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  • 義理の至當を究む。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月12日(月)13時37分40秒
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 正二位・萬里小路中納言藤原藤房公、屡ば後醍醐天皇に上言すれども、聽かれず。公、謂(おも)へらく、「臣たるの道、我に於いて盡せり」と。建武元年冬の夜、天皇に侍して諷し奉るに、比干・夷齊の事を以てし、曉に至りて退き、即ち車徒をしりぞけ還し、北山の岩藏村に入りて僧と爲る。天皇、大いに驚き、宣房に命じて之を索めしめ、將に再び仕用せむとし給ふ。宣房、人を馳せて之を召す。藤房公、應ふるに和歌を以てす。宣房、即ち親ら馳せて岩藏に到れば、則ち藤房公、僧と爲り、既に去りて之(ゆ)く所を知らず、と。



■谷秦山先生『秦山集』卷二十七に曰く、「

 楠正成、湊川に死す。蓋し獻策行はれず。而れども義、去る可からざれば也。

 山崎(闇齋)先生曰く、『正成は、諸葛孔明の亞と謂ふ可き也。藤房、官を辭するは可也るも、僧と爲るは何ぞや耶』と」と。


■若林強齋先生『藤房卿の遺址に題す』(『強齋先生遺艸』卷一)に曰く、「

西狩南幸、離騷の秋、
周旋、心を盡して、大猷を扶く、
惜む可し、曾て廣く信に講ぜざるを、
終ひに淪む、黄蘗が棄恩の流」と。


○愚案ずるに、崎門の諸子は、闇齋先生が説を承くるなり。即ち内外出處を知らざるを惜しめばなり。


●楠本碩水翁『隨得餘録』に曰く、「
 藤房、屡々諌めて聽かれず。官を棄てゝ而ち去れり。儒者の風、有り。及ぶ可からざる也」と。
○蓋し、『隨得録・卷二』に謂ふ所の「高尚して仕へざるも、亦た是れ義なるのみ焉耳」の謂ひならむ。


●三島中洲氏『萬里小路藤房公遺迹碑』(『中洲文稿・霞浦游藻』)に曰く、「
 南朝諸名臣、人品を以て勝る者は、獨り萬里小路藤房公と爲す」と。
○蓋し、是れ其の超脱を稱するなり。


●阪谷朗廬氏『萬里小路藤房卿』に曰く、「
誰か中興をして亂麻爲ら使む、
雲林、豈に肯て天家を忘れむ、
君王、若し臣が踪跡を問ひたまはゞ、
爲めに奏せよ、松陰、露華に泣くと」と。
○蓋し、即ち其の獨忠を稱するなり。


○愚案、各々識見を異にすること有りと雖も、宜しく義理の至當を究め、出處行藏を覆審すべきなり。而して常陸の學者の、藤房を親房公と竝べ稱する(藤田東湖先生『桑原毅卿の京師に之くを送るの序』・『弘道館記述義』等)こと有るは、恐らくは褒稱に過ぎたらむ。蓋し闇齋・秦山・強齋三先生の論を以て、確論正説と爲すと謂ひつべし矣。且つ義理の至當を究明めての論たるの嚆矢、亦た仰ぐべきかな。嗚呼‥‥。


●眞木和泉守『楠子論』に曰く、「

 孔子曰く、『殷に三仁あり焉』と。箕子曰く、『自ら靖んじて、人、自ら先王に獻ず』と。楠子と藤房・義貞と、亦た皆な各々自ら其の志を行ふ。箕子は身を屈して、道を周に傳へ、楠子は親を滅して、皇統を繼ぎ、以て萬世の道を存す。其の箕子に優れること、蓋し倍□[サ+徙。し]す焉。嗚呼、楠子の忠義、亦た天壤と與に窮り无き者か哉」と。


●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』(『丙辰幽室文稿』卷三)に曰く、「

評。天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。支那は則ち然り。神州に在りては、斷々、然らざる者有り。

 謹みて按ずるに、我が大八洲は、皇祖の肇めたまふ所にして、萬世、子孫に傳へたまひ、天壤と與に窮り無き者、他人の覬覦す可きに非ざるなり焉。其の一人の天下たるや、亦た明かなり矣。

 請ふ、必無の事を設けて、以て其の眞に然らざるを明かにせん。本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらば、億兆の民、唯だ當に首領を竝列し、闕に伏して號哭し、仰いで天子の感悟を祈りまつるべきのみ而已。不幸にして天子、震怒しまたひ、盡く億兆を誅したまはゞ、四海の餘民、復た孑遺あること無けん。而して後、神州亡びん。若し尚ほ一民の存する有らば、又た闕に詣りて死す、是れ神州の民也。或は闕に詣り死せずんば、則ち神州の民に非ざる也。

