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  • 淺見絅齋先生『靖獻遺言』筌蹄。

  • 投稿者:備中處士
 
 本篇の拜記は、

一、遠湖内田周平先生校閲・雪窓沼田宇源太翁編輯『中山菁莪・落合東堤遺著・靖獻遺言講義』明治四十四年九月・昭文堂刊(木堂犬養毅翁序。亦た紹宇近藤啓吾先生・靖獻金本正孝翁編『淺見絅齋集』平成元年七月・國書刊行會刊に所收)

一、紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』昭和六十二年九月・國書刊行會刊

等に據るも、些か工夫、編纂を加へたり。

 但し全卷の拜記は、小生が能力では、固より覺束ないし、何より蒲柳の質、體力的に不可能である。更に後日の増補校正も試みたいが、完成は、到底、期し難い。乞ふ、之を諒し給へ。庶幾くば、有志、進みて閲覽せられ、古人感奮の書と結縁せられむことを。



●太田天亮氏『河上彦齋言行録』(荒木精之翁『定本・河上彦齋』昭和四十九年七月・新人物往來社刊より)に曰く、

「彦齋(稜威幸神・高田源兵源玄明――河上彦齋翁)の書を讀むや、甚だ解することを求めず。その字音の如き、敢てこれに關せざるなり。常に好んで『靖獻遺言』を讀む。跋山渉水の際と雖も、必ずこれを携ふ。蘿月松風の下に到れば、乃ち奇石に踞し、懷よりこれを出し、以て朗讀す。讀し卒れば、大呼して曰く、『快甚だし、快甚だし』と」と。

 甚だ解することを求めざるも、口に出だして朗讀幾度びかすれば、其の大要、自ら知るを得む。而して道の在る所、大義を講究錬磨し得て、己が出處進退に惑はざるに至るべし。愉快悦樂、實に甚だしきかな哉。

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  • [50]
  • 方孝孺『朱子の手帖』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月18日(土)20時13分52秒
  • 編集済
  • 返信
 
 孝孺、又た『朱子の手帖』と題して曰く、君子の、小人と勝負を一時に較ぶれば、則ち彼れ常に盛んにして、此れ常に衰ふ。是非を百世に觀れば、則ち俄頃に盛んなる者、以て無窮の惡を蓋ふに足らず、一身に屈する者、未だ嘗て天下に光顯せずんばあらず。蓋し時、事と錯迕す。聖賢と雖も、能く其の躬を達すること莫し。其の勢ひ易りて理存し、人亡びて謗り息(や)むに及びて、狐狸狗鼠の輩、臭腐、□[三水+斯]盡して遺ること無し。而して論議の公、終ひに衆庶の口を掩ふこと能はず。徽國文公朱子と西山蔡(沈)先生と、小人に屈するの事が若き、見る可し矣。文公・西山、相與に講説する者は、孔孟周程の正道にして、胡紘・沈繼祖が輩、力を極めて詆誣し、甚だしき者は、之を死地に寘(お)かんと欲す。西山が營道の竄、公も亦た僞學の目を受け、官を奪はれ秩を褫(うば)はれて、從遊の士を逐屏す。小人に由りて之を觀れば、意を曲げ義に悖り、媚を權姦(韓□[人+宅のウの替りに眞埀]冑)に取りて、以爲へらく、「朱・蔡、將に終ひに身・名、倶(とも)に滅びんとす矣」と。夫れ孰か二百年の後、摧抑困悴する者、皎乎として白日の天に當るが若くにして、鄙陋・邪嵬(狂妄)の流、擠排□[三水+于]□[血+蔑]を以て事と爲す者の、人の之を視る、猶ほ不潔の物を覩るがごとく、目憎みて氣奪はれ、既死するの遺魄(死骸)を戮して、以て仁賢の憤りを快くせんと欲せざること莫きを知らんや哉。嗚呼、亦た千古の鑑と爲す可し矣。西山の竄、慶元二年丙辰に在り、文公の此の書、誰に遺るかを知らず。而れども惓惓として郡守に告げて、稍々西山の拘執を寛(ゆる)うせんと欲す。師友の義、尚ほ以て薄夫を敦うして、末俗を勵ます可し。啻に字畫の傳ふべきのみ而已に非ざる也。後の觀る者、其れ尚ほ感悟する所ろ有りて、以て君子の歸と爲さんかな也夫。

○絅齋先生の曰く、「君子の歸」。君子のなりに落着く。方孝孺の文は、極めてよし。是は、別してよい。明朝の文章は、解大紳(解縉)や宋景濂や劉基等が唱へ出す。多く浮美なるが、孝孺のは丈夫で、義理、尤もよし。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の『朱子手帖に題す』の文の文義事分は、中で段々知れた通り。扨て此の文を以て卷末を畢る所、尤も存じ寄りあり。夫れ學は、朱子を以て宗とす。朱子を學ぶ者は、大義を知るを以て要とす。大義を知らんと欲して、學に本づかざれば、之を明かにする能はず。學ばんと欲して、朱子に本づかざれば、則ち學の正を失ふ。然らば則ち人の學をする、豈に朱子を宗とせざらんや。故に『遺言』の始め、屈原を載せて、其の下に、首めに朱子の説を載せ、屈原の旨を發明す。抑も『楚辭』の書と云ふは、朱子の晩年、道學の禁に遭つて、君昏く臣欺いて、朱子の忠、上に達せず、君を哀しみ國を憂ふるの心、誠に已む能はず。遂に此の書を註して、以て其の意を託せり。『遺言』卷末に載する所の説も、亦た朱子、道學の禁に遭へる時の事なれば、則ち終始本末、是を以て係くぞ。されば朱子大徳の上、何處を何と一事を擧げて申す可き樣も無けれども、朱子の朱子たる所、大義の顯然として見る可きもの、此の時に、此の禍ひに逢へる、全體より明かなること無ければ、一生の學の法とする、朱子躬自ら大義に當りたる説にて、始終を蹈まへて、殊に朱子を學ぶ孝孺を以て終れば、則ち直に後世、朱子を學び樣の手本とは、直になりて、學者一生、以て力を着く可き所の重き目當も、亦た甚だ明著なる事ぞ。されば別して書きとめの「君子の歸」の四字、親切感慨、尤も餘味あるもの也。誠に斯樣の文章有りて、終ひに載せ置く事、尤も幸ひ也。



 (絅齋先生)又た竊かに謂ふ。方孝孺、平日、朱子を學びて、此の文の稱する所、尤も以て其の式する所、養ふ所の素を見るに足れり矣。是を以て、躬、親から大節に臨み、大難を蒙むるに方りてや也、奮前壁立、磊磊落落として、以て其の命を致す。其れ豈に一時(俄かに)、感慨矯激の士の、能く及ぶ所ならんや哉。其の已に死するに及びてや也、族黨門類、株逮□[戔+立刀]盡し、天下、敢へて其の姓名を稱する莫し。而して防禁、方に酷だしく、遺文手書、焚燬散脱、湮晦埋沒、將に朽骨(孝孺の骨骸)に隨ひて、倶に亡びんとす也。數十年の後、勢ひ易はり理存するに及びて、而る後ち偉辭微言、醇行精忠、家ごとに傳へ戸ごとに誦し、震蕩磅□[石+薄]、愈々久しくして、彌々熾んなり矣。此れ其の始終の履歴は、凡そ是の文に道(い)へる所、一も其の言に讐(こた。答)へざる無し。而して其の是非の百世に定まる者、又た皆な符節を合するが如し。其れ亦た言ふ所を食まず、學ぶ所に負かざる眞丈夫と謂ふ可きかな也夫。抑も士の、身を處し志を行ふ、何ぞ異日の顯晦を較ぶ可けん。但だ是非の正、論議の公、天理の人心、同じく然りとする所の者は、乃ち天壤と與に、得て泯滅す容からずして、其の大端根本、取舍得失の機、皆な己に在りて、外に待つこと無し矣。則ち孝孺の言を誦する者、所謂る君子の歸と爲す者に於いて、亦た感悟する所ろ有りて、以て自ら警むるを庶幾せざる可けんや也哉。因りて此れを以て、編を終ふ焉。

○「一時、感慨云々」。ちょいとの憤り、さて無念、死せずばと、忿激するも、惡いでは無いが、それは一旦の事で、頼みにならぬ。孝孺のは、平生の養ひから、斯うした事ぞ。

○「株逮□[戔+立刀]盡」。根から葉から、株の有らん限り掘り出して、殘らず削り除く。逮は、及ぶと云ふ字。



淺見絅齋先生『靖獻遺言の後に書す』

 古今、忠臣義士、素定の規、臨絶の音、衰頽危亂の時に見はれて、青史遺編の中に表する者、昭昭たり矣。捧誦して之を覆玩する毎とに、其の精確惻怛の心、光明俊偉の氣、人をして當時に際(まじ)はり、其の風采に接(つ)ぐが如くにして、感慨歎息、□[音+欠。きん]慕奮竦、自から已む能はざる者有らしむ。其れも亦た尚ぶ可きかな矣哉。

 間々竊かに其の特に著しき者を纂めて、八篇(楚の屈平・蜀漢の諸葛亮・晉の陶潛・唐の顔眞卿・宋の文天祥・宋の謝枋得・處士の劉因・明の方孝儒)を得たり。謹みて謄録すること、右の如し。且つ其の事蹟の大略を稽へ、諸れを本題の下に紀し、其の聲辭に發するの、各々然る所以の者をして、以て并せ考ふること有らしむ焉。其の他、一時同體の士、因りて附見すべき者と、先正の格論、綱常の要に關かること有ると、以て夫の生を□[女+兪。ぬす]み義を忘れ、非を飾り售るを求めて、以て天下後世を欺かむと欲する者に及ぶに至りて、又た率(おほむ)ね類推究覈して、以て卷後に屬することを得たり。

 嗚呼、箕子、已に往けり矣。而して其の「自ら靖んじ、自ら先王に獻ずる」所以の者、萬古一心、彼此、間(へだて)無きこと、此の如し。然らば則ち後の遺言を讀む者、其の心を驗す所以、亦た豈に遠く求めむや也耶。淺見安正、敬みて書す。


○強齋先生の曰く、生死の場に臨んで、忠義があらはるゝでは無い。平生、大根が立つてゐて、素定の規(規範)が堅りて居る故、平生なりに、變な場でも、それなりに變ぜずあらはるゝぞ。

○秦山先生の曰く、忠臣の身を、義理の通りに處し得らるゝと云ふは、皆な時の衰へた亂世で無ければ、かつきりと見えぬ。「衰頽危亂」は、亂世の事ぞ。

○墨山翁の曰く、「先正」の正は、前賢達の事ではあれども、何時でも格段重い衆に遣ふ文字。本と『書經』の中に、伊尹の事に云つてある文字、重い大賢達の至極の議論の、三綱五常の道の要領に與かる樣な詞があれば、夫れも亦た載せ、「同體の士」を載せるは、行事の方が主。「先正の格論」は、言語の方が主に擧げたもの。

○秦山先生の曰く、箕子は、千歳以前に死なれたが、箕子の「自ら靖んじ、自ら先王に獻ず」と云はれた詞は、萬古忠臣の心で、忠義を盡して死ぬると云ふに、斯う云ふより外の云ひ樣は無い。箕子が紂王の惡逆が盛んになつて、みすゝゝ周の天下になる事が見えて居つたによつて、三人(殷の比干・微子・箕子)の衆が、寄り合つて相談せられたれば、此方の身は、先達て御先祖代々の天子へ差上げて置いた、我が身で無いからは、死ぬるより外は無いと云はれた。此の詞は、『書經』微子の篇に載つて、どこへ持つて參つても、忠臣の心は、是ぞ。日本の楠が、此の二字の旨は知らいでも、あの道に處して行はれたなりは、此の二字にひしと合ふ。

○強齋先生の曰く、靖んじ獻ずるの心が見たくば、「遠く求めむや也耶」。人々、忠義の心の無い者は無い。皆な其の心を得て居るからは、昔語りの樣に、孔明が斯うで、文山が斯うでと云ふは、其の心が無いと云ふもの。其の心の無いは、人で無い。其の衆の心を驗す所のものは、我に在つて、疵の付かぬ樣に、平生養ひ、我が心に恥しう無い樣に、いか樣な變の場でも、いか樣な難儀の場でも、其の心なりに立切つて行けば、萬古一心、古今無間の心を得たと云ふもの。すれば「豈に遠く求めむや也耶」となり。極めて親切な事なり。耶は、歎じて置いて云ふ辭ぞ。箕子の「自ら靖んじ、自ら獻ず」と云はれた旨を、此の八人の衆の、其の旨に負かぬ衆で説かれて、誰でも忠義の心の無い者は無い程に、此のなりに、平生から養つて行け、とある旨で、御奉公の爲めに、此の書を集めた、とある。(絅齋)先生の意、學者の身に親切な事、熟讀體察す可し。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 某、此の書を編む旨、跋に書き置く。言、簡なれども、此の他、言ふ可きこと無くして、別して「靖獻」の二字、此の書の目當とする所ろ也。某、敢へて自任するに非ず、實に是に因つて、天下後世、此の學に志ある者と、相共に仰ぎ、法らんことを欲するのみ耳。

 右、元禄二己巳歳二月十日、講義、此の如し。謹みて識す。



●絅齋先生『靖獻遺言講義の跋』に曰く、

 貞享甲子、余、甫めて『靖獻遺言』を編み、四年にして既に脱稿す矣。諸友、諸れを梓に□[金+侵の右]し、以て志を同じうする者と共にせんと欲す焉。夫れ此の編に載する所は、實に先聖賢の埀訓・履歴の緒言・遺蹟、素より愚蒙の鑿空・杜撰、以て僭妄を作すを假らず。則ち固より已に謙遜を用ふる所に非ずして、其の擬議・取捨・輯次・編録する所以の意に至りては、則ち又た相與に切□[靡+立刀]講覈し、以て謬る所を正して、其の當を得ざる可からず矣。遂に命じて上棗す。已に成るの後、諸生の爲めに、其の文意の梗慨を説く。諸生、退いて各々箚記・標識し、以て後日の考に備へ、其の餘論・反覆・曲折、詳かに書して、明かに辨ぜる者は、別に演べて講義と爲し、之を藏し、以て異日、俯仰・感慨・觀省・警□[立心+易]の資と爲す也。元禄己巳歳二月六日、安正、謹みて識す。



●寒林平泉澄博士『愛國の哲人』(『天兵に敵なし』昭和十八年九月・至文堂刊に所收)に曰く、

 『靖獻遺言』は、斯ういふ譯で、支那の忠臣義士を集めて來られましたけれども、其の根本の精神から申しますれば、正に國體を明かにすること、内外の辨を明かにすることを説いて居られるといふことを考へなければならないのであります。而して内外の辨を明かにしまして、其の中に立つて、(絅齋)先生の説いて居られましたことは、尊王でありまして、君に忠義を盡さなければならないといふ、此の吾々の最も崇高なる責務、人生の最も高い道義を明かにされて居りますものが、即ち『靖獻遺言』であり、其の『(靖獻遺言)講義』であります。先生は、此の道理、君の御爲には、一身を捧げ奉らなければならないといふ道理を、空理空論で説いては、人の精神に浸みわたるといふことは出來ない。寧ろ實際の實例を示して、それに依つて考へさせるが宜しい。斯ういふ考へ方からして、此處に歴史の具體的な事實を通じて説かれたのであります。而してそれも、一生を貫くものでなければならぬ。即ち一言にして申しますならば、忠死、之を大切也とされたのであります。茲に於て先生は、愛國の哲人より更に進んで、尊王の哲人として、これを仰ぎ見なければならないのであります。



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 淺見絅齋先生『靖獻遺言』竝びに講義録を拜記し、有志に筌蹄せんと欲すること、件の如し。

 平成二十四年八月十八日、

 八紘一宇の實踐者・豐太閤の忌日に、吉備中國の處士、九拜して筆を擱くと、爾か云ふ。

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  • [49]
  • 聖賢綱常の學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月18日(土)17時07分45秒
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 初め燕の兵、已に江を過ぐ。建文の重臣、胡廣・金幼孜・黄淮・胡儼・解縉・楊士奇、衡府の紀善(太子・懿文の第四子・衡王允□[火+堅]の師傅側役)、周是脩と倶に、同じく節に死せんと約す。燕の兵、金川門に駐まる。宮中焚燎す。明日、是脩、衣冠を具(とゝの)へ、應天府に詣り、宣聖(唐の開元二十七年、詔、孔子に諡して、文宣王と爲す)の遺像を拜し、自ら贊を爲(つく)り、衣帶に繋(か)け、東廡の下(廂の廊下)に縊る。既にして棣、城に入る。安王楹・茹□[王+常]、先づ叩頭して之に降る。胡廣・金幼孜以下の六人も、亦た前約に背き、蹇義・楊榮等二十餘人と、皆な勸進迎附し、遂に多く大位に至れり矣。

[李卓吾が『藏書』に、『瑣綴録』を引きて云ふ、「成祖、江を渡る。周是脩、胡・解等と、倶に約有り。既にして解、胡を覘(うかゞ)はしめ、厠に如(ゆ)きて囘り、家人に問ふ、『猪に□[食+委。か]ひしや、否や』と。解、笑ひて曰く、『一猪、尚ほ捨てず、性命を捨つるに肯んぜんや』と」と。又た『天順日録』を引きて云ふ、「解、後に是脩が爲めに傳を爲り、戲れに其の子に謂ひて曰く、『當時、若し同じく死せば、誰か爾の父の與(た)めに傳を作らんや邪』と」と。按ずるに、此の一節、殊(わき)て醜笑す可し。本と言ふに足る無し。但だ解、殆んど虚名有り。故に特に之を録す。


○「猪に□[食+委]ひしや、否や」。豚に、ものを食はしたか。

○鄭曉の曰く、方孝孺、節に死する事、今に至りて百六十年、人、皆な歴歴として能く言ふ。言ふこと、人人、殊なりと雖も、其の仁を成し、義を取り、死に之(ゆ)きて悔ゆること靡(な)き、斷然として泯沒す可からずして、同時の文學柄用の臣、功名に際會し、史に別書有り。故を以て彭□[音+召](明末の儒)『江南を哀しむ』の詞に曰へること有り、「後來、奸侫の儒、巧言、自ら粉飾す。頭を叩きて、餘生を乞ふ。乃ち直筆に非ざること無きや」と]。

○秦山先生の曰く、「江南を哀しむの詞云々」。永樂帝が江南を亡した事を作つた詩ぞ。江南を哀しむと云ふ詩ぞ。こゝに載つて居るは、全篇では無い。末の入用な處を四句拔いて書いたものぞ。「後來、奸侫の儒」と云ふが、胡廣の、金幼孜のと云ふ者を指して云つたものぞ。奸は、奸妖な事。口、利口に云ひまはす者の事。「巧言」は、言をよくすると云ふ事で、惡い事をも、作り變へてよう云ひ爲す樣な、口、利口な事。「粉飾」は、白粉で塗り隱す樣な事ぞ。頭で地を叩いて、少しばかりの命を生きながらへて居りながら、よい加減な事を云つて居る儒者が多し。史傳の部にも、儒者分に載つて居るぞ。すれば此の時分の史傳は、直筆では無い。どうしても、本文には書いて無い。直筆は、有りの儘に書く事ぞ。

黄福・鄭賜等も、亦た胡・金が輩と、皆な建文の朝に關係する所ろ有りて、初め降るを肯んぜず。既にして又た自ら陳じて宥を乞ひ、復た進用せらる。永樂十二年、棣、胡廣・楊榮・金幼孜・黄福等に命じ、『五經』・『四書』・『性理』の大全を纂集して、以て天下に頒布すと云ふ。

○強齋先生の曰く、扨て永樂帝が、大全を云ひつけて纂めたは、先づ己が謀叛した者ゆゑ、名を飾り、はゞな事をして、惡を掩ふつもりに、聖學を明かにすと云ひ立てゝ、殘らず全い樣に、とある心で、大全と云ふを著したぞ。是から、經學が損ねたぞ。朱子の本書どもも、此の時の不忠不義な學術を、根から知らぬ俗學共が、寄つて汚し、損ねたぞ。秦火以來の聖學の損ねと云ふは、此の時ぞ。扨て大全は、萬世、不忠不義の棟梁、學を損なふ第一番、孔孟程朱の罪人。日本へ、あの樣な、滅相な、『或問』・『輯略』も附かぬ『四書』が渡りたは、皆な大全以後の書が傳はりた故ぞ。『性理大全』、滅相な何の役に立たぬもの。『五經大全』は、猶ほ以ての事。あれは、王荊公(安石)が『儀禮』・『周禮』を棄てゝ、『禮記』の及第を立て、『春秋』を廢したを、朱子の歎かれて、□[三水+章]州で、『五經』の板を起されて、『易』・『書』・『詩』・『春秋』・『儀禮』・『周禮』・『禮記』と、次第せられた。『禮記』は、『儀禮』の傳ぢやに依つて、『儀禮』を置いて、『禮記』を用ひるは、本を棄てゝ末に奔るぢやと云つて、上へ奏して、板に起された。それを又た永樂帝の時に、大きに損ね、王荊公が樣にせられた。秦火以來の損ねと云ふは、大全ぞ。それを知らずに、其の滓を喰うて嬉しがり、不忠不義者のした書ぢやによつて、よい事が無い。其の樣な書で、聖賢の學をせうと思ふは、淺間しい事。勿論、見ぬがよい。其の樣な譯を合點して、其の非を知るは、山崎(闇齋)先生の御蔭と覺えたがよい。

 余(絅齋先生)、嘗て論ず。朱子、聖學を明かにし、綱常を植て、天下後世の尊信表章する所と爲る。固より一日に非ず。而るに其の間、大不幸なる者、三有り焉。宋の理宗也、元の許衡也、明の文皇(永樂帝)也。何ぞや也。朱子の大中至正の學、百世、聖人を俟ちて惑はず、彌々久しく彌々信ある者、固より自然の理、必到の勢ひ、此の輩莫しと雖も、奚(なん)ぞ其の發顯流達せざるを憂へんや也。政(まさ)に適(まさ)に氣數(時勢)・人事の變に關かり、數千萬世、沈淪蔽塞せしむとも、然れども吾が聖賢相傳ふる、綱常名教の學なる者、豈に此れ等の逆賊臭穢の徒、虚美相誑き、同惡相掩ひ、鼓唱引重(共々囃し立て重んじ合ふ)するに憑りて、後に行はるゝを得可きこと有らんや耶。吾、朱子在天の靈、其の憤罵排斥して容れざるを知るや也、必せり矣。

○「理宗・許衡・文皇」。宋の理宗は、皇太子を殺して帝位を奪つた者(謝枋得の卷)。元の許衡は、夷狄の元朝に仕へた者(劉因の卷)。明の文皇は、即ち永樂帝、是れ也。建文帝を倒して天下を奪つた者。而して此の樣な大逆者によつて、朱子學が顯彰された事は、朱子にとつて不幸であつたのみならず、後世、朱子道學の骨髓を、大いに惑はすに至れり。

○「何ぞや也」。不幸とは、何故ならば、『莊子』の所謂る聖人が人によい事をさせるとて、仁義を發せらるゝと、盗人は、其の仁義までを盗む。大盗をする者は、仁義でなければならぬ、と云へり。此の三人は、朱子の大中至正の學を、私慾の用に供せり。さりながら、それは日月の宇宙を照らす樣なもので、時令が正しく、稻がよく育つと云へば、莠もよう繁る樣なもの、是非に及ばず。今日、書を論じて聞かせても、大勢の中に惡い者も出ないとも云はれぬ。強ひて氣の毒するにも當らない。

○秦山先生の曰く、「氣數・人事の變」。人物に宜しう無い者が出で來て、聖賢の學を信仰せぬ樣になる變ぞ。たとへ天地の氣數で、秦の始皇が樣な者が出て、朱子の書を燒捨てたと云うても。

 武王・周公、殷に克ち、禮を制し政を立て、澤は生民に浹(とほ)り、威は四海に加はり、世祚の永き、八百餘年、盛なりと謂ふ可し矣。誓誥の策(『書經』)・風雅の典(『詩經』)、富めりと謂ふ可し矣。而れども終ひに天下萬世をして、凛然として名分大義の嚴、得て犯す可からず、慚徳口實の責め、得て辭す可からざるを知りて、天壤、處を易へ(天が地と、地が天となる、臣として君を討つ)、人類、斷滅に至らざらしむる者は、則ち特に西山餓死の兩匹夫(伯夷・叔齊)に在るのみ而已矣。故に予、三不幸に於いて、已に朱子の爲めに歎じて、此こに於て又た之が爲に賀する者有り。何ぞや也。理宗が時に當りてや也、幸ひに李燔(朱子の直弟子、其の朝に仕へず)が若き有り矣。許衡が時に當りてや也、幸ひに劉因が若き有り矣。文皇が時に當りてや也、幸ひに方孝孺の若き有り矣。皆な豪傑の才、醇正の學を以てして、而も篤く朱子を信じ、確く綱常を守り、寧ろ世を避け義に就きて、以て各々其の志を遂ぐ。西山の餓死と并せて五匹夫なり矣。今に到りて風采義氣、烈烈として秋霜夏日の如く、昭掲、常に新たなり。夫れ然る後、聖賢綱常の學、實に頼ること有りと爲し、而して朱子在天の靈、是に於て亦た慰する所ろ有らんかな夫。

○「慚徳口實」。『書經』仲□[兀+虫]之□[言+告]篇に、「(殷の)成湯、(夏の)傑を南巣に放ち、惟れ徳に慙づる有り。曰く、予、來世、台(われ。湯王)を以て口實と爲さんことを恐る」と。



**********

 愚案、是れ、放伐論(殷湯の放・周武の伐)の起る所以なり。我が皇國に在つては、有徳禪讓論(堯・舜・禹の禪讓)も、併せて之を忌むこと、勿論なり。何となれば、天地の正嫡たる「皇家は連綿として、萬世一系」(慶應三年十月・岩倉具視公『王政復古議』。熟辭「萬世一系」の初見――『維新史綱要』所收)にして、固より支那の國體に相違して、皇祖の神敕儼然、宇宙唯一の皇統なれば也。我が國は、「盛衰」有るも、絶えて「興亡」無し矣。支那の不幸、亦た哀れむ可き也。

 然れども強齋先生の嚴訓「今日の當務」、寤寐も忘る可からず矣。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/15

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  • [48]
  • 屈せずして死す。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月17日(金)18時28分33秒
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 兵部尚書・鐵鉉。燕の兵、濟南を圍むこと、甚だ急なり。鉉、力を悉(つく)して防禦す。軍民をして詐り降りて、門を開かしめ、棣の入るを候ひ、急に鐵板を下し、其の馬首を傷(やぶ)り、殆んど中つ。出戰するに比(およ)びて、軍士をして□[口+操の右]罵せしむ。棣、窘(くる)しみ、大いに怒りて攻むること久し。克つこと能はず。之を舍てゝ南去す。鉉、乃ち宴犒(勞ひの酒盛り)を設け、辛苦を問ふ。賦を述べ歌を□[眞埀+春の上+貝。つ]ぎ、忠義を激發す。又た東昌及び小河の捷有り。中原震動し、棣、北に還らんと欲するに至る。既にして江を渡り、城に入る。鉉、尚ほ殘兵を擁して、淮南に駐まる。燕の兵、鉉を擒にし至る。屈するを肯んぜず。一顧せしむるも、遂に可(き)かず。其の耳鼻を割く。竟ひに顧みるを肯んぜず。其の體を劈碎し、死に至るまで罵りて、聲を絶たず。

[王世貞の曰く、鐵公、未だ堅からざるの版築(城普請)に憑り、振はざるの兵氣を鼓し、弱を轉じて強と爲し、幾(ほと)んど就りて挫く。天の廢する所、孰か能く之を興さん。支(肢)、靡碎有りて、膝、小(すこ)しも屈する無し。斯(こゝ)に最と爲す矣]。

○「斯に最と爲す矣」。第一番の忠義。

 都察院副都御史・練子寧、嘗て金幼孜に謂ひて曰く、「子は他日、良臣爲らん。我は、忠臣爲らん」と。兵、起る。子寧、李景隆が觀望不忠を疏し、之を斬らんと謂ふ。棣、位を奪ふに及びて、子寧を召して責問す。屈せずして死す。親族以下、坐して徙死する者、數十百人なり。

[羅洪先の曰く、子寧、本と淦(かん)の東山の人なり。伯尚に至り、三洲に遷る。寔に公を生む。及第するに比びて、復た淦に居る。前守、公を峽の鳳凰山に祀る。淦人、之を爭ふ。夫れ三洲は、淦に隷すれば、則ち淦祀り、峽に隷すれば、則ち峽祀る。淦と峽と、皆な公の故郷、何ぞ擇ばん焉。彼の爭ふ者は、公、淦に在れば、則ち淦重く、峽に在れば、則ち峽重きを以て也。夫れ能く淦と峽との重きを爲す者は、止(た)だ一死のみ耳]。


○強齋先生の曰く、「伯尚」は、子寧の父の名ぞ。「寔に公を生む」は、そこで、あの樣な人を生んだと云ふ樣な意ぞ。「前守」は、前の(三洲の)守護人ぞ。「之を爭ふ」は、所の美名になる人ゆゑ、此方の在所の人ぢやと云つて爭ふぞ。「隷」は、下に付く事。「何ぞ擇ばん」は、どちらと云ふ譯は無いに、此方の在所の人ぢや々ゞゝと云つて爭ふは、あの人の居らるゝ所が重いによつてぞ。楠の祠が河内に在れば、河内が重い、大和に在れば、大和が重い樣なもの。「夫れ云々」。どうしても重いなれば、忠義のなりで死せられたばかりでの事ぢや、と有る事。

 翰林院修撰・王叔英、燕の兵、金陵に至る。事の爲す可からざるを知り、沐浴して衣冠を具(とゝの)へ、『絶命の辭』を書し、自ら縊(くびくゝ)る[其の辭に曰く、
「人、穹壤の間に生れ、忠孝、克く全きを貴ぶ。
嗟、予、君父に事へ、自ら省みるに、過愆多し。
志有り、未だ竟ふるに及ばず。奇疾、忽ち纏はらる。
肥甘、空しく案に在り、之に對して嚥むこと能はず。
意者(おも)ふに、造化の神、命有り、九泉に歸す。
嘗て聞く、夷と齊と、餓死す、首陽の巓。
周の粟、豈に佳からざせん、見る所、良(まこと)に獨偏。
高踪、遠くして繼ぎ難し、爾(しか)ること有るも、傳ふるに足る無し。
千秋、史臣の筆、愼しみて賢を希(ねが)ふと稱すること勿れ」と。
又た書して曰く、
「生れて既に久し矣、當時に伸ぶること無きを愧づ。
死も亦た徒然、庶はくは、後世に愧づること無からん」と]。
妻・劉氏も、亦た縊れ死す。二女、井に赴きて死す。


○強齋先生の曰く、「穹壤」は、天地の事。「過愆」は過ちぞ。「志有り云々」は、親を養ひ安んぜんと思ふ志は有つたが、其れを得遂げずに、遂に病にあうて終らせられた。「肥甘」は、供へを置きたれど、空しく案(供物を置く机)にあるばかりで、之を得上がりませぬと云ふ事。「意者ふに云々」は、生まるれば、遂に死する。死あれば、生あると云ふ樣に、死生、陰陽の樣々に易はるは、皆な命で、「九泉に歸る」は、死すると云ふ事。是までは孝の事を云はれて、次からは忠の事ぞ。「嘗て聞く云々」。周の粟(穀物)ぢやと云つて、別にようあるまい筈は無いが、見る處の大義が、世間と格別違うて居る故、周の粟を食ふに忍びずして、忠義なりに死せられた。其の伯夷兄弟の仕方の跡が、「獨偏」は、惣々と違うた格別な事。跡が高いによつて、どうも繼がれぬ。たとひ拙者式が、さうしたいと云つても、傳ふるに足る事で無い。あの衆の眞似をして、忠義立てして死するでは無い程に、只今ま死したとても、夷齊を希うて死したなどと云はるゝ事を、後世の記録する衆が、必ず稱してくれらるゝな。君の爲めに死する分ぢや、とある事。「又た書して云々」。今まで生きてゐて、何一つ御奉公申した事も無く、當時に於いて存念の伸ぶる事なく、其の上、此の樣な變にあうて、敵打ちも得せず死するは、愧づかしい事ぢやが、それは其の分の事。先づ君の爲めに死するではある程に、後世に慚づる事は無い、とある事ぞ。

 監察御史・曾鳳□[音+召]、嘗て詔を燕に奉じ、屈せず。棣、位を簒ひ、之を召すこと再びなるも、遂に應ぜず。血を刺し、憤辭を襟に書し[其の辭に曰く、予、生きて廬陵忠節の郷に居、素と朝に立つ骨□[魚+更]の腸を負ひ、書を讀みて進士の第に登り、仕宦して錦衣の郎に至る。既に一死の宜しきを得、以て笑ひを地下に含みて、吾が文天祥に愧ぢざる可し]、妻・李氏、竝びに子・公望に屬して曰く、「我れ死せば、衣を易ふること勿れ」と。遂に自ら刎す。李氏も、亦た經(くび)れ死す。

○「廬陵忠節の郷」。廬陵は、歐陽修・楊邦乂・胡銓・文天祥等、忠義の人を輩出せる地なり。

○「骨□[魚+更]の腸」は、魚の頭の硬い事、その樣に意志が強く、權力・金力に屈せぬ精神。

○「衣を易ふること勿れ」。衣は、憤辭にある錦衣。其の朝官としての誇りのまゝに死にたいとの謂ひ。

 禮部尚書・陳迪、兵起こり、上疏して大計を陳ぶ。命を受けて軍儲(兵糧)を外に督す。家を過ぎて、未だ嘗て入らず。變(建文帝の崩)を聞きて、即ち京師に赴く。棣、位を簒ひ、迪を召して責問す。迪、慢罵して屈せず。子・鳳山等六人と、同日に市に冎(しゝき。一度に斬り殺さず、少しづつ削ぎ切る)る。將に刑せられんとす。鳳山、呼びて曰く、「父、我を累す」と。迪、「言ふこと勿れ」と叱し、罵りて口を絶たず。棣、鳳山等が鼻舌を割き、熬熟して迪に食はしめて曰く、「吃するに、好きや否や」と。迪の曰く、「這れは是れ忠臣孝子の肉、喫するに好し」と。益々指斥し、遂に倶に凌遲して死す(早く殺さず、なぶり殺す)。衣帶の中、詩を得。
[其の詩に曰へる有り、

三たび天王、顧命の新なるを受く。

――三度び先帝、即ち太祖より、繰返し々々ゝ新帝、即ち建文帝の爲めに、節義を變へること無く忠義を盡せよとの御遺命を賜はつたが、其の感激、今も新たである。

山河帶礪、此の絲綸。
――山はへりて砥石の如くなり、河は水つきて帶の如くなつても、今のまゝで變ることが無い、此の先帝の綸旨。

千秋公論、日より明かなり。
――千年の後には、正邪の判斷、太陽の光よりも明白となり、

照徹せん、區區不貳の心]。
――拙者が心を碎いて御遺命を奉じ、二心を持たなかつた事、其の光が徹底するであらう。

又た『五噫の詩』有り、竝びに悲烈なり。

○強齋先生の曰く、「這れは是れ云々」。こゝが浩然の氣。此の場では、屈せねばならぬ樣になつて來る處ぢやに、それに怯(ひる)まず、愈々義に勇む。斯う云ふで無ければ、本の忠義で無い。

○「絲綸」。『禮記』緇衣篇に、「王言は、絲の如く、其の出づること、綸の如し」と。

○墨山翁の曰く、「噫」、此の方でいゝよ、と訓むが、全體不平の聲とある。何時でも快からぬ時、出る歎息の聲ぞ。

 蘇州の知府・□[女+兆]善の忠憤激烈、兵起るや、黄子澄、善が所に避け、與に海に航せんと約す。善の曰く、「土を守るの臣、當に城と倶に亡ぶべし」と。燕の兵、江上に至る。善、詔を受け、兵を總べて勤王す。時に禮科給事・黄鉞、外艱(父の喪)に丁(あた。當)つて歸る。善、書を以て招く。鉞、即日、營葬し訖(をは)り、遂に趣く。棣、位を簒ひ、善を捕ふること急なり。善が麾下、善を縛り去りて、賞を邀(もと)む。鉞、之を聞きて慟哭し、遂に食を絶ち目を閉じづること三日、死を求む。或ひとの告げて曰く、「善、款服(誠心服從)し、已に宥を得」と。鉞、目を瞠りて曰く、「吾、善の決して二心無きを知る。且(しば)らく少しく俟て。善が事定まり、吾れ死するも、未だ晩からず。脱(も)し善、果して死せずんば、吾、將に下、希直(方孝孺の字)に報ぜんとす」と。遂に復た食す。尋いで善、節に死するの報至る。鉞、起ちて琴川橋に登り、西向再拜して、善を祀り、哭して曰く、「君、今ま希直と同じく、國に死す。吾、義に背きて、獨り生くるに忍びんや乎」と。祀り畢りて、家人を紿(あざむ)き、歸つて祭具せしめ、從容として衣冠を整へ、身を奮ひ、水に入りて死す。

○強齋先生の曰く、「營葬し訖る」。三年の喪を務むると云ふ樣な事は、平生底の事。軍などの時は、喪服を甲に着替へて出たがよい。其の場々ゝ々の義理と云ふもの。

○墨山翁の曰く、獨りせかず、とくゝゝと事を仕舞うて、「衣冠を整へ云々」ぞ。

 沛知縣・顔伯□[王+韋]は、唐の魯公(顔眞卿)の後なり。兵起り、郡縣、皆な歸附す。伯□[王+韋]、獨り死を以て自ら奮ふ。燕の兵、沛を攻む。援兵、竟ひに至らず。伯□[王+韋]、支ふること能はざるを度り、其の子・有爲をして還らしめて曰く、「汝、歸りて大人に白せ、(國の爲めに死ぬ故ゑ)子の職、盡すこと克(あた)はず矣」と。詩を察院の壁に題す。
[其の詩に曰く、

大守(郡守)諸公、此の情を鑑みよ。只だ國難、未だ平ぐこと能はざるに因る。

――拙者が死なんとする氣持を、いづれも御覽なされよ。亂心しての事で無く、只だ國難が平かざるに因つての事である。

丹心、改めず、人心(臣か)の節。青史、誰か書さん、縣令の名。
――忠義の赤心、改まること無きこそ、人臣たる者の節義であるが、縣令に過ぎぬ拙者風情の事など、誰も記録に書き留めてはくれぬであらう。

一木、豈に能く大厦を支へん。三軍、空しく長城を築かんと擬す。
――一本の柱では、大きな家を支へ切れるもので無く、拙者一人、忠義を盡したとて、國家の運命を守り通せるものでは無いが、雲霞の如き敵の大軍に對し、空しいと知りつゝ、萬里の長城となつて、之を食ひ止めようとした事であつた。

吾が徒、死すと雖も、終ひに憾み無し。望むらくは、民艱を采(と)りて、聖明(天子の建文帝)に達せよ]。
――さて拙者等、今こゝに一命を捨てると雖も、思ひ殘す事は無い。只だ一つ望む所は、天下の騒亂の爲めに、罪の無い民衆が、あの樣に難儀してゐると云ふ事を、御上の御耳に達する樣にしたいと云ふ事である。

夜、燕の兵、東門に入る。伯□[王+韋]、冠帶して堂に升り、南拜慟哭して曰く、「臣、能く國に報ゆること無し」と。自ら經れ死す。有爲、去るに忍びず。復た還りて、父の屍を見、遂に自ら刎ねて以て從ふ。

○秦山先生の曰く、「有爲、去るに忍びず」。親の遺言を以て、古郷へ歸る筈の事ぞ。けれども親の死なるゝ事が見えて居つたによつて、歸る事もならず、立ち戻り、死なねばならぬ場ぞ。此方が生殘つて、後に父の仇を報ゆる程の力があるか、或は何ぞ國家の大事に與かる程の事を承けて居つたならば、死なぬがよからうが、左樣な事も無ければ、死なねばならぬ。楠正行の事體とは違ふ。正行のは、何で有らうと、父の遺言が、「生き殘つて君の爲めに讎を亡ぼせ」と云ふ遺言ぞ。是ならば、叶はぬ迄も、其の通りをやつて見ねばならぬ。

 侍中・黄觀[初め父の贅(入婿)に從ひ、許を姓とす。後ち本姓(黄)に復す]、建文中に、棣、齊(齊秦)・黄(黄子澄)を索むる時、觀、詔を草し、其の詆斥を極む。兵起り、詔を奉じて兵を募り、諸軍を督して勤王す。安慶に至り、變を聞きて痛哭し、人に謂ひて曰く、「吾が妻・翁(氏)、志節有り。必ず辱しめられず」と。魂を招きて、之を江上に葬る。明日、家人、京師より奔り、言ふ、「翁夫人、二女と同じく執へらる。翁、釵釧(さいせん。髮指し・手鐶)を持ち、佯(いつは)りて奴をして、出でて酒□[肴+股の右]を市(か)はしめて、急に二女を携へ、家屬十餘人を率ゐ、通濟門の橋下に投じて死す」と。觀、李陽河に至り、既に帝、遜(のが)れ去ると聞き、即ち朝服し、東向再拜し、亦た自ら羅刹磯の湍流の中に投ず。

○「魂を招く」。王逸『楚辭章句』に曰く、「『招魂』とは、宋玉の作る所ろ也。宋玉、屈原、忠して斥棄せらるゝを憐れ哀む。故に『招魂』を作り、以て其の精神を復し、其の年壽を延べんと欲す」と。

 浙江の按察司・王良、忠孝を以て自ら許す。燕の兵、既に京に入る。良、誓ふに必死を以てす。棣、之を召す。良、使ひを執へて獄に下し、諸司の印を收めて、携へ歸り、其の妻と訣(わか)る。妻、先づ自ら池に投ず。良、遂に火を擧げ、家人と同じく、火に赴いて死す。

○墨山翁の曰く、王良、當役按察使なれば、其の按察使の支配下の印が、夫々に渡つてある。其の分をば、後で麁末に相成らぬ樣に、此の中で丁寧に取り集めて歸つた。こゝらが甚だ從容とした仕方。國の爲めに只今ま死んで行く身分、印判の取り集めどころでもあるまいに、一度び命を蒙むつた我が此の職分の事ゆゑ、何處々々までも、それを堅固に守つたもの。

 刑部尚書・暴昭、棣、位を簒ひ、執へ至る。昭、抗罵して屈せず。先づ其の齒を去り、次に手足を斷つ。罵ること、猶ほ絶たず。頭を斷ちて、乃ち已む。

○防衞大臣――兵部尚書・鐵鉉、禮儀祭祀大臣――禮部尚書・陳迪、法務大臣――刑部尚書・暴昭と云ふ、最も重要なる大臣三名が、毫も節を屈すること無く、壯絶なる最期を遂げし事は、方孝孺の死と合せて、支那の道義史上の光彩なる可し。

 濟陽の教授・王省、靖難の兵至り、明倫に陞す。省の曰く、「今日、只だ君臣の義を説く」と。柱に觸れて死す。子・禎も、亦た死す。

○秦山先生の曰く、今日、明倫官と云ふ事なれば、君臣の義を論ずる事が第一ぢや。

 戸給事・□[龍+共]泰、燕の兵、金川門に駐まる。泰、妻と訣れて曰く、「吾、死を分とす矣」と。執へられて、已に釋す。城下に投じて死す。

○強齋先生の曰く、古へから囚はれて、罵死にする者は多けれども、許されても、死する者は無い。許されるゝと、降するものぞ。嚴顔が樣な器量者も、慇懃にあしらはれて、武士の意氣づくで彼方へ附いたに、大きな見事な則になる事ぞ。

 景清[即ち耿清]、棣、位を簒ふに及びて、陰かに豫讓(戰國時代の晉の太夫・知伯の臣)の志を懷く(刺し殺さうとす)。欽天監の奏す、「星有り紅色、座を犯す」と。清、果して緋を衣(き)、衽中、劍を藏す。克たずして死す。

○「景清云々」。平家の景清が、頼朝を狙うたと似て居る。名も同じ、面白き事なり。

○墨山翁の曰く、欽天監が、燕王への奏聞には、「御用心のあられよ。此の間の夜に、天文を伺ふに、あやしい星がある。其の色、紅色、座を犯す」。座は、帝座と云つて、北極の側に在る星。天文で、一つ極まつてさす處がある。常ならぬ紅の星が出て、北極の帝座を犯す象があらはるゝ。天子の御身に御用心あつてよろしからう、と云つた。

 (絅齋先生)按ずるに、建文の臣、孝孺の外、節に死する者數十人、『備遺録』・『皇明通紀』等の書に詳具す。今ま悉くは録せず。特に其の著しき者を附して、以て一時忠義の盛んなるを見はすと云ふ。

○「一時忠義云々」。是は畢竟、太祖の道學を用ゐられたからぞ。此の樣に忠死の多いは、朱子の學の開けて後なり。それより前には、斯うした事は無い。道學の開けたは、妙なものなり。唐の代も、久しく續いたけれども、つぶれ口(際)は散々なり。
 

  • [47]
  • 方孝孺『絶命辭』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月14日(火)13時02分8秒
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 孝孺、幼にして聰穎絶倫、雙眸烱烱として電の如し。六歳、母を喪ひ、哀慕すること、成人の如し。甫めて(漸く)髫□[齒+亂の右。しん](七八歳の子)、日に書を讀むこと積寸、一目十行、倶に下る。文を爲(つく)る、雄邁醇深、郷人、呼びて小韓子(小韓愈)と爲す。十五六の時、父(方克勤、愚庵と號す。濟南府の知たり)に侍して宦遊し、齊・魯の墟を歴、周公・孔子の廟宅を覽、陋巷舞□[雨+汚の右。う]の在る所を問ひ、慨然として學を愿(ねが。願)ふの志有り。是より精思力踐して已まず。弱冠(二十歳)、太史・宋錬に從ひて遊ぶ。時に濂が門下は、一時の名流老輩なるも、皆な敢へて及ばずと讓る。孝孺、顧反(かへ)つて文藝を悦ばず、恆に正道を明かし、異端に闢くを以て、己が任と爲す。凡そ理學淵源の統、人物絶續の紀、盛衰機微の載(こと)、名物度數の變、之を言ひて一絲に析(わか)ち、大通に會歸し、論著に見はさゞる無し。進脩(道徳の進み、學業を脩めた實績)の功、異なること有りて、月に同じからず。嘗て病に臥し糧を絶つも、亦た之に處して泰然たり。

○強齋先生の曰く、「文藝を悦ばず」。宋濂は、明の太祖の天下を取られて、始めて招かれた儒者、型の如くの俗學で、明朝の文徳の弱いと云ふは、宋濂が樣な俗儒が用ひられて、俗學の風が響いたからぞ。文章なども明朝樣とて、殊の外、派手な文章ぞ。此の樣な、初めて學者を招くは大事なもので、大賢が用ひらるれば、風俗美しう、別して聖學が輝いて來るに、惜(あた)ら事ぞ。

○「理學淵源の統」は、道學、即ち朱子學が、誰より出て誰に受繼がれたかと云ふ問題。「人物絶續の紀」は、學問の授受が、どの樣にして絶え、どの樣にして續いたかの問題。「盛衰機微の載」は、天下が、どの樣にして榮え、どの樣にして衰へたかの微かな兆しの問題。「名物度數の變」は、官位制度・禮式に必要な衣服・器具等の變遷。

[孝孺の『鄭叔度に與ふる書』に曰く、病夫、安居して、以て拙を養ふ。拙、益々甚だしく、家、益々落つ。田數十畝有り。小民、其の輕重を爲すに足らざるを見、棄てゝ爲めに佃せず、莱棘、疇に盈つ。家人、粮を絶つと報ず。輒ち笑ひて曰く、「古人、三旬九食、瓶に儲粟無き者有り。窮する者、豈に我れ獨りならんや耶。且つ天下の、其の願ひを得る者少なく、其の願ひを得ざる者、皆に是れ也。吾、縱ひ自ら憂ふとも、其れ衆人(貧乏人)を如何」と。因りて相與に大笑して止む。塵埃の中に處り、流俗と往還するに慣れず。其の喧鬧を厭ひ、毎(つね)に一椽を萬山の絶頂、人跡至らざる所の處に縛し、一二の友生を從へ、讀書嘯歌して、以て自ら樂しまんと欲す。木を伐り茅を誅(か)る、力有る者に非ざれば能はず。因りて自ら歎ず。惟だに古への貴富の人の效ふ可からざるのみに非ず、畸人靜者の巖棲谷汲して、以て自ら快くするに效はんと欲するも、亦た之を遂ぐること莫し。吾の貧困、古人に過ぐること遠し矣。貧富貴賤、豈に道を學ぶ者の、當に口に掛くべき所ならんや哉。恐らくは吾兄、其の自ら處る所を知らんと欲せん。故に盡く之を發して、以て談笑に當つるのみ耳]。

○強齋先生の曰く、「孝孺云々疇に盈つ」。世間の人の樣に家を持つ事も、金を貯める樣な事も知らず、得せぬ故、世間から不調法など云はるれども構はず、それなりに育てゝゆく。それで猶ほも鈍など云はれて、家も次第に落魄れたとある事。「其の輕重を爲すに足らず」は、田のあれほどやなどと云つて、「棄てゝ爲めに佃せず」、人の爲めに作つて、うは米をやるを佃と云ふ(佃・つくだびとは、小作人。こゝは荒廢が酷い爲め、小作をする者もゐないの謂ひ)。「莱棘、疇に盈つ」は、棄てゝ佃せぬに因つてぞ。「家人云々大笑して止む」。「三旬九食」は、子思の三十日の中に九度び食して居られたと云ふ事。『孔叢子』(・『説苑』立節篇)に在り。「儲粟」は、蓄へた米ぞ。「窮する者、豈に我れ獨りならんや耶」は、昔から幾らも有つた事、我ひとり別に嘆かう樣は無いと云ふ事。其の上、世間で何事でも、存分な願ひのまゝな事は無いもの。思ふ樣に成らぬは、皆かうしたものぢや。すれば手前ばかり難儀な々々ゝと云つても、世間にも、此方が樣な者は多いに、其の人はどうしたものぢやとある事。天下に俺一人ならばぢやが、世間の不自由な者は、何としたものぢや。俺一人、苦にしたとて、手前ばかり不自由するではあるまじ。別に歎かう樣は無いとある事。古人より不自由な事があると云ふを、後で云はれたぞ。「塵埃云々慣れず」。塵埃の中に居りながら、世俗とついてまはる事を、だたいからしなんだ。それで「其の喧鬧云々能はず」。「喧鬧」は、やかましい、ばたゞゝとした事。「一椽を縛る」は、一寸した家と云ふ事。「萬山」は、方正學の、其の時居られた上の山の名などかぞ。此の絶頂に、小さな庵でも建てゝ、講習討論を樂しみとして、靜かにして居りたい望みではあれども、自身は病氣ゆゑ、木茅をきりて、柱立てたり、屋根葺く樣な力も無うて、得致さず。然らばとて人を雇うてしようには、錢が無いによつて、是も叶はず。「因りて自ら云々遠し矣」。手前が不自由なによつて、富貴な人の眞似のならぬは聞こえたが、身が病氣なによつて、貧賤な者の自身働いて、己が力で世を送る者の眞似さへ成らぬとある事。「畸人」は、世間の餘り者のすたり者の事。「靜者」は、隱者の事。「巖棲谷汲」は、山住まひの體ぞ。「貧富貴賤云々」。貧は學者の常ぢやによつて、艱難の何のと云ふ事は、かたから云ふには足らねども、そこもとの拙者が、どの樣にしてござるやらと、心許なう思はれれうと存じて、云つて遣はすとある事。

○「畸人」。世を捨てた人の事。畸は、算用の拂ひ、餘を云ふ。世の餘り者なり。

 和粹貞諒、親に事へて孝、師友に處して恩羲を篤うす。父、嘗て誣(無實)ひられて謫戍(流し者にして、夷狄の番人に遣る)す。上疏し、身を以て代はらんと乞ふ。漢中に教授たるに及びて、日に諸生・名士と聖學を講習し、道義を切磨す。其の言に曰く、「聖人を學ぶ者は、須らく先づ『孟子』を識るべし。『孟子』を學ぶ者は、須らく先づ浩然の氣を識るべし」と。又た自ら其の齋を名づけて、遜志と曰ふ。

○『書經』説命篇(殷の武丁、即ち高宗の命を承けて、傅説が諭せり)に曰く、「惟(こ)れ學は、志を遜し、務めて時に敏なれば云々」と。志を遜すとは、志を抑へて昴ぶらぬ事を謂ふ也。

[孝孺の友人・林右、『遜志齋集』に序して曰く、流れて止む可からざる者は、勢也。習ひて變ず可からざる者は、俗也。勢と倶に往き、俗と波を同じうする者は、衆人也。勢・俗の趨く所を知りて、能く確然として聖賢を以て自ら守り、其の中に浸淫せざる者は、君子也。惟だに勢・俗の浸淫する所と爲らざるのみに非ずして、吾が一言一行の達する所、天下の勢、皆な隨つて以て定まり、天下の俗、皆な隨つて以て化す。譬へば烈風震雷の上下を鼓撼し、大として摧かざる無く、幽として入らざる無きが若く、強梗、自ら撓む有りと雖も、亦た妥焉として其の下に委靡す。此れ聖賢・豪傑の士に非ざれば能はず。周の末に當りて、孔子の徒、已に沒し、楊(朱)・墨(□[曜の右。てき])の説、天下に盛行す。孟子、布衣の中に憤然として、仁義の道を修明して、楊・墨の説、以て廢る。孟子以來、秦・漢を更歴し、既に坑儒の禍に遭ひ、天下の學者、全經を見ずして、老・佛の徒、私説を唱爲し、天下を鼓舞す。天下の人、皆な相與に師として之を尊びて曰く、「此れ當今の聖人也」と。三綱をして淪みて、九法をして□[澤の右+枚の右。やぶ]れしむ。其の害、楊・墨より甚だしき者有り。韓文公の雄才を以てすと雖も、竟ひに天下の爲めに變ずること能はず。宋の程・朱諸子者出でゝ、陋習を一掃し、天下を大道の中に頓囘するに至りて、天下の人、幡然として改めて曰く、「吾が道、固より是こに在り也」と。然る後ち老・佛の説、用無しと爲す。

 嗚呼、其の肆まゝに邪説を爲すに當りて、吾が道の人無きに乘じ、其の間に□[爿+戈]賊し、根蟠枝散、人心を固植し、漫として拔く可からず。天、程・朱を天下に生ぜずんば、則ち天下の人、終日昧昧として、□[鼓+目]者の宵ひ行くが如く、何に由りて青天を覩て、白日を見んや也。故に曰く、「能く天下の勢を定め、天下の俗を化する、聖賢・豪傑の士に非ざれば能はざる也」と。雲の如き舟有りて、方に能く涯り無きの海に適(ゆ)き、烏獲の力有りて、方に能く千鈞の重きを負ひ、天下の才有りて、方に能く天下の事を剖(わか)つ。才、天下に足らずして、天下の事を剖たんと欲する、猶ほ小舟に乘りて、以て海に適き、孱夫を驅りて、以て重きを負はしむるがごとし。識者を待たず、皆な其の不可なるを知る也。是の故に天下の勢の、我に定まらず、天下の俗の、我に化せざるを患へず、惟だ我に天下を蓋ふの學無きを患ふるのみ耳。惜しいかな乎、當今の學者は、則ち是に異なり。況んや前朝の故習を聞き、成説を竊みて文辭と爲し、老・佛を雜へて博學と爲し、志氣□[三水+于]下、議論卑淺、齪齪然として、復た大人君子の態有ること無し。吾が友・方君希直(孝孺)、奮然として起つて曰く、「是れ豈に以て學と爲すに足らん。伊・周の心を以て、其の君に事へざるは、其の君を賊(そこな)ふ者也。孔・孟の學を以て學を爲さゞるは、其の身を賊ふ者也。言を發し論を持する、一に至理に本づき、天道に合へば、天下の志有るの士、、其の言論を高しとし、將に盡く其の學ぶ所を棄てゝ、之に從はんとせざる莫し。嗚呼、豈に豪傑の、心を用ふる所に非ずや也哉。常士は、世々生る。豪傑の士は、多く見ずして、吾が君直に於いて之を見る。又た豈に吾の愿ひに非ずや也哉」と。希直の文、天下、之を信ぜざる莫し。特に其の一事のみ耳。其の大なる者を要するに、此こに在らざる也。然りと雖も文は、志を達する所以ん也。其の文を觀ざれば、何を以て其の志の存する所を知らん。余、故に又た其の文に序すと云ふ]。


○強齋先生の曰く、『遜志齋集』は、孝孺の死後に集めて置いたものぞ。死せられた時分は、大切に有つて、板行も法度になり、焚いて棄つ。何かして持つて居る事もならなんだが、後には板行して、日本へも渡りたぞ。孝孺の友達が寄つて集めて、序が多くあるぞ。「流れて云々君子也」。流れ立つて來てから、やめられぬ。さあ、斯うなると云つてから、どうにもならぬものは勢ひ、なれ來つて變ぜられぬものは俗。その勢ひと倶に往くは、付いてまはる事。俗と同じ波は、同じ樣に居る事。惣々と同じくをどり合ひ浮沈して居るものは常人。その勢ひに付いてまはらず、俗に汚れず、「聖賢を以て自ら守る」は、聖賢の義理を則にして己を守りて、勢・俗の中へ浸淫せぬは君子ぢやとある事。「浸淫」は、ずつぷりとはまる事ぞ。「惟だに云々能はず」。「撼」は、いぶり動かしに動かす事。「大として云々入らざる無し」は、いかほど大きなとて、摧かぬ事は無い。いかほど幽なとても入らぬ處は無い。「強梗、自ら撓む」は、すくばりかへりて手強く、きつと撓んで持ちこたへるものも、烈風震雷に遭うてからは、「妥焉」は、何の手も無う、べつしやりとひしやげた樣に、「委靡」は、ぴつちやりとして靡く事。其の勢・俗にはまらずして、我から俗を化したと云ふは、「周の末云々能はざる也」。「坑焚」は、儒者を生きながら坑に埋め、經書を殘らず焚いて棄てた事。「一掃」は、さつぱりと掃除して除ける事。前の埃を拂ひ去つる事。「陋習」は、卑しい慣はし。「頓囘」は、氣味よう引きかへす事。「幡然」は、『孟子』(萬章篇)にある字。とんと撥ね返す事。「用無しと爲す」は、何の役に立たぬと云ふ事。「根蟠」は、わだかまつて拔けぬ事。「枝散」は、方々へ蔓延つて拂はれぬ事。「漫として拔く可からず」は、何處もかも、滅多にだゞ廣う成つて、去らう樣ないと云ふ事。「小舟に乘りて云々不可なるを知る也」。雲の如くなる舟でこそ、夥しい海にも浮かばれる。大力量が有つてこそ、千鈞の重いものを持たうずれ。天下を捌く程の器量なうては、天下の事は任じられぬぞ。「識者を待たず」は、誰でもと云ふ事。「是の故云々患ふるのみ耳」。「我に定まる」・「我に化す」は、我でと云ふ詞ぞ。「惜しいかな乎云々態有ること無し」。「前朝」は、元の事。「成説」は、孔孟程朱の説の、始終揃うた無疵に成就して、全い説の事。「志氣□[三水+于]下」は、志す處の卑い、落ち窪んだ事。「齪齪然」は、かじけてちびけた事。「言を發し論を持す云々」は、妄りに人の言に付いてまはらぬ、是非を吟味して、我が議論する所を、義理の筋目なりに立てる事。「常士」は、常底の竝々な人。「吾が希直に於いて之を見る」は、豪傑の士を多く見ぬが、希直で見たと云ふ事。「希直の文云々」は、文は希直の一事で、希直の學ばるゝ大根本は、文では無い。然れども此の文で無うては、存念の在る所が見えぬ程に、「又た其の文に序すと云ふ」。

○秦山先生の曰く、『遜志齋集』は、孝孺の存生の内に、主の文章を集めて書に編まれた。其の序を方孝孺の友・林右と云ふ者が書いた。此の集は、方孝孺の成敗に遭はれて後、方孝孺の書をば、盡く燒いてしまうた。今ま傳はつて居る『遜志齋集』は、後人の集めたものぞ。それで此の序文は、載つて居らぬ。此の序文に、方孝孺の事を、段々書いて置いた故、こゝに載せられたものぞ。

 「周の末云々」。孔子が御果てなされて、楊朱・墨□[曜の右]が邪説、天下に盛んに行はれて、聖人の學は衰へる樣に有つた。孟子が御出でなさつて、位をば得られぬけれども、庶人のなりで、慨然と志を起して、孔子の道を修め明かにして、楊・墨を辨ぜられた。それで邪説も行はれぬ樣に有つた。「三綱云々」。三綱の道も淪み果てゝ、九法もどうぢややら知れぬ樣に破れて仕舞つた。九法は、(『書經』の篇)『洪範』に出て居る九疇の事ぞ。周の時分に、九疇の法と云つて、法を立てゝ天下を治められた。「其の害云々」。楊・墨は惡い事がよう見えて居るで、害がそれ程に無い。老・佛は、どうやら聖人の教に似た處が有つて、害が益々甚だしい。「韓文公」は、韓退之の事ぞ。韓退之が『佛骨の表』を捧げて、佛を退ける樣にせられたけれども、天下を變ずる事は置いて、我が身を保つ事がならぬ樣に有つた。「烏獲」は、古への力有つた者。

 蜀の獻王(太祖の第十一子・椿)、其の賢を聞き、數々之を延き、處くに賓師を以てす。道、其の師(宋濂)の墓を經、因りて荊榛に走りて往き祭り、且つ其の孤遺を□[血+小里]みて備さに至る。蜀王を見る毎に、必ず道徳を陳説す。王、喜ぶこと甚だし。號を其の讀書の室に賜ひ、「正學」と曰ふ。學者、稱して正學先生と爲す。王、又た嘗て教(きよう。教書)を賜ひて曰く、「闔門(擧家)忠義、百世の光華爲り」と。孝孺、謝して云ふ、「惟だ當に己に克ち行を愼しみ、益々夙心(兼ねてからの心掛け)を勵まし、國を體し君に忠し、學ぶ所に負かざるべし矣」と。孝孺、已に死す。平生、著述する所、、僅かに存する者有りて、當時、禁有り。又た五十年、郷の儒紳、始めて蒐輯して帙を成し、梓に□[金+侵の右。きざ]みて以て傳ふ(即ち趙洪編『遜志齋集』蜀本、是也)。其の尤も心を用ひし所の者は、嘗て謂ふ、「道の事に於ける、在らざること無し」と。列して『二十八箴』と爲す。又た『雜誡』三十八章を作りて、以て自ら警む。謂ふ、「民を化するは、必ず家を正すより始まる」と。『宗儀』九篇を作る。謂ふ、「先王の治、徳化を先にして、政刑を後にす」と。『深慮論』十首を作る。簒臣・賊后・夷狄は、天下を一にすと雖も、正統と爲す可からざるを以て、『釋統』三篇を作る。其の他、往復尚論、半柬片辭(ちよいとした手紙やちくとした辭)の餘と雖も、亦た未だ嘗て綱彝經綸の務め、廉恥節操の守りに惓惓たらずんばあらざる也。四方の夷裔、一字を得て、金璧より寶とするに至ると云ふ。

○墨山翁の曰く、「必ず道徳を陳説す」。此の時分、世間一統の學問は、すべて派手な詩賦文章の事である中にも、孝孺は、先王仁義道徳の説のみを陳べ説かれた。

 「綱彝經綸の務め」。綱彝は、三綱五常と云ふ事。經綸は、近く『中庸』に出て居る文字で、だたいは織物の絲ををさめるから始まつた文字。夫れで二字ながら、絲篇に書いてある。夫れからして人倫の道を正して、天下國家を治める處の大法を、綱彝經綸の務めと云ふ。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 正統の義、、簒臣・賊后・夷狄、是を正統とすべからざること、方正學一代の名論ぞ。扨て正學の云ひ足らぬ所がある。是ならば、此の三つの外は、天下を圓めて、穩かに治めさへすれば、正統とする合點ぞ。漢・唐・宋の類、是れ也。是等とても根を推せば、大義、皆な缺けて居るぞ。唐の高祖は、隋の臣也、宋の太祖は、まざゝゞ後周の世宗の臣下、無理に天下を奪つて取つたぞ。すれば大義の缺けたる段は、右、三つの者と、さのみ違ひは無し。周の武王を始めとして、主の國を伐ち取りたる者也。それで『綱目』の例、天下を圓めたる者は、何で有らうと、それを面(おも)に立て、甲子を系りて、天下の事を記録するぞ。其の末に其の正統へ對して、謀叛を起す者あれば、それを賊に會釋ふぞ。何ほど衰へて、纔かなる體になるとても、其の正統の子孫の絶えぬ間は、必ず正統にして釣り置くぞ。是が『綱目』全體の旨ぞ。正學のみならず、朱子以後に紛々として正統の論がある。皆な自然のなりを知らずして、吾が見立てにて、正統にするの、せぬのとて、吟味する程に、皆そで無い事ぞ。『綱目』は、何の事も無い、ありなりに就いて極めたものぞ。それで動かぬぞ。總じて大義の全體の準は、勿論明かなぞ。故に『綱目』に正統とある程にとて、朱子の根から許して置かれたると思ふは、僻事也。



 顧□[王+隣の右](明末の儒。台州の守)の曰く、「孝孺が王佐の才(伊尹・周公の器量)を以て、服を易へ(別の君に仕ふ)、列に就かば、宜しく卿相の位を致すべし。厥(そ)の謀猷を究めば、顧ふに豈に唐の王・魏(王珪・魏徴)なる者と等しからん。此れを之れ顧みず、悲楚(建文帝の崩を悲しむ)抗激、身を磔にし族を沈むるに至りて、氣、少しも囘らず。嗚呼、忠なるかな哉」と(『重刻遜志齋集の後に書す』)。



■□■方孝孺『絶命辭』■□■



天、亂離を降し兮、孰か其の由を知らん。
――今の度びの燕王棣、後の永樂帝の謀叛大亂は、天が降された事、とても人間わざでは無いが、どうして此の樣な禍ひを下されたのやら、誰も其の理由を知る者は無い。

姦臣、計を得兮、國を謀り、猶(はかりごと。猷)を用ふ。
――奸邪なる燕王の如き人物が志を得て、國家の政治を圖る樣になり、其の樣な時節故、

忠臣、憤を發し兮、血涙、交々流る。
――忠臣は憤りを發して泣き、血と涙とこもゞゝ流れる事である。

死を以て、君に殉ず兮、抑も又た何をか求めん。
――今となつてしまつては、死して我が君の御供をするのみ。此の外には、何の求めるものがあらう。

嗚呼、哀しいかな哉兮、庶はくは、我を尤(とが)めざれ。
――國家の行末、實に哀しむ可き事である。然し斯う云ふ事であるから、不忠不義にて君に背いたと云ふ咎めは受けぬ事であらう。忠義に於いては、後の君子に耻はせぬ。

○「庶」は、乞ひ願ふ謂ひと、近いの謂ひとあり。此の「庶はくは」は、後者なり。



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  • [46]
  • 『靖獻遺言』卷之八・方孝儒。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月11日(土)17時26分39秒
  • 返信
 
 方孝儒、正學、亦た遜志齋と號す。明の建文四年、即ち我が後小松天皇の、應永九年に卒す。行年四十六。



『絶命辭』

○絅齋先生の曰く、一生の息引き取る時は、誰とて死なぬ者は無いが、譯があつて義に死ぬる時の書き捨ての樣に言うて置く辭なり。此の『絶命の辭』と云ふは、後漢の息夫躬が、始めて書いたことば也。此の者は惡人であるが、是が書いたから、書き捨ての書を、絶命辭と云ふ。

○強齋先生の曰く、死に臨んで、辭世の樣に作るを絶命辭と云ふ。是も漢以來あるぞ。漢の息夫躬が作りた絶命辭が、『楚辭後語』に載せてあり、是が始まりぞ。されども息夫躬は、型の如く奸惡な者で、己が惡を掩ふ爲めに作つた云ひ分けで、かいしきそで無い事。方孝孺の此の辭は、其の名こそ一なれ、忠義のなりに終る主(ぬし)の存念を云はれて、大きに違ひのある事。死に臨んで辭世を作るは、皆な名聞で、畢竟、見事死んだと云はれう爲め、氣丈なと譽められう爲めで、何の役に立たぬ事ぢやが、文山の『衣帶中の贊』や此の『辭』は、忠義の心を輝かし、死に臨んで微塵もめらぬ忠義の心の已むを得ぬが、辭となりて出た。中々尊い事ぞ。



明の建文帝の侍講・直文淵閣・方孝孺

○元が亡びて明の世となり、宋の取られた天下を夷狄から取返した、名分の正しい世なり。侍講とは、天子の師匠にて、三公九卿の上に立つ重い官なり。直文淵閣は、儒者の大官。方孝孺は、身持ちばかりで無い、學で云うても、朱子以後、第一の人なり。昔から一家一門の死に、これほど殘酷なるは無い。何とか、ちと了簡の有りさうなもの、餘り殺伐に過ぎ、中和の氣象が無いと云ふもあれども、忠も孝も、死する所に至りて一杯に張り詰めるで無ければ、なまりがつく故、其の爲めに載せる。

○文淵閣は、宮中の書庫。其處に宿直する儒官を謂ふ。



 孝孺、字は希直[一の字は、希古]、洪武中、薦を以て召見す。太祖(朱元□[王+章])、其の擧動端整なるを喜び、太子標(懿文太子)に謂ひて曰く、「此れ莊子也。當に其の才を老して、以て汝を輔くべし矣」と。諭して郷に還らしむ。孝孺、歸りて門を杜ぢて著述し、將に身を終へんとするが若し焉。之を久しうして復た徴し至り、漢中府の教授と爲る。太祖崩ず。太子、先づ卒す。是を懿文帝と爲す。太孫允□[火+文][即ち懿文の子]、位に即き、建文と改元す。因つて建文帝と稱す。孝孺を召して翰林博士と爲し、尋いで侍講に陞し、直文淵閣とす。太祖の先命に從へる也。孝孺の徳望、素より隆し。建文帝の禮遇、甚だ重く、一時(當時)倚重す(頼りとし重んず)。初め懿文太子の弟・太祖第四の子・棣、燕王に封ず。素と異心を蓄ふ。太祖崩じ、太孫(允□[火+文])、位に即くに及びて、朝廷の近臣・齊秦・黄子澄等、舊制を更革し、諸王を削弱するを以て、因つて齊・黄を誅し、國難を靖むるを以て號と爲し、北平に反し、兵を引きて南下し、諸路の官軍、相踵いで敗績し、燕の兵、遂に江を渡りて、京城に逼る。孝孺、乃ち『絶命の詞』を作り、自ら必死を分とす。

 諸臣、帝に出幸を勸む。孝孺、堅く守り、誓つて社稷に死せんと請ふ。燕の兵、進みて金川門に駐まるに及びて、谷王□[木+惠]・李景隆等、門を開き迎へ降る。棣、遂に城に入る。帝、乃ち火を縱(はな)ちて宮を焚き、服を變じて遁去す。京師、傳へ言ふ、「帝崩ず」と。時に建文四年也。棣、遂に自立して位に即き[是れ成祖文皇帝と爲す]、建文帝の太子・奎(七歳)を廢して庶人と爲し、之を中都に幽す矣。棣の初め發するや也、姚廣孝[即ち僧道衍、棣の謀主也]、嘱して曰く、「南に方孝孺といふ者有り、素と學行有り。武成の日、必ず降附せざらん。請ふ、之を殺すこと勿れ。之を殺せば、則ち天下、學を好むの種子絶えん矣」と。棣、之を首肯す。是に至つて孝孺、賊兵に執へられ、以て獻ぜらる。棣、召用せんと欲す。屈するを肯んぜず。一日遣諭すること再三、終ひに從はず。


○秦山先生の曰く、「成祖」、是を永樂帝と云つて、『四書』・『五經』の『大全』をした人ぞ。此の人の敕定で、節羲を失うた者共が、選り寄うて致した『性理大全』ぢやによつて、今日、學者たる者の手に觸るゝ書では無い。

 既にして即位の詔を頒たんと議するに會ふ。棣、左右に問ふ、「誰か代り草す可き者ぞ」と。皆、孝孺を擧ぐ。乃ち命じて獄より出す。孝孺、斬衰(喪服)して見る。悲慟して止まず。聲、殿陛に徹す。棣、榻(腰掛)を降り、慰諭して曰く、「先生、勞苦すること無かれ。吾れ周公の、成王を輔くるに法らんと欲するのみ耳」と。孝孺の曰く、「既に周公、成王を輔くと稱す。今ま成王、何くに在る」と。棣の曰く、「渠(かれ。建文帝)、自ら焚死す」と。孝孺の曰く、「成王、即ち存せざれば、何ぞ成王の子を立てざる」と。棣の曰く、「國、長君に頼る」と。孝孺の曰く、「何ぞ成王の弟を立てざる」と。棣の曰く、「此れ、朕が家事、先生、何ぞ自ら苦しめる」と。又た授くるに紙筆を以てして曰く、「天下に詔する、先生、草するに非ざれば不可なり。我が爲めに詔命を作れ」と。孝孺、數字を大書し、筆を地に擲ち、又た大いに哭し、且つ罵り且つ哭して曰く、「死せば、則ち死せんのみ耳。詔、草す可からず」と。棣、大いに怒り、大聲して謂ひて曰く、「汝、焉んぞ能く遽かに死なん。朕、當に汝が十族を滅すべし」[張芹『備遺録』に曰く、「王、命じて、其の舌を割く。乃ち血を含んで御座を犯し、語、極めて不遜なり]と。復た獄に繋ぎて、以て俟たしむ。乃ち其の宗支(本家・分家)を據(引)して、盡く之を抄沒(財産を官に沒收)す。宗族、坐死する者八百四十七人なり[(明人)鄭曉『吾學編』に云ふ、「八百七十三人なり」と]。其の先人の墓を焚夷す。人を抄提する毎に、輒ち孝孺に示す。孝孺、執して從はず。乃ち母族・妻族に及ぶ。九族、既に戮す。亦た皆な從はず。乃ち朋友・門生に及ぶまで、亦た皆な坐誅す。然る後、孝孺を聚寶門の外に磔にし、刀を以て其の口の兩旁を抉りて耳に至る。之を刑すること凡そ七日、罵聲絶えず。死に至つて、乃ち已む。年四十六[姚履旋が『遜志齋集』の外紀に、『忠節録』を引きて曰ふ、「靖難の後、上(しよう。棣)、廖侯(廖永忠の子・權)が兩子、□[金+庸]・銘、嘗て學を孝孺に受くるを以て、之を召して來り見しむ。孝孺、怒りて曰く、「汝、幾年の書を讀む。還つて箇の是(是非の是)の字を識らず」と。兩子、復命す。上、怒り、軍校(小中隊長)に孝孺を收めしめて、之を刑す。廖氏の兩子、遺骸を拾ひ、聚寶山に葬る。兩子も、亦た論死す」と]。凡そ九族、外親の外親、數を盡して抄提し、調衞(遷、即ち流謫し・國境防衞の卒として流刑)す。外親、抄提より後死する者、復た數百人なり。初め詔して、孝孺が妻・鄭氏を收む。諸子と皆、先づ自ら經(くび)れ死す。二女、未だ笄(成人、十五歳)せず。逮せられて淮を過ぎ、相與に橋水に投じて死す。孝友は、孝孺の季弟也。親屬、みな戮に就くに及びて、孝孺、之を目し、覺えず涙下る。孝友、乃ち一絶を口吟す。「阿兄、何ぞ必ずしも涙潸々たる。(生を舍てて)義を取り(『孟子』告子篇)、(身を殺して)仁を爲す(『論語』衞靈公篇)は、此の間に在り。華表柱頭(墓所前の表柱)、千載の後、旅魂、舊に依りて家山(故郷)に到らん」と。士論、之を壯として、以て孝孺の弟に愧ぢずと爲すと云ふ。

