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神代、はるけき昔より、大和島根の益荒男が、靈と肉とを鍛へたる、雄々しき姿、相撲道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月21日(土)22時57分11秒
返信・引用 編集済
  ■孝明天皇大御歌

照る影を ひら手に受けし 旭形 千代にかゞやく いさをなりけり



●武者成一翁『史談・土俵のうちそと』(平成十四年九月・雲母書房刊)

「角界の戰後の歩みをみても、人々の心の價値觀が變はつたやうに、大きく變はつてしまつた。相撲道を極めるといふやうな、古人の讚美した魂魄(「神代、はるけき昔より、大和島根の益荒男が、靈と肉とを鍛へたる、雄々しき姿、相撲道」)などは、今では人々の口の端にも上らず、只々力技の形骸のみ留めて、プロスポーツとして、觀賞の對象にのみ終始してゐるやうに思はれる。時の流れといふべきであらうか。この世相や風潮に反發するかの如く、十六年前、江馬盛氏は、力士・旭形龜太郎に、一片の紙碑(『諸國相撲帖』)を捧げて、相撲史上に、その丹心を留めんとされたのであらう。‥‥

 現在の相撲を生業としてゐる力士・協會には、歴史をたづねるといふ氣風の稀薄なことは、つとに識者の指摘するところである。また各地に遺されてゐる相撲の遺蹟なども、次第に損傷しつゝあつて、相撲協會に、何らかの處置を申し出ても、無い袖は振れぬと、一見、冷淡とも受け取られる態度が強いと仄聞する。相撲に關する文化財保存の責任は、協會には無い。一概に相撲協會の態度を責めるわけにはいかないであらう。よしんば假に實行するとしても、協會の財源にも限度があらうし、もし申し出の一つに答へれば、無數に存在するであらう他の文化的な遺産も、無視できなくなるおそれが生ずる。協會が、これらの問題には、自ら逃げ腰とならざるを得ないことは理解できる。

 しかし財團法人である協會が、その寄付行爲として掲げてゐる、相撲博物館の維持運營についての、更に付帶事業として、「相撲に關する主要な文化財の維持に關し助成する」くらゐの前向きの姿勢は、果して取り得ないであらうか。今日の相撲は、先人の築いた歴史的所産の上にあるに過ぎない。民族の傳統を傳へなければならないといふ觀點に立つて、協會が、その必要性を痛感し、やる氣を起せば、出來ぬ相談でもあるまい。

 たとへば本場所後、然るべき團體の協贊を得て、「古式相撲」を一日催して、收入をその基金とするなども、一つの方法であらう。私はそれによつて、玉鉾神社の維持を考へろとか、旭形龜太郎の顯彰碑を建てろとなど申す氣は、全くないが、當世角界で生活を營む人々は、興行にのみ走るだけでなく、もつと歴史を大切にし、先人の偉業を忘れるな、そして後世に傳へてもらひたいと叫びたくなるのである」と。



 はゆまつかひ樣から紹介された、武者成一翁『土俵のうちそと』は、四百頁に埀んとする力作であつて、目次を見るだけでも興味が盡きない。早速、取寄せて、其の一篇「旭形龜太郎の業績を偲ぶ──相撲史外傳」を讀み畢ぬ。塾頭も、『靖國神社の眞實』に於て、大相撲の土俵の事を述べられてゐたことが懷しい。然もあらばあれ、此の大相撲協會であれば、吉田司家に醜聞があつたとは云へ、之を扶けて傳統を護持することなど、努にも思はぬのであらう(吉田長孝氏『原點に還れ──國技相撲廢止の危機を突破した男・吉田司家二十三世追風吉田善門』(平成二十二年九月・熊本出版文化會館刊)。

 旭形龜太郎翁は、幕末、勤王の同志を集めて「力士隊」を組織し、宮中守衞に當らんと出願し、文久三年正月、勅許を得、其の總指揮官となつて、日夜宮中を奉仕、元治元年七月十九日の蛤御門の變は、『このとき、君は藩兵に加はり、各所に連戰し、またその際、特に宮中に召され、錦旗を守衞し、かたはら玉座の守備を命ぜらる』(小傳『照日の影』)。戊辰の變では、薩藩の猛將伊地知正治に從ひ、本宮詰めとして砲隊に屬して奮戰、身に數彈を浴びるも屈せず、偉功を樹つ。また征討將軍仁和寺宮嘉彰親王殿下に從つて、錦旗を護衞し、御親征として大阪行幸に際しては、鳳輦の供奉となり、海軍總督の横須賀への出陣には、大總督付となる。

 天恩を蒙り、御下賜品を賜ること度々にして、明治二十六年に、伊勢神宮の鹿島大宮司より、「孝明天皇御正體・玉鉾大神」てふ神號を拜戴して、獨力にて、三十二年十二月、愛知縣知多郡武豐町郊外の六貫山に、一萬九千坪の御用地、三千二百三十七坪の境内を擁し、熱田神宮を模し奉つた、壯嚴なる無格社・玉鉾神社(境内入口標柱には、「御祭神孝明天皇・玉鉾神宮」)を創祀した。旭形翁は、自ら刻苦勉勵、國學を修め、三十三年一月、神職に補せられ、元帥陸軍大將小松宮彰仁親王殿下の御參拜を仰ぐに至る。然し昭和三十四年九月の伊勢灣颱風により、今は僅かに其の形骸を殘すのみとなつてゐる。
 
 

天下の變、革命より大なる者は莫し矣。聖人の憂患、革命より深き者は莫し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月16日(月)22時38分59秒
返信・引用 編集済
   「時計の間」にて、不逞なる革命思想を述べたが、事は重かつ大なれば、之を増補して表にも書かせて戴く。蒲生静修(君平)先生の曰く、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と。




●谷秦山先生『新蘆面命』に曰く、

 太田藤九郎殿[土御門泰福卿の弟、松平丹波守殿に仕ふ]物語り申され候ふは、近年、伊藤源助、紀州樣へ書簡をさし上げ、「天に二つの日無しと申し候ふに、日本には二つの日有り。是によりて、號令、一ならず。宜しく帝位を、將軍御踐み成され、天子を大和公に封じ成さる樣に」と申し上げ候ふ。

 紀州樣、ことの外か怒り遊ばされ、ケ樣の妄言、江戸へ申し上げ候はゞ、死刑にも仰付けらる可く候ふ。然れ共も御慈悲を以て、默止成され候ふ間、以來、必ず々ゞケ樣の言、筆は申すに及ばず、口に吐き申す間敷き旨、御制戒め成され候ふ」と。



 愚案、此の「伊藤源助」、まさか「伊藤仁齋」(源七・源吉・源佐)ではあるまいな。仁齋の不敬、否、國賊とて、よく擧げられる典據ではあらうが‥‥。「仁」の御字は、天子樣の御諱の通字、知らぬ筈も無からうに。仁等の徳目の字は憚り無しと雖も、やはり遠慮はあつて然るべき。

 「儒に非ず、佛に非ず、朱に非ず、陸に非ず、一種無稽杜撰の學、名分綱常の大罪人」(絅齋先生の評)たる伊藤仁齋は、淺見絅齋先生にとつて小僧扱ひ、全く齒牙にもかけなかつた者なり。谷秦山先生は、謹嚴實直、其の聞く所に疑ひは無し矣。然れば「仁齋=源佐=げんすけ=源助」説の由つて來る所、無理も無い。博雅の士の示教を乞ひまつる。


**********


●若林強齋先生『絅齋先生常話雜記』

 (絅齋)先生の御物語に、「仁齋がわづらふよし、聞きたか」とありしゆゑ、「なるほど承りましたが、■■のわづらひのよし、私(強齋)存ずるは、あいつ(仁齋)を病死さするは、殘念なること」と申したれば、先生、笑つて仰せらるゝは、「(中村)惕齋が、平生、『仁齋、はやう死ねかし、道の害』と云ひたるよし、是非なき云ひやうぞ。あれ(仁齋)が一生の精微の書を出したらば、おれ(絅齋)が辨じようと思うたぞ。朱子の、陸象山が死んだ時に、告子に■■と仰せられた」と云うて、御笑ひなされたぞ。‥‥

 仁齋が死して、儀節を萬事用ふるよし。棺槨は、五郎兵衞が受取つたるよし。片木でしたぞ。なぜまき(★註)ではせなんだぞ。棺槨の間、一寸五分あるとなり。まへゝゝより神主(靈牌)なども、五郎兵衞がしたぞ。何樣、(仁齋は)にくきやつぢやは。程・朱の格物の物をそしりて、又た神主などは、其の制を用ふる。神主式は、程子の格物の内から出たものと云ふことを知らぬぞ」。


★註・『日本書紀』卷一

 一書に曰く、素戔鳴尊の曰はく、「韓郷之嶋は、是れ金銀有り。若し吾が兒の所御(しら)す國に浮寶有らずば、佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を拔き散(あか)ちしかば、即ち杉と成り、又た胸の毛を拔き散ちしかば、是れ檜と成り、尻(かくれ)の毛は、是れ柀(まき)と成り、眉の毛は、櫲樟(くすのき)と成りき。已にして其の用ふべきを定む。乃ち稱(ことあげ)して曰はく、「杉及び櫲樟、此の兩(ふたつ)の樹は、浮寶と爲す可し。檜は、以て瑞の宮を爲(つく)る材とす可し。柀は、持って顯見(うつ)しき蒼生の奧津棄戸(すたへ)に將(も)ち臥さむ具(そなへ)に爲す可し。夫の噉(くら)ふべき八十木種も、皆な能く播き生(おは)しつ」とのたまふ。時に素戔鳴尊の子、號を五十猛命と曰す。妹は大屋津姫命、次に抓津姫命、凡て此の三神も、亦た能く木種を分布(まきほどこ)したまふ。即ち紀伊國に渡し奉る。然して後に素戔鳴尊、熊成の峯に居しまして、遂に根國に入りましき。

【神代以來の御掟なり】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/27
 
 

傳統と陋習と。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月 7日(土)00時07分35秒
返信・引用 編集済
   神事たる可き相撲の土俵は、女人禁制の由。傳統ならば墨守すべきもの、人命は二の次と考へるが、蓋し保守の神髓でありませう。然し世俗の非難に反對しても、却つて煩はしいから申さぬが、參考とす可き御説があるので、長いが、敢へて引用させて戴く。

 昨今の大相撲の土俵が、神聖か否かは知りませぬが、土俵の下には錢が埋まつてをる由、八百屋の長兵衞さんが申してをられました。だつたら、相當、穢れがあるかも知れません。また女相撲とて、スポーツとして樂しむことは宜しいでせうが、「女人禁制の大相撲の土俵」に、どうしても上りたい女性は、どうぞゞゝゞ、嫌な言葉ではあるが、泰西流の「自己責任」にて、大いに蠻勇を奮はれむことを。「悔し」がる程のことでもありますまいに‥‥。



●友清磐山翁『古神道祕説』(古神道夜話。昭和十三年六月・井上出版部刊。五十八年七月・神道天行居復刻。『全集』卷一に所收)に曰く、

「神社といふものは、決して表面の御祭神だけが鎭まつて居られるものではありません。その土地に、太古から因縁のある神靈は固よりのこと、表面の祭神に、何等かの關係ある神靈も、多數集まつて居られるのが普通で、更に謂はゆる眷屬級の神・使ひ神たちも澤山居られるもので、民衆の信仰如何によつて、其の信仰に應ずる神靈も集まつて來られるものであります。ですから、柿本人麿を祭つた神社を、いつともなしに、民衆がヒトマル(火止まる)に通はして、火防の神徳ありとするやうになりますと、やはり左うした方面の神靈が集まつて、民衆信仰の至誠に感應せられるものでありまして、決して世の輕薄なる學者や物知りぶつた人の笑ふやうなものではありません。

 人間の智慧といふものは、如何なる博士でも大博士でも、有限的のもので、九牛の一毛か二毛しか見えないものです。そんな哀れな智慧で、神威神徳を彼れ是れ批評がましいことをするのは、愛嬌であります。人間の知識が、如何につまらぬもの、あてにならぬものであるかを、最も克く哲學的に論明したものは、古代印度の思想家で、佛典の大部分も、實は殆んど此の一點を闡明し論證して居るもので、これは今日の新しい哲學を以てしても破ることの出來ないものです。恐らくは斯ういふものが、眞理とかいふものなのでせう。此のヒトマルのことを、よく噛みしめ味はつてみて、他の場合のことも類推してみられるならば、少しは神化不測の靈得を感悟することも出來ようかと思はれます。

 方面を更へて別のレンズから、此れに類似の問題を覗いてみると、一例を擧げてみますと、世俗に三輪亡といふ日があります。これは昔から建築業者や土木業者の、非常に嫌がる日なのであります。學者や物知りは、無論、迷信として排斥して居ります。ところが事實として此の日に土工を起こしたりすると、災害が生ずることが多いので、決して普通の心理學のいふ豫期作用ばかりではないのでありますが、さて然らば三輪亡なるものは、何ういふ根據のあるものかといふと、極めてくだらぬ理由によつて算出されたもので、起原も左のみ古いものではないので、理論の上からいふと、全く迷信に過ぎぬものであります。然るに其れが何故に應驗があるかといふと、昔から此の三輪亡の説を信じた人間が、支那にも日本にも、何百萬、何千萬と居りますので、その靈が感應するからであります。嘘から出た誠といふやうな關係のもので、事實上、應驗がある以上は、理論の上に於て取るに足らぬことでも、求めて災害に罹るに及びますまい。

 斯ういふ風な靈界の事情を注意せられるならば、ヒトマルの話などを解決する上に、又た側面の一參考となるだらうと思ひます。萬一の誤解をさけるために序でに申し上げておきますが、そんならばと云つて、昔から申し來つた迷信的なことは、悉く應驗のあるものかといふと、決してさうではないので、應驗の無いものが大部分、すなはち理論上にも事實上にも、全くの迷信が大部分で、丙午の説なども、全くの迷信であります。そんならば、殆んど同じ理由により、同じやうな起因により、同じやうな俗信を維持して來た三輪亡の説の如きにのみ、何故ゑに靈が應驗するかといふと、そこになると、全く説明が困難で、いづれ左ういふ方面の關係の靈でも捉へて説明させてみるより外に、詮方がありませんが、併し其の説明も、必ずしも信用の出來るものではありません。

 其の他、東洋流の多くの運氣説を、片ツ端から迷信として斥けるのが、如何にも教養ある紳士らしいので、學者といふ學者、物知りといふ物知りが、調子を揃へて攻撃して居られますが、併し一概に左うは參らぬので、正しい古傳のものゝ中には、事實上の應驗あるのみならず、理論上からも、立派な根據のあるのもありますので、春夏秋冬による、一切生物の受ける交渉の如く、あめの靈氣とつちの靈氣によつて結ばれたる人間が、あめとつちとの數理に、本來、沒交渉なものではないのであります」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/8
 
 

忠孝の學問を復活せよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 4月 4日(水)22時10分47秒
返信・引用 編集済
  ●教育敕語を仰ぐ
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2749



●平泉澄先生『明治百年』(昭和四十三年十月二十八日・水戸市に於ける講演)に曰く、

「(承久の御計劃・建武の中興)慘憺たる結果に終はつて、もうこれで駄目かと思はれた時に、やがて江戸時代になりまして、學問が、この途を切り開いていつた。學問は、各方面から興つてきました。‥‥國學が盛んになつてまゐりました。これが日本の歴史を明らかにし、日本の道といふものを、次第に闡明してまゐります。しかし、まだこれは弱い。

 日本の道を強く天下に知らしめたものは、山崎闇齋の教へであります。山崎闇齋は、忠孝の絶對を主張するのであります。君に忠にして、親に孝であるといふこと、忠孝の二つは、人倫の大本である。人が人として考へられるのは、この忠孝の道徳を全うするからである。これを外れては、人ではない。その親子の關係は、たとへ子供がどれほど大きくならうとも、子供がどれほど立身出世しようとも、子供がどんなに金儲けしようとも、子供が親になり代はつて親になり、親を子供として遇するといふは、許されない。親は、どこまでも親である。年をとつても、よぼゝゞになつても、貧乏してをつても、親は、親だ。子は、子だ。親子の間に、變化があつてはならぬ。同樣に、君臣の間も左樣である。君臣の間が、世の中の事情が變はつたからといつて、にはかにひつくり返ることはあり得ない。戰爭に敗れたから、君は臣になる、臣が君になる、さういふことは絶對にあり得ないのだ、といふことを明らかにされたのが、山崎闇齋先生の教へであります。これは、非常に強い、嚴烈なる教へであります」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t40/-100



 愚案、明治維新百五十周年、即ち百五十一年に當つて、「教育敕語復活の爲に、如何に働きかけるべきか」、沈潛、深く考へたい。世は保守化の由であるが、「忠孝」と申しても、全く通じない。然し「忠孝の二つは、人倫の大本である。人が人として考へられるのは、この忠孝の道徳を全うするからである。これを外れては、人では無い。世の中の事情が變はつたからと云つて、俄かにひつくり返ることはあり得ない」。變轉きはまり無き世に在つて、不易の道を求める。學問の興隆こそ、喫緊の課題と謂はねばならぬ。
 
 

Re: お久ぶり

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 4月 4日(水)18時07分1秒
返信・引用
  > No.3168[元記事へ]

那須の権太さん

> 桜坂 秀翠氏への返書。
>
> > わが国は長いこと鎖国状態にあり、外国との交流が活発でなかったことが、却って国家観念、国体観念の稀薄さを招いた、という平泉博士の論考は以前私がどこかに書いたものと似てるね。
> >
> > 知らない間にオレは平泉学派に近づいてたんだな。

↑私の書いたものを引用されるのは一向に構いませんが、ご貴殿はいったい何をされたいのですか?

