投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義(44)(備中處士)
  2. 「九段塾」塾頭・一兵士翁遺文抄(100)(備中處士)
  3. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(8)(備中處士)
  4. ★☆★ 時計の間 ★☆★(351)(塾頭)
  5. 神道に學ぶ。(56)(備中處士)
  6. 嗚呼、慕楠黒木博司少佐。(15)(備中處士)
  7. 肥後勤王黨・敬神黨の精神を恢弘せむ(12)(備中處士)
  8. 先哲遺文に學ぶ。(34)(備中處士)
  9. おゝ靖国の大神(40)(はゆまつかひ)
  10. 日本刀四方山話(52)(那須の権太)
  11. 淺見絅齋先生『靖獻遺言』筌蹄。(51)(備中處士)
  12. 平田篤胤大人遺文(31)(備中處士)
  13. 祖神垂示 親譲之道 拾遺(36)(はゆまつかひ)
  14. 賀茂百樹大人遺文(5)(備中處士)
  15. 平田篤胤大人『古史成文』(165)(南雄)
  16. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(46)(備中處士)
  17. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(35)(はゆまつかひ)
  18. 參考聚英(15)(備中處士)
  19. 平泉澄博士遺文(9)(備中處士)
  20. 大元靈に坐す天之御中主大神(8)(備中處士)
スレッド一覧(全44)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


言靈・見神‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月18日(金)18時41分19秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●日本郷友連盟理事長・廣瀬榮一翁『紅葉は秋だよ』(戰中派の會編『吾が子 わが孫よ――戰中派の遺言』昭和五十三年八月・櫂書房刊に所收)に曰く、「

――天皇陛下萬歳――

 昭和六年冬、二十歳の私は、陸軍砲兵少尉で滿洲事變に參加した。私は自分が死ぬときは、その瞬間に、魂は肉體を殘して飛び出さう、默つて死んで行かうと考へてゐた。

 ところが、昭和七年秋、決死隊に出され、夜暗に敵の縱隊を突破した際、敵の十字砲火を受け、隊員の一人平中一等兵は、銃彈で背中から首を貫かれた。私は物の言へない平中一等兵を抱きつゝ、平中は死の瞬間、何か言ひたいかを考へ、若しかしたら『天皇陛下萬歳』を唱へたいのではないかと思ひ、私は苦しむ平中の耳もとに、『お前に代つて、天皇陛下萬歳を唱へるよ』とさゝやき、大聲で『天皇陛下萬歳』と叫んだ。すると、今迄苦しんでゐた平中は靜かになり、昇天した。この光景に、私は強い衝撃を受けた。それは『天皇陛下萬歳』といふことが、お芝居ではないといふことである。曾て聞いた言靈といふことの意義である。‥‥

――頭山滿翁――

 禊(陸士第四十三期の同期・北白川永久王殿下のお勸めで、夏は淺間山の二度上に、冬は片瀬の海の禊)で悟れない私は、早朝、明治神宮に日參した。或る朝、拜殿前の石疊の上に、土下座してゐる老人がゐた。不思議な參拜の仕方をする人もあるものだと思つた私は、階段の下で、件の老人の立ち上がるのを待つた。暫くして立ち上がつた老人は、寫眞で知つた頭山翁である。

 どうしてさのやうな態度をとられるのかと、不思議に思つた私は、頭山翁に近しい人に、そのことを伺つた。その方曰く、『頭山翁の明治神宮參拜は、明治天皇にお目にかゝるのである。翁が神前に進むと、天皇のお姿が現れる。すると、翁は、その場にひれ伏し、天皇のお姿が消えるまで、その姿勢を變へぬのだ』と。私は強く心をうたれた。‥‥」と。



 愚案、郡順史翁が「戰中派の會」代表委員となつて編纂したてふ『戰中派の遺言』を取寄せ、讀んでゐる。一番に目に飛び込んで來た文章を、紹介してみたくなつて筆を執つた次第です。『戰中派の遺言』の帶に曰く、

子よ、孫よ、若者よ!! 心をすまして聞いてくれ!! 凄絶な戰中を、荒廢の戰後を、たゞ默々と生きぬいてきた戰中派世代が、今こそ三十餘年の沈默を破つて、叫んだのだ。生き乍ら綴つた戰中派の遺言集」と。

 言靈「天皇陛下萬歳」を以て、『中臣祓』に於ける「天津祝詞の太祝詞」(太諄辭・神咒)と比定する人あり、中らずと雖も遠からず、強力なる清祓詞の一つに相違ない。神さびたりとも、神さびたり。

 頭山立雲翁の見神は、戀闕の凝る所かとも思考したが、或る人から神仙の一人と仄聞すれば、道理で‥‥、やうやく納得した次第であります。あなゝゝかしこ。
 
 

後に續くを信ず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月13日(日)17時27分53秒
返信・引用 編集済
  ●郡順史翁『今あらためて「後に續くを信ず」』(日本民族覺醒の會『覺醒』平成十一年一月・新春號――此の機關紙は、河原博史同血社會長を通じて、森川俊秀大東亞青年塾東京本部青年部長より拜戴いたしました。難有うございました)に曰く、

「平成十一年、つひに戰後五十四年目を迎へることになつた。そしてこゝ數年來、皆樣も、現在における日本人及び日本社會が、政財面はもとより、殊更に倫理道徳の、いはゆる精神面における興廢・墮落ぶりは、つひにその極に達してしまつたと、よくお耳にし、且つお口になさつた事と存じます。ある人は、『最早、日本には、國としての明日はない』と、極言さへしてゐます。更には『日本人は、完全に變質した。最早、手のほどこしやうがない』とも。

 たしかに現在の日本及び日本人の在り樣は、私の四十數年の歴史時代小説を書いて來た、淺い歴史觀から見てさへも、倫理・道徳・生活・感情など、人間としての基本理念といふか、姿勢が、狂つてしまつた。或は變質してしまつたと思はざるを得ません。たとへば戰國亂世の時代は別にしましても、史上最も『人心亂倫し、道義退廢の極みに至れり』と言はれた、徳川時代の、元祿・文化文政・天保とかいつた時代と比較しましても、現在の状態は、その上をいつてゐるやうに思へます。なるほどこれでは、天保から三十餘年にして幕府が瓦解した如く、『日本に明日はない』と言はれても仕方がないかもしれません。

 この事は、職業年齡に關係なく、全日本人、老人・壯年・若者まで同じです。かつて『今時の若い者は』といふ言葉がありましたが、現今は通用しません。大人も若者も、一緒に狂つてゐるからです。私には、さう思へます。もつとも年齡が下がるに從つて、すなはち若年になればなるほど、自己中心的な傍若無人な傾向が濃厚となつていきますが――それだけに、愈々『明日の日本』が危ぶまれます。では、何故日本人は、こんな風になつてしまつたのでせうか。かつての日本人には、廉恥・惻隱の情、國を愛する心が豐かに在り、自分の生きる指針として來ました。そして世界の人々から、『正直で禮儀正しく勤勉で働き者』との評をもらつてゐました。さうした日本人は、一體どこへ行つてしまつたのでせう。やはり戰後、日本人の多くは變つてしまつたのでせうか? 變つてしまつたのです(【注】)。

 私はその責任の大きな部分は、少々強烈な言ひ方ですが、いはゆる戰中派世代に在る、とかねゞゝ考へてをります。その理由を述べます。但しこの場合の戰中派とは、戰爭に征つた世代、即ち大正年間に生まれた者、と限定します。敗戰と同時に、遲速はありますが、戰中派の人々は、續々と復員しました。そしてその大部分の人は、内地の地を踏むと同時に、『俺の味はつた辛酸苦勞は、もう俺だけで澤山だ。俺の子供にはのびゝゞと、苦勞のない生活を送らせてやる。その爲には、俺は身を粉にして働くぞ』と決意したものでした。

 いはゆる今日的表現でいふ『戰爭否定』・『平和』志向です。むろんそれは情緒的決意であり、願望であつたわけで、その根底に、いまはしい思想的轉囘があつたわけではありません。現在考へても無理はない、當然とも言へませう。しかしこの單純素朴な情緒的決意ないし願望は、物の見事に完膚無きまでに、マツカーサー占領軍ならびに國内にうごめきはじめた革命指向家たちに乘ぜられ、利用されたのでした。『自由・人權・平和・戰爭反對』といつた、甘い餌に食ひつくやうにさせられたのです。その餌の撒き方・食ひつかせ方のたくみさは、敵ながら天晴れ巧妙と言ふ他はないものでした。この事は、今でこそ當時のことが書かれた書物などを讀み、後追ひ體驗によつて、『さうか』と識ることが出來ますが、當時としては素朴そのものゝ戰中派世代は、實に巧妙に化かされ、いや、化かされてゐるとも意識せず、敵の掌の中で踊らされてゐたのでした。例へば――憲法の變改、東京裁判の斷罪、日本の傳統と文化・歴史の否定などゝゞです。かくて戰中派世代は、いつの間にやら、『人權・自由・平和』の、あゝ、もう一つ『民主主義』の美句のみを腦天に植ゑつけられ、政治・軍事・教育までもが敵の掌中に奪はれてしまひ、日本に非ざる日本國及び日本人造りに荷擔させられてしまつたのでした。殊に教育の主導權を奪はれたのが、今日に至るも大いなる禍根として遺つてしまひました。

 だが、當時の若者、日本復興の中堅を荷つたゐた戰中派世代も、全部が全部、この敵の謀略に氣付かなかつたわけではありません。心ある目覺めた人たちは、三十年後半に至つて、丁度安保騒動の餘波をうけた頃、『今の日本は、少しおかしい。このまゝでは、日本はダメになつてしまふ』、『あの時、我々が、「さらば祖國よ、榮えあれ」と必死の願ひをこめて死地に赴いた祖國の姿は、こんなおかしな姿ではない』、『その通り。我々が先頭に立つて同志をつのり、眞の新しい日本を再建しよう』と、戰中派世代の先輩たちが、林房雄さんら戰前派の多くの識者の應援を得て、昭和四十年に入る早々、『戰前派よ、集まれ! 團結して、眞正新日本の建設に立ち上がらう!』と、全國の戰友會などを通して呼びかけました。結果、全國から十萬を超える人々が會員として加はりました。そして十二月七日の發會式には、五千を超える戰中派が集ひ、大いに氣勢をあげました。むろん私も、若手の一人として末席に加へさせて戴きました。

 しかしこれは、はかない線香花火にすぎませんでした。戰中派の人々の中にも、すでに占領軍の日本人弱體化政策に、革命勢力の心身衰弱の毒素に、體の半分を腐らせてゐる人がゐたのです。即ち或る人は、この一大勢力を自分の政治組織に、或は商賣に利用しようと、結成早々から露骨に動きまはるのです。中にはもつとひどく、集つた金を不明に消費する人まであらはれました。この爲め『戰中派の會』は、結成ほどなく解散の止むなきに至りました。

 が、その中で心ある人々は、『この儘ぽしやらせたのでは、死んだ戰友に相濟まぬ。生ある限りこの運動を續け、心あらたにお國の爲に盡さう』と呼びかけ合ひ、七人の代表委員をえらび、靖國神社社頭において再起を誓つたのでした。一方、關西では、津村忠臣さんが中心になつて、『關西戰中派の會』を設立、今日も隆々と活動してをられます。だが、再建は難しく、結局、京田民雄を柱に、入江孝一郎・郡順史の三人が代表委員をつとめ、四十八年十月、學徒出陣三十年祭、あるいは『戰中派の遺言・男女篇』の出版、靖國神社の國家護持、四島返還、憲法改正などゝゞ、それなりの活動を致しましたが、平成二年、つひに解散のほか道はなくなつたのでした。けつして戰中派世代として、やるべき事が無くなつたからではなく、會員も年ごとに加齡、病氣・死亡などによつて減少、十二月八日の總會にも、五十名集まるや集まらぬ状態となり、會として形をなさなくなつたからでありました。いはゞ野埀死に、と言つてよいかと思ひます。『たつた一度の敗戰で――』と、口惜しくもありましたが、その反面、野埀死にするまで死力を盡したのだ、といふさゝやかな誇りと自己滿足もありました。さりながら私は今でも、時々あのとき諸々の卑しい人が出ないで、十萬の會員を擁して、戰中派一丸となり、新しい日本再建のために、あらゆる分野にわたつて活動・運動してゐたなら、今日の日本の樣相も、少しは良い方に變つてゐるのではないかと、にがい悔恨をふくんでの感慨をおぼえてゐます。

 ともあれ、この半身不隨的戰中派世代によつて育てられた子供たちが、今、四十代・五十代を迎へて、社會の中堅・トツプの席にて活動してをります。彼等は、たしかに物・食において何不自由なく成長し、體格も親世代をはるかに超えて大きく立派になりました。しかし日本破壞派の教育をうけて、思ひもよらぬ精神のバランスを失つた大人になつてゐました。そしてその子たちが、即ち戰中派世代にとつての孫らが、いま大學生・高校生の年齡となり、あたかも異人種の如き振舞ひに及んでゐるわけであります。我々が彼等を異人種と見る如く、彼等は我々戰中派世代を、少し前までは『軍歌世代』・『靖國族』と呼んでゐましたが、最近は『化石』・『戰爭お化け』と、陰口をきいてゐるさうです。これをもつてして、時代の流れ、歴史的な變化と言ふのでせうか。私には納得出來ません。なぜならば、餘りに人爲的なゆがみの結果からだと思ふからです。

 しからば如何にしたら、日本人及び日本社會を、戰前の如く世界の人々から賞讚されたやうな、清く美しい姿をとり戻すことが出來るのでせうか? こゝまで書いて來て、大變申しわけなく無責任のやうな話ですが、私にはいくら考へても、起死囘生の妙案は思ひつきません。

 でも、これだけは言へると思ひます。日本の男には、ぎりゞゝ決着に至れば、必ず性根を發揮するだらう、と言ふ事であります。これは單なる夢の如き願望でもなければ、空頼みでもありません。日本の男の腹の底の底には、それだけの輝かしい傳統と歴史があるからでございます。たとへば一つの例として、先にかゝげた徳川の元祿の時代、男の魂のもつとも腐敗した時代、武士が刀が重いとて、竹光を差したり、女風の服裝や振舞ひが流行し、武士も士道も終りかと言はれた時代、山鹿素行とか、大道寺友山、葉隱の山本常朝といつた人々が、男の復權を雄叫んで、武士道書を著し、士道を鼓吹しました。そして赤穗浪士をうみ、見事世の中を立直らせました。これが日本の男の底力であり、美學の再認識でありませう。私は、この事を信じたいと思ひます。いえ、信じます。『後に續くを信ず』と叫んだやうに、戰中派世代の一人として、體力おとろへ、行動力の無くなつた今、それなりの力を、それなりの道に全力を致しながら、もう一度、振りかへつて、後人に向ひ、さう叫び、さう願ふ次第であります」と。



【郡順史翁】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/25
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/14
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/183

【注「占領憲法下では、國體は勢ひ變らざるを得ない」――昭和二十九年に於ける平泉澄博士の豫言】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/10



 愚案、「戰中派の人々の中にも、すでに占領軍の日本人弱體化政策に、革命勢力の心身衰弱の毒素に、體の半分を腐らせてゐる人がゐたのです。即ち或る人は、この一大勢力を自分の政治組織に、或は商賣に利用しようと、結成早々から露骨に動きまはるのです。中にはもつとひどく、集つた金を不明に消費する人まで」現出するに至り、戰前・戰中派世代は、無念のうちに斃れ、今や、幽顯、境を異にしようとされてをります。松平永芳宮司も、既に亡く、我が塾頭も、已に玉樓中の人となられました。我々戰後派世代に、「後に續く」事を託されたのであります。艱難辛苦は、往年に百倍してをりますが、各々出來ることを、幾世代に亙つて自ら任じて立ち、楠公の如き師範を俟つて動かねばならないのであります。

 かつて平泉澄博士は、痛烈なる鐵槌を下してをられます。曰く、「年月は流れる如く過ぎ去つて行くが、人は自ら奮勵すること無く、徒らに時を待つ。新春から三十日、假にお尋ねするが、この間に、どういふ事が出來ましたか。いや、未だ何も出來てゐません。出來ないのでは無い、しないのでせう。君子たる者、自ら欺いてはならない」(『新春講話』――『日本』平成二十一年二月號・あとがき所引)と。
 
 

Re: 鈴屋翁『古訓・古事記』

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年11月10日(木)22時53分12秒
返信・引用 編集済
  > No.1395[元記事へ]

備中處士樣

>岸本弘翁再編『朗読のための古訓古事記』三卷一册――底本は、享和三年版。昭和十九年 >の幸田友成博士編岩波文庫改訂版。平成二十三年十月刊。

  早速注文させていたゞき、本日手許に屆きました。
  うん!うん!素晴しい!實に上品な仕上りです。和綴ぢがなんとも堪りませんね。いにしへの稀書を手にするやうな趨きです。藍の表紙に赤の綴ぢ紐がなんとも素晴しき品格を釀出してゐます。大きめの活字に正假名振りです。

  御閲覽の皆樣!來年三月までは會員價格で宜しいさうですぞ。是非とも御手許にどうぞ!
 

鈴屋翁『古訓・古事記』

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月 5日(土)22時47分2秒
返信・引用 編集済
  ●秋津彦美豆櫻根大人・鈴屋翁平宣長先生の哥

上代の 形よく見よ 石上 古事記(ふることぶみ)は まそみの鏡


●青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽先生の哥

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



 本日、岡田則夫翁の月例會に出席、珍しき書を戴きましたので、紹介いたします。鈴屋翁『訂正古訓・古事記』の、見事な和本仕立て、字も大きく、印字闡明、正假名遣、總振假名です。但し憾むらくは、新字體なるを如何ともする無けん。

 「國典に通ぜずんば、何を以てか正を養はむ」とは、乃木靜堂大將の學則なり矣。就中、神典古事記を拜誦せずんば、國體を闡明すること能はざるなり。若し叶ふならば、幼童より習熟するを要して、飽くこと無かる可し而已。拜誦百編、意、自づと通ずるは、抑も大和言葉なればなり。日本中興するに、古事記を以てす、是れ平成維新の第一門にして、宇内皇化の基礎たるを、大聲提唱したい。疑ふこと勿れ矣。

 皆樣にも是非とも座右に置き、神典拜誦、切磋琢磨に御役立て下さい。



■岸本弘翁再編『朗読のための古訓古事記』三卷一册――底本は、享和三年版。昭和十九年の幸田友成博士編岩波文庫改訂版。平成二十三年十月刊。
   ↓↓↓↓↓
http://homepage3.nifty.com/taisi_rindoku/ts-01.html



 岡田則夫翁の歎きて曰く、

『世に「還暦」は、滿六十歳を云ふ。數への六十一。正解なり。然るに皇后陛下の「喜壽」、御歳七十七を祝ひ奉る記事を目撃す。實は數への御歳七十八なり。是れ如何。

 又た(荒魂之會・駒井鐵平翁の記事を引きて)「周年」と「囘數」との混同、國を擧げての錯誤、亦た解消すること無し。本年平成二十三年八月十五日前後の首都圏六紙の、終戰の日に關する記事に於ては、終戰の日の囘數を、六十七囘では無く、何れも一囘を減じた六十六囘の文言を以て、新聞見出しに示せり。實は本年、夫々の日は、六十七囘・六十六周年なりき。報道の錯誤矛盾、或は無知から來るや否やを、得て知る可からず。

 又た皇室に對し奉る敬語の、甚だ薄き、或は全く無きを憂ひ、又た元號法成立するも、其の行はれず、空文化せる世の趨勢を歎く』と。
  
 

思い出3

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月 1日(火)18時24分16秒
返信・引用 編集済
   「愛国女性のつどい花時計」代表の「藤真知子」樣より、『泉水隆一監督の思い出』の玉稿を賜りました。塾頭晩年の貴重な證言であります。『靖国神社の真実』の附録「遺響篇」に掲載させて戴かうと存じます。藤代表、本道に有り難うございました。



思い出1
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1285

思い出2
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1363

思い出3

九段会館で「凛として愛」の上映会を行った後にいろいろと活動について、いま
の日本人についてお話しをしました。
泉水隆一監督は「私はあと10年も生きていない。だからそれまでに知っている事
をすべて教えたい」とおっしゃっていました。
そこで私たちは監督から歴史を教わる事になりました。

まずは10人程度からと思っていたので、
上映会に携わった約30人の方の中から参加希望者を募りました。
そこで16人の方が希望してくれました。

監督に伝えるととても喜んでいました。
歴史の勉強は「少年日本史」(平泉澄著)で行う事になりました。
勉強会を始める前に監督が送ってくれたメールがあります。
その中に下記の文章がありました。


~ここから監督のメール~

一億国民に崩壊の危機。
●日本が日本であるために

大和民族のふるさとへ還れー神国日本へー
------------------------
汝臣民は父母に幸を尽くし 兄弟弟妹仲良く 朋友互いに互いに信義を以って交わり
人々に対し慈愛を及ばすようにし、知識才能を養い、善良有為の人物となれ
そして万一国家に緊急の事態おこらば大義に勇気を奮い起こてし一身を捧げて皇
室国家のために尽くせ。
------------------------
あらたな教育勅語を以って  日本は神の国に還る

尊王の国 勤皇の国として 皇祖皇宗の子孫として日本国民1億は遥か悠久の大
義の昔に引き返す。
------------------------

~ここまで~



年があけてから歴史勉強会が始まる予定でしたが、
監督の体調がすぐれなくて延期となりました。
監督に会いに行くと、勉強会の事や映画製作の事など構想を練っていて
映画はあと2本つくりたいと言っていて、俳優も誰にやってもらうか考えていま
した。
話を聞いているとこちらも楽しくて、勉強会もすごく楽しみでした。

それから4カ月たって平成22年6月にご家族の方から監督が危篤だと連絡がありま
した。
病院は偶然にも私の家から歩いて5分ほどの場所でした。
すぐに病院に向かい、勉強会に参加予定の方たちがメールで送ってくれた
勉強会への意気込みのメールや「凛として愛」を見た方たちが送ってくれた感想
メールをもっていきました。
そのメールを耳元で読んで、その日は帰りました。
翌日も感想のメールをまとめて病院に行き、
耳元で読みました。その翌日も。

病院の先生も奇跡的だと言っていたのですが、危篤状態だった監督が元気になっ
たのです!
きっと「凛として愛」の感想を聞いていて、
あと2本映画製作したいと言っていた気持ちがさらに湧きあがったのだと思います。
監督は「凛として愛」という名作を残してくれました。

泉水監督は平成22年7月16日に逝去されました。
8年前の此の日、僅かに二日半で上映中止され絶望の淵にあった日でした。
泉水氏の告別式は式場の関係で26日に行われましたが、この日こそ、泉水監督
が反日思想がはびこり、総理大臣も靖国神社に背を向ける日本の現状を憂いて、
靖国神社に、渾身の思いを込めて書かれた、映画制作への珠玉の趣意書を出され
た日でした。

泉水監督は、国家のために尊い命を捧げられた数多の英霊に報いるには、「凜と
して愛」が日本全国に広まり、一人でも多くの日本人が先人がたに対して感謝と
哀悼の思いを持つことだと生前、切々と話されていました。
故泉水隆一監督の崇高な思いを心に刻み、私たちは「凛として愛」が一人でも多
くの国民の目にふれることを願って止みません。



http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
 
 

元號大權――天皇の御民として生きる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月29日(土)12時57分41秒
返信・引用 編集済
  ■改元の詔(明治元年九月八日)

 詔。太乙を體して位に登り、景命を膺(う)け以て元を改むるは、洵に聖代之典型にして、萬世之標準也。朕、否徳なりと雖も、幸に祖宗之霊祇に頼り、祗(つゝし)みて鴻緒を承け、躬、萬機之政を親らす。乃ち元を改め、海内億兆と與に更始一新せんと欲す。其れ慶應四年を改め、明治元年と爲す。自今以後、舊制を革易し、一世一元、以て永式と爲せ。主者、施行せよ。


□元號法――昭和五十四年・法律第四十三號(六月十二日)
一、元號は、政令で定める。
二、元號は、皇位の繼承があつた場合に限り改める。
附則
一、この法律は、公布の日から施行する。
二、昭和の元號は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。


□元號を改める政令――昭和六十四年・政令第一號(一月七日)
 元號を、平成に改める。
附則
 この政令は、公布の日の翌日から施行する。



●瀧川政次郎博士『元號考證』(昭和四十九年六月・永田書房刊)に曰く、

「『元號大權』といふのは、私の新造語である。これまでに、このやうな語を用ゐた人があるかも知れぬが、寡聞にして私は聞かない。元號大權といふのは、天皇が元を建て、元を改められる權利であつて、この權利は、臣下の者の干犯を許さない、天皇の專屬せる權利なるが故に、あへてこれを大權と名づけたのである。天皇が有せられた元號大權は、昭和二十二年五月の新皇室典範の施行によつて消滅したかに見えるが、濳在的には、天皇はなほ元號大權を有してをられると思ふ。

 日本天皇のもつ元號大權は、古代中國(愚案、支那)の帝王が有した授時大權に由來する(祭天大權ならびに建元大權――改元大權+頒暦大權+授時大權――)。上古三代の中國の帝王が、領土を支配すると同時に、時をも支配するものと考へられてゐたのは、太古において帝王が日蝕を左右する呪術者であつたことに由來すると思はれる。中國最古の史書ともいふべき『春秋』が、魯の國(山東省)に起つた日蝕を克明に記録してゐることは、このやうな想像を可能ならしめる。春秋の時代には、周王のみならず、諸侯の覇主までが、正朔を頒つた。正朔を頒つといふのは、正月元旦と毎月の朔日とを定めた暦を、人民に頒布して、その暦日を遵奉せしめることを謂ふのである。暦を頒ち與へて、人民をしてこれを奉ぜしめることは、帝王の權利であると同時に、義務でもあつたのである。この正朔(年)の元に、吉祥の文字を附して、何々の元の年としたものが、すなはち年號であつて、年號の始まりは、前漢武帝の建元元年である。

 爾來、中國歴代の帝王は、みな元を建て、元を改めたが、隋・唐の間、その思想と制度とは日本に傳はり、日本の天皇は、大化以後、中國歴代の有した授時大權を受け繼ぐに至つた。その授時大權は、漢の武帝の時以來、年號を建て、年号を改める權利となつてゐたから、日本においては、これを元號大權と呼び改めた方が適切であると思ふ。

 大化より大寶に至る半世紀間には、年號の缺けた年もあつたやうであるが、大寶以後、現代に至る千二百七十餘年の間、年號は歴代の天皇によつて建てられ、一度も斷絶したことがない。その改元には、瑞祥によるもの、災異によるもの、辛酉革命、甲子革令、三合等の暦法上の凶年によるもの等があつたが、御代始めに行なはれる即位改元は、一二の例外を除いて、必ず行なはれた。故に御歴代の中には、後醍醐天皇のやうに、御一代のうちに、九の年號を建てられた天皇もあつたが、明治元年九月、一世一元の制が定められ、即位改元以外に、年號を改めることはなくなつた(愚案、從つて今日では、元號とは、天皇御在位の御稱號であり、其の亂用私物化は、之を愼しまねばならぬ。皇室式微、陰陽寮退轉の後、暦は、「神の朝廷」と稱せられた伊勢神宮に於いて造られ、御師によつて全國に頒布)。

 この制度は、明治二十二年二月十一日、帝國憲法と同時に公布された皇室典範によつて確認せられ、改元の手続きは、皇室典範の附屬法である登極令において、
元號は、樞密顧問に諮詢したる後、之を敕定す。
元號は、詔書を以て之を公布す。
と定められ、改元が天皇に專屬する大權事項であることが明言せられた。しかし、天皇の御意思によるにあらざれば、年號を改めることはできないといふのは、大化以來の不文法であつて、攝關・武家の專權時代といへども、この天皇の大權は、かつて犯されたことがないのである。故に我が國においては、唐末の五代十國時代のやうに、年號が同時に二つも三つもあるといふことはなかつたのであるが、鎌倉時代に、皇統が大覺寺流・持明院流の二流に分かれ、大覺寺流の後醍醐天皇の時代に、持明院流の皇子が、足利尊氏(ママ、高氏)によつて擁立せられ、天皇の位に即かれたから、國に二王を現じ、年號も北朝年號と南朝年號との兩建となつた。これ正に我が國における年號異變の最大なるものであるが、百代後小松天皇の御代に至つて、皇統、一に歸し、年號も歸一するに至つた。

 大化以後、大寶年代に至つて、唐帝の授時大權に伴ふ種々の制度は、唐の律・令・格・式を通じて、日本に受け繼がれた。その主なるものは、天皇の時の支配權に服することを誓ふ元正朝賀の式であるが、この儀式は、奈良・平安の時代を通じて、毎年、嚴かに行なはれた。また唐帝が授時を行なふためにおかれてゐる太史局に傚つて、我が國においては、陰陽寮なる官司が設けられ、暦は陰陽寮の暦博士によつてつくられ、一日の十二時は、陰陽寮の漏刻博士によつて報ぜられ、日蝕その他の天文の變は、天文博士によつて觀測せられた。それらの制度が、國民の生活に及ぼした影響は甚大であつて、その民俗となつたものは、今に行なはれてゐる。‥‥

 天皇が元號大權を有せられたことは、古代中國の帝王の屬性を受け繼がれた天皇が、アキツミカミであると同時に、時を支配する皇帝であらせられたことを知ることによつて、初めて納得せられることである。故に元號は、天皇制(ママ)と關係がないどころか、天皇制そのものであつて、‥‥

 新年は、天皇の定め給うた新年であるから、謹んでこれを賀し奉らねばならない。『賀正』とのみ書いては不敬にあたる(『謹賀新年』の眞義は、こゝに存す)。『一九四七年』などと、異國の年號に近いものを書くのは、天皇の時の支配權を否認するものであつて、謀叛豫備罪にあたると、深く信じてきた私にとつては、昭和の年號を廢して、西暦に一元化せよといふ論者の説を聞くことは、大なる苦痛である。『それでも、お前は日本人か』と、罵倒してやりたいやうな衝動に驅られる。‥‥

[序言]‥‥大寶・養老の『律令』の儀制令の一篇には、
凡そ公文に年を記すべき者は、皆、年號を用ひよ。
とあつて、公文書には、朝廷の定め給うた年號を書かねばならないことが明定せられてゐる。公文書を作つた官吏が、もし干支のみを書いて、年號を書くのを忘れたとすれば、どうなつたかといふに、その官吏は、
凡そ令に違ふ者は、笞五十。別式は、一等を減ず。
といふ雜律の條文によつて、笞五十に該當する官吏の閏刑贖銅五斤を科せられたに相違ない。もしそれが天皇の統治權に服することを拒否する意圖を以て、故意にその年號を削つた場合には、次の賊盗律の條文によつて、謀叛豫備罪に問はれる。
凡そ謀叛は、絞。已に上道せらば、皆、斬。子は中流せよ。(中略)即ち山澤に亡命して、追喚に從はざる者は、謀叛を以て論ぜよ。
山澤に亡命して、追喚に從はざる者は、帝王の空間的支配圏の外にゐようとするものであり、天皇の定め給へる年號を奉ぜざる者は、帝王の時間的支配圏の外に逸脱せんと欲するものである。空間・時間を異にすといへども、天皇の統治權の外にありたいとする點では、兩者異なるところはない。故に年號を奉ぜざる者の罪は、山澤に亡命する者の罪に準ぜられるのである」と。



 愚案、東洋に於ては、人倫の道に缺くる所があれば、詩歌書畫の佳品と雖も、糞尿の如く見なす傳統がある。例へば王維の詩、趙子昂の書畫、精絶なりと雖も、採るべけんやとて、之を重んじない。道義出處に悖る所があれば、學藝に秀でると云つても、所詮一藝者に過ぎない。出處進退の疑はしき者、即ち二王に仕ふる者は、其の書法、正朔を奉ずるか、奉ぜざるかを見れば、直ぐ判る。淺見絅齋先生『靖獻遺言』を繙いた人、或は吉野時代を知る人は、之を諒解するはずだ。現代では、殊に書の序・跋の署名を見れば、大半は判る。塾頭は、「靖國神社を靖国と呼び捨てにする者の意見は、聽く必要が無い」と申されたが、其の定理を援用すれば、「元號を奉ぜざる者の意見は、讀む必要が無い」。

 小生の大學一年の時であつたらうか、『祖國と青年』とか云ふ雜誌に、其の編輯の手傳ひをしてゐた先輩に乞はれて、其の讀者欄に、「西暦を使用を憂ふ」てふ一文を投稿したことがあつた。僞古文であつた爲であらうか、しつかりと口語譯されてはゐた(苦笑)が、懷かしき想出の一つである。「元號を奉ぜざる者は、天皇の支配に服せざる者である」との認識が、小生にはある。爾來、終始一貫、洵に要領の惡い人生を送つて來たのであるが、此の信念は、死して猶ほ搖ぐことは無い。即ち「天皇の御民」として生きんと欲する者は、元號を奉ずること、當然當爲の行にして、謹みて須らく奉行して戴きたいのである。元號を奉ずることが出來てこそ、初めて皇紀も併用したい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/264

