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  • 嗚呼、慕楠黒木博司少佐。

  • 投稿者:備中處士
 
●平泉澄博士『少年日本史』(昭和四十五年十一月・時事通信社刊。四十九年一月・皇學館大學出版部復刊。講談社學術文庫『物語日本史』上中下と改題して、五十四年二月・講談社刊)の終卷・第七十四章「大東亞戰爭」に曰く、「

 大正より昭和の初めにかけて、自由主義・共産主義の流行の爲に、殆んど消えたかと想はれた日本の道義が、その間にも根強く殘り、いよいよ國難に遭遇しては、一度に爆發して來たのでした。今その一例として、海軍少佐・黒木博司をあげませう。少佐は、大正十年、岐阜縣下呂町に生れ、岐阜中學を經て、昭和十三年のくれに、舞鶴の海軍機關學校に入學し、太平洋の風雲急を告ぐる十六年十一月に卒業して、戰艦山城に乘組み、やがて海軍少尉に任ぜられましたが、志願して特殊濳航艇の訓練を受けました。昭和十七年の夏より戰勢は逆轉し、攻守、所を替へて來ますと、昭和十八年正月元日、二十三歳の黒木少尉は、指を切つて左の歌を血書しました。

皇(きみ)の爲 命死すべき 武夫(もののふ)と なりてぞ生ける 驗(しるし)ありける

 幕末の志士・佐久良東雄のよみました歌、それが今、少尉の心によみがへつたのです。その年二月、少尉自身のよみました歌、數首、すべて血で書かれました。その中の二首、

伊はそむき 獨は敗れん ものなけん 葉月長月 近きを如何せん
國を思ひ 死ぬに死なれぬ 益荒雄が 友々よびて 死してゆくらん

 伊はイタリア、獨はドイツ、葉月は八月、長月は九月、そして「物無けん」は、我が國も物資缺乏するだらうといふ意味です。當時、日獨伊三國は同盟を結んでゐましたが、この夏から秋にかけて、そのイタリアは離れ、ドイツは敗れ去り、日本は孤立無援に陥るであらうと豫言したのです。事實、イタリアの政變は七月に起り、九月には既に敵側に廻つて了ひました。獨伊の情勢、半年以内に變化する事の豫言は、特別なる情報によつて得たものではなく、只だ憂國の至誠から直感し、そして適中したのでした。

 是に於いて少尉は、十八年四月一日より、日々の日記を、墨にて書かず、インキを用ゐず、ただ指よりしたたる鮮血を以て書きました。半紙二つ折り、その一面を一日に宛てて、一日大抵三行、その第一行には、必ず「天皇陛下萬歳」と大書し、次の行には、或は「神國不滅」、或は「忠孝一本」、「神州男兒、遂に屈せず」、「必死殉皇」、「擧族殉皇」等の文字が、淋漓として書かれ、第三行に、月日と花押(かきはん)があります。早くより楠木正成を慕つて、自ら慕楠と號し、また眞木和泉守を敬慕してゐましたが、その精神がここにも現れてゐます。

 憂國の至誠は、やがて人間魚雷「囘天」を創作しました。昭和十九年五月八日、今は大尉に任ぜられた黒木博司は、極めて高邁にして切實なる建白書『急務所見』を提出して、未曾有の兵器を以てする非常の作戰を要請します。その長さ二丈一尺二寸五分、すべて鮮血を以て書かれました。大尉は、その秋九月六日、訓練實施中に殉職して、二十四歳の生涯を終りましたが、しかも其の創案したる囘天は、盟友の胸に抱かれたる黒木少佐の遺骨を載せて、アメリカ艦隊の集合するウルシー基地を攻撃したのでした。その後、囘天の出撃、凡そ百四十數基、いづれも浪をくぐつて遠く敵艦を襲ひ、艦底に必中してこれを爆破し、敵の心膽を寒からしめたのでありました。しかも之を創案し、之を指導したる黒木少佐その人は、弱冠二十四歳、滿で云へば二十二歳、温厚にして紅顔、極めて純情の青年でありました。それが未曾有の兵器を作り、非常の作戰を考へたのは、只々忠君愛國の至誠、やむにやまれずして、敵を摧かうとしたのに外ならないのでした。しかも是れは、ひとり此の人に止まらず、當時の青少年、皆さうでした。少年航空兵、海軍豫科練、その外、陸軍・海軍の各部隊に、かかる純情の勇士は充ちてゐたのでした。此の愛國の至誠なくして、どうして物資乏しき一國が、よく四面の敵に當り、足掛け五年の大戰を繼續し得られませう。

 そして是等純情の青年に、愛國の至誠あらしめ、非常の秋(とき)に臨んで、殉國の氣概あらしめたものは、幼時に耳にした父祖の遺訓であり、少年にして學んだ日本の歴史であり、その歴史に基づいての明治天皇の御諭し、即ち教育勅語に外ならなかつたのでありました。未曾有の國難に遭遇して、能く國家を護持したるもの、それは實にかくの如き純粹の道義心でありました。そして今後、今も猶ほ殘る幾多の傷害、幾多の困難に打勝つて、日本國を崇高なる傳統の光ある國とし、よつて以て全世界の眞實の平和、眞實の幸福に貢獻するもの、それも亦た、かくの如き純粹の道義心でありませう」と。



一、松平永芳翁『ああ黒木少佐』(昭和三十五年■月・私家版。未見)
一、平泉澄博士『慕楠記』(昭和二十年五月二十七日筆。岐阜縣教育懇話會竝楠公社下呂奉贊會叢書第十集・昭和五十年七月・岐阜縣教育懇話會刊)
一、吉岡勳翁『ああ黒木博司少佐』(昭和五十四年十月・教育出版文化協會――囘天楠公社奉贊會・楠公社下呂奉贊會刊。舊著『慕楠録』昭和二十三年五月美濃判和紙筆録の復刻)
一、平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學舘大學出版部刊)の第七十章から七十二章『黒木少佐』其一から其三
一、田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』(平成十二年十二月・青々企劃刊)の「黒木博司少佐を弔ふ」
一、其の他
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kai-kuroki.htm

より、此の絶代の英傑にして且つ哲人と謂ふべき、靖國神社竝飛彈護國神社竝下呂信貴山頂楠公社祭神・黒木慕楠少佐の、

○『國難を救ふ』(海軍機關學校卒業講演會・昭和十六年十月六日)
○『大日本青年の歌』(作年不明)
○『大東亞宣戰大詔謹解』(昭和十六年)
○『尊皇』(血書。昭和十七年九月頃)
○『風古の序』(昭和十七年十一月三十日)
○『艦政本部宛て歎願書』(血書。昭和十八年十月二十五日・十九年一月二十五日)
○『戲曲』(昭和十九年四月)
○『急務所見』(血書。昭和十九年五月八日)

等を、拜しつゝ敬書させて戴きます。

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  • [14]
  • 黒木慕楠少佐の遺勳。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月20日(火)21時55分57秒
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●平泉澄博士『黒木少佐「急務所見」奧書』に曰く、

「右、一卷、昭和十九年七月二日夕、海軍少佐島田東助氏持參。同四日朝、寫了。原本は、幅一尺一寸四分、長さ實に二丈一尺二寸五分、徹頭徹尾、血書にして、筆勢雄渾、湧くが如く、迸るが如し。忠君の至誠、神人を感動せしめ、護國の悲願、天地を振盪するものといひつべし。

 昭和十九年七月七日、更に一部を謄寫して、萬一に備ふ。彼の原本は、七月四日午後、島田少佐、高輪御殿に參り、吉島事務官を通じて、高松宮殿下の台覽に供し奉れり。平泉澄」と。



●平泉澄博士の談話(昭和二十二年九月)に曰く、

「此の建白書(愚案、『急務所見』)は、始め島田東助中佐(平泉門下)に寄せられました。處で島田さんは、どうしたらよいかといふので、私の處へ持つて伺ひに來ました。私(平泉先生)は、これは重大であると考へて、第一に、高松宮殿下の御台覽に供しました。それから竹田宮が台覽になり、東久邇宮にも見せたいからと仰せになり、そこへも廻された筈であります。

 海軍次官が私に、
「海軍省で、責任を以て保管します」
といふので、私は、
「死藏してもらつては困る。誰と誰には、必ず見せておいてもらひたい」
と指名して置いた。だから、大西中將も見てゐる筈です。

 此の建白書は、特別攻撃隊に對して、大きな役割をした。特別攻撃隊は、別に小田原少將らの運動もあり、楠公祭の前後、始めて霞ケ浦に編成されたものです」(『悲劇縱走』に曰く、「黒木少佐の建白書及び日記は、一括して海軍次官の責任を以て保管する所であつたと聞いてゐますが、いよいよ終戰となつて、機密書類を燒却する事になつた時、井上成美大將は、ひそかにK大尉を招き、黒木少佐の遺書を渡し、内密に之を平泉の手に託するやうに命ぜられました。よつてK大尉は、取り敢へず之をその母堂にあづけ、私の行衞を尋ねて、連絡してくれました。古今未だ曾て見ざる血の建白と血の日記が、私の手許に寶藏せられ守護せられるに至つた」)と。



●島田東助海軍技術少佐『手記』に曰く、

「予は、御殿(高松宮殿下高輪御殿)の吉島事務官の御取次により、その後間もなく、殿下に拜謁し得る光榮に浴したのであるが、殿下より、次の御注意があつた。

イ、玉碎武器と言ふ者もあるが、名稱がよくない。死ぬのが目的ではなく、攻撃して敵を殲滅するのが目的である。
ロ、攻撃し得る兵器であるなら、如何なるものでもよからう。その爲に必死といふ事に、心捉はれる必要はなからう。

重大なる御示しに恐懼して、御殿を退下した。

 この樣にして海軍は、特攻本意に進み、
イ、各所に特攻基地の設置を見る。
ロ、中央に特兵班設置せられ、
ハ、航空は、陸海特攻化せられ、
ニ、曉部隊も、本土近海に特攻設備を配置され、
文字通りの特攻一本までに推進せられたのであるが、これ一に、黒木兄の御盡力に基くものと言へるであらう。

 十九年九月、敵レイテ島に來る頃、比島海軍航空隊の、あの神風特攻隊發動の陰には、時の參謀長小田原少將の御奮鬪がある。又マリヤナ敵基地への囘天奇襲に、黒木兄御友人の奮戰あり、殉職、之に先き立ちし爲、不幸、戰果を見るによしなかりしも、黒木兄、以て瞑すべきものあらん。

‥‥

 嗚呼、黒木兄。貴兄の御忠誠は、貴兄と共に深く戰局を憂ひい人々により、その構想の大體は成就せしめられた。その原動力は、貴兄そのものである。そしてこれは、貴兄に言はしむれば、平泉先生の御教示の賜といふであらう。そして平泉先生は、亦この大いなる原動力こそ、實に先哲の精神によるところ、即ちこれこそ實に遠く國體の尊嚴に基ゐするものであると言はるゝであらう」と。
 

  • [13]
  • 慕楠頌。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月23日(日)19時42分59秒
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■平泉澄博士『嗚呼黒木少佐』(昭和二十年一月六日)

一、
舞鶴の 一角にして
われ深く 思ふ事あり
願はくは 正し給へと
文寄せて 日本(やまと)の道を
ひたむきに 尋ね進みし
あゝ黒木少佐

二、
故郷の 母のたまもの
山の幸 栗の木の實に
紅玉の 柿の赤きを
今日得たり 半をさきて
贈るとて 遙々寄せし
あゝ黒木少佐

三、
江田島の 夜はふけたれど
物語 盡くる時なし
かへるさの 船に補ひ
又汽車に 乘り込み來り
ゑみつつも 語りつづけし
あゝ黒木少佐

四、
戰は いと捗らず
人々は 倦んじたりけむ
よしさらば 我れ割腹し
建白書 血潮に染めて
戰術に 活入るべしと
あゝ黒木少佐

五、
魚さへや 水底(みなそこ)ゆくを
益荒雄の などか能はぬ
紺青(こんじよう)の 波をくぐりて
アメリカの 胴腹うたむ
人々よ 我につづけと
あゝ黒木少佐

六、
颯爽と 水を彈きて
波くぐる 一尾の大魚
近づくや 龍宮の門
圖らずも 左右に開き
客人(まらうど)と 請ぜられたり
あゝ黒木少佐

七、
いかならむ 飛彈の工(たくみ)に
刻まれし 清き面ざし
熱血の ほとばしりては
山を拔き 星にも迫る
益荒雄や 見む術(すべ)あらず
あゝ黒木少佐


■平泉澄博士『慕楠記』(昭和二十年五月二十七日筆。岐阜縣教育懇話會竝楠公社下呂奉贊會叢書第十集・昭和五十年七月・岐阜縣教育懇話會刊)に曰く、「

 黒木少佐、名は博司。大正十年九月十一日、下呂にて生れ、小學校時代の大部分は、嚴父に從つて山梨縣にて送りしが、六年生の時、下呂に歸りて小學校を卒業し、昭和九年、岐阜中學校に入り、五年在學中、海軍機關學校を受驗して、舞鶴に入學せり。時に昭和十三年なり。やがて十六年卒業、皇國護持の爲に心血を濺ぐこと數年、十九年九月六日、惜むべし、碧海に沈んで、また物言はず、予をして痛歎慟哭せしめたり。

 今茲(ことし)昭和二十年五月十三日、衣手の飛彈川を溯り、下呂の町に赴いて、其の兩親を訪ふ。嚴父彌一氏、醫師にして、信望、頗る厚し。わざゝゞ二三驛手前まで出迎へられ、懇ろに招請せられたり。さて二階に上りて祭壇を拜するに、清淨なる壇上に遺骨を安置し、その後に冩眞を掲げ、その前に劍を立てられたり。冩眞は少尉の軍服を着用し、劍を杖と立てゝ、兩手をその上に重ねたるが、傍の卓上に短册を收めし額あり。短册は橘曙覽先生の、
 大皇の醜の御楯といふ物は かゝる物ぞと進め眞前に
の歌にして、予の執筆にかゝるもの也。冩眞の背後には、神潮特別攻撃隊の菊水隊、また金剛隊の勇士、名を列ねて冥福を祈り、成功を念じたり。

 この祭壇は、明治天皇の御畫像を奉掲せる床の間の横なる違棚の前に設けられたるが、上方欄間には少佐の血書にかゝる士規七則を掲げたり。室の一隅に故人の本箱あり。その上に美しき額に收めし短册三葉あり。一は前記、大君の醜の御楯の歌、二は同じく曙覽先生の、
 太刀佩くは何の爲ぞも 大皇の勅のさきをかしこまむ爲
三は予の作れる歌、
 香港島如法(じよほう)闇夜の海の波 拔手きりつゝ渡るは誰ぞ
にして、三葉共、予の筆にかゝる。

‥‥

 昭和二十年五月十三日、黒木家に一泊し、翌日午後、暇乞して歸京せんとするに、母堂、わざゝゞ二三驛先まで見送られたり。

 幾度か夢に見し下呂の町、生涯忘れざるべき下呂の町と、惜しき別れを告げし日の歌、數首、左にかきつけむ。
 亡き友のふるさと訪へば飛彈もまた 若葉薫りて春過ぎにけり
 明けくれに我が忘られぬ益荒雄の 友を生みしは此の山里か
 益田川つゝじの花のかげをゆく 流れようつせ友の面影
 激しては七里の巖かみくだき 大海さして落ちたぎりゆく
 亡き友のこゝろに似るか益田川 たゞに急げり太平洋へ

昭和二十年五月二十七日朝、東大國史學研究室に於て清書し畢んぬ。平泉(花押)」と。


■平泉澄博士『黒木少佐を弔ふ』(昭和二十一年十一月四日、通夜に於ける挨拶。田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』平成十二年十二月・青々企劃刊より所引)

一、
秋ふけて 飛彈の山々
もみぢばに 映ゆるを見れば
想ひいづ 純忠の士
一生涯 頂天立地
報國の 丹きまごころ

二、
笑止なり 世の顯官
廟堂の 高きに立てど
情報は 餘すなけれど
見通さず 國の行末
徒らに 月日を送る

三、
君思ふ ま心をのみ
唯一の たよりとなして
眺むれば 火を覩る如し
盟邦の くらき運命
わが國の 苦しき歩み

四、
眠られぬ 夜をば徹して
血もて書く 非常の策
謹みて 上に獻じつ
浪くぐる 決死の術
難きをば 自ら擔ふ

五、
皇國に 幸しありせば
いしぶみに 黄金ちりばめ
琅杆(らうかん)の 墓をも立てて
いさをしは 村々傳へ
口々に ひろく讚へむ

六、
今集ふ 友わづかにて
とぶらひは 寂しくあれど
天かけり 見ませみ靈よ
血に泣きて 沈める月の
消えやらぬ 影悲しむを

 昭和丙戌霜月四日朝、草之。
   平(花押)


■平泉澄博士『囘天碑銘文』(「囘天」裏面・昭和三十九年十一月、飛彈郷土館傍に建碑)

 囘天の壯擧は世の驚きにして、その忠烈は人の感銘する所なり。ここに創案者・黒木博司少佐を敬慕する人々相計り、少佐の筆になる囘天の二字を、石に刻して郷里下呂に建て、之を顯彰す。よりて今、歌をつらねて、その志を傳へ、その功をたゝへむとするに、調拙くして、意を達するに能はざるを恥づ。

祖國 今すでに危し いかにせむ
何とすべきか 思ひわづらふ
身をすてて 國にむくいむ 一念
の凝りて生れぬ 魚雷囘天
只一人 魚雷いだきて波くぐり
おごる敵艦 粉にくだかむ
百千のいかづち 一時におつる
ごと 敵艦みぢんにくだけ飛び
散る
その姿 目にこそ見えね ま心は
とはに守らむ 父母の國
昭和三十九年春
  平泉澄 泣血拜書