○「十族」は、親族の九族に、門人を加ふるならむ。九族とは、高祖――曾祖――祖――父――己――子――孫――曾孫――玄孫の九代の縁者とも、或は外祖父・外祖母・縱母子・妻の父・妻の母・姑の子・姉妹の子・女の子・己の同族の總稱とも、或は父族四・母族三・妻族二の稱とも云へり。

○「抄提」は、拔きひつさぐる。一門の人を彼方此方より搦め取つて來る。

○「調衞」。調は遷、即ち流謫し、衞は死一等を免じて、國境防衞の卒として流刑せしむ。

○「論死」。孝孺の遺骸を大切に葬つたのが不屆であるとの評議によつて殺された。

[(明儒)呉應賓の曰く、王子(比干)より信公(文天祥)に迄(いた)り、仁を成し義を取る者、踵(つ)ぎ至る。獨り我が明の正學先生、百體を糜(たゞら)し、十族を湛(しづ)む。千秋萬歳、髮、猶ほ冠を指す。尚論の林、有ること無き所ろ也。先生、以て自ら哀れまずして、後人、之を哀れむ。哀れむこと愈々至りて、愈々解く可からざれば、則ち先生の爲めに謀る、盍(なん)ぞ周廣文を爲さゞる。死して義を失はず、辟(つみ)せらるゝも、孥に及ばずして、忠知附く焉。嗟乎、先生、固より以て廣文を爲す可し。先生をして復た廣文を爲さしめば、則ち人、君の七尺を以て殉ず可きを知りて、君の十族を以て殉ず可きを知らざる也。糧を裹(つゝ)み甲に坐して、軍に俘(とらは)るゝ者有らん。退きて廣文を爲すに暇あらずして、進んで先生を爲すに忍びずんば、則ち正に中庸を以て解かんとするか乎。長平の坑卒、其の降に死するよりは、戰ひに死するに孰若(いづ)れぞ。□[目+隹]陽の役、善馬を刑し、愛妾を烹て、可なるのみ爾。乃ち老弱を驅りて、以て壯士に饋(おく)るに至る。夫れ土地を率ゐて肉を食ふに非ずや乎。兩將軍(張巡・許遠)の曰く、「生者は必ず死す。虜臣爲る者は、復た唐□[米+胥]爲る可からず」と。旦暮の間、榮辱相萬す。誰か兩將軍は不仁なりと謂はん。先生の爲めに也、族たる者は、先生の爲めに也、死するを害せず。先生の爲めに也、死する者は、先生の爲めに也、族たるに□[女+鬼。は]ぢず。九原知る有らば、固より以て冠を彈じて、相慶す可し矣。況んや先生の伯・の季・の妻・の女爲る者をや乎。而して先民の缺を補つて、以て萬世を教ふ。先生を謂ひて、終古一節と爲すと雖も、可也]。

○強齋先生の曰く、「王子」は、比干(殷の三仁の一人)の事。信公(信國公)は、文天祥ぞ。「踵至」は、後から々ゝゝ出て來々ゝ々する事。「髮、猶ほ冠を指す(燕の荊軻の故事)」は、千秋萬歳の後までぞ。髮がそらざまに立つ樣に、激しいと云ふ事。「尚論」は、『孟子』(萬章篇)に在る字、古人の事を論ずる事。「林」は、數の多い事。「有ること無き所ろ也」は、孝孺の樣なは、古から無いと云ふ事。「先生云々忠知附く焉」。孝孺の百體を潰し十族を沈めたを、主は哀しまれねども、後の人が、是を哀しむ。其の哀しみが愈々至つて、解くに解かれぬ樣なれば、是は何としたものぞ。それを先生の爲めに、一つ身の處し樣を謀りて見ようなれば、何故に周廣文が樣にせられいで、先生一人の爲めに、八百七十人まで死(ころ)した。周廣文が樣にせられば、死して義を失はず、一家宗族にも罪がかゝらずして、忠も知も離れぬと云ふ事。一門惣々の難義にならぬ樣にする故、知でもあるぞと、あまりの事に、一つはかりて見たものぞ。「盍不」の不は、衍字ぞ。周廣文は、孝孺より後の者ぞ。「嗟乎云々知らざる也」。なる程、孝孺は、周廣文が樣にせられうが、それでは人が、孝孺一人死なれたと云ひ、七尺の身を殺すを顧みずに、國の爲めに死なれたと云ふ事は知らうが、十族を成敗せられても顧みずに、忠義の爲めに死せられうと云ふ事は、人が知るまいと云ふ事ぞ。事を設けて云ふならば、「糧を裹み云々解かんとするか乎」。「甲に坐す」は、ものゝ急な事。糧を裹んで戰ひ、甲を着ながら坐する事。此の樣にもする間が無く、孝孺のせられた樣にするに忍びずして、是がどちへも付かぬよい加減ぢやと合點して、其の場で、俄かに仕樣があらうかとある事。「中庸」はよい加減と云ふ事で、世間にきつい事をせぬがよい、大抵で置くがよいと云ふ事。本法の中庸の事では無い。其の樣に云ふは、皆な義理を跡から云うたもの。吉凶禍福・利害得失をはかりて云うたもの故、色々に云ふぞ。黄勉齋の云はれた樣に、天下中が死せうが、一人死せうが、それに手あて云ふ事はいらぬ。餘りむごいこと故、どうぞ仕樣が有らうにと云ふぞ。「長平云々孰若ぞ」。秦の白起が降參した軍兵四十萬を、生きながら坑へ埋めたぞ。其の樣に降參して坑へ埋められて死んだと、討死したとは、どちらがよいぞ。討死するより外は無い。「□[目+隹]陽の役云々非ずや乎」。「可なるのみ爾」は、それでよいと云ふ事。それぢやに年寄りた者や幼少の者は、軍の邪魔になると云つて追散らして、壯んな軍をする軍兵共ばかりに食物を饋りた。此の樣なむごい事は、土地の爲めに人の肉を食ふでは無いかと云ふ事。土地を爭つて、人のいかいこと討死する者は構はずに、國を爭ふは、土地を取らう爲めに人の肉を食ふと云ふもの(『孟子』離婁篇)ぞ。「兩將軍云々謂はん」。「兩將軍」は、張巡・許遠の事。「虜臣」は、降參して、囚はれて臣となる事。「唐□[米+胥。唐の神祭の爲めに供ふる洗ひ米、精米]」は、沙糖餅の樣なもの。敵へ降參した者は、人が唾罵して糞土の樣に云ひて、唐□[米+胥]の樣に上手うは思はぬ。人と云ふ者は、一度は死なねばおかぬから、忠義の爲めに死んだがよい。僅かの間に、義で死するか、不義で生きゐるかと云ふ所で、榮辱相萬は、いかい違ひぢやとある事。すれば忠義大節なりに、兩將軍のむごい事をせられたれば、誰が不仁ぢやと云ふとある事。「先生の爲めに云々」。孝孺の爲めに死する者は嬉しがつて、それを面目に思うて死する。此の惣々の魂が有つて知るならば、互ひに、「彈冠」は、でかしたと云つて頭叩いて勇む樣に、さても嬉しや、我も忠義の爲めに死んだと云つて、祝儀をせられうと云ふ事。「先民の缺」は、忠義の衆の、中頃ろ缺けたと云ふ事。「終古一節」は、古から今までならして、第一番の節義ぢやと云ふ事。終古は、『楚辭』に有る字。昨日は今日の昔、今日は明日の昔、何處までも昔になりゝゝして、果てし無い事。

 此の論は、よい立て樣ぞ。此の樣な事には、別して人の疑ふ事で、さてゝゝむごい事ぢや。一人の罪によつて、何の咎も無い者、八百人死すると云ふは、むごい事ぢやと雖も、忠義の心の至りでは、天下中が死すると云つても、已むに已まれねば、せう事が無い。多い・少ないとて、それには構はれぬ。大水が出うがと云つて、水が出立てゝからは、流れずには居らぬ。火事が有らうがとて、火が出に、燃えずには居らぬ。天理自然の事。況んや一門中が、忠義なりに死するは、恥しう無い事。不義で生きては、天地と立たれぬ。此の論に、張巡の事を引いて論じた。詰まる處が、極めてよい説ぞ。

○秦山先生の曰く、「糧を裹み云々」。丁度、孝孺の樣に、一方の大將に成りて、どうも自害をする暇も無し。敵に囚はれた時に、周廣文が樣に自害する事はならぬ。自害をする事がならぬ時は、方孝孺を手本にして、一門殘らず討死をせねばならぬ。其の時は、方孝孺が、よい手本ぞ。

 「九原」は、墓所の事ぞ。何れも方孝孺の爲めに死なれた衆が、魂魄が、若し出合はるゝ事があらば、正に冠の塵を拂つて悦ばるゝで有らう。方孝孺の身近い兄弟の、妻の、女めのと云ふ衆は、別しての事ぞ。此の「之(の)」の字は、上の「先生」をかけて云つたものぞ。先生の伯・先生の季・先生の妻・先生の女と云つたものぞ。「而して先民の缺」。昔から方孝孺の樣に、一門一族、殘らずに殺して、忠義を立てた人も無い。すれば先民の缺を補はれたと云つても苦しう無い。

○「兩將軍の曰く」。よい書き樣ぞ。兩將の語では無い。兩將軍の心を、此方から云ふぞ。

○「榮辱相萬」。唐□[米+胥]たらば榮、虜臣たらば辱、暫時の間にして、榮辱相去ること萬々なり。
 

  • [45]
  • 劉因『孝子田君の墓表』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月 8日(水)22時07分31秒
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○君國の大事に際して、靖獻の道を守つた先學義烈の態度を表顯して、精神錬磨の資たらしめんとする本書に、孝子の傳を掲ぐるは、強齋先生の曰く、「『孝子田君の墓表』の辭は、孝の事を云はれて、『靖獻遺言』は忠義の書なれども、畢竟、忠孝の二つは相離れぬもの。其の上、劉因の筆ゆゑ、附せられたぞ」と。

 劉因が、此の『孝子田君の墓表』に於いて示したる學問を以て、絅齋先生が、劉因處士を「朱子以後の一人、薛敬軒・丘瓊山に勝る」と評せり。即ち「劉因は、極めて名分の學、大義大節の學が明かなり。朱子以後、薛文清・丘瓊山よりはぜいで見ゆる」と。

○『詩』大雅に、「文王、上に在り。於(あゝ)、天に昭かなり」とあるが、皆な此の旨なり。文王は、聖知安行の聖人にして、少しも人欲の私が無い。其の氣質が、直ぐに天の氣質なり。然れども氣は消長ある。何ほど文王にても、期至れば崩ぜらるゝ也。其の受けし氣を、そのまゝ天に返さるゝ故、魂氣が天に明かに在る也。こゝは文王に比べはならぬが、少し似合ふ氣味ある。文王は全體の明、田君は孝一偏の明なり。



 『孝子田君の墓表』に曰く、嗚呼、天地至大、萬物至衆にして、人、一物に其の間に與かる。其の形爲る、至微也。天地未生の初より、天地既壞の後を極め、前瞻後察、浩乎として其れ窮まり無く、人、百年に其の間に與かる。其の時爲る、幾ばくも無き也。其の形は微なりと雖も、而も以て天地に參す可き者有りて存す焉。其の時幾ばく無しと雖も、而も以て天地と相終始す可き者有りて存す焉。故に君子は、平居無事の時に當りて、其の一身の微・百年の頃(けい)に於いて、必ず愼しみ守りて深く惜しみ、惟だ其の或は傷けて之を失はんことを恐る。實は以て夫の生を貪ること有るに非ざる也。亦た將に以て、夫の此れを全うせんとするのみ而已矣。其の大變に當り、大節に處するに及びて、其の天地に參する所以の者、之を以て立ち、其の天地と相終始する所以の者、之を以て行はれて、夫の百年の頃・一身の微を囘視するに、曾て何ぞ輕重を其の間に爲すに足らんや哉。

 然るに天地に參して、之と相終始する所以の者は、皆な天理人心の已む容(べ)からざる所にして、人の生くる所以の者也。是に於て全くすれば焉、一死の餘、其の生氣、天地萬物の間に流行する者、千載に凛として自若たり也。其れをして此れを舍てゝ、區々たる歳月、筋骸の計(旨いもの食ひたい、暖かに着たい)を爲して、天地の間に禽視・鳥息せしめば、則ち其の心、固より已に死す矣。而して其の已む容からざる所の者、或は時に發すれば焉、則ち自ら其の身を視る、亦た死の愈(まさ)れりと爲すに若かざる者有り。是れ其の生を全くせんと欲して、實は未だ嘗て生きず、一死を免れん欲して、繼ぐに百千萬死を以てす。嗚呼、勝(あ)げて哀しむ可けんや也哉。


○「天地に參する」。天地と竝び立つて、人として立ち得る。天・地・人を三才と謂ひ、人は、天地と竝んで、其の化育を輔けるものと考ふるのが、儒教の根本思想なり。

○絅齋先生の曰く、人の心と云ふものは、義理一杯究むると、三才と窮まるもの、身に在る。

○秦山先生の曰く、「云々有りて存す」。形は漸く五尺の體で、小さいけれども、天地と人と相竝んで、天地の輔けになるものぢや。是は何が天地の助けになるぞと云はゞ、義理と云ふものが有つて存して居る事ぞ。存すると云ふは、かつきりと目の前に在る事。

○「夫の此れを全うせんとするのみ而已矣」。夫の此れとは、天地に參し、天地と終始するもの、即ち自己のうちに存する、偉大にして永遠のもの、自己自身を謂ふ。

○強齋先生の曰く、此の身を大事にかけて守り、身に疵が付かうかとて、戰々兢々として身を守るは、實は生を貪るでは無い。天地に參り、天地と終始するものを全う、損ねぬ樣にするとての事ぞ。こゝは常で云はれたもの。

○強齋先生の曰く、「其の大變に當り、大節に處するに云々」。常に身を愼しみ守るも、畢竟に此の場を損ねまい爲めぢやによつて、大變なる場の、君臣の變とか、父子の變とか云ふ樣な場に成りては、身を粉にはたかれ骨をはさまれ舌を拔かれても、塵芥より輕い事。人の身は纔かなものなれども、義理と云ふで、此の纔かなものが、夥しい天地と竝び立つ。此の人生は、僅か百年の内なれども、此の大節で、古今天地と終始する。斯う云ふ義理の眼から、纔かな此の身、纔かな百年の生を見た時は、此の大節に臨んでは、其の場で輕いの重いのと云ふ詮議は無いぞ。

 「一死の餘」。此の身は死しても、義理なりに全う死んだと云ふ餘風が、何時までも消えず、天地萬物の間に流行して、千載の後までも易らずに居るぞ。

○「其の心、固より已に死す矣」。義理ない心なれば、生きて居るとは思つても、身を切つて血の出ぬと同じ事なり。身體は有りても、心はとうに死に果てゝ居る。

○「其の已む容からざる者云々」。人の性は善なれば、終ひに滅却する事は出來ぬ。一旦は恥を忘れても、本心がきらゝゝと出て來て、我と我が身を悔い、寢覺めの惡い事、時に起これば云々。

○秦山先生の曰く、「繼ぐに百千萬死を以てす」。僅かに只一度の死を免れうとして、義理を缺くと、毎度々々義理の本心の發する度びに、死すればよかつたにと存ずる。すれば百千萬死をする樣なものぞ。至つて嘆かしい事ぢや。

○「百千萬死」。死すべき命を盗んで居る故、其の悔ゆる度び毎に、百千萬度びも死すると同じ、と也。赤松圓心は、初めは忠で、後は不忠ぢや。それから後は、死人の歩く樣なもので、何の役にも立たぬ。

○強齋先生の曰く、一生を何ほど全うせうとしても、義を離れて生きて居る分では、實に生きて居るで無い。義理なりに死せねば、一生全う生きたで無い。曾子の身體髮膚を毀ひ傷るまい爲めに、常に戰々兢々として深淵に臨み、薄氷を踏む樣に身を大事々々と守りて、さて亦た戰陣、勇無きは孝に非ずと云はれた。此の旨ぞ。此の身を損ねぬ樣にとするは、義理を全うしたさの事。無用の事で、身に疵を付けるは、固より不孝なり。疵を付けぬ樣にするは、義理を損ねまい爲めぢやによつて、『孝經』に、「其の體を虧けず、其の身を辱めず」と、竝べて云つて、此の二つで、孝の語りてある旨を知る可し。

 先人(劉因が先考・劉述)、嘗て金源[女眞、始め按出虎水の源に國す。其の『國語』に、金を謂ひて按出虎と爲す。因りて以て號と爲す]貞祐[金主・□[王+旬。しゆん。金の宣宗]が年號なり。一に眞祐に作るは非なり。下、同じ]以來、死を其の所天に致す者十餘人を手録し、而して武臣戰卒、及び閭巷草野の人(村里の浪人)、多しと爲す。而して予、之を覽る毎に、未だ嘗て始焉にして、漸□[立心+易]し、自ら容れざるが若く、中焉にして感激し、之が爲めに泣(なみだ)下り、終りは則ち毛骨□[立+束]然として、振勵する所ろ有る者の若くならずんばあらず。故に之が爲めに、諸れを故老に訪ひ、諸れを小説(雜記・異聞・考證の類)に揆(はか)り、其の姓・里を攷へ、増補して之を詳記し、惟だ其の事の傳はらざるを恐るゝのみ也。

 近ごろ復た(保州なる)清苑の孝子田君を得たり焉。貞祐元年十二月十有七日、保州陷る。盡く居民を驅り出して、君及び其の父、與かる焉。是の夕べ、令を下す、「老者殺せ」と。卒、命を聞き、殺を以て嬉びと爲し、未だ君の父に及ばざる者十餘人にして、君、則ち惻然として其の父の死に代はらんと欲し、遂に潛往し、其の父を下に伏せ、兩手を以て地に據り、俛(ふ)して頭(くび)を延べて以て之を待つ。卒、火を擧げ、未だ省閲するに暇あらず、君の項腦、兩刀に中りて死す。夜、半に及びて、幸ひに復た蘇へる。後二日、令、再び下る、「老若と無く、盡く殺せ」と。時に君、已に藝を以て選ばれて、行きて安肅に次(やど)る矣。其の父の死を聞き、人に謂ひて曰く、「我れ當に逃げ歸りて、吾が父を葬るべし」と。遂に歸り、父の尸を求めて之を得、負ひて以て河を渉る。水、脛を傷り、血出づるに至る。母の□[塚の右。つか]を發(あば)き、尸を下して之を塞ぎて、乃ち還る。而も衆、之を覺らざる也。嗚呼、此れを其の孝子と爲す所以の者か歟。

 銘(墓銘)に曰く、
嗚呼、斧鉞を蹈みて死を致すは、猶ほ淵氷の全きを歸すがごとし。

――嗚呼、大變に臨んで、一身を抛つ事は、我が内なる永遠を全うする所以であるから、平生、我が身を壞らざる如く、懼れ愼しみ、之を無傷のまゝ親にお返しすると同一である、と云ふ事が出來る。

其の死する者は、藐焉たる此の身の微、其の全き者は、浩乎たる此の心の天。
――其の死すると云ふものは、僅かに六尺の、此の小さき身體、死によつて全うし得るは、天地に竝び立ち、且つ天地と終始する、此の偉大なる眞の自己である。

□[壘の上+糸]たること有るは、丘(土饅頭型の墓)と雖も丘に匪ざる者存す。圓かなること有るは、石と雖も石に非ざる維れ文。
――高く積み上げたものは、正しく丘であるが、其處には丘で無い孝子の心が存してゐる。圓い姿をしてゐるものは石であるが、それは單なる石で無く、君について記した文が刻してある。

百世の下、古へを旌(あらは)して俗を勵ます者有らば、必ず此れを名づけて孝子の原(げん。墓)と曰はん。
――百世の後、其の昔の事を顯彰して、風俗を勵まさんとするものがあるならば、必ず此處を名づけて、「孝子の原」と謂ふであらう。

過ぐる者、其れ之を式(しよく。軾)せよ。孰(たれ)か獨り人に匪ざる。
――此の墓を過ぎる者は、車上であつても、敬禮して過ぎねばならぬ。それは禽獸ならば知らぬ事だが、人と生れたからには、誰も此の樣な孝子でなければならぬからである。


○「所天」。父は子の天とする所、君は臣の天とする所、夫は婦の天とする所なり。故に親・君・夫を謂ふ。

○墨山翁の曰く、「藝を以て選ばれて」。是は何藝で有つたか、武藝でも長じた所あつて、公儀の人指に出合つて、行かねばならぬ處と見える。爲めに定めて色々事體が有つたであらう。かうばかりでは聞こえぬ。時に疵の養生すら、未だ出來ぬうちに、出立致さいで叶はぬ事體と見えて、在所を絶つて行かいで叶はぬと見えて、行所を絶つて、安肅まで行かれた。

○「猶ほ淵氷の全きを歸すがごとし」。『論語』泰伯篇に、「曾子、疾ひ有り。門弟子を召して曰く、『予が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。『詩』に云ふ、「戰戰兢兢として、深淵に臨むが如く、薄氷を履(ふ)むが如し」と。而今而後、吾れ免かるゝことを知るかな夫、小子』と」と。身に疵を付けぬ曾子と同じ事。身に疵付けたから合はぬ樣なれども、是は變と常との違ひ也。父母の身を分けて、生み落とされた身を全うするも義理(常)也。我が節義を全うするも義理(變)也。どちらへどうしても、義理を全うする也。平生は針でも刺さぬ樣にしても、さあ、變ある時は、身に義理を失はぬは、父母の生れたなりに、疵を付けぬと云ふもの。

○秦山先生の曰く、「石と雖も石に非ざる維れ文」。其の丸い物は石ぢやが、何時までも存して、田君の朽ちぬと云ふものは、石では無い。孝と云ふ文が有るからぞ。

○強齋先生の曰く、「旌す」。是は楠正成の墓ぢやと云ふ樣に、幟を出して、惣々の知る樣にするを、旌表と云ふ。

○絅齋先生の曰く、「孝子の原」。原と云ふ、『禮記』(檀弓篇)に、九原と云つてあるからぞ。こゝで、鳥部山の樣な處を、文章に原と書く。

○日本でも、古來、家々の系圖ありて、武勇の手柄・功名は細かにあれども、三綱に與かる事は鮮い。信玄のつぶれた時、鳥居與七郎が女房が、軍兵の手に汚れず、井戸に入りて死なれた等は、義烈なこと也。全體『遺言』は、忠義な事は重なれども、畢竟、忠孝の二つは離れぬもの。其の上、是は前の義理が、總體にかゝつての事になる故、之を以て此の卷を結ばれた。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の文、尤も名文ぞ。此の旨は、人の惑うた心から、我が身一代を、最早や天地の終りまで無きものと思ひ、何とか爲して、身に命の増す樣に、少しなりとも延び度きと思ふからして、少しの事も身をかばひ置く樣にする程に、大事の大義の缺けるをも顧みず、少しにても身を惜しむ才覺のみをする故、其の暗き所を言ひ破りて聞かせらるゝぞ。夫れ天地の大きさに較ぶれば、誠に我が身は云ふに足らぬ小さき物ぞ。扨て天地の始終の永さに、我が百年の命を較ぶれば、形の如く短き事ぞ。斯く思へば、如何にも頼み無き事なる程に、惜しむも、先づは理りぞ。さながらそれに、頼もしき事があるぞ。人と云ふ者には、仁義の性を生み付けてある程に、此の性と云ふは、則ち天地一枚の義理ぞ。されば義理と云ふは、假初めにも天地一つに貫いてあるぞ。すれば己一身の道理を盡せば、身は小さけれども、天地と相參して一なる者があると云ふ者ではないか。扨て此の義理は、天地始まらぬ前より、只今も一分も違はぬ者にて、是から天地終るまで、やはり此の義理なりの行はるゝばかりぞ。試みに我が身を以て天地に對し、古今に通じて、察して看よ。我が心に貫きうつらぬ事は無いぞ。そこに少しの人欲が指出づれば、それほど貫通してある心が、ひそゝゝと成りて、蟹の穴へも入らぬ程、身が小さう思はるゝものぞ。其の人欲を、はらりと霽れて、屹と見れば、彼の天地始終を貫いて居るぞ。此を以て言へば、身に義理を缺きて生ける分なれば、纔かの歳のなりにて朽ち果つる迄にて、何も殘らぬぞ。すれば躯は生きて居れども、心は先へ死してある。況んや思出す毎に死する程に、其の纔かの歳からが、皆までは無いぞ。若し道理を盡して死する時は、身は死すれども、天地一枚の義理に瑕が付かぬ程に、身にした義理のなりは、天地有らん限りは、續いて生きて居ると云ふ者ぞ。すれば明らめの無い事は、僅かとても生きて、百年の身を惜しむとて、天地始終、生きて居る義理を失ふ。淺ましき事では無いかと云ふ、畢竟の詰まりぞ。全篇、此の旨を以て推し究む可し。尤も親切な條ぞ。



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 愚案、孔朱の學、即ち支那道學の至極は、神靈を語らずと雖も、如在の至誠、遂に天に通ず。即ち是れ天人惟一、我が神道の奧祕に妙契するもの有り、我が皇猷に贊す、と云はれる所以である。蓋し大國主大神による、支那教化の恩頼遺澤と謂ふも、過言に非ざる可し。畏し。

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  • [44]
  • 人倫を廢する、亂、焉れより大なるは莫し。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月 6日(月)22時46分26秒
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 方孝孺(正學、亦た遜志齋と號す)の曰く、予、嘗て夷狄の正統に與かることを得ざるを論ず。夷狄の全く四海を有つ、近世に創見す。故に學者、多く疑ふ焉。蓋し聞見に蔽はれて、遐(遙)思遠覽するに暇あらず。胡(なん)ぞ其の末の熾んなるを怪しまんや也。宋の徳祐・景炎の後、縉紳・先生(高官・學者)、往往山谷に鼠匿し、或は衰麻(喪服)して、其の身を終へ、或は荒江斷壟の間に慟哭し、考妣を失ふが如くして、復た榮達の願ひ有らざる者、多く之れ有り。其の世久しく、俗變はるに及びて、然る後に競ひ出でて、其の朝に立たんことを願ふ。蓋し宋の遺澤、既に盡きて然る也。富貴の貧賤に過ぐるや也、遠し矣。義、以て之に處して愧ぢ無かる可からしめば、奚爲(なんす)れぞ區區として、其の難しとする所(貧賤・結果の不幸不遇)を踐みて顧みざるか乎。蓋し必ず甚だ不可なる者(夷狄に仕ふる事)有りて、道を知る者に非ざれば、識ること能はざる也。嗚呼、此の理や也、孔子の『易』・『春秋』に見る者、詳かなり矣。學者、深く考へず、君を棄て父に背き、夷狄に陷りて、自ら知らざるに至る。道の明かならざる、其の禍ひ、是の如く、其れ烈(はげ)し也。畏る可きかな也夫。

○方正學に、『釋統』・『後正統論』有り。『桐廬の二孫先生の墓文の後に題す』に曰く、「予、嘗て正統を論じ、以て天下を有して正統と爲す可からざる者三、簒臣・女主・夷狄なりと爲す」と。

○秦山先生の曰く、何時が何時までも家來の者は、右の通りある筈ぢやが、年久しう元の世になつて、風俗も元の風俗になると、以前は宋の亡びた事を、二親を喪うた樣に思うた者も、まかり出て奉公する樣になる。

○墨山翁の曰く、畢竟、義理から根ざして、何處までも夷狄には仕へぬ筈ぢやと云ふ存念なれば、何處までも仕へぬ筈。只だ宋の御恩が忘れ難いと云ふばかりで、義理から根ざさぬ事ゆゑ、宋の御恩が薄うなると、つい宋を忘るゝ樣になる。「遺澤」は、御恩の遺つて居る事ぞ。

 時に富貴貧賤にも易へられぬと云ふものあるは、義の一字。人は、此の一字で立つもの。‥‥此の義で愧づると云ふものあれば、人の命脈がかゝつて居る。

○強齋先生の曰く、義なりに愧づかしい事さへ無くば、何の荒江斷壟の艱難な所に引込んで居て、富貴を顧みまい。

 「孔子の『易』・『春秋』に云々」。『易』は、陰を退け陽を進め、小人を退け君子を尊ぶの道、『春秋』は、勿論、名義を正して、夷狄を退け中國を尊び、貴王賤覇の教へ故、かう云はれたぞ。



 因、又た『憑瀛王吟詩臺』[憑道は、瀛州の人なり。五代の時、天下、大いに亂れ、生民の命、倒懸より急にして、道の人爲る、滑稽多智、可否を擇ばず、浮沈して容れらるゝを取る。後唐の莊宗の世に、始めて貴顯、是より累朝、將相公師の位を離れず、一身を以て四姓十君を歴、後ち瀛王に封ぜらる。臺は、易州の太寧山に在り。道、詩を此こに吟ずと云ふ]の詩に曰く、

○「一身を以て四姓十君を歴」。憑道は、五代の諸國(後梁・後唐・後晉・後漢・後周)、激しく興亡した際に、唐の莊宗・明宗・愍宗・廢帝、晉の高祖・出帝、漢の高祖・隱帝、周の太宗・世祖の四朝十君に仕へ、常に高官の座を占め、其の節無きことを耻づるを知らなかつた人物。其の出處、劉因と全く相反す。

林壑、佳色少なく、風雷、清秋有り。
――太寧山は名高い名勝と云ふ事であるが、今ま來て見ると、山も壑も、これと云つて取上げる景は無く、折節、清秋の季節なのに、風吹き雷鳴りはためいて、凄まじい眺めであつた。是は思ふに、憑道の如き節操なき男が、此の山に來た事を、山の靈が憤つてゐる爲めであらうか。

問ひを爲す、北山の靈、吟臺、何ぞ久しく留まる。
――それでは一つ、山の神靈にお尋ねする、この樣な汚らはしい吟臺を、何故、風雨で打破つていまふ事もせず、そのまゝ久しく留め置くのであるか。

時、危きも、亦た常事、人生、良謀足る。
――抑も亂世にて、危いと云ふことは常にあること、五代のみの特有事では無い。されば其の世に生れた人として、身を處する上に正しい仕方がある筈。

亂を撥(をさ)むる功有らずんば、當に海に浮ぶ舟に乘るべし。
――我が身に亂世を鎭め治める功業を立てる力が無いと思ふならば、海に舟を浮かべて、東海の彼方に遠く去るがよい(『論語』公冶長篇)。是が即ち「良謀」である。

飄飄たる扶搖子、□[尸+徙。し]を脱して、雲臺に游ぶ。
――然るに憑道は、恰も扶搖子、即ち旋風の如くふわりゝゝゝと、彼方此方に飛び廻つてをり、

一朝、革まると聞く毎に、尚ほ數日の愁へを作(な)す。
――されば野に在る我等さへ、國家が革つたと聞けば、舊朝の爲めに、暫し同情の愁へを抱くのに、

朝庭、乃ち自ら樂しむ、山林、誰が爲めに憂ふる。
――憑道は、朝廷を快樂の場と心得てゐると見え、いそゝゝと新朝に出仕するのである。從つて憑道が、此の吟詩臺に來つて、四方の山林の風光に感慨を寄せたと云ふが、それは誰を憂へての事であつたらうか。

彼の昴昴たる駒を視るに、此の汎汎たる鴎に奈(いかん)。
――風切つて驅ける駒の威勢よき姿と、遠き水の上を自由に樂しんでゐる鴎の姿との、いづれを勝れてゐると思ふか。

四維、既に張らず、三綱、遂に横流す。
――憑道は、常に威勢のよい駒であらうし、そのため禮義廉耻の四維も破れ、君臣・父子・夫婦の三綱も流されてしまひ、道義亡びて、たゞ權力と名譽とのみを望む世の中になり、

坐ながら蚩蚩の民をして、茲れ聖、與に儔(たぐ)ふと謂はしむ。
[道、嘗て『長樂老の敍』を著し、自ら累朝榮遇の状を述ぶ。時の人、往往、徳量を以て之を推す]。

――無智の民衆をして、其の態度、正に聖人の仲間であるとの思ひを抱かしめるに至つたのである。

蚩蚩、尚ほ恕す可し、儒臣、豈に尤め無けん。
――然し無智の民衆が、その樣に思ふ事は、未だ容赦してよいが、道義を以て任ずる筈の儒臣にまで、憑道を讚へる者があり、是れ不屆き極まる事と謂はねばならず、

歐・馬の筆有らずんば、孰(たれ)か能く萬牛を囘さん。
――歐陽公『五代史』・司馬公『資治通鑑』の史筆を以てしなければ、到底、萬牛を引き戻す事の難きが如く、此の世潮を正す事は不可能であつたらう。

太行、千里來り、瀟灑として、中州に横たはる。
――南のかた千里の遠方より連なり來る太行の山竝みが、清澄の姿で、中國に横たはつてゐる。

今朝、此こに登臨し、孤懷、巖幽に漲る。
――拙者は今朝、此の太寧山に登つて來たのであるが、吟詩臺の跡を見て、憑道の生涯を思ひ起こし、憤りの思ひが巖の内にまでも漲るを覺えた。

何(いつ)か當に疊嶂を□[産+利の右。けづ]り、它山の羞ぢを一洗すべき。
――憑道に因つて汚された此の山の岩々を、風雨が削り落し、外の山々から加へられる辱めを一洗する事が出來るのは、果して何時の事であらうか。

[宋の趙秉文が『吟詩臺』の詩に、
「易州の山河、天下に甲たり。一日、太寧、死灰の如し。

――易州の山河の景色は、天下第一であるが、憑道が吟詩臺を建てゝから、にはかに太寧山の風景、灰の如く生氣なきものになつてしまつた。

山意は、人の面を識るを羞づるに似たり。
――されば山の靈の心も、自分の姿を人に見られる事を羞づるかの如く、

雨は昏(くら)し、丞相の賦詩臺」と]。
――暗い雨で、臺の邊りを蔽ひ隱してゐる。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 四維の四字、尤も肝要の語にして、此の一段の説、只今『管子』に見えたり。定めて先代聖賢の遺言と見えたり。されば朱子も、殊の外、此の語を祕藏して、常に引き用ひらる。是に付き、唐の柳子厚の云へるは、禮義と云へば、「廉耻は其の中に在るに、此の言は分ちの無い事」と云うて、『四維論』を著して之を誹る。柳氏が説、全く筋の無い事ぞ。尤も禮義の二字は、兎も角く殘さぬ事なれども、廉耻の二字は、又た別して大事の目當の字ぞ。禮義廉耻と張合うて、定式の正面で云ふ。されば此の四字程、肝要の字は無し。國・天下より一家、さては己一身、此の四字を離れて、禽獸の名を免るべきこと有る可きか。柳氏も、初め王叔文が無道の中間へはめられて、柳州へ流されて後、斯樣のはぜたる論を嫌がりたると見えたり。

 唐順之が説、今『柳文』の題下の中に載せてあり、はきとせず。其の中、「專ら言ひて切也」の句、最も好し。小節の字「是也」と云ふは、甚だ誤れり。黄震が説、次の「天爵の説」の題下に在り。隨分好き説なり、考ふ可し。『漢書』賈誼傳評林に、一説あり。簡にして當れり矣。



 歐陽脩の曰く、禮・義・廉・恥は、國の四維。四維張らざれば、國、乃ち滅亡す。況んや大臣と爲りて廉恥無き、天下、其れ滅びざる有らんや、國家、其れ亡びざる者有らんや乎。憑道、其れ廉恥無き者と謂ふ可し矣。則ち當時の天下・國家、知る可き也。予、五代に於いて、全節の士、三たり、死事の臣、十有五を得たり。皆な武夫戰卒、豈に儒者に於いて、果して其の人無からんや哉。高節の士、時の亂を惡みて、出づるを肯んぜざるに非ざるを得んや歟。嘗て聞く、是の時、王凝といふ者有り。青・齊の間に家す。□[孚の上+寸+虎。かく]州の司戸參軍と爲りて、以て卒す。妻・李氏、其の遺骸を負ひて、以て歸り、東のかた開封を過ぎ、旅舍に止まる。主人、納れず。其の臂を牽きて、之を出す。李氏、天を仰ぎて慟して曰く、「我れ婦人と爲り、節を守ること能はずして、此の手、人の執る所と被(な)るか耶」と。即ち斧を引きて、自ら其の臂を斷つ。見る者、之が爲めに嗟泣す。開封の尹、之を聞き、其の事を朝に白し、厚く李氏を□[血+小里。めぐ]みて、其の主人を笞うつ。嗚呼、士、自ら其の身を愛せずして、恥を忍びて、以て生を偸む者、李氏の風を聞き、宜しく少しく愧ぢを知るべきかな哉。

○絅齋先生の曰く、「禮・義・廉・恥は、國の四維」。是は、管仲が云ふ古代の學校の言と見える。是は、至極の格言なるに、唐の柳子厚が打破りて置く。是は『講義』(上記)にも載せて置く。日本板の『柳文』に、唐順之が論ある、それがよい。『柳文』は、日本板がよい。唐本は惡い事ぞ。

○禮義と云へば人道、何もかも之に外れぬが、其の中でも廉耻の字は、又別して目當てになる字なり。そこで此の四は、人道の大綱なり。

○秦山先生の曰く、是は本文の詩の内に、「歐・馬の筆非ずんば」と云ふ事がある。それで歐陽脩の説と司馬光るの説を、後へ載せて置かれた。是も詩の中の考に載せて置かれた故、一段下げてあるぞ。「禮・義・廉・恥は、國の四維」と云ふは、古い詞ぞ。此の四つの者が、人の維(つな)ぎになつて居る。此の四の一つ缺けても、本法の人になる事はならぬ。まして天下・國家を有つ者は、四つが缺けてはならぬぞ。

 「四維云々」。此の四維が缺けて行はれぬと云ふ事なれば、國が亡びる。庶人の上で、禮・義・廉・恥の四つが缺けても、國亡ぶる樣になる。況んや天下・國家の宰相たる者が、きつとした事が無く、恥づかしいと云ふ事を知らぬ樣では、天下・國家の亡びぬと云ふ事は無い。

 「憑道云々」。憑道が一生の處しやうは、根から恥づかしいと云ふ事を知つた者では無い。昨日まで主人と敬うた者を殺されて、其の敵の家來になると云ふ事なれば、是ほど恥づかしい事は無い。そのやうな恥知らずを宰相にして、國の政を委せると云ふ者ゆゑ、五代の君に、一人として三代續いたは無い。其の時分の天下・國家のなりが、思ひやられた事ぢや。

 「予云々」。全節の士は、始めから終りまで、節を全ふして身を汚さぬ人の事。死事の臣は、何ぞ大切な場に臨んで、討死をした者の事ぞ。五代も取合はせては、よほど年數も有る事ぢやが、僅か十八人より外は無い。是等は皆、『五代史』に載つて居る。其の討死をしたり、節を全ふした者が、何れも皆な文盲な武士ぢやの、軍兵ぢやのと云ふ者ぢや。其の内、儒者と呼ばるゝ者は、一人も無い。

 「高節の士云々」。大方、此の時分は、殊の外の亂世で有つたによつて、學者は節を高ふして、其の間に仕へると云ふ事は無い。其の時分の亂を惡んで、引込んで居つた者である。

 「嘗て聞く云々」。歐陽脩が、隨分吟味をして見られたれば、此の王凝が事がある。青・齊は、青州・齊州ぞ。司戸參軍は、軍の官ぞ。

 「妻李氏云々」。旅で死んだによつて、其の屍を取つて歸つて、在所で葬つたぞ。開封は、開封府の都。旅舍は、旅宿の事ぞ。女の一人旅ゆゑ、宿貸さなんだ。臂を取つて、引出した。

 「李氏云々」。婦人たる者は、男子に直きに手を取らるゝなどと云ふ事は無い事ぞ。それに旅宿の亭主が、手を取つたによつて、もう節を失うたと云ふものぞ。側に在つた斧を取つて、取られた方の腕(かいな)を切りて捨てた。それを見る者が、あまり嚴しい致し方ぢやによつて、膽をつぶして泣いた。開封の尹は、開封府の所司代ぞ。白すと云ふに、此の白の字を書くは、思立つて申し上げる事ぞ。此の李氏を憐愍して、旅宿のて亭主を笞打たれた。

 「嗚呼云々」。李氏は、婦人でさへ斯うぢや。それに男子たる者が、我が身を汚して、大な恥辱に遇うて、偸生をすると云ふは、情け無い事ぞ。さやうな者が、此の李氏が風を承つたならば、少しは愧づかしう思ふで有らう。



 司馬光の曰く、天地、位を設け、聖人、之に則り、以て禮を制し法を立つ。内に夫婦有り、外に君臣有り。婦の夫に從ふ、身を終へて改めず、臣の君に事ふる、死有りて貳(じ。心に雜りのある、彼方此方して居る事)無し。此れ人道の大倫也。苟くも或は之を廢する、亂、焉れより大なるは莫し。范質の稱す、「憑道、厚徳稽古、宏才偉量、朝代遷貿すと雖も、人、間言無く、屹として巨山の若く、轉(まろぼ)す可からざる也」と。夫れ女と爲りて正しからずんば、復た華色の美、織□[糸+任]の巧ありと雖も、賢とするに足らず矣。臣と爲りて忠ならずんば、復た才智の多、治行の優(仕置きの働き有り)と雖も、貴とするに足らず矣。何となれば則ち大節、已に虧くる故ゑ也。道の大節、此の如し。小善有りと雖も、庸(もつ)て稱するに足らんや乎。或ひと以爲らく、「是の時に當りて、臣節を失へる者、道一人に非ず。豈に獨り道を罪することを得んや哉」と。夫れ忠臣は、公を憂ふる、家の如く、危きを見て命を致(授)す。智士は、道有れば、則ち見はれ、道無ければ、則ち隱る。今ま道は、尊寵、三師(三公、即ち太師・太傅・太保)に冠とし(憑道、周の太祖より太師に任ぜらる)、權任、諸相に首とし、國存すれば、則ち竊位素餐(徒食)し、國亡ぶれば、則ち迎謁勸進す。茲れ乃ち姦臣の尤、安んぞ他人と比を爲すを得んや哉。或ひと謂ふ、「道は、能く亂世に、身を全くし害を遠ざく。斯れも亦た賢なるのみ已」と。夫れ君子は、身を殺して仁を成すこと有り。豈に專ら身を全くし、害を遠ざくるを以て、賢と爲さんや哉。然るに不正の女をば、中士も、以て家と爲すを羞づ。不忠の人をば、中君も、以て臣と爲すを羞づ。道の臣爲るが若くにして、誅せず棄てざるは、則ち亦た時君の責め也。

○「亂、焉れより大なるは莫し」。亂は、戰爭ばかりで無い。人倫の亂るゝは、大亂なり。

○秦山先生の曰く、凡そ聖人の教を設けらるゝと云ふが、是はかうしたがよい、是はかうせねばならぬと、自分の作で、よい加減に法を立てられたものでは無い。すべて皆な天地のなりぞ。天は上に在りて貴く、地は下に在りて臣のなりがある。すべて皆な禮を制せらるゝも法を立てらるゝも、天地に則つて禮を制し法を立てたものぞ。

 「内に夫婦云々」。それが内で云へば夫婦、外で云へば君臣、皆な義理を以て合うたものぞ。婦人たる者の夫に從ふなりは、いかやうな事が有つても、改むると云ふ事は無い。臣たる者の君に仕へる上では、身を粉に碎かうが、二心を懷くと云ふ事は無い。此の二つが立つて居つて、萬事が義理の通りに行はれたものぞ。父子・兄弟の間でも、君臣・夫婦の間に缺けがあると云ふ事なれば、是より大きな亂は無い。

 「范質云々」。范質が、己が周の恩を受けながら、其の敵の宋に仕へた心から、同類故、憑道が事を褒めた。厚徳は、徳義の厚い事。稽古は、古の事をよう存じて居る事。宏才は、才の働きの有る事。偉量は、すぐれた器量の事。遷質は、遷はうつる事、質は商ひ等を致す者の粘(のり)でも出して置いて、それが賣れると、又た菓子を出すと云ふ樣に、すりかへゝゝゝゝして置く樣な事ぞ。五代の時分の天下のなりが、丁度その樣に有つた。間言は、わきから隔てゝそしる事ぞ。屹の字は、山のによつと高い模樣。巨山は、大きな山ぞ。「轉す可からず」は、動かされぬぞ。

 「夫れ女と爲りて云々」。夫婦たる者が、節義を失うたと云ふ事なれば、何ほど容が麗しうても、苧機(をはた)が上手ぢやと云つても、それで賢なと云ふ事は無い。華色の美は、顔色の麗しい事。織□[糸+任]の巧は、苧機の上手な事ぞ。臣たる者も、不忠なと云ふ事なれば、何ほど天下を治むる才智が有つても、すぐれた功業が有つても、それは役に立たぬ事ぞ。義と云ふ大節が虧けてからは、外にいかやうな麗しい事が有つても、それは役に立たぬ。

 「道の大節云々」。憑道が身の處し樣は、主の敵に奉公すると云ふ樣な事ぢや。それならば、博識に有らうが、量が廣からうが、何の役に立たぬ事ぞ。

 「或ひと云々」。或人の存寄りに、此の時分、節を失うた者は、何人と云ふ事は無い。憑道一人を罪する事では有るまい。

 「夫れ忠臣は云々」。公を憂ふる、家の如くは、主人の御難儀を、我が家内の事の樣に思ふ事ぞ。

 「危きを見て命を致す」。是は『論語』(子張篇)の文字ぞ。主人の御難儀と云ふ場なれば、臣たる者は、死するより外は無い。仕へた上では、「危きを見て命を致す」と云ふより外は無い。また仕へぬ上なれば、「道有れば則ち見はれ、道無ければ則ち隱る」ぞ。是も『論語』の文字ぞ。是は出處の方から云つたものぞ。

 「今ま道は云々」。憑道は、天子から結構にあしらはれて、天子の御師匠分三人の上に立つて居る。天子には、師匠が三人有る事ぞ。太師の、太傅の、太保のと云ふ。權威はと云へば、惣體の宰相の頭になつて居る。さうして國がつぶれずに居れば、よい加減なぬめりかはりとして位を竊んで居る。素餐は、『詩經』(魏風・伐檀篇)の文字で、何もせずに扶持方を貰つて居る事ぞ。國が亡びると、敵を迎へて「位にお即きなされ」と勸める。迎謁は、迎へに出る事。勸進は、あの方で、天子を勸めて讓状を書かせる時に、其の事を「早う位に即かれたらよからう」と勸める、勸進と云ふ。

 「茲れ乃ち云々」。姦臣は、かしましい臣。尤は、中ですぐれた、けやけい事。比を爲すは、比べ者にする事ぞ。どうも他に比べ者は無い。

 「或ひと云々」。又た或人の説が、あれほど亂れた五代で、一生害に遇はず、身を全ふせられた賢者で有らう。

 「夫れ君子云々」。「身を殺して仁を成す」は、『論語』(衞靈公篇)の文字ぞ。學者たる者が、身を殺して仁を成すと云ふ事か有る。身を全ふして、一生つゝが無いと云ふも、手柄でも無い。身を全ふして害を遠ざくると云ふは、いらざる事に死んだり、立ち廻り不調法で死ぬる樣な事の無い事ぞ。死ぬ可き場なれば死ぬるが、直ぐに仁を成すと云ふものぞ。

 「然るに云々」。節を失うた女は、中位の士(さむらひ)も、妻にする事を羞づる。不忠を致した臣なれば、中位の君でも、臣にはせぬ。あれ程な不忠者を成敗にせず、かゝへて置くと云ふ事なれば、其の時分の君も、眼が明かぬ故、五代の君にも責めがかゝるぞ。

○強齋先生の曰く、「夫れ女と爲りて云々」。極めて名言ぞ。大義大節の根本を拔かしては、何程な事でも、見るに足らぬぞ。人は、こゝで立つたもの。淵明の尊いと云ふも、此の大根が立つて居るによつての事ぞ。
 

  • [43]
  • 老氏の術を挾む者は、必ず國を誤り、民を害ふに至る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 8月 1日(水)22時01分46秒
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 丘濬、又た曰く、嘗て劉因が作る所の『退齋の記』を視るに、曰へる有り、「老氏の術を挾む者(許衡)は、一時の利害を以てして、天下の休戚(めでたき事と憂へ事)を節量し、其の終りは、必ず國を誤り民を害ふに至る。然れども萬物の表に特立して、其の責を受けず焉。且つ方(まさ)に孔・孟の時義、程・朱の名理(名分理義)を以て、自ら居て疑はずして、人も亦た之を奪ふことを知ること莫き也。

 其の徒・陳俊民、請ひて曰く、「彼(許衡)、方に時を得て道を行ひ、大いに文風(學術を廣め、風俗を導く)を闡き、衆人、之を宗とすること、伊洛(程兄弟)の如し。先生、之を斥けて、老子の術と曰ふは、何ぞや也」と。此の言に由つて之を視れば、則ち因の仕へざる、蓋し的然として見る有り也。其の辭に謂ふ所に、「孔・孟・程・朱を以て自ら居り」、及び其の徒の謂ふ所の、「君を得て道を行ひ、衆、伊・洛を以て之を宗とする」を味ふに、許衡を指すに似たり也。若し然らば因も、亦た衡の元に仕ふるを然りとせざるか歟。

[袁黄の曰く、「因、又た劉仲祥の爲めに『蠢齋の説』を著して云ふ、『近世の士大夫、多く頑鈍椎魯(かたくなにして鈍く、愚かで律儀一方)を以て自ら號す。彼、其の人、未だ必ずしも眞に是れ有らざる也。亦た故(ことさ)らに謙託を爲すに非ざる也。或は老氏の説を爲して、以爲へらく、必ず是くの如くにして後、營み無くして道に近く、葆嗇(身を隱)して自ら全くす可き也』と。則ち撰びて之を取りて、其の意は、則ち將に以て自ら利せんとするのみ而已」と。然らば則ち靜脩、偲偲として之を言ひて置かず、其れ殆んど許魯齋が爲めか與]。


○『退齋記』、何者かが、退齋と云ふ家を作つたさうな。因は、其の記を書かれし也。老子の流では、退字を云ひたがる。退いて天下の事に構はぬと云ふ意で、聖人の仰せらるゝは、慇懃に謙讓の合點で云ふ。

○強齋先生の曰く、退と云ふ字が難しい、云ひ難い字ぞ。節義を守るなりに、譯有りて退けばよいが、惡うすると、世間へ出ると、ふみかぶる事が有る故、兎角くものは七八分にして置くがよい、十分に成るとこぼれる。「功成り名遂げ身退く」と云ふ樣に、引込んで居る意で、詰まる處、己が身に怪我の無い樣に氣を養うて、あまり物に世話燒かず、物も多く云はぬ樣に、成らぬ事を無理にせずと置きて、氣をやぶらぬ樣に身を打たぬ樣に、し損なひの無い樣にと云ふ事で、老子が意は、朱子の能く見拔かれた。林希逸が『口義』等は、かいしき老子を知らぬものぞ。こゝに云つた退も、義なりに退くか、謙退の退なれば、結構な事ぢやが、こすい合點で退いたもの故、此の記に、老子が意を云つて辨ぜられたぞ。許衡が齋號を魯齋と云つたも、魯鈍にして引込んで居て、どちからもし損なひをせぬ樣にと云ふ合點。それを劉因の、こゝに辨ぜられたぞ。

○劉靜脩の、老氏が術について、繰返し辯じて已まざるもの、實は許魯齋を批判するに在り。魯齋の魯の字も、實は老子の筋から來たもの。

○絅齋先生の曰く、「蠢」、芋蟲等の春時分、何の智慧も無く、むごゝゞと動くを云ふ。是も紛れる字ぞ。聖人の云ふ蠢の字は、智慧の無い、飾りの無い事。老子が云ふは、上だるみをやつて、阿保らしうなつて、底におぞい事もつて、人の惡い事を見出したりする、是が老子が蠢ぞ。『老子』が書は、微塵、義理を書かず、皆、おぞい事を書く書なり。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の『退齋記』、「退」と云ふ字、殊の外、大事の字ぞ。老子が術に肝要の字が、此の退の字ぞ。己は肅(じつ)と引籠りて居て、人へにぢり付くる、是が老子が術ぞ。おぞい事ぞ。それでこゝにも、老子と云ふ事を出されたぞ。扨て儒者の道にも、退と云ふ字がいるぞ。謙退などとて、いつ迄も身を高ぶらずに、自ら足らざるの心を有つ、是が眞ろくな退の字ぞ。殊の外、思入れがゆがめば、誤まる事ぞ。許魯齋が一生は、此の退の字を、老子が合點で用ひた程に、劉因の樣な目の鞘の外れた者に、頓(やが)て見出だされて、斯樣には書かれたぞ。それで『老子』の書は、一遍見て置いて、なりを知つたがよけれども、初學は要(い)らぬものぞ。昔から老子を知つた者が無い。朱子の赤裸に見拔かれた。近世の林希逸が『口義』等は、ちよろい事ぞ。



 又た曰く、衡、嘗て其の子に語つて曰く、「我、平生、虚命に累はされ、竟ひに官を辭すること能はず。死後、愼みて諡を請ふこと勿れ、碑を立ること勿れ。但だ「許某之墓」の四字を書し、子孫をして其の處を識らしめば足れり矣」と。衡が此の言を視るに、固より自ら其の元に仕ふるの非を知りぬ矣。

○「諡」は、謚(し)と書くが正しいが、謚には別に笑聲の意(音えき)があるので、唐宋以來、贈名の時は諡、笑ふ貌の時は謚と使ひ別けてゐる。朝廷に於いて、死者生前の功に對し、其の行跡に應じて賜はつた名。朝廷より賜はるのが禮であるが、然らざる場合もあり、それは私諡と呼ぶ。

[丁奉(明儒。湖南と號す)の曰く、「丘瓊山、許衡・呉澄の元に仕ふるに滿たず。然るに衡と澄と、同じからざる者有り。衡は北産也、元の故士也。此れ其の元に仕ふる所以ん也。況んや終りに臨みて子に語る、『諡を請ひ、碑を立つ勿れ』と。則ち其の元に仕ふるを恥づ、亦た憐れむ可し矣。説者の謂ふ、『范質、終りに臨むの語、衡と適(まさ)に同じ』と。然り而して質や也、富貴の徒、衡や也、道學の士、此れを以て相較ぶるは、則ち衡を辱かしむること過ぎたり矣」と。余(絅齋先生)の謂へらく、奉が此の説、卑陋、甚だしと謂ふ可し矣。夫れ衡、道學の士を以て、出處死生の際、乃ち質と轍を同じうするは、則ち所謂る道學者、果して何事にして、其の名教の罪爲る、啻に質に陪するのみならざる也。是れ其の自ら速(まね)くの恥辱、何の過ぐること之れ有りて、復た憐れむに足らんや乎。北産・故士の説に至りては、則ち其の失、袁黄に同じ、已に前に辨ず矣。

○「道學」とは、孔孟以來の學問の根本を繼承する道統の學を謂ふ。朱子編『中庸章句』に、「『中庸』は、何の爲めにして作れるか。子思子、道學の其の傳を失ふことを憂へて作れる也」と。以降、道學は、單に儒學と云ふと區別して、程朱の學そのものを意味する語となる。『宋史』も、周敦頤・程□[景+頁]・程頤。張載・李□[人+同]・朱憙等を傳した『道學傳』と、□[刑の左+小里]・胡□[王+媛の右]・洪興祖・呂祖謙・胡安國等一般を傳した『儒林傳』とに分つ。

○周(後周)の世宗、將に□[歿の左+且]せんとす。其の相・范質等を召し、入りて顧命(遺言して後事を託す)を受け、子の宗訓を立つ。時に七歳なり。已にして殿前都指揮使・趙匡胤、外より兵を率ゐて□[三水+卞。べん。開封]に入り、宗訓を廢して、自立し皇帝と稱し、國を宋と號す(宋の太祖)。初め入るや也、將士、質等を擁して至る。將士、聲を厲(はげ)まして之を懼(おど)す。王簿等、階を降りて、先づ拜す。質も亦た拜す。遂に宋に仕へ、復た相と爲る。將に死せんとし、其の子に遺命す。「諡を請ひ、碑を立つ勿れ」と。周禮(明儒)の曰く、「質等は、周朝の舊臣、祿を食み恩を受くる、一朝一夕に非ず。矧(いは。況)んや宋主と肩を比し、北面して臣を稱す。顧(かへつ)て乃ち生を偸み國を賣り、恥を忍んで讐に事ふ。安んぞ人と爲すに足らん」と]。

 又た曰く、衡、元人の域中に生れ、已むことを得ずして、之が用と爲る。其の心、尚ほ慊焉(あきた)らざる者有り。呉澄は、宋朝の郷貢進士[澄は、江西撫州崇仁の人なり。時に郷貢進士爲り。元の宋を滅ぼすに及びて、程文海が薦を以て元に仕へ、顯官に至る。『元史』に詳か也]、平昔、志す所は、何の道、仕への得る所、幾何(いくばく)にして、頓(には)かに孔子『春秋』の教へを忘るゝか哉。

○絅齋先生の曰く、前で許魯齋が事は盡きて、此れから呉臨川が事。呉臨川は、前に云ふ通り心學者なり。心學者は博學に無い者ぢやが、此の男は大博識者で、文章もよく、丘瓊山に負けぬ程の者なり。此れも老子の術で、朱子をうつては、人が合點せぬ故、朱子を立てゝ置いて、何處と無く埋めていかうとする。西山の『心經附注』にも、是等が説多し。殊の外、程篁敦が『道一編』と云ふを著し、理に二つ無ければ、心學(陸象山の學)も朱子も同じ事と云つて、朱子を引き入れる。心學者は、義と云ふ事の吟味をせぬ故に、學問で騙りをするぞ。

○秦山先生の曰く、「平昔」は、平生と云ふと同じ事ぞ。心學者も、平生、道々と云ふが、平生、道と云ふは、何の道ぞ。一生仕へて、功業もあり、味をやつたと思ふで有らうが、出處を失うて仕へて、其の得た處は、何があるぞ。何ほど有つて、遽かに孔子『春秋』の教には違う樣になつたぞ。

○墨山翁の曰く、常に志す所、何の道ぞ。何ほど聖賢呼ばはりしても、聖賢の道で無いと見えた。元に仕へて高位高官に上つたからは、大抵の身代で無い。何ほど大きな身代と云つても、半切りで食を喰ひもせまい。それが斯樣に聖賢呼ばはりをした者が、聖賢の大祖師・孔子の『春秋』に、俄かに叛いた。中國を貴び夷狄を賤しめらるゝが、『春秋』第一の事ぢやに、「孔子『春秋』の教へを忘るゝか哉」。

 張時泰の曰く、『春秋』に、父兄の讐に於いては、則ち共に天を戴かずと曰ふ。宋と元と、正に共に天を戴かざるの讐也。趙孟□[兆+頁。ふ。俯]の元に仕ふる、其の恥ぢ無き、孰れか焉(これ)より甚だしからん[元、已に宋を滅ぼす。程文海、江南の遺士・宋の宗室・趙孟□[兆+頁]を薦む。世祖、之を擢用し、遂に顯要に至る焉]。

○『禮記』曲禮篇に曰く、「父の讐は、與に共に天を戴かず」と。

 昔者、王珪・魏徴、建成の難に死せず。君子、之を非とす[范祖禹の曰く、「建成は太子爲り、且つ兄也(唐の高祖・李淵の長子にして太子)。秦王は藩王爲り、又た弟也(弟・李世民。唐の太祖)。王・魏、命を受けて、東宮の臣爲れば、則ち建成は、其の君也。豈に人の、其の君を殺して、北面して之が臣爲る可きこと有らんや乎。弟を以て兄を殺し、藩王を以て太子を殺して、其の位を奪ふ。太宗も、亦た事ふ可きの君に非ず矣。君の祿を食みて、其の難に死せず。朝に以て讐と爲し、暮に以て君と爲し、其の事ふ可からざるに於いて、之に事ふ、皆な罪有り焉。臣の君に事へ、婦の夫に從ふや也、其の義、以て明かならざる可からず。苟くも義に明かならずして、質(し)を人に委ぬ(仕官)。利せずと曰ふと雖も、吾れ信ぜざる也」と。(絅齋先生)按ずるに、程・朱、王・魏の罪を正す所、已に著し矣。此れ敢へて涜録せず]。

○墨山翁の曰く、此の「臣の君に事へ、婦の夫に從ふ」二つのものは、趣の全く同じもの、肝腎の處は、義の一字に歸する事。それで苟くも義に明かならずして、奉公致すと云ふものでは、此方は、事ふるは身勝手の爲めにするで無い、國家の爲めにすると云つてからが、此方は信仰せぬと云ふ事。

○山崎闇齋先生『文會筆録』十一卷に、王珪・魏徴の出處に就いて、先儒の説を擧げて嚴しく批判せり。

 孟□[兆+頁]の事の若き、其の天屬人合、又た王・魏の同じからざも者也。孟□[兆+頁]、字は子昴、書畫精絶なりと雖も、惡んぞ取る可けん。

○「天屬人合」。天屬は、天からはへぬいた關係の意で、血脈の續きと云ふ事。人合は、君臣の出合ひの意で、趙子昴は一門の重臣にして、異姓の臣とは、其の立場が全く違つてゐる。趙子昴は、宋の太祖の四子・秦王徳芳十代の後裔にして、其の書は、王羲之の正統を守るを信條とし、華麗にして端正、我が國の書道界にも大きな影響を及ぼし來る。又た其の畫は、山水・竹石・花鳥・人馬、皆な秀逸、元代畫壇の開拓者の位置に在り。然れども「惡んぞ取る可けん」。

○魯齋・臨川・子昂の三人を論じ、他は論ずるに及ばぬ也。子昂の書いた「聖像」がある。引き破りて捨てるがよい。いくら書畫が上手でも、聖人を汚すと云ふもの、盗人に『論語』を寫してもらふ樣なもの。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の「王珪・魏徴」段、紛れも無い事ぢやに、『綱目發明』の説に、是は苦しからぬ事ぢや、何故ならば太子に屬けと云うたも、親の仕業、後ち太宗に又た奉公せたも、親の言付け。だたい親の天下なれば、どちへ屬くも親次第ぞ。すれば此の二人の言譯は、立つと云うてある。無作とした説ぞ。誰が言付けうとも、一度び我が主と頼みたる君を、むでゝゞと人に殺されて、それを何とも思はず、其の殺したる者に仕へて、じろゞゝとして居る段は、扨て々ゝ不義無道の事ぞ。好し、太子の親が殺すとも、太子の誤り無きに於いては、己が命のあらん限りは、嘆きを云ふか、何卒して殺させぬが義理ぞ。親に對して、謀叛は起されまい程に、詰まる所、嘆きを言ひ盡して死すより外は無いぞ。左なくんば、暫く立退くか、どうしても我が主人を人に殺されて、其の分で居ると云ふ義理は無い筈。是にて、王・魏二人の罪は、極まりたぞ。



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 愚案、藤原俊成、其の子・定家、父子「相共に時勢に媚び、權力を恐れた。歌は幽艶であるが、然し敷島の道は荒れたりと云はねばなるまい。‥‥定家は、後鳥羽・順徳兩上皇の、王政復古、武權囘收の御計畫に反對であり云々」(平泉澄博士『明治の源流』昭和四十五年六月・時事通信社刊)。「定家をなみせん輩は、冥加もあるべからず」(『徹書記』)と雖も、皇國に於いて、何ぞ採る可けんや哉。其の縁戚・子孫に、西園寺公望・入江相政ある、嗚呼、宜なる可し矣。

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  • [42]
  • 必ず仕へず矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月24日(火)00時14分29秒
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 丘濬の曰く、孔子、『春秋』の一經、關係、尤も大なり。元の許衡は、則ち『春秋』の道に悖る者なり。『春秋』の道は、夏(華・中國)を内にして、夷を外にす。一會の頃、尚ほ其の中國に主たるを容れず(諸侯會合の時、上座させぬ)。況んや四海の大、其の之が君爲るを容(い)るを肯んぜんや乎。

 或は曰く、「元に仕ふるの人多し矣。乃ち獨り衡を責めて可ならんや乎」と。曰く、「此れ朱子、備を楊雄に責むるの意也。他人、世に隨ひて功を就(な)す者、何ぞ責めん焉」と。


○丘濬は、明の大儒、瓊山と號す。程朱の學を守り、闇齋先生が、薛敬軒と共に重視した先學であるが、薛の學の純なるに比し、博なれども雜の批判を免れざる也。

○許氏は、利の爲めにも非ず、害を逃るゝ爲めにも非ずして、夷狄に仕へた事ゆゑ、當時の人は、之に傚ふも苦しからずとの考あり。且つ許氏をよい人の樣に云ひ立てしにより、瓊山は口を極めて論ぜられしなり。是は『世史正綱』の論なり。本書を編む時、全文なかりしを以て、諸書に散見せるものを、やうゝゝ集められたるものなり。

○吉田松陰先生『松下村塾記』に曰く、「抑も人の最も重しとする所は、君臣の義也。國の最も大なりとする所は、華夷の辨也。今ま天下は、何如なる時ぞ也。君臣の義、講ぜざること六百餘年、近時に至り、華夷の辨を合せて、又た之を失ふ。然り而うして天下の人、方且に安然として計を得たりと爲す。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内、君臣の義を失ひ、外、華夷の辨を遺る。學の學爲る所以、人の人爲る所以、其れ安ぞ在らんや哉」と。君臣・華夷(内外)の辨別に於いて嚴烈なるもの、孔丘編『春秋』を以て第一と爲す。

○強齋先生の曰く、春秋の時分、楚は夷狄で有つた故、楚が中國と會すれば、是を外にして夷狄にあしらはれた。纔か「一會」の内でさへ、中國の事に與かることを容れられぬ。況んや夥しい天下に、夷狄の奴等が君たるを、『春秋』に許されう樣は無い。

 許衡は、大儒と呼ばれた者。其の儒者の學ぶ處は、綱常の名分大義。それを學びながら、此の樣な出處のしだら故、そこを責められたぞ。楊雄は、其の時分に大儒と云はれて居た者ゆゑ、全ふどこにも瑕は無い樣にあればよいがと、瑕を數へ立て責むる事。其の外の、世に諂ひまはつて居る者は、何も責むるに足ることは無い。許衡は大儒ぢやによつての事(愚案、楊雄・許衡を責むるは、我が佐藤一齋を責むるが如し)。

 梁[臨江(明儒。名は寅、石門と號する人ならんか歟)]の曰く、衡は、中國の人を以て、冠を毀ち冕を裂きて(中國人としての禮裝を棄て)、以て夷王に事へ、以て我が中國帝王の統を絶つ、可ならんや乎。「然らば則ち衡が爲めに計らば、奈何」。曰く、「劉因の、屡々召されて屈せざるが如くして可也」と。

 許浩(復齋。明人)の曰く、胡銓の謂ふ、「三尺の童子は、至つて知無き也。犬豕(豚)を指して、之に拜せしめば、則ち怫然として怒らん。今ま醜慮は、犬豕也」と。衡は、宋儒を以て元に仕へ、反りて童子の見に如かざるかな哉。

[袁黄の曰く、衡は新鄭の人なり。金の泰和九年を以て生る。固より宋人に非ざる也。元に顯はるに逮びて、宋を侵すの擧、公卿、爭ひて攻取の略を獻ず。衡、獨り言ふ、「惟だ當に徳を脩めて、以て賓服(諸侯入貢して天子に賓見)を致すべし。若し力を以て取らば、必ず兩國の生靈を殘(そこな)はん」と。蓋し江漢の思ひ有り焉。

○絅齋先生の曰く、是に就いて袁凡了が『歴史通鑑補』に、魯齋を救うてあるが、先づ此の袁凡了と云ふ者は出家にて、後に儒者になる。明のとつと末の人で、もと佛者ゆゑ、凡を了すと云ふ佛説を字に付けて居る樣な不埒者なり。こいつは、秀吉の高麗陣の時、大將して肥後殿(贈從三位・加藤清正公)にぼいまくられた男なり。これが『通鑑』を編む。此れが評がよいとて、世上で專ら用ふれども、ずんとよくないもの、大きな害になる事あり。得て忠義の所と云へば、ひよんな誤りを云ひ出す。こゝの魯齋の生れた時の地の考をすれば、別して譯も無い故、一々下に辨じて置く。

○強齋先生の曰く、「江漢」は、『詩經』(大雅)の篇ぞ。軍さで人の多く損ねたを傷み、軍を已むを得ずして起し、人民を多く損ねたと云つて、聖人の痛んで歌はれた詩ぞ。許衡も、其の樣に軍を出しては、宋・元兩國の損ねるを傷む仁愛の心があると云ふ事。干戈で取つたも、徳で取つたも、取るに違ひ無いと云ふ事を知らぬぞ。

○(絅齋先生)按ずるに、『元史』に、「衡、懷の河内の人なり。世々農父と爲り、而して衡が父、地を河南に避け、衡を新鄭に生む」と。元の世祖、秦中に王と爲りしより、徴(召)して京兆の提學(府の學校の頭)と爲す。位に即くに及びて、復た徴しに應じ、官、中書左丞及び集賢太學士・國子祭酒に至り、時政を陳べ、機務に與かれり焉。『一統志』に、懷の河内は、『禹貢』冀州の地、宋には河北西路に屬す。新鄭は、『禹貢』□[鍋蓋+八+兄。えん]・豫二州の域、乃ち宋の太祖以來、欽宗に至るまで、都する所の開封府の地也。又た金の泰和九年は、即ち寧宗・嘉定二年己巳の歳、猶ほ南宋全盛の時爲り矣。然らば則ち衡、未だ嘗て宋に仕へずと雖も、浩、之を宋儒と謂ふは、尚ほ據る所ろ有りと爲す。而るに黄の、徒らに金・元が蠶食侵奪の後に由りて之を言ひ、復た故地分域の根本を論ぜざるは、疎と謂ふ可し矣。且つ徳を脩むるの力を以てすると、其の方同じからずと雖も、然れども元に教へて宋を取らしむるに至りては、則ち當時、公卿の略と、何ぞ異ならん。

 夫れ幽燕の地、石晉以來、三百餘年、夷狄に沒せるを以てして、劉因、猶ほ固く舊域を執し、寧ろ世を辟け、獨立して以て汚れず。衡の生の若きは、則ち宋の本地にして、故都の有る所、乃ち少しも辨別せず。其の夷虜に委するを視る。盗賊、家に入りて府庫に竊據して、舊家僕爲る者、之を逐ふこと能はず、指して盗の有と爲し、且つ更に之が爲めに計劃挈引(相談手引き)して、以て主人を殺し、家基を奪ふの術を誨(おし)ふるが如き者、是れ何の理ぞや耶。


○秦山先生の曰く、「寧」と云ふ字を入れて置かれたは、世を避けてゝ、隱者に何も結構な事では無い。學術を任じて居る者は、どこ迄も君をば堯・舜の如くにし、民をば堯・舜の民にするで無うては、學者の業とする處で無い。劉因もそれを知らぬでは無いけれども、心身を汚して功業を立てうよりは、まあ、世を避けて隱遁者になつて居るぢや。寧と云ふに、其の思入れがある事ぞ。

 或は曰く、「是れ則ち然り矣。而して懷孟・新鄭は、皆な夷に沒するの久しき、已に租賦を致し、之に役屬するを爲せば、則ち是れ其の民爲る也」と。曰く、然らず。大抵、一世の讎有り、萬世の讎有り、一人の讎有り、一家の讎有り、一國の讎有り、天下の讎有り、體勢、益々大なれば、則ち關係、彌々重し。衡の元に於けるが如きは、則ち所謂る天下萬世と讎を同じうする者、天壤與に腐し、生民與に糜(たゞ)ると雖も、仕へずして可也。固より遠近舊新の常態を以て、論ず可きならざる也。劉因が如き、衡四十年の後に生れて、其の卒するや也、亦た後るゝこと十餘年、且つ其の祖族、嘗て金に仕へて官と爲りて、因、超然として顧みず、是れ其の尚(くは)ふ可からずと爲す所以ん也。況んや租を致し往きて役するは、庶民の常事、仕に當る者と、又た間有り焉。不幸に此こに到り、舊君眞主の與に輔けて、以て異類を攘逐し、舊疆を恢復す可き無くば、則ち糲(玄米)を蒸し藜(あかざ。不味い)を羹にし、己が力を食ひて以て身を終へ、暴威劫迫、但に止む容からざるに至らば、則ち死生、之を以てする□[龍+共]勝・謝枋得が如き、何ぞ爲す可からざること之れ有らん。

 曰く、「王虎谷(雲峰。明人)、又た謂ふ。孔子、嘗て楚に之(ゆ)く。楚は夷也、猶ほ夫の元のごとき也。若し昭王、卒ひに孔子を用ひて楚に相とせば、必ず夏を用(もつ)て之を變ずるの道有らん。將に東に用ひられずして、南に用ひられんとす矣。衡の元に於ける、孔子の楚に於ける、一也。父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友は、大倫也。父子・夫婦・兄弟・朋友、皆な廢す可からざるを知りて、獨り君臣廢す焉。聖賢は爲さゞる也、と。此の説、奈何」と。曰く、此れ尤も妄論なり。夫れ孔子、楚に於いて、豈に之をして遂に王統を僭し周君を廢し、當時の天下の諸侯をして轍(わだち)を改めて北面し、裔戎の廷に朝覲奔趨せしめんや耶。必ず將に其の君臣をして僭竊を抑へ、天王を尊び、四海の内を擧げて、文武綱紀の舊に復せしめんとする也。是を之れ夏を以て夷を變ずと謂ふ。大抵、聖人の大作略・大力量、天を囘し地を飜へす、決して常情(有り樣)の及ぶ所に非ずして、『春秋』の大義、夷・夏を分ち、亂賊を討ず、所謂る昭かなること、日星の如き者は、則ち未だ嘗て易はらざる也。是れ乃ち許衡の、本國を忘れ異虜に殉ひ、之と謀り、宋三百年來の正統を絶ちて、以て計を得と爲す者と、正に相ひ反す矣。此れを以て相ひ比する、何ぞ其れ思はざるの甚だしき。君臣廢するの説に至りては、則ち亦た殊(わき)て駭(おどろ)く可し。夫れ能く舊壤本統の大分を辨へ、正を守りて殞さず、君臣の義、孰れか是より大ならん。若し其の勢ひに乘り、天下を彊并するを以て、乃ち視て以て君臣の分、已に定まると爲し、復た其の主賊正非、如何と問はずんば、則ち女眞(金)・蒙古(元)を論ぜず、王莽・曹操が輩と雖も、亦た角を崩し膝を屈し、其の畜(きく)□[拳の手の替りに豕]覊策(牛馬の樣に養はれ、繋ぎ鞭うたるゝ)を甘受し、唯だ速かならざるを恐るゝに之れ暇あらざるを以て、事理の當然と爲して、一時の所謂る忠臣義士、憤りを奮ひて讎を報じ、死を守りて貳せざる者、皆な亂臣賊子の魁と爲る也。是を以て君臣の大倫廢せずと爲す、吾れ其の何の説なるかを知らず矣。故に嘗て反覆究論して、以て謂ふ、元代百年、士君子の身を處する所以の者、只だ二字有り、「不仕」のみ而已矣。此れを舍てゝは、則ち粉飾分疎、徒らに□□[共に言+堯。喧しい貌]を爲して、綱常を棄滅し、罪を名教に獲るの外、得る所ろ無し。


