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  2. 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義(44)(備中處士)
  3. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(8)(備中處士)
  4. 皇軍招魂抄(13)(備中處士)
  5. 日本刀四方山話(52)(那須の権太)
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  7. 肥後勤王黨・敬神黨の精神を恢弘せむ(12)(備中處士)
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  9. 霊的国防の本義 拾遺(35)(はゆまつかひ)
  10. 祖神垂示 親譲之道 拾遺(38)(はゆまつかひ)
  11. 嗚呼、慕楠黒木博司少佐。(15)(備中處士)
  12. 先哲遺文に學ぶ。(35)(備中處士)
  13. 神道に學ぶ。(61)(備中處士)
  14. 賀茂百樹大人遺文(6)(備中處士)
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  16. 和氣公傳(12)(備中處士)
  17. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(48)(備中處士)
  18. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(37)(はゆまつかひ)
  19. 平田篤胤大人『古史成文』(165)(南雄)
  20. 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(30)(相州之民艸ならびに備中處士)
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何をやつてるんだか‥‥。呆‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月18日(木)22時48分41秒
返信・引用 編集済
   下山陽太主が、下記の動畫を紹介して下さつた。「靖國神社のことなら、九段塾だらう」と。冗談では無い。こちらは田舍爺、何も知らぬ(泣)。此の動畫、既に世に出廻つてゐる。仕方が無いので、せつかくの御紹介だから、書かせて戴く(笑)。

 神社本廳の贅澤三昧なる放埓經營に嫌氣が差して、明治神宮・外山勝志宮司は、本廳を脱會した由。なにしろ本廳では、ゴルフ會が、年中行はれてゐる。賞金では無く、女が賭けられる。銀座の「あのクラブの××子を賭けよう」。勝つた奴が、その女を、本廳事務經費で買ふらしい。買ふなら、己の報酬で買へ、此の賽錢泥棒が。

 こんなことをしてゐたのが、今は、靖國神社の○○だ。腐つてゐるのが、本廳中樞。□□といふ神社神報の編集長も、無能なくせに女癖が惡くて、本廳女職員から總スカン。仕方がないので、靖國神社の○○が引き取つて、廣報課長に座らせてゐた。社報の「靖濤」を書き、「靖國神社」を冠する禍々しい名の著書もある、彼の御仁だ。この廣報課には、○○の女がゐる。社内の反○○派を探してゐる間諜。既に壽退職したさうだ。

 何かと騒がしい靖國神社神職。今度は、祭務部祭儀課長△△の騒動。職員への變態行爲の由。だめだ、こりや。職員の駐車場に、外車が目立つたが、まだ在るのかな。神社本廳の殘黨は、今も顯在なり。

 こゝは、參拜者が、奉贊者が、餘程しつかりしないと、靖國神社から、神魂は去り給ふかも知れない。「靖国保守」は、當てにはならぬ。だんまりを決め込むのみ。此の醜聞、天網恢々、神罰と心得るがよい。



**********


●「靖国神社」を揺るがすセクハラ動画 幹部職員が部下にお触り、被害者は複数人(『週刊新潮』令和元年七月二十五日號)
  ↓↓↓↓↓
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07181700/?all=1&page=1

 先月末に、創建百五十年を迎えた折も折、靖国神社を舞台にした数々のセクハラが明らかになった。加害者は幹部職員、被害に遭った女性は複数人に及ぶ。

 靖国神社といえば、国のために命を捧げた二百四十六万余の御霊が眠る日本でも指折りの“聖域”である。週刊新潮が入手した動画に収められているのは、中年男性が女性の身体を執拗に触る場面の数々だ。

「セクハラしているのは、五十五歳で妻子持ちの祭儀課長です。祭儀課長とは、靖国神社にとって最重要とも言うべき春秋の例大祭の現場責任者で、二百四十六万余の御霊のデータベースを管理する責任者でもある。英霊を慰めるための祝詞に関わる立場でもあり、靖国神社における祭祀の中心人物のひとりと言えます。」

 そんな幹部職員のハレンチな所業は、いかなるものか。デイリー新潮で配信中の動画をご覧いただきたいが、その一部をご紹介すると――。

 場所は、「祭儀課長行きつけの店」(靖国神社事情通)であるカラオケスナック。今年の春、神社職員たちで行われた歓送迎会の場だった。うす暗い店内で、石川さゆりの『天城越え』が流れる中、セクハラ幹部は、ソファーに腰かけ、隣の女性の肩を抱く。そのまま二の腕を揉み、掴み、マイクを渡し、無理に歌わせようとする。
〈♪あなたと越えたい~〉
 曲がクライマックスに差し掛かる段階で、幹部の手は、女性の二の腕から胸の方へと下がっていく……。女性は幹部の腕に包まれながら、〈♪天城越え~〉を歌わされている。
 このほかにも女性の手を執拗に撫で、自身の股間付近に引き寄せる様や、腰・お尻付近に手をやる映像も収められている。先述のとおり、これらの被害者はすべて別の女性だ。

 昨年は“陛下は靖国を潰そうとしている”発言が流出し、宮司が退任に追い込まれる事態ともなった靖国神社。今回のセクハラについて質すも、「当神社では判りかねます」と、当事者意識の欠片もない回答が返ってくる。当のセクハラ幹部はダンマリで、神社に逃げ込んでしまった。七月十八日発売の週刊新潮で、本件を詳しく報じる。

【動畫】
  ↓↓↓↓↓
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07181700/?all=1&page=2
 
 

嗚呼、泉水隆一翁、逝きて正に十年なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月16日(火)18時05分8秒
返信・引用 編集済
   嗚呼、泉水隆一翁、逝きて正に十年、有志の方々には、再度、其の映畫『凛として愛』を御覽くださり、また其の『肉聲』を御聽き賜はらむことを。



■泉水隆一翁の映畫『凛として愛』(平成十四年七月)
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/prof.php?no=5
  ↓↓↓↓↓
○映画『臺本』/https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50


■泉水隆一翁『日本女性の会「そよ風」イベント『凛として愛』――泉水隆一監督は、かく語りき』(平成二十一年十二月二十七日)
  ↓↓↓↓↓
○翁の肉聲』/https://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
  ↓↓↓↓↓
○翁の『講演』https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/5


■泉水隆一翁『靖國神社の眞實──靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか』(平成二十三年十二月八日・洛風書房刊)
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/-100


■泉水隆一翁『最終講義』
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50
 
 

泉水隆一翁十年祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月10日(水)23時23分12秒
返信・引用 編集済
   平成二十二年七月十六日、泉水隆一監督こと福井金城翁、逝きて、本年は、正に十年なり矣。小生、かつて、

○援軍を 送ると聞くに 十年すぎ 未だ來らず 髮逆立つを

○援軍の 來たるを待つに 横槍を 入れたる奴は たぶれ誰が奴

と詠みて、其の志の繼承を誓ひ、『靖國神社の眞實──靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか』一卷(平成二十三年十二月八日・洛風書房刊)を、翁の靈前に供へたが、こゝ十年、靖國神社遊就館に於ける『凛として愛』上映は、其の機運すら起こらず、且つ翁が嫌つた者が、何と、靖國神社宮司となる始末、血の涙、悲歌慷慨、本道に慚愧に堪へない。

 來る七月十六日は、翁の十年祭を、獨り行ふつもりであります。若し有志有縁の御方がいらつしやれば、共に翁を偲んで戴きたいと存じます。翁の遺訓は、

承詔必謹

尊王・勤皇の風を吹かせよ

でありました。備中處士、敬白



**********


●ポール・クローデル駐日佛蘭西大使の曰く、

「私には、どうしても滅びてほしくない、一つの民族があります。それは、日本人です。あれほど古い文明を、そのまゝ今に傳へてゐる民族は、他にありません。日本の近代に於ける發展、それは大變目覺しいけれども、私にとつては、不思議ではありません。日本は、太古から文明を積み重ねて來たからこそ、明治になつて急に歐米の文化を輸入しても發展したのです。どの民族も、これだけの急な發展をするだけの資格はありません。然し日本には、その資格があるのです。古くから文明を積み上げて來たからこそ、資格があるのです。

 彼等は貧しい。然し高貴である」(昭和十八年秋・巴里の夜會に於ける發言──興除神社・西辻嘉昭宮司『地域の神社のいはれと興除の歴史』平成二十六年八月セミナー資料より)と。
 
 

宮中祭祀の變革と人造憲法との關係。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月 6日(土)12時23分53秒
返信・引用
   大内山の神聖を、人造憲法の下に置き奉らんとする、民主幕府の策謀を激しく慨み歎き、こゝに中澤伸弘博士の論説を掲げさせて戴きます。



●中澤伸弘博士『即位儀禮に關する問題點・六』(不二歌道會『不二』令和元年六月號)

「一例として靖國神社の社報『靖國』の五月號を取り上げます。第一面に、天皇陛下の學習院時代の靖國神社御參拜の御寫眞を掲げ、その解説に、「昭和44年12月11日 學習院初等科御在學の御砌、御參拜される浩宮徳仁親王殿下」とあります。また四面には、「皇太子明仁親王」とあります。

 實に醜い文章であります。「御參拜される」も、「御參拜なされる・あそばされる」が正しいでせうし、こゝは百歩讓つたとして、「御參拜される天皇陛下 昭和44年12月11日」でよいのです。五月一日を以て、昭和當時の皇孫殿下は、天皇陛下におなりになつたのであつて、浩宮徳仁親王殿下ではありません。こゝを踏まへねばなりません。この解説だけでは、年表と同じで、過去の事實を述べたにすぎません。

 この一面の記事は、「天皇陛下は、靖國神社に御參拜になつてゐる」ことを述べたいのでせう。實はこゝに昭和四十四年と言ふ元號が使用されてゐることに注目することが重要です。そして執筆は、今、令和元年であります。令和の御代に「天皇陛下」とあれば、今上陛下しかありません。これが平成の御代のことであれば、その方は上皇陛下であり、昭和の御代であれば、昭和天皇となることは、自明の理であります。‥‥

 出雲大社教の『幽顯』六月號の御寫眞には、「平成22年‥‥御親拜あそばされた新帝陛下」とあります。これが分りやすい表現です。‥‥そして御名は書かないことが、原則であります。‥‥

 昭和天皇の侍從であつた小林忍氏の日記については、昨夏に話題になりましたが、このたび文春新書の一册として刊行されました。先に同じく昭和天皇の侍從であつた卜部亮吉氏の日記が刊行されてゐて、これで昭和天皇の近くに奉仕した人の日記が二つになりました。たゞ問題なのは、この二つとも個人の日記であること、また全部の公開ではなく、編輯者が居ると言ふことで、こことを念頭に讀む必要があります。個人の日記は公開を前提としてゐない上に、他者への賞贊や不滿なども、何の憚りもなく書かれるものであり、またた私人の心の中の、誰にも言へないことを、殊更に大袈裟に日記に書き付けて、氣持ちを整理する場合もあります。また編輯者がある目的を以て、意圖的に部分を削除し、逆にあるものを、特に掲載するなどの情報の操作がなされることがあます。たゞその點、この小林日記抄は、編輯者の意圖はあるものゝ、ご本人は左右どちらにも寄らず、素直に自分の思ひを書いてゐるやうで、その氣持ちが傳はつてきます。その中で、卜部日記抄にも記載のない、實に興味深い一點を見出しました。

 宮中祭祀は、昭和五十年の九月一日から、政教分離の原則に從ひ、國家公務員である侍從の毎朝の賢所御代拜を、從來の淨衣によつて昇殿での方式を、モーニングで階下からの一禮に改まりました。これ以降は、祭祀に關しては、國家公務員である侍從ではなく、掌典職が奉仕することになるなど、宮中祭祀の大幅な變革がなされました。このことは、卜部日記抄にも記載がありますが、その原因には觸れてゐません。私は、これが年度途中から急になされたことに不審を抱いてゐて、政教分離に對する宮内廳の獨自の判斷によるものと考へてゐました。ところが小林日記抄の昭和五十年八月十五日條に、次のやうな記載がありました。

『侍從御代拜と憲法第二十條との關係。先の國會で、社會黨議員[秦豐氏]が問題としたことから、法制局の見解を求めてゐたところ、その結果が文書で寄せられた。神宮御代拜は不可。その他は、毎朝御代拜などは、概ね何とか説明がつくとのこと。特に徳川次長は、法制局の姿勢に不滿である樣子。これについて、宮内廳として具體策を練る。』

 この突然の宮中祭祀の變革は、實はやはり國會での社會黨議員からの指摘によるものであつたことが明らかとなりました。私が知らないだけで、既にわかつてゐたかもしれませんが、これは大きな發見でした。宮中祭祀は、この社會黨の一議員の質問によつて、大幅な簡易化へ急轉落したのであります。勿論、彼が指摘しなくとも、昭和五十年といふ年であり、遲かれ早かれ同樣な指摘を、誰かがしたことでありませう。それに對し、宮内廳は丸腰でありました。戰前から奉仕してゐた徳川侍從次長は、あまりにも急なことに不滿もあつたやうでありますが、このやうな時代の空氣が、この數行から讀み取れます。

 新憲法以來三十年、これまでは誰もが何も言ふことがなかつた、謂はゞ國體に對して、憲法との整合性が求められる時代となつたのです。しかも同じ國民同士が、戰勝國から押し付けられた思想による憲法を土俵に議論すると言ふ悲しい現實を、改めて見出したのです。昭和天皇・香淳皇后が、靖國神社に行幸啓され御親拜なさつたのが、この年の十一月、これが最後になりました。爾來、哀しいかな、國體の根本に關することが、次々に崩れていつたのであります。今日まで四十餘年を經過して、やゝ改善の兆候はありますが、未だに混沌とした状態が續いてをります。宮中祭祀における祭祀の問題についても、大嘗祭についても、まだ豫斷のできる状態ではありません。

 社會黨が風前の燈であるのは、このやうに祭祀の基本を忘れ、憲法の條文のみにこだはり、それが恰も正しいかのやうな振る舞ひをしたことに、天地神明が罰を下されたのであります。幽界のことに關する愼みが足りないと、かくなるとの一例であります」と。



●永田忠興宮内廳式部職掌典補『左遷された「昭和天皇の忠臣」』(『文藝春秋』平成二十四年二月號。齋藤吉久氏インタビユー)

「(宮内廳の變化は、)戰前の宮内省時代からの生へ拔き職員たちが定年退職し始め、代はつて戰後教育を受けた人たちが入廳するやうになつたからです。幹部職員には、元華族の方などもをられましたが、外務省・厚生省・自治省・警察廳など、ほかの官廳から横滑りするやうになり、皇室に對する考へ方が變はり始めました。

 憲法が定める信教の自由を掲げ、「なぜ祭祀に、公務員が關はらなければならないのか」といふ意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるやうになつたのです。戰後世代の職員たちは、「陛下にお仕へする」といふよりも、「國家公務員である」といふ考へ方が、先に立ちました。皇室の歴史と傳統についての理解は乏しく、逆に「國はいかなる宗教的活動もしてはならない」といふ、憲法の政教分離規定を、字義通り嚴しく解釋・運用する考へ方が、まるで新興宗教と見まがふほどに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍從さんまでが、祭祀から遠のき始めました。‥‥

 戰後二十年も經つと、高級官僚たちは、まるで法匪と化し、先人たちの血の滲むやうな努力を踏みにじつてゐると、情けなく思つたものです。‥‥(富田朝彦宮内廳次長と)宮内廳病院でお會ひしたとき、『掌典職の方ですよね。僕は無神論者なんですよ』と、いきなり話しかけてこられて、驚いたのを覺えてゐます。‥‥御大葬が無原則なら、大嘗祭も無原則になりました。宗教を忌避する姿勢が、最大の原因です」と。
 
 

宮内廳は、皇室の藩屏たれ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 6月27日(木)18時53分54秒
返信・引用 編集済
   武藏野陵内に於いて、自殺事件の發生したる件にて、時局對策協議會は、宮内廳に對して、一卷の『要望書』を郵送せること、下記の如し。最近、神前「血」の汚穢多きを仄聞するは、偶然ならむか。有志には、夏越大祓の嚴修を乞ひ奉ると、爾か云ふ。



**********


■『要望書』(令和元年五月二十四日・大日本愛國團體聯合時局對策協議會)

 夫れ、萬古、天皇を仰ぎ奉らん。

 讓位、竝びに踐祚改元が行はれし時に、あらうことか、武藏野陵の神域を、「血」で汚穢せしめた事件が出來した。將しく近年稀なる不敬冒瀆の、最たる事件である。この不敬事をみすみす見逃すことは、勤皇大道の微志有する者として、看過す可からざるものがある。

 そもそも天皇陵は、神聖不可侵の神域にして、天皇國日本の聖地である。皇民をして驚愕せしむると共に、その悲哀たるや、筆舌に盡す能はず。宮内廳の杜撰な管理體制に、強烈なる憤怒を抱くものである。その怠慢たるや、決して輕からざる可し矣。

 申す迄もなく、武藏野陵は、

大正天皇

貞明皇后

昭和天皇

香淳皇后

の皇靈が鎭まり坐す神域である。その上、皇國臣民が、聖恩に奉謝する神聖尊嚴なる聖地である。

 よつて宮内廳は、今度びの不敬冒瀆事件の發生した事實を、嚴肅且つ眞摯に受け止め、何故に件をして、容易に之を可ならしめたか、その原因を徹底追及せしめ、而して武藏野陵に赴きては、深く謝し奉り、再び斯樣なる不敬の罪人、出でしめざることを宣誓し奉り、もつて皇室の藩屏たる再自覺を持つ可しと、我々は、只管ら之を要求するものである。

令和元年五月二十四日

 宮内廳長官 山本信一郎 樣

    大日本愛國團體聯合・時局對策協議會
              議長 福田邦宏
                 會員一同
 
 

善因善果、惡因惡果、毫釐も差はず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 6月11日(火)18時06分32秒
返信・引用 編集済
  ■別府八幡宮權禰宜からの【お知らせ】

 本日、別府八幡宮境内の若宮社の御神前に、血の付いたテイツシユと絆創膏の剥離紙が置かれてゐました。若宮社は、普段、日中、御參りされる方が、御神前を拜せるやうに、正面の戸を開放してをります。原則的に無斷での社殿内への進入はお斷りしてをりますが、時々、御參りの方が、ご持參された御供へ物を供へるために、神前まで參入なされてゐることがありました。若宮社は、社務所から死角になつてをり、職員は參入される方に氣付くことが出來ず、神職が、夕方になつて、夕拜と戸締まりのために社殿に入つた際、どなたかが御供へされた御供へ物を發見して、やつと「誰かが、社殿に入られたのだな」と、初めて氣付く、といふ状態でした。「無用心ではないか」とのご指摘も有りませうが、そこは地方のおほらかな田舍の小さな神社でのことでありますので、今までは目立つた問題が起こることもありませんでした。ですが、さすがに今囘のやうなことがありますと、今後は對策を考へなくてはなりません。

 今囘の物が、どのやうな意圖を持つて置かれたのかが定かではありませんが、わざゝゞ御神前の中央に、毎朝の御供へ物がされてゐる、その場所に置かれてゐたことを考へますと、單にゴミとして放置されたものではないと推測します。甚だ不氣味でありますし、神樣に對して侮辱的な行ひであり、憤りを禁じ得ません(何のために、こんなものを神前に置いたのか、全く理解不能です)。

 今囘は、この不審物を見つけた時點で、即座にこれを撤去して、大祓詞を奏上。修祓の後に、神樣に事の奉告と無用心の許しを乞ひ願ひ、大御魂の御鎭まりを祈念して、祝詞を奏上。社殿周圍に、清めの米・酒・鹽・水を撒いて、臨時の淨め祓ひを行ひました。

 今後の對策としては、「社殿内への無斷での參入を禁じる注意書き」の掲示など、出來ることから始めて、防犯カメラの設置や、場合によつては、戸の完全な施錠等を考へていかうと思ひます。時々、御供へ物などをしてくださつてゐた參拜者の方々には申し譯ございませんが、事情をお汲み取りいたゞきまして、ご理解いたゞければと思ひます。御供へ物を御供へされたい場合は、社務所の職員にお申し出いたゞければ、お預かりいたしまして、神職が御供へさせていたゞきますので、何卒よろしくお願ひいたします。


**********



●東齋一條關白藤原兼良公『神代紀纂疏』

「顯事の事は人道也。幽事の事は神道也。二道は、猶ほ晝夜・陰陽のごとし。二にして一たり。人、惡を顯明の地に爲せば、則ち帝皇、之を誅し、人、惡を幽冥の中に爲せば、則ち鬼神、之を罰す。善を爲して福を獲るも、亦た之に同じ。神事とは、則ち冥府の事にして、祭祀牲幣の禮に非ず。祭祀牲幣は、猶ほ顯露事に屬するがごとし」と。



 愚案、講談社現代新書の伊藤智永氏『「平成の天皇」論』(平成三十一年四月刊)を讀む。戰後精神そのものゝ毎日新聞記者の著で、其の結論、疑問は多いものゝ、安倍内閣の皇室輕視、不敬不忠は、たとへ話半分としても、目に餘るでありませう。安倍晉三の如き、皇室に關心なき者、大御心を蔑ろにし奉る者、宸襟を犯し奉ること幾度びなる者に、皇國宰相の印綬を帶びさせてはならぬ。之を支持し、顔色を窺ふ保守も同罪、斷々然として許すこと能はず矣。

 葛仙翁『抱朴子』に曰く、「遲速、皆な殃罰を受く。天網、疎なりと雖も、終ひに漏れざるなり」と。是れ即ち友清磐山先生の「神は見てをる」を謂ふなり。此の大罪は、顯界にて無事ならば、百歳の後、必ずや精算されませう。否、事は、恐れ多くも天子樣の御上に關する御事、大逆、其の子孫係累に及ぶも知る可からず。

 下記は、一般人には、關係なき御話の由。「動物人間」とは、人非人(人にして人に非ざる妖魔)にして、其の罪惡の有無は、神明に存す。善因善果、惡因惡果、毫釐も差はず、となん。然し極めて深い御話でありますね。昨日、紹介を賜はりました。御閲覽の有志には、こつそりと、御教示いたします(笑)。何度も、々々ゝ、聲に出して誦讀を給はらむことを。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/41
 
 

和して同ぜず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月21日(火)22時33分22秒
返信・引用 編集済
  ●橘曙覽翁の哥二首[慶應四年二月十五日・親征軍北陸道總鎭撫總督の福井を通過して。『志濃夫廼舍歌集補遺・福壽艸』所收]

 天使の、はろばろ下り給へける。あやしきしはぶる人ども、あつまりゐる中に、うちまじりつゝ、御(み)けしきをがみ見まつる。

隱士(やまびと)も 市の大路に 匍匐(はひ)ならび をろがみ奉る 雲の上人(うへびと)

天皇の 大御使ひと 聞くからに はるかにをがむ 膝をり伏せて




 沼山光洋氏の曰く、「平成の御代に御親拜賜れなかつたこと、天皇陛下・御祭神の皆樣に、大變申し譯なく、お詫びの言葉もありません。‥‥『(靖國神社へ)勅使の差遣をいただいてゐる、皇族方から、眞榊も參拜もいただいてゐるので、ご安心ください』といふ方もゐますが、それは、私もよく負け惜しみで使ふ言葉でした」と。

 愚案、「御親拜」もしくは「御參拜」と申し上ぐるは適當でなく、宜しく「行幸」と申し上ぐべし矣。

 靖國神社は、別格官幣社にして、固より天皇陛下から御預りしてゐる神社、春秋二囘、畏くも親しく勅使を賜はり、天子樣には、實質、行幸を仰ぎ奉つてをります。「大御使ひ」、即ち勅使御下向は、伊勢の神宮が年三囘を別とすれば、靖國神社は年二囘、其の外の勅祭社は年一囘、中には七年ないし十年に一囘の御由。如何に靖國神社が、特別の神社に坐しますか、天皇の神社として皇恩洪大なる、一目瞭然たり。然るに此の「勅使御差遣」の拜戴を「負け惜しみで使ふ言葉」とは、小生、合點が参らぬ所か、甚く悲しく思ひます。