 是の時に當りて、湯武の如き者、放伐の擧に出でば、其の心仁なりと雖も、其の爲すこと義なりと雖も、支那人に非ざれば、則ち天竺、歐羅人に非ざれば、則ち利漢、決して神州の人に非ざる也。而して神州の民、尚ほ何ぞ之に與せん哉。

 下、邦國に至りても、亦た然り。今、防長兩國は、一人の兩國也。一人にして在らば、則ち兩國在り焉。一人にして亡びなば、則ち兩國亡びん。不幸にして一人、其の人に非ずんば、則ち兩國の民、當に皆な諌死すべし。若し或は死せず、去りて他國に往かば、兩國の民に非ざる也。山中に隱耕するは、兩國の民に非ざる也。萬一、支那の所謂る君を誅し民を弔ふ若き者あらば、虎狼豺犀、決して人類に非ざる也。

 故に曰く、天下は一人の天下なり、と。而して其の一人の天下に非ずと云ふ者は、特だ支那人の語のみ耳。

 然りと雖も普天率土の民、皆な天下を以て己が任と爲し、死を盡して以て天子に事へまつり、貴賤尊卑を以て、之れが隔限を爲さず。是れ則ち神州の道也。是れ或は以て一人の天下に非ずと爲るや耶。

 又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」と。


●根本羽嶽博士『讀易私記』(門人九鬼盛隆翁編纂『根本通明先生・周易講義』大正十年五月・荻原星文舘刊に所收)に曰く、「

 易の書たるや也、天地を以て君臣の象と爲す矣。天外の地有る無ければ、則ち臣、豈に君を離れて逃るゝの道有らんや哉。『尚書・皐陶謨』に、「帝曰く、臣は朕が股肱耳目たり。皐陶曰く、元首明かなる哉。股肱良いかな哉」と。君臣を以て一身と爲せば、則ち股肱耳目、豈に其の元首を離るゝを得ん乎。湯武革命(愚案、殷の湯王による夏の放・周の武王による殷の伐)有るより以來、君道陵夷、復た君を視る、天の若くすること能はず。『禮記・曲禮』に曰く、「人臣たるの禮は、顯諫せず。三たび諫めて聽かざれば、則ち之を逃る」と。此れ湯武革命の後、周の未だ衰世ならざるの言也。大に君臣の道に悖り、『周易』・『尚書』の義を失ふ也。

 夫れ君臣の道たる也、百たび諫めて聽かれざるも、逃れて去るの道無し矣。而(しか)るを況や天子一姓、皇統相繼ぐの國に於てをや乎。君道の隆んなること、天子一姓の國より盛んなるは莫し矣。君命、一たび之に下れば、則ち難を犯し死を視ること、猶ほ歸るがごとき也。難に臨んでは、則ち之に死する能はざるを以て耻と爲す矣。之に死する能はざる者有れば、則ち父母も子と爲さず、妻も夫と爲ず、朋友も齒ひを爲ざる也。曰く、建國以來の君臣に非ずや耶。汝、獨り汝が祖、奕世勤王、忠を盡くせるを念はざるか乎。何ぞ其れ死せざる焉、と。故に天子一姓、其の兵、天下に敵無し。『(周易)蹇の卦・六二』に、「王臣蹇蹇、躬の故に匪ず」と。蹇とは難也。君の蹇難を以て、我が身の蹇難と爲し、而して躬を以て之に當る也。匪躬とは、我が躬を以て我の有と爲さゞる也。則ち身を殺して、以て忠を成す者也」と。


●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』に曰く、「

 抑も藤房卿は、小松重盛公・楠正成公と共に、本朝の三忠臣とまでも、稱せられし程の大忠臣‥‥、世には、藤房卿が、楠公の如く、國事に死せずして、世を遁れたるを非難するもの無きにあらざれども、其は人々の境遇に因ることにて、當時、楠公は武臣、藤房卿は文官にして、其の盡す所の異なるより、自然に斯くの如き差異あるを見るに至り、水戸老公をして、「一死、一隱、建延の二仁」と云へる語有らしむの事蹟を遺したるものなり。然れば楠公は、死して臣たるの道を盡し、藤房卿は隱れて臣たるの道を盡したるものにして、共に忠臣たることを、全うしたるものと云ふべし」と。