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  • 黒木慕楠少佐『急務所見』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月23日(日)18時53分27秒
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●黒木慕楠少佐『急務所見』(昭和十九年五月八日)に曰く、「

 紀元二千六百四年五月八日
     海軍大尉 黒木博司

   急務所見

 大日本は、神國なり。皇國の大義、萬古、神勅に定り、大義の國體、千歳、忠烈を生むと雖も、臣民、茲に感奮して、自ら義烈に力むるになくんば、焉ぞ能く皇國の無窮を保せんや。今日の危急、言ふべからず。明日の變轉、察すべからず。未だ聖慮を安んじ奉ることを得ざる、嗚呼、臣が罪、誅に當る。臣、既に死すべし。囘天護國の道、神明、唯だ此の處に嘉し給はらん。草莽の淺學なりと雖も、至誠盡力の事、他に俟つべからず。便ち微衷靖獻、以て左の四項を記す。

   第一 死の戰法に徹底すべき事

 現下、戰局の歸趨は、皇國存亡の決する處なり。病躯の夫、仇敵刀を擬するに、焉ぞ醫藥を煎ずるの暇あらんや。攘夷撃滅は、正に今日の至大事なり。時に夷狄、膨大の物量を以て臨むに、我、力及ばず、量足らず、遂に滿身創痍、身に寸鐵を帶びざるに至らんとす。呼、神州明日の變、測り知るべからず。我、何を以てか、之を制せん。他なし、『吾が國の外國と異なる所以の大義を明かにし、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確固たらば、何ぞ諸蠻を恐れんや』(愚案、吉田松陰先生『講孟箚記』)と。之れ心切忠死を希ひ、臨むに必殺の策を以てして、始めて可なり。夫れ必死必殺の死の戰法に徹せんか、用ふる兵器は易々として、以て量を補ふに足り、用ふる道は豁然として、戰果、測り知るべからず。一度、其の威を振はんか、夷狄、慄然として爲すなけん。是れ神州の武、皇國の義なり。唯だ用ひざりしのみ。或は上官、切々の情ありと雖も、大義に死せしむるは、臣たるの義、子を生かしむるは、將たるの責なり。焉ぞ一己の心責を以て、皇國の安危に換へんや。宜しく速かに皇國の神武たる死の戰法により、皇國を護持し、以て一日も早く聖慮を安んじ奉るべきなり。姑息の弄策、荏苒の一日、以て神州を千歳に誤らんことを懼るなり。

一 航空機に於て、速刻徹底すべきこと

 今日、航空機の偉たる、論を俟たざる處なり。然るに彼の膨大と良材と超巨大機に應ずるに、我れ亦た航空機と彈丸を以てせば、遂に支ふる能はず。唯だ攻守共、死の戰法に依らんのみ。則ち自爆々撃機及び體當り戰鬪機を以て、彼が生産地を覆滅し、又た其の巨大機を必墜して、一の逃走なからしめば、制空の權、必ずや我が掌中に歸せん。唯だ明日の變、測り知るべからず。有志、齊く待機す。要は之が發動の速刻なるに在り。

一 人間魚雷を完成採用すべき事

 主戰力、一に航空機に在りと雖も、然も之を補ふに潛水艦を以て第一となす。然共も帝國が國力を以ては、遙かに其の量を充す能はず。故に急速、人間魚雷を完成し、徹底的連續攻撃を敢行し、以て敵が海上勢力を完封すべきなり。巧妙の技術、可なりと雖も、其の域に限度あり。獨り士魂は然らず。宜しく速かに英斷を下すべき機なり。

一 空輸挺身隊を徹底的に活用すべき事

 搦手攻撃は、戰術の要諦なり。陸戰及び海洋基地に於て、空輸挺身隊を以て之を敢行せば、その戰局を左右する處、極めて大なりと思考す。吁、皇國の興廢、唯だ正に死の戰法に徹すると徹せざるとに在り。然して其の司の士に在り。

   第二 天下の人心を一にすべき事

 天下の事、人心を一にするより大なるはなし。孫子曰く、『兵者、不如人和』。松陰先生、更に曰く、『天下、難あれば、億兆の臣民、皆、當に之に死すべし。億兆の臣民、皆、死すべからざれば、則ち皇統は天壤と共に窮りなけん』と。然るに皇國の大體、神州の聖民にして、猶ほ一ならざるは何ぞや。即ち百説相剋、利徒跋扈し、夷心蠻風、得々として風靡す。或は軍民、漸く相離れんとし、又た陸海、既に相容れざるや甚だし。嗚呼、天皇は聖明たり、國體は優美たり、然して之に背かしむるものは何ぞや。

一 尊皇を純化徹底すべき事

 松陰先生曰く、『天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者あり。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふるものあり。然共も其の孰が本、孰が末なるか、未だ自ら信ずること能はざりき。向に一友に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂ひしは、皆、夷狄に憤りを爲して見を起せしなり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるにはあらざりしなり』(愚案、『又讀七則』)と。思ふに、吾人に亦た此の錯りあるにあらざるや。之れ有りては、遂に尊皇も徹せず、人心、一なる能はざるなり。況んや要路に、斯かる士の蟠居するに於てをや。義明かなる處、人、必ず赴く。即ち尊皇の純化徹底を計らんとせば、政府は先づ權謀奸策の不徳の士を芟除し、態度敬虔、操志堅確、國體明徴の士を登用すべきなり。政道は教學より大なるはなく、教學は上に其の人を得ざれば、遂に成るなし。他の弄策、復た論ずるに足らざるなり。

一 國家教學に其の人を得べき事

 國家の患、教學、正道を得ざるより大なるはなし。今日の患、一に夷學・雜學に因る。宜しく速かに皇國の正學に據らざるべからず。即ち敬虔、以て先哲を學び、愼重、以て傳統を稽へ、忠死、以て皇國を護持せんとの學ならざる可からず。然るに今日の學は、皆、夷學・雜學、傲然として私見を立て、敢然として傳統を排す。爲に百家百説、民心、一に歸するなし。獨り正學は然らず。皇國の忠臣巖然として、爲に志向する處、更に別途なし。便ち國民、肅然として、民心、分れず。‥‥

一 君臣の名分を正し父子の情義を養ふべき事

 皇國の事、君臣の名分を正すより先なるはなし。近年、天皇御親政の實、聊か國の内外に明徴ならざるものあり。之れ舊態の然らしむる處、今日、一擧に改むべからず。唯だ皇族を奉戴して總宰に仰がば、時態拾收、以て御親政の實、國の内外に明かならん。然る後、國民肅然として順ひ、萬邦靡然として仰がん。國難囘天の業、以て始むるを得ん。又た忠臣は、必ず孝子の門より出づ。宜しく家庭を養ひ、孝子は厚く之を賞用し、子、罪あらば、父兄を以てすべし。抑々一夫樂みて、百屋生邑なく、權勢の富豪に許して、誠實の貧困を窮せしむることあるべからず。國歩艱難、民心荒蕪なるに於ては、愈々人心を、茲に撫育繋止するを要すべし。

一 軍の宜しく自肅すべき事

 我等は、陛下の御股肱なり。『凡そ王土にはらまれ、忠を致し命を捨つるは、人臣の道なり。必ず此を身の高名と思ふべきに非ず』(愚案、北畠准后『神皇正統記』)。銃後、猶ほ克く前線に謝すと雖も、亦た極めて困窮の境に在り。或は軍の一斑を見て、軍民、漸く相離れんとす。之れ最も戒むべし。抑々軍は教育徹底し、物慾に亂るゝなしと雖も、庶民は然らず。宜しく軍は、速かに簡衣粗食に卒先すべし。軍、卒先せば、何者か足らずと言はん。之れ軍の國家鎭護の一斑なり。

   第三 陸海軍一致すべき事

 現戰局不振の因、陸海軍の不一致による處、極めて大なり。畏れ多くも陛下御股肱の御信任に對し奉り、皇國將士、何の顔ある。之れ即刻に悔い改むべきなり。抑々之が因て來る所は何ぞや。思ふに、陸軍は陛下の御股肱を以てし、海軍は戰鬪第一を以てす。即ち前者は精神を重んじ、後者は技術を輕んぜず。弊利得害、各偏見より至る。今日、正に大丈夫の襟度を示すべきの秋なり。況んや陛下の御股肱たるに於てをや。然共も之が積年の弊、深く原因する處あるべし。則ち道義の根底に於て結ばれざるべからず。然るに學無くんば義暗く、學同じからざれば、遂に義同じからず。宜しく速かに正學の軍に於て講ぜらるべきなり。之れ陸海軍の根底に於て一致するの要諦なり。

   第四 緊要の策を速刻斷行すべき事

 囘天緊急の策たる、即ち之を遠慮深謀し、速刻斷行すべきなり。緊要の策、今日、左の如きものならんか。

一 玉碎兵器を徹底増産すべきこと

 特に慮るに、左の二點あり。
 イ、戰局の如何に拘らず、終始、死の戰法を徹底すべき事
 ロ、時限的増産を以て、常に決定兵力たらしむる事

一 補給線を確保すべき事

 特に對潛兵器の如何は、今日、國家の命脈に拘るべし。對策を要す。

一 化学戰に一歩先んずべき事

 近き將來に於て、熾烈なる化學戰たるべきは、必至なり。宜しく皇國の無窮を念じ、之が愼重切實の對策に力めざるべからず。而して左の三種、最も心すべきものか。
 イ、殺人光線
 ロ、毒ガス
 ハ、人造肥料

一 食糧を確保すべき事

 民生を厚くするに、食より大なるはなし。食足れば、便ち衣・住足る革命騒亂は、充ち足りて猶ほ起ることなし。   [終]」(愚案、平泉澄博士「冩本奧書」あるも、敢て之を略す)と。



 黒木慕楠少佐『急務所見』全一卷、敬書すること件の如し。



■平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學舘大學出版部刊)の第七十一章「黒木少佐」其二に曰く、「

 此の『急務所見』のしたためられたるは、昭和十九年の五月八日、黒木博司海軍大尉、かぞへ年二十四歳、原本は幅一尺一寸四分、長さ實に二丈一尺二寸五分、徹頭徹尾、血書であつて、墨で書かれたものは一字もなく、しかも筆勢は雄渾、湧くが如く、迸るが如く、大尉の精神躍動して、鬼神を泣かしめるものであります。

 かやうに云へば、讀者は黒木少佐に就いて、いかなる風貌、いかなる性格を想像せられるでありませうか。實は斯の人、紅顔、花の如き若武者であり、温和、春風に似る、やさいし性質でありました。この人ほど美しく、この人ほどやさしい人は無いとさへ思はれます。父母に對し、兄妹に對する至純の愛情は云ふまでも無く、師友に對し、上司同僚に對しても禮儀正しくして、しかも温情に滿ちてゐました。「下呂の母から送つてくれましたから」と云つて、あの食糧の恐るべき空乏の時に、柿を二三個、栗を十數粒、わざわざ小包で、東京へ送つてくれられた好意を、私は涙ながらに囘想するのであります。

 或はまた讀者の中には、少佐を以て熱情の青年、感激の高い文學青年の如く思はれる人があるかも知れませぬ。實は極めて沈着冷靜であつて、毫も感情に溺れる浮薄の氣風を見なかつた事は、昭和十九年八月、少佐の歎願、遂に海軍首腦部を動かし、「囘天」兵器として採用せられ、いよいよ出動迫つて來て、その練習に專念中、九月六日、海荒れて浪高く、少佐の同乘指導した囘天第一號、不幸にして海底に突入し、離脱浮上不可能となり、遂に殉職の悲運に際會した時の態度によつて明瞭であります。その海底沈座は、六日の十八時十二分、最期は七日の午後二時となつてゐますが、少佐の絶筆は○四○五とあつて、意識のあつたのは、午前四時までと推定されます。つまり絶望の状態に在る事、十時間の長きに及んだのであります。これが短時間であれば兎も角、十時間の長い間、死に直面しつつ、次第に呼吸の困難の加はる時、常人であれば、感情は高まり心緒は亂れるであらうと思はれるのに、黒木少佐は極めて冷靜に、事故の實状、その經過、自分の執つた處置、今後警戒すべき點、用意すべき點、設備すべき點、其の他參考事項を記録に留めたる後、神州、必ず體當り戰法に徹し、明日より速刻實行する事を確信し、『神州不滅を疑はず』、『欣(よろこ)んで茲に豫(かね)て覺悟の殉職を致すものに候ふ。天皇陛下萬歳。大日本帝國萬歳。帝國陸海軍萬歳』と、皇國の將來を祝福すると共に、後事を仁科(關夫)中尉を始め同志の諸士に委嘱し、更に『恩師平泉先生を始め先輩諸友に、生前の御指導を深く謝し奉り候ふ』とまで書き殘されたのでありました。諸葛孔明の出師表や、文天祥また謝枋得の詩は、異國の人であり、數百年乃至千數百年前の事であつても、猶ほ我等をして泣かしめずしては措かないのであります。而して今、黒木少佐の『急務所見』や『日記』及び海底の『遺書』の如きは、その忠愛の至情に於いて、其等とその本質を同じうし、その光彩を競ふものと云ふべきでありませう」と。


■疊山謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』

雪中の松柏、愈(いよゝゝ)青青、
綱常を扶植するは、常に此の行に在り。
天下久しう無し、□[龍+共]勝が潔、
人間、何ぞ獨り伯夷のみ清からむ。
義高うして便ち覺る、生の捨つるに堪ゆるを、
禮重うして方に知る、死の甚だ輕きを。
南八男兒、終ひに屈せず、
皇天上帝、眼(まなこ)分明(ぶんめい)。

  • [11]
  • 黒木慕楠少佐『戲曲』、其の五。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月23日(日)13時00分54秒
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   第五場 七生報國

正平二年師走二十七日、正行、參宮より歸り、室内。正行・正時と母阿久の方の三人。

正行「母上、母上も老いられてござりますな。」
阿久「いへゝゝ、母はお前達が揃つて一人前に生立ちなさるもでは、母は老いませぬぞ。して、本日、參内の御模樣は。」
正時「まことに上々の御首尾でござりました。」
阿久「それは、ゝゝゝ。」
正行「吉野に參内致しますれば、畏くも郎從まで、參殿差し許され、主上には、南殿の御簾、高々と捲き上げさせられ、玉顔、殊にうるはしく、諸卒を御照臨あらせられましてござります。」
阿久「忝き事。して、何と致されしか。」
――正行・正時、沈痛の面持ち。

正時「物申すやうにとの御言葉に、兄上、前にはしり出でられ、申されけるには、『父・正成が攝州湊川の討死にも伴はれず、“河内にかへり、一族を扶持して、代々朝敵を亡ぼし、君が御代を助け參らすべきやう”との遺言。然るに正行・正時、既に壯年に及びますれば、一合戰仕りて、聖戰の開通をはかり、又た父が心にもかなはんと存じ居りまする折、この度び賊軍大擧して、雌雄を決せんと、闕下に打寄せまゐりましたれば、彼等の首をとるか、楠の首を彼が手にかくるか、この一擧に天下の雌雄を決して、勤王の義氣、再興の兆ともならんかしと存じまする。今生にて今一度、君の龍顔、拜し奉りたく』と。」
阿久「左樣に。」
正時「兄上も、又た私も‥‥。」
――三人沈默、頭を埀る。
正行「御主上には、忝くも前囘兩度の合戰に對し、御嘉賞の御言葉これあり。更に、『此の度の合戰、天下の安否たりと思ふ間、進退、度に當り、變化、機に應じ、進むべきを見ては進み、以て機を失はず、退くべきを知りては退き、以て後を全ふせよ。朕、汝を以て股肱と思ふ間、愼んで命を全ふ致すやうに』との、有り難き仰せでござりましたが。」
阿久「勿體なきお言葉、愼んで勘考いたされますやう。」
正時「ぢやが、兄上も私も、この度ばかりは、戰死が覺悟ぢやが。」
阿久「母は戰の事は存じませぬが、唯々お天子樣の爲に、御門御護りの爲に、又た父上さまの御志に違はぬやう、よくしてくれたもの。」
正行「敵は、所詮、この正行の首が欲しいのでござらう。首渡さぬまでは、赤坂も千早も取圍まれ、吉野へも戰禍とびまゐらせて、思はぬ御大變も案ぜられる。元弘の年、父上の御時と異なりて、西陲、僅かに菊池公を除いては、今や義旗の擧る氣配もなく。」
正時「全く天運去り申した感がござりますのう。」
正行「それに此の度は、所詮敗るとも、彼の兇賊と、直々雌雄決戰の秋なれば、楠が武名にかけても、身命を盡くしてかゝらんと存ずれば。」
阿久「母は、唯々お前達が父上樣の御心にたがはぬやう、それのみお願ひ致しまする。」
正時「父上も御待ちぢやらう。それに正儀も殘ることぢやし。」
正行「正儀のう。母上、正儀は猛くさかしき者、決して楠も亡びは致しますまい。」
阿久「さやうかのう。」
正行「母上、お淋しゆうござりませうな。」
正時「申し譯ない。母上には、御苦勞ばかりぢや。」
阿久「いやゝゝ。父上も子等も、揃つて御忠義のお方。母は幸福に存じます。」
正行「忝うござります。正行、心して道を全ふ仕る覺悟でござりまする。」
阿久「どうぞ、心してのう。母はお前達を信じて居りますれば、淋しくもござりませぬ。頼母しき御成人ぶり、むしろ心強く存じます。して、正行殿、辨ノ内侍殿は、如何致されませうや。」
正行「はゝ。それならば、これを御覽下されませ。母上さまには、お淋しうござりませうが。」
――机上の短册を渡す。
阿久「『とても世に永らうべきもあらぬ身の 假の契りをいかにむすばん』、さやうでござりまするか。」
正時「その方が、内侍殿も御幸福でござりませう。」
阿久「女とは、さやうなものでもござりませぬがのう。」
正行「母上、それから此の度び引連れて參りまする一族郎黨の氏名、書きつらね置きましたれば、御一覽下されたく存じます。」
阿久「さやうか。‥‥おゝ、殆んど主だちたる者が。」
  「『返らじとかねて定めし梓弓 なき數に入る名をぞ留むる なき數に入る名をぞ留むる』」
――幕   [終]