 靖國神社勅祭以來、行幸を賜ること、既に都合四十囘の多きを拜し奉り、實に恐懼至極の御事と謂ひつべし矣。暫く行幸が絶つとはいへ、待て、思ふがよい、「國家の守護神」石清水八幡宮の如き、皇家の御祖神にあらせられても、平成九年八月十九日の行幸は、百二十年ぶり、文久三年の孝明天皇行幸以前は、遙か五百十一年前と仄聞し奉る(石清水八幡宮宮司・田中弘清翁『石清水八幡宮ご親拜の大御心』(『今上陛下を仰ぐ――平成の御代に生きる國民として』平成十六年三月・日本青年協議會刊・『祖國と青年』論文選集二所收)。

 神社祭祀は、天皇陛下の祭祀大權に基づくもの、松平永芳宮司は、其の在任中、深刻なる反省遠慮を以て、現在の状況下では、「行幸を、絶對にお願ひしない」(『讓ることのできない傳統の一脈』)と申されました。天子樣の行幸を仰ぎ奉ると云ふことは、洵に難有きこと、此の上も無し。靖國神社は、護國の神靈の坐す磐境なりと雖も、臣下の神靈であつて見れば、畏くも行幸を賜りなば、「靖國大神」(鈴木孝雄大將宮司の喧傳する呼稱。遊就館に此の額を珍藏せり)、如何に忝なみ喜び給ふらむも、親しく行幸を賜はるや否やの天裁は、あくまで九重雲上の御事、草莽たる國民が云々すべき事ではありますまい。

 また伊勢の神宮におかせられても、同じく共に宗教法人ですぞ。皇大神宮をさしおいて、先の「國家護持」は有り得ない。物には、本末・先後あり。現今は、集票の爲めに腐心する醜き民主政治家共の參拜は、斷々然として拒否排除し、只管ら松平宮司主唱の「國民護持」を期す可き秋であります。況んや猶ほも強く重ねて「行幸を乞ひ奉る」は、天皇の祭祀大權を冒す虞れもありませう。不敬なる言靈を發する宮司も、遂に出來するに至りました。忠良謹愼なる臣民としては、百年でも、五百年でも、靜かに御待ち申し上げればよい事であります。沼山氏の遺言、小生の動搖して爲す所を知らざるも、和して同ぜざる所以は、正にこゝに存するのであります。あな畏こ。
 
 

御大典に際して、忠臣志士の精神を繼承し、建國の精神を復活せむことを思ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月17日(金)22時10分26秒
返信・引用
  ●平泉澄博士『國家護持の精神』(昭和三年十一月十六日ラヂオ講演、四年十一月執筆。海軍省教育局思想研究資料第二十四號)

「今や、今上陛下御即位の御大禮を擧げられまして、我々國民は、ひとしく之を慶賀し奉り、歡呼の聲、四海に溢れて居ります。ところが私は、此の盛んな、お目出度い時に當つて、曾て國歩艱難の時に、生命を捨てゝ、君國の爲に盡した忠臣志士を想ひ起したいと思ひます。何故ならば、我が國體の尊嚴は、これらの人々によつて護られ來つたものであり、我が國現今の隆盛は、これらの人々の力によつて得られたものであるからであります。それ故に我々は、今日、わが國體を誇り、その隆盛を喜ぶと共に、飜つてそれらの忠臣を追憶し、その精神を復活し、之を繼承しなければならないのであります。

 己を空しうして公に奉じ、生命を棄てゝ、國家の爲につくすといふ精神は、いふまでもなく我が國の歴史を貫き、三千年の久しきに亙つて儼存してゐるのであります。一體、國家の成立、その繁榮は、決して單なる武力のみを以て、又は單なる財力のみによつて得られるものではなく、必ずや、此の至誠奉公の念、國家護持の精神に待たなければならないのであります。我が國家の成立も、その存續も、その發展も、全くこの精神によるのでありまして、この精神は、一日も缺く事の出來ないものであります。しかしながら時によつて盛衰があり、ある時は力強く現れ、ある時は影が薄くなる事があります。而して其の最も力強く現れ、灼熱して非常に光り輝いたのは、近くは明治維新の前後を第一とします。しかし其の艱難の甚だしい事、その精神の正大であつて熱烈である事と、その歴史上に於ける意義の重大である事からいへば、私は、むしろ建武・延元の頃、後醍醐天皇の御爲につくした忠臣を推したいと思ひます」と。



●平泉澄博士『國史學の骨髓』(昭和二年六月)

「我國家創造の昔、天照大神が、將に降臨せられんとする皇尊・天津彦々火瓊々杵尊に勅して、

『葦原の千五百秋の瑞穗の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしくいまし皇孫、就いて治せ、行矣、寶祚の隆まさん事、まさに天壤と窮なかるべし』

と宣言せられ、乃ち八坂瓊曲玉・八咫鏡、及び草薙劔を賜はつた事は、今日に於いてこそ、三尺の童子も、猶よく之を知つてゐるけれども、そのこゝに至るまでには、閑却より復活への注意すべき變遷があつたのである。即ち奈良朝に在つて、『日本書紀』を編纂した當時には、この神勅の意義は、未だ十分に認識せられずして、書紀の本文には之を缺き、僅かに參考として掲げられた一書にの中に見えてゐるのみであつた。而して『古事記』や『古語拾遺』には、或は神勅を記して詳かでなく、或は神器を擧げて悉してゐない。もしそれ『扶桑略記』・『愚管抄』等に至つては、末世・末法の思想に惑溺したるもの、天壤無窮の確信がないのは、むしろ當然であつた。しかるにこの神勅と神器とは、北畠親房によつて、燦然として光彩を放ち來つた。彼はその著『神皇正統記』に於いて、この神勅を大書し、この神器を重視し、之を以て天皇の御位の印證とし、又た之を以て百王説を打破つた。

『又た百王ましますべしと申しぬる。十々の百にはあらざるべし。窮りなきを百といヘリ。百官・百姓など云ふにて知るべきなり。むかし皇祖天照大神、天孫尊にみことのりせしに、寶祚之隆、當與天壤無窮とあり。天地も昔にかはらず、日月も光を改めず、況んや三種の神器、世に現在し給へり。窮りあるべからざるは、我が國を傳ふる寶祚也。仰ぎて尊み奉るべきは、日嗣を受けたまふ皇になんおはします』

『神皇正統記』、一度出てゝ、建國の精神は、生き々ゝとこゝに復活し來つた。而してこゝに一度復活しては、『大日本史』、再び之を傳承し、幕末に及んで、この精神、全國民に普及するや、こゝに明治維新の大業は成つたのである。『神皇正統記』は、一卷の書籍、よく國家を支へたるもの、前に遠く建國創業をのぞみ、後に遙かに明治維新を呼ぶ所の、國史の中軸である。

 しかもまたこの『神皇正統記』を媒介として、明治維新の際に、かの神勅と神器とが、燦として輝いて來たのは、一に維新の精神が、建國の精神と相承け相照らしたによる。維新の精神にあらざれば、何者かよく建國の精神を國民の間に普及し得よう。‥‥古人を泉下に起して、之と肝膽相照らすは、古人と同樣の高き深き精神にあらずんば不可である」と。



 愚案、皇祖天照大御神、皇孫(皇御子)に三種の神器を授け給うて、天壤無窮の神勅を宣らせ給へり。我々が、畏くも神勅・神器の尊きを知るに至るも、實は一朝一夕のことでは無いのである。そこには「古人と同樣の高き深き精神」を必要とし、之を繼承せむとする大志が求められる。令和の御大典に際し、有志と倶に之に精勵したい。
 
 

沼山光洋氏の遺言。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月14日(火)18時38分50秒
返信・引用 編集済
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新時代令和を迎へて

 天皇陛下・皇后陛下には、心より皇室の彌榮を御祈念申し上げます。
 上皇陛下・上皇后陛下には、心より感謝申し上げます。

 皆樣におかれましては、令和におかれましても、益々のご健勝ご多幸を祈念申し上げます。

 平成の御代に御親拜賜れなかつたこと、天皇陛下・御祭神の皆樣に、大變申し譯なく、お詫びの言葉もありません。そして「ま心」(★)を託してくださつた皆樣、叱咤激勵してくださつた皆樣、本當に本當に申し譯ありませんでした。

 皆樣からま心をお預かりして、平成二十九年、全國護國神社巡拜、平成三十年は九月末から十二月末まで、和田倉噴水公園脇で、宮内廳職員に、「天皇陛下靖國神社御親拜祈願」の幕を持つて、朝のご挨拶を、毎朝させていただきました。

 全國巡拜では、昇殿參拜(巡拜時は、正式參拜と表記してゐました)の申し込みから、個人名で行ひ、名刺も出されない限り、こちらからは出しませんでした。勿論、湯澤貞先生(靖國神社第八代宮司の名前も、こちらから言ふことはありませんでした。參拜終了後に、趣意書をお渡しする際に、靖國會の名前がありますので、民間團體であること、靖國神社とは無關係で行つてゐることをお傳へいたしました。最初から湯澤先生のお名前を出せば、忖度されることは間違ひなく、それでは本意が傳はらないのではないかと懸念しました。しかし餘計な心配でした。どちらの護國神社でも、誠心誠意のお取次ぎをいただき、お陰樣で、一社一社、ま心込めて御祈願申し上げることが出來ました。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました(各縣護國神社の報告をご覽ください)。

 和田倉噴水公園での朝立ちでは、地下鐵通勤をなさつてゐる宮内廳職員の方々が、どうかう出來ると思つてゐませんでしたが、毎朝挨拶することで、御親拜を願つてゐる日本人がゐることが、上層部に傳はることを願ひました。結果は、このやうな結果ですが、師走に入つて寒くなつて來た頃に、宮内廳職員の方から、「毎日ご苦勞樣」と、カイロを差し入れていただきました。二囘、頂戴いたしました。今でも大切にとつてあります。

 死は、生の延長である。人は、生まれた瞬間から死へと向かふ。豐かな人・貧しい人にも、必ず死は訪れる。そしてその生命に意義を持たせるのは、生きてゐる人間である。本日五月十一日は、第五筑波隊の皆樣、西田高光命のご命日である。高邁なる精神で、後の民族の誇りの為にと散華された、貴い意義ある生命であつたと語り繼げるのは、生きてゐる人間だけである。この特攻隊員の皆樣の多くが、大楠公楠木正成公の「忠」の精神を紡いだ。肉體を紡ぐことは出來ないが、精神は紡ぐことが出來る。そのための土臺となる時代、教育が存在してゐた。たつた七十四年前の出來事である。

 新時代令和の幕開けで、祝賀一色なのは理解できるし、さうあるべきであると思ふが、御親拜がなかつたことに對しての報道は、一切なかつた。私の知る限り、御親拜に觸れた著名人は、昨年末に、櫻井よしこさんと小堀桂一郎先生だけである。今ある豐かな日本は、自然に出來た譯ではない。多くの先人の命の礎の上に、今がある。御祭神のことが忘れ去られること、無關心なことには、御祭神の皆樣は微笑まれてゐると思ひますが、寂しく感じます。標本木には觀光客が群がり、その看板まで寫眞に收められるが、神雷櫻をはじめ、約束の櫻たちは、掲げられてゐる札の意味を考へられることは少ない。


祈りは、神頼みの他力本願ではない

 天皇陛下は、祈りの存在、民族の道である。日々、全てのものに祈りくださつてゐる。それに倣ひ、私たちも神社へ參り、祈りを捧げる。悠仁親王殿下御降臨は、日本人の祈りが天に屆き、奇跡といふ必然を招いた。御誕生した瞬間に、それまで活發であつた女性・女系天皇論者が、影を潜めた。

 私は、個人の祈りは、他力本願の神頼みではなく、自分自身への決意・自覺・戒めだと思つてゐる。神前で祈り、感謝申し上げ、祈願する。そのことにより、善い思ひ・善い行ひを心がけ、實踐する。その繰り返しが、日本人の道徳觀であり、ご加護を受けてゐる安心感が、現實社會の秩序の基本になつてゐると思つてゐる。子供の頃言はれた、「お天道樣が見てゐる」である。善いことも、惡いことも、お天道樣はお見通しである。天皇陛下が示されてゐる行動實踐こそ、「祈り」の形ではないかと思ふ。


昭和天皇・御祭神・松平永芳宮司を侮辱する「富田メモ」

 何より殘念だつたのは、現役神職が「富田メモ」を信じ、昭和天皇・御祭神である昭和殉難者・松平永芳宮司を、侮辱して憚らないことです。また御創立百五十年といふのは、節目ではない、御親拜はなくて當然、それが神社の常識と嘯くが、大正天皇は、御創立五十年で御親拜あそばされてゐるし、何よりも昭和天皇の最後の御親拜は、所謂 「終戰三十年」、神社の常識・節目ではない「終戰三十年」である。しかも靖國神社から、御親拜を御願ひ申し出てゐる。  天皇陛下御望みになられ、御祭神の皆樣が待ち焦がれてゐる御親拜を實現する努力よりも、出來ない、やらない理由ばかり竝び立てる。

 「富田メモ」が出てきた平成十八年は、小泉純一郎首相が、在任最後に、八月十五日に參拜すると公言してゐた、その年七月二十日である。その「富田メモ」が、どのやうに利用されたかは、皆樣ご存知のやうに、小泉首相の参拜中止運動に利用された。他の(靖國會ホーム)ページで詳述してゐるので省くが、昭和天皇が、たつた數人の、自分の氣に入らない昭和殉難者のために、他の二百四十六萬六千餘柱を蔑ろにする薄情な國家元首であると、「富田メモ」は言つてゐるのである。その平和を愛される昭和天皇が否定した、昭和殉難者が祀られる靖國神社へ、小泉首相は參拜するのか、と迫つたのである。

 松平宮司は、「忠」の人である。禁闕守護の一念、海軍出身であつたが、いざといふ時、海の上にゐたのでは、皇居に驅けつけられないと、陸上自衞隊に鞍替へしたと聞いてゐる。その尊王心の塊のやうな松平宮司を、死後、昭和天皇を御不快にさせた宮司として誹謗中傷する、富田メモを信じるといふのは、繰り返し殘念で、悲しい。御親拜中斷の元凶は、昭和五十年十一月二十日第七十六囘内閣委員會が原因である。
http://yasukunikai.com/gosinpaikigan/inori.htm


神職は、使命である

 私は、湯澤貞靖國神社第八代宮司の退任後、靖國會總代をお引き受けいただき、ご指導をいただいた。また大山晉吾先生が、靖國神社神職時代、先生の主宰される「武士道研究會」でご指導いただいた。お二人と接して感じてゐたのは、神職は職業ではない、「使命」であるといふことを、強く感じました。天皇陛下に對しては勿論、御祭神に對する深い崇敬・敬愛、ま心を、非常に強く感じました。それだけに、御祭神が、昭和天皇を御不快にさせ、御親拜がなくなつたと信じながら、毎日奉仕する神職がゐることに、非常に悲しくなりました。

 勅使の差遣をいただいてゐる、皇族方から、眞榊も參拜もいただいてゐるので、ご安心ください、といふ方もゐますが、それは、私もよく負け惜しみで使ふ言葉でした。靖國神社は、明治天皇の特別な思し召しで御創立いただいた、「特別」な神社だと信じてゐます。神社界の前例を踏襲しなくても良い、「特別」な神社だと思ひます。全ては醜の御楯と散華された、御祭神中心で良いと思つてゐました。それが神社本廳の組織・施設維持の唯物主義が、靖國神社にも影響を及ぼし、昨年の徳川康久宮司追ひ出しへと繋がつたと思ひます。靖國神社は、神社本廳に屬してゐませんが、非常に密接な關係です。小田村四郎先生は、病床で、徳川宮司支持を明言されてゐたことを聞いてをります。小田村先生がお亡くなりになつた途端、總代會で、徳川宮司解任が決まつたさうですが、御創立百五十年に、御親拜があり、徳川康久宮司が御奉仕される、それが明治維新の總括にもなると思つてゐたので、殘念極まりなかつたです。神社本廳の思惑は、いづれ表沙汰になると信じてゐます。「お天道樣が見てゐる」です。


覇權は、永遠には續かない

 近代、明治維新から、日本は、常に良くも惡しくも新興國家米國の絶大な暴力に、時に抗ひ、時に從ひ、共に歩んできた。キリスト暦で言ふところの十九世紀・二十世紀は、米國白人至上主義が、世界の中心だつたと思ふ。航空機・通信技術の進歩により、時間的空間的に世界は小さくなり、宗教的背景を持つ白人至上主義は、建前上、絶大な暴力を封印せざる得なくなつた。現在は、米國・ロシア・支那の三國時代に突入したと思ふ。依然として米國が、絶大な暴力を維持してゐるが、現代では、「建前」が邪魔をしてゐる。ロシア・支那には、その「建前」が、あまり通用しない。問題なのは、地政學的に、日本は支那・ロシアと近く、非常に危險な場所に位置してゐることである。特に支那は、「戰はずして勝つ」といふ、時間をかけての侵略が出來る民族である。精神侵略から始まり、現在は移住が始まり、人口侵略が始まつてゐる。今後、歸化した支那人議員が輩出され始めるだらう。民族の生命力の強い支那人と、弱くなつていく日本人で、どう向き合つていくか。政治は、賣國政策を積み重ねてゐる。チベツトやウイグルのやうな、支那による直接支配も、遠い未來ではない。


愛國團體は、靖國神社・護國神社で、日本人の手本たれ

 愛國團體の皆樣には、靖國神社・護國神社で、日本人の手本となつていただけるやう、切にお願ひ申し上げます。參拜作法もですが、衞士の皆樣、清掃の皆樣に、「ご苦勞樣」の一聲を、お願ひしたいと思ひます。同じやうに、制服警官・消防官にも、日常的に「ご苦勞樣」の一聲を、お願ひしたく存じます。特にことあるごとに、社頭で「賽錢泥棒」行爲をする「愛國無罪」團體は、御祭神を無視し、心正しい參拜者の善意を踏みにじる、卑しい行爲であることを理解し、やめていただきたい。


五月十一日は、第五筑波隊の皆樣、西田高光命のご命日です

 平成の御世で、御親拜賜らなかつたといふことは、令和で、御親拜賜る可能性も低いでせう。御祭神の皆樣は、御親拜がなくても、現在の物質的に豐かな日本を見て、きつと微笑まれてゐると思ひます。御祭神の皆樣は、自分達のことを忘れたとしても、微笑まれてくださるでせう。

 昭和二十年四月、鹿兒島縣鹿屋海軍特別攻撃隊神雷部隊へ、山岡莊一は、報道班員として赴任した。そして有名な、西田高光命の言葉

「學鷲は、一應インテリです。そう簡單に勝てるなどとは、思つてゐません。しかし負けたとしても、そのあとは、どうなるのです‥‥おわかりでせう。われわれの生命は、講和の條件にも、その後の日本人にもつながってゐますよ。さう、民族の誇りに‥‥」

との言葉を殘した。大山晉吾先生から教はり、二十二歳の若者が、後の日本人の「誇り」のために、我が身を捧げる、散華すると明言してゐることに、感動を覺えました。そして大分縣護國神社の八坂宮司樣・後藤尚禰宜樣のお計らひで、西田家を訪問し、お墓參りをすることが出來ました。このことも、
http://yasukuni.jugem.jp/?day=20170513
こちらで報告してをりますので、ご覽ください。

 いつの頃からか、西田高光命とメイ・フォン・ハウエルさん日本名坂明子さんが、私の憧れの人物となつてゐました。坂明子さんは、詳細が分からないことだらけですが、「靖國おばさん」と呼ばれ、親しまれてゐたさうです。下記の數行の活字だけでも、時代のおほらかさ、坂明子さんが誠心誠意、御祭神と傷痍軍人・ご遺族に奉仕されてゐたことが分かります。たぶん、ご本人も、ご遺族だと思ひます。

『靖國神社百年史』より
昭和三十六年辛丑(西暦一九六一)
二月十一日、オーストリア人メイ・フォン・ハウエル(日本名阪明子)、特別參拜す。
二月十二日、オーストリア人メイ・フォン・ハウエル(日本名阪明子)は、終戰後、傷痍軍人への慰問と、その更生に盡力する傍ら、二十一年十一月より、社頭の清掃奉仕を始め、三十年六月には、居を境内に移して、神社への奉仕に專心してゐたが、この度、三十三年ぶりに、故國オーストリアに歸ることとなり、是日の朝、横濱港を出港す。筑波宮司・池田權宮司以下、有志職員、見送りをなす。
十月十一日、再來日。
四十四年三月十日歿(七五歳)

 詳しくは、靖國神社第七代宮司大野俊康著『特攻魂のままに』・『いざさらば我はみくにの山櫻』靖國神社編をご覽ください。共に展轉社發行です。

 忘れないこと、語り繼ぐことこそ、今を生かされてゐる日本人の務めだと思ひます。平成の三十年間に、御親拜を賜らなかつた今、今後、難しいと思ひます。時間の經過と共に、昭和天皇が御親拜出來なくなつた事實が、どこまでも歪められ、靖國神社の御祭神の生命の意義が忘れ去られたときに、民族の「誇り」は消え去るでせう。どうか皆樣、良識ある日本人として、靖國神社に鎭まる御祭神・忠靈の生命の意義を、正しく後世に紡いで行きませう。

 長々と、泣き言、負け惜しみを連ねました。人間にとつて最大の病は、絶望と言ひますが、ならば希望は、最高の良藥の筈です。新時代令和を、元氣に明るく希望を持つて、皇室の彌榮、民族の誇りを守る爲に邁進いたしませう。

天皇陛下萬歳

我國の爲をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき
明治七年一月二十七日、御製


皇紀二千六百七十九年
令和元年五月十一日   沼山光洋

 學が無いので、上手くお傳へすることが出來ませんが、過去のブログ・ツイッター・インスタグラムなどで補足していただき、何とかご理解いただけると幸甚に存じます。


★「ま心」は、橘孝三郎『土とま心』から、「ま心」と表記してをります。


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 愚案、靖國會・靖國忠靈祭事務局長沼山光洋氏は、令和元年五月十一日午前二時四十分、靖國神社前の路上に於いて自決。「包丁が腹部に、眞一文字にて突き刺さりし」状態で發見されたる由。不穩なる噂が飛び交つてゐるやうだが、門外漢の小生は、之を自決と信じて拜記させて戴く。餘りにも悲しき文である。正に『遺言』と謂ふ可きか。

 靖國會は、「天皇陛下御親拜」を高く掲げ、小生の敢へて容認する能はざる所(天皇の祭祀大權を犯す虞れあり)、また湯澤氏以降の靖國神社宮司の評價は肯ぜざる所(松平永芳・大野俊康兩宮司を貶め、其の遺訓を奉ぜざるもの)ではあるが、其の自決の報を聞き、此の文には、圖らずも落涙した。天皇陛下・靖國神社祭神に、只管ら御詫び申し上げてをられる。「責務」の人、と云ふに相應しい。沼山氏とは、一囘、河原博史翁の講演會にて御挨拶し、名刺を戴き、二三言、苦言を呈したことがあつたが、今となつては懷しき想出、靖國神社車椅子奉仕や清掃奉仕等を拜見し、眞に奇特にして、温厚なる御方と御見受けしてをりました。只管ら靈格冥福向上を懇祷いたします。
 
 

不敬にして不誠實、國史に名を殘すか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月 6日(月)23時01分56秒
返信・引用
   大疑惑出來。

一、官僚による陰謀か。普通は「願つて已(=止)みません」と書く所、故意に「已ません」と書き、相手は名にし負ふ安倍晉三首相(云々をデンヾヽ、背後をセゴとか訓むらしい)なれば、「イません」と讀むやうに期待誘導した。

