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スレッド一覧

  1. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(9)(備中處士)
  2. 「九段塾」塾頭・一兵士翁遺文抄(101)(備中處士)
  3. 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義(44)(備中處士)
  4. ★☆★ 時計の間 ★☆★(428)(塾頭)
  5. 平泉澄博士遺文(11)(備中處士)
  6. 醜能御楯(14)(はゆまつかひ)
  7. 古籍復興。(9)(備中處士)
  8. 大元靈に坐す天之御中主大神(9)(備中處士)
  9. 日本刀四方山話(52)(那須の権太)
  10. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(49)(備中處士)
  11. 百代の國師・北畠親房公。(15)(備中處士)
  12. 嗚呼、慕楠黒木博司少佐。(15)(備中處士)
  13. 皇軍招魂抄(13)(備中處士)
  14. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(45)(はゆまつかひ)
  15. 産土大神の御神徳を仰ぎませう!(14)(備中處士)
  16. 霊的国防の本義 拾遺(36)(はゆまつかひ)
  17. 先哲景傳同血抄(17)(暘廼舍)
  18. 神道に學ぶ。(75)(備中處士)
  19. 大高山傳・合纂――高山赤城先生を仰ぐ。(25)(備中處士)
  20. 參考聚英(17)(備中處士)
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超短編映畫『忘れてはならない歴史がある』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月19日(月)13時57分13秒
返信・引用 編集済
  【特別番組】超短編映畫「忘れてはならない歴史がある」作者・鈴木田遵澄さんに聞く【靖國神社/令和二年秋季例大祭記念】
  ↓↓↓↓↓
https://twitter.com/kohyu1952/status/1317862099062644737


 鈴木田主の映畫、著名な方が紹介してくれて(上記三枠目のユーチユーブの動畫)、小生も嬉しく存じます。有志には、是非とも御視聽ください。
 
 

かみみわざのおそろしく ただしきをこそまもりますなれ

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2020年10月17日(土)00時32分42秒
返信・引用
  嘉日に不祝儀を實行するは、魔尊の常套。奸賊の正體「青い眼のニッポン人」に返し矢中るべし。  

神敵討伐の幟旗。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月16日(金)10時32分53秒
返信・引用 編集済
  ●橘曙覽先生の歌

大皇に 背ける者は 天地に いれざる罪ぞ 打ちて粉にせよ



 下山陽太主の曰く、「菅義偉は、「神甞祭」と同じ日に、中曾根康弘の葬儀を擧行しようとしてをり、もはや「勤皇の大義」より、「自民党の面目」を最優先にする權力固執主義者である。安倍晋三は「元號制定權」を干犯し、菅義偉は「祭祀大權」を干犯する。これこそが、「ポツダム保守」の實態ではなからうか」と。
  ↓↓↓↓↓
https://twitter.com/haibutsukishaku/status/1316744431068823557

 皇家の大祭たる重事日に、弔意表明だ、と。死して猶ほ醜名を殘すか、宰相中曾根。民主幕府の僭上逆意、目に餘ると謂ひつ可し矣。たとひ善政を施すこと有るも、其の罪、償ふこと能はず。嗚呼、大日本史、恐ろしく候へば、菅奴天誅、討つて粉にすと雖も、斷々然として赦す可からざるなり。

 神道政治聯盟とか申す團體があるさうだから、大いに「聲明」を出して、其の罪を問はねばならぬ。そろゝゝ覺醒して、かゝる政權とは絶縁せよ。全國八萬の神社の御前には、「神敵討伐の幟旗」を樹つ可し。もう、滅茶苦茶だ。之を企つ自民黨と云ふ賊徒、之を認むる菅義偉と云ふ奸奴、神罰天譴を恐れよるがよい。

 だから申したではないか、總理大臣や國會議員團は、靖國神社の境内に入ることを許すな、と。靖國神社は、政府ならびに其の關係者の參拜ないし奉幣を、爾後は斷固拒否せよ。神宮・神社への不敬は、祭神に對し奉る不敬と知れ。かゝる不祥事の出來は、大不敬を犯す所の「奸賊の正體」を見据ゑる契機と爲さねばならぬ。
 
 

大いに歌へ、我が「軍歌」。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年10月12日(月)09時47分34秒
返信・引用
  「「愛國歌」・「國民歌」・「時局歌」・「軍國歌謠」などはあつても、「戰時歌謠」といふ表記は、(戰爭中に)見かけたことがありません。‥‥戰時下音樂の核心部分である軍歌だけ、歴史的になんの根據もない「戰時歌謠」といふ(事實上)戰後の造語で上書きするのは、欺瞞以外のなにものでもありません」と。
  ↓↓↓↓↓
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20200921-00193785/

 愚案、平和の時代は、戰爭の時代より吉いに決まつてゐる。然し戰爭中の歴史を、恣意的に創作する者を、小生は憎む。甚だしく之を憎む。マスコミは、朝ドラにせよ、大河ドラマにせよ、何に於いても、架空の人物を設定してまで、平和「至上」主義の言靈をはびこらせることに懸命である。殊に大東亞戰爭を「太平洋」戰爭と稱する者、即ち戰後の言語空間に諂ふ者は、之を讀むことを欲せず、之を信用すること能はぬ。

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/443
 
 

著作權について。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 9月 3日(木)16時34分20秒
返信・引用 編集済
   或る御方より、御報告を拜受いたしました。

「(泉水隆一監督映画『凛として愛』の)予告編だけしか見ることできません。1から7は再生されず、動画を再生できません。この動画に関連付けられていた YouTube アカウントが停止されたため、この動画は再生できませんと、表示されています。英語版は、全て再生できます。停止されたという事は、反日勢力の仕業でしょうか? 日本のために、本当のことを言うことは、アカウントを停止され、コメントの削除を要求されています。それとも他の理由があるのでしょうか? 花時計のは、再生されます」と。

 著作權の問題であると、愚考いたします。
  ↓↓↓↓↓
https://ameblo.jp/rintositeai/

「愛国女性のつどい花時計では、泉水隆一監督作品・映画「凛として愛」の拡散活動を行っております。この映画には著作権があり、生前泉水隆一監督といくつか約束をし、愛国女性のつどい花時計の藤真知子が、映画の拡散、DVDの頒布について許可を頂きました。

 泉水隆一監督は、平成二十二年に他界されました。現在は泉水監督の権利を引き継いだご家族の許可を頂き、愛国女性のつどい花時計で継続して拡散活動を行っております。頒布代金は、上映会開催費用・有料告知費用・凛として愛拡散に関わる印刷代金(DVDジャケット・チラシ・その他)・拡散版DVD(無料配布用)および愛国女性のつどい花時計の活動を継続するための費用に使われています。

 「この映画の著作権は、問題がない」との表記をし販売しているネットショップがあるという情報がありました。また代理店販売のような事をしようとしているという噂も聞いています。「泉水隆一監督が拡散を願っていた、だから販売しても問題ない、このDVDを売って利益を得られる」というような事を、サイト上で書いているようです。もしそのような事がまかり通るのであれば、他の映画に関しても、映画監督が拡散を願ったら、コピーして販売してもいいという事になります。誰の許可も得ずにコピーし、値段を付けて販売するという事は許されないことです。

 また「花時計から許可を得た」といって、ネット販売している人もいるようですが、花時計が関わる上映会等以外で、DVDの頒布をする事はありませんし、またそういう許可を出す立場にもありません。花時計とはまったく関係ありません。そういうネットショップがありましたら、気を付けて頂きたいと思います。

   愛国女性のつどい花時計 藤真知子」と。



 小生も、夙に之を把握、氣づいてからは、映畫『凛として愛』を紹介する場合は、必ず「愛國女性のつどひ 花時計」樣のリンクを使用させて戴いてをります。著作權者ないしは第三者の指摘に依つて、管理者または氣付かれたアツプ御本人による削除(かつて小生の指摘によつて、自ら削除された御方もをりました)と拜察されます。なほ「反日勢力の仕業」と御疑ひの御由、御心配には及びますまい。或は監督を追放した靖國神社執行部、ないし「靖国保守」の所業かも知れませんね(笑)。

 因みに小生の編集『靖國神社の眞實』(洛風書房刊)も、「一兵士(即ち泉水隆一監督)の出版、著作權は、備中處士さんが好きに使つてよい。ただこの著作權といふのは、『人格權』といふものがあつて、他人に讓渡できないと、言はれたことがあつた。著作權は、ともかくも、備中さんに全部讓渡しますから、どうぞ、お好きなやうに」(平成二十年九月十四日附「備中處士に與ふる書」)ならびに監督の奧樣の御容認に因つて、自費出版させて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/l50
 
 

Re: 武甕槌「祓ひ太刀」を復活させた劍臣。

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2020年 8月18日(火)01時11分41秒
返信・引用 編集済
  備中處士樣 硯北


鹿島神流、鹿島新當流、鹿島神傳直心影流に於ては今日でも祓ひの太刀や靈劍傳は傳承(又は復傳)されてゐるやうですが、一部の傳書から仄聞するかぎりは橘家神道の傳が入つてゐたりして些か後世の混入の印象あるものの、祓ひの太刀の武道応用が袈裟斬りとのことですから、本來は早九字の樣なものではないかと拜察してゐます。

宮嵜某は、川面凡兒翁の幣祓を太刀により行ふものが小泉先生の祓ひと書いてゐますが、禊流の幣祓は四維十表の祓ひであり、八方に限りません。唯、幣は鉾であり、劍でもあるとして、其の理合を體得すべきことは教へられました。他の流派ではも、或は神樂でも劍祓として八方を祓ふことはありますから、此處は、小泉先生が靈的に拜受された式と理解するのが穩當な樣ですね。

なほ、神武參劍王の謂ひですが、小泉先生は舊南部藩のご出身で、憚りありますが靈的な南朝の嫡流を自任されてたと云ふ話もあり・・・細かい點では色々と・・

いづれにせよ、皇室奉護の御爲の劍祓による御奉皇は洵に大功であり、我らも何れにかよつて此れに倣ふべきと存じまして、先生と敬慕申し上げてゐる次第です。

はつまつかひ 拜
 

武甕槌「祓ひ太刀」を復活させた劍臣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 8月18日(火)00時39分18秒
返信・引用 編集済
  はゆまつかひ樣 硯北

 小泉太志命大人は、小生の愚鈍なる、斷片的にしか承知せず、新刊の『天皇防護──小泉太志命・祓ひ太刀の世界』によつて、聊か要領を得た次第であります。

 天行居との關係でありますが、同書に、

「滿井は、靈的國防を説いた神道天行居の友清歡眞に共鳴し、山口の岩城山にある天行居の道場で、天關打開期成會の同志とともに參籠したことがあつた。物量に劣る日本が勝利を收めるには、國民が靈的な力に目覺め、一致團結して、御劍による靈的國防に取り組まねばならないと、情熱的に訴へた。小泉も滿井の紹介で、友清に會ひ、記念に兩刃の短劍を授與されたことがある。『この靈劍を使へるのは、小泉先生しかない』といつて、手渡されたといふ。その刀身一尺の短劍は、いま道場の祭壇の中央に、フツノミタマの靈劍の形代として安置されてゐる」

とありますが、小泉靈士に、御劍による祓ひを集中的に行へるやう、帝都世田谷の「天關打開神武參劍道場」を提供した滿井佐吉陸軍歩兵中佐(皇道派。のち衆議院議員)については、宮崎貞行氏は、好意的に書いてをりません。

 なほ小泉太志命大人の言葉に、

「淨財であつても、どんな人でも、お金を出すときには、多少は惜しいと思ふものである。奉納されたお金には、その氣持ちが、しばらく籠つてゐるから、それが拔けきるまで、開けてはならないよ」(すぐに開けると、拔け出た『惜しみ』の邪氣に感染してしまふの謂ひ)

とあつて、感銘を受けました次第です。



追伸

 重ねての御教示、難有く拜承いたします。肝に銘じます。
 
 

Re: 天皇の彌榮を祈り奉る靈的防護。

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2020年 8月17日(月)23時48分35秒
返信・引用 編集済
  > No.3632[元記事へ]

> No.3632[元記事へ]

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/37


天行居との接點は滿井佐吉との關係からですが・・天行居と滿井が決裂して天關打開期成會での活動から後に神武參劍道場へと至ります。
此の時の決裂の原因は主に滿井の政治志向ですが、小泉先生を幹事長に据ゑようとした事に恐れをなしたとも。

https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/29


何度か書きましたが、牽制があつて書き込み出來ませんでしたので、此處までとします。

是は下拙ぐらゐしか書けぬと思ひますが、不思議なことに、小泉太志命は靈的共産黨の金井南龍の「さすら」誌の多大な經濟的支援者でありました。
更に、五千言坊玄通子の著作には、仙道連の連友たる護國の劍士としても登場します。其の他、神仙道の高名な道士とも驗比べして悉く勝利したとか・・
隠れた話が多いです・・ 宮嵜某と云ふのもまがひ者で、見てきたやうに書いてゐますが、信憑性は薄い印象です・・。
 

天皇の彌榮を祈り奉る靈的防護。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 8月17日(月)21時33分15秒
返信・引用 編集済
   今泉定助大人の懇請に因つて、陸奧八戸より上京、數へ二十歳にして客分として遇され、戰後は志摩國磯部の伊雜宮の御前に隱逸した、神武參劍(みつるぎ)道場[祭壇中央には、友清歡眞大人より授與されし刀身一尺の兩刃の短劍を、布都御魂靈劍の形代として祀れり]の鹿島神流の劍聖・小泉太志命(たいしめい)大人は、備前則宗「菊一文字」を以て「稜威八方鎭劍」を、一日に三萬三千囘振り續けること五十三年、皇室に降りかゝる邪氣・邪靈を祓ひ、只管ら天皇の彌榮を祈り奉つた神人である。



●宮崎貞行氏『天皇防護──小泉太志命・祓ひ太刀の世界』(令和二年一月・ヒカルランド刊)

 昭和二十年の末のこと、靖國神社の神官・横井時常(後に近江神宮宮司)が、弱り切つた表情で、小泉を訪ねてきて懇願した。

「靖國神社で、いざ、祭典を始めようとしますと、神前の貢ぎ物の三寶が飛ばされ、どうにも進行できず、恐ろしうございます。なんとか、お鎭め願ひたう存じます」

 早速、太志は靖國神社に出かけ、宮司以下が居竝ぶ神前にて、大音聲で奏上した。

「神武參劍王(愚案、布都御魂大神)、只今參進。これこの靖國の御靈、今度びのみ働き、誠にご苦勞であつた」

と、ねぎらひの言葉を添へ、諄々と諭して言つた。

「戰爭に負けたものゝ、そなたたちの働きは、決して犬死ではない。そなたたちのおかげで、アジア諸國は獨立の機運が高まり、歐米の植民地支配は終はらうとしてゐる。一介の路傍の石として、名もなく世を終へるに等しいものたちも、御國のために捧げた命は、未來永劫、カミとして祀られ、天皇陛下直々に拜まれるのだ。

 この小泉太志は、終戰を迎へたといへど、内地にあつても、親の死に目にも立ち會へぬありさまた。陛下とともに新日本建設のために、日夜、身魂を注いでゐるからだ。そして陛下に、新日本建設が成るまでは引退を許さぬといふ、嚴しい國士もゐるのだ。だから安心して、新しい日本を見守つてくれ」

 かう、小泉が氣合を込めて諭して以來、敗戰を憤つてゐた荒ぶる靖國神社の英靈たち(ママ。愚案、たゞ「英靈」とのみ稱へ奉る可し)は鎭まつた。そして現在では、何事もなかつたかのやうに、靜かに祭禮が行はれてゐる。

 小泉太志は、『大祓祝詞』にあるやうに、「荒ぶる神々を、神問はしに問はしたまひ、神祓ひに祓ひたまふ」たのである。が、その「荒ぶる神々」は、靖國(神社)ばかりでなく、全國津々浦々にも潛んでゐることを、彼は知つてゐた。それは、大東亞戰爭の犠牲者だけでなく、三千年の昔からの各地の戰爭の敗者たちの聲でもあつた。それらの「荒ぶる御靈」を鎭めない限り、新日本の建設は完成しないといつてもよい。

 かうして終戰後、世の中が落ち着いてから、太志は全國の主な戰跡を囘り、祓ひ淨めを行ふ神業を始めることとなる。北は蝦夷の反亂の地から、南は隼人の蜂起の地まで、彼が足を踏み入れたところは修祓され、暗かつた土地は明るくなり、次第に賑はひを取りもどしていつた。



●小泉太志命大人『參劍訓』(神武參劍道場祭壇の左側)

一、吾等は、大御心の御神惠の下に、大御寶として尊く生かされつゝあるものなり。

一、吾等は、皇民吾なりの自覺體顯し、與へられたる天職を奉じて、大御心に應へ奉らん。

一、吾等は、生かす助けるは、御神劍の御心と拜し、謹みて參劍以て、日本民道を行ずる士なり。
 
 

『忘れてはならない歴史がある』

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 8月14日(金)15時59分44秒
返信・引用 編集済
   有志には、肥後熊本なる鈴木田遵澄(舜護)主が努力の賜物、二分二十秒の短編映畫でありますが、是非とも御清覽の上、御擴散たまはらむことを



●英靈顯彰プロジエクト第一作『忘れてはならない歴史がある』

https://www.youtube.com/watch?v=jV9NqATRI4Q

 戰後七十五年目の八月。總理大臣による靖國神社參拜は、政治問題に引きずりおろされて、國家の爲に尊き命を捧げた戰沒者に手を合はせることさへ、外國の顔色を窺はねばならぬ異常な状態が續いてゐることは、ご周知の通りであります。私たちは、英靈顯彰プロジエクトを立ち上げ、日本が戰後の後遺症から脱却して、眞の誇りある日本を取り戻すための一歩として、若い世代にも傳はりやすい戰沒者・英靈を顯彰するための短編映畫を制作いたしました。短編映畫制作にあたり、ご寄付・ご協力をいただいた熊本縣護國神社をはじめ、多くの皆樣に、心からお禮申し上げます。インターネト・SNSで擴散し、多くの若者の目に屆けるまでが、本プロジエクトの役割ですので、共感された方は、シエア・擴散をお願ひいたします。

 令和二年八月十四日  英靈顯彰プロジエクト代表 鈴木田 遵澄
 
 

大御名奉唱・追記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 5月19日(火)15時21分33秒
返信・引用
  【大御名(十言)奉唱】
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832



●神宮少宮司兼中教正・浦田長民大人『大道本義』下卷(明治九年八月・博聞本社刊)の「第十四章・祈祷を論ず」

 式は、唯だ簡を貴びて繁を貴ばず。既に祈祷の地に到れば、則ち先づ再拜。次に手を拍つこと二。天祖の尊號(愚案、即ち「天照大御神」の大御名)を唱ふること三。地に頓首し、願望する所を陳べ畢んぬ。又た兩次、手を拍つ。而して後ち一拜して退く。



 愚案、大御名奉唱の「三」は、數靈から來る囘數ならむか、若しくは「三」、即ち大數の謂ひか、或は「唯だ簡を貴びて繁を貴ばず」とあれば、神宮の古傳ならむか、或は神宮教院の新規に定むる式ならむか、得て知る可からず。

 
 

明津御神天皇の御本質。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 5月11日(月)16時53分0秒
返信・引用
   我が天皇は、肉體を具へさせ給ふ所の神樣、即ち現人神に坐しまし、吾人草莽は、畏命の臣從を實踐すべき事は、此の掲示板に於いて、隨所に述べ來つてをります。日本の飛躍發展は、天子樣が神樣であらせられると云ふことを、國民全體が自覺する所に存するのであります。

 現人神たる我が天子樣には、其の御神格が、或は御個性により、或は時運時勢により、まちゝゝに顯現する事は、申し上げるまでもありませぬ。



●橋本徹馬翁『日本の敗戰降伏裏面史』(昭和六十一年十一月・紫雲莊刊。『自敍傳』平成八年五月・紫雲莊刊にも同樣)

 明治天皇は人間扱ひをされるのを、非常にお嫌ひになつた。私が早稻田大學の學生時代、維新の元勳の一人であり、かつ早稻田大學の總長であられた大隈重信侯から、直接承つたことである。明治天皇はお召し物の寸法なども、決して取らせなかつた。いつも只だ「大きく作つておけ」とだけ仰せられたといふ。侍醫にも絲脈(脈所に絲の一端をつなぎ、他端を醫者が持つて、絲に傳はる脈搏をはかること)のほか、直接御手に觸れることは許されなかつた。

 お暇の時には縁側の椅子によつて、天空に對し、常に神徳を涵養されてゐたといふ。

あさみどり すみわたる 大空の ひろきをおのが 心ともがな

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさはぐらむ

國のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき ことな忘れそ

などの御製は、神徳具現の陛下の御製である。

 それに反して今上陛下(昭和天皇)は、神樣扱ひされることを、非常に嫌はれた。「私を神樣扱ひして、身動きも出來ぬやうにする。私は夕方など、烏打帽子でも被つて、神田の本屋を見て囘るやうなこともしたいのだが、さういふことも出來ぬ」と嘆かれた。然し他國の元首と違つて日本の天皇は、ある場合には神格者であられねばならぬのである。

 尤も二・二六事件の前、國體明徴問題の喧しかつた頃、今上陛下は、「天皇機關説でよい」と仰せられたと傳へられ、その後、陸軍主戰派によつて、陛下の御心にもない戰爭に突入して、八年の長きに亙つて戰ひ、その間、全く國體の尊嚴が現れずして、遂に敗戰に終はつたのであつた。然し終戰後、マツカーサー元帥との會見の時には、神格天皇の御本質が現れたのである。



https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1446
  ↓↓↓↓↓
●三島由紀夫氏『日本文學小史』(昭和四十七年十一月・講談社刊)

 私は、倭建命の挿話のみをとりあげて、神人分離の象徴的な意味を探りたいと思ふ。實際、この挿話は、全篇のほぼ半ばに位し、神と人との中間に置かれて、その悲劇性は、下卷の「輕太子と衣通姫」の悲劇性と、遠く照應してゐるやうに思はれるのである。

 景行天皇の敍述のほとんどが、倭建命の事跡に占められてゐるのであるが、皇太子倭建命は、いつも天皇に准ずる敬語で扱はれ、『日本書紀』にも、「是の天下は、則ち汝が天下也。是の位は、即ち汝が位也」といふ、景行天皇のお言葉が見られる。そして就中見落してはならないのは、同じく景行天皇が、倭建命を斥して、「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」と言つてをられることである。『日本書紀』によれば、それは、倭建命が「身體長大、容姿端正、力能く鼎を扛ぐ。猛きこと雷電の如く、向ふ所に前(かたき)無く、攻むる所ろ必ず勝」つからであつた。しかし、そればかりではない。天皇は我が子に對して、何かこの世のものならぬものを感じてをられたのである。

 そして『古事記』の景行天皇の一章は、本來の神的天皇なる倭建命と、その父にして人間的天皇なる景行天皇との、あたかも一體不二なる關係と、同時にそこに生ずる憎惡愛が、象徴的に語られてゐるやうにも思はれる。命の悲劇は、自己の裡の神的なるものによつて惹き起されるのである。

 その神的なるものの最初の顯現は、兄宮の弑殺であつた。その純粹素朴な怒りが演じた殘虐行爲は、景行天皇に恐怖を與へた。これが、ただ、我が子の人竝み外れた腕力と、感情の率直さに、父が恐怖を覺えたといふのでは足りない。天皇は、おそらく我が子の裡にあるものを、御自身の裡に見られたのである。天皇における統治の抑制が、十六歳の王子の行爲に震撼され、自己の裡にたわめられた「神的なるもの」の、假借のない發現を、王子の行爲に認められたのである。景行天皇のなさつた行爲は、三野の國造の祖・大根王の女、名は兄比賣・弟比賣の、二人の乙女に戀着されたことだけであつた。御子・大碓命に命じて召し上げようとされたのを、大碓命は、この二人の乙女をわがものにしてしまひ、他の乙女を求めて奉つて、父帝をたばかつた。天皇のなさつたことは、いつはりを知りながら默して、ただその乙女を冷然と扱はれただけであつた。大碓命が罰せられたといふ記述はない。

 天皇は、弟宮にして皇太子なる小碓命(倭建命)に、「朝夕の大御食に、兄宮が出て來ないのは何故か。お前からよく言つておけ」と、家長の抑制を以て穩やかに言はれた。しかるにただちに、倭建命は、用便中の兄を襲うて、その四肢を引き裂いて殺したのだつた。この行爲に接したとき、天皇が、あれほどの穩便な命令を倭建命が逸脱したといふよりも、むしろ、命が父帝の御顔色を察して、その行爲によつて、逆に父帝の内にひそんでゐた神的な殺意を具體化し、あますところなく大御心を具現した、といふことに、慄然とされたにちがひない。命は、神的な怒りをそのまま、電霆の行爲に現はしてしまつたのであつた。しかもその心情、その行動に、一點の曇りもなく、力あるものが力の赴くままに振舞つて、純一無垢、あまりにも適切な大御心に添うたことが、天皇をいたく怖れさせたのである。「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」といふ發見は、これを意味したと私は考へる。

 これがおそらく政治における神的なデモーニツシユなものと、統治機能との、最初の分離であり、前者を詩あるいは文化の役割を擔はせようとする統治の意志のあらはれであり、又、前者の立場からいへば、強ひられた文化意志の最初のあらはれである、と考へられる。‥‥統治機能から、もはやはみ出すにいたつた神的な力が、放逐され、流浪せねばならなかつたところに、しかも自らの裡の正統性(神的天皇)によつて無意識に動かされつづけてゐるところに、命の行爲のひとつひとつが運命の實現となる意味があり、そのこと全體が、文化意志として發現せざるをえなくなつたのだ。神人分離とは、ルネツサンスの逆であり、ルネツサンスにおけるが如く、文化が人間を代表して古い神を打破したのではない。むしろ、文化は、放逐された神の側に屬し、しかもそれは批判者となるのではなく、悲しみと抒情の形をとつて放浪し、そのやうな形でのみ、正統性を代表したのである。命は神的天皇であり、純粹天皇であつた。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であつた。詩と暴力は、つねに前者に源し、前者に屬してゐた。從つて當然、貶黜の憂目を負ひ、戰野に死し、その魂は白鳥となつて昇天するのだつた。

 景行天皇は、その皇太子の、このやうなおそるべき「神人」的性格を見拔いたとき、命には「傳説化」・「神話化」の運命を課するほかはないと思はれたにちがひない。それは又、文化意志を託することでもあつた。すなはち詩と政治とが祭儀の一刻において完全無缺に融合するやうな、古代國家の祭政一致の至福が破られたとき、詩の分離のみが、そして分離された詩のみが、神々の力を代表する日の來ることを、賢明にも豫見されたにちがひない。自分の猛々しい王子は、史上初の、そのやうな役割を擔ふべきである。それはそれ自體が悲境であり、生身の人生を詩と化することであり、孤獨であり、流浪であり、敗北でさへあるが、そこにこそ神々にとつての最後の光輝が仰ぎ見られ、後世、自分および自分のおだやかな子孫が統治をつづけるべき國において、それだけが光榮の根源として無限に囘歸せらるべきもの、それを正に倭建命において實現させたい、と思はれたに相違ない。それはもはや景行天皇御自身によつては實現されえないものであることを、天皇は知つてをられ、「それを實現せよ」と意志されることは、天皇の御命令だつたのである。文化意志は、かくて隱密な敕命によつて發したのだつた。一方からいへば、敕命こそが、このやうな史上最初の文化意志の發生を扶けたのである。
 