 黒木慕楠少佐『戲曲』全五幕、敬書すること件の如し。

  • [10]
  • 黒木慕楠少佐『戲曲』、其の四。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月23日(日)00時51分39秒
  • 編集済
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   第四場 倒れて滅びず

時、延元元年初夏の候。
所は、是れ櫻井の驛。正成・正行、離別の場。和田秀賢等、列座す。

正行「父上。正行、既に十一歳。一方の大將を仕りまする。是非おつれ下されたうお願ひ致しまする。」
正成「ならぬ。和子、汝を此所よりかへさんは、一族を惜しみ、汝を惜しむからにはあらぬぞよ。」
  「のう、正行。前々申すやう、我等民草の冀ひ力むるは、日本の正しき姿・正しき政におかへし奉ることであつたのう。」
正行「ハイ。」
正成「ウム。先に後鳥羽上皇、この志ありて、討幕の事あり。不幸、事敗れて、畏れ多くも三上皇、遠島にお遷り遊ばされ給うた。しかもこれに屈し給はず、畏き御身を以て、主上には辛酸萬苦、やうやくにして幕府を倒され、天皇御親政の大御代におかへしあそばされたのぢや。存じてゐるのう。」
正行「よく存じてをりまする。」
正成「ウム。しかるを尊き中興の御苦心も、僅か二年。二年にして破れ去つたのぢや。――のう、正行。茲によう考へねばならぬのぢやぞ。」
  「和子よ。古へより訣別の言は、これを路人に施すと雖も、猶ほ克く肝に銘ずと言はるゝが、汝も既に十一歳。まして父が、此の世に於ける最後の言葉ぢゃ。よくゝゝ肝に銘じて、忘るまいぞよ。」
正行「ハイ。」
正成「此の度の逆賊の盛んなること、元弘の年、官軍の東西に現れて、北條を亡ぼせし時に比ぶれば、眞に人心の換る、不思議とも思はるゝであらうが、よくゝゝ觀じ來れば、此等の人々の、或は官軍となり、或は逆賊となれるも、皆々同じ心なのぢや。即ち利己心の歸する處に外ならぬのぢや。されば人々、勳功におごり、恩賞を爭ひ、不平滿々たるを見て、高氏が利を以て、無學不明の徒輩を誘ひたるに過ぎないのぢや。」
正行「元弘の始め、天下の勢、朝廷につきたるも、素より心こゝにあらざれば、天下の勢、又これを去つて、再び歸るべからず。歸る日は、將た亦た何日の日であらうか。」
――正成、沈思す。
正成「此の度び高氏東上のこと、既に天下の勢を得、戰運、彼にあれば、とても戰、利あらず。敗戰は必定。さればとて、既に勅命の下る、死力を竭さんのみ。斃れて後ち已まんのみぢや。」
正行「父上、されば私も參りまする。」
正成「いやさ、さればこそ、汝を殘すのぢや。聞け。坊門清忠、策をあやまりしは遺憾なれど、策用ひらるゝとも、天下の人心を、如何しようぞ。若し假りに此の度、兵庫に死なずして、再び京師をうばはんとせば、又た出來得ざる事もあらぬのぢやが、一人の高氏死すとも、天下の高氏死せず。一箇の足利亡ぶとも、天下、又た足利に代るの世の中ぢや。のう、正行。今ははや、擧世功利の俗、道義、地を掃ひ、天命も爲に去つて、人力の如何ともなす能はざるの時ぢや。和子よ、正行。汝ならば、如何とする。」
正行「ハイ、討つて、討ちまくりまする。」
正成「ウム。よいゝゝ。その心を忘れるなよ。しかし、のう、正行。朝敵がなくなるのは、天下の人心が改まるものぢや。正しき大御代は、中々に參るまいぞ。」
正行「殘念でござりまする。」
正成「のう、正行。されば此の事は、中々に一世一代の能くなし得る所にはあらぬぞ。又た父も、何日かは死なずばなるまい。汝等も、その一代には、よくなし能ふまい。しからば、正行、如何と致す。」
――正行、默つて見上げる。
正成「のう、正行。道は一つぢや。唯だ父は子の爲に死し、臣は君の爲に死し、闔門、義に死して貳らざるあるのみぢやぞ。闔門、義に死す。死して志を繼ぐものは、子等にしかずぢや。正行よ、さればこそ、汝を歸すのぢや。」
  「和子よ、父は、今こそ死すべきの機なるを知る。」
  「父死する後は、天下の事、亦た知るべきぢや。而して足利逆賊の二人、彼等の心は、實に測り知るべからざる不逞の心なのぢや。されば、天祖の肇め給ひ、天壤と共に窮りなかるべき皇統は、彼の逆臣の爲、一朝にして潰えてしまふであらう。のう、正行! このやうなことがあつてよいのであらうか。」
正行「なりせぬ。」
正成「ウム。このやうな悲しみが、憤りが、又とあらうかよ。」
正行「ござりませぬ。」
正成「さればぢや。汝に頼む。父・正成は、既にこの爲に、此の悲しみの爲に、討死して果てるのぢや。されば汝、正行も、又た兄弟も、皆心を一にして、此の悲しみ、此の無念の爲に死んでくれ。叔父も、甥も、一族郎黨、この無念の爲に死んで、死んで、皇統を護り、二心なく、屈せず、一族、死を以て仕ふるならば、彼の惡逆の者と雖も、必ずや感ずる所あり、皇統のみは、天壤と共に窮りなきことを得。何時の日か、復た正しき御代にかへることを得るであらう。然し天下、亂臣賊子の世、御間違ひなく、皇統をお護り奉るさへ、中々難しい事ぢや。」
  「和子よ、正行よ。此の道は、唯だ一つしかあらぬのぢや。則ち子々代々、志をかへず、死して死せず、一族、身命を擲つて、皇統を拜護し奉るまでぢや。」
正行「さればこそ、正行も參りたうございまする。」
正成「なんと、わからぬ。今、汝一人が死したるとて、何となる。汝、死したる後は、一族の柱を何とする。汝を歸すは、則ち眞の御爲なるがわからぬか。」
正行「ハイ。」
正成「和子。歸つてのう、御主は、未だ年も若い。母上に、よう學問を習ひ、武術を練つて、きつとゝゝゝ、足利を討つて、父の仇をとれよ、のう。否々。天下の朝敵は、足利ばかりではあるまい。よう父の心を受けつぎ、一族擧つて、御主上を拜護し奉るのぢやぞ。」
正行「ようわかりました。」
正成「ウム。和子、ようわかつてくれた。正行、後を、後を頼むぞ‥‥。五月雨が漏れるのう。」
  「これ、和子よ。此の一刀はのう、曾て主上より、親しく賜はりたる忝き品ぢや。和子にかたみとしよう。雨ぢや、漏れる。正行、さあ、歸れ。母上もお待ちぢやぞ。」
正行「父上。母上は、お待ちではござりませぬ。」
正成「なんと。それは。」
正行「母上は、お待ちではござりませぬ。きつとゝゝゝ。」
正成「ヨシ、よう言うた。和子、されば歸つて、母上に懇く父が話を申し傳へよ。母上は、ようおわかりぢや。母上は、何もかもおわかりぢや。のう。よう母上の言はれることを聞いて、早く成人いたすのぢやぞ。」
  「サア、歸れ。これ、和田氏。」
賢秀「ハツ。」
正成「正行を頼むぞ。」
賢秀「ハツ。では御殿、賢秀は、お供かなひませぬか。」
正成「頼む。後を‥‥。歸られい。」
賢秀「ハハツ。」
正成「和子、弟達をいたはれよ。汝は、楠の柱ぢやぞ。」
正行「ハイツ。」
正成「歸れ。」
正行「ハイ、歸りまする。御父上、お見事に御最期を。」
正成「歸れ。」
――幕。



 愚案、是れ櫻井の訣別の段、敬書しつゝも、涕泗が止まりません。誰か云ふ、楠公は權助に同じ、と。少佐の心、正に「後を頼む」の心底は、深い楠公の理解體得、繼述發揮に在りました。支那では、諸葛孔明が『出師表』を讀みて涙しないものは、人非人なるべしと云はれましたが、我が神州に於いては、櫻井の別離、是れでありませう。涙と共に、擧族殉皇の誓ひ、深く聢と骨髓に填めるものであります。嗚呼‥‥。


■落合直文翁『大楠公・櫻井の訣別』

一、
青葉茂れる櫻井の、里のわたりの夕まぐれ、
木の下かげに駒とめて、世の行末をつくづくと、
偲ぶ鎧の袖の上に、散るは涙か、はた露か。

二、
正成、涙を打ち拂ひ、わが子正行、呼び寄せて、
『父は兵庫に赴かん、彼方の浦にて討死せん、
汝は此處まで來つれども、疾(と)く疾く歸れ故郷へ』。

三、
『父上、如何にのたまうも、見捨てまつりて、我ひとり、
いかで歸らん、歸られん、この正行は、年こそは、
未だ若けれ、もろともに、御供仕へん、死出の旅』。

四、
『汝を此處より歸さんは、われ私の爲ならず、
己れ討死なさんには、世は尊氏(高氏とあるべし)の、ままならん、
早く生立ち、大君に、仕へまつれよ、國の爲』。

五、
『この一刀は、去(い)にし年、君の賜ひし物なるぞ、
この世の別れの形見にと、汝に之を贈りてん、
行けよ、正行、故郷へ、老いたる母の待ちまさん』。

六、
ともに見送り、見返りて、別れを惜しむ折りからに、
またも降り來る五月雨の、空に聞ゆる時鳥、
誰か哀れと聞かざらん、哀れ血に鳴く、その聲を。

  • [9]
  • 黒木慕楠少佐『戲曲』、其の三。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月22日(土)19時07分20秒
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   第三場 建武中興
時、建武元年。中興の廟議。正面に御座の御簾あり。右に、萬里小路宣房・足利高氏(註)・赤松則村・楠木正成。左に、北畠親房・新田義貞・結城宗廣・菊池武重・名和長年、列なる。

高氏「正成殿・長年殿お揃ひにて、記録所と決斷所御兼任とは、おとりちがひではござらぬか。」
宣房「足利氏御不審の御樣子なれども、楠氏・名和氏御兼任の段、正に相異なくござる。」
高氏「意外のことにござる。」
宣房「前々、詔のありましたるやう、記録所は、主上の最も重きを置かせさせ給ふ所にして、土地の性質・領有を吟味し、之を上代の如く、本質に於て、朝廷の有に歸し奉り、以て天皇御親政の御理想を實現遊ばされんとの御思召しでござれば、これが決議に實行を與へ、千鈞の重みを加へさせられんが爲、武人にして學問あり、古に通じ義に明るき楠氏・名和氏の撰ばれましてござる。」
則村「學問が、武人には、學問などいらぬものをなう。」
親房「いやゝゝ、學問せねばこそ、義に暗き輩が多くて困り申す。」
則村「義、義と申さるゝが、朝廷方につきさへすれば、義でござらうが、何も學問などせぬとて、たやすいことではござらぬか。ワハ‥‥。」
親房「左樣なものなれば、世も安からうにのう。」
宣房「ついで雜訴決斷所に、兩氏の兼任せられましたるは、抑々決斷所は、五畿七道、一般の政をとり行ひ、天皇御親政の御精神を弘め、且つ天下の公正を期せられんが爲、諸地方に適うて才識あり、武功あり、加へて公明正大の士を撰ばれてござる。楠氏・名和氏如き、記録所と共に御兼任せられて、正にもつともなお方と存じ奉る。」
則村「足利氏は、何のお役もござらぬが、何と致されてござらうか。」
宣房「何ともなう。御應へ致し難くござる。」
則村「片手落ちではござらぬか。それにては、かへつて天下の不公平とも相成らう。」
高氏「よいわ、ゝゝゝ。吾は、天下は暇大臣ぢや。うるさきお役目は、かへつて御免ぢや。その代り恩賞の方は、やぶさかではござるまい。ワハ‥‥。」
則村「公卿・お役人のことは、どうでもよいわ。本日は、恩賞の議のはずぢや。主上は、まだか。」
宣房「間もなく出御と存じまする。お靜かに。」

――しばらく靜肅。間もなく一同平伏。宣房、更に一禮。更に此の方になほつて、
宣房「大將方恩賞の議、始められまする。」
  「先づ新田氏。」
義貞「ハツ、畏れながら申し上げまする。臣義貞、始め不明の爲、朝廷に弓引かんと致しましたる事、唯々心苦しく存じ居りますれば、鎌倉攻めの武勳に賞でて、御許しのみありたく、謹みてお願ひ申し上げまする。」
宣房「次に結城氏。」
宗廣「畏れながら申し上げまする。臣宗廣、新田殿の鎌倉攻め御助勢申し上げましたる外、さしたる事もこれなくござりまする。」
宣房「赤松氏。」
則村「申し上げまする。赤松一族こそは、天下に魁け擧兵仕り、爲に一族の犠牲少なからず、孤軍奮鬪、遂に六波羅を討ち滅ぼして、京師に還幸を迎へましたる、畏れながら中興の武勳、人に劣るまじと存じまする。」
宣房「足利氏。」
高氏「申し上げまする。足利一族は、源氏の嫡流にして、天下に最も重きをなす一門でござります。ひの度の御成功も、又た足利一族の、北條方につかざりしによるかと存じまする。さらに六波羅滅びて、近畿鎭まり、諸將、漸く身の危きを遁れしは、足利一族拔群の功と申すべく、よつて關八州・近畿四ケ國恩賞に當るかと存じまする。」
宣房「楠氏。」
正成「畏れながら申し上げまする。此の度の戰、各々勳功はござりますけれども、皆々大將は生きながらへて、畏こき大御代を仰ぎ得ましたるものなれば、身の幸ひ、これに過ぐるものござりませぬ。唯だ一人、菊池入道武時公のみは、勅諚により、早く命を落としまゐらせ候ふもの、一人、勳功厚きものかと存じ奉りまする。」
親房「まことにのう。身の幸ひ、これに過ぎずと申さるゝか。」
――幕。



【參考】
■平泉澄博士『白山本神皇正統記解説』に曰く、「

 高氏といへば、普通に用ゐらるゝ尊氏の字を、親房は決して用ゐず、神皇正統記に於いては、必ず高の字を用ゐてゐるのは、注意を要する所である。いふまでもなく彼は、元高氏といつたのを、元弘三年、勳功にめでて、後醍醐天皇の御諱の一字を賜はり、高の字を尊に改めたのである。しかるに親房が、本書に於いて尊の字を用ゐず、高氏と書いてゐるのは、單に彼の謀叛を憎む憤激の情より出た事ではない。思ふに高氏謀叛の時、建武二年十一月二十六日、朝廷に於いて、その官爵を削られた際、必ずや恩賜の尊の字も奪はれたに相違ない。既に朝廷に於いて、逆賊と認め討伐せられようとする者に、天皇の御諱の一字を與へられたまゝで、捨て置かれる筈はないからである。もとより高氏自身は、終生、尊氏の字を用ゐたのであるが、それは、建武二年十一月二十六日以後は、盗んで之を用ゐたのであり、朝廷に於いては、決して認められなかつたのであるから、後世の史書には、すべて高氏と書くべきであり、今日普通に尊の字を用ゐてゐるのは誤りであるといはなければならない」と。



 愚案、(註)名分の辯。會澤正志齋先生の曰く、「程なく高氏、謀叛して、天下、再び亂れ[欄外註、尊氏を高氏と書く事、當時の古文書に從ふ]」(『草偃和言』四月十七日條)と。詳細は、平泉博士『足利高氏名分論』(建武義會『建武』三卷一號・昭和十三年一月刊に所收)。小生は、高氏を所謂尊氏と書すること、如何しても能はず。少佐、建武元年の時、尊氏なるが故に、原本「尊氏」に作らると雖も、茲に於ては、敢へて「高氏」と書くこと、少佐、冀くば笑つて之を容認されむことを。
 又た神明への願文は、其の爲人りを映して、少しも過たず。少佐、當時の古文書(平泉博士の研究成果)に證して、之を書かれてゐる。下つては、井伊直弼の願文を見るに、幕府安泰のみにして、全く人を容るゝの器量なし(平泉博士『安政大獄の眞相』――『増補三訂・先哲を仰ぐ』平成十年九月・錦正社刊に所收)。恐るべきかな、神前の願文、心底を白日の下にさらすこと、現に見るが如し矣。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kanrin.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ie2.htm

  • [8]
  • 黒木慕楠少佐『戲曲』、其の二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月22日(土)12時38分3秒
  • 返信
 
   第二場 中興成り難し
所は杉坂峠。中央に備後守長範、右に同じく高徳・今木範季(豪傑)・同範仲(豪傑)、左に財越範貞(老人)・太富幸範・和田範氏(若者)、列なる。

――使者、走り來る。
使者「殿々。鸞輿は、既に勝間田の宿を過ぎて御座りまする。」
一同「何と、まことか。」
高徳「ウーム。」
使者「既に辰の刻。勝間田を過ぎり、今夜は院の庄にお泊りとのことにて御座りまする。」
高徳「さやうか。御苦勞であつた。歸れ。」
――使者、退く。一同沈默。