いや、別に悪意も他意もないのです。

ただ、こういう尻切れトンボが嫌なのです。

逆にご貴殿だったらどうです?

気になって仕方がないでしょう。
 

やり方は、人に聞くのが一番です。大笑い。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月31日(土)20時09分42秒
返信・引用 編集済
  ●佐久良東雄大人の哥

さくらさく うまし御國に 生(あ)れいでて かくたのしむは うれしからずや



那須の権太兄

 本道に久しぶりでありますね。

 小生も、先哲遺文を敬書したら、何があたつたのか、パソコンが初期化。あ~、ですよ。愚息に、やつと直してもらつた次第。とほほのほ‥‥です。

 何でも仰せ下さい。但し「やり方」だけは、御免です。御待ち申し上げます。不具
 
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2018年 3月30日(金)22時38分14秒
返信・引用
  やり方忘れた。備中さん、ごめん。  

Re: お久ぶり

 投稿者:那須の権太  投稿日:2018年 3月30日(金)22時32分4秒
返信・引用
  桜坂 秀翠氏への返書。

> わが国は長いこと鎖国状態にあり、外国との交流が活発でなかったことが、却って国家観念、国体観念の稀薄さを招いた、という平泉博士の論考は以前私がどこかに書いたものと似てるね。
>
> 知らない間にオレは平泉学派に近づいてたんだな。
 

自画自賛

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 3月21日(水)10時42分49秒
返信・引用
  わが国は長いこと鎖国状態にあり、外国との交流が活発でなかったことが、却って国家観念、国体観念の稀薄さを招いた、という平泉博士の論考は以前私がどこかに書いたものと似てるね。

知らない間にオレは平泉学派に近づいてたんだな。
 

平成日本國民の大自覺、人、知るや否や。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月20日(火)22時29分27秒
返信・引用
  ●友清磐山翁『古道』昭和三年四月號に曰く、

キリスト教、日本國に入りて、僅かに三百六十九年。

それ以前の吾等の祖先は、總てキリスト教と交渉無し。

佛教、日本國に入りて、僅かに千三百七十六年。

それ以前の吾等の祖先は、總て佛教と交渉無し。

天國も極樂も、總て關する處無し。

それより以前の天皇・皇族・聖賢・英雄・名將・忠臣・義士・孝子、すべてキリスト教と佛教とに交渉あること無し。

吾等は、須らく祖先の信仰に歸り、限界を大にして、
神武天皇に歸らざる可からず。
天照大御神に歸らざる可からず。

是れ、昭和日本國民全員の大自覺たらざる可からず。

‥‥
 
 

言葉の狂いは人間の狂い

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 3月20日(火)22時11分13秒
返信・引用
  備中處士さん

この前、県立歴史博物館の館長がやってきまして、神仏分離(あるいは廃仏毀釈)を批判的に捉え、「神仏習合がわが国の伝統です。皆さんも今日から神仏習合になってください」などとのたまっていました。

「伝統」というのはそれがオリジン、つまり物事の出自となったものだから「伝統」というのでしょう。神仏習合がわが国の伝統だとしますと、そうしますと、儒教や仏教の影響を受ける以前からあった日本古来の神道はどこへ行っちゃったのでしょうね。

先の歴史研究会にせよ、この博物館のお偉いさんにせよ、言葉が狂ってるのです。

もっとも基礎的な過去からの相続財産である言葉が狂っているということは、その人間そのものが狂っているということでしょうね。

ご論考は後程ゆっくり読ませて頂きます。

備中さんの文は難しいけどね(涙)。
 

神道再興を熱祷す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月20日(火)21時45分39秒
返信・引用
  拜復

 明治の過ぎたる歐化政策は、神道を敬して遠ざける結末となりました。大教宣布は、明治政府みづから手によつて否定されたのです。「神道は宗教に非ず」との苦肉の公言は、神道界の悲劇です。神道界の大物は、或は沈默するか、或は神道十三派の如く、所謂る新興宗教の教祖に納まるしかありませんでした。

●葦津珍彦翁『国家神道とは何だったのか──現代史通説の虚像を論破する』(昭和六十二年四月・神社新報社刊。平成十八年七月増註新版)

を、桜坂兄の目にて、問題意識にて、是非とも確認してみて下さい。小生は、大なる衝撃を受けた書であり、現代に於いては、古典と申してよい本です。

 以前と同じやうな應接・紹介とならざるを得ませぬが、御容赦ください。神佛關係に就いては、下記の指摘、動かすことが出來ません。神道人が、保守家然として、政府に與するやうでは、話になりますまい。神道再興は、八紘一宇の大旗を降ろさぬ限り、將來に期さねばなりますまい。「神ながら」、これから、ですよ。

●寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』(昭和二年七月)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1478

●「佛教者の神社參拜」に於ける頭山立雲翁の評
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/2
 
 

備中殿に教えを請う

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 3月20日(火)19時13分38秒
返信・引用
  備中處士さん

(引用開始)

(権田)直助が阿夫利神社祇官になっての最初の仕事は執事福原定次郎の罷免であった。そこから、直助の神社再興施策が始まる。その基本は平田学派の国学の理論であった。しかし、その理論がしっかりとあったわけではない。平田学派は神仏混淆の宗教界を破壊してみたが、再興についての基本理念はなかった。ただ、感情に任せて神仏分離活動に走っただけの事であった。

(引用終了)

私の地元で「歴史研究会」を自称する某グループが、上記のような記事を世に喧伝しているのですが、不勉強な私にはその真偽や妥当性を判定する知識もなく、備中殿のご意見ご感想などをお聞かせいただきたく伏してお願い申し上げます。

特に、後半部分の、

「平田学派は神仏混淆の宗教界を破壊してみたが、再興についての基本理念はなかった。ただ、感情に任せて神仏分離活動に走っただけの事であった。」

という断定的な口調には違和感を覚えています。

何卒、無学な私にご教授ください。
 

高山赤城先生五世孫・高山正行翁の祈願行軍。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 3月12日(月)19時17分28秒
返信・引用 編集済
   興味深き記事を入手したので、紹介したい。但し文屋の此の記事は、揶揄か、愉快ならざる字面もあるが、御容赦を乞ふ。然し此の祈願行軍、たしか昨今‥‥身近で經驗したやうな、無いやうな‥‥(苦笑)。懷しいなあ‥‥。


**********


●昭和十三年六月二十日『河北新報』

熱血たぎる風來坊
全國神社佛閣に祈願行脚の
彦九郎五世の孫來訪


【仙臺】寛政三奇人の一人、勤王の志士・高山彦九郎の五世の孫が、仙臺にヒヨツコリ出現した。然も仙臺が産んだ「世紀の先驅者」で、同じ三奇人の一人であつた、林子平の第百四十六年祭が、明廿一日、仙臺市伊勢堂下の菩提寺・龍雲院で、盛大に擧行されやうとしてゐる矢先である。幾星霜を隔てゝ、淺からぬ因縁話と一笑し去るには、餘りにも美はしい人情奇譚である。

淺からぬ奇人の縁
三條の橋を思はす
敬虔、奉安殿傍の野營
既に足跡を印す三千社


 昨十九日午前六時ころ、仙臺市北山・輪王寺に、奇人が訪れた。十貫目もあらうと見受けられるカーキ色のリユツクサツクを背負ひ、「國威宣揚・武運長久・勝戰祈願」と書き込んだ日章旗を手にした國防色の郷軍姿‥‥漆黒なアゴひげをしごく風情は、正しく奇人であつた。然し何所やら、凛とした氣骨と人品とを感じた龍雲寺住職・河合文應師(輪王寺滯在)が、茶を招じて懇談すると、その怪異な風來坊こそは、彦九郎五世の孫で、彦九郎の住居であつた群馬縣新田郷澤野村細谷在に、今もなほ居住してゐる、高山正行氏(三十九)、その人であつたのだ。林子平の墓參をすべく、豫ての知己であつた輪王寺住職・福定無外和尚を訪ねたものであつたといふ。

  ◇

 奇人の血は爭はれない‥‥?、五世の孫たる正行氏は、今、全國の神社佛閣を徒歩行脚で巡囘して、出征軍人の武運長久を祈願する一方、陸軍病院の戰傷病兵を慰問し、勤王志士の墓參をやつて來たもの、仙臺出現は、北海道への途中であつたといふ。

  ◇

 この徒歩祈願行脚を思ひ立つたのは、昨年十一月十二日だといふ。今事變で召集されたのであつたが、無念にも即日歸郷の身となつたからだといふから、奇異である。

  ◇

 昨年十一月二十四日朝、明治神宮を出發して、鹿兒島から櫻島に渡り、山上に三丈四方の大日章旗を樹て、歸路、郷里に立寄つた上、東北々海道に向けて、遙々と行脚し來つたものだ。
「祈願した神社は、三千社はくだるまいよ。歩いた距離、かつて‥‥?、二千五、六百里はあるだらうなあ」
と語りながら、各地神社と印判帳や行脚證明書、各地名士の署名した武運長久祈願の日章旗が六枚。後から後から「高山正行、ルンペンに非ず」の證明書類が、續々と飛び出すのである。リユツクサツクには、毎夜、小學校御眞影奉安殿傍らに露營するに必要なテントや、炊事用七ツ道具・米・味噌の類が、ギツシリ一杯だ。

子平祭逮夜のけふ行脚談

 林子平の第百四十六年祭は、明二十一日午後二時から、龍雲院で執行されるが、正行氏は、お逮夜の今二十日夜は、特に参席者に行脚談と講演を行ふことになつた。明二十一日も同樣、講演の筈で、昨十九日は、まづ林子平の墓に詣でた後、故相澤中佐の靈を慰め、午後から瑞巖寺に赴いた。

 因みに同氏は、彦九郎正之、次いで儀助正春、石九郎正風、守四郎正隆と、その後をつぐ五代目である。


**********


●般庵野間光辰翁『日本の旅人・高山彦九郎──京都日記』(昭和四十九年十月・淡交社刊)

「高良内町に、森輝夫氏を訪ねる。‥‥森嘉膳以來、祕襲する遺品の數々を拜見することが出來た。‥‥森氏方にて、私は一つの新しい發見をした。それは彦九郎四代の孫・守四郎と五代の孫・正行の寫眞が、關睡峒寫すところの彦九郎の面貌(「高山彦九郎正之先生肖像」。睡峒は、赤城先生と親交ありし伊勢崎藩家老──立原翠軒翁が、戲れに「活ける雲長」と稱した程、晩年の赤城先生の一枚看板の由)に依稀寫(いきうつ)しであるといふことであつた。‥‥

 正行は、高山家最後の人、終生娶らず、戰後、大阪府堺市にて客死せし由である」と。
 
 

戀闕の志を繼承せむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 2月25日(日)15時46分5秒
返信・引用 編集済
   平成三十年二月二十五日午前十時半、野中四郎大人命の八十二周年、即ち八十三年慰靈祭を、吉備前國岡山市平井の東山靈園なる野中家墓地に於いて齋行す。岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁が創祀されて以來、こゝに四十二囘を數ふるなり。

 曇天なりと雖も、祭典が始まれば、日の光り挿込み、國旗の旌めく音、實に清々し。此の祭典の奇瑞、毎度の事にして、雪は降ること有つても、雨降ること無し矣。参列する者、感激の至りなる可し。

祭主兼典儀 秋田智紀
齋   主 式内縣社足高神社・井上直亮禰宜
https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/16671/

一、陸軍喇叭
  國歌齊唱二囘
一、皇居遙拜
一、祝詞奏上
一、蹶起趣意書捧讀
  野中四郎命遺書捧讀
一、玉串奉奠
一、聖壽萬歳

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2722

【蹶起趣意書・遺書・平泉澄博士『孔雀記』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2449

【平泉澄博士『松下村塾記講義』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1701

 祭典後、野中大尉の御尊父・野中勝明陸軍少將の墓地へ推參し、拜禮。

 野中四郎命の墓は、大尉の叔父にして養父なる野中類三郎翁の墓地に在り。元祿以來の墓石を存して壯觀なるも、絶家ならむか、無縁墓地と化してゐる樣子なり。墓石の文字を讀むこと、次の如し。

   昭和十一年二月二十九日卒
   享年三十有四
一、野中四郎之墓

   昭和十七年一月五日卒
   行年七十七
一、慈雲院幽□□□居士
   野中類三郎

   行年七十七才
   昭和三十七年三月八日歿
   類三郎妻野中ツ子
一、慈光院貞室常昭大姉
  清心院慈光壽妙大姉
   四郎妻野中美保
   (裏)昭和五十二年八月吉日、野中美保建之



追記
●『皇道日報』記事──祭典中は寫眞撮影の嚴禁なること、勿論なり。祭典を終へ、解散後の一葉。
  ↓↓↓↓↓
http://koudoupress.net/%e3%80%90225nonaka/
 
 

天皇守護の力士道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 2月 7日(水)23時10分19秒
返信・引用 編集済
   貴乃花親方の曰く、

『觀るものを魅了する』大相撲の起源を取り戻すべく、現世への生まれ變はりの私、天命があると心得てをり、毘沙門天(炎)を心にしたゝめ、『己に克つ』を實踐してをります。國家安泰を目指す角界でなくてはならず、『角道の精華』、陛下の御言葉をこの胸に、國體を擔ふ團體として、組織の役割を明確にして参ります。角道の精華とは、入門してから半年間、相撲教習所で學びますが、力士學徒の教室の上に掲げられてをります、陛下からの賜りし訓です。力と美しさ、それに素手と素足と己と鬪ふ術を錬磨し、國士として力人として、陛下の御守護をいたすこと、力士は、そこに天命ありと心得てをります。‥‥角道・報道、日本を取り戻すことのみが、私の大義であり、大道であります。勸進相撲の始まりは、全國の神社佛閣を建立するために、角界が寄與するために、寄進の精神で始まつたものです。天皇陛下から命を授かり、現在に至つてをります
  ↓↓↓↓↓
https://dot.asahi.com/wa/2017121100028.html?page=1

と。 純にして正、大相撲界から、圖らざる言葉に衝撃を受けたり。惜しむらくは、親方の周圍に人を得むことを懇祷す。政治家も、これくらゐの精神で、大政に臨んで戴きたいものだ。悔しかつたら、嘘でもいゝから、一遍でも言つてみろ。

 一方、大相撲協會の見識が窺へる一駒。大相撲千秋樂、拜戴前に準備された「賜杯」を、テレビ中繼にて拜見。何と、清潔と云ひ難き一般の臺車の上に、天子樣から賜りし優勝杯を、無造作に置いてゐるではないか。小汚い臺車、せめて一葉の和紙を敷いて奉戴しなさい。視聽する者も、不快千萬、洵に不敬億兆。こりや、本道に駄目だワ。

 而して本日、貴乃花親方の獨白を視聽。大相撲協會に於ける貴乃花親方は、靖國神社執行部に於ける泉水隆一監督、神社本廳に於ける何某と重なつて、込み上ぐるものあつて、涙を禁ずる能はず。親方は、下山陽太主の云ふ、紛れも無き復古派だ、正統護持派だ。親方の角道復古、「天皇守護」の力士道に、「獨り」と雖も、頑張つて欲しいと、切に祈る次第。
 
 

Re: アメリカニズムと云ふ純粹左翼思想の徒花を刈り取れ。

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 2月 7日(水)14時07分38秒
返信・引用
  > No.3150[元記事へ]

備中處士さん

ご無沙汰してます。

また、新年にはご丁寧な挨拶状を賜りありがとうございました。

ご貴殿と河原氏と私とでの靖国神社昇殿参拝からいったい何年経つのでしょうね。

月日の流れとは早いものです。

歳をとるのも早い訳だ(笑)。

拙稿をご紹介いただきまして、有り難いやら照れ臭いやらですが(笑)、何はともあれ厚く御礼申し上げます。

そうでしたか、備中さんも西部氏の「保守の真髄」お買いになりましたか。

勝手な推測ですが、備中さんは西部邁氏など読まれる方ではないと思ってました。

偶然の一致とはいえ、アマゾンで購入した当該書物が昨日届きまして、第一章を読み終えたところです。

事象を細分化し、そして分析するだけの従来の専門主義的な保守を批判的に捉え、物事を「大衆社会論」に落とし込み総合的に論じる西部思想がここでも大爆発です。

カタカナを多用するなど、備中さんにはご不満のところも多々あるかとは思いますが、西部氏も自分自身で言うように、所詮は誤謬多き生き物としての人間ですから大目に見てやってください。