○程伊川『春秋傳の序』に曰く、「炳たること、日星の如し」と。道義の根本の明かなることは、日や星が天に輝いてゐるが如くで、永遠に變ること無きなり矣。

○強齋先生の曰く、「名教」は、君臣と云ふ名を立てゝ義を教へ、父子と云ふ名を立てゝ孝を教ふるぞ。

 曰く、「然らば則ち宋、若し能く舊域を光復せば、則ち因、果して出で仕へんか乎」と。曰く、因、本と世を遺(す)てゝ自ら逸する者に非ず。其れ仕ふ可くして仕ふる、又た何ぞ疑はん。

 曰く、「因、幽燕に生る。其の夷に仕へざる、固より也。若し不幸にして、祖父以來、劫驅する所と爲り、彼の域中に生育せば、則ち如何」と。曰く、流移轉沒(吾が居り所が定まらぬ)は、固より亂世の常、但だ生族本系、終ひに其の種に非ざれば、則ち變ず可きの理無し。因の見る所の本末、灼然として驗す可し。必ず仕へず矣]。


○強齋先生の曰く、「生族本系云々」。だたい中國の種類なれば、何ほど夷狄に居らうが、どう有らうが、それに仕へる筈は無い。「灼然」は、『神武(天皇)紀』に、「いやちこ」と訓じて、明かなきつぱりとした事。どう有つても、劉因は仕へられぬ、とある事。大きに是が則になる事ぞ。長崎商ひ等して、どの樣な風波にあうて夷狄の國へ行くまいもので無い。其の時、歸られぬ首尾に成つて、異國に逗留すまいもので無い。此の時は、仕へぬと云ふなりに、身を終へるが至極ぞ。詰まる所、先で妻を持たず、我ぎりに子孫を斷つが、此の場の處し樣ぞ。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の段、こゝに書く通り、紛れは無いぞ。況んや孔子、公山弗擾・佛□[月+八+十]が呼びにさへ行かんと仰せらるゝ。抑も孔子の是等の謀叛人に與みさせられう樣なけれども、聖人はさはる所から、格別能くし直すぞ。是で楚國へ孔子の御出でなされたるが、楚國へ天下を取つてやらうと云ふ事では無いと云ふこと、好き證據ぞ。
 

  • [41]
  • 劉因『燕歌行』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月20日(金)23時32分42秒
  • 返信
 
■□■劉因『燕歌行』■□■

○墨山翁の曰く、是が所謂る『燕歌行』で、もと中國の地なるに、夷狄に取られて、扨ても々ゝゝ口惜しやと云ふ感慨からの作。劉因は、詩も殊の外の上手で有つたが、全體の氣象が、あの樣に高くかけつて居るからして、どの詩も、詞がはぜて居る故、處によつて解し難い樣な辭どももある。



薊門、悲風來る。易水[即ち太子丹、荊軻をして秦王を刺さしめ、送り至るの處]、寒波を生ず。
――武王が帝堯の子孫を封じたの薊州と云ひ、「風、□[艸+肅]々として、易水寒し、壯士、一たび去つて、復た還らず」の易水と云ひ、いづれも古への冀州のうち、即ち歴々とした中國の地であるのに、久しく他國に奪はれたまゝのこととて、吹く風の聲も悲しく、生ずる波も寒々として、感慨にむせばざるを得ない。

雲物、何ぞ色を改むる。游子、燕歌を唱ふ。
――見遙かす空の色、風景の樣、何故に此の樣に夷狄の風に變つたのであるか。さすらひの浪人たる拙者は、自ら燕歌を口ずさまざるを得なかつた。

燕歌、何れの處にか在る。盤欝(盤旋欝葱)たる西山(大江山)の阿(くま)。
――されば燕歌は、いづこに在つて唱ふことか。それは樹々深く茂つた丘のとりまいてゐる西山の隈、

武陽燕の下都。歳晩、獨り經過す。
――即ち其の昔の、燕の下都であつた武陽に於いてである。此の地は都として榮えてゐたが、今は其の影もなく荒れ果てゝゐる。そこを拙者は、此の歳の暮に、只だ獨り通り過ぎたが、

青丘、遙かに相連なり、風雨、嵯峨を□[隋+恭の下。やぶ]る。
――目に入つたものは、たゞ遙かに連なる青い丘、そして其の高く嶮しい所も、多年の風雨に崩れてしまつてゐる。

七十、齊の都邑。百二、秦の山河。
――思へば此の燕のみでなく、其の東に連なる齊の國には、七十の郡邑が榮えてをり、西に連なる秦の國には、百二の山河があつて、其の守りを固くしてゐたと云ふことであるが、今は其のいづれも燕と同じやうに他國のものとなり、

學術に、管(齊の管仲)・樂(燕の樂毅)有り、道義に、丘(孔子)・軻(孟子)無し。
――かつて學術を誇つた、齊の管仲・燕の樂毅の如き人物、其の道義を仰がれた、孔子・孟子の如き聖賢も現はれること無く、

蚩々(しゝ)たる魚肉の民、誰と與にか干戈を休めん。
――其の爲め、無知で愚かな、魚肉の樣に切り碎かれて棄てられた無力の民衆は、戰さより逃れて、平和を樂しむ希望も持てない。

往時、已に此の如し、後來、復た如何。
――これまでの樣が斯のやうであつたが、此の後も果して如何になりゆくことであらうか。

地を割く、更に石郎[契丹、敬□[王+唐]を呼びて、石郎と爲す]、曲終りて、哀思多し。
――抑も中國が、此の悲しい姿になつてしまつたのは、一朝一夕のことでは無く、經緯あることであるが、契丹の主より「石の養子」と呼ばれた、彼の敬□[王+唐]奴が地を割いて、契丹に與へたことによつて決定的となつたのである。それを思へば、歎息は深く、されば一曲を唱ひ終つたものゝ、悲哀の心は、愈々増したことであつた。



■□■□■



 (絅齋先生)案ずるに、劉因、元に仕へず。先輩、既に其の意を發して、此の行の結末の如き者、尤も的然として、因が身、幽燕故地の氣類生族爲るを以てして、高陵逸擧、戎虜異屬に汚染せらるゝを肯んぜざるの本心を見る可し。特(たゞ)に濁世を傲睨し、「祿爵」を涕唾するのみ而已ならざる也(前節の歐陽玄)。薛(敬軒)氏の所謂る「微意なる者」、其れ此れ也るか歟。

○絅齋先生の曰く、「濁世を傲睨し、祿爵を涕唾す」。斯う云へども、夫れは外の底の處士の事よ。劉因は、斯うした譯では無い。堯・舜以來の地の、ひつはりからの名分にて、仕へぬ。それを、劉の言に、めつたに元を汚い奴と叱る事は無い。兎角く地のひつはりからの吟味ぞ(歐陽の説を、未だ劉因の眞意を得ぬと爲す)。

○墨山翁の曰く、「濁世を傲睨し、祿爵を涕唾す」は、譯がある。劉因の本心を察せずして、明の儒者が劉因の贊に、「祿爵云々」とほめ置いた、そこにあたたつた。此の人は操が正しいの、富貴につながれぬのと云ふ、見事ばかりで無い。中國の氣類故、夷狄に汚されぬと云ふが、此の人の本心。天下全體の大義を守り拔いた劉因、此にあつて、別して尊ぶ所は、そこに在る。‥‥されば此の人の、「元に仕へざる、其の意、微也」と、薛文清の申し置かれた處が、どう云ふても、こゝの事さうなと云ふ事で、歟の字は、それに違ひは無けれども、わざとさうなと、さし付けて云はずに、控へて云ふ詞ぞ。

○強齋先生の曰く、是より以下の詩ども、此の歌と相發する故、附せられたぞ。

○秦山先生の曰く、こゝに劉因の詩を、段々集められたのは、後世、劉因の事を評議して、何のかのと云ひ紛らす者がある。夫れ故、劉因の志を述べられた詩を、こゝへ集められた。

[因、又た『白溝を渡るの詩』に曰く、

一聲の霜鴈、界河(宋・遼の國境に在る河)の秋、孤懷に感慨す、幾千古。

――一聲の雁語、胸に徹る秋深き時、拙者は白溝河を渡り、千古の歴史の跡を想ひ起して、獨り感慨に耽つた。

莱公(寇準)灑落、雄才に近く、顯徳(後周の世宗)千年、亦た英主。
――思へば彼の莱國公寇準の、遼の來攻を恐れぬ灑落豪爽の風姿は、英雄の器と謂ふ可く、後周の世宗の十六州を囘復せんとして起つた雄圖は、千年の間に一人の英主と云つてよい。

十年鐵硯、自から庸奴(桑維翰)、五載兒皇(石敬□[王+唐])、安くんぞ數ふるに足らん。
――それに比べて情け無きものは、桑維翰と石敬□[王+唐]。維翰、學問を好んで鐵硯が磨り破れたならば止めようとまで言つたと云ふが、敬□[王+唐]に勸めて十六州を契丹に讓らしめたるは、何たる腰拔けであるか。敬□[王+唐]に至つては、十六州を讓つたのみで無く、契丹に臣事し、父子たるを約し、恥づることをも知らなかつた。

當時、一たび楡關路を失ひしより、便ち覺る、燕雲、我が土に非ざるを。
――更には當時、周威徳、備へを怠つて、楡關地方を契丹に奪はれるや、燕雲の地は、今日に至るまで、我が中國の領土では無くなつてしまつた。

更に晩唐より、沙陀を望めば、此れより横流、一縷を穿つ。
――斯くして更めて後唐の莊宗、即ち李存勗より、晉の高祖、即ち石敬□[王+唐]の時代までを見渡す時、此の石溝の一河が、中國と夷狄とを境とするものとなつた事情が、歴々と明白になつて來るのである。

古へ稱す、幽燕、義烈多し、と。鳴烟たる泉聲、餘怒を瀉(そゝ)ぐ。
――抑も此の幽燕の地方は、昔から義烈の士が多く集まつた所と云はれてゐたのに、今は其の人なく、たゞ泉から流れ出る水のみが、咽び泣く如き響きのうちに、霽れること無き怒りを籠めてゐる。

莱公は、宋の寇準、□[三水+亶。せん]淵の役を謂ひ、顯徳は、周の世宗(の年號)を謂ひ、鐵硯は、桑維翰を謂ひ、兒皇は石敬□[王+唐]を謂ひ、楡關の路を失ふは、後唐の莊宗の將・周徳威、勇を恃み、變備を修めず、幽州・楡關の險、遂に契丹の有する所と爲るを謂ふ。沙陀は、則ち莊宗の養父・晉王李克用、亦た夷種にして、莊宗に至りて、率(ことごと)く幽・燕を有(たも)ち、遂に帝を稱し、梁を滅す矣。事、竝びに正史(『宋史』・『新五代史』・『遼史』)・『通鑑』(司馬光撰『資治通鑑』・朱憙改編『資治通鑑綱目』)等に詳かなり。

 又た『金の荊軻山に登る』の詩に曰く、

紛紛たる此の世も、亦た良(まこと)に苦し。今古、燕・秦、幾囘を經る。

――紛々と亂れ、此の地は苦々しき今の世の樣、燕・秦兩立せずと、『史記』に見えるが、此の地は、信に中國・夷狄兩立せず、爭奪を繰返したことである。

憂來、徑(たゞ)ちに蓬莱に浮かばんと欲す。安くんぞ魯連、一盃を同じうすることを得ん。
――憂思の餘り、直ちに海上の彼方に在ると云ふ仙境、即ち孔子も、「道、行はれず、桴(いかだ)に乘りて海に浮ばん」(『論語』公冶長篇)と憧れた所の蓬莱島に行つて、秦に屈せざる烈士・魯仲連と酒を汲み交はしたき思ひである。魯連ならば、きつと拙者の此の心を理解してくれるに違ひ無い。

 『晩に易臺に上る』の詩に曰く、

海嶺、天の東北、燕・遼、世、古今。

――中原から見れば、東北の隅に當る海・嶺の地も、燕・遼の地方も、元々は中國のうちであつたのに、今は夷狄に占領されてをり、古今の變轉が大きい。

毎(つね)に當に感慨多かるべし。直ちに登臨を罷めんと欲す。
――されば此の山に登つて、四方を望む時、感慨の念の多きことは當然であつて、其の胸の痛みを起さぬ爲めに、こゝに登臨することは止めようと思ふ。

更に塵跡を留むること莫し。千年、禁じ易からず。
――其の上、また拙者がこゝに登つたと云ふ事は、此の感慨を永久にこゝに殘すことになるので、其の爲めにも止めねばならない。

 又た曰く、

萬國の河山、燕・趙有り。百年の風氣、尚ほ遼・金。

――易臺に登つて眺めると、山河の姿は、燕・趙の昔に變らぬが、百年來、此の地は、遼より金へと、夷狄のものになつてをつて、何時、中國に戻るか、豫想も出來ぬ。

物華、暗に秋光と老ゆ。杯酒、人意に隨つて深からず。
――されば眼前の眺めも、秋の光の老いゆくと共に、衰へて物哀しく、それを見てゐる拙者の心の憂ひは、とても一杯の酒に霽らされる如きものでは無い。

 『易京(燕の都)を望む』の詩に曰く、

誰か神器をして、群盗に歸せしむ。只だ見る、金人、本朝に泣くを。

――天下の正統たることを示す傳國の神器(班彪『王命論』に曰く、「神器、命有り。智力を以て求む可からず」と)を、群盗の手に渡したは、何者の爲業であるか。彼の金人にして今に在らば、故地より徙されることを悲しんで泣いたやうに、中國の全盛であつた昔を慕うて、さぞや涙を流すことであらう。

怪しむこと莫れ、風雷、餘怒有るを。田疇(漢末の雄、曹操に屈せず)が英烈、全く未だ消せず。
――風が烈しく吹き、雷が劇しく鳴り、天も尚ほ霽れぬ怒りを現はしてゐる如くであるが、それも怪しむに足らぬこと、田疇の激しい英氣が消えること無く、今に存してゐるので、それが此の風雷りの聲となつて轟いてゐるのである。

 右、數詩、亦た皆な以て相ひ發するに足れり矣]。

 因りて特に之を表出す。夫れ此れを以て之を律すれば、則ち許衡(魯齋)・呉澄(臨川)等、大義を失するの罪、逃がるゝ所ろ無し焉。


○絅齋先生の曰く、丘瓊山の『世史正綱』と云ふ書を編む。大分あるものぞ。是は全く許魯齋にあたりて書くぞ。呉澄は、(陸)象山以來、心學の大將にて、博學のな者なり。是は宋で、進士及第までして、それが元に仕へて、元朝の政體式は、大分これがしてやるぞ。それで此の二人を、丘瓊山の主に責められたるぞ。

○秦山先生の曰く、薛文清は、道學から云うても、出處から云うても、朱子以後の學者と云はるゝ程の者ぢやが、何としても、許魯齋の事をほめて置かれたぞ。それで、山崎(闇齋)先生が、丘瓊山の説と薛文清の説とをあげて、段々許魯齋の出處の吟味をして置かれた。其の書を『魯齋考』と云うて、書にあらはされて有つた(稿本か)が、何としてか、山崎先生の御存生の内、絶えて傳はらぬぞ。『埀加草全集』附録に、此の内の説が載つて居る事ぞ。
 

  • [40]
  • 諸葛亮「靜、以て身を修む」

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月18日(水)22時00分58秒
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 因、字は夢吉、保定容城の人なり。

[『(大明)一統志』に、「保定は、(『書經』の)『禹貢』の冀州の域、五代に晉、割きて契丹に屬す。元、保定路に改む」と。容城は、則ち保定の屬縣なり。

○冀州は、即ち堯・舜の都する所の幽都・幽州にして、周、堯の後を薊(けい)に封じ、召公□[百+大+百。せき]を燕に封ずる、皆な此の地なり。唐、分ちて四十三州と爲し、五代の後、唐の(李)從珂、自立するに至りて、其の河東の節度使・石敬□[王+唐]を忌み、之を他の鎭に徙す。敬□[王+唐]、命を拒む。唐、兵を發して之を討ず。敬□[王+唐]、乃ち其の將佐・桑維翰と謀り、契丹(太宗耶律徳光)に表を奉じ臣を稱し、且つ父を以て之に事へんと請ひ、事、捷つの日、盧龍の一道、及び鴈門以北の諸州を割きて、以て之に與へんと約す。即ち皆な冀州の地也。劉知遠(後の後漢の高祖)、諫めて曰く、「許すに土田を以てする、恐らくは異日、大いに中國の患と爲さん」と。敬□[王+唐]、從はず。表至る。契丹、大いに喜び、兵を將ゐて、敬□[王+唐]を救ふ。唐の兵、大いに敗れ、從珂、自ら焚死す。契丹、乃ち敬□[王+唐]に命じて、大晉皇帝と爲す(晉の高祖)。敬□[王+唐]、遂に幽薊等の十六州を割きて、以て契丹に與ふ。即ち四十三州の數の内、向(さき)に所謂る盧龍・鴈門の諸州、是れ也。周の世宗、位に即き、自ら將として契丹を伐ちて、以て之を復す。關南、悉く平ぐ。遂に前(すゝ)みて幽州を復せんと欲すも、疾に遇ひて、還りて□[歿の左+且。崩]す。宋の神宗の時、契丹、人をして別に界至を立てんと來り乞はしむ。王安石、神宗に勸めて曰く、「之を取らんと欲せば、必ず姑く之に與へよ」と。乃ち新彊を割きて之に與ふ。凡そ東西、地を失ふこと七百里、終ひに異日、兵を興すの端と爲る。徽宗の宣和中に及びて、金の兵、日に強く、契丹の地を連陷す。是に於て徽宗、使ひを遣はし、金に約し、契丹を夾攻して、石晉の沒する所の舊地を取る。既にして金人、又た宋と隙を構へ、大いに兵を擧げて入侵し、靖康の亂に至りて、全冀の地、盡く金に沒して、而して後ち竟ひに蒙古に陷りぬ矣]。

 天資、人に絶し、三歳にして書を識る。日に千百言を記し、目を過ぎて、即ち誦を成す。甫めて弱冠、才器超邁、日に方册(木簡・書籍)を閲し、古人の如き者を得て、之を友とせんことを思ひ、『希聖の解』を作る。初め經學を爲し、訓詁・註釋の説を究め、輒ち嘆じて曰く、「聖人の精義、殆んど此に止まらず」と。周(惇頤・濂溪)・程(□[景+頁]・明道と頤・伊川の兄弟)・張(載・横渠)・邵(雍・康節)・朱(熹・晦庵)・呂(祖謙・東莱)の書を得るに及びて、一見して、能く其の微を發して曰く、「我、固より謂(おも)ふ、當に是れ有るべし也」と。

○劉靜修『希聖の解』。周濂溪『通書』に曰く、「士は賢を希(こひねが)ひ、賢は聖を希ひ、聖は天を希ふ」と。

 蚤(はや)く父を喪ひ、繼母に仕へて孝なり。性、苟くも合はざれば、妄りに交接せず。家、甚だ貧しと雖も、其の義に非ざれば、一介も取らず。家居して教授し、師道、尊嚴なり。弟子、其の門に造(いた)る者、材器に隨ひて之を教へ、皆な成就すること有り。公卿の保定を過ぐる者、因が名を聞き、往往來り謁す。因、多く遜避し、與に相見ず。知らざる者、或は以て傲と爲すも、恤(うれ)へざる也。嘗て諸葛孔明の「靜、以て身を脩む」の語を愛し、居る所を表して「靜修」と曰ふ。元の世祖、薦を以て之を徴し、右贊善大夫と爲す。尋いで繼母の老いたるを以て、辭し歸る。俸給、一も受くる所ろ無し。後ち世祖、復た使者を遣はし、徴して集賢學士と爲す。疾を以て固く辭す。世祖、之を聞きて曰く、「古へ、所謂る『召さゞるの臣有り』(『孟子』公孫丑下篇)と。其れ斯の人の徒か歟」と。遂に彊ひて之を致さず。至元三十年に卒す。年四十五。聞く者、嗟悼す。

○諸葛孔明『子を戒むるの書』に曰く、「君子の行は、靜、以て身を脩め、儉、以て徳を養ふ。澹泊に非ざれば、以て死を明かにする無く、寧靜に非ざれば、以て遠きを致すこと無し」と。

○絅齋先生の曰く、「右贊善大夫と爲す」。初めより仕へぬ合點なれば、斷りを云うて居るなれども、「右贊善大夫と、一旦なつたが疵」と、『通鑑』の評などに云へども、是は事體と云ふもので、同じくは好うない事なれども、元が天下をまるめて、是非に召出す。その上、祿をも受けぬやうにして、母をかこつけて歸るならば、疵は付かぬ。初めより仕へぬ合點ゆゑ、祿は受けぬ。その上、元が主の仇と云ふで無し、たゞ夷狄ゆゑ、それを歎かるゝ。蔡虚齋も、「これが疵」と、色々云うたけれども、今ま云ふ通りに、ちつとも疵にならぬ。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 劉因、右贊善大夫の官となる事、あるまじき樣に見ゆれども、始めより此の官に成り遂ぐる合點にて無し。定めて此の時分、先づ往いて其の間に合はさねば、跡の辭退がつめてせられぬと見えたり。それ故、始めより扶持方の分は、少しも受けられず。頓(やが)て辭して歸り、それより遂に出でず。すれば始めより出でずに歸る合點と、明かに見える。陳仁錫が説に、「どうでも此の一つの官にならるゝ事が、嫌な事ぢや」と云へるは、劉因に疵付くる樣で惡るし。扨て成りさへせば、官とならぬが好き筈ぞ。それは何卒、其の時の事體がありたると見えたり。本意は扶持方を受けぬで、能く知れたぞ。扨て是が、法にはならぬ事ぞ。劉因一生の大義のきらびやかなる上から、推しこなして合點して置く可し。



 歐陽玄の曰く、處士に貴ぶ所の者は、能く一己の守る所を以て、一國の慕ふ所と爲る。當世、英君誼辟(ぎへき。義君)の、其の豪傑を總攬し、宇内を包擧するの柄を操ると雖も、一旦、夫の爵祿、慶賞致す可からざる所の人に遇ひ、是に於て怊然として先王道徳の懿を企て、眞に己の負挾する所の者より貴ぶこと有りて、而る後ち上の趣向定まり、下の習俗成る。元、國を有して以來、處士を言へば、必ず劉靜修を宗(根本・中心)とす也。

 又た其の畫像に贊して曰く、

裕皇の仁に於て、留む可からざるの四皓を見。
[世祖の太子・裕皇、學を官(宮)中に建て、贊善王恂に命じ、近侍の子弟を教へしむ。恂卒し、廼ち因を徴して、之を繼がしむ。而して因、辭して歸る也]。

世祖の略を以て、致すこと能はざるの兩生に遇ふ。
[漢の高祖、已に天下を并せ、叔孫通をして朝儀を起こさしむ。是に於て通、魯の諸生三十餘人を徴さしむ。兩生有りて、行くに肯んぜずして曰く、「公の事ふる所の者は、且(まさ)に十主(秦・楚の懷王・項羽・劉邦に事ふ)にならんとす。皆な面諛して、以て親貴を得たり。吾、公の爲す所を爲すに忍びず。公の爲す所、古へに合はず。吾れ行かず。往け矣、我を汙す無かれ」と]。


○強齋先生の曰く、「誼辟」。戰國の氣象(義ばつた男氣を尚ぶ君主)ぞ。

 「處士」と云うて、匿れて義を全ふして居ると云へば、則(のり)にも成らず、事業にも成らぬ樣なれども、それが直ぐに則ぞ。義なりに身を立てゝ、義を枉げて事業に及ぼさぬと云ふが、則に成る事。義なりに己を立てゝ守るが、則ぞ。

○「四皓」・「兩生」は、いづれも劉因にたとへる也。



 薛瑄(敬軒)の 曰く、「劉靜脩は、鳳凰、千仭に翔けるの氣象有り」と。

 又た曰く、「靜脩は、就くを屑しとせず。其の意、微なり矣」と。


○明の大儒・薛敬軒の學は、朱子を純守し、其の清潔至純の思索は、山崎闇齋先生の最も崇敬した所なりき。敬軒『讀書録』を看よ。

○絅齋先生の曰く、「鳳凰」は、名鳥にて、餓(かつ)ゑても、穢れたものは食はず、むさい處に居らぬ。「千仭云々」。是も天子の召しにも行かぬ事にひく。高いと云うて、出家の樣に、空しく高いで無い。伯夷以來の高きもの、劉因ぞ。「就くを屑しとせず」。世祖が呼べど、出ぬ。「其の意、微なり矣」。云はずして、底意のある事。夷狄に仕へぬ。

○墨山翁の曰く、「就く」は、仕へる。「微」は、底意に、甚だ思ひ入れのある事。それが隱れて、表に顯れぬからして、微と云ふ。あの樣に引退きて守り拔かれる處が、忠義の爲めと云ふでも無く、何たるわけと云ふ事、人に語られた事も無い。思ひ入れは奧に隱れて、甚だ微な。此れ薛文清(敬軒の諡)が、劉因の五臟録腑を知り拔いて居らるゝ評判。此の人の思ひ入れ、別して『燕歌行』に見えるから、次に『燕歌行』をあげて、本文とは立てられたぞ。
 

  • [39]
  • 『靖獻遺言』卷之七・劉因。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月16日(月)21時51分5秒
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 劉因、靜修と號す。元の至元三十年、即ち我が伏見天皇の、永仁元年に卒す。壽四十五。



『燕歌行』

○燕は、冀州の都で、冀は、唐虞の都せられた處ぞ。作者・劉因は、此の地に生れた人で、だたいは中國人なれども、五代以來、それが夷狄の領分になつて居るから、それを感慨して歌はれた。故に燕歌と云ふ。燕字を宴樂の事に見た説もあれど、此の詩は國の燕なり。行とは、歌の一體なり。

○絅齋先生の曰く、歌と云ふ體は、抑へたり掲げたり、節有りて歌ふ體なり。行と云ふは、敍事にして韻を踏みて作る。歌行と云ふは、其の二つの體を兼ねて、敍事なり感慨あつて歌ふもの。日本で長歌と云ふ樣なもので、六朝の時分より始まる。日本の朗詠の如く、敍事なりで歌ふ可きものを云ふ。燕と云ふ一字が、劉因の一大事の心ある事ぞ。其の分は、先で知れる。天地の間、一枚なれば、是より先は、誰が天地と云ふ事も、天地から爲へば無けれども、血脈から云へば、同じ地の内でも、一家一郡それゞゝに分ちてある。是れ自然の根ばへの理の、中國の夷狄のと云うて、それゞゝに分れて、風土も違うてあるぞ。日本の樣に、一本立ちに島の樣にあるは格別、西土(から)は、方々土地が變りてあるけれども、堯・舜以來、九州を分ち、之を中國として、燕と云ふも九州の中なり。然るに五代以來、燕が夷狄へ取られて、周も宋も、何として此の國を取り返したいとせられども、夷狄が強うて取り返されぬ。然るに劉因は、此の燕の國に生れた人ゆゑ、夷狄の國となるを、殊の外、口惜しく思うて、中國を忘れずして、歌行を作るなり。

○彼の北燕處士『渡江賦』は、劉因が卒後、五十五年にして成る。『靜修先生文集』に收めたれども、其の作に非ざるなり。



處士・劉因

○此の時、北に劉因・許衡、南に呉澄とて、共に名高い儒者なり。劉因は、宋亡びて、餘程後の人で、而も先祖は元に仕へたが、主は、元から何程招いても、應ぜず。元の百姓なりに終はられた人で、朱子をよく學び、忠義に愧づかしう無い、始終、義の字を全うし得られた、微塵も憾みの無い人ぞ。

 「處士」とあるは、淺見先生の付けられたものなり。此の時には、宋と云ふ響きも無くなり、天下中、一人として、元の民ならざるは無い。されどもただい夷狄の種類で無い故、中國の遺民と云ふなりを失はぬ。全體の出處、大義の大かねに明かに、萬世の則になるぞ。され故に、宋處士とも書かれぬ、元處士とも云はれぬ、只だ處士・劉因とばかり云うて、全體の義なりに退いて居らるゝを見せられたものなり。外の衆は、君父の國への忠義ぢやが、劉因は、天下全體の忠義で、萬世の鑑ぞ。宋にも仕へぬ人なれば、誰が爲めに忠ぢやと云ふ、討死しよう樣も無く、飢ゑて死ぬの、自殺するのと云ふこと、猶ほ以て無い事なり。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 總じて處士と云ふは、殊の外、重きこと也。其の段、三卷目に、具さに之を言ふ。扨て殘り七人には、國の名か、世の名を書かぬは無し。それは皆な其の國・世に對して忠義を盡す程に、固より直ぐに國・世の名を、それゞゝに名乘るで、直ぐによし。何とて劉因ばかりには、何とも書かぬぞ。さればそれにこそ、大議論があるぞ。此の人、戰をしたるにても無し、何れを君として忠を盡すにても無し。宋人かと云へば、劉因が生國は、宋以前より夷狄の地と成つて有り、金人かと云へば、幼少より仕へたる事も無し、元は、勿論、其の通り也。さらば何として仕へぬぞと云へば、因が生れたる地は、伏羲以來、極りたる中國の地なるを、石晉より以來、三百餘年、夷狄に陷りて、因は則ち先祖以來、中國の民にて、名氏をつりたる人なれば、どこ迄も夷狄の筋なる者には仕へぬぞ。それで上に冠す可き名が無し。是非とも言へと云はゞ、中國の處士と言ふ可し。それで是には、名を何とも擧げぬで、大義が別して明かなぞ。されば大義と云ふに、劉因ほど、大なる大義は無し。其の段は、後で詳かに見ゆる。

 扨て中國・夷狄と云ふ事あるに付き、唐の書に、日本をも夷狄と云ひ置くを見て、とぼけた學者が、「あら口惜しや、耻づかしや、我は夷狄に生れたげな」とて、我と作り病をして嘆くが、扨ても淺間しき見識ぞ。我が生れた國程、大事の中國が何處にあらうぞ。國は小さきと、何が違はうと、同じ日月を、唐人の指圖を受けもせずに戴いて居る國に、唐人が夷狄と書いて置いた程にとて、最早や、はげぬ樣に覺えて居るは、人に唾をかけられて、得拭はずに泣いて居ると同じ事ぞ。それでも「聖人も、夷狄と云うたもの」と云はうけれども、それは唐の聖人は、唐からはさう云ふ筈、日本の聖人は、又た此方(こち)を中國にして、彼方(あち)を夷狄と云ふ筈ぞ。「それでも擦れ合ふが」と云へば、それが義理と云ふものぞ。大義を知らぬ者は、そこで迷ふ。易いこと、人にも親があり、我にも親がある。人の親の頭ははらるゝとも、我が親の頭ははられぬ樣にするが、子たる者の義理ぞ。直ぐに其の彼方の親と云ふ親の子も、又た面々に、我が親の頭をばはらせぬ樣にと思ふぞ。是が擦れ合ふ樣なれども、それで義理が立つたものぞ。「それでも日本は小國ぢや」と云ふ。それならば身體のよい者の親を見て、手前のそれより輕い身體の親ならば、役に立たぬ親父よとて、何處へぞ捨てふか。是れ一つで、合點のいた事ぞ。

 或人の曰く、「それでも日本より、昔は遣唐使を遣されて、此方より貢物を遣られたからは、日本は手下ではないか」。それは無作(むさ)とした事ぞ。中比、大義を辨へぬ天子が有りて、遣はされたるものと見えたり。それは其の天子ばかりの誤ぞ。我が國は、天地開闢以來、餘所の國の蔭にて立ちたる國にて無し。神代以來、正統に少しも紛れ無し。唐の書を讀んでなじめば、何處とも無く唐人形氣(かたぎ)に成りて、日本を旅屋の樣に覺えて居る。古今第一の僻者(くせもの)也。書物故に義理を破るとは、斯樣の事なり。それ故、日本の者は、此の劉因が合點を、直ぐに我が身の上へもてきて、是を直ぐに中國とふまへるが大義ぞ。何時でも唐へ執はれて行くか、使ひに往つて、得歸らぬか、吹き流さるゝかしたならば、何とぞして此方へ歸るがよし。得歸らずば、乞食しても仕へぬが義理ぞ。是れ尤も大事の場、能く審かにす可し焉。



【中國辨】

 中國・夷狄の名、儒書に在り來ること、久し。其れ故、吾が國に在りて、儒書、盛んに行はれ、儒書を讀む程の者、唐を以て中國とし、吾が國を夷狄とし、甚だしき者は、「吾、夷狄の地に生れたり」とて、悔み歎く徒これ有り。甚だしいかな哉、儒書を讀む者の、讀み樣を失うて、名分大義の實を知らざること、哀しむ可きの至り也。夫れ天地の外をつゝみ、地、往くとして天を戴かざる所なし。然らば各々其の土地風俗の限る所、其の地なりゝゝに天を戴けば、各々一分の天下にて、互ひに尊卑貴賤の嫌ひ無し。唐の土地、九州の分は、上古以來、打續き國氣一定、相ひ開け、言語風俗、相ひ通じて、自ら其れなりの天下也。其の四方のまはり、風俗の通ぜざる所の分は、それゞゝの異形異風の體なる國々、九州に近き通譯の達する分は、唐より見れば、自ら邊土まはりの樣に見ゆれば、九州を中國とし、外まはりを夷狄と稱し來る。それを知らずして、儒書を見、外國を夷狄と云ひざま、有りとあらゆる萬國を、皆な夷狄と思ひ、嘗て吾が國の、固より天地と共に生じて、他國を待つ事なき體を知らず。甚だ誤り也。

 或は曰く、「此の説、尤も明かに正しく、千載の矇を啓く。名教の益、何か是に如(し)かん。さり乍ら疑ふ可き事あり。一々是を問はん。夫れ唐九州、禮義の盛んなる、道徳の高大なること、及ぶ可きこと無し。然れば中國を主にして、夷狄これを慕ふこと、自ら其の事體、相ひ應じたる可し」。曰く、先づ名分の學は、道徳の上下を以て論ずる事を置き、大格の立て樣を吟味すること、第一也。されば徳の高下かまはず、瞽□[目+叟]の頑と雖も、舜の父たること、天下に二つ無し。舜、吾が親は不徳なりとて、我と賤しみ、天下の父の下に付かんと思ふ理なし。惟だ己が親に事へ、終ひに瞽□[目+叟]、豫(よろこ)びを底(いた)して、却つて天下の父子、定まる樣に成りたるは、舜の親に事ふるの義理の當然也。さあれば、吾が國に生れて、吾が國、設若(たと)ひ徳、及ばざるとて、夷狄の賤號を自ら名乘り、兎角く唐の下に付かねば成らざる樣に覺え、己が國の戴く天を忘るゝは、皆な己が親を賤しむると同然の、大義に背きたる者也。況んや吾が國、天地開けて以來、正統續き、萬世、君臣の大綱變らざること、是れ三綱の大なる者にして、他國の及ばざる所に非ずや。其の外、武毅丈夫にて、廉耻正直の風、天性に根ざす。是れ吾が國の勝れたる所なり。中興よりも數聖賢出で、吾が國を能く治めば、全體の道徳禮義、何の異國に劣ること有らん。それを始めより自ら片輪者の如くに思ひ、禽獸の如くに思ひ、作り病をして歎く輩、淺間しきことに非ずや。是を以て觀れば、儒書説く所の道も、天地の道也。吾れ學んで聞く所も、天地の道也。道に主客彼此の間(へだて)無ければ、道の開けたる書に就て、其の道を學べば、其の道、即ち我が天地の道也。譬へば火熱く水冷たく、烏黒く鷺白き、親のいとほしく君の離れ難き、唐より云ふも吾より云ふも天竺より云ふも、互ひに此方の道と云ふこと無きが如し。其を儒書を讀めば、唐の道、唐の道とて、全體風俗、共に正念を遷され、手を擧げて渡す樣に思ひ違へるは、皆な天地の實理を見ずして、聞見の狹きに遷さるゝ故ゑ也。

 或人の曰く、「是れ尤も著し。さり乍ら九州の大國、吾が日本の小國、何として同じ國に有る可き」と。曰く、是も亦た前説の通りにて、何の疑ふこと無し。左樣に云はゞ、背(せい)の高き親は親にて、小男の親は賤しいに成る可きや。大小を以て論ずること、全く利害の情より出づる故ゑ也。況んや萬國の圖を以て見れば、唐の幅は、僅か百分の一にも及ばず、唐を十ほど合はせたる國、幾箇もあり。其れを中國と立て、唐を夷狄と云はゞ、唐人服せんや。

 或人の曰く、「是も亦た明か也。然るに『周禮』に、土圭の法有つて、日月の景を測れば、嵩高山、中國に當り、日月の景、全きと云へば、天然自然の中に非ずや」と。曰く、それも唐の眞ん中にて云へば、其の通り也。日、赤道をぐるりと囘れば、赤道の下通り、何れか日影の中に非ざらん。處々にて日中の影を測れば、皆な同じこと也。且つ呉・楚の地などは、古へ夷狄の地にて、『孟子』にも、「南蠻鴃舌」と譏りてあり、『春秋』にも、夷狄に會釋(あしら)うてあり。されども周の末、呉・楚、次第に繁昌して、唐と張合ひ、秦・漢以後、歴々の中國となり、南北朝以來は、天子の都となり、後は朱子なども建人なれば、則ち古へ呉・楚の地にて、今は中國々々と云ふ株なり。すれば唐の地、開闢以來、そろゝゝと切廣げ、其の聲教・威勢の及ぶだけ程づつ廣がれば、一天子にて統治するなりを、中國と立て來りたる者也。此の末韃の地・天竺の地も、次第々々に治まりて、唐の天子より、江南の如くにならば、唐人の口よりは、皆な中國と云ふ可し。すれば土圭の影の穿鑿もいらず、只だ風化の及ぶ所にして云ふより外のこと無し。且つ三苗の國・准夷徐戎の類、則ち九州の境内にて、其の儘ま夷狄にしてあり。況んや萬國夥しき國なれば、舟車の及ばざる所、又た何樣の聖賢者有つて、治むるも知らず。其れを頭から唐を中國と云ふからは、ひしと夷狄と會釋うて賤しむこと、甚だ以て偏私也。

 或人の曰く、「是も亦た誠に異議の云はれざること也。さり乍ら『春秋』の説を以て見れば、中國の教に從ふは中國を以て會釋ひ、夷狄にて變ずること能はざれば、夷狄にすると有れば、風化の及ぶ所、皆な中國と云ふこと明かなる事に非ずや」。曰く、其れならば、唐九州も、皆な袵を左し、言はゞ侏離ならば、頓と夷狄と名付く可きや。徳を以て夷狄と云へば、九州も、徳惡しくなれば、夷狄と成り、日影を以て云へば、九州より外に徳、堯・舜に成りても、夷狄の名ははげぬに成る。是れ皆な矛盾す。又た大小を以て云へば、唐より大きなる國有り、開闢を以て云へば、各國面々の開闢也。どちより、どう論じても、唐を中國とし、其の外を皆な夷狄と賤しむこと、一つとして理の通ずること無し。皆な是れ儒書を、讀者の眼力明かならず、見識大ならざるの弊也。

 或人の曰く、「斯樣に聞けば、紛るゝこと更に無し。然らば聖人の中國・夷狄の説は、皆な式つけなしに、我が國贔屓に私を以て云ひて、今ま聖賢の道を學ぶ者、皆な用ひざる所か」。曰く、是れ先に云ふ如く、其の國に生れて、其の國を主とし、他國を客として見れば、各々其の國より立つる所の稱號有る筈也。道を學ぶは、實理・當然を學ぶ也。吾が國にて『春秋』の道を知れば、則ち吾が國、則ち主也。吾が國、主なれば、天下大一統のなり。吾が國より他國を客と見る、則ち是れ孔子の旨也。それを知らず、唐の書を讀むから、唐贔屓に成りて、兎角く唐から眺める日本のなりに遷り覺えて、兎角く夷狄々々と、彼方へつらるゝ合點ばかりするは、全く孔子『春秋』の旨とうらはら也。孔子も日本に生るれば、則ち日本なりから『春秋』の旨は立つ筈也。是れ則ち能く『春秋』を學びたると云ふ者也。すれば今『春秋』を讀んで、日本を夷狄と云ふは、『春秋』の、儒者を損なふには非ずして、能く『春秋』を讀まざる者の、『春秋』を損なふ也。是れ則ち柱に膠して琴を調ぶるの學と云ふ者、全く窮理の方を知らざる者也。

 或人の曰く、「此の如くならば、則ち明日が日、唐より堯・舜・文・武の樣なる人來りて、唐へ從へと云はゞ、從はざるが然る可きか」。曰く、是れ云ふに及ばざること也。山崎(闇齋)先生、嘗て物語りに、「唐より日本を從へんとせば、軍(いくさ)ならば、堯・舜・文・武が大將にて來るとも、石火矢にても打潰すが大義也。禮義・徳化を以て從へんとするとも、臣下と成らざるがよし。是れ則ち『春秋』の道也、吾が天下の道也」と云へり。甚だ明かなる事にて、許魯齋が、宋を徳で服させんと云へるが誤りと同じ事也。古より吾が國、遣唐使をつかはされ、足利の末に、唐の敕封を拜受するは、皆な名分を知らざるの誤り也。若し唐に從ふを好しとせば、吾が國の帝王の號をも退け、年號をも用ひず、毎年々々、唐人の草履取りの如くに、はひつくばうて、頭を上げぬが大義なる可し。それならば吾が親を人の奴隷とし、亂賊の名目を付け、踏付け賤しむると同じ事の大罪也。況んや各國にて、各々其の徳修まれば、各々國にて道行はるゝのなりにて好き筈也。漢・唐以來、徳の是非かまはず、兎角く唐の下に隷(つ)けば好い國ぢやと褒めて有るは、皆な唐國を主とするより云ひたる者也。吾が國も、吾が國を主として他國に從ひ附けば、撫で安んずるがよし。此方より強ふるに非ず。それ故ゑ唐より日本を取らうとするも誤り、日本より唐を取らうとするも無理也。扨て又た三韓の國の如きは、吾が國より征伐して從へたる國なれば、其の爲めに今に吾が國へ使ひを通じ、歸服する、是れ吾が國の手柄也。又た三韓の國より云はゞ、面々の國を立て主とするが、彼の方の手柄也。吾が親を無理にても、人の頭をはらせぬが、其の子の手柄也。人の親は、其の親を人に頭をはらせぬが手柄也。面々各々にて、其の國を國とし、其の親を親とする、是れ天地の大義にて、竝び行はれて悖らざる者也。

 或人の曰く、「然らば何れの國にもせよ、天主(デンス)の如き國、其の外、極めて風俗惡しき韃靼の類ひ抔は如何有る可き」。曰く、左ればの事、前云ふ通り、皆な其の國の心がけ有る者は、其の國の道を以て明らめ、風俗正しくなれば、「舜の瞽□[目+叟]、豫びを底す」と同じこと也。さり乍ら其の間、共に徳を以て言ふ故ゑ也。風俗は兎もあれ、何で有らうと、先づ吾が國は、吾が國なりの天地也。其の説、前に言ふ所の如し。

 或人の曰く、「然らば日本を中國とし、唐を夷狄として好からんか乎」。曰く、中國・夷狄の名、それ共に唐より付けたる名也。其の名を以て吾が國に稱すれば、それ共に唐の眞似也。但し吾が國を内とし、異國を外にし、内外賓主の辨明かなれば、「吾が國」と呼び、「異國」と云へば、何方にても皆な筋目違はず。此の他、言ふ可き事あれども、皆な前の筋にて推せば、往くとして明かならざること無し。予(絅齋先生)、前、日本を中國とし、異國を夷狄とする事を、講義に述ぶと云へども、中國・夷狄の字に就いて、紛々の論多ければ、今ま又た名分をつめて論ずること、此の如し(愚案、山鹿素行先生より、更に一歩進めたりと謂ふ可きか)。

 或人の曰く、「然らば孔子、世に出でて、兎角く唐は中國也、どこもかも外は皆な夷狄と云はゞ、如何」。曰く、それが孔子の旨なれば、孔子と雖も私也。「吾が親を、兎角く穢なさうに云ふが道ぢや」と云へば、孔子の詞でも用ひられず。されども孔子なれば、必定、左樣に云はぬ筈也。其の證據はと云へば、『春秋』がそれ也。其の旨、前に言ふ所の如し。劉因、中國の一段も、亦た劉因が日本人なれば、則ち日本が吾が本國にして、異國に仕へざる筈なり。義理は其の時・其の地、それゞゝの主とする當然を知ること、是れ中庸の正義、第一也。されども儒者、中國・夷狄の説、滔々として皆な然れば、今更ら遽かに合點の明かに有る可きこと無けれども、此の義、大名分・大正統、三綱五常、君臣彼此の大分・大義、是より大きなること無ければ、此の筋、明かならざれば、儒書を讀みても、皆な亂賊の類に陷ること、極めて歎く可きこと、能々詳かにす可き者也。畢竟、中國・夷狄の字、儒書に在るからして、斯樣に惑ふ。儒書を讀まざる時は、其の惑ひ無し。大凡そ儒書を學んで、却つて害を招くこと、湯・武の君を伐つこと、苦しからずと云ひ、柔弱の風を、温和と云ふ樣なること、幾箇(いくつ)も有り。皆な儒書の罪に非ず。儒書を學ぶ者の讀み損なひ、義理の究め損なひ也。聖賢、天地の道を開き、萬世に示せば、儒書の樣なる、結構なる義理は云ふに及ばざれども、學び損なへば、斯樣な弊あり。能々省み、究む可き事ならずや。
 

  • [38]
  • 謝枋得『東山書院の記』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月14日(土)12時12分7秒
  • 編集済
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○此の章は、學で無ければ、大義が立たぬ。大義で無ければ、學も立たぬと云ふ事を、氣味よく論ぜられた。これも、身、大義に任じて居らるゝ故なり。宋亡び、元となつて間も無く書かれた文にして、朱子を尊ばるゝ事も見える。

 又た嘗て『東山書院の記』を著はして曰く、○○の天子、○○○○年[此の上の六空は、本と圏無し。蓋し大元及び年號幾某の字にして書せざる者は、亦た前書と旨を同じうする也。今ま亦た例に依りて、之を充つと云ふ]、番陽の李榮庭、書辭を撰し、張國賢・澎汝翼(共に疊山の弟子)に託し、來りて謝枋得に告げて曰く、「篤行先生趙公及び其の子・忠定福王、朱文公に嚴事す。文公、其の廬を過(よぎ)り、忠定の長子・崇憲、之を師とす。忠定の從弟・汝□[青+見。せい]に、「東山書院雲風堂」有り。乃ち篤行・忠定兄弟の、子孫を教ふるの所、題(七字)は則ち文公の筆也。天下、大いに亂るゝも、汝□[青+見]の後、寒飢、死に濱し、終ひに非道を以て、貧を去らず。書院、遂に北胥徒(蒙古の下役共)の有する所と爲る。榮庭の見るに忍びず、常産を鬻(ひさ)ぎ、價を倍して之を取る。敢へて我が廬と曰はず、先聖(孔子)の燕居堂を設く。師友、講習藏脩し、各々規矩する所ろ有る、國初の四書院の如し。業を肄(なら。習)へば、則ち體を明かにし用を適へる、湖學(安定先生胡□[王+爰]の學校)の如く、願はくは、天下の英才と之を共にし、文公の道をして、大いに斯の世に明かならしめ、篤行・忠定の家學も、亦た絶えざらん矣。子、以て何如と爲す」と。

○強齋先生の曰く、「體を明かにす」は、義理の根本、道の本源から明す事。「用を適ふ」は、空理を説かず、事實の上で、百姓は百姓、町人は町人、武士は武士と云ふ樣に、てしゝゝと實用に立ち、今日の用に立つ事。

 枋得の曰く、大いなるかな哉、李君の志や也、亦た學の、天地に功有るを知るか乎。古への大臣、能く道を以て其の君民を覺す者は、伊尹(殷の湯王の功臣。『書經』伊訓篇)より始まる。能く學を以て其の君民を勉めしむる者は、傅説(ふえつ。殷の高宗の師。『書經』説命篇)より始まる。國家に於いて、輕重する所ろ無きが若し也。君、不幸にして受(殷の紂)の暴有り、臣、不幸にして文王(周の昌)の聖有り、流風遺俗、猶ほ天人の心を繋(か)くる者、百餘年、人紀(大綱、即ち五倫)、絶えず、天地、頼る焉。伊尹・傅説の教へ、隱然として人心に在る者、未だ泯びざる也。

○「君、不幸にして」。學で無ければ立たぬと云ふ事を、これから語るぞ。伊尹・傅説の時は、輕重に與からぬ樣なれども、其の末の紂が、あれ程の惡主なるに、其の臣下に、文王の如き大聖ありて、民は皆に之に就く故、紂にとりては、不幸と云ふもの。

○「伊尹・傅説云々」。始めは輕重する事も無い樣なれども、斯うある所で見れば、伊尹・傅説の教へが、隱然と、我れ知らずに人心に在るものなる事は分る。これで學が、天下に於いて功ある事は分る。此れは、ちくとした事の樣なれども、知り難い事ぞ。

 江沱・漢廣の民、一變して鴃舌と爲る。文王・召公の道化、何くにか在る。後ち九百年、一夫(屈原)、忠懷潔操、楚人の聲音を以て、而も風雅の情性を失はず、天を指して正と爲し、殞つること有りて他無し。楚、亡びぬ矣。義陵の一邑、楚を思ひ秦を逃れ、桃源に隱居する者、六百年なり。子孫、猶ほ世と接はらず。召南の教へ・離騒の義、吾、此に於て之を見る。我が孔・孟の、教へを齊・魯に立つる時に曰く、「吾、將に以て三極を扶持せんとす」と。國人、未だ必ずしも盡く信ぜざる也。天下の精兵を合はせて、而も敢へて一城の弦歌に加へず[漢の高祖、項羽を垓下に敗り、羽、自殺す。是に於て楚の地、悉く定まる。獨り魯、下らず。高祖、之を屠らんと欲す。城下に至りて、猶ほ弦誦の聲を聞く(孔子の風)。高祖、其の禮義を守るの國、主の爲めに節に死すと謂(おも)ひ、乃ち魯公の禮を以て羽を葬り、親から爲めに哀を發し、之を哭して去る]。穹爵(高位)・重祿を懸けて、而も五百士の義に死するを奪ふこと能はず[高祖、已に天下を定め、帝と爲る。齊の田横、其の徒五百餘人と、海島に入居す。高祖、之を召す。横、其の客二人と、洛陽に詣る。厩置(馬次の宿)に至り、其の客に謂ひて曰く、「横、始め漢王と倶に南面して、孤と稱す。今ま漢王、天子と爲りて、北面して之に事ふ。其の恥、甚だし矣」と。遂に自頸す。高祖、爲めに涕を流し、王禮を以て之を葬る。二客及び餘の五百人の、島中に在る者も、亦た皆な自殺す]。

○「江沱・漢廣の民云々」。南方の國は、もと文王・召公の徳化の及んだ、目出度い國であつたに、春秋・戰國の時になりて、楚と云ふ夷狄になりて仕舞ふ。江沱は、召公の教が、江の邊りにまで行き渡りたるを歌つた詩。漢廣は、文王の教が、漢水の邊りまで化したことを歌つた詩。鴃舌は、楚國の者のもの言ふは、もずの樣なとて、夷狄の事を云ふ。『孟子』滕文公の字(曰く、「南蠻鴃舌の人、先王の道に非ず」と)なり。

○「天を指して正と爲す」は、『離騒』に、天を證據に立てゝ、君に叛かぬ事を誓はれた文あり。「殞つること有りて他無し」は、身は死しても、國を思ふより外は無い。

○「三極」は、理のつまる所を指して、極と云ふ。日月星辰の何時までも變らぬは天極、山川草木の何時までもあの如くあるは地極、三綱五常の何時までも變らぬは人極なり。

 漢の高帝は、雄心覇氣、一世、人無しと謂ふ。此の二事を聞き、之が爲めに駭愕し、之が爲めに涕泗す。孔・孟の教への、天地と窮り無しと爲す者、固より此に止まらず。此れも亦た以て其の小驗を見る可し矣。天地有りてより以來、儒道の立たざる、今日に至りて極まれり矣。李君、方に將に師を求め道を講じ、江左(江南)諸儒の倡と爲らんとす。孰れか之を迂とせざらん。然り而して宇宙の間に、此の迂士無くんば、天地、且つ立たず。況んや人をや乎。伊・傅に由り、孔・孟に至る、窮達、同じからずと雖も、其の道、皆な天地に功有る、子、之を知らん矣。枋得、切に請ふこと有り焉。今日、文公を師とし、孔・孟を學ぶ者は、必ず『四書』を讀むより始まる。意の誠(『大學』の骨子)、家國天下、吾が心と一爲り、誠の至り(『中庸』の骨子)、天地人物、吾が性と一爲るは、夫の人、能く之を言ふも、手指目視、常に人の見ざる所に在り、戒謹恐懼、常に己れ獨り知る所に在るは、天下、能く幾人ぞや哉。

 人の堪へざる所の憂ひに心□[日+廣]神怡せず、視聽言動の隱に、欲を去り(克己)理を存(復禮)せず。人に語りて曰く、「舜の事、吾、以て爲すこと有る可し。四代(舜・三代)の禮樂、吾、以て自ら信ず可し」と。舜と跖(せき。大盗賊)と、鷄鳴の善・利に分たず、人と禽獸と、晝夜の存・亡に分たず。人に語りて曰く、「吾、人心を正す。即ち周孔と成る可し。吾、性善を知る。即ち堯舜と爲る可し」と。孔孟『六經』の、萬世を教ふる、文公『四書』の、孔孟を助くる、天下英才に望む所の者は、果して是の如くならんや乎。嗟乎、五帝三王、自立の中國、竟ひに諸儒道學、大明の時に滅ぶ。此れ宇宙間の大變也。『四書』を讀む者、愧づること有らん矣。然りと雖も達して道を行ふ者の、孔孟に負くこと有るは、學者、當に戒むべき所ろ也。窮して道を明かにする者の、終ひに孔孟に負くこと無きは、學者、當に勉むべき所ろ也。


○世の儒者、『四書』の眼目を自己の道として體察すること能はず、徒らに口舌の資と爲すのみであるを慨し、孔孟程朱の教ふる所、人々に望む所は、全く異なるを謂ふ也。

○「五帝三王」は、少昊・□[端の右+頁]□[端の右+頁]・帝□[學の上+告]・帝堯・帝舜の五帝と、夏の禹・殷の湯・周の武の三王。「中國」は、中華と云ふに同じ。固有名詞で無く、自國に對する稱呼である。

○「諸儒道學、大明の時に滅ぶ」。儒に、程明道・伊川兄弟、朱子あり、宰相に范文正公・司馬温公あり。然るに此の宋朝が元に滅ぼされ、しかも學者が、次いで彼に降つたのである。『四書』を讀む者にとり、愧づ可き限りの事なり。

○強齋先生の曰く、こゝを勉めいでは、と云ふ事。すれば學の一字で、天地を立て綱常を維(つな)ぐからは、「當に勉むべき所」ぢやと云ふ旨ぞ。極めて學を知つた云ひ分ぞ。朱子『大學の序』に、古今の治亂盛衰が説いてある。學が起れば治り、廢(すた)れば亂るゝと云ふ事が論じてある。其の學と云ふ正味は、三綱五常の人倫が、學の學たる所の根本ぞ。此の綱常の義理を研くが致知、其の心のうかとせず、義理なりに存するが正心、此の心の私しあるを克ち去つて、無い樣にするが誠意。修身と云ふも、人倫五常を修むる事、齊家と云ふも、修身なりに家を修むる事。天下と云ふも、國と云ふも、家と云ふも、身と云ふも、すきと人倫五常の義理で、此の綱常の義理なりに、天下國家の治まつたで無うては、本方の治まりたでは無い。學と云ふ一字は、天地人物を貫き、綱常の道も、是に頼つて立つ。是れ有つて、本方の天地、是れ有つて眞實の人道になる故、學の一字の、極めて大切なと云ふ旨を知る可し。疊山は能く知られた人ゆゑ、箇樣に明かな説を云はれた。斯うした人ゆゑ、あの樣な大變にあうて、さう云うた詞を變ぜず、身を守りて、三綱五常の大義なりに、身を終はられた。又た學の、天地を維持し人道を立つると云ふ證據と云ふものぞ。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の説を載する事、別して疊山、朱子を宗として、聖學に深く至られたるも、是にて見ゆる。且つ又た何よりの思入れは、大義の立つ・立たざるを以て、道統をつるゝこと、尤も疊山の大眼力・大見識と申す可き樣も無き所なり。易いこと、楊雄を見よ。あれ程の學問なれども、王莽に事へた故に、終ひに大義より見限られて、役に立たず。惣じてすつかりと大きなる身の守りの大根が立たねば、何を云うても、末の論ぞ。それで子路が、又しても々ゝゝゝ孔子に、「何とて謀叛人の所へ、招きとて行かんと仰せらるゝぞ」と、たゝつて不審をせらるゝは、孔子の旨を、得と呑込まれぬ故ではあれども、孔子の答に、少しも子路が無理とは仰せられぬ。兎も角く大義が大事の物ぞ。

 或る浪人の物語に、「今ま隨分、知慧、賢こく、此方から言付けた口上でも、平生の事でも、先樣で、それより善い云ひ樣があれば、口上を換へて言ひすまして來る者が有らう時に、是こそ用に立つ善い者よと、知らぬ者は譽めれども、何で有らうと、城は預けられぬぞ。又た先で間が合ふまいと、儘よ、不調法にあらうと、儘よ、兎角く此方から言ひ渡したる通りを、四角四面に違はず、守つて言つて來る者は、何で有らうと、城が預けらるゝ」と云へり。能き合點の名言ぞ。何故なれば、此方から言ひ渡したる通りを、我が才覺で替へれば、又た預けた城をも、才覺で人にやらうやら知れぬぞ。それで人を見立てらるには、實に其の人の信・不信、實・不實の表裏無き所を察するが一大事ぞ。それが立たねば、何も角も跡の分は、用に立たぬぞ。古人の語に、「人を殺すには、首を斬り、奔るを追ふには、馬を射よ」と云ふが、此の事ぞ。肝心のきめ處をきめねば、皆な虚事(あだごと)而已(のみ)ぞ。人の自ら身を守るも、それぞ。

 是を以て疊山の此の文、道と云ひ、學と云ひ、歴代の道學を調べて言ひ拔くとて、全く君臣の大義を以て言ひつめられて、孔・孟・朱子の『四書』を引付けて語り盡されたる、尤も至極の事ぞ。其の言人(いひて)は誰ぞと云へば、則ち文天祥と肩をならぶる、謝枋得ぢや程に、底からはずんで、たしかに聞こゆる事、其の在所の者が、在所咄をし、病人の病咄をする樣に、明白親切、信實の凛然として、猶ほ存すると云ふぞ。されば是程の名文も、又た有り兼ねる程に、學者、宜しく味ふ可し。何の角のと、飾りをする分は損ぞ。畢竟、吾が身から實に言出し、爲出す者のなりは、際立ちて別のものぞ。さう見えぬ間は、兎も角く、こは者、油斷はならぬぞ。大義の筋は、早晩(いつ)でも、是から推して見る可し。人が大の字の合點を得見付けぬ故、大義々々とは云へども、動もすれば惑ふが、こゝでの事ぞ。唯だ君臣の義の動かぬ事ぢやと、計り覺えて居ては、其の動かぬと云ふ、唯だ一貫の旨は、合點ゆくまいぞ。大小遠近、凡そ天下の事、一人、萬事に付き、皆な此の大義の二字を見拔く樣にする事、尤も學者の大工夫と謂ふ可し矣。



 許浩(明儒。復齋と號す)の曰く、「嗚呼、精忠勁節、文山、前に倡へ、疊山、後に繼ぐ。其の行ふ所を質すに、一轍に出づるが如し。綱常を、夷狄、華を亂すの時に扶け(文文山)、風化を、宋祚、傾頽の際に振ふ(謝疊山)。身死すと雖も、今に至りて、英氣凛々として、猶ほ存す。『身を殺して仁を成し』、『生を舍てゝ義を取る』。二公、能く孔孟の訓へに遵ふと謂ひつ可し矣。

○秦山先生の曰く、「綱常を、夷狄云々」。此の衆が居られずば、三綱五常は、何處に有るやら知れぬであらう。「風化を、宋祚云々」。風化は、風儀の義理に化する事。宋がつぶれ○(愚案、元)になつては、何が義理やら忠義やら、知れぬ樣になつてをる。此の二人の衆が、忠義を盡して死なれたで、人の風儀も忠義に化する樣になつた。

○強齋先生の曰く、さてこれで、文山・疊山の始終は、許浩が論で結びて、これから後は、徽宗・欽宗以來の、宋の亡びた事を記して、其の間に色々則になる忠義の事がある故、それを附録せられた。



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參考・君山狩野直喜博士『楊雄と法言』
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http://www.geocities.jp/laihama/bunsyo/yoyu_hogen.html
 之を讀むも、君山博士、些か楊雄を庇ふと雖も、其の爲體、知る可き也。老莊が明哲保身、殆んど道義に禍すること、甚だ大なるかな哉。

 卷之六前半・本論の二十三葉、件の如し。以下、卷之六後半・附録の四十二葉は、暫く割愛させて戴き、直ちに卷之七・劉因へ推參いたしたく存じます。金城翁三年祭を前に、一先づ筆を擱きます。敬白

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  • [37]
  • 謝枋得『魏容齋に與ふる書』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月13日(金)22時22分50秒
  • 返信
 
○此の書簡は、死ぬ兩三日前と見えた。

 『魏容齋[即ち魏天祐なり]に與ふる書』に曰く、前宋逋播の臣・○○の遊民・謝某、謹みて書を閣下に致す。大元、物を制し(天下を取り)、民物一新、宋室の逋臣、只だ一死を缺く。上天、才を降す、其の生るゝや也、日有り。其の死するや也、時有り。某、一死、節を全うするを願ふこと、久し矣。恨む所は、時、未だ至らざるのみ耳。○○、妄りに一忠臣義士を殺さず、某、豈に恩を知らざらん。寧ろ民と爲り、官と爲らざる所以の者は、忠臣、二君に事へず、烈女、二夫を更へず(齊の王□[虫+屬]の語)。此れ、天地間の常道なれば也。丙戌、程御史、旨を將つて宣喚せしよりの後、今ま第五次、○○、禮を以て招徠するを蒙る。某、虞人の死に效ひて往かず、夷・齊の死を學ばんことを願ひて、仕へざる所以の者は、正に天下萬世、○○の量、能く謝某をして臣節を失はず、死を視ること歸するが如くならしむるを知らしめんと欲すれば也。

○「上天、才を降す云々」。此の樣に生きて居るも、生死壽夭は天に在ること、始めより定まつてある。

○「虞人の死に效ふ」。死するとも、招きに出ぬ、とある。それに效ひて往かぬ。『孟子』萬章下篇に出づ。

 茲に相公(魏天祐)の道院(道教の寺)に拘管し、日夜、吏卒及び坊正(邑長)・屋主を勞動して、監守するを蒙る、豈に某の逃走を憂ふるにならずや耶。某は男兒、死なば即ち死なんのみ耳。不義の爲めに屈す可からず、何ぞ必ずしも逃走せん。相公の憂慮も、亦た大勞す矣。先民(程明道)、言ふこと有り、「慷慨して死に赴くは易く、從容として義に就くは難し」と。某、茲に相公の縲絏(囚獄)して、大都に到り、□[糸+衰]□[糸+至](さいてつ。喪服)を以て、留忠齋諸公を見ることを蒙る。且つ問ふ(まあ、一つ訊ねるが)、諸公、一謝某を容れ、其の大元の閑民爲るを聽すも、大元の治道に於いて、何ぞ損せん。一謝某を殺し、其の大宋の死節爲るを成すも、大元の治道に於いて、何ぞ益せん。只だ恐る、前に大宋を誤り、後に大元を誤る、上帝、監觀し、必ず報應有り、諸公、自ら面目の、天地間に立つ無からんを。

○「何ぞ必ずしも逃走せん」。文山の逃げたは、趙氏一塊肉(皇裔)が殘りて、之を取立てんとて也。疊山の時は、宋はつぶれ切つた故、只だ手元の節義を全ふするばかりのこと故、中々逃げなどせぬ。

○「只だ恐る云々」。某が死んでも生きても、損益する事もあるまいが、笑止な事は、いづれも前宋の臣で、宋を誤まりて、今ま此の枋得が節義を立つるを、引きずり廻つて殺す程に、元まで誤まると云ふもの、箇樣なものは、よし、人から咎めいでも、「上帝云々」ぞ。

 某の母の喪、未だ葬らず。『禮經』に據るに、服を除く可からず。只だ當に□[糸+衰]□[糸+至]して、公卿を見るべし。凶服、君門に入る可からず。○○、命有らば、當に江南(福建)官吏の貪酷し、生靈愁苦の状を歴寫し、萬年(言か)書を作り、陛下に獻じ、一に進退を聽くべし。忠臣、二君に事へず、烈女、二夫を更へず。此れ某の書中の第一義也。某、九月十一日、嘉禾[地名、即ち嘉興の別名]を離れしより、即ち煙火(煮物)を食はず。今は則ち勺水(一杯の水)・一果を并せて、口に入れず矣。惟だ速かに死し、周の夷・齊、漢の□[龍+共]勝と同じく、青史に埀れ、以て天下萬世、臣と爲りて忠ならざる者を愧づかしむ可きを願ふのみ。茲に頒賜(朝廷の賜)を蒙り、仰ぎて士を禮するの盛心を見る。某、之を聞く、「人の粟を食む者は、當に人の憂を分かつべく、人の衣を衣る者は、當に人の勞に任ずべく、人の車に乘る者は、當に人の難を戴すべし」と。某、既に死を以て、自ら處る。度るに、此の生、恩遇に報答すること能はず矣。義、敢へて拜受せず。有する所の鈞翰・臺餽(宰相からの書翰と食物等の下賜品)の事件(目録書き)は、盡く來使に交還し、使帑に囘納す。

○「歴寫云々」。母の喪中なれば、目通りは出來ぬ。是非に何ぞ御尋ねあらば、此の江南の政の惡い事を片端から書寫して上げよう、となり。容齋は、江南の宰相であるから、斯く云ふ。

 外郎(外役、或は外甥・外孫の類)、又た鈞旨を傳へて云ふ、「某に何事をか訪問せんと欲す」と。某、初心も、亦た一得の愚を效さんことを願ふ。今は則ち決して敢へてせず矣。魯に公甫文伯の死する有り。其の母・敬姜、哭せず。室老(奧家老)の曰く、「焉くんぞ子死して、哭せざる者有らんや夫」と。其の母の曰く、「孔子は聖人也。再び魯より逐はれて、此の子、從ふこと能はず。今ま其の死する、未だ長(賢)者の來る有るを聞かず。内人、皆な哭を行ひて聲を失ふ。閨中、自殺する者、二なり。此の子や也、必ず婦人に於いて厚くして、長者に於いて薄し也。吾の哭せざる所以なり」と。君子の曰く、「此の言、母の口に出づれば、賢母爲るを害せず也。若し婦人の口より出づれば、則ち妬婦爲るを免れず矣」と。言は、一也。居る所の位ゐ異なれば、則ち人心、變ず矣。某は、義、出仕せざる者也。今ま忠謀奇計有りと雖も、則ち人、必ず以て妬婦と爲さん矣。恐らくは徒らに天下の笑ふ所と爲らん。

○文章の上手ゆゑ、此の樣に長々しく、又た色々故事を引けども、煩はしき事も無く、氣も付かぬ也。
 

  • [36]
  • 謝枋得『劉忠齋に遺る書』下。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月11日(水)18時06分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
 某を以て之を觀るに、江南に好人無く、正當人無きこと、久し矣。好人・正當人を今日に求むるは、尤も難し。某は、江南の一愚儒のみ耳。景定甲子、虚言を以て實禍を買ひしより、天下、號して風漢(狂人)と爲すは、先生の知る所ろ也。昔歳、程(文海)御史、旨を將つて賢を招く。亦た物色の中に在り。既に肝を披き膽を瀝ぎて(腹の底を曝けて云ひ顯はし)、以て之を謝す矣。朋友、大都(元)より來り、乃ち謂ふ、「先生、賤姓名を以て薦め、朝廷、過聽し、遂に旌招を煩はす」と。某は、乃ち丙辰禮□[門+韋]の一老門生也。先生、誤りて忠實の二字を以て、之を褒す。入仕二十一年、官に居る、八月に滿たず。斷じて敢へて道を枉げ人に隨ひて、以て大君子(留夢炎)の、人を知るの明を辱かしめず。今年、六十三なり矣。辟穀養氣を學ぶ、已に二十載なり。缺く所は、惟だ一死のみ耳。豈に復た他志有らんや。先生、過擧せしより、高人・秀才・藝術(技藝學術)を求むる者は、之を物色す。今ま則ち又た物色、某に及べり矣。某、斷じて聘に應ず可からざる者、其の説、三有り。

○「虚言」は、賈似道が事を、策試問に書きて、流されし事を云ふ。

○「辟穀養氣」は、張良が登仙の術を云ふが、こゝにては祿を食まずして、退いて居る事を云ふ。

 老母、年九十三にして終り、淺土に殯在(假埋葬)す。貧にして禮を備ふること能はざるは、則ち大葬すべからず。妻子・爨婢(飯焚女)、某を以て連累し、獄に死する者四人、叢冢(千人坑)に寄殯すること、十一年なり矣。旅魂飄飄、豈に(郷里へ)歸るを懷はざらんや。弟姪、國に死する者五人、體魄(遺骸)、尋ねざるべからず。遊魂、亦た招かざる可からざる也。凡そ此の數事、日夜、心に關る。某、何の面目ありて、先生に見えんや乎。此れ聘に應ず可からざる者の一也。

 某、徳祐の時に在りて、監司(目付)爲り、帥臣(大將)爲り。嘗て重兵を握りて、一面に當る矣。□[萠+立刀。かい]通(韓信の客)、(漢の)高祖に對へて曰く、「彼(韓信が刑せられ、通も責められた)の時、臣、但だ齊王・韓信有るを知るのみ、陛下有るを知らざる也」と。滕公、高祖に説きて曰く、「臣、各々其の主の爲めにす。季布、項羽の將と爲り、力を盡すは、乃ち其の職のみ耳。項氏の臣、得て盡く誅す可けんや耶」と。某、丙子以後、一たび兵權を解き、官を棄てゝ遠く遁れてより、即ち曾て降附せず。先生、中書省(内閣)に出入し、之を故府(古藏)に問へ。宋朝の文臣の降附の表に、即ち某が姓名無し。宋朝の帥臣・監司・寄居(無役)の官員の降附の状に、即ち某が姓名無し。諸道・路縣、申する所の歸附の人戸(百姓の戸籍)に、即ち某が姓名無し。如(も)し一字の降附有らば、天地神祇、必ず之を□[歿の左+極の右。處刑・殺]し、(宋)十五廟祖宗の神靈、必ず之を□[歿の左+極の右]せん。甲申の歳、○○、詔を降し、過ちを赦し罪を宥す。「事ふる所に忠有る者の如き、八年の罪犯は、悉く置きて問はず」と。某も、亦た恩赦放罪の一人の數に在り。夷・齊、周に仕へずと雖も、西山の薇を食ふ、亦た當に周の武王の恩を知るべし。四皓(白髮)、漢に仕へずと雖も、商山の芝(野菜)を茹(生食)ふ、亦た當に高帝の恩を知るべし[東園公・□[ノ+用。ろく]里先生・綺里季・夏黄公の四人、商山に隠れ、芝を採りて之を茹ふ。漢の高祖、屡々之を招くも、高祖の士を嫚(あな)どるを以て、義、辱められず、避け逃れて出でず]。況んや○○の土地に、藜(あかざ)を羮(あつもの)にし糲(玄米)を含むをや乎。○○の、某を赦す、屡々なり矣。某の、○○の恩を受くるも、亦た厚し矣。若し魯仲連に效(傚。なら)ひ、東海を蹈みて死するは、則ち不可なり。今、既に○○の游民爲る也。『莊子』(應帝王篇)に曰く、「我を呼びて馬と爲す者は、之に應じて以て馬と爲り、我を呼びて牛と爲さば、之に應じて以て牛と爲らん」と。世の人、我を呼びて、「宋の逋播の臣」と爲す者有る、亦た可なり。我を呼びて、「大元の游惰の民」と爲す者も、亦た可なり。我を呼びて、「宋の頑民」と爲す者も、亦た可なり。我を呼びて、「○○の逸民」と爲す者も、亦た可なり。輪と爲り彈(はじき玉)と爲り、化(造化)と往來し、蟲臂鼠肝、天の付予に隨ふ(『莊子』大宗師篇)。若し官爵を貪戀し、一行(忠義の道)に昧くば、縱ひ○○の仁恕、戮を加ふるに忍びざるも、某、何の面目有りて、○○を見んや乎。此れ聘に應ず可からざる者の二也。




●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 「頑」は、かたくなと訓んで、わけも無く聞入れ無い事を云ふ。武王、紂を伐つて、天下を拯はれたるに、誰も異義の云ふ手も無きに、殷の民共が、兎角く周に從はずして、四十餘年、楯撞いて果したぞ。それを周からして、聞き分けの無い奴等と云ひて、「頑民」と呼ぶぞ。されども殷から見れば、すぐに其の頑が、置きも直さず忠ぞ。是等の大義、別して辨ず可きこと也。詳かなる事は、『拘幽操附録』の中に見えたり。



 某、太母[太皇太后謝氏]の恩を受くるも、亦た厚し矣。諫行はれず、言聽かれずして、去らざるは、猶ほ駑鈍を勉竭して、以て上に報いるを願へば也。太母、輕々しく二三の執政の謀を信じ、祖宗三百年の土地・人民を挈(ひつさ)げ、盡く之を○○に獻じ、一字も封疆の臣と、可否を議する無し。君臣の義も、亦た大いに削らる矣。三宮北遷し、乃ち大都より帛書(三宮からの書状)を寄せて曰く、「吾れ已に監司・帥臣に代り、姓名を具へて歸附す。宗廟、尚ほ保全す可く、生靈(人民)、尚ほ救護す可し」と。三尺の童子も、其の必ず是の事無きを知る矣。郡臣を紿(あざむ)きて、以て兵(いくさ)を罷むるに過ぎざるのみ耳。宗社(宗廟・社稷。宋の國家の運命)を以て存す可しと爲し、生靈を以て救ふ可しと爲し、臣民を陽紿するに、歸附を以てす。此れ太母の人君爲る、自ら君爲るの仁を盡す也[(絅齋先生)按ずるに、此れ亦た太后の爲めに諱みて、姑らく之を言ふのみ耳。其の實は、太后の爲す所、法と爲す可からざる也]。宗社の存す可からず、生靈の救ふ可からざるを知り、太母に從つて以て歸附せざるは、此れ某の、人臣と爲り、自ら臣爲るの義を盡せば也。

