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語彙「報國」の眞義は、後醍醐天皇の大御心に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 4月11日(土)01時39分17秒
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   日本學協會『日本』では、平泉澄博士の令孫・平泉隆房博士による、『寒林夜話──祖父平泉澄との對話』が連載されてをり、いつも樂しみに拜讀してゐる。



●平泉隆房博士『寒林夜話──祖父平泉澄との對話──二十二』(『日本』平成二十七年四月號)に曰く、

「後醍醐天皇宸筆であることが確實な消息(仁和寺所藏宸翰の御消息)に、「可爲報國之忠候歟」と見えてゐることは重要であり、直ちに連想されることがある。『伯耆卷』に見える、後醍醐天皇が名和長年に賜つた感状に、「以正直報國トシテ」といふ一文が見えることから、これが後醍醐天皇による感状であることを論證した、次の部分である。昭和五十四年の崎門祭の折にも言及してゐる(愚云、小生も參加を許されて、拜聽せり)が、こゝには、『名和世家』によつて示さう。

「ところがこゝに、どうしても[『伯耆卷』が]後世のものではあり得ない、強い證據がある。それは終の方にある、「以正直報國トシテ」といふ文である‥‥その「正直を以て、報國として」とつゞけてあるが、これは、後世では絶對に云へないところである。「報國」といふ語は、第二次世界大戰中、隨所に用ゐられた語で、産業報國會、商業報國會を始め、何々報國會といふもの、天下に林立し、充滿してゐたが、それは大戰の以前にも無かつたし、以後にも無い、特殊の流行であつた。それを考へるならば、一つの言葉によつて時代をとらへる事の可能を、理解し得るであらう。私は大戰中の、あの「報國」の流行が、誰人の發意にもとづくものであるかを知らない。しかし此の「報國」といふ語が、最も嚴肅に唱道せられたのは、建武の中興の際であつた事を學び得てゐるのである。

 たとへば北畠親房の『神皇正統記』に、村上源氏について、「それより此方、和漢の稽古を宗とし、報國の忠節を前とする誠あるに依りてや、此の一流のみ絶えずして、十餘代に及べり」とある如き、その一例である。そしてこの語は、北畠親房等、後醍醐天皇の重臣の用ふるところであつたばかりでなく、實に天皇御みづから用ゐさせ給ふところであつた。即ち仁和寺所藏宸翰の御消息に、「兩事不闕如之樣、計沙汰候者、可爲報國之忠候歟」と見えてゐるのである。而して私の寡聞なる、此の語が、室町時代に於いて用ゐられた例を、一向に知らない。若し私の寡聞を以て論斷する事を許されるならば、私は、此の「正直を以て、報國として」といふ文によつて、彼の御感状が、正しく後醍醐天皇の宸筆にかゝるものであつて、斷じて後世の僞作でない事を強調したいと思ふ。」

 ‥‥『仁和寺文書』と『伯耆卷』から、「報國」・「報國之忠」といふ語が浮かび上がつてき、後醍醐天皇周邊で用ゐられてゐたことが明らかになつてくるのである。今日では、『鎌倉遺文』を檢索にかけて、「報國」といふ語が、鎌倉期にどのやうに使用されてゐたかを、容易に知ることができ、鎌倉期にも若干の例があることも判明する。後醍醐天皇や、その周邊だけに限定することは無理としても、天皇が好んでこの語を用ゐられたことは、以上の諸點からも確實であらう。

 さて、大楠公の湊川における最期は、『太平記』に記され、後世に大きな影響を與へた。足利氏の大軍を前にして、衆寡敵せず、いよゝゝ刺し違へるに際して、大楠公と舍弟・正季公との間で、次のやうな會話がなされたと、『太平記』は記してゐる。

大楠公「そもゝゝ最後の一念に依つて、善惡の生を引く、といへり。九界の間に、何か御邊[ごへん]の願なる」
正季公「七生まで、只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ、存じ候へ」
大楠公「罪業深き惡念なれ共、我も加樣に思ふ也。いざさらば、同じく生を替へて、此の本懷を達せん」

 これは、戰前・戰中までの教育の中では、「七生報國」といふ言葉でもつて、日本人の鑑、日本精神の神髓とされてきた。幕末の志士達は、大楠公を篤く崇敬し、この精神でもつて、討幕運動に挺身し、遂に明治維新を成就したのであつた。しかしその一方で、早くも明治初年には、福澤諭吉のやうに、楠公の行動を批判的にとらへる人もあつたし、戰後はことさらに無視したり、この『太平記』の記事についても、大楠公は、「七生報國」など唱へてをらず、「七生滅賊」と言つたのである、といつた研究も、また少なくないのである。

