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  • 和氣公傳

  • 投稿者:備中處士
 
平成二十二年四月十五日、建立。

 明日、四月十六日は、『和氣公精神顯揚日』なり矣。

 是の日は、神號神階宣下の、太陰太陽暦三月十五日を、太陽暦に換算せし日なり。昭和十六年七月、岡山縣教育會總會にて決議せられたり。

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  • 歪められ、無視されてしまつた、大和氣公。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 5月11日(火)20時37分30秒
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●田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』(田中卓評論集二・平成十二年十二月・青々企劃刊)に曰く、「

(文部省『初等科國史』上「第三・奈良の都――二・遣唐使と防人」昭和十八年二月版に、)

奈良の御代御代は、かうして、平和のうちに過ぎて行きましたが、ここに思ひがけないことが、國の中に起りました。それは道鏡といふ惡僧の無道なるふるまひです。道鏡は[第四十八代]稱徳天皇の御代に、朝廷に仕へて政治にあづかつてゐましたが、位が高くなるにつれて、しだいにわがままになり、つひに、國民としてあるまじき望みをいだくやうになりました。すると、これもある不心得者が、宇佐八幡のおつげと稱して「道鏡に御位をおゆづりになれば、わが國はいつそうよく治るでございませう。」と奏上しました。いふまでもなく、道鏡に對するへつらひの心からいひ出した、にくむべきいつはりごとでありますが、天皇は、わざわざ和氣清麻呂を宇佐へおつかはしになつて、神のおつげをたしかにお聞かせになりました。

 宇佐から歸つた清麻呂は、天皇の御(おん)前に進んで、道鏡にはばかるところなく、きつぱりと、かう申しあげました。
「わが國は、神代の昔から、君臣の分が明らかに定まつてをります。それをわきまへないやうな無道の者は、すぐにもお除きになりますやうに。これが宇佐の神のおつげでございます。」
なみゐる朝臣は、すくはれたやうに、ほつとしました。あたりは水を打つたやうな靜けさです。清麻呂はこの奏上によつて、無道の道鏡は面目をうしなひ、尊いわが國體は光を放ちました。しかも、清麻呂のかげに、姉廣蟲のなさけのこもつた、はげましがあつたことも、忘れてはなりません。やがて[第四十九代]光仁天皇の御代に、道鏡は下野の國へ流され、清麻呂は、朝廷に重く用ひられるやうになりました。

 宇佐の神敕を受けて國をまもつた清麻呂も、千萬の寇(あだ)を筑紫の海にとりひしがうとする防人も、忠義の心は一つであります。清麻呂は、廣蟲とともに、京都の護王神社にまつられ、その銅像は、宮城のお堀の水に、靜かに影をうつして、いつまでも皇國をまもつてゐるのであります。


 さて、この教科書を見て、讀者はどのやうな印象をもつであらうか。第一に、仲々の美文である。清麻呂の「神のおつげ」奏上の記事のあと、「なみゐる朝臣は、すくはれたやうに、ほつとしました。あたりは水を打つたやうな靜けさです。清麻呂はこの奏上によつて、無道の道鏡は面目をうしなひ、尊いわが國體は光を放ちました」とある。第二に、忠義の宣揚である。「宇佐の神敕を受けて國をまもつた清麻呂も、千萬の寇を筑紫の海にとりひしがうとする防人も、忠義の心は一つであります」と結び、「忠義の心は一つ」といふことで、清麻呂の事蹟を「遣唐使と防人」の條下に收めた理由の關連付けを試みてゐる。

 これを學んだ當時の小學生は、光を放つ“尊いわが國體”に感激し、“忠義の心”を振起したことであらう。子供だけではない。この執筆者も、また世の國體讚美の人達も、多くはこの文章に醉ひ癡れたと思はれる。いや、當時だけではあるまい。今日でも、この教科書を讀んで、一體どこに問題があるかが判らず、美文の中に内在する陷穽に、氣付かぬ一般人も少なくないのであるまいか。

 しかし、およそ歴史を正しく學ぶためには、過去の史實に對する十分な理解と、故人を地下から喚び起して、その心裡を忖度する見識を必要とする。その觀點から言へば、この教科書には、明らかに史實を祕匿したり、故意に省略したりして、國體讚美の目的のために筆を曲げたと、批難されても仕方のない敍述がある。例へば、「なみゐる朝臣は、すくはれたやうに、ほつとし」、「無道の道鏡は面目をうしなひ」といふのは、その場の實情とは遠くかけはなれてゐる。正史(『續日本紀』)の記すところによれば、「清麻呂、歸り來りて、奏するに、神敕の如くす。是に於いて道鏡、大いに怒り、清麻呂の本官を解いて、出して因幡員外介と爲す。未だ任所にゆかざるに、尋いで詔あり、除名して大隅に配す。其の姉法均も還俗して、備後に配す」とあるのである。

 この間の詳しい事情は、同じく正史(『日本後紀』)の和氣清麻呂の薨傳に見えるが、それによると、この奏上を聞いた道鏡は、憤怒の餘り、清麻呂の死罪をも要求したらしい。それに對して、「天皇、誅するに忍びたまはず、因幡員外介と爲し、尋いで姓名を改め、別部汚麻呂と爲し、大隅國に流す。尼法均を還俗して、別部狹蟲と爲し、備後國に流す」と記されてゐる。「和氣朝臣」を「別部」と賤稱し、「清麻呂」を「穢麻呂」、姉の法均の「廣蟲」を「狹蟲」と改名せしめて、流罪に處したのである。この處置は勿論、道鏡の劃策といつてよい。それだけでなく、道鏡は流罪となつた清麻呂を道中で殺さうとして手を打つが、たまたま雷雨激しく、そのことが實行されない中に、俄かに敕使が到來して、やつと難を免れることを得た、と傳へてゐる。これによれば、清麻呂は道鏡のために、謀殺寸前にまで追ひつめられてゐたのである。

 この前後の事情を考へ合す時、當然推知せられ、そして見逃してはならない重要な一點がある。それは、當時、權勢竝ぶものなく、皇位まで覬覦しようとした法王道鏡を前にして、清麻呂が「我が國家は開闢以來、君臣定まれり。臣を以て君と爲すこと、未だこれ有らざるなり。天つ日嗣は、必ず皇緒を立て、無道の人は、宜しく早く掃除くべし」といふ神敕を、堂々と臆することなく奏上した時、彼は恐らく自らの死を覺悟してゐたであらうといふことである。

 これは必死の奏上であつたにちがひない。その實情を考へると、この時、「なみゐる朝臣は、すくはれたやうに、ほつとしました」とか、「この奏上によつて、無道の道鏡は面目をうしなひ、尊いわが國體は光を放ちました」といふ文章が、いかに空疎で白々しい表現であるか、明らかであらう。竝居る朝臣は、「ほつとする」どころか、實際は奏上の意外な内容に驚愕して息をのみ、今後に待ちうけてゐるであらう大變に恐れ慄いたことであらう。その證據に、清麻呂に對して下された斷罪に、誰ひとり反對せず、即座に追放が決定されてゐるではないか。道鏡は「面目をうしなふ」といふよりは、寧ろ怒り心頭に發して猛り狂つた。「國體は光を放つた」のではなく、この時、正に國體はふみにじられようとしてゐたのである。

 この教科書には、清麻呂の宇佐出發に際して、道鏡が、私利を以て清麻呂を誘惑しようとした事實が書かれてゐない。そして最大の缺點は、神敕奏上の結果、清麻呂と廣蟲が、遠く大隅と備後とに流罪になつたといふ重大な事實に、全く言及してゐないことである。そして突然に、「光仁天皇の御代に、道鏡は下野の國へ流され、清麻呂は、朝廷に重く用ひられるやうになりました」とあるが、道鏡の下野藥師寺別當への左遷は、清麻呂の神敕奏上當時に、豫想されてゐたことではない。その後、たまたま稱徳天皇が崩ぜられ、光仁天皇が即位された後の政局の改革から、計らずも道鏡の失脚となつたにすぎない。

 忠義の尊いことは、身命を賭し、成敗を顧みないで實踐をするところにある。首尾よい結果を得ることもあらうが、楠木正成のやうに戰死して、長く賊名の冤(ぬれぎぬ)をうけることもある。清麻呂の場合は、幸に中央政界に復歸しえたが、その筋書だけで、“めでたし、めでたし”と終るのは、年表の類ひであつて、歴史ではない。歴史ならば、清麻呂が道鏡の誘惑を振り切り、決死の覺悟で神敕を奏上したこと、それによつて流罪となり、謀殺の危險に遭遇しても、少しも屈しなかつたこと、そして當時の朝廷にあつた公卿達が大勢順應で、道鏡の機嫌をとり、正義を貫く見識も勇氣もなかつたこと、このやうな歴史の不幸な事實を明らかにせねばならない。この負(マイナス)の實態に言及せず、或はそれを隱して、結果としての正(プラス)の面のみを、都合よく綴り合せて、國體の讚美を説くもの、これが皇國美化史觀である。このやうな國史の“美化”は、眞實を解明する力を喪つてゐるが故に、父祖の足跡に學ぶといふ、歴史としての價値に缺ける。それ故、戰時中の皇國美化史觀は、槿花一朝の夢と化したのである。眞の歴史は、先哲に範を求め、その教を仰いで、時としては悲劇の中にも血路を求めようとする志操と實踐の中にこそ、復活してくるのである。

 このやうに説くと、讀者の中には、小學校の歴史教科書に、そこまで期待するのは過剰な要求と思ふ人があるかも知れない。しかし、實はさうではない。‥‥

(それ以前の、例へば文部省『小學國史』上卷「第九・和氣清麻呂」昭和十五年二月版には、)

佛教がだんゞゝ盛になると、えらい僧がつぎゝゞに出てきた。中でも、行基は、諸國を旅行して、いたるところで、寺を建て、道を開き、橋をかけ、池を掘り、舟つきを定めなどして、大いに世の中の利益をおこしたので、人々からたいへんうやまはれた。けれども、一方には、道鏡のやうな心のわるい僧も出た。道鏡は[第四十八代]稱徳天皇の御代、朝廷にお仕へして、政治にもあづかり、勢が強かつた。たまゝゝ道鏡にへつらつてゐたものが、宇佐八幡の御告であるといつはつて、「道鏡を皇位に即かせると、天下はおだやかに治りませう。」と、天皇に申しあげた。道鏡はこれを聞いて、たいそうよろこんだが、天皇はもう一度神の教を受けてくるやうにと、和氣清麻呂を宇佐へおやりになつた。

 清麻呂が宇佐に行かうとした時、道鏡は清麻呂に向つて、「高い官位を與へるから、自分によいやうにはかつてもらひたい。」といつて、利を以て味方にさそひ入れようとした。けれども、清麻呂は、忠義の志の深い、りつぱな人であつたから、決して自分の出世のためにその志をかへるやうなことはなかつた。宇佐から歸つてくると、すぐ天皇の御前に進み出て、「わが國は、國の初から、君と臣との別は明らかに定まつてゐる。どんなことがあつても、臣であるものを君にすることはない。無道のものは早く除け。」といふ神の教を、少しも恐れることなく、そのまゝ、きつぱりと申しあげた。

 道鏡は大いに怒つて、清麻呂を大隅に流し、しかも、その途中で殺させようとした。その時、ちようどはげしい雷雨があつたため、清麻呂は、危いところをやつとまぬかれることが出來た。それから、まもなく、[第四十九代]光仁天皇の御代になつて、道鏡は下野に追ひやられたが、清麻呂は呼びかへされ、[第五十代]桓武天皇の御代まで朝廷にお仕へ申して、ますゝゝ忠義をつくし、重い役に用ひられた。今は京都の護王神社にまつられてゐる。わが國の臣民は、皆つねに清麻呂のやうな心がけを忘れてはならぬ。

 清麻呂の姉の廣蟲も、また眞心こめて朝廷にお仕へ申しあげ、弟ともたいへん仲がよかつたので、人々は皆感心してゐた。清麻呂が流された時、廣蟲も備後に流されたが、清麻呂といつしよに呼びかへされて、ふたたび朝廷に用ひられた。廣蟲は、つつしみ深い人で、一度も他人のかげ口をいつたことがなく、またなさけ深くて、たくさんの棄兒を拾ひ集めて、育てあげたが、その數は八十人餘りにも及んだといふことである。今は、廣蟲も護王神社に合はせまつられてゐる。


 見られるがよい。ここには、道鏡が清麻呂に向つて、「利を以て味方にさそひ入れようとした」が、清麻呂は「決して自分の出世のためにその志をかへるやうなことはなかつた」といふこと、また神敕奏上に際して、「道鏡は大いに怒つて、清麻呂を大隅に流し、しかも、その途中で殺させようとした」といふこと、更に姉の廣蟲が多くの棄兒を育てたといふ、慈悲深い行爲まで詳しく説いてゐる。これこそが、正當の國民教育の歴史教科書といふべきであらう。しかるにこの傳統的な内容が、俄かに皇國美化史觀の教科書に變更せられたのが、昭和十八年のことである。この文部省史觀こそ、和氣清麻呂の忠義を曇らせた張本人といはねばならない」と。



 愚案、紙背に徹して「見られるがよい」。和氣清麻呂公の實像は、戰中に於ても歪められ、必死辛苦の樣は傳へられてゐないのである。戰後になれば、もう完全に無視されて、郷土の一偉人として顧みられることはあつても、合理的・近代的歴史とやらに、遙か忘却の彼方に押しやられてしまつてゐる。こゝに横田健一博士の著『道鏡』(人物叢書・昭和三十四年三月・吉川弘文館刊)が在る。横田博士は、昭和十八年晩秋、護王神社にて組織された和氣清麻呂公傳記編纂委員會の一員であり、和氣公の傳記を書くことを願つてゐたものゝ叶はず、此の著書で、公の事績を明かにすることが、其の本旨であつたと云ふ。曰く、「

 ふたたびかれ自身が祈り、そのエクスタシーの状態において、かれの潛在意識、すなはちかれ自身の本心の聲をきいたわけであらう。それはもちろん道鏡排斥の聲であつた。神の姿が長け三丈で滿月のごとく云々は、荒唐無稽で、合理主義的・理性的な近代人には信ぜられないが、宗教信仰の厚い上代人の、さうしたエクスタシーにおいてみた幻覺であるとするならば、容易に理解しうる話である」と。