○「按云々」。義理精徹、疊山の疊山たる所なり。君に瑕も付けず、手元の大義も立てる、人臣の鑑とす可き事ぞ。

○「宗社云々」。太后の思召しは、餘義ない事なれば、それはよい仁と云ふもの也。それはそれで濟んだが、太后がさうぢやとて、其の宗社が存せられぬ、生靈の救はれぬと云ふ事を知り乍ら、此方共が其の太后に從つて降參する筈は無い。君は君でなされやう、それぢやとて、某は臣の道を盡さずに居る事では無い。それ故、太后に從つて降參せぬは、臣の道を盡す也。疊山の言は、君は兎もあれ、某は宋の臣たるなりに、義を守る、とある事。

○秦山先生の曰く、「自ら臣爲るの義を盡す」。是は、拙者に在りては、臣たるの義を盡すと云ふものぢや。是が、いかう大義に明かな事ぞ。主人が降參せらるれば、此方も、つひ降參すると云ふ事は、濟まぬ事ぞ。

○強齋先生の曰く、どうなりともして、天照大神以來の皇統を、正しう立つるが、全體の忠義ぞ。大義が明かに無うては、「それならば、此方も從ふ」と云つて、降るものぞ。それで、こゝに註に引かれた事が、大きに則に成る事ぞ。

○斯うした大義を知らぬにより、瓜生判官が、高氏の樣な賊と和睦したは、賊と一つになつたと云ふもの。すれば、何程、敕ぢやと云うても、從ふ筈は無い。何となりともして、天照大神以來の皇統を、正しう立つるが、全體の忠義ぞ。大義が明かで無いと、「それならば、此方も從はうか」と云つて、賊に降るものぞ。それで、こゝに註に引かれたが、大きに則になる事。楠正成が千早城を守る、天皇はとらはれうが、天下は高氏のものにならうが、其の爲めに大義は變へぬぞ。夫れに構はぬと云ふ事では無いが、一度び天皇の命を受けて、城を守り賊を討つと云ふなりを、何時までも變へぬ。そこが、大義の明かな所ぞ。賊に降つたは、君で無く、敵と同類、天下全體の仇ぞ。こゝに明かに無いと、踐み迷ふぞ。それで語に、念を入れてある也。

[初め臨安(宋都)、既に陷る。伯顔、程鵬飛をして、太皇太后の手詔、及び三省・樞密院の檄を取り、州郡に諭して降附せしむ。執政、皆な署すも、家鉉翁のみ、獨り肯んぜず。元の將・阿朮、太后の手詔を以て、楊州の守將・李庭芝に諭して降らしむ。庭芝、城に登り、使者に謂ひて曰く、「詔を奉じて、城を守る。未だ詔諭を以て降るを聞かざる也」と。太后、復た庭芝に詔を賜ひて曰く、「比(このご)ろ、卿に詔して款を納るゝ(降參せよと云ふ)こと、日に久しく、未だ報ぜず。豈に未だ吾が意を悉(つぶさ)にせず、尚ほ固く圉(ふせ)がんと欲するか邪。今ま吾、嗣君(徳祐帝)と、既已に臣伏す。卿、尚ほ誰が爲めに、之を守る」と。庭芝、答へず。命じて、弩を發して之を射る。一使、斃れ、餘は皆な奔り去る。庭芝、益々力戰して敵を禦ぐ。城陷りて、遂に之に死す矣。(絅齋先生)按ずるに、鉉翁、降諭の檄に暑せざる、庭芝、降諭の詔を受けざるは、文天祥の博羅に對ふる、「此の時に當り、社稷を重しと爲す」、及び枋得の此の一節と、約せずして一致す。尤も以て人臣の法と爲す可し矣。

○秦山先生の曰く、「按」。何れも主人の御意を用ひずに、城を守つたり、連判をせなんだり、或は文天祥などのやうに、「君を輕しとし、社稷を重しとす」と云つたり、此の本文の樣に云はるゝ處が、何れも云ひ合はせられねども、皆な同じ事ぢや。人の臣の法と成る事ぢや。

○鉉翁、尋いで元の軍に使ひし、拘北せらる。宋、亡ぶ。元、之に官せんと欲す。受けず。諸生の爲めに談じて、宋の興亡の故に及べば、輒ち涕を流し大息す。年、八十を逾へ、賜予金幣、皆な受けずして卒す]。

○強齋先生の曰く、大義が明かに無いと、蹈み迷ふ場ぢやによつて、勘文を出されたぞ。元と云ふ字、大事ぞ。「賜予金幣」は、元からの贈り物ぞ。

○秦山先生の曰く、家鉉翁の事は、外に載せ處が無いによつて、こゝの附録にしてある。一生、元へ仕へず、節義を屈せずに死なれた。

 『語』(古語)に曰く、「君は令を行ひ、臣は志を行ふ」と。又た曰く、「命を制するは君に在り、行を制するは臣に在り」(降參せよとの命があつても、降らぬと云ふ意)と。「大臣は、道を以て君に事へ、可(き)かざれば、則ち止む」とは、孔子(『論語』先進篇)、嘗て我に告げたり矣。君臣は、義を以て合ふ者也。合へば則ち就き、合はざれば則ち去る。某、前後、累(しき)りに太母の詔書を奉ず。竝びに囘奏(返答)せず。惟だ二王(益王・廣王)に□[檄の木の替り糸。しやく]申(添状)し、生前致仕し、籍を削りて民と爲り、山林に遯逃し、殷の逋播の臣の如くならんと乞ひしこと有るのみ耳。聞く、「太母、上仙(崩御)して久し矣」と。北向長號し、即ち死せざるを恨む。今日、何の面目有りて、麥飯を捧げ、太母の陵に洒(そゝ)がんや乎。此れ聘に應ず可からざる者の三也。

○「死せざるを恨む」。生甲斐なき箕なれば、何故ゑ死なぬと、自分で恨んだ。

○「今日、何の面目有りて云々」。太后御存生の折さへ、囘奏せぬ者が、今日、上仙の後、降參して、元に往つたならば、太母の墓所へ參らうが、何の面目で、麥飯を以て祭られうぞ。

 先生、特に某の爲めに、情を管公(元の宰相・忙忽台)に陳べ、某をして太平の草木と同じく、聖朝の雨露に沾ひ、生きて善士と稱し、死して(墓)道に(墓)表して、「宋の處士・謝某の墓」と曰はしめば、死するの日と雖も、猶ほ生くるの年のごとし。恩に感じ恩に報ゆ、天、實に之に臨む。司馬子長、言へること有り、「人、一死有らざる莫し。死、或は太山より重く、或は鴻毛より輕し」と。先民、其の説を廣めて曰く、「慷慨、死に赴くは易く、從容として義に就くは難し」と。先生、亦た以て某の心を察す可し矣。

○「天、實に之に臨む」は、誓ひの辭。天神が照覽してをられる。天の神が證人ぞ。

○「先民」は、程明道。『二程全書』卷十二・遺書明道先生語第一、竝びに『近思録』政事類に、「感慨して身を殺すは易く、從容として義に就くは難しと爲す」と。卷四十一・二先生粹言に、「感慨して身を殺すは、常人の易しと爲す所、死生の際に處して、雍容として義に就くは、君子の難しと爲す所」と。

○「慷慨、死に赴く云々」。氣が張り合うて、無念ぢやと、激して死ぬるは易い事。とつくりと落着いて、義に安んじて死ぬるは難い事ぢや、とある。斯う云ふ旨を、よく合點せねばならぬ。
 

  • [35]
  • 謝枋得『劉忠齋に遺る書』上。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月10日(火)20時35分19秒
  • 返信
 
●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 是より以下は、謝枋得の書簡也。別して枋得は、書簡で、主の志、及び身に得る所の道義が、能く見ゆるぞ。それで長々しけれども、之を載せて置く。扨て疊山の文章は、だたい上手で、文字の取廻しが、殊の外、自由自在で、働いた所が多いぞ。それ故、一寸見れば、後と先と切り繼いだ樣なる、見にくい文章ぞ。とくと見れば、次第先後そろうて、端は色々に變れども、立ち交ぜぐるみに、一通りの旨が一貫きに續いてをるぞ。能く見分くれば、咄の上手なる者が、自由に辨を云ふ樣に、如何樣の所へも廣げて云へども、肝心の云ひ所は、少しもたぢろかざる如きぞ。總じて文章は、段落を見分けて、是から是迄は是と、片付けて見るが法也。此の枋得の文章は、別してそれがいるぞ。讀法の爲めに講義、此の如し。



○絅齋先生の曰く、是が世間に云ふ『却聘の書』と云ふが、此れ也。なれども文章家に用ふる、『軌範』等に載る『却聘の書』は、殊のほか長いを略し、肝文を載せず。此れには、隨分、肝要を載せたり。全文を載せたいけれども、何としても長き文なれば、語もくだけ、辭にくずもあれば、略し載す所もあり。隨分、きゝごとの書なり。此の書には、いかいこと誤り有つて、それを吟味して載せる。

○古今に無い、議論文章なり。宋が亡びても、此の如き文章あるは、國の榮と云ふ可し。亡國の氣象は、少しも無い。程朱の學の蔭なり。

 『劉忠齋[即ち留夢炎]に遺る書』(却聘書)に曰く、惟だ天下の仁人のみ、能く天下の仁人を知り、惟だ天下の義士のみ、能く天下の義士を知る。賢者は、相ひ知らざること多し矣。能く炳かに三俊(殷の微子・箕子・比干)の心を見る者は、必ず聖人也。君子の爲す所は、必ず衆人の識る所に非ず。湯も就く可く、傑も亦た就く可きは、必ず道義、伊尹の如き者、之を能くす。伯夷・柳下惠は、能はざる也(『孟子』告子下篇)。佛□[月+八+十](ひつきつ)、召(よ)ぶも往く可く、公山弗擾、召ぶも往く可きは、必ず聖神、孔子の如き者、之を能くす。曾(參)・顔(囘)・閔(子騫)は、能はざる也(『論語』陽貨篇)。『(左氏)傳』(定公五年條)に曰く、「人、各々能有り、不能有り」と。先生(劉忠齋)の能くする所は、某(謝枋得)、自ら其の必ず能はざるを知る矣。○○[劉定之が『文山詩史の序』に曰く、「(文山文天祥)公の『集杜句詩の序・跋』中に闕文有る者は、元の君臣・宋の叛逆を指し、缺きて書せず。知者をして、意を以て屬讀せしむ。今ま皆な之を補ひて、白字と爲す者は、公の初意を沒せざる也」と。今ま按ずるに、本集の載する所の枋得の書中、凡そ「大元」を稱する、必ず其の字を書せず。其の意、蓋し亦た天祥と同じうして、易ふるに圏(「○○」。即ち「大元」と書すを忌む也)を以てする者は、乃ち亦た後人の爲す所、以て枋得の初意を存せんと欲する也。但だ此の下、或は「大元」の字を直書する者は、當に是れ傳寫の誤りなるべし(○○と書す筈)。後書、此れに倣へ]の、三宮[太皇太后謝氏・皇太后全氏及び徳祐帝を謂ふ]を禮する、亦た厚しと謂ふ可し矣。○○の、亡國の臣を保全する、亦た恩有りと謂ふ可し矣。

○「劉忠齋」、前には「留夢炎」とある。劉・留、音が通ずる故、元に就いてから改めたものと見える。科擧の試の合格者(謝枋得)は、其の試験官(留夢炎)を、生涯に亙り、其の師と爲す。「先生」は、伊尹・孔子の器量ゆゑ、我々は眞似はならぬ。當てつけの言なり。

 江南(宋)に人才無き、未だ今日の恥づ可きが如き有らず。春秋以下の人物、本と道(い)ふに足らず。今ま一人の瑕呂飴甥(かりよいそう)

○「春秋以下」。春秋の時は、古へに比しては道ふに足らぬが、其の道ふに足らぬ時代ですら、浪人共は主を大切に思ひ、何卒してと、あれ程の事をせしなりと、嚴しく夢炎に當てつける。

[晉の獻公卒す。群公子、皆な亡げて外に在り。瑕呂飴甥、公子夷吾に告げしめて曰く、「子、厚く秦人に賂ひて、以て人を求めよ。吾、子に主(味方)たらん」と。夷吾、許諾す。飴甥、乃ち秦の穆公に告げしむ。穆公、兵を發し、夷吾を晉に送りて、之を立つ。是を惠公と爲す。後ち晉、饑し、糴(てき。買ひ米)を秦に乞ふ。秦、之に粟を歸(おく)る。秦、饑するに及びて、又た糴を晉に請ふ。惠公、予へず。穆公、大いに怒りて、晉を伐ち、惠公を獲て歸る。既にして惠公を歸すを許す。惠公、先づ郤乞をして飴甥に告げしむ。飴甥、乞に教へ、國人を朝(城中に集め)して、君命を以て賞し、且つ衆に告げて曰く、「孤(諸侯自稱の謙辭)、歸ると雖も、社稷を辱かしむ矣。其の太子圉(ぎよ)を卜せよ也」と。衆、皆な哭す。飴甥の曰く、「君亡ぶるを、之れ恤へずして、群臣を、是れ憂ふ。惠の至り也」と。衆、説ぶ。是に於て飴甥、泰を行きて、惠公を迎へ、遂に晉に復歸す。後ち惠公卒し、太子圉立つ。是を懷公と爲す。公子重耳、又た晉に入り、懷公を殺して、自ら立つ。是を文公と爲す。飴甥、重耳を殺さんと欲し、克たずして死す]。

○「晉の獻公」は、驪姫に惑ひ、太子・申生を殺せしより、餘の公子は、皆な亡げて外に在り、後に立つ者は一人も無い。

・程嬰・杵臼・厮養の卒

[張耳・陳餘、武臣を立てゝ、趙王と爲す。北のかた地を燕の界に略す。趙王、燕の軍の得る所と爲る。使者、燕に往けば、輒ち之を殺して、以て地を求むるのみ耳。餘、之を患ふ。厮養の卒(雜役人足)有り。其の舍中に謝(告)して曰く、「吾、公の爲めに燕を説きて、趙王と載せ歸らん」と。舍中、皆な笑ふ。卒、乃ち燕の壁に走り、燕の將を見て、之に説く。燕の將、乃ち趙王を歸す。卒、御と爲りて歸る]。

○「之に説く」。張耳・陳餘は、趙王を取返さんとする如くで、實は燕が趙王を殺すことを欲してゐる。王を殺せば、兩人が趙を山分けする口實が出來、相扶けて趙王を殺した罪を責める戰を起すことが叶ひ、燕を滅ぼすこと容易なり、と説けり。

の如きを求む可きも、亦た得可からず矣。近ごろ、江淮行省の管公(宰相・忙兀台)、旨(天子の御意)を將つて南に來り、好人(跡を隱して居る賢人)を根尋し、面皮を□[虚+見。うかゞ。侫媚の態。機嫌を伺]はざる正當底の人を根尋す。此の令、一たび下り、人、皆な之を笑ふは、何ぞや也。江南に好人無く、正當人無きこと、久し矣。江南に好人有り、正當人有りと謂ふ者は、皆な○○を欺く也。

○「亦た得可からず矣」。右樣の人があれば、徳祐帝が元へとられまい、と云ふ下心なり。降參して居る當てつけ。

 何を以て之を言ふ。紂の亡ぶるや也、八百國の精兵を以て、敢へて二子の正論に抗せず。武王・太公、凛凛として容るゝ所ろ無く、急に滅を繼ぎ絶を興すを以て、天下に謝し、殷の後(紂の子・武庚祿父)、遂に周と竝び立つ(賓位)。三監(武王の弟・管叔・蔡叔・霍叔)・淮夷をして叛かざらしめば、則ち武庚、必ず死せず。殷命、必ず黜けず、殷の位號、必ず奪はれず。微子(殷の一族の賢者)も、亦た未だ必ずしも宋を以て殷に代りて、降りて上公(夏の子孫たる杞と殷の子孫たる宋の二王)と爲らざる也。(『周書』の)『多士』・『多方』、依依然(なじんで心の離れぬ態)として舊君を忘れざる者、三十年なり。成王・周公、忠厚の心を以て、其の不平の氣を消し、曰く、「商王の士」(浪人扱ひせぬ)、曰く、「有殷の多士」、曰く、「殷の逋播(亡び遷る)の臣」と。未だ敢へて我が周の臣民の例を以て、之を視ず。太平の君・相(周の成王・周公)の、亡國の臣民を待つ、何ぞ此の如く、其れ厚きや也。豈に殷の舊國・故都、猶ほ好人有り、猶ほ正當人有るに非ずや乎。

○今は、斯う云ふ事が無い。是れ見よ、宋に好人の無い事は見えた、と云ふ意なり。何程、惡口しても飽き足らぬ筈の夢炎ぢやに、此の如くなるは、只だ斯う云ふて、彼に恥かけうで無い。此の夢炎に依りてなりと、宋の祀ばかりとも、「滅を興し絶を繼ぐ」を望む一念の仁から也。己が一分、屈せずして、國の爲めにするならば、我が忠義の分は濟んだ、など思ふは、仁で無い。

[舒芬(明人。梓溪と號す)の曰く、「枋得、宋の亡ぶる十年の久しき、猶ほ拳拳として、武王・太公の、滅を興し絶を繼ぐを以て、元に仕ふるの故臣に望む。是れ其の一念、宋を釋(お)くこと能はざるの仁、豈に文山に異なること有らんや哉。嗚呼、文山の忠をして、前に信びしめば、則ち宋の祚、未だ必ずしも移らざる也。疊山の志をして、後に伸びしめば、則ち宋の祀、未だ必ずしも廢せざる也。然らば則ち二先生の、道に得る所の者は、其れ以て天に勝つこと有らざらんや乎哉」と。

○「天に勝つ」。天運もかたの如くになつたに、志は一毫も碎けぬは、天に勝つと云ふもの。

○熊禾(宋人。勿軒と號す)の曰く、天下の治亂は、風俗に係り、風俗の□[微の彳の替りに女。美・善]惡は、人心に係る。三代(夏・殷=商・周)は、固より有道の長也。而して商の一代、風、最□[微の彳の替りに女]と爲す。(『書經』の)『商書』を讀みて、終篇(『微子篇』)に至る毎に、紂の將に亡びんとする、三人、寧ろ死し(比干)、寧ろ遯れ(微子)、寧ろ佯狂して奴と爲り(箕子)、自ら靖んじ、自ら獻ずる所以の者は、敢へて一毫も先王に負くの心有らず。伯夷は、馬を叩(ひか)ふる一諫、凛乎たる萬世君臣の大義、聖人の復た起ると雖も、易ふ可からざる也。但だに是れのみならず也、當時、商の臣、若しくは民爲る者は、大率ね周に臣たるを肯んぜざるの心有り。(『書經』の)『大□[言+告]』・『洛□[言+告]』・『多方』・『多士』の諸篇、班班(明かなる貌。歴々)として睹る可し。周人、之を目して頑と爲すと雖も、商に在りては、則ち義爲るを失はず矣。所謂る三紀(三十餘年)を歴て後、世變り風移る、蓋し康王の世に當りて、周に歸す、且に四十年ならんとす矣。壯者は已に老い、老者は已に死し、其の逋播の遺黍(遺民)、自ら是れ死に至りて、二せず。商家一代の人心・風俗を見る可し矣]。

○「人心に係る」。人心のよい時は、風俗がよい。此の風俗からで無ければ治まらぬ。此の事は、常人の知らぬ事なり。何程、令嚴に、刑重くして威すも、一旦は刑を恐れて從ふも、終ひには亂るゝなり。何とても、此の風俗からで無ければ治まらぬ。治體は、是れ也。

 唐人、六國の滅を哀しめる者也。妃嬪□[滕の水の替りに女]□[女+墻の右]・王子皇孫、樓を辭し殿を下り、輦して秦に來り、朝歌夜絃は、秦の宮人爲り[唐の杜牧が『阿房宮の賦』(『古文眞寶後集』所收)に見ゆ]。今に至りて讀者、猶ほ六國の臣子、一も心を痛み骨を刻む無きを惻楚(兩字共、痛む)す。亦た人無しと謂ふ可し矣。楚の懷王は、一に至愚極闇の主に過ぎざるのみ耳。忠直(屈原)を播弃(はき)し、姦邪(上官大夫等)を信任し、死を咸陽に送る。哀しむ足る者無し。楚人、乃ち之を憐れみ、其の親戚を悲しむが如し。豈に楚、本と罪無し。弱くして自ら立つること能はざるに過ぎざるのみ耳と曰はざらんや。楚、滅ぶ矣。義陵の一邑、舊君に惓惓(忘れずして傷む貌)たる者、惟だ一心、老を扶け幼を攜へ、桃源に肥遯(十分心よく、跡形なく逃る)し、後ち六百年なり。兒孫、尚ほ外人と相接(まじ)はらず[晉の太康中、武陵の漁人、溪行し、忽ち桃花の林に逢ふ。一山を得、行くこと數十歩、水源を行き盡す。小口有り、豁然開爽、土地平□[日+廣]、其の人、黄髮・埀□[髮の上+召](老人も子供も)、大いに驚き自ら云ふ、「先世、秦の亂を避け、絶境に來る。今ま何の世ぞ」と。乃ち漢・晉有るを知らず。漁人、辭し去る。後ち往きて尋ぬるに、卒ひに路を得ず(陶潛『武陵桃源記』)]。秦の皇帝の威靈、蒙恬・蒙毅の智勇を以て、豈に盡く楚人を執へて、之を拘ふること能はざらん。天常民彜、泯滅す可からず、姑く此の輩を留めて、以て吾が忠臣義士を勸めて可也。豈に楚の舊國・故都、猶ほ好人有り、猶ほ正當人有るに非ずや乎。

○秦山先生の曰く、義陵と云ふ事は、外な書に見えぬが、武陵と云ふ處がある。此の處の者が、義を守つて居たと云ふ事がある。それから義の字が付けたと見える。是が本と楚の領分の者ぞ。楚が滅びると、桃源と云ふ處へ引込んで、六百年程の間、子孫まで、外の者と交はらなんだ。‥‥しやうこと無しに引込むと云ふ事で無く、義理に安んじ切つて、引込んで居る事ぞ。


●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の桃源の故事は、詩文を弄ぶ者の、常に用ふる事ぞ。其の根は。陶淵明が『桃花源の記』を書かれたるに始まりて、夥しく言觸れる事ぞ。されども此の樣に、怪しい事では無い筈、定めて其の比(ころ)、人倫離れたる深山に、一在所跡を隱して居たる者があるを見付けて、此の樣に後から尋ねても見えなんだと云ひ成したと見えたり。日本にても、島々の末・山々の奧には、今とても斯樣の、早晩(いつ)から住むやら、通路の無い、知れぬ處が多いと云ふぞ。其の類と合點す可し(愚案ずるに、吉野の十津川郷、肥後の米良莊の如し)。扨てそれを今ま疊山が、こゝへ引付けたり。義陵は、即ち武陵のこと也。項羽、義帝を弑す。武陵の人、縞素を服て喪を勤めたり。それより義陵と云ふ由、雜書・地理志の書などに見えたり。尤も後世には、武陵縣・義陵縣とて、相竝んであれども、それは後世に分けたるものなるべし。それは兎もあれ、義陵の字を幸ひと取用ひて、直ぐに楚國の民共が、秦の始皇帝に屈せずして、楚國への、舊君の爲めに大義を立つたと言ひなされたるは、終ひに今まで人の云はぬ事、枋得の獨見ぞ。扨て面白い事ぞ。斯う云ふ事は、枋得の合點から、數千年前の心を推知りて云はるゝと見えたり。假初めながら大義に係る事なる程に、又た講義、此の如し。本の故事は、只だ秦の亂を避けて、と計りあり。
 

  • [34]
  • 謝枋得『建寧に到りて賦する詩』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月 7日(土)23時42分18秒
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■□■謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』■□■



 魏參政、執拘して北に投ず。行くに期有り、死するに日有り。詩して妻子・良友・良朋に別る。

○是が序なり。「執拘」は、無理にとらへる事。

○「妻子・良友・良朋に別る」。上記、絅齋先生の本文に、「此の詩を爲りて、其の門人・故友に別る」と。是を以て史實に適へりと爲す。又た「初めて」建寧に到るには非ず。題目・序、些か落着かざるなり。

雪中の松柏、愈(いよゝゝ)青青。
綱常を扶植するは、此の行に在り。


○強齋先生の曰く、孔子の「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後るゝことを知るなり」(『論語』子罕篇)と仰せられたから、云はれたぞ。「愈」とあるが、別して孔子の餘意まで發せられたぞ。孔子の「松柏後凋」と仰せられたが、雪中でも操をかへず、愈々青々として見える。節義を守る者は、常から人には越えて見えるものぢやが、亂世で、愈々忠義の程が見える。三綱・五常の大節義を扶け立つるは、此の度びの事ぢや。

○昔から忠義の人の詩も多いが、これ程、よく揃うた詩は無い。よくゝゝ暗誦す可し。疊山の行かるゝ時も、丁度、雪中ぞ。「愈々青々」、此の愈の字が肝要ぞ。普段、青けれども、雪中になりて、愈々色が増す。平生しらけた枋得ぢやが、此の時になりて、愈々ぞ。「扶植」、扶け立つる事。「此の行に在り」、俺が、此の度は一大事ぢや。

○「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五常」は、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。道義。人たるの道。

天下、久しう無し、□[龍+共]勝が潔。
人間、何ぞ獨り伯夷のみ清からむ。


○絅齋先生の曰く、「天下久しう無し」。忠義仲間がさみしい。

○強齋先生の曰く、さゝへて久しう□[龍+共]勝の樣な忠義の仲間が無うて淋しかつたが、されども拙者が居るからは、何の伯夷ばかりが清からうず、とある事。忠義のなりを任じた語意ぞ。前の「綱常を扶植する、此の行に在り」と云はれた氣象は、こゝで見えるぞ。

○忠義の人も多い中に、此の兩人を擧げられたは、忠義の爲に餓死した人々、自分の事實に叶ふ故なり。久しく無いから、此の度び俺がする。孟子が、「伯夷は、聖之清なる者也」(『孟子』萬章下篇)と云はれたが、今、俺が其の連れになりて死なう。

義、高うして便ち覺る、生の捨つるに堪ゆるを。
禮、重うして方に知る、死の甚だ輕きを。

○強齋先生の曰く、「義、高くして便ち覺る、生、捨つるに堪ふるを」。義のなりにかへられず、義なりに高い場になつては、命ほど大事なものはなけれども、何とも思はれぬ、惜しい氣は無い、とある事。「禮、重くして方に知る、死、甚だ輕きを」、子としては孝、臣としては忠と云ふなりに、身を盡すが禮。其の禮なりに、かへ樣もなく、大事な時に至りては、死はものゝ數とも思はれぬ、禮に比べてみれば、甚だ輕い事ぢや、とある事。

○生の、捨て易きを知つた。

○『孟子』告子下篇に、「生を舍てゝ、義を取る者也」と。『孟子』告子下篇に、「禮と食と、孰れが重き。曰く、禮重し云々。曰く、禮を以て食めば、則ち飢ゑて死す云々」と。禮は、人の人たる世界を構成してゐる秩序。即ち子として孝、臣として忠を盡くして、それが筋目に違はず、具現されてゐるを謂ふ。

南八男兒、終ひに屈せず。
皇天上帝、眼(まなこ)、分明(ぶんめい)。


○絅齋先生の曰く、「屈せず」。俺があるもの。

○強齋先生の曰く、南霽雲、忠義な者で、遂に節義なりに身を屈せず死した。天道の能く見すかして御座るではないか、とある事。

○かゝる時に當つて、嘗て忠・不忠の人の評判は、證據にならぬ。どこ迄も確かな證人は、天道ぢやに因つて、あなたは分明に見て御座る、あなたが證人ぢや、との事。

○南霽雲は、南氏の八番目の男子、「南八」と排行で呼ぶと、親しみの意が籠もる(愚案、我が八郎と云ふが如し)。唐の張巡の部下の將。皇天上帝は、單に天と云ふに等しい。宇宙を主宰統括してゐる至上の神を謂ふ。



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 愚案、此の「青々」は、寒林平泉澄先生の塾名「青々塾」の出典なり矣。色は、現代一般に云ふ青に非ずして、緑なり。違ふこと勿れ。此の「九段塾」掲示板の背景の色、即ち是れ也。

 寒林先生、春五月に楠公祭、秋九月に﨑門祭、寒中正月に、白山に講義し給へり。先生、抑も講義あれば、最や果てに、必ず謝疊山が此の詩を合吟す。寒林の「松柏、愈々青々たり」矣。

 「皇天上帝、眼、分明」。天網恢々、疎にして漏らさず、「神は見てをる」ぞ。何ぞ、憂ふることやある。皇神ご照覽の下、先哲の教へを承けて、吾人の斯の道を信じ、荒野に獨り自ら任じて立ち、「棺を蓋ふる」まで、我が人事を盡すことあるのみ而已矣。必ず「友有り、同じ斯の道を行く」、「夫の天命を樂みて、復た奚をか疑はん」。

**********
 

  • [33]
  • 清明正大の心、利を以て囘す可からず。英華果鋭の氣、威を以て奪ふ可からず。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月 6日(金)21時34分10秒
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 枋得、天資嚴厲、雅(つね)より奇氣を負ひ、風岸弧峭、世と軒輊すること能はず。而して天時・人事を以て、宋の必ず二十年の後に亡びんことを推し、□[立心+僉。せん。心のねぢけ慾深き、即ち賈似道]宰老を抗論し、竭蹙(けつけつ。顛倒)して售(う。賣)らず、終ひに合ふを取らず。初め竄せられるや也、謫所の山門に因りて、自ら疊山と命じ、門を閉ぢ道を講ず。守令以下、皆な門に及び、弟子の禮を執りて、翕如たり也。里中の人、事を行ふ、或は理に循はざる者は、輒ち曰く、「謝(枋得・禮兵部)架閣、聞けるか乎」と。兩爭(爭論)を持する有らば、必ず來り質す。平遺するに理を以てし、秋毫も人に假與する意無し。人も亦た其の風を高しとし、必ず自ら審かにして、乃ち進め、義に非ざる者は、未だ嘗て敢へて前に至らざる也。

○「風岸」は、其の人の節概あること、岸の高く聳えてゐるが如し。「孤峭」は、人物卓立して、衆と協調せぬ樣。「軒輊する能はず」は、上下・優劣することが出來ぬ意から、調子を合はせて、よい加減で濟ますことが出來ぬ。

○「道を講ず」。講は、他人への講義で無く、自身に講究する事。講明・講學の講は、此の謂ひ也。

 人と、古今の成敗・得失、國家の事を言ふ、必ず髯を□[手+欣。あ]げ几に抵(う。拳で撃つ)ち、跳躍奮厲す。上下數千年、較(かう)然として掌を指すが如し。尤も善く樂毅

○「較然」。正邪・黒白がはつきり見える樣。音カクは、車の□[車+奇。わきゞ]の上の横木。音カウは、比べる、明かの謂ひ。故に「比較」は、ヒカウが正しい。

[燕の君・噌、國を以て其の相(家老)・子之に讓り、國内、大いに亂る。齊王(宣王)、亂に乘じて燕を伐ち、子之を醢(かい。鹽辛)にし、王噌を殺す。是に於て燕人、復た太子・平を立てゝ君と爲す。是を昭王と爲す。昭王、未だ甞て一日も齊に報い、恥を雪ぐことを忘れず、身を卑くし、幣を厚うして、以て賢者を招く。是に於て樂毅、魏より往く。昭王、以て亞卿(次席家老)と爲し、任ずるに國政を以てし、悉く兵を起し、毅を上將軍と爲して、以て齊を伐たしむ。齊、大いに敗れ、齊君、出でて走る。毅、遂に齊の都・臨□[艸+巛+田。し]に入り、軍を整へ、侵掠を禁じ、逸民を禮し、王□[虫+蜀]の墓を封ず。齊の城、獨り□[艸+呂]・即墨のみ、未だ下らず(大將の田單、之を死守す)。之を圍むこと三年なり。或ひと、之を昭王に讒して曰く、「毅、呼吸の間に、七十餘城に克つ。今ま下らざる者、兩城のみ耳。其の力、拔くこと能はざるに非ず、久しく兵威を仗りて、以て齊人を服し、遂に何面して王たらんと欲すのみ耳」と。昭王、言者を讓(せ)めて之を斬り、毅を立てゝ、齊王と爲す。毅、皇恐して受けず。拜書し、死を以て自ら誓ふ。是に由つて齊人、其の義に服し、諸侯、其の信を畏る。昭王薨じ、子・惠王立つ。惠王、毅に快からず。齊の將・田單、乃ち反間を縱(はな)つ。惠王、之を信ず。即ち騎劫をして代り將たらしむ。毅、遂に趙に奔る。單、乃ち謀を設けて、燕の軍を伐つ。燕の軍、大いに敗れ、劫死す。七十餘城、皆な復た齊と爲る。已にして趙王、毅と燕を伐つことを謀る。毅、泣きて曰く、「臣、疇昔の昭王に事ふる、猶ほ今日の大王に事ふるがごとき也。若し復た罪を得て、他國に在らば、身を終ふるまで、敢へて趙の奴隷を謀らず。況んや子孫をや乎」と。趙王、乃ち止む。惠王、趙の毅を用ひて、以て其の敝に乘ぜんことを恐れ、人をして毅に謝せしむ。毅、報書して曰く、「臣聞く、『賢聖の君は、祿を以て、親に私せず』と。故に能を察して官を授くる者は、功を成すの君也。行を論じて交りを結ぶ者は、名を立つるの士也。臣、竊かに觀るに、先王、世主に高くするの心有り。故に身を以て燕を察せらるゝことを得たり。先王、之を群臣の上に立て、父兄に謀らずして、以て亞卿と爲す。臣、自ら以爲らく、『令を奉じ教を承く、幸ひに罪無かる可し』と。故に受けて辭せず。先王、之を命じて曰く、『我、齊に積怨深怒有り。輕弱を量らずして、齊を以て事を爲さんと欲す』と。天の道、先王の靈を以て、大いに齊人を敗る。齊王、僅かに身を以て免る。善く作る者は、必ずしも善く成さず。善く始むる者は、必ずしも善く終らず。身を免れ功を立てゝ、以て先王の迹を明かにするは、臣の上計也。毀辱の誹謗に離(かゝ)り、先王の名を墮すは、臣の大いに恐るゝ所ろ也。不測の罪に臨み、幸ひを以て利と爲すは、義の敢へて出でざる所ろ也。臣聞く、『古への君子は、交り絶ゆるも、惡聲を出さず。忠臣は、國を去るも、其の名を潔くせず』(古語)と。臣、不侫(不調法者)と雖も、數々教へを君子に奉(う)けたり矣」と。是の後ち往來して燕に通じ、趙に卒す]。

○「天の道、先王の靈を以て、大いに齊人を敗る」。親の敵と云へば、討たでは叶はぬと云ふが、天の道。私儀の手柄では無いが、天の道と先王の御威光にて、強い齊を敗られた。

○「古への君子は、交り絶ゆるも、惡聲を出さず。忠臣は、國を去るも、其の名を潔くせず」。朋友の出合ひを絶つて、義絶した後に、向ふを惡う云はぬ事ぞ。忠臣たる者、其の主人の國を去つて、我が身を潔白に致さぬ。我が身の云ひ譯を致して、我が潔白な樣に云ふと、其の君を惡う云はねばならぬ。それはどうも、忠臣の有るまい事ぞ。

・申包胥

[楚の平王に、太子有り。名を建と曰ふ。伍奢をして太傅(後見)と爲し、費無忌をして少傅と爲さしむ。無忌、建に入りて亂を爲さんと欲すと譖す。平王、奢を召し、之を囚へて、人をして建を殺さしむ。建、亡ぐ。奢に二子有り。無忌、又た平王に教へて、之を召さしむ。兄・尚、往かんと欲す。弟・員(うん。伍子胥)の曰く、「到らば、則ち父子と倶に死なん。他國に奔り、力を借りて、以て父の恥を雪ぐに如かず」と。尚の曰く、「汝、能く父の讐に報いん。我は將に死に歸せんとす」と。尚、楚に至る。即ち奢と尚とを并せ殺す也。員、遂に亡げて呉に往き、王・闔閭に説きて、楚を撃ち、大いに之を破り、遂に楚の都・郢(えい)に入る。時に平王、既に卒し、子・昭王、立つ。員、昭王を求むるも、既に亡げて得ず。乃ち平王の墓を掘り、其の尸を出だし、之に鞭うつこと三百、然る後に已む。始め楚人・申包胥、員と交りを爲す。員の亡ぐるや也、包胥に謂ひて曰く、「我、必ず楚を覆さん」と。包胥の曰く、「我、必ず之を存せん」と。是に至りて包胥、山中に亡げ、人をして員に謂はしめて曰く、「子の讐に報ゆる、其れ以て甚だしきか乎。吾れ之を聞く、『人、衆きものは、天(義理)に勝ち、天、定まりて、亦た能く人を破る』(古語)と。今ま子は、故と平王の臣、親しく北面して、之に事ふ。今ま死人に□[人+戮の左]するに至る、此れ豈に天道の極(□[歿の左+極の右。罪])無からんか乎(主を討つた天罰は有るまいか)」と。員の曰く、「我が爲めに、申包胥に謝して曰へ、吾、日暮れて塗遠し。吾、故(ことさら)に倒行して、之を逆施す」と。是に於て包胥、秦に走り急を告げ、救ひを求む。秦伯(秦の穆公)、辭せしめて曰く、「子、姑く館に就け」と。包胥の曰く、「寡君、越えて草莽に在り。下臣、何ぞ敢へて安きに即(つ)かん」と。立ちて庭牆に依りて哭す。日夜、聲を絶たず。勺(少)飲も口に入らざること七日、秦伯、之を哀れみて曰く、「楚は無道なりと雖も、臣有ること、是の若し。存すること無かる可けんや乎」と。之が爲めに『無衣』を賦す。包胥、九たび頓首して坐す。秦伯、乃ち車五百乘を遣はし、楚を救ひ、呉を撃つ。呉の師、大いに敗る。遂に楚を復す。昭王、是に於て、包胥を賞す。包胥の曰く、「吾、君の爲めにす。身を爲めに非ざる也。君、既に定まる矣。又た何をか求めん」と。遂に賞を逃る焉。


○「倒行して、之を逆施す」。逆樣な行ひをして、逆な仕方を爲す事、即ち常理に反したことをする事。

 袁黄(凡了)の曰く、「近く『呉語』(『國語』の篇名)を攷ふるに、包胥、越に使ひし、越王(匂踐)の呉と戰ふ所以を問ひて曰く、「夫れ戰は、智ならざれば、則ち民の極(迷惑)を知らず、仁ならざれば、則ち三軍と饑勞の殃ひを共にすること能はず、勇ならざれば、則ち疑ひを斷じて、以て大計を發すること能はず」と。是れ越の呉を伐つは、包胥、實に其の謀に與かる也。其れ猶ほ宗國(楚)の恥を忘れざるかな也夫。故に既に秦を借りて、以て楚を存し、復た越に因りて、以て呉を滅ぼす、其の楚の爲めにする、至れり矣(張良と同じ心ぞ)」と。

○張□[木+式。南軒]の曰く、「時に古今有りて、君臣の義に古今無き也。楚は、乃ち伍員の宗國、君臣の義、其れ來る素(下地)有り矣。父、罪無きを以て誅せらる。子、之を逃れて、仕ふること勿く、身を終ふるまで、蔬食布衣して可也。豈に手を讐に假り、其の宗國を覆し、心を其の君に快くすること有らんや耶」と。


○秦山先生の曰く、伍子胥が事を、『太平記』等にも、忠義ぢやと云つて、多く世間でも忠臣のやうに存じてをる。伍子胥と云へば、賢人の樣に人が思へども、これほど無道は無い故に、それを辨じて、こゝへ載せられた。

 邵寶(明の人)の曰く、「無忌を殺して足れり矣」と。

○秦山先生の曰く、もと無忌が讒言したによつて、是が敵ぞ。是を殺して、事は足る。

 問ふ、「父、死する、其の罪に非ず。子も亦た仕ふ可きや否や」と。朱子の曰く、「不可なり」と。「孫・曾は、如何」と。曰く、「世數、漸く遠く、終ひに是れ漸く輕し。亦た仕ふ可きの理有り。但だ仕ふ可からざる者は、正也。仕ふ可き者は、權也」(『朱子語類』卷一百三十四)と]。

○秦山先生の曰く、仕へぬが正しいけれども、據ない事があれば、仕へても苦しう無い。「權」は、譯あつて、正を外れて、やはり道に叶ふ樣にするを、權と云ふ。だたい權の字は、秤の重りの事ぞ。秤の重りが、向かふの重い・輕いに從つて、丁度ほどよい樣になる、それと同じ事ぞ。

・張良・諸葛亮の事を論ず。常に千古の憤り有る者の若くして、世教を植(た)て、民彜を立つるを以て任と爲し、貴富賤貧、一も其の中を動かさず。其の言に曰く、「清明正大の心、利を以て囘す可からず。英華果鋭の氣、威を以て奪ふ可からず」(『文節先生謝公神道碑』)と。其の自ら信ずる、率ね此れに類す。人、稱して以て、驚鶴、霄を摩し、籠摯す可からざるが如しと爲して、此の詩を讀む者、又た以て其の辭を讀み、其の心を見、慷慨激烈、眞に以て頑夫も廉に、懦夫も立たしむ可しと爲すと云ふ。

○「千古の憤り」。故人の千古、なほ晴れぬ憤りが、そのまゝ、我が感慨となること。秦山先生の曰く、千年の前の事も、今ま我が身の上の憤りのやうに思はれて、感激せられた。

 此の衆の事は、志の遂げたもあり、遂げぬもあるが、皆な忠義智謀の人々で、身心を碎いて、國の爲めにせられた。それを疊山が見られて、樂毅なら樂毅、孔明なら孔明になられて、扨々これはと、已むに已まれぬ心から、やれ始皇に君を殺され國を亡ぼされ、無念なと、千古の事を我が身にある樣にあるぞ。これは此の人々の腹と、疊山の腹と、古今同一ぞ。

○「驚鶴、霄を摩し、籠摯す可からざるが如し」。鶴は、只さへ籠につなぐ事のならぬものなるに、それが弓矢などに驚いた時は、蒼空を摩して、ずんと高く飜り、籠へ入れる事も、つなぐ事も、別してならう樣は無い。其の如く、利でも、祿でも、威でも、何でも誘ふ事はならぬ。
 

  • [32]
  • 『靖獻遺言』卷之六・謝枋得。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 7月 4日(水)22時48分40秒
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 謝枋得、疊山と號す。宋の亡びて十一年、即ち我が伏見天皇の正應二年に卒す。行年六十四。

 彼の『文章軌範』の編者なり矣。全篇、是れ名文、氣力・精神・光焔ありて、剛爽のみに非ず、高き識見、深き思想に貫かれしもの、世教に關はるものを輯めたり。就中、最高至上の文と爲せるは、諸葛亮『前出師表』竝びに陶潛『歸去來辭』、即ち是れ也。 此の兩文には、圏點・批註、共に加へずと云ふ。刮目すべし。



『初めて建寧に到りて賦する詩、并びに序』

○流されて居て、更に北方夷にとらへらるゝ時、建寧と云ふ處へ行き、身は如何樣になるとも、義を枉げぬと云ふ意を詩に作り、親戚・知己に與へしなり。



宋の江西の招諭使・知信州・謝枋得

○「招諭使」とは、公儀の旨を言ひ聞かして、降參する者を此方へ招き、背く者を諭す役なり。これは人柄のいる役で、重い官なり。



 枋得、字は君直、信州の人なり。(宋の理宗)寶祐中、郷薦を以て試み、禮部(文部省)の高等に中る。對(天子に直答)に比(およ)びて、力めて時宰(時の宰相)・閹宦(宦官)を詆(そし)り、奮ひて前後を顧みず。抑へて第二甲に置く。既に歸る。江東西の宣撫使・趙葵、枋得を辟(め)して屬と爲す。尋いで禮・兵部架閣(書記)に除し、兵を募りて江上を援けしむ。枋得、錢粟を給し、信撫(信州・撫州)の義士數千人を得て、以て之に應ず。時に賈似道、國に當り、功を忌みて、一時の□[門+困]臣(大將)を汚□[血+蔑。べつ。血]せんと欲し、官を遣はし邊費を會計す。會計者、信に至る。枋得の曰く、「以て宣撫(趙葵)を累(わづらは)す可からず」と。家を毀ちて、自ら償ふ。是に由つて坐廢(解任)せらる。

○墨山翁の曰く、「邊費」は、敵の居る所へ參つて軍をする、其の間の兵糧の錢のと云ふ樣なものゝ入目ぞ。「會計」は、それを算用すること。賈似道が、何ぞ大將の越度を見出さうとしても、何も無いによつて、思ひついて兵糧の入目の算用にかゝつた。兵糧と云ふものが、軍場で大勢して食ふもの故、どうしても何程と云ふ算用のなり難いものぞ。それを知つてをつて、それで越度を拵へる心算ぞ。

 (理宗)景定の末、元の兵、江上を壓し、宋社、日に替りて、江東の漕司(財政官)、猶ほ士を試み藝を較ぶ。枋得、試を考し(試験官に爲る)、似道の、政柄を竊み忠良を害し、國を誤り民を毒するを憤り、策十問を發し、其の姦を□[手+適。あば]き、極めて言ふ、「天心怒り地氣變じ、民心離れ人才壞(やぶ)れ、國に亡證有り」と。辭、甚だ剴切なり。似道、其の藁(草稿)を視、大いに怒り、臺評(御史臺の評議)、竟ひに其の騰謗を劾し(政をそしる罪を糾彈)し、秩(廩祿)を□[金+雋。けづ。削]りて、之を竄(流)す。後ち又た史館を以て召す。枋得の曰く、「似道、我を餌する也」と。赴かず。

○「宋社」は、絅齋先生の曰く、「宋の社稷と云ふ事なり」と。谷重遠(秦山先生)は、「宗社で有らう」と、再三云はれたれども、こゝは宋の亡び際ゆゑ、宋社なるべし。

 徳祐の初め、江西の招諭使・知信州と爲る。元の兵、江東に寇す。枋得、安仁に迎へ戰ひ、矢盡きて敗る。妻・子、皆な執へらる。枋得、遂に服を易へ、母を負ひ、建寧の唐石山に入り、逆旅(宿舍)の中に寓し、日に麻衣(白の喪服)・躡□[尸+彳+婁。く。喪の時にはく足半藁草履]し、東郷(宋の都の方を向く)して哭す。人、之を識らずして、以て病を被ると爲す。又た去りて、建陽の市中に賈卜す。來り卜ふ者有らば、惟だ米と□[尸+彳+婁]を取るのみ而已。委(お。置)くに錢を以てする、悉く謝して納れず。遂に□[門+虫]中に居る。

○「病を被ると爲す」。何處から來たか、旅の親爺が、希有な形をして、大聲擧げて泣いて居るから、氣違ひと思うた。

 宋、已に亡び、元の至元の末、元主、其の臣・程文海を遣はし、江南の人才を訪ひ求む。文海、宋の遺士三十餘人を薦め、枋得を以て首と爲す。枋得、時に方に母の喪に居る。書を文海に遣りて曰く、「某の死せざるの所以の者は、九十三歳の母在るを以てのみ耳。先妣、今年二月を以て考終(老死)す。某、今より人間(世間)の事に意無し矣。亡國の大夫、與に存を圖る可からず。李左車、猶ほ能く之を言ふ[韓信、兵數萬を以て、趙を撃たんと欲す。廣武君李左車、趙王歇(あつ)及び陳餘が爲めに、信等を取るの策を謀る。用ひず。信、乃ち兵を引きて、大いに趙の軍を破り、餘を斬り、歇を禽にす。信、軍中に令し、廣武君を千金に購ひて(捕へて來たら、千金を賜ふと云つて)、之を獲。信、其の縛を解き、之に師事し、計を問ふ。廣武君、辭謝して曰く、「臣聞く、『敗軍の將は、以て勇を言ふ可からず。亡國の大夫は、以て存を圖る可からず』と。今ま臣は、敗亡の虜なり。何ぞ以て大事を權(はか)るに足らんや乎」と]。況んや稍(やゝ)『詩』・『書』(學問)を知り、頗る義理を識る者をや乎」と。

 既にして元の行省の丞相・忙兀台、(元主の)旨を將(も)て之を召し、手を執りて相ひ勉勞す。枋得の曰く、「名姓、不詳(不吉)なり」と。敢へて赴かず。宋の降將・留夢炎[夢炎、理宗の朝に状元爲り。帝顯の朝に左丞相と爲る。元の兵、日に急になるに及びて、遂に遁げ去りて、元に降る]、又た力めて之を薦む。枋得、書を夢炎に遣り、辨論、凡そ數千百言[後に采録す]、卒ひに行かず。

○「書を遣る」。枋得は、文山の樣に、軍を多くせず、一軍で敗れたが、忠義の學が明かで、文で忠義が見える故、(後段に)悉く載せる。

 福建(宋の舊都)の參知政事・魏天祐、又た枋得を薦めて、功と爲さんと欲し、其の友に來り言はしむ。枋得、之を罵る。天祐、乃ち誘ひ召して城に入れ、之と言ふ。枋得、又た倣岸(高ぶり横柄)、坐して對へず。或は□[女+曼]言無禮なり。天祐、堪ふる能はず。乃ち讓(せ)めて曰く、「封疆の臣は、將に封疆に死すべし。安仁の敗に、何ぞ死せざる」と。枋得の曰く、「程嬰・公孫杵臼の二人、皆な趙に忠あり。一は孤を存し、一は節に死す。一は十五年の前に死し、一は十五年の後に死すも、萬世の下、皆な忠臣爲るを失はず。

[『史記』に曰く、晉の屠岸賈、諸將と擅ひまゝに趙朔(晉の大夫)等を、下宮に攻め殺し、其の族を滅ぼす。朔が妻に、遺腹有り。公宮に走りて匿る。朔が客・公孫杵臼、朔が友・程嬰に謂ひて曰く、「胡(なん)ぞ死なざる」と。嬰の曰く、「朔が婦に、遺腹有り、若し幸ひにして男ならば、吾れ之を奉ぜん。即(も)し女子なるや也、徐(おそ)く死なんのみ耳」と。朔が婦、男を生む。賈、宮中に索(もと)む。夫人、兒を□[糸+夸。こ。袴]中に置く。兒、竟ひに聲無し。已に脱す。嬰の曰く、「後ち必ず且つ復た之を索めん。奈何ん」と。杵臼の曰く、「孤を立つると、死すると、孰れか難き」と。嬰の曰く、「死するは易く、弧を立つるは難きのみ耳」と。杵臼の曰く、「子は彊ひて難きものを爲せ。吾れ其の易きものを爲さん」と。乃ち謀りて他人の兒を取りて、之を負ひ山中に匿る。嬰、出でて謬(いつは)りて曰く、「吾、趙氏の孤の處を告げん」と。諸將、師を發し、嬰に隨ひて杵臼を攻む。杵臼、謬りて曰く、「小人なるかな哉、程嬰。昔、下宮の難に死すること能はず。我と謀りて、趙氏の弧兒を匿す。縱ひ立つること能はざるも、而れども之を賈るを忍びんや乎」と。諸將、遂に杵臼と弧兒とを殺す。然るに趙氏の眞の弧は、反つて在り。嬰、卒ひに與に山中に匿る。居ること十五年、韓厥(晉の大夫)、具さに實を以て、景公に告ぐ。趙の弧、名は武と曰ふ。景公、乃ち武・嬰を召し、賈を攻めて、其の族を滅ぼし、復た武に、田邑を與ふること、故(もと)の如くにす。武、冠するに及びて、嬰、武に謂ひて曰く、「昔、下宮の難に、我、死すること能はざるに非ず。我、趙氏の後を立つることを思ふ。今ま武、既に立ちて、成人と爲る。我、將に下、趙宣孟(趙盾。趙氏の始祖)と公孫杵臼とに報いんとす」と。武、啼泣して、固く請ふ、願はくは節骨を苦しめて、以て子に報いん]と。嬰の曰く、「彼は、我を以て、能く事を爲すと爲す。故に我に先だちて死す。今ま我、報いずんば、是れ我が事を以て、成らずと爲さん」と。遂に自殺す。宣孟は、朔が謚也。

○朱子の曰く、「『子華子』の書は、是れ、程本、字は子華といふ者の作る所と云ふ。即ち孔子の、與に蓋(かさ)を傾けて語る所の者なり。其の所以を原ぬるに、祇だ『家語』等の書に、此の一事(蓋を傾けて語る)有るに因りて、好事の者は、遂に此の書を僞造して、以て之を傅合す。其の趙宗に大造(功)する有りと言ふ者、即ち程嬰を指して言ふ。『左傳』を以て之を考ふるに、趙朔、既に死して、其の家、内亂る。朔の諸弟、或は放たれ、或は死するも、朔の妻は、乃ち晉君の女なり。故に武、其の母に從ひて、公宮に畜はる。安んぞ所謂る大夫・屠岸賈なる者、兵を興して、以て趙氏を滅して、嬰と杵臼と、死を以て衞るの云ひを得んや哉。且つ大造有りと曰ふ者は、又た呂相、秦を絶つ語を用ふ。其れ信に足らざること明甚にして、近歳以來、老成該洽の士も、亦た或は之を信ず。固より已に怪しむ可し。其の説を引きて、以て自ら其の姓氏の從りて出づる所を證するに至りては、則ち又た其の祖を誣ふ矣」(『朱子文集』卷七十一所收「偶讀謾記」)と

 (絅齋先生)按ずるに、朱子の説、已に此の如し。而して程敏政(明人)、尚ほ之を辨じて、以て己が姓の從りて出づる所を證す。陋と謂ふ可し矣。敏政が説、『(篁□[土+敦])集』に見ゆ]。

○「蓋を傾けて語る」。途中で始めて出合ひし者と、道も同じく、氣象も合ふから、日覆ひを傾けて立話せられたと云ふこと。終日、相親しむなり。「蓋を傾けて語る」と云へば、何か語つた事がある筈ぢやとて、それを僞りて造る。程本は、程嬰を先祖として、其の手柄話を作られた。それを『史記』にも取り載せ、こゝでは謝枋得も有る事にして云はれた。

○「呂相、秦を絶つ語を用ふ」。これより百年も後の者の云うた詞が出る筈が無い。

○たとへ何の子孫でも、我が身正しき人ならば、何に不足有らうぞや。我が行ひもよく、先祖もよくば、殘る處ない。先祖ばかり吟味して、其の身の事を知らぬ、就中く日本の病なり。

 王莽、漢を簒ひて十四年、□[龍+共]勝、乃ち餓死す。亦た忠臣爲るを失はず。韓退之の云ふ、『棺を蓋ひて、事、始めて定まる』と。司馬子長(遷)の云ふ、『死は泰山より重く、鴻毛より輕きこと有り』と。參政(天祐)、豈に此を知るに足らん」と。天祐の曰く、「強辭なり」と。枋得の曰く、「昔、張儀(連衡策)、蘇秦(合從策)が舍人(家來)に語りて云ふ、『蘇君(蘇秦)の時に當りて、儀(張儀)、何ぞ敢へて言はん』と。今日は、乃ち參政(天祐)の時、枋得、復た何をか言はん」と。天祐、怒り、之に逼りて北行せしむ。枋得、死を以て自ら誓ひ、此の詩を爲(つく)りて、其の門人・故友に別る。

○墨山翁の曰く、「棺を蓋ひて、事、始めて定まる」。士たる者の一生の行ひの善惡は、息を引取つた上で無ければ、評判はならぬ。何ほど初めに忠義な顔を致しても、死にざまにし損なへば、何の役にも立たぬ。兎角く棺の蓋をした後で無ければ、どう云ふ人と云ふ事は見えぬぞ。『(韓)昌黍先生詩集注』卷二所收「同冠峽」に曰く、「棺を蓋ひて、事、乃ち了る」と。

○強齋先生の曰く、「死は泰山より重く、鴻毛より輕きこと有り」。めつたに死するばかりがよい事で無い。死し樣で、重い事がある。又た何の役に立たぬ事がある。死は一つでも、めつそうに死するを譽めた事では無い、とある事。『文選』所收「任少卿に報ずるの書」に曰く、「人、固より一死有り。死は、或は太山よりも重く、或は鴻毛よりも輕し。用の趣く所、異なればなり」と。

 時に貧苦、已甚(已も甚の意)だしく、衣結び□[尸+彳+婁。靴]穿(さ)け、雪中を行く。嘗て之を徳とする者(枋得の恩を受けたる者)有り。□[貝+周。にぎは]すに兼金・重裘(上質の金と綿入れの皮衣)を以てす。辭して受けず[枋得、『洞齋・華父二劉兄の寒衣を惠まるゝを辭する詩』に曰く、「平生愛讀す、□[龍+共]勝が傳、進退存亡、斷じ得て明かなり。范叔が□[糸+弟]袍、意を見ると雖も、大顛が衣服、行を留むること莫し。此の時、英雄の樣を看ることを要し、好漢、應に兒女の情無かるべし。只だ願ふ、諸賢の世教を扶けば、餓夫、笑みを含み、死すること、猶ほ生くるがごとし」と。按ずるに、金裘を□[貝+周]す者、何人なるかを知らず。偶々此の詩有るを以て、此に附す]。嘉興を離るゝより、即ち食はず、□[竹+喬]中(農具・竹の籠)に臥眠して去る。二十餘日、死せず。乃ち復た食ふ。既に采石を渡り、惟だ少蔬果(五穀を食はぬ故、野菜と木實)を茹(くら)ふのみ。數月を積みて、困殆す。燕に至るに及びて、太后(謝太后)の□[手+贊。さん]所[□[手+贊]所は、嬪(假に葬る)を謂ふ也。枋得、北行の前五年、謝太后、燕に卒す]、及び瀛國公(徳祐帝、元に降伏後、廢されて封を受くるの名)の在す所を問ひ、再拜慟哭す。疾ひ甚だし。憫忠寺に還る。壁間の曹娥が碑を見[漢の孝女・曹娥なる者は、會稽の人なり。父は、縣江に於て、濤に泝(さかのぼ)りて溺死す。屍骸を得ず。娥、年十四、江に沿ひて號哭し、晝夜、聲を絶たず。旬有七日、遂に江に投じて死す。後ち縣長・度尚、娥を江南道の傍らに改葬し、爲めに碑を立て、弟子・邯□[單+大里]淳をして文を爲らしむ。其の後ち蔡□[巛+邑]、又た之に題す]、泣きて曰く、「少女子すら、猶ほ爾(しか)り。吾、豈に汝に若からざらんや哉」と。夢炎、□[醫の上+巫。醫]をして藥を持ちて、米飲に雜じへて之を進めしむ。枋得、怒りて曰く、「吾、死せんと欲す。汝、乃ち我が生を欲するや耶」と。之を地に擲ちて食はず。五日にして、死す。子・定之、骸骨を護り、信州に歸葬す。定之も、亦た賢なり。累(しきり)りに薦せらるゝも、起たず[按ずるに、定之、起ちて元に仕へず。能く志を繼ぐ者と謂ひつ可し矣]。

○強齋先生の曰く、
★謝枋得『洞齋・華父二劉兄の寒衣(冬の着物)を惠まるゝを辭する詩』
平生愛讀す、□[龍+共]勝が傳、進退存亡、斷じ得て明かなり。
――忠義なりに出處を失はず、大節を屈せず、餓死した。明かな事ぢや。
范叔が□[糸+弟。つむぎ]袍(ぬのこ)、意を見ると雖も、大顛が衣服、行を留むること莫し。
――朋友に懇ろな情で衣服を送つたとは見えたれど、此の度びは元へ囚はれて行く事は留まらぬ。畢竟、受けぬ。
此の時、英雄の樣を看ることを要し、好漢、應に兒女の情無かるべし。
――弱手な事をする處で無い。丈夫は、離別に臨んで、女童の樣にめろつく事は無い筈。
只だ願ふ、諸賢の世教を扶けば、餓夫、笑みを含み、死すること、猶ほ生くるがごとし。
――三綱五常の世教を扶けうと思ふならば、やはり此のなりに凍え餓死をせうず。然らば衣金を受けて、生きて居たより快い。主が伯夷を學んで死する合點ゆゑ、斯う云はれたものぞ。

○「范叔」は、范□[目+隹]。魏の人で、魏で恥を受け、秦に至りて宰相になられた。魏の須賈、秦に聘す。范、ことさらに破れた衣を着て、往いて見られた。須賈は驚いて、「范叔、一寒、此の如きかな哉」とて、前に恨みある者なれども、綿入れを贈りた。范は「□[糸+弟]袍、戀々、尚ほ故人の意有り」と云はれた。

○「大顛」は、唐の名僧。韓退之が潮州に流されたりき。此の僧と懇意にせられた。後ち退之が潮州より袁州へ來る時、衣を解いて、留別に贈られた。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の一段、細註に云へる如く、定之が賢也と云へる所は、此の一節にて持つたるぞ。此の大義が有りてこそ、跡の是非も吟味はかゝれ、此の記録、極めて好し。文天祥の子は、元へ仕へて、然も歴々の官を受けたぞ。特に人才も勝れたりと見えて、樣々の事あり。殊の外、稱美してある。されどもどうあつても、大義は立たざるぞ。其の人才の善、ともに却つて笑止ぞ。斯樣の事、勿論、父の罪にては無けれども、子爲る者の父の名を繼ぐは、大孝と云ふ事、こゝで知る可し。此の處、尤も大事の場ぞ。故を以て志を繼ぐの二字を註するは、旨あつての事ぞ。朱子の説(下段の申包胥の註)は、やはり同じ君の下での事ぞ。



 妻・李氏、初め執へられて、獄に送らる。賊帥有り、之を妻にせんと欲す。一夕、自ら縊れ死す[『(大明)一統志』に曰く、「初め枋得、兵敗れ、貴溪山中に匿る。元の兵、至り、令して曰く、『苟も李氏を獲ずんば、屠りて墟にせん』(撫斬りにして荒野にせん)と。李、之を聞き、出でて俘に就く。徙りて建康(南京)に囚はる。或るひと、指して曰く、『是れ當に沒入すべし矣』と。李氏、之を聞きて泣く。左右の曰く、『沒入すと雖も、將に官人の妻爲るを失はざらんとす』と。李氏の曰く、『吾、豈に二夫に嫁す可けんや邪』と。是の夕べ、自ら獄中に縊死す」と]。弟・禹、九江に在り。亦た屈せざるを以て、市に斬らる。季弟二人、亦た倶に國事に死す。二人の子・婦等も、亦た皆な之に死す。伯父・徽明、富陽の尉爲り。元の兵、奄ち至る。徽明、兵を出だして戰死す。其の二子、□[走+多。はし]り進みて、父の尸を抱き、亦た死す。

○枋得は、よくゝゝ學術明かにして、家法正しいと見え、一門中に一人の不義な者は無い、忠節の盛んな事なり。

○「沒入」は、沒收して官に入るの意。最も重罪は、あちらでは、其の財産のみならず、其の妻子・眷族までも、諸道具同樣に官に召し上げて、歴々の妻子でも、下女・はしたの類の使ひ者、官の奴婢と爲す。
 

  • [31]
  • 此を去ること一歩、死所に非ず矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月26日(火)23時07分53秒
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【趙昴發傳】

 徳祐元年、元の兵、日に急なり。池州通判・趙昴發、壁を繕ひ糧を聚め、固く守るの計を爲す。而るに都統・張林、兵を帥ゐて元に降る。昴發、事、濟(な)らざるを知り、妻・雍氏に謂ひて曰く、「吾は守臣、當に去るべからず。汝、先づ出でよ」と。雍の曰く、「君は忠臣爲り。我れ獨り忠臣の婦爲る能はざらんや乎」と。元の兵、城に薄(せま)る。昴發、晨に起き、几上に書して曰く、「國、背く可からず。城、降す可からず。夫婦、同に死し、節義、雙を成す」と。遂に與に從容堂(學問處、即ち書齋の號。平生の居間)に死す。



【汪立信傳】

 汪立信、初め賈似道に忤きて廢斥せらる。元の兵、江を渡るに至りて、又た詔して兵を募りて、江上を援く。立信、即日、道に上り、行きて似道と遇ふ。似道、「立信、何くに向ふ」と問ふ。立信の曰く、「今ま江南に、一寸の乾淨の地(賊に穢されぬ地)無し。某、去りて、一片の趙家地上を尋ねて死せん。死し得て分明ならんことを要するのみ耳」と。既に健康(南京)に至る。四面、皆な北軍なり。立信、嘆じて曰く、「吾、生きて宋の臣と爲り、死して宋の鬼と爲らん。徒死は益無し。江淮を控引(引合ひ助け合ふ)して、以て後圖を爲さんと欲す」と。已にして似道の師、潰え、江漢の守臣、風を望みて降遁すと聞き、又た嘆じて曰く、「吾れ今日、猶ほ宋土に死するを得たり也」と。乃ち手、自ら表を爲り、三宮に起居し、夜分、庭中に起歩し、慷慨悲歌、拳を握り案を撫する者、三たび(是を以て聲を失す)。三日、吭(のど)を扼(くび)りて卒す。

○「猶ほ宋土に死するを得たり也」。未だ宋の土地で死ぬると云ふ者、古今、忠臣幾人も有れども、此の樣に詞のけやけいは稀れなり。

○「三宮に起居す」は、皇太后・皇后・徳祐帝の起居を伺ふ。御機嫌伺ひ。御暇乞ひ。

○強齋先生の曰く、「拳を握り案(机)を撫す」は、存念を遂げぬを無念に思ひてぞ。何としても成らぬによつて、遂に死したぞ。忠義を知らぬ者は、場に逼らぬに、死したがる。先づ一日なりとも成らうならば、力を盡してみたがよい。



【密佑傳】

 元の兵、撫州に逼り、都統・密佑、衆を率ゐて逆(むか)へ戰ふ。元の兵、呼びて曰く、「降る者か乎、鬪ふ者か乎」と。佑の曰く、「鬪ふ者也」と。兵を麾きて突進す。身、四矢・三槍を被り、猶ほ雙刀を揮ひ、圍みを斫り橋を渡る。橋斷(た)へ執へらる。賊將の曰く、「壯士也」と。之を降さんと欲す。屈せず。復た佑が子をして之を説かしめて曰く、「父死し、子、安くに之(ゆ)かん」と。佑、斥けて曰く、「汝、行ひて市に乞ひ、第だ密都統が子と云へ。誰か汝を憐まざらん」と。怡然として自ら其の衣を解き刑に請ひ、遂に死す。

○墨山翁の曰く、「其の方、親と一所に死ぬる事が嫌ならば、俺に別れて、行く所も無いと云つて、それが氣遣ひならば、乞食せい」と。士のかゝる場に臨んで、父子の情に引かれぬと云ふは、珍しからぬ事なれども、よくゝゝ此の場では、君臣の大義が明かに無ければならぬ事。

○強齋先生の曰く、「怡然として云々」。こゝらで、忠臣の義理なりに安んじて居るを見る可し。斯うした事は、一旦の氣丈ばかりではならぬ事。平生の養ひから、斯うした事ぞ。それで兎に角く平生の養ひが大事。



【陳□[火+召]傳】

 元の伯顔、常州を圍む。陳□[火+召]等、力戰して固く守る。伯顔、之を招く。譬喩百端、終ひに聽かず。伯顔怒り、日夜攻めて息まず。城、遂に破る。或ひと、□[火+召]に謂ひて曰く、「東北門、未だ合はず。走る可し」と。□[火+召]の曰く、「此を去ること一歩、死所に非ず矣」と。兵至り、死す焉。

○強齋先生の曰く、此の場が、死する所ぢや。こゝを一足でも去ると、死する場で無い、とある事。城を守る則になるぞ。未だどうぞして見られうかと云ふ事もあらば、そこを退くまいもので無いが、こゝらは逼り切つて、どうもならぬ場ゆゑ、君から預りた城なれば、枕にして死するより外は無いぞ。

○「此を去ること一歩、死所に非ず矣」。是れ格言なり。同じく死するにも、守る役ならば、其の場で死なねばならぬ。これは大切の事なり。三浦大介義明が衣笠の城にて手を負うたを、戸板に乘せて城中を出した。さうして道の二三丁行く中に、敵が追驅けた故、自害した。其の時、義明が城中で腹を切らいで、さてゝゝ口惜しいと云はれた。中々敵に降る義明等で無けれども、同じ死ぬるが手際が惡うて、不覺に見える。以前、或る士が、此の遺言を讀んで、「此を去る一歩」の詞を尊信して、自身が持つ旗に書きしるした者あつたをば、絅齋が聞かれて、其の志を殊の外か嘉せられたと云ふ事がある。新しき詞なれども、此の一言が、甚だ心得になる可き事故、之を載せられたとあるが、絅齋以來の申し送りぞ。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 「此を去ること一歩、死所に非ず矣」。此の段を『遺言』に載すること、此の一語の爲め也。とても君の爲めに死する命ならば、其の場所を知ること、尤も第一也。古今、此の筋を辨へず、後世の恨み有る者、甚だ多し。

 小坪合戰の時、三浦大介義明、城にて討死を極めしに、家頼の者共に無理に舁載せられて出て、遂に敵の爲めに追懸けられ討死す。自ら怒ること、甚だし。遂にそれ故に三浦が名は落ちずと雖も、畢竟、同じ事ならば、城を出ざるが、殘る所ろ無いぞ。金ケ崎の城落つる時、氣比大宮司、一ノ宮を濳かにのけ奉り、百姓に預け置き、又た歸りて城にて死したるは、今ま少し疎なりと謂ふ可し。是とは又た譯の違うた事。死するはよし。宮の先途を見屆けざるは、誤りと云ふべし。



【李□[艸+市]傳】

 阿里海涯(元の大將)、潭州を攻む。知州・李□[艸+市。ふつ]、慷慨して□[小里+卑。城の壘壁]に登り、日に忠義を以て將士に勉む。死傷相ひ藉(かさ)なる。人、猶ほ血(咽が乾きて屍の血)を飲みて戰ふ。來り招く者有らば、輒ち殺して以て□[彳+旬。とな]ふ。賊、水を決し梯を樹つ。城中、大いに窘(くる)しむ。諸將、泣き請ひて曰く、「吾が屬、國の爲めに死して可也。民を如何せん」と。□[艸+市]、罵りて曰く、「國家平時、厚く汝を養ふ所以の者は、今日の爲め也。汝、第だ死守せよ。復た言ふ者有らば、吾れ先づ汝を戮せん」と。元の兵、城に登り、蟻附して上る。知衡州・尹穀、時に城中に寓す。事、爲す可からざるを知り、乃ち二子の爲めに冠禮(元服式。古昔は、男子二十歳、女子は十五歳にて行へり)を行ふ。或ひとの曰く、「此れ何の時ぞ。此の迂闊の事を行ふ」と。穀の曰く、「正に兒曹をして冠帶して、先人に地下に見えしめんと欲するのみ爾」と。既に禮を畢る。其の家人と、自ら焚(や)く。□[艸+市]、酒を命じて之に□[酉+將の右。らい。神の降臨を請ひ、酒を地に注いで神を祀る]す。明旦、□[艸+市]、帳下(郎黨)の沈忠を召し、之に金を遣(おく)りて曰く、「吾れ、力、竭く。分、當に死すべし。吾が家人も、亦た俘に辱しめらる可からず。汝、盡く之を殺して、後ち我を殺せ」と。忠、地に伏して能はずと辭す。□[艸+市]、固く之に命ず。忠、泣きて諾し、酒を取り、其の家人に飲ましめ、盡く醉ふや、乃ち□[彳+扁]ねく之をに刃し、□[艸+市]も亦た頸を引きて刃を受く。忠、火を縱(はな)ち、其の居を焚き、家に還りて、其の妻子を殺し、復た火所に至り、大いに慟し、身を擧げて地に投げ、乃ち自刎す。

○「民を如何せん」。民共が不憫ぢや。百姓を助ける思召しで、降參されよ、となり。支那の民は、民家を内にしてある。

○「汝、第だ死守せよ」。第は、是れ一つに極まりた。之を離れてはならぬと有る事。餘義ない事。是れ一つに詰まりたと云ふ所で書く字ぞ。



【洪福傳】

 夏貴が家僮、洪福といふ者有り。貴に從ひて勞を積み、鎭巣軍に知たり。貴、後に叛して元に降り、因りて福を招く。聽かず。其の從子をして往かしむ。福、之を斬る。貴、遂に誘ひて、福父子を執へて、之を殺す。子・□[言+虍+乎。叫]びて曰く、「何ぞ擧家、戮を爲す」と。福、叱して曰く、「一命を以て、宋朝に報いん。何ぞ人に告げ、活を求むるに至らんや邪」と。次いで福に至る。福、大いに罵りて、貴が不忠を數(せ)む。身、南向し、死して以て國に背かざるを明さんことを請ひ、遂に死す。聞く者、涕を流す。

[元主、嘗て宋の降將等を召し、問ひて曰く、「汝等、降ること、何ぞ容易なる」と。對へて曰く、「賈似道、國を專らにし、臣等、久しく不平を積めり。故に風を望みて、款を送れり」と。元主の曰く、「正に汝が言の如くならば、則ち似道の汝を輕んずるや也、固より宜(むべ)なり」と]。




●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の段は、如何に故主ぢや程にとて、謀叛を起して、我を招くに行けば、共に天下の爲めに謀叛人になる故、從はぬ筈。若し我を大將に云ひ付けられたらば、それを討ち亡しても苦しからざる筈ぞ。尤もそれゞゝの曲折は有るべけれども、全體、此の旨で推す可し。



【陳文龍傳】

 陳文龍、興化軍に知たり。降將・王剛中、使ひを遣して至る。文龍、之を斬りて、固く守る。已にして部將等、元の兵を導き、門を開きて降る。元の兵、文龍を執へ、之を降さんと欲す。文龍、其の腹を指して曰く、「此れ皆な節義の文章也。相ひ逼る可けんや邪」と。卒ひに屈せず。食はずして死す。

○強齋先生の曰く、己れらが樣な不義者が、何として知つた事であらう。逼る筈で無いと云ふ事。斯う云ふ事で無ければ、忠で無い。城を守つて死ぬる者も多けれども、是非なく逼つて死する分では、忠義のなりが明白に見えぬ。

○拙者が腹には、幼少より節義文章が一杯ある故に、此の腹では、中々降參せまい、となり。日頃、忠義の士は、死に臨んで、うろたへぬと云ふは、義士の珍しからぬ事なれども、斯うすらりと出た處が、如何にも見事ゆゑ、こゝに仕舞廻ひに載せられたぞ。香しき遺言ぞ。



**********

 吉田松陰先生の曰く、「册子を披繙すれば、嘉言、林の如く、躍々として人に迫る。顧(おもふ)に、人、讀まず。即(も)し讀むとも、行はず。苟(まこと)に讀みて之を行はゞ、則ち千萬世と雖も、得て盡す可からず。噫(あゝ)、復た何をか言はむ。然りと雖も知る所ろ有り矣、言はざる能はざるは、人の至情也。古人は諸(こ)れを古に言ひ、今ま我れ諸れを今に言ふ、亦た□(言+巨。なん)ぞ傷(やぶ)らむ焉」と。

 信なるかな哉、此の言。嘉言、林の如しと雖も、此の名言を閣上に陳ね、抽象的觀念を玩び、或は禪の公案の如き、閑思索に光陰を費すこと勿れ。古人先哲の行藏を、眞に己に攻め、存養省察、皇神照覽の下、日々怠ること無く、且つ作輟、已むこと無くんば、吾人も、賢哲の門人たるに耻ぢざる可し矣。

