を論ずるも、聽かれず。遂に仕途に志すを絶ち、市井に放浪し、政治を非議す。始めて政府の忌む所と爲る。時に稻津濟(日向の人、南洋と號す)有り。官を辭して都下に隱る。本より文を能くすと稱さる。因りて日々稿を草し、之に就きて正を乞ふ。而れども衣食は支せられず。乃ち『新報』を創るも、售れず。尋いで華族會館の雜役と爲り、纔(わづ)かに糊口に資す。未だ幾ならず父の卦音に接するも、志業の成らざるを恥ぢ、敢へて喪に奔らず。西郷隆盛の兵を擧ぐるを聞き、右大臣岩倉公に上書するも、亦た聽かれず。益々官の忌むところと爲る。因りて會館を辭して、奧羽に赴き、將に兵を募りて、隆盛に應ぜんとするも、期を失して、果たせず。京に歸り、潛匿す。窮すること、益々甚だし。友人某を訪ぬ。某、無人島を朝鮮の近海に探らんことを勸む。乃ち倶に京を去り、筑紫に抵(いた)る。某の復讐に會し、佐賀・長崎の間に遲留すること一歳餘なり。十二年冬、小舟を僦(やと)ひ、朝鮮海(現の日本海。當時は、所謂る太平洋なる者を以て、大日本海と稱す也)に泛(うか)ぶ。逆風に遭ひて、駛せ囘る。更に舟を僦ひて、之を探る。雲濤□[水+水+水]茫(大海原)の間に出沒し、往復すること四次なるも、遂に島無きを知りて止む。是れ、明治十四年十二月爲り。時に國内は、政黨紛起し、丹芳は長崎に在り。諸友の自他平等の説を唱ふるに會す。官、其の集會法(集會條例)に違ふを譴(せ)む。獄に繋がるゝこと歳餘なり。十七年、期滿ちて獄を出づ。法(佛蘭西)軍の福州を攻むる(清佛戰爭)を聞く。謂へらく、「是れ、東洋諸國の安危に關はる、清國の憂のみに止まらざる也。直ちに清國に航し、將に之を救解せん。我が流寓の書生の、竊かに彼の國の浮浪と結び、法人の内應する者と謀ること有らん」と。丹芳、百方、其の不利を陳ぶ。終ひに寢(や)む。人の有りて、政府に告げて謂ふ、「丹芳の、煽動し然らしむ」と。政府、之を惡むこと、尤も甚だし。歸るに及び、大坂の獄に繋がる。數月にして解かれ、再び京に入る。政府の、將に外國に報じ、條約を釐革(改)せんとするを聞き、謂へらく、「是れ、國權を損することの甚だしき也」と。將に密書を印刷し、以て之を阻遏せんとす。事、覺られ、獄に繋がる。二十二年二月、天皇、憲法を發布したまひ、國事犯の者を特赦す。獄を出でて、郷に歸る。郷人、其れを衆議院の議員と爲さんと欲す。丹芳は、財産蕩盡して、餘り無し。因りて森本氏を襲ぎ、纔かに資格を保つ。二十五年二月、終ひに議員と爲ると云ふ。

 丹芳の人と爲りは、大都(おほむ)ね此の如し。獄に下ること數次なるも、遂に『大東合邦論』を著はす。其の志、知る可き也。丹芳、自ら謂ふ、「才は志に稱はず、學を爲すも、亦た甚だしくは博からず」と。而も其の著『合邦論』は、九年前に在るも、獄に下るに及び、忽ち稿を失ふ。更に漢文を以て、之を編次す。來りて余に評を請ふ。余、初め丹芳を識らず。丹芳、嘗て蒼海副島先生に見え、其の學識に服し、遂に弟子と爲れり。而して余は、素より先生の知を辱うす。故に先生、丹芳をして、余に就きて津を問はしむる也。余の陋劣、何ぞ與に言ふに足らん。然れども亦た志は、經世に存する者也。(韋菴翁は、)維新の前、柯太全島に行き、其の風土・人物を審かにす。自ら謂らく、「前に古人無し」と。後ち命を奉じ、再び其の地に赴き、五十度以北の土夷を撫綏(撫靖)し、大半は我が版圖に歸す。自ら謂らく、「憂勞すること、吾れ猶ほ人のごとき也」と。志を得ずして、辭し罷む。五島の西北海の中に、一島有るを聞く。竹島と日ふ(當時の誤聞、已むを得ざるなり)。長崎より福江に航し、大寶岬を過ぎ、嵯峨島の傍らに出づ。高きに登りて瞻望し、彽徊すること、之を久しうす。將に舟に僦ひて、之に航せんとし、圖を披きて細看すれば、其の濟州(島)爲るを知りて止む。事は、明治六年に在り。其の跡は、丹芳と相類ひす。後ち清國に遊び、北京より盛京に抵(いた)り、牛莊に出で、岫巖に至る。朝鮮の西境を觀んと欲するも、果たせず。遍ねく北省の各處に遊びて歸る。『清國紀行』等の作有り。未だ世に行ふ能はず。大學・中學(の教授・校長)を歴任し、閲すること十五年なり。數百萬言を著はし、之を東洋諸國に行はんと欲し、鏤板(出版)するも、售れず、鼠、巣窟を構ふ。慨然として筆を投じ、再び北陲を探る(千島・擇捉探索および北海道周遊)。謂へらく、「東北の事體は、全國に關するあり。一日も忽せにする可からず」と。而るに西北境及び朝鮮の勢は、則ち尤も焉れより急なる者有るも、余は得て之を詳かにせざる也。丹芳が此の編に據りて、則ち今日の合邦の事を知る。實に我が兩國の失ふ可からざるの機會、以て大いに宇内に爲すこと有る可しと爲す也。蓋ぞ奮ひて之に贊し、喜びて之に序せざらんや乎。余、未だ丹芳の、再三、獄に繁がるゝも屈せず、鋭意率先、大聲疾呼するに如かず。而して阨窮すること二十餘年なるも、曾て一英豪も、余の先容と爲る者無し。論を立つ、日々大にして、身を處す、益々困ず。深く吾生の、謂ふこと無きを感ず。其の曾て拓地の官に任ぜらるゝは、猶ほ丹芳の纔かに議員に列するがごとき也。天を仰ぎて咄なるかな哉。後人を睥睨するに、殆んど所謂る同病相憐れむ者也。噫。

 明治二十六年癸巳六月。阿波・岡本監輔撰す。



●晦處香月恕經翁『大東合邦論序』に曰く、
http://www1.kcn.ne.jp/~orio/main/shigemaru/shigemaru03.html

 余、夙に森本(樽井丹芳)君の名を聞きて、未だ其の人を識らず。明治十八年、君、來りて我が筑(筑前)に寓すること數月なり。余、往きて之を訪ぬ。君は篋の中を探り、一書を出して、余に示す。題して『大東合邦論』と曰ふ。君の曰く、「日韓合同なる者は、今日の急務に屬す。請ふ、之を評せよ」と。余、乃ち携へ歸りて通讀す焉。以爲らく、「議論、精しからずに非ず、識見、高からずに非ず。然れども二國の氣運、未だ合同の期に至らず。我が邦人は、常に彼の貧弱を侮蔑し、而して彼も、亦た豐公の一擧を啣(ふく)み、常に猜疑を我に抱けり。合同を認めて併合と爲し、長計を愆(あやま)りて欺術と爲さんことを恐る矣。若し別國の、彼と宿怨無き者を招き、三國合同と爲せば、則ち彼、復た我を疑はずして、事、集まらん矣」と。以て君に告ぐ。而して君は應ぜず。蓋し之を然りとせざる也。之を然りとせざるに非ず、招く可きの國無ければ也。既に君は故ゑ有りて、俄かに筑を去れり。余、其の情を知る。一詩を口占して、之を送る。其の詩に曰く、

人生の離合、豈に偶然ならんや、
心事、元より期す、國權を復するを。
眞意、却つて存す、不言の裏、
神交、既に在り、未逢の前。
瓊江の風月、吟杖を迎へ、
玄海の波瀾、客船を送る。
知りぬ、汝が合邦論の日に就くを、
杯を啣み、髭を掀(かゝ)げて、朝鮮を望まん。

 尋いで君、肥に入り、忽ち官の囚はる所と爲る。爾來、音信、久しく絶え、後に東京に相見ること一再次なり。二十三年、余は郷擧を得て、集議院議員と爲る。二十五年、君も亦た其の撰に與かれり焉。是に於て旦夕、相會し、議論を上下して、未だ合邦の事に及ぶに遑あらざる也。今ま茲に五月下浣、余、將に西歸せんとす。君、來りて余を赤坂の寓に訪ね、一書を出して曰く、「往年、『合邦論』を草するも、流離に際し、烏有に歸せり。且に舊稿は邦文に係り、韓人の通讀に便ならず、因つて改めて漢文と爲さんとするも、漢文は、余の未だ習はざる所ろ也。請ふ、細かく之を評せよ」と。遂に序・跋を以て、屬と爲す。余、束裝倥傯に方り、細話を得ず。且に諾して之を行李の中に收め、既に歸らんとす。塵事蝟集、應接繁劇、間を偸み繙讀し、纔かに終るの日、君、忽ち書を寄せて之を促す。蓋し剞□[厥+立刀](彫刻)を急げば也。夫れ所謂る虎狼、飽く無き者は、今日歐人の状也。東邦合和、折衝禦侮、固より當今の急務と爲す。韓人の頑冥を以てすと雖も、若し一念、今日の形勢に及べば、則ち必ず將に悚然として懼れ、飜然として悟る者有らんとす矣。顧みるに、彼の君臣は、清に事へんか、俄(露西亞)に事へんかの間に彷徨して、未だ嘗て我(日本)と相合ふの至計に及ぶを慮らずして、我が邦人も、亦た毎に彼の貧弱の餘、屡々無禮を我に加ふるを憤れり焉。二國の情、是の如ければ、猶ほ未だ猝(には)かに解く可からざる者有り。是れ、憂ふ可きと爲す。然るに是は小怨のみ已、是を以て東方の危機を忘るゝは、則ち君子の爲さゞる也。

 此の書は、其の得失を辨ずるや也、詳か、其の利害を説くや也、明かなり。之を舊稿に比ぶれば、議論、益々精しく、識見、愈々高し。殆んど天下を掌上に運らすの概有り。蒼海副島翁、之を評して曰く、「伊人をして、文字を知るの道に仍(よ)らしめば、則ち賈生の若き、其の人は道(い)ふに足らざる也」と。信に然り。君は素より文人に非ず、余も亦た敢へて是を以て之を望まざるなり。唯だ合邦の端を今日に開くのみにして、其の成るを他年に期するは、是れ君の志也。天、若し未だ東方に厭かず、一偉人の而(すなは)ち出づる有らば、則ち君の志、必ず行はれん矣。君の言に曰く、「必ず數年を待たずして、相唱和する者有らん矣」と。其の自信の厚き、自負の大き、此の若し。豈に尋常の文人輩の、能く及ぶ所ならんや乎。夫の行文の精錬を闕くが若きは、固より病むに足らざる也。凡そ新説の出づるや、他人の攻撃を受くること多し。攻撃、益々甚だしくして、利害、愈々明かなり。利害、愈々明かにして、論、始めて定まる。論、既に定まり、而して後に天下、翕然として起ちて、之に和す也。此の書の出づるや、余は、切に世人の攻撃、滋々多きを望まん。果して然れば、則ち東方の合同、其の成るに庶幾からん矣。古人の曰く、「天に順ふ者は存し、天に逆ふ者は亡ぶ」と。夫れ氣運も、亦た天也。他日、東方の榮辱も、亦た唯だ氣運に順ひ、以て親和するか與、否かに在るのみ耳。二邦の人士、其れ諸れを忽せにす可けんや乎哉。

 明治癸巳六月、梅雨濛濛の日、福陵客舍に書す。筑前・晦處香月恕經、撰す。
 

  • [6]
  • 『大東合邦論』其の六。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月19日(土)13時22分42秒
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~承前~

大東合邦論再版附言(明治四十三年七月再版)