一、官邸ホームページには「願つてやみません」とあるが、原稿に、本當に「已ません」と書いてあつたのか。奉書に墨書なれば、「已みません」と書く可き所、餘地少なくして「已ません」と、已む無く「み」を略したのではないか。まさか「イません」と讀むとも知らずに‥‥。

一、首相ともなれば、事前に習禮して音讀し、萬全、遺漏なきを期さうとしないのか。二百年ぶりの讓位の御儀にして、神器の大御前なるぞ。周章狼狽、讀み違へば、末代の耻辱なるぞ。「學んで、時に之を習ふ」。無學は仕方が無いが、知らざるを聞かぬのは、君子ならざる明證なり。

一、一覽、可笑しいと思つたら、「願ひます」と上奏する機轉も働かないのか。「末永くお健やかであらせられますことを願つていません」とは、如何なる「國民代表の辭」なるかな。此の言靈は、甚だ不敬無禮にして、不吉至極なり矣。

一、懺悔待罪、直ちに天皇・皇后兩陛下に對し奉り、下座して謝罪し奉つたのか。まさか、知らぬ存ぜぬ、「願つてやみません」と奏したとの強辯が通ると云ふのであるか。今からでもよい、仙洞御所へ伺候參殿す可し。

 時と處は、平成最期の日、即ち「讓位正殿の御儀」にして、天皇陛下の大御前。責任は、眞に至重至大なり。洵に前代未聞の大醜聞にして、不敬極まる大事件と謂ひつ可し。安倍晉三の倨傲自任は、神の知る所にして、其の態度は、殆んど逆臣の如し。速かに自ら辭任せよ。然らば罪、一等を減ぜらる可し。
 
 

奉祝 天照し坐す日嗣の皇子、三種の神器を皇祖皇宗に承け、天皇元年を改めたまふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月 1日(水)11時32分1秒
返信・引用 編集済
   令和の天皇陛下、大詔を下し給へり。擧國々民、畏みて聞け矣。御治世、萬々歳ならむことを、只管ら懇祷申し上けます。


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 日本國憲法及び皇室典範特例法の定める所により、こゝに皇位を繼承しました。この身に負つた重責を思ふと、肅然たる思ひがします。

 顧みれば、上皇陛下には、御即位より、三十年以上の長きに亙り、世界の平和と國民の幸せを願はれ、如何なる時も國民と苦樂を共にされながら、その強い御心を、御自身の御姿で御示しになりつゝ、一つ々ゝの御務めに眞摯に取り組んで來られました。上皇陛下が御示しになつた象徴としての御姿に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

 こゝに、皇位を繼承するに當たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思ひを致し、また歴代の天皇のなさりやうを心にとゞめ、自己の研鑽に勵むと共に、常に國民を思ひ、國民に寄り添ひながら、憲法に則り、日本國及び日本國民統合の象徴としての責務を果たすことを誓ひ、國民の幸せと國の一層の發展、そして世界の平和を、切に希望します。




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●『先代舊事本紀』卷七・天皇本紀

 辛酉を、(神武天皇)元年と爲す。春正月庚辰の朔、橿原宮に都し、肇めて皇位に即きたまふ。‥‥

 天富命、諸々の忌部を率て、天璽の鏡・劔を捧げ、正殿に安んじ奉る。天種子命、『天神の壽詞』を奏す。‥‥

 宇摩志麻治命、内の物部を率て、乃ち矛・楯を竪て、威儀を嚴増しまつれり也。道臣命、來目部を帥て、宮門を護衞り、其の開闔(開閉)を掌りまつれり矣。竝びに四方の國に、以て天位を貴きを觀せしめ、亦た率土の民に、以て朝廷の重きを示さしむる者也。時に皇子・大夫、群官・臣・連・伴造・國造等を率て、元正の朝賀禮拜しまつれり也。凡べて厥の即位・賀正・建都・踐祚等の事、竝びに此の時より發りぬ矣。



●賀茂百樹翁『通俗講義・登極令大要』(大正元年十月・會通社刊。掌典宮地嚴夫大人閲讀。所功博士『近代大禮關係の基本史料集成』平成三十年八月・國書刊行會刊に所收)

 登極令は、天皇の紫極に登らせらるゝ御手續・御儀式等を規定せられたる御令なること、申すまでもなし。謹んで本令を拜讀するに、其の旨とする所、踐祚式・即位式・大嘗祭の三なり。踐祚の式と即位の禮とは、もと同一事にして、時間の關係上、二つに分れたるまでのことなるのみ。能くこれを思へば、踐祚式に於ける賢所の御祭典及び劍璽渡御の儀と、即位の禮に於ける神器を京都に奉じて行はせらるゝ賢所大前の儀とは、其の趣、一にして、踐祚式に於ける朝見の儀と、即位式に於ける紫宸殿の儀とも、亦た其の旨、二ならず。

 斯くこれを見る時は、天皇登極に於ける重大なる要件は、左の三なることを知るべし。
一、祖宗の神器を承け給ふ。
二、天津日嗣を繼承し給ふことを宣り給ひ、寶祚無窮の壽詞を受け給ふ。
三、大嘗祭を行ひ、齋庭の御饌を聞食し給ふ。
以上の三に外ならず。而してこの三の因て起る本源は、わが國家肇造の際に於ける皇祖天照大神の埀れ給ひし三大神勅に起因するなり。‥‥

 踐祚の二字を、『書紀』崇神(天皇)卷に、「アマツヒツギシロシメス」と訓ず。天津日嗣知食の義にて、天皇の位に即き給ふことを云ふ[‥‥]。『令義解』に、「即位、之を踐祚と謂ふ」とありて、昔は即位と踐祚とは、文字こそ違へ、同一のことにて、更に差別は無きことなりしを、桓武天皇の御世に至りて、始めて踐祚の後、更に日時を撰みて、即位の禮を行はれにき。然れども此の時は、未だ踐祚と即位との名は分たざりしが、朱雀天皇に至りて、先づ踐祚の御事ありて後に、更に即位の大禮を擧げさせらるゝことを定例となし給ひ、踐祚と即位との名を分たるゝに至れり。



●福永武代表『皇統護持の祈り』(不二歌道會『不二』平成三十一年四月號)

 この度、新帝の踐祚が豫定される五月一日を待たず、その一ケ月前に新元號が公布發表されたことは、眞に痛恨事であつた。‥‥今囘の改元のあり方は、後世、決して踏襲されるべきでないことを、改めてこゝに明記しておきたい。問題の第一は、新帝御踐祚前に、新元號が公布發表されたことであるが、もう一つ注視し警鐘を鳴らして來たのは、御聽許問題であつた。新元號決定に至る過程の中で、政令が正式決定される臨時閣議の前に、天皇陛下・皇太子殿下の御聽許を賜つたのかどうか。これは、つぶさに傳へられるテレビ中繼や、その後の報道を見た限りでは、「御聽許があつた」と判斷するのは難しい。この點は、將來、新たな證言が出現することも豫想されるが、とにかく堂々と事前の御聽許を賜ることが出來なかつたことだけは確かであり、安倍首相・菅官房長官を始め、この決定を下した者、その關係者、延いてはこの時代を共に生きた我々もまた、後代、「不義不忠の臣」としての誹りを受ける日が來るであらう。

 この件で、安倍首相が苦惱したであうことは、想像に難くない。我々は、最終決定者である首相には、何度も電話や書簡を送り、何とか變心飜意を促したのであるが、同樣の聲は、有志議員・保守系團體からも多く寄せられてゐたのである。特に「皇太子殿下に、無禮である」との問責には、反論の餘地が無い。首相は、新元號の決定前に二度、決定後に一度、自ら、皇太子殿下の許へ參内(ママ)したことは、まさに異例のことで、これこそ首相の煩悶を物語つてゐるのではないか。‥‥(新元號の)決定の過程に於いて、重大な瑕疵があつたことは、後世、道を誤らぬためにも、國史に明記される必要がある。



●中澤伸弘博士『即位儀禮に關する問題點・四』(不二歌道會『不二』平成三十一年四月號)

 皇太子殿下が踐祚される、五月からの元號が「令和」と定められ、一月前の去る四月一日に發表されました。‥‥新帝の御踐祚を受けて行はれるべき改元が、このやうに一月前に發表されることに、何か不思議な感覺があります。今囘は、新帝の元號を、今上陛下が御裁可されると言ふ、大變、變則的なことになりました。このことをきちんと報道したマスコミはあるのでせうか。元號と言ふものゝ意味を考へ時の國民の共通の意識、認識がないまゝに、政府はなし崩し的にわからぬやうに、たゞ改元と言ふ目に見えることだけに走りました。重大な缺陷を、一つの御祭り騒ぎの蔭に隱したのです。こゝに「元號法」の限界があり、皇位の繼承があつた場合に改めると謳ひながらも、元號は、天皇と關係のないもの、それとこれとは別のものと言ふことが、こゝで明らかになりました。今後も讓位があつた場合には、これを前例とすることになります。改めて浮き彫りになつた「元號法」の缺陷・不備を正し、または細則と言ふやうなものを定めておく必要があります。また元號の皇位と一體なるものであることを、廣く國民に呼び掛けて行く必要を、痛烈に感じました。‥‥

 新帝の元號を、今上陛下が御裁可されると言ふ形、そのため豫め今上陛下にも、東宮殿下にも、御聽許をいたゞくといふ變則的な事態となつたことを、新聞報道は安倍總理の「苦澁の選擇」であつたと書いてをります。苦澁の選擇をしたのは、本人自身であります。そして苦澁の選擇以外のやり方がなかつたのではありません。今囘のことは、少し整理しておく必要があります。



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 踐祚・改元を拜しまつりて

○令き此の日 吉き年月は 成すものぞ 大和島根に 天日(ひ)は登り坐す

○天照らす 日嗣の御子の 登り坐す 此の日令き日ぞ 哥たてまつる

 令和元年五月一日  艸民・備中處士、謹詠
 
 

平成の天皇陛下には、みむすびの大詔を下させ給ふ。「國民と共に」、畏し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月30日(火)17時41分48秒
返信・引用 編集済
 

 今日を以ち、天皇としての務めを終へることになりました。

 たゞ今、國民を代表して、安倍内閣總理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。

 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、國民への深い信頼と敬愛を以て行ひ得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支へてくれた國民に、心から感謝します。

 明日から始まる新しい令和の時代が、平和で實り多くあることを、皇后と共に心から願ひ、こゝに我が國と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。




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●TBS報道(平成三十一年四月二十九日)抄

 平成二十二年七月二十二日午後七時、天皇・皇后兩陛下の御住まい皇居・御所に、宮内廳長官や側近の侍從長、國民の立場から意見を具申して來た宮内廳參與等が集まり、兩陛下と定期的に意見を交換する「参與會議」。此の日、五時間以上議論が續いたが、結論は出なかつた。元宮内廳參與・三谷太一郎氏は、天皇陛下が、次のやうに發言されたと證言。

一般的に日本の社會がさうですけど、高齡化と云ふのが非常に進展してゐる。皇室も例外では無い。皇室の高齡化に、措置が必要だ。攝政や天皇代行など、天皇自らが出來ないときの中間的措置が考へられるが、それでは天皇の役割を果たすことは出來ない。天皇だつたものが、天皇の務めを果たせないとなれば、やはり退位すべきだ。退位して、皇太子に皇位を讓る。八十歳まではやる。その後は、上皇になる。天皇の務めは、攝政では務まらない。天皇、その人でなければ務まらない。自分はさう云ふ緊張感でもつてやって來たんだ。それが象徴天皇としての自分を支へて來た。天皇の務めは、天皇にしか果たせない。數多くの公務を、全て全身全靈で行ふことこそが、象徴天皇の姿であり、歳を重ね、全力を盡くせないならば、退位すべきだ』。

 三谷太一郎氏の曰く、「その後、自らが設定された八十歳を超えられた陛下。思ひは變はらず、平成二十八年八月八日、「象徴天皇の務めが、常に途切れることなく」、陛下は國民に對して、退位の意向を、初めて明かされました。參與會議で思ひを傳へてから、實に六年。象徴天皇とはどうあるべきか、象徴天皇の本質を眞劍に考へられたことの結果だと思ふ。日本國中が、陛下の強い決意に動かされたと云ふかね 、僕はそれが、どうも眞實ぢやないかと思ひますね」と。
 
 

昭和天皇大御歌、千百四十五首。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月29日(月)16時45分17秒
返信・引用 編集済
  昭和十七年一月二十六日、歌會始「連峯雲」

峯つゞき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと たゞいのるなり


昭和二十年、終戰時の感想

身はいかに なるともいくさ とゞめけり たゞたふれゆく 民をおもひて


昭和二十一年一月二十二日、歌會始「松上雪」

ふりつもる み(深)雪にたへて いろかへぬ 松ぞをゝ(雄々)しき 人もかくあれ


昭和五十年一月十日、歌會始「祭り」

我が庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々


昭和六十三年八月十五日、全國戰沒者追悼式

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど



 所功博士編『昭和天皇の大御歌──一首に込められた深き想ひ』(平成三十一年四月・角川書店刊)を拜するを得た。昭和天皇の大御歌を、國史家らしく、凡ゆる方面から網羅して餘蘊が無く、現在望み得る大御歌集の決定版と申し上げてよからう。既發表八百七十二首、未發表二百七十三首、都合一千一百四十五首、宮内廳編修『昭和天皇實録』に據つて年代を確定、索引完備。
 
 

天皇祭祀の干犯。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月23日(火)18時25分26秒
返信・引用 編集済
   NHKが「皇室の祖先である皇祖神・天照大御神を祭る伊勢神宮」と報じたら、早速、苦情が來て、「皇室の祖先とされる天照大御神を祭る伊勢神宮」と訂正した由。何だ、これは。

 天子樣には、「皇室の祖先とされる天照大御神を祭」つてをられるとでも云ふのか。馬や鹿の皮を被った下衆者共めが。

 是れ即ち「天皇祭祀の干犯」である。

 天子樣には、皇統譜にある「皇室の祖先である天照大御神を祭」らせ給ふ。

 かやうな事を問題とする者を、NHKは、何故ゑ無視しないのか。尚ほ且つ訂正までするとは‥‥、呆れ果てる。かやうな奴輩は、己の戸籍や母子手帳に「父母」とあつても、此の「父母は、果して己の眞實の父母であらうか」と、心底、之を疑ふのであらう。「己の父母とされる」とか云ふ表現をしてゐる輩、何處の、誰ぞや。

 それにしても、憂鬱だ。世の闇は、深い‥‥。小生は人權主義者では無いので、之を訴へはしないものゝ、少なからず赤魔の常套句である「精神的苦痛」を受けた。聞かなければよかつたものを。
 
 

よき人と 云ふは誰がこと 永田町 幕府の子等は 國の罪人

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月17日(水)21時37分23秒
返信・引用
   賀茂百樹翁『玉鉾百首略解』の「緒言」に曰く、「(鈴屋)大人の御歌の末に、一首づゝを詠みそへたるは、たゞ二夜ばかりのかりそめわざにて、大人にはいと無禮きわざなれども、あまり簡單にすぎて、その意の及ばざるものあればなり。また旨の本歌と異りたるがあるは、そは、己が意ありてなり。明治四十年九月」と。

 以下、「阿麻理歌」を拜抄し、翁の意を顯しまつり、愚生が荒ぶる魂、眞に小さき淡き魂なれども、之を鎭めんと欲す。



●賀茂百樹翁『玉鉾百首略解』(明治四十四年四月・皇學書院刊)

【大人の歌】小菅よし 蘇我の馬子は 天地の 底邊(そこひ)のうらに あまる罪人
【翁の添歌】駒馬子 入鹿蝦夷が ともがらを 人とは思はず 人に有らねば

【大人】くなたぶれ(頑狂) 馬子が罪も 罰(きた)めずて 賢ら人の 爲(せ)しは何わざ
【翁】とよとみゝ 賢きみこと 聞けれども 神と君(崇峻天皇)とを 忘れましけり

【大人】馬子らが 草生す屍 得てしがも 斬りて散(はふ)りて 耻みせましを
【翁】生剥の さかはぎにはぎ こすげよし 八針にさくも 罪あがなへや

【大人】わだのそこ 沖ついくり(海底の石)に 交りけん 君(安徳天皇)の守護の 劍太刀はや
【翁】みうつしの 天津御劍 しかすがに 沖ついくりに なばり坐さんやは

【大人】鎌倉の 平の朝臣(義時・泰時)が 逆わざを うべ大君(後鳥羽天皇・順徳天皇)の 謀らせりける
【翁】まつり事 預りもちて 鎌倉に いほり始めし 人ぞ罪おほき

【大人】隱岐の嶋 弓矢圍みて いでましゝ 御心おもへば 涙し流る
【翁】みなもとを 鎌倉山に ながさずば 世はかくまでに ひたゝけましや

【大人】思ほさぬ 隱岐のいでまし 聞く時は 賤(しづ)の男われも 髮逆立を
【翁】おきの島の 遠きむかしに 及ばぬぞ きしうつ浪の くやしかりける

【大人】鎌倉の 平の子等が 狂事(たはわざ)は 蘇我の馬子に 罪おとらめや
【翁】日の本の 國のうちには 一寸(ひとき)だも たぶれがかばね おくつちあらめや

【大人】大君を 惱め奉りし 多夫禮ら(泰時・時頼)が 民はぐゞみて 世を欺きし
【翁】かしこしと みつのくらゐを いなむ身の いかで君をば なみし奉りし

【大人】禍津日の 其の禍わざに 世の人も あひまじこりし 時の悲しさ
【翁】日のみこの みいつかくれて とこやみの 世のさまばかり 悲しきはなし

【大人】よき人と 云ふは誰がこと 鎌倉の 平の子等は 國のつみびと
【翁】さはあれど 時宗のぬし ぬしのみは 心をゝしき 大和ますらを

【大人】負氣なく 御國責めむと もろこしの 戎(から)の王(こきし)が 狂(たは)わざしける
【翁】あたなみよ よせなばよせこ 天地の 堅めし國ぞ 大和島根は

【大人】かしこきや 皇御軍に 射向ひて なやめ奉りし たぶれ足利(高氏・直義)
【翁】足利の はらからふたり はらからに きたなきやつこ 足くゑてまし

【大人】如何なるや 神の荒びぞ 眞木の立つ 荒中山に 君が御世(吉野)へし
【翁】あかさかに 赤き心を ふたりして 楠の神 くすしきみいさを

【大人】から國に 媚びて仕へて 足利の 醜(しこ)のしこ臣 御國けがしつ
【翁】日の本の やまとをおきて 己が身の ほどを忘れて しこ臣此奴(こやつ)

【大人】天の下 常夜行く如(な)す 足利の 末の亂の みだれ世ゆゝし
【翁】うつくしき 親子はらから 相せめぎ あひたゝかひし 亂世ゆゝし

【大人】何時までか 光隱らん 久堅の 天の岩門は たゞしばしこそ
【翁】かりこもの 亂れりし世に ものゝふの わざもこゝろも きたひたりけり

【大人】倭文機(しづはた)を 織田の命は 朝廷(みかど)べを はらひ鎭めて 績(いそ)しき大臣
【翁】いさおしの 織田の命は 尾張なる 熱田の神の むさねなりけん

【大人】服從(まつろ)はぬ 國らことゞゝ まつろへて 朝廷清めし 豐國の神
【翁】しづはたの 織田の命の あとつぎて おりとゝのへし 豐國の神

【大人】豐國の 神の御稜威は もろこしの 戎の王も 懼(お)ぢ惑ふまで
【翁】今しまし 世にいませらば からくにも 皇國の内と なりてあらんを
 
 

九重の惱ませたまふ我が大君を思へば‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月 1日(月)17時57分5秒
返信・引用 編集済
  新帝の元號「令和」が、御父君にあらせ給ふ
天皇陛下の御聽許、即ち敕許を賜りました御由、御慶び申し上げます。然りと雖も
天皇陛下には、深き御宸憂、そして皇太子殿下には、些かの御諦觀があらせられたであらうと、謹みて恐察いたします。實に畏れ多き御事、恐懼の至りと申すべきであります。然りと雖も、綸言、こゝに一度び下された上は、是非も無く、
あきつみかみの五月一日より、「初春の令(よ)き月、氣淑(よ)く風和み、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮の後の香を薫らす」(『萬葉集』卷五・梅花の歌三十二首の序)、更に溯れば、此の序文を起艸せし筑前守山上憶良臣が影響を受けたであらう『文選』卷十五の「仲春令月、時和し、氣清かなり」(後漢・張衡『歸田の賦』)に出づる「令和」の元號を拜戴謹記して、皇國の難有き「時」を、皇民諸共に刻みませうぞ。畏し矣。



●三浦義一翁の哥(『歌集・悲天』平成二十九年四月・講談社エデイトリアル刊。執行草舟氏復刊)

おほぎみの 御胸おもへば 青雲の 深處(ふかど)にみこゑ きこゆるごとし

いつはりの かゝる現實(うつゝ)に 逢へりとも しづかに堪へて われは生きなむ

いはむすべ せむ術(すべ)なみと 言はなくに かなしきろかも ますら夫の道

かくのごと 亂れはてたる 世のさまを 如何に思ほし 給ふらむかも

いつの日か かく亂れたる 世ぞありし しづかにおもふ われの命を

悲しかる ねがひなれども ながらへて 千代にまもらむ 大和島根を

うつし身を 恥おほき世に 生きしめて 下(した)泣くかもよ ますら丈夫は

み濠(ほり)べに 寂(しづ)けき櫻 仰ぎつゝ 心はとほし わが大君に



 安倍晉三とか云ふ首相は、保守の政治家、右派とか喧傳されてをり、之を信用する人も存するやうですが、實は滿腸、是れ西洋保守であり、其の腦内は泰西民主主義であつて、かつての民本主義にも非ず、即ち我が國體と、全然相容れざる者であります。殊に最近は、皇室と確執の噂絶えず、天子樣を蔑ろにし奉り、不敬至極にして、事の本末を知らず且つ無見識なる、自ら省みるちふ言葉さへ無き依怙地なる、洵に傲然專制、正に逆賊と謂ふべき存在と化してをり、神人、倶に之を許さず、伐つべき國賊であることが、宇内に明々白々となりました。或は顯界の國人、之を容認するも、安倍氏百歳の後、神界の斷罪は、洵に畏るべきものと信じます。

 安倍晉三を中心とする政治家・官僚を一掃せずんば、日本中興は、固より有り得ざる所にして、此の民主幕府を倒すは、我々日本人たる者の、當然の使命と謂はなければなりませぬ。顧みて涓滴の微力を耻づと雖も、願はくは至誠の通ずる所、必ず狂瀾を囘し、聊か萬古無窮の皇恩に報ぜむことを期する戀闕の諸士は、日夜、心を潛めて道義の至當を究め、天皇の稜威、神祇の照覽の下、皇道・國體を明徴して、難に當つては、毫も恐るゝ所なく、進んで天下の綱常を扶植せむことを、相共にこゝに誓ひたいと存じます。

 平成三十一年四月一日、備中處士、敬みて白す。



●中澤伸弘博士「即位儀禮に關する問題點(三)」(不二歌道會『不二』平成三十一年三月號所收)

「政府は、殊更に「退位」と言ふ語を用ゐ、天皇の御發意が國政に關與してはならないとある憲法に抵觸しないやうに配慮したやうですが、その儀式の内容たるや、主體は政府であつて、天皇にない印象を持たせる仕組みが感じられます。本來は、讓位の由を宣明なされることが中心であり、臣下がそれを拜承し、次いで劍璽の渡御があり、新帝の踐祚と諡號の奉贈(愚案、明治以降は、御治世の元號、即ち天皇御在位の御稱號を以て、御追號として奉る)が爲されたのです。今囘は、先に總理が「感謝の辭」を述べ、次に天皇陛下が「讓位のお言葉」をのべたまふ次第となつてゐます。本末の轉倒甚だしく、こゝまで憲法との絡みがあるのかと思へてきます。また平成の折もさうでしたが、劍璽の問題も、神話と關連する宗教性によつて、それを無視し、たゞ「皇室經濟法」に依據する、皇室に傳はる財産の受領とのみ位置付けてゐるのです。