【乃木靜堂大將『士規七則講話』】
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 なほ手許に、横尾謙七翁編纂『皇朝靖獻遺言』全八卷三册(明治六年刊)あり。其の「目録」を擧げて、參考に供したい。
一、物部守屋『奏言』
二、藤原鎌足『路上獻策』
三、和氣清麻呂『謫書上言』
四、菅原道眞『十三夜詩』
五、平重盛『諫言』
六、楠正成『無題歌』
七、新田義貞『上表』
八、源親房『關城書』

 就中、天下の至寶、『關城書』あるを見て、感激新たなり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t33/3

 亦た物部守屋公を拜して、歡喜雀躍す。
  ↓↓↓↓↓
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/987

 一方、絅齋先生『靖獻遺言』全八卷の中、卷の五を終ふるも、未だ全體の紙葉の半ばに至らず。已んぬるかな、道は遠し矣。有志、卷の六以降、進みて自ら讀まれんことを切望す。懇祈、々々。

**********
 

  • [30]
  • 文天祥『正氣の歌』其の三。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月25日(月)00時56分5秒
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或は出師の表と爲り、鬼神、壯烈に泣く(蜀漢の諸葛亮)。

或は江を渡る楫(かぢ)と爲り、慷慨、胡羯を呑む(西晉の祖逖)。
[晉室、大いに亂れ、胡羯の種族の劉淵・石勒の徒、間に乘じて竊かに據る。祖逖、少くして大志有り。時に劉□[王+昆]と倶に司州(洛陽)主簿と爲り、同じく寢ぬ。中夜、鷄鳴を聞き、□[王+昆]を蹴りて覺まして曰く、「此れ惡聲に非ざる也」と。因りて起ち舞ふ。京口に居り、驍健を糾合し、左丞相・睿(後の東晉初代元帝)に言ひて曰く、「晉室の亂、宗室、權を爭ひ、自ら相ひ魚肉するに由り、遂に戎狄をして隙に乘じ、毒をして中土に流れしむ。大王、誠に將に命じ師を出し、逖の如き者をして之を統べて、以て中原に復せしめば、豪傑、必ず、饗應する者有らん矣」と。睿、素と志無し。乃ち逖を以て豫州刺史と爲し、千人廩布(官庫から出す布)三千匹を給し、鎧杖を給せず。自ら召募せしむ。逖、其の部曲百餘家を將(ひき)ゐ、江を渡り、中流に楫を撃ちて、誓ひて曰く、「祖逖、中原を清むること能はずして、復た濟る者は、大江の如きこと有らん」と。遂に冶を起し兵を鑄、二千餘人を募り得て進み、後趙(石勒の建つる國)の兵を走らし、己を約(節約)し施しを務め、農桑を勸課し、新附を撫納す。河より以南、多く晉に歸す。逖、遂に河北を取るの計を爲す。王敦等、隙を構へ、將に内難有らんとすを聞き、大功を遂げざるを知り、感激し病ひを發して卒す。豫州の士女、父母を喪ふが若し]。


○「中夜、鷄鳴く云々」。鷄の宵鳴きは不吉(惡聲)として嫌はれるが、それが逆に夷狄を攘つて中原を取戻す吉兆であると爲す。

○「大江の如きこと有り」。山でも川でも、そこに在るものを證據に立てゝ誓ひをする。「如きこと有り」は、誓ひの詞。夷狄を亡ぼして中國を取返さずば、再び江水を渡るまい。若しこれが違うたらば、大江の水が證據ぢや、となり。

或は賊を撃つの笏と爲り、逆豎、頭は破裂す(唐の段秀實)。
[唐の徳宗の時、段秀實、□[三水+經の右]原の節度使爲り。楊炎に忤ふを以て、罷(や)めて司農卿と爲る。□[三水+經の右]卒、□[犠の左+高]賜(下賜の物)、豐かならざるを以て、亂を作すに會ふ。徳宗、卒(には)かに奉天に奔る。而して朱□[三水+此]、亂に乘じ、反して長安に據る。□[三水+此]は、秀實、久しく兵柄を失ひ、其れ必ず怏怏たらんと意ひ、且つ素と人望有るを以て、之を召さしむ。秀實、納れず。騎士、垣を逾えて入りて、之を劫す。秀實、子弟に謂ひて曰く、「吾れ當に死を以て社稷に徇ふべきのみ耳」と。乃ち往いて□[三水+此]を見て曰く、「□[犠の左+高]賜、豐かならざるは、有司の過ち也。天子、安くんぞ之を知るを得ん。公、宜しく此を以て將士を開諭し、示すに禍福を以てし、乘輿を奉迎すべし。此れ莫大の功也」と。□[三水+此]、悦ばず。秀實、□[三水+此]を誅し、乘輿を迎へんと謀り、同謀の者に謂ひて曰く、「我れ當に直ちに□[三水+此]を搏ちて、之を殺すべし。克たずんば、則ち死せん。終ひに之が臣爲ること能はず也」と。□[三水+此]、秀實及び源休等を召し、僭號の事を議す。秀實、勃然として起ち、休の腕を執り、其の象笏を奪ひ、奮前して、□[三水+此]が面に唾し、大いに罵りて曰く、「狂賊、吾れ汝を萬段に斬らざるを恨む。豈に汝に從ひて反せんや邪」と。因つて笏を以て、□[三水+此]を撃ち、其の額に中つ。濺血、地に灑ぐ。□[三水+此]、匍匐脱走す。秀實、事の成らざるを知る。大呼して□[三水+此]が黨に謂ひて曰く、「我れ汝と同じく反せず。何ぞ我を殺さゞる」と。衆、前みて之を殺す。後に忠烈と謚す]。

是の氣、磅□[石+薄]する所、凜冽として萬古存す。
其の日月を貫くに當りて、生死、安ぞ論ずるに足らん。
地維、頼りて以て立ち、天柱、頼りて以て尊し。
三綱、實に命を繋(か)け、道義、之が根爲り。


○強齋先生の曰く、「磅□[石+薄]」は、忠義の盛んに正大流行して鳴りはためき、響きわたり、めりかへると云ふ樣な事ぞ。

○これまで汗青に埀れた者を一々擧げて、それを引き締めて、是の正氣の天地に磅□[石+薄]と行き亙りて、凛冽として寒氣の嚴なる時、身の冷えあがる樣に、やつぱり張良・孔明も、今に生きて居る、となり。

嗟々(あゝ)、予、陽九(厄難)に遘(あ)ひ、隸や也、實に力めず。
楚囚(楚の鐘儀)、其の冠を纓し(故國を忘れず)、傳車(宿次の馬車)して窮北(元都)に送る。
鼎□[金+獲の右]、甘きこと飴の如し。之を求めて得可からず。
陰房(土牢)、鬼火に□[門+貝。さび]しく、春院(春の室)、天黒を□[門+必。と]づ。
牛驥(鈍牛と駿馬――罪人と文山)、一□[白+十。そう。かいばをけ]を同じくし、鷄栖(鳥小屋)、鳳凰食ふ。
一朝、霧露(病氣)を蒙らば、溝中の瘠(せき。死骸)と作(な)るを分とす。
此の如き再寒暑(二年間)、百沴(惡氣)、自ら辟易す。
哀しいかな哉、沮洳場(低濕の土牢)、我が安樂國と爲る。
豈に他の繆巧(上手い手段)有らん。陰陽(邪氣)、賊(そこな)ふこと能はず。
顧みて此れ耿耿在り。仰ぎて浮雲の白きを觀る。
悠悠として我が心憂ふ。蒼天、曷(なん)ぞ極り有らん。
哲人、日に已に遠く、典刑(手本)、夙昔に在り。
風簷(軒)、書を展(の)べて讀めば、古道、顔色を照らす。


○絅齋先生の曰く、「隸や也、實に力めず」。晉の文公が軍に負けて、敵が追つかけた時、どうやら家來が、文公と見せまいと、文公を家來にあしらうて、「われが無精、車が遲い」と云つて、文公を叱る。

○強齋先生の曰く、(辨慶が)安宅の關の樣な難義な場で、主(源義經)を家來の樣に仕立て、そこを忍んで通るに、見咎められたによつて、主を叱つて、「己が精出して道を行かぬによつて、此の樣に怪しめられた」と、散々に叱つた事あり。それを引き反して、文山の自身の身の上の事を云うて、吾が君の爲めに、實に精出して力めなんだによつて、天下も亡ぼされ、此の樣にわざはひに合うた、とある事。名人の文ぢやによつて、故事の用ひ樣も格別な事ぞ。

 「耿耿」は、何と無く其の事に心がかゝり、氣がかりで、はたゝゝと思ひ出されて、安からぬ事。宋亡びて、君も臣も死して無くなつた事の、忘れられぬ事。「在り」は、ありゝゝと心に忘れぬと云ふから云うた字。耿耿として、心に在ると云ふ事。

 「蒼天、曷そ極り有らん」。天を望んで、歎じても々ゞゝゝ、極り無いと云ふ事。天の極り無いに付いて、我が歎きも限り無いと云ふ事。

 「典刑」は、忠義を記した書の事。萬世の法に成る故、典刑と云ふ。

 「照」の字、眼目ぞ。限りなく感慨ある字ぞ。文山の全體忠義の身で、古の忠義の士を數へ立てゝ、其の樣な衆が互ひに面目を見合せ、笑ひを含んで物語りをせらるゝ樣なぞ。

○古への忠臣義士は、いまは日々に遠くなつてゆくが、その人々の忠義を書き記した書物は、昔のまゝに存してゐる。風の音づれる軒端で、その古書を開いて讀んでゐると、古人の身をもつて行つた節義の道が、ありゝゝと我が顔色を照らし、まさにその人々と物語りをしてゐる思ひが深い。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 「楚囚、其の冠を纓せず」。此の一段は、前かど講ずる通り、事、『左傳』に詳か也。扨て別して此の故事を引いて、身に引受けて云はるゝは、江南より北へ囚へられて、ちつとも宋の臣たる名に辱かしめを付けず。丁度、鐘儀が晉へ囚はれたれども、楚國の故郷の冠を放たず服して居りたる旨と一致なる程に、此の如く云ふ。特に纓と云ふ一字のつかひ樣にて、冠を放たざる旨を味はふ可し。常なみの故事と見る可からず。以後、此の類、甚だ多し。尤も眼を着く可し焉。故に爲めに又た講義す。
 

  • [29]
  • 文天祥『正氣の歌』其の二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月23日(土)23時10分19秒
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秦に在りては、張良が椎(韓の張良)。
[張良、其の先、韓に相たること五世、父卒し、良は年少(わか)く、未だ甞て韓に宦事せず。而して秦の始皇、韓を滅ぼす。良の家僮、三百人なり(これ程の身の上)。弟、死して葬らず。悉く家財を以て客を求め、韓の爲めに仇を報いんと欲す。始皇、東游す。良、力士を得、鐵椎、重さ二十斤なるを爲(つく)り、始皇を博浪沙の中に狙撃し、誤りて副車に中つ。始皇、大いに怒り、大いに索むること、甚だ急なり。良、名姓を更めて亡匿し、遂に高祖(漢の劉邦)に從ひ、秦を滅して、韓の公子・横陽君を立つ。是を成侯と爲す。項羽、成侯を殺すに及びて、復た高祖に從ひ、羽を殺す。因りて祿を辭し、辟穀導引に託して、以て終ふ。或は問ふ、「良が鐵鎚の計、已に疎ならずや乎」と。程子(伊川)の曰く、「君の仇を報いんと欲するの急、當時、若し鐵鎚を以て、之を撃殺することを得しめば、亦た足れり矣。何ぞ自ら爲めに謀るに暇あらんや耶」と。
○楊時(龜山。程子の高弟)の曰く、「良、秦を破り楚を滅す、始終、韓の爲めに仇を報いるのみ耳。漢の用を爲さんと欲するに非ざる也。後ち自ら神僊の説に託して、以て其の漢に仕ふるを欲せざるの本心を遂げり焉。此れ子房(張良の字)の智謀節義の、遠く人に過ぐる所以にして、漢より今に至るまで、未だ能く之を窺ふ者有らず。惟だ程子、甞て之を言ひ、又た以爲らく、『高祖の能く子房を用ふるに非ず、子房の能く高祖を用ふ』と。其れ子房を知ると謂ひつ可し矣」と]。


○三代以來、大義を立つたは、子房と孔明なり。孔明は頭から大義を云ひたる故ゑ分かるも、張良は人に語らぬ故ゑ見えぬ。そこを程子と龜山とは、明かに説き示された。程子の曰く、「石でなりとも打殺せばよい。後で其の身は何んとならうぞ、と云ふ樣な事を考へる暇は無い」と。

漢に在りては、蘇武が節(漢の蘇武)。
[漢の武帝、蘇武を遣はし、節を持ちて、以て匈奴に使ひす。武、副使・張勝等と倶に匈奴に至り、漢の命を致す。單于(ぜんう。匈奴の天子號)、方に武等を送り還さんと欲す。虞常等、陰かに單于の母を劫かし、及び前の降る者・衞律を殺し、官に歸らんと謀るに會ふ。常、謀を以て張勝に告ぐ。事、覺(あら)はる。單于、怒りて漢の使ひを殺さんと欲す。其の臣の曰く、「宜しく皆な之を降すべし」と。單于、廼ち律をして武を召し、辭を受けしむ。武の曰く、「節に屈し命に辱づかしむ。生くと雖も、何の面目ありて、以て漢に歸らん」と。佩刀を引き自刺す。律、驚きて抱持し、□[醫の酉の替りに巫+。醫]を召して、坎(穴)を爲り、□[火+温の右]火を置き、武を其の上に覆せ、其の背を蹈みて、以て血を出す。武、氣絶ゆること半日、復た息く。虞常が罪を論ずるに會ひ、單于、又た此の時に因りて、武を降さんと欲す。既に常を斬る。律の曰く、「漢の使ひ・張勝、當に死すべし。降る者は罪を赦す」と。劒を擧げて之を撃たんと欲す。勝、降るを請ふ。律も復た劒を擧げて、武に擬す(あてがふ)。武、動かず。律、乃ち曰く、「律、前に漢に負き、匈奴に歸す。富貴、此の如し。蘇君、今日、降らば、明日、復た然らん。空しく身を以て草野に膏す(草野の肥しと爲す)も、誰か復た之を知らん」と。武、應へず。律の曰く、「君、今ま吾が計を聽かずんば、後ち復た我を見んと欲すと雖も、得可けんや乎」と。武、罵しりて曰く、「女ぢ、人の臣子と爲り、恩義を顧みず、蠻夷に降虜と爲る。何ぞ女ぢを以て見ることを爲ん」と。單于、愈々之を降さんと欲す。廼ち武を幽して、大□[穴+告。穴藏]中に置き、絶えて飲食せしめず。天、雪を雨(ふら)すに會ひ、武、臥して雪と旃毛(氈。衣服・敷物の類)とを齧み、之を并せ咽む。數日、死せず。乃ち武を海(湖)上、人無き處に徙し、羝(牡・雄)羊を牧せしめ、廩食、至らず。武、野鼠を掘り、屮(艸)實を去(藏)して之を食ひ、漢節に杖きて羊を牧す。臥起操持し、節旄、盡く落つ。既にして漢將・李陵、戰ひ敗れて、匈奴に降る。單于、復た陵をして武に謂はしめて曰く、「足下、空しく自ら人亡きの地に苦しむ。信義、安くんぞ見はるゝ所あらんや乎。且つ陛下、法令、常亡く、大臣、罪亡くして、夷滅(一族皆殺し)する者、數十家、尚ほ復た誰が爲めならんや乎」と。武の曰く、「武が父子、功徳亡きに、皆な陛下の成就(立身)する所と爲る。常に肝腦、地に塗るゝことを顧ふ。今ま身を殺して自ら效すことを得ば、斧鉞湯□[金+獲の右]を蒙ると雖も、誠に之を甘樂す。臣の君に事ふる、猶ほ子の父に事ふるがごとき也。子、父の爲めに死し、恨む所ろ無し。復た再び言ふこと勿れ」と。後ち陵、復た至り、武に上(しよう。武帝)崩ずと語る。武、南郷(漢都の方へ向ひ)號哭、血を歐(は)く。旦夕、臨(棺前に哀哭する禮)すること數月。昭帝、位に即く。匈奴、漢と和親す。而して武、漢に還る。已に至る。詔りして武帝の廟に謁す。武、匈奴に留まること十九歳、始め彊壯を以て出で、還るに及びて、須(鬚)髮、盡く白し矣]。

○強齋先生の曰く、「臣の君に事ふる云々」。是が極めて忠義を知つた云ひ樣ぞ。忠義を知らぬ者は、時としては妻子に引かれて君を忘れ、或は使ひ方が氣に入らぬの何のと云つて、君を見るも、他人を見るも同じ樣に思ひて、節を失ひ不義に陷るぞ。やはり君臣は、骨肉一體のなりに結び合ひて、どうも離れぬもの。子の親に事ふるも、骨肉一體、どうしても離れぬもの。是を知らぬ者は、たゞ「陛下の成就する所と爲」つた爲めに、命を捨つるばかり云ふ樣になる。それは眞實の忠では無い。

○「臣の君に事ふる云々」。是が名言なり。どうしても父子と違ひ、血肉の屬き無ければ、義理一偏となる。君に見事にするも、何ぞの張合ひでするは、本圖で無い。こゝを合點せねば、君臣の間は、父子の樣にいかぬ。「陛下、法令云々」と云ふを聞き、ちつとなりとも頼もしう無い君ぢやと思へば、忠義に疵が付く。それを此の樣に云はるゝは、誠に後世の手本となる事ぢや。

嚴將軍が頭と爲り(三國の嚴顔)。
[劉備、劉璋を襲取し、巴郡を破り、太守・嚴顔を獲。備の將軍・張飛、呵して曰く、「何を以て降らざる」と。顔の曰く、「卿等、無状(不屆)、我が州を侵奪す。我が州は、但だ斷頭將軍有り、降將軍無し也」と。飛、怒りて牽き去りて、頭を斫(き)らしむ。顔、容止變ぜずして曰く、「頭を斫らば、便ち頭を斫れ。何爲れぞ怒るや也」と。飛、壯として之を釋す]。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 本書を考ふるに、此の後ち「劉備、顔を用ひて官とす」とあり。其の事、こゝのいらざる故に、削つて載せず。どうでもそれは、顔が誤り也。それならば始め降參せざるが、うらはら也。其の云ひ分けには、あちから無理へしにすれば降らず、斯樣にあちから首尾好うして用ふれば、格別ぢやと云ふで有らうけれども、それは猶ほ立たぬ事ぞ。それならば、吾が主への忠義は、畢竟、敵のあしらひによるになつて、頼り無き事ぞ。忠臣の己が一命を捨てゝ、君の爲めにするからは、あしらひが善き程に、惡い程にとて、始めの合點がいぢらう樣が無い。大義を知らざる哀しさは、此の樣なる所で、嚴顔ほどの者も、仕ぞこなふ。

 『太平記』の鎌倉方の宇都宮公綱が、千破屋より南都へ引退いて居る時、都より綸旨を賜はりて、終ひに都へ登り降參す。是を美目(みめ)な事と思うたさうなれども、全く見苦しき有り樣ぞ。それでも「天子の御方になれば、大義は善いではないか」と雖も、それは今と成りて、命を維ぎたさに、首を引いて出たる者なれば、不義の心は同じ事ぞ。それならば何故に鎌倉方になりて、大事の天子の御方をする楠を責めたぞ。後先揃はぬから、どちも皆な惡い。是等の所、亂世に往々有ること也。考ふ可し。宇都宮が事、南都より京を攻む可き筈も無し。兎に角く鎌倉を出でぬ中の分別也。



□[禾+尤+山]侍中が血と爲り(西晉の[禾+尤+山]紹)。
[晉の成都王・穎、反す。東海王・越、景帝を奉じて穎を征す。前の侍中□[禾+尤+山]紹を徴(め)し、行在に詣らしむ。秦凖、紹に謂ひて曰く、「今ま往く、安危、測り難し。卿、佳馬有るか乎」と。紹、色を正して曰く、「臣子、乘輿を扈衞するに、死生を以てす。佳馬、何をか爲さん」と。已にして官軍敗績して、百官侍御、皆な散る。紹、朝服して輦に登り、身を以て帝を衞る。兵人、紹を引きて、之を斫る。血、帝衣に濺ぐ。後ち左右、衣を浣(あら)はんと欲す。帝の曰く、「□[禾+尤+山]侍中の血、浣ふこと勿れ也」と]。


○「佳馬有り」は、よき馬あれば、もしもの時、乘つて立退く事が出來る。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 □[禾+尤+山]紹、本は魏の臣たり。其の後ち晉、魏を簒つて、紹、又た晉に事ふ。此の紹が、大節を失ふ所ろ也。是も亦た茲にいらざる事ゆゑ載せず。司馬温公の論に、「紹が惠帝の爲めに死するの忠なくんば、不忠の罪、免れまじき」と云へるを、朱子、是を温公の誤りと云へる説、『語類』に見えたり。何故ならば、紹が前の不忠は不忠、後の忠は忠、頓と二つぞ。前の不忠ゆゑに、後の忠も惡いと云ふも誤り、後の忠ある程に、前の不忠も、それで消えると云ふも誤りぞ。それで「功過、相ひ掩はず」と、『論語』の管仲の下に、朱子の云ひ置かれたるも是ぞ。とてもならば、前の不忠なしに、頭から無瑕で、後の忠あらば、云はう樣も無い事ぞ。其の故に始めを謹むが大事と云ふは、此の事ぞ。右、『遺言』の本文に關はらざる事なれども、どうでも此の吟味かゝる程に、次でながら講義、此の如し。



張□[目+隹]陽が齒と爲り(唐の張巡)、顔常山が舌と爲り(唐の顔杲卿)、

或は遼東の帽と爲り、清操、氷雪より厲(はげ)し(三國魏の管寧)。
[管寧、少きより、操尚を以て稱せらる。時に漢室衰微、天下、大いに亂る。寧、遼東の公孫度に往きて依る焉。山谷に廬し、語、唯だ經典、世事に及ばず、專ら威儀を□[飾の巾の替りに力。とゝの]へ、禮讓を明かにす。學者に非ざれば、見ること無し也。遼東に在ること三十七年にして還る。寧、始めて東するより也、度等、前後資遺(金品贈與)する所、皆な受けて諸れを藏む。是に至りて、盡く之を封還(封をつけかへて返還)す。魏、寧を以て大中大夫と爲す。固く辭して受けず。後ち又た光祿大夫と爲し、安車・吏從を給し、禮を以て發遣す。復た至らず。年八十四にして卒す。寧、常に□[白+匕。そう。黒]帽・布襦袴(ぱつち)・布裙(前埀)を著(き)、時に隨つて單復す。海を越えてより歸るに及ぶまで、常に一木搨(腰掛)に坐し、五十餘年を積み、未だ甞て箕股(兩脚を投げ出す)せず。其の搨上の膝に當る處、皆な穿(つらぬ)く。環堵(小屋)・□[艸+畢。棘葺]門、窮巷に偃息し、日を并せて食ふ。俗を厲まし、獨行し、危を經、險を蹈み、其の節を易へず。親舊困窮、必ず分つて瞻救す。孫□[巛+邑]等、寧を薦めて曰く、「含章の素質、氷潔く淵清し」と]。

○「遼東云々」。亂世なれば、不義無道の者に辱しめられまいと思ひ、格別かけ離れた所に行かれた。

○「時に隨つて單復す」。質素潔白、夏になれば則ち綿を拔いて單衣に、冬になれば則ち綿を入れて袷(あはせ)と爲せり。

○強齋先生の曰く、「含章」は、表向きに顯はれずして、裏に麗しい綾を含んで居ること。「素質」は、木地の素直に見事な事。それが氷の樣に潔く深う澄んで見える事。「淵清」は、冴へ切つた淵の、澄んだと云ふ樣な事。
 

  • [28]
  • 文天祥『正氣の歌』其の一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月23日(土)00時43分51秒
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天地に、正氣有り。雜然として流形(萬物)に賦す。
下は則ち河嶽と爲り、上は則ち日星と爲る。
人に於いては浩然と曰ふ。沛乎として、蒼溟(天地)に塞がる。
皇路(朝廷)、清夷なるに當りて、和を含みて、明庭に吐く。
時窮しては、節、乃ち見はれ、一々丹青(肖像畫)に埀る。

○墨山翁の曰く、「流形を賦(くば)る」と云ふが、(絅齋)大先生の付けおかれたこと故、むさとは改めにくけれども、望むらくは「雜然、賦りて形をしく」と讀みたきものぞ。流形と云ふ形は無い。是は『易』の上彖傳に、「品物、形を流(し)く」とある。其の文字ぞ。天は天で、地では地、人の禽獸草木の正氣なりが附與して、萬物の形にしき流す事ぢやによつて、さすれば、くばりて形を流くと讀みたいぞ。

○「明庭」は、明かなる朝廷。天地の正氣が目出度き世には、大和の氣を含みて、禮樂となり、文章となり、天下國家の法となる。これは治世のなりに、正氣のあらはるゝなり。

齊に在りては、太史の簡(春秋齊の大史某。『左傳』襄公二十五年條)。
[齊の崔杼、莊公を弑す。大史(史官)、書して曰く、「崔杼、其の君を弑す」と。杼、之を殺す。其の弟、嗣ぎで書して、死する者二人。其の弟、又た書す。乃ち之を舍す。南史氏(大史の屬官)、「大史、盡く死す」と聞き、簡(木札)を執りて以て往く。既に「書す矣」と聞き、乃ち還る]。

晉に在りては、董狐が筆(春秋晉の大史董孤。『左傳』宣公二年條)。
[晉の靈公、不君なり。趙盾、□[馬+聚。しばゝゞ]諫む。靈公、盾に酒を飲まし、甲(武裝兵)を伏せ、將に之を攻めんとす。其の下、之を知り、盾を扶けて、以て(靈公御殿より)下る。盾、遂に出奔す。盾が昆弟・趙穿、靈公を襲殺して、盾を迎ふ。盾、復た反り、穿をして文公の子・黒□[殿+月。とん]を周に迎へしめ、之を立つ。是を成公と爲す。盾、復た國政に任ず。大史・董孤(春秋・晉の史官)、之を書して曰く、「趙盾、其の君を弑す」と。以て朝に示す。盾の曰く、「殺す者は趙穿なり。我に罪無し」と。孤の曰く、「子、正卿(上席家老)と爲り、亡げて竟を越えず。反りて賊を討ぜず。子に非ずして、誰ぞ」と]。


○「君に罪を得て亡ぐるならば、遠國に立退きさうなもの。然るに境を出でざるは、日和見と云ふもの。たとひ境を越えて歸るも、罪は免れぬ」と、程子の仰せられた。杜預の註に、「境を越えば、則ち君臣の義絶ゆ。以て賊を討たざる可し」と。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 夫れ趙盾は、靈公の爲めに心を盡し諫めを申し、其の上に靈公、聞かずして、だまし殺しにせんとすれば、餘義も無く、君は無道にして、臣は過り無しと云ふ上に、其の儘それより國を立ち遁れて走れば、則ち趙盾、靈公を弑せんと望むに非ざること、明か也。且つ已に去りて後、趙穿、自ら靈公を弑して、國を保つ可き人無ければ、則ち趙盾を迎へて、又た別の君を取立てたれば、始終、盾がしわざとは言ひ難し。されども董孤、之を書して、「趙盾、其の君を弑す」とするものは、跡の孤が言ひ分にて、わけ能く聞こえたるぞ。正卿たる者が、難を遁れるとて、走(に)げ廻る、是れ一つ。走げて國境を離れずして、迹の樣子を見合はして居る、是れ一つ。扨て靈公弑せられて、其の後ち呼返されて、其のまゝ歸りて、其の君を弑する賊を討たざる、是れ別しての一つ。是を以て見れば、趙盾が本意、此の如くしたきと思うて、己は口出して云ひはせずして、跡にて穿が弑したるを、能くこそしたれと、譽めぬ計りに悦ぶ合點と、紛れ無く見ゆる。すれば趙盾が罪は、言ふに及ばざる事なれども、大根は趙盾が意に好く樣に成りたると云ふものなれば、罪の歸す所は、趙盾であると云ふこと、のつぴきならぬぞ。總じて『春秋』の筆法、いつとても大義を正すに、其の詰まる所の大根へ本づけて、其の意を正して、きつかりと賞罰するが大法也。それで孔子も、『春秋』に、眞つ此の通り筆せられた、申すに及ばざる不易の絶筆ぞ。

 左馬頭(源)義朝が、「親の爲義を弑せ」と云ひ付けの有る時、我が臣の鎌田兵衞政清に談合をする。政清が勸めによりて、終ひに之を弑す。是も自ら弑するに非ず、政清に殺させたる也。委しきこと、『保元(物語)』・『平治物語』に見えたり。今の世に至る迄、只だ政清が爲義を弑したとは言はず、義朝が親を弑したりと唱ふるは、眞つ此の旨の、大義の詰まる所の大根が逃れぬ故ぞ。大塔宮(護良親王)を土の牢より出し弑させたるは、(足利)直義が仕たる事なれども、罪は畢竟、尊氏(ママ。愚案、「高氏」とぞ、必ず書す可きぞ――★註一)が弑したに極まるぞ。今とても尊氏、世に生きて有つて、此の言ひ分をせんに、「それは俺が云ひ付けた事で無い。弟の直義がさせた事ぢやげ」など、遁げ口を云ふべけれども、それは言はせぬぞ。それならば、「宮を殺した奴はにくいであらうが、何故に其の弟の直義を其の爲めに誅せぬぞ」と云ふ時は、返事が無い筈ぞ。此の大義が明かに無きに由りて、孔子、『春秋』の筆を執り玉ひて、天下後世の亂臣賊子共が畏れてひるむと有るも、眞つ斯樣の事でぞ。古今の亂臣賊子共の爲るしわざが、皆な己は、なるほど手では無道をせぬ顔で、其の子共や臣下共が、其のこすい下心を推量して、其の通りに君を弑し國を盗む樣にすれば、跡では、「はて扨て、己は思ひ掛けも無いに、わけも無い事をした」と、叱るやうにすれども、畢竟は心の内は悦ぶ事、諺に「いやゝゝ三盃」ぞ。此の凖(かね)で、古今を推しならして見よ。扨々かゝはゆき事ぞ。

 是につき、歐陽永叔(修)、『春秋論』と云ふ文を書いて、趙盾が事を論ぜらるゝには、「是は董孤が筆の一段は、『左傳』の誤りなる可し。何故ならば、君を弑する程の大惡を爲したる趙穿が罪を除いて置いて、直に君を弑したにも無き趙盾に、科(とが。罪)をかけう樣が無い。是は只だ趙盾が、直に弑したるが實事で有らうず」と云はれた。詳かに『歐陽文集』に載せてあり。近き書には、『文章軌範』にも載せてあり。考へ見る可し。文章はよけれども、論は僻事也。それならば、孔子の『春秋』は、別に書きにくい事も無し。斯樣の紛らはしき處を書き顯はして、大根を正すでこそ、『春秋』の『春秋』たる所なれ。それならば、趙穿が罪は免るゝかと云へば、それは小兒の云ひ樣なること也。此の一段の『春秋』の書法を吟味する程の者が、趙穿が弑した古事からを知らねば、かたから吟味は無いぞ。詳かに此の時の始末、知れた上の畢竟の論ぞ。『太平記』を讀まぬ者には、かたから大塔宮話もする事のならぬと同じこと也。是等の所、假初めながら別して大事に關かる事ぞ。「俺はさうも思はなんだけれども、人がさう云ふに因つて、さうぢやと思うた」の、「だたいはさうでも無けれども、後にさうで有つた」の、「其の時は、我は國の事は知らなんだ」と云ふ樣なる、へり口の一口も云ふは、皆な手前の不考と云ふ事、こゝにて能く審かにす可し焉。今の胡氏傳、極めて好し、程朱の説、此の如し。

 義朝が事、(北畠)親房『神皇正統記』の論、極めて當れり(★註二)。是に付き此等の例、古へより多く有り。唐の李□[王+崔]、吾が親の李懷光が謀叛の志ある事を、徳宗へ告げて、懷光、亡ぶると、其のまゝ自害したるは、是れ餘義無しと云ふべし。小田原北條の破るゝ時、松田左馬助、吾が親の敵へ裏がへるを、主人へ告げたる仕方は、是れ又た餘義無い事、忠臣と云ふべし。されども翌日、親誅せられたるに、己は其のまゝ死なず、其の後ち(北條)氏直につき、高野山へ行きたるは、義を失ふと云ふ可し。是等、天地の間の大變なれば、存命する・せぬの僉議にかゝる事で無し。親の謀叛を告げて、其れ故ゑ親を誅せらるゝに、己、何として生きて居るに忍びんや。左馬助、此の時、未だ十五歳とあれば、弱年故ゑ、大義を得辨へざる事も有る可し。笑止なること也。餘は是を以て推す可し。



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★註一。愚案、名分の辨、且つ古文書の實證から來る論なり。會澤正志齋先生の曰く、「程なく高氏、謀叛して、天下、再び亂れ[欄外註、尊氏を高氏と書く事、當時の古文書に從ふ]」(『草偃和言』四月十七日條)と。詳細は、平泉澄博士『足利高氏名分論』(建武義會『建武』三卷一號・昭和十三年一月刊に所收)。小生は、高氏を所謂「尊氏」と書すること、如何しても能はず。御諱を賜ひし尊氏、後に謀叛すれば、朝廷、「尊」の御字、必ず召し上げ給ふが故に、原文「尊氏」に作らると雖も、茲に於ては、敢へて「高氏」と訂すこと、絅齋先生、笑つて之を承認されるであらうこと、必せり。
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★註二。「父、不忠なりとも、子として殺すと云ふ道理なし」
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  • [27]
  • 文天祥『正氣の歌』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月19日(火)21時23分45秒
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天地に、正氣有り。雜然として流形(萬物)に賦す。
下は則ち河嶽と爲り、上は則ち日星と爲る。
人に於いては浩然と曰ふ。沛乎として、蒼溟(天地)に塞がる。
皇路(朝廷)、清夷なるに當りて、和を含みて、明庭に吐く。
時窮しては、節、乃ち見はれ、一々丹青(肖像畫)に埀る。

齊に在りては、太史の簡(春秋齊の大史某)。晉に在りては、董狐が筆(春秋晉の大史董孤)。
秦に在りては、張良が椎(韓の張良)。漢に在りては、蘇武が節(漢の蘇武)。
嚴將軍が頭と爲り(三國の嚴顔)。嵆侍中が血と爲り(西晉の嵆紹)。
張睢陽が齒と爲り(唐の張巡)、顔常山が舌と爲り(唐の顔杲卿)、
或は遼東の帽と爲り、清操、氷雪より厲(はげ)し(三國魏の管寧)。
或は出師の表と爲り、鬼神、壯烈に泣く(蜀漢の諸葛亮)。
或は江を渡る楫(かぢ)と爲り、慷慨、胡羯を呑む(西晉の祖逖)。
或は賊を撃つの笏と爲り、逆豎、頭は破裂す(唐の段秀實)。

是の氣、磅□[石+薄]する所、凜冽として萬古存す。
其の日月を貫くに當りて、生死、安ぞ論ずるに足らん。
地維、頼りて以て立ち、天柱、頼りて以て尊し。
三綱、實に命を繋(か)け、道義、之が根爲り。

嗟々(あゝ)、予、陽九(厄難)に遘(あ)ひ、隸や也、實に力めず。
楚囚(楚の鐘儀)、其の冠を纓し(故國を忘れず)、傳車(宿次の馬車)して窮北(元都)に送る。
鼎□[金+獲の右]、甘きこと飴の如し。之を求めて得可からず。
陰房(土牢)、鬼火に□[門+貝。さび]しく、春院(春の室)、天黒を□[門+必。と]づ。
牛驥(牛と駿馬)、一□[白+十。そう。かいばをけ]を同じくし、鷄栖(鳥小屋)、鳳凰食ふ。
一朝、霧露を蒙らば、溝中の瘠(せき。死骸)と作(な)るを分とす。
此の如き再寒暑(二年間)、百沴(惡氣)、自ら辟易す。
哀しいかな哉、沮洳場(低濕の土牢)、我が安樂國と爲る。
豈に他の繆巧(上手い手段)有らん。陰陽(邪氣)、賊(そこな)ふこと能はず。
顧みて此れ耿耿(憂ひ)在り。仰ぎて浮雲の白きを觀る。
悠悠として我が心憂ふ。蒼天、曷(なん)そ極り有らん。
哲人、日に已に遠く、典刑(手本)、夙昔に在り。
風簷(軒)、書を展(の)べて讀めば、古道、顔色を照らす。




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 本歌のみを抽出すること、件の如し。次に段々と、其の原文を記す。原文には、本卷前記の張巡・顔杲卿・諸葛亮以外、各々簡潔な傳が、割註として附いてゐる。其の前に、文天祥『正氣の歌』の影響を、舊稿から數篇挿入して、諸賢思索の資に供したい。

【藤田東湖先生『文天祥の正氣の歌に和す、竝びに序』】
【吉田松陰先生『文天祥の正氣の歌が韻に和す』】
【廣瀬武夫海軍中佐『正氣の歌』】
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【黒木慕楠少佐『國難を救ふ』】
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●荒川久壽男翁『水戸史學の現代的意義』(昭和六十二年二月・錦正社刊)に曰く、

 明治以前のわが國の史學は――ひとり史學のみならず、學問文化の全體が――わが國が東亞文化圏に位置するところからして、シナの文物の大きな影響をうけてきた。しかるにシナの史學は、孔子の『春秋』にも現はれるやうに、歴史的世界の基盤に道徳をおくものであつた。孟子が、孔子『春秋』を述作するにの意をほめたたへて、「孔子『春秋』を成して、亂臣賊子懼る」(滕文公章句下第九章)といひ、朱子が「聖人『春秋』を作る、其の事を直書するにすぎず、而して善惡、自らあらはる」(『朱子語類大全』卷八十三)とのべたのも、また歴史の中に道徳を見、歴史を明らかにすることによつて道を示し、もつて後世への鑑戒としようとしたシナの歴史思想をよく現はしたものであつた。かうして歴史は、後世への鑑となる。したがつて歴史は、また鑑とも考へられ、宋の司馬光の『資治通鑑』、また朱子の『通鑑綱目』を生み、これらがわが國近世の讀書人、士大夫に愛讀され、研究されたことは、いまさらいふまでもない。

 したがつてわが國の史學も、かかる史風をうけて發展してきた。しかしながらそれは、シナ史學への盲從ではなかつた。卓越したわが國の史書は、シナの史風を採用しつつ、それにおぼれず、むしろそれを自主的に驅使しようとした。たとへば『神皇正統記』がそれであつた。その著者北畠准后は、ふかく『春秋左氏傳』に通じ、しかもそれをこえて、日本の神典に、その源をおき、もつてシナ革命放伐の風を批判し、日本の道にもとづく歴史觀を提唱した。そしてわが義公光圀の發意に成る『大日本史』が、またさうであつた。たとへば正徳五年、大井松隣が肅公に代つて案文を起草した『大日本史の敍』に、義公平生の言葉として、「史は事を記す所以なり。事に據つて直書すれば、勸懲、自らあらはる」とあるのは、前にあげた朱子の言葉に似て、實はそれをこえるものがある。それを示すのが、水戸學の、したがつて水戸史學の幕末における結晶ともいふべき、藤田東湖の『和文天祥正氣歌』の序の一節であつた。それは、「然れども彼の所謂正氣は、秦漢唐宋、變易、一ならず。我が所謂正氣は、萬世にわたつて變らざるものなり」(『新定東湖全集』)とのべるところである。すなはちシナで正氣といふが、それは歴代の王朝交代の革命興亡によつて、ちぎれちぎれになり、正氣の根源たる道徳は、一貫して行はれてゐない。秦の忠臣は、漢の賊臣、元の忠臣は、宋の賊臣といふやうに、道徳が歴史を一貫して、連綿と行はれてゐるとはいへない。これに對しわが國は、建國いらい皇朝一系、萬古斷絶なく、革命なく、道徳は一貫連綿、したがつて正氣もまた萬世にわたつて不變であるといふのである。これは『大日本史の敍』の前述した、「據事直書、勸懲自見」の脚註とすべきものであつて、すなはちシナにおいても、歴史を歪みなく直書すれば、義はその中にありありと現はれるといふが、しかしシナの歴史の實状は、いま述べたやうに、いくたびもの革命によつて斷絶せしめられてをり、したがつて言葉では、道理が歴史の中に示されるといふものの、實際には、道理道徳そのものが分裂してしまつてゐるのである。



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  • [26]
  • 文天祥『正氣の歌の序』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月18日(月)21時41分8秒
  • 編集済
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●文天祥『正氣の歌の序』に曰く、

 予、北庭(元都の燕)に囚はれ、一土室に坐す。廣さ八尺、深さ四尋(三十二尺)可(ばか)り、單扉低少。白間(窓)短窄。汗下にして幽暗。此の夏の日に當りて、諸氣萃然、雨潦(溜り水)四集、床几(腰掛)を浮動する時は、則ち水氣と爲り、塗泥(雨上りの泥)半朝(朝の半ばから日が出づ)、蒸□[三水+區。泡だつ]歴瀾(漂流)する時は、則ち土氣と爲り、乍晴暴熱、風道四塞する時は、則ち日氣と爲り、簷(軒)陰薪爨(さん)、炎虐を助長する時は、則ち火氣と爲り、倉腐(腐米)寄頓(積貯)、陳陳(古米の臭)人に逼る時は、則ち米氣と爲り、肩を駢(なら)べて雜□[鰥の右+新饒。踏]し、腥□[月+操の右](生臭き)汗垢する時は、則ち人氣と爲り、或は□□[口の中に青。三水+口の中に豕。厠]、或は死屍、或は腐鼠、惡氣雜出する時は、則ち穢氣と爲る。是の數氣を疊(かさ)ねて、之に當る者は、厲(病氣)を爲さゞること鮮し。

 而るに予、孱弱(か弱い身)を以て,其の間に俯仰する、茲に二年なり矣。嗟呼(あゝ)、是れ殆んど養ふこと有りて、然然(しかゞゝ)を致すのみ爾。亦た安んぞ知らざらん、養ふ所、何ぞや哉。孟子の曰く、『吾れ、善く吾が浩然の氣を養ふ』(公孫丑篇上)と。彼が氣、七有り。吾が氣、一有り。一を以て七に敵す。吾れ、何ぞ患(憂)へん焉。況んや浩然は、乃ち天地の正氣也。『正氣の歌』一首を作る。曰く。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 「正氣」とは、眼前全體の天地造化の氣を指して云ふ。正氣とは、何故に云ふぞ。正とは、眞直ぐな、端的な、無雜無二、吉粹の氣を云ふぞ。かう合點して、はつきりと眼を開いて、明日とも言はず、今日の此の造化のなりを見よ。冬至は、陽の氣より始まつて、草木萬物、それゞゝに生成を遂げて、梅は梅となり松は松となり、それゞゝに育ち上がる。今日此の如くなるかと思へば、去年も此の如く、千萬世以前も此の如し。都ばかりかと思へば、日本國皆な此の如し、日本國ばかりかと思へば、唐・天竺、萬國までも皆な此の如し。四維上下も亦た此の如し、古今先後も亦た此の如し。一毫の雜り無く、一分の違ひ無く、きらりと上を見れば日星となり、日々夜々此の如く、俯して下を眺むれば洪河喬嶽となり、萬古此の如く、息まず動かず、是れ見よ、正氣ではないか。此れを一分いぢらせうと云う事も、崩さうと云ふ事もならぬ。天地の氣が、理一枚に成つて行はるゝは、扨々剛く大なる事ではないか。人は即ち其の中に生れて、其のまゝ直ぐ受けに、天地の氣に孕まれて生れ出でたる者なれば、紛れも無く、右、段々言立てたる、天地の正氣を身に持ちたる筈ではないか。さればこそ、人に於ては浩然とは云ふ。名こそかはれ、同じ者ぞ。古人の語に、「人は一个の小天地」(『禮記』天運篇・『度人妙經』)と云へるも、此の旨ぞ。

 さる程に此の人に在る正氣が、それゞゝに義理の場に當つては、如何樣の事にても、めげず挫けず、それゞゝの義理のなりが行はるゝ、今日此の如きかと思へば、古へも此の如し、日本ばかりかと思へば、唐土・天竺、萬國まで皆な此の如し。千萬年以前も、忠臣義士の爲る所は、割符を合はせ印判を押したる如く、微塵も違ひが無い。是が則ち直ぐに譬へでも無い、天地の正氣が四時運行、それゞゝのなりを見はして、梅となり松となり、萬里の遠き、萬世の久しき、一分も違はぬと同じ事ではないか。

 さる程に天地の正氣、いぢらぬ如く、人の正氣も、亂世に遇うても、貧賤に逢うても、富貴に遇うても、いぢりもせず、義理一枚、つつぱりて通り拔ける。それで正氣の本體を瑕付けずに通ると云ふ者ぞ。さらば通りたる人々は、何と樣な事ぞと云へば、いでゝゞ語つて聞かせ申さんと言ひ樣に、やがて「齊に在つては太史が簡、晉に在つては董孤の筆」より以下、段々著しき正氣の人々を、片端から指擧げて見せたぞ。是が紛れも無い、胡亂で云ふ事では無い、易い事、一々丹青に埀れて有るはと、名乘りかけて云うたぞ。是ほど段々云ひ立て、正氣と云ふ者を、青天白日の如く云ひ竝べて、其の跡に、「嗟々(あゝ)、予(われ)、陽九(災難)に遘ひ云々」と云うて、嘆いて謙退して云はるゝ樣なれども、つゞまる所、文天祥が身にこそ、正氣の道統を得たれと云ふこと、言外に奧深し。別して「風簷云々」の結聯を見よ。思ひ入つた味の有る語ではないか。嗚呼、人として正氣あらざる者無ければ、誰とても文山に劣る可き樣も無けれども、哀しきことは、「天地は理のみ而已矣」にして、雜りが無いに由つて、自ら大小始終、皆な正氣なれども、人には人欲と云ふ者が有るに由つて、思ひ乍ら義理を缺くからは、其の義理の缺けたる所で、一身の氣がちゞこなつてかじける程に、何として件の正氣の氣象が身に覺えがあらうぞ。易い事、我が心に耻づかしき事も無きよと思ふ時は、氣が自らしつかりとして、ものも云ひよきものぞ。何卒、善く無い事をして、人に藏すか僞るかする時は、我が心ながら氣がいじむじといぢけて、いな者で、あられぬ人の顔までがこはい樣で、平生、うつきりとした心が無いぞ。其の耻づかしく無い時は、則ち義理也。義理の時は、則ち正氣也。又た其の快からざる時は、不義也。不義なれば、則ち不正氣也。さればこそ、正氣とも云ふ。義氣とも、志氣とも云ふ、皆な一ぞ。どうでも義心からで無ければ、氣は正しく成らぬ程に、遠い事を云ふまでも無い。天地の正氣、古人の正氣、唯だ人々一心の上で察して見れば、明かな事ぞ。正氣と云ふに、いらざる辭も無用ぞ。只だ面々の氣で試みれば、其の味、自ら知らる可し。此の『(正氣の)歌』、假初め乍ら、『孟子』の跡を繼ぐ程の名文、尤も學者、深く玩す可きもの也。



○強齋先生の曰く、『正氣の歌』は、孟子の仰せられた「浩然の氣」を、文山の身に直ぐに養ひ得られて、浩然の氣なりに、めらず屈せず、大節義を守つて、天地古今の間に、凛然磅□[石+薄]して、身を終へられた、正大剛明のなりに云ひ出された辭ゆゑ、別して孟子浩然の氣の發明に、これほど大切な事は無い。其の故、此の辭ばかり、別に(絅齋)先生、講習なさるゝこと有り。正氣と云ふは、即ち浩然の氣の事ぞ。天地の間、すべて理と云ふより外なうて、此の理なりに、どこ迄も已まず行はるゝ所は、皆な氣の流行で、古今一體、不變不動で、天地の氣の浩然なりに流行して、春となり夏となり秋となり冬となり、山となり海となり草木となり禽獸となり、人と成つても、古へもさう今も此の通り、唐も日本も皆な斯うで、此の氣の少しも已まずに正大流行、天地に塞つて、春と云ふと、野も山も海も川も、春の氣の貫いて、どこ迄も流行せぬと云ふこと無く、夏と云ふと、金石も爍(と)かす程に、夏の氣の流行の、さあ、爰こそ、さうと云ふに成ると、微塵も跡へ引かず、めらず屈せず、どこもかも凛然磅□[石+薄]して、天地の間を、それゞゝに流行する正大の氣を知る可し。天地に在りて云へば、此の通り。

 さて又た人で云へば、子として孝、臣としては忠と云ふ、當然の義理より外は無うて、其の義理の、どこ迄も已まず、何の樣な事にも屈せず、忠孝と云ふ理なりに行はれてゆく、そこが正氣ぞ。浩然なりに義理を守り、大義を踏んで、少しも屈せず、粉にはたかれても、韲(なます)にせられても、いか樣な場でも、少しもめらず屈せず、‥‥何としても、其の已まぬ浩然なりを知る可し。仁義忠孝、皆な理で行はるれども、行ふ所は、氣で行はるゝ故、此の氣が浩然で無うては、えいやつと、しびりきらして、泣き々ゝする樣な事では、役に立たぬ。それで平生、氣を養ふと云ふが大事と云ふは、こゝぞ。‥‥浩然と云ふも、當分の強勢ながせいな事では無く、平生、義理なりに研ぎ々ゞして、其の義なりに氣の養はれて、何樣な事でも、めらず屈せず、どこ迄もちびずかじけぬと云ふを合點す可し。此の氣で無ければ、義理も行はれぬと云ふを、孟子も仰せられたぞ。



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 愚案、吉田松陰先生『講孟箚記』公孫丑篇上第二章、亦た看る可し矣。曰く、

「至大至剛は、氣の形状模樣にして、直を以て養ひて害無きは、即ち其の志を持ち、其の氣を暴ふこと無きの義にして、浩然の氣を養ふの道なり。其の志を持つと云ふは、吾が聖賢を學ばんとするの志を持ち詰めて、片時も緩がせ無くすること也。學問の大禁忌は、作輟(さくてつ)なり。或は作(な)し、或は輟(や)むる事ありては、遂に成就すること無し。故に片時も此の志を緩がせ無くするを、其の志を持つと云ふ」と。

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  • [25]
  • 文天祥『衣帶中の贊』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月17日(日)22時08分52秒
  • 編集済
  • 返信
 
 天祥の人爲る、豐下(頬から下が豐かなる風だち。長者の風貌)、英姿俊爽、兩目炯然たり。童子爲る時より、學宮の祠る所の郷先生・胡銓等の像、皆な「忠」を謚するを見、即ち欣然、之を慕ひて曰く、「沒して其の間に俎豆(そとう。臺と高杯。即ち祭器)せられざるは、夫(丈夫。男子)に非ざる也」と。甫めて弱冠、廷對(天子親からの試問)を奉じ、君道の大本、經世の急務を陳ぶ。文思神發、萬言、立ちどころに就(な)る[時の考官・王應麟、奏して曰く、「是の卷(及第の文章)の古誼(古への義理)、龜鑑の若し。忠肝、鐵石の如し。臣、敢へて人を得たる爲めに賀す」と]。宦者・董宋臣、都を遷し、敵を避けんと請ふに當つてや也、上章して之を斬らんと乞ふ。呂師元、偃蹇(のさばる)して命に傲るや也、又た上章して之を斬らんと乞ふ。賈似道、國を誤り、君を要(抑制)するや也、制に當り(書詔)、義を以て之を裁す。既に軍を督し、元を禦ぐ。劉洙・羅開禮等、戰死するや也、爲めに服を製して之を哭す。賓客・僚佐と語つて、時事に及ぶ毎に、輒ち几(脇息)を撫して曰く、「人の樂しみを樂しむ者は、人の憂ひを憂ふ。人の食を食む者は、人の事に死す」と。聞く者、之が爲めに感動す。

 性、豪華、平生、自ら奉ずる、甚だ厚し。勤王の詔り至るに及び、之を奉じて涕泣し、痛く自ら抑損し、家貲(家財)を□[聲の耳の替りに缶。つく]して、軍費と爲す。兵を起す以來、斷々焉として力を殫し謀を竭し、顚(顚覆)を扶け危を持し、興復を以て己が任と爲す。鞠躬激厲、獨り其の志を行ふ。讒に遭ひ憂へに逢ひ、崎嶇間關、百挫千折すと雖も、進むこと有りて退くこと無し。屢々躓(つまづ)きて、愈々奮ふ。故に軍、日に敗れ、勢ひ、日に蹙(ちゞま)りて、歸附、日に衆し。之に從ふ者は、家を亡(うしな)ひ族を沈めて、而も顧みず。督府を開き、僚屬を置く、一時、名を知らるゝ者、四十餘人にして、遙かに號令を請ひ、幕府文武の士と稱する者、悉くは數ふ可からず。皆な一念、正に向ひ、死に至りて、悔ゆること靡(な)し。厓山の戰に、張弘範、數々人をして張世傑を招かしむ。世傑、死守して從はず。古への忠臣を歴數(一つ一つ數ふ)して、以て之に答ふ。弘範、乃ち天祥をして、書を爲りて之を招かしむ。天祥の曰く、「吾、父母を扞(ふせ)ぐこと能はず。乃ち人をして父母に叛くを教へて、可ならんや乎」と。固く之に命ず。天祥、遂に過ぐる所の『零丁洋の詩』を書して、之に與ふ。其の末に云ふこと有り、「人生、古へより、誰か死無からん。丹心を留取して、汗青(歴史)を照らせ」と。弘範、笑つて之を置く。竟ひに逼ること能はず。已に北し、獄に居ること四年、忠義の氣、一に詩歌に著はる。數十百篇に累ぬ。是に至りて、兵馬司、存する所を籍(書物に)して、之を上る。觀る者、涕を流して悲慟せざる無し。其の一履(天祥の靴)を得たる者有れば、亦た之を寶藏すと云ふ。


○「自ら奉ずる、甚だ厚し」。飲食・衣服を結構にして居らる(萬事に贅澤なりき)。是は則になる事では無けれども、これぐるみに、天祥の氣象を見よ。

○吉田松陰先生『照顔録』に曰く、文山の大節、何ぞ稱述を待たんや。但だ其の「平生、自ら奉ずる、甚だ厚し。聲妓、前に滿つも、勤王の後、痛く自ら貶損」するの一事、眞に誠に泣くべし。かゝる眞實の行ひ無くては、大節も立たざるなり。醇醇、腸を腐らし、美人、精を耗するの人、何の氣魄光焰あらんや。



●文天祥『零丁洋を過ぐ』(祥興元年、天祥四十三歳。『指南録』所收)

辛苦遭逢、一經より起る、干戈落落たる四周星。
――無學不文の者ならば、國家の一大事に遭遇しても、一大事なることを知らぬので、辛苦することもあるまいが、私は經書を修めて、人としての道を知つた所から、事の重大に奮起して、自ら救國の苦勞を擔ひ、武器を手に戰さに從ふこと、既に四年である。然るに萬事、志と違ひ、宋朝の復興はならず、歳月のみが空しく過ぎて行く。

山河破碎して、風、絮を抛ち、身世飄搖、雨、萍を打つ。
――蒙古兵の爲めに、我が國土が踏みにじられて行く樣は、恰かも風に柳のわたが吹き飛ばされて、四方に散つてゆくが如く、我が身が戰さに敗れて、各地に彷徨ふ樣は、正に雨に浮草が打たれて浮沈してゐるに似てゐる。

皇恐灘頭、皇恐を説き、零丁洋裏、零丁を歎ず。
――さて自分は戰さに敗れて、南方にさすらひ、或は皇恐灘の邊りを過ぎて、惶恐の有り樣を説いたこともあり、或は零丁洋中に、身の零丁(落ちぶれる)を歎いたこともあつた。

人生、古へより、誰か死無からん。丹心を留取して、汗青を照らさん。
――自分は斯く辛苦を重ねてゐるが、報國の念は、いよゝゝ堅い。思ふに、昔から死ななかつた者があらうか。いづれ我も死ぬ身であるから、立派な最期を遂げ、此の世に眞心を殘し置き、歴史を照らして、後の世の人々に、人たるの道を示したいものである。



●敬軒薛□[王+宣]『文丞相遺翰の後に書す』(『薛文靖公全集』卷二十八)抄に曰く、

 薛□[王+宣](明人。敬軒と號す)の曰く、「宋室、埀亡の秋に當りて、其の守帥、堅城に憑り、強兵を握り、風を望みて款(よしみ)を送り、戈を投げて膝を屈(かゞ)むる者、相ひ望む也。而して文山[吉安府に、文筆峯有り。天祥、其の下に居す。因りて號す]、状元宰相を以て、孤忠を奮ひて、以て國に報い、誓つて將に濛□[三水+巳。し]の日(夕陽)を中天に返さん(囘天)とし、疲卒を提つさげ、□[京+力。彊]敵に當り、流離顛沛、困苦艱厄、身を死亡に脱するの餘と雖も、憤憤たる興復の志、猶ほ萬一に庶幾す。赤手(空手)、兵を起すに及びて、苦戰支へずして、以て歸る(擒へらる)と雖も、元の君相に長揖して、而も拜せず。蓋し此の身、韲(なます)にす可く、粉にす可し。志、威武を以て屈す可からず。之を從容、死に就きて、以て仁を成すに卒ふ。其の大節、宇宙の間に炳耀軒轟し、凛凛乎として萬世君臣の大義を立て、天常(三綱五常)を棄滅するの降臣・叛將の、曾て犬豕も之れ如かざるを囘視するに、則ち其の忠賢、千古に冠絶する、豈に人の能く及ぶ所ならんや哉。

○是は抄録なるも、山崎闇齋先生『文會筆録』卷十九に、全文を收めたり。薛敬軒は、朱子の學を純守し、道義の研鑽に於いて、「朱子以後の一人」と稱せられ、闇齋先生が最も高く評價せる名儒なりき。



■□■文天祥『衣帶中の贊』■□■



孔、仁を成すと曰ひ、孟、義を取ると曰ふ。

惟だ其れ義の盡く、仁の至る所以なり。

聖賢の書を讀み、學ぶ所は、何事ぞ。

而今にして後ち、庶幾はくは、愧づること無からん。


○絅齋先生の曰く、『文山集』を見るに、朱子を慕ひ褒めらるゝ所、たゞいでは無い。學がいかう精しいと見ゆる。「孔、仁を成すと曰ひ、孟、義を取ると曰ふ」。是が『衣帶中の贊』ぞ。孔子・孟子こそ、學者の目當てになるが、「身を殺して仁を成す」(衞靈公篇)と云ふ、『論語』・『孟子』の詰まる所は、仁義の二筋。「生を舍(す)てゝ義を取る」(告子篇)と云ふ。「其れ義の盡く」。仁と義と二つかと云へば、さうで無い。義の盡くる所が、仁の至ると云ふ處。是れ文山の學の精しき處を見よ。大抵、仁と云へば、只だ物を愛すると覺え、義と云へば、只だ宜しきと思ひ、二筋立て、氣象が違ふ樣に思ふが、心と事とは、常にはなれぬものにて、こゝの義を至極、盡し々ゝして、一點も曇り誤まることも無く、怨む所も無く、我が心の安んずるまで、一杯し詰める。こゝで仁とは云うたものなり。それで義なりの盡くるを仁と云ひ詰める。精しきものなり。義さへ一杯し詰めると、吾が心は、自から落着き安んずる。其の安んずるまで、推しおほせる事ぞ。「聖賢の書」、廣きことなれども、こゝでは分けて、聖は孔子、賢は孟子ぞ。「學ぶ所」、平生、こゝをゝゝゝとこそ、心にかけたるに、只だ今ま君の爲めに斬られて死ぬるなれば、大方、恥かしう無いと云ふものであらう。「而今而後」、分けて潔き遺言なり。あの衆の上では、自慢の自負するのと云ふ嫌ひは無い。

○強齋先生の曰く、「孔、仁を成すと曰ひ、孟、義を取ると曰ふ」。孔子は「身を殺して仁を成す」と仰せられ、孟子は「生を舍(す)てゝ義を取る」と仰せられた。すれば孔孟の教へは、仁義より外に無い。孔子の血脈を得られた孟子ぢやからは、仁と仰せられ義と仰せられたに違ひ無い。「惟だ其れ義の仁く、仁に至る所以なり」。義なりに十分を盡くす、それが仁、至ると云ふもの。仁と云ふなりの、忍びぬ心を事實で見た時は、義の字。義理の十分盡きた所が、仁の至つたと云ふものぢやと有ること。朱子以後に、此の義の字を明かに知つて、仁義の底を云ひ拔かれたは、文山一人ぞ。「聖賢の書を讀み、學ぶ所は、何事ぞ。而今而後、庶幾はくは、愧づること無からん」。平生、孔孟の書を讀みて學をするは、何事ぞ。仁義忠孝の三綱五常の教へでは無いか。すれば今、忠義なりに守つて、大節を全ふし失はずに身に歴たからは、學ぶ所に愧づかしいこと無いと有ること。忠臣多けれども、能く仁義の源を學び得たる人は、文山一人ぞ。千古に冠絶すと云ふも、此の樣な事からぞ。

○西依墨山翁(闇齋――絅齋――強齋――西依成齋――墨山)の曰く、「孔、仁を成すと曰ひ、孟、義を取ると曰ふ云々」。『衣帶中の贊』と云ふが是ぞ。天下古今、學者の目當と云ふは、孔孟ぢやが、『論語』には「身を殺して仁を成す」と云うてあり、『孟子』には「生を舍てゝ義を取る」と云うてある。つゞまる處、人の道は、仁義の兩端より外は無い。時に實を知らぬ者は、仁と云へば、唯だ慈愛の筋とのみ心得、義と云ふと、斷制の筋と心得、仁と義とは、大分、氣象が違うて、初めより二筋の樣に思ふが、そで無い。だたい心と事とは、相ひ離れぬもの。夫で初めより本心の筋とかゝらいでも、事々義の至極を盡して、一片曇り無く、毛頭恨み無く、我が心の安んずるまで一盃をし詰めさへすれば、別段に仁と云はずして、仁、そこにある。爰が只だ今ま云ふ通り、心と事と、初めより自然に相ひ離れぬ證據ぞ。義の一杯さへし詰めると、吾が心は自ら安んじて來るもの。すれば義理で心の安んずるまで仕詰めると云ふより外ない。爰が自然と仁義の持合はせて行く處ぞ。爰を見取られたと申すからは、忠義一道は申すに及ばず、自體、文山の學の委しいが、是で見えた。夫で初めには仁と義とを二句に分かつて、三句目より、「惟だ其れ義の盡く、仁の至る所以なり」と云ふ。「聖賢の書を讀む」と云へば、勿論、廣い事なれども、上二句を請けてをるから、主は、聖と指すは孔子、賢と指すは孟子。學者、平生、孔孟の書を讀み、學ぶ處は何事を學ぶ事ぞ。つゞまる處、人の道、此の仁義の二つを盡す爲めの學問。夫で主も平生、右の仁義、爰を々ゝとこそ心掛ける事ぢやが、今と云ふ今、國の爲めに死ぬるなれば、仁義の道に對して、大方は恥づかしい事もあるまいが、とある事で、「而今而後云々」。爰が別きて潔い遺言ぞ。恥ないと云へば、どうか吾と自負自慢の樣なが、自負自慢のと云ふ嫌ひは、此の人の地位に至りては、最早や無いこと。今にしてと云ふ言詞の中に、甚だ深い味があると心得るがよい。俗に云ふ、棺の蓋(ふた)閉めねば知れぬと云ふもの(昌黎韓愈『同峽冠詩』に曰く、「棺を蓋うて、事、乃ち定る」と)。何ほど數十年の間、守り貫(ぬ)いて來て、此の一息存する内は、どの樣な心にならうも知れぬ。片息かけてをる内は、請合ひはならぬ。今と云ふ今、義の爲めに死するを見ると、右の氣遣ひは無い故、「而今而後、庶幾はくは、愧づること無からん」と云ふぞ。

○「而今而後云々」。曾子の易簀の時、「今にして免がるゝことを知るかな夫、小子よ」(『論語』泰伯篇)と。曾子は孝の方から云ひ、文山は忠から云はれたが、旨は同一なり。孔孟の言に「愧づること無からん」。



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  • [24]
  • 文天祥の碧血、陸秀夫・張世傑の入水。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月17日(日)00時01分57秒
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 妻子・幕僚等、皆な執へらる。天祥、尚ほ散亡を收拾して、以て後擧を謀る。而るに未だ幾ばくならず、端宗も、亦た崩ず。群臣、多く散り去らんと欲す。丞相・秀陸夫の曰く、「度宗皇帝の一子、尚ほ在り。將に焉(いづ)くに之を置かんとする。古人一旅(五百人)・一成(十里四方。我が國の一里程度に當る)を以て、中興する者有り[寒□[三水+足。さく]、夏后相を弑す。相の子・少康、虞に奔る。田一成・衆一旅有り。能く其の徳を布き、以て夏衆を收め、遂に□[三水+足]を誅して、禹の舊績を復す]。天、若し未だ宋を絶つことを欲せずんば、此れ豈に國を爲す可からざらんや邪」と。乃ち衆と共に、衞王を立つ[即ち廣王、後に改め封ず。元を祥興と改む]。年八歳。

 天祥、王の位に即くを聞き、上表して自ら劾す。詔して少保・信國公を加ふ。軍中、大いに疫するに會ひ、士卒、多く死し、天祥の母も、亦た病沒し、長子、復た亡して、家屬、皆な盡く。大勢、已に支ふ可からず。天祥、尚ほ諸將を會し、劇盗等を潮陽に討じ、之を破る。而して残賊、又た元の兵を導いて來り、倉猝突至、衆、戰ふに及ばず。天祥、遂に執へらる。腦子(毒藥)を呑みて、死せず[別將・劉子俊、自ら天祥爲りと詭(いつは)り、天祥を免る可からしめんと冀ふ。天祥の至るに及びて、各々眞僞を爭ふ。元、遂に子俊を烹る]。潮陽に至るに及びて、元の將・張弘範、之を見る。左右、之に拜を命じ、□[手+春の日は臼。つ]くに戈を以てす。屈せず。弘範、乃ち其の縛を釋き、客を以て之を禮す。天祥、固く死を請ふ。弘範、許さず。之を舟中に處く。尋いで厓山の戰ひ敗れ、宋亡ぶ矣。

[崖山軍、潰ゆ。陸秀夫、先づ其の妻子を驅りて海に入れ、帝に謂ひて曰く、「國事、此に至る。陛下、當に國の爲に死すべし。徳祐皇帝、辱めらるゝこと已甚(はなは)だし。陛下、再び辱めらるゝ可からず」と。即ち帝を負ひて、同(とも)に溺る。楊太后、帝崩ずと聞き、膺(むね)を撫でて、大いに慟(なげ)きて曰く、「我が死を忍び、艱關、之に至る者は、正に趙氏の一塊肉(八歳の恭宗徳祐帝)の爲めのみ耳。今、望み無し」と。亦た海に赴きて死す。張世傑、之を海濱に葬り、尚ほ趙氏の後を求めんと欲し、廣に入らんと謀る。颱(辻)風、大いに作(おこ)る。將士、世傑に崖に登らんことを勸む。世傑の曰く、「以て爲すこと無き也」と。柁楼(船矢倉)に登り露香し、祝りて曰く、「我、趙氏の爲めに、亦た已に至る矣。一君亡びて、復た一君を立つ。今ま又た亡ぶ。我が未だ死せざる者は、庶幾くば敵兵退き、別に趙氏を立てゝ、以て祀を存せんのみ耳。今、此の若し。豈に天意なるか耶」と。風濤、愈々甚だし。舟覆へり、遂に之を死す。




●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 つい見れば、世傑が仕方は、延々なる體に見ゆる。されども此の時に當つて、宋の社禝を存するが、第一の大義ぞ。それ故に世傑、是程に潰れ果てたる有り樣なれども、未だ此の上にも、何卒、趙氏のしるけのかゝりたる人、一人にても有らば、取立てゝ跡を立つ可しと思ふ一念、炳然として丹の如きより外、脇目も振らずして見ゆる。其の上に續かずんば、其の上の事と、詰めてゆくぞ。是が忠義の熟したるものぞ。總じて斯樣の間に成りて、敵へ降り迯(に)げあるきて命を惜しむは、勿論、言ふに足らず。只だ忠義とて心は一杯なれども、めつたに身一分を死んで善きとは云はれず。匹夫・匹婦の首縊りて死にたる樣にて、何の詮も無く、身方の損をする迄ぞ。さる程にどこ迄も、少しにても成る可き覺えあらば、ならうだけ爲(し)詰めて見て、成らずんば、成らざる時の事にしたが善し。それで幅へかゝる忠臣の、早く自害したるは、罕(ま)れ也。さり乍ら其の段は、面々の器量才智を考へて、成る程のたけを爲詰めて見る可く、大小高下の違ひ有りとも、畢竟、一點も忠義に耻づること無くして遂げれば、是が恨み無き所ぞ。さる程に忠餘り有りて才の足らぬは、是非なき事ぞ。

 それで學者は、窮理格物、治國平天下のすべを知るは勿論也。こゝぞと云はゞ、持つて參らんと、軍の事をも、隨分窮めて、道具表式等までも、學者の窮め知らざること無きは、そこでの事ぞ。されども心術に磨きが無ければ、肝心の忠義の大根が無き程に、克己復禮・存養省察等の工夫、嚴しく細かに在るは、此の爲めぞ。それとても理が明かに無ければ、何も角も立たぬ程に、格物が第一の工夫ぞ。それで君子にも、たわけは無きものぞ。無生に學者と云へば、殊勝に見えて、人の爲めに侮られ、騙さるゝ樣にしなすは、學者の屑ぞ。學者と云ふからは、異義の云はれぬ、縱横十文字、隙間のあかぬ樣に身をも持ち、氣も働かねば、役に立たぬ。此の合點で見よ。學から行かいで、忠も孝も、何も一分も動かぬと云ふは、こゝの事ぞ。其れが忙しきにより、學者は志さへ立てば、用に立たぬ事は、隙を費し身を働かす事はせぬ筈ぞと、自ら合點がゆくぞ。才智と云ふも、只だ常の才智と云ふでは無い、理を詰めて知るが才智ぞ。世傑が樣にして、ならぬは天命也。

 成しすましたるは、古の頼朝、又た總體は惡けれども、北條高時が、子共を鎌倉滅亡の時、方々へ隱したるは、をぞい事ぞ。中前代とて、後に又た甚だ起りたるも、それ故ぞ。五大院右衞門宗繁が、相模太郎を賺(すか)したるとて、其れを譬へに引くは惡し。それはそれで、不忠信者。此方(こなた)は此方で能くすれば、千年後でも起りて出ば、それが本意ぞ。『遺言』の本意には、此の樣なる事は言はぬが善けれども、全體から云へば、是れ迄に詰めて合點したが善し。扨て才無き程にても、忠義な者なれば、それに疵は付かぬぞ。根本を失はざる程に、それは其れで善いぞ。



○黄衷(明人)の曰く、崖門の變、文天祥・陸秀夫・張世傑、後先、節に仗りて、以て死す。予、嘗て其の風を欽ひて、其の志を悲しむ矣。夫れ行都(行在所・臨安)より海を航り、泉(泉州)を如(ゆ)き廣(廣州)に如く。水砦孤軍、倉皇駐□[馬+日]、據る可きの地無し。守臣制帥(大將)、死する者・執へらるゝ者・叛き以て降る者、□[風+三火]迅蓬斷、圖る可きの將無し。亡を收め散を集め、裳を裂きて以て戰ふ。乾(干飯)を茹(かじ)り滷(海水)を飲み、用ふ可きの兵無し。君を亡して君を立て、遺□[釐の里の替りに女。寡婦、即ち楊太后]弱息(八歳の天子・祥興帝)、全ふす可きの勢ひ無し。日變(蝕)り星隕つ、玄机厄兆(不吉な兆)、復た爲す可きの時無し。三君子なる者は、豈に微を燭(てら)す者に非ざらんや哉。且つ猶ほ南筮(南海の水涯)に間關(困難に遇ふ)し、四つ年所を歴、瞿瞿然、皇皇然、望みを義勝つ者は、濟(な)るに致し、一旅・一成の奮を庶幾ふ。之を(陸秀夫・張世傑の)魂、滄海に濤し、(文天祥の)血、柴市に碧するに卒へて後ち已む。孔子(曾子の誤)の、所謂る「大節に臨みて、奪ふ可からざる者」(『論語』泰伯篇)、非か歟。嗚呼、否泰相ひ乘じ(宋命閉塞・元命通開)、世祚(天子の位)、幾(ほと)んど易りて、綱常元氣、獨り宇宙無窮の内に磅□[石+薄]する者、三君子の天、定まる矣]。

○強齋先生の曰く、あの衆の忠義の命脈は、天地萬世の内に鳴りはためいて居ると云ふこと。慷慨凛冽の大體の忠義なりに、宇宙の間に磅□[石+薄]して居ると、直ぐに『正氣の歌』で云うたぞ。宋は亡びても、あの衆の綱常を扶植する忠義は、萬古に存して居る。すれば三君子の天は、定まつたと云ふもの。此の樣な云ひ樣が、極めてあの樣な衆を、能く云ひ得たと云ふものぞ。あれほど夥しい忠義大節ではあれども、天下中が亂れ立つて、人欲暴逆の時は、其のなりは見えぬが、天地は義理なりの正しいなりに立つもの故、あの衆の忠義が、萬古の後に凛冽磅□[石+薄]して、義理なりに正しう落ちついて居ると云ふの旨で、「天、定まる矣」と云ふぞ。



 是に於て弘範等、置酒大會、天祥に謂ひて曰く、「國亡び、丞相の忠孝、盡きたり矣。能く心を改め、宋に事ふる者を以て今に事へば、將に宰相爲るを失はざらん」と。天祥、□[三水+玄]然として涕を出して曰く、「國亡びて、救ふこと能はず。人臣爲る者、死して餘罪有り。況んや敢へて其の死を逃れて、其の心を貳にせんや乎」と。弘範、又た曰く、「國、已に亡ぶ矣。身を殺して以て忠する、誰か復た之を書さん」と。天祥の曰く、「商(紂王)、亡びざるに非ず。夷・齊、自ら周の粟を食まず。人臣、自ら其の心を盡す。豈に書すると書せざるとを論ぜん」と。弘範、爲めに容を改む。乃ち使ひを遣はし護送して、燕に赴かしむ。道に吉州を經、痛恨し、即ち絶えて食はず[天祥は、即ち吉州廬陵の人なり]。意に擬(期)す、「廬陵に至り、瞑目長□[山+王+新饒。おう。往](死)し、笑ひを含みて地に入るを得ば、首丘(故郷を忘れぬ)の義を失はざらん也」と。即ち『墓に告ぐるの文』を爲(つく)り、人を遣はし馳せ歸りて、之を祖禰(でい。父祖の廟)に白す。

[其の辭に云ふ「烏乎、古より危亂の世、忠臣義士・孝子慈孫、其の事の兩全する能はざるや也、久し矣。吾れ生、辰(とき)あらず、此の百凶に罹る、仁を求めて、仁を得たり。抑も又た何をか怨まん。幽明死生は、一理也。父子祖孫は、一氣也。冥漠知る有らば、尚(こひねが)はくは、之を哀監せよ」と]。


