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  • 肥後勤王黨・敬神黨の精神を恢弘せむ

  • 投稿者:備中處士
 
 小生の立志まもなき頃であつたらうか、本屋で熊本敬神黨の一派、所謂る神風連の本を購入、沈讀感激し、「神風連蹶起百年記念」として、生れて初めて自らの意志を以て、小遣ひの中から寄付した覺えがある。暫くして到來した『寄付芳名帖』の中に、「平泉澄」博士の尊名を發見し、小生の名が、彼の『少年日本史』を書かれた平泉先生と共に在ると、幼童のやうに小躍りした記憶が鮮明に存する。故に勤王黨・敬神黨(神風連)については、思ひ入れが深く、殊に河上彦齋翁の歌が好きであつた。先日、懐かしきレコードが出て來たので、こゝに舊稿を取出し、些か増補を試みたい。



●『神風連悲歌――悲壯感を以て朗々と』(企劃制作・荒木精之翁、作詞・島田磐也、作曲・岩代浩一、歌・濱畑賢吉、演奏・東芝レコーデイングオーケストラ)

一、
風□[艸+肅]々と、肌を裂く、
壯士の情を、誰か識る。
義軍の旗旌(はた)を飜へす、
明治九年の秋半(なか)ば。
あゝ、花あり、肥後の神風連。

よは寒くなりまさるなり唐衣(からごろも)
うつに心のいそがるゝかな(太田黒伴雄)

二、
熊本城の、秋の月、
唐紅の、蔦かづら。
悲歌なほ咽(むせ)ぶ河波に、
偲ぶ烈士の、夢いづこ。
あゝ、花あり、肥後の神風連。

三、
星斗はめぐる、百年の、
秋玲瓏の、櫻山。
國士のみ魂、なほ生きて、
わが日の本を護るかな。
あゝ、花あり、肥後の神風連。

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  • 林櫻園大人遺文。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 9月11日(土)22時33分38秒
  • 編集済
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●林櫻園大人『昇天祕説』(『櫻園先生遺稿』に所收)に曰く、「

 道を修むるに、昇天を貴ぶとは、何ぞや也。此れ冉尊の縊殺を遁れ、身を隠すを得るが故ゑ也。‥‥

 夫れ生死の二者は、諾冉二尊に始まる。‥‥死は、神明の深く忌む所なり。‥‥齋言に、死を謂ひて、「なほる」と稱す。‥‥

 諸の穢れは、死をもつて最も重しと爲す。本より死無し。故れ顯國に居れば、必ず死す。高天原には、死無し。天神、今に至るまで在します。然りと雖も世人、神道を知らずして、遂に死す。是れ伊弉冉尊に從ひ、黄泉の死地に入る。‥‥伊弉諾尊に跟(つ)きて、日の少宮に留宅まりますを知らず。‥‥

 伊弉冉尊、縊殺の誓ひ有りし後、定數なる者の有るが若きに似たり。世人、謬りて謂へらく、「生有れば、必ず死有り」と。遂に汚穢に陷り、死を以て定理と爲す。悲しいかな乎。死、豈に善ならんや。昔、伊弉冉尊の化去(かんさ)りまし、伊弉諾尊、匍匐流涕したまふ。死、豈に善ならんや。‥‥

 今や也、天に昇ること、頗る難し。其の故は世既に降りて、神靈を失ふ。禍津神の禍に遇ひ、‥‥磐長姫の詛ひに由りて、短折(いのちみぢか)き也。‥‥深く黄泉に觸る。‥‥

 濁穢は、早く祓ひ除きて、五柱の天神を修む可し。‥‥伊弉諾尊・大日□[靈の上+女]尊の道は、高天原に至る。高天原は、上天にして、天神の在します所の‥‥國土也矣。山川草木有ること、此の土の如し。只だ靈奇清々、測り難きのみ耳。‥‥

 天に昇る道は、古に復る能はざれば、神人と爲らず。神人と爲らば、天神・大日□[靈の上+女]尊の道を得。‥‥天神・大日□[靈の上+女]尊の道を得れば、上、天の浮橋・天の柱に昇ることを得。‥‥凡そ天に登るに、當に必ず天の柱・天の浮橋よりすべし。天の柱・天の浮橋、其の道は異なること無し。上古より今に至るまで存す。然りと雖も天下の蒼生、蠢然として此の道を知らずして、死地に陷る。是れ凡愚、體を穢すが故なり。之を知り之を見ること能はず、況んや上擧るに於てをや乎。吾が身の汚穢を祓ひ除き、清々しき心を以て古へに復り、上古の神人と爲り、天神・伊弉諾尊・大日□[靈の上+女]尊の道を得れば、天の柱・天の浮橋は、自ら目前に在り。天の浮橋・天の柱を得れば、自ら高天原に至るを得。是れ神道にして、天地の祕なり矣。

 文化(十二年)乙亥季夏八月」と。



●林櫻園大人『櫻園答書藁』(『櫻園先生遺稿』に所收)に曰く、「

 僕は淺學陋識にして、何ひとつ辨明申し候ふことなく、天地間の一蠹物なるに、曾祖父竝びに父祖の有識の學を傳へ候ふによりて、僅かに國史・令・律・式の片端を窺ひ申し候へ共、素より才拙く質愚にして、是れ亦た藩籬にも至り得ず。況んや堂奧をや。然るに家學の義、貴問を承け、慙愧の至りに候へ共、管見の次第を呈し候ふ。御一覽の後、丙丁にも御與へ候うて、短を護り下され候はゞ、僕が大幸と存じ申し候ふ。

 皇國の古へは、異邦の法教なく、神道にて、天下を治め賜ふなり。其の證は、『古事記』・『書紀』に詳かに見え候ふ。(神道とは、)乃ち天地の神の命に從ひて、國を治め事を始め、何事も神の御心を問ひ奉りて受け行ふ道を云ふ。

 上古二柱の神、これを始め玉ひ、神武帝より下、世々の天皇、此の道を崇び從ひ賜ひし故に、天下平か、人民榮え、四時序を失はず、風水の災・兵革の害なかりしなり。

 後世に及びて、斯道凌夷致し、不測の御徳義を失ひ坐しゝより、遂に北條・足利の如き、横さまなる者、世に出でて、天下の柄をとり、逆意を振ひ、皇威をなみし申し候ふこと、偏へに神道の衰へによることなり。箇樣の義、迂遠のことの樣にて、誰もうけぬ事なれども、細かに考へ候へば知れ申し候ふ。今とても、神道興起し玉はゞ、世の治らむ事は、掌を指す如く候ふべし。

 さて上代には、其の世の天皇を神と申し候ふ。出雲國造の『神賀詞』に、「明御神」と申せり。やがて其の世の天皇は神に坐す故、靈異の徳・神妙の道まします。故に『孝徳(天皇)紀』の註に、「惟神とは、神道に隨ふを謂ふ。亦た自ら神道有り也」とあり。惟神は、カムナガラと訓む。『萬葉』に、「葦原水穗國は、神在隨(かむなが)ら事擧げ爲ぬ國」。『孝徳(天皇)紀』に、「今は、隨在天神、治平まる可きの運に屬す」と見えたり。惟神・隨在と書けるが如く、カミナルマヽと申す義なり。‥‥

 神道は、上古の皇神の道にて、かの二柱の神、天神の命に從ひ玉ひ、‥‥又た「天神の命を以て、布斗麻爾卜相」とある類ひ、すべて神の命に隨ひて、ソノマヽに受け行ふ道なり。‥‥

 上古の天皇は、皆な是の道に從ひ玉ふ。神武帝の天下を定め玉ひ、崇神天皇の世を知食し、神功皇后の三韓を征伐し玉ふも、皆この道の威徳を以て、世を治め、敵をほろぼし、外夷を服し玉ふ。是の不測靈異の御事業坐すは、上古の神のマヽに坐して、かの皇神の道に從ひ玉ふ[神の御心に從ひ、神の命を請ひ奉り玉ふを云ふ]による。此を「亦た自ら神道有り也」と申し候ふ。‥‥

 さて神の命を請ひ奉るに、三つのしわざあり。一つには、審神者(さには)を以て命を請ふなり。‥‥二つには、卜事を以て神の心を問ひ奉るなり。‥‥三つには、宇氣比て、夢訓を請ふなり。‥‥是の三つの事を以て、神の心を求め、神の命を請うて受け行ひ玉ふ故、國治まり民豐かなり。

 凡て天地の神は、八百萬神にて、高皇産靈の、天地を鎔造し玉ひ、伊弉那岐・伊弉那美大神、日月・國土・山海・水火・風雷・草木を生成し玉ふは申し奉るに及ばず、大國主・少名彦神の、濟民神事を主り給ひ、直毘神は、禍事を直すことを主り玉ふ。又た五穀を主る神あり、風を掌る神あり、水を主る神あり、天地萬物、それゞゝに神在して掌り玉ふ故に、各々其の神を禮崇し候うて、神の命によりて事を爲し行ひ候ふ時は、歳災作らず、四時度に順ひ、甘水、苗稼を潤し、風雨時に隨ひ、五穀滋登、疫病永く息み、兵革の患ひ無く、海外の國歸化して、民榮えて、天下平かなり。

 昔、崇神天皇の、大物主神を祭り玉ひ、‥‥天下を治め給へるを見る可し。天下を草創し、敵國を服し、外夷を從へ候ふも、斯道の威徳に候ふ。神武帝の、長髓彦を征し玉ひ、中州を定め玉ひ、‥‥遂に天下平定し、萬代不易の基を始め玉ふ。又た神功皇后は、三韓を從へ賜ふ。‥‥凡て『日本紀』・『古事記』に、所見はこれに止まらず、一々徴證とするに及ばず。本書に付いて考ふ可し。□□も、斯道に由りて、刄に血ぬらず勝を得玉へり。殊に皇后の御事蹟、外邦までも傳へ承り、鬼道を行ひ玉ふとさへ申し候ふなり。其の靈異の樣、思ふ可し。

 か樣に申し候へば、一向に人事を廢して用ひぬことの樣に、思ひあやまる者も有るべけれども、左に非ず。神武帝の東征には、諸兄及び御子孫等と圖り玉ひ、女軍・男軍を以て虜を平げ、密策を用ひて、諷歌倒語して、妖氣を掃ひ玉ふ。崇神天皇は、四道將軍を置き、初め男の弓端の調・女の手末の調を貢がしめたまひ、又た農事をすゝめて、依網池・反折池等を作らしめ、また成務帝は、國郡に長を立て、縣邑に首を置きたまふ類、人事を專らとしたまふなり。されども神道により、神事を用ひざる時は、神隨なる奇しく靈なる道なし。此れ自ら上古と後世との差別に候ふ。

 或は疑ふ、「上件の事は、皆な天皇の御事業にて、凡庸の事に非ず」と。僕、答へ候ふは、げにさることなり。然れども下凡といへども、斯道を崇ひて、靈異の跡あり。猪麻呂の、天地の神祇并びに海神を祈り、鰐魚を殺し、女子の爲めにあだを報じ候ふこと、『出雲風土記』に見えたり。「天神千五百萬・地神千五百萬、并びに當國に靜ります三百九十九社、及び海若等、大神の和魂は、皆な靜まりて、荒魂は、皆な悉く猪麻呂の乞ふ所に依り玉へ」と、祈り申せし樣は、かの『神功皇后の御卷』の、「和魂は、王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は、先鋒として師船を導かむ」と、神教覺したまひ、「荒魂を□[木+爲。おきを]ぎて、軍の先鋒と爲し、和魂を請(ね)ぎて、王船の鎭と爲す」とあると似たることにて、古傳の實を知るの一端に候ふ。其の外、徴證を引き申し候ふは、枚擧に勝へむや。神祇を敬禮致し、神道を奉じ候ふは、必ずしも天子のみに限らぬ事、思ふべし。

 神の命を請ひ奉り候ふことは、上件の三事にて、今に及びては、委しく知るべからず。神道の缺典、これに過ぎず、長大息の至りに候ふ。然れどもいさゝか僕が考へあり。他日を俟ちて、貴覽に入る可く候ふ。上の條々、極めて僻案に候へども、貴問に付き、已むことを得ず、書付け御目にかけ申し候ふ。固く他見禁じ候ふ。

 『櫻園答書藁』畢ぬ。

 問者、嘗て客有り、余に問うて曰く、「鄙人面墻、國史令律式を閲すと雖も、性質昏愚、才識淺短、其の一端を辨ずる能はず。吾子、既に古典を窮觀し、奧□[耳+少]を洞識せり。願はくば道の原・學の要を示したまへ」と。余、固く辭す。請うて已まず。是に於て書牘に擬し、以て之に與ふ。顧みるに文辭拙俗、識見淺薄、豈に敢て大方の前に述べむや乎。聊か同志に貽り與へむのみ而已。然れども余、數年、精思苦心、古の道に於て、未だ必ずしも小補無くんばあらずと云ふ。

 天保二年辛卯孟夏廿一日  越智通天(櫻園大人の別號)、識す」と。



●林櫻園大人『櫻園答書藁附録』(『櫻園先生遺稿』に所收)に曰く、「

 祭祀・祈祷・祓除、皆な神の始め玉へば、皆な神の道なり。殊には祓除などは、神道の重んずる處にて、穢れを清め清淨ならしむるしわざなり。すべて事を離れて理のみ言ふは、却つて理を知ること能はず。‥‥

 見る可き道は、儒にとゞまらざるを、後世に及んで、神道者と言ふ者ありて、神道と云ふ事を世に唱ふ。其の説、古へに徴なく妄誕なる事なれば、儒者、是を非斥して、「皇國に道なし」と云ふ。儒者は何事も西土をのみ尊ぶ故、曾て皇國の古へを知らぬ也。近時に及んで、道は、もと道なき國にて唱ふる事也。皇國、道なきは、却つて彼に勝れり。譬へば「病あれば藥を用ふれども、病なければ用なきが如し」と云ふ。此れは卓見也。然れども委しからず。漢籍に、「道は人の履む所」とありて、人のついて行くところを云ふ也。天にかけては天道、地にかけては地道、人にかけては人道、夷狄にかけては夷狄の道と云ふ。『説卦傳』に、「天の道を立つ、陰陽云々」とあり。又た「直情徑行は、夷狄の道」ともあり。「父の道を改むること無し」とありて、道は何れも汎く通ずる言なれば、彼にかりて此に用ふる時は、二柱の大神より始まりて、世々の天皇行ひましゝ道を道とせんに、何事あらむや。しかし此の説は、教の事を云ふと見えて、なにくれと名を設けて人を導くことは、上世にはなし。されば上の説は、『萬葉』に、「葦原水穗國は、神隨ら事擧げ爲ぬ國」とあるを以て云ふならむ。然れども其の言擧げせぬが、やがて葦原水穗國の道なり。思ふ可し。

 余は、儒を惡む者にあらず、儒を奉ずる者也。極めて宇宙間、種々の道ありて、獨り儒にかぎらぬ事を云ふ故は、世の人の、儒の教をのみ道として、皇國の道を知る事能はぬ故なり。さて唐土の聖王は、堯舜を以て第一とす。堯の「人を知る」、舜の「民を安んず」ること、中々凡慮の及ぶ所にあらざる事、『尚書』を見て知る可し。然れども是は現事にして、神事に非ず。神事は本なり、現事は末也。此の境を知る者に非ざれば、神道を語るに足らず。‥‥

 『神祇令』・『延喜式』等に、祭祀の事、載せられたり。是には上世の遺法あり。國史によりて、古意を考へ、令式儀式について、其の法式を考へなば、天神地祇を敬祭するの道、大略は考へ得らるべし」と。



●林櫻園大人『宇氣比考』(『櫻園先生遺稿』に所收)に曰く、「

 宇氣比は、神道の最も奇靈なる神事にして、其の始まりは、掛けまくも可畏き、天照大御神・須佐之男命の、高天原にして、宇氣比たまひしにより起りて、顯國に傳はれり。‥‥

 神の御心を知りて、敵を服へ、世の疫病を除き、刄に血ぬらずして天下を平げ玉へるは、いとも貴き神事なることは、論に及ばず。かゝればこの宇氣比こそ、神の御世より傳はれる神事の中にて、いともゝゝゝ尊くかしこき神の道なれ。抑々皇御國は、言靈の佐け幸ふ國にして、言擧げするときは、天地の神のうべなひ玉ひて助けますによりて、其の思ふ事をよくなすなり。‥‥さて古典に見えたる、祷(ねぎ)・咒(かじり)・詛(とこひ)・祝(ほさぎ)など種々あるも、この宇氣比とおなじく、言靈の佐け幸ふ道なりけり。かゝれどもこの宇氣比は、最も勝れたる神の道なり。その言靈といふ故は、言擧げすれば、即て天地の神、あひうづなひたまひ助け幸ひたまふ、くしびなる言葉の妙なる用(わざ)あればなり。‥‥

 かく千歳あまり絶えすたれたるを、いともゝゝゝ降りぬる今の世にして、なしがたきことと、人、皆の思はんことは、誠にさることなれども、天地の極りなきより見れば、千年・五百年はわづかなること、いにしへにかへさんことも、さまでかたきことかは。されば古への神の習ひを效ひなば、などかなし得ざらん。今ま此の神事を得んとおもはゞ、可畏こけれども、古への御所爲にならふべし。今ま法式(かた)とすべきは、神武天皇と景行天皇の御宇氣比ぞ、よろしかるべき。‥‥

 今ま此の宇氣比をなさんには、先づ天地の神を敬祭りて、さて宇氣比をなすべし。‥‥此の神事をうまく窺ひ知りて、よくなし得なば、天下の事に於て、なすべからざる事なし。まことに尊しとも、たふとしとも、あやに奇靈なる神道なりけり。

 吾が宇氣比の道を語るをきゝて、ある人、とひけらく、「唐國の堯舜の道などは、近く己を修めて、人を治むる道にして、さるあやしき事は、ひとつもいふことをきかず。身を修め家を齊へ國を治め、天の下をまつりごつを專ら説けり。これぞ、たゞしき道なるべき。神の道は、そこの言の如くならば、人の事には遠く、かくれたるを索め怪を行ふ道を謂ふべし。いかに」。

 己れ答へけらく、後の世の凡人の心を以て見るときは、さる疑ひあること、うべなり。今ま此に大海原に漂ひ溺るゝ人有らんに、舟楫もなくして、徒らに往きて救ふ者は、溺るゝ人を助けえずして、助ける人も、ともに溺れぬべし。さるを大なる船を數多連ねて、それにとり乘りて行きて助けなば、救ふ人もおぼるゝ者も、ともに恙なくして、溺るゝ者を助けること、いとたやすかるべし。よくゝゝおもひたまへ。治める人も凡人、治めらるゝ人も凡人なり。たとひ治める人、才と徳とすこしく勝る所ありといへども、共に凡人なり。凡人の凡人を治めんとするは、浮寶なくして、溺るゝ人を大海原に助くる類に非ずや。吾が皇神の道は、しからず。己に奇なる靈き徳ありて、人を助け世をまつりごつが故に、刄に血ぬらずして敵を服へ、坐らにして天の下を治つべし。是れ浮寶に乘りて、水に溺るゝ人を助くるが如し。

 近きよの事を以てたとへば、豐臣の大臣の、三韓を征ちたまへるは、猛き將・強き兵を十萬となくつかはして、七年の久しきを經ても、其の績ならざりき。神功皇后の、新羅を平げたまへるは、幾月を累ねずして、國のこきしを始め、諸人も押しなべてまつろひ奉れるを見よ。是れ神の道によると、神の道によらざるとの差別なりかし。

 世の間の理りに、現事と神事と二つ有り。神事は本也。現事は末也。されば世を治め、人を政ごつ者、神事を本とし、現事を末とし、本と末とを一つにして、世を治め人を政ごつときは、天の下は治まるに至らむ(一に「足らず」に作る)。其の本をしらず、其の末をのみ守りて、世を治むる者は、小の功ありと雖も、猶ほ神ながらの道といふべからず。かの堯舜の道は、現事をばかつゝゝ説くといへども、神事あることをしらざれば、かの浮寶なくして、溺れたる人を蒼海原に救はんとする類とやいはん。かゝればかの唐國の儒者の道を以て、正しき貴き天地の神祇の道のくしびなるを疑ふことなかれ。

