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皇國の道義──先哲遺文に學びて。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 8月 1日(日)22時53分4秒
返信・引用 編集済
   酷暑夏眠中なりと雖も、下記の二篇は、平泉寒林先生に導かれつゝ、愚生が「皇國の道義」實踐の爲めの道の骨隨として、獨り信じて寶藏覺悟する所、有志閑暇に御一覽たまはれば、幸甚であります。



皇國の道義──先哲遺文
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1665



●續先哲遺文──叡慮改まり候ふ共、其の改め給ひし新たなる叡慮に隨ひ候はゞ、道義に於いて、何の不可あらんや哉。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2324
 
 

吉備國の政治家の名譽囘復。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 6月25日(金)09時36分56秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 備中の加藤勝信てふ幕府の奸漢の發言を聞き、備前の逢澤一郎の携帶騒動を思ひ出す。逢澤某は、騒動の後の五月十五日、犬養木堂翁の記念館にも來てをり、復たもや携帶を操つてゐたな。吉備國の耻知らずの雙壁、吉備の先人に對して、何とせう。

 美作の平沼機外翁ならば、彈正臺にて「不敬罪」の鐵槌を、備中の犬養木堂翁ならば、議場にて南北正閏の時の如く、舌鋒鋭く「彈劾倒閣」を企つるに相違ない。尊皇あつき吉備國の政治家は、此の傲岸無禮なる奴輩を、斷じて容赦すること能はぬ。

 天皇大權の御發動を阻む勢力は、打つて粉にせむ。「非理法權天」、天皇陛下は、固より法に超然たり。憲法・法律なんぞ、平成御讓位の先例これあり、大權の前には、塵芥の如し。皇民は、當に脊梁骨を建つべし矣。
  ↓↓↓↓↓
【非理法權天】
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/383

 岡山縣選出の加藤某は、平沼機外・犬養木堂兩翁を仰ぎ、謹愼これ力め、之に學ばねばならぬ。十數年前の舊稿なるも掲載して、吉備國の政治家の名譽を囘復せむと欲するも、亦た宜しからずや。


**********


■樞密院議長・機外平沼騏一郎男爵の氣骨

 明治の精神・氣魄・氣骨につき、紹介の筆を執らせて戴き度く存じます。

 平沼機外男は、法學博士。檢事局が政治家から煙たがられるやうになつた嚆矢である日糖事件に於て活躍(妥協を許さぬ捜査官である平沼鬼檢事が側に來ると、脛に傷を持つ政治家は、思はず首が竦んだと云ふ)、その後、シーメンス事件・大逆事件・大津事件等、重大事件を指揮、含雪山縣有朋公とも遣り合ひ、一歩も引かなかつたと傳へられる。口癖は「禮儀を忘れた國は、必ず滅びる」。檢事總長・大審院長・司法大臣・内務大臣・樞密院議長・内閣總理大臣を歴任。現在、治安維持法の考案者として、人氣、頗る惡いと云はうか、無視されてゐる方にして、小生の景仰する先人であります。

 どうも小生の志向は、評判の惡い人ばかりを好む癖があるやうです。本道に困つたもんです。然し此に書かせて戴けることに、心から感謝いたしてをります。



●『政治と人と』上(昭和五十四年一月・山陽新聞社刊)の「平沼騏一郎」に曰く、

「平沼の“共産主義ぎらひ”は有名。大正十四年、治安維持法と普通選擧法が抱き合はせで公布されるが、その直前のことだ。普選法に奔走してゐた犬養木堂(毅)が、平沼のところにやつてくる。平沼が反對すると思つたからだ。平沼はこの當時、樞密院にゐたものの、依然、司法界の重鎭。治安維持法を考へたのも、平沼だつた。平沼は犬養にいふ。「同意してやるが、共産黨の結社を禁ずる法律を出す。贊成するか」。犬養はうなづいた。この岡山縣同士の“大取引”で、兩法は制定されるのだつた。

 治安維持法は、平沼にすれば“赤化思想”の防止のためだつたが、のち“彈壓法”として亂用されることになる。共産主義を敵視する平沼の思想・行動は、戰後、ソ聯からきびしく追及される。だが平沼の信念はかはらない。A級戰犯(愚案、ママ、直譯はA種戰犯容疑者。即ち昭和殉難者)として、東京西大久保の自宅で、ソ聯の檢察官の取り調べをうけた時だ。「あなたは、今後責任ある地位についた場合、共産黨に彈壓を加へるか」。平沼はきつぱり答へる。「もちろん、彈壓します。共産主義は、わが國體に反するからです」。當時、米國などから、「平沼は非戰論者で、戰犯ではない」とする主張も出たが、この時の言葉がたゝり、二十一年四月、巣鴨拘置所へ。ソ聯檢察官の尋問に立ち會つた平沼節子(兄の早稻田大学長・鶴峰平沼淑郎博士の孫、即ち平沼赳夫代議士の母)は、「妥協するやうなことは全然いはず、終始毅然とした態度で、“勝つても負けても、貴國とは思想的に相容れない”などと言ひ續けた。ソ聯の係官は丁重でしたが、よほど心證を害したのでせう、憤然として歸つた。それから一週間ほどして、巣鴨に連れて行かれた」と語る‥‥。

 (極東國際軍事裁判の)判決の朝に行はれた家族面會で、東條(英機)は、平沼節子ら平沼の身内に、「どういふ判決かわからない。十中八九、死刑だらう。ご老體(平沼)をかういふ目にあはせて、誠に申しわけない」と、金網ごしに靜かに頭を下げたといふ。この裁判では、平沼は、「勝者が裁く限り、何を言つても無駄」と、沈默を守る‥‥。

 平沼は山縣有朋・桂太郎らの實力者には頼りにされたが、西園寺公望には非常に嫌はれた。西園寺は、「平沼は神樣などのことをいふ迷信家」といひ、平沼も、「西園寺は西洋何でもいい主義の新しがり屋」と毛嫌ひ。西園寺は亡くなるまで、天皇の諮問機關として君臨したが、平沼が首相になる時も反對してをり、平沼が、昭和の初めから“首相候補”に擧げられながら、なかゝゝなれなかつたのは、西園寺のためだつたといはれる。‥‥

 平沼節子は、「(兄淑郎は)‥‥話もおもしろく、豪放磊落な人だつた。それに比べ、騏一郎は思ひやりがあつたが、お茶のほしい時でも、お茶碗を見るだけといつた調子。政治家としては、淑郎の方が向いてゐたと思ふ」と、語つてゐる」と。



●『平沼騏一郎囘顧録』(昭和三十年八月・學陽書房刊)に曰く、

「天皇を機關などと唱へる(美濃部達吉學説)のは、亂臣亂賊だ。天皇は統治の主體。機關などといへば、主體ではない。そんな議論は、日本で言ふべきでない‥‥。

 日本には獨伊がやつてゐるやうな獨裁主義、英米の民主主義・資本主義はあたらない。皇室があるからだ。西洋では、民主でなければ獨裁、獨裁でなければ民主だ。資本主義の弊害が極に達すると、共産主義になる。かういふことに欺かれ操縱されることのないのは、日本である。皇室を中心にすれば、民主主義も獨裁主義も興るはずがない」と。


**********


■吉野時代と所謂南北朝正閏問題

●寒林平泉澄博士『明治の源流』(昭和四十五年六月・時事通信社刊)に曰く、

「後小松院は、やがていはゆる南北の合一によつて、後龜山天皇の御讓を受けさせ給ふのであるから、しばらく之を別として、その前の五代に就いては、南を正統とするか、北を正統とするか、その間に正閏の等差が存するか、それとも兩統對立として雙方を無差別に待遇すべきか、の問題があつて、それは其の當時より始まつて、數百年の間、異論紛々、揉み拔かれた問題であつて、明治の末年には國定教科書の記載に就いて、議論沸騰し、天下の耳目を聳動した事、人の記憶に猶ほ存するであらう。そして一時、問題は解決を見たやうであつて、大東亞戰爭に敗れた後、再び種々の論議が横行して憚らぬ有樣となつた。何分にも問題が皇室の重大事であつて、臣子の身分に於いて之を論ずるに、恐れも多く、憚りも大きいが、しかも之を解明する事なくしては、皇國の道義は地に墜ち、國體の根本は崩れ去るのである」と。



 愚案、明治四十四年二月二十三日、木堂犬養毅翁は、第二十七議會に於いて問責決議案を提出、所謂國定教科書事件、即ち所謂南北朝正閏問題の起るや、遠湖内田周平翁は、藻洲牧野謙次郎・天行松平康國翁等と共に、大日本國體擁護團を結成、輿論を喚起し、己が修めし學術を實際に履み行はむと、國家教育の爲に訴ふる所あり、鞠躬盡力、生命を賭して之に當つた。國史學の虚心黒板勝美、哲學の姉崎正治、法學の穗積八束・副島義一の諸博士、政治家の木堂犬養毅翁(隈山谷干城將軍は病臥中)等の諸家、之に與力し、俄然、輿論の沸騰するを見た。

 こゝに國民教育上に於いて事の重大なる、天下、歸一する所を知らざるに至り、周章狼狽、爲す所を知らぬ桂太郎首相は、畏くも事の顛末を具さに奏上、明治天皇には、

兩朝正閏の事は、維新の當時、既に確定し、亦た紛更を試むるの餘地なし

と宣はせ給ひし天裁により、此の大問題は餘燼を殘しつゝも、漸く收束解決に向つたのであつた。聖慮宏遠、皇鑑日月の如しと謂はねばならぬ。

 又た架藏に、史學協會編『南北朝正閏論』(明治四十四年五月・修文閣刊)竝びに友聲會編纂『正閏斷案・國體之擁護』(明治四十四年七月・松風青院刊。平成十七年七月・みすず書房覆刻)なる兩書あり。中には學者・政治家・評論家の所説あつて、此の問題の由來、至重至大なる、深刻嚴肅なる、凡そ其の詳細を知る事が出來る。就中、虚心黒板勝美博士『南北兩朝正閏論の史實と其斷案』は、「後醍醐天皇の絶對的主權」を把り來つて、其の史實・名分・情理から論斷する所の、卓拔秀逸なる大論が掲載されてをり、『大日本史』を補正する所の國史の正統と謂ひつ可し。

 又た姉崎正治博士は、更に『南北朝問題と國體の大義』(明治四十四年三月・博文館刊)を出版、一讀、穩健中正を得たるものであるが、戰後の論者は、蓋し沒交渉、所謂南北朝正閏問題は、先人の辛苦を仰ぐことも無く、先入、主と爲り、皮面を喋々論評して憚らず、決して靜かに讀むことは無いのであらう。



【目次】

●史學協會編『南北朝正閏論』(明治四十四年五月・修文閣刊。◎=長論文)

第一・發端
○犬養毅
○東京朝日社説
○讀賣社説
○萬朝報社説
○履長

第二・南北朝問題と學説
◎小池素康「南北朝正閏論の分岐點と結論」
◎久米邦武「大義名分論と正統論」
○穗積八束「南朝は正統なり」
○井上頼國「聖斷を仰ぐ外無し」
○井上哲次郎「國民道徳が成立ぬ」
○牧野謙次郎「南朝正統は事實」
○三上參次「兩朝は對立なり」
○黒岩周六「南朝北朝正閏論」
○黒板勝美「南北朝對立は尚早なり」
○黒板勝美「神器の所在」
○吉田東伍「北朝が正統なり」
◎三宅雄次郎「南正北閏」
○松平康國「皇統と皇系との別」
○大隈重信「道徳の根本破壞」
○副島義一「北朝は皇位繼承者に非ず」
◎久米邦武「根帳論」
○佐藤鐵太郎「南北兩朝正閏辨」
◎姉崎正治「道義上より見たる南北朝問題」
◎久米邦武「南北朝問題の根本的疑義」
◎姉崎正治「南北朝問題の疑義について」
◎編輯の一員「久米博士と姉崎博士の對論に就て」
○浮田和民「此頃の人心」
◎黒岩周六「南北朝問題の歸決」
◎黒板勝美「南北兩朝正閏論の史實と其斷案」
◎三上參次「教科書に於ける南北正閏問題の由來」
◎吉田東伍「皇位正統の所在」
◎井上哲次郎「歴史と道徳」
○井上哲次郎「惡思潮」

第三・南北朝問題と教訓
◎國體擁護團の一人「新説學者の危險」
◎小池素康「南北朝問題の解決」



●友聲會編纂『正閏斷案・國體之擁護』(明治四十四年七月・松風青院刊。平成十七年七月・みすず書房覆刻)

△徳川達孝「序」
△大木遠吉「序」
△松平頼壽「序」
△犬養 毅「後序」

○黒板勝美「南北兩朝の由來と其正閏を論ず」
○姉崎正治「南北朝正閏問題と道義思想」
○副島義一「法理上より觀たる南北朝正閏論」
○牧野謙次郎「南朝正統思想と維新大業との關係」
○牧野謙次郎「孔教より觀たる南北正閏論」
○松平康國「國定教科書事件に關聯せる七不思議」
○内田周平「南朝正統論發達史」
○後藤秀穗「南山の飛花落葉」
○内田 旭「浮田博士の北朝正統論を駁す」
○三鹽熊太「明治年間に於ける南北竝立論發生裏面の事情」
○松平頼壽「義公の神靈に告くるの辭」
○内田周平「義公を頌するの詞」
○大木遠吉「水戸義公と其時勢とを論して南朝正統論に及ぶ」
○松平頼壽「舊高松藩の修史事業と南北朝正閏論」
○内田 正「非南朝正統論七博士の説を難す」
○松平康國「史學の趨勢と國體觀」
○「文苑」
○松平康國・牧野謙次郎補「國定教科書事件手記」
○三鹽熊太「正閏問題の解决と大日本國體擁護團」
○「近畿に於ける南朝遺蹟巡遊案内と其年表」
△岩倉具視「奉勅撰太政紀要抄録」
△大木遠吉「奉勅撰太政紀要抄録の後に書す(由來)」



●平田俊春博士『吉野時代の研究』(昭和十八年三月・山一書房刊)に曰く、

「舊稱にかはる稱呼と致しまして、現在普通に吉野朝時代なる名稱が用ひられて居りますが、吉野朝と云ふ稱呼も、なほ京都にも朝廷のおはしますことを暗示してゐるものと見られるのでありまして、やはり穩當を缺くのであります。加之、奈良朝・平安朝・吉野朝などと云ひますと、外國の歴史に於ける王朝の變革と混同しやすい傾きもありますから、我々はなほさら斯かる稱呼は避くべきであります。それで朝廷が吉野におはしまし、政治を他に委ね給はなかつた點によりまして、單に吉野時代と稱するのが、最も至當であります」と(但し此の平田博士、戰後は「南北朝時代」と稱呼されてをります)。


 愚案、現今の教科書に「南北朝時代」と掲記して憚らざるは、國民をして「本朝」・「建武新政」・「足利尊氏」・「天皇制」・「日中戰爭」・「太平洋戰爭」・「A級戰犯」・「天皇家」・「二十一世紀」等と呼稱せしめて、些かも怪しまざると、同一の思想の上に在る。信條の如何を問はず、誰を、何を恐れるのか、「吉野時代」と云はなくなつてしまつた‥‥。日本精神は、混沌猥雜たる相對主義の時代に戻つたのである。大義・國體・正名を顧みる者の寥々たる現状では、小生、獨りとなつても之に拘りて、大方の嘲笑を甘受し、和して同ぜず、人をして刮目せしむべし。「夫れ國の強久は、土地甲兵の盛んに在らずして、名分の嚴に在り。‥‥我が朝、終古、外國の侵侮を受けざる者は、豈に大小強弱の勢を以てせんや哉。唯だ其の名分の正、萬國に冠絶すれば也」(秦山谷重遠先生『宮地介直に答ふる書』正徳二年壬辰)と。



【追記・所謂南北正閏問題】
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1306
 
 

我は、幕府の執權なるぞ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 6月24日(木)21時13分51秒
返信・引用 編集済
   西村泰彦・宮内廳長官の曰く、「天皇陛下は(愚案、こゝは「天皇陛下には」と申し上ぐべき所なり)は、現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を、大變、御心配されてをられます」。「國民の間に不安の聲がある中で、御自身が名譽總裁を御務めになるオリンピツク・パラリンピツクの開催が、感染擴大に繋がらないか、御懸念されてゐる、心配であると、拜察いたします」(令和三年六月二十四日・定例會見)と。

 之を承けし官房長官・加藤勝信の曰く、「宮内廳長官の御自身の考へ方を述べられたと、承知をしてゐる。詳細については、宮内廳に御聞き戴きたい」と。



 大變重く、畏き極みと謂はねばならぬ。當局は、速かに宸襟を安じ奉る可く、總理大臣・都知事・五輪組織委員會委員長うち揃つて、直ちに參内、恐懼内奏いたさねばならぬ。都知事は病ひと聞くが、這つてゞも大内山へ言上申し上げねばならぬ。それが、國民として當然當爲の務め、一刻の猶豫も無い。

 「我は、幕府の執權なるぞ。さやうな懸念は、一切無用なり。分つたか、宮内廳」と、官房長官・加藤某は言ひ放つたのである。艸木もの言ふ時代、是れ、武家諸法度ならぬ進駐憲法を奉ずる所の民主幕府の本音、本性であるに相違ない。何とも言ひ難き、卑しき言靈であることよ。加藤勝信てふ奸漢は、吉備國の加藤武徳の甥か、六月の養子か、泣けて來る。

 神は見てをる──吐いた言葉は、自らが刈り取つて戴かうではないか。
 
 

郷原は、徳の賊なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 6月11日(金)22時30分4秒
返信・引用 編集済
   かつて神宮禰宜が、神社本廳の暗躍に因り、靖國神社の宮司に送り込まれて、不敬發言を放ち、幸ひにして驅逐追放せられた。然し神社本廳の總長田中恆清一派、之を討つて祓はねば、どうにもならぬ。神道人の眞摯なる、人事を盡くされむことを熱祷する。

 神道と政治は、固より密接不可分の關係にあるものゝ、政治屋との對決は避けて通ること能はぬ。此の腐敗墮落を祓ひ清める爲には、現代政黨との決別が、何より急務ではないか。或はパワースポツト、或はスピリチユアル、或は僞史祕傳、或はネツト參拜なぞに現を拔かす閑暇があれば、全國の神職・神道人は、斯道肅清の爲め、斷々然として蹶起して、大聲を擧げなければなるまい。心勞を共有したい。

 本日、下記の記事を偶見、俄かには信ずる能はず、大きな衝撃に打たれた。神職と申せば、小生は、笑顔で迎へて下さる産土神社の神主しか存ぜぬが、品行方正、温厚實直なる神職も、これには憤怒して已まぬ筈だ。神道界の退廢は、再び復た本宗・神宮の職員にも及ぶ。「郷原」は、固より「徳之賊」(『論語』陽貨十三・『孟子』盡心下三十七)、「まあゝゝ、こゝは穩便に」と、笑つて濟ませる可きでは無いと、堅く信ずる。懇祷。



**********

https://news.yahoo.co.jp/articles/0c95575280571795bc39694ba374029f3704f366

 伊勢神宮「天皇からの御供へ物」を、元職員がヤフオクに出品(『週刊ポスト』令和三年六月十八・二十五日號。六月十一日・『NEWSポストセブン』配信)

 皇祖神・天照大御神を祀る伊勢神宮では、重要な祭禮の際に、天皇から勅使が遣はされ、「幣帛」といふ絹織物などの供物が奉納される。

「幣帛は、供物の總稱なので、樣々な物がありますが、『帛』とは、もとゝゝは布地を表はした語で、金錢のなかつた古代、神に祈りを捧げる際には、織物が貴重品として供へられてゐたことに由來します」(神社關係者)

 その貴重な幣帛が、ネツトオークシヨン「ヤフオク!」に出品されてゐることが發覺した。「伊勢神宮 超希少 撤下幣帛」といふ商品名で、説明欄には、かうある。「伊勢神宮の撤下幣帛になります。紙に卷かれてゐるのは正絹で、白・黒・緑・黄・赤色。(中略)神嘗祭の準備で、それまでのを下げて、祭祀職員に配られます。値引きは可能です」。 即決價格四萬二千圓で出品されたが、五月二十六日までに、出品は取り下げられてゐる。いつたい、何があつたのか。

「幣帛が、ヤフオクに出品されてゐることが、神社關係者の間で知れ渡り、問題になつたのです。確かに毎年十月に行なはれる神嘗祭で、天皇陛下から奉納された幣帛が、御供へが終はつた後、職員に配られることがある。職員が幣帛を關係者に讓ることはあるが、天皇陛下から奉納されたものを、ネツトオークシヨンに出品するなど、聞いたことがない」(前出・神社關係者)

 出品者は、過去にも「大變希少で、この機會に、いかゞでせう」などのセールストークを添へて「幣帛」を出品し、今年三月には、一萬七千円、四萬圓で、それゞゝ落札されてゐる。神職の袴、「折櫃」といふ祭禮で神饌を入れる小箱なども出品してゐた。

「いづれも伊勢神宮の職員しか持ち得ない貴重なもので、しかも發送元は三重縣。辭めた職員が出品してゐるとしか考へられない」(同前)

 記者がオークシヨンを通じて出品者に接觸したが、「職員か」と聞いたところ、やり取りが途絶えてしまつた。出品の件について、伊勢神宮は、「こちらでは確認が取れませんので、囘答は差し控へさせていたゞきます」とし、幣帛の取り扱ひについては、「大切なもので、神樣に關することですので、無闇に我々のはうから説明はしてをりません」(廣報室)と囘答。
 
 

いざさらば 我はみくにの 山櫻 母のみもとに かへり咲かなむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 5月25日(火)23時30分40秒
返信・引用 編集済
   緒方家は、「兄弟(徹・襄)は相ついで花と散り、そして戰は悲運に終つた。すでに父(弘)は亡く、唯一人、生殘る末弟(親)は病身である。一家(三和代・親・澄子)の苦難は想像を絶するものがあつたらう。しかも如何なる寒苦も、遺族の心を亂す事が出來なかつた。卑劣の俗情、時を得顔にはびこる世の中に在つて、此の家は、その志を降さず、その節を抂げず、その優雅忠愛の心をもちつゞけて來た。一言にして云へば、是れ敷島のやまと心、香り高き家である」。

 『緒方家集』、題字は保田與重郎翁、裝幀は越雪彦氏、漆黒表紙に金の彫文字、美しき碧色の夫婦箱入りの御本。而して何より人をして感動慟哭せしめて已まぬ、至寶の歌集である。しづかに、落涙せられるがよい。

∴本居宣長――伴信友――伴林光平――北畠治房(平岡鳩平)――安井芳太郎――身□堂保田與重郎――緒方三和代・親



●緒方三和代刀自・緒方親翁『緒方家集』(昭和四十八年五月・風日社刊)

「序  平泉澄」
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/5

【目次】
序‥‥‥‥‥‥‥平泉 澄
はないくとせ‥‥緒方三和代
としつき‥‥‥‥緒方 親
遺  詠‥‥‥‥緒方 徹
        緒方 襄
跋‥‥‥‥‥‥‥保田與重郎
あとがき‥‥‥‥緒方三和代・緒方親



【緒方三和代刀自の歌(抄)】
〇春なれば 花の歌のみ 多くして 花と散りにし 吾子を思ふも(「櫻花」散る花)
〇うつし世の みじかきえにしの 母と子が 今宵一夜を 語りあかしぬ(「同上」昭和十九年十二月二十五日、次男襄に面會せんとて佐原に赴く)
〇ももとせの よはひを願ひし 吾子なれど くにの大事に 今ぞ捧げむ(「同上」)
〇ちる花の いさぎよきをば めでつつも 母のこころは かなしかりけり(「同上」襄の歌「いざさらば」とあれば)
〇草莽の 身にはあれども すべらぎの み楯とちりし 吾子をしぞあはれ(「同上」徹の歌「初陣の」戰死後到着)
〇うつし身は 花と散るとも かへり來て くに守らむと 云ひし吾子はも(「同上」)
〇若竹の すぐなるさがと たたへられ 花と散りにし 吾子をおもふも(「同上」)
〇うたかたの 泡とけぬべき 身なれども 世のためつくす すべなからめや(「同上」悲傷・終戰の日を思ひて)
〇たたかひの にはにいでたち 還りこぬ 若きいのちに 祈る朝かな(「同上」)
〇初にきく 聲しめります かしこさに わが胸つまりし 三年前かな(「同上」玉音放送)
〇二十年の 月日は長く 短かかりき 魂かへるらむ 今日のみまつり(「同上」としどしに・二十年祭白峯宮にて、昭和三十九年)
〇ひとことの 言あげもせず 征きし子の 魂かへるらむ 花さかりなり(「同上」昭和四十二年春)
〇人間の 限りをこえて 皇國(くに)のため いのちのかぎり 征きし若子ら(「江田島行」)
〇此の宮の 鳥居をくぐる すがしさよ たえてまゐるは 十六年ぶり(「同上」花のいのち・昭和四十二年十月、靖國神社に於ける白鷗遺族會秋の大祭に、三男親と共に上京す・九段)
〇やさしさは 昔にかはらぬ 人々と 還らぬ子らの 話はづみぬ(「同上」同期の人々)
〇ありがたき 人の情に 子とともに 靖國神社に まゐる倖せ(「同上」平泉澄先生に一首)
〇み軍に 長男次男 捧げきて 親(三男しん)とわがある くらしなるかも(「流れ雲」亡夫二十五年祭)
〇咲き盛る 山吹の花の 黄にもゆる 窓近くおはして 茶をたて給ふ(「折々に」身□[八+未]堂・終夜亭、保田與重郎先生)
〇塔の尾陵 ぬかづきをれば いにしへの みかどに仕へし 人ぞ想ふも(「旅の歌」吉野歌會)
〇小楠公 扉にのこる 歌かなし 如意輪堂の 朝のひととき(「同上」)
〇子とともに 歩めば苔に すべりゐつ 白山神社 木もれ陽の道(「同上」平泉寺)
〇にごり世を 淨むる雨か しとどふる ますらをおくる その日ひと日を(「哀悼歌」亡き人々に・河上利治先生)
〇いでましし 大人の足音 きこゆなり きさらぎの道 いそぎゆきけり(「同上」み魂まつりに・伴林光平大人)
〇ふる雨に なげきはつきず 眠れざる ひと夜しらじら 明けてきにけり (「同上」しぐれつつ・三島由紀夫氏自刃)
〇師の君に したがひまして 國まもる みたまとなりし ひとをたたへむ(「同上」森田必勝命)