○『文丞相全集』所收の『指南後録』に、「先太師の墓に告ぐるの文」と題して收めたり。節略文なり。「仁を求めて、仁を得たり」(『論語』述而篇に見ゆ。孔子の、伯夷・叔齊への評語)とは、人間の最も深い問題の解決を求めて、それを納得することが出來たのであるるからは、今更ら何も遺憾とする所は無い、と。

○強齋先生の曰く、詰まる所、君の爲めに忠と云ふに死すれば、詰まる所、孝を失はぬ。畢竟、忠義に耻かしう無い樣に仕ふれば、忠孝二つ無いからは、孝にも失はぬ程に、「又た何をか怨まん」と有ること。此の身は先祖の忠義なりに殘し下された形見ぢやからは、先祖の神靈の御座りて、此の度びの大事を御存知なされたれば、此の段を御覺えなされと有ること。明かな事ぞ。

八日に至つて、猶ほ生く。天祥、以爲らく、「既に郷州を過ぎ、初望を失ふ矣。命を荒濱に委(す)てば、則ち節を立つること、白(あきら)かならず。盍ぞ少しく從容として、以て義に就かざらんや乎」と。乃ち復た飲食す。

 既に燕に至り、館人供張(饗應)、甚だ盛んなり。天祥、寢處せず、坐して旦に達す。遂に兵馬司に移し、卒を設けて之を守る。元の丞相・博羅等、天祥を見る。天祥、入りて長揖(會釋)す。之を跪かしめんと欲す。天祥の曰く、「南の揖、北の跪。予は南人、南禮を行ふ。跪を贅(と)る可けんや乎」と。博羅、左右を叱して之を地に曳き、或は項(うなじ)を抑へ、或は其の背を扼(と)る。天祥、屈せず。首を仰いで、之と抗言す。博羅の曰く、「古より宗廟・土地を以て人に與へて[此れ、宜中・餘慶等、國を獻じて元に降るを以て、天祥を誣詰するのみ耳。故に天祥の答る所、後の如しと云ふ]、復た逃るゝ者有るか乎」と[此れ、鎭江より脱れ歸るを謂ふ也]。天祥の曰く、「國を奉じて人に與ふる、是れ賈國の臣也。國を賈る者は、利する所有つて之を爲す。必ず去らず[去るも、亦た脱れ歸るを謂ふ也。餘慶、燕に至りて、館中に留まる]。去る者は、必ず國を賈る者に非ざる也。予、前に宰相に除せられて、拜せず。使ひを軍前に奉じ、尋いで拘執せらる。已にして賊臣有り、國に獻ず。國亡ぶれば、當に死すべきに、死せざる所以の者は、度宗の二子、浙東に在り、老母、廣に在るを以ての故のみ耳」と。博羅の曰く、「徳祐嗣君を棄てゝ、二王を立つるは忠か乎」と。天祥の曰く、「此の時に當つて、社稷を重しと爲し、君を輕しと爲す。吾れ別に君を立つるは、宗廟・社稷の爲めに計る也。懷・愍(懷帝・愍帝)に從つて北する者は、忠に非ず。元帝(東晉初代皇帝、晉の滅亡後、建業にて東晉を立つ)に從ふを、忠と爲す[劉聰、晉の洛陽を陷れ、懷帝を平陽に遷す。愍帝、位に長安に即く。聰、又た長安を陷る。愍帝、出でて降る。是に於いて瑯□[王+邪]王・睿、位に建康に即く。是を元帝と爲す]。徽・欽(徽宗・欽宗)に從つて北する者は、忠に非ず、高宗に從ふを、忠と爲す」[靖康の禍。事、六卷の後に見ゆ]と。


○「社稷を重しと爲し、君を輕しと爲す」とは、『孟子』盡心章に、「民を貴しと爲し、社稷、之に次ぎ、君を輕しと爲す」に本づく語。但し孟軻が民本主義の理念として之を説くと、文天祥が已む無くして宋國の命脈を維持す可く之を爲したのとにては、其の内容、極めて異なるもの有る可し。

 博羅、語塞がる。忽ち曰く、「晉の元帝・宋の高宗は、皆な命を受くる所ろ有り。二王は、正を以てせず。是れ簒ふ也」と。天祥の曰く、「景炎[端宗の年號]は、乃ち度宗の長子、徳祐の親兄(實兄)、尚ほ正しからずと謂ふ可けんや。徳祐、位を去るの後に登極す。簒ふと謂ふ可からず。陳丞相、太皇の命を以て、二王を奉じて宮を出づ[宋、已に元に降り、益王・廣王、嘉會門より出でて、浙江を渡りて南す]。命を受くる所ろ無しと謂ふ可からず」と。博羅等、皆な辭無し。但だ命を受くる無きを以て、解を爲す。天祥の曰く、「傳受の命無しと雖も、推戴擁立、亦た何ぞ不可ならん」と。博羅、怒りて曰く、「爾ぢ、二王を立てゝ、竟ひに何の功をか成せる」と。天祥の曰く、「君を立てゝ、以て宗社を存す。一日を存すれば、則ち臣氏一日の責めを盡す。何の功か之れ有らん」と。曰く、「既に其の不可なるを知る。何ぞ必ずしも爲さん」と。天祥の曰く、「父母、疾ひ有り。爲す可からずと雖も、藥を下さゞるの理無し。吾が心を盡す焉。救ふ可からざるは、則ち天命也。今日、天祥、此に至る。死有るのみ而已。何ぞ必ずしも多言せん」と。博羅、之を殺さんと欲す。元主、可かず。乃ち之を囚ふ。一小楼に坐臥し、足、地を履まず。『正氣の歌』を作りて、以て己が志を述ぶ焉。中山に、狂人有り。自ら宋主と稱し、丞相を取らんと欲するに會ふ。元主、丞相は天祥爲りと疑ひ、乃ち天祥を召し、之に諭して曰く、「汝、宋に事ふる所以の者を移して、我に事へば、當に汝を以て相と爲すべし」と。天祥の曰く、「天祥は、宋の宰相爲り。安んぞ二姓に事へん。願はくば之に一死を賜ひて足れり矣」と。遂に之を都城の柴市に殺す。

 天祥、刑に臨み、殊に從容として、吏卒に謂ひて曰く、「吾が事、畢る」と。南向再拜して死す。年四十七。是の贊は、即ち其の衣帶の中に有る所ろ也。其の妻・歐陽氏、其の屍を收む。面、生けるが如し焉。尋いで義士・張千載、其の骨を負ひ、吉州に歸葬す。適に家人、廣東より、其の母・曾夫人の柩を奉じ、同日に至る。人以て忠孝の感ずる所と爲すと云ふ。

[楊愼(明人。號升庵)の曰く、「千載は、字は毅甫、廬陵の人なり。文山の友也。文山は貴顯なれば、屡々官を以て辟(め)すも、皆な就かず。文山、廣より還り吉州に至るや、千載、來り見て曰く、「丞相、京に赴く。某も亦た往かん」と。遂に文山の囚はるゝ所の側近に寓し、日に美食を以て之を奉ず。凡そ燕に留まること三年、潛んで一□[木+賣。とく。棺]を作る。文山、刑を受くる後、即ち其の首を藏め、仍りて文山の妻・歐陽夫人を俘虜中に尋ね訪ひ、出だして其の屍を收めしむ。千載、骨を拾ひ嚢に□[ウ+眞。お]き、辨□[木+賣](小棺)して南に歸り、其の家に付して之を葬る。次の日、其の子(甥)夢む。父たる文山、怒りて云ふ、「繩鋸(縛り繩・手足のかせ類)、未だ斷たず」と。其の子、心動き、毅然(膽を潰して)と之を啓き視るに、果して繩有り、其の髮を束ぬ。衆、公の英爽の畏む可きに服す。劉西溪(宋人・須溪)、其の事を紀し、文山像の後に贊して曰く、「同時の人、能く□[桑+頁。額]□[三水+此。清]せざらんや。昔し其の生を忌み、今ま其の死を妬む」と」と。


○強齋先生の曰く、「英爽の畏む可し」は、忠義の誠心のなり、強うをぞましい、どうも侮られぬ、其の精神の生きてある樣に、英氣の盛んにあるに服するぞ。爽は、さはやかに生きてある樣なから云うたもの。前を總べて承けて云ふ。夢に見えるやうな其の忠義の盛んに、死後までもさうある精神のをぞましうある所が、どうも云はれぬ。浩然の氣の養ふ所で、かうぢやと云はれたが、こゝの事。文山の大體の、衆の樣に無く、どこまでも鳴りはためいて、浩大な、死後にも其の精神が散らぬ。そこが浩然の氣の養ふ所が、其の樣に盛んな夢に見えて、「首に繩が未だかゝつてあるに取れ」と云ふ樣に、忠義の心の、凛々として存してあるぞ。

 「昔し其の生を忌み、今ま其の死を妬む」は、文山と同時に居て、元へ降つた者は、痛ましう羞かしう思うて、心にこたへられず、額ひに汗せずにはをられぬ。昔は己等が降參したによつて、文山の忠義を盡さるゝを嫌に思ひ、今は文山の忠義なりに、遂に大節を全ふ終へられた故、それを妬ましう思ふと云ふ事。能く云うた辭ぞ。

○王世貞(明人)の曰く、「余、趙弼(元の儒)が『文山傳』を讀み、深く風を反し禾起つの説を信ず。按ずるに、文山、既に義に赴く。其の日、大風、沙を揚げ、天地、盡く晦く、咫尺、辨ぜざる者、數日なり。宮中、皆な燭を秉りて行く。群臣入朝も、亦た炬(松明)を□[藝の云の替りに烈火。や]きて前導す。世祖(元主・忽必烈)、張眞人(留孫。道士)に問うて、之を悔ゆ。公に「特進金紫光祿大夫・大保・中書平章政事・廬陵郡公」を贈り、「忠武」と謚し、王積翁に命じて、神主(位牌)に書せしめ、柴市を洒掃し壇を設け、以て之を祀る。丞相・孛羅(博羅)、初奠の禮を行ふ。忽ち狂□[風+三火]、地を旋りて起り、沙を吹き石を□[滾の右。とば]し、目を啓くこと能はず。俄かに其の神主を雲霄の中に捲き、空空隱隱として雷鳴す。怨みの聲の如し。天色、愈々暗く、乃ち前の『宋の少保・右丞相・信國公』に改む。天、果して開霽す。事、周公と同じからずと雖も、然れども其の忠誠、天に格るは、一なるのみ耳」と。 

○按ずるに、趙弼の傳ふる所、未だ實否を知らず。姑らく之を録す]。
 

○「風を反し禾(か)起つの説」は、『書經』金滕篇に、周公旦が、管叔・蔡叔等の流言を信ずる成王に疎ぜらるゝや、秋、大いに熟して、未だ取入れざるに、大いに雷電し風吹き、禾、盡く堰(ふ)すると云ふ大異變が生じたが、やがて周公旦の潔白が明かになり、王、自己の不明を懺悔するや、風やみ風を反し、禾は盡く起つたと云ふ。

○強齋先生の曰く、先づは怪しい樣な事ゆゑに、「按ずるに、趙弼の傳ふる所」とあること。實否は知らねども、先づは書き付けて置くとあること。畢竟の至りは、斯うある筈のこと、疑はしい事は無いぞ。
 

  • [23]
  • 『靖獻遺言』卷之五・文天祥。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月16日(土)00時11分55秒
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 文天祥、字は宋瑞、號、文山は、宋亡びて四年後の十二月八日、即ち我が後宇多天皇の弘安五年に沒す。享年四十七。



『衣帶中の贊』

○『文丞相全集』卷八に「自贊」とし、こゝには斯く題せるも、共に文山の附けられしに非ず。文山の死後、其の衣帶の中に在りて、贊の體ゆゑ、斯く後人が名附けしものなり。



宋の少保・樞密使・信國公・文天祥

○少保は、おもり役なり。三公(太師・太傳・太保)に次いだ位。將軍の居る所を、樞密院と云ふ。樞密院は、將軍のこと。信國公とは、信國に封ぜられしよりの名。



 天祥、字は宋瑞[(明の)劉定之『文山詩史の序』に曰く、「公の『集杜(甫)句詩』に、「姓某履善甫」と書くは、(文山詩集)『指南集』の中、所謂る范□[目+隹]を張祿に變へ、越蠡を陶朱に改むるの意也」(當座の變名)と]。帝□[日+絲][度(たく)宗の嗣、是を徳祐帝と爲す(恭宗)。端宗、位に即くや、號して孝恭懿聖皇帝と爲す。元、廢して瀛國公と爲す]、徳祐の初め、元の兵、已に江を渡りて東に下り、勢ひ日々に迫れり矣。勤王の詔り下る。重臣宿將、率(おほむ)ね頸を縮めて駭汗す。天祥、時に□[章+枚の右+頁]州に知たり。慨然として郡中の豪傑を發し、孤兵(小勢)を提げて、獨り赴く。其の友、之を止めて曰く、「是れ何ぞ群羊を驅りて、猛虎を搏つに異ならん」と。天祥の曰く、「吾も、亦た其の然るを知る也。第々(たゞ)國家、臣庶を養育すること三百餘年、一旦、急有り、兵を徴(め)し、一人一騎の關に入る者無し。吾れ深く此(こゝ)に恨む。故に自ら力を量らずして、身を以て之に徇(したが。國難に殉ず)ふ。天下の忠臣義士、將に風を聞きて起つ者有らんとす。此の如くならば、則ち社稷、猶ほ保つ可き也」と。

○強齋先生の曰く、「詩史」と云ふは、たゞ詩が上手など云うたまで無く、其の詩を讀んでみれば、宋の世の治亂盛衰が見えて、記録の樣にうる故、下に史の字を付くるぞ。杜子美が詩を詩史と云うたも、此の事ぞ。『集杜句』と云ふは、文山は極めて詩の名人ゆゑ、杜子美が詩に有る句を用ひて、それをとつて、手前の句は一つも無く集めて、一首につくり立てられた。これも例有ることで、集句と云うて、故人も作つたぞ。人の作りておいた句を集めて、一首に作ることが有るぞ。

 「指南」と云ふは、元から宋は南に當る故、元へ拘はれて宋を忘れず、宋の方へ指して君を忘れず、國を憂へらるゝ情から名付けられたもの。

 「慨然」は、いで、此の度びの御用に立たいでは、と云ふこと。「提」は、少しも顧みずに、勇んで出るやうな氣味。

 既に(宋都の臨安へ)至り、上疏して、敵を抗(ふせ)ぐの策を言ふ。時議、以て迂闊と爲して、報せず(取上げぬ)。已にして諸路の州縣、屠陷降遁、相ひ繼ぎて、元の兵、既に臨安の北關に至る矣[臨安は、即ち宋の南渡以後、都する所なり(杭州・南京)]。天祥、前に頻りに敵と血戰し、死を以て宗廟を衞らんことを請ふ。是に至りて又た己れ衆を帥ゐ城を背にして、一戰せんことを請ふ。右丞相・陳宜中、聽かず。遂に太皇太后に白し[理宗の后・謝氏、帝□[日+絲]、位に即くや、太皇太后と曰ふ]、監察御史・楊應奎を遣はし、傳國の璽(太祖以來、三百年佩びたる天子の印判)を奉じて、以て元に降らしむ。元の將・伯顏(バヤン)、之を受けて、執政來たりて、面議せんことを欲す。使ひを遣はし、宜中を召す。宜中、先に已に夜、遁(のが)る。

 太后、乃ち(已むを得ず)天祥を以て、右丞相兼樞密使と爲し、往かしむ。天祥、官を辭して、拜せず。遂に挺身、命を奉じて元の軍に如(ゆ)き、伯顔と抗議爭辨す。伯顔、大いに怒り、群起して呵斥す。天祥、益々自ら奮ふ。伯顔、其の擧動の常ならざるを顧み、之を留めて還さず。天祥、怒りて、數々歸らんと言ふ。伯顔、聽かず。伯顔が屬將・唆都、從容に天祥に説きて曰く、「大元、將に學校を興し、科擧を立てんとす。丞相は、大宋に状元(科擧の主席及第者)宰相爲り。今、大元の宰相爲る、疑ひ無し。丞相、常に稱す、「國亡べば、與に亡ぶ、此れ男子の心」と。今ま天下一統す。大元の宰相爲る、豈に是れ易事ならん。國亡べば與に亡ぶの四字、願はくは公、言ふこと勿れ」と。天祥、哭して之を拒(しりぞ)く。


○強齋先生の曰く、右丞相を主として樞密使を兼ねしめられたぞ。右丞相なり、大將役なり、重い官ゆゑ、受けられなんだぞ。使ひに行く事は、辭宜なしに行かれた。我が身の進む事は、妄りに受けぬ筈。御用に立つ事は、隨分苦勞して勤むる筈のこと。

 繼いで又た賈餘慶を以て右丞相と爲し、祈請使に充てゝ、元の軍に如かしむ。嘗て天祥と同坐す。天祥、餘慶の國を賈るを面斥し、且つ伯顔の信を失へるを責む。降將・呂文煥、旁らより之を諭解す。天祥、并せて「文煥及び其の姪・師孟が父子兄弟、國の厚恩を受け、死を以て國に報いること能はず、乃ち合族、逆を爲す、尚ほ何をか言ふ」と斥(そし)る。文煥等、慚恚す。伯顔、遂に天祥を遣らず。之を拘へて北せしむ。尋いで伯顔、臨安城に入り、帝及び太皇太后・皇太后を取り[度宗の后・全氏、帝□[日+絲]、位に即くや、尊びて皇太后と曰ふ]、北に去る。而して度宗の二子、益王□[日+絲](後ち端宗景炎帝)・廣王□[日+丙](後ち衞王。宋最後の天子・祥興帝)、留まりて浙東に在り。元の兵、方に之を追ふ。天祥、尚ほ之を奉じて、以て恢復を圖らんと欲す。鎭江に至るに及びて、其の客・杜滸等と、密かに脱を謀る。滸の曰く、「不幸にして謀泄れば、當に死すべし。死して怨み有るか乎」と。天祥、心を指し、自ら誓ひて曰く、「死して悔ひ靡(な)し。且つ匕首(懷劍)を□[辛+力+辛。用意]ず。事、懼らくは濟(な)らざらん。挾みて以て自殺せん」と。遂に滸等十二人と、夜潛出して、眞州の城下に至る。城主・苗再成、出迎へ喜泣し、之を延きて城に入れ、與に國事を議す。

 時に楊州の守將、天祥、敵の爲めに間(間諜)を作すと疑ひ、再成をして亟(すみや)かに之を殺さしむ。再成、天祥が忠義を識り、兵を以て之を道びき、楊州の城下に抵(いた)らしむ。方に天祥に備ふること、甚だ急なり。衆、相ひ顧みて舌を吐く(驚懼)。天祥、乃ち姓名を變じて、東に出で、道に元の兵に遇ふ。環堵(百姓屋)の中に伏して免るゝことを得たり。然るに饑ゑて、能く起つこと莫し。樵者に從ひ、餘□[米+參]羹(餘剰雜炊)を乞ひ得て行く。而して元の兵、又た至る。衆、叢篠の中に伏す。二樵者、□[艸+貴。籠]を以て天祥を荷ひ去りて、脱するを得たり。更に轉じて海に汎(うか)び、以て二王を求む。時に益王、已に福州に位に即く[是れ、端宗と爲す]。而して天祥、遂に至る矣。即ち以て樞密使・同都督・諸路軍司馬と爲す。豪傑を招き兵士を募り、府を開き經略して、以て進取を規(はか)る。

 時に屬將・呉浚、既に元に降り、因て來りて天祥に説いて降す。天祥、責むるに大義を以てして、之を斬る。遂に元の軍を敗り、及び數州の縣を復して、諸路の將帥も、亦た屡々捷(勝利)を報ず。軍勢、稍々振ひ、大勛(勳)、集(な)るに埀(なんな)んとし、而も興國の戰ひ利あらず。空坑に至りて、兵、盡く潰(つひ)ゆ。

[別將・趙時賞、天祥の肩輿(肩で舁く輿)の後に坐す。元の軍、問ふて、「誰かと爲す」と。時賞の曰く、「我は、姓、文なり」と。衆、以て天祥と爲し、之を禽にす。天祥、是に由りて逸るゝことを得たり。元將、遍ねく俘虜の人を求めて識認す。「此れ、趙時賞也」と曰ふ有り。時賞、奮罵して屈せず。執へらるゝゝ者、或は自ら辨ず。時賞、叱して曰く、「死せんのみ耳。何ぞ必ず然らん」と。遂に之に死す。

○『(大明)一統志』に曰く、「天祥、時に崖石を顧み、祝(しゆう。祈)りて曰く、『天、宋を相(たす)け祚(さひはひ)せば、願はくば崖石を以て、兵路に墮ち塞がんことを』と。言ひ訖(を)はるや、石、果たして墮つ。元の兵、進むを得ず。後人、因りて亭を名づけて相石と曰ふ。解縉(明人)の曰く、「石の大きさ、數間の屋の如し。忽然として山頂より震ひ落ち、路徑に當る。元の兵、大いに驚きて、稍々却く。天祥、是に由りて脱去するを得たり。鄒□[三水+鳳]が輩、餘兵を以て拒戰し、死傷、地を塗(まみ)る。父子兄弟相ひ□[冐+力。つと]め、白刃を冒して、以て榮と爲す。蕭文□[王+宛]父子、饋餉(兵糧)を督し、亦た是の役に在り(其の日の戰に居合せたり)。幸ひにして死せず。退きて是の日の事を筆記すること、甚だ詳かなり。而して今の『宋史』及び元の『天祥傳』に、空坑の戰ひ、趙孟□[三水+榮](實は趙時賞)の、元の兵を紿(あざむ)きて、以て免るゝを得たりと云ふのみ而已。盖し『宋史』は、元の盛時に作る。故に天祥が事に于(於)いて、時に誣陋し、「丞相(天祥)が黄冠(道士)爲るを求む」と云ふ等を語るに至りては、欺罔、尤も甚し。顧ふに、豈に天祥の輕重を爲さんや」と]。




●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の説、今ま袁了凡が『綱鑑』に之を載す。袁氏が意は、「なるほど黄冠と爲らるゝ筈が、尤も」と云ふ。其の言ひ分の證據に、古周の武王、殷を亡し、天下を取る所に、箕子は正しく紂が一族として、歴々の臣下也。されども武王の時に至りて召出され、『洪範』の學を傳授あり。其の後ち其の分にて、朝鮮の主となつて居られたり。今ま文天祥、黄冠と爲りたいと云へるは、あなたには老子の學をして、一流に立つる者、是を道家と云ふ。此の者、常に衣服に黄色なる冠を着する者、此の流を黄冠と呼ぶ。此の卷の末に、所謂る張眞人が如きも、亦た此の流にて、平常、天子の側に居て、或は折々召出され、道家の話・陰陽方術の事を言ひ聞かす者ぞ。文山も、其れに成り度きと、望まれたるとの言ひ分也。右、袁氏が旨なり。

 是れ甚だ僻事也。文天祥の本末、忠義の合點、前後始終、微塵も紛るゝ事も無し。『正氣の歌』一篇にても、天祥が志は見えたること也。黄冠とならんと望む迄も無し。少しにても許され度しと思はゞ、あれほど又しても、強ひて心を折れられよ、宰相に成つてくれよと、あなたから望む程の事なれば、何樣にも其の分で居らるゝ身のなりはあること也。一小樓に坐臥し、「足、地を蹈まず」とあれば、出る事のなるさへ、假初にも土さへ蹈まぬ天祥が、何しに黄冠と成り度しと望む可き。況んや『文山集』を細かに見るに、文山が朱子の學を能く得られたる樣子、明か也。それが道家の異端に成り、ものを言はうとは、扨々とりつきも無き可笑しき事ぞ。是は此の通りにて、そこに誰とても疑ふ可き者も無けれども、此の箕子の穿鑿をもて來て、塗り紛らかすに由りて、何の角と云ふ事ぞ。箕子は道士に成りもせず、大事の道學の傳へを傳ふ可き人を求むるに、其の人なく、道、已に廢れ、『洪範』の學、後世に傳はるまじき所に、武王より客の體を以て箕子を請待して、是を傳へられ度きとあるに由りて、そこで箕子も是を傳へて、少しも武王の祿を受けず、直ぐに朝鮮へ立ちのかれたれば、天祥の事體とは、分けて違ひたること也。

 扨て畢竟は、箕子のなりからが、後世、君臣の出處の法には、何ともせられぬ事ぞ。何ほど道が亡ぶるとても、如何にしても、我が主を亡したる人を見て、學問の傳授どころでは有るまいぞ。身の道を枉げて道を傳ふるなれば、道が何の役に立たぬものぞ。譬へば如何に學問がし度きとて、人の家にある四書・五經を盗んで來て、それで學が上がりても、それは學問ゆゑに盗人になりたると云ふものぞ。『洪範』の傳はらぬは、形の如く惜しき事なれども、傳はらぬ程にとて、敵へ傳ふならば、『洪範』ゆゑに、君臣の義を害ふ程に、『洪範』、いらぬものぞ。總じて大義と云ふものは、かう詰めるものぞ。餘は皆な是を以て推す可し。それならば、孔子の「三仁」と仰せられたるは、そで無い事かと云へば、それは「奴と爲る」と云ふ事にて仰せられたれば、後の事では無いぞ。よしそれともに仰せられたりと云ふとも、それはそれにして、此の如く詰めるが、窮理の學ぞ。斯樣の筋が、孔朱の旨なれども、無正な合點な者には、爲ひ聞かせにくい事、能く審かにす可し焉。



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 愚案、「天祥、時に崖石を顧み、祝りて曰く、『天、宋を相け祚ひせば、願はくば崖石を以て、兵路に墮ち塞がんことを』と。言ひ訖はるや、石、果たして墮つ」と。文天祥の誓約なり。其の至誠熱祷、天に通じて、神變を生ぜしむ。天祥は、一種の超人にして、後段にも、其の明證、之れ有り。有志、注目して見る可きなり。

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  • [22]
  • 張巡・雷萬春・許遠・南霽雲。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月 9日(土)19時43分56秒
  • 編集済
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●張巡傳

○これまで眞卿の事はすんで、其の時分の忠節な者を附録にするなり。いつも云ふ通り、附録ぢやとて、次な人と云ふ事で無い。これにも別に卷を立てたき事なれども、眞卿と同時の人ゆゑ、附録にするなり。此の張巡は、玄宗の時、祿山を防ぎ、古今に無き手ひどい戰をせられた。さうして戰は上手、忠義は厚し。日本の楠なり。

 祿山、既に反す。□[言+憔の右]郡太守、之に降り、眞源の令・張巡に逼り、賊を迎へしむ。巡、吏民を師ゐ、玄元皇帝の廟(老子の御靈屋。李姓唐の祖靈と尊ぶ也)に哭し、兵を起して賊を討ず。雍丘に至りて、賊將の令・孤潮を拒ぎ、力戰して之を却く。潮、復た兵數萬を引きて、奄(たちま)ち城下に至る。巡、乃ち門を開きて突出し、身は士卒に先だち、直ちに賊陣を衝く。積むこと六十餘日、大小三百餘戰、甲を帶びて食ひ、瘡(きず)を裹(つゝ)みて、復た戰ふ。潮、巡と舊有り。城下に於いて相勞苦すること、平生の如し。潮、因りて巡に説きて曰く、「天下の事、去る矣。足下、堅く危城を守るは、誰が爲にせんと欲するか乎」と。巡の曰く、「足下、平生、忠義を以て自ら許す。今日の擧、忠義、何くにか在る」と。潮、慚ぢて退く。圍守すること之を久しうす。朝廷の聲問(消息)、通ぜず。潮、又た書を以て巡を招く。巡が大將六人、巡に白すに、「兵勢、敵せず、且つ上(天子)の存亡知ること莫し。降るに如かざる也」を以てす。巡、陽(いつは)りて許諾し、明日、堂上に天子の畫像を設け、將士を帥ゐて、之に朝す。人人、皆な泣く。巡、六將を前に引き、責むるに大義を以てして、之を斬る。士の心、益々勸(つと)む。

○「人人、皆な泣く」。口惜しいぢや。一度は死を以て戰ひ、賊を討ちて、御本望を遂げさせませう等、巡が云はれたとある。そこで、人々皆な涕を流されたぞ。

 巡、其の將・雷萬春をして、城上に於いて潮と相聞せしむ。語、未だ絶えずして、賊弩(石弓)、之を射る。面、六矢に中りて動かず。潮、其の木人なるを疑ひ、諜をして之を問はしむ。乃ち大いに驚き、遙かに巡に謂ひて曰く、「向きに雷將軍を見て、將に足下の軍令を知れり矣。然るに其れ天道を如何」と。巡の曰く、「君、未だ人倫を識らず。焉んぞ天道を知らん」と。賊、苦攻すること數月、兵、常に數萬。而して巡が衆、纔かに千餘。戰ふ毎に輒ち克ち、終ひに下らず。賊、將に寧陵を襲ひ、以て巡が後を斷たんとす。巡、遂に寧陵を守り、以て之を待つ。始めて□[目+隹]陽の太守・許遠と相見る。是の日、賊も亦た至る。巡・遠、與に戰ひ、大いに之を敗走す。賊將・尹子奇、又た兵を益して來り攻む。巡、將士を督勵し、晝夜苦戰して、將を擒にし、卒を殺すこと、甚だ衆し。是に於いて遠、巡に謂ひて曰く、「公、智勇兼濟す。遠、公が爲めに守らん。公、遠が爲めに戰へ」と。遠が位、本と巡が上に在り。是に至りて之に柄(權)を授けて、其の下に處り、疑忌する所ろ無く、中に居て軍糧を調へ、戰具を修む。戰鬪籌畫、一に巡に出づ。巡の獲る所の車馬牛羊は、悉く軍士に分かち、秋毫も其の家に入るゝこと無し。將士に謂ひて曰く、「吾、國恩を受く。守る所は、正に死のみ耳。但だ念ふ、諸君は躯を捐て力戰して、而も賞は勛(勳)に□[酉+守。酬]いず。此を以て心を痛むのみ耳」と。將士、皆な激勵して、奮はんと請ふ。巡、乃ち牛を椎(う)ち士を饗し、軍を盡して、復た出でて戰ふ。晝夜數十合、屡々敵鋒を摧(くぢ)く。而して賊攻、彌々鋭し。城中、食盡く。米に襍(まじ。雜)ゆるに、茶・紙・樹皮を以てして食と爲す。士卒、消耗飢疲して、皆な鬪ふに堪へず。乃ち更に守具を修めて、之を禦(ふせ)ぐ。賊、攻撃の術を盡す。而して巡、方(かた)に隨ひて拒破し、爲す所、皆な機に應じ、立ちどころに□[辛+力+辛]ず。賊、其の智に服し、敢へて復た攻めず。遂に城外に於いて壕を穿ち柵を立て、以て守る。巡も亦た其の内に於いて壕を作り、以て之を拒ぐ。

○強齋先生の曰く、敵は大勢、味方は小勢、、相手に成る事でも、張巡は、何であれ、天子の命で城を守りて居るからは、命なりに死する合點ぞ。楠正成、金剛山を守られた時、後醍醐天皇はとらはれ給ひて、何と成らせられたやら知らねども、兎角く此の城を、天子の命で守るなれば、大義の根を据ゑて、遂に守りおほせられた。見事な事ぞ。

 天道と云ふものは、人道當然を盡すこそ、天道ぢや。其の人倫君臣の大義に背き、人道も合點せで、何として天道を知られふ。今日を盡すこそ、直ちに天道なれ、とあること。此の辭で見た時は、たゞ血氣ばかりの勇で無く、學も有りたと見える。よい儒者の辭ぞ。

 時に近くに在る諸將、觀望して救ふを肯んずる莫し。賀蘭進明、臨淮に在り。巡、其の將・南霽雲をして、圍を犯して出でて、急を告げしむ。進明、巡・遠が聲績、己が上に出づるを嫉み、兵を出すを肯ぜず。且つ霽雲が勇壯を愛し、強ひて之を留め、食を具へ樂を作し、之を坐に延く。霽雲、忼慨して語りて曰く、「昨、□[目+隹]陽を出づる時、士、粒食せざること月餘日。霽雲、獨り食はんと欲すと雖も、義、忍びず。食ふと雖も、且に咽に下らず。大夫、坐りながら彊兵を擁し、曾て災を分かち、患を救ふの意無し。豈に忠臣義士の爲す所とならんや乎」と。因りて佩ぶる所の刀を拔きて、一指を斷ち[『通鑑』は、「一指を齧り落とす」に作る]、血、淋漓として、以て進明に示して曰く、「霽雲、既に主將の意を達すること能はず。請ふ、一指を留めて、以て信(證據)と爲さん」と。一座、大いに驚き、皆な爲に感激して泣下る。霽雲、進明の終ひに師を出すの意無きを知り、即ち馳せ去り、又た圍を冒し城に入る。賊の圍、益々急なり。或は城を棄て走らんと議す。巡・遠、議して以(おも)へり、「□[目+隹]陽は、江淮の保障なり。若し之を棄てゝ去らば、則ち是れ江淮無き也。堅く守り、以て救ひを待つに如かず」と。巡が士、多く餓死す。巡、愛妾を出して曰く、「諸君、年を經、食に乏しくして、忠義、少しも衰へず。吾れ肌を割きて、以て衆に啖(くら)はしめざるを恨む。寧ろ一妾を惜しみて、坐ながら士の飢ゆるを視んや」と。乃ち殺して、以て大いに饗す。坐する者、皆な泣く。巡、彊ひて之を食はしむ。茶・紙、既に盡く。遂に馬を食ふ。馬盡く。雀を羅(あみ)し、鼠を掘る。雀・鼠、又た盡く。鎧・弩を煮て、以て食ふに至る。城中、必死を知りて、畔(そむ)く者有る莫し。餘す所、纔かに四百人。

○強齋先生の曰く、(□[目+隹]陽の死守、即ち)萬世籠城の手本になる事ぞ。

 
賊、城に登る。將士、病みて戰ふこと能はず。巡、西向再拜して曰く、「臣、力竭く矣。生きて、既に以て陛下に報ゆること無し。死して、當に厲鬼(祟神)と爲りて、以て賊を殺すべし」と。城、遂に陷りて、執らはる。子奇の問ひて曰く、「聞く、君、督戰する毎に、大いに呼び、輒ち眥(まなじり)裂けて面に血し、齒を嚼(か)みて、皆な碎く、と。何ぞ是に至る」と。巡の曰く、「吾が志は、逆賊を呑む。但だ力能はざるのみ耳」と。子奇怒り、刀を以て之を抉(ゑぐ)り視る。齒、餘す所、纔かに三四。巡、罵りて曰く、「我は、君父の爲めに死す。爾は、賊に附く、乃ち犬彘也。安んぞ久しきを得ん」と。子奇、其の節に服し、將に之を釋さんとす。乃ち刃を以て脅し降す。巡、屈せず。又た霽雲を降す。未だ應ぜず。巡、呼びて曰く、「南八、男兒、死せんのみ爾。不義の爲めに屈す可からず」と。霽雲、笑ひて曰く、「將に爲すこと有らんと欲す也。公は我を知る者、敢へて死せざらんや」と。亦た降るを肯んぜず。乃ち遠及び萬春等、皆な之に死す。巡、年四十九。且つ死するに、起ちて旋る。其の衆、同じく斬らるゝ者、之を見て、或は起ち、或は泣く。巡の曰く、「之を安んぜよ。死は乃ち命也」と。衆泣いて、仰ぎ視ること能はず。巡、顔色亂れず。陽陽として、平常の如し。


○「南八」は、南霽雲、南氏の八男。
  ↓↓↓↓↓
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○「之に死す」、之の字を書くは、死場所をよくふまへて、微塵も屈せずに死するに書く、『綱目』の書法なり。

 初め□[埓の右+虎。かく]王巨(玄宗の子)、兵を引いて東に走(に)ぐるや也、巡に、姉有り、陸氏に嫁す。巨を遮り、行くこと勿れと勸む。巨、納れず。百□[糸+兼](けん。百反の絹織物)を賜ふ。受けず。巡が爲に、行間(軍中)に補縫(ほゝう。繕ひ物)す。軍中、陸家姑と號す。巡に先んじて、之に死す。巡は、長け七尺餘、鬚髯、神の如し。氣志高邁、交はる所は、必ず大人長者にして、庸俗と合はず。時の人は、知ること□[匹の八なし+口。不可。な]き也。出でて清河の令と爲る。治績最にして、節義を負ふ。或は困阨を以て歸する者は、貲(し。財)を傾け、振護して吝しむこと無し。秩(年期)滿ちて、都に還る。時に楊國忠(楊貴妃の一族)、方に國を專らにし、權勢炙(や)く可し。或るひと、一見せば、且つ顯用せんと勸む。巡、答へて曰く、「是れ乃ち國の怪祥爲り。朝宦(仕官)爲す可からざる也」と。更に眞源の令に調(召出)す。土に豪猾多し。大吏・華南金、威を樹てゝ恣肆す。巡、車より下り(行きつくと其の儘)、法を以て之を誅す。餘黨、行ひを改めざること莫し。政を爲すこと簡約、民、甚だ之を宜しとす。其の□[目+隹]陽を守るや也、士卒居人、一見して姓名を問ひ、其の後ち識らざる無し。人を待つに、疑ふ所ろ無く、賞罰、信あり。衆と甘苦塞暑を共にし、廝養(召使ひの賤男)と雖も、必ず衣を整へて之を見る。故を以て、下、爭ひて死力を致し、能く少を以て衆を撃ち、未だ嘗て敗れざる也。議する者、皆な謂ふ、「巡、江淮を蔽遮し、賊勢を沮む。天下、亡びざるは、其の功也」と。□[目+隹]陽、是より巡・遠を祠享(しきやう。祭る)し、號して雙廟と爲すと云ふ。

○「鬚髯」。鬚は顎ひげ。髯は頬ひげ。因みに鼻下のひげは髭なり。

○「天下、亡びざるは、其の功也」。たゞ褒めて云うたでは無い。實にさう也。事實を考へてみるに、尤もさう也。これは、郭子儀・李光弼が兩京を恢復される最中なり。其の時の兵糧は、江淮から出る也。若しこれが敗れると、糧もそのまゝ無くなる。何として郭・李二人の功を成すべきや。此の巡の死なれて十三日とて、郭・李が兩京を取返された。

[文天祥『雙廟に題するの詞』に曰く、

子と爲りて孝に死し、臣と爲りて忠に死す。死、又た何ぞ妨げん。
光岳、氣分かるゝより、士、全節無し。君臣、義缺く、誰か剛腸を負ふ。
賊を罵る□[目+隹]陽(張巡)、君を愛する許遠、聲名を留め得て、萬古、香し。
後來の者、二公の操・百錬の剛無し。
嗟哉(あゝ)、人生翕欻(きふくつ。突然)に、云(こゝ)に亡ぶ。烈烈轟轟、一場を作すに好し。
當時、國を賈り、甘心して虜に降らしめば、人の唾罵を受けん、安んぞ芳を流すことを得ん。
古廟(雙廟)幽沈、音容儼雅、枯木の寒鴉(あ)、夕陽に幾(ちか)し。
郵亭(宿驛)の下、奸雄、此に過ぐる有らば、仔細に思量せよ。

○按ずるに、此の詞、『文山集』載せず]。


○「光岳」は、三光(日・月・星)・五岳(泰・衡・恆・嵩・華の大山)なり。「光岳、氣分かるゝより」とは、世亂れて、天下そこゝゝを分け取り、一統せぬを云ふ。そこで、三光・五岳の氣もうすくなり、其のなりから生るゝ人ゆゑ、節ある者なし。世の末になつた事を云うたぞ。

○「烈烈轟轟」。火の激しく燃える事と、車のかたゝゝやかましき事。節義を立ての事を云ふ。人と云ふものは、夢の間に死すもの、一生ぐづゞゞとして死なふよりは、此の人の樣に、鳴り渡り轟いて死ぬがよい。

○強齋先生の曰く、『文山集』は、文天祥の死後に輯めたもの故、落したもので有らう。何んであれ、極めての名文ぞ。惣じて文山は、文章の名人ぞ(袁了凡『綱鑑補』に在り)。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の一段、先づは下大將共の無道、云はふ樣も無し。さり乍ら此の所、大義の係る所、若し審かにせずんば、忠義の士たりと雖も、時によりて迷ふこと多かる可し。何となれば、人々戰をするも、皆な我が主の御爲めと思ひ、力を盡す事なれば、君、存亡知れずと云ふ時は、力を落として、今は誰が爲めに戰ふべきと思ひ、自ら爲す可き樣も無しと思ひ、いかにもして便りを聞かまほしく思ひ、已に君亡びたりと聞けば、誰が爲めにする軍でなければ、今は拒ぎても詮なし。左言うて、只だ犬死をせむ樣も無しとて、敵より首尾よき樣に云ひおこせば、其れを幸ひにして敵に降り、主の亡ぶる迄は、少しもいぢらず守りつめて、主亡びて後ち此の如くするからは、何の事も無く、一分の言晴れは立つて、愧づかしき事も無く候ふよと合點する者、古今擧げて數ふ可からず。是れ大義を知らざる故ゑ也。長い事も無い、我は君の爲めに敵賊を伐つ合點で、軍を興したるからは、君の御無事に御座あるは、固より目出度き事、よし天子に何事が有つて亡ぼさせられたりとも、我が目指す處の敵があるからは、邪でも非でも、そいつを根から葉から討亡さゞる間は、與に天を戴かざる存念据ゑたるは、張巡が志也。それぢやに由つて首尾能く敵を亡したらば、何れにても我が主の筋目の君を取立て、天下を渡す可し。それも無くば、それなりにて果つ可し。都が亡びた程に、主が知れぬ程にと云うて、手前の戰をする義を、ちつとも見合はする事はいらぬぞ。能く古今をならして見よ。よい大將は、皆な是ぞ。

 我が國にて、楠正成が赤坂の合戰の時は、後醍醐天皇は已に笠置の軍に利あらずして、隱岐國へ遷し奉りて、實に存亡の沙汰は、たしかに聞こえず。それでも楠は、わきひら見ずに、構はず戰ふ。此の時に楠が心にも、天皇の御存命、危きことは知つて居れども、それぐるみに構はぬぞ。其の内に遂に天皇は、船山へ潛幸成りて、千破屋の城も、遂に拒ぎ勝ちて、六波羅も亡びて、天皇、再び舊都へ遷幸なりたる事を得たり。是れ畢竟、正成、大義を蹈まへたる功也。正成が心には、假令ひ天皇、此の時、若し自然の事ありとも、構ふ合點では無し。其の構はぬと云ふも、後醍醐天皇には心が無いと云ふ事では無い。惟だ其の存亡故に、思ひ違へる事はせぬ。天下の爲めにする軍にて、思ひ立つからは、どこ迄も我が命の有らん限りは、獨りばうしになりても、赤坂で一僕使はずして朽果つるとても、敵を亡す迄は、中々氣散じに見合はす事はせぬ。それが大義ぞ。張巡が、それを知つて居るぞ。總じて義理を知らで、學から出ぬ智慧は、手廻しは賢こい樣なれども、さあと云ふ大きなる場に成りて、何としたもので有らうぞと狼狽するは、大義を知らぬ故ぞ。本法の智慧と云ふものは、こせくさとしたる事は、才覺さうに見えねども、ぐはいとしたる所にては、常の者の及ばぬは、此のわけぞ。總べて武勇も智謀も、頼みに成らぬもの也。彼の金剛山の寄手の宇都宮以下の者共の體を見よ。元來、皆な腰拔けなれども、せめて大義を辨へて居るならば、腰拔けぐるみに、あれほど見苦しき狼狽はせまじ。能々考ふ可きこと也。
 

  • [21]
  • 顔眞卿『移蔡帖』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月 8日(金)21時55分9秒
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 眞卿、朝に復りて、御史大夫と爲る。方に朝廷は草昧、給するに暇あらずして、繩治(正し治む)、平日の如く、百官肅然たり。宰相、其の言を厭ひ、之を出す。尋いで召して、刑部侍郎と爲す。時に李輔國、方に勢に藉(よ)り、兩宮(玄宗・肅宗)を貳間す。而して玄宗、遂に西内(せいだい。西宮)に遷る。眞卿、首めに百寮を帥ゐて上表し、玄宗の起居を問はんことを請ふ。輔國、之を惡み、又た之を奏貶す。代宗(肅宗の子)、陜(せん)より還るや也、眞卿、時に尚書右丞爲り。先づ陵廟に謁して、宮に即かんことを請ふ。宰相・元載、以て迂と爲す。眞卿、怒りて曰く、「朝廷の事、豈に公、再び破壞(已に李林甫、今に公、即ち元載に因りて亂れんとす)するに堪へんや邪」と。載、之を啣(ふく)む。載、時に權を專らにし、多く私黨を引く。事を奏する者、其の私を攻訐(せめあばく)せんことを恐れ、乃ち紿(あざむ)き請ふ、「百官、事を論ずる、皆な先づ宰相に白し、然る後に奏聞せん」と。眞卿、上疏して曰く、「諫官・御史は、陛下の耳目なり。今ま事を論ずる者をして、先づ宰相に白さしむるは、是れ自ら其の耳目を掩ふ也。李林甫、相爲る、深く言ふ者を疾(にく)み、下情、通せず。卒ひに蜀に幸するの禍を成し、陵夷して、今日に至る。其の從來する所の者は、漸なり矣。夫れ人主は、大いに不諱(上疏)の路を開くも、群臣は、猶ほ敢へて言を盡すこと莫し。況んや今宰相大臣、裁して之を抑へば、則ち陛下、聞見する所の者は、三數人に過ぎざるのみ耳。天下の士、此れより口を鉗(つぐ)み、舌を結ばん。陛下、復た言ふ者無きを見て、以て天下、事の論ず可き無しと爲さん。是れ林甫(李林甫の故事)、復た今日に起る也。陛下、儻(も)し早く寤らざれば、漸く孤立を成し、後ち之を悔ゆると雖も、亦た及ぶこと無からん矣」と。載、復た之を誣貶す。徳宗の朝に至りて、楊炎、國に當る。時に眞卿、還りて朝に在り、亦た直を以て容れず。

○貳間(じかん)は、疑はせて隔つること。玄宗が蜀に行かれ、其の跡にて肅宗、即位せられし故、其の兩間に疑ひを出させる樣にして、遂に玄宗を西の丸へ遷されたは、肅宗の大誤り。位に即かれたは、玄宗蜀へ行かれ、中國に主君なきを以てなり。亂平いで、玄宗が還都せられたれば、位を去る筈なり。

 盧杞、相と爲るに及んで、益々眞卿を惡み、復た之を出さんと欲す。李希烈、反して汝州を陷るゝに會ふ。徳宗、計を杞に問ふ。杞の曰く、「誠に儒雅の重臣を得、爲めに禍福を陳べば、軍旅を勞せずして服す可し。顔眞卿は、三朝(玄宗・肅宗・代宗)の舊臣、忠直剛決、名、海内に重く、人の信服する所、眞に其の人也」と。眞卿、時に太子(徳宗の長子・誦――後の順宗)の太師爲り。乃ち詔して眞卿を遣はし、希烈に宣慰す。擧朝、之を聞きて色を失ふ。眞卿、驛(宿次の傳馬)に乘りて、東都に至る。留主、之を止めて曰く、「往かば、必ず免れじ。宜しく少しく留まりて、後命を須(ま)つべし」と。眞卿の曰く、「君命也。將に焉(いづく)に之を避けんとする」と。遂に行く。既に至り、詔旨を宣べんと欲す。希烈、兵をして環繞慢罵、刃を拔きて、之を擬せしむ。眞卿、色變ぜず。希烈、乃ち衆を麾きて退かしめ、眞卿を館(使者宿)に就け、逼つて上疏して、己を雪(きよ)めしめむ(希烈は謀叛をせぬと申し上げよと云ふ)とす。眞卿、從はず。眞卿、諸子に與ふる書毎とに、但だ家廟を嚴奉し、諸孤(一門の子)を恤まんことを戒め、訖ひに它語無し。希烈、眞卿を遣し還さんと欲す。降將・李元平、座に在り、眞卿、之を責むるに會ふ[本傳(『唐書』列傳)云ふ、「希烈、元平をして眞卿に説かしむ。眞卿、叱して曰く、『爾ぢ、國の委任を受け、命を致すこと能はず。顧ふに吾、兵の汝を戮する無し。尚ほ我に説くか邪』」と]。元平慙ぢ、密かに希烈に言ひ、眞卿を留めて還さず。

 時に朱滔等四人、王號を僭し、各々使を遣はし、希烈に詣り、勸進(帝位を勸む)す。希烈、之を眞卿に示して曰く、「四王より推さる、謀らずして同じ」と。眞卿の曰く、「此れ乃ち四凶、何ぞ四王と謂はん。公、自ら功業を保ちて、唐の忠臣と爲らず、乃ち亂臣賊子と相ひ從ひ、之と同じく覆滅するを求るか邪」と。他日四使、同じく坐に在り。眞卿に謂ひて曰く、「都統[即ち希烈の官]、將に大號(天子の號)を稱せんとす。而して太師(眞卿)、適(まさ)に至る。是れ天、宰相を以て都統に賜ふ也」と。眞卿、叱して曰く、「汝等、安祿山を罵りて死する者に、顔杲卿有るを知るや乎。乃ち吾が兄(實は從兄)也。吾れ年、且(まさ)に八十にならんとす。太師に官す。節を守りて死するを知るのみ耳。豈に汝曹(ら)の誘脇(誘惑)を受けんや乎」と。諸賊、色を失ふ。希烈、乃ち眞卿を拘へ、守るに甲士を以てし、方丈の坎(あな)を庭に掘りて云ふ、「將に之を□[小里+坑の右]せんとす」と。眞卿、怡然として曰く、「死生、已に定まる。何ぞ必ずしも多端せん。亟(すみや)かに一劍を以て相ひ與へよ。豈に公の心事を快くせざらんや邪」と。希烈、乃ち謝す。荊南の節度使・張伯儀、希烈が兵と戰ひて敗れ、其の持つ所の旌節を亡ふ。希烈、人をして旌節及び首級を以て、眞卿に示さしむ。眞卿、號慟して地に投じて、絶えて復た蘇へる。是れより復た言はず。

 希烈が黨・周曾等、希烈を襲ひ、眞卿を奉じて帥と爲さんと謀り、事、洩れ、曾、死するに會ふ。希烈、乃ち眞卿を蔡州に拘送す。眞卿、必死を度(はか)り、『遺表』・『墓誌』・『祭文』を作り[三文、『顔集』載せず]、寢室西壁の下を指して曰く、「此れ吾が殯所也」と。希烈、帝を稱せんことを謀り、使を遣はして儀を問ふ。眞卿の曰く、「老夫、嘗て禮官(禮儀使)爲り。記する所は、惟だ諸侯の、天子に朝する禮のみ耳」と。希烈、遂に號を僭し(大楚。武成と改元)、其の將・辛景臻を遣はし、之に謂ひて曰く、「節を屈する能はずんば、當に自ら焚くべし」と。其の庭に、薪を積み油を灌ぐ。眞卿、趨りて火に赴く。景臻、遽かに之を止む。之を久しくして希烈、卒ひに人を遣はして、眞卿を殺さしむ。終ひに死す焉。年七十六。

[(絅齋先生)按ずるに、眞卿の死、本傳に、歳月を書せず。『綱目』(朱子『資治通鑑綱目』)、徳宗の興元元年甲子八月と爲す。今ま此の帖(『移蔡帖』)、汝(汝州)より蔡(蔡州)に移るを以て、貞元元年正月と爲す。綱目に據れば、則ち眞卿の死の明年は乙丑の歳也。周曾が事、『綱目』は、建中四年癸亥三月と爲す。而して眞卿を蔡に移す事を載せず。或は恐る、蔡に移るは、本と曾が事に由りて、而して其の移るは、則ち實は明年甲子正月ならむことを也。然らば則ち此の『帖』の貞元を、將に興元と作すべし。傳寫の誤り也。姑く疑ふ所を書すと云ふ]。

眞卿の大節功業、已に偉然として、而して朝に立ち色を正し、剛にして禮有り。公言直道に非ざれば、心に萌さず。嘗て魯郡公に封ぜらる。天下、姓名を以て稱せずして、獨り魯公と曰ふと云ふ。


○絅齋先生の案は、當時の限定された資料に基づいた爲めの誤りならむ。

○「心に萌さず」、此の四字、よく眞卿のなりを言うた。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 顔眞卿の本末、此の如し。或人の曰く、「眞卿の忠義は、餘り有り。惜しむ可きはことは、死ぬること、今少し遲し。汝より蔡に移る時が、最早や死すると云ふ事は知れてある程に、彼方・此方と移され廻らずとも、此の時に如何樣とも死に樣の有る可きこと也」と云ふ。此の論、勿論也。さりながらか樣の事は、今からもどかしう思ふ樣に、其の時の事體あらざるもの也。。眞卿、死を惜しんで、其れ程の事をぬかる人にても無し。何とぞ樣子こそ有りつらめ、只だ何と云ふ事なく、大節義敵に屈せず、命を辱かしめず、始終表裏、一毫の疑ふ可きこと無きに至りては、今に至る迄、青天白日を見る如くに有る段は、あの通りなれば、其の時、かうせられたれば好いもの、さうすれば良かつたにと、こせくさと吟味をかけるは、皆な人を論ずるの術(すべ)を知らぬ者の云ふ事ぞ。何でもあれ、根本の大忠義の土臺さへ立てば、細工は流々、仕上げを見よぢやによつて、仕形は替るとも、體(なり)は違ふとも、大根に疑ひさへなくんば、細かなる處に毛を吹いて、疵を求むる樣なる事を云はぬが好し。左云うて、眞卿の爲樣が、一々云はう樣も無い。能く凖に當りたると云ふにても無し。それぢや程に、後世の者も大根さへよければ、少々の事は爲損なひをしても苦しからずと云ふ事では無い。聖人の體を持つて來て、定規にすれば、疵の付かぬ者は無し。それで古人を已に爲て取つた跡を、何かと云うて疵を付くるは、非也。古人がさうぢや程に、手前も苦しからずと云ふも、亦た非也。唯だ古人大根の所を手本として、其の身を處し、事をふまへる。義のそれゞゝに當然に中たる樣にするは、隨分みがきゝゞゝて、極め置く可し。其の合點で、古人の事蹟を、嚴しく細かに論ずるはよし。格物窮理と云ふが、其の爲め也。『遺言』を編むも、大根はよくて、大義に迷ふ人の爲損なふが殘り多いによつて、一々僉議の詰まる處は、皆な此の如く調べて置くぞ。唯だ哀しきことは、大根が無うて、こせく諭したる吟味をすれば、書物屋のいかいこと書物を持つて、一字も讀めぬ樣なもので、役に立たず。是が大義の大義たる所にて、却つて人を論ずるの細かなると云ふも、こゝで見ゆるではないか。右、顔眞卿一人の爲めに非ず。『遺言』一編の、つめ開きにいる事ぞ。因つて別に講ずること、此の如し。



 宗祁の曰く、「祿山の反するに當り、哮噬(かうぜい。反亂軍の勢)無前(無敵)なり。魯公、獨り烏合を以て、其の鋒に嬰(ふ)る。功成らずと雖も、其の志、稱するに足る者有り。晩節偃蹇(えんけん。高邁)、姦臣の擠(おとしむ)る所と爲り、賊手に殞とさる。毅然の氣、折れて沮まず。忠と謂ふ可きなり矣。詳かに其の行事を觀るに、當時、亦た盡く君に信ぜらるゝこと能はず。大節に臨むに及びて、之を蹈んで、貳色無きは、何ぞや耶。彼の忠臣誼士は、寧ろ未だ信ぜられざるを以て、人に望まんや。諸れを己に返し、其の正を得て、而る後ち中に慊りて、之を行はんことを要す也。嗚呼、于(こゝ)に五百歳と雖も、其の英烈言言、嚴霜烈日の如し。畏れて仰ぐ可きかな哉」と。

○「慊」は、吾が心にあき足りて、少しも氣味惡い事は無いこと。忠臣義士は、こゝを目指すより外は無い。

 林之奇の曰く、「燕、齊を伐ち、七十餘城、皆な燕の有と爲る。初めより未だ忠臣義士の、憤りを發するの氣有るを聞かざる也。王□[虫+蜀]、節に死して、義として燕に北面せざるに及んで、然る後ち齊の士、靡然として之に從ひ、七十餘城、復た齊の有と爲る。

[燕將・樂毅、齊を破り、畫邑の人・王□[虫+蜀]の賢なるを聞く。軍中をして、畫邑を環りて入るなからしめ、人をして□[虫+蜀]に謂はしめて曰く、「齊人、多く子の義を高しとす。吾、子を以て將と爲し、萬家に封ぜん」と。□[虫+蜀]、固く謝す。燕人の曰く、「子、聽かざれば、吾、軍を引き、畫邑を屠らん」と。□[虫+蜀]の曰く、「忠臣、二君に事へず、貞女、二夫を更へず。齊王、吾が諫めを聽かず。故に野に退耕す。國、既に破亡し、吾、存つ能はず。今ま又た之を劫かし、兵を以て君の將爲れば、是れ桀を助け、暴を爲す也。其の生きて、義無きに與みせば、固より烹らるゝに如かず」と。遂に其の頸を樹枝に經(くび)れ、自奮して脰(くび)を絶ちて死す。齊の亡(に)ぐる大夫、之を聞きて曰く、「王□[虫+蜀]は、布衣也。義として、燕に北面せず。況んや位に在りて、祿を食む者をや乎」と。乃ち相ひ聚まり、王子を求めて之を立て、是を襄王と爲す。遂に齊を復す。

○朱子の曰く、「程沙隨(朱子同時の俗儒)、深く王□[虫+蜀]の『忠臣、兩君に事へず』の言を詆り、竊かに其の失を疑ふ。將に萬世不忠の弊を啓かんとす。夫れ『疆(さかひ。國境)を出づれば、質(し。進物)を載す』(『孟子』滕文篇下)とは、乃ち士の已むを得ざるなり。曾て是を以て常と爲すと謂はんや耶。楚・漢の間、陳平、猶ほ心を多とすの誚(せ)めを得たり(劉邦の功臣なるも、魏咎に仕へて去り、又た項羽に仕へて逃ぐ)。況んや平世をや乎]。

 蓋し天下の人、豈に忠義の心無からん。苟しくも其の艱難の際、一の倡ふを爲す有らば、則ちこの風を聞くの人、孰れか之に從はざらん。祿山、亂を煽り、河北二十四郡、守りを失はざる莫し。眞卿、首めに忠義を倡ふるに及んで、諸郡、是に由りて多く應ず。然れば則ち唐室の中興は、郭子儀・李光弼の功と雖も、其の實は、則ち眞卿、之が倡を爲せる也」と。



■□■顔眞卿『移蔡帖』■□■



貞元元年正月五日、
眞卿、汝より蔡に移るは、天也。
天の昭明は、其れ誣(し)ふ可けんや乎。
有唐の徳は、則ち朽ちざるのみ耳。
十九日、書す。

○「天の昭明」、天は、善惡是非、忠不義と、夫々に御眼で、睨んで御座る。誣ゆる事はならぬ。一旦の勢を得ても、無道をして天下を保たう樣は無い。追付け亡ぶるは見えたこと。唐の徳は、民心に沁み込んで居る、中々亡びぬ。




■□■□■
 

  • [20]
  • 『靖獻遺言』卷之四・顔眞卿。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月 5日(火)22時33分1秒
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 顔眞卿、字は清臣は、支那は唐の貞元元年八月二十四日、即ち我が桓武天皇の御代、延暦四年に卒す。享年七十七。

 學生時代、小生は、平泉澄先生の著書・崎門の和刻本の大方を、帝都神田の誠心堂にて求めた。此の書肆の包紙は、滿面、「顔眞卿」の美しき肉太の書であつて、殊に思ひ入れが深く、今に愛藏して已まぬ。先代店主の老爺には、貴重な御本も安價にて讓つて戴き、大變に御世話に相成つたこと、今は懷しき想ひ出である。



『蔡に移る帖』

唐の太子の太師・顔眞卿




●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の帖、『顔魯公集』に見えたり。大抵、帖と云へば、假初めに書き付けたもの、小手本の樣に折つて書いたるものを云ふ。其の故に手紙・手形などをも、帖と云ふ。古人の能書、何事にても書付けて置きたるを、碑帖と云うてもてはやす。石に彫り付けたるものを、皆な碑と云ふ。墓碑の文は勿論也。顔眞卿も能書であつた故に、是を後世より帖と呼んで相傳ふ。是は定めて柱か壁に書付けられたりと見えたり。尤も文字は纔かなる事なれども、顔眞卿の忠義の肺肝を鮮かに見る可きは、此の帖ほど大切なるものは無し。其の故、『顔眞卿集』には、餘の事に「遺言」とて載すべき事は無きに、是の一條が、圖らずも今に殘つてある。不思議の事にて、尤も重寶すべき事ぞ。

 扨て「唐の太子の太師」と擧げたるは、唐の字は、勿論、例の大旨也。太子の太師は、眞卿の最(いち)晩年に蒙むられたる官也。李希烈が方へ使ひに往きて、あなたに留められて、希烈が樣々と□[貝+兼。すか]したり怖(おど)したりして、己が手下にして、己が僞官を名乘らせうとしたれども、段々ある通りに、終ひに唐朝で受けたる官を汚さずして果てられたる程に、別して之を名乘るぞ。且つ又た惣じて官を稱するは、最(いち)後についた官を擧げたるが例ぞ。さり乍ら人によりて、皆な擧げたるもあり。それは先々所々で譯がある。所々で合點すべし。



 眞卿、字は清臣。玄宗の朝の平原の太守たり。初め安祿山の將に反せんとするを知り、霖雨に因りて城壕を脩め、□[ま埀+會]廩(馬草・米の倉)を儲く。祿山、既に反し、眞卿に牒し、兵を將ゐて河津を防がしむ。眞卿、使を遣はし、間道より之(祿山謀叛)を奏す。玄宗、始め河北郡の縣、皆な賊に從ふと聞き、歎じて曰く、「二十四郡、曾て一人の義士無きや耶」と。奏の至るに及んで、大いに喜びて曰く、「朕、顔眞卿の、何の状を作すを識らず。乃ち能く是の如し」と。眞卿、又た親客(浪人)をして、密かに賊を購(もと。懸賞首)むる牒を懷き、諸郡に詣らしめ、及び勇士を召募し、諭すに兵を擧げ、祿山を討ずるを以てし、繼ぐに涕泣を以てす。士、皆な感憤す。祿山、其の黨をして、先に東京(洛陽)を陷るゝ時、節に死する臣・李□[立心+登]・盧奕・蒋清の三人の首を齎して、河北諸郡を徇(とな。見せしめにする)へしめ、平原に至る。眞卿、使を執へ、斬りて以て徇へ、三首を取り、芻(まぐさ。藁人形)を結び體を續ぎ、棺斂して之を葬り、位を爲(つく)りて祭哭す。是に由て諸郡、多く賊を殺して相應じ、共に眞卿を推して、盟主と爲す。

 時に眞卿の從兄、常山太守・杲卿も、亦た方に兵を起して賊を討ず。眞卿、平原より潛かに杲卿に告げしめ、兵を連ね、祿山が歸路を斷ち、以て其の西入(長安入)を緩(遲延)めんと欲するに會ふ。杲卿、乃ち謀を以て、賊將等を擒斬し、遂に井陘の敵を散じ、饒陽の圍を解く。是に於て河北(二十四郡)響應し、凡そ十七郡、同日に皆な朝廷に歸す。祿山、方に潼關(長安入口の關所)を攻めんと欲すれども、之を聞きて進むこと能はずして還る。時に杲卿、兵を起して、纔かに八日、守備、未だ完からず。賊將・史思明等、卒ひに兵を引きて、城下に至る。杲卿、晝夜拒戰す。隣郡の守將、兵を擁して救はず。糧盡き矢竭き、城、遂に陷る。賊、杲卿を執へて、祿山に送る。祿山、之を數(せ)めて曰く、「我、汝を奏して官と爲す。何ぞ汝に負きて反す」と。杲卿、罵りて曰く、「汝は、本と營州の羊を牧するの羯奴なり。天子、汝を擢んでて、三道の節度使と爲す。恩幸、比ぶる無し。何ぞ汝に負きて反する。我は、世々唐臣たり。祿位は、皆な唐の有なり。汝が奏する所と爲ると雖も、豈に汝に從ひて反せんや耶。我は、國の爲に賊を討ず。汝を斬らざるを恨む。何ぞ反すと謂はんや也。□[月+操の右。犬豚の生臭き]羯狗、何ぞ速かに我を殺さゞる」と。祿山、大いに怒り、縛りて之を咼(しゝき。肉を削ぎ骨と爲す刑)る。死に比(およ)びて、罵りて口を絶たず。賊、其の舌を鉤斷す(文天祥『正氣の歌』に、「顔常山の舌と爲る」と)。顔氏、死する者三十餘人なり。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 祿山が杲卿を數(せ)むる云ひ分は、畢竟、「吾が取持ちで進め擧げたる故により、其の恩を思ひ知らば、此の度びの吾が謀叛に、何とて味方をして取持たぬぞ」と云ふ合點にて、「何ぞ汝に負きて反す」と云ふぞ。杲卿の云ひ分は、「勿論、吾が官になりたるは、其方(そち)が進めたること、實なり。其の官は、もと唐朝の天子の官祿にて、其の進め手の祿山も、唐朝の臣下にて、同じく天子の官祿を下されて居る者ぞ。すれば人を進めて官祿を下さるゝも貰ふも、皆な相與に忠義を勵みて、天子の御用に相立つ可き爲めなり。始めよりそなたが進めてくれる程に、天子の御意ぢやと云うても用ひず、其方の用に立つてやらうと云ふ約束でも合點でも無し。固より吾が方より進めて賜はり候へと頼みたるにても無し。例ひ頼みたるにもせよ、頓と大根が損ねてあるからは、是非の論に及ぶことでは無い。例ひ如何樣に申し合はす中なりとも、其の申し合せは、畢竟、君に事ふる道の外の事なれば、皆な私ぞ。すれば申し合すとても、平生、君に叛かざる道の申し合せに外るれば、申し合せぐるみに違うたと云ふものではないか。すれば君に叛くと云ふ名が一つ立つてからは、何のかのと云ふ事はいらぬ。其れが直ぐに主の敵ぞ」と也。是が杲卿ほどの大義を辨へたる人にて無くば、定めて「だたい、其方が肝煎りでは無かつた。其方が取持つ迄は、俺が奉公の首尾は調はぬ筈ぢや」などと、にやくやと云ふで非ず。杲卿は、すきと其の言ひ分はせず、いかにも其方が、俺を取持たるも定め、下された官祿は、天子より下されたも定め、さう云ふ祿山も、下されてをる官祿は、天子より下されたるも定め、始めより謀叛を起さんとて、官祿を受けたるにて無きも定めと、片端づめに詰めて見れば、成る程、謀叛人は主の敵として打ちつぶすが、其の奉公に出たる初一念の、凖の崩れぬ者ぞ。此の大義を知らずして、私恩を以て公の義理を失ふ者、せいゞゝ皆な是れ也。嗚呼、哀れむ可きかな哉。それぢやに由つて假初めにも身を立て君に仕ふる者は、大義の筋に違ふ樣には、平生の奉公ぶり・人の(私の)交りもせざること也。其の合點なれば、常々は私の交りをして、大義の場に成つて、俄かに都合の揃はぬ事を言ひ出せば、始終ともに根本より出でたる忠義の志とは見えぬぞ。されば平生の守る所が一大事也。俄かに忠義を拵へようと云ふことは成らぬ者ぞ。十に八九は、人の志の大節に臨んで違ふ・違はぬは、平生の氣節・操守の所にて決するもの也。さればこそ、『遺言』に載せたる衆中を見よ。平生からが別の者ぞ。吁(あゝ)、謹しむ可きかな哉、察す可きかな哉。右、顔杲卿、第一義たり。尤も大義に關はる事也。

 扨て顔杲卿の賊を罵つて死すること、或人謂へり、「義理に安んじて死する者は、從容として死するのみ耳。此の如く憤怒激勵して死する、甚だ義に於いて安からざるに似たり」と云ふ。是も亦た儒者の常談也。杲卿、此に至つて義に激し、死生禍福、顧みる所に非ず、等しく死す矣。只だ默々として死する、固より義を忘れずと雖も、然れども此に至つて胸中の蓄ふる所を吐き出し、賊を罵り死に死して、舌をもぐ迄、微塵もたぢろかざるこそ、義の字の氣象は見えたれ。是等の所、尤も眼を著く可し焉。此れ則ち「命に安んずる者」にして、顔杲卿の胴骨の、是れほど剛きも、あれまで爲し詰めてこそ、ためしは見えたれ。然れば「義に安んず」の安の字は、こゝで見着いで、何とせうぞ。安の字、只のんどりとした事と覺ゆれば、大きに違ふぞ。「君子は惡言、口に出さず」と云ふは、平生の事ぞ。是等の場の思ひ入れに持ち合して云ふ事では無いぞ。唯だ義の字の氣象と云ふ辭を能く味はふ可し。人が義の字を知らぬ故、こゝを何の角のと云うて、端的を知らぬぞ。又た書す。



 繼いで眞卿、又た賊を破り郡を拔き、軍聲、大いに振ふ。平盧の軍將・劉客奴等、使を遣はし、眞卿と相聞(内通)し、自ら效(いた。力を盡す)さんと請ふ。眞卿、惟だ一子、才(わづ)かに十餘歳なるを、海を踰え、客奴に詣りて質(ち)爲らしむ。軍中、固く之を留めんと請ふも、從はず。尋いで潼關、守を失ひ、玄宗、蜀に出奔す。而して賊、遂に長安を陷る矣。是に於いて太子・亨、位に靈武に即く。是を肅宗と爲す。眞卿、河北より蠟丸(書状を封ず)を以て、表を靈武に達す。肅宗、官を眞卿に加へ、拜(あは)せて赦書を致す。眞卿、即ち諸軍に頒下し、又た人を遣はし、河南・江淮に頒つ。是に由つて諸道、國に徇(したが)ふの心、益々堅し。未だ幾(いくばく)ならずして、廣平王□[人+叔]・郭子儀等、兩京(洛陽・長安)を收復す。

[天寶の末、外阻(はゞ)み内訌(やぶ)る。子儀、朔方より孤軍を提(ひつさ)げ、轉戰して北(に)ぐるを逐ひ、誓ひて還顧せず。是の時に當たりて、天子、西に走り、唐祚、綴旒(旗の裝飾)の若くして、能く太子を輔け、王室を再造す。大難、略(ほ)ぼ平らぐに及びて、讒に遭ひて譖詭し、兵柄を奪はる。然るに朝たに命を聞き、夕べに道を引くとも、纖芥(せんかい。少し)も自ら嫌(いと)ふ無し。忠誠精確、險を履み難を冒し、始終、一の如し。天下、其の身を以て安危を爲す者、殆んど三十年なり。歐陽脩の曰く、「唐命、方に永しと雖も、亦た子儀の忠、日月を貫ぬき、神明扶持するに由る者かな哉」と。朱子の曰く、「『易傳』(伊川程頤の著)に、(伊尹・周公・)諸葛に及び、次いで郭汾陽(郭子儀)に及ぶ」と]。

而して李光弼、又た屡々(賊將・史)思明等を敗り、賊勢、大衄(ぢく。敗北)し、而して唐朝再興す焉。




●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の時、玄宗、蜀の國へ逃げられたる道にて、太子の供奉せられたるに言はるゝは、「我は蜀へのく間、其方が跡に殘りて、天子の位に即き、敵を防げ」と云ひ置いて行かれたり。其の後ち群臣、何れも進めて、位に御即きなされよと云ふ時、終ひに位に即かれたぞ。初め、玄宗の前では、殊の外、辭退せられたれども、此にては遂に位に即く。此の事、どうでも肅宗の誤りぞ。平生さへなるに、別して亂世の最中に、親は流浪し走り行くに、其の跡で推されて位に即けば、どうでも奪つたになるぞ。尤も玄宗の言ひ付けとは云ひ乍ら、肅宗、何分にも辭退申されたらば、何しに玄宗の、無理やりに云はれぬ筈ぞ。下地はすきなり、御意は重しと云ふ類にて、幸ひにせられたると疑ひがかゝる。それで、此の論あるぞ。それならば、天下の大將として、下知は誰がせうぞと云へば、さればの事よ、固より天下は、玄宗の天下也。肅宗は太子なれば、玄宗の名代として下知をするに、誰が異義の云ひ手があらうぞ。こゝで肅宗が人欲に溺れて、父子の義理を破られた、殘り多い事ぞ。況んや天下が思ひ付かずとも、呉の泰伯、伯夷・叔齊ならば、どうでも親を推し除けて、我れ位に即くには忍びぬ筈ぞ。それで案の如く、後の禍を見よ。遂に親子の中に讒有つて、兩方へだゝゞになられたる、根本、正しからざる故による也。是れ『通鑑綱目』の旨也。
 

  • [19]
  • 感慨興起、廉頑立懦。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月 3日(日)12時53分22秒
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●朱子『□[三水+章]州州學・東溪先生高公祠記』(『朱子文集』卷七十九)

○「高公」の公は、姓に附する敬稱であつて、名の下には附せないこと、我が國の習慣と異なる。後出の「陳公少陽」も同じ。

 朱子、又た『□[三水+章]州の高登の祠』に記してに曰く、「『孟子』に曰く、「聖人は、百世の師也。伯夷・柳下惠、是れ也。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り。柳下惠の風を聞く者は、鄙夫も寛に、薄夫も敦し。百世の上に奮ひて、百世の下に聞く者、興起せざる莫き也」(盡心篇下)と。夫れ孟子の二子(伯夷・柳下惠)に於ける、其の之を論ずること、詳か也。或は以て聖の清と爲し、或は以て聖の和と爲す(萬章篇)と雖も、然れども又た嘗て其の隘きと不恭とを病(うれ)ひ、且つ其の道、孔子に同じからざるを以て、學ぶことを願はざる也(公孫丑篇)。其の一旦、慨然として發して、此の論を爲すに及んで、乃ち百世の師を以て之に歸し、而して孔子は反つて與からざるは焉、何ぞや哉。孔子は、道大に徳中にして、而も迹無し。故に之を學ぶ者は、身を沒(しづ)むるまで、鑽仰して足らず。二子は、志潔く行高くして、而も迹著はる。故に之を慕ふ者は、一日感慨して餘り有る也。然らば則ち二子の功、誠に小と爲さず。而して孟子の意、其れ亦た知る可きのみ也已。

 臨□[三水+章]に、東溪先生高公といふ者有り。名は登、字は彦先。靖康の間、大學に遊び、陳公少陽と、闕に伏して拜疏(上奏文)して、六賊を誅し、□[禾+中]・李を留むるを以て、請を爲す。