 なんぢやらほい。開いた口が塞がらない‥‥。エクスタシーだの、幻覺だなどと云はれて、精神病患者にされかけた和氣公は、如何に思うてをられようか。斯くて大和氣公必死の祈願、神道の神祕は、こゝに蹂躙されて、正史の權威は、遂に泥に塗れてしまつたのである。戰前も戰後も、公を傳記せむと欲する人は同じであることに注視しなければならない。戰前ならば、和氣公を「かれ」と呼び、幻覺の「話」と書いたであらうか。要は、書き手の、勇氣の有無、識見の如何に在るのである。

 『日本後紀』延暦十八年二月二十一日條を再掲し奉る。曰く、「(宇佐八幡)神、即ち忽然として形を現したまふ。其の長け、三丈許り。色、滿月の如し。清麻呂、魂を消し度を失ひ、仰ぎ見ること能はず」と。

 支那漢代の一丈は2.31m、皇國明治以降の一丈は3.03m。平田篤胤大人『天柱五嶽餘論』所引の校合本『漢武帝内傳』を繙けば、「(天仙)皆な長け一丈餘」と傳へたり。亦た神宮神御裳祭に於いて祭神に衣裝を奉納するが、其の大きさは一丈位の身長の御方が身につけて、丁度良い大きさとなると云ふ。「(日本武尊)壯に及びて、容貌魁偉、身長一丈。‥‥(仲哀)天皇、容姿端正、身長十尺」(『日本書紀』景行天皇記・仲哀天皇紀)とあれば、之を傍證するに足る。「神人の身長の一丈許りといふは、今人より思へば、餘りに長大なるが如くなれど、神人にしては珍しからず。總て上代の人は、人身、極めて長大にて、日本武尊も、御身長一丈と申し、また御叔母倭姫命の小袖を借着し給ひきといへば、叔母君の御長も、同じ程なりしなるべし」(薫園物集高見博士『人界の奇異と神界の幽事』大正十四年十月・嵩山房刊)。亦た「天孫降臨當時の神々は‥‥、御男神で一丈二尺内外、御女神で一丈内外が御標準ではないかと拜せられる」由(南嶽清水宗徳翁『宮地神仙道玄義』)。

 それにしても「其の長け三丈許り。色、滿月の如し」とは、正神の正神たる所以にして、「魂を消し度を失ひ、仰ぎ見ること能はず」、神さびたりとも神さびたり、其の實景を映し奉つて餘りありと謂ふべし矣。皇統の危機に在つては、至誠懇祷の極まる所、遂に皇神の來臨を仰ぐに至る。正に天壤無窮の神敕、眞に相違なき靈驗を現に拜し奉つて、皇國の大幸、之に過ぐるものは無いのである。

  • [10]
  • 嗚呼、和氣公の精忠英烈、偉勳大節、千歳炳然として、日月と光を爭ひ、富岳と倶に高し。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 5月 5日(水)21時44分19秒
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●座田惟貞翁『和氣公追褒の建議』(鷹司關白に上りし請願。湯本文彦翁『和氣公紀事』明治三十二年十月・和氣會刊)に曰く、「

 贈正三位・和氣清麻呂卿の儀、去る申年、一千五十年に及び候ふ趣、承知仕り候ふ。此の卿の大功業は、開闢より以來、和漢にもためし無く、第一、平安城遷都の御事も、此の卿、潛かに地理を撰奏して、其の功を遂げられ、山城・大和の水災を除き、私の墾田を以て郷民の勞を助けて、河内・攝津に大川を通し、亦た醫術を精しくして諸人を救ひ、民部大輔となりし時は、『省例』二十卷を撰みてこれを獻じ、殊に神護景雲の頃、侫邪の黨ありて、已に皇統を凡鄙に移し奉らんとされし時、此の卿、獨立獨行して他を顧りみず、一命を塵芥よりも輕んじ、忠勇節烈の操、萬人の上に突出し、至大至剛の心、一己の力を以て、速かに魍魎を拂ひ除け、更に皇統御連綿、天下太平、萬民安穩に目出度き御代と相成り、嘉永の今日に至り候ふも、偏へに此の卿の肺肝より出、日月、將に傾かんとすれども、地に墜ち給はず。若し其の節、皇統、凡鄙に移らば、二たび其の本に歸り給ふべき筋は御座ある間敷く、蠻夷のごとく、君臣上下の禮讓を失ひ、朝の君・夕の臣と相成り、強者は弱者を退け、たちまち革命の國と變じ、西土の如く、人面獸心の者、天位を汚し、神國の光輝を失ふべき哉の所、速かに清風浮雲を拂ひ、一天晴明、赫然として光曜、以前に倍し、再び動くべき筋、決してあらせられず、磐石の堅固の如く、御榮えましませしも、此の卿の餘勳と、恐れながら存じ奉り候ふ。聖經に曰く、『徳、懋懋なれば官し、功、懋懋なれば賞す』と相見え、また『徳を旌さゞれば、則ち勸善の道缺け、賞を致さゞれば、則ち報功の典廢す』と申し候ふ事とも、古書に多く相見え申し候ふ。千有餘年の今日に至り、忠節の大功を思召し忘れ爲されず、其の功業を賞せられ候へば、六十餘州、大小の神祇も御心に叶ひ、貴賤上下に至るまで、一には天朝の御高徳を仰ぎ奉り、二に輔佐の明良も聖意に感じ奉り、彌々萬世不易にして、天地とともに窮りなき御代の鴻基と相成るべく存じ奉り候ふ。

一、當時、御國の學文流行、都鄙、和魂の輩多く、夫々朝廷の御爲筋を心附け、色々了簡の趣、申し出で候ふ者も、粗々これ有る哉に候ら得ども、時世の御模樣、何事も内外御振合せ不案内にて、忠誠と心得候ふ事ども、時世に叶はず、却つて不忠と變ずべき儀ども、粗々承り、歎かは敷く存じ奉り候ふ。清麿卿、丕蹟の儀は、國史に通じ候ふ者は申し上ぐるに及ばず、凡庸の者までも、御恩賞の菲簿を疑惑仕り罷り在り候ふ次第、前件に申し上げ候ふ通り、『功、懋懋なれば賞す』と申し候ふ聖經とも思召し出で爲され、宜敷く御勘考も在り爲され候ら得ば、上下一統、御恩澤の程、肺肝に銘じ、幾億萬歳、目出度き御世、朝廷の御守りと相成り、彌々光輝四海に滿つべくと、恐れを顧みず、此の段、御前迄で歎願奉り候ふ。宜しく御尊考の程、偏へに御願ひ申し上げ奉り候ふ。以上。

 嘉永二年九月
   右兵衞大尉紀惟貞」と。



●鷹司□[二水+熙]通公『祭文』(明治三十一年四月八日。『和氣公紀事』)に曰く、「

 維れ明治三十一年四月八日、和氣會會長・正三位・公爵・鷹司□[二水+熙]通、敬みて贈正一位・和氣公の墓前に白す。

 嗚呼、公の精忠英烈、偉勳大節、千歳炳然として、日月と光を爭ひ、富岳と倶に高し。孝明天皇、聰明叡聖、公の大勳偉徳を褒し給ひ、先臣・政通に敕して、公の靈祀を崇ひて、護王大神となし、極位を授けしめ給ふ。政通、恭て聖旨を奉じ、有司に命じて、其の禮を行なはしむ。

 今上天皇即位の後、公の靈祀を別格官幣社に列し、官祭に預からしめ給ふ。而るに公の墓は、深山松檜の中に在りて、寒烟蔓艸に埋沒す。此に經過するものは、涙落ち腸斷ゆ。今、茲に戊戌の歳、公薨ぜられしより、實に一千一百年に當るを以て、公の盛徳偉勳を瞻仰するもの、公の墓を修營し、護王神社に於て、一大祭事を擧行せんと欲し、相與に謀りて和氣會を設立し、□[二水+熙]通を推して會長と爲す。□[二水+熙]通、不肖を顧みず、敢て其の任に當れり。

 事、朝廷に聞し、特に公に正一位を贈り、併せて内帑の金を賜へり。聖旨優渥、誰か感泣せざらんや。乃ち公の墓を修し、碑を立て、以て其の攸を表す。茲に粢盛を奉じ、以て虔告す。尚くは饗けよ」と。



【皇國護持・皇統護持の誓願】

●若林強齋先生『神道大意』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/6

●鈴木重胤翁『嚴橿木集』
死も活も 神のまにまに 大君の 守護(まもり)となりて 仕へまつらむ

  • [9]
  • 和氣氏殉皇。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月26日(月)22時04分36秒
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●寒林平泉澄博士『神道の本質』(昭和五十一年七月二三兩日、神宮道場での神社本廳主催の指導神職研修會に於ける集中講義。『先哲を仰ぐ』平成十年九月・錦正社刊)に曰く、「

 清麻呂公の子孫が、非常な大きなはたらきをしてをられる。そのことを、世間ではほとんど見てをらない。これを私は歎くのでありますが、どういふことであつたかと言ひますと、承久の變(愚案、或は「承久の御企」・「承久の御計劃」にして、所謂「承久の亂」に非ず)のときであります。御承知の通りに、承久の變に、官軍敗れまして、賊軍、京都に亂入しまして、後鳥羽上皇は、隱岐へお流し申しあげる。このことを詳しく見てゆかなければ、日本の歴史はわからないとまで、私は思ふのであります。

 その後鳥羽上皇、隱岐へお流されになりましたのが、確か四十一・二ですね。男なら四十二が厄年でありますが、その時分にお流されになつて、隱岐においでになりますこと十九年、六十歳でおなくなりになりました。順徳上皇に至つては、二十四・五歳でお流されになり、佐渡なおいでになること二十二年、順徳上皇は病氣でおなくなりになつたのでなくして、絶食しておなくなりになるのです。かういふ悲慘なできごとの中に、日本の歴史といふものが眞劍に考へなければならぬ。日本の國體といふものは、たゞ禮讚して終はるべきものではない。この悲慘な事件の中に鍛へられてきてをる日本の道義といふものが、國體を光あらしめてをるのであります。(愚案、此の視點こそが、文部省『國體の本義』と平泉先生とを隔てる所の重要な史觀の相違なり。平泉澄先生『國史の威力』――昭和十八年五月――に曰く、「國史は大局の上に立ち、國體の大義に依り、皇國の理想に照らして、雄渾なる反省を必要とする。決して些々たる末節にとらはれ、徒らなる論難攻撃を事とすべきでないと同時に、また因襲に從ひ、淺薄なる美化主義に盲從すべきでもない。即ち我等は、おほらかに、而して大膽に、皇國日本の歴史の眞實の姿を明かにしなければならぬ。そこには何の作爲もなく、欺瞞もあるべきでない。而して其の作爲なく欺瞞なき眞實の姿は、直ちに大東亞の光となつて輝き、人々に理想を與へ、光明を授けるであらう。換言するならば、日本の歴史は、それを以て大東亞の指導力とせんが爲に、ことさらなる作爲を必要とする程、薄弱無意味なるものでは決してなく、深き反省によつて、その眞實の姿を見つめ、その深遠なる意味を考ふるとき、直ちに現實の重大なる問題を解決する威力を有するものである」と。)

 その後鳥羽上皇・順徳上皇、お流されになりましたときに、誰がお伴をしてをつたかと言ひますと、後鳥羽上皇にお伴をしたと言はれます中のひとりは、長成、これは和氣ノ長成であります。清麻呂公の子孫であります。このことは、『吾妻鏡』にも見えてをりますし、普通の『和氣系圖』にも見えてをります。もう一つは、それは普通の書物に見えてをりませんが、『別本・和氣系圖』に見えてをります。持つてまゐりました。これであります。この系圖に見えてをります。これは江戸時代のごく初めに書かれたものであります。奧に内大臣の署名がありますが、由緒ある『和氣系圖』の寫しであります。その中に、いまの長成も書いてありますが、もう一人、有貞といふ人が書いてあります。

 長成は隱岐へ御伴申しあげ、有貞は佐渡へ御伴申しあげました。和氣といひます家は、特技は醫者であります。朝廷にお仕へするのに、醫學を以てした家であります。その醫者が御伴申しあげてをるといふことは、悲運の上皇にとりまして、どれほどかお慰めであつたか、どれほどか心強く思し召されたことであつたかと思ふのであります。歴史を考へるといふことは、かういふところにおいて考へなければならぬ。

 清麻呂公の、道鏡の陰謀を打ち破られた勇氣、これは實にすばらしいことでありますが、その子孫が、はるか後になりまして、これは清麻呂公がなくなりましてからのち四百五十二年たつてをります。四百五十二年たちましたのちに、承久の大變に遭遇して、長成は後鳥羽上皇の御伴申しあげて隱岐に渡る。有貞は順徳上皇の御伴申しあげて佐渡に渡る。それぞれ悲運の中に、上皇をおなぐさめ申しあげてをるといふことは、實に重大であります。この先祖にして、この子孫あり。日本の道義のみごとさ、その強みといふものを痛感するのであります」と。



 愚案、承久の御計劃の御事については、平泉澄博士『三續・父祖の足跡』(昭和四十二年七月・時事通信社刊)が詳しい。參看せられたい。之に據れば、後鳥羽上皇の御伴申し上げ隱岐に徙つた者、西の御方(實朝夫人の姉妹)・伊賀局(白拍子龜菊)等。施藥院使和氣長成入道(寂信)・左衞門尉藤原能茂入道西蓮の二人は、後より追ひかけて御供したのであつた。順徳上皇の御伴申し上げ佐渡に徙つた者、藤左衞門大夫康光・和氣有貞・左衞門大夫盛實・右衞門督・別當局等。

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ie2.htm



【和氣氏系圖――『續群書類從』卷第百七十一】(*=縣社・備前國和氣神社祭神、即ち是れ也。又た太田亮博士『姓氏家系大辭典』を參照すべし)