範季「ウーム。院の庄か。」
範氏「さやう。院の庄御駐車とあれば、夜討にしくはない。警護の者は疲れてもゐよう、油斷もあらう。必ず事は成らうぞ。」
高徳「ウム。誠に、和田氏。」
範仲「イヤ。然し院の庄は、全く敵地の中、間道一つ覺えぬ所なれば、如何いたしたもので御座らうがのう。」
範季「まことに院の庄は、近く津山の國守もあり、又た間道一つ知り申さず。それに遠矢の一筋にても、鳳輦を犯し奉るやうなことのあり申してしのう。」
範氏「遠矢の御言葉、危きは何時にても同じで御座らぬか!」
範季「いやさ、一層見込みもなければぢや。」
範氏「それは、成敗利鈍の説でござる。臣等が事、ウーム。」
高徳「御一同! 夜討にしかず。吾等一門一族が、此の度び出立仕るについては、如何樣の御決心でござつたか。吾等は無勢にて、如何にも苦戰の事は、必定。然れども事成ると成らざると、最後の一人まで、まこと、この身を楯に御かばひ申さば、主上の御安危、事なきを得べきではござらぬか。始め船坂山に、次いで杉坂に御迎へ申したる時は、間道もあり、後詰の勢もあつたけれど、實はそれも吾等が本意なき所、眞は勤王の志、天下に萠せりと雖も、まだ身の危きを慮つて躊躇致し居れば、吾等、奮然起ちて效功を論ぜず、唯々義の爲、君の爲、擧兵仕るべき事を、天下に示さんが爲にては御座らなかつたか。始めより加勢を求め、成否に義を挫くは、武門の恥辱と存じ奉る。我が國は、開闢以來、君臣の義あり、神武のたとへあり、忠を致し義に死するは、臣子の道でござらう。此の度の義擧、不幸、事破れて屍を曝すとも、一族一塊義魂は、必ず天下に響き申すべく、やがて望み叶ふ御代も參るでござらう。方々、その氣持ではござらなかつたか。」
範仲「それもさうぢやが。」
範貞「しかし氣持ばかりにてはのう。」
高徳「氣持? なんと、此の氣持ばつかりが、みかどをお護り申すのではござらぬか。」
範季「さばかり申しても、高徳殿。吾が和田城までは、全く覺束なしと存ずる。されば主上をお奪ひ申しても、結局亦た敵の手に落ち申し、益々警固も嚴重となりて、再びお迎へ致すことも困難となり申さう。そればつかりか、主上に甲斐なき御難澁をおかけ申し上ぐる事とも相成るは、必定。されば如何なるものかのう。」
幸範「ごもつとも。御忠節、勤王の事、我等ばかりではござらぬで。」
範氏「されど、殘念な。隱岐に一度び御幸し給うて後は、思ひも及ばぬ事。」
範仲「いやさゝゝゝ。北條の天下、既に恨みにみちゝゝをれば、やがて亡びん事も、必定。さすれば隱岐よりの御還幸も、時勢にて。」
高徳「時勢とな、範仲殿。吾等の計るは、天下の爲にあらず。唯々天子の御爲にはござらぬか。それにお痛はしき御主上の御遷幸の程を、目の邊りに拜し奉りても、仲々に義氣の振はざるに、主上、隱岐にまゐらせ、北條天下を固めたらん後は、誰か亦た克く義旗を飜す者がござらうか。」
範氏「誠に三宅一族の爲にも、正に此の時にてござる。」
範仲「アイヤ、範氏殿。一族の爲と言はるゝは面白からぬ。」
幸範「實に吾々も、唯だ御主上の御安泰を慮るのみぢやが。」
範季「それに一擧に事を急いでは、思案も淺からうぞ。」
範貞「もつとも、ゝゝゝゝ。成算なくして死しては、犬死ではござらぬか。」
高徳「犬死とな、犬死とな。ウーム。方々、そのやうに思召しか。」
一同「さやうなものでござらう。」
――範氏、のり出して□[目+敢]み廻す。
高徳「義は、義は、唯だ見ては進むものとは思召されざるか。ウーム。」
――一同、暗默伏目す。範氏一人、高徳を□[目+敢]む。やゝしばらく。

長範「御一同、大事は去り申した。今朝出立の際の思ひは、院の庄夜討の手もござるが、歸路を考ふれば、迂闊の事も致し兼ねる。敗戰となり、屍をさらさん事は、念慮にかけざる所ではござるが、我等が思ふ所、達し得ずでは、矢張り犬死ではござらう。それに兵糧も、一日限りでござる。一旦引揚げて、改めて謀を立つるが至當と考ふるが。」
一同「ごもつともと存じまする。」
――高徳・範氏、答へず。
長範「高徳、其の方、父の申すことに、不同意か。」
高徳「ハツ。かゝる以上、致し方なしと存じまする。唯だ不肖高徳、思ふ所あり。このまゝ院の庄まで參りたく存じまする。」
長範「なんと、お前一人にてか。殘つて、何とする。父を卑怯と思ふのか。」
高徳「父上、決してさやうには存じませぬ。船上山に逸し、杉坂にまた遲れ、矢張り致し方なきかと存じまする。唯だ不肖高徳、大君の御座所ををがみたくもあり、又た關東の奴原の樣子も見屆け、後日の爲とも致したく、二三日のお暇をお願ひいたしまする。」
長範「さやうか。さればとく言ふまい。構へて血氣に逸るまいぞ。」
高徳「ハツ。」
――幕。



【參考】
 作樂神社竝吉野船岡神社祭神・贈從三位・兒島備前守(備後三郎)三宅[宮家]高徳公は、『太平記』の作者「小島法師」とも云はれ、亦た備前國兒島郡林なる五流尊瀧院(後鳥羽天皇の皇孫五流の一。宮家、今に存して院主たり。當主は修驗道の宮家準博士の由)の古傳に依れば、後鳥羽天皇の裔孫と傳へらる。


■長尾隼人正勝明翁『院庄・兒島公碑』(貞享五年七月建碑)に曰く、「

 元弘の亂に、後醍醐帝、隱州に狩し、翠華、此の地に次(やど)りたまふの日、兒島備後三郎高徳、密かに宿營に來り、櫻を削りて書して云ふ、『天、匂踐を空しうすること莫れ、時に、范蠡無きにしも非ず』と。事、口碑に詳しければ、此を贅せず矣。今ま邑民、傳へ稱すらく、往昔の櫻、泯滅して、既に舊し。厥の書、曾て東大門と號す。近ごろ其の遺蹤に因りて、新櫻一株を栽ゑ、又た石に刊みて、渠の忠誠を旌し、且つ人をして行在の蹟を識ら教(し)めむと欲す。

 銘に曰く、『皇帝赫怒して、鳳駕西に翔けたまふ。天の神聖を翼け、爰に賢良を降す。片言を櫻に誌して、百世に芳を流す。分を明かにして賊を討ち、忠を□[聲の耳に替ふるに缶]して王に勤む。義氣を石に刻めば、烈日嚴霜のごとし』と」と。


■國弊中社中山神社禰宜・作樂神社初代齋主・道家助十郎源大門[藤原八尺]翁の哥

○墓所歌碑
弓とらず 太刀さへ佩かず なりにけり 案山子の前を 行くもはづかし
○日吉の社の近傍黒澤の寺に祠堂をば、村人ども燒すてたり、烟の立を見て
大連 もりやの神も なぐさむる ことゝしもへば 嬉しかりけり
立昇る 烟とゝもに 佛らの 道は失せなむ 時ぞ來向ふ
○美作國院庄櫻花之圖
みそなはす 神も御心 なぐさまむ からになきてふ 山櫻花
○作樂宮を壽ぐ
千代八千代 かけてさくらの 春ごとに なほひさかゆる 大宮所
○兒島系圖の終りに
身のはてを さらに思はで 大君に つかふる心 誰に語らむ

○小島高徳院莊故事
郷人(さとびと)の 言ひ繼ぎ來らく 郷人の のらひ語らく 古へに 有りける時に 言捲くも 畏こかれども 言捲くも 尊とかれども 高照らす 日の皇子 八隅しゝ 我ご天皇(おほきみ)を 鳥が鳴く 東男(あづまをのこ)ら 玉藻苅る 隱岐の國邊に 天皇を 遷し奉ると 此處にしも いでませる時に 天皇の 假宮の邊の 櫻木に い寄り來たりて 鳴く子なす 兒島高徳 鶉(うずら)なす 窺ひ忍び 篠すゝき 忍び來りて 花くはし 櫻押し削り かにかくと 書きし唐歌 天皇の 見そなひ給ひ 大御心 なぐさみ給ひ 大御心 愛(うれし)み給ふと 今の世の 現の今に 人皆の 語り次ぐらく 皆人の 嘆き次ぐらく 櫻木も 彌や次ぎ々ゝに 生ひ次がひ 生ひ次ぎ生ひて 春ごとに 開(さ)きにほひ にほへるが如と 負ひ征矢(そや)の 十世(そよ)となるまで はしきやし 兒島の君が 名こそ香(にほ)へれ 櫻花 花咲く盛り 咲きにほふごとや

年ごとに 咲くらむ花に 汝(な)が御魂 籠らひ居りて 十代(そよ)に香はな


 愚案、道家大門翁は、櫻木に戀闕の至情を標した兒島公の精神を、生涯かけて守り嗣いだ櫻祠の花守なりき(櫻樂神社宮司・景門福田篤二翁『道家大門評傳』――平成八年五月・錦正社刊參看)。小生も幼い日より口づさむ美作院庄の故事を謠つた『忠義櫻』の歌を、音吐朗々、謠はせて戴きます。

一、櫻ほろ散る院庄、遠き昔を偲ぶれば、幹を削りて高徳が、書いた至誠の詩(うた)がたみ。
二、君のみ心安かれと、闇にまぎれてただ一人、刻む忠節筆の跡、めぐる懷古に涙湧く。
天、勾踐を空しうする莫れ、
時に范蠡、無きにしも非ず。
三、風にさらされ雨に濡れ、文字はいつしか消えたれど、つきぬほまれの物語、永久(とは)に輝く花のかげ。

 少しく脱線氣味と相成りました。然し備前國和氣神社宮司・赤木(小森)一郎翁と云ひ、美作國作樂神社宮司・福田景門翁と云ひ、備中國百姓・三宅萬造翁と云ひ、是れ全て大東塾の方々、國の要には、維新の眞の草莽がをられます。三宅翁については想出がございます。友人の紹介で三宅翁の病床に御見舞ひに參上したことがありますが、時、既に口を開き給ふこと能はず、平泉博士の御本『悲劇縱走』を靜かに置いて、獨り辭去しましたが、二日後に遷化されました由。彼の白髭の御姿が忘れ得ません。何故ゑ一日も早く、道を問はなかつたか、と。皆樣にも道人あらば、無理にでも推參し、教示を乞はれむことを。

  • [7]
  • 黒木慕楠少佐『戲曲』、其の一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月21日(金)20時49分25秒
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●黒木慕楠少佐『戲曲・大楠公(假題)』(脚本・全五幕。昭和十九年四月。少佐、天長節に於て部下に實演せしめんとして果たさず)に曰く、「

   第一場『中興の曙』
所は水分。楠公の館の一室。兄・正成と、正季、正對す。
時、元弘元年夏葉月

正季「兄上樣、昨夜は眞に不思議なる夢を見ましたるぞ。」
正成「如何樣に。」
正季「されば兄上、申すも畏き事ながら、遙か笠置の山上に、錦旗、獨りなびかず。麓には、六波羅の賊共、猛り居りますれば、最早や、たまらず、一氣につはもの共を引きつれ仕り討つて出でますれば、遙かに主上、畏くもお喜びあり、軍勢、勇みに勇みて、一息に六波羅勢を十津川の流れに追ひ落し、更に京都に出でますれば、まだ戰塵の煙、血なまぐさくは御座りましたが、既に諸親王樣を始め奉り、菊池・櫻山公も、又た近畿の諸將、參集仕りて、京も古に立ちかへり、されば京の天下喜びて、御還幸を迎へ奉りまして御座ります。」
正成「ふむ、して。」
正季「それより諸軍、轡を列べて關東に上りますれば、彦根に五辻の宮樣、美濃には土岐多治見の一族等、愈々盛え申し、箱根の一戰に見ン事、關東勢を討破りて、高時奴、遂に館に火をかけて相果てゝ御座居ます。」
正成「ふむ、左樣か。」
正季「ハツ。」
正成「されば、そは御主の心か。」
正季「ハツ。」
正成「さては、御主にも似ぬ。」
正季「何故で御座ります。」
正成「ウームー、さてものう。」
  「正季、御主、勅諚なくして、私に兵を動かしてよきものかのう。」
正季「私では御座りませぬ。天下此の時、一刻も御猶豫御座りませぬ。匆々に兄上、御出馬然るべしと存じ申す。」
正成「いやさ、正季、全く布衣無冠、朝廷に聞えざる者にてあれば、さもありなんが、畏れ多くも此の楠は、既に正中討幕の時より、上聞に達せしもの、その後も又た藤房朝臣等により、呉々もはかられたるいはれ。」
正季「さればこそ、此の機に於て。」
正成「いやさ、此の機なればこそ、斯かること、愼重に致すのぢや。正季、兵は天下の大事、武は天子の大權で御座らう。されば斯かる最後の際に臨みてこそ、君臣の義、大義の道を明かに致すことこそ、大切なのぢや。此の兄が憂ふるは、後世、亂臣賊子の、虚名の兵を用ひ、輕薄血氣の士の、國をあやまらん事を恐るゝのぢや。凡そ君につくすには、深く遠く萬世に範たるの道を慮ることが、最も肝要ぢや。」
正季「御説、もつともで御座りますが、何とも此の機に及び申しては。」
正成「慮外な。正季よ、凡そ今朝一夕の大變は、左程恐れ憂ふるには足らぬ事ぞ。一身の小節、一時の血氣は、匹夫さへ能く致す。實に心あらば、考ふべきは萬世の道ぢや。さもなくば、今日事ならでも、明日又た憂ふべき事ばかりで御座らう。」
正季「ハハツ。」
正成「されども、のう、正季、吾は間もなく御使が參らうと思ふがのう。」
正季「ハツ。左樣に。」
正成「さればこの度、天下の事、容易の趣にあらざれば、和子等に一言、申し置かんと思ふが。」
正季「眞に、早速お呼び申しませう。」
正成「ウム。奧ものう。」
正季「ハツ。では。」

――立ちて出で、正行・阿久の方、入り來る。
阿久「お呼びで御座りますか。」
正成「ウム、正行。此の度は和子も聞き及び居るやう、天子樣大變の御難儀であらせらるゝ。ついては父も近々出陣仕るであらうが、如何やうのことに相成らんとも知れざるにより、一言、申し置かんと思ふ。和子は幼き故、奧、其の方、よくゝゝ聞き置かれい。」
阿久「ハイ。」
正成「そもゝゝ此の度のことは、兼々申すやう、一朝一夕の出來事ではなく、遠く後鳥羽上皇の討幕の御企てより考へ奉らねばならぬ。上皇は、我が國が神國なることを、強く心にとゞめさせられ、ひとへに大日本を、正しき姿、正しい心、正しい政にかへさんとあそばされたのぢや。我が國の正しい姿とは、今より千九百九十一年前、神武天皇が始めて御位におつき遊ばされたのではあるが、それよりも遠くはるかの古に、伊弉諾・伊弉册二柱の神がおはしまして、此の二柱の神が、人も草もお産み遊ばされ、又お治め遊ばされたのぢや。その中でも御徳の高き天照大神さまが、次いでお治めになり、これより天照大神さまの御子孫が、代々お治め遊ばされて、今日の御天子樣に及び申して居るのぢや。さればお天子樣には、限りなき代々の御恩のあると共に、又た實は御本家にあらせられ、吾々民草の大父君にあらせらるゝわけぢやのう。」
正行「ハイ。」
正成「それを分家が、子が、父君の上に立つと言ふ事では、分をこえてをり、無道である。道のない世の中は、必ず秩序なく亂れること、必定である。されば後鳥羽上皇は、御祖先に申し譯なきのみか、民が無道の世に苦しむをおなげき遊ばされて、古の正しき秩序ある正しき姿にかへさんと思召されたのぢや。」
正行「ハイ。」
正成「わかるのう。正しき心とは、日本の國柄が、かやうである以上、民草は、唯々天子さまを尊び、父上を尊び、兄者を尊び奉ることぢや。されば萬一の事ありても、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死して、斷じて御護り申し、天子樣の危きこと、世の亂れることはあらぬのぢや。此の心が、即ち正しき心ぢや。國の基ぢや。」
正行「ハイ。」
正成「ウム。して、正しき政とは。」

――從者、入り來る。
從者「申し上げまする。只今、萬里小路中納言藤房卿、弉々にお見えで御座りまする。」
――正成、座を正す。
正成「左樣か、粗相のなきやう、お通し申せ。」
從者「ハツ。」
――從者、退く。
正成「奧、しばらく退き居るやう。ついて正季殿に、至急、參られるやうにのう。」
阿久「ハイ。」
――正行・阿久の方、退く。從者、來る。
從者「伴ひて參りまする。」
――藤房・快元坊、入る。正成、下座に下る。
藤房「御免。弉々の急用御座りて、まかり申した。」
正成「それはゝゝゝ御苦勞に存じまする。謹みて御用承り申しまする。」
――正季、入り、正成の下座に坐す。
藤房「さればぢや、正成公。」
  「愈々御主にお召しでござりまするぞ。」
正成「ハハツ。」
――二人、平伏す。
――幕。



 以下、五幕まであります。少佐には、歌あり、詩あり、又た漢詩・漢文も作り、戲曲にも手を染められてをられます。
 少佐、逝きて六十六年、此の幻の戲曲、靖國神社にて奉納する一座は無きものか‥‥。

  • [6]
  • 黒木慕楠少佐『歎願書』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月21日(金)18時33分54秒
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●黒木慕楠少佐『艦政本部宛て歎願書』(血書。昭和十八年十月二十五日。『悲劇縱走』より所引)に曰く、「