[宋の徽宗の時、蔡京等、君を蠧(むしば)み國を誤りて、事を用ゐる者、多く其の薦引を受け、上(しよう)の爲めに明かに之を言ふを肯んずる莫し。大學生・陳東、字は少陽、諸生を率ゐて、上書して曰く、「今日の事、蔡京、前に壞亂し、梁師成、内に陰賊し、李彦、怨みを西北(金・遼)に結び、朱□[面+力。べん]、怨みを東南に聚め、王黼・童貫、又た從りて怨みを二虜に結び、邊隙を創開し、天下の勢をして、危きこと絲髮の如くならしむ。伏して願ふは、陛下、此の六賊を擒へ、諸れを市朝に肆(さら)し、首を四方に傳へて、以て天下に謝せよ」と。金人、宋を侵し、抃京を圍むに及びて、欽宗、李綱を以て留守と爲す。綱、親から督戰し、力めて之を禦ぐ。金人、乃ち來りて、和を議す。李邦彦等、力めて金の議に從へと勸む。綱、極めて諫む。用ひず。金幣・割地等が事、一(もつぱ)ら金人の言に依る。時に□[禾+中]師道、師を帥ゐて入援し、金人を扼(おさ)へて、諸れを河に殲さんと請ふ。又た從はず。姚平仲、金の寨(とりで)を却(おびやか)すに及びて、金、使をして兵を用ひ、誓ひに違ふの故を來り責めしむ。邦彦の言はく、「兵を用ふるは、李綱・姚平仲なり。朝廷の意に非ず」と。因りて綱を罷めて、以て金人に謝す。是に於いて東(陳東)等、又た千餘人と上書して言ふ、「李綱、勇を奮ひて顧みず、身を以て天下の重きを任ず。所謂る社稷の臣也。陛下、綱を拔く。中外、相ひ慶びて、李邦彦等を疾(にく)むこと、仇讎の如く、因縁沮敗す。綱が罷命、一たび傳へ、兵民騒動し、涕を流すに至る。咸な謂ふ、『不日に虜の爲めに擒へられん矣』と。綱を罷むは、特(たゞ)に邦彦等が計中に墮つるのみに非ず、又た虜の計中に墮つる也。乞ふ、復た綱を用ひて、邦彦等を斥け、且つ□[門+困]外(こんがい。將軍職)を以て、□[禾+中]師道に付せよ。宗社の存亡は、此の擧に在り。謹しまざる可からず」と。書奏す。軍民、期せずして集まる者、數萬人。登聞鼓(太鼓)を□[手+過。打]壞し、喧呼、地を動かす。欽宗、乃ち又た綱を以て京城防禦使と爲し、東を以て士學録(學頭職)と爲す。東、力めて辭して以て歸る。

○高宗、位に即く。東を丹陽より召され、至る。綱、又た黄潛善・汪伯彦の嫉む所と爲り、罷むに會ふ。東、又た上書して、綱を留めて、潛善・伯彦を罷めんことを乞ふ。報ぜず。時に撫州の布衣(無位無官の浪人)・歐陽澈も、亦た徒歩して行在に詣り、闕に伏して上書し、極めて事を用ふる大臣を詆(そし)る。高宗、遂に潛善の言を用ひて、東及び澈を殺さしむ。府尹、吏を遣はして、東を召す。東、食して行かんことを請ふ。手書して家事を區處するに、字畫、平時の如し。已にして乃ち其の從者に授けて曰く、「我れ死せば、爾ぢ歸りて、此を吾が親に致せ」と。食し已(をは)つて、厠に如(ゆ)く。吏、難(こば)む色有り。東、笑ひて曰く、「我は陳東也。死を畏れば、即ち敢へて言はじ。已に言ふ、肯(あ)へて死を逃れんや乎」と。吏の曰く、「吾も、亦た公を知る。安くんぞ敢へて相ひ迫らん」と。頃之(しばらく)ありて、東、冠帶を具へ、同邸を出別し、遂に澈と、同じく市に斬らる。東、初め未だ綱を識らず。特(た)だ國家の故を以て、之が爲めに死す。識ると識らざると、皆な爲めに涕を流せり]。

事を用ふる者、之を兵せんと欲するも、爲めに動かざる也。

 紹興の初め、(東溪先生)召されて、政事堂に至る。又た宰相・秦檜と、論合はず。去りて靜江府古縣の令と爲る。異政(優れてよき政治)有り。帥守、檜(秦檜)が意を希ひ、其の過ちを捃(ひろ)ひて、以て吏に屬(告げ口)す。帥(帥守)も、亦た讒を以て獄中に死するに會ひ、乃ち釋さるゝことを得。檄(檜の召し文)を被り、進士を潮州に試む。諸生に、直言聞かざるの畏るべきを論じ、□[門+虫。びん]・浙の水□[三水+診の右。てん。陰陽の氣の亂]の□[謠の右+系。よ]る所を策(文書)せしめ、而して遂に檄を投じて以て歸る。檜、聞きて大に怒り、官を奪ひて、容州に徙す。

 公、學博く、行高く、議論慷慨、口講指畫、終日滾滾として、忠臣孝子の言(話)、生を捨て義を取る(『孟子』告子篇)の意に非ざること無し。聞く者、凛然として、魄動き、神竦(そび)ふ。其の古縣に在るや、學者、已に爭ひて之に歸す。是に至りて其の徒、又た益々盛んなり。疾ひに屬(あ)ひ、自ら埋銘を作り、與に遊ぶ所、及び諸生を召して訣別し、正坐拱手、奮髯張目して逝く。

 嗚呼、是れ亦た一世の人豪と謂ひつ可し矣。其の學ぶ所・行ふ所、未だ盡く孔子に合はずと雖も、然れども其の志行の卓然たる、亦た以て賢者の清と爲すに足る。而して百世の下、其の風を聞く者をして、廉頑立懦の操有らしむれば、則ち其の世教に功有る、豈に夫の隠忍囘互して、以て其の私を濟して、自ら孔子の中行(中庸)に託する者と、日を同じうして語る可けんや哉」と。

○強齋先生の曰く、「隠忍」は、うぢかはゝゞゝゝとして、云ふことも得云はぬ、何の埓の明かぬこと。「囘互」は、あちこちゝゝゝゝと、紛らかして居ること。「其の樣に嚴しう云うたもので無い。さうは云はぬがよい。伯夷・叔齊は、孟子さへ學ばれなんだ。學者は、たゞ孔子を學んだがよい」と云つて、己がぬるいことを、孔子流に云ひ爲して居ること。



●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 此の段を載するは、伯夷の事なれば、申すに及ばねども、孔子は跡無く、二子は跡有つて、人の感發、速かなる所を、別して取りて載せたぞ。總じて頭から孔子の樣にせうとする者は、愚に非ざれば、則ち似るせ者ぞ。どうしても感發慷慨するからで無ければ、學の進むことも、力の立つことも無いぞ。されば「百世の師也」と云へるが、旨のある面白い事ぞ。孔子は、頭から百世の師などと云ふことは、云ふに及ばぬぞ。こゝの文義で、能く見よ。百世の師と云ふ證據には、長いことも無い、「頑夫も廉に、懦夫も志を立つ云々」の驗を見よ。如何な浦端でも、一文字引かぬ匹夫匹婦でも、武藏房辨慶・判官義經・楠の昔物語をする口つきで、伯夷・叔齊の本末を、能く合點する樣に言ひ聞かせて見よ。如何なる弱者でも、卑劣な者でも、汗をかいて感慨せぬ者は無いぞ。すれば今迄の兎や角やと、泥に醉うたる魚の樣に、ぷらりかはりとして暮らしたるが、夢の覺めたる如くに、消々となりて、其の座を去らずに、はつきりと正念が出來て、何がさて、人は一代、名は末代ぢや、義理に心の無い者は、人でも□[木+厥。株]でも無いよと、奮ひ立つ志が、覺えず知らず、臍本より沸出づる樣にあるぞ。是なれば其の驗の速かなること、『論語』・『孟子』を讀んで久しうして後ち味を知ると、拔群の違ひあり。是れ「百世の師也」と、伯夷・柳下惠に限りて、孟子の稱せらるゝ旨なり。「故」の字を能く見よ、眞(まつ)、此の言ぞ。總じて百世の師などと、名號である時は、必ず其の人の一事に就いて立てたる詞と見取るがよし。

 さる程に程子の、子路を百世の師と呼ばれたるも、「過ちを聞かば、則ち喜ぶ」の一事を擧げての事ぞ。是も顔淵・曾子は、百世の師では無いと云ふではなけれども、其の樣に物を言へば、咽口になりて、親切の味が拔けるぞ。尤も此等の處を能く見るべし。孔子も學ぶとて、『論語』・『孟子』を讀む者からが、此の感慨興起の根がありてこそ、精しき道理も心にのり、力量も進むべけれ。さればどこ迄も、此の根の無い者は、何を言うても、糠に釘を打つ如くにて、こたへが無い。其れ故に人の志を、平生に試して見よ。一字の義理を聞き、一言の面白いことを聞き得ても、扨も々ゝと涙をこぼれる程に思ひ、一事の過ちを爲し、一分の及ばざることを見ても、汗流して背に浹る程にてなければ、身も進まず、非も改まる事でない。さる程に古の聖賢君子、學に進み力を勵む古事を考へて見よ。憤を發し食を忘れ、死して後ち已むなどあり。程子・朱子の門人、數千人ありて、其の中で、指屈をせられて、『伊洛淵源録』に載せてある衆は、皆な此の感慨興起する志の無いは、一人もない。是が人のものになるとならざると、學の進むと進まざると、二つに一つの切れ目の場と云へば、眞、こゝの事なり。世上の成らず者を見よ。ぬつへりかはりと口をきいて、どうなりとも、人前の言譯をすまして通る樣で、其の身の畢竟ずる處の實處は、何も得ることも無く、それなりで朽ち果つる迄にて、何時までも吾が過ちと云ふことは氣も付かず、口でも得云はず、氣の付く時分には、最早や年寄り果て、嗟(あゝ)老いたり、是れ誰が愆ちぞやと、我と吾でに悔ゆるより外の事はなし。憐れむべきかな、惜しむべきかな。某、此の説を『遺言』に載する所は、忠義の志も、こゝに根ざす所を主として、且つ又た學者平日の志す所を磨くべき爲め也。因つて講義の餘論、遂に此に至る。學者、其れ諸れを思へ、其れ諸を味はへ。
 

  • [18]
  • 韓愈『伯夷の頌』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 6月 1日(金)22時31分48秒
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○強齋先生の曰く、「頌」は、それを譽めて、節付けて歌ふ辭。是も「仁を求めて、仁を得たり」等と云ふ氣象とは違うて、低う聞こゆれども、義の氣象を能く云ひ拔かれた説ぢやによりて載せられたぞ。

韓愈『伯夷の頌』に曰く、

 士の特立獨行は、義に適(かな)ふのみ而已。人の是非を顧みざるは、皆な豪傑の士、道を信ずること篤くして、而も自ら知ること明かなる者也。一家、之を非とするも、力行して而も惑はざる者は、寡(すくな)し矣。一國一州、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、蓋し天下に一人のみ而已矣。若し擧世、之を非とするも、力行して而も惑はざる者の若きに至つては、則ち千百年に、乃ち一人のみ而已耳。伯夷の若き者は、天地を窮め、萬世に亙りて、而も顧みざる者也。昭乎たる日月も、明かと爲すに足らず、□[山+卒](しゆつ)乎たる泰山も、高しと爲すに足らず、巍乎たる天地も、容(い)るゝと爲すに足らざる也。

 殷の亡び周の興るに當りて、微子(殷の紂王の庶兄、數々之を諫むも聞かれず)は賢也、祭器を抱きて、而して之を去れり。武王・周公は聖人也。天下の賢士と天下の諸侯とを率ゐて、而して往きて之を攻むるに、未だ嘗て之を非とする者有るを聞かざる也。彼の伯夷・叔齊なる者は、乃ち獨り以て不可と爲せり。殷、既に滅び矣、天下、周を宗とするも、彼の二子なる者は、獨り其の粟を食ふを恥ぢ、餓死して而も顧みず。是に□[謠の右+系。よ]りて言へば、夫れ豈に求むること有つて、而して爲さむや哉。道を信ずること篤くして、而して自ら知ること明かなる者也。

 今世の所謂る士なる者は、一凡人、之を譽むれば、則ち自ら以て餘り有りと爲し、一凡人、之を沮(とゞ)むば、則ち自ら以て足らずと爲す。彼れ獨り聖人を非として、而も自ら是とすること、此くの如し。夫れ聖人は、乃ち萬世の標準也。余れ故に曰く、「伯夷の若き者は、特立獨行して、天地を窮め、萬世に亙つて、而も顧みざる者也」と。然りと雖も二子、微(な)かりせば、亂臣賊子、迹を後世に接(つ)がむ矣、と。


○「特立」、たつた獨り立ち拔けて、世に立つを云ふ。特立獨行は、殊更するで無い、義に適ふのみぞ。

○強齋先生の曰く、「士の特立獨行」、此の一言が、一篇の肝要眼目と云ふは是ぞ。「道を信じ」ては、吾が心に飢ゑて食を思ひ、渇して水を好む樣な、餘念他念ない、是で無ければならぬ事と云ふ樣に向切つて、たぢろかぬこと。「篤し」は、一重ならず、二重ならずと云ふこと。「自ら知ること明かなり」は、かう云ふ事が、是非善惡、我が心に覺えに成つて居るで無ければ、吾が心に覺えのあらう樣ない。我がすべき筈ぢやと云ふ事の、曇り無う成りて居ること。知つて居ても、「道を信ずること篤」からねば、たぢろく筈。道を信じても、「自ら知ること明か」に無ければ、行はれぬ。どちらを除けても立たぬぞ。

○「道を信ずること篤し云々」、道と云ふより外、脇目ふらずに餘念なうある。それを唯だ信じたばかりでは、義に合はぬ事ある。それゆゑ「自ら知ること明か」で無ければならぬ。斯う無ければならぬと、はつきりと見たものなり。後世にも色々節義をする者ありとても、激したり、耻ぢたりなどして、本法の義を見ること明かで無い故、後にぐつたりとなる事ある。此の二句は、一篇の眼目ぞ。たゞ聖人を非とするならば、伯夷の我儘と云ふもの。

○「一凡人云々」、これは今の世にもある事。嘘譽めに譽られると、面白うなり、素人にそしらるゝと、氣味惡るい。これは「學ぶ、々ゞ」と云ひつゝ、本圖(ほんと)の學で無いからぞ。

○絅齋先生の曰く、『拘幽操』の附録の跋に書くも、此の思入れで、やゝともすれば後世での手よく世を竊む者が、湯・武を特別にする。それで此の二子なくば、亂臣賊子、跡を後世に繼がせうぞ。王莽や曹操や許魯齋や、其の外の世を竊む男共を一坐に竝べて、湯・武話をしたらば、惣々「尤もぢや、聖人ぢや」と云ふを、其の中へ伯夷の名分を云ひ立てたら、どれも色違ひして、ものを得云ふまいぞ。
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【韓愈『拘幽操』】
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●絅齋先生『韓愈伯夷頌』(『大意講義』)に曰く、

 此の篇の文義段々は、‥‥畢竟つまる所の極意は、「特立獨行」の四字にあり。其の四字の正味は、「道を信ずること篤くして、而して自ら知ること明かなり」の一句、是れ、韓愈・伯夷の實心を見取りて云ふ者也。夫れ世上に世俗を相手にして一流を立てゝ、此を特立獨行ぢやと云ふもあり、又た氣質、偏屈孤立して、世間に謂へるそげ者と呼ばるゝ樣なる者もあり、又た一分にゆがみなりの義理を片皮に自ら信じて、人の言とも世ともすれ合ふも構はざる者もあり、又た頭より特立獨行と立てゝ、假初めにも一分で物をするをよしと思ふ者もあり。此の類、一通り常人には勝れて見ゆれども、畢竟、恃み無い特立獨行ぞ。何故なれば義理も根にせずに、但だ氣質氣慨の意氣で持つて居る迄なれば、何處ぞで、我流でゆかざる場は、必ずさまがあいて僵れるぞ。伯夷・叔齊は、一點も我づくではゆかぬぞ。唯だ至極々々、垢が拔けしらげゝゝゞて、義理黒的(ほし)を目に掛けて、我が飲食・飢渇の如くに、水火の寒く熱きが如くに、徹底見え拔けて居るに依つて、それなりが自らどちへどうこけても動かぬぞ。さる程に伯夷の目には、一人も合點する者が有るやら無きやら、千百年に一人の我やら、天地を窮め萬世に亙つて、知り手が有らうやら無いやら、此の段は始めから度邊(どへん)に載することでは無いぞ。「人の是非を顧みず」とあるも、合點し損なへば、伯夷、心に「人が我を是非するは、ちつとも構ひは致さぬ」と、思ひつめて斯くせらるゝと心得れば、それは惡いぞ。それならば、早や人を相手にする氣慨計りになりて、義理に根ざす所が、最早や、われてゆくぞ。是れ程に韓退之が、古今なき文章の手際で書きつめられたるも、畢竟、今日より伯夷を見立て云うたものぞ。伯夷の心は、我は道を信じて居るやら、自ら知ること明かなやら、そこの算用を覺えてするでは無いぞ。唯だ我れ見貫いた、武王の殷を伐つが非義ぢやと思ひつめたなりが、鐵石の如くにありて、自ら碎けぬぞ。それが眞の特立獨行の正銘ぞ。されば「顧みず」と云ふも、是から合點すべし。豪傑の士と云ふも、是ぞ。聖人の武王でも、意地にかゝつてすれ合うて、非とするでは無いぞ。武王であらうと、乞食であらうと、獨であらうと、八百の諸侯であらうと、天下四海であらうと、我が見得て居り、守り得て居る、臣として君を伐つは、火をつかむ如く明かなる君臣の大義が、微塵もいぢらせうとしても、いぢられぬ、それが伯夷ぞ。

 扨て伯夷ほど見取りが明かでも、兎の毛ほども人欲私意があれば、いぢるぞ。人欲私意が無くても、見拔きが伯夷ほど拔けねば、それもいぢる。それぢやに由つて、こゝの一家一國、千百年、「天地を窮め、萬世に亙る」などと、疊掛けて云はるゝは、伯夷の例の鐵石を言ひ明かさうとて、斯樣には云はれてこそあれ、其の實は、一家非として惑ひ崩るゝも、一國非として惑ひ崩るゝも、天下萬世非としてから惑ひ崩るゝも、根の据わらぬ所は、初めから同じ事ぞ。さる程に根から据ゑふとしても据わり難し。無理に強めてせうとしても、久しくすれば、何處ぞで衰へる、古今第一、難き事と云ふは、是れ也。さる程に韓退之も、能々此の篇は、こきみがいて言ひ拔かれた。其の身が大丈夫の豪傑に非ずんば、何として口計りで、文章が是れ程に出來ようぞ。其の段、略ぼ跋文に書記す。さて此の聖人でも顧みぬと云ふで、第一の特立獨行と云ふは、能く見えた。皆な跡から調べて見れば、都合が合うてある。さればひそ、天下を覆す程の惡逆な魏の曹操や、晉の司馬懿などでも、伯夷・叔齊と云ふ名を、あれらが坐敷で云へば、砒霜石や斑猫などを甞むるほど嫌がるぞ。其の嫌がる伯夷は、何者ぞと云へば、周の代に餓死したる乞食の樣な男迄ぞ。其の二人が、是れ程に響けば、其の大義も、亦た天地を窮め、萬世に亙つて、天地日月の如く、誠に人倫義理の天地を維持すること、紛れも無いことではないか。『遺言』に載する所の八人も、品こそかはれ、事こそ異なれ、此の凖三分も外れた人間は無し。學者、能く審かに見るべし。

 夫れ殷・周の際、後世、之を言ふを諱みて、周遮囘護、遂に夷・齊、馬を叩くの大義を并せ、天下萬世に暴ならざらしむる也。甚だしき者は、首陽の餓を以て、其の事無しと爲す。而れども夫の子民、今に至りて之を稱するの言、復た沒す可からず。則ち遂に目するに他の由を以てして謂ふ。「夷・齊をして、武王に相たらしめば、則ち牧野の功、太公の下に在らざる也」と。其れ亦た誤れり矣。韓愈の此の『頌』は、發揮究竭、義明かに辭贍(た)り、憾み無しと謂ふ可きかな哉。抑も孔子の「仁を求めて仁を得たり」の旨を熟味すれば、則ち道を信ずること篤くして自ら知ること明か也。尚ほ未だ以て夷・齊の心を語るに足らずと雖も、而れども求むる有りて爲さゞる者は、其の意も亦た精し矣。天地を窮め、萬世に亙りて顧みざる者に至りては、則ち亦た以て夫の前を視、後を算り、一凡人の毀譽を以て、遽かに喜慍趨舍を爲す者を警しむるに足る。

 (韓)愈、少くして不羈の才を負ひ、動もすれば世の忌む所と爲り、流落不遇、少しも其の志を行ふを得ず。是を以て時を傷み古を思ひ、感慨無聊の意、屡々詞章の間に見はる。憲宗、佛骨を迎へ宮中に入るゝに當り、王公士庶は、翕然奔走す。愈、獨り抗疏極諫し、大いに譴怒を蒙り、遂に潮州に貶めらる。既に藍關に至るに、其の姪・湘、追つて之に及ぶ。愈、歎じて乃ち詩を作りて、以て之を示して曰く、

一封、朝たに奏す、九重の天。夕べに潮州に貶められ、路八千。
聖朝の爲めに、弊事を除かんと欲す。豈に衰朽を將(も)ちて、殘年を計へんや。
雲は秦嶺に横たはり、家、何くにか在る。雪は藍關を擁して、馬、前(すゝ)まず。
知る、汝の遠く來る、應に意有るべし。好し、吾が骨を收めよ、□[病埀+章]江の邊りに。


と。蓋し自ら其の志を道(い)ふこと、語意切到、絶えて憤懣不平の態、無し。而して忠慮深厚の意も、亦た別に言外に見はる。吁(あゝ)、其れ亦た道を信ずること篤くして自ら知ること明かに、求むること無くして爲す者か與。此れ深く敬服し、煩涜を厭はずして、之を言ふを樂しむ所以ん也。夫の盆花妄誕の説(佛教)の若きは、則ち前輩、之を辨ずること、已に明かなり矣。此に復た言はず。
 

  • [17]
  • 『史を讀みて述ぶ、夷・齊の章』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月28日(月)19時54分10秒
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■□■陶潛『史を讀みて述ぶ、夷・齊の章』■□■(『陶靖節集』卷五)



二子(伯夷・叔齊)、國を讓り、海隅に相ひ將(ひき)ふ、

天人、命を革め、景(跡)を絶ちて、窮居す。

采薇高歌、黄・虞(黄帝・虞舜)を慨想す。
[『史記』に曰く、「夷・齊、餓ゑて且(まさ)に死せんとするに及びて歌を作る。其の辭に曰く、『彼の西山(首陽山)に登りて兮、其の薇を采る矣。暴を以て暴を易へ兮、其の非を知らず矣。神農・虞・夏、忽焉として沒す兮。我、安くに適(ゆ)き歸せん矣。于嗟(あゝ)兮、徂(ゆ)かん。命の衰へぬ矣』と」と。○金履祥の曰く、「是の歌辭、怨みて氣弱し。絶えて孔・孟の言ふ所の夷・齊の氣象と同じくせず」と]。

貞風、俗を凌ぎ、爰に懦夫に感ぜしむ。


○義心なりに變ぜぬ貞しい操が、すはりきつて、俗をひしぎつけ、我等が樣な懦夫の心までも、君臣の間の筋合ひに感慨して、さてもゝゝゝと、已まれぬ處があるとなり。



■□■□■



●陶潛『歸去來の辭』に曰く、

歸去來兮(かへりなん、いざ)、田園、將に蕪(あ)れなんとす、胡(なん)ぞ歸らざる。
既に自ら心を以て、形の役(奴隷)と爲し、奚(なん)ぞ惆悵(失望)して、獨り悲まん。
已往の諫めざるを悟り、來者の追ふ可きを知る。
實に途に迷ふこと(仕官)、其れ未だ遠からず。今は是にして、昨は非なるを覺る。
舟は遙遙として以て輕く□[風+易。あが]り、風は飄飄として衣を吹く。
征夫(旅人)に問ふに、前路を以てし、晨光の熹微なるを恨む。

乃ち衡宇(冠木門・屋宇)を瞻(み)、載(すなは)ち欣び、載ち奔る。
童僕、歡び迎へ、稚子、門に候(ま)つ。
三徑、荒に就けども、松菊、猶ほ存す。
幼を携さへて、室に入れば、酒有りて、樽に盈つ。
壺觴を引きて、以て自ら酌み、庭柯(枝)を眄(み)て、以て顔を怡(よろこ)ばす。
南牕に倚りて、以て傲を寄せ、膝を容るゝ(手狹な住居)の安んじ易きを審かにす。
園は日々に渉りて、以て趣を成し、門は設けたりと雖も、常に關(とざ)せり。
策(つゑ)は老を扶けて、以て流憩し、時に首を矯(あ)げて遐觀(遠眺)す。
雲は心無くして、以て岫を出て、鳥は飛ぶに倦みて、還るを知る。
景(日光)は翳翳として、以て將に入らんとし、孤松を撫して盤桓す。

歸去來兮。請ふ、交りを息めて、以て游を絶たん。
世と我と、以て相ひ遺(わす)る。復た駕(仕官)して言(われ)、兮焉(いづ)くに求めん。
親戚の情話を悦び、琴書を樂しみて、以て憂ひを消す。
農人、余に告ぐるに、春の及ぶを以てす。將に西疇(ちう。田)に事有らん(耕作)とす。
或は巾車を命じ、或は孤舟に棹す。
既に窈窕として、以て壑を尋ね、亦た崎嶇として丘を經。
木は欣欣として、以て榮に向(なんゝゝ)とし、泉は涓涓として、始めて流る。
萬物の時を得るを善みし、吾が生の行々休する(死)を感ず。

已んぬるかな矣乎、形を宇内に寓すること、能く復た幾時(いくばく)ぞ。
曷(なん)ぞ心に委ねて、去留に任せざる。胡爲(なんすれ)ぞ乎、遑遑として、何くに之(ゆ)かんと欲する。
富貴は、吾が願ひに非ず、帝鄕(仙境)は、期す可からず。
良辰を懷ひて、以て孤り往き、或は杖を植(た)てゝ耘□[耕の左+子](うんし。畑の除草)す。
東皐に登りて、以て嘯(うそぶき)を舒べ、清流に臨みて、詩を賦す。
聊か化(造化)に乘じて、以て盡くるに歸せん。
夫の天命を樂みて、復た奚(なに)をか疑はん。


○絅齋先生『楚辭師説』に曰く、何と云ふこと無うて、語意の裡に主の身のことにも見えるぞ。されども之を強ちきつう淵明の事に引付くると惡い。斯う云ふうちに、自然と語意の内に見えるは宜いぞ。『總別語話』に、此の樣な處では、必ず此の處の斯う云ふことは、我が身の事を思ひ込めて云うたことぢやの、物によそへて諷した旨が有るのと云ふが、皆な誤りぞ。さう云ふことは、詩がつぶれるぞ。詩歌は、人の人情を云ふてこそ、本法の性情を歌ふ詩なれ。そのやうな取り付けた事なれば、詩で無い。彼の處に何と云ふこと無しに、覺えず知らず出るが、眞情なり。

○造化は、春夏秋冬と移り變り、人も少が壯となり老となり、とんと彼方次第に造化に任せてをること。これが天命ぢや。これを少しも辨へると、早やさで無い。之に任せて、何にも疑ふこと無いとなり。これらは高い見取りぢや。常の詩賦とは違ふ。此の樣に風流で云ふ故、何となりと、耳へも障らず聞ゆるなり。淵明を、只の詩人の樣に、世人が心得て居るゆゑ、張良と竝べて、同じく忠義の人で、子房に劣らぬと云ふことを見せられた。



●絅齋先生『歸去來の辭』(『大意講義』)に曰く、

 此の篇の名文と云ふことは、世間にありふれて、皆な知りたることなれども、只だ風流なの、佳句があるのと云ふ計りにて、陶淵明、大義の大根源から流し出でたる文章の骨を知らず。只だ文章家・詩賦家者流の尊ぶ所となりたるこそ、淺猿しけれ。況んや近世世俗の尚ぶ所の『古文眞寶』などの中にて、始めて此の文を讀み得たる迄なれば、始めより向上を論ず可き無し。題下に「腰を折り五斗米の米を得るを耻ぢて、遂に此の篇を著はして、其の志を見はす」とあれば、其の出處の重きに關はること知る可し。故を以て別して此の篇を後に附けて、此の篇の會釋(あしら)ひ樣を見するぞ。此の篇の大旨、淵明の氣象の洒落高逸なる所を知るを要とす。末句の「天命を樂しみ、復た奚をか疑はん」と云へる者、淵明の胸襟の見處のつまる所、實に是に於て見る可し。若し此の一句あらずんば、只だ劉伯倫・王績が『酒徳頌』・『醉郷記』など、同じ類に落ちて、徒らに世を憤り俗を嫉むの詞と見ゆるべし。淵明の宋に仕へざる大義の出處も、此の胸中より根ざし出づるなればこそ、義に安んじ悔ゆること無くして、其の節義を全くせられたれ。然るに是を以て但だ貧賤富貴の中に心を動かさず、能く操を立てられたりと計り思ふは淺きことぞ。三徑の菊も、その心からこそ愛して玩ばれたれ。されば今とても秋風黄落の時、凛然として清潔香馥の姿を霜叢の中に特立して、春花の爛□[火+曼]たるを爭はぬ氣象、ひしと淵明千歳の魂を直に見る如くなるも、此の大義からして、此の如くはある也。

 是を以て此の辭を讀む者、宜しく題下の事歴とは并せ考へ通貫して、義理一致の凖を見取ること、第一の肝要也。愚、已に屈原が『漁父の辭』に於て、附録の通例を説くと雖も、然れども是に於て再び丁寧する者は、尤も見る者、之を忽せにせんことを恐れて也。夫れ大義の爲に身を處し、行を制する者あれば、其の志、誠に貴ぶべしと雖も、事、或は急迫矯激憤□[對+心]に出てゝ、其の實心の安んずる所、保つ可からざる者あるは、大義の逃る可からざるをば、略ぼ之を知ると雖も、其の心の養ふ所、終ひにその私意人欲の雜はり、其の間にあれば、強ひて安んぜんと欲すれども、得べからざる也。故に其の人、平日見る所、養ふ所、其の是非得失、是に於て見るに足れり。且つ又た朱子の説を引いて、次に載せ置くは、其の古今第一の忠義不敵者の張良を以て竝べ云ふを以て也。夫れ漢・晉の間、稱す可き者多し。然るを朱子、此の兩人を引きすぐつて、天下後世の鑑とせるは、其の大義、言はずして符合し、根本大體に關はる故を以て也。某、『遺言』に於て淵明を取りて、屈原・諸葛亮諸人と竝べ載するは、固より世俗の鄙見を一洗して、淵明大義の本末を顯さんが爲めにして、特に張良と竝論する者を擧げて、其の人物の高き、此の如きを示す。牽鈎引上げて八人の列に付するに非ず。尤も是等の處、眼を着けて看るべし。

 此の文の中、「古の君子云々、天性・民彜・君臣・父子・大倫・大法の有る所」の一説、最も緊要の處、學者第一義として之を味あふを要す。



●朱子『陶潛論』(『性理大全』卷六十三)

 朱子の曰く、張子房(名は良)は、五世、韓に相とし、韓亡び、萬金の産を愛しまず、弟死すとも、葬らず、韓の爲めに讎を報ず。博浪の謀(始皇帝暗殺)、遂げず、横陽(韓王の子孫)の命、延びずと雖も、然れども卒ひに漢に籍り秦を滅ぼし、項(項羽)を誅して、以て其の憤りを□[手+慮](の)ぶ。然る後ち人間の事を棄てゝ、導引辟穀、意を託し言を寓(よ)せ、將に古の形解銷化する者(神仙)と、八絃九垓の外に相期せんとす。千載の下、其の風を聞く者をして、想象嘆息、其の心胸面目、如何なる人爲るを知らざらしむ。其の志、壯と謂ふ可きかな哉。

 陶元亮、自ら晉世宰輔の子孫なるを以て、復た身を後代に屈するを恥ぢ、劉裕簒奪の勢ひ成るより、遂に仕ふるを肯んぜず。其の功名事業、少しく概見せずと雖も、其の高情逸想、聲詩に播(し)く者は、後世能言の士、皆な自ら以て能く及ぶ莫しと爲す也。

 蓋し古の君子は、其の天命・民彝・君臣・父子・大倫・大法の在る所に於いて、惓惓たること、此の如し。是を以て大なる者は既に立ちて、而る後に節概の高(張良)、語言の妙(陶潛)、乃ち得て言ふ可き者有り。其の然らざるが如きは、則ち紀逡・唐林の節、苦しまざるに非ず[漢の成帝の時より、清名の士、瑯琊に紀逡あり、沛郡に唐林あり。後ち皆な王莽に仕へ、公卿の位を歴たり]。

 王維・儲光羲の詩、□[條の木の替りに羽。しよう]然清遠ならざるに非ざる也[唐の開元中、王維、左拾遺・給事中に擢(ぬ)きんづ。祿山、京師を陷れ、維、擒(とら)はるゝ所と爲り、炭を呑みて□[病埀+音。唖]を佯(いつは)る。祿山、其の才を愛し、舊職を供し、普寧寺に拘ふ。儲光羲、天寶の末、監察御史と爲り、亦た祿山の僞官に任ず。賊平ぎて、竝びに左遷され、貶しめられて死す]。然るに一たび身を新莽・祿山の朝に失へば、則ち其の平生の辛勤して、僅かに以て世に傳ふることを得る所の者は、適々後人の嗤笑の資と爲るに足るのみ耳。

○強齋先生の曰く、「惓惓」は、やるせなう、何としても離れられぬ。此の身は粉にせられても、飢ゑて死んでも、たゞ君臣父子の義が忘れうとしても、どうしても忘れられぬこと。こゝが極めて肝心の所。爲に一つそこねがあると、もう埓は明かぬ。

○張良、字は子房、神農氏時代の仙人・赤松子に、穀を辟(しりぞ)け身を輕くする術を學べり(『史記』留侯世家)。
 

  • [16]
  • 『靖獻遺言』卷之三・陶潛。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月27日(日)01時18分49秒
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 陶潛、字は淵明は、東晉滅亡して八年、即ち我が允恭天皇の御宇十六年に卒す。享年六十一。



『史を讀みて述ぶ、夷・齊の章』[自ら注して曰く、「余、『史記』を讀み、感ずる所ろ有りて、之を述ぶ]

○もと『史を讀みて述ぶ』が九篇ある、これが其の中の一篇なり。史を讀んで、志を述ぶるなり。「感」の字は、只だ假りそめの辭で無い。夷・齊が馬を扣へて諫めしも聞かれず、遂に首陽山に餓死せられて、萬世君臣の大義を守り、名分を立て、凛々乎として聳え切つて、人心にさてもと感じさせ、肝を冷やさす樣な、はげしい忠義ぢやによつて、淵明も身に覺えあることゆゑ、別して感慨する所あつて、已むに已まれざるによりて、之を述べられたぞ。『伯夷傳』は、誰が見ても面白いが、竝々の者は燒石に水で、其のまゝ乾いてしまふは、自分に感ずるものが無いからなり。淵明のは、大旱魃の時にも、地に水をもつて居る所と同じ樣に、夕立がしても、濕りて來る、それと同じ事ぞ。主の忠義に、夷・齊の忠誠が濕り合うたものなり。



晉の處士・陶潛

●絅齋先生『大意講義』に曰く、

 大凡そ、身に天下國家の輕重に關はることあつて、故ゑ有り、見ること有つて仕へざる者、之を處士と謂ふ。處士の號、重きこと此の如し。漢より下、處士を以て世に稱せらるゝ者、間々これ有り。陶潛の如きは、特に其の桀然たる者也。晉を以て之に冠らしむるは、何ぞや。

 夫れ司馬晉・武帝より天下を并はせ、相傳ふること二三代、天下、大に壞れ、晉の宗族、皆な江を渡つて南す。是より元帝を以て始めとし、東晉と號す。是より以前を西晉と云ふ。東晉は江南に僻居すと雖も、西晉の末なるを以て正統とす。其の後ち安帝に至りて、政、復た衰へ、劉裕、權をとり國を專らにす。天下、之に倚つて安危をす。然るに裕、赤心、國の爲めに力を盡し忠を盡さずして、主君の昏弱を幸ひとして國を簒ひ、其の簒奪の機、已に形はるゝを見て、終ひに復た仕へず、裕、已に位を奪ふに及んで、之を召せども至らず、其の年號を用ひず、其の義を全うして、以て終る。是れ則ち表裡始終、晉の臣たる也。故に是を晉に係けて、其の志を表す。

 潛、甲子(干支)以て年を記すこと、固より韓子蒼が説の如し。是より以來、忠臣義士、正を守り、特立して伯夷の風を學ぶ者、皆な是に法とる。文天祥・謝枋得の如き、尤も其の著しき者也。蓋し正朔・年號は、天下一統の要體、苟くも是を用ひて事を紀せば、則ち身仕へずと雖も、義は已に屈す。汚れずと雖も、名は已に殉ふ。何を以て其の志を守る所を立てんや。是れ又た大義の顯然たる者、後學者をして究識すべきもの也。然るに唯だ詩家者流の美談故事となりて、義理の學に志ある者も、或は之を省みず、學、講ぜずんばあるべからず。疎妄の病たるを察せずんばあるべからず。大抵、文字を講ずる者は、大義を知らず。大義を云ふ者は、文字を顧みず。是を以て互ひに病を相爲して、遂に義理の全を知る能はざる者、之に坐するのみ。學者、之れ審かにせよ。



○強齋先生の曰く、處士と云ふあしらひ、一通りわけ有りて、牢人して居つて、君臣の大義を失はず、義なりに退いて居る者を處士と云ふ。それを知らずに、たゞ牢人でさへあれば、處士と心得たり。子に知行を讓り、我は隱居して、それを處士と心得るは、甚だしい不禮と云ふもの。

○淵明は晉に仕へ、晉亡びて宋になつてから卒せられたれども、だたい晉の家來で、晉の世になりても、晉の臣たるを失はず、それなりに身を守つて、節義を枉げずに終へられたゆゑ、『綱目』の書法にて、「晉の處士」とあるなり。處士は、故ありて浪人して、君臣の大義を失はず、義のなりで退いて居るを云ふ。浪人さへして居れば、處士と心得るは、甚だしい無禮と云ふもの。

 潛、字は淵明[一の字は元亮。○按ずるに、張縯、『年譜』を引きて云ふ、「晉に在りて、名は淵明、宋(南北朝の劉宋)に在りて、名は潛、元亮の字は、則ち未だ嘗て易らず」と。此の言、之を得たる矣も、未だ詳かならず]。潯陽柴桑の人なり。晉の大司馬・侃の曾孫なり。少くして高志遠識有り。時俗に俯仰すること能はず、親老い家貧しきを以て、起ちて州の祭酒(學頭)と爲る。吏職に堪へず、少日(僅かの間)、自ら解きて歸り、環堵(小さき屋敷周り)蕭然、風日を蔽はず、短褐穿結(襤褸衣を結び合はす)、箪瓢、屡々空しきも、晏如たり也。州、主簿に召すも、就かず。躬ら耕して自ら資け、遂に羸疾(疲れて病む)を抱く。

 江州の刺史・檀道濟、往いて之を候す。偃臥瘠餒して、日有り矣。道濟、饋(おく)るに、粱肉を以てす。麾(さしまね)きて之を去る。後ち鎭軍の建威參軍と爲る。親朋(親戚・朋友)に謂ひて曰く、「聊か弦歌して、以て三徑(松竹菊)の資と爲さんと欲す。可ならんか乎」と。執事の者、之を聞きて、以つて彭澤の令と爲す。官に之(ゆ)くに、家累を以て自ら隨へず。一力を送り、其の『子に給するの書』に曰く、「汝、旦夕の費え、自ら給すること難しと爲す。今ま此の力を遣はし、汝が薪水の勞を助けしむ。此も亦た人の子なり。善く之を遇する可し」と。官に在ること八十餘日。歳の終りに郡、督郵を遣はし、縣に至らしむるに會ふ。吏、白す、「當に束帶(禮服)して、之を見るべし」と。潛、嘆じて曰く、「吾、安くんぞ能く五斗米の爲めに腰を折りて、郷里の小兒に向はんや耶」と。即日、印綬を解きて去り、『歸去來』の詞を作りて、以て志を見はす。

 後ち劉裕(宋の武帝)、將に晉の祚を移さんとする(そろゝゝ奪はんとした)を以て、二姓に事ふるを恥ぢ、遂に復た仕へず。作る所の詩辭は、類(おほむ)ね國を悼み時を傷み、感諷するの語多しと云ふ。裕、已に位を簒ひ、國を宋と號す。文帝(劉裕の子)の時、特に徴すも、至らず。卒して、靖節徴士と謚す。

裕、國を簒ひて後、潛、著す所の文詞、年號を用ひず。皆な甲子を以て、年を紀せり焉。韓子蒼の曰く、「或は謂ふ、「淵明の題する所の甲子は、必ずしも皆な義凞(年號)の後ならず」と。此れ亦た豈に淵明を論ずるに足らんや哉」と。按ずるに、義凞は安帝の年號、其の末年、裕、帝を弑し、尋いで又た恭帝を廢して位を奪ひ、遂に之を弑す]。

 識者(東坡蘇軾)の謂ふ、「『陶潛、史を讀んで述ぶ』。蓋し感有りて作る。今に至りて、猶ほ其の人を見るが如しと云ふ」と。




●寒林平泉澄先生『芭蕉の俤』(昭和二十七年五月・日本書院刊)に曰く、

 蓋し陶淵明が、詩文の實際に就いて之を徴するに、その詩の年を記するもの、隆安四年以後、大抵干支を録して、年號を記さない‥‥。しかし文に於いては、年號をあげて、或は晉の太元中(『桃花源記』)といひ、或は晉の義煕三年(『程氏の妹を祭る文』)といつて居る。即ち晉の王室の存續してゐる限りは、晉の正朔を奉じて、其の年號を用ゐて居たに相違ない。たゞし詩の殆んど全部と、文の多くとに(たとへば『歸去來の辭』や『從弟敬遠を祭る文』など)、たゞ干支を記して年號を冠してゐないのを見れば、晉の末世、劉裕の專横に慨するところあつて、年號を用ふる事を好まない氣象の存したといつて差支へない。而して晉の亡び、宋の起るに及んでは、わづかに『自祭文』に、「歳これ丁卯」とした意外は、干支をすら録せず、況んや年號の如きは、一囘も之を用ひなかつたのである。彼が晉室の衰へをなげき、宋の簒奪に服しなかつた事は、自ら明かである。それ故に淺見絅齋は、その『靖獻遺言』に於いて、「是より以來、忠臣義士、正を守り、特立して、伯夷の風を學ぶ者、皆な是に法とる。文天祥・謝枋得の如き、尤も其の著しき者也。蓋し正朔・年號は、天下一統の要體、苟くも是を用ゐて事を紀せば、則ち身仕へずと雖も、義は已に屈す。汚れずと雖も、名は己に殉ふ。何を以て其の志を守る所を立てんや。是れ又た大義の顯然たる者、後學者をして究識すべき者也」と、説いたのであつた。

 彼の文の世に喧傳する、『歸去來の辭』に若くはない。古くは『文選』に收められ、中ごろは宋の謝枋得が『文章軌範』の最後を飾り、我が國に於いては、淺見絅齋の『靖獻遺言』にも載せられて、ひろく讀まれて來たものである。序に乙巳の歳十一月とあるによつて推せば、それは晉の安帝の義煕元年、彼が四十一歳の時であつた。彼は家貧しうして田に耕すも自ら給するに足らず、家族を養ふすべが無かつたので、人々の勸めに從ひ、彭澤の令となつた。彭澤を選んだのは、家を去る事百里、距離の近きを便なりとした爲であるといふ。‥‥令は縣の長官であるから、我が國の郡長に當る。彼は之に任じた時に、家族を同伴せず、單身任に赴いた。そして一人の下僕を家に送つて、其の雜用に供せしめたが、その時に子を戒めた書状にいふ、「汝、旦夕の費、自ら給する、難しとなす。今、此の力を遣して、汝が薪水の勞を助く。此れも亦た人の子なり。善く之を遇すべし」と‥‥人の胸をうつ佳話たるを失はない。

 さて彼は縣令に任じて幾何の日數をも經ないうちに、既に之をいとふの情を生じた。蓋し本心を枉げ、自然をためて、俗物汚吏の使役に甘んずるに堪へなかつたのである。家にかへれば、飢寒の苦しみ切なるものがあるが、官にあれば、己の心を裏切る痛み、一層甚だしきものがある。是に於いて深く平生の志にそむいた事を恥ぢ、早晩辭職して歸郷しようとしてゐたところへ、たまゝゝ機會あつて、之を決行し、官をやめて家に歸り、『歸去來の辭』を作つたのであつた。

 辭職決行の機會が何であつたかといふに、通説は郡の官吏の來るにあひ、束帶して之に見えむことを要求せられたので、彼は慨然として、「我れ五斗米の爲めに腰を折りて、郷里の小人に向ふ能はず」といひ、即日、印綬を解き去つたといふのである。この痛切の根據とかするところは、『宋書』・『晉書』及び『南史』であり、また梁の昭明太子の撰にかゝる『陶淵明傳』である。我れ豈に五斗米の爲めに膝を折らんやとは、痛快のやうであつて、いかにも輕い態度であり、市井の俗士、一時の憤激によつて發する語と多く選ぶところが無い。『歸去來の辭』の本文を見れば、超然高踏の志を述べ、山水自然の樂を記して、更に憤慨怨嗟の趣が無い。殊に末尾の一句、「かの天命を樂しんで、またなんぞ疑はむ」といふに至つては、運命に隨順する高士の心、澄みきつて一點の濁りを留めてゐないのを見る。かやうに心の澄みきつた高士が、既に俗流の慾念を離脱してゐる以上、榮辱も禍福も、少しも其の心をわづらはすことは無い筈である。それが今、縣令として郡吏を迎ふるを恥ぢ、我れ豈に五斗米の爲めに腰を折らんやと叫んで、辭表をたゝきつけたといふのは、腑に落ちない態度といはねばならぬ。

 そこで再び全集を見るに、『歸去來の辭』の序に、令となつてしばらくすると、辭官歸郷の情を生じた事を述べた後に、「ついで程氏の妹、武昌に喪す。情、駿奔に在り。自ら免じて職を去る」とある。即ち彼が辭職を斷行した直接の動機となり、かねての志を爲すべき機會となつたものは、實にその妹の死であつたのである。‥‥五斗米の爲に膝を屈するを潔しとせずして、官をやめたといふは、俗説の誤であつて、實は妹の死を機會に素意を達し、家に歸つたのであるといふ事情が明かになつてくると、こゝに『歸去來の辭』は、眞實の落着きを示してくるのを覺える。

 『歸去來の辭』は、私が少年の日より親しんだ文の一つである。しかし『文章軌範』に之を讀み、『靖獻遺言』に之を誦して、その天命に安んずる心の寧靜を見る時、監督官の來り檢閲するを迎ふるに束帶するを求められて、憤然として五斗米を擲つたといふ傳説と適應せざるを怪しむの情に堪へなかつた。五斗米の傳説に現はるゝは、猶ほ客氣であり、俗情である。『歸去來の辭』に見るところは、道に安んずる高士清逸の心である。二者は、その淺深、大に相違するところがある。私は之を怪しみつゝ多くの歳月を經過した。しかるに此の頃、彼の全集を精讀し、『歸去來の辭』の序を弄味するに及んで、五斗米傳説の虚妄なるを知るに至つた。妹の死を悲しんで家に歸つたとは、彼自らの云ふところである。『宋書』や『晉書』・『南史』の、いかに傳へようとも、昭明太子の『傳』に、何と記されようとも、彼自身のこの告白を否定する事は出來ない。況んや同胞の別離を悲しんで家に歸つたとして、初めて『歸去來の辭』は生きてくるのである。

 私は『歸去來の辭』に親しむ事、實に四十年である。四十年、之に親しみながら、心底に一つの疑を存すること、猶ほ奧齒に物のはさまつた如き不安を感じながら、つとめて之を解決しようとせずして、漫然歳月を空過し、今に至つて漸く疑氷を融解し得たといふは、その疎漏、その愚鈍、眞に慚愧の外はない。しかし實をいへば、私の陶淵明に對する疑問は、五斗米の一點だけではなかつた。今一つの問題は、『歸去來の辭』に、「請ふ、交をやめて以て遊を絶たむ、世と我と以て相わすれむ」とうたつた彼が、他方に於いては、劉裕の專横を憎んで、晉室の衰微を悲しみ、宋の起るに及んで、斷じて其の正朔を奉じなかつたといふ點である。世と我と以て相わすれむといへば、國家の運命に無關心であつたやうに感ぜられ、年號の記載に嚴格であつたといへば、忠義憂憤の情に厚かつたと考へられる。そのどちらが、一體彼の本心であつたのであらうか。‥‥

 その眞意が如何なるものであるかは、溯つて曾祖の遺訓を見、惜陰の勉勵を見、易水の感激を見、宋の年號を用ふるを肯んぜざる、晉の遺民としての守節に見て、始めて明かであらう。『歸去來の辭』に親しむ事、實に四十年、私が今日、漸くにして解し得たところは、大體、以上の通りである。



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 愚案、支那の「革命」の歴史を見るたびに、我が萬世一系の天子を戴く國に生を禀けし幸福を痛感する。國體の相違に瞠目して、彼の正統變轉する歴史に生きる者の、如何に凄じきか、或は其の不幸を、更めて知るのである。革命の國、嗚呼、痛ましきかな哉。

 我が國に於いて、「『一九四七年』などと、異國の年號に近いものを書くのは、天皇の『時』の支配權を否認するものであつて、謀叛豫備罪」に相當する。現代、我が元號を奉ぜざる者あり。異國の暦を奉ずるは、勝手千萬の時代である由と雖も、心ある者は、殊に之に注意しなければならぬ。
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  • [15]
  • 後の出師の表。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月25日(金)22時54分6秒
  • 返信
 
■□■諸葛亮『後の出師の表』■□■(後主・禪の建興六年)

 先帝、深く慮るに、漢賊(漢・魏)、兩立せず、王業、偏安せざるを以てす。故に臣に託するに、賊を討ずるを以てせり也。先帝の明を以て、臣の才を量る、固より當に臣、賊を伐つの才弱く、敵彊きを知るべし也。然るに賊を伐たざれば、王業も亦た亡ぶ。惟だ坐して亡を待つは、之を伐つに孰與(いづ)れぞ。是の故に臣に託して疑はざる也。臣、命を受くるの日、寢(いぬ)るに、席を安しとせず、食ふ味を甘しとせず。北征を思惟するに、宜く先づ南に入る可し。故に五月、瀘を渡り、深く不毛に入り、日を并て食ふ。臣、自ら惜しまざるに非ざる也。顧(おも)ふに、王業、蜀都に偏全なるを得可からず。故に危難を冒して、以て先帝の遺志を奉ず也。而るに議する者、謂ひて計に非ずと爲す。今ま賊、適(まさ)に西に疲れ、又た東に務む。兵法に「勞に乘ず」と。此れ進趨の時也。謹みて其の事を陳ぶること、左の如し。

 高帝(漢の高祖・劉邦)の明、日月に竝び、謀臣、淵深。然るに險を渉り創(きず)を被り、危ふくして然る後ち安し。今ま陛下、未だ高帝に及ばず。謀臣、良・平(張良・陳平)に如かずして、長計を以て勝を取り、坐ながら天下を定めんと欲す。此れ臣の、未だ解せざる一也。

 劉□[謠の右+系]・王朗は、各々州郡に據り、安を論じ計を言ひ、動けば聖人を引き、群疑、腹に滿ち、衆難、胸に塞がる。今歳、戰はず、明年、征せず。孫策(孫權の兄)をして、坐ながら大いに、遂に江東を并せしむ。此れ臣の、未だ解せざる二也。

 曹操の智計、人に殊絶し、其の兵を用ふるや也、孫・呉に髣髴す。然るに南陽に困しみ、烏巣に險しく、祁連に危ふく、黎陽に偪り、幾んど伯山に敗れ、殆んど潼關に死す。然る後ち一時に僞定するのみ耳。況んや臣の才弱くして、危ふからざるを以て、之を定めんと欲するをや。此れ臣の、未だ解せざる三也。

 曹操、五たび昌覇を攻めて下らず。四たび巣湖を越えて成らず。李服を任用して、李服、之を圖(裏切り)り、夏侯(淵)に委任して、夏侯敗亡す。先帝、毎に操を稱して能と爲す。猶ほ此の失有り。況んや臣の駑下なる、何ぞ能く必ず勝たん。此れ臣の、未だ解せざる四也。

 臣、漢中に到るより、中間朞年(一年)のみ耳。然るに趙雲・陽群・馬玉・閻芝・丁立・白壽・劉郃・鄧銅等、及び曲長・屯將七十餘人、突將・無前・□[宗+貝]叟・青羌・散騎・武騎一千餘人を喪ふ。此れ皆な數十年の内、糾合する所、四方の精鋭にして、一州の有する所に非ず。若し復た數年ならば、則ち三分の二を損せん也。當に何を以て敵を圖るべき。此れ臣の、未だ解せざる五也。

 今、民窮し兵疲れて、事、息む可からず。事、息む可からざれば、則ち住(とゞ)まると行くと、勞費、正に等しくして、蚤きに及びて、之を圖らず、一州(益州)の地を以て、賊と久を持せんと欲す。此れ臣の、未だ解せざる六也。

 夫れ平らにし難き者は、事也。昔、先帝、楚に敗軍す。此の時に當りて、曹操、手を拊(う)ちて、天下、已に定まると謂ふ。然る後ち先帝、東のかた呉越に連なり、西のかた巴蜀を取り、兵を擧げて北征し、夏侯(淵)は首を授く。此れ操の失計にして、漢の事、將に成らんとする也。然る後ち呉、更に盟に違ひ、關羽毀敗し、秭歸に蹉跌し、曹丕、帝と稱す。凡そ事、是の如し。逆(あらかじ)め見る可きこと難し。臣、鞠躬して力を盡し、死して後ち已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明、能く逆め覩る所に非ざる也。

○絅齋先生の曰く、「鞠躬」は、身を責めて窮屈な目をすること。「而後ち已まん」は、これまで御終ひにせぬ。こゝが、「法を行ひ、以て命を俟つ」と云ふ義なりの、天命にまかせ、兎に角く顧みず、大義より先の無い、孔明の義心なり。此の言ほど、明かに大義をふまへた事は無い。

○強齋先生の曰く、跡の事は、敗れうやら、成らうやら、それは計られませぬが、私、命の限りに御奉公を仕りませうとあること。極めて忠臣の大義を忘れぬ實心から出た辭で、亦た挨拶一遍には云はれぬぞ。

■□■□■



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 風薫る候、時、恰も楠公祭の日に、支那の楠公とも謂ふべき、諸葛亮、字は孔明の卷の初稿を、やうやく書き畢ぬ。感慨無量、道福無上、「夫の天命を樂しみ、復た奚をか疑はん」(陶潛『歸去來辭』)。

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  • [14]
  • 鞠躬盡力、死して後ち已まん。成敗利鈍に至りては、能く逆め睹る所に非らざる也。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月25日(金)22時34分25秒
  • 返信
 
 ●南軒張栻『衡州石鼓山の諸葛忠武侯祠記』を節略して曰く、

 張栻の曰く、「漢、相ひ傳ふる四百餘年にして、曹氏、漢を簒ふ。諸葛武侯、此の時に當りて、間關百爲、昭烈父子を左右し、國を蜀に立て、賊を討ずるの義を明かにし、強弱・利害を以て、其の心を二つにせず。蓋し凛凛乎たる三代の佐也」と。侯(諸葛亮)の言に曰く、「漢賊、兩立せず。王業、偏安せず」と。又た曰く、「臣、鞠躬して力を盡し、死して後ち已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明、能く逆め睹る所に非らず」と。嗟乎(あゝ)、斯の言を誦味せば、則ち侯の心、見る可し矣。不幸にして功業、未だ究めず、中道にして殞(死)すと雖も、然れども其の皇極を扶け、人心を正し、先王の仁義の風を挽囘し、之を萬世に埀る、日月と其の光明を同じうして可也。夫れ天地有れば、則ち三綱有り。中國の夷狄に異なる所以、人類の庶物に別なる所以の者は、是を以ての故のみ耳。若し利害の中に汨(しづ)んて、夫の天理の正(三綱)を亡へば、則ち天下を有つと雖も、一朝も居ること能はず。此れ侯の、敢へて斯須(しばらく)も賊(曹操)を討ずるの義を忘れず、其の心力を盡し、死に至りて悔いざる所以の者也。

○「三代の佐」は、夏・殷・周の三代なり。その王者の助けなりと云ふ意。流石、南軒だけの見やうなり。自ら管仲・樂毅に比するも、いやゝゝ其の段で無い。三代の佐たりし、益・稷・皇陶・伊尹・傅・周公旦・召と肩を比べるとなり。

 「皇極を扶く」と云ふは、天子の人倫の至りを極めて、天下の人の則になること。たゞ南面したばかりでは、本統の君で無い。君の親に事へらるゝは、孝道の至りを極めて、天下の子たる者の則となる、それをするは、君に在りて、孔明はそれを扶くるぞ。たゞ君を扶くるばかりは、魏でも呉でも、それゞゝにあれども、皇極を扶くと云ふは、孔明より外に無い。「人心を正す」は、人、皆な曹操に從つて居て、義理も知らずに居る。それを討つて、天下の人に曹操の姦賊なることを知らしめた。

○「皇極」は、『書經』洪範に出づ。蔡沈の註に、「皇極とは、君の極を建つる所以」。君主の立てた道徳的標準を云ふ。即ち興漢討賊てふ名分の根本を云ふ。

○「三綱」が失はれると、人は人としての價値を失ひ、天地も其の存在の意義を失ひ、たゞ生れて死ぬと云ふ自然現象のみが行はれる世界に墮落してしまふ。即ち三綱が立つか立たぬかと云ふ一點に、「中國」と「夷狄」、人間と人間以外のものとの分岐點がある。三綱が立たねば、人も人に非ず、國も國で亡くなる。件の思想こそ、東洋倫理の根本である。

 天下雲擾の初めに方(あた)りて、侯(亮)、獨り高臥す。昭烈、帝室の胄を以て、三たび其の廬を顧みて、後ち起つて之(亮)に從へば、則ち夫の出處の際、固より已に大いに人に過ぐる者有り。其の國を治むる、經を立て紀を陳べて、近圖を爲さず。其の兵を用ゐる、義を正し(興漢討賊)、律を明かにして(泣いて馬稷を斬り、自らの官を降したる類)、詭計を以てせず。凡そ其の爲す所、悉く大公に本づき、曾て繊毫も姑息の意無し。類(おほむ)ね皆な後世の及ぶ可き所に非ず。其の將に沒せんとし、自ら表するの辭を讀むに至りては、則ち天下の物欲、擧げて以て之を動かすに足らざるを知る。養ふ所の者深ければ、則ち發する所の者大なり。理、固より然り也。曾子の曰く、「士、以て弘毅ならざる可からず」(『論語』泰伯篇)と。侯の若きは、其の所謂る弘且つ毅なる者か歟。『孟子』に曰く、「富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず。此れをこれ大丈夫と謂ふ」(滕文公篇下)と。侯の若き者は、所謂る大丈夫、非ずや耶」と。



●朱子『孟子或問』盡心篇下三十三章を節略して曰く、

 朱子の曰く、「君子、法を行ひて、以て命を俟つのみ而已矣。是れ理や也、三代(夏殷周)以降、惟だ董子(董仲舒)、嘗て之を言ふ(『夫れ仁人は、其の誼(義)を正して、其の利を謀らず。其の道を明かにして、其の功を計らず』――『賢良策』)。諸葛武侯、其の君に言へる、曰ふこと有り、『臣、鞠躬して力を盡し、死して後ち已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明、能く逆め睹る所に非ざる也』と。程子(程明道)、其の門人に語る、曰ふこと有り、『今ま容貌、必ず端(たゞ)しく、言語、必ず正しき、獨り其の身を善くして、以て人に知らるゝを求めんと欲するに非ず。但だ天理、當に然るべし』と。亦た曰く、『之(理)に循(したが)ふのみ而已矣』と。此の三言(董子・諸葛・程子)は、指す所ろ殊なりと雖も、要するに皆な法を行ひ、命を俟つの意、此の外は、則ち寂寥として聞くこと無し矣」と。

○「指す所ろ殊なり」とは、董子は仁人の上で、孔明は軍の上で、程子は形の上で云ふ。

 「寂寥として聞くこと無し矣」、其の外、誰も此の旨を知つた、音沙汰も無い。義利の二つは、粗でも細でも、かう云ふより外ない。かう云ふ事でなければ、どうでも役に立たぬ。孝をするも、親に孝ぢやと云はれたうてとか、君に忠するも、祿が欲しくてとかならば、よい事から、利の爲めにすると云ふもの。孔明も後に身代を上げよう爲めになれば、そで無い。たゞ何の事なしに、今日生きて居るからは、賊を討つが、天理の然る所ぢやと思はれた事ぞ。あの盗人めを、あの儘にして置かれやうかと、臟腑から出でて、默つて居られぬからの事ぞ。三代以來、いかい人物もあれども、こゝを云うたは、只だ此の三人より外は無いぞ。

○強齋先生の曰く、「寂寥として聞くこと無し矣」、音もさなりも無い、是より外には聞かぬと、朱子の感じを仰せられた詞ぞ。さて義理の辨は、『大學』の終りに、「利を以て利と爲ず、義を以て利と爲す」とある。孟子、『大學』の傳を得られて、七篇の先づ首に、「何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ而已矣」と仰せられ、盡心篇に、「法を行ひて、命を俟つのみ而已矣」と云つて、義理を守るの當然を云ひ拔かれた。それより程子、正統を傳へて、「今ま容貌云々」と云ひ置かれた。言は異なれども、皆な義理の當然を云ひ拔かれた。其の後、張南軒の『孟子義理辨講義』に、「爲めにする所ろ有りて後に之を爲せば、則ち人欲の私にして、天理の存する所に非ず矣」と云はれた。極めて明説、源を拔き底をさらへて、本心のつひきならぬ、先づ正面のたゞ中を云ひ拔かれた。爰に明かになうては、聖學の正統・義理根本の學術は得られぬ。是を朱子、感慨なされて、『南軒神道碑』に書かれた。皆、聖學義理の源ぞ。『孟子』と參(まじ)へ考ふべし。
 

  • [13]
  • 三國正統辨。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月24日(木)22時17分28秒
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●絅齋先生『三國正統辨』(『靖獻遺言大意講義』)に曰く、

「夫れ正統とは、天下の筋目を以て、有つて全く得たるを云ふ。然るに世の末になれば、次第に衰へて、天子の子孫は有り乍ら、國は皆な方々へ奪ひ取られ、天子の下知を用ふる者なし。されども何ほど衰へたりと雖も、その天子の子孫續く間は、是を正統とす。故に「周」の世八百年とは雖も、天下推しならして、其の命を用ふるは、僅かに四五代迄ぞ。其の後は諸侯、皆な我れもちになりて、周の君は、僅かの身體にて、やうゝゝ文王・武王の宗廟を守つて居らるゝ迄なれども、天下の系圖をつるは、八百年過ぎて、秦より周の國を取潰して、根も葉も無き樣にして、代々の重寶の鼎を秦へ移し取りたる時に成り詰つて、そこで周の天下は亡びたとは呼ぶぞ。其れより秦の始皇に至るまで、百年前後は、誰を天下の主と定むべき樣なし。是れ故ゑ此の時を「無統の世」と云ふ。『史記』等には、戰國の末とも、六國とも呼んであるが、此の時の事なり。其より始皇、天下を固めたれば、又た「秦」の天下と、之を呼ぶ。其より三代續きて秦亡び、漢の高祖、天下を并せ、是より「漢」の天下となる。若し此の時、一人にても秦の子孫、始皇が跡をふまへ、一城にても持つて居れば、何ほど漢が強くても、秦の天下の正統は、未だ亡びぬぞ。既に高祖、天下を并せて二百年、王莽、位を竊むこと十八年(「新」)にして、又た漢の子孫・光武起り、天下を取復す。これを「後漢」とす。相續くこと百八十年、獻帝の世に至つて、天下大に亂れ、四海分裂し、各々天下を奪はんとする者、幾人も起りて相戰ふ。

 獻帝は、其の時、都に在り乍ら、天下の下知をすること叶はず、天下の大將共は、獻帝の下知を受くれば、漢の天下を奪ふことが、何時迄も成らぬと覺えて、用ひぬ樣にと、ひたと我が儘を働きしに、曹操と云ふ姦賊、これも同じ漢の大將軍なれども、天下を盗まんと巧む。隨分知略深き者故、兎も角く互ひに慾で競り合うた分では勝つことはなるまいと積りて、わざと獻帝を手前へ呼び入れて、成る程あがまへて私し、身方を仕て、「天下の賊徒共を片端より平げて、君を天下の主に仕立て、私は退きませう」と云ふ程に、獻帝も難儀の最中にてはあり、それを眞實にして、軈て曹操が國へ行かれたれば、曹操は、初めは成る程尊ぶ樣にして、「天子の御意ぢや程に、こちへ朝覲をせよ。朝覲せずは、謀叛人にするぞ」と云うて、天子の下知を假り物にして、天下の大名共を脅す程に、大名共も、下地は謀叛人なれども、朝覲せねはならず、朝覲すれば、取つて倒し、兎も角く云ふ中に、中國を大形三分の二ほどは手へ入れたぞ。獻帝は、我に取つてくれる事かと思うて、折々下知を云うて見ようとせらるれば、操、少しも用ひず、やゝもすれば、帝に毒を進めんとしたり。此方へ御遜りなされたがよからうと、人に言はせたりして、己が身は、樣々の重き官位を我が儘にして、後は天子の傍らに使はるゝ者とては、初めより付きまとひたる近習・左右の者より外は一人も無く、天下の事は、最早や何もかも操に任せに成つて、操が下知と云はねば、一人も用ひぬ樣にしかけて、獻帝は、只だ木守りの木の實を見る樣に成つて、操が爲めに殺されるを待つて居る許りになられた。されども操、帝を弑することは易けれども、君を弑したと云ふならば、今迄の詐りが皆はげて、天下を得られまいかと思うて、見合はして居る中に、病付きて死んだぞ。其の子・曹丕が世に成つて、終ひに無理遜らしに遜らして、引つたくつたぞ。さうして帝を、山陽公と云つて、微かなる體にして置いて、終ひに毒害したぞ。是より世の名を改めて、「魏」と號す。是れ三國の一つ也。

 扨て呉の孫策とて、是も漢の大將にて、方々を斬り取つて、江南の分は、己が手下に附けたぞ。其の中に、策死して、弟の孫權、跡を蹈まへたり。是も漢の爲めに戰ふ樣なれども、畢竟はぬめりかはりとして、己一分の國を取る分別、漢より見れば賊なり。是れ三國の一にて、「呉」と號す。權よりして、天子の號を竊んで、帝と稱するぞ。

 扨て蜀の本末は、本文にある如く、漢の景帝の子孫にして、微の體になり、履を販ぐ事を業として居る人に、劉備と云ふあり。自ら漢の子孫なるを以て、此の度び漢の天下を人に奪はれ乍ら、子孫たる者の大義を立てずして朽果つべき樣なしと思立つて、夫より軍を起し、樣々流浪して、終ひに蜀の國を手に入れ、魏・呉の二つを相手にして、漢の天下の敵賊として戰はれたぞ。別して曹操は、漢賊の第一なれば、是を目がけて水火の競り合ひをせられたり。操死して、丕、位を奪ひ、獻帝を弑す。是より天下の正統絶えたれば、劉備は漢の手筋ゆゑ、自ら正統を任ぜねば叶はざる場になりて、遂に天子の位に即いて、やはり獻帝の引次を受けて踐へたる合點にて、漢の號を立て名乘られたぞ。是れ又た三國の一にて、蜀に國を立つる故、時に「蜀」と號す。されども其の儘、漢の續き故、是を前漢・後漢・蜀漢と呼べど、三漢、只だ一つの漢ぞ。是れ則ち不易の正統にして、朱子『(資治通鑑)綱目』第一の義也。後世の書に、季漢と呼んであるも、此の蜀漢の事也。

 然るに司馬温公『(資治)通鑑』を編むに、三國の魏を正統と立てられたり。其の旨は、漢の正統の獻帝より、直に曹丕が手へ讓り受けたれば、正統は、魏の筈なりと定めらる。「蜀は何故に」と問へば、それは「漢の末とは云へども、世末になりて、とくと代々の年紀も記して無ければ、正統とはし難し」との云ひ分也。其の説、詳かに『通鑑』三國の部に出づ。且つ又た『綱目』十四卷七十六帳に載せたり。是れ温公の説、大に誤まれり。朱子『綱目』を修むる、其の意、樣々ありと雖も、別して此の三國正統の紛れ、天下後世、甚だ大義の害をなす故に思ひ立たれたり。詳かなること、『綱目』及び『文集』・『語類』に之れ有りと雖も、今ま其の大意の要を擧げ、且つ其の旨に因つて、竊かに推説すること、左の如し。

 夫れ魏は、獻帝の讓を受くと雖も、然れども固より謙遜揖讓の美に非ずして、劫奪逼迫を以て之を讓る、其の實は、則ち刃を以て弑すると、兵を以て奪ふと異なる無し矣。然るに温公は、徒らに其の跡を以て之を論じ、遂に以て正統と爲す。蜀に至つては、則ち世次の遠きを以て、漫りに省察せず。其の他に、明かに説くこと無し。且つ景帝の子・中山靖王の後に至つては、則ち初めより信ぜざるが如し也。嗚呼、其れ疎且つ偏と謂ひつ可し矣。此れ明白的實、朱子の『綱目』に於て其の旨を詳説し、『感興詩』第六章も、亦た其の微意を詠嘆す。其の他、千言萬語と雖も、又た皆な此に過ぎず。『綱目』發明推演、尤も盡せり矣。今ま復た贅擧せず。

 或は曰く、「若し當時、獻帝の讓、其の本意に出でて、丕の之を受くる、劫奪の邪志有らざれば、則ち正統を以て、魏に與みせんか乎」と。曰く、「然らず也。若し此の如くすれば、則ち獻帝と雖も、亦た賊なるのみ而已矣」と。曰く、「獻帝は、漢の君也。漢を以て人に與ふ。而して其の意に出づるは、則ち何ぞ不可と爲さんや耶」と。

 曰く、是れ則ち所謂る大義の關はる所にして、究窮せざる可からざる也。夫れ天下は、漢の天下、高祖以來、相傳の重器、後世子孫の、敢へて自ら專らにするを得る所に非ざる也。故に獻帝爲る者、若し兵盡き力竭き、宗廟社稷、得て守る可からずんば焉、則ち自殺して可也、戰死して可也。此れ亡國の君、正統を守つて、先帝に報ゆる所以、不易の常體也。然らずして輕く祖宗の天下を以て人に與ふれば、則ち敵國賊徒を論ずる無し。親戚族類と雖も、皆な自ら祖宗に背きて已む。國家を亡ぼすの罪、豈に逃れ得んや焉乎。是を以て獻帝と雖も、天下を以て人に與ふれば、則ち均しく之を名づけて、賊と曰ふのみ已。後の三國を論ずる者、大義を明かにせず、惟だ魏の中原を取りて、蜀の才かに一隅に據るを見て、乃ち見聞の説に蔽はれ、謾りに温公を以て是と爲す。其の誣奪の醜を嫌はゞ、則ち其の讓意、本と獻帝に出づるを以て、未だ曹丕の罪を減ぜず、以て正統の名を予へんと欲する也。殊えて知らず、是の時に當り、天下の一分を以て、敢へて人に與ふる者は、何人を問はず、皆な賊徒の謀叛のみ耳。是の故に『綱目』に、獻帝の崩を、天子の崩の常例を以て書せずして曰く、「山陽公卒す」と。其の貶意、見る可し矣。某、『遺言』を編み、亦た竊かに此に本づくのみ已。更に第六卷に於て、之を詳かにす。諸賢、之を記して可也」と。

 

  • [12]
  • 忠義三代の家風。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月23日(水)23時23分39秒
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■諸葛亮『後の出師の表

○『前表』の時は、志を遂げずして本國に還り、又た再び軍を出された。其の時のもの故、『後の出師の表』と云ふ。建興六年冬、魏を討つ時のものなり。

 亮、已に前表を上り、大軍を率ゐて魏を伐ち、戎陳整齊、號令明肅なり。是に於いて天水・南安・安定、皆な郡を擧げて亮に應じ、關中(魏都長安)響震す。魏、將軍・張郃をして之を拒(ふせ)がしむ。亮、參軍・馬謖をして諸軍を督し、郃と街亭に戰はしむ。謖、亮が節度(指圖)に違ひ、敗績す。亮、漢中に還り、群下に謂ひて曰く、「今ま罰を明かにし過ちを思ひ、變通の道を將來に□[手+交。くら]べんと欲す。今より已後、諸々、國に忠慮有る、但だ勤めて吾の闕(あやまち)を攻(をさ)めば、則ち事、定むべく、賊、死すべし矣」と。是に於いて微勞を考へ、烈壯を甄(けん。あきら。格別に登用)かし、咎を引き躬らを責め、所失を天下に布き(微塵も隱さぬ)、兵を厲まし武を講じて、以て後圖(中原進攻)を爲す。戎士簡練、民、其の敗を忘る矣。建興六年冬、復た兵を出し、魏を伐たんと欲す。群臣、多く以て疑を爲す。

○「吾の闕を攻む」とは、敗軍したは馬稷なれど、左は云はぬ。こゝが孔明の孔明たる處なり。我が下知が惡くて負けたこと故、その闕を補ふならば、となり。

 亮、又た表を上り、帝に言ふこと、此の如し。遂に兵を引きて散關を出で、是より後ち屡々出でて魏を伐ち、郡を拔き將を斬ること數たびなり矣。魏將・司馬懿(字は仲達)、亮が威名を憚り、山に登り營を掘り、戰ひを肯んぜず。亮、是に於いて民を息め、士を休むること三年、復た大衆を悉(つく)して出で、進みて武功の五丈原に據り、懿と渭水の南に對陳す。亮、前者(さき)に數々出づるも、皆な糧運繼がず、己が志をして伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分ちて屯田し、久駐の基と爲す。耕す者は、渭濱の居民の間に雜(まじ)りて、百姓安堵し、軍に私無し焉。

 亮、數々戰ひを挑み、遣(おく)るに巾幗・婦人の服を以てするに至る。懿、終ひに畏れて、敢へて出でず。尋いで亮、病ひ篤し。乃ち後事を處分し、從容精整、終ひに軍に卒す。年五十四。遺命して、漢中の定軍山に葬る。山に因りて墳を爲り、冢は棺を容るゝに足り、斂するに時服を以てし、餘物を須(もち)ひずと云ふ。

 初め亮、自ら後帝に表して曰く、「臣、成都に桑八百株(しゆ)・薄田(痩せ田)十五頃(けい)有り。子孫の衣食、自ら餘饒有り。臣、外任に在りて、別の調度無し。身に隨ふ衣食、悉く官に仰ぐ。別に生を治めて、以て尺寸(身代)を長ぜず。若し臣、死するの日、内に餘帛有り、外に贏財有らしめて、以て陛下に負かず」と。是に至りて訖(つ)ひに其の言の如し。


○強齋先生の曰く、「贏財」は、餘分の財産。何が夥しい漢の丞相で、幼君を與かつて居る身で、かうした事なれば、忠臣の平生養ふ處を知る可し。誰あらう、漢の丞相で夥しい天下の大任を受けて、蜀は孔明のまゝぢやに、此の樣な儉約節廉な養ひなれば、忠臣の平生身を養ふ所、見る可きことなり。總じて忠義に志ある者は、此のやうに身を守りてほたやさぬもの。不忠奸惡な者は、身をほたやすもの。古今、忠臣・奸臣の差別は、爰で能く別るゝ。唐の元載が、死後に藏を見たれば、胡椒が八百斛あつたと見えた。胡椒さへ八百斛ある事なれば、其の外の奢り、夥しいこと、推して知る可し。こゝらが忠臣・奸臣の別れぞ。

