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  • 靖國神社祀職

  • 投稿者:備中處士
 
●靖國神社・やすくにの祈り編集委員會編著『御創立百三十年記念――やすくにの祈り――目で見る明治・大正・昭和・平成』(平成十一年七月・産經新聞ニユースサービス刊)より

【靖國神社に於る歴代の宮司=?・權宮司=○】

?青山 清:明治12年6月16日~明治24年2月6日(在職中歸幽)
?賀茂水穗:明治24年2月17日~明治42年2月28日
?賀茂百樹:明治42年3月29日~昭和13年4月21日
 ○高原正作:昭和13年4月16日~昭和20年10月3日
?鈴木孝雄:昭和13年4月21日~昭和21年1月17日
 ○横井時常:昭和20年11月16日~昭和23年6月30日
?筑波藤麿:昭和21年1月25日~昭和53年3月20日(在職中歸幽)
 ○竹内秀太郎:昭和23年4月26日
 ○池田良八:昭和23年8月31日~昭和54年2月9日
?松平永芳:昭和53年7月1日~平成4年3月31日
 ○藤田勝重:昭和54年2月9日~昭和57年7月16日
 ○鈴木忠正:昭和56年7月16日~昭和59年11月1日
 ○神野藤重申:昭和59年11月1日~平成元年11月17日
 ○木山照道:昭和60年8月1日~平成2年11月5日
 ○湯澤 貞:平成2年11月1日~平成9年5月20日
?大野俊康:平成4年4月1日~平成9年5月20日
?湯澤 貞:平成9年5月21日~平成16年9月10日
 ○三井勝生:平成9年5月21日~現職
 ○花田忠正:平成12年■月■日~平成15年■月■日
 ○山口建史:平成16年■月■日~現職
?南部利昭:平成16年9月11日~現職

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  • [11]
  • 臣子、神となり、天皇、之を拜したまふ──神靈と人靈。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2018年12月11日(火)19時29分20秒
  • 返信
 
 愚案、阪本是丸翁『戰時下の「靖國思想」に關する一試論』(平成二十六年三月・皇學館大學研究開發推進センター神道研究所紀要第三十輯)より拾遺す。



●賀茂百樹宮司『靖國神社祭神祭日暦略・おくがき』(昭和七年八月・靖國神社社務所刊)

「(靖國神社祭神は、)遺族より見れば、父なり、兄なり、夫なりであるが、これに神格を授け給へば、申すまでもなく、國家の神である。國家の神となれば、國家と共に、永久の生命である。そこで、神靈と人靈との分別を明かにせねばならぬ。遺族としては、我が祖先として祀ると共に、國家の神靈として忘れてはならぬ。而して晨夕べに能く神習ひて、この名譽ある神の遺族たるの光榮を失はぬやうに心掛くることが肝要であつて、これが神徳に依つて運を添ふ所以である」と。



●陸軍省新聞班・海軍省海軍軍事普及部『靖國神社臨時大祭を迎へて』(昭和十三年四月二十日・内閣情報部編『週報』第七十九號)

「畏くもお上に於かせられては、事變、未だ半ばの今日、戰歿勇士の上を深く御軫念遊ばされ、これ等多くの英靈に對し、近く授くるに國家の榮典を以てせられ、祀るに靖國神社の祭神を以てせらるゝ由、漏れ承る。これ、實に天恩、枯骨に及ぶと謂ふべきもので、臣子の感激、愈々その深きを覺ゆるのである。‥‥

 恭しく惟みるに、靖國神社建立の叡慮は、これら忠魂を慰むると共に、ひろく國民をして、永きに亙り、愈々忠節を抽づる鑑たらしめるにある。即ち靖國祭神の忠烈なる精神を、軍人始め一般國民の中に顯揚し、益々皇猷翼贊の實を擧げしめるにある。これがためには、靖國神社を以て、單に英靈鎭祭の聖地たるに止めることなく、國民精神作興の根據地たらしめ、十數萬神靈の加護と照覽の下に、全國民をして、眞に靖國精神を體現振起せしむる如くせねばならぬ。而してこゝに所謂靖國精神とは、單に戰場に於て忠節を盡すといふが如き狹義のものではなく、實に我が肇國の根本精神である。即ちこれは、天神皇祖を始め、歴代の天皇が、この國土を安けく平けく治しめさんとし給ふ大御心に他ならず、從つて億兆臣民の唯一根本道である」と。



●阿南惟幾陸軍次官『靖國神社合祀者の詮衡、及び合祀者名簿進達に關する注意事項の件、陸軍一般へ通牒』(昭和十五年八月)

「靖國神社の御創建は、一に叡慮に出づ。仍て其の合祀は、戰役事變に際し、國家の大事に斃れたる者に對する、神聖無比の恩典なり。是を以て其の衡に當る者は、常に敬虔にして公明なる心情を以て處理すべきものとす。各部隊の合祀上申は、概ね適當に實施せられあるも、中には強ひて事由を戰役事變に關連せしめ、或は充分なる詮議を經ずして、戰地に在るもの、必ず合祀せらるべきものなりと爲すが如き觀念の下に上申し、或は此の神聖なるべき決裁を、下僚に委して放任あるにあらざるやを疑はしむるものあり。斯くの如きは、其の本義に悖り、神靈の尊嚴を冒涜するの虞あるを以て、各部隊に於ては、靖國神社合祀者の詮衡、及び合祀名簿の進達に方り、敍情の趣旨に則り、左記諸項に、格段の注意を致され度し。通牒す」と。



●鈴木孝雄宮司『靖國神社に就て』(昭和十六年十月・『偕行社記事・特號──部外祕』第八百五號)に曰く、

「靖國神社は、ほかの御社と違つて、招魂場なるものがあるのであります。合祀祭は、此處で行はれるのであります。つまり神靈を正殿にお鎭め申すに先立つて、豫め此の齋庭に、御靈を御招きして、さうして祭典の後、神靈を正殿にお鎭め申すために必要なのです。‥‥

 此の招魂場に於けるところのお祭りは、人靈を其處にお招きする。此の時は、人の靈であります。一旦、此處で合祀の奉告祭を行ひます。そして正殿にお祀りになると、そこで始めて、神靈になるのであります。之はよく考へておきませんといふと、殊に遺族の方は、其のことを考へませんと、何時まで自分の息子といふ考へがあつては不可ない。自分の息子ぢやない、神樣だといふやうな考へをもつて戴かなければならぬのですが、人靈も神靈も、餘り區別しないといふやうな考へ方が、いろゝゝの精神方面に、間違つた現はれ方をしてくるのではないかと思ふのです。‥‥

 遺族に對しての務めは、便宜を計るといふことを致してをります。御承知の通りに、一旦、神に祀られた以上は、世の中に在つた時のやうに、階級はありません。上は大將から下は一兵に至るまで、何れも、皆な護國の神であります。その意味からして、この御社に於ては、遺族に對して、全く同一の取扱ひをしてをるのであります。‥‥