 嘉永二年十月九日、書き竟ぬ。  越智保定(櫻園大人の舊諱)」と。



 林櫻園大人の傳記・著書類は、荒木精之翁編『巨人・林櫻園』(昭和五十六年三月・林櫻園百十年記念顯彰會刊)が最も詳しい。參看せられたい。



●櫻山同志會幹事長・葉城辻橋大吉翁(神風連の遺孤・父は辻橋見直神主)『林櫻園先生小傳と其遺著』(『巨人・林櫻園』に所收)に曰く、「

一、嘗て家人が、先生(櫻園大人)の爲に反物を買つて來た。先生「此の品は、不吉な汚がある」と返させられた。後で家人が聞き繕ふと、果して其の店は、最近に不幸のあつた店だつた、と。先生は、こんな幽視的な事が度々あつた。不可思議・幻妙、計り知るべからざるものがあつた。

一、先生は、度々夢に神の御告を受けられた事を、一々記して居られる。弘化四年十二月十一日の曉、富士登山を夢み、「富士權現の使女に對して、『皇政復古の成就する事、何れの年ならん』と問ふに、『廿五年を、今より勤めなば得べし』と教ふ」とある。明治維新は、弘化四年より廿年を隔てゝ居る。五年の相違あるも、當らずと雖も遠からずといふべきである。

一、先生は、家に在つても、途中でも、神樣と相語られた樣である。所謂靈界の事は、容易に近代の科學のみで斷ずる事は出來ない。

一、先生は昇天説を述べられたが、或る日、『伊邪那岐神樣の在す所迄は、容易に昇り難い。大國主神樣の、やうゝゝ昇りつき給へる程なれば、大概の事では出來るものでない』といはれた[『訓示録』]」と。



●是山後藤祐太郎翁『林櫻園』(『巨人・林櫻園』に所收)に曰く、「

 櫻園の「學意には、聊かも偏倚がなく」、博大にして、殆んど「禁忌の趣のない」(弘化二年三月「御達の覺」)のは、その學風の特色であり、從つて彼の物を觀じ、物を斷ずるには、何等の繋縛がなく、常に明鏡止水を以て臨んで居る。例へば宮部鼎藏等の門人が盛んに勤王攘夷の説を唱へて、愈々實働に入らんとした時、同じく一人の門下生が、宮部の行動の善惡得失を櫻園に質した時、彼は言下に、『それは善くもあり、惡しくもあらん。得もあり、失もあらん』と答へたと言ひ(問者、頓に其の意を解し、斷然意を決して上國に赴き事に從へり)、又た櫻園が藤崎八幡宮に參拜の序でに、必ず神護寺にも參詣するのを、門人が咎めて、「先生は、我等にあれほど敬神のことを説かれ、日本は神國なりと言はるゝのに、何故に佛に參らるゝや」と問へば、『佛さまも、日本にお出でになれば、日本の佛さまで御座ります』と答へたと言ふ。これは一場の笑話の如く見えるけれど、その間に、櫻園の心の据ゑどころが看取さるゝのである。その教へ方の如きも、一人の門弟には、『和歌は國風と申しますから、日本人としては、歌は稽古せねばなりません』と言ひ、他の門弟には、『和歌などいふやうな、女のするやうなことはせず、男は漢詩を學ばねばなりません』と言ひ、又た或る門弟(游冥轟武兵衞源寛胤翁)には、『古事記などはお讀みになることは要りません』と言ふので、その門弟は、「先生は、他にあれほど古事記・日本書紀は皇國の書であるから、是非讀まなければ、と勸めらるゝ癖に、自分だけには、何故ゑ古事記を讀ませぬのであらう」と、私かに繙いて見て、さて櫻園に對ひ、「先生、古事記は化け物屋敷みたやうなもので御座りますなア」と言つたところ、『それで貴方には、最初から古事記は讀まれないやうにと、申し上げておきました』と言つて、微笑されたといふ。また嘗て或る宮の神主が、マリヤの夢を見て、それを櫻園に告げ、その夢判斷を請ふたところ、櫻園は、『マリヤといふのはキリストの母で、將來日本には、耶蘇教が盛んになるといふ、神さまのお告げで御座ります』と答へたので、「それでは先生、日本の神道は滅びますか」と尋ねると、『決して滅びはいたしません。立派な神官が出れば、神道は盛んになりますが、さうでなければ衰へます』と言つたといふ。これらの談片は、何れも哲人櫻園の面影を、如實に示して居るものである」と。

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  • 肥後敬神黨の道統。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 9月 6日(月)06時52分30秒
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 肥後敬神黨は、「近代」への挑戰なり。皇國に在りて、唯一無二、至純至高の挑戰なりき。此の挑戰は、或は豫言と謂つてもよい。「近代の超克」を果せざる所、即ち其の六十九年後に、未曾有の不祥事を招來せり。而して猶ほ未だ覺醒せられず、此の魔物たる「近代」に屈服追隨して、更に阿諛を加へ、病ひ膏肓に入るに至り、遂に「近代」への疑義すら爲す能はざる爲體、人、衆ければ、天に勝つの情勢、即ち禍津毘の荒び、一向に已まざるの有樣なり。

 かゝる時代に在つて、讀みて飽きぬは、歌人に非ざる「勤皇者」述志の哥なり矣。歌は祈りなり。深く味はひたい。切に味はひて、必ず天、人に勝つの、一日も速かなるを乞ひまつる、天關打開の爲めの祈り、只管らなる熱祷に力を致したい。

 荒木精之翁の哥よめば、肥後敬神黨の道統を、獨り傳へ得て、其の人、翁をまなかひに見ゆるがごとし。此の大東塾の翁は、青々塾の人々と心契あり、殊に感慨しきりなり。歌集を繙くごとに、彌やが上にも悲しく、亦た心あらはるゝこゝちして、彌や益々に清々し。



●荒木精之翁『第一歌集・一日本人』(昭和四十一年一月・日本談義社刊)・『第二歌集・荒ぶる神』(昭和五十二年二月・日本談義社刊)から


○ここにして 鹽もの火もの しばしばも 斷ちていのりし 人こひわたる[新開皇大神宮]

○かぎりなき おほみめぐみに こたふべく 伴雄がつれ いのちはやめつ[陳思]
○たまくしげ ふたつなき身を おほぎみに ささげむねがひ ひそかにはもつ[同上]
○神風連の みちのひとすぢ いまの世に つらぬかむとす あはれみたまへ[同上]

○まがつ日の 荒ぶがもとに おほみよの ゆくへうれひて いませしならむ[宇氣比]
○おほきみの かたへのやから のぞくべく ひたすらにして 兵あげましし[同上]
○火のくにの ますらたけをが 劒ぬき 氣負ひたちしも おほぎみのため[同上]
○みいのちの 果てむいまはも ひむがしに からだむけよと のらししといふ[同上]
○敗れては 賊徒と呼ばれ いかばかり 無念なりけむ そのいづの魂[同上]

○わたつみの 神まもらせと 胸あつく 念じて魚雷 うち放ちけむ[水漬屍]
○かかる死を ひそかにねぎて かねて身に 菊池の神の 護符やつけけむ[同上]
○ちはやぶる 神わざなして 死にしかば 敵さへ仰ぐ わだのたけると[同上]
○おほぎみの みいくさびとの 名をあげて 魂かへります みおやの國に[同上]

○こころいたみ たへねばけふも 墓地に來つ ねがはくばわれを みちびきたまへ[志士の墓]

○おほみうへ おもふこころは 狂夫とも よばるるまでに ふかかりしかも[久留米にて――高山彦九郎先生百五十年祭に列し、心にふるゝものありて三首]
○このきみの まけるこころは 時をへても もえあがりけり ひがしに西に[同上]
○ゆくところ 眠れるものを ゆりおこし ゆりおこしつつ 國をめぐりぬ[同上]

○いへをやかれ ふみやかれても おほぎみの みなやみもへば なんぞこれしき[敵愾]

○みことのり くだるすなはち よものうみの あれしづまりて ゆきにけらずや[八月詠]

○すめらべを なみするもじの おぢもなく 書かれしみれば いきどほろしも[身邊衰唱]

○おほぎみの みたての子らが きほひつつ 手にぎりしめし その太刀あはれ[刀劒供出]
○いにしへゆ さやけく持ちて 來にし太刀 ふたたび執らむ 時ありやなし[同上]

○あはれさは みおやのいのり 知らずして 道たがへゆく ひとを見るとき[憫笑吟]
○あはれさは 内を卑しみ ことごとに 外をたふとみ ひとを見るとき[同上]

○あけぼのと 御題たびけり おほぎみの ねぎますことの なみだぐましも[迎年]

○飛ぶ鳥の 翼しあらば 天翔けり みふねのしりに つきてむわれも[中今――關東大洪水の中を、天皇御親ら出でまして、災民を勵ましたまふ新聞の記事ならびに御寫眞を拜して]

○すずのやの まなびを肥後に つたへしも うしのみちびき ありてぞとおもふ[高本順大人]
○眞幸・櫻園・伴雄と繼げば 淡雪の 融けてきゆべき 道ならなくに[同上]
○泣く子なす したふこころは さきつとし うしのうたいし ひとりたてたり[同上]

○荒御魂 せんすべしらに くるふがに 天かけりますは いめかうつつか[夢現――ある夜、菊池武光公の、天かけります夢、うつつに見て]
○かくばかり みくにの大事 あらずとて 喚びたまふらむか 起てよ起てよと[同上]
○手をとりて おこしたまふに おどろきて みまもればこや 公のかんばせ[同上]

○木偶(でく)となり しばしひそみし ふるさとの 先つ代のひと わがこふらくは[木葉猿――宮部鼎蔵先生]

○禍つ火に 燒けし墓石(みはか)の あなあはれ 手押せばもろく くづれむとする[先人景慕――長瀬眞幸大人は國學者にして、本居學を肥後に傳へし人なり。その奧津城は、もと熊本市山崎町養壽院跡にありしを、こたび區劃整理によりて移葬せらるゝこととなりぬ。しかるに遺族とてなければ、わが手にて本妙寺墓地・高本順大人のみ墓の隣に移しまゐらす。けだし眞幸大人は、その弟子なればなり]
○すずのやの 學びをもゆる ひのしりに うつしうゑにし ひとなりしかな[同上]
○われはもや 狂氣にかあらむ 狂氣よしと み墓のことに 日日出ててゆく[同上]
○のちの世の われはからずも 御移葬(みうつし)に つかへまつれば うれしくもあるか[同上]
○わがうしの ますらをさびし 風姿(なり)もへば 神鳴りなして 世は罵(の)らすらむ[同上]
○樟の木の 老木の下に 額埀れて まつるてぶりを あはれと見ませ[同上]
○左右の眼を しづかに閉ぢて み弟子らが 歌ふ君が代 聞きまししとぞ[同上]
○み墓洗ひを わが手にすれば ちちのみの 父のみ膚に ふれまつるごと[先人景慕――林櫻園大人は、肥後勤皇黨の師父なり。その奧津城は、長瀬眞幸大人と同じく、養壽院にありしが、同じきことによりて移葬せらるゝこととなりぬ。すなはち熊本市黒髮町宇留毛なる、櫻山神社域内にうつし奉る]
○すがむしろ 敷きてすわれば 夕日さし さしとほりきて 齋庭明るし[同上]
○はやぶさの するどき眼を をろがめば ただにまむかふ こころこそすれ[先人景慕――自家に、林櫻園大人の神像畫をかゝげて]
○み口邊の いましもうごき こころざし まめやかなれと のらすごとしも[同上]

○遠つみ代の ひかりみなぎり やはらぎの みちたるくにに かへすすべもが[慨世]

○ひさかたの 天にもひびく いやさかを となへたりしとぞ その夜のきはに[無量]

○女の子 ふたりわが家にありて ひなまつり まつるとすれば ひとのおもほゆ[ひなまつり――三月三日、雛壇をつくる。時に肥後の勤皇家・富田大鳳先生のことをしのぶことあり。或る年、先生、三月の雛祝に招かれて、奧の座敷に雛見にとて立ちゆきしが、いつまでも歸らず、主人ゆきて見るに、先生は内裏樣の方を向き、小聲になりて、「御氣遣ひめさるな、この大鳳が一生の間には、如何樣とぞ、御恢復のことはかり奉るべし」とて、落涙せられゐたりとぞ]

○いめさめて 身のおきどころ なきまでに おほけなかりし 仰ぎおもへば[夢に、至尊を拜す]
○いめながら いまをろがみし みすがたの 消えずもあれな わがまなかひに[同上]
○ことに出でて 安くいませと きこえあぐる すべさへ知らで さめにけるはや[同上]

○くにのきはひ かくもおとろふ 世にあへば ひたぶるにこひし 明治の大御代[偶成]
○世をなげく おもひをもてば あらがねの 阿蘇のけむりも なほ足らぬがに[同上]

○子の手ひき みこしの下を ゆきかへり 神のちはひを こひのむといふ[おん田]

○荒御魂 しばしなぐさむ こともあれや 劍の舞ひの その眞身の冴え[櫻山]

○まつるぎの 鋭刃のつめたく まはら割き 神あがりせる 君忘れめや[純潔――東山利一君は、わが年少の友なりき。終戰の年八月二十五日、代々木にて割腹自刃す]
○ひたすらに みくにのゆくへ うれひてし かのこころざし つぎておこさね[同上]

○雨つゆを しのぐところの 家ならで 雨降れば漏る 雨な降りそね[陋居]

○三つのおん田 ゆかす神幸(みゆき)の ゆるやかさ われにはこころ しづめとも見る[阿蘇のおん田]

○くにまもる まけのまにまに ことあげせず いそしむひとの ありとこそおもへ[自衞隊]


○月は替りて また八月と なりにけり かの慟哭の日を 忘れめや[八月を迎ふ]
○ひとたびは 死なんと念ひ 妻に子に 遺書はのこして 家を出でしか[同上――尊皇義勇軍]
○暑き日日 なりしとおもふ 蝉しぐれ ふるなかにして 死をば待ちにき[同上]
○神風連 ここに起ちきと おもひつつ 旗をあげたり ここに死すべく[同上]
○生きも死も 勅(みこと)のままに なすべしと おもひいたりし ときなみだ落つ[同上]
○おもほへば きのふのごとし 國敗れ 身もたなしらに なげきたりしは[同上]
○五内ために 裂くとのらしし みなげきに こたへきにしか このとしつきを[同上]
○青山を 枯山なしし ますらをの かのかなしみを つぎておこさね[同上]
○いきどほり きはまるときは おのが身を 岩根になげて 果てましものを[同上]

○わが家は 代代勤王を 業とすと 書ける文ありて いよよかがやく[菊池]
○代代つぎて たてるものみな かしのみの ひとつごごろを 變へたまはざりき[同上]

○聲高に ののしりさやぎ 自(し)が國の 紀元をなみす おぞのしれびと[紀元節爭]

○大直毘 直日の神に いのりつつ 立ち直る君を 待ちつつありしに[哭志方正和兄――八月四日、旅に出でんとする余に、小山鷹二氏夫人より、君の訃を聞く。兄や、われらの心の友。喧騒の世にありて、忠純の志を失はず。まこと當世、得がたきの士なりしなり。しかれども兄、若くして身を損じ、長く病を養ふ。無念、いかばかりなりしぞ。幾度か死生の嚴頭に立つ。しかも兄の堅忍不拔にして、こんにちに至る。われら、やがては兄が快復の日あらんと期し、且つ祈りてありしに、天にはかに兄を召す。いかんともすべからず。哀傷悲痛、こゝに極まる。即ち思ひをこめて、二首の和歌を録し、兄の靈前にさゝぐ。兄、希くばうけよ]
○かへがたき ひととおもへば なかなかに くやしききはみ けふのわかれは[同上]

○きみゆきて くやしきかなや いよいよに みくにきびしく なりゆくときに[河上利治兄逝く――兄は、維新の志士・河上彦齋の嫡孫なり。祖父の名をはづかしめず、大日本生産黨第三代黨首として、愛國陣營に重きをなしゐたりが、昭和四十一年十一月十三日病歿、年五十九。兄、また風雅を解し、『龍洞歌集』の著あり。余、同年同郷同憂を以て、相知ること久し]
○いのち絶えしと きくはまことか くらげなす このよのさまを あとにのこして[同上]

○七たびも うまれかはりて 討たんずの このはげしさぞ 國ただすもと[湊川神社]

○入紐の おなじこころの ともなれば 逢はでや過ぎむ 伊勢に入りつつ[清夜――伊勢市櫻木町に住む、幡掛正浩兄を訪ふ。竹馬の友・津下正章兄、また座にあり。心燃えて、深更におよぶ]

○逆賊と いふ名は はやく除かれて ゐることすらも 知らぬ世のひと[淨闇の中――昭和四十三年は、明治百年にあたれるをもつて、深く思ふことあり。維新動亂に際し、國本を建てんとして仆れし神風連、西南役熊本諸隊の志士、その他の英靈を、護國神社に奉祀すべく、一月より着手、五月に至り、四百六十餘柱の調書を整へ、熊本縣英靈顯彰會を經て、合祀を願ひ出づ。こえて六月二十九日夜、合祀の神儀、盛大に行はる。感慨、いと深きものありて詠める]
○賊名を のぞかれしのみか 贈位すら たまへるひとぞ おほにな念ひそ[同上]
○國のため 賊となるとも やむなしと 死にたるひとぞ わが祭らくは[同上]
○九十年を はた百年を よそにみて まつらざりしは 誰がおこたりぞ[同上]
○かなしかる たたかひなりし 丁丑の いくさに死にし たま迎へばや[同上]
○すでにして 御阿迦志(みあかし)點(つ)きぬ みたまらは いまよりここに 神づまります[同上]

○天かけり いまもいまさむ 荒御魂 なぐさむすべも あらずくやしも[獻詠――大東塾十四士・二十三年祭に]

○肥後の國 菊池の二郎 武房が 敵追ひ崩し たるはいづらぞ[元寇防壘趾]
○おくれじと 旗押したてて 駈け入りし 竹崎五郎 兵衞季長[同上]
○われ老いて 役にたたねど 子を孫を 召せよといひし 井芹秀重[同上]
○ひごのくに 北室山の 眞阿尼は わが子わが女婿(めこ) 連れよとぞいひし[同上]
○元寇の かの國難を のりこえて きしもおなじき やまとの民ぞ[同上]

○耐へがたき きみがこころに 觸れもせで なに騒ぐらむ おぞの癡れびと[荒ぶる神――時は昭和四十五年十一月二十五日、‥‥予、いささか(三島)氏を知るところあり。その壯烈の死を悼む。森田必勝君に對するも、また同じ。即ち數首をささげて、氏らの靈を弔らふと云ふ]
○いにしへを いまの現に 日の本の 荒ぶる神を そこに顯(た)たせつ[同上]
○神風連に おのがこころを 見出でしと いひつることの 忘らへなくに[同上]
○ことの成る 成らぬはよしゑ 益荒男は たださきがけて 花と散るこそ[同上]

○神風連を いまのうつつに 見るべしや 豐前中津の 大宮どころ[豐前の友に――藤富鴻策君、中津大神宮々司となる]
○時はいま 荒びに荒ぶ 御代なれば ひたすらなれや 君がいのりも[同上]
○あなさやけ 君がのりとの 高々と 天の岩戸を うちひらけかし[同上]

○水母(くらげ)なす この世のさまを みおやらは 舌うちならし 慨きゐますらめ[菊池神社]
○この神は みおやの神ぞ 氏神ぞ われは菊池の 民ぞ氏子ぞ[同上]

○やまとごころ いづちにかある 唐こころ 野にも山にも 滿ちてさぶしも[木偶]

○めぐりくる この日のたびに おもふなり 死におくれたる おのれぞわれは[憂心]

○われはただ いのるばかりぞ すめぐにの やくへおもへば やすからずして[心安からず]
○四方八方に むらがりおこる 醜みても しのびたまふや 祓戸の神[同上]
○たたなはる 國のわざはひ 伊吹戸に 吹き放つべき 神風もがも[同上]

○世のみだれ もとはと問はば ただ一つ わが大君を なみするこころ[昨是今非]

○きよらかに 生きししるしの あととめて 死にける人ぞ けふのみまつり[烈士三十年祭――東山利一之命の墓前祭にささぐ]
○年をへて 忘らふべしや かの年の 夏の代々木の その血しぶきを[同上]
○みおやらの なげきのこゑか 夜をこめて しきりにきこゆ わが耳のべに[同上]

○敗るるも 死するも神の みむねぞと うらみなかりし その純心や[神風連の變百年]
○ちはやぶる 神代のてぶり さながらに その生き死にの さやけかりにし[同上]
○しぬび音の しぬびにしぬび 子のみたま 夫(つま)のみたまを まもり來にけむ[同上]
○家を捨て 遠きにゆきて 世をかくれ しのびしもあり その遺族たち[同上]