 果してさあであらうか。既に見てきたやうに、後醍醐天皇周邊で、「報國」といふ語が用ゐられてゐたことは明らかで、『太平記』作者の何人であるかは、依然不明であるとしても[周知のやうに、「宮方深重の者」であることは言へるが、『太平記』全體にわたつて、足利氏による改竄がなされてゐる]、大楠公の行爲を、「七生報國」の語で表現して、何ら問題ないものと思ふ。平泉澄「歴史に於ける實と眞」を持ち出すまでもなく、『太平記』の記事をもとに、討死に際しての、大楠公の心情を表現するのに、「七生報國」といふ語を使用することは、當時の用例に即して、極めて適切であつて、むしろ「七生滅賊」の方が、『太平記』の字句に、餘りにも拘泥し過ぎた議論なのではなからうか」と。



 愚案、「大楠公は、「七生報國」など唱へてをらず、「七生滅賊」と言つたのである、といつた研究も、また少なくない」由、其の「研究」とやらの趣旨が判らぬが、若し「滅賊」が「報國」に非ずと云ふのなら、世の中、閑人も存在するのであらう。建武の「中興」、即ち天皇「親政」を喜ばず、事もあらうに「新政」なぞど誤魔化して(たとひ畏き邊りの文字であるとしても)、得意になつてをるさうだから、今時の學者も、出世の爲めに大變なのであらう。想起するは、赤縣(支那)を「中國」と呼ばねば、此の學界から追放される由、これまた御苦勞なことであります。

 後醍醐天皇宸筆の特色は、其の文末に、「‥‥であるぞ」の「矣」と書かせ給ふに在り。當時一般の用例と大きく異なり、國民に對して、嚴訓を埀らせ給ふなり。建武の中興こそは、當に國史の樞軸と謂はねばならぬ。また「報國」の御字は、「報國之忠」、即ち天子樣への忠節を申し上げ、一般抽象的觀念の、單なる國に報いる底の謂ひでは無い。天皇陛下の詔敕であつても、私見を以て、皇祖皇宗の大御心に非ざれば、之を奉戴せぬてふ自稱保守が跋扈する始末を見るたびに、國體の明徴を叫ばねば、吾人の腹悶、允に醫し難いのである。若し諫め奉るなら、必死を以て申し上ぐるを當然と爲す。然らずして敢へて喧傳するは、論者の私欲のみ而已矣。愼しまざる可からず。

 而して其の諫死も、御嘉納あそばし給ふや否やは、大御心次第であります。昨今も、御採用ならずば、吉野の山中に隱れると言ひ放つた東大名譽教授も居たが、屹度、探し出して討伐せねば、皇民の道、全からず、決して許す可からざるなり。



追補。

●平泉隆房博士『祖父平泉澄の家風と神道思想』(日本學協會『藝林』平成二十七年四月・藝林會刊)に曰く、

「この「正直を以て、報國として」とは、譯すと、「生まれた時の清い心そのまゝに、國のために盡くし」といつた意味である。正直とは、のちには「素直で正しいこと、嘘をつかないこと」といふ、今日でも廣く用ゐられてゐる意味合ひとなつたが、當時は「持つて生まれた清い心を、僞り損なふことなかれ」といふ、八幡信仰や伊勢神道で重視された徳目の意味であつて、北畠親房を通して、後醍醐天皇周邊でも、そのやうに用ゐられてゐたと見なして良い。日本人が持つべき心や誠をもつて、國のために盡くす、この點こそは、祖父が生涯をかけて追ひ求めてきた神道精神の核心部分であらう。

 そして「正直を以て、報國として」といふ、建武中興時の精神は、その後忘れられていつたが、幕末には一氣に高揚したことを、「報國」の精神氣概を詠み込んだ和歌をもつて論證することにつとめた。橘曙覽と佐久良東雄のものを、祖父が拔き書きしてをり、‥‥祖父が何に注目したかは明瞭である。

「橘曙覽
皇國の みためをはかる 外に何 する事ありて 世の中に立つ
[「皇國」が生活原理であり、生き甲斐である事、以て知るべし]
潔き 神の國風 けかさしと 心碎くが 神國の人
天皇に 身もたな知らず 眞心を つくしまつるか 吾が國の道

 佐久良東雄
大王に まつろふこゝろ なき人は なにをたのしと 生きてあるらむ
天皇に つかへまつれと われを生みし 吾がたらちねぞ たふとかりける
日の本の やまとの國の 主におはす わがおほきみの 都はこゝか
いのちだに をしからなくに をしむべき ものあらめやは きみがためには
一筋に 君に仕へて 永き世の 人の鑑と 人はなるべし
あなこしこ たふとき國に あれいでて うきよとなげく 人のこゝろは」

 祖父の好んだ先人の和歌が數十首あつて、なかでも好んだものゝ一つが、こゝにも見える橘曙覽の、「皇國の‥‥」であつたやうに思はれる。このやうに、最晩年まで、「報國」・「皇國」といふものを問題とし、國家護持の精神を堅持して、その意味を問ひ續けた」と。
 
 
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