 遺族の心理状態を考へますといふと、どうも自分の一族が、神となつてゐる。始終、國をお護りしてゐるんだといふ考へは、勿論もつてをられるに相違ありませんが、一方に親しみといふ方の點が加はるものですから、何となく神樣の前の拜禮あたりも、敬神といふやうな點に缺けてゐることが、まゝ見られるのであります。一例を擧げまて申しますと、お祭をしてゐる間に、平氣で話をしてゐるといふやうなのもあります。それから態度の不謹愼なのも、偶に見ることもある。これは苟くも神社に參拜する時は、心から神樣に對するんだといふ、最も嚴肅緊張したる心持を以て、敬虔な態度でお詣りして戴きたいのであります。これは、全體ではありませんが、時々さういふのがあります。それは、確かに自分の一族の方が、神になつてをられるんだといふ頭があるからだと思ひます。さうではなく、一旦、此處に祀られた以上は、これは國の神樣(護國の神)であるといふ點に、もう一層の氣をつけて貰つたらいいんぢやないかと思ひます。‥‥

 それから遺族に對しては、この社務所の方に於て、始終、その係におきまして、昇殿參拜の出來るやうな準備をしてをります。それを知らずして、一般の參拜と同じやうにして歸られる向も見受けられるのであります。遺族の方は、是非、昇殿參拜をして、自分達は、神樣の加護に依つて、一家の繁榮をはかり、どこまでも神樣の生まれたるところの家、それを榮えさせて、末代までも國家に忠節を盡すところの人を、だんゞゝ出すんだといふ決心を新たにし、自己の日常が、靖國の神の前に愧ぢざることなきやを、自ら省みるやうになつて欲しいものです。‥‥

 私(靖國神社)の方と、各府縣の護國神社とは、全く縁がないのでありますが、祭神を各府縣で決める時分には、何時でも靖國神社に、祭神を訊きに參りました。これに對しては、祭神名簿によつて、その神樣をお調べして差上げるけれども、責任は、私の方では、一切もつてをりません。‥‥

 靖國神社と忠靈塔の問題であります。これは、全然別であります。靖國神社は、一國の祭祠であります。忠靈塔は、墳墓であります。墳墓と同一の取扱ひを受ける性質のものであります。靖國の精神と申しますが、大和魂の存在と云ひますか、それは靖國神社の御社に宿つてゐるのであります。從つて神社に對する觀念と、忠靈塔に對する觀念とは、そこに區別のあるべきものと思はれます。飽くまでも日本國民の精神、言ひ換へると大和魂なるもの、これが永久に靖國神社に鎭つてをられて、これを我々が心のうちに植付けてゆけば、國民としての大和魂が、十分に發揮されるものであると、かう私は考へてをります」と。


**********


●泉水隆一翁の『九段の母』解釋
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/246
 

  • [10]
  • ■■■靖國神社第四代宮司・鈴木孝雄陸軍大將■■■

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年12月 6日(土)23時57分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
 小生の淺學なる、鈴木孝雄宮司のことは、殆んど無知である。たゞ遊就館に「靖國大神」てふ四字なる黒縁の額あり。「靖國大神」は、陸軍大將・鈴木孝雄宮司の、よく唱道せられし呼稱なる由、小生の質疑直下に、遊就館の職員は教へて下さつた。


明治二年十月二十九日(太陽暦・十二月二日。實は明治三年に生ると、大將遺稿「先兄を憶ふ」に自ら云へり――鈴木武氏『怒涛の中の太陽』所收)、下總國關宿藩久世氏の東京小石川藩邸に生る。和泉國大鳥郡久世村伏尾の代官・鈴木爲之助由哲翁(關宿藩家老・關宿町長)の二男。母堂は、キヨ刀自。長兄は贈從一位・第四十二代内閣總理大臣・勳一等功三級・男爵・鈴木貫太郎海軍大將。次弟は鈴木三郎關東都督府外事總長・久邇宮御用掛。末弟は永田茂陸軍中佐。前橋中學校(群馬縣立前橋高等學校)・成城學校を卒業。
明治二十二年十一月、陸軍士官學校入校、二十四年七月三十日、卒業(陸士候補生第二期)。
二十五年三月二十一日、陸軍砲兵少尉に任官、野砲兵第一聯隊附を命ぜらる。
二十六年十二月、陸軍砲工學校入校。
二十七年十月、砲兵中尉、日清戰爭に出征(~二十八年六月)。
二十九年十一月、砲工學校卒業、獨立野戰砲兵大隊附。
三十年四月、第七師團副官。十月、砲兵大尉、野砲射撃學校副官。
三十三年二月、砲工學校教官。
三十五年十二月、陸軍大學校教官を兼ぬ。
三十六年八月、砲兵少佐。
三十七年三月、野砲兵第八聯隊附に移り、六月、日露戰爭動員下令と共に、野砲兵第八聯隊補充大隊長を命ぜらる。
三十八年一月、野砲兵第十聯隊大隊長、二月、出征。十一月、關東總督府砲兵部員に移る。
四十年二月、野砲兵監部附、十一月、砲兵中佐。近衞師團野砲兵聯隊附を命ぜらる。
四十二年四月、陸軍省軍務局課員。
四十四年九月、歐州出張を命ぜらる。
四十五元年五月八日、野砲兵第二十一聯隊長。七月十五日、砲兵大佐。八月、歸國。
大正三年五月十一日、陸軍省軍務局砲兵課長。
六年八月六日、陸軍少將、野砲兵第一旅團長。
八年二月二十日、野戰重砲兵第一旅團長。
十年三月十一日、陸軍士官學校長。七月二十日、陸軍中將。
十一年八月十五日、砲兵監を拜命。
十三年二月四日、第十四師團長を親補され、八月二十日、陸軍技術本部長に移る。
十五年七月二十八日、軍事參議官を兼ぬ。
昭和二年七月二十六日、陸軍大將に至る。九月六日、勳一等に敍せられ、瑞寶章を賜る。
三年三月八日、技術本部長を退き、更めて軍事參議官に親補さる。
八年三月三十日、豫備役編入。
八年七月二十一日、勳一等に敍せられ、旭日大綬章を賜る。
十年四月、後備役。
十三年四月二十一日、第四代靖國神社宮司(~二十一年一月十七日)に就任。
十七年八月、大日本青少年團長(~二十年六月)を兼ぬ。
二十九年四月、偕行社會長(陸軍將校親睦團體。~三十三年七月)。
三十九年一月二十九日、薨去。壽九十六。千葉縣關宿町なる實相寺に葬らる。
 室モト刀自は、男爵・快堂立見鑑三郎尚文陸軍大將の女。長男は、鈴木英海軍中佐(室は岡田啓介海軍大將の女)。女は、建設大臣・始關伊平衆議院議員の室。


●鈴木孝雄宮司『靖國神社に就て』(昭和十六年『偕行社記事・特號・部外祕』第八百五號)に曰く、「

 此の招魂場に於けるところのお祭りは、人靈を其處にお招きする。此の時は、人の靈であります。一旦、此處で合祀の奉告祭を行ひます。さうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神靈になるのであります。
 之はよく考へておきませんといふと、殊に遺族の方は、其のことを考へませんと、何時まで自分の息子といふ考へがあつては不可ない。自分の息子ぢやない、神樣だといふやうな考へをもつて戴かなければならぬのですが、人靈も神靈も餘り區別しないといふやうな考へ方が、色々の精神方面に、まちがつた現れ方をしてくるのではないかと思ふのです。‥‥
 遺族の心理状態を考へますといふと、…どうも自分の一族が神になつてをられるんだといふ頭がある‥‥。さうでなく、一旦、此處に祀られた以上は、これは國の神樣であるといふ點に、もう一層の氣をつけて貰つたらいいんぢやないかと思ひます」と。


