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神代、はるけき昔より、大和島根の益荒男が、靈と肉とを鍛へたる、雄々しき姿、相撲道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月21日(土)22時57分11秒
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  ■孝明天皇大御歌

照る影を ひら手に受けし 旭形 千代にかゞやく いさをなりけり



●武者成一翁『史談・土俵のうちそと』(平成十四年九月・雲母書房刊)

「角界の戰後の歩みをみても、人々の心の價値觀が變はつたやうに、大きく變はつてしまつた。相撲道を極めるといふやうな、古人の讚美した魂魄(「神代、はるけき昔より、大和島根の益荒男が、靈と肉とを鍛へたる、雄々しき姿、相撲道」)などは、今では人々の口の端にも上らず、只々力技の形骸のみ留めて、プロスポーツとして、觀賞の對象にのみ終始してゐるやうに思はれる。時の流れといふべきであらうか。この世相や風潮に反發するかの如く、十六年前、江馬盛氏は、力士・旭形龜太郎に、一片の紙碑(『諸國相撲帖』)を捧げて、相撲史上に、その丹心を留めんとされたのであらう。‥‥

 現在の相撲を生業としてゐる力士・協會には、歴史をたづねるといふ氣風の稀薄なことは、つとに識者の指摘するところである。また各地に遺されてゐる相撲の遺蹟なども、次第に損傷しつゝあつて、相撲協會に、何らかの處置を申し出ても、無い袖は振れぬと、一見、冷淡とも受け取られる態度が強いと仄聞する。相撲に關する文化財保存の責任は、協會には無い。一概に相撲協會の態度を責めるわけにはいかないであらう。よしんば假に實行するとしても、協會の財源にも限度があらうし、もし申し出の一つに答へれば、無數に存在するであらう他の文化的な遺産も、無視できなくなるおそれが生ずる。協會が、これらの問題には、自ら逃げ腰とならざるを得ないことは理解できる。

 しかし財團法人である協會が、その寄付行爲として掲げてゐる、相撲博物館の維持運營についての、更に付帶事業として、「相撲に關する主要な文化財の維持に關し助成する」くらゐの前向きの姿勢は、果して取り得ないであらうか。今日の相撲は、先人の築いた歴史的所産の上にあるに過ぎない。民族の傳統を傳へなければならないといふ觀點に立つて、協會が、その必要性を痛感し、やる氣を起せば、出來ぬ相談でもあるまい。

 たとへば本場所後、然るべき團體の協贊を得て、「古式相撲」を一日催して、收入をその基金とするなども、一つの方法であらう。私はそれによつて、玉鉾神社の維持を考へろとか、旭形龜太郎の顯彰碑を建てろとなど申す氣は、全くないが、當世角界で生活を營む人々は、興行にのみ走るだけでなく、もつと歴史を大切にし、先人の偉業を忘れるな、そして後世に傳へてもらひたいと叫びたくなるのである」と。



 はゆまつかひ樣から紹介された、武者成一翁『土俵のうちそと』は、四百頁に埀んとする力作であつて、目次を見るだけでも興味が盡きない。早速、取寄せて、其の一篇「旭形龜太郎の業績を偲ぶ──相撲史外傳」を讀み畢ぬ。塾頭も、『靖國神社の眞實』に於て、大相撲の土俵の事を述べられてゐたことが懷しい。然もあらばあれ、此の大相撲協會であれば、吉田司家に醜聞があつたとは云へ、之を扶けて傳統を護持することなど、努にも思はぬのであらう(吉田長孝氏『原點に還れ──國技相撲廢止の危機を突破した男・吉田司家二十三世追風吉田善門』(平成二十二年九月・熊本出版文化會館刊)。

 旭形龜太郎翁は、幕末、勤王の同志を集めて「力士隊」を組織し、宮中守衞に當らんと出願し、文久三年正月、勅許を得、其の總指揮官となつて、日夜宮中を奉仕、元治元年七月十九日の蛤御門の變は、『このとき、君は藩兵に加はり、各所に連戰し、またその際、特に宮中に召され、錦旗を守衞し、かたはら玉座の守備を命ぜらる』(小傳『照日の影』)。戊辰の變では、薩藩の猛將伊地知正治に從ひ、本宮詰めとして砲隊に屬して奮戰、身に數彈を浴びるも屈せず、偉功を樹つ。また征討將軍仁和寺宮嘉彰親王殿下に從つて、錦旗を護衞し、御親征として大阪行幸に際しては、鳳輦の供奉となり、海軍總督の横須賀への出陣には、大總督付となる。

 天恩を蒙り、御下賜品を賜ること度々にして、明治二十六年に、伊勢神宮の鹿島大宮司より、「孝明天皇御正體・玉鉾大神」てふ神號を拜戴して、獨力にて、三十二年十二月、愛知縣知多郡武豐町郊外の六貫山に、一萬九千坪の御用地、三千二百三十七坪の境内を擁し、熱田神宮を模し奉つた、壯嚴なる無格社・玉鉾神社(境内入口標柱には、「御祭神孝明天皇・玉鉾神宮」)を創祀した。旭形翁は、自ら刻苦勉勵、國學を修め、三十三年一月、神職に補せられ、元帥陸軍大將小松宮彰仁親王殿下の御參拜を仰ぐに至る。然し昭和三十四年九月の伊勢灣颱風により、今は僅かに其の形骸を殘すのみとなつてゐる。
 
 
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