そちらも身も凍るような大寒波に見舞われていることと存じますが、どうかお風邪など召しませぬようご自愛ください。
 

アメリカニズムと云ふ純粹左翼思想の徒花を刈り取れ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 2月 6日(火)17時48分32秒
返信・引用
   閑古鳥も鳴く掲示板を憐れんでか、桜坂秀翠兄が、贊意を表して下さつた。有り難い。御元氣さうで、何よりです。當方は、將棋界に顯れた天才「藤井聡太」五段が氣になつて、勉學停滯、些か困つてをる次第です(苦笑)。

 先般、西部邁氏が逝かれたさうで、兄も御淋しいでせう。小生も、遺著

『保守の眞髓──老醉狂で語る文明の紊亂』(講談社現代新書/まことの保守を語り盡くす、大思想家ニシベ、最後の書)

を購入してみむとて豫約注文、而して増刷されたのか、本日、奇しくも郵便函に到來した所であります。平泉澄博士は、エドモンド・バークを我が國に紹介された草分ですが、学生時代、博士の『武士道の復活』・『傳統』下篇・『革命と傳統』に導かれて、ポール・ブールジエ『弟子』等を讀み漁つた經驗もありましたが、小生の愚鈍なる、泰西に於ける保守傳統主義は、頓と御無沙汰であります。

 次は、桜坂秀翠兄の論説、紹介させて戴きます。



**********

元来、日本人はお人好しであるとともに、好奇心旺盛な国民性を有している。

それと同時に、「来る者拒まず、去る者追わず」の俗言にあるように、飽き易い側面も持っている。

こうした国民性からハイブリッド、つまり神道あり仏教あり儒教あり、更には国学や洋学もありという、雑種文化が形成されてきた。

鎖国を敷いていたとされる江戸期だが、厳密に言えば、純粋な意味での鎖国など存在せず、それは四方を海に囲まれているという地勢上の関係で、外国との交流が活発でなかったという意味においてであり、呑気というか大らかというか、日本人は外国の文化を排斥することなく、包括的に迎え入れてきたといえるだろう。

私見で甚だ恐縮だが、やはりそこには神道(惟神の道)というものの存在があったからこそ、日本人の精神文化に、そうした余裕が生じていたように思われる。

仏教が神道を包摂しようとしてやってきても、知らぬ間に仏教が神道に包摂されてゆく。まあ確かに山王権現のような神仏習合の色合いの濃い神社も数多く存在するが、平常、われわれはそれを特段意識に昇らせることなく、むしろ淡々と接している。

儒教の持つ強い道徳観念と、神道の持ついい意味でのアンモラル(聖と俗が同居する例大祭などが、その見本)との融合なども、「丁度いい塩梅だ」ぐらいの大らかさでいられたのではないか。これを無節操と観るか、大らかと観るか、寛容と観るかは、人それぞれだろうが、いずれにせよ、こうした包括的な日本人の精神的構えが一つの長所となり、西洋の文物を積極的に摂取し、西洋列強と並ぶ文明を、開国からわずか数十年でもたらしたのだと見ることは大過ないように思う。

もちろん、そうした長所ばかりではなく、雑種文化は、外国のさして上等でない文物(戦後のアメリカニズムが、その見本である)まで、短絡的に摂取してしまう危険を常に孕んでいる。

仏教やキリスト教などの教条臭の強いものであれば、神道は、それをいち早く察知し、それらを中和できるだろうが、アメリカニズムが内包する自由とか民主とか平等とか人権といった抽象的な理念の、いわば無臭のイデオロギーに対しては、神道は無力だった。

むろんその神道の欠点を補うのが、異端と正統を見分けるための知恵としての「伝統」なのだが、狡猾なアメリカは、その「伝統」を根こそぎにすることから始めた。

現行憲法しかり、改正民法しかり、教育基本法しかりである。

われわれ日本人の判断の基礎となる伝統を根絶やしにすれば、日本のアメリカ化は容易いと、アメリカは読んだのだろう。

日本人の持つ「大らか」という文化が、却って徒となり、アメリカニズムという純粋左翼思想の徒花を満開せしめたのが、戦後といっていいのではないか。

【出典】
http://6131.teacup.com/dartford/bbs

**********
 
 

実存主義者改め桜坂秀翠

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2018年 2月 6日(火)10時46分33秒
返信・引用
  「田母神氏の論文を拜見して思ふに、大東亞戰爭の言あるは當然としても、元號の表記は全く無い。これは何うしたことか。敢へて申し上げたいが、戰後世代にとつては、元號とは、一體、何であるのか。自衞隊關係者にとつて、影山正治翁なぞ、全く關係ないのは判るものゝ(影山翁の最近の弟子も、師に叛旗を飜して、西暦を用ゐて憚らぬ時代、小生は其の門下では無いが、之を悲しむ)、せめて我が國に於ける記事論文の筆法として、我が元號を用ゐて戴きたいものである。元號とは、時間・空間を支配せるもの、吉野時代以降、論説する者の思想傾向を見るに、奉ずる所の暦法は、缺くべからざる要素である。西暦を奉ずるてふ事は、精神的放浪、往いて歸らざる者、或は邪蘇の軍門に降ると云ふ事、之に因り、敵か否かを判別し得る程の、至重至大の問題である。人、小生を變人奇人として、或は嗤へば嗤へ。獨り堪へるのみ。此の已むことの無い怒りは、俄か保守には、決して理解して戴けないであらうが、小生の悲しみは洵に深い。

 戰後政治家に愛想をつかして長い小生であるが、戰後の歴代首相に對して、靖國神社參拜を求める御方の氣持ちが、小生には、實は全く解せぬのであります。何故ゑ人氣集票のみに苦慮して、皇國の名譽に關はらうとしない政治家に、靖國神社の參拜を懇願して、此の一點に對し、現代の民族派・保守家の人々は、一致團結して之を求め得るのか。皇國中興の御志を有たぬ者にとつて、靖國神社は、何等かゝはりは無い所でありませう。寧ろ靖國神社の一切から、戰後政治家の一掃を懇望して、靖國神社の清淨と靜謐を守りたい。平素に於いて黨派の政諍流行に忙しい政治家・保守家は、一部の民族陣營を含めて、靖國神社を利用してゐるのに、全く氣が附いてゐないのでは無いか。小生は憂鬱を抱き、反吐が出て頭が劇しく痛み、且つ懊惱する。故に筆が進まない」と。

↑久し振りに覗かせて頂きました。

備中さんに大賛成!
 

春風獻上。

 投稿者:備中處士  投稿日:2018年 1月 1日(月)14時36分49秒
返信・引用
  平成紀元 三十年
中興紀元(皇紀) 二千六百七十八年
天降(あもり)紀元 五千十八年

天皇正月、歳、戊戌に次(やど)る、元旦、大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。更めて謹み、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて御閲覽各位の福壽無量を祝祷申し上げ候ふ。

 下りて愚生、遂に還暦を迎へるに至り、復た赤兒にもどり候ふ間、愈々赤心を磨く所存に御座候ふ。各位倍舊の御交誼、只管ら懇祈仕り候ふ。敬みて白す。
 
 

天長節參賀

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2017年12月24日(日)16時44分21秒
返信・引用
  昨日の天長節參賀、例のまにまに、御龍顏を遙かに拜みつつ、玉體守護、日嗣無窮、國家靜謐の懇祈を果たし得ました。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/12
 

靖國神社を政爭の具にする勿れ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 7月23日(日)20時07分24秒
返信・引用 編集済
   平成二十九年七月二十二日、靖國會第九代總代に、田母神俊雄氏がなつたさうだ。復た又た政治家共と仲のよい氏のこと、靖國神社境内の清淨と靜謐が破られようとしてゐる。氏は、俄か保守の典型にして、彼の政治ゴロとも仲がよかつたし(最近、喧嘩別れし、訴訟沙汰にもなつた由だが)、山本七平や渡部昇一の如き、邪蘇を奉ずる者の歴史書を下敷きとして論文を書き、俄かにマスコミに登場して來た人である。

 靖國會は、平泉澄先生の門下・草地貞吾翁も總代であつたが、松平永芳・大野俊康兩宮司の遺言を悉く否定する總代湯澤貞氏の後繼とあつては、無視も出來ない。かつて小生は、次の如く書いたが、全く修正の必要を認めない。曰く、

「田母神氏の論文を拜見して思ふに、大東亞戰爭の言あるは當然としても、元號の表記は全く無い。これは何うしたことか。敢へて申し上げたいが、戰後世代にとつては、元號とは、一體、何であるのか。自衞隊關係者にとつて、影山正治翁なぞ、全く關係ないのは判るものゝ(影山翁の最近の弟子も、師に叛旗を飜して、西暦を用ゐて憚らぬ時代、小生は其の門下では無いが、之を悲しむ)、せめて我が國に於ける記事論文の筆法として、我が元號を用ゐて戴きたいものである。元號とは、時間・空間を支配せるもの、吉野時代以降、論説する者の思想傾向を見るに、奉ずる所の暦法は、缺くべからざる要素である。西暦を奉ずるてふ事は、精神的放浪、往いて歸らざる者、或は邪蘇の軍門に降ると云ふ事、之に因り、敵か否かを判別し得る程の、至重至大の問題である。人、小生を變人奇人として、或は嗤へば嗤へ。獨り堪へるのみ。此の已むことの無い怒りは、俄か保守には、決して理解して戴けないであらうが、小生の悲しみは洵に深い。

 戰後政治家に愛想をつかして長い小生であるが、戰後の歴代首相に對して、靖國神社參拜を求める御方の氣持ちが、小生には、實は全く解せぬのであります。何故ゑ人氣集票のみに苦慮して、皇國の名譽に關はらうとしない政治家に、靖國神社の參拜を懇願して、此の一點に對し、現代の民族派・保守家の人々は、一致團結して之を求め得るのか。皇國中興の御志を有たぬ者にとつて、靖國神社は、何等かゝはりは無い所でありませう。寧ろ靖國神社の一切から、戰後政治家の一掃を懇望して、靖國神社の清淨と靜謐を守りたい。平素に於いて黨派の政諍流行に忙しい政治家・保守家は、一部の民族陣營を含めて、靖國神社を利用してゐるのに、全く氣が附いてゐないのでは無いか。小生は憂鬱を抱き、反吐が出て頭が劇しく痛み、且つ懊惱する。故に筆が進まない」と。



【松平永芳大人遺文】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50

【塾頭遺文──「國民服喪の日に、ピンクの胸の徽章を付けて、靖國神社參道で演説する、『來賓』とか云ふ無禮者『田母神閣下』を、何故、ひきづり降ろさない。この日は祝賀會か。誰か教へてやれ、總理でも『特別參拜者』と呼ぶ。祭神の御前に、祭神より偉い來賓なんか存在しない」──】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/193
 
 

神道界の憂鬱‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 6月26日(月)23時40分33秒
返信・引用
   「天の怒りか地の聲か、そも只ならぬ響あり」とは、かつて謠はれし所、現代に於いても、上は幕府執權から、下は神道界隈に至るまで、何處も同じではないか。諸共に喪せて可なり。「いまは亡き 悲願の人の 悲願を繼ぐ」大惡人、「只一人 亂世の雄出でよと 海にいのる」のみ。嗚呼、已んぬるかな。



http://diamond.jp/articles/-/132516
  ↓↓↓↓↓
週刊ダイヤモンド編集部/平成二十九年六月二十一日
神社本庁で不可解な不動産取引、刑事告訴も飛び出す大騒動勃発』から、轉載させて戴く。上記には、相關圖あり。乞ふ、御照覽を。

**********

 大半の国民にとつて神社と言へば、初詣や七五三・結婚式等、人生の節目々々で、神に祈りを捧げる場だ。ところがそんな明鏡止水の場の裏側で、今、ある不可解な不動産取引をめぐつて、大騒動が起きてゐる(週刊ダイヤモンド編集部・ダイヤモンドオンライン編集部『瓦解する神社』取材班)。

瓦解する神社

 「神社界の『中枢』にゐる全員が、疑心暗鬼に陥つてゐる。誰が敵で、誰が味方なのか、分からない」──。

 日本最大の信者数を誇る宗教である「神道」。その中で、全国約八万社の神社を『包括』する組織が、宗教法人「神社本庁」(東京都渋谷区。以下、本庁)だ。安倍政権の伸長に絡んで、昨今、注目が集まつてゐる政治団体「神道政治連盟(神政連)」の実質的な母体組織でもある。そんな本庁で、目下、ある疑惑をめぐり、「全国の神職を巻き込んだ騒動が勃発してゐる」と、本庁関係者は明かす。といふのも、本庁の一部幹部たちが「怪文書」や「名誉毀損文書」と呼ぶ、複数の匿名文書が、全国の神職関係者の間で飛び交つてゐるからだ。さらに今月、業を煮やした本庁首脳が、これら匿名文書に対し、被疑者不明のまゝ、名誉毀損で刑事告訴に踏み切るといふから、穏やかでない。争ひ事、ましてや法廷闘争とは無縁に思へる神社界で、一体、何が起きてゐるのか。

 「事情を知る本庁職員や有力神社の神職は、神社界における『森友学園問題』と呼んでゐる」と自嘲するのは、本庁の役員会関係者だ。本庁は、週刊ダイヤモンド編集部の取材に対し、騒動のあらましこそ認めたものゝ、「顧問弁護士に一任してゐる」と、口をつぐむ。その顧問弁護士は、「宗教法人内部の財産処分の話なので、外部に話すことはない」とだけ答へ、受話器を置いた。だが、複数の本庁関係者や、神職などに対する取材を進めると、「本庁の実権を握る一部の幹部が、特定の不動産業者と癒着し、貴重な本庁の財産を損なつてゐるのではないか」といふ、疑惑が浮上してきた。

最終的に三億円超になつた不動産を、一億八千四百万円で売却

 事の発端は、一昨年の平成二十七年十月までさかのぼる。

 本庁の議決機関で、全国の神職などから選出される「評議員会」において、本庁が所有し、二十世帯以上が入る職員用宿舎「百合丘職舎」(川崎市)を、新宿区の不動産会社「デインプルインターナシヨナル」に売却することが承認された。その額は、一億八千四百万円だつた。ところが、売買契約日の同年十一月二十七日、本庁からデインプルへ売却されるかたはらで、同じ地方銀行の別室において、もう一つの不動産売買契約が交はされる。デインプルから、東村山市の不動産会社A社への『即日転売』だ。「デインプルに売られる」とだけ説明されてゐた本庁の役員会は、ふたを開けてびつくりしたといふ。その上、A社への売却額は、デインプルへの売却額一億八千四百万円よりも高い、「二億円を大きく超える金額だつた」と、別の本庁関係者は明かす。

 この取引について、不動産取引に詳しい弁護士や不動産業者は、「経緯を見る限り、『三為(さんため)契約』を使つた、典型的な『土地転がし』だらう」と指摘する。三為契約とは、民法の「第三者のためにする契約」の略称で、簡単に言へば、三社の間で不動産を転売する際に、要件を満たせば、途中の登記を省略することができるといふもの。だが、「買値よりも二から三割の金額を上乗せして転売するケースが多い」(不動産関係者)ため、合法ではあるが、各地で問題となつてゐるスキームだ。たゞ話がこれで終はれば、「不動産取引に疎い宗教法人が、不動産会社に合法的に手玉に取られた」といふ話。ところが、だ。昨年五月、今度は、A社が、さらに大手ハウスメーカーB社に不動産を転売、その価格が、一気に三億円超に跳ね上がつたといふから、ひつくり返る。

原則売却禁止の基本財産を、随意契約でたゝき売り

 そもゝゝ今回、対象となつた百合丘職舎は、本庁の「基本財産」だ。基本財産とは、「本庁永続の基幹となる財産」(神社本庁規)であり、やむを得ない事情がある場合を除いて、原則「処分することはできない」(同)とされてゐる。たとへ事情があつて、処分が認められたとしても、三者以上の競争入札で行はなければならないと、規定されてゐる。たゞし競争入札が、「特に不利、または不可能な場合」(神社本庁財務規程)に限つて、初めて随意契約が可能となるなど、基本財産の処分には、幾重もの制限がかけられてゐる。それも、そのはず。基本財産を取得する『原資』の多くは、過疎化にあへぐ地方の神社を含めた、全国の神社から吸ひ上げた、言はゞ『上納金』だ。さらにそのおほもとをたどれば、地元の氏子や参拝者たちから、コツヽヽ集めた大切な浄財。地方になればなるほど、地域コミユニテイに参加するための『税金』の色彩が強くなり、それゆゑ本庁の財産は、おいそれと売却してはならない、とされてゐるわけだ。

 基本財産目録に記された百合丘職舎は、簿価ベースで、土地建物合はせ七億五千六百十六万円。もちろんこれは、減価償却をしてをらず、現在の資産価値ではない。それでも本庁の基本財産のうち、かなりの部分を占める『虎の子』だつた。実は、本庁は百合丘職舎の売却案が内部で出た当初、当時の財務部長(前任)は、競争入札を行ふべく、大手信託銀行などに相談してゐた。その過程で、相談先からは、「三億円前後の値がつくだらう」といふ評価を受けてをり、また実際に内々に、「三億円近い買ひ取り額を提示する買ひ手もゐた」(当時の事情に詳しい本庁関係者)といふ。それが、内規で原則禁じられてゐるはずの随意契約により、一億円以上低い金額でたゝき売られたことになる。