 明治十八年、余、筑前に遊び、玄洋社に客たる時、初めて本稿數章を草し、同社の先輩香月恕經(號は晦處)氏に批評を乞ふ。「韓人、常に豐公の一擧に啣む故に、彼と宿怨無き一國を招き、三國合邦たらしめざれば、事、行はれ難し」[本書、香月氏の序文に委し]と。幾ならず繋獄の奇禍に遇ひ、其の稿を失ふ。爾來、非運に沈淪して、專ら再稿に從事すること能はず。數年を經て、僅かに十六章を草せり。

 初め本稿は、國文を以て綴り、先づ其の出版を、友人數輩に詢る。皆な言ふ、「朝鮮は、嘗て豐公の大兵も、取ること能はざる所、今ま足下、一尖の筆戟を以て、之を取らんとす。誰か一笑に付せざらん。知らず、足下、何の見る所ろ有つて、強辯、止まざるや」と。余は意外の感に打たれたるも、尚ほ進みて曰く、「余の合邦を首唱するは、我が東方の氣運、余が腦漿に偉大の刺激を與へ、余をして默せしめざるに由る。按ずるに、豐公、智なりと雖も、氣運、到らずして、何の功を奏することを得ん。氣運、吾を欺かざるに於ては、余の禿筆と雖も、必ずしも豐公の大兵に勝る所ろ無しとせんや。之を古今に鑑みるに、事の成否は、凡て氣運の向背に因るのみ」と。友人等曰く、「氣運、果して合邦を促すと假定するも、韓人の頑迷なる、何ぞ能く之に應ずる者あらん。足下、自ら氣運の使嗾者と稱するも、予は却つて氣運を知らざる者と信ぜずんばあらず」と。

 是に於て余も、亦た考慮する所あり。「本稿の實を擧げんと欲せば、先づ之を漢文に改め、其の書を韓國に頒布し、彼をして、徐々、此に憬悟する所あらしめざる可からず」と。然るに漢文は、余の熟せざる所なるを以て、平素師事する稻津南洋(名は濟)先生に、斧正を乞ふ。時に先生、中風に罹り、氣力衰耗するを以て、其の學友依田百川(號は學海・名は朝宗)氏に紹介せらる。依田氏、其の勞を執られんとして、一二添削せられたるも、自家の文章と、語勢を異にするものと爲し、遂に返擲せらる。是に於て更に副島蒼海(種臣)先生に質せり。先生、余に指示するに、岡本韋菴(名は監輔)に就き、正を乞ふことを以てす。韋菴先生、快諾して、丁寧反覆、文勢詞調を修飾せらる。學友奧宮東鳴・鈴木皜堂、及び老儒太田代不知菴(號は東谷・名は恆徳)等、亦た批評を加へ、益を與へられたるの多し。本稿、既に成る。同郷の富豪土倉庄三郎氏、余が爲めに巨資を捐て、本書三千部を出版したるは、實に明治二十六年の夏なりき。聊か此に其の來歴を敍して、諸家の徳を謝するものなり[大阪の儒者藤澤南岳、本書を添削したりと傳ふる者あるも、虚説なり]。

 前に述べたるが如く、諸友の批難多かりしを以て、本書第壹章に、「我が東方、古へより未だ曾て此の制有らざる也。故に或は妄誕無稽を以て、之を嘲る者有り。夫れ魁春の花は、殘霜の傷つく所と爲り、先機の言は、庸耳の沮む所と爲る。余、固より之を知れり矣。而して強辯已まざる者は、自ら已む可からざるの理有りて存すれば也云々」と辯じ、又「議する者、或は曰く、合邦の事、言ふ可くして、行ふ可からず、と。是れ、庸人の見のみ耳。夫れ鷄鳴きて、後天曙け、説出でて、後事成る。古より未だ説の、事と時を同じうして成る者有らざる也」と論述せしも、猶ほ之を行はれざる空論と目したる者多かりき。特に余は、我が東方の氣運、余を刺激して、本案を草せしむるものと確信せしを以て、同壹章に、「今日、余の合邦説を首唱する者も、亦た氣運の、余をして之を言はしむるのみ耳。余、豈に徒らに辯を好む者ならんや哉」と書したる所以なり。香月恕經氏の序文の中、「君の言に曰く、必ず數年を待たずして、相唱和する者有らん、と。其の自信の厚き、自負の大き、此の若し云々」と敍述せられたるも、余は氣運の默示を信じて、頑然固執せし状態を見るに足らん。

 本書、刻成るや、謂へらく、「本著は、猶ほ空論たるを免れざるも、國家未曾有の一大創業に屬する所の提案なり。先づ之を天皇陛下に上り、乙夜の聖覽に供し奉らざる可からず」と。乃ち天皇・皇太后・皇后三陛下、皇太子殿下等に獻納して、而して後ち之を當時の各大臣・貴衆兩院議員、其の他諸友、及び新聞社に贈り、其の批評を乞へり。各新聞社は、其の紙上に新刊を紹介せられたるも、氣運は、猶ほ新聞者流の眼中に映ぜざるを以て、其の紹介文は、悉く冷評ならざるは無かりき。此に其の一二を抄出すれば、

[『東京日日新聞』二十六年九月十六日の紙上に]曰く、「眼界、頗る濶大なるも、而も言ふ可くして行はる可からざるを奈何せんや云々」と。曰く、「清人、元來、本邦の、朝鮮を窺窬するを疑ふや、久し。本書の如き説を聞かば、或は恐る、益々感情を害せんことを」と[各新聞の中、第一の贊辭を與へたるもの、猶ほ此の如し]。

[『報知新聞』二十六年十月十四日の紙上に]曰く、[淺薄迂遠にして、一讀の價直なし云々]と。曰く、「誰か一讀の價直ありと言はん云々」と。其の他、數百言の評語、悉く罵詈嘲弄にして、就中、本書、露國の侵略手段を説きたる點に反對し、頗る露國の爲めに辯護の勞を執りたるは、奇怪の感に堪へざりき。然れども是れ猶ほ言ふに足らず。既に三陛下・一殿下に奉獻したる所の本書を以て、一讀の價直無きものと罵倒せらるゝに於ては、實に恐懼、措く所を知らざりき。噫、報知記者、何の爲めにする所ろ有つて、不徳の批評を敢へてしたるや。余をして彼は、露國の機關に買收せられたるに非ずやの疑團を抱くに至らしめたるも、彼れ自ら招く所のものと謂ふ可し。

 本書の批評は、此の如き冷却せられたるも、清人梁啓超は、余に謀らず、自ら序文を加へ、余が聯合論を贊襄し、上海に於て、本書を飜刻し、清國内に販賣すること、十萬部に達せしめたり。其の後ち北京の『順天時報』も、亦た贊意を表するに至れり。『東京日日(新聞)』の批難も、幸ひに反對の結果を見たるは、先づ以て僥倖と謂ふ可し。朝鮮に於ては、一千餘部の頒布、尚ほ足らずして、之を謄寫したるもの、其の數を知らず。『報知新聞』が「一讀の價直し」と罵倒して、以て世上に紹介したる所のもの、爾來、韓人の腦漿に浸染して、今や、韓人より合邦を請願するに至れり。氣運は俗眼に映ぜずと雖も、冥々の中、我が皇上の盛徳を擁護して、之を事實に表現せしめたり。嘗て「禿筆の力も、豐公の大兵に勝ること有らん」と豫言したる、其の豫言は、今に至りて無稽の妄誕ならざりしことを知る者あらん。

 本書再刊の要旨の中、略述したるが如く、明治四十年一月、『日韓聯邦條規概要』を草し、之を統監府に呈し、又た同志者に頒ちたり。其の册子の中、聊か著者の志を言へり。再び其の志を、此に述べん。

 謹みて惟んみるに、天佑を保有し玉ふ、我が皇上は、實に世界無比の盛徳者なり。我が臣民は、其の盛徳者より、爵位・勳章等の榮典を賜る、亦た以て萬邦無比の光榮を賜るものと謂ふ可し。然るに未だ其の盛徳者の、盛徳を表すべき尊號を、其の盛徳者に上らんとする發議者有るを聞かず。是れ唯だ賜ることを知つて、上ることを知らざるに由るか。普國人は、其の國君に獨逸皇帝の稱號を上り、英國人は、其の國君に印度皇帝の尊稱を上れり。我が國民たる者、亦た我が皇上の盛徳を表す可き尊號を上らずして、可ならんや。島國日本の名稱をのみ冠し奉るは、未だ其の盛徳を表するに足らず。何ぞ大陸を兼有する尊號を上らざるや。思ふに、千里の行も、一歩より始む。朝鮮の如き小國、言ふに足らずと雖も、之を合するは、聯合國創業の一歩なり。宜しく適切なる尊號を撰びて、以て之を上るべきなり。余、曩に空論たりし本書を獻納し、聖覽を冒涜したるは、其の第二に於て、之を實體の現象として、上る者有らんことを豫期せしに由る。余は、平素、賜らんことを希はずして、上らんことを志す者なり。上ることを爲さずして、賜らんことを、是れ望まんや。

 東方の氣運、尚ほ余に默止する所あり。曰く、「上らざる可からざるものは、第二・第三に止まらず。第十・第百、其の數、無窮なり」と。今や、國運進行の初歩に方り、昊天の明命、即ち氣運の默示、尚ほ斯の如きものあることを、我が同胞に謹告して、其の無窮數のものを上る、其の人有らんことを翹望するものなり。

 日韓合邦首唱者・樽井藤吉、拜識。



●淺野晃翁『明治の精神』――西郷隆盛――(昭和十八年十二月・新潮社刊)に曰く、

「岡倉天心が『東洋の理想』の冒頭第一行に書き記した「アジヤは一つだ」といふ言葉を、余は天心の無限の歎息であつたと思つてゐる。少くともこの語は、何らかの推論の結果として、抽き出された結論のやうなものではない。かくゝゝこれゝゝであるから、故にアジヤは一つである、といふやうな性質のものでは斷じてない。明治三十四五年の交、天心は印度に赴き、英國の分裂支配主義の植民地政策のために、完全に墮落せしめられた悲慘な印度を眼にし、由つて同じく相互に孤立したまゝ、英米の支配を甘受してゐるアジヤ全域に思ひを馳せたとき、天心の口を衝いて出た、大いなる歎きのいぶき、それがこの言葉であつたと、余は思ふのである。「アジヤは一つだ」といふ、この痛ましい歎きは、まさにその歎きの深さによつて、よく今日の豫言となり得たのである。天心は自分の身心に、さながらアジヤの分裂と失墜とを感じた。さらに言ふなら、アジヤの分裂を、おのれ一身の激痛と感じた。その故に、思はず、「アジヤは一つだ」といふ歎聲が、漏れたものに違ひない。これは、アジヤを一つとして感じてゐた者の歎聲である。しかして余は、かゝる偉大なる歎聲が、わが日本人天心によつて發せられたことを、重大なことに見るのである。

 數多くのアジヤの諸國民のうち、いかなるものが、まことにアジヤを一として感じ得たであらうか。何千年の古典文化の深遠と高邁とを自負する印度人や支那人ですら、一人としてかく感じ得たものは無かつたではないか。試みに孫文の『大アジヤ主義』を一讀して見るがよい。そこに貫いてゐるものは、所詮支那傳來の中華思想である。すべて支那の爲であつて、それ以上でない。それは、英米の世界制覇の野望とは固より違ふが、その力説する王道といふより、むしろ覇道といふを適當とする。かやうな考へで、如何にしてアジヤを一と感ずることが出來よう。アジヤの頽廢を、おのれの疾患として痛感することが出來よう。アジヤを一つとして感じ得る能力こそ、われら神國の民の愛情である。これ、修理固成・天壤無窮の神勅を奉行する民だからである。八紘一宇の畏き大御心を奉體するとき、みたみわれは、おのづからにしてアジヤを一と感ずる。こゝに日本人の盡きることの無い愛情の源泉がある。尊皇攘夷とは、かやうなわれらの愛情の名稱である。まつろはぬ者を撃つのは、彼等を、もと、御稜威の下にあると感ずるからである。本來まつろふべきものと信ずるからである」と。



