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  • 下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』坤。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月 2日(日)15時40分32秒
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~承前~

  第二章 闇齋以後の闇齋学の道統について

   第一節 玉木葦齋の学風

 玉木葦齋の学風に就いて、『闇齋学統の國體思想』では、

「尚橘家神軍傳を中心とする兵家神道をとり入れて、獨自の神道を樹立し、深く楠公を崇拝し、神道の極致は、邦家の埋章となるにありとし、文武兼備を理想とし、兵法をも教へた。蓋し楠公崇拝の精神を絅齋に受け、これに神道的情熱を加へて、これを「邦家の埋章」の精神に發展させたところに特色がある」(十七)

と書かれてある。葦齋の偉業は、闇齋の神籬磐境傳を、天皇奉護の臣民道とする絶対随順の臣民道に深化させたことである。その思想の一端たるものは、『橘家神軍傳中大星之傳』に、

「天子は、日嗣の大君にして、今日の天照大神にて在坐也。臣下萬民の目當大星とする所は、天皇也。天君に逆ひ、矛先を向け弓を引き矢と放ちては、天の道逆ふ故、負ふ事、必然也。勅命のまにまに敵を討事、此則隨影壓躡の道理也。天照大神と天皇と、御同殿御共牀に在坐して、神皇御一体なれば、假令天日を背に負といへども、天皇に叛き奉りては、急に天罰を蒙る事、炳然たり。太陽天日の御人體に生れ出させ給へるは、天子也」(十八)

と述べられてゐるやうに、葦齋は放伐思想を否定し、また承詔必謹を説いたことからも、闇齋学に於ける絶対随順的臣民道と垂加神道を整理し、大成させ、更に天皇が、地上に於ける天照大神であると断言するに至つた。そして『神学大意』では、

「神籬と云ふことは、皇天二祖の靈を、きつとまつり留められて、皇孫を始め奉り、萬々世のすめみまを守護することの名ぞ。日と云ふは、禁中様のこと、日つぎの御子で、御代々日ぞ、其の日様を覆ひ守らせらるゝ道の名ぞ。さるによつて代々御日様の御座る處は、どこぞと云へば、禁裏の皇居が、代々日様の御座所ぞ。神籬とあらゆへ、今日の神社のことばかりと思ふは、そでない。直に禁裏様が、神様ぞ」(十九)

と、主張してゐる。神籬(日守木)は、天皇守護の道であり、更に「天子様へ忠盡すと云ふことで、日本人の極所ぞ」と述べることからも、それは天皇絶対思想であると云へる。更に、

「日本国中にあらゆる大小の神社は、皇統守護の為にいつき祭る外のことではないぞ。それからいへば、神社、皆神籬ひもろぎぞ。ひもろぎならぬ社は、淫社ぞ」(二十)

と云ひ、神社の本旨を「皇統守護の神籬」とし、皇統守護を鑑みない神社を淫祠であるとしてゐる。また葦齋は、闇齋の神籬磐境傳を深化させてゐることが、左記の一文をみても明瞭である。

「宇宙の本體は、禁中ぞ。故に中は、君臣ともに守る道で、其の實體は、禁中様ぞ。とかく日本に生れたからは、善悪の別なしに、朝家を守護し、おほひ守ると云ふことを立ちかびやり、以て朝家の埋章ともなり、神になつたならば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座加はるやうにと云ふことが、この伝の至極なり」(二一)

 天皇守護をし、「内侍所の岩の苔」となることが、日本民族の義務、即ち絶対随順的臣民道であり、葦齋の学風を継承したのが、若林強齋である。

   第二節 若林強齋の学風

 皇化朱子学と垂加神道と橘諸兄以来の橘家神道を整理・集大成した若林強齋の神儒兼学の学風こそ、廃幕皇政復古の原動力となつたのである。強齋は、闇齋・絅齋の朱子学を徹底的に皇化させ、神道を宗教的な信仰として結び付け、大義名分主義を更に闡明にした功を以てしても、闇齋学派中興の祖であることは、誰もが疑はない事実であらう。

 強齋は、皇国体について、『強齋先生遺艸』に、「道は神道、君は神孫、国は神国」と云ひ、更に、

「吾が国、君は則ち天孫、位は則ち天位、高天原に神づまりましましてより、天人一統、神皇一体たり。而して天下を知しめす者は、聡明聞知の徳在り」(二二)

と云ふやうに、皇国が神国であり、また天皇の神聖性を闡明にし、皇国が神国日本である所以を高らかに述べたのである。強齋と云へば、葦齋の橘家神道から影響を受けてゐることは、『橘家三種傳口訣』に、