●荒木精之翁の歌袋を讀みて――備中處士
かくばかり 悲しき英靈(たま)を 祭り來し 翁かなしも 吾もかなしき
神風の 吹かさぬ國と なりにけり そは祈らざる 吾の罪なり
雛祝り 富田先生を 翁もおもふ うれしからまし こゝろ同じく


 相州之民艸樣より、圖らずも好箇の玉稿を賜はつた。時は好し、敬神黨道統の哥を、謹みて、相原修神主之命に捧げ奉らむ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/20

  • [9]
  • 人はいさ、好漢、好漢を知る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月30日(月)22時29分48秒
  • 編集済
  • 返信
 
●遠湖内田周平翁『大東敵愾忠義編の序』(彪邨岡次郎直養翁校訂『(日岳富田大鳳先生)大東敵愾忠義編』全四卷二册・昭和十年九月・虎文齋刊に所收。白文の試訓なれば、誤謬を恐る也)に曰く、「

 語に曰く、「禮樂・征伐は、天子より出づ」と。又た曰く、「率土の濱、王臣に非ざるは莫し」と。斯の言や也、我が東方日出の邦に於いて、尤も然りと爲す。富田日岳の『大東敵愾忠義編』は、實に此の大義に仗りて作れる者也。是の時に當りて江戸幕府、專ら政柄を握り、勢威、特に熾んに、諸侯、首を俛(た)れ、庶民、息を屏(ひそ)め、敢へて天子の位と王臣の分とを言ふ者莫し。

 是に於て名分、地に墜ちて、大東忠義の道、熄むに幾し矣。日岳、菊池の郷に生れ、尊王の志を抱く。蓋し深く時勢を慨くこと有り焉。乃ち事蹟を水藩の史(『大日本史』舊稿。固より現行の定本と符はず)に採り、千餘年間、忠臣義士、王愾に敵する者を列敍し、膽を張り氣を吐き、以て之を奬揚す。其の言、明白俊偉、譬へば猶ほ巨燈を暗室に掲ぐるがごとく、光□[稻の右+炎]、四隅を照す。是に於て王覇の別、正閏の辨、昭然、以て明かなり矣。其の世道に功有る、亦た大ならずや乎。

 余(遠湖翁)、昔、鎭西に遊宦し、夙に是の書を得て繙閲し焉、未だ嘗て日岳の志を壯んにして、嘉みして嘆かずんばあらざる也。竊かに惟ふ、「明治中興、赫日中天、妖邪斂跡して、名分立つ焉。爾來六十餘年、時移り勢變じ、世、文明に屬し、智識、大いに開けたりと云ふと雖も、異端邪説、我が道の□[缶+虎冠+乎]隙に乘じ、浸潤蔓延、人心を蠹毒す。其の禍ひ、且に測る可からざらんとする者有り矣」と。

 茲の書、久しく謄本を以て傳はる。文字の間、舛誤(せんご)有り。友人・岡君子直(岡彪邨翁の字)、以て有用の書と爲すや也、考訂して世に行ふ。其の時弊を匡救するの意、蓋し亦た日岳と同じからん。其の序を求むるに及び、余、惡んぞ提筆特書、以て之を表著せざるを得んや乎哉。

 昭和十年五月  遠湖内田周平、撰す」と。



●彪邨岡次郎直養翁『大東敵愾忠義編の例言』(同上)に曰く、「

 日岳の是の書を編むは、志、尊王に在り。其の學統は、淺見絅齋先生と異なるも、而れども志は則ち同なり矣。『靖獻遺言』の、明治中興に功有るは、世人の共に知る所なり。是の書は、獨り未だ上木せられざるは、尤も惜しむ可きと爲す。予、時事に感ずる有つて、句讀點乙を施し、世に行ふ。庶幾はくば以て風化に裨補有らむこと、蓋し亦た日岳の志ならむ也」と。



【參看】
●内田遠湖先生
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/uchida.htm
●岡彪邨先生
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/oka.htm

 愚案、『大東敵愾忠義編』は、我が國の『靖獻遺言』なり矣。物部大連守屋公に始まり、吉野の忠臣に至る、各々の傳記抄、竝びに水戸義公および大鳳翁の論贊から成れり。彪邨先生の訓點あるも、廣く讀まれざるを遺憾と爲す。蓋し富田大鳳先生は、高山赤城先生の心友にして、彼の所謂る尊號事件にかゝはり、其の文著遺墨の湮滅したるが故ならむか。血の涙、嗚呼、已んぬるかな哉。
 而して大鳳先生、殊に徂徠流の古文辭を修むれば、小生にとりては、難解晦澁を極めたり。然れば漸く蘇峰翁の讀解(『近世日本國民史』第九十四卷)他に援助を求め、こゝに別の一篇を掲ぐること、次の如し。



●贈從四位・日岳富田大淵藤原大鳳先生『高山仲繩(贈正四位・赤城高山彦九郎正之)を送るの序』に曰く、「

 神京(京都)に陟(のぼ)り、武城(江戸)に游び、州郡を歴、京邑を過ぎ、其の名山・大川、□[王+鬼。くわい。一に「魁」に作る]偉絶特なる者を探り、其の草木・鳥獸、珍奇鉅麗なる者を觀、其の公卿大夫・□[手+晉]紳先生・貴介游間子弟を問ひ、其の處士・逸民・醫卜・酒人・屠者を見、蕪城に上り荒墟を弔ひ、則ち千古の英魂を叩き、而して九原に作(おこ)す可きなりとせしむる者は、是れ高山仲繩の爲す所なり。

 乃ち(赤城は)上毛(上野國新田郡)の人なり。大鳳は不侫、蠢爾たる敝邑の草莽、食を偸(ぬす)むの民なり。而して一日、翰如として臨を辱うす。目撃神接、眉宇に見はれ、心契に合す(好漢、好漢を知るものなり)。乃ち相謂ひて曰く、『三千里の□[貌+しんねう。はる]かなる、共に臂を一堂に把り、吾れ豈に禹行して、而して舜趨する區々たる腐儒に、之れ傚(なら)はんや。盍(なん)ぞ心腹を披き、腎腸を敷き、其の鬱勃蓬沛の氣を鬪はしめざるや』と。

 大鳳の曰く、『昔は、大君(大鳳先生は、獨り天皇を尊稱する意義に用ふるなり。學祖の徂徠は無論のこと、江戸學者は將軍を斥し、名分を亂すや大なり)、命あり、于(こゝ)に宇内を正す。矢矧・鷺坂の役、其の事を用ゐる者は、子(赤城)の新田氏に非ずや(大鳳先生は、新田氏配下の後胤たる赤城先生を、新田氏の代表として遇すなり)。我が菊池は、業(すで)に已に偏裨なり。則ち偏裨なりと雖も、よく鋭を挫きて折衝し、先鋒後殿、大將を夾(はさ)み翼(たす)け、王命を對揚する者は、斯の人に非ずや。於乎(あゝ)、五百年にして、而して一日なり。昔の政を爲す者は、子也。今日の事、吾れ盍ぞ牛耳を執らんや。豈に敢へて關東の人に後(おく)れんや(一朝、事あらば、關東の尊皇者――赤城には後れを取らぬぞ)。

 夫れ鎭西、小なりと雖も、地、方數百千里、山嶽、以て城を爲し、河海、以て池と爲す。帯甲百萬、劍を撃ち弦を控へ、馬を駆り戟(ほこ)を横たふの士、森として□[登+郁の右]林の如し。加之のみならず、我が神聖の澤を以て、民に浹(あまね)し、先公(菊池氏)の風を興して俗に被むらしむるや、五尺の童も、夷吾(管仲)と晏嬰とを恥づるなり。吾れ未だ子の關東、何如を知らざるのみ。然りと雖も、今や昇平、文を右にす。武を用ゐるの秋に非ず。則ち昔の爭ひや武、今の爭ひや文なり(此の句、假裝的形容に過ぎざるは、全文に漲る迫力から判明するならむ)。今ま敝邑、王覇を辨じ、正閏を明かにし、名義を審かにし、大道に折衷する者、一二人を得可し(大鳳先生、鎭西の尊皇者の爲めに氣を吐くこと萬丈、亦た自ら任じ居る所なり。但し尊皇の大義を會得したるは一二人に止まるとは、當時の實状にして、誇張は出來ぬ)。禮樂を講じ、詩書を習ひ、洙泗(孔子)の化に涵泳する者、數十人なり。或は文を屬し詩を賦し、或は馬鄭(馬融季長・鄭玄康成)の學を唱へ、或は伊洛(程子・朱子)の教へに習ふ者、數百餘人なり。其の他、聰明英敏、器を懷き用を俟つ者、千人に足[一に「下」に作る]らず。吾れ未だ子の關東、何如を知らざるのみ。

 子、再び神京に陟り、武城に游び、其の公卿大夫・□[手+晉]紳先生・貴介游間子弟を問はゞ、則ち吾が爲めに、我が鎭西を揚□[手+確の右。かく]せよ。吾が言の如きや、乃ち謂へ、「千歳、乃ち菊池氏有ること無からんや」(いざとならば、必ず菊池氏が出て來るぞ)』と。

 仲繩、笑ひて答へず。録し以て贈と爲す」と。



 愚案、件の一篇は、薩摩の同志を通じて、島津公を説服する爲めに用意された、周到なる檄文と考へられる(大悲三上卓海軍中尉『高山彦九郎』)。高山赤城先生は、夙に有名にして、苟くも尊王を骨髓に填めむと力むる者ならば、知らぬ者なぞ居るまいが、富田大鳳先生も、亦た赤城先生に、勝るとも決して劣らぬであらう。其の氣慨萬丈、實に尋常に非ず。男兒たる者、斯くあらまほしきものなり。遂に事躓き、共に憤りて自殺するに至れり(久坂秋湖先生『俟釆擇録』)。
 嗚呼、富田大鳳先生こそは、或る山人から、「天朝に非ずんば、帝子(諸親王)と雖も、仕ふることを肯んぜざる也」との言を引き出したる高本紫溟翁と共に、鎭西熊本の潛龍雙壁と謂ふべきである。而して中今、尊王を以て立たむとする者、果たして幾人ぞや、はた何處に潛みて、其の出廬を待ち居るならむか。

  • [8]
  • 悲しき神定め。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月27日(金)20時26分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
 肥後敬神黨の擧に於る、次の如き、憂へし偲び草は、餘りに悲しく、人をして、嗚呼と、天を仰がしめずにはをられない。此の世の中には、かくも深き歎きが、かつてあり、又た現にもあり、又た今後もあり得るのであらう。



●八代宮宮司・健軍神社祠官・緒方小太郎弘國翁『神焔稗史端書』(香椎宮宮司・嫡子・緒方稜威雄翁の所藏。『神風連烈士遺文集』に所收)に曰く、「

 丙子(明治九年)の擧を、倉卒に起りしことの如く、世にいふ人もあるよしなれども、然らず。年久しく憂ひ憤る事の多くつもりゝゝゝて、忍草、えしのびあへず、岩下水のうち出でたるものなりけり。

 さるは、當時、政府のさまをみるに、事、大小となく、彼をまねびとり給ふより、我が道のもとも、大本たる神祭の事は、いよゝゝ凌夷し、たまゝゝ復古したる神祇官も、しばしにて廢典となり、祭政一致は名のみにて、さきに大祖の御創業に基かせ給ふといふ聖旨は、逕庭あひ反し、惟神なる大道は、今またく絶えなん事を、いたくうれたみ思ふあまり、我が學の兄・太田黒伴雄[こは、わが櫻園大人の教へ子にして、神道に甚く思ひをふかめ、大人の御心をうまく汲みえたるは、あるが中にも、たゞひとり(道統繼承者)なりき]は、友どちあひ語らひ、天照大御神[飽田郡新開村にあり。大御神といへるは、皆この御社なり。太田黒伴雄も、この大御神に奉仕すれば、みな、かみがき(神垣)のかたはらにす(住)めり]の御前に集ひ、當時の急務を論らひ、獻言・刺客の事に至るまで、かしこけれど、大御神にかづゝゞ質し奉るといへども、ひとつのみゆる(許)しだになければ、此のうへは人事はふつにたち、神事を修してこそ、降ちゆく道をも人をも、神習ふ古へに引きかへさめとて、おほけなくも國家の事は、皆な己れ々ゝが一身にお(負)ひもちぬ。此れ、やがて我が師の大人(櫻園)の、かねていひときたまへるをしへのむね(教の旨)によれるなりけり。かくて更に太田黒伴雄は、友どちいざなひ、大御神の前につどひて、皆々うけひ(宇氣比。神斷を仰ぐ神事)書きをさゝげ、弘安のむかし、なにがしの故事にならひ、灰になし、大みまへにかしこみつゝ、ともにのみ(共に呑み)たり。

 かくて後は、いよゝゝさうしいもゐして[大齋は、年二百日、火にかしぎたるを喰らはず、小齋は、毎月七日、食をたち、其の他、聊かの潔齋は、年月のうちにいくたびと云ふをしらず]、のみ(祈み)まつれば、その外の友は、思ひ々ゝ、大御神に忌みこもり、又はさるべき御社ともに參籠し、夜半・あかつきのわかちなく、歩をはこびつゝ、唯だ至尊萬歳・戎夷攘斥と、ひたぶるのみまをすより外、あだし事も、またあらざりしなり。‥‥

 さて明治九年、禁刀の嚴令ありしより、百たらぬやさかのなげき、やるかたなきをりしも、あなかしこ、西洋にさへ行幸あるなど、世に聞こえて、見るもの・きくもの、我が友の、えしのびあへぬ事のみ、敷浪のしきて聞えくるも、いきどほろしく、是れ、うつ(疑)なく左右姦臣どもの所爲ならずやは、此の雲霧を拂ふ事は、わが友ならではと、雄たけびしつゝ、更に又た大神宮につどひ、太田黒伴雄、盟主となり、義擧のことかたらふに、もとよりいなふ人あるべくもあらねば、伴雄は、こたび思ひ立つことのよしあしを、更に大いみ(齋)して乞ひまつるに、討てのみゆるし降りければ[是より各四方に奔走し、義擧の事を謀り、其の準備をなす事ありといへども、煩はしければはぶく]、同年九月八日[陽暦十月二十四日]の月の入るを期してなん、事は擧げたりける。

 さばかり、大御神の大御心を心として、打出でたる事の、思ひきや、嵐にさそふ花のごとく、うるはしきまめ人どもゝ、一夜のからに散りうせ、霜露のはかなくなりにたるは、いともゝゝゝうれたく悲しき事の極みになむ。されば愚なる心よりは、いかなればかゝるらんと、且つはあやしくうらめしうさへ思ふものから、是れ、やがて神定めなるべし、あるやうにこそあらめとぞ、おもひなる[さるは、かばかり武くすゝめる壯士どもを引きとゞめたまはゞ、今まで謀りし事共の、世にもれ聞こえて、いそしき大事に立至らん事は、云はまくも更なり、よしや其の事は無事なるとも、世をなげき憤るあまり、必ず自ら身をそこなひ命を亡す事どもの、などかなからん。これらを、大御神の、深くあはれみたまひて、一たび我が眞心どもを果さしめ、遂に幽冥の神事につかへまつらしめたまはんの、くすしく妙なる大御はからひにこそと、かしこけれど、ひそかに思ひ奉るなり]。

 されど凌上の罪ありとそしり、我が神習ふさまを、かたくなしと、笑ふ人のあるこそ、いとゝゝわりなけれ。さるは微臣として法を犯す事は、其の罪、もとよりかろからねど、國家の危難をまのあたりにみながら、いかでかもだ(默)しあるべき、已む事を得ず、法を破り罪を犯したるが、ちからたらず、こゝに至る。是れ、誠に口惜しく悲しきわざならずや。中臣の鎌足・藤原廣嗣等の、しわざを見よ。順となり、逆となる、唯だ成敗にあり。いかで手弱女のごときふるまひあらんや。しかはいへど生を愛し死を惡むは、心なき鳥蟲すら、皆な同じ。まして人てふものをや。さるを君を思ひ國を患る事の、せち(切)なるより、常に斷食刻苦して、年まねく天地神明に祈誓する其の中には、官の忌諱にふれ、禁錮せらるゝあり、大理にくだるあり、あるは罪を得て、士籍を剥奪され、あるは自ら祿を辭するなど、各々さまゞゝなれど、一人として節をかへ操をあらたむるものなく、遂に天下の憂にたふる、此れ豈にもとむる事ありてなさんや。あはれ、下士は道を聞いて笑ふと、いかゞはせん。さはいへど、わが眞心ばかりは、かしこき雲のうへにもきこしめしたまひて、ひそかにおほんぞをぬらしたまへりと。さるよしありてほかに承るこそ、又なくうれしけれ。かくてはいたづらになりにし人々も、かひは有りけりとこそ」と。



●木村邦舟翁『賦して「血史」の序に代ふ』(『血史』明治二十九年十二月刊。昭和十八年十一月・熊本市教育會刊)に曰く、「

吾に有り、雙□[目+匡。眼]の涙、
平生、未だ輙(たやす)く揮はず。
之を揮へば、恐らくは世に忤(さから)ひ、
徒らに迂愚の譏(そし)りを招かん。
之を明主(舊肥後藩主)の前に陳べんと欲すれば、
明主、首を掉(ふ)りて、肯へて延かず。
嘗て知己に向つて、一たび之を濺ぐ、
知己、冷笑して、斥けて癲(=狂)と爲す。
崎嶇、間關、五十秋、
此の涙、空しく蓄へて、漏らすに由し無し。
鬱結して、竟ひに滿胸の血と爲り、
肺を裂き膽を決(さ)き、淋漓として流る。
管城、染め來りて、紙に聲有り、
字は風霜を挾んで、天、亦た愁ふ。
丘明・馬遷(左丘明・司馬遷)、冀ふ所に非ず、
齊史・晉簡(春秋時代の齊の大史・晉の董孤。直筆して憚らず)、竊かに儔を擬す。
嗚呼、幽界一百餘の英傑、
□[占の中に口+しんねう。逌=攸]然(いうぜん)、笑ひを含みて、皇州に還れ
」と。



●荒木精之翁『神風連實記』(昭和四十六年十一月・新人物往來社刊)に曰く、「

 目に見える神風連の行動は、まことに狂氣にちかい。しかし滔々として、世をあげて歐風米俗に墜ちこんでゆく、いはゆる文明開化の襲來に、斷乎として神祇を尊崇し、國體を護持し、尊攘の大義を守り、神聖固有の道を奉じ、身家を犠牲にして死についた行動は、日本の歴史に大きな異彩を放つものとして、心あるものを、つねにふりかへらせるのである。しかも彼らは、さかしらな人智によらず、天照皇大神の『うけひ』のまゝに動いたのであつた。そこが神風連の神風連たるところであり、當時頻發した反政府的直接行動と、その形は似てゐて、しかも判然と區別することのできるところである」と。



●徳富蘇峰翁『鐵軒學兄宛書翰』(明治四十三年六月十四日附・小早川秀雄翁『血史熊本敬神黨』所引)に曰く、「

 惟ふに神風連の亂は、明治の兵火史中、一種特別に候ふ。固より彼等は、國事の爲めに、是に出でたるに相違なきも、其の所謂る國事とは、佐賀や、萩や、十年の亂の意味にあらず。彼等は、明治年間に於ける保守的清教徒也。英國十七世紀の清教徒に比すれば、清教徒は、天上の法を地下に導き來らんと欲し、神風連は、地下にありて天上の清淨界に入らんとす。故に清教徒の、神風連に比して、寧ろ世間的なりしは、言を俟たず候ふ。乃ち神風連の如きは、政黨とか、學派とか云はんよりも、寧ろ一種の神祕的祕密結社と云ふに庶幾し。‥‥

 但だ櫻園先生其の人の印象に至りては、甚だ明白なる能はず。何となれば先生は、一種神祕的人物にして、其の感化力の至大なりしも、主として之に因るが爲めと存じ候ふ。但だ神風連の歴史は、吾人に向つて、二個の實物教育を與へ候ふ。そは信仰の力と、家族の力に候ふ。日本男兒の眞面目は申すも愚ろか、日本婦人の眞面目は、最も彼等の家庭に發揮せられ候ふ」と。