●黒龍會長・大日本生産黨初代總裁・黒龍澗人硬石内田良平翁『日韓合邦祕史』下に曰く、

「今日、併合の跡を顧れば、當時、其の併合に當りてや、併合の根本に於ては、勿論、其の目的を達成して違はざりし所なりと雖も、唯だ之に附帶したる各種の措置方法に於て、一大遺憾を感ぜざるを得ざるものありたり。即ち其の名稱に於て『併合』の名を取り、以て侵略的印象を殘したるが如き、或は我が國と歴史的因縁ある『韓國』の名稱を廢して、支那の命名に出でたる『朝鮮』を以て其の名としたるが如き、最も遺憾とすべきものたらずんばあらず」と。



●坪内隆彦氏『維新と興亞に驅けた日本人――今こそ知つておきたい二十人の志士たち』の「頭山滿――維新・興亞陣營最大のカリスマ」(平成二十三年十一月・展轉社刊)に曰く、

「(立雲頭山滿翁の曰く、)眞に亞細亞共存の大義から支那を助けるといふのであれば、假令へ支那が、日本の厚意に對して忘恩の行爲ありとするも、我は我だけの心を盡したものとして、愚癡などいはぬものぢや。愚癡をいふ了見では、初めから他を世話する資格はない」(天眞藤本尚則翁の所聞)と。



●影山正治翁「韓國ゆきの歌」(野村健・京田葦男兩氏編『朴鐵柱大人を偲ぶ』平成三年一月・マルゲン刊に所收の杉田幸三翁「からくに人朴鐵柱君の英魂に捧ぐ」より)

數千年 かなしき歴史 くりかへし 今にかなしき 韓のくにかも



【參考】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1653
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1654
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/229
 

  • [5]
  • 『大東合邦論』其の五。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月16日(水)22時29分7秒
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~承前~

日韓古今の交渉

 九層の臺は、累土より起り、千里の行は、一歩より始まる。近きより遠きに及ぶを謂ふ也。雷聲は、百里に達せず、蘭香は、谷外に薫らず、近き者は厚く、遠き者は薄きを謂ふ也。此れ萬象の定則、古今易はらざる者なり矣。國土も、亦た然り。近き者は、必ず親密の交渉有り。俚語に曰く、「遠隔の親戚は、近傍の他人に如かず」と。亦た近き者は、宜しく親しむべきを謂ふ也。我が大東の兩國は、僅かに一葦帶水を隔て、天晴るれば、則ち山巒相ひ望む。開闢以降、飛禽の往來、草實木果の漂到ありて、猶ほ且に彼此蕃殖するがごとし。況んや人類の交渉に於いてをや乎。謹みて我が上古の史を按ずるに、諾・冉二神の、日本を造りたまふや也、專ら西方諸島の地名を擧げ、東北の地名を擧げざれば、以て日本の民種の、西方より起るを知る可き也。朝鮮の地は、我が西北に位し、我が民種の間も、朝鮮より來れる者有り。其の跡、歴然として徴す可し。神代史を按ずるに、素盞鳴尊の、新羅より還るの説有り。又た韓神の名有り。則ち知る、我が紀元前に、既に兩國交渉の實有るを也。且つ朝鮮の俗、神を尊ぶは、我が神代の民と、最も相似たり。是れも亦た以て推考の一助に供す可し矣。今ま宇内の人種は、四十有餘なり。之を大約すれば、則ち五と爲す。而して其の原は、一種に出づるや耶、將た別種なるや耶、未だ一定の説有らず。然れども大東兩國の人、其の毛髮皮膚及び骨格は皆な同じく、其の同種爲るは疑ひ無き也。我が紀元後八百年、即ち埀仁帝の朝に、天日槍、新羅より歸化す。一千年、即ち應神帝の朝に、弓月君は、百二十縣の人口を率ゐて歸化し、阿知使臣は、七姓十七縣人を率ゐて歸化し、將軍田道は、新羅四邑の民を虜にして歸る。百濟の亡ぶや、擧族して來歸す。此の間、凡そ三百年、韓人の歸化を記す者は、枚擧に暇あらず。近世に、高麗の、元兵と來寇し、其の俘に農・工の技を有する者、悉く死を免れ、國民に編せらる。豐臣秀吉の、朝鮮を討つや、多く其の降民を遷す。其の他、史傳の闕如したる者も、亦た其の幾千萬人なるかを知らざる也。

 日本人の朝鮮に移住する者は、我が史に傳ふる無し。『三國史記』を閲するに、新羅建國の初に當り、其の大夫に瓠公有り、日本人也。其の第四王の昔脱解も、亦た日本人也。神功攝政四十六年に、任那日本府を、新羅・百濟の間に置く。爾後三百年、吏員戍卒、往來頻繁なり。韓女を娶る者有り、韓人に嫁ぐ者有り。豐臣氏の師を班すの日、遺す所の兵士も、亦た頗る多しと云ふ。然らば則ち韓土も、亦た我が日本の民種の混ずること、知る可し矣。今ま兩國、言語同じからずと雖も、其の綴辭の法、全く相同じき者も、亦た人種同一の證也。

 兩國交渉の事、史傳に存する所、三韓分立の時より始まる。當時、三韓の中、新羅は最も剽悍、竊かに我が筑紫人と通じ、謀反を教唆す。仲哀帝、之を征し、軍中に崩じたまふ。皇后英邁ましゝゝ、卒ひに内亂を平らげ、進みて新羅を討ち、以て禍根を斷ちたまふ。既にして新羅、復た百濟を蠶食し、百濟王、援けを我に請ひまつる。新羅、途に其の聘物を奪ふ。皇后怒りたまひて、再び之を討ち、其の侵地を復し、諸れを百濟に賜ひ、任那をして韓土を督せしめたまふ。新羅、畏怖す。然れども未だ豕蛇の念を絶たず、釁を二國に開く者、數々なり矣。我が師、百濟を援け、新羅を膺ち、或は新羅を援けて、高句麗を懲らす。而して三國の中、百濟は最も我に親しむ。其の王の腆支・文洲[『三國史記』・『東國通鑑』に、洲を周に作る]・扶余豐等は、皆な我が國の擁立する所ろ也。唐の興るや也、新羅は、潛かに唐に通ず。唐、百濟・高句麗を滅ぼし、郡縣と爲す。而して新羅は、竊かに之を奪ふ。新羅、嘗て我が國の沮む所と爲り、志を二國に得ず。終ひに唐に憑り、之を逞しうするを得たり。是を以て我を疎んじ、唐に親しむ。渤海の興るや也、百濟の遺族を鳩集し、來りて舊交を脩め、我が國を徳とする也。新羅滅びて、高麗興る。『高麗史』を閲するに、忠烈王、元に朝し、請うて曰く、「日本は、一島の夷のみ耳。險を恃み、不庭なり。敢へて王師に抗ふ。臣、自ら念へらく、以て徳に報いる無し。願はくは更に船を造り、穀を積み、討を致さば、濟らざる蔑し」と。遂に梢工・水手一萬五千、兵士一萬を以て、元兵を導き、我が筑紫を侵す。當時、兩國に怨仇無し。而して高麗王、元に媚びて、其の虎狼の軍を導き、以て同胞の國に禍ひす。豈に善隣の道ならんや哉。韓人、常に我が秀吉の出師を以て、無名と爲す。然れども韓の先に我に寇すること、此の如き者有り。『懲毖録』に、我が玄蘇の密語を載せて曰く、「中國、久しく日本を絶ち、朝貢を通ぜず。平秀吉、此れを以て心に憤耻を懷き、兵端を起さんと欲す。朝鮮、爲に奏聞し、貢路をして達するを得しめば、則ち必ず無事にして、日本六十六州の民は、兵革の勞を免れん矣」と。又た曰く、「昔、高麗、元兵を導きて、日本を撃つ。日本、此れを以て怨みを朝鮮に報いるは、勢ひ、宜しく然るべき所なり」と。是に由つて之を觀れば、秀吉の志は、明に在りて朝鮮に在らざること、知る可き也。若し其の志、朝鮮に在らんか乎、何ぞ二王子の擒を釋して、之を還さんや哉。苟くも朝鮮にして局外を守り、中立にして動かざれば、則ち必ず兵革の慘無けん矣。而して其の兵禍を被る者は、明に代はりて我を拒むに由る也。明の朝鮮を援くる所以の者、其の實は、自ら防ぐ也。朝鮮の爲に非ざる也。明氏は、宜しく朝鮮を徳とすべきも、朝鮮は、豈に明を徳とするの理有らんや哉。夫れ漢土は自ら漢土、朝鮮は自ら朝鮮なり。而して朝鮮の、專ら漢土を恃むは、何ぞ其の陋なるや也。古より漢土の、朝鮮を遇すること、常に自國の大を持み、以て之を奴隷視す。朝鮮の漢土に於ける、何の恩か之れ有らん。而して漢土に媚ぶるを以て大義と爲し、人民をして水火に陷らしむ。何ぞ其の自ら視ることの不明なるや也。蓋し朝鮮は、漢土の大を懼れ、奉承を以て國是と爲し、遂に其の自主の心を喪ふを致す。習慣、性と成りて、自ら悟らざる也。歎くに勝ふ可けんや哉。

 余、嘗て『東國通鑑』・『高麗史』等の書を讀み、竊かに謂へらく、「史氏は、國惡を諱み、事實を枉げ、以て此の極みに至る也」と。日韓古代の交渉、諸れを『百濟本紀』・『百濟新撰』等に校ふるに、大いに徑庭有り焉。夫れ漢人は倨傲自尊にして、他の邦人を蔑視する者は、秦漢以來の風習也。故に漢土の史體に倣ふ者は、動もすれば輙ち其の事實を失ふ。任那の國名の如きは、漢土數代の史、猶ほ之を載せて、韓の史は載せず。蓋し日本の建つる所と爲るを諱めば也。腆支・文洲が二王の事、新羅を救ひ、高句麗を討つの事も、亦た載せず。夫の百濟を援け、以て新羅を討つの若きは、則ち大書して寇と曰ひ、賊と曰ふ。噫、何ぞ實を掩ふの甚だしきや也。史は宜しく事實を記すべし。韓の史の如きは、怨みを以て徳に報いる者と謂ふ可し矣。史氏の實を傳へざるの弊は、遂に後世、親和の情を害ふ者、少なからず。西人に言有り、「當世の人は、當世の事を書す能はず」と。境遇の、史氏の明を蔽へば也。況んや故意に事實を蔽ふ者に於いてをや乎。古より、東亞の史氏は、事實を枉げず、又た後世の誹りを免れざる者は、鮮し矣。我が日本も、亦た然り。是れ文運、未だ開けず、交際、未だ密ならざるの通弊也。何ぞ獨り韓人を咎めんや哉。近年、日本の文學、大いに進み、此の弊、漸く除かる。故に史を修むる者は、變遷の脈絡を明かにするを以て、本旨と爲す。近人、開化史を著して曰く、「日本の文化は、百濟の賜もの也」と。日本の漢學は、百濟の徴士王仁に始まる。佛教も、亦た百濟の佛像を獻るに始まる。日本の美術の世界に冠たる者は、皆な茲に起る。其の事實を記すこと、毫も隱蔽せざる者、概ね此の如し。是を以て苟くも文學を解する者は、朝鮮人を視ること、猶ほ兄弟のごとし。嘗て敵視する所の心、今は則ち變じて愛敬の情と爲れり。文運開發の功と謂ふ可き也。