●鈴木孝雄宮司『靖國の神』(『護國の書』・昭和十八年・直靈出版社刊に所收)に曰く、「

 この神樣に對する我々奉仕の考へ、また遺族をはじめ參拜される一般の方々の考へ方といふものを、はつきりさせねばなりません。
 即ち日本國民の精神が、此處靖國神社に凝つて、永く存在ましまして、我々現在活動してゐるものに對して、國民精神の精華を見せつけて居られるのでありまして、我々國民と致しましては、靖國神社に祀られたる神樣の精神に頼つて、そして自分たちが國家に對する忠誠に過ちなからしめ、此の點について過ちのないことを、神樣が守護してをるといふやうな考へ方が大事だと思ふのであります。
 そこで靖國の神樣は、始終、我々國民の毎日々々の行動を照覽せられ、さうして我々を導いて行くといふ立場にをられると考へなければならんと思ひます。‥‥

 私が此處にをつて種々感ずることは、一般に祭神が、つまり自分の家から出してゐるとか、自分の兄弟であるとか、自分の友達であるとかいふやうな關係からして、國民が非常に親しみをもつてはゐるが、これがほかのお社のやうに、非常に嚴かな尊い神樣であるところの感じが、親しみのある關係からか、どうも少し神樣を尊敬するといふ念に就ては、ほかのお社と違ふ點があるのではないかといふ感じをもつのです。‥‥
 そこで何とかして、この神樣は、ほかの神樣と一つも變はりがなく、實に日本國として最も尊い神樣であるといふ考へをおこさせたいといふ念が、終始浮ぶのです。‥‥
 名譽の戰死をなされた方は、あなた方の一族のお方であつたが、今は別のお方になつて居られるのであります。到底、我々の、どのやうにしても及びもつかない、人間の地位をはなれた尊き國家の守神となつて居られるのであります。‥‥
 かく申しますと、今まで「私の良夫が」、「私のなき父が」と考へてをられた人々にも、「神樣」と云ふ尊嚴にうたれ、悲しみも淋しさも打忘れ、靖國の御祭神に對する考へが、すつかり變つてこられるやうであります」と。


●鈴木孝雄大將の揮毫
一、府社難波神社東鳥居脇標柱(大阪市中央區博勞町御堂筋。「府社難波神社」)
一、萬葉歌碑(京都市右京區龍安寺住吉町・住吉大伴神社裏山衣笠道路北側公園内。「海ゆかば 水つく屍 山ゆかば 草むす屍 大君の へにこそ死なめ かへりみはせし。大伴家持。靖國神社宮司・鈴木孝雄。昭和十九年八月五日」)
一、沖繩縣護國神社標柱(「沖繩縣護國神社。昭和十九年十二月建之。陸軍大將鈴木孝雄書」)
一、杉山對軒遭難之碑(埼玉縣北葛飾郡杉戸町竝塚村。「杉山對軒遭難之地」。昭和二十四年建立)
一、忠靈塔(千葉縣市原郡海上村。「忠靈塔。元陸軍大將・鈴木孝雄書。昭和二十八年建立」)



●鈴木宮司の言擧げ――塾頭一兵士翁の曰く、「

 昭和二十年九月頃に、鈴木大将――鈴木宮司は、国家――陸軍省から「軍務として合祀を続行せよ!」との、最後の命令を受けた。そして翌年、筑波藤麿宮司に手渡した。それで靖國神社は、「宗教法人」になったのだ。‥‥

 賀茂百樹宮司の後を継がれた陸軍大将鈴木孝雄宮司は、斯くのように国民の拝神、参拝の心得を説いている。要約する。
 「靖國神社に参拝するにしても、国民は、心得として、靖國神社の神様に対して誓わなければならないという、一つの責任を持っています。それは、この神社に祀られる祭神は、いずれも自分の身を犠牲にし、一念、国家よりほかの事はなく、此の國を守護されてきた方達ばかりです。言い換えてみれば、靖國神社の神霊は、国家そのものに、終始、加護を與えているということになるわけです。國の安泰を終始見守っているわけです。ならば、我々国民としては、この神様に酬いるための考えが出なければならない。つまり此の神様に対して誓いを立てて、自分の身を処していくという覚悟が起きてこなければならない。此の神様は、いづれも責任観念の深い神様なのです。この神様に誓いをしていただかねばならない。各人の自覚と責任です。それは、即ち、今日の国家にご奉公していくという考えが必要であり、これが靖国の祭神に対するところの、我々の務めであるましょう」と。‥‥

 そして鈴木孝雄宮司は、なおも言う。「いざという時には、一命を捧げます――という、立派にその誓いができれば、ここに初めて神明の加護――神徳というものを考えることが出来る」と。即ちただ神明の加護をお頼みしますでは、神徳は授けられない。「神明の加護というものは、参拝者自身が、自らその加護を受けるようにしなければ、加護は参拝者には現われない。神頼みをするには、神様がお授けくださるように、自分自身もそうしなければならないのです。國に奉公された祭神同様、いざという時には、此の國にご奉公するという誓い」、それがあれば、御加護――御神徳を受けられるという」と。

  • [9]
  • 大野俊康翁、續

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年12月 6日(土)23時53分7秒
  • 返信
 
●大野俊康宮司『「ふるさと靖國」の刊行に際して』(シリーズ・ふるさと靖國・展轉社刊)に曰く、「

  敷島の大和心を人とはゞ朝日ににほふ山櫻花(本居宣長)
  百千々の世にもうごかじ天地の神のかためし大和しまねは(村田春海)
 わが國學の先人は、このやうに凛たる國魂、嚴たる國柄を謳つた。ゆるぎなき悠久の國史を刻む、わが日本人の心意氣としはなくて、なんであらうか。先人達は、古來、瑞穗の國の豐穣に、神恩を感謝し、父祖を敬ひ祀つて、鎭魂の祭祀をたやさず、大君のしろしめす下、眞に君臣一體の國づくりにいそしみ、たぐひなき大和心を發揚した。
 いま謹み顧みて、靖國のみやしろに神鎭まります二百四十六萬餘柱の英靈は、このかけがへもなきわが國土、わが誇らしき國風よ永遠なれと願ひつゝ、尊き御身を挺されたのであつた。その氣高き殉國散華のいさをしの上に、今日の平和と繁榮がある。
 戰後五十年もの平和を享受して來た今、改めて先人達の培ひ殘して下さつたこれらの事に、全國民が思ひをいたし、日本の道義の心、かぐわしき傳統と國風、そして日本人の「心のふるさと」を思ひ起こし、胸に刻みたいと思ふのである。
 靖國神社では、この趣旨達成のために微力を傾注することが、英靈の御神意に叶ふものと確信いたし、『ふるさと靖國』シリーズを企劃した次第である。世代を越えた廣汎な讀者各位と共に相勵み、研鑽を重ねていきたい。ここに發刊の辭とさせていただく。
  平成五年四月二十二日、靖國神社宮司・大野俊康」と。


●大野俊康宮司『靖國神社「いざさらば我はみくにの山櫻――學徒出陣五十周年特別展の記録」はじめに』(シリーズ・ふるさと靖國第三集・平成六年八月・展轉社刊)に曰く、「

 遊就館特別展の大半の方々は、特攻隊員として、鹿兒島・宮崎の各基地から出撃されました。本年五月、私は特攻勇士の寫眞を携へ、十一基の各基地慰靈碑を巡拜して參りました。千キロに及ぶ旅でした。面影を瞼にえがき、碑前に額づいた時、「後は頼むぞ!」の御聲が聞こえてきました。今や、七生報國の「溜魂の聖地」と化(な)られ、懦夫をして起たしめたる正氣の雄叫びを實感しました」と。


