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  • 皇國護持の學問、其の一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時25分39秒
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【本文・闇齋傳】

 闇齋は、元和四年に京都に生れました。父は元は武士、後には醫者でした。闇齋は、少年の時、叡山に登つて學問をしましたが、十五六歳の頃、轉じて京の妙心寺へ入り、禪僧となりました。その後、土佐へ行き、吸江寺に住んでゐましたが、二十五歳の時に、朱子の書物を讀むに及んで、佛教が人倫、即ち君臣・父子・夫婦の關係を無視し、その間の道徳を否定してゐるのは誤りであると悟り、佛教界から縁を切つて、專ら儒學、特に朱子學を研究するやうになりました。

 室町時代からの風習で、佛教と儒教とは、これまで長く同居してゐました。詳しくいへば、儒教を學ぶのは、大抵佛教の僧侶で、僧侶とは別に儒教だけを學ぶ儒者といふ者は、殆んど無く、藤原惺窩も相國寺の僧侶であつたし、林羅山も僧侶の外形をして、法印道春と呼ばれて居たのでした。從つて闇齋が、妙心寺の僧侶のままで、儒教を研究してゐても、誰も之を怪しまなかつたでせう。それを闇齋は、儒教の本旨から云へば、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の間の道徳が大切であつて、父子の間には親、君臣の間には義、夫婦の間には別、そして長幼は序、朋友は信を以て重しとし、之を五倫といふのであるが、佛教が是等の關係を離脱して、從つて五倫の道徳を無意義なものであり、無價値なものであると説くのは誤りであつて、人生を破壞するものだとし、之に氣がつき、此の確信を得ますと、自分は寺を出て、僧侶といふ身分から離れて了つたのですが、ここに闇齋が、どれ程深く、つきつめて物の道理を考へたか、また道理を考へては、必ずそれを實行して行つたか、といふ事が分ります。

 闇齋が禪僧として絶藏主と呼ばれてゐたのは、十五の時から十年間でした。そして寛永十九年、二十五歳の時に、今述べたやうな思想の轉囘があつて、二十九歳の時には、還俗して山崎嘉右衞門と名乘るに至りました。儒學の研究に專心する事十數年、明暦元年の春になつて、家塾を開いて講義を始めましたが、その教本は、先づ『小學』、次に『近思録』、次に『四書』、次に『周易程傳』、以上を一通り講義するのに、二年かかつたといひます。此の講義は、非常に評判で、門人の數は頗る多かつたやうです。その後、稀に江戸へ行く事もあり、稀には保科正之の知遇を得て、會津へまで出掛ける事もありましたが、然し本據は終始京都に在り、家塾で門人に道を説くを以て本分とし、そして天和二年(西暦一六八二年)九月十六日、京都二條猪熊の家で亡くなりました。六十五歳でした。

 闇齋は、會津の保科正之の外に、笠間の井上河内守や、大洲の加藤美作守等の知遇を得ましたけれども、大名に仕へるのは、その本意で無く、京都に於いて門人を指導してゐましたので、その一生の經歴は、花やかではありません上に、その著述としても是れと云つてまとまつたものが無く、『文會筆録』や『埀加文集』を見ましても、その學問の體系、本質を理解する事は、非常にむつかしいのであります。その上に、此の人の學問は、年々に深くなつてゆき、すぐれた門人といへども、中々ついて行けなかつたのですから、ここには、いくつかの點をあげて、その特色を考へ、そして正しくその學問を傳へた門人達の著作や事蹟を見てゆく事にしませう。