 先年、江華島の事有り。理、當に兵を以て之を問ふべし。然れども事、此に出ずして、之を誘ふに脩好和親を以てし、之を諭すに宇内の形勢を以てす。遂に隷屬の位地より進みて、自主の大朝鮮國と爲れり。現時の日本の國情は、知る可き也。米人、常に云ふ、「日本の開港は、我が國の奬誘する所、愛護せざる可からざる也」と。新交の國も、猶ほ然り。況んや日本・朝鮮の舊誼、存するに於いてをや乎。朝鮮國王の謙讓、猶ほ臣を清廷に稱す。然れども其の國民は、既に自主獨立の民也、清廷の臣民に非ざる也。顧みるに朝鮮をして、大朝鮮國と稱するに至らしむる者は、日本が誘導の力也。然れども日本人の中に、其の措置を喜ばざる者有り。朝鮮の民も、亦た日本の徳義を感ぜざる者有り。動もすれば輙ち曰く、「兩國の積怨、未だ遽かに解く可からず。且つ近年、大院君の一擧・金玉均の叛亂は、更に兩國の感情を害ふ。安んぞ合同を今日に望む可けんや哉」と。嗟乎、是の言や也、既往の小故を以て、將來の大計を失ふ者也。請ふ、其の誤謬を辯ぜん。夫れ戰爭なる者は、親密の關係有りて、後に生ずる者也。試みに一家の爭ひを見れば、夫婦の間、最も多く、父子・兄弟、之に次ぐ。夫婦の爭ひ多き者は、愛情の最も密なれば也。父子・兄弟の爭ひ、之に次ぐ者も、亦た然り。言語、未だ交はらずして、相爭ふ者は、未だ有らず焉。利害、關はらずして、相爭ふ者は、未だ有らず焉。古より戰爭は、國人の相鬪ふ者、多しと爲す。猶ほ家内の爭論、多きがごとし。爭論の故を以て、和す可からずと爲さば、則ち家を成す能はず。戰爭の故を以て、合す可からずと爲さば、則ち國を成す能はず。日本の戰爭は、日本人の内訌を以て、最も多しと爲す。朝鮮の戰爭も、亦た朝鮮人の内訌を以て、最も多しと爲す。日本人を欺く者は、日本人の交々欺くを以て、多しと爲す。朝鮮人を欺く者は、朝鮮人の交々欺くを以て、多しと爲す。世界萬國、皆な然らざる無し。日・韓二國も、未だ印度以西の諸國と戰ふ者有らざるは、親密の交はり無ければ也。秦人、越人の肥瘠を見て、意に介さゞる者は、利害の相關はらざれば也。古より兩國の屡々戰ふ者は、相合せんと欲するの情、内に動けば也。何となれば則ち戰爭なる者は、親睦の反照なれば也。親睦の形有りて、戰爭の影有れば也。兩國、固より水草を逐ふの蠻民に非ず。亦た需用不足の瘠土に非ず。均しく東方仁愛の性を受け、膏腴の土・温暖の郷に栖息す。豈に人を殺すを嗜む者ならんや哉。戰爭なる者は、未開の國民の好む所ろ也。今ま往日の戰爭を以て、交々其の意に介して、其の相合するを欲せざる者は、是れ未開の民を以て、自ら處る也。何ぞ自ら侮るの甚だしきや也。古より、東亞の人、唯だ強敵に降り、強國に服するを知るのみにして、未だ友邦を合し、以て自強するを知らず。聞くならく、加利部人・太斯麻尼亞人・柬察加人等は、獷鄙野蠻にして、本より君長無きも、他邦の襲撃に遭へば、一致して之を防ぐ。今ま大東の兩國は、大國の間に介して、合同自強するを知らず。是れ、其の智は、蠻民に如かざる也、可ならんや乎。

 宇内古今の形勢を熟察するに、國初には、必ず内亂有り。内亂定まりて、外征有り。漢代の初め、内亂多く、武帝に至りて、乃ち外征を事とす。唐の世も、亦た初め内亂多し。内亂の稍や定まりて、麗濟を征す。歐洲諸國も、皆な其の初め内亂有り。内亂平定して、漸く現今の隆盛を致す。日本は、明治中興の初め、嘗て佐賀・麑島・熊本等の亂有り。今ま内亂、既に定まり、今後生ずる所の者は、必ず外事也。日・韓は、固より親密の交はり有るも、依然として對峙して、合同の計を爲さゞれば、則ち亦た未だ兵馬相見の變無きを保せざる也。顧みるに兩國の前途は、千里よりも遠し矣。而して近き者の相親しむは、天理也。宜しく先づ一歩を進めて、速かに和合親密の實を擧げ、以て子孫永遠の幸福を求むべし矣。若し夫れ宇内の大勢を察せず、兩國の將來を慮らず、鎖々たる事情に拘泥して、久安長治の大策を講ぜざる者は、志士仁人の、敢へて取らざる所ろ也。兩國の政を爲す者は、深思熟考せざる可けんや哉。

 東鳴の曰く、議論高大、識見卓絶、一層は一層より進め、遂に日韓の合同せざる可からざるに及ぶ。文勢の靈活なること、猶ほ蛟龍の雲雨より起り、天を上下するがごとし。其の間、許多の確證を擧げ、許多の論斷を下すこと、尤も痛快剴切なり。讀者をして慨然として興起し、自ら禁ずる能はざらしむ。眞に絶代の大手筆と爲す。誠に能く日韓をして一大英雄の起つ有つて、以て此の偉論を斷行せしめんか乎、則ち其の功、坤輿に施すも、亦た果して何如ならんや哉。

‥‥
 

  • [4]
  • 『大東合邦論』其の四。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月14日(月)21時32分35秒
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~承前~

日本の情況

 兵書に曰く、「彼を知り、己を知る」と。苟くも國事を謀る者も、亦た此の如からざる可からず。前章、既に友國を論ず。豈に自國を知らずして可ならんや乎。然れども自國の事を知るは、兵よりも難し矣。兵爭の事は、現時を比校すれば、則ち勝敗は知る可き也。其の自國を知るの難きは、既往細大の現象・現時内外の形勢・將來時運の向背を通觀するの難きを謂ふに非ざる也。凡そ人の思想は、常に自國の境遇に局らる。故に其の觀察する所は、動もすれば輙ち中正を失ふ。是れ、其の難きと爲す所以ん也。古より賢哲も、亦た猶ほ其の處る所に僻し、其の學ぶ所に僻し、其の愛惡好樂する所に僻して、中正を失ふ者有るがごとし。余、獨り能く此の失無からんや乎。然れども自ら信ずる所の者有り、默止す可からざる也。請ふ、試みに之を言はん。

 萬國の地理の書に就きて、之を通觀するに、我が日本なる者は、實に世界の樂土也。今ま其の目を擧げて、之を言はん。
一に曰く、氣候温和にして、最も人類の生息に適す。故に二萬五千方里の境域有りて、人口稠密なること、我が國の如き者は、萬國の中、未だ之れ有らざる也。
二に曰く、地味膏腴にして、最も農桑に宜し。故に平原多からずと雖も、衣食の缺乏を患へざる也。
三に曰く、山に虎豹の害無くして、之を鑄して金と爲し、海に蛟鰐の患ひ無くして、之を煮て鹽と爲す。木材の富・魚鰕の饒、實に造物者の無盡藏也。
四に曰く、山川の秀美・草木の繁茂・花卉の芳香・風景の優絶、萬國の人、欽羨して已まず。之を神仙の靈囿・人間の樂土と謂ふも、亦た誣言に非ざる也。
五に曰く、四圍の海水、八道の山河、自ら金城湯池の固きを爲す。故に古より外敵の侵犯する者、未だ嘗て敗衂せずんばあらざる也。
六に曰く、民種、全て一家族より出づ。古へに嘗て歸化の民有り。而して年を經て既に久しく、未だ祖宗の分系を受けざる者有らず。故に國情は、一に和し易き也。
七に曰く、國民、宗家を崇め、皇室と爲しまつる。故に皇統連綿、二千五百餘年、即ち不老不死の天皇、統治したまへり焉。秦人、目して以て蓬莱・方丈・瀛州と爲し、來りて仙藥を求むるも、亦た故ゑ無きに非ず。近年、三百諸侯・百萬士族を廢して、一滴の血を流さゞる者は、國家の成立、其の宜しきを得れば也。
八に曰く、開國以來、他邦の屈する所と爲らざる者は、世界萬國の中、獨り我が國有るのみ耳。漢人、古より世界の廣きを知らず、其の世を以て御宇と稱し、其の國を以て天下と爲し、僅か一隅を保ち、以て四隣を蔑視す。四隣、皆な媚びて之に事ふるも、獨り我が日本のみ、敵對の禮を以て之に接す。其の國使を通ずるや也、隋より始まる。『隨書』に、我が國書を載せて曰く、「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙が無きや否や」と[往昔、嘗て筑紫の豪族、任那の鎭將として、彼の邦と相往來する者有り。然れども國使に非ざる也]。其の後、北條氏、無禮の元使を斬り、豐臣氏、明人の不敬を怒るは、皆な以て證とす可き也。其の他、孝弟仁義の教への如きは、漢土に出でて、我が國の其の道を守ること、漢人よりも厚し。是れ、謂ふ所の青は之を藍より取りて、藍より青き者に非ざるか乎。技藝百工も、亦た漢土・朝鮮より傳はりて、今は則ち漢土・朝鮮よりも巧みなり。是れ、紅は之を花より取りて、花よりも紅なる者と謂ふ可き也。銃器の東亞に入るは、漢土、最も早くして、我が國は、之に次ぐ。然れども我が國人の利用の速かなるや也、漢人、以て日本發明の器と爲す。其の他、泰西文明の諸學・諸器、漢人、先に其の門を開きて、我が國、既に其の堂に昇る。善を見ては之に遷り、美を見ては之を取ること、我が國の如き者は、世界各國の中、亦た未だ之れ有らざる也。

 然りと雖も物全くして、弊隨はざる者は、蓋し鮮し矣。我が國の氣候は、温和なり。故に寒地・熱國の開拓に務めず。柯太は、固より我が屬島と爲るも、之を不毛に付し、遂に俄人の有と爲す。臺彎は、本より我が國人の發見する所と爲りて、清國、之を取る。南米の祕魯は、我が漂民の創建の國也。而して今は白人の奪ふ所と爲る[祕魯人は、自ら日神の裔と稱し、其の我が漂民爲るを以てす。又た王家を稱して、喜牟傳兒と曰ふ。蓋し我が國人の、天皇を稱しまつりて、禁庭と曰ふの轉訛也]。且つ其の生息に適するや也、疾病羸弱の者も、能く天命を全うし、亦た能く兒子を保つ。其の遺傳の久しき、終ひに躯幹矮小を致す。地味膏腴にして、生計の易きや也、其の弊、蓄藏の念に乏しきこと、一千年前に在り。且つ未だ貯貨の利用を知らず。元明帝、之を憂ひたまひ、貯貨有る者は、位一級を授け、以て之を奬勵し、乃ち始めて此の念發す。天文年間に及び、始めて葡人の通商を聽し、金貨の濫出すること、殊に甚だし。『日本古代商業史』に曰ふ、「葡國が貿易衰微の後、毎年、猶ほ黄金三百萬噸の貨物を購ふ」と。嗚呼、當時、貿易無ければ、則ち我が日本は、世界第一の黄金國也。誠に惜しむ可きのみ已」と[百五十年前、獨逸人堅普兒、荷船に乘りて來り、我が國情及び葡・荷二國の通商の状況を探り、『日本誌』を著す。『日本古代商業史』は、即ち其の抄譯也]。近世、開港以來、又た黄金を歐米に輸し、其の幾千萬なるを知らざる也。木材・魚鰕の利多きや也、其の弊、煉瓦を製し、牛羊を牧するの業に務めず。近年に及び、纔かに之を試みる者有るのみ耳。山河風景の人目を喜ばしむるや也、其の弊、音樂の道に疎し。國土の海中に特立するや也、昔時に在つては、世界の僻陬爲るを免れず。其の弊、他邦の事物を見聞すれば、則ち爭ひて之を模倣すること、猶ほ僻村の少年の、都會の事物を喜ぶが如く、動もすれば輙ち輕信に陷る。昔時、百濟、儒教を傳ふるや、皇子稚郎子、堯・舜が禪讓の事を聞き、遽かに自殺し、以て帝位を讓る。百濟、佛像を獻ずるや、欽明帝、忽ち蘇我氏をして之を崇拜せしめたまふ。東亞諸國の佛教の盛んなるは、我が國よりも甚だしきは莫し。中古、唐と通じ、凡百の制度、皆な之に擬ふ。葡人、耶蘇教を傳ふるや、未だ數十年ならざるに、忽ち信を致す者、三百萬人なり。葡人、乃ち窺窬の念有り。因りて其の教徒を煽動し、以て我が國を侵略せんことを謀る。會々荷人、密かに之を告ぐ。幕府、大いに驚き、葡人を攘ひ、耶蘇教を禁じ、教徒二十八萬を殺して、互市を鎖し、唯だ荷・漢二商の入港を聽す。近年、互市を開くに至りて、政治・法律・兵制・文學・商業・工藝より、衣食住に至るまで、悉く諸れを歐米に摸ふ。加ふるに耶蘇教に惑溺する者、漸く日に多きを以て、前者の覆轍を省みずして、又た之を踏む。何ぞ無智の少年と相類するや也。是れ、東隅に僻在するの餘弊也。民俗、一和す。故に未だ異論奇説の、一新機軸を出だす者有らず。亦た未だ一大英雄の、海外を征服する者出でず。是れ、情誼、内に親しみて、思想、外に發暢せざれば也。未だ嘗て他邦の屈する所と爲らず。故に小康に安んじて、優柔不斷なり。殊に敵愾の氣象を刺激するに乏しき也。儒教を信ずることの厚く、漢土の所爲に倣ふ。是を以て泰西諸國と、治外法權・干渉關税の約を締結して、當時は、其の侮辱爲るを曉らず。是れ皆な其の弊の隨つて生ずる者也。然れども利害相較ぶれば、則ち其の弊も、亦た言ふに足らず焉。安んぞ其の世界の樂土爲るを害はんや哉。況んや萬世一系の天皇を奉じ、之れ、其の政俗、自ら完全無缺なる者有るに於いてをや乎。

