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天皇大權──靖國神社行幸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月10日(水)22時58分27秒
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  ●泉水隆一翁『九段塾塾頭最終講義』に曰く、

「戦後、日本国の象徴となった天皇ではあるが、その全てに奪われた天皇大権の中で、唯一、継承されているものがある。ほとんどの人が気づいていないだろうと思います。実は天皇が、靖國神社に行幸(親拝。愚案、敕使御差遣も、御親拜に同じなる可し)すると云う事実、このことが天皇の大権にあること。即ち靖國神社の祭祀は、天皇に帰一すると云うこと。天皇御一人の祭祀。それが天皇の皇軍将兵を祀る靖國神社の本質であるとも云えるのです(愚案、現状に於いて繼承される天皇大權は、此の祭祀大權に加ふるに、元號大權──瀧川政次郎博士の説──あり)。天皇の臣民である忠烈無比の皇国軍人・盡忠の国民を祀る靖國神社への参拝(行幸)とは何か。それはまさに大元帥陛下としての機能を果たすためでもあり、天皇の治める國、即ち食国(おすくに)の政事を自ら執り行う歴代天皇と変わらず、現在もなお此の国が安国であることをしろしめす為であり、また神々(皇祖皇宗)に、御自らの赤誠を示すためでもあるのです。

 戦後、生きて戦陣から還って来た戦友さんたちが、靖國神社への天皇陛下の行幸――親拝を、心からお待ち申し上げたのは、それは大元帥陛下としての御姿を、此の目で、しかと見たかったからです。戦前に賀茂宮司が、鎮座五十年祭時に、天皇行幸をお願いし、それがお認めになられ、大正天皇行幸が叶った時、賀茂宮司を多くの軍人たちが胴上げして、喜びを顕わしたエピソードが残されています。ひところ、総理大臣の参拝が騒がれたが、天皇が靖國神社に参拝(行幸)するのは、国民の一人である総理大臣が参拝するのとは、わけが違うのです。勅使に御幣帛を持たせ差遣わすのも、天皇自らが行幸するのも、この九段の杜に祀られる二百四十六万六千余柱の神霊が、皆、皇基を支え奉った国民――臣民の忠義忠魂であることをお認めになり、そのいさおし(武勲)を照覧し、現在も、君の為、国の御為に、仕え奉っていることを確認することで、皇祖皇宗・天神神祇に、此の国が安国としろしめすことに他ならないのです。これが天皇の祭祀の意味です。靖國の祭祀を正統に継続・継承することで、天皇はただただひたすらに此の国が安国であることをしろしめすことが出来るのです。英霊が、此の国を守護奉っているのです(昭和天皇は、「勅使」を差し遣わされている。今上陛下も変わらず、「御勅使」を差し向けられている。『天皇御親拝』はされているのだ)。

 靖國に祀られる神霊は、「国家の生命に、己の生命を継ぎ足(た)して来た」脈々の事歴(賀茂百樹宮司『靖國神社忠魂史』の「刊行に際して」──陸海軍大臣官房監修『靖國神社忠魂史』第一卷・昭和十年九月刊)が存するのです。海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、戦いの庭に出で、奮闘し末に、あるいは痛手負いつ命を果てた、我らが先人が祀られています。この、殉義死節の精神を涵養せしめ、拡充して、国民に振作し、教化する。国民は、頭を垂れることで、神前に誓うことで、祭神の神威に触れ、臣民の忠節を興し、進んで國を守護する生命を引き出す。そのことが、国家の安泰を磐石とする。このことのために、靖國神社は護国の祭祠として、天皇の大命により創建せられた、即ち天皇の神社といわれる由縁であるのです(靖國神社の『正統』とは、即ち尊皇。『草莽』とは、勤王を表す言葉)」と。



【靖國神社に於ける第一番・最古の祭神「稻次因幡正訓」大人之命】

 又た曰く、「九州筑後の久留米藩家老・稲次因幡正訓は、藩校「修道館」出身で、水戸学の後継者とも呼ばれた勤皇家・真木和泉などと志を共にし、その地位から押されて、尊皇攘夷派の首領になり、藩政改革を画策、労したが、久留米藩は、もとも徳川恩顧の意識が強い所。稲次の動きは、藩主流の佐幕派家老・吉田監物の目に余るものとなり、嘉永五年には、遂に「父祖以来の恩顧を忘れ、異論を抱いて藩政を擾乱するものである」との無期刑の咎を受け、嘉永六年、有馬右近の邸に幽閉された。若くして家老脇となり、尊皇攘夷を唱う稲次は、ペリー来航から起こり得る先々国事の多難を憂い、時運に合わぬ我が身を憤怒するあまり、その沸騰する己の感情をもって、遂に自刃して相果てた。これぞ、まさに憂国勤皇の「我が国士」の始まりであった。靖國神社に祀られる祭神の死亡年次より合祀せらるる、まず第一番、最初の人である。

久留米藩     嘉永六年十二月三日
有馬右近邸 家老 稲次因幡正訓 二十五歳

 嘉永六年の祭神は、稲次正訓命、ただ一柱なり」と。



 愚案、天皇陛下の、靖國神社行幸(御親拜)を請願し奉る方々が居ることに、長い間、疑念を存して、或は不敬なり、敕使を何だと心得るか、大權干犯に非ざるやと、獨り懊惱してゐたが、塾頭の出現して、其の言靈を聞くや、吾れ孤ならずと、心強く思つた次第であつた。松平永芳宮司は、「私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしない」(『讓ることのできない傳統の一脈』)方針は、其の深意を探求されることなく、完全に無視され續けてゐる。倨傲なる國民は、祭祀大權にも容喙するに至りしか。恐懼、措く可からず。嗚呼、‥‥。

 稻次因幡正訓大人は、『大日本人名辭書』及び補遺・『殉難稿録』に載せざる所、小生の無學なる、塾頭遺文にて初めて知りぬ。稻次正訓大人につき、博雅有志の教示を俟つと云爾。
 
 
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