 では、なぜ随意契約による一億八千四百万円といふ売却額が、評議員会で承認されたのか。デインプルとの随意契約に後ろ向きだつた前財務部長が『更迭』され、氏が財務部長に変はると、話は一気に進む。評議員会や役員会で説明を求められたK氏が、売却の経緯や金額の根拠を説明した議事録(神社業界誌掲載)によれば、「入札に至るまでの時間的制約により、随意契約的な内容で契約を取り交はした」。また「不動産鑑定評価書に示す価格(中略)など、総合的に検討した結果、提示価格は適正の範囲内であると判断した」とある。まづ入札にかけられないほど、緊急の時間的制約があつたのかだが、「不動産の価格は流動的で、デインプルに即座に売らなければ、値下がりするかもしれない」などと、デインプルとの契約を推し進めた幹部たちは説明したといふ。「そんな理由がまかり通るなら、不動産売買全てが、随意契約でしか行へないことになる」と、さらに別の本庁関係者は呆れる。実際、即日転売で二億円を超え、さらにわづか半年後には、当初の想定してゐた売価三億円を超える値で買ひ手がついてをり、何とも苦しい。また売価の根拠として、真つ先に挙げられたこの不動産評価鑑定書は、実は、購入者であるデインプル自身が持ち込んだもの。そこには、鑑定時の同行者として、ご丁寧にもデインプル社員の名前まで記載され、その評価額は一億七千五百万円となつてゐた。

 これを本庁側が、本当に信用したのか、その真相は分からない。しかし三為契約の舞台となつた地銀は、A社のものになつてゐた百合丘職舎の土地・建物に、計三億円の根抵当権を設定してゐた。無論、根抵当の額は、必ずしも資産価値を担保するものではないが、B社の買ひ取り額を見ても、安すぎることは間違ひないといへる。B社担当者は言ふ。「われゝゝも不動産のプロ。実勢価格などを精査し、三億円超の価値があると判断したが、常識的に考へて、わづか一億八千四百万円といふ額には、『ちよつと待つてくれよ!』と、文句を言ひたくなる」。

売却益で、幹部職舎に高級マンシヨン危機管理名目にも、疑問の声

この話には、二つの『オチ』がつく。

 まづ神社本庁が百合丘職舎の売却益で購入した『モノ』が、問題視されてゐる。複数の本庁幹部と役員関係者は、異口同音に眉をひそめる。「危機管理用の新たな職舎といふ名目で、渋谷区代々木の中古の高級マンシヨンを購入。その入居予定者が、なんとデインプルへの早期売却を推し進めた、本庁の幹部二人だつた」(前出の本庁関係者)からだ。つまり職員用宿舎から入居者を追ひ出して得たカネを使ひ、一部の幹部が住むための家を買つてゐた、といふわけだ。この「二人の入居予定者」とは、百合丘職舎の売却時、本庁総務部長だつた小野崇之氏と、当時は秘書部長で、現在は小野氏の後任の総務部長に『出世』した(愚案、眞田宜修)氏。本庁人事において、実質的な権力を握る二大ポストが、この総務部長と秘書部長だ。だが昨年二月、小野氏が伊勢神宮に次ぐ有力神社の一つで、全国八千社の八幡神社の頂点、宇佐神宮(大分県)の宮司に栄転。それが影響してか、当初は二戸購入する予定だつたものが、総務部長(つまりS氏)が入る一戸に減らされた。

 これには、末端の本庁職員も、一様に苦笑ひだ。
「緊急時の危機管理対応用と言つておきながら、入居予定者が、外部に栄転したら買はないとは、そもゝゝ始めから一戸は必要なかつたのでは、と言はれても仕方ない。S氏は、秘書部長当時、『秘書部長は、役員との連絡係だから、緊急時に備へて、宿舎が必要だ』と言つてゐたが、役員には携帯で連絡すればいゝし、自分が総務部長になつた途端、秘書部長用の宿舎を買はないのは、それまでの説明と矛盾してゐる」。
「緊急時に実働する職員たちの大半は、百合丘職舎より遠い郊外に住んでゐる。緊急の事態に、総務部長一人だけが駆け付けて、一体、何ができるんですかね? ましてや、今回購入したマンシヨンは、それまでの危機管理対応宿舎よりも遠い。本当に危機管理対応が目的なのか、と言ひたくなる」。
かうした声が、あちらこちらから上がつてゐるが、現総務部長のS氏が入居したマンシヨンの購入価格は、中古ながら都心の一等地に建つてゐるだけあつて、なんと七千二百六十万円にも上る『超高級物件』だ。

 そしてもう一つの『オチ』が、三億円超を出して『バヾを引いた』格好の大手ハウスメーカーB社が、今年二月までに、「百合丘職舎の躯体(柱など構造的部分)に、購入後、大きな瑕疵があつた」(B社担当者)と指摘したことだ。B社は、元々リノベーシヨン物件として再販するために百合丘職舎を購入したが、この瑕疵により、いまだ着工できない状態にあるといふ。B社は、現在「買ひ戻してもらふか、損害賠償を請求するか検討してをり、売主(つまりA社)にクレームを入れてゐる最中だ」(同じ担当者)。

 こゝで、更なる疑惑が浮上する。さらに別の本庁関係者は言ふ。
「神社本庁の一部やデインプル社が、実は瑕疵を隠して売つたのではないかといふ疑惑が出てゐる。もしさうなら、一億八千四百万円といふ売価は、腑に落ちる。だがさうなると、詐欺に該当し、刑事事件に発展する可能性もある」。
かうした疑惑の根拠となつてゐるのが、先の議事録。財政部長のK氏は、売価が安くなつた理由の一つに、問はれてもゐないのに、「売却後の瑕疵による経費発生の有無」を挙げてゐるのだ。不動産評価鑑定書に、「瑕疵」についての記載は、一つも見当たらないにもかゝはらず、である。

デインプルの社長と神社界『大物』の浅からぬ関係

 では、なぜデインプルが「随意契約的な内容」で、百合丘職舎を手中に収めることができたのか。「デインプル社長の(愚案、髙橋恆雄)氏は、小野氏と懇意な関係にある神社界の『大物』と、かねて繋がりがある」と、複数の本庁関係者は、ため息を漏らす。ある本庁関係者は、「本庁の人間なら、誰でも知つてゐることだが‥‥」と、前置きした上で言ふ。

「デインプル社長のT氏は、実は『日本メデイアミツクス』といふ会社の社長も務めてをり、その取締役に、日本レスリング協会長を務める福田富昭氏が就いてゐる。その福田氏は、本庁の元幹部である神政連会長の打田文博氏と懇意にしてゐる。そして打田氏は、本庁の総長である田中恆清氏と盟友といふ関係。かうした流れで、デインプルは本庁との関係を深めてゐた。また小野氏は、打田氏の腹心で、その後継者が、現在の総務部長S氏だ。小野氏は、本庁の関係財団の過去の土地取引で、デインプルと密接な関係があつた」。

 ちなみに日本メデイアミツクスは、「日本で唯一の『皇室』専門誌」と謳つて、「全国の神社が、半ば強制的に買わされてゐる」(ある神職)といふ季刊誌『皇室』(扶桑社)の販売会社だ。実際、デインプルと本庁との関係は古い。平成十二年に、本庁の関係財団が、神職養成機関である國學院大学に土地を売つたことに、端を発する。この売却益を元手に、関係財団が、本庁に隣接するビルを購入。そのビルを三ケ月前から所有してゐたのが、デインプルだ。当時、本庁の財政部長で、この関係財団の事務局長を兼務してゐたのが、小野氏である。そして二十四年には、本庁の所有する中野職舎(中野区)と、南青山のマンシヨンも、デインプルに売却されるなど、同社は、本庁の不動産取引に深くコミツトするやうになつた。なほこの二物件とも、百合丘職舎と同じく、即日転売されてゐる。

 百合丘職舎をめぐる一連の取引について、小野氏は弁護士を通じ、書面で「神社本庁の問題であり、現在、神社本庁において、しかるべき調査が進行中と聞く。(小野氏が宮司を務める)宇佐神宮の問題ではないため、回答すべき事項ではない」とした。またデインプルから、百合丘職舎を三為契約で購入した不動産会社A社担当者は、「(瑕疵の存在は)知らなかつた」とする一方、「何も話すことはない。社長も、さう言つてゐる」とした。そしてデインプルのT社長は、期限までに取材に応じることはなかつた。だが本庁関係者によれば、瑕疵が発覚した今年二月以降、T氏は、数度にわたつて本庁を訪れ、「百合丘職舎が解体されてゐれば、問題はなかつた」とし、「『随意契約ではない』、『三億円の価値はなかつた』と言ふやう、約束してほしい」などと、本庁幹部に迫つたといふ。

 不動産取引をきつかけに、揺れる神社界の中枢である神社本庁。田中総長は、今月、「司法の場での判断に委ねられるやうな問題」として、名誉毀損による刑事告訴に向けて動き始めた。片や、百合丘職舎の契約に疑問を抱く小串和夫・本庁副総長は、調査委員会を立ち上げ、今月から真相解明に乗り出してゐる。つまり「本庁首脳間で、ねぢれ現象が起き、分裂状態にある」(前出の本庁関係者)わけだ。「一連の出来事を、をかしいと感じてゐた人たちも、一部にはゐたが、ほとんどの神職は性善説に立ち、争ひを好まないため、事務方の決定を踏襲するだけだつた。それが、今回の問題を生んでゐる」(本庁役員会関係者)。

 神社界の疑惑は、どこまで白日の下にさらされるのか、関係者は固唾を飲んで見守つてゐる。

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【周防國熊毛郡の四代正八幡宮の慘劇】
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之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず ── 教育勅語を仰ぐ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 3月12日(日)22時37分37秒
返信・引用 編集済
  ■『教育に關する勅語』漢譯(『漢英佛獨・教育勅語譯纂』明治四十年・文部省刊)

 朕惟、我皇祖皇宗、肇國宏遠、樹徳深厚。我臣民、克忠克孝、億兆一心、世濟其美、此我國體之精華、而教育之淵源、亦實存乎此。

 爾臣民、孝于父母、友于兄弟、夫婦相和、朋友相信、恭儉持己、博愛及衆、修學習業、以啓發智能、成就徳器、進廣公益、開世務、常重國憲、遵國法、一旦緩急、則義勇奉公、以扶翼天壤無窮之皇運。如是者、不獨爲朕忠良臣民、又足以顯彰爾祖先之遺風矣。

 斯道也、實我皇祖皇宗之遺訓、而子孫臣民之、所當遵守、通諸古今、而不謬、施諸中外、而不悖、朕庶幾、與爾臣民倶拳拳服膺、咸一其徳。

 明治二十三年十月三十日。

御名御璽。




■明治天皇聖喩『教學大旨』(明治十二年。元田永孚謹記。森清人翁『みことのり』平成七年六月・錦正社刊)

 教學の要、仁義忠孝を明かにして、智識才藝を究め、以て人道を盡すは、我が祖訓國典の大旨、上下一般の教とする所なり。然るに輓近、專ら智識才藝のみを尚び、文明開化の末に馳せ、品行を破り、風俗を傷ふ者、少なからず。然る所以の者は、維新の始め、首として陋習を破り、知識を世界に廣むるの卓見を以て、一時西洋の所長を取り、日新の效を奏すと雖も、其の流弊、仁義忠孝を後にし、徒らに洋風、是れ競ふに於ては、將來の恐るゝ所、終ひに君臣父子の大義を知らざるに至らんも、測る可からず。是れ我が邦教育の本意に非ざる也。

 故に自今以往、祖宗の訓典に基づき、專ら仁義忠孝を明かにし、道徳の學は、孔子を主として、人々、誠實品行を尚び、然る上、各科の學は、其の才器に隨つて、益々長進し、道徳才藝、本末全備して、大中至誠の教學、天下に布滿せしめば、我が邦、獨立の精神に於て、宇内に恥づる事無かる可し。




●梧蔭井上毅子『元田永孚に與ふる書』(明治二十三年十月二十二日)

「愚見にては、内閣の政事に混雜せずして、一に聖主の親衷より斷ぜられ、内閣大臣の副署なき勅語、又は御親書の體裁にして、廣く公衆へ御下げに相成り候ふ方、然る可きか歟。‥‥若し副署ある一の政令となりて發せらるゝ時は、國會にて啄を容るゝ所の内閣、責任政略の一と看做され、後日に政海の變動と共に紛更を招くの虞れあるべく、却て千載不滅の聖勅の結果を薄弱ならしむべきか歟、御熟思、之れ有り度く冀ひ奉り候ふ」と。



●東野元田永孚男『内閣總理大臣・山縣有朋に與ふる書』(明治二十三年十一月三日)

「囘顧すれば、維新以來、教育の主旨定まらず、國民の方向、殆んど支離滅裂に至らんとするも、幸ひに聖天子、叡旨の在る所と、諸君子、保護の力とを以て、扶植矯正、今日に至りたる處、未だ確定の明示あらざるより、方針に迷ふ者、少なからず。

 然るに今般の勅諭にて、教育の大旨、即ち國民の主眼を明示せられ、「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」、實に天下萬世、無窮の皇極と云ふべし。彼の不磨の憲法(大日本帝國憲法)の如きも、時世に因りては、修正を加へざるを得ざるも、此の大旨(教育勅語)に於ては、萬世に亙りて、復た一字も易ふ可からず矣」と。



●田中卓博士『教育勅語を仰ぐ』(『日本』昭和四十二年十月號。日本思想史研究會『教育勅語を仰ぐ』昭和四十三年十一月・皇學館大學出版部刊に「日本教育のバツクボーン」として所收)

「教育勅語の飜譯は、單に英語・ドイツ語のみではない(戰後の獨逸にては、教育勅語の價値を失はず、例へばアデナウアー元首相は、其の官邸に獨譯を掲げたりと云へり)。實はフランス語も支那語もある。そしてその飜譯者は、他ならぬ日本の文部省であつた。明治四十年、文部省は、教育勅語の英譯を公にした。そしてそれには、教育勅語發布の由來書まで附載した。その後、漢語譯(愚、上記を拜記す)ができ、引きつゞいてフランス語譯・ドイツ語譯ができたのでこれをあはせて一卷とし、明治四十二年、文部省より『漢英佛獨・教育勅語譯纂』と題して公刊された。

 すなはち教育勅語は、その發布後二十年間に、日本國民の精神をつちかひ、日清・日露の戰勝を經て、大いにわが國威を發揚せしめたが、政府は、さらに文字通り「之を中外に施して悖らず」といふ信念をもつて、外國譯に飜譯し、精神的にも日本の道義を海外に宣布しようとしたのである。いはゞ千二百餘年前、日本の歴史を漢文で書き、『日本書紀』と題して唐人に示さうとした父祖の態度と同じである。何とすばらしい氣概、堂々たる識見であらうか。あゝ、『明治の精神』。この精神、なかんずく教育勅語を復活することこそが、明治維新百年を迎へての眼目でなければならぬ」と。



 愚案、かつて東野元田永孚翁『聖喩記』を、蘇峰徳富翁の書から拜抄して、同憂の士の清覽に供せしことあり。目的の爲めなら手段を撰ばざる所の、何某記念小學院の創立にかゝはつて騒擾する折柄、こゝに再掲して、教育勅語の、宇内に神聖たる所以、また古今に普遍たる所以を高唱し、
代々木大神の大御心より發せらるゝ所にして、世界皇化の大眼目なる可きを喚起すと云爾。
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/genda.htm



●蘇峰徳富猪一郎翁『増補・元田先生進講録』(昭和九年六月・民友社刊・普及版)に曰く、

「聖喩記・明治十九年丙戌十一月五日・元田永孚謹記

 十一月五日午前十時、例に依り參内、既にして皇上出御、直ちに臣(元田永孚)を召す。臣、進んで御前に侍す。皇上、親喩して曰はく、

「朕、過日、大學に臨す[十月二十九日]。設くる所の學科を巡視するに、理科・化(學)科・植物科・醫科・法科等は、益々其の進歩を見る可しと雖も、主本とする修身の學科に於いては、曾つて見る所無し。和漢の學科は、修身を專らとし、古典講習科ありと聞くと雖も、如何なる所に設けあるや、過日、觀ること無し。

 抑も大學は、日本教育高等の人材を成就すべき所なり。然るに今の學科にして、政治治要の道を講習し得べき人材を求めんと欲するも、決して得べからず。假令ひ理・化・醫科等の卒業にて、其の人物を成したりとも、入つて相となる可き者に非ず。當世復古の功臣、内閣に入つて政を執ると雖も、永久を保すべからず。之を繼ぐの相材を育成せざる可からず。然るに今、大學の教科、和漢修身の科、有るや無きやも知らず。國學・漢儒、固陋なる者ありと雖も、其の固陋なるは、其の人の過ちなり。其の道の本體に於いては、固より之を皇張せざる可からず。