∴埀仁天皇
鐸石別命*
稚鐸石別命
田守別王[一云、健眞別王]
弟彦王*[一云、健結別王]
麻己目王[一云、依國別王]
意富己目王[異説云、始めて吉備磐梨別君姓を賜ふ]
伊比遲別王
伊太比別王
萬子[一云、萬侶]
古麻佐[難波朝廷、藤原長舍を立つ]
佐波良*[一本、美作・備前兩國國造と爲す]
佐波豆*[美作・備前兩國國造と爲す]
宿奈*[同兩國國造]
乎麻呂*[同兩國國造]
清麻呂姉・廣蟲*
∴清麻呂*
眞綱兄・廣世[大學頭・文章博士・宇佐使]
眞綱[藏人頭・參議・宇佐使]
貞興[攝津守・美作守・宇佐使]
時雨[典藥頭・侍醫・針博士・醫博士・宇佐使]
正世[典藥頭・醫博士・宇佐使]
相法[針博士・侍醫・宇佐使]
章親[典藥允・宇佐使]
相世兄・成貞[宇佐使。和の扁鵲と號せらる。本朝無雙の明師、醫術、神人に通ずる也]
相世[醫師・宇佐使]
成世[左京亮・右近醫師・宇佐使]
相頼[右近醫師]
貞相[左京亮・宇佐使]
○定成[典藥頭・侍醫・宇佐使]
□定長[諸陵頭・權侍醫・宇佐使]
長成[施藥院使・權侍醫・從四位上。承久三年六月、出家。法名寂信。翌日、仙院の御共と爲り、隱岐に參る。後歸京]

□定長弟・時成[典藥頭・侍醫]‥‥護王神社初代宮司・半井眞澄

○定成弟・貞説[諸陵頭・典藥屬・宇佐使]
貞經[釆女正・權侍醫]
有定[一云、有貞。左京亮・從五位上。承久三年、院の御共と爲り、佐渡國に下向す]

  • [8]
  • 方今の急務は、忠臣義士の顯彰に在り矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月25日(日)15時52分42秒
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●松林飯山先生『和氣清麻呂を褒(たゝ)ふる議に擬す』(丙辰。松林義規翁編『飯山文存』卷一。明治十一年九月刊。『飯山文集』第一編。昭和十二年七月刊)に曰く、「

 臣、史を讀み、和氣清麻呂の事に至り、竊かに其の志を慕ふ焉。是の時に當り、弓削道鏡、方に天皇に寵せらるゝ有つて、勢焔薫灼、威福、已に出づ。之に從ふ者は、利祿爵位、惟だ其の欲する所、之に違ふ者は、禍ひ且つ測られず。天下、之を畏るゝこと、鷙鳥獰獸の如し。吉備眞備の才學を以てすら、猶ほ且つ阿諛□[三水+典]□[三水+忍]、迎合、容を取り、廉恥の風、地を掃ふ。獨り清麻呂、何人なるぞ。敢て其の爪牙に□[手+嬰。ふ=觸]れ、直ちに神語を奏して顧みず、天日を將に墜つるに捧ぐ。此れ其の志、大義に純に、鼎□[金+獲の右]を視ること、飴の如き者に非ざれば、安んぞ能く此に至らむや哉。不幸、天、忠臣を鑑みず、遠く南裔に謫し、流離展轉すること十有餘年、其の後、朝に召還さるゝと雖も、而も賞、功に□[酉+將の右。むく=酬]いられず、格を破り褒崇するに非ざるよりんば、其れ何ぞ忠魂を九京に慰めて、天下の忠臣義士の心に厭はん。

 伏して惟ふに、菅原道眞、端笏、朝に立ち、天子を佐け、外戚を抑へ、國家に勤勞有り。故に身、貶竄に罹りて、後世、贈ること甚だ備ふ。通邑大都より、遐方僻壤に至るまで、道眞を廟祀せざる者莫し。夫れ道眞の功、誠に大なり矣。然るに臣、以爲らく、藤原氏、特に椒房の親を藉り、以て慶讓の柄を擅まにするのみ耳、未だ嘗て天位を□[豈+見]□[兪+見]せず。故に道眞、在らざら使むとも、天日の胤、猶ほ自若たり也。惟だ清麻呂、微(な)かりせば、臣、其の紫色蛙聲(=淫樂)の、汚□[血+蔑]する所と爲つて止むを見るのみ耳。是れ其の功を爲すこと、道眞に倍□[艸+徙。し=五倍]するも、褒贈、未だ備はらず、祠廟、未だ設けず、朝廷の闕典、焉れより大なるは莫し。況んや今、醜虜猖獗、風塵、屡々驚くにおいてをや。方今の急務は、宜しく先づ天下の士氣を振作すべく、而して其の道は、必ず清麻呂を褒崇するより始むべし。伏して望むは、太政大臣・正一位を追贈すること、道眞の故事の如く、謚を賜ひ廟を立て、眞人豐永を以て配享し、天下をして明かに朝廷、功に報い勞に□[酉+將の右]いるの意を知ら使めば、則ち庶幾くば其れ可からむ矣。

 蓋し非常の功有らば、非常の褒を受くるは、固より其れ宜(む)べ也。特に彼の關帝・岳王(後漢・關羽。南宋・岳飛)の如き、革命の邦に在つてすら、其の理、或は然り。本邦、神聖相承け、終古、易らず、帝と王との如き、固より人臣の敢て望む所に非ず。而して人臣の爵位、太政大臣・正一位を以て尊崇の極みと爲す。此の命、一たび出づれば、以て大いに天下の心を快くするに足り、士氣の振ふこと、足を翹(あ)げて待つ可し。謹みて議す。

○本城仲章の曰く、「議論、明確正大にして、文字も亦た典雅、極めて法度有り」と。*[漸(飯山先生の名)、之を聞く、「今上(孝明天皇)即位したまふの明年、詔して護王明神の位階に進み、神として、即ち和氣公を祀る」てへり。然らば則ち公の祀典に載するや也、舊し矣。是の文を作る時に當つて、未だ此の事有るを聞かざる也。故に此を附録す]*」と。

(欄外に云く、)「仲章の曰く、影に菅公を説き、極的當れり。恣態有り、精釆有り」。「又た曰く、今醜虜の一段、是れ陪説なるも、一篇の主意は、却つて此に在り」と。」と。



 愚案、「丙辰」、即ち安政三年、先生十八歳の作也。訓讀の參照すべきもの無きも、試みに訓ぜり。誤謬、或は許し給へ。小生が主務とする所は、先哲の嚴訓を承けて、正名顯彰、即ち國體明徴、人をしてあるべき姿に復古せしむるに在り矣。或人の曰く、何ぞ迂なる、と。小生、笑つて之に對へず。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/10

  • [7]
  • 大和氣公遺芳抄、地。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月23日(金)20時32分38秒
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●半井眞澄翁
霜にあひ時雨にぬれてもみぢ葉はいよいよ赤きいろぞ見えける
はらからの赤きこころにしきしまの大和錦を染出しにけり
おのが身のよほろの筋はたたれしも君の御系(すぢ)はたたさざりけり


●千家尊福大人
廣幡の神のこころを和氣山の松こそたかく聲にたてけれ[和氣山の松]


●賀茂葵園(百樹)翁『神徳欽仰』(昭和十五年)
人のみち人になき時ゐのししはみ山を出でて人に教ふる


●今泉定助翁
ひとことを花に咲かせて高雄山たかきその名を世にのこしけり


●吉澤義則博士
朝日なす御代のさかえをあふきつつ君がいさをししのふころかな[清麻呂公]


●平泉寒林(澄)博士『夢に、和氣公の御社に詣で、夢中によめる』
いさをしは今こそ殊に仰がるれ天(そら)うつ浪を目の前にして


●清水澄博士『紀元二千六百年を迎へ、和氣清麻呂公を偲び奉りて』
國の爲荊(いばら)からたちふみそけて正しき道を歩みつる君


●井上孚麿博士
かくばかりみだれたる世にうまれ値ひてなすこともなくあるがはかなさ[參拜獻詠]
大神のみたまのふゆをこひのみてつとめつくさむおろかなる身も[同上]
みをしへをあふぎまつりてつかへむとおもふこころをみちびかせたまへ[同上]
うつせみの人のこころのくもきりもい吹きはらはむ神によりてば[同上]
大神のみたまのふゆをかかぶりて世にひろめなむ神のをしへを[同上]


●千家尊建翁
すめろぎのみ統(すぢ)もとゐによしあしを和氣の神こそ畏かりけれ[すめろ支のみ統]
ひたふるに皇統(みすぢ)まもると生死をこえしこころの清麻呂の神[同上]


●田尻隼人翁『清麻呂公を讚へまつる――「和氣清麻呂の全貌」を脱稿して』
清麻呂の心すなはち神なりと水戸光圀は讚へけらしも
裂帛の公のみ聲に妖僧の肝たまゆらに潰えはてたり
いまの世の妖僧どもを掃ふべき天地の正氣いつ起るらむ
孤高よく天地の道つらぬきて建てしいさをし消ゆるものかは
國土開發都市計劃の先覺者そのいさをしを誰れか讚へぬ
愛郷のうつくしごころ八郡の氏の生活(たつき)をうるほしにけり
平安の都つくりの美(うま)しわざ文化史上の花とにほふも
延暦の革新その幕(とばり)こそ平安の都つくりに開かれにけり
敷島の大和しまねのみ教へを開かむものと心くだきつ
公をおきて學徳兼備のますらをとまこと誰をか敬(ゐやま)ひ申す
日の本の大義名分はかくこそと示したまへりげにも尊き
世界史の文化の塔に公が名を刻まざらめやいや永へに
妻として母として世のかがみぞと嗣子夫人を讚へまつらむ
八十人の孤兒を養ひはぐくみし法均尼こそ慈悲の權化ぞ


●原眞弓翁『清麻呂公頌』
道の無き人きためよと神言(かんごと)をおつつに宣りき眉擧げながら
汚麻呂と名を改めて追ひしかど君の眞心はつひに朽ちずき
君在りてすめらみことの道統を正しきに置きぬ和氣のこの君

○『護王の靈猪』
かむながらわが大君の 皇位奪はむとせる ねぢけびとのねがひくじきし わが清麻呂和氣の公はも 道鏡の呪ひのまにま 大隅に追ひやはれしが 西のはての土踏みしのち 神託(みつげごと)たまひし神の 大前にぬかづきまつり 皇統(みちすぢ)の泰けくあるを 畏みまをし上げむと 病みの身の苦しきを推し 宇佐の地に到らむとして 豐後の海ぎし添ひに 陸(くが)のみち御輿進むる かれ たちまち 湧き立つや狹霧の奧ゆ 三つ百の猪の子ら現はれ み輿の前とうしろに み伴仕へまつり いそしみも護りまをして 十里にし餘る長路を 宇佐なるや八幡の宮に 障なくみちびきまつり み輿の宮に到るや かき消すがごと失せにき ここに のちの人ら集ひて 奇しぶるや この猪のししを 和氣の公の隨身とあがめ 護王のかむやしろの 拜殿のみ前に置きて 國護るや神を守りの まが除けの形代としも 雌雄のしし相向はせて とこ久の仕へに就かす きよらなるその語りごと しるしとどめむ
――反歌――
ひたむきに道驅けいだすいのししの牙ゆ漏れ出でて白く荒き息
道護る猪の子三百輿添ひに驅けゆくさまを思ひこそやれ


●長谷川幸男翁
鳴く河鹿聲もしみらに祈りけり和氣の宮居の薄月の夜[昭和三十一年、和氣の歌會]

  • [6]
  • 大和氣公遺芳抄、天。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月23日(金)20時26分52秒
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●頼山陽翁『和氣清麿論』(『日本政記』卷之四・稱徳孝謙天皇・附論第二)に曰く、「

 士に貴しとする所は、其の氣節あるを以てなり。氣節無ければ、士に非ざる也。士の氣節有るは、獨り其の一身を立つるのみにあらざる也。以て國家を維持し、天下の安危を定むるに足る。國の士氣有るや也、猶ほ家の柱有り也、舟の□[手+口耳+戈。かぢ]有るがごとき也。舟、□無ければ則ち覆り、家に柱無ければ則ち傾き、國に士氣無ければ則ち亡ぶ。吾れ和氣清麿の事を觀るに、以て之を知る有り。

 神龜寶宇の際、朝廷の士、氣節無しと謂ひつ可し矣。橘諸兄は、華冑を以て位ゐ正一位を極む。‥‥無益、興造を事とし、其の一言、之を匡救するを聞かざる也。帝の廬舍那佛を慶したまふや也、皇后・皇太子と、儀衞を備へて往き、諸兄、後乘と爲り、合掌膜拜、以て萬衆の觀に當りて、而も耻ぢざる也。吉備眞備、儒學を以て寵を兩朝に受け、位ゐ大臣に至り、帝師と稱せらる矣も、玄□[日+玄]の宮□[門+韋]を濁亂するや、而も之を熟視するのみ而已。仲滿の驕横、道鏡の僭竊、而も聞知せざるが如し。相率ゐて相賀し、仰ぎて法王と爲し、而も耻ぢざる也。此の二人の爲す所を觀て、以て其の他を推す可し矣。

 景雲の元、大學に釋奠す。其の二年、孝子貞婦を旌表す。其の三年、百官、道鏡の西宮に朝す。噫、釋奠の禮は、何の禮か乎。旌表の典は、何の典か乎。而して眞備、則ち以て道行を爲すをや矣乎。故に禮を講じ學を講じ、儼然として士大夫と稱し、而して氣節無し焉。則ち其の國に益無きや也、此の如し。夫れ赫赫たる天朝、祖宗百世の天下を以て、而して之を一比丘に傳へんと欲す。誰れか其の不可なるを知らざらん。而して敢て言ふ者莫きは、何ぞや哉。曰く、□[衣+周]を惧るゝ也。此の時に當りて、一人有り、焉れ之を言ふ。是れ其の一身を捐てゝ、以て祖宗の天下を存するや也、清麿、是れのみ已。

 故に曰く、士の氣節、天下國家に關係し、天下國家に志す者有れば、此れを養うて以て倚頼と爲す可からざる也。光仁天皇の位に即きたまふに及び、首めて清麿を召還し、其の本官に復するは、是れ士大夫に矜式し、天下の向ふ所を定むる也。嗚呼、務むる所を知ると謂ひつ可し矣。天下、百年、諸兄・眞備の如き者無きも可なるも、一日も、清磨の如き者無かる可からざるなり」と。

○『和氣清麿』(文政十一年。『日本樂府』)
和氣清し(或は「きよまろ」と訓ず)、
清を改めて穢と爲すも、清を損なはず。
清氣、浩浩として、天地に塞つ、
護り得たり、赤日、天中の明。
臣が舌、拔く可きも、
臣が語、屈(ま)ぐ可からず。
三寸の舌、
萬古の日。