 元號法制化に生命を賭した御方も、此の世の中には嚴存した。大東塾の影山正治翁である。然るに最近は、衆寡敵せずと謂ひつべきか、此の年號を以て括弧にくゝり、西暦を主とする門下生も輩出したと聞く。本末顛倒、慨歎に勝へないと共に、悲しい限りだ。

 平田大壑先生『赤縣太古傳』三皇紀三に、「清虚元年とは、太一の元氣發動して、天神たち世間成立の事を行へる初年の義なり。歳、甲寅に起ると云へる年を謂ふ。此の餘にも、神眞界の年號多く所見(みえ)たり。そは路史に、三皇經に云く、天皇は平初元年を以て出治。地皇は太始元年を以て出治、と。按ずるに、道書に、元景・延和・赤明・延康・康泰・龍漢・開皇・無極等の號有り、と云へり。なほ此の外に、見覺えたるも、上皇・中皇・天漢・天景・上靈・元始・開光・清濁・清漢などあり。抑もかゝる年號はも、盤古・三皇などの當昔(そのかみ)に、實に有りし事には非ず。後に神眞たちの上古の事を語る時に、假に紀號と爲したる物と見えて、諸書を參考するに、多く其の例なり」と見え、或は古神道の傳承では、幽界にも年號あつて、出雲杵築の閟宮より出づと云ふ。然れば元號・年號は、顯幽一貫の風俗にして、忽せには出來ぬ至重至大のもの、殊に顯界に在つては、天皇の大權であること、申し上げるまでも無いのである。
 
 

遁辭としての「王家」

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月25日(火)19時02分46秒
返信・引用 編集済
  ●大西郷『湊川感懷』(明治八年以降)

王家、萋棘、古も猶ほ今のごとし、遺恨なり、千秋、湊水の潯(ふち)。
願はくは青螢と化して、墓畔(楠公墓邊)に生れ、香骨(楠公精神)を追隨し、吾が心を快(よろこ)ばしめむ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/965



 來年のNHKの大河ドラマで、雲深き邊を「王家」と呼稱して、一部顰蹙を買つてをる由。此のNHK、或は言ふであらう、「『王家』とは、當時の呼稱でもあり、亦た『尊王』と今でも使ふ所、何が惡い。西郷さんも、斯く詠つてゐるではないか」と。

 然し、其の心ばへが違ふのだ。雲深き邊であるが故に、敢へて憚つて「王家」と云ふ。尊王の文字は、支那周代の言葉から來つて、我が國の斷章取義する所にして、これも畏き所を憚つて用ゐしもの、其の心情は、炳かに指し奉るを遠慮したものである。伊勢の外宮に在つても、「皇」字を憚らざるを得ざるものあり。小生も、尊皇を稱ふるに、此の身を慚ぢて、「皇」の尊字を憚り、敢へて「尊王」と書し奉ることも數々ある。

 もつとも韓國の俗論が、我が皇室を呼稱するに、「日王」を以てするは、固より言語道斷、鼓を鳴らして之を撃つべきであるが、NHKが、韓國事大の思想から來つて表現するもので無い以上、殊更ら問題は無い。つい最近まで、「佛法、王法に對坐す」と、禪坊主も、偉さうにほざいてゐたでは無いか。

 抑も藝人俳優てふ一國民が、皇族を演じ奉ることこそ、大いに問題とすべきもの、況んや譬へ名優が奉贊宣傳の意を込むと雖も、宇内唯一、無私絶對の天皇を、映像にて表現し奉ること能はず、不敬と紙一重、辭退するが至當である(已むを得ざるときは、かつては御簾を以てし、或は肖像畫を以てし奉れり)。

 再言す、演目が雲深き邊に關はるならば、NHKが、中華事大の思想から來つて表現するもので無いならば、せめて「これは虚構小説であつて云々」の斷りの一文を挿入し、遁辭として「王家」と申し上げる方が、却つて穩健至當と謂ふべきかも知れない。件は、NHKに對して、勿論、強烈なる皮肉も籠めてゐる心算ではあるが‥‥。

 然し此のNHK、かつて太平記を扱つたドラマで、楠公自ら七生報國を否定してゐた。たかがドラマと、云ふ勿れ。これこそ、正に我が國史の捏造であり、吾が國體への挑戰である。斷々乎として、之を許すこと能はぬ矣。批判すべき秋に、之を批判しなかつたが故に、NHKは、之に味をしめたのである。恐れることは無い、何でも出來る、と‥‥。

 抑も我が大君、即ち天然なる天津日繼の尊を以て、人工異國の皇帝・法皇(徳望や覇力や神祕力を以て成り上がりし者)と比較する者もゐるが、それ自體、絶對無姓を相對有姓に貶め、不敬極まる痛恨事たるを知るべきである。また歴史ある「王家」の呼稱より、寧ろ「天皇家」と稱する方が、異國familyの謂ひを含んで、大いに問題だ。かう云ふ連中に限つて、「邪蘇」暦を頻用し、「21世紀」とか云つて、何より謹愼を知らない。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/1

 更に「倭の五王云々」には、之を默殺し、或は承久の變ないし御計劃を、君臣の分も辨へず、「」とか云つて憚らず、或は支那ではあるまいに、「南北朝」と大書して、後醍醐天皇の大權を干犯してゐるのも氣づかない。かういふ方々は、萬葉集の原文や、佐久良東雄先生の哥を繙いて、「王」字の多きを見れば、實際、卒倒するのではなからうか。標記、大西郷の詩も、僞作と云はれかねない勢いだ。NHKを責めるにも、「皇室に對し奉つて、敬語を丁寧に申せ」と、他の批判苦情の方が重且つ大であらうに‥‥。

 敬語の復活こそ、喫緊の課題である。皇室の尊嚴を守る所以に他ならぬ。然し松平永芳宮司は、「御皇室」てふ日本語は無い、と仰つた。塾頭は、「皇」の前に來る字は無い、と申された。かやうな苦言忠告は、聞いても耳には入らぬやうだ。一度、伊勢神宮に拜趨して、彼の大御札を拜戴し、目を瞠つて能く見るがよい。さう云へば、「お社長」とも云ふべき「ご皇室」なる辭、平泉澄先生の書で、かつて一度も見たことは無い。

 序でにもう一つ。皇紀を用ゐて、元號を使はぬ者がゐる。皇紀は、云はずと知れた、神武天皇ご即位の紀元だ。之を誇る餘り、「世界最古の國」と稱して、それ以前に、皇國は、遙か悠久の積年あるを知らぬ者もゐる。皇紀では、ソロモンを始祖とするエチオピア皇帝の公稱三千年(我が昭和四十九年、革命)の長きに劣るでは無いか。何か間が拔けてゐる。紀年法は、元號が大本であり、正朔を奉ずる眞義の深きを知つて戴きたい。書いてゐて、段々怒りが込み上げて來た。いかん、筆を措く。
 
 

草莽之臣の述志――青螢の至願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月 2日(日)13時01分51秒
返信・引用 編集済
  【參考・楠公傳】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/l50


【參考・大西郷「願はくは青螢と化して、楠公墓畔に生れなむ」】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/965



 昨日、西郷南洲顯彰會『敬天愛人』第二十九號(平成二十三年九月二十四日)を戴いた。本年五月一日より十二月二十八日まで、鹿兒島市立西郷南洲顯彰館にて、湊川神社・廣嚴寺・如意輪寺・大阪府千早赤阪村の協力の下、『尊王精神の繼承・一・楠公と西郷隆盛』てふ特別企劃展が開かれてゐると云ふ。本號には、冠に、其の圖録(館長・高柳毅翁筆。五十八頁)が掲げられてをり、大楠公の、大西郷外へ影響と繼承の趾が、歴然と分明されてゐる展示である。二三紹介したい。



●『楠公壁書』自戒十九條(大楠公六百年記念・昭和乙亥之歳、穰洞仙史書)

君の爲に身を捨つる、忠と云ふ。
親の心に背かずして、良く仕ふるを、孝と云ふ。
老いたるを敬し、士卒を撫育し、國民を憐れむを、仁と云ふ。
一度び諾して變ぜず、始終全きを、義と云ふ。
謙退辭讓を、禮と云ふ。
籌策を帷幄の中に運らして、勝を千里の外に決するを、智と云ふ。
苟も虚言を構へず、信を失ふべからず。
遠き慮なき者は、必ず近き憂あり。
萬事に愁へず、屈せず。
過ぎては改むるに憚ること勿れ。
邪曲輕薄人と交るべからず。
大酒は失多し。
色情は身を失ふ。
僻(ひが)むは、嫉妬偏執の深きなり。
儉約を專とし、奢侈を愼み、人の非を見て、我身の行を正すべし。
 我(楠公自身)、愚なる故に、壁書して愼とするのみ。



●大西郷の私學校に祭られし「楠公木像――雲の臺(うてな)の上の立像――右手に二本の矢・左手に弓・胴着の菊水紋・毛皮の具足の甲冑の御姿」の由來

水戸義公の、醫王山廣嚴寶勝寺(建武中の勅願寺)に奉納せし三體の一(他の二體は、昭和二十年の神戸空襲にて燒失)。大楠公・楠木正季公兄弟および南洲の遠祖である菊池武吉公の自刃の場所は、此の廣嚴寺の域内の庵であつた(民家に非ず。現在は湊川神社境内)。
 ↓↓
薩摩國伊集院郷石谷の熊野神社
 ↓↓
安永六年、鹿兒島・町田久甫の家に遷祀。
 ↓↓
文久元年九月四日、有馬正義先生、再び石谷に楠公神社を建てゝ祭る(精忠組の盛大なる祭典)。
  ↓↓
文久二年、町田民部久成の家へ。春秋二季の大祭・毎月二十五日の賑ひあり。
 ↓↓
明治、伊集院地頭・坂木六郎、地頭假屋に遷し、表座敷に奉祀。
 ↓↓
明治三年三月中旬、大參事・西郷隆盛、主唱して、鹿兒島軍務局に遷祀。「御軍神樣」として、毎月六日に大祭を營み、知事公以下、文武官および一般に及ぶ參詣あり。武運長久を祈り、忠節を勵むを例と爲せり。軍務局では、將卒一統に神酒下されの儀あり。四年四月、西郷の擧兵上京の際には、楠公祠の前にて、兵士全員整列、拜禮の後に出發と云ふ。
 ↓↓
六年秋、西郷下野の後、私學校(鶴丸城厩跡)へ引取り、「守護神」として祭る。
 ↓↓
九年十二月(一説・十年一月)、宮之城區長・邊見十郎太、宮之城屋地(現・さつま町)へ遷祀。


○南木明神の木像(大阪千早赤阪村の石川水分神社の攝社・南木社――『南木誌』に、長山鈞の謹寫せし『左中將楠公肖像』として所收)

『楠公肖像記』に引く所の『退私録』に云ふ、「河内石川水分社は、楠氏の世々崇奉する所、左側に楠公の祠有り。奉祀の木像は、束帶儼然、當時の遺影にて、南木明神と稱す。正平帝(後村上天皇)、號を賜はる所なり」と。



●高山赤城(彦九郎)先生『楠公の墓前に於いて敬録す』に曰く、

「嗚呼、南朝の忠臣・楠氏。嗚呼、北朝の國賊・足利氏。我が祖・高山遠江守、南朝に奉仕す。大いに勤王國策を唱へ、尊氏(ママ。高氏)を難苦すと雖も、終ひに尊氏を滅盡する能はず。實に百代の遺憾有り。憤怒、停まる時無し。則ち正成の墓前、砂上に尊氏の首を描き、其の首一百囘、鞭打つ。以て楠公に謝し、勤王の素志を表はさん矣。天明二年壬寅孟春初七日、楠公の墓に謁して敬みて録す。草莽之臣・高山正之」と。


○頼山陽外史『高山彦九郎傳』(天明二年十一月十八日)に曰く、

「少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、皇居は何れの方かと問ふ。人、之を指示す。即ち地に坐して、拜跪して曰く、『草莽之臣・正之』と。行路聚まり觀て怪笑すれども、頼みざる也。京郊に遊び、足利高氏の墓を過り、其の罪惡を數(せ)めて大いに罵り、之を鞭うつこと三百なりき」と。


○大西郷の哥

馬子(蘇我)らが 草むす尸(かばね) 得てしかも 切つて屠(はふり)て はぢみせましを


○逆賊・足利の首を梟して、志を述ぶの心、凡俗の知る所に非ず、「草莽之臣」たる所以なり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1308
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1314


○慘たる哉、逆賊の建てし物件の現状――逆賊の棲處は、魑魅邪鬼の凝集する、理の當然なり矣。
  ↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51701040.html



●雲井のさくら(琴曲の歌・楯山檢校の調)

 ちれとをしへし さくらゐの ふかき心を くみしりて わかれし父の おふせこと そむかじものと 君のます よし野の山の 宮どころ かたくまもれと しばゝゞも 北ふく風の 吹つのり 雲井のさくら うつろはむ けしきみゆれば いまはとて おもひさだめて 年はまだ わか木の花の さかりなる 朝ながらも 青柳の みどりの髮を 切すてゝ 手にとりならす あづさゆみ 引かへさじの ことの葉を 殘おくこそ あはれなれ 大峰おろし はげしくも 北ふく風を 吹かへし すゝみゆけば 仇ともは 秋の紅葉の ちりゞゝに 亂れしあとも いかにせむ 飯盛山の ふもとなる 四條なわての あたりにて 父のをしへは この時と つひにはかなく なりはてし ますら健雄の まごゝろの あかきこと たれかめでざらむ  七十齡・彈琴翁
   
 

思い出2

 投稿者:藤 真知子  投稿日:2011年10月 1日(土)00時21分12秒
返信・引用
  九段塾のみなさま。
ご無沙汰しております。
前回の続きです。


「凛として愛」のナレーションは泉水監督がされているのですが、
ナレーションを考えているときに自分ではないような感覚があったそうです。
自分では思ってもいない言葉が次から次へと出てきたと、
ナレーションには英霊の気持ちが反映されていると言っていました。

また「凛として愛」の中にはフィルムが逆回しになっている部分があります。
逆回しでなければ映らないものがあるそうです。
私にはその逆回しにすると映るといわれているものが見えませんでしたが、
見える方には見えるそうです。
それに監督が気付いて、映画にも逆回しでその部分を使ったそうです。

あと1か所、最初のほうに出てくる兵士の遺体の部分で
監督がいれていない映像が入っている部分もあるそうです。

映画を作っている時は靖国神社に泊まり込んでいたそうなのですが、
その時に何人もの英霊と会ったりなど不思議な体験を何度もしたとお話されていました。


九段会館で上映会を行う前に泉水監督が「今回のこの九段会館での上映会は『凛として愛』の凱旋だ。上映中止になった靖国神社のすぐ目の前での上映会。これは凱旋だ。」と言われました。


この九段会館のイベントは9月中旬頃に何か年末にイベントをしようということになり、
内容が決まらないまま、会場探しをしました。
大きな会場はほとんどがとれずに、9件目に電話をしたのが九段会館でした。
もうダメだろうなと思いながら電話をしたのですが、
12月27日があいているという事ですぐに仮予約をいれました。

この時点では何をするか決まっておらず、
そこから企画が始まりました。

色々と企画を考えましたが、コレというものがなく、
色んな方に相談をしました。
私が相談した方の中で「日本の心をつたえる会」会長のねずきちさんが
九段会館なら大型スクリーンで「凛として愛」が見たい。と言われました。

「凛として愛」はブログ「花うさぎの 世界は腹黒い」で夏頃からずっとお勧め動画として
youtubeの動画が紹介されていて知っていました。
花うさぎさんにも協力して頂き企画内容をまとめあっという間に上映会が決まりました。

youtubeでクルーンPさんが「凛として愛」を紹介していて
その動画を花うさぎさんがブログで紹介
ねずきちさんがその映画を九段会館で見たいと話し、
九段会館の会場をかりて、平成21年の年末に上映会が行われた。

現在はブログ「この国は少し変だ!よーめんのブログ」のよーめんさんが英語翻訳版をyoutubeで紹介してくれています。

~続きます~

http://www.hanadokei2010.com/

 

天皇爲本の大道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月28日(水)00時17分42秒
返信・引用 編集済
  ●僅存居主人幡掛正浩翁『君は千代ませ――改題・天皇――聖和合人』(『新勢力』昭和五十年十一十二月合併號・十二月補。『神國の道理』昭和五十二年三月・日本教文社刊に所收)に曰く、「

 神社本廳の講師懇談會の席で、ある時、「神社神道で、本尊といふものを考へるとすれば、それは、天皇でなければならぬ」と言つたら、一せいに反撥が返つてきて、「そこまで言ふのは、言ひ過ぎだ」と、座がざわめいた。是非さういふものを考へねばならぬとすれば、せいぜい、天照大神とすべきだといふのが、大方の意見のやうであつた。

 私は爭はなかつたが、承服はしてゐない。多分、諸先生がたにとつては、人身をそなへられた天皇を、信仰とか宗教とかの對象としての本尊とすることに、心中に抵抗を覺えられたものと思ふ。だが、私には、かういふ感覺自體を、もういつぺん疑つてみる必要を感ずる。率直に言つて私には、かういふ感じ方は、近代人間主義(ヒユーマニズム)にイカれた、一部宮廷官僚のセンスと同じだとしか思へない。天子樣を、現人神・明津神と申しあげることは、天皇と日本人社會との生成に由來する構造上の稱呼であつて、それ以外のものではない‥‥、人身を備へたものは人間で、神とか佛とかいつたものは、何となく目に見えぬものでなければならぬ――といつた子供じみた議論では、どうしやうもないのである。

 天子樣も、風邪を引かれれば、熱が出るに違ひない。藥も召し上がるであらう。生物學や醫學の對象としては、天子樣も人間であることは、三ツ子でも知つてゐる。さういふ肉體をそなへたものは、崇拜の對象にはなつても、信仰の對象にはならぬ、それが宗教といふものだと言ふのなら、喜んで宗教の仲間から外してもらつていい。

 もう少し言はせてもらふなら、歴史上の天皇は、多く佛教にも歸依せられ、また御自ら神々に幣を奉られた――だから人間ではないかと言ふところだらうが、まさにその通りの御存在であるといふことを肯定した上で、私は、敢へて天皇を御本尊と仰がうとするのである。神社神道とは、さういふものだといふことを、もう私は早くからきめてゐるのである。

 第一、『古事記』や『日本書紀』を大事な所依の經典としながら、どうして天皇が本尊でないといふことが言へようか。私も宗教とか信仰とかいふ用語を假りに使ふが、それはあくまで假りの約束であつて、言ふならば神社とか神道とかいふものは、最も宗教くさくない、最も信仰くさくない宗教・信仰といふ程のものであつて、本尊が目にみえようが見えまいが、そんなことには、一切無關係である。‥‥

 さういふ假りの約束で、宗教・信仰といふ語を使用する時、神社神道とは、「天孫降臨」といふことを信仰の中心に置く宗教と言ふことが出來る。記・紀をすなほに讀めば、このことは、何人も否めまい。斷つておくが、あれは神話だといふ程度の常識なら、唯物史觀の信奉者でも、何やら學會の狂信徒でも肯なふ筈。さういふ程度の昔語りとして「天孫降臨」を受けとめるのではなく、その降臨の神統(本尊)が、今の現(うつ)つに、このわが日本社會の構造上の眞唯中に照臨ましましてゐるといふ感激に生かされて、はじめて神社神道が信仰となり、宗教となる。

 それに、もう一つ大事なことは、この天孫降臨といふハイライトに隨從された、天兒屋命・太玉命が、高皇産靈尊から、自分も神籬・磐境をたてて、皇孫の爲に齋ひまつるから、汝し命らも、宜し天津神籬ほ持つて、葦原の中ツ國に降り、また皇孫の爲に齋ひ、奉れよ、といふ神敕をいただかれ、これが神社の起源、同時に本質を爲してゐることである。伊勢の足代弘訓は、「天つ社 國つ社は あまたあれども 君を千歳と 守らぬはなし」と詠んだが、つづめて言へば、神社とは、もともと日本流のゴツド・ブレス・ザ・キングの祈りの場であつたのである。

(天皇本尊論は、神社界の某方面で、惡評を買つてゐるさうである。‥‥私とて、一見突飛な、人の意表をつくやうな「天皇本尊論」などいふ表現を用ゐて得意がつてをるつもりはない。「本尊といふ言葉が嫌いなら、やめてもよい」と、はつきり斷つてある筈である。だが、なぜ私が、それにも拘らず「本尊」といふコトバを使はねばならなかつたかといふことは、文脈全體を熟讀してもらへば判る筈だ。それは、人の耳なれぬ言葉であり、決して最適とも、本心思つてゐるわけではないが、實體の本質を、一度適切に合點させる爲には、時にかういふ表現を借りることも不可でなく、また捷径と考へたが故にほかならない。願はくば、批評にあたつては、「本尊」といふ表現を思想の文脈から切斷し、その適不適を論ずるといつた低次元の議論だけはやめいほしいといふことである)」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/3



 備中處士案、「天皇本尊」論は、かつて日蓮宗の一部にもあつた由であるが、彼の「法華曼荼羅」の、天照大神の御配置を見るにつけ、惡寒頭痛を催さゞるを得ず、固より小生の與かり知らぬ所である。幡掛正浩翁は、後に伊勢神宮少宮司となられた神道人、小生にあつても、元來、天皇を「本尊」と仰ぎ奉る者、天皇お坐しまして、初めて萬象悉皆が所を得るのである。杉本中佐『大義』の禪臭は、小生の嫌ふ所なりと雖も、「天皇は、天照大御神と同一身」に坐しますは、神典に神祕の漏傳ある所にして、天皇爲本の大道、即ち神道の骨髓である。之に因らざるものは、私見妄説たるを免れず、日本人たる者、宜しく「天皇歸一」の自覺に復らねばならぬ。私見に理屈をつけた論説は、小生、既に飽きた。祝詞・記紀・萬葉を拜讀して、靜かに「天皇爲本」(或は本尊)と云ふくらしの仕組みと古道の旨を聞け。萬古、天皇を仰ぎ奉れ。

 時あたかも、はゆまつかひ樣には、「宮城遙拜詞」のご紹介にあづかつた。有志の集會には、必ず國民儀禮あり。是非とも、主催者には先導し、嚴かに奏上あられたい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/23

**********

■宮城遙拜詞

 最敬禮

掛けまくも畏き

天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹しみ敬(ゐやま)ひ

遙かに拜(をろが)み奉らくと 白(まをー)すー


 最敬禮

**********



●從五位勳四等功四級・杉本五郎陸軍歩兵中佐の遺著『大義』第一章・天皇(昭和十三年五月・平凡社刊。平成十二年九月・大義研究會復刊。十八年三月・皇國史觀研究會復刊)に曰く、

天皇は、天照大御神と同一身にましゝゝ、宇宙最高の唯一神、宇宙統治の最高神。國憲・國法・宗教・道徳・藝術、乃至凡百の諸道、悉皆、天皇に歸一せしむるための方便門なり。即ち、天皇は絶對にましゝゝ、自己は無なりの自覺に到らしむるもの、諸道・諸學の最大使命なり。無なるが故に、宇宙、悉く天皇の顯現にして、大にしては、上三十三天、下奈落の極底を貫き、横に盡十方に亙る姿となり、小にしては、森羅萬象、天皇の御姿ならざるはなく、垣根に喞(すだ)く蟲の音も、そよと吹く春の小風も、皆、天皇の顯現ならざるなし。釋迦を信じ、キリストを仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の眞理・具現者、天皇を仰信せよ。萬古、天皇を仰げ。

 日本臣民は、自己の救濟を目的とせずして、皇威伸張を目的とせざるべからず。勿論、自己は、皇威に於て救はる。然れども救はれんがために、皇威伸張を念願するにあらず。天皇の御前には、自己は無なり。君民一如の自己、尊きにあらず。自己に體現せられたる、天皇の尊きなり。天皇への修養、即ち忠は、飽く迄も、天皇其れ自體のためならざるべからず。悉皆無所得、悉皆無所得、天皇は、人生のためのものにあらず。人生、天皇のためのものなり。 大楠公の歌へる、

身のために 君を思ふは 二心 君のためには 身をも思はじ

 天皇は、國家のためのものにあらず。國家は、天皇のためにあり。此の大自覺は、世上的價値を倒換して、永遠悠久の天皇に、唯一最高の價値を認むる時、單純、極めて明白に現れ來る。魂の救ひ・永遠の幸福が究竟の目的ならば、天皇は手段・方便にして、最高の存在に非ず。自己の學殖・職業、乃至生活程度によりて、尊皇の程度に上下あらば、其は自己中心の人物なり。唯々心身を捨て果てゝ、更に何物をも望むことなく、只管に、天皇に歸一せよ」と。
 
 

塾頭、ご照覽あらむことを。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月22日(木)19時37分20秒
返信・引用 編集済
   秋季皇靈祭の前日、こゝに、

スレツド『「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

を拜書し畢りました。「靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書・第二輯」であります。ご清覽たまはれば幸甚であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50


 ご閲覽、或は有縁の皆樣には、塾頭に捧げる文章がございましたら、是非とも、ご投稿いたゞきますやう、幾重にも御願ひ申し上げます。

 平成二十三年辛卯九月二十二日  備中處士 懇祷九拜
 
 

事務連絡。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月17日(土)11時23分27秒
返信・引用 編集済
   昨夜來、スレツドを亂立せる偏執狂が出來、今までは何方でも建立出來ましたが、已む無く、「管理者たる小生にのみ作成可能」と、變更いたしました。其の節は、連絡して下されば、即「誰でも可能」に戻します。ご賢察の程を。

 消せば建て、これで四囘目。かう云ふのを、「キモツ」て申すのでせうね。膽は大にして据わるを要す。さも無くば、宜しくホルモンにして喰らふべし。
 
 

泉水隆一監督「凛として愛」臺本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月12日(月)19時07分4秒
返信・引用 編集済
   此の仲秋十五夜、スレツド欄に、

泉水隆一監督「凛として愛」臺本

てふ新スレツドを開板させて戴きます。と、申しても、これから謹記いたします。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50



 此の臺本は、「愛国女性のつどい・花時計」代表・藤真知子女史より、『九段塾』に賜はりしもの、蓋し天下の孤本なり矣。極めて珍重、ご高覽たまはれば、小生の喜び、之に過ぐるものはありません。

 困つたときは、

藤 真知子 さん

河原 博史 道兄

 何でも、ご兩所へ。此の田舍者にとつて、本道に頼りになります、してゐます。とにかく人脈が凄い‥‥。今後とも御見捨て無きやうに、何卒、ご指導ご誘掖を賜はらむことを。

 而して本日は、『九段塾』掲示板創立第三周年の吉日なりけり矣。泉水隆一監督、即ち「九段塾」塾頭・福井金城翁、降り坐して、此の開板を愛でたまふなり。神さびたりとも、神さびたり。
  
 

頼神祇之靈、借天皇之威。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月 3日(土)00時35分11秒
返信・引用 編集済
   『靈的國防』とは、畏れ多くも「天津神・國津祇の恩頼(みたまのふゆ)に頼り、皇尊の稜威(みいきほひ)を借」りまつり、皇民たる者、眦を決して猛然と謹行ずべき神業である。先般、河原博史樣の、好個の論文を拜見させて戴いた。



●河原博史氏『靈的國防を恢復せよ』(『不二』平成二十三年八月號)に曰く、

「國民精神が溌剌とするといふことは、物質的にや經濟的に惠まれてゐるといふことではない。寧ろ物質的に滿たされてゐる時こそ、精神は得てして衰弱に向かうてゐる。無論、軍備があるかないかでも無い。よつて國防體制の充實を望むのであれば、思想的國防・信仰的國防の萬全を念頭に置くものでなければならない。爲めに我れら有志は、神州の正氣が國内に充滿されることを、何よりも熱望してゐるのである。‥‥

 思想的國防・政治的國防・軍事的國防等を充實させることは勿論のことであるが、これだけでは、惡念惡謀を持つ周到なる強大國の猛攻に抗じきれるものではない。靈的國防の結界を張り巡らせ、天佑神助を賜はらむと、吾人は信仰的國防に就て、深く一顧する必要があるのだ。

 巷、憲法第九條改正の聲、逞しくある。日本の保守を自稱するほどの人らが、何故に軍備なきのみを憾みとするのか。彼れらの淺はかな改憲論に觸れる度び、野生は、維新と云ふも、戰後體制脱却と云ふも、その實現には、猶ほ遠くあることを思はざるを得ない。靈的國防・信仰的國防を蔑ろとする保守派が跋扈する中で、我れらは御先祖や靖國神社に祀られる二百四十六萬柱の御靈に、今日の情況を報告する際、遺憾乍ら、遺憾乍らと、幾度も遺憾乍らを前置きしなければならない。

 此度びの震災では、自衞隊の活躍目覺しく、今後、自衞隊の法的立場に就て、遲蒔きながら議論されるであらう。改憲論者は水を得た魚の如く、之を追ひ風として、一層の氣勢を上げるに違ひない。それが宜しきことであるのか、惡しきことであるのか、野生は返答に苦しまざるを得ない。何故なら、尊皇なき軍隊を欲し、政體を護持する可くの國防を求める天皇機關説者の亞種‥‥、かうした者らを保守派と呼んで、聊かも遲疑しない日本の風潮を、野生は戰後體制と看破するのである。噫、憲法第九條改憲論者と呼べる者、みな、野蠻國や衆盲國の軍事力にばかり目を奪はれ、神州の眞面目に氣付かざるは、何故であらう」と。



 小生にあつても、「靈的國防」を懇祈しつゝあり。
  ↓↓↓↓↓
『日本學の再興』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/69
『大御名奉唱』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832

 而して「靈的國防」について、畏友・掌雲樣からは、嚴しい反省と忠告も拜受した。
  ↓↓↓↓↓
●掌雲樣『神徳私論』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/65

 又、はゆまつかひ樣には、磐山友清歡眞大人が靈著の披露を戴いてゐる。此のスレツドは、幾度も拜讀して戴きたい玉文である。例へば曰く、「靈的國防といふことは、何も奇異なことでも、珍らしいことでもなく、神國日本に於て上代以來行はれて居るところのものであって、手近なところでいへば、國民學校の兒童が、産土神社に参拜して、皇軍武運長久を祈願するのも、靈的國防の行動であるといへるのである。‥‥日本人の天佑神助の信念は、人力を怠つて僥倖を期待するものではない。人力の限りを盡して、全力を全舉して、尚ほ且つ神祇の感格を祷祈するものである。これが、靈的國防の意義である」と。
  ↓↓↓↓↓
●はゆまつかひ樣『靈的國防の本義・拾遺』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/l50

 更に最近、「唯々、天皇陛下の『聖壽萬歳・玉體安穩』をひと筋に祈り、日本國と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粹無邪の生涯を終へた稀有の神人」小泉太志命大人の紹介も偶見した。
  ↓↓↓↓↓
●奈良泰秀氏『小泉太志命大先生』
http://nippon-bunmei.cocolog-nifty.com/nara/2011/07/post-1d21.html

 然しながら、此の至重至大の要事「靈的國防」ほど、難しいものは無く、至信不動の信念、道骨を要して、道遠きことに歎息せざるを得ぬ。小生の神拜は、素人の域を出ぬ、他愛もないにものに過ぎず、掌雲樣仰せの「觀念の遊戲」に終るを恐れるものであるが、それでも、神代以來の本道の神業を目指して、只管ら神縁を乞ひ奉る熱情だけは堅持してゐる心算である。

 現代中今に於いても、神人と呼ばれる御方も居られるに相違は無いが、其の神人ならにび其の神人を語る門下(自稱・他稱を問はず)の眞僞貴賤――「審神(さには)」は、固より容易では無い。畢竟、分相應なる道を、武骨愚直に、獨り往くのみであるが、同時に、神縁恩頼を仰いで已まないのである。而して神縁恩頼を拜受せんが爲には、日々の修祓・神拜が不可缺であり、且つ先哲・同學の教導を必須とする。小生が審神の武器は、此の先哲先賢の教へである。先哲遺文を拜承することによつて、單なる妄信や凝り神道から逃れることが叶ふと思つてゐる。某眞僊の曰く、「神通は、信と不信とに在り矣」。河原氏のめでたき論説に感佩して、筆を執つた次第であります。
 
 