【緒方親翁の歌(抄)】
〇九重の み園のおくに なく雉子の 聲もあはれに 雨ふりやまず(「日々悠かなり」皇居御奉仕)
〇天地の わがかなしみは きはまりつ さみだれけぶる 大宮どころ(「同上」)
〇代をつぎて 酒仙の家と 云はれ來し われも父の子 酒ほがひせむ(「同上」父を偲ぶ)
〇大君の 生(あ)れましし 日のめでたさを ことほぎまつる 人出でにけり(「同上」天長節)
〇五十鈴川 きよき河原に 見出でたる くれなゐいろの 水引の花(「同上」御遷宮)
〇いつの代も 益荒丈夫は 母を想ひ 逝きたまひけり 松陰の歌(「ひととせ」母を思ふ)
〇戰ひの はげしき日にも ためらはず 雄々しくありし 我が母と子よ(「同上」)
〇目閉づれば 魂の 聲する日なり 八月十五日 空深かりし(「同上」獨り詠へる)
〇十七歳の 少年ここに 美事なり ことを仕遂げて 生命すぎぬる(「病ひ得て」山口二矢少年におもふ)
〇いつの代も 若きらをのみ 死なしむと ただ悔多き なげきするかも(「同上」)
〇世に生れて 何なすべきと 念ひゐし かの若き日の ひたすら心(「同上」)
〇なほも世に ありてさやけき その生命 仕へざりしと 泪あふれぬ(「同上」)
〇死者の靈 祭る禮さへ わきまへぬ たぶれ司ら 政り事とる(「同上」八月譜)
〇さくくしろ 五十鈴の川の 空はれて 御木曳祭は たのしたふとし(「風日茫々」御木曳祭)
〇師とおもひ 父ともあふぐ 丈夫の 大人が病みます 此の夏さぶし(「同上」たふとき人々・河上利治先生)
〇我が兄の 名もここにあり 特攻隊 名牌除幕式 いまおこなはる(「魂鎭め」江田島)
〇吾子の名は いづこと目守(まも)る ひたぶるの ちちははの瞳よ まぶたあつしも(「同上」參考館)
〇御風貌 やや老いませど 情(こころ)厚く 出迎へいましき 泪こぼれぬ(「同上」旅ゆきて・東京驛に平泉澄先生の御出迎へを受く)
〇丈夫の 征矢(そや)と定めし あづさ弓 やたけ心の なりの清けさ(「同上」天の時雨)
〇日繼の皇子 生れましし 報傳はりて 街の燈に 映ゆ日の丸の旗(「四季折々の歌」皇孫殿下御誕生)
〇枯山水 苔美しき 庭ありて いく代ふりつつ 君おはすなり(「同上」越前平泉寺、白山神社、平泉澄先生居宅)
〇征きし兄も のこれる吾も 大君の みたてとならむ 我が家の風(ふり)(「戰中戰後の歌」ひとすぢに)
〇神ながらすめらみ國は 古ゆ高光る日の皇子 やすみしし我が大君の み任(よさし)の任のまにま 平らけく治まれる國 そをしらずして 黒雲のみなぎりみつる かきくらすアメリカ汚(を)國 きりぎりす蟲に名を負ふイギリスのしこのしこばら 相集ひ共にかたらひ きたなけき心をもちて うれたくもせめよせきたる み民われら ま心の未だ足らずて 皇軍は日に日(ひにけ)になやむ しかはあれど 日出づる國 ここだくの國の眞秀國 日の本のみ民われ いやさらにみかどにつくす雄心を ふるひおこして 天地のありのことごと きたなき奴 はきつくしきよめつくさむ 大みこころ安め奉らむ 久方の日の大御神 天津神 國津神 千早ぶる神のことごとぬさ奉り こひのみて 必ずや此のみいくさは勝ちにか勝たなむ(「同上」祈り・皇軍を思ひ志をのぶる長歌竝びに反歌 昭和二十年二月)
〇靈ちはふ 神のみまへに ぬさ奉り ありのことごと 夷拂はむ(「同上」反歌)
〇我がうちに 神はまします 神ながら 神のひとりと 皇民(みたみ)たつべし(「同上」)
〇大まがつ 火の雷 さながらに 敵艦碎き 散りにけるかも(「同上」兄を想ふ・次兄襄、第一陣に出撃還らず)
〇我が胸に 兄は在すも 神ながら 君につくせと 我につづけと(「同上」)
〇殉忠の 心しつげと 云ひのこし 征きける兄や 思ほゆるかな(「同上」)
〇亡き兄の 歌ゆつくせと のたまひし その一すぢを つらぬかざらめや(「同上」終戰後、長兄徹、戰死の報あり)
〇我がちらむ その時にこそ のむべしと つひのわかれに たびし酒はや(「同上」次兄襄と母との最後の別れに際して、ウイスキーを、我が散らむの報あらば飲むべしと、手渡せしに)
〇永久の 生命は生きて 國守ると うたひ給ひし つがざらめやも(「同上」)
〇皇國の すゑを思へば みもたなに なみだし流る 泪しながる(「同上」終戰抄)
〇大いなる 此の皇軍を 信じつつ ゆきける兄よ 羨(とも)しきろかも(「同上」)
〇狂と云はれ 愚とも云はれて いくたりか 人はかなしく 死にたまひけむ(「同上」うつし世)
〇むれつゞく 奉迎の人に まじりつゝ 拜み奉る 我が大君を(「同上」至尊奉迎式)
〇夏木立 日に照り映えし 大宮に 萬歳の聲 轟きわたる(「同上」京都御所の大宮御所前)
〇さんさんと 御苑の青葉 日に映えて 我が大君は み言たまひぬ(「同上」)
〇新しき あめつちひらく 先がけと うぶすな神に ひた祈りつつ(「同上」年暮新年)
〇逝きますと きくにかなしき 報せこし 時雨すぎゆく あしたなりけり(「偲び歌」挽歌・河上利治先生を憶ふ、四十一年十一月十三日逝去)
〇うつくしき 日本の山河 ますらをの 雄心もちて 詠ひたまひし(「同上」)
〇世は花の 咲きはにほへど またも聞く 報せかなしく 大人逝きましぬ(「同上」三浦義一先生御逝去、昭和四十六年四月十日逝去)
〇たまだすき かけて偲ばむ 畝火山 大御代あふぐ 此の春にして(「同上」獻詠・伴林光平先生遺靈祭、建國記念日復活制定されし年に)
〇さく花の 匂へるみ代に さきがけて ちりましにける 君はうたびと(「同上」)
〇皇國學び つとめよと良き師 よき友に えにしのこして 逝き給ひけり(「同上」我が兄徹・襄兩命の二十年祭に仕へ奉りて)

【緒方徹大尉の歌(抄)】
〇相ともに 語りくらせし 三年なり 薩南の國ぐに 薩南の人びと(七高卒業)
〇母上の 生きてしませば 肩をもみ 脚さするとも なに苦しからむ
〇六つ年を 經にし今年の 山櫻 むかしながらに 咲きにほひけり(亡父六囘忌)
〇弟の 二時間かゝりて 書けるらし その便りよみ 涙こぼしつ(臺灣東港にて)
〇國憂ふる 心もなきか 名のみなる 軍人(いくさ)商賣(あきなひ)の 奴斬りすてむ
〇憤る 心にかゝる 雲拂ひ 清き朝日の 影ぞ仰がむ
〇我が家の 蔭膳想ひ 我もまた 母の寫眞に 雜煮供へぬ(元旦二首)
〇暗澹と 曇りし空の 果遠く ガダルカナルの 島聳ゆるか(同上)
〇いみじくも 咲ける花かな 北海の 霧の流れに 匂ひいでつる(石南花、千島にて)
〇初陣の 感激高し 我が翼 國家浮沈の 運命(さだめ)かかれり(比島出陣)

【緒方襄少佐の歌(抄)】
〇一人歸る 闇路をてらす 朧月に 拍子木の音 冴えわたりたり
〇千早振る 神の子我と 誇りもち 君につくさん 萬代までに
〇富籤と いふちふものを 出さずば 戰費あがなへぬ 事の悲しさ
〇花は咲き 鳥は囀(うた)へど 未だこぬ 大和島根の 春の曙
〇大君の 命かしこみ 北海の 孤島に消えし その心あはれ(アツツ島玉碎)
〇耐へ忍び 耐へ忍び來し 吐口を こゝに求めて はばたかんとす
〇兄も行け 我も果てなむ 君の邊に 悉々(ことゞゝ)果てむ 我が家の風(ふり)
〇何物も うたずばやまずと 鳴り叫ぶ 雷のあと 月は清けし
〇皇神孫の みことかしこみ 南海の 藻屑と散らむ 秋(とき)はこのとき
〇いざさらば 我はみくにの 山櫻 母のみもとに かへり咲かなむ
〇すがすがし 花の盛りに さきがけて 玉と碎けん 丈夫我れは
〇死するとも なほ死するとも 吾が魂よ 永久にとゞまり 御國まもらせ



「跋  保田與重郎

 緒方三和代刀自の「散る花」の章をよみ、私は激しく感動した。題辭の簡潔な敍述が、むかしの人の歌物語に見るやうな、千鈞の重みをもつて、優雅にして餘情こまやかな文章をなしてゐる。まことに國ぶりの歌文の規範にかなふやうなところ、その人の心のあらはれである。これは國のこゝろの悲しい詩文である。大義を守り貫いて昴らず、人情をうつたへずして餘りあり、淡々と自然の如くにのべて、美しい歌とされてゐるのが、かなしいばかりである。このかなしさこそ、日本の歌の思ひであつた。

 ちる花の いさぎよきをば めでつゝも 母のこゝろは かなしかりけり

 大東亞戰爭の終り方、次男の襄君が、自ら進んで特攻隊員たることを志願し、その決意のほどを吾子より知らされた母は、子の任地に赴くのである。今生の別れをゝへて、わが家に歸り、荷物の鞄をひらくと、その子の歌「いざさらば われはみくにの 山櫻 母のみもとに かへり咲かなむ」と誌して(神雷特別攻撃隊員櫻花隊員)、ひそかに入れられてあつた。この子のうたつたこの母こそ、かの日に大なる生命の信實を味つた、をゝしい若者たちの、まことの心の母であつた。そのいまはの時に、唱へよんだ母といふ一聲は、國の悠久の歴史と一つである。

 何年か以前のことであつた。テレヴイジヨンの放送で、大東亞戰爭の若者の母として、緒方刀自が畫面に出てをられるのを、私はたまゝゝ見た。一つの目的意識を藏した放送司會者の再三の誘導に對し、この母は、毅然として、かつおだやかな口調で、「自分は吾子の信念と行動に、以前も今も滿足してゐる」と、くりかへし語られた。その言葉はしづかで、沈著な語尾のおさへも、まことに女らしく、私はその態度に、冒し難い、高貴な威嚴を、美しく感じたのである。やさしくをゝしい女らしさの威嚴といふものを感じながら、私は激しく落涙した。

 三和代刀自の和歌には、かういふ態度に即した、いさぎよい氣象が、おのづからに現れてゐる。明治の女子教育の中でそだつた、この老婦人の風雅には、女らしさを意識でおさへ、それを外に現はされぬところに、窈窕たるけなげなものが味へたのである。緒方家の嚴父弘氏は熊本の人にて、三和代刀自は薩摩の出身である。この夫妻は西南二國の士風の、最も清醇のものを人がらのうへで享けてをられるのである。

 「母のこゝろは かなしかりけり」と歌はれた昭和十九年は、嚴父はつとにこの世の人でなく、家には幼時の重患の後遺症のための病弱の少年なる親君と、まだその下の年稚い妹がゐた。この家は優秀な二兄を、戰ひにさゝげられたのである。高名の辯護士だつた嚴父が、生前に世話せられた多數の門下生や、先考の恩惠を感謝する人々が、緒方家の周圍には多かつた。それは殘された人々の安らぎを與へたが、緒方家の「我が家の風」の自信は、さらに驚くべき堅固のものと思はれる。卑俗に無關心な母と子は、どんな世情環境にも染まず、氣品と誇りを自然の態度とした超越の姿で、見事にその志を貫く。親君は病身にかゝはらず、精神力の血氣に於て、人におくれをとらじといふ氣迫を意識し、加へて旺盛な究學心の實績をつみ上げた。この思想は年とゝもに圓熟を加へたのは、まことに尊敬に耐へないところである。偏向の固苦しさを退け、國風の正しさに信をおいて、つねに初心の明るさを以て踐み進まれてゐる姿は、この母子の今日の歌が明瞭に示してゐるところにて、久しい友好をつゞける私の、心よりよろこびとしてゐるところである。苦難の經驗は、世の中の常である。かゝる時に、和歌に執心し得て、歌境の清澄に遊び、自然を感得するに近い心懷に達し得たといふことは、人としてこの國に生れて享けることの出來た、最も高邁な精神上のよろこびを味つたものと判斷される。この母子の『歌集』を讀み、私は神の恩頼のある所以に、心より恭順し、またわが自らに誨ふるところがあつた。三和代刀自の歌は、虚心の人の、歌をつくるとは、かくあるべしと思はれるやうな、心構への自然のものである。現下の有樣に於ては、國風は殆どくづれるに近く、行方知れぬ状態を呈しをるやうにも見えるが、流行の世相とかゝはりない、國民の心情に於ては、日本の歌は嚴として生き、止まぬ流れである。日本の歌はかゝるものであり、近い昔の何百年、かゝるものとして傳へられた。こゝに『緒方家集』は、さういふ道と歴史を證しする一つのものゝ如く、私にはうけとれたのである。

 緒方親君の歌は、母者びとの歌の自然と哀切にくらべて、作歌に執心する者の、努力精進の姿が濃厚に出てゐる。これは賞讚に價するばかりか、この人の場合にあつては、尊敬にふさはしいものである。またそれは、母堂に對するしみゞゝとした感動でもある。幼時の小兒麻痺症の後遺による、病身不自由な身體に耐へつゝ、この母子二人の力をあはせた精進は、國風の歌の道を、一歩々々、究め進んで、漸くその思ひに近づいた。國の大本と信仰せられてきた、歌の傳へと心を尊びなつかしんで、わがいのちとして生きてゐる人々は、今はまことに高潔の存在である。親君は、小原春太郎氏の主宰する「風日社」の歌誌編輯の主幹として、外に向つて、日本の和歌の正風を恢弘する主張を示し、内にあつては自らの歌を究めんとする人々に奉仕してゐるのである。この努力は戰中をへて、特に戰後この方は多年に亙りて一貫し、その信念の毅然たるは、大戰の有無にさへも微動せぬかに見え、この親子の志操の高さと潔さは、まことに緒方家の父兄の志をつぐものである。

 私が緒方親氏を知つたのは、その二十歳にたらない前後であつた。今だに三十年前の少年のこの人が、印象として先行するのが、をかしい程である。そして徐ろにかへり見て、漸く現在のこの人を納得することも、またをかしいものがある。
 雨曇り きりふきのぼる 夕山の 檜原にちかき ひぐらしの聲
 あふぎゆく 山の杉の木 ひとかたに かたむきて立つ 寂しくぞ見ゆ
 この寺の 常くらき堂の 雪あかり 聖觀音像 あでやかにます
 天地は くらくしづみて 未だ鳥の なかぬあしたの 花の色かな
 わが歩み 何のいそぎぞ 疲れたる 身にふりかゝる 花のいくひら

 かつての少年が、かゝる歌をつくつてゐることを、しづかに思ふと、不思議である、また有り難い。これらの歌は、誰人の歌にも類少いものである。靜寂もある、精緻もある、美しさと、あはれにも足りてゐる。人生の永劫なる寂寥の境地を、しづかに見定めたかと思はれる哀切の思ひもある。未だ殘る少年の印象と、かういふ見事な歌を作つてゐる人とを、一瞬重なつた影像として見ることは、今や私のよろこびである。

 この『歌集』をひもとき、日本の和歌の思ひを、なつかしみ、尊び、やがてはこの國に生れたよろこびを、自らに悟る人もあらう。わが歌のさきはひは、そこにあつた。日本の歌とは、かゝるものであつたことを、心に切なく思ひ知り、何千年御祖の代々をうけつたへたものが、昔のまゝにおのが今生今世になほある事實に、感動落涙する人々を知ることも、わが世に於て、國の和歌をまなぶ心の信實であると、私はひとり信ずるものである。

 緒方親氏が知命の心境の表現に近づきつゝあることを、この『集』によつて私は悟り、その進境に、人生かたみの安堵を味つた。歌は觀念でない、意氣旺んに肩を張つた歌が、觀念に終つて、詩心の潔い混沌に非ざることを批判することは、他に對してはいさゝか容易にて、己に對しては極めて難しい。こゝ十年來の親君の歌情詩心をながめるとき、私は敬意にあはせて、よろこばしいものを感ずる。意識によつて自然に還るといふ久しい努力の果に、今や意識を放下する呼吸に出入する氣配もある。

 昭和四十八年三月二十二日記」
 
 

皇國護持の祕訣は、進路の目標を、常に勅命の一點に置くに在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 5月22日(土)16時27分39秒
返信・引用 編集済
   皇國護持の祕訣は、「進路の目標を、常に勅命の一點に置く所に在る。終戰、それは勅命である。忍從、それは勅命である。卑屈でも無ければ、傲慢でも無い。只だ承詔必謹である。こゝに大目標があり、大規準があり、大安心があり、大悟徹底がある」。國家の至重至大の御事は、上御一人、之を決定して、「承詔必謹」の嚴訓、之に只管ら畏命臣從するが、皇國の道義、決して疑ふことを許さぬのである矣。



●平泉澄先生『ジベリヤ幽囚記の序』(後藤脩博(清敏)空將『ジベリヤ幽囚記』昭和五十二年五月・日本學協會刊に所收)

「後藤空將から、囘想記が出來たので、序文をほしいとの依頼を受けた。年來畏敬する親友の事であるから、喜んで承諾したものゝ、さて原稿を讀んでゆくと、驚く事ばかり、到底たやすく序文の書けるやうなものでは無い。やむを得ず、私の驚きを列擧して、感想を整理して見る事にした。

 驚きの第一は、私の豫想に反して、是れには戰爭中の活躍が全部省かれて、戰後シベリヤ收容中の想出ばかり書いてある事だ。著者は、大東亞戰爭の緒戰に、飛行中隊長としてフイリピン・ビルマに戰ひ、中頃しばらく歸つて陸軍大學校に學んだ後、昭和十九年の夏には、飛行第二十七戰隊長として再びフイリピンに向ひ、レイテ島その他の激戰に勇名を轟かせた陸軍少佐である。その頃、自分の搭乘機を調べたところ、彈痕百餘をかぞへて、蜂の巣のやうになつてゐるのに、身にはかすり傷の一つも無かつたといふ。「生命(いのち)冥加のお方ですね」と感心すれば、「いや、死にぞこなひですよ」と笑つて答へられた。昭和二十年の三月に、本土決戰參加の爲に歸國を命ぜられた時には、乘用機が破損して使ひものにならないので、その邊に散らばつてゐる破損機の部品を取集め、つなぎ合せて、それに乘つて歸つて來たのだといふ。「一體、米軍の實力はどんなですか」と尋ねると、「一對四、つまり我が方の一機に米機四機ならば、大丈夫ですよ」と、餘裕綽々たる態度であつて、その點、阿南大將と似てゐた。阿南大將は、昭和二十年正月、南方から歸つて來られた其の日にお會ひした時、「敵の勢は、決して恐れるに足りませぬよ」と、笑つて居られた。いづれも實戰の經驗から出た確信であつて、決して架空の放言では無い。

 それ故に、後藤空將の囘想記、定めし愉快な勇戰奮鬪の想出が多い事と思つてゐたのに、戰爭中の事は全部割愛せられて、こゝにまとめられたのは、專ら終戰後の四年半、シベリヤの奧地、極寒の收容所での生活記録である。私は初めそれに驚き、且つ惜しいとさへ感じたのであつた。然し段々考へてみると、戰ふは武人として當然當爲の事であり、日常の務であつて、敢へて異(い)とするに足らぬ。むしろ今度の場合、問題は、苦難は、戰後に在つた。勅命によつて武器を棄て、忍從の生活に入つたところに、先人のいまだ經驗せざりし苦難、精神の悲痛があつて、その苦難を乘越え、その悲痛を克服した記録にこそ、獨特の價値があるのだ、といふ事を、不敏なる私は、あとで分つた。

 驚きの第二は、その忍從の生活だ。およそ勝ちいくさに、先頭に進むはたやすく、敗軍に殿(しんがり)をつとめる事はむつかしい。義經の爲に殿をつとめた佐藤忠信や、勝家の爲に殿をつとめた毛受勝介を偉なりとして、賞讚もすれば同情を惜しまないのは、その爲である。小西行長敗退した時、之を追撃した十數萬の大敵を、僅か二千五百の兵を率ゐて碧蹄館に喰止めた立花宗茂に、惜しみなき拍手を贈るのも、その爲だ。

 然るに昭和二十年八月十五日以後の我が軍の苦難は、それどころでは無い。力全く盡きたのでも無ければ、志挫けたわけでも無い。敗れて退くのでは無く、從つて殿軍でも無い。只だ勅命をかしこみまつるが故に、武器を棄てゝ忍從するのみである。かゝる苦難は、前例が無い。若し氣概あまつて、忍從おろそかであれば、内には違勅の誹りを免れず、外には暴徒として處置せられねばならぬ。又た若し忍從に專らであつて、操持に缺ける所あれば、卑怯としての非難、避け難いであらう。一歩右すれば懸崖、一歩左すれば絶壁、目もくるめく一筋の細道、それを毎日々々、毎年々々、歩み續けるのだ。何といふ苦難の道であらうか。それを後藤少佐は、右せず、左せず、終始眞直ぐに、從容として歩み續けたのであつた。其の祕訣は、進路の目標を、常に勅命の一點に置いた所に在る。終戰、それは勅命である。忍從、それは勅命である。卑屈でも無ければ、傲慢でも無い。只だ承詔必謹である。こゝに大目標があり、大規準があり、大安心があり、大悟徹底がある。囘想記は、かゝる大悟の記録に外ならぬ。

 初め歸國と信じて乘込んだ汽車は、東へ向はずして西へ走り、二箇月にしてマルシヤンスクに着き、松林の中の收容所へ入れられた。見ればドイツ・ハンガリヤ・ルーマニア其の他十數箇國の將校約三萬、こゝに收容せられてゐる。日本の將校は約四千、後藤少佐は其の中の一人である。

 極北極寒の僻地、窮屈粗惡の住屋、貧弱乏少の食物である。その侘びしさは、蝗・蛙・蛇を捕へ、鼠・猫をとつて食べ、以て榮養を補ふといふ奇談によつて理解せられるであらう。もとゝゝ光輝ある軍隊の指揮をとつた將校の身にして、一朝かやうの境涯に轉落すれば、心も狂ひ命も縮まるであらうに、能く之に堪へて、徳義、微動もしなかつたのは、その力、一體どこから出て來たのであらうか。勅命故の忍從であつて、決して敗戰では無いといふ誇りがあればこそだ。

 第三の驚きは、豫期せざりし非常の苦難、それに比すれば、寒さの飢ゑも問題にならぬ、不愉快千萬なる苦難が發生した事である。外でも無い、味方の寢返りである。昨日までの味方、まぎれも無き日本軍の將校が、俄かに共産主義を謳歌し、味方を告發してソ連に密訴し、その功によつて、早く日本へ歸る便宜を得ようとあがくのである。

 嗚呼! 何といふ淺ましさであらう。貧すれば鈍するといふが、味方を賣つてまで、自分を助けようとする卑劣な者が現れて、しかもそれが段々増加して、純粹に日本の道を守る人は、次第に減少して行つた。日本の將校約四千、孤壘を死守する者は、その内、僅かに三十、一%にも足りなかつたといふ。言論を以て之に對抗し、之を論破する事は、容易である。只かゝる徒輩と共に在る事は、不愉快千萬、堪へ難き心の痛みである。それに比すれば、外に出て森林伐採の労務に就くのは、遙かに樂しかつたといふ。

 然るに思ひも寄らぬ事、いはゞ奇蹟が起つた。それは寢返り共の告發してやまざる後藤少佐の調査の爲に、モスクワよりマルシヤンスクへ來たソ連の大佐が、後藤少佐の人柄に感動して、其の東歸を許した事、是れが第一の奇蹟だ。不思議にも其の東歸は、ハヾロフスクに於いて阻止せられ、此處で一年餘り、大工仕事や土木工事に働かねばならなくなつたが、やがれ是れもモスクワから來たソ連の中佐が、數多くの告發密訴の書類を手にして後藤少佐を取調べ、其の至誠に感嘆して歸國の取計らひをしてくれたのが、昭和二十四年十一月、そして十二月二日には舞鶴に上陸し、十二月八日、即ち大戰開始の記念日、同時に後藤少佐の誕生日、その日を以て自由の身となつたのであつた。ハヾロフスクにソ連の中佐が現れたのが、第二の奇蹟であつた。

 嗚呼! 至誠は鐵石をも穿ち、鬼神をも泣かしめる。マルシヤンスクの大佐、ハヾロフスクの中佐、兩人とも後藤少佐と面識のある人では無かつた。それが少佐の剛直の精神に驚嘆し、忠愛の至情に打たれて、數多き告發状を握潰し、その歸國の便宜を與へてくれた事は、まことに異例の處置であつて、奇蹟といふの外は無い。

 嗚呼、本書、全篇に滿つるは、萬斛の涙であり、之を貫くものは、愛國の至情であり、そして讀後に殘るものは、無限の教訓である。蕪辭をつらねて、却つて本書の面目を損ふを恐れつゝ筆を擱く。

 昭和五十一年六月十日 平泉澄」



●後藤脩博(清敏)空將『ジベリヤ幽囚記』(昭和五十二年五月・日本學協會刊)に曰く、

「自序

 あれから、すでに三十有餘年、子供や孫たちのためにも、是非、貴重な體驗と、父の踏んできた道を書き殘しておきたいと、年來考へながら、ついゝゝ延び々ゞとなり、いたづらに月日を過ごしてしまつた。

 最近になつて、殊に今年になつてから、多くの、また各方面の友人や知人から、「是非とも書き殘しておくやうに」とすゝめられた。さて筆をとつてみると、三十年といふ歳月の永さを、改めて感じないわけにはゆかなくなつた。年月日・地名・人名などの忘却はもちろんのこと、事柄によつては、自分自身で直接體驗したことゝ、當時、周圍の誰かゝら聞いたことの區別や限界の定かでないものも、少なくなくなつたことに、自分でも驚きあきれるほどである。年齡とゝもに忘却の進んだことに加へ、三年前に腦血栓で倒れて以後、一層急激にひどくなつたやうに思はれる。

 最近、次のやうな一文を讀んだ。

「人間の記憶ほど、不確實なものはない。何度かしやべつたり、書いたりしてゐるうちに、特に精彩のある部分だけ選擇し、どうでもよい部分を省略する。この選擇・省略の手續きのうちに、大きなフイクシヨン化が行はれる。‥‥」

 實に胸に痛い言葉である。以下、書きつゞつてゆく思ひ出の記にも、そのやうなフイクシヨン化も多少あるかも知れない。しかし私としては、できるだけ忠實な記録を、と心がけた。

 文の拙劣にして意をつくさぬところも多いが、日本歴史に類ひ少ない體驗の一端を殘し得て、特に若い人々に、祖國日本を考へ、日本人としていかに生くべきかを考へるよすがともなれば、筆者の幸ひ、これに過ぎるものはないとゝもに、戰死者への何よりの供養と考へるのである。恥を忍び、蠻勇を鼓し、敢へて禿筆をふるふ所以である。

 私は、昭和十九年六月に陸大を卒業し、八月より飛行第二七戰隊長として、比島決戰に參加し、ネグロス島にゐたが、昭和二十年三月、本土決戰に備へるために歸國轉進を命ぜられ、四月末に一旦祖國に歸つた。しかし翌五月には戰隊が解散せしめられ、獨り在滿洲の第二航空軍參謀を拜命して、六月一日、新京に着任した。

 そして同司令部地下の作戰室で終戰を迎へた時、あたかも二十九歳半であつた」と。

‥‥

「あとがき

 わが國にとつて、有史以來、例のない大東亞戰爭、中でも戰後のシベリヤ抑留の記録を、是非とも後のために書き殘しておきたい、といふことは、すでに在ソ中から考へてゐたが、歸國後の數年間は、いまだ彼の地に殘されてゐる同胞に、迷惑の及ぶことを顧慮して、手をつけることができなかつた。しかしその後、いたづらに時を過ごしてゐるうちに、いつしか歳をとり、病氣で倒れるなどして、かつての鮮明だつた記憶も、しだいに漠然としてきた。そのやうなとき、知友のすゝめもあつたので、最後の仕事として、これを實行することを決意し、かねてより積み重ねておいた資料を頼りに、掉尾の勇を鼓して書きつゞつた。

 三月十日に稿を起こして、毎日、原稿用紙五枚以上のノルマを自分に課し、國語辭典を片手にして、初めての仕事にとりかゝつてみたが、自序にも書いたとほり、漢字は忘れる、假名遣ひは新舊混交してめちやくちや‥‥われながら、「こんなはずではなかつたのに‥‥」とあきれ返るほどの、思はぬ難澁であつた。それでも、強いて推し進めるうちに、やがて四月二十九日、天長の佳節の朝、からうじて脱稿することができた。できばえの拙劣貧弱はさておき、ともかく念願を成し遂げた喜びは大きかつた。

 そこで年來、最も敬慕する平泉澄先生に、非禮不躾を顧みることなく、序文をお願ひしたところ、快く承諾して頂いて、折り返し御懇篤なお便りを頂き、感激した。お便りには、「よくぞ無事にお歸りになつたと、驚かされました。これ正しく神々の御助けです」とあり、更に、

