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孝明天皇の聖徳を仰ぎ奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月18日(水)21時31分32秒
返信・引用 編集済
   來る一月二十七日は、明治天皇には、初めて靖國神社へ行幸を賜ひ、畏くも御宸筆の御製を賜はりました。

我國の 爲をつくせる 人々の 名をむさし野に とむる玉かき

 また二十八日には、『古事記』撰録一千三百一年、一千三百周年の日を迎へます。

 『古事記』序に、「和銅五年正月廿八日、正五位上・勳五等・太朝臣安萬侶」とあり、或は民部卿に至つた『太安萬侶墓誌』に、「左京四條四坊・從四位下・勳五等・太朝臣安萬侶、以(養老七年)癸亥年七月六日卒之。養老七年十二月十五日乙巳」とありますやうに、贈從三位・太安萬侶公が、今を去る一千三百一年前に、『古事記』を奉敕撰録して、元明天皇に獻上したのでありました。

 而して三十日は、孝明天皇の例祭であります。

 孝明天皇には、外夷襲來動亂の時節に際會して、「神州の國體に瑕瑾なく、國民を損せざるやう」てふ、只二つの政治指導の眼目を打出させ給ひ、天下に號令を發せられ給うたのであります。こゝに我々は、孝明天皇の無私無慾、純粹清明、眞に神の如き大御心を仰ぎ奉るのであります。志士忠臣は、感激の餘り、鋭意、之に應へ奉らむとして、殉國奉公の誠を所在に捧げ盡したことは、餘りにも當然の事に外ならなかつたのであります。大義に勇む先哲に學び、之に習はむことを期したいと存じます。
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■孝明天皇御製

あさゆふに 民やすかれと おもふ身の こころにかかる 異國の船

この春は 花うぐひすも 捨てにけり 我がなすわざぞ 國たみのこと

國のこと ふかく思へど いましめの 雪のつもるか 園のくれ竹

こと國も なづめる人も のこりなく はらひつくさむ 神風もがな

ねがはくは 朝な朝なの 言の葉を あはれみうけよ 神ならば神

あづさ弓 ま弓つき弓 としをへず 治まれる世に ひきかへさなむ

國のかぜ 吹きおこしても 天つ日を もとの光に かへすをぞ待つ

あめつちに みつる寒さの 厚ごほり あつくもおもひ つくす願よ

あぢきなや 又あぢきなや 葦原の たのむかひなき むさし野の原

ほことりて 守れ宮人 九重の みはしのさくら 風そよぐなり




●寒林平泉澄博士『孝明天皇の聖徳』(昭和四十一年十一月『神道史研究』孝明天皇と平安神宮特輯號)に曰く、「

 細部末端の事は、之を幕府の機關に委任してよいが、國體の根本に關する國策の大本は、天皇の御指導によらねばならぬとするは、道理に於いて當然の事でありながら、嘉永・安政の當時にあつては、驚くべき革新と思はれた。それを早く弘化三年より始めて、嘉永・安政と、ひきつづき決行あらせられたのが、孝明天皇であり、而して下々に於いて、同じ精神を以て、めざましき運動を展開したのが、橋本景岳であつた。

 抑も孝明天皇の御代は、英傑の士、數多く輩出して、國史の中に於いても、特に光輝ある時代であつたが、その中にあつても異彩を放つ者は、橋本景岳と吉田松陰とであつて、此の兩士の亡くなつた後に於いては、眞木和泉守であらう。以上の三桀は、いづれも孝明天皇の御代に活躍して、孝明天皇の御代に一生を終つたのであり、しかも其の死は、尋常一樣の最期ではなく、實に一命を孝明天皇に獻じ奉つたのであつたが、就中、景岳は天保五年に生れて、孝明天皇御踐祚の年、十三歳であり、松陰は天保元年に生れて、孝明天皇御踐祚の年、十七歳であつたから、此の二人の一生は、その幼少の時代を除却すれば、孝明天皇の時代に終始したものと云つてよい。

 さて其の景岳は、世界の大勢を洞察達觀して、開國進取の國策を立て、而して強豪の列國に對抗して國家を護持せんが爲には、國體の本義によつて天朝を尊崇し、敕命を仰いで政治の基本を確定し、天下有爲の人材をあげて要路に立たしめようとした。そして其の祕策實現のために、安政五年、上京奔走したが、その報告を讀めば、當時二十五歳の景岳が、いかに愼重に行動し、いかに適切に人物を鑑定し、いかに巧妙に人々に入説していつたかが分つて、只々感歎の外は無いのであるが、その中に恐れ多い事ではあるが、孝明天皇を評し奉つた所がある。

 主上御義は、御壯年にもあらせられ、御英名の御沙汰は伺ひ居り候へども、内實は如何と、恐れ多くも疑ひ居り候ふところ、實に驚状し奉り候ふ事ども、數件御座候ふ。此の節、世上取沙汰の事ども、一々御耳に入り居り候ふよし、此の節は、夜分、御忍びにて(侍從も知らざる位)、内侍所へ御日參遊ばされ候ふよし、過日は東坊城(傳奏)、太閤(鷹司政通)に恐れ、賄賂を取り、あまつさへ恐れながらも、今度關東(幕府)の申す如く成されざる時は、承久の後鳥羽帝の事、恐るべしなど申し候ふところ、大に御笑叱、「其は間違なり。彼は武家に歸したる權を御所へ御取返しの御趣向、今度は皇國の御一大事故、皇國人心の歸する所にて處置致し候ふつもり(當時正論家の眼目、此の一語に盡き居り申し候ふ。列侯の存御尋も、此の邊の見込に御座候ふ)、依つて相考へ候へば、彼は内地にて公武の爭、此の度は皇夷の爭に候ふ。必ず承久度の事これなき間、安心申すべし。それにても強ひて其の事を行ひ候はば、其の時は畏るるに足らず」と、御埀論遊ばされ候ふよし、此の御一語の御徳音、實に鳳鳴龍吟、我が神州の爲め、光を増し候ふ事萬々、吾儕、一命位は、實に惜しむに足らずと存じ奉り候ふ。

 景岳の報告は、此の後、天皇が九條關白(尚忠)を鞭撻して、鷹司太閤を恐れず、正路を進ましめ給ふ事、傳奏ではとかく賄賂に流れる弊風あるについて、毎々直接に御叱り遊ばされる事、此の節は深夜まで舊記を御研究遊ばされる事、御酒も御減しか、又は御止めの由承る事、鷹司右大臣(輔煕)より「海外貿易を御許しになれば、時計などは澤山輸入されますから、自由に手に入るやうになります」と申し上げたところ、『時計の爲に國策を決定する事は出來ぬ』と仰せられた事など、いろいろ記してあるが、孝明天皇英明の御徳は、景岳の一語、「一命、惜しむに足らず」との感嘆に現れて明瞭であつて、一々の實例を細敍するには及ばないであらう。

 次に吉田松陰を見る。松陰は、嘉永六年十月朔日、京都に入り、翌二日朝、御所を拜した。そして感激を詩に托して曰く、

山河襟帶、自然の城、東來日として、帝京を憶はざるなし、
今朝盥嗽して、鳳闕を拜し、野人悲泣して、行くこと能はず、
鳳闕寂寥にして、今ま古へに非ず、空しく山河有りて、變更無し、
聞説(き)くならく、今上聖明の徳、天を敬ひ民を憐みたまふこと、至誠に發す、
鷄鳴乃ち起きて、親ら齋戒し、妖氛を掃つて、太平を致さむことを祈りたまふ、

從來英皇、不世出、悠々機を失す、今の公卿、
人生萍の如く、定在無し、何の日か、重ねて天日の明を拜せむ。

松陰は、公卿の門に出入して、朝廷の内情を精通する點に於いては、景岳に遠く及ばなかつた。しかも哲人の達識と、忠臣の至情とによつて、孝明天皇不世出の高徳を感得し、かくの如き聖明の天子をいただきながら、今の公卿のだらしなさ、皇國興隆の理想をいだかず、あたら千載一遇の好機を、爲すなくして漫然と看過してゐる事を歎いたのは、流石に松陰と、驚歎せられる。

 次に眞木和泉守は、文化十年の生れであつて、景岳・松陰より、遙か先輩であるが、その殉國が兩人よりは五年おくれて、元治元年であつたから、今三人を序列するに、殉國の前後によつたのであるが、和泉守は、弘化四年九月、孝明天皇御即位の大典を拜せむがために、はるばる九州より上京し、野宮定功の殊遇を得て拜觀すると共に、三條實萬にも謁する事が出來た。この時の感激が、後年の建白の中に現れてゐるが、ここに其の一例を示せば、安政五年六月、野宮定功に宛てた上書に、

かねて至尊御英偉にあらせられ、御列位の御方々御達識の程、僻壤に於いても嘖々相唱へ、感喜罷りあり候ふ。さて幕府にては、外夷の恐嚇に相怖れ、姑息の計のみに打過ぎ、人氣沮喪仕り候ふ處、天朝に於いては、夷情御洞察遊ばさせられ、堂々正義を押立てさせられ候ふにつき、天下の人氣、稍以て振起仕り候ふ樣、相見え候ふ段、誠に以て有り難き仕合に存じ奉り候ふ。

とある。かくて和泉守は、此の聖明の天皇を奉じて、皇國中興の大事を成さうとするのである。その幽囚中の詩に曰く、

一朝、忽ち奸人に忌まれ、天下、すでに足を容るるの地無し、
數畝の山園、猶ほ求む可し、如何せむ、聖主中興の事。

和泉守は、その水田幽囚十年の間に、聖主を奉じて皇國を中興すべく、萬般にわたつて思索考究し、大計成つて水田を脱出し、やがて兵をひきゐて上京し、會津・桑名の諸藩と戰ひ、戰やぶれて天王山に自決し、

大山の 峰の岩根に 埋めにけり 我が年月の やまと魂

の辭世の一首に、無限の感慨を托したが、しかも其の立案大計は、間もなく明治維新を招來し、そして明治の大政を指導したのであつて、その意味よりいへば、明治の指導者として、首座を占めるべき人物である。その和泉守の考は、すべて天朝の聖意を奉じて動かうとするものであつて、蓋し孝明天皇の聖徳を仰ぎまつつての感激が、その根本の力となつてゐるのである。

 眞木和泉守と同じく、元治元年の秋、國事に殉じた人に、平野國臣がある。殺されたのは、七月二十日、和泉守に先だつ事、一日であり、殺された事情もちがふが、その志は、全く同一であつた。そのよんだ歌、

大内の さまを思へば、これやこの 身のいましめの うきは物かは
我が胸の もゆる思に くらぶれば 煙はうすし 櫻島山
かかる世に 生れあはずば 大丈夫の 心をつくす かひなからまし
君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりけんものを
これやこの おのがさまざま 樂しむも みな大君の めぐみならずや

等、いづれも其の志を見るべきであるが、殊に孝明天皇の御製、

すみの江の 水に我が身は 沈むとも 濁しはせじな 四方の國民

といふ一首を、謹んで書寫し奉つて、その奧に書き添へた、

かくばかり 惱める君の 御心を 休めまつれや 四方の國民

に至つては、孝明天皇の聖徳が、いかに正しく強く國臣に反射反映してゐたかを明示してゐるのである。

 その平野國臣を、いはば立會人として、安政五年十一月十六日、西郷隆盛と相抱いて、薩摩の海に身を投じたる月照に、

大君の 爲には何か 惜しからむ さつまの瀬戸に 身は沈むとも

といふ歌があれば、不思議にその時、息を吹きかへして、島に流された西郷隆盛には、

朝に恩遇を蒙りて、夕に焚坑せらる、人生の浮沈、晦明に似たり、
縱(たと)ひ光を囘らさざるも、葵は日に向ひ、若し運を開く無きも、意は誠を推す、
洛陽の知己、皆な鬼と爲り、南嶼の俘囚、獨り生を竊む、
生死、何ぞ疑はむ、天の附與なるを、願はくは魂魄を留めて、皇城を護らむ。

といふ詩がある。月照にしても、隆盛にしても、その境遇は絶體絶命の悲境でであり、期する所は、只一死あるのみである。しかるに彼等は、その死が、孝明天皇に奉仕する所以である事に、限りなき滿足をいだき、そして死後も魂魄を留めて、天朝の護衞に當りたいと願ふのである。

 曾て韓退之は、『拘幽操』を作つて文王の心を解明し、臣道の極致を宣揚した。それは正に臣道の極致であつて、その場合、君徳は問題の外に在る。いはばそれは、一方的であり、片務的である。臣道としては、それを極致とし、規準とするのであるが、然しそれは痛ましき人生の悲劇たるをまぬがれない。しかるに今、孝明天皇の御代に於いては、天下英傑大才、ことごとく天皇の聖徳を仰ぎ見、一見一家を棄てて、天朝に奉仕しようとしたのである。ここには、國體の護持と國民の安寧幸福との爲には、敢へて御身をかへりみ給はざる孝明天皇の聖徳と、その聖徳を仰ぎ、聖徳に感激して、すべてを捧げて奉仕しようとする臣民の至誠との、世にも美はしき諧調を見るのである。

 孝明天皇の御代に起る幾多の事件、安政の大獄といひ、櫻田門の變といひ、坂下門の變といひ、やがて禁門の變といひ、つづいて長州征伐といひ、悉く此の君徳臣道より發し來り、而して一途に維新囘天の大事を目指して進むのである。君臣の關係、水魚の如しといひ、天地覆載の如しといはれるが、その最も美しき發露を、孝明天皇の御代に見る事が出來るのは、まことに國史の壯觀であり、國史をかへりみる者の、大いなる喜である」と。



 愚案、かつて小生は、「天皇陛下ご即位二十年に際しての勅語」(平成二十一年十一月六日)を拜承して、謹んで掲げ奉つたことがある。



 皇位繼承の制度にかかはることについては,國會の論議にゆだねるべきであると思ひますが、將來の皇室の在り方については、皇太子と、それを支へる秋篠宮の考へが尊重されることが重要と思ひます。二人は長年、私と共に過ごしてをり、私を支へてくれました。天皇の在り方についても、十分考へを深めてきてゐることと期待してゐます。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/27



 然るに現代、今上天皇の敕語を、謹んで拜承する者は、殆んどゐない。私見私論の囂々たる、何と云ふ無樣な世相なるかな哉。かつて大御心を覆ひ隱すもの、徳川幕府が在つた。今は民主主義政權てふ幕府が、壁立萬仞、明かなる敕語さへも、傲然、顧みようともしない。孝明天皇の御代には、忠臣義士が存したが、今は無い。「承詔必謹」てふ言葉は、死につゝある。之を復活せしめ、世に喧傳する者こそ、正に靖國神社祭神の遺裔と謂ふべく、靖國大神の神徳を仰ぎ奉ること、彌々深く、益々切なるものがある。



●相原修神主『葬祭と墳墓の奪還――平田篤胤の神道論』(第三囘「草莽崛起の集ひ」講演・平成十六年五月二十三日・於神奈川縣民センター。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』平成二十一年十二月・同血社刊に所收)に曰く、「

 國體の闡明、國體の護持と、口で云ふのは簡單だけれども、自分自身は如何なんだ?と。「天皇樣に御祀りだけしなさい、皇太子殿下・妃殿下に、外交なんかやらないで、宮中祭祀に徹せれば良い」と、御意見を抱く――申し上げるんだつたら、家の御祀りを神式で行ひなさい。其れもせずして、宮中に御意見申し上げるてふことは、不遜不忠の極み。

 よく明治時代、明治天皇樣が相撲を良かれとしてゐるのはいけないてふ事で、當時の豪桀な明治天皇樣を投げ飛ばした、さう云ふ事を例に喩へる(愚案、意見者は之に喩へて、忠義面してゐる心算との謂ひならむ)。或は頭山滿先生や内田良平先生やが、宮中に於て何かあつたら、宮内廳達に對して、「それはいかん」と云つてやる。しかしね、其れは全て白裝束を着てゐるんですよ、皆が。平民である我々が、宮中に對して、何事か申し上げる時は、死ななければならない。これは三島由紀夫も云つてをります。行動は一度限り。さう云ふ意味では、野村(秋介)先生が云ふのも、さう云ふ事ではないか、と拜察致します。其れ位、嚴しい問題です」と。
 
 

皇神たちは、佛道を嚴しく嫌はせ給へり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月12日(木)22時11分51秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 「僧尼より進る所の物は、之を奉らず」とは、尼や僧(ほうし)は、よし何かなる貴人の出家にも有れ、佛法の人にて、抹香くさく、其の佛法は、天照大御神の嚴しく嫌ひ給ふが故に、其の道に汚れ付きたる尼や僧の手より進れる物をば、何かほど珍しき物にまれ、神へは奉らぬ御定めなり。大御神の佛法を嫌ひ給ふことは、著明かなる事なるに、世の人おほくは、神佛一體など云ふ。僧徒の説に欺かれ居れば、因みにその惡(きら)ひ給ふ證文を一つ二つ云はむに、まづ菅家の御撰みありし『類聚國史』の、嵯峨天皇の弘仁七年六月丙辰日の處に、「伊勢大神宮司從七位下・大中臣清持、穢れを犯し、并びに佛事を行へること有り。神祇官、之を卜ふに、祟り有り。大祓ひを科せ、任を解かる」と見え――[この清持と云ひし人、大中臣と有れば、天兒屋根命の神孫にて、神家の歴々なるに、況して伊勢大神宮司と在りながら、佛法の事を行へる故に、神の御祟りあり。其の事、神祇官の御卜(みうら)によりて露はれしかば、大祓を成されて、其の穢れを清められ、其の官をも召し放し給へるなり]――、宇治左大臣頼長公の『台記』に、近衞院の天皇の天養二年三月七日の所に、「左馬權頭顯定、來つて云く、左大將雅定、伊勢の敕使にて精進(ものいみ)の間、他處に渡ると雖も、衣裳雜具等、猶ほ中の院の第に在り。仍りて佛經等は、家の中に置かず。而る間、中の院の寢殿に、煙り有り。件の煙、屋の上に見ゆ。鄰里、驚き放火の由を存し、天井を放ち之を見るに、繪像の佛色旗等有り。件の物を門外に出すの後、煙り散じ盡く」とあり――[これは、左馬權頭顯定と云ひし人、頼長公の許に來て、左大將雅定卿の、伊勢大神宮への敕使を承はりて、精進せられし間、かゝる御祟りの有る由を語られしを、其のまゝに記るされし物なり。此は師の『玉勝間』にも記るし置かれたり]――。また高倉院の天皇の治承元年三月に、三條内大臣實房公、伊勢の公卿敕使たりし時の日記に、十五日の處に、「去る夜、僧侶を夢みたり。佛經の類に於ては、先の日、併(み)な取り去り了んぬ。然して夢の告に驚き、捜り求めしむるの處、居の廊の長押しの上より出で、楊柳觀音一體を見出でたり。則ち以て取り退け了んぬ。信心、彌々凝り、謹愼、殊に重くす。恐る可し、恐る可し。又た障子の色紙形の畫圖に、僧法師等有り。或ひと云く、是の繪像、佛と仝じ事也と。強ひ事と雖も、取り退け了んぬ。敬神の至り、重くするを以て先と爲すの故也」と見え――[是れまた敕使を受け賜はりて、物忌みにこもり居たまふ間の事なり]――、あくる十六日の處に、「去る夜、夢相に、又た僧侶、眼前に謁談の由を見る也。佛像は併な取り去り了んぬ。之を如何に爲ん、と。倩々(つらゝゝ)之を思へば、裡(うら)錦の護り等は、憚る可からざるの由、先日、兼康に聽く所ろ也。仍りて予が朝夕、懸る所の護り、神事に奉ずるの後は、之を懸けず。只だ寢所の枕の上に置く也。若し是等の佛像の所見なるか歟。今夜の告を相試みむ爲めに、併な他所に渡し了んぬ。小女の護りも、仝じく以て渡し了んぬ」と記るされ――[此の文を見れば、常に懸け給へる護りには、多く佛像を著(し)るせりしこと知らる。裡錦の護りと云ふも、佛像ありしとは聞ゆれど、此はさしも多くは無かりけむ故に、憚り有るべからずと、兼康は申されけむ。此の兼康は、今の神祇權大副吉田殿の先祖なり]――、其の翌日の處に、「去る夜は、僧徒に謁するの夢無し。知る、去んぬる兩夜の夢相、彼の護り等の所見なることを歟。毎度嚴重なり。彌々信を成す者也」とあり。天照大御神の、佛を惡ひ給ふこと、何かに著明かなるに非ずや。――[猶ほかゝる類ひの證文多かれど、然のみ引き出でむも煩はしければ、中に尤(けや)けき二三條を引き出でたり。]――

 然れば眞の道に志さむ人は、是らの故實をよく覺え居て、伊勢參宮などせむにも、其の守袋までに心をつけて、佛臭きこと無かるべく、用意すべき事なり。神は誠に寛仁大度に坐しまして、下ざまの卑しき者などは、然しも嚴しき御罰めはなしと見ゆれども、佛臭き事ありては、御心よくは思し召さず。その拜禮を受け給ふまじき道理なればなり。――[然るは我ら神職ならねば、謂ゆる忌みがたきなど言ふ筋にて云ふに非ず。また謂れなく佛を忌々しく云ふにも非ず。古への道を學びて、其の學び取れる故實を、人々の心得になれがしと思ふ信心(まごころ)より、かく言ふなり。夢々あしく聞くこと勿れ。]――

 然れば古へより神宮には、統べて忌詞といふ有りて、『延暦儀式帳』、また『延喜神祇式』にも載せられたるが、寺を瓦葺、塔をあらゝぎ、佛經を染紙、齋(とき)を片膳(かたしき)、僧を髮長、尼を女髮長、佛を骨とも中子とも立てすくみとも云ひ替へて、佛語をいみ、伊勢の神宮には、僧尼の拜所とて、宮前より遠く傍(かた)へにまうけ置きて、法親王と申せども、其の所にて御拜あり。――[近ごろ或る諸侯の法體し給へるが、參詣あらむと爲けるに、其の由を申ししかば、還俗して詣で給ひ、或る法親王の參詣し給へる時も、神官さゝへ申ししかば、僧尼の拜所にて拜み給へりと聞ゆるなど思ふべし。]――

 また大嘗會・新嘗會を始め、朝廷の重き神事の時には、寺々の鐘を撞くことを止(とゞ)められ――[但し鐘つく事を止めらるゝ事は、鐘の、元より佛法の物なることは更にも云はず、僧家の説に、かの『過去現在因果經』といふ物の、「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅爲樂」といふ四句の語音に響くと云ふを以てなり。其はいたく取り下したる説には有れど、『道成寺』といふ謠曲に、「初夜の鐘は諸行無常と響き、後夜の鐘は是生滅法と響き、入相の鐘は生滅々已・寂滅爲樂と響く」とやうに作れるを以ても知るべし]――、諸大社の神事および堂上方の物忌にも、「僧尼及び不淨の徒(とも)がら、門内に入るべからず」と禁札を出だされ、神宮への敕使發向の時は、路次の道端なる立てすくみに類せる物をば、觀音・地藏に至るまでも、菰包みとなし、或は取り去(す)てもして、途を清むる御例(みさだ)めなり。――[猶ほくさゞゝの事ども有れど、中々にこゝに説き盡すべくも非ざれば、まづ是らを以て、佛法の、神事に忌々しき事の大概を知るべし。猶ほ次々に論ふを待てよ。]――

 さて、天照大御神の、然しも佛法を惡ひ給ふことは、凡人の心をもて、如何なる由緒ならむと云ふこと知りがたきに似たれど、篤胤、はやく佛法の謂ゆる一切經どもを、普ねく見て考へ得たる説(ときごと)あり。――[但し大御神の、佛法を忌みたまふ事を、ふるく法師らが説に、大神宮の三寶を忌むことは、昔、この國、未だ成らず、大海の底に、大日の印文あり。天照大神、鉾をもて是を探れば、其の滴り、露の如し。第六天の魔王、はるかに見て以爲らく、「此の滴り、もし國と成らば、必ず佛法流布して、人、生死を出づべし。此れを破るべし」と。時に大神、魔王に謂ひて云く、「我れ三寶を近づけじ。必ずその名を稱へじ」と。魔王、即ち歸りぬ。此の約に因りて、僧を傍へに近づけず。經を染紙といひ、佛を立てすくみと云ひ、僧を髮長といひ、堂をこりたきと云ふ。外は三寶を忌むと云へども、内は三寶を守ると云ふこと、『元亨釋書』を始め、數たの書に記るせれど、此は、彼の行基・最澄・空海などが造言せる妄説なること、『巫學談弊』に、既に委しく説き辨へたるを見るべし。]――

 然るは御國に、今行はるゝ僧法の趣はも、世に見馴れて、然しも異かる法の如くは覺えぬ物から、總じて僧の行状は、其の道の本を有りのまゝに云ふときは、人の人たる道に外れたる所行ひなる故に、嫌ひ給ふ事と思はる。其は佛祖釋迦氏の立てたる道の本義及びその起原は、『印度藏志』と云ふ書を著して、其れに委しく記るせば、‥‥

 さて、御國に立て置きたまふ佛道は、現人神の御心と、寛裕大度に宥めまして、然しも辛苦ならず定め給へる故に、佛祖が立てたる趣きとは、甚く異りて、行ひ易けれど、其の道の有りの任(まゝ)に云ふときは、右の如く忌々しく、其の行ひ、人の道に外れて、天つ皇祖神たちの、世の人を生成蕃息せしめ、愛惠しみます御心に背(たが)ふが故に、天照大御神は、甚く惡ひたまふ事と所思ゆるなり。‥‥

 抑々我が皇神の道の趣きは、清淨を本として汚穢れを惡ひ、君親には忠孝(まめ)に事へ、妻子を惠みて、子孫を多く生み殖やし、親族を睦び和はし、朋友には信を專らとし、奴婢を憐れみ、家の榮えむ事を思ふぞ、神ながら御傳へ坐せる眞の道なる。‥‥然る正道を傳へ給ひし皇神たちの、其の御旨に違へる佛法を、あに嫌ひ坐さざらむや。



【皇大神宮内宮三禰宜・薗田將監荒木田守夏翁『神拜式條』】
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【縣居賀茂眞淵大人七世孫・中今亭葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定宮司『僧侶の參拜云々に就いて』他】
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●寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』(昭和二年七月)に曰く、

「近時世間に現れたる論説の傾向を見るに、一部の間に於いては、神佛關係の歴史に對して明察を缺き、近世三百年の努力を無視して、再び中世の混沌雜駁に復歸しようとする傾向を見る。いはれなき逆轉と斷ぜざるを得ない。‥‥近時この問題について世に現れる論説は、多く明治維新の當時の處置のみについて論難し、その歴史的背景に言及する事なく、而して或は明瞭に之を以て足れりと斷言してゐる。‥‥この近世三百年の間の思潮が、やがて明治維新を機會として神佛分離を徹底せしめたのであつて、之は決して一朝一夕の事ではなかつたのである。‥‥

 神佛分離あるは、神佛習合にあるによる。習合を究めずして、分離を説く事は出來ないからである。‥‥しからば神佛習合とは何であるか。神佛習合は、神と佛との調和である。然り、名は調和である。しかし實は神を佛に隷屬せしめる事であつた。即ち神佛習合の基調をなすものは、本地埀迹の思想であつた。これは佛を本地とし、神を埀迹とするものである。‥‥神を佛の埀迹と見、權現と考へ、その本地が佛なるによつて、初めて神の權威を認めたのであつた。即ち本地埀迹の思想にあつては、神は單に佛の影であるにすぎない。いはゞ神は、こゝに佛に從屬してゐるのである。神を以て佛に從屬せしめ、從屬の關係に於いて、初めて神の權威を認めようとするが如き思想は、いかにして可能であるか。その爲には、先づ佛教が壓倒的勢力を有たなければならない。しからずんば神道をそのうちに包含し、その下に蹂躙する事は出來ないのである。第二は神道が、その力を失つて居なければならない。しからずんば神道は、佛教の下に屈服し隷屬する筈はない。而して神道がその力を失ふ時は、いかなる時であるか。即ちこれは國民が歴史を忘却した時である。‥‥

 延喜・天暦の前後よりして、本地埀迹の思想は起つて來たのである。それよりして後、急激にこれが發展し、非常な勢ひを以て氾濫していつたのである。しかるにこの延喜・天暦の前後は、一體いかなる時であつたか。この時代は、我が國の歴史に於いて、最も重大なる變轉期の一つである。即ち從來支那大陸との間に、前に隋、後に唐との間に、國使の往來があつたのが、この時代に至つて止められた。これは外國關係の上に非常に重大な變化であつて、いはば一種の鎖國状態に入つたものであるが、それと共に國民の間に、外國に對する注意がうすらぎ、從つて國家觀念が薄弱になり弛緩して來たのである。それと共に深く考へなければならないのは、歴史編纂の事業が、この時より止んだ事である。從來日本書紀より續日本紀・日本後紀と、つぎゝゞに作られて來た國史が、醍醐天皇の延喜六年に三代實録を作られたのを最後として、以後全く止んでゐる。これは外國關係の斷絶と深い關係があるものと考へられる。即ち外國がなくなつたので、國家觀念が弛緩し、國家としての自覺がうすらいだ爲に、國史を編輯する氣力を失ひ去つたのである。恰もこの時である。恰もこの時に、本地埀迹の思想が起り、神佛の習合が成熟して來たといふのは、何を語るか。まさにこれ國民が歴史を忘却し、我れ自らを放下し、神道その力を失つた時、佛來つて神にとつて代るといふ、前述の論理を如實に示すものではないか。而して又た恰もこの頃よりして國家の統制力のうすらいだのに乘じて、私寺の建立が甚だ盛んとなり、佛寺所在に遍滿して、佛教の勢力が甚だ盛んとなり、而してそれらの寺院が、又た國家の規定の亂れに乘じて、多くの莊園を私有して、その俗的勢力を愈々盛んならしめたのであつた。‥‥