足利三代木像梟首の述志。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月30日(火)21時48分11秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 福井久藏翁・平野彦次郎翁編『勤王文庫』第五編・詩歌集(大正十年五月・大日本明道會刊)は、

『興風集』・『興風後集』・『風簷遺草』・『雄魂雜書』・『精神一注』・『殉難前草』★・『殉難後草』★・『殉難續草』★・『殉難遺草』★・『殉難拾遺』★・『四英獄窓唱和集』・『都氣能雄久志』・『近世殉國一人一首傳』☆・『有節録』・『近世報國志士小傳』☆・『行餘集』・『歎涕和歌集』★※・『彰功帖』・『□[立心+隱の右]玖蒐岐集』・『振氣篇』☆・『嗚世餘音』・『大日本中興先賢志』・『風雲際會繪傳』・『慨士遺音』・『殉難士傳』・『勤王烈士傳』・『防長正氣集』・『維新志士遺芳帖』・『俟采擇録』

等より、王事・國事に關するものを撰擇編輯せるものにして、實にめでたき書なりけり。之を主として、「足利三代木像梟首事件」に於ける志士の詩歌を、こゝに拜記して、其の志操の梗概を、謹みて諸賢に供へ奉らむ。殊に此の義擧の本志は、師岡正胤翁の長歌に、平明に且つ鮮やかに謳はれてゐる。音吐朗々、唱詠されたい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/886

【參考】
一、宮内省(圖書寮)藏版『修補・殉難録稿』(明治四十二年十二月成功。修補版・昭和八年十一月・吉川弘文館刊。題字は徳富蘇峰翁。序文は虚心黒板勝美博士)
一、影山正治翁『志士詩文集』昭和十七年十月・小學館刊
一、★藤田徳太郎翁『志士詩歌集』昭和十七年十二月・小學館刊に所收
一、淺野晃翁・竹下數馬翁『尊皇歌人撰集・勤皇烈士篇』昭和十八年四月・文松堂書店刊
一、淺野晃翁・竹下數馬翁『尊皇歌人撰集・勤皇學者篇』昭和十八年七月・文松堂書店刊
一、☆藤田徳太郎翁『維新志士・囘天詩歌集』昭和十九年七月・金鈴社刊に所收
一、田中卓博士『維新の歌――幕末尊王志士の絶唱』昭和四十九年五月・日本教文社刊
一、※近代浪漫派文庫一『維新草莽詩文集』平成十九年六月・新學社刊に所收

等、類書の甚だ多きを數ふるも、今の度びは、『勤王文庫』を以て主と爲せり。何となれば、則ち此書にしか無き歌、多ければなり。

 『修補・殉難録稿』に曰く、「癸丑・甲寅以來、尊攘の論、世に行はる。されど尊王と攘夷とは、一致して二途あり。尊王を主とする輩は、外患より内害を嫉む事甚し。内害とは、鎌倉以來、武家の王權を奪ふもの、是なり。仙石・長尾輩が、足利木像の首を斬りしは、其の所爲、粗暴なれども、其の志は愛すべし」と。

 而して、ふと、北崎勝史神主を想ひ出すこと、頻りなるものあり。未知の御方であるが、此の純乎たる魂の積み重なる所、神祇の照覽を得、其の大成を期するのである。尊皇攘夷の志士のみが有つ所の純魂こそ、夫れ國の寶である。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/728
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/729



一、三輪田綱一郎大神元綱
○人に示す
いざ子ども たはわざなせ 大丈夫に 生れ來し世に 又もあるべき
○題しらず
賤が屋の 蘆火のけぶり 一すぢに 心をくだく 世にこそありけれ

一、師岡豐輔正胤
○題しらず
天皇を たふとみ思ふ こころこそ えみしをはらふ 弓矢なりけり
○守の人の、我がいたく歌作る事を好むさまに云ふ
歌好む 我れとやおもふ 籠居の 爲すわざ有らぬ ことをしらずて
○三月十一日、加茂の神宮へ行幸ならせ給ふ由を洩れ聞き奉りて
聞きてだに いともかしこし 見奉らば 如何にか有らん 賀茂の行幸
○囚居の窓より月の影、哀にさし入りたるを
籠り居る 囚屋のまどを もる影も あはれにかすむ 春の夜のつき
○六月晦日
皇國を 汚す戎夷を はらはずば 祓除のわざも しるしなからむ
○おもふ事ありて
まことなき 歌作等が つくり歌 我れはこのまず 世のつくりうた
○寄夢述懷
さびしきは 深山に勝る こもり居に 世の憂き事の など聞ゆらん
○長尾武雄が馭戎雙六を物せしを見て
手ずさみの はかなき物も 國のため 戎夷をうたむ 事のみにして
○道すがらおもふむねあり
尺□[虫+獲の右]の かがむは延びむ 爲なれど いまのうき身は 何にたとへむ
○陳志
云ふやよき いはぬや好けむ 山川も 耳敏耳無し 有る世なりけり
すめろぎの 御爲に死ねと 教へてし 父のこと葉を なに忘れむや
國のため 死なむと思ふ 心こそ 神のたまへる たからなりけれ
國のため つくして死なば 我が魂は 神の御許に 行かずとも善し
○或時、思ひつづけたる
君のため 家をも身をも かへりみず つくす心そ やまとだましひ
○文久三年二月、足利三代の木像を梟首せし時の長歌、竝びに短歌
天地の 廣きが中に 國はしも 多しといへど 日の本の これが正路は 君臣の しな(品)定りて 天皇の 詔かしこみ もろもろの まへつ君たち まめやかに 仕へまつりて 萬代に 動くことなく 大道は 正しかれども まがつ日の 神のしわざと 大みこと 背きまつりて 天皇を 惱ませまつる 醜臣の 稀にはあれど たぶれらは 世にも出づれど 神直日 神の心と 醜臣を 罪したまひて たぶれらを きたむる中に 眞管よし 蘇我の馬子と 足利の 三世の醜臣 事なくて 世を終りきと 年久に うれたみありしを 思ふどち 我につどへて 世のさまを 語らふ時は たぶれらの 事におよびて 今し世に 蘇我の馬子は 其の罪を 責めんよしなし いでやいで 都の西の 何がしの 寺にすゑたる 足利の 世々の醜臣 木の像の 首ひきぬきて 五百年の むかしを今に ます鏡 うつし傳へて 其の罪を 糺すはいかに こころよき 事ならずやと 諸ともに 勇みたけびて わたる日の 暮るるを待ちて 風まじり 雨はふれども 雨まじり 風は吹けども その寺に い往き到りて 竝み立てる 木像に向ひ 雄たけびに たけびいへらく 高氏の 醜の親子は 天皇に 叛きまつりて 諸人を さわぎなやませ ためしなき 國の罪人 くなたぶれ ねじけ義滿 異國の 首長に乞ひて 我が身をば 臣と降して 皇國を 汚す罪人 其の外の 世々の醜臣 後の世の 弊を釀し 世の中の 亂れをおこし 罪のなき 人しもぞ無き 其のもとは ねぢけ高氏 事なくて その世過ぐとも いかでかも ゆるし置くべき 其の罪を 糺さむものと い競ひて 木首ひきぬき しかばねを うちくだかむと たけびつつ きそひかかれど あなしこめ 首はぬけども かかむりを 綾のみけしは 朝廷に おそれしあれば 形代に 手をばふれじと 壯士は 雄たけびしつつ 戰ひに 勝ちしさまして 降りしける 雨もいとはず 吹きすさむ 風もいとはず 鴨川の 河瀬にいたり 三芳野の かたををろがみ 鎌倉の かたに備へて たぶれらの 三つの木首を 板の上に ならべすゑ置き 其の罪を 板にしるして 見る人は 語り傳へよ 讀む人は しるし傳へよ 秀でたる 將軍の君の そのかみは いむかひかねし 高氏に われかち得たり たぶれらの 首を得たりと ほこりかち 言擧げしつつ 諸ともに 勇み喜び 家にかへりぬ
五百年の 昔にわれの 生れなば そのうつし身を 斯くしてましを

一、長尾郁三郎平武雄
○折にふれて
あはれ世に ことあら磯の 浪立たば 水づくかばね 我が願ふこと
○題しらず
忠やかに つとめましつる 年月の いさをあらはる 君のたまもの
もののふの 思ひこめにし あづさ弓 いま引くかたに 任す身の上
○獄中詠
君がため 死なむとおもひ 定めては ひとやの中は ものの數かは
はし鷹(一本作・わしたか)の たけきこころも 籠なれて あはれはかなく 送る月日か

一、大庭恭平景範
○題しらず
なみあらき 外の濱邊は しほかれて 秋さへかすむ 月を見るかな
罪なくて 見ばやと人の ねがふらん ひとやの中の 月を知らずや
○護送されるとき、紙筆を乞うて詠みし哥(『七年史』)
心なき 野邊の花さへ あはれなり 今年限りの 春と思へば
○獄に下る途中の作
君恩、深きこと、海に似たり。臣命、一毫、輕し。
復た心に關する事無し。檻車、夢を戴せて行く。
○獄中の雜作
鼎□[金+獲の右]、飴の如し、豈に敢て辭せんや。狂夫の心事、鬼神知る。
朝々只だ讀む、文山集。賦せんと要す、從容、死に就くの詞。
○又
三十三年、一夢の如く。平生の大志、遂に伸び難し。
言に寄す、天下の英雄の士。總べて從容、死に就くの人と作れ。
○又
身は獄中に落ちて、再び逢ひ難し。三間の板屋、晝、朦朧。
想ふ、君が醉後、時務を談ずるを。臥して見る、東山の臥容に似たるを。
○又
家山遠く隔つ、路、三千。身は縲紲と作りて、徒らに自ら憐れむ。
今日、衣を見るは、母を見るが如し。朝朝、著し得て、東山を拜す。
○又
誰か言ふ、忠孝、兼ね得難しと。一死、國に酬ゆれば、即ち兩全。
萬事、平生、人後に落つ。今年、初めて祖鞭の先に著く。

一、仙石佐多雄隆明
○武藏の六郷の渡を過ぐる時
後の世の 名をこそ惜しめ 玉川の ながれも清き ゆくすゑを見て
○川崎驛にて父母を思ひ出て
歎くにも なほあまりある 父母に これや別れの 限りとおもへば
○辭世
よしや身は いづこの浦に しづむとも 魂はまもらむ 九重のには
(一本作・たとひ身は いづこのはてに さらすとも 魂は都の 空にとどめむ)

一、角田由三郎紀忠行
○帝道唯一
すめろぎの 道にちまたは なかりけり 人のまことを 一すぢにして

一、石川一源貞幹
○折にふれて
大皇の 御こころ休め まつらむと 露のいのちも ながらへにけり
○述志
大君の みためとつくす(一本作・すめみこに 心つくせし) 大丈夫に 神のめぐみの なからましやは
○刑に臨みて
芳ばしき 名をやとゞめん 武夫の 世にさきがけて 花は散れども

一、梅村眞一郎眞守(『修補・殉難録稿』)
○櫻田義擧の烈士が靈を祀りて
消えて無き 後の名すらも 君が代の 護りと爲れる いさを雄々しも
薫る香を とめて散り行く 人よりも 後れて忍ぶ 身こそつらけれ
○師平田銕胤翁が都に上るに從ひ行くとて、從弟等にのこす
四方八方の くなたぶれらも 言止めて いそしき神の あとあるを見よ
知ると言はゞ いざこと問はん 石の上 古野の原の 道はいかにと
出てゝまた 歸らじと思ふ 武夫の 心の花を かゞみとも見よ
○鹿島の宮に詣でて
天の下 攘ひ清めし 古事を 今の此の世に 見んよしもがな
○香取宮にて
かくまでに 愚なる身を かゝる世に 何に爲んとて 神はうみけん
よしあしは 神に任せて ますら雄の 心のたけを 今や盡さん

一、伊藤益荒藤原嘉融(『修補・殉難録稿』)
○文久四年、思ふ旨ありて東に下る時
思ふ事 爲して成らずは 梓弓 ひき廻さじと 誓ふ都路
○辭世
春雨に みの覆ふべき 方もなく 今は笠間の 露と消ゆなり

一、水郡善之祐紀長雄
○吉村寅太郎に示す(『修補・殉難録稿』)
今よりは 互になれて 大丈夫の いづれ猛しと 磨かざらめや
○辭世
皇國の ためにぞつくす まごころは 知るひとぞ知る 神や知るらん

一、大樂源太郎弘毅
○放言十五首之一(内田伸氏『大樂源太郎』昭和四十六年四月・風説社刊。五十三年五月・マツノ書店復刻)
詔を奉じて、賊臣を誅す。大義、鬼神を泣かしむ。
遺風、餘烈の美。今、窮陬の民に在り。



**********

附載【靖國神社第二代宮司・賀茂水穗翁の哥】――『勤王文庫』所收

○題しらず

えみし討つ 勅言を待つも 年久し 老いぬさきにと 思ひぬる身は

**********
 
 

逆賊の首。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月25日(木)21時08分49秒
返信・引用 編集済
  【後醍醐天皇・御遺詔――『太平記』延元四年八月十六日】

 たゞ逆賊、平がず、四海、未だ安からず。たゞ此れを恨みとなすのみ。太子、位に即かば、それ賢を任じ能を使ひ、(新田)義貞・義助の功を録し、務めて恢復を成し、以て朕が志を稱(かな)へよ。身を南山に□[病埀+夾土、うづ]むと雖も、しかも神(たましひ)は、常に北闕を望まむ。もし命を墜すものあらば、子は繼體に匪ず、臣は□[サ+盡]忠に乖かむ。



●角田忠行翁の哥――梟首事件詠歌二首

しこの首 きりて晒して みよし野の 君と臣とに 今はたむけん
いましよに ほてるたふら 心せよ このしなくさを おのが身にして



 「等持院足利將軍木像首斬り事件」とは、文久三年二月二十二日夜、京都北野天滿宮の西、衣笠山の萬年山等持院に在つた、足利氏三世、即ち等持院高氏・寶篋院義詮・鹿苑院義滿の塑像の首と位牌が引出され、翌二十三日未明、三條大橋(鴨川河原)に梟首された事件であつて、草莽の平田派國學者による義擧と云ふ。久坂秋湖(玄瑞)先生の曰く、「會津、若し捕縛の處置に出づる有らば、浪士等、皆、我が藩邸に來る可し、能く庇保せん」と。小生、年來、快哉すべき此の擧を注目してゐたのであるが、先般、菊池明氏『幕末天誅斬奸録』(平成十七年四月・新人物往來社刊)を落掌したるを機に、其の概略を筆記したい。

 此の事件の影響する所、頗る大きく、亦た取締る者(吉川神道――京都守護職)の思想信條を知ることが出來る、好き手がかりともなる。松平容保の曰く、「かゝる尊貴(高氏等)を辱しむるは、即ち朝廷を侮辱する者、殊に其の暴行たる、屍を鞭うつに同じ。速かに之を逮捕して嚴刑に處せざれば、國家の典刑、立ち難し」(『京都守護職始末』)となん。其の陋見、憐れむべし矣。何ぞ、朝廷を侮辱する者とは。惡逆無道を祀る、何ぞ神祇の赦す所ならむや。武士と云ふは、抑も誰が臣ぞ。天朝北面の古武士觀に還り、之に目覺めたる者、楠公祠を野晒しにして、醜奴足利の足を拜むこと、堪ふること能はず、七生報皇の至願の凝る所、斬奸梟首、吉野神宮ご祭神に奉獻するもの、固より已むを得ざるの至誠に出づるなり。快哉、々々。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/22

 然るに竹屋光晶樣の報告によれば、京都時代祭に、何と、足利高氏の復權を見たと云ふ。現代の闇は深くて長い。快哉を叫んで、今ま復た悲しみに沈む、腹悶、醫し難く候ふ也。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/91



●『修補・殉難録稿』・『京都風聞書』――三條大橋西詰の制札場「罪状書」――仙石隆明の筆

  逆賊・足利十五代

 此の者共の惡逆は、既に先哲の辯駁する所、萬人の能く知る所にして、今更ら云ふに及ばず。因て此の影像を斬戮せしむ。就ては贅言乍ら、聊か其の罪を示すべし。

 抑も此の大皇國の大道、只々忠義の二字を以て、其の大本とす。是れ神代以來の御風習なるを、賊魁・鎌倉の頼朝、世に出て、朝廷を惱まし奉り、不臣の手始めを致し、尋いで北條・足利に至りては、其の罪惡、實に容る可からず。是れ天地神人、共に知る所なり。然りと雖も當時、天下錯亂、名分紛擾の世、朝廷御微力にして、其の罪を糺し給ふこと克くせず。遺憾なり。豈に悲泣す可からざらんや乎。

 今、彼等の遺物を見るに至りても、眞に憤激に堪へず。我々不敏なりと雖も、五百年往古の世に出でたらんには、生首、引き拔かんものをと、握拳切齒、片時も止むこと能はざる事なり。今や、萬事復古し、舊弊一新の時運、追々不臣の奴原、罪科を糺す可きの機會也。故に我々申し合はせ、先づ其の臣賊の大罪を罸し、大義名分を明かさんが爲め、昨夜、等持院に在る所の、尊氏始め、其の子孫の奴原の影像を取り出し、首を刎ねて、是を梟首し、聊か舊來の蓄憤を散ずる者也。

 文久三年癸亥二月二十三日

 大將軍織田公に至り、右の賊統斷滅す。是れ些か愉快といふべし。然るに夫より爾來、今世に至り、此の奸賊に、猶ほ超過する者あり。其の黨、許多(あまた)にして、其の罪惡、足利等の右に出づ。若し夫れ等の輩、眞に舊惡を悔い、忠勤を抽て、鎌倉以來の惡弊を掃除し、朝廷を補佐し奉り、古昔に復し、積罪を贖ふの所置無きに於ては、滿天下の有志、追々大擧して、罪科を糺す可きもの也。

 右は、三日の間、晒し置く。若し取り捨て候ふ者は、急度、罪科を行ふ可き者也。



●『官武通紀』

一、逆賊 足利尊氏
一、   同 義詮
一、   同 義滿

 名分を正すの今日に至り、鎌倉以來の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致す可きの處、此の三賊、巨魁たるに依りて、先づ其の醜像へ誅を加ふる者也。

 二月二十三日



●『東西紀聞』

 三條と四條の間に、河原に晒し之れ有る首の下の札は、等持院の飾牌にて、黒塗りにて、金にて認め之れ有る上を、はりがねにて下げ之れ有り。‥‥等持院御靈屋番人六人、之れ有るを、拔き身にて追ひ拂ひ、役僧一人に案内致させ候ふ由。



【首謀者および實行者三十餘】――「*」(不明を含む)以外は、平田銕胤先生の門下、即ち平田大壑先生沒後の門人なり――

[捕縛]
一、三輪田綱一郎元綱(氏=大神/伊豫久米郡/處分=百日押込・當分京極飛彈守預け/外務權大丞・大山祇神社宮司)
一、布志乃舍・節齋・師岡豐輔正胤(武藏江戸/遠島・當分松平伊賀守預け/松尾大社大宮司・宮内省御用掛)
一、竹廼舍・宮和田勇太郎胤景(平/下總相馬郡・名主/洛中洛外追放・當分土方智千代預け/東京深川八幡神社神職)
一、鼎齋・青柳建麿高鞆(源/下總香取郡・豪農/遠島・當分藤堂佐渡守預け/鹿島神宮少宮司・實行教權大教正)
一、建部建一郎(常陸・牛久藩士/遠島・當分藤堂佐渡守預け)*
一、長尾郁三郎武雄(平/京都・綿商/永牢/贈正五位・靖國神社祭神)
一、長澤眞事文敬(陸奧/遠島・當分西尾謙之助預け)*
一、含章齋・野呂久左衞門直貞(備前・岡山藩陪臣/洛中追放・當分小笠原左衞門佐預け/彈正臺大巡察)
一、武廼舍・龜洲・西川善六吉輔(平/近江蒲生郡・肥料商/山城國中構ひ・江戸十里四方追放・當分親類預け・押込/日吉大社大宮司・生國魂神社宮司)
一、松齋・大庭恭平景範(陸奧・會津藩士・御聞番/遠島・當分松平伊賀守預け/司法省判事)*
一、仙石佐多雄隆明(武藏江戸・因幡鳥取新田藩士/自刃・靖國神社祭神)
一、高松超之助信行(信濃更級郡・豪農/鬪死/靖國神社祭神)

[以下、轉進]
一、伊吹舍・鎭石室・角田由三郎忠行(紀/信濃佐久郡・岩村田藩士/熱田神宮大宮司・贈從四位勳六等)
一、小室理喜藏信夫(丹後宮津・生糸縮緬商/貴族院議員)
一、可庵中島永吉錫胤(阿波・徳島藩士・京儒中島椋隱の養子/男爵・貴族院議員)*
一、岡元太郎敦(備前・岡山藩陪臣)
一、北村善吉義貞(播磨飾東郡・豪農/姫路藩士)*
一、榮齋・梅村眞一郎眞守(肥前・島原藩士/靖國神社祭神)
一、伊藤益荒嘉融(藤原/肥前・島原藩士/靖國神社祭神)
一、石川一貞幹(源/武藏江戸・因幡鳥取鹿奴藩士/贈正五位・靖國神社祭神)
一、水郡善之祐長雄(紀/河内錦部郡・大庄屋・水郡神社祀官/贈正五位・靖國神社祭神)*
一、中村愼吾(常陸・郷士・豪農)*
一、野城廣助信哉(上總市原郡・庄屋)
一、西山・大楽源太郎弘毅(長門萩・萩藩陪臣)*
‥‥



――乞、ご示教を。――

 件は、國學院大學竝日本文化研究所編『和學者總覽』平成二年三月・汲古書院刊、他を參看せり。誤謬・遺漏の多きを恐る。博雅の士の増補・訂正を求むるなり。願はくば、只管ら批正を乞ひ奉ると云ふ。

 なほ『勤王文庫』第五編・詩歌集・大正十年五月・大日本明道會刊に、志士の哥詩多し。三輪田綱一郎大神元綱翁は、『幸安仙界物語』第二卷が後記を書きし人、亦た角田由三郎紀忠行翁は、『古史略』を編み、神代史の年代を定めし人、いとゞ床しく思ふなり。
  
 

建武中興‥‥、明治中興‥‥、そして、平成中興‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月24日(水)22時45分3秒
返信・引用 編集済
  【吉野時代と所謂南北朝正閏問題】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm



 こゝに先師に據る、一代の碩學の斷案あり、亦た之を繼承せる先師の定論がある。謹みて拜記するは、即ち是れ現代我等の問題と捉へるからに外ならず、諸賢の參考に供したい。



■虚心黒板勝美博士『南北兩朝正閏論の史實と其斷案』(『日本及日本人』明治四十四年三月特輯號に所收)を、寒林平泉澄博士が、其の要領の大體(『悲劇縱走』昭和九年條。昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊に所收)を書して曰く、「

一、みだりに激昂せず、感情に走らずして、先づ事實を究める事が大切である。

二、事實が定まつて後に、初めて大義名分が論ぜられるのであつて、大義名分があつて後に、事實が出て來るのではない。

三、「問題は、すでに『大日本史』で決定してゐる。今更ら之を改める必要が無い」といふ論者もあるが、それは最近史學の進歩を無視したものだ。一例をあぐれば、笠置山陷つた時、光嚴天皇に御渡しになつた神器を、『大日本史』は『増鏡』によつて僞器であらうと推斷したが、それは誤りであつて、實は眞器であつた事が、今日確認せられるに至つたのである。

四、歴史を教育に應用するに當つて、取捨はよろしい。事實を曲げてはならない。教育上、都合のよいやうに曲げるのは、歴史の權威を無視するものだ。

五、「正閏の論は、事、皇室に關し、臣子の分として口にすべきでは無い」と論ずる人もあるが、正成が忠臣なりや、尊氏(備中處士案、ママ。「高氏」と書すべし)が逆臣なりやを定める爲には、正閏が先決であり、兩方とも正しいなどと云ふのでは、歸趨に迷ふ事となる。

六、皇位繼承の問題は、關連する所、非常に複雜であつて、之を詳述解明する事、容易でないが、とにかく私見を述べよう。

七、兩統迭立といふは、後嵯峨天皇崩御の後、遺詔によつて、後深草天皇(御兄)には、所領を多く御讓りになり、その代り、龜山天皇(御弟)には、惣領として皇位繼承の權を與へられた。その御兄の御系統を持明院統といひ、御弟の御系統を大覺寺統といふ。しかるにやがて幕府が介入して、大覺寺統の後宇多天皇の次に、持明院統の伏見天皇が御立ちになる事になり、後嵯峨天皇の御遺詔とは違つて來た上に、その伏見天皇の次には、後伏見天皇の御即位となつた爲、大覺寺統の不平は高まり、再び幕府の介入があつて、後伏見天皇の次には、大覺寺統の後二條天皇が御立ちになる事になり、それよりいはゆる兩統迭立の形をなすに至つた。幕府としては、是れが朝廷の勢力を弱める爲の巧妙なる政策であつた。つまり迭立といふ事は、幕府の介入によつて起つたのであつて、朝廷に於いて初めから定められた方針では無かつたのであります。

八、やがて文保元年、又もや幕府の介入があつて、後醍醐天皇御即位の後には、やはり大覺寺統の邦良親王を御立て申し上げ、次には持明院統の光權院を豫定される事になりました。之を「文保の御和談」と云ふ。このまゝ進めば、後醍醐天皇は非常に不利な立場に御立ちになり、その系統は、皇位繼承に無縁とおなりになるおそれがありました。

九、元亨元年、後宇多上皇、院政を御やめになり、後醍醐天皇の親政となりました。

十、是に於いて天皇は、北條氏を討伐して幕府を倒し、政權を朝廷に取戻さうと企てられました。それは皇位繼承問題のみでは無く、百弊を一新して、日本國を正しい姿に戻す所以である。

十一、討幕のいくさ敗れて、笠置の陷つた時、幕府は光嚴天皇を擁立するのであるが、後醍醐天皇が之を承認し給うた形迹は、一つも無い。

十二、笠置の敗れた時、御渡しになつた神器を、『大日本史』が新器とし、栗田寛博士の『神器考證』にも、そのやうに論じてゐるが(平泉博士の曰く、「『先師の説を撃つは、遠慮すべきことなるが』と、特に斷つて居られるのは、美しい態度と、ゆかしく思ふ事であります」と。)、『花園院宸記』によれば、正に神器であつた事、疑を容れない。然しそれは強奪せられたのであつて、御讓りになつたのではない。

十三、建武の中興やぶれて、延元元年、尊氏、九州より攻上つた時、尊氏は、光嚴院の院宣を申し下して、賊名を避け、そして光明天皇を擁立した。即ち北朝の第一代と稱せられ給ふ御方である。後醍醐天皇が、尊氏の強請により御渡しになつた神器は、かねて用意された模造品であつて、眞正の神器は、御身に附けて、吉野にお入りになつたのである。

十四、當時、主權は何處に在つたかといへば、元亨元年、後宇多上皇の院政廢止以後、主權は完全に後醍醐天皇に存したのである。此の點が、此の問題の解決上、最も大切である事を忘れてはならぬ。

十五、皇位と神器とが、密接にして離るべからざる事は云ふまでも無い。然し一考すべきは、神器の所在のみに依りて、皇位の正閏を定むるの可否である。壓迫によつてやむを得ず、神器を渡された場合、御讓位の御意志が無ければ、それは無效である。

十六、北朝論者と南朝論者と、それぞれの立場に於いて主張する所があるが、當時の爭、かはるがはる立たれて、其の順位を爭はれたので、正閏を爭はれたのでは無い。問題は、主權の所在である。元亨以後、主權は、絶對に後醍醐天皇に在つた。文保の御和談も、幕府の強壓も、天皇の絶對主權を曲げる事は出來ない。その後醍醐天皇が、光嚴天皇・光明天皇を認められなかつた以上、いはゆる北朝は、決して正統とは云へないのである。

十七、南北分立の間、正閏を論ずれば、南を正統としなければならないが、後に南北合一の議成つて、後龜山天皇より、神器を後小松天皇に傳へ給ふに及んで、後小松天皇は、完全に正統を御繼承になつたのである。南北の對立を、臣下より見れば、強弱の問題であるが、皇室から云へば、北朝に於いても、初めより終りまで、いさゝかの御惡意は無く、迭立の慣行上、當然の順序を受けようとし給うただけの事である。況んや合一以後に於いては、南も北も、今は無く、一點の曇りも無き、萬世一系の尊嚴を仰ぐのみである」と。



■寒林平泉澄博士『建武中興の本義』を、自ら書かれた概略(『悲劇縱走』昭和九年條に所收)に曰く、「

一、「當時、鎌倉幕府衰へて來たから、討伐を思ひ立たれたとする説」は誤りであつて、九州探題自害の時、殉死二百四十人、六波羅探題自害の際、殉死四百三十二人、鎌倉陷落の日、高時に殉ずる者、一族二百八十三人、從兵八百七十餘人、其の他六千餘人といふを見れば、鎌倉武士、勇武義烈の氣象は、猶ほ衰へてゐなかつた事。

二、「嘉暦元年三月、皇太子邦良親王薨去の後、後醍醐天皇は、御自分の皇子を皇太子にしたいとの御希望であつたのに、幕府の介入によつて、持明院統の光嚴院が皇太子に立たれた爲、天皇は討幕に踏切られたとする説」は誤りであつて、それより二年前の正中元年九月、天皇御討幕の計劃漏れて、土岐・多治見等は殺され、日野資朝は佐渡へ流された事。

三、護良親王は、後醍醐天皇の第一皇子であつたのに、文保二年二月二十六日、梶井門跡に入つて僧侶となり、やがて叡山をひきゐて、官軍を指揮し給うたが、此の梶井御入堂の日は、後醍醐天皇御踐祚の日であるから、こゝにすでに重大なる御決意がうかゞはれる事。

四、後醍醐天皇と申し上げるのは、崩御の後の御謚では無く、御生前御自ら名乘らせ給うた御稱號である事は、延元元年六月の日光の銅□[金+宛]の銘によつて明かであり、それが醍醐天皇・延喜の御代を目標として、日本國の中興を志し給うたからである事は、『元亨釋書』上表によつて察せられる事。

五、更に溯れば、後醍醐天皇をして、醍醐天皇の再來再生たらしめようとの御考へは、御父後宇多天皇に、すでに窺はれ、元亨元年十二月九日、後宇多上皇の院政を廢して、後醍醐天皇の親政とし給うた時、建武中興は、すでに約束せられてゐたとすべき事。

六、その討幕及び中興の御計劃は、頗る雄大且つ深遠であつて、一例をあぐれば、楠木正成をして城を常陸の瓜連に築いて、此處に代官を置いて守らしめ、又た出羽國屋代庄の地頭職を正成に與へて、此處にも其の代官を配置せしめ給うた事。

七、「中興の事、一たび成功するや、天皇は驕奢遊宴に耽り給ひ、その爲に國費窮乏して、人心離反したとする説」は誤りであつて、建武元年九月、石清水行幸、ついで東寺の塔供養の際の御願文には、中興の希望であるから、節儉の法令を出だし、衣服等すべて粗品を用ゐしめたとあるが、之に對して東寺の人々、大いに驚き、その法令の緩和を願ひ出た程である事」と。



●寒林平泉澄博士『建武中興の本義』(昭和九年九月・至文堂刊。五十八年五月・日本學協會水戸支部復刊)に曰く、「

 王政復古を目指す幕末の志士、安政の大獄に倒れ、櫻田門外及び坂下門に散り、五條また生野に敗れ、敦賀に斬られ、更に禁門に躓いて、大事も今は最早や是迄と思はれた時、二十六歳の青年にして、單騎身を挺して、囘天の偉業に口火を切つた高杉東行は、その直面する時機を洞察して、「是れ此の時、日本の日本たらんと欲する日也」と喝破した。まことに明治維新の大業は、これ日本の日本たらんとする大理想の實現であつたのである。しかるに日本の日本たらんとする大理想は、之に先だつ事數百年、後醍醐天皇によつて掲げられ、楠木正成を始めとして幾多忠烈の士の、生命を捨て家を失ひ、一切を犠牲にして之を護りし爲に、暴風雨の中にも空高く飜る事數十年、しかも時、利あらず、その大旆は遂に倒されて了つたのであつた。明治維新の志士は、この一度倒されたる大旆、日本の日本たらしめんとかる大旆を、再び高く中天に掲げんとしたるもの、即ち特に具體的にいふならば、正成の遺志を繼承せんとしたのであつた。曠古の雄圖、「宇内一帝を期し」たる眞木和泉守が、病中血を吐いて、しかも猶ほ五月二十五日、楠公の祭を怠らざりしもの、よく之を證するではないか。即ち見る、建武の中興は、日本の日本たらんとする大苦修、大試練、前には上代憧憬の情に包まれて大化の改新をかへりみ、後には七生報國の志の遺して明治維新を望み、承前起後の偉大なる働き、まことに日本歴史の中軸をなすものといふべきである。‥‥