 故に、朕、今、徳大寺侍從長に命じて、渡邊總長に問はしめんと欲す。渡邊、亦た如何なる考慮なるや。森文部大臣は、師範學校の改正よりして、三年を待つて地方の教育を改良し、大いに面目を改めんと云つて、自ら信ずると雖も、中學は稍々改まるも、大學、今見る所の如くなれば、此の中より眞成の人物を育成するは、決して得難きなり。汝(永孚)、見る所、如何」。

 臣(永孚)、謹んで對へて曰く、

「陛下の言、此に至る、皇國生民の幸なり。臣、曩(さき)に命を奉じて、徳大寺と共に大學を巡視し[十月十八日]、竊かに感覺する所あり。徳大寺、先に既に反命するを以て、臣、未だ敢へて陳せず。謂へらく、臣、敢へて言はずと雖も、陛下、一たび臨御せば、必ず叡心に覺る所あらん」と。

 今、宸勅を奉ずるに、果して臣が見る所の如し。臣、嘗つて大學々科の設けを聞くに、修身の學科なし。和漢の學は、文學科に和漢文ありと雖も、僅かに和漢の文章を作るのみ。哲學科に東洋哲學ありと雖も、是れ亦た僅かに經書聖賢の話を述ぶるのみ。加之(しかのみならず)、僅かに時限を以て、匆々に經過すれば、和漢修身の學も、僅かに名のみにして、其の勢、將に廢棄せられんとす。其の教科にある教官は、物見高見・島田重禮等、僅々たる一二員にして、其の餘は、皆、洋學專修の徒、而して此の人々たるや、大抵、明治五年以來の教育に成立したる者にして、西洋の外面を摸彷し、曾つて國體君臣の大義、仁義道徳の要を聞知せざる者共なり。彼の某等の著書を一見しても、其の放言する所に依て、其の思想の赴く所を概見すべし。此等の腦髓を以て生徒を教導せば、後來の害、實に恐る可きなり。今にして此を停止せざれば、復た挽囘すべからず。

 今、陛下の眞衷より發し、徳大寺を遣はされ、渡邊總長に詰問賜はらば、皇道の興張、果して此より生るべき也。臣、誠恐、深く陛下の此の言に感仰欽敬す。臣、敢へて一身を顧みず、唯だ陛下の命ずる所、森大臣・渡邊總長に向つて問難する所あらんとす。然れども臣、竊かに自ら量るに、臣が漢學者流にして、陛下の左右にあるは、衆目の視る所なり。故に臣が言を出さば、陛下眞衷の勅語も、故は臣が上言して作爲する所と、疑を容れんも知るべからず。是れ臣が、謹んで敢へて自ら任ぜざる所なり。

 抑も教育の重大なる、夙に陛下の深く慮る所、『幼學綱要』の欽定ありしより、漸くにして米國教育の流弊を救正し、世上、再び忠君愛國の主義に赴き、仁義道徳を唱ふる者あるに至りしも、去去年より、又た復た洋風に傾き、昨今に至つては、專ら洋學と變じ、和漢の學は、將に廢絶に至らんとするの勢、有志の士、皆、大いに憂慮する所なり。但だ國學・漢學の固陋なるは、從來、教育の宜しきを得ざるに因る。其の忠孝道徳の主本に於いては、和漢の固有なり。今ま西洋教育の方法に由つて、其の課程を設け、東洋哲學中に、道徳の精微を窮るに至るの學科を置き、忠孝廉恥の近きより進んで、經國安民の遠大を知得することを務めたらんこと、眞の日本帝國の大學と稱すべきなり。今の設けの如くしては、聖喩の如く、名醫は多人數成就するも、政事は執ることはなるまじく、法學にて、君徳の輔佐も充分ならず、理科・植物・工科等にて、其の藝に達したりとも、君臣の道も、國體の重きも、腦髓に之れ無き人物、日本國中に充滿しても、此を以て日本帝國大學の教育とは云ふべからざるなり。

 自今以往、聖喩に因つて、和漢の學科を更張せんには、其の道に志ある物集・島田等の如き、聊かも國學に僻せず、漢學に泥まず、西洋の方法に因つて教科を設け、時世に適應して、忠孝道徳の進歩を生徒に教導せんこと、何の難きことあらん。其の風氣の及ぶ所、必ず國學・漢學者中に奮發して、國用に供する者出で來るべき也。當世の風潮は、面々各々、其の辯を振ひ、其の腕を伸ばし、唯だ進んで取ることを要するの時に際しては、自分一歩も退くべからず。素より彼等に抵抗するにも及ばず。唯だ地歩を占めて進む時は、一歩も拔かさず、吾が道徳仁義を進入せしむるを以て、當世の著眼となすべきなり。是れ臣が平生の見る所、深く陛下の勅喩を敬承贊美し、速かに徳大寺に命ぜられ、渡邊總長に下問あらんことを希ふ所なり。更に宜しく伊藤大臣・吉井次官等にも、聖意の在る所を御示喩あらんことを欲す。

 右、謹んで上言する處、聖顔、喜色麗しく、更に又た反復懇喩あり。一時間餘にして退く」と。



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明治御一新百五十年。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 3月 4日(土)11時32分3秒
返信・引用
   本年は、「明治維新百五十年」なり矣。

 五十年前の昭和四十二年には、神道界に於いて、「明治維新百年祭」が齋行された。然し俗流の蔓延る所、翌四十三年の百周年が採用され、且つ「維新百年」では無く、「明治百年」とされた。

 更めて問ひたい。

一、抑も「明治維新百五十年」なのか、「明治百五十年」なのか。

一、殊更に維新百五十年を想起せむと欲するならば、本年の「百五十」なのか、來年の「百五十周年」なのか。

を。下記は、かつて掲記した所、默し難きものあつて、再掲するを許されたい。即ち我が神道界およびそれに連なる陣營は、本年こそ、「明治維新百五十年」であつて、之を想起し、之を祭り、之を顯彰されむことを、固より確信し、確く信じたい。



●保田與重郎翁『年の始め』(『全集』第二十七卷に所收)に曰く、

年の始めといふ、「とし」といふ言葉は、米のことである。人の齡ひを「とし」といふのも、米がもとである。米がもとといふことは、食つた米を意味し、人が社會において共同生活をしてゐるといふことをもととしたうへで、米作の年度をかぞへるのである。かぞへ年は、だから簡單にいふと、一年に一度とれる米を一とし、それをいくつ食べたかといふ勘定である。この點、滿年齡とは、考へ方として、まつたく異なるものである。かぞへ年は、共同生活をもとにして考へられたものだが、滿年齡は、個人の生きた日數といふものに立脚する。つまり個人主義の考へ方である。米にもとづき、米作りといふ共同生活にもとづく年の考へ方からして、共同生活の一年を無事おくり、また新しい出發が、よみがへりとして始まる、この永遠の泰平といふ觀念に、年の始めの「めでたさ」がある。

 米をつくり、それによつて生きてゆく生活といふものが、人生において「永遠のもの」と考へたとしても、今だつて反對できないと思ふ。米を玄米のまゝ食ふときは、パンの生活とちがつて、ほゞ完全食に近いといふことも、今日の榮養學で、實驗の結果として出てゐる。麥、すなはちパンの生活では、必ず家畜と牧場が必要だつた。牧場が必要だから、廣大な土地を支配するといふ繩張りの必要と、侵略排他の考へ方が、生活の必要からして起つてくる。人一人がまともに暮らして、耕作できる水田は、五段[五十アール]で十分、欲ばつても、一人で五町[五百アール]は作れない。この米作りを基本とするとき、民族の生命に無常といふものはない。個人の諸行は無常でも、ふるくからの神話的生活は永遠である。この永遠の生活を守るものが、神を祭る主體であり、國體の實體といふべきものとして、永遠につゞくと信じたのが、日本のふるくからの考へ方だつた。明治以來、よくいはれた「國體の精華」は、つまり「米作り」に、その基礎があつたのである。‥‥

 日本の神話では、いはゆる天孫降臨といふ、高天原から皇孫命が天降(あも)りされるとき、神聖な稻穗を、天上の神から「こと寄さされた」。そのとき神敕があつて、この米を作つてくらしのもととするなら、地上においても、また、天上の神々と同じくらしの風儀ができる。地上の國も、みな、天上の神々の國と等しい神國となるだらう、と教へられた。この責任を神に負ひ給ふのが、皇孫である。すなはち、天皇陛下である。‥‥

 高天原で米の種をいたゞいて地上に降り、これを地上でつくるなら、地上でも神々の生活、天上の生活ができるといふのが、日本の神話の根本だつた。これが實現されたのが、神武天皇の肇國である。その肇國の實體は、土地を拓いて米を旨とした農耕を成就し、その成果を、神の大前に上つて、大孝を申されたことにある。この大和櫻井の鳥見山で行はれた祭りが、肇國の大嘗祭だといふことは、封建末期の國學者も、大よそは知つてゐた。わが國の歴史時代を通じて、天皇の御位は、大嘗祭を行ふことによつて、名實具はるとしたのは、この神武天皇肇國の故事にならふからである。このとき「大孝を申す」と、『日本書紀』にしるされてゐる點に注意せねばならない。この語義は、ふるいむかしから、御祖の教へに從つた由を奏上されたとよんできた。天降りの時の神敕を、つひに實行しましたといふ證を立てられたわけである。

 このことから、わが國の天皇は、つねに一つであり、つねに皇孫であるといふことが理解される。つまり天皇は、天降りのときの神敕を實現する中心であつて、代々をへても、つねにこの意味で一つなのである。このつねに一といふことが、永遠の證である。神話の生活の實現の中心として、その存在は唯一である。このことが、いはゆる「萬世一系」といふことばの意味であり、同時に「天壤無窮」の意味でもある(愚案、上御一人の、人格を建てない、絶對唯一の皇孫)。くだいていふと、米作りを生活の根本とし、その生活から生れる道徳によつて生きてゆくといふことが、萬世一系・天壤無窮の實證的な意味である。いつさいの權力も榮華も欲望も無常だつたが、「米作り」は、萬世一系の永遠のものであるといふ考へ方である。米作りの生活は、牧畜の生活と異なつて、本質的に爭鬪や侵略や殺生を伴はない、平和の原理生活である。つまりこの世の中で、平和の根柢となる觀念は無數にあつて、平和だけが實現しないが、平和の根柢となる生活は、たゞ一つしかない、日本の神話の米作りといふ、天上生活を地上に實現することである。これが國體の觀念であることは、皇大神宮の祭祀を見てもわかるし、天皇陛下の最も根源的な年中行事を拜してもわかることである。天皇は、天降り神話を、この世に實現しつゝ、現實に米作りをなされることが、その御本質なのである。米作りは、祭りの生活なのである。

 かういふ意味で、天皇は「働く」ことを實行遊ばされるが、「所有」といふことは、絶對無關係なのである。天皇は財産をもたれないといふことは、國史上の眞實であり、天皇の御本質を申す時の第一項だつた。天皇は所有權と無縁で、神話を地上に實現される中心の御存在である。これが祭りの主宰といふ意味だつた。しかも神話の實現といふのは、米作りといふ素朴な生活を意味してゐる。これがわが神話であり、わが國で「道」といはれるのは、この生活である。このやうな平和な神話をもつ民族は、日本以外、どこも存在してゐまい」と。
 
 

野中祭寫眞

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 3月 1日(水)22時07分10秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 平成二十九年野中祭にて、小生、初めて寫眞をスマホにて撮らうと試みたものゝ、まごつき、其の機を逸してしまつた。然し參列の或る御方が、親切にも小生に寫眞を送つて下さつた。掲示して謝意を表したいが、投稿可能なフアイルサイズは、最大四MBの由。掲示せむと欲して能はざるを、何卒、御許し下さい。



追伸。

 復た「はゆまつかひ」樣の温情を戴きました。何時も感謝に勝へません。然し小生も頑張つて、試してみます。上手く掲示出來るかな。
  ↓↓↓↓↓
 パチパチ‥‥出來ました。
 
 

天壤無窮 ── 野中四郎命八十二年祭齋行。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月27日(月)18時48分39秒
返信・引用 編集済
   平成二十九年二月二十六日、野中四郎命の八十一周年、即ち八十二年祭が、吉備國に於いて齋行された。
  ↓↓↓↓↓
http://koudoupress.net/%e3%80%90226%e3%80%91nonaka81/

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2449



 本年の祭典は、珍らしく暖かく、體調を崩してをつた小生も、此の日だけは無事に參加するを得た。道縁に感謝。或人の曰く、「百年祭までは、何としても‥‥」と。胸に迫る。
 
 

袋背負ひの心は、赤猪抱きを辭せず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月19日(日)23時03分18秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 阿部國治翁の曰く、

「この(大國主命の)『赤猪抱(あかゐだき)』の示してをることは、當り前のこと、正しいこと、世の中のためになることを行ふ者は、すぐには世間から、譽められたり認められたりはしないものであるといふことであります。それどころか、良いことをすると、そのためにかへつて憎まれて、惡口を言はれたり酷い目に遭つたりするものであります。

 『ふくろしよいのこゝろ』を持つて仕事をしていくと、赤猪を抱かねばならぬ場合があります。『ふくろしよいのこゝろ』の窮まるところは、死の覺悟であります。道に合ふことを實行するに當つては、何人に認められずとも、あるいはまたさらに進んで、そのために憎まれ嫌はれて、死なねばならぬことも、默つて進んで行かなければならぬこともあつて、かういふいろゝゝなことを、お諭しになつてゐるのであります。‥‥

 先の見える人や、ものゝ眞相の見える人は、他人から何と言はれても、「かういふことは、せねばならぬ」と信ずることは、率先して實行したり、人に教へようとするわけです。さうすると、一般の人からは、「物好きだ」と言はれり、「氣違ひだ」と言はれたり、ときには迫害をすら受けることになりますが、これも一種の『あかゐだき』であります。

 したがつて昔から、本當の仕事をするときには、「神さまを相手にせよ」とか、あるいは「天を相手にせよ」とか申します。このやうに「神さまや天を相手に仕事せよ」といふことは、「人間のことを考へるな」といふことではないのであります。結局、人間を相手として、人間のためにする仕事ですけれども、「當面する人々の氣持ち・主張を取り上げてをつたのでは、本當の仕事ができない場合がある」といふこと、つまりこの赤猪抱きのことを教へてゐるのであります。

 かういふことを、こゝに書くのはどうかと思ひますが、『あかゐだき』をはつきりわかつてもらふのに、まことによい材料になると思ひますから申し上げます。筧克彦先生などは、世間の人々が、神道とか國體とかいふことに、まつたく無關心の頃から、そのいちばん酷かつた頃を通して、三十年以上も長い間、あらゆる障害をものともせずに進んでこられました。そのために、「神さまををがむ先生だ」、「それも柏手を打つて、神さまををがむ先生だ」と言つて、大學教授(東京帝國大學)の仲間からも、學生からも、嘲笑はもちろんのこと、氣違ひ扱ひにされてきました。一頃は大新聞や大雜誌に、先生の噂話が出ると、決まつてもの笑ひの種としてゞありました。

 日本歴史の上に例を取つてみますと、楠木正成公のことが、すぐ思ひ出されます。正成公の湊川での戰死は、立派な『あかゐだき』であります。西郷さんは、島津藩侯による島流しがありましたし、勤王僧・月照との心中事件・十年戰爭(西南の役)など、何囘も何囘も、『あかゐだき』をやつてをります。吉田松陰の生涯も、『あかゐだき』の連續でありました。このやうに教へてきますと、日本歴史の上で、立派な日本人として傳へられてゐるやうな人は、例外なく、『あかゐだき』を實行してゐると言つてよいと思ひます。‥‥

 だからこそ、「立派な人になつて、歴史に名を殘すやうになりませう」と言ふよりは、「必要とあらば、『あかゐだき』をやりませう。そして『うるはしきをとこ』となつて、出て歩きませう」と言ふはうが、われゝゝ日本人には、はつきりと響くはずであります」と。



 愚案、靖國神社祭神は、此の「赤猪抱き」の實行、即ち大國主大神の精神、換言すれば大和魂を發揮し給うたのであります。故に輝かしき國史の上に於いて、皇神の恩頼により、遂に蘇り來つたのであります。また一人の門弟に因つて、筧克彦博士も、其の面目が明かにせられました。先哲賢人の精神は、其の精神を繼承する者に因つて、復た見事に蘇るのであります。我々も、ぼやゞゝしてをられませぬ。



**********


●阿部國治翁著・栗山要氏編『新釋古事記傳』全七卷(平成二十六年四月・致知出版社刊)

○第一集
第一章・ふくろしよひのこころ(袋背負ひの心)
第二章・あかゐだき(赤猪抱き)

○第二集
第三章・へみはらひ(蛇撥ひ)
第四章・しらみとり(虱取り)
第五章・うきゆひ(盞結)

○第三集
第六章・すくなさま(少彦名)
第七章・おまつり(齋奉り)

○第四集
第一章・なきいさち(啼きいさち)
第二章・まゐのぼり(參上り)
第三章・いつのをたけび(稜威の男建び)
第四章・うけひ(受け日)