●淺野晃翁『明治の精神』(新潮叢書・昭和十八年十二月・新潮社刊)に曰く、「

 明治三十六年十一月、肥後の野に於いて、陸軍大演習が擧行せられた際のことと傳へられる。明治天皇、親しくこれを御統監あらせられたのであるが、熊本御駐輦の間、土地の有志相謀り、陛下の御旅情を慰め奉るべく、夜ごとに坪井田畑に於いて、花火を打ち揚げた。侍從、その状を視て歸り、
「彼等は一發を打ち揚げまするごとに、行在に向ひ、肅拜稽首、はじめて點火いたしまする」
と奏上すると、陛下には、言下に、
「それは、敬神黨の名殘りであらう」
と、宣はせ給うたといふことである。敬神黨は、すなはち世に謂ふ神風連である。これより先、同じく肥後の出身で、侍講として側近に奉仕した元田永孚が、神風連の(副)首領であつた加屋霽堅の『奏議遺稿』を傳獻して、一黨の精神を奏上したこともあり、畏くも、明治天皇におかせられては、一黨の殉忠奉皇の悲願を、かねて御聖察あそばされ給うてあつたのである。まことに畏れ多くも忝いことと申さねばならぬ。聖恩、枯骨に及ぶ。われら草莽、悲泣慟哭するのである。‥‥

 かくて一黨は、一夜にして激發し、一夜にして散つて行つた。しかるに聖恩の宏大なる、深く彼等の志をあらはせたまひ、大正十三年二月十一日、攝政宮殿下御成婚の大儀に際し、忝くも太田黒と加屋とに、正五位を贈らせ給うたのである。加屋の上書が、侍講元田永孚によつて、かしこくも、明治天皇の乙夜の覽に入つたこと、神風連の徒、死して餘榮ありといふべきである。しかもその際、元田翁が、一黨の微衷を言上したるに、つまびらかに叡聞に達した上、世にありがたき御諚を賜つたと仄聞する。一統、以て瞑すべきである(愚案、下記★)。‥‥

 おもふに、敬神なくして神風のないのは、神國日本の當然の理である。一統が敬神に專念したのは、神風によつて内外の夷狄を撃攘せんと祈念したによる。故に、すべて、宇氣比によつて進退行動した。かくてつひに激發して、一夜の花と散つた。これまさに神風であつた。世、これを神風連と呼んだのは、まさに神慮となすべきであらうか。神風連は敢へなく敗れたが、その志は、皇國と共に不死である。口にいかに神國を言ふも、まことに神慮を畏むのでなければ、神風は起こらぬであらう。われらは、謹んで、今上陛下、伊勢御親拜の叡慮を拜し奉り、併せて列聖の大御心を偲び奉るべきである。この一大事を、畏くも、明治天皇は、
わが國は神のすゑなり神まつる昔の手ぶり忘るなよゆめ
と、御示しあそばされ給うたのであつた」と。



★ 大正十三年二月十一日を以て、畏くも贈位の恩典に浴したれば、以降、所謂「神風連の亂」の名稱は、之を書するに忍びず、義理の趨く所、斷然「神風連の變」ないし「敬神黨の變」と呼稱するを至當とす。

 神谷俊司翁『武を考へる』(平成二年八月・葦書房刊)の中に、「蓮田善明は、その著『本居宣長』で、神風連に、宣長學のほとんど唯一の繼承をみとどけてゐる。『言擧としての古學』から『大御手ぶり』の國學へといつた、おのづからなる發展が國學史に豫定されてをり、しかもそれがほかならぬ宣長の、いやはてのおもひからでてゐた」と、まことにめざましい神風連論を展開されてゐる。小生、此の『本居宣長』を沈讀すること多年、こゝに引用して、敬神黨を偲ぶよすがとしたい。



●蓮田善明陸軍中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、「

 私は、『うひ山ぶみ』の中で述べられた學問の筋の中で、非常に重大とされつゝ、而も形とならずに終つてゐる有職學の――但しそれは、尚古の骨董趣味的なものとなつてしまふやうなものであつてはならない――ことを考へさせられるのである。さういふ有職學とは、何か。それは、實にやがて皇國の大御手ぶりを調べとゝのへる一事である。夷國ぶりに對する攘夷は、宣長に至つて、もはや餘すところなく言はれた。そして宣長が望んだ、清らかなやまとだましひの手ぶりとしての「みやび」が、唯だ古代にあつたといふだけでなく、今の現に開かれねばならない。それは、事を端的にいへば、先づ幕府を倒すことを要する。‥‥

 しかるに倒幕維新の後、大御手ぶりは興つたであらうか。有職學は興つたであらうか。大御手ぶりの有職學の代りに、開化の敗北主義的風俗が世を風靡した。それに對しては、九州の一隅で、神風連敬神黨が、皇國の手ぶりを、神意の「うけひ」と、いたましい自決の形で示したにすぎなかつた。かくて今日の風俗を、「文化」といふのである。併しさういふ「文化」の代りに、大御手ぶりの「みやび」が興らねばならない。だが、今も尚ほそんなことは、民俗學としてか、氣疎い閑暇の空想か、骨董趣味としてしか迎へられない」と。

  • [7]
  • 敬神黨副首領・加屋霽堅翁。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月26日(木)22時53分57秒
  • 返信
 
 加屋霽堅翁、初め楯列(たてつら)と名乘るも、其の名、畏くも神功皇后の「狹城楯列池上陵」の文字と同じきを憚り、楯行と改むと云へり。彼の尊皇敬神の深きを、亦た此に見るを得、小生の喜び、尋常に非ず。正名に關する拘り、小生、亦た狂なり矣。晩年、霽堅(はるかた)と改名す。



●贈正五位・加藤錦山神社祠官兼少講義・敬神黨副首領・加屋榮太霽堅(諡は大御門護嚴矛神靈)翁の哥

○大君は 神にしませば 雲霧を しぬきて月を 見そなはすらん(曇りて月の見えざる夜)
○大君は あはれと見ませ さくら木に うつせる唐の 言葉ならねど
○大内山 高峯の道も あるものを ふもとに迷ふ よの人あはれ
○湊川 渡るみなせの 中々に しぼるは袖の 涙なりけり(湊川にて)
○皇軍に 武庫の仇浪 打ちよせて くだけし楠の 楯をしぞおもふ(同上)
○留まるも かへるもおなじ 國の爲 心つくしの 道をこそふめ(菊池父子の別れのかたに)
○濡衣に 涙つゝみて 思ひきや 身を白縫の わかれせむとは(河上彦齋、あづまに引きのぼさるゝとき、獄中詠)
○旅衣 ぬれぎぬながら 立ち出ぬと 宿にはつげよ 山ほとゝぎす(同上)
○音を高く 雲井に名のれ 國のため 心つくしの やまほとゝぎす(同上)
○雲の上の 人こそ汲まめ 河上の その源の きよきこゝろは(同上)
○西山の わらびとりにと 登り來て いとゝむかしの 人ぞ戀しき(河上彦齋を悼む)
○日の御子の かげの守りと 萬代に み(彦齋翁)はこゝのへの 雲がくりして(同上)
○君のため よのためおもひ いつさち(稜威幸神=彦齋翁)の いつのをたけび いつかなごめむ(同上)
○七重八重 かゝる繩目の 恥よりも まことにあらぬ[徹らぬ] 世をなげくかな(述志。明治三年、河上彦齋翁の獄に投じられるや、嫌疑を以て投獄されし折の作)
○君がため 誠ひとつを つくさなむと 千々に碎きて 物おもふかな
○玉の緒の たえむ限りの 一筋に かけつゝ君が 代を祈るかな
○事しあらば 君が御楯と おもひ入る 身は山松の くちや果つべき
○つるぎ太刀 さやかに磨ぎし 丈夫が てぶりをいつか 世に示すべき
○よしあしの 何は思はず あた浪の 穗ふみ分けて 身をつくしてむ
○八百萬 神にぞいのる 一筋は 世にこそかゝれ 身をば忘れて
○めづらしき 色にはあれど 唐藍に そまぬむかしを 思ふぞわれは
○天つ罪 國つ罪なき 身のとがを きよめてたまへ はらひ戸の神

○述心緒歌
瓢形の天の下に しき國はさはには在れども 日の本のこれのやまとは 天地の初の時し 甘凝(うまこり)のあやに恐き 三柱の天津御祖の 大神の先づ生れまして 二柱いもせの神に くらげなすたゞよふ國を 國つくりかため給へと 御手づから沼矛を賜ひ 言依さしたまへるまにま おのころの島根かきなし その島に天降りまし坐し うつくしき妹背嫁がひ 八洲國生みなしまして 天照す日の大神も 月弓の神の命も 成りませる 本つ御國の その御子の知らす御國と 保食の神の御身より うつくしき青人草の、朝夕に食ひて活くべき 五種のたなもつもの就り しかしてゆ水穗の國と をし物も豐けくありけり 千早振る神の御代より 細戈千足の國と 國風(ぶり)も雄々しくありけり 狹蠅なす神こと向けし 御劍の神したふとし 皇神に射向ひ奉りし 返し矢の御稜威かしこし 天地も依りて仕ふる 八隅知し我が大君は 現人の神にしませば 青雲の靄く極み 白雲の向伏す限り 國といふ國のおやくに 人といふ人の大君 空數ふおほにな思ひそ さひづるや唐の人すら 天津日の二つ坐さねば 君とふも二人あらめや 君はよし君たらずとも 臣として臣たらめやと 宜(うべ)しこそ言擧しつれ 言擧せぬ此の國風と 武士の臣の健男は 大君の任(まけ)のまにゝゝ 海行かば水漬くかばね 山ゆかば 草生す屍 たけり猪の顧みなくて 痛矢串額に立つとも 大稜威そびらに負ひて うつそみの命の限り 靈幸ふ神のめぐみも 大君の御言のさちも 玉襷かけて忘るな 益良雄の伴
(反歌)古の ためしのまにま 五百入の 靫負ふ伴の緒 こゝろつとめよ

「うれたみごと十首」
○人はよし にくめるとも そしるとも わが眞心は 神ぞ知りぬる
○ふるき世に 立復るとは 名のみにて 只下ちゆく 御代ぞかなしき
○皆人の 身の榮のみ 思ふ世に あだに命を いかで捨つべき
○世の中は 亂れにけりな 上下の 分ちもあらず いやすたれつゝ
○いつまでか 徒に日を くらすべき 思ひし事を 今はとげばや
○六ケしの 世にあるかな まつりこと 事と心は 違ひとぞ見る
○なきあとの 事も心に かゝれども 妻子も家も 思ふ時かは
○八十といみ 夷と嫌ふ 下風に なびけとはあな 情なの世や
○志 相逢ふ友は たれも只 國と君とを 思ふ斗りぞ
○問はざりし 事こそくゆれ 位山 上りつめたる 君の心を

○湊川(建武中興の再興) 水無瀬(承久の御擧兵)わたりて 中々に しぼるはそでの 涙なりけり
○あた(徒)なりと 人な惜しみそ 紅葉ばの 散るこそ赤き 心なりけり(辭世)



●加屋霽堅翁の詩

○含和
和を含んで 合(まさ)に吐くべし 聖明の廷、
却つて風霜に苦しむ、何の罪名ぞ。
好(よ)し、是れ雪中、 松柏の色、
吾が青眼を照らして、愈々青々。

○楠公
自ら誠忠を以て、聖君に許す、
果然、叡慮、風雲を夢みたまふ。
勤皇の大義、 諸將に先んじ、
討賊の孤兵、萬軍に抵る。
傾覆、支へ難く、死有るを知る、
綱常、頼つて立つ、豈に勳無からんや。
唯だ遺憾は、當年の事のみならず、
豺虎、東藩、今、倍して群がる。

○湊川を過ぎ、楠公祠に謁す
國に許す、此の行、心、馳するに似たり、
暫く兵湊に登りて、楠祠に謁す。
行潦の水を薦めて、微志を呈し、
涙を墮して、碑を讀み、昔時を悲しむ。
當路、除き難し、是れ狼虎、
身を殺す、惜しむ可し、悉く羆熊。
拜跪して、言語を費すを須ひず、
默祷すれば、唯だ應に神の知る有るべし。

○同上・二
楠公の跡は、湊河の灣に在り、
此の地、師を出して、復た還る無し。
一死、君に報ず、三諫の後、
孤忠、賊を滅す、七生の間。
渺茫、已んぬるかな哉矣、東流の水、
大節巍然、千破山。
碑陰に向つて、文字を讀まんと欲すれば、
滿襟の墮涙、轉た潛々。

○長刀賦
力を中原に致し、自ら習勞す、
此の生、何ぞ惜しまむ、鴻毛に附するを。
雲霧を破除するに、豈に日無からむや、
磨勵、霜は深し、偃月刀。

○高田玄明(彦齋翁)を偲ぶ
赤心報國、平かにし難きを怨む、
竹帛、須らく埀るべし、千載の名。
今日、祭文、唯だ古語のみ、
皇天上帝、眼、分明。



●加屋霽堅翁『加藤神社に寶祚無窮・玉體安全を祈願せる祝詞』(明治八年五月十八日。(『神風連烈士遺文集』に所收))に曰く、「

 掛け卷も畏き、我が大神の大前に、謹み敬ひ恐み恐み白さく、八十日日は有れども、明かに治れる八年と云ふ歳の五月の十日まり八日と云ふ日を、生日の足日の吉き日と齋ひ定めて、臨時(ときじく)の祭り仕へ奉らむとして、常も齋き奉る、加屋霽堅・木庭保久、夜は六夜、日は七日、伊豆の眞屋に、伊豆閉黒盆し、齋ままはり清まはり、今日の朝日の豐榮登りに獻る幣帛は、明る妙・照る妙に仕へ奉り、御膳は洗へる和稻を、平賀の彌や盛りに盛り供へ、御酒は濁り無く、眞清の酒を甕の上高知り、甕の腹滿ち雙べ、大野の原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は、鰭の廣物・鰭の狹物、沖津藻菜・邊津藻菜に至るまで、種々の物を、横山の如く置き足はして、獻る宇豆の幣帛を、平けく安けく聞し食して、天照座皇大御神の大朝廷を始め奉り、三種の神寶は更にも言はず、天つ社・國つ社と稱へ言、竟へ奉る皇神等、及び國々・島々・所々の大き・小き社に、鎭り座す皇神等、枝宮・枝社の神達に至るまで、いすろこひあれび(暴れ騒ぎ荒れ廻り)賜はず、相うづなひ、御靈助けて、天津日嗣の大御世は、皇大御神の掟て賜ひ、定め賜ひし大御勅の隨に、違ふ事無く、動く事無く、天壤の共(むた)、堅磐に常磐に、無窮へに齋ひ奉り守り奉り、皇稜威[稜、一に御]は、皇大御神の見霽かし坐せるが如く、四方・八方の外つ國に輝く計り、い行き亙らしめ賜ひて、谷蟆の狹渡る極み、鹽沫の留まる限り、伏し從ひ奉らしめ賜ひて、大御意平けく、大御體穩ひに、高御座に大座し坐しめ賜ひ、諸王等を始めて、百の官人をば、明けき淨き直き正き眞心以て、功勳敷き大御政事を、穴なひ輔けしめ賜ひ、荒び疎ひ來む禍神の、下ゆ行かば下を防ぎ、上ゆ行かば上を護りて、禍事に相率り相口會へ賜ふ事無く、言擧げせざる國風り、正しく有らしめ賜ひ、此の火の國(肥後國)内預り知らしゝ、細川朝臣等、彌や雄々敷き赤き心を、皇朝邊に極め盡さしめ賜ひて、皇神の御心の隨に、事過たずも、茂し八桑枝の如く立ち榮え仕へ奉らしめ賜ひ、如此く仕へ奉る神官等、我が同志の朋友の公民と有らむ人は、老いも若きも力を合せ、心を一にして、遠きも近きも、神を敬ひ國を愛しみて、己が乖々(向き々ゝ)在らしめ(たまは)ず、能く神習はしめ賜ひて、國作り固めし如く、太き功業を立てしめ賜ひ、蟹が行く邪教・陰謀は、風の雲を散らすが如く、雨の塵を洗ふが如く、餘波(なごり)無く消し亡せしめ賜ひて、鳥羽玉の黒髮の亂るゝ事無く、腰に取り佩く劍太刀の廢る事無く、惟神なる道に、彌や進みに進み、彌や勤しに勤しめ賜ひて、漏れ脱つる事行來るに、咎・過ち在らむをば、神直日・大直日に、見直し聞き直し座して、夜の守り・晝の守りに、守り賜ひ惠み賜ひて、恩頼を幸へ賜へと、牡鹿成す膝折り伏せ、鵜事物頸突き拔きて、畏み畏みも稱へ言、竟へ奉らくと白す。

 言別きて申さく、祠掌等、鼓打ちて、久米舞成し、劍拔き持て立ち舞へる、雄々敷き手振りを賢供(みそなは)して、神歡喜び咲樂に、歡喜び咲樂き賜へと、畏み畏みも白す」と。



【劍は禊祓の神具なり矣】

●加屋霽堅翁『廢刀奏議書』((『神風連烈士遺文集』に所收))に曰く、「

 草莽微賤、臣霽堅、誠惶誠恐、昧死して、書を元老院諸公の閣下に上る。本年三月(明治九年三月二十八日)、太政官第三十八號を以て、大禮服、軍人・警察官吏等、成規ある服着用を除くの外、帶刀禁遏の令を布き玉へるに付ては、赫々たる神武固有の國體に於て、恐れ多くも間然无き能はず。憂國の至情、只管ら畏愼沈默、位を竊むに忍びず。既に四月二十一日を以て、略ぼ左の條件を縷述し、并せて本官兼補(錦山神社祠官兼少講義・神道事務分局副長)共、□[耑+しんねう。すみや]かに解かれ度く、熊本縣令へ具情抗疏せし處、上伸の趣き、成法に牴牾し、地方廳にて僉議に及び難き旨を以て、竟ひに六月七日に至り、本書下げ戻されたり。嗟呼、鄙野の小民、郁々乎たる文明の禮法に閑かならず、其の論述する所、亦た粗漏にして、躬ら不徹上を來すを識り得。爾後、聊か講究する所有つて、臣、犬馬の戀、螻蟻の忠、彌々益々切迫、自ら已むこと能はず。敢へて論列し、謹んで録上する事、左の如し。

 伏して惟んみるに、我が神武の國、刀劍を帶ぶる事は、綿□[貌+しんねう]たる神代固有の風儀にして、國本、頼つて以て立ち、皇威、頼つて以て輝き、以て神祇を慰祭し、以て奸邪を禳除し、以て禍亂を□[甚+戈]定す。然らば則ち之を大にしては、以て國家を鎭め、之を小にしては、以て護身の具たり。嗚呼、尊神尚武の國體、須臾も離る可からざる者、唯だ刀劍か乎。況んや敬神愛國の朝旨を體し、人をして亦た遵守せしむべきの責任に當る者、爭でか刀劍を忽せにすべけんや。刀劍の得失、亦た偉なるかな哉。‥‥

 是に由つて之を觀れば、刀劍の利、唯だ一身を衞るのみならず、實に國家を守るの重器也とも云へりしは、反復丁寧、信に確論と謂はざるべけんや。特に皇威を海外に輝張し玉ふべき朝議に於ては、明治戊辰(元年)揆亂の初めより、小康の今日に至るまで、確然凝重、實に不刊の大典たり。故に己巳(二年)五月二十一日、朝命を布き玉ふ。其の文に曰く、「我が皇國、天祖、極を立て基を開き玉ひしより、列祖相承け云々、‥‥祭政維一、上下同心、‥‥皇道昭々、萬國に卓越す。然るに中世以來、人心偸薄、外教、之に乘じ、皇道の陵夷、終ひに近時の甚だしきに至る云々。‥‥是れ皇道の昭々ならざるに由る所と、深く御苦慮遊ばされ、今度び祭政一致、天祖以來、固有の皇道復興、在らせられ、億兆の蒼生、報本反始の義を重んじ、敢へて外誘に蠱惑せられず、方嚮一定、治教浹洽候ふ樣、遊ばされ度く云々」と。又た同二十五日の朝命に曰く、「外國交際の儀は、容易ならざるの事件に付き、獨立自立の體裁、立たせられ云々、‥‥緩急、國威を辱しめざる樣、相心得、奉公致す可し」と。壬申の冬、徴兵告諭の令を布き玉ふや、曰く、「人たる者、固より心力を盡し、國に報ぜざるべからず云々。‥‥國家に災害あれば、人々、其の災害の一分を受けざるを得ず。是の故に人々、心力を盡し、國家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たることを知るべし云々。‥‥全國二十歳に至るものは、盡く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし云々。‥‥國家保護の大本を知らしむべし」と、宣り玉へるにあらずや。嗚呼、朝旨の明了たる、其れ是の如し。苟くも遵守服膺する者、我が神國の靈物、長技たる刀劍を廢しては、固有の皇道、何を以てか興復すべき。外誘に蠱惑せられざるの方向、何を以てか一定すべき。獨立自立の體裁、何を以てか扶植すべき。緩急、國威を辱しめざるの奉公、何を以てか致すべき。報國の心力、何を以てか盡すべき。國家の災害、何を以てか防ぐべき。緩急の實用、何を以てか備ふべき。國家保護の大本、何を以てか貫くべき。

