投稿者
メール
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
URL
sage

  • [40]
  • 下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』乾。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月 2日(日)15時35分43秒
  • 返信
 
 「下山陽太」主に論稿を懇望した所、次の論文を惠投して戴いた。本道に感謝に勝へない。聞くに、皇學館大學時代の論文の由、御容認の下、謹みて掲げさせて戴かうと思ふ。小生とは、些か學んだ所の筋が違ふ所もあるものゝ、尊皇・勤皇道に、鋭意邁進する主のこと、終始一貫した精神で、確實に論旨を進めてをられる。掲示板用に、讀み易くさせて戴いた所もあるが、御容赦たまはりたい。備中處士、敬白。



闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について   下山 陽太


  はじめに

 闇齋学の国史的使命について、内田周平は、『崎門尊王論の発達』に曰く、

「皇政復古の大業は、水戸藩の大日本史並にその学風、国学の三大家加茂眞淵・本居宣長・平田篤胤、及び高山彦九郎・蒲生君平・頼山陽等、諸氏の唱道鼓吹したものが相合し相集り、以て之を馴致醸成したやうに見えます。けれども其の間に在つて、京都を根拠となし、一脈相伝へて、尊王の始めをなし、勤王の終りをなしたるものは、実に朱子学の硬派たる山崎闇齎先生の学脈、即ち崎門学者であつたと、私は断言するものであります」(一)

と。闇齋学派が、廃幕皇政復古に貢献したと云ふ事実は、疑ひを容れるまでもない。闇齋祖述の皇化朱子学が、浅見絅齋、若林強齋の望楠軒に継承され、また谷秦山が、闇齋・絅齋・渋川春海から神儒両学を学び、土佐で廃絶してゐた南学復興、土佐勤王党の思想的淵源を担ふ事になり、垂加神道が、正親町公通・出雲路信直・梨木祐之・大山葦水ら、多くの門人育成によつて全国津々浦々に弘がり、それが真木保臣・平野国臣・橋本景岳・有馬正義等に伝播し、廃幕皇政復古、その全てと云はざるも、原動力の大なる一であつた。また闇齋学の学是である神儒兼学、即ち神道を大本とし、儒教を以て羽翼する学風であることは、闇齋晩年の門弟である谷秦山が、『保建大記打聞』の序に、

「吾も人も、日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし、其の上に器量氣根もあらば、西土の聖賢の書を讀んで、羽翼にするぞならば、上もないよき學なるべし」(二)

とあることから、闇齋学の特徴として注目すべきは、神儒兼学の態度であつて、決して教条的に儒教を採り入れるといふ性格のものではない。そして闇齋学が、天朝正学(水戸学)にも少なからず流入してゐることは、『大日本史』編纂の中枢に、三宅観瀾・栗山潜鋒・鵜飼錬齋など、闇齋学の俊才が大に関はつてゐたことからも、十分これを窺ふことが出来、当然の成り行きとして、闇齋学と天朝正学は、思想的にも緊密な干繋を深めていつたのである。その天朝正学は、第九代藩主であつた斉昭の永蟄居を前後して、藩政も動揺を醸し、政策上の齟齬は、遂に思想的確執に発展し、来たるべき皇政復古の時流に参画するまでには至らなかつた。一方、皇学と呼ばれる学問を専らとする学者達は、概して反幕どころか、幕府専政の世を謳歌し、文弱に流れた感があり、それは彼等の著述や和歌を見るまでもない。斯くの如く観察しても、廃幕皇政復古の道彦的役割を果たし、原動力となつたのは、紛れもなく闇齋学が第一である。しかもそれはペリー来航を機として、突如思想的に過激性が加はつたものでなく、また度重なる幕府の失政に対する不満と比例したものでもなく、闇齋学が一学派として認められるやうになつた当初から、既にこの思想的性格は存してゐたのである。それは竹内敬持の宝暦事件、山県大弐の明和事件、尊号一件の高山彦九郎及び唐崎士愛などの活動を見ても明らかである。廃幕皇政復古といふ国家的大事件は、ペリー来航・将軍継嗣問題・安政の大獄等に触発されたことは紛れもない事実であるが、しかしながらこれらは触発しただけに過ぎず、因ではないことは明らかである。前記した通り、因たる諸事件は、既に発生してをり、更に精確に云へば、闇齋学の誕生時に、既に因と言ひ得られるものが存在してゐたと見做すべきであらう。