○第五集
第五章・あめのやすかは(天安河)
第六章・あめのまなゐ(天之眞名井)
第七章・いふき(氣吹き)
第八章・やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま(八尺勾瓊之五百津之美須麻琉之珠)
第九章・みこのりわけ(子詔別)
第十章・かちさび(勝佐備)

○第六集
第十一章・のりなほし(詔直し)
第十二章・みかしこみ(身畏み)
第十三章・おこもり(天岩屋戸籠り)

○第七集
第一章・かむつどひ(神集ひ)
第二章・おもひかね(思兼)
第三章・とこよのながなきどり(常世長鳴鳥)
第四章・かがみ(鏡)
第五章・たまつくりのこころ(玉作りの心)
第六章・うらへ(占合へ)
第七章・いほつまさかき(五百津賢木)
第八章・やまたのをろち(八俣遠呂智)
  
 

阿部國治翁『新釋古事記傳』全七卷

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月18日(土)23時04分27秒
返信・引用 編集済
  ■橘曙覽大人の哥

神々に 一人おくれて 負ひ給ふ 袋にこもる 千の幸はひ



 最近、Twitterにて、何方かが、阿部國治翁『新釋古事記傳』全七卷を紹介してをられ、今、あらためて確認しようとしたが、當該呟きが見當らぬ。然し大いに氣になり、思ひ切つて購入した。御紹介の御方に、深く感謝したい。冗長な所が些か氣にはかゝるものゝ──驚いた、平明なる文章と見事なる解釋。眞の名著として、大人にも子共にも、強く推奬する。早速、我が愚なる妻子にも讀ませたい。

 「私(阿部國治翁)は、筧克彦先生によつて、魂の目を開いていたゞきました。そしてまた『古事記』の味はひ方に、本道のあることを悟らせていたゞきました。それ以來、いつもゝゝゝ『古事記』と取り組んでをります。『古事記』を味はひながら、あるときは泣き、あるときは喜びつゝ、日常生活の指導原理を、全部『古事記』の中から汲み取つてをります。いはゞ『古事記』は、汲んでも汲んでも汲みきれることのない泉のやうな、『たましひ』の糧なのであります」と。此のやうな御本は、ハード本では無く、是非とも文庫化して、『古事記』入門の契機としてもらひたい。



●阿部國治翁著・栗山要氏編『新釋古事記傳』全七卷(平成二十六年四月・致知出版社刊)

○阿部國治翁の書(昭和十三年三月三十日筆)

切散八俣遠呂智──切り散(はな)つ、八俣遠呂智
負帒爲從者率往──袋を負(しよ)ひ、從者(ともびと)と爲りて率往(ゐき)き

○栗山要氏の解説

 意譯すれば、「八俣遠呂智(八岐大蛇)を遠ざけて、袋を背負ひ、從者となつて、人生を歩いていかう」といふことにならうか。

 『日本書紀』には、八岐大蛇について、「頭と尾が、それぞれ八つあり、眼は赤酸奬(あかほおずき)のやうである。松や柏が背中に生へ、八つの山・八つの谷の間いつぱいに廣がつてゐた」と書いてある。そして前後の記事から推察すると、「若い女と酒が大好きだつた」やうである。言つてみれば、周圍を睥睨する權力者の象徴であらう。「その八俣遠呂智のやうな權力者の生き方と決別して、大國主命のやうに、袋を背負つて、世の中の下積みになるやうな仕事をしていかう」といふのが、筆者の決意だつたに違ひない。

 事實、筆者は、東京帝國大學法學部英法科首席卒業といふ榮光を擲ち、疲弊にあへぐ農民救濟のために、地下足袋を履いて、全國の村々を歩いてゐる。そのまゝ進めば、東京帝國大學法學部教授、官界に入れば、高級官僚への道が約束されてゐたであらう人生を、自ら拒否して、『袋背負ひの心』に徹したのである。
 
 

神武開國

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2017年 2月11日(土)12時04分24秒
返信・引用
  本日は天壤無窮の祝日なり。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/26

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/35


 

明日は、紀元節なり。祝ひ奉らむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月10日(金)19時11分12秒
返信・引用 編集済
  ●靖國神社宮司・賀茂百樹縣居宿禰眞定大人の哥「神武天皇」(昭和九年。『中今亭雜歌』昭和十四年九月・中今亭刊)

人の世の 國の始めの 推(おさへ)とて 天壓神と たゝへたりけむ

萬代の 國の押へを 守ります 天壓神の みいづかしこし

肇國の 天壓神の 大御稜威 いかにかしこく 尊かりけむ

天の下 押し竝めましゝ 壓神の みいづはいかに かしこかりけむ

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/273



 平成丁酉の紀元節を祝ひ奉らむと欲するに、賀茂葵園翁の瑞歌を以てす。
 
 

明日は節分。邪氣は外。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月 2日(木)22時02分9秒
返信・引用
   「國語が一字も無い、意味不明の異國語」なるスパム投稿、今日だけでも、只今、八件。

 非表示にしても、執拗千萬、益々襲ひ來れり。投稿意欲を殺ぐのが、其の目的なのか。そろゝゝ堪忍袋の緒が切れさうだ。

 teacup.管理者殿の玄人にして、手に負へぬのか‥‥。そもゝゝ相手にもしてくれぬのか。寒い‥‥。寢る。
 
 

三宅萬造翁の寫眞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月27日(金)18時09分48秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

援軍、當に來れり。是れも神縁なる可し矣。不器用なる小生の爲めに、「はゆまつかひ」樣が、三宅萬造翁のPDF寫眞を、九段塾用に變換して下さつた。
感激鳴謝。謹みて掲げて、翁を偲びまつらむ。

「都羅山人三宅萬造翁」は、モネの繪畫「睡蓮」(倉敷なる大原美術館所藏)が、甚く御好みでした。翁の晩年、恩顧を賜ひしてふ、伸風流吟詠會正吟館總本部宗範・白神綱風女史の撮影『三宅萬造翁』。翁は寫眞嫌ひの由なれば、稀少の一葉なり(倉敷紀念病院福壽莊に於いて)。
  ↓↓↓↓↓
 

ひとすぢの草莽の道、貫きて ── 嗚呼、三宅萬造翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月18日(水)19時32分12秒
返信・引用 編集済
  ●齋主・神谷俊司翁『三宅萬造大人命葬祭詞』(平成八年六月十五日。岡山國民文化懇談會・倉敷文化懇談會『まほろば──追悼・三宅萬造大人命──ひとすぢの草莽の道貫きて』平成八年八月・第百十七號に所收。祭主・三宅將之氏。齋員・高森明勅氏)

 道の長手を前後(さきあと)嚴かに固めつゝ、御供仕へ奉りて、此の齋庭(ゆには)を、暫しの御座所(みましどころ)と、御柩舁据(かきすゑ)奉る。言はまくも由々しき、三宅萬造大人命の御靈の御前に、齋主・神谷俊司、謹み敬ひも白さく。

 あはれ、顯身(うつしみ)の人の壽命(いのち)許り、頼み難き物は有らざるべしと、豫ねて思ひ定めし事乍ら、汝大人命や、此の三年程(ばかり)、御病重く惱ませ給ひてより、醫師(くすし)の術(わざ)の及ばむ程の看護(みとり)の法(すべ)を盡しゝかども、幽界(かくりよ)の神の奇靈(くしび)に定まれる御壽命(みいのち)の限りにや有りけむ。此の六月十二日と云ふ日(影山正治塾長の誕生日)、午後一時四十八分、御病、遂に革(あらたま)り、御齡(みよはひ)の程、八十六歳を一世の限りと身罷り給ひしこそ、哀しくも亦た口惜しき極みなれ。

 夜もすがら仕へ奉りし、殯(もがり)の一夜は明けつ。動搖(どよ)みたる心も、漸々(やゝ)に靜まれば、今し盡きぬ名殘りを惜しみ奉らむ禮代(ゐやしろ)と世に坐しゝ折節に、稱へ給ひし種々の味物(ためつもの)置き足らはして、熟々(つらゝゝ)在りし日の事共、思ひ偲び奉れば、大人命は、明治四十四年八月九日、岡山縣淺口郡連島村西之浦の里に、三宅金兵衞大人・惠以刀自の愛子(まなご)と生(あ)れ出で給ひ、御性(さが)も直く正しく聰く坐して、健けく生長(おひた)ち給ひ、西浦尋常高等小學校を卒業(ことお)へ給ひしより、大阪に在る那須藤商店に入社、織物卸の商ひに從事し給ひしが、軈(やが)て獨立して、布帛加工業に專ら勞き給ひ、漸く岡山に進出し給ひて在りしも、時、恰も聖戰(おほみいくさ)の經緯(ゆくたて)に伴ふ統制により、其の經營も、漸々に難(けは)しく成りもて行けば、遂に故郷に歸農し給ひぬ。

 斯くは在り經(ふ)る程に、道念(みちおもひ)、默(もだ)し難く、夙(はや)くより同人誌等に據りて、其の志を伸べ給ひてしが、昭和十七年、凝成塾々長横田左輔大人の指導に依りて、大東塾々長影山正治大人と相識り給ひてよりは、立てし心の一筋に、神の道こそ、誠の道と戴き持ちて、御國護りの鋭心(とごころ)振ひ起し給ひ、大東塾々外生として、新國學歌道誌「ひむがし」に據りて、敷島之道を學びに勤しみ給ふ歳月を重ね給ひて、昭和二十年、如何なる禍神の爲業(みしわざ)にや、身は岡山空襲に罹災して、生死の間を彷徨(さまよ)ひたるも束の間にて、御國の上に在りては、聖戰を遂に失ひ、國史(ふみ)の上にも、例(ためし)なき由々しき状と成りぬれば、堪へき思ひは有れど、終戰大詔(おほみことのり)を直(ひた)に畏みて、戰後の歩みを歩み初め給ひしが、八月二十五日、霹靂(はたゝがみ)の鳴り動搖もすが如き、大東塾十四烈士自刃の報に接し給へば、豫ねてより道の友と、深く結び給ひてし芦田林弘(もとひろ)烈士の遺族を護り扶(あなゝ)ひ、直ちに上京し給ふものから、長谷川幸男塾監より、十四烈士分骨の奉齋を委嘱せられてよりは、斯の烈士等の高く尊き御志の程こそ、國民の心に示標(しるべ)し給ふ、祖國再建の大き據り處と思ひ定めて、大和心の丈を高み學び給ひし事の盡々(ことゞゝ)打ち傾け注ぎ給ひて、人に説き自ら勞き、草莽の間に伊都の雄叫び踏み建て給へば、道の友、相寄り合はす歳月の祈りは、昭和二十五年には、十四烈士顯彰碑、其の後、若宮道場の建立に顯現(たちあら)はれ、昭和五十五年に、蒼穹道場の竣工、昭和五十七年には、影山塾長歌碑に凝りて、今に都羅山上に聳え、目覺ましき大人命の御功績(みいさをし)かも。

 更に道の上に在りては、數次に亙る宮中勤勞奉仕團・神宮參拜植林奉仕團を結成實施し給ひ、又た御遷宮募金活動・紀元節・靖國神社國家護持法制定請願運動・憲法改正運動に携りつゝ、長く不二歌道會岡山縣支部長・大東神社總代の重き務めに勤み勞く旁ら、昭和四十九年には、歌集「草かげのいのり」を上梓(三宅萬造歌集・十二月刊。又た『三宅萬造全歌集』平成十八年六月刊)する等、久方の天行く月日の、清き明き御心に、人と在る道を、直く正しく踐ませ給ひしかば、知る人、是れを讚へて止まず。天地の神々も愛で給ふものから、次々高き神の御位に進み給はん事、明白(しる)くこそあれ。

 又た御家に在りては、昭和九年、トヨ子伊と夫婦の契り合はせて、今日の祭主將之伊を始め、男(ひこ)三人(みたり)・女(ひめ)三人(將之・章文・昭三・教子・桃子)を得給ひて、庭の訓(をしへ)もすがに、呉竹の性のすくゝゝと、各々世に立ちて在るも、大人命・トヨ子刀自命の御慈愛(みいつくしび)の賜物と、偲び奉り仰ぎ奉ると、是の由、告げ奉れば、御心に行末頼母しく諾ひ給へかし。

 今は敢果(はか)無き大人命の、其の上(かみ)の事共、思ひ綴れば、思ひは盡きず。然れども斯く樣にて、徒らに時を過しも敢へねば、世の常の法(のり)の隨(まにま)に、御遺骸(みなきがら)を火葬場(ひはふりのには)に移し奉り、火具土神の御徳(みいづ)に委ね奉りて、幽界に歸し奉らむ。葬儀(みはふりのわざ)仕へ奉らくと、親族・家族を始め、遠近(をちこち)より齋場(ゆには)も狹(せ)に參來列竝(つらな)める會葬(みおくり)の人等(たち)が、最後(いやはて)の御別れと進(たてまつ)る榊葉の露の玉串、執々(とりゞゝ)に匂へる花を手向くるにも、尚ほ散りゆく花に盡難(つきがて)の思ひして仕へ奉らくを、御心も穩(おだ)ひに享(う)け玉ひ、飽かぬ御別れに御心殘し玉ふ事無く、御跡も輕く、天翔り國翔りつゝ、御祖の神の御許に參上り、明(あか)な々ゝに鎭り坐せと、白妙の神掻き合せて、恐み恐みも告げ奉らくと白す。



●岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁「獻詠」

かげながら 通夜つとめんと 神前に 古事記卷頭 祈りてさゝぐ

おもかげを したひてこよひ 神前に 祈りさゝげる 古事記卷頭

ふつゝゝと 日ごとにまして 悲しみの 心の傷は 廣がりて行く

心の師 ゆきて日ごとに わが心 元氣の魂(たま)は くづをれてゆく

師の君の 聲朗々と 聞こえくる 古事記卷頭 わが胸を打つ

流れくる 古事記卷頭 師の君の 御聲きゝつゝ ひとり涙す

流れくる 古事記卷頭 師の君の 御聲きゝつゝ 涙流れき

都羅山に 惡衣惡食 恥づるなかれと 力をこめて 説きし大人はや

ぼろ着ても 常に清潔 つとむれば 恥づべき事は なしと大人説く

師の君の 言の葉重く せまりきて われのこゝろは くだけてちりぬ

葬儀終へ 空にひとすぢ 流れゆく 飛行機雲は 去りゆく大人か

師を思ひ みつめる白き その雲は 流れ消えゆき つらさいやます

心友の 深きなげきに 及ばねど 我もかなしむ 先師慕ひて

道行きに 迷ひし時に すくはれし 任じて立ての 大人の一言

志 ちひさけれども やさしさの あふるゝる教へ 背負ひて行かむ

わが寶 先師の手紙(ふみ)を とりいでて 讀みつぎゆけば 元氣滿ち張る

こよひまた 友のかなしみ 思ひつゝ 心はいたむ 深きなげきに



●岡田則夫翁「追悼文」

 御父上は、愚生にとつては、日本の富士山と同じでした。御話はしなくても、御會ひしなくても、在ると云ふ事だけで、それだけで、最期に頼れる、たゞ一人の方でした。平常、意識しなくても、幾度戴いた御手紙に、心はげまされたか知れません。スクラツプに入れて、いつも讀めるやうに、机のそばに置いてゐます。

 「(岡山縣愛國者協議會)通信」に對する返書の中でも、最もうれしかつたのは、御父上から戴く感想でありました。

 六月の月例會終了後、上田大兄より、御父上の病状の御樣子をお聞きしましたが、どうしても御見舞に行けませんでした。愚生の心の中には、元氣な御父上の姿しか殘せなかつたのです。

 訃報に接して、愚生の心の中にしめる、御父上の比重の重さを思ひ知らされました。



【三宅萬造翁・芦田林弘烈士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/840
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/874
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2003



 小生は、下記の女史の縁故にて、五草庵主三宅萬造翁に面謁が叶ひ、奇しびなる道福を得ました。且つ翁の神葬祭に參列させて戴くことが出來、翁が如何に敬慕されしかを目の當りに見たことを、今の如く覺えてをります。病床に在つては、毎朝、廣瀬武夫中佐『正氣の歌』を吟じてをられた御由。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/13

 而して平成二十八年十二月三日、三宅萬造翁の愛弟子の岡田則夫翁も、また「愛協會の月例會は止めますが、匹夫の志は堅持いたします」との言葉を殘して、昭和五十年來、四十二年間、累々として續けて來つた講席を閉ぢられた。岡田翁の人徳を慕ふ者は、我が陣營に於ける「岡山縣の良心なり」と云ひ、末席に連なる小生、鳴謝して已まないのであります。



●三宅萬造翁の晩年、恩顧を賜ひしてふ、伸風流吟詠會正吟館總本部の宗範・白神綱風女史の撮影『三宅萬造翁』(倉敷なる大原美術館のモネ繪畫『睡蓮』の前に於て。翁は寫眞嫌ひの由なれば、稀少の一葉なり)
  ↓↓↓↓↓
(PDFの寫眞からの掲示は不能。技術力なく、遺憾ながら斷念、獨り之を掲げて拜す)