●大野俊康宮司『靖國神社「散華の心と鎭魂の誠――大東亞戰爭終戰五十年展の記録」はじめに』(シリーズ・ふるさと靖國第四集・平成七年十二月・展轉社刊)に曰く、「

 明治維新の原動力となつた眞木和泉守による高山彦九郎先生五十年祭と、本年の靖國神社への感謝と顯彰の五十年祭は、奇しくも「正氣の繼承」の同一の祭祀であります。
 幕末維新の嚴たる「囘天の道」を指針と仰ぐ時、昨今の日本の有樣が、いかに國威地に墮ち、反日本の逆風が吹き荒れようとも、靖國神社に凝集する凛たる正氣のある限り、「平成維新」は必ず達成できると、信じて疑ひません。
 昭和の大漢詩家・松口月城師は、「靖國之宮」の名詩を、高らかに歌ひ上げられました。
  正氣凛たり靖國の宮、祠前に拜跪して思ひ窮り無し
  遺勳千載なんぞ銷滅せん、新日本は生る遺烈の中
 終戰五十年の大きな節目の年に當り、改めて靖國の神々のみこころを、國民ひとしく受け繼ぎ、互ひに力を合はせ、道義ある新日本の建設へ邁進していただきたく‥‥」と。

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  • ■■■靖國神社第七代宮司・大野俊康翁■■■

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 2日(木)23時05分37秒
  • 返信
 
 肥後國の人。大正十一年五月二十日生る。昭和十八年十月、神宮皇學舘大學祭祀專攻科に入學。學徒出陣により、同十二月一日、陸軍西部十六部隊(熊本市の陸軍歩兵聯隊機關銃中隊大隊砲小隊)に入營。十九年六月、第三期特操として熊谷飛行學校に入校するも、訓練未了のまゝ終戰を迎ふ。二十二年二月、肥後本渡諏訪神社(天草島總鎭守)宮司。二十三年、九州帝國大學文學部卒。六十一年、熊本縣神社廳長。平成四年四月一日、松平永芳宮司の後を承け、靖國神社第七代宮司を拜命し、平成九年五月二十日に至る。著書に『軍神松尾中佐とその母』等。現在は本渡諏訪神社名譽宮司。


●大野俊康宮司『後に續くを信ず・戰歿學徒が殉じた「神國日本」』(『祖國と青年』平成十一年十月號、同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』所收)に曰く、「

 私の初搭乘から單獨飛行まで、手取り足取り指導してくれた助教の神田富太郎軍曹は、昭和二十年四月八日、第八十一振武隊員として、熊谷飛行學校から知覽基地へと向かはれましたが、最後の見送りの時、私の手をしつかり握つて、「大野、あとは頼むぞ」と言つた軍曹の、その聲、手の温もり、そしてその笑顔は、未だに忘れることはできません。‥‥

 (「あとは頼む」の眞意とは、)大分縣師範學校出身の學徒兵の西田高光海軍少佐は、特攻出撃を前に、海軍報道班員の山岡莊八氏に、次のやうに心境を述べられてゐます。
『學鷲は、一應インテリです。さう簡單に勝てるなどとは思つてゐません。しかし負けたとしても、その後はどうなるのです‥‥おわかりでせう。われゝゝの生命は、講話の條件にも、その後の日本人の運命にもつながつてゐますよ。さう、民族の誇りに‥‥』
民族の誇りに殉じる――これが學鷲(學徒兵の飛行機乘り)の心だつた。よく「かはいさうだ」と言ふ人がゐますが、憐みなんか、要らないのです。後に續くを信ず――誇りを抱いて死んでいつた自分たちの志を繼いで、この國を守つてもらひたい、といふのが、靖國の神々の願ひなのですね。‥‥

 靖國神社宮司の重職をお受けさせていたゞいた時には、三十數名をります神職のうちで、軍隊生活經驗者は、私一人になつてゐました。さういふ意味でも、私自身、英靈のみ心の語り部になつて、生涯傳へて歩き、我が國が英靈のみ心にかなふ國柄となるやう努めることこそ、靖國神社宮司の仕事だと思ひ定めて、御奉仕させていたゞきました。

 (終戰の大詔は、)宮城縣の山奧の高清水町の、小學校の校庭で拜聽しました。「さらに戰へ」との、激勵の大詔と信じてゐましたから、「神國が遂に滅亡した!」と、まさに悲憤懊惱、慟哭の極みでした。悲嘆に眩(く)れて夜を迎へ、「神國日本が滅びたのだから、もうこのまゝ夜は明けないのだらう」と、信じて疑ひませんでした。ところが暗黒の一夜が明けた翌朝、いつもと同じやうに、朝日が昇つたのです。それもいつもより一際大きな日輪が赫々(あかゝゝ)と!。不思議でしたね。魂が搖さぶられるやうな、大きな驚きでした。さうだ、陛下も「堪へ難きを堪へて」、頑張れとおつしやつたぢやないかと、朝日に大いに勇氣づけられ、涙を流しながら拜んだことを覺えてゐます。平成八年の靖國神社獻詠歌に、當時の氣持ちを、こんな歌に詠みました。
  赫々と のぼる朝日に 手を合せ 泣きて拜みし 終戰明けの日
‥‥

 私たちは日本の歴史・理想に對する誇り、皇室を有り難く思ふ氣持ちは、とても強かつた。ですから、終戰の大詔を拜した時の動搖は大變なもので、「神國が遂に滅亡した! 神國日本が暗黒日本になつてしまつた」と。逆に言へば、それほど純粹に國體を信じてゐたのです。一緒にゐた者の中には、竹林で軍刀を引き拔いて、竹に切り付ける者もゐました。

 しかし實は、神國が滅びたのではない。國民の信念の問題だつたのです。「神國が滅びた」といふのは、國民が敗戰といふ現象にとらはれて、さう思ひこんだゞけのことで、日本の國體は戰前も戰後も、嚴として變はらず存在し續けたのです。昭和天皇樣は戰前も戰後も、全くお變はりにならなかつた。國民が再びそのことに氣がついたのは、昭和天皇樣の全國御巡幸によつてゞした。

 國民は有史以來、初めての敗戰に、本當に失意のどん底でした。都市は一面燒け野原で、食べる物もない――そんな慘憺たる状態から、日本が不死鳥のやうに甦ることができたのは何故か。それは、昭和天皇樣が、全國を御巡幸なさつたからなのです。天皇陛下萬歳を叫び、日の丸を振り、君が代を歌ふ――それで人々は、日本人としての氣概を取り戻したのです。占領中は、日の丸も君が代も禁止でしたが、この時だけは許された。御巡幸がなければ、戰後の復興はもつと遲れたでせうし、もつと違つた形になつてゐたかも知れません。‥‥

 (敗戰とは、實に精神的な大事件だつた。日本人はそれまで信じてきた國體への確信が、本物であつたかどうかを試された。調子のいい時に、調子のいいことを言ふ者はいくらでもゐますが、絶望に陷つた時に、尚も信じ續けられるか否か、そこに人間の信念が問はれるわけです。)そのことで思ひ起こすのは、吉田松陰先生が遺された言葉です。松陰先生は、安政の大獄によつて打ち首の刑に處せられましたが、その十六日前の十月十一日、同じ小傳馬町の牢獄に入つてをります、堀江克之助といふ友人から手紙をもらひ、その返事に、次のやうに記されました。