●安積澹泊翁『和氣清麻呂傳の贊』(『大日本史贊藪』)に曰く、「

 讚に曰く、忠□[魚+更]の士を貴ぶ所は、其の利の爲めに囘(まが)らず、威の爲めに□[立心+朮。おそ]れず、凛乎として嚴霜烈日の如くなるを以て也。故に猛虎、山に在り、□[艸+黎]□[艸+霍]、之が爲めに採らず。僧道鏡の神器を窺□[ウ+兪。ゆ]するに方(あた)りてや也、凶焔、人に逼り、勢ひ當る可からず。事の濟否は、使臣の一言に決す。和氣清麻呂、色を正して撓まず、神語を直奏す。志は王國を匡し、氣は姦佞を震はす。至大至剛、天地の間に塞(み)つ。人臣の誼、此に盡きぬ矣。傳ふる者、其の事を神怪とし、以て企久す可からずと爲すは、則ち又た傅會の過ちにして、人をして善を爲すに怠ら使むる也。神は、正道を以て徳と爲す。清麻呂の心は、即ち神の心也。豈に二有らむや哉。至誠感格して、終ひに厥(そ)の躬を保つ。神は、果たして忠賢を佑けざらんや乎。

 廣世・仲世は、學行兼備、有政に施す。眞綱は、□[言+黨]直、阿らず、其の職を得ずして去る。蓋し父の風あり焉」と。


●蒲生君平翁『無題』
祭政、維れ二に非ず、
民を安んずるは、敬神に在り。
先王、廟陵廢れ、
後世、淫祠新たなり。
恐らくは天孫の國を擧げて、
終ひに夷狄の人と爲らん。
我は慕ふ、清麻呂の、
忠肝、身を顧みざるを。


●柳川星巖翁『和氣公』
公、亡(な)くんば、天日、中(ちゆう)する能はず、
公は、乃ち當朝、第一の功。
千歳、君臣、道義存す、
優恩、詔下りて、誠忠を表す。

○『和氣公』
人、剛に非ざる自りは、焉んぞ仁を得んや、
或は義士と爲り、或は忠臣。
請ふ看よ、鐸石(和氣公の祖・鐸石別命)が裔孫在り、
妖氛を掃蕩して、紫宸を清む。


●藤田東湖先生『和氣公』(『日本史詩』詠古雜詩)
妖僧、神器を窺ひ、
居然、百官に臨む。
壯なるかな哉、清麻呂、
孤忠、頽瀾を挽く。
赫赫たり、神明の統、
容(ゆる)さず、邪氣を干(をか)すを。
碩學(吉備眞備)の顔(かんばせ)、何ぞ厚き、
默默、手を袖にして看る。

○『文天祥の正氣の歌に和す、竝びに序』
‥‥清丸、嘗て之を用ひ、
妖僧、肝膽寒し。‥‥


●吉田松陰先生『文天祥の正氣の歌が韻に和す』
‥‥和氣、郡名を存す、
孰れか捫(ぬ)かん、清丸の舌。‥‥

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/13


●茅根寒緑(伊豫之介)先生『和氣公』
端笏、維持す、天歩の艱、
豈に思はむや、一日、狂瀾を漂はすを。
忠憤、發し成る、正統記、
千載、亂臣、肝膽寒し。


●市來四郎翁編『(島津)齊彬公御言行録』卷之四「和氣清麻呂朝臣の謫所御取調の事」(嘉永六年十二月)に曰く、「
 『和氣清麻呂朝臣の謫所は、史籍に記す所、大隅國と記し、謫所の地分、明かならざるが故、取調ぶべし』との趣、井上庄太郎を以て、八田喜左衞門(知紀)へ御内命あらせられ、其の節、御沙汰の趣に、『清麻呂は、日本第一の忠臣なり。皇統の危きに臨んで、此の人の誠心を以て、萬世一系御繼續の今日なり。御尊重なくては相濟まざる人なり。京都において護王神社と崇められ、位階御追贈の由、就ては謫所の地、其の他の事蹟一篇を著し、千載の鏡に供ふべし。八田へ力を盡さすべし』との御事なりし由、八田、素より尊王無二の者なれば、感泣拜命し、心思を竭し取調べたりしに、大隅國桑原郡踊郷の内、犬飼瀑布下河邊に謫所せられしを調べ得たり。或は同郷、又は國分郷・清水郷の諸所に由緒を得て、一篇を著し奉呈せり。其の一篇、私にも謄寫仕り置き候へども、丁丑の兵火に燒亡仕り候ふ。八田家には、果たして草稿殘り居り候はん乎」と。


●藤本鐵石先生『偶成』
皇いなり矣、神器在します、
終天、帝基安けし。
誰か、日神の敕に背き、
盗賊の奸に贊成せんや。
快なるかな哉、公の大節、
荒荒として、鬼膽寒し。


●眞木紫灘(和泉守)先生『和氣公』
逆鱗、何ぞ畏るゝに足らむや、
大節、身を知らず。
宮殿、陰氣、霽れ、
京城、復た春を占む。

○『失題』(埀加靈社『土金傳』の裏)
恐らくは天孫の國を擧げて、
終ひに夷狄の人と爲らん。
我は慕ふ、清麿の義、
忠誠、身を省みざるを。


●橘曙覽翁『偶成』(『橘曙覽傳幷短歌集』)
我れ獨り天地に慙づ、
壁間、五字の書。
香を焚いて、晨(あした)に肅拜すれば、
心氣、自ら清虚なり。

○『人に示す』(『志濃夫廼舍歌集』春明艸第三集)
君と臣(異訓、君臣の)品さだまりて動かざる神國といふことをまづ知れ


●鷹司太閤政通公『清麻呂卿、神階神號宣命草、内覽のときよめる』
高尾山ちとせの宮居けふよりは神も榮えてきみまもるらむ

○護王社の前の刻石
和魂漢才
實事篤行


●佐久良東雄大人
「嘉永四年五月十七日、和氣清丸公へ、王皇より、護王大明神といふを賜へしと、大人(佐久良先生)聞かれて、只だ一人、都に登り給ひし時、此の中林健彦、それに先だちて京にのぼり、山田厚安老人の宅にありける。其の時に、大人の教へ子に、福島五郎といふ人あり。劍法は嶋男也公の教へ子なるが、醫師道を學ばん爲め都に來り、山田が宅に居たりければ、三人打つれ、高雄山に詣でんとしけるに、五月雨り降出んといふけしきなれど、かゝる時はぬれてもうれしといひて、立出でけり。いそぎ高雄山さして登りたるに、敕使のありし後、七日にもならざれば、供物の臺なども、そのまゝのこれり。三人拜見終りて、山中に清丸公のあとゝおぼしき所もありときゝたれば、そこへも跡を見がてらとのぼるうちに、雨いたくふり出でたれども、ぬれてもよしとて、あとを參りて、山より走り下り、古き堂のえん板に、雨しのぎて、にぎり飯・酒など取出し、たうべてけるに、健彦、大人にこうて、一首の歌詠みたまへかしといふに、歌は早いできたる也。歸ればかゝんとて、寺へ行きて、からかさ二本借り、いそぎゝゝゞ暮六つすぎに、宅へ歸りたり。明くる朝、大人の書かれし歌」――此の詞書・歌三首は、中林健彦ぬしの筆録なり――
畏こきや八幡の御神顯はれて御言賜ひし君が眞精神(まこゝろ)[和氣清麿]
(異、ひろはたのやはたのかみのあらはれてみことたまひしきみそたふとき)
高尾山紅葉の色にあこがれて時雨にぬるる人はあれども[同上]
高尾山紅葉の(異、に)匂ふ時ならでしぐれにぬるるけふぞ嬉しき[同上]

皇まもる神のまします高雄山あかきこゝろのみゆる紅葉

高尾山染め盡くすとも飽き足らぬ吾が血の涙想像(おもひや)れ君[清麿朝臣]


●矢野玄道翁(明治四年三月頃、不思議の禍に遭遇し、我が身にくらべて思ひやられて)
日をさふるよのまがりきをわけにしは清きいなほの力なりけり


●渡邊豐城(重石丸)翁『千字文』
‥‥吉公(吉備眞備)、僧を拜し、
清丸、闕に諍ふ。‥‥

○『失題』
治國、當に天上の儀の如くなるべし、
一言の神敕、即ち皇基。
憐れむ可し、淵瀬飛川のごとく變り、
擧世、滔滔として、曾て知らず。


●栗里栗田寛博士『天朝正學』(明治二十年九月刊)に曰く、「
 學とは、神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に倍(そむ)かず、天業を恢弘し、皇運を翼贊するもの、是を正學と謂ふ。‥‥和氣朝臣清麻呂は、彼の眞備が如くにてはあらで、學問の正理を得たる人なりければ、‥‥氣節を持して、屹然、世に立てり。‥‥千載の下、凛然、生氣あるが如し。いとゝゝ心持よきことなり。誰か此の事を感奮せざらん。誰か公の事を聞きて、身を致すの念を發せざらん」と。


●物集高見博士『標註・世繼の歌』(明治三十年頃)
弓削の河霧 こむる世を
まばゆくてらす 天津日の
宮居かしこき 宇佐川は
世々にながれて 御手洗の
御裳濯川に すゝぎたる


●元田東野(永孚)翁『和氣清麿』(明治天皇、敕命に依り、應制八年乙亥)
天位、山の如く、身は是れ塵、
一心の決定、神に通ず可し。
祖宗、億萬年の皇統、
動かざるは、全然、此の人に頼る。

○『謹詠和氣清麿』
妖魔、日を掠め、日、將に滅せんとす、
皇家の存沒、一言に決す。
侃侃、和氣、烈丈夫、
吾が頭、斷つ可し、舌、絶たず。
一系の皇統、虧缺無し、
公が舌、常山(唐の顔杲卿)に勝る。
精誠、已に能く神明に通ず、
風雨、雷電、公を護りて生ず。
百穢も、如何でか、公を汚し得んや、
皓皓、萬古、和氣清し。

  • [5]
  • 北面草莽の一筋の道。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月19日(月)18時57分5秒
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●平田篤胤大人『俗神道大意』一之卷に曰く、「

 弓削道鏡の髮長奴が、畏くもにくゝも、朝廷に跋扈いたし、剩へに天日嗣の大御位にをさへに伺ひ奉つたる程のことに至つたるも、恐れながら聖武天皇の御遺風より起つたることで、其の元はといへば、みな佛の道をいたく御信じあそばしたる御心得違ひより來れることで、これは事實をよく考へるときは、明らかに知られることぢや。仍つて今日、序(ついで)だによつて、孝謙天皇の御代のあらまし、その御不行跡のことまで、道鏡法師が惡事の始末、ならびに清麻呂の大忠節のことを、あらゝゝ申さうから、とツくりと聞かれて、佛の道のいまゝゝしきもので、國の害となるものなるを、心得らるゝがよろしい。‥‥

 此の清麻呂と申す方は、道鏡がさばかりの威權に媚び諂ふことなく、その怒りをおそれず、身を捨て、神の教へのまゝに、かへりごと奏されたる功の、世に優れて、後の御世々々になりても、即位のはじめ、宇佐の御使ひには、必ずこの和氣氏の人を遣はす例とさへ成つた事ぢや。かやうの太(いみ)じき功の尊さに、講説は横へ入るやうなれども、かく具さに申すぢや。實に此の時、清麻呂卿の、大倭心のなかつたならば、何やうの枉事が起らうも知れなんだ所を、この卿の大倭魂と、有りがたくも尊くも、八幡の神の神敕に、『我が國は、天地の始めよりこのかた、君と臣と定まれり。臣を以て君とすること之れなし』と詔へるとに、其の事止んで、道鏡が巧みも水の泡と成りたるは、しかすがに神の御國の有り難くも、直日神の坐すが故でござる」と。



●平田篤胤大人『玉襷』總論追加に曰く、「

 中つ御世よりこなた、天皇の御爲に死(まか)りましゝ大忠臣とます、物部守屋大連公[その資人・捕鳥部萬ぬし]・和氣清麻呂公・藤原廣嗣朝臣[菅原の御神(菅公)の御ことは、前に云へりき]、また吉野の大朝廷に忠死せし、北畠・萬里小路・新田・楠・菊池・兒島・名和の諸君等、及び織田信長公を始め、大忠魂の限りをし、畏こかれど大公儀にて御祭祀あらむには、などか殊更にその御靈幸の無かるべき。

 然れば大御代を思ふ心の忍び難くて、如此くは云ひおくを、吾が子孫から教へ子等、さては國に皇に忠なる正心雄(ますらを)たちよ、其の機會(とき)に逢ひ、其の路を得たらむには、いかでゝゝゞ此の由、聞えあげ奉りてよかし[‥‥世の蕃學の輩は更なり、國學者・和學者など稱して、一小門を建て世に過る徒、斯かる大事には心も著かずて、歌詞の注解、または先哲の定説を曲破し、俗眼を驚かして、名を售むと爲る事などを心として、己がじし五月蠅なす喧ぎ居るこそ、心得ね。さるは學問は、何の爲めにかする。其の御代にして、その御世の御爲めを思はざるは、何ぞや。然る淺人は、左(と)まれ右(かく)まれ、我が黨の小子、努々さる小事に、あたら月日を、勿費しそよ]」と。



●影山正治翁『志士の道統』(昭和十七年七月。『増補・維新者の信條』昭和六十一年十一月・大東塾出版部刊に所收)に曰く、「

 志士の道統は、神代に發源する。まことの志士とは、草莽北面の心に於て、勤皇の大事に生死し、道統と血統、歌心と劍魂の一如に住して、敢て水火を辭せざるものゝ謂ひである。單なる多力者にも非ず、單なる破壞者にも非ず、又た單なる有徳者にも非ず、たゞこれ神敕奉行の一道に、一貫不惑、烈々乎たるものゝ謂ひである。即ち皇神の道の行者にして、維新道の殉教者の謂ひにほかならない。我らは、かゝる意味に於て、遠く神代、須佐之男命の御上に、志士道統の源流を仰ぎまつる。‥‥

 純臣下側に於ては、佛教渡來當時に於ける物部守屋、大化改新に於ける蘇我石川麿、道鏡事件に於ける和氣清麿、建武中興に於ける楠正成・菊池武時、明治維新に於ける高山彦九郎・佐久良東雄・吉田松陰・西郷南洲、明治以降に於ける來島恆喜・乃木希典・内田良平・渥美勝等の一系列に、我らは志士の不動なる道統光流を見る。