●岡田則夫翁、竝びに岡山縣愛國者協議會に集ひし方々(平成二十七年十月三日。月例會の後)
  ↓↓↓↓↓ 
 

御茶椀殿へ、参らせ候ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月15日(日)21時33分34秒
返信・引用
   現在は、投稿くださつた御方は、そのまゝ「即時に掲示」される設定にしてをりますが、此の爲體だと、管理者たる備中處士の「確認後に掲示」の設定にせざるを得ないか~。躊躇逡巡、頗る迷つてをります‥‥。

 「スパム投稿」てふ、世の中には、不可思議なる獸類もゐる由。何とも解せませぬ。此のちつぽけなる掲示板に迷惑かけて、何になるの。

 Teacup管理者殿、問合せ中、そろゝゝ何とかして賜れ。頼みます。御貴殿の沽券にもかゝはりませうに‥‥。

 

愉快犯の狙ひは、何。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月 6日(金)02時10分1秒
返信・引用 編集済
  遮斷しても、削除しても、祓つても‥‥やつて來る。此の管理者である、備中處士が罪・穢れの如く。

それはさておき、貴殿、一體、パソコン、何臺、持つてるの。
 
 

御目汚し、御詫び申し上げます。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月 4日(水)12時11分24秒
返信・引用
   年末から、變な者の投稿が連續してをり、
御閲覽各位には、御迷惑をおかけ申し上げてをります。

 此の弱小掲示板に、何用あつて闖入するのか、全く以て解せませぬ。
世の中には、暇人も衆いと云はねばなりません。

 無駄なことを爲すよりは、世の中の爲めに精力を使つて戴きたいものですなあ。
暫くは、堪忍くらべでありませう。呵々大笑。
 
 

大御代の新年を、謹みて賀し奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月 1日(日)09時13分30秒
返信・引用 編集済
  天降紀元五○一七年
中興紀元二六七七年
平成の第二十九歳丁酉 元旦
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1498



●靖國神社宮司・葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定大人の哥(『中今亭雜歌』昭和十四年九月・中今亭刊)

○中今(昭和十年)
大御代を はてなきものと 知りてあらば 今を終りと いふことやある

○陳志(昭和十三年)
天地の さかゆる御世に 生れあひて すめら御民と あるはうれしも



 大祓を經て、産土神社・吉備國一宮への初詣を畢へ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、
大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。

 更めて御閲覽各位の福壽無量を、只管ら祝祷申し上げ候ふ。門前、雀羅を張る掲示板を耻ぢ候ふ間、本年、有志倍舊の御誘掖御教導、幾重にも懇祷いたし申し上げ候ふ。

     九段塾管理者・備中處士、敬みて白す。
 
 

奉祝・天長節。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月22日(木)18時31分34秒
返信・引用 編集済
   明日は、天長節なり矣。明治天皇御降誕に際して、

天照らす 日嗣の皇子の 尊ぞと 深く思へば 泪し流る

とは、佐久良東雄大人の哥なり。畏し矣。謹みて國旗を掲げ、皆共に言壽ぎ奉らむ。



●靖國神社宮司・葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定大人の哥(縣居大人七世孫なり。『中今亭雜歌』昭和十四年九月・中今亭刊)

○天長節に(大正十二年)

君が代を 千代萬代と 祝ふ日は くむ盃も かさねられつゝ

○十二月二十三日、今朝五時、皇子御出生遊ばされ、歡喜無極、御降誕奉告祭執行後、御所及び大宮御所へ參賀奉仕。靖國神社へ奉告祭仕へ奉りて(昭和八年)

年久に 仕へ奉れど 今日ばかり うれしき告詞 奏上(あげ)しことなし

○參賀せし時

大宮は とゞろゝゞゝに ゆるぐなり 歡言上(まを)す 臣參ゐ續き

○二重橋前に、人々群集して、祝ひ奉るをみて

萬歳の 聲いよせ來て 百敷の 御堀の浪も 今日は岸うつ

○皇太后宮へまゐる道すがら

民草の なびき喜ぶ 眞心は 軒の御旗に あらはれにけり

○御降誕の御事を、宮内大臣、ラヂオにて謹話せらるゝを聽きて

天地と 相榮えむと 日の皇子は 時行きかへる 今日ぞあれます

○十二月二十三日は、冬至の翌日なれば、かく詠めるなり

天地の 依合ひの極み 榮ゆべき 命受けます 日の御子尊
立ち走り 子らも喜ぶ 鄰より 萬歳呼ばふ 聲も聞ゆる
朝日よく きく一聲に 失ひし 民の力は 更生(よみがへる)らむ
日の御子の 生れ出でまして 日の本の 國の光りの そふこゝちすも
御民らの 心は強く なりそひぬ 皇子の命の 光り仰ぎて

○新聞紙を見て

喜びの 聲は八島の 外までも ひゞき渡ると 新聞紙(にひぶみ)の告ぐ
萬歳の 聲起るちふ 外つ國の 大和の人の 住まぬ里にも

○皇太子のあれ出でましゝことを祝ぎて唱歌

一、
朝日と共に 現(あ)れ出でまして 天地あかるく いや晴れわたる 生(あ)れましながらの 輝く日の皇子 鏡の御徳 かしこくたふと

二、
初(うぶ)の御聲の をゝしき響き 國の力は いや立ちまさる あれましながらの 武(たける)の大皇子 劒の御徳 かしこく尊

三、
瑞の御おもの 饒しき御笑(みゑみ) 民のよろこび いや涌き起る あれましながらの 平和の珍皇子 玉の御徳 かしこく尊



●獺祭書屋主人正岡子規越智常規翁の哥

○天長節

天の下 しらす日の御子 その御子の あれましゝ日は 常晴(とこはれ)にして

山ゆるぐ 筒の音すなり 九重の 二重の橋を 御馬驅るらしも

草の戸に 御姿掛けて 菊活けて わが祝ふらくは 千代にいませとぞ

ひさかたの 天とこしへに あらがねの 土うるほひて 菊開く國

○明治三十三年十一月三日の佳辰に遇ひて、天長節

かけまくも あやに畏き 吾大君 今のみかどの 生(あ)れましの 其日を今日と 青山の 習しの庭に いくさ君 いくさ整へ 角(くだ)の音を い吹き鳴らせば 拔き放つ 八千の劒は 稻妻の 草に散るごと 勇み立つ 駒の足掻は 久方の 雲居をか行く 假御座(かりみくら) いづの御前に 歩(かち)人は 銃さゝげ持ち 駒人は ひづめ立て竝め 砲(つゝ)を引く 砲人ともに 畏みて よごと申せば 天の下の 青人草も よろづ代と 三度呼ぶかも 唐山の 草木靡かひ 高麗の海の いろくづ來寄り 食國(をすくに)の 國の貢と とことはに 仕へまつらん 君が世の いくさ見の式 見ればゆゝしも

大君は 神にしませば から山の 高麗(こま)の海(うな)びも もろ敷きいませ(反歌)
 
 

林房雄翁を偲ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月20日(火)22時55分33秒
返信・引用 編集済
  ●林房雄翁の遺詠

不知火の 大阿蘇の野に 友ら集ひ 國の命を 語りけるかな(昭和四十年代作)

足摺の 黒潮の瀬は 愛(かな)しかり 風立たぬ日も 白く渦卷く(『浪漫』昭和四十八年四月號より)



●林房雄翁『勤皇の心』・『維新の心』
  ↓↓↓↓↓
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●靖國神社權宮司・池田良八翁『慰靈祭祭詞』(昭和五十一年一月二十四日、於東京・九段會館ホール。追悼行事實行委員會編『林房雄大人追悼行事報告書』昭和五十一年三月刊に所收)

 新玉の年立ち返れど、庭に野に梅の蕾はまだ固く、北風は身に沁み渡る、睦月末の四日の今日しも、此の九段會館の大室屋を、嚴の齋場と齋ひ定め、暫し招奉り鎭め奉る、林房雄大人命の御靈の御前に、今日の齋主仕奉る、靖國神社權宮司・池田良八、謹しみ敬ひも白さく。

 往水の流れは速く、咲く花の生命短く、かにかくに現世の相は常なき中に、別けても人の生命ばかり、果敢なきものはなく、運命のまにゝゝ、如何ともせん術なきは、實に哀しく痛ましき事なるかな。

 あはれ偲び奉る、汝大人命や、明治三十六年五月三十日、豐後の國は大分市に、父・後藤瀧太郎大人、母・ヒデ刀自の一人眞名子として生れ出で坐して、御名を壽夫と言ひ、幼き頃より、御性質賢しく、家人等の深き慈愛を、御身一つに受け、將來に大き望みをかけられ給ひ、縣立大分中學校、第五高等學校、次いで最高學府の譽も高き東京帝國大學と、學問の道をひた進む中に、社會主義に意染り、林房雄と號して、勞働運動に身を潛め、度々獄舍に捕はれ給ひしが、明治維新の經緯を究明する裡に、肇國天下知食す天皇の遠世この方、承繼がひ來し大和國風に、魂觸れてよりは、底つ磐根に太敷き立つ、我が日本の國民と目覺め給ひ、秋、恰も皇國を廻る四方の海、次第に波立ち騒ぎ往きて、支那事變、更に古今にその例なき大東亞戰爭と、擴ごり往く時にしあれば、只管大和魂、砥ぎ澄ましつゝ、御著書『西郷隆盛』を始めとして、數々の警世の文卷を著述し、世に送り出し、昭和二十年八月、畏き大御心もて、大き戰の終りてよりは、天下、邪惡なる思想はびこり、國民の心、苅菰の紊れ荒びて、御國の状、いよゝゝ危ふき秋にしも、如何ともして、元の御國振りに立返さんものと、更に國内至らぬ隈なく遍巡り給ひ、或は數々の書を著はして、尊き御國の眞理を説き明かし、國體の尊嚴を教へ訓し給ひ、我が國民の往くべき道を示して、憂國の同志の心を結び成し給ひ、別きてもその名も高き『大東亞戰爭肯定論』に顯れ出でたる、汝大人の憂國の情に、感動けぬ者はなく、かにかくに束の間も撓まず緩まず、赤き心一向に、御國の爲に、伊曾はき給ひし、偉はしき汝大人命なれど、昭和四十九年頃より、御身勝れ給はず、數多の醫師の優れたる醫術の限りを極め、夫人・御子等の看護の業を盡し給ひしその效も空しく、去にし年の十月九日と言ふ日に、御齡七十二歳(ママ)を一世の限りと、幽世の本津御座に歸り給ひしは、巨き星の落ちしが如く、天下の人々、常夜なす憂ひに沈みしは、實に口惜しき極みには有れど、凡そこの日本に生を享け、樣々に迷ひつゝも、遂には直く正しき御國人となり、世にこの人ありと稱へられ、萬世に朽ちせぬ御名を殘し給ひしは、男子の本懷、これに勝るものなしとや言ひつべし。

 故汝大人命を、深く悼み慕ひ奉る諸人等には、如何でかも大き功績を仰ぎ奉りつゝ、百日の御祭をも兼ねて、御靈慰めの御祭仕へ奉らんものと、遠き近きを呼び交し、八十日日は有れども今日を撰び、この祭の場に、御前も狹らに參列なり、御寫眞かゝげ奉り、心盡しの御饗津物、又時自久の花をも供奉り、奏で奉る樂の音も、忍び々ゞに玉串捧げて拜み奉る状を、御心も平穩に聞食し給ひて、奇しき御靈は、天翔り國翔りまして、御遺族の上は申すも更なり、皇國の往手、げに事繁き世界状勢にありて、汝大人命の精神を心とし、勤み勵む諸人等の上を守導き給ひて、萬世の爲に太平を開かんと宣らせ給ひし、天皇の大御心に、こたへ奉らしめ給へと、乞祈み奉りつゝ、謹しみ敬ひも御祭治奉らくと白す。



●影山正治翁『昭和維新と林房雄』(同上に所收)に曰く、

「昭和十一年、二・二六事件による轉向、昭和十二年、支那事變による、更にその前進。さういふ當時の林房雄氏の轉向だけでは、私はまだ駄目だと考へた譯であります。即ちそこで、私が強く申したのは、意味の上から申しますと、

「單に赤旗を捨てゝ、日の丸に歸るといふだけでは、駄目なんだ。これは平面的轉向に過ぎないんだ。だから、もつと立體的な轉向に徹しなければ、あんたは、本當に日本に囘歸し復歸し、日本の益良雄として、眞の『文の士』としての、日本の文人として大成することは出來ないぞ。だから、頭だけの、理論だけの形式轉向、平面轉向でなく、『天皇陛下に、眞つ直ぐ歸る』といふ、その轉向に徹すること、『神に歸る』といふ、そこに徹しなければ、あんたの轉向は、またいつか、あんたの性格からみると、元に戻るぞ。それが證據には、あんたは、宮城皇居の前を通る時に、自ら頭が下がるか、頭を下げて居るか。こゝで、本當に、いのちがけで『ミソギ』と『祈り』と『行』を、からだでやつたらどうだ。だから、例へば眞つ直ぐに、明治神宮に行つてお願ひをして、一週間なら一週間、默つて斷食祈願をするといふやうなことを、まづしてみたらどうだ」

といふ意味のことを骨子として言ふた譯であります。

 この強烈な私の提言に對して、林房雄氏は、とぼけたり、そつぽを向いたりせずに、それを直面して受けた譯であります。そこに私は、「林房雄の本質」があると思ふ。昨日までマルキストで、共産主義者で、日本の叛逆者で、唯物主義の無神論者であつた本人が、七歳の年少者の、一介の浪人である影山正治の言ふことを、全うに受け止めたといふこと、これは大變なことです。私は今でも、さう思ふ。その意味において、私は「林房雄の本質」を信じたい。色々紆餘曲折や、行きつ戻りつや、ジグザグはあつたが、である。そこで林房雄氏は、直ちに文藝雜誌『新潮』の(昭和十三年)七月號に、『美と力の詩人』といふ一文を書いて、

「最近、私は、影山正治といふ、何ら今迄交りのなかつた、年少の一青年から、これゝゝの公案を受けた。私は、これに對して直面したい。事實、私は、皇居──宮城の前を通つて、自ら頭が下がつたことがない。考へてみれば、頭を下げたこともない。然し頭の下げる林房雄にならなければ駄目なんだ、といふことが、私にも判つた。そして今の私には、明治神宮に、眞つ直ぐに行つて、一週間の斷食祈願をすることは出來ないが、然し必ず、この眞劍な提言に對して、身をもつて應へる覺悟である」

といふのが、その骨子であります。更にそれを受けて、私の書いたのが、『續・林房雄論』(『怒濤』昭和十三年五月號の『林房雄に與ふ』──林房雄論の續編)であります。そこで、林房雄氏と私、及び私どもとの魂、生命の道の交りが出來た譯です。私どものやつて居つた日本主義文化同盟には、間もなく倉田百三氏が、更にそれに續いて、淺野晃・保田與重郎・尾崎士郎・三浦義一等々の諸氏が入つて來てくれました」と。



●田中忠雄居士『林房雄の思想』(同上)に曰く、

「林さんの奧樣から聞いた話ですが、臨終の時に、とめどもなく涙を流してをられたさうです。『泣かない人だつたのに』と、奧さんは語られました。皆樣も、泣いた林さんといふのは、知らないでせう。作品を讀んでもお判りと思ひますが、林さんは、大豪傑なんです。にも拘らず、臨終の床で、ポロヽヽ涙を落してをられたので、奧樣とお孃樣が、『どうしたのですか』といはれたさうです。さうしたら林さんが、かすれた聲で、『あゝ、もう俺は、かうなつてしまつて、日本の爲に、何もできなくなつた』といつて、涙を流されたさうであります。『あゝ、もう何もできない』‥‥。私共は、この話を聞いて、凝然として言葉が出ませんでした。息を引取られる最後の最後迄、林さんは、全生命を熱燒し盡したのであります」と。



 愚案、父が戴いて來た、平泉澄博士『少年日本史』を拜讀してゐた小生は、早速、書肆にて、林房雄翁『神武天皇實在論』を手にし、忽ち翁に熱狂し、『浪漫』の定期購讀者となつた。此の雜誌中の「白井明」は、翁ではないかと臆測して、的中させたほど、大好きだつた。然し其の謦咳に接することは、遂に叶はなかつた。翁の逝去を知つて‥‥、涙した。而して林房雄翁から、幸ひにも友清磐山大人の名を知るを得、また磐山大人からは、宮地水位大人『異境備忘録』の拜讀てふ縁故を戴き、神道の道奧を垣間見ることが出來、平田大壑先生の神道の何たることの萬分の一かを知るを得た。小生は、本道に道福者だ。小生の若き折の、拙いものゝ、愛しき想出である。
 
 

再警告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月17日(土)18時37分57秒
返信・引用
   「愛国主義者」なる者の投稿は、既に遮斷したが、投稿機器を變更して、執拗にも繰返して來る。

 貴殿の高尚なる御意見は、頼むから、貴殿の御仲間の居る他所へ行つて開陳してくれ給へ。閑古鳥の鳴く、此の掲示板には不向きです。

 また管理者としての小生は、貴殿の投稿に對して、頗る不愉快であるし、加へて初老の身、機器の操作に難澁して、甚だ迷惑であります。幾度び申し上げれば、御理解を戴けるのでせうか。
 