 「劍璽等承繼」と言ふ語句についても、‥‥今までは「劍璽渡御」と言ふ表現でありました。あくまでも主體は、劍璽にあつたのです。ですから、劍璽が新帝に動座されることが問題であり、平成の先例や今囘のやうに、劍璽を受け、承繼するこちら側[天皇]が主體ではないのです。劍璽を主體と考へれば、一連の儀式は、劍璽の動き、天皇から新帝への渡御が中心の儀式になるのです。今囘の儀式は、不遜にも總理が、天皇陛下の勞をねぎらひ、陛下が御讓位の由を宣明され、翌日に新帝が踐祚されることを中心としてゐて、その間、劍璽の位置は、どこにあるのか明確ではありません。劍璽を中心に全てを考へねばならないのに、憲法下において神話に關連する宗教的な遺物として、厄介な存在とされてゐます。困つたもんです。‥‥

 讓位[退位]式では、劍璽のことが二の次になつた印象を受けます。古來、踐祚は、この劍璽の渡御を以て自明であり、儀式ではなく、事實そのものとされてゐます。『帝室制度史』を見ても、皇位繼承は事實であると書いてあります。また新帝踐祚に伴ふ賢所の御祭儀は、古來、三日間、毎朝續けて行はれることが慣例であります。これは源平の爭亂後に、壇ノ浦に漂うてゐた神器が、京都に還御された折に、三日間行つた古例があり、爾來、國家の大事には、三日間の毎朝、祭儀がなされてきました。近代においても、この風儀は守られ、新帝踐祚には、必ず毎朝三日齋行されてきました。そして國民に勅語を賜ふ「朝見の儀」は、この三日の祭儀の後になされてゐました。神事を優先されての思召しでありませう。平成の折には、「朝見の儀」は、一月九日でした。これも踐祚の七日から三日めで、朝の祭儀後のことでありました。ところが今囘の「朝見の儀」は、踐祚の翌日となつてゐます。こゝにも宮中祭祀と國家の儀禮との無關係さが見え隱れするのです」と。



 愚案、平成の御代の代替りに於て、をかいし事も多々ありましたが、皇位繼承の御儀を重んずる精神は、些かなりとも殘つてをりました。然るべき人が、政府中樞に居たと申せませう。然し三十年も經ちますと、國民俗化輕佻すれば、政治家も亦た劣化浮薄すること、理の趨く所、當然なりと謂はなければならぬ。民主主義幕下の法匪の恣意にて、不便・非效率なるが故に、皇家の古儀は廢せられ、蠻風・新儀へ改變されて行く。そこには、祭祀齋行の重みも恐れもあつたものでは無い。内閣法制局長官横畠裕介一派の周到なる策謀、將軍安倍晉三の鎧の下の逆心不逞を垣間見ることが出來ませう。

 九重の奧深きに於ける「先づ神事、後に他事」(『禁祕御鈔』)は、皇國至重至大の大御事にして、祭祀をも蔑(なみ)するは、政治による宮中祭祀に對する干犯容喙であつて、到底、之を默止すること能はぬのです。我々皇民は、先づはかつて廢案となつた『皇室の尊嚴を守る法律』を中今に蘇らせ、遂に『皇室典範』の復古改正に繋げることこそ、喫緊必須の課題でありませう。怒髮、天を衝く所の元號大權干犯の問題は、一般の判り易い所ですが、宮中祭祀の御事と聞けば、草莽の分際では憚る所にして、神道人の問題提起、領導指揮を、切に請ひたいと存じます。恐懼熱拜。
 
 

一世一元の元號は、天皇を中心とする日本國家の、重大なる生命の結節點なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 3月23日(土)22時15分31秒
返信・引用
  ●荒川久壽男翁『明治改元と維新の大精神──一世一元の確立』(『元號──いま問はれてゐるもの』昭和五十二年十二月・日本教文社刊に所收)

「明治の年號は、偉大なる明治天皇の大御代の象徴であり、維新いらい日清・日露の役と、さまゞゝな苦難の大波を、天皇を仰いで乘りきつてきた、日本國民の血と涙がこめられてゐたものであつた。いはゞそれは、たえず明治の日本國民を鼓舞する國民的生命のともしびであつた。すなはちそれは、明治時代の日本國家の生命の結び目にかゞやく、黄金の印章だつたのだ。

 そしてそれは、ひとり明治の年號だけではない。大正といひ、昭和といひ、それゞゝの年號が、いかにその時代と密着し、天皇を中心とした日本國家といふ、民族的運命共同體の結節點であつたことか。それは永き日本の年號の歴史の中から、ことには維新の際、制定された一世一元の元號制は、天皇を中心とする日本國家の、重大な生命の結節點である。

 かつて日本は、幕府と鎖國のカーテンの中で、青い海の上に、ひつそりと童話(メルヘン。アーネスト・サトーの憧憬する所)の國のやうに浮かんでゐた。しかしそのカーテンの中で、皇室は、なほ日本に君臨され、天皇定めたまふところの年號は、全國に行はれ、國民的共同體の生命の結び目は絶ゆることなく、幽暗の中に輝いてゐた。そして一たび世界の嵐がおそひかゝるや、日本國民は、その結び目のもつとも中心にまします天皇を仰ぎ、幕府と鎖國のカーテンをふりはらひ、不死鳥のやうに若がへつて、四方の海にはゞたいた。

 ところが今や、この國の生命の重大な結び目が解けかけてゐる。即ち元號が、しかも明治天皇定めたもうた一世一元の制が、忘却と無視と喪失の危ふきに臨んでゐる。この黄金の結び目がとけたとき、日本は鎖國のときのやうに、青い波の上にねむるどころか、バラヾヽにくだけて、ちひろの海の中に音もなく沈んでゆくであらう。われら世代において、そらみつやまとの國を、海ふかく沈ませてよいのであるか、それとも再び民族の生命の、黄金の結び目をきらめかせて、日本を不死鳥のやうにはゞたかせるのであるか、今、われらはその道の選擇に迫られてゐる」と。



●平泉澄先生『少年日本史』はしがき

皆さんよ、人が貴いのは、それが誠實であるからだ。誠實は、一切の徳の根本だ。その誠實を守る爲には、非常な勇氣を必要とするのだ。世の中には、自分の慾の爲に、事實を正しく視る事の出來ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事實を述べる勇氣のない人も多い。今後の日本を擔ふべき少年の皆さん、敗戰の汚辱を拭ひ去つて、光に充ちた日本の再興に當るべき皆さんは、何よりも先づ誠實でなければならぬ。そしてその誠實を一生守り通す勇氣を持たなければならぬ。日本の歴史は、さやうな誠實と勇氣との結晶だ。凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成(くみたて)に與る事は出來ない」と。



 愚案、戰後民主教育に染まつた政治家によつて、我が歴史と傳統は、風前の燈にさらされてゐる。正に「一世一元の元號制は、天皇を中心とする日本國家の、重大な生命の結節點」である。皇室式微の時代、「我が朝の今に至りて、天子の號令、四海の内に行はるゝ所は、獨り年號の一事のみにこそおはしますなれ」と、新井白石は指摘した(『折たく柴の記』)が、其の「獨り年號の一事のみ」さへも、「天子の號令」とは、無縁の關係とされようとしてゐる。代々木坐大神の神詔「一世一元、以て永式と爲せ」も、眼中に無いのであらう。此の戰後政治家には、抗議の聲も耳に入つたであらうが、其の反省も無ければ、改定しようとする「勇氣」も無い。君臣の義を缺く、かういふ政治家によつて、今後も、我が歴史と傳統は、悉く改變されてゆくであらう。今が、當に分岐點と謂ふべく、蟷螂の斧と雖も、重ねて叫ばざるを得ない所以、更なる有志抗議の聲を、累々と擧げていたゞきたい。
 
 

全國神職への激勵、宇内隈なく屆け。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 3月22日(金)21時54分35秒
返信・引用
   平成三十一年三月二十二日、時局對策協議會の同志は、神社本廳を訪れ、神道政治聯盟に對して『激勵文』を手交し、意見交換をされた由。

 天神地祇照覽の下、安倍晉三内閣に對する宇内神道人の抗議、愈々盛んならむことを、切に々ゝ懇祈す。さばへの神も靡け、草木も言止めて聽けと云爾。



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『激勵文』

 安倍内閣は、元號法に叛きし新元號の前倒發表、事前公布を強行しようとしてをり、この妄斷は、天皇の大權を干犯する暴擧なれば、之を吾人は默過せずにをられません。

 貴聯盟は、安倍内閣に對して、新元號の前倒發表、事前公布が、「改元の本義」を蹂躪する暴擧であることを辯駁なされてをります。故に貴聯盟の國體信仰に基く行動は、心強く頼もしいものがあります。

 結びになりますが、志を同じくする全國神職に於かれましては、新天皇の即位と同時に改元が行はれるやうに、これからも諦めることなく、初志を貫徹していたゞきますことを切に願ひ、茲に激勵を表明致します。

平成卅一年三月廿二日

  大日本愛國團體聯合・時局對策協議會
   議長 福田 邦宏
      會員一同

神道政治聯盟會長 打田 文博 樣


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逆賊安倍晉三に與ふる紙礫。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 3月22日(金)19時01分15秒
返信・引用
  ●『古事談』に曰く、

「延喜の聖主、臨時奉幣の日、南殿に出御したまふ。本と自ら風有り。笏を把り靴を著け拜せんと欲りしたまふ間、風、彌々猛く、御屏風、殆んど顛倒す可し。仰せられて云はく、『穴な見苦しの風や。神を拜し奉るの時、何ぞ此の風有るや哉云々』と。即刻、風氣、俄かに止みぬ」と。



 最近は、特に天候不順、寒暖差激變、花粉症も、例年以上に猛威を振つてをります。小生も御多分に洩れず、花粉症の妖氣に感けて五日程寢込み、熱にうなされてをりました。或る神職が、「御代替りによる所の天候大變でせう。然し心配には及びますまい」と申されし由、仄聞いたしました。天人相感、成る程と納得したる次第です。安倍晉三幕府も、傲然として猖獗を極めて、大内山を蔑ろにし奉つてをる中今、正神界も、更なる天譴を下すかも知れませぬ。天子樣の大御心に背き奉る者、之を逆賊と謂ふ。天子樣、或は之を默認され給ふと雖も、天神地祇は之を赦さず。病中ではございますが、憂憤に堪へず、敢へて紙礫を一筆啓上仕ります。各位には、御自愛御專一、御要愼御謹愼せられむことを、只管ら懇祷申し上げます。恐々敬みて白す。



●神宮奉齋會長・今泉定助翁『國體講話』(昭和十二年七月講演)に曰く、

「結局、國體の明かになりませぬのは、天皇の御實相に徹しないからで、天皇の御實相がわかれば、國體の大半は分る。天皇機關説だとか、又た天皇機關説といふことは申しませぬでも、今日のやり方は、大抵、天皇機關説の實行をして居るのであることは、覆ふことの出來ない事實であります。天皇機關説を排撃したから、それで、天皇機關説がなくなつたと考へるのは、極めて單純な話であります。事實は、皆な天皇機關説を實行して居るのであります。

 極めて簡單な例を申し上げますれば、例へば閣議がある。今日の閣議の内容は、書記官長の手を經て、今日の夕刊に公にせられて、誰某は東京府の知事になつた、誰某は北海道の長官になつた、或は又た人事上のことでなくても、斯ういふことは斯うと決定した、あゝなつたといふことが、直ぐ夕刊に出る。それは書記官長の手を經て新聞記者に傳へるので、新聞記者が漏聞して書くのではありません。其の間、陛下に奏上する暇もないのでありますから、明かに閣議で決めた事は、陛下は御裁可遊ばされるものと、斯う決めて居る。是は明かに天皇機關説の實行ともいはれませう。閣議で決めた事は、陛下は何も仰しやらぬと決めて居るのであるから、天皇を機關として御取扱ひ申して居る樣にしか考へられぬ。併し之を行ふのは、決して惡い積りでやつて居るのではない。當り前のことのやうに考へて、歴代の内閣がやつて居る。惡い心持でやるのであれば、赦すまじきことですが、さういふ心持でなく、普通のことのやうに考へてやつて居るのであります。

 併しながら嚴密な意味から考へますれば、さういふ事は面白くない。畢竟、日本の天皇といふことが分らぬからである。結論は、さうなると思ふ。詰り輔弼の大任にある人に、天皇といふことが、能く御分りにならぬのであります。やはり英吉利の皇帝と同じものであると考へて居るのではないか。‥‥

 (天皇が)人であらせられるといふことであるならば、私の方から問ひたいことがあります。人間には、必ず人倫がある。人倫の中に、孝ほど重いものはない。‥‥然らば陛下が人間であらせられるといふことであれば、やはり人倫は、立派に御蹈みにならなければならぬ。然るに先帝が御崩れになつた時に、皇太子が御葬式に御立ちになつて居るかどうか。斯ういふことを聞きたい。

 是は、孝としては見逃すことの出來ない問題です。親を見送るのが、孝の終りである。所が歴代の皇太子は、御見送りになつて居ない。又た今日の皇室典範に依りますれば、天皇崩御、皇太子、直ちに踐祚とあつて、其の間、寸秒の時間の餘裕もなく、皇太子が御踐祚なさらなければならぬ。又た踐祚には、神器を御承けにならなければならぬ。人間としては、悲しみのどん底に陷り、悲哀の極に達してゐらせられる時である。然るに少しの御猶豫もなく、御踐祚にならなければならないといふことは、これは一體、どう解釋すべきであるか。實に重大な事でありまして、孝といふ方から言へば、人倫に戻る樣に見えますけれども、天津日嗣の天皇といふ御方は、人倫を超越して、神倫に在します御方である。人間であらせられず、神樣であらせられる。人間ならば、人倫が大切なものとなりますけれども、天津日嗣といふ重大な御天業から見ますれば、人倫の孝は、渺たるものであります。それであるから、人倫を棄てゝ、神倫に在しますのであります。‥‥皇室典範も憲法も、その邊の事は、よく歴史から書かれてあるのであります。

 天皇は絶對である。又た絶對でなければ、神聖といふことは出て來ぬ。今日の人は、輕く神聖などといふことを使うふやうでありますけれども、さういふことは外國流であつて、日本流に申せば、神聖といふは、絶對であつて初めて神聖である。天皇は絶對であらせられるから、「天皇には、父母なく、子なく、私なし」と、日本では昔から申し傳へて居ります。是は支那の諺ではなく、日本獨特の諺であります。天皇とて、勿論父母の居らつしやらない筈はない。併し天皇の位を御繼ぎになれば、御父母と雖も、臣下となつて御仕へなさるのであるから、「天皇には父母なし」といふのであります。若し御父母の居らつしやる時がありますれば、それは國亂の本を爲す時であります。保元の亂とか、平治の亂とかいふのは、皆な天皇の御父が、法皇とか上皇とかいふ御名前で居らせられた時であります。‥‥

 天皇は絶對の御方であるから、天上天下、唯我獨尊の御方である。此の釋迦の言はれた言葉は、日本の天皇に於て初めてそれを見るのであります。何者も對比すべき者のない、絶對の御方である。それであるから、御父母も、天皇の御位を御繼ぎになれば、子としては御取扱ひにならないで、臣下として之に御仕へになる。

 それから「妻子なし」は、是も皇后樣も居らつしやれば、皇太子樣も内親王樣も居らつしやるのでありますが、どうしてさう申すかといふと、天皇は、獨り皇后樣や皇太子樣のみを御妻子と思召すことの出來ない御方であらせられる。即ち國民全體を妻子として御思召す御方であらせられます。それが天津日嗣の天皇の天業であらせられるのであります。

 それから「私なし」は、天皇には、一擧一動、私的の御行ひといふものはない。なさることは悉く公的な國家的な御行動であらせられる。憲法は、其の通りに出來て居る。‥‥畏れながら皇后樣も皇太子殿下も、其の他親王樣も宮様方も、皆な被統治者であらせられ、天皇獨り統治權を御持ちになつて居る、絶對の御方であらせられます。それですから、上御一人と申すのである。言葉の上にもさうであつて、少し考へますれば、上御一人といふ言葉は、何等の對立のないといふことを表して居るといふことは、直ぐに分る。御生れながらにして、氏も姓もない。それは、何等對立がないからであります」と。
 
 

恐る可し矣、安倍晉三幕府の傲然たるや。天子樣に背ける者の最期は‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 3月 5日(火)22時11分32秒
返信・引用 編集済
  ○橘曙覽先生の哥

天皇は 神にしますぞ 天皇の 勅としいはゞ かしこみまつれ

國汚す 奴あらばと 太刀拔きて 仇にもあらぬ 壁に物いふ

大皇に 背ける者は 天地に いれざる罪ぞ 打ちて粉にせよ

君と臣 品さだまりて 動かざる 神國といふ ことをまづ知れ



●林春齋『改元物語』に曰く、

「此の時、諸家、勘進する所ろ數多ありといへども、大猷公(家光)御前にて、御裁斷ありて仰せに云く、「年號は、天下共に用ふる事なれば、武家より定むべき事、勿論なり云々」と、議定し玉ふ云々。先考(林羅山)、舊例を考へ調進す。公家の勘文を、御前にて讀進す。我(春齋)も、其の事に預り侍りぬ云々。‥‥

 其の(慶安)四年に當りて、四月廿日、大猷公薨去し玉ふ。同八月十八日、今の大君(家綱)、征夷大將軍に任じ玉ふ。是に依て明年の秋、改元ありて、承應と號す云々。寛文三年に、當今皇帝(靈元天皇)、即位まします。御宇の始めなれば、改元ありたく思召しけれども、江戸より御許容なかりけるにや云々。‥‥

 正保より明暦まで、毎度、先考の預かる所なり。萬治より此の度(延寶の度を云ふ)まで三度、予(春齋)が預かる所なり」と。



 愚案、瀧川政次郎博士『元號考證』に引用する、關根正直博士『改元故事』(『隨筆雜話・からすかご』昭和二年十月・六合館刊に所收)に據れば、徳川幕府は、家光・家綱・家宣の時代に、元號大權の干犯があつた。殊に「寛和」の叡慮に逆らつて、「正徳」の年號を定めた家宣の行爲の如きは、明かに大權干犯であつて、御用學者林家父子ともゞゝ、僭上專横の沙汰、辯護の餘地は無い。

 瀧川博士、更に曰く、「新井白石は、皇室のことを深く慮り、世襲宮家をつくつて、皇統の斷絶を防いだのも、彼であるが、白石は、幕府が改元のことに干渉することに反對であつて、彼は『折たく柴の記』に、

我が朝の今に至りて、天子の號令、四海の内に行はるゝ所は、獨り年號の一事のみにこそおはしますなれ。異朝の書にも、其の事を論ぜし事も見えたり。古より此のかた、我が朝、改元の例は、代始め、又は革命・革令・三合・天變・地妖・水旱・疫病・兵革・飢饉等の事によれり。武家の代となりしより後も、武家の御事によりて、此の事ありし例は、いまだ聞かず」

と言つてゐるが、この「武家の御事によりて、此の事ありし例は、いまだ聞かず」といふのは、さる例は有るべからざるものであるといふ意味であつて、規範意識が働いてゐる。私は、そこに氣がつかなかつたので、元號大權は、未だかつて臣下の者によつて干犯せられたことはないと斷言したのであるが、その誤りであつたことは、率直にこれを認めなければならない。‥‥

 室町時代に、應永といふ年號が、三十年も續いたのは、途中で稱光天皇の御代始めの改元が略されてゐたからで、白石は、室町時代の將軍にも、天皇の大權事項に口出しをした將軍があつたのではなからうかと疑ひ、檢討を加へたが、「そのことなし」と言つてゐるが、私は、そのことがあたと思ふ。すなはち將軍が、天皇の改元に干渉することは、徳川將軍に始まつたことではなく、室町時代に、その先蹤があつたものと思ふ。

 しかしそんな時代は、大化より昭和に至る長い時代にくらべれば、まことに一瞬間であつて、百年ぐらゐのものである。江戸時代も、十代將軍家治の時代から以後になると、京都の勢力は盛んとなり、將軍が天皇に對して制壓を加へるといつたやうなことは、もはや全然できなくなつてしまつてゐる。故に幕末期に書かれた『徳川實記』には、改元は、すべて京都にて行なはれ、幕府は唯々として、その命を奉じたかのやうに記述せられ、徳川將軍の元號大權干犯は、そのことがなかつたかのやうに扱はれてゐる」と。

 然らば平成の中今に、將に改元に干犯せむと欲する所の安倍晉三は、「元號は、民主政府より定むべきこと、勿論なり」と、恰も將軍家光に比すべく、即ち自民黨幕府の巨魁であること、決定せり。皇室の式微、復た漸く始まりぬと謂ふ可きか。吾人が憤懣、遣る方なし。有志、尊王討幕の大旌、高く掲げて、倶に共に之を討つ可し。「森羅萬象を擔當」、「私は國家なり」と言ひ放ち、驕り昂ぶる安倍晉三、討つて粉にせむは、正に此の秋なり矣。天神地祇、照覽の下、逆賊安倍晉三、將た高き熱に魘されむか、將た高轉びに轉ばむか。驕る者、久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。



 追記、圖らずも三月七日、關根正直博士『隨筆・からすかご』を落掌して、之を確認し得た。これも御縁と云ふものならめ。また瀧川政次郎博士は、其の内弟子であつた先輩に連れられて、二度ほど謁したことがある。其の書齋「麟趾閣」を拜見して、學者、斯くある可しと憧れたことを想ひ出す。此の老博士は能書家であつて、かつての勝海舟がさうであつたやうに、毎日、習字をなされてゐたと聞く。其の編著『日本律令』は、毛筆であつた。
 
 

新元號の前倒發表、竝びに事前公布を強行に推進する杉田和博内閣官房副長官への『抗議文』

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 3月 3日(日)13時55分17秒
返信・引用 編集済
   平成三十一年三月三日、松田晃平・下山陽太兩同志は、新元號の前倒發表、竝びに事前公布を強行に推進する杉田和博内閣官房副長官の自宅へ、『抗議文』を持參して再考を促した由。吉備の田舍から、此の老兵も、心からの支援を送る。熱祷懇祈。


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●松田晃平・下山陽太兩同志『抗議文』平成三十一年三月三日

杉田和博内閣官房副長官に告ぐ

 本年、天皇陛下の御讓位に際し、貴公をはじめとする内閣中樞の人間らが推し進める「新元號事前發表」に、斷固反對の聲をあげる。

 昨年より、新元號の發表時期が議論されてゐたが、歴史的に觀ても、一度たりとも行はれてゐない「事前發表」など、到底、許されるものではない。

 安倍内閣の中に、勤皇赤誠の眞心を持つた人間は、一人たりともゐないのか。かくのごとき愚策を強行せば、安倍内閣は、新帝の元號制度權を蹂躙する大不敬大叛逆の國賊集團として、後世末代までも汚名を、歴史に刻むであらう。

 貴公の言ふ「國民生活への影響」とは、何か。自身らの輕率な行動で、傳統や文化を否定し、變へてしまつても良いのか。

 今一度、「新元號事前發表」を見直し、發表は、新帝御即位後に改めるべきである。

 もしも猛省改心なかりせば、内閣總理大臣安倍晉三以下、閣僚らは、
天皇陛下・皇太子殿下にお詫び申し上げ、辭任すべぎある。

 一勤皇家として、ここに斷固反對の意を表明する。

平成三十一年三月三日

     松田 晃平
     下山 陽太

内閣官房副長官
杉田 和博 殿


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 愚案、「御聽許」は、皇太子殿下に賜はるのでは無い。代々木坐大神樣の定められし「一世一元」の御制は、新しく即位せられた
天皇陛下から認めて戴いて賜はるもの、勘違ひがあつてはなるまい。「御名御璽を、單なる手續き」なぞと云ふ輩は、不敬至極と謂ひつ可し矣。