 佛法史觀を根底とせる中世の日本史は、殆ど例外なく、古代の神風連たる物部守屋一族を、『佛敵』として抹殺し去つた。佛敵は、朝敵に數十倍して筆誅される。そしてその場合、佛法的日本史は、常に聖徳太子を楯として、日本的僞裝を施して來た。江戸時代國學派の勃興に依り、僅かに物部一族一千年の惡名が、やゝ除かれようとしたにすぎない。

 これに反し、清麿公に對しては、昔よりその忠烈が稱されて來た。今人、また然りである。しかしながら清麿公の忠烈は、斷じて思想善導や精神總動員程度の心を以て解し得べきものではない。清麿公、敕命を奉じて宇佐に發せんとするや、道鏡、誘ふに重爵を以てし、迫るに慘刑を以てした。公、動ぜず、期するところは、たゞ神のまにゝゝあらむことのみであつた。既に始めより我が生命は捧げ切つてゐたのである。心中、一點の私情なし。神意、感ぜざるなく、神言、聽かざるなし。果たせるかな、宇佐八幡社前に熱祷血祈するや、神敕、現身に降下したのである。眞實に神が憑つたので(愚案、然らず、憑依に非ず矣)、何らの謀略でも政治でも工作でもなかつた。

 『我が國家、開闢以來、君臣の分定まれり。臣を以て君とすること、未だ曾て之れあらず。天つ日嗣は、必ず皇儲を立てよ。無道の人は、宜しく早く掃除すべし』。この神託を直奏することは、即ち我が身、我が一族の滅亡を意味する。而も斷々乎として、公、之を爲す。かくすればかくなるものと知りつくしつゝ、止むに止まれぬ至誠心の濆發である。即ち清麿公に於ける湊川の一戰であつたのである。形に於ては敗れ、賊名を負うて慘刑に處せられたが、その忠烈は、生きて大奸を退け、赤手、以て天日を既倒に飜し得たのであつた。

 『清麿、妄語を以て神語に託し、法均(姉・廣蟲のこと)と共に、朕を欺かんとす。朕、之を鞠して、其の神託にあらざるを知る。臣にして君を欺くは、是れ天地の大罪なり。宜しく其の姓を別部となし、其の名を穢麿とすべし』。これは神託直奏の後、激怒したまへる稱徳天皇の下された敕命であつた。思へば、まことに畏き極みであつた。公、即ち生命を別部穢麿と變ぜられ、兩脚の筋を斷たれて、大隅に流された。法均尼、また座して備後に流された。時に神護景雲三年のことであつた。

 世にはびこる群小の日本精神論者、一度び口を開けば、輕々に『承詔必謹』と言ふ。その言ふ心は、多く承詔の名に依つて現状を維持し、必謹の名に依つて維新の阻止を爲さんとするのみ。『承詔必謹』は、まことに一大事、進んで居常、大道に殉ずる覺悟なくして、おほろかに言ふべき言葉ではない。我が一身の都合のため、あらかじめ我が一身の保全を豫想しつゝ、口頭、たゞに『承詔必謹』を云ふ、その陋や、まことに唾棄すべきのみ。

 我らひたぶるに、かゝるかなしき志士の道統を仰ぎ、祈り繼ぎつゝ、何時如何なる世にありても、貧しかれども、飽くまで北面草莽の一すぢの道を踏み行きたいものである。この心、發して、聖死の志となり、この思ひ、迸つて、殉忠の決意となる。この志、維新を護り、この決意、正しき日本史を形成し行く根柢となる。

 青年運動と云ひ、青年日本と言ふ。單なる青年ならば、凡そそは無意味である。志士の心のみ、無窮に青春であり、志士の道のみ、老來、なほ益々若く烈しく、美はしいのである」と。



●『和氣公敬讃詩歌集』――私抄

○影山正治翁
一、和氣氏殉皇 影山正治
一、われはとる、大楠公が、「正成一人」と言ひたまひたる、尊ときその氣魄を、又更に清麻呂公が、「われひとり天地にはづ」と、大恐懼されし赤誠(まこと)を[原眞弓『大信念』の所引]。
一、水清き日笠の川の鳴るなへに和氣大神の立ちのさやけさ[日笠の川邊]
一、繼承の思ひひそかに努め來しこの一すぢをなほ行かむとす[昭和三十八年、獻詠祭進歌]

○蘆田林弘烈士
一、幾年を護り堪へ來し神杉と畏こみ思ふ産土の森[和氣神社にて]
一、むら雲を早く攘へと宣ひし大き御歌にわれら泣くべし[同上]

○赤木(小森)一郎翁
一、公が友路豐永たた一人その彼にして唐心あり[昭和十九年四月十六日、獻詠大東亞戰爭必勝祈念]
一、我獨慙天地と清麻呂は寂然として皇基を護る[昭和三十八年、獻詠祭進歌]

○福田景門翁
一、妖僧の膽を冷やしし直言の公がみたまはとはに滅びず[大和氣公]
一、大和氣公ここに鎭まる京洛の護王の宮に宿れりし日や[同上]
一、夏木立蝉鳴く聲のしきりなる和氣の宮居に詣でけるはや[同上]

○三宅萬造翁
一、水きよき流れつきざる日笠川音を公がみこゑとぞ聽く[昭和三十八年、獻詠祭進歌]

○坪井道興翁
一、我獨り天地に慙づてふ和氣神のみことばしみじみ我が心慙づ[昭和三十八年、獻詠祭進歌]

○長谷川幸男翁
一、薄月夜河鹿は鳴かねわが心つゆけく詣す和氣の宮居に[和氣宮居]

○大野俊康翁
一、みどりこき八幡の森に吹きそめし世を清めてん松風もがな[八幡の森]
一、比和の里吹く松風に禊してみがき清めんやまとだましひ[同上]

  • [4]
  • 心神、常に皇城に向ひ、日夜、皇城を拜護せむ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月18日(日)01時41分4秒
  • 編集済
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 護王公御遺誓――『心神、常に皇城に向ひ、日夜、皇城を拜護せむ』と。即ち護王大精神、是れ也。何時であつたらうか、小生が中學生であつたか、高校生であつたか、祖父に連れられて護王神社に參拜、其の折り求めたものが、下記の中村武彦翁『昭和聖代の國づくり――清麻呂公と昭和維新』であつた。平泉澄先生の『少年日本史』で知つた和氣公の眞姿に感激してゐたが、此の小册子(凡そ三十頁・頒價五十圓)を見て、一讀感涙、熱血騒擾、幾重にも神恩に鳴謝したものであつた。

 中村武彦翁のことは、皇學舘大學教授・西内雅翁の序文で、之を知つたのである。曰く、「

 この度の大戰が、終りをつげる直前のことであつた。當時、大日本言論報告會理事長をせられてゐた鹿子木員信博士が、『樣子がをかしくなつてきた。狂瀾を既倒にかへすには、物資のことにもまして、人物が欲しい』といはれ、やがて言葉をついで、『それには、中村武彦君を必要とする』とて、八月の燒けつくやうな太陽の下をテクつて、そのころ平沼狙撃事件で收容された中村氏の釋放手續きに奔走されてゐたのを、忘れることができない。‥‥所謂淺沼事件が起つた後、右翼關係の取締りが極度に緊張したとき、中村氏の指導する維新團體がブラツク・リストに掲げられ、新聞に報道された。そこで中村氏は、直接、時の警察廳長官に會見を申入れ、『我々を、所謂行動右翼と同一に扱ふ理由を承はりたい』(愚案、當時「行動右翼」の言葉は、客觀的言辭ではなかつたことが判る)と抗議を申入れたところ、『あなた方を、決して職業的右翼とは思つてをらぬ。さうした團體は、必要な場合には、力でおさへることができる。しかしあなた方と、もう一つの或る團體は、力でも金でもおさへることができない。その意味で、治安上、最も注意してをるわけである』といふ意味のことを述べたさうである」と。

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hiranuma.htm

 小生は、「もう一つの或る團體」である大東塾・影山正治翁を知る前に、中村武彦翁の名を知つた。此の小册子は、いつも座右にあつて、何囘も拜讀させて戴いた。今も色褪せることは無いであらう。小生が先賢の玉章を謹抄拜引するは、古人「寫本」の流儀に習ふものであつて、現代流行の舶來的著作權を犯す心算など、全く無い。一は己が志を堅固にする爲めであり、一は玉章を天下に廣め、一人でも多くの御方に讀んでもらひたい爲めに他ならぬ。先哲古人、伏して御容認たまはらむことを。而して深刻に想ふ、戰前の人、やうやく幽顯、境を異にする現代に在つては、戰後人の書き物は、或は戰前人の亞流は、にはかには信用する能はず、今こそ、先哲遺文ないし戰前の、確かな第一級の書籍を讀み繼ぎ、恢弘覆刻する必要を、切に痛感熱祷するのである。



●護王會理事・國民總連合事務局長・中村武彦翁『昭和聖代の國づくり――清麻呂公と昭和維新』(『護王』大精神顯彰シリーズ第四輯。昭和三十八年四月四日・護王大祭特別記念講演。九月・護王神社刊)に曰く、「

 嘗て和氣清麻呂公は、楠木正成公と竝んで忠臣の雙壁であり、日本人にしてその凛烈たる行爲を知らぬ者はありませんでしたが、戰後は占領政策のまゝに、教科書からは完全に抹殺され、成人たちの頭からも忘れ去られるやうに仕向けられました。聯合軍に開放してもらふまでの日本の歴史は、すべて侵略戰爭と残酷物語の連續であるやうに教へ込む日教組教育をうけた現代の青少年に、護王神社の御祭神はどのやうなかたかと質問しても、無理でせう。昭和二十年八月十五日以來、日本人は人民主權國家になつてしまひ、萬世一系の皇統などといふものは、みはやナンセンスだと思つてゐる人々にとつては、和氣清麻呂公の精神や行動に、何の價値もみとめられますまい。然し占領軍が何を企圖したにせよ、マツカーサー憲法や教育基本法が何を規定してゐるにせよ、日本はあくまで天皇を中心として生成發展する道義國家であり、日本國民は天皇に仕へまつることによつてのみ、國全體、民族全體が榮え、おのれも榮えてゆく存在であることを自覺して疑はぬ國民の良識からみれば、和氣公の精神は、今日においてこそ、いよゝゝ不滅の光芒を放つてをります。‥‥

 嘗て藤原廣嗣から、『玄□[日+方]姦賊・吉備凶竪』とて彈劾された一代の碩學吉備眞備は、この時なほ健在であり、大納言・右大臣を歴任しながら、道鏡に調子を合はせてゐます。硬骨漢藤原百川も『居常憤嘆』するばかりで、どうすることも出來ません。何分、天皇御自らが『三寶の奴』と名乘らせ給ふ時代ですから、一方で『現神御宇倭根子天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとねこすめらみこと)』として君臨されてゐても、『大君は神にし坐せば』とかしこむ素朴純一なる民族感情は、混迷に陷らざるを得ません。宮廷の内外、貴族から庶民まで、おしなべて佛教に支配され、民族の傳統に背を向けてゐます。僧侶が、政治の權力と民衆の世論をともに巧みに掌握してゐるといふことが出來ませうか。このやうな權力の増上慢な要求が、世論を背景にして、道鏡を天皇に押し上げようとするのは、怪しむに足りません。むしろこれに反對する思想こそ、時代感覺からみれば、頑冥無知なる反動であり、逆コースだつたのです。‥‥

 このやうな石が流れて木の葉が沈む世相・國情は、今日の人民主權の變態國家に似てをります。天皇主權や憲法復元を唱へる者の叫びは、清麻呂公同樣、政治權力や多數衆愚の聲によつて、うち消されもみ消されます。欽定憲法に代へるに、英文の飜譯が銃劍をもつて押しつけられた事實は、もみ消すべくもないのに、今頃になつて、これを日米合作を強辯したり、内容さへよければといつて擁護したりする腑拔けた學者や政治家が澤山居りますし、元首の居ない主權在民國家體制が、人民革命・共和政體の前段階として存在することに、國民の多くは無關心のやうです。しかし一人一人の胸の底を叩いてみれば、天皇仰慕の情は、老人も若者もみな懷いてをります。その情感を明確なる觀念にまで高め、君臣の分を正し、國體の根本理念と秩序を明かにすることは、現代日本の緊急第一の要件でなければなりません。今日、若し和氣清麻呂公あらしむれば、道鏡即位論の現代版である人民主權論と、その基盤である占領憲法に對して傍觀されることは、斷じてないでありませう。○○制打倒を怒號する共産黨ばかりでなく、敵軍の占領基本法を、今なほ奉戴し、固有の憲法を顧みない自民黨に至るまで、すべて國體の變革に協力した道鏡や習宜阿曾麻呂の亞流に外ならぬからであります。

 『天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ』といふことの現代的意義は、『象徴』と云ふ曖昧な規定ではなしに、天皇の御本質を明かにせよ、『アマツヒツギスメラミコト』が、國家統治の主體であり、天皇は國の元首にして、統治權の總攬者である根本義を明徴にせよ、といふことでありませう。このやうな國體の恢復や護持は、單に高尚なる國體論を講じたり、『和を以て貴しとなす』と云つて、誰とでも平和共存したりして出來るものではなく、國體を否定し破壞する者を征伐する、積極的行動を必要とします。

 『無道の人は、宜しく早く掃除すべし』。特に『早く』といはれてゐる一句、凛烈の響きを感ずるではありませんか。それは『古事記』に神武天皇の建國を敍して、

『故れ此くの如と、荒ぶる神等を言向け平和(やは)し、伏(まつろ)はぬ人等を退(はら)ひ撥(たひら)げたまひて、畝火之白檮原宮に坐しまして、天の下治しめしき』

と記し、その陣中の御製、

『みつみつし 久米のこらが あはふには かみらひともと そねがもと そねめつなぎて うちてしやまむ』

と歌はれてあるやうに、神國を地上に莊嚴せんとする場合、囘避することの出來ぬ、きびしい戰鬪的實踐であります。『無道』とたたかひ、無道を克服しなければ、道理は顯はれません。現實の惡・暴力・腐敗・矛盾・陋習といふやうなものに妥協・屈服したのでは、眞理は守られず、正義は蹂躙されます。‥‥