 然るに近ごろ、街談巷説を聞くに、禁刀の令の下るや、陸軍長官・某(含雪山縣有朋)公の奏議に出づと。其の言に曰く、「云々。軍隊の外、兵器を携ふる者あるは、陸軍權限に關係する、又た淺尠ならず」と。臣、反復熟考するに、此の言の非體なる、決して長官たるものゝ獻策にあらずして、萬々街巷談説の虚言たるを知る。いかにとなれば、陸軍の長官は、皇家の爪牙、神國の倚頼也。其の恩威寛嚴、孰れか具膽思服せざらんや。況んや兵籍に在る者、皆な公の羽翼枝葉たるをや。然らば則ち神皇の民たる者、假令ひ荷戈提劍、天下に充滿すとも、其の實、陸軍の兵權を強くし、廟算を多くし、緩急實用に備ふるにこそあれ、爭でか政治の防碍を生ずるの理あらんや。抑も細矛千足の國威、亦た將に自ら輝かんとす」と。



●加屋霽堅翁『檄文』((『神風連烈士遺文集』に所收))に曰く、「

 夫れ鎭臺・縣廳の設たるや、天朝を輔し、萬民を保全し、專ら禦侮治安の任を盡す可きの處、反つて醜虜に阿順し、固有の刀劍を禁諱し、陰に邪教の蔓延を慫慂し、終ひに神皇の國土を彼に賣與し、内地に雜居せしめんとするのみならず、畏くも聖上を外國に遷幸なし奉らんとするの姦謀邪計顯然し、其の大逆無道、神人共に怒る處の國賊たる事、更に辯を待たざる也。

 仍つて我等臣子の情義、雌伏に忍びず、上は玉體不測の御危難を防禦し奉り、下は萬民塗炭の苦慮を解かんがため、畏くも神敕を奉じ、諸邦同盟、義兵を興し、悉く誅鋤せ令め、皇運挽囘の基を啓かんとす。嗚呼、士農工商、誰か神皇覆載の鴻恩に浴せざるや。宜しく士民有志の輩、神速く城内に馳せ參じ、皇國の御爲め、忠誠報效、之れ有る可き者也。

[但し覊旅の官吏は、文武を問はず、巨魁と同視し、鏖しにすべき處、若し前非を悔悟し、降伏致す者は、時宜に應じ、本國へ罷り歸らしむ可き者也]」と。



●荒木精之翁『神風連實記』(昭和四十六年十一月・新人物往來社刊)に曰く、「

 加屋ら神風連の徒が、拳をたたいて主張するのは、このところである(『廢刀奏議』)。國を思ふ士族たちが、刀を帶して、どうして惡い。金がかかるわけでもない。彼ら士族は俸禄をはなれ、一文の支給もうけず、しかも君國を憂ひ、身家を忘れて、忠誠をつくさうといふのである。荷戈提劍、海内に充滿すとも、何の陸軍の患ふるところぞ、といふのである。

 しかし政府の廢刀令のねらひは、いふまでもなく、政府反對の士族たちの勢力を弱めるにあつた。鎭臺の制が、第一それであつた。地方に蠢動する者を威壓し、まちがへば、武力をもつて鎭壓するを目的として出來たのである。それでも尚ほ且つ不安があつて、廢刀令となつた。それは爭ふべからざる事實である。加屋ら神風連の徒は、そのことが國家保全の立場からでなく、自己の保全といふ私心があつてのことだと考へられるので、一層憤慨するのである。加屋は必死であつた。おのれの全心全力を傾注し、この大文章を書きつづけた。それは數萬言におよぶ長文の大論文(愚案、『神風連烈士遺文集』に所收するもの、實に八十五頁に亙る)である。加屋はこれを書きあげたなら、たづさへて東上し、元老院に上書して、廢刀令の撤囘を求め、然るのち、皇門を叩いて腹を切り、死をもつて諫奏しようとしてゐたのである。それだけに、この文章には、加屋の精魂がこもつてゐた。‥‥

 加屋は、またある時、和歌の會の定日をたずね、それが新暦か舊暦かを問うた時、辻橋見直(玉名大神宮祠官)が、
『むろん、舊暦です』
といつたら、加屋は、
『新暦に一定した方が便利ですよ。太陽暦も、大君の御採用になられたものなれば、正しく日本の正朔です』
といつた。
『しかし正月といつても、季節が合はないでせう』
といふと、
あなたは知らないのか、大君は神にしませば、といふでせう。大君の用ゐたまふ以上は、必ず新暦にして、正月に梅も咲きいづるだらうし、気候も正月めくに至るでせう
といつたといふ」と。



●神谷俊司翁『神風連の文化防衞』(『現代國學』第三號・昭和五十二年三月)に曰く、「

 日本建國の思想の中樞に「武」の存在をみるのは、ほかならない維新の初心であつた。「奮武」は、國體不斷の動態にほかならなかつた。神風連の人びとがいきどほつた維新の「未完性」とは、禁刀による士族特權の剥奪にあつたわけではなく、神武兵制への復歸といふ名目による藩閥私兵への武裝集中で、全人民帶刀といふ一君萬民的平等の可能性、國體の實が斷たれたことであつた。和魂洋才・採長補短は、明治維新の方針であつたが、新政府は「國體」にたいしても、同じ認識でのぞんだといへる。ただ政權維持のために、「奮武」の國體的ダイナミズムを恐怖し、有害視し、そして壓殺したのであつた。三島由紀夫なら、これを守る對象と守る行爲との間の永遠のパラドツクスを囘避して、みづからの目をおほふ「文化主義」の沒論理、といふだらう。たしかに新政府によつて、維新の初心は相對化されてしまつたのである。

 しかし神風連の人びとは、天皇は「無の自覺體系」だとか、「あらゆる夢を可能にする存在」だとかいふ論理で、新政府の神武兵制復歸觀を相對化しようとは試みなかつた。なぜなら、そのやうな論理で、みづからの國體觀を認知させようとすること自體、すでにみづからの國體觀をも相對化するものにほかならないことを知つてゐたからだ。神風連は、評論家のサロンではなかつた。また神道の無害性・寛容性を立證しようと、多神教といふ西歐宗教學の用語概念を奇貨に價値多元化をいひ、そのことで、とどみづからの對面祈祷する神への信仰をも、相對化してしまつてゐることに疑問を感じない、おめでたい比較文化論的神主は、神風連にはゐなかつた。天皇論花ざかりの森をピクニツクしながら、多神教がみなほされたといつてはよろこび、それを神道復活のきざしといひくるめるやうな時代に、わたしらは棲息してゐる。したがつて神風連の精神は、いよいよわかりにくくなつてゐるといへよう。‥‥しかも全人民帶刀の國體風儀どころか、山縣有朋以來の「皇軍」すら存在しない、戰後象徴天皇制(ママ)のもとで、神風連の人びとのいやはてのおもひを思ふのである。

 とまれ、神風連の人びとにとつて、帶刀の俗こそ、國體の「最後の一線」であつた。それから七十年後、大東亞戰爭の終結にあたつて、皇軍なくして、何の國體護持ぞ――と叫んで、自決した人びとがゐた。それも「最後の一線」であつた。それらの人びとは、皆、あとにつづくものあるを信じえたのである。かくて、神風連の人びとにとつて、廢刀令の布告が、直接かつ決定的な蹶起の契機たりえたゆゑんも、またわかるのである。「相對的價値の絶對化を、死によつて成就するのが、行動の本質に他ならない」と、三島由紀夫は語つた。これが、奮武のこころばえである。國體最後の一線の認識は、武の直感によつてもたらされ、その瞬間、すでに奮武の國體は實現し、かつ完結してゐるのであつた」と。

  • [6]
  • 太古神道祕儀傳承者、敬神黨首領・太田黒安國翁。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月25日(水)23時09分30秒
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●贈正五位・飽託郡天明村新開大神宮祠官・太田黒伴雄源安國(大野鐵兵衞)翁の哥

○石上 ふることふみは 現津神 わが大君の よゝの御寶(古事記)
○唐國を 鎭め玉ひし そのかみの み稜威を見せよ 玉埀の神
○神ながら 神しらさむと 君が代の 初めに神は 天降りますかも
○新玉の 年の緒長く 神垣に かけてぞ祈る 御代のさかえを
○玉ちはふ 神にかけつゝ 玉の緒の ゆらくばかりに 御魂ふりすも
○玉幸ふ 神にぬかづき 級長鳥 息長かれと 御魂ふりすも
○天と長く 地と久しく 現つ神 わが大君の 御代は動かじ
○大みいつ かゝれといのる 朝な々ゝ 豐榮昇る 日を仰ぎつゝ
○眞賢木を 神に手向けて 大御代を まさきかれとぞ こひのみまつる
○久堅の 雲井の月は さえながら などわびしくも 時雨ふるらむ
○音もせぬ 人の心の 秋風は いとゞ身にしむ ものにぞありける(折にふれて。滔々たる文明開化の潮流に傾衰する維新後の日本及び日本人を痛嘆して詠める)
○天に向ひ つばきするより はかなきは わが大君を なやませる人
○おのれ知る 人にしあれば 夷らの しわざ學びも あだならめやは
○皇神の 御稜威をかくと えみしらに 思ひ知らせむ 時近みかも(蒙古の船の、海に覆るかたを見て)
○武藏野の 茨の中を踏み分けて 道しるべせよ 萬代のため(河上彦齋が東にゆくを送るとて)
○朝な々ゝ 身の罪咎を 拂ひつゝ 愚かなる身を 神に任せむ
○大君の 邊にこそ死なむと 思ふ身の 草むす屍 何かいとはむ
○天照らす 神の御前に いみこもり かくてし居れど 猶ほ飽かぬかも
○天照らす 神をいはひて 現身(うつそみ)の 世の長人(古事記云、仁徳天皇、竹内宿禰に詠み給ひぬ)と 吾は成りなむ
○わだつみの 波よりとくも 先立つは 益良武雄の 心なりけり(陣思)
○かぎりなき めぐみにおのが 百年の 齢を捨てゝ 君に酬いむ
○起き[ち]て祈り 伏してぞ思ふ 一筋は 神ぞ知るらむ 我が國のため
○夜は寒く なりまさるなり 唐衣 打つに心の 急がるゝかな(辭世)



●大田黒伴雄翁『林櫻園大人の英靈に、玉體安全・夷狄退攘を祈願せる祝詞』(荒木精之翁編『神風連烈士遺文集』昭和十九年一月・第一出版協會刊に所收)に曰く、「

 掛卷も畏き、學びの親と座し、花細(くは)し櫻園大人命の御靈の御前に、恐み懼みも奏さく、八十日は在れども、今日の生日の足日に、大人命の御靈を齋き鎭め奉らむとして、安國が弱肩に、太繦(たすき)取り掛けて、宇豆の御酒・宇豆の御食・鮨の廣物・鮨の狹物、種々の食物を捧げ奉りて、百八十氏の教へ子達を集へ、絲竹の樂を仕へ奉りて、招祷奉る、斯くの如きの状を、平らけく安らけく見行(みそな)はし給ひて、此の神床に鎭り座して、和靈は、天皇が大朝廷に侍らひ座して、天皇孫命の大王體(おほみま)を、夜の守り・日の護りと幸福ひ給ひ、荒靈は、百千萬の神軍を率ゐ座して、荒び疎(うと)び來る外國の夷賊等を、沫雪の如く蹶散らかし、千里の外に掃ひ退け攘ひ逐ひ給ひて、天皇が大朝廷の大御稜威を、朝日の豐榮昇るが如く、守護り幸福ひ給へと、鵜自物頸根突き拔き、鹿自物膝折り伏せて、謹み敬ひ恐み懼みも奏す。

 辭別きて奏さく、今日の席に集ひ侍れる教へ子等を、美しみ給ひ惠み給ひて、物學びの道に、彌や勤しめに勤しめ、彌や奬めに奬め給ひ、尊攘の道に功しき績を立てしめ給ひ、大丈夫の清き其の名を、千名の五百名に負ひ持ちて、清き明き正しき直き誠心を以て、天皇が大朝廷に、堅磐に常磐に仕へ奉らしめ給へと申す」と。



●新開皇大神宮神前『誓文』(『神風連烈士遺文集』に所收)に曰く、「

一、神祇を尊崇し、國體を護持し、尊王攘夷の大義、固く相守り、終ひに素願を達し、宸襟を安じ奉り、萬民の塗炭を相救ふ可き事。

一、吾が神聖固有の道を守り、被髮・脱刀等の醜態、決して致す間敷く、縱令ひ朝命ありとも、死を以て諫爭し、臣子の節操を全ふすべき事。

一、同志の交りは、骨肉同胞の誼みをなし、親疎厚薄なく、齢の長ずるを以て上と定め、禮讓を亂さず、讒口に誣ひられず、苦樂を共にし、進退を一にすべき事。

 右の條々、今般、神前に於て、誓ひ奉り置く處の者、實に明白也。天地神明も、照覽冥助を埀れ、何卒、積年の大志、速かに遂げさせ玉へ。譬ひ如何なる事件に變所すと雖も、聊かも艱險を憚らず、名分を正し、卑劣の行ひ、堅く致す間敷く、萬一、言を食み、神祇を欺き奉り、誓約に違背する等の儀、仕るに於ては、忽ち神明の恐罰を蒙り申す可き者也。依つて誓證、件の如し。

 維れ時に、明治第八歳次乙亥春二月大吉日」と。

  • [5]
  • 誤解されたる、河上彦齋翁。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月24日(火)19時50分28秒
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●木村邦舟翁『三強合傳』(荒木精之翁『定本・河上彦齋』昭和四十九年七月・新人物往來社刊に所引)に曰く、

 夫れ三人(河上彦齋翁・大野鐵兵衞こと太田黒伴雄翁・加屋霽堅翁)は、亦た初め同じく林(櫻園)先生に學ぶ。而して河上は專ら其の兵機戰略を得、大野と加屋とは神道を傳ふ。而して皆な尊王攘夷を以て、己の任と爲す。‥‥

(彦齋は)人と爲り沈毅、容貌枯痩、目瞳高起、人と語るに、刺々として婦女子の如し。人、其の氣力有るを知らず。一旦大事に臨めば、大議を發し、侃然として辯論す。眼光、人を射る。辭理明詳、數々能く人をして神會感動せしむ。死生の間に處すると雖も、未だ嘗て色を動さず」と。



●徳富蘇峰翁『河上彦齋先生碑文』(帝都池上本門寺境内に在り)に曰く、「

 河上彦齋先生は、吾が東肥の産出したる俊傑の一人也。先生、結髮志を立て、尊王攘夷の事に從ふ。先生、辭氣温柔、而して渾身皆膽、能く人の敢て爲す克はざる所を爲し、挺身勇往、自ら顧みず、維新囘天の偉業、漸く成るに際し、其の志を守りて、世と忤(さから)ひ時と背き、遂に其の躬を亡ふに到る。豈に悲しからずや。

 先生の如きは、特立獨行、世を擧りて之を非として、力行顧みざる者耶否な耶。先生去りて後、茲に五十有餘年、其の郷人、胥議して碑を建て、以て先生の姓名を不朽ならしめんと欲す。是れ郷人の其の先輩に報ゆる所以のもの、先生の英靈、亦た以て瞑すべきかな夫。

 大正十五年八月七日、火國後進・徳富猪一郎」と。



●河上彦齋こと高田源兵玄明(諡は稜威幸神)翁の哥

○ますらをは 心のみかは かばねさへ 千々にくだかむ 大君のため
○火もて燒き 水もて消せど 變らぬは わがしきしまの 大和魂
○ときはなる 色やは變る 呉竹の うきふしゝげき 世にはありとも
○手束弓 ひき別るとも ものゝふの やたけ心の とほらざらめや
○今朝仰ぐ 日の若宮の 光りより 御稜威を春の 色ぞ見えける
○君のため 國のためにと つくす我 この身ひとつぞ なほ頼みなる
○大君の ためにとつくせ 眞心を わが生みの子の いやつぎゝゞに
○子を思ふ わがまごころは 大君の 御楯になれと 祈るばかりぞ
○ひもかたな とりて傳へむ くにのため 我うみの子の あらむかぎりは(太刀にそへて古郷におくる・荒木精之翁所藏短册)
○大山の 峰の岩根に 魂すゑ 動かぬ御世と 守る神かも(眞木和泉守を悼む)
○大山の 嶺より高く ますらをが たてしみさをや あらはれなまし(同上)
○むすびてし 言葉の末は 君がため 死ぬる屍の うへに花さく(同上)
○なかゝゝに 爲すこともなく ながらへて 泣く々ゝ語る(肥後勤王黨主・田城宮部先輩) 七とせの夢
○天地の 神しあはれと きこしめせ おろかなる身 にいのるまことを
○君がため すなほの竹の 世をいたみ うきふし繁く なりにけるかな
○あふぎ見れば いよゝゝ高し 靈幸ふ 神代ながらの 富士の芝山
○夷うつ 人は夷に まじらひて わが大君の みことそむけり
○あはれとも 人なとへかし はらひあへで 浮世の塵に 沈むわが身を(辭世)
○君を思ひ 君の御法に 死ぬる身を 夢な見懲りそ つくせ世の人(同上)
○かねてより 無き身と知れど 君が代を 思ふ心ぞ 世に殘りけり(同上)
○君がため 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん(同上)

 彦齋翁が嫡孫に、大日本生産黨第三代黨首・龍洞河上利治翁あり。詠みらく、
○おほちゝ(彦齋)の ゆづりの太刀を ぬきあひて わがたまゆらも くだけよとうつ
○ますらをの 代々に繼ぎ來し 國ぶりを いのちつたへむ 大和男の子は
○益良雄の 代々に繼ぎ來し 國ぶりを ふみつたへなむ 命たふとみ



 愚案、神祕深奧の人・林櫻園大人の三傑の一人、河上彦齋こと高田源兵玄明、諡は稜威幸の神、肥後櫻山神社および熊本縣護國神社の祭神たり。加屋霽堅翁『高田源兵衞事蹟略』に云ふ、「終ひに(彦齋の稱名なる)『兵衞』の二字、令典を憚り、『衞』字を撤て、源兵と定む」と。小生、之を泣きて曰く、何ぞ床しき。「衞」の一字すら、官制の御名、畏れ多しとして用ゐざるに至る。謹愼正名、洵に古人と謂ふべし。誰か云ふ、人斬り彦齋、と。彼の彦齋人斬り傳説は、勝海舟の妹婿・佐久間象山を斬りたれば、其の法螺話『海舟座談』に據ること大ならむ。其の座談に同席せる井井竹添進一郎翁は、海舟が盛んに彦齋を貶すのを聞きて曰く、「貴公はさう仰言るけど、さういふ人物ではありません」と。又た春畝伊藤博文公は辛島格熊本市長に、「お國の河上氏は、今生きてゐたならば、正に知勇兼備のよき陸軍大將であつたらう」と言つた由。

 明治三年閏十月十二日、櫻園大人歸幽に悲痛の淵に沈んだ肥後勤王黨は、且つ翌年十二月三日、彦齋翁の讒言斬死に對する憤怒、肥後國内に滿ち々ゝ、此の上は、たゞ精神を幽界に力め、神明の力を請うて、現界の挽囘を圖るより外に道は無いとして、其の主なる同志同學は、火のものを斷ち、斷食等を重ね、至尊萬歳・寶祚無窮・天下泰平・萬民康樂・國威振張・外夷聶伏を祈念し、この爲に資産を傾け、家計を縮む者もあつた由、熊本の内外、いづこの神社に詣でても、拜殿に青年雄壯の士、神前に俯伏稽頭して、懇祷する姿が見られた。敬神黨の稱の起る所以である。なほ世人、横井小楠・佐久間象山を以て、維新の二大先覺者・第一等の人傑とせるも、熊本に於ては、神人と仰がれし勤王黨・敬神黨の祖、「此の翁の、皇國に在るは、譬へば虎の山に在る如く、此の翁あれば皇國安く、此の翁なければ御代危し」(大田黒伴雄翁『祈願文』新開皇大神宮藏)とまで謳はれし林櫻園先生、是なりと云ふ。