『天照の神勅に、「日嗣の隆えまさんこと、天壤と窮りなかるべし」と之れあり候ふ所、神勅相違なければ、日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正氣重ねて發生の時は、必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざるなり』‥‥

 當時は、吉田松陰・橋本左内をはじめ、正義の士・忠義の士が、次々に打ち首や重罪に處されるといふ、道義がひつくり返つたやうな時代ですよ。しかもこの時、既に松陰先生の死罪は確實でした。そのやうな絶望的な時にあつて、「天照大神樣の御神勅に、『日嗣の隆えまさんこと、天壤と窮りなかるべし』とあるではないか。その神勅に相違なかつたならば、日本は決して滅びないのだ」と、喝破されたのです。歴代の天皇樣は、神勅のまゝに、懸命に、國安かれ、民安かれ、と行じていたゞいてをるではないか。それを國民が疑ふとは何事か、といふことです。

 そして松陰先生は、十月二十七日、牢獄を出て處刑場に行かれる時に、次の辭世を詠まれました。
『吾れ今、國の爲に死す。死して君親に負むかず。悠々たり、天地の事。鑑照、明神に在り』
神勅を疑ふべきではない、神勅は嚴としてあるのだ、といふ尊い信念があればこそ、「自分は國のために死ぬのである」と、堂々と言ひ切られたのだと思ひます。そして自分を死罪にした幕府が、是か否か。死罪に處せられる自分が、否か是か。その理非曲直は、天地の神々がはつきり見そなはすものであると、悠々として死んでいかれたのです。‥‥

 日本の國は、今、本當に亂れてゐます。しかし、天皇陛下は、如何なる時でも、默々と、そして堂々と、天照大神樣の御神勅の隨(まにま)に、萬世一系の皇位を踐んでをられます。そして宮中祭祀、稻穗のお供へ、日本古來の道を、百二十五代今上陛下、ご立派に御勤めいたゞいてゐます。何といふ素晴らしい國ではありませんか。神勅、まさに今に生きてゐるのです。

 明治天皇樣のお若い頃の御製に、次のやうなものがあります。
『人もわれも 道を守りて かはらずば この敷島の 國はうごかじ』
「人も」といふのは、國民です。「われも」といふのは、天皇陛下です。明治天皇樣の後、大正天皇樣、昭和天皇樣、そして今上陛下も、皆、御歴代のお氣持ちの隨に、日本古來の道を、御神勅の道を、默々として守つてをられます。陛下は、皇室は、絶對に變はつてはをられないのです。變はつてゐるのは、國民ではないですか。國民も、皇室をお手本にして道を守つていくのでなければ、日本の國は榮えません。「只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざるなり」との、松陰先生のお言葉を、胸に刻みたいものです。

 今、世の中は「二十一世紀、二十一世紀」と騒いでゐますが、來年(平成十二年)は「皇紀二千六百六十年」です。‥‥「二十一世紀」ではなく、「皇紀二千六百六十年」と、誇りをもつて言へる日本に戻すべく、お互ひに力を盡くして參りませう」と。

  • [7]
  • 松平永芳大人、續々

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)23時00分35秒
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【松平永芳大人の逸話】

一、大正天皇の侍從から宮内大臣まで、一貫して宮内省の要職を歴任し、宮中の機密に關はつた父・松平慶民子爵(最後の宮内大臣)の日記は、遺命に從つて、表紙のみを殘して處分された由(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)。大人の曰く、「父は、皇族方にとつては、一番こわい存在で、殿下方にお小言を申し上げる專門職であつた。父は、皇室は道義の中心でなくてはならないと考へて、殿下方に對しては、その御意見番を以て自ら任じてをりました」(『家庭教育(精神・しつけ教育)について』)と。曰く、「戰後父親の沒後より今日に至るまで、皇室の御在り方、御行く末の御事共を憂慮、懊惱して、事ある毎に側近要路の方々に對し、如何やうに思はれやうとも、意に介すること無く、進言して憚らないのは、兩親が私に對して施した、皇室に對し奉る生涯教育の然らしめる結果でもあらうか」(『我が家の生涯教育』)と。

一、松平慶民大臣は、平泉澄博士を深く信頼し、子である大人の海軍機關學校受驗準備中に、平泉家に預けて、勉學指導を依頼された(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)。大人も、終生、平泉博士を師と仰がれた(松平永芳大人「平泉澄先生仰慕――御家庭における先生御夫妻」參看)。

一、昭和五十三年七月、靖國神社の第六代宮司に就任。十月十七日、既定方針で宮司預りとして保留となつてゐた、『昭和殉難者』(十一月二十三日「宮司通達」の呼稱、大人の命名。東京國際軍事裁判の呼稱は、A級戰犯またはA種戰犯容疑者)十四柱の合祀を、秋季例大祭前日の靈璽奉安祭にて執行した。曰く、「靖國神社の立場からすれば、昭和二十八年四月一日の時點(「恩給法」・「法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法」の適用)を以て、『戰犯』として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである」、「むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にもご祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか、となつてしまふ」、「生涯のうちで意義のあることをしたと、私の自負することができるのは、いはゆる『A級戰犯』を合祀したことである」(『東京教育懇話會志・續輯』・『誰が御靈を汚したのか』)と。

一、大人(平成十七年七月十日午前四時五十五分に歸幽)の御葬儀は、「大田區の公益社・雪が谷會館において、十二日に通夜祭、十三日に告別式が齋行されましたが、御遺志に從つて、宮中からの祭祀料をはじめ、生花や玉串料の類ひはすべて辭退された、簡素にして氣品溢れる祭典でした。告別式で唯一つ飾られた三笠宮寛仁親王の生花が、格別の御關係を物語つて印象的」(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)であつたと云ふ。

一、皇學舘大學學長・伴五十嗣郎翁の曰く、「松平樣は、その御人格を一言で申し上げるとすれば、『盡忠憂國』といふ語以外に、適切の言葉を思ひ付かない。決して自己の名利を追求されることなく、日常の一擧一動に至るまで、すべての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置かれた。御志操あまりに純粹一途にして、他から御眞意を理解されぬことも多かつたと思ふ。福井の博物館長時代には、作業服に着替へて展示ケースのガラス面の清掃や、館庭の草拔きなどを、毎朝の日課とされた。來館者が用務員さんと誤解して、横柄に話し掛け、後で松平樣と知つて恐縮し、大慌てする場面をよく目にした」(『靈魂不滅・松平永芳樣を偲ぶ』)と。

  • [6]
  • 松平永芳大人、續

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)22時59分7秒
  • 編集済
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【揮毫】
一、岡山縣關係法務死殉國烈士慰靈顯彰碑(「殉國烈士之碑。靖國神社宮司・松平永芳謹書」)。