一、結論だけを見ると、闇齋の學問は、非常に獨斷的なもののやうに誤解されやすいのですが、事實はその前に、博く見、精しく調べて、十分な研究を積んでゐるのでした。それが最も良く分るのは、門人遊佐木齋の告白です。木齋は仙臺の人で、二十一歳の春、初めて闇齋の塾をおとづれました。二三日後に『論語』の泰伯の章について、
「いろいろ説がありますが、どれが正しいのですか。」
と尋ねました。闇齋、之に答へて、
『大切な處だ。『集註』を暗誦してゐるか。』
と、逆に問はれます。
「少しは覺えてゐますが、まだ不十分です。」
と答へると、
『『大全』を見ると、誰それは朱子の解釋に反對であり、誰それは贊成である。それを一々覺えてゐるか。』
と問はれます。
「いや、覺えてゐません。」
『『通鑑前編』に、胡氏の論があるが、覺えて居るか。』
「覺えてゐません。」
『『讀書録』にいくつかの説が載せてある、覺えてゐるか。』
「覺えてゐません。」
『それでは話のしようが無いでは無いか。もし本當に此の處を質問しようとするのであれば、是等の書物を能く調べ、一々それを分析して、何處に問題があるかを明かにして、その上で持つて來い。』
木齋は恐入つて退き、ひろく諸種の書物を調べ、朱子に從ふものを集めて一册とし、朱子に反對するものをまとめて一册とし、くりかへし之を讀んで記憶し、その上で先生をたづねて質問したところ、先生は、
『善し善し、それでこそ學問になるのだ。これは極めて大切な處であるから、輕々しく説明するわけにはゆかぬ。自分は先年、『拘幽操』一册を出版させて置いたから、それを求めて研究せよ。』
と云はれました。よつて『拘幽操』を求めて熟讀した上で、翌日先生をたづねて、自分の考へを申し上げたところ、
『さうだ、よく分つたね。』
と云つて、丁寧に説明して下さつた。自分は、初めは外の學者に就いて學んで居り、闇齋をたづねたのは、とにかく有名な人だから、一度見て置かうと云ふ、ひやかし半分の氣持からであつたが、是れより後は、傍目もふらず、一心に入門して教へを請うた。かやうに木齋は、その自敍傳で告白してゐます。闇齋の學問は、その結論を導き出してくる前に、どれほど博く諸説を檢討し、いかにきびしく之を分析し批判してゐるか、此の告白で明瞭になるでせう。

二、闇齋といへば儒者であり、特に朱子學一點張りであり、それが晩年になつて神道に傾いて來たので、門人の中にも、それを嫌つて、離れ去る者が段々出て來たやうに云はれてゐます。然し其の始めて家塾を開いて講義をした明暦元年(時に三十八歳)には、『伊勢大神宮儀式の序』を作り、『日本書紀』によつて神代を囘想し、天壤無窮の神勅を掲げて、「是れ王道の元(はじめ)なり」といひ、埀加神道と呼ばれる本になつた言葉も引用せられてゐる所を見ると、その佛教を批判した當初から、すでに神道に入つてゐた事、明かであります。そして明暦三年には、『倭鑑』と題する日本史を作らうと思ひ立ち、『日本書紀』編纂の大功を立てられた舍人親王を祀る藤森の社に參つて祈りをささげ、ついで伊勢大神宮へお參りしてゐます。その後、伊勢へお參りする事は、たびたびでした。萬治元年・同二年・寛文三年・同八年・同九年とお參りしてゐます。すでに人倫を重んずるとなれば、父母より遠く先祖に溯り、皇室より遙かに神代を想ひ、ここに伊勢大神宮への參拜となつたのは、當然でありませう。

三、かやうに日本の歴史をしらべ、國體を考へる所から、儒學の中に於いても、諸説を批判する力が出て來たのでありませう。その最も大切な點は、革命を承認するか、しないかの問題です。支那は、不幸にしてたびたび革命が起り、國家は起つては亡び、立つては倒れてゐます。支那の開けたのは、四千年も前の事で、古い文明を誇りとするのでありますけれども、國家としては、いづれも短命でした。即ち夏は十七世、四百年ばかりで亡び、殷は三十世、六百年餘で亡び、周は三十七世、八百七十七年で倒れ、秦は三世、十五年しか續かず、前漢十三世、二百七年、後漢十三世、百九十六年、それから三國・晉・南北朝を經て、唐が二十帝、二百九十年、五代を經て、宋が十八帝、三百二十年、元は強大でしたが、百六十二年、明、二百九十四年、清、二百九十六年でせう。力のある者が、武力で國を倒してゆくといふのでは、五倫も道徳も、あつたものではありますまい。それ故に支那では、隨分すぐれた學者でも、革命の問題になつてくると、勝利を得た方に味方して、之を辯護する説を立てやすいのです。その中で、絶對の忠義を守り、あくまで革命に反對する考への出てゐるのは、韓退之の『拘幽操』です。それを見つけて、之を大きく取上げ、極めて短篇の詩であるに拘らず、之を印刷して一册の書物としたのが、山崎闇齋でありました。前に述べた遊佐木齋も、之を求め、之を讀んで、その學問が極つたのでした。