「橘家三種傳之内、上に道あれば、三種の靈徳、玉體に在り。上に道無ければ、三種の靈徳、神器に在り。故に無道の君たりと雖も、神器を掌握すれば、則ち是れ有徳の君なり。神器と玉體とは、一にして別無きなり」(二三)

とあるのをみても、理解できる。強齋は、苦学の末、橘家神道の玉体神器一體の考へを更に飛躍させたのである。

「不徳の君と雖も、三種を授かり給へば、有徳の君と仰ぐぞ。これ橘家の傳ぞ。どこまでも君を天日と仰ぐこと、知るべし」(二四)

 右の筆述からも、強齋が葦齋の橘家神道から影響を受けてゐることは明白である。また強齋は、臣民道について、『神道大意』に曰く、

「志をたつるというても、此の五尺のからだのつゞく間のみではない。形氣は衰へようが斃れようが、あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して、八百萬神の下座に列り、君上を護り奉り、國家を鎭むる靈神となるに至るまで、ずんとたてとほす事なり。さるによりて、死生存亡のとんちやくなき事なり。若しも此の大事の御賜ものをもり崩して、不孝不忠となさば、生きても死にても、天地無窮の間、其罪、不レ可レ逃也」(二五)

と、神の末座に加はることで、天皇奉護・皇国護持に繋がると考へてゐたことからも、闇齋及び葦齋の神籬磐境傳のを発展させたことが分かる。また強齋の絶対的天皇信仰の情念を裏付けるものとして、湯武放伐を徹底的に否定してゐることが、稲葉黙齋の『先達遺事』に、

「松岡多助、彦根より還り、若林に謁して、今日、二客と辯難す。一人謂ふ、吾が邦、若し湯武の聖と桀紂の暴と有らば、則ち亦自ら應に放伐すべしと言ふ者有らば、卿、何ぞ其の人を戮せずして還れる」(二六)

と述べられてゐるが、これは放伐しようとする者は、殊更、殺害しても良いと云ふ、強齋の尊皇賤覇の立場を闡明に打ち出してゐる。橘家神道で崇敬されてゐる臣道実践者としての楠木正成に対する考へを、『靖獻遺言講義』には、

「一たび天皇の命を受けて、城を守り賊を討つと云ふ大義なりを、いつ迄もかへず、そこが、大義の明かな處ぞ」(二七)

 強齋は、皇国に於ける大義名分主義を熱烈に説き、天皇第一主義を明確にしたのである。その学統は、強齋が主宰する「望楠軒」に連綿と継承され、廃幕の原動力を担つたといふ一面は認めねばなるまい。強齋が望楠軒に於いて講義した内容たるものは、儒師たる絅齋の『靖献遺言』及び栗山潜鋒の『保建大記』を用ひ、門弟に対し、「復興」や「再興」と云ふ言葉を多く用ひて講義したことからも、闇齋学に於いて、「廃幕」と云ふ立場を確立するに至つたのは、強齋であつたと考へるのが妥当であらう。

 望楠軒の学風たるものは、幕府及び大名に仕へることなく、生涯、朱子学者たる本分(朱子の大義名分主義)を忘却することなく、皇国の大義名分たる皇政を待望するために、日々学問探求に明け暮れ、一旦緩急あれば、「今にてもあれ、何事にてもあるならば、禁中に馳參ずる佐野源左衛門が合點ぞ。それ故に一つの武具をとゝのへたぞ」(二八)と、強齋の云ふが如く、出処進退の立場を闡明にしてゐると云ふ特徴がある。闇齋学派に止まらず、皇学・天朝正学の三学派に於いて、望楠軒が、廃幕と云ふ立場の最右翼であり、更に思想的激情性を帯びてゐることは、
 一、武家奉公忌避
 二、養子絶対否認
 三、京都(朝廷)中心主義
以上、三点に断定すると共に、天皇の臣であることを、彼等は第一義と考へ、それに基き、行動しようと考へたことからも明らかである。

   第三節 竹内敬持の思想

 敬持と云ふ名は、闇齋学派の教義の中核たる「中を守り、敬を持して、君臣合体す」から採つたものであり、敬持が、闇齋学で塗り固められたことを、容易に察せられる。敬持の思想的背景は、『竹内式部君事績考』に、

「さて式部君の学問は、山崎闇齋の神学を奉じ、経学は、四書・五経・小学・近思録を本とし、傍ら靖献遺言・保建大記を講述す。又軍学は、講義せざる旨、町奉行所に於いて陳述するも、橘家神軍伝等、其家に蔵置する趣、糺問次第に載すれば、垂加流の軍学は、一通り研究せしならん。垂加流の軍学は、橘家神軍と称し、其術を記するもの、太子流神秘巻・橘家神体勧請巻・橘家蟇目口伝・興名草前後編等、若干部あり。文事ある者は必ず武備ありとあり、文武兼学は儒者の本分なれば、式部君も儒学研究の余暇に、師伝の軍学も修めたるべし」(二九)