【著述】
一、『一軍人の最期――海軍中將侯爵醍醐忠重の俤』(昭和三十一年・私家版)
一、『松平慶民・同幸子小傳竝びに年譜』(昭和三十三年・松平家刊)
一、『ああ黒木少佐』(慕楠黒木博司海軍少佐・昭和三十五年・私家版)
一、『孤鶴のさけび』(昭和四十年・私家版)
一、『雪中の松柏』(昭和四十三年・私家版)
一、『春嶽公を語る』(昭和四十四年三月・佐佳枝廼社刊)
一、『幕末の花の香り』(昭和四十四年・悟會刊)
一、『先賢に學ぶ』(昭和四十六年・私家版)[殉國者慰靈のまごころ/人間とは何か?/眞の氣骨/ひそかなる貢獻/歌人曙覽の風格/忘れ得ぬ外人グリフイス博士/長たる資質/清操氷雪の畫人/岡田首相の深慮/純粹なる決斷/老忠臣の最後]
一、『米側公刊記録に基く福井市空襲の實態』(昭和五十一年三月・私家版)
一、『初代日本赤十字社病院長橋本綱常博士と赤十字』(昭和五十二年七月・景嶽會刊)
一、『橋本綱常博士の生涯――博愛社から日赤へ・建設期の赤十字人』(昭和五十二年十二月・アンリー・デユナン教育研究所刊/昭和六十三年三月・福井市立郷土歴史博物館刊)
一、『松平春嶽公をしのぶ』(平成二年・福井神社奉贊會)
一、『松平春嶽公を語る――松平永芳先生講演記録誌』(平成四年十二月・ふくい藤田美術館刊)
一、『名利を求めず』(平成十年三月・私家版)

【論考】
一、「日本の心、未だ失せず」(日本學協會『日本』昭和五十四年三月號/靖國神社々報『靖國』同五十四年四月號)
一、「新春隨想」(東京教育懇話會「第二五二囘例會報告」昭和六十年正月十八日、『東京教育懇話會志・續輯』平成二年十一月刊に所收)
一、「平泉澄先生仰慕――御家庭における先生御夫妻」(『日本』昭和六十年二月號)
一、「靖國神社當面の諸問題」(東京教育懇話會「第二六四囘例會報告」昭和六十一年二月十七日、『東京教育懇話會志・續輯』所收)
一、「感懷『有難う』と言ふこと」(『日本』昭和六十一年五月號)
一、「我が家の生涯教育」(『日本』昭和六十二年七月號)
一、「靖國神社」(新人物往來社『別册歴史研究・神社シリーズ・靖國神社』平成元年■月刊)
http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html
一、「謹愼謙虚」(『靖國』平成四年二月一日號)
一、「誰が御靈を汚したのか――靖國奉仕十四年の無念」(文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html
一、「讓ることのできない傳統の一脈――祖父春嶽の精神を受け繼ぐ者として」(日本青年協議會『祖國と青年』平成五年一月號/『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』同十五年三月・日本青年協議會刊に所收)
一、「家庭教育(精神・しつけ教育)について」(『日本』平成十八年一月號・三月號)

【參考】
一、『靖國神社百年史』全四卷(資料篇上中下・事歴年表、昭和五十八年六月~六十二年六月・靖國神社・原書房刊)を出版す。
一、靖國神社・やすくにの祈り編集委員會編著『御創立百三十年記念――やすくにの祈り――目で見る明治・大正・昭和・平成』(平成十一年七月・産經新聞ニユースサービス刊)
一、棚橋信之氏「正論編集部あて意見具申」(平成十七年七月二十日附)
http://www.geocities.jp/gutokujp/shokan.html
一、棚橋信之氏「大山晉吾靖國神社廣報課長宛・質問状」(平成十七年八月二十一日附)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/questions.pdf
一、伴五十嗣郎翁「靈魂不滅――松平永芳樣を偲ぶ」(『日本』平成十七年九月號)
一、永江太郎翁「今は亡き松平永芳樣の追憶」(『日本』平成十七年九月號)
一、渡辺一雄氏「元靖國神社宮司・松平永芳氏――怒りの遺言『最後にこれだけはいつておきたい』病床で語られたお言葉を、今、全公開する」(『諸君』平成十七年十月號)

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

  • [5]
  • ■■■靖國神社第六代宮司・春嶽松平慶永公の令孫・松平永芳大人■■■

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)22時57分49秒
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 松平永芳大人は、越前國の別格官幣社福井神社祭神・從一位勳一等・春嶽松平慶永公の長男で、宮内大臣(戰後は宮内府長官)を拜命した松平慶民子爵を父として、大正四年三月二十一日、東京に生る。尾張の徳川家を繼いだ徳川義親侯爵(「靖國會」初代會長)は、叔父に當たる。母堂・幸子刀自は、新田家直系の新田忠純男爵の四女。令室は侍從武官・醍醐忠重侯爵(海軍中將、ボルネオ島バリツクパパンに於て法務死)の二女・充子刀自。一男二女を擧ぐ。

 昭和十九年十月、海軍少佐・正五位に至る。西貢(サイゴン)海軍部部長として終戰處理を濟ませ、同二十一年七月、部員四十七名を率ゐて、最後の復員船朝嵐丸で歸國。戰後は陸上自衞隊に轉ずるも、大病に罹り、再起後は防衞研修所戰史室勤務を經て、同四十三年、一等陸佐で定年退官し、福井市立郷土歴史博物館館長に就任。同五十三年七月一日、靖國神社第六代宮司を拜命し、靖國神社の復古歸正に盡瘁せり。正に靖國神社中興の祖と謂ふべきならむ。平成四年三月三十一日、宮司職を退いた後は、再び同館長に復歸。同十七年七月十日歸幽。享年九十一。

 平泉澄博士を師と仰ぎ、盡忠憂國、志操あまりに純粹一途、己の名利を追求することなく、日常の一擧一動に至るまで、全ての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置けり。或は曰く、靖國神社のあるべき姿は、松平宮司の精神に歸るか否かに在りと謂ふも、決して過言に非ざるなり、と。

 遺漏を拾へば(詳細は、永江太郎翁『今は亡き松平永芳樣の追憶』參看)、
昭和 七年、曉星中學校を卒業。
同 十二年 三月、海軍機關學校(第四十五期)卒業。戰艦陸奧に乘組む。
同 十三年 三月、海軍機關少尉に任官。
同 十四年 六月、中尉に昇進。
同 十五年十 月、支那方面艦隊の旗艦出雲に乘組み、支那事變に參戰。
同 十六年 五月、大尉に昇進。
同 十六年、大東亞戰爭では、第一水雷戰隊隷下の驅逐艦電の機關長として、南方作戰に從軍。
同 十七年 二月、海軍機關學校教官。
同 十九年十 月、少佐に昇進。

  • [4]
  • 賀茂百樹大人、續

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)18時57分17秒
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【拾遺】

●大和國・等彌神社の碑(昭和十年頃獻詠・『櫻井町史』)
こゝをしも 鳥見のゆ庭と きくからに 伏しこそをがめ 天津大神  百樹

●武藏國・隅田稻荷神社の神號額・昭和十年九月揮毫

●『中今亭雜歌』より、哥一首(蓮田善明陸軍中尉「興國百首」=『忠誠心とみやび』昭和十九年六月・日本放送出版協會刊所收を參看)
黒がねは よし碎くとも 日の本の やまとだましひ 碎くべきかは