 そこで、闇齋と闇齋学統が、如何に廃幕皇政復古に傾斜し、原動力となつたのか、探りたいと思ふ。


  第一章 闇齋の思想的概略

   第一節 闇齋の学風

 井上哲次郎は、『日本朱子学派之哲学』に闇齋学を評し、「彼れの開始せる一派は、知的探求を主とする学派を異にして、寧ろ教条を厳守する宗教の一派に似たり」(三)と述べた。闇齋学派は朱子学尊信集団であり、その首魁たる闇齋が朱の色を好み、朱色の手拭を腰に下げ、夏も朱色の羽織を着、書物の表紙は全て朱色を用ひる程の朱子尊敬の情念があり、それは単に生活面に於いてのみならず、「信朱子而述而不作」(四)とあるやうに、朱子学を篤く信仰し、また闇齋の学問の特徴たる朱子学厳密理解の学風を意味するものであり、生活及び学問の両面に亘つて、朱子と朱子学を尊崇してゐることがわかる。闇齋の朱子学尊崇の情念を、『文会筆録』に、

「我が学、朱子を宗とす。孔子を尊ぶ所以なり。孔子を尊ぶは、其の天地と準ずるを以てなり。中庸に曰く、仲尼、堯舜を祖述し、文武を憲章す。吾れ孔子・朱子に於て、亦竊に比す。而して朱子を宗とするも、亦苟も之を尊信するに非ず。吾れ意ふに、朱子の学、居敬窮理なり。即ち孔子を祖述して差はざる者、故に朱子を学びて謬らば、朱子と共に謬るなり。何の遺憾か之れ有らん。是れ吾が朱子を信じて、亦述べて作らざる所以なり。汝が輩、堅く此の意を守つて、失ふこと勿れ」(五)

『闢異』(宋儒の仏教批判)及び『大家商量集』(朱子の陸象山批判)に現れてゐる異端徹底排撃の精神を明かにし、朱子学の本義に回帰しようと訴へたのが、闇齋の朱子学理解であり、会津藩主保科正之、その儒臣服部安休と、思想的交渉し、神道傾斜する晩年に経るに連れ、朱子学の本旨を護持しつつ、皇化させたと云ふのが、妥当な立場であらう。そのため、闇齋が朱子学を宗教の如く信仰してゐるため、学術的に研究し、独自の学説を打ち立てるといふことより、忠実に祖述すると云ふ立場からも、朱子学を曲解した学者へ戦闘的に筆誅を揮つてゐた。この当時、儒学の主流を占めてゐた藤原惺窩、林羅山・鵞峰に対し、

「惺窩、自ラ之ヲ尊ブト謂イテ、亦陸ヲ信ズ。陸ノ学タル、陽儒陰仏、儒正ニシテ仏邪、ソノ懸隔、タダ雲泥タルノミナラズ、スデニ此レヲ尊ビ、彼ヲ信ズルハ、背庵草廬ノ亜流ノミ。豈ニ実ニ尊信スト曰ワンヤ」(六)
「林氏、何ゾヤ。其ノ不孝、世ヲ挙ゲテ知ル所、カツ四君ニ歴事シテ、堯舜ノ道ヲ、君前ニ伸ベズ。是レ君ヲ敬セザルモノナリ。(中略)王制ハ学非ニシテ博キ者ハ誅スト。林氏ヲシテ春秋ノ時ニ生レシメバ、豈マヌカレンヤ。然レドモ恬トシテ懼レズ、其ノ法ヲ僣弄ス。故ニ予、論ゼザルヲ得ズ」(七)
「近年聞ク、性理ヲ高談シ、以テ程朱ノ再出トナシ、而シテ文学ヲ擲ツテ、博識ヲ以テ妨アリト称シ、余輩ヲ指シテ俗儒トナス者、之レアリト。彼ハ彼タリ、我ハ我タリ。道同ジカラザレバ、相為ニ謀ラズ。余ハ、唯ダ家業ヲ守ルノミ」(八)

と、容赦なき斧鉞を加へてゐる。闇齋の朱子学を忠実に継承した浅見絅齋は、『靖献遺言講義』巻八に、「夫れ学は、朱子を以て宗とす。朱子を学ぶ者は、大義を知るを以て要とす」(九)と述べてをり、朱子学は大義名分主義に他ならず、それを皇国的に置き換へれば、幕府が皇室を蔑ろにし、皇権簒奪をさせないといふことに他ならない。林羅山の江戸学(林家学)は、幕府正当化のために、朱子学を敢へて曲解させたものであり、抑々、江戸学自体、藤原惺窩の流れを汲むため、皇国体と云ふ存在を忘却してゐることは、門人である羅山に対し、「嗚呼、中国に生れず、又此邦、上邦に生れずして、当世に生る。時に遭はずといふべきなり」と語つてゐる。また惺窩の門弟たる林羅山が、『本朝通鑑』に於いて、天皇の祖先が呉の太伯であると云ふ説を唱へてゐること自体、皇国の大義名分主義を自覚してゐないと云ふ何よりの証拠であり、惺窩及び羅山の思想的国籍が支那であると断定出来よう。