 佛教の勢力の衰微は、中世の末、近世の始めに起つた。上代の末より非常の權威を有し、朝廷すら之を奈何ともする事の出來なかつた比叡山延暦寺が、織田信長の爲に一朝にして燒き拂はれ、全山灰燼となつて了つた事は、佛法衰微の時節到來をつぐる鐘聲ではなかつたか。信長一度び出でゝ延暦寺は燒かれ、興福寺は慴伏し、本願寺は討たれ、高野山は圍まれた。これは上代・中世を通じて、未だ曾て見ざる大變革であつて、世運の推移を明瞭に物語るものである。而して思想界には、佛教攻撃の論が相ついであらはれた。‥‥

 もとより勢ひの激する所、或は破壞にすぎ、或は壓迫を事とした所もあらう。寶塔忽ち摧破に遇ひ、靈佛一朝にして灰燼となり、斷礎の間、徒らに草の離々たるを見る時、誰か心を傷ましめないものがあらう。しかも己を虚しうして歴史の大局を達觀すれば、神佛分離は國民的自覺當然の歸結であつて、其の間、些かの疑惑を容れない。しかもこの理は年と共に忘却せられ、今や囂々非難の聲をきく。神佛の關係は、一部の間に於いては、殆んど逆轉せんとしつゝある。而してこれは歴史の正しき認識の缺如より起るものであり、今や歴史の光によつて是正せられなければならないものである」と。



 愚案、明治以降の御代に於ても、神敵たる島地默雷の暗躍、鈴木大拙の變節、天牌(聖壽萬歳の祈祷)の廢儀、佛徒の政界跋扈等を見るにつけ、悲しみ益々深く、藥、瞑眩せざれば、其の疾ひは癒えず、佛教に天誅が降ること幾きに在り、現代に於いて廢佛毀釋論の再び起こる、亦た當然と謂はねばならぬ。
 
 

先づ神事、後に他事。――『禁祕御鈔』謹解。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月11日(水)23時22分1秒
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  ■順徳天皇『禁祕御鈔』

 凡そ禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無し。白地(あからさま)にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず。萬物、出で來るに隨つて、必ず先づ臺盤所の棚に置き、女官を召して奉らる。或は内侍の如き、參つて之を奉る。



 川出清彦掌典『大嘗祭と宮中のまつり』(平成二年六月・名著出版刊)には、順徳天皇御著『禁祕御鈔』の義解があつて、本道に重寶であるが、こゝには、平田大壑先生の『玉たすき』を引いて、祭政一致と謂はうか、否、祭儀の推本優先の大御教へを仰ぎ奉りたい。



●大壑平田篤胤先生『玉襷』一之卷(――[云々]――は、割註なり。一部省略)に曰く、

 天皇の御祖神を御崇敬まし坐す御定めは、天照大御神より四十九世、神武天皇より八十四代の帝、順徳院の天皇の、御自から記るさせ給ひて、『禁祕御鈔』とも、『建暦御記』とも題(な)づけ給へる御典(みふみ)の開卷第一に、

 凡て禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無く、白地(あからさま)にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず。萬の物、出で來るに隨ひ、必ず先づ之を奉らる。僧尼及び憚る人の許(もと)より進(たてまつ)る所の物は、之を奉らず。――[こは、御文のこゝに要とある所のみを引き出でたり。委しくは本書によりて拜見すべし。]――

 かく讀み申す我等こそ卑しけれ、この讀み上げたる御文は、いとも畏き遠つ神、現人神の綸言なれば、各々愼みて承はるべき事なり。――[そは、凡て神皇の御事實を記し奉れる御典どもは更なり、かゝる綸言・令式の類ひなる御書ども、學問上達し畢りて後に、その義を注解する時の議論は暫くさし置き、その讀み上ぐる時は、正にその神語・令式を傳へ承はる心になりて、恭拜敬讀し奉り、また其れに就きては、岡部大人・本居大人など始め、先生たちの、神典古傳説に依りて釋き著されたる書をも、拜讀の意(こゝろ)ばへを忘れず、讀み學ばむこと、勿論なり。今の世に古學者と云ふ徒(ともがら)、いと多かれど、斯くの如き事までに心をつけて言ひ教ふる人は無ければ、かく云ふを聞きて、嗤(あざ)み罵るも有るべけれど、其は漢籍をのみ讀みふけりて、實學なく、句讀を授け詩文を教へて口を糊する徒の、風を見習へる惡弊なり。其れに替りて僧徒は、その奉ずる道こそ異(けし)かれ、謂ゆる經論注疏の類ひを讀むに、身を清め香を燒(た)き机を掃ひ、戴き捧げて讀誦を爲し、白地にも人の蹈む席(むしろ)の上に措かざる倫ひも、しかすがに多かり。其が中には、僧徒の例の方便に、容體づくりて、愚人に信を取らむと構ふる倫ひもなきに非ねど、實にしか崇敬する者も、はた無きに非ざば、其の徒にも恥ぢて、古學の徒は、眞心に拜讀拜聽あらま欲しきわざにこそ。此は、敍でなれば云ふなり。]――

 さて、御文の意は、すべて禁中の御作法の多端なるが中に、何事よりも、まづ神事を第一と成され、夫れより他の事を行ひ給ふ御事ぞ、と宣たまへるなり。「旦暮、敬神の叡慮、懈怠無く」とは、旦暮(あけくれ)に、天神地祇を御崇敬ある叡慮の、懈怠(おこたり)なき樣に御勤めある由なり。「白地にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず」とは、右の如く神祇を御崇敬ある御事ゆゑに、假初めにも伊勢の大神宮の御方、及び内侍所の御方をば、御後とし給はぬが、天皇の御行ひぞ、と宣たまへるにて――[白地とは、かりそめにもと云ふが如し。]――、内侍所と申すは、伊勢の大御神の御靈を、禁中に祭らせ給ふ御所の名なり。天皇の大御祖神を御崇敬ある御有趣、これにて窺ひ奉るべし。其は只に天皇御一己の御謹信のみに非ず、天下に有らゆる人民(おほみたから)を、眞福(まさき)く平穩(おだひ)に在らせまほしと所思し召す御心より、かく爲たまふ御事なり。――[然れば此の事のよしは、神の道の講説の中にも、やごと無き事なれば、各々きつと愼しみて心にしめ、彼の謂ゆる馬の耳に風吹きたる如く、うつかりと聞くこと勿れ。]――

 其の由は、まづ此の世界の始まりは、『靈の眞柱』に説きたる如く、天つ御國、謂ゆる高天原に御坐(おはしま)せる男女二柱の皇産靈大御神、まづ天地の基本(もとゐ)を成し給ひ、伊邪那岐・伊邪那美二柱神に詔命(みことの)らして、この大八嶋國を生ましめ、嶋の八十嶋・外つ國々をも造らしめ給へるは、其の時の御語に、「この漂へる國を、修り固め成せ」とのみ有れども、要(むね)とは、人種(ひとくさ)を生み成せとの御語にぞ有りける。其は國土を造り堅むる御事は、人民を生み成し住ましめ給はむとの御心ならずは、何の用とかせむ。――[こを譬へば、家を造ることは、必ず住ましむべき人あるを以て、造ると同じ道理(ことわり)なること、能く思ふべし。]――

 是を以て伊邪那岐・伊邪那美二柱神、その大御心を御心として、國土を生み成してのち、直ちに青人草を生み殖やし、然して後に、その青人草の蕃息(ふえひろご)り榮ゆべき事をし、種々に物し給へり。其は風・火・金・水・土の神等を始め、數多の神たちを成し給ひ、月の神・日の神を生し給へるも、言ひもて行けば、實には人草のために成し坐せりと申さむも、強ひ言に非ず。――[この妙なる道理は、古今の學者の、かつても言はざる大義なるを、委くは『古史傳』に就きて見るべし。]――。

 是を以て伊邪那岐・伊邪那美二神の御語に、「然かしてば、青人草のために惡しからむ。斯くしてば、青人草のために善けむ」とやうに宣りまたひ、また其の御言に、多く「うつしき青人草」とは宣たまへり。此は、愛(うつ)くしみ惠み給ふ青人草と宣たまへる御言にて、珍(うづ)の御子・愛くしき吾が名兄命・愛くしき我が那邇妹命などある「うつ」と、同じ義(こゝろ)の言なり。さて、青人草としも云ふは、古説に、人の蕃息るを、青草のしげるに譬へたる語なりと云へるは、天の益人とも云ふを思ふに、實に然も有るべし。斯くて伊邪那岐大神、のちに天照大御神を生み給ひ、天つ日の御國を治ろし食さしめ給ひ、御自身は、天上(あめ)なる日の少宮と云ふ御所に靜まり坐せる後に、天照大御神・皇産靈大神の御心として、天の下に蕃息れる人民を御治め有るべき爲めに、大御神の御孫、天津日高彦火邇々藝命を、天上にて、天皇命の御位に即け奉り給ひ、天の下の大君と定めて、此の御國へ天降し奉り給へり。――[これ、天子の始めにて、此の邇々藝命より、當今の天子まで、百二十四代にならせ給へり。偖しか天の下の萬民を統べ治ろし看す尊にます故に、スメラギとも、スメラミコトとも申すと、古人の説なるが、此は誠に然るべし。]――

 抑々この邇々藝命と申し奉るは、大父神を天忍穗耳命と申して、その稚なく御坐せる時は、天照大御神、つねに御脇に懷き坐して御愛みまし、此の忍穗耳命の后神は、皇産靈大神の御女、栲幡千々比賣命とまをす神の生み坐せる、玉依毘賣命とまをす神にて、其の御間に生み給へりし、邇々藝命に坐す故に、天照大御神には御孫にまし、皇産靈大神には御曾孫に坐すなり。――[上代に、ヒコと云へるは、謂ゆる孫なり。後世、この稱へを誤りて、孫をマゴと云ひ、曾孫をヒコと云ふ。然れどマゴとは、眞子の義にて、我が生みの子より次々の子孫までを廣く云ふ言にて、孫をのみ云ふ語に非ざるなり。]――

 さて、此の邇々藝命の御事をし、天照大御神は、「我がうつの御子」と詔たまひ、皇産靈大神の御愛しみ坐せる事は、神代紀に、「皇産靈神、特に鍾憐愛(めぐし)と以(おもほし)て、崇養(すたてひた)したまひき焉」と有るにて知るべし。――[此の御國は、四方の蕃國(みやつこぐに)の陋(いや)しきに比べては、殊に勝れては有るなれども、天つ御國の、また異に卓越れたるに比べては、劣れること云ふも更なるが、然る天上の卓れたる御國より、此の國土へ天降し給へりし二柱の神慮は、如何にと想ひ奉れば、彼の愛しき青人草の蕃息れるを、取りすべて御治め坐すべき、御系の尊く正しき、大君の御坐さでは、猾亂(みだり)がはしく、平穩なるまじき事を所思し食して、其の人民を惠み鎭め治め給はむ爲めに、降し奉り給へる御事なり。その天降し給ふ時に、邇々藝命に、天照大御神の詔たまへる御語に、「豐葦原中國は、汝の知るべき國なり」と詔たまへるは、青人草を治め給ふことの要とある御語なる事を、熟く思ふべし。其は人草の無かりせば、國を治むると云ふも、徒ら事なること、思ひを深めて能く辨ふべし。]――

 畏けれど、世の凡人(たゞびと)の上を以ても知るべく、孫(ひこ)は生みの子よりも愛(めぐ)く、曾孫(ひゝこ)は孫よりも愛しと、誰も云ふを、天・地・人・物の本つ御祖神と坐す、天都神たちに坐せば、殊に御慈愛の深くおはし坐すこと申すも更なり、各々が心に準へても、想像り奉るべし。斯くてその天降し給へる時は、邇々藝命、いと幼稚く御在しませしを、天上に在せる神たちの、殊に卓れたるを盡く附屬(そへ)たまひ、眞牀衾と云ふを覆ひ奉りて、御許を放ちて天降し給へりし神慮は、と申せば、青人草を平穩に治め給はむとの神慮より外なし。――[邇々藝命の天降りませる時は、なほ御幼稚におはし坐せること、神代紀の一書に、「始めは其の御父、天忍穗耳命、天降り坐すべき議定にて、既に降り坐さむと爲ける時に、その雲路にして、邇々藝命生れ坐せるを、父神に替へて天降し給へり」と有るを以ても辨ふべし。]――

 また邇々藝命、幼稚く御坐しましつゝも、其の御祖神たちの御言のまにゝゝ、其の御許を離れて、見もしろし召さざる、此の御國へ天降りませる事は、天照大御神・皇産靈大神の大御心を御心とし給ひ、天の下の人民を惠み治め給はむとの御事なり。――[天照大御神の、青人草を愛しみ給ふことは、穀物(たなつもの)の種ども御覽はせる時に、「此の物等は、うつしき青人草の、食ひて活くべき物ぞ」と詔りたまへる一事をもても悟るべし。此は只に食ひて活くべき物ぞと宣たまはむには、御身づからの上にかゝれど、青人草のと宣たまへるにて、其の大御心、いと著明かに知られたり。]――

 かくて世の青人草の成り出でしもとは、皇産靈大神の御靈に頼りて、伊邪那岐・伊邪那美神の生み成し給ひ、天照大御神に屬(ことよさ)し給へるを、また其の詔命に依りて、邇々藝命より次々に、天皇命の知り治め給ふなれば、實には國土・人民ともに、天照大御神の御物にて、天皇命は、其を治め給ふ御職に坐すこと著く、かつ國土・人民の天皇命に御坐すを、國々の侯(きみ)は、そを持ち別けて領り治むる道理にぞ有りける。――[西戎(もろこし)の國の古き語に、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下也」と云へるは、我が上つ代の意ばへの傳はれるにて、君たる人には、實に然るべき語なるを、下として上を覬覦する者どもの口實とするは、甚く道の意に背けり。]――

 さて、邇々藝命の天降ります時に、御祖神たち、此の國土を治め給はむ御政事の方(さま)も、委曲(つばら)に諭し給へるが、其の趣(さま)、何かに有りしと言ふに、世にある事は、盡く天神地祇の御靈に資(よ)ることなる故に、神祭りの事を專(むね)と御傳へまし、まづ荒ぶる神は、祭り和めて祟りあらせず、諸神たちを、夫れ々ゝに齋ひ祭りて、その御惠みの、いや益々に加(そ)はるべく御定めませり。其れみな天の下の青人草をまつろへ、惠み給ふ御態(みわざ)より他の事なく、外つ國風の小賢しき教へ語は、更に無し。――[然れば祭事、やがて御政事の本なる故に、天下を治め給ふ事に用ふる政の字を、即(やが)てマツリゴトと訓むといふ古説も、實に然る説にぞおぼゆる。]――

 かくて邇々藝命より次々、御代々々の天皇命にも、その御由緒(みいはれ)の如く御行ひありて、神事を第一になし給ひ、まづ上古には、天皇御みづから神事を成されて、天の下の人民の衣・食・住に安然かならむ事を御祈り坐して、年ごとの六月と十二月との晦日には、天の下に有らゆる人民の枉事・罪穢れを拂ひ給はむ爲めに、大祓ひと云ふ神事を成され、其の時に集まれる諸人に讀み聞かしめ給ふ御文を、『大祓詞』といふ。――[俗に此の御文を「中臣祓」と云ふは誤りなること、岡部翁の『祝詞考』、師の『大祓詞後釋』などに辨へられたるにて知るべし。]――

 さて、後の世に、漸々に外國風の事も交へ用ひ給ふ御世となりしかど、右の由緒によりて、朝廷の禮儀作法を記させ給へる御典ども、みな神祇に關(あづ)かる事を先と爲られ、まづ『令義解』と云ふは十卷ありて、令條の御典なるが、其の第一は神祇令とて、神祇にあづかる御令を載(し)るされ、『延喜式』と云ふは五十卷ありて、式條の御典なるが、其の初卷より第十卷までを神祇式とて、神祇に關かる御式を載るされ、あと四十卷も、云ひもて行けば、神祇の事に約(つゞ)まる程の事にて、其の八卷めは、諸々の神々を祭らせ給ふ時の祝詞どもを載(の)せられたるが、第一にある祈年祭の祝詞より、いや末に有る大祓詞まで、盡く天の下の人民のために爲し給ふ神祭りの御文にて、更に天皇御一己の御祈りに非ず、天の下の事を祈り給ふに付けて、御自らの御事にも及ばせる御文なり。――[もろゝゝの祝詞に、深く心を用ひて、孰く此の旨を心得べし。]――

 さて、其の九卷め・十卷めは、神名帳とて、朝廷より御祭りある國々の神社の名を載せられたるが、其の數、三千一百三十二座、社の數、すべて二千八百六十一處あり。こを、延喜式の社と云ふ。――[なほ此の外に國史に見えたる式外の社、また國史に洩れたる御社の、朝廷より祭らせ給ふも、いと多かり。こを、官知の社と云ふ。また未官知の社とて、朝廷の御祭りに洩れたる社の數は、今委しくは尋ね知るべきに非ず。そは、各國の神階記に載せたる社の多きに准らへて思ふべく、諸書に、或は大社・小社、一萬三千七百三十餘社とも、或は神宮二萬七千七百十三社、成宮の神二千七百五十社、不成宮の神一萬九千社とも、或は大小の神祇三千七百餘處、上には一萬三千社、下には粟三石の數など有るを以ても、其の社數の多かる事を辨ふべし。]――

 源親房卿の『職原鈔』にも、神祇官を第一に擧げて、「當官を以て、諸官の上に置く。是れ神國の風儀、天神地祇を重んずる故也」とも、「祭官の職は、上古の重任也。又た神國の故に、當官を以て太政官の上に置くか乎」と記るされたるは、能くも古の道をかき傳へたる文なり。信に此の語の如き、神世の由緒なるが故に、天下を治め給ふ御政事に、神事を先と爲たまふ事、やがて皇産靈大神・天照大御神の、青人草を愛しみ給ふ大御心を御心と受け行ひたまふ、天皇命の御職におはし坐すなり。――[然れば此の由緒に違ひ坐して、神事を第一に爲給はざらむは、恐こけれど御過失と申さむも非が言に非ず。そは如何となれば、天つ皇祖神たちの神敕の御旨を麁略かにしたまふ道理なればなり。]――

 『禁祕御鈔』の開卷第一に、かくの如く「先づ神事、後に他事云々」と載るさせ給へるは、御先代の天皇命たちに、神事を麁略かにし、佛事を專要とし給へるが有りしより、神世の御故實の廢れもて來し事を所思し食したるにて、其は古く孝徳天皇の御世に、天の下の人民を治むる道を問ひ給へるに、臣等みな、「先づ以て神祇を祭り鎭め、然して後に政事を議す應し」と奏せる旨をも所思し食せるにや。然るは御文、いと能く似たればなり。――[師の『玉かつま』に、「風雅集に。後宇多天皇は、大御歌、『天つ神 國つ社を 祝ひてぞ 我が葦原の 國はをさまる』 是ぞ道の意には、能く叶へる大御歌なりける。他の國のごと、くさゞゝ言痛(こちた)きわざは、爲させ給はざりしかど、只だ神を齋き祭り給ひて、天の下の、いと能く治まりつるは、神の御國の勝れたるにて、上つ代は、まことに然かこそ有りしか」と云はれ、また宇治左大臣頼長公の『台記』に、鳥羽院の天皇の大御言に、「如かず、禮佛の勤を闕いて、敬神の忠を全くせむ矣には」と宣たまへるをも擧げて、「こは、佛事の御をり也しに、神事をやごと無くおぼし召されたる詔の、尊くおぼえ奉るまゝに記しつ」と有り。]――

 さて、「萬づ物の出來るに隨ひて、必ず先づ之を奉らる」とは、何に依らず、其の初穗を奉らるゝ由なり。「必ず先づ」と記るさせ給へるに、心をつけて拜讀すべし。――[闕く如となく、必ずきつとまづ其の初穗を奉り給ふ由にて、「必ず先づ」の字、おほき力あり。序でなれば云ふ、神にいち早く物を奉ることを初穗といふは、舊説に、稻の初穗を奉るより出でたる語なりと云へるは、然も有るべし。また若しくは穗のごと拔き出でて進むる故に、云ふならむも知るべからず。]――
  
 

鹿兒島灣上の聖なる夜景。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 6日(金)21時41分56秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 明日は、宮中昭和天皇祭であります。

 塾頭も仰せの如く、神社祭祀は、宮中祭祀を溯源儀表と爲す。殊に官國幣社は、國家の生命にして、此の聖域を、「闊歩」乃至「ビラ配布」を行ひ、「遊戲場」或は「交際場」と爲すは許されず、祭祀の本義を常に念頭に置き、大内山に神習うて、嚴肅謹愼を要し、清淨・靜謐を護持しなければならぬ。神社の俗化猥雜は、國民精神の頽廢を招來するを知るべきである。

 柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀』に曰く、「先帝祭は、御先代の天皇の崩御當日に、御追慕の思し召しで、皇靈殿及び山陵で行はれる大祭です。現在では、先帝の昭和天皇の崩御當日の一月七日に、皇靈殿で、天皇陛下御親祭のもと齋行され、皇后陛下・皇太子同妃兩殿下が御拜禮されます。また武藏野陵に、敕使を參向されて奉幣なさいます。夜は皇靈殿の前で、御神樂の儀が深夜まで行はれ、御父昭和天皇の御靈をお慰め申し上げます。宮中の御神樂は、年に數度行はれますが、兩陛下をはじめ皇族方は、この御神樂が終了したとの連絡があるまで、御所でお愼みになられておはしますと承ります」と。

 君民一體の國體の片鱗として、人口に膾炙してゐることであるが、木下道雄翁『新編・宮中見聞録』を謹記して、昭和天皇の聖徳をお偲び申し上げたい。此の祕話に因つて、我が皇國日本に覺醒した方々も衆いと仄聞する。斯く申す小生も、高校生の時であつたか、其の初版本を拜讀して、泪が止まらなかつた經驗を有つ。正に君臣一如、義は乃ち君臣、情は父子、信に異國に絶えて無き、我が國體の精華と仰ぎ奉る。



●木下道雄侍從次長『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』(昭和四十三年二月初版・新小説社刊。平成十年一月新編・日本教文社刊――些か假名を漢字に變換させて戴きました)に曰く、

「昭和六年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、陛下は、往路は汽車で熊本までおいでになつたが、お還りは演習終了後、汽車で鹿兒島へ、鹿兒島からは軍艦榛名(はるな)で、横須賀へ向はせられたことがあつた。當時、私(木下翁)は行幸事務を主管する大臣官房總務課長として、お伴のうちに加はつてゐた。忘れもせぬ、時は十一月十九日、日沒と同時に、榛名は供奉の驅逐艦四隻を隨へ、縣市民の盛大なる奉送裡に、煙噴く櫻島を後に、いま靜かに鹿兒島灣を南下しつつある。

 艦上に立つて見上げると、ゴツゴツした小山のやうな巨艦の檣頭には、天皇籏が翩翻とひるがへり、忙しく立ち働く水兵たちは、みな喜色滿面。自分たちの艦に、天皇籏を掲げるといふことは、譬へやうもない喜びなのである。御召艦と決してからの、傳染病豫防のための長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、皆これ今日の榮ある日を迎へるためだつたのではないか、喜ばずにをられようか。

 艦内に於ける陛下の御生活は、何時も極めて御愉快であり、御自由である。陸上に於けるが如き警戒・警衞は、一切ない。全艦、皆これ國家の干城、ひとりの狂者もをらぬからである。作業に勤しむ水兵たちの群がる中を、おひとりで割つてお入りになる、そのお樂しみ、肩と肩との擦れ合ひ、若者たちの熱氣のうちに、われ國民と共に在りの御氣分を滿喫されるからであらう。

 榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは、後甲板(こうかんぱん)の眞下の司令長官室であつた。お室の入口の直ぐ近くに、長官專用の階段が上へ通じてゐるから、何時でもご自由に、後甲板においでになることができる。この後甲板は、陛下の最もお好きな場所で、雨が降つても心配がないやうに、上にはズツクの覆ひが一面に張つてある。夜は廣い甲板の中央のところに、電燈にたつた一つつくだけで、薄暗いところではあるが、夜でも、よくここにおでましになる。折たたみの輕いズツクの椅子が數脚、それから、陛下はタバコをお吸ひにならないが、他の者のために、火繩のついた大きな灰落としの眞鍮の壺が二、三あるだけで、裝飾は何もない。ただ遠望の御用のために、脚付の望遠鏡が、右舷にも左舷にも、ところどころに備へつけてあるのと、海圖の机が一つ。この海圖には、擔當の將校が鉛筆で、艦のコースを書き入れてゐる。これを見ると、鹿兒島灣の幅は約二○キロ、鹿兒島市から灣口までの距離は約八○キロ、艦のコースは、丁度灣の中央線を眞つ直ぐに灣口さして南下し、それから太平洋を黒潮の流れに乘つて、横須賀へ向うことになつてゐる。見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、右舷、薩摩半島の山々も、共に十餘キロの彼方、夕闇のうちに、薄暗く見えるだけである。

 間もなく、六時の夕食の時刻となつたので、われわれは艦内に降りて、士官の食堂で食事にとりかかつた。航海中、陛下の御夕食には、艦長以下、上級將校が代る替はるお相伴に召されるのを例としてゐたが、このときは出港直後のことであり、艦長以下一同、業務多忙のため、陛下は御居室で、お一人で御食事中であつた。

 丁度六時半頃であつたか、私は皆と食事中、フト、昔の記憶が頭に浮んできた。それは、大正十四年の夏、陛下が、まだ皇太子であらせられたときのことであるが、軍艦長門で樺太に御旅行になつたことがある。或る日、樺太の南端にある大泊から、西海岸にある本斗・眞岡の方へ囘航の途中、その夜、長門は海馬島といふ絶海の孤島の島影に假泊する豫定になつてゐたので、夕食後、われわれは、陛下を中心に、後甲板で涼しい汐風に吹かれながら、黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、段々近づいて來るのを、物珍らしく眺めてゐた。當日は風波がかなりあつたので、艦は丘の風下にあたる靜かなところに泊まるために、速力を落とし徐行して、ぐるつと島を廻つてゐる、そのとき、突然、夜闇の波の間、艦の直ぐ近くに、何やら泣くやうな、叫ぶやうな大聲が聞えてきた。舷窓を漏れるあかりに照らし出されたところを見ると、日の丸の旗を舳先に立てた一艘の小舟が、荒波にもまれながら艦と竝行して、六人の若者が一生懸命に櫓を漕いでゐる。左手に、しかと、とも櫓を握つて指揮をしてゐるのは、一見、六、七十の老父のやうであつたが、紋付・羽織・袴に、右手に山高帽を高々と差し上げながら、何か叫んでゐる。風が強いため、その言葉は聞き取れなかつたが、嬉し泣きに泣いてゐることだけは、よく判る。

 私は一ケ月前、下檢分で、この島にも立ち寄つたので、島の事情は知つてゐた。昔から、ここの島には、百人餘りの日本の漁民がゐて、ここを根據地として漁業を營んでゐるのである。今日の夜、殿下の御召艦が、ここに假泊することは、皆知つてゐたので、恐らく島の人たちは、總出で船を出して、沖で殿下をお迎へする積りでゐたのだらうが、日が暮れて、波荒れ狂ふ夜闇の海上で、そのうちの一艘が、やつと長門の艦影を發見し、少しでもお側に近づかうとして、えいえいと漕いでゐたのである。われわれは後甲板の上から帽子やハンカチを振つて挨拶をかはしたが、艦がいくら徐行してゐるとはいへ、二つの船の速力には格段の違ひがあるので、一瞬の間に別れてしまつた。私は、もしほんとに手が屆くなら、抱き合つて一緒に喜びたいと思つたが、まことに殘念なことであつた。

 このことを、私は食事の最中に思ひ出し、ここも波の靜かな鹿兒島灣内のことであるから、何時、何處から、船が來ないとも限らない。今は陛下もお食事中であらうし、われわれも皆食堂にゐる。後甲板には、いま誰もをらぬだらう。もし船でも來たら、相濟まぬことになると考へ、皆より早く食事を終へ、大急ぎで後甲板に驅け上がつた。

 艦内は非常によく照明されてゐて明るいが、後甲板の上は、まことに暗く、電燈の下ならともかく、少し離れたら、人の顔も、よく見わけのつかぬ有樣であつた。ところが誰もをらぬとばかり思つて飛び出した私の眼に映つたのが、右舷の手すりのところに、西を向いて立つてゐる、ひとりの人の後ろ姿であつた。望遠鏡から手を離し、擧手敬禮の後ろ姿。ハテ、今ごろ誰が、と思つて、近づいてみると、こは如何に、陛下ではないか。