 又た一言、上らむ。肥後勤王黨の稱、目標明確にして、將に好き響きあり。海南には土佐勤王黨あり、海北には筑前勤王黨あり。國益・政略の枝葉より、國體明徴、先づは國本を正さねばならぬ。平成の御代に於いても、全國至る所に勤王黨を簇出旗上げし、全國組織の勤王黨が結成される事を、小生は夢見るなり。異國竝みの、單なる愛國獨立集團では、實に用を爲さぬ。勤王が達成できて初めて、「皇」の重字を戴いて、眞の「勤皇黨」を名乘ることが出來よう。王政復古・平成維新の王事に力めたい。大君のためにと盡せ、眞心を、我が生みの子の、彌や嗣ぎ々ゞに。嗚呼。

  • [4]
  • 本土決戰・攘夷の本義を闡明したる、林櫻園大人。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月23日(月)23時51分27秒
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●宮内廳御用掛・濟々黌長・邦舟木村弦雄翁『林櫻園先生傳』(兒玉龜太郎翁編『櫻園先生遺稿』昭和十八年六月・河島書店刊・五十六年三月・青潮社覆刻の附録『肥後先哲遺蹟・後篇』から轉載の傳なり。愚案、邦舟翁『(神風連)血史』明治二十九年十二月刊。昭和五十一年十月・大東塾出版部復刻・監修は影山正治翁・譯註は神谷俊司翁と、ほゞ同文なり)に曰く、「

 先生、人と爲り、内豪にして外温、氣極めて壯にして、氣を使はず、智餘りありて、智に任せず、鷹眼巨準、瞳光、炬の如く、下脣、埀れて頤(おとがひ)を掩ふ。相貌怪異、神魄、人を襲ふ。人、一見して、其の常人に非ざるを知る。‥‥

 先生、稟賦、素より強記、和漢古今に亙り、讀まざるの書なし。一度び目を經れば、未だ曾つて忘れず、早歳、既に『一切經』を閲讀すること二囘、人、其の該博に驚けり。‥‥先生、群書中に於て、浮佻輕薄の文字を喜ばず、諸子の中に在つて、殊に『老子』・『文中子』を喜ぶ。其の出處進退、往々二子に類するものありと云ふ。‥‥先生の室に入りて、其の座上を望見すれば、几上に國典あるかと見れば、傍らに佛乘を繙けり。儒書も有り、兵籍も有り、歌書あり、醫書あり、天文・地理・歴史、百家各種の書籍、混淆亂積して、宛かも書肆に坐するが如し。而して先生、其の中に兀坐し、聽く者の爲めに之を講演す。朝に國典を講じ、夕には佛書を説き、今日は歌書を授け、明日には兵籍を演ぶ。而して最も意を致すものは、國典にあり。

 先生、學問の本領は、皇國本來の古傳説に因つて、神道を窺ひ知り、之を以て自ら務め、世を率するに在り。蓋し近世神道の復古を唱ふる者、縣居・鈴屋二子を初めとして、諸先輩の考證する所、究めて確に、論定する所、究めて密なり。先生、此れ等を祖述すと雖も、又た別に一見識を建つ。蓋し諸先輩の斯道に於るは、多く考證論定に在り。古典を修むるは、重きを言語に匡し、故事を捜るに置くものゝ如し。而して先生の深意は、古道を實行するに在り。或る人、先生を縣居・鈴屋の諸先輩に比して、程朱諸賢の漢儒に於るが如しと謂ひしも、或は不倫の評に非ざるべきか乎。先生の著書、神道の大意に係るもの、三種あり。『昇天祕説』・『宇氣比考』・『答或問書』、是なり。

 先生、平日の勤めは、毎朝早く起き、必ず神拜式を行ふ。然る後ち人事に接す。晝間は産神・藤崎八幡宮を首めとして、山崎天神社、其の他各所の神社に巡拜す。又た旬日内に、必ず熊本城南二里餘を距る新開村の伊勢太神宮、及び城北三里許りに在る鎧田村・杵築宮に參詣す。寒暑と雖も避けず、多年、一日の如し。重大の事、人智の及ばざる所は、毎に神慮を伺うて之を決す。是れ後來、敬神黨一派の人々が務むる所、一種の風習を形成せし所以なり。

 先生、徳川氏全盛の時に生れ、深く皇室の衰頽を慨し、陰に復正の志あり。然れども時勢を察し、深く自ら韜晦すること、高本紫溟翁の如し。

 先生壯歳、嘗て海外の紀事を讀み、數十年の後、必ず外國交渉の事起らんとするを察し、深く之を憂ひ、竊かに禦戎の策を講ず。遍く和漢の兵籍を取りて之を讀み、晩年、又た好みて泰西の兵書を讀み[『血史』に云、門生中、兵學に志あるものを誘うて、蘭・英の原書を讀み]、洋式の兵學を講ぜしむ。然れども敢へて途轍に泥まず、皆な克く換骨奪胎して、新機軸を出ださんことを務めしむ。世上の洋兵者流と、全く其の趣きを異にせり。‥‥

 嘉永中、米艦、浦賀に入るや、先生、警報を聞き、髀を拊つて曰く、『天下の多事、茲に始まる』と。是より増々禦戎の道を講ずるを以て、人に勸む。

 幕府、林大學頭を以て應接掛と爲し、務めて無事を計ると聞くや、地を蹴つて嘆じて曰く、『吁、大事を謬れり。吾れ固より儒者の、多く世務に敵さゞるを厭ひしに、果して然り』と。一人、傍らより問うて曰く、「如何なる人をして使命を司どらしむべきか乎」。先生の曰く、『凡そ非常の大事は、非常の人に非ざれば、辨ずること能はず。若し其の人を得ざれば、寧ろ率直無謀、徳川氏の竹越茂助が如きを是とす。昇平二百年、幕府に人物なし。業、已に外人の輕侮を啓けり。後來、言ふ可かざるの禍機、今日に兆せり。哀しいかな哉』と。因りて數々其の知る所の當路者に就て、亂に處するの備へを説く。而れども其の説の多くは、迂腐として察せられずと云ふ。

 爾來、天下、日々紛擾に赴き、三百藩中、議論鼎沸し、志士、東西に奔走し、而して我が藩に於て、心を皇室に傾け、意を海外に注ぐ者、大抵、先生の門に出入せざるなし。宮部鼎蔵(贈正四位・田城子宮部鼎藏増實)・永鳥三平(歸山永鳥三平行義)・松村大成(贈正四位・容谷松村大成古文)父子・上野堅吾(比山上野堅吾大神在方)・轟武兵衞(游冥轟武兵衞源寛胤)・河上彦齋(高田源兵玄明)・大野鐵兵衞(贈正五位・太田黒伴雄源安國)・加屋榮太(贈正五位・加屋榮太藤原霽堅)等、諸氏の如き、其の尤なり。此の頃より先生、各所の神社巡拜、増々繁く、且つ避穀、若しくは斷食、數日に亙り、丹誠を盡して、神祇に祷る。人、其の故を知らず。皆な異として之を怪しみ、或は之を哂ふ。然れども先生、毫も意に止めず。

 既にして先生、江戸に所用ありと稱して[嘉永七年の頃]、門生二三名を携へ、笈を負ひ裝を束ねて東征す。人、其の故を知らず。後に傳ふる者あり。曰く、「先生の東行は、江戸に所用ありしに非ず。水戸の主從、尊攘の志、切なりと聞き、行きて察する所ありしなり。然るに水戸に抵り、實際を察するに至りて、先生の聞知せられし所と違ひ、眞誠に大事を濟すの器に非ざるを洞知せられしかば、一二の人を問ふの後、袂を拂つて去る。遂に江戸に到り、平素索むる所の書二三部を得て、我れ願ひ足れりと揚言し、歸途に就けり」と云ふ。

[先生、水戸に抵るの日、藤田東湖を問ふ。東湖、盛んに當世の務を談じ、議論風生、人をして口を開くの暇無からしむ(或は曰く、東湖先生に非ず。蓋し松岡豐田天功なり、と。蓋し當に然るべし。愚案、「人をして口を開くの暇無からしむ」とは、横井小楠も同じ。東湖先生は、西郷南洲翁に似たり)。先生、靜默して聞き了り、微笑して曰く、『貴君の言、果して行はれば、實に結構なり。然し左樣に甘くは行きますまい』と。東湖、懌ばすして止む。先生、亦た飄然として去れり。後ち東湖、宮部氏に會し、先生は東肥の碩徳なることを聞き、驚愕措かず、前日大言の無禮を悔ゆれども、先生、既に水戸を去りて、復た及ばざりしと云ふ]。

 先生、既に歸りて、意を人事に絶つものゝ如く、專ら精誠を神祇に致す。門下生の神道を承くる者に對し、常に語つて曰く、『人間現界の事は、皆な神明幽界の指定に因るものなり。抑も幽界には、直神・禍神の二流あり。其の力、互ひに相消長す。是れ國家に治亂あるの源なり。然れども現界の人力、亦た時に幽界の神力に影響を致すものあり。例へば現界に於て、正人直士、力を人事に盡し、幽界直神の力と相待つて強盛なれば、現界に於て、正道伸びて邪道屈し、天下安平なり。若し夫れ之に反して、直神の力、邪神に勝つこと能はざれば、則ち天下に禍亂興る。是れ幽現二界、表裏相依るの有樣なり。方今、幽界、禍神勢ひを得て、暴力を逞しうせんとするの秋なり。有志の士は、宜しく幽界には丹誠を盡して、直神の奮勵擁護を祷り、禍神の狂暴を鎭むべく、現界には力を匡正に盡し、正直を助け姦邪を抑へ、以て直神の力を扶翼すべし。是れ皇道の隆昌、國威の振張を計る所以なり』と。

 先生、一日、肥前國飯盛宮の神託に依りて、鐵箭數多を造らしめ、國内所々の神社に納め、又た鐵盾を併せて藤崎宮に納め、其の他、八鉾宮の神體を模造して、健軍社に納めらるゝ等、幽界中、外夷鎭壓の法を修すること、甚だ務めたりと云ふ。‥‥

 尊攘論の切迫するに及びて、各藩有志の徒、我が熊本に來る者、大抵、先生を訪うて、其の懷抱する所を叩かざる無し。或は先生に勸むるに、出でて力を時事に效さんことを以てするあれば、先生、毎に之に答ふるに、『予は特に神明に事ふることを知るのみ。人事は予が能くする所に非ず。敢へて辭す』と云ふを以てす。勸むる者、其の答の意外なるに驚き、辭なくして去る。常に曰く、『世を治むる人は、常に師事する所ろ無かるべからず。湯の伊尹に於る、文王の太公に於る、是なり。何れの代にか、伊尹無からん。何れの國か、太公無からん』と。此の故に先生を以て、老子・嚴子陵・陳圖南の流亞とす。

 某年、京人某なる者、某公卿の内命を受くと稱して、熊本に來る。一日、親しく先生の廬に抵り、款語數時、既にして懷中より一封書を出だし、恭しく先生に傳へて曰く、「九重、内旨あり。先生に傳へしむ」と。門生等、障外に在りて、驚愕、耳を側てざるなし。先生、靜かに封書を手にし、微笑して曰く、『此の轟輩が、愚老を瞞するなり』と[時に轟武兵衞等、親兵となりて京師に在り]。封を開かずして、之を返す。門生等、又た驚愕、舌上りて下らず。京人、乃ち激怒して歸り去る。然れども後、竟に譴責の至るあらず。京師、變起り、五卿、長州に奔り、親兵の徒、當時の事に關する者、大抵、皆な連累せざる無し。而して先生、獨り晏如たり。是に於て人、其の智に服すと云ふ。‥‥

 文久・慶應の間は、天下の事、増々切迫し、朝命、幕令と衝突し、三百諸侯、互ひに議論を異にして、各々黨する所あり。加之のみならず外國の要求は、年々歩を進めて、如何とも爲すべからず。處士の横議熾んにして、横變譎詐を究め、尊攘の説、一變して滅幕の論と爲り、鼎沸絲紊、日一日より甚だし。先生、熟々世態を通觀し、深く憂ふる所あり。以謂らく、『上に統御の力無く、下の人争ひ起りて、各々其の見る所を主張す。其の有志と唱ふる者、多くは功名富貴の徒、己が名利に急にして、國を後にす。所謂る身の爲めに國を思ふの徒なり。一旦、事濟らば、大勢の赴く所、一幕府を倒して、又た一幕府を生ずるに同じ。眞誠に國を憂ふる者は、宜しく靜かに大勢を觀察し、力を用ゐる所を擇ばざるべからず』と。

[蓋し先生の意は以謂らく、『今日の事、外に向つて國權を張るを主とすべし。内治の改革は、急にする所に非ず。否、急にせざるに非ず。然れども必竟、内治を改革せんとするは、外に向つて國權を振はんが爲めなり。國權、若し振ふべくんば、内治は改革せざるも可なり。從令ひ之を改革するも、之を後にして可なり。然るを今の論者は、國權を振ふの道を措きて、只管ら内治の改革に汲々たるは、予が大に是とせざる所なり』と。

 先生は、攘夷を主として、滅幕を主とせず。且つ其の攘夷論たるや、素より無謀過激の論に非ず。唯だ結局の覺悟を、戰に究むるに在り。外國談判の如きは、明かに國情・國是の在る所を告げ、恐れず、撓まず、傲慢ならず、卑屈ならず、直道を以て談判するに在り]。

 嘗て會讀の席に於て、門生の問ひに答へて曰く、『今日、攘夷を實行せんと欲せば、各々國中の一國に就て間隙を生じたる時、彼が恐嚇するに恐れず、直立直行して、遂に戰端を開くに至るべし。兵は怒なり。此の如きは、全國民の怒り熾んにして、以て一戰するに堪へん。我が國、昇平日久しく、軍備廢頽し、且つ軍器の利鈍、彼我、等比に非ず。戰はゞ、敗を取るは必せり。然れども上下、心力を一にして、百敗挫けず、防禦の術を盡さば、國を擧げて彼に取らるゝが如きは、決して之れ無き事なり。彼れ皆な海路遼遠、地理に熟せざるの客兵なり。且つ何を以て巨大の軍費を支へん。遠からずして、彼より和を講ずるは、明々白々の勢なり。幸ひにして一度び彼が兵鋒を挫頓するを得ば、我が國威は、雷霆の如く、歐州に奮ふべし。果して然らば、國を開くも鎖すも、我が望む儘なるべし。然るに小敗衂を恐れて、忽ち和議を講ずるが如きは、豈に犢鼻褌(とくびこん。猿股・褌)を占めたる日本男兒の擧動ならんや』と。蓋し先生、前に馬關・鹿兒島の夷艦砲撃の擧、其の功を卒へざるを見て、深く之を惜しみ、且つ天下有志の徒、二州の急に赴かざりしを憤ると云ふ。

 此の頃の言に曰く、『今日の有志者は、宜しく決然、時世に反對すべし。反對、又た反對せば、自ら神仙の道に冥合すべし』と。

 當時、或る人、先生に問うて曰く、「古語に『四海、皆な兄弟』と云ふことあり。乃ち外國人も、亦た是れ同じく人類なり。今ま故なくして之を攘ふは、人道に倍(そむ)くに似たり」と。先生の曰く、『四海兄弟とは、平常無事の時の議論なり。譬へば平日の交際には、親戚も他人も、格別の隔てなきが如し。若し夫れ一旦、事故ある以上は、已に家内親族と他人とは、必ず分界無かるべからず。嘉永癸丑以來の事、彼の外國人、我が國禁をも顧みず、大膽にも我が要塞に乘入つて、強迫の談判に及ぶ。是れ我が備へなきに乘じ、我が釁隙を衝き、我が不意に出でたる奇計英略にして、所謂る策略上の事なり。古語の四海兄弟とは、徳義の事にして、全く別事なり。彼れ既に策略に出でて、我を困むるを、我は獨り徳義の議論抔に區々として、名義形跡を株守するは、所謂る宋襄の仁、腐儒の陋見なり。彼が無禮に出でたるに、我のみ禮義抔、言ふべき時に非ず。無二無三に打拂うて可なり。司馬徳操が言に、「儒生俗士、豈に時務を知らんや」とは、名言なり』とて、口邊微笑を漏らせり。

 或る人、又た問うて曰く、「我が日本は、區々たる海嶋中にあり。富強、遙かに外國に及ばず。故に國を鎖し、獨り淑(よ)くするは、是れ自ら狹くするなり。宜しく我より進んで國を開き、萬國と通商貿易して、以て富強を計るべし。何ぞ必ずしも區々として、鎖國を主張せん」と。先生、微笑して曰く、『凡そ事には、前後緩急あり。足下、今日は宜しく先づ今日の事を談ずべし。明日の事に至つては、又た明日を待つて議するも、未だ遲からざるなり。足下、妄りに來年の事を談じて、鬼に笑はれ給ふな』と、唖然として大笑す。是に因て之を見れば、先生の懷抱する所、未だ容易に知り得べからざるものあり。

 或る人、又た曰く、「攘夷論の深味は、既に命を聞くことを得たり。唯だ我が邦、二百餘年の昇平に慣れ、上下恬安、武備廢弛せり。然るに彼の外國は、實地競爭の地に立つて、年々歳々に兵備を講究し、將卒精錬、器械充備せり。一旦戰端を開かば、彼が山の如き戰艦、直ちに江戸灣に駛入し、大砲一發、江戸城粉碎し、二百萬の生靈、三百年の大都、一朝に烏有に歸せん。先生、之を如何とか爲し賜ふ」と。先生の曰く、『足下輩、平日の言に、「昇平の餘習、上下、因循偸安、奢侈除かず、無用の失費、甚だ多し。宜しく此の弊を一洗して、士氣を振興すべし」と曰はずや。若し今ま外國との戰端開け、江戸城灰燼と爲らば、其の蔭にて、三百年來、驕奢淫靡に成りたる贅澤物は、盡く燒き盡され、吾々の如き衰老腐朽の無用漢は、大砲の音に震死せられて、兵食の費を減じ、玉の弓・黄金の箭の如き御役人や乳臭の御大名は、溝壑に遺棄せられ、豪傑有爲の眞人物、腕を扼して現れ出でて、心の儘に振舞はゞ、何の議論も須ひずして、足下の希望せらるゝ武備充實は出來すべし。餘り豫備に過ぎて、睫毛に火の粉の落つる用心まで爲して、火事場に赴く樣にては、到底、火消しは六ケ敷かるべし。然し是は今日唯今が大切の時期にて、今ま兩三年も過ぎて、海内の人心が、餘り研究に傾き、理屈に陷る樣になりては、最早や致し方は無かるべし』と、甚だ歎息の色、顔面に見はれたり。

 先生の是等の論旨は、當時、尊攘論者[即ち敬神黨]の腦漿(腦味噌)に凝結力を與へたる、重大の要素にてぞ有りける。‥‥

 先生は維新の前後より、全く人間界の事を抛棄せられたるものゝの如く、惟だ日々、神事のみに力を致して、世上には兎角の評判も無かりしが、明治二年の頃、突然、三條公の徴命、到達せり。是に於て門生及び該一派の人々、扨ては廟議に幾分の變更ありしならんと、、相慶ぶの色ありしに、先生は更に殊なる氣色もなく、昵近の人に語りて曰く、『江河の氾濫は、一簀の土、何の用をか爲さん。然れども朝命の重き、一度は赴きて、之に答へ奉らざるべからず。但し行くも之を爲さしむる者あり、止まるも之を止むる者あらん。區々の一藤次、其の大勢を如何せん。意ふに一賜謁の後、數語の優旨を辱うし、以て歸國を許可せらるゝの外無かるべし』と、遂に大野鐵兵衞以下、二三輩を伴うて東上し、一度び三條公に謁せられしが、公、問ふ所あれども、先生、愚人の如く、一も明對あらざりしと云ふ。幾くも無くして遺歸せらるゝこと、果して其の豫言の如しと云ふ。‥‥

 既に遺歸されて、老病、漸く加はり、年を超えて増々甚だし。病ひ劇なるに及びて、醫師、家人を戒めて、昵近者の外、叨りに見ることを得ざらしむ。然り而して朝夕の神拜は、先生、曾つて廢せずと云ふ。

 明治三年十一月、病ひ革まる。先生、死期の近きを知り、家人に命じて、己を扶起さしめ、肩輿に乘じ、新開村伊勢皇太神宮に詣り、祠官・太田黒氏の家に寓す[太田黒氏は、大野鐵兵衞の養家なり]。伏拜懇祷して、精神昏亡するに至るまで罷まず。二十餘日、眠るが如くして、遂に神遊せり。先生、辭世の歌に、