と云ふが如く、闇齋学派の学是たる神儒兼学の徒であることが分かる。その背景として、敬持は、神道を葦齋、儒学を強齋門下の松岡仲良から教はつてゐることを見逃すべきではない。ここで敬持の儒師たる松岡仲良の思想を、簡単に述べたいと思ふ。仲良は、強齋の大義名分主義及び臣道実践の二点を継承、更に先鋭化さたのである。仲良の大義名分主義及び臣道実践の一端を垣間見ることが出来るのは、『神道学則日本魂』である。仲良が云はんとすることは、日本魂・湯武放伐不可・臣民道の三点に尽きる。『神道学則日本魂』に曰く、日本魂について、

「第令儒生釋徒異端殊道の頑、村甿野夫賈販奴隷の愚も、悃々欵々として、國祚の永命を祈り、紫極の靖鎭を護る者、此を之れ日本魂と云ふ」(三十)

と。日本魂の根底にある本朝の道については、「從頭亂賊と云て、竹鋸をあつるが、日本の道也」(三一)と述べ、更に天皇を奉戴し、護持することこそが、「比莽呂岐の道」であり、それを実践しない者は、「從頭亂賊」として討ち倒すことが本朝の道であると、仲良は考へてゐたのである。

 仲良から教はつた敬持は、明白な廃幕主義であつたのだが、敬持は、暴力で以て廃幕にすると云ふ立場を否定し、朝廷内に闇齋学を宣布し、天皇自身が闇齋学を帝王学として身に付け、勅諚を以て、皇政復古を断行すると云ふものである。このことは、敬持が公通の思想的事業を継承したと云ひ得られ、かうした敬持の態度は、兼胤公記宝永八年七月十五日の条に、

「日本の帝王は日神より
當今に至り、御一姓御相續の事、異国に無之義、天下萬民、不奉仰者はなきこと也。然るに當時、將軍ある事を知て、天子ある事を知らさる者多し。是甚可歎事也。是何故なれは、君臣不學不徳より事起れり。然れは天子より諸臣に到り、修學積徳へき事、専一也。左あらは不用兵、不下手而をのつから、如昔、公家一統の御世にも成へき事、天地自然の道理なり。左申せはとて、只今學道たりと云ともかくはならす、徳成就の上のこと也。凡用兵は、覇術也。たとへ一旦天下治りても、又如今になる也。徳を以てすへし。唯一統学術を勵へき也」(三二)

と述べられてゐるのをみても、わかるであらう。敬持は、用兵で以て廃幕することを覇道とし、それよりも天皇公家が一体となつて、学問に励み、徳を積むことによつて、自然に朝廷にまつりごとが奉還されると云ふのが、敬持の考へる皇権回復の手段である。

 敬持は、唯一『奉公心得書』を著してゐるが、その内容たるものは、皇国に於ける拘幽操であり、皇国体・皇国の大義、君臣の主従を闡明に説いたものである。そこで敬持の思想が闡明に打ち出されてゐる所を、二点挙げたいと思ふ。『奉公心得書』に曰く、「此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則ち之を誅して、君に歸すること、吾國の大義なり」(三三)と、暗に幕府による皇権専横を批判し、尊皇斥覇を説いてゐる。更に「其身は勿論、紙一枚紙一筋、みな大君のたまものなり。(中略)いよいよ君を敬ひかしづき奉る心、しばらくも忘れ給ふべからず」(三四)と、天皇への忠誠を説ゐていることからも、『奉公心得書』は、皇国に於ける拘幽操であることは前述したが、敬持が、皇国の大義名分主義及び『拘幽操』の根本精神である君臣の主従について述べてゐることからも、敬持の思想なくして、廃幕の機運が高まることはなかつたと考へる。

 そして「宝暦事件」とは、敬持と闇齋学派の公家が、幕府始まつて以来、廃幕皇政復古を断行しようとした、初めての思想的事件である。さて、ここで注目すべきことがある。宝暦事件同様、皇権回復運動の嚆矢たる明和事件の首謀者山県大弐が、闇齋学で忌避されてゐる放伐を肯定したことである。大弐の『柳子新論』の一文を、左に引用する。

「苟も害を天下になす者は、国君といへども、必ずこれを罰し、克たざれば、則ち兵を挙げてこれを討つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つ、また皆その大なる者なり。ただその天子より出づれば、則ち道ありとなし、諸侯より出づれば、則ち道なしとす。(中略)則ち放伐も、また且つ以て仁となすべし。他なし、民と志を同じうすればなり」(三五)