 さては、奉迎船が下に來てゐるなと、私は直ぐ右舷に馳せ寄つて下を見たが、船らしいものは見えない。ハテ、何を望遠鏡でご覽になつたのかなと思つて、私も近くの望遠鏡に眼を當ててみたが、明るいところから急に暗いところに來ると、眼が慣れてゐないので、なかなか見えない。ジーツと我慢し覗いてゐると、そのうちに段々と目が慣れてきて、薩摩半島の山々のが、ぼんやりながら見えてきた。時刻から推測して、指宿の沖合あたりかなと思つた。そのうちに今度は、海の色と陸の色との區別がつくやうになり、水陸の境目、つまり海岸線一帶に、延々果てしなく續く赤い紐のやうなものが見える。ハテ、これは何だらうかと考へてゐたら、次に見えてきたのは、この赤い紐の上、小高いところに、幾百メートルかの間隔をおいて、點々と燃え盛る篝火。これで、私は萬事を了解した。

 當夜は月もなく、星も稀な、曇りがちの空模樣で、陸からは軍艦の姿は見えないが、時刻から考へて、今頃は、陛下のお船が沖合をご通過になるときだと語り合ひ、薩摩半島の村々に住む人々、老いも若きも、提燈や松明を持つて海岸に立ち竝び、また若者たちは山々に登つて篝火を焚き、半島に住む村人、こぞつて陛下をお見送してゐるのである。陛下は、いま、望遠鏡で、これを發見遊ばされ、薄暗い甲板の上から、ただおひとりで、沿岸一帶の奉送の燈火に對し、遙かに御挨拶をなさつておいでになつたのである。この光景を、思ひがけなくも私が拜した次第であつた。

 ああ、これこそ、本當の日本の姿と、私は思つた。何とか連絡を取つて、今、あすこでお見送りをしてゐる半島村々の人たちに、今、陛下は、艦上からあなたがたのお見送りの燈火に對して、ご挨拶をしておいでになりますよと、知らせたい氣持ちで胸一杯の私は、その方法のないのに、悶へ苦しんだ。無線で打電しようかとも思つたが、今、あの山の上で、篝火を焚いてゐる人たちの耳に、到底、今夜のうちに屆くとは思はれない。フト、そのとき一案を思ひついた私は、すぐさま艦長室へ走つた。艦長に事情を話して、探照燈を全部つけて貰ふことを頼んだところ、艦長も感激して、直ぐ、つけませう、といふ。私はお願ひしますの一語を殘して、また直ぐ後甲板に引き返したところ、そのときは、もう六ケの探照燈の光芒が皎々と、左は大隅半島、右は薩摩半島の空や山や海岸一帶を、隈なく撫でまはしてゐた。遙かに、ワツ、と上がる両岸の歡聲を想像しながら、私はほんとに嬉しかつた。


――海上、聖夜の讚――

 月なく星も稀な夜空の下、默々と鹿兒島灣を南下する軍艦榛名の、薄暗き後甲板は、人なく聲なく、只ひとり、陛下おん擧手の尊影を仰ぐ。

 御會釋を賜る者は、そも誰か。肉眼に之を求めて之を得ず、わづかに望遠鏡のレンズのうちに、薩摩半島沿岸一帶、遙かに見ゆる奉送の燈火。盛んなるかな、山々には篝火、岸邊には提燈の群れ、延々と果てしなく續く。

さらば、陛下、いざさらば、
 おんすこやかに、おかへりませ。
ありがたう、
 皆も、元氣でね。

 げに闇をも貫くは、まごごろの通ひ路。海波、遠くへだてて、君民無言の、別れのかたらひ。ああ、誰か、邦家萬古の傳統を想はざる。時は、これ昭和六年十一月十九日。

――――


 昭和三十九年の或る日、私は指宿の地を訪れたことがある。ここには九州大學の植物園があるが、その園長さんが、永年指宿に住んでをらるるといふことを聞いたので、植物園の園長さんをお訪ねした。
「あなたは、昭和六年には、この地にお住まひでしたか。」
「ハイ、住んでをりました。」
「然らば、その年の十一月十九日の夜、提燈を持つて、海岸にお立ちになりましたか。」
「ハイ、立ちました。県廳から豫め注意があり、當夜はあひにく月がないから、軍艦の姿は見えないだらうが、軍艦には、夜間、燈火が一つづつつく、御召艦と護衞の驅逐艦四隻、合計五ツの燈火が見える筈、第一の燈火は先導の驅逐艦、第二の燈火が御召艦のそれと心得られよ、とのこと。よつてわれわれは、遙か沖を通る、その第二の燈火に心を籠めてゐたところ、突如、その第二の燈火のところから、われわれに向つて、皎々たる探照燈が照らされ、一同、思はず歡聲を上げ、その光の中に互ひに手をとり合つて歡んだことでした。」
といふお話を聞いて、私も心中、大變嬉しかつたことがある」と。



【昭和天皇御製】昭和二十年八月・四首――『宮中見聞録』に所收――

爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

國がらを ただ守らんと いばら道 すすみゆくとも いくさとめけり

外國(とつくに)と 離れ小島に のこる民の うへやすかれと ただいのるなり

 
 

神代在今。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 4日(水)01時06分58秒
返信・引用 編集済
   『古事記』序文に、「元始綿邈たれども、先聖に頼りて神を生み、人を立てたまひし世を察かにす」と。最近は、天孫降臨の歴史を語らなくなつて久しい矣。何でも、神武天皇以來ばかり‥‥、小生の遺憾とする所であります。

 抑も皇位の尊嚴は、天上高天の原に存し、神道祭祀は、宮中祭祀に基づけり。仰ぐべきは、畏くも一に「天壤無窮の神敕」にぞ在りける。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/401


 宮中祭祀の專問書は暫く措いて、下記の書は、必ず讀まれたい。本道は、行を修むる神職にしか分らないのだが‥‥、否、宮中祭祀に限つては、掌典長にしか分るまい、否々、上御一人のみが知らせ給ふ御祕儀である。祕儀は知る由も無く、また知る必要も無いが、然し公刊書から、少しでも神習ひし拜承する研鑽努力は、皇民として生きむと欲する者の務めであらう。

一、井原頼明翁『増補・皇室事典』(昭和十三年六月初版・冨山房刊。十七年四月増補版。五十四年五月覆刻)

一、髙谷朝子内掌典『宮中賢所物語――五十七年間皇居に暮らして』(口述筆記。平成十八年一月・ビジネス社刊)

一、所功博士『天皇の「まつりごと」――象徴としての祭祀と公務』(NHK出版・生活人新書。平成二十一年五月・日本放送出版協會刊)

一、柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀――連綿と續く天皇の祈り』(平成二十二年七月・展轉社刊)

 殊に中澤博士には、此の掲示板に書込みを戴いたこともある。曰く、「この本(『宮中祭祀』)が広く多くの方に讀まれて、宮中祭祀の何たるか、天皇陛下の御本質についてお考へいただければと存じます」と。歳首の祭祀の一端は、所博士『天皇の「まつりごと」』の記事が最も詳細であるが、こゝは中澤伸弘博士『宮中祭祀』から拜承したい。



「宮中では、新年は祭儀から明けます。まづ四方拜の儀があります。これは年のはじめに、天皇が神宮をはじめ四方の神々や御陵を遙拜され、この年の平和と國民の幸福を祈念されるものであつて、平安時代の中期にには確定してゐた祭儀です。古くは寅の刻(午前四時ころ)に出御されてゐましたが、現在は午前五時半に、神嘉殿の南庭の御屋根に設へた御拜所に、脂燭の燈りのもと、御劍[註一]とともに出御になります(大祭には、必ず御劍と神璽とを、小祭には御劍のみを伴はれて出御になります。これが重要なことなのです)。天皇陛下は、これ以前に綾綺殿にお出ましのうへ、御束帶にお召し替へになります[註二]。御拜所は薦(こも)を敷いた上に白布を敷き、その上に眞薦・蘭薦を敷き、御拜座の厚疊を設け、燭臺二基を立て、その周圍を御屏風二雙で圍つたものです。そこで庭上下御、兩段再拜といふ御丁重な御作法(祭りのしかたの祭式を見ても、皇室の祭祀には、神前で手を打つ柏手がありません。陛下・勅使が神社に御親拜なさる時には、神前で深く一禮をされるだけです。また神社に奉られる玉串も、一般神社での作法とは違ひ、その捧げ方は、立てて奉奠される「立て玉串」です)で、神々を御拜なさいます。元旦の早朝は邊りは暗く、星が輝く、肌をさす寒さの中での年始の御祭儀であります。‥‥

 天皇陛下が屏風の中の御拜座で、どのやうな所作をなさるかはわかりません。御召し物の衣擦れの音が聞こえるだけとのことです。この御所作は、天皇のみが口移しで傳へられる御口傳です。古い儀式書には、神宮・四方の神々・先帝の御陵などと書かれてゐます。また屬星[愚案、北斗七星]を拜すともあり、何か呪文があつたやうです[註三]。應仁の亂で中絶しましたが、それ程期間をおかず、後土御門天皇の文明七年に再興し、今日に至つてゐます。その場所は時代の變遷があり、京都御所の時代には、清涼殿の東庭に出御になつて行はれました。また東京にお移りののちは、賢所前庭で行はれたこともありました。‥‥年の初めに、御歴代の天皇は、このやうな御祭儀を修されてきたのです。天皇陛下が喪中や御不例にわたらせられる時には、設へをしたことにより出御があつたと見なし、代はりの者による代拜はありません。この御儀は、天皇一人だけしか御出來になれない點に、その重みがありませう。その後、天皇陛下は引き續いて隣接する宮中三殿の歳旦祭(小祭)にお出ましになります。そのころ、邊りが明るみはじめます。

神殿へ すのこ上を すすみ行く 年の始めの 空白み初む(今上天皇御製)

 歳旦祭は、年の初めをお祝ひして、その年の平安を祈念される祭儀で、全國の神社でも行はれます。天皇陛下は、御劍とともに、賢所・皇靈殿・神殿の順に玉串を以て御拜禮されます。續いて皇太子殿下が同樣に御拜禮なさり、その後、親王殿下ほか參列者が拜禮します。小祭には、皇后陛下や皇太子妃殿下の御拜禮はありません。翌二日・三日には、日頃の日供をご丁重に奉られます。元日だけ御拜禮がありますが、この三日を、かつては「三箇日賢所・皇靈殿・神殿御祭典」とも稱しました。

 三日の元始祭は大祭で、三殿にて行はれます。年初に皇位の元始を祝ひ國家の安泰を祈るもので、明治五年に行はれて以來の御祭儀です。元始の名は、『古事記』の序文から取りました[註四]。これは大祭で、天皇陛下の御拜禮ののち、皇后陛下・皇太子同妃兩殿下の御拜禮があります。大祭は御親祭ですので、天皇陛下が御自身で御告文を奏せられます。また御鈴の儀があります。

 四日には、奏事始が、皇居の鳳凰の間で行はれます。陛下はモーニングをお召しになり出御、掌典長から昨年の神宮に於ける祭典、また宮中の祭祀が滯りなく修された旨をお聞き取りになられる御儀であります。このとき、天皇陛下は御起立遊ばされると漏れ承ります。古くは一月十一日に、神宮奏事始と稱して行はれ、徳川時代には、陛下は前日に御潔齋をなされ、當日は石灰壇で、殊に神宮を遙拜されてからお聞き取りになられました。明治初年には、賀茂奏事始・氷川奏事始なども行はれ、御敬神の思ひの深さがわかります。

 一方、平安時代には、政治が行はれてゐましたが、中世以來杜絶し、それを明治二年に再興し、天皇親臨のもと、政治向きのことをお聞き取りになられ、その中で宮内大臣が、神宮の祭儀のことを申しあげました。大正十五年には、皇室儀制令により、この時に第一に内閣總理大臣が神宮の御祭儀について奏上することとなりました。しかし戰後は、このことが廢止になつたため、あらたに神宮の奏事始として行はれてゐます。年のはじめに、まづ神事のことを御優先あそばされるお心と拜します」と。



[註一]永積寅彦掌典長『八十年間お側に仕へて――昭和天皇と私』(口述記録。「あとがき」は所功博士。平成四年二月・學習研究社刊)に、「『日の御座』しの御劍だけを、平常の御祭典では侍從が捧持してお供をするのですが、四方拜の時も御屏風の外に控へてゐます」と。

[註二]永積寅彦掌典長の曰く、「御旬祭だけはお直衣ですが、小祭以上は黄櫨染御袍で、新嘗祭だけは純白の御祭服です」と。

[註三]永積寅彦掌典長の曰く、「庭上と申しても、地面と殆んど高さの變らない板敷のところがありまして、一面に白布を敷いてあります。その上に眞薦を敷き御座所を置き、一雙の御屏風をもつてお圍みしてあります。東京からですと、南西の方向(神宮の方位)に御屏風を少し開けてあります。そこに御着座になりまして、まづ南西の神宮の方向に御拜禮になり、次に右囘りに四方を御拜禮なさいます。その一つ一つの御拜が、兩段再拜といふ丁重な拜禮でいらつしやいます。また御屏風の中には、掌典長だけがお供して入りますので、お裾をお囘りになる通りにおさばきせねばなりません」と。

[註四]『増補・皇室事典』に、「元始祭の意義は、明治五年、太政官布告に定むる『官國幣社竝府縣社元始祭式』の前文に、「是れ天日嗣の本始を、歳首に祀り給ふ義なるを以て、之を元始祭と稱す」と、明らかにされてゐる」と。



【鎌田純一掌典『皇室祭祀と建國の心』】
  ↓↓↓↓↓
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888
 
 

元始祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2012年 1月 2日(月)23時20分12秒
返信・引用 編集済
  謹みて聖壽の萬歳を祝ひ奉り、閲覽者各位の御清祥を祷上候。

毎年1月3日は、年のはじめにあたり、宮中三殿におひて天皇陛下が天津日嗣の元始を祝ひ奉るお祭り(元始祭)を執り行はせられるにつき、御民われらも天孫降臨に始まる國の大元 を壽ぎ、皇位の無窮をお祷り致しませう。

小學唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/s2_gansi_sai.htm

祝祭日唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/m_gansi_sai.htm
 

拜承謹記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 1日(日)08時52分38秒
返信・引用 編集済
  【敕語】平成二十四年一月一日
  ↓↓↓↓↓
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h24.html



【天皇陛下御製】平成二十三年御抄――年當にあたり宮内廳午前五時發表


――東日本大震災の津波の映像を見て

黒き水 うねり廣がり 進み行く 仙臺平野を いたみつつ見る


――東日本大震災の被災者を見舞ひて

大いなる まがのいたみに 耐へて生くる 人の言葉に 心打たるる


――東日本大震災後相馬市を訪れて

津波寄すと 雄々しくも沖に 出でし船 もどりきてもやふ 姿うれしき


――共に喜壽を迎へて

五十餘年(いそよとせ) 吾(あ)を支へ來し 我が妹(いも)も 七十七(ななとせなな)の 歳迎へたり


――假設住宅の人々を思ひて

被災地に 寒き日のまた 巡り來ぬ 心にかかる 假住まひの人




【皇后陛下御歌】


――手紙

「生きてると いいねママ お元氣ですか」 文(ふみ)に項傾(うなかぶ)し 幼な兒眠る


――海

何事も あらざりしごと 海のあり かの大波は 何にてありし


――この年の春

草むらに 白き十字の 花咲きて 罪なく人の 死にし春逝(ゆ)く



http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gyosei/pdf/gyosei-h23.pdf
   
 

今上天皇第二十四年、獻壽歳旦。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 1日(日)02時45分14秒
返信・引用 編集済
  平成二十四年
紀元二千六百七十二年
天孫降臨以來五千十二年
天皇正月、歳、壬辰に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。



■今上天皇御製

波立たぬ 世を願ひつつ 新しき 年の始めを 迎へ祝はむ


■大正天皇御製『遠州洋上の作』

夜、艨艟(軍艦)に駕して、遠州を過ぐ。
滿天の明月、思ひ悠悠。
何れの時か、能く遂げん、平生の志。
一躍、雄飛せん、五大洲。




●吉田左兵衞佐卜部兼好翁『徒然草』第一段に曰く、

 御門(みかど)の御位(おほんくらゐ)は、いともかしこし。竹の園生の末葉(すゑば)まで、人間の種(たね)ならぬぞ、やんごとなき。



●嶽東岩崎行親翁『國體篇』(大正十年八月。『正氣集』昭和五年三月・日本中學校校友會刊に所收)――鹽澤健翁抄

邈かなり兮、二千六百秋、
日東の肇國、神籌に基く。
國體之優、風土の美、
宇内萬邦、匹儔無し。
豐葦原之瑞穗の國は、
是れ我が子孫、君臨の域なり。
行け兮、爾ぢ就でまして之を治らせ、
寶祚は、天壤と窮極無し。

神訓、炳乎として、日星の如し、
之を萬世に施して、民心寧し。
三種の神器、君道を教ふ、
之を無窮に傳へて、帝徳馨ばし。
我が皇の神孫、姓氏無し、
日本を家と爲し、君を父に比(たくら)ぶ。
億兆、齊しく仰ぐ、一家君、
義は乃ち君臣、情は父子。
親に孝ならんと欲する者は、須く君に忠なるべく、
國を愛せんと欲する者は、須く君を愛すべし。
忠孝一致、君國一なり、
我が國の憲法、古文を存す。
嗚呼。
美なるかな哉、日東の君子國、
上下、心を同じうして、其の徳を一にす。
嗚呼。
優なるかな哉、萬世一系の君、
列聖、相承けて、功勳を埀れたまふ。



 古人の曰く、「稜威(ミは美稱、イヅは嚴。イはユ齋と同言)とは、吾々日本國民が有つ美しい崇嚴な言葉であるばかりでなく、現人神にあらせ給ふ陛下の、實質的な神氣の御發動を意味するものである。このことは堀○○○先生が、最も力をこめて膝をすゝめて、私に説かれたことで、實例を擧げて謹嚴に説明せられ、それ以來、私は心身の清々しい日に、宮城を遙拜する氣分が、一層嚴肅になつて來たのである。――私は心身の清々しからざる日は、恐れ多いから遙拜しない」と。

 愚案、元旦こそ、大祓ひを越えて、天も地も人も、擧國、最も清々しき、神祇感應の季なれば、夫れ宮城遙拜の好恰時節なり矣。顯界を主宰し坐します、現御神の大稜威、宇内に光輝して遍し、最も懇切謹愼、遙拜望祈すべし。皇國の御民は、信不信に拘らず、既に已に現人神の臣子たる、無上至高の光榮に惠まれり。嗚呼、畏し、畏きかな哉。
 
 

大祓の日を控へて。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月30日(金)18時41分52秒
返信・引用 編集済
  ■今上天皇『玉音放送

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html


■昭和天皇御製

峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり



 九段塾ご投稿ご閲覽の皆樣には、本年も、大變お世話に相成りました。衷心より御禮申し上げます。

 大神意と考へざるを得ぬ東日本大震災の發生、これに惹起せられたる福島第一原子力發電所の爆發事故と、本年は未曾有の大災害が襲來し、就中、故郷喪失てふ方々も出來した、餘人には云々するも憚らねばならぬ、悲劇の一年でありました。大御心を遙かに恐察し奉るだに、たゞゝゞ恐れ多き極み、一に國民の反省懺悔と、一日も速かなる産土復興を祈祷申し上げます。

 顧みれば、我が塾頭・福井金城翁が逝去されたことを、小生が知つたのは、本年節分を越えた二月五日の事であり、名状すべからざる衝撃を受けた次第でありましたが、此の日、實を申せば、小生、悲しみに暮れてゐる刻は無かつたのであります。

 六日、肥後國熊本より、或る憂國の士が、何と、單獨自轉車にて帝都に上り、遊學すると云ふ。其の途上、備中國を過ぎるとて、急遽、其の應接に追はれ、何はともあれ、邂逅懇談、翌日、岡田則夫翁を紹介、敢へて悲歎を棚に上げざるを得なかつたのであります。此の若き友人には、其の應待に疎漏が無かつたかと、内心忸怩たるものあつて、洵に相濟まぬ事もあつたかと、反省しりきでありました。

 然し友を見送つて、ふつと我に返れば、襲つて來るものは、やはり塾頭不在てふ悲しみと落膽であつて、暫くは放心状態、やつと氣を取直して、九日、九段塾掲示板に、「招魂――泉水隆一監督」の一文を掲ぐるを得たのでありました。幸ひに九段塾ご參集の各位、或は見目和昭兄、河原博史兄、藤真知子女史の協力も仰ぎ得て、塾頭遺文『靖國神社の眞實』の編纂を畢へ、上梓が叶ひつゝあるは、小生の欣快とする所であります。

 塾頭の坐さぬ、此の九段塾は、本道に寂しいものがございますが、塾頭が遺志繼承の爲めにも、ご閲覽の皆樣、彌益のご戮力ご健筆を乞ひたいと存じます。今後とも、塾頭の九段塾に閑古鳥が啼きませぬやう、鋭意、ご發言ご投稿、幾重にも御願ひ申し上げる次第であります。

 本年最後の投稿に方つて、皆樣の道福修學を御祈り申し上げ、九段塾管理者として、ご挨拶とさせて戴きたう存じます。 九拜


權利てふ 民の曲物 擧げて皆な 還し奉れよ 我が大君に

言論の 自由を守れと くなたぶれ 號(おら)ぶ枉人 息吹き祓ひてむ

大君を 惱しまつる つかさ人 息吹き祓へと たゞ祈るなり


   眞金吹く吉備の中つ國都宇郡なる玄月書屋に於て、備中處士、懇祷、敬つて白す。
 
 

訃報、花うさぎ・安仲徹男さん‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月28日(水)20時57分55秒
返信・引用 編集済
   下記、「花時計」樣よりメール到來、謹んで轉送させて戴きます。

 「花うさぎ」さんこと、安仲徹男氏は、泉水隆一監督、即ち九段塾・塾頭遺文『靖國神社の眞實』を送るやうに仰つて、之を讀むのを樂しみにされてをられました。洵に驚愕、殘念の極みであります。未知の御方でありましたが、上梓の曉には、必ず送らせて戴きます。御嘉納たまはらむことを‥‥。

**********

 花時計を応援してくださっていた保守ブロガーの花うさぎさん(本名:安仲徹男氏)が、12月27日、18時17分に逝去されました。

 花うさぎさんには、何かあると、いつも助けてもらっていました。今は本当に悲しいです。

 花時計が拡散活動に力を入れている「凛として愛」を知るきっかけも、花うさぎさんのブログでした。いつも花うさぎさんは、「この映画は、NHKで放送すべきだ!」と仰っていました。数十回も見ていて、すべてセリフも言えるほどでした。

 「凛として愛」だけでなく、花うさぎさんは、本当に沢山の情報を、ブログで多くの人に拡散していました。花うさぎさんのブログは、多くの保守活動をしている方にとって、情報源だったと思います。花うさぎさん、本当にありがとうございました。

 葬儀・告別式が、30日・31日に行われます。

お通夜:12月30日 午後6時~
告別式:12月31日 午前11時00分~
式 場:コムウェルホール高円寺
住 所:東京都杉並区高円寺南2-2-2
    丸ノ内線 東高円寺駅2番出口徒歩5分

 花うさぎさんが大好きだった、映画「凛として愛」の泉水監督の葬儀・告別式が行われた同じ場所です。きっと泉水監督と、「凛として愛」について、また今の保守活動についてなど語り合って、もりあがっておられるのではないかと思います。

 花うさぎさんのご冥福を、心よりお祈りいたします。花うさぎさん、今までありがとうございました。
  ↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/archives/3217700.html



【花うさぎ「世界は腹黒いⅡ」】
  ↓↓↓↓↓
http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/
 
 

幽冥の照覽、豈に恐れざる可けんや哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月26日(月)22時22分30秒
返信・引用 編集済
   本日早朝、報道に依れば、靖國神社神門に放火があつた由。魑魅魍魎の類の所爲ならんか。

 古人の曰く、「人、陽善を爲せば、人、自ら之に報い、人、陰善を爲せば、神仙、之に報ゆ。人、陽惡を爲せば、人、之を治め、人、陰惡を爲せば、神仙、之を治む。故に天、人を欺かず、之を示すに影を以てす。地、人を欺かず、之を示すに響を以てす。善を爲すも、惡を爲すも、天、皆な之を鑒む矣。善惡の報は、影の形に隨ふが如く、物の響に應ずるが如し。是れ皆な、天地自然の法則なり。信・不信に關せず、誰人なりと雖も、斯の法則より免るゝことを得ず。幽冥の照覽、豈に恐れざる可けんや哉」と。

 神驗著明、幸ひにして大事に至らざると雖も、神職・奉贊氏子、諸共に、戒愼用心なかる可からざるなり矣。恐懼、畏し。



■九段塾塾頭・福井金城翁の曰く、

「靖國神社神門は、葦津耕次郎・珍彦父子が、滿洲事變大成功で沸き立つ全國民の後押しを受けて、第一徴兵保險會社が奉納した楼門、即ち靖國神社神門を作り上げたのである。建築相談役が葦津耕次郎、工事請負は葦津珍彦が代表を務める合資會社社寺工務所である。昭和八年、神門と變更、九年に竣成祭。奉納許可したのが、當時陸軍省の牛島滿副官。竣成祭には、事變で名を擧げた林銑十郎陸軍大臣を始め、錚々たる人々が列席。宮司は賀茂百樹殿。此の神門には、日本最大の大きさを誇る菊花の大紋章が輝いてゐる。「天皇の神社」、「天皇の神門」と謂はれる所以である。

 神門は、靖國神社の正門であり、内陣への大王道である。その眞ん中(正中)は、國民は歩くことが出來ない。天皇の指し示す邊地・外地に赴き、皇國の守護し奉らんが爲めに、戰場で伏した將官・將兵の凱旋である。迎へる皇族・元帥・大將・中將・武官、悉く頭を埀れる中を凱旋する、聲なき英靈之門、それが靖國神社神門である。現在に於いても、例祭日には、天皇陛下のお使ひである敕使が、此の神門を通過される。神門は、殉國の英靈が凱旋する門である。「屍を山野に晒すは、固より軍人の覺悟なり、遺骨の還らざることあるも、心に留めおけ」と、妻子に、家族に言ひ殘し、出征した兵士・將官が、戰野に斃れ、手足をもがれ、頭を吹き飛ばされ、腹を抉られ、五臟六腑を撒き散らされし英靈が招魂されて、漆黒の深夜に、靖國神社に祭神として合祀される時、正に此の神門を御羽車に乘られて歸還・凱旋する門、十六菊花天覽の下、聖域入る神門である。その神門の前には、「下乘」と云ふ制札があり、門を濳つて、更に奧の拜殿の手前には、「皇族下乘」とある」と。
 
 

荒雄の大神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月25日(日)22時08分44秒
返信・引用 編集済
   蓮田善明中尉の歌は、清烈にして、何より平明、必ず聲を出して詠むべかりける。詠めば、四邊も祓はれて、こゝろ清まり、いよゝ研ぎ澄む心地して、樂しきかも、嬉しきかも。

 嗚呼、蓮田中尉、昭和二十年八月十九日、自決。享年四十二。

 大祓ひの日、夫れ近し矣。



【蓮田善明陸軍中尉の哥】

●『おらびうた』(古川叢書『陣中日記・をらびうた』昭和五十一年七月・古川書房刊)から

――門出に――昭和十八年十月下つ方
――敕題「海上日出」を
大海原 豐榮のぼる 朝日影 天足らしたり 國足らしたり

――皇居を拜してのかへるさ
妻よ この大前に敷かれたる
さゞれ石のうるはしからずや
汝が手に一にぎり
拾ひて
われと分たん
また稚子(わくご)らにも分てよ」
さゞれ石
あゝ大前のさゞれ石
手にみれば
うすあをくまたしろく
赤きもまじれり
六粒七つぶ
つぶらかに しづけし」
愛ぐしとて 子ろはあちこち
ひろひまはり
いくさ路にいそげる父を忘れたり
ああ そをかへりみで
征かむとてきほへる父ぞ」
妻よ
この大前に
今ぞ別れ行かな