 直ちに御詫びを、
天皇陛下へ奏上し、又た皇太子殿下へ言上して、宜しく先例古儀に倣ふ可し矣。
  
 

嗚呼、懇祷して已まず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 2月28日(木)19時51分49秒
返信・引用 編集済
   歸宅した所、不二歌道會『不二』平成三十一年二月號到來。早速、中澤伸弘博士「即位儀禮に關する問題點(二)」を拜讀し、暗澹たる思ひに‥‥。曰く、

民族派の出版物は、著者の原稿がどうあれ、西暦併記は削除すべきです。もはや、そのやうなことまでもせねばならない状況となつてゐるのです」と。

 然り、さうなんですよ。學生時代に「元號問題」に取組んだせゐか、小生は、邪蘇暦の使用を、頑なに拒んで來た。民族派右翼は、皇紀を常用する方が多いが、然し小生は、元號に拘りつゞけてをり、今も、一以て之を貫いてゐる。かつて「西暦(元號)」の文字を操る編著を爲した大東塾門下を見て、小生は之を悲しんだ。『不二』舊號の中に、「美○子さま」なる辭を見て、購讀を中止した御方も、身近に存する。
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 安倍晉三と申す人は、抑も見識と云ふものが無い、依怙地なる男なのか、或は傳統とか國史とか古風とかは嫌ひなのか、或は周圍に其の人を得ないのか、或は本末の錯誤を知つても、猶ほ修正する勇氣が無いのか、或は眞正なる馬と鹿との合ひの子なのか、或は底意ある「革命」家なのか。「西暦」を常用し、「二十一世紀」とか叫ぶ總理大臣を、我々は現に視てゐる。嗚呼、此の情勢において、保守家は如何。神道人は立つて動かないのか。かつて元號法に腐心した同志は如何。

 新たに即位される天皇陛下には、萬歳の後の追號となるであらう元號に、一世一元制における歴史上初めて「御署名」、即ち「御名御璽」を捺されない天皇になられるかも知れないのです。勿論、平成の天皇陛下は、御父君に坐します。父帝の公布し給ふ年號なれば、大孝の皇太子殿下には、之に服されませうが、何はともあれ、之を強行せんと企む安倍晉三と云ふ男を、小生は許すこと能はぬのであります。
  
 

岡山縣愛國者協議會による第四十三囘野中四郎大人命慰靈祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 2月24日(日)23時08分58秒
返信・引用
   平成三十一年二月二十四日午前十時半、野中四郎大人命の八十三周年、即ち八十四年慰靈祭を、吉備前國御野郡岡山市中區平井の東山靈園なる野中類三郎家墓地に於いて齋行す。岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁が創祀されて以來、こゝに四十三囘なり。

 梅香る、近年希有なる穩かなる天候の中、嚴肅裏に、滯り無く御祭を畢ぬ。天壤無窮なり矣。祭主兼典儀は、秋田智紀主、齋主は、式内縣社足高神社・井上直亮禰宜なること、從前の如し。禰宜の祝詞は、二十五年前の直き志のまゝの祝詞、直す能はざる由、祭式に生命を賭すてふ禰宜の聲と姿、まことに莊嚴、之を拜して、身、愈々震ふなり。

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【訂正】墓石の文字を讀むこと、次の如し。

   昭和十一年二月二十九日卒
   享年三十有四
一、野中四郎之墓

   昭和十七年一月五日卒
一、慈雲院幽峰宗□居士
   野中類三郎
   行年七十七

   昭和三十七年三月八日歿
   類三郎妻・野中ツ子(つね)
   行年七十七才
一、慈光院貞室常昭大姉
  清心院慈光美妙大姉
   四郎妻・野中美保
   (裏)昭和五十二年八月吉日、野中美保建之
 
 

勤皇黨の使命、一に討幕に在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 2月19日(火)19時22分42秒
返信・引用 編集済
  【明治改元の詔・明治元年九月八日】『太政官日誌』八十一。

太乙を體して位に登り、景命を膺(う)けて、以て元を改むるは、洵に聖代の典型にして、萬世の標準也。

朕、否徳と雖も、幸ひに祖宗の靈に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬、萬機の政を親らす。乃ち元を改めて、海内の億兆と與に、更始一新せむと欲す。

其れ慶應四年を改めて、明治元年と爲せ。自今以後、舊制を變易し、一世一元、以て永式と爲せ。主者、施行せよ。




 謹案、元號と年號と、一世のうちに、強ひて「御名御璽」を要し奉るは、抑も誰ぞや。代々木の大神樣「一世一元」の詔、之を施行せず、「永式」と爲さゞるは、果して誰ぞや。安倍晉三内閣、即ち是れ也。

 皇后陛下「宮内記者會の質問に對する文書御囘答・平成二十八年十月二十日」に、「新聞の一面に、『生前退位』といふ大きな活字を見た時の衝撃は、大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でも、かうした表現に接したことが一度もなかつたので、一瞬、驚きと共に痛みを覺えたのかもしれません」と。

 天皇・皇后兩陛下には、度々「讓位」の玉音を發せられ給ふ。然るに「退位」の文字に拘り、未だ大御心を奉ぜず、「讓位」と申し上げざるは、何處の誰ぞや。歴史と傳統を顧みざる者、果して誰ぞや。安倍晉三幕府、即ち是れ也。

 根本羽嶽博士『讀易私記』に曰く、「天下之變、革命より大なる者は莫し矣。聖人之憂患、革命より深き者は莫し矣」と。「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」とは、蒲生靜修先生の言に非ずや。然り而して「上皇」は、太政天皇の略稱に非ず、皇太后に非ずして、「上皇后」なり嘯くは、夫れ誰ぞや。民主革命家安倍晉三、即ち是れ也。



【現憲法下では、必ず「御聽許」を乞ひ奉る可し矣】
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一世一元制下の改元。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 2月12日(火)23時04分14秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●讀賣新聞政治部『平成改元』(平成元年六月・行研出版局刊)に曰く、

「(昭和六十四年一月七日)
午前六時三十五分、陛下のご危篤發表。
六時三十三分、陛下崩御。
七時五十五分、崩御發表。
八時二十二分から三十六分、第一囘臨時閣議(崩御・皇位繼承の内閣告示、總理大臣謹話等の決定)。
十時一分から五分、宮中三殿で、劍璽等承繼の儀等。
午後零時二分から二十五分、政府・與黨首腦會議。‥‥

 午後一時三分から「元號に關する懇談會」、同二十五分からの「衆參兩院正副議長への意見伺ひ」を經て、閣僚全員による「全閣僚會議」は、同四十九分から二時二分までの十三分間で、最終三案のうち、「平成」を採用することが決まつた。この後、二時十分から、臨時閣議が開かれ、「平成」が正式決定(十八分)されてゐる。しかし閣議の詳細を知る立場にある内閣官房の職員は、匿名を條件に、次のやうに話す。

「閣議の正式終了時間は、明らかにされてゐません。閣僚が閣議室から出てきたのは三十三分。しかし實際は全閣僚會議で、『平成』が決まつてゐたわけだから、閣議では、それを追認する手續き、つまり閣僚の署名が殘つてゐただけ。あとは閣僚は、正式發表までに情報が漏れないやう、足止めをくつてゐただけ」

 この間を利用して、官房長官・小渕惠三の命を受けた事務の官房副長官・石原信雄は、閣議室を脱け出し、總理執務室か、隣の總理祕書官室から、宮内廳長官・藤森昭一に電話を入れた。

「『平成』に決まりました。新しい天皇陛下にお傳へ申し上げてほしい」
「承知致しました。さつそくに」

 一方、政務の官房副長官・小澤一郎は、幹事長・安倍晉太郎ら、自民黨四役が詰めてゐる自民黨本部總裁室に電話を入れ、「平成」を傳へた。

「これから、新天皇に傳へるので、それまで口外を控へていただきたい」

 「元號を『平成』に改める。この政令は、公布の日の翌日から施行する」との政令は、總理・閣僚全員が署名したうえで、二時二十分過ぎ、閣僚室の隣の閣僚應接室で待機してゐた内閣官房總務課職員に手渡され、總理執務室・總理祕書官室・同控え室を拔けて、總理官邸裏の公邸に出て、そこからパトカーではないが、緊急用車輛の先導で、宮内廳へと運ばれた。「公邸を出たのは、三十分にはなつてゐなかつた」と、その關係者も證言する。

 かうして政令は、皇居・宮殿「鳳凰の間」に運ばれ(二時三十五分より前)、新天皇は、事前に宮内廳長官・藤森を通じて報告を受けてゐた「平成」を確かめたうえで、二時四十五分に、その政令に「明仁」と、毛筆で署名された(政令の正式な手續き完了、公布)。

 一方、元號の政令案は、新元號の二文字部分だけを除いて、「準備原稿」として、官邸から東京・虎ノ門の大藏省印刷局に送られてゐた。閣議で二文字の空白部分が「平成」と決まると、今度は赤のボールペンで、「平成」と書き込まれた「正原稿」が印刷局に運ばれ、活字が組まれた。時間の節約のため、フアツクス利用のアイデアもあつたが、萬全を期して、信頼できる職員が手持ちで運んだ。そのうえで、皇居での新天皇による「ご署名終了」といふ電話連絡により、官報印刷の輪轉機が囘り始め、官報號外は、午後四時ごろには、印刷局前の官報掲示板に張り出された。‥‥

 總理官邸、官房長官・小渕は、新天皇への事前連絡が濟み、政令が皇居に向つたことを確かめたうえで、記者會見場に向かひ、二時三十五分に、毛筆で「平成」と書いた額をかざしながら、新元號を發表した。

 かうして新憲法下で、初の改元は、「新天皇に、あらかじめ複數の案を見せておいて、内々に決めておいてもらふ」とか、「新天皇のご意見を事前に聞いておいて、それを參考に決める」といふやうなオーバーランを冒すこともなく、「平成」に決まつた。しかし一方で、正式發表前に、新天皇のお耳に入れるといふ、ギリギリの綱渡りの中で、何とか「元號」と「天皇」を調和させたことも、事實ではあつた」と。



【踐祚、即ち即位】
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尊皇討幕の大旌。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 2月 9日(土)21時31分57秒
返信・引用 編集済
   下山陽太主の曰く、「北畠親房卿著『神皇正統記』に曰く、

毫釐も君を忽せにする心を兆す者は、必ず亂臣となる』と。

 安倍「民主革命」政權による新元號の前倒發表、竝びに事前公布は、新天皇の元號制定權を干犯する大不敬大叛逆行爲にして、皇室に對する下剋上であり、謀反であり、叛亂に外なりません(平成三十一年一月四日に行はれた安倍晋三の年頭記者會見とは、新天皇の元號制定權の強奪を宣言した「民主革命」である。即ち一月四日を以て、安倍政權は「民主革命」政權に變貌し、安倍晋三は、弓削道鏡・平清盛・北條義時・足利尊氏(ママ。愚案、高氏のこと)に竝びし、大不敬大叛逆の大惡人になつた)。

 かゝる皇國重大事の折柄、超黨派によつて志を一にした『新元號事前公表問題を考へる有志の會』(事務局:横山孝平氏)が結成されました。「趣意書★」に御贊意いたゞける方は、同志道友各位に弘めて下されば幸甚でございます」と。


**********


★ 新元號事前公表問題を考へる有志の會『元號の本質を破壞する「新帝御即位前公表」に反對します

 平成二十八年八月八日、「象徴としてのお務めについて」との天皇陛下のおことばを拜し、政府は、御讓位に向けた法整備を行つてきました。しかしこれは、「讓位」といふ言葉を勝手に讀みかへ、「退位」といふ、わが國の皇室の歴史にない文言を持ち出し、憲法や皇室典範の條文をなにひとつ變へることなく、「特例法」として一代限りを條件とするものを作り上げました。たしかに御讓位による皇位繼承は、過去に二百年ほどありません。また明治以降は、憲法、そして皇室典範において、この讓位の規定がないことも事實です。しかし大本を改めず、時の政府の判斷でいかやうにも出來る「特例法」とは、次代に對する負の先例になりかねない危險をはらむものでもあります。「政教問題」に對する配慮との見方も出來ますが、これによつて政府は、わが國の大本である皇室・皇位繼承のあり方を、いとも簡單に變へることが出來るといふシステムを作り上げてしまつたのです。

 さらに今般、政治日程から、御讓位・新帝御即位の日が決定されてゐるとはいへ、新帝が御即位あそばされる前に、次の御代の元號が公表されようとしてゐます。はたして行政や經濟への混亂を最小限にといふだけの瑣末な理由で、歴史に例を見ない、このやうな暴擧を許してよいのでせうか。

 たしかに現在の元號法において、新元號を天皇陛下がお決めになることにはなつてゐません。しかしその規定には、「皇位の繼承があつた場合に限り、(元號を)政令で定める」とされてゐます。そして政令には、かならず天皇陛下の御名御璽を賜ります。これにならへば、五月一日の御即位の日に、新帝から御名御璽を賜る元號が、政令としてはじめて發せられなければなりません。

 かりにのちに政令を經ることにならうとも、政府の閣議決定のみで、事前公表が行はれれるのだとすれば、それは皇位の繼承とはなんら關はりのない、「政府の元號」の公表といふことになります。はたしてそれが、日本の傳統に照らし、また國民から愛され、親しまれる元號になり得るでせうか。これは皇位繼承と密接にある元號を蔑ろにする以外のなにものでもありません。

 私たちは、ここに政府による「新帝御即位前新元號公表」に反對し、歴史と傳統に基づく改元がなされることを求めます。


**********


 愚案、元號大權の干犯は、皇國の至重至大の問題であり、我々有志の憂憤は、洵に深刻と謂はざるを得ませぬ。蟷螂の斧と雖も、尊皇討幕の旗を高く掲ぐるときでありませう。内、平かにして、外、成る。外は流行保守や政治ゴロに任せておけば宜しい。内が本であります。本末を辨へざる安倍晉三、驕る者、久しからずとは、驕れる者、何如で知るべき。

 また不二歌道會『不二』平成三十一年一月號所收の、中澤伸弘博士「即位儀禮に關する問題點(一)」は、簡にして要、有志には、是非とも御熟覽を乞ひたい存じます。「退位の禮」に拘り、放伐思想を隱す安倍自民黨幕府、本道に許し難し矣。皇民は、大御心を奉じて、正しく「讓位の禮」と申し上げようではありませんか。

 平成の大嘗祭に於ける參列者、自民黨の者どもの態度は、寒いの、眠たいの、闇くて見えないのと、聞くに勝へざるものあつて、むしろ社會黨の議員の方が、謹嚴神妙であつたと聞き及びます。驕る自民黨は、昭和の御代を以て、既に役目を終へてをるやうです。
 
 

ほとゝゝ情けない神職共‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 1月18日(金)19時03分20秒
返信・引用
  ~承前~

 小堀邦夫の「退任始末」は、更に續く。



「(靖國神社の)秋の大祭中は、辭職を決心してゐたため、宮司室で謹愼してゐました‥‥、ただ大祭參籠中にも拘らず、十月十八日の夜には、新宮司(山口建史)を迎へる喜びに沸き立ち、深夜まで鯨飲會が續いたと聞き、ほとほと情けない神職が幾人もゐると、思ひ知らされました。‥‥

 (靖國)神社の資産運用のうち、二十億圓が償還不能となつてゐるのではないかといふ問題でしたが、これはそもそも運用のリスクを考慮すれば、不可避のことであり、これを擔當した者が、たとへ自分の資産運用をそこでしたとしても、責を負はせる證明はできさうにないし、かりに謀證券會社との癒着があつたと推定されるにしても、それは總代會のやうな席で結論を出せないゆゑに、不問に付すしかないと、同意を求めました」と。



 見るがよい。宮司本人の告發を。これが靖國神社一部神職の實體だ。經濟的に惠まれてゐる大きな神社は、こともあらうに、財テクとやらにうつゝを拔かしてゐるさうだ。年收三百萬圓未滿の神社は、全國で六割を超えると云ふ(小川寛大『神社本廳とは何か』平成二十九年十二月・K&Kプレス刊)に、「二十億圓が償還不能」だとよ。誰も責任を取らぬ。御賽錢・奉納金が、湯水の如く消費される。

 『神社新報』は、「十月二十二日號で、一段記事として、この『事實』を傳へただけである。それは、『極めて不穩當に言葉遣ひ』と、その録音内容が漏洩したこと、これが『暗い汚い事實』とまで斷定できるかどうかはともかくとして、少なくとも明るく清らかな事實でないことだけは確かである。だから本紙は、書かなかつた。それが『傳統的品格の固守』と判斷したからである」(平成二十九年十一月十二日「論説」)由、ふざけるでは無い。葦津珍彦翁の血筆もて書いた『神社新報』も、神社本廳一派の提燈持ちとなつてゐるではないか。然らば評論家氣取りは止めて、靖國神社の肅清改革案を出し給へ。「新宮司の手腕が問はれる」とのこと、蓋し机上の空論、話にもならぬ。

 先般、「神社本廳から差囘された酒好き・女道樂の惡黨・山口建史が權宮司になつて、神社が金まみれになつたと云ふ。神門前の神木を切倒し、便所を作らうとした張本人にして、勝手に舊招魂齋庭に鳥居を立てたり、遊就館の歴史解説を改竄し、昭和殉難者を「死刑囚」と呼ぶ南京映畫の上映を強行した、俗物中の俗物。間者を驅使する、恐怖支配の再來だ。靖國神社總代會、狂つたか、最惡の結末。騒動が、又た亦た始まるぞ」と書いたが、益々確信を強くする。宮司交替は、「多分にクーデターの要素を孕んでゐるんですよ」(靖國神社關係者──『週刊新潮』)。而して小堀の結論は、



「七十年以上も、單立宗教法人でありつづけてきたところに、隱された深刻な問題が未解決のまま、今日に持ちこされてきたのです。少なくとも國家護持法案が、昭和四十九年、全國の遺族會の願ひとは別に、廢案となつた日以來、樣々な問題や訴訟に振り囘されてきたことは、同情されるべきところとは思ひます。しかし單立宗教法人でありつづけるための目標が立たなくなつた以上、なるべく早く、神社本廳の被包括法人(伊勢の神宮と同樣)となり、全國の神社と神道人たちと手を携へて、よりよい未來を志向すべき日が、新元號とともに始まらなければならないと、覺悟すべきではないでせうか」と。



 御冗談でせう。小堀は知らないやうだが、神社本廳の差廻し(山口建史・宮澤佳廣等)に因つて、或は本廳の贅澤三昧なる放埓經營を眞似るから、此の爲體になつたんですよ。更に本廳の被包括法人にもならうものなら、靖國神社は食ひ物にされるだけ、頼むから御免蒙りたい。

 本年は、九段塾頭、即ち泉水隆一監督の逝きて足掛け十年の歳、塾頭の識見・情熱を仰ぎながら、細々と駄文を掲げて參りました。大地社・木下厚兄の如き、いつも泉水監督を顯彰して戴く贊同者を得ることが出來ました(『芳論新報』)が、靖國神社を巡る情勢は、更に惡化の一途を辿つてゐると謂はざるを得ませぬ。『凛として愛』の遊就館上映の悲願も、未だ達成することは叶ひませぬ。九段塾としては、松平永芳・大野俊康兩宮司に立ち復つて想ひを新たにし、ひたすら靖國神社護持、靖國大神照覽を懇祈したいと存じます。
 
 

不敬宮司、利權にまみれし俗物──新宮司を撃つ。醜惡至極なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 1月17日(木)22時24分59秒
返信・引用
   彼の不敬宮司が、何と、前宮司・新宮司の不逞を暴いてゐるではないか。書いた「謹愼中」の小堀邦夫も然ることながら、呆れて物も云へぬとは、此の事。靖國神社執行部も、神社本廳幹部と同じ穴の貉でありました。許せぬ矣。

 遺族・奉贊者・参拜者の奉納は、遂に執行部の資金源と化し、「靖國神社のたゝずまひを變へること勿れ」てふ松平永芳宮司の悲願は、無殘にも棄てられた。有志には、目の穢れでありませうが、こゝは堪へて、雷覽を賜はらむことを。今は、其の一部、小生の仄聞する所の具體例のみ。

 申し上げることは、たゞ一つ。靖國神社から、山口建史一派を追放せよ。直ちに、だ。



●小堀邦夫著『靖國神社宮司、退任始末』(平成三十年十一月・日本傳習所刊)

 宮司に就任したばかりの三月の總代會では、昨年(平成二十九年)九月來の「怪文書」問題が、未解決のまま持ち越されてをり、今後、この種の雜音を神社内外から閉め出すべく、私の方から今後の方針案を作成してお示しし、總代會で了承していただきました。五項目についての具體的な内容について、會議記録を、許可なく盗み取つた者たちが默してゐるやうなので、‥‥

 「怪文書」は一種類ではなく、私のもとには、いくつか屆けられてをり、それらを歸宅後、夜な夜な讀み込んで行きますと、ひとつの闇が見えてきました。それは御創建百五十年記念事業や中長期計畫の名のもとに、三十五億圓餘りの豫算を計上し、その大部分を、小さなコンサルタント會社が主導し、そこに數名の幹部職員が關つてきたこと、すなはち利權構造の常態化といふ闇に突き當たりました。多分、百五十年記念事業の豫算二十億圓では滿足できず、中長期計畫といふ、不急の事業を提案することによつて、より大きな支出を見込み、それは今後、十五億圓を越えて、都合四十億圓、五十億圓と、ふくらませたいとする野心が見えてきます。すでに全ての計畫は、總代會で了承され、施工契約も、ほとんど濟んでゐました。このやうな利權構造と目されても仕方のない状況を改めるために、綜合企劃委員會を設置し、優能な職員の意見を廣く求め、公正な意見を反映した企劃作成に着手することになりました。

 「いつまでも、このやうな豫算執行をくり返してゐたら、やがて靖國スキヤンダルになる」と、權宮司たちは話してゐましたが、つひに今囘、『週刊新潮』(平成三十年十一月一日號「『不敬發言』流出はクーデターといふ『靖國神社』神々の權力鬪爭」★)が利權構造を指摘しましたやうに、どこまで漏洩したのか不明のデータの中から、マスコミは、スキヤンダラスな事柄を拾ひ集め始めたのだと見られます。‥‥

 「怪文書」のかなりの部分は、徳川宮司の非を、次から次へと論ふ内容でしたが、御體調の不良などもあつて、同情すべきところもありました。しかしただ一點、私が神職として看過容認できない問題のあることを、總代の方々に説明しました。それは「權宮司に退職の花道を飾つてもらふために、(平成二十七年)六月十一日の月次祭齋主は、權宮司となる以上、宮司は、當日、ゐない方がよいので、出社しなかつた」との談話でした。毎月一日・十一日・二十一日の旬祭を、靖國神社では月次祭と稱してゐます。これは年間を通して行ふ恆例祭で、朝御饌祭・夕御饌祭と合はせて、靖國神社の背骨(バツクボーン)と稱すべきお祭りです。宮司が出張などの公務で、止むを得ず不在の場合は、權宮司が代理を勤めることはあるでせうが、明治この方の恆例祭、つまり公のお祭りであることを忘れて、權宮司退職の花道に、宮司の代理をさせ、自身は自宅で休んでゐたことは、到底、神職の世界では許されないことです。この問題で、最も重い責を問はれ、嚴しい反省を課せられるべきは、「花道」を受けた權宮司です。「靖國神社の恆例祭を、私事のお祭り、私祭に貶めてはなりません」と、諫言すべきであつた權宮司が、今囘、三人の總代(責任役員)の推薦によつて新宮司となる提案に、私は内心驚きを禁じ得ませんでした。おそらく三總代から、過去のあやまちを深く反省した上で、靖國神社の御祭神のために、國家の公儀としてのお祭りに、誠意をもつて奉仕するやうに、との説諭があつたことと信じます。