 

八紘一宇の意義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月30日(月)21時23分24秒
返信・引用
   天皇の御位は、萬人に處を得せしめて、皆な其の生を遂げしめる御位である故に、天皇親政の御代に、一日の速かに復古せねばならぬ。是は、天照日坐皇大御神の嚴命し給ふ所、抑も下々が云々する所のものでは無い。萬古、天皇を仰ぎ奉る所以は、皇祖の神勅にこそ、在るのである。



●橋本徹馬翁『天皇祕録』(昭和二十八年三月・紫雲莊出版部刊)

 終戰の年の十月に、筆者は、進駐軍司令部の諜報部から呼出しを受けた。指定の時間に出頭すると、數人の係員の居る一室に通され、そこで、戰時中の筆者の言動につき、色々の質問を受けたが、最後に筆者の思想傾向を聞かれたから、筆者は、何んの躊躇もなく、

「私は、昔から國體擁護論者であり、今も變らぬ國體擁護論者である」

と答へた。その頃の情勢から云へば、共産主義者であると答へるのが、一番無難なのであつて、反共主義者だとか、國體擁護論者だと答へるのは、最も危險な時代であつたが、筆者は、素直に且つ自信を以て、ありのまゝを答へたのである。すると、諜報部の係員が、

「あなたが國體擁護論者であると云ふならば、八紘一宇の意義をお尋ねしたい」

と云はれた。筆者は、その時「はゝ、試驗問題が出たな」と思ひながら、即座に、

八紘一宇とは、有機的又は生命的大調和の世界を造る事である

と答へた。すると、今度は係員から、「今少し委しく説明をして貰ひたい」と云はれたので、筆者は、左の如く答へた。

「世界には、米國あり、英國あり、ドイツあり、フランスあり、日本あり、支那あり、その他幾多の國家があるが、皆その歴史を異にし、地理を異にし、産物を異にし、傳統を異にし、民度を異にして居る。一言にして云へば、皆その特色を異にして居るのである。さうして斯くその特色を異にして居る國々が、各々その特色を發揮しつゝ、相互に提携依存し合ふ時、そこに有機的或は生命的大調和の世界が出來るのであつて、各國は、本來、相爭ふやうに出來て居ないのである。

 これを例へば、人間の内臟には、肺あり、胃あり、腸あり、心臟あり、肝臟あり、腎臟ありと云ふが如くに、色々の内臟器官があるが、これらは皆な別々の器官ではあるけれども、その何れもが對立して、相爭ふやうに出來て居ない。それゞゝその特色を發揮しつゝ、相互に依存して、人體と云ふより、大なる生命體を健康に維持するやうに出來て居るのである。世界の各國も、亦た斯くの如く、各々その特色を發揮しつゝ依存し合うて、地球と云ふより、大なる生命體を完全に維持すべきであつて、決して相互に爭ふべきものではない。これが、八紘一宇の意義である」

と云つた。その時、諜報部の係員は、「大分、能く分りましたが、その樣な大調和の世界が出來上つた時、日本は、どこに居るのですか」と聞いた。そこで、筆者は、

「日本が、どこに居るかと云ふことは、豫め決定して置くべき事ではない。問題は、どこの國が、最も能く自國の特色を發揮しつゝ、世界の平和と人類の幸福とに寄與するか、と云ふ點にある。若し日本が、最も能く自國の特色を發揮しつゝ、最も多く世界の平和と人類の幸福とに貢獻して居るならば、日本は、おのづから他の國に推されて、世界各國中の盟主ともなるであらう。各國は、その樣な意味の努力をこそ、競ふべきである」

と答へた。諜報部の係員は、「能く分りました」と云つて、その質問を打切つた。

 筆者は、諸外國が八紘一宇の意義を、侵略主義と同樣に考へて居たことを怪しまない。日本の軍部、その他の人々の中に、八紘一宇を、その樣な意味に用ゐた者が相當に居たからである。けれども若しも八紘一宇の眞の意義が、筆者の云ふ通りであるならば、そは、民主國家や共産國家の對外政策に比して、おおいに優れるものであると思ふが、どうであらうか。

 この頃の世界の知識人は、科學的と云ふことと、民主的と云ふことと、共産主義的と云ふこととのうちの、どれかを迷信して居るがために、一體としての宇宙・世界・人生等の正體をつかみ得ないで、自分の行く先も分らずに騒いで居る。されば若し日本國民が、眞に自己を取りかへして世界を見直すならば、敗殘の身を以てしても、なほ大國の迷妄を笑ひ、或は大國の進路の誤りを教へるに足るであらう。



★ 須多因(ローレンツ・フオン・シユタイン)博士の預言(宮内省藏版『須多因氏講義』)
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天皇御親政の本義──天下億兆、其の處を得しむるに在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月26日(木)14時37分37秒
返信・引用 編集済
   かつて暘廼舍河原博史翁より、橋本徹馬翁の『天皇と叛亂將校』を紹介されて拜戴したが、更めて拜讀するに、感興新たにして盡きざるものあり。殊に「湯淺内大臣との勅語問答」は、正に壓卷なる可し矣。亦た西園寺公望・牧野伸顯の評は、推して知る可く、又た柳川平助陸軍中將の風格は、功を立てゝ誇らず、純眞至誠、誠に一代の人物たるを知るに足れり。有志、一本を求めて讀まれたい。
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●紫雲莊橋本徹馬翁『天皇と叛亂將校』(昭和二十九年五月・日本週報社刊)

 序文
第一部 日本陸軍の自殺
 一 貧困と疑獄の中に青年將校起つ
  ★ 青年將校と政治問題(昭和九年二月執筆)
 二 皇軍精神と天皇機關説
 三 湯淺内大臣との勅語問答
第二部 今上陛下に爭臣なし
 一 軍自ら奉勅第一主義を蹂躙
  ★ 奉勅第一主義の徹底(昭和十二年三月執筆)
 二 逆用された二・二六事件
  ★ 日本國民に告ぐ(昭和十四年十二月執筆)
 三 今上陛下と元老・重臣
 四 柳川將軍と叛亂將校(事件餘録)
第三部 特別資料篇
 一 十月事件計劃者の起草せる『皇政維新法案大綱』
 二 三月事件・十月事件についての大川周明氏の『非公開陳述』
 三 磯部・村中兩氏執筆の『肅軍に關する意見』
二・二六事件判決の全文(陸軍省發表)
 
 

尊皇攘夷──令和維新の祈り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月16日(月)22時27分30秒
返信・引用
  ●吉田松陰先生『入江杉藏に與ふ』安政六年十月二十日

 學問の節目を糺し候ふ事が、誠に肝要にて、朱子學ぢやの、陽明學ぢやのと、一偏の事にては、何の役にも立ち申さず、「尊皇攘夷」の四字を眼目として、何人の書にても、何人の學にても、其の長ずる所を取る樣にすべし。



 次は、中村武彦翁の遺言であり、我々につきつけられた課題でありませう。更めて自らに問ひ、顧みる必要があります。



●中村武彦翁『尊皇攘夷』(平成三年十月・面影橋出版刊。『明治維新の青年像』竝びに『尊皇攘夷──鮮血の記録と遺言』を所收)

 今日の青年・學生の多くが、はね上りの左翼暴力やアメリカニズムの頽廢を批判して、自主的に行動したい意欲を持ちながら、では、どうしたらよいのか、何が正しい思想であり、行動であるかを、自ら定めかねてゐるのは、怪しむに足りない。日本國民の持つべき價値判斷の基準、國體と歴史の基本的教養を、全然與へられてゐないからである。それを手にした時、はじめて日本人の魂と血は蘇り、若人たちは、毛澤東やゲバラに踊らされるのをやめて、松陰や南洲の指し示す道に、シツカリ足を着けて、競つて昭和維新の志士となるであらう。そこに新しい日本とアジアと世界の創造がある。

 そのやうな民族的覺醒と國民的合意は、今日、甚だしく遲れてゐる。その責任の一半は、昭和維新運動そのものゝ低調と無力にかゝつてゐる。幕末の志士たちの經驗した苦勞より數倍の熱意と努力なしには、この遲れを取り返すことは難しいが、新選組の凶刃に絶えず狙はれることのないかはりには、そのぐらゐの努力を自ら求めるのは當然であらう。

 戰後の日本人は、戰ひと死に直面する體驗なく、平板な生命尊重論と平和主義に甘やかされてゐるために、きびしい死生觀を持つてゐない。「青年よ、銃をとるな」といふ政治の下で、死を覺悟する必要のない革命ゴツコが行はれる。維新運動も、またそのヌルマ湯的環境の中で、筋金が入らない。‥‥

 敗北を知らなかつた日本民族が、はじめて敗北の苦汁を嘗め、外國軍隊に蹂躙された。多くの醜態が演ぜられたけれども、試練として民族の魂を鍛へられ、大人になつたところも多かつた。焦土から飛び立つ不死鳥のやうな復興の奇跡が、世界を驚かした。この力は、明治維新以來の蓄積された國民の底力に外ならぬ。この滅びざる志士の心、明治維新の殘照が、敗戰日本に起ち上がる力と希望を與へたのである。今や、新しい歴史が始まる。光輝に滿ちた昭和維新の、後期の歴史が。それは、明治維新の初一念の理想に歸り、これを日本の今日の現實の中に實現してゆく、その現代の志士たちの歩みの一歩々々が、書き綴つてゆく歴史である。‥‥

 昭和天皇は、國の悲劇と屈辱を、御一身に引き受け給ふものゝごとく、長い辛い御鬪病のいやはてに、波乱萬丈の御生涯を終へさせ給うた。我々は萬斛の涙をもつて、昭和の御宇を見送つたが、新帝陛下の即位の大禮・大嘗祭は、騒然たる戒嚴と不安のうちに行はざるを得なかつた。有史以來、このやうな不祥事があつたであらうか。

 今、中東に渦卷く惡氣流の前に立ちすくみ、それでもまだ錢勘定ばかりしてゐる經濟大國日本の姿は、

「獨り我が邦のみ、世界の形勢に疎く、舊習を固守し、一新の效を圖らず、‥‥一日の安きを偸み、百年の憂を忘るゝ時は、遂に各國の凌侮を受け、上は列聖を辱しめ奉り、下は億兆を苦しめんことを恐る」

と、明治天皇が、維新の初めに諭し給うた通りの事態ではないか。明治維新の志士たちが再建し、日清・日露・大東亞の戰の勇士たちが守り拔いて來た祖國日本を、政治家どもは、マスコミは、どこへ持つて行かうとするのか。チヨン髷に二本差しで、壓倒的な白人帝國主義の攻撃に立ち向かひ、まづ國内の討幕維新のために、惜しみなく身命を獻げた青年の熱血は、受け繼がれてゐないのか。そもゝゝ民族派・維新派といふものは、存在してゐるのか。

 人間の科學的英知が、新しい文明を宇宙に向かつて切り開き、人類が萬世太平の方向に、少しづつでも前進しつゝある今日でも、「尊皇攘夷」は、古くして常に新しき維新の原則であり、國民的合意と國際的發展の基礎であらねばならぬ。言ふまでもなく、「尊皇」とは、民族統一の中心を搖るぎなく守ることであり、「攘夷」とは、民族の統一と文化を危ふくするものを排除することである。それなくして、どうして國の獨立と安全を全ふし、進んで外國の諸民族をも、各々その所を得しめ、親和せしめる世界史的使命を果たすことが出來よう。

 共産主義革命の幻想が暴露され、しかも現代文明と白人支配そのものゝ破産も、もはや避けようのない今日、我々が、これからの活路を自らの歴史の中に發見し、これを偏狹なナシヨナリズムや空漠たるインターナシヨナリズムに停滯せしめず、着實に萬世のために太平を開いてゆく積極的な創造發展の原理とすることに、何ら躊(ためら)ひもあつてはなるまい。それこそが明治維新の志士たちが指し示す行動の原理ではないか。
 
 

中村武彦翁の二・二六囘想。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月11日(水)23時11分43秒
返信・引用
   二・二六事件に於ける中村武彦翁の囘想は、血の涙、襟を正して聞きたい。有志、瞠目して讀まれるがよい。



●中村武彦翁『私の昭和史──戰爭と國家革新運動の囘想』(平成十七年三月・昭和史研究所刊)

 昭和十年十一月の末、約三年ぶりに娑婆に歸つて來た私は、何はともあれ、先づ神兵隊事件の總大將と云ふべき天野辰夫先生に會ふことを急いだ。‥‥尊皇の心と正義感の強さ、『古事記』に基づいて説く國體と維新の原理と、國政改革の明晰な論理、妥協を許さぬ堅固な意志、しかも優しい心遣ひといふやうなものが、その整つた品のよい温容や、毅然として且つ悠然たる姿勢や話しぶりから、疑ふ餘地もなく感じとれるのである。一流の辯護士であることも、劍道の達人であることも聞いてゐたが、これほど見事な武人の風格は、豫想しなかつたから、俺は、この人の門下生になるといふ幸福感に醉つてしまつた。‥‥

 最初の出會ひにおけるいろゝゝな先生の話で、忘れ得ぬことの二三を記しておきたい。神兵隊の實行部隊(破壞面)は、最後は皇居の前の日本勸行銀行に立籠り、戒嚴令施行されるのを見屆けた上、全員自決すると豫定されてゐたこと。建設面を擔當する天野氏も、大詔渙發・宮樣内閣成立を見屆けたら、同じく自決する豫定であつたこと。私どもは、實の處、首相官邸や警視廳に斬込めば、百パーセント其處で死ぬることは必定と覺悟してゐたから、別に自決の用意はしてゐなかつた。たゞ改めて維新の指導者の心構へのきびしさに、頭を埀れる思ひであつた。

 また神兵隊は、軍の派閥爭ひに、絶對に卷き込まれてはならぬこと。私が北一輝氏について質問すると、彼の民主革命思想は、我々と絶對に相容れぬと斷言された。この時は、二・二六事件は全く豫想されてゐなかつたのであるが、後に事件が起つた時、私はこのことを思ひ出して、判斷を誤らずにすんだ。‥‥

 (昭和十一年四月初め)世間一般では、もう二・二六の騒ぎも話題に上らなくなつてゐたが、私どもにとつては、何故、あの事件が、あんな慘めな結果に終つたのか、その跡を檢討せずにをれなかつた。『蹶起趣意書』を讀み返したり、『陸軍大臣告示』の欺瞞性に、あらためて腹を立てたりしながら、これから開かれる軍法會議や軍内抗爭について考へると、明るい豫想はできなかつた。これは單なる事件の後始末ではない。これからの日本の方向を左右するものであり、我々の行動は、それによつて決定されるのである。

 近衞第一の兩師團に屬する同志の青年將校が率ゐる千四百の將兵が、尊皇討奸を叫んで蹶起し、政府・軍部を震ひ上らせ、維新成るかと期待された所謂二・二六事件は、未曾有の大規模なクーデターであり、しかも一敗、地にまみれて、特別軍法會議の暗黒裁判に付され、反亂罪として裁かれることになつた事件である。

 しかし裁かれる者は、いづれも忠誠にして私心なき我々の同胞であるから、大多數の日本人は、その志を憐み、公正なる裁判と寛大なる判決を望んでゐた。私も當時、軍の内情や派閥對立の實體については、よく分らなかつたが、この皇國興亡の岐路に立つて、一路、尊皇討奸の道を驀進し、賊名を甘受してゐる若き將校たちに、心から共感し、血の通ふやうな連帶意識を持つて、敬意を表してゐた。

 唯一點、誰しもが考へる通り、天皇の軍隊の基本的な軍紀を犯したことの是非については、判斷に迷はざるを得なかつた。然しこれは、正に皇國非常の窮地において、日本人たる者が生命を投げうつて執る非常の決斷であり、尊皇絶對の無上道であつて、平生安穩の時代における倫理道徳を超えてゐる。空論の對象ではないと、割切つた。自分自身の神兵隊計劃の際に體驗した問題であり、落着く處は、吉田松陰の「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 日本魂」の心境であつた。

 さればこそ、敢へて行動した後は、速かに自決して、死を以てその責を全うすべきであり、辯明、一切無用、陛下のお赦しの有無は問ふ餘地はないと、少なくとも私は信じてゐた。諸士は勿論、初めからその積もりであつたに違ひないが、一旦、全員切腹の支度をしながら、土壇場になつて、法廷戰術をたどることに變更したのは、何の故か。理解に苦しんだ。

 敢へて賊名を覺悟し、千四百の兵を率ゐて起つからには、血盟團や五・一五の類ではない。心を鬼にして、徹底して討奸討幕を實行し、昭和維新を確實に實現しなくてはならぬ。中途半端や失敗は許されぬ、一囘勝負である。ことさら多くの血を流さなくとも、要點だけは確實に粉碎し、その他の惡い奴は、片つ端から逮捕拘禁して、その妄動を封ずる。放送局・新聞社を一時占據して、昭和維新待望の國論喚起・鼓舞に協力させる。亡國政權の現はれる餘地のないまでに、徹底的に舊勢力を叩き潰した上で、速かに整然と兵を引く。空論のやうであるが、折角蹶起した千四百の將兵には、それだけの責任があり、それを可能にする武力があつた筈である。

 それが、初めは脱兎の如く、後は處女の如く、決して踏みこんではならぬ後繼内閣の交渉などに三日間も空費し、その間、ジリヾヽと統制派幕僚の術中に陷り、遂には反亂軍として扱はれ、野中大尉と、未遂に終つたが安藤大尉、それに河野大尉の外は、切腹自決の機を失ひ、何の展望もない法廷戰術を求めて、獄に投ぜられるのである。

 その御命令もないのに、軍隊の一部が行動を起し、陛下の重臣たちを殺すといふ、思ひもかけぬ事態に直面し給うた時、大元帥陛下が、「おう、尊皇討奸か。よくやつた」と仰せられる筈のないことは、青年將校たちもわかつてゐたに違ひない。陛下は、政府も軍部も周章狼狽して、何も出來ぬ樣子を御覽になり、しからば「朕、自ら討伐する」とまで仰せられたと承るが、川島陸相などは、一體、どのやうな御報告をしてゐたのか。兼ねてより國體に反し國政を亂し、内外の危機を招いてゐる日本の現實と、これを憂ひてやまぬ尊皇の士の眞情について、御理解いたゞくやうな眞摯な奏上や御報告は、ほとんどなされてゐなかつたのである。聖明を掩ひまつる側近や閣僚ばかりである。

 尊皇の赤心、討奸の眞意、遂に天聽に達せず、純情なる武人たちが、逆鱗に觸れて、維新の大詔渙發を仰ぐどころではなかつたといふ事實は、二・二六の悲劇の核心である。『蹶起趣意書』に迸つてゐる懸命の思ひは、陛下も御嘉納になつたに違ひないが、この情況の中では、陛下の御とりになる御態度・御處置は、悲しい哉、限られてゐた。至尊をして、獨り社稷を憂へしむといふやうな、恐れ多い形に事態を押しこんでしまつたといふことに、その時、私は血の逆流を覺えたが、今日から顧みても、償ひようのない恐懼の極みである。‥‥

 あのやうな『大臣告示』によつて、陛下の御許しがあつたやうに早合點した側も單純であるが、このやうな一時凌ぎの見え透いた欺瞞で處理できると思つてゐた陸軍首腦たちの、別の意味における單純さには、腹が立つた。交渉の席上、眞崎内閣樹立の要望が私議されたといふに至つては、言語道斷である。

 神兵隊計劃に豫定された爆撃機出動と同樣に、この千四百人の皇軍將兵武裝蹶起といふ決定的な戰力は、もう二度と、維新運動の上に現はれることはないであらう。それが龍頭蛇尾の騒ぎに終り、彼等が最も警戒してゐた筈の統制派幕僚・軍人の思ふツボの政治的進出を促し、昭和維新の道を塞ぐ結果になつたことは、私共にとつても諦め難い無念であつた。

 禍根は、破壞と建設の分擔任務をハツキリ分けて、それゞゝの任務に獻身するといふ維新の鐵則が破られたといふことで、これは神兵隊員として、我々が特に痛感したことであつた。蹶起部隊が、原状囘復不可能までに徹底的に破壞面の役割を實行した後、事後の收拾や建設面には、一切容喙せず、奉勅命令を待つまでもなく、兵を原隊に歸し、勅使御差遣をお願ひするまでもなく、全員、從容として皇居を拜し、切腹してゐたならば、どうなつたか。野心滿々の幕僚・軍人や政治家・官僚たちも、襟を正さゞるを得ず、國政維新を妨げることを控へたであらうし、奸賊と指摘された重臣たちも、怖氣をふるつて隱退したであらう。同憂同志の軍人・政治家・官僚・財界人・維新陣營など、意を決して新日本の建設に協力したであらうし、國を擧げてその尊皇討奸の精神を支持し、昭和維新の斷行を要求してやまなかつたであらう。

 維新、一擧に成らずとも、大きく前進したことは疑ひないが、自決する覺悟でゐた青年將校たちに、それをさせなかつたのは、背後にゐた北一輝・西田税氏の指示によると傳へられた。果してさうであつたかどうか分らぬが、私は、二・二六に、北・西田の影響は否定できぬと思ひながら、私自身、曾て大きな刺激を受けた『支那革命外史』・『日本改造法案大綱』のことを思ひ出し、あらためて北一輝氏の思想と、我々の距離を認めずにはをれなかつた。‥‥

 私一個の獨斷であるが、前述した通り、同志將校の最期は、實に痛恨痛惜に堪へないが、敢へて涙を呑んで申し上げたいことは、一切を擲つて救國の一念で起ち上がつたからには、何故、もつと徹底した討奸を行ひ、維新の血路を開いてくれなかつたのか。何故、全員自決して、大命なくして兵を動かした責任を、闕下に謝し奉り、死を以て御維新斷行を請願し奉らなかつたのか。何故、一旦、自決をきめながら、それよりも法廷で眞實を訴へて國民同胞の理解を求め、反國體勢力を退陣せしめるといふやうな幻想に囚はれてしまつたのか──といふことである。

 だから無念に堪へないけれども、軍法会議で極刑の判決が下るのは、やむを得ないと思つてゐた。被告の一人、高橋太郎少尉は、この判決に對して、「名斷ナリ。我等ガ赤心ヲ認メ、ソノ罪ヲタヽク。餘スナシ。喜ビテ死ス」と書き遺してゐるが、若き武人のこの達觀には、涙なきを得ないとゝもに、最後まで怒り續け怨み續けた磯部一等主計と比較して、大多數の同志の心境は、高橋少尉に近かつたのではないかと思ふ。‥‥

 北・西田が、あの事件で、何の指導的、或は扇動的な役割も演じてをらぬことは、多くの判士自身が認めてゐた。兩氏、殊に北一輝が、從容としてこの冤罪に服した最後の潔さに、私は敬服する。「有罪であらうが、無罪であらうが、そんなことは考へてゐません。だが、私の『改造法案大綱』を愛讀信奉したのが遠因で蹶起したのだとしたら、私は責任上、當然、彼らに殉ずる覺悟でゐました云々」と、死刑判決の降つた當夜、刑務所長に語つたといふその述懷は、素直に聞いて信じたいと思ふ。

 然し實際のところ、『法案』を信奉して蹶起したといふ將校が、何人ゐたか。ゐるとすれば、おそらく磯部だけと云つても過言ではないだらう。多くの人は、嘗て『法案』を讀み、部分的に共感したにしても、全體としては、その社會民主主義の思想や天皇利用・軍隊利用の戰術に、到底共鳴できず、離れて行つたに違ひない。將校たちの背嚢に『改造法案』が入つてゐたといふ話など、全く馬鹿げた作り話である。

 若し萬一、北・西田が計劃し指導したとすれば、事件は全く違つたものとなり、破壞も大きかつたであらうし、宮城占據も實行され、維新といふ名の革命工作が、怖るべき形で強行されたであらう。さうであれば、正に叛亂軍であり、我々は楠木勢として、この不逞なる足利賊軍に眞正面から、斷乎たる殲滅戰を行はざるを得ない。さうならなかつたところに、本件と北・西田の直接關係ないことの證明があり、日本の幸ひであつた。‥‥

 兩氏の考へてゐたことは、日本の社會主義革命であつて、維新ではなく、天皇は革命に利用價値ある機關にすぎず、現人神でも、統治權の主體でもない。處刑に臨んで、他の人たちは、みな「天皇陛下萬歳」を唱へてゐるのに、この二人は拒否した。そのやうな思想から見れば、純粹に皇道維新を目指し、國體奉護を誓ふ者たちとは、相容れるべくもない。



■勤皇まことむすび・尊攘同志會「四句誓願──臣子の祈り」奉唱

尊皇絶對

生命奉還

神州恢復

朝敵撃滅

 
 

あはゝ。梅毒將校、見參。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 3月 9日(月)17時47分52秒
返信・引用
  ●海軍中尉・林正義氏『五・一五事件──一海軍士官の青春』(昭和四十九年五月・新人物往來社刊)に曰く、

「獄中で大川周明氏の著書を讀み、(大川博士が)「日本に平泉澄博士の如き國史學者がゐることは、眞に意を強うする」と激賞してをり、平泉博士の書を、かたつぱしから買つて讀んだ。何れを見ても、日本精神は傳統であるといふことで、傳統を強調してあるが、自分としては傳統の内容實體が欲しい。他日、平泉博士にお目に懸ることがあれば、このことを確かめたいと思つてゐたので、一日、平泉先生宅に、電話で面會を申し込んだ。先生は「喜んで待つ」とのことであり、大庭(春雄・海軍少尉)君と二人で訪ねた。

 私は、いきなり「日本精神とは、なんでございませうか」と尋ねた。

(平)「傳統です」。

(林)「たゞ傳統とおつしやると、親爺が梅毒、子が梅毒、日本精神は梅毒でございますか」。

(平)「私は、先人の教へを、たゞ受繼いでゐるだけで、私の意見はありません」。

(林)「眞に受け繼いで居られるなら、自分流に説明も表現も出來る筈です」。

(平)「アナタは、禪を少しばかりかじつてゐるやうだが、私にいはしむると、擔板漢だ」。

(林)「イヤ、私から申し上げると、先生こそ、擔板漢です」。

(平)「私は、五・一五事件關係者には、あなた方に會ふのが最初で、非常に期待して居りましたが、がつかりしました」。

(林)「私も、先生にお目にかゝつて、がつかりしました」。

 平泉博士は、白皙端麗な風貌の方であり、こちらが無禮なことばかりいふので、顔面は蒼白に、怒色、表に出てゐる。こちらは眞劍であつたが、怒られてしまへば、仕方がない。

(林)「これで失禮します」と、玄關に別れる時に、博士は、

(平)「毎週、塾生に講義をしてゐますから、一度、私の講義を聞いて下さい」。

(林)「ハイ、是非、拜聽させて頂きます」。

 その後、某日、塾生とともに博士の講義を聽講したが、山崎闇齊(ママ)先生の學問の系統が、どこゞゝに流れ、明治維新の原動力となつたといふことを詳述されたゞけで、私は釋然としないばかりか、當てがはづれた」と。