 如何ばかり今日の別れの惜しからむ 散らぬ花咲く此の世なりせば

 是に於て大野・加屋を始め、該派の人々、父母を喪するが如く、惆悵して身を措くに地なきものゝ如し。以云らく、『皇道の災厄、禍神擅旺の徴なり』と」と。



 愚案、太田黒伴雄翁の曰く、「先生は骨を埋め、名を埋められる人でござる」と。我が人類の祖は、アフリカに出づと信ずる者(合理的平面史觀)には、如上の筆記は、さぞ退屈なるべく、暫く無視して可なり。然れども我が皇國の御民、天より降り來ると疑はざる者(神祕的立體史觀・顯幽一貫史觀)は、天津日の高天原より出づる神勅を、謹んで奉ず可きなり。

 かつて林櫻園大人に謁したる松陰吉田先生(『林有通履歴』に、「嘉永癸丑九月入門、宮部――鼎藏、田城と號す――同道」と)、亦た曰はずや、「神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる也」(『(水戸藩士)堀江克之助に與ふる書』安政六年十月十一日)と。「又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」(『評齋藤生文・天下非一人天下説』丙辰幽室文稿卷三)と。然れば皇國「重大の事、人智の及ばざる所は、毎に神慮を伺うて之を決す」る所、亦た究明せずんばあるべからざるなり。

 櫻園大人の曰く、「神命を承くることに、三種あり。
一には、審神者(さには)を以て之を承くる事。
二には、卜事を以て之を承くる事。
三には、誓約祈祷(うけひ)して、夢の教を請ふ事。
此の三事は、神武以來、代々の天皇の、神道に因つて國を治め給ひし大要なり。故に今代に生れて、太古の神道を奉ずる者は、亦た宜しく此の道に倣うて、顯世の事を處分すべし」(『答或問書』)と。

 神命を承くることの一は、件の『英靈の聲』にて有名となりし所の、本田九郎平親徳翁の神傳歸神の新法が有名にして、其の梗概は、渡辺勝義博士『古神道の祕儀――鎭魂歸神のメカニズム』(平成五年三月・海鳥社刊)に詳しい(勿論、其の初歩の紹介に止まるは、天機の漏傳を畏るゝ所、蓋し已むを得ない。然し乍ら學術的記述は、大いに刺戟を受くるならむ)。然し此の所謂本田靈學に止まらずして、或は神宮を始め奉り、名神大社、或は古神道流、或は神仙家には、古傳祕儀、相承密訣、儼然として存するものゝ、縁故を得る道骨に非ざれば、容易に拜する事は出來ぬ。林櫻園大人の『昇天祕説』・『宇氣比考』・『答或問書』等は、『櫻園先生遺稿』に收むるも、亦た考證筌蹄にして、無論、行法の祕傳漏洩は無い。些か記して、參考に供すと爾か云ふ。

  • [3]
  • 肥後敬神黨の師父・林櫻園大人。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月23日(月)23時48分34秒
  • 返信
 
●贈正五位・熊本時習館教授・櫻園林藤次越智有通(諡は國津彦稜威千別根命。肥後國櫻山神社相殿祭神)大人『宇氣比考』に曰く、「

 世の間の理りに、現事と神事と、二つ有り。神事は本也。現事は末也。されば世を治め、人を政(まつり)ごつ者、神事を本とし、現事を末とし、本と末とを一つにして、世を治め人を政ごつときは、天の下は治るに足らず。其の本をしらず、其の末をのみ守りて、世を治むる者は、小の功ありといへども、猶ほ神ながらの道といふべからず」と。



●林櫻園大人の哥

○廣幡の 八幡の神を 背負ひつゝ 行けば恐るゝ 敵(あだ)にもなし
○畏こさの 身にし餘れば 現津神 今日拜がむに 言の葉もなし(初めて禁闕を拜して)
○渡海の 神のみいつもて よもやもの しこ(醜)國船を 海にしづめよ
○皇神の 夢の御さとし そのまゝに あめりかのこきし(米酋長) 取て持來ん
○大王に 常世の國の こきしまで 歸服ひまつる 春は來にけり
○身の程を 知らぬ夷は 遠からず 滅びんものと 神は宣ふ
○神風に 八十禍事を 拂はせで 世は安國と うたふ諸人
○久方の 雲の上なる ことゝゝを かけて思はぬ 時の間もなし
○玉幸ふ 神のみかげを たのまずば 何たのむべき うき世ならまし
○松が枝の 葉毎にしげき 思ひをば 我が頼む 神もあはれと
○世の中は 唯だ何事も うちすてゝ 神にいのるぞ まことなりける
○皇國に 仇なす舟は 科戸邊の 神のいぶきに 吹き掃ひたまへ
○度會や 内外の宮の ましませば 天つ日嗣の 御代は動かじ
○神風に 夷のさぎり 吹祓ひ 日月のみかげ ちりもくもらず
○廣幡の 八幡の宮の 劍もて 八面の夷を 平ぐるなり
○廣幡の 八幡の宮の 御惠を 重ねて賜ふ としのたのしさ
○今日よりは さかしらはせじ 廣幡の 八幡の宮の 御教のまゝ
○玉幸ふ 神の御宮の まゝにして 唯一すぢに 神を祈らん
○わが頼む 神の御勅を 光にて 皇國のいつを 八方にてらさん
○青雲の 向伏すきはみ 天皇の みいつの風に なびかざらめや
○皇神の 稜威を見よと 廣幡の 八幡の宮の 神の神風
○遙かなる 高麗・諸越(もろこし)も まつろはむ わが日の本の 神の御世かも
○天照す 御魂の神の みさとしの しるし見えそむる 春(王政復古)ぞ樂しき
○白鳥の 天かけりけむ あと尋(と)めて 身のなき骸(から)を 世にな殘しそ
○誠心を 君につくさば 靈ちはふ 神ぞ守らん 神ぞ護らん
○我が友は 心ある人ぞ ゆくさきの みちの神々 守りてたまへ
○ひさかたの 天津日のみち つたふれば をさまるくにの かぎりしられず
○常世なる 氷の海も 日の本の 大御光の 春にとけなむ
○古の 神のみことに 習ひつゝ ならふぞ神の 道にこそありける



●林櫻園大人『座右の銘』

「盡人道」
神道を尚び、四夷を平ぐ。
果敢、以て事を斷じ、
謙虚、以て己を行ひ、
丹誠、以て業に勤め、
正大、以て志を立て、
清淨、以て神を存し、
忠恕、以て人に接し、
精詳、以て物を辨ず。

夢の間も あだに過すな 大君の 心なやます 御代の最中ぞ

  • [2]
  • 肥後勤王黨の源流・富田大鳳先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月22日(日)22時58分34秒
  • 編集済
  • 返信
 
 肥後には、阿蘇・菊池・名和家の遺封傳統の上に、藪孤山翁以來、「君が愛しうてならぬ、□[糸+遣]綣惻怛、至誠、自ら已む能はず」てふ、山崎闇齋先生の學脈(――淺見絅齋先生――若林強齋先生――西依成齋翁の門下多し)あつて、尊王斥覇の風が強かつた。明治維新を喚び醒し來つたもの、此の崎門學、及び水戸學・國學であることは夙に知らるゝ所であるが、敬神黨の出現は、其の地盤本根、洵に深きものがあつたのである。亦た林櫻園大人の師は、鈴屋門の贈正五位・田廬長瀬眞幸翁であるが、其の入門を勸めたるは、肥後皇典學の祖・高本紫溟翁であつた。時、同じくして、富田大鳳先生あり、其の「戀闕」の強烈なる、人をして瞠目せしむるに足るであらう。元來、富田家の家學は徂徠學であるが、其の祖父・龍門より、徂徠の説の濟世救民に役立つ方面だけを採り、大義名分に反する支那崇拜の學風を、極端に排斥して來たと云ふ。神風連源流の一人として、こゝに傑儒・富田大鳳先生を想起せざるを得ない。

 大悲三上卓翁に、『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊。近衞文麿公・立雲頭山滿翁・末次信正大將・今泉定助翁・有馬良橘翁・有馬秀雄翁・井上日昭氏の題字あり)てふ名著あり。かつて小生、之が欲しくてたまらず、十數年前に、漸く手に入れた(古本價額が高いのと善本が少ない爲めに、躊躇逡巡の期間が長かつたのである)。其の中に、贈正四位・赤城高山彦九郎平正之先生の同志、肥後熊本なる、贈從四位・日岳富田大淵藤原大鳳先生の逸話がある。是れは赤城先生、京都三條に跪いて禁闕を拜し奉つた逸事と、正に好一對、謹んで清覽に供したい。



●曾孫・小橋世光氏『富田大鳳傳』に曰く、「

 曾祖(大鳳先生)、幼にして卓犖不羈、讀書、大旨を求め、章句を屑しとせず。先世(大鳳先生の祖父・龍門)より、素より物茂卿(徂徠)氏の學を重んず。曾祖に至りて、其の濟世の用あるを以て、崇信する所を倍にす。然も茂卿の王覇大義に昧(くら)きが如きは、極めて之を辨斥して、敢へて好む所に阿(おもね)らざるなり。‥‥

 曾祖、威容、嶷然として、人、得て狎るゝもの無し。年三十餘にして、觀る者、六七十の人の態度の如しと云ふ。‥‥

 享和辛酉(元年)、長子・謙、及び一二門人を提げて、東美濃・尾張に遊ぶ。途に湊川を過ぎ、楠中將の墓に謁す。感泣、腕を扼し、慨然、刀を拔き、起ちて舞ふ。其の氣象雄壯、傍らに人無きが若し。大鳳、帶ぶる所の雙刀、皆な千子村正の鍛ふる所、初め商人に囑して曰く、『我れ甚だ村正の刀を獲んと欲す。汝,、我が爲めに買ひ來れ。價の高低は問ふ所に非ざるなり』。既にして之を獲たり。大いに喜び、愛護、特に甚だし。醉中、時に或は按撫して曰く、『我、豈に此の快刀を用ひ、以て賊將軍(徳川氏)の頭を斬るの日なからんや』と。蓋し村正刀は、覇府の禁ずる所なるを以てなり」と。



【大鳳先生遺文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/15



●武藤嚴男翁編『肥後先哲遺蹟』(明治二十七年二月・普及舍刊)に曰く、「

 富田大淵(大鳳)は、享和・文化の間の人なり。醫を業とす。學に志厚く、廣く經史に渉り、生質膽氣ありて、磊落放蕩なる事もありし人なり。平生の志、王室恢復に在りて、『大東敵愾忠義編』など云ふ著述の書、皆な勤王の事を贊揚せり。差料の大小は、舊幕府制度の千子村正が作を帶す。酒を好みて醉中の廣言には、『我れ醫師に生を受けしは、天の造物の誤りし故、世を早うし、生を替へて、諸侯に再生し、一度びは、王室恢復の御大業を輔佐し奉らん』とのみ言ひし。或は世の有樣を激怒通哭して、強飲する事も數々なりければ、遂に病ひを受け、四十餘歳にて、世をはやうせしなり。

 大淵、或る時、三月の雛祝ひに招かれて、奧の座敷の雛見にとて立ち行きしに、いつまでも來らず。亭主、行き見るに、大淵、内裡樣の方を向き、小聲になりて、『御氣遣ひなさるな。此の大淵が一生の間には、如何樣とぞ、御恢復の事、謀り奉るべし』とて、落涙、數行に及び居りしとぞ。

 大淵、病ひ重くなり、いまはの際と覺えしに、一言の妻子に及びたる事なく、池邊丹陵先生と甲斐順民とて、二人の門人、別して大淵が志氣に叶ひしかば、枕の元に呼びて、『天下の治亂は、今日明日も謀り難し。今ま若し金鼓旌旗の事起らば、兩人にても、京都へ馳せ登り、王室を守護し奉られよ。是のみ心に懸り候ふ』とて、言ひも果てぬに終りぬ。

 右、三ケ條のみ、古老の申し傳へにて書き留め候ふ。右の通り、至誠の人物に御座候ふ間、定めて勤王厚志の事跡數件、之れ有る可く候得共、湮滅して傳へ知るもの少なし。惜しむ可し。尤も其の胸中は、『忠義編』の論贊を讀みて推知すべし」と。



 愚案、天上將來の本宗正嫡たる、我が大君の大御代、其の現状を拜し奉れば、懺悔落涙、皇民として萬死に餘りあると謂はねばならぬ(大鳳先生、「大君」の御字、天皇を以てのみ書し奉る)。次の漢詩は、高山赤城先生の自刄(寛政五年六月二十八日)二箇月後、富田大鳳先生が、前年八月の熊本に於る先生との離別を追憶しつゝ、慨然として喝成したるもの、其の意とする所を隱匿してをるので、一讀して難解晦澁を極め、三上大悲翁の譯(一部増補)を附す。

 赤城先生の自刄後、共に自殺の道を選んだ者に六士あり。即ち、唐崎赤齋(常陸介)・山本以南(大愚良寛の實父)・龜井南溟・權藤凉月子・西道俊・富田大鳳、是れである。三上翁の曰く、「此の六士は、所謂尊號問題を契機として遂行されんとした、王政復古・維新事件(所謂寛政事件)の犠牲者である。しかも此の六士、何れもが幕府の爲めに刑戮せられること無く、符を合した如く自殺の道を選んだ所に、此の事件の深刻な骨格を見るのである」と。因みに大鳳先生は、自ら病を釀して死すと傳ふ。



●大鳳先生「晩秋、祇山に上つて感あり、賦して諸生に示す」(『日岳文集』)

尚ほ想ふ、弟兄の采薇を歌ふを、
 赤城(彦九郎)と私(大鳳)とは、幕府の祿を食むことが嫌ひで、討幕の一事を生命としてゐた點に於て、伯夷・叔齊の兄弟にも似たる同志であつたが、
誰か憐れまん、狂客、夙心違ふを、
 赤城は討幕の忠志の爲に、空しく「狂」と稱して、自刄してしまつた。
衣を鵬際に振へば、驕濤湧き、
 赤城が昨年、薩摩(=鵬際=南溟)に遊ぶや、彼の地に於て小人の驕慢なる奸策に陷れられ、
脚を龍峰に擧ぐれば、驟雨飛ぶ。
 更に熊本(龍田山)に於ても、一部の人士の爲に、驟雨の如き非難を蒙り、幾多の辛酸を嘗めたものであつた。
小魯千秋、文、未だ喪びず、
 赤城の死後と雖も、熊本(=小魯)の同志の、尊皇討幕の大誓願は變りは無いが、
椎秦、今日、事、空しく非なり、
 討幕義軍の發動(=椎秦=張良が博浪沙の故事)の大事は、赤城なくては、遂に空しき昨夜の夢に過ぎない。
登臨、坐ろに解す、羊公の恨み、
 私は今日、祇山、即ち産土神の坐す山上に登つて、當時を憶ひ、更に天地の悠久なるに比して、人生の短かきを歎ずるに想到し、
寂莫たる寒山、落輝に對す。
 轉た寂莫を感じて、落涙に堪へず、折柄の夕陽に對して、默念として佇立するのみである。



 赤城高山彦九郎平正之先生と、惓々たる情を以て交りたる者、肥後に在つては、高本紫溟翁、竝びに富田大鳳先生であつた。勤王の首倡は、赤城處士のみならんや。菊池氏傳家勤皇の精神は、鎭西肥後に儼在して、根を深く太く張り、皇國中興の御代を俟つてゐた。中今も、往古と同じく、將來も亦た同じかるべし。抑も皇國は、盛衰あるも、興亡なし矣。千載、乃ち勤皇の胤あるなからんや。



●徳富蘇峰翁『近世日本國民史』第九十四卷(昭和十九年十月。講談社學術文庫・昭和五十五年三月刊)に曰く、「

 高本紫溟と同時に、富田大鳳なる一個の儕賢は、肥後に出でた。‥‥高本紫溟は、國體論の首唱者であり、富田大鳳は、尊皇論より一轉して討幕論まで突入したる、現状打破の急先鋒である。徳川氏を無二の恩主と感戴したる細川藩士中から、彼が如き論者を出だしたるは、頗る意外の感あれども、其の一は、彼が菊池尊皇の末流(菊池家三老の一・隈部氏が庶流・富田氏)であり、他の一は、當時世上に漸く幕政を厭ふの氣運を發したると、更に他の一は、彼自身が其の冷靜なる學究たるに甘んぜず、血性あり、熱腸ある志士の意氣を有したるが爲めと認めねばならぬ」と。



●紫溟高本敬藏順翁の哥

もろこしも 東風(こち)吹くたびに 匂ふらし 大和島根の 花の盛りは



●高本紫溟翁『送り言艸』(長瀬眞幸の江戸に遊學するを送るはなむけ)に曰く、「

 大御國の人の物學びは、漢籍をのみ讀みて、事足りぬべきにはあらず。御國の書をも、つばらに見るべきものなめり。凡そ人には、必ず五品のやから備はる。其の品ごとに、おのづから分りすぢあり。そを人の道となん云へる。物學びは、其の道を明らめて、身に行ひ、家ををさめ、世の助けともならまくする業(わざ)ならし。

 其の五品の一つには、君を敬ふぞ道なる。こを唐土には、義といへり。大御國は、此の道、萬の國に勝れたり。古への歌どもを見ても知るべし。『海行かば水づく屍、山行かば草むすかばね、大君のへにこそしなめ』と云へる類、擧げて數ふ可からず。二つには親は子をめぐしみ、子は親をしたふぞ道なる。こを唐土には、親といへり。歌にも、『父君に我れはまなこぞ、母とじに我れはめつこぞ』などいへり。三つには、夫は外をつとめ、妻は内を守るぞ道なる。こを唐土には、別といへり。遠つ神代には、八千矛神、出雲より倭國にのぼりまさんとせしとき、須勢理姫命、大御さかづきをとりてうたひたまひける御うたにも、『わが大國主こそは、男にいませば云々、あいみよ女にしあれば、汝おきて男はなし、汝置きてつまはなし』となんありける。四つには、おとなと幼けなき、長を先にして、幼けなきは從ふぞ道なる。こを唐土には、序と云へり。神代より年たけたるを鹽土翁と呼びて、そが計らひに、天つ神もしたがひ玉へりきとなん。五つには、友がき、かたみに眞心もて交はるぞ道なる。こを唐土には、信といへり。歌にも、『ものゝふの八十伴のをのおもふどち、又うらこひし、我がせの君は、なでしこが、花にもがもな、あさなさみなむ』

 此の五の道は、天地の爲しのまにゝゝなれる物にして、高きも卑きも、大御國もとつ國も、人とし人たるものは、皆な同じ。たゞ其の道を行ふ形と物とは、國にしたがひ時につれて異なり。たとへばううれば物くひ、寒ければ物きるは、いづくの人も同じけれども、其のきもの・くひ物は、各々異なるが如し。同じきを知りて異なるを知らざらんは、大御國の人を、ううれば羊豚等を欲し、寒ければ裘(かはごろも)など云ふ物をねがふが如し。異なるを知りて同じきを知らざらんは、外國の人は、うゑて物き、寒くて物くふらんと思へるが如し。いづれもゝゞゝゝかたつゞゝゝならぬかは。

 掛卷くもかしこき、御代々々の天皇、神ながら其の同じきを知ろしめして、外國の事をも取るべきをば取り玉ひ、又た其の異なるを知ろしめして、こゝには用ゐまじきをば、用ゐ玉はざりき。しかればこそ、天津空のへだてなきがごと、下つ國の境わかれしごと、かたつゞゝゝならず。わいためなきにしもあらずして、千足りの名におひ、萬づ滿ちたらはして、めでたしともめでたき御國にはあんなる。

 しかれば物學びせん輩、唐の文を讀みては、同じ道の理を深く極め、御國の書を見ては、異なる形と物とを、つばらに考へぬべきものになん。大御國の書の中にしても、ふることふみ等を見ては、古への世の形をしり[『古事記』・『日本紀』の類を云ふ。唐の『書經』・『春秋』などの如し]、歌をあつめたるを見ては、其の代の人の言葉をしり[『萬葉集』の類を云ふ。唐の『詩經』の如し]、律令・格式など見ては、公の御定めをしり[唐の三禮など云ふものゝ如し]、そを本にして、國の政をも家の事をも取り行ふべき事になん。唐の古へ、孔子の言葉にも、『我は周に從ふ』とぞあんなる。唐には主定まらず、夏・殷・周などとて、しばゝゞかはれり。夫れすら國中の人はとにもかくにも、世のさたに從ふ習ひなれば、孔子も周の代の人なるからに、夏・殷の禮をも學び知れゝども、そは用ゐずして、周の禮に從ふとなん云ひつる。

 そもゝゝ大御國は、天津日嗣のみさかえて、天地と共に窮まりなく、坐し々ゝて、ときはにかきはに、つがの木の彌つぎゝゞに聞しめす、大御國にしあれば、大御門のみさとをば、天雲のむかぶす極み、蒼生(たみぐさ)のあらんかぎり、畏こみつゝしみまもらざらめや。物學びするともがら、そをしもいかで考へざらん。