――熱田にて
神劍(みつるぎ)乃 座します處 夕闇に 著(しる)くし知りて 拜みまつる



歌の祖(おや)と とほときかみは 八股大蛇 はふりたまひし 荒雄(すさのを)の神
十拳劍 かすかに闕けて くすし劍 大蛇の尾より とりいでましつ



歌の祖と いつきまつれる 建速の 荒雄神は 神祖(ろぎ) いざなぎ神の 日向の 橘の小門の あはぎ原に 醜まがの 汚穢なげうて 大御身の みそぎして はらひたまへる いやはてに 左の御目を あらひたまへば さやけく 生れ出ましける 高光る 日の大神の 弟御子と 祖神の 御鼻かみける その機し 生れたまへば 御子ながら いすゝみまして 汝は 海をしらせと 言寄さし たまへるものを きかずして 八拳鬚 心前に 至れるまでに 啼きいさち をめきたまへば 青山は 枯山なし 河海も 啼き乾したまひ わざはひは おこりこぞれば いぶかしみ その泣く故を 何どとかも たづねませるに 吾は妣の こひしく泣くと いらへます みこときくより 火照りて 怒りきためて 汝はここにな住みと 神やらひ やらひたまへり ここをもて 日の大神に 申し告げ 去ぬべく思ひて 日の宮に まゐりたまへば 山川も 鳴りとよもし 國土も 悉々動(ゆ)すり ゆゆしきを うたがひまして 姉神の 問ひたまへば うけひして あかき心を あらはしし その勝さびに さる性の 己れとめ得ず あしきわざ きたなきことの しきまして つひのしわざと ぶち駒を 逆剥ぎ剥ぎ 神御衣の 機屋の屋ゆ 墮したまへる そこを怖ぢ 日の大神も 岩戸を かたくさしこめ 天地に 常闇往くを 八百萬の 神集ひまし 八心 思兼神の 神はかり かしこくまして まつりもの さはにととのへ 太のりと 太くのらしめ 常世の 長鳴鳥 集へ鳴かしめ 天宇受賣 神あそびして 高天原 ゑらぎゆすれば 大神の 心とかして ややのぞき 見ます岩戸を 手力の 男神ひきあけ 御手とりて いだしまつるに おのづから 天地照り明り まがつびも い隱るなべに 須佐之男ノ 神をとらへて 鬚爪また 千座の置戸 置かしめて 逐ひたまふを その途に 大食津比賣の たてまつる 御食汚(をしけが)しと 御くびを きりはねませる 建速の すすしきわざは やみがてに 怒りましつつ 出雲の 肥の川上に 天降(あもり)つき 川上ゆ 箸の流るる 見したまひ 人あるべしと まぎ往まし 會ひたまへば 乙女の 一人を中に 老人の 手とりもち 頭うだきて 泣き居るに 我こそは 高天原に 天照す 大神の弟ぞ いましらが 斯く泣く故を ききたまひ はかりたまはん 語れよと 促しますに 僕(あれ)らこそ 大山津見之 神の裔 足名椎 手名椎神 八乙女の もとはありしを 高志の 八股大蛇 年毎に 來ては食ひ 今は早 一人殘れる 末つ子の 櫛名田比賣 此の子又 とりに來べきを 手力の 弱き翁嫗が せんすべも なくて泣き居つ そのたけき 八股大蛇は 八頭の 八尾のけだもの 頭には 青苔生ひ 背毎に 檜杉生ひ しが目は 赤かゞちなし 腹は 常に血あえて 八尾をこえ 八豁をわたり はひもこふ 畏き神と 申すこと つぶさにきゝて 然あらば その末つ比賣 わが妻と かしこみまつれ また己れ はからふ樣に なしてよと 教へたまひて その比賣を 五百箇(ゆつ)つま櫛に とりなして みづらにさし 老翁らに 教へたまひて 八さずき 門に設け 門毎に 酒槽据ゑ 槽毎に 酒滿ておき 待つときに 大蛇きたりて 八鹽折の そのうま酒に 八つの首 ともにさし入れ 現なく 醉ひ伏す時に 切りはふり はふりませるに 肥の川も 血變(な)して流れ その腹 割き見給へば み劍の 刃先き少しく かけしかば あやしみまして さきたまふ 大蛇の尾より つむがりの 靈(くす)しき劍 一振ぞ 顯はれければ 是は是 天つ御神の しりたまふ 物とのらして 天照 御神のもとに かしこみて さゝげまつれば あやに 心清(さや)けび をとめと 血を覓ぎ 出雲の 須賀に到り 宮立つと 見さけたまへば 四方より 雲立ちのぼり つまごみと 八重垣なせば あそばしし 大御歌はも 神代より 歌のはじめと かみごとに 傳へ來れる みやびの 極みもしらず やまとの 歌の祖は 建速須佐之男神と まなびきたれる 古ことの こころたづねて 習ひて行かな

――反歌
みやびをば かくこそあれな 荒雄の 神ぞくすしく あらはしませる



やすみしし わが大君の 明らけく しらさん御世と 安らけく をさまる御世と みめぐみの のどけき波は 八汐路の きはみなきまで しき波の しげくませるを よこしまの えみしがともが 島とある 島のことゞゝ 國とある 國のことゞゝ むらくもに 蔽ひかくして しがほしき 心のまにま むさぼりは いよいよまして おごりたる さがのみたけり あしきわざ うたゝやまねば いはまくも ゆゆしきかも 大御心 いたみたまひて ねもごろに をしへたまへど やむ時の つひにあらねば 神風の いぶきはらへと 大みこと のらしたまへる かしこさの 泪しながる 今日の日ごとに

――反歌
百なひと 人はいふとも くなたぶれ 血原なすまで うちつくしてむ



海行かば わたつみの神 陸(くが)行かば 國つ神たち 明らけき こころあらはし あとさきに つかへまつらふ あたし國は かくあらめや 皇神の 國のみ斯くと 尊さの 身にしあまりて み民の こころ振起し みいくさに 海原わたる 朝ごとに みかどのあたり はるけくも をろがみまつり 泪しながる

――反歌
すめがみの 大みいきほひ かゞぶれる われとかしこみ 泪し流る



劍太刀 身にとりはきて みいくさの いよゝさかれと いでたつ今日ぞ
牙(き)かみ たけぶほかなしと叫び おらびたる 佐久良雄うしが うたぞわがうた
朝ごとに みやこのかたを をろがみて 大御諭を 誦むがたぬしさ
夕ごとに さかり行けども みやこべは をろがむごとに かしこさまさる
わが軍(いくさ) 千人(ちたり)死せば えみしらを よろづはきりて 道連れにせむ
えみしらが 碧き目玉の 白むまで わがつるぎ刃を 耀かしてむ
朝夕に 神ほぎまうす いやはてに 妻子(めこ)らのことも ねぎまうすなり
あたらしき 言を用ゐず ひたすらに 古言のみを しのび歌よめ
あたらしき 言な競ひそ ふることの ゆるきうつりに 皇國を知れ
敷島の やまとのうたは 皇(すめろぎ)の 大御すがたを よむにぞありける
皇は 神にしませば 天に足り 國に足らして みやびせすかも
人ごころ あらはすよりも 天足らし 國足らします 神をよまなむ
大君は 北にいますと つはものに をしへてをがむ 今日の船路は
大君を 思ひまつれば 大海の たけび死なまし 生きを思はず
皇の 神のみことは この勝を いかさまばかり めできかすらむ
大君の きこしめすらむ この捷を 思へばゆゆし 泪しながる
大君は 神にしませば 疾風(ち)なし あたをはらへと うべのらしたり
この島を 凡にな踏みそ もののふの つるぎにかけて ことむけはせし
天つ柱 國つ柱と 級津彦 龍田ノ神の 島はかためし
精矛 千足の國の もののふが たけきいさほ(ママ。を)は 萬代までに
大君の 先驅(さき)路つかへて たまきはる いのちさゝげむ 太刀のさやけく
枯野の 速ぶねもがな やすみしし わが大君に みつぎまつらむ
みいくさの あとはしるけし 萬代に たけきいさをを 語りつぐがね
みいくさの あとはさやけし 萬代に 心しふらば かたりつぐべく
大君の さづけたまへる 軍(いくさ)旗 みちびきまつる まけのかしこさ
大君の みことかしこみ たけびつつ すゝむいくさに いとまあらめや



――昭和十六年十二月七日、曉明に、靖國神社に詣づ。嚴寒霜厚く、氣凍る。すでに神拜者、また少國民の清掃に奉仕するもの多し。その翌朝、交戰に入るの報道をうけ、感慨、殊に深甚なりし。
皇は 神にしませば 言さへぐ 夷向くべく 大のらしたり
みいくさの たけくあれと 祈るなり 神ののらしし みことのまにま



――宣戰の大詔を奉讀して兵に示す
いくさらは 物いふ言(こと)は ことごとく 雄たけぶごとく を(ママ。お)らび物いへ



――天皇、大神宮御親拜の日なり。晨旦、口漱ぎ、例の如く遙拜。體操・木刀振り、みそぎす。空しづかにはれわたり、百鳥の聲にぎはひ、のどかなり。
かけまくも あやに尊く ゆゆしきことぞ 天照 日ノ大神の 大御前 清めたまひて やすみしし 吾大君の すゝみたまへる 神さびて つげますことの 神からと ねぎますことの 言はむすべ せんすべしらに ゆゆしく 畏きろかも

――反歌
大君は 神繼ぎませば 御民は 身をたなしらず いはひ仕へつ



――豫てよめる迎年のうた
あたらしき 年のはじめに 八汐路の 汐にかづきて みそぎせむ我



●『陣中詩集』(同上)から


○倭寇賦

彼らは拗(す)ねたる大和の民なりき
彼らは涯り無き海を渡り
大いなる陸を望みて
情(こゝろ)寂びしく遠征せる民なりき
彼らは「八幡大菩薩」の幡を押し立て
言語(ことは)通ぜぬ國々を掠めたりき
彼らは心、物の慾に拘泥(かゝづら)はざれば
寶を供へて賞(め)で迎ふるものを愛(いつく)しみ
財を惜しみて抗ふものを腹立ちて伐ちたりき
彼ら、摩訶不思議なる群どもはかくて大陸を
南に北に掠め廻り
或は昔佛の住みたまへる花鳥異(あや)しき天竺を襲ひ
或は長江を遡りて老仙天がける崑崙を探りしかば
大明國驚き騒ぎて防ぎ肯(あ)へず
日本將軍に請ひて討滅せんと欲し
不逞なる虚名を奉り
貢物山と積みたりしも
遂に將軍之を鎭め得しことを聞かず
彼らはいつしか己れと水に死に行きき
唯ひとり山田長政なる者
暹羅(シヤム)國に王者の勢を恣(ほしい)ままにし
毒を盛られて最期を遂げしと
青史にその遠征を惜しまれぬ


○倭建命の御歌に追和し奉る
――にひばり 筑波をすぎて いく夜か寢つる(命)
――かゞなべて 夜には九夜 日には十日を(火燒翁)
――古事記――

たたかひの 幾日(いくか)すゝみて
幾山を 幾夜か寢(い)ねし
日々(かゞ)竝べて 八日か來つる
今日未明(まだき) また進み往く
群山(むろやま)の 群嶺(むろみね)の上(へ)に
いと高き 山見えそめぬ
 
 

十二月二十五日は大正天皇例祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2011年12月24日(土)22時18分41秒
返信・引用 編集済
  明日、十二月二十五日は大正天皇例祭

皇靈殿で毎年小祭、式年大祭が斎行され、また、多摩陵にも勅使が参向させられ、奉幣の儀がある。

遥拜詞

 掛けまくも畏き
 多摩陵(たまのみさゝぎ)の大前(おほまへ)を慎み敬(うやま)ひ遥(はる)かに
 拜(をろが)み奉(まつ)らくと白(まを)す
 

Re: 玉の御声に泪し流る

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月23日(金)22時49分19秒
返信・引用
  > No.1462[元記事へ]

○ 戀 闕

鷄が鳴く 東の便り 聞くからに 深く思へば 泪し流る

大君の 遙か彼方に 坐しますと 思へばすゞろに 泪し流る

すべらぎの 大き宮居を をろがむも たゞものゝふは 泪おちけり
 
 

玉の御声に泪し流る

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2011年12月23日(金)20時30分46秒
返信・引用 編集済
   毎年の例のまにまに二重橋を渡り、秘詞を密奏して皇室の御安泰と彌栄を祈念し奉る。

 同憂の語るに、出御と同時に宮殿上空の雲が凄まじき速度で散じ、この奇瑞に驚く人、
 幾人か声をあげたと。

 冷たき強風も宮城参賀の間は全く吹きませんでした。
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年12月23日(金)01時10分20秒
返信・引用 編集済
     おほけなくも朝拜仕ります。  

朝拜詞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月22日(木)22時04分36秒
返信・引用 編集済
   明日は、天長の佳節、國旗を高く掲げて、祝ひ奉らむ、たゞひたすらに祈み奉らむ。

あまつひつきの みさかりは あめつちと きはみなからんものそ



●神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥

草も木も 我が大君の ものなりと ふかくおもへる 人もあらなむ

朝夕に 禮(ゐや)を申さむ 何事も 神と君との 御蔭々々と

飯(いひ)食ふと 箸をとるにも 吾が君の 大御惠みと なみだし流る



●蓮田善明中尉『朝拜詞』(『おらびうた』――始め「をらびうた」ちふを、自ら改めたりと云ふ――所收)

神ながら 窮みなき世と すめらへは いやさかえます 大君は 高しらします ふりさきて 仰ぎまつり うなねつき をがみまつれば 泪しながる

いはまくも あやにとほとく かけまくは かしこかれども 天照らし 照らしいまし みいつに い吹きいます 神風の 伊勢の大神 朝ごとに 拜みまつれば 夕ごとに ねぎまつれば 泪しながる

祖の子の 子の孫(うみのこ)の いやつぎゝゞ 父母兄姉(ちゝはゝあにね) 己れ妻子(めこ)ども 大君の めぐみ思へば 泪しながる

うまし汁(またハ肴、その時により) うまし飯にそへ たかだかに たぶる身思へば 天つ神 國つ御神の みたまのふゆ いはむすべしらに 泪しながる
 
 

皇神の道を以て、宇内をして皇化に浴せしめむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月17日(土)22時23分24秒
返信・引用 編集済
  ■本居宣長大人『馭戎慨言』に曰く、

天皇を、かしこくも倭王などとおとし申し奉れるは、いはんかたもなき禮無きなれば、其の書(隋國王の書)、さらゝゝに受入れ玉ふべきにあらず、ほど知らぬ申しざまぞと、きびしくとがめて、使をもすみやかに追ひかへして、かたく御むつびを絶ち給ふべきわざなり」と。



 小生の愛讀書の中でも、平泉澄博士および其の門下の方々は暫く措くとして、特に忘れ難いものは、淺野晃翁『楠木正成』と、蓮田善明中尉『本居宣長』である。何度、讀み返したか判らぬが、深き感銘を今も堅持し愛しみて、些かも色褪せることが無い。これらの書を見なければ、小生も、今少し現代の風潮に棹さして、要領よく世を渡ることが出來たかも知れぬ。公務員の一族の中に生れながら、昂然と曰く、乙酉以來の政府に仕へず、と。然し我が人生を決定づける書に巡り合つてしまつたのだから、愚癡を申しても仕方が無い。恩頼道福に感謝して、斯の道、即ち皇大御國の道を進まねばならぬ。天壤無窮の大神敕のしるべする所、八紘爲宇の大御旗は、絶えて倒さるべきでは無く、皇神ご照覽の下、別天津神の大經綸として宿命づけられてゐる所、何人も之より逃れること能はぬのである矣。

 なほ蓮田善明中尉の最晩年は、本居宣長大人の女々しき所あるを超えて、賀茂眞淵大人の丈夫振りに、斷々乎として進んだやうである(月刊誌『浪漫』最終號――蓮田善明特集――かつて友に貸して歸らず、確認不能なるは遺憾なるべし)。



●蓮田善明陸軍中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、

「安永六年十二月(四十八歳)、宣長は『馭戎慨言』(からをさめのうれたみごと)四卷を書き上げた。これは古代から徳川初期に至る對外折衝史といふべきものであるが、皇國を本位とする強烈な自覺の下に、つぶさに批判を加へ、卑屈な尊外的弊風を、豁然打破した空前の著述である。この書は、在京時代の醫術の師・典醫武川幸順に送られ、幸順の斡旋により、攝政九條尚實の一覽を得、更に光格天皇の叡覽を忝うした。‥‥宣長が、眞に卓然椽大の筆を揮つて、和漢の史料を驅使して、皇國の尊嚴と「馭戎」の正意を、史實の上に論じたものとして、『馭戎慨言』は、その白眉たるものである。なほ、かういふ時、一般に尊内外卑といふ言葉が昔から使はれてきてゐるが、私は、嚴密にはその言葉がもつ、未だ相對主義的な敵本的國粹論の匂ひを好まない。宣長はそれ以上に出て、眞に皇國が世界の本位たる、眞の國粹の由縁を以て立言してゐるのであつて、單に尊内といふよりも、率直に國粹とか、本位とかといつた方が當る。以下、國粹といふ文字を用ひる。

 「馭戎」とは、所謂漢戎・唐戎を馭めならすといふ意である。こゝに唯「排撃」などといふ文字を用ひてゐないのに、注意を要する。單なる敵愾的な國粹論でないのである。勿論迎合などではない。皇國の道を以て、まことは道なき彼の國を馭めて、亂りがはしい國ぶりを我にならはせようとの心と見られる。そして、さういふ見識のある國としての皇國論となつてゐるものである。これを『古事記』・『日本紀』等の古言を以ていへば、「言向和平」(ことむけやはし)と言つてもいゝ。わが道を慕つて「まつらふ」ものは之をならし、未だ暴ぶるものは討つて鎭め、ことごとく皇神の道に、率直に浴化せしめんとするのである。そしてそこに皇國の眞姿を浮彫にしてみせたのである。

 「天つ日の大御神の御子の尊の、所知し食す此の大御國に、外つ國もろゝゝのまつろひ參る事の始めをたづぬれば」といふのが、『馭戎慨言』の書出しである。こゝには現代風の國際主義的外交論などは露ほどもない。外論といふよりも、今日敢然「八紘爲宇」の大詔をかゝげて發足した國風に於て始めてあらはれた、國粹治外論ともいふべきものである。即ち言ひかへれば「馭戎」である。これこそ歴史の淵源に遡り、歴史の跡に尋ねて、つぶさに批正の論を加へ、神國の治外馭戎の大本の思想を、明亮に打ちたてたものとして、正しく今日の先覺である。否、或は今日、尚ほ不徹底なる或る外交思想を百尺竿頭、更に一歩を進めしめ、眞に雄渾無礙の皇國の意氣と使命とを覺知せしめるもの、此の書に出づるものはない。而も單に文治的思想ではなく、宣長が本書中最大の讚辭を呈してゐる豐臣秀吉をさへも凌ぐ武略論さへ示されてゐる。

 しかし本書は、唯だ治外の論述ではない。この雄渾な馭戎論は、おのづから國粹治外論として、國内に於ける主客顛倒せる漢意(からごころ)を徹底的に粉碎したのである。當世當面の漢意の論者を論駁するといふやうなことは、こゝではもはや餘技にしか見えない程である。謂はゞ歴史に於ける漢意を討つたのである。その書の趣旨は、概ね豐前國中津の八幡社司・渡邊上野介(藤原重名)の記した、次の序文に明かである。
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 又、尾張の鈴木朖の序にも、「中寓に臨みて、百戎を馭すとは、天皇之事也。本居先生、布衣の身を以て、慨きて之を言へり」とある。‥‥

 宣長は、‥‥日本魂に出でず、或は却つて日本魂を知らずして閉塞をはかる戎心を討ちまつろはせようとし、未だその明かならざるを筆をつくして慨み、正大の評論をうち立てようとしたのが、『馭戎慨言』であつた。これは他の文化論的な著述と趣を異にするため、從來あまり世の宣長論者が取り上げないものであるが、皇國の意氣をあらはに直截に述べた評論として、少くとも宣長の心の一端を示すものとして注意されねばならない。又た幕末の尊皇攘夷論の進路を豫示したものとしては、必ずしも私は此のあらはな評論をのみ選ぶものではないが、もし人が尊皇攘夷の心を探りたければ、この書に就くことを、先づは勸めなければならぬ。更に又今日の聖戰の中にあつて、國の尊嚴と決定的勝利の氣魄と心構へとを知り、何がそれをやぶるかの原因を見んとする者も、此の書を手にすべきである」と。



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嗚呼、清水澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月16日(金)22時28分29秒
返信・引用 編集済
   遠き熊本なる友人のブログに、「大東亞戰爭開戰から七十年目の今月八日、石川縣護國神社において、金澤大學四年、杉田智(さとし)さんが割腹自決をされました。自決された場所は、大日本帝國憲法に殉死を遂げられた清水澄博士の石碑の前でした」と。小生も衝撃を受けること、甚だ大きいものがあります。謹んで紹介させて戴くと共に、舊稿を掲げて、清水博士をお偲び申し上げたい。即ち是れ、杉田青年の志を顯す一端ともならうかと存じます。
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■清水澄博士の哥

「紀元二千六百年を迎へ、和氣清麻呂公を偲び奉りて」
國の爲 荊(いばら)からたち ふみそけて 正しき道を 歩みつる君

「雨」(『心の花』昭和二十二年七月號)
しめやかに ふる春雨の 音寒み ねざめの床に 國のゆくて思ふ

「秋季皇靈祭の日」(『心の花』昭和二十二年十二月號――佐佐木信綱博士「清水澄博士」に所收)
西のそら 雲きれそめて 夕日さし 筑波の山は くれなゐに見ゆ



■帝都港區青山墓地「清水澄博士墓碑」に曰く、

「清水澄は、明治元年八月十二日、加州金澤に生れ、昭和二十二年九月二十五日、八十歳をもつて薨ず。其の生涯は、公職を以て終始し、内務省・學習院・行政裁判所及び樞密院を通じ、在職五十有三年に及べり。而して官は、行政裁判所長官・樞密院副議長を經て、樞密院議長に至り、帝國藝術院長を兼ねたり。位は、正二位に進み、勳一等旭日大綬章を授けらる。正に人臣を極むるにちかし。然れどもその本領とせる所は、前職に在らずして、一學者たるに在り。その世に重んぜられたるゆゑんは、手腕力量に在らずして、人格學識に在りあり。

 明治三十一年、歐洲に遊びて、國法學及び行政學を專攻し、留ること三年、歸朝するや、その代表的著作たる『憲法篇』を公にして、識者の認むる所となり、明治三十八年、法學博士の學位を授けられ、特に憲法學をもつて、世に著はるゝに至る。すなはち爾後、本職の外、東京帝國大學及び各大學に講ずること多年、また高等文官試驗委員を嘱せららるゝこと三十餘年、さらに大正十五年、帝國大學學士院に列せられたり。然れどもその本懷とし、光榮としたるは、至尊に對する進講の任にして、大正四年以降、大正天皇に、大正九年以降、今上天皇(昭和天皇)に、常時進講すること十餘年に及び、帝王の師として、深く自らを謹しめり。けだしその生涯は、君國に對する忠誠の念をもつて終始し、抱く所、私心なかりしは、人の認むる所なり。

 新憲法實施の年の秋、月夜、伊豆熱海の波濤に身を投じ、遺すに『自決の辭』を以てす。その趣旨とする所は、日本國及び天皇制の將來につき、憂慮すべきものあるも、微力匡救、道無きをもつて、楚の名臣・屈原に傚ひて水死し、幽界より我が國體を護持し、天皇制の永續と、今上天皇の在位とを祈願せんといふに在り。もつてその志を知るに足れり。

 その私生活においては、身を持すること嚴にして、自ら愉樂を求むることすくなかりしが、明治三十一年、大審院長・貴族院議員・三好退藏長女辰子と婚して、三男子をあげ、その生を終ふるまで五十年、伉麗(夫婦)相携ふるを得たるは、生涯の幸たり。先人、去つて既に四ケ月、温顔、今なほ髣髴として、眼前にあるがごとし。

 昭和二十三年一月二十五日、嗣子・清水虎雄、誌す。

佐佐木信綱・千葉胤明・下村宏各翁の追悼歌四首」と。



●平泉澄博士『續々・山河あり』(昭和三十四年九月。三十六年六月・立花書房刊。平成十七年三月・錦正社復刊『山河あり』に所收)に曰く、

「無條件降伏となれば、我が方は手をつかねて俎上にのぼり、眼をつぶつて彼の料理を待たねばならぬ。その時に當つて、生殺與奪の權は彼の手にあり、我が方としては一言の抗議もゆるされない。是に於いて、降伏は萬やむを得ないとしても、國體の根本だけは動かさないといふ保證、最小限度に於いて是れだけは取得して置かなければならぬ。これが當時、最も純粹に君國の前途を憂ふる人々の切なる願であつた。一方、事態は急迫して、一刻一時の猶豫も許されぬ。最小限度の保證を要求するすら、既に手遲れである。寧ろ直ちに無條件を以て降伏し、あとの事は擧げて先方の裁量にゆだねてよい。かやうに考へる人々があつて、而して廟議はそれを採用し、之に決定した。之を採用し、之を決定するに當つて、ひとり事態の急迫して如何ともすべからざるより判斷したのみでなく、そのかげには、先方の心中を推測して、その善意好意を期待し信頼する氣持が、暗々のうちに存してゐたのである。之に反して、國體の前途を憂へて、最小限度の保證を求めようとした人々は、漠然として彼れの善意好意を期待する事は危險であるとした。されば今廟議、無條件降伏に決するや、是等の人々は前途が眞暗になつた心地で、悲しみの極まるところ、その心狂せざるを得なかつた。近衞師團の悲劇は、是に於いて起つたのである。その中心人物の一人、畑中少佐の如きは、純情にして清廉、最も學を好み道を重んじた人であつて、その所爲は暴擧といふの外は無いが、事は君國の將來に對する深刻なる憂慮より發したのであつた。

 暴擧は成らずして、やがて畑中少佐等の自決となり、阿南陸軍大臣までが、陸軍不統一の責をとつて、潔く自刃して果てられた。流石に阿南將軍に對しては、何人も此の明朗にして、心中一點の塵を留めざる純忠の名將に、非難の聲を投げる者は無かつた。たゞ畑中少佐等にむかつては、あらゆる罵詈が、雨霰と降りそゝいだ。しかも無條件降伏の後に、既に陸軍を解散し、海軍を失ひ、丸腰となつた無抵抗の身の上に、漸次迫り來つたものは、決して期待せられたる如き善意好情では無くして、冷酷苛急の要求であつた。前には戰後處理のよき相談相手なるかの如く、手を握つて應待した近衞公を、巣鴨の獄に拘禁して戰爭裁判にかけようとしたのは、かくの如き裏切りの一例であり、適例であつた。近衞公が、死を以て之に抗議せられたのは當然であり、見事であるといはねばならぬ。最も重大なるは、憲法の問題である。近衞公は、はやくより此の問題を憂慮し、日本國自ら改正に着手しようとせられた。しかるに占領軍司令部は、おのれの手に於いて全く別種の憲法を作製し、之をわが國の政府と議會とにおしつけて、わが國獨自の發案として決定發表するやうに強制した。既に一兵を有せざる無防備の國家に、此の強制を拒否する力があらう筈はない。いはゆる日本國憲法は、かくの如くにして成立し、昭和二十二年五月三日、施行せらるゝに至つた。

 樞密院議長・法學博士清水澄(とほる)、もとゝゝ温和寛厚の人であつた上に、齡を重ねて既に八十歳であつたが、新憲法の無理強ひを見、またわが國の高官といひ、議員といひ、學者といひ、唯々諾々として之を承順するを見て、慨然として死を決した。自決の辭にいふ、

新日本憲法の發布に先だち、私擬憲法案を公表したる團體及び個人ありたり。其の中には、共和制を採用することを希望するものあり、或は戰爭責任者として、今上陛下の退位を主唱する人あり。我が國の將來を考へ、憂慮の至りに堪へず、併し小生微力にして、之が對策なし。

 依て自決し、幽界より我が國體を護持し、今上陛下の御在位を祈願せんと欲す。之れ小生の自決する所以なり。而して自決の方法として水死を擇びたるは、楚の名臣・屈原に倣ひたるなり。

  元樞密院議長・法學博士・八十翁、清水澄。
 昭和二十二年五月、新憲法實施の日、認む。


 博士は、念を入れて、遺書を數通したゝめられた。文は長短多少のちがひはあるが、趣旨は同一であるから、今はその一をこゝにかかげたのである。其の文末に記されたやうに、これは二十二年五月三日、即ち浮薄の徒、乃至心無き人々が、旗を立てゝ祝賀する其の日に、執筆せられたものである。博士の志は、既に決定した。あと殘るは、その日時と場所の選定である。かくて其の年九月二十五日、熱海の魚見崎より身を投じて、忠君憂國の至情を、碧海の波濤にゆだねられたのであつた。

 たまゝゝ老病を熱海に養つて居られた徳富蘇峰翁(時に八十五歳)は、此の報を耳にして愕然として驚き、一書を裁して、博士の靈前へ供へられた。それはいはゞ博士の傳の贊に當てゝもよいものである‥‥。

謹啓、卒爾ながら恭しく一書を裁し、清水博士先生の御靈前に、弔意を表し奉り候ふ。近年は老生も退隱、殆んど人事と沒交渉にて、その爲め先生の音容に接する機會もなかりしが、先生の未だ大學に生れたる此(ころ)より、相知の間柄に之れ有り。平生、先生の穩健篤厚の人格には、敬服罷り在るものに候ふ。然るに九月廿六日朝、偶然の用件にて、人を附近の若竹漁場に遣し候ふ處、意外の事を承り、扨は先生、審思熟慮の上、御決心相ひ成り候ふ事と拜察、竊かに悲痛と共に嘆讚いたし候ふ。やがて御遺書の大略にて、いよゝゝ老生推察の誤らざることを認め、今更ながら老生が先生を見ることの、尚ほ足らざるものあることを、慚惶いたし申し候ふ。

 老生の鄙見にては、今囘の御最期は、實に臣道の實踐、學徒の志趣、殘るところなく、剩すところなく、御遂げ成り、寔に々ゝ見事なる、申し分なき御最期と感嘆いたし申し候ふ。老生は草莽の野人なれども、皇國の國體の擁護者として、天皇制の堅持者としては、何人にも讓らざる抱負これあり候ふ處、先生の今囘の御所決に對しては、實に中心より、且つ感激し、且つ慚怍し候ふ儀に御座候ふ。就ては直ちに拜趨、御靈前に燒香致すべきの處、老病にて進退自由ならず、餘儀無く、略式ながら楮上を以て徴志を披瀝申し上げ候ふ。若し拙簡を御靈前に御供へ成下され候はゞ、老生の本懷、之に過ぎず候ふ。


 まことに是れ知己の言といふべきである。同時に、恐らくは其の生前には、博士と特別の親交は無かつたであらうが、博士入水の報を聞いて、博士の爲に之を悲しむと共に、皇國の道義の爲に、深く之を喜んで、數篇の詩を作られた人がある。長崎縣針尾島の寒村に、災後の老體を寄せられたる岡彪邨翁、その人である。翁は當時八十四歳、老衰といひ、貧窮といひ、まことに痛ましい限りであつたが、報を聞いて慨然としてよまれた詩は、次の通りであつた。

一、神代維降、大典新たなり。天皇明徳、賢臣を任ず。前人乃木、眞に其の友。忼慨一瞑、至仁を求む。
(清水博士は、乃木靜堂大將の知遇を得たり。帝都赤坂の乃木神社にて、清水澄博士の慰靈祭、今日なほ行はれてをる由――『八十翁清水澄投身の悲懷――大日本帝國憲法と運命を共に』――不二教職員連絡會・淺野晃翁編『殉國の教育者――三島精神の先驅』昭和四十六年三月・日本教文社刊に所收)。

二、平日眞心、五倫を重んず。三朝に歴任して、臣爲るを致す。典章今日、人の守る無し。東海仁を求めて、那んぞ仁を得む。

三、當今左道、豈に訝るを須(もち)ひむ。君請ふ論ずる休めよ、擧世然りと。周武暴兮なり、權政を擅にす。嗚呼箕子は、朝鮮に往けり。

四、典章の泰斗、研精を見る。人は説く、皇州第一の賢。中心を竭盡して、今ま已んぬ矣。他日誰か立てむ、藎臣傳。


 岡翁は、それより四箇月の後に亡くなられたのであるが、自ら作られた其の墓の銘は、その最後を、「嗚呼、臣民之職責、死後も皇國を護らむ」といふ、壯烈なる宣言を以て結ばれた。清水博士の自決の辭と、文字は異なるが、趣意に於いて同一轍といはねばならぬ。即ち是れ共に藎臣傳中の人、長く歴史の光輝であり、道義の指標といふべきである」と。



○虎文齋彪邨岡次郎直養翁「平泉澄博士宛て書状」(昭和二十二年三月五日)に曰く、

「拜啓、御手紙被下れ、嬉敷く捧誦仕り候ふ。先づ以て先生(平泉博士)御無事、御躬耕之由、御芽出度く存じ上げ候ふ。當今、富貴に居るは一生の恥辱、躬耕、貧賤に暮らすは千年の名譽、今更に御高踏之仙蹤、慕は敷く存じ上げ候ふ。小生も燹後、全家無傷無病、疎開仕り、此の上へ無く幸福に御座候ふ。但し日増しに老衰仕り、平素、存養之學足らず、御恥に御座候ふ。然り乍ら此の上、御勉勵被下れ度く願ひ上げ候ふ。瞑目の時迄、學問は放擲すまじく候ふ」と。
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●福井市立郷土歴史博物館長・松平永芳大人『屈原の心境か?――市川團藏翁と清水澄博士の入水』(日本學協會『日本』昭和四十六年五月號)に曰く、

「三島氏の事件は、惰眠を貪る昭和元禄の世に大きな衝撃を與へ、多くの波紋を卷き起こした。新聞・雜誌・テレビ等は、月餘に亙つて各界の論評・反響を掲げ續けたが、これ等論評の内、眞に讀むに堪へ、傾聽に價するものは少なかつた。しかし、それは當然のことで、三島氏の如く、眞に祖國の前途を憂へ、信念の爲には一命を捧げて悔なしとする人物が筆を執つて居ない爲であらう。

 又、この事件で遺憾とする所は、益田總監の一身を按ずるの餘り、總監部が三島氏等の要求に易々として應じ、隊員に集合を下令したこと、集合した隊員の中に、三島氏等の、死を決しての切々たる訴へに(行動の贊否は別として)、感應する力もなく野次を飛ばせた者の多かつたこと、更に又、防衞廳のスポークスマンが、集合した隊員が野次を飛ばせたことを以て、「自衞隊が外部からの呼び掛けによつて左右されない健全性を確立して居る」かの如き口吻を以て、自己辯護的な態度をとつたことである。

 なる程、人命は貴い。しかし國の組織と言ふものは、總監の一人や二人、斬つて捨てられても、筋違ひの人間の言ふが儘に動いてはならない嚴しさがなければならない。今日のわが同胞は、人命より貴いもののあることを忘れ去つて居るのではなからうか?