●『中今亭雜歌』より、哥一首(靖國神社・遊就館の入口展示)
いくさ人 さゝぐる劍の 光より ひかりこそいづれ 國の光は

●『略歴』に曰く、「

 明治天皇・大正天皇・皇太后陛下に拜謁し、又は賜餐を賜はりしこと數囘あり。就中、最も恐懼感激にたへざるは、明治四十二年、大正天皇の未だ東宮にましゝ時のことなるが、拜謁を賜ひて、己が姓を賀茂と稱することについて、委しき御下問ありしことなり。數ならぬ微賤のものゝ姓名をさへ御記憶あらせ給ひぬることよと思ひ奉れば、忝さに今も涙こぼるゝなり。其の後數度、社務所に台臨あらせ給ひて、午餐召さるゝ時などに、玉の御詞を賜ひしことあり。こゝに記し奉るは、ゆゝしく、畏き極みなれども、大正十五年十二月末より昭和二年一月にかけて、殯宮に大座ましゝ時、喪に服せざる神職は、殯宮に參拜することは御遠慮申すべきなりとて、わがどちには御通夜仕へ奉るものなかりしが、己は若し然らんには、わが職とり給ひね、とり給ひても悔なし、祭祀の爲には喪に服せざる職なれども、更に祭祀の怠りとならざる時間において吊拜する、何の妨げかあらん、臣下の分としても情としても、道徳の本たる祭祀の職にあるものゝ、躊躇すべきにあらざるなりとて參内して、海嶽の鴻恩を追念し拜謝し奉りたりき。あな畏こ、あなゆゝし、おのが略傳の中に、かゝることを書付けたる、見ん人、ゆるし給ひねかし。

 又こゝに一言、書きそへたきことあり。おのれ伊勢に學びぬる頃より、科學の進歩いち著くなるまゝに、古典に不安の念を生ずるに至らしめたり。今より見れば何としもなけれど、當時、祭天古俗説にさへ打驚きて騒ぎし時のことなれば、今人の想像も及ばざる憂慮を以てせしなり。考古學者の掘出づる石器時代の遺品は、日本島國の新しき證となり、人類學者の拾ひ集むる骨片は、日本島民の漂流者の集合團體なるを徴して憚らざる有状なれば、若き己らの頭腦を刺激し動搖を起さしめしも當然なり。此の時、己れ思へらく、何を以てか、伊弉諾命の、原人時代の人にまして神なることを證明せんか、何を以て、爾來、皇室の連續して尊嚴を維持し給ふことを擁護し奉らんか、これ、吾人が祖先の貴重なる第一遺物たる言語を以て證明する外なかるべし、若し之を研究して目的に違はゞ、吾が學、廢せんのみと、日夜研鎖講究して、明治三十三年二月二十七日に至りて書終りしは、『日本語源』十卷なり。當時、言語學は、未だ幼稚の時代なり。今日より之を見れば、此の書の如き、或は反古同樣なるべし。然れどもおのれは、この研究によりて、古典にも國體にも安心して、金剛信者たるに至りしなり。この外、二三の書けるもの無きにしもあらざれども、此の著述の如き、われにとりて最も大切なるものなれば、茲に特記するなり」と。

●朝鮮神宮祭神論爭
 朝鮮神宮には、天照大神と明治天皇を奉齋す。大正十四年十月竣成の半年前頃から、俄かに祭神に就いての論爭が湧き上がる。此の兩柱に加へ、「韓國歴代の建邦の神」を祭神にしない事は、「人倫の常道を無視せる不道徳」、即ち朝鮮の始祖・國魂神たる檀君も、宜しく併せて祀るべしてふ聲を擧げしは、朝鮮神宮初代宮司・高松四郎翁はじめ、今泉定助・葦津耕次郎・賀茂百樹・肥田景之等の神道人、是なり。斯くの如く神道人と政府關係者とは鋭く對立する事ありしが、結局、朝鮮總督府は、「檀君の事績を調査させるも、實在の神か否か明かならず、若し實在の神なら、時機を見て祀らむ」。「鮮人に、神及び神社の觀念を認め得ず。徐々に神祇の道を教へることが先なり」と云ふ理由から、檀君奉齋反對の決定を下せりと云ふ。

  • [3]
  • ■■■靖國神社第三代宮司・賀茂眞淵大人七世孫・賀茂百樹大人■■■

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)18時53分42秒
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 賀茂百樹大人は、山口縣周防國熊毛郡上關村の人。慶應三年十月十三日、白井田八幡宮祠職・藤井厚鞆翁(神主として十代、三百年間の社家・平姓・士族。母堂は貴曾子刀自)の三男として生る。令兄の神宮教大教正・藤井稜威翁(神宮宮掌・權中講義。神宮第十五教區本部長。廣島國學院・國風新聞社の設立者。國務大臣・賀屋興宣氏の嚴父)の命に因り、明治二十七年七月二日、贈從三位・美豆穗足大縣居靈神・縣居岡部衞士賀茂縣主眞淵大人の家名を嗣ぎ、其の祭祀後繼者となれり(縣居大人七世孫たり。磐之屋丸山作樂翁より、眞定の諱を受く)。中今亭、亦た葵園と號す。

 學を伊勢の外宮禰宜・棒園御巫清直翁に承け、又た帝都の神習舍井上頼圀翁・栗里栗田寛翁について研學す。國典に精しく、亦た和歌に長ず。同四十二年三月二十九日、別格官幣社靖國神社第三代宮司を拜命し、昭和十三年四月二十一日、病を以て職を辭す。同三年五月十六日、勅任官を以て待遇せらる。同十年十二月十三日、勳四等に敍せられ瑞寶章を賜る。同十六年五月四日歸幽、享年七十五。

 大人は、靖國神社に三十年の久しきに渉りて奉仕し、神徳の宣揚に、社頭の整頓に、いと能く勤しみ勵みて、眞に一日の如くのみならず、其の若かりし時より、神宮教院、後の神宮奉贊會、さては皇典講究所・全國神職會等の事に勞づき、夜晝知らに、心を碎き思ひを焦がして、皇室國家の御事は申さんも更なり、其の根本要義たる神祇道の興隆を以て、己が任務とし、老の至れるをも知らざるが如し。人と爲り、恬澹修飾なく、善く飲み善く談じ、其の人物と學力は、當時の全國宮司中、稀に見る所たり(吉村清享翁編『春祝――賀茂百樹大人還暦祝詞集』・樟堂吉田祥朔翁『増補近世防長人名辭典』等)。