謹告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月16日(金)22時02分13秒
返信・引用
   「神宮・皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げは、嚴禁」とある。九段塾頭の許可・遺訓を得て、此の掲示板は運營されてをります。

 故に本掲示板に於ける「愛国主義者」の闖入は、之を許さず、永久に追放する。本掲示板は、尊皇の志操を涵養せむと欲するもの、論爭の爲めの掲示板ではありませぬ。貴殿の歴史觀の披露は、他の掲示板にて行つて戴きたい。

 眞に不敬千萬、皇國の先哲に對して、申し訣もございませぬ。かやうな俗事が續くやうなら、本掲示板の閉鎖も考へたい。以上。
 
 

君臣の義、講ぜざること七十餘年なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月14日(水)22時18分30秒
返信・引用 編集済
  ■吉田松陰先生『松下村塾記』

 抑も人の最も重しとする所は、君臣の義也。國の最も大なりとする所は、華夷の辨也。今ま天下は、何如なる時ぞや也。君臣の義、講ぜざること六百餘年、近時に至り、華夷の辨を合せて、又た之を失ふ。然り而うして天下の人、方且に安然として計を得たりと爲す。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内、君臣の義を失ひ、外、華夷の辨を遺る。學の學爲る所以、人の人爲る所以、其れ安ぞ在らんや哉。




 畏友・河原博史翁から、いつも御手製の封筒にて、澤山の情報誌を戴いてゐる。備中の田舍者にとつては、此の上なく難有い。其の中から、吾が腹悶を醫やしてくれる玉文を得た。嬉しさの餘り、些か紹介して、諸賢に供したい。



●志賀智仁・日本實踐奉仕團代表『大殿下薨去と讓位について』(『芳論新報』平成二十八年十二月號所收)

 日本は、云ふまでもなく、皇國である。つまりは内政や外交が、少々行き詰まりを見せようとも、街頭において左右の陣營が衝突を起こさうとも、それは小さからざる問題ではあるけれども、決して國家を搖るがすに至り得ないのである。神意が働く時、畏きあたりが動く時、それこそが、唯一、祖國が激動に直面するサインなのである。我々は、その感性でもつて、事に處さなければならない。‥‥

 有識者會議のメンバーもヒアリング對象の專門家も、保守系としてならした人物が、大勢をを占めてゐる。ところが蓋を開けてみれば、その論議が憲法違反だの、特別法で對處するだのと、天○機關説論者も眞つ青の不敬ぶりである。第一、御自ら讓位の意向を滲ませてをられるのにも拘はらず、認めるとか、認めないとか、いつたい君臣の別を、何と心得てゐるのか。本來は讓位の御心を拜して、如何にしてそれを翼贊するかを論議するべきなのであつて、今日のそれは、不敬千萬、本末轉倒として、冗談にもなりはしない。

 今さら云ふまでもないが、有識者會議、またヒアリング對象となつた專門家に、期待は禁物だ。頭腦の明晰さは、確かに見上げるべきだが、今般の問題に限つて、それよりも重要なのは、敬神尊皇の精神であり、政府に助言するに値する經驗で云へば、その志操である。つまりこのメンバーに、神道界の人物が、誰ひとりとして人選されてゐないことをみても、この論議が、國體を重んじる結論を導き得ないのは、火を見るより明らかと云はざるを得ない。

 ある人物は、かつて小泉純一郎が、皇室典範の改正を企てた時、男系男子を堅持すべきと論陣を張つたが、その論據にDNAを持ち出し、血統を守れと云ひだした。他國の王樣について論じてゐるならいざ知らず、なぜ、皇統・靈統の概念が持ち出せないのか。また別の人物は、攝政をおくべきだとして讓らない。今上天皇の御心に、攝政はないのに、である。これは一見、尊皇の志ゆゑと勘違ひしがちだが、實のところ、大帝と暴君を認めることと同義なのである。斯樣に他の連中の意見も、大同小異、とても萬世一系を奉戴する有爲なる人々の言とは思へない。先日、この状況について、近所の名もなき神職と意見を交はしたが、「學者は、ダメですよ」と、ぽつりと漏らしたことが、今でも忘れられない。‥‥

 いま我が陣營は、法的な解釋や、さりとて同情や人權と云ふ不敬でもなく、たゞゝゞ御心を拜戴する姿勢を以て、内外に君臣の別を闡明にしなければならないのである。天皇が讓位と仰せならば、一も二もなく、讓位ではないか。
 
 

でもおかしいですよね

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月24日(木)19時25分14秒
返信・引用 編集済
  身分もわかりますが、しかし宮内庁の次長の発言となれば
正直、無責任ではないかなと怒りを覚えますね。

各宮家に男系親王が多数いらっしゃる状況なら
いざしらず、公務員として皇族を護るという気概と
責任感が無いのでは?

これこそ、安倍総理大臣が宮内庁の人事に介入するべきである。
万が一が起きてからでは、遅すぎる。傍観者であっては
ならないと感じております。

昨今の宮内庁職員のなんというか、職務に対する使命感の
無さには、いささかあきれるものがある。
 

天皇の御爲めに、心を盡す可し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月24日(木)18時58分30秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下の玉音を無みする政治家・高官は、神明の赦さゞる所にして、「尊皇は先、利民は後」の定理を覺つて、速かに反省し、鋭意、盡忠奉公の本道に立ち返る可きなり。或る神仙の、常に宣り給ふは、

現世にては、天皇は、諸社の神より尊し。然りとて官人等の、天皇の命を僞り、神社の神位を、我が心任せにして、神の尊卑を談じ、貴神を墮して賤神に贈位するなどは、幽冥界に入りては、其の罪重し。親に不敬をする等の罪は、之より輕きと、又た重きとの二つあり。されど天皇を輕蔑し、高官として命令を僞り作りたるは、神の赦さゞる處にして、其の罪科、尤も重し。‥‥現世、天皇の御爲め、次いで人民の爲めには、心をも盡すべし」と。



 平成二十八年十一月十八日、横濱總鎭守・伊勢山皇大神宮に於て、邪教「創價學會」撲滅成就祭擧行さる。

 此の學會なるものは、昭和十八年六月、治安維持法違反、及び不敬罪の疑義にて檢擧されてをる、問題の頗る多き新興宗教であり、夙に時局對策協議會から、嚴しく糾彈されてゐる神敵であるが、今度び有志相集ひて、撲滅祈願が執行された由。所謂る佛魔の中でも、跳梁跋扈の甚だしきものにして、既に政府與黨は軍門に下りつゝあつて、其の魔力は、強大にして深刻なりと謂はねばならぬ。此の佛魔拂攘に勇む有志同朋、若し些かの油斷あらば、釋魔の玩ぶ所となるは必定、畢竟、相手は邪靈の憑依物の集合體なれば、身には緋縅の鎧を纏つて、鋭意、質實剛健、敬肅謹愼に力められ、
皇神皇尊の大御稜威の下、日常的に『大祓』奏上を缺かすこと無からむを、特に幾重にも御願ひしておきたいと存じます。



**********

 謹みて神界におはします神々に奏上申し上げます。

 吾人は、「我等は 天皇尊の股肱なり、我等は銃後の近衞兵」と云ふ信念の下、戰後體制打倒・神世復古成就を使命とし、復古中興運動に挺身してをります。吾人は、本津教たる惟神大道を旗印に、破邪顯正の神劍を振ひ、皇國體に叛逆する邪教を、徹底的に撲滅し、一億 皇民、悉く神洲清潔乃民たる大自覺を取り戻さむとの決意であります。

 殊に日乃本一の邪教たる創價學會を撲滅せねばならぬの大事は、吾人が使命であります。本年は、淫祠俗惡邪教創價學會が創立され、八十六年になります。然し神敵池田大作率ゐる邪教創價學會は、國内では立正安國の實現の爲に、「總體革命」と稱し、各界に學會員を送り込み、亦た「廣宣流布」と稱し、全世界を佛國土に改變しようとする愚を悔い改めぬどころか、野心旺盛、依然として神罰を恐れることを知りません。淫祠俗惡邪教創價學會を撲滅せずして、神世復古、竝びに世界皇化の大願を成就する事は叶ひません。故に吾人は、橘曙覽先生の和歌、「大皇に 背ける者は 天地に 入れざる罪ぞ 打つて粉にせよ」との攘夷貫徹の大精神を肝に銘じ、果敢に淫祠俗惡邪教創價學會撲滅運動に挺身する所存であります。

 吾人が所屬する大日本愛國團體聯合・時局對策協議會は、福田素顯大人創設以來、一貫し、淫祠俗惡邪教創價學會撲滅の大旗を掲げ、一騎當千の運動を行つて參りました。先覺烈士の志操に相聯なり、以て神國日本、復古中興に挺身する事を、神前に誓願申し上げます。

 神界にまします神靈に於かれましては、吾人が微衷を諒とし、神佑冥助の御加護を下し玉はりますことを、只管に冀ひます。謹み畏みて、小林弘典、申す。

平成二十八年十一月十八日

 民族派有志聯帶運動
  愛 倭 塾  小林 弘典
  盛道烈士會  竹本 大樹
  大 地 社  木下 厚
  同血新聞社  下山 陽太
  日本のこゑ社 大岩 優輝
 
 

皇室に於ける身分。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月22日(火)22時17分10秒
返信・引用 編集済
   今度の宮内廳職員の不祥事件は、洵に殘念なる事でありました。今後、愈々緊張感を以て、事に當つて戴きたいと懇祈いたします。

 曰く、「皇室の警備態勢については、兩陛下や皇太子ご一家が車で出かけられる場合、前方を白バイなどが先導、後方に警備車輛が續く。通過する一般道の信號を全て青信號にし、高速道路も交通規制するため、澁帶に卷込まれることは無い。一方、宮家の皇族方には、後方に警察の車輛が一臺配置されるだけで、交通規制も敷かれない。皇位繼承順位第二位の秋篠宮樣、第三位の悠仁親王樣がをられる秋篠宮ご一家であつても、例外では無い」と。

 秋篠宮樣および若宮樣にかゝはる御事は、皇室に於ける「身分」の問題でせうから、如何とも爲し難く、戰前・戰後を通じての皇室の御慣例の御由を、宮内廳次長が語つたのでありませう。次の塾頭の文が、或は參考となりませう。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/15
 
 

宮内庁次長の精神構造

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月22日(火)20時20分6秒
返信・引用
  この西村なる宮内庁次長の精神構造をいぶかしむ。
安倍総理はこの次長クラスの人事異動に介入するべきではないか?
この事故で明らかになったのは、筆頭宮家に対する警護の無さである。
皇位継承2位と3位の親王がおられるのに、何も手を打たないそうである。

万が一の場合が起きた時は、この次長はどうするつもりなのか?
たんに首を飛ばされて天下りなのか?保守政治家たちや皇室崇敬者は
この西村なる君側の奸を批判するべきではなかろうか??



宮内庁次長「警備態勢見直しせず」 紀子さま、悠仁さまご乗車の自動車事故で

産経新聞 11/21(月) 17:08配信

宮内庁の西村泰彦次長は21日の定例会見で、秋篠宮妃紀子さまと悠仁さまが乗られた車が20日に追突事故を起こしたことについて「運転手の前方不注意が原因」との認識を示し、「警備態勢を見直すことは考えていない」と述べた。

 西村次長によると、事故が起きた相模原市の中央道下り線は渋滞中で、前方の車が急ブレーキをかけたため、運転手の宮内庁職員も急ブレーキをかけたが、間に合わずに追突した。当時、霧も発生していた。

 秋篠宮ご一家をはじめ宮家の皇族方の警備態勢については以前から見直しを求める声が出ていたが、西村次長は「今回の事故が警備態勢を強化しなければいけない事態ではないと認識している」と釈明した。

皇室の警備態勢については、両陛下や皇太子ご一家が車で出かけられる場合、前方を白バイなどが先導、後方に警備車両が続く。通過する一般道の信号を全て青信号にし、高速道路も交通規制するため、渋滞に巻き込まれることはない。

 一方、宮家の皇族方には後方に警察の車両が1台配置されるだけで、交通規制も敷かれない。皇位継承順位第2位の秋篠宮さま、第3位の悠仁さまがおられる秋篠宮ご一家であっても例外ではない。

西村次長は「お車の運転は大変重要な職務で、
安全運転についてはしっかり指導をしていく。再発防止を徹底したい」と強調した。
 

皇室警護の在り方

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月20日(日)15時25分39秒
返信・引用
  皇室崇敬者や保守派はこの事故を軽く見てはいけない。

事故の内容を見ると、まあおそらくブレーキをかけるタイミングが
遅くて、相手方に軽くぶつかったというもの。多少バンバーがへこんだ程度
で済んだらしいが、もしお互いにスピードが出ていた場合、結果は想像もした
くはない。プライベートとはいえ、警護の警察はいなかったのか?

悠仁親王殿下は、皇位継承3位の御方であり、第一優先的に
御守しなければならないはず。軽い事故だから安心でした。
などと楽観的に捉えてはいけない。やはり皇室警護と交通の整理は必要である。


紀子さまと悠仁さまをお乗せの車が追突 けがなし 相模原の中央道

産経新聞 11/20(日) 12:55配信

20日午前7時35分ごろ、相模原市緑区与瀬の中央道下り車線で、
秋篠宮妃紀子さまと長男の悠仁さまが乗られたワゴン車が、渋滞の
最後尾に並んでいた乗用車に追突した。宮内庁によると、紀子さまと
悠仁さまはけがをされていない。

警視庁高速隊の調べでは、ワゴン車は30代の宮内庁職員が運転し、
計6人が乗車していた。ワゴン車には前部バンパーに亀裂と
擦った痕があり、追突された車はバンパーがへこんでいたという。

宮内庁によると、紀子さまと悠仁さまは、悠仁さまのご友人親子と
私的に山登りに出かけられる途中だった。事故後、
別の車に乗り換え、予定通り登山をされたという。

高速隊は車両の損傷程度からスピードはあまり出ていなかったとみており、
事故の詳しい原因を調べている。
 

悠仁親王殿下ののった車が事故

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月20日(日)14時42分29秒
返信・引用
  幸い、紀子妃殿下と悠仁親王殿下にお怪我は
無かったようだが、これがテロであった場合や万
が一の事があれば、皇統の危機ではないか!
プライベートっとはいえ、悠仁親王殿下の御身を護ることが先決。

宮内庁職員も渋滞に気が付くのが遅れたなどと、
言い訳をしているが、こんなやつに運転させてことが
間違いでもある。時代が権威に対して緩くなっている
とはいえ、危機管理意識を高めていただきたい。
警護は一体どうなっているのか??


秋篠宮妃・紀子さまと悠仁さまらが乗った車が事故

テレビ朝日系(ANN) 11/20(日) 11:48配信

中央自動車道で秋篠宮妃・紀子さまや悠仁さまら6人の
乗った車が追突する事故がありました。

20日午前7時半すぎ、神奈川県相模原市の中央自動車道下り線で
「乗用車の衝突事故があった」と通報がありました。警視庁によりますと、
渋滞中の車列に乗用車が追突したということです。この乗用車には相模湖方面に向かっていた秋篠宮妃・紀子さまや悠仁さまら6人が乗っていたということです。プライベートで山登りに行く途中で、紀子さまや悠仁さまにけがはありませんでした。乗用車を運転していた宮内庁の職員の男性は、「渋滞に気付くのが遅れた」と話しています。.
 

右翼・・・・

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月 8日(火)19時27分14秒
返信・引用 編集済
  街宣右翼などは、ほとんどが在日朝鮮人
といわれている。いわゆる似非右翼であろう。

日曜日の昼下がり、穏やかにわが子に乳を与え、
すやすやとわが子をあやし、ねつかそうとしている矢先に、
突如の日本軍歌の大音量!窓を開ければ、菊の御門入りの黒塗り
ワゴン車が道路を所狭しと走りまくり、中から出てきたのは
暴力団と見間違えるような風貌の『自称・尊皇の志士』

それでも、反日組織の門前にての、荒事であるなら理解至極だが
全く関係も無い団地や、他人の敷地に勝ってに入り込み、怒声や
罵声・暴力沙汰を起こすのはしばしば・・・

彼らの行動の結果、日の丸・君が代に嫌悪感を抱く一般人も
少なくはない。彼らがしていることは、愛国者の足を引っ張るものである。

そして靖国神社に来るときには、なぞの特攻服で片手に
不釣り合いなまでの巨大な日章旗を掲げ、みんなそろって記念撮影!!
何時の頃かは不明ですが、かなり前から靖国神社にはヤクザ風・右翼団体風
の、いかにもその筋の連中が入り込んでこれるのも事実でありましょう。

的屋と暴力団の境が難しく、神社側でも統制できない???
そういう実情もあるんでしょうが、毎年来ている連中で風体が
おかしければ、社に入れない措置くらいは取るべきですね。

この種の輩を排除しなければ、靖国神社もいわれなき
非難を受けよう。街宣右翼は日本人にあらず!
 

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