●鳥巣通明翁『戀闕』(昭和十九年九月・朝倉書店刊。平成九年四月・青々企劃覆刻)に曰く、「

 わたくしは、こゝに、承久・建武・寶暦・明治等、皇國史上の復古維新の時期をとりあげ、あのはげしい振盪の時代に、われゝゝの先人達が、ひたすら叡慮を奉じ、國體護持のために挺身し、大御心にこたへまつらんと努力したあとを明らかにしようと試みた。あるいは忠臣と呼ばれ、あるいは先哲志士と仰がれる、それらの人々の思想的立場を繼述することによつてのみ、はじめて、われゝゝも、亦すめらみたみの道をゆきゝゝてゆきつくすことができる、と云ふのがわたくしのかねての信條である。

 山崎闇齋先生にはじまる埀加神道の流をくむ人々は、これら先人の歩いた純正日本人の道を「ひもろぎの道」と稱し、それは「皇孫を始め奉り、萬々世のすめみまを守護することの名」であり、「日本に生れたからには、何のかのと言ふ論なしに、天子樣へ忠を盡し」、生命のあらんかぎり、「朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はる」べしと説いたが、明治維新の志士達は、そのやうな立場を端的に明示するものとして、『戀闕』なることばを、しばゝゞ用ゐたのであつた。

 わたくしが、畏友吉峰徳之助兄によつて、このことばを知り、よろこび口にしはじめたのは、昭和三四年の交、まだ熊本の高等學校生徒の頃であつた。九州帝國大學を遂に卒へずして、あたら夭死した吉峰兄の事歴に就いては、今日に於いてもなほ公表をはゞかるものがあるが、昭和の初期、所謂「思想國難」の時代に、はやく皇民の道に目覺め、皇統を守護しまゐらせんと、蹶然として起つた彼が、その郷里鹿兒島縣萬世町に、楠公社を創祀したこと、高熱にて、意識、殆んど不明の臨終に、あの實朝の歌、
山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも
を、高らかに誦しつゝ逝去したことは、彼の人となりを偲ばせるに十分であらう。

 吉峰兄逝いて七年、當時にあつては、同憂の士の間に於いてすら、説明を加へぬかぎり、その意味が通じなかつたこのことばも、最近になつて、臣道の極致を言ひあらはすにふさはしい表現として、やゝひろく、しかも心ある人々によつて用ゐられるやうになつた」と。


●中島一光翁『紀元二千六百五十年を目前にして』(平成元年一月『さきもり』第二十四號)に曰く、「

 去る二月二十一日に、日本防衞研究會主催で、湊川神社の酒井利行先生を御招きして、大嘗祭に關しての講演會が行はれた。‥‥

 日本の眞の姿を極める命題として、假に横暴非道な天皇樣が立たれた場合、臣下として日本人として如何に爲すべきか、といふものがある。大多數の人は、「日本にはシナのやうな放伐といふ思想は無い」といふ點で一致してゐると思ふが、それ以上問ひ詰められると、言葉が詰まつてしまふのでは無からうか(かく申す私も、その一人であつたが)。

 この命題に對して、酒井先生が明解な答へを出して下さつたので、感激の思ひを込めつつ、御紹介させて戴く。それは「そのやうな場合、日本人總てが近くの神社に集り、そして祈り、祈つて祈つて祈り拔き、最後の一人も祈り死にするまで、祈り拔くことである」と言ふ主旨の御話しであつた。「何だ、唯だ祈り拔くだけの話ではないか」と言はれる方もをられると思ふが、この命題について考へに考へ拔いてきた私にとつては、これだけで十分である。この上、どんな言葉をも付け加へる必要が無い程、十分に解らせて戴いた」と。



○愚案、然るに次の論、果して如何。義理の究明を缺くと謂ひつべきなり。洵に惜しむべし。「戀闕」の心を缺き、「神州の民」に非ざることだけは、確かのやうである。所詮、これらの方々とは、袂を訣つしかあるまい。


●小堀桂一郎博士『皇位の正統性について――「萬世一系の皇祚」理解のために』(平成十八年九月・明成社刊)に曰く、「

 國體崩壞の曉には、私共、まさか首陽山に隱れて、釆薇歌を低誦しつつ餓死するより他ない、などといふのも大袈裟ですが、少なくとも吉野の山の奧に身をひそめて、沈默の餘生を送つた南朝の遺臣に近い心境で、暗い日々を過すことになるのは、確かであります」と。


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