 曾て陸上自衞隊に奉職し、市ケ谷臺で十年近く勤務したわが身にとつては、あの事件には人一倍強い衝撃を受け、改めて同地在勤當時の囘想に耽つたのである。當時、隊員に對する思想・精神教育が不充分であることを痛感した私は、自分の隊に對しては何とかしたいと考へ、最後に勤務した部隊に於ては、十日目毎に必ず一編の精神教育資料を印刷頒布して、退職迄の滿二箇年間に、八十編に及ぶ時事問題、隊内問題、歴史・思想・教育・躾問題等に關する私の考へを投げかけて、一同の思考錬成に努力した。‥‥

 以上、屈原の如く、自ら入水して碧海の波濤に身をゆだねられた方々の、美しくも清らかな死を説いたのであるが、諸官は如何に感じ、如何に考へられるか? 萬事ソロバンをはじいて己れの進退を決するを宜しとする人、人生の目的を物質生活の豐冨と快樂のみに求める人、かう言つた人々にとつては、屈原の死も、清水博士・團藏翁の死も、「いのちあつてのもの種」であらうから、一顧の價値も認められないかも知れない。しかし私は、何事にも眞劍な態度を以て、これに當り、その事に殉じ得る人を貴しと考へ、このやうな先人にこそ、あやかりたいと考へるものである。‥‥

 尚、三島氏の死に對する論評が、論ずる人の思想・人格によつて異る如く、清水博士の死についても、同樣であつた。昭和三十九年の『文藝春秋』十一月號に、博士の嗣子虎雄氏(當時東洋大學教授・憲法學)が、表題「明治憲法に殉死した憲法學者」、副題「父は信ずるところに死んでいつた」として、一文を投じ、詳細に當時の事情を述べられて居るが、その文中に、

『父の死後直後に弔問された穗積重遠博士が、「先生は、明治憲法に殉じられたのでせうね」と言はれたのは、自決の辭を動機として直感したのであらう。岡田啓介大將の囘想録中にも、「舊憲法に殉じたのであらうと考へてゐる」と記されてゐる。しかし、後に觸れるやうに、父の五十餘年の親友であり、私の恩師である美濃部達吉博士を、父の死の直後訪問した時、博士は、「私には、君のお父さんが死ななければならなかつた理由が、どうしても分らない」と、嘆息するやうな調子で言はれた。』

と記述されて居る。

 一方、徳富蘇峰先生は、博士急逝直後の九月三十日附書を以て、博士の御遺族を弔慰せられ、『寔ニ寔ニ見事ナル、申分ナキ御最期ト感嘆イタシ申候』と、繰り返へし述べられて居る。一方は、死なれた理由は了解に苦しむとされ、他方にあつては、見事な御最期であつたと遺族を弔慰される。人各々の感じ方・考へ方は、斯くもその思想・人格、學問の深淺によつて異るものである。三島氏の死の眞意も、眞劍深刻に國家の前途を憂へ、身を以て傳統國家の命脈を護持しようと決意する人々以外には、所詮理解出來ず、野次を飛ばすか、興味本位に扱ふか、はた又商魂の材料とするか、かう言つた受け止め方しか出來ないのである」と。



【參考・國史を顧みざる者の齎した所の無慘なる現實】
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畏命の臣從。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月12日(月)23時50分31秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■『古事記』熊曾建の段――景行天皇御卷

 是に天皇、其の御子の、建く荒き情を惶みまして、詔りたまはく、「西の方に、熊曾建二人有り。是れ、伏はず、禮无き人等なり。故れ、其の人等を取れ」とのりたまひて遣はしき。此の時に當りて、其の御髮、額に結はせり。爾に小碓命、其の姨・倭比賣命の御衣御裳を給はり、劍を御懷に納れて幸行しき。

 故れ、熊曾建が家に到りて見たまへば、其の家の邊りに、軍、三重に圍み、室を作りてぞ居りける。是に「御室樂(うたげ)せむ」と言ひ動みて、食物を設け備へたりき。故れ、其の傍りを遊行きて、其の樂する日を待ちたまひき。爾に其の樂の日に臨りて、其の結はせる御髮を童女の髮の如と梳り埀れ、其の姨の御衣御裳を服して、既に童女の姿に成りて、女人の中に交り立ちて、其の室内に入り坐しき。爾に熊曾建兄弟二人、其の孃子を見感でて、己が中に坐せて、盛りに樂げたり。故れ、其の酣なる時に、懷より劍を出し、熊曾が衣の衿を取りて、劍以て、其の胸より刺し通したまふ時に、其の弟建、見畏みて逃げ出でき。乃ち其の室の椅(はし)の本に追ひ至りて、其の背を取らへ、劍以て、尻より刺し通したまひき。

 爾に其の熊曾建、白言しつらく、「其の刀を、な動かしたまひそ。僕れ、白言すべきこと有り」とまをす。爾れ、暫し許して、押し伏せたまふ。是に白言しつらく、「汝が命は、誰にますぞ」。「吾は、纒向の日代宮に坐しまして、大八嶋國知ろしめす、大帶日子淤斯呂和氣天皇の御子、名は倭男具那王にます。おれ、熊曾建二人、伏はず、禮無しと聞こし看して、おれを取殺れと詔りたまひて遣はせり」と詔りたまひき。爾に其の熊曾建、「信に然まさむ。西の方に、吾れ二人を除きて、建く強き人無し。然るに大倭國に、吾れ二人に益して、建き男は坐しけり。是を以て、吾れ、御名を獻らむ。今より後、倭建御子と稱へまをすべし」と白しき。是の事、白し訖へつれば、即ち熟瓜の如と振り折きて、殺したまひき。故れ、其の時よりぞ、御名を稱へて、倭建命とは謂しける。




 愚案、やはり本居宣長大人の訓は、現代注釋者のものより、敬語の遣ひ方も、大いに宜しく、拜讀するに音讀を以てして、本道に氣持ちが好いですね。なほ倭建命、即ち日本武尊は、文字の用法、天皇に準ずる扱ひです。
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●保田與重郎翁『日本語録』(昭和十七年七月・新潮社刊)に曰く、

「日本武尊は、御生涯を征旅の中に終へられた。尊は、最も高貴の皇子に生れましたが、皇朝廷の臣のふみ行ふべき道を、御身御自らでお教へになつたのである。

 初め出雲から九州・山陽の賊を平げられたが、熊襲建兄弟をうつときは、この日本の丈夫といふ丈夫のうちでも、神の如くに雄々しい君は、一箇のやさしい少女の姿となつて、強敵をたふされたのである。

 尊の御生涯を誌した古事記の部分は、古事記の中でも、最も重要な部分であり、悲劇といふ形式の文學としては、どこの國の作品にも匹敵するものがない。普通の悲劇は、英雄と運命の鬪ひを描いてゐる點で、文學の中の最高のものであるが、尊の御傳記は、大君のみことを、わが生命の原理として生きた、最も偉大な英雄の姿が描かれた點で、比較がないのである。尊の御物語の場合には、歴史の傳統があるが、運命はないのである。こゝに於て悲劇は、忽ちに抒情詩として描かれるのである。

 尊は、どのやうな勝利さへ、勝利と考へられない。これは最も雄渾な、わが古典の精神を示されたものである。尊は、御墓を三度移られ、最後には白鳥となつて天へ昇られてゐる。戰ひに生涯を終へて、數多の強敵を限りなく倒されつゝ、しかも勝利といふことを知られなかつたのである。神の思召しのまゝに、大君のみことのまゝに、戰へと命をうけて戰はれた時、戰ひといふものは、臣の生き方として、どういふものであるかといふことを、我々に十分に教へられたのである。

 だから尊が熊襲の建を刺されるとき、建が少し待つて下さいと懇願して、尊の御勇武をたゝへ、尊こそ日本の一等すぐれた勇者だから、日本武といふお稱へをさゝげたいと云つた。尊は、この名を、心よくおうけになつた。しかも熊襲建を許す代りに、これを徹底的に誅伐せられた。これは古典の思想の激しいところであり、こゝには大衆小説的な憐憫心理(あはれみのこゝろ)の思ひ難い激しさがある。さうしてこれこそ、敵を遇する一つの精神であり、尊はつねに敵を敵として認められたから、この激しさがあらはれたのである。古代の風懷が、神のさながらでなければ、この至烈の誠心は、人間に現れぬのである。彼の稱へた御名だけをうけて、彼を許すといふことは、思想として成立たないと考へるところに、上代の生命觀と歴史觀があらはれるのである」と。



●友清磐山大人の曰く、

「須佐之男神が、八俣の大蛇を斬り給ひし時に得給ひし天劔は、後に天葺根命をして、天照大御神に奉られた。大御神は、其れを御覽じて、『これは、我が劔なり、吾が岩屋に屏りし時に、近江國伊布伎山に落しゝ劔なり』と、詔へりと傳へられてある。其の時、この大地の邪氣の結晶ともいふべき大蛇(實は伊布伎山に住める多々美比古命、亦の名・夷服岳神といふ荒ぶる神の化神)が、其の尾に竊しもち、出雲國まで出かけて、人をも取り喫うて居たのである。

 然るに世をへだてゝ、後に又た日本武尊が伊吹山の魔神の邪氣に打たれ給ひて、甚だしき苦痛をあそばされて上天し給へりといふことを考へてみると、今更らながら産靈紋理(むすびかため)のくしびさを痛感せざるを得ぬ。日本武尊が、其の天劔を、熱田なる宮簀姫命に授けて、伊吹山に向はれたことも、神ながらの筋書の進行であつたであらう。大地の邪氣の結晶たる八俣の大蛇は、須佐之男神によつて退治せられたけれど、其の靈は、尚ほ地上を遊行して、因縁の地たる伊吹山で、日本武尊を害し奉つたのである。蜂が人を害して自らも終る如く、此れを以て此の邪靈は能力を失つたのである。日本武尊が、五十猛神の化身とすれば、此處でも須佐之男神は、其の御子の苦しみを以て、地上萬民の苦しみをあがなひ給ひしわけであらうと思はれる」と。



 愚案、詔書・敕命の至重至嚴、正に「承詔必謹」の四文字を、更めて痛切に思はねばならぬ。是れ、掲ぐる目標、叫ぶ標語に非ずして、必ず己が骨髓に填み得て、初めて覺悟實踐が出來るのである。若し萬が一、之を謹まざること有り、或は之に快からぬこと有るは、即ち國體の明徴ならざる證にして、こゝにこそ、學問が必要となるのである。

 亦た友清磐山大人の説は、平田篤胤先生『玉だすき』五之卷を承くるものにして、「尾張の熱田宮を拜む詞」條の「此の王(倭建命)の身實は神にて、須佐之男神の御靈の分かりて生れ坐せる現身ならむ」等とあるを能く見て、研鑽を重ねたいものである。

 神代に於る國讓り・大御政の奉還の由來につき、地上(出雲)から觀た所の、愛でたき斷案を、舊稿の一部であるが、こゝに引きて、「畏命の臣從」の源流を示し、併せて後世の師表も顯し、諸賢の考ふる所、奮勵の資としたいと思ふ。



●千家尊福大人『出雲大神』(大正二年十二月・大社教本院刊)に曰く、

「天夷鳥命は、建御雷神と共に降り來て、出雲國五十田狭の小濱に到りける時、建御雷神、突然に(大國主)大神に問ふに、『此の國を大神に奉らむや否や』と申しければ、大神は聞き怪みて、『汝二神は、我が許に來坐せるに非じ。諾はじ』と答へたまへり。かく怪みたまひしは謂れあることにて、曩に穗日命に申し告げたまひし事もあれば、其の事にかゝる次第を語らざるに依れるなるべし。然らざれば勇武を以て任じませる建御雷神の、唯だ一言を聞きて、天上に還り上ることは非ずと窺はる。

 其は此の國作りには、須佐之男神より大任を受け、又た神皇産靈神の御言さへ蒙りて、幾百年の間、御心を碎き御力を盡したまひて、雨風を侵し艱苦を嘗めて、漸くに大造の績を建てませるに、此の大業に參與ませる御子神は百八十一柱坐し、部下にも亦た八十萬神あれば、故なく避け奉らむには擾亂なきことを保し難く、若し思ひ惑へる者出來むには、皇孫命の御爲に善からじと、遠く深く思ひはたせたまふ至誠の神慮ましませばなり。‥‥石見國人・高子常石の説に、

『世に傳ふる所にては、建御名方神は、天使に反抗せられし如くなれども、全く然らじ。是は、建御名方神の武勇は天下に知られて比類なきが故に、先づ自ら反抗の態度を示して、後ち終に建御雷神には及ばざることを國神に知らしめんと、殊更に謀りたまひしものにて、所謂誠忠の極、此の苦忠に出でたるなるべし。然らざれば反逆の神にして、朝廷の尊崇、此の如くあるべき由なきことをも思ふべし。古史に傳ふる所、往々半面の事實のみに止まれることあるを思ひさとりなば、此の神の苦忠の、世に知られざることも思ひ得べし』

と。此の神は、信濃國諏訪神社に鎭り坐して、今は國幣中社に齋きまつれり」と。



●畏命の臣從――大楠公
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現人神の御子。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月10日(土)18時20分39秒
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  ~承前~

■『古事記』日代宮の段――景行天皇御卷

 天皇、小碓命に詔りたまはく、「何とかも汝の兄は、朝・夕の大御食に參ゐ出來ざる。專ら汝、ねぎ教へ覺せ」とのりたまひき。如此く詔りたまひて以後、五日といふまでに、猶ほ參ゐ出たまはざりき。

 爾れ天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何ぞ汝の兄、久しく參ゐ出來ざる。若し未だ晦へず有りや」と、とひたまへば、「既にねぎつ」と、答へ白したまひき。又た「如何にかねぎつる」と、詔りたまへば、答白したまはく、「朝署に厠に入りたりし時、待捕へて、つかみ批ぎて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とぞ、まをしたまひける。




 岡山愛國者協議會の岡山月例會では、神典『古事記』の朗讀を、平成二十年四月五日から、必ず勵行してゐる。これは主宰・岡田則夫翁の志であつて、小生は、二十二年三月から參列させて戴いてゐる。先週、つひに「倭建命の段」に至つた。

 小生は、此の段、初めて拜讀した高校時代、倭建命の、敕命を畏み、直ちに大御心に深く添ひ奉りたまひし御行藏に、いたく感銘した。普通には、親切に教へ諭すの「ねぐ」と、暴力的な「ねぐ」との取り違ひとして解釋される所(今日でも「かはいがる」が、優しくすると、逆に痛めつけるの謂ひに使はれるが如し)であるが、やがて帝都に在つて、三島由紀夫氏の自決によつて中絶したてふ遺し文を讀み、強く膝を打つた次第であります。



●三島由紀夫氏『日本文學小史』(昭和四十七年十一月・講談社刊)に曰く、

「私は、倭建命の挿話のみをとりあげて、神人分離の象徴的な意味を探りたいと思ふ。實際、この挿話は、全篇のほぼ半ばに位し、神と人との中間に置かれて、その悲劇性は、下卷の「輕太子と衣通姫」の悲劇性と、遠く照應してゐるやうに思はれるのである。

 景行天皇の敍述のほとんどが、倭建命の事跡に占められてゐるのであるが、皇太子倭建命は、いつも天皇に准ずる敬語で扱はれ、『日本書紀』にも、「是の天下は、則ち汝が天下也。是の位は、即ち汝が位也」といふ、景行天皇のお言葉が見られる。そして就中見落してはならないのは、同じく景行天皇が、倭建命を斥して、「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」と言つてをられることである。『日本書紀』によれば、それは、倭建命が「身體長大、容姿端正、力能く鼎を扛ぐ。猛きこと雷電の如く、向ふ所に前(かたき)無く、攻むる所ろ必ず勝」つからであつた。しかし、そればかりではない。天皇は我が子に對して、何かこの世のものならぬものを感じてをられたのである。

 そして『古事記』の景行天皇の一章は、本來の神的天皇なる倭建命と、その父にして人間的天皇なる景行天皇との、あたかも一體不二なる關係と、同時にそこに生ずる憎惡愛が、象徴的に語られてゐるやうにも思はれる。命の悲劇は、自己の裡の神的なるものによつて惹き起されるのである。

 その神的なるものの最初の顯現は、兄宮の弑殺であつた。その純粹素朴な怒りが演じた殘虐行爲は、景行天皇に恐怖を與へた。これが、ただ、我が子の人竝み外れた腕力と、感情の率直さに、父が恐怖を覺えたといふのでは足りない。天皇は、おそらく我が子の裡にあるものを、御自身の裡に見られたのである。天皇における統治の抑制が、十六歳の王子の行爲に震撼され、自己の裡にたわめられた「神的なるもの」の、假借のない發現を、王子の行爲に認められたのである。景行天皇のなさつた行爲は、三野の國造の祖・大根王の女、名は兄比賣・弟比賣の、二人の乙女に戀着されたことだけであつた。御子・大碓命に命じて召し上げようとされたのを、大碓命は、この二人の乙女をわがものにしてしまひ、他の乙女を求めて奉つて、父帝をたばかつた。天皇のなさつたことは、いつはりを知りながら默して、ただその乙女を冷然と扱はれただけであつた。大碓命が罰せられたといふ記述はない。

 天皇は、弟宮にして皇太子なる小碓命(倭建命)に、「朝夕の大御食に、兄宮が出て來ないのは何故か。お前からよく言つておけ」と、家長の抑制を以て穩やかに言はれた。しかるにただちに、倭建命は、用便中の兄を襲うて、その四肢を引き裂いて殺したのだつた。この行爲に接したとき、天皇が、あれほどの穩便な命令を倭建命が逸脱したといふよりも、むしろ、命が父帝の御顔色を察して、その行爲によつて、逆に父帝の内にひそんでゐた神的な殺意を具體化し、あますところなく大御心を具現した、といふことに、慄然とされたにちがひない。命は、神的な怒りをそのまま、電霆の行爲に現はしてしまつたのであつた。しかもその心情、その行動に、一點の曇りもなく、力あるものが力の赴くままに振舞つて、純一無垢、あまりにも適切な大御心に添うたことが、天皇をいたく怖れさせたのである。「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」といふ發見は、これを意味したと私は考へる。

 これがおそらく政治における神的なデモーニツシユなものと、統治機能との、最初の分離であり、前者を詩あるいは文化の役割を擔はせようとする統治の意志のあらはれであり、又、前者の立場からいへば、強ひられた文化意志の最初のあらはれである、と考へられる。‥‥統治機能から、もはやはみ出すにいたつた神的な力が、放逐され、流浪せねばならなかつたところに、しかも自らの裡の正統性(神的天皇)によつて無意識に動かされつづけてゐるところに、命の行爲のひとつひとつが運命の實現となる意味があり、そのこと全體が、文化意志として發現せざるをえなくなつたのだ。神人分離とは、ルネツサンスの逆であり、ルネツサンスにおけるが如く、文化が人間を代表して古い神を打破したのではない。むしろ、文化は、放逐された神の側に屬し、しかもそれは批判者となるのではなく、悲しみと抒情の形をとつて放浪し、そのやうな形でのみ、正統性を代表したのである。命は神的天皇であり、純粹天皇であつた。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であつた。詩と暴力は、つねに前者に源し、前者に屬してゐた。從つて當然、貶黜の憂目を負ひ、戰野に死し、その魂は白鳥となつて昇天するのだつた。

 景行天皇は、その皇太子の、このやうなおそるべき「神人」的性格を見拔いたとき、命には「傳説化」・「神話化」の運命を課するほかはないと思はれたにちがひない。それは又、文化意志を託することでもあつた。すなはち詩と政治とが祭儀の一刻において完全無缺に融合するやうな、古代國家の祭政一致の至福が破られたとき、詩の分離のみが、そして分離された詩のみが、神々の力を代表する日の來ることを、賢明にも豫見されたにちがひない。自分の猛々しい王子は、史上初の、そのやうな役割を擔ふべきである。それはそれ自體が悲境であり、生身の人生を詩と化することであり、孤獨であり、流浪であり、敗北でさへあるが、そこにこそ神々にとつての最後の光輝が仰ぎ見られ、後世、自分および自分まおだやかな子孫が統治をつづけるべき國において、それだけが光榮の根源として無限に囘歸せらるべきもの、それを正に倭建命において實現させたい、と思はれたに相違ない。それはもはや景行天皇御自身によつては實現されえないものであることを、天皇は知つてをられ、「それを實現せよ」と意志されることは、天皇の御命令だつたのである。文化意志は、かくて隱密な敕命によつて發したのだつた。一方からいへば、敕命こそが、このやうな史上最初の文化意志の發生を扶けたのである」と。



 愚案、日本武尊は、「嘗し西に征ちし年、皇靈之威に頼り、三尺劔を提げて、熊襲國を撃ちしに、未だいくばくも經ざるに、賊首、罪に伏しぬ。今ま亦た神祇之靈に頼り、天皇之威を借りて、往きて其の境に臨み、示すに徳教を以てせむに、猶ほ服はざること有らば、即ち兵を擧げて撃たむ」と奏上、「吾は、是れ現人神(景行天皇)の子」と言擧げされたが、「幼くして雄略の氣有り。壯に及びて、容貌魁偉、身長一丈、力、能く鼎を扛げたまふ」(『日本書紀』卷第七。『漢武帝内傳』に、天仙は「皆な長け一丈餘」とあるが、因みに支那漢代の一丈は2.31m、皇國明治以降の一丈は3.03m)。神宮神御裳祭に於いて、祭神に衣裝を奉納しますが、其の大きさは、一丈位の身長の御方が身につけて、丁度良い大きさとなる由であります。
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●薫園物集高見翁『人界の奇異と神界の幽事』(大正十四年十月・嵩山房刊)に曰く、

「總て上代の人は、人身、極めて長大にして、日本武尊も御身長一丈と申し、また御叔母・倭姫命の小袖を借着し給ひきといへば、叔母君の御長も同じ程なるを知るべし。また日本武尊の第二の皇子・仲哀天皇も、御身長一丈と申しゝなり」と。



 愚案、固より祝詞・古事記・日本書紀を、「神異史實」として仰ぐ小生にあつては、日本武尊の白鳥昇天や武内宿禰大臣の白晝昇天は、古人の目の當たりに見た事實として、之を信ずるものであることは、申すまでも無い。高皇産靈大神の神敕によりて、顯幽は分治せられ(顯幽兩界分居)、大山祇神の言靈によりて、皇孫尊の寶算に影響し、石長姫神の言靈によりて、青人草の壽命は短くなり、豐玉姫神の言靈によりて、海陸の交通杜絶(海陸兩界分居)したのは、勿論、悠久神代の御事に屬し、而して神武天皇以降、應神天皇以前(『古事記』中卷の御宇)は、神仙の帷に未だ深くつゝまれて、神と人と、やゝ分離せざる時代であつたやうである。然りと雖も現代、人皇の御代、現人神を仰ぎ奉る中今に於ても、神驗著在、靜かに沙庭(審神)を嚴肅にして、神眞の恩頼、皇神の大御經綸を想ふべきである。神さびたりとも、神さびたり。あなゝゝ、畏こき極みなりけり。
 
 

歴史の極意とは‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月 4日(日)17時39分17秒
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  ~承前~

 件の小林秀雄翁の言の出典は、昨日、岡田則夫翁の岡山例會にて戴いた。小林翁畢生の大作てふ『本居宣長』を前に、鈴屋翁『遺言状』から説き起こす所論に歡んだが、讀み進めるうちに、やうやく興味を失した想出があり、小生は、小林秀雄翁のよき讀者では無いものゝ、歴史を説く姿勢に異論は無い。紹介させて戴き、有志參考の資としたい。



●占部賢志氏『甦る歴史のいのち(一一○)小林秀雄ノート(十一)――承前・「質疑應答」といふ思想劇』(『祖國と青年』平成二十三年十一月號)に曰く、「

 何時の時代も、歴史ブームが再來する時、皮相な人間観が流行つては、早晩廢れて行く。諸君、そんなものは歴史ではない、氣をつけ給へと、小林は注意を喚起した事がある。これも合宿教室における質疑應答での一齣だつた。この時の質問者は、實は筆者(占部氏)で、無知な若造が問ふたのは、歴史の學び方であつたが、小林は當時の歴史ブームに、ずばり釘を刺した。まづロマンテイツクな歴史、すなはち大衆小説に見られる歴史觀は駄目なのだと、容赦なかつた。

太閤秀吉は、テレビに出て來たやうな、あんな男ではありませんよ。あの人は、現代の俳優などが演じられるやうな男ではありません。だから、テレビにのるやうな歴史は信じてはいけません。

 おそらくこれは、NHK大河ドラマとして、昭和四十四年に放映された「太閤記」を指してゐると思はれる。當時としては高い視聽率を誇つた作品だが、當節の俳優などが演じられる人物ではないと、小林は言ふのである。

 秀吉像は、とかく庶民派としてもてはやされたり、一種のサクセスストーリーとして扱はれる事か多い。かつて田中角榮が首相に就任した時、新聞に「今太閤」の見出しが躍つたやうに、世俗に迎合した人間像が演出される。一方で、朝鮮出兵などといふ非道な侵略行爲を思ひつくなど、愚かしい男だといふ見方も根強い。事程左樣に、持ち上げたかと思へば、罵倒するといつた風で、未曾有の戰國時代を生きた傑物の歴史的意義を仔細に檢討しようとする態度は、大衆小説やテレビドラマには微塵も見られない。あれは歴史を描いてゐるのではなく、娯樂ドラマに過ぎない。さう、小林は戒めたのである。