 謹みて衷心、甲標的、急速進出方、御願ひ申し上げ候ふ。案ずるに、皇國今日の危急、正に千古の存亡に懸つて存する所、而して陛下の御深憂し給ふ處、臣等、恐懼慙愧、唯々粉骨碎身、以て聖慮を安んじ奉らんと存じ候ふも、尚ほ足り申さず、當に如何が致すべく候ふや。

 吉田松陰先生の曰く、『近世海外の諸蠻、駸々然として上國を凌侮するの勢あり。我、何を以てか、是を制せん。他なし、我が國體の、外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲に死し、臣は君の爲に死するの志、確固たらば、何ぞ諸蠻を恐れんや。願くは諸子と茲に從事せん』と。噫、人、よく之を知り、庶民、猶ほ克く之を能くす。況んや今日此の秋、必死滅賊の言、吾人武人に於て、焉ぞ控手空言たるを得べく候ふや。赤心、一度その空言なるを慙愧發奮して、之が眞實ならん事を期す。然共も凡々の身、生死無念の大悟たる能はず。唯だ知る、死を希庶ひて努めんか、遂によく必死の力に背かざらん事を。凡そ百戰は、萬事を死字に賭せしもの、故に勝敗たる、斷じて物資に決するなく、一に義に徹し、死に徹せし國民に、最後の戰勝は歸す可く候ふ。

 松陰先生も曰く、『天下、難あれば、億兆の臣民、皆、正に之に死すべし。億兆の民(臣)、皆、死すべからざれば、則ち皇統は天壤と共に窮りなけん』と。皇國の興廢、正に此の所に在り。而して今日、吾人の力むる所、又た義と死の徹底に在りと存じ候ふ。されば義と死の徹底は、正に不生還滅賊に在りと見極め仕り候ふ。皇國の存亡、陛下御深憂の時、豫め以て不生還の計は、當に今日、皇國士夫の任たるべく候ふ。況んや武人たる吾人に於てをや。而して此の行、緊急を要するの秋に於てをや。茲に此の任、此の行たる、正に標的にしかずと存じ候ふ。即ち甲標的をして急速進出、自爆せしめられ度く候ふ。

 夫れ自爆の事、赫々たる先輩を有し、一旦再擧の日を鶴首致し居り候ふ。吾等、標的員一同、必死必殺を相誓ひ、心魂、既に淡々と致し居り候ふ共、未だ先輩に遲るゝこと、荏苒として十有六月、然共も機到らずとなす根底に於て、若し先輩の抱き逝かれし必死滅賊の精神の、未だ純粹徹底して、諒解採用せられざるに於ては、一歳有半の年月も復た長しとせず、先輩の魂魄安んじ、救國の道確立せらるゝの日、復た遼遠と斷ずるの外、之れ無く候ふ。必死滅賊の實、正に自爆の計に在り、囘天救國の道、一に之が採用に在りと確信仕り候ふ。

 吁、今日、必死滅賊の言を空言に附して、何日の日か、復た皇國の安きを期せん。則ち人心の奮起して、必死滅賊の全からん事を冀ふ。空言、既に恥づ。乃ち吾等、先づ死せんのみ。素より上官の、部下をして生還せしめざるは忍び難き所と雖も、上官切實の志を、之を部下をして採らしめ給ふとも、臣が名分には背く間敷く候ふ。宇内の情、今日、全く逆覩し難く、而も國力を以て爭ひ、同樣の戰術を以て彼に對せば、遂に戰勝の日あるべからず。或は明日を期して、聖慮を安んじ奉るの大策ありとするも、焉ぞ臣等が切實の願ひ、明日を待つの心あらんや。況んや一草莽の命を憐みて機を失ひ、神州の聖、再び戻らざるの事あらんか、臣が罪、萬死、以て及ぶべからず候ふ。宣戰の大詔を拜し、陛下御深憂の程、拜し奉りては、唯々恐懼慙愧、身の措く處を知らず、義、高くして、便ち生の捨つるに堪へ、先人の遺訓、照々として、一死明々たるとき、猶ほ部下を憐むに堪へず思し召し下され候はゞ、是非、必死殉皇、尊皇滅賊の戰法をして、吾等に採らしめ賜ひ、一片の微衷を後世に問はしめられ度く候ふ。

 今日、標的員の志、今や獨り殉皇を以て足るなく、唯だ正に道義を宣明して、皇國の緊急に應へ奉らんのみ。されば豫め必死自爆の計なくしては、吾等、遂に瞑するを得ず、時機傚功の論、復た一顧の要なき所に候ふ。特攻の事、今日至難事と雖も、その襲撃する處によりては、皆、「ハワイ」・「シドニー」にはあらず、況んや生還を期すると不生還を諾するの分岐、唯に征路を倍加するに留まらず、之を用ひると用ひざるとは、今日の無をして有たらしむるの隔りあり、戰果、復た豁目して待つべく候ふ。加ふるに皇軍神武のいはれあり、常に神助を確信して疑はず候ふ。吾等、既に傚功を論ぜず、戰果を欲せず、唯だ正に自爆特攻、以て大義を宣明して、皇國の緊急に應ぜんのみに御座候ふ。

 右、切願達成の樣、切に々ゝ御配慮の程、懇願し奉り候ふ。謹白。

紀元二千六百三年 昭和十八年十月二十五日 標的艇長」と。



●黒木慕楠少佐『艦政本部宛て歎願書』(血書。昭和十九年一月二十五日。『悲劇縱走』より所引)に曰く、「

 謹みてハワイ閉塞の件、御願ひ申し上げ候ふ。戰局の趨勢を按ずるに、艦隊決戰を期す。皇國興廢の一擧、將に近かるべしと存じ候ふ。而して此處に乾坤一擲、各種兵器より成る特別攻撃隊の企圖せられ、既に全く生還せざるの計也と聞き居り候ふ。此なる哉。此にして始めて大皇の醜の御楯の名に背かず、神明も亦た與し給ふの心地致し候ふ。されば此の精神を、直接先輩に仰ぐ吾等標的員に於て、焉ぞ拱手傍觀を得べく候ふや。然も今次、皇國興廢の一戰は、艦隊決戰を覺悟するに於てをや。正に標的員の勇躍、投ずべき處かと存じ候ふ。則ち茲に特殊潛航艇を以て、敵主力艦隊を閉塞せんと、決意仕り候ふ。

 聞く處、第一に彼我共に艦隊決戰を企圖しつゝあり、則ち必ず其の主力の一根據地に集結の機あるべきこと。第二に今日、猶ほ敵米國は、ハワイを主力艦隊の根據地と成し居ること。第三、ハワイの水道は、幅二○○米、水深一六米、全長約一浬なれば、重巡一隻を轟沈せしめば、必ず水道の閉塞可能なること。第四、此の攻撃目的に適する兵器、即ち甲標的の改造は、別紙の如くニケ月を以て爲し得ること。第五、吾等標的員は、此の任を全ふするに足る先輩と戰訓技倆を有すること。以上により、閉塞の成功、殆んど疑ひなく、然も其の戰局に及ぼす影響、復た測り知るべからざるもの有りと確信仕り候ふ間、是非御採用下され度く御願ひ申し上げ候ふ。

 吁、然共も恐る、或は之が不生還を慮りて、遂に採用せられざらん事を。然も小官等の心中は、明かに必殺必成を期し、自爆の外、他念、之れ無く候ふ。されば今次の閉塞の快擧も、其の決行の採否、復た此の處に支障仕るべく候ふ乎。愼みて思ふに、今日の状、戰局、眞に逆睹し難く、國内の情、宇内の變、復た一日も空しくすべからざるの秋、臣等、唯だ正に粉骨碎身、勝つを謀りて餘念なかるべく候ふ。況んや武人たる、必死奉公の誓ひ、今日に處して空言たるは、許され申し間敷く候ふ。世人、齊しく言ふ處、日本人の最後の手段あり、と。又た諸官の吾等を激勵せらるゝや、當に秋に當りては、必ずや諸子に最後の手段を嘱せん、と。又た然らずとも、微々たる人力の事、最善の努力は、遂に最後の手段に若かず。

 臣等、一日も早く、聖慮を安んじ奉らんとするに、何の躊躇、何の名目、何の空言か許さるべく候ふや。況んや皇國の興廢、此の一擧に決するの秋に於てをや。松陰先生曰く、『天下、難あれば、億兆の臣民、皆、正に之に死すべし。億兆の民臣、、皆、死すべからざれば、則ち皇統は天壤と共に窮りなけん』と。乃ち今次大戰は總力戰なりと雖も、畢竟、百戰は萬事を死字に賭せしもの、故に勝敗は、一に死と義の徹不徹に決し仕るべく候ふ間、今や明々白々、臣が道に何の躊躇も之れ無かるべく候ふ。小官等、戰局熾烈、國歩艱難にして激するにあらず、本分を追求し、全力を工夫し、茲に心中莞爾として悦びに堪へざるのみに候ふ。楠子も湊川出陣に臨んでは死を必し、又た小楠公は二十有三、顯家公は二十一歳を以て殉ぜられ候ふ。此れ等、皇國を護持し來られし先烈を思ひては、復た自から必する處、之れ無しとは相濟み申さず候ふ。況んや國體の優る、御歴代の皇恩、陛下の御深憂の程、拜し奉るときに於てをや。

 願はくは、武人の爲に武運の長久を祈らるゝことなく、切に武人が本懷の擧を許し賜はらん事を。

 吁、然共も顧みれば、小官等、つとに殉皇の實、戰勝の道、一に死の戰法に在りと確信仕り、爾來歳餘、自爆完遂の外、他念、之れ無く努め來り候ふ共、至誠足らず、靖獻通らず、今期に及び候ふ間、遂に機を逸せざらんが爲、今次、已むなく生還を講じ候ふ。小官等、誠に切齒斷腸の思ひなれども、生還叶ふべく候ふ間、前記、閉塞決行の事、必ず御採用下され度く、又た逸機、最も殘念に候ふ間、之が標的の改造、竝びに訓練、至急、御許可相成り度く、右、御明斷の程、衷心懇願し奉り候ふ。

 赤心、以て靖獻仕り度く、斯樣の次第、御寛容賜はり度く願ひ上げ候ふ。謹白。

紀元二千六百四年一月二十五日 標的艇長」と。

  • [5]
  • 黒木慕楠少佐『風古』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月20日(木)22時40分47秒
  • 編集済
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●黒木慕楠少佐『風古[別册の一]の序』(美濃版半紙四十七枚。昭和十七年十一月三十日。『風古』は「風簷展書讀、古道照顔色」に採るなり)に曰く、「

【表紙】

此れ此の秋、日本の日本たらんとするの秋、
此れ此の書、日本人の日本人たらんとするの書なり。
  『風古』 別册の一
君が爲命さゝげてかくこそと 昔のあとを吾は語りつ


【序文】

   序   黒木慕楠、謹みて識す。

 米英撲滅の大詔を謹みて、茲に一歳、此の間、皇師、東西に忠に南溟に烈に、然して靖國の鬼幾千、我に先んじて冥々の聲有り焉。然り而して最も悲しむや、兄弟を盟ひ志を同うせし者、既に幾人か先んず矣。哀恨、奚(なん)ぞ堪へん矣。盟友に涙し盟魂を省み、乃ち思ふかな哉、東行(愚案、高杉)先生の詠、
 後れても後れてもまた後れても 誓ひしことをわれ忘れめや
返歌
 忘れめや君斃れなほ我がつぎ われ斃れなば君繼ぎくるゝを

 愚生、本懷を得んとして、未だ叶はず。荏苒たる事四箇月、明る十二月一日、此の日、方(まさ)に勇躍する有らんとし、即ち復た一考有り。將に有志同志の士に報ゆる所あらんと欲し、茲に□□[人+空、人+総の右=偬]として、一篇を草する也。

 思ふに、今日の状、日本存續するか、滅亡するかの竿頭に在り。何を以てか、神國日本の存亡と爲す。曰く、是れ皇統繼ぎたまふ有らば、則ち瞑するを得ん。大楠公の胸中の悲願を以て察す可きのみ焉耳。米英、斷然として悔る可からず。彼等凶惡の意は、正に茲に在る也。知るや知らずや、一億の民、今や、日本最後絶對の問題を提(ひつさ)げて立てるを。即ち日本の嚴存して、日本たらんとするの秋、復た日本人、日本人たらざる可からざるの時也。吁(あゝ)、今日此の秋、方に『我にして夷を攘はんとせば、則ち宜しく尊王より始むべし』の言(愚案、眞木紫灘先生『道辨』)、最も切々の秋也。則ち悲泣大呼す、國民よ、眞の日本人たれ焉、と。

 然れども愚なる哉、慢なる哉、將に八紘を皇化せんとせば、日本、先づ眞の皇國たらざる可からず。然り焉。一億を覺醒せんと欲せば、己れ先づ眞の日本人たらざる可からず也。然れども眞なる者は、他に非ず焉。唯自の魂、尊皇・殉皇を省みて、恥づるや也、大なる者あり矣。則ち眞に學ばんと欲するは、己の爲め也。然らば日本人たるの道、如何。先哲を仰ぐに存す焉。訓へを恩師・先輩に受くること、余、未だ精しからず。然れども茲に要ありて、恐懼、以て未熟の草を試むる也。

 夫れ日本人たるは、尊皇即殉皇なるに在り焉。先づ尊皇を論ぜん矣。志の確固たる、誰か今日を以て能く足れりと爲んや。古人の義烈に慙愧發奮して養ふに非ざれば、奚ぞ能く富貴も婬する能はず、威武も屈する能はず、刀鋸も猶ほ辭せずして、晩節を全し、大變に動ぜざることを得ん矣。此れ先哲を仰ぐの第一也。

 次に殉皇を論ぜん焉。大丈夫、將に志有りて之に殉じ、或は君國の爲に計らんとするや也、道標、方に此處に在り焉。先哲の偉大なる、謹みて仰ぎ、以て教を受くべき也。知らずや乎、汝の知れりと爲す所は、皆な先鑑あるに依り、而して汝の血は一歩と雖も、國史の血を出でざるを也。更に求めよ、更に高からん矣。此れ第二也。

 然りと雖も、或は私見、以て先哲に優ると爲すか乎。則ち答へん。抑も皇國の皇國たる所以、如何。皇統繼ぎたまふ有りて、萬世一系なるに在り矣。而して之を成す者は、何ぞや乎哉。神勅炳乎、大義を決し、忠臣烈士の血泣辛酸、義に殉じて之を輔くるに因つて、今日を成す也。其の由つて來る所、察せざる可からず焉。然らば則ち茲に承傳一系の命あり。之を道統と謂ふ。是ぞ、之れ日本人の血に非ずや乎哉、大和魂に非ずや乎哉。然るに父志を承けずして自由を稱へ、先哲を仰がずして私見を立てば、則ち安ぞ能く道統を存せんや乎。道統存する無くんば、則ち心的革命也。之に次いで來る者、怖る可く憂ふ可し。誰か遠慮なからん。茲を以て謹んで道統の精を、先哲に承けんと務むる也。此れ第三にして、最も切要なる者也。

 吁、此の事の照々たる乎、中興は、史學の倡(さかん)なるに興り、維新は、楠公を仰ぐより成る矣、即ち知る可きのみ焉耳。茲に先哲の遺文を集録し、聊か戰務多忙の同志に便せんと欲す矣。然れども余等、不學菲才、克(よ)く之を解する能はず。則ち先哲を承くるの第一等の正師・平泉先生の懇切なる御講義を借れる也。同志、此書に益あらば、則ち幸甚也。


【本文】

‥‥」と。



【參考】紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』(昭和六十二年九月・國書刊行會刊)の「卷の五・文天祥」に曰く、「

‥‥哲人、日に已に遠く、典刑、夙昔に在り。風簷、書を展べて讀めば、古道、顔色を照らす。

‥‥古への忠臣義士は、いまは日々に遠くなつてゆくが、その人々の忠義を書き記した書物は、昔のまゝに存してゐる。風の音づれる軒端で、その古書を開いて讀んでゐると、古人の身をもつて行つた節義の道が、ありゝゝと我が顔色を照らし、まさにその人々と物語りをしてゐる思ひが深い。

‥‥(若林強齋先生『靖獻遺言講義』に云ふ)『照の字、眼目ぞ。限りなく感慨ある字ぞ。文山(文天祥の號)の全體忠義の身で、古の忠義の士を數へ立てゝ、其の樣な衆が互ひに面目を見合せ、笑を含んで物語りをせらるゝ樣なぞ』」と。

  • [4]
  • 黒木慕楠少佐『尊皇』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月20日(木)21時53分34秒
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●黒木慕楠少佐『尊皇』(血書。全十一章・附録十五條。昭和十七年九月頃。少佐、此の解釋を期して、遂に果たさゞるなり)に曰く、「

   第一章 氣
 萬物、氣あり。雜然として流形に賦し、發しては形象をなす。氣脈相助長、相折衝して、整々亂脈を爲す。萬物流轉、此の氣、一に歸する所ありや否や。天に雙日なく、地に二君なし。夫れ氣は大統あり。

   第二章 正 氣
 天地間、正氣あり。□[石+旁]□[石+薄]として一系、連綿として無窮の氣の大統あり。之を天地正大の氣と云ふ。乃ち神意なり。神意は天地の始、成りませる神、天之御中主神に發し、萬物、茲に生成す。

   第三章 天 皇
 天皇は、天之御中主神の御直系にましまし、神意を齋鏡に繼がせ給ふ。故に天皇は現神にましまし、御民吾等の父母、萬物の宗にして、天地の歸一し奉るべき所なり。寶祚の無窮なる、夫れ正氣の滅びざる所以、天地の無窮なる所以なり。