 およそ民族の個性と傳統を無視して、その生命の無窮なる發展はあり得ません。日本民族にあつては、『開闢以來、定まれる君臣』の關係こそ、他に比類のない獨自の個性であり、固有の傳統であります。義は君臣にして、情は父子といふ、その一君萬民・君民一體の國體秩序が守られる限りにおいて、いかに敵國外患の急なるものがあつても、民族の生命に停滯や衰弱はあり得ません。然し人間の世界は、矛盾に滿ちてをります。不斷の反省と警戒につとめなければ、人の心は惑亂し、國の政治は無道の者の支配に委ねられて麻痺します。『保守』とは、天つ日嗣を奉じ、國の個性を守ることであり、『革新』とは、その成長を阻む内外の毒素、『無道』の存在を排除することであります。從つて保守と革新は、進歩・維新の裏表であり、相伴つてのみ、民族の生命は日に新たに、また日に新たに、老いを知らざる永遠の創造發展を營んでまゐります。

 今日の自民黨のやうに、革新に臆病な保守は、保守主義でなくて、單なる現状維持・舊套墨守にすぎず、老衰自滅の外ありません。また社會黨のやうに、保守を否定した革新は、自らの内に據り所を持たぬために、外國の思想や權力からの走狗たる外なく、破壞的革命の終局は、民族全體の發狂と崩壞を招きます。そのやうな二律背反の保守と革新にあらずして、保守なるが故に革新である『維新』の道を發見しなければなりません。維新とは、畢竟、民族の個性の自覺であり、傳統の把持であり、現實に存する『無道』勢力を肅正して、新しき人づくり・都づくり・國づくりに、民族の魂を總蹶起・總動員することです。唯物的な經濟至上主義である宰相の人づくり・國づくり論には、日本的な『人産み・國産み』の精神の理解がなく、無雜作に法律や豫算や宣傳だけで、人が作れる・國が作れると思つてゐる驕慢さと淺薄さがありますが、私どもが人づくり・國づくりの言葉を用ふる場合、それは日本民族の世界觀・使命觀に基づいた、深い自覺によつて使はれなければなりません。『漂へる國をつくりかためなせ』と仰せられた天祖の神敕は、まことの人づくりの意味を教へ、維新の原理を指示してをります。

 日本の國體は、『古事記』に語られてある通り、まことをむすびにむすび、漂へるものをつくりかためなし、まつろはぬ者どもをはらひたひらげ、不斷に戰ひ、不斷に維新し、不斷に創造發展し、いや榮えに榮えてゆく民族生命そのものであり、『天壤無窮の皇運を扶翼する』といふ、日本國民の至上使命は、天つ日嗣を保守しつゝ、無道的存在と絶えず戰つて、我と、み國と、世界とを維新してゆく生活行動にあるのです。清麻呂公がその誠心一筋の生涯によつて示してをられるのは、この維新の道に外ならず、八幡神敕は、またその原理の集約的表現とも解されるのであります。

 今日は、徒黨や組織を背景に持つか、權力や武力もしくは財力とむすぶか、それとも集團的であれ、個人的であれ、暴力の脅威に訴へるか、いづれかによつてその要求を通し、又は阻止します。清麻呂公の道は、それと正反對でした。そのやうなものをすべて敵に廻し、大衆の世論や時流にも抗して、たゞ一人、毅然として戰つてをられます。『千萬人と雖も、我ゆかん』といふ壯烈な信念と氣魄はもとよりですが、あの八幡神敕をいたゞいて、靜かに玉座の前にこれを奏上し、從容として流謫される公の姿には、もつと深い澄み切つた心境――神と倶にある者のみが持つ落着きが感じられます。それは單なる誠實とか、大膽とか、不惜身命とかいふものより、もつと次元の高いものでありますまいか。

 劍を揮ひ、群がる敵軍の中に斬込んで、血を流して戰ふのは、まだ樂です。叱咤し、怒號し、熱辯をふるふのは、痛快でせう。しかし外面的では淡々として、靜かなる清麻呂公の戰ひは、内面的にもつと激しく、その力は靈的で、絶對なるものに發してゐます。神敕をうけるのは一人であり、歸つて復奏するのも一人です。責任を他に頒つことが出來ません。この一人の肩に、皇統の安危、國の興癈がかゝつてゐるのです。習宜阿曾麻呂の心をもつてすれば、神敕と稱して、何を仕出かすかわかりません。しかしまことの神に直面し、まことの神敕をうけたまはり、それをそのまゝ歸つて奏上しなければなりません。ウソやマチガヒがあつてはならぬのです。清麻呂公の眞筆と傳へられてゐる書に、『我獨慙天地』の文字がありますが、この謙虚・敬虔を極めた心持ちにしてはじめて、公の心は澄み切つて、天地と一つになり神の心に一つとなつたのでせう。されば傳へられる如く、八幡の神敕、はじめは阿曾麻呂の奏上したと同樣でありましたので、公は『まことの神敕とは覺えず』と言ひ切り、『まことの神敕を、明らかに御姿を見せて下し給へ』と祈り、遂にこれを聽くことを得たのであります。

 そもゝゝ清麻呂公が、姉法均尼の代理として特に選ばれて宇佐に使ひしたのは、この姉弟がすぐれた正しい靈能者として、御信任を得てゐたからでありませう。職業的靈能者ではなく、一廷臣・一官吏として、實直に仕へてゐる和氣姉弟ですが、その生來の素質と忠誠の精神と神道的教養によつて、その日本的靈性がひらけ、神人合一の境地を體驗し、神の聲を聽き、神の姿を見ることの出來る人であつたのでありませう。一つの言ひ傳へによれば、清麻呂公は宇佐に詣つてから、神敕をうけるために、八幡宮の裏山の海に面した所、いま公を祀る祠のある場所で、みそぎの後、水平線から昇つてゆく日輪を拜し、鎭魂の工夫をされ、その極致において、明かに八幡大神の神敕を承けたといはれます。この所傳に基づく修法が昔から傳つてをり、今日これを簡易にした方法で、同志に入神の體驗をさせてゐる修養會もありますが、ともあれ清麻呂公の神敕拜受が、極めて嚴肅な靈的體驗として行はれたことは、想像に難くありません。

 知惠や力や數で爭ふ限り、清麻呂公一人が、道鏡に勝ち得る筈がありません。一人よく天下の大勢を動かし得たのは、公の魂が神と倶にあり、公が靜かなる一言一言に全生命をこめて、八幡神敕の言靈を奏上した時、清麻呂公と八幡大神は一體であり、玉座の前に居るのは、清麻呂の形を假りた八幡大神であつたのです。いかなる暴惡不逞の大權力者も、蒼くなつて慄へる外なかつたでせう。かく解釋することは、靈的存在や活動を信じない唯物論者や合理主義者には異論があるでせうが、かく解しなければ、神敕は作り事、清麻呂公は芝居をしたことになつてしまひます。しかしながら神敕は、決して荒唐無稽な話でなく、清麻呂公ひとりが、特異なる靈能者であつたわけでもなく、人間すべて神の子として、誰しも神に通ずる靈性を、天賦の能力として持つてゐるのです。これを開發すると否との問題であつて、今日必要とされる所謂人づくりとは、合理的人間・功利的人間の形成ではなくて、この靈性を開發して、清麻呂公と同樣に、一人よく天下を支へる大力量を、すべての人が發揮するやうにすることではありますまいか。

 このみたま開かれたる一人の力の神祕についてこそ、和氣公を仰慕する者は、ふかく考へなければなりません。今日のやうな多數決の時代、マスコミや集團示威の時代には、組織を離れた個人の頼りなさや、世論に同調せぬ者の孤獨さが、異常に強く感じられるものですが、實をいへば、そんな組織の中に編み込まれた人間や、世論に隨順して己れ自身の主張を持たぬ人間こそ、哀れな無力無價値の存在であります。自分の頭で考へ、自分の足で立つてゐる者こそ、眞に人間として生きてゐる人間であり、神のしぐみの中に動かされてゐるのです。そのやうな自覺・自立は、眼を外から我の内面に向け、我のたましひの底を究め、潛在する無限の靈的能力を開發するのでなければ、途中で行詰り、威力を發揮できません。我が出す言は我が言にあらず、神の言葉である。我がなすわざは我がなすにあらず、神のみわざであるといふやうな言葉や行動にして、はじめて人を動かし、世を動かすのです。このことを私どもは、清麻呂公のひとりの道、正しくいへば神と倶に行く道によつて教へられます。而して我一人の自覺に徹し、我獨り皇運を護らんとする時、徳は孤ならず、必ず路豐永あり、藤原百川あり、多くの同志が心を寄せ力を協せて來るのです。そして微動だにせぬと思はれた權力がゆらぎはじめ、音高く倒れて行きます。形勢は一年にして一變し、清麻呂公は召し還され、道鏡が下野へ追放されるといふ、維新の春が訪れるのです。人間の淺い心で期待したり、豫想したりできることではありません。

 一千百六十四年前、延暦十八年、齢六十七歳をもつて薨ずるに臨み、清麻呂公は、『王城拜護』の誓願を立てゝをられます。天皇を『おろがみ、まもりまつる』精神は、象徴天皇や人間天皇の觀念と兩立しません。『天皇をもつて現御神』とすることを『架空なる觀念』と記された占領下の所謂元旦詔書にも、默して頭を振る外ありません(愚案、『國運振興の詔書』は、「天皇を以て現御神」とすることを「架空なる觀念」と爲したのでは無いてふ、めでたき立證は、伊藤陽夫沖繩縣護國神社宮司『動ぎなき天皇國日本』てんでんブツクレツト五・平成十九年四月・展轉社刊に在り。是非とも參看されたい)。人民が主権者であるとか、アメリカの一州になりたいとか、日本人民共和國萬歳――などといふ聲は、道鏡天位に即けば天下太平ならんと謳歌した坊主全盛時代の聲の、現代版です。清麻呂公を慕ふ者は、正にこの王城拜護の志を繼ぎ、これらの妄想妄動と戰ひ、皇國の維新に挺身しなければなりません。

 アメリカの植民地状態から脱却し切れぬうちに、國際共産主義の侵入を迎へ、思想的政治的に三十八度線を作つてゐる日本の現状において、保守の據り所が占領政策の遺物であつたり、革新の公式がソ聯・中共り借り物だつたりしてゐては、日本の眞實の獨立も平和もあり得ません。何を保守し、何を革新するのか。維新の原理は、あくまで日本の國の、歴史の内にあります。

 『我が國家、開闢以來、君臣の分定まれり』といふ八幡神敕は、永遠の眞理であり、『無道の人は、早く除くべし』といふ命令は、常に新鮮です。この『護王』と『維新』の戰ひが、『我れ獨り天地に慙づ』といふ内面に沈み切つた清澄の心境の中から展開される時、日本の危機は打開され、萬世の爲に太平を開く民族の理想は實現するでせう。いかにはげしく愛國を唱へ、反共を怒號しても、『われ一人』の反省と自覺を缺くならば、國民大衆に信頼され、亡國勢力や革命勢力に畏怖される存在になれますまい。

 今日要求される護王運動・維新運動は、『我ひとり』の修養と覺悟を持つた一人一人の結集、『まことむすび』であらねばならぬことを痛感いたします」と。

  • [3]
  • 我れ獨り天地に慙づ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月16日(金)01時34分38秒
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■護王神社所傳『護王大明神・贈正一位・大和氣公の眞筆・宇佐八幡宮奏上祝詞』(高尾山神護寺、竝びに護王神社先宮所藏の傳本を、嘉永二年十月二日、關白・前太政大臣・從一位鷹司公より、學習院に獻上せしものゝ寫。護王神社宮司・酒井利行翁の訓)

 維れ神護景雲三年七月二十八日、臣清萬呂

 掛けまくも畏き、宇佐の社に詣でて、皇太神の宇豆の廣前に、恐こみ恐こみ謹しみて申さく。

 此來(こ)の年ごろ、無道の佞者(まがひと)有り。朝廷、縱(ほしいまゝ)に思ひて、濫りに天位(あまつくらゐ)を貪り莅(のぞ)みて、事、已に危きに逮べり。佞黨(おもねりびとゞも)は衆(あまね)く強くして、良き臣も此れを知れども、未だ征(きためさと)す事能はず、天位、如(も)し陷らなば、御國の子孫、君と臣との禮徳(いやわざ)を亂りて後、國民を殘ふに至らむ事、臣等、常に天に仰ぎて以ちて歎き、地に伏して之を悲しめり。今や恭しく詔旨を奉り、既に政術(なすすべ)を盡さむとす。大事裁きし難く、進むも退くも、云(こゝ)に窮まれり。

 皇太神は、護國(みくにもり)の威光、最(いと)も深く、利民(みいつくしみ)の神力(みちから)至りて渥し。仰ぎ願はくば、佞黨、遠く退けて、天位、動き無く、皇嗣(すめらがひつぎ)連綿(きはまりながく)して、國土、永(ひさ)しく靜かならむ事を、慈み教へ給ひて、臣等が心中(こゝろど)、祈り思ふ所の願ひ明かに、鑒み昭かに察(みそなは)し給へ。清麻呂、涙を抑へ、恐こみ謹みて申す。



【護王神社宮司・酒井利行翁の尊話】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/14



■護王神社所傳『大和氣公の眞筆・我獨慙天地』(高尾山神護寺元宮嵯峨院寶庫舊藏)

我れ獨り天地に慙づ  清滿呂書


○吉田松陰先生『我れ獨り天地に慙づの書に對す』に曰く、「

 其の大節 侃々、天地に塞(み)ち、日月を貫くと雖も可也。而して其の自ら書して曰く、『我れ獨り天地に慙づ』と云ふ。別公當日の風、其れ如何ぞや哉。千載の下、之を讀めば、感慨に勝ふる無し。抑も今世の士は、因循依違、自ら以て計を得たりと爲す。偶々一小事を爲す有らば、自ら以爲(おも)らく、世、吾に如く莫し焉と誇るなり。其れ公の風と、何ぞ其れ遠きや哉。

 但だ此の書、歳月・款題無く、則ち公、何んの時に書せしや、吾れ而ち知ることを得ず。然して吾れ私(ひそ)かに論じて謂ふ、公は唯だ天地に曩日に慙ぢ、故(ことさら)に宇佐の役、能く天地に慙ぢず、而して猶ほ天地に慙づ。故に遠謫三年、召還登用さること三十年、出所本末、毫毛も撼(ゆら)ぐ無く、能く千載に傳ふ。軫念の天子、神號を寵崇したまへり。其の因る所の者は、『慙』也」と。


○愚案、國幣中社中山神社宮司從六位勳六等・大社教大教正贈一等教勳・旭香美甘與一郎源政和翁『天理組織之原理』(明治二十四年七月・神典研究會事務所刊)卷之第一の卷首に、和氣清麿公眞筆の臨寫を收む。又た護王神社にて、かつて此の書を印せし「笏」を拜戴せり。今、我が神床に齋き奉る。