 小林にとつて、秀吉は、實に不思議な存在として映つてゐた。近世以降の日本を考へる場合、その轉換期は、應仁の亂である。あの時、日本の身代は、すつかり入れ替はつてしまふ(愚案、内藤湖南博士の論は、夙に有名である)。その荒野の中から、新たな日本を創り出す傑物が出現する。それが、秀吉の擔つた歴史的役割である。

 因みに秀吉の如く先例のない人物が、學問の領域に現れたのが中江藤樹である。藤樹の言葉、「天地の間に、己れ一人、生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば、外人(愚案、他人の謂)に頼る心なし」との覺悟は、寄る邊なき荒涼たる世界から身を起した者のみが釀し出す凄みが感じられる。徒手空拳で道を拓いた豪傑、この二人の出現は、小林を強く捉へた。『本居宣長』のなかで、横道に逸れながら、彼らが生きねばならなかつた時代を、『武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなつてゐた』と、簡潔明瞭に敍して、『日本の歴史は、戰國の試煉を受けて、文明の體質の根柢からの改造を行つた』のだと觀る。さうした亂世に一應のけりをつけたのが、秀吉だつた。このやうな秀吉を、單純でロマンテイツクな物語を好むテレビドラマが描けるわけもない。歴史ドラマを裝ひながら、實は茶の間に合はせた現代の物語であつて、それを歴史と混同してはならぬとの教へは、今も筆者の物學びの指針だ。

 文祿・慶長の役にしても、單純な朝鮮侵略を目論んだものではない。結果として甚大な被害をもたらしたが、そもそもは中國への侵攻を企てるスペインの戰略を知つた秀吉が、東北アジアの防衞策として、先に中國を豫防占領すべく、朝鮮半島を途上しようとして起きた騒擾が發端である。この事實は、高瀬弘一郎氏の勞作『キリシタン時代の研究』(岩波書店)に翻刻された、當時のキリシタンによる軍事占領計畫文書に明らかである。キリシタンによる明の征服計畫は、信長時代に知られてゐたらしく、これが實現すれば、ひいては日本にも牙は向けられる。そこで信長のあとを引き繼いだ秀吉は、キリシタンの動向に細心の注意を拂ふ。いはゆるバテレン追放令を出したのも、彼らの意圖をいち早く見拔いたからである。秀吉がスペインの據點マニラに、降服勸告の使者を派遣したのも、列強による侵略を排除するための布石だつた。これだけの遠大な防衞策を構想し得た人物を、テレビ番組に仕立てることなど、出來はしない。スケールが違ひ過ぎる。

 かくて小林の教示は、歴史ドラマや歴史小説から、筆者を遠ざけた。同世代に比らべて、司馬遼太郎などの小説家の作品を讀む經驗が乏しい理由は、そんなところにある。

 さらに小林は、現代流行の考古學的な歴史觀にも、痛烈な矢を放つ。『神武天皇なんて嘘だ、といふやうな歴史。嘘だといふのは、今の人の歴史に過ぎません。歴史は、みな信じられたものです。信じられた通りに信ずることができなければ、歴史は讀まない方がいいのです』と。長い文業の果てに、小林が辿り着いた対象、本居宣長は、古事記に傳承された神話を讀んで、みなあの通りだと信じたといふ。それが神話時代の歴史なのだから、信じられないとしたら、神話など讀む必要はないと斷言した口調は、印象に殘つてゐる。こんな言ひ方だ。

國生みといふ事が信じられてゐたといふ、その事が歴史ですけれども、そんな馬鹿なことはない、實はかうであつたといふ、新井白石流のやり方。新井白石が、この頃評判がいいのは、現代の歴史家は、みなあれをやつてゐるからなのです。本當はかうであつたといふ歴史。これは考古學であつて、本當の歴史にはふれない。だから、歴史を己れの鏡にするといふことは、非常にむづかしいことです。昔の人が信じた通りに、自分もそれを經驗することができなければ、歴史など讀まない方がいいのです。

 此處に見るやうに、考古學と歴史とを峻別するのが、小林の歴史觀である。やたらにあちらこちら掘り起こして、間違ひなく此處に藤原の都があつたのだと、實證出來れば安堵する。さうした仕事は考古學であつて、歴史とは一線を劃する。歴史は『自分も、それを經驗すること』であつて、知的な實證が出來れば、それで濟むものではない。‥‥

 歴史は形骸を認識するだけでは、畫龍點睛を缺く。かつて其處に存在したといふ事實を知つて、それで君は滿足か。君の心に、千年前の人々が、生命が誕生するやうに甦つて來なければ、いつたい歴史を讀む意味があるのか。小林は念を押すやうに語りながら、イタリアの歴史哲學者ベネツト・クローチエも引いて、かう結んだ(愚案、クローチエを日本に紹介したのは、實は平泉澄博士であつた。其の譯を書いた新進の羽仁五郎氏の紹介文も書いてをられる)。

さういふ點で徹底してゐるのは、クローチエです。歴史といふのは、みな現代史なのだと、クローチエは言つてゐるのです。現代の人が、ある史料を持つて過去に生きることができるのなら、歴史家と言へるのです。けれども貝殻を生きることはできないぢやないか。だから、考古學的歴史といふものは、みな空虚なものです。みな空虚とは言へないまでも、まあ、一種の學問なのです。

 けれども昔から、僕らは歴史を鏡と言つたのです。鏡の中に、自分自身が映るのです。讀んで自己が發見できないやうな歴史は駄目なのです。歴史は、どんな歴史も、みな現代史であるといふことは、現代のわれわれが、歴史をもう一ぺん生きてみることができるといふ、さういふ經驗をさしていふのです。‥‥君の顔が見えなければ駄目なのだ。君の顔が見えれば、歴史は君のためなにるぢやないか。日本の歴史は、諸君のためになるぢやないか。

 けれども『古事記』の言つてゐることは、どこまで本當で、どこまでが嘘だなどといふことを研究しても、それは一種の學問ではあるけれども、僕の言ふ歴史ではないのです。歴史といふ言葉が一番はやつてゐるくせに、今一番忘れられてゐるのは、鏡としての歴史です。『増鏡』とか『今鏡』とか、昔は歴史のことを鏡と言つたのです。昔の人がどういふ精神で歴史を書いてゐたか、さういふ人の心持を、今の人が忘れてしまつたことがいけないことなのです。


 自己が發見出來ないやうな歴史は駄目なのだと、小林は繰り返し教へた。すなはち「鏡」としての歴史だ。遺跡を發掘して裏付けをとる。それはそれで必要なことだ。しかし、私の言ふ「歴史」ではない。それは一種の「學問」の世界の話だ。僕は貝殻を發見する道など、興味ないな。貝殻を生きることは出來ないから‥‥。今もそんな呟きが聞こえて來るやうな氣がする。筆者は、ここで思ひ出す。岡潔を相手に、小林が特攻隊について語つた言葉である。

特攻隊といふと、批評家はたいへん觀念的に批評しますね、惡い政治の犠牲者といふ公式を使つて。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になつてみるといふ想像力は、省略するのです。その人の身になつてみるといふのが、實は批評の極意なのですがね。』(『人間の建設』)

 特攻隊を出撃せざるを得なかつた背景と事情を仔細に分析して、實態を解明する。しかも、あらかじめ「惡い政治の犠牲者といふ公式」を用意して。それは批評ではないと、小林はきつぱりと言ふ。この「批評」を「歴史」と置き換へても差し支へあるまい。すると、歴史に肉迫する極意も、「その人の身になつてみる」といふ事にならう。小林が歩いたのは、かういふ道だ。たしかに、その人の身になつてみるためには、想像力が要る。しかし、その想像力だけで十分なのかと、不安を覺えた學生の一人が質問に及んだ時、小林は言つた。

十分です。ただ想像力といふ言葉を、よく考へてください。想像力といふのは、空想力ぢやないんです。空想力といふのは、でたらめなことを空想する、だけど想像力といふものの中には、理性がある。そこには、感情も理性も直覺も、みな働いてゐる。さういふ充實した心の働きを、想像力といふのです。

 學生は、もう一度確認した――「自分の想像力を信じてよろしいのでせうか」。小林は、和やかな表情を浮かべて應じた、『ああ、いいですとも』と」と。



 愚案、此の文には、豐太閤の歴史的意義も見える。豐太閤こそは、近代に於ける大西郷や日本主義者・興亞主義者の源流だと、小生は、常日頃から密かに思うてゐる。鈴屋翁『馭戎慨言』は、もつと讀まれるべき書である。然し、それのみでは無い。豐國大明神は、「はゆまつかひ」樣も漏傳くださつてをるやうに、實は高位の神仙のお一人であつたのだ。神僊なればこそ、其の眞姿を知る者は鮮い。
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 況んや一視同仁、不偏無私に坐し、何より現御神に坐します、天皇の演劇・映像化など、之を許すことは出來ぬ。我が塾頭・泉水隆一監督作品『凛として愛』には、天皇陛下を拜し奉るに、御肖像畫を以て表現し奉つてゐるのみ。幡掛正浩翁も云ふ、

「『明治天皇と日露大戰爭』といふ映畫は、貴君も知つてるだらう。僕も觀客席のくらがりで、ひそかに感動の涙をぬぐつた一人であることを告白するが、一方で、僕の心のすみでは、臣下である俳優が、お上に紛して、お上を演ずるといふことに、どうしても許しがたい本能的な拒絶感があつた。これは、單に僕がもうふるい型の人間だからといふだけでなく、もつと深いところで、喪つてはならぬ大事なつつしみの臣道感覺とでも言つたものと思ふが、それには、それの根本的な理由がある。

 そもそも大御心といふものは、上御一人だけのものであり、これはもう、陛下といふ上御一人をもつてよりほかに體現されようのないといふ、きはめて簡單な『御位の事實』について考へてほしい。陛下が御位を嗣がせられる際に、大嘗祭といふ、神祕神聖な祭儀が行はれるが、端的に言つて、この祭儀は、新しい帝が、皇祖天照大神の御魂を、御自らの中に鎭めたまふ祕儀として傳へられてをる。だとすると、そのたつた一つの御位から發するはたらき――大御心といふものは、頗る宗教的なもので、とても餘人をもつて『演ずる』などのこと、かないつこない、嚴肅な神業なのだ」(『神國の道理』昭和五十二年三月・日本教文社刊)と。
 
 

甚だしい違和感を共有できるか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月27日(日)22時43分13秒
返信・引用 編集済
   本日は、「日本心の集ひ」に參加。講師の岡田則夫翁より、資料を戴いた。是非とも紹介し、其の違和感を共有して、警世反省の資としたい。



●西川泰彦翁『甚だしい違和感』(『葦附だより』平成十四年五月號)に曰く、「

――御歴代を比較し、又、天皇陛下と臣下とを比較するとは――

 小誌の「大正天皇御製詩拜讀」を讀んだ友人が參考資料として、有名なA先生が某月刊誌に執筆した、大正天皇に關する一文を紹介して呉れた。内容は敬愛の念を以て書かれた、好感の持てる文章であつた。たゞその文中、私としては甚だしい違和感を覺えざるを得ない箇所があつた。それは先づ次なる筆者が引用した對談の部分であるが、肯定的に引用してあり、筆者も同樣な考へであると見て差し支へなからう。その對談の中で、T氏曰く、

『大正天皇は、書が素晴らしい。歴代の帝王の書の中でも、最もいいもののひとつではないでせうか云々。』

とあるが、T氏は、百二十五代にも亙る御歴代の書を、一體、何割程度拜見したのであらうか。抑々御歴代の宸筆のうち、果してどの程度が現存し、しかもそれら全てが拜見可能なのであらうか。そしてたとへ御歴代の宸筆全てを拜見し得たとしても、それらを比較し優劣を論ずるなど、いかゞなものか。對談の内容からすると、T氏は皇室に好意を持つ人であらうことは疑ひない。しかし先に引用した文の「云々」の中には、「不思議な魅力のある人ですね」ともある。何も「現人神・あらひとがみ」と申し上げよと迄は言はぬが、少なくとも私には、天皇陛下を「人」などと表現する感覺は無い。あまりにも輕率と言ふべきにあらずや。

 次の別の部分には、これは傳聞であるやうだが、

『ある人が、大正天皇の宸筆が、西郷隆盛ほか明治維新の英傑らの名筆能書と一緒に展示されてゐるのを拜觀し、諸士の中で最も雄大の感を湛へた西郷の達筆さへも、大正天皇の書の前には微小に思はれたと感想を述べてゐる云々。』

とある。天皇陛下と臣下とを比較するといふ神經は、私の理解の範圍を超えてゐる。大正天皇の宸筆が「規模宏大にして、一點の澱みも穢れもないさまは、息をのむばかり」(A先生の言)であれば、さう言へば、事足りる。臣下の書と比較する必要など、更々ない。宸筆に湛へ給ふ神韻を畏み奉る言葉と共に、別次元に在る忠臣・元勳の書も正當に稱贊する、それで良いのではないか。

 尤もA先生やT氏を責めるのは酷なのかもしれない。試みに『讀史備要』を繙くと、その「名稱一覽」の部の「二聖」(二人の書聖の意)といふ所には、「嵯峨天皇・僧空海」と列擧されてゐる。又「三筆」の方には、「嵯峨天皇・橘逸勢・僧空海」とある。『讀史備要』は、東京帝國大學史料編纂所が、その必要に迫られて作成したもので、第一類「歴朝一覽・大名一覽」等。第二類「皇室御系譜・諸氏系圖」等。第三類「公卿索引・寛政重修諸家譜索引」等が、その内容であり、昭和八年初版である。東京帝國大學史料編纂所の權威をそれなりに認めるのは吝かではないが、少なくとも、上御一人と臣下とを同次元に扱ふなどは、不見識の謗りを免れぬ。心すべきことにこそ。

 御歴代を比較し、又、天皇陛下と臣下とを比較したり、同次元に扱つたりするなどの事には、たとへ惡意は無いとは言へ、私にはたゞたゞ甚だしい違和感を覺えるのみである」と。



 愚案、討議の場では、色々意見交換があつた。
曰く、「不思議な魅力のある人」の「人」」が、「御方」だつたら、如何だつたであらう。違和感はあつたか。讀み過ごしたかも。
曰く、「不思議な魅力」とは、抑々如何なる意か。
曰く、「魅力」とは、餘りに俗過ぎる辭では無いか。
曰く、「三筆」への違和感は、正直、迂闊であつた。
曰く、うつかりと讀み過ごして、甚だしい違和感を共有できなかつた、此の己を恥づ。
曰く、映畫・NHK大河ドラマ等で、天皇を演ずる者あり。無私の天皇は、本來、演ずる能はざるもの、段々國家を擧げて不敬となつた。
曰く、かつて太閤記あり。小林秀雄氏、之を喝破して云ふ、豐太閤は、非常に大きなる人物、一俳優の、到底、之を演ずる能はざるもの、所詮虚構にして、本道の歴史に非ず、興味は無い、と。或は云ふ、考古學や考證學はあつてもよいが、考古學はあくまで考古學であつて、歴史では無い。古事記をそのまゝ信ずる、是れ歴史なるべし、と。

 大東塾の都羅山人三宅萬造翁の道統につながる岡田則夫翁が、獨人で主宰される「岡山縣愛國者協議會」の岡山例會は固より、倉敷にて開催される「日本心の集ひ」例會も、共に、切磋琢磨の道場てあり、反省討議の研修場であり、各々「日本心(やまとごころ)」を築き堅めむと、必死懸命である。地方に在つても、戀闕の心は熱く、絶えることは無い。



**********



■東湖藤田先生『桑原毅卿の京師に之(ゆ)くを送る序』に曰く、「

 宇宙の大、萬國の星布、其れ多し。而れども國體の重き、未だ神州に若くものは有らざる也。神州の廣き、國郡縣邑、勝げて數ふ可からず。而れども至尊至嚴、未だ京師に若くものは有らざる也。京師は天皇の都したまふ所、神器の在します所、億兆の仰ぎまつる所、蠻夷戎狄の望みて服しまつる所なり。京師の宇宙に在るは、譬へば猶ほ北辰の天に在るがごとき也。昔、大道の行はるゝや、徳化、内に洽く、稜威、外に宣ぶ。聖皇明弼、相ひ踵いで起り、既に上古神聖之跡に遵ひ、以て天常民彜を植ゑ、更に西土周孔之教を資り、以て我が固有之道を培ふ。上下之分、内外之辨、嚴乎として其れ越ゆ可からざる也」と。


●神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥

あきつかみ わが大君の おはします みさとの土は 踏むもかしこし

日の本の やまとの國の 主にます わが大君の みやこはこゝか



 愚案、大阪市長選擧は、所謂「大阪都」構想を掲げる某が壓勝したと聞く。主權在民とやらの世、どうでも勝手にやればよいが、「大阪都」と申すは、斷々乎として之を許すこと能はぬ矣。「都」とは、天皇の坐します所を謂ふ(「神都」とは、伊勢を申し上げる)。東京都は戰時中より云ふと聞くが、制度はどうあれ、假令へ獨立すると雖も、呼稱は、斷然「大阪府」と爲すべきである。

 かつて江戸を「江都」と云ふは、腐儒の、幕府(天子樣より殺生與奪の權を賜ひし征夷將軍の府)に媚びて大不敬を犯す所、同じ過誤は繰返してはならぬ。再言す、皇都は宇内に一のみ而已矣。呼稱「大阪都」は、須らく遠慮すべきもの、「二都一道一府四十三縣」となる僭上は、必ず避くべし。夫れ名分は、之を正さねばならぬ矣。
 
 

遂に出現、『凛として愛』臺本の原本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月25日(金)23時05分9秒
返信・引用 編集済
   「花時計」にて、小生も拜記させて戴き、スレツドを建てた所の『凛として愛』臺本の原本が掲示されました。泉水隆一監督の「語り」としての別號は、「花椿一心」なるを認むなり。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/dvd.php
の左の「台本」をクリツク

【花うさぎ樣】http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/entry/2520417/

 藤真知子代表が聞かれた、泉水隆一監督の言葉に曰く、「『凛として愛』のナレーションを考えているときに、自分ではないような感覚があった。自分では思ってもいない言葉が、次から次へと出てきた。ナレーションには、英霊の気持ちが反映されている」と。

 此の臺本(誤植も些か之れ有り)と實際のナレーシヨンとに、相異まゝあり。此の臺本を元としたナレーシヨンなるか、或はナレーシヨンの清書が此の臺本なるか‥‥。有志の御方は、其の相異を明かにして、之を樂しむ、亦た可からずや。是れ「凛愛學」の、其の一なるべし矣。

 又た『凛として愛』は、所謂る保守派の掣肘に遭うて、表現を抑ふる所あり。然らば夫れは、何處なるやを究明する、其の二なるべし矣。

 而して一兵士、或は九段塾塾頭として、『凛として愛』を超える識見を打出すに至つた、其の晩年定論を闡明にする、其の三なるべし矣。例へば『凛愛』に使用されてゐた辭、曰く、散華、曰く、日本軍、等々、之を否定するに至る。其の志操の深化を尋ね、其の由て來る源を知らねばならぬ。

 更に塾頭の悲願を天下に訴へて、靖國神社正統護持の實を擧ぐ、其の四なるべし矣。

 任重くして、道遠しと謂ふべきも、自ら任じて立つ有志の士を待つこと少しとせず、共に切磋琢磨、力むべきか、鋭意、之れ努むべきなり矣。
 
 

吉報。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月24日(木)18時20分52秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下には、本日午後、ご退院の御由、愁眉を開きました次第、御同慶至極、寒天を仰ぎつゝ、大内山の御平安を、只管ら御祈り申し上げます。



 或る地方に御住ひの、泉水隆一監督をよく知るてふ御方より、某掲示板での「靖国神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか」を拜見したと、御便りがございました。塾頭の眞面目を云ひ當てゝをられると感佩して、紹介させて戴きます。曰く、

監督は、いつも膨大なおしやべりをする方でした。然し一方的にまくしたてるのではなく、常に相手に相槌なり、反論なりを求めてをられたやうに思ひます。熱意をもつて、全靈をかたむけて話してゐるのに、相手の反應が無いと、監督は寂しさうにもされてゐました。相手を論破するのが好きと云ふのでは無く、異なる意見には、その異見の存する所以を確認したいと云ふやうな探究心‥‥、それによつて自論の正論たる所以を確固としたものにする、と云ふやうな言動であつたと思ひます。

 御承知のやうに、監督はやさしい人でしたから、他者をいつも受け入れて、それでゐて、相手を感化するの不斷の努力を傾注する人でした。また相手の言葉に觸發されて、己の志操を更に展開する、と云ふこともよくありました
」と。



実存主義者樣

 然し此の監督、即ち我が塾頭を以てしても、何うにもならなかつた連中も、此の世の中には存するやうですね。どうも世代間における意見の相違のみでは片づけられないやうです。先般ご紹介させて戴いた、郡順史翁の文章『今あらためて「後に續くを信ず」』に、其の一端が示されてをりませう。あれほど諄々と、懇切丁寧に、「靖國神社の正統」を語られても、馬耳東風、糠に釘、擧句の果てには、嫌味嘲笑、罵詈雜言‥‥、我が塾頭も、遂には見放されましたこと、遺憾千萬でありましたが、畢竟、其の「眞の目的」が違ふのでせう、或は相手にするだけ光陰の無駄か、とも。

 「意見の衝突」ぐらゐで、「たってのお願い」なぞと申される御遠慮は、全くございません。上梓の節には、喜んで送らせて戴きます。最終原稿を、本日、洛風書房に御渡し致しました。暫く御待ち下さい。それと「遺響篇」は、実存さんも御存知の、河原博史兄ご盡力の賜、共に歡んで下さい。

 でもね、実存さん。「よろしくお願い」されても、住所・宛名が判らねば、御送りしようにも‥‥、小生、困つた、々ゝゝ‥‥。此の掲示板の最下段に、「管理者へメール」がありませう。此のボタンを押して、御知らせ下さい。
 
 

たってのお願い

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年11月24日(木)15時25分4秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

ご無沙汰しております。

水戸学の系譜を巡っては(徂徠学の影響があるかないかで)備中さんとは少々意見衝突しましたが、桜掲示板以来塾頭に対しましては私はずっとシンパの立場を崩してきませんでした。

私も「靖国神社の真実」を一部所望したいと存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。
 

京都で「凛として愛」上映会

 投稿者:藤 真知子メール  投稿日:2011年11月21日(月)21時00分6秒
返信・引用
  お知らせさせて頂きます。

~京都で「凛として愛」の上映会が行われます~
「凛として愛」という映画を知っていますか?
明治開国以来、日本人は戦い続けてきた。武器を取り一丸となって戦うことで、
独立した国家としての日本と日本人を守ってきた――その歴史を70分にまとめた渾
身の名作が「凛として愛」(平成14年)です。靖国神社創立百三十年記念事業の
一環として2年の歳月をかけて制作されたこの映画は保守陣営の圧力等により、
たった2日半で上映中止に追い込まれてしまいました。

「この映画を見た人が、大和民族の魂に触れて、勇気を持って映画館から出て
行って貰いたい」と語った故泉水監督の思いに応えて、1人でも多くの方にご来
場いただければ嬉しいです。皆様お誘いあわせのうえご参加くださいますようお
願いいたします。


【開催日】
平成23年11月23日(水・祝)

【時間】
午前 9時30分開場
午前10時00分上映開始

【場所】
京都市子育て支援総合センターこどもみらい館4階第2研修室A

【費用】
会場協力金として、お一人様 500円をお願いいたします。
尚、高校生以下は無料とさせて頂きます。

【主催】
誇りある日本を取り戻す会
http://nippon55.exblog.jp/

【アクセス】
地下鉄 丸太町駅(5番出口) 徒歩3分
市バス 烏丸丸太町下車 徒歩3分

※地下に駐車場がございます。30分200円
※定員は24名です。消防法の規定上、24名を越えた場合は入場をお断りさせてい
ただきますので予めご了承ください。

http://www.hanadokei2010.com/

 

『九段塾塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』自費出版豫告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月21日(月)19時24分50秒
返信・引用 編集済
   『靖國神社の真実』の自費出版にあたり、河原博史兄より、「有志の寄書きを附載したら」とのご提案、小生、之を喜んでをつた所、兄には、其の縁故を紹介して、忽ち二十氏を超え(二十四氏)、小生の懇請する所も併せ、そのうち二十篇を得ました。即ちこゝに「遺響篇」として、塾頭遺文に添へることが叶ひましたこと、洵にご同慶の至りであります。

 玉稿を賜はりました各位には、謹みて御禮を申し上げます。各位の論文を拜し、更めて本書・塾頭遺文が、其の晩年定論であつて、現代必讀の書であることを、痛切に再認識するに至りました。是れ一に、我が畏友・河原博史兄の盡力に因るもの、其の塾頭に對する想ひと其の友情に鳴謝しつゝ、塾頭の靈前に捧げ奉り、懇ろに報告いたした次第であります。



***************

■□■靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版

『「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』
■□■

一頁は、三十二字×二十五行×二段の縱書きにして、凡そ四百三頁なり。
四六版(152ミリ×220ミリ)・淡クリーム菊判
塾頭原稿の文字、實に五十萬餘字なりき。
出版社は、京都なる「洛風書房」、即ち是れ也。裝丁等は、其の代表・魚谷哲央翁に一任せり。
發行日は、平成二十三年十二月八日と決すも、實際は越年するかも得て知る可からず、豫めご承知おき下さい。
なほ此の自費出版における内容責任は、全て、編輯者たる不肖「備中處士」に在ります。


【目  次】
一、年 譜 篇・九段塾塾頭・福井金城翁事歴抄 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥   五
二、本 篇 一・一兵士翁、掲示板に登壇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  二一
三、本 篇 二・靖國神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか ‥‥‥  六一
四、遺 響 篇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 三六三
五、参考文献・跋 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 四○一


 就中、【四、遺響篇】の内容――本文・敬稱省略/五十音順

一、真の歴史観を伝へた「凛として愛」
   全日本愛国者団体会議最高顧問 靖國會特別顧問 国民協議会名誉顧問  阿形 充規
一、日本を失ってはならない
   女性塾幹事長  伊藤 玲子(元・鎌倉市議)
一、映画「凛として愛」を観て
   日本ネイビークラブ理事長  大橋 武郎(元・空将補)
一、保守による大衆運動を
   大東亜青年塾々生   岡本 美麗
一、日本人は今こそ「萬邦萬人 天皇歸一」の大理想を成就せよ
   神奈川縣維新協議會政策實行局長  海法 文彦
一、翁見えずとも、其の言や今猶ほ生命躍動す
   同血社會長  河原 博史
一、泉水隆一氏の遺文集に寄せて
   大行社本部青年隊長  木川 智
一、天○の神社
   九段塾參加者  見目 和昭
一、泉水監督の作品に想を馳せ
   青年意志同盟青水塾々長  坂田 昌己
一、現代を生きる私達があの戦争の真実を伝える援軍になりたい
   ジャーナリスト  佐波 優子
一、映画「凛として愛」に思う
   ミュージシャン  實吉 幸郎(實吉安純海軍軍醫中将の令曾孫)
一、泉水隆一監督の遺稿輯發刊にあたり
   原道社代表  鈴木田 舜護
一、靖國神社を語る重さ
   靖国神社清掃奉仕有志の会代表 維新政党・新風代表  鈴木 信行
一、英霊が残したあるべき未来――「凛として愛」泉水隆一監督に捧ぐ
   株式会社カルチャージ代表取締役  東條 英利(東條英機首相の直系令曾孫)
一、英霊の為に生き 英霊の為に逝く
   時局對策協議會議長・防共新聞社主幹  福田 邦宏
一、映画「凛として愛」普及に協力したい
   大東塾  福永 武(不二歌道會代表)
一、泉水隆一監督の思い出
   愛国女性のつどい花時計代表  藤 真知子
一、「凛として愛」に思う
   大東亜青年塾東京本部青年部長  森川 俊秀
一、映画「凛として愛」を鑑賞して
   公益財団法人水交会――慰霊顕彰・援護委員会委員長  山口 宗敏(山口多聞海軍中将の令息)
一、大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり
   大東亜聖戦大碑護持会顧問  山本 邦法(山崎幸一郎日本民族覺醒の會々長の令従甥)

***************



 また「九段塾」ご參加ご閲覽各位にて、『靖国神社の真実』ご希望の御方は、

芳名・送付先・册數を、遠慮なく、本篇掲示板の最下段なる「管理者へメール」

にて、ご一報たまはれば、無代にて御送付申し上げます(但し郵送代は、着拂ひとさせて戴く場合もございます)。上梓・印刷數の都合もありますので、至急、宜しく御願ひ申し上げます。

 靖國神社月次祭の日に、

     眞金吹く吉備中つ國なる玄月書屋に於いて、備中處士、謹みて白す。



*** 靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書 ***


【第一輯】――今囘の自費出版『靖国神社の真実』の元原稿――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/


◎ 以下は、小生の夢にして、容易に期す能はざるもの、些か開陳して、我が心を慰めむと欲するも、亦た可からずや。


【第二輯】――第一輯續篇・本「九段塾掲示板」の塾頭遺文/未版――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・金城翁最終講義』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50


【參考/泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』臺本】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50


【第三輯】――未版――
■靖國神社宮司賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』覆刻
昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm


【第四輯】――未版――
■九段塾藏版『靖國神社宮司松平永芳大人遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50


‥‥‥‥
 
 

