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高山赤城先生五世孫・高山正行翁の祈願行軍。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月12日(月)19時17分28秒
  通報 返信・引用 編集済
   興味深き記事を入手したので、紹介したい。但し文屋の此の記事は、揶揄か、愉快ならざる字面もあるが、御容赦を乞ふ。然し此の祈願行軍、たしか昨今‥‥身近で經驗したやうな、無いやうな‥‥(苦笑)。懷しいなあ‥‥。


**********


●昭和十三年六月二十日『河北新報』

熱血たぎる風來坊
全國神社佛閣に祈願行脚の
彦九郎五世の孫來訪


【仙臺】寛政三奇人の一人、勤王の志士・高山彦九郎の五世の孫が、仙臺にヒヨツコリ出現した。然も仙臺が産んだ「世紀の先驅者」で、同じ三奇人の一人であつた、林子平の第百四十六年祭が、明廿一日、仙臺市伊勢堂下の菩提寺・龍雲院で、盛大に擧行されやうとしてゐる矢先である。幾星霜を隔てゝ、淺からぬ因縁話と一笑し去るには、餘りにも美はしい人情奇譚である。

淺からぬ奇人の縁
三條の橋を思はす
敬虔、奉安殿傍の野營
既に足跡を印す三千社


 昨十九日午前六時ころ、仙臺市北山・輪王寺に、奇人が訪れた。十貫目もあらうと見受けられるカーキ色のリユツクサツクを背負ひ、「國威宣揚・武運長久・勝戰祈願」と書き込んだ日章旗を手にした國防色の郷軍姿‥‥漆黒なアゴひげをしごく風情は、正しく奇人であつた。然し何所やら、凛とした氣骨と人品とを感じた龍雲寺住職・河合文應師(輪王寺滯在)が、茶を招じて懇談すると、その怪異な風來坊こそは、彦九郎五世の孫で、彦九郎の住居であつた群馬縣新田郷澤野村細谷在に、今もなほ居住してゐる、高山正行氏(三十九)、その人であつたのだ。林子平の墓參をすべく、豫ての知己であつた輪王寺住職・福定無外和尚を訪ねたものであつたといふ。

  ◇

 奇人の血は爭はれない‥‥?、五世の孫たる正行氏は、今、全國の神社佛閣を徒歩行脚で巡囘して、出征軍人の武運長久を祈願する一方、陸軍病院の戰傷病兵を慰問し、勤王志士の墓參をやつて來たもの、仙臺出現は、北海道への途中であつたといふ。

  ◇

 この徒歩祈願行脚を思ひ立つたのは、昨年十一月十二日だといふ。今事變で召集されたのであつたが、無念にも即日歸郷の身となつたからだといふから、奇異である。

  ◇

 昨年十一月二十四日朝、明治神宮を出發して、鹿兒島から櫻島に渡り、山上に三丈四方の大日章旗を樹て、歸路、郷里に立寄つた上、東北々海道に向けて、遙々と行脚し來つたものだ。
「祈願した神社は、三千社はくだるまいよ。歩いた距離、かつて‥‥?、二千五、六百里はあるだらうなあ」
と語りながら、各地神社と印判帳や行脚證明書、各地名士の署名した武運長久祈願の日章旗が六枚。後から後から「高山正行、ルンペンに非ず」の證明書類が、續々と飛び出すのである。リユツクサツクには、毎夜、小學校御眞影奉安殿傍らに露營するに必要なテントや、炊事用七ツ道具・米・味噌の類が、ギツシリ一杯だ。

子平祭逮夜のけふ行脚談

 林子平の第百四十六年祭は、明二十一日午後二時から、龍雲院で執行されるが、正行氏は、お逮夜の今二十日夜は、特に参席者に行脚談と講演を行ふことになつた。明二十一日も同樣、講演の筈で、昨十九日は、まづ林子平の墓に詣でた後、故相澤中佐の靈を慰め、午後から瑞巖寺に赴いた。

 因みに同氏は、彦九郎正之、次いで儀助正春、石九郎正風、守四郎正隆と、その後をつぐ五代目である。


**********


●般庵野間光辰翁『日本の旅人・高山彦九郎──京都日記』(昭和四十九年十月・淡交社刊)

「高良内町に、森輝夫氏を訪ねる。‥‥森嘉膳以來、祕襲する遺品の數々を拜見することが出來た。‥‥森氏方にて、私は一つの新しい發見をした。それは彦九郎四代の孫・守四郎と五代の孫・正行の寫眞が、關睡峒寫すところの彦九郎の面貌(「高山彦九郎正之先生肖像」。睡峒は、赤城先生と親交ありし伊勢崎藩家老──立原翠軒翁が、戲れに「活ける雲長」と稱した程、晩年の赤城先生の一枚看板の由)に依稀寫(いきうつ)しであるといふことであつた。‥‥

 正行は、高山家最後の人、終生娶らず、戰後、大阪府堺市にて客死せし由である」と。
 
 
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