  建武中興は、かくの如くして起り、かくの如くして成つた。それは決して幕府の衰微に乘じ、皇室の御私情の爲に起されたものではなかつた。又それは決して大勢に隨ひ、世論に追從する人々によつてなされたのではなかつた。即ちそれは日本をして眞の日本たらしめんとする大理想の下に、強敵怖れず、百難屈せず、君は君として、臣は臣として、まつしぐらに日の本の道を進み給うたものに外ならぬ。建武の中興、その目ざさるゝ所は、まこと皇國日本の中興に外ならなかつたのである。‥‥

 是に於いて建武中興失敗の原因は、明瞭となつた。即ちそれは天下の人心、多く義を忘れ利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏、誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ參じ、其等の逆徒、滔々として天下に充滿するに及び、中興の大業、遂に失敗に終つたのである。こゝに我等は、この失敗の原因を、恐れ多くも朝廷の御失政、殊には後醍醐天皇の御失徳に歸し奉つた從來の俗説を、大地に一擲しなければならぬ。否、我等の先祖の、或は誘はれて足利につき、或は義を守つたとしても、力乏しくして、遂に大業を翼贊し奉る能はざるのみならず、却つて聖業を誹謗し奉る事、六百年の長きに亙つた罪を懺悔し、陳謝しなければならぬ。建武中興の歴史は、まことに懺悔の涙を以て讀まるべきである。しかも懺悔の涙を以て讀むといふを以て、單なる追想懷古と誤解することなかれ。建武の昔の問題は、實にまた昭和の今の問題である。見よ、義利の戰、今如何。歴史を無視して、己の由つて來る所を忘れ、精神的放浪の旅、往いて歸る所を知らず、國體を閑却し、大義に眛く、奸猾、利を求め、倨傲、利に驕る、これ何人であるか。滔々たる世の大勢に抗して正道を求め、眞の日本人として己の分をわきまへ、一意、至尊を奉戴して、その鴻恩に報い奉り、死して大義を守らんとする、果して何人であるか。問題は、こゝに、六百年前の昔より、六百年後の今日に、飛瀑の如く急轉直下し來る」と。
 
 

「九段塾」塾頭・最終講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月15日(月)23時20分4秒
返信・引用 編集済
   スレツド欄に、本掲示版に於ける塾頭遺文を抽出せむと欲し、

「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

てふ新スレツドを、些か期する所あつて、建てさせて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/

 一日一枠、同學相共に、ご高覽、或は再勉強たまはれば、之に過ぐる喜びはありません。

 先づは、靖國神社遊就館に於いて、我が塾頭、即ち泉水隆一監督作品『凛として愛』の再上映を期したいものであります。是れ「靖國神社正統護持」の爲めの、さゝやかな第一歩であります。然し此のさゝやかなる義擧の果たす所、其の意義、其の影響は、眞に甚大にして、皇國の正氣を覺醒せしむることになるに相違ありません。
 
 

生年月日考證。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月12日(金)21時19分25秒
返信・引用 編集済
   大げさな表題であるが、小生、これでも苦慮いたしました。

 我が塾頭歸幽日は、

http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/
  ↓↓↓↓↓
平成二十二年七月十六日、行年六十九。

此の享年は、小生が常識としては、數へ歳であるからして、先づは生年は、昭和十七年壬午と推定。しかし待てよ、關東では、或は滿年齡で云ふのか知らんと、疑念が湧く‥‥。まさか‥‥。坊主が滿年齡で云ふものか‥‥。そこで、藤真知子女子にお聞きしたら、「普通、滿年齡ですよ」となん。嗚呼、我が國俗、享年の數へ方も、遂に「個人主義」に犯されてしまつたと云ふことか。悲しみは、暫く措く。兎も角も我が塾頭は、昭和十六年辛巳に生れたるなるべし。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1070

 後は月日。これは皆目、判らない。藤女史の曰く、
塾頭は、どうしても年齡を仰せにならない。誕生日だけでも教へ下さいと御願ひしたら、四月十二日である由」と。暦を繰れば、陸軍大學校開校日なり。然し塾頭は、海軍畑、これは些か牽強附會でした。

 福井金城翁の生年月日が、これにて遂に決定された。

昭和十六年辛巳四月十二日、禀生。

 然し數へ歳七十とは、我々の豫想を遙かに裏切る若さでありました。塾頭の文章から、年齡を窺はせるもの二三あるも、最後まで‥‥韜晦‥‥。長い間、小生は、塾頭は大正生れと確信してをりました。然れども再言す、「塾頭は、身も心も、どうしても『戰前の人』でなければならなかつたのだ‥‥」と。小生が五十半ばだと云ふに、二三年前までは、四十前にしか見えぬと云はれたのとは、大きい相違なり。小生も、七十歳に見られる貫禄をつけねばならぬ。
 
 

あな、嬉しき哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月11日(木)00時12分40秒
返信・引用 編集済
   御忙しい中、「花時計」藤真知子會長から、此の九段塾に投稿くださいました。本道に有り難うございます。

 藤會長は、最晩年の塾頭の動靜を知る御方、そして『凛として愛』を頒布して下さつてをられます。今の度びは「泉水隆一監督の想出」を語つて戴ける由、九段塾としては、歡喜して御迎へ申し上げたいと存じます。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

 かつて塾頭の曰く、「今、若い女性と付き合っています。これが元気のもとか」と。



追記。
 藤會長には、『凛として愛』の脚本の消息を知られませんでせうか。若し天下に一本でもあれば、拜記して九段塾のスレツドに掲げたく、是非とも御周旋、宜しく御願ひ申し上げます。



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/58
  ↓↓↓↓↓
 塾頭の曰く、「名越二荒之助前高千穂商科大教授が、去る(平成十九年四月)十一日、呼吸不全で亡くなられた。今日(十四日)、午前十一時、目黒正覚寺で葬儀・告別式。ごく親しい人だけに訃報は知らされて、今朝まで内密にされていた。ソ連に抑留された経験から、『ともかく長いものに巻かれても、生き拔くことが最先決だ』と云う信念を、秘かに持ち続けて来られた先生でした。生き抜かれたことで、復員後、捻じ曲げられた歴史の修正に、生涯を賭けられることが出来た。貴重な考え方だと、小生は思った。何度か親しくお話したことがあった。小生を先生は、『自分より三つぐらい、年上かと思っていましたよ』と、以前言われたことがある。『じっと我慢する』ことも必要なんです――と、小生にはよく言っていた。「一兵士」で書いていることは、先生は、多分、知らなかったろう。ご冥福を心からお祈りします。人生、古より、誰か死無からん、丹心を留取して、汗青を照らさん‥‥」と。



 愚案、名越二荒之助翁、大正十二年、備中國笠岡生れ。享年八十五。然らば塾頭は、翁より大正九年生れに見られてゐたことになる。塾頭は、生前に其の周圍にも、自らの生年を容易に漏らさずと、藤真知子女史から聞くも、實は昭和十六年生れ、翁より十八歳も若ければ、其の老成、見るべきである。蓋し塾頭は、大正生れなるを祕かに渇望自任し、病身のこともあつて、かく振舞はれてゐたのだらうか。‥‥塾頭は、どうしても「戰前の人」でなければならなかつたのだ‥‥。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/65



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1075
  ↓↓↓↓↓
 泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』(平成十四年九月十八日)に曰く、

「現在、私は靖國神社に祀られる英霊そのものは、大切にしたいと考えておりますが、現在の靖國神社執行部である、湯澤(貞)宮司・三井(勝生)権宮司・山口(建史)総務部長の三人を信じてはおりません。又、神社に上映中止を迫ったと言われる阿南(惟正)総代(阿南惟幾大将の遺児)・小田村四郎総代(拓殖大学総長)、他に小堀桂一郎氏などの一連の著名な学者・研究者も、私は信じていません。彼らが、今後、英霊に対してどのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。‥‥

 本作品(『凛として愛』)の完成後、同時進行していた真珠湾攻撃の真実を描いたアニメ併用の『太陽に向かって翔べ』や『大東亜戦争の真実』の二作品も、編集を中止しました。

 『太陽に向かって翔べ』の作品では、スタジオに、真珠湾攻撃に出撃した三十隻の縮小艦船模型に、潜水艦部隊三十数隻(縮小模型は龍角散社長よりお借りする)、また航空部隊の三機種の模型を準備し、三日がかりで、その威容を撮影。そして真珠湾攻撃に参加した空母加賀の雷撃隊のお一人のインタビューや、ハワイまでロケ、真珠湾攻撃を直接目撃した日系二世の元米軍将校のインタビューなどで構成、真珠湾攻撃の真実の姿を描く予定でしたが、これも中断せざるを得なくなったこと、誠に残念です。ご協力頂いた方々には、申し訳ないの一言です。

 『大東亜戦争の真実』では、戦後、初めてカメラの前に立たれたアッツ島生き残りの元兵士の貴重な証言、山崎大佐の遺児・山崎保之さんのインタビュー。また日赤の従軍看護婦の方、島根県の山村で戦後の日本の歩みを批判する人々の話、あるいは玉砕の島ペリリューに十日間ロケ、彼らは、どのように執拗に闘ったか――その雄渾の姿を描くつもりでしたが、これも中止という運命になりました。

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません(ママ。愚案、「浮かばれない」とは‥‥。塾頭、餘程憤慨せしならむ。晩年の塾頭には、考ふべからざる表現なり矣)。ただただ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が「靖國神社で逢おう」といった言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということを、どうかよくお考えになって下さい。その上で改めて、靖國神社というものを考えて下さい。決して彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています」と。



 愚案、『太陽に向かって翔べ』と『大東亜戦争の真実』と‥‥、此の二作品は、何處へ消えてしまつたのであらうか。靖國神社の倉庫に、或は其の斷片が存在してゐるのかも知れない。其の關係協力者は、何處へ霧散してしまつたのであらうか‥‥。塾頭の誠心は、インタビユー・取材を通して、已むを得ず、反國家を裝はざるを得ぬ人をして、其の穢れを祓ひ、其の眞實の聲を引出したと云ふ(『凛とし愛』囘天の件りに出る老婆等)。其の散逸は、惜しみても餘りあるものと謂はねばなるまい。
 
 

思い出

 投稿者:藤 真知子  投稿日:2011年 8月10日(水)23時24分16秒
返信・引用
  九段塾のみなさま、初めまして。
藤真知子と申します。
思い出話しを書き込ませて頂きます。

塾頭こと泉水隆一監督とは平成21年の年末に「凛として愛」の上映会を行った時に知り合いました。
それから色んなお話をしました。

最初に監督と連絡を取った時に
「凛として愛」の上映会を企画はしたものの、予算はほとんどなくて許可してもらえるのか、とても心配でした。
でも連絡をしたら「どうぞご自由に」とのお返事で、
条件など聞いたらそういうものは何もないという事でした。

初めてお会いした時はリハビリセンターに入院中で、
そこのビル内にある喫茶店に入り、2~3時間お話をしました。
今の保守に呆れている事や「女性はデモや抗議などに参加するのではなく
女性にしかできない事をやりなさい。子供の教育の事などに力をいれたほうがいいよ。」というような事を話されていました。

それから何度かお見舞いに行くたびに1時間から2時間、色んな話をしました。
お見舞いに行くと帽子やマフラーを身につけたりしていてとてもオシャレをしていました。
監督は「私はネットはほとんどしない」と言っていたのですが、
行くと一生懸命パソコンに向かっている事がありました。
きっと九段塾に書き込みをしていたのかもしれませんね。

パソコンのそばには「少年日本史」という歴史の本があり、
沢山の付箋がはられており、書き込みも沢山してあって、
「次回の映画の構想をねってる」と言っていました。

足が不自由だったのでリハビリをしていたのですが、
九段会館での「凛として愛」の上映会が決まり、壇上に立つ事になった時に
九段会館の壇上へは自分の足で歩いてあがりたいと言われ、
九段会館の階段の段数、階段の幅、高さを調べて、
上映会までの約1カ月、リハビリセンターで同じサイズの階段で同じ段数を毎日あがってリハビリをし
九段会館では自分の足で階段をあがり、壇上に立ちました。


~まだ続きます~

http://www.hanadokei2010.com/

 

自衞隊が皇軍になる日。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月 7日(日)09時51分40秒
返信・引用 編集済
   謹みて、中島一光翁の『自衞隊が皇軍になつた』を紹介させて戴きたい。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Kougun.htm



 愚案、「自衞隊が皇軍」となつたならば、其の殉職者は、靖國神社に合祀されることが叶ふが、隊内に於いて、未だ「邪蘇暦」で教育されてをるやうでは、眞の皇軍たるを得まい。「國民の生命・財産を守る」所の國軍では、「愛する家族・戀人」しか守ること能はぬ。此の西暦で國史の論文を書く最高幹部も、かつて存在した。元號の敕裁は、天皇大權の一つであるが、之を奉ずる者(大御政の下に生くる民)、眞に鮮し矣。關係各位の覺醒を乞ひ奉る。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/106
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/146
  
 

皇民吾人の志操を、更に深化徹底せしめよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月29日(金)22時13分1秒
返信・引用 編集済
   最近、「英霊にこたえる会」企劃制作による映畫『君にめぐりあいたい』(平成十二年・五十三分)が、ユーチユーブに掲上された。申すまでも無く、我等が塾頭・金城福井忠翁の監督・ナレーシヨンによるもの、其の張りのある、燻し銀の肉聲を、お聽きください。

 然しながら『凛として愛』の感動に比ぶれば、啓蒙的にして、且つ感傷的であつて、其の慟哭は、遠く及ばない。金城翁は、平成十二年の『君にめぐりあいたい』完成から、直ちに『凛として愛』の企劃制作に取りかゝつてをられるわけであるが、其の差異は、此の二年間に於ける、翁の研究・志操の深化に因るものと謂ふべきものであらうか。或は「英霊にこたえる会」企劃制作に厭き足らず、翁自らの企劃制作に向はれたものと理解すべきでであらうか。

 『君にめぐりあいたい』には、地の文に「西暦」を見、亦た「愛する家族・戀人の爲めに戰つた」との、金城翁のナレーシヨンが、小生をして九段塾に紹介せしむるに、躊躇逡巡させる‥‥。もつとも翁に於ける研究の深化、論述の先鋭化と云ふよりは、金城翁の「志操の深化」と申すべく、其の覺醒、深化徹底は已むこと無く、松平永芳宮司の精神を明確に打出す所の、櫻および九段塾掲示板の雄叫びこそ、ぼんやりとせる保守人をして驚愕せしめたる大論、吾人が靖國神社正統護持の所據にして、塾頭「晩年の定論」と謂ふべきものであります。塾頭は「散華」・「日本軍」と云ふを嫌ふまでに、其の志操は深められ、遂に神代囘歸の本意を洩らされるに至りました。まさに天皇絶對、擧族殉皇、古學復興を唱道して、所謂る國學の立場を鮮明にされたのであります矣。即ち是れ小生が、福井金城翁遺文ないし泉水隆一翁遺文と曰はず、敢へて「九段塾塾頭(金城翁)遺文」と申す所以であります。


●ユーチユーブ動畫『君にめぐりあいたい』

一、http://www.youtube.com/watch?v=tVkZufA_2Do

二、http://www.youtube.com/watch?v=ddxvcdUy1jk

三、http://www.youtube.com/watch?v=5A2KYw-WnX8

四、http://www.youtube.com/watch?v=Jr5jLr3AejA



 塾頭遺文『靖國神社の真実』出版は、一昨日、或る方面からの「待つた」がかゝり(獨り涕泣する小生、之を聞かれても、明言いたしませぬことを、何卒、御容赦ください)、無念斷腸の思ひでありますが、已む無く、自費出版に切替へざるを得なくなりました。期待たまはりました各位には、こゝに、謹んで御詫び申し上げます。

 これも、悲しき神定めと諦觀し、前向きに考へて參らうと存じます。なほ本年中には、必ず自費出版を遂ぐる所存、九段塾ご閲覽各位の、塾頭を敬慕される同志には、固より無代にて御頒け申し上げますので、其の折には、遠慮なく、册數・送付先を連絡ください。又た此の自費出版『靖國神社の真実』につきましては、當然のことながら九段塾管理者たる「備中處士」が、全責任を負ふものであります。謹白
 
 

中村一仁氏編『淺野晃詩文集』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月16日(土)17時30分30秒
返信・引用
  中村一仁樣 硯北

拜復

 懇篤なる玉翰、難有う存じます。『淺野晃詩文集』(平成二十三年三月・鼎書房刊)を拜戴して、感激してをります。

 小生の學生時代、淺野晃翁に私淑してをりましたので、明治神宮會館に於ける大東塾の講演にて、翁の謦咳に接し得ましたことは、小生にとりまして、忘却する能はざる想出であります。福永眞由美刀自より、御若い御方の、大變な力編と御聞きしました。早速、貴編の大册を披繙するに、辛苦の程が偲ばれて、獨り靜かに泪し、且つ喜んでをります。

 淺野晃翁と申せば、戰前に名著が多くあり、殊に『楠木正成』は、小生の感泣して已まざるもの、能ふべくんば、中村樣の御力にて、是非とも覆刻して戴き、弘く讀まれむことを希望します。皇國の御爲め、現今必要なるものは、大楠公の復活と愚考してをります。

 今の度びは、圖らざる御訪問を賜はり、洵に恐縮いたしました。幾重にも御禮申し上げます。九拜

     玄月書屋にて、備中處士、謹みて白す。
 
 

ご紹介ありがとうございます

 投稿者:中村一仁  投稿日:2011年 7月16日(土)13時46分10秒
返信・引用
  > No.1268[元記事へ]

備中處士 様

『淺野晃詩文集』を編集した中村一仁と申します。
掲示板でのご紹介と懇篤なご感想に厚く御礼申し上げます。
心あるご友人に、本書をおすすめしていただければ幸甚です。
8月15日までに、一冊を靖国神社に献呈したいとも考へてをります。
今後とも、よろしくお願ひいたします。
 

Re: 「金城祭」を明後日に控へて‥‥。

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 7月14日(木)19時15分27秒
返信・引用
  備中處士樣

  十六日午前零時三分。金城祭、承りました。
  なほ、この日は當地、八坂神社天王祭の佳き日でも御座います。
  新小松流五段囃子、謹みて塾頭に捧げ奉ります。

    那須の権太 九拜
 

「金城祭」を明後日に控へて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月14日(木)00時03分16秒
返信・引用 編集済
  九段塾ご閲覽の皆樣へ


謹啓 暑中御見舞ひ申し上げます。


 明日の深夜、正確に申し上げれば、明後日の七月十六日午前零時三分、泉水隆一監督、即ち我が九段塾・塾頭一兵士こと、金城福井忠翁が身罷られて、丁度、一年と相成ります。十六日の其の時刻には、小生が陋屋の神前にて、獨り「金城祭」を齋行しようと存じます。有縁の方々には、七月十六日午前零時三分ごろに、共に各々神床の廣前にて御祭りをされますやう、或は默祷をして戴きますやう、伏して御願ひ申し上げる次第であります。


 顧みれば、金城翁の歸幽も知らず、洵に不甲斐なき管理者でありますが、御教へを拜受した者として、感慨の深く、敬慕の切なるものがございます。せめてもの償ひとして、本年中には、

「九段塾」塾頭・一兵士翁――泉水隆一監督遺文『靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために』

が出版の運びと相成り、江湖の書店に竝びますことは、不肖小生の、深く喜びとする所であります(現在、鋭意、校正中)。


 復た金城祭の翌日、十七日には、「愛国女性のつどい・花時計」(橘まゆみ・藤真知子兩會長)樣により、

泉水隆一監督作品『凛として愛』上映會

が、帝都にて開かれます。翁と親交あつて、『凛として愛』の擴散を長年續けて來られた、東條由布子刀自の協力の下による開催と聞いてをります。當日には、東條刀自により、映畫の事や監督についての想出も語られる由。ご都合の付く御方は、是非とも足を御運び下さい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1265


 炎威赫灼の候、皆樣には、益々ご自愛ご靈健の程、只管ら懇祷いたします。


 平成二十三年七月、靖國神社みたま祭第一夜祭の日に、眞金吹く吉備中つ國にて、備中處士 百拜謹白



 金城翁有縁の方々には、今一度、塾頭の肉聲を御聽きの上、我が塾頭を御偲び下さい。
  ↓↓↓↓↓
【ニコニコ動畫】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
 
 

力めて皇民たらむと欲す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月11日(月)19時43分6秒
返信・引用 編集済
   塾頭の曰く、「備中處士さん、やはりあなたが、いろいろ先哲の言葉を適宜蔵出ししてもらった方がよろしい。ハタと膝を打つことが多い。お願いします。スレッドはスレッドで完成させたにしても、あぶり出」せ、との仰せ。

 下記の、塾頭の「知人」の御方の言葉を想起するたびに、泣けて仕方が無いのである。然し泣いてをつても詮無きこと。此の九段塾掲示版の塾頭遺文を抽出し、再讀熟覽せられむことを。只管ら熱祷す、靖國神社正統護持を庶幾する「天皇の民」よ、出でて靖國神社に參拜し、小さきこと、些細なことでも、皇業翼贊の一端になることは、鋭意、努められむことを‥‥。懇祷して已まない。不幸にして、「天皇の民」たる自覺が無くんば、力めて「天皇の民」と爲るべく、小生と共に勉勵せよ。
  ↓↓↓↓↓
【天皇の民でなくなつた日本國民の罪】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/186



【明治神宮と靖國神社との御關係】
  ↓↓↓↓↓
賀茂百樹宮司『明治神宮と靖國神社との御關係』昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm
  ↓↓↓↓↓
 此の遺文、即ち賀茂葵園宮司の本文を、有志には、是非とも轉記擴散せられむことを。


●中今亭葵園加茂百樹賀茂縣主眞定大人
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kamo_career.htm
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t8/l50
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t4/l50



【痛恨、慘たり矣哉――靖國神社の現状――】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/170
 
 

『淺野晃詩文集』を拜す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月 3日(日)00時50分8秒
返信・引用 編集済
   先般、河原博史主の導く所、帝都青山なる大東會館に推參し、初めて影山正治塾長・相原修神主の神位に拜禮した。感激、已む能はざるものがあつたが、其の折、福永眞由美刀自より、御書を賜はり、且つ中村一仁氏編『淺野晃詩文集』(平成二十三年三月・鼎書房刊)のパンフレツトあるを見せて戴いた。早速に注文した所、かつて紹介させて戴いた『天と海――英靈に捧げる七十二章』も收められてゐる。淺野晃翁は、小生の若き時からの憧れの御方である。
  ↓↓↓↓↓
【楠木正成】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/11
【天と海――英靈に捧げる七十二章】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t18/8
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t18/9
【明治の精神】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/8
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/255
【明治文學史考――漱石と鴎外と天心】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/185
【參考・野乃宮紀子女史『浅野晃先生の部屋』】
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~houki/bungaku/asano/asano.htm

 また刀自は、其の愛弟子との御由。該書は七百頁餘の大册(第一章・詩歌/第二章・評論・エツセイ/第三章・苫小牧・穗別・室蘭/第四章・追悼・囘想)であるが、翁の詩歌から、少しく紹介させて戴きたい。



●淺野晃翁の詩哥

○敕題連峰雲――八首のうち二首――『ひむがし』昭和十七年一月號
ひまらやの 雪に雲湧く 峰すらに あじあの一を 妨げずといふ
みいくさが 踏み破りけむ 大別や 廬山の雪は 稜威(いつ)の旗雲

○大詔を拜しまつりて――六首のうち二首――『ひむがし』昭和十七年二月號
大御言 かしこみまつれ 畏みて 醜のえみしら 撃ちてしやまむ
大いなる この日に逢へる 喜びに ほとほとわれや 息づきがたし

○海原抄・ジヤワ敵前上陸――九首のうち一首――『文藝日本』昭和十七年十二月號
敵(あた)の艦隊(ふね) すでに沈みて 朧夜の 潮(うしほ)の流れ 果てなかりけり

○アツツ島勇士を弔ふ歌一首――近詠七首のうち一首――『ひむがし』昭和十八年七月號
天地に おらびをたけび 齒がみして 鬼となりけむ ますらをの伴

○マリアナの忠魂を哭す――『文藝日本』昭和十九年十・十一月合併號
マリアナの悲報、今夕、到る
神州の一角、米英に委す
幾萬の忠勇、つひに玉碎
切齒、南天を望めば、皆裂く
鐵壁の陣、精強の兵
三旬の激鬪、たゞ身をつくす
砲破れ、彈つき、如何ともするなし
むなしく睥睨す、敵機の亂舞するを
只もとより一死七生を期す
なんぞ敵營を衝いて鐵槌を下さざる
微衷、無電に托して、闕下に謝し
殘軍、長驅して、敵營を衝く
指揮官は、つねに陣頭にあり
勇戰、力鬪、臣が事畢る
東向、再拜すれば、血涙埀る
隊長、將兵、相重なつて斃る
別に、幾千の同胞のあるあり
協心戮力、またみな盡く
可憐の少女、髮を梳つて逝き
無心の幼童、乳をまさぐつて瞑す
山谷、周海、ことごとく碧血
全島、化して忠魂の場(には)となる
忠魂は死せずして、神州を護る
米英の跳梁、つひに何するものぞ
君見ずや、太平洋上、萬朶の櫻
却つて報ず、正氣發動の秋

○勇士を懷ふ歌――十四首のうち八首――『ひむがし』昭和十九年十二月號
 神風特別攻撃隊敷島隊の壯擧を聞きて感慨禁ぜず
神風と その名は負ひて 行き行きて 斃れにけりと 聞くはまことか
きほひ來し 仇のしこ船 わが身もて 屠り去りぬと 聞くはまことか
ししむらを たゞに火となし 仇の船を 燒き亡ぼすと 聞くはまことか
ひとひらの 肉もとゞめず 碎け去ると さやけく征きし 若人おもほゆ
ますらをが 水づきし跡は 標たてむ その日をここと 人の知るべく
うつそみを たまともなして 仇の船 沈めし跡は よろづよにあらし
 影山正治を送る二首
君が征く けふの門出の 朝戸出に 手ばなれ惜しみ 泣きにけむ子らは
ますらをの 道のひとすぢ ゆきゆきて 斃れむ君と さらに思ふかも

○近詠御題社頭寒梅歌竝短歌――九首のうち三首――『ひむがし』昭和二十年一月號
 聖戰ここに三年なり
大御言 うけたまはりて 速きかな 三とせは經にし これの三とせを
みいくさが をえこやせりと 聞くごとに たのみしものは みいつなりけり
みいくさは 今ぞ奮ふを 國内なる もものつかさら など奮ひだたぬ

○年頭所感――七首のうち三首――『ひむがし』昭和二十年二月號
初春の 宮居の空を 仇のつばさ 翔けらしめつゝ あにくやしかも
荒男らが 驅りてゆくべき つばささへ 足らはぬ歎き するとふものを
勝ち負けは なべて思はず みかどべに おのれがいのち つくすばかりぞ

○春日――九首のうち五首――『ひむがし』昭和二十年三・四月合併號
 わが友、島田叡、沖繩に知事たり。至誠純忠、固より生を偸まず三首
わが友の 君はますらを ますらをの 君がなげきは 我が知るものを
みたみの 道の一筋 ゆきゆかば 悔あらじやと 言ひし君はも
いかならむ 時にと逢ふとも たまわざる ますらを君が やまとだましひ
 保田與重郎、急に應召出征すと聞きて二首
わが道の しるべと依りし 君をいま 朔北の野に 送るゆゝしさ
君すらに 筆を劍に 執りかへて いくさの庭に 立つとふものを

○月明を載せて歸る――昭和五十九年十月『春秋』第一集
月明を載せて 船が
歸つてくる
はるか海阪の浪折を越え
しづかに浪の秀をかがやかせて
歸つてくる
みよしには菊のしるし
帆柱には高く日の丸の旗をひるがへし
あとからあとから無數の船が
十二の海から歸つてくる
ああもうここは
祖國の海だ
いま死者は歸つてきた
國のためにいのちを捨てた勇士は歸つてきた
 (われらは みな 愛した
  責務と 永訣の時を)
祖國は敗北と死のためにあつたのか
それとも再生のためにあつたのか
このうつくしい國
小さいが強い國
明るい清い直ぐな國 日本
亡びてはならない國 亡ぼしてはならない國
今宵 祖國の山河は音をひそめ
里といふ里 村といふ村 町といふ町が
家ごとに迎へ火をたいて
待つてゐる
誰ひとり眠らずに 待つてゐる
たんぼで稻穗のさやぎ 鳴いてゐる馬道
門べでは母の聲 妻子(めこ)の聲
迎へ火の焔は月光をつたつてあがつてゆく
ああこのうつくしい國土 それは
歸つてくる死者のためにあつたのだ
船の姿はしだいにはつきり見えてきた
たいへんなたいへんな數の船だ
へさきが分ける浪は花と散り玉と碎け
山河は靜まり 月は天心
甲板の上では遠く遠く
歡呼の聲が湧きあがり
聖なる夜 招魂の夜よ
月明を載せて 船は
ぞくぞくと歸つてくる

○哭三島由紀夫――「虹の門」昭和四十六年一月『新潮』臨時増刊號・三島由紀夫讀本
あかい一本の道のはて
君のなかのふかい歎きが
君のなかのふかい悲しみが
その肉体を一擧に運び去つた
けはしく光る雲のした
あかい一本の道のはて
 われらはみな愛した
 責務と永訣の時を
歴史の不如意に足摺りした君よ
裝ひをあらためて君は
虹の門から過ぎていつた
君の英靈は鶴となつて
故國の秋の天を翔ける

○三島由紀夫の君の英靈に捧げまつる――昭和四十六年四月『バルカノン』第二十三集
日の本の文のはやしの
かぐはしき誇りの花と
すずしきほまれの星と
人みなのたのみし君は
世の中のけがれにしまぬ
清き明き直き心の
かくさはぬ赤き心に
くたちゆくみよを歎かし
しきしまの大和こころを
よびさまし振ひおこすは
この時とおもひきはめて
劍太刀鞘ときはなち
かくり世に入りましにける
七たびを生きもかはりて
すめ國を守らむのちかひ
語りつぎ言ひつぎゆかむ
ますらをの伴
 反歌
父母を 妻子を筆を あとにおきて 國のしづめと いでたたしたり

○秋の歌――三島由紀夫君の英靈に捧げる――昭和五十五年十一月『憂國忌パンフレツト』
君逝いて十年 夕空晴れて秋風吹き
君逝いて十年 月かげ落ちて蟲鳴く
すみゆく水に 秋萩埀れ
珠なす露は すすきに滿ちて白い
君逝いて十年 大海うねりを返して
朝を呼ぶことしきり
君逝いて十年 アンコール・トムのバイヨンの
觀自在の慈眼は再びここに
 われらはかくの如くにしていつた
 くらい波濤の夜のなかをいつた
 われらは みな 愛した
 責務と 永訣の時を 愛した
君逝いて十年 恍として一日の如けれど
銀河のもと 菊花は肅として地に香る
君逝いて十年 ガンヂスは重きこと磐石の如けれど
雷火は絹の道を打つた 道は裂けて紅蓮の焔を
噴いた
君逝いて十年 天意やうやく動いて
神を畏れぬ權力の使徒らのたくらみは敗れた
君逝いて十年 天日ここに光を囘し
燦としてアジアの道を照らし出すか

○獻詩――平成十二年十一月『憂國忌パンフレツト』
雄々しき殉國の御靈よ
若きらの直き心を力づけ
大御稜威輝やかせたまへ
 平成元年十一月二十五日 發起人代表・淺野晃

○奉悼八首――『不二』平成元年二月號
神ながら 朝日の如く 仰ぎ來し わが大君は かくれたまひぬ
未曾有の御代の 六十年 しらしたまひし わが大君は かくれたまひぬ
身はたとへ いかになるとも 國民をと 宣らしたまひき 畏くもあるか
五内ために 裂くと宣らせし 大御言 畏かりけり その大御言
戰ひの 責任はすべて 我にありと 仰せられたり 畏かりけり
聖斷の みかげにて國あり 御民あり そこ思へば哭かゆ 畏くて哭かゆ
萬世の ために太平を 開かむと 宣りたまひたり 大き御言や
御身をもて 國内(くぬち)もれなく 行きて見ると 出で立たしけり 哭かざらめやも

○奉悼六首――『祖國と青年』平成元年三月號
降伏の 斷を下され 神ながら 御祖の御國 保ちたまひき
身はたとへ いかになるとも 國民をと 宣らせしことの 畏くもあるか
五内ために 裂くとのたまひき 大御言 畏こかりけり その大御言
戰ひの 責めはことごとく 我にありと 宣らせしことの あまりの畏こさ
萬世の ために太平を 開かむと 宣りたまひける 言の尊とさ
御民われ 哭きて申さく 聖斷の おかげにて御國あり われら在りここに