   第四章 傳 統
 血は、氣なり。一脈の正氣、即ち血統にあり。此れに發するは、即ち自己本然の姿なり。然して神勅に曰く、同床同殿の齋鏡は、天皇、茲に皇祖に歸一し給ひ、大御心、神意にして、天皇の現神にまします所以、寶祚無窮、以て正氣不滅の所以なり。即ち齋鏡崇祖は歸一にして、民、亦た齊しく父母の氣を受け且つ繼ぐ。之を傳統と言ふ。正氣は傳統に存し、革命に亡ぶ。

   第五章 歸 一
 歸一は、雜然の氣の、一氣に氣脈を同ふするなり。以て整々□[石+旁]□[石+薄]の氣を成生助長す。凡そ天下の事、盛衰小滅す。即ち正氣も、振作更張せずんば衰ふ。人、夫れ元より一脈の正氣あり。乃ち志を勵まし、氣を振ひ、正學を踏まば、雜然の氣を率ゐて、正氣に歸一するを得ん。

   第六章 死 生
 生命は、氣なり。氣の不易なるを、永生と言ふ。天地萬物、皇祖に發し、大御心に定まる。故に宇宙は、今日只今のこと、獨り無窮の皇統は、正氣不滅の所以なり。故に不滅の生命は、殉皇に存す。靈魂は、正氣の權化、即ち天地正大の氣に歸一せる所の氣、そのものなり。

   第七章 殉 皇
 天皇に歸一し奉るなり。即ち尊皇の權化、畏れ多きことなれども、天皇をしたひ奉ること、子の如きの情を以て至純となすか。即ち念々是忠忘忠の底なり。尊皇は、崇祖の至大なるもの、乃ち此の傳統にして、萬有の正氣なり。己れ自から心を清め、志を立て、氣を振ひ、先哲に學び、恥を知らば、乃ち近からん。風簷展書讀、古道照顔色。

   第八章 民 國
 普天の下、率土の濱、皇民・皇土ならざるはなし。其の民、至誠溢れ、正氣の昌ゆる所、然れ共も未だ曾て皇民・神國、何時の日にか仰がる。嗚呼、正氣を振作更張し、皇道を宣布し、皇民・皇土たらしめざるべからず。之れ八紘一宇、皇化なり。

   第九章 道・學
 道は、正氣の發露、即ち天皇の大御心、臣民の至誠にして、萬古不易、東西不悖の道は、殉皇にあり。祭政・教育・軍事、皆、皇化扶翼の道、以て萬物のいのち、據所あらしむ。道は、傳統に在り、先哲に在り。思はざるべからず、學ばざるべからず。已先、稽古に在り、實踐に在り。

   第十章 教 育
 己が氣に同化し、以て正氣を助長するは、教育なり。故に人の師たり。世を治むるの士、先づ其の氣、正々、其の行、道ならざるべからず。然して教育は、傳統を稽み、正學を以てせざるべからず。且つ又た教育は、與ふるにあらず、化するに在り。故に教育は、子孫に加かず。
君の爲散れと教へて己れ先 嵐に向ふ櫻井の里
 宗教は、宗に歸するの教、即ち自己超脱、殉皇の徹悟なり。

   第十一章 和 歌
たのしみは父母も亦はらからも 天皇おろがみ安らけきとき
太刀佩くは何の爲ぞも天皇の 勅のさきを畏むため


【附録】

一、國難とは、何ぞや。國民の衣食、足らざるを以てか。將た又た民族の消長を以て論ずるや。非ず。國難は、一に國家の命脈に在り。此れを日本に於ては、如何。夫れ君臣の義は、父子の情の至大至正なるもの、乃ち吾人の至情に於て、子、子たらざるべからず、臣、臣たらざるべからず。即ち君臣の義は、國家の命脈也。此の義、傳統に存し、革命に亡ぶ。愼重ならざるべからず。悠久の歴史三千年、幾多忠臣義士の、此處に死するあり。死して、猶ほ死せず。魂魄を留めて、七生滅賊を期し、或は後人に示して、遺言の切なる。嗚呼、吾、此の魂魄切言を如何せん。

一、群夷、競ひ來る。國家の大事と雖も、深憂とするに足らず。深憂とすべきは、人心の正しからざるなり。苟くも人心だに正しければ、百死、以て國を守る。其の間、勝敗利鈍ありと云ふも、未だ遽かに國家を失ふに至らず。苟くも人心、先づ不正ならば、一戰を待たずして、國を擧げて夷に從ふに至るべし。然れば今日、最も憂ふべきは、人心の不正なるに非ずや。――『講孟箚記』

一、人と生れて、人の道を知らず。豈に恥づべきの至りならずや。若し是を恥づるの心あらば、書を讀み、道を學ぶの外、術あることなし。――『講孟箚記』

一、夫れ志、未だ慷慨のみ。學ばざれば能はず。學に、志と體とあり。志・體、正しくして正學なり。志は君臣の大義を明かにし、以て道を行ひ、いのちの據所を得、即ち尊皇即殉皇に在り。世に説き人を治むるは、末なり。然らば體、即ち學の態度、如何。父の志を繼ぐは、子の至情なり。吾人、亦た祖宗の志、傳統を繼がざるべからず。祖宗の志のあらずんば、君國の形體ありとも、其れ革命なり。即ち道は、傳統にあり。學は、先哲に在り。自主、以て傳統を一瞥に附し、己が理念を立つるは、驕慢不遜、後人の道ならざるは勿論、是れ革命なり。道は傳統に在り、學は傳統に在り、學は先哲にあり。承けざる可からず、學ばざるべからず。

一、情の至極は、理も亦た至極なり。然れ共も永遠に傳統の情に立たずんば、理、復た寸斷亂脈なり。

一、吾等は、天皇陛下の御股肱なり。而も古往、國難に侍し、國體を亡ぼせしもの、遂に軍隊によつて成りしを銘記すべし。

一、十年、士を養ふは、一日の用に供せんが爲め也。

一、蓋し傳統を持せんには、横に雷同を得んよりは、縱に氣脈を通ずるを可とせん。

一、非常の用に供せんとする者は、平時、非常のものたらざるべからからず。

一、吾が志を繼ぐは、子に如かず。

一、有志の友あり。同師の朋あり。――『講孟箚記』

一、武士とは、死することと覺えたり。――『葉隱』

一、大義、親を滅するの義、誤るべからず。即ち一旦、萬止むを得ずして、重き方の爲に、輕き方を棄てゝ顧みざることあれども、其の事、終る時は、又た先の罪過を償ふべきこと、固なり。――『講孟箚記』

一、死して後ち已む。死力を盡すとは、即ち死して始めて證かなり。人を盡すに留まるべからず。

一、棺を覆ひて後、事、定まる。士、須臾も忘れなば、事、成らざる也」と。



 黒木慕楠少佐『尊皇』全一卷、敬書すること件の如し。

  • [3]
  • 黒木慕楠少佐『大東亞宣戰大詔謹解』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月18日(火)22時29分47秒
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●黒木慕楠少佐『大東亞宣戰大詔謹解』(軍艦山城第十九分隊士。昭和十六年)に曰く、「

【大詔】
┌―――――――――――――─―───┐
│米國及び英國に對する宣戰の詔[註一]書 │昭和十六年十二月八日
└─―――――――――――――────┘

 天佑を保有し[註二]、萬世一系の皇祚[註三]を踐める大日本帝國天皇は、昭かに忠誠勇武なる、汝有衆に示す。

 朕、茲に米國及び英國に對して、戰ひを宣す。朕が陸海將兵は、全力[註十五]を奮つて交戰に從事し、朕が百僚有司は、勵精、職務に奉行(ほうこう)し、朕が衆庶は、各々其の本分[註四]を盡し、億兆一心、國家の總力を擧けて、征戰[註五]の目的を達成するに遺算[註六]なからむことを期せよ。

 抑も東亞の安定を確保し、以て世界の平和に寄與するは、丕顯なる皇祖考、丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が拳々措かざる所、而して列國との交誼を篤くし、萬邦共榮の樂みを偕にするは、之れ亦た帝國が、常に國交の要義と爲す所なり。今や、不幸にして米英兩國と釁端を開くに至る、洵に已むを得ざるものあり。豈に朕が志ならむや。

 中華民國[註七]政府、曩に帝國の眞意[註八]を解せず、濫りに事を構へて、東亞の平和を攪亂し、遂に帝國をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有餘を經たり。幸に國民政府、更新するあり。帝國は之と善隣の誼みを結び、相提携するに至れるも、重慶に殘存する政權は、米英の庇蔭を恃みて、兄弟、尚ほ未だ牆(かき)に相鬩くを悛(あらた)めず、米英兩國は、殘存政權を支援して、東亞の禍亂を助長し、平和の美名に匿れて、東洋制覇の非望[註九]を逞うせむとす。剩さへ與國を誘ひ、帝國の周邊に於て、武備を増強して、我に挑戰し、更に帝國の平和的通商に、有らゆる妨害を與へ、遂に經濟斷交を敢てし、帝國の生存[註十]に重大なる脅威を加ふ。

 朕は、政府をして事態を平和の裡に囘復せしめんとし、隱忍、久しきに彌(わた)りたるも、彼は毫も交讓の精神なく、徒らに時局の解決を遷延せしめて、此の間、却つて益々經濟上・軍事上の脅威を増大し、以て我を屈從せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亞安定に關する帝國積年の努力[註十一]は、悉く水泡に歸し、帝國の存立、亦た正に危殆に瀕せり。事、既に此に至る。帝國は、今や自存自衞の爲め、蹶然起つて、一切の障礙を破碎するの外なきなり。

 皇祖・皇宗の神靈、上に在り[註十二]。朕は、汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速かに禍根を芟除して、東亞永遠の平和[註十三]を確立し、以て帝國の光榮[註十四]を保全せむことを期す。


【註釋】

[註一]「詔」。陛下の仰せには、命と勅と詔とあり。詔は、國家緩急の際の御言葉である。

[註二]「天佑を保有し給ふ大日本帝國天皇」。此處に曰はせ給ふ天佑とは、所謂幸福とは異なる。即ち天地人草魚を最初に造られた天御中主神より、連綿一系の天皇陛下には、現神にてあられ、今猶ほ天地草木は、大御心により運行し創造せられてゐるのである。故に天地間の現象は、總べて大御心のまにゝゝ自由自在であり、從つて皇統無窮にして、始めて天壤無窮である。所が、神代の神々より生れ、神の御業を助け奉るべく、神の御心を少しく戴いた民草は、時代と共に、「神ながら」の心を失ひ、利己的の濁つた心となつてしまつた。此の民の心のみが、兎角く大御心のまゝならず。或は道鏡・尊氏(愚案、高氏に作るべし)如き奸臣となり、或は米英の神國への反逆となるのである。而して更に自らを省みるに、自分の日常の胸奧にも、此の大御心に歸一し奉り得ない、尊氏にも比すべき心が宿つて居りはしないか。全く至誠至純の心あるか否かも省みなければならない。昭和維新といひ、八紘一宇といふも、要は先づ日本人自らの心である。
 さて「天佑を保有す大日本帝國天皇」との仰せは、大御心のまにゝゝ天佑神助を御掌握し給ふ現神天皇が、唯だ獨り神國を維持し、「神ながら」の心を繼承し、民心、最も至誠なる大日本帝國に御座を据ゑられ、親しく大父君として民草を育慈し給ふ、此の畏き天皇陛下の御意と拜察し奉る。

[註三]「萬世一系の皇祚」。皇祚は天皇の御位。天地を創め給ひし天御中主神より、皇統連綿、皇祖皇宗の御聖業と、大御心を代々承け繼がせ給ふ現神天皇の御位は、實に皇祖の神勅「豐葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地なり。宜しく爾皇孫、就きて治らせ。行矣。寶祚の隆えまさんこと、當に天壤と窮り無かるべし」に拜し奉るが如く、大御心即天地間正氣の根本にして、之れ大正氣の、太古より脈々整然として運行する所以、故に皇位は一系連綿、萬世無窮にして、天壤も亦た無窮なる譯である。

[註四]「本分」。本分とは、所謂義務にあらず。義務とは、社會がその人に與へた約束如きものである。所が日本人の本分は、生れながらに日本人としてもつ、萬古不易の皇運扶翼の天命である。故に義務を口にする外國人は、「我が事、終れり」と降參をするが、日本人は降參等はおろか、七生報國、死して永久に々々ゝ皇國を護る日本精神の鬼となるのである。

[註五]「征戰」。征は進んで討つこと。あくまでも外地に敵を討ち、更に進んで敵の本據をも衝けとの御意と拜察し奉る。

[註六]「遺算」。作戰計劃の手落ち。至誠奉行するものに、手落ちはない。畏れ多い仰せである。

[註七]「中華民國」。中華とは、支那は世界の眞中に位し、最も文明が發達して居るとの意にて、支那人の自惚れの甚だしきを表はす。大正元年に成立した。

[註八]「帝國の眞意」。善隣友交、不正不義を伐ち、東亞の安定を確保し、共存共榮の實を擧げ、更に之を世界に及ぼし、以て皇道精神に基づく恆久の平和を確立すること。即ち八紘一宇の建國の理想なり。

[註九]「東洋制覇の非望」。將來の禍根を、此の際とり除かうとする聖戰を、戰は人民が苦しむから止めよとか、日本は支那が弱いから、之れを乘取らうとするのだとか、或は日本が勝つと、更に何處かに戰を吹きかけるだらうから、世界平和の爲に支那を助けて日本を抑へるんだといふ、體裁のよい名目にかくれて、實は黄色人種の東洋を、白色人種の侵略から、獨りで護つてゐる日本を抑へ、日支事變を長引かせ、日支共に疲れ弱るを待つて、遂には東洋を我がものとなさうとの大野心を、思ふがまゝに遂げようとしてゐるのである。

[註十]「帝國の生存」。萬世一系の皇祚に、絶對に存亡の畏れ多き懸念はないのであるが、皇祖皇宗の御聖業を獨り扶翼し奉り、二千六百秋を維持し來れる神州は、一に祖先・先輩の至誠、忠靈に依るものであつて、神州日本は、一に國民の至誠そのまゝ故に、帝國の生存は、國民の至誠如何によると確信し奉る。此の點、各自深く銘記しなければならない。

[註十一]「積年の努力」。明治維新以後、國内の廓新と充實に忙殺されてゐた日本が、初めて日清戰役、殊に三國干渉により、東亞の安定が、日本の存立に缺くべからざることを知り、爾來、日露戰役にて南滿州を帝國の生命線とし、滿州事變にて初めて東亞安定の實を擧げ、更に禍亂不豪の隣邦支那が帝國と不和を敢てし、遂に抗するに至つて日支事變となり、帝國は絶大の犠牲を拂ひつゝも、彼の非を討ちて彼の正を擁立すること、既に五春秋、三國干渉以來、實に祖父・子・孫、三代五十年に亙る聖業である。而して此の聖業、皆、白人の東洋侵略の野心に基づかないものはない。

[註十二]「皇祖・皇宗の神靈、上に在り」。皇祖は天照大神、皇宗は御歴代の天皇さま。靈、或は魂なるものは、人間が至誠を傾注し、無我の境地に沒入し、生も知らずして、唯だ自己の正氣の□[石+旁]□[石+薄]として天地間に塞がり充ち、靈魂の脈々として千古より未來に流れる永遠の生命の中に躍動するを覺えるのである。而して後世、此の正氣を學ぶ者あらば、乃ち七生報國をなすのである。即ち靈魂は、至誠努力の人にのみ感得せられ、又こゝに感奮興起し、此の正氣の靈魂を承け繼ぐ者ありて、初めて其の永遠に不滅なるを立證されるのである。
 「神靈、上に在り」とは、何れも上方・下方の別あるにあらず、我等が一度清く赤き心もて、天地神明に對する時、神代よりの神々の御靈が、□[石+旁]□[石+薄]として天地間、四方無盡に塞がり充つるを覺え、此の神靈正氣の己が身中、宿り充つるを知ると共に、承け繼ぎし脈々の此の傳統に、無限の感謝と自負と責任を感ずるのである。「神靈、上に在り」。それは至誠の人の自覺にして、又た此の者は、克く自己の天命を解する人である。即ち、
『皇祖皇宗の御心が、生々として此の天地間に、此の日本人の體に傳はつてゐる。我々の眞心は、即ち大御心であり、姿は、即ち皇祖皇宗の權化であらねばならないのだぞよ。』
との御意と拜察し奉る。

[註十三]「永遠の平和」。平和とは、單に人が安心して生活し得ることではない。眞の平和は、過去より現在・未來へと無窮に亙り、□[石+旁]□[石+薄]脈躍としてつながる天地間の正氣、此の正氣中に永遠に不滅なる魂を發見し、此の氣脈に自己の一心・一言・一投足が合致して、始めて天地自在・安心立命・生命不滅の精神的、眞の平和が得られるのである。故に眞の平和は、正氣を得なければならない。然るに此の正氣は、畏くも現神大日本天皇陛下の御心であらせられる。故に世界民草が、眞の、しかも永遠の平和を欲するならば、天皇陛下の大御心に歸一し奉らなければならない。之れを自らなし得ずして苦しむ世界の民草を、皇運扶翼の神州の皇軍がまつろはしめてやる。これが八紘一宇の武、肇國の大理想であると拜する次第である。

[註十四]「帝國の光榮」。天皇ののたまはせ給ふときは、大日本帝國の國威と繁榮、臣民の申すときは、御稜威の伸長と皇室の御繁榮なり。

[註十五]「全力」。全力は、至誠なり。故に軍人は、困苦・艱難・不屈・奮鬪、斃れて猶ほ止まず、身は死しても、魂魄を留めて大和魂に生き、永遠に皇運を扶翼し奉るなり。


【通解】

 皇祖皇宗の大御心を繼承して、天地運行の神力神助を有つて、御神勅のまにゝゝ、萬世一系、連綿無窮の皇位にある現神天皇は、唯だ獨り神ながらの神州を、至誠以て維持して來た大日本帝國が、今、重大國難にたち至つたので、汝等臣民に言ひ聞かさうと思ふ。忠義に徹し至誠溢れ武勇に富む汝等臣民よ、汝等祖先傳統の血潮の中に流れる、其の忠誠勇武の精神を、今ぞはつきり自覺して、心をこめて聞くやうに。