 また闇齋と羅山の朱子学の学問探求の相違は、「博学」・「審問」・「慎思」・「明弁」・「篤行」の取捨の相違であり、羅山は「博学」・「審問」・「慎思」・「明弁」を重視したのに対し、闇齋は「篤行」を重視した。これは闇齋自身が行動重視の土佐南学から影響を受けてゐることからも、相応な態度であると考へる。行動重視の闇齋学と書斎的学問である江戸学、及びその流れを汲む木門学・徂徠学との大きな相違点であると云へる。行動重視と云ふ闇齋学の立場を、法本義弘の『定本靖獻精義』には、

「崎門に於いて紹述されたる儒教の指導原理は、幕府擁護理論であり得る筈なく、当然幕府打倒の指導原理であり、章句の如何よりも、実践実行を眼目となせる崎門の学なる限り、その教理は、単なる机上の学説たるに止まり得る筈なく、此の徒によつて紹述せられたる幕府打倒の原理は、やがて幕府倒壊への実行運動となり、自刃と鮮血とを以てする果敢なる尊王倒幕運動となつたこと、勿論である」(十)

と述べてゐる。法本が云ふ「儒教の指導原理」は、紛れもなく朱子学であり、朱子学は、孔子の『春秋』、司馬光の『資治通鑑』、そして朱子が『資治通鑑綱目』を以て、儒教の大義名分主義を再構築・集大成したものであることから、朱子学とは、即ち大義名分主義であり、闇齋は、これを皇国的に解釈(皇化)させた主唱者であると評価して良いであらう。若林強齋の『強齋先生遺艸』に、

「垂加翁の聖賢の道の事は、朱子以後の一人と見ゆる。其の事業を云へば、孔孟程朱の道を、日本にかやうに闡明にせられたは、全く垂加翁の功なり」(十一)

と述べてゐるが、闇齋は、朱子学の本旨に基き、皇国的に運用するために、朱子学を皇化させ、導き出された答へが、皇権専横の幕府廃止・皇政復古であり、闇齋以後の道統によつて、愈々発展し、やがて実行に移されたのである。

   第二節 闇齋の皇国体信仰

 闇齋の皇国体信仰が、如何に徹底し、如何に強烈なるものであつたかは、『先哲叢談』に、

「嘗て羣弟子に問うて曰く、方今、彼の邦、孔子を以て大将と為し、孟子を以て副将と為し、騎数万を率ゐ来りて、我が邦を攻めば、則ち吾党、孔孟の道を学ぶ者、之を如何と為す、と。弟子、咸答ふる能はずして、曰く、小子、為す所を知らず、願くは其の説を聞かん、と。曰く、不幸にして若し此の厄に逢はゞ、則ち吾党、身に堅を被り手に鋭を執り、之と一戦して孔孟を摛にし、以て国恩に報ぜん。此れ則ち孔孟の道なり」(十二)

とあり、また絅齋の『靖獻遺言』巻七に、

「山崎先生、嘗て物語に、唐より日本を従へんとせば、軍ならば、堯舜文武が大将にて来るとも、石火矢にて打潰すが大義なり。礼儀徳化を以て従へんとするとも、臣下とならざるがよし。是れ春秋の道なり、吾が天下の道なり、と云へり」(十三)

とある。また正親町公通門弟の玉木葦齋の『潮翁講習口授』には、

「垂加翁曰く、倭漢共に、大成至聖ぞと崇め申す孔子でもあれ、をれが学だ、道を弘め、日本へ渡て、我風の教にしなさうとて、長崎へ渡られふぞなら、大筒を立並べ、只一打に打殺ひてのけふぞ。是が日本の大根、道の立つ大義ぢや。又孔子春秋の意が、直ぐに是ぞ」(十四)

と、闇齋の皇国体信仰について、以上のやうに述べてゐるが、これは闇齋が、孔孟朱子の学問を教条的に受容するのではなく、学恩のある孔孟が攻め寄せて来ても、皇国の面目に基いて行動するのが孔孟の道であると、闇齋は考へたのである。孔孟朱子の学問を、皇国的解釈に即した立場に変革させたことについて、後藤三郎氏は、

「支那崇拝の強い中に、断然この強い説をいひ放つた闇齋の強烈なる愛国的信念、剛健なる日本的精神こそ、闇齋並に闇齋学の特質であり、本領であつたのである。強烈なる日本的精神の保持者・主張者・実践者が、実に闇齋の闇齋たる、又闇齋学の闇齋学たる所以であつたのである」(十五)