神ならで 神ならずして 誰か能く かゝる窮地に 命助けむ

の一首が書かれてあつた。やがて身にあまる序文を頂くことができたのは、六月中旬。あまりのうれしさに感謝感激し、幾度となく繰り返し々ゝ々ゝ讀み、かつ泣く日を過ごした。

 やがて親友井星英兄を煩はして、或る出版社に出版を依頼したが、「この種の本は、近ごろは賣れないから‥‥」とのこと。とにかく一應檢討して頂くことにして、原稿を預けてきたが、なかゝゝ進捗せず、困惑してゐたところ、平泉先生より、わざゝゞお電話を頂き、「自分の方で出版を考へるから、それでよければ、もう出版社へ頭を下げることをやめて、原稿を送るやうに‥‥」との、ありがたい話。地獄で佛の譬へのとほり、一も二もなくおすがりすることにして、即日、ご指示どほり、伊勢市の田中卓博士のもとへ原稿を送ることにした。

 諸先生に、とんだご迷惑をかけることは、まことに心苦しく恐縮であるが、このやうにして幸ひにも世に出して頂けるのは、私にとつて無上の光榮、最大の幸福である。これはすべて平泉先生はじめ、諸先生のご厚情のお蔭であり、いかに御禮申し上げても、決して足りぬ氣持ちである。こゝに謹んで御禮の言葉を述べさせて頂くしだいである。

 戰後、經濟大國となり、經濟的大發展を遂げながら、反面に精神的亡國を叫ばれる今日の日本において、幸ひにしてこの書が、一人でも多くの日本の若人に讀まれ、光輝ある傳統を有する祖國日本を考へ、日本人たるの自覺と誇りとを囘復させる上に、微かな一助ともなれば、私の本望は、これに過ぎるものはない。

 最後に、偉大にして光輝ある悠久の祖國日本の永遠の繁榮と、皇國無窮の彌榮を祈念しつゝ擱筆する。

 なほ本書執筆に當たつては、仲間の土田正人君の「日次表」を參考にさせて頂き、要圖と挿繪は、私の簡單なスケツチをもとにして、舊友鈴木宣夫君を煩はして書き直したものであり、墨繪三枚は、友人の相澤達生畫伯を煩はしたものである。また本書の出版に當たつては、皇學館大學の田中卓教授・中島英哉氏に、絶大なご助力を忝うした。

 こゝに諸先生諸兄に、甚深な謝意を表するしだいである。

 昭和五十一年十二月 著者」と。
 
 

反神道に對する抗議文二題──宇内の神職へ訴ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 3月 6日(土)22時57分52秒
返信・引用 編集済
   大吼出版の丸川仁編集長より、反神道に對する重要なる抗議文を拜戴したので、こゝに紹介したい。

 民主幕府・神社本廳、全く藩屏たるを放棄せり。西暦保守、固より頼りとなり得ず。事、こゝに至つては、宇内の眞面目なる神職・神道人有志に訴へ、戀闕憂國の聲を擧げて戴くしかあるまい。是れ即ち神道の盛衰、君臣の嚴辨に關係す。不敬不忠、之を堪ふべくんば、何をか堪ふべけんや。懇祷して已まず矣。



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●『季刊・大吼』(令和三年新春号・大吼出版刊)の「皇道維新派だより/元首相合同葬に對して、各方面に」抄

 (令和二年)十月十七日に、伊勢の神宮では、天皇陛下御みずから田植ゑをされ、秋に收穫された新穀を、天照大御神に奉る神嘗祭が執り行はれる日であるが、新嘗祭に竝ぶ重要な祭儀の日に、かつて總理大臣を務めた者の合同葬が、内閣府・自民黨・元總理家との間に決められ、執行された。

 前日の十六日、大行社運動本部は、内閣府を通じて、總理大臣以下全閣僚・宮内廳長官、竝びに自由民主黨本部をはじめ全國都道府縣聯に、左記抗議文を通知したほか、十一月七日には、神社本廳をはじめ二十八ケ所の神社廳・神道政治聯盟、および同議員懇談會に屬する六十名に宛てゝ、「意見と質問」と題して通知したので、次に記す。



抗議文】(令和二年十月十六日。大行社運動部長・小澤直人。内閣府・内閣總理大臣以下全閣僚・宮内廳長官・自由民主黨國會議員あて)


「内閣府・自由民主黨・中曾根家の合意により、明日行はれる故中曾根康弘元總理の合同葬をめぐり、文部科學省が、國立大學や都道府縣の教育委員會などに弔意表明などを要望する趣旨の通知を出したことについて、物議を釀してゐますが、これにより、現體制が「戰後レジーム」を保守するものと判斷します。

 前記「弔意要望」は的外れで、本質は、伊勢において執り行はれる「神嘗祭」といふ、祭祀と合同葬が重なつたことにあります。合同葬が催される當日、天皇陛下は、勅使を御差遣なされて幣帛を御奉納されることから、貴殿等の配慮の缺如は、「占領體制」を引き繼ぐものでしかないと指摘します。

 神宮ホームページに、「年間千五百囘に及ぶ神宮の恆例のお祭りの中でも、最も重要なお祭りが神嘗祭です。神嘗祭は、その年に收穫された新穀を、最初に天照大御神にさゝげて、御惠みに感謝するお祭りで(中略)、神宮の年間の祭典は、神嘗祭を中心に行はれてゐるといつても過言ではありません。神嘗祭は、神宮で最も古い由緒をもち、天皇陛下の大御心を體して、天照大御神に新穀を奉り、收穫の感謝を捧げる祭典です」とあるやうに、國民の糧となる米に纏はる祭祀は 天皇陛下の大御心が添へられて執り行はれます。國旗を掲げて、國民總じてお祝ひすべき日に、國の機關に半旗を掲げ、弔意を求めようとする姿勢こそが、わが國の根幹を危ふくする思想無き政治の哀れな實情だと、お感じになられないでせうか?

 いかなる國においても、「信仰を大切にする」常識を持ち得るところ、明日の合同葬は、「日本の無信仰」を内外に宣傳する恥づべき所業です。‥‥」と。



質問と意見】(令和二年十一月七日。大行社運動部長・小澤直人。神社本廳・神道政治聯盟・神道政治聯盟議員懇談會あて。未だ囘答なき由)

「「神嘗祭は、皇室にもつながる大切なお祭りです。神社關係者にとつて特別な日。祈りと感謝といふ、日本人を象徴するお祭りの日とも言へます。中曾根元首相に弔意を表すのはいゝことだと思ひます。でも、一年三六五日あるのに、どうしてこの日なのでせうか。葬儀の日程をずらすことはできなかつたのでせうか。しかも日本中に、弔旗を掲げてもらふのでせう、心ある神社關係者は、戸惑つてゐると思ひます」。これは、十月十七日付「ニツケイ電子版」に載つた、「神社新報」元取締役・前田孝和氏の言です。

 私どもは、「神嘗祭」前日、内閣府を通じて、内閣總理大臣をはじめ全閣僚、自民黨本部をはじめ全國道府縣聯・宮内廳に、神嘗祭といふ重要な祭祀の日に、元總理大臣の合同葬を行なふことに疑問を呈しました。そこで神社本廳・神道政治聯盟・神道政治聯盟議員懇談會の所見、ご囘答をお伺ひします。

 當初、政府は、關連する機關に弔旗掲揚を求めたと確認しましたが、良識的判斷によつて、神嘗祭後の午後からの掲揚となつたと知らされました。

 天皇陛下をはじめ皇族方は、神嘗祭の後に執り行はれる直會に參會なされたのでせうか?

 貴廳・貴聯盟・貴議聯懇談會は、神嘗祭當日の合同葬に違和感を覺えることはなかつたのでせうか? または無關心を裝ひ、無視したのですか?

 神社界?の本質・根源とは、いかなるものですか?

 以上を伺ひたいので、御囘答頂ければ、ありがたく存じます。‥‥」と。



 神嘗祭の當日、天皇陛下の伊勢御遙拜の後に、弔旗を掲揚したと聞いたが、神社界こそが、陛下をお守りするための廣く厚い防壁ともなるべきところ、この體たらくは、國體の根幹に危機が及びつゝあることを感じざるを得ない。元總理家は別としても、内閣府・自民黨が、天皇陛下の祭祀を知らなかつたならば、國の根幹を知らないに等しく、知つてゐたならば、歴史と傳統を破壞しようとしたことになる。

 日本を愛し、大切に思ふのであれば、まづは歴史に觸れ、そこに培はれた文化を愛することだ。そして、さまゞゝな文化が生成化育される過程に、傳統が繼承され、精神を宿してゐると知ることである。そのすべてが、日本精神なのだ。その中心こそが、天皇陛下なのだと、覺醒することだ。政治家と自負する者たちは、まづ歴史から學びなほさなければなるまい。(大行社運動本部)


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●神社關係者に御通知【宮内廳長官はじめ全職員に、意見申し上げます】(令和三年一月十九日。大行社運動部長・小澤直人。宮内廳長官西村泰彦・全職員あて。宮内廳は、コロナ對策との理由から接見を拒むも、同日付同内容を、二月九日、内閣府官房總務課擔當官に手交)

「昨年十二月二十一日付『神社新報』は、「天皇陛下には 新年にビデオメツセージを 宮内廳/宮内廳は十二月十日、天皇陛下が、新年にあたり、國民に向けてビデオメツセージを發表される豫定であることを發表した」と報じ、本年一月十一日には、「聖上 新年の祭祀に出御 元日にビデオメツセージを/天皇陛下には、一月一日、年の初めにあたり、宮中三殿の隣に建つ神嘉殿の南庭で、四方拜に臨ませられ、伊勢の神宮竝びに山陵及び四方の神々を御遙拜になられるとともに、歳旦祭に出御され、三日の元始祭を御親祭になられた。また二日の新年一般参賀が、新型コロナウイルス感染症の影響でおこなはれないことに伴ひ、四方拜の時刻にあはせて、一日午前五時三十分、「新年ビデオメツセージ」が、宮内廳ウエブサイトに公開された」と記載しました。

天皇陛下のお言葉
  ↓↓↓↓↓
https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/86

と、有り難くも慈しみに溢れたお言葉を述べられたのですが、「時をも司る」とされる天皇陛下の「メツセージ」を、「四方拜の時刻にあはせて」公開されたのは、明らかに昨年收録したものですと暴露されたのは、いかゞなものでせうか?

 天皇陛下が、國民に應へられるのは、例年、四方拜・歳旦祭に始まり、新年祝賀の行事が濟んだ翌日の參賀において賜るもので、ビデオメツセージは、元日に儀式が結ばれた後、あるいは二日早朝に收録、あるいは二日の適した時間において、國民に向けて直接述べて頂くべきではありませんでしたか?

 もし宮内廳長官に「祭政一致」の理念があつたならば、天皇陛下が神拜をなされてゐる、まさに同時刻に、國民に前年收録したメツセージを出すことなどあり得ず、しかも總理大臣をはじめ、三權の長の新年祝賀をお受けになられる以前に、恐れ多くも陛下が、先んじて新年の挨拶をされるなどといふ、順逆不道に恐懼されたに違ひなかつたはずです。

 宮内廳は、「たつたいま、四方拜・歳旦祭で、皆のことも祈つてきたのだ」との大御心を拜しまつるべき、發表時刻の工夫をするべきではありませんでしたか? 長い時間をおかけになられる御祈念が終はるより前に、國民は、昨年收録濟みメツセージを拜見、拜讀させられたのです。‥‥

 天皇陛下のメツセージは、元旦五時半に、宮内廳ホームページで動畫が公開されるとの豫告は、その時刻より前に配達された朝刊に、全文が掲載されてゐたとなれば、「四方拜の時刻にあはせて」は、虚僞だつたといふことになります。また百歩讓つて、三權の長に先立ち、「天皇陛下が、國民に挨拶された」のであれは、憲法に記される「天皇は、儀式を行ふ」との規定に照らせば、儀式に先立つて、あるいは儀式と同時に、陛下の個人的な「メツセージ」を收録・發信したことにはなりませんか?

 これは「まづ神事、次に他事」といふ、神道における祭政一致の理念を崩壞させたことになり、政治的には、著しく儀禮に反したものにもなるとは思はなかつたのでせうか?

 加へて今月十五日の「歌會始の儀」は延期となりましたが、それでは二月あるいは三月の「月次歌會」は、どうなるのでせうか? 宮中の傳統行事として、年の始めに催されることから、「歌會始」と理解してをりますが、「月次歌會」との整合を圖らなければ、それは傳統行事の根據を失はしめ、つひには傳統破壞につながることを懸念するものです。

 これまで、陛下のお祭りは、國民の上にお立ちになられ、なほひたすら天を仰いで、祈りを捧げ給ふ御姿と拜してきたものが、もはや陛下は、國民の下位にをられ、だれよりも先に早起きをして、たゞゝゞ他人の幸福を祈るばかりの役囘りを演じさせられ、そのことを御公務であると、今の憲法下に御位を保證されるだけの御存在になつてしまつたのでせうか?

 宮内廳ならびに神社界によつて、大きく歪められつゝある隨神の道の復興、興隆こそ、戰後レジームからの脱却に他ならないといふことを肝銘されたく、意見申し上げる次第です」と。


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【參看/全國八萬の神社の御前に「神敵討伐」の幟旗を樹つ可し
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/3717

【追伸/安倍晉三内閣による閣議決定

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/444

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/445
 
 

御聖斷を仰ぎ奉る──畏命の臣從。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 3月 4日(木)21時49分49秒
返信・引用 編集済
  ●大前繁雄翁・中島英迪翁『皇室典範改正への緊急提言』(令和二年八月・新風書房刊)に曰く、

「まづ第一點は、『ご聖斷』の必要性です。今日まで、皇位繼承に關して、男系維持論と女系容認論とが對立し、それが排他的になり、感情的に相手側を認めないといふことでは、國論が二分され、日本國民の統一・團結が損なはれ、やがて世論が分裂状態になつてしまひます。それが元で國益が低下するのは、由々しき事態です。皇室のことは、まづ天皇陛下のご意向を尋ね、國家分裂を避けるためには、陛下のご聖斷を仰ぎ、國民は喜んでそれに從ふといふことが必要です。國民の多數決や政府の意思で決するには、問題が大き過ぎるのです。

 私は十三年前の平成十八年早春に、小泉内閣の女性天皇・女系天皇容認の結論に對して、東京日比谷公園野外音樂堂で開かれた集會のことを思ひ起します。降り頻る雨の中、傘をさして聞いてゐる聽衆の前で、一人十分程度の錚々たる男系主義論客たちが熱辯を揮ふ中で、たゞ一人、名越二荒之助先生が、短い言葉で、かう諭されたのを忘れることができません。

『皆さん、老人の知惠をお聞き下さい。このやうな國家の骨幹をなす日本國民の大問題を、小泉首相如きに任せることは出來ません。皆さん、天皇陛下に決めて頂きませう。これを決めるのは、天皇陛下をおいてありえません。

 この言葉は、今も私の心の中で響き續けてゐます。國民の一人として、意見を述べるのは結構なことです。でも、最終的に決定されるのは、天皇陛下であり、『詔を承りては、必ず謹め』の言葉通り、これに從ふのが、臣下の務めではないでせうか」と。



 愚案、中島英迪翁は、かつて『皇位繼承を考へる――男系主義への疑問』(平成十九年一月・イグザミナ刊)を發表して、其の戀闕憂國の情を吐露されたが、再び世に提言として、「世界神道」の理論を構築して、謹みて問うてをられる。

 抑も皇位繼承の如き雲上至重の御事は、皇祖に答へ奉る所の天子樣御一人の專權事項にして、臣子の分を越えて與り奉らざる所、而して大權干犯は、絶えて臣子の許さゞる所、床屋談義は、嚴に愼しむべき所であること、勿論である。有志には、是非とも御熟讀を乞ひ奉る。
 
 

皇室の尊嚴を護る法律。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 2月23日(火)22時03分51秒
返信・引用 編集済
  我が大君の大御代を榮えしめ給へ



 皇室の尊嚴を護る法律は、今日、是非とも必要である。風流夢譚事件の後、法案は國會審議にかけられたが、期間切れにて、未だ日の目を見てゐない。泰西流の所謂「言論の自由」が、痛く好きな人が衆い爲めであらうし、謹愼の徳目を喪つた人非人(人にして人に非ざるもの、即ち禽獸)の跳梁跋扈の爲めであらう。

 皇族に對し奉る名譽毀損・侮蔑・犯罪行爲に關しては、内閣總理大臣が、唯一の告訴權者とされてゐるが、遺憾ながら不敬罪なき進駐憲法では機能せず、政府は「例へ名譽毀損・侮辱罪に該當するとしても、告訴して裁判が爲される過程において、かへつて皇室にいらざる迷惑の及ぶ恐れもあり、告訴については、愼重を期すべきものと考へる」(内閣參質七四四第四號『皇室の尊嚴維持に關する答辯書』)との見解を持し、この認識は、進駐隷下の歴代政府の一貫した考へである(平澤次郎翁『月刊言論』平成元年六月・言論同志會刊)。

 皇室に關する記事類のコメントは、現代、投稿字數によつて日錢を稼ぐ者もあつて、本當に酷いもの、表現筆致の同趣なる、當に人非人の所業、妖魔の工作と謂ふべく、せめて記事類のコメント欄は、設定不能にしては如何かと存ずる。メデイアの謹愼ならむを乞ふこと、愈々切なり矣。
 
 

提言が削除される不條理。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 2月22日(月)23時09分34秒
返信・引用 編集済
   下記のYouTube 「動畫は、YouTube 利用規約違反のため削除」された由、何處が問題なのだらうか。削除を申請したのは、果たして誰ぞや。



●井上正康博士「新型コロナの疑問・質問に答へます!」――松田政策研究所から【ニコニコ動畫版
  ↓↓↓↓↓
https://www.nicovideo.jp/watch/so38313419
 
 

對武漢風邪のワクチン樂觀論を憂ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 2月21日(日)15時38分43秒
返信・引用 編集済
   天長節の前に、祓へ給へ、清め給へ。

 何度も警告したい。メデイアに出演する專門家の對武漢風邪のワクチン樂觀論に惑はされること勿れ。



●井上正康博士「新型コロナの疑問・質問に答へます!」――松田政策研究所から
  ↓↓↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=tcfX4eq-T60



(參考)
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/511
 
 

武漢風邪を討て――政府・知事・醫師會・マスメデイアに騙されること勿れ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2021年 1月30日(土)16時15分33秒
返信・引用 編集済
   節分を前に、祓へ給へ、清め給へ。

 下記は、斷片的知識を總動員すれば、素人でも納得し得るものでせう。夙に武田邦彦博士のデータに基づく啓蒙に因つて知り、更に上久保靖彦博士や井上正康博士等の眞摯なる論に接しました。やうやく機も熟して參りました。政府への「提言」です。是非とも御視聽ください。



●井上正康博士「新型コロナの眞實と對策」――松田政策研究所から

【その一】
https://www.youtube.com/watch?v=vWg4YpkClU8

【その二】
https://www.youtube.com/watch?v=ZF0EyTafiOA

追伸
【その三】
https://www.youtube.com/watch?v=kypR8PT983w
 


●松田學氏の提言
  ↓↓↓↓↓
https://ameblo.jp/matsuda-manabu/entry-12653686255.html

 松田學氏の曰く、「新型コロナワクチンは、解決にならない。今囘は、遺傳子を注入する人類初のワクチン。
一、集團免疫を獲得してゐる日本人の多くは、既にワクチンを接種したのと同じ。
一、今囘の遺傳子ワクチンは、接種者の遺傳子を改變する可能性を否定できない――歐米とは、ウイルスの實害が低い日本で、そのリスクを冒す必要はない」と。

 亦た曰く、「間違つた認識を國民に植ゑ付ける方々、間違つた政策をとる政權、そちらに誘導して、自分たちを守らうとする醫療界、自らの不作爲で、醫療崩壞の懸念を生じさせておきながら、國に責任を押し付けるタレント知事たち、彼らが失はせた命と國民生活のことを思ふと、こゝで義憤をかまさねば男ぢやない、そんな氣持ちです」と。
 
 

謹白。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年12月28日(月)22時22分17秒
返信・引用
  服忌中に付
年末年始の辭を御遠慮仕候


 本年六月 岳父が歳九十一を以て
 又十一月 岳母が歳八十九を以て 歸幽いたしました
 本年中に賜りました御厚誼御高配に 深謝いたしますと共に
 明年辛丑も 變らぬ御誘掖御教導の程 只管ら御願ひ申し上げます

令和二年庚子 黄冬 於玄月書屋 備中處士 敬白

 
 

詔書渙發の聖道を懇祷し、大政翼贊の大道を切拓け。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年12月14日(月)15時39分52秒
返信・引用
   詔書起草に於ける、かつて閣議の空氣を想起して、國家の大事に關して、現代に於ける復活を期待する。詔書の渙發は、決して時代錯誤でも無ければ、不可能事でもあるまいと、獨り夢想懇祷する。權謀に終始し利權に執着する與野黨も、詔書の大御前に心を一にする、是れ、大政翼贊の骨髓である。



●葦津珍彦翁『故吉田茂大人の追想』(創刊十周年紀念出版『神社新報編集室記録』昭和三十一年五月・神社新報社刊に所收)に曰く、

「(神社本廰總長・吉田茂)先生の詔書に關する教説について述べておきたい。これは、神社新報社で「詔書研究」をした際に聞いた話である。先生は語られた。

「私(吉田翁)が閣議に列して、詔書の起草に奉仕した經驗から云ふと、詔書の起草の時ほどに、『皇位』の神聖を痛感することはない。形の上で云ふと、詔書は、内閣書記官長が起案して閣議に提出する。各國務大臣が、それゞゝに意見を述べて、修正・加筆・削除がされる。最後に決定案ができて、内閣から、陛下の御裁可を仰ぐ。御裁可を仰いだ後に、修正されたと云ふやうな事は、私の知る限り、帝國憲法實施以來、かつてない事と思つてゐる。これを外側から形ばかり見てゐると、閣議の決議書と同じではないかと云ふやうな淺薄な感想を有つ人もあらうが、これは精神的には、全く別のものである。

 書記官長も、詔書の起案には、二三の助言者を求めて執筆するが、その時の心境は、全く平常とは異なるものとなる。自分と云ふものを考へない。陛下の御心境、御立場を拜察しての歴史的文章であることを考へてゐるので、平素には思ひも及ばぬやうな高い心境に到達する。

 閣議で審議される時も、同樣である。何時もの閣議では、閣僚は、各省長官として、又は一政派の代表としての意識に支配されてをり、策略的な駈引きの空氣が、議場を支配する。だが、詔書の審議の時には、それらが一切消え去つてしまつて、すべての閣僚が、いかにして崇高な大御心を傳へるかと云ふ一點に、眞劍になる。あの大臣が、この大臣が、こんなに崇高な精神に思ひ及ぶのであらうか、驚嘆するやうな發言をする。

 詔書起草の時の閣議は、平常の閣議の際とは、全く別人の會議のやうな空氣に支配される。僕は、詔書審議の閣議には、皇祖皇宗の神靈が臨ませられ、閣僚が全く大御心に歸一して動いてゐるのを、決して疑はない。詔書は、正しく大御心の表現であると信ずべきである。固より國務大臣の副署は、その輔弼を證するものであるが、詔書を以て内閣の決議書のやうに考へるのは、斷じて誤りである。詔書起草の閣議を經驗した人は、皇位の精神的威徳の、いかに偉大なるものであるかを、決して疑ひ得ないであらう。云々」と。

 この吉田先生の言葉を、戰後派の若い人人が、どの程度に理解し得るかを、私は知らない。吉田先生は、鈴木終戰内閣の政策に對しては、極めて批判的であつたやうである。だがそれは、終戰の大詔を拜する吉田さんの心理には、何の影響もなかつた。終戰の大詔を捧讀する吉田總長は、詔書の中に、たゞ一途に大御心を拜して、感涙にむせぶのみであつた」と。



●葦津珍彦翁『祭祀と統治の間』(昭和四十六年六月・神道政治聯盟刊)に曰く、

「國家の大事を決するときには、天皇の詔書によつて明示された。政策のプラン・メーカーは、權謀の泥沼の中にあつて、いろゝゝの動機によつて動かされ、さまゞゝの策謀をめぐらせた。しかしそれが最終的に、國是として定まるのには、それが由緒正しき、神聖なる天皇の詔として相應しいものとなるまで、淨められ高められねばならなかつた。天皇國日本の詔書は、つねに神聖なる道義の線から外れることは許されなかつた。立法や行政の事ばかりでない。司法にしても、同じである」と。
 
 

「二矢傳説」。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年11月24日(火)16時07分5秒
返信・引用
   憂國五十一年忌を前に、澤木耕太郎氏『テロルの決算』(昭和五十三年九月・文藝春秋刊)を再讀し畢ぬ。必然奇跡の暗殺、神の憐憫を埀れ給うた行爲、感慨、新たなり。ノンフイクシヨンの金字塔、未讀の方は、文庫も出てゐますので、御一讀を御勸め申し上げます。「序章・傳説」に曰く、

「事件後しばらくして、右翼の間に、ひとつの説が流布されるやうになつた。それは、テロルの、最後の瞬間にまつはるものだつた。

 山口二矢は、淺沼稻次郎を、一度、二度と刺し、もう一突きしようと見構へた時、何人もの刑事や係員に飛びかゝられ、後から羽交ひ絞めにされた。その瞬間、ひとりの刑事が、二矢の構へた短刀を、刃の上から素手で把んだ。二矢は、淺沼を刺したあと、返す刃で自らを刺し、その場で自決する覺悟を持つてゐた。しかし、その刃を握られてしまつた。自決するためには、刀を拔き取らなくてはならない。思ひきり引けば、その手から拔けないこともない。しかし、さうすれば、その男の手は、バラヾヽになつてしまふだらう。二矢は、一瞬、正對した刑事の顔を見つめた。そして、つひに自決することを斷念し、刀の柄(つか)から靜かに手を離した‥‥」と。

 「終章・傳説、再び」に、烈士十七囘忌の前日、其の刑事の掌をかつて診たと云ふ整形外科の醫師の診斷、即ち「掌(ノーマンズ・ランド)に一本の細い線のやうな痕が殘つてゐるだけの疵」と呼應させて、無限の餘韻を漂はせてゐる。山口二矢烈士を仰ぐ祭典が、今も續けられてゐる、一つの所以である。
 
 

奉祝、立太弟の御禮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年11月 8日(日)12時52分44秒
返信・引用 編集済
  ■神宮・神武天皇山陵・昭和天皇山陵へ勅使發遣の儀(令和二年十一月五日)

■神宮へ奉幣の儀(以下、令和二年十一月八日)

■賢所・皇靈殿・神殿へ親告の儀

■神武天皇山陵へ奉幣の儀

■昭和天皇山陵へ奉幣の儀



■立皇太弟宣明の儀(於皇城宮殿松の間)

〇勅語

 本日、こゝに、立皇嗣宣明の儀を行ひ、皇室典範の定める所により、文仁親王が皇嗣であることを、廣く内外に宣明します。

〇皇太弟殿下の奉答

 立皇嗣宣明の儀を舉げて戴き、誠に畏れ多いことでございます。皇嗣としての責務に、深く思ひを致し、務めを果たして參りたく存じます。

〇首相菅義偉の壽詞

 謹んで申し上げます。天皇陛下には、本日、こゝに、立皇嗣宣明の儀を舉行され、文仁親王殿下が皇嗣であることを、内外に宣明されました。一同、心から御祝ひ申し上げます。

 皇嗣殿下は、妃殿下と共に、天皇・皇后兩陛下や上皇・上皇后兩陛下を御支へになられ、被災地御訪問や國際親善を始め、皇室の御活動に眞摯に取り組まれて來られました。國民は、かうした御活動を通じて、兩殿下が、人々に親しく接せられる御姿に、敬愛の念を抱いてをり、かうして禮が舉行されますことは、こぞつて喜びとする所であります。こゝに、あらためて皇室の一層の御繁榮を御祈り申し上げます。



■皇太弟殿下に「壺切御劍」親授の儀(於鳳凰の間)



■皇太弟殿下、拜受「壺切御劍」と共に、賢所・皇靈殿・神殿に謁するの儀



■朝見の儀(於松の間)