■大和氣公の哥『敕使として宇佐へ赴くに方りて詠める』(『宇佐神宮御由緒記』神護景雲三年三月)

西の海 たつ白波の 上にして なにすこすらむ かりのこの世を



●磐山友清歡眞翁『靈學筌蹄』(大正十年八月刊。神道天行居刊『全集』卷一に所收)に曰く、「

 和氣清麿が宇佐八幡宮に神敕を仰いだ時、現はれた神は、眞に體を現はして示されたので、清麿、又は他の人(神主=靈媒)に憑依されて示されたものでは無い。此等を普通の歸神(かむがかり)の現象とまぜこぜにしてゐると、大變な間違ひとなつて來るのである」と。


○愚案、件の『日本後紀』の明文に、「神、即ち忽然として形を現したまふ。其の長け、三丈許り。色、滿月の如し。清麻呂、魂を消し度を失ひ、仰ぎ見ること能はず」と在り。蓋し下文の神敕と共に、正史の眼目と謂ひつ可し矣。往々にして此の明證を無視し、甚だしきは、是を以て作文虚構と爲すに至る。嗚呼、悲しい哉。之を信ぜぬ輩は、共に席を同じうすること能はず、抑も神敕、亦た和氣公を語る可からざるなり。



●寒林平泉澄博士『神道の本質』(昭和五十一年七月二三兩日、神宮道場での指導神職研修會に於ける講義)に曰く、「

 和氣清麻呂公が大きな陰謀を打碎いて、本當の神慮を窺ひ知る事が出來たと云ふ事は、既に命懸けの行であると云ふ事を痛感するのであります。これが神道である。生易しいものでは無い。‥‥神道の行者であつて、神道の殉教者のひとりである。‥‥

 和氣清麻呂公・菅原道眞公・源實朝公・明惠上人・北畠親房公・山崎闇齋先生・澁川春海先生・谷秦山先生・橘曙覽先生・眞木和泉守、全部誰一人として、安穩な生活を送つた人が無い。‥‥これと云ふ國家の保護を受けた人は無い。神道は國家の保護を受けて伸びたのでは無い。國家をお守り申し上げる。この考へに、神道は立たなくてちやならん。我々は國の保護を要求すべきものでは無い。國をお守り申し上げる事を、考へなくちやならぬ。そして是によつて初めて、神道も神道として生き、日本の國も日本の國として生きる」と。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/1



●伊勢の前神宮少宮司・僅存居主人幡掛正浩翁『神國の道理』(昭和五十二年三月・日本教文社刊)に曰く、「

 私どもは、つひ不用意に「天皇をお守りする」などと申しますが、嚴密に言へば、守られてをるのは、實はこちらの方でありまして、私どもが出來ることは、唯、その天皇の稜威(靈能力)を強くする爲の祈りと、その祈りと二つならぬ獻身だけであります。‥‥

 從ひまして、私どもが日常的な言ひ方として、「皇室の尊嚴を守る」といふやうなことを申しましても、それは、やはり第一義的には、守られてをるのはこちら側であるといふ自覺と感激の心を、いよゝゝ深くし、さればこそ、倍層倍に謹愼し、身もたな知らず、この大君に仕へまつるのだ、千代田の城の石垣の苔のひとかけらになるのだといふことを本義とするものでなければなりません。

 かつて恩師井上孚麿先生は、「桐野利秋に、『我れ獨り天地を護る』といふ文字があると聞くが、これでは薩摩一國のまもりすらも怪しい。『我れ獨り天地に慙づ』と言はれた和氣清麻呂公にして、はじめて國體を一髮の危機に保つことが出來た」と言はれたことがあります。「出師表」を讀んで泣かざる者は人に非ずと言はれてきましたが、千古、人の涙腺を刺戟するくだりは、讀んで孔明の筆、「先帝、臣が謹愼なるを知り云々」に至る數文字でありました。中野正剛は、これを以て宰相東條英機を彈劾し、一代の名文章「戰時宰相論」を綴る。忠誠とは、つひに恩に感じて、その身を致すことであり、身の誇りの一毫もあるを許しません」と。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/3



【參考】
一、矢野玄道翁『護王神御傳記』(未見)。
一、湯本文彦翁『和氣公紀事』全四卷。明治三十二年十月・和氣會事務所刊。通傳。年譜・事蹟。官祀始末・極位贈敍式。千百年祭略記。
一、小森(赤木)一郎翁編『和氣公敬讃詩歌集』昭和四十四年十一月・和氣神社奉贊會刊。口繪=影山正治翁・徳富蘇峰翁他。序=影山正治翁・赤木一郎翁他。崇敬文篇。漢詩篇。和歌篇。雜篇。語句。後記。
一、護王神社編『和氣公と護王神社』昭和六十二年十一月・護王神社御遷座百年祭奉贊會刊。祭神篇=所功博士、景仰篇=若井勳夫翁、精神篇=小森義峯博士、沿革篇=松本利治翁、現況篇=有田博重宮司。

  • [2]
  • 天地正大之氣の凝る所、妖僧、肝膽寒し。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月15日(木)21時08分30秒
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●『大日本史』卷之一百二十・列傳第四十七

 和氣朝臣清麻呂は、備前藤野郡の人也*[『續日本紀』。○按ずるに、『宇佐託宣集』に、右京の人と曰ふ。今ま『姓氏録』を考ふるに、亦た和氣氏を以て、右京の皇別に載す。蓋し皆な清麻呂が、京戸に貫附せし以後に據れるのみ耳]*。其の先は、鐸石別命より出づ。鐸石別命の曾孫弟彦王、應神帝の時、軍功を以て、吉備磐梨縣を賜り、因て焉れに家す*[『日本紀』・『姓氏録』。○『日本後紀』・『宇佐託宣集』に、磐梨縣を藤原縣に作る。『續日本紀』に曰く、「神龜三年、備前の藤原郡を改めて、藤野郡と爲す。景雲三年、藤野郡を以て、和氣郡と爲す。延暦七年、和氣郡の河西を割きて、磐梨郡を建つ」と。之に據れば、則ち磐梨・藤原、其の實、一なるのみ耳]*。清麻呂、舊姓は磐梨別公、後ち藤野別眞人と改む*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。從六位上に敍せられ、右兵衞少尉と爲る。神護中、勳六等を授けられ、改めて姓を吉備藤野和氣眞人と賜り、從五位下に進む*[『續日本紀』]*。近衞將監に遷り、封五十戸を賜ふ*[『續日本紀』・『宇佐託宣集』]*。景雲三年、又た改めて姓を輔治能眞人と賜り、因幡員外介と爲る。清麻呂、人と爲り抗直なり。

 帝(稱徳天皇)、素より宇佐神を敬ふこと、生に事ふるが如く、其の憑語する所、事として從ひたまはざる無し。僧道鏡を寵じ、法王と爲したまふに及び、太宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂、旨を希ひて矯(いつは)り奏すらく、「八幡神、教へて言はく、『道鏡をして皇位に即か令めば、則ち天下太平ならむ』と」。是に於て、帝、清麻呂を御牀の下に召して曰はく、「昨夜の夢に、八幡の神使ひ來りて曰く、『大神、汝が姉尼法均に憑りて、言ふ所ろ有らむと欲す』と。汝、宜しく法均に代りて往くべし」と。發するに臨みて、道鏡、目を瞋らし劍を按じ、清麻呂に謂ひて曰く、「大神、我をして位に即か使めむと欲したまへり。今ま使ひを請ふ所以の者は、蓋し此が爲め也。汝、宇佐に詣り、神教を奉じて、我をして欲する所を得さしめなば、則ち汝に太政大臣を授け、委ぬるに國政を以てせむ。如し我が言に違はゞ、則ち重刑に處せむ」と*[『續日本紀』。『宇佐託宣集』を參取す]*。時に、路豐永有り、清麻呂に謂ひて曰く、「道鏡、天位に登らば、吾れ何の面目ありてか、之に事へんや乎。吾れ將に二三子と、伯夷に從ひて游ばむとす」と。清麻呂、死を誓ひて往き、神宮に詣でて教を請ふ*[『日本後紀』・『日本紀略』・『宇佐託宣集』]*。神、憑語して曰はく、「我が國家、開闢以來、君臣の分定まれり矣。臣を以て君と爲すは、未だ之れ有らざる也。天つ日嗣は、必ず皇胤を立てよ。無道の人は、宜しく迅かに掃蕩すべし」と。清麻呂、還りて奏するに、其の言の如くす。道鏡、大いに怒りて、清麻呂が本官を解き、出だして因幡員外介と爲す。未だ任に之(ゆ)かざるに、其の姉法均と、神教を矯めて、朝廷を欺罔したりと追咎し、姓名を別部穢麻呂と改めて、大隅に流す*[『續日本紀』]*。道鏡、人をして清麻呂を道に殺さ使めむとせしに、俄かに雷雨晦冥にして、命を受くる者、猶豫せり。會々敕使、來りて赦す。參議藤原朝臣百川、其の忠烈を愍み、備後の封二十戸を割き之に與ふ*[『日本後紀』・『日本紀略』・『宇佐託宣集』]*。

 明年三月、清麻呂、謫所より上書して曰く、「臣聞く、『人臣の禮は、忠を盡して貳ふ無く、命を致すの道は、肝を泥(まみ)らして避けず』と。顯名を後代に遣し、功業を無窮に流すは、斯れ則ち忠臣の危きに臨み命を致す所以、羲士の身を忘れ節を存する所以なり。臣清麻呂、再び使ひを宇佐大神宮に奉じ、國家の大事を請ひ問ひしに、大神の教、西命に合はず*[○『續日本紀』を按ずるに、清麻呂が奉使は一囘なるに、此に再び奉ずと云へること、未だ詳かならず]*。竊かに惟みるに、信は、國の重寶なり。豈に身を顧みて寶を亡ふ可けむや乎。又た至尊の至威、君の神と、誰か敢へて正旨に乖かむや乎。故に復命の日、敢へて眞言を陳べたり。大神の西方と和せざるは、唯だ今日のみに非ず。事、先の奏に具(つぶさ)さなり。臣、神語に依りて、作文詳略二道を奏し、略本は西方に上り、詳本は御所に獻ぜり。又た嚮(さき)に何曾麻呂、臣に語りて曰く、『大神の和せざる者は、前より然り矣』と。若し前後の奏状を按じなば、渭、自づから分れ、神威、由りて致さむ。今ま臣、罪を畏れて言はずんば、則ち臣民の道に非ず。故に略して之を陳べむ。去年、敕を奉ぜしに、『昨夜の夢に、大神の使ひ有り、來りて曰く、「法均尼を見て、附奏する所あらむと欲す」と』。叡慮、以爲らく、『此れ必ず天位の事ならむ』と。清麻呂を差(つかは)し、法均に代りて教を受けしめたまへり。臣、敬畏戰慄して、自ら顧みるに、任、己が分に非ず、何ぞ能く之に堪へむ。命を佛神に歸し、心を結ぶこと貞信に、重旨を荷ひて薄冰を履み、蹇足を引き以て深淵に臨めり。既にして祝して曰く、『臣は、是れ神の召す所、至尊、以て耳目に代へたまふ。伏して願はくは、立ちどころに靈異を示し、聖旨に顯答したまへ』と。大神、祝韓島勝與曾に憑り、臣を誡む。『吾が言、西方に聞か令むること莫れ』と。臣、祝して曰く、『國家の大事は、臣、獨り奏し難し。先づ憑語の状を獻ぜむ』と。即ち奏文二道を作り、一は神宮の前に藏め、一は使ひに附して之を獻じたり。中に大事二條有り、外に小事一條有り。大事の一は、『汚濁の人を屏逐す』。二は、『天の日繼は、人の鏡を握るが如く、正しくして倚ること莫し』。小事は、『官は同じと雖も、殿は須らく異なるべし』と。伏して思ふに、神明に非ずんば、誰か之を言ふことを得む。如し從はずんば、則ち恐らくは神旨に違はむ。又た臣、獄中に民語を聞くに、大神、憑りて曰はく、『吾れ今ま此こに大隅に遷らむとす。當に速かに祠を立つべし。海中に島の神等に造(いた)るに、未だ依る所を得ざれば、亦た宜しく祠を立つべし』と。今の憑る所、事理、當に然るべし。是を以て敢へて腹心を書し、謹みて奏す」と*[『宇佐託宣集』]*。

 是歳、光仁帝踐祚したまへり。道鏡を下野に竄し、清麻呂が姓名を復して、之を召し還す。明年、本位に復し、播磨員外介と爲す*[『續日本紀』。○和氣氏所藏の『清麻呂傳』に曰く、「初め清麻呂の竄せらるゝや也、脚(あし)痿えて起立すること能はず。是に至り八幡宮に詣でむと欲し、病を輿して路に就き、豐前宇佐郡□*[木+若]*田村を過ぐるに、野豬有り、三百可(ばかり)、路を夾みて前驅すること十許里、宮を拜するに及び、起坐すること常に復せり。神、憑語すらく、『神劍二口・神封綿八萬餘屯を賜ひ、乃ち宮司以下に頒つ』と。國中の百姓、之を面(まのあた)りに見て、嘆異せざる莫かりき」と]*。豐前守に遷る。