 愚案、初對面の道の達人に、無禮にも、いきなり野狐禪を嚙ますとは。

 玲瓏、玉の如き人格と謳はれ、大川周明博士から「先生と敬ひて師事する唯一人」と仰がれた平泉澄先生も、「梅毒」將校にかゝつては、全く縁なき者でありました。道學に無縁の者は、「學問とは、先哲遺文を學ぶこと。君國の大事に對して、私見を以て判斷するのは僭越、先哲の教へを仰がむのみ」とする平泉先生は、たとへ書を讀まうとも、到底、之を理解し得ないのであります。


**********

舊稿から

 寒林平泉澄博士は、大川周明博士と淺からぬ御縁があります。廣瀬重見翁「平泉澄先生と大川周明博士」(『日本』平成十九年十月號~十一月號)を拜見しましたので、些か紹介させて戴きます。

 昭和二年七月、平泉博士は大川博士に對し、其の論文「國史學の骨髓」を贈呈され、大川博士が「國史の研究に就て、向後はどうぞ生(大川博士)の導師たる勞を賜り度」(昭和二年八月二十九日附書翰)と申し出された事に起因し、大川博士は、「橋本景嶽は、維新の英雄中、最も八面玲瓏の人物であらう。高潔なる情操、透徹せる理智、而して實行の意力を兼備して居る。其の死は僅かに二十六歳の時だから、驚くべき夙成の天才である。‥‥予は、平泉澄先生を見る毎に、景嶽を想起する」(『大川周明日記』昭和十一年八月二十日條。同六十一年九月・岩崎學術出版社刊)と。又た大川博士より九歳年少である「平泉澄博士は、當代の學者中、生(大川博士)が先生と敬ひて師事する唯一人」(柳澤一二氏宛書翰・昭和三十年四月二十七日。『大川周明關係文書』平成十年九月・芙蓉書房刊に所收)とまで告白し、「正しき明治日本史は、平泉先生の筆によつて傳へらるゝ事と奉存候」(同年五月八日附書翰)と、終生、道交の證を述べられました。

 平泉博士は大川博士に、其の號「寒林」横額の揮毫を求められ、又た大川博士の期待切望に應へて、『父祖の足跡』五卷・『明治の源流』・『少年日本史』・『明治の光輝』・『日本の悲劇と理想』・『悲劇縱走』・『首丘の人――大西郷』等を陸續と物せられました。而して平泉博士は、大川博士の墓の文字を書き、大川博士は、北一輝の墓標を書いてをられます(共に帝都目黒の瀧泉寺墓地)。然しながら平泉博士は、「あの方(大川博士)が分らない。何故、北一輝と親しいのか判らない」とも仰つてをられた由。北氏は佛蘭西革命を贊える民主主義者、傳統と歴史を重んじる平泉博士とは、絶對に相容れませぬ。平泉博士歸幽の半年前に、「結局は、大川博士は、私(平泉博士)と北一輝との中間に立つてゐた人です」と言はれたさうです(中村政夫氏の聞書き)。


○平泉澄博士の、大川周明博士への弔歌(昭和三十二年十二月二十五日・『山河あり』所收)

大いなる 我が悲みに こたへてや 雪空低く 山見え分かず
 
 

承詔必謹の大義──中村武彦翁『殘夢猶迷録』

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月27日(木)21時45分52秒
返信・引用
  ●吉田松陰先生『又讀七則』(安政三年十一月二十三日『丙辰幽室文稿』に所收)に曰く、

「天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者有り。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふる者有り。余、幼にして家學を奉じ、兵法を講じ、夷狄は國患にして憤らざる可からざるを知り、爾後、遍く夷狄の横(ほしいまゝ)なる所以を考へ、國家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非ざるを知れり。然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。

 向(さき)に八月の間、一友(宇都宮默霖)に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂へしは、竝(み)な夷狄に憤りを爲して見を起せり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるに非ざりし也。‥‥朝廷、上に尊く、幕府、下に恭しといふ。果して言ふ所の如くんば、則ち今ま又た何をか憂へん。唯だ其れ然らず。志士の悲憤する所以ん也。足下、亦た甞て禁闕を拜し、而して江都を觀るか邪。其の尊きは、則ち然り。其の恭しは、安くに在らん。夫れ六百年來の變、皆な臣子の道(い)ふに忍びざる所なり」と。



 中村武彦翁は、小生にとつて懷しき御方であります。かつて拜讀した『殘夢猶迷録』の中から、「戀闕」の情から來る所の大囘轉の一端を拜抄して、有志諸賢の清覽に供したいと存じます。
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●中村武彦翁『維新は幻か──わが殘夢猶迷録』(平成六年二月・いれぶん出版刊)

 天皇陛下が、降伏される。神國日本が、米ソの醜夷どもに踏みにじられる。ひそかに覺悟はしてゐたが、それだけはあり得ざることゝ思ひ、ぎりゞゝのところで、何とか避けられると、一縷の望みを殘してゐた最不祥の運命を、遂に日本は迎へたのだ。天窗にすがつて哭きながら、私の理性の半分は、それをもはやどうにもならぬ現實として肯定したが、半分の理性と感情は、斷乎としてこの現實を承服せず、逆上してゐた。

 宣戰の大詔によつて開始された大進軍ではないか。アジアの救濟と新秩序建設を目指し、皇軍將兵と同胞と盟邦諸民族が、屍の山を築いた戰爭ではないか。その血汐は、いまだあたゝかく、その目的は、いまだ果たされてゐないのに、戰力を殘し、逆轉の可能性を持ちながら、降伏を急いでよいのか。一緒に戰つてくれたアジアの諸民族を、獨立解放の見込みもないまゝに置いてけぼりにしてよいのか。アメリカの原爆、ソ聯の火事泥。天人ともに許さぬ鬼畜行爲を、世界の良心に訴へることなく、このまゝ泣き寢入りしてよいのか。そんなばかがあるか。大南洲の訓へた「道を踏み、國を以て斃るゝ精神」とは、まさに今日のことではないのか。

 天皇陛下、もう一度、御考へ直し願ひます。陛下は、側近の者どもの申し上げることのみお聽きになつて、幾百萬の英靈の聲や、勝利を信じて懸命に困苦缺乏に耐へてゐる庶民の姿を見そなはしませぬか。このまゝでは、惡鬼畜生どもの支配する地球になります。あらためて聖戰の趣旨を明確にし、世界の道徳的再建のため、米ソが反省して凶器を投げ捨てるまで戰ひ續ける宣言をしていたゞけませぬか。あと少しの流血を躊躇して、過去幾百萬の流血をむだにすることのないやう、大慈大悲の大御心を發動させ給へ。

 私は狂つたやうに、せめて刑務所長を通じて、この嘆願を司法大臣にまでも取り次いでもらひたいと願つたが、受けつけてくれない。一々憶へてゐないけれども、私は隨分興奮して、(昭和二十年八月)十五日は、終日怒鳴つたり泣いたりしたやうだ。刑務所では、私に自殺のおそれがあるとして、二十四時間常時不斷の看視をつけた。私は多少落ち着いてから抗議して、常時看視はやめさせたが、死ぬに死ねない悲憤はをさまらなかつた。

 私は、はじめ斷じて承詔必謹できなかつた。恐れながら指し違へたいと思ふほど、天皇陛下をお怨み申し上げた。二・二六の磯部菱海(淺一)よりも烈しく、三島由紀夫の『英靈の聲』よりも痛切だつたかも知れない。どうして陛下は、皇祖皇宗の御神靈に背き、忠誠なる赤子たちの死をむだになさいますか、と訴へた。元來、天皇に、いかなる降參もあらう筈はない。いはんや惡魔鬼畜の軍門に降られては、神ながらなる天皇の御權威は、地に落ちた。腹が立ち、情けなくなり、陛下を陛下として拜し得ない虚ろな思ひを、どうすることもできなかつた。

 獄中にあつて、御聖斷に至る經緯はもちろん、その邊の空氣も、何も全く知らず、いきなり藪から棒に、戰爭は終はつた、日本は降伏したと言はれては、私ならずとも、呆然自失するか、憤然として怒りたけるのが、當然であらう。悶々として惱み續けてゐるうちに、何か濃霧が晴れて來るやうに、段々氣持ちが變はつて來た。二・二六の時もさうだが、その名に價する皇軍統帥部なく、政府にも宮廷にも、忠臣良弼がゐないのである。陛下の側近、みな茶坊主であらう。このやうな情況の中で、鈴木首相や木戸内府の言ふことのみ御聽きになつてゐれば、恐れながらいかに英明なる陛下でも、御判斷を誤り給ふことのあるのは、不思議でないと思ひ、獨り社稷を憂ひ給ひ御心勞あそばす陛下が、御いたはしくてたまらなくなつた。これは、陛下を責める筋はない。もつぱら我々の罪であり、責任ではないか。息まいて討奸を叫ぶだけで、遂に實行しなかつたのは我々だと、腹の底から思ひ直した。

 陛下は、草莽の忠誠硬骨なる者どもの聲の屆かぬところにおはしまし、御一人で國家國民のことを御案じになつてゐる。御一人で、皇祖皇宗の御神靈に對面し給ひ、一切の責任を、御一身に負ひ給ふ。開戰の責任も、終戰の責任も、敗戰降伏の恥辱も、心なき我々國民の怨嗟も、御一人で負ひ給ふのである。そのやうな事態を招き、天皇を御護りできなかつたのは、輔弼の臣ども、大臣・大將はもちろんであるが、我々草莽の民にも、斷じて逃げられぬ責任がある。

 更に思つた。肇國のいにしへから、御歴代天皇は、みな國民一同の苦患を、御一身に引き受け給うたのである。宮中の祭祀は、みなその精神で行はれる。スメラミコトとは、そのやうな御天職なのである。されば、國民明るく樂しむ時は、天皇も明るく樂しみ給ひ、國民暗く病む時は、天皇も暗く病患の相を現じ給ふ。國民が擧げて無能無力の状態にあるがゆゑに、天皇は力無く降伏に甘んじ給ふ。悲しや、君民一體とは、これか。

 こゝにおいて前に申したやうな、愚昧なる臣僚に取り卷かれて、陛下に情報達せず、内外の實情を正確に御存じなく、赤子の眞情を見そなはすことなく、聖斷をお誤りになつたやうに思つたのは、それは違ふ。まことに親の心、子知らず、驕れる不肖の子、大變な考へ違ひであつたことを悟つた。國民の方からこそ、大御心を理解できないことが多いが、大御心の方からは、何もかも聞こし召し、見そなはし、知ろしめしてゐるのである。

 あの昭和六年の秋、私も一中學生として御親閲に參加した九州陸軍大演習御統監の御歸り道、鹿兒島灣指宿の海岸で、奉送の提燈行列を行つた住民たちの方では、何も氣づかなかつたのに、はるか沖ゆく御召艦榛名の艦上から、陛下は雙眼鏡で、その燈火を御みとめになり、闇黒の中で、御獨り擧手の禮を、海岸の住民たちに送つてをられたといふ、あの聖なる美しい情景を思ひ出す。民は知らずとも、君は知ろしめしてゐるのである【★註】。

 私は、愕然としておのれの罪を悟らずにをれなかつた。聖戰貫徹、昭和維新の空念佛を唱へ續けた結果、何ができたといふのか。まさに死をもつてしても償ふことのできぬ大不忠の犯罪である。私は、腹の底から申し譯ないと痛感し、承詔必謹の大義に歸り着いた。‥‥

 それにしても、獄中の獨語とはいへ、よくも不遜にも、天皇をお怨み申し上げ、叱咤したものである。たゞ一言辯解させていたゞくならば、私は、この時はじめて、九重の雲の上に、はるかに天皇を拜するのでなく、眞近に陛下に直面してゐた。實感を申せば、抱きしめてゐた。理屈ではなかつた。外なる權威ではなかつた。私は、陛下と一つになつて、母の懷で母の胸を叩いてむづかり泣くごとく、泣きわめいた。陛下、陛下と、呼び續けてゐた。

 支那の理想的聖人である舜皇帝は、若い頃、飲んだくれの親父にいぢめられ、じツと耐へ忍びながらも野に出て、天を仰いで號泣したと傳へられる。「舜、旻天に號泣す」である。吉田松陰の門弟が、先生に問ふ。「その時、舜は父を怨んだでせうか。孝行のお手本の舜のことだから、父を怨むことなどなかつたでせうね」。松陰先生は、言下に答へて言ふ。「もとより怨めり」。その怨むところに、孝子の眞情がある。その自然の感情を否定した、冷たい形式倫理など、本當の孝行ではない。文句は忘れたが、そのやうな意味の話を、『講孟餘話』(ママ。講孟箚記)の中で讀んだことがある。「怨慕」といふ言葉が『孟子』にあつたやうに思ふが、何かそんな文字で表現できさうな氣持である。

 君民一體も、忠誠の精神も、冷たい形式的な論理や倫理ではない。心底より天皇を仰慕しまつるがゆゑにこそ、時に天皇を怨みまつる心の出て來るのは、臣子の眞情ではないだらうか。しかしその怨みまつるといふ心は、陛下の大きな親心の前では、まことに淺薄な感情であり、間違つてゐたことを、私は懊惱の末、はつきり自覺した。

 今、國體を護持するため、全國民を救ふため、この焦土を眞實の神國日本たらしめるため、更に進んで人類文明の破却を救ふため、萬世の爲に太平を開くため、敢て御自らの神聖も權威も、泥土に委ねてまで、堪へ難きを堪へ忍び難きを忍び給ふ大御心の底知れぬ深さが、やつと分かつたやうに思つた。その慈悲忍辱の大御心の中から、「堅ク神州ノ不滅ヲ信ジ」と仰せられるのである。これが敗戰國の君主の御言葉であらうか。堂々たる勝者、萬古仰ぎみる王者の、偉大なる御宣言ではないか。



【★註】聖なる夜景
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岡山縣愛國者協議會による第四十四囘野中四郎烈士慰靈祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月24日(月)14時37分21秒
返信・引用
  ■昭和天皇御製(昭和六十三年八月十五日「全國戰沒者追悼式」。宮内廳從侍職編『おほうなばら──昭和天皇御製集』平成二年・讀賣新聞社刊)

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど



 令和二年二月二十四日午前十時半、元陸軍歩兵大尉・野中四郎大人命の八十四周年、即ち八十五年慰靈祭を、吉備前國御野郡岡山市中區平井の東山靈園なる、野中類三郎家墓地(古きは元祿の年號あるも、今は無縁墓地と化せり)に於いて齋行す。岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁が創祀されて以來、こゝに四十四囘なり。氣、凛として、身、慄す。

 梅香る、穩かなる天候の中、嚴肅裏に、滯り無く御祭を畢ぬ。「天壤無窮」(大尉絶筆)なり矣。「秩父宮殿下より、野中大尉に、御叱りの御言葉あり。野中、之を承りて、『殿下よりは、恐らく御ほめいたゞく事と思ひ居たるに、殿下よりも、御叱りいたゞく上は、致し方なし』とて自決せし、との説あり」(平泉澄博士『孔雀記』)。

 祭主兼典儀は、秋田智紀主、齋主は、式内縣社足高神社・井上直亮禰宜なること、從前の如し。禰宜の祝詞は、二十六年前の直き志のまゝの祝詞、直す能はざる由。祭式に生命を賭すてふ禰宜の聲と姿、まことに莊嚴、本年、復た之を拜して、身、愈々震ふなり。首の奉記は、齋主祝詞の末尾に在り。

 なほ本慰靈祭は、百周年を以て限りとするも、大雨に因る中止のときは、以降、之を終了とす。是れ、天意と畏めばなり。然りと雖も四十四年間、祭典中は雨降らずして、幸ひに齋行するを得たり。本日は、雲一つなき晴天なり。畏し矣。

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帝國陸海軍に於ける平泉澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月17日(月)16時38分38秒
返信・引用
  ~承前~


●平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊)

 歸朝以來すでに十年、私は日夜刻苦勵精した筈であります。そして多くの人の同感協力を得たのでありましたから、普通ならば相當の成果を擧げ得た筈であります。その初めは、まだ助教授の身分でありました私の、國民精神作興運動は、自ら驚く程の速さを以て、陸軍に、海軍に、警察に、そして教育に、波及し、進展して行きました。然るに之を忌み嫌ひ、私の行手を遮斷しようとした人々もありました。元老西園寺(公望)公がそれであり、内大臣湯淺倉平氏がそれでありました。然し私は、それをあまり意に介する事はありませんでした。たとへ元老や内大臣から憎まれようとも、そして宮内省方面より嫌はれようとも、 陸海軍と警察とさへしつかりして居れば、迫り來る大國難を防止する事は出來るであらう。それさへ出來れば、我が願は足るのであつて、恩賞とか榮達とかには、いさゝかの慾望も持つてゐない身は、罵聲を耳にしても、平然としてしてゐました。‥‥
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 加藤寛治大將は、先きのワシントン會議の際には、隨員でありながら、加藤友三郎全權に強硬なる反對意見を以て抗論し、後のロンドン會議には、軍令部長として全權團に反對し、帷幄上奏を辭せない態度であつた爲に、いかにも剛勇であつて、狹量であつたかの印象を世間に與へてゐるかと思はれますが、岡田(啓介。大將)内閣成立の際に、遙かなる後輩私(當時、かぞへ四十歳、東大助教授)の進言に耳を傾けて、心氣一轉、欣然として岡田總理祝賀會に出席し、その前途を祝福せられた事、并びに私の進言(「軍縮問題に對する意見の相違は相違として、それが國策として決定せられた上は、好惡の感情を水に流して、與へられた條件の下に一致團結し、國難を拂ひのける爲に全力をあげようではありませんか」)を多として、直ちに曙町の茅屋へ抂駕せられ、謝辭をたまはつた事は、共にその襟度の寛大なるを語るものと云ふべきでありませう。

 同樣の期待を、全海軍に、全陸軍に、更に全國民に對していだき、且つ要請したのであります。陸軍は當時、いくつかに割れてゐました。その中で新しく興つたものも、御承知の通り、皇道派と統制派とに分れて、互ひに排除し合ふ状態でありました。然し私は、若し迫り來る大國難を意識するならば、忠君愛國の旗印の下に、どの派閥も解消して、一致團結すべきであり、それは必ず實現するに違ひないと信じてゐました。實際はそれが中々むつかしく、摩擦がつゞき、犠牲は出ましたが、然し陸軍全體としては、私を誤解される事なく、最期まで清く交つていたゞけました。悲しい事には、其の點、海軍は多少樣子が違ひました。‥‥

 戰爭の對手が米英兩國を主とし、その中に於ても米國が本命であるとすれば、最も重大なる任務を擔ふものは、陸軍にあらずして、海軍であります。しかるに私は、不幸にして(二・二六に因つて、)海軍の主流、その首腦より誤解せられて、肝腎の開戰前の五・六年、海軍との縁が切られてゐました。海軍の主流(岡田啓介・米内光政・井上成美の諸大將)が、私を誤解されましたのは、無理も無い一面があります。それは私が、一切辯明辯解をしなかつたからであります。米内大將とは一度も面接しなかつたのですが、岡田大將は同郷の關係で、かねてから先輩後輩、よく知合つてゐましたので、會はうと思へば會へたのですが、私は、辯解辯明は卑怯なる態度、男兒の爲すべき所では無く、誤解するのは先方の罪、放置すべしと考へてゐました。

 辯解しないばかりではありませぬ。私は原則として恩師以外、顯要の人の門をたゝいた事はありませぬ。陸軍の諸賢にしても、大抵先方から私をたづねて、曙町の茅屋へおいで下さつたので、私からおたづねしたのではありませぬ。東條(英機)大將が曙町へ來て下さつた事は二囘、私は一度も東條家の門をたゝいてゐませぬ。松田(卷平)中將の來訪は數十囘、私は中將のお宅、どこにあるのか知らずに過ごしました。澁谷(伊之彦)中將の來訪は二囘、私は一度も中將邸へ行つた事ありませぬ。近衞(文麿)公などは別格で、家柄が違ひます。お召しによつて參上するばかりであつた事、いふまでもありませぬ。

 今一つ重要な事は、私の口が至つて堅く、必要以外の事は、一切口外しなかつた點であります。當年私の周圍に在つて、隨從し、從學してゐた同學の人々も、只今私の想出の記を讀んで、初めて事實を知り、今までそれを話して貰へなかつた事を、口惜しく思ふ事多からうと思ひます。たとへば(青々)塾の講義に當り、上席に松田中將や山口(三郎)少將着座して居られましても、いかなる關係で來られたかを、私は説明しなかつた筈です。私が軍の要路といかなる關係に在るか、近衞公とは如何であるか、そのやうな事は、正學を究める上には、不必要であるばかりで無く、有害であると考へてゐました。人は功利に附きやすいもの、塾を立身出世の手段にしてはならぬとの用心でありました。

 塾生に對してのみではありませぬ。私は原則として噂話をしたり、吹聽したり、宣傳したり、祕密にすべき事を漏らしたりする事を、極度に愼しみました。心を靜めて見て居り、自ら物言ふ事無くして耳を傾けてゐますと、天下の動き、おのづから感得して誤らぬものであり、これに反して自分がしたり顔に話をする所より、重大なる機密の暴露して、人の迷惑となり、國の大害となる例を、數多く見たからであります。凡そ重大事項にして、私の口から洩れたといふものは、一つも無い筈であります。此の謹愼の故に、近衞公も、東條大將も、木戸侯も、すべて打明けて話をして下さつたのでありますが、同時にその謹愼寡默が、一方からは陰險にして腹黒く感ぜられたのでありませう。‥‥

 昭和十六年の夏七月、私は尊敬する先輩より誘はれました。「政府及び軍部の優柔不斷、見るに見かねる。就いて學者數名聯合して輿論を指導する事、日露戰爭直前の七博士の如くしようでは無いか」。私は然し、此の勇ましい提案を靜かにお斷りしました。「開戰は國家興亡のかゝる所、政府の中樞、及び軍の首腦の、十分なる分析勘案の上、陛下の勅裁によつて決定せらるべき重大事であつて、我等外交の機密にも、軍の用意にも、あづかり知らざる者が、みだりに騒ぎ立てるべきではありますまい」。先輩も之を諒解せられて、話はそれ切り消えました。

 開戰に關する私の信念は、そのまゝ終戰に就いての私の確信でありました。戰況不利となつた時、早く戰爭を止めたいといふ考が出てくるのは自然でありますが、その時機と方法とは、政府首腦と軍の中樞との判斷により、陛下の勅裁を待つて決定せらるべきであつて、民間に於いて勝手に騒ぎ立てるべきではないと信じました。昭和十七年の暮に、東條首相をたづねました際、首相が「只今警戒しなければならない事の一つは、講和説が民間から起る事です。尤も政府が講和を考へる事は、是れは別でありますが」と云はれ、私も全く同感でありました事、果して東條首相は、十七年の正月元日、武藤軍務局長をして東郷外相に、早期和平の希望を傳へしめた事、それを受けてその日、東郷外相は外務省に於いて、終戰の研究と準備とをするやう訓辭した事、更に十七年六月、ミツドウエー敗戰の一週間後に、吉田茂氏は、近衞公と木戸内務大臣とをたづねて、講和促進の爲に、近衞公を首腦とする外交使節を歐洲に派遣すべしと進言しました。
 
 

二・二六事件に於ける平泉澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月11日(火)17時03分2秒
返信・引用
  ~承前~


●平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊)

 昭和六年九月、滿洲事變勃發し、ついで十月、陸軍にクーデター未遂事件あり、七年の正月には、櫻田門事件があり、二月になると、血盟團事件が起つて、先づ前藏相井上準之助氏が遭難し、ついで三井合名の理事長團琢磨氏が倒されました。そのうちに五月十五日に、いはゆる五・一五事件が起りました。血盟團事件は、一人一殺で、規模は小さいが、いつ何處で誰が撃たれるか分らぬといふ無氣味さに、特徴がありました。五・一五事件は、結果から見れば、犬養首相が射殺された外は、重傷者・殉難者が少々あつたゞけでありますが、事を起した者が、海軍士官六名・陸軍士官學校生徒十一名・同校中途退學者一名・民間十餘名、總計して三十餘人に上り、襲撃目標が、首相官邸を始め、内大臣官邸・警視廳・日本銀行・政友會本部・三菱銀行等であつて、その規模は大きく、その目的は政治に重大なる反省を要求する點に在り、不逞の徒の犯罪とは、日を同じうして語るべからざるものがあり、それまでの政治の、沈滯、無理想、欲念の横行にあきたらない世間には、此の事件を一種の清涼劑と見る風がありました。そして外には滿洲事變、内には五・一五事件、此の二つをかゝへて、我が國の將來は、一體どうなるのであるか、否、我々は今、何を爲すべきかを、眞劍に考慮し、勇敢に判斷しなければならぬ、とする人々が多かつたのであります。簡單にいへば、内外二つの大事件は、心ある人々を刺激して、時勢に押流される事なく、志士として奮起し、君國の爲に貢獻しなければならぬと、決心せしめたのでありました。‥‥

 大學を世間と隔離せる象牙の塔とし、それに立籠つて學問の自由を宣言し、國家が傾覆の難に遭はうとも、社會が腐敗し混亂しようとも、それはすべて對岸の火災であて、自分には縁も無ければ責任も無いといふ、不思議なる説が横行してゐた時代でありましたが、私は之と意見を異にし、國家の運命に最大の注意を拂ひ、その安全の爲に全力をあげて貢獻したいと念願してゐました。‥‥

 思へば、昭和六年、大國難の迫りつゝあるを豫見して、いそいで歸朝し、國民精神の純化、道義の高揚につとめ、特に陸海軍に忠勇義烈の氣象を喚起しなければならぬと考へながら、何等の方策も持合せてゐなかつた不才不敏なる私が、いつのまにか陸軍大學校や兵學校、更に各鎭守府に招かれ、直接間接に、全陸海軍に呼掛ける事が出來るに至りました事は、何といふ不思議な成行でありませうか。歸朝直後に、思ひも寄らぬ道が開けて、三年後には既に牢固たる體制の築かれた事を喜んだ私は、大戰の來る事、なるべく遲く、我が軍の準備、一日も早からん事を念願しました。大戰の來る、遲ければ遲い程、我が軍の強化、精鋭化は進む筈であります。‥‥

 たとへ國際謀略の、いかに陰險であらうとも、迫り來る敵軍が、いかに強豪であらうとも、國民が唯一つの中心「天皇」の下に集結し、父祖の傳統を承けて、忠勇義烈の精神に於いて奮勵するならば、難關を突破する道は、おのづから見出されるであらうと信じて、晝夜不斷に努力して來たのでありました。その私の進路に、思ひも寄らぬ障害の、地より湧き起つたのは、昭和十一年の初めでありました。いはゆる二・二六事件、是れであります。‥‥

 騒亂は、四日ばかりで片附きました。然し其の害毒は消滅する事なく、計り知る可からざる損失を、陸海軍に與へました。陸軍に於ける派閥の爭が、此の騒亂を激化した事は事實であると思はれますが、亂後の處分によつて、いはゆる皇道派の目ぼしい人物を一掃し去つた事は、陸軍の力を、どれ程低下せしめたか、計りがたいものがありませう。‥‥私は、間も無く起る大戰に、是等の英傑を活用すべき陸軍が、二・二六事件に懲りて、平穩順調を希望するの餘り、凡庸化し、弱體化した事を悲しまざるを得ませぬ。