〇皇太弟殿下の謝恩の辭
「本日は、立皇嗣宣明の儀を舉げて戴き、誠に畏れ入りました。皇嗣としての務めを果たすべく、これからも力を盡くして參りたく存じます。こゝに、謹んで御禮申し上げます。」

〇天皇陛下
「本日、立皇嗣宣明の儀が行はれたことを、誠に喜ばしく思ひます。これまでに培つて來たものを十分に活かし、國民の期待に應へ、皇嗣としての務めを、立派に果たして行かれるやう願つてゐます。」

〇皇太弟殿下の謝恩の辭
「本日、立皇嗣宣明の儀を舉げて戴きましたことを、誠に有り難く存じます。こゝに、謹んで御禮申し上げます。」

〇皇后陛下
「この度の御儀が、滯りなく行はれましたことを、喜ばしく思ひます。どうぞこれからも、御健やかに御務めを果たされますやうに。」



■皇太弟殿下、神宮へ御參拜(以下、豫定)

■皇太弟殿下、神武天皇山陵へ御參拜

■皇太弟殿下、昭和天皇山陵へ御參拜



 拜承し謹みて祝ひ奉り、皇室の彌榮を熱祷し奉る。吉田左兵衞佐卜部兼好翁『徒然草』第一段に曰く、「御門(みかど)の御位(おほんくらゐ)は、いともかしこし。竹の園生の末葉(すゑば)まで、人間の種(たね)ならぬぞ、やんごとなき」と。
 
 

十一月二日に於ける壯烈にして清純なる魂。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年11月 2日(月)19時12分33秒
返信・引用 編集済
   十一月二日は、山口二矢(おとや)少年が、日本社會黨中央執行委員長・淺沼稻次郎に對し、斬奸の劍を振つて天誅を下し(昭和三十五年十月十二日、帝都日比谷公會堂にて立會演説中)、淺沼の死を確認した上で、東京練馬の少年鑑別所獨房の壁に「七生報國」・「天皇陛下萬歳」の言葉を、齒磨粉を水で溶き、絶筆として指を以て認め、足掛け十八年の生涯を自ら閉じた日である。

 此の山口二矢烈士の舉たるや、獨力、皇國の赤化を防ぐと云ふ神業を成し遂げたるものと謂ひつ可く、來嶋恆喜烈士と好一對、其の衝撃・影響は、蓋し尠く無い。



●山口二矢烈士六十年祭齋行
  ↓↓↓↓↓
https://twitter.com/haibutsukishaku/status/1323512919817007104



●山口二矢顯彰會編『山口二矢供述調書――社會黨委員長淺沼稻次郎刺殺事件』(平成二十二年十一月・展轉社刊)に曰く、

「淺沼委員長を倒すことは、日本のため、國民のためになることであると、堅く信じ殺害したのでありますから、やつた行爲については、法に觸れることではありますが、私としては、これ以外に方法がないと思ひ決行し、成功したのでありますから、今、何も悔いるところはありません。

 しかし現在、淺沼委員長は、もはや故人となつた人ですから、生前の罪惡を追求(ママ)する考へは毛頭なく、たゞ故人の冥福を祈る氣ちであります。また淺沼委員長の家族に對しては、經濟的生活は安定されてゐるであらうが、如何なる父・夫であつても、情愛には變はりなく、殺害されたことによつて、悲しい想ひで生活をし、迷惑をかけたことは事實でありますので、心から家族の方に申譯ないと思つてゐます」と。



 愚案、否、淺沼が國賊・賣國奴であるならば、其の「冥福(の向上)を祈る」は可ろしいが、斷々然として其の「生前の罪惡を追及」しなければらぬ。「死ねば皆な佛」とは、戲言に非ずんば、妖魔の囁く所である。

 靈魂は不滅であること、大原則ではあるが、神界では、罪状の次第によりて、例外的に其の靈魂をも消滅させることもあると聞くし、惡魔界の中、尤も下界を「罰靈界」とて、惡魔中の上等界へも、佛魔界へも入ることを許されざる苦界あつて、蘇我馬子・蘇我入鹿・弓削道鏡・北條義時・北條高時・足利高氏等は、尤も苦しみを受くると云ふ。淺沼稻次郎の靈魂、果たして如何ぞや。
 
 

明治神宮御鎭座百年、地に伏して懺悔慚愧、勝へざらむと欲す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年11月 1日(日)16時45分50秒
返信・引用
  【陸海軍人に賜はりたる勅諭】 明治十五年一月四日

 我が國の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある。昔、神武天皇、躬づから大伴・物部の兵どもを率ゐ、中國のまつろはぬものどもを討ち平げ給ひ、高御座に即かせられて、天下しろしめし給ひしより、二千五百有餘年を經ぬ。此の間、世の樣の移り換るに隨ひて、兵制の沿革も、亦た屡々なりき。古は天皇、躬づから軍隊を率ゐ給ふ御制(おきて)にて、時ありては皇后・皇太子の代らせ給ふこともありつれど、大凡そ兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。‥‥

 夫れ兵馬の大權は、朕が統ぶる所なれば、其の司々をこそ、臣下には任すなれ、其の大綱は、朕、親ら之を攬り、肯へて臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで、篤く斯の旨を傳へ、天子は文武の大權を掌握するの義を存じて、再び中世以降の如き失體なからんことを望むなり。

 朕は、汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は、汝等を股肱と頼み、汝等は、朕を頭首と仰ぎてぞ、其の親は、特に深かるべき。朕が國家を保護して、上天の惠に應じ、祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が、其の職を盡すと盡さゞるとに由るぞかし。我が國の稜威、振はざることあらば、汝等、能く朕と其の憂を共にせよ。我が武、維れ揚りて、其の榮を輝さば、朕、汝等と其の譽を偕にすべし。汝等、皆な其の職を守り、朕と一心になりて、力を國家の保護に盡さば、我が國の蒼生は、永く太平の福(さいはひ)を受け、我が國の威烈は、大に世界の光華ともなりぬべし。



●橘曙覽先生の歌

○天皇(すめらぎ)に 身もたな知らず 眞心を つくしまつるが 吾が國の道

○天皇は 神にしますぞ 天皇の 勅(ちよく)としいはゞ かしこみまつれ

○太刀佩くは 何の爲ぞも 天皇の 勅(みこと)のさきを 畏まむため

○愚にも まどへるものか 大勅 たゞ一道に いたゞきはせで

○勅に そむくそむかず 正し見て 罪の有り無し うたがひはらせ

○大皇に 背ける者は 天地に いれざる罪ぞ 打ちて粉にせよ

○皇國の 御ためをはかる 外に何 する事ありて 世の中にたつ



 愚案、代々木に坐す大神樣、御鎭座百年を迎へ奉り、軍人勅語を拜承して、再び國體の失體を眼の當たりに視、皇國臣民は、地に伏し懺悔、殆んど堪ふ可からざる所、慚愧、必ず期する所ある可きなり。嗚呼、國威、大に世界に光華せず、國民、永く太平の幸福を受けざる所以、正にこゝに在り。
 
 

青山清宮司の復權。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月26日(月)22時58分11秒
返信・引用 編集済
   下山陽太主から、堀雅昭氏『靖國神社とは何だつたのか』(令和二年八月・合同會社宗教問題刊)の紹介を戴いた。堀氏とは、小生の若かりし時、白山神社の崎門祭にて御會ひし、新幹線にて小生が岡山に歸るまで御一緒いたし、懇談をいたゞいた懷しい經驗がある。當時は山口縣の高等學校の先生で、非常に愉快な御方でありました。

 堀氏は、青山清・靖國神社初代宮司の來孫の由だけあつて、青山清宮司の歴史を掘起して餘蘊なく、執念さへ感じる。たゞ明治維新を論ずるに、「革命」の語を用ゐてをつて、少なからず意氣消沈したものゝ(堀氏は、嚴密な意味での平泉學派では無いのであらう)、郷里山口縣に見捨てられ、無視された感がある青山清宮司の復權を圖り、また防長兩州の爲めに大いに氣を吐いた好著、殊に「付録・二人の宮司(徳川康久・小堀邦夫)は、なぜ靖國(ママ。「靖國神社」と書す可し矣)を去つたのか」には、留飲を下げる思ひである。有志には、是非とも御一讀を御勸めしたい。其の掉尾に曰く、



「『週刊新潮』の令和元年七月二十五日號が、「創建百五十年靖國神社の神をも恐れぬハレンチ動畫」と題し、靖國神社の近くのスナツクで開かれた歡送迎會で、五十五歳の妻子持ちの祭儀課長・權禰宜が、同席の女性職員にセクハラをしたと報じたのだ。證據となる動畫も、インターネツト上で公開された。

 それで終はりではなく、十月十六日には、講談社のウエブ・マガジン『現代ビジネス』で、ジヤーナリストの時任兼作氏が、「靖國神社激震、をさまらぬ内紛状態の全内幕」と題し、祭儀課長のセクハラ記事などは「かはいいもの」と語つた上で、「不倫大國で、役職付職員の『社内不倫』が横行してをり、さらに誰もそれを正さうとしない」といふ、靖國神社の「著しい綱紀の亂れ」を公表したのである。かうなると、もはや創建百五十年を祝ふどころではない。

 次々と明るみに出る不祥事の奧底から、神々の怒りの聲が聞こえてゐた」と。



 嗚呼、惡因惡果、毫厘も違はざるなり。不敬不義を犯す所の神職・職員よ、靖國大神の神怒、座して待つがよい。萬一、中今に無事なれば、所替へして、宜しく大國主大神の裁定を受くるべし矣。
 
 

超短編映畫『忘れてはならない歴史がある』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月19日(月)13時57分13秒
返信・引用 編集済
  【特別番組】超短編映畫「忘れてはならない歴史がある」作者・鈴木田遵澄さんに聞く【靖國神社/令和二年秋季例大祭記念】
  ↓↓↓↓↓
https://twitter.com/kohyu1952/status/1317862099062644737


 鈴木田主の映畫、著名な方が紹介してくれて(上記三枠目のユーチユーブの動畫)、小生も嬉しく存じます。有志には、是非とも御視聽ください。
 
 

かみみわざのおそろしく ただしきをこそまもりますなれ

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2020年10月17日(土)00時32分42秒
返信・引用
  嘉日に不祝儀を實行するは、魔尊の常套。奸賊の正體「青い眼のニッポン人」に返し矢中るべし。  

神敵討伐の幟旗。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月16日(金)10時32分53秒
返信・引用 編集済
  ●橘曙覽先生の歌

大皇に 背ける者は 天地に いれざる罪ぞ 打ちて粉にせよ



 下山陽太主の曰く、「菅義偉は、「神甞祭」と同じ日に、中曾根康弘の葬儀を擧行しようとしてをり、もはや「勤皇の大義」より、「自民党の面目」を最優先にする權力固執主義者である。安倍晋三は「元號制定權」を干犯し、菅義偉は「祭祀大權」を干犯する。これこそが、「ポツダム保守」の實態ではなからうか」と。
  ↓↓↓↓↓
https://twitter.com/haibutsukishaku/status/1316744431068823557

 皇家の大祭たる重事日に、弔意表明だ、と。死して猶ほ醜名を殘すか、宰相中曾根。民主幕府の僭上逆意、目に餘ると謂ひつ可し矣。たとひ善政を施すこと有るも、其の罪、償ふこと能はず。嗚呼、大日本史、恐ろしく候へば、菅奴天誅、討つて粉にすと雖も、斷々然として赦す可からざるなり。

 神道政治聯盟とか申す團體があるさうだから、大いに「聲明」を出して、其の罪を問はねばならぬ。そろゝゝ覺醒して、かゝる政權とは絶縁せよ。全國八萬の神社の御前には、「神敵討伐の幟旗」を樹つ可し。もう、滅茶苦茶だ。之を企つ自民黨と云ふ賊徒、之を認むる菅義偉と云ふ奸奴、神罰天譴を恐れよるがよい。

 だから申したではないか、總理大臣や國會議員團は、靖國神社の境内に入ることを許すな、と。靖國神社は、政府ならびに其の關係者の參拜ないし奉幣を、爾後は斷固拒否せよ。神宮・神社への不敬は、祭神に對し奉る不敬と知れ。かゝる不祥事の出來は、大不敬を犯す所の「奸賊の正體」を見据ゑる契機と爲さねばならぬ。
 
 

大いに歌へ、我が「軍歌」。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月12日(月)09時47分34秒
返信・引用
  「「愛國歌」・「國民歌」・「時局歌」・「軍國歌謠」などはあつても、「戰時歌謠」といふ表記は、(戰爭中に)見かけたことがありません。‥‥戰時下音樂の核心部分である軍歌だけ、歴史的になんの根據もない「戰時歌謠」といふ(事實上)戰後の造語で上書きするのは、欺瞞以外のなにものでもありません」と。
  ↓↓↓↓↓
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20200921-00193785/

 愚案、平和の時代は、戰爭の時代より吉いに決まつてゐる。然し戰爭中の歴史を、恣意的に創作する者を、小生は憎む。甚だしく之を憎む。マスコミは、朝ドラにせよ、大河ドラマにせよ、何に於いても、架空の人物を設定してまで、平和「至上」主義の言靈をはびこらせることに懸命である。殊に大東亞戰爭を「太平洋」戰爭と稱する者、即ち戰後の言語空間に諂ふ者は、之を讀むことを欲せず、之を信用すること能はぬ。

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/443
 
 

著作權について。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 9月 3日(木)16時34分20秒
返信・引用 編集済
   或る御方より、御報告を拜受いたしました。

「(泉水隆一監督映画『凛として愛』の)予告編だけしか見ることできません。1から7は再生されず、動画を再生できません。この動画に関連付けられていた YouTube アカウントが停止されたため、この動画は再生できませんと、表示されています。英語版は、全て再生できます。停止されたという事は、反日勢力の仕業でしょうか? 日本のために、本当のことを言うことは、アカウントを停止され、コメントの削除を要求されています。それとも他の理由があるのでしょうか? 花時計のは、再生されます」と。

 著作權の問題であると、愚考いたします。
  ↓↓↓↓↓
https://ameblo.jp/rintositeai/

「愛国女性のつどい花時計では、泉水隆一監督作品・映画「凛として愛」の拡散活動を行っております。この映画には著作権があり、生前泉水隆一監督といくつか約束をし、愛国女性のつどい花時計の藤真知子が、映画の拡散、DVDの頒布について許可を頂きました。

 泉水隆一監督は、平成二十二年に他界されました。現在は泉水監督の権利を引き継いだご家族の許可を頂き、愛国女性のつどい花時計で継続して拡散活動を行っております。頒布代金は、上映会開催費用・有料告知費用・凛として愛拡散に関わる印刷代金(DVDジャケット・チラシ・その他)・拡散版DVD(無料配布用)および愛国女性のつどい花時計の活動を継続するための費用に使われています。

 「この映画の著作権は、問題がない」との表記をし販売しているネットショップがあるという情報がありました。また代理店販売のような事をしようとしているという噂も聞いています。「泉水隆一監督が拡散を願っていた、だから販売しても問題ない、このDVDを売って利益を得られる」というような事を、サイト上で書いているようです。もしそのような事がまかり通るのであれば、他の映画に関しても、映画監督が拡散を願ったら、コピーして販売してもいいという事になります。誰の許可も得ずにコピーし、値段を付けて販売するという事は許されないことです。

 また「花時計から許可を得た」といって、ネット販売している人もいるようですが、花時計が関わる上映会等以外で、DVDの頒布をする事はありませんし、またそういう許可を出す立場にもありません。花時計とはまったく関係ありません。そういうネットショップがありましたら、気を付けて頂きたいと思います。

   愛国女性のつどい花時計 藤真知子」と。



 小生も、夙に之を把握、氣づいてからは、映畫『凛として愛』を紹介する場合は、必ず「愛國女性のつどひ 花時計」樣のリンクを使用させて戴いてをります。著作權者ないしは第三者の指摘に依つて、管理者または氣付かれたアツプ御本人による削除(かつて小生の指摘によつて、自ら削除された御方もをりました)と拜察されます。なほ「反日勢力の仕業」と御疑ひの御由、御心配には及びますまい。或は監督を追放した靖國神社執行部、ないし「靖国保守」の所業かも知れませんね(笑)。

 因みに小生の編集『靖國神社の眞實』(洛風書房刊)も、「一兵士(即ち泉水隆一監督)の出版、著作權は、備中處士さんが好きに使つてよい。ただこの著作權といふのは、『人格權』といふものがあつて、他人に讓渡できないと、言はれたことがあつた。著作權は、ともかくも、備中さんに全部讓渡しますから、どうぞ、お好きなやうに」(平成二十年九月十四日附「備中處士に與ふる書」)ならびに監督の奧樣の御容認に因つて、自費出版させて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/l50
 
 

Re: 武甕槌「祓ひ太刀」を復活させた劍臣。

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2020年 8月18日(火)01時11分41秒
返信・引用 編集済
  備中處士樣 硯北


鹿島神流、鹿島新當流、鹿島神傳直心影流に於ては今日でも祓ひの太刀や靈劍傳は傳承(又は復傳)されてゐるやうですが、一部の傳書から仄聞するかぎりは橘家神道の傳が入つてゐたりして些か後世の混入の印象あるものの、祓ひの太刀の武道応用が袈裟斬りとのことですから、本來は早九字の樣なものではないかと拜察してゐます。

宮嵜某は、川面凡兒翁の幣祓を太刀により行ふものが小泉先生の祓ひと書いてゐますが、禊流の幣祓は四維十表の祓ひであり、八方に限りません。唯、幣は鉾であり、劍でもあるとして、其の理合を體得すべきことは教へられました。他の流派ではも、或は神樂でも劍祓として八方を祓ふことはありますから、此處は、小泉先生が靈的に拜受された式と理解するのが穩當な樣ですね。

なほ、神武參劍王の謂ひですが、小泉先生は舊南部藩のご出身で、憚りありますが靈的な南朝の嫡流を自任されてたと云ふ話もあり・・・細かい點では色々と・・

いづれにせよ、皇室奉護の御爲の劍祓による御奉皇は洵に大功であり、我らも何れにかよつて此れに倣ふべきと存じまして、先生と敬慕申し上げてゐる次第です。

はつまつかひ 拜
 

武甕槌「祓ひ太刀」を復活させた劍臣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 8月18日(火)00時39分18秒
返信・引用 編集済
  はゆまつかひ樣 硯北

 小泉太志命大人は、小生の愚鈍なる、斷片的にしか承知せず、新刊の『天皇防護──小泉太志命・祓ひ太刀の世界』によつて、聊か要領を得た次第であります。

 天行居との關係でありますが、同書に、

「滿井は、靈的國防を説いた神道天行居の友清歡眞に共鳴し、山口の岩城山にある天行居の道場で、天關打開期成會の同志とともに參籠したことがあつた。物量に劣る日本が勝利を收めるには、國民が靈的な力に目覺め、一致團結して、御劍による靈的國防に取り組まねばならないと、情熱的に訴へた。小泉も滿井の紹介で、友清に會ひ、記念に兩刃の短劍を授與されたことがある。『この靈劍を使へるのは、小泉先生しかない』といつて、手渡されたといふ。その刀身一尺の短劍は、いま道場の祭壇の中央に、フツノミタマの靈劍の形代として安置されてゐる」

とありますが、小泉靈士に、御劍による祓ひを集中的に行へるやう、帝都世田谷の「天關打開神武參劍道場」を提供した滿井佐吉陸軍歩兵中佐(皇道派。のち衆議院議員)については、宮崎貞行氏は、好意的に書いてをりません。

 なほ小泉太志命大人の言葉に、

「淨財であつても、どんな人でも、お金を出すときには、多少は惜しいと思ふものである。奉納されたお金には、その氣持ちが、しばらく籠つてゐるから、それが拔けきるまで、開けてはならないよ」(すぐに開けると、拔け出た『惜しみ』の邪氣に感染してしまふの謂ひ)

とあつて、感銘を受けました次第です。



追伸

 重ねての御教示、難有く拜承いたします。肝に銘じます。
 
 

Re: 天皇の彌榮を祈り奉る靈的防護。

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2020年 8月17日(月)23時48分35秒
返信・引用 編集済
  > No.3632[元記事へ]

> No.3632[元記事へ]

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/37


天行居との接點は滿井佐吉との關係からですが・・天行居と滿井が決裂して天關打開期成會での活動から後に神武參劍道場へと至ります。
此の時の決裂の原因は主に滿井の政治志向ですが、小泉先生を幹事長に据ゑようとした事に恐れをなしたとも。

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/29


何度か書きましたが、牽制があつて書き込み出來ませんでしたので、此處までとします。

是は下拙ぐらゐしか書けぬと思ひますが、不思議なことに、小泉太志命は靈的共産黨の金井南龍の「さすら」誌の多大な經濟的支援者でありました。
更に、五千言坊玄通子の著作には、仙道連の連友たる護國の劍士としても登場します。其の他、神仙道の高名な道士とも驗比べして悉く勝利したとか・・
隠れた話が多いです・・ 宮嵜某と云ふのもまがひ者で、見てきたやうに書いてゐますが、信憑性は薄い印象です・・。
 

天皇の彌榮を祈り奉る靈的防護。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 8月17日(月)21時33分15秒
返信・引用 編集済
   今泉定助大人の懇請に因つて、陸奧八戸より上京、數へ二十歳にして客分として遇され、戰後は志摩國磯部の伊雜宮の御前に隱逸した、神武參劍(みつるぎ)道場[祭壇中央には、友清歡眞大人より授與されし刀身一尺の兩刃の短劍を、布都御魂靈劍の形代として祀れり]の鹿島神流の劍聖・小泉太志命(たいしめい)大人は、備前則宗「菊一文字」を以て「稜威八方鎭劍」を、一日に三萬三千囘振り續けること五十三年、皇室に降りかゝる邪氣・邪靈を祓ひ、只管ら天皇の彌榮を祈り奉つた神人である。



●宮崎貞行氏『天皇防護──小泉太志命・祓ひ太刀の世界』(令和二年一月・ヒカルランド刊)

 昭和二十年の末のこと、靖國神社の神官・横井時常(後に近江神宮宮司)が、弱り切つた表情で、小泉を訪ねてきて懇願した。

「靖國神社で、いざ、祭典を始めようとしますと、神前の貢ぎ物の三寶が飛ばされ、どうにも進行できず、恐ろしうございます。なんとか、お鎭め願ひたう存じます」

 早速、太志は靖國神社に出かけ、宮司以下が居竝ぶ神前にて、大音聲で奏上した。

「神武參劍王(愚案、布都御魂大神)、只今參進。これこの靖國の御靈、今度びのみ働き、誠にご苦勞であつた」

と、ねぎらひの言葉を添へ、諄々と諭して言つた。

「戰爭に負けたものゝ、そなたたちの働きは、決して犬死ではない。そなたたちのおかげで、アジア諸國は獨立の機運が高まり、歐米の植民地支配は終はらうとしてゐる。一介の路傍の石として、名もなく世を終へるに等しいものたちも、御國のために捧げた命は、未來永劫、カミとして祀られ、天皇陛下直々に拜まれるのだ。

 この小泉太志は、終戰を迎へたといへど、内地にあつても、親の死に目にも立ち會へぬありさまた。陛下とともに新日本建設のために、日夜、身魂を注いでゐるからだ。そして陛下に、新日本建設が成るまでは引退を許さぬといふ、嚴しい國士もゐるのだ。だから安心して、新しい日本を見守つてくれ」

 かう、小泉が氣合を込めて諭して以來、敗戰を憤つてゐた荒ぶる靖國神社の英靈たち(ママ。愚案、たゞ「英靈」とのみ稱へ奉る可し)は鎭まつた。そして現在では、何事もなかつたかのやうに、靜かに祭禮が行はれてゐる。

 小泉太志は、『大祓祝詞』にあるやうに、「荒ぶる神々を、神問はしに問はしたまひ、神祓ひに祓ひたまふ」たのである。が、その「荒ぶる神々」は、靖國(神社)ばかりでなく、全國津々浦々にも潛んでゐることを、彼は知つてゐた。それは、大東亞戰爭の犠牲者だけでなく、三千年の昔からの各地の戰爭の敗者たちの聲でもあつた。それらの「荒ぶる御靈」を鎭めない限り、新日本の建設は完成しないといつてもよい。

 かうして終戰後、世の中が落ち着いてから、太志は全國の主な戰跡を囘り、祓ひ淨めを行ふ神業を始めることとなる。北は蝦夷の反亂の地から、南は隼人の蜂起の地まで、彼が足を踏み入れたところは修祓され、暗かつた土地は明るくなり、次第に賑はひを取りもどしていつた。



●小泉太志命大人『參劍訓』(神武參劍道場祭壇の左側)

一、吾等は、大御心の御神惠の下に、大御寶として尊く生かされつゝあるものなり。

一、吾等は、皇民吾なりの自覺體顯し、與へられたる天職を奉じて、大御心に應へ奉らん。

一、吾等は、生かす助けるは、御神劍の御心と拜し、謹みて參劍以て、日本民道を行ずる士なり。
 
 

『忘れてはならない歴史がある』

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 8月14日(金)15時59分44秒
返信・引用 編集済
   有志には、肥後熊本なる鈴木田遵澄(舜護)主が努力の賜物、二分二十秒の短編映畫でありますが、是非とも御清覽の上、御擴散たまはらむことを



●英靈顯彰プロジエクト第一作『忘れてはならない歴史がある』

https://www.youtube.com/watch?v=jV9NqATRI4Q

 戰後七十五年目の八月。總理大臣による靖國神社參拜は、政治問題に引きずりおろされて、國家の爲に尊き命を捧げた戰沒者に手を合はせることさへ、外國の顔色を窺はねばならぬ異常な状態が續いてゐることは、ご周知の通りであります。私たちは、英靈顯彰プロジエクトを立ち上げ、日本が戰後の後遺症から脱却して、眞の誇りある日本を取り戻すための一歩として、若い世代にも傳はりやすい戰沒者・英靈を顯彰するための短編映畫を制作いたしました。短編映畫制作にあたり、ご寄付・ご協力をいただいた熊本縣護國神社をはじめ、多くの皆樣に、心からお禮申し上げます。インターネト・SNSで擴散し、多くの若者の目に屆けるまでが、本プロジエクトの役割ですので、共感された方は、シエア・擴散をお願ひいたします。

 令和二年八月十四日  英靈顯彰プロジエクト代表 鈴木田 遵澄
 
 

大御名奉唱・追記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 5月19日(火)15時21分33秒
返信・引用
  【大御名(十言)奉唱】
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https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832



●神宮少宮司兼中教正・浦田長民大人『大道本義』下卷(明治九年八月・博聞本社刊)の「第十四章・祈祷を論ず」

 式は、唯だ簡を貴びて繁を貴ばず。既に祈祷の地に到れば、則ち先づ再拜。次に手を拍つこと二。天祖の尊號(愚案、即ち「天照大御神」の大御名)を唱ふること三。地に頓首し、願望する所を陳べ畢んぬ。又た兩次、手を拍つ。而して後ち一拜して退く。



 愚案、大御名奉唱の「三」は、數靈から來る囘數ならむか、若しくは「三」、即ち大數の謂ひか、或は「唯だ簡を貴びて繁を貴ばず」とあれば、神宮の古傳ならむか、或は神宮教院の新規に定むる式ならむか、得て知る可からず。

 
 

明津御神天皇の御本質。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 5月11日(月)16時53分0秒
返信・引用
   我が天皇は、肉體を具へさせ給ふ所の神樣、即ち現人神に坐しまし、吾人草莽は、畏命の臣從を實踐すべき事は、此の掲示板に於いて、隨所に述べ來つてをります。日本の飛躍發展は、天子樣が神樣であらせられると云ふことを、國民全體が自覺する所に存するのであります。

 現人神たる我が天子樣には、其の御神格が、或は御個性により、或は時運時勢により、まちゝゝに顯現する事は、申し上げるまでもありませぬ。



●橋本徹馬翁『日本の敗戰降伏裏面史』(昭和六十一年十一月・紫雲莊刊。『自敍傳』平成八年五月・紫雲莊刊にも同樣)