 闇齋学にとつて、放伐は否定すべきものであることは、葦齋・強齋・仲良の思想を通して前述した。しかし大弐は、支那の放伐思想を皇国的に解釈したことで、万世一系の天皇を対象にせず、皇権専横をしてゐる幕府を、放伐の対象としたのである。

 大弐の放伐思想は、幕末に於いて、勤皇僧たる宇都宮黙霖が、吉田松陰及び松下村塾社中に伝播したことによつて、廃幕を成し遂げたことからも、廃幕の原動力は闇齋学であり、皇学は皇政復古の原動力となつたと、私は考へてゐる。
「安政の大獄」で、橋本景岳・頼三樹三郎・梅田雲浜・梁川星巌・池内大学などが弾圧されたことは、世に知られてゐる。彼等は、闇齋学の影響を色濃く受けてゐることから、幕府が宝暦事件以降、闇齋学を目の敵にしてゐることは明らかであり、それは闇齋学の教義たるものが、幕府の存在を揺るがしかねないと云ふ危惧があつたのである。それは、帝国海軍中尉の三上卓が指摘してゐる通り、高山彦九郎が薩摩藩と同盟し、幕府打倒を企図しようとしてゐたことからも明白である。そして望楠軒の道統を汲む中沼了三の門弟に、薩摩藩の西郷従道・川村純義・桐野利秋・鈴木武五郎、土佐藩の中岡慎太郎、肥前藩の松田重助等が薫陶を受け、闇齋学の学是たる大義名分主義を学び、彼等が廃幕に貢献した事実は、何疑ふ余地はない。また了三は、戊辰戦争の折、官軍の参謀として、絅齋以来、望楠軒に伝はる「赤心報国の刀」を抱持し、陣中に於いては、靖献遺言を仁和寺宮嘉彰親王に講義し、大義名分を熱烈に説き、官軍の士気が振るつたことを鑑みても、闇齋学の果たした役割は、非常に大きいと云へる。

 また神祇官再興及び祭政一致を主張し、皇政復古に貢献した皇学者の矢野玄道は、辞世の一首である「天地のよりあひのきはみ我が魂は天つひつぎの御守りにもが」と詠つてゐるやうに、垂加神道(橘家神道)の教義の中枢たる神籬磐境極秘傳に反映されてゐることは、疑ふ余地はないであらう。闇齋学が廃幕皇政復古に於ける役割は、非常に大きいと云へる。


  をはりに

 闇齋学の学風が大義名分に基き、行動することからも、かの気風が廃幕に至るのは、当然の結果であらう。闇齋学の教義が研究されつつあることからも、今後は、全国に弘がつた闇齋学が、諸藩に於いて、どのやうに展開し、廃幕に至つたのか、研究していきたいと思ふ。




(一)平泉澄 昭和七年『闇齋先生と日本精神』所収 至文堂
(二)日本国粋全書刊行会編 大正五年『保建大記打聞・玉鉾物語』
(三)井上哲次郎 大正十五年『日本朱子学派之哲学』 冨山房
(四)山崎闇齋著 日本古典学会編 『山崎闇齋全集』 昭和五十三年 ぺりかん社
(五)同上
(六)同上
(七)『垂加神道の研究』所収「弁林道春本朝綱目」小林健三 昭和十五年 至文堂
(八)同上
(九)近藤啓吾 昭和六二年 『靖献遺言講義』 国書刊行会
(十)法本義弘 昭和十一年『定本靖獻遺言精義』 定本靖献遺言精義刊行会
(十一)若林強齋 岡直養校 昭和十一年『強斎先生遺艸』 虎文齋
(十二)原念齋著 大町桂月校訂 大正二年『新訳先哲叢談』 至誠堂書店
(十三)近藤啓吾 『靖献遺言講義』
(十四)後藤三郎 昭和十六年『闇齊学統の國體思想』金港堂書籍
(十五)同上
(十六)同上
(十七)同上
(十八)同上
(十九)同上
(二十)同上
(二一)同上
(二二)『強齋先生遺艸』
(二三)後藤三郎
(二四)同上
(二五)同上
(二六)岩橋遵成他編『日本思想家史傳全集 第十八巻』昭和三年 東方書院
(二七)近藤啓吾 同上
(二八)後藤三郎 同上
(二九)星野恒 明治四二年『竹内式部君事蹟考』冨山房
(三十)『近世神道論』 平重道校注 昭和四七年 岩波書店
(三一)同上
(三二)後藤三郎 同上
(三三)長坂金雄 昭和十四年『奉公心得書・柳子新論』 雄山閣
(三四)同上
(三五)同上



 下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』一卷、拜寫すること、件の如し。
 


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