 幸にして私は、いはゆる派閥の、どちらの人からも親しくして貰つてゐました。その樣子を見て、陸大の津田美武中佐(後の中將)は、「平泉博士が十年早く出て來てくれたら、軍の派閥の爭は起らずに濟んだであらうに」と歎きましたが、それは不可能の事であつたにせよ、私の所へは、兩派それゞゝ連絡があり、たとへば小磯中將(後の大將)等からも、「皇道派は惡だから、その事、理解してほしい」との申入れがありましたが、之に對して私は、顧みて正しい學問によつて心を清める事と、常に外敵に思を致すべき事とを頼み、精力を黨爭に用ゐないやう、極力希望してゐたのでありましたが、今や二・二六事件は、折角進みかけてゐた私の融和策を、一氣に破つて了ひました。

 世間では、軍が勢力を得て、政治の表面に出て來たのは、二・二六事件からだと云はれてゐますが、私が感じます所は、却つて軍が、その純眞なる熱情を失つて、凡庸化し、弱體化したやうに思はれます。そして曾ての派閥抗爭の代りに、文武の間、陸海の間に、不信の感情が、大きく流れて來たのを感じました。私のやうに、世界大戰近しと見て、早く國内が一つにまとまらなければと焦慮してゐたものに取りましては、是れは大損害でありました。

 いや、他人事ではありませぬ。私自身が、不信の害毒を受けたのであります。尊皇絶對を主張する二・二六の將校の旗印に、私の説く國體の正道と、何となく似通ふ一面がある所から、あの事件の基礎、或は背景に、私の學問思想があるのでは無いかと云ふ疑惑が、深く眞相を究めない人々の間に出て來ました。‥‥

 不思議な事には、是れ程の重大事、私には豫想も豫感も無かつたのであります。何故無かつたか分りませぬが、あとから考へると、昭和八年三月十七日、陸軍戸山學校に於ける講演に信頼を置きすぎた爲かと思はれます。その時、校長は澁谷伊之彦少將、ある日、突然曙町の茅屋(平泉博士の住所・青々塾)へ來訪されました。戸山學校と云ふのは、軍樂隊の學校だらうと思つてゐた私に對して、劍道・銃劍道・柔道等の荒業を鍛へる所で、猛者ばかり集まつてゐるのだと説明せられた上で、「困つた事には、それ等が今、武力で政治の方向を變へようとして暴發を企てゝゐて、校長が極力制止しても聞入れませぬ。どなたかに諭していたゞきたいと思つて、小畑少將(敏四郎。後に中將)に相談しましたところ、『曙町へ行つて見るが良からう』との事で、お願ひに參りました」と云はれました。

 校長の要請を受けて、戸山學校鎭撫の爲に赴いたのは、昭和八年三月十七日でありました。講堂は滿員でした。戸山學校ばかりで無く、外からも同志の參加があつたとの事で、總勢二百名位かと思はれました。後方は席が無くて、屏風をめぐらした樣に立つてゐました。一人だけ、列を離れて、講壇眞近に椅子を進めて腰を掛け、軍刀を握りしめてゐる人がありました(後で校長から、「あれが大藏中尉(榮一。後の大尉)だ」と聞きました)。校長は講壇に向つて右の片隅に、室の中心部に向つて斜に席を占められました。私は何の疑惑も無く、いさゝかの恐れもいだかず、古來の忠臣、至誠を盡くして君國を護持して來た歴史を述べ、今日、我等の往くべき道、これ以外には無い事を説きました。私が何等の疑惑も恐怖も、或は憎惡とか輕蔑とかいふ感情をも持たなかつたのは、學問の確信と、そして陸軍に對する敬愛とがあつたからであつて、此の講演が理解せられない譯は無く、反感を持たれる筈は無い、と確信したからでありました。二時間ばかりの講演は、無事に終りました。誰一人、聲を立てる者無く、身動きする者もありませぬでした。翌日、お禮に來られた校長は、謝辭のあとで、云はれました。「然し先生、よく無事でお歸りになりましたね。私は大藏中尉が動きはしないかと心配して、終始、あればかり見てゐました」。‥‥

 時移つて昭和二十年(從つて戸山學校より十二年後)、私は阿南陸相(惟幾。陸軍大將)の依頼により、本土防衞建設部隊(部隊長野田善吾中將)へ講演に行きました折、七月十一・十二・十三日の三日、水戸の六藏寺で泊めて貰ひました。其の時に面白い話を聞きました。そのあらまし、次の通り。お寺へ來た一人の陸軍少尉、外から室内の書棚をのぞき、「平泉博士の本が澤山あるが、御住職は博士を知つてゐるのですか」と訊ねた。「知つてゐるどころでは無い、此の寺の恩人ですよ」と答へると、「博士は、すばらしい劍道の達人ださうですね」と云ふ。「劍道の話は聞いた事ありませぬがね」。そこで少尉が話してくれました。「自分は戸山學校にゐたが、教官の中に、劍道でも銃劍道でも日本一と云はれる大佐があつた。ある時、その大佐が述懷して云ふには、『おれが斬らうと思つて斬られぬ者は、今の日本には一人も無い。いや、一人ある。唯一人、平泉博士だけは、斬る事が出來ない。實はあの人を斬らうと思つて、長い廊下を、ズーツと、あとを附けた。ところが、博士には、一分の隙も無い。長い間、あとを附けたが、結局、斬れなかつた』(私はその名を知りませぬが、親友に劍道八段の達人があつて、話を聞いて云ふには、「陸軍切つての劍士といへば、誰知らぬ人も無い何の某。その後少將になつて、戰後は名古屋に居られたが、やがて亡くなつた筈です」と教へてくれました)」。

 虚弱な少年であつた私が、劍道に達する筈は無い。四高で試合をした時に、いきなり横面で一本取つて、皆をアツと云はせた事がありますが、勝つたのは、後にも先にも、此の一本だけ。戸山學校の講演の終つた時、講堂より校長室へ歸る道、廊下には簀の子板が竝べられて、それが紆餘曲折して、長く々ゝ續いてゐました。校長の先導に從つて、その板を踏んで歸る時、私は何の疑ひも恐れも無く、澄み切つた心境でありました。用心して一分の隙も無いと云ふ状態ではありませぬ。大佐の述懷を聞いた時、私はまことに是れ白山の神護冥助に外ならずと、深く感銘したのでありました。

 囘想すれば、陸軍の武力暴發は、昭和八年の春、すでに發火點に近づいてゐたのが、私の講演によつて説得せられ、一應鎭靜したのであります。私は自分の力を過信して、之を鎭靜であり、純化であらうと想ひ、その爲にたとへ色々の噂はあるにせよ、大規模の暴發はあるまいと考へてゐました。それが私の豫感を鈍らせてゐたのだと思ひます。皮肉な事には、その暴發を、命懸けで抑止してゐた私が、ある方面からは、叛亂の一味であり、その思想的基盤であるかの如く、誤解され、非難せられるに至つたのでした。

 それでは、いよゝゝ二・二六の起つた時、私は何をなしたかといひますと、當日は事件の性質よく分らず、前の五・一五と同じやうに、當局に反省を求める爲の、警鐘として起つたものかと思つてゐたところ、それとは違つて、武力による強迫である事が明かになつて來ました。然したとへ千名や二千名の兵士が暴發したとしても、陸軍に荒木(貞夫)大將あり、海軍に末次(信正)大將ある以上、之を鎭定するに、處置を誤るおそれは無いであらう。たゞ一つ心配は、萬々皇族の間に御意見の不一致があれば、その間隙に乘じて魔手が謀略を逞しくするかも知れないといふ事であります。

 之を壬申の亂や保元の亂に見ても、或は又た南北兩統の爭に見ても、皇室が二つに割れる事が、最大至重の病根であります。今や暴發した部隊には、先に秩父宮殿下の配屬して居られた麻布の歩兵第三連隊が多く、將校の中には、特に殿下を敬慕してゐる者が尠なくないと聞いてゐました。そこで私は、二月二十七日早朝、高松宮御殿へ參り、此の考を申し上げて、秩父宮・高松宮お揃ひにて、陛下を御輔佐遊ばされ、その間に一分の隙も無いやうに御願ひ申し上げて置き、次に秩父宮殿下の御動靜を伺ひました處、二十六日夕十一時二十二分、すでに弘前をお立ちになり、御上京の途中である事が分りましたので、二十七日朝九時十分上野發の列車に乘つて御迎へに參り、水上驛にて御召列車に飛移り、車中拜謁の上、「此の際、極めて大切なる事は、皇室の御意志の完全なる統一であつて、それがあれば離間策も施す術がありませぬ。それ故に一亂鎭定までは、終始、高松宮殿下と竝んで、陛下の御左右に御立ちになり、最高の地位に於いて、陛下を御輔佐遊ばされますやう」に御願ひ申し上げ、やがて高崎驛まで來ますと、群馬縣知事等が御機嫌奉伺に來ましたので、私は御暇乞ひして別室へ退きました。そのうちに宮内省からも陸軍からも御迎へがあつて、上野驛からは嚴重な御警衞のうちに、直ちに御參内あらせられました。‥‥

 二・二六事件の判決は七月五日に下り、刑の執行は七月十二日に行はれ、そして凡そ何等かの意味に於いて、此の事件に關係ありと認められたる者、もしくは之に同情ありと認められたる者は、大將中將たりとも、有爲有能たりとも、一網打盡、之を軍より退去せしめ、その數、大約三千名に上つたといひます。‥‥世界大戰を三年後にひかへ、我が國の大戰突入を五年後にひかへて、國力を充實し、武力を強化するに專念すべき時、我が國に於いては思想混亂、同胞相撃ち、そしておのれの右腕を、おのれ自ら斬捨てたのでありました。大國難を近しと見る私に取りまして、眞に痛歎事であり、痛恨事でありました。

 しばらく目を轉じて、元治元年の長州を見ませう。その年、幕府は長州征伐の爲に大軍を發し、道を五つに分つて進撃せしめた。長州動搖して、遂に恭順に決し、益田右衞門介・國司信濃、及び福原越後の三家老に切腹を命じ、宍戸・佐久間・竹内・中村の四參謀を斬罪に處し、陳謝して處分の寛大ならむ事を乞うた。その切腹、又は斬首の刑の行はれたのは、元治元年十一月十二日でありますが、それより僅か一箇月後には、高杉晉作蹶起して擧兵に着手し、數箇月後には、幕府の再征發令となり、結局、薩長聯合して幕府を討つ事になつたのでありますから、後を以て前を顧れば、三家老・四參謀を斬つた事は、惜しむべき損失であつたといふ外は無いでせう。

 更に思ひますのは、明治の日本、シナと戰ひ、ロシアと戰ふ事は、まぬがるべからざる運命であつたと云ふべきでせう。然るに其の大戰を目前に控へながら、明治十年に、同胞相討ち、西郷方の死傷總計二萬、官軍の死傷一萬五千に上つたといふは、惜しんで餘りある悲劇ではありませぬか。若し能く前途を達觀し、將來を洞察して、大度、人を容れ、盛徳、人を感化する大政治家があつたならば、明治七年の佐賀の亂も、同九年の熊本・秋月・萩の亂も、更には同十年、鹿兒島の亂も、未然に之を善導して、國力を長養充實せしめ、一朝、海外に事ある時、左右提携し、前後呼應して進み、國運を一層盛大に、國基を一倍強固ならしめ得たのでは無いでせうか。歴史を囘想する毎に、私は之を想ひ、之を悲しまざるを得ないのであります。


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●田中健之翁『昭和維新──日本改造を目指した「草莽」たちの軌跡』(平成二十八年三月・學研プラス刊)に曰く、

「死刑執行の(昭和十一年八月)十九日、北一輝・西田税・磯部淺一・村中孝次の四人が、投獄以來初めて一堂に會した。四人が揃ふのも、この世で最後のことだつた。
『北先生!』、『北先生!』。皆、北一輝のところへ驅け寄つてきた。
『我々も、天皇陛下萬歳を三唱しませうか?』と、西田税が言ふと、北一輝は、
そんな形式的なことは如何かと思ふから、私は唱へません』と答へた。結局、四人は誰も、『天皇陛下萬歳』を唱へなかつた」と。



 愚案、魔王に魅入られたか、死に臨んでや、此の四傑には、皇城伏拜の姿、繾綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、至誠、自ら已む能はざるの心、即ち戀闕の情は無かつたのであらう。殊に村中孝次大尉『丹心録』は、一體、何だつたのであらうか。失望を禁ずる能はざるは、小生のみであらうか、嗚呼。
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汨羅の淵に波騒ぎ、巫山の雲は亂れ飛ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 2月 5日(水)12時45分5秒
返信・引用 編集済
   二月になれば、いつも「昭和維新」の軌跡を憶ふ。憶うて之を憂ふると共に、其の精神に於いて、一掬の同情を禁じ得ない。次の二題を引用して、諸賢の參考に供したい。其の識見に學ぶこと、頗る多い。



●井上日召『一人一殺[一殺多生]』(昭和四十七年九月・新人物往來社刊。『日召自傳』二十二年十二月・日本週報社刊の改定版)に曰く、

「(國際裁判所の檢事に對して、日召の曰く、)われゝゝ日本人は、天皇制なんていふ制度があつての天皇を戴いてゐるんぢやないんだ。天皇制なんてものは、國際的には共産主義者、國外的には君ら(進駐軍)がやつてきて、言ひ始めたんだ。われゝゝ日本人は、天皇制といふ言葉さへ、考へもしなければ、もちろん使用もしなかつた。天皇と國民との關係は、親子同樣の關係である。つまり親に非ずして親の分を盡すがゆゑに、『大御親』と申し上げる。子に非ずして子の分を盡すがゆゑに、『陛下の赤子』と呼ばれる。のみならず歴史の事實が示すやうに、始めから天皇と國民は一體で、たゞおのゝゝ使命を異にするがゆゑに、配置を異にした。

 いかなる集團でも、必ず中心・分派の關係から成り立つ。そこで天皇が、任運自然に中心として、國民から推戴(マヽ)されたんだ。だから後に支那から文字が輸入されてからも、『君民一體』といふ文字で、日本國體を表現してきた。君らは出稼ぎ人の寄り集まりだから、誰が中心だ、親分だといふこともなく、みんな五分々々の者ばかりの社會だが、その社會でも、やはり中心が必要なので、入札で親父をきめるといふやうなことはしなけりやならぬのだ。わが日本社會では、そんな必要がないんだ。始めから親父があるんだ。つまり日本は、世界唯一無二の大家族國家だ。社會の單位が家庭である以上、國家は、當然家庭の發展的形態であるがゆゑに、大家族國家が、本當の國體なのだ。君らの國々は、みんな生活上の利害得失を基とする功利主義國家で、本當の國體ではない」と。



●大藏榮一陸軍歩兵大尉『最後の青年將校──二・二六事件への挽歌』(昭和四十六年三月・讀賣新聞社刊)に曰く、

「近ごろ、私(大藏大尉)は、よく耳にすることがある。全學聯と往時の青年將校とは、その行状は、右と左とを置き替へたゞけで、あとは全く同一だとする議論である。もつてのほかである。その議論は表面だけをみて、その内面を洞察し得ない短見でしかない。

 日本は、嚴然たる法治國家である。だが長年の積弊によつて、國家の生々發展が阻害されたとき、その惡の根源排除のため、最惡の場合は、身を挺して國法を、あへて破らなければならぬと、往時の青年將校は覺悟してゐた。すなはち國法を乘り越えて破る行爲は、今の全學聯の聯中と同じであつたといつてもいゝだらう。しかし根本の相違點は、そのさきにある。往時の青年將校は、少なくとも國法を破ることが『惡』であることを承知してゐた。いつたん破つたあかつきは、自らの全責任において、喜んで法の前にひれ伏す勇氣を持つてゐた。全學聯の聯中が、これと同日に論じられようか。彼らには、最惡の場合、やむを得ずといふ配慮など、全くなく、むしろ法を無視すること自體が目的とさへいへるていたらくである。しかも多數の中に責任を埋沒して、各個の責任を省みようとしない。この明確な兩者の相違點を無視して、なほかつ兩者の相似をいふものがあれば、私はその低腦ぶりを疑ふ」と。


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【平泉澄先生『孔雀記』】
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●寒林平泉澄先生の哥

天津日の 光かゞやく 世となさで 益良雄何ぞ 朽ち果つるべき



●平泉隆房博士『寒林夜話──祖父平泉澄との對話・三十七』(『日本』平成二十八年十一月號)

 或人の曰く、「景岳がどうの、松陰がかうのと言はれず、平泉先生が『かうして欲しい、かうせよ』と、直言して戴きたい。御命令いたゞければ、直ちに處斷します」(愚案、昭和十一年二月頃、帝都不祥事件の關係者か)と。

 平泉澄先生の曰く、「今日、我が國民の間で、國體は必ずしも明かでは無く、皇室が大切だといふことも理解されてゐないのが實状です。殊に誰が惡い、これに罪があるといふ穿鑿に、うつゝを拔かす。其の態度そのものが、宜しく無いのです。先づ道を明かにして、光ある國とすべきです。次に私は、君國の大事に對して、私見を以て判斷するのは僭越と考へ、先哲の教へを仰がむとしてゐるのみです」と。



●平泉隆房博士『第六十三囘・日本學協會主宰千早鍛錬會報告──講義』(『日本』平成二十八年十一月號)に曰く、

「昭和二十年八月十四日。終戰の前日です。平泉澄の下に、二人の海軍中佐がやつて來た。二人は、『敗戰後の國體護持をするのは誰か、皇室から人心が離れる時代に、國體護持を擔ふのは、特攻で生き殘りの人でせうか』と質問した。祖父(平泉澄先生)は、即座に『特攻は立派でした。然し今日より其の人達が普通の生活に入れば、數年後には、學問をした人によつて、國體は護持されるでせうね』と語つた。

 學問とは、先哲遺文を學ぶことです。この學問こそ、千早・吉野の核心です。吉田松陰先生は、江戸時代の人の學問は、名譽と位階を求めるためであり、道義・道徳を學ぶ者は少ない、と言つてゐます。國體を支へたのは誰か。軍人は立派でした。戰後になつて世相に左右されて、考へ方が變はつた人がゐます。身分の高い人が、日本を支へた譯ではない。

 古く藤原定家は、平家の都落ちに伴なひ、「天皇が西下しようとも關知しない」と、日記に書いてゐます。定家は、皇室に大變な恩惠を受けてゐる人です。歌聖といはれた定家には、國家の自覺は無かつた。

 國柄(國體)に氣付いた名も無き人々が、皇室を支へて來た。大楠公も『名もなき民のこゝろ』の人達の一人です。幕末勤王の志士は、極めて貧しかつた。おしなべて言へば、これらの人々によつて、明治維新は達成されたのです」と。
 

異端を攻めよ、斯れ害のみ也已──根本羽嶽博士の訓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 1月 7日(火)23時21分17秒
返信・引用
   世に喧しき、映畫のやうな大脱走劇。連日の報道に因るに、プロの仕業の由。制約に雁字搦めの民主幕府も、せめて此の手のプロを雇ひ、彼の守錢奴毛唐を殺つて、氣節ある所を宇内に示さゞれば、吾人の腹悶、醫し難かる可し矣。



●渡邊重石丸翁『日本國中は、北邙山ならん』(『能言雜纂』第十二號・刊記なし(或云明治二十年)・能言協和會假事務所刊)

 人に氣節あるは、身に骨幹あるが如し。身に骨幹無ければ、起居すること能はず。人に氣節無ければ、獨立すること能はず。獨立すること能はざる者は、之を活人と謂ふべからず。故に人は氣節あるより貴きは無く、國は氣節の士を養ふより大なる無し。

 今ま此處に、人あらん。突然他より來つて、其の頭を毆打し、其の面に咳唾(つばき)して、其の人、毫も憤怒の色なく、夷然として其の面を拭はゞ、人、其れ之を何とか謂はん。又た此處に、一人あり。其の人、首を低れ腰を屈して、柔媚諂諛、曾て廉恥の色なく、醜態至らざる所なく、其の精神たるや、金を與へ錢を投ずれば、百拜千拜、揚々然として得色あり。而して其の富を致すことの不貲ならば、人、又た之を何とか云はん。

 維新以來、洋學盛んに行はれ、上下と無く賢愚となく、家に侏□[人+禽](横文字)の書あらざるは無く、人に鵠舌の音あらざるは無し。其の盛も、亦た極まれり矣。而して其の人、各々期するに文明を以てし、唱ふるに開化を以てす。蓋し天地開闢以來、文華の盛んなる、未だ此の時より盛んなるは有らざる也。夫れ形あれば影あり、聲あれば響きあり。洋學の形を見んと欲せば、何ぞ洋學の影を見ざる。洋學の聲を聞かんと欲せば、何ぞ洋學の響きを聞かざる。

 何をか洋學の影と謂ふ。曰く、天下滔々、華族となく士族となく平民となく、其の志す所、利己主義ならざるはなし。而して言の仁義に渉る者は、指して之を頑固と謂ひ、行ひの道徳に關する者は、嘲つて之を迂遠と謂ふ。嗚呼、仁義道徳の喪亡する、今日より甚だしきは莫し焉。是れ洋學の影に非ずして、何ぞや。

 何をか洋學の響きと謂ふ。曰く、天下の學士、口を開けば民權と云ひ、天下の書生、舌を皷(な)らせば自由と呼ぶ。而して更に堂々たる神州國體の如何と帝室系統の如何とを問はず。試みに明治二十年前の論を取つて、明治二十年來の論に比較して見よ。風俗の可否、人情の厚薄、果して如何ぞや。予を以て之を見れば、世衰へ道微かにして、邪説有(ま)た作(おこ)るの叔世と謂はざることを得ざるなり。是れ洋學の響きに非ずして、何ぞや。

 嗚呼、洋學の影響、既に已に此の如し。施して儒者に及び、拖(ひ)いて國學者に及べり。儒者は名教を以て自ら任ずる者也。而して文字を以て洋學毒流の中に衣食して、以て其の影響を贊成する者之れあり。國學者は國體を知るを以て自ら任ずる者也。而して詞章を以て洋學毒流の中に衣食して、以て其の邪焰を扇動する者之れあり。噫、儒者・國學者等、自ら其の道を明かにせずして、以て其の股下に蒲伏するは、醜しと謂ふ可し矣。加之のみならず蠢氓(人々)の祅教(耶蘇)に侵染する、日一日よりも甚だし。然れば則ち擧げて之を大觀すれば、堂々たる大日本帝國の人民は、蓋し多年を出でずして、其の存すること(活人)、幾何くも無きに至らんこと疑ひなし。

 伯樂、一たび冀北の野を過ぎて、馬群、遂に空し。洋學、一たび日本の國に行はれて、日本人、遂に空し。予、之を解して曰く、予が所謂る空しとは、人無きに非ざる也。大日本魂の人無きを謂ふなり。日本國にして、日本魂の人なくんば、人無しと謂ふと雖も、虚語と爲ざる也。所謂る日本魂とは、何ぞや。曰く、帝室の帝室たる所以を知りて、廉耻を重んじ、氣節を尚ぶの風、是れ也。嗚呼、今の道に由つて、今の俗を變ずること無くんば、廉耻地を掃ひ、氣節喪亡して、國に活人なからん。國に活人なくんば、大日本國中は、茫々たる北邙山(墓場)ならん[唐詩に、「北邙山上、墳塋を列す。萬古千秋、洛城に對す。城中日夕、歌鐘起る。山上唯だ聞く、松柏の聲」とあり。想ふてこゝに到れば、覺えず、身、栗す]。

 他日、洋人、無人の地を蹂躙するも、誰か又たこれを防衞する者あらん。孟軻、言へることあり。曰く、「矢人(矢師)は、豈に凾人(鎧師)より不仁ならんや哉。矢人は、唯だ人を傷つけざらんことを恐れ、凾人は、惟だ人を傷つけんことを恐る。巫・匠も、亦た然り。故に術は、愼まざる可からざる也」(愚案、公孫丑上)と。あはれ、鈞しく是れ堂々たる大日本帝國の人民にして、如此くまで人心の破廉耻に陷るも、其の根本を培養せざるに由るのみ耳。然れば則ち人心をして道を念ひ、義を懷いて、大日本魂を固結して、東洋の一鐵丸を鋳造せば、學術を愼むに在らんかな哉、學術を愼むに在らんかな哉。
 
 

謹賀新年。更めて「古傳」・「神話」の名稱を問ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2020年 1月 1日(水)09時37分24秒
返信・引用
  令和紀元 二年
中興紀元(皇紀) 二千六百八十年
神仙紀元(天降(あもり)紀・開國紀・肇國紀) 五千二十年
天皇正月、歳、庚子に次(やど)る、元旦、


大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。更めて謹みて、

聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて御閲覽各位の福壽無量を祝祷申し上げ候ふ。




●青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽大人の哥

──正月ついたちの日、古事記をとりて

春にあけて 先づ看る書(ふみ)も 天地の 始めの時と 讀みいづるかな

──大御政、古き大御世のすがたに立ちかへりゆくべき御いきほひと成りぬるを、賤の夫の何わきまへぬものから、いさましう思ひまつりて

古書の かつゞゝ物を いひ出づる 御世をつぶやく 死眼人

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



●東嶽宮地嚴夫大人『世界太古傳實話』(『本朝神仙記傳』特別付録・昭和六十三年二月、『宮地嚴夫論稿集──神仙・神道要義』令和元年十二月、共に八幡書店刊に所收)

 猶ほ亦た一つ申し置かねばならぬ一事があります。それは「古傳」と「神話」との差別であります。近來、此の古傳と神話とを混淆して、動(やゝ)もすれば我が神典を始め、支那・印度などの上古史に傳はりて居る古傳をも、概して日本の神話・支那の神話などと稱して、得意がりて居る人も、少なからぬやうでありますが、此れは大いなる謬見であります。

 抑々此の神話と申すは、古代の人の想像に出でたる小説と申す意に過ぎざる名にて、此れは穩當なる名稱ではありませぬ。ソコデ、歐米の人で基督教を信ずる者は、聖書、即ち『バイブル』をば、「傳記」とこそ申せ、神話とは申しませぬ。夫れは何故かと申すに、伝記と申す時は、古へよりの傳へを記した記録と申すことになりて確實に聞こえますれど、神話と申しては、唯の神ばなし、一種の小説と云ふことになりて、更に崇敬の意味無きものとなります。故にバイブルをば、神話とは申さぬと見えます。然れば神話とは何を指すかと申さば、希臘の神話とか羅馬の神話とか云ふ類ひのものを指しまして、實は輕慢した名稱で有ります。

 然るに我が『古事記』の上卷や『日本書紀』の神代卷などに載せられてあることを稱するに、神話の名を以てするは、自ら我が古典を侮慢する譯にて、甚だ穩當ならぬ次第であります。此れが若し基督教を信ずる歐米人が、我が神典をも、希臘・羅馬の神話と稱するものと同一視して稱するに、雷同して云ふものとすれば、實に笑止千萬なることにて、喩へば人が、「貴樣の家の系譜は、拵へ物である、虚妄である」と云ふを聞いて、夫れに雷同して、自らも其の通りなりと心得、得意に成りて居ると同じことにて、愚も亦た甚だしきでは有りませぬか。此れ等は、能く自ら顧みて考へて見ねばならぬ事と思はれます。‥‥