 明治天皇は人間扱ひをされるのを、非常にお嫌ひになつた。私が早稻田大學の學生時代、維新の元勳の一人であり、かつ早稻田大學の總長であられた大隈重信侯から、直接承つたことである。明治天皇はお召し物の寸法なども、決して取らせなかつた。いつも只だ「大きく作つておけ」とだけ仰せられたといふ。侍醫にも絲脈(脈所に絲の一端をつなぎ、他端を醫者が持つて、絲に傳はる脈搏をはかること)のほか、直接御手に觸れることは許されなかつた。

 お暇の時には縁側の椅子によつて、天空に對し、常に神徳を涵養されてゐたといふ。

あさみどり すみわたる 大空の ひろきをおのが 心ともがな

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさはぐらむ

國のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき ことな忘れそ

などの御製は、神徳具現の陛下の御製である。

 それに反して今上陛下(昭和天皇)は、神樣扱ひされることを、非常に嫌はれた。「私を神樣扱ひして、身動きも出來ぬやうにする。私は夕方など、烏打帽子でも被つて、神田の本屋を見て囘るやうなこともしたいのだが、さういふことも出來ぬ」と嘆かれた。然し他國の元首と違つて日本の天皇は、ある場合には神格者であられねばならぬのである。

 尤も二・二六事件の前、國體明徴問題の喧しかつた頃、今上陛下は、「天皇機關説でよい」と仰せられたと傳へられ、その後、陸軍主戰派によつて、陛下の御心にもない戰爭に突入して、八年の長きに亙つて戰ひ、その間、全く國體の尊嚴が現れずして、遂に敗戰に終はつたのであつた。然し終戰後、マツカーサー元帥との會見の時には、神格天皇の御本質が現れたのである。



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●三島由紀夫氏『日本文學小史』(昭和四十七年十一月・講談社刊)

 私は、倭建命の挿話のみをとりあげて、神人分離の象徴的な意味を探りたいと思ふ。實際、この挿話は、全篇のほぼ半ばに位し、神と人との中間に置かれて、その悲劇性は、下卷の「輕太子と衣通姫」の悲劇性と、遠く照應してゐるやうに思はれるのである。

 景行天皇の敍述のほとんどが、倭建命の事跡に占められてゐるのであるが、皇太子倭建命は、いつも天皇に准ずる敬語で扱はれ、『日本書紀』にも、「是の天下は、則ち汝が天下也。是の位は、即ち汝が位也」といふ、景行天皇のお言葉が見られる。そして就中見落してはならないのは、同じく景行天皇が、倭建命を斥して、「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」と言つてをられることである。『日本書紀』によれば、それは、倭建命が「身體長大、容姿端正、力能く鼎を扛ぐ。猛きこと雷電の如く、向ふ所に前(かたき)無く、攻むる所ろ必ず勝」つからであつた。しかし、そればかりではない。天皇は我が子に對して、何かこの世のものならぬものを感じてをられたのである。

 そして『古事記』の景行天皇の一章は、本來の神的天皇なる倭建命と、その父にして人間的天皇なる景行天皇との、あたかも一體不二なる關係と、同時にそこに生ずる憎惡愛が、象徴的に語られてゐるやうにも思はれる。命の悲劇は、自己の裡の神的なるものによつて惹き起されるのである。

 その神的なるものの最初の顯現は、兄宮の弑殺であつた。その純粹素朴な怒りが演じた殘虐行爲は、景行天皇に恐怖を與へた。これが、ただ、我が子の人竝み外れた腕力と、感情の率直さに、父が恐怖を覺えたといふのでは足りない。天皇は、おそらく我が子の裡にあるものを、御自身の裡に見られたのである。天皇における統治の抑制が、十六歳の王子の行爲に震撼され、自己の裡にたわめられた「神的なるもの」の、假借のない發現を、王子の行爲に認められたのである。景行天皇のなさつた行爲は、三野の國造の祖・大根王の女、名は兄比賣・弟比賣の、二人の乙女に戀着されたことだけであつた。御子・大碓命に命じて召し上げようとされたのを、大碓命は、この二人の乙女をわがものにしてしまひ、他の乙女を求めて奉つて、父帝をたばかつた。天皇のなさつたことは、いつはりを知りながら默して、ただその乙女を冷然と扱はれただけであつた。大碓命が罰せられたといふ記述はない。

 天皇は、弟宮にして皇太子なる小碓命(倭建命)に、「朝夕の大御食に、兄宮が出て來ないのは何故か。お前からよく言つておけ」と、家長の抑制を以て穩やかに言はれた。しかるにただちに、倭建命は、用便中の兄を襲うて、その四肢を引き裂いて殺したのだつた。この行爲に接したとき、天皇が、あれほどの穩便な命令を倭建命が逸脱したといふよりも、むしろ、命が父帝の御顔色を察して、その行爲によつて、逆に父帝の内にひそんでゐた神的な殺意を具體化し、あますところなく大御心を具現した、といふことに、慄然とされたにちがひない。命は、神的な怒りをそのまま、電霆の行爲に現はしてしまつたのであつた。しかもその心情、その行動に、一點の曇りもなく、力あるものが力の赴くままに振舞つて、純一無垢、あまりにも適切な大御心に添うたことが、天皇をいたく怖れさせたのである。「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」といふ發見は、これを意味したと私は考へる。

 これがおそらく政治における神的なデモーニツシユなものと、統治機能との、最初の分離であり、前者を詩あるいは文化の役割を擔はせようとする統治の意志のあらはれであり、又、前者の立場からいへば、強ひられた文化意志の最初のあらはれである、と考へられる。‥‥統治機能から、もはやはみ出すにいたつた神的な力が、放逐され、流浪せねばならなかつたところに、しかも自らの裡の正統性(神的天皇)によつて無意識に動かされつづけてゐるところに、命の行爲のひとつひとつが運命の實現となる意味があり、そのこと全體が、文化意志として發現せざるをえなくなつたのだ。神人分離とは、ルネツサンスの逆であり、ルネツサンスにおけるが如く、文化が人間を代表して古い神を打破したのではない。むしろ、文化は、放逐された神の側に屬し、しかもそれは批判者となるのではなく、悲しみと抒情の形をとつて放浪し、そのやうな形でのみ、正統性を代表したのである。命は神的天皇であり、純粹天皇であつた。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であつた。詩と暴力は、つねに前者に源し、前者に屬してゐた。從つて當然、貶黜の憂目を負ひ、戰野に死し、その魂は白鳥となつて昇天するのだつた。

 景行天皇は、その皇太子の、このやうなおそるべき「神人」的性格を見拔いたとき、命には「傳説化」・「神話化」の運命を課するほかはないと思はれたにちがひない。それは又、文化意志を託することでもあつた。すなはち詩と政治とが祭儀の一刻において完全無缺に融合するやうな、古代國家の祭政一致の至福が破られたとき、詩の分離のみが、そして分離された詩のみが、神々の力を代表する日の來ることを、賢明にも豫見されたにちがひない。自分の猛々しい王子は、史上初の、そのやうな役割を擔ふべきである。それはそれ自體が悲境であり、生身の人生を詩と化することであり、孤獨であり、流浪であり、敗北でさへあるが、そこにこそ神々にとつての最後の光輝が仰ぎ見られ、後世、自分および自分のおだやかな子孫が統治をつづけるべき國において、それだけが光榮の根源として無限に囘歸せらるべきもの、それを正に倭建命において實現させたい、と思はれたに相違ない。それはもはや景行天皇御自身によつては實現されえないものであることを、天皇は知つてをられ、「それを實現せよ」と意志されることは、天皇の御命令だつたのである。文化意志は、かくて隱密な敕命によつて發したのだつた。一方からいへば、敕命こそが、このやうな史上最初の文化意志の發生を扶けたのである。
 
 

八紘一宇の意義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月30日(月)21時23分24秒
返信・引用
   天皇の御位は、萬人に處を得せしめて、皆な其の生を遂げしめる御位である故に、天皇親政の御代に、一日の速かに復古せねばならぬ。是は、天照日坐皇大御神の嚴命し給ふ所、抑も下々が云々する所のものでは無い。萬古、天皇を仰ぎ奉る所以は、皇祖の神勅にこそ、在るのである。



●橋本徹馬翁『天皇祕録』(昭和二十八年三月・紫雲莊出版部刊)

 終戰の年の十月に、筆者は、進駐軍司令部の諜報部から呼出しを受けた。指定の時間に出頭すると、數人の係員の居る一室に通され、そこで、戰時中の筆者の言動につき、色々の質問を受けたが、最後に筆者の思想傾向を聞かれたから、筆者は、何んの躊躇もなく、

「私は、昔から國體擁護論者であり、今も變らぬ國體擁護論者である」

と答へた。その頃の情勢から云へば、共産主義者であると答へるのが、一番無難なのであつて、反共主義者だとか、國體擁護論者だと答へるのは、最も危險な時代であつたが、筆者は、素直に且つ自信を以て、ありのまゝを答へたのである。すると、諜報部の係員が、

「あなたが國體擁護論者であると云ふならば、八紘一宇の意義をお尋ねしたい」

と云はれた。筆者は、その時「はゝ、試驗問題が出たな」と思ひながら、即座に、

八紘一宇とは、有機的又は生命的大調和の世界を造る事である

と答へた。すると、今度は係員から、「今少し委しく説明をして貰ひたい」と云はれたので、筆者は、左の如く答へた。

「世界には、米國あり、英國あり、ドイツあり、フランスあり、日本あり、支那あり、その他幾多の國家があるが、皆その歴史を異にし、地理を異にし、産物を異にし、傳統を異にし、民度を異にして居る。一言にして云へば、皆その特色を異にして居るのである。さうして斯くその特色を異にして居る國々が、各々その特色を發揮しつゝ、相互に提携依存し合ふ時、そこに有機的或は生命的大調和の世界が出來るのであつて、各國は、本來、相爭ふやうに出來て居ないのである。

 これを例へば、人間の内臟には、肺あり、胃あり、腸あり、心臟あり、肝臟あり、腎臟ありと云ふが如くに、色々の内臟器官があるが、これらは皆な別々の器官ではあるけれども、その何れもが對立して、相爭ふやうに出來て居ない。それゞゝその特色を發揮しつゝ、相互に依存して、人體と云ふより、大なる生命體を健康に維持するやうに出來て居るのである。世界の各國も、亦た斯くの如く、各々その特色を發揮しつゝ依存し合うて、地球と云ふより、大なる生命體を完全に維持すべきであつて、決して相互に爭ふべきものではない。これが、八紘一宇の意義である」

と云つた。その時、諜報部の係員は、「大分、能く分りましたが、その樣な大調和の世界が出來上つた時、日本は、どこに居るのですか」と聞いた。そこで、筆者は、

「日本が、どこに居るかと云ふことは、豫め決定して置くべき事ではない。問題は、どこの國が、最も能く自國の特色を發揮しつゝ、世界の平和と人類の幸福とに寄與するか、と云ふ點にある。若し日本が、最も能く自國の特色を發揮しつゝ、最も多く世界の平和と人類の幸福とに貢獻して居るならば、日本は、おのづから他の國に推されて、世界各國中の盟主ともなるであらう。各國は、その樣な意味の努力をこそ、競ふべきである」

と答へた。諜報部の係員は、「能く分りました」と云つて、その質問を打切つた。

 筆者は、諸外國が八紘一宇の意義を、侵略主義と同樣に考へて居たことを怪しまない。日本の軍部、その他の人々の中に、八紘一宇を、その樣な意味に用ゐた者が相當に居たからである。けれども若しも八紘一宇の眞の意義が、筆者の云ふ通りであるならば、そは、民主國家や共産國家の對外政策に比して、おおいに優れるものであると思ふが、どうであらうか。

 この頃の世界の知識人は、科學的と云ふことと、民主的と云ふことと、共産主義的と云ふこととのうちの、どれかを迷信して居るがために、一體としての宇宙・世界・人生等の正體をつかみ得ないで、自分の行く先も分らずに騒いで居る。されば若し日本國民が、眞に自己を取りかへして世界を見直すならば、敗殘の身を以てしても、なほ大國の迷妄を笑ひ、或は大國の進路の誤りを教へるに足るであらう。



★ 須多因(ローレンツ・フオン・シユタイン)博士の預言(宮内省藏版『須多因氏講義』)
  ↓↓↓↓↓
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天皇御親政の本義──天下億兆、其の處を得しむるに在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月26日(木)14時37分37秒
返信・引用 編集済
   かつて暘廼舍河原博史翁より、橋本徹馬翁の『天皇と叛亂將校』を紹介されて拜戴したが、更めて拜讀するに、感興新たにして盡きざるものあり。殊に「湯淺内大臣との勅語問答」は、正に壓卷なる可し矣。亦た西園寺公望・牧野伸顯の評は、推して知る可く、又た柳川平助陸軍中將の風格は、功を立てゝ誇らず、純眞至誠、誠に一代の人物たるを知るに足れり。有志、一本を求めて讀まれたい。
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●紫雲莊橋本徹馬翁『天皇と叛亂將校』(昭和二十九年五月・日本週報社刊)

 序文
第一部 日本陸軍の自殺
 一 貧困と疑獄の中に青年將校起つ
  ★ 青年將校と政治問題(昭和九年二月執筆)
 二 皇軍精神と天皇機關説
 三 湯淺内大臣との勅語問答
第二部 今上陛下に爭臣なし
 一 軍自ら奉勅第一主義を蹂躙
  ★ 奉勅第一主義の徹底(昭和十二年三月執筆)
 二 逆用された二・二六事件
  ★ 日本國民に告ぐ(昭和十四年十二月執筆)
 三 今上陛下と元老・重臣
 四 柳川將軍と叛亂將校(事件餘録)
第三部 特別資料篇
 一 十月事件計劃者の起草せる『皇政維新法案大綱』
 二 三月事件・十月事件についての大川周明氏の『非公開陳述』
 三 磯部・村中兩氏執筆の『肅軍に關する意見』
二・二六事件判決の全文(陸軍省發表)
 
 

尊皇攘夷──令和維新の祈り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月16日(月)22時27分30秒
返信・引用
  ●吉田松陰先生『入江杉藏に與ふ』安政六年十月二十日

 學問の節目を糺し候ふ事が、誠に肝要にて、朱子學ぢやの、陽明學ぢやのと、一偏の事にては、何の役にも立ち申さず、「尊皇攘夷」の四字を眼目として、何人の書にても、何人の學にても、其の長ずる所を取る樣にすべし。



 次は、中村武彦翁の遺言であり、我々につきつけられた課題でありませう。更めて自らに問ひ、顧みる必要があります。



●中村武彦翁『尊皇攘夷』(平成三年十月・面影橋出版刊。『明治維新の青年像』竝びに『尊皇攘夷──鮮血の記録と遺言』を所收)

 今日の青年・學生の多くが、はね上りの左翼暴力やアメリカニズムの頽廢を批判して、自主的に行動したい意欲を持ちながら、では、どうしたらよいのか、何が正しい思想であり、行動であるかを、自ら定めかねてゐるのは、怪しむに足りない。日本國民の持つべき價値判斷の基準、國體と歴史の基本的教養を、全然與へられてゐないからである。それを手にした時、はじめて日本人の魂と血は蘇り、若人たちは、毛澤東やゲバラに踊らされるのをやめて、松陰や南洲の指し示す道に、シツカリ足を着けて、競つて昭和維新の志士となるであらう。そこに新しい日本とアジアと世界の創造がある。

 そのやうな民族的覺醒と國民的合意は、今日、甚だしく遲れてゐる。その責任の一半は、昭和維新運動そのものゝ低調と無力にかゝつてゐる。幕末の志士たちの經驗した苦勞より數倍の熱意と努力なしには、この遲れを取り返すことは難しいが、新選組の凶刃に絶えず狙はれることのないかはりには、そのぐらゐの努力を自ら求めるのは當然であらう。

 戰後の日本人は、戰ひと死に直面する體驗なく、平板な生命尊重論と平和主義に甘やかされてゐるために、きびしい死生觀を持つてゐない。「青年よ、銃をとるな」といふ政治の下で、死を覺悟する必要のない革命ゴツコが行はれる。維新運動も、またそのヌルマ湯的環境の中で、筋金が入らない。‥‥

 敗北を知らなかつた日本民族が、はじめて敗北の苦汁を嘗め、外國軍隊に蹂躙された。多くの醜態が演ぜられたけれども、試練として民族の魂を鍛へられ、大人になつたところも多かつた。焦土から飛び立つ不死鳥のやうな復興の奇跡が、世界を驚かした。この力は、明治維新以來の蓄積された國民の底力に外ならぬ。この滅びざる志士の心、明治維新の殘照が、敗戰日本に起ち上がる力と希望を與へたのである。今や、新しい歴史が始まる。光輝に滿ちた昭和維新の、後期の歴史が。それは、明治維新の初一念の理想に歸り、これを日本の今日の現實の中に實現してゆく、その現代の志士たちの歩みの一歩々々が、書き綴つてゆく歴史である。‥‥

 昭和天皇は、國の悲劇と屈辱を、御一身に引き受け給ふものゝごとく、長い辛い御鬪病のいやはてに、波乱萬丈の御生涯を終へさせ給うた。我々は萬斛の涙をもつて、昭和の御宇を見送つたが、新帝陛下の即位の大禮・大嘗祭は、騒然たる戒嚴と不安のうちに行はざるを得なかつた。有史以來、このやうな不祥事があつたであらうか。

 今、中東に渦卷く惡氣流の前に立ちすくみ、それでもまだ錢勘定ばかりしてゐる經濟大國日本の姿は、

「獨り我が邦のみ、世界の形勢に疎く、舊習を固守し、一新の效を圖らず、‥‥一日の安きを偸み、百年の憂を忘るゝ時は、遂に各國の凌侮を受け、上は列聖を辱しめ奉り、下は億兆を苦しめんことを恐る」

と、明治天皇が、維新の初めに諭し給うた通りの事態ではないか。明治維新の志士たちが再建し、日清・日露・大東亞の戰の勇士たちが守り拔いて來た祖國日本を、政治家どもは、マスコミは、どこへ持つて行かうとするのか。チヨン髷に二本差しで、壓倒的な白人帝國主義の攻撃に立ち向かひ、まづ國内の討幕維新のために、惜しみなく身命を獻げた青年の熱血は、受け繼がれてゐないのか。そもゝゝ民族派・維新派といふものは、存在してゐるのか。

 人間の科學的英知が、新しい文明を宇宙に向かつて切り開き、人類が萬世太平の方向に、少しづつでも前進しつゝある今日でも、「尊皇攘夷」は、古くして常に新しき維新の原則であり、國民的合意と國際的發展の基礎であらねばならぬ。言ふまでもなく、「尊皇」とは、民族統一の中心を搖るぎなく守ることであり、「攘夷」とは、民族の統一と文化を危ふくするものを排除することである。それなくして、どうして國の獨立と安全を全ふし、進んで外國の諸民族をも、各々その所を得しめ、親和せしめる世界史的使命を果たすことが出來よう。

 共産主義革命の幻想が暴露され、しかも現代文明と白人支配そのものゝ破産も、もはや避けようのない今日、我々が、これからの活路を自らの歴史の中に發見し、これを偏狹なナシヨナリズムや空漠たるインターナシヨナリズムに停滯せしめず、着實に萬世のために太平を開いてゆく積極的な創造發展の原理とすることに、何ら躊(ためら)ひもあつてはなるまい。それこそが明治維新の志士たちが指し示す行動の原理ではないか。
 
 

中村武彦翁の二・二六囘想。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月11日(水)23時11分43秒
返信・引用
   二・二六事件に於ける中村武彦翁の囘想は、血の涙、襟を正して聞きたい。有志、瞠目して讀まれるがよい。



●中村武彦翁『私の昭和史──戰爭と國家革新運動の囘想』(平成十七年三月・昭和史研究所刊)

 昭和十年十一月の末、約三年ぶりに娑婆に歸つて來た私は、何はともあれ、先づ神兵隊事件の總大將と云ふべき天野辰夫先生に會ふことを急いだ。‥‥尊皇の心と正義感の強さ、『古事記』に基づいて説く國體と維新の原理と、國政改革の明晰な論理、妥協を許さぬ堅固な意志、しかも優しい心遣ひといふやうなものが、その整つた品のよい温容や、毅然として且つ悠然たる姿勢や話しぶりから、疑ふ餘地もなく感じとれるのである。一流の辯護士であることも、劍道の達人であることも聞いてゐたが、これほど見事な武人の風格は、豫想しなかつたから、俺は、この人の門下生になるといふ幸福感に醉つてしまつた。‥‥

 最初の出會ひにおけるいろゝゝな先生の話で、忘れ得ぬことの二三を記しておきたい。神兵隊の實行部隊(破壞面)は、最後は皇居の前の日本勸行銀行に立籠り、戒嚴令施行されるのを見屆けた上、全員自決すると豫定されてゐたこと。建設面を擔當する天野氏も、大詔渙發・宮樣内閣成立を見屆けたら、同じく自決する豫定であつたこと。私どもは、實の處、首相官邸や警視廳に斬込めば、百パーセント其處で死ぬることは必定と覺悟してゐたから、別に自決の用意はしてゐなかつた。たゞ改めて維新の指導者の心構へのきびしさに、頭を埀れる思ひであつた。

 また神兵隊は、軍の派閥爭ひに、絶對に卷き込まれてはならぬこと。私が北一輝氏について質問すると、彼の民主革命思想は、我々と絶對に相容れぬと斷言された。この時は、二・二六事件は全く豫想されてゐなかつたのであるが、後に事件が起つた時、私はこのことを思ひ出して、判斷を誤らずにすんだ。‥‥

 (昭和十一年四月初め)世間一般では、もう二・二六の騒ぎも話題に上らなくなつてゐたが、私どもにとつては、何故、あの事件が、あんな慘めな結果に終つたのか、その跡を檢討せずにをれなかつた。『蹶起趣意書』を讀み返したり、『陸軍大臣告示』の欺瞞性に、あらためて腹を立てたりしながら、これから開かれる軍法會議や軍内抗爭について考へると、明るい豫想はできなかつた。これは單なる事件の後始末ではない。これからの日本の方向を左右するものであり、我々の行動は、それによつて決定されるのである。

 近衞第一の兩師團に屬する同志の青年將校が率ゐる千四百の將兵が、尊皇討奸を叫んで蹶起し、政府・軍部を震ひ上らせ、維新成るかと期待された所謂二・二六事件は、未曾有の大規模なクーデターであり、しかも一敗、地にまみれて、特別軍法會議の暗黒裁判に付され、反亂罪として裁かれることになつた事件である。

 しかし裁かれる者は、いづれも忠誠にして私心なき我々の同胞であるから、大多數の日本人は、その志を憐み、公正なる裁判と寛大なる判決を望んでゐた。私も當時、軍の内情や派閥對立の實體については、よく分らなかつたが、この皇國興亡の岐路に立つて、一路、尊皇討奸の道を驀進し、賊名を甘受してゐる若き將校たちに、心から共感し、血の通ふやうな連帶意識を持つて、敬意を表してゐた。

 唯一點、誰しもが考へる通り、天皇の軍隊の基本的な軍紀を犯したことの是非については、判斷に迷はざるを得なかつた。然しこれは、正に皇國非常の窮地において、日本人たる者が生命を投げうつて執る非常の決斷であり、尊皇絶對の無上道であつて、平生安穩の時代における倫理道徳を超えてゐる。空論の對象ではないと、割切つた。自分自身の神兵隊計劃の際に體驗した問題であり、落着く處は、吉田松陰の「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 日本魂」の心境であつた。

 さればこそ、敢へて行動した後は、速かに自決して、死を以てその責を全うすべきであり、辯明、一切無用、陛下のお赦しの有無は問ふ餘地はないと、少なくとも私は信じてゐた。諸士は勿論、初めからその積もりであつたに違ひないが、一旦、全員切腹の支度をしながら、土壇場になつて、法廷戰術をたどることに變更したのは、何の故か。理解に苦しんだ。

 敢へて賊名を覺悟し、千四百の兵を率ゐて起つからには、血盟團や五・一五の類ではない。心を鬼にして、徹底して討奸討幕を實行し、昭和維新を確實に實現しなくてはならぬ。中途半端や失敗は許されぬ、一囘勝負である。ことさら多くの血を流さなくとも、要點だけは確實に粉碎し、その他の惡い奴は、片つ端から逮捕拘禁して、その妄動を封ずる。放送局・新聞社を一時占據して、昭和維新待望の國論喚起・鼓舞に協力させる。亡國政權の現はれる餘地のないまでに、徹底的に舊勢力を叩き潰した上で、速かに整然と兵を引く。空論のやうであるが、折角蹶起した千四百の將兵には、それだけの責任があり、それを可能にする武力があつた筈である。

 それが、初めは脱兎の如く、後は處女の如く、決して踏みこんではならぬ後繼内閣の交渉などに三日間も空費し、その間、ジリヾヽと統制派幕僚の術中に陷り、遂には反亂軍として扱はれ、野中大尉と、未遂に終つたが安藤大尉、それに河野大尉の外は、切腹自決の機を失ひ、何の展望もない法廷戰術を求めて、獄に投ぜられるのである。

 その御命令もないのに、軍隊の一部が行動を起し、陛下の重臣たちを殺すといふ、思ひもかけぬ事態に直面し給うた時、大元帥陛下が、「おう、尊皇討奸か。よくやつた」と仰せられる筈のないことは、青年將校たちもわかつてゐたに違ひない。陛下は、政府も軍部も周章狼狽して、何も出來ぬ樣子を御覽になり、しからば「朕、自ら討伐する」とまで仰せられたと承るが、川島陸相などは、一體、どのやうな御報告をしてゐたのか。兼ねてより國體に反し國政を亂し、内外の危機を招いてゐる日本の現實と、これを憂ひてやまぬ尊皇の士の眞情について、御理解いたゞくやうな眞摯な奏上や御報告は、ほとんどなされてゐなかつたのである。聖明を掩ひまつる側近や閣僚ばかりである。

 尊皇の赤心、討奸の眞意、遂に天聽に達せず、純情なる武人たちが、逆鱗に觸れて、維新の大詔渙發を仰ぐどころではなかつたといふ事實は、二・二六の悲劇の核心である。『蹶起趣意書』に迸つてゐる懸命の思ひは、陛下も御嘉納になつたに違ひないが、この情況の中では、陛下の御とりになる御態度・御處置は、悲しい哉、限られてゐた。至尊をして、獨り社稷を憂へしむといふやうな、恐れ多い形に事態を押しこんでしまつたといふことに、その時、私は血の逆流を覺えたが、今日から顧みても、償ひようのない恐懼の極みである。‥‥

 あのやうな『大臣告示』によつて、陛下の御許しがあつたやうに早合點した側も單純であるが、このやうな一時凌ぎの見え透いた欺瞞で處理できると思つてゐた陸軍首腦たちの、別の意味における單純さには、腹が立つた。交渉の席上、眞崎内閣樹立の要望が私議されたといふに至つては、言語道斷である。

 神兵隊計劃に豫定された爆撃機出動と同樣に、この千四百人の皇軍將兵武裝蹶起といふ決定的な戰力は、もう二度と、維新運動の上に現はれることはないであらう。それが龍頭蛇尾の騒ぎに終り、彼等が最も警戒してゐた筈の統制派幕僚・軍人の思ふツボの政治的進出を促し、昭和維新の道を塞ぐ結果になつたことは、私共にとつても諦め難い無念であつた。

 禍根は、破壞と建設の分擔任務をハツキリ分けて、それゞゝの任務に獻身するといふ維新の鐵則が破られたといふことで、これは神兵隊員として、我々が特に痛感したことであつた。蹶起部隊が、原状囘復不可能までに徹底的に破壞面の役割を實行した後、事後の收拾や建設面には、一切容喙せず、奉勅命令を待つまでもなく、兵を原隊に歸し、勅使御差遣をお願ひするまでもなく、全員、從容として皇居を拜し、切腹してゐたならば、どうなつたか。野心滿々の幕僚・軍人や政治家・官僚たちも、襟を正さゞるを得ず、國政維新を妨げることを控へたであらうし、奸賊と指摘された重臣たちも、怖氣をふるつて隱退したであらう。同憂同志の軍人・政治家・官僚・財界人・維新陣營など、意を決して新日本の建設に協力したであらうし、國を擧げてその尊皇討奸の精神を支持し、昭和維新の斷行を要求してやまなかつたであらう。