○奉悼歌――平成元年十月『春秋』第十集
かけまくも あやに畏き わが大君 去年(こぞ)の秋より おん病篤しときけば 國民はおどろき惑ひ 御平癒を祈りまつると 記帳所に列をつくりし そのかひもなく 父ともたのみ 祖父ともたのみし 大君は崩御(かくれ)たまひぬ。今日といふ日のこの刻(とき)に 最後(いやはて)の大き行幸(みゆき)に 出で立たします。大砲のとどろと響けば 一億のわれら民草 肅としてつひに聲なし 思ひ出は早瀬と湍(たぎ)ち 溢るるは涙なりけり。
 爆撃にたふれゆく民の上を思ひいくさ止めけり身はいかならむとも
ああ かの日 陛下斷を下され いくさ止めさせたまひき。國も民もかくてぞここに在るなれ。そこ思(も)へば思ひは盡きず 占領軍司令官を訪はして 責任はすべて自分にある 自分の身はどうなつても 國民の飢ゑを助けてよと 願はれしことの畏こさよ。廣島長崎大方焦土となりし國内 九州より北海道まで 隈なく巡り歩かして 夫(つま)や子を失ひ歎く遺族に 慰めの聲をかけられ 炭鉱の切羽に入りて 働く人びとを勵まされし。
 國のためいのち捧げし人びとのことを思へば胸迫りくる
 年あまた經にける今日も殘されし家族(うから)おもへば胸迫りくる
 思はざる病となりぬ沖繩を訪ね果たさむ務めありしを
病氣がなほつて沖繩に行ける日が待遠しいと、傍への人に漏らされしとか。戰前、戰中、戰後を通じ、陛下はつねに國民とともにおはして 喜びも悲しみも共にしたまひき。そこ故に 國民は ただ一筋に いくさの時を力(つと)めき。みいくさは軍部が暴走に暴走を重ね 陛下の御制止もきき入れず くやしくもつひに敗れたり しかれども大東亞のいくさのあと 世界地圖は色どりを一變し アジアの植民地は解放され 帝國主義の支配は一掃されたり 靖國の英靈たちが 聖なる戰の初一念を いのち捧げて果たしたるよ さればこそ經濟は敗戰から繁榮を生み 昭和の御代は世界史に これら二つの奇蹟をしかと印したるなれ 大君の大き御業(みわざ) 神ながら大き御稜威と 御民われら永遠(とこしへ)に稱へ奉らむ 畏こかれども。
 反歌
萬世の 爲に太平を 開かむと 宣らせし御聲 永遠なるかも
 平成元年二月二十四日 誠惶誠恐敬白
 
 

泉水隆一監督『凛として愛』上映會の御知らせ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月28日(火)01時09分6秒
返信・引用 編集済
  ――「愛国女性のつどい花時計」樣からの告知――

 「花時計一周年記念」として、塾頭二囘忌の翌日、泉水隆一監督作品が、再び上映されると云ふ。我が塾頭・福井金城翁、即ち泉水監督の顯彰が叶ひ、其の精神の恢弘が圖られることは、小生にとつて、こんなに嬉しいことは無い。

 先般は、「よーめん」樣が、『凛として愛』の英語字幕版を完成し、米英人の視聽する所となつた。遂に『凛として愛』が、宇内に擴散して、日本の正義が喧傳されたと謂はねばならぬ。驚きと共に、塾頭の快哉が、目に浮かぶやうである。
  ↓↓↓↓↓
http://youmenipip.exblog.jp/15892384/

 「『この映畫を見た人が、大和民族の魂に觸れて、勇氣を持つて、映畫館から出て行つて貰ひたい』と語つた、故泉水監督の思ひに應へて、一人でも多くの方にご來場いたゞければ嬉しいです」と。大畫面で視る『凛として愛』は、深い覺醒と新たな決意を生むことであらう。花時計樣に敬意を表すると共に、ご盛會を御祈り申し上げます。

【轉載歡迎の由】
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/schedule_detail.php?schedule_no=145

**********

■日時:平成23年7月17日(日)
第一部 映画『凛として愛』上映会 11時開場 11時30分開演
第二部 懇親会(立食)      13時30分開始

 映画『凛として愛』上映会は、故泉水隆一監督と親しくされ、また『凛として愛』の拡散を長年続けてこられた、東條由布子氏のご協力により開催します。東條氏には、映画の事や監督についてのお話も聞かせていただく予定です。


★『凛として愛』とは‥‥

 ニコニコ動画で、「全日本人が見るべき映画No.1」とされたドキュメンタリー映画です。明治開国から大東亜戦争まで、日本が戦って来た歴史を約70分でまとめてあり、自虐史観に染まっていた人も、これを見て、一気に開眼すると言われています。
 「靖國神社創立百三十年記念事業」の一環として、2年の歳月をかけて制作されながら、保守陣営の圧力等により、たった2日半で、上映中止となってしまいました。
 故泉水監督(平成22年7月16日逝去)の遺志を継いで、花時計では、DVD資料として拡散に力を入れています。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
(送料・手数料とも 1,000円)


■会場:文京シビックセンター26Fスカイホール
東京都文京区春日1-16-21
東京メトロ 後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分
都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分
JR総武線・水道橋駅(東口)徒歩9分

■参加費:
上映会のみ参加     2,000円(当日2,500円)
懇親会のみ参加     2,000円(当日2,500円)
上映会・懇親会とも参加 3,000円(当日4,000円)
※ 懇親会へは、お子様連れでもご参加いただけます。小学生以下は、無料です。

■主催;
* 愛国女性のつどい花時計
* NPO法人環境保全機構 東條由布子

■参加方法:
 7月14日(木)までに、こちらのフォームよりお申し込みください(携帯可)。参加費は、事前にお振込いただきます。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/form1_20110717.php

 ご不明な点は、「hanadokei2010@gmail.com」まで、お問い合わせください。

**********
  
 

水戸家傳來の「皇室中心・忠孝爲本」の大精神を、宜しく恢弘發揚すべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月26日(日)18時24分29秒
返信・引用 編集済
  ■右大臣正二位・源實朝公の哥(『金塊和歌集』太上天皇御書下預時)

○大君の 勅をかしこみ ちゝわくに 心はわくとも 人にいはめやも
○山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君に二(ふた)心 わがあらめやも
○ひんがしの 國にわがをれば 朝日さす はこやの山の 影となりにき



【水戸義公は、勤王の倡首にして、實に復古の指南たり】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/15
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/327

 こゝに、下記論稿他に據り、先哲遺文を拜記し、水戸家傳來の「皇室中心・忠孝爲本」の大精神を闡明し、更めて恢弘發揚せむと欲す。嗚呼、恣意私見を弄び、俗論横行して已まぬ現代に在つて、尊皇の大義を掲げるは、已む能はざるもの有り。轉語して云はむ、往昔を偲べば、源實朝公の俤を、我が義公に拜す。實朝公の深く切なる志は、慶喜公に於いてか遂げ畢ぬ(大政奉還・納地辭官・謹愼待罪)と謂ひつ可きなり矣、と。嗚呼、王政復古・明治中興の實は、此處に初めて其の意義を存するなり。

一、楓廼舍名越時正翁『徳川慶喜――とくに大政奉還をめぐつて』(昭和四十二年。『水戸學の研究』五十年五月・神道史學會刊に所收)
一、名越時正翁『徳川慶喜の大政奉還と義公の遺訓』(『水戸史學』昭和六十二年十月・第二十七號。『水戸學の達成と展開』平成四年七月・錦正社刊に所收)
一、紹宇近藤啓吾先生『三種神器説の展開――後繼者栗山濳鋒』(『藝林』平成五年十一月。『續々山崎闇齋の研究』平成七年四月・神道史學會刊に所收)



【水戸徳川家】
            曾孫                ┌─第十五代將軍慶喜
第二代   第三代   第六代   第七代   第九代   │第十一代
∴義公光圀――肅公綱條――文公治保――武公治紀――烈公齊昭─┴─節公昭武
  ↓↓                      ↓↓
贈正一位高讓味道根命              贈正一位押健男國御楯命



□徳富蘇峰翁『近世日本國民史』徳川幕府上期中卷統制篇「天海の眞意奈何」に引く所の水戸烈公『不慍録・草稿』に曰く、「

 台徳院殿(秀忠)御代に、天海坊主の邪智に心付き給はず、「宮門跡を附弟として、關東へに置けば、萬一非常の事ありても、その日光の宮を以て、今上と定むる時は、朝敵にはならぬ」由を主張したるを、時の執政共、愚昧なりにしや、事、成就したれども、予、今、是を思ふに、若し其の非常の事あらんに、天海が言ひし如く、日光の宮を今上と定めて、今上に弓をひく者あらば、其の宮ぐるみ朝敵なれば、有志の武士、誰か斯かる叛逆の人に與す可き」と。



●義公『常山文集』卷十五

[我(義公光圀)今年致仕し、故郷に歸る。仲冬二十九、夙に江戸の邸を發す。別れに臨み詩を賦し、男・九成(肅公綱條)に遺す。文、點を加へず、口に信じて漫に道ふ。]
元祿庚午の冬、跡を遁る、東海の濱。
致仕して印綬を解き、縱に葛天の民に作る。
盤旋す、廣莫の野、一洗す、榮辱の塵。
昔、首陽の薇に涎し、今、呉江の□[艸+專]を羹にす。
三十有年來、夙志、焉に於いて伸ぶ。
予れ去つて、又た何の處ぞ、知らず、再會の辰。
嗚呼、汝、欽めよ哉、國治めむるに、必ず仁に依れ。
禍ひは、閨門より始まり、愼みて五倫を亂す勿れ。
朋友、禮儀を盡し、旦暮、忠純を慮れ。
古へ謂ふ、君、以て君たらずと雖も、臣、臣たらざる可からず、と。

○文公治保の奧書に云ふ、「此の一章なる者は、元祿庚午の冬、西山(義公)先公の賦する所、載せて『常山文集』に在り。忠を含み、慈を宣ぶ。義方の訓、皓として日星の如し。治保、深く心に銘すること有り。因りて自ら拜書す。常に視て戒めと爲す。且つ子孫をして、永く文武兼備の徳を欽仰せむと欲す。安永著雍閹茂の夏、源治保、謹書す」と。



●『桃源遺事』卷三(常陸神社竝水戸史學會編『水戸義公傳記逸話集』昭和五十三年七月・吉川弘文館刊に所收)に曰く、「

 西山公、むかしより御老後迄、毎年正月元日に、おんひたゝれを召され、早朝に、京都の方を御拜し遊ば被れ候ふ(水戸にては、之を『天拜』と稱せり――『景山公隨筆』)。且つ又た折節、御咄の序に、『我が主君は、天子也。今將軍は、我が宗室也[宗室とは、親類頭也]。あしく了簡仕り、取違へ申すまじ』由、御近臣共に仰せられ候ふ」と。

○近松茂矩『圓覺院樣(尾張第四代藩主・吉通公)御傳十五箇條』(明和元年。『名古屋叢書』第一卷・文教編に所收)に曰く、「(吉通公)御意に、源敬公(義直公)御撰み『軍書合鑑』卷末に、『王命に依り催さる事』といふ一箇條あり。‥‥此の題目に心をつくべき事ぞ。其の子細は、當時一天下の武士は、みな公方家を主君の如くにあがめかしづけども、實は左にあらず。既に大名にも、國大名といふは、小身にても、公方の家來あいしらひにてなし。又た御譜代大名と云ふは、全く御家來也。三家の者は、全く公方の家來にてなし。今日の位官は、朝廷より任じ下され、從三位中納言源朝臣と稱するからは、これ全く朝廷の臣なり。されば、水戸の西山殿は、『我らが主君は、今上皇帝なり。公方は旗頭なり』との給ひし由。然ればいかなる不測の變化ありて、保元・平治・承久・元弘のごとき事出來りて、官兵を催される事ある時は、いつとても官軍に屬すべし。一門の好みを思ふて、かりにも朝廷にむかふて弓を引く事あるべからず。此の一大事を子孫に御傳へ成されたき思召にて、此の一箇條を卷尾に御記して遺されたりと思ふぞ」と。

○栗里栗田寛博士『天朝正學』に曰く、「義公の、心を王室に致せしことは、決して宗家を棄て顧みざると云ふことにはあらず。當時の人、未だ君臣の大義を心得ず、唯だ幕府あることを知りて、朝廷あることを知らず、幕府を君と心得る武夫悍卒どもなりし故に、其の義を人に知らしめんとて、『我が主君は、天子なり。今將軍は、我が宗室なり』と仰せられしなり。さて義公の心事を察し奉るに、朝家の衰微、古に比すべきにあらず、即位の禮も大嘗の祭事も行はれず、百敷の大宮所も、僅か四丁四面に過ぎず、神武(天皇)以來の山陵も荒廢して修めず、恆例の年中行事もなく、あれどもなきが如きありさまにて、外人より見るときは、山城天皇と云ふばかりのことなりければ、さぞかし痛憤悲歎せられしなるべきこと、平生の御事業上より見ても、然か思はるゝことなり。‥‥義公、心に王室にいたし給へるが上に、當時、關東の事を憤らせ給へる、後水尾院の御孫女(御姪の誤)を水戸に下さるゝは、極めて故ありしならんと思ひはからる」と。



●雲龍青山延于翁『武公遺事』(文政二年)に曰く、「

(武公・治紀)公は、御平生、朝廷をことの外、御崇敬遊ば被れけり。或る時、景山公子(烈公)へ、御意遊ばされけるは、

『たとひ何方の養子と成り候ふとも、御譜代大名へは參り申さず候ふ樣に心得申す可く候ふ。譜代は、何事か大變出來候へば、將軍家にしたがひをる故に、天子にむかひたてまつりて弓をも引かねばならぬ事也。これは常に君としてつかうまつる故に、かくあるべき事なれども、我等は、將軍家、いかほど御尤もの事にても、天子に御向ひ弓を引かせられなば、少しも將軍家にはしたがひまつる事はせぬ心得なり。何ほど將軍家、理のある事なりとも、天子を敵と遊ばされ候ふては、不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはあるまじ

と仰せられければ、公子、『左樣に候はゞ、公には常々將軍家を御敬まひ遊ばされ候ふて、毎月の御登城をも、かゝせられざるは、何故にて候ふ』と仰せられければ、御意に、

『將軍と云ふは、天下の政を執らせ給ひて、日夜、御こゝろのひまなき故、下民も其の徳に服したてまつりて、一人もしたがひたてまつらざる者なく、大名なども、一人にても服さぬ者はあらず。しかれば漢土などに候へば、革命にもなるべき勢ひもあらせられ候へども、天子を御うやまひ遊ばされ候ふ故に、又た我等も將軍家をうやまひ奉るなり』

と、御意遊ばされたり。又た御意に、

『我等もかく存じ候ふても、天子に向ひたてまつりては、弓をばひかぬ心得なれば、子供にも其の心得にて、譜代大名の養子となるまじきことなり』

等と、御意遊ばされけると也」と。



●徳川慶喜公『上表文』(『徳川慶喜公傳』卷七・附録第三に所收)に曰く、「

 臣慶喜、謹みて皇國時運の沿革を考へ候ふに、昔し王綱紐を解きて、相家權を執りて、保平の亂、政權武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵眷を蒙むり、二百餘年、子孫相受け、臣、其の職を奉ずと雖も、政刑當を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候ふも、畢竟、薄徳の致す所、慙懼に堪へず候ふ。

 況んや當今、外國の交際、日に盛んなるにより、愈々朝權一途に出で申さず候ふては、綱紀立て難く候ふ間、從來の舊習を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡し、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護し仕り候得ば、必ず海外萬國と竝び立つ可く候ふ。臣慶喜、國家に盡す所、是に過ぎずと存じ奉り候ふ。

 去り乍ら猶ほ見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候ふ。之に依り此の段、謹みて奏聞仕り候ふ。以上。

詢[詢の一字は、朝廷にて記入せるもの、未だ其の故を詳かにせず]。

 十月十四日、慶喜」と。



●徳川慶喜公『上書』(『徳川慶喜公傳』附録第七に所收)に曰く、「

 此の度び上京先供、途中偶然の行進より、近畿騒然に及び候ふ段、已むを得ざる場合にて、素より天朝に對し奉り、他心之れ無きの段は、兼ねて御諒知の通りに候ふ。併せて聊かたり共、宸襟を惱まし奉り候ふ段、恐入り候ふ儀に付き、浪華城は、尾張大納言(慶勝)・松平大藏大輔(慶永)へ相托し、謹みて東退仕り候ふ。已上」と。



●櫻癡福地源一郎翁『幕府衰亡論』(明治二十五年十一月。大正十五年・民友社改版。東洋文庫・昭和四十二年十月・平凡社刊)に曰く、「

 其の一身の生命を犠牲にし、徳川氏の存亡を犠牲にして、專ら國家の幸福と國民の安寧とを望まれたるは、決して尋常の思想に非ざることを得て知るべきなり。然らば即ち前將軍は、徳川氏滅亡の際に臨みて、能く其の終りを全くせしめたるの明將軍なりと認めらるべき人に非ずや」と。



●菊池謙二郎翁『水戸の學風と尊皇』(『水戸學論叢』昭和十八年十一月・誠文堂新光社刊。平成九年十二月・國書刊行會「水戸學集成一」覆刻に所收)に曰く、「

 あゝ、他人をして慶喜公の地位に在らしめたら、どうであつたらう。政敵よりは迫害を被むり、家臣よりは怨恨を買ひ、而かも天を怨まず人を尤めず、一意、皇室を思ひ國家を憂へられた其の至誠は、何人か企及し得る所であらうか。明治維新の大業の一半は、公の至誠に歸せざるを得ない。而して公をして此の如くならしめたる其の一半は、又た祖宗の遺徳である。義公以來、尊皇思想の涵養蘊蓄せられた結果である。公は、實に尊皇の大義に由つて、皇基を護られた方である」と。



●青淵澁澤榮一男『徳川慶喜公傳』卷四「逸事」に曰く、「

 明治三十四年の頃にや、著者・榮一、大磯より歸る時、ふと、伊藤公[博文]と汽車に同乘せることあり。公爵、余に語りて、「足下は常によく慶喜公を稱讚せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其の非凡なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さゞる者なるに、今ま此の言ありければ、「そは何故ぞ」と、推返して問へるに、「一昨夜、有栖川宮にて、西班牙國の王族を饗應せられ、慶喜公も余も、其の相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に、公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり。公は迷惑さうに答へけらく、

『余は、何の見聞きたる事も候はず、唯だ庭訓を守りしに過ぎず。御承知の如く、水戸は義公以來、尊王の大義に心を留めたれば、父なる人(烈公)も同樣の志にて、常々諭さるゝやう、「我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふに及ばざる事ながら、此の後、朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらん事も計り難し。斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に對し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以來の遺訓なれば、ゆめゝゝ忘るゝこと勿れ、萬一の爲に諭し置くなり」と教へられき。されど幼少の中には、深き分別もなかりしが、齡二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、「今や時勢は變化、常なし。此の末、如何に成り行くらん、心もとなし。御身は丁年にも達したれば、よくゝゝ父祖の遺訓を忘るべからず」といはれき。此の言、常に心に銘したれば、唯それに從ひたるのみなり

と申されき。如何に奧ゆかしき答へならずや。公は、果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したる序に、此の伊藤公の言を擧げて問ひ申しゝに、「成る程、さる事もありしよ」とて、頷かせ給ひぬ」と。



●『東京朝日新聞』大正二年十一月二十三日附に曰く、「

(慶喜)公の、決然として政權を返上したるは、大國主命が我が國土捧げたるよりも優れり。公は群疑の間に立ち、因習の中に纏はれつゝ、毅然として三百年、否、七百年の政權を返上したるもの、假令ひ勢ひの然らしむる所とはいへ、公の誠忠と果斷とに由らずんばあらず、其の群疑を斥け、誘惑を排し、斷乎として所信を遂行して、寸毫未練の猜疑も無きは、公の潔白なる眞精神に由らずんばあらず。王政復古・維新の大業を成就したる所以のもの、公の力に由るもの多しと言ふに憚らざる所なり。‥‥

 東京市民として之を見れば、公は三百年、東京市民を保護したる徳川幕府の最後の主人なりき。日本國民として之を見れば、明治維新の新天地を開くに、最大の功績ありし一元勳なりき。皇室よりして之を見れば、義・烈兩公の理想を實現したる勤王の忠臣・義臣なりき。個人として之を見れば、人格高尚にして、俗人に超越し、識見雄大にして、大局を達觀するの明あり、君國の大事に對して、一身の榮華を犠牲にする精神の輝ける偉人なりき。吾人は近代の日本歴史に於いて、赫赫たる功業、恰も日の如き明治大帝を有するを誇ると同時に、さながら月にも比すべき徳川慶喜公を有するを誇る者なり」と。



●澁澤青淵男編『昔夢會筆記――徳川慶喜公囘想談』卷一の三「烈公の御教訓の事」(東洋文庫・昭和四十一年十月・平凡社刊)に曰く、「

 烈公、尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先だち、庭上に下り立ちて、遙かに京都の方を拜し給ひしは、今なほ知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん、烈公、一日、予を招きて、

『おほやけに言ひ出すべきことにはあらねども、御身も、もはや二十歳なれば、心得のために、内々申し聞かするなり。我等は、三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは、今さらいふにも及ばざることながら、もし一朝、事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるゝごときことあらんか。我等は、たとへ幕府には反くとも、朝廷に向かひて弓引くことあるべからず。これ義公以來の家訓なり。ゆめゝゝ忘るゝことなかれ』

と宣へり」と。



●萩野由之博士『徳川慶喜公傳の跋文』(大正七年)に曰く、「

 余、前史を讀みて王覇の興亡に至る毎に、亂離相踵ぐを慨歎せずんばあらず。鎌倉幕府の末路は彼の如く、室町幕府の季世は彼の如し。然るに獨り江戸幕府の令終、此の如くなるに想ひ到る毎に、かしこくも明治天皇の御威徳を欽仰し奉り、又た之を輔翼し奉れる、三條・岩倉・西郷・大久保・木戸諸公の忠節を追慕すると共に、最後の征夷大將軍が、善く恭順の至誠を輸するにあらざれば、之に至ること能はざるを思はずんばあらざりき」と。



●漠然名越時孝翁『水戸弘道館大觀』(大正九年。昭和十九年七月・茨城出版社刊。五十六年四月・常陸書房覆刻)に曰く、「

(慶喜公が)幾多士臣の切なる進策と、幾多人情の強き誘惑と、其の心を動かすべき機會の十分なるに拘らず、一切、之を打排し、斷乎として恭順を表された其の心情は、殆んど常人の解し難き所であらう。況して利害得失などの打算的胸臆では、とても分らぬ所である」と。



●蘇峯徳富猪一郎菅原正敬翁『義公頌徳碑』(昭和三十年七月十一日。湊川神社建碑)に曰く、「

 人類の歴史は、群衆の力によりて運行せらるるも、群衆の力は、必ず指導者を待つて、而して後ち動くものなり。所謂る一人にして、百世の師たり。一言にして千秋の法たるもの、是なり。乃ち我が徳川光圀公の如き、寔に其の典型的人物と爲す。

 公は、徳川幕府の始祖家康の孫にして、家康の末子頼房の子なり。徳川幕府、威權赫々の初期に於て、我が國朝の淵源に遡り、夙に尊皇の大義に徹し、水戸藩主として庶政を刷新し、藩民を撫育し、老を恤み窮を濟ひ、農を勸め工藝を隆にし、殖産厚生に、其の力を效し、更に彰考館を設け、國史の編纂を創め、史才の士を四方より招致し、人を派して天下の祕庫を披訪し、以て史料を蒐集し、我が勅撰國史の祖たる日本書紀の根本原理を基調として、『大日本史』を述作す。此の如くして皇室中心の指導精神は、以て我が日本全國に發育し、扶植せられたり。乃ち徳川幕府の末期に際し、公の後裔、入りて宗家を襲ぎ、十五代將軍となるとき、大政を奉還し、恭順の忠誠を表したる、一に公の遺訓に由るものなり。

 公や、其の先代の意に由りて、已むを得ず、其の兄を超えて封を襲ぎたるを遺憾とし、其の兄の子を養うて其の後を讓り、西山に退隱し、汎く庶民に接し、禍機を未發に察し、獨決、以て之を防止し、明末の志士・朱舜水を待つに、師禮を以てし、身は一隱士として、心は邦家百歳の後に及ぶ。氣宇高濶、靈機活潑、神儒佛、諸士百家の説を取捨揀擇し、打つて一丸となし、以て我が皇室中心、忠孝爲本の用に供せざるはなし。

 乃ち公が湊川楠公墓畔に、『嗚呼忠臣楠子之墓』の碑を建てたるが如き、之が爲めに楠公の精忠大節を中外に顯彰し、天下後世をして、楠公至誠の精神に景仰嚮往せしめ、世道人心を警發振作し、延て皇室中心の大義を、我が日本全國に宣揚したるもの、只だ此の一事を以て、公を不朽たらしむるに足る。宜なるかな、後西天皇の『備文兼武、絶代之名士』の宸言を、公に賜ひたりしことや。

 比ろ時局一變、人心浮動に際し、有志の士相議し、楠公墓畔に公の銅像(平櫛田中翁作)を樹て、併せて頌徳の碑を添へんことを企て、文を予に徴す。仍て不敏を顧みず、茲に其の大旨を掲げ、以て公の志趣を昭かにす。蓋し公の皇室中心、忠孝爲本の精神は、天地を極め、萬世に亙りて、其の光輝を赫灼たらしむ。固より予の區々言辭を竢たざるなり。

 火國後學蘇峯・菅原正敬、頽齡九十又二、拜撰す」と。
 
 

山崎闇齋先生『拘幽操』の表章、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月20日(月)22時26分46秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

程子曰く、韓退之『羑里操』を作つて云ふ、「臣が罪、誅に當りぬ兮。天王は聖明なり」と。文王の心を道(い)ひ得て出し來る。此れ文王至徳の處ろ也(『(程氏)遺書』)。
【絅齋先生】
 『拘幽操』で、「至徳」と云ふの眞實の吟味が盡きると云ふことが、此の説であいたぞ。

問ふ、君臣・父子は、同じく是れ天倫なるも、君を愛するの心、終ひに父を愛するに如かざるは、何ぞや也。
【絅齋先生】
 『天倫』は、天命自然のついでのこと。こちからこしらへたことではない、固有本然ぞ。大むね父子は、骨肉一體の情を得て、自ら離れられぬ樣なが、君臣も、『天倫』からは父子一體の樣に、大切に思うて、やむに忍びぬ樣にあるはずなれども、君臣と云ふと、他人と他人とのつなぎ合せの樣に思ひ、どうしても情がうすうて、何と云ふことなう、よそ外になり、親を大切に思ふ樣に、眞實、君がいとほしみて、どうも忍びられず、忘れられぬと云ふ樣にない、是はどうぞ。

 曰く、離れ畔くも、也(ま)た只だ是れ庶民なり。賢人君子は、便(すなは)ち此の如くならず。韓退之云ふ、「臣が罪、誅に當りぬ兮。天王は聖明なり」と。此の語、何の故ぞ、程子、是れ好しと道へる。文王、豈に紂の無道を知らざらんや。却つて此の如く説く、是れ衆人を欺き誑かすに非ず。直ちに是れ説有り。須べからく是れ轉語有つて、方(まさ)に文王の心を説き得て出すべし。看來れば、臣子、君父の不是底を説く道理無し。此れ便ち是れ君臣の義を見得たる處なり。『莊子』(人間世篇)云ふ、「天下の大戒、二つ。命也、義也。子の父に於ける、適くとして命に非ざる無き也。臣の君に於ける、適くとして義に非ざる無き也。天地の間に逃がるゝ所ろ無し」と。舊と嘗て一の文字に題跋して、曾て此の語を引きて以爲へり。莊子が此の説は、乃ち楊氏が君を無みするの説、它の這の意思の似(ごと)くなれば、、便ち是れ奈何すること沒くし了つて、方に恁地(かくのごと)く義有り、却つて此れは是れ自然に有る底の道理なるを知らず(『(朱子)語類』)。
【絅齋先生】
 『庶民』は、なみゝゝの者のこと。はなれそむくと云ふは、世間なみゝゝの者のこと。それは父子でもそれ、君臣でもそれ、何でも皆それ。賢人君子は、父子・君臣一體に大切で、やむにやまれぬ本心を得て動かぬぞ。
 文王の、紂が無道を知らせられぬではないが、惟だ君がいとほしうてならず、忘るゝに忍びられぬ心から、『聖明』の君ぢやと仰せられた。親の子を思ふ樣に、何ほど子にわるいことがあつても、それを知らぬではなけれども、其のわるいなりに、いよゝゝかはゆうて忍びられぬと同じことぞ。
 『説有り』は、ときやうがあると云ふこと。
 『轉語』は、一轉語とて、意のどうもすぐにとけぬ處を、かう云ふことでとけると、一と轉じ、轉じて語を下すことを言ふ。そこで文王の心が、『説き得て出』さるゝぞ。
 よう合點して見るに、天下に『不是底』の君父はない。『不是』と思ふは、もはや君父の寢首をかく種が出來たぞ。恐ろしいことぢや。何であれ、あなたを是非することはない。我より盡してゆくより外ないぞ。あなたのわるいと云ふは、皆、我よりするものがつきぬゆゑ、我より盡してゆくに、何しにあなたのあしからう樣ないからは、あなたに『不是』と云ふことはない。『不是』と云ふは、臣子の口から言ふに忍びぬことぢやの、言ふはずでないのと云ふことではない。底心『不是』と云ふことはないぞ。聖人は、まづかう云ふなりに、父子・君臣一體の心なり。常人は、それを則として、ひたもの怒らるゝにつけ、悦びらるゝにつけ、敬を起し孝を起して、『不是』と見る種の、のこらぬ樣につとめて、どこまでもゆくことぞ。
 『大戒』の二字が、すまぬことぞ。『戒』は、總體、泛うさうせな、かうせなと云ふ樣に戒めることぢやが、君臣・父子の大倫は、天理自然の動かさう樣も、かへ樣もない、本心に根ざしたことぢやに、『大戒』と云ふときは、根ざしたことはなくて、いましめを作りつけたもの、其の上、『天地の間に逃がるゝ所ろ無し』といへば、のがるゝ所あれば、のがるゝ合點、逃れぬに因つて、せうことなしに、やむことを得ずしてするになるぞ。
 『題跋』は、跋のこと。
 『一文字』は、「宋君忠嘉が集」のこと。『(朱子)文集』に身ゆ。莊子が言分の通りなれば、君臣の義は、どうもせう樣がなさに、義理につまりてすることになる。それは、『君を無みする』と云ふもの。
 『此れは是れ』と云ふは、君臣の義、父子の親のこと。
 『自然に有る底の道理』と云ふは、固有、はえぬきのこと。



『禮』(郊特牲篇)に曰く、「天は地に先だち、君は臣に先だつ、其の義、一也」と。(『易』)坤の六二に、「敬、以て内を直ふす」と。『大學』の至善に、「臣は敬に止まる」と。誠に旨ね有るかな哉。(『書』)泰誓に云ふ、「予れ天に順は弗れば、厥の罪、惟れ鈞し」と。是れ泰伯・文王の深く諱む所、伯夷・叔齊の敢へて諫むる所にして、孔子の「未だ善を盡さず」と謂ふ所以ん也。
【絅齋先生】
 上下尊卑、それゞゝに名分が立つて、萬古動かぬもの、天地の位と同じことで、何であれ、君は臣をすべて引きまはし、臣はどこまでも君に從うて、貳つならぬが、各々當然の道理ぞ。
 『六二』(『易』坤卦の六二爻)は、臣の位を言うて、『敬』は、どこまでも君に事へて、大切ではなれられず、あだおろそかに存ぜられず、日月を仰ぐ樣に思ふより外ないこと。
 まづこのなりに、文王の、『臣と爲つては、敬に止まる』(『大學』傳三章)で、これが文王に限つたことでない。誰とても、君臣の本然、山出しのはえぬきが、かうぢや。其のなりの全きが文王で、萬世、君臣の目あてぞ。
 天命にもせよ、何にもせよ、臣たる心に、どうもさう云ふことは、いまゝゝしうて忍びられずんば、何とせう。こゝの『未』(「未だ善を盡さず」の未なり)の字のはげぬ處で、君臣の義とさへいへば、泰伯・文王・夷齊を目あてとするより、つんと外ないぞ。こゝが、孔子をまなぶの肝要ぞ。