 古傳と申す中にも神話が交りて居り、また神話と申す中にも古傳が交りて居りますれば、研究もせぬ眼識の具はらぬ人や、一種の古傳、若しくは神話のみを見て、他の古傳・神話を知らずに偏信して居る人などが見ましては、孰れが眞やら僞やら、正やら邪やら、到底、解る譯のものではありませぬから、擇分(えりわけ)のできぬは、申す迄もありませねど、年來、其の各種の古傳や神話に眼を曝して、彼と此とを比較し、研究の上に研究を積み、審査の上に審査を重ねて、能く之を熟知するに至りますれば、其の智識が玄妙の蘊奧に達して、自然に是非曲直、虚實眞僞を識別判斷すること、晴天に白日を見るが如く、明白なるに至るものであります。

 之を近く物に例へて申さば、彼の刀劍古書畫、または骨董の類を鑑定するが如き、素人より見れば、更に眞僞の見分けが附きませねど、經驗の有る鑑定家は、一見、忽ち其の眞贋を鑑定して、決して謬ることが有りませぬ。猶ほ之よりも卑近なる例を擧げますれば、彼の兩替店の手代が、金錢の眞贋を見分け、米屋の小僧が、諸國の米穀の見分けをして誤らぬが如きも、皆な同じことにて、之は練磨經驗の結果に因るものでありますが、實に不測(ふしぎ)と申すの外はありませぬ。今、所在(あらゆる)古傳・神話の中より、古代の人の想像より出でたる妄説と、此の天地世界を御草創なされた、眞の神話の御傳へに係る眞の古傳とを擇分けて、世界太古傳の御話を致すも、全く之と異ならぬ譯かと思はれますので、何とぞ能く御聞取り成されて、翫味せられむことを希望致す次第であります。



追伸
 昨年末、賀状を奉るパソコンが損傷、年賀データも消失してしまひました。年賀遲延申し上げますが、御海容たまはらむことを。百拜
 
 

時勢に後るゝも、後るゝことを樂しむ、亦た可ならずや乎。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年12月23日(月)11時30分9秒
返信・引用
   本日は、太上天皇陛下の御誕辰の日、國民擧つて、謹みて賀し奉ります(幕府呼稱の「上皇」は、敢へて稱し奉ることを得ず)。

 令和元年己亥歳、殘すところ九日となりました。本年も、同志道友には、御誘掖御交誼の程、洵に難有うございました。來る庚子歳も、九段塾に對しまして、嚴烈なる御鞭撻御指導を、幾重にも頼み入ります。

 小生は、中今の民主幕府のやうに、大東亞戰爭を「太平洋戦争」とは言へず、かつ支那を「中国」と呼ばず、西暦を見ては反吐をもよほし、戰前の國語を墨守して、先哲の遺文を奉じ、自由の世論と合はず、いはゆる時勢に後れた、信に困る隱居逸民ではございますが、今後とも、鋭意、此の孤壘「九段塾」を固守して參る覺悟であります。

 時勢に後るゝも、後るゝことを樂しむてふ、渡邊重石丸翁が樂しみを承くる吾、此の樂しみを同じうする者は、今の世に當つて、復た誰か在る。呵々洪笑。



●渡邊重石丸翁『時勢に後るゝと云ふこと』(『能言雜纂』第十九號・刊記なし(或云明治二十年)・能言協和會假事務所刊)

「今世の諺に、「彼の人の説は、時勢に後れたり。某人の爲ることは、時勢に後れたり」と。何事に付けても、「時勢に後るゝ、後るゝ」と云つて、競馬の氣取りになりて、世を渡る心得の樣なり。予を以て之を見れば、其の人、決して時勢に後れはせぬ。其の故は、人は強慾・利己主義を以て、世を渡らんと欲す。其の人は禮義・廉耻・道徳を以て、風教を維持せんと欲す。強慾・利己主義の徒より、其の人を見れば、時勢に後れたりと云ひもすべけれども、其の禮義・廉耻・道徳を維持せんと欲する人の眼より見れば、却つて彼れの卑(ひく)く後れたること、蓋し幾百層倍なることを知らず。

 譬へば此處に、學校あらん。百餘人の中、九十九人の書生、盡く酒に狂ひ色に溺れ、根津に芳原に遊蕩して、校則を守る者なし。然るに一人の書生、かゝる亂暴の所爲をば、深く惡み痛く厭ひて、正道を蹈む者あらんに、之を目して時勢に後れたりと謂つて可ならんか乎。又た此處に、一箇の豪家あらんに、家僮千人の中、九百九十人の家僮恊議して、其の主人を殺さんと謀る。其の中、十人の忠僕ありて、之を肯(うけが)はずんば、此れをしも亦た指して、時勢に後れたる者と謂つて可ならんか。

 今世の論者は、徒らに多數を以て至當として、更に義の當否を論ずる者なし。共和政治説と云ひ、民權自由説と云ひ、佛教説と云ひ、耶蘇説と云ひ、賊儒の禪讓・放伐説と云ひ、如何なる邪道邪説にても、彼の學者社會中は、通用勝手次第なり。此れに反對説を爲す者をば、如何なる正論正道にても、時勢に後れたりとて、更に取り合ふ者なし。嗚呼、亦た舶來輸入品なる文明世界の一奇品ならずや。

醉ひしれて 人や猿なる 猿や人 けぢめしらざる 世のたふれども

と云ふ歌を咏みたる人あり、とか聞けり。ちと、惡口の樣なれども、國體を維持せんと欲する學者の目より見れば、先づそんな者さ」と。



●林櫻園大人の言(木村邦舟翁『(神風連)血史』明治二十九年十二月刊)

「今日の有志者は、宜しく決然、時世に反對すべし。反對、又た反對せば、自ら神仙の道に冥合すべし」と。



●前川佐美雄翁「捜神」の哥(昭和三十九年八月)

はじめより 近代を憎み 否み來つれば 進歩なき今日の わが生高し
 
 

令和の大嘗祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年12月12日(木)22時04分42秒
返信・引用
   天皇陛下には、恐れ多くも三種神器を御繼承あそばされ、現人神として、正統なる第一百二十六代天皇、即ち天壤無窮の寳祚御位に即かせ給ふた「踐祚」、天皇・皇帝の即位を内外に宣明し給ふた「即位式」、而して天子として、神國古式ゆかしき「踐祚大嘗祭」齋行と、滯り無く畢らせ給ひ、洵に慶賀至極に存じ上げます。

 皇尊彌榮、聖壽萬歳、只管ら祝祷申し上げます。


●友清磐山先生『古道神髓』

 大嘗祭は、天皇即位の後、始めて新穀を以て、天照大御神及び天神地祇を奉祀したまふ一世一度の大典で、古へ大祀と稱せられしは、此の祭祀に限つたものである。この儀を行はるゝには、二月以後、國郡卜定の神事があり、悠紀・主基の兩齋國が定められる古例で、明治以來に於ても、この卜定の神事は、古例によつて行はせ給ひしやに洩れ承はるが、この卜定といふことも、靈感・神託を意味するのである。

明治天皇御製

わが國は 神のすゑなり 神まつる むかしの手振 わするなよゆめ

 以前は大嘗祭の職員を任命せらるゝにも、用材を山から切出だされ、建物を建てられるにも、一々その人や山や日時などを卜はれ、神意を伺はれて、卜に合つたものだけを御採用になつたものである。

 この大嘗祭について‥‥、神事と潔齋との關係である。わが國體も、古神道も、清淨を本とするのであつて、此の無比の大祀に、潔齋に關する御儀が、極めて嚴重であつたことは申すまでもない。一例を申すと、此の大祀に當つては、佛道關係のことなども、或はどうかと思はるゝほど、極端に禁忌されたものである。

 朝廷では、御歴代、佛教をも重んじ給ひ保護し給ひ、宮中に於ても、宮門跡始め僧侶が出入して、恆例・臨時の誦經祈祷等をも行はれ、大内裏の中にも、眞言院などある程であつたが、此の大嘗祭の時は格別であつて、非常に汚穢を厭はれ、用語にも特制があり、僧尼の宮中への出入を停止せしめられ、佛經の如きも、當分他所へ移されたものである。

 康治元年、近衞天皇の大嘗祭の時にも、散齋であつたにも拘らず、攝政忠通が僧侶を召して佛事を行つたので、左大臣頼長が攻撃したことも、『台記』に見える。貞享四年、大嘗祭御再興の時には、十月二十八日から十一月晦日までの間は、宮門跡でも、參内は勿論、御使も御無用と達せられ、寺々の鐘をつくことさへ禁ぜられたほどである。宮中の屏風・障子等の繪に、法師のあるのは、皆な撤去を命ぜられ、撤去しがたいところは、紙を貼らせられ、『古今和歌集』の如き歌書の御覽も御控へになつたのは、歌の中に、哀傷の歌もあれば、作者に僧侶も交つて居たからである。其の他いろゝゝむつかしいこともあつて、あまり極端に走つたかとさへ思はるゝ節もあつて、其の當時も相當に議論が起つたことが、古文書にも散見するほどであるが、とにかく如何に潔齋の儀が嚴重であつたかといふことが考へられるのである。



●春日大社宮司・葉室頼昭醫學博士『神道──見えないものの力』(平成十一年十一月・春秋社刊)

「天皇といふのは、どういふ存在なのか、といふことをよく聞かれます。これは私自身の體驗談なのですが、私がいちばんびつくりしたのは、大嘗祭のときです。天皇がご即位されて、いちばん最初の新嘗祭を、大嘗祭といひます。そのときに、天皇がいはゆる大嘗宮のなかに入られて、天照大神に自らご飯を差し上げられて、そのご飯を、天皇も召し上がる。そして天照大神と一つになる。それが本當に天皇になられるといふ儀式なんですね。いまでも行はれてゐるでせう。

 いまの(平成の)天皇の大嘗祭のときに、私は衣紋者として、宮家の方々はじめ、儀式に出る方々のお衣裳をお着けしたんですが、大嘗宮のなかには、もちろん入れないから、その入り口で待つてゐるでせう。そのときに、(天照大神と天皇とが)一つになられる前に、(大嘗宮に)入つていかれる天皇と、天照大神とご一體になつて出てこられたた天皇の違ひ、この威嚴のすごさに、みんなびつくりしました。天照大神と一つになるといふのは、本當だなと思ひました。私だけが思つたのではなくて、そこに奉仕した人は、みんなさう思つたのです。‥‥

 我のない人といふのは、日本で天皇しかいらつしやらない。われゝゝは、カネをもうけたいとか、出世したいとか、みんな欲を持つてゐますが、天皇より上はないんだから、(天皇は)何になりたいといふ我もないでせう。‥‥さうすると天皇に、神の知惠が天下るわけでせう。その導きによつて國を治めるといふのが、いはゆる『まつりごと』だと思ふんです。

 總理大臣といふ立場でも、人間の淺知惠だけでやるから、をかしくなるんです。それを知つてゐて、日本人は昔から上に、天皇をいたゞいたわけでせう。その下に將軍がゐるんだけれども、その上に、必ずかういふ神の命を傳へる方がゐないと成り立たないといふことを、日本人は知つてゐたといふのは、すごいと思ふんです。

 ですから、天皇は現人神だいとふと、をかしいとか何とかと言ひますが、違ふんです。天皇は神さまでなければいけないんです。しかし神さま、そのものではない。神さまの心を傳へ、命を傳へる方でないと、正しい政治はできないといふことなんですね」と。
 
 

一旦緩急あれば、義勇、公に奉じ、以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月30日(水)21時06分58秒
返信・引用
  ●物集高見博士『勅語逢原衍義』(明治四十四年十二月・斯道會出版部刊)の「緒言」に曰く、

「皇祖皇宗の御遺訓は、主として國民の子育に在り。夫れ人の天地の間に生れて、禽獸と異なるは、他なし、人たるの道を知りて、能く其の道を踐行へばなり。而して其の道を知りて、能く其の道を踐行はしむる者は、誰ぞ。家庭にしては父母、社會にしては師友なり。然れば父母と師友とは、實に人を人たらしむる者にして、人は、父母と師友とに依りて、人と成る者なり。

 然るに人といふは、二種あり。一は個人の人、一は國家の人なり。個人の人は、社會の異同に關らず、人の徳、即ち人の禽獸と異なる所以の者を具へて足るべしと雖も、國家の人に至りては、唯だ人の徳を具ふるのみにしては足らず。更に國家の分子たるべき徳、即ち國體の成分に闕くべからざる要素を具へざるべからず。故に國家の人に需むる者は、個人の人に需むる者よりも重大にして、是れが養成も、亦た容易ならざる者あり。況んや本邦の如き、開闢以來の歴史を有せる舊國民の養成に於てをや。

 大日本帝國は、開闢以來、萬世一系の天皇を戴き、其の臣民、亦た天孫降臨以來、子々孫々繼承して來たるもあり。其の間、自然に生じたる習慣・風俗の、國體の成分に於て重き要素と成れるもあるを以て、國民の養成を任せんには、其の歴史に通曉し、其の要素を識別し、之を捉へて、國民の腦裏に收めしめ、また能く之に同化せしめて、躬行實踐に至らしめざるべからず。

 國家の要素は、今、此に數ふべからずと雖も、最要は、特異の秩序とす。秩序とは、國に在りては君民、家に在りては父子・夫婦・兄弟・姉妹、社會に在りては師友を曰ふ。其の特異は、君を戴く事、父母よりも重く、國を護る事、家を守るよりも重くして、之が爲めには、時に身命を犠牲に供する者あるをいふ。彼の世の艱難に際して、忠臣・孝子・義夫・節婦を出しゝは、みな是れが爲めなり。

 嗚呼、温故知新は、學問の道なり。新知を競ふが爲めに、舊典を遺るゝは、識者の痛嘆する所なり」と。



 本日は、『教育に關する勅語』發布、正に足掛け一百三十年の日なり矣。

【之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず】
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國史に記録せらるゝ天啓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月28日(月)21時00分28秒
返信・引用 編集済
   不二歌道會代表・福永武主「天啓をおもふ──即位禮を拜して」に曰く、

「(即位禮正殿の御儀開始の直前に)窗を開けると、既に雨は止み、雲の切れ間から日が射し初めてゐた。後に知つた事だが、この時、皇居上空は、七色の彩光に包まれ、鳥は囀り、令和初の冠雪を記録した富士の美しい姿が、雲間より現れ、靜岡淺間神社では、御即位を壽ぐ如く、櫻の開花が見られたといふ。偶然と言ふには、餘りにも出來過ぎたこれらの現象に、多くの國民が『天啓』といふものを感じたに違ひない。宮中の御儀を拜しつゝ、改めて『令和の御代こそ、祖國再建、維新成就の大御代となさむ』の氣概を以てお仕へすることを、心中深く誓ひ奉つた次第。‥‥(同志道友)皆、口々に本日の感動を述べ、特に『天啓』とも申すべき不可思議な自然現象のことで、暫く話題は持ち切りであつた。輕々に神意を語らずとは、常日頃の信條てあるが、今日ばかりは、大いなる天意を感じ、語らずにはゐられなかつた。この日の感動の記憶は、わが國史に、確と銘記されることであらう」(『道の友』令和元年十月二十五日)と。



 愚案、戰後は、唯物科學の猖獗を極め、神明自然の奇瑞は語られなくなつた。靖國神社内に於いても、奇蹟・靈談は盡きないと聞く。然るに誰か云ふ、●統斷絶、日本は亡びむ、と。天壤無窮の使命は、皇天二祖の守護する所、天神地祇の奉仕する所にして、此の保守界隈の不敬なる主張は、童蒙耄碌も嗤ふ所なり。疑ふ者には疑ふがまゝに、信ずる者には信ずるがまゝに、顯界の喧噪に拘らず、何の躊躇も無くして、皇神の經綸宏謨は、嚴かに展開埀示されるであらう。

大君の みことと云へば 雨風も 依りて仕へむ 神の御代かも

 言は卷くも畏き「皇位繼承」の如き御大事は、天照大神の嚴命せられ給ふ所にして、「各々擔當者の意見を徴し、其の結論を聞いた上で、皇家の傳統によつて、天皇陛下御親らの御責任に於て、之を決定」遊ばされます。畢竟、下々の者の云々する所ではありますまい。皇天二祖、必ず御叡導、御守護まします。御安心ください。

【皇家祕奧の傳統】
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詔勅渙發あらせらる。艸木も言止めて聽け。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月22日(火)20時23分4秒
返信・引用 編集済
  ■即位禮正殿の儀に於ける詔勅(令和元年十月二十二日)

 さきに日本國憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、皇位を繼承いたしました。ここに「即位禮正殿の儀」を行ひ、即位を内外に宣明いたします。

 上皇陛下が、三十年以上にわたる御在位の間、常に國民の幸せと世界の平和を願はれ、いかなる時も、國民と苦樂を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになつてきたことに、改めて深く思ひを致し、ここに國民の幸せと世界の平和を常に願ひ、國民に寄り添ひながら、憲法にのつとり、日本國及び日本國民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓ひます。

 國民の叡智とたゆみない努力によつて、我が國が一層の發展を遂げ、國際社会の友好と平和、人類の福祉と繁榮に寄與することを、切に希望いたします。




●佐久良東雄大人の哥

 天皇、御位につかせたまふ、またの日、この御式のあと、をろがみて、かたじけなみ、たふとみおもひまつるあまりに、かしこかれど、かうなん、おもひつゞけはべりし

いつはりの かざり拂ひて 橿原の 宮のむかしに なるよしもがな



 高天の原に、神留まり坐す、皇親神漏岐・神漏美の命以ちて、八百萬神等を、神集へ集へ賜ひ、神議り議り給ひて、「我が皇御孫之命は、豐葦原の水穗之國を、安國と平らけく、所知食せ」と、事依さし奉りき。如此く依さし奉りし國中に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて、語問ひし磐根樹立ち、草の垣葉をも語止めて、天之磐座放り、天之八重雲を、伊頭の千別きに千別きて、天降し依さし奉りき。如此く依さし奉りし、四方之國中と、大倭日高之國を、安國と定め奉りて、下津磐根に、宮柱、太と敷き立て、高天の原に、千木高知りて、皇御孫之命の、美頭の御舍、仕へ奉りて、天之御蔭・日之御蔭と、隱り坐して、安國と平らけく、所知食さむ。

天業恢弘
八紘爲宇
聖壽萬歳
皇尊彌榮
 
 

一視同仁の清祓の雨。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月21日(月)09時46分32秒
返信・引用 編集済
   御大典の前には、必ず「清祓の雨」がございます。先日の風・水の罹災に於いても、或る御方から承りました。

 悲しいことでありますが、此の雨、「清祓」と甘受しなければなりませぬ。有志には、聖壽萬歳、皇尊彌榮を懇祷して、諸共に「大祓詞」を奏上いたしませう。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/41



追伸【祭祀に於ける颱風の現代的意義】
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https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/42

 愚案、かつて林房雄翁も、『緑の日本列島』にて、颱風に因り、日本國土が蘇ると仰せでありました。至極納得です。廣島・長崎も、火の穢れが清祓されて、逸早く復興を遂げました。福島も、必ず蘇ることでありませう。善きことも、缺けがへの無いものも喪ひ、人間は堪へるしかありませんが、惡しきものも流してくれます。

 最近、「萬歳」の映像をよく拜見しますが、掌を「前」にして擧げてはなりませぬ。あれでは、降參となつてしまひます。保守家も、天子樣に降參します、大御心のまにゝゝの謂ひなら、よく分りますが‥‥。兩掌は「内」側に向け擧げて下さい。注意する人もゐないやうなので、婆心ながら、一言、書かせてもらひます。呵々。
 
 

安倍晉三幕府の不臣、こゝに極まれり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月20日(日)22時18分36秒
返信・引用
   安倍晉三幕府の不臣、斷々然として許す可からず矣。死んだ魚の如き眼を持つ女房役・菅某も同罪。鋭意、討幕倒閣あるのみ。

 斯くなる上は、安倍晉三の如き逆賊が、靖國神社へ參拜しなかつた事が、唯一、せめてもの幸ひである。祭神は、必ず享け給ふこと能はず。怒髮天、限度を超えてゐる。靖國神社だけではない。皇神は見てをる。汝、能く備へよ。



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【即位パレード延期は、天皇の意向、官邸は、台風被害無視で強行するつもりだった! なのに延期した途端、「安倍首相の判断」とPR】──「リテラ」令和元年十一月十九日

 天皇の即位パレード「祝賀御列の儀」が、台風十九号の被害に配慮して延期になった。当然だろう。被災地では、日を追うにつれて被害が拡大、土砂災害や浸水被害からの復旧は進まず、いまも四千人近くが、避難所生活を強いられているのだ。どう考えても、のんきに祝賀パレードを開催するような状況ではない。

 ところが、この延期は、新天皇の強い希望によるもので、安倍政権・首相官邸は、ギリギリまでパレードを予定通り強行しようとしていたというのだ。宮内庁担当記者が語る。

「天皇陛下は、台風十九号の被害が明らかになった直後から、パレードの延期を主張されていたようで、十五日の段階で、宮内庁から官邸の皇室担当である杉田和博官房副長官に、陛下の意向が伝えられた。ところが首相官邸は、準備が進んでいることを理由に、この要望を一蹴、逆に陛下を説得するよう宮内庁に命じたんです」

 実際、菅官房長官は、十五日の記者会見で、パレードの準備を「淡々と進めていきたい」と、延期するつもりがないことを明言。翌十六日の会見でも、開催の是非を問われて、「昨日、私が申し上げた通り」と答えた。

 また一部の新聞では、十五日には、政府高官が、「陛下のお気持ちもあるが、国民の期待がある」と語ったことも報じられている。この政府高官というのは、杉田官房副長官のことで、首相官邸も、非公式に天皇が延期を希望していたことを認めていたのだ。

 一方、宮内庁は、西村泰彦次長が会見で、「天皇皇后両陛下には、台風十九号による大雨災害で、多数の方々が犠牲となり、また依然として多くの方の安否が不明であること、数多くの方々が被災されていることに、大変心を痛めておられます」と、天皇の心情を説明したが、これは天皇の心情を国民に説明して、パレードに応じてもらおう、という作戦だったといわれている。

 しかしそれでも、天皇の抵抗は強く、頑として首を縦に振らなかった。そして報告を受けた首相官邸も、ようやく説得を諦め、十七日なって、延期を判断したというのが、事の真相なのだ。

 つまり天皇自身が、被災者を配慮してパレードを延期しようとしているのに、国民の側に立たなければならないはずの安倍首相や菅官房長官は、被災地のことなんて全く無視して、パレードを強行しようとしていたのである。

 本サイトは、安倍首相が以前から災害被害者に対して、冷酷な対応を繰り返していたことを指摘し、今回の台風十九号でも、被害拡大の最中に私邸に帰り、ラグビーに大はしゃぎしていたことなどを伝えたが、この姿勢こそ、被災者ないがしろの典型と言っていいだろう。

 しかも姑息なのは、十七日、この延期決定を公表した際の安倍首相のやり口だった。まず安倍首相が、被災地訪問した際、同行記者団に、「今回の被災状況を踏まえて、延期する方向で検討している」と発言、これを受けて、菅官房長官が会見で、「首相から延期の方向で、検討するよう指示があった。宮内庁と相談し、あくまで内閣として判断した」と説明し、まるで安倍首相の「英断」のようなストーリに仕立ててしまったのだ。

 苦しむ国民を平気でないがしろにし、天皇の意向まで、自分の手柄にしてしまう独裁者ぶり。日本国民は、こんな“逆賊”を、いつまで総理大臣の椅子に座らせておくのだろうか。
 
 

百代の國師・北畠准后源親房公、逝いて實に六百六十六年なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月14日(月)23時48分28秒
返信・引用 編集済
  ●國立歴史民俗博物館藏『北畠准后傳』(表題「准后親房傳」。江戸末期寫本。京都醍醐寺・田中穰氏舊藏典籍古文書)

‥‥(元徳二年)三月五日、從一位に敍せらる。三十八歳。現に大納言に任ず。九月十五日、大宰帥・世良親王薨ず。同十七日、親房卿、出家。法名・覺元。世良親王の御事に依るなり。帝、之を惜しみたまふ。長男・權左中辨・顯家朝臣、家督を立つ、十三歳。或は云ふ、親房卿、「法名・宗玄」とは、非なり。『保暦間記』、誤つて「宗玄」と書き、後人、亦た之を以て『公卿補任』を寫すとか云々。‥‥

 (延元四年)八月十六日、南帝後醍醐院崩じたまふ。壽五十二。東宮受禪、十三歳。後に後村上院と號しまたふは、是なり。時に先帝、遺詔して曰く、「一品親房卿の女・顯子を以て、皇后に立てよ。一品家は、關東兩國を治めて、後見すべし」と云々。九月、親房卿、之を嘆き、『神皇正統記』五卷を撰するなり。‥‥

 興國五年春、南帝、一品家數年の苦勞を感じ、准三宮の宣旨を賜ひ、和州宇陀郡を領す。五十二歳。‥‥此の年、准后、中院と稱す。又た『元元集』七卷を撰す。‥‥

 中院一品准后・親房公は、和州宇陀郡福西庄・灌頂寺阿彌陀院に閑居して、(正平九年)九月十五日薨ず。春秋六十二歳。遺言有り、云々。出家の人、例無きに依り、贈官贈位無し。又た准三宮は、相國攝政の後に補さるゝ故に、諸職の長上なり。‥‥中院入道一品と號す。准三后に依り、諱を載せざること、大臣の如し。故に「公」と稱す。其の禮、關白の如しと云々。又た准后、賢才にして、始めて神道・文武の中道を立て、子孫、之を學ぶ。‥‥



 愚案、北畠准后源親房公は、正平九年九月十五日、大和國宇陀郡福西莊・灌頂寺阿彌陀院に於いて、六十二を以て薨ぜられたやうである(大和宇陀北畠親房公顯彰會『北畠親房公終焉の地・大和宇陀福西と灌頂寺』平成二十一年四月・蓮昇寺刊。白山芳太郎博士「序」あり)。

 然らば、令和元年十月十三日、即ち太陰太陽暦九月十五日は、准后薨ぜられて、實に六百六十六年なり矣。感ありて、こゝに特記す。

 又た山田孝雄博士の英斷、世に未だ徹底せざるを以て、再録して注意を喚起すること、下記の如し。



●山田孝雄博士『神皇正統記論』(『神皇正統記述義』昭和七年十月・民友社刊に所收)に曰く、

「世には本書を以て皇統の正閏を論ずるものとし、これを以て本領と認むるもの少なからず。この論をなす人の、その精神は諒とすべきものあり。然るに本書一部を通じてこれを見るに、皇統の正しき事と當に正しかるべき事とは、到る處にこれを論説すれども、正と閏とを分つが如き相對的態度をとれる點は、一も存することなし。著者の態度は、皇統の正を闡明するにありて、閏と正とを甄別せよといふが如き薄弱なる言論は、一毫もこれを見ず。徹頭徹尾、堂々たる絶對的態度を以て臨めり。されば後人が、この書の説く所を以て、皇位の正閏を識別する尺度としてこれに準據せしは、これもとより當然にして然るべき事なれども、本書を以て正閏を論じたりといふは、その見、甚だ徹底せざるものなり」と。


【百代の國師・北畠親房公】
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太陰太陽暦九月十日に懷ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年10月10日(木)13時58分15秒
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  ■菅公『九月十日』(亦云、重陽後一日)