 然りと雖も世運開明し、人の天工に代はるに由りて、人事を盡さゞれば、則ち遂に他邦の陵辱を免れず。泰西諸國は、我が國に勝る者有るに非ず。唯に其の拮据勉勵の功、近年に及びて、最も著し。而して我が國、啻に法權・關税の侮辱を受くるのみならず、文物及び貿易・製造の業、富國・強兵の實の如きは、彼と比肩すること能はざる也。豈に其の人事を盡さゞるを以てするに非ざらんか乎。天賦豐富の國に處りて、今ま此の歎き有り。何ぞ猛省せざるを得んや哉。然れども國交・條約の如きは、今日、之を改め、以て其の權を復すも、亦た至難の事に非ざる也。文物及び貿易・製造の業の如きは、諸れを地利に察し、之を時運に徴せば、則ち歐米と頡頏馳聘せんと欲するも、亦た期す可き者有り矣。夫れ地利の便否は、時運に由りて變遷有り。我が國の航海未熟の時、固より東洋の僻陬爲るを免れず。今や也、既に熟せり矣。四圍の海水は、是れ、人工を用ひざるの鐵道也。近年、又た米國・巴拿馬の地峡、及び尼加喇瓦運河の開鑿の擧有り。將に十餘年を出でずして、竣工せんとす。是れ、僻邑變じて、貿易中心と爲るの時期也。加ふるに人口稠密、媒炭の饒多なるを以てす。夫れ人口多ければ、則ち勞銀廉く、媒炭多ければ、則ち薪價賤しく、製造工業を興すに便なること、知る可き也。且つ我が國民、腦力敏捷にして、嘗て漢土に學びて、出藍の美を呈す。今ま歐米に倣ふも、亦た焉んぞ其の右に出でざるを知らんや哉。其の躯幹矮小なる者、筋力を勞するの業に適せずして、文物精巧の事に適す。況んや山河秀麗の氣、我が美術を助け、既に萬國に冠たるに於いてをや乎。嗚呼、我が國に、天時・地利、此の如き者有り。務めて人事を盡し、敢へて怠忽にせざれば、則ち文學美術の淵叢・貿易製造の樞區と爲るも、亦た翹足して待つ可き也。然れども版圖を拓き、國力を養ひ、以て歐米と平衡を持せんと欲するに至りては、將た何れの策か有らん乎。能く開明を致すと雖も、而して國力、與に之れ稱せられざれば、則ち其の弊、文弱に流れ、優勝劣敗・弱肉強食の天數を免れざる也。焉んぞ萬世の平安を保つことを得んや哉。今ま歐洲の形勢を觀るに、屬國の本土に數十倍する者有ること多し矣。我が國、人口より之を觀れば、則ち實に萬國中の第五の大國也。而して未だ一の屬國も有らず。今より以往、將に何の地に向かつて、境土を擴げんとするか乎。南洋諸島・南北亞米利加及び阿弗利加の諸州は、悉く白人の占踞する所と爲れり。而して寒地・熱國は、我が國人の適する所に非ざる也。金革を衽とし、遠征を事とするも、亦た我の長ずる所に非ざる也。豈に是れ我が日本、將來の一大缺事に非ざるか乎。果たして然らば則ち將に何を以て、之を救はんとするか乎。蓋し國人の特性に隨ひ、同感の友國と相和し、以て其の力を合するの一策有るのみ而已。天時・地利は、人の和に如かず。察せざる可けんや哉。故に余は、切に諸れを朝鮮に望む。豈に已むを得んや乎。朝鮮、諸れを日本に望まざれば、則ち亦た優勝劣敗の天數を免れず。故に曰く、自國を知るの日本人は、諸れを朝鮮に望まざる可からず、自國を知るの朝鮮人も、亦た諸れを日本に望まざる可からざる也。

 不知庵の曰く、「全篇、抑揚反復して、邦人の元氣を奬勵し、邦人の頑夢を覺破すること、睠睠として措く能はず。忠愛の誠、掬す可し。了りに臨み、本意を轉出するも、亦た以て後篇に拖ふ」と。

 東鳴の曰く、「日本は、宜しく彼我の形状を知るべく、朝鮮も、亦た宜しく彼我の形状を知るべし。兩國、互ひに彼我の形状を知りて、合同の大計成り矣、優勝劣敗の天數を免れん矣。嗚呼、方今、英・俄の強國、互ひに異心を挾み、釁隙を窺ひて、兩國、未だ防禦の大計を講ぜず。此れ、丹芳が慷慨の係る所なり」と。
 

  • [3]
  • 『大東合邦論』其の三。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月13日(日)22時36分40秒
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~承前~

朝鮮の情況

 前章に、既に富強開明を、支那に望めり。安んぞ諸れを朝鮮に望まざるを得んや哉。支那は大國也。固より朝鮮に勝れば、則ち猶ほ未だ深く憂ふに足らざる也。朝鮮は、小且つ貧なり。其の危機は、已に迫れり矣。顧みるに他日、能く富強開明を致さんや耶。吾れ望み有れば焉、則ち憂慮も亦た隨つて生ずるは、誠に友愛の至情也。今ま其の國、果して興隆の徴す可き者有りや耶、非ずや耶。有り焉とせば、即ち宜しく之を輔翼し、以て其の興隆を圖るべき也。有らず焉とせば、則ち新たに方策を立て、以て萬全の道を求めざる可からざる也。凡そ事の望む可き憂ふ可き者は、將來に屬す。而して將來の事は、最も測り難し焉。昔者、子張、孔子に問うて曰く、「十世、知る可きや也」と。孔子の曰く、「百世と雖も、知る可き也」と。然らば則ち將來は、固より知る可きの道有る也。孔子の言に據り、以て其の道を察するは、唯だ既往を推し、將來を測るに在るのみ而已矣。夫れ既往なる者は、現今の因也。現今なる者は、將來の因也。故に余は、其の國の既往の成迹を推して、其の由來する所を明かにし、更に現時内外の情状を鑑み、以て其の將來を論ぜんと欲する也。

 朝鮮の地、三面は海に濱し、一面は大陸に接す。宛かも希臘・羅馬の如し。其の氣候・土質及び開國の年代も、亦た相肖たり焉。彼の希臘・羅馬なる者は、歐洲の富強開明の古國也。而して其の文運は、波斯・埃及より漸なり矣。朝鮮も、亦た宜しく日本の氣象・漢土の文章を取り、以て隆運を致すべし。然れども其の國に、未だ一大英雄の、四隣を震蕩する者有らず。亦た未だ一大賢哲の、一學科を發明する者有らず。其の他、機械の搆造・物理の講究・美術の精巧・技藝の秀拔、未だ萬國を卓絶する者有らず。其の他、希臘・羅馬に肖て、其の状の、却つて相類せざる者は、何ぞや也。予の聞く、「己に在る者に恃みて、自ら勉むれば、則ち日に進み、己に在らざる者に恃みて、自ら勉めざれば、則ち日に退く」と。夫れ己に恃めば、則ち我は主と爲り、主と爲れば、則ち能く人を制す。人に恃めば、則ち我は客と爲り、客と爲れば、則ち人に制せらる。夫の希臘・羅馬の若きは、其の自ら恃むの厚きこと、萬國史の中、絶えて比すること有る無し。故に能く他邦に先んじて、富強開明の域に進む也。

 試みに朝鮮の史を取りて之を讀めば、其の上古の壇君は、蓋し西北の國より來り、箕子・衛滿も、亦た漢土より來る。壇君の時、既に土人有り。爾來二千餘年、國人の自ら立ちて、王と爲る者無し。三國鼎立の時に至りて、國人、始めて君長と爲る。是れ、自主の氣象の始めて生ずる也。當時、漢土は四分五裂して、朝鮮は三國の外に、任那・安羅・加羅等の分裂有り。日本の史及び『宋書』・『梁書』・『南史』等に據りて之を觀れば、當時の韓土は、我が日本に隷す[『宋書』に曰く、「大祖の元嘉二年、貢獻し、自ら『持節都督、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國の諸軍事安東大將軍、倭の國王』と稱す」と。『梁書』も亦た同じ。『南史』に曰く、「新羅・百濟は、皆な倭を以て大國と爲す。珍物多く、竝に之を仰ぐ。其れ他邦の皇帝を稱して王と爲す」と。或は、「貢獻」と書するは、漢土古來の習風也。一説に曰く、「此の使節は、任那の日本府が鎭將の遣す所なり」と]。其の自主は、猶ほ未だ長ぜざるがごとき也。唐、高句麗・百濟二國を滅ぼすに及び、新羅、遂に韓土を一統して、獨立す。蓋し其の自主、漸く長ずるが如き也。然れども猶ほ唐に事へ、爾後、金に、元に、明に、清に、唯だ命、是れ聽き、以て今日に至る。其の自主、猶ほ未だ發達せざるがごとき也。知らず、何の原因有りて、遲緩なること、此の如きか乎。政治を論ずる者は、宜しく學理を徴し、以て之を討究すべし。是れ、第一の要務也。夫れ壇君の治績は、邈たり矣。攷ふ可からず。箕子は、謙徳の君子也。其の人と爲りを推し、以て其の治績を察するに、蓋し倫理を重んじ、恭順を主とする者也。昔者、周公の魯國を治むるに、首めに倫理を重んず。呂尚の謂ふ、「後世に、必ず漸く弱まらん」と。呂尚の齊國を治るに、專ら功績を重んず。周公の亦た謂ふ、「後世に、必ず簒弑の臣有らん」と。二國の末路は、果して其の言の如し。原因・結果の相應ずること、此の如し矣。箕子以來、一千餘年、國人の謹愼恭順なる者は、蓋し謙徳、俗と成れる也。三國の時に至り、漸く日本と交渉す。日本は、自主を尊ぶの國也[開闢以來、膝を他邦に屈せざる者は、宇内萬國の中に、獨り日本有るのみ耳]。而して三韓の中、新羅は、最も日本に近し。故に韓人の、先づ我が氣象に傳染せる者は、新羅也。其の始祖・朴赫居世、自立して王と爲る。朱蒙、之に倣ひて高句麗に起ち、温祚、之に倣ひて百濟に起ちて、鼎立の勢を爲す。新羅一統以來、自主の氣象の、却つて展びざる者は、其の日本に親しまずして、漢土に親しむに因れば也。自主の氣象にして展びざれば、則ち百事、自ら屈す。是れ、朝鮮の隆運の、希臘・羅馬に及ばざるの一大原因也。