言靈・見神‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月18日(金)18時41分19秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●日本郷友連盟理事長・廣瀬榮一翁『紅葉は秋だよ』(戰中派の會編『吾が子 わが孫よ――戰中派の遺言』昭和五十三年八月・櫂書房刊に所收)に曰く、「

――天皇陛下萬歳――

 昭和六年冬、二十歳の私は、陸軍砲兵少尉で滿洲事變に參加した。私は自分が死ぬときは、その瞬間に、魂は肉體を殘して飛び出さう、默つて死んで行かうと考へてゐた。

 ところが、昭和七年秋、決死隊に出され、夜暗に敵の縱隊を突破した際、敵の十字砲火を受け、隊員の一人平中一等兵は、銃彈で背中から首を貫かれた。私は物の言へない平中一等兵を抱きつゝ、平中は死の瞬間、何か言ひたいかを考へ、若しかしたら『天皇陛下萬歳』を唱へたいのではないかと思ひ、私は苦しむ平中の耳もとに、『お前に代つて、天皇陛下萬歳を唱へるよ』とさゝやき、大聲で『天皇陛下萬歳』と叫んだ。すると、今迄苦しんでゐた平中は靜かになり、昇天した。この光景に、私は強い衝撃を受けた。それは『天皇陛下萬歳』といふことが、お芝居ではないといふことである。曾て聞いた言靈といふことの意義である。‥‥

――頭山滿翁――

 禊(陸士第四十三期の同期・北白川永久王殿下のお勸めで、夏は淺間山の二度上に、冬は片瀬の海の禊)で悟れない私は、早朝、明治神宮に日參した。或る朝、拜殿前の石疊の上に、土下座してゐる老人がゐた。不思議な參拜の仕方をする人もあるものだと思つた私は、階段の下で、件の老人の立ち上がるのを待つた。暫くして立ち上がつた老人は、寫眞で知つた頭山翁である。

 どうしてさのやうな態度をとられるのかと、不思議に思つた私は、頭山翁に近しい人に、そのことを伺つた。その方曰く、『頭山翁の明治神宮參拜は、明治天皇にお目にかゝるのである。翁が神前に進むと、天皇のお姿が現れる。すると、翁は、その場にひれ伏し、天皇のお姿が消えるまで、その姿勢を變へぬのだ』と。私は強く心をうたれた。‥‥」と。



 愚案、郡順史翁が「戰中派の會」代表委員となつて編纂したてふ『戰中派の遺言』を取寄せ、讀んでゐる。一番に目に飛び込んで來た文章を、紹介してみたくなつて筆を執つた次第です。『戰中派の遺言』の帶に曰く、

子よ、孫よ、若者よ!! 心をすまして聞いてくれ!! 凄絶な戰中を、荒廢の戰後を、たゞ默々と生きぬいてきた戰中派世代が、今こそ三十餘年の沈默を破つて、叫んだのだ。生き乍ら綴つた戰中派の遺言集」と。

 言靈「天皇陛下萬歳」を以て、『中臣祓』に於ける「天津祝詞の太祝詞」(太諄辭・神咒)と比定する人あり、中らずと雖も遠からず、強力なる清祓詞の一つに相違ない。神さびたりとも、神さびたり。

 頭山立雲翁の見神は、戀闕の凝る所かとも思考したが、或る人から神仙の一人と仄聞すれば、道理で‥‥、やうやく納得した次第であります。あなゝゝかしこ。
 
 

後に續くを信ず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月13日(日)17時27分53秒
返信・引用 編集済
  ●郡順史翁『今あらためて「後に續くを信ず」』(日本民族覺醒の會『覺醒』平成十一年一月・新春號――此の機關紙は、河原博史同血社會長を通じて、森川俊秀大東亞青年塾東京本部青年部長より拜戴いたしました。難有うございました)に曰く、

「平成十一年、つひに戰後五十四年目を迎へることになつた。そしてこゝ數年來、皆樣も、現在における日本人及び日本社會が、政財面はもとより、殊更に倫理道徳の、いはゆる精神面における興廢・墮落ぶりは、つひにその極に達してしまつたと、よくお耳にし、且つお口になさつた事と存じます。ある人は、『最早、日本には、國としての明日はない』と、極言さへしてゐます。更には『日本人は、完全に變質した。最早、手のほどこしやうがない』とも。

 たしかに現在の日本及び日本人の在り樣は、私の四十數年の歴史時代小説を書いて來た、淺い歴史觀から見てさへも、倫理・道徳・生活・感情など、人間としての基本理念といふか、姿勢が、狂つてしまつた。或は變質してしまつたと思はざるを得ません。たとへば戰國亂世の時代は別にしましても、史上最も『人心亂倫し、道義退廢の極みに至れり』と言はれた、徳川時代の、元祿・文化文政・天保とかいつた時代と比較しましても、現在の状態は、その上をいつてゐるやうに思へます。なるほどこれでは、天保から三十餘年にして幕府が瓦解した如く、『日本に明日はない』と言はれても仕方がないかもしれません。

 この事は、職業年齡に關係なく、全日本人、老人・壯年・若者まで同じです。かつて『今時の若い者は』といふ言葉がありましたが、現今は通用しません。大人も若者も、一緒に狂つてゐるからです。私には、さう思へます。もつとも年齡が下がるに從つて、すなはち若年になればなるほど、自己中心的な傍若無人な傾向が濃厚となつていきますが――それだけに、愈々『明日の日本』が危ぶまれます。では、何故日本人は、こんな風になつてしまつたのでせうか。かつての日本人には、廉恥・惻隱の情、國を愛する心が豐かに在り、自分の生きる指針として來ました。そして世界の人々から、『正直で禮儀正しく勤勉で働き者』との評をもらつてゐました。さうした日本人は、一體どこへ行つてしまつたのでせう。やはり戰後、日本人の多くは變つてしまつたのでせうか? 變つてしまつたのです(【注】)。

 私はその責任の大きな部分は、少々強烈な言ひ方ですが、いはゆる戰中派世代に在る、とかねゞゝ考へてをります。その理由を述べます。但しこの場合の戰中派とは、戰爭に征つた世代、即ち大正年間に生まれた者、と限定します。敗戰と同時に、遲速はありますが、戰中派の人々は、續々と復員しました。そしてその大部分の人は、内地の地を踏むと同時に、『俺の味はつた辛酸苦勞は、もう俺だけで澤山だ。俺の子供にはのびゝゞと、苦勞のない生活を送らせてやる。その爲には、俺は身を粉にして働くぞ』と決意したものでした。

 いはゆる今日的表現でいふ『戰爭否定』・『平和』志向です。むろんそれは情緒的決意であり、願望であつたわけで、その根底に、いまはしい思想的轉囘があつたわけではありません。現在考へても無理はない、當然とも言へませう。しかしこの單純素朴な情緒的決意ないし願望は、物の見事に完膚無きまでに、マツカーサー占領軍ならびに國内にうごめきはじめた革命指向家たちに乘ぜられ、利用されたのでした。『自由・人權・平和・戰爭反對』といつた、甘い餌に食ひつくやうにさせられたのです。その餌の撒き方・食ひつかせ方のたくみさは、敵ながら天晴れ巧妙と言ふ他はないものでした。この事は、今でこそ當時のことが書かれた書物などを讀み、後追ひ體驗によつて、『さうか』と識ることが出來ますが、當時としては素朴そのものゝ戰中派世代は、實に巧妙に化かされ、いや、化かされてゐるとも意識せず、敵の掌の中で踊らされてゐたのでした。例へば――憲法の變改、東京裁判の斷罪、日本の傳統と文化・歴史の否定などゝゞです。かくて戰中派世代は、いつの間にやら、『人權・自由・平和』の、あゝ、もう一つ『民主主義』の美句のみを腦天に植ゑつけられ、政治・軍事・教育までもが敵の掌中に奪はれてしまひ、日本に非ざる日本國及び日本人造りに荷擔させられてしまつたのでした。殊に教育の主導權を奪はれたのが、今日に至るも大いなる禍根として遺つてしまひました。

 だが、當時の若者、日本復興の中堅を荷つたゐた戰中派世代も、全部が全部、この敵の謀略に氣付かなかつたわけではありません。心ある目覺めた人たちは、三十年後半に至つて、丁度安保騒動の餘波をうけた頃、『今の日本は、少しおかしい。このまゝでは、日本はダメになつてしまふ』、『あの時、我々が、「さらば祖國よ、榮えあれ」と必死の願ひをこめて死地に赴いた祖國の姿は、こんなおかしな姿ではない』、『その通り。我々が先頭に立つて同志をつのり、眞の新しい日本を再建しよう』と、戰中派世代の先輩たちが、林房雄さんら戰前派の多くの識者の應援を得て、昭和四十年に入る早々、『戰前派よ、集まれ! 團結して、眞正新日本の建設に立ち上がらう!』と、全國の戰友會などを通して呼びかけました。結果、全國から十萬を超える人々が會員として加はりました。そして十二月七日の發會式には、五千を超える戰中派が集ひ、大いに氣勢をあげました。むろん私も、若手の一人として末席に加へさせて戴きました。

 しかしこれは、はかない線香花火にすぎませんでした。戰中派の人々の中にも、すでに占領軍の日本人弱體化政策に、革命勢力の心身衰弱の毒素に、體の半分を腐らせてゐる人がゐたのです。即ち或る人は、この一大勢力を自分の政治組織に、或は商賣に利用しようと、結成早々から露骨に動きまはるのです。中にはもつとひどく、集つた金を不明に消費する人まであらはれました。この爲め『戰中派の會』は、結成ほどなく解散の止むなきに至りました。

 が、その中で心ある人々は、『この儘ぽしやらせたのでは、死んだ戰友に相濟まぬ。生ある限りこの運動を續け、心あらたにお國の爲に盡さう』と呼びかけ合ひ、七人の代表委員をえらび、靖國神社社頭において再起を誓つたのでした。一方、關西では、津村忠臣さんが中心になつて、『關西戰中派の會』を設立、今日も隆々と活動してをられます。だが、再建は難しく、結局、京田民雄を柱に、入江孝一郎・郡順史の三人が代表委員をつとめ、四十八年十月、學徒出陣三十年祭、あるいは『戰中派の遺言・男女篇』の出版、靖國神社の國家護持、四島返還、憲法改正などゝゞ、それなりの活動を致しましたが、平成二年、つひに解散のほか道はなくなつたのでした。けつして戰中派世代として、やるべき事が無くなつたからではなく、會員も年ごとに加齡、病氣・死亡などによつて減少、十二月八日の總會にも、五十名集まるや集まらぬ状態となり、會として形をなさなくなつたからでありました。いはゞ野埀死に、と言つてよいかと思ひます。『たつた一度の敗戰で――』と、口惜しくもありましたが、その反面、野埀死にするまで死力を盡したのだ、といふさゝやかな誇りと自己滿足もありました。さりながら私は今でも、時々あのとき諸々の卑しい人が出ないで、十萬の會員を擁して、戰中派一丸となり、新しい日本再建のために、あらゆる分野にわたつて活動・運動してゐたなら、今日の日本の樣相も、少しは良い方に變つてゐるのではないかと、にがい悔恨をふくんでの感慨をおぼえてゐます。

 ともあれ、この半身不隨的戰中派世代によつて育てられた子供たちが、今、四十代・五十代を迎へて、社會の中堅・トツプの席にて活動してをります。彼等は、たしかに物・食において何不自由なく成長し、體格も親世代をはるかに超えて大きく立派になりました。しかし日本破壞派の教育をうけて、思ひもよらぬ精神のバランスを失つた大人になつてゐました。そしてその子たちが、即ち戰中派世代にとつての孫らが、いま大學生・高校生の年齡となり、あたかも異人種の如き振舞ひに及んでゐるわけであります。我々が彼等を異人種と見る如く、彼等は我々戰中派世代を、少し前までは『軍歌世代』・『靖國族』と呼んでゐましたが、最近は『化石』・『戰爭お化け』と、陰口をきいてゐるさうです。これをもつてして、時代の流れ、歴史的な變化と言ふのでせうか。私には納得出來ません。なぜならば、餘りに人爲的なゆがみの結果からだと思ふからです。

 しからば如何にしたら、日本人及び日本社會を、戰前の如く世界の人々から賞讚されたやうな、清く美しい姿をとり戻すことが出來るのでせうか? こゝまで書いて來て、大變申しわけなく無責任のやうな話ですが、私にはいくら考へても、起死囘生の妙案は思ひつきません。

 でも、これだけは言へると思ひます。日本の男には、ぎりゞゝ決着に至れば、必ず性根を發揮するだらう、と言ふ事であります。これは單なる夢の如き願望でもなければ、空頼みでもありません。日本の男の腹の底の底には、それだけの輝かしい傳統と歴史があるからでございます。たとへば一つの例として、先にかゝげた徳川の元祿の時代、男の魂のもつとも腐敗した時代、武士が刀が重いとて、竹光を差したり、女風の服裝や振舞ひが流行し、武士も士道も終りかと言はれた時代、山鹿素行とか、大道寺友山、葉隱の山本常朝といつた人々が、男の復權を雄叫んで、武士道書を著し、士道を鼓吹しました。そして赤穗浪士をうみ、見事世の中を立直らせました。これが日本の男の底力であり、美學の再認識でありませう。私は、この事を信じたいと思ひます。いえ、信じます。『後に續くを信ず』と叫んだやうに、戰中派世代の一人として、體力おとろへ、行動力の無くなつた今、それなりの力を、それなりの道に全力を致しながら、もう一度、振りかへつて、後人に向ひ、さう叫び、さう願ふ次第であります」と。



【郡順史翁】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/25
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/14
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/183

【注「占領憲法下では、國體は勢ひ變らざるを得ない」――昭和二十九年に於ける平泉澄博士の豫言】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/10



 愚案、「戰中派の人々の中にも、すでに占領軍の日本人弱體化政策に、革命勢力の心身衰弱の毒素に、體の半分を腐らせてゐる人がゐたのです。即ち或る人は、この一大勢力を自分の政治組織に、或は商賣に利用しようと、結成早々から露骨に動きまはるのです。中にはもつとひどく、集つた金を不明に消費する人まで」現出するに至り、戰前・戰中派世代は、無念のうちに斃れ、今や、幽顯、境を異にしようとされてをります。松平永芳宮司も、既に亡く、我が塾頭も、已に玉樓中の人となられました。我々戰後派世代に、「後に續く」事を託されたのであります。艱難辛苦は、往年に百倍してをりますが、各々出來ることを、幾世代に亙つて自ら任じて立ち、楠公の如き師範を俟つて動かねばならないのであります。

 かつて平泉澄博士は、痛烈なる鐵槌を下してをられます。曰く、「年月は流れる如く過ぎ去つて行くが、人は自ら奮勵すること無く、徒らに時を待つ。新春から三十日、假にお尋ねするが、この間に、どういふ事が出來ましたか。いや、未だ何も出來てゐません。出來ないのでは無い、しないのでせう。君子たる者、自ら欺いてはならない」(『新春講話』――『日本』平成二十一年二月號・あとがき所引)と。
 
 

Re: 鈴屋翁『古訓・古事記』

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年11月10日(木)22時53分12秒
返信・引用 編集済
  > No.1395[元記事へ]

備中處士樣

>岸本弘翁再編『朗読のための古訓古事記』三卷一册――底本は、享和三年版。昭和十九年 >の幸田友成博士編岩波文庫改訂版。平成二十三年十月刊。

  早速注文させていたゞき、本日手許に屆きました。
  うん!うん!素晴しい!實に上品な仕上りです。和綴ぢがなんとも堪りませんね。いにしへの稀書を手にするやうな趨きです。藍の表紙に赤の綴ぢ紐がなんとも素晴しき品格を釀出してゐます。大きめの活字に正假名振りです。

  御閲覽の皆樣!來年三月までは會員價格で宜しいさうですぞ。是非とも御手許にどうぞ!
 

鈴屋翁『古訓・古事記』

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月 5日(土)22時47分2秒
返信・引用 編集済
  ●秋津彦美豆櫻根大人・鈴屋翁平宣長先生の哥

上代の 形よく見よ 石上 古事記(ふることぶみ)は まそみの鏡


●青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽先生の哥

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



 本日、岡田則夫翁の月例會に出席、珍しき書を戴きましたので、紹介いたします。鈴屋翁『訂正古訓・古事記』の、見事な和本仕立て、字も大きく、印字闡明、正假名遣、總振假名です。但し憾むらくは、新字體なるを如何ともする無けん。

 「國典に通ぜずんば、何を以てか正を養はむ」とは、乃木靜堂大將の學則なり矣。就中、神典古事記を拜誦せずんば、國體を闡明すること能はざるなり。若し叶ふならば、幼童より習熟するを要して、飽くこと無かる可し而已。拜誦百編、意、自づと通ずるは、抑も大和言葉なればなり。日本中興するに、古事記を以てす、是れ平成維新の第一門にして、宇内皇化の基礎たるを、大聲提唱したい。疑ふこと勿れ矣。

 皆樣にも是非とも座右に置き、神典拜誦、切磋琢磨に御役立て下さい。



■岸本弘翁再編『朗読のための古訓古事記』三卷一册――底本は、享和三年版。昭和十九年の幸田友成博士編岩波文庫改訂版。平成二十三年十月刊。
   ↓↓↓↓↓
http://homepage3.nifty.com/taisi_rindoku/ts-01.html



 岡田則夫翁の歎きて曰く、

『世に「還暦」は、滿六十歳を云ふ。數への六十一。正解なり。然るに皇后陛下の「喜壽」、御歳七十七を祝ひ奉る記事を目撃す。實は數への御歳七十八なり。是れ如何。

 又た(荒魂之會・駒井鐵平翁の記事を引きて)「周年」と「囘數」との混同、國を擧げての錯誤、亦た解消すること無し。本年平成二十三年八月十五日前後の首都圏六紙の、終戰の日に關する記事に於ては、終戰の日の囘數を、六十七囘では無く、何れも一囘を減じた六十六囘の文言を以て、新聞見出しに示せり。實は本年、夫々の日は、六十七囘・六十六周年なりき。報道の錯誤矛盾、或は無知から來るや否やを、得て知る可からず。

 又た皇室に對し奉る敬語の、甚だ薄き、或は全く無きを憂ひ、又た元號法成立するも、其の行はれず、空文化せる世の趨勢を歎く』と。
  
 

思い出3

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月 1日(火)18時24分16秒
返信・引用 編集済
   「愛国女性のつどい花時計」代表の「藤真知子」樣より、『泉水隆一監督の思い出』の玉稿を賜りました。塾頭晩年の貴重な證言であります。『靖国神社の真実』の附録「遺響篇」に掲載させて戴かうと存じます。藤代表、本道に有り難うございました。



思い出1
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1285

思い出2
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1363

思い出3

九段会館で「凛として愛」の上映会を行った後にいろいろと活動について、いま
の日本人についてお話しをしました。
泉水隆一監督は「私はあと10年も生きていない。だからそれまでに知っている事
をすべて教えたい」とおっしゃっていました。
そこで私たちは監督から歴史を教わる事になりました。

まずは10人程度からと思っていたので、
上映会に携わった約30人の方の中から参加希望者を募りました。
そこで16人の方が希望してくれました。

監督に伝えるととても喜んでいました。
歴史の勉強は「少年日本史」(平泉澄著)で行う事になりました。
勉強会を始める前に監督が送ってくれたメールがあります。
その中に下記の文章がありました。


~ここから監督のメール~

一億国民に崩壊の危機。
●日本が日本であるために

大和民族のふるさとへ還れー神国日本へー
------------------------
汝臣民は父母に幸を尽くし 兄弟弟妹仲良く 朋友互いに互いに信義を以って交わり
人々に対し慈愛を及ばすようにし、知識才能を養い、善良有為の人物となれ
そして万一国家に緊急の事態おこらば大義に勇気を奮い起こてし一身を捧げて皇
室国家のために尽くせ。
------------------------
あらたな教育勅語を以って  日本は神の国に還る

尊王の国 勤皇の国として 皇祖皇宗の子孫として日本国民1億は遥か悠久の大
義の昔に引き返す。
------------------------

~ここまで~



年があけてから歴史勉強会が始まる予定でしたが、
監督の体調がすぐれなくて延期となりました。
監督に会いに行くと、勉強会の事や映画製作の事など構想を練っていて
映画はあと2本つくりたいと言っていて、俳優も誰にやってもらうか考えていま
した。
話を聞いているとこちらも楽しくて、勉強会もすごく楽しみでした。

それから4カ月たって平成22年6月にご家族の方から監督が危篤だと連絡がありま
した。
病院は偶然にも私の家から歩いて5分ほどの場所でした。
すぐに病院に向かい、勉強会に参加予定の方たちがメールで送ってくれた
勉強会への意気込みのメールや「凛として愛」を見た方たちが送ってくれた感想
メールをもっていきました。
そのメールを耳元で読んで、その日は帰りました。
翌日も感想のメールをまとめて病院に行き、
耳元で読みました。その翌日も。

病院の先生も奇跡的だと言っていたのですが、危篤状態だった監督が元気になっ
たのです!
きっと「凛として愛」の感想を聞いていて、
あと2本映画製作したいと言っていた気持ちがさらに湧きあがったのだと思います。
監督は「凛として愛」という名作を残してくれました。

泉水監督は平成22年7月16日に逝去されました。
8年前の此の日、僅かに二日半で上映中止され絶望の淵にあった日でした。
泉水氏の告別式は式場の関係で26日に行われましたが、この日こそ、泉水監督
が反日思想がはびこり、総理大臣も靖国神社に背を向ける日本の現状を憂いて、
靖国神社に、渾身の思いを込めて書かれた、映画制作への珠玉の趣意書を出され
た日でした。

泉水監督は、国家のために尊い命を捧げられた数多の英霊に報いるには、「凜と
して愛」が日本全国に広まり、一人でも多くの日本人が先人がたに対して感謝と
哀悼の思いを持つことだと生前、切々と話されていました。
故泉水隆一監督の崇高な思いを心に刻み、私たちは「凛として愛」が一人でも多
くの国民の目にふれることを願って止みません。



http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
 
 

元號大權――天皇の御民として生きる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月29日(土)12時57分41秒
返信・引用 編集済
  ■改元の詔(明治元年九月八日)

 詔。太乙を體して位に登り、景命を膺(う)け以て元を改むるは、洵に聖代之典型にして、萬世之標準也。朕、否徳なりと雖も、幸に祖宗之霊祇に頼り、祗(つゝし)みて鴻緒を承け、躬、萬機之政を親らす。乃ち元を改め、海内億兆と與に更始一新せんと欲す。其れ慶應四年を改め、明治元年と爲す。自今以後、舊制を革易し、一世一元、以て永式と爲せ。主者、施行せよ。


□元號法――昭和五十四年・法律第四十三號(六月十二日)
一、元號は、政令で定める。
二、元號は、皇位の繼承があつた場合に限り改める。
附則
一、この法律は、公布の日から施行する。
二、昭和の元號は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。


□元號を改める政令――昭和六十四年・政令第一號(一月七日)
 元號を、平成に改める。
附則
 この政令は、公布の日の翌日から施行する。



●瀧川政次郎博士『元號考證』(昭和四十九年六月・永田書房刊)に曰く、

「『元號大權』といふのは、私の新造語である。これまでに、このやうな語を用ゐた人があるかも知れぬが、寡聞にして私は聞かない。元號大權といふのは、天皇が元を建て、元を改められる權利であつて、この權利は、臣下の者の干犯を許さない、天皇の專屬せる權利なるが故に、あへてこれを大權と名づけたのである。天皇が有せられた元號大權は、昭和二十二年五月の新皇室典範の施行によつて消滅したかに見えるが、濳在的には、天皇はなほ元號大權を有してをられると思ふ。

 日本天皇のもつ元號大權は、古代中國(愚案、支那)の帝王が有した授時大權に由來する(祭天大權ならびに建元大權――改元大權+頒暦大權+授時大權――)。上古三代の中國の帝王が、領土を支配すると同時に、時をも支配するものと考へられてゐたのは、太古において帝王が日蝕を左右する呪術者であつたことに由來すると思はれる。中國最古の史書ともいふべき『春秋』が、魯の國(山東省)に起つた日蝕を克明に記録してゐることは、このやうな想像を可能ならしめる。春秋の時代には、周王のみならず、諸侯の覇主までが、正朔を頒つた。正朔を頒つといふのは、正月元旦と毎月の朔日とを定めた暦を、人民に頒布して、その暦日を遵奉せしめることを謂ふのである。暦を頒ち與へて、人民をしてこれを奉ぜしめることは、帝王の權利であると同時に、義務でもあつたのである。この正朔(年)の元に、吉祥の文字を附して、何々の元の年としたものが、すなはち年號であつて、年號の始まりは、前漢武帝の建元元年である。

 爾來、中國歴代の帝王は、みな元を建て、元を改めたが、隋・唐の間、その思想と制度とは日本に傳はり、日本の天皇は、大化以後、中國歴代の有した授時大權を受け繼ぐに至つた。その授時大權は、漢の武帝の時以來、年號を建て、年号を改める權利となつてゐたから、日本においては、これを元號大權と呼び改めた方が適切であると思ふ。

 大化より大寶に至る半世紀間には、年號の缺けた年もあつたやうであるが、大寶以後、現代に至る千二百七十餘年の間、年號は歴代の天皇によつて建てられ、一度も斷絶したことがない。その改元には、瑞祥によるもの、災異によるもの、辛酉革命、甲子革令、三合等の暦法上の凶年によるもの等があつたが、御代始めに行なはれる即位改元は、一二の例外を除いて、必ず行なはれた。故に御歴代の中には、後醍醐天皇のやうに、御一代のうちに、九の年號を建てられた天皇もあつたが、明治元年九月、一世一元の制が定められ、即位改元以外に、年號を改めることはなくなつた(愚案、從つて今日では、元號とは、天皇御在位の御稱號であり、其の亂用私物化は、之を愼しまねばならぬ。皇室式微、陰陽寮退轉の後、暦は、「神の朝廷」と稱せられた伊勢神宮に於いて造られ、御師によつて全國に頒布)。

 この制度は、明治二十二年二月十一日、帝國憲法と同時に公布された皇室典範によつて確認せられ、改元の手続きは、皇室典範の附屬法である登極令において、
元號は、樞密顧問に諮詢したる後、之を敕定す。
元號は、詔書を以て之を公布す。
と定められ、改元が天皇に專屬する大權事項であることが明言せられた。しかし、天皇の御意思によるにあらざれば、年號を改めることはできないといふのは、大化以來の不文法であつて、攝關・武家の專權時代といへども、この天皇の大權は、かつて犯されたことがないのである。故に我が國においては、唐末の五代十國時代のやうに、年號が同時に二つも三つもあるといふことはなかつたのであるが、鎌倉時代に、皇統が大覺寺流・持明院流の二流に分かれ、大覺寺流の後醍醐天皇の時代に、持明院流の皇子が、足利尊氏(ママ、高氏)によつて擁立せられ、天皇の位に即かれたから、國に二王を現じ、年號も北朝年號と南朝年號との兩建となつた。これ正に我が國における年號異變の最大なるものであるが、百代後小松天皇の御代に至つて、皇統、一に歸し、年號も歸一するに至つた。

 大化以後、大寶年代に至つて、唐帝の授時大權に伴ふ種々の制度は、唐の律・令・格・式を通じて、日本に受け繼がれた。その主なるものは、天皇の時の支配權に服することを誓ふ元正朝賀の式であるが、この儀式は、奈良・平安の時代を通じて、毎年、嚴かに行なはれた。また唐帝が授時を行なふためにおかれてゐる太史局に傚つて、我が國においては、陰陽寮なる官司が設けられ、暦は陰陽寮の暦博士によつてつくられ、一日の十二時は、陰陽寮の漏刻博士によつて報ぜられ、日蝕その他の天文の變は、天文博士によつて觀測せられた。それらの制度が、國民の生活に及ぼした影響は甚大であつて、その民俗となつたものは、今に行なはれてゐる。‥‥

 天皇が元號大權を有せられたことは、古代中國の帝王の屬性を受け繼がれた天皇が、アキツミカミであると同時に、時を支配する皇帝であらせられたことを知ることによつて、初めて納得せられることである。故に元號は、天皇制(ママ)と關係がないどころか、天皇制そのものであつて、‥‥

 新年は、天皇の定め給うた新年であるから、謹んでこれを賀し奉らねばならない。『賀正』とのみ書いては不敬にあたる(『謹賀新年』の眞義は、こゝに存す)。『一九四七年』などと、異國の年號に近いものを書くのは、天皇の時の支配權を否認するものであつて、謀叛豫備罪にあたると、深く信じてきた私にとつては、昭和の年號を廢して、西暦に一元化せよといふ論者の説を聞くことは、大なる苦痛である。『それでも、お前は日本人か』と、罵倒してやりたいやうな衝動に驅られる。‥‥

[序言]‥‥大寶・養老の『律令』の儀制令の一篇には、
凡そ公文に年を記すべき者は、皆、年號を用ひよ。
とあつて、公文書には、朝廷の定め給うた年號を書かねばならないことが明定せられてゐる。公文書を作つた官吏が、もし干支のみを書いて、年號を書くのを忘れたとすれば、どうなつたかといふに、その官吏は、
凡そ令に違ふ者は、笞五十。別式は、一等を減ず。
といふ雜律の條文によつて、笞五十に該當する官吏の閏刑贖銅五斤を科せられたに相違ない。もしそれが天皇の統治權に服することを拒否する意圖を以て、故意にその年號を削つた場合には、次の賊盗律の條文によつて、謀叛豫備罪に問はれる。
凡そ謀叛は、絞。已に上道せらば、皆、斬。子は中流せよ。(中略)即ち山澤に亡命して、追喚に從はざる者は、謀叛を以て論ぜよ。
山澤に亡命して、追喚に從はざる者は、帝王の空間的支配圏の外にゐようとするものであり、天皇の定め給へる年號を奉ぜざる者は、帝王の時間的支配圏の外に逸脱せんと欲するものである。空間・時間を異にすといへども、天皇の統治權の外にありたいとする點では、兩者異なるところはない。故に年號を奉ぜざる者の罪は、山澤に亡命する者の罪に準ぜられるのである」と。