 是より先、宇佐八幡の宮司等、屡々神語を託し、妖言を造爲するも、前後の國司、一も問ふ所ろ無し。清麻呂、太宰府の監典・主典各々一人、卜部三人と、神宮に詣で、龜を灼き神語の實否を卜ひ、府に請ひ黜陟を行へり*[『宇佐託宣集』]*。既にして清麻呂・廣蟲、竝びに姓を和氣朝臣と賜る*[『續日本紀』]*。清麻呂が先塋は、備前に在り。貶竄に遭ひて後、人、其の木を伐れり。赦されて還るに及び、上疏して状を陳ぶ。詔して、清麻呂を以て、美作・備前兩國の造(みやつこ)と爲し、高祖父佐波良已下、竝びに國造を贈る*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。天應元年、從四位下に進む。延暦中、攝津大夫と爲り、從四位上に敍せられ、民部大輔・中宮大夫を兼ぬ。奏言すらく、「河内・攝津の界に、川を鑿ち堤を築きて、荒陵の南より河内川を導き、西のかた海に通ずれば、則ち沃壤、益々廣く、以て墾闢す可し」と。奏可して、清麻呂を遣はし、其の事に勾當せしむ。又た奏すらく、「備前和氣郡河西の百姓一百七十餘人、請ひて曰く『己等は舊赤坂・上道二郡の東海の民也。神護二年、割きて和氣郡に隷せらる。方今、郡治、藤野郷に在り。大河有り、雨水に遭ふ毎とに、公私、通じ難く、河西は屡々公務を闕く』と。請ふ、河東は舊に依りて、和氣郡と爲し、河西に磐梨郡を建て、其の藤野驛の家は河西に置き、以て水害を避け、兼ねて勞逸を均しくせむ」と。之を許す。尋いで正四位下に進む*[『續日本紀』]*。時に長岡の新都を營むも、十歳、未だ成らず、費す所ろ貲(はか)られず。清麻呂、密かに奏請し、遊獵に託して、葛野の地を相し、以て都を遷す*[『日本後紀』]*。十五年、從三位に進むも*[『公卿補任』]*、未だ幾(いくばく)ならずして、骸骨を乞ふ。許されず。功田二十町を賜ひ、以て子孫に傳ふ。十八年、薨ず。年六十七。正三位を贈らる(愚案、嘉永三年五月、護王大明神の神號を賜り、更に四年三月十五日、正一位を贈らせ給ふ)。

 清麻呂、通曉する所ろ多く、最も故事に明かなり。『民部省例』二十卷を撰ぶ。又た中宮の教を奉じ、『和氏譜』を撰び、之を上る。帝、甚だ之を善みしたまふ。嘗て田一百町を備前に墾き、永く賑給の資と爲す。郷民、之に頼る*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。子は廣世・眞綱・仲世なり*[『系圖』。○仲世は『文徳實録』に據る]*。


 和氣廣世は、家より起りて文章生に補せらる。延暦中、事に坐して禁錮せらるも、赦に遭ひて少判事に補せらる。從五位下を授けられ、式部少輔と爲る*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。帶劍を聽され*[『日本紀略』]*、大學別當と爲る。請ひて私田二十町を納れて、勸學の料と爲す。明經四科を定む。諸儒を大學に會して、陰陽・藥經・大素等書を講論す。大學の南の私宅を以て、弘文院を置き、書數千卷を藏む。墾田四十町を以て、永く學料に充て、以て父の志を終へたり*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。


 和氣眞綱は、少くして大學に遊び、頗る史傳に渉る。弱冠にして、文章生に補せらる。弘仁・天長の間、内外に累官す。承和七年、參議と爲る。十三年、卒す。年六十四。眞綱は、稟性敦厚にして、忠孝兼ね資(たす)く。職に臨み事を執るに、未だ嘗て阿枉せず。法隆寺の僧善、少納言登美直名が法を犯したるを告ぐ。太政官、實に據り判ぜむと欲するに、或は直名を援け、反誣し、以て違法の訴へを許容すと爲す。明法博士に敕して、之を斷ぜしめたまふ。衆、皆な畏避して、敢へて正言せず。眞綱、慨然として謂へらく、「塵埃の路は、行人、目を掩ひ、枉判の場は、孤直、何ぞ益あらむ。職を去りて、其の志を高尚にするに如かじ」と。因りて官を解き門を杜ぢて、人事を謝絶す。尋いで卒す。素より佛乘に歸し、天台・眞言兩宗の立つは、廣世・眞綱の力也*[『續日本後紀』]*。初め清麻呂が宇佐に使ひし、還りて伽藍を立て、佛像・經論を安んじ、以て神威を助けむと欲すも、竄に遭ひて果さず。延暦中、私に河内の神願寺を剏(はじ)むに、帝、敕して定額と爲したまへり。後ち眞綱、河内守と爲る。弟仲世等と請ふらく、「高雄寺の地と相易へ、改めて神護國祚眞言寺と號し、僧十四口を簡(えら)びて、密法を修せしめ、沙彌十四口に、『守護國界主經』・『調和風雨成熟五穀經』等を轉讀せしめ、晝夜、聲を斷たざること七年にして、得度に預らしめむ」と。之を聽す。每年、一人を度し、一世に限り、備前の水田二十町を賜ひて功田と爲し、以て四世に傳ふ*[『類聚國史』]*。眞綱、少將と爲りし時、俸を割き財を出して、攝津の良田を買ひ、以て士卒を瞻(にぎ)はす。一時、之に頼る*[『續日本後紀』]*。子の貞典は、攝津・美作守と爲る。觀光は、佐渡守と爲る*[『系圖』]*。貞典が子時雨、心を醫學に潛め、兼ねて針術に精し。承平中、試に中(あた)り、醫博士と爲る。天暦中、典藥頭と爲る。康保二年、卒す。年六十七。和氣氏の醫を業とすること、時雨より始まる*[『系圖』]*。


 和氣仲世、年十九にして、文章生に擧げらる。大同の初、大學大允と爲り、從四位上播磨守に終る。性至孝にして、公に奉ずること忠謹なり。寢ぬる毎とに、未だ嘗て宮闕を趾にせず。初め近江介と爲るも、得る所の俸祿は、悉く貧民に賑はせり。彈正大弼と爲るも、臺に南門無ければ、奏して、中院の西門を移し、以て臺門と爲し、私財を出して、近江高島郡の田五町を買ひ、廚費に充てたり。播磨守と爲るに及ぶ。清靜にして化し、民、其の惠に懷く。仁壽二年、卒。百姓、之を慕ふ。子の貞臣、字は和仁*[○『系圖』に、眞綱の子と爲す]*。幼にして母を喪ひ、哀戚すること禮に過ぐ。叔父眞綱、深く之を愍む。弱冠にして、治部卿安倍吉人に從ひ、老莊を受く。吉人、之を奇とす。人と爲り聰敏にして質朴、意を雜藝に留めず、唯だ圍碁を好む。後ち大學に入り、研精、輟(や)まず。承和中、秀才に擧げられ、文章得業生に補せらる。對策して第せず。數歳にして、大學大允を拜せらる。大内記に遷り、從五位下に至る。年三十七にして、官に卒す。時人、焉れを惜めり*[『文徳實録』。○文章得業生は、『續日本紀』に據る]*。



●『大日本史』卷之二百二十四・列傳第一百五十一・列女

 和氣廣蟲は、備前藤野郡の人、清麻呂の姉也*[『續日本紀』・『日本後紀』]*。初め從五位下・葛井戸主に嫁ぐ*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。廣蟲、人と爲り貞順にして、節操、虧くる無ければ*[『日本後紀』]*、孝謙帝の愛信したまふ所と爲り、正六位下を授かる*[『續日本紀』]*。帝、落飾したまふに及びて、廣蟲も亦た薙髮し法弟子と爲り、法均となづけ、進守大夫尼位を授けらる。藤原仲麻呂、誅に伏し、連して斬に當れる者、數百人に及ぶ。法均、帝に諫めて、死を減じ流に處せしむ。亂の後ち飢疫、民間の子を生める者、育つ能はざるもの多くして、往々にして之を棄つ。法均、人を遣はし之を收養せしむ*[『日本後紀』]*。凡そ八十三兒を得て、悉く養子と稱す。因りて姓・葛木首を賜ふ*[『宇佐宣託集』]*。神護景雲二年、從四位・封戸并びに位祿・位田を賜ふ*[『續日本紀』・『日本後紀』]*。

 弟・清麻呂、弓削道鏡に忤ひ竄に遭ふに及び、法均も亦た詔して還俗せしめ、舊名・廣蟲に復して、備後に流さる*[『續日本紀』・『日本後紀』・『宇佐託宣集』・『日本紀略』。○『託宣集』を按ずるに、廣蟲を狹蟲と爲す]*。光仁帝踐祚したまひて、姓名を復して召し還し、從四位下を授け*[『續日本紀』]*、典藏と爲し、吐吶を掌らしむ。帝、嘗て嘆じて曰はく、「諸侍從、□[熱の火の代りに馬。せつ]御には、毀譽紛紜なるも、獨り法均のみ、人の短を言はず」と。正四位下に累進す*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。宅を新都に起すに及び、稻を賜ひ*[『類聚國史』]*、正四位上を授け、典侍と爲す。延暦十八年、卒す*[『宇佐託宣集』は、十七年に作る]*。年七十。天長二年、正三位を贈らる*[『日本後紀』]*。法均、友愛天至にして、姉弟、財物を分たざれば、時人、之を稱す。歿するに臨み、清麻呂に屬して曰く、「凡百の追福、一として須ふる所ろ無かれ。惟だ二三僧徒と、禮懺を修し、後世子孫をして、永く準則と爲さ使めよ」と*[『日本後紀』・『宇佐託宣集』]*。

  • [1]
  • 贈正一位・護王大神・和氣清麻呂公。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月15日(木)21時06分44秒
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■『日本續紀』神護景雲三年九月廿五日

 清麻呂、行きて神宮に詣するとき、大神、託宣して曰はく、『我が國家、開闢より以來た、君臣定りぬ矣。臣を以て君と爲すことは、未だ之れ有らざる也。天之日嗣は、必ず皇緒を立てよ。无道の人は、宜しく早く掃除すべし』と。



■『日本後紀』延暦十八年二月廿一日

 清麻呂、祈りて曰く、「今ま大神の教ふる所、是れ國家の大事也。託宣は信じ難し。願はくは神異を示したまへ」と。神、即ち忽然として形を現したまふ。其の長け、三丈許り。色、滿月の如し。清麻呂、魂を消し度を失ひ、仰ぎ見ること能はず。是に於て神、託宣すらく、『我が國家、君臣の分定まる。而るに道鏡は、悖逆無道、輙く神器を望む。是を以て神靈震怒、其の祈ることを聽さず。汝、歸りて、吾が言の如く之を奏せよ。天之日嗣は、必ず皇緒を續げ。汝、道鏡の怨みを懼るゝこと勿れ。吾れ必ず相濟はむ』と。



■『和氣清麻呂靈廟に下し賜へる宣命』嘉永四年三月十五日(神號・神階――護王大明神としての冠位。『孝明天皇紀』四十一)

 天皇が詔旨(おほみこと)らまと、贈正三位行民部卿兼造宮大夫・和氣朝臣清麻呂に詔(のりたま)ふと、敕命(のりたまふみこと)を聞し食さへと宣りたまふ。

 奈良の宮の御宇に、淨く貞かに明らかなる心を以て仕へ奉りしが、宇佐に詣でし時にしも、猶ほ正しく直き眞事を以て請ひ問ひ奉るに、大神も相うづなひ愛しみ大坐して、貴く畏き御教言を以て、悟し給ひ慈み給ひしに依りて、君と臣との道、驗(しる)く立ちぬ。此の時に當りて、汝(いまし)微(な)かりせば、下として上を凌ぎ、上として下を欺く事の有りつらむに、身の危きを顧みず、雄雄しく烈(はげ)しき誠の心を盡せるは、古への人の云ひて在るらく、危きに臨みて命を致せるものなり。また云へらく、至忠に至正にして、能く道を以て君を濟ふと云へるは、汝の事ならむ。

 然るに世に顯るる事の足らざることを歎き給ひ愍み給ひ、彼れ是を以て吉き日・吉き辰(とき)を擇び定めて、護王大明神に崇め給ひ尊び給ひ、又た御冠(みかゞふ)り位を、正一位に上し給ひ治め給ひ、從四位上行神祇少副兼淡路守・卜部朝臣良祥を差し使はして、御位記(しるしのふみ)を捧げ持たしめて、出だし奉り給ふ。

 此の状を平けく安けく聞し食して、天皇朝廷(すめらみかど)を、堅磐に常磐に動(ゆる)ぎ無く、夜の守り日の守りに護り幸へ給ひて、天下泰平に、いかし御世の足らし御世に、護り恤(めぐ)み給へと、恐み恐みも申し給はくと申す。



■『社格制定の御祭文』明治八年二月一日(湯本文彦翁『和氣公紀事』明治三十二年十月・和氣會刊)

 天皇の大命に座せ。掛け卷くも恐こき、護王神社の廣前に、京都府知事・正三位・長谷信篤を使ひと爲て、白し給はくと白さく。

 掛け卷くも恐こき、稱徳天皇の御代に、大き功を立て給ひし故を以て、當時(そのかみ)より今に至るまで、天下、盡々に仰ぎ尊み奉るが故に、往にし嘉永四年の春、御使ひ差して、正一位・護王大明神と崇め稱へ給ひき。此の例しに依りて、今度び別格官幣社と定め奉りて、御幣帛(みてぐら)奉出(たてまた)し、齋き祭らせ給ふ。

 故れ今より後、彌遠長に怠る事無く祭り給はむ事を聞し食して、天皇の朝廷を始め、仕へ奉る百官人等、四方の國の公民に至るまで、いかしやくはえの如く立ち榮えしめ給へと白し給ふ、天皇の大命を聞し食せと、恐こみ恐こみも白す。



■『和氣公極位贈敍』(人階――和氣清麻呂公その人の冠位。『和氣公紀事』)

○策命

 天皇の大命に坐せ。贈正三位・和氣朝臣清麻呂の墓(おくつき)の前に宣り給はくと宣る。

 掛け卷くも恐こき奈良の宮に天の下知し食しゝ天皇の大御代に方り、汝し命の清く直く正しき誠心(まこゝろ)に依りて、隨神ら傳へ給へる天津日嗣の高御座の業は、傾ぶく事無く動く事無く大坐しゝき。故れ此の日月と共に、照り徹しる偉(おほき)勳を、萬世に旌表(あら)はさむと爲て、今度び特に正一位を贈らせ給ひ、位記を授け賜ふ。是を以て京都府知事從三位勳三等・内海忠勝を差し使はして、此の如きの状(さま)を宣り給はくと宣る。

 明治三十一年三月二十三日

○位記
     贈正三位・和氣朝臣清麻呂
 贈正一位
  天皇
  御璽
 明治三十一年三月十八日
  宮内大臣正三位勳一等・子爵・田中光顯、奉る。

○御沙汰書
     贈正三位・和氣朝臣清麻呂
特旨を以て位階、追陞せらる。
 明治三十一年三月十八日
       宮内省



●元帥海軍大將・有栖川宮威仁親王『「和氣公紀事」卷首』(明治三十二年春日)

爲國之本在忠 威仁



【山城國・別格官幣社・護王神社】
http://www.gooujinja.or.jp/

【備前國・縣社・和氣神社】
http://ww36.tiki.ne.jp/~wakeasomi/


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