 國家の開明は、地理の之を導く者有らん矣。太古の人類は、山間丘陵の地に據り、以て栖息す。洞崫の便に負ふに依れば也。其の遺跡は、今ま猶ほ存する者多し。木を伐り、巣を搆ふるに及び、漸く平原に遷る。是に於て交通の便、始めて開けり矣。夫れ交通なる者は、開明の母也。西學の士、開明の時期を論じて曰く、「昔時の交通運搬は、河流の便に依る。印度・巴比倫・埃及等の、漸く開明に進みたるが如きは、是れ也。之を河流時期と謂ふ。漢土が往昔の都邑も、亦た山間・河邊の廣野に在り。人民の、漸く船舶漕運の術に熟し、遂に内海に入る。希臘・羅馬の隆盛を致すが如きは、是れ也。之を内海時期と謂ふ。我が國の開明、西陲に始まるも、亦た内海交通の便有りて、之を助くる也。而して今は、則ち太洋及び鐵道時期と爲れり。英國・其の他の歐米諸國の隆盛を致すが如きは、是れ也」と。朝鮮は、山嶽多くして、大河無し。壇君は、長白山に起ちて、後に平壤に遷る者は、平原時期也。然れども平原は、廣からず。故に其の開明も、亦た自ら長進すと雖も、河流は長からず。故に其の時期に遇はず。鴨緑江有りと雖も、其の地は寒冽にして、古代人民の栖息に適せず。是を以て船舶囘曹の術に熟せず。故に内海時期の進歩も、亦た甚だ遲緩なり。是れ、其の國運、開明を致し難きの第二の原因也。

 朝鮮の古來不振の原因、其の關はる所の者は、此の如し矣。今ま其の國、始めて自主を全うして、漸く將に太洋及び鐵道時期に遭はんとす。三面の海と一面の陸にして、此の期に當る。果して能く富強開明を致さんか乎。既に平原・河流・内海の三期を失ひて、其の國は小弱、其の民は疲弊し、且つ政綱は紊亂し、治化は廢頽す。自主の名有りて、自立の實無し。良法有るに非ずんば、則ち其の國を興し、其の民を利すること能はざる也。況んや其の土、清・俄の大國に攝するに於いてをや乎。竊かに其の國情を聞くに、清に事ふると、俄に事ふるの兩端有り。猶ほ周末の滕國のごとし。孟軻の謂ふ所の、「是の謀、吾の能く及ぶ所に非ざる」者也。今ま朝鮮に、忠奮義烈、悲壯慷慨の士無きに非ず。將に何の策有りてか、能く其の國を興さんとするか乎。孟軻の又た曰く、「斯の池を鑿つや也、斯の城を築くや也、民と之を守る。死を効すも、民去らざれば、則ち爲す可き也」と。今ま朝鮮、果して能く此の如きか乎。忠憤義烈の士有りと雖も、蓋し之を千百人の中に求む可きのみ耳。悲壯慷慨の志有りと雖も、然れども闔國人民、豈に能く之を死守せんや哉。況んや死守なる者は、興國の策に非ざるをや乎。

 更に朝鮮外部の事情を觀るに、其の恃む所の者は、漢土也。今ま清國の力は、能く朝鮮を援くるに足るか乎。彼の黒龍江州は、既に俄國の奪ふ所と爲り、安南も、亦た法國の侵す所と爲る。其の國人の、米國・濠洲等に在る者は、數百萬人、未だ一軍艦の、之を保護する者有るを聞かず。且つ其の國内の飢餓相望みて、之を救ふ能はざる也。何を以て能く域外の朝鮮を援けんや哉。頃ろ聞くに、英國をして朝鮮を壟斷せしめんと欲するの議有り。其れ恃む可からざるや也、明かなり矣。俄國、今ま志を東洋に伸ばさんと欲す。是れ伯得の、所謂る賄賂・甘言・欺譎・強迫なる者は、將に以て其の慣手の術を逞しうせんとする也。朝鮮、果して俄に依れば、則ち彼は將に大賓を以て、之を迎へんとす。然れども一たび之に依れば、則ち復興す可からず。其れ終ひに東洋の波蘭と爲るは、知るべきのみ已。彼の俄國の政治は、專ら壓制を事とし、謂ふ所の君權は、無限なる者なり。若し之に依れば、則ち其の國民は、焉んぞ能く其の權利を伸ばし、其の自主を全うするを得ん。嗚呼、朝鮮の境遇も、亦た困せるかな矣哉。

 朝鮮内外の現状、概ね此の如し。此の現状に因り、以て其の將來を察せば、果して何如ん也。議者有りて曰く、「朝鮮の自主は、漸く已に發達して、大朝鮮の稱は、萬國に聞ゆ。何ぞ其の獨立し難きを憂へんや哉」と。又た曰く、「朝鮮、古へより名は、他邦の藩屏と爲る。然れども其の實は、未だ嘗て其の獨立を爲すを失はざる也。習慣の久しき、國情は自ら固く、將來、尚ほ獨立を全うす可き也」と。又た曰く、「歐米列國の中、地狹く人少なく、能く自ら獨立する者有り。朝鮮の世界に在るや、未だ小國と謂ふ可からざる也。豈に獨立する能はざらんや哉」と。又た曰く、「朝鮮は金坑多く、採掘は以て國力を養ふ可き也」と。又た曰く、「西比利亞鐵道の竣工は、則ち物資輻湊の樞區と爲り、必ず其の利を得る也」と。是等の諸説は、果して以て其の國を興すに足るや耶。余は、未だ之を信ずる能はざる也。今ま朝鮮は、自主の國爲りと雖も、然れども國の興廢は、其の名に在らずして、其の實に在り。其の名有りて、其の實無くんば、則ち興る可からず。縱令ひ其の實有るも、亦た先んずる者は人を制し、後るゝ者は人に制せらる。今ま其の交はる所の國は、皆な先進者也。故に内部の虚實・外部の先後を察せずして、倉卒に論斷し、其の誤りを致さゞる者は少し矣。習慣は國情を固結する者、以て其の國を守る可くして、未だ其の國を興す可からざる也。富強と云ひ、開明と云ふは、固より貧弱に安んじ、陋習を守るの致す所に非ずして、乃ち日に新たに已まざるの結果也。故に其の國を興さんと欲すれば、則ち習慣と雖も、亦た破らざる可からざる者有り。故に曰く、「習慣は、未だ國を興すに足らざる也」と。國小にして獨立する者は、必ず内外の事情の、之を誘ふ者有り。即ち内國の競爭力、他邦に優るの時、隣國の蒙昧、或は綱紀壞敗の時、及び國人の敵愾氣象の旺盛の時の如きは、是れ也。其の君、湯・武爲りて、其の臣、伊・溥・周・召爲りと雖も、然れども隣國も、亦た賢明の人有れば、則ち能はず焉。今ま朝鮮の兵勢・財力・器械及び百般の學藝に、他邦に勝るゝ者有らんか乎。隣國の政治、朝鮮に及ばざる者有らんか乎。國人の氣象、獨り旺盛ならんか乎。余、未だ其の然るを知らざる也。更に其の例を擧げ、之を言はん。希臘なる者は、歐洲の小國也。六十年前、土耳其に叛きて獨立す。其の獨立する所以の者は、土政府の敗壞暴虐、土・希が二國の人種の殊別、土・希が宗教の敵視、希人が歴史の感情、希人が同種族・同宗教の連合なり。此の五者の、希人を衝動し、以て其の固有の氣象を激するに由る也。今ま朝鮮に、此れに類する者有らんか乎。夫れ衝動と反激と相應ずる者は、物理の定則也。苟くも發動の機無くんば、則ち何を以て、其の自主敵愾の心を發揮せんか乎。其の之を促す所以の者を察せずして、傲然として自ら恃むは、豈に振興の道ならんや哉。且つ希臘は、朝鮮よりも小さくして、數隻の鋼鐵艦を購ふ。其の貧富勤怠の度も、亦た朝鮮の能く及ぶ所に非ざる也。朝鮮は、本より金坑有り。然れども亦た限り有り。一たび採掘すれば、則ち再生せず。人工也る者は、其の製出、限り無き也。朝鮮の商況は、砂金を以て、歐米の雜貨を購ふに過ぎず。限り有る物を以て、限り無き物に易ふ也。坑業益々開けば、則ち益々歐米人の倉庫を充たすのみ耳。余、未だ坑業の、富國の大本爲るを知らざる也。西比利亞鐵道は、蓋し多少の補益有らん。然れども謂ふ所の己に在らざるを恃む者也。且つ其の工事の竣功すれば、則ち清國兵事の急は、必ず將に鐵道を滿州に布き、以て黒龍江上流に達せんとす。清國、鐵道に利に覺知すれば、則ち江蘇・山東の要港より、陝西・甘肅を經て、砂漠を渉り、蒙古を貫き、天山を踰え、俄境を出でて、其の鐵道に連絡せん。然らば則ち東西兩洋の間、線路は短縮して、其の過ぐる所の氣候は温和、其の利便爲ること、西比利亞鐵道の比に非ざる也。旅客物貨は、豈に久しく道を朝鮮に假りんや哉。朝鮮は、自ら國利を圖り、富源を開かずんば、則ち終ひに世界の僻陬と爲るのみ耳。

 議者の説、其の恃むに足らざること、此の如し。然れば則ち朝鮮の將來は、果して興る可からざらんか乎。余、未だ朝鮮に絶望する能はざる也。嘗て聞く、「人の所爲を難ずる者は、必ず爲す可きの道を説き、事の憂ふ可きを論ずる者は、必ず避く可きの方を示す」と。余、既に其の憂ふ可きを言ふ。安んぞ其の之を振興するの策を説かざるを得んや哉。天地の間、凡百の事、未だ因果相應の理に外るゝ者有らず。故に興國の策は、其の盛衰の原因、及び其の脈絡を察し、其の害の由來する所を避け、其の利の由りて起る所に就くに如くは莫し。古へより朝鮮不振の原、其の最も大且つ重き者は、自主の氣象の乏しきに在りて、時運、之に次ぐ。其の古代自主の萌芽は、何れの國より來るか乎。史蹟に據り、現状を推し、以て其の去就する所を知る可き也。今ま其の國、三面の海・一面の陸、方に開明時期に遭ひ、若し其の人有らば、則ち東洋の希臘・羅馬と爲るも、亦た難からざる也。而して其の將來の利益は、海に在りて陸に在らず。夫れ一利は、三益に如かず。是れ、數の睹易き所なり。國人、航海術に習熟すれば、則ち海潮の達する所は、皆な鐵道也。布設の費・修繕の勞を要せず、直ちに米國に達し、濠洲に到る。而して他日、俄領及び滿州の、益々開くるや也、其の國は、必ず東洋商業の要地と爲らん矣。故に其の興國の道は、先づ海外の開明諸國と通商し、以て其の業を講じ、而して之を西北の大陸に施すに在り。是れ、地形に據り、國利を占む、乃ち萬全の長計也。然れども我が日本群島は、其の海面を圍繞す。我と和せずんば、則ち何を以て其の利を博すを得ん。況んや其の國の自主は、我より之を得るに於いてをや乎。我に親しむの方法、及び其の國民の利害損益は、余、將に再び之を論述せんとす。

 不知庵の曰く、「此の篇は、韓の弊習を論ず。謂ふこゝろは、清・俄兩大國の抑壓に甘んじ、常に卑屈に安んずるに在り。而して日本と親好すれば、則ち以て自主自立の權を暢發して、富強の域に進む可し。文意は半吐半呑、未だ十分に説き盡さず。都て後篇の爲に、餘地を留む」と。
 

  • [2]
  • 『大東合邦論』其の二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月13日(日)16時00分41秒
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~承前~

漢土の情況

 『語』に曰く、「水は方圓の器に隨ひ、人は善惡の友に由る」と。其の交はる所は、愼しみて擇ぶ可きを謂ふ也。友に、益者有り、損者有り。苟くも我を益する者は、宜しく求め、以て交はるべくして、我を益さゞる者は、愼みて之を避けんのみ耳。然れども其の情誼の避く可からざる者も、亦た有り焉。其の避く可からず者にして、不善有れば焉、則ち宜しく勸誘して、之を救正すべし。便避・善柔・便佞は、則ち彼を損なひ我を害す。豈に交友の道ならんや哉。