 かくはいへども己れらは、唐書の業に暇なし。あはれ、其の道にかしこからん人もがなと、年頃思ひたまひつるに、長瀬の眞幸なん、其の人にはありける。

 一とせ、神風の伊勢にゆきて、本居の大人にこととひ、鳥が鳴く吾妻にいたりて、多くの友に交らひて、學びの道、いよゝすゝめり。同じ國・同じ里に、かゝる人をしもえつること、靈幸ふ神の助け給ふにこそと、いともうれしく、朝よひ語りあはするに、玉鉾の道を求むる心、山のゐのあかずして、今一度、大人の鈴屋を問ひ、大江門の友達をも見ばやと、思ひ立ちけるを、しばしの別れもをしけれど、たゆみなき志をめでて、己れもすゝめなどせしかば、いや思ひ定めて、明日の足る日に門出せばやとなんいへる。いでや、人を送るに、言葉をもてすと云ふる古事あればとて、愚かなる心に思へることどもを、すゞろにかきつくれば、あやしうあげつらひがましきも、唐ぶみの心ならひならんかも。

 天照す光はきはみなきものを 空にしめゆふ隔てをなせそ
 鈴鹿川同じ流れもかはる瀬を 八十瀬しら浪わけてしらなん

  寛政八年彌生月十二日  高本順」と。


http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778598/2

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  • 祈りの戰ひ、靈的翼贊

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 8月22日(日)22時53分2秒
  • 返信
 
 靖國神社の護持の爲には、自由主義・民主主義・利己主義・功利主義に據つて立つ者に對して、如何に多勢に無勢と雖も、「靈の戰ひ」・「祈りの戰ひ」を挑まねばならぬ。人衆ければ天に勝つとは云ひ條、不義不正・僞裝正義には、斷々乎として對峙するは覺悟の上、神靈の照覽・先哲の嚴訓を承けて、險難の一路を甘しとし、祖國日本の罪・咎・穢れを祓ひ清めねばならぬ。我々は一草莽にして、多くを望むこと能はず、無學不徳、固より大成は期すべくも無いが、せめて一條の光明、松平永芳元宮司の悲願、即ち「國家護持の精神のやどり坐す靖國神社の眞姿・本質」を死守せねば、皇國に生を享けし御民、何の顔せあつてか、天神地祇を始め奉り、聖死の英靈・父祖の忠魂に見ゆる事が出來ようか。

 皇民の天佑神助の信念は、人力を怠つて僥倖を期するものに非ず。人事の限りを盡して、神祇の感格を祷祈するものである。是れ、靈的翼贊の意義である。「神祇の靈(みたまのふゆ)に頼り、天皇の威(みいきほひ)を借」(景行天皇紀)り、天劒の降下(神武天皇紀)を乞ひ奉り、只管ら熱祷、默々と靈的翼贊に挺身せむと欲するものである。

 靖國神社と何うしても切り離せない、「英靈」てふ言葉がある。然しこゝに三島由紀夫氏の『英靈の聲』(昭和四十一年六月『文藝』發表)てふ、洵に困つた文學作品が殘存する。いくら文學とは云へ、後世を惑はすもの、磐山友清歡眞翁『靈學筌蹄』(大正十年八月・日英書林刊)に據り、本田靈學(本田親徳翁の歸神法)を研究されたやうである(『英靈の聲』奧書に參考文獻として掲ぐ)が、斯學の爲に、憂慮に堪へない。然し蹶起の直前、三島氏は、此の「英靈」、否、亡靈を、自ら祓つたのである。即ち神風連に觸れることによつて、菱海磯部淺一等の憑依から覺醒したと確信する。然るに世間一般は、三島氏と二二六を結びつけて論じ、神風連との深い道契は、敢へて無きが如く、未だ解明しようともしない。三島氏の爲めにも、不幸と謂はねばならぬ。三島氏最期の聖壽萬歳は、何故ゑ奉唱されたか、それとも狂言儀禮に過ぎずと云ふのか。三島氏が、未だ菱海の怨靈に憑りつかれたるまゝ、彼が私見に幻惑され、なほも畏き邊りを云々し奉つて已まずと云ふならば、是非に及ばず、それはそれでよい。然らば吾人は之を討つて、未だ國體に徹せざる人々に對し、神祇の寛恕靈導を乞ひ奉るのみである。

 小生は、所謂る遲れて來た世代に屬するが、學生時代は、大學に於る「三島・森田兩烈士祭」(國學院の學生が來て、祭主を勤めてをられた)にも參加、おほけなくも獻哥させて戴いたこともあつた。就中、先輩に誘はれ、かつて大東塾主・影山正治翁の最晩年に、其の講演を拜聽させて戴いたが、忘れ得ぬ指摘がある。今に於ても、其の言靈は、深く耳朶に殘つて離れない。五月二十五日は、大楠公忠死の日(陽暦では七月十二日の暑い日)であつたが、亦た影山翁自決の日でもあつた。元號法制化を熱祷された、翁突然の歸幽は、政府をして甚く震撼せしめた日であつた。



●影山正治翁『神道國學運動と昭和維新』(昭和五十一年五月二十二日・於岡山縣護國神社・神道國學講座講演・『言靈』第一號)に曰く、「

 御當社(岡山縣護國神社)は、靖國神社を總本山とする、靖國のみたまをお祭りした神社・お宮であります。神代以來、神社と言ふものは、靈的なもの、神靈を中心主體にして、初めて成り立つてゐるものであります。今日も御當社の神職の方々によつてお祭をして頂きましたが、あのお祭の中では、明治九年の「神風連の變」・「秋月の變」・「萩の變」に於て亡くなられた方々のみたまを、高天原・靈界から、「天翔り國駈けり來まして、これのみたましろに、暫しが程、神しづまりませと、恐み恐みも白す」といふわけで、お招きするわけです。それは決して形ではないわけであります。眼には見えない、耳には聞こえないけれども、みたまたちを、幽界から、高天原からお招きしてをるわけであります。さうしてお祭をして、眞劍にお祈りをし、「あなた方の御志を、今の世に於て、百年後の我々が、必ず祖國・民族の上に受け繼ぎ、守り、展開し、實現致します」と言ふ事を誓つた上で、ねむごろに「今し御祭終へぬれば、みたまたち、元の御座(みくら)に歸り鎭りませと、恐み恐みも白す」で、お送り申し上げる。それが神社といふものの根本の姿であるわけであります。

 それを戰時中にあつた「國民儀禮」などといふもののやうに、單なる儀禮・形式としてだけ受け取つたならば、神道なんてものは無いわけであります。靈的な要素を無視して、神道は無い。それが、神代以來の神道の本質であります。從つて實は神社界・神道界にこそ、靈的な事のはつきりする方、即ち○○○○氏的な人が、大小を問はず、多く出て來なければならないわけです。さういふ意味で、やはり今の日本を維新して行く上に於て、亞細亞維新・世界維新の上に於て、天皇陛下の靈的な親衞隊・近衞兵になるものは、神社界であり、神道界でなければならないわけであります。

 明治九年の神風連の人々は、幕末維新、即ち明治維新の時の熊本細川藩の、肥後勤皇黨の諸君であります。これが明治になつて、首領太田黒伴雄先生を始め、四五十名が神職になつたわけであります。もともとは武士でありますが、首腦・中堅の殆んどが神職になり、神社に奉仕致したわけであります。さうして日夜、我が身を禊ぎに禊ぎ、祓ひに祓ひ、清めに清めて、祖國日本のけがれを祓ひに祓つて頂き度い、禊ぎに禊いで頂き度い、清めに清めて頂き度い、さうして維新の精神を、近代西洋流の資本主義文明によつて、「文明開化」の名のもとに、再び大きくけがしてゆくやうな事の無いやうにといふ事を、自分の奉仕するお宮の御祭神に向つて、身命を賭して祈りに祈つたわけであります。その結晶が、明治九年の「神風連の變」となつて現はれるわけであります。從ひまして「神風連の變」といふものは、別の言葉で言ひますと、「うけひの戰ひ」であり、「靈の戰ひ」であります。神風連の人々は、烏帽子・直埀をつけて、當時の近代化された日本の正規軍に對して、日本刀を持つて斬り込んで行つた。これは、物理力としては、始めから勝つ筈は無いわけであります。何故ゑ勝つ筈の無い、勝目の無い戰ひをしたのか。熊本鎭臺――後の熊本師團――に、僅か百數十の兵力で、日本刀と槍を持つて斬り込んで行つたかと言ふと、それは「靈の戰ひ」・「神の戰ひ」・「祈りの戰ひ」をする爲であつたからであります。「物理力の戰ひ」・「軍事力の戰ひ」・「人の戰ひ」をする爲でなかつたからであります」と。



●影山正治翁『三島由紀夫と新國學』(昭和五十三年十二月八日・第七囘現代國學講座講演・『現代國學』第五號)に曰く、「

 三島由紀夫君の晩年に到達したところは、日本の國體の本質は祭祀國家にある、この祭祀國家の一番重點をなすものは、宮中三殿と伊勢神宮である、ここなのです。心ある日本人として最後に守るべきものは、生命ではないので、生命より絶對に大切な日本の國體であるのだ。それを端的にいふなら、「三種の神器であり、宮中三殿だ」(石原愼太郎との對談「守るべきものの價値――われわれは何を選擇するか」。『尚武のこころ』昭和四十五年九月・日本教文社刊に所收)と、文學的・象徴的に表現してゐるわけです。‥‥

 現在、小林秀雄氏が『本居宣長』を書いて、洛陽の紙價を高らしめてゐます。小林秀雄といふ文學者は、近代西洋を十分に通つてきた人です。藝術派的立場から、反共的で通してきた人です。三島由紀夫は、また戰後長らく藝術的立場にゐた。小林も三島も、藝術派的立場故に反共的であり、そこから國學に向つたわけですが、重大な違ひがある。三島由紀夫は、宣長を彼なりに超えて篤胤にゆき、更に神風連にいつたのに對し、おそらく小林秀雄は、本居宣長でとどまるでせう。‥‥『本居宣長』は大變な勞作であり、一種の名作です。が、三島由紀夫と違ふところは、違ふところとして、見極めておく必要がある。三島由紀夫は、文學を超えたわけです。‥‥

 多年の親友たる伊澤甲子麿(大東塾の道友關係)に對して、表の遺言でなく、裏の遺言を託してゐるわけです。それには、『表の葬儀は家の宗旨である佛教でやつてくれてよろしい、必ずしも神道で、とはいはない。ただし家の葬儀を佛式でやつた後は、自分の到達した信念・信條にもとづいて、神道により、神ながらに、自分と森田必勝の祭りは續けてくれよ』と言つてゐるわけです。

 事實そのやうに、その後行はれてゐます。やや形式化してゐる點、また憂國忌といふ名稱そのものも問題點ですが、いづれにしても乃木神社の宮司以下が奉仕して、神式で毎年の御祭が行はれてをります。‥‥これは三島君の到達點に、最も沿ふあり方でせう。その伊澤君に遺した裏の遺言のなかで、その祭典の奉仕は、松陰神社か乃木神社に依頼してほしいと付け加へるわけです。松陰神社は斷つた由である。事件直後に三島・森田兩士の御靈祭りの奉仕を、世間を憚つて、松陰神社は辭退した。‥‥かたや乃木神社においては、高山宮司が率先して喜んで奉仕し、爾來毎年、御奉仕を續けてくれてゐるわけであります。‥‥

 昭和四十一年に、『英靈の聲』を書く。‥‥しかしこのときは、いまだ北一輝の路線なのです。そして二・二六事件のうちでも一番革命派であつて、維新派ではない磯部淺一主計大尉の線で書かれてゐる。だから『英靈の聲』と稱しながら、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」といふ、天皇陛下に對する批判、怨みの表現になつてゐる。文學的表現ですが、これは端的な思想の反映といふべきでせう。だから、これは「英靈の聲」でなくして、「亡靈の聲」といふべきでせう。

 彼は死ぬ年、昭和四十五年の正月に人々を招いたときに、彼の後ろに磯部淺一の軍服姿の亡靈が現はれたと、人々が證言してゐる。そこで祈祷師に頼んで祓つてあげようと言つたら、それを辭退した。そして自ら祓つたといふことは、北一輝を超えることができたわけです。

 四十一年に『英靈の聲』を出したが、間もなく更に一歩、神道國學の線にゆかねばいけないといふことで、神風連に眞つしぐらに行つたわけです。そしてその案内をした先輩、我々の同志(愚案、肥後の荒木精之翁)に對して禮状を出してゐる。「私が今囘、『英靈の聲』を書いたすぐ後、熊本の神風連の墓にひれふす機會を得なかつたら、私は終生堂々めぐりをして、要するに『英靈の聲』程度で終つたらう。私は今囘はじめて本物を把むことができた。魂の故郷に歸ることができた、私の魂の故郷は、神風連・神道國學であつたのだ」といふ意味のことを、切々と禮状に書いてゐる。

 ここからの四年間に、「一貫不惑」(『對話・日本人論』)などのことばも出、私(影山翁)などとの接觸も出てくるわけです。この最後の四年間を、彼の到達點とみるべきでせう。‥‥我々は昭和十五年・十六年といふ段階で、新國學運動といふものを行つてをつた。當時、切に言つたことは、日本浪漫派を超えなければいけない。日本浪漫派を認めながら、尊敬し、學びながら、日本浪漫派を超え、神道國學に立たなければならない、といふことです。最後の段階で、三島由紀夫は、日本浪漫派の故郷に歸り、これを超えた。神道國學において、最後の決をとつた、といふことを、私は見てゐるわけであります」と。



●林房雄翁・三島由紀夫氏『對話・日本人論』(昭和四十一年十月・番町書房刊)に曰く、「

(三島氏云、)國學でも宣長の幽顯思想は、幽界・顯界がそれぞれ所を得て分かれてゐる。これは靜態學的ロジツクで、行動の原理にはならない。篤胤へ來ると、『玉襷』などさうだが、幽顯一貫といふことになつて、ここではじめて行動哲學になるのです。神風連の思想的師父の林櫻園の『宇氣比』へ來れば、さらに一歩をすすめて、すべて神意のまにまに、といふことになり、行動哲學の動態性が完成する。‥‥

 僕は、この熊本敬神黨、世間では神風連と言つてゐますが、これは實際行動にあらはれた一つの藝術理念でね、もし藝術理念が實際行動にあらはれれば、ここまでいくのがほんたうで、ここまでいかないのは、全部現實政治の問題だと思ひますよ。それでは、彼らがやらうとしたことは、いつたいなにかと言へば、結局やせても枯れても、純日本以外のものは、なんにもやらないといふこと。それもあの時代だからできたので、いまならできないが、食ふものから着物からなにからかにまで、いつさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら、死ぬだけなんです。失敗するにきまつてるのですがね。僕はある一定數の人間が、さういふことを考へて行動したといふことに、非常に感動するのです。

 思想の徹底性といふこと、思想が一つの行動にあらはれた場合には、必ず不純なものが入つてくる。必ず戰術が入つてきて、そこに人間の裏切りが入つてくる。それがイデオロギーといふものでせうが、さうして必ず目的のためには手段を選ばないことになつちやう。だけれども神風連といふものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的・手段のあいだの乖離といふものはあり得ない。それは藝術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神といふもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんフアナテイツクな純粹實驗は、ここだつたと思ふのです。もう二度と、かういふ純粹實驗はできないですよ。‥‥

 それで僕は、いまの、日本だ、日本人だと言ひ、ウイスキーを飲みながら、おれは日本人だ、自動車を乘りながら、おれは日本人だ、と言つてゐる連中の觀念のあいまいさ、それは林さんのおつしやるやうに、總括的には立派な日本人ですよ。しかし一度、あいまいな日本精神とかなんとかを、ここでもつてもう一度、よくこれを振り返つてほしいのです。さういふ意味で、僕は神風連を言ふのですよ」と。



●三島由紀夫氏『荒木精之翁宛書翰』(昭和四十一年九月三日附。荒木精之翁『初霜の記――三島由紀夫と神風連』・昭和四十六年十一月・日本談義社刊に所引)に曰く、「

 神風連の遺風を慕つて訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地として感じられました。小生も久しくheimatlosの人間であつた、と痛感しました。日本の古典文學はずつと好きでしたが、それには藝術鑑賞といふ安全瓣がついてゐて、こんなに心を射拔くやうなものに、今まで觸れることがありませんでした。神風連は、小生の精神史に、一つの變革を齎したやうであります。

 それにつけても、この強烈な反時代精神を、御自身の反時代精神とされて、戰後の時代をずつと一途に、神風連の擁護に集中して來られた(荒木翁の)御志に、深い敬意を覺えます。私も、亦、順應主義をもつとも憎みますが、日本人の中にある、あのどうしやうもない順應主義は、一體どこから來たものなのでせうか」と。



●三島由紀夫氏『荒木精之翁宛書翰』(昭和四十三年八月十七日附。荒木精之翁『初霜の記』所收)に曰く、「

 『奔馬』で、私は鴎外以來、閑却されてゐた眞の日本及び日本人の問題を展開したかつたのです。近代の心理主義には、すつかり愛想をつかしました。昔の小生だけを知つてゐる人は、かういふ變貌を理解してくれないばかりか、オポチユニストのやうに言ひますが、小生としては、休火山が爆發しただけと申したいのです。

 荒木樣の終戰直後の御行動を見聞するにつけ、現在も神風連顯彰にたゆまぬ御努力を注がれてゐることが、決して過去の問題ではなく、現在の問題であり、決して思想だけの問題でなく、人間の行動の問題だといふことを深く教へられます。日本の知識人のだらしなさを見るにつけ、行動と責任の問題については、何とか自分を鍛へて行きたいと念じてをります。あゝいふ文化人の群の一人になりたくありません」と。



●荒木精之翁『神風連實記』(昭和四十六年十一月・新人物往來社刊)の「序」に曰く、「

 私が神風連のことを喋りたくないといふのは、一つにはこんにち神についての信仰が、殆んどくづれ去つてゐるからである。神風連の理解は、神信仰があつてはじめてわかることである。神風連の志士の精神は、師林櫻園によつて教へられた敬神を第一義としてゐる。「世の中は、ただ何ごともうちすてて、神をいのるぞまことなりける」と櫻園はいひ、また「神事は本也、人事は末也」といつたが、神風連の志士は、その教へのままに敬神を第一とした。神を敬ふことは、皇上を敬ふことであつた。それは、皇上は神裔であり、嚴然として現つ神であるといふ信念からである。神風連が尊王といふのは、他の多くの志士に見る討幕の反語としてのそれではなく、信念の上に確固とうちたてられた尊王であつた。攘夷もまた敬神の具體的な現はれであつた。

起きていのり伏してぞ思ふ一筋は 神ぞ知るらむわが國のため(太田黒伴雄)

八百萬神にぞいのる一筋は 世にこそかかれ身をば忘れて(加屋霽堅)

 當然のことながらこのやうな神風連は、開國を國是としておしすすめた明治新政府と、鋭く對立した。開國によつて歐米の思想・制度・文物が奔流のごとく流れこみ、古來の思想・傳統・風俗・文化・制度は、片端から破壞されてゆく。破壞の果ては國體におよび、國民道徳の根幹にも及ばうとするのである。ここにおいてか神風連は、國體擁護・古道護持のため、彼らがとつてもつて信仰する宇氣比にかけて、事をあげるに至つたのである。‥‥彼らは人間の智慧・才覺・判斷をさけ、ひたすら神慮によつて兵をあげたのである。それが必敗であり、必死であり、そのために身家を破り、暴徒逆賊となることを知りながら、信仰に殉じ、主義に殉じ、國の危機に殉じたのであつた。

 私はその熱烈な至誠、鐵火の信仰に瞠目するのである。邦家の浮沈を憂ひ、滔々たるたる開化の大勢に、心魂をもつて堂々直進する、大勇の信念をたたへるのである。何ものも強請したものもなく、ただやむにやまれぬ日本魂の發進であつた。そこには露ばかりの利害打算も成敗利鈍もなく、清淨無心、無垢獻身があるばかりであつた。‥‥神風連は、わが國史上、數少ない一つの異彩である。異彩であつて、しかも日本的な深い本源的なものがある。こんにちこの時、かくのごとき清冽な魂があつたことを考へるのも、徒爾ではあるまい。吉田松陰曰く、『群夷競ひ來る。國家の大事と雖も、深憂するに足らず。深憂すべきは、人心の正しからざるにあり。苟しくも人心だに正しければ、百死以て國を護る』と」と。


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