 維新、一擧に成らずとも、大きく前進したことは疑ひないが、自決する覺悟でゐた青年將校たちに、それをさせなかつたのは、背後にゐた北一輝・西田税氏の指示によると傳へられた。果してさうであつたかどうか分らぬが、私は、二・二六に、北・西田の影響は否定できぬと思ひながら、私自身、曾て大きな刺激を受けた『支那革命外史』・『日本改造法案大綱』のことを思ひ出し、あらためて北一輝氏の思想と、我々の距離を認めずにはをれなかつた。‥‥

 私一個の獨斷であるが、前述した通り、同志將校の最期は、實に痛恨痛惜に堪へないが、敢へて涙を呑んで申し上げたいことは、一切を擲つて救國の一念で起ち上がつたからには、何故、もつと徹底した討奸を行ひ、維新の血路を開いてくれなかつたのか。何故、全員自決して、大命なくして兵を動かした責任を、闕下に謝し奉り、死を以て御維新斷行を請願し奉らなかつたのか。何故、一旦、自決をきめながら、それよりも法廷で眞實を訴へて國民同胞の理解を求め、反國體勢力を退陣せしめるといふやうな幻想に囚はれてしまつたのか──といふことである。

 だから無念に堪へないけれども、軍法会議で極刑の判決が下るのは、やむを得ないと思つてゐた。被告の一人、高橋太郎少尉は、この判決に對して、「名斷ナリ。我等ガ赤心ヲ認メ、ソノ罪ヲタヽク。餘スナシ。喜ビテ死ス」と書き遺してゐるが、若き武人のこの達觀には、涙なきを得ないとゝもに、最後まで怒り續け怨み續けた磯部一等主計と比較して、大多數の同志の心境は、高橋少尉に近かつたのではないかと思ふ。‥‥

 北・西田が、あの事件で、何の指導的、或は扇動的な役割も演じてをらぬことは、多くの判士自身が認めてゐた。兩氏、殊に北一輝が、從容としてこの冤罪に服した最後の潔さに、私は敬服する。「有罪であらうが、無罪であらうが、そんなことは考へてゐません。だが、私の『改造法案大綱』を愛讀信奉したのが遠因で蹶起したのだとしたら、私は責任上、當然、彼らに殉ずる覺悟でゐました云々」と、死刑判決の降つた當夜、刑務所長に語つたといふその述懷は、素直に聞いて信じたいと思ふ。

 然し實際のところ、『法案』を信奉して蹶起したといふ將校が、何人ゐたか。ゐるとすれば、おそらく磯部だけと云つても過言ではないだらう。多くの人は、嘗て『法案』を讀み、部分的に共感したにしても、全體としては、その社會民主主義の思想や天皇利用・軍隊利用の戰術に、到底共鳴できず、離れて行つたに違ひない。將校たちの背嚢に『改造法案』が入つてゐたといふ話など、全く馬鹿げた作り話である。

 若し萬一、北・西田が計劃し指導したとすれば、事件は全く違つたものとなり、破壞も大きかつたであらうし、宮城占據も實行され、維新といふ名の革命工作が、怖るべき形で強行されたであらう。さうであれば、正に叛亂軍であり、我々は楠木勢として、この不逞なる足利賊軍に眞正面から、斷乎たる殲滅戰を行はざるを得ない。さうならなかつたところに、本件と北・西田の直接關係ないことの證明があり、日本の幸ひであつた。‥‥

 兩氏の考へてゐたことは、日本の社會主義革命であつて、維新ではなく、天皇は革命に利用價値ある機關にすぎず、現人神でも、統治權の主體でもない。處刑に臨んで、他の人たちは、みな「天皇陛下萬歳」を唱へてゐるのに、この二人は拒否した。そのやうな思想から見れば、純粹に皇道維新を目指し、國體奉護を誓ふ者たちとは、相容れるべくもない。



■勤皇まことむすび・尊攘同志會「四句誓願──臣子の祈り」奉唱

尊皇絶對

生命奉還

神州恢復

朝敵撃滅

 
 

あはゝ。梅毒將校、見參。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月 9日(月)17時47分52秒
返信・引用
  ●海軍中尉・林正義氏『五・一五事件──一海軍士官の青春』(昭和四十九年五月・新人物往來社刊)に曰く、

「獄中で大川周明氏の著書を讀み、(大川博士が)「日本に平泉澄博士の如き國史學者がゐることは、眞に意を強うする」と激賞してをり、平泉博士の書を、かたつぱしから買つて讀んだ。何れを見ても、日本精神は傳統であるといふことで、傳統を強調してあるが、自分としては傳統の内容實體が欲しい。他日、平泉博士にお目に懸ることがあれば、このことを確かめたいと思つてゐたので、一日、平泉先生宅に、電話で面會を申し込んだ。先生は「喜んで待つ」とのことであり、大庭(春雄・海軍少尉)君と二人で訪ねた。

 私は、いきなり「日本精神とは、なんでございませうか」と尋ねた。

(平)「傳統です」。

(林)「たゞ傳統とおつしやると、親爺が梅毒、子が梅毒、日本精神は梅毒でございますか」。

(平)「私は、先人の教へを、たゞ受繼いでゐるだけで、私の意見はありません」。

(林)「眞に受け繼いで居られるなら、自分流に説明も表現も出來る筈です」。

(平)「アナタは、禪を少しばかりかじつてゐるやうだが、私にいはしむると、擔板漢だ」。

(林)「イヤ、私から申し上げると、先生こそ、擔板漢です」。

(平)「私は、五・一五事件關係者には、あなた方に會ふのが最初で、非常に期待して居りましたが、がつかりしました」。

(林)「私も、先生にお目にかゝつて、がつかりしました」。

 平泉博士は、白皙端麗な風貌の方であり、こちらが無禮なことばかりいふので、顔面は蒼白に、怒色、表に出てゐる。こちらは眞劍であつたが、怒られてしまへば、仕方がない。

(林)「これで失禮します」と、玄關に別れる時に、博士は、

(平)「毎週、塾生に講義をしてゐますから、一度、私の講義を聞いて下さい」。

(林)「ハイ、是非、拜聽させて頂きます」。

 その後、某日、塾生とともに博士の講義を聽講したが、山崎闇齊(ママ)先生の學問の系統が、どこゞゝに流れ、明治維新の原動力となつたといふことを詳述されたゞけで、私は釋然としないばかりか、當てがはづれた」と。



 愚案、初對面の道の達人に、無禮にも、いきなり野狐禪を嚙ますとは。

 玲瓏、玉の如き人格と謳はれ、大川周明博士から「先生と敬ひて師事する唯一人」と仰がれた平泉澄先生も、「梅毒」將校にかゝつては、全く縁なき者でありました。道學に無縁の者は、「學問とは、先哲遺文を學ぶこと。君國の大事に對して、私見を以て判斷するのは僭越、先哲の教へを仰がむのみ」とする平泉先生は、たとへ書を讀まうとも、到底、之を理解し得ないのであります。


**********

舊稿から

 寒林平泉澄博士は、大川周明博士と淺からぬ御縁があります。廣瀬重見翁「平泉澄先生と大川周明博士」(『日本』平成十九年十月號~十一月號)を拜見しましたので、些か紹介させて戴きます。

 昭和二年七月、平泉博士は大川博士に對し、其の論文「國史學の骨髓」を贈呈され、大川博士が「國史の研究に就て、向後はどうぞ生(大川博士)の導師たる勞を賜り度」(昭和二年八月二十九日附書翰)と申し出された事に起因し、大川博士は、「橋本景嶽は、維新の英雄中、最も八面玲瓏の人物であらう。高潔なる情操、透徹せる理智、而して實行の意力を兼備して居る。其の死は僅かに二十六歳の時だから、驚くべき夙成の天才である。‥‥予は、平泉澄先生を見る毎に、景嶽を想起する」(『大川周明日記』昭和十一年八月二十日條。同六十一年九月・岩崎學術出版社刊)と。又た大川博士より九歳年少である「平泉澄博士は、當代の學者中、生(大川博士)が先生と敬ひて師事する唯一人」(柳澤一二氏宛書翰・昭和三十年四月二十七日。『大川周明關係文書』平成十年九月・芙蓉書房刊に所收)とまで告白し、「正しき明治日本史は、平泉先生の筆によつて傳へらるゝ事と奉存候」(同年五月八日附書翰)と、終生、道交の證を述べられました。

 平泉博士は大川博士に、其の號「寒林」横額の揮毫を求められ、又た大川博士の期待切望に應へて、『父祖の足跡』五卷・『明治の源流』・『少年日本史』・『明治の光輝』・『日本の悲劇と理想』・『悲劇縱走』・『首丘の人――大西郷』等を陸續と物せられました。而して平泉博士は、大川博士の墓の文字を書き、大川博士は、北一輝の墓標を書いてをられます(共に帝都目黒の瀧泉寺墓地)。然しながら平泉博士は、「あの方(大川博士)が分らない。何故、北一輝と親しいのか判らない」とも仰つてをられた由。北氏は佛蘭西革命を贊える民主主義者、傳統と歴史を重んじる平泉博士とは、絶對に相容れませぬ。平泉博士歸幽の半年前に、「結局は、大川博士は、私(平泉博士)と北一輝との中間に立つてゐた人です」と言はれたさうです(中村政夫氏の聞書き)。


○平泉澄博士の、大川周明博士への弔歌(昭和三十二年十二月二十五日・『山河あり』所收)

大いなる 我が悲みに こたへてや 雪空低く 山見え分かず
 
 

承詔必謹の大義──中村武彦翁『殘夢猶迷録』

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月27日(木)21時45分52秒
返信・引用
  ●吉田松陰先生『又讀七則』(安政三年十一月二十三日『丙辰幽室文稿』に所收)に曰く、

「天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者有り。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふる者有り。余、幼にして家學を奉じ、兵法を講じ、夷狄は國患にして憤らざる可からざるを知り、爾後、遍く夷狄の横(ほしいまゝ)なる所以を考へ、國家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非ざるを知れり。然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。

 向(さき)に八月の間、一友(宇都宮默霖)に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂へしは、竝(み)な夷狄に憤りを爲して見を起せり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるに非ざりし也。‥‥朝廷、上に尊く、幕府、下に恭しといふ。果して言ふ所の如くんば、則ち今ま又た何をか憂へん。唯だ其れ然らず。志士の悲憤する所以ん也。足下、亦た甞て禁闕を拜し、而して江都を觀るか邪。其の尊きは、則ち然り。其の恭しは、安くに在らん。夫れ六百年來の變、皆な臣子の道(い)ふに忍びざる所なり」と。



 中村武彦翁は、小生にとつて懷しき御方であります。かつて拜讀した『殘夢猶迷録』の中から、「戀闕」の情から來る所の大囘轉の一端を拜抄して、有志諸賢の清覽に供したいと存じます。
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●中村武彦翁『維新は幻か──わが殘夢猶迷録』(平成六年二月・いれぶん出版刊)

 天皇陛下が、降伏される。神國日本が、米ソの醜夷どもに踏みにじられる。ひそかに覺悟はしてゐたが、それだけはあり得ざることゝ思ひ、ぎりゞゝのところで、何とか避けられると、一縷の望みを殘してゐた最不祥の運命を、遂に日本は迎へたのだ。天窗にすがつて哭きながら、私の理性の半分は、それをもはやどうにもならぬ現實として肯定したが、半分の理性と感情は、斷乎としてこの現實を承服せず、逆上してゐた。

 宣戰の大詔によつて開始された大進軍ではないか。アジアの救濟と新秩序建設を目指し、皇軍將兵と同胞と盟邦諸民族が、屍の山を築いた戰爭ではないか。その血汐は、いまだあたゝかく、その目的は、いまだ果たされてゐないのに、戰力を殘し、逆轉の可能性を持ちながら、降伏を急いでよいのか。一緒に戰つてくれたアジアの諸民族を、獨立解放の見込みもないまゝに置いてけぼりにしてよいのか。アメリカの原爆、ソ聯の火事泥。天人ともに許さぬ鬼畜行爲を、世界の良心に訴へることなく、このまゝ泣き寢入りしてよいのか。そんなばかがあるか。大南洲の訓へた「道を踏み、國を以て斃るゝ精神」とは、まさに今日のことではないのか。

 天皇陛下、もう一度、御考へ直し願ひます。陛下は、側近の者どもの申し上げることのみお聽きになつて、幾百萬の英靈の聲や、勝利を信じて懸命に困苦缺乏に耐へてゐる庶民の姿を見そなはしませぬか。このまゝでは、惡鬼畜生どもの支配する地球になります。あらためて聖戰の趣旨を明確にし、世界の道徳的再建のため、米ソが反省して凶器を投げ捨てるまで戰ひ續ける宣言をしていたゞけませぬか。あと少しの流血を躊躇して、過去幾百萬の流血をむだにすることのないやう、大慈大悲の大御心を發動させ給へ。

 私は狂つたやうに、せめて刑務所長を通じて、この嘆願を司法大臣にまでも取り次いでもらひたいと願つたが、受けつけてくれない。一々憶へてゐないけれども、私は隨分興奮して、(昭和二十年八月)十五日は、終日怒鳴つたり泣いたりしたやうだ。刑務所では、私に自殺のおそれがあるとして、二十四時間常時不斷の看視をつけた。私は多少落ち着いてから抗議して、常時看視はやめさせたが、死ぬに死ねない悲憤はをさまらなかつた。

 私は、はじめ斷じて承詔必謹できなかつた。恐れながら指し違へたいと思ふほど、天皇陛下をお怨み申し上げた。二・二六の磯部菱海(淺一)よりも烈しく、三島由紀夫の『英靈の聲』よりも痛切だつたかも知れない。どうして陛下は、皇祖皇宗の御神靈に背き、忠誠なる赤子たちの死をむだになさいますか、と訴へた。元來、天皇に、いかなる降參もあらう筈はない。いはんや惡魔鬼畜の軍門に降られては、神ながらなる天皇の御權威は、地に落ちた。腹が立ち、情けなくなり、陛下を陛下として拜し得ない虚ろな思ひを、どうすることもできなかつた。

 獄中にあつて、御聖斷に至る經緯はもちろん、その邊の空氣も、何も全く知らず、いきなり藪から棒に、戰爭は終はつた、日本は降伏したと言はれては、私ならずとも、呆然自失するか、憤然として怒りたけるのが、當然であらう。悶々として惱み續けてゐるうちに、何か濃霧が晴れて來るやうに、段々氣持ちが變はつて來た。二・二六の時もさうだが、その名に價する皇軍統帥部なく、政府にも宮廷にも、忠臣良弼がゐないのである。陛下の側近、みな茶坊主であらう。このやうな情況の中で、鈴木首相や木戸内府の言ふことのみ御聽きになつてゐれば、恐れながらいかに英明なる陛下でも、御判斷を誤り給ふことのあるのは、不思議でないと思ひ、獨り社稷を憂ひ給ひ御心勞あそばす陛下が、御いたはしくてたまらなくなつた。これは、陛下を責める筋はない。もつぱら我々の罪であり、責任ではないか。息まいて討奸を叫ぶだけで、遂に實行しなかつたのは我々だと、腹の底から思ひ直した。

 陛下は、草莽の忠誠硬骨なる者どもの聲の屆かぬところにおはしまし、御一人で國家國民のことを御案じになつてゐる。御一人で、皇祖皇宗の御神靈に對面し給ひ、一切の責任を、御一身に負ひ給ふ。開戰の責任も、終戰の責任も、敗戰降伏の恥辱も、心なき我々國民の怨嗟も、御一人で負ひ給ふのである。そのやうな事態を招き、天皇を御護りできなかつたのは、輔弼の臣ども、大臣・大將はもちろんであるが、我々草莽の民にも、斷じて逃げられぬ責任がある。

 更に思つた。肇國のいにしへから、御歴代天皇は、みな國民一同の苦患を、御一身に引き受け給うたのである。宮中の祭祀は、みなその精神で行はれる。スメラミコトとは、そのやうな御天職なのである。されば、國民明るく樂しむ時は、天皇も明るく樂しみ給ひ、國民暗く病む時は、天皇も暗く病患の相を現じ給ふ。國民が擧げて無能無力の状態にあるがゆゑに、天皇は力無く降伏に甘んじ給ふ。悲しや、君民一體とは、これか。

 こゝにおいて前に申したやうな、愚昧なる臣僚に取り卷かれて、陛下に情報達せず、内外の實情を正確に御存じなく、赤子の眞情を見そなはすことなく、聖斷をお誤りになつたやうに思つたのは、それは違ふ。まことに親の心、子知らず、驕れる不肖の子、大變な考へ違ひであつたことを悟つた。國民の方からこそ、大御心を理解できないことが多いが、大御心の方からは、何もかも聞こし召し、見そなはし、知ろしめしてゐるのである。

 あの昭和六年の秋、私も一中學生として御親閲に參加した九州陸軍大演習御統監の御歸り道、鹿兒島灣指宿の海岸で、奉送の提燈行列を行つた住民たちの方では、何も氣づかなかつたのに、はるか沖ゆく御召艦榛名の艦上から、陛下は雙眼鏡で、その燈火を御みとめになり、闇黒の中で、御獨り擧手の禮を、海岸の住民たちに送つてをられたといふ、あの聖なる美しい情景を思ひ出す。民は知らずとも、君は知ろしめしてゐるのである【★註】。

 私は、愕然としておのれの罪を悟らずにをれなかつた。聖戰貫徹、昭和維新の空念佛を唱へ續けた結果、何ができたといふのか。まさに死をもつてしても償ふことのできぬ大不忠の犯罪である。私は、腹の底から申し譯ないと痛感し、承詔必謹の大義に歸り着いた。‥‥

 それにしても、獄中の獨語とはいへ、よくも不遜にも、天皇をお怨み申し上げ、叱咤したものである。たゞ一言辯解させていたゞくならば、私は、この時はじめて、九重の雲の上に、はるかに天皇を拜するのでなく、眞近に陛下に直面してゐた。實感を申せば、抱きしめてゐた。理屈ではなかつた。外なる權威ではなかつた。私は、陛下と一つになつて、母の懷で母の胸を叩いてむづかり泣くごとく、泣きわめいた。陛下、陛下と、呼び續けてゐた。

 支那の理想的聖人である舜皇帝は、若い頃、飲んだくれの親父にいぢめられ、じツと耐へ忍びながらも野に出て、天を仰いで號泣したと傳へられる。「舜、旻天に號泣す」である。吉田松陰の門弟が、先生に問ふ。「その時、舜は父を怨んだでせうか。孝行のお手本の舜のことだから、父を怨むことなどなかつたでせうね」。松陰先生は、言下に答へて言ふ。「もとより怨めり」。その怨むところに、孝子の眞情がある。その自然の感情を否定した、冷たい形式倫理など、本當の孝行ではない。文句は忘れたが、そのやうな意味の話を、『講孟餘話』(ママ。講孟箚記)の中で讀んだことがある。「怨慕」といふ言葉が『孟子』にあつたやうに思ふが、何かそんな文字で表現できさうな氣持である。

 君民一體も、忠誠の精神も、冷たい形式的な論理や倫理ではない。心底より天皇を仰慕しまつるがゆゑにこそ、時に天皇を怨みまつる心の出て來るのは、臣子の眞情ではないだらうか。しかしその怨みまつるといふ心は、陛下の大きな親心の前では、まことに淺薄な感情であり、間違つてゐたことを、私は懊惱の末、はつきり自覺した。

 今、國體を護持するため、全國民を救ふため、この焦土を眞實の神國日本たらしめるため、更に進んで人類文明の破却を救ふため、萬世の爲に太平を開くため、敢て御自らの神聖も權威も、泥土に委ねてまで、堪へ難きを堪へ忍び難きを忍び給ふ大御心の底知れぬ深さが、やつと分かつたやうに思つた。その慈悲忍辱の大御心の中から、「堅ク神州ノ不滅ヲ信ジ」と仰せられるのである。これが敗戰國の君主の御言葉であらうか。堂々たる勝者、萬古仰ぎみる王者の、偉大なる御宣言ではないか。



【★註】聖なる夜景
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岡山縣愛國者協議會による第四十四囘野中四郎烈士慰靈祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月24日(月)14時37分21秒
返信・引用
  ■昭和天皇御製(昭和六十三年八月十五日「全國戰沒者追悼式」。宮内廳從侍職編『おほうなばら──昭和天皇御製集』平成二年・讀賣新聞社刊)

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど



 令和二年二月二十四日午前十時半、元陸軍歩兵大尉・野中四郎大人命の八十四周年、即ち八十五年慰靈祭を、吉備前國御野郡岡山市中區平井の東山靈園なる、野中類三郎家墓地(古きは元祿の年號あるも、今は無縁墓地と化せり)に於いて齋行す。岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁が創祀されて以來、こゝに四十四囘なり。氣、凛として、身、慄す。

 梅香る、穩かなる天候の中、嚴肅裏に、滯り無く御祭を畢ぬ。「天壤無窮」(大尉絶筆)なり矣。「秩父宮殿下より、野中大尉に、御叱りの御言葉あり。野中、之を承りて、『殿下よりは、恐らく御ほめいたゞく事と思ひ居たるに、殿下よりも、御叱りいたゞく上は、致し方なし』とて自決せし、との説あり」(平泉澄博士『孔雀記』)。

 祭主兼典儀は、秋田智紀主、齋主は、式内縣社足高神社・井上直亮禰宜なること、從前の如し。禰宜の祝詞は、二十六年前の直き志のまゝの祝詞、直す能はざる由。祭式に生命を賭すてふ禰宜の聲と姿、まことに莊嚴、本年、復た之を拜して、身、愈々震ふなり。首の奉記は、齋主祝詞の末尾に在り。

 なほ本慰靈祭は、百周年を以て限りとするも、大雨に因る中止のときは、以降、之を終了とす。是れ、天意と畏めばなり。然りと雖も四十四年間、祭典中は雨降らずして、幸ひに齋行するを得たり。本日は、雲一つなき晴天なり。畏し矣。

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/3154
 
 

帝國陸海軍に於ける平泉澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月17日(月)16時38分38秒
返信・引用
  ~承前~


●平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊)

 歸朝以來すでに十年、私は日夜刻苦勵精した筈であります。そして多くの人の同感協力を得たのでありましたから、普通ならば相當の成果を擧げ得た筈であります。その初めは、まだ助教授の身分でありました私の、國民精神作興運動は、自ら驚く程の速さを以て、陸軍に、海軍に、警察に、そして教育に、波及し、進展して行きました。然るに之を忌み嫌ひ、私の行手を遮斷しようとした人々もありました。元老西園寺(公望)公がそれであり、内大臣湯淺倉平氏がそれでありました。然し私は、それをあまり意に介する事はありませんでした。たとへ元老や内大臣から憎まれようとも、そして宮内省方面より嫌はれようとも、 陸海軍と警察とさへしつかりして居れば、迫り來る大國難を防止する事は出來るであらう。それさへ出來れば、我が願は足るのであつて、恩賞とか榮達とかには、いさゝかの慾望も持つてゐない身は、罵聲を耳にしても、平然としてしてゐました。‥‥
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 加藤寛治大將は、先きのワシントン會議の際には、隨員でありながら、加藤友三郎全權に強硬なる反對意見を以て抗論し、後のロンドン會議には、軍令部長として全權團に反對し、帷幄上奏を辭せない態度であつた爲に、いかにも剛勇であつて、狹量であつたかの印象を世間に與へてゐるかと思はれますが、岡田(啓介。大將)内閣成立の際に、遙かなる後輩私(當時、かぞへ四十歳、東大助教授)の進言に耳を傾けて、心氣一轉、欣然として岡田總理祝賀會に出席し、その前途を祝福せられた事、并びに私の進言(「軍縮問題に對する意見の相違は相違として、それが國策として決定せられた上は、好惡の感情を水に流して、與へられた條件の下に一致團結し、國難を拂ひのける爲に全力をあげようではありませんか」)を多として、直ちに曙町の茅屋へ抂駕せられ、謝辭をたまはつた事は、共にその襟度の寛大なるを語るものと云ふべきでありませう。

 同樣の期待を、全海軍に、全陸軍に、更に全國民に對していだき、且つ要請したのであります。陸軍は當時、いくつかに割れてゐました。その中で新しく興つたものも、御承知の通り、皇道派と統制派とに分れて、互ひに排除し合ふ状態でありました。然し私は、若し迫り來る大國難を意識するならば、忠君愛國の旗印の下に、どの派閥も解消して、一致團結すべきであり、それは必ず實現するに違ひないと信じてゐました。實際はそれが中々むつかしく、摩擦がつゞき、犠牲は出ましたが、然し陸軍全體としては、私を誤解される事なく、最期まで清く交つていたゞけました。悲しい事には、其の點、海軍は多少樣子が違ひました。‥‥

 戰爭の對手が米英兩國を主とし、その中に於ても米國が本命であるとすれば、最も重大なる任務を擔ふものは、陸軍にあらずして、海軍であります。しかるに私は、不幸にして(二・二六に因つて、)海軍の主流、その首腦より誤解せられて、肝腎の開戰前の五・六年、海軍との縁が切られてゐました。海軍の主流(岡田啓介・米内光政・井上成美の諸大將)が、私を誤解されましたのは、無理も無い一面があります。それは私が、一切辯明辯解をしなかつたからであります。米内大將とは一度も面接しなかつたのですが、岡田大將は同郷の關係で、かねてから先輩後輩、よく知合つてゐましたので、會はうと思へば會へたのですが、私は、辯解辯明は卑怯なる態度、男兒の爲すべき所では無く、誤解するのは先方の罪、放置すべしと考へてゐました。

 辯解しないばかりではありませぬ。私は原則として恩師以外、顯要の人の門をたゝいた事はありませぬ。陸軍の諸賢にしても、大抵先方から私をたづねて、曙町の茅屋へおいで下さつたので、私からおたづねしたのではありませぬ。東條(英機)大將が曙町へ來て下さつた事は二囘、私は一度も東條家の門をたゝいてゐませぬ。松田(卷平)中將の來訪は數十囘、私は中將のお宅、どこにあるのか知らずに過ごしました。澁谷(伊之彦)中將の來訪は二囘、私は一度も中將邸へ行つた事ありませぬ。近衞(文麿)公などは別格で、家柄が違ひます。お召しによつて參上するばかりであつた事、いふまでもありませぬ。

 今一つ重要な事は、私の口が至つて堅く、必要以外の事は、一切口外しなかつた點であります。當年私の周圍に在つて、隨從し、從學してゐた同學の人々も、只今私の想出の記を讀んで、初めて事實を知り、今までそれを話して貰へなかつた事を、口惜しく思ふ事多からうと思ひます。たとへば(青々)塾の講義に當り、上席に松田中將や山口(三郎)少將着座して居られましても、いかなる關係で來られたかを、私は説明しなかつた筈です。私が軍の要路といかなる關係に在るか、近衞公とは如何であるか、そのやうな事は、正學を究める上には、不必要であるばかりで無く、有害であると考へてゐました。人は功利に附きやすいもの、塾を立身出世の手段にしてはならぬとの用心でありました。

 塾生に對してのみではありませぬ。私は原則として噂話をしたり、吹聽したり、宣傳したり、祕密にすべき事を漏らしたりする事を、極度に愼しみました。心を靜めて見て居り、自ら物言ふ事無くして耳を傾けてゐますと、天下の動き、おのづから感得して誤らぬものであり、これに反して自分がしたり顔に話をする所より、重大なる機密の暴露して、人の迷惑となり、國の大害となる例を、數多く見たからであります。凡そ重大事項にして、私の口から洩れたといふものは、一つも無い筈であります。此の謹愼の故に、近衞公も、東條大將も、木戸侯も、すべて打明けて話をして下さつたのでありますが、同時にその謹愼寡默が、一方からは陰險にして腹黒く感ぜられたのでありませう。‥‥

