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日本國總理大臣のあるべき姿への第一歩‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 3月30日(月)23時51分39秒
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  ■荒魂之會『あらたま』第七十六號(平成二十五年十二月刊)の「討論・皇室の和歌、武家の和歌」(平成二十五年四月七日)より

加藤征司 天皇陛下の御田植と皇后陛下の御養蠶とは、私は田舍の出ですから、特に感慨が深いのですけれども、小石丸も、御蠶さんは氣難しくて、繭にする迄が、大變らしいんですね。もう止めてしまはうかといふ聲が出た時に、皇后陛下が、今迄苦勞して來たのだから、もう少し遣つてみようと勵まされて、やつと巧く行つた所に、正倉院から小石丸の絲がないと、直せない物があつて、實は困つてゐるといふ御話が屆いて、正倉院の絹の修理が巧く行つたといふ、洵に目出たい話があるのですね。千三百年、敕封で護られて來た正倉院の貴重な品が蘇つたといふ、非常に感動的な話ですね。

駒井鐵平 正倉院の敕封によつて護られて來た品々、それと同じやうに、‥‥和歌の歴史が、其の儘、我々の目と耳とで、直接千年二千年の傳統、今此處に在りといふ體驗をさせて貰へるといふ、絶好の機會を逸してゐる事に就て、凡そ頭を使ふ事が無いのが、歴代の總理です。歌會始の御儀に出席した總理といふのは、近年、誰も居ない。今年も居ない。我々だけが騒ぐけれども、總理大臣が歌會始の御儀に出ないで、外國に行つて居たり、何處ぞの御茶會の席には出てゐたりとか、それを誰も、をかしいとは思はない中で、兩陛下が一所懸命に御歌を作つていらつしやる、といふ風に思はざるを得ないのは、悲しい事ではないかと思ひます。歌は‥‥先づ耳で聞いて、同じものを自分の口に乘せて、初めて體驗出來る。萬葉集以來の傳統中の傳統を、直に體驗出來る絶好の機會を失つてゐる事に就て、誰もをかしいとは思はない、といふ事ですね。御製・御歌は、正月の元旦の新聞には、先づ出ます。‥‥首都圏六紙のどの新聞にも、歌會始の御儀を報ずる記事で、今年も、總理大臣の出席が見られない、と記したものはない。をかしい、といふのは、我々だけです。

土田龍太郎 さうしますと、話は、國民教育はどうあるべきか、といふ事になりますね。といふ事は、皇室の尊嚴に關する色んな事柄、歌會始に就ての事柄を、小學校・中學校の教育の、どの授業で纏めて教へて行くべきか、といふ話になる譯です。其の根幹が、今は無い。其處を何とかすれば、多少は違つて來るだらうと思ひますね。

駒井 其の枠組以前に、和歌の姿、其のものが教へられてゐない。正月になると、日本中の學校で、必ず百人一首を遣ると言へば、自ら手に取る者が出て來るけれども、そんな話は聞いた事がないでせう。

小澤泰裕 小學校に、百人一首を復活させたいですね。和歌を覺えさせるのに。

加藤・御製や御歌を、何らかの形で教へれば、先程觸れた宮中祭祀に就ての理解も深まるといふ事ですね。一番大切な事ですね。

小澤 古い言葉も使つてゐますから、これは何だらうなんて、調べたりしますね。

駒井 子供は調べるのが好きなんだからね。一寸、ヒントを與へれば、何でもかんでも遣りますよ。

土田 天智天皇の御製から始まり、順徳院の御製で終る所に、深い意味があるといふ事はね、夙に契沖が言つてゐる事ですね。隨つて百人一首に親しめば、御製にも親しむ事になる。

小澤 古い言葉と言へば、平成十九年の「大雪」の御製に、「事故多きを憂ふ」とありますが、一寸、宇野精一先生の事を思ひ出しました。宇野先生に、正假名遣では、「憂ふ」と書いて、「うりよう」と讀むと、論語講座で習つた記憶があるんですよ。現代假名遣で「憂う」と書いて、「うりよう」なんて讀む者は居ないだらう、昔の發音が、現代假名遣で失はれたのではないでせうか。
‥‥
小澤 小學校の教科書を、戰前のに戻したら、どうでせうかね。質が良くなるんぢやないかと思ひます。

駒井 それが簡單に行かない。それに持つて行く爲には、兎に角、騒ぐだけは騒ぐしかないでせうねえ。
‥‥
駒井 結論は、唯一つなんですよ。突破口はね。それは、新年の歌會始御儀に總理大臣が出席をして、次の日に記者會見をして、如何に感激をしたかを披露する。そしてそれが、世の話題になるかどうか。それが無い限り、幾等學校で遣つても、駄目なんです。總理大臣が考へるのは、經濟の事だけでせう。儲かるか、儲からないか、そんな事ばかり言つてゐる。總理大臣は、アメリカの大統領とは違ふ、イギリスの首相とも違ふ。御儀に出席して、傳統を體驗してゐる姿を、自らの口を以て、國民に感激を與へる、それが無い限り、駄目ですね。

土田 全く其の通りだと思ひますね。何を遣るにも、勉強が必要です。良い和歌を詠まうと思つたら、それなりの勉強をしないといけないし、さういふ教育を、何とか子供にしないといけない。



 いつもの如く、岡山縣愛國者協議會主宰の岡田則夫翁の、三月第一土曜日の勉強會に於いて御紹介された文章から‥‥。平成の御代の宮中歌會始御儀は、平成三年に始まり、本年平成二十七年で二十五囘である。平成三年の海部俊樹に始まり、本年平成二十七年の安倍晉三に至る十五名の首相の中で、歌會始御儀の陪聽の席に列つた者は、一人もゐない。

 蓋し安倍首相も、御儀出席よりも、自らスポーツジムに通ふ(平成二十六年)を優先するもの、日本中興を期待する方が、土臺、無理である。一葉の落つるを見て、天下の秋を察するに足り、一斑を見て全豹を卜するに足れり。期待する者は、洋魂夷腹の自稱保守のみ而已矣。件の駒井鐵平翁の痛切なる歎き、之に共鳴し、之を憤慨するものである。荒魂之會と共に、蟷螂の斧と知りながら、大いに騒ぎたい。
 
 
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