[朱子曰く、「孔明、婦を擇び、正に醜女を得。身に奉ずる調度、人の堪へざる所なり。彼、其の正大の氣・經綸の蘊、固より已に天資に得たり矣。然るに其の智慮の日に、益々精明する所以、威望の日に、益々隆重なる所以の者は、則ち寡欲・養心の助、與かること多しと爲す焉」と]。

○強齋先生の曰く、平生の存養する所が實あるによりて、人欲も自ら少し。是が夥しい力になる故、いよゝゝ人も心服し、計もよう、威勢が、いよゝゝ重うなるとある事。「與かること多しと爲す」は、生れつきばかりで無い。かうした事が大分根になつて、それからかうある事ぢやと云ふこと。

 亮、諸事精錬、至る所の營塁井竈・藩籬障塞、皆な繩墨に應ず。嘗ての兵法を推演し、八陣の圖を作る。其の已に卒するに及びて、楊儀等、軍を整へて還る。懿、敢へて偪らず。其の營塁を案行し、嘆じて曰く、「天下の奇才也」と。其の國を治むるや也、百姓を撫で、儀軌(手本)を示し、誠心を開き、公道を布く。賞、遠きを遺れず、罰、近きに阿らず。爵は功無きを以て取る可からず、刑は貴勢を以て免る可からず。瘳立・李平、皆な罪有り。嘗て亮が爲めに廢せらる。亮卒すと聞くに及び、立、泣(なみだ)を埀れて曰く、「吾れ終ひに左衽せん矣」と。平、亦た之が爲に病を發して死す。

 亮が子・瞻、爵を嗣ぐ。鄧艾、蜀を破るに及びて、瞻を誘ひて曰く、「若し降らば、必ず(曹操に)表して琅琊王と爲さん」と。瞻、怒りて艾が使を斬り、遂に戰ひ、陣に臨みて死す。瞻が子・尚、歎じて曰く、「父子、國の重恩を荷ふ。生を用ひて何をか爲さん」と。亦た馬に策(むちう)ち、敵軍に赴きて死す。


○絅齋先生の曰く、忠義の家風傳はりて、三代(諸葛亮・瞻・尚)まで討死せり。日本で、楠正成・正行・正儀が如し。

[鄧艾、已に成都に至る。帝(劉禪)使を遣はし、璽綬を奉じ、艾を詣りて降る。皇子・北地王・諶(後帝第六子の劉諶)、怒りて曰く、「若し理窮り力屈せば、禍敗、將に及ばんとかれば、便(すなは)ち當に父子・君臣、城を背に一戰し、同(とも)に社稷(國家)に死して、以て先帝に見ゆべくして可也。奈何ぞ、降らんや乎」と。帝、聽かず。諶、昭烈の廟に哭し、先ず妻子を殺して、後ち自殺す]。

○絅齋先生の曰く、夫れ北地王の、義に死すること、固より壯にして、且つ正しと云ふべし。然るに劉禪、已に敵に降れば、其の死生、未だ知る可からず。然らば親を棄てゝ顧みず、是では孝道を虧くあらずや。曰く、然らず。事、此に至り奈何ともすべからず。劉禪の爲す所、已に先祖に背き、大義に悖り、諫めても聽かずして、敵に降らるれば、劉禪には隨ふべからず。社稷に死して、先帝に報ずれば、猶ほ國を辱かしめず、四百年の漢の天下、此の一死に由りて、大いに光を増す。然れば其の大義を立つる所の重き、關係する所、如何ぞや。其の劉禪に孝ある所も、亦た豈に之に加ふることあらんや。

 尋常、親に事ふるの道、左右就養、方無きも、之に至り之に悖らず。何んとなれば、事、二つ乍ら全きことなし。彼も孝也、此も孝也。彼れ輕くして、此れ重ければ、已むを得ず、彼を捨て此を取る、古昔聖人、之を行ふ者あり。周の泰伯、是なり。惟だ泰伯は、事、未だ急迫ならず。是を以て跡を滅し去りて、以て得て稱する無きの徳を全うすることを得たり。北地王の如きは、事、間、髮を容れず、已に諫めて聽かず。此を以て自ら正に處れり。義理の當然、究竟する者、實に萬世の則と謂ふ可し。某、此の篇を輯むる、特に此を取りて、こゝに入るは、是れ大義の關はるゝ所ろ也。其の細註とするは、本文、諸葛亮の事と混雜せざらんことを欲す。後ち事、大體に渉つて細註とする者あり。皆な此に傚ふ。

○強齋先生の曰く、「城を背に一戰」は、切つて出て、と云ふこと。是が萬世の城を守つて、死ぬる者の手本と合點すべし。「鎌倉が北條が仕方は、全體が大不義ぢやによりて、則にはならぬが、相模入道(高時)が死際は、極めて立派な則になる死に樣ぢや」とて、山崎(闇齋)先生の譽められた。總體で譽むるでは無い。死際は一つの事。あの場では、死するより外ない。窮り切つた時は、城を枕に討死する筈の事。それぢやに、劉禪の、此の樣に腰の拔けた大臆病の仕方で、漢家四百年の辱をかいたが、北地王の仕形で、又た高祖以來、四百年の光を顯はすぞ。是も親の降參せられたからは、と云ふことあれども、代々の漢の天下を棄てゝ、賊に下ると云ふ事は無いぞ。何ほど敵に降したとて、同じ樣に降する義は無い。

 後醍醐天皇に從つて、(足利)高氏に降するもあり。皇子を(新田)義貞に附して北國へ遣はされた時、高氏が「天皇の敕ぢや」と云うて、高氏に從へとの似せ敕書を書いて、軍兵に見せたれば、瓜生判官その外、大義を知らぬ武士ども、皆な高氏に降した。忠義を知りた者は、皆な義貞に從ひて、宮方へ參りた。爰が大きに紛らはしい處ぢや。此の天子の命が、眞實にしてからが不義と云ふもの。何ほど天皇でも、高氏と和をなされ、其の上、降參せよと仰せらるれば、天下全體の賊を討つと云ふ大義を忘れたと云ふもの。すれば敕でからが、從ふ筈は無い。況んや似せ敕書を信じて降するは、其の上の又た不義と云ふもの。
 

  • [11]
  • 出師の表。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月22日(火)21時39分15秒
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■□■諸葛亮『出師の表』■□■(後主・禪の建興五年)

 臣・亮、言(まを)。先帝、業を創むる、未だ半ばならずして、中道にして崩殂す。今ま天下三分し、益州(蜀)は疲敝す。此れ誠に危急存亡の秋也。然るに待衞の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るゝ者は、蓋し先帝の殊遇を追ひ、之を陛下に報いんと欲する也。誠に宜しく聖聽を開張して、以て先帝の遺徳を光かし、志士の氣を恢弘すべし。宜しく妄りに自ら菲薄し、喩へを引き、義を失ひて、以て忠諌の路を塞ぐべからざる也。宮中・府中、倶に一體爲り、臧否(善惡)を陟罰する、宜しく異同すべからず。若し姦を作し科(法度)を犯し、及び忠善を爲す者有らば、宜しく有司に付し、其の刑賞を論じて、以て陛下平明の治を昭かにすべし。宜しく偏私し、内外をして法を異にせしむべからざる也。

○「自ら菲薄」は、どうも天下の恢復はなるまい、やはり蜀で守つて居た方がよいと、自ら卑下すること。

○強齋先生の曰く、「喩へを引く」は、古もかうゝゝで、天下の中興の埓は明かなんだと云つて、せで叶はぬ大義を失うて、賊を討ぜられよと諫めても、承引せられぬ樣になること。

 侍中・侍郎の郭攸之・費□[示+韋]・董允等は、此れ皆な良實、志慮忠純なり。是を以て、先帝簡拔(選り拔き出す)し、以て陛下に遺せり。愚、以爲らく、宮中の事は、事、大小と無く、悉く以て之に咨(と)ひ、然る後ち施行せば、必ずや能く闕漏を裨補し、廣益する所ろ有らん也。將軍・向寵は、性行は淑均、軍事に曉暢し、昔日に試用す。先帝、之を稱して能と曰ふ。是を以て衆議して、寵を擧げて督と爲す。愚、以爲らく、營中の事は、事、大小と無く、悉く以て之に咨はゞ、必ずや能く行陣をして和睦し、優劣をして所を得しめん也。賢臣を親しみ、小人を遠ざくる、此れ先漢の興隆する所以ん也。小人を親しみ賢人を遠ざくる、此れ後漢の傾頽する所以ん也。先帝の在ます時、臣と此の事を論ずる毎に、未だ嘗て桓・靈(亡漢至極の暗君)に嘆息痛恨せずんばあらざる也。侍中尚書・長史・參軍は、此れ悉く貞亮、節に死するの臣也。願はくは陛下、之を親しみ、之を信ぜば、則ち漢室の隆んなる、日を計へて待つ可き也。

○強齋先生の曰く、どうでも劉禪が闇君ゆゑ、兼ねて孔明のそれを警めて、侫臣を近づけられぬやうにと思うて、段々念を入れて諫められたぞ。

 臣、本と布衣、南陽に躬耕し、苟くも性命を亂世に全うし、聞達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、三たび臣を草盧の中に顧み、臣に諮るに當世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに、驅馳を以てす。後ち傾覆に値(あ)ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず(赤壁の戰)。爾來二十有一年なり矣。先帝、臣の謹愼なるを知る。故に崩ずるに臨みて、臣に寄するに、大事を以てせり也。

 命を受くる以來、夙夜、憂慮し、託付の效あらずして、以て先帝の明を傷つくることを恐る。故に五月、瀘を渡り、深く不毛に入る。今、南方、已に定まり、兵甲、已に足る。當に三軍を奬率し、北のかた中原(魏)を定むべし。庶はくは駑鈍を竭し、姦凶を攘除し、漢室を興復し、舊都に還さん。此れ臣、先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分也。損益を斟酌し、忠言を進盡するに至りては、則ち攸之・□[示+韋]・允の任也。願はくは陛下、臣に託するに、賊を討ち興復するの效を以てし、效あらずんば、則ち臣の罪を治めて、以て先帝の靈に告げよ。若し徳を興すの言無くば、則ち允等を戮して、以て其の慢を彰はせ。陛下も、亦た宜しく自ら謀りて、以て善道を咨諏し、雅言(正言)を察納し、深く先帝の遺詔を追ふべし。臣、恩を受けて感激するに勝へず。今、遠離するに當り、表に臨みて涕泣し、言ふ所を知らず。

○陳仁錫の曰く、「謹愼」の二字、是れ孔明一生の學問(『通鑑綱目』)。

○強齋先生の曰く、是が先帝への御奉公、御前への御奉公ぢやと存ずること。「職分」也と云はれたが、忠義の腸から出た辭ぞ。是が私が役目と存じまするとあること。極めて忠臣の義を盡し、身を棄て、後先き顧みざる處の忠義の心が、此の一言で見えるぞ。朱子『大學の序』に、「職分の當に爲すべき所」とあるが、此の二字を引かれた。極めての名言ぞ。子としては孝、臣としては忠、勉めいでは叶はぬ三綱五常の、のつぴきならぬ、吾に備はつた、せいで叶はぬ、勤めでならぬと云ふ旨を明かされた。是が出所ぞ。

○蜀の樣な處では、漢室が立つたと云へぬから、「舊都」たる長安へ御還りなさるゝ樣に、是が先帝への御奉公、御前への奉公ぢやと存ずる。陛下の御側を離れ、名殘り惜しう涕にくれて、何を申すやら覺も無い。極めて忠實の、☆綣惻怛の忍びぬ心が見える。

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  • [10]
  • 『靖獻遺言』卷之二・諸葛亮。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月22日(火)21時02分38秒
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 諸葛亮、字は孔明、支那は蜀漢の建興十二年八月二十三日卒。享年五十四。即ち是れ、我が應神天皇の御代第三十四年、攝政・神功皇后の秋なり。



『出師の表』

○屈原が汨羅に沈んで、六七百年にして、靖獻の旨に叶ふが、此の『表』なり。天子に進る時は「表」と云ひ、諸侯に進る時は「上疏」と云ふ。


漢の丞相・武郷侯諸葛亮

○若林強齋先生の曰く、さて國號の付けてあるは譯のあることで、別して爰の「漢の丞相」と、漢の字を冠せてあるが、正統・名分の大義にあづかることぞ。此の時は、漢室、殊の外衰へて、天下、呉・魏・蜀の三國に分れて、孔明は蜀を輔けた人ぢやによりて、「蜀丞相」とありさうなものぢやに、漢とあるは、蜀は即ち漢の正統の劉備で、それを輔けられて、漢家四百年の天下を恢復せうと云ふが、孔明の存念なり。今こそ、朱子『(通鑑)綱目』の筆法で、魏を賊とあしらひ、蜀を正統とせらるゝで明らかに知れたれ。其の以前は、陳壽が曹操に諂つて、『三國志』を書きそこなひ、魏を正統とあしらひ、蜀を賊と心得て、呉や蜀から魏を討てば、「寇す」と書き置いた。紛れたも、尤もである。漢の獻帝は、曹操が所に居らるゝ故、曹操が天子を輔くるにかこつけて、天下を專らにして、何もかも「天子の命ぢや、々ゞゝ」と云ひ立てにした故、温公の賢さへ、是に紛らされて、魏を正統と誤られたぞ(『資治通鑑』)。「寇す」と云ふは、賊から正へ向つて軍を仕かけたり、夷狄から中國を攻むるを云ふ。朱子の、此の誤りを大きに歎かれて、『綱目』の筆を秉(と)りて、蜀を漢の正統と明かにされた。孔明も漢を輔けられたに依つて忠義。あれが呉に仕へたり魏に仕へて、忠あるならば、それも忠で無いではなけれども、放飲流□[双双+酉+欠。せつ]して、齒決無きの問ひで、全體、名分の違ひで、役に立たぬ。必竟、天下全體の賊と云ふもの。

 楠正成も、宮方を輔けられた。そこで忠義と云ふもの。其の時分、相模入道(北條高時)や(足利)高氏が爲めに、見事な忠死した者もある。それも忠は忠なれども、だたい、天子へ對し敵ぢやに依つて、賊で無いと云ふ事はならぬ。何であれ、宮方へ參る者は、天下全體の忠義、それで國號を冠せてあるは大切な事。是から觀れば、『太平記』の時分、吉野の南帝を正統と知るべし。何程、南朝が衰微したと云うても、續くだけは正統ぞ。すれば『太平記』の筆を秉らうなれば、高氏を賊とあしらふ筈の事。是が『春秋』の大義、『綱目』の筆法ぞ。



 亮、字は孔明。瑯□[王+邪]の人なり。襄陽の隆中に寓居(假住居)し、隴畝(畑中の高處)に躬畊す。時に漢室衰亂、四海分裂し、姦賊相ひ爭ふ。□[三水+啄の右]郡の劉備は、景帝(前漢六代)の子・中山靖王の後也。自ら王室の胄(後嗣の子孫)なるを以て、微賤より兵を起して、以て興復を圖る。是を昭烈皇帝と爲す[後ち位に即き、崩ずるの諡]。荊州(昔の楚國)に在りて、未だ志を得ず。士を襄陽の司馬徽に訪ふ。徽、亮を以て答ふ。徐庶(劉備の臣)も、亦た昭烈に謂ひて曰く、「諸葛孔明は、臥龍也。將軍、豈に之を見ることを願ふか乎」と。昭烈の曰く、「君、與倶(とも)に來れ」と。庶の曰く、「此の人、就きて見るべく、屈致す可からざる也。將軍、宜しく駕を枉げて、之を顧みるべし」と。昭烈、是に由りて亮に詣る(敬ふて候ふ)。

 凡そ三たび往きて、乃ち見る。昭烈、因りて曰く、「漢室、傾頽し、姦臣(曹操)、命を竊む。孤(王侯の自稱)、徳を度り、力を量らず、大義を天下に信べんと欲す。計(はかりごと)、將に安くに出でんとする」と。亮、爲に索を畫く(天下三分の計)して曰く、「將軍は、既に帝室の胄、信義、四海に著はる。百姓、孰か敢へて箪食壺漿して、以て將軍を迎へざる者あらんや乎。誠に是の如くならば、則ち漢室、興る可し矣」と。昭烈、之を善みす。亮、是れより昭烈に從ひ、險を履み力を竭して、以て之を相(たす)け、呉(是も賊)に約し曹を破り、遂に荊・蜀を定めて、以て興復の基と爲す矣。

○三顧の禮は、建安十二年。劉備玄徳四十七歳、諸葛亮孔明二十七歳。

 
既にして曹丕(曹操の子)、獻帝を廢し、位を簒ひ號を僭す[是れを魏と爲す]。蜀中、傳へ言ふ、「帝(獻帝)、已に害に遇ふ」と。是に於いて昭烈、喪を發し服を制し、遂に漢中王より、皇帝の位に即き、元を改め(章武)、亮を以て丞相と爲し、國事を委ぬ。繼いで昭烈、呉を討じ、永安に還りて、病ひ篤し。乃ち亮に命じて、太子・禪を輔けしめ、亮に謂ひて曰く、「君、必ず能く終ひに大事を定めん。嗣子、輔く可くば、之を輔けよ。其の不可なるが如くば、君、自ら取る可し(必ず賊の手に渡さぬ樣に)」と。亮、涕泣して曰く、「臣、敢へて股肱(手足)の力を竭し、忠貞の節を效し、之に繼ぐに死を以てせざらん」と。昭烈、又た禪に詔敕して曰く、「惡小なるを以て、之を爲すこと勿れ。善小なるを以て、爲さゞること勿れ。惟だ賢、惟だ徳、以て人を服す可し。汝、丞相と事に從ひ、之に事ふること、父の如くせよ」と。遂に崩ず(章武三年四月。六十三歳)。

 亮、既に遺詔を受け、喪を奉じて(棺の御伴をして)成都(蜀の都)に還り、禪、位に即く。是を後帝と稱す。時に年十七。亮を封じて武郷侯と爲す。政事、咸く決を取る焉(是非を判斷する)。亮、乃ち官職を約し法制を修め、教(教書、即ち將軍たる人から下への云ひ付け)を群下に發して、以て直言を求む。


○「後帝」は、魏に降つて死んだ故に、謚は無い。

○強齋先生の曰く、天子の御座る内は、善うても惡うても、それが時の帝ぢやに依つて、何時迄も正統。たとへ太子でからが、位に即く筈は無い。既に天子の御座らぬからは、もはや天下に主が無い。すれば誰があらう、蜀の劉備は正統ぢやに依つて、獻帝の喪を執り行うて、天子の位に即かれたぞ。天子の敵に拘はれてござりて、それが害に遭はれたとき、それからそれへ、直の正統の傳で無うても、遙かに其の方を拜して、天下全體の正統でさへあれば、即位する筈の事。是が、其の時の法なり。唐の玄宗の、蜀へ逃れられた跡に、肅宗の即位せられたは、奪と云ふもの。天子の名代となつて賊を討たるゝなれば好いに、是は肅宗の誤りぞ。同じ正統の筋目でも、繼ぐべき筈で無い繼は、竊んだと云ふもの。誰も繼ぐべき者なければ、別して欲すると云ふで無けれども、天下全體の正統が廢る故、誰に讓らふ樣は無いで、正統の者の繼ぐに、何の嫌ひは無い。‥‥「後帝」とは、正統の跡を繼がれたに依りて、帝と云ふ。温公の『通鑑』に、「後主」とあしらうてあるが、あれは改むる筈のこと。朱子『綱目』の旨は、後帝ぢや。やはり正統と云ふ心ぞ。

[其の教に曰く、「夫れ參署は、衆思を集め、忠益を廣むる也。若し小嫌を遠ざけ、相違、覆(くつがへ)し難ければ、曠闕、損せん矣。違覆して中を得るは、猶ほ敝□[足+喬。破れ草履]を棄てゝ、珠玉を獲るがごとし。然るに人心、盡す能はざるを苦しむ。惟だ徐元直(徐庶)は、茲に處りて惑はず、又た董幼宰は、參署七年、事至らざる有る、十たび反來りて相ひ啓告するに至る。苟くも能く元直の十に一、幼宰の勤渠、國に忠有るを慕はゞ、則ち亮、過ち少なかる可し矣」と。又た曰く、「昔初、州平(崔州平)に交はり、屡々得失を聞く。後ち元直に交はり、勤めて啓誨せらる。幼宰は、言ふ毎に則ち盡し、偉度(胡濟)は、數々諫正有り。質性鄙暗にして、悉く納るゝ能はずと雖も、然れども此の四子と終始好合す。亦た以て其の直言を疑はざるを明かすに足れり也」と。州平は、崔烈の子、偉度は、亮の主簿・胡濟也]。

○「小嫌」は、この方に存じ寄りが無いでもないが、あそこに差支へ障りになるまいかなど云ふこと。上の爲になる事なれば、遠慮が無いことぞ。「違覆」は、衆議が定まつた事でも、後から撥ね返す事が無ければならぬと、遠慮しては。

 必ず姦凶を攘除し、漢室を興復するを以て、己が任と爲す。既に雍□[門+豈]等を討じ、南中(南蠻)を定む。建興五年、諸軍を率ゐて出で、漢中を屯して、以て中原を圖る。發するに臨みて、『表』を上ると云ふ。
 

  • [9]
  • 古人の微意を味はひ思へ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月20日(日)23時12分47秒
  • 返信
 
●絅齋先生『靖獻遺言大意講義』に曰く、

 『離騒』とは、躁に遭ふの義也。説、題下の註に詳かなり。此の篇は、某、特に『懷沙の賦』を以て遺言と爲す者は、其の臨絶の言、懷沙の二字に見はるを以て也。是れ屈原の本意を見る可きのみ耳。且つ『離騒』を以て之に冠する者は、屈原の屈原爲る、此の二字より發す焉。故に擧げて以て全篇の主意と爲す。『懷沙』は、特に其の究竟也。

 朱子、晩年、君、明ならず、臣、上を蔽ふの時に當り、道、天下に行はれず、忠□[艸+盡]惻怛の誠、自ら已む能はず焉、其の出處の間、固より屈原の能く及ぶ所に非ずと雖も、然れども夫の天とする所に純なるの至心、遇ふ所の時と、蹈む所の跡とに至りては、則ち期せずして一なる有り焉。感慨神會、實に淺々の士の能く窺ふ所に非ざる也。是に於て、獨り從容として『楚辭』を取り、之を解す。其の微意に至りては、則ち未だ嘗て人に告げず焉。嗚呼、至れるかな矣乎。『朱子實紀』、之を發明す。其の旨を得たりと謂ふ可し矣。李退溪、『朱子行状』に註し、亦た其の説を引き、以て其の下に附す。李氏の學、嗚呼、篤し矣、嗚呼、深いかな哉。

 學者の學を爲す所以は、義理に過ぎず。而して義理の義理爲る所以は、其の樞紐要歸、此の如きに過ぎず。是を以て『離騒』の卷頭に、朱子の序を以て之を紀す。卷末に又た方孝儒の朱子の文に題するを以て之を終るは、竊かに意を此に寓するのみ耳。其の朱の序の反覆丁寧の如きは、嘆息至切の意、一句一字の間、熟讀して細味せば焉、則ち古人の所謂る未だ卷を廢して嘆ぜずんばあらざる者、自ら他に求むるを待たずして、已む能はざる者有り。今ま區々辨吻、固より説を容れず、而して其の間、的切深至、略ぼ演語す可き者は、前日、已に諸生の爲に之を言ふ。能く得る者、默會自得して焉、可也。是れ淺心疏學、擬議想像する所に非ざる也。故に學、勤む矣と雖も、理、詳かなり矣と雖も、此に於て其の味を知る能はずんば、則ち終ひに俗學爲るを免れず。夫の聖賢の心に於て、茫然として覺知する所ろ莫き者は、何ぞ與に向上を論ず可けん乎。遺言一篇の指、始めより其の何事爲るを知らざる也。學者、謹みて之を思へ。



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 愚案、次の卷之二は、誰も知らざる者の無き所の、有名なる諸葛孔明、即ち是れ也。戰前、高等學校の學生の、暗誦好吟せしは『出師の表』、即ち是れ也。嘗て白山講義にて、平泉澄先生、『出師の表』を朗吟せられたるを想起して、感慨一入なるべし。

 現代は、漫畫にて嘖々たるを聞くも、其の所以は、忠臣謹愼としての諸葛亮では無くして、其の神祕的軍學者としての能力に在るが如し。嘗て『出師表』を讀みて泣かざる者は、人に非ず矣と云へり。現代人は、既に先輩の感奮悲泣の心を解し得、之を繼承して、『出師の表』を讀む者、果して有りや、無しや。而して之を讀みて泣く者、抑も幾人ぞや。小生不敏なりと雖も、之に悲泣して已まざる者と、共に學ばんと欲す。

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  • [8]
  • 名節、荀氏・陳寔。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)22時50分57秒
  • 編集済
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○次の文は、漢の武帝は明君であつた故、世を取ると、學校を立てられた。學で無ければ、人道が立たぬと思はれし故なり。夫れからして、名を立て節義を勵み合うた。『(張)南軒文集』に、「名節論」あり。朱子の語にも、「名節一變せば、道に至らむ」となり。日本の武士は、其の場で立つることもあるが、後漢のは、平生立て合うて居る。それを讒人共は、「徒黨を組合ふ」と云つて、賢者も此の中へ入れて追拂うた。それで東漢が亡びた。後世で、これを餘りに勵み過ぎたとて、東漢の名義を惡う云ふ者ある故、朱子が辨ぜられた。

●朱子『東漢の名節』(『朱子語類』卷三十五に所收)

 朱子の曰く、今の世人、多く道(い)ふ、「東漢の名節、事に補ふことなし」と。某の謂ふ、三代よりして下、惟だ東漢の人才、大義、其の心に根ざし、利害を顧みず、生死も變せず、其の節、自から是れ保つ可し。未だ公卿・大臣を説かず。且に當時の郡守、宦官の親黨を懲治するが如き、前なる者、既に治する所と爲ると雖も、來る者、復た其の迹を蹈み、誅・殛・竄・戮、項背相望み、略ぼ創(こ)るゝ所ろ無し。今ま士大夫、顧惜畏懼、何ぞ其の此の如きを望まん。平居暇日、琢磨淬厲するも、緩急の際、尚ほ退縮を免れず。況んや游談聚議、習うて軟熟を爲す。卒然(俄かに)警(一大事)有れば、何を以て其の節に仗り、義に死することを得んや乎。大抵、義理を顧みず、只だ利害を計較するのみ。皆な奴婢の態、殊に鄙厭(下卑た事)す可し。

○「誅」は、其の場で殺す。「殛」は、酷く當つて殺す。「竄」は、流し者。「戮」は、なぶり殺し。

 「項背相望む」は、うなじと背中と相望むと云ふことで、前の郡守が辭めらるれば、又た後の役人が來て、引きも切れぬ事。



○次の文は、東漢の荀彧は、忠臣に紛るゝ故、朱子が論ぜられたるなり。荀淑から言うて來たのは、「祖父は忠臣であつたに」との意なり。温公は、彧を正道ぢやと云はれたが、一生の大誤り、朱子『通鑑綱目』には推し出して、謀反人のあしらひなり。

●朱子『劉子澄に答ふ』(『朱子文集』卷三十五に所收)

 又た曰く、荀淑、梁氏の事を用ふるの日に正言して[順帝崩じ、太子幼し。梁の太后、朝に臨む。太后の兄の大將軍・梁冀、事を用ひて跋扈す。時に日食・地震の變有り。淑、策に對して、貴倖(君の御氣に入りの高位の人)を譏刺す。冀の忌む所と爲り、遂に官を弃てゝ歸る]、其の子・爽、已に跡を董卓、命を專らにするの朝に濡す。

[范曄の曰く、「董卓の、朝に當るに及びて、爽及び鄭玄・申屠蟠は、倶に處士を以て召さる。蟠・玄、竟ひに屈せず、以て高尚を全うす。爽、已に黄髮(老人)なるも矣、獨り至る焉。未だ十旬(百日)ならずして卿相を取る。意(おも)ふ者は、其の趣舍(義につき、不義を棄てる。出處進退)に乖(そむ)くを疑ふ。余(范曄)、竊かに其の情を商(はか)りて、以爲らく、「跡を濡して(已むを得ず仕へ)、以て時を匡せるか乎。然らずんば則ち何爲れぞ貞吉に違ひて、虎の尾を履める焉」と(荀爽に對する辯護論)]。

 其の孫・彧(ゐく)に及びては、則ち遂に唐衡(宦官)の壻・曹操の臣と爲り、而して以て非と爲すを知らず矣[彧は、爽の兄・□[糸+昆]の子也。□[同上]は宦官を畏憚して、乃ち彧の爲に、中常侍・唐衡の女を娶り、後に曹操の謀主と爲りて死す。中常侍は、宦者の官名なり。朱子、又た『尤延之及び潘叔昌に答ふる書』に於いて、詳かに彧の身を失するの本末を斷ず矣]。蓋し剛大直方の氣(荀氏の精神)、凶虐の餘に折れて、漸く身を全うし、事を就(な)す所以の計を圖る。故に其の淪胥(手に手を引いて、溝へはまつた樣)して、此に至るを覺らざるのみ耳。想ふに、其の當時、父兄師友の間、亦た自ら一種の議論、文飾蓋覆して、驟かに之を聽く者をして、其の非爲るを覺らずして、眞に以て是れ必ず深謀奇計、以て萬分有一の中に、國を治め民を救ふ可きもの有りと爲さしむる有らん。邪説の横流、洪水・猛獸の害より甚しき所以、孟子、豈に予を欺かんや哉。


○朱子が推量するに、さすが荀氏は後漢の名家なれば、初めより節を曲げて、不義の人にならうとしたではあるまい。毫釐の差は、千里の誤になる。僅かに弛みがあると、宦官の婿となり、亂臣賊子の曹操が謀主となる。『三國志』では、目が闇くて騙された樣に云うてあれども、それ程な男でも無い。

○強齋先生の曰く、此の樣に、節義を失つて、知らぬ者を思ひやるに、其の時分、それらが父兄師友等の間で、一つの了簡をつけて、「宦官の婿になつて居たもよい。何を云ふも、君の御爲ぢや」と云ふ樣に、上つらを見事に言ひ飾つて紛らかして、己の節義を失つた事は隱して、一寸聞いては、「いかさま、是も尤もぢや。定めて深い分別のかはつたよい思案でもあつて、それで萬に一つも、國を治め民も救ふやうな事があらうず」と思はするぞ。その樣に云へば、義理の暗い者は、つひ夫れに陷るによつて、洪水・猛獸の害より、邪説の害は甚だしいこと、信に孟子の仰せられた通りぢや、とある事。



○次の黄氏の論は、朱子と異なる。こゝは、朱子の説はあげられぬ。黄説は正なり、朱説は權なり。後漢には宦官と黨錮と、二つに分れて、宦官は賢者に頭出しをさせぬ樣にしかける。賢者は宦官に唾はきして、惡み切つて居るぞ。時に陳寔が、張讓と云ふ宦官の、父の喪を送つた。それを宦官共が嬉しがつて、黨錮を許し置いた。これは善類が絶えぬやうとて、かうされたであるまい。善類の憂き目を見るが、氣の毒であるからの事であらう。陳太丘の心には、義・不義の考もあるまい。嫂溺るれば、手を引いて助くる樣なもの。朱子の曰く、「陳仲弓、宦者の葬の如き、仲弓の志し有れば則ち可、仲弓の志し無ければ則ち不可」と。案ずるに、程説、朱子と異なる。程子の曰く、「陳寔、張讓を見る。是れ故舊は、之を見て可なり。然らずんば則ち非。此れ所謂る太丘、道廣し」と。

●黄勉齋『陳寔傳』(『性理大全』卷六十二に所收)

 黄□[幹の左+八+木。かん](勉齋。[註])の曰く「陳太丘(名は寔、字は仲弓。太丘の長と爲る。漢末の名士なり)、張讓[宦官の名]が父の喪を送る。人、以爲らく、「善類、頼りて以て全活する者、甚だ衆し」と。前輩も、亦た以爲らく、「太丘、道廣し」と。嘗て竊かに之を疑ふ。此の如くなれば、則ち尺を枉げて、尋(八尺)を直くして、而も爲す可きか歟。士君子、己を行ひ身を立つる、自ら法度有り、義有り、命有り。豈に宜しく以て法と爲すべけんや。天地、此の如く其れ廣く、古今、此の如く其れ遠く、人物、此の如く其れ衆し。便ち東漢の善類をして、盡く宦官の殺す所と爲らしむるとも、世、亦た曷(なん)ぞ嘗て善類無からんや哉。若し是れ眞丈夫ならしめば、又た豈に宦官の禍を畏れて、太丘、此の如くの屈辱に藉(よ)りて、以て其の身を全うせんや哉。吾人、此等の處に於いて、直ちに須らく見得て分明なるべし。然らずんば、未だ坑(あな)に墮ち、塹(ほり)に落ちざる者有らざる也(うかゝゝと行くと、思ひがけなう、不義に落ちると云ふ意)。

○強齋先生の曰く、「直ちに」と云ふは、大義の立つ處の大根を、眞直に見ぬいたがよい、と云ふ事。かう云ふ譯の、どう云ふ譯のと、云ふ入りわりは、こゝではいらぬ。其の樣な事は除けて、こゝはかうぢやと云ふ大義を、眞直に見ぬくがよい、と云ふ語意。

[註]愚案、遊佐木齋先生「(鳩巣室新助に答ふる)第一書」・「第三書」(日本學叢書卷六『神儒問答』)に據ると、闇齋先生は、朱子の正統派門流として、蔡節齋・九峰父子および黄勉齋を、南宋の眞西山・王魯齋、明の薛敬軒・丘瓊山、朝鮮の李退溪を目してゐる。又た曰く、「其の他は閲せずと雖も、蓋し憾み無し焉」と。絅齋先生が黄勉齋を擧ぐるは、闇齋先生の相傳を承けてゐると謂はねばならぬ。



 右、類に因て、後に附録す。後、皆な此に傚へ。

○「附録」は、直接に屈平に關係するものでは無いが、『反離騒』以下、附録して置いた。次卷以下も、之に準じて見よ。



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 淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一、學びながら、且つ拜記すること、件の如し。實に大義の嚴しきを知るべく、正に吾人の道義錬磨に資する書であります。第一卷、以て全八卷の梗概が窺ふ事が出來ませう。「甚だ解する」こと能はずと雖も、道義討議の雰圍氣は判明するかと、今は恐懼してをる次第です。此の縁故を以て、有志の一人でも、『靖獻遺言』を繙いて戴けたら、望外の道福であります。

 日夜、心を潛めて『靖獻遺言』を拜讀すれば、道義の至當を究むることが出來、難に當つて毫も恐るゝ所なく、進んで天下の綱常を扶植せんとの志氣が、勃然として興起するを覺えるでありませう。それにしても、伯夷・叔齊兄弟の出づるあつて、初めて支那に道義が立つたと謂はねばなりませぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1535

 もつとも絅齋先生は、我が國の忠臣義士の傳を編まれたき存念でしたが、其の生きた時代が、之を許さず、忠臣義士の模範を、已むを得ず、隣國の支那に求められたのであります。皇國と支那との國體の相異を踏まへつゝ、絅齋先生の微意を、何卒、御汲み取り戴ければ幸甚です。

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  • [7]
  • □[龍+共]勝。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)22時45分56秒
  • 返信
 
○次の司馬温公の論は、天下萬世の惑ひを開き、大いに來學に功あるぞ。□[龍+共。以下◎と表示]勝は、かたの如く好い人なれども、眼のあかぬ者は、之を惡く云ふ故、それを辨ぜられた。以下、王莽の時の名節の士を擧げらるゝ。此の竝べ方が面白い。前に揚雄をつぶし、これこそ忠臣ぢやとて、之を擧げられたから、雄の恥が、いよゝゝ能く見える。

●司馬光『◎勝傳』(『性理大全』卷六十一に所收)

 司馬光の曰く、王莽、◎勝の名を慕ひ、沐するに(湯を浴びせる樣に)尊爵厚祿を以てし、劫(おびやか)すに(大かさになりて嚇すに)淫威重勢を以てして、必ず之を致さんとす。勝、逼迫に勝へず、食を絶ちて死す。

[漢の◎勝、名節直言を以て著はる。哀帝崩じ、王莽、政を秉(と)るに會ひ、骸骨を乞ひて(隱居)、郷里に歸老す。莽、既に國を簒ふに及び、使者を遣はし、即ち勝を拜して、講學祭酒(學校の總頭)と爲す。勝、疾と稱して應ぜず。後ち莽、復た使者を遣はし、勝を迎ふ。使者、郡太守・官屬・諸生、千人以上と、勝が里に入り、詔を致す。使者、勝をして起ち迎へしめんと欲す。勝、病ひ篤しと稱す。使者、入りて勝に謂ひて曰く、「聖朝、君を待ちて政を爲さんとす」と。勝、對へて曰く、「命、朝夕に在り、道を上らば、必ず死せん。萬分を益無し」と。使者、印綬を以て、就きて勝が身に加ふるに至る。勝、輒ち推して受けず。使者、勝の子及び門人等の爲に言ふ、「朝廷、心を虚しうして君を待つに、茅土の封(知行)を以てす。疾病と雖も、宜しく動移して傳舍に至り、行く意有るを示すべし。必ず子孫の爲に、大業を遺さん」と。門人等、使者の語を白す。勝の曰く、「吾、漢家の厚恩を受く。以て報ゆること亡し。今ま年老ゆ矣。旦暮、地に入らん(明日か晩に死ぬ)。誼(義)、豈に一身を以て、二姓に事へ、下、故主を見んや哉。因りて敕(古は之を君臣ともに用ふ)するに、棺斂・喪事を以てし、衣は身に周らし(身體を隱しさへすればよい)、棺は衣を周らし、俗に隨ふこと勿れ」と。語り畢りて、遂に復た口を開き飲食せず、十四日を積みて死す。時に七十九なり矣]。

 班固、薫膏の語を以て、焉れを譏る[『漢書』◎勝傳の末に云ふ、「老父有り、來りて弔ひ、哭すること甚だ哀しむ。既にして曰く、『嗟□[虎の上+乎](あゝ)、薫は香を以て自ら燒け(香氣がよいから燒かれる)、膏は明を以て自ら銷(き)ゆ。◎生、竟ひに天年を夭す。吾が徒に非ざる也』と。遂に趨りて出づ。其の誰なるかを知ること莫し」と]。未だ爲めに之を辨する者有るを聞かざる也。大いに哀しまざる可けんや歟。

 昔者、紂、不道を爲し、四海を毒□[病埀+甫]す。武王、天下の困窮に忍びずして之を征す。而るに伯夷・叔齊、深く之を非とし、義、周の粟を食はずして餓死す。仲尼(孔丘の字)、猶ほ之を稱して仁と曰ふ(本心の止まれぬ、隅々から出た故ゑ仁と謂ふ。『論語』述而)は、以て其の節を殞さずと爲すのみ而已。況んや王莽、漢の累世の恩に憑り、其の繼嗣衰絶に因りて、詐僞を飾つて之を盗み、又た清士(◎勝)を誣□[三水+夸。こ。汚]するに、其の臭腐の爵祿を以てせんと欲し、甘言諛禮、必致を期し、智を以て免がる可からず(如何樣の智でも、斷りの云ひ樣が無い)、義を以て讓る可からざる(筋道でも遁れられぬ)に於いては、則ち志行の士、死を舍(す)てゝ、何を以て、其の道を全うせんや哉(死なねば存分が立たぬ)。

 或る者、其の芳を黜(しりぞ)け、明を棄てゝ、其の天年を保つこと能はずと謂ふ。然らば則ち虎豹の□[革+郭]、何を以て犬羊の□[同上]に異ならん。庸人の行ひ、孰れか此の如くならざらん。又た其の詭辭曲對、薛方が若く、然らざるを責む[漢の末の清名の士、齊に薛方有り。莽、國を簒ふに及びて、安車を以て方を迎ふ。方、辭謝して曰く、「堯・舜、上に在り、下に巣・由(巣父・許由。箕山に隱る)有り。今ま明主(王莽)、方(まさ)に唐・虞の徳を隆んにす。小臣(薛方)、箕山の節を守らんと欲す也」と。使者、以聞(いぶん。上奏)す。莽、其の言を説(よろこ)び、強ひて致さず]。然らば則ち將に未だ諂ひに免れずとす。豈に能く賢と曰はん。故に勝、無道に遭遇する、此に及びて窮まれり矣。

 節を失ふの徒[班固を指す也。漢の竇憲、外戚を以て權を專らにす。後ち遂に逆を謀る。和帝、之を誅す。固、憲の客爲るを以て、亦た獄中に死す]、忠正を排毀して、以て己が非を遂げ、察せざる者、又た從ひて之に和す。太史公(司馬遷)の稱す、「伯夷・叔齊も、孔子有らざれば、則ち西山の餓夫、誰か之を識知(し)らん」と。信なるかな矣哉。

○「詐僞を飾つて之を盗む」は、龜の甲へ朱で、天命が莽に歸せしめたと、『符命』を書いて、これが獵師の網にかゝつてなど云つて、天下を盗んだ。

 「或る者」は、志行の士の、命を捨て義理を立つるを見て、「ぬらりくらりして、天命を保つがよい」と云ふ。虎豹の皮は見事なれども、之を揉み革にすれば、犬羊の革と異ること無し。芳を黜け明を棄てたらば、上毛を拔いだもの故、忠義の人やら、不義の人やら分らぬ。

 「太史公の稱す」は、千載、論定まつて、伯夷の伯夷たるを知らぬ者も無いが、それは、孔子の極めが付いたからの事。
 

  • [6]
  • 揚雄『反離騒』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)22時42分59秒
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●朱子『反離騒の序』(『楚辭後語』に所收)

 朱子、又『反離騒』に敍して曰く、『反離騒』は、漢の給事黄門郎・新莽(王莽)が諸吏中散大夫・揚雄の作る所ろ也。雄、少くして詞賦を好み、司馬相如が作る所を慕ひて、以て式(手本)と爲す。又た屈原の文、相如に過ぎたるを怪しみ、『離騒』を作りて、自ら江に投じて死す容(べ)からざるとするに至り、其の文を悲しみ、之を讀みて、未だ嘗て涕を流さずんばあらざる也。以爲(おもへ)らく、「君子、時を得れば則ち大いに行ひ、得ざれば則ち龍・蛇(時を得ざれば淵に蟄し、雲を得れば天に昇る)、遇・不遇は、命也。何ぞ必ずしも身を湛(しづ)めんや哉」と。廼ち書を作り、往々『離騒』の文を□[手+庶。ひろ]つて之を反し、□[岷+日]山より諸れを江流に投じて、以て原を弔ふと云ふ。

 始め雄、學を好みて博覽、勢利に恬なり。漢に仕へ、三世、官を徙さず。然るに王莽、安漢公と爲る時、雄、『法言』を作り、已に其の美を稱し、伊尹・周公に比ぶ。莽、漢を奪ひ帝號を竊むに及んで、雄、遂に之に臣たり。耆老の久次を以て、轉じて大夫と爲る(何の手柄なくても、奉公久しうした老人をば、官を進める)。又た相如が『封禪文』(『史記』・『文選』に所收)に放(なら)ひ、『劇秦美新』(秦を激しく譏り、新を譽める。『漢書』・『文選』に所收)を獻じて、以て莽が意に媚び、書を天祿閣(天子の文庫)の上に校することを得たり。

 劉尋等、『符命』を作るを以て、莽が誅する所と爲るに會ひ、辭、連なりて雄に及ぶ。使者、來りて之を收めんと欲す。雄、恐懼し、閣上より自ら投下し、幾(ほと)んど死す。是より先き雄、『解嘲』(所著『太玄經』を嘲るに因り、其の嘲りを言ひほどく書)を作り、「爰に清、爰に靜、神の廷(には)に遊び、惟だ寂、惟だ莫、徳の宅を守る」の語有り。是に至りて京師、之が爲に語して曰く、「爰に清靜、『符命』を作り、唯だ寂莫、自ら閣より投ず」と。雄、因りて病免す。既にして復た召されて大夫と爲り、竟ひに莽が朝に死す。其の出處の大致本末、此の如し。豈に其の所謂る龍・蛇なる者か耶。然れば則ち雄、固より屈原の罪人他爲りて、此の文(『反離騒』)は、乃ち『離騒』の讒賊(讒言を入れた故)なり矣。他、尚ほ何をか説かんや哉。


○『反離騒』は、屈原の死なれいでも大事ないに、と云ふことを書いた辭。揚雄、字は子雲、『揚子方言』・『法言』・『太玄』と云ふ書を作りて、世にもて囃され、韓退之の如きは、『孟子』と竝稱し、司馬温公は、之を『論語』に比べられた。けれども大義を誤りし儒者の紛れ者故ゑ、朱子は、その『反離騒』を敍して、別して之を辯ぜられた。

○強齋先生の曰く、司馬相如よりも、屈原の文は、格別すぐれて上手であつたに、其の志行は違うて、江に沈んで死せられた故、何ほど窮したにしても、死せずとも苦しう無い、堪へられふ事ぢやに、と云うて、屈原の文を讀みては、涕を流して悲しんだぞ。

○「漢の給事黄門郎・新莽が諸吏中散大夫」の筆法は、はつきりと二主に事へたことが見える。漢の官と新の官とを擧げて、はつきり雄が、二心を見せた。

 「相如が封禪文」は、天下、大いに治まつた時、天子は、その徳を天に告げん爲に、泰山に登り、土を築いて壇を作つて(封と云ふ)、天を祭り、泰山の下の小山の上の土を除いて(禪と云ふ)、地を祭り、以て天地の功に感謝する儀式の文。相如は、一生、志を武帝に得ずして難儀せる故、何ぞ子孫の爲にせんとて、武帝に媚び、此の文を作り、「我が死後、若し天子の、何ぞ求めらるれば、之を」と遺言せり。後ち果して詔ありて、之を奉る。

 「符命」は、神告などの樣に書いた未來記。これは莽を惡んで、「やがてにも亡びん」と書かれしなり。

 「京師」は、京師の人の惡口するには、「心、清靜なりと云へど、『符命』を作りて榮達を求めんとし、心、寂莫なりと云へど、自ら閣より投じて、死を畏れた」と。面目なさに、病氣にして、役義を免ぜられた。

 「他、尚ほ何をか説かんや哉」は、是れ一つで、尚ほ他に何んの云ふ詞があらうぞ。結局、龍・蛇ですら無い。

○絅齋先生『楚辭師説』に曰く、屈原は、宗國の爲めに死なれた人ぢやに、之を左樣いへば、屈原の罪人ぞ。外の事は云ふに足らぬもの故、何を説かうやう無い。華美な文章を書くことは、司馬相如に次いでは、是ぞ。後世も揚雄と云うて、韓退之はじめとして、口にかけられる。司馬温公ほどの大賢でさへ、『孟子』は尊ばずして、揚雄を尊んで、『太玄經』の註までせられたぞ。それで、程子の、揚雄が書を著はし、色々の文章がある故、人が褒めるさうなが、役に立たぬ者ぢや、と云はれたぞ。然れども漢の爲めに不忠の者ぢやと云ふ、罪を正すは、朱子からの事ぞ。



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 愚案、彼の揚雄なる者は、我が國に於いて申せば、吉野の朝廷に仕へ、逆賊足利高氏にもついた、夢窓疎石の如き茶坊主のやうな類なり。又た大西郷も抄(『手抄言志録』)した所の佐藤一齋、實は慕ふ門人を見捨てゝ、幕府に媚び、保身の腐儒――森銑三翁、之を證せりと雖も、今ま猶ほ人氣あるは、不可思議千萬と云はんか、遺憾至極なるべし。人物は皮相に仰ぐのでは無く、よくゝゝ覆審吟味が必要なり。

 如何ほど立派な文章を書いても、大儒・大徳と崇められても、あれではなあ~。谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「凡そ忠義と云へば、主人の善惡にかまはず、我が身の持前の義理を盡すより外ない。逆賊などに仕へて忠を盡せば、忠義は忠義なれども、謀反人ぞ。然るによつて、出處と云ふことが大切なことぞ。何程、忠義が正しうても、出處が惡ければ、何んの役に立たぬ」と。信なるかな哉、此の言。天網恢々、疎にして漏らさず、「皇天上帝、眼、分明」(謝枋得の詩)、人をして白日の下に明かならしむ矣。「神は見てをる」、ゆめ、疑ふこと勿れ。
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  • [5]
  • 『離騒懷沙の賦』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)22時38分22秒
  • 編集済
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■□■屈平『離騒懷沙の賦』■□■(『楚辭・懷沙の亂辭』)

浩浩たる□[三水+元]湘、分流、汨たり兮。
――廣々とした二水は、幾筋にも分れて、どんゞゝ流れ行く

脩路、幽蔽し、道、遠忽たり兮。
――長く續く道は、こんもりと樹々に蔽はれてゐて、行く手は定かでない。

曾(すなは)ち傷み、爰に哀しみ、永く歎喟す兮。
――楚國の將來を傷み悲しんで、思はず永い溜息をついた。

世、溷濁し、吾を知ること莫し。人心、謂(かた)る可からず兮。
――思へば、世は亂れ濁つてゐて、私の心の裡を知つてくれるものもなく、この心を語ることも出來ない。

質を懷き、情を抱きて、獨り匹(たゞ)さん無し兮。
――飾りない眞心を抱きながら、私の態度が無理かと、人に正すすべもない。

伯樂、既に沒す、□[馬+北+異]、焉んぞ程(はか)られん兮。
――伯樂が死んでしまつた今日、駿馬とて、誰がそれを品定めしてくれようか。

民生、命を禀け、各々錯く所ろ有り兮。
――人がこの世に生れると、各人、その分、運命が決まつてゐるものである。

心を定め、志を廣めば、余、何ぞ畏懼せん兮。
――されば心を落ち着け、志を廣く持つならば、何の懼れることもない。

死の讓る可からざるを知りぬ、願はくは愛しむこと勿からん兮。
――死が避けられぬものなることを知つた以上、この生命を惜しむことはすまい。

明かに君子に告ぐ、吾、將に以て類(のり)と爲らんとす兮。
――世の君子よ、私は死して忠臣の模範とならうと思つてゐる。

○強齋先生の曰く、俺が、私には死なぬ。拙者が存念は、天下萬世、君子が、我を忠義の類とせうと存ずるとあること。此の類と云ふは、君子の是に類し、是にのつとる樣に類するから云ふ辭。

■□■□■



○次の章は、屈子の自問自答ならん。一説に、漁父は當時の隱者なり、と。遺言は濟んで、此れからはそれに付けて、屈子の心入れを附録せられた。屈子の存念を、主(ぬし。屈平)の手に書かれたに、これ程よく聞こゆることは無い。

●屈平『漁父の辭』(『楚辭集註』に所收)に曰く、

 屈原、既に放れて、江潭に遊び、行々澤畔に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁せり。

 漁父、見て之に問ひて曰く、「子は、三閭大夫に非ずや與。何の故に斯こに至れる」と。

 屈原の曰く、「世を舉げて、皆な濁り、我れ、獨り清めり。衆人、皆な醉ひ、我れ、獨り醒めたり。是を以て放たれたり」と。

 漁父の曰く、「聖人は物に凝滯せずして、能く世と推移す。世人、皆な濁らば、何ぞ其の泥を□[三水+屈。にご]して、其の波を揚げざる(世俗に合はす)。衆人、皆な醉はゞ、何ぞ其の糟を□[食+甫。くら]ひて、其の□[酉+離の左。しる]を□[綴の右+酉+欠。すゝ]らざる。何の故に深く思ひ、高く舉がりて(高潔にして同調せず)、自ら放たしむるを爲すや」と。

 屈原の曰く、「吾れ之を聞けり。新たに沐(洗髮)する者は、必ず冠を彈(はじ)き、新たに浴する者は、必ず衣を振ふ。安くんぞ能く身の察察(潔白)たるを以て、物の□□[三水+文。もんゝゝ。汚穢]たる者を受けんや乎。寧ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らるゝとも、安くんぞ能く皓皓の白きを以てして、世俗の塵埃を蒙むらん乎」と


 漁父、莞爾として笑ひ、枻(えい。舟縁)を鼓(たゝ)ひて去る(堅苦しい男ぢや、相手になれぬと去る也)。乃ち歌ひて曰く、「滄浪の水、清まば兮、以て吾が纓(冠の紐)を濯ふ可し。滄浪の水、濁らば兮、以て吾が足を濯ふ可し」と。

 遂に去りて、復た與に言はず。



**********

 五月五日は、楚の屈平、字は原が、汨羅の淵から、石を懷にして身を投じた日である。小生の高校時代、漢文の授業で、『漁父の辭』を讀み習うたことを想出す。素讀幾囘、口に甘うした爲か、横山大觀畫伯「屈原」の繪畫と共に、殊に懷しい。然し古文の時間には、苦手な文法のみで面白くなかつたが、先生は、地方では有名な詩人の由。此の先生、風邪にて休まれた折、校長先生が來られて、特別講義「徒然草」。黒板に、一氣に空にて書き給へり。『徒然草』は、全て暗記してをられた由。手紙を書かれるのにも、卷紙にてすらゝゝ。戰前の師範學校出は、小生輩とは炳かに違ひ、凄すぎた。

 楚の屈平、御蔭樣にて、大夢翁『青年日本の歌』の歌詞も理解出來たし、絅齋先生『靖獻遺言』卷之一を拜讀するに入り易かつた。此の漁父(老莊)よりも、屈平(孔朱)に軍配を上ぐるは、小生、歳、やうやく老いた今も、些かも變らぬ。『靖獻遺言』を拜讀しては、尚ほ更ら敬慕して已まないのである。

【拓本・青年日本の歌】
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  • [4]
  • 『靖獻遺言』卷之一・楚の屈平。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)22時31分4秒
  • 編集済
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 屈平、楚の傾襄王の九年(或は十年)五月五日、即ち我が孝靈天皇の元年、汨羅の淵に赴き、石を懷にして身を投ず矣。歳、五十四。

 以下、赤字は、『靖獻遺言』の本文なり。



『離騒懷沙の賦』[沙石を懷抱して、以て自から沈むを言ふ也]

○「離騒」は、遭憂、忌々しい憂愁に遭ふこと。沙石を懷抱し、以て自ら沈むを言ふ也。『離騒』の中には、屈原の辭多けれども、別きて此の賦は、屈原が石を懷にして、身を投げ死せんとするになりても、君を忘れぬ、止むに止まれぬ☆綣惻怛の心が、懷沙の賦となりて出た故、別して忠義の心が見える程に、此の辭を取られた。

○強齋先生の曰く、『離騒』の中にも、段々屈原の辭多けれど、別きて此の『懷沙の賦』は、屈原の石を懷に抱いて、身を投げて死なるゝ、其の臨終に發せられた詞で、身を水に沈むる程になつても、未だ君が忘れられぬ、さう云ふなりより外ない忠義の、已まれぬ☆綣惻怛の心が、『懷沙の賦』となつて出た故ゑ、別して忠義の心が見ゆる程に、この辭を採られたぞ。



楚の屈平

○貶されて浪人になられた故、官は書かぬ。楚と云ふ字をかぶせたは、浪人になりても、楚を忘れぬ、☆綣惻怛の心を見せたもの。屈平と、名で呼んであるは、名分の大事なり。尊ぶ旨ならば、字(あざな。支那の通稱。[註])で稱する(屈原)ものなれども、此の書(『靖獻遺言』)は日本で出來たこと故、此の國から、あの方の人を呼ぶに、尊んで云ふ譯はない。司馬温公でも、「司馬光の曰く」と云ふてある。

○強齋先生の曰く、「☆綣惻怛の心」、こゝが靖獻の旨、『遺言』一部の眼目と云ふは、こゝぞ。(愚案、皇國に於いて、一言を以て申さば、「戀闕」てふ言葉に當るべし矣)

[註]愚案、皇國にては、呼稱、異なれり。生きては通稱を云ひて、諱(忌み名・實名)を文字通り忌み、死しては雅號ないし官名、不明ならば諱を申すが古風にして、後人が通稱を申すは、餘りに憚り多くして、時には當に居傲と謂ひつべきなり矣。人はどうあれ、小生は、呼稱の古風、或は轉じては『靖獻遺言』の筆法、やうやく廢れたるを悲しむこと、頗る大なり矣。

 例へば「赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩」てふ先哲を、赤城先生と申して、彦九郎と呼捨てすること能はざるが如し。一方、漢文ないし支那風ならば、高山仲繩と申せば、敬を籠むる謂ひ也。韓愈を韓退之と云ふが如し。高山子・韓子と申すは、更に尊びて申す也。又た吉田松陰先生は、松陰と申して、橋本景岳先生は、左内と呼び捨てる。平仄の合はざること千萬なり。左内の稱を流行させし者の罪、免れず。況んや其の顯彰會「景岳會」あるに於いてをや。元景岳會々長は、松平永芳靖國神社宮司、即ち是なり。



 平、字は原。楚と同姓、懷王に仕へて、三閭大夫と爲る。三閭の職、王族の三姓を掌る(善惡を司どる)。昭・屈・景と曰ふ。平は、其の譜屬を序いで(系圖のつゞきを次第する、即ち一國の秩序の根本也)、其の賢良を率ゐ、以て國士を□[勵の左。はげ]まし、入りては則ち懷王と政事を圖義し、嫌疑を決定し、出でては則ち群下を監察し、諸侯に應對し、謀行はれ職修まる。懷王、甚だ之を珍とす。同列の上官大夫、其の能を妬害し、因りて之を譖毀(そし)る。懷王、平を疏んず。平、讒を被むり、憂心煩亂、愬(うつた)ふる所を知らず。乃ち『離騒』を作り、上は唐(堯)・虞(舜)・三后(三代の君。夏・殷・周)の制を述べ、下は桀・紂・羿・澆の敗を序いで、君の覺悟し正道に反りて、己を還さんことを冀ふ也。

○強齋先生の曰く、「遷己」は、屈原の自身の爲めではない。屈原の用ひられねば、小人どもが、いよゝゝ熾んになつて、眞實の忠を、こゝらで一つ見事だて云うて、もう爵祿に望みは無い、跡のことは知らぬと云うて、君を顧みぬは、忠では無い。こゝが、忠臣の情の、已むに已まれぬ、☆綣惻怛の心なりに、かう云うたら人が笑ふの、さもしがらうかの、と云ふ樣な計較の意は無い。只だ君を愛し國を憂ふる心が、已まぬによつて、自然にかうあるぞ。

 是の時、秦、張儀をして、懷王を譎詐せしめ(連衡策)、齊の交り(蘇秦の合從策)を絶たしむ。楚、大いに困しむ。後ち儀、復た楚に來り、又た弊を、事を用ふるの臣・□[革+斤]尚に厚うして、詭辯を懷王の寵姫・鄭袖に設く。懷王、竟ひに復た張儀を釋(ゆる)し去らしむ。時に平、既に疏んぜられ、復た位に在らず。齊に使ひし、顧反(かへ)つて、懷王を諫めて曰く、「何ぞ、儀を殺さゞる」と。懷王、儀を追ふも、及ばず。秦、懷王を誘(あざむ)きて、與倶(とも)に武關に會せんとす。平、又た懷王を諫め、行くこと勿からしむ。聽かずして往き、遂に脅かす所と爲り、之と倶に歸り、拘留して遣らず。卒ひに秦に客死す。而して子・襄王立ち、復た讒言を用ひ、平を江南に遷す(流し者にする)。平、復た『九歌・天問・九章・遠遊・卜居・漁父』等の篇を作り、己が志を伸べ、以て君の心を悟さんことを冀ふ。而れども終ひに省みられず(目を留められぬ)。其の宗國の、將に遂に危亡せんとするを見るに忍びず、遂に汨羅の淵に赴き、石を懷きて、自ら沈んで死す。



●司馬遷『史記・屈平列傳』抄

 傳に曰く、(淮南王劉安――淮南子の云く)夫れ天は、人の始め也。父母は、人の本也。人、窮すれば、則ち本に反る。故に勞苦倦極、未だ嘗て天を呼ばずんばあらざる也。疾痛慘憺、未だ嘗て父母を呼ばずんばあらざる也(誰に云はう樣も無い時は、父母を思ひ出す)。

 屈平、道を正し行を直くし、忠を竭し智を盡し、以て其の君に事へ、讒人、之を間す。窮すと謂ひつ可し矣(竭・盡の二字を見よ。屈子のやるせない心が見える。頼み切つた君を、讒人が隔てる。窮すと云ふも、これ程のことは無い)。

 其の志、潔し。故に其の物に稱すること(志のなりが言に發する故に)芳し。其の行ひ、廉なり。故に死して容れられず(了簡のならぬ)。濁穢の中に蝉蛻し、以て塵埃の外に浮游し、世の滋垢を獲ず、□[白+爵。淨白]然として泥して滓されず(水晶の泥中に在る樣に、汚さうとしても穢れぬ)。此の志を推すに、日月と光を爭ふと雖も、可也。




●朱子『楚辭集註目録竝序』

 朱子の曰く、原の人爲る、其の志行、或は中庸に過ぎて(規矩に外れて)、以て法と爲す可からずと雖も、然れども皆な君に忠し國を愛するの誠心に出づ。原の書爲る、其の辭旨、或は跌宕怪神、怨□[對+心]激發に流れて、以て訓と爲す可からずと雖も、然れども皆な☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生(な)る。其の北方に學びて、以て周公・仲父の道を求むることを知らずして、獨り變風・變雅の末流に馳騁す。故を以て醇儒・莊士、或は之を稱することを羞づと雖も、世の放臣・屏子・怨妻・去婦をして、下に□[手+文。ぶん]涙□[口+金]謳し、而して天とする所の者をして、幸ひにして之を聽かしめば、則ち彼此の間、天性民彜の善に於いて、豈に以交(こもゞゝ)發する所ろ有りて、夫の三綱・五典の重きを増すに足らざらんや。此れ予の毎に其の言に味ふ有りて、敢へて直ちに詞人の賦を以て、之を視ざる所以ん也。

○屈子は吟味のかゝる人なれども、それを載せたは、朱子の説(『楚辭集註』の序)にて見るべし。朱子も大いに用ひらるべきを、讒人の爲めに退けられ、死ぬ二三年前に、『楚辭』の註をなされた。それ迄は『楚辭』を、詞の高いばかりにて、常の詩賦の如くに見られたを、朱子に至りて、始めて詞人のものと同一でないことが分つた。『如何樣にしても、君を助くる筈。楠の討死も、殘念な事ぢや』と、絅齋先生が仰せられた[註]も、是なり。

[註]愚案、絅齋先生の謂ひは、皇國と支那との國體の相異から來る、臣民道の在り方は、自ら相異する。皇國は盛衰あるも、興亡なければ、「生死は問ふ所に非ず、如何樣にしても、皇天の正嫡たる天子を扶翼すべし。生きて扶翼できるなら生くべく、死して扶翼できるなら死すべし」となん。

○「跌宕」は、踏みなじり、蹴散らかす樣な氣味。憂ふる心の、やる瀬なうて、何もかも言ひ破る意。常規を逸脱した不羈の樣を云ふ。「怪神」は、奇怪神祕なことに事寄せて、君をのゝしる。

 「怨□[對+心]」は、うらみ不足のある樣なこと。「激發」は、高まつた感情が外に發する。

 「☆綣」は、心にむすぼほれて、忘れられぬこと。其の君と固く結ぶ也。民が其の君を忘れようとしても忘られぬこと。「惻怛」は、傷み悲しむこと。

 「變風・變雅」は、『詩經』に風と雅とある。本法の正しき性情を歌うたものを、正風・正雅と云ひ、中庸を外れたものを云ふ。

 「放臣・屏子・怨妻・去婦」は、君に逐はれて臣・親に退けられた子・夫に出された妻・舅姑に惡まれた婦。

 「□[手+文]涙□[口+金=吟]謳」は、涙をおし拭ひ々ゝて、節をつけて歌ふこと。

 「天とする所の者」は、君は臣の天、父は子の天、夫は婦の天なり。彼此は、彼は天、此は臣・子・婦を云ふ。

 「民彜」は、民の常、人が生れつき有する所の徳を云ふ。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五典」は五常、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信、是なり。一以て言へば、道義、人たるの道。人間を「ヒト」として抽象的に考へず、三綱五常として、具體的關係に於いて考へ、各々の場に於いて、最善の道を盡くさうとするのが、東洋道徳の本質である。



○強齋先生『楚辭講義』(享保二年開講)に曰く、

朱子の序「皆、☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生ず」

 「☆綣」は、絲のくるりゝゝゝと結ぼれて、解いても々ゝゝゝほどけぬことを云ふ。譬へば棄てられた女の、夫を慕ふ情の、忘れうとしても、忘れられず、理で合點せうとしても、合點ならず、どうほどいてみても、ほどかれぬ樣なことを云ふ。

 「惻怛」は、痛々しう胸にこたへること。此の四字が、忠臣の心の眞味を知る處ぞ。『楚辭』を讀みて、屈原の屈原たる處を見るかねは、こゝにあるぞ。此の心から、あれも出でたり、怨んでも出たり、激しても出たり、怪しうも出たりするが、其のなりが、「皆、☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生ず」ぞ。

 「至意」は、どう云ふに云へぬ、餘義ない思はくを云ふ。此の心(いとしうてならぬ本心)でこそ、忠臣孝子と云はるゝぞ。此の心が無ければ、境界が順なれば、幸ひに背く跡は見えぬが、何時でも狹間くゞる心は持つてゐるぞ。絅齋先生の『靖獻遺言』の第一に、これを載せらるゝも、これが忠義の骨髓で、此の心なりが、三仁(微子・箕子・比干)ともなり、(諸葛)孔明ともなり、文山(文天祥)ともなりたものぞ。此の心を得るで無ければ、忠の字の話はならぬぞ。
 

  • [3]
  • 淺見絅齋先生『靖獻遺言』全八卷。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)22時16分21秒
  • 編集済
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■絅齋先生『靖獻遺言の後に書す』に曰く、

 古今、忠臣義士、素定の規、臨絶の音、衰頽危亂の時に見はれて、青史遺編の中に表する者、昭昭たり矣。捧誦して之を覆玩する毎とに、其の精確惻怛の心、光明俊偉の氣、人をして當時に際(まじ)はり、其の風采に接(つ)ぐが如くにして、感慨歎息、□[音+欠]慕奮竦、自から已む能はざる者有らしむ。其れも亦た尚ぶ可きかな矣哉。

 間々竊かに其の特に著しき者を纂めて、八篇(楚の屈平・蜀漢の諸葛亮・晉の陶潛・唐の顔眞卿・宋の文天祥・宋の謝枋得・處士の劉因・明の方孝儒)を得、謹みて謄録すること、右の如し。且つ其の事蹟の大略を稽へ、諸れを本題の下に紀し、其の聲辭に發するの各々然る所以の者をして、以て并せ考ふること有らしむ焉。其の他、一時同體の士、因りて附見すべき者と、先正の格論、綱常の要に關かること有ると、以て夫の生を□[女+兪。ぬす]み義を忘れ非を飾り售るを求めて、以て天下後世を欺かむと欲する者に及ぶに至りて、又た率(おほむ)ね類推究覈して、以て卷後に屬することを得。

 嗚呼、箕子、已に往けり矣。而して其の「自ら靖んじ、自ら先王に獻ずる」所以の者、萬古一心、彼此、間(へだて)無きこと、此の如し。然らば則ち後の遺言を讀む者、其の心を驗す所以、亦た豈に遠く求めむや也耶。淺見安正、敬みて書す。

○若林強齋先生の曰く、生死の場に臨んで、忠義があらはるゝでは無い。平生、大根が立つてゐて、素定の規が堅まりてをる故、平生なりに、變な場でも、それなりに變ぜず、あらはるゝぞ。

○秦山先生の曰く、箕子は、千歳以前に死なれたが、箕子の「自ら靖んじ、自ら先王に獻ずる」と云はれた詞は、萬古忠臣の心で、忠義を盡して死ぬる云ふに、かう云ふより外の云ひやうは無い。箕子が、紂王の惡逆が盛んになつて、みすゝゝ周の天下になる事が見えてをつたによつて、三人の衆(箕子・微子・比干)が寄り合つて相談せられたれば、此の方の身は、先達つて御先祖代々の天子へ差上げておいた。我が身で無いからは、死ぬるより外は無いと云はれた。此の詞は、『書經』微子の篇に載つて、どこへ持つて參つても、忠臣の心は、皆な是ぞ。日本の楠が、此の二字の旨は知らいでも、あの道に處して行はれたなりは、此の二字にひしと合ふ。

○強齋先生の曰く、靖んじ獻ずるの心が見たくば、「遠く求めんや」。人々、忠義の心のない者は無い。皆、其の心を得てをるから、昔語りの樣に、孔明がかうで、文山がかうでと云ふは、其の心が無いと云ふもの。其の心の無いは、人で無い。其の衆の心を驗す所の者は、我に在つて、疵の付かぬやうに平生養ひ、我が心に恥かしう無いやうに、いか樣な變な場でも、いか樣な難儀の場でも、其の心なりに立ち切つてゆけば、萬古一心、古今無間の心を得たと云ふもの。すれば「豈に遠く求めんや也耶」となり、きはめて親切な事なり。「耶」は、歎じておいて云ふ辭ぞ。箕子の「自から靖んじ、自から獻ず」と云はれた旨を、この八人の衆の、其の旨にそむかぬ衆で説かれて、誰でも忠義の心のない者は無いほどに、このなりに平生から養つてゆけるとある旨で、御奉公の爲に、此の書を集めたとある。先生の意、學者の身に親切なこと、熟讀體察すべし。



○絅齋先生『靖獻遺言講義』に曰く、

 某、竊かに以爲(おも)へり、古今、聖賢の書、發明開示して、天下後世を教ふる所の者、至れり盡せり。今ま別に書を著はし、愚鄙の辭を以て、聖賢の跡を汚す事を須(もち)ひず。然るに今日、此の書を編んで、義に志し學を勉むるの士と共にせんと欲する者は、道衰へ學廢れ、人倫の道明かならず。是を以て俗、日に漓(うす)く、所謂る聖賢の教なるもの、固より甞て滅びずと雖も、能く究め知つて、實に蹈む者、鮮(すくな)し。忠孝の大節に至つては、尤も知つて信ずる者、難し。親に事ふる者は、猶ほ天性の恩愛を以て、賊害の罪に至る者、或は少なし。君に事ふるに至つては、其の上下相維(つな)ぎ、貴賤相持つの體、或は失はざる者ありと雖も、亂離反覆の際、君を棄て敵に降り、恩を忘れ義に背むいて、拜跪奔趨して、但だ後にあらんを恐るゝ者、往々相踵いで、其の間、忠義を奮ひ命を殞し、節に赴く者ありと雖も、君臣の義に於て、錬達講磨する所、或は精しからざれば、心、私なしと雖も、義に悖り忠を失ふ者、皆な是れ也。

 故に古より大義に明かにして、尤も著しき者を選擇し、遂に八人を得たり。其の本末は、「跋文」に言へる如し。蓋し空言を以て義理を説かんより、實に其の事歴を擧げて閲するの、尤も親切にして、感發興起、餘りあるに如かず。其の事を擧げてい閲するは、固より切也。然るに其の將に絶えんとするの自鳴の言に至りては、又た忠臣義士、平生の蘊ふる所、肺肝心腸より流出して、聲氣に見はるゝものなれば、眞に風采心志、實に見はれて、目の當りに接するが如くなる者、是に於て得べきこと也。因つて敬しんで其の遺言を表して、各篇の骨子とし、其の上に、其の事歴の的切にして感發すべき者は、採りて其の前に録し、讀者をして并せ考へて、千載の下、萬里の遠きも、今日、吾が心の向ふ所、彼れ此れの距て無からしめんと欲す。

 嗚呼、孰か學ぶことを欲せざらん。既に學んでは、孰か其の義理を知つて、之を踐むことを欲せざらんや。但だ所謂る大義に於て見る所なければ、緩急の間、惑ひて乖かざらんを欲すとも、得べからず。是れ則ち某、此の編を輯むる所の本意、今日、始めて講を開き、諸賢の爲めに之を説く。固より珍幸也と云ふべくして、第一筵に、最初の目録に就いて、先づ之を發す。尤も詳かに察して、謹んで之を審かにし、終編の門庭として可也。

 大抵、吾が國近世の士たる者、率ね學を好まず、偶々學をする者は、記誦詞章の資とするに過ぎずして、英氣志義ある者は、視て以爲へり、學問讀書は、事に益なしとして、之を笑ひ□[言+山。そし]る。殊(たえ)て知らず、學ばざれば、大義を辨ふること能はず、夫の英氣志義も用ふる所を知らず。但だ是の學を倡(となふ)る者の誤よりして、此の弊に至らしむるなり。故に此の編は、特に士たる者をして、大義の端的を知つて、之を切磨し、學にあらざれば、一歩も其の身を動かすべからず、君に事へ己を處する、皆な幸ひにあらざれば妄なることを識つて、疑ひなからしめんとす。此を以て武士の『小學』とするも、亦た可なり。竊かに朱子『小學』稽古篇の、君臣の義を明かにする遺意に附すと、爾か云ふ。

 元祿元戊辰歳初冬朔日、錦陌講堂(絅齋先生)、敬みて諸生の爲めに講義を演ぶること、此の如し。



○強齋先生の曰く、

 此の書の全體は、君臣の義を始終反復して、底をつくして、義の字の旨を殘らず發明せられた書也。‥‥

 義の字のつまる處は、何としても離れられず、君がいとしうて棄るに忍びず、やむにやまれぬ自然の情なりに筋目の立つたが、義の字の旨ぞ。君に不忠では、名が惜いの、人が笑ふのと云ふ様に、爲にする所ろ有る意氣づくからする分では、何ほど身を委ね命を捨てたとて、それが本法の忠義とは云はれぬ。親に事ふるなりの至親至切の、やむにやまれぬ心の忍びられぬと云ふが仁。その大切な本心の事實にあらはれて、十分つくすが義。こゝに昧ければ、忠義が意氣づくの樣になるで、忠と云ふ字が語られぬ。こゝに吟味なうてはあぶないものぞ。‥‥

 天下の三綱の中、別して君臣の義は、天下全體の上下の義を分つて、全體の大義にあづかるゆゑ、こゝが明かになうては、天下の根本が腐繩でつなぎ、池のそばに子を置いた樣なあぶないもので、何どき謀反を起さうやら、いつ亂逆がおこらうやら知れぬゆゑ、これを吟味せでは、極めてあぶないもの。天下の命脈も、これで維(つな)いで居るゆゑ、こゝさへ明かなれば、亂世でも忠義を失はず、天下の三綱が立つて、天下への御奉公に、これほどのことはないぞ。あの方では書有つて以來、孔孟程朱の説、みな仁義忠孝の旨を明かされぬはなけれども、日本では書が無いゆゑ、此の書をあらはされて、直に義の字なりに本心を失はず、其の場を歴た筋目ちがはぬ忠義の衆の身の上で明かされた。此の書の樣な忠義の吟味に結構な書は無いぞ。わきて此の書の旨が、『□[糸+遣。以下「☆」と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)の、已むにやまれず、いとほしうて離れられぬと、君を思ふなりが、直に義ぢや。かう云ふからの心でなければ、義で無い』とある(絅齋)先生の旨で、『靖獻』の二字が、此の書の、一部始終の眼目ぞ。
 


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