去年の今夜、清涼に侍す、
秋思の詩篇、獨り斷腸。
恩賜の御衣、今、此に在り、
捧持して、毎日、餘香を拜す。




●強齋若林先生『強齋先生雜話筆記』卷十(望楠所聞)に曰く、

「(強齋先生の曰く、)菅相丞は、あの時分、藤原氏が繁昌の權を取りて、上を蔑ろにする體あつたに依りて、格別に他姓の人(菅公)を取立てられて、三公(至、右大臣)に登らせたことぞ。其の故ゑ形の如く力を用ひて、政務の事などに心を盡されたぞ。『類聚國史』などが、然樣に見ゆるぞ。

 さて左遷の罪に坐せられたれども、微塵も上を怨むるの心はない。爰は至極見事也。是れ迄の事なり。其の外、事代主(命)の、楠木正成の、と云ふ樣な忠義と云ふ事も見えず、武甕槌(命)の、經津主(命)の、などゝ云ふ樣な功も見えず、あの樣な衆のやうには言はれぬぞ。何も外に法とすることはないぞ。又た佛に惑はせらるなど云へども、是も吟味あることで、其の時命(勅命)に依りて、佛の事など取扱ひなされしと見える。

 日本では、勅命に違ふを、きつう大事。『法曹至要抄』にも、「違勅の罪」と云ふことが出てゐる。何程、惡きことも、勅命と云へば、違ふことならぬ。日本、正統相續いで、君臣の義の正しき處ぞ。清盛も、太政大臣より上ることもならぬ。秀吉でも、關白までにはなれども、上を奪ふの心なし。人民・天下の免さぬ所がある。爰が面白いこと。兎角、天子を天照大神と崇めて、善惡共、あなた(天皇)の命に違ふことならぬ、と云ふ處に、どうも言はれぬことぞ。舍人親王の『般若心經』書冩などとあるも、皆、勅命に依つてのこと。是は皆な菅公と、一つには言はれねど、皆な違勅を恐れて書かれたものなり。(門人の「何處迄も、文王の『天王聖明』(『拘幽操』)の旨なりや」の問ひに)成る程、さうしたことぞ」と。



●寒林平泉澄博士『至純の忠誠』(『菅公頌徳録』昭和十九年七月・官幣中社北野神社御祭神御生誕一千一百年御鎭座一千年記念大祭奉贊會刊)に曰く、

「罪なくして遠く流され、廢屋幽囚のうちに在つて、食も乏しく、燈も絶ゆるわびしさを悲しみながら、一點、不平怨恨の氣を見ず、ひたすら君恩に感じ、泣いて恩寵を謝すると云ふ事は、純忠至誠に非ざれば、出來る事ではないのであります。而してかくの如き、純忠至誠、一點の不平を交へざる清明の心は、實に道義最高の境地であつて、常人の容易に到り難きところ、菅公が卓然として衆人に超えらるゝところであります。‥‥

 先哲の、楠公を尊信景仰せられましたのは、その勇氣にあらず、智略にあらず、またその功業にあらずして、實にその不平なく怨恨なく、一途に君を仰ぎまつりかしこみまつる至純の忠誠に於いて、感銘せられての事であつたのであります。これ即ちかゝる至純の忠誠を、最高絶對の道徳と考へられたが爲であります。

 しかるにかくの如き至純の忠誠、逆境に沈んで不平なく、流謫に泣いて怨恨なく、ひたすら君を仰ぎまつる心、それを我々は、最も明かに菅公に於いて見るのであります。

海ならず たゝへる水の 底までも 清きこゝろは 月ぞ照らさむ

とは、公の歌でありますが、まことに公の心は、一點の汚れを交へざる、清明透徹の水に似たものでありました。此の至純の忠誠に於いて、公は古今に卓越し、衆人の景慕を得られるのであります。詩人としての公、政治家としての公、文化獨立の指導者としての公、それがそれぞれ傑出して居られた事は申すまでもありませんが、公に於いて最も貴いのは、實に此の至純の忠誠であつて、決して外の點では無い事を、明瞭にしなければならないのであります」と。



●山田孝雄博士『菅公の識見』(同上)に曰く、

「公は、その漢學の才に至りては、白樂天の再來なりと、渤海の使をして驚嘆せしめたる人、本邦の鴻儒をして、『文道之大祖』と仰がしめ、近き頃まで、國民の教育の祖神として祭られたる人なり。かくの如く漢才に富める人にして、然も眞の日本人たるの雄偉なる識見を有せらるゝこと、誠に驚嘆するに堪へたり。後人、『和魂漢才』の語を唱ふるや、人、皆な期せずして、之を菅公の言とせり。これもとよりその實を證すること能はずといへども、若し古來の偉人にして、眞に『和魂漢才』の語に當るべき人を求めむとせば、恐らくは、公は唯一の人ならむ」と。



●磐山友清歡眞大人『古道眞髓』(昭和十年一月筆。昭和十四年九月・山雅房刊)に曰く、

「藤原保則が、菅公の御性格を(「當今の碩儒であるが、其の内心をみると、危殆の士なり」と)非難したのは、保則の私言である。換言すれば保則は、菅公に對して面白からぬ感情を抱いて居たから、彼れの言ひさうなことである。菅公の如く、高潔正直な御性格で、八方美人主義でない御方には、斯ういふ非難は、必ず起り勝ちである。菅公の如く、諫を好み給ひ、直言を好まれ給ふ御性格では、其の時代の如き、腐敗墮落し切つて居た社會の各方面から、悉く歡迎を受けられる筈はないのである。‥‥

 當時の學問・思想・信仰は、支那流・印度流全盛であつたけれど、菅公の根本理想が、皇國第一主義であつたことは申す迄もない。『菅家遺誡』の中にある、「凡そ神國、一世無窮之玄妙者云々」とあるは、恐らく菅家の家學の上からの主張であるにちがひない。此の書は後人の僞作との説が有力ではあるが、菅家の思想を書き傳へた多數の斷簡が材料になつて居るものらしい。申す迄もなく、菅公の家は代々歴史家で、紀傳道が家學なのである。この國學の家筋は、菅家と大江家とに分かれたけれど、大江氏の學問も、元來菅家から出たのである。‥‥

 菅公は正直な御方であつた。或は少し正直過ぎるといふ點もあつたかも知れない。即ち過直といふ氣味があつたやうである。此の御性格の一面が、後世の俗な人間から、彼れ此れと非難を受けられたやうである。鼻かけ猿が、鼻のかけぬ猿を笑つたといふ話があるが、人間の世の中は、如何なる時代も五月蠅いものである。‥‥

 菅公が大宰權帥に貶黜になつたのは、只の貶謫ではない。時平等の誣奏の内容は、世人の知るところの如く、言語道斷のものである。誠忠一途の正直なる菅公として、至大の憂患であるのみならず、恐らく人間世界に、此れほど悲痛な事件といふものが、又とあるべきものでない。

 しかし其れは、菅公の眞面目の發揮さるべき一大時機でもあつたのである。平素は立派なことを云つて居ても、多少の災厄みたいなものに遭遇すると、うろたへて正體を現はし、醜態を演ずる人間が多いものであるが、古人の『窮を以て節を變ぜず』と云つたやうにやるのは、タマが底から良くないと六かしいものだが、菅公の大人格は、此の場合に、愈々光明を發したのである。一身一家の不幸は悲しまれたけれど、主上を怨み奉るといふやうなことは微塵もなく、公の誠忠の至情は、益々光りを放つた。賜衣の餘香、孤臣中夜の涙を濺ぎたまふに至つて、臣子の儀表として、百世に輝き給うた」と。



 愚案、神社を始め、我々の周圍には、天滿宮・天神樣が多く鎭座する。「武士は喰はねど高楊枝」と申す境地は、憤怒不滿を含むもの、無視諦觀するもの、泰然自若たるもの、上下種々、幾段階もあらうが、菅公は、其の次元を全く異にし給うて、深く切に之を熟慮すれば、人間の及び難きものがある。

 『玄扈雜記』と云ふ祕書に、菅公の「御本體は、伊勢○○○の御祭神と同じにあらせらる。‥‥眞一の位にある神となると、上下同時八方に變現、われゝゝごときものゝ考へ及び難きものがあり、方便のために種々の段階の眞格に現はれ給ふのである」とあるが、其の土地の幽政を管理し給ふ神樣は、菅公の分靈・應化、或は其の隨神・眷屬の御方である場合が多い御由(六人部是香翁『産須那社古傳抄』)。神さびたるも、神さびたり。あな、畏こ。

 『神皇正統記』後醍醐天皇の御條に、「君は萬姓の主にてましませば、限りある地をもて、限りなき人に分たせ給はんことは、推しても測り奉るべし。若し一國づつを望むならば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づつと云ふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人は悦ぶとも、千萬の人は悦ばじ。況や日本の半(なかば)を心ざし、皆ながら望まば、帝王はいづくを知らせ給ふべきにか。かゝる心の萠して、言葉にも出で、面にも恥づる色の無きを、謀反の始めと云ふべき也」とあつて、いと畏き邊りに不滿を持つ政治家や俗流保守に、また諫言こそ眞正保守の立場と自稱する者共に、因果を含めて能く聞かせてやりたいものだ。

 嗚呼、菅公の命、天の下の人の心を、此の中今に、天皇の大朝廷に仕へ奉り給ひしことの如くに、直く正しく護り給ひ導き給ひて、大御世を茂し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひ奉り幸はへ奉り給はむことを。
 
 

大久保利通と云ふ虚像。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 9月26日(木)16時56分36秒
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  ●大西郷の詩「感懷──辭闕」明治六年秋

獨り時情に適せず。
豈に歡笑の聲を聽かむや。
羞ぢを雪がんとして、戰略を論じ。
義を忘れて、和平を唱ふ。
秦檜の遺類(岩倉・大久保)多く。
武公(岳飛將軍)、再生し難し。
正邪、今、那(なん)ぞ定まらん。
後世、必ず清を知らむ。




 西郷南洲顯彰會常務理事・高栁毅氏「鹿兒島裁判所裁判官の上奏密書──政府の西郷暗殺『陰謀の證』──首謀者は法に照らして處すべし」(西郷南洲顯彰會專門委員會編『敬天愛人』第三十號・平成二十四年九月・西郷南洲顯彰會刊に所收)、他に依れば、

一、外交に(江華島事件の如き)おいても、内政(佐賀の變・萩の變の如き)においても、相手を陰濕な手段で挑發し、武力で叩いて目的を遂げる──これが大久保(利通)政治の常套手段である。

一、大久保・小松帶刀(清廉)・中山中左衞門(實善)等が、薩摩に於いて人氣がないのは、薩英戰爭の不首尾が原因である。特に二の丸(政廳)が、戰の前に本陣を郊外の千眼寺に移した事、戰の後も英國再來襲を恐れ、政廳を灣奧の國分に移さうとした事が、藩士の怒りと失望を買つた。國難を招いた張本人であるのに、いざとなつたら敵前逃亡まがひの、卑怯な振舞ひに及んだためである。當時は女子供からまでも、「其の肉を嚙み切つて、殺してやりたい」といふほど憎まれた。

一、盟友であつたはずの、あの西郷と大久保が、なぜ西南戰爭で戰つたのか、この點に關して、これまで史書も傳記類は、明確に説明できなかつた。それは、我々が長い間、兩者は幼友達で盟友、親しい兄弟のやうな間柄であつた、と思ひ込んできたためである。

一、西郷遠島處分をめぐつては、誠忠組關係者の間では、疑惑が存在してゐた。「本當の讒言者は、誰だつたのか」。結論から言へば、それは大久保本人であつたのである。明治二十六年十月十六日、市來四郎の自宅に於ける講演──『史談會速記記録合本・四』には、「大久保が(久光公に)出て言ふには、誠に不都合な事になりました。西郷は、三四日前まで當所に居りましたけれども、浪士を連れて上りましたさうです。一封の手紙も殘してはござりません(實は『大久保利通日記』文久二年三月二十九日に、封書受取りの證あるにもかゝはらず)。實に不都合な次第で、如何なる見込みも分りませぬ。お約束(情報を收集して、下關に公を迎へる約定)を違へましたは、恐れ入ると申した」、「甚だ相濟まん事になりました。大坂には、諸國の浪人を、皆、御邸へ入れてござります。西郷は、浪人と結合致して、暴發の企てを致して居ると申す」と。西郷が、沖永良部島永遠流罪の眞實を知つたのは、明治五年十一月から六年三月までの四ケ月間の鹿兒島滯在中、市來四郎(廣貫)・大山綱良等から聞いて、愕然としたやうである。藩主の命よりも優先すると云ふ薩摩郷中教育に背く、實に卑怯なる自己保身と謂ふべく、切腹に値ひする大久保の裏切り行爲、即ち讒言に因つて、西郷は、赦免後も消えない「賊臣の不名譽な名」に、終生、苦しみ續けた。

一、西郷が、四ケ月も政府を留守にしての鹿兒島滯在は、自分の永遠流罪の原因究明以上に、公の問題として、明治天皇の御生母・中山慶應子一位の局の教育係で、祐宮の養育係の中山大納言家元諸太夫・田中河内介(綏猷)の虐殺事件の開明であつた(西郷は元御庭方)と思はれる。此の件に於いても、又た寺田屋事件の眞相、精忠組の有馬新七(正義)の件に於いても、大久保への疑惑を抱いたやうである。

一、大久保には、西郷の徳望、鋭い政治的資質と識見、外交感覺と手腕、幅廣い人脈など、すべてが眩しかつたはずである。西郷がゐる限り、自分は誠忠組の中では、常にナンバー二でしかない。久光の西郷嫌ひを利用して追放を圖つたとみて差支へあるまい。西郷召還に動いたのは、大久保でもなく、小松でもなく、京都に居た高崎左太郎(正風。御歌所所長)・縱兄の高崎猪太郎(五六)で、切腹覺悟で久光に諫言し、實現した。

一、大久保が「俺を斬れ」(井伊直弼斬奸のため突出しようとした誠忠組に對して)、「刺し違へて死なう」(西郷・久光の面會を阻止しようとした西郷との明石の濱に於ける耦刺美談)、「切腹する」(明治五年二月の閣議)と叫ぶ時は、自分が窮地を逃れるときの常套手段、少なくとも生涯で三度、この手で相手を脅迫した。

一、西郷が、歐米視察中の大久保に出した書翰は、明治五年二月十五日付と八月十二日付の二通である。大久保の西郷宛書翰は、明治五年十月十五日付(六年一月頃落掌か)であるが、返書は出してゐない。以後、西郷は、城山で自決するまで、大久保に手紙を出すことはない。此の事は、如何に大久保から受けた傷が大きかつたかを物語つてゐる。故に勝田孫彌『大久保利通傳・下』に、「西郷は、利通の邸に到ること頻繁にして、交情の親厚なること、從前と毫も異なる所なかりき」とは、信ずることは出來ない。

一、明治六年十月十四日・西郷遣朝大使就任決議に關する閣議(廟堂に於ける西郷・大久保の大論戰──『大西郷全集・三』)にて、大久保「そりや、今になつて卑怯で御座らふ」、西郷「控へなされ、誰が卑怯か、心に問ひなされ」と。大久保の裏切り・讒言の事實は、西郷と其の側近と共に、城山に葬り去られた。木戸孝允は、屡々薩摩を批判してゐる。このことから、西郷との關係もよくないやうに書かれたりしてゐるが、木戸の文章をよく讀むと、西郷を非難してゐる箇所は殆んどなく、攻撃の矛先は、全て大久保に向けられてゐる。

一、‥‥



 愚案、以上、旨く要約は出來ないが、其の他の疑惑諸々、最近の新史料發見も伴つて、大久保の不逞・讒言の奸佞は、覆ふべくも無いやうである。誰か云ふ、「維新三傑」と。大久保史觀に牛耳られた明治史壇に在つて、梟雄・大久保は、大西郷に竝び稱せらるゝに至つた觀あるも、溢美に過ぎて、其の名の敵はず、否、非なるを思ふ。

 影山正治翁『大西郷作詩要講』に曰く、「武斷派の南洲が詩人で、文治派の大久保が非詩人であつた事實は、聖雄と梟雄を正別する上に、大いなる示唆を投げ與へて居る」(復刻版『大西郷の精神』昭和五十二年九月・大東塾出版部刊に所收)と。洵に差はず、正邪、中今に定まらむと欲す、嗚呼。
 
 

宮號と社號、亂る可からず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 9月17日(火)23時18分50秒
返信・引用
  ●賀茂百樹翁『神祇に關する問答五百題』(大正十年三月・神祇協會廣島支部刊)に曰く、

「「宮」は御屋にて、「社」は御屋代の略なれば、文字を離れて考ふる時は、「宮」も「社」も、大差あるにはあらじ。「神社」と云ひ「神宮」と云ひて別つは、文字ありての後のことなり(古來「神社」と「社」とは、差別なきなり)。されば俗に今に、小社をもミヤと稱するは、古稱の殘れるなり。‥‥

 『日本紀』崇神紀六十年に、「出雲大神宮」。
『續日本紀』天平勝寶に、「八幡大神宮」。
『續日本後紀』仁明紀承和に、「氣多大神宮」。
『續日本後紀』同上及び『萬葉集』に、「氣比大神宮」。
『熱田縁起』に、「熱田大神宮」。
『類聚國史』承和に、「鴨上下大神宮」。
など見ゆ。これらの中には、「大神」は神名につきたるにて、「何々の大神の宮」の意にて云へるもあるべく、一時の尊崇によれるもあるべし。
『書紀』に、「石上神宮」。
『扶桑略記』寛平に、「吉備津彦神宮」。
『續日本紀』天平に、「八幡神宮」。
など云へる中にも、「何々の神の宮」の意に云へるもあるべし。

 『神名式』には、さすがに「大神宮」・「神宮」・「宮」と云ひ分てり。
「大神宮」と云へるは、「伊勢大神宮」一社なり。
「神宮」とかけるは、「香取神宮」・「鹿島神宮」の二社なり。
「宮」と云へるは、「度會宮」及び「荒祭宮」以下の別宮と、「八幡大菩薩宇佐宮」・「大菩薩筥崎宮」の二社のみなり。
これによりて「大神宮」・「神宮」・「宮」の別あることを知るべし。

 思ふに、上代は大らかに、神にも君にも、「橿原宮」・「瑞垣宮」・「日隅宮」などの如く、御屋と云ひて別つことなかりしを、後に漢字によりて、天皇・皇子等のまします家を「宮」と云ふことゝ定まりて、皇室關係の神社・皇族の神靈を祀れる社に限りて、宮號を稱することゝなりしなり。されば神社號より、宮號のかた重くなれり。

 『香取神記』に、「聖武天皇・天平四年、天下大旱。詔り有りて雨を祈る。即ち雨降る。詔りて、社を改め宮號を賜ふ」と見え、『三代實録』貞觀九年八月二日、「勅して伊勢國伊佐奈岐伊佐奈彌神、社を改め宮と稱す」とあり。『太平記』大元より日本を攻むの條に、「風の社の寶殿の、鳴動すること良久し云々。年來申し請る處の宮號、叡感の儀を以て宣下せらる可し、とぞ奏しける」とあるにても、宮號の、亂りに稱すべからざることを知るべし。後世、朝綱弛みて、永延元年、北野神社に天滿宮天神と稱し、正保三年、東照大權現に宮號を賜へり。これらは特別の例とすべし」と。



 愚案、神社に於いて、宮號と社號の差別あること、大義名分上、明炳顯著なり矣。特別の例外を除き、決して亂る可からず矣。殊に戰後、俄かに畏くも「宮」號を潛稱せる神社あるを仄聞して、恐懼に堪へざる所、法に於いて祭ることを許されざるものと謂ふ可く、或は誰も注意しないのか、或は注意しても改めざるか、或は神道に非ざる新興宗教か、或は淫祠(『類聚三代格』・『延喜式』等)・妖祠(『續日本紀』)の類か、實に以て得て知る可からざるなり。道なき世には、往々として之れ有り。餘りに悲しくて、之を樂しまざること、嗚呼、多きかな哉。恐懼。
 
 

神域・靈域に於ける寫眞撮影の心得。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 9月 3日(火)23時12分38秒
返信・引用
   はゆまつかひ樣より、「正中の神祕線は、奧津城に於て寫眞撮影される際にも心得られたし」との御教示を拜し、小生も確信を得るに至つた。

 神仙道(神道に同じ)も、神域は當然として、靈域に於いても、正中禁忌は留意を要す。記念・記録と雖も、神域・靈域に於ける寫眞撮影に方つては、當に工夫あつて然るべきもの、其の不注意の譴責は、當事者が負はねばならぬ。御閲覽の有縁の方へも、老婆心ながら、參考に供したい。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/42



【參考】
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/1
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1944
 
 

何をやつてるんだか‥‥。呆‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月18日(木)22時48分41秒
返信・引用 編集済
   下山陽太主が、下記の動畫を紹介して下さつた。「靖國神社のことなら、九段塾だらう」と。冗談では無い。こちらは田舍爺、何も知らぬ(泣)。此の動畫、既に世に出廻つてゐる。仕方が無いので、せつかくの御紹介だから、書かせて戴く(笑)。

 神社本廳の贅澤三昧なる放埓經營に嫌氣が差して、明治神宮・外山勝志宮司は、本廳を脱會した由。なにしろ本廳では、ゴルフ會が、年中行はれてゐる。賞金では無く、女が賭けられる。銀座の「あのクラブの××子を賭けよう」。勝つた奴が、その女を、本廳事務經費で買ふらしい。買ふなら、己の報酬で買へ、此の賽錢泥棒が。

 こんなことをしてゐたのが、今は、靖國神社の○○だ。腐つてゐるのが、本廳中樞。□□といふ神社神報の編集長も、無能なくせに女癖が惡くて、本廳女職員から總スカン。仕方がないので、靖國神社の○○が引き取つて、廣報課長に座らせてゐた。社報の「靖濤」を書き、「靖國神社」を冠する禍々しい名の著書もある、彼の御仁だ。この廣報課には、○○の女がゐる。社内の反○○派を探してゐる間諜。既に壽退職したさうだ。

 何かと騒がしい靖國神社神職。今度は、祭務部祭儀課長△△の騒動。職員への變態行爲の由。だめだ、こりや。職員の駐車場に、外車が目立つたが、まだ在るのかな。神社本廳の殘黨は、今も顯在なり。

 こゝは、參拜者が、奉贊者が、餘程しつかりしないと、靖國神社から、神魂は去り給ふかも知れない。「靖国保守」は、當てにはならぬ。だんまりを決め込むのみ。此の醜聞、天網恢々、神罰と心得るがよい。



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●「靖国神社」を揺るがすセクハラ動画 幹部職員が部下にお触り、被害者は複数人(『週刊新潮』令和元年七月二十五日號)
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https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07181700/?all=1&page=1

 先月末に、創建百五十年を迎えた折も折、靖国神社を舞台にした数々のセクハラが明らかになった。加害者は幹部職員、被害に遭った女性は複数人に及ぶ。

 靖国神社といえば、国のために命を捧げた二百四十六万余の御霊が眠る日本でも指折りの“聖域”である。週刊新潮が入手した動画に収められているのは、中年男性が女性の身体を執拗に触る場面の数々だ。

「セクハラしているのは、五十五歳で妻子持ちの祭儀課長です。祭儀課長とは、靖国神社にとって最重要とも言うべき春秋の例大祭の現場責任者で、二百四十六万余の御霊のデータベースを管理する責任者でもある。英霊を慰めるための祝詞に関わる立場でもあり、靖国神社における祭祀の中心人物のひとりと言えます。」

 そんな幹部職員のハレンチな所業は、いかなるものか。デイリー新潮で配信中の動画をご覧いただきたいが、その一部をご紹介すると――。

 場所は、「祭儀課長行きつけの店」(靖国神社事情通)であるカラオケスナック。今年の春、神社職員たちで行われた歓送迎会の場だった。うす暗い店内で、石川さゆりの『天城越え』が流れる中、セクハラ幹部は、ソファーに腰かけ、隣の女性の肩を抱く。そのまま二の腕を揉み、掴み、マイクを渡し、無理に歌わせようとする。
〈♪あなたと越えたい~〉
 曲がクライマックスに差し掛かる段階で、幹部の手は、女性の二の腕から胸の方へと下がっていく……。女性は幹部の腕に包まれながら、〈♪天城越え~〉を歌わされている。
 このほかにも女性の手を執拗に撫で、自身の股間付近に引き寄せる様や、腰・お尻付近に手をやる映像も収められている。先述のとおり、これらの被害者はすべて別の女性だ。

 昨年は“陛下は靖国を潰そうとしている”発言が流出し、宮司が退任に追い込まれる事態ともなった靖国神社。今回のセクハラについて質すも、「当神社では判りかねます」と、当事者意識の欠片もない回答が返ってくる。当のセクハラ幹部はダンマリで、神社に逃げ込んでしまった。七月十八日発売の週刊新潮で、本件を詳しく報じる。

【動畫】
  ↓↓↓↓↓
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07181700/?all=1&page=2
 
 

嗚呼、泉水隆一翁、逝きて正に十年なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月16日(火)18時05分8秒
返信・引用 編集済
   嗚呼、泉水隆一翁、逝きて正に十年、有志の方々には、再度、其の映畫『凛として愛』を御覽くださり、また其の『肉聲』を御聽き賜はらむことを。



■泉水隆一翁の映畫『凛として愛』(平成十四年七月)
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/prof.php?no=5
  ↓↓↓↓↓
○映画『臺本』/https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50


■泉水隆一翁『日本女性の会「そよ風」イベント『凛として愛』――泉水隆一監督は、かく語りき』(平成二十一年十二月二十七日)
  ↓↓↓↓↓
○翁の肉聲』/https://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
  ↓↓↓↓↓
○翁の『講演』https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/5


■泉水隆一翁『靖國神社の眞實──靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか』(平成二十三年十二月八日・洛風書房刊)
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/-100


■泉水隆一翁『最終講義』
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50
 
 

泉水隆一翁十年祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月10日(水)23時23分12秒
返信・引用 編集済
   平成二十二年七月十六日、泉水隆一監督こと福井金城翁、逝きて、本年は、正に十年なり矣。小生、かつて、

○援軍を 送ると聞くに 十年すぎ 未だ來らず 髮逆立つを

○援軍の 來たるを待つに 横槍を 入れたる奴は たぶれ誰が奴

と詠みて、其の志の繼承を誓ひ、『靖國神社の眞實──靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか』一卷(平成二十三年十二月八日・洛風書房刊)を、翁の靈前に供へたが、こゝ十年、靖國神社遊就館に於ける『凛として愛』上映は、其の機運すら起こらず、且つ翁が嫌つた者が、何と、靖國神社宮司となる始末、血の涙、悲歌慷慨、本道に慚愧に堪へない。

 來る七月十六日は、翁の十年祭を、獨り行ふつもりであります。若し有志有縁の御方がいらつしやれば、共に翁を偲んで戴きたいと存じます。翁の遺訓は、

承詔必謹

尊王・勤皇の風を吹かせよ

でありました。備中處士、敬白



**********


●ポール・クローデル駐日佛蘭西大使の曰く、

「私には、どうしても滅びてほしくない、一つの民族があります。それは、日本人です。あれほど古い文明を、そのまゝ今に傳へてゐる民族は、他にありません。日本の近代に於ける發展、それは大變目覺しいけれども、私にとつては、不思議ではありません。日本は、太古から文明を積み重ねて來たからこそ、明治になつて急に歐米の文化を輸入しても發展したのです。どの民族も、これだけの急な發展をするだけの資格はありません。然し日本には、その資格があるのです。古くから文明を積み上げて來たからこそ、資格があるのです。