 朕は、只今、英米の二大強國に對して、皇國の興廢を決する戰爭をなすことに決した。朕が股肱と頼む陸海軍將兵は、至誠奮鬪、斃れて後ち猶ほ已まずの死力をつくして第一線に働き、朕が多くの役人は、至誠奮勵、各自の仕事に、日本人としての天命をつくし、其の他、如何なる仕事にある者も、皆、皇道扶翼の各自各樣の本分を盡し、國民皆一心となり、日本の出し得る全力を出して、進んで敵を討つて、今囘の戰の目的を成し遂げるのに、決して眞心が足らず、油斷などして手落ち・失敗等があつてはならないぞよ。しつかり覺悟をしてやるやうに。一體、東亞の安定を確保し、以て世界の平和に協力することは、明治維新以來、あの興國の大事業と東亞安定の基礎とを打建てられた明治天皇、及び大正天皇が創められ、守り來られた遠大の大御心であつて、朕が大切に實行して、一刻も忘れ得ない所であり、斯くして諸外國との交際をよりよくし、總べての國が皆榮え、お互ひに樂しんでゆかうとするのが、我が大日本帝國が、何時も外國と交際する際の大切な道として來た所である。然るに今や、不幸にも米英兩國と戰爭を始めることになつてしまつたことは、實に最早や、これ以上、我慢しきれないからであつて、どうしても世界の平和をねがふ朕の眞の心であらうか。眞に殘念でならないことである。

 支那の蒋政權は、先に眞に世界の平和をはかる日本の眞心を理解しないで、無茶苦茶に日本にさからひ、東亞の平和をかき亂し、遂に帝國が武力を以て膺懲しなければならないやうにさせ、既に今日、四年餘りの長い年月を經て來たのである。幸ひに汪政權が惡を改めて新しく成立したので、帝國は之と仲良く隣關係の交際を結び、相協力するやうになつたのであるが、猶ほ重慶に殘つて居る蒋政權は、米英の援助をたのんで、當然、兄弟として共存共榮しなければならぬ日支が、今猶ほ内輪喧嘩をしてゐるのも悔い改めず、一方、米英兩國は蒋を助けて、東亞の禍を一層けしかけ長引かせ、平和の爲といふ體裁の好い口實で手を出だし、實際は日支共に戰に疲れはてさせ、東洋を乘取らうとする野心を、思ふがまゝ振舞はうとしてゐたのである。其の上、仲間の國を誘つて、帝國の周圍に武備を増して強力にし、日本に挑戰し、更に帝國が第三國と仲良く行つてきた貿易にあらゆる邪魔をし、遂には一切の取引までも勝手に止めてしまひ、斯くして神州日本生存に非常なおどかしを加へたのである。

 此の間、朕は政府に命じ、時局の成行きを平和の中に正しく取り戻さうと思ひ、永い間、じつと無禮なことも我慢して來たのであるが、彼には少しも仲良く歩み寄る氣持はなく、徒らに時局の解決を長引かせ、此の間に却つて平和の爲どころか、益々無用の經濟上・軍事上のおどかしを増し、遂には我が神州日本を手足も出ないやうにして、無理やりに彼等の言ふことを聞かせようとしたのである。若し此のまゝ何もせず月日を送つたならば、東亞安定の爲に、帝國が多年努力してきた總べてが、全く無駄になつてしまひ、神州日本の獨立は、それどころか、今や危險になつてしまつたのである。最早や、致し方がない。帝國は只今自分自らの獨立擁護の爲に、思はず知らず力一杯、起ち上がり、ありとあらゆる邪魔するものを打破り打碎いてゆくより外なくなつたのである。

 汝等臣民よ、心靜かに、天地神明に對へば、皇祖皇宗の大御心が、生々として此の天地間に、此の日本たる體の中に傳はつてゐるのを覺えるであらう。我々の赤き眞心は、即ち大御心であり、姿は、即ち皇祖皇宗の權化でなければならないのだぞよ。朕は、唯だ一つ、お前達國民全體が、あの忠誠勇武なることを、心から頼みとし、御歴代天皇樣の遺され給うた御聖業を、より世界に普及し、一刻も早く惡原因を討ち除いて、先づ東亞永遠の平和を確立し、斯くして帝國の國威と繁榮を完全に保つて行かうと決心したのである。汝等臣民も、覺悟はよろしいか。終」と。



 黒木慕楠少佐『大東亞宣戰大詔謹解』全一卷、敬書すること件の如し。

  • [2]
  • 黒木慕楠少佐『大日本青年の歌』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月17日(月)23時09分8秒
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●黒木慕楠少佐『特に海國青年士官に贈る――大日本青年の歌』(更に一篇『吾、天地に歌ふ』あるも、之を略す。節は三上卓海軍中尉『青年日本の歌』を用ふ)に曰く、「

一、澎湃の海月膽く、悽壯の風雲疾し、興亡の波不義の塵、乾坤何處に漂ふらん。
二、廣漠の土大亞細亞、太古を夢む長城や、今東(ひんがし)は紅に、十億の民の日が昇る。
三、あゝ日東の君子國、遙たり二千六百秋、十億民天照す、あゝ神州の大正氣。
四、昔神武の御東征、韓山の峯神后や、これ時宗の生れし地、それ秀吉の裔や誰。
五、世局の流轉秋の空、社稷の安危義の汚隆、かなしき生命(いのち)積み重ね、積み重ねつゝ國守る。
六、あゝ忠烈の史(ふみ)の跡、大義を吐露して舟の上、南風孤忠の芳るあり、檻車の雨に正氣の歌。
七、明治維新の朝嵐、國富み啓け盛ゆれど、名利浮薄の春の風、櫻花散り民迷ふ。
八、今八紘を一宇(いへ)となす、聖戰萬里戈とれど、民漂渺の春の海(み)に、治安和樂の夢に醉ふ。
九、あゝ國盛え人暗く、輕□[舟+可]を操る人や誰、紅顔美目の熱血に、武と文を練る健男兒。
十、尚武練磨の太刀の先、雲飄々の身一つ、堂々五尺に生氣充ち、斃れて後に已まんかな。
十一、三更の月松の影、衣涼しく血は燃えて、青一髮の波の涯、膽併呑す五大洲。
十二、ひもとく文に止み難き、憂國の情時事の鐘、皇國(くに)を念(おも)ひて起つときは、功名誰か論つらむ。
十三、蛟龍未だ池(ち)にありて、護國の舵を學びしが、今九天に雲は埀る、誰(た)が高楼の眺めぞや。
十四、友よ聞かずや靖國の、杜より響くあの聲を、立てよ我が戰友(とも)太刀もちて、祖國の花に應へなん。
十五、大和心を人問はゞ、朝日に匂ふ櫻花、今日東の朝ぼらけ、皇御國に吾起たん」と。



【參考】大夢三上卓海軍中尉『青年日本の歌』(一名、昭和維新の歌)に曰く、「

一、汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は亂れ飛ぶ、混濁の世に我起てば、義憤に燃えて血潮湧く。
二、權門上に傲れども、國を憂ふる誠なし、財閥富を誇れども、社禝を念ふ心なし。
三、あゝ人榮え國亡ぶ、盲(めし)ひたる民世に踊る、治亂興亡夢に似て、世は一局の碁なりけり。
四、昭和維新の春の空、正義に結ぶ益良夫が、胸裡百萬兵足りて、散るや萬朶のさくら花。
五、古びしむくろ乘り越へて、雲飄搖の身は一つ、國を憂ひて立つ時に、丈夫の歌なからめや。
六、天の怒りか地の聲か、そも只ならぬ響あり、民永劫の眠りより、醒めよ日本の朝ぼらけ。
七、見よ九天の雲は埀れ、四海の水は雄叫びて、革新の機(とき)到りぬと、吹くや日本の夕嵐。
八、あゝうらぶれし天地の、迷ひの道を人は行く、榮華を誇る塵の世に、誰(た)が高樓の眺めぞや。
九、功名何か夢の跡、消えざるものはたゞ誠、人生意氣に感じては、成否を誰か論ふ。
十、やめよ離騒の一悲曲、悲歌慷慨の日は去りぬ、我等が劍今こそは、廓清の血に踊るかな。

 昭和五年五月、九州佐世保軍港に於て、一夜、慨然として青年日本の歌を作る。當時の一念、今なほあり。昭和四十二年之末、録之。三上卓、大夢艸堂」と。

 愚案、此の『青年日本の歌』は、大夢艸堂碑文の拓本から入力するが故に、件を定本と爲す。



●黒木慕楠少佐『兩親に奉る書』(昭和十六年十二月)に曰く、「

 去る八日、大日本の天命たる來るべきもの、遂に到來。大東亞の聖戰、黎明の太平洋の廣褒數千里に亙りて、切つて落され申し候ふや、忽ちにして皇軍の艨□[舟+堂]精兵數十百萬、醜の御楯と勇躍決死、分こそ各自國難を雙肩に擔ひて起ち、本懷を致すべきの秋とむかへば、畏し大御稜威、隈なく皇軍を覆ひ給ひて、大戰果擧り、第一線の將士、復た銃後の國民と共に、感激措く處を知らず候ふ。愈々奮ひ愈々練磨、緊張を加へ、聖戰皇師の目的完遂相致すまでは、不肖も死して護國の鬼となりても、魂魄を留めて、神國・父祖の國・魂の國・眞理の國・皇國日本を、無窮に擁護し奉る念願、然らずんば已まず、死する――死して鬼となると言ふも愚か、七生報國、生も死も念願には存せず、唯々皇國の無窮のみに候ふ。

 此の度の聖戰は大日本の天命にて、天皇陛下には皇軍に、此の日に備へての戰備を御命じ給ひ、陸海緊密に準備を整へて、大命降下の日を待つこと、滿月に弓を引きしぼりが如く、遂に八日、天明、天地に神の御號令と共に、采配一閃、海に空に陸に數百萬の皇軍、奮躍致し候ふ。實に此れ此の度の御軍は、畏くも天皇陛下の御軫念に發せさせ給へば、神の御軍にて、加へて日本の精神、此處に蘇ることを得候はゞ、皇軍の不敗なるは勿論、聖戰の目的成就し、大東亞の皇道聯盟の成立し、皇化・八紘一宇も遠からずと確信信念仕り候ふ。既に賽は投ぜられ候ふ。大日本國民の進むべき道は、一つに決せられ候ふ。

 唯だ憂ふるは、國民が一つの目的に戰ひ拔くや否や、御軍、皇軍、神の御聲の所以を辨明するや否や、大日本の何が故に英米と戰ひ、支那南洋を包括し、更に獨ソとも戰はざるを得ざるか。其の根本理由を日本人が自覺し、茲に聖戰に從事、誠を致すに非ずんば、大日本の聖戰も、民族戰の執をまぬがれず、世界自由と言ふも、他國人には何等英米と五十歩百歩のものと思はるゝは當然にて、所詮強食弱肉、盛衰榮枯の歴史の跡を繰りかへすべく、世界の平和は、永遠に得て望むべからず候ふ。

 されば何が世界の永遠の平和をもたらすかと思案考慮仕り候ふに、そは皇道に依る政治、即ち道義の國家内容、所謂西洋流の自由平等には非ずして、君あり臣あり、父あり子あり、長幼序あり、夫婦別あり、世に道義ありて、各々分定まりて、所に安んじ、其の天賦の天命を生長せしめ得候ふこと、是れ即ち眞の自由と存じ候ふ。此の道義の存する處、有り難くも日本のみにて、萬物庶民が、その天賦の生命を生々發展せしめて、各々所を得、相支障なきは、即ち此の道義を有する日本の政治、即ち皇道に包括され、その中に融合致すことに候ふ可し。皇道に依る、即ち眞の道義に準據仕り候ふには、君臣・父子・兄弟・夫婦・朋友、就中、庶民齊しく天賦の命たる臣子の道、更に世界にて臣の道唯一たるものは、日本の國體にて、天皇陛下萬世に治しめし給ふ皇國體にして、始めて臣道は言ふまでもなく、父子の道、兄弟の友、夫婦の別、朋友の信も、誠の道、派生致し候ふものにて候ふ。されば世界の平和は唯だ一つ、皇化に依るより他になく、天皇の御統治に浴し奉り得る民草のみ、眞の幸福あるものに候ふべし。即ち世界恆久の平和は、天皇に歸一し奉ることに候ふ。此の度の戰は、天皇に歸一し奉らざる者共を討つの御軍にて、爲に皇軍と稱へ奉り候ふ。

 皇軍と稱へ奉るは、その統帥し給ふ御方を拜してのみ稱へ奉るには非ず候ふ。蒋介石軍を蒋軍と言ふとは異ること、國民はよくゝゝ自覺しての上、稱へ奉るべしと存じ仕り候ふ。日本民族の民族戰には非ず、世界萬民の眞理正道の爲の戰、世界絶對、最高唯一の破邪顯正の聖戰に候ふ。國民よくゝゝ此の點を自覺し、此れを念頭におきて、政治をし思想を動かし行くに非ずんば、所詮、皇國の皇國たる所以、失はれ候ふも案ぜられ候ふ可し。

 皇軍の所以、聖戰の所以は、實に大日本の神國なるを確信するに非ずんば、諒解する能はず候ふ可し。然らずんば聖戰も失敗にて、皇國の前途、一層國難危機を藏するものと相成るべきこと、確實に候ふ可し。唯だ憂ふべき所、此の一點にして、然も此の憂心、正に大、然も更に之を救ふの極めて困難なるを思ふとき、第一線にありて堪へ難く候ふ。希はくは第二、第三の吉田松陰・橋本左内(愚案、景岳とあるべし)先生の輩出せんこと、終夜の切願に候ふ。内地に此の人、一人出づれば、百萬の軍も敵し難く、國難の打開は、此の一人に懸りて之れ有る可く候ふ。聖戰と云ひ、皇軍と言ふは、何ぞや。國民の本來の神國日本人にかへりての自覺發奮を切願して已まず候ふ。此れ憂愁の至り、吾が身を吾れと叱咤し勉勵するも、此の處に候ふ」と。

  • [1]
  • 黒木慕楠少佐『國難を救ふ』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 8月17日(月)17時59分57秒
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●黒木慕楠少佐『國難を救ふ』(海軍機關學校第五十一期卒業講演會の原稿・昭和十六年十月六日。全二十二章)に曰く、「

 『盡其心者、知其性也。知其性、即知天矣』(愚案、『孟子』盡心上篇首章。「其の心を盡す者は、其の性を知る也。其の性を知るは、即ち天を知るなり」)と。此は孟子の言である。即ち盡其心とは、一心、唯だ心の限り力の限りを盡して窮まるを言ひ、全力を盡さんとする者の、必ず己の考へに行塞るものなり。行塞れば、其處に必ず性を知る。性とは、猫は猫、犬は犬、人は人としての道義なり。即ち唯だ夢中に全力を盡して行塞り、道を考へるやうになることである。然して更に道を考へ究めると、其處に天、即ち天命を知ると言ふのである。吾人、本分に全力を盡さんとする所、必ずや此の知性・知天にまで至る疑問と惱みの過程あり。茲に今日、余の信念せる天・性・心なるものを述べ、他日、反省勉勵の資とせん。

   一
 思ふに人と生れて禽獸と異り、稟け難きの生を日本に受けて、日本を愛す。即ち人としての性、日本人としての道義を知り行ひ、日本を昌えしめねはばならない。
 大丈夫、憂ふる所は國體の安危、擇ぶ所は義の至當と不當とである。

   二
 然るに今日の日本の状勢は、總理大臣さへ、有史以來、未曾有の國難と叫んで居る。然して國民を見るに、或る者は狼狽し、或る者は慷慨し、又た或る者は外見の盛隆を以て、何が國難であるか、左程に痛感せざる者も多きが如くである。然して國難を叫ぶ者、或は其の所以を外交と言ひ科學と言ひ、或は思想・制度と言ひ、或は又た世界大勢の然らしむる所なりと云ひ、之に處するに、今日、皇道に甚く覺醒革新の叫ばるゝに拘らず、國民をして感奮興起せしむるの迫力なく、反つて一方には世を救はんとの非常なる強力な信念の下、畏れ多くも、上、皇室を覆へし奉らんとの隱然たる勢力を扶植する共産黨あり、又た之に抗するに、國體を辨へずして獨伊に傚はんとするあり、或は己が職分にて國家の事論ずべからずとなし、面を覆ひ耳を塞ぎて、我事のみに忠實なるを以て可とするの風潮濃厚にして、國難の國難たる所以、國難を救ふの道は、未だ明確にせられ居らないのである。

   三
 茲に靜かに國難の國難たる所以を考へなければならない。内憂か外患か、民族の消長か、國體の安危か。勿論國難とは、人の死することでもなければ、況んや國民生活の窮迫する事でもない。國難とは、實に國の命の亡ぶるか、亡びざるかである。故に大日本の國難とは、皇國體の安危である。國體の安危、之を措いて國難は存しない。内憂も外患も、總てが此處に問題されるのである。即ち内憂ありとせば、夫は日本自身が己の姿を失はんとすることであり、國難外患ありとせば、夫は皇國體を侵さんとする勢力のあることである。然して皇國を侵さんとの彼の勢力は、特別不可思議の魔力を有するものではなく、彼等總てが一つの目標に向つて振ふ全力が、我よりも強大なるに過ぎないのである。我も人であり、彼も亦た人である。彼が人以上の事をするのでない。我々が彼等以上のことをして居るのである。即ち日本人としての全力を發揮して居ないこと、眞に日本人としての働きをしてゐないことである。
 即ち内憂も外患も、總て國難の國難たる原因は、國民が己自身の姿と力を忘却して居ることに在るのである。故に國難を救はんとせば、總てが正しき心に還り、其の全力を盡すこと、即ち至誠の人となるより他にないのである。