 昭和十六年の夏七月、私は尊敬する先輩より誘はれました。「政府及び軍部の優柔不斷、見るに見かねる。就いて學者數名聯合して輿論を指導する事、日露戰爭直前の七博士の如くしようでは無いか」。私は然し、此の勇ましい提案を靜かにお斷りしました。「開戰は國家興亡のかゝる所、政府の中樞、及び軍の首腦の、十分なる分析勘案の上、陛下の勅裁によつて決定せらるべき重大事であつて、我等外交の機密にも、軍の用意にも、あづかり知らざる者が、みだりに騒ぎ立てるべきではありますまい」。先輩も之を諒解せられて、話はそれ切り消えました。

 開戰に關する私の信念は、そのまゝ終戰に就いての私の確信でありました。戰況不利となつた時、早く戰爭を止めたいといふ考が出てくるのは自然でありますが、その時機と方法とは、政府首腦と軍の中樞との判斷により、陛下の勅裁を待つて決定せらるべきであつて、民間に於いて勝手に騒ぎ立てるべきではないと信じました。昭和十七年の暮に、東條首相をたづねました際、首相が「只今警戒しなければならない事の一つは、講和説が民間から起る事です。尤も政府が講和を考へる事は、是れは別でありますが」と云はれ、私も全く同感でありました事、果して東條首相は、十七年の正月元日、武藤軍務局長をして東郷外相に、早期和平の希望を傳へしめた事、それを受けてその日、東郷外相は外務省に於いて、終戰の研究と準備とをするやう訓辭した事、更に十七年六月、ミツドウエー敗戰の一週間後に、吉田茂氏は、近衞公と木戸内務大臣とをたづねて、講和促進の爲に、近衞公を首腦とする外交使節を歐洲に派遣すべしと進言しました。
 
 

二・二六事件に於ける平泉澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月11日(火)17時03分2秒
返信・引用
  ~承前~


●平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊)

 昭和六年九月、滿洲事變勃發し、ついで十月、陸軍にクーデター未遂事件あり、七年の正月には、櫻田門事件があり、二月になると、血盟團事件が起つて、先づ前藏相井上準之助氏が遭難し、ついで三井合名の理事長團琢磨氏が倒されました。そのうちに五月十五日に、いはゆる五・一五事件が起りました。血盟團事件は、一人一殺で、規模は小さいが、いつ何處で誰が撃たれるか分らぬといふ無氣味さに、特徴がありました。五・一五事件は、結果から見れば、犬養首相が射殺された外は、重傷者・殉難者が少々あつたゞけでありますが、事を起した者が、海軍士官六名・陸軍士官學校生徒十一名・同校中途退學者一名・民間十餘名、總計して三十餘人に上り、襲撃目標が、首相官邸を始め、内大臣官邸・警視廳・日本銀行・政友會本部・三菱銀行等であつて、その規模は大きく、その目的は政治に重大なる反省を要求する點に在り、不逞の徒の犯罪とは、日を同じうして語るべからざるものがあり、それまでの政治の、沈滯、無理想、欲念の横行にあきたらない世間には、此の事件を一種の清涼劑と見る風がありました。そして外には滿洲事變、内には五・一五事件、此の二つをかゝへて、我が國の將來は、一體どうなるのであるか、否、我々は今、何を爲すべきかを、眞劍に考慮し、勇敢に判斷しなければならぬ、とする人々が多かつたのであります。簡單にいへば、内外二つの大事件は、心ある人々を刺激して、時勢に押流される事なく、志士として奮起し、君國の爲に貢獻しなければならぬと、決心せしめたのでありました。‥‥

 大學を世間と隔離せる象牙の塔とし、それに立籠つて學問の自由を宣言し、國家が傾覆の難に遭はうとも、社會が腐敗し混亂しようとも、それはすべて對岸の火災であて、自分には縁も無ければ責任も無いといふ、不思議なる説が横行してゐた時代でありましたが、私は之と意見を異にし、國家の運命に最大の注意を拂ひ、その安全の爲に全力をあげて貢獻したいと念願してゐました。‥‥

 思へば、昭和六年、大國難の迫りつゝあるを豫見して、いそいで歸朝し、國民精神の純化、道義の高揚につとめ、特に陸海軍に忠勇義烈の氣象を喚起しなければならぬと考へながら、何等の方策も持合せてゐなかつた不才不敏なる私が、いつのまにか陸軍大學校や兵學校、更に各鎭守府に招かれ、直接間接に、全陸海軍に呼掛ける事が出來るに至りました事は、何といふ不思議な成行でありませうか。歸朝直後に、思ひも寄らぬ道が開けて、三年後には既に牢固たる體制の築かれた事を喜んだ私は、大戰の來る事、なるべく遲く、我が軍の準備、一日も早からん事を念願しました。大戰の來る、遲ければ遲い程、我が軍の強化、精鋭化は進む筈であります。‥‥

 たとへ國際謀略の、いかに陰險であらうとも、迫り來る敵軍が、いかに強豪であらうとも、國民が唯一つの中心「天皇」の下に集結し、父祖の傳統を承けて、忠勇義烈の精神に於いて奮勵するならば、難關を突破する道は、おのづから見出されるであらうと信じて、晝夜不斷に努力して來たのでありました。その私の進路に、思ひも寄らぬ障害の、地より湧き起つたのは、昭和十一年の初めでありました。いはゆる二・二六事件、是れであります。‥‥

 騒亂は、四日ばかりで片附きました。然し其の害毒は消滅する事なく、計り知る可からざる損失を、陸海軍に與へました。陸軍に於ける派閥の爭が、此の騒亂を激化した事は事實であると思はれますが、亂後の處分によつて、いはゆる皇道派の目ぼしい人物を一掃し去つた事は、陸軍の力を、どれ程低下せしめたか、計りがたいものがありませう。‥‥私は、間も無く起る大戰に、是等の英傑を活用すべき陸軍が、二・二六事件に懲りて、平穩順調を希望するの餘り、凡庸化し、弱體化した事を悲しまざるを得ませぬ。

 幸にして私は、いはゆる派閥の、どちらの人からも親しくして貰つてゐました。その樣子を見て、陸大の津田美武中佐(後の中將)は、「平泉博士が十年早く出て來てくれたら、軍の派閥の爭は起らずに濟んだであらうに」と歎きましたが、それは不可能の事であつたにせよ、私の所へは、兩派それゞゝ連絡があり、たとへば小磯中將(後の大將)等からも、「皇道派は惡だから、その事、理解してほしい」との申入れがありましたが、之に對して私は、顧みて正しい學問によつて心を清める事と、常に外敵に思を致すべき事とを頼み、精力を黨爭に用ゐないやう、極力希望してゐたのでありましたが、今や二・二六事件は、折角進みかけてゐた私の融和策を、一氣に破つて了ひました。

 世間では、軍が勢力を得て、政治の表面に出て來たのは、二・二六事件からだと云はれてゐますが、私が感じます所は、却つて軍が、その純眞なる熱情を失つて、凡庸化し、弱體化したやうに思はれます。そして曾ての派閥抗爭の代りに、文武の間、陸海の間に、不信の感情が、大きく流れて來たのを感じました。私のやうに、世界大戰近しと見て、早く國内が一つにまとまらなければと焦慮してゐたものに取りましては、是れは大損害でありました。

 いや、他人事ではありませぬ。私自身が、不信の害毒を受けたのであります。尊皇絶對を主張する二・二六の將校の旗印に、私の説く國體の正道と、何となく似通ふ一面がある所から、あの事件の基礎、或は背景に、私の學問思想があるのでは無いかと云ふ疑惑が、深く眞相を究めない人々の間に出て來ました。‥‥

 不思議な事には、是れ程の重大事、私には豫想も豫感も無かつたのであります。何故無かつたか分りませぬが、あとから考へると、昭和八年三月十七日、陸軍戸山學校に於ける講演に信頼を置きすぎた爲かと思はれます。その時、校長は澁谷伊之彦少將、ある日、突然曙町の茅屋(平泉博士の住所・青々塾)へ來訪されました。戸山學校と云ふのは、軍樂隊の學校だらうと思つてゐた私に對して、劍道・銃劍道・柔道等の荒業を鍛へる所で、猛者ばかり集まつてゐるのだと説明せられた上で、「困つた事には、それ等が今、武力で政治の方向を變へようとして暴發を企てゝゐて、校長が極力制止しても聞入れませぬ。どなたかに諭していたゞきたいと思つて、小畑少將(敏四郎。後に中將)に相談しましたところ、『曙町へ行つて見るが良からう』との事で、お願ひに參りました」と云はれました。

 校長の要請を受けて、戸山學校鎭撫の爲に赴いたのは、昭和八年三月十七日でありました。講堂は滿員でした。戸山學校ばかりで無く、外からも同志の參加があつたとの事で、總勢二百名位かと思はれました。後方は席が無くて、屏風をめぐらした樣に立つてゐました。一人だけ、列を離れて、講壇眞近に椅子を進めて腰を掛け、軍刀を握りしめてゐる人がありました(後で校長から、「あれが大藏中尉(榮一。後の大尉)だ」と聞きました)。校長は講壇に向つて右の片隅に、室の中心部に向つて斜に席を占められました。私は何の疑惑も無く、いさゝかの恐れもいだかず、古來の忠臣、至誠を盡くして君國を護持して來た歴史を述べ、今日、我等の往くべき道、これ以外には無い事を説きました。私が何等の疑惑も恐怖も、或は憎惡とか輕蔑とかいふ感情をも持たなかつたのは、學問の確信と、そして陸軍に對する敬愛とがあつたからであつて、此の講演が理解せられない譯は無く、反感を持たれる筈は無い、と確信したからでありました。二時間ばかりの講演は、無事に終りました。誰一人、聲を立てる者無く、身動きする者もありませぬでした。翌日、お禮に來られた校長は、謝辭のあとで、云はれました。「然し先生、よく無事でお歸りになりましたね。私は大藏中尉が動きはしないかと心配して、終始、あればかり見てゐました」。‥‥

 時移つて昭和二十年(從つて戸山學校より十二年後)、私は阿南陸相(惟幾。陸軍大將)の依頼により、本土防衞建設部隊(部隊長野田善吾中將)へ講演に行きました折、七月十一・十二・十三日の三日、水戸の六藏寺で泊めて貰ひました。其の時に面白い話を聞きました。そのあらまし、次の通り。お寺へ來た一人の陸軍少尉、外から室内の書棚をのぞき、「平泉博士の本が澤山あるが、御住職は博士を知つてゐるのですか」と訊ねた。「知つてゐるどころでは無い、此の寺の恩人ですよ」と答へると、「博士は、すばらしい劍道の達人ださうですね」と云ふ。「劍道の話は聞いた事ありませぬがね」。そこで少尉が話してくれました。「自分は戸山學校にゐたが、教官の中に、劍道でも銃劍道でも日本一と云はれる大佐があつた。ある時、その大佐が述懷して云ふには、『おれが斬らうと思つて斬られぬ者は、今の日本には一人も無い。いや、一人ある。唯一人、平泉博士だけは、斬る事が出來ない。實はあの人を斬らうと思つて、長い廊下を、ズーツと、あとを附けた。ところが、博士には、一分の隙も無い。長い間、あとを附けたが、結局、斬れなかつた』(私はその名を知りませぬが、親友に劍道八段の達人があつて、話を聞いて云ふには、「陸軍切つての劍士といへば、誰知らぬ人も無い何の某。その後少將になつて、戰後は名古屋に居られたが、やがて亡くなつた筈です」と教へてくれました)」。

 虚弱な少年であつた私が、劍道に達する筈は無い。四高で試合をした時に、いきなり横面で一本取つて、皆をアツと云はせた事がありますが、勝つたのは、後にも先にも、此の一本だけ。戸山學校の講演の終つた時、講堂より校長室へ歸る道、廊下には簀の子板が竝べられて、それが紆餘曲折して、長く々ゝ續いてゐました。校長の先導に從つて、その板を踏んで歸る時、私は何の疑ひも恐れも無く、澄み切つた心境でありました。用心して一分の隙も無いと云ふ状態ではありませぬ。大佐の述懷を聞いた時、私はまことに是れ白山の神護冥助に外ならずと、深く感銘したのでありました。

 囘想すれば、陸軍の武力暴發は、昭和八年の春、すでに發火點に近づいてゐたのが、私の講演によつて説得せられ、一應鎭靜したのであります。私は自分の力を過信して、之を鎭靜であり、純化であらうと想ひ、その爲にたとへ色々の噂はあるにせよ、大規模の暴發はあるまいと考へてゐました。それが私の豫感を鈍らせてゐたのだと思ひます。皮肉な事には、その暴發を、命懸けで抑止してゐた私が、ある方面からは、叛亂の一味であり、その思想的基盤であるかの如く、誤解され、非難せられるに至つたのでした。

 それでは、いよゝゝ二・二六の起つた時、私は何をなしたかといひますと、當日は事件の性質よく分らず、前の五・一五と同じやうに、當局に反省を求める爲の、警鐘として起つたものかと思つてゐたところ、それとは違つて、武力による強迫である事が明かになつて來ました。然したとへ千名や二千名の兵士が暴發したとしても、陸軍に荒木(貞夫)大將あり、海軍に末次(信正)大將ある以上、之を鎭定するに、處置を誤るおそれは無いであらう。たゞ一つ心配は、萬々皇族の間に御意見の不一致があれば、その間隙に乘じて魔手が謀略を逞しくするかも知れないといふ事であります。

 之を壬申の亂や保元の亂に見ても、或は又た南北兩統の爭に見ても、皇室が二つに割れる事が、最大至重の病根であります。今や暴發した部隊には、先に秩父宮殿下の配屬して居られた麻布の歩兵第三連隊が多く、將校の中には、特に殿下を敬慕してゐる者が尠なくないと聞いてゐました。そこで私は、二月二十七日早朝、高松宮御殿へ參り、此の考を申し上げて、秩父宮・高松宮お揃ひにて、陛下を御輔佐遊ばされ、その間に一分の隙も無いやうに御願ひ申し上げて置き、次に秩父宮殿下の御動靜を伺ひました處、二十六日夕十一時二十二分、すでに弘前をお立ちになり、御上京の途中である事が分りましたので、二十七日朝九時十分上野發の列車に乘つて御迎へに參り、水上驛にて御召列車に飛移り、車中拜謁の上、「此の際、極めて大切なる事は、皇室の御意志の完全なる統一であつて、それがあれば離間策も施す術がありませぬ。それ故に一亂鎭定までは、終始、高松宮殿下と竝んで、陛下の御左右に御立ちになり、最高の地位に於いて、陛下を御輔佐遊ばされますやう」に御願ひ申し上げ、やがて高崎驛まで來ますと、群馬縣知事等が御機嫌奉伺に來ましたので、私は御暇乞ひして別室へ退きました。そのうちに宮内省からも陸軍からも御迎へがあつて、上野驛からは嚴重な御警衞のうちに、直ちに御參内あらせられました。‥‥

 二・二六事件の判決は七月五日に下り、刑の執行は七月十二日に行はれ、そして凡そ何等かの意味に於いて、此の事件に關係ありと認められたる者、もしくは之に同情ありと認められたる者は、大將中將たりとも、有爲有能たりとも、一網打盡、之を軍より退去せしめ、その數、大約三千名に上つたといひます。‥‥世界大戰を三年後にひかへ、我が國の大戰突入を五年後にひかへて、國力を充實し、武力を強化するに專念すべき時、我が國に於いては思想混亂、同胞相撃ち、そしておのれの右腕を、おのれ自ら斬捨てたのでありました。大國難を近しと見る私に取りまして、眞に痛歎事であり、痛恨事でありました。

 しばらく目を轉じて、元治元年の長州を見ませう。その年、幕府は長州征伐の爲に大軍を發し、道を五つに分つて進撃せしめた。長州動搖して、遂に恭順に決し、益田右衞門介・國司信濃、及び福原越後の三家老に切腹を命じ、宍戸・佐久間・竹内・中村の四參謀を斬罪に處し、陳謝して處分の寛大ならむ事を乞うた。その切腹、又は斬首の刑の行はれたのは、元治元年十一月十二日でありますが、それより僅か一箇月後には、高杉晉作蹶起して擧兵に着手し、數箇月後には、幕府の再征發令となり、結局、薩長聯合して幕府を討つ事になつたのでありますから、後を以て前を顧れば、三家老・四參謀を斬つた事は、惜しむべき損失であつたといふ外は無いでせう。

 更に思ひますのは、明治の日本、シナと戰ひ、ロシアと戰ふ事は、まぬがるべからざる運命であつたと云ふべきでせう。然るに其の大戰を目前に控へながら、明治十年に、同胞相討ち、西郷方の死傷總計二萬、官軍の死傷一萬五千に上つたといふは、惜しんで餘りある悲劇ではありませぬか。若し能く前途を達觀し、將來を洞察して、大度、人を容れ、盛徳、人を感化する大政治家があつたならば、明治七年の佐賀の亂も、同九年の熊本・秋月・萩の亂も、更には同十年、鹿兒島の亂も、未然に之を善導して、國力を長養充實せしめ、一朝、海外に事ある時、左右提携し、前後呼應して進み、國運を一層盛大に、國基を一倍強固ならしめ得たのでは無いでせうか。歴史を囘想する毎に、私は之を想ひ、之を悲しまざるを得ないのであります。


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●田中健之翁『昭和維新──日本改造を目指した「草莽」たちの軌跡』(平成二十八年三月・學研プラス刊)に曰く、

「死刑執行の(昭和十一年八月)十九日、北一輝・西田税・磯部淺一・村中孝次の四人が、投獄以來初めて一堂に會した。四人が揃ふのも、この世で最後のことだつた。
『北先生!』、『北先生!』。皆、北一輝のところへ驅け寄つてきた。
『我々も、天皇陛下萬歳を三唱しませうか?』と、西田税が言ふと、北一輝は、
そんな形式的なことは如何かと思ふから、私は唱へません』と答へた。結局、四人は誰も、『天皇陛下萬歳』を唱へなかつた」と。



 愚案、魔王に魅入られたか、死に臨んでや、此の四傑には、皇城伏拜の姿、繾綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、至誠、自ら已む能はざるの心、即ち戀闕の情は無かつたのであらう。殊に村中孝次大尉『丹心録』は、一體、何だつたのであらうか。失望を禁ずる能はざるは、小生のみであらうか、嗚呼。
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汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は亂れ飛ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月 5日(水)12時45分5秒
返信・引用 編集済
   二月になれば、いつも「昭和維新」の軌跡を憶ふ。憶うて之を憂ふると共に、其の精神に於いて、一掬の同情を禁じ得ない。次の二題を引用して、諸賢の參考に供したい。其の識見に學ぶこと、頗る多い。



●井上日召『一人一殺[一殺多生]』(昭和四十七年九月・新人物往來社刊。『日召自傳』二十二年十二月・日本週報社刊の改定版)に曰く、

「(國際裁判所の檢事に對して、日召の曰く、)われゝゝ日本人は、天皇制なんていふ制度があつての天皇を戴いてゐるんぢやないんだ。天皇制なんてものは、國際的には共産主義者、國外的には君ら(進駐軍)がやつてきて、言ひ始めたんだ。われゝゝ日本人は、天皇制といふ言葉さへ、考へもしなければ、もちろん使用もしなかつた。天皇と國民との關係は、親子同樣の關係である。つまり親に非ずして親の分を盡すがゆゑに、『大御親』と申し上げる。子に非ずして子の分を盡すがゆゑに、『陛下の赤子』と呼ばれる。のみならず歴史の事實が示すやうに、始めから天皇と國民は一體で、たゞおのゝゝ使命を異にするがゆゑに、配置を異にした。

 いかなる集團でも、必ず中心・分派の關係から成り立つ。そこで天皇が、任運自然に中心として、國民から推戴(マヽ)されたんだ。だから後に支那から文字が輸入されてからも、『君民一體』といふ文字で、日本國體を表現してきた。君らは出稼ぎ人の寄り集まりだから、誰が中心だ、親分だといふこともなく、みんな五分々々の者ばかりの社會だが、その社會でも、やはり中心が必要なので、入札で親父をきめるといふやうなことはしなけりやならぬのだ。わが日本社會では、そんな必要がないんだ。始めから親父があるんだ。つまり日本は、世界唯一無二の大家族國家だ。社會の單位が家庭である以上、國家は、當然家庭の發展的形態であるがゆゑに、大家族國家が、本當の國體なのだ。君らの國々は、みんな生活上の利害得失を基とする功利主義國家で、本當の國體ではない」と。



●大藏榮一陸軍歩兵大尉『最後の青年將校──二・二六事件への挽歌』(昭和四十六年三月・讀賣新聞社刊)に曰く、

「近ごろ、私(大藏大尉)は、よく耳にすることがある。全學聯と往時の青年將校とは、その行状は、右と左とを置き替へたゞけで、あとは全く同一だとする議論である。もつてのほかである。その議論は表面だけをみて、その内面を洞察し得ない短見でしかない。

 日本は、嚴然たる法治國家である。だが長年の積弊によつて、國家の生々發展が阻害されたとき、その惡の根源排除のため、最惡の場合は、身を挺して國法を、あへて破らなければならぬと、往時の青年將校は覺悟してゐた。すなはち國法を乘り越えて破る行爲は、今の全學聯の聯中と同じであつたといつてもいゝだらう。しかし根本の相違點は、そのさきにある。往時の青年將校は、少なくとも國法を破ることが『惡』であることを承知してゐた。いつたん破つたあかつきは、自らの全責任において、喜んで法の前にひれ伏す勇氣を持つてゐた。全學聯の聯中が、これと同日に論じられようか。彼らには、最惡の場合、やむを得ずといふ配慮など、全くなく、むしろ法を無視すること自體が目的とさへいへるていたらくである。しかも多數の中に責任を埋沒して、各個の責任を省みようとしない。この明確な兩者の相違點を無視して、なほかつ兩者の相似をいふものがあれば、私はその低腦ぶりを疑ふ」と。


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【平泉澄先生『孔雀記』】
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●寒林平泉澄先生の哥

天津日の 光かゞやく 世となさで 益良雄何ぞ 朽ち果つるべき



●平泉隆房博士『寒林夜話──祖父平泉澄との對話・三十七』(『日本』平成二十八年十一月號)

 或人の曰く、「景岳がどうの、松陰がかうのと言はれず、平泉先生が『かうして欲しい、かうせよ』と、直言して戴きたい。御命令いたゞければ、直ちに處斷します」(愚案、昭和十一年二月頃、帝都不祥事件の關係者か)と。

 平泉澄先生の曰く、「今日、我が國民の間で、國體は必ずしも明かでは無く、皇室が大切だといふことも理解されてゐないのが實状です。殊に誰が惡い、これに罪があるといふ穿鑿に、うつゝを拔かす。其の態度そのものが、宜しく無いのです。先づ道を明かにして、光ある國とすべきです。次に私は、君國の大事に對して、私見を以て判斷するのは僭越と考へ、先哲の教へを仰がむとしてゐるのみです」と。



●平泉隆房博士『第六十三囘・日本學協會主宰千早鍛錬會報告──講義』(『日本』平成二十八年十一月號)に曰く、

「昭和二十年八月十四日。終戰の前日です。平泉澄の下に、二人の海軍中佐がやつて來た。二人は、『敗戰後の國體護持をするのは誰か、皇室から人心が離れる時代に、國體護持を擔ふのは、特攻で生き殘りの人でせうか』と質問した。祖父(平泉澄先生)は、即座に『特攻は立派でした。然し今日より其の人達が普通の生活に入れば、數年後には、學問をした人によつて、國體は護持されるでせうね』と語つた。

 學問とは、先哲遺文を學ぶことです。この學問こそ、千早・吉野の核心です。吉田松陰先生は、江戸時代の人の學問は、名譽と位階を求めるためであり、道義・道徳を學ぶ者は少ない、と言つてゐます。國體を支へたのは誰か。軍人は立派でした。戰後になつて世相に左右されて、考へ方が變はつた人がゐます。身分の高い人が、日本を支へた譯ではない。

 古く藤原定家は、平家の都落ちに伴なひ、「天皇が西下しようとも關知しない」と、日記に書いてゐます。定家は、皇室に大變な恩惠を受けてゐる人です。歌聖といはれた定家には、國家の自覺は無かつた。

 國柄(國體)に氣付いた名も無き人々が、皇室を支へて來た。大楠公も『名もなき民のこゝろ』の人達の一人です。幕末勤王の志士は、極めて貧しかつた。おしなべて言へば、これらの人々によつて、明治維新は達成されたのです」と。
 

異端を攻めよ、斯れ害のみ也已──根本羽嶽博士の訓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 1月 7日(火)23時21分17秒
返信・引用
   世に喧しき、映畫のやうな大脱走劇。連日の報道に因るに、プロの仕業の由。制約に雁字搦めの民主幕府も、せめて此の手のプロを雇ひ、彼の守錢奴毛唐を殺つて、氣節ある所を宇内に示さゞれば、吾人の腹悶、醫し難かる可し矣。



●渡邊重石丸翁『日本國中は、北邙山ならん』(『能言雜纂』第十二號・刊記なし(或云明治二十年)・能言協和會假事務所刊)

 人に氣節あるは、身に骨幹あるが如し。身に骨幹無ければ、起居すること能はず。人に氣節無ければ、獨立すること能はず。獨立すること能はざる者は、之を活人と謂ふべからず。故に人は氣節あるより貴きは無く、國は氣節の士を養ふより大なる無し。

 今ま此處に、人あらん。突然他より來つて、其の頭を毆打し、其の面に咳唾(つばき)して、其の人、毫も憤怒の色なく、夷然として其の面を拭はゞ、人、其れ之を何とか謂はん。又た此處に、一人あり。其の人、首を低れ腰を屈して、柔媚諂諛、曾て廉恥の色なく、醜態至らざる所なく、其の精神たるや、金を與へ錢を投ずれば、百拜千拜、揚々然として得色あり。而して其の富を致すことの不貲ならば、人、又た之を何とか云はん。

 維新以來、洋學盛んに行はれ、上下と無く賢愚となく、家に侏□[人+禽](横文字)の書あらざるは無く、人に鵠舌の音あらざるは無し。其の盛も、亦た極まれり矣。而して其の人、各々期するに文明を以てし、唱ふるに開化を以てす。蓋し天地開闢以來、文華の盛んなる、未だ此の時より盛んなるは有らざる也。夫れ形あれば影あり、聲あれば響きあり。洋學の形を見んと欲せば、何ぞ洋學の影を見ざる。洋學の聲を聞かんと欲せば、何ぞ洋學の響きを聞かざる。

 何をか洋學の影と謂ふ。曰く、天下滔々、華族となく士族となく平民となく、其の志す所、利己主義ならざるはなし。而して言の仁義に渉る者は、指して之を頑固と謂ひ、行ひの道徳に關する者は、嘲つて之を迂遠と謂ふ。嗚呼、仁義道徳の喪亡する、今日より甚だしきは莫し焉。是れ洋學の影に非ずして、何ぞや。

 何をか洋學の響きと謂ふ。曰く、天下の學士、口を開けば民權と云ひ、天下の書生、舌を皷(な)らせば自由と呼ぶ。而して更に堂々たる神州國體の如何と帝室系統の如何とを問はず。試みに明治二十年前の論を取つて、明治二十年來の論に比較して見よ。風俗の可否、人情の厚薄、果して如何ぞや。予を以て之を見れば、世衰へ道微かにして、邪説有(ま)た作(おこ)るの叔世と謂はざることを得ざるなり。是れ洋學の響きに非ずして、何ぞや。

 嗚呼、洋學の影響、既に已に此の如し。施して儒者に及び、拖(ひ)いて國學者に及べり。儒者は名教を以て自ら任ずる者也。而して文字を以て洋學毒流の中に衣食して、以て其の影響を贊成する者之れあり。國學者は國體を知るを以て自ら任ずる者也。而して詞章を以て洋學毒流の中に衣食して、以て其の邪焰を扇動する者之れあり。噫、儒者・國學者等、自ら其の道を明かにせずして、以て其の股下に蒲伏するは、醜しと謂ふ可し矣。加之のみならず蠢氓(人々)の祅教(耶蘇)に侵染する、日一日よりも甚だし。然れば則ち擧げて之を大觀すれば、堂々たる大日本帝國の人民は、蓋し多年を出でずして、其の存すること(活人)、幾何くも無きに至らんこと疑ひなし。