★ 徳川氏の出自ゆゑの、宮司でありながら、靖國神社を輕んじてゐるのではないかとの疑念を裏付けるやうに、
「『みたままつり』から露店を締め出したり、LEDで星空を再現する『プラネタリウム化』を進めるなど、靖國神社の傳統を蔑ろにする行爲が目に付き、その上、皇族が薨去しても、海外旅行を續けるなど、徳川さんは、『問題行動』のオンパレードでした」(靖國神社の關係者)と。
 
 

謹賀新春。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 1月 2日(水)00時01分45秒
返信・引用
  平成紀元 三十一年
中興紀元(皇紀) 二千六百七十九年
天降(あもり)紀元(神皇紀) 五千十九年
天皇正月、歳、己亥に次(やど)る、
元旦、大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。更めて謹み、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて御閲覽各位の福壽無量を祝祷申し上げ候ふ。

 下りて愚生、無事、還暦を越えつゝあり、生業、漸く退隱する所存に御座候ふ間、愈々研鑽に相勵み度く候ふ。本年は、新元號元年の御由、各位倍舊の御交誼、只管ら懇祈仕り候ふ。

 惟みるに四十年前、與黨の躊躇逡巡に對して、生長の家を中心とする學生の活躍、所功博士の研究、而して影山正治翁の一撃にて、元號法制化相成り候ふ。然るに彼の頃の熱氣は喪せて、今は泰西流の合理功利主義の跳梁跋扈、 かつての學績識見を顧みる者、絶えて無く、一途私見を主張して止まる所を知らず、憚り乍ら、
天子樣・日嗣の御子樣には、此の爲體、如何に思召させ給ふらむと、遙かに恐察仕り候ふ。畏し矣。備中處士、百拜、敬みて白す。
 
 

謹愼せざる者の惡あがき。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年11月11日(日)23時03分15秒
返信・引用 編集済
  ■靖國神社社務所『宮司就退任のお知らせ』(『靖國』平成三十年十一月)

 去る十月一日、一部週刊誌により、當神社小堀宮司による、會議での極めて不穩當な言葉遣ひについて報じられました。ご遺族・崇敬者の皆樣には、多大なるご心配をおかけいたしましたことを、心よりお詫び申し上げます。

 この件に關して、十月五日に、宮司が、直接、宮内廳掌典職へ伺ひ陳謝し、宮司退任の意向をお傳へいたしました。

 また十月十七日から齋行された秋季例大祭は、謹愼中の小堀宮司の代理として、坂權宮司が齋主を務め、祭儀のすべてを滯りなくご奉仕いたしましたことを、ご報告申し上げます。‥‥



 愚案、「謹愼中の小堀宮司」の由。然しこの小堀邦夫てふ神職は、謹愼なぞ、實はしてゐなかつたのである。謹愼とは、天皇陛下、皇太子・皇太子妃兩殿下に對し奉り、己が不敬を御詫び申し上げ、只管ら懺悔反省することを謂ふ。此奴、何をしてゐたか。『文藝春秋』(平成三十年十二月號)に、『靖国神社は危機にある』と云ふ獨占手記を書き、辨明釋明に、是れ腐心してゐたのである。呆れて物が云へぬとは、此の事だ。これでは、音聲漏洩者の罪を問ふどころでは無い。又た書かれてゐることは、言語道斷、一讀、心が萎える思ひである。

 先づ昭和殉難者てふ言葉を知らず、「A級戰犯」と何度も言ひ放つことは、靖國神社の正式呼稱を無視するものにして、結論は、「靖國神社に關して根本的な問題は、結局のところ、悲しい生涯を送つたご祭神を、國や天皇陛下が、どう扱ふかといふこと」なのださうだ。相かはらず「扱ふか」と言ひて、何樣か知らぬが、敬語は遣ひたくない御樣子。祭神は「どれだけ恨みを呑んで亡くなられたかわからない。だから祟ることがないやうに」と、怨霊信仰の吹聽。草木物言ふ時代、小堀の「戰略」とは、驚く勿れ、天皇陛下に於ける「私人として」の立場を創り出したこと、而して『靖國神社祭神祭日暦略』の存在を明かにして、祭儀の祕密を暴露、天下に知らしめた罪は、殊に萬死に價ひしよう。「掌典職には、こちらの原案(靖國神社改革案)すら受け取つてもらへず、『五十年、百年の次は、創建二百年が節目』と言はれました」と、こちらも負けず劣らず、祕密漏洩して憚らない。

 靖國神社に於ける白袴族の不見識・不行跡ないし危機感の無さは、既に塾頭の文章にて知る所、今更ら驚くには當らない。書きたいことは幾らでもあるが、小堀邦夫の「私見」を以て、神道「教學」を打立てゝもらつては、神道にとつて迷惑千萬であることだ。合祀問題も、神道にあつては、「合祀」が出來て、「離祀」が出來ぬことなぞ、「物理的」(小堀の言葉)に有り得ないことだけは、こゝに明言しておきたい。此の人の神觀念は、一體、どうなつてをるのやら。神宮禰宜をひけらかすより、もう少し先人の神書を謙虚に勉強するか、神職を御辭めになつて、保守評論家に轉身されるが、身の爲めでせう。
 
 

本立ちて、道生ず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年11月 3日(土)19時41分54秒
返信・引用 編集済
   『大學』に曰く、「物に本・末有り、事に終・始有り。先・後する所ろを知れば、則ち道に近し矣。‥‥皆な身を修むるを以て、本と爲す。其の本と亂れて、末ゑ治まる者は、否なり矣」と。

 何、靖國神社宮司の後任に、山口建史・元權宮司だ、と。此の嫌はれ者、辭めた筈では無かつたのか。神社本廳から差囘された酒好き・女道樂の惡黨・山口が權宮司になつて、神社が金まみれになつたと云ふ。神門前の神木を切倒し、便所を作らうとした張本人にして、勝手に舊招魂齋庭に鳥居を立てたり、遊就館の歴史解説を改竄し、昭和殉難者を「死刑囚」と呼ぶ南京映畫の上映を強行した、俗物中の俗物。間者を驅使する、恐怖支配の再來だ。靖國神社總代會、狂つたか、最惡の結末。騒動が、又た亦た始まるぞ。

 小堀邦夫氏は、報道への囘答釋明にて、耶蘇暦を使つてゐる由(「(昭和天皇が)1975年に參拜した際」と)。椅子から、思はず、ずつこけた。靖國神社の社内でも、耶蘇暦が通用してゐるのか。それとも元號は奉ずるものゝ、平生は耶蘇暦を常用してゐると云ふことか。「山法師」ならぬ、「耶蘇宮司」であつたか。至極納得。

 毎週、産土神社の清掃奉仕を、夫婦にてさせて戴いてゐるが、雜草は、取つても々ゝゝゝ生へて來る。是れ、己が罪穢れと思つて、只管ら取る。境内、雜草は無しと自己滿足しても、今日、見れば、亦た生へてゐる。敬遠してゐた隅の小山に、一面の雜草‥‥。此れが「本」かと、一面を土ごと小鎌にてすくひ取る。産土を削り取ることは避けたいが、御許しを乞うて取る。

 國粹の「本」は、神社に在り。畢竟、神社本廳を正さねば、國本が立たぬ。葦津珍彦翁は、既に居ない。田舍の神主樣は、純粹にして無慾な方が多い。斯う云ふ方々の中から、忠義の固まりのやうな頑固者を、本廳總長に迎へたい。政治好きや利權屋、そして戰後保守と交流深き者は、神社に無用と云ふより、極めて有害だ。

 かつて松平永芳靖國神社宮司は、火の國より大野俊康宮司を招いたではないか。然しH權宮司を追出して、山口建史を呼込んで權宮司に据ゑた奴が居る。陰に巨大な闇を感ずる。神社維新、永遠に續くとは申せ、「先」づは神社本廳執行部の維新が、喫緊不可缺だ。然し保守を稱へる者は、案の定、之を無視して聲を擧げぬ。洵に不可思議千萬、同じ穴の狢と云ふ他ない。神社本廳も靖國神社も、其の執行部は、魑魅魍魎の巣窟。一旦解散して、もう一度作り直さない限り、昔日には戻らないだらう。有志は、田中恆清總長一派への追及、之を緩めてはならぬと共に、後任人事に注視せよ。

 黒塗りの運転手付高級車でなくても、輕四車でよいではないか。銀座や赤坂に繰り出さなくても、安くて旨い健全な店はある。田舍の神職、腐敗せる神社本廳に對して、聲を擧げて戴きたい。
  ↓↓↓↓↓
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/239587/1
 
 

亂臣賊子、謀叛の兆しあり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年10月28日(日)12時03分25秒
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  ■北畠親房公『神皇正統記』後醍醐天皇條

 此の頃のことわざには、一たび軍(いくさ)にかけあひ、或は家子郎從、節に死ぬる類ひもあれば、「我が功に於きては、日本國を給へ、若しは半國を給はりても足るべからず」など申すめる。實にさまで思ふ事はあらじなれど、やがて是れより亂るゝ端ともなり、又た朝威のかろゞゝしさも推し測らるゝものなり。「言語は、君子の樞機なり」と云へり。白地(あからさま)にも君を蔑ろにし、人に驕ることはあるべからぬことにこそ。堅き氷は霜を蹈むより至る習ひなれば、亂臣賊子と云ふものは、其の始め、心ことばを愼しまざるより出で來るなり。世の中の衰ふると申すは、日月の光のかはるにも非ず、草木の色のあらたまるにも非じ。人の心の惡しくなり行くを、末世とは云へるにや。‥‥

 君は萬姓の主にてましませば、限りある地をもて、限りなき人に分たせ給はんことは、推しても測り奉るべし。若し一國づつを望むならば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づつと云ふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人は悦ぶとも、千萬の人は悦ばじ。況んや日本の半(なかば)を心ざし、皆ながら望まば、帝王は、いづくを知らせ給ふべきにか。かゝる心の萠して言葉にも出で、面にも恥づる色の無きを、謀反の始めと云ふべき也。



 愚案、「一國」を「天子樣の神社親拜」に置換へれば、靖國神社宮司小堀邦夫氏は、「惡しき心の萠して言葉にも出で、面にも恥づる色の無きを謀反の始めと云ふべき」であり、平成の山法師にして、足利高氏の一歩前であらうか。「靖国さん」のみ良しとするは、戰後保守の與する所と雖も、靖國神社祭神の亨け給はざる所である。「ますらをの 屍草むす あらのらに 咲きこそにほへ やまとなでしこ」てふ、伴林光平大人の扇子(小堀氏揮毫)は、取り敢へず書いてみただけか。



 曰く、

一番大きな問題は、あの慰靈の旅です。氣がつかないのか、君たちは。‥‥陛下が、一生懸命、慰靈の旅をすればするほど、靖國神社は遠ざかつていくんだよ。さう思はん? どこを慰靈の旅で訪れようが、そこには御靈はないだらう? 遺骨はあつても。違ふ? さういふことを眞劍に議論し、結論をもち、發表をすることが重要や、と言つてるの。はつきり言へば、今上陛下は、靖國神社を潰さうとしてるんだよ。わかるか?‥‥

 あと半年すれば、わかるよ。もし御在位中に、一度も親拜なさらなかつたら、今の皇太子さんが、新帝に就かれて、參拜されるか? 新しく皇后になる彼女は、神社神道、大嫌ひだよ。來るか?‥‥

 あのビデオメツセージで、讓位を決めたとき、反對する人、をつたよね。‥‥正論なんよ。だけど正論を潰せるだけの準備を、陛下は、ずつとなさつてる。それに、誰も氣がつかなかつた。公務といふのは、それなんです。實績を陛下は積み上げた。誰も文句を言へない。そしてこの次は、皇太子さまは、それに輪をかけてきますよ。どういふふうになるのか、僕も豫測できない。少なくとも温かくなることはない、靖国さんに對して
」と。



 愚案、「御靈なぞ坐さぬ『ますらをの 屍草むす あらのら』への慰靈は無意味であつて、御靈の坐す靖國神社を親拜しない理由は、今上天皇が、靖國神社を潰さうとするもの」とは、如何なる論據から出來したのであらうか。英靈としての本居は、「靖國神界」に坐すことは、誰も否定しない所である。「我が國には、古來、二魂説・四魂説・一靈四魂説(直靈・和魂・荒魂・奇魂・幸魂)等があり、神仙家の間に、三魂七魄の説があり、古來、日本・朝鮮・支那人の間の、殆んど常識とも云ふべき魂魄説がありますが、要するに開合の變であつて、矛盾のやうで、皆な會通し格致して居るのであります」とは、眞面目な神道人の曰ふ所であるが、小堀氏の「私見」、即ち「御靈は、靖國神社のみに坐す」てふ、薄つぺらな、硬直せる靈魂觀は、何處か、一神教を想はせる。

 小生も、小堀流に倣うて妄想を逞しうするならば、小堀邦夫てふ靖國神社宮司は、蓋し「胡馬法王」の唯物一派、即ち靈的共産黨員ではなからうか。何だか、憂鬱である。元神宮禰宜と云ふから、事は更に深刻である。「さう思はん? 違ふ?」と拔かしたら、松平永芳・大野俊康兩宮司の遺訓、未だ滅びざる所、「思ひませぬ。それは違ひませう」と申す神職は、一人も居なかつたのか。否、一人位ゐは居たでせう。さうだ、必ず、きつと、居たに違ひ無い──さう信ずることにしよう、切に祈る。

 神道の本義は、天子樣護持に在る。それにしても近頃の神職は、密室に於いて、かくも不敬なる言辭を弄して疑はず、誰も詰問せざるに至りしか。少なくとも小生の周邊には、絶えて無い。かつて歴史ある雜誌に、「○○子さま」とあるを見て、或る方は、「皇后陛下は、世界廣しと雖も、御一方のみ」と、此の購入を止めたと云ふ。皇太子妃殿下を「彼女」と呼び奉る神經に驚くと共に、「來るか」てふ言葉遣ひは、實に言語道斷にして話にもならぬ。かやうな會議・集ひからは、靜かに退席したいもの、平生の片言と雖も、之を忽せにすることは出來ぬのである。
  ↓↓↓↓↓
【皇室に對する謹愼の心ばへ】──神宮少宮司幡掛正浩翁に叱られるがよい。
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/3
 
 

幽界からの大掃除。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年10月20日(土)01時07分27秒
返信・引用 編集済
   三度び、下山陽太主からの示唆。

【神社界に身を置く者からすれば、譬へるなら、ときの總理大臣(=總長)が、天皇陛下(=統理)に正面から楯突くやうな前代未聞の事態】
  ↓↓↓↓↓
https://diamond.jp/articles/-/182881

神社本廳總長・田中恆清
神道政治聯盟會長・打田文博
靖國神社宮司・小堀邦夫

加へて内閣總理大臣・安倍晉三

 芋蔓式に、「戰後保守」の役者の揃ひ踏み。密室で何を語つてをるやら。畏し矣。權力は、驕り昂ぶり、且つ腐敗する。危ふきかな哉。驕る者は久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。

【百二十年ぶりの石清水八幡宮行幸】──父祖の名を辱むること勿れ。
【國民の間の見解のあらゆる對決を、陛下に御すがりして、自説にとつて有利に解決しようと思ふこと勿れ】──況んや祭祀大權を干犯すること、之を容さず矣。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/9

 葦津珍彦大人が、泣いてをられる。否、幽界からの大掃除の發動か。

 再言す。靖國神社勅祭以來、行幸を賜ること、都合四十囘の多きを拜し奉り、恐懼至極の御事と謂はねばならぬ。然し靖國神社行幸は、凡そ三十四年間、絶えて無く、而して世間は喧しく、之を強訴恫喝する神職の出現を見た。待て、思ふがよい。石清水八幡宮の如き御祖神にあられても、行幸(平成九年八月十九日)は百二十年ぶりと仄聞し奉る。實に然り、行幸を賜るてふ御事は、實に難有い御事であり、靖國神社は護國之神靈の坐す磐境なりと雖も、臣下の神靈であつて見れば、畏くも行幸を賜りなば、靖國之大神(鈴木孝雄元宮司の喧傳する呼稱)、如何に忝なみ喜び給ひなむ。

 然し日本の神社祭祀は、天皇陛下の祭祀大權に基づくもの、臣民・草莽の、決して吐々するを許さゞるものであり、殊に靖國神社は、明治天皇特段の思召しによつて祀らるゝ神社である。松平永芳元宮司は、其の在任中、深刻なる反省遠慮を以て、現在の状況下では、「行幸を、絶對にお願ひしない」と申された。只管ら行幸を懇祷し、御待ち申し上げるはよろしいが、天裁し給ふのは、あくまで雲上であらせらる。我々は百年でも五百年でも、只管ら御待ち申し上げてをればよいことなのである。穴賢こ、穴尊と。
 
 

皇國の大義は、天皇歸一に在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年10月12日(金)20時23分27秒
返信・引用 編集済
   再び下山陽太主からの急報、難有し。靖國神社は、「小堀宮司による會議での、極めて不穩當な言葉遣ひの録音内容が漏洩した」として、小堀氏が宮内廳を訪れて謝罪し、退任の意向を傳へたと云ふ。後任の宮司は、十月二十六日の總代會にて、正式決定する見込みの由。蓋し當然である。

 小堀宮司の靈魂觀も呆れるばかりだが、皇太子妃殿下に對し奉り、「彼女」呼ばはりし、剩へ「來るか」と。敬語も知らぬものいひ、洵に以て恐れ入つた次第です。かゝる不敬漢が、神宮禰宜であつたことは、眞に深刻、心を痛むること甚大、抑も何を學び、何を行つて來た神職なのでせうか。夫れ靖國神社は、天皇の神社なり。天子樣より、靖國神社を重んずるなぞ、本末轉倒も甚だしく、至誠惻怛の心なき神職は、靖國神社より去れと、獨り懊惱してゐた所、天網恢々、疎にして漏らさず、祭神の照鑑、嚴烈神速と謂ひつ可し矣。恐懼至極。

 「教學研究委員會、僕、出てませんよ」とは、小堀氏の爲人を見る要諦でせう。「神埀祈祷、冥加正直」、少なくとも正直にさへあれば、神慮に合ふものを。後任には、清廉高徳が無理と云ふならば、純忠正直なる御方に‥‥。保守べつたり、酒亂、逆賊合祀、不敬恫喝と續いては、もう勘辨。神社本廳派は、斷固排除したいものです。
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https://lite-ra.com/2018/10/post-4304.html

 更に「宮内廳を訪れて謝罪」とは、諫言自裁の覺悟は、固より無かつた樣子、「漏洩したから、已むなく退任」の由。天子樣には、小堀邦夫の有られも無き言靈を聞し食されて、如何に思召させ給ひしか、思ふだに畏し矣。
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●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/14

 泉水隆一監督、在天の靈、如何に思召されませうやと、問ひ續けてゐた所、『藝林』到來落掌。就中、竹内羞齋先生『事君辨』を見る。これも奇縁と感じ、流行本『奉公心得書』と校合して、敬書させて戴く。何方か、小堀邦夫とか申す偉い先生に、かつて拜讀したに違ひない『奉公心得書』の沈讀を促して戴きたい。


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■羞齋竹内式部先生『君に事ふるの辨』(『奉公心得書』と殆んど同じく、其の異本と謂ふものゝ、原本に最も近しと云ふ。『藝林』平成三十年十月號の、大貫大樹氏『竹内式部「奉公心得書」の成立と受容について──附「事君辨」飜刻』に所引するを、『奉公心得書』と校合)に曰く、

 夫れ大君は、上古(いにしへ)、伊弉諾・伊弉册尊、天日を請ひ受け、天照大神を生み給ひ、此の國の君とし給ひしより、天地海山、よく治まりて、民の衣食住、不足なく、人の人たる道も明らかになれり。其の後、代々の帝より、今の大君に至るまで、人間(人間界)の種ならず、天照大神の御末なれり。天子は、直ぐに神樣と拜み奉り、御位に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふ事にて、天津日繼といひ、又た宮づくし(つかへし)給ふ人を雲のうへ人といひ、また都を天(あめ)といひて、四方の國、東國よりも西國よりも京へは、皆、のぼるといへり。譬へば今ま床の下には、物の生ぜざるにて見れば、天日の光り及ばぬ處には、一向、草木の生ぜざる事なり。然れば凡そ萬物、天日の御蔭を蒙らざるものなければ、其の御子孫の大君は、君なり、父なり、天なり、地なれり。しかれば此の國に生きとしいけるもの、人間は勿論、禽獸草木に至るまで、皆な此の君をうやまひ尊み、各品物(おのゝゝそれゞゝ)の才能(わざ)をつかへして御用に立ち、二心なく宮つかへし奉る事なり。

 故に此の君に背くものあれば、親・兄たりとも、則ち之を誅(ころ)して、君に歸(したが)ふ事、吾が國、道の大義なり。況んや官祿をいたゞく人々は、世に云ふ三代相傳の主人などといふ類にあらず、神代より先祖代々の臣下にして、今ま父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むる人なれば、其は勿論、紙一枚・絲一筋、皆な大君のたまものなり。誤りて吾が身のものと思ひ給ふべからず。分けて御側近く奉公し給ふ人々は、天照神の冥加にかなひ、先祖神靈の御惠みに預り給ふ御身なれば、いよゝゝ敬ひかしづき奉る心、しばらくも忘れ給ふべからず。

 然れども只わざにのみ敬ひて、誠の心うすければ、君に諂らふに近うして、君を欺くにも至るべし。本心より二心なくうやまふを忠といへり。忠は己が心を盡すの名にして、如才なき本心を、わざと共に盡す事なり。其の御側近く事ふる身は、始めの程は恐れつゝしむの心、專らなれども、馴れては衰ふるものにや。古より、「官は宦の成るに怠り、病は小愈に加る。禍ひは懈惰に生じ、孝は妻子に衰ふ」(『韓詩外傳』・『説苑』敬愼篇に在る曾子の語)といひ、又た『禮記』(曲禮上第一)にも、「狎れて之を敬ひ、畏れて之を愛す」といへり。わけて君の御寵愛に預かる人は、幸ひに天地萬民の爲めに、君を正しき道にいざなひ奉り、御前に進みては、道ある人を進め、善をのべ、邪なる人は勿論、はなしをもふせぎ、只だ善き道に導き奉り、共に天神地祇の冥加を、永く蒙り給はん事をねがひ給ふべし。然し若き人のあまりいきすぎたるは、憎ましきものなれば、言葉を敬しみ、時をはかり給ふべし。此の道を忘るれば、只だ恩になれ愛をたのみ、いつしか始めの敬しみを忘れ、睦しきさのあまりより、口に道ならぬ戲れをいひ、人の善惡をまげて、君をくらまし、身に越えたる奢りを好むより、無禮不敬の事も起り、君をして淫亂の御身となし、人々を疎ましめ、遂に神明(かみ)の御罰を蒙る事、恐れ敬しむべし。

 又た君に疎まるゝ人は、少しも君を怨むる心など出でたらば、勿體なき事と心得、只だ天の神につかふると心得、猶ほも身持ちを大切にして、奉公を勵み給ふべし。譬へば今ま大風・大雨・飢饉・□[病埀+重。はやり]病等ありても、天を怨むる人なし。吾が君は、眞(ぢき)に天神といふ事、返す々ゝも忘れ給ふべからず。然るを淺はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の亂れにも及ぶ事、古今、其の例し多し。敬むべし。楠正成の言葉に、『君を怨むる心起らば、只だ天照大神の御名を稱ふべし』(玉木葦齋が『楠家七卷書』より採つて、之を表章せり)とあるも、天照神の御恩を思ひ出さば、眞に其の御子孫の大君、たとへ如何なるくせ事を仰せ出さるゝとも、始めより一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべき哉(や)。まして「至誠、神に通るは、則ち造化(あめつち)と功しを同じうす」といひ、又「人を感ずること能はざるは、誠の未だ至らざる也」ともいへば、誠だに至らば、などか君の、ふたゝびかへりみ給ふ事なからんや。其の誠に至る道は、心に如才なきのみにては至り難し。すべて心を盡すは、業にある事なれば、平生、身にする事の道に違はざる樣に敬しみ、心一ぱいを身と共に盡す故、身心内外、相ひそろふ事、誠に至る事なり。さはいへども餘り恐れをのゝきては、離るゝと云ふ事あり。只だ我に立ちかへりて、道にそむく事だにあらずんば、云ふべき事、すべき事は、ずつかりとしたまふべし。