 漢土は、東亞の古國也。文物制度の盛んなる、蓋し四隣に先んず。我が國も、亦た甞て之を摸し、以て政教を裨補す。益友と謂ふ可き也。殊に其の土は唇齒にして、其の人は同種なり。是れ、先天の明命なり。謂ふ所の避く可からざる者也。宜しく相親睦して、共に富強開明を圖るべし。漢土、盛んなれば、則ち我が國は利を受け、衰ふれば、則ち害を受け、其の盛衰興亡は、我に影響す。察せざる可けんや哉。今や也、世界は大いに開け、國として脩好通商せざる無し。然れども親疎の別は、自ら其の中に存す。況んや現時の情状、同種人の相黨し、以て異種人を排斥するに於いてをや乎。若し夫れ同種の兄弟に不善有れば、則ち宜しく之を善に進め、相與に切磋琢磨し、以て共同の利を圖るべし。我が國は、漢土の古聖賢の道を推尊すること、尚し矣。以て其の文物教化は、萬邦に超越すと爲す。頃ろ、泰西の人の、東亞近世の情状を記す者を讀むに、四百年來、我が國の文化は、反つて漢土の上に出づる者有りて、國人、未だ嘗て自ら悟らざる也。豈に漢土は、古へに如かざる者有らんや耶。抑々亦た我が國の進歩の速かなるに因らんや耶。清國の近状を觀れば、則ち知る、西人の記す所も、亦た虚言に非ざる也。而して其の國勢の逡巡、動もすれば我が國の危機を促す者有り。若し萎靡し振はざれば、則ち更に禍を我に嫁すも、亦た未だ知る可からず。安んぞ其の富強開明を望まざるを得んや哉。今ま其の事蹟を擧げ、以て之を證すこと、左の如し。

 漢土と泰西諸國との立約通商は、我に先んず。清の康煕帝、嘗て曰く、「後世に中國の累ひと爲る者は、必ず西洋諸國也」と。清廷は、既已に後害を洞見して、諸れを當時に戒めず、漫然として關税干渉・治外法權の俑を作す。若し諸れを當時に戒め、以て其の根を斷たば、則ち其の後に、決して鴉片の亂無き也。西人は黠智、之に因り、以て東亞諸國を待つの例と爲す。我が國開港の初め、未だ外交を習はず。一に漢土を信じ、其の例を襲ひ締約して、其の侮辱する所と爲るを悟らざる也。是れ、其の第一也。

 我が國、此の惡例を除き、我が同種人をして面目を一新せしめんと欲する者、年有り矣。顧みるに清廷は、漠然として意に介さず、彼の白人をして、益々其の跋扈強梁を恣にせしめ、且つ反つて我が條約改正を障害する者有り。我が國、如し條約を改正するを得ば、則ち清國も、亦た其の惡例を除くを得ん。盍んぞ之を悟らざるか乎。是れ、同種唇齒の國を害ひ、亦た自らを害ふ所以ん也。清廷、曩に既に俑を作せり矣。而して今ま仍ほ此の如し。是れ、其の第二也。

 清廷は、四億の萬衆を以て、英國と戰ひ、遂に香港を割きて、之に與ふ。是を以て英國は、東洋侵略の根據を得たり。今や也、香港は、東洋の伏魔殿と爲り、他日、其の門を開けば、則ち鬼魅魍魎、目を瞋らせて出でん。其の害を被る者は、豈に獨り清國のみならんや哉。是れ、其の第三也。

 英・法(佛)同盟軍は、嘗て清國を侵し、清國は、終ひに城下の盟を爲す。俄國(露)は、機に乘じて黒龍江南の地を求め、清廷は、畏れて之に從ふ。是に於て我が柯太の地は、俄國の吸引する所と爲る。故に遂に千島と交換し、以て後害を避く。若し清廷をして黒龍江州を與へざらしめば、則ち我が國は、柯太を全うして、朝鮮も、亦た北境の憂ひ無けん。是れ、其の第四也。

 安南は、清の藩屬也。今ま其の土を封豕長蛇の法國に委ぬ。他日、東亞諸國、法國と事有らば、則ち彼は將に安南人をして同種の國に敵せしめんとす。其の害も、亦た測る可からざる也。現今、法人、荐りに暹羅の邊境を蠶食し、其の霰、既に集まれり矣。是れ、其の第五也。

 緬甸は、清の隣邑也。其の地は、四川・雲南に接し、印度に連なる。清廷は、之を懷柔し、以て其の圉を固うせず、遂に英國の呑噬を縱にす。頃ろ聞く、「英人の大鐵道を、印度・支那の間に布かんと欲す」と。他日、若し四川に入り、其の天險に據れば、則ち漢土の存亡は、未だ知る可からざる也。漢土、儻し白人の隷屬と爲れば、則ち黄人の諸國は、岌々乎として危ふきかな哉。是れ、其の第六也。

 清廷の兵備、整はず、屡々白人の破る所と爲り、或は軍費を償ひ、或は土地を割く。先王の謂ふ所の膺懲なる者は、今日、反つて之を受け、且つ治化は、内に洽からずして、侮辱を外國に受くる者、枚擧に遑あらず。其の間接の害は、延いて同種の隣國に及ぶ。是れ、其の第七也。

 漢土の盛衰、隣國の安危に關はること、此の如し。隣國爲る者も、亦た萎靡し振はざれば、則ち復た漢土の害を致さん。是を以て友國の相競ひ、以て富強開明を圖る者は、啻に自國を利するのみならず、亦た能く友國を裨益するなり。謂ふ所の「人は、善惡の友に由る」者也。友國の隆運を嫉視し、以て疑懼を抱く者は、世界の大勢、現時の情況に通曉せざるの徒のみ耳。盍んぞ其の善を見て、之に從はざるか乎。嗚呼、今日の世界は、昔日の世界に非ず。乃ち各々人種は、競爭の世界也。而して人種相同じき者は、其の國情も、亦た必ず近し。同種人爲る者は、安んぞ相與に切磋琢磨し、以て異人種に接するの道を講ぜざる可けんや哉。因つて泰西人の醜詆の語を條擧し、以て漢土の有識者の猛省を望むこと、左の如し。

一に曰く、支那は、東方の強國也。人口は、宇内に冠たり。然れども道徳は地を拂ひ、風紀は壞亂す。街衢は汚穢し、道路は脩まらず、臭腐の土芥は、堆積して丘と爲る。甚だしきは墳墓を發き、人骨を販る者有るに至る。其の賤民は、業を求め、米國・其の他の諸州に到りて、猶ほ且つ其の行ひを悛めず。現今、各國の、支那人の入港を拒む者は、其の醜行の、此の如きを惡めば也。是れ、支那人、自ら作すの蘖也。

 二に曰く、國中に乞丐多く、到る處に群れを爲し、凶荒に遇へば、則ち人は相食む。嗚呼、豺狼も、猶ほ同類の肉を食まず。支那人は、何ぞ豺狼に如かざらんか乎。官も亦た飢餓を救はず、其の人を罪せず。西人某、嘗て支那某省の總督に謂ひて曰く、「子の官は、牧民に在り。盍んぞ之を救はざる」と。曰く、「我が中華は、人口の増殖、甚だ速かなり。凶荒及び戰爭有つて、之を耗するに非ざれば、則ち奈何ともす可き無し」と。西人、呆然として復た言はず。心、竊かに之を惡む。

 三に曰く、先聖の謂ふ所の仁義なる者は、今は則ち詐騙と爲り、盗賊と爲り、其の風を移し俗を易ふる者は、今は則ち胡服と爲り、辮髮と爲る。禮は唯だ虚儀虚飾たるのみ。男は好んで鴉片を嗜み、其の害を生ずるを知らず。女は務めて其の足形を縮小し、身を傷つくるを悟らず。古へは身體髮膚、敢へて毀傷せざるを以て孝と爲す。而して今は乃ち此の如し。

 四に曰く、支那人は、自ら中華の聖人の裔と稱し、傲慢不遜なり。其の外邦を待つに、殊に懷柔の意無し。安南人の稱すらく、「支那の文物制度は内に衰へ、餘化は我に覃ばず。唯だ驕傲し、以て我が邦に臨む。我れ之に事ふるも、亦た何ぞ益せん。却つて俗を傷つくるのみ耳。今ま法國に從ふこと、固より辱づ矣。然れども猶ほ支那に事ふるに優るなり」と。噫、驕泰、以て之を失ふ者は、清國の現状に非ざるか歟。

 五に曰く、國人の政府を仇視すること、支那よりも甚だしきは莫し。廣東・福建等の人は、動もすれば輙ち曰く、「滿州と泰西と、均しく是れ、外國也。我の滿州に服するは、泰西に服すると、何ぞ異ならん。若し泰西人、仁義の師を興し、以て無道の滿人を討たば、則ち箪食壷漿し、以て相迎へんのみ耳」と。政府を怨むの極み、遂に他人の隷屬と爲るを耻ぢざるに至れり。

 六に曰く、人を取るの法は、唯だ文章の一科を以てするのみ。故に國人、徒らに章句に拘泥し、其の他に及ばず。是を以て物理究まらず、技藝進まず。其の國史及び諸家の論説は、千篇一律、前人の故轍を率由し、秦漢より以來、一として見るに足る者無し。秦皇は、儒者を坑し、黔首を愚かにし、後世は、文章を重んじて、黔首を愚かにす。其の開明、萬國に先んじて、學問の進まざる者は、人の思想を拘束するに因る也。

 七に曰く、其の最も怪しむべき者は、牧伯に在り。厚く亂民を賄ひ、密約して其れをして己が管内に入れざらしむ。亂民は、其の境に入らざれば、則ち人をして奏せしめて曰く、「某官の威徳、亂賊の侵軼する能はず」と。是に於て賞を受け、爵を進む。亂民は、贈遺を飽食し、曩槖充滿して、禍亂、始めて息む矣。

 八に曰く、刑律は峻酷、罪は擧族に及ぶ。聽訟斷獄は、唯だ賄賂の多寡を以て、曲直を判定す。俘虜を處するが如きは、最も慘虐を極む。曩時、髮賊の亂に、李鴻章、亂民に約して曰く、「歸順すれば、則ち之を赦さん」と。賊の聞きて降る者、四萬人なり。到れば則ち悉く之を殺す。李鴻章は、事理を辨ずる人にして、猶ほ且つ然り。況んや其の他に於いてをや乎。

 九に曰く、愛親覺羅氏の漢土を取るや也、一己の慾を滿たさんと欲するのみ耳。漢土を興し、漢民を愛するの意に非ざる也。故に其の政を爲して、曾て人民の自由・生命・財産を保護すること無し。國民も、亦た卑屈に慣れ、政府を設くる所以の理を知らず。官民は昏迷し、上下は畏懼す。其の北燕に都して、南する能はざる者は、漢民の叛くを畏るれば也。苟くも仁義を以て之を治めば、漢民、豈に背叛の理有らんや哉
』と。

 右は、歐米國人の、支那の情俗を論ずるの一班也。若し詳言すれば、則ち更に焉れより甚だしき者有らん。我が國人、嘗て之を見聞す。故に往々にして清人を擯斥する者有り。陋習の傳染を恐るれば也。然れども我の漢土に於けるは、謂ふ所の避くを得可からざる者也。故に其の不善なる者は、宜しく其の實を告げ、以て其の猛省を求むべし。便辟・善柔・便佞するは、益友の誼に非ざる也。彼の今日の状は、此の如し。然れども亦た同文同種の國は、古へより賢明の君・豪傑の士に乏しからず。一たび且つ飜然として悟り、且つ其の弊を改むれば、則ち實に宇内の強國也。我が國は、嘗て其の制度に倣ひて、今ま文化、大いに進む。漢土も、亦た應に我に倣ひ、以て開明に進むの日有るべし。徳は孤ならず、必ず隣有る也。李鴻章、嘗て人に語りて曰く、「鐵道の利害は、吾れ之を日本に試みる」と。長を隣國に取るの意は、即ち知る可き也。自今以往、宜しく盟邦と爲り、益々交誼を厚くし、共に富強開明を圖るべき也。

 東鳴(奧宮氏)の曰く、「讀み來りて、唯だ清國の狡獪譎詐の、甚だ親しむ可からざるを觀る。而して情誼、避く可からざる者有り、以て其の反省を求む。是れも亦た丹芳が愛國の誠に出づる者か歟。行文は極めて平易にして、これを望むこと、隱然として畏る可し。余、常に此の種の筆墨を愛す」と。