と云ふことからも、闇齋学の本領たるものが、天皇奉護・皇国護持の学問であり、皇権専横の幕府に対し、闇齋学派が好戦的だつたのは無理もない話であらう。

 闇齋の会津藩仕官に於ける思想は、会津藩家訓第一条に見られるやうに、幕府体制に対して肯定的な見解を持してゐたと思はれるが、それは即ち大政委任論であつたと云へる。会津藩での闇齋は、藩主保科正之・儒臣服部安休・吉川神道提唱者吉川惟足と云つた思想家と交流を持つてゐたことからも、闇齋が具体的な神道思想に興味を持ち、また諸神道思想説を学び、取捨選択し大成させた「垂加神道」の教義の中枢が、「三種神器極秘伝」及び「神籬磐境極秘伝」である。これらに象徴されるやうに、彼が熱烈なる尊皇思想の持主であることは疑ふ余地はない。その後の闇齋は、『遠遊紀行』・『再遊紀行』等の会津藩仕官に著述された文章を、『垂加草』から削除したことから、益々皇国の自覚を深めてゆくのである。加へて闇齋の門弟には公家が居たことからも、朝廷の実情や置かれてゐる現状に疎からう筈も無く、やがてその思想は、廃幕には至らないにしても、反幕的気風を帯びてゆくことは、当然といへば当然の成り行きかも知れない。闇齋は、自らの後継者を公卿の正親町公通を任命したことからも、闇齋の意中には、闇齋学を朝廷に宣布するといふ構想があつたと考へられる。朝廷は、幕府の制限下に置かれつつも、皇権回復のために、公通及び八条宮尚仁親王を中心に、朝廷内に闇齋学の宣布を主導してゐる。更に尚仁親王は、皇権が武家に簒奪されて以降の国史を具体的に学ばれてゐることからも、親王には皇権回復の御意志があることは明白であり、それは尚仁親王に始まつたことではなく、後水尾天皇の紫衣事件、後光明天皇の対幕強硬姿勢、親王以降の桃園天皇に至つては、闇齋学を受容し、天皇御自ら皇権回復の先頭に立ち、行動してゐることからも、歴代天皇は、果敢に皇権回復の志があつたと云へる。

 正親町公通の『公通卿口訣』に曰く、

「天下の事は、中臣祓に約まる。中臣祓を人にして見るときは、天子なり。何程衰へたりとも、此れあれば、天下は治むべし。天子中臣祓を体認ましませば、天下は治まらんとありしかば、翁の賞めたまふて、名言なりとせり」(十六)

と。神代以来の中臣祓を重視してゐる闇齋にとつて、「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」等、作為的法令より、朝廷のもつ機能を制限してしまつたことは、憾むべき一として考へられた。その闇齋学の気風は、宝暦・明和・尊号一件から徐々に高まると共に、闇齋学も御世を経るに連れ、思想的に研ぎ澄まされ、刃の如き存在になるのである。そこで、進歩的文化人の丸山真男、それに触発された尾藤正英及び平重道は、闇齋学を体制迎合的学問として捉へてゐるが、もし、さうであるなら、宝暦・明和・尊号一件等の皇権回復の旗手を、闇齋学が主導した筈はなく、林家学及び徂徠学のやうに、御用学の役割を果たしていなければならないと云へるため、見当違ひであると断言する。
 


スレッド一覧

  1. 「九段塾」塾頭・一兵士翁遺文抄(101)(備中處士)
  2. 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義(44)(備中處士)
  3. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(8)(備中處士)
  4. 皇軍招魂抄(13)(備中處士)
  5. 日本刀四方山話(52)(那須の権太)
  6. 先哲景傳同血抄(17)(暘廼舍)
  7. 肥後勤王黨・敬神黨の精神を恢弘せむ(12)(備中處士)
  8. ★☆★ 時計の間 ★☆★(391)(塾頭)
  9. 霊的国防の本義 拾遺(35)(はゆまつかひ)
  10. 祖神垂示 親譲之道 拾遺(38)(はゆまつかひ)
  11. 嗚呼、慕楠黒木博司少佐。(15)(備中處士)
  12. 先哲遺文に學ぶ。(35)(備中處士)
  13. 神道に學ぶ。(61)(備中處士)
  14. 賀茂百樹大人遺文(6)(備中處士)
  15. 大高山傳・合纂――高山赤城先生を仰ぐ。(25)(備中處士)
  16. 和氣公傳(12)(備中處士)
  17. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(48)(備中處士)
  18. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(37)(はゆまつかひ)
  19. 平田篤胤大人『古史成文』(165)(南雄)
  20. 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(30)(相州之民艸ならびに備中處士)
スレッド一覧(全44)  他のスレッドを探す  掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成