 皇后(きさき)に奉公し給ふも、同じ事なるべし。皇后は、君と相ならひ給ふ御方にて、天地・陰陽・日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬まひ給ふべし。又た女子は嫌(ねぎらひ)をさゝくると云ふ道あり、風(ふ)と男のうはさなどして、不義の名を受くる事あり。故に古人、「男女、年五十にならざれば、同じ居間にて物語をもせず」と云ひ、又「既に嫁して、親の家にかへるとき、兄弟も、男たるものは、同じ居間に居らず」(『禮記』曲禮第一)と戒めり。心は潔くとも、不つゝしみより、不義惡名を蒙りては、其の罪、免れがたし。故に「女は夜行くに、燭を以てす」(『小學』内篇・明倫第二・夫婦之別)とて、くらき所へ行かざるも、嫌をさくる教へなり。兎角く本心の誠を盡して、天命をもち給ふべし。心の誠を盡すを仁といひ、筋目をつゝくるを義といひ、言葉も行ひも、仁義の道にかなふ人を、聖人・賢人ともいひ、此の道に背く人を、禽獸同然の人と云へば、朝たより夕べまで、喜ぶ事につき、哀しむ事につきても、只だ仁義の道にそむかむかと、恐れ敬しみ、奉公し給ふべし。
 
 

一葉の落つるを見て、天下の秋を察するに足り、一斑を見て、全豹を卜するに足る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年10月 7日(日)23時00分0秒
返信・引用 編集済
   小生の寡聞なる、「廢佛毀釋・大敎宣布」の下山陽太主が、「小堀邦夫は、天○機關説の權化」と、次を教示して下さつた。有り難い。
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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57816
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57592

 成程、々々。小堀邦夫氏を、靖國神社宮司に「推薦したのは、靖國神社責任役員でもある田中恆清神社本廳總長である。小堀氏は、神道政治聯盟會長の打田文博氏とも親しく、それが選定にも影響した。現在、神社本廳は、就任八年目の田中總長が、打田氏を右腕に支配體制を築いてをり、靖国は神社本廳に屬さない單立の宗教法人ながら、靖国にも影響力を及ぼしたといへる」由。

 「反・神佛分離令」の頭目と「不敬恫喝」神職と、役者が揃ひも揃つて、維新の大精神を打ち壞さうと圖つてをるのである。神社への行幸は、抑も大御心次第であつて、春秋兩囘も、勅使御差遣を仰ぎ奉りながら、更に尚ほ何をか熱望する。人間の慾は、限りが無く、畏れを知らぬ。

 而して最近の皇學舘大學・國學院大學では、皇學を學ばず教へず、「靈魂は、神社にのみ在つて、奧津城や祭壇に居ない。遺骨收拾、戰沒地慰靈なぞ、無意味」とか、呆氣てゐるのか。流行歌「千の風に乘つて」とか、歌ひ過ぎぢやないのか。これぢや、「神社神道は大嫌ひ」になるはな。



 大御名奉唱、祓へ給ひ清め給へ。楠公に神習うて、熱祷懇祈、祓ひ清めねばならぬ。
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https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832

●影山正治翁『求道語録』(昭和四十二年三月・大東塾出版部刊)に曰く、

 「主上──天皇陛下をお怨み申したい氣持が起きた時には、『天照大御神』と唱へつづけよ」と、大楠公が申されたと云ふ。「身のために君を思ふは二心 君のためには身をも思はず」、この歌も、大楠公の歌であると傳へられて居る。事實、僕も、昭和二十年八月、大陸戰地で「降伏」と聞いた時には、しばらくは必死になつて、「天照大御神・天照大御神」と唱へつづけたものだ。‥‥

 本當の勤皇は、南風の競はない時世にこそ、毅然として行はれる。「君のためには身をも思はず」だからだ。これに對し、「身のために君をおもふ」流行勤皇や便乘勤皇は、逆世や亂世になると、すぐ馬脚をあらはす。
 
 

「宮司某、恐み恐みも白」さゞれば、天下大亂の基なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年10月 1日(月)18時53分40秒
返信・引用 編集済
   「はゆまつかひ」樣より、「時計の間」にて紹介あり。小堀邦夫靖國神社宮司、統率力ありとは聞くも、聞き捨てには出來ず、轉載させて戴く。

 就中く「戰沒地には、骨は在つても、御靈は無い」とは、始めて聞く。宮司獨自の創見と申せませう。然し驚いた。神道教學の、不可缺なる所以である。天子樣の御ん親からの御拜を仰ぎ奉るは、「靖國神社の悲願」の由。少なくとも靖國神社中興と謳はれし松平永芳宮司は、之を恐懼遠慮された。靖國神社の靜謐・清淨化こそ、喫緊の課題であり、謹愼恭敬は、神職第一の鍵關、ゆめ怠ること莫からむことを。

 然し神職の祕密會議、下品な言靈が飛び交ふことよ。神宮の神職は、學識拔群なりと雖も、神縁にて就任の可否が決定されると仄聞す。小堀氏は、例外なりしか、或は神宮の御祓箱となりしか、或は所謂保守家との交流が過ぎて、何か惡しき物でも憑きしか。それにしても、不敬の言靈、信に恐懼至極なり。

 小堀宮司は、天子樣の大御前に於いて、果して同じ言葉を白せるとでも云ふのか。諫言と申すには、言葉が汚な過ぎる。此の強訴不敬、「平成の山法師」と謂ふに相應しい。而して宮司の録音漏洩こそ、祭神の御心と知る可し矣。

 更めて謹みて白す。天子樣は、靖國神社の爲めに大坐すに非ず。靖國神社は、天子樣御守護の爲めに鎭り座す。御創建百五十年に當つて、宮司の功業を立てむと焦る餘り、考へ違ひ、決して有つてはならない矣。敬みて白す。



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https://www.news-postseven.com/archives/20180930_771685.html
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『陛下は、靖国を潰さうとしてる』――靖國神社トツプが「皇室批判」(平成三十年九月三十日。『週刊ポスト』平成三十年十月十二・十九日號)

 天皇が「深い悲しみを新たにいたします」と述べた、平成最後の終戰記念日、靖國神社(東京・九段北)には、安倍晉三首相はじめ、現役閣僚の姿はなく、中国(ママ。愚案、支那)や韓國も、一頃ほど神經をとがらせなくなつた。しかしその落ち着きの裏で、靖國神社は“爆彈”を抱へてゐた。來年、天皇の「代替はり」と創立百五十年が重なる大きな節目を目前に、前代未聞の問題發言が、神社トツプである宮司から飛び出したのだ。


◆「さう思はん?」、「わかるか?」

 靖國神社では、今、來年の創立百五十年に向け、境内のいたるところで、改修工事が行なはれてゐる。だが、その内部では、修復不可能なほどの“綻び”が生じてゐた。

 六月二十日、靖國神社の社務所會議室で行なはれた「第一囘教學研究委員會定例會議」で、その重大事は起きた。今年三月に、第十二代靖國神社宮司に就任した小堀邦夫氏(68/數へ六十九歳)が、創立百五十年に向けて、新たに組織したのが「教學研究委員會」だつた。これからの靖國神社がどうあるべきかを考へるとして、第一囘の會議には、小堀宮司以下、ナンバー2である權宮司など、職員十人が出席したことが、當日の議事録に殘されてゐる。

 その會議の場で、靖國神社のトツプである小堀宮司から、驚くべき發言が飛び出した。

「陛下が、一生懸命、慰靈の旅をすればするほど、靖國神社は遠ざかつていくんだよ。さう思はん? どこを慰靈の旅で訪れようが、そこには御靈はないだらう? 遺骨はあつても。違ふ? さういふことを眞劍に議論し、結論をもち、發表をすることが重要や、と言つてるの。はつきり言へば、今上陛下は、靖國神社を潰さうとしてるんだよ。わかるか?」

 さらに發言は、代替はりで、次の天皇となる皇太子夫妻(ママ。愚案、何たる申し樣)にも向けられた。

「あと半年すれば、わかるよ。もし御在位中に、一度も親拜(天皇が參拜すること)なさらなかつたら、今の皇太子さんが、新帝に就かれて、參拜されるか? 新しく皇后になる彼女(愚案、何たる言靈)は、神社神道、大嫌ひだよ。來るか?」

 靜まり返る會議室で、小堀宮司の高壓的な口調の“獨演”と、速記のキーボードを打つ音だけが響く──。

 この會議は、小堀宮司の意向もあつて、複數の出席者が記録のために録音してゐた。宮司の「總括」から始まる百十分に及ぶ音聲データを、本誌は入手した。

 小堀宮司が語氣を強めたのは、今上天皇が、即位以來、一度も靖国を參拜したことがない一方、かつての戰地を訪れ、戰沒者の靈を慰める旅を續けてきたことを指してゐるとみられる。皇室ジヤーナリストの久能靖氏は、かう言ふ。

「今上天皇が、靖国を參拜されない理由は、わかりません。が、あへて推察すれば、昭和天皇が、1978年(ママ)のA級戰犯(ママ。昭和殉難者)合祀以來、靖国においでにならなくなつた、その思ひを咀嚼されたのではないかと考へられます。今上陛下は、戰爭體驗をお持ちで、戰中の國民の苦しみは、直接ご存じでした。だからこそ、國内外にわたるすべての戰地で、慰靈を行なひたいといふお気持ちになられてゐたと思ひます。天皇陛下の慰靈の旅は、強い信念に基づいて行なはれてゐるものでせう」

 その慰靈の旅が、小堀宮司の目には、靖國神社を否定する行爲に映つてゐると、靖國神社關係者が言ふ。

「小堀宮司からすれば、英靈の御靈は靖国にこそあり、戰地にはない。にもかかはらず、今上天皇は、靖国よりも慰靈の旅を選んでゐるとなると、靖国の存在意義を否定することになつてしまふといふ思ひがあつたのではないか」

 しかしこの発言は、靖國神社内でも問題視された。

「勅祭社(天皇が例祭などに勅使を派遣し、奉幣を行なふ神社)としての靖國神社の性格を考へると、天皇陛下を批判するやうな發言は、宮司として問題ではないかといふ聲が上がつてゐます」(同前)


◆「お前の説教、聞きたくないよ」

 靖國神社は、來年までに、天皇の參拜を實現させようとしてゐた。靖國神社職員は、かう語る。

「平成の御代のうちに、天皇陛下にご參拜をいただくことは、私たち靖國神社からすると、悲願なのです。小堀宮司は、“平成の御代に、一度も御親拜がなかつたら、この神社はどうするんだ”と、口にしてゐました。さうして宮内廳に對し、宮司自らが伺つて、御親拜の御請願を行なふための交渉を内々にしてゐるのですが、まだ實現の目處は立つてゐない」

 小堀宮司は、專門紙『神社新報』で、「(創立)五十年目に、大正天皇が行幸され、百年目には、昭和天皇が皇后とお揃ひで行幸されてゐます。そして來年、百五十年といふ大きな節目の年がやつてくることの重大さは、御代替りと相俟つて、深刻に考へてゐます。」(七月三十日付)と語つてゐた。

 天皇の參拜を求める焦りが、發言の背景にあつたのだらうか。問題發言に至るやり取りを見ると、小堀宮司の眞意が分かる。

 この日の會議は、靖国の創立百五十年史略年表の作成・出版などについて話した後に、「戰犯に對する誤解や東京裁判の不當さについて調査考證する」といふ議題に入つた。そこで出席者の職員が、「富田メモ」について言及したことが、小堀發言に繋がつた。

 富田メモとは、富田朝彦元宮内廳長官(在任は1978~1988年(ママ))が、昭和天皇の非公開發言を記したメモで、靖国にA級戰犯(ママ)が合祀されたことに關し、「だから、私は、あれ以來、參拜してゐない。それが、私の心だ」との記述があつた。2006年(ママ)に、日經新聞がメモの存在をスクープすると、「昭和天皇の眞意が分かる超一級史料」と評價される一方、「陛下の眞意とは限らない」と、否定的意見も上がり、眞贋をめぐる大論爭となつた。それに伴ひ、A級戰犯(ママ)の靖國神社への合祀の是非や、小泉純一郎首相(當時)の靖国參拜議論も過熱した。

 靖國神社は、この富田メモについて、現在に至るまで、一切コメントしてゐない。だが實際は、“深い棘”として刺さつてゐたやうだ。

 この富田メモについて、職員が、「もしそれが、本當の昭和天皇の發言だつたら、どうするんだ、といふことで、私は眞劍に考へましてですね」と言ひ出し、合祀の經緯を振り返つた上で、かう熱辯を振るつた。

「このまま時代を五十年、百年經過していつたときに、どういふふうな説明をして、國民が理解していけるのか、といふところの先讀みしたやうな考へ方を持つていく必要があるんぢやないか」

 ところがこの職員の發言を、小堀宮司は、いきなり遮り、切つて捨てた。

「お前の説教、聞きたくないよ。しやうもない。お前のどこに、戰略があんねん。『これ知つてます、私は、これ知つてます』つていふ話ばつかりやないか。どうやつて戰ふかを考へるんが、この仕事やないか。何も恐れる必要はない。間違つてたら、間違つてたと言へばいい。(中略)戰略を考へるのは、俺が考へる。君らが考へんでいい。一番大きな問題は、あの慰靈の旅です。氣がつかないのか、君たちは」

 さうして冒頭の発言が、飛び出した。つまり小堀発言は、富田メモから連なる、天皇と靖国の“複雜な關係”が伏線にあつたのだ。

「富田メモについては、靖國神社の中でも“タブー扱ひ”されてきた。昭和天皇・今上天皇の御親拜が途絶えてゐる眞意についても、觸れないできたわけです。

 小堀宮司は、さうした空氣の中で、トツプとしての風格を見せる狙ひもあつて、ああした物言ひをしたのではないか。『戰ふ』・『戰略』といつた言葉からは、どんな事情が背景にあるにせよ、とにかく天皇の御親拜を實現させたいといふ強い意思を感じます。しかしそれが、實現しないことの不滿となれば、天皇陛下への批判となつてしまふ。靖國神社が抱へるジレンマが、つひに噴出してしまつたといふことでせう」(前出・靖國神社關係者)


◆「皇太子さまは、輪をかけてくる」

 發言の主である小堀宮司とは、どんな人物なのか。

 小堀宮司は、三つの大學・大學院を出たあと、伊勢神宮に奉職。以來、伊勢神宮一筋で、宮司を補佐する禰宜といふ要職に登り詰めた。

 靖国の前宮司・徳川康久氏が、戊辰戰爭の“賊軍”である幕府軍や會津軍の戰死者も、合祀に前向きな姿勢を示したことなどが問題視され、「一身上の都合」で辭任したのを受けて、靖国の宮司に就任した。

 伊勢神宮時代には、メデイアにも何度か登場してゐる。2016年(ママ)に、天皇が生前退位の「お氣持ち」を表明された際には、中日新聞(2016年(ママ)八月九日付)の取材に、「苦心されて、お言葉を選ばれたのだらう。天皇陛下が『傳統の繼承者』であり續けるため、現行制度の問題を問ひ掛けてゐるのでは」と、贊同する姿勢で答へてゐた。

 ところが、教學研究委員會では、まつたく別の意見を述べてゐる。

「あのビデオメツセージで、讓位を決めたとき、反對する人、をつたよね。(中略)正論なんよ。だけど正論を潰せるだけの準備を、陛下はずつとなさつてる。それに、誰も氣がつかなかつた。公務といふのは、それなんです。實績を陛下は積み上げた。誰も文句を言へない。そしてこの次は、皇太子さまは、それに輪をかけてきますよ。どういふふうになるのか、僕も豫測できない。少なくとも温かくなることはない。靖国さんに對して」

 生前退位に反對だつたといふ本音をにじませ、皇太子に代替はりしても、靖国との距離は廣がるばかりだと、危惧してゐるやうに聞こえる。


◆「僕、出てませんよ」

 一連の小堀宮司の發言について、宗教學者の島田裕巳氏は、かう讀み解く。

「伊勢神宮は、神社の世界では別格扱ひで、そこにゐたといふ自負が、小堀宮司にあるはず。その感覺には、少し浮き世離れした部分があり、發言がどのやうな問題を引き起こすかを認識しないまま、思つた通りに本音を話してしまつたのではないか。

 ただし現在の天皇が、靖國神社を參拜されないのは、好き嫌ひの問題ではなく、政教分離の問題が大きいはず。なにより、宮内廳が止めるはずです。昭和天皇の參拜が途絶えた經緯においても、A級戰犯(ママ)の合祀より、當時の中曾根康弘首相が、國際社會の反發を豫想せずに、公式參拜したことの影響が大きい。それは安倍首相が強行した參拜も同樣で、首相參拜へのハレーシヨンが、ますます靖國神社と天皇の距離を遠くしてゐるといふ状況がある。果たして小堀宮司は、さうした複雜さを理解した上で、發言してゐるのでせうか」

 本誌は、一連の發言の眞意を確認するため、九月二十六日早朝、小堀宮司の自宅前で、本人を直撃した。

──六月二十日の教學研究委員會で話されたことについて、お聞きしたい。
「何も知らないですよ」

──いや、小堀さんが話されたことですよ。
「教學研究委員會、僕、出てませんよ」

──教學研究委員會ですよ。
「ええ、出てませんよ」

さう質問を遮つて、迎への車に乘り込んだ。

 靖國神社に、會議での發言について見解を求めた。

「教學研究委員會は、社外公開を前提としたものではございませんので、各委員の發言を含め、會議内容などの囘答は控へさせていただきます。また當委員會では、世代交代が進む御遺族・崇敬者のみならず、多くの人々に、當神社をご理解いただくべく、神社運營や教學について、研究・協議を始めたばかりです。その過程において、協議内容の一部分を抽出し、神社の見解とすることはございません」(廣報課)

 前述の富田メモは、靖国問題についての昭和天皇の「本音」が記されていたとして、議論を卷き起こした。

 それに對する靖国トツプの「本音」と言ふべき小堀發言は、どのやうな波紋を呼ぶのだらうか。

*音聲データは「News MagVi」
https://twitter.com/News_MagVi
にて、公開中。
 
 

保守家に臨むに、敵陣に向ふが如し。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 9月 7日(金)21時45分55秒
返信・引用 編集済
   鈴屋・大壑兩大人の、革命温存儒者に對する、亦た九段塾頭の、今ま流行の保守家に對する、當に敵陣に向ふがごとし。大喝高聲、其の揆、一なり矣。有志を善導せむとの心底、翁の偉功、仰ぎて已まず。尊皇敬神の士、縁故あらば、九段塾頭の言靈を聽いてよ。平成二十年九月十三日、塾頭御開講以來、而今、こゝに十年に埀んとするの前に、先哲遺文を拜記すること、次の如し。



●咲園柴田花守翁『古道或問』(明治三年九月刊)

問。方今、本居氏の學風、大いに行はれ候ふが、此の人、猥りに聖人を誹謗し、儒教を排斥する僻(へき)あり。依りて其の門に入るものは、至極、人品(ひとがら)惡しく相成り候ふよし、既に御答の如く、漢籍を讀む事を、敵陣に向ふが如しと云ひたるにて、其の心底、明白に候ふ。他を誹謗すれば、己れ、亦た誹謗せらるゝ、是れ天理に候はずや。誹謗を受け候ふは、即ち其の身の穢れにて、自らなる神代の令(りやう)にも戻(もと)り候はずや。

答。それは、本居翁、湯武放伐の、皇國に害ある事を、『直日靈』と云ふ書を編みて、強く論辨せられたるを申す事に候ふ。其の頃、市川多門と云ふ者、『末加乃比禮』と云ふ書を著はして、大いに難じ候ふを、翁、また『葛花』と云ふ書を以て打返されし故、多門のみならず、世の頑儒、みな嘴を閉ぢ申し候ふ。

[放伐の事は、もと伊東龜年が『湯武論』、蘇東破(愚案、破は坡の誤植なり)が『武王論』なども、之れ有る由、承り候ふ。猶ほ此の辨は、平田翁の『玉襷』、橿園(中島廣足)翁の『童子問答』などに、悉(つぶさ)に記載、之り有り候ふ。]

 又た儒教を排斥せられしと云ふは、荻生岨崍(徂徠)・太宰春臺などいふ俗儒有りて、漢土を中華と稱し、皇朝を自ら東夷と書し、或は上古の天皇方の御上を、忌み憚らず論じ奉りて、書にも著はし候ふ故、其の惡習の泥醉を覺知させんとて、大喝一聲、叱咤せられたる事にて候ふ。これ、譬へば岐路に迷ひ入りたらん人の、正路ぞと思ひ違へて、遙かに行き過ぎたるを、本道を知らせむとて、高聲(かうしやう)に呼び返すに等しく候ふ。當今の本學者といふものゝ、己が矮見(せびく)にして、微音の屆かざる程をも知らで、いつも高聲に呼ばんとするは、禪語に所謂る粥飯の熱氣にて、却りて他に怪しまれ、惡まるゝ事情を知らぬ故に候ふ。然し乍ら此の高聲に呼び返され、驚かされて、立返りしより、名分の筋、大きに開け、皇朝の古史を詩に詠じ、倭魂など云ふ事を口實に唱へ、天朝を尊奉する儒風に變じ候ふは、全く此の(本居)翁、又た平田翁の大功に候ふ。

[殊に此の二翁は、皇朝學の爲めに、身命を擲ちて、勤勞せられし事に候へば、なまゝゝなる世人の誹謗ぐらゐを顧みらるゝ暇はあらざりし事と覺え候ふ。]‥‥

問。さほど上代は、和漢合一の學問なる事の明證も、之れ有り候ふに、後世の儒者は、國典を和語に訓む事を好まず、和歌を詠ぜず、和文を作らず、偶々歌をよみ、文を作るも、語格に疎く、假字格(かなづかひ)を知らず、和學者は、經書にうとく、詩文を作らず。やゝもすれば、氷炭の説を起して、互ひに誹謗致しあひ候ふ。其の由縁を承り度く候ふ。

答。上代は、上下の等級、正しく、君臣の名義、順逆内外の道理、明らかなる學風にて候ふ處、文運、年々に開け、才學、次々に出で候ふより、遂に其の學ぶ方につきて、固執(こしう)する僻學起り、彼れを慕ひ此れを疎じ、外を尊び内を卑しむずる惡弊に押移り、春秋の書法に違へる孔子の罪人ども、多く相成り申し候ふ。先づ林羅山ほどの大儒さへ、『本朝通鑑』を撰ばるゝ折、呉の泰伯の説を取られ候ふを、西山公(水戸義公)、これを議して、止めさせ玉ひし由、また荻生岨崍が、孔子の肖像の上に、「日本國夷人・物茂卿、拜手稽手、敬題す」と書し、門人・春臺が事は、前に申し候ふ如くにて、此の一派の學風は、殊に名分に暗く候ふ。又た澁川春海の『新蘆面命』と云ふ書中に、伊藤仁齋の、紀伊殿へ奉りたる書也とて、載せ之れ有り。實に驚き入りたる文體に候ふ。

[「天に二日無しと申し候ふが、日本には、二日、之れ有るによりて、號令、一ならず。宜しく帝位をば、將軍、御踐みなされ、天子をば、大和公に成され候ふやうに」云々。]