 彼等は貧しい。然し高貴である」(昭和十八年秋・巴里の夜會に於ける發言──興除神社・西辻嘉昭宮司『地域の神社のいはれと興除の歴史』平成二十六年八月セミナー資料より)と。
 
 

宮中祭祀の變革と人造憲法との關係。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 7月 6日(土)12時23分53秒
返信・引用
   大内山の神聖を、人造憲法の下に置き奉らんとする、民主幕府の策謀を激しく慨み歎き、こゝに中澤伸弘博士の論説を掲げさせて戴きます。



●中澤伸弘博士『即位儀禮に關する問題點・六』(不二歌道會『不二』令和元年六月號)

「一例として靖國神社の社報『靖國』の五月號を取り上げます。第一面に、天皇陛下の學習院時代の靖國神社御參拜の御寫眞を掲げ、その解説に、「昭和44年12月11日 學習院初等科御在學の御砌、御參拜される浩宮徳仁親王殿下」とあります。また四面には、「皇太子明仁親王」とあります。

 實に醜い文章であります。「御參拜される」も、「御參拜なされる・あそばされる」が正しいでせうし、こゝは百歩讓つたとして、「御參拜される天皇陛下 昭和44年12月11日」でよいのです。五月一日を以て、昭和當時の皇孫殿下は、天皇陛下におなりになつたのであつて、浩宮徳仁親王殿下ではありません。こゝを踏まへねばなりません。この解説だけでは、年表と同じで、過去の事實を述べたにすぎません。

 この一面の記事は、「天皇陛下は、靖國神社に御參拜になつてゐる」ことを述べたいのでせう。實はこゝに昭和四十四年と言ふ元號が使用されてゐることに注目することが重要です。そして執筆は、今、令和元年であります。令和の御代に「天皇陛下」とあれば、今上陛下しかありません。これが平成の御代のことであれば、その方は上皇陛下であり、昭和の御代であれば、昭和天皇となることは、自明の理であります。‥‥

 出雲大社教の『幽顯』六月號の御寫眞には、「平成22年‥‥御親拜あそばされた新帝陛下」とあります。これが分りやすい表現です。‥‥そして御名は書かないことが、原則であります。‥‥

 昭和天皇の侍從であつた小林忍氏の日記については、昨夏に話題になりましたが、このたび文春新書の一册として刊行されました。先に同じく昭和天皇の侍從であつた卜部亮吉氏の日記が刊行されてゐて、これで昭和天皇の近くに奉仕した人の日記が二つになりました。たゞ問題なのは、この二つとも個人の日記であること、また全部の公開ではなく、編輯者が居ると言ふことで、こことを念頭に讀む必要があります。個人の日記は公開を前提としてゐない上に、他者への賞贊や不滿なども、何の憚りもなく書かれるものであり、またた私人の心の中の、誰にも言へないことを、殊更に大袈裟に日記に書き付けて、氣持ちを整理する場合もあります。また編輯者がある目的を以て、意圖的に部分を削除し、逆にあるものを、特に掲載するなどの情報の操作がなされることがあます。たゞその點、この小林日記抄は、編輯者の意圖はあるものゝ、ご本人は左右どちらにも寄らず、素直に自分の思ひを書いてゐるやうで、その氣持ちが傳はつてきます。その中で、卜部日記抄にも記載のない、實に興味深い一點を見出しました。

 宮中祭祀は、昭和五十年の九月一日から、政教分離の原則に從ひ、國家公務員である侍從の毎朝の賢所御代拜を、從來の淨衣によつて昇殿での方式を、モーニングで階下からの一禮に改まりました。これ以降は、祭祀に關しては、國家公務員である侍從ではなく、掌典職が奉仕することになるなど、宮中祭祀の大幅な變革がなされました。このことは、卜部日記抄にも記載がありますが、その原因には觸れてゐません。私は、これが年度途中から急になされたことに不審を抱いてゐて、政教分離に對する宮内廳の獨自の判斷によるものと考へてゐました。ところが小林日記抄の昭和五十年八月十五日條に、次のやうな記載がありました。

『侍從御代拜と憲法第二十條との關係。先の國會で、社會黨議員[秦豐氏]が問題としたことから、法制局の見解を求めてゐたところ、その結果が文書で寄せられた。神宮御代拜は不可。その他は、毎朝御代拜などは、概ね何とか説明がつくとのこと。特に徳川次長は、法制局の姿勢に不滿である樣子。これについて、宮内廳として具體策を練る。』

 この突然の宮中祭祀の變革は、實はやはり國會での社會黨議員からの指摘によるものであつたことが明らかとなりました。私が知らないだけで、既にわかつてゐたかもしれませんが、これは大きな發見でした。宮中祭祀は、この社會黨の一議員の質問によつて、大幅な簡易化へ急轉落したのであります。勿論、彼が指摘しなくとも、昭和五十年といふ年であり、遲かれ早かれ同樣な指摘を、誰かがしたことでありませう。それに對し、宮内廳は丸腰でありました。戰前から奉仕してゐた徳川侍從次長は、あまりにも急なことに不滿もあつたやうでありますが、このやうな時代の空氣が、この數行から讀み取れます。

 新憲法以來三十年、これまでは誰もが何も言ふことがなかつた、謂はゞ國體に對して、憲法との整合性が求められる時代となつたのです。しかも同じ國民同士が、戰勝國から押し付けられた思想による憲法を土俵に議論すると言ふ悲しい現實を、改めて見出したのです。昭和天皇・香淳皇后が、靖國神社に行幸啓され御親拜なさつたのが、この年の十一月、これが最後になりました。爾來、哀しいかな、國體の根本に關することが、次々に崩れていつたのであります。今日まで四十餘年を經過して、やゝ改善の兆候はありますが、未だに混沌とした状態が續いてをります。宮中祭祀における祭祀の問題についても、大嘗祭についても、まだ豫斷のできる状態ではありません。

 社會黨が風前の燈であるのは、このやうに祭祀の基本を忘れ、憲法の條文のみにこだはり、それが恰も正しいかのやうな振る舞ひをしたことに、天地神明が罰を下されたのであります。幽界のことに關する愼みが足りないと、かくなるとの一例であります」と。



●永田忠興宮内廳式部職掌典補『左遷された「昭和天皇の忠臣」』(『文藝春秋』平成二十四年二月號。齋藤吉久氏インタビユー)

「(宮内廳の變化は、)戰前の宮内省時代からの生へ拔き職員たちが定年退職し始め、代はつて戰後教育を受けた人たちが入廳するやうになつたからです。幹部職員には、元華族の方などもをられましたが、外務省・厚生省・自治省・警察廳など、ほかの官廳から横滑りするやうになり、皇室に對する考へ方が變はり始めました。

 憲法が定める信教の自由を掲げ、「なぜ祭祀に、公務員が關はらなければならないのか」といふ意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるやうになつたのです。戰後世代の職員たちは、「陛下にお仕へする」といふよりも、「國家公務員である」といふ考へ方が、先に立ちました。皇室の歴史と傳統についての理解は乏しく、逆に「國はいかなる宗教的活動もしてはならない」といふ、憲法の政教分離規定を、字義通り嚴しく解釋・運用する考へ方が、まるで新興宗教と見まがふほどに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍從さんまでが、祭祀から遠のき始めました。‥‥

 戰後二十年も經つと、高級官僚たちは、まるで法匪と化し、先人たちの血の滲むやうな努力を踏みにじつてゐると、情けなく思つたものです。‥‥(富田朝彦宮内廳次長と)宮内廳病院でお會ひしたとき、『掌典職の方ですよね。僕は無神論者なんですよ』と、いきなり話しかけてこられて、驚いたのを覺えてゐます。‥‥御大葬が無原則なら、大嘗祭も無原則になりました。宗教を忌避する姿勢が、最大の原因です」と。
 
 

宮内廳は、皇室の藩屏たれ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 6月27日(木)18時53分54秒
返信・引用 編集済
   武藏野陵内に於いて、自殺事件の發生したる件にて、時局對策協議會は、宮内廳に對して、一卷の『要望書』を郵送せること、下記の如し。最近、神前「血」の汚穢多きを仄聞するは、偶然ならむか。有志には、夏越大祓の嚴修を乞ひ奉ると、爾か云ふ。



**********


■『要望書』(令和元年五月二十四日・大日本愛國團體聯合時局對策協議會)

 夫れ、萬古、天皇を仰ぎ奉らん。

 讓位、竝びに踐祚改元が行はれし時に、あらうことか、武藏野陵の神域を、「血」で汚穢せしめた事件が出來した。將しく近年稀なる不敬冒瀆の、最たる事件である。この不敬事をみすみす見逃すことは、勤皇大道の微志有する者として、看過す可からざるものがある。

 そもそも天皇陵は、神聖不可侵の神域にして、天皇國日本の聖地である。皇民をして驚愕せしむると共に、その悲哀たるや、筆舌に盡す能はず。宮内廳の杜撰な管理體制に、強烈なる憤怒を抱くものである。その怠慢たるや、決して輕からざる可し矣。

 申す迄もなく、武藏野陵は、

大正天皇

貞明皇后

昭和天皇

香淳皇后

の皇靈が鎭まり坐す神域である。その上、皇國臣民が、聖恩に奉謝する神聖尊嚴なる聖地である。

 よつて宮内廳は、今度びの不敬冒瀆事件の發生した事實を、嚴肅且つ眞摯に受け止め、何故に件をして、容易に之を可ならしめたか、その原因を徹底追及せしめ、而して武藏野陵に赴きては、深く謝し奉り、再び斯樣なる不敬の罪人、出でしめざることを宣誓し奉り、もつて皇室の藩屏たる再自覺を持つ可しと、我々は、只管ら之を要求するものである。

令和元年五月二十四日

 宮内廳長官 山本信一郎 樣

    大日本愛國團體聯合・時局對策協議會
              議長 福田邦宏
                 會員一同
 
 

善因善果、惡因惡果、毫釐も差はず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 6月11日(火)18時06分32秒
返信・引用 編集済
  ■別府八幡宮權禰宜からの【お知らせ】

 本日、別府八幡宮境内の若宮社の御神前に、血の付いたテイツシユと絆創膏の剥離紙が置かれてゐました。若宮社は、普段、日中、御參りされる方が、御神前を拜せるやうに、正面の戸を開放してをります。原則的に無斷での社殿内への進入はお斷りしてをりますが、時々、御參りの方が、ご持參された御供へ物を供へるために、神前まで參入なされてゐることがありました。若宮社は、社務所から死角になつてをり、職員は參入される方に氣付くことが出來ず、神職が、夕方になつて、夕拜と戸締まりのために社殿に入つた際、どなたかが御供へされた御供へ物を發見して、やつと「誰かが、社殿に入られたのだな」と、初めて氣付く、といふ状態でした。「無用心ではないか」とのご指摘も有りませうが、そこは地方のおほらかな田舍の小さな神社でのことでありますので、今までは目立つた問題が起こることもありませんでした。ですが、さすがに今囘のやうなことがありますと、今後は對策を考へなくてはなりません。

 今囘の物が、どのやうな意圖を持つて置かれたのかが定かではありませんが、わざゝゞ御神前の中央に、毎朝の御供へ物がされてゐる、その場所に置かれてゐたことを考へますと、單にゴミとして放置されたものではないと推測します。甚だ不氣味でありますし、神樣に對して侮辱的な行ひであり、憤りを禁じ得ません(何のために、こんなものを神前に置いたのか、全く理解不能です)。

 今囘は、この不審物を見つけた時點で、即座にこれを撤去して、大祓詞を奏上。修祓の後に、神樣に事の奉告と無用心の許しを乞ひ願ひ、大御魂の御鎭まりを祈念して、祝詞を奏上。社殿周圍に、清めの米・酒・鹽・水を撒いて、臨時の淨め祓ひを行ひました。

 今後の對策としては、「社殿内への無斷での參入を禁じる注意書き」の掲示など、出來ることから始めて、防犯カメラの設置や、場合によつては、戸の完全な施錠等を考へていかうと思ひます。時々、御供へ物などをしてくださつてゐた參拜者の方々には申し譯ございませんが、事情をお汲み取りいたゞきまして、ご理解いたゞければと思ひます。御供へ物を御供へされたい場合は、社務所の職員にお申し出いたゞければ、お預かりいたしまして、神職が御供へさせていたゞきますので、何卒よろしくお願ひいたします。


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●東齋一條關白藤原兼良公『神代紀纂疏』

「顯事の事は人道也。幽事の事は神道也。二道は、猶ほ晝夜・陰陽のごとし。二にして一たり。人、惡を顯明の地に爲せば、則ち帝皇、之を誅し、人、惡を幽冥の中に爲せば、則ち鬼神、之を罰す。善を爲して福を獲るも、亦た之に同じ。神事とは、則ち冥府の事にして、祭祀牲幣の禮に非ず。祭祀牲幣は、猶ほ顯露事に屬するがごとし」と。



 愚案、講談社現代新書の伊藤智永氏『「平成の天皇」論』(平成三十一年四月刊)を讀む。戰後精神そのものゝ毎日新聞記者の著で、其の結論、疑問は多いものゝ、安倍内閣の皇室輕視、不敬不忠は、たとへ話半分としても、目に餘るでありませう。安倍晉三の如き、皇室に關心なき者、大御心を蔑ろにし奉る者、宸襟を犯し奉ること幾度びなる者に、皇國宰相の印綬を帶びさせてはならぬ。之を支持し、顔色を窺ふ保守も同罪、斷々然として許すこと能はず矣。

 葛仙翁『抱朴子』に曰く、「遲速、皆な殃罰を受く。天網、疎なりと雖も、終ひに漏れざるなり」と。是れ即ち友清磐山先生の「神は見てをる」を謂ふなり。此の大罪は、顯界にて無事ならば、百歳の後、必ずや精算されませう。否、事は、恐れ多くも天子樣の御上に關する御事、大逆、其の子孫係累に及ぶも知る可からず。

 下記は、一般人には、關係なき御話の由。「動物人間」とは、人非人(人にして人に非ざる妖魔)にして、其の罪惡の有無は、神明に存す。善因善果、惡因惡果、毫釐も差はず、となん。然し極めて深い御話でありますね。昨日、紹介を賜はりました。御閲覽の有志には、こつそりと、御教示いたします(笑)。何度も、々々ゝ、聲に出して誦讀を給はらむことを。
  ↓↓↓↓↓
https://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/41
 
 

和して同ぜず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月21日(火)22時33分22秒
返信・引用 編集済
  ●橘曙覽翁の哥二首[慶應四年二月十五日・親征軍北陸道總鎭撫總督の福井を通過して。『志濃夫廼舍歌集補遺・福壽艸』所收]

 天使の、はろばろ下り給へける。あやしきしはぶる人ども、あつまりゐる中に、うちまじりつゝ、御(み)けしきをがみ見まつる。

隱士(やまびと)も 市の大路に 匍匐(はひ)ならび をろがみ奉る 雲の上人(うへびと)

天皇の 大御使ひと 聞くからに はるかにをがむ 膝をり伏せて




 沼山光洋氏の曰く、「平成の御代に御親拜賜れなかつたこと、天皇陛下・御祭神の皆樣に、大變申し譯なく、お詫びの言葉もありません。‥‥『(靖國神社へ)勅使の差遣をいただいてゐる、皇族方から、眞榊も參拜もいただいてゐるので、ご安心ください』といふ方もゐますが、それは、私もよく負け惜しみで使ふ言葉でした」と。

 愚案、「御親拜」もしくは「御參拜」と申し上ぐるは適當でなく、宜しく「行幸」と申し上ぐべし矣。

 靖國神社は、別格官幣社にして、固より天皇陛下から御預りしてゐる神社、春秋二囘、畏くも親しく勅使を賜はり、天子樣には、實質、行幸を仰ぎ奉つてをります。「大御使ひ」、即ち勅使御下向は、伊勢の神宮が年三囘を別とすれば、靖國神社は年二囘、其の外の勅祭社は年一囘、中には七年ないし十年に一囘の御由。如何に靖國神社が、特別の神社に坐しますか、天皇の神社として皇恩洪大なる、一目瞭然たり。然るに此の「勅使御差遣」の拜戴を「負け惜しみで使ふ言葉」とは、小生、合點が参らぬ所か、甚く悲しく思ひます。

 靖國神社勅祭以來、行幸を賜ること、既に都合四十囘の多きを拜し奉り、實に恐懼至極の御事と謂ひつべし矣。暫く行幸が絶つとはいへ、待て、思ふがよい、「國家の守護神」石清水八幡宮の如き、皇家の御祖神にあらせられても、平成九年八月十九日の行幸は、百二十年ぶり、文久三年の孝明天皇行幸以前は、遙か五百十一年前と仄聞し奉る(石清水八幡宮宮司・田中弘清翁『石清水八幡宮ご親拜の大御心』(『今上陛下を仰ぐ――平成の御代に生きる國民として』平成十六年三月・日本青年協議會刊・『祖國と青年』論文選集二所收)。

 神社祭祀は、天皇陛下の祭祀大權に基づくもの、松平永芳宮司は、其の在任中、深刻なる反省遠慮を以て、現在の状況下では、「行幸を、絶對にお願ひしない」(『讓ることのできない傳統の一脈』)と申されました。天子樣の行幸を仰ぎ奉ると云ふことは、洵に難有きこと、此の上も無し。靖國神社は、護國の神靈の坐す磐境なりと雖も、臣下の神靈であつて見れば、畏くも行幸を賜りなば、「靖國大神」(鈴木孝雄大將宮司の喧傳する呼稱。遊就館に此の額を珍藏せり)、如何に忝なみ喜び給ふらむも、親しく行幸を賜はるや否やの天裁は、あくまで九重雲上の御事、草莽たる國民が云々すべき事ではありますまい。

 また伊勢の神宮におかせられても、同じく共に宗教法人ですぞ。皇大神宮をさしおいて、先の「國家護持」は有り得ない。物には、本末・先後あり。現今は、集票の爲めに腐心する醜き民主政治家共の參拜は、斷々然として拒否排除し、只管ら松平宮司主唱の「國民護持」を期す可き秋であります。況んや猶ほも強く重ねて「行幸を乞ひ奉る」は、天皇の祭祀大權を冒す虞れもありませう。不敬なる言靈を發する宮司も、遂に出來するに至りました。忠良謹愼なる臣民としては、百年でも、五百年でも、靜かに御待ち申し上げればよい事であります。沼山氏の遺言、小生の動搖して爲す所を知らざるも、和して同ぜざる所以は、正にこゝに存するのであります。あな畏こ。
 
 

御大典に際して、忠臣志士の精神を繼承し、建國の精神を復活せむことを思ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月17日(金)22時10分26秒
返信・引用
  ●平泉澄博士『國家護持の精神』(昭和三年十一月十六日ラヂオ講演、四年十一月執筆。海軍省教育局思想研究資料第二十四號)

「今や、今上陛下御即位の御大禮を擧げられまして、我々國民は、ひとしく之を慶賀し奉り、歡呼の聲、四海に溢れて居ります。ところが私は、此の盛んな、お目出度い時に當つて、曾て國歩艱難の時に、生命を捨てゝ、君國の爲に盡した忠臣志士を想ひ起したいと思ひます。何故ならば、我が國體の尊嚴は、これらの人々によつて護られ來つたものであり、我が國現今の隆盛は、これらの人々の力によつて得られたものであるからであります。それ故に我々は、今日、わが國體を誇り、その隆盛を喜ぶと共に、飜つてそれらの忠臣を追憶し、その精神を復活し、之を繼承しなければならないのであります。

 己を空しうして公に奉じ、生命を棄てゝ、國家の爲につくすといふ精神は、いふまでもなく我が國の歴史を貫き、三千年の久しきに亙つて儼存してゐるのであります。一體、國家の成立、その繁榮は、決して單なる武力のみを以て、又は單なる財力のみによつて得られるものではなく、必ずや、此の至誠奉公の念、國家護持の精神に待たなければならないのであります。我が國家の成立も、その存續も、その發展も、全くこの精神によるのでありまして、この精神は、一日も缺く事の出來ないものであります。しかしながら時によつて盛衰があり、ある時は力強く現れ、ある時は影が薄くなる事があります。而して其の最も力強く現れ、灼熱して非常に光り輝いたのは、近くは明治維新の前後を第一とします。しかし其の艱難の甚だしい事、その精神の正大であつて熱烈である事と、その歴史上に於ける意義の重大である事からいへば、私は、むしろ建武・延元の頃、後醍醐天皇の御爲につくした忠臣を推したいと思ひます」と。



●平泉澄博士『國史學の骨髓』(昭和二年六月)

「我國家創造の昔、天照大神が、將に降臨せられんとする皇尊・天津彦々火瓊々杵尊に勅して、

『葦原の千五百秋の瑞穗の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしくいまし皇孫、就いて治せ、行矣、寶祚の隆まさん事、まさに天壤と窮なかるべし』

と宣言せられ、乃ち八坂瓊曲玉・八咫鏡、及び草薙劔を賜はつた事は、今日に於いてこそ、三尺の童子も、猶よく之を知つてゐるけれども、そのこゝに至るまでには、閑却より復活への注意すべき變遷があつたのである。即ち奈良朝に在つて、『日本書紀』を編纂した當時には、この神勅の意義は、未だ十分に認識せられずして、書紀の本文には之を缺き、僅かに參考として掲げられた一書にの中に見えてゐるのみであつた。而して『古事記』や『古語拾遺』には、或は神勅を記して詳かでなく、或は神器を擧げて悉してゐない。もしそれ『扶桑略記』・『愚管抄』等に至つては、末世・末法の思想に惑溺したるもの、天壤無窮の確信がないのは、むしろ當然であつた。しかるにこの神勅と神器とは、北畠親房によつて、燦然として光彩を放ち來つた。彼はその著『神皇正統記』に於いて、この神勅を大書し、この神器を重視し、之を以て天皇の御位の印證とし、又た之を以て百王説を打破つた。

『又た百王ましますべしと申しぬる。十々の百にはあらざるべし。窮りなきを百といヘリ。百官・百姓など云ふにて知るべきなり。むかし皇祖天照大神、天孫尊にみことのりせしに、寶祚之隆、當與天壤無窮とあり。天地も昔にかはらず、日月も光を改めず、況んや三種の神器、世に現在し給へり。窮りあるべからざるは、我が國を傳ふる寶祚也。仰ぎて尊み奉るべきは、日嗣を受けたまふ皇になんおはします』

『神皇正統記』、一度出てゝ、建國の精神は、生き々ゝとこゝに復活し來つた。而してこゝに一度復活しては、『大日本史』、再び之を傳承し、幕末に及んで、この精神、全國民に普及するや、こゝに明治維新の大業は成つたのである。『神皇正統記』は、一卷の書籍、よく國家を支へたるもの、前に遠く建國創業をのぞみ、後に遙かに明治維新を呼ぶ所の、國史の中軸である。

 しかもまたこの『神皇正統記』を媒介として、明治維新の際に、かの神勅と神器とが、燦として輝いて來たのは、一に維新の精神が、建國の精神と相承け相照らしたによる。維新の精神にあらざれば、何者かよく建國の精神を國民の間に普及し得よう。‥‥古人を泉下に起して、之と肝膽相照らすは、古人と同樣の高き深き精神にあらずんば不可である」と。



 愚案、皇祖天照大御神、皇孫(皇御子)に三種の神器を授け給うて、天壤無窮の神勅を宣らせ給へり。我々が、畏くも神勅・神器の尊きを知るに至るも、實は一朝一夕のことでは無いのである。そこには「古人と同樣の高き深き精神」を必要とし、之を繼承せむとする大志が求められる。令和の御大典に際し、有志と倶に之に精勵したい。
 
 

沼山光洋氏の遺言。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月14日(火)18時38分50秒
返信・引用 編集済
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新時代令和を迎へて

 天皇陛下・皇后陛下には、心より皇室の彌榮を御祈念申し上げます。
 上皇陛下・上皇后陛下には、心より感謝申し上げます。

 皆樣におかれましては、令和におかれましても、益々のご健勝ご多幸を祈念申し上げます。

 平成の御代に御親拜賜れなかつたこと、天皇陛下・御祭神の皆樣に、大變申し譯なく、お詫びの言葉もありません。そして「ま心」(★)を託してくださつた皆樣、叱咤激勵してくださつた皆樣、本當に本當に申し譯ありませんでした。

 皆樣からま心をお預かりして、平成二十九年、全國護國神社巡拜、平成三十年は九月末から十二月末まで、和田倉噴水公園脇で、宮内廳職員に、「天皇陛下靖國神社御親拜祈願」の幕を持つて、朝のご挨拶を、毎朝させていただきました。

 全國巡拜では、昇殿參拜(巡拜時は、正式參拜と表記してゐました)の申し込みから、個人名で行ひ、名刺も出されない限り、こちらからは出しませんでした。勿論、湯澤貞先生(靖國神社第八代宮司の名前も、こちらから言ふことはありませんでした。參拜終了後に、趣意書をお渡しする際に、靖國會の名前がありますので、民間團體であること、靖國神社とは無關係で行つてゐることをお傳へいたしました。最初から湯澤先生のお名前を出せば、忖度されることは間違ひなく、それでは本意が傳はらないのではないかと懸念しました。しかし餘計な心配でした。どちらの護國神社でも、誠心誠意のお取次ぎをいただき、お陰樣で、一社一社、ま心込めて御祈願申し上げることが出來ました。改めて感謝申し上げます。ありがとうございました(各縣護國神社の報告をご覽ください)。

 和田倉噴水公園での朝立ちでは、地下鐵通勤をなさつてゐる宮内廳職員の方々が、どうかう出來ると思つてゐませんでしたが、毎朝挨拶することで、御親拜を願つてゐる日本人がゐることが、上層部に傳はることを願ひました。結果は、このやうな結果ですが、師走に入つて寒くなつて來た頃に、宮内廳職員の方から、「毎日ご苦勞樣」と、カイロを差し入れていただきました。二囘、頂戴いたしました。今でも大切にとつてあります。

 死は、生の延長である。人は、生まれた瞬間から死へと向かふ。豐かな人・貧しい人にも、必ず死は訪れる。そしてその生命に意義を持たせるのは、生きてゐる人間である。本日五月十一日は、第五筑波隊の皆樣、西田高光命のご命日である。高邁なる精神で、後の民族の誇りの為にと散華された、貴い意義ある生命であつたと語り繼げるのは、生きてゐる人間だけである。この特攻隊員の皆樣の多くが、大楠公楠木正成公の「忠」の精神を紡いだ。肉體を紡ぐことは出來ないが、精神は紡ぐことが出來る。そのための土臺となる時代、教育が存在してゐた。たつた七十四年前の出來事である。

 新時代令和の幕開けで、祝賀一色なのは理解できるし、さうあるべきであると思ふが、御親拜がなかつたことに對しての報道は、一切なかつた。私の知る限り、御親拜に觸れた著名人は、昨年末に、櫻井よしこさんと小堀桂一郎先生だけである。今ある豐かな日本は、自然に出來た譯ではない。多くの先人の命の礎の上に、今がある。御祭神のことが忘れ去られること、無關心なことには、御祭神の皆樣は微笑まれてゐると思ひますが、寂しく感じます。標本木には觀光客が群がり、その看板まで寫眞に收められるが、神雷櫻をはじめ、約束の櫻たちは、掲げられてゐる札の意味を考へられることは少ない。