 不知庵(太田代氏)の曰く、「俄國の情況以下、(漢土の情況・朝鮮の情況・)日本の情況に至るまで、四篇の大意は、全て是れ三鼎策と爲す。俄は魏也、清は蜀也、日・韓の合同は、呉也。呉・蜀連和して、永く渝らざれば、必ず魏に克たん。然らざれば、則ち亡びん。作者は、自ら是れ草廬の胸衷に、優に成算有り。隱然として今日の臥龍なり矣」と。
 

  • [1]
  • 日韓合邦首唱者・樽井丹芳翁『大東合邦論』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 1月13日(日)00時07分9秒
  • 編集済
  • 返信
 
■丹芳樽井藤吉翁(一時・大和の森本氏)『大東合邦論』[明治十八年立案。二十三年再成。二十六年八月刊。昭和五十年十一月・長陵書林復刻]――原典は漢文、愚拙の試訓なり。丹芳翁は、韓國人の爲めに之を説くなり。丹芳翁は、蒼海副島種臣伯の弟子にして、皇學を平田學派井上頼圀博士に承くるなり。



序‥‥岡本監輔
序‥‥香月恕經

目 録

一、序 言
一、國號の釋義
一、人世の大勢 上・下
一、世態の變遷 上・下
一、萬國の情況
一、俄國の情況
一、漢土の情況
一、朝鮮の情況
一、日本の情況
一、日韓古今の交渉
一、國政の本原
一、合邦の利害
一、聯合の方法
一、清國、宜しく東國と合縱すべきを論ず
 附 録
一、宇内獨立國一覽表

跋‥‥太田代恆徳
後‥‥稻津 濟

再刊要旨
寄書‥‥浦倉 藏
再版附言



序 言

 東方は太陽の出づる所、發育和親を主る。其の神は青龍、其の徳は慈仁なり。四仲に分かたば、則ち朝と爲す。四時に配せば、則ち春と爲す。五行、此に始まり、七宿、此に位す。坤輿の球、剖かたば東西兩面と爲り、其の西半球は、南北亞米利加の二大洲と爲り、其の東半球は、亞細亞・阿弗利加・歐羅巴の三大洲と爲る。而して亞細亞は、歐阿の東に在り。而して日本・朝鮮は、其の最東に在り。故に其の人は、木徳・仁愛の性を受け、清明・新鮮の氣に煦まれ、其の性情習俗は、西北肅殺の風に染まる者と同じからざるは、蓋し自然の理也。日本は和を貴び、經國の標と爲し、朝鮮は仁を重んじ、施治の則と爲す。和也る者は、物と相合するの謂ひ、仁也る者は、物と相同ずるの謂ひなり。故に兩國親密の情は、固より天然に出でて、遏る可からざる也。然れども其の情、未だ甚だ密ならざる者は、何ぞや也。西人の曰く、「國家なる者は、無形の人なり」と。人の未だ長ぜざるや、男女相愛の情、未だ動かず焉。國の未だ開けざるや、彼此相親の念、未だ興らず焉。縱令ひ相愛の情、内に動くも、亦た未だ相疑の念を去る能はず。是れ、其の未だ密ならざる所以ん也。方今、世界は日に新たに、千里の行は一日にして達し、萬國の信は瞬間にして通ず。古へは嘗て絶域を以て之を目せし者、今は則ち比隣と爲る。古へは嘗て殊俗を以て之を待ちし者、今は則ち和親と爲る。我が日・韓兩國、其の土は脣齒、其の勢は兩輪、情は兄弟と同じく、義は朋友と均し。而して兩國の形勢は、日に開明に趣く。又た何爲れぞ相疑はんや哉。東方文明の曙光、已に兩國を映射せり矣。而して迷夢は、未だ覺めず、依然として古へに泥むは、時務を知る者と謂ふ可からざる也。宜しく一家同族の情を表はし、相ひ提携扶持し、以て當世の務めに從事すべき也。抑々一指、以て持つ可からず、隻脚、以て行く可からず、智識を發達せしめ、以て開明の域に進まんと欲せば、則ち兩國締盟し、一合邦と爲るに如くは莫し。和也る者は、天下の達道なり。天地の間、豈に和して成らざる者有らんや哉。合邦の制は、希臘國に始まる。而して現時、歐米諸國は、制を此に取る者多し矣。然れども我が東方諸國、古へより未だ曾て此の制有らざる也。故に或は妄誕無稽を以て、之を嘲る者有り。夫れ魁春の花は、殘霜の傷つく所と爲り、先機の言は、庸耳の沮む所と爲る。余、固より之を知れり矣。而して強辯已まざる者は、自ら已む可からざるの理有りて存すれば也。新奇の説は、境遇と氣運と相會するに由りて發すること、猶ほ草木の花の、風土と氣候と相合するを待ちて開くがごとし。謂ふ所の「天、人をして言はしむる」者、是れなり矣。若し夫れ渇者の水を夢み、飢者の食を夢むるは、是れ其の境遇の、人意を衝動するの證也。齊國、功を重んじて、管仲出で、魯國、仁を貴びて、孔子生まる。印度以西の俗、鬼道を信じて、釋迦・耶蘇・馬哈默等興れり。是れ其の境遇、其の人を鎔造するの證也。閣龍の西半球を發見し、瓦徳の蒸□[三水+氣]力を發明するも、亦た唯だ當時の氣運と當時の境遇と、其の思想を衝動して、遂に其の功を奏せしのみ也。其の他、俚謠俗曲の瑣屑も、亦た時運と境遇とに隨ひ、以て音調を成さゞるは莫し。況んや國體の大且つ重なる者に於いてをや乎。今日、余の合邦説を主張する者も、亦た氣運の、余をして之を言はしむるのみ耳。余、豈に徒らに辯を好む者ならんや哉。議する者、或は曰く、「合邦の事、言ふ可くして、行ふ可からず」と。是れ、庸人の見のみ耳。夫れ鷄鳴きて、後天曙け、説出でて、後事成る。古より未だ説の、事と時を同じうして成る者有らざる也。其の初め迂遠、事情に濶かりしと爲して、他日に急務と爲れる者有り焉。初め異端邪説と爲して、他日に清議と爲れる者有り焉。初め誣妄虚誕と爲して、後世に確説と爲れる者も、亦た有り焉。説也る者は、猶ほ原因のごとくして、事也る者は、猶ほ結果のごとし。凡そ説の行るゝは、早晩の異有りと雖も、之を要するに、境遇と氣運とに由りて、然るのみ耳。故に其の初め、至難の事に屬するも、機に投ずれば、則ち容易に行はるゝを得ん焉。不急の務めの如きも、勢ひに乘ずれば、則ち必須の要と爲れり矣。是を以て古來、先憂の士は、名譽を當世に求めずして、知己を千歳の下に待つ也。日韓合邦の事、假令ひ今日に成らざらしむるも、他日、豈に合同の機無からんや哉。宇内の大勢に就きて之を察するに、二國各々自ら獨立する者は、千歳の長計に非ざる也。況んや彼此對峙して、相容れざるに於いてをや乎。或は曰く、「合邦の説は、實に是也。然れども其の體、獨逸に倣ひ、以て友國の聯邦と爲すか乎。英吉利に擬ひ、以て同治の合邦と爲すか乎。北米合衆國の制に取り、以て主權の會盟と爲すか乎。抑々亦た會盟の邦國の制に從ふか乎。未だ其の適從する所を知らざる也」と。是れ、當然の疑問也。余、固より定見有りて存す焉。然れども之を今日に述ぶるを欲せざる也。何となれば者、時機、已に熟して、兩國の輿論出づれば焉、則ち具眼の士の、之が處理を爲す者有らん矣。故に余、唯だ宇内の大勢・世態の變遷・列國の情況・兩國古來の交渉・政治の本原、及び合邦の利害・清國の關係等を敘し、讀者をして擇ぶ所ろ有らしめんと欲するのみ耳。其の事宜に至つては、則ち後の識者を俟たんと云ふ。



國號の釋義

 『語』に曰く、「名、正しからざれば、則ち言、順はず」と。又た曰く、「名なる者は、實の賓なり」と。名・實の相待つは、猶ほ影の形に於けるがごとし。然れども天下の物、名の先に表はれて、後に實の之に從ふ者有り。實の先に表はれて、後に名の之に從ふ者有り。蓋し有形の物は、形、先に存して、名、從ひ生ず焉。無形の理は、名、先に定まりて、實、從ひ擧ぐ焉。物の質有る者は、名無くして自ら存す。事の質無き者は、名無くんば、則ち以て之を表はす莫し。本論は、無形の想像に出づ。故に先づ其の名を正し、然る後に將に實を以て之に從はんとす。

 本論の主旨は、日韓兩國をして、一合邦と爲らしむるに在り。故に題して『日韓合邦論』と曰ふも、不可無き也。然れども二國合同の實を擧げんと欲せば、之を微に愼まざる可からず。蓋し名稱の前後・位地の階級に因りて、彼此の感情を損なひ、以て爭端を啓く者は、古今、其の例無しと爲さず。昔時、亞得利亞人の、羅馬人と同盟し、馬基頓を征するに、一詩人有りて、凱旋を賀するに、其の詩句は、亞人を以て羅人の上に置き、二國、遂に隙を生じ、相戰ふが如きは、以て見る可き也。況んや新建國の稱に於いてをや乎。蓋し彼此同等なる者は、交際の通義也。故に萬國公法を説く者は、土地の大小・人民の多寡を以て、之が階級を立てざる也。今ま兩國の舊號に據らず、專ら「大東」の一語を用ひ、以て兩國に冠するは、此の嫌ひを避けんと欲するのみ耳。歐洲の聯合諸邦も、亦た舊名を各州に存して、總稱を其の上に冠す。今ま兩國の合邦も、亦た各々舊號を用ひ、之を總ぶるに「大東」の號を以てすれば、則ち事體穩當にして、復た嫌隙の其の間に生ず可きこと無き也。

 抑々合邦の稱を「大東」と曰ふ者は、亦た説有り焉。凡そ國の稱號は、地形を以て名づくる者有り、土産を以て名づくる者有り、瑞祥を以て名づくる者有り、外人の假稱を以て名と爲す者有り、君長の出身の地名、及び創業者・發見人等の姓名を以て名と爲す者有り。其の類ひは、枚擧す可からず。之を要するに、其の由來を繹ね、以て適當の文字を撰ぶのみ耳。今ま合邦と稱し、「大東」と爲す者は、兩國將來の隆盛、日の升るが如きを祝す也。且つ「東」字の兩國に於ける、其の由來も、亦た尚し矣。蓋し日本の號は、東方の義に基づきて、韓人都怒我阿羅斯、及び新羅王波沙寐錦に始まる。波沙寐錦は、蓋し婆娑尼師今也[尼師今は、王の義なり。一説に曰く、「日本人は、新羅を稱して、志羅妓と曰ふ。志羅妓は、即ち白衣也。韓人は、常に白衣を服す。故に白衣の國と稱す也。其の王の尼師今なる者は、日本語の錦也。其の國王を尊びて、錦衣せる者と爲す也。故に新羅及び尼師今の語は、日本人の假稱に取り、以て之を名づく也]。神功四十九年、任那國を立て、日本府を置く。然れども當時は、未だ日本を以て、號と爲さず。孝徳天皇の時に至りて、始めて日本と號すと云ふ。蓋し韓人の號を取り、以て之を命じたる也。爾來、國人、「東」字を以て、別號と爲す。之を書名に用ふる者多し。朝鮮も、亦た「東」字を以て、別號と爲す。其の朝鮮と稱する者は、上古の檀君に始まる。太陽、東に出でて、朝氣、鮮明なるに取れる也。亦た東方の義に從ふは、知る可き也。而して其の國史の中に、『東國通鑑』・『東國史略』有り。亦た以て證とす可し矣。嗚呼、兩國の「東」字を用ふること、符節を合するが如し。豈に天の、夙に合邦の基を、千歳の上、冥々の中に定め、以て兩國人士を啓導する所以の者に非ざる無きを得んや乎。是れ余の、「大東」の二字を以て、兩國合邦の稱と爲さんと欲する所以ん也。

‥‥
 


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