 その『拘幽操』と同じ精神で、支那歴代の革命を論じたものは、闇齋自身の作つた『湯武革命論』で、それは「漢の高祖は、もと秦の民であり、唐の高祖は、前には隋の臣であつたのであるから、それが天下を取つたのは、臣下が君主に叛逆した事に外ならぬ。それは宋でも明でも、皆な同じ事であり、溯つて殷でも周でも、建國の英主として讚へられてゐるものの、實は道義には反してゐるのであり、道義にかなつてゐるのは、後漢の光武帝一人だけである」と論じてゐるのであります。是れは孟子を批判し、更に孔子や朱子の論の足らない所を補ひ、或はそれを徹底させての議論であつて、ここまで徹底させる事が出來たのは、一つは闇齋の儒學が、只だ博識を誇るといふやうなものでなく、精しく道理を究めてゆく嚴しい態度であつたからでもありませうが、それ以上に重大な理由は、日本の歴史を考へ、殊にたびたび伊勢大神宮の神前にひれ伏して、天壤無窮の神勅を仰ぎ、國體の尊嚴に打たれたからに違ひありません。つまり闇齋が革命否定の論に徹底出來たのは、闇齋が偉かつたからでありますが、そこまで闇齋を導いたのは、實に日本の歴史そのものであつたのです。



**********


 愚案、罪なくして幽囚に陷りながら、一點、君を怨むる心が無かりしと傳へらるゝは、支那に於ては、周の西伯(諡・文王)であり、其の西伯の心持ちを、彼に代つて歌つたのは、唐の韓退之(名は愈)の『拘幽操』であつた。殷の紂王が西伯を拘禁幽閉して置いた時に、西伯は己れ罪ある事なくして、惡逆無道の紂王の爲めに辱めを受けながら、少しも主君を怨む心なく、却つて己をのみ責めてゐた其の心を、山崎闇齋先生は、沈潛默考して感歎歡喜に堪へず、これこそ、臣下たる者の道であり、道義の根本、即ち君臣の大義は、こゝに於て初めて明かにする事が出來るとして、之を表章講義した。傳ふる所に據れば、闇齋先生が『拘幽操』を講義する時は、思はず知らず、刀の下げ緒に手がかゝつたと傳ふ。蓋し刀を案じて之を説くと云ふのは、君臣の大義を推すに、假令ひ君の君たらずとも、臣は飽くまで臣たるの道を守らなければならない。苟くも王臣たる者が、主君を放逐し、若しくは征伐して、取つて代つて王となる事は、到底、之を許すべからざる事として、一律かつ無條件に之を排斥したのである。然るに今、徳川幕府は如何。ほしいまゝに大權を横領して、己ひとり榮華を極めてゐるが如きは、如何なる事情があるにせよ、許さるべきでは無い。大義の上から之を見れば、刀にかけても之を倒さなければならぬ、と云ふ微意に外ならないのである。


■昌黎韓退之『拘幽操』に曰く、「

 文王□[美の大なし+久。いふ]里の作。

目、□□[二字とも穴+目。えう]たり、其れ凝り其れ盲ひぬ。
耳、肅肅たり、聽くに聲を聞かず。
朝に日出でず、夜に月と星とを見ず。
知ること有りや知ること無しや、死せりと爲んや生けりと爲んや。
嗚呼、臣が罪、誅に當りぬ。天王は聖明なり」と。


■山崎闇齋先生『拘幽操の跋』に曰く、「

 『禮』(郊特牲篇)に曰く、「天は地に先だち、君は臣に先だつ、其の義、一也」。(『易』)坤の六二、「敬、以て内を直くす」。『大學』の至善に、「臣は敬に止まる」。誠に旨、有るかな哉。(『書』)泰誓に云ふ、「予れ天に順は弗れば、厥の罪、惟れ鈞し」と。是れ泰伯・文王の深く諱む所、伯夷・叔齊の敢へて諫むる所にして、孔子の「未だ善を盡さゞる」を謂ふ所以ん也。

 吾れ嘗て『拘幽操』を讀み、程子の説に因て、此の好文字、漫りに觀る可からざるを知れり。既にして朱子の「程が説を以て過ぎたりと爲す」を見て、信疑、相ひ半ばす。再び之を考ふるに、朱子の更に轉語して、「文王の心を説き得出せり」と。夫れ然る後に、天下の君臣たる者、定まれり矣」と。


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