祈りは、神頼みの他力本願ではない

 天皇陛下は、祈りの存在、民族の道である。日々、全てのものに祈りくださつてゐる。それに倣ひ、私たちも神社へ參り、祈りを捧げる。悠仁親王殿下御降臨は、日本人の祈りが天に屆き、奇跡といふ必然を招いた。御誕生した瞬間に、それまで活發であつた女性・女系天皇論者が、影を潜めた。

 私は、個人の祈りは、他力本願の神頼みではなく、自分自身への決意・自覺・戒めだと思つてゐる。神前で祈り、感謝申し上げ、祈願する。そのことにより、善い思ひ・善い行ひを心がけ、實踐する。その繰り返しが、日本人の道徳觀であり、ご加護を受けてゐる安心感が、現實社會の秩序の基本になつてゐると思つてゐる。子供の頃言はれた、「お天道樣が見てゐる」である。善いことも、惡いことも、お天道樣はお見通しである。天皇陛下が示されてゐる行動實踐こそ、「祈り」の形ではないかと思ふ。


昭和天皇・御祭神・松平永芳宮司を侮辱する「富田メモ」

 何より殘念だつたのは、現役神職が「富田メモ」を信じ、昭和天皇・御祭神である昭和殉難者・松平永芳宮司を、侮辱して憚らないことです。また御創立百五十年といふのは、節目ではない、御親拜はなくて當然、それが神社の常識と嘯くが、大正天皇は、御創立五十年で御親拜あそばされてゐるし、何よりも昭和天皇の最後の御親拜は、所謂 「終戰三十年」、神社の常識・節目ではない「終戰三十年」である。しかも靖國神社から、御親拜を御願ひ申し出てゐる。  天皇陛下御望みになられ、御祭神の皆樣が待ち焦がれてゐる御親拜を實現する努力よりも、出來ない、やらない理由ばかり竝び立てる。

 「富田メモ」が出てきた平成十八年は、小泉純一郎首相が、在任最後に、八月十五日に參拜すると公言してゐた、その年七月二十日である。その「富田メモ」が、どのやうに利用されたかは、皆樣ご存知のやうに、小泉首相の参拜中止運動に利用された。他の(靖國會ホーム)ページで詳述してゐるので省くが、昭和天皇が、たつた數人の、自分の氣に入らない昭和殉難者のために、他の二百四十六萬六千餘柱を蔑ろにする薄情な國家元首であると、「富田メモ」は言つてゐるのである。その平和を愛される昭和天皇が否定した、昭和殉難者が祀られる靖國神社へ、小泉首相は參拜するのか、と迫つたのである。

 松平宮司は、「忠」の人である。禁闕守護の一念、海軍出身であつたが、いざといふ時、海の上にゐたのでは、皇居に驅けつけられないと、陸上自衞隊に鞍替へしたと聞いてゐる。その尊王心の塊のやうな松平宮司を、死後、昭和天皇を御不快にさせた宮司として誹謗中傷する、富田メモを信じるといふのは、繰り返し殘念で、悲しい。御親拜中斷の元凶は、昭和五十年十一月二十日第七十六囘内閣委員會が原因である。
http://yasukunikai.com/gosinpaikigan/inori.htm


神職は、使命である

 私は、湯澤貞靖國神社第八代宮司の退任後、靖國會總代をお引き受けいただき、ご指導をいただいた。また大山晉吾先生が、靖國神社神職時代、先生の主宰される「武士道研究會」でご指導いただいた。お二人と接して感じてゐたのは、神職は職業ではない、「使命」であるといふことを、強く感じました。天皇陛下に對しては勿論、御祭神に對する深い崇敬・敬愛、ま心を、非常に強く感じました。それだけに、御祭神が、昭和天皇を御不快にさせ、御親拜がなくなつたと信じながら、毎日奉仕する神職がゐることに、非常に悲しくなりました。

 勅使の差遣をいただいてゐる、皇族方から、眞榊も參拜もいただいてゐるので、ご安心ください、といふ方もゐますが、それは、私もよく負け惜しみで使ふ言葉でした。靖國神社は、明治天皇の特別な思し召しで御創立いただいた、「特別」な神社だと信じてゐます。神社界の前例を踏襲しなくても良い、「特別」な神社だと思ひます。全ては醜の御楯と散華された、御祭神中心で良いと思つてゐました。それが神社本廳の組織・施設維持の唯物主義が、靖國神社にも影響を及ぼし、昨年の徳川康久宮司追ひ出しへと繋がつたと思ひます。靖國神社は、神社本廳に屬してゐませんが、非常に密接な關係です。小田村四郎先生は、病床で、徳川宮司支持を明言されてゐたことを聞いてをります。小田村先生がお亡くなりになつた途端、總代會で、徳川宮司解任が決まつたさうですが、御創立百五十年に、御親拜があり、徳川康久宮司が御奉仕される、それが明治維新の總括にもなると思つてゐたので、殘念極まりなかつたです。神社本廳の思惑は、いづれ表沙汰になると信じてゐます。「お天道樣が見てゐる」です。


覇權は、永遠には續かない

 近代、明治維新から、日本は、常に良くも惡しくも新興國家米國の絶大な暴力に、時に抗ひ、時に從ひ、共に歩んできた。キリスト暦で言ふところの十九世紀・二十世紀は、米國白人至上主義が、世界の中心だつたと思ふ。航空機・通信技術の進歩により、時間的空間的に世界は小さくなり、宗教的背景を持つ白人至上主義は、建前上、絶大な暴力を封印せざる得なくなつた。現在は、米國・ロシア・支那の三國時代に突入したと思ふ。依然として米國が、絶大な暴力を維持してゐるが、現代では、「建前」が邪魔をしてゐる。ロシア・支那には、その「建前」が、あまり通用しない。問題なのは、地政學的に、日本は支那・ロシアと近く、非常に危險な場所に位置してゐることである。特に支那は、「戰はずして勝つ」といふ、時間をかけての侵略が出來る民族である。精神侵略から始まり、現在は移住が始まり、人口侵略が始まつてゐる。今後、歸化した支那人議員が輩出され始めるだらう。民族の生命力の強い支那人と、弱くなつていく日本人で、どう向き合つていくか。政治は、賣國政策を積み重ねてゐる。チベツトやウイグルのやうな、支那による直接支配も、遠い未來ではない。


愛國團體は、靖國神社・護國神社で、日本人の手本たれ

 愛國團體の皆樣には、靖國神社・護國神社で、日本人の手本となつていただけるやう、切にお願ひ申し上げます。參拜作法もですが、衞士の皆樣、清掃の皆樣に、「ご苦勞樣」の一聲を、お願ひしたいと思ひます。同じやうに、制服警官・消防官にも、日常的に「ご苦勞樣」の一聲を、お願ひしたく存じます。特にことあるごとに、社頭で「賽錢泥棒」行爲をする「愛國無罪」團體は、御祭神を無視し、心正しい參拜者の善意を踏みにじる、卑しい行爲であることを理解し、やめていただきたい。


五月十一日は、第五筑波隊の皆樣、西田高光命のご命日です

 平成の御世で、御親拜賜らなかつたといふことは、令和で、御親拜賜る可能性も低いでせう。御祭神の皆樣は、御親拜がなくても、現在の物質的に豐かな日本を見て、きつと微笑まれてゐると思ひます。御祭神の皆樣は、自分達のことを忘れたとしても、微笑まれてくださるでせう。

 昭和二十年四月、鹿兒島縣鹿屋海軍特別攻撃隊神雷部隊へ、山岡莊一は、報道班員として赴任した。そして有名な、西田高光命の言葉

「學鷲は、一應インテリです。そう簡單に勝てるなどとは、思つてゐません。しかし負けたとしても、そのあとは、どうなるのです‥‥おわかりでせう。われわれの生命は、講和の條件にも、その後の日本人にもつながってゐますよ。さう、民族の誇りに‥‥」

との言葉を殘した。大山晉吾先生から教はり、二十二歳の若者が、後の日本人の「誇り」のために、我が身を捧げる、散華すると明言してゐることに、感動を覺えました。そして大分縣護國神社の八坂宮司樣・後藤尚禰宜樣のお計らひで、西田家を訪問し、お墓參りをすることが出來ました。このことも、
http://yasukuni.jugem.jp/?day=20170513
こちらで報告してをりますので、ご覽ください。

 いつの頃からか、西田高光命とメイ・フォン・ハウエルさん日本名坂明子さんが、私の憧れの人物となつてゐました。坂明子さんは、詳細が分からないことだらけですが、「靖國おばさん」と呼ばれ、親しまれてゐたさうです。下記の數行の活字だけでも、時代のおほらかさ、坂明子さんが誠心誠意、御祭神と傷痍軍人・ご遺族に奉仕されてゐたことが分かります。たぶん、ご本人も、ご遺族だと思ひます。

『靖國神社百年史』より
昭和三十六年辛丑(西暦一九六一)
二月十一日、オーストリア人メイ・フォン・ハウエル(日本名阪明子)、特別參拜す。
二月十二日、オーストリア人メイ・フォン・ハウエル(日本名阪明子)は、終戰後、傷痍軍人への慰問と、その更生に盡力する傍ら、二十一年十一月より、社頭の清掃奉仕を始め、三十年六月には、居を境内に移して、神社への奉仕に專心してゐたが、この度、三十三年ぶりに、故國オーストリアに歸ることとなり、是日の朝、横濱港を出港す。筑波宮司・池田權宮司以下、有志職員、見送りをなす。
十月十一日、再來日。
四十四年三月十日歿(七五歳)

 詳しくは、靖國神社第七代宮司大野俊康著『特攻魂のままに』・『いざさらば我はみくにの山櫻』靖國神社編をご覽ください。共に展轉社發行です。

 忘れないこと、語り繼ぐことこそ、今を生かされてゐる日本人の務めだと思ひます。平成の三十年間に、御親拜を賜らなかつた今、今後、難しいと思ひます。時間の經過と共に、昭和天皇が御親拜出來なくなつた事實が、どこまでも歪められ、靖國神社の御祭神の生命の意義が忘れ去られたときに、民族の「誇り」は消え去るでせう。どうか皆樣、良識ある日本人として、靖國神社に鎭まる御祭神・忠靈の生命の意義を、正しく後世に紡いで行きませう。

 長々と、泣き言、負け惜しみを連ねました。人間にとつて最大の病は、絶望と言ひますが、ならば希望は、最高の良藥の筈です。新時代令和を、元氣に明るく希望を持つて、皇室の彌榮、民族の誇りを守る爲に邁進いたしませう。

天皇陛下萬歳

我國の爲をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき
明治七年一月二十七日、御製


皇紀二千六百七十九年
令和元年五月十一日   沼山光洋

 學が無いので、上手くお傳へすることが出來ませんが、過去のブログ・ツイッター・インスタグラムなどで補足していただき、何とかご理解いただけると幸甚に存じます。


★「ま心」は、橘孝三郎『土とま心』から、「ま心」と表記してをります。


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 愚案、靖國會・靖國忠靈祭事務局長沼山光洋氏は、令和元年五月十一日午前二時四十分、靖國神社前の路上に於いて自決。「包丁が腹部に、眞一文字にて突き刺さりし」状態で發見されたる由。不穩なる噂が飛び交つてゐるやうだが、門外漢の小生は、之を自決と信じて拜記させて戴く。餘りにも悲しき文である。正に『遺言』と謂ふ可きか。

 靖國會は、「天皇陛下御親拜」を高く掲げ、小生の敢へて容認する能はざる所(天皇の祭祀大權を犯す虞れあり)、また湯澤氏以降の靖國神社宮司の評價は肯ぜざる所(松平永芳・大野俊康兩宮司を貶め、其の遺訓を奉ぜざるもの)ではあるが、其の自決の報を聞き、此の文には、圖らずも落涙した。天皇陛下・靖國神社祭神に、只管ら御詫び申し上げてをられる。「責務」の人、と云ふに相應しい。沼山氏とは、一囘、河原博史翁の講演會にて御挨拶し、名刺を戴き、二三言、苦言を呈したことがあつたが、今となつては懷しき想出、靖國神社車椅子奉仕や清掃奉仕等を拜見し、眞に奇特にして、温厚なる御方と御見受けしてをりました。只管ら靈格冥福向上を懇祷いたします。
 
 

不敬にして不誠實、國史に名を殘すか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月 6日(月)23時01分56秒
返信・引用
   大疑惑出來。

一、官僚による陰謀か。普通は「願つて已(=止)みません」と書く所、故意に「已ません」と書き、相手は名にし負ふ安倍晉三首相(云々をデンヾヽ、背後をセゴとか訓むらしい)なれば、「イません」と讀むやうに期待誘導した。

一、官邸ホームページには「願つてやみません」とあるが、原稿に、本當に「已ません」と書いてあつたのか。奉書に墨書なれば、「已みません」と書く可き所、餘地少なくして「已ません」と、已む無く「み」を略したのではないか。まさか「イません」と讀むとも知らずに‥‥。

一、首相ともなれば、事前に習禮して音讀し、萬全、遺漏なきを期さうとしないのか。二百年ぶりの讓位の御儀にして、神器の大御前なるぞ。周章狼狽、讀み違へば、末代の耻辱なるぞ。「學んで、時に之を習ふ」。無學は仕方が無いが、知らざるを聞かぬのは、君子ならざる明證なり。

一、一覽、可笑しいと思つたら、「願ひます」と上奏する機轉も働かないのか。「末永くお健やかであらせられますことを願つていません」とは、如何なる「國民代表の辭」なるかな。此の言靈は、甚だ不敬無禮にして、不吉至極なり矣。

一、懺悔待罪、直ちに天皇・皇后兩陛下に對し奉り、下座して謝罪し奉つたのか。まさか、知らぬ存ぜぬ、「願つてやみません」と奏したとの強辯が通ると云ふのであるか。今からでもよい、仙洞御所へ伺候參殿す可し。

 時と處は、平成最期の日、即ち「讓位正殿の御儀」にして、天皇陛下の大御前。責任は、眞に至重至大なり。洵に前代未聞の大醜聞にして、不敬極まる大事件と謂ひつ可し。安倍晉三の倨傲自任は、神の知る所にして、其の態度は、殆んど逆臣の如し。速かに自ら辭任せよ。然らば罪、一等を減ぜらる可し。
 
 

奉祝 天照し坐す日嗣の皇子、三種の神器を皇祖皇宗に承け、天皇元年を改めたまふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 5月 1日(水)11時32分1秒
返信・引用 編集済
   令和の天皇陛下、大詔を下し給へり。擧國々民、畏みて聞け矣。御治世、萬々歳ならむことを、只管ら懇祷申し上けます。


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 日本國憲法及び皇室典範特例法の定める所により、こゝに皇位を繼承しました。この身に負つた重責を思ふと、肅然たる思ひがします。

 顧みれば、上皇陛下には、御即位より、三十年以上の長きに亙り、世界の平和と國民の幸せを願はれ、如何なる時も國民と苦樂を共にされながら、その強い御心を、御自身の御姿で御示しになりつゝ、一つ々ゝの御務めに眞摯に取り組んで來られました。上皇陛下が御示しになつた象徴としての御姿に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

 こゝに、皇位を繼承するに當たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思ひを致し、また歴代の天皇のなさりやうを心にとゞめ、自己の研鑽に勵むと共に、常に國民を思ひ、國民に寄り添ひながら、憲法に則り、日本國及び日本國民統合の象徴としての責務を果たすことを誓ひ、國民の幸せと國の一層の發展、そして世界の平和を、切に希望します。




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●『先代舊事本紀』卷七・天皇本紀

 辛酉を、(神武天皇)元年と爲す。春正月庚辰の朔、橿原宮に都し、肇めて皇位に即きたまふ。‥‥

 天富命、諸々の忌部を率て、天璽の鏡・劔を捧げ、正殿に安んじ奉る。天種子命、『天神の壽詞』を奏す。‥‥

 宇摩志麻治命、内の物部を率て、乃ち矛・楯を竪て、威儀を嚴増しまつれり也。道臣命、來目部を帥て、宮門を護衞り、其の開闔(開閉)を掌りまつれり矣。竝びに四方の國に、以て天位を貴きを觀せしめ、亦た率土の民に、以て朝廷の重きを示さしむる者也。時に皇子・大夫、群官・臣・連・伴造・國造等を率て、元正の朝賀禮拜しまつれり也。凡べて厥の即位・賀正・建都・踐祚等の事、竝びに此の時より發りぬ矣。



●賀茂百樹翁『通俗講義・登極令大要』(大正元年十月・會通社刊。掌典宮地嚴夫大人閲讀。所功博士『近代大禮關係の基本史料集成』平成三十年八月・國書刊行會刊に所收)

 登極令は、天皇の紫極に登らせらるゝ御手續・御儀式等を規定せられたる御令なること、申すまでもなし。謹んで本令を拜讀するに、其の旨とする所、踐祚式・即位式・大嘗祭の三なり。踐祚の式と即位の禮とは、もと同一事にして、時間の關係上、二つに分れたるまでのことなるのみ。能くこれを思へば、踐祚式に於ける賢所の御祭典及び劍璽渡御の儀と、即位の禮に於ける神器を京都に奉じて行はせらるゝ賢所大前の儀とは、其の趣、一にして、踐祚式に於ける朝見の儀と、即位式に於ける紫宸殿の儀とも、亦た其の旨、二ならず。

 斯くこれを見る時は、天皇登極に於ける重大なる要件は、左の三なることを知るべし。
一、祖宗の神器を承け給ふ。
二、天津日嗣を繼承し給ふことを宣り給ひ、寶祚無窮の壽詞を受け給ふ。
三、大嘗祭を行ひ、齋庭の御饌を聞食し給ふ。
以上の三に外ならず。而してこの三の因て起る本源は、わが國家肇造の際に於ける皇祖天照大神の埀れ給ひし三大神勅に起因するなり。‥‥

 踐祚の二字を、『書紀』崇神(天皇)卷に、「アマツヒツギシロシメス」と訓ず。天津日嗣知食の義にて、天皇の位に即き給ふことを云ふ[‥‥]。『令義解』に、「即位、之を踐祚と謂ふ」とありて、昔は即位と踐祚とは、文字こそ違へ、同一のことにて、更に差別は無きことなりしを、桓武天皇の御世に至りて、始めて踐祚の後、更に日時を撰みて、即位の禮を行はれにき。然れども此の時は、未だ踐祚と即位との名は分たざりしが、朱雀天皇に至りて、先づ踐祚の御事ありて後に、更に即位の大禮を擧げさせらるゝことを定例となし給ひ、踐祚と即位との名を分たるゝに至れり。



●福永武代表『皇統護持の祈り』(不二歌道會『不二』平成三十一年四月號)

 この度、新帝の踐祚が豫定される五月一日を待たず、その一ケ月前に新元號が公布發表されたことは、眞に痛恨事であつた。‥‥今囘の改元のあり方は、後世、決して踏襲されるべきでないことを、改めてこゝに明記しておきたい。問題の第一は、新帝御踐祚前に、新元號が公布發表されたことであるが、もう一つ注視し警鐘を鳴らして來たのは、御聽許問題であつた。新元號決定に至る過程の中で、政令が正式決定される臨時閣議の前に、天皇陛下・皇太子殿下の御聽許を賜つたのかどうか。これは、つぶさに傳へられるテレビ中繼や、その後の報道を見た限りでは、「御聽許があつた」と判斷するのは難しい。この點は、將來、新たな證言が出現することも豫想されるが、とにかく堂々と事前の御聽許を賜ることが出來なかつたことだけは確かであり、安倍首相・菅官房長官を始め、この決定を下した者、その關係者、延いてはこの時代を共に生きた我々もまた、後代、「不義不忠の臣」としての誹りを受ける日が來るであらう。

 この件で、安倍首相が苦惱したであうことは、想像に難くない。我々は、最終決定者である首相には、何度も電話や書簡を送り、何とか變心飜意を促したのであるが、同樣の聲は、有志議員・保守系團體からも多く寄せられてゐたのである。特に「皇太子殿下に、無禮である」との問責には、反論の餘地が無い。首相は、新元號の決定前に二度、決定後に一度、自ら、皇太子殿下の許へ參内(ママ)したことは、まさに異例のことで、これこそ首相の煩悶を物語つてゐるのではないか。‥‥(新元號の)決定の過程に於いて、重大な瑕疵があつたことは、後世、道を誤らぬためにも、國史に明記される必要がある。



●中澤伸弘博士『即位儀禮に關する問題點・四』(不二歌道會『不二』平成三十一年四月號)

 皇太子殿下が踐祚される、五月からの元號が「令和」と定められ、一月前の去る四月一日に發表されました。‥‥新帝の御踐祚を受けて行はれるべき改元が、このやうに一月前に發表されることに、何か不思議な感覺があります。今囘は、新帝の元號を、今上陛下が御裁可されると言ふ、大變、變則的なことになりました。このことをきちんと報道したマスコミはあるのでせうか。元號と言ふものゝ意味を考へ時の國民の共通の意識、認識がないまゝに、政府はなし崩し的にわからぬやうに、たゞ改元と言ふ目に見えることだけに走りました。重大な缺陷を、一つの御祭り騒ぎの蔭に隱したのです。こゝに「元號法」の限界があり、皇位の繼承があつた場合に改めると謳ひながらも、元號は、天皇と關係のないもの、それとこれとは別のものと言ふことが、こゝで明らかになりました。今後も讓位があつた場合には、これを前例とすることになります。改めて浮き彫りになつた「元號法」の缺陷・不備を正し、または細則と言ふやうなものを定めておく必要があります。また元號の皇位と一體なるものであることを、廣く國民に呼び掛けて行く必要を、痛烈に感じました。‥‥

 新帝の元號を、今上陛下が御裁可されると言ふ形、そのため豫め今上陛下にも、東宮殿下にも、御聽許をいたゞくといふ變則的な事態となつたことを、新聞報道は安倍總理の「苦澁の選擇」であつたと書いてをります。苦澁の選擇をしたのは、本人自身であります。そして苦澁の選擇以外のやり方がなかつたのではありません。今囘のことは、少し整理しておく必要があります。



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 踐祚・改元を拜しまつりて

○令き此の日 吉き年月は 成すものぞ 大和島根に 天日(ひ)は登り坐す

○天照らす 日嗣の御子の 登り坐す 此の日令き日ぞ 哥たてまつる

 令和元年五月一日  艸民・備中處士、謹詠
 
 

平成の天皇陛下には、みむすびの大詔を下させ給ふ。「國民と共に」、畏し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月30日(火)17時41分48秒
返信・引用 編集済
 

 今日を以ち、天皇としての務めを終へることになりました。

 たゞ今、國民を代表して、安倍内閣總理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。

 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、國民への深い信頼と敬愛を以て行ひ得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支へてくれた國民に、心から感謝します。

 明日から始まる新しい令和の時代が、平和で實り多くあることを、皇后と共に心から願ひ、こゝに我が國と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。




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●TBS報道(平成三十一年四月二十九日)抄

 平成二十二年七月二十二日午後七時、天皇・皇后兩陛下の御住まい皇居・御所に、宮内廳長官や側近の侍從長、國民の立場から意見を具申して來た宮内廳參與等が集まり、兩陛下と定期的に意見を交換する「参與會議」。此の日、五時間以上議論が續いたが、結論は出なかつた。元宮内廳參與・三谷太一郎氏は、天皇陛下が、次のやうに發言されたと證言。

一般的に日本の社會がさうですけど、高齡化と云ふのが非常に進展してゐる。皇室も例外では無い。皇室の高齡化に、措置が必要だ。攝政や天皇代行など、天皇自らが出來ないときの中間的措置が考へられるが、それでは天皇の役割を果たすことは出來ない。天皇だつたものが、天皇の務めを果たせないとなれば、やはり退位すべきだ。退位して、皇太子に皇位を讓る。八十歳まではやる。その後は、上皇になる。天皇の務めは、攝政では務まらない。天皇、その人でなければ務まらない。自分はさう云ふ緊張感でもつてやって來たんだ。それが象徴天皇としての自分を支へて來た。天皇の務めは、天皇にしか果たせない。數多くの公務を、全て全身全靈で行ふことこそが、象徴天皇の姿であり、歳を重ね、全力を盡くせないならば、退位すべきだ』。

 三谷太一郎氏の曰く、「その後、自らが設定された八十歳を超えられた陛下。思ひは變はらず、平成二十八年八月八日、「象徴天皇の務めが、常に途切れることなく」、陛下は國民に對して、退位の意向を、初めて明かされました。參與會議で思ひを傳へてから、實に六年。象徴天皇とはどうあるべきか、象徴天皇の本質を眞劍に考へられたことの結果だと思ふ。日本國中が、陛下の強い決意に動かされたと云ふかね 、僕はそれが、どうも眞實ぢやないかと思ひますね」と。
 
 

昭和天皇大御歌、千百四十五首。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月29日(月)16時45分17秒
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  昭和十七年一月二十六日、歌會始「連峯雲」

峯つゞき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと たゞいのるなり


昭和二十年、終戰時の感想

身はいかに なるともいくさ とゞめけり たゞたふれゆく 民をおもひて


昭和二十一年一月二十二日、歌會始「松上雪」

ふりつもる み(深)雪にたへて いろかへぬ 松ぞをゝ(雄々)しき 人もかくあれ


昭和五十年一月十日、歌會始「祭り」

我が庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々


昭和六十三年八月十五日、全國戰沒者追悼式

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど



 所功博士編『昭和天皇の大御歌──一首に込められた深き想ひ』(平成三十一年四月・角川書店刊)を拜するを得た。昭和天皇の大御歌を、國史家らしく、凡ゆる方面から網羅して餘蘊が無く、現在望み得る大御歌集の決定版と申し上げてよからう。既發表八百七十二首、未發表二百七十三首、都合一千一百四十五首、宮内廳編修『昭和天皇實録』に據つて年代を確定、索引完備。
 
 

天皇祭祀の干犯。

 投稿者:備中處士  投稿日:2019年 4月23日(火)18時25分26秒
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   NHKが「皇室の祖先である皇祖神・天照大御神を祭る伊勢神宮」と報じたら、早速、苦情が來て、「皇室の祖先とされる天照大御神を祭る伊勢神宮」と訂正した由。何だ、これは。

 天子樣には、「皇室の祖先とされる天照大御神を祭」つてをられるとでも云ふのか。馬や鹿の皮を被った下衆者共めが。

 是れ即ち「天皇祭祀の干犯」である。

 天子樣には、皇統譜にある「皇室の祖先である天照大御神を祭」らせ給ふ。

 かやうな事を問題とする者を、NHKは、何故ゑ無視しないのか。尚ほ且つ訂正までするとは‥‥、呆れ果てる。かやうな奴輩は、己の戸籍や母子手帳に「父母」とあつても、此の「父母は、果して己の眞實の父母であらうか」と、心底、之を疑ふのであらう。「己の父母とされる」とか云ふ表現をしてゐる輩、何處の、誰ぞや。

 それにしても、憂鬱だ。世の闇は、深い‥‥。小生は人權主義者では無いので、之を訴へはしないものゝ、少なからず赤魔の常套句である「精神的苦痛」を受けた。聞かなければよかつたものを。
 
 

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