 吾れ嘗て『拘幽操』を讀み、程子の説に因て、此の好文字、漫りに觀る可からざるを知る。既にして朱子、「程説を以て過ぎたりと爲す」を見て、信疑、相ひ半ばす。再び之を考ふるに、朱子、更に轉語して、「文王の心を説き得て出せり」と。夫れ然る後に、天下の君臣爲る者、定まる矣。遂に程朱の説を『操』の後に附すると云ふ。

 山崎嘉(闇齋先生、嘉右衞門と稱し、名は敬義)、跋す。




 こゝに、闇齋先生『拘幽操』・絅齋先生『師説』合纂、拜書すること、件の如し。


**********


■淺見絅齋先生『拘幽操附録の後に書す』

 嗚呼、放伐の事、一たび行はれれてより、千萬世無窮の下、凡そ亂臣賊子、君を弑し國を竊む者、未だ嘗て湯・武を以て口實と爲さずんばあらず、而して忠臣義士、義に就き命を致す者、又た未だ嘗て夷・齊を以て自ら處らずんばあらざる也。士、是に於て亦た擇む所を知る可きかな也夫。韓子の此の『操』、文王の心を發明すること、至れり矣。

 山崎先生、嘗て之を標章し、附するに程朱の言を以てし、以て世に貽す。其の書、約にして盡く矣。今ま復た此れに因り、謹みて程・張・朱、及び諸儒の説を集録し、以て其の義を廣め、讀む者をして、其の中に反復精熟せしめ、益々自ら擇む所を識らしめ、而して彼の將命・順命が紛紛の論に惑ふこと莫からしめむ矣。

 元祿辛未(四年)夏六月上弦日、淺見安正(絅齋先生)、敬しみて書す。



■若林強齋先生『雜話筆記』

 強齋先生曰く、孔子が『論語』に、文王に在りて「至徳」と仰せられ、泰伯に在りて「至徳」と仰せられ、武王を評して「未だ善を盡さず」とある。すりてもこけても、「未」の字がはがされぬ。

 又た曰く、日本では、君臣の義が大事。君臣の義が根になつて、教も立ち、學もこゝに根ざしたもの。こゝをはづした學は、益に立たぬぞ。



■内田遠湖先生、強齋先生の語を挿註して曰く、

一己の君臣は、則ち父子也。――父子は、則ち家族的君臣也。
一統の父子は、則ち君臣也。――君臣は、則ち國家的父子也。
 此れ君臣・父子一體を謂ふ矣。



■谷秦山先生『秦山集』

一、文王の曰く、「嗚呼、臣が罪、誅に當りぬ。天王は、聖明なり」と。人情・天理、此に於いて極と爲す。
一、『拘幽操』が一書、人極を建立す。
一、莊周が言、「臣の君に事ふるや也、適くとして君に非ざる無き也。天地の間に逃るゝ所ろ無し」と。朱子、以て邪説と爲す。實に聖朝(我が皇國)に觀て、之を見るなり矣。
一、莊子が此の言、革命の旨と合ふ。



■明・丘濬『忠箴』

 君とは、臣の天なり。臣の、其の天に事ふる所以の者は、忠也。是の忠や也、生と倶に生じて、當然の義に由る。是れ則ち所謂る天降の衷也。衷は、天より降る。乃ち人の受くる所の中なり。人、之を體し、以て君に事ふるに、必ず其の心を盡し、必ず其の躬を委ね、敢へて其の有を私せず、敢へて其の同に阿ねらず。狂なれば則ち逆つて以て激ならず、順なれば則ち曲げて從はざる也。

 於戲(あゝ)、天を戴き以て生ずれば、曷んぞ其の功に報いむ。一言、以て之を蔽へば、曰く、臣と爲りて、忠に死なむ、と。



 愚案、周の西伯昌の心底を偲ぶたびに、小生は、我が菅公を想ふを常とする。「或は菅家筑紫の月と爲り、詞は忠愛を存して冤を知らず」とは、藤田東湖先生の詩であるが、清明平心は、辛苦艱難を經ねば到らざる心境であらうか。周の西伯の誠忠こそは、支那の菅公と謂ひつ可きなり矣。
  ↓↓↓↓↓
□參考・寒林平泉澄博士『至純の忠誠』(『菅公頌徳録』昭和十九年七月・官幣中社北野神社御祭神御生誕一千一百年御鎭座一千年記念大祭奉贊會刊)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/383

 五倫、就中く忠孝を、天降之衷と把へたる程朱の學は、我が皇國の直靈觀と相似て、今一歩である。神儒混淆、或は習合は、山崎闇齋先生・水戸義公の嚴しく誡むる所、神は神で説き、儒は儒で説かねばならぬことは云ふまでも無いが、こゝまでに至つた支那の道學は、神界の祕機を拓きしもの、即ち我が皇學の漏傳ありしものと考へねばなるまい。道は、天降の正嫡の皇土、即ち東方より興り、皇業を翼賛せむが爲めに還り來る。神さびたりとも、神さびたり。あな畏こ。
 
 

山崎闇齋先生『拘幽操』の表章、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月20日(月)22時23分10秒
返信・引用 編集済
   こゝに謹みて拜記するは、山崎闇齋先生『拘幽操』原本、及び淺見絅齋先生講義『拘幽操師説』――若林強齋先生筆記――である。
一、内田遠湖先生編『拘幽操合纂』昭和十年十月・谷門精舍刊
一、内田遠湖先生編『拘幽操合纂續編』昭和十三年三月・谷門精舍刊
の刊本から抄出させて戴く。

 「赤字」が、闇齋先生の原本にして、「師説」は、強齋先生の筆記の特徴を表すもの、恰も絅齋先生の講義を目の當りに拜聽してゐるが如くである。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/2
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/3



┌───────┐
│ 拘 幽 操 │
└───────┘



○拘幽操合纂の引

 君臣の道は、五倫の中に在りて最も貴し。而して臣の君に事ふるに、忠を以てす。萬世に亙りて易ふ可からざる者也。吾が闇齋先生、峻節卓見、韓子の『拘幽操』を表章し、以て大義を昭示す。其の徒、相繼ぎ、焉を講述し、焉を詮釋す。而して忠君の道は、天下に明かなり矣。

 顧みるに先生の卒ふるを距つること二百五十餘年、時世變遷し、人、復た此の書有るを知らず、或は焉を知るも、亦た取りて讀まざる也。余、之を慨すること久し矣。因つて先生の原本を出して之を校し、更に其の徒の講述詮釋する所の者、數部を加へ、題して『拘幽操合纂』と曰ひ、以て世に公にす。讀者、熟玩詳味して、大義を知る有らば、則ち忠君の道、復た今世に明かならむことを庶ふ矣。

 昭和十年九月 後學・内田周平(遠湖先生)、謹みて識す。



【絅齋先生】
 『拘幽操』は、唐の韓退之の作也。韓退之は、唐ならして第一番の文者で、『韓文』と云うて、一家の文集がある。よほどあるもの。其の中に、此の『拘幽操』もある。總じて古から文者と云ふものは、先づ詞章を專一の務として、義理をしらずに書くものぢやが、韓退之に於いては、尋常の文者とちがうて、義理を知つてかゝれた。深く道の大本を知り得られたとはいへねども、孟子以來、見る所ある人は、董仲舒と此の人とを指すことで、尋常の文章家としてあしらふことでない故、程子も、韓退之に於いては、つねていの文者の樣に、容易にも看るなと仰せられ、朱子も、『韓文』の爲に考異をなされたほどのこと(『韓文考異』といへる著書あり)。何故ならば、此の樣な作あつて、文王の文王たる所、「至徳」(『論語』泰伯篇)の肝心を言ひぬかれたに因つてのこと。『楚辭』などにも、此の文がのせてあれども、程朱以來、これで文王至徳の處が見えると云ふを知る人は、固よりのこと、名を聞いた人も希なことで、常の文章なみに心得て居た。それを山崎(闇齋)先生に至り、此の文を表章なされ、程朱の説を後に附して、凡學者、『論語』をよむ者、「至徳」と云ふの實をしらしめて、忠孝の目あてとなせり。

 古から君に事ふる者が、常の場では忠な樣にみゆれども、それは君のあしらひが結構なり。太平無事な時は、皆、さうあるもの、或は何ぞ言ふ場に臨んで、君の爲に身命を捨てもする、けなげな者もないではなけれども、率ね名でするか、利でするか、又は一旦の感激でするか、根をさらひてみた時は、眞實、君がいとしうて忍びられぬと云ふ、至誠惻怛の本心を盡す本法の忠とはいへぬ。何とぞ氣に入りたい、何とぞ立身がしたい、加増が取りたいと云ふ樣な、きたない心入で、おひげの塵をとる者や、まさかの場に、かいふつて(かぶりふつての意か)逃げる者は、のけておいて、隨分、忠義々々と云ふ合點でも、畢竟が愛(いと)しいと云ふ本心より出でねば、すこし君のあしらひがわるうなるか、或は讒に逢ふか、何ぞわが意にちがうたことがあると、はやいつのまにか、御恩が有り難いの、身命を獻らうのと思うた心は、どこへかやりて、さりとてはきこえぬことぢや。主には勝たれぬに因つてぢやが、あゝしやるはずではない。主君なればこそ、だまりて居れと云ふ樣に、君を怨むる心が出來る。此の怨むる一念の、「主君なればこそ」と思ふ心が、直ぐに君を弑する心、敵に與する心、古から亂臣賊子の、君を弑するの、父を弑するのと云ふも、此の僅かなことを怨むるの一念の積り積りてのことで、一朝一夕の際に、ふつときざすものではない。すれば何ほど結構な奉公ぶりでも、働が有つても、眞味眞實、君がいとしうてならぬと云ふ至誠惻怛の、つき拔けたでなければ、忠でない。忠は中心とかくも、どこまでも君が大切でならぬと云ふ、本心のやむにやまれぬ意味からのことぞ。こゝを目あてとせねば、一人扶持とる者も、どうも奉公はならず、何時、長田(忠致)にならうやら、明智(光秀)にならうやらしれぬぞ。それ故、常人よりいへば、是を目あてとして、もし一念、君父を怨む心が萌さば、「やれ是が、すぐに君父を弑する心ぢやは」と、痛くこらしいましめて、此の意念の根を拔き源を塞いで、君父が大切でやまれず、眞實、愛しうてならず、いかやうなことにもうつしかへられぬまでの本心を得るまでが、此の『拘幽操』の吟味ぞ。

 『拘』は、「かゝへる」とも、「とらへる」とも訓ず。とらへて牢へ入れること。
 『幽』は、幽闇とて、人迹の絶え果てた、鳥の聲もせぬ樣な所のこと。そこに文王をとらへおいたぞ。文王は、殷の紂が代には、西伯(名は昌)と云うて、西國の大名の頭で有つた。紂王が惡虐甚しくして、天下萬民うとみ果て、其の亡びんことを欲す。文王は聖徳有つて、仁政を行はせられて、天下、之に歸服すれども、叛ける諸侯をひきゐて、殷に服事なされて、文王でかゝへ(維持するの意)たる殷紂が代ぞ。然るに崇侯虎が讒を用ひて、西伯の參勤なされた時、何のわけもなしに、とらへて羑里へ押しこめた。西伯は、ぬし(己れの意)の身に少しもおぼえのないことぢやによつて、常の者ならば、こゝでは何角と言ひわけもせうず、固より大きに怨むるで有らうが、西伯に於いては、少しも讒者の故ぢやと云ふ樣な心なく、微塵も君のしかたを無體なと云ふ氣もつかず、唯だ火の常に熱く、水の常に冷かに、梅の常に酢き樣に、君を大切に思召す繾綣惻怛の心より外に、微塵も他念あらばこそ。我が身に罪こそ有らうず、罪あればこそ、かうなさるれ、また君の惠み故にかうぢやと思召すより外ない。こゝが文王の至徳と云ふ所にて、臣子の本心ぞ。『論語』に「至徳」と云ふこと、二つ出づ。一は泰伯、一は文王ぞ。皆、君臣の義にあづかることで、至徳たるの實は、君臣・父子の際を離れて外なきを知るべくして、臣子たる者の身として、君父の愛しく、どうも離れられぬ味が、火のもえたがり、水のぬれたがる樣に、やむにやまれぬ情が、桀・紂にもせよ、誰にもせよ、讒を用ふるにもせよ、どちへどうしても、唯いとほしいより外ない。天命に順ひ、人心に應ずると云ふ樣なこと(革命の意)が、いまゝゝしうて、どうもなられぬ所が至徳にて、身からはえぬいて、雁は蟲になつても北へゆくと云ふ樣に、餘義も餘念もなきを至徳と云ふ。其の至徳と云ふの眞味を、餘事まぜずに、はだかにして見せたは、此の文章ぞ。
 『操』は、琴操と云うて、琴に調べ合せてうたふ、歌のせうが(五字、恐らくは衍ならん)、歌の一體で、やはり歌と云ふと、一つぢや。それを操と云ふは、操は「みさを」とも、「とる」とも訓む。罪でも有つて、君に棄てらるゝは、其のはずぢやが、罪もなし、讒にあうて棄てらるゝ樣な時は、扨もきこえぬことぢやと云ふ樣にならねばおかぬ。其の樣な時でも、微塵、君を怨むる心なく、「我を思ふ人を思はぬむくいにや、我が思ふ人の、我を思はぬ」と云うた樣に、眞實、君を大切に思ふ、繾綣惻怛の心の、やむにやまれず、忘るゝに忍びぬ情から謠ふ歌を操と云ふ。それで常の歌よりは、ことに勝れて感慨あるぞ。『履霜操』の、『箕子操』のと云ふ類も、同じことなり。



文王羑(いふ)里の作。
【絅齋先生】
 『文王』は、武王の天下を有たれて後の諡にて、此の時は、西伯と云うたぞ。
 『羑里』は、殷の代の獄屋の名なり。都からはるかに程へだたりて、人も通はず。鳥の聲もせぬ樣な處ぞ。此の操は、文王の作らせられたと云うではないが、韓退之の、文王の至徳の處を知りぬいて書かれた。それで文王の文王たる眞味ゆゑ、文王作と云うても、これより外はない。

目、窅窅(えうゝゝ)たり兮、其れ凝り其れ盲ひぬ。
【絅齋先生】
 是から羑里での艱難をのべたものぞ。
 『窅窅』は、目のおち入つて、くぼみて見えぬこと。羑里の獄屋の、月日の光もなく、あやめもわかぬ故、目もおち入り、くぼみはてゝ、
 『其凝』と云ふは、水のこほりた樣に、目のこりかたまりて、うごくことなきを言ふ。あやめを見てこそ、目のはたらくこともあるが、あやめをも別たねば、こりかたまりて、目しひたるぞ。

耳、肅肅たり兮、聽くに聲を聞かず。
【絅齋先生】
 『肅肅』は、秋の氣色のものさびしい樣なことにも言ふ。しんゝゝとして、おとないかたちぞ。目にあやめは見えずとも、せめて耳におとずるゝ聲は、きこえさうなものぢやが、誰れ訪ふ者もなく、つんと音なひする人もない。

朝に日出でず兮、夜に月と星とを見ず。
【絅齋先生】
 『朝』でこそ有らうが、『日』が出ぬ。『夜』でこそ有らうが、『月星』の光がみえぬぞ。

知ること有りや知ること無しや兮、死せりと爲んや生けりと爲んや。
【絅齋先生】
 そもこれは『知』る有るか、『知』るないか、『死』んだと云はうか、『生』きて居ると云はうか。困苦慘痛、是より上に言はう樣ない處に至つても、やつぱり紂王がいとほしうてならぬ御心より外ない。怨みぬはずぢやの、どうぢやのと云ふことはない。竹の子の、どうふみにじつても、はえたがるより外なく、火をどうたゝきけしても、もえたがるより外ない如くぞ。常人は、これまでつめてみるにも及ばず、纔かにかこえぬと云ふと、もう怨む。怨みをあらはすか、あらはさぬかの不同こそあれ、やはり長田となり、明智となるたばねは含んである。扨々おそるべきことぞ。文王は、是までつめにつめても、雁は蟲になりても北へゆくより外なき如く、惟だ紂王のいとほしうてならぬ心は、かうなれば、なるほどいやましな、それから下の詞の『嗚呼』云々と出たものぞ。

嗚呼、臣が罪、誅に當りぬ兮。天王は聖明なり。
【絅齋先生】
 此の一句が、『拘幽操』の『拘幽操』たる處、「至徳」の眞味・眞實を知る處ぞ。
 『嗚呼』と云ふ詞が、眞味から出る語意にて、微塵、意をつけたしなむことでない。まへの辛苦の至りから、『嗚呼』と出る處、きはめて肝心正味の處ぞ。『嗚呼』、吾は御成敗道具ぢや、あなた(紂王を指す)は『聖明』の君ぢやものと、底心たゝいて思召すより外ない。こゝに微塵、あなたに非が見ゆる、もはや君臣の根は切れたぞ。あなたはどう有らうが、かう有らうが、いとほしく大切な心は、觸るゝなりにいやましな、伯兪が母にたゝかるゝ杖とともにいとほしいも、まづかうした心ぞ。親の子を愛するに、よければよいにつけても、いよゝゝかはゆし、あしければあしいにつけて、いよゝゝかはゆいも、親子一體のはえぬき故ぞ。殷紂がことは、誰れ知らぬ者もない暴虐な天子、それを『天王は聖明なり』とあり、文王は、却つて『臣が罪、誅に當りぬ』とあるは、かいとつてすまぬことの樣なが、文王の心より見れば、親子一體、はえぬきの、いとほしい心より外ない如くゆゑ、是ぢやの非ぢやのと、くらべることはない。唯ふるゝなりに、どちへどうしてもいとほしい、其の心から、吾が事へ樣があしければこそかうあれ、あなたには『聖明』ぢやものをと思召すより外ないぞ。「天命に順ひ、人心に應ず」の權道ぢやのと云ふが、此の心からみれば、いまゝゝしうてどうもならぬ。こゝが文王「至徳」の處にて、「武、未だ善を盡さず」(『論語』八佾篇)、天下萬世、臣子の目あて、是より外ない。こゝがあかねば、一人扶持とることもならぬ、おぞましい處があるぞ。懼る可し、懼る可し。
 
 

父不忠なりとも、子として殺すと云ふ道理なし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月19日(日)16時39分20秒
返信・引用 編集済
  ●『孟子』盡心上篇に曰く、「

 桃應、問うて曰く、『舜、天子爲り、皐陶、士爲り。瞽瞍、人を殺さば、則ち之を如何』と。
――桃應は、孟子の弟子なり。其の意、以爲へらく、舜、父を愛すと雖も、私を以て公を害す可からず。皐陶、法を執ると雖も、而れども以て天子の父を刑す可からず、と。故に此の問ひを設け、以て聖賢、心を用ふるの極まる所を觀る。以て眞に此の事有りと爲すには非ざる也。

 孟子曰く、『之を執へんのみ而已矣』と。
――言ふこゝろは、皐陶の心、法有るを知るのみ而已、天子の父有ることを知らざる也、と。

 然るときは則ち舜、禁ぜんか與。
――與は、平聲。○桃應問ふ也。

 曰く、『夫れ舜、惡んぞ得て之を禁ぜん。夫れ之を受くる所ろ有り也』と。
――夫は、音扶。惡は、平聲。○言ふこゝろは、皐陶の法、傳へ受くる所ろ有りて、敢へて私する所ろ非ず。天子の命と雖も、亦た得て之を廢てざる也。

 然るときは則ち舜、之を如何かせん。
――桃應問ふ也。

 曰く、『舜、天下を棄つるを視ること、猶ほ敝蹝(へいし)を棄つるがごとし。竊かに負うて逃れ、海濱に遵ひて處り、身を終ふるまで、□[言+欣の左。きん]然として樂しみて、天下を忘れむ』と。
――蹝は、音徙。訢は、欣と同じ。樂は、音洛。○蹝は、草履也。遵は、循ふ也。言ふこゝろは、舜の心、父有ることを知るのみ而已にて、天下有ることを知らざる也、と。孟子嘗て言ふ、舜、天下を視ること、猶ほ草芥のごとくして、惟だ父母に順ふのみ、以て憂へを解く可し、と。此の意と互ひに相發す。○此の章、言ふこゝろは、士爲る者は、但だ法有ることを知りて、天子の父の尊しと爲すことを知らず。子爲る者は、但だ父有ることを知りて、天下の大いなりと爲すことを知らず。蓋し其の心と爲す所以の者、天理の極まり、人倫の至りに非ざるは莫し。學者、此を察して得ること有らば焉、則ち較計論量を待たずして、天下に處し難き事無けん矣、と。



●本覺國師・虎關師錬禅師『瞽瞍、人を殺すの論』(『濟北集』卷十五)に曰く、「

 『孟子』に、桃應問うて曰く、『舜、天子爲り。皇陶、士爲りしとき、瞽瞍、人を殺さば、則ち如何』と。孟子曰く、『之を執へむのみ而已矣』。『然らば則ち舜、禁ぜざるか與』。曰く、『夫れ舜、惡んぞ得て之を禁ぜむ。それ之を受くる所ろ有る也』。『然らば即ち舜、之を如何』と。曰く、『舜、天下を棄つるを視ること、猶ほ敝蹝を棄つるがごとき也。竊かに負うて逃れ、海濱に遵ひて處り、身を終ふるまで、□[言+欣の左。きん]然として樂しみて、天下を忘れむ』と。

 予曰く、『美なるかな矣哉、問や乎。惜しいかな哉、答の盡さゞるや乎。請ふ、嘗試(こゝろみ)に之を論ぜむ。孟子は、只だ法を言ひて、道を言はず矣。介を言ひて、治を言はず矣。皇陶の之を執ふると、舜の禁ぜざるとは、法也。舜の天下を敝蹝として、竊かに負うて逃れ樂しむとは、介也。介と法とは、豈に聖人の本ならんや乎哉。故に曰く、至道治徳に非ざるなり矣、と。夫れ道とは、法の本也。法とは、道の枝也。世に寧んぞ本を傷つけて枝を保つの理有らむや乎哉。孟子は、只だ舜の天下を棄つるの無欲を知る、而れども天下を棄つるの不仁を知らざる矣は、何ぞや也。舜の君爲るや也、民、仁を被る焉。舜の外なるや也、民、害を受く焉。無欲とは、一身の介也。不仁とは、天下の害也。孟子、曷んぞ巣由の介を崇びて、堯舜の治を崇ばざる焉。申商の法を重んじて、唐虞の道を重んぜざるや焉乎哉。又た夫れ五常の中、孝は仁に入り、法は義に入る。已むを得ずして一を錯らば、寧ろ義を缺くとも、仁を失ふ可からず矣。輕重の分也。舜の君爲るや也、有道の世也。有道の世には、道、必ず正し焉。道の正しきや也、五常、定まる有り焉。五常の定まるや也、仁先にして、義後に、孝を先にして法を後にす。何の悖るところか之れ有らむ。君子の手腕は、自から知權識衡義鍿理銖有り。焉んぞ重輕を□[眞埀+叟。かく]さんや乎。或は曰く、然らば則ち子の意は、之を如何、と。曰く、舜、天子爲り、皇陶、士爲るとき、瞽瞍、人を殺さば、則ち之を如何、と。曰く、之を執へむのみ而已矣。然らば則ち舜は如何、と。曰く、舜は馳せて乞ひ、皇陶は敬して授く。茲くの如きのみ而已。夫れ舜は、聖子なりと雖も也、皇陶は賢臣なりと雖も也、瞽瞍は頑父なりと雖も也、君臣・父子なる者は、天下の大常也。皇陶の之を執ふる者は、法也。舜の馳せて乞ふ者は、孝也。敬して授くる者は、順也。天下の理常にして、順なる者也。曰く、舜と皇陶とは、法を枉げざるや邪、と。曰く、爾り。罪を免れざるなり焉。曰く、舜は大聖也。皇陶は大賢也。聖賢大徳、善く罪を贖ふ焉。枉ぐること輕からず矣、と。曰く、舜の乞ふ者は孝也。皇陶の授くる者は敬也。孝敬の二徳、善く枉を贖ふ焉。瞽瞍、徳有るか乎。曰く、有り。何ぞや也。曰く、舜を生めるは大徳也。舜を生めるの大徳は、善く殺を贖ふ焉。予、孟子の言を反覆するや也、七篇の中、多く道を言ふ矣。特(ひと)り此の章は、法を先にし道を後にする者は、蓋し激する所ろ有るか乎』と」と。

【虎關師錬禪師『元亨釋書』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/11



●北畠親房公『神皇正統記』二條天皇條に曰く、「

 義朝は東國へ心ざしてのがれしかど、尾張國にてうたれぬ。その首を梟せられにき。義朝、重代の兵たりしうへ、保元の勳功、すてられがたく侍りしに、父の首をきらせたりしこと、大きなるとが也。古今にもきかず、和漢にも例しなし。勳功に申し替ふとも、みづから退くとも、などか父を申したすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其の身をまたくすべき。滅することは、天の理也。

 およそかゝる事は、其の身のとがはさることにて、朝家の御あやまりなり。よくゝゝ案あるべかりけることにこそ、其の頃、名臣もあまた有りしにや。又た通憲法師、專ら申しおこなひしに、などか諫め申さゞりける。大義には親を滅すと云ふ事のあるは、石□[石+昔]と云ふ人、其の子を殺したりし事なり。父として不忠の子をころすは理なり。父不忠なりとも、子としてころすと云ふ道理なし。『孟子』に、たとへを取りていへるに、舜の天子たりし時、其の父瞽瞍、人をころすことあらんを、時の大理なりし皇陶、とらへたらば、舜はいすゞし給ふべきといふに、舜は位をすてゝ、父を負うて去らまし、とあり。大賢のをしへなれば、忠孝の道あらはれて、おもしろく侍る。保元・平治より以來、天下みだれて、武用さかりに、王位かろく成りぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることとぞみえたる」と。



●淺見絅齋先生『忠孝類説』に曰く、「

 (二條天皇條・名行の破れ初めしに依れる事)嗚呼、親房の論、甚だ當れり矣。余、毎に讀みて、爲義の、義朝が若し我に託して來らば、吾れ必ず當に吾が命に換へて、以て之を救ふべきを言ふに至つて、未だ嘗て卷を廢して歎ぜずんばあらざる也。義朝、是に於いてか乎、人心を喪ふの至れる、而して罪、實に天に通ずと謂ひつ可し矣。鎌田正清、意に阿ねり非を飾り、主臣淪胥して、以て君父を弑すの大惡に陷る。吁、亦た醜む可し矣。今井兼平、木曾の暴逆に從ひ、強諫する能はず、相與に亂賊の黨と爲る。事、同じからずと雖も、然れども其の罪、一也。野間の變、粟津の亡、其れ亦た遲し矣。親房の論、最期の一節、太平の世に復らざるは、名行の壞れに由るに至つては、則ち卓絶の見、至當の言、識者、感有りと云ふ」と。



●平泉澄博士『保建大記と神皇正統記』(『本邦史學史論叢』下に所收)に曰く、「

 兩書(『神皇正統記』と『保建大記』)類似の第四は、歴史の根本に道徳を仰ぎ見る點である。正統記が佛教の運命觀の重壓を受けた中世に於いて、毅然として之に囚はれず、あくまで道徳の尊嚴を説き、人の榮辱も、國の治亂も、つまるところは道徳の根本の原因を存するものとして居る事、‥‥殊にあざやかに現れてゐるのは、源義朝を論ずる一節であり、義朝がいかに朝命とはいひながら、其の父を斬つたといふ事は、非常な誤であつて、此の悖徳亂倫の爲に、義朝自身は滅亡したのであり、又た此の悖徳亂倫を命じ給うたが故に、それより後、天下亂れて、王位輕くなり、長く太平の世にかへる事が出來なくなつたのであると斷定したあたり、最も正統記の特色を見るべきである。而して此の論は、後に新井白石も『讀史餘論』に於いて之を採り、吉田松陰も『講孟箚記』に於いて之を贊したのであるが、今、潛鋒の『保建大記』に於いても、最も共鳴同感して之を祖述し、「禍亂、既に平ぎ、其の父、我に歸す。豈に其の子、從つて之を殺すの道あらんや。君命にたがひ、ともに鼎□[金+獲の右]に就くと雖も可なり」と切言し、後年、頼朝が伊東祐親を捕へ、而して其の子祐清を賞しようとした時に、祐清、之を辭退して平氏に屬した態度と比較して、國の將に亂れんとする時は、正氣萎靡し、人心道徳を忘れるのであり、さればこそ保元に、子、その父を庇護する能はなかつたのであり、家の將に興らんとする時は、正氣滂沛として起り、人心義を重んずるのであり、それ故に頼朝の勃興した際には、子、敢て父に叛かなかつたのであると論じてゐるのである。

 道徳の汚隆を國家の治亂の原因と見るは、やがて是れ過去に於ける亂臣賊子を筆誅し、現在また將來に於いて道徳の確立を唱道してやまざるものである。『保建大記』の義朝の最後を論ずる一條の如きは、正にそれ筆誅といふべき切言である。古より世々逆賊あり、しかも未だ義朝のごときあらざる也、蓋し弟に忍べるは有らん、子に忍べるや甚だし、子に忍べるは有らん、父に忍ぶも、亦た既に酷だし、既に父に忍び、又た將に以て君に忍ばんとす、忠致、誅するに忍びずと雖も、天下、將に忍んで誅せんといひ、從來、世人、清盛を憎むの餘り、義朝に對しては、却つて之に同情し、長田忠致、其の君義朝を弑すとして、忠致を非難してやまざるは、君臣の名分、明かならざるの致す所であり、『平治物語』の類、世に行はれて、是非の判斷、當を失し、好惡の感情、相反するをなげいてゐる一條の如き、殆んど秋官の獄を斷ずるに似てゐるのである」と。



 愚案、大義、親を滅すと雖も、「父として不忠の子を殺すは理なり。父不忠なりとも、子として殺すと云ふ道理なし」とは、學びて道義に徹すること能はざれば出づる能はざる箴言である。

「大抵、吾が國近世、士たる者、率ね學を好まずして、偶々學をする者は、記誦詞章の資とするに過ぎずして、英氣志義ある者は、視て以爲(おも)へり、學問讀書、事に益なしとして、之を笑ひ□[言+山。そし]る。殊(たえ)て知らず、學ばざれば大義を辨ふること能はず、夫の英氣志義も用ふる所を知らず。但し是の學を倡(となふ)る者の誤よりして、此の弊に至らしむるなり。故に此の編、特に士たる者をして、大義の端的を知つて之を切磨し、學にあらざれば、一歩も其の身を動かすべからず、君に事へ己を處する、皆な幸にあらざれば妄なることを識つて、疑ひなからしめんとす」(淺見絅齋先生『靖獻遺言講義』)と云はれる所以である。

 必無の論は、小生の好まざる所と雖も、道義の至當を究めざれば、君臣の大義を失ふに至り、いざと申す秋に在つて、役には立たぬであらう。殷鑑、遠からず、空理空論を弄ぶよりは、謙虚に歴史に學ぶべきである。古人大義の議論に學びたい。而して古人大義の議論に學ぶと云ふことは、現在只今、吾人の問題である。道義の至極、皇國の大事に於いては、私見を放下し迷妄を清淨して、殊に先哲、道を論ずるの定論に從はねばならぬ。
 
 

父母の恩、重きこと無窮。況んや皇恩をや。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月17日(金)22時05分12秒
返信・引用 編集済
  ●『論語』子路篇十八

 葉公、孔子に語げて曰く、「吾が黨に、躬を直くする者有り。其の父、羊を攘(ぬす)む。而して子、之を證(あらは)す」。
――語は、去聲。○躬を直くすは、身を直くして行ふ者なり。因ること有りて盜むを攘と曰ふ。

 孔子の曰く、「吾が黨の直き者は、是に異なり。父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。直きこと、其の中に在り矣」。
――爲は、去聲。○父子相隱すは、天理・人情の至り也。故に直爲るを求めずして、直、其の中に在り。○謝氏が曰く、理に順ふを直と爲す。父、子の爲めに隱さず、子、父の爲めに隱さゞるは、理に於て順ならんか邪。瞽瞍(愚案、舜の父)、人を殺さば、舜、竊かに負うて逃げ(天子の位を棄てゝ)、海濱に遵つて處るらん。是の時に當つては、親を愛するの心勝る。其の直と不直に於て、何ぞ計るに暇あらんや哉。



●三浦梅園翁『理窟と道理との辨』に曰く、「

 理窟と道理と、へだてあり。理窟は、よきものにあらず。たとへば親、羊をぬすみたるは、親の惡なり。親にてもあれ、惡は惡なれば、直に訴ふべしといへるは、理窟なり。親、羊を盗みしは惡ながら、親、惡事あれば迚(とて)、子、是をいふべき樣なしとて、かくしたるは、道理なり」と。