此の人、清和天皇以來の御諱を犯して、號(な)を仁齋とつけるも、天朝を畏まざる不敬の趣き、平田翁、論じ置かれ候ふ。‥‥
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○此の一とぢは、家翁(咲園翁)の、或る人の問ひに答へられたる、假初(かりそめ)のすさびなるを、ある人、同志のたれかれとはかりて、板にゑらせむとて、己が浪花の旅やどりにあとらへ、おこせたるなれども、是れ計りの物、いかならむと思ふものから、折ふし、岩崎(長世)翁を相見てかたらひけるに、いたくめでて、御里なる大學大博士・平田(銕胤)大人にさへ見せられけるに、大人も、いとよしと悦ばれ候ふ、とく書肆(ふみや)にはかりてよと勸められたれば、やがてかく物する事とは成りにたり。男・磐守。
 
 

神代、はるけき昔より、大和島根の益荒男が、靈と肉とを鍛へたる、雄々しき姿、相撲道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月21日(土)22時57分11秒
返信・引用 編集済
  ■孝明天皇大御歌

照る影を ひら手に受けし 旭形 千代にかゞやく いさをなりけり



●武者成一翁『史談・土俵のうちそと』(平成十四年九月・雲母書房刊)

「角界の戰後の歩みをみても、人々の心の價値觀が變はつたやうに、大きく變はつてしまつた。相撲道を極めるといふやうな、古人の讚美した魂魄(「神代、はるけき昔より、大和島根の益荒男が、靈と肉とを鍛へたる、雄々しき姿、相撲道」)などは、今では人々の口の端にも上らず、只々力技の形骸のみ留めて、プロスポーツとして、觀賞の對象にのみ終始してゐるやうに思はれる。時の流れといふべきであらうか。この世相や風潮に反發するかの如く、十六年前、江馬盛氏は、力士・旭形龜太郎に、一片の紙碑(『諸國相撲帖』)を捧げて、相撲史上に、その丹心を留めんとされたのであらう。‥‥

 現在の相撲を生業としてゐる力士・協會には、歴史をたづねるといふ氣風の稀薄なことは、つとに識者の指摘するところである。また各地に遺されてゐる相撲の遺蹟なども、次第に損傷しつゝあつて、相撲協會に、何らかの處置を申し出ても、無い袖は振れぬと、一見、冷淡とも受け取られる態度が強いと仄聞する。相撲に關する文化財保存の責任は、協會には無い。一概に相撲協會の態度を責めるわけにはいかないであらう。よしんば假に實行するとしても、協會の財源にも限度があらうし、もし申し出の一つに答へれば、無數に存在するであらう他の文化的な遺産も、無視できなくなるおそれが生ずる。協會が、これらの問題には、自ら逃げ腰とならざるを得ないことは理解できる。

 しかし財團法人である協會が、その寄付行爲として掲げてゐる、相撲博物館の維持運營についての、更に付帶事業として、「相撲に關する主要な文化財の維持に關し助成する」くらゐの前向きの姿勢は、果して取り得ないであらうか。今日の相撲は、先人の築いた歴史的所産の上にあるに過ぎない。民族の傳統を傳へなければならないといふ觀點に立つて、協會が、その必要性を痛感し、やる氣を起せば、出來ぬ相談でもあるまい。

 たとへば本場所後、然るべき團體の協贊を得て、「古式相撲」を一日催して、收入をその基金とするなども、一つの方法であらう。私はそれによつて、玉鉾神社の維持を考へろとか、旭形龜太郎の顯彰碑を建てろとなど申す氣は、全くないが、當世角界で生活を營む人々は、興行にのみ走るだけでなく、もつと歴史を大切にし、先人の偉業を忘れるな、そして後世に傳へてもらひたいと叫びたくなるのである」と。



 はゆまつかひ樣から紹介された、武者成一翁『土俵のうちそと』は、四百頁に埀んとする力作であつて、目次を見るだけでも興味が盡きない。早速、取寄せて、其の一篇「旭形龜太郎の業績を偲ぶ──相撲史外傳」を讀み畢ぬ。塾頭も、『靖國神社の眞實』に於て、大相撲の土俵の事を述べられてゐたことが懷しい。然もあらばあれ、此の大相撲協會であれば、吉田司家に醜聞があつたとは云へ、之を扶けて傳統を護持することなど、努にも思はぬのであらう(吉田長孝氏『原點に還れ──國技相撲廢止の危機を突破した男・吉田司家二十三世追風吉田善門』(平成二十二年九月・熊本出版文化會館刊)。

 旭形龜太郎翁は、幕末、勤王の同志を集めて「力士隊」を組織し、宮中守衞に當らんと出願し、文久三年正月、勅許を得、其の總指揮官となつて、日夜宮中を奉仕、元治元年七月十九日の蛤御門の變は、『このとき、君は藩兵に加はり、各所に連戰し、またその際、特に宮中に召され、錦旗を守衞し、かたはら玉座の守備を命ぜらる』(小傳『照日の影』)。戊辰の變では、薩藩の猛將伊地知正治に從ひ、本宮詰めとして砲隊に屬して奮戰、身に數彈を浴びるも屈せず、偉功を樹つ。また征討將軍仁和寺宮嘉彰親王殿下に從つて、錦旗を護衞し、御親征として大阪行幸に際しては、鳳輦の供奉となり、海軍總督の横須賀への出陣には、大總督付となる。

 天恩を蒙り、御下賜品を賜ること度々にして、明治二十六年に、伊勢神宮の鹿島大宮司より、「孝明天皇御正體・玉鉾大神」てふ神號を拜戴して、獨力にて、三十二年十二月、愛知縣知多郡武豐町郊外の六貫山に、一萬九千坪の御用地、三千二百三十七坪の境内を擁し、熱田神宮を模し奉つた、壯嚴なる無格社・玉鉾神社(境内入口標柱には、「御祭神孝明天皇・玉鉾神宮」)を創祀した。旭形翁は、自ら刻苦勉勵、國學を修め、三十三年一月、神職に補せられ、元帥陸軍大將小松宮彰仁親王殿下の御參拜を仰ぐに至る。然し昭和三十四年九月の伊勢灣颱風により、今は僅かに其の形骸を殘すのみとなつてゐる。
 
 

天下の變、革命より大なる者は莫し矣。聖人の憂患、革命より深き者は莫し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月16日(月)22時38分59秒
返信・引用 編集済
   「時計の間」にて、不逞なる革命思想を述べたが、事は重かつ大なれば、之を増補して表にも書かせて戴く。蒲生静修(君平)先生の曰く、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と。




●谷秦山先生『新蘆面命』に曰く、

 太田藤九郎殿[土御門泰福卿の弟、松平丹波守殿に仕ふ]物語り申され候ふは、近年、伊藤源助、紀州樣へ書簡をさし上げ、「天に二つの日無しと申し候ふに、日本には二つの日有り。是によりて、號令、一ならず。宜しく帝位を、將軍御踐み成され、天子を大和公に封じ成さる樣に」と申し上げ候ふ。

 紀州樣、ことの外か怒り遊ばされ、ケ樣の妄言、江戸へ申し上げ候はゞ、死刑にも仰付けらる可く候ふ。然れ共も御慈悲を以て、默止成され候ふ間、以來、必ず々ゞケ樣の言、筆は申すに及ばず、口に吐き申す間敷き旨、御制戒め成され候ふ」と。



 愚案、此の「伊藤源助」、まさか「伊藤仁齋」(源七・源吉・源佐)ではあるまいな。仁齋の不敬、否、國賊とて、よく擧げられる典據ではあらうが‥‥。「仁」の御字は、天子樣の御諱の通字、知らぬ筈も無からうに。仁等の徳目の字は憚り無しと雖も、やはり遠慮はあつて然るべき。

 「儒に非ず、佛に非ず、朱に非ず、陸に非ず、一種無稽杜撰の學、名分綱常の大罪人」(絅齋先生の評)たる伊藤仁齋は、淺見絅齋先生にとつて小僧扱ひ、全く齒牙にもかけなかつた者なり。谷秦山先生は、謹嚴實直、其の聞く所に疑ひは無し矣。然れば「仁齋=源佐=げんすけ=源助」説の由つて來る所、無理も無い。博雅の士の示教を乞ひまつる。


**********


●若林強齋先生『絅齋先生常話雜記』

 (絅齋)先生の御物語に、「仁齋がわづらふよし、聞きたか」とありしゆゑ、「なるほど承りましたが、■■のわづらひのよし、私(強齋)存ずるは、あいつ(仁齋)を病死さするは、殘念なること」と申したれば、先生、笑つて仰せらるゝは、「(中村)惕齋が、平生、『仁齋、はやう死ねかし、道の害』と云ひたるよし、是非なき云ひやうぞ。あれ(仁齋)が一生の精微の書を出したらば、おれ(絅齋)が辨じようと思うたぞ。朱子の、陸象山が死んだ時に、告子に■■と仰せられた」と云うて、御笑ひなされたぞ。‥‥

 仁齋が死して、儀節を萬事用ふるよし。棺槨は、五郎兵衞が受取つたるよし。片木でしたぞ。なぜまき(★註)ではせなんだぞ。棺槨の間、一寸五分あるとなり。まへゝゝより神主(靈牌)なども、五郎兵衞がしたぞ。何樣、(仁齋は)にくきやつぢやは。程・朱の格物の物をそしりて、又た神主などは、其の制を用ふる。神主式は、程子の格物の内から出たものと云ふことを知らぬぞ」。


★註・『日本書紀』卷一

 一書に曰く、素戔鳴尊の曰はく、「韓郷之嶋は、是れ金銀有り。若し吾が兒の所御(しら)す國に浮寶有らずば、佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を拔き散(あか)ちしかば、即ち杉と成り、又た胸の毛を拔き散ちしかば、是れ檜と成り、尻(かくれ)の毛は、是れ柀(まき)と成り、眉の毛は、櫲樟(くすのき)と成りき。已にして其の用ふべきを定む。乃ち稱(ことあげ)して曰はく、「杉及び櫲樟、此の兩(ふたつ)の樹は、浮寶と爲す可し。檜は、以て瑞の宮を爲(つく)る材とす可し。柀は、持って顯見(うつ)しき蒼生の奧津棄戸(すたへ)に將(も)ち臥さむ具(そなへ)に爲す可し。夫の噉(くら)ふべき八十木種も、皆な能く播き生(おは)しつ」とのたまふ。時に素戔鳴尊の子、號を五十猛命と曰す。妹は大屋津姫命、次に抓津姫命、凡て此の三神も、亦た能く木種を分布(まきほどこ)したまふ。即ち紀伊國に渡し奉る。然して後に素戔鳴尊、熊成の峯に居しまして、遂に根國に入りましき。

【神代以來の御掟なり】
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傳統と陋習と。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月 7日(土)00時07分35秒
返信・引用 編集済
   神事たる可き相撲の土俵は、女人禁制の由。傳統ならば墨守すべきもの、人命は二の次と考へるが、蓋し保守の神髓でありませう。然し世俗の非難に反對しても、却つて煩はしいから申さぬが、參考とす可き御説があるので、長いが、敢へて引用させて戴く。

 昨今の大相撲の土俵が、神聖か否かは知りませぬが、土俵の下には錢が埋まつてをる由、八百屋の長兵衞さんが申してをられました。だつたら、相當、穢れがあるかも知れません。また女相撲とて、スポーツとして樂しむことは宜しいでせうが、「女人禁制の大相撲の土俵」に、どうしても上りたい女性は、どうぞゞゝゞ、嫌な言葉ではあるが、泰西流の「自己責任」にて、大いに蠻勇を奮はれむことを。「悔し」がる程のことでもありますまいに‥‥。



●友清磐山翁『古神道祕説』(古神道夜話。昭和十三年六月・井上出版部刊。五十八年七月・神道天行居復刻。『全集』卷一に所收)に曰く、

「神社といふものは、決して表面の御祭神だけが鎭まつて居られるものではありません。その土地に、太古から因縁のある神靈は固よりのこと、表面の祭神に、何等かの關係ある神靈も、多數集まつて居られるのが普通で、更に謂はゆる眷屬級の神・使ひ神たちも澤山居られるもので、民衆の信仰如何によつて、其の信仰に應ずる神靈も集まつて來られるものであります。ですから、柿本人麿を祭つた神社を、いつともなしに、民衆がヒトマル(火止まる)に通はして、火防の神徳ありとするやうになりますと、やはり左うした方面の神靈が集まつて、民衆信仰の至誠に感應せられるものでありまして、決して世の輕薄なる學者や物知りぶつた人の笑ふやうなものではありません。

 人間の智慧といふものは、如何なる博士でも大博士でも、有限的のもので、九牛の一毛か二毛しか見えないものです。そんな哀れな智慧で、神威神徳を彼れ是れ批評がましいことをするのは、愛嬌であります。人間の知識が、如何につまらぬもの、あてにならぬものであるかを、最も克く哲學的に論明したものは、古代印度の思想家で、佛典の大部分も、實は殆んど此の一點を闡明し論證して居るもので、これは今日の新しい哲學を以てしても破ることの出來ないものです。恐らくは斯ういふものが、眞理とかいふものなのでせう。此のヒトマルのことを、よく噛みしめ味はつてみて、他の場合のことも類推してみられるならば、少しは神化不測の靈得を感悟することも出來ようかと思はれます。

 方面を更へて別のレンズから、此れに類似の問題を覗いてみると、一例を擧げてみますと、世俗に三輪亡といふ日があります。これは昔から建築業者や土木業者の、非常に嫌がる日なのであります。學者や物知りは、無論、迷信として排斥して居ります。ところが事實として此の日に土工を起こしたりすると、災害が生ずることが多いので、決して普通の心理學のいふ豫期作用ばかりではないのでありますが、さて然らば三輪亡なるものは、何ういふ根據のあるものかといふと、極めてくだらぬ理由によつて算出されたもので、起原も左のみ古いものではないので、理論の上からいふと、全く迷信に過ぎぬものであります。然るに其れが何故に應驗があるかといふと、昔から此の三輪亡の説を信じた人間が、支那にも日本にも、何百萬、何千萬と居りますので、その靈が感應するからであります。嘘から出た誠といふやうな關係のもので、事實上、應驗がある以上は、理論の上に於て取るに足らぬことでも、求めて災害に罹るに及びますまい。

 斯ういふ風な靈界の事情を注意せられるならば、ヒトマルの話などを解決する上に、又た側面の一參考となるだらうと思ひます。萬一の誤解をさけるために序でに申し上げておきますが、そんならばと云つて、昔から申し來つた迷信的なことは、悉く應驗のあるものかといふと、決してさうではないので、應驗の無いものが大部分、すなはち理論上にも事實上にも、全くの迷信が大部分で、丙午の説なども、全くの迷信であります。そんならば、殆んど同じ理由により、同じやうな起因により、同じやうな俗信を維持して來た三輪亡の説の如きにのみ、何故ゑに靈が應驗するかといふと、そこになると、全く説明が困難で、いづれ左ういふ方面の關係の靈でも捉へて説明させてみるより外に、詮方がありませんが、併し其の説明も、必ずしも信用の出來るものではありません。

 其の他、東洋流の多くの運氣説を、片ツ端から迷信として斥けるのが、如何にも教養ある紳士らしいので、學者といふ學者、物知りといふ物知りが、調子を揃へて攻撃して居られますが、併し一概に左うは參らぬので、正しい古傳のものゝ中には、事實上の應驗あるのみならず、理論上からも、立派な根據のあるのもありますので、春夏秋冬による、一切生物の受ける交渉の如く、あめの靈氣とつちの靈氣によつて結ばれたる人間が、あめとつちとの數理に、本來、沒交渉なものではないのであります」と。
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忠孝の學問を復活せよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月 4日(水)22時10分47秒
返信・引用 編集済
  ●教育敕語を仰ぐ
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●平泉澄先生『明治百年』(昭和四十三年十月二十八日・水戸市に於ける講演)に曰く、

「(承久の御計劃・建武の中興)慘憺たる結果に終はつて、もうこれで駄目かと思はれた時に、やがて江戸時代になりまして、學問が、この途を切り開いていつた。學問は、各方面から興つてきました。‥‥國學が盛んになつてまゐりました。これが日本の歴史を明らかにし、日本の道といふものを、次第に闡明してまゐります。しかし、まだこれは弱い。

 日本の道を強く天下に知らしめたものは、山崎闇齋の教へであります。山崎闇齋は、忠孝の絶對を主張するのであります。君に忠にして、親に孝であるといふこと、忠孝の二つは、人倫の大本である。人が人として考へられるのは、この忠孝の道徳を全うするからである。これを外れては、人ではない。その親子の關係は、たとへ子供がどれほど大きくならうとも、子供がどれほど立身出世しようとも、子供がどんなに金儲けしようとも、子供が親になり代はつて親になり、親を子供として遇するといふは、許されない。親は、どこまでも親である。年をとつても、よぼゝゞになつても、貧乏してをつても、親は、親だ。子は、子だ。親子の間に、變化があつてはならぬ。同樣に、君臣の間も左樣である。君臣の間が、世の中の事情が變はつたからといつて、にはかにひつくり返ることはあり得ない。戰爭に敗れたから、君は臣になる、臣が君になる、さういふことは絶對にあり得ないのだ、といふことを明らかにされたのが、山崎闇齋先生の教へであります。これは、非常に強い、嚴烈なる教へであります」と。
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 愚案、明治維新百五十周年、即ち百五十一年に當つて、「教育敕語復活の爲に、如何に働きかけるべきか」、沈潛、深く考へたい。世は保守化の由であるが、「忠孝」と申しても、全く通じない。然し「忠孝の二つは、人倫の大本である。人が人として考へられるのは、この忠孝の道徳を全うするからである。これを外れては、人では無い。世の中の事情が變はつたからと云つて、俄かにひつくり返ることはあり得ない」。變轉きはまり無き世に在つて、不易の道を求める。學問の興隆こそ、喫緊の課題と謂はねばならぬ。
 
 

Re: お久ぶり

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 4月 4日(水)18時07分1秒
返信・引用
  > No.3168[元記事へ]

那須の権太さん

> 桜坂 秀翠氏への返書。
>
> > わが国は長いこと鎖国状態にあり、外国との交流が活発でなかったことが、却って国家観念、国体観念の稀薄さを招いた、という平泉博士の論考は以前私がどこかに書いたものと似てるね。
> >
> > 知らない間にオレは平泉学派に近づいてたんだな。

↑私の書いたものを引用されるのは一向に構いませんが、ご貴殿はいったい何をされたいのですか?

いや、別に悪意も他意もないのです。

ただ、こういう尻切れトンボが嫌なのです。

逆にご貴殿だったらどうです?

気になって仕方がないでしょう。
 

やり方は、人に聞くのが一番です。大笑い。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月31日(土)20時09分42秒
返信・引用 編集済
  ●佐久良東雄大人の哥

さくらさく うまし御國に 生(あ)れいでて かくたのしむは うれしからずや



那須の権太兄

 本道に久しぶりでありますね。

 小生も、先哲遺文を敬書したら、何があたつたのか、パソコンが初期化。あ~、ですよ。愚息に、やつと直してもらつた次第。とほほのほ‥‥です。

 何でも仰せ下さい。但し「やり方」だけは、御免です。御待ち申し上げます。不具
 
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2018年 3月30日(金)22時38分14秒
返信・引用
  やり方忘れた。備中さん、ごめん。  

Re: お久ぶり

 投稿者:那須の権太  投稿日:2018年 3月30日(金)22時32分4秒
返信・引用
  桜坂 秀翠氏への返書。

> わが国は長いこと鎖国状態にあり、外国との交流が活発でなかったことが、却って国家観念、国体観念の稀薄さを招いた、という平泉博士の論考は以前私がどこかに書いたものと似てるね。
>
> 知らない間にオレは平泉学派に近づいてたんだな。
 

自画自賛

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 3月21日(水)10時42分49秒
返信・引用
  わが国は長いこと鎖国状態にあり、外国との交流が活発でなかったことが、却って国家観念、国体観念の稀薄さを招いた、という平泉博士の論考は以前私がどこかに書いたものと似てるね。

知らない間にオレは平泉学派に近づいてたんだな。
 

平成日本國民の大自覺、人、知るや否や。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月20日(火)22時29分27秒
返信・引用
  ●友清磐山翁『古道』昭和三年四月號に曰く、

キリスト教、日本國に入りて、僅かに三百六十九年。

それ以前の吾等の祖先は、總てキリスト教と交渉無し。

佛教、日本國に入りて、僅かに千三百七十六年。

それ以前の吾等の祖先は、總て佛教と交渉無し。

天國も極樂も、總て關する處無し。

それより以前の天皇・皇族・聖賢・英雄・名將・忠臣・義士・孝子、すべてキリスト教と佛教とに交渉あること無し。

吾等は、須らく祖先の信仰に歸り、限界を大にして、
神武天皇に歸らざる可からず。
天照大御神に歸らざる可からず。

是れ、昭和日本國民全員の大自覺たらざる可からず。

‥‥
 
 

言葉の狂いは人間の狂い

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 3月20日(火)22時11分13秒
返信・引用
  備中處士さん

この前、県立歴史博物館の館長がやってきまして、神仏分離(あるいは廃仏毀釈)を批判的に捉え、「神仏習合がわが国の伝統です。皆さんも今日から神仏習合になってください」などとのたまっていました。

「伝統」というのはそれがオリジン、つまり物事の出自となったものだから「伝統」というのでしょう。神仏習合がわが国の伝統だとしますと、そうしますと、儒教や仏教の影響を受ける以前からあった日本古来の神道はどこへ行っちゃったのでしょうね。

先の歴史研究会にせよ、この博物館のお偉いさんにせよ、言葉が狂ってるのです。

もっとも基礎的な過去からの相続財産である言葉が狂っているということは、その人間そのものが狂っているということでしょうね。

ご論考は後程ゆっくり読ませて頂きます。

備中さんの文は難しいけどね(涙)。
 

神道再興を熱祷す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月20日(火)21時45分39秒
返信・引用
  拜復

 明治の過ぎたる歐化政策は、神道を敬して遠ざける結末となりました。大教宣布は、明治政府みづから手によつて否定されたのです。「神道は宗教に非ず」との苦肉の公言は、神道界の悲劇です。神道界の大物は、或は沈默するか、或は神道十三派の如く、所謂る新興宗教の教祖に納まるしかありませんでした。

●葦津珍彦翁『国家神道とは何だったのか──現代史通説の虚像を論破する』(昭和六十二年四月・神社新報社刊。平成十八年七月増註新版)

を、桜坂兄の目にて、問題意識にて、是非とも確認してみて下さい。小生は、大なる衝撃を受けた書であり、現代に於いては、古典と申してよい本です。

 以前と同じやうな應接・紹介とならざるを得ませぬが、御容赦ください。神佛關係に就いては、下記の指摘、動かすことが出來ません。神道人が、保守家然として、政府に與するやうでは、話になりますまい。神道再興は、八紘一宇の大旗を降ろさぬ限り、將來に期さねばなりますまい。「神ながら」、これから、ですよ。

●寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』(昭和二年七月)
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1478

●「佛教者の神社參拜」に於ける頭山立雲翁の評
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/2
 
 

備中殿に教えを請う

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 3月20日(火)19時13分38秒
返信・引用
  備中處士さん

(引用開始)

(権田)直助が阿夫利神社祇官になっての最初の仕事は執事福原定次郎の罷免であった。そこから、直助の神社再興施策が始まる。その基本は平田学派の国学の理論であった。しかし、その理論がしっかりとあったわけではない。平田学派は神仏混淆の宗教界を破壊してみたが、再興についての基本理念はなかった。ただ、感情に任せて神仏分離活動に走っただけの事であった。

(引用終了)

私の地元で「歴史研究会」を自称する某グループが、上記のような記事を世に喧伝しているのですが、不勉強な私にはその真偽や妥当性を判定する知識もなく、備中殿のご意見ご感想などをお聞かせいただきたく伏してお願い申し上げます。

特に、後半部分の、

「平田学派は神仏混淆の宗教界を破壊してみたが、再興についての基本理念はなかった。ただ、感情に任せて神仏分離活動に走っただけの事であった。」

という断定的な口調には違和感を覚えています。

何卒、無学な私にご教授ください。
 

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