 伯樂、一たび冀北の野を過ぎて、馬群、遂に空し。洋學、一たび日本の國に行はれて、日本人、遂に空し。予、之を解して曰く、予が所謂る空しとは、人無きに非ざる也。大日本魂の人無きを謂ふなり。日本國にして、日本魂の人なくんば、人無しと謂ふと雖も、虚語と爲ざる也。所謂る日本魂とは、何ぞや。曰く、帝室の帝室たる所以を知りて、廉耻を重んじ、氣節を尚ぶの風、是れ也。嗚呼、今の道に由つて、今の俗を變ずること無くんば、廉耻地を掃ひ、氣節喪亡して、國に活人なからん。國に活人なくんば、大日本國中は、茫々たる北邙山(墓場)ならん[唐詩に、「北邙山上、墳塋を列す。萬古千秋、洛城に對す。城中日夕、歌鐘起る。山上唯だ聞く、松柏の聲」とあり。想ふてこゝに到れば、覺えず、身、栗す]。

 他日、洋人、無人の地を蹂躙するも、誰か又たこれを防衞する者あらん。孟軻、言へることあり。曰く、「矢人(矢師)は、豈に凾人(鎧師)より不仁ならんや哉。矢人は、唯だ人を傷つけざらんことを恐れ、凾人は、惟だ人を傷つけんことを恐る。巫・匠も、亦た然り。故に術は、愼まざる可からざる也」(愚案、公孫丑上)と。あはれ、鈞しく是れ堂々たる大日本帝國の人民にして、如此くまで人心の破廉耻に陷るも、其の根本を培養せざるに由るのみ耳。然れば則ち人心をして道を念ひ、義を懷いて、大日本魂を固結して、東洋の一鐵丸を鋳造せば、學術を愼むに在らんかな哉、學術を愼むに在らんかな哉。
 
 

謹賀新年。更めて「古傳」・「神話」の名稱を問ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 1月 1日(水)09時37分24秒
返信・引用
  令和紀元 二年
中興紀元(皇紀) 二千六百八十年
神仙紀元(天降(あもり)紀・開國紀・肇國紀) 五千二十年
天皇正月、歳、庚子に次(やど)る、元旦、


大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。更めて謹みて、

聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて御閲覽各位の福壽無量を祝祷申し上げ候ふ。




●青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽大人の哥

──正月ついたちの日、古事記をとりて

春にあけて 先づ看る書(ふみ)も 天地の 始めの時と 讀みいづるかな

──大御政、古き大御世のすがたに立ちかへりゆくべき御いきほひと成りぬるを、賤の夫の何わきまへぬものから、いさましう思ひまつりて

古書の かつゞゝ物を いひ出づる 御世をつぶやく 死眼人

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



●東嶽宮地嚴夫大人『世界太古傳實話』(『本朝神仙記傳』特別付録・昭和六十三年二月、『宮地嚴夫論稿集──神仙・神道要義』令和元年十二月、共に八幡書店刊に所收)

 猶ほ亦た一つ申し置かねばならぬ一事があります。それは「古傳」と「神話」との差別であります。近來、此の古傳と神話とを混淆して、動(やゝ)もすれば我が神典を始め、支那・印度などの上古史に傳はりて居る古傳をも、概して日本の神話・支那の神話などと稱して、得意がりて居る人も、少なからぬやうでありますが、此れは大いなる謬見であります。

 抑々此の神話と申すは、古代の人の想像に出でたる小説と申す意に過ぎざる名にて、此れは穩當なる名稱ではありませぬ。ソコデ、歐米の人で基督教を信ずる者は、聖書、即ち『バイブル』をば、「傳記」とこそ申せ、神話とは申しませぬ。夫れは何故かと申すに、伝記と申す時は、古へよりの傳へを記した記録と申すことになりて確實に聞こえますれど、神話と申しては、唯の神ばなし、一種の小説と云ふことになりて、更に崇敬の意味無きものとなります。故にバイブルをば、神話とは申さぬと見えます。然れば神話とは何を指すかと申さば、希臘の神話とか羅馬の神話とか云ふ類ひのものを指しまして、實は輕慢した名稱で有ります。

 然るに我が『古事記』の上卷や『日本書紀』の神代卷などに載せられてあることを稱するに、神話の名を以てするは、自ら我が古典を侮慢する譯にて、甚だ穩當ならぬ次第であります。此れが若し基督教を信ずる歐米人が、我が神典をも、希臘・羅馬の神話と稱するものと同一視して稱するに、雷同して云ふものとすれば、實に笑止千萬なることにて、喩へば人が、「貴樣の家の系譜は、拵へ物である、虚妄である」と云ふを聞いて、夫れに雷同して、自らも其の通りなりと心得、得意に成りて居ると同じことにて、愚も亦た甚だしきでは有りませぬか。此れ等は、能く自ら顧みて考へて見ねばならぬ事と思はれます。‥‥

 古傳と申す中にも神話が交りて居り、また神話と申す中にも古傳が交りて居りますれば、研究もせぬ眼識の具はらぬ人や、一種の古傳、若しくは神話のみを見て、他の古傳・神話を知らずに偏信して居る人などが見ましては、孰れが眞やら僞やら、正やら邪やら、到底、解る譯のものではありませぬから、擇分(えりわけ)のできぬは、申す迄もありませねど、年來、其の各種の古傳や神話に眼を曝して、彼と此とを比較し、研究の上に研究を積み、審査の上に審査を重ねて、能く之を熟知するに至りますれば、其の智識が玄妙の蘊奧に達して、自然に是非曲直、虚實眞僞を識別判斷すること、晴天に白日を見るが如く、明白なるに至るものであります。

 之を近く物に例へて申さば、彼の刀劍古書畫、または骨董の類を鑑定するが如き、素人より見れば、更に眞僞の見分けが附きませねど、經驗の有る鑑定家は、一見、忽ち其の眞贋を鑑定して、決して謬ることが有りませぬ。猶ほ之よりも卑近なる例を擧げますれば、彼の兩替店の手代が、金錢の眞贋を見分け、米屋の小僧が、諸國の米穀の見分けをして誤らぬが如きも、皆な同じことにて、之は練磨經驗の結果に因るものでありますが、實に不測(ふしぎ)と申すの外はありませぬ。今、所在(あらゆる)古傳・神話の中より、古代の人の想像より出でたる妄説と、此の天地世界を御草創なされた、眞の神話の御傳へに係る眞の古傳とを擇分けて、世界太古傳の御話を致すも、全く之と異ならぬ譯かと思はれますので、何とぞ能く御聞取り成されて、翫味せられむことを希望致す次第であります。



追伸
 昨年末、賀状を奉るパソコンが損傷、年賀データも消失してしまひました。年賀遲延申し上げますが、御海容たまはらむことを。百拜
 
 

時勢に後るゝも、後るゝことを樂しむ、亦た可ならずや乎。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年12月23日(月)11時30分9秒
返信・引用
   本日は、太上天皇陛下の御誕辰の日、國民擧つて、謹みて賀し奉ります(幕府呼稱の「上皇」は、敢へて稱し奉ることを得ず)。

 令和元年己亥歳、殘すところ九日となりました。本年も、同志道友には、御誘掖御交誼の程、洵に難有うございました。來る庚子歳も、九段塾に對しまして、嚴烈なる御鞭撻御指導を、幾重にも頼み入ります。

 小生は、中今の民主幕府のやうに、大東亞戰爭を「太平洋戦争」とは言へず、かつ支那を「中国」と呼ばず、西暦を見ては反吐をもよほし、戰前の國語を墨守して、先哲の遺文を奉じ、自由の世論と合はず、いはゆる時勢に後れた、信に困る隱居逸民ではございますが、今後とも、鋭意、此の孤壘「九段塾」を固守して參る覺悟であります。

 時勢に後るゝも、後るゝことを樂しむてふ、渡邊重石丸翁が樂しみを承くる吾、此の樂しみを同じうする者は、今の世に當つて、復た誰か在る。呵々洪笑。



●渡邊重石丸翁『時勢に後るゝと云ふこと』(『能言雜纂』第十九號・刊記なし(或云明治二十年)・能言協和會假事務所刊)

「今世の諺に、「彼の人の説は、時勢に後れたり。某人の爲ることは、時勢に後れたり」と。何事に付けても、「時勢に後るゝ、後るゝ」と云つて、競馬の氣取りになりて、世を渡る心得の樣なり。予を以て之を見れば、其の人、決して時勢に後れはせぬ。其の故は、人は強慾・利己主義を以て、世を渡らんと欲す。其の人は禮義・廉耻・道徳を以て、風教を維持せんと欲す。強慾・利己主義の徒より、其の人を見れば、時勢に後れたりと云ひもすべけれども、其の禮義・廉耻・道徳を維持せんと欲する人の眼より見れば、却つて彼れの卑(ひく)く後れたること、蓋し幾百層倍なることを知らず。

 譬へば此處に、學校あらん。百餘人の中、九十九人の書生、盡く酒に狂ひ色に溺れ、根津に芳原に遊蕩して、校則を守る者なし。然るに一人の書生、かゝる亂暴の所爲をば、深く惡み痛く厭ひて、正道を蹈む者あらんに、之を目して時勢に後れたりと謂つて可ならんか乎。又た此處に、一箇の豪家あらんに、家僮千人の中、九百九十人の家僮恊議して、其の主人を殺さんと謀る。其の中、十人の忠僕ありて、之を肯(うけが)はずんば、此れをしも亦た指して、時勢に後れたる者と謂つて可ならんか。

 今世の論者は、徒らに多數を以て至當として、更に義の當否を論ずる者なし。共和政治説と云ひ、民權自由説と云ひ、佛教説と云ひ、耶蘇説と云ひ、賊儒の禪讓・放伐説と云ひ、如何なる邪道邪説にても、彼の學者社會中は、通用勝手次第なり。此れに反對説を爲す者をば、如何なる正論正道にても、時勢に後れたりとて、更に取り合ふ者なし。嗚呼、亦た舶來輸入品なる文明世界の一奇品ならずや。

醉ひしれて 人や猿なる 猿や人 けぢめしらざる 世のたふれども

と云ふ歌を咏みたる人あり、とか聞けり。ちと、惡口の樣なれども、國體を維持せんと欲する學者の目より見れば、先づそんな者さ」と。



●林櫻園大人の言(木村邦舟翁『(神風連)血史』明治二十九年十二月刊)

「今日の有志者は、宜しく決然、時世に反對すべし。反對、又た反對せば、自ら神仙の道に冥合すべし」と。



●前川佐美雄翁「捜神」の哥(昭和三十九年八月)

はじめより 近代を憎み 否み來つれば 進歩なき今日の わが生高し
 
 

令和の大嘗祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年12月12日(木)22時04分42秒
返信・引用
   天皇陛下には、恐れ多くも三種神器を御繼承あそばされ、現人神として、正統なる第一百二十六代天皇、即ち天壤無窮の寳祚御位に即かせ給ふた「踐祚」、天皇・皇帝の即位を内外に宣明し給ふた「即位式」、而して天子として、神國古式ゆかしき「踐祚大嘗祭」齋行と、滯り無く畢らせ給ひ、洵に慶賀至極に存じ上げます。

 皇尊彌榮、聖壽萬歳、只管ら祝祷申し上げます。


●友清磐山先生『古道神髓』

 大嘗祭は、天皇即位の後、始めて新穀を以て、天照大御神及び天神地祇を奉祀したまふ一世一度の大典で、古へ大祀と稱せられしは、此の祭祀に限つたものである。この儀を行はるゝには、二月以後、國郡卜定の神事があり、悠紀・主基の兩齋國が定められる古例で、明治以來に於ても、この卜定の神事は、古例によつて行はせ給ひしやに洩れ承はるが、この卜定といふことも、靈感・神託を意味するのである。

明治天皇御製

わが國は 神のすゑなり 神まつる むかしの手振 わするなよゆめ

 以前は大嘗祭の職員を任命せらるゝにも、用材を山から切出だされ、建物を建てられるにも、一々その人や山や日時などを卜はれ、神意を伺はれて、卜に合つたものだけを御採用になつたものである。

 この大嘗祭について‥‥、神事と潔齋との關係である。わが國體も、古神道も、清淨を本とするのであつて、此の無比の大祀に、潔齋に關する御儀が、極めて嚴重であつたことは申すまでもない。一例を申すと、此の大祀に當つては、佛道關係のことなども、或はどうかと思はるゝほど、極端に禁忌されたものである。

 朝廷では、御歴代、佛教をも重んじ給ひ保護し給ひ、宮中に於ても、宮門跡始め僧侶が出入して、恆例・臨時の誦經祈祷等をも行はれ、大内裏の中にも、眞言院などある程であつたが、此の大嘗祭の時は格別であつて、非常に汚穢を厭はれ、用語にも特制があり、僧尼の宮中への出入を停止せしめられ、佛經の如きも、當分他所へ移されたものである。

 康治元年、近衞天皇の大嘗祭の時にも、散齋であつたにも拘らず、攝政忠通が僧侶を召して佛事を行つたので、左大臣頼長が攻撃したことも、『台記』に見える。貞享四年、大嘗祭御再興の時には、十月二十八日から十一月晦日までの間は、宮門跡でも、參内は勿論、御使も御無用と達せられ、寺々の鐘をつくことさへ禁ぜられたほどである。宮中の屏風・障子等の繪に、法師のあるのは、皆な撤去を命ぜられ、撤去しがたいところは、紙を貼らせられ、『古今和歌集』の如き歌書の御覽も御控へになつたのは、歌の中に、哀傷の歌もあれば、作者に僧侶も交つて居たからである。其の他いろゝゝむつかしいこともあつて、あまり極端に走つたかとさへ思はるゝ節もあつて、其の當時も相當に議論が起つたことが、古文書にも散見するほどであるが、とにかく如何に潔齋の儀が嚴重であつたかといふことが考へられるのである。



●春日大社宮司・葉室頼昭醫學博士『神道──見えないものの力』(平成十一年十一月・春秋社刊)

「天皇といふのは、どういふ存在なのか、といふことをよく聞かれます。これは私自身の體驗談なのですが、私がいちばんびつくりしたのは、大嘗祭のときです。天皇がご即位されて、いちばん最初の新嘗祭を、大嘗祭といひます。そのときに、天皇がいはゆる大嘗宮のなかに入られて、天照大神に自らご飯を差し上げられて、そのご飯を、天皇も召し上がる。そして天照大神と一つになる。それが本當に天皇になられるといふ儀式なんですね。いまでも行はれてゐるでせう。

 いまの(平成の)天皇の大嘗祭のときに、私は衣紋者として、宮家の方々はじめ、儀式に出る方々のお衣裳をお着けしたんですが、大嘗宮のなかには、もちろん入れないから、その入り口で待つてゐるでせう。そのときに、(天照大神と天皇とが)一つになられる前に、(大嘗宮に)入つていかれる天皇と、天照大神とご一體になつて出てこられたた天皇の違ひ、この威嚴のすごさに、みんなびつくりしました。天照大神と一つになるといふのは、本當だなと思ひました。私だけが思つたのではなくて、そこに奉仕した人は、みんなさう思つたのです。‥‥

 我のない人といふのは、日本で天皇しかいらつしやらない。われゝゝは、カネをもうけたいとか、出世したいとか、みんな欲を持つてゐますが、天皇より上はないんだから、(天皇は)何になりたいといふ我もないでせう。‥‥さうすると天皇に、神の知惠が天下るわけでせう。その導きによつて國を治めるといふのが、いはゆる『まつりごと』だと思ふんです。

 總理大臣といふ立場でも、人間の淺知惠だけでやるから、をかしくなるんです。それを知つてゐて、日本人は昔から上に、天皇をいたゞいたわけでせう。その下に將軍がゐるんだけれども、その上に、必ずかういふ神の命を傳へる方がゐないと成り立たないといふことを、日本人は知つてゐたといふのは、すごいと思ふんです。

 ですから、天皇は現人神だいとふと、をかしいとか何とかと言ひますが、違ふんです。天皇は神さまでなければいけないんです。しかし神さま、そのものではない。神さまの心を傳へ、命を傳へる方でないと、正しい政治はできないといふことなんですね」と。
 
 

一旦緩急あれば、義勇、公に奉じ、以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月30日(水)21時06分58秒
返信・引用
  ●物集高見博士『勅語逢原衍義』(明治四十四年十二月・斯道會出版部刊)の「緒言」に曰く、

「皇祖皇宗の御遺訓は、主として國民の子育に在り。夫れ人の天地の間に生れて、禽獸と異なるは、他なし、人たるの道を知りて、能く其の道を踐行へばなり。而して其の道を知りて、能く其の道を踐行はしむる者は、誰ぞ。家庭にしては父母、社會にしては師友なり。然れば父母と師友とは、實に人を人たらしむる者にして、人は、父母と師友とに依りて、人と成る者なり。

 然るに人といふは、二種あり。一は個人の人、一は國家の人なり。個人の人は、社會の異同に關らず、人の徳、即ち人の禽獸と異なる所以の者を具へて足るべしと雖も、國家の人に至りては、唯だ人の徳を具ふるのみにしては足らず。更に國家の分子たるべき徳、即ち國體の成分に闕くべからざる要素を具へざるべからず。故に國家の人に需むる者は、個人の人に需むる者よりも重大にして、是れが養成も、亦た容易ならざる者あり。況んや本邦の如き、開闢以來の歴史を有せる舊國民の養成に於てをや。

 大日本帝國は、開闢以來、萬世一系の天皇を戴き、其の臣民、亦た天孫降臨以來、子々孫々繼承して來たるもあり。其の間、自然に生じたる習慣・風俗の、國體の成分に於て重き要素と成れるもあるを以て、國民の養成を任せんには、其の歴史に通曉し、其の要素を識別し、之を捉へて、國民の腦裏に收めしめ、また能く之に同化せしめて、躬行實踐に至らしめざるべからず。

 國家の要素は、今、此に數ふべからずと雖も、最要は、特異の秩序とす。秩序とは、國に在りては君民、家に在りては父子・夫婦・兄弟・姉妹、社會に在りては師友を曰ふ。其の特異は、君を戴く事、父母よりも重く、國を護る事、家を守るよりも重くして、之が爲めには、時に身命を犠牲に供する者あるをいふ。彼の世の艱難に際して、忠臣・孝子・義夫・節婦を出しゝは、みな是れが爲めなり。

 嗚呼、温故知新は、學問の道なり。新知を競ふが爲めに、舊典を遺るゝは、識者の痛嘆する所なり」と。



 本日は、『教育に關する勅語』發布、正に足掛け一百三十年の日なり矣。

【之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず】
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2749
 
 

國史に記録せらるゝ天啓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月28日(月)21時00分28秒
返信・引用 編集済
   不二歌道會代表・福永武主「天啓をおもふ──即位禮を拜して」に曰く、

「(即位禮正殿の御儀開始の直前に)窗を開けると、既に雨は止み、雲の切れ間から日が射し初めてゐた。後に知つた事だが、この時、皇居上空は、七色の彩光に包まれ、鳥は囀り、令和初の冠雪を記録した富士の美しい姿が、雲間より現れ、靜岡淺間神社では、御即位を壽ぐ如く、櫻の開花が見られたといふ。偶然と言ふには、餘りにも出來過ぎたこれらの現象に、多くの國民が『天啓』といふものを感じたに違ひない。宮中の御儀を拜しつゝ、改めて『令和の御代こそ、祖國再建、維新成就の大御代となさむ』の氣概を以てお仕へすることを、心中深く誓ひ奉つた次第。‥‥(同志道友)皆、口々に本日の感動を述べ、特に『天啓』とも申すべき不可思議な自然現象のことで、暫く話題は持ち切りであつた。輕々に神意を語らずとは、常日頃の信條てあるが、今日ばかりは、大いなる天意を感じ、語らずにはゐられなかつた。この日の感動の記憶は、わが國史に、確と銘記されることであらう」(『道の友』令和元年十月二十五日)と。



 愚案、戰後は、唯物科學の猖獗を極め、神明自然の奇瑞は語られなくなつた。靖國神社内に於いても、奇蹟・靈談は盡きないと聞く。然るに誰か云ふ、●統斷絶、日本は亡びむ、と。天壤無窮の使命は、皇天二祖の守護する所、天神地祇の奉仕する所にして、此の保守界隈の不敬なる主張は、童蒙耄碌も嗤ふ所なり。疑ふ者には疑ふがまゝに、信ずる者には信ずるがまゝに、顯界の喧噪に拘らず、何の躊躇も無くして、皇神の經綸宏謨は、嚴かに展開埀示されるであらう。

大君の みことと云へば 雨風も 依りて仕へむ 神の御代かも

 言は卷くも畏き「皇位繼承」の如き御大事は、天照大神の嚴命せられ給ふ所にして、「各々擔當者の意見を徴し、其の結論を聞いた上で、皇家の傳統によつて、天皇陛下御親らの御責任に於て、之を決定」遊ばされます。畢竟、下々の者の云々する所ではありますまい。皇天二祖、必ず御叡導、御守護まします。御安心ください。

【皇家祕奧の傳統】
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2187
 
 

詔勅渙發あらせらる。艸木も言止めて聽け。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月22日(火)20時23分4秒
返信・引用 編集済
  ■即位禮正殿の儀に於ける詔勅(令和元年十月二十二日)

 さきに日本國憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、皇位を繼承いたしました。ここに「即位禮正殿の儀」を行ひ、即位を内外に宣明いたします。

 上皇陛下が、三十年以上にわたる御在位の間、常に國民の幸せと世界の平和を願はれ、いかなる時も、國民と苦樂を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになつてきたことに、改めて深く思ひを致し、ここに國民の幸せと世界の平和を常に願ひ、國民に寄り添ひながら、憲法にのつとり、日本國及び日本國民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓ひます。

 國民の叡智とたゆみない努力によつて、我が國が一層の發展を遂げ、國際社会の友好と平和、人類の福祉と繁榮に寄與することを、切に希望いたします。




●佐久良東雄大人の哥

 天皇、御位につかせたまふ、またの日、この御式のあと、をろがみて、かたじけなみ、たふとみおもひまつるあまりに、かしこかれど、かうなん、おもひつゞけはべりし

いつはりの かざり拂ひて 橿原の 宮のむかしに なるよしもがな



 高天の原に、神留まり坐す、皇親神漏岐・神漏美の命以ちて、八百萬神等を、神集へ集へ賜ひ、神議り議り給ひて、「我が皇御孫之命は、豐葦原の水穗之國を、安國と平らけく、所知食せ」と、事依さし奉りき。如此く依さし奉りし國中に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて、語問ひし磐根樹立ち、草の垣葉をも語止めて、天之磐座放り、天之八重雲を、伊頭の千別きに千別きて、天降し依さし奉りき。如此く依さし奉りし、四方之國中と、大倭日高之國を、安國と定め奉りて、下津磐根に、宮柱、太と敷き立て、高天の原に、千木高知りて、皇御孫之命の、美頭の御舍、仕へ奉りて、天之御蔭・日之御蔭と、隱り坐して、安國と平らけく、所知食さむ。

天業恢弘
八紘爲宇
聖壽萬歳
皇尊彌榮
 
 

一視同仁の清祓の雨。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月21日(月)09時46分32秒
返信・引用 編集済
   御大典の前には、必ず「清祓の雨」がございます。先日の風・水の罹災に於いても、或る御方から承りました。

 悲しいことでありますが、此の雨、「清祓」と甘受しなければなりませぬ。有志には、聖壽萬歳、皇尊彌榮を懇祷して、諸共に「大祓詞」を奏上いたしませう。
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https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/41



追伸【祭祀に於ける颱風の現代的意義】
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https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/42

 愚案、かつて林房雄翁も、『緑の日本列島』にて、颱風に因り、日本國土が蘇ると仰せでありました。至極納得です。廣島・長崎も、火の穢れが清祓されて、逸早く復興を遂げました。福島も、必ず蘇ることでありませう。善きことも、缺けがへの無いものも喪ひ、人間は堪へるしかありませんが、惡しきものも流してくれます。

 最近、「萬歳」の映像をよく拜見しますが、掌を「前」にして擧げてはなりませぬ。あれでは、降參となつてしまひます。保守家も、天子樣に降參します、大御心のまにゝゝの謂ひなら、よく分りますが‥‥。兩掌は「内」側に向け擧げて下さい。注意する人もゐないやうなので、婆心ながら、一言、書かせてもらひます。呵々。
 
 

安倍晉三幕府の不臣、こゝに極まれり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月20日(日)22時18分36秒
返信・引用
   安倍晉三幕府の不臣、斷々然として許す可からず矣。死んだ魚の如き眼を持つ女房役・菅某も同罪。鋭意、討幕倒閣あるのみ。

 斯くなる上は、安倍晉三の如き逆賊が、靖國神社へ參拜しなかつた事が、唯一、せめてもの幸ひである。祭神は、必ず享け給ふこと能はず。怒髮天、限度を超えてゐる。靖國神社だけではない。皇神は見てをる。汝、能く備へよ。



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【即位パレード延期は、天皇の意向、官邸は、台風被害無視で強行するつもりだった! なのに延期した途端、「安倍首相の判断」とPR】──「リテラ」令和元年十一月十九日

 天皇の即位パレード「祝賀御列の儀」が、台風十九号の被害に配慮して延期になった。当然だろう。被災地では、日を追うにつれて被害が拡大、土砂災害や浸水被害からの復旧は進まず、いまも四千人近くが、避難所生活を強いられているのだ。どう考えても、のんきに祝賀パレードを開催するような状況ではない。

 ところが、この延期は、新天皇の強い希望によるもので、安倍政権・首相官邸は、ギリギリまでパレードを予定通り強行しようとしていたというのだ。宮内庁担当記者が語る。

「天皇陛下は、台風十九号の被害が明らかになった直後から、パレードの延期を主張されていたようで、十五日の段階で、宮内庁から官邸の皇室担当である杉田和博官房副長官に、陛下の意向が伝えられた。ところが首相官邸は、準備が進んでいることを理由に、この要望を一蹴、逆に陛下を説得するよう宮内庁に命じたんです」

 実際、菅官房長官は、十五日の記者会見で、パレードの準備を「淡々と進めていきたい」と、延期するつもりがないことを明言。翌十六日の会見でも、開催の是非を問われて、「昨日、私が申し上げた通り」と答えた。

 また一部の新聞では、十五日には、政府高官が、「陛下のお気持ちもあるが、国民の期待がある」と語ったことも報じられている。この政府高官というのは、杉田官房副長官のことで、首相官邸も、非公式に天皇が延期を希望していたことを認めていたのだ。

 一方、宮内庁は、西村泰彦次長が会見で、「天皇皇后両陛下には、台風十九号による大雨災害で、多数の方々が犠牲となり、また依然として多くの方の安否が不明であること、数多くの方々が被災されていることに、大変心を痛めておられます」と、天皇の心情を説明したが、これは天皇の心情を国民に説明して、パレードに応じてもらおう、という作戦だったといわれている。

 しかしそれでも、天皇の抵抗は強く、頑として首を縦に振らなかった。そして報告を受けた首相官邸も、ようやく説得を諦め、十七日なって、延期を判断したというのが、事の真相なのだ。

 つまり天皇自身が、被災者を配慮してパレードを延期しようとしているのに、国民の側に立たなければならないはずの安倍首相や菅官房長官は、被災地のことなんて全く無視して、パレードを強行しようとしていたのである。

 本サイトは、安倍首相が以前から災害被害者に対して、冷酷な対応を繰り返していたことを指摘し、今回の台風十九号でも、被害拡大の最中に私邸に帰り、ラグビーに大はしゃぎしていたことなどを伝えたが、この姿勢こそ、被災者ないがしろの典型と言っていいだろう。

 しかも姑息なのは、十七日、この延期決定を公表した際の安倍首相のやり口だった。まず安倍首相が、被災地訪問した際、同行記者団に、「今回の被災状況を踏まえて、延期する方向で検討している」と発言、これを受けて、菅官房長官が会見で、「首相から延期の方向で、検討するよう指示があった。宮内庁と相談し、あくまで内閣として判断した」と説明し、まるで安倍首相の「英断」のようなストーリに仕立ててしまったのだ。

 苦しむ国民を平気でないがしろにし、天皇の意向まで、自分の手柄にしてしまう独裁者ぶり。日本国民は、こんな“逆賊”を、いつまで総理大臣の椅子に座らせておくのだろうか。
 
 

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