●著述論文
一、『明治四十一年十月十三日・詔書大意』明治四十二年一月・増田兄弟活版所刊
→國立國會圖書館・近代デシタルライブラリーに在り、「賀茂百樹」にて檢索を乞ふ。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
一、『日本魂の生る樹の談』明治四十三年三月・八洲舍刊
一、『玉鉾百首略解』明治四十四年五月・一致堂書店刊
一、『登極令講義』
所功博士「賀茂百樹講義『登極令大要』の紹介(飜刻・解説)』(平成元年三月『京都産業大學世界問題研究所紀要』卷九所收)
一、『漢文歴代詔勅解』
一、『神職心得』
一、『神祇官は何故に設置せねばならぬか?』(大正三年七月『全國神職會會報』第百八十九號所收)
曰く、神祇特別官衙設置の根本精神は、天皇守護の御爲に、八神殿(神祇官西院→白川伯王家・吉田社→神祇官神殿→宮中神殿に奉祀)を臣民の側から奉齋する事なり、と。
一、『軍人奉仕管理ニ任セラレタル事實』竝『靖國神社祭典齋主ヲ武官ニ勅命アラセラレシ例證』大正七年十月(防衞廳防衞研究所藏『陸軍省大日記類』大日記甲輯・大正八年「神祇ニ關スル特別官衙設置ニ關スル件」添付考證資料)
一、『神祇に關する問答五百題』大正十年・神祇協會廣島支部刊(天覽台覽を賜ふ)
一、『略歴』(吉村清享翁編『春祝・賀茂百樹大人還暦祝詞(しゆくじ)集』昭和四年一月・愛知縣海部郡津島刊に所收、卷頭に高山昇翁「はし書きとしての御禮と御詫言」あり)
一、『所謂神社問題の三問題』(昭和五年『神社に就て諸氏の意見』皇典講究所刊、竝『國學院雜誌』第三十六卷第六號所收)
一、『滿鮮紀行』(初出『皇國時報』)昭和六年刊
一、『かむながらの道』昭和九年刊
一、『明治神宮と靖國神社との御關係』昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm
一、ラヂオ講演録『國家の生命と靖國神社祭神』昭和七年四月
「靖國神社の武勳神社に對し、文勳神社を興こして、不公平なからしむと云ふ聲あり、將に署名運動が起きむとせる時、賀茂宮司は、軍人であらうとも、靖國神社には、平時の殉職者は祀られてゐない。八甲田の雪中行軍を始め、おびたゞしい數の殉職者がゐるが、一切、祀られてはゐない。日本國民にして國難に殉じたるもの、國家危急のときに、自分の命を國家の命に繼ぎ足したものが祀られる。戰時の戰死も平時の殉職も、同じ死に變りは無いものゝ、戰時の戰死や負傷は、不意の怪我に非ず。覺悟の上の結果であり、その覺悟と結果が、合祀の資格となる」と(齋藤吉久氏ブログ)。
一、『勤王事蹟・別格官幣社精史』昭和十年刊
一、『中今亭雜歌』昭和十四年刊
一、『日本語源』全二卷・昭和十四年・十五年・翁記念刊行會刊/十八年二月・興風館刊/五十七年・名著普及會合册復刻(最も努力を拂ひ、本邦從來の語源中の名著たり)
http://uwazura.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_89b8.html
一、『神祇解答寶典』昭和十七年・肇國神祇聯盟・祝詞研究所刊

●編輯校訂
一、『増訂・賀茂眞淵全集』明治三十六年~・國學院編輯部・吉川弘文館刊
一、『靖國神社事歴大要』明治四十四年二月・國晃館刊
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40043615&VOL_NUM=00000&KOMA=58&ITYPE=0
一、『靖國神社誌』明治四十四年十二月・四十五年六月改訂・靖國神社刊/「近代神社行政史研究叢書Ⅳ」として平成十四年八月・神社本廳教學研究所復刻(天覽台覽を賜ふ)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40043613&VOL_NUM=00000&KOMA=207&ITYPE=0
一、『靖國神社祭神祭日暦略』昭和七年■月・靖國神社刊
一、『靖國神社御祭神遺族の栞』昭和十年四月・靖國神社社務所刊
一、『靖國神社忠魂史』全五卷・陸海軍大臣官房監修・昭和八年~十年九月刊/平成十八年十一月・ゆまに書房復刊

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kamo_career.htm

  • [2]
  • ■■■靖國神社第二代宮司・賀茂水穗翁■■■

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)18時49分44秒
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 遠江國濱名郡の人。天保十一年五月十二日生る。賀茂備後直章と稱し、炳音と號す。長兄は、引佐郡伊井谷八幡神社神主の山本大隈金木(後に伊井谷宮權宮司)なり。遠州報國隊に參加。明治元年十二月十七日、宮田重男(東京招魂社社司)と共に上京。後ち東京招魂社社司、海軍省へ出仕。海軍大祕書。後備海軍大主計(正七位勳六等)。明治二十四年二月十七日、靖國神社第二代宮司に補せらる。神社誌編纂を繼承し、主典・井上頼教に之を命ずるも、將に其の緒に就かんとして、明治四十二年三月一日、從五位に敍せられ、同日、宮司在職中に歸幽、享年七十。

●「加茂(愚案、賀茂なるべし)百樹大人履歴の概要」(吉村清享氏編『春祝――賀茂百樹大人還暦祝詞集』昭和四年一月・愛知縣海部郡津島刊に所收)に、歌一首(縣居大人墓前繼嗣報告祭の直會席に於て・明治二十九年五月九日)を引く。曰く、「
眞木柱 動かぬ心 押立て 家のまなびを 引おこせ君」と。
 愚案、こゝの「君」とは、縣居大人七世孫・中今亭葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定大人のことなり。


【參考文獻】
一、『靖國神社誌』
一、村田峰次郎翁『大村益次郎先生事蹟』(大正八年十一月・同書刊行會刊。平成十三年十一月・マツノ書店復刻)
一、沢田正敏氏『招魂社社司・宮田重男』(日本學協會『日本』昭和五十九年十月號)

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yskn_2.htm

  • [1]
  • ■■■靖國神社初代宮司・青山清翁■■■

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月13日(土)18時47分44秒
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 青山清翁は、長門國萩の人。文化十二年生る。諱は長清。上總介と稱す。其の家代々、萩城下の總鎭守椿八幡宮の宮司たり。上總、夙に國學を修め、近藤芳樹等と交はる。慶應元年八月六日、下關の櫻山招魂場(文久四年二月三日、長門國招魂社創建)にて、奇兵隊士を祭る(招魂大祭)。伊藤博文主の依頼あつて、明治四年、上京し、同八月、兵部省十一等出仕・東京招魂社祭事掛に補せらる。同十年一月、招魂社雇ひ申付けらる。同十二年六月十六日、別格官幣社靖國神社初代宮司に任ぜらる。同二十年三月三十日、職制改正に依り、更めて宮司に補せらる。神社誌編纂を企て、禰宜・黒神直臣をして之に當らしめしが、幾許も無く黒神氏の不幸に接して已む。從七位に至る。同二十四年二月六日(或は四日)、宮司在職中に歸幽。享年七十七。

●乃木神社社務所『乃木希典全集』上卷(平成六年六月・國書刊行會刊)「日記・明治十一年」に曰く、「
十月第廿一日條、午後、青山清を訪ぬ。不在。‥‥
十月第廿二日條、午後、乘車。青山を訪ぬ。又た不在。‥‥
十月第廿三日條、午後、青山に、招魂社に逢ひ、祭事を托す。歸る」と。

●樟堂吉田祥朔翁『増補・近世防長人名辭典』(昭和五十一年六月増補版・マツノ書店刊)の「青山上總」に、歌一首「暮秋」を引く。曰く、「
古さとの 垣根の小萩 かれしより もとあらはにも くるる秋かな 長清」と。


【參考文獻】
一、靖國神社發行兼編輯(代表・賀茂百樹)『靖國神社誌』(明治四十四年十二月二十六日發行・四十五年六月五日改訂再版。平成十四年八月、神社本廳教學研究所より「近代神社行政史研究叢書Ⅳ」として復刻影印)
一、森谷秀亮博士『靖國神社略年表』(昭和四十八年七月・靖國神社社務所刊)
一、靖國神社・やすくにの祈り編集委員會編著『御創立百三十年記念――やすくにの祈り――目で見る明治・大正・昭和・平成』(平成十一年七月・産經新聞ニユースサービス刊)
一、堀雅昭氏『讀者招待席・我が先祖を語る・クリスチヤンになつた靖國神社初代宮司の孫娘』(新人物往來社『歴史讀本』平成二十年八月號)

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yskn_1.htm


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