   四
 然らば至誠とは何か。人が心を盡して、先づ當面する問題が、其の正義・正道・去就についての迷ひである。茲に徹底せる至誠、吾々の魂が、何物かに依り處を求めて、天地間の正氣に生きんとする、その魂の準據を究明し確信するにあらざれば、吾々が誠心を以て盡さんとする全力も、亦た徹底し得ないのである。「至誠とは何か」、此が總ての根本問題である。「至誠」、私は斯く信ずる。
『天地間、氣あり。□[石+旁]□[石+薄]として一系、連綿として無窮、之を天地正大の氣と言ふ。神意なり。神意は、天地の始め成りませる神、天之御中主神に發し、萬物、此處に生成す。故に天地間、氣の大統は、皇統に存し、畏くも、陛下の大御心にあらせ給ふ。
天地間、人の人たるの道は、尊皇の一念、大御心に歸一、生死するに在り。此れ天地間の正氣に通ず。自己本然の姿、至誠なり。』
と。即ち至誠とは、單なる忠實眞面目を言ふには非ずして、熱烈徹底せる尊皇の一念、茲に殉ずるに至る所の義の精神である。
 尊皇即殉皇、此が人の人たるの至誠である。然して此の至誠のみが、國難を救ふものなることを銘記しなければならない。

   五
 更に「至誠は國難を救ふ」、此の言葉と共に思ひ出されるのが、彼の吉田松陰先生である。何故、先生が偲ばれるのであらうか。夫は單に先生の憂國の熱情の姿以外に、更に絶大なる何物かの力、即ち國難を救ふの命脈を、先生に感ずるが爲である。
 然らば國難を救ふの命脈とは如何。先生の御言葉(愚案、『講孟箚記』孟子序説)に、
『聞く、近世海外の諸蠻、我が國を凌侮せんとの勢あり。何を以てか、是を制せん。他なし、我が國の、外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確固たらば、何ぞ諸蠻を恐れんや。願くは諸君と茲に從事せん。』
と。此が松陰先生である。即ち國體の義、尊皇の大義を明かにすることが、國難を救ふの命脈である。此の命脈に徹したる至誠の止むに已まれざる發露が、憂國、難に赴かれし先生の姿であり、又た非凡の努力をせられし所以である。

   六
 茲に明かに國難を救ふの命脈は、尊皇の大義であることを知るのである。然して吾人の至誠は、尊皇の大義に發するのである。されば國難の國難たる所以は、國家が、國民が、然して吾々自身が、未だ尊皇の大義に依つて以て立たざるにある。
 即ち尊皇の大義が等閑に附せられ、沒却せられて居るが爲である。故に今日の國難を救はんとせば、先づ尊皇の大義が、天下に講じられなければならぬ。
 『諸君と共に、茲に從事せん』と。國民の總てが、茲に心掛けなければならない。何人もが、尊皇の大義に覺醒し奮起しなければならないのである。

   七
 然るに尊皇の大義への覺醒、即ち天之御中主神より分化發展したる日本の日新、日新の維新は、常に魂の源に復ること、即ち古を省み神話に歸ることによりて成されるのである。故に尊皇の大義は、魂の復古であり、知識の復古である。然して今日の日本、殊に事新しき知識の中に、時代的新しき理念を求め、古を省みることに興味を有たざる現代の青年は、「尊皇の大義」、「魂の復古」などの言葉には、左程の感激も關心も湧かぬのではあるまいか。
 若し然りとせば、既に日本人的感激が、吾々の胸より失ひ去られたと言はなければならない。日本人的感激無き日本人、其れは餘りにも悲しき己を忘却したる姿であり、魂を失つた形態である。

   八
 然らば何物が、斯くせしめたか。其れには因つて來るべき原因がなければならない。即ち其の原因は、之を生み出したる日本、それ自身に在る。
 嘗て日本を最もよく知る外人として知られたる哲人ケーベル先生は、日本を愛するが故に、斯く嘆じて止まなかつたのである。即ち、
『純粹の日本が消えてなくなる日は、もう遠くあるまい。恐らく邊卑な漁村や、都會より遠く離れた田舍には、未だ純粹の日本が殘つて居るであらうが、やがて此の高貴なる日本の尊皇の精神が、俗惡なる西洋の物質文明に消えてなくなる日本は、もう遠くあるまい。』
と。又、
『日本の學者は、實によく外國のことを知つてゐる。然し日本自身のことに就ては、驚く程、何も知らない。』
と。此れが日本をよく知る一外人の見た、過去の日本である。

   九
 此の昨日より生れた今日の日本、そして其の中に育成せられた吾々自身のことを省みなければならない。小學校の時、修身の中に、西洋の引例の餘りにも多いのに、幼きながらも疑問と慷慨の念を禁じ得なかつた所の日本の血潮が、僅か數年を經て中學に進む頃には、日本の忠臣・歴史を硬きものとなし、日本の文字・雅樂を古きものとして省みず、好んで引例する處は、忠も義もなき西洋の英雄・偉人であり、博識として誇る處は、西洋文學であり、理解ありとして觀賞するものは、西洋の音樂・美術であつたのである。
 更に日本が、猶ほ今日、如何に眞の皇國體の姿を失ひたるものなるかを指摘するならば、何人も疑問なくして、資本主義を容認する現状であることである。資本主義、其れは飽く迄で唯物思想である。此の資本主義を以て、何の皇道の宣布ぞや。此の矛盾に立ちて、何の皇道による革新ぞや。寧ろ共産思想と全體國家主義とが、國體を他所にして相爭ふも、又た理の當然かも知れない。
 獨り斯かる彼等のみを、國體を危ふくする者として非難してよいであらうか。斯かる思想の發生し發展したることを思ふとき、國民の一人一人が、斯かる思想を發生し發展せしむるの温床ならざりしやを省みないでよいであらうか。斯く考へるとき、日本にして日本に非ざる混迷の姿、取りも直さず自分自身の姿に、無限に悲しみを感ずるのである。要は日本人が、日本人に非ざることである。

   十
 此の日本人が眞の日本人に非ず、日本が眞の日本の姿ならざること、是が皇國體の安危、日本の國難である。されば今日、國難を救はんとせば、吾々各自が、眞正の日本人に還らなければならない。今、直ちに還らなければならない。即ち尊皇の大義に徹底存立することが、目下の急務であり、他に何ものもないのである。

   十一
 更に又た次のことを知るとき、感なきを得ないのである。即ち今、幕末・明治維新を囘顧するとき、其處に尊皇攘夷を究明把握せる先覺者と、熱と意氣、唯だ先覺者の下に驀進したる志士・忠臣とを見出すのである。共に何れも身命を忘れ、有らん限りの力を盡したのである。そして維新、業なるの日、一は野に下り、一は顯要の官に昇つたのである。
 然るに彼等が眞の先覺者と同樣に、滅私、難に赴きては死するの精神を以て、よく維新の姿を成し遂げ、功あり才腕ありて、國家顯要の地位に昇り、必然的に國家を指導するの要路に當りたるも、慘なる哉、福澤諭吉如きものの唯物功利の暴言「楠公權助論」なる進學の書の十數萬部賣られたる、僅か明治の五年より、既にして維新の精神は失はれ、爾來、數十年來、尊皇の大義が沒却せられ、遂に今日、國難の生來せる胚胎が、彼等の指導政治、取りも直さず革新の情熱には燃ゆるも、義の徹底究明を缺きし彼等の精神の所産であることを思ふとき、此は單に大臣・大將の問題には非ずして、力の大小こそあれ、吾々自身も、又た一歩一歩、國に力あらんと生長しつつ力盡し行く、その吾人の力の中に、斯かる姿と類似するものなきやを省みなければならぬ。

   十二
 尊皇の大義を究明把握し、萬事が此處に出づるものに非ずして、單に形而上のものにのみ、眞面目に努力奮鬪なし行く人々こそ、國體の命脈に於て害ありて益なく、その放置と共に、刻一刻、深刻なるを思へば、正に等閑に附する能はざることである。
 吾人が何事かをなしたと言ふ。其の事自體には、必ず其の人、其の時の精神が生きて働いてゐる。
 其の後、人の心は善にも惡にも、如何樣に變るとも、一度過去のものとなりたる行爲事績の中に宿る精神は、永久にその儘ま變ることなく、默々として其の精神が、人の胸に私語き誘ひてゐるのである。たとへ無關心に遂げたる善績も、その内面に於て無關心なることを、世人の胸に妥協せしめるのである。正しき方向を知らずして、進む轍の跡に殘さるべきものに思ひを致すとき、慄然として心寒きものを感ずるのである。正しき方向、それは簡單なる形の上の問題ではなくして、考へれば考へる程、死に至るまで求めて止む能はざるもの、即ち魂の準據であり、尊皇の大義である。思ふに全力を盡さんとする人、即ち國に報い、一人の微力なりとも之を致さんとする人こそ、より尊皇の大義を究明し、國體の命脈に確立しなければならぬ。
 殊に陛下の御股肱として、國民第一等の盡力を爲さんとする吾人は、一刻一力と雖も、尊皇の大義に依らずして、茫漠として事をなしてはならない。即刻、此處に究明確立すべく努めなければならぬ。一刻もゆるがせにすべからざる、即刻の重大事である。即ち尊皇の大義に至ればよいと言ふに非ずして、唯一つ、何を措いても、今直ちに尊皇の大義を究明し、此處に總てが確立しなければならないのである。

   十三
 然らば如何にして、尊皇の大義に徹底すべきか。若し眞に此處に迄で思ひ到るならば、必ずや自ら求めて已まざるものがあるであらう。
 即ち第一に、皇國史中に悲壯の命を綴る幾多の尊皇の忠臣を想起し、彼等を凡ゆるものにより求めんとするであらう。然して此を助けて呉れるものが、讀書であり、師であり、友である。
 殊に環境の如何に拘らず、心さへあれば求め得るものは、讀書である。然して『風簷展書讀、古道照顔色』(愚案、文山文天祥『正氣之歌』。「風簷、書を展(の)べて讀めば、古道、顔色を照す」)、即ち史記忠烈の史を讀めば、自ずと忠臣志士を通じて、何物かの一貫して流るゝ命脈、即ち尊皇の大義を知り、更に此の命脈を考究する所、其の淵源を神話にまで溯上らざるを得ないであらう。
 此の知識の復古の中に、尊皇の大義の核心を悟り、此處に尊皇の大義が、吾々の魂であり至誠であることを確信するであらう。此處に湧立てる尊皇の大義、殉國の至誠、此を措いて國體の命脈を維持するものなく、國難を救ふの道はないのである。

   十四
 然らば此の至誠の道とは如何。思ふに至誠は、止むに已まれざるに至つて、始めて至誠である。尊皇憂國の至誠の發する所には、又た止むに已まれざる殉皇救國の至道あり。此の至道を眞に解するに至らば、乃ち爲すあるのみ。されば至誠の至道は、此處に未だ到達せざるものの察する能はざる所である。

   十五
 此處に注意すべき、二つの事柄がある。一は、己れ未だ至誠に發するに非ずして、此の至誠煥發の氣を衒ふことである。其は利己心以外の何物でもない。明らかに私心である。然して最も偉大なる利己心であり、害惡以外の何物でもない。飽く迄で至誠に發するのでなければならない。更に第二は、此の止むに已まれずして至道に發する至誠にまで、皆人もが到達すべく努力しなければならないことである。
 世人は往々察する能はざるを以て、中庸を逸したる危奇の所爲となすのである。例へば四十七士を違法なりと駁する學者、近くは又た五・一五を檢討せんとするに對する世人の警戒の如きである。此の誤謬を平泉先生は、次の一句を以て究明して居られるのである。即ち、
『法律以上に、國體の命脈なるものが存することを知らなければならぬ。』
と。此處にまで尊皇の大義を究明し、至誠を徹底し確立するに非ざれば、事を處する根本が曖昧して、之より生ずる一事が萬事、心を込めたる徹底を見ることが出來ないのである。總てが至誠に發する。天地震裂すとも動ぜず、俯仰天地に恥ぢざる自己本來の姿であらねばならぬ。天命を知る。其は此の境地に達したるときである。
 吾人がよく言ふ所の「自覺」とは、自己本然の姿を知ることであり、己の天命を知ることである。
『吾今爲國死、死不負君親。悠々天地事、鑑照在明神』(愚案、松陰先生『辭世』)
 此の覺悟、此の姿が、吉田松陰先生であり、又た眞の軍人・教育者・科學者・政治家でなければならぬ。
『士道莫大於義、義因勇行、勇因義長。』(愚案、松陰先生『士規七則』)
と。此の義は尊皇であり、勇は克己心である。即ち尊皇の至誠を發する所、己の天職を自覺し、一片の私なく、唯だ國あるのみ。天職、天皇の眞の御股肱を自覺するものの本分は、忠實なるを以て可となすものの、到底、及ぶべからざる所である。至誠一貫の努力、至誠の至道、常住たる殉皇は、吾人に遠きも、愈々尊皇の赤誠、熱烈に出づる眞劍味は、眞に有益なる有形無形の日本人としての、各自の有らん限りの力を盡すであらう。然して國難外患なりとせば、國を救ふに必要なる凡ゆる部門の國民の總力は、期せずして生み出されるであらう。又た内憂ありとせば、忽ちにして内憂は抹殺せられるであらう。

   十六
 國難、救はん。祖國の命脈を亡びさしてはならない。其の道は、唯だ一つ。今直ちに日本人が、日本人に歸ることである。先づ國民の一人々々が、心を盡し全力を傾注して、尊皇の日本人的感激を取戻すことである。
『國を思ひ寢られざる夜の霜の色 燈火寄せて見る劍かな』(愚案、橘曙覽先生の歌)
『命だに惜からなくに惜むべき ものあらめやは君が爲には』(愚案、佐久良東雄先生の歌)
『君が爲朝霜ふみて行く道は 尊とくうれしく悲しくありけり』(愚案、同右)
 此の感激なくしては、如何に道義を知るとも、殉皇の至道にまで至るべき尊皇の大義は感得せられないであらう。故に國難を救ふ者は、青年である。感激を知る青年の血潮に待たれる所以である。されば松陰先生は、
『諸子と茲に從事せん。』
と、國民全體に呼び掛けられたるも、その國家の力として、直接に對はれたるものは、血赤き青少年であつたのである。

   十七
 即ち尊皇の大義を究明し信念するは、血赤き青少年期を逸して後は、再びと能はざるが故である。全く私なき殉皇の精神の確立は、成人となりてよりは望むべくもないのである。
 成人して悟る所の信念は、結局、己に關する運命觀に過ぎないのである。古今東西の偉人英雄が、之を立證してゐるのである。義に就くの明確なる信念、それは今を逸して復たと得ることは出來ないのである。

   十八
 然らば如何にして、此の尊皇・殉皇の至誠を求めんや。師あり、友あり、讀者あり。
『風簷展書讀、古道照顔色。』
 其處に自ら吾人の魂を古道に見出し、魂の復古によつて、尊皇の大義は確信把握せられるであらう。
 然して後に、此の尊皇の大義・殉皇の至誠のもとに、國状を直視せば、
『民族亡ぶことあらば、國體と共に亡びん。』
の覺悟と共に、國民の凡ゆる部門に於ける總力が、期せずして國難の打開に發揮せられるであらう。
 此れが國民の魂であり、命である。

   十九
 然るに今日の氣風は、一人の松陰先生を生むはおろか、「尊皇の大義」なる言葉に對する言ひ知れぬ感激を、日本人の感激さへ失つて居るのである。此の時に當り、國民の思潮が、第二の松陰先生を生み出すに至らざれば、今日の國難は、更に一層の國難の一路を辿るであらう。
 然らば誰が松陰先生となるべきか。學者に非ず、教育家に非ず、吾々各自が、殊に御股肱たる軍人がならなければならないのである。

   二十
 最後に、松陰先生は言つて居られる。
『若し天下國家を以て己が任となさば、如何。先づ一心を正し、道の重きを思ひ、皇國の大義を思ひ、夷狄の禍を思ひ、事に就き類にふれ、相切磋考究し、死に至るまで、片言隻辭も、此の事を離るゝこと勿れ。』
と。吾人、如何。

   二十一
 更に大丈夫の憂國の情、義を求むるの志を鞭撻叱咤し、助長匡正して呉れるものは、友に勝るものがないのである。純一無雜の吾れは、己れ一人にても出來るであらう。然し純正無雜の吾れには、此の友を要するのである。
 尊皇即ち殉皇を志す吾人は、此の友なかるべからず。『士規七則』に曰く、
『讀書尚友、君子事也。』
『有志の士は、同志の友あり、同師の朋あり。』(愚案、松陰先生『講孟箚記』)
と。眞に同憂同患、有志の士、正學の同志なかるべからず。

   二十二
 最後に、己の尊皇の念々に發する姿と、唯だ己の仕事のみに全力を傾注する人の姿とが、形に於て、一見、何等變る所なきを以て、心すれば心する程、苦しき大義考究の志を、己の薄弱なる心、己の陷り易き慾心と妥協せしめざることである。尊皇の大義、殉皇の至誠、至道の究明は、吾人の爲さなければならぬ最大のことであり、須臾も放念してはならないことである。
 されば吾人は、絶大なる勇猛心を振起して、日夜、己の慾心と妥協せず、死に至るまで、尊皇の大義を考究し、一つの考、一つの行、總てが尊皇の至誠より發する如く、義を究明して、己の心と鬪はなければならない。
 國難を救ふは、尊皇の大義。風簷展書讀、古道照顔色。
     統宇(愚案、少佐の別號)」と。



 黒木慕楠少佐『國難を救ふ』全二十二章、敬書すること件の如し。


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