 愚案、「非理法權天」の訓、非は理(良識による正義)に勝たず、理は法(法度)に勝たず、法は權(帝王專制)に勝たず、權は天(天道、至上萬能の神、君主の理想とする仁愛の徳)に勝たず、と。

 梅園翁の「理窟」は、からごころ、「道理」は、大和ごころと云ふ人あり。蓋し非理法權天に照らせば、此の理は、或は「理窟」か、或は「道理」か。理窟ならば、法に勝たざれば、法令を遵守すべし。否、決して然らず、道理と爲せば、法令の改正を要するなり。吉田松陰先生『講孟箚記』に曰く、「蓋し情の至極は、理も亦た至極せる者なり」と。洵に「父子相隱すは、天理・人情の至」れる者なり。現代刑法の理窟は、天理・人情に背けば、之を攻めて可なり矣。

 子に在つては、「不是底の父無し」(羅豫章の言)との明證確定、人たるの本能本性と謂ひつ可し矣。然るに現代、禽獸の跋扈するが如き状態は、固より「孝養」を教へざるの戰後教育に罪ありと雖も、魑魅魍魎の跳梁とも拘るか。只管ら祈り奉り、且つ祷り盡して、有志と共に、教學の復興を期す可きなり。

 小生は、物部大連守屋公を想起すれば、固より神敵・佛教を好まず。往昔は佛閣寺院に參詣したるも、中今にては殊更に避け、所謂る御付合ひ以外は、殆んど之を爲さゞるに至る。小生が固陋頑迷、實に嘲笑に堪へたり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/986
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/987

 然るにこゝに、或る染紙あり。『父母恩重經』と曰ふ。僞經と云はるゝも、讀むごとに、涕泗あふるゝを如何ともする能はず。中子の説か、暫くは中子の説と看做さむ。中子、以て冥すべきかな哉。



●『佛説父母恩重經』に曰く、「

 是くの如く 我れ聞けり。一(ある)時、佛、王舍城の耆闍崛山中に、菩薩・聲聞の衆と倶(とも)にましゝゝき。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・一切諸天の人民及び龍鬼神等、法を聞きまつらんとて來たり集まり、一心に寶座を圍繞して、瞬きもせず、尊顔を仰ぎ瞻(み)まつりき。

 此の時、佛、乃ち法を説いて宣はく、「一切の善男子・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。其の故は、人の此の世に生るゝは、宿業を因として、父母を縁と爲り。父に非ざれば生ぜず、母に非ざれば育せず。是を以て氣を父の胤に受けて、形を母の胎に託す。此の因縁を以ての故に、悲母の子を念ふこと、世間に比ひ有ること無く、其の恩、未形(ぎやう)に及べり。

 始め胎に受けしより、十月(とつき)を經るの間、行・住・坐・臥、共に諸々の苦惱を受く。苦惱休む時無きが故に、常に好める飲食(おんじき)・衣服を得るも、愛慾の念を生ぜず、唯だ一心に安く生(しやう)産せんことを念ふ。月滿ち日足りて、生産の時至れば、業風吹きて之を促し、骨節、悉く痛み、汗膏、共に流れて、其の苦しみ堪へ難し。父も身心戰き懼れて、母と子とを憂念し、諸親・眷屬、皆な悉く苦惱す。既に生れて草上に墮つれば、父母の喜び限り無きこと、猶ほ貧女の如意珠を得たるがごとし。其の子、聲を發すれば、母も初めて此の世に生れ出でたるが如し。

 爾來、母の懷(ふところ)を寢處と爲し、母の膝を遊場と爲し、母の乳を食物と爲し、母の情を性命(いのち)と爲す。飢ゑる時、食を需むるに、母に非ざれば哺はず。渇く時、飲を索むるに、母に非ざれば咽まず、寒き時、服を加ふるに、母に非ざれば着ず。暑き時、衣(きもの)を撤(さ)るに、母に非ざれば脱(ぬ)がず。母、飢ゑに中(あた)る時も、哺めるを吐きて、子に□[口+焰の右。くら]はしめ、母、寒さに苦しむ時も、着たるを脱ぎて子に被らす。母に非ざれば養はれず、母に非ざれば育てられず。其の闌車(ゆりかご)を離るゝに及べば、十指の甲(つめ)の中に、子の不淨を食ふ。計るに、人々母の乳を飲むこと、一百八十斛(こく)と爲す。父母の恩重きこと、天の窮まり無き如し。

 母、東西の隣里に傭はれて、或は水汲み、或は火焚き、或は碓つき、或は磨挽き、種々の中(こと)に服從して、家に還るの時、未だ至らざるに、今や吾が兒、吾が家に啼き哭(いさ)ちて、吾を戀ひ慕はむと思ひ起せば、胸悸(さわ)ぎ心驚き、兩つの乳流れ出でて、忍び堪ふること能はず。乃ち去りて家に還る。兒、遙かに母の來たるを見て、闌車の中に在れば、則ち頭を搖かし、腦(なづき)を弄し、外に在れば、則ち匍匐ひして出で來たり、嗚呼(そらなき)して母に向かふ。母は子の爲めに足を早め身を曲げ、長く兩手を舒べて塵土を拂ひ、吾が口を子の口に接(つ)けつゝ、乳を出して之を飲ましむ。此の時、母は兒を見て歡び、兒は母を見て喜ぶ。兩情一致、恩愛の洽きこと、亦た之に過ぐる者無し。

 二歳、懷を離れて始めて歩く。父に非ざれば、火の身を燒くことを知らず。母に非ざれば、刀の指を墮すことを知らず。三歳、乳を離れて、始めて食ふ。父に非ざれば、毒の命を墮すことを知らず。母に非ざれば、藥の病を救ふことを知らず。父母、外に出でて他の座席に往き、美味・珍羞を得ること有れば、自ら之を喫ふに忍びず、懷に收めて持ち歸り、喚び來たりて子に與ふ。十度び還れば、九度びまで得。得れば、即ち常に歡喜して、且つ笑ひ且つ□[口+敢。くら]ふ。若し過まりて一度び得ざれば、則ち矯(いつ)はり啼き、佯(いつ)はり哭ちて、父を責め母に逼る。稍や成長して、朋友と相ひ交はるに至れば、父は衣(きぬ)を索め帶を需め、母は髮を梳(くしけづ)り髻(もとゞり)を摩(な)で、己が美好の衣服は、皆な子に與へて着せしめ、己は則ち古き衣・弊(やぶ)れたる服を纏ふ。

 既に婦妻を索めて、他の女子を娶れば、父母をば轉た疎遠にして、夫婦は特に親近し、私房の中に於いて、妻と共に語らひ樂しむ。父母、年高けて氣老い力衰へぬれば、倚る所の者は、唯だ子のみ、頼む所の者は、唯だ婦(よめ)のみ。然るに夫婦、共に朝より暮れに至るまで、未だ肯(あ)へて一度びも來たり問はず。或は父は母を先立て、母は父を先立てゝ、獨り空房を守り居るは、猶ほ孤客の旅寓に寄泊するがごとく、常に恩愛の情無く、また談笑の娯しみ無し。夜半、衾(ふすま)冷かにして、五體安んぜず。況んや被(ふすま)に蚤虱多くして、曉に至るまで眠られざるをや。幾度びか輾轉反側して、獨言すらく、「噫、吾れ何の宿罪有りてか、斯かる不幸の子を有てる」と。

 事有りて子を呼べば、目を瞋らして怒り罵る。婦も兒も之を見て、共に罵り共に辱しめば、頭を埀れて笑ひを含む。婦も亦た不幸、兒も亦た不順、夫婦和合して、五逆罪を造る。或は亦た急に事を瓣すること有りて、疾く呼びて命ぜむとすれば、十度び喚びて九度び違ひ、遂に來たりて給仕せず。却りて怒り罵りて曰く、「老い耄(ぼ)れて世に殘るよりは、早く死なむには如かず」と。父母、之を聞きて、怨念、胸に塞がり、涕涙、瞼を衝きて、目瞑み心惑ひ、悲しみ叫びて曰く、「噫、汝、幼少の時、吾に非ざれば養はれざりき、吾に非ざれば育てられざりき。而して今に至れば、即ち却りて此の如し。噫、吾れ汝を生みしは、本より無きに如かざりけり」と。若し子有り、父母をして、此の如き言(ことば)を發せしむれば、子は、即ち其の言と共に、墜ちて地獄・餓鬼・畜生の中に在り。一切の如來・金剛天・五通仙も、之を救ひ護ること能はず。父母の恩、重きこと天の極まり無きが如し。

 善男子・善女人よ、別けて之を説けば、父母に十種の恩徳あり、何をか十種と爲す。一には、懷胎守護の恩。二には、臨生受苦の恩。三には、生子忘憂の恩。四には、乳哺養育の恩。五には、廻乾就濕の恩。六には、洗灌不淨の恩。七には、嚥苦吐甘の恩。八には、爲造惡業の恩。九には、遠行憶念の恩。十には、究竟憐愍の恩。父母の恩、重きこと天の窮まり無きが如し。善男子・善女人よ、此の如きの恩徳、如何にしてか報ずべき」。

 佛、乃ち偈を以て讚して宣はく、
「悲母、子を胎めば、十月の間に、血を分け肉を頒ちて、身、重病を感ず。子の身體、之に由りて成就す(一、懷胎守護の恩)。
 月滿ち時到れば、業風催促して、偏身痘痛し、骨節解體して、神心惱亂し、忽然として身を亡ぼす(二、臨生受苦の恩)。
 若し夫れ平安になれば、猶ほ蘇生し來たるがごとく、子の聲を發するを聞けば、己も生れ出でたるが如し(三、生子忘憂の恩)。
 其の初めて生みし時には、母の顔せ、花の如くなりしに、子を養ふこと數年なれば、容、則ち憔悴す(四、乳哺養育の恩)。
 水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の曉にも、乾ける處に子を廻はし、濕へる處に己れ臥す(五、廻乾就濕の恩)。
 子、己が懷に屎(くそま)り、或は其の衣に尿(いばり)するも、手自ら洗ひ灌ぎて、臭穢を厭ふこと無し(六、洗灌不淨の恩)。
 食味を口に含みて、之を子に哺むるに方りては、苦き物は自ら嚥み、甘き物は吐きて與ふ(七、嚥苦吐甘の恩)。
 若し夫れ子の爲めに、止むを得ざること有れば、躬づから惡業を造りて、惡趣に墮つることを甘んず(八、爲造惡業の恩)。
 若し子、遠く行けば、歸りて其の面を見るまで、出でても入りても之を憶ひ、寢ても寤めても之を憂ふ(九、遠行憶念の恩)。
 己れ生有る間は、子の身に代はらむことを念ひ、己れ死に去りて後には、子の身を護らむことを願ふ(十、究竟憐愍の恩)。

 此の如き恩徳、如何にして報ず可き。然るに長じて人と成れば、聲を抗らげ氣を怒らして、父の言(ことば)に順はず、母の言に瞋りを含む。既にして婦妻を娶れば、父母に背き違ふこと、恩無き人の如く、兄弟を憎み嫌ふこと、怨みある者の如し。妻の族來たりぬれば、堂の昇せて饗應し、室に入れて歡唔す。嗚呼、噫嗟、衆生顛倒して、親しき者は却りて踈み、疎き者は却りて親しむ。父母の恩、重きこと天の極まり無きが如し」。

 此の時、阿難、座より起ちて、偏へに右の肩を袒(はだぬ)ぎ、長跪合掌して、前(すゝ)みて佛に白して曰さく、「世尊よ、此の如き父母の重恩を、我等出家の子は、如何にしてか報ず可き。具さに其の事を説示したまへ」と。

 佛の宣はく、「汝等大衆よ、能く聽け。孝養の一事は、在家・出家の別有ること無し。出でて時新の甘果を得れば、將ち去りて父母に供養せよ。父母、之を得て歡喜し、自ら食ふに忍びず。先づ之を三寶に廻らし施せば、則ち菩提心を啓發せむ。父母、病ひ有らば、牀邊を離れず、親しく自ら看護せよ。一切の事、之を他人に委ぬること勿れ。時を計り便を伺ひ、懇ろに粥飯を勸めよ。親は子の勸むるを見て、強ひて粥飯を喫し、子は親の喫するを見て、枉げて己が意を強うす。親、暫らく睡眠すれば、氣を靜めて息を聞き、眠り覺むれば、醫に問ひて藥を進めよ。日夜に三寶に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒えむことを願ひ、常に報恩の心を懷きて、片時も亡失すること勿れ」。

 此の時、阿難、又た問ひて曰く、「世尊よ、出家の子、能く此の如くせば、以て父母の恩に報ずと爲すか乎」。

 佛の宣はく、「否な。未だ以て父母の恩に報ずるとは爲さゞるなり。親、頑□[門+言](かたくな)にして三寶を奉ぜず、不仁にして物を殘ひ、不義にして物を竊み、無禮にして色に荒み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽らば、子は、當に極諫して、之を敬悟せしむべし。若し猶ほ闇くして、未だ悟ること能はざれば、則ち爲めに譬へを取り類ひを引き、因果の道理を演説して、未來の苦患(げん)を拯(すく)ふべし。若し猶ほ頑なにして、未だ改むること能はざれば、啼泣歔欷して、己が飲食を絶てよ。親、頑□[門+言]なりと雖も、子の死なむことを懼るゝが故に、恩愛の情に牽かれて、強ひて忍びて道に向かはむ。

 若し親、志を遷して、佛の五戒を奉じ、仁有りて殺さず、義有りて盗まず、禮有りて淫せず、信有りて欺かず、智有りて醉はざれば、即ち家門の中、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦し、婢僕忠順に、六畜蟲魚まで、普ねく恩澤を被りて、十方の諸佛・天龍鬼神・有道の君・忠良の臣より庶民萬姓に至るまで、敬愛せざるは無く、暴惡の主も、佞嬖の輩も、兇兒・妖婦も、千邪・萬怪も、之を如何ともすること無けん。是に於いて父母、現には安穩に住し、後には善處に生じ、佛を見え法を聞きて、長く苦輪を脱せむ。此の如くにして、始めて父母の恩に報ずる者と爲すなり」。

 佛、更に説を重ねて宣はく、「汝ら大衆よ、能く聽け。父母の爲めに心力を盡して、凡ゆる佳味・美音・妙衣・車駕・宮室等を供養し、父母をして一生遊樂に飽かしむるとも、若し未だ三寶を信ぜざらしめば、猶ほ以て不幸と爲す。如何となれば、仁心有りて施しを行ひ、禮式有りて身を檢(ひきし)め、柔和にして辱を忍び、勉強して徳に進み、意を寂靜に潛め、志を學問に勵ます者と雖も、一度び酒色に溺るれば、惡魔、忽ち隙を伺ひ、妖魅、乃ち便りを得て、財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿りを發させ、怠りを増させ、心を亂し、智を晦まして、行ひを禽獸に等しくするに至ればなり。大衆よ、古へより今に及ぶまで、之に由りて身を亡ぼし家を亡ぼし、君を危ふくし親を辱しめざるは無し。此の故に沙門は、獨身にして偶(つれあ)ひ無く、其の志を清潔にして、唯だ道を之れ務む。子爲る者は、深く思ひ遠く慮りて、以て孝養の輕重緩急を知らざる可からざるなり。凡そ是等父母の恩に報ずるの事と爲す」。

 此の時、阿難、涙を拂ひつゝ座より起ち、長跪合掌して、前みて佛に白して曰さく、「世尊よ、此の經は、當に何と名づくべき。又た如何にして奉(ぶ)持す可き」と。

 佛、阿難に告げたまはく、「阿難よ、此の經は、父母恩重經と名づく可し。若し一切衆生有りて、一度び此の經を讀誦(じゆ)せば、則ち以て乳哺の恩に報ずるに足らむ。若し一心に此の經を持念し、又た人をして持念せしむれば、當に知るべし、此の人は、能く父母の恩に報ずることを。一生に凡ゆる十惡・五逆・無間の重罪も、皆な消滅して、無上道を得む」と。

 此の時、梵天・帝釋・諸天の人民・一切の集會(ゑ)、此の説法を聞きて、悉く菩提心を發し、五體、地に投じて、涕涙、雨の如く、進みて佛の足を頂禮し、退きて各々歡喜奉行したりき」と。
 
 

『大學』に學ぶ――明明徳・新民・止至善。格物・致知・誠意・正心・修身・齊家・治國・平天下。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月16日(木)19時49分12秒
返信・引用 編集済
  ●吉田松陰先生『講孟箚記・孟子序説』に曰く、「

 經書を讀むの第一義は、聖賢に阿(おも)ねらぬこと要なり。若し少しにても阿ねる所あれば、道、明かならず。學ぶとも、益なくして害あり。孔孟、生國を離れて他國に事へ給ふこと、濟まぬことなり。凡そ君と父とは、其の義、一なり。我が君を愚なり昏なりとして、生國を去つて他に往き、君を求むるは、我が父を玩愚として家を出て、隣家の翁を父とするに齊(ひと)し。孔孟、此の義を失ひたまふこと、如何にも辨ずべき樣なし。

 或は曰く、「孔孟の道、大なり。兼ねて天下を善くせんと欲す。何ぞ自國を必すとせん。且つ名君賢主を得、我が道を行ふ時は、天下、共に其の澤を蒙るべければ、我が生國も、固より其の外にあらず」。曰く、天下を善くせんと欲して我が國を去るは、國を治めんと欲して身を修めざると同じ。修身・齊家・治國・平天下は、大學の序、決して亂るべきに非ず。若し身・家を捨て、國・天下を治平すとも、管・晏(齊の管仲と晏嬰)のする所にして、「詭遇して禽を獲る」と云ふ者なり。

 世の君に事ふることを論ずる者、謂(おも)へらく、「功業立たざれば、國家に益なし」と。是れ大に誤り也。『道を明かにして功を計らず、義を正して利を計らず』(漢の董仲舒『賢良策』)とこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諌死するも可なり、幽囚するも可なり、饑餓するも可なり。是等の事に遇へば、其の身は、功業も名譽も無き如くなれども、人臣の道を失はず、永く後世の模範となり、必ず其の風を觀感して興起する者あり。遂には其の國風一定して、賢愚貴賤、なべて節義を崇尚する如くなるなり。然れば其の身に於て、功業・名譽なき如くなれども、千百歳へかけて其の忠たる、豈に擧げて數ふべけんや。是を大忠と云ふなり」と。

 然れども此の論、これ國體上より出來る所なり。漢土に在つては、君道、自ら別なり。大□[抵の手なし]、聰明睿智、億兆の上に傑出する者、其の君長となるを道とす。故に堯・舜は其の位を他人に讓り、湯・武は其の主を放伐すれども、聖人に害なしとす。我が邦は、上、天朝より、下、列藩に至るまで、千萬世に(世)襲して絶えざること、中々漢土などの比すべきに非ず。故に漢土の臣は、譬へば半季渡りの奴婢の如し。其の主の善惡を擇んで、轉移すること、固より其の所なり。我が邦臣は、譜代の臣なれば、主人と死生休戚を同じうし、死に至ると雖も、主を棄て去るべきの道、絶えてなし。嗚呼、我が父母は、何國の人ぞ。我が衣食は、何國の物ぞ。書を讀み、道を知る、亦た誰が恩ぞ。今、少しく主に遇はざるを以て、忽然として是を去る、人心に於て如何ぞや。我れ孔孟を起こして、與に此の義を論ぜんと欲す。

 聞く、近世海外の諸蠻、各々其の賢智を推擧し、其の政治を革新し、駸々然として、上國(皇國)を凌侮するの勢あり。我れ何を以てか、是を制せん。他なし、前に論ずる所の、我が國體の外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲めに死し、闔藩の人は闔藩の爲めに死し、臣は君の爲めに死し、子は父の爲めに死するの志、確乎たらば、何ぞ諸蠻を畏れんや。願くは諸君と、茲に從事せん。
  ↓↓↓↓↓
【松陰先生「國體は一國の體にして、所謂る獨なり。聖人の起つて其の善を釆り、其の惡を濯ひ、一箇の體格を成す時は、是を國體と云ふ」】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/10



 愚案、「修身・齊家・治國・平天下は、大學の序、決して亂るべきに非ず」とは、松陰先生の嚴訓にして、古人爲學の根本、程朱道義の學の骨髓である。『大學』は『禮經』の一篇にして、殊に程朱の表章せし所、『小學』を畢へし兒童の、初學入門の書にして、且つ根本の經典なり。皇國の人たる者、古へに復り中興を圖らむと欲すれば、古人爲學の法に習はねばならぬ。古人教養の精粹、いざ、敬を持して私見を立つること無く、共に學ばむ。默讀よりも、音讀、口に甘すを要す。

 近藤紹宇先生、或る時、小生に埀示して曰く、『大學』よりも、朱子の序が大切なり矣。身に切に、之を學べよ、と。



■朱憙集註『大學』序・經文――三綱領・八條目に曰く、「


○大學章句の序

 大學の書は、古への大學、人を教ふる所以の法也。

 蓋し天の生民を降してより、則ち既に之に與ふるに仁義禮智の性を以てせざること莫し矣。然れども其の氣質の稟、或は齊しきこと能はず。是を以て皆な以て其の性の有する所を知りて、之を全くすること有る能はず。一(いつ)も聰明睿智にして、能く其の性を盡くす者の、其の間に出づる有れば、則ち天、必ず之に命じて、以て億兆の君師と爲し、之をして治めて之を教へて、以て其の性に復らしむ。

 此れ伏羲・神農・黄帝・堯・舜の、天を繼ぎ極を立てし所以にして、司徒の職・典樂の官の、由りて設けられし所ろ也。

 三代の隆んなるや、其の法、□[ウ+浸。やうや]く備はれり。然して後ち王宮・國都より、以て閭巷に及ぶまで、學有らざるは莫し。人生れて八歳なれば、則ち王公より以下、庶人に子弟に至るまで、皆な小學に入れ、而して之に教ふるに、灑掃・應對・進退の節、禮・樂・射・御・書・數の文を以てす。

 其の十有五年に及びては、則ち天子の元子・衆子より、以て公・卿・大夫・元士の適子と、凡民の俊秀とに至るまで、皆な大學に入れて、之に教ふるに、理を窮め、心を正し、己を脩め、人を治むるの道を以てす。此れ又た學校の教へ、大小の節の分かれし所以ん也。

 夫れ以(おも)ふに、學校の設け、其の廣きこと、此の如し。之を教ふるの術、其の次第節目の詳かなること、又た此の如し。而して其の教へを爲す所以は、則ち又た皆な之を人君の、躬行・心得の餘に本づけ、之を民生の、日用彝倫の外に求むるを待たず。是を以て當世の人、學ばざること無し。其の學ぶ者は、以て其の性分の固より有する所、職分の當に爲すべき所を知りて、各々俛焉として、以て其の力を盡くすこと有らざるは無し。此れ古昔の盛んなりし時、治は上に隆んに、俗は下に美しく、後世の能く及ぶ所に非ざる所以ん也。

 周の衰ふるに及びて、賢聖の君作(おこ)らず、學校の政脩まらず、教化陵夷し、風俗頽敗す。時に則ち孔子の聖の若き有れども、而も君師の位を得て、以て其の政教を行はず。是に於て獨り先王の法を取りて、誦して之を傳へ、以て後世に詔(つ)ぐ。曲禮・少儀・内則・弟子職の諸篇の若きは、固より小學の支流餘裔にして、而して此の篇は、則ち小學の成功に因りて、以て大學の明法を著はし、外は以て其の規模の大なるを極むる有りて、内は以て其の節目の詳を盡くす有る者也。

 三千の徒、蓋し其の説を聞かざるは莫く、而して曾氏の傳、獨り其の宗を得たり。是に於て傳義を作爲し、以て其の意を發す。孟子沒せるに及びて、其の傳、泯ぶ。則ち其の書、存すと雖も、知る者、鮮し矣。

 是より以來、俗儒の記誦詞章の習ひは、其の功、小學に倍すれども用無く、異端の虚無寂滅の教へは、其の高きこと、大學に過ぐれども實無し。其の他權謀術數、一切の以て功名を就(な)すの説と、夫の百家衆技の流との、世を惑はし民を誣ひ、仁義を充塞する所以の者、又た紛然として其の間に雜出し、其の君子をして、不幸にして大道の要を聞くを得ざらしめ、其の小人をして、不幸にして至治の澤を蒙るを得ざらしむ。晦盲否塞、反覆沈痼、以て五季の衰ふるに及びて、壞亂、極まれり矣。

 天運循環し、往くとして復らざる無く、宋徳隆盛にして、治教休明なり。是に於て河南の程氏兩夫子の出で、以て孟氏の傳を接する有り。實に始めて此の篇を尊信し、之を表章す。既に又た之が爲めに其の簡編を次し、其の歸趣を發し、然して後に古者(いにしへ)の大學の、人を教ふるの法、聖經・賢傳の指、粲然として復た世に明かなり。熹の不敏を以てすと雖も、亦た幸ひに私淑して、聞くこと有るに與かる焉。

 顧(た)だ其の書爲る、猶ほ頗る放失す。是を以て其の固陋を忘れ、采りて之を輯め、間々亦た竊かに己の意を附して、其の闕略を補ひ、以て後の君子を俟つ。極めて僭踰にして、罪を逃るゝ所ろ無きを知るも、然も國家の民を化し俗を成すの意、學者の己を脩め人を治むるの方に於ては、則ち未だ必ずしも小補無くんばあらずと云ふ。淳熙己酉(我が文治五年)二月甲子、新安の朱熹、序す。


○大學章句[大は、舊音の泰。今ま讀むに字の如くす。]

 子程子が曰く、大學は、孔氏の遺書にして、初學、徳に入るの門也。今に於て古人、學を爲すの次第を見る可き者は、獨り此の篇の存するに頼る。而して論・孟、之に次ぐ。學者、必ず是に由りて學ばゞ焉、則ち其の差(たが)はざるに庶からん矣、と。

 大學の道は、明徳を明かにするに在り、民を親(新=あら)たにするに在り、至善に止まるに在り。
――程子の曰く、親は、當に新に作るべし、と。大學なる者は、大人の學也。明は、之を明かにする也。明徳なる者は、人の天に得て、虚靈不昧、以て衆理を具して、萬事に應ずる所の者也。但だ氣稟に拘する所、人欲の蔽ふ所と爲れば、則ち時有りてか昏す。然れども其の本體の明は、則ち未だ嘗て息まざる者有り。故に學者は、當に其の發する所に因りて、遂に之を明かにし、以て其の初に復すべき也。新とは、其の舊を革むるの謂ひ也。言ふこゝろは、既に自ら其の明徳を明かにす。又た當に推して以て人に及ぼし、之をして亦た以て其の舊染の汚を去ること有らしむべし、と也。止まるとは、必ず是に至りて遷らざるの意。至善は、則ち事理當然の極也。言ふこゝろは、明徳を明かにし、民を新たにするは、皆な當に至善の地に至りて遷らざるべし、と也。蓋し必ず其れ、以て夫の天理の極を盡くすこと有りて、一毫も人欲の私し無き也。此の三者は、大學の綱領也。

 止まるを知りて后に定まる有り。定まりて后に能く靜かなり。靜かにして后に能く安し。安くして后に能く慮んばかる。慮んばかりて后に能く得。
――后とは、後と同じ。後も此に放(なら)へ。止まるとは、當に止まるべきの地、即ち至善の所在なり。之を知れば、則ち志に定向有り。靜とは、心の妄動せざるを謂ふ。安とは、處る所にして安きを謂ふ。慮とは、事にして精詳なるを謂ふ。得とは、其の止まる所を得るを謂ふ。

 物に本末有り、事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し矣。
――明徳をを本と爲す、新民を末と爲す、知止を始めと爲す、能得を終りと爲す。本と始めとは先にする所、末と終りとは後とする所なり。此れ上文兩節の意を結ぶ。

 古への明徳を天下に明かにせんと欲する者は、先づ其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先づ其の家を齊ふ。其の家を齊へんと欲する者は、先づ其の身を脩む。其の身を脩めんと欲する者は、先づ其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。知を致すは、物に格(いた)るに在り。
――治は、平聲。後は此に放へ。明徳を天下に明かにすとは、天下の人をして、皆な以て其の明徳を明かにすること有らしむるなり。心なる者は、身の主とする所なり。誠は、實なり。意は、心の發する所なり。其の心の發る所を實にし、其の必ず自ら慊くして、自ら欺くこと無からんことを欲するなり。致すとは、推極なり。知は、猶ほ識のごとし。吾の知識を推し極め、其の知る所、盡くさゞる無からんことを欲するなり。格は、至るなり。物は、猶ほ事のごとし。事物の理に窮め至りて、其の極處、到らざる無からんことを欲するなり。此の八者は、大學の條目なり。

 物格りて后に知至る。知至りて后に意誠なり。意誠にして后に心正し。心正しくして后に身脩まる。身脩まりて后に家齊ふ。家齊ひて后に國治まる。國治まりて后に天下平かなり。
――治は去聲。後も此に放へ。物格るとは、物理の極處、到らざる無きなり。知至るとは、吾が心の知る所、盡きざる無きなり。知既に盡くれば、則ち意得て實なる可し。意、既に實なれば、則ち心も得て、正しかる可し。脩身より以上は、明明徳の事なり。齊家より以下は、新民の事なり。物格り知至れば、則ち止まる所を知る。意誠なり以下は、則ち皆な止まる所を得るの序なり。

 天子より以て庶人に至るまで、壹是(いつし)に皆な脩身を以て本と爲す。
――壹是は、一切なり。正心以上は、皆な身を脩むる所以なり。齊家以下は、則ち此れを舉げて之を錯(お)くのみ。

 其の本亂れて、末治まる者は否(あら)ず矣。其の厚くする所の者薄くして、其の薄くする所の者厚きは、未だ之れ有らざる也。
――本とは、身を謂ふなり。厚くする所は、家を謂ふなり。此の兩節は、上文兩節の意を結ぶ。

 右は、經一章。蓋し孔子の言にして、曾子、之を述べり[凡て二百五字]。其の傳の十章は、則ち曾子の意にして、門人、之を記す也。舊本は、頗る錯簡有り。今ま程子の定むる所に因りて、更に經文を考へ、別けて序次を爲すこと、左の如し[凡て千五百四十六字。凡そ傳文は、經傳を雜へ引ける、統紀無きが若し。然れども文理接續、血脈貫通し、深淺始終、至つて精密爲り。熟々讀み詳かに味へ。久しくして當に之を見るべし。今ま盡く釋かざる也]」と。
  ↓↓↓↓↓
【考亭朱熹『大學或問』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/2
  ↓↓↓↓↓
●南洲西郷隆盛翁『大西郷遺訓』に曰く、「

 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚(とて)も企て及ばぬと云ふ樣なる心ならば、戰に臨みて逃るより、猶ほ卑怯なり。朱子も、『白刃を見て逃るゝものは、如何ともすべからず』と言はれたり。誠意を以て聖賢の書を讀み、其の處分せられたる心を、身に體し、心に驗する修行をせず、唯だ其の事項をのみ知りたりとも、少しも益なし。予、今日、人の議論を聞くに、如何に尤もに論ずるとも、處分に心行き渡らず、唯だ口舌の上のみならば、少しも感ずる心なし。眞に處分ある人を見れば、實に感ずるなり。聖賢の書を空しく讀むのみならば、譬へば人の劍術を傍觀するも同じにて、少しも自分に得心なく、萬一、立ち合ふべしと言はれたるとき、逃るゝより外なきなり」と。



●遊佐木齋先生『神儒問答』(第三・元祿十年六月十八日)に曰く、「

 「明徳・新民」有りて、「本・末」を差(たが)へざるは、則ち王道也。「明徳・新民」有りと雖も、少しく「本・末」を差ふれば、則ち覇道也。「明徳・新民」を知りて、能く「本・末」を知る者は、道學也。「明徳・新民」を知ると雖も、「本・末」を知らざる者は、功利の學也」と。



●谷門精舍主人遠湖内田周平(字は仲準)先生『大學を讀む』(大正三年。『遠湖文髓』卷四に所收)に曰く、「

 民を新たすること有つて、明徳を明かにすること無きは、管・商の徒、是れ也。明徳を明かにすること有つて、民を新たすること無きは、佛・老の徒、是れ也。明徳を明かにし、民を新たすること有つて、至善に止まること無きは、王通の徒、是れ也。陸子靜が徳性の説は、格致に務めざれば、佛・老の流に非ざるか乎。陳同甫が功利の學、誠正を講ぜざれば、管・商の流に非ざるか乎。本邦の學に至つては、則ち藤樹は陸氏に近く、徂來は陳氏に近く、仁齋は王氏に近し。夫の諸儒訓詁考證の説の若きは、卑卑として道ふに足らず矣」と。
  ↓↓↓↓↓
【内田遠湖先生】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/uchida.htm
【遠湖先生『拘幽操合纂の引』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/3
【遠湖先生『崎門尊王論の發達』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/25
【遠湖先生と大日本國體擁護團】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm
【遠湖先生『佐久良君殉難碑』】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sakura.htm
【紹宇近藤啓吾先生『拾穗書屋の記』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/20



●虎文齋主人彪邨岡次郎直養(字は子直)先生『天皇機關説を駮す』(『彪邨文集』卷一に所收)に曰く、「

 夫れ父を一家の機關と爲すか乎。以て機關と爲せば、則ち歪む者は以て正に改む可く、頑ななる者は以て賢に替ふ可し。然れども父は、衆子の推す所に非ず。父有り、而る後に子有り。子有り、而る後に父有るに非ず。然れば則ち其の機關に非ざること明かなり矣。

 蓋し我が國の皇祖、天より降り、以て下土に君臨したまひ、子孫繁息し、遂に全土の民と爲る。所謂る大和民族、是れ也。然れば則ち天皇は、猶ほ家庭の父にますがごとし。天皇有り、而る後に国家有り。国家有り、而る後に天皇有るに非ず。是れ我の他邦と異なる所以ん也。彼の舜なる者は聖なるか乎と雖も側陋の人、禹なる者は臣、湯・武も、亦た然り。秦漢以降は、論ずる勿きのみ耳。是れ則ち土地・人民有り、而る後に天子有り。乃ち衆の推す所と爲り、黄袍を得て衣る者なり。主權の人民に在ること、固より其の所ろ也。則ち之を機關と謂ふも、亦た可なり。今ま外國、此の如きの故を以て、之を持ち來りて擬へ、以て我が國も、亦た宜しく此の如かるべしと爲す者は、是れ徒だ異邦の制を知るのみにして、我が邦、古來の史を知らざる者なり矣。

 制なる者は、人の定むる所、史なる者は、自然の迹なり。人の定むる所を以て、自然の迹を律さんと欲するは、譬ふれば猶ほ□[月+利の右]趾適□[尸+行の左+數の左]のごとし。況んや皇國憲法は、天皇を以て機關と爲しまつらざるをや乎。高岳親王の曰く、「異朝の法を觀て、吾が神國の掟を守る者は、國の寶也。外國の法を觀て、我が神國の掟を疏んずる者は、國の賊也」と。豈に信ならざらんや哉、豈に信ならざらんや哉」と。
  ↓↓↓↓↓
【岡彪邨先生】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/oka.htm
【遠湖先生『強齋先生遺艸の序』・彪邨先生『強齋先生雜話筆記の序』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/14
【遠湖先生『大東敵愾忠義編の序』・彪邨先生『大東敵愾忠義編の例言』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/9
 
 

Re:或る靈驗

 投稿者:宮城野の月  投稿日:2011年 6月 5日(日)12時56分34秒
返信・引用
  那須の権太様

 従妹は気丈に職務を遂行しております。
お心遣いまことに有り難う存じます。

>何か修行でもなさつたのでせうか。

 特に何か修行をしたということではございません。
どなたも意識下にはあっても、感覚的なものが意識上に昇ることは、個人毎による差が大きいのでしょう。
チューニングみたいな感じだと思います・・・私の場合は随意にできるわけではありませんので、周波数が合う合わないはあるように思います。

ある種の仲間は距離に関係なく分かるのだと、自分の経験から。
それは、たぶん、魂の仲間のようなもの。双子や三つ子が同じ胎盤に繋がっているように、どこかで同じ何かに繋がっている。
その魂のグループが更に大きなものに繋がっているのではないかと推察しております。


 

多謝深謝

 投稿者:相州之民艸  投稿日:2011年 6月 3日(金)00時21分26秒
返信・引用
  備中處士樣

 先日は尠からずの御厚誼を賜はり難有う御座いました。
 まことに有意義な時間を過ごすことが出來ました。

 それにしても、流石は『九段塾』。此處に集ふ方々は正氣に滿ち々ゝてをられますね。

 實存主義者樣も御會ひするまでは、如何なる御方かと思うてをりましたが、學ばせていたゞくところ、頗る大にして。背筋の伸びたまゝ、清々しき心持ちで歸宅した次第です。

 顧みればそれもこれも塾頭ありてこその縁。

 『九段塾』を通じまして、混沌たる現下日本にたゞしく神州の正氣、漲らむことを熱祷するものであります。


追伸
 實存主義者樣の仰るに野生を『明るく爽やかな好青年』と。難有う御座います。
 實存主義なるものに就て、二二六事件に就ての御意見を拜聽したかつたのですが、限られた時間でのこと。續きは、靜かに貴會の掲示板で學ばせていたゞきます。
 これからも御指導賜はりますやう伏して御願ひ申し上げます。
 

藤田東湖先生「神州固有の道」。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月 2日(木)23時20分13秒
返信・引用 編集済
   學者の論爭は、讀みて飽きない。小生は、若き頃、平泉澄先生『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)を拜讀して、遊佐木齋先生と室鳩巣との『神儒問答』を知り、儒學者の弊害を知り、不學ながらも覺醒する所、大なるものがあつた。

**********

■濯直靈社・遊佐木齋翁『神儒問答』(室鳩巣に答ふる書第二・元祿九年十月十五日)に曰く、「

 唯だ「若し王者起ること有らば」の一語、未だ疑ひ有ることを免れず。其の「王者起る」と曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮り無かるべき者、諱む可きの甚だし焉」と。

■『神儒問答』(第三・元祿十年六月十八日)に曰く、「

 夫れ人也、生るれば必ず死し、王や也、興れば必ず亡ぶ。必然の理也。然れども我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか之れ有らん。天地と共に主爲り、開闢と共に君爲り。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず。‥‥天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼也。此れ乃ち我が神教の大意也。‥‥

 明徳新民(『大學』の綱文)有りて、本末を差(たが)へざるは、則ち王道也。明徳新民有りと雖も、少しく本末を差ふれば、則ち覇道也。明徳新民を知りて、能く本末を知る者は、道學也。明徳新民を知ると雖も、本末を知らざる者は、功利の學也」と。

**********

 今こゝに、名越時正翁『水戸學の研究』(昭和五十年五月・神道史學會刊)に引用する、水戸弘道館の論義を紹介する。


●水戸烈公『弘道館記』本文
 弘道とは、何ぞや。人、能く道を弘むる也。道とは、何ぞや。天地の大經にして、生民の須臾も離る可からざる者也。

○其の草稿(『水戸藩史料』別記下第十七)
 弘道とは、何ぞや。人、能く道を弘むる也。道とは、何ぞや。神州の固有する所にして、生民の須臾も離る可からざる者也。

「道とは、何ぞや。神州の固有する所にして、生民」

★捨藏(佐藤一齋)の曰く、「固有は宜しからず。神州の所存と改むべし」と。

★量介(青山延宇)の曰く、「固有の字、『孟子』に始まり、人身に固有することの外は用ひぬ。神州の所存と改めても穩かならず。神州の所傳、又は所崇奉なりとの内に改むべきにや」と。

★恆藏(會澤正志)の曰く、「道とは、何ぞや。天の敍する所、人の由る所、鴻荒より無窮に及び、凡そ宇内に在る者、須臾も離る可からざる所也、と改めたし」と。

★烈公(水戸齊昭)、裁決して曰く、「此の三説を合せ考ふるに、いかにも、固有は宜しからず。頻りに神州のものとするゆゑ、六ケしきなり。しかし恆藏の説のやうにては、あまりひろく、其の上、人の所由の言たる、上に須臾も離るべからずと言ふては、重のやうなり。因ては天地の大經と改めては如何あるべきや。凡そ宇内に在る者と言ふては、夷狄鳥獸までかゝりたるやうなれば、やはり生民にて然る可きか」と。


 遂に平泉澄博士の嚴烈なる訓導を承け、藤田幽谷先生家塾青藍舍の學統を受け繼ぐ所の、水戸青々塾・楓廼舍名越時正翁の曰く、「

 道の本源に關する諸學者の見解は、この議論に於いて、率直に露はされてゐる。佐藤一齋が『神州の所存』といひ、青山延宇が『神州の所傳』又は『所崇奉』と述べ、正志齋に至つては、『天の所敍』と改めんとしたのは、何れも皆な神州を超越する天地の大道を考へて居り、神州の道といふ『獨』の自覺(愚案、吉田松陰先生『講孟箚記』)に到達せざる思想を示すものである。齊昭さへも、『頻りに神州のものとする』論なりと考へ、正志齋の説と調和する如く、この裁決を下したのである。齊昭も、又た東湖の所信には共鳴出來なかつたものと言はねばならぬ。『弘道館記』冒頭の重大なる一節は、かうした討論の末に成つた意義深き詞だつたのである。

 ところが、かうして成つた一節であるが故に、これが述義を作つた東湖は、人知れず苦心しなければならなかつた。勿論、正志齋や延宇の所説には、斷じて妥協することは出來ぬ、確乎たる信念を有した東湖である。道を天地の道と信じても、之を抽象的に考へることは、國體に徹する者の、事實上無意味とする處である。そこで、
『詩に曰く、「天、蒸民を生ず。物有れば則有り」と。蓋し天地有れば、則ち天地の道有り。人有れば、則ち人の道有り。天神は、生民の本、天地萬物の始なり。然れば則ち生民の道は、天地に原く。而ち天神に本づくや也、亦た明かなり矣。我が公(烈公齊昭)、夙に心を古典に濳め、道の原本に於て、默識意會、乃ち一筆、之を斷じて曰く、「天地の大經にして、生民の須臾も離る可からざる者なり」と。嗚呼、亦た至れり矣』
と述義して、而も齊昭の志の存する處を弘めようとしたのであつた。

 しかし乍ら東湖は、道を神州の固有する所としたけれども、決して又その普遍性を否定するものではなく、神州の道こそ、亦た萬國唯一の道であることを確信したのである。それは『神道備考』に、
『夫れ儒の教へ爲る、名數節目、勝げて言ふ可からず。然れども其の大要、人倫を明かにするに在り。所謂る父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友なる者、皆な我が固有する所なり。抑々豈に啻に固有を、之れ爾か云ふのみならんや哉。凡そ天日の照らす所、宇内萬國、未だ嘗て神州の尊きに及ぶこと有らざる者なり。則ち各國固有の道、豈に後に斯道の右に出る者有らむや耶』
と論ぜられた處、既に天保五六年にして、この識見あるを知るのである。

 正志齋と東湖との道の原本に關する根本的相違は、最早や此處に異論なく明かにせられたと思ふ。此の相違は、聖人を辨護し、儒教の誤謬を批判脱却し得なかつた碩儒と、國體の根本に徹し、儒教的思想を超克し得た東湖との根本的な相違の一例である。而してこの兩先哲の學問・見識の差異が隨所にあらはれて居ることは、兩者の著述を讀むとき、自ら明かであらう。例へば『弘道館記述義』は、この固有の道の消長を以て、國史の發展を跡づけたもの、否、この道が如何にして護持せられ來つたかを、歴史的に考察したものと言へよう。而してその不易の道の上に、國史を把握し得てこそ、「古を稽へ今に徴し、神聖の大道を發明し、武を尚び文を右とし、天地の正氣を鼓舞す」の文字を以て、彼は自ら「宿昔の志願」と爲すに至つたのである(『東湖遺稿』鈴木子明に答ふる書)。

 もとより正志齋が辛學力行して、師幽谷の學問を繼述し、いち早く尊王攘夷の論を提唱して、時局打開の根本義を闡明し、その論は天下の志士を蹶起せしめたことが、歴史上に占める意義の絶大であつたこと、論を俟たない。東湖も、又た終世、正志齋を敬して道を問ひ、「先人の高弟」に對する禮を失はなかつたことは、こゝに特筆しなければならない。しかし正志齋は、その國體論と、儒學を基礎とする學問との間に、天命論・祭祀論等に於いて解決し切れぬ矛盾を存してゐた。從つて彼を東湖と比較するときに、その差異は、自ら如上の如く顯著とならざるを得ないのである」と。



 愚案、會澤正志齋の如く、「道は、天地の道」(『讀直毘靈』)と云ひて、斯道の普遍性のみに著目するとき、室鳩巣の如き儒學者は、古來往々にして國家間の無差別、即ち世界主義に陷つたのである。一方「神州固有の道」を奉ずる藤田東湖先生は、義兄・活堂吉田令世翁を通じて、國學の造詣も深く、神道の學問に從事してゐた頃、平田篤胤先生と屡々會見し、「僻見怪説も少なからず候へ共、篤く古學存入り候ふ段は、格別のもの之れ有り」と云つて、彰考館出入を許可すれば、神書取調べについても、「足り合」になるであらうと、烈公に推擧してゐる。小生が水戸學に於いて、殊に東湖先生を仰ぐ所以、其の人物大器のみでは無いのである。而して崎門學徒として、水戸義公の恩は、紹宇近藤啓吾先生より師承する所である。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/22


【水戸學抄】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/15
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/14
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/11
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/12
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/4
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/13


【水戸の慘状】
http://sousiu.exblog.jp/15785641/
 
 

Re: 或る靈驗。

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 6月 2日(木)19時44分39秒
返信・引用 編集済
  備中處士樣

  先頃の靖國神社御參拜、誠に祝着に存じ上げます。御三人樣でさぞや御話も彈まれた事でせう。また更には大東塾へも赴かれた由、流石は備中殿です。そこまで計畫されてをられましたか。此の分なら件の出版計畫も屹度巧く運びますでせう。

  それから、宮城野の月樣のメール、拜見させていたゞきました。從妹樣には何ともお傷はしいことでした。言葉も出ませぬ・・。公務優先が職務とは云へ、さぞや御辛かつたでせうね。報道では、津波からの退避を擴聲器で放送しつゞけ、自らは呑込まれてしまつた女性職員もをられたとか。身につまされる御話です。
  如何か從妹樣にはお氣を強くお持ちになり、公僕としての誇りを胸に今後の郷土復興に御盡力下さいますやうお祷り申上げます。

  それにしても宮城野の月樣は凄いですな。何か修行でもなさつたのでせうか。それとも生まれつきの能力なのでせうかね。
  さうですか。塾頭の波動はそれほど強いものでしたか。ま、あの塾頭のことだ、さもありなん。あちらでは相原神主樣方と強力戰鬪部隊を組織して居られるやも知れませぬなあ。呵々。

  <追伸>
  敷居に鉋をかけて下さつたとか。なるほど、少し低くなつてをるかな?わたくし、足がまだ治りきつてをりませぬゆゑ、敷居に蹴躓いて再負傷などせぬやう氣を付けます。九拜
 

或る靈驗。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 6月 1日(水)23時44分32秒
返信・引用 編集済
   「宮城野の月」樣よりメールを戴きましたので、轉載のお許しにより、下記、ご披露申し上げます。

 從妹樣の大變、遙か僻陬の地よりではありますが、謹みて哀悼の意を表します。

 宮城野の月樣の靈驗、信ぜぬ人は如何とも爲し難いものゝ、小生は深く之を信じて疑はぬものであります。

 かつて塾頭の曰く、『「山桜に風」という名前に文学的素養を感じたが、今度は、この「宮城野の月」という名前は、実に奥深いものを感じる。「宮城」の草原を意味しているのかー。ROM専の人みたいだが、こういう人の言葉を、閲覧者には紹介したいのだが‥‥。この人に「時計の間」でのメール転載の許可はもらえないのですか?』と。

 塾頭も仰せです。宮城野の月樣、遠慮などされること無く、「時計の間」でも宜しいので、思ひのまゝ、ご投稿たまはらむことを。餘所で「敷居が高い」と仰る方もをられるやうなので、更に鉋をかけておきました。

 さう云へば、金剛樣、掌雲樣、ちと、ご無沙汰ではありませんか(泣く)。


*******


 靖国神社へのご報告に、私も参りたかったのでございますが、諸般の事情でかないませんでした。昨年の十月初旬に、お参りして以来でございます。この時は、名残の蝉が鳴いていました。

 従妹は公務優先で、家を流されても、自分のことは何も出来ない状況でした。これは、みんな同じなのですが‥‥。従妹の配偶者が、震災と津波で‥‥。かなり時間が経ってから、ようやく歯型で判明し、本日が納骨でした。親の世話をしていることと、折悪しく自分も足を痛めていることから、ご一緒できかねました。



 平成二十二年一月には、お二人のご病状について心配しておりました。一人は松村劭閣下、もう一人は塾頭様です。松村閣下は、一月二十八日にご逝去。

 私の感覚では、二十一年の夏‥‥七月下旬、八月下旬。九月上旬には、特に‥‥亡くなったのは、一体、誰なのか、と‥‥。塾頭様については、備中處士様のところに、必ず連絡があるはず‥‥。でも掲示板には、そのことについては、何も触れられていませんでした。

 私の首の後ろの辺りというか、背中の上の方に、なんとなく感じるのです。冷たいような、本当に温度が低いのか、感覚をそう認識するのか分からないのですが‥‥。誰かが来ているのは分かるのです。

 九月には消えてしまったので、一体、何方なのかと思っていましたが、氷解しました。感覚が消えるまでは、時々強く感じるのです。

 お会いしたことがない場合は、この程度しか分からない私ですが、塾頭様の遺影を拝見した折には、遺影から実際の写真の大きさであったであろう幅で、波動のようなものが、ビリビリ伝わってきました。

 今、ビリビリ伝わって来ましたとだけ書きましたが、今まで分かるときには、言葉ではっきり浮かぶ(たとえば、『この人』)か、全体的にふわぁ~っと感じることが多かったのです。塾頭様の時には、波動が厚い帯状に直線的に強く伝わってきました。それも長く(感覚としてですが)、感じました。次々と波動として押し寄せてくるという、こういう感じ方は、初めてでした。

 私も遠くから、お祈り申し上げます。

 平成二十三年五月二十八日 宮城野の月 拝


*******
 
 

塾頭を仰ぐ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 5月30日(月)01時22分26秒
返信・引用 編集済
   五月二十八日、上京。相州の民艸樣に、拜眉の榮を賜はり、數年來の交誼に對し、感謝の意を表す。此の勤皇家の、熱き想ひと深き思索に、心あたゝまりつゝ、日本再興の兆しを見た。

 相州の民艸樣の導きにより、青山は大東會館を訪ひ、福永眞由美大刀自、福永武不二歌道會代表に面謁し、往年の影山正治塾長の面影を偲び奉ることが叶つた。而して圖らずも相原修之命に邂逅、初めて其の神主(こゝでは靈璽の謂ひ)に、ご挨拶を申し上げた。塾頭健康の折の最後の玉稿は、大東塾の事故であつた事、努め忘れてはなるまい。塾頭の曰く、「影山正治大人・神屋二郎大人が、どうしても欲しかつた人物だつたのだらう。相原修氏は、この世における命をむすばれたに過ぎない‥‥」と。大東塾關係者の歸幽地が、今となつては氣にかゝる。護國の英魂は、此の震災の收束に、活溌溌地、動かれてゐるに相違ない。
  ↓↓↓↓↓
平成二十一年九月十一日・十二日、塾頭『むすびに至る日々』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/572
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/573
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/577


 夜、投宿先にて、塾頭の晩年をよく知る御夫妻の訪問を受け、遺文出版を相談、一條の光明を見出すことが出來たことは、何より嬉しいことであり、又た「泉水隆一監督は、一昨年末に於る幻の映畫『凛として愛』の軍人會館上映に先だち、九段會館へ上がる階段の數と一段の高さと幅とを調べさせ、病院にて、彼の階段を擬して、懸命のリハビリを敢行された」由、塾頭の凄まじき鬪病の御姿を拜聞し、涕泗、頬を下るを覺えたり。塾頭逸事の文章化を依頼して、圖らざる同志との絆を確認する。本道に難有い。塾頭の靈導を感ずる、まさに此の一日であつた。

 翌五月二十九日、靖國神社參拜。塾頭を慕ふ方々と共に昇殿參拜。祭神の意志繼承と塾頭の遺訓護持を誓ひ、実存主義者樣と河原樣と共に、切磋琢磨を樂しんだ。ご兩所の話を聞いてをるだけでも、‥‥。

 但し歸宅すれば、『備中殿も想像していた通り、「気難しい国学者」のごとき風情の御方でした(これ褒め言葉ですからね・笑)』と、誰も褒め言葉とは取るまい御言葉をも賜はり、嬉しいやら、悲しいやら、本日は、枕も濡れることでせう。病み上がりの身に、本道に難有く存じました。



 また珍しき話を、或る御方から聞いた。『凛として愛』に出て來る、囘天のことを語る小母さん、反日映畫にも出演してゐる由。泉水監督が、「眞實の事を語らうよ」と云へば、「眞實の事を云へば、映畫からカツトされる」と。ならばとて、彼の「日本刀をぱーと上げて」のシーンとなつたのである、と。

 戰後と云ふ時代は、戰前の眞實を語ること能はざる時代、云へば無視・敬遠・排除される時代である。泉水監督は、此の閉塞した時代に、一つの風穴を開けたかつたに相違ない。諸彦諸姫よ、遠慮は要らぬ。戰前の眞實を探して、之を大いに述べようではないか。或は誰を恐れてか、述べる者を抑壓せむとする者あるか、此の如き者を、小生は、甚だ憎み頗る憐れむ。
 
 

Re: 御容赦を・・・

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年 5月29日(日)22時09分18秒
返信・引用 編集済
  > No.1233[元記事へ]

那須の権太様

> 実存主義者樣に叱られました・・・。
> 申し譯ありませぬ。わたくし參れませぬ・・・。
> 當方、震災の影響がまだつゞいてゐます。わたくしの職務上、地元民を護らねばなりませぬ。
> 何時興るか判らぬ二次災害に備へねばなりませぬゆゑ、地元を離れる事叶ひませぬ。
> 何卒よしなに願ひ上げます。

★何を仰せですか、那須殿。

ご貴殿はこの私などより遥か深く塾頭に私淑されている御方。

その那須様に「できの悪い見習い塾生」たる私が「叱る」などとんでもありませんよ。

折りしも台風二号が接近し、雨足も強く、日和としましては決して良いとは言えない日ではありましたが、本日(五月二十九日)は映画「凛として愛」にあったように、アッツ島守備隊玉砕の日でした。「全滅です」の司令官の言葉をお受けになった昭和天皇は、「それでも良い。無線を打ちなさい」と仰せられました。

天皇から臣民に対して差し向けられた労りの感情を、塾頭は「凛として愛」というタイトルに込めたのではないか、と今想像をたくましくしているところですが、仮にそれがハズレであってもここで言う「愛」が、キリスト教的な意味で使う「愛」とはまるで別物であるということは間違いないでしょうね。

> 何時興るか判らぬ二次災害に備へねばなりませぬゆゑ、地元を離れる事叶ひませぬ。
> 何卒よしなに願ひ上げます。

★戦後は単に「地域社会」などと言われるようになってしまいましたが、本来、「共同体」というのは、「地縁、血縁によって繋がった人々との間柄を重んじ」、そして「土地と共に生きる」という意味でしょう。そこには喜怒哀楽もあれば厳しい掟もあるでしょう。

塾頭もきっと、「権太さん、そっちが片付いてからでいいよ」と優しく言ってくれるに違いありませんよ。



 

喜悦満面

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年 5月29日(日)20時37分5秒
返信・引用
  備中處士様

本日はありがとうございました。久し振りに会話というものの楽しさを存分に堪能させて頂き、満足至極で六時ごろ帰宅致しました。

末節での小異はあったにせよ(もっともそれも想定内でしたが・笑)、根本のところにおきましては概ね合意に至ったのではないか、と勝手に思ってはいます。まあしかし、何はともあれ、「九段塾」塾頭・一兵士様の語録出版に向かっての足掛かりが見つかったということは、何よりの朗報でした。

これも備中様の熱意と人望に、ご友人であらせられる河原様の男気が呼応し、氏のこれまでの地道な活動によって培ってきた人脈と、英霊の見えない後押しの賜物ではないでしょうか。

お二方様とは初対面でしたが、そんなことをまるで感じさせないまでに、終始和やかな雰囲気でお話できたのもひとえに備中様、河原様のお人柄によるものです。

河原様は大変な勉強家であり、明るく爽やかな好青年(といったらご本人、怒るかな?)であり、会話の作法を重んじる方ですね。私の話をけっして遮らず、最後まできちんと聞いてくれた上で、ご自分の考えを述べることができる方です。ご意見もその一言一言に自信がみなぎっていました。私はそんな彼をいっぺんで気に入ってしまいましたよ。

備中殿も想像していた通り、「気難しい国学者」のごとき風情の御方でした(これ褒め言葉ですからね・笑)。

これを機に、皆様との交流を深め、思想を鍛えるための活力として参りたい所存でおります。どうかよろしくお願い致します。

 

御容赦を・・・

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 5月24日(火)23時28分35秒
返信・引用 編集済
  実存主義者樣に叱られました・・・。
申し譯ありませぬ。わたくし參れませぬ・・・。
當方、震災の影響がまだつゞいてゐます。わたくしの職務上、地元民を護らねばなりませぬ。
何時興るか判らぬ二次災害に備へねばなりませぬゆゑ、地元を離れる事叶ひませぬ。
何卒よしなに願ひ上げます。

那須野ヶ原権太佐衛門 再拜

 

誰が御靈を汚したのか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 5月23日(月)22時30分16秒
返信・引用 編集済
  実存主義者 樣

 機嫌を惡くするどころか、実存樣の、塾頭に對する熱き想ひを、あらためて感得させていただきました。『私が参加表明をすると、快く思われない方もおいでではと思い』と。然やうな御方は、小生の存じ上げる限り、誰一人をられませんよ。ただ実存樣を鬼と思つてをる人は、いらつしやるかも知れませんが‥‥(笑)。

 參拜の日に、或は故障ある方、或は遠方の方もをられませうし、また震災の影響もありませう。既に參拜して、塾頭へ想ひを述べられた方もありませう。よいではありませぬか、たとひ実存樣と備中、二人でも‥‥。小生は僻地にして、塾頭歸幽の後、やつと昇殿參拜し、皇國中興の祈り、塾頭への報告がかなひます。

『塾頭を慕っておられた方も、またそうでない方も、「凛として愛」を観て、「排斥される要素などどこにもない」と感じられた全ての方々に、29日は、靖国神社にお越しいただきたい、と申し上げたいと存じます』と。幾重にも御禮申し上げます。

 要は、塾頭を通じて、靖國神社の正統の何たるかを知つてしまつた方々が、各々の時期と方法にて、其の志を伸べて戴ければ、九段塾の管理者として、道福、これに過ぐるものはございません。

 本來、小生は群れるのを嫌ひ、獨往の道を歩む者、しかし道友あらば、喜ばしきこと、此の上なし。小生は、固より松平永芳宮司・塾頭の祈りを繼がむと欲する所存、そのうち傑物大器が出現するまで、泉水隆一監督、即ち福井金城翁主宰の『九段塾』、縷の如しと雖も、之を御守りしたいと思ひます。



●松平永芳大人『誰が御靈(みたま)を汚したのか――「靖國」奉仕十四年の無念――/あの總埋大臣の無禮な公式參拜は忘れられない。政治權力との癒着を後任に戒め、私は職を離れた/――「公式參拜」といふ名の非禮を、私は忘れない――』(平成四年十月三日「東京レディーズ・フォーラムに於る講演」に加筆。文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號所收)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7
 
 

Re: 靖國神社參拜。

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年 5月23日(月)16時02分26秒
返信・引用
  > No.1229[元記事へ]

備中處士様

こう書くと貴殿は機嫌を悪くされるでしょうが、それでも敢えて言いたいのですが、桜掲示板時代を含め、塾頭の言葉に賛同されていた多くの方々は、何故ここに書かないのでしょうか。

何故、一兵士さんが「凛として愛」を撮った故泉水隆一監督と同一人物であったことが疑いない事実と判明した「今」、彼岸で援軍を待つ塾頭にエールを送ろうとしないのでしょうか。

書くなら「今」でしょう。

私が参加表明(昇殿参拝)をすると、快く思われない方もおいでではと思い、暫く遠慮しておりましたが、土曜(28日)まで待って、他の方からの参加表明がない場合、「私、実存主義者、靖国神社の社頭にてお待ち申す」と、言明させて頂きます。

もっとも、「裏」・・・私信メール・・・で既に大勢の方々から参加の意思表明がなされているのでしたら、私など「お呼びじゃない」となるでしょうが・・・。

いずれにせよ、塾頭を慕っておられた方も、またそうでない方も、「凛として愛」を観て、「排斥される要素などどこにもない」と感じられた全ての方々に、29日は靖国神社にお越しいただきたい、と申し上げたいと存じます。

 

明治天皇の軍神祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 5月22日(日)00時51分49秒
返信・引用 編集済
   かつて塾頭は、「紫宸殿に於ける軍神祭」について書かれてをられましたが、其の御祭文は、小生の寶藏せる所の賀茂百樹宮司『靖國神社誌』・森清人博士『みことのり』等にも所收されてをらざるもの、偶々、鎌田純一博士『神道史概説』を拜讀してをりましたら、『明治天皇紀』の記事が出てをりましたので、こゝに謹みてご紹介し、塾頭の靈前に報告する次第であります。

 此の御祭文に、「山行かば草生す屍、海行かば水附す屍」の復活を宣り給ひ、又た「安國」の御文字の出づるは、注目しなければならぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/106
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/247



●鎌田純一博士『神道史概説』(平成二十二年十月・神社新報社刊)――靖國神社の創建――に曰く、「

(慶應四年)二月三日、有栖川熾仁親王を東征大總督とされ、三月二十一日に、親征軍を發せられることとなつたが、その前日の二十日に、紫宸殿で、軍神祭を齋行された。すなはちその三月十四日、天神地祇を祭り、五箇條を誓はれた六日後のことであるが、その軍神祭御祭文より、天照大御神・大國主大神・武甕槌之男神・經津主神、四柱を神籬に招請されての祭祀であつたことが知られる。そしてその軍神に、

『隨從ふ大丈夫武雄は、恆に利心振り起して、山行かば草生す屍、海行かば水附す屍、君の御爲め、國の御爲めに、顧み无く、天津雄々敷き言立ての隨に、今も仕へしめ給ひて、天之波志弓引末賀那ひ、天の眞鹿兒矢千尋射渡し、悉に伐ち罸め、言向しめ給ひて、大八島國中、悉、石根木根立草の片葉も言止の安國と平けく、八絃の琴の調べとゝのふ言の如く、鎭撫めしめ治めしめ給へと』

と奏上されたことが知られる。その隨ふ兵、大君のため、國のため、生命失ふことも恐れず、ただ國内平らけく安らけくと願ひ戰ふこと、見行はされ信じ給うての祭文である」と。



【明治御一新前後の御沙汰】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t13/3
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t2/3
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t2/9
 
 

靖國神社參拜。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 5月20日(金)21時02分46秒
返信・引用 編集済
  九段塾ご閲覽者各位 硯北

 九段塾塾頭・福井金城翁の捐館を承けて、小生、九段塾管理者として、靖國神社へ御報告・遺志繼承の誓ひに參りたいと存じます。

 金城翁を慕ふ御方で、ご一緒して戴ける御方がをられるやうでしたら、

來る五月二十九日午前十一時頃、參集殿にて御待ち申し上げます。

 御聲がけを賜はれば、共に昇殿參拜をさせて戴き、塾頭・金城翁を御偲び申し上げたく存じ上げます。此の日は、恰もアツツ島守備隊玉碎の當日なれば、金城翁ゆかりの日でもあります。九拜

     備中處士 謹白



【山崎保代中將と福井銀城翁】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1092
 
 

「いづみ りゆういち」の翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 5月14日(土)23時42分41秒
返信・引用 編集済
   『金城翁遺文』、一先づ校正を畢へました。讀む度びに、漢字の措き替へが増へて參ります。これつて、袋小路に入つたかも知れません。更に校正を續けます‥‥。

 小生の迂闊なる、泉水隆一翁の訓は、「いづみ りゆういち」でありました。下記冒頭にご留意ください。此の迂闊、小生のみでせうか(苦笑)。塾頭、どうせうも無い未熟者で、洵に相濟みませぬ。
  ↓↓↓↓↓
【ニコニコ動畫=肉聲】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223



 何方か、泉水隆一監督、即ち福井金城翁の「生年月日」を知られませんか。最近は、「行年」と申しても、歐米の精神的侵略に遭うて、滿年齡を云ふ髮長も繁殖してをりますもので‥‥。何卒、御示教ください。名越二荒之助翁は、「自分(名越翁)より三つぐらゐ、年上かと思つてゐましたよ」と、以前、金城翁に言はれたことがある由。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1070

【金城翁遺影・講演中における車椅子の塾頭の白髭姿】
  ↓↓↓↓↓
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/
 
 

/20