 愚案、東洋に於ては、人倫の道に缺くる所があれば、詩歌書畫の佳品と雖も、糞尿の如く見なす傳統がある。例へば王維の詩、趙子昂の書畫、精絶なりと雖も、採るべけんやとて、之を重んじない。道義出處に悖る所があれば、學藝に秀でると云つても、所詮一藝者に過ぎない。出處進退の疑はしき者、即ち二王に仕ふる者は、其の書法、正朔を奉ずるか、奉ぜざるかを見れば、直ぐ判る。淺見絅齋先生『靖獻遺言』を繙いた人、或は吉野時代を知る人は、之を諒解するはずだ。現代では、殊に書の序・跋の署名を見れば、大半は判る。塾頭は、「靖國神社を靖国と呼び捨てにする者の意見は、聽く必要が無い」と申されたが、其の定理を援用すれば、「元號を奉ぜざる者の意見は、讀む必要が無い」。

 小生の大學一年の時であつたらうか、『祖國と青年』とか云ふ雜誌に、其の編輯の手傳ひをしてゐた先輩に乞はれて、其の讀者欄に、「西暦を使用を憂ふ」てふ一文を投稿したことがあつた。僞古文であつた爲であらうか、しつかりと口語譯されてはゐた(苦笑)が、懷かしき想出の一つである。「元號を奉ぜざる者は、天皇の支配に服せざる者である」との認識が、小生にはある。爾來、終始一貫、洵に要領の惡い人生を送つて來たのであるが、此の信念は、死して猶ほ搖ぐことは無い。即ち「天皇の御民」として生きんと欲する者は、元號を奉ずること、當然當爲の行にして、謹みて須らく奉行して戴きたいのである。元號を奉ずることが出來てこそ、初めて皇紀も併用したい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/264

 元號法制化に生命を賭した御方も、此の世の中には嚴存した。大東塾の影山正治翁である。然るに最近は、衆寡敵せずと謂ひつべきか、此の年號を以て括弧にくゝり、西暦を主とする門下生も輩出したと聞く。本末顛倒、慨歎に勝へないと共に、悲しい限りだ。

 平田大壑先生『赤縣太古傳』三皇紀三に、「清虚元年とは、太一の元氣發動して、天神たち世間成立の事を行へる初年の義なり。歳、甲寅に起ると云へる年を謂ふ。此の餘にも、神眞界の年號多く所見(みえ)たり。そは路史に、三皇經に云く、天皇は平初元年を以て出治。地皇は太始元年を以て出治、と。按ずるに、道書に、元景・延和・赤明・延康・康泰・龍漢・開皇・無極等の號有り、と云へり。なほ此の外に、見覺えたるも、上皇・中皇・天漢・天景・上靈・元始・開光・清濁・清漢などあり。抑もかゝる年號はも、盤古・三皇などの當昔(そのかみ)に、實に有りし事には非ず。後に神眞たちの上古の事を語る時に、假に紀號と爲したる物と見えて、諸書を參考するに、多く其の例なり」と見え、或は古神道の傳承では、幽界にも年號あつて、出雲杵築の閟宮より出づと云ふ。然れば元號・年號は、顯幽一貫の風俗にして、忽せには出來ぬ至重至大のもの、殊に顯界に在つては、天皇の大權であること、申し上げるまでも無いのである。
 
 

遁辭としての「王家」

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月25日(火)19時02分46秒
返信・引用 編集済
  ●大西郷『湊川感懷』(明治八年以降)

王家、萋棘、古も猶ほ今のごとし、遺恨なり、千秋、湊水の潯(ふち)。
願はくは青螢と化して、墓畔(楠公墓邊)に生れ、香骨(楠公精神)を追隨し、吾が心を快(よろこ)ばしめむ。
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 來年のNHKの大河ドラマで、雲深き邊を「王家」と呼稱して、一部顰蹙を買つてをる由。此のNHK、或は言ふであらう、「『王家』とは、當時の呼稱でもあり、亦た『尊王』と今でも使ふ所、何が惡い。西郷さんも、斯く詠つてゐるではないか」と。

 然し、其の心ばへが違ふのだ。雲深き邊であるが故に、敢へて憚つて「王家」と云ふ。尊王の文字は、支那周代の言葉から來つて、我が國の斷章取義する所にして、これも畏き所を憚つて用ゐしもの、其の心情は、炳かに指し奉るを遠慮したものである。伊勢の外宮に在つても、「皇」字を憚らざるを得ざるものあり。小生も、尊皇を稱ふるに、此の身を慚ぢて、「皇」の尊字を憚り、敢へて「尊王」と書し奉ることも數々ある。

 もつとも韓國の俗論が、我が皇室を呼稱するに、「日王」を以てするは、固より言語道斷、鼓を鳴らして之を撃つべきであるが、NHKが、韓國事大の思想から來つて表現するもので無い以上、殊更ら問題は無い。つい最近まで、「佛法、王法に對坐す」と、禪坊主も、偉さうにほざいてゐたでは無いか。

 抑も藝人俳優てふ一國民が、皇族を演じ奉ることこそ、大いに問題とすべきもの、況んや譬へ名優が奉贊宣傳の意を込むと雖も、宇内唯一、無私絶對の天皇を、映像にて表現し奉ること能はず、不敬と紙一重、辭退するが至當である(已むを得ざるときは、かつては御簾を以てし、或は肖像畫を以てし奉れり)。

 再言す、演目が雲深き邊に關はるならば、NHKが、中華事大の思想から來つて表現するもので無いならば、せめて「これは虚構小説であつて云々」の斷りの一文を挿入し、遁辭として「王家」と申し上げる方が、却つて穩健至當と謂ふべきかも知れない。件は、NHKに對して、勿論、強烈なる皮肉も籠めてゐる心算ではあるが‥‥。

 然し此のNHK、かつて太平記を扱つたドラマで、楠公自ら七生報國を否定してゐた。たかがドラマと、云ふ勿れ。これこそ、正に我が國史の捏造であり、吾が國體への挑戰である。斷々乎として、之を許すこと能はぬ矣。批判すべき秋に、之を批判しなかつたが故に、NHKは、之に味をしめたのである。恐れることは無い、何でも出來る、と‥‥。

 抑も我が大君、即ち天然なる天津日繼の尊を以て、人工異國の皇帝・法皇(徳望や覇力や神祕力を以て成り上がりし者)と比較する者もゐるが、それ自體、絶對無姓を相對有姓に貶め、不敬極まる痛恨事たるを知るべきである。また歴史ある「王家」の呼稱より、寧ろ「天皇家」と稱する方が、異國familyの謂ひを含んで、大いに問題だ。かう云ふ連中に限つて、「邪蘇」暦を頻用し、「21世紀」とか云つて、何より謹愼を知らない。
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 更に「倭の五王云々」には、之を默殺し、或は承久の變ないし御計劃を、君臣の分も辨へず、「」とか云つて憚らず、或は支那ではあるまいに、「南北朝」と大書して、後醍醐天皇の大權を干犯してゐるのも氣づかない。かういふ方々は、萬葉集の原文や、佐久良東雄先生の哥を繙いて、「王」字の多きを見れば、實際、卒倒するのではなからうか。標記、大西郷の詩も、僞作と云はれかねない勢いだ。NHKを責めるにも、「皇室に對し奉つて、敬語を丁寧に申せ」と、他の批判苦情の方が重且つ大であらうに‥‥。

 敬語の復活こそ、喫緊の課題である。皇室の尊嚴を守る所以に他ならぬ。然し松平永芳宮司は、「御皇室」てふ日本語は無い、と仰つた。塾頭は、「皇」の前に來る字は無い、と申された。かやうな苦言忠告は、聞いても耳には入らぬやうだ。一度、伊勢神宮に拜趨して、彼の大御札を拜戴し、目を瞠つて能く見るがよい。さう云へば、「お社長」とも云ふべき「ご皇室」なる辭、平泉澄先生の書で、かつて一度も見たことは無い。

 序でにもう一つ。皇紀を用ゐて、元號を使はぬ者がゐる。皇紀は、云はずと知れた、神武天皇ご即位の紀元だ。之を誇る餘り、「世界最古の國」と稱して、それ以前に、皇國は、遙か悠久の積年あるを知らぬ者もゐる。皇紀では、ソロモンを始祖とするエチオピア皇帝の公稱三千年(我が昭和四十九年、革命)の長きに劣るでは無いか。何か間が拔けてゐる。紀年法は、元號が大本であり、正朔を奉ずる眞義の深きを知つて戴きたい。書いてゐて、段々怒りが込み上げて來た。いかん、筆を措く。
 
 

草莽之臣の述志――青螢の至願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月 2日(日)13時01分51秒
返信・引用 編集済
  【參考・楠公傳】
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【參考・大西郷「願はくは青螢と化して、楠公墓畔に生れなむ」】
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 昨日、西郷南洲顯彰會『敬天愛人』第二十九號(平成二十三年九月二十四日)を戴いた。本年五月一日より十二月二十八日まで、鹿兒島市立西郷南洲顯彰館にて、湊川神社・廣嚴寺・如意輪寺・大阪府千早赤阪村の協力の下、『尊王精神の繼承・一・楠公と西郷隆盛』てふ特別企劃展が開かれてゐると云ふ。本號には、冠に、其の圖録(館長・高柳毅翁筆。五十八頁)が掲げられてをり、大楠公の、大西郷外へ影響と繼承の趾が、歴然と分明されてゐる展示である。二三紹介したい。



●『楠公壁書』自戒十九條(大楠公六百年記念・昭和乙亥之歳、穰洞仙史書)

君の爲に身を捨つる、忠と云ふ。
親の心に背かずして、良く仕ふるを、孝と云ふ。
老いたるを敬し、士卒を撫育し、國民を憐れむを、仁と云ふ。
一度び諾して變ぜず、始終全きを、義と云ふ。
謙退辭讓を、禮と云ふ。
籌策を帷幄の中に運らして、勝を千里の外に決するを、智と云ふ。
苟も虚言を構へず、信を失ふべからず。
遠き慮なき者は、必ず近き憂あり。
萬事に愁へず、屈せず。
過ぎては改むるに憚ること勿れ。
邪曲輕薄人と交るべからず。
大酒は失多し。
色情は身を失ふ。
僻(ひが)むは、嫉妬偏執の深きなり。
儉約を專とし、奢侈を愼み、人の非を見て、我身の行を正すべし。
 我(楠公自身)、愚なる故に、壁書して愼とするのみ。



●大西郷の私學校に祭られし「楠公木像――雲の臺(うてな)の上の立像――右手に二本の矢・左手に弓・胴着の菊水紋・毛皮の具足の甲冑の御姿」の由來

水戸義公の、醫王山廣嚴寶勝寺(建武中の勅願寺)に奉納せし三體の一(他の二體は、昭和二十年の神戸空襲にて燒失)。大楠公・楠木正季公兄弟および南洲の遠祖である菊池武吉公の自刃の場所は、此の廣嚴寺の域内の庵であつた(民家に非ず。現在は湊川神社境内)。
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薩摩國伊集院郷石谷の熊野神社
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安永六年、鹿兒島・町田久甫の家に遷祀。
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文久元年九月四日、有馬正義先生、再び石谷に楠公神社を建てゝ祭る(精忠組の盛大なる祭典)。
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文久二年、町田民部久成の家へ。春秋二季の大祭・毎月二十五日の賑ひあり。
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明治、伊集院地頭・坂木六郎、地頭假屋に遷し、表座敷に奉祀。
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明治三年三月中旬、大參事・西郷隆盛、主唱して、鹿兒島軍務局に遷祀。「御軍神樣」として、毎月六日に大祭を營み、知事公以下、文武官および一般に及ぶ參詣あり。武運長久を祈り、忠節を勵むを例と爲せり。軍務局では、將卒一統に神酒下されの儀あり。四年四月、西郷の擧兵上京の際には、楠公祠の前にて、兵士全員整列、拜禮の後に出發と云ふ。
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六年秋、西郷下野の後、私學校(鶴丸城厩跡)へ引取り、「守護神」として祭る。
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九年十二月(一説・十年一月)、宮之城區長・邊見十郎太、宮之城屋地(現・さつま町)へ遷祀。


○南木明神の木像(大阪千早赤阪村の石川水分神社の攝社・南木社――『南木誌』に、長山鈞の謹寫せし『左中將楠公肖像』として所收)

『楠公肖像記』に引く所の『退私録』に云ふ、「河内石川水分社は、楠氏の世々崇奉する所、左側に楠公の祠有り。奉祀の木像は、束帶儼然、當時の遺影にて、南木明神と稱す。正平帝(後村上天皇)、號を賜はる所なり」と。



●高山赤城(彦九郎)先生『楠公の墓前に於いて敬録す』に曰く、

「嗚呼、南朝の忠臣・楠氏。嗚呼、北朝の國賊・足利氏。我が祖・高山遠江守、南朝に奉仕す。大いに勤王國策を唱へ、尊氏(ママ。高氏)を難苦すと雖も、終ひに尊氏を滅盡する能はず。實に百代の遺憾有り。憤怒、停まる時無し。則ち正成の墓前、砂上に尊氏の首を描き、其の首一百囘、鞭打つ。以て楠公に謝し、勤王の素志を表はさん矣。天明二年壬寅孟春初七日、楠公の墓に謁して敬みて録す。草莽之臣・高山正之」と。


○頼山陽外史『高山彦九郎傳』(天明二年十一月十八日)に曰く、

「少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、皇居は何れの方かと問ふ。人、之を指示す。即ち地に坐して、拜跪して曰く、『草莽之臣・正之』と。行路聚まり觀て怪笑すれども、頼みざる也。京郊に遊び、足利高氏の墓を過り、其の罪惡を數(せ)めて大いに罵り、之を鞭うつこと三百なりき」と。


○大西郷の哥

馬子(蘇我)らが 草むす尸(かばね) 得てしかも 切つて屠(はふり)て はぢみせましを


○逆賊・足利の首を梟して、志を述ぶの心、凡俗の知る所に非ず、「草莽之臣」たる所以なり。
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○慘たる哉、逆賊の建てし物件の現状――逆賊の棲處は、魑魅邪鬼の凝集する、理の當然なり矣。
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●雲井のさくら(琴曲の歌・楯山檢校の調)

 ちれとをしへし さくらゐの ふかき心を くみしりて わかれし父の おふせこと そむかじものと 君のます よし野の山の 宮どころ かたくまもれと しばゝゞも 北ふく風の 吹つのり 雲井のさくら うつろはむ けしきみゆれば いまはとて おもひさだめて 年はまだ わか木の花の さかりなる 朝ながらも 青柳の みどりの髮を 切すてゝ 手にとりならす あづさゆみ 引かへさじの ことの葉を 殘おくこそ あはれなれ 大峰おろし はげしくも 北ふく風を 吹かへし すゝみゆけば 仇ともは 秋の紅葉の ちりゞゝに 亂れしあとも いかにせむ 飯盛山の ふもとなる 四條なわての あたりにて 父のをしへは この時と つひにはかなく なりはてし ますら健雄の まごゝろの あかきこと たれかめでざらむ  七十齡・彈琴翁
   
 

思い出2

 投稿者:藤 真知子  投稿日:2011年10月 1日(土)00時21分12秒
返信・引用
  九段塾のみなさま。
ご無沙汰しております。
前回の続きです。


「凛として愛」のナレーションは泉水監督がされているのですが、
ナレーションを考えているときに自分ではないような感覚があったそうです。
自分では思ってもいない言葉が次から次へと出てきたと、
ナレーションには英霊の気持ちが反映されていると言っていました。

また「凛として愛」の中にはフィルムが逆回しになっている部分があります。
逆回しでなければ映らないものがあるそうです。
私にはその逆回しにすると映るといわれているものが見えませんでしたが、
見える方には見えるそうです。
それに監督が気付いて、映画にも逆回しでその部分を使ったそうです。

あと1か所、最初のほうに出てくる兵士の遺体の部分で
監督がいれていない映像が入っている部分もあるそうです。

映画を作っている時は靖国神社に泊まり込んでいたそうなのですが、
その時に何人もの英霊と会ったりなど不思議な体験を何度もしたとお話されていました。


九段会館で上映会を行う前に泉水監督が「今回のこの九段会館での上映会は『凛として愛』の凱旋だ。上映中止になった靖国神社のすぐ目の前での上映会。これは凱旋だ。」と言われました。


この九段会館のイベントは9月中旬頃に何か年末にイベントをしようということになり、
内容が決まらないまま、会場探しをしました。
大きな会場はほとんどがとれずに、9件目に電話をしたのが九段会館でした。
もうダメだろうなと思いながら電話をしたのですが、
12月27日があいているという事ですぐに仮予約をいれました。

この時点では何をするか決まっておらず、
そこから企画が始まりました。

色々と企画を考えましたが、コレというものがなく、
色んな方に相談をしました。
私が相談した方の中で「日本の心をつたえる会」会長のねずきちさんが
九段会館なら大型スクリーンで「凛として愛」が見たい。と言われました。

「凛として愛」はブログ「花うさぎの 世界は腹黒い」で夏頃からずっとお勧め動画として
youtubeの動画が紹介されていて知っていました。
花うさぎさんにも協力して頂き企画内容をまとめあっという間に上映会が決まりました。

youtubeでクルーンPさんが「凛として愛」を紹介していて
その動画を花うさぎさんがブログで紹介
ねずきちさんがその映画を九段会館で見たいと話し、
九段会館の会場をかりて、平成21年の年末に上映会が行われた。

現在はブログ「この国は少し変だ!よーめんのブログ」のよーめんさんが英語翻訳版をyoutubeで紹介してくれています。

~続きます~

http://www.hanadokei2010.com/

 

天皇爲本の大道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月28日(水)00時17分42秒
返信・引用 編集済
  ●僅存居主人幡掛正浩翁『君は千代ませ――改題・天皇――聖和合人』(『新勢力』昭和五十年十一十二月合併號・十二月補。『神國の道理』昭和五十二年三月・日本教文社刊に所收)に曰く、「

 神社本廳の講師懇談會の席で、ある時、「神社神道で、本尊といふものを考へるとすれば、それは、天皇でなければならぬ」と言つたら、一せいに反撥が返つてきて、「そこまで言ふのは、言ひ過ぎだ」と、座がざわめいた。是非さういふものを考へねばならぬとすれば、せいぜい、天照大神とすべきだといふのが、大方の意見のやうであつた。

 私は爭はなかつたが、承服はしてゐない。多分、諸先生がたにとつては、人身をそなへられた天皇を、信仰とか宗教とかの對象としての本尊とすることに、心中に抵抗を覺えられたものと思ふ。だが、私には、かういふ感覺自體を、もういつぺん疑つてみる必要を感ずる。率直に言つて私には、かういふ感じ方は、近代人間主義(ヒユーマニズム)にイカれた、一部宮廷官僚のセンスと同じだとしか思へない。天子樣を、現人神・明津神と申しあげることは、天皇と日本人社會との生成に由來する構造上の稱呼であつて、それ以外のものではない‥‥、人身を備へたものは人間で、神とか佛とかいつたものは、何となく目に見えぬものでなければならぬ――といつた子供じみた議論では、どうしやうもないのである。

 天子樣も、風邪を引かれれば、熱が出るに違ひない。藥も召し上がるであらう。生物學や醫學の對象としては、天子樣も人間であることは、三ツ子でも知つてゐる。さういふ肉體をそなへたものは、崇拜の對象にはなつても、信仰の對象にはならぬ、それが宗教といふものだと言ふのなら、喜んで宗教の仲間から外してもらつていい。

 もう少し言はせてもらふなら、歴史上の天皇は、多く佛教にも歸依せられ、また御自ら神々に幣を奉られた――だから人間ではないかと言ふところだらうが、まさにその通りの御存在であるといふことを肯定した上で、私は、敢へて天皇を御本尊と仰がうとするのである。神社神道とは、さういふものだといふことを、もう私は早くからきめてゐるのである。

 第一、『古事記』や『日本書紀』を大事な所依の經典としながら、どうして天皇が本尊でないといふことが言へようか。私も宗教とか信仰とかいふ用語を假りに使ふが、それはあくまで假りの約束であつて、言ふならば神社とか神道とかいふものは、最も宗教くさくない、最も信仰くさくない宗教・信仰といふ程のものであつて、本尊が目にみえようが見えまいが、そんなことには、一切無關係である。‥‥

 さういふ假りの約束で、宗教・信仰といふ語を使用する時、神社神道とは、「天孫降臨」といふことを信仰の中心に置く宗教と言ふことが出來る。記・紀をすなほに讀めば、このことは、何人も否めまい。斷つておくが、あれは神話だといふ程度の常識なら、唯物史觀の信奉者でも、何やら學會の狂信徒でも肯なふ筈。さういふ程度の昔語りとして「天孫降臨」を受けとめるのではなく、その降臨の神統(本尊)が、今の現(うつ)つに、このわが日本社會の構造上の眞唯中に照臨ましましてゐるといふ感激に生かされて、はじめて神社神道が信仰となり、宗教となる。

 それに、もう一つ大事なことは、この天孫降臨といふハイライトに隨從された、天兒屋命・太玉命が、高皇産靈尊から、自分も神籬・磐境をたてて、皇孫の爲に齋ひまつるから、汝し命らも、宜し天津神籬ほ持つて、葦原の中ツ國に降り、また皇孫の爲に齋ひ、奉れよ、といふ神敕をいただかれ、これが神社の起源、同時に本質を爲してゐることである。伊勢の足代弘訓は、「天つ社 國つ社は あまたあれども 君を千歳と 守らぬはなし」と詠んだが、つづめて言へば、神社とは、もともと日本流のゴツド・ブレス・ザ・キングの祈りの場であつたのである。

(天皇本尊論は、神社界の某方面で、惡評を買つてゐるさうである。‥‥私とて、一見突飛な、人の意表をつくやうな「天皇本尊論」などいふ表現を用ゐて得意がつてをるつもりはない。「本尊といふ言葉が嫌いなら、やめてもよい」と、はつきり斷つてある筈である。だが、なぜ私が、それにも拘らず「本尊」といふコトバを使はねばならなかつたかといふことは、文脈全體を熟讀してもらへば判る筈だ。それは、人の耳なれぬ言葉であり、決して最適とも、本心思つてゐるわけではないが、實體の本質を、一度適切に合點させる爲には、時にかういふ表現を借りることも不可でなく、また捷径と考へたが故にほかならない。願はくば、批評にあたつては、「本尊」といふ表現を思想の文脈から切斷し、その適不適を論ずるといつた低次元の議論だけはやめいほしいといふことである)」と。
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 備中處士案、「天皇本尊」論は、かつて日蓮宗の一部にもあつた由であるが、彼の「法華曼荼羅」の、天照大神の御配置を見るにつけ、惡寒頭痛を催さゞるを得ず、固より小生の與かり知らぬ所である。幡掛正浩翁は、後に伊勢神宮少宮司となられた神道人、小生にあつても、元來、天皇を「本尊」と仰ぎ奉る者、天皇お坐しまして、初めて萬象悉皆が所を得るのである。杉本中佐『大義』の禪臭は、小生の嫌ふ所なりと雖も、「天皇は、天照大御神と同一身」に坐しますは、神典に神祕の漏傳ある所にして、天皇爲本の大道、即ち神道の骨髓である。之に因らざるものは、私見妄説たるを免れず、日本人たる者、宜しく「天皇歸一」の自覺に復らねばならぬ。私見に理屈をつけた論説は、小生、既に飽きた。祝詞・記紀・萬葉を拜讀して、靜かに「天皇爲本」(或は本尊)と云ふくらしの仕組みと古道の旨を聞け。萬古、天皇を仰ぎ奉れ。

 時あたかも、はゆまつかひ樣には、「宮城遙拜詞」のご紹介にあづかつた。有志の集會には、必ず國民儀禮あり。是非とも、主催者には先導し、嚴かに奏上あられたい。
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■宮城遙拜詞

 最敬禮

掛けまくも畏き

天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹しみ敬(ゐやま)ひ

遙かに拜(をろが)み奉らくと 白(まをー)すー


 最敬禮

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●從五位勳四等功四級・杉本五郎陸軍歩兵中佐の遺著『大義』第一章・天皇(昭和十三年五月・平凡社刊。平成十二年九月・大義研究會復刊。十八年三月・皇國史觀研究會復刊)に曰く、

天皇は、天照大御神と同一身にましゝゝ、宇宙最高の唯一神、宇宙統治の最高神。國憲・國法・宗教・道徳・藝術、乃至凡百の諸道、悉皆、天皇に歸一せしむるための方便門なり。即ち、天皇は絶對にましゝゝ、自己は無なりの自覺に到らしむるもの、諸道・諸學の最大使命なり。無なるが故に、宇宙、悉く天皇の顯現にして、大にしては、上三十三天、下奈落の極底を貫き、横に盡十方に亙る姿となり、小にしては、森羅萬象、天皇の御姿ならざるはなく、垣根に喞(すだ)く蟲の音も、そよと吹く春の小風も、皆、天皇の顯現ならざるなし。釋迦を信じ、キリストを仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の眞理・具現者、天皇を仰信せよ。萬古、天皇を仰げ。

 日本臣民は、自己の救濟を目的とせずして、皇威伸張を目的とせざるべからず。勿論、自己は、皇威に於て救はる。然れども救はれんがために、皇威伸張を念願するにあらず。天皇の御前には、自己は無なり。君民一如の自己、尊きにあらず。自己に體現せられたる、天皇の尊きなり。天皇への修養、即ち忠は、飽く迄も、天皇其れ自體のためならざるべからず。悉皆無所得、悉皆無所得、天皇は、人生のためのものにあらず。人生、天皇のためのものなり。 大楠公の歌へる、

身のために 君を思ふは 二心 君のためには 身をも思はじ

 天皇は、國家のためのものにあらず。國家は、天皇のためにあり。此の大自覺は、世上的價値を倒換して、永遠悠久の天皇に、唯一最高の價値を認むる時、單純、極めて明白に現れ來る。魂の救ひ・永遠の幸福が究竟の目的ならば、天皇は手段・方便にして、最高の存在に非ず。自己の學殖・職業、乃至生活程度によりて、尊皇の程度に上下あらば、其は自己中心の人物なり。唯々心身を捨て果てゝ、更に何物をも望むことなく、只管に、天皇に歸一せよ」と。
 
 

塾頭、ご照覽あらむことを。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月22日(木)19時37分20秒
返信・引用 編集済
   秋季皇靈祭の前日、こゝに、

スレツド『「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

を拜書し畢りました。「靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書・第二輯」であります。ご清覽たまはれば幸甚であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50


 ご閲覽、或は有縁の皆樣には、塾頭に捧げる文章がございましたら、是非とも、ご投稿いたゞきますやう、幾重にも御願ひ申し上げます。

 平成二十三年辛卯九月二十二日  備中處士 懇祷九拜
 
 

事務連絡。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月17日(土)11時23分27秒
返信・引用 編集済
   昨夜來、スレツドを亂立せる偏執狂が出來、今までは何方でも建立出來ましたが、已む無く、「管理者たる小生にのみ作成可能」と、變更いたしました。其の節は、連絡して下されば、即「誰でも可能」に戻します。ご賢察の程を。

 消せば建て、これで四囘目。かう云ふのを、「キモツ」て申すのでせうね。膽は大にして据わるを要す。さも無くば、宜しくホルモンにして喰らふべし。
 
 

泉水隆一監督「凛として愛」臺本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月12日(月)19時07分4秒
返信・引用 編集済
   此の仲秋十五夜、スレツド欄に、

泉水隆一監督「凛として愛」臺本

てふ新スレツドを開板させて戴きます。と、申しても、これから謹記いたします。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50



 此の臺本は、「愛国女性のつどい・花時計」代表・藤真知子女史より、『九段塾』に賜はりしもの、蓋し天下の孤本なり矣。極めて珍重、ご高覽たまはれば、小生の喜び、之に過ぐるものはありません。

 困つたときは、

藤 真知子 さん

河原 博史 道兄

 何でも、ご兩所へ。此の田舍者にとつて、本道に頼りになります、してゐます。とにかく人脈が凄い‥‥。今後とも御見捨て無きやうに、何卒、ご指導ご誘掖を賜はらむことを。

 而して本日は、『九段塾』掲示板創立第三周年の吉日なりけり矣。泉水隆一監督、即ち「九段塾」塾頭・福井金城翁、降り坐して、此の開板を愛でたまふなり。神さびたりとも、神さびたり。
  
 

頼神祇之靈、借天皇之威。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月 3日(土)00時35分11秒
返信・引用 編集済
   『靈的國防』とは、畏れ多くも「天津神・國津祇の恩頼(みたまのふゆ)に頼り、皇尊の稜威(みいきほひ)を借」りまつり、皇民たる者、眦を決して猛然と謹行ずべき神業である。先般、河原博史樣の、好個の論文を拜見させて戴いた。



●河原博史氏『靈的國防を恢復せよ』(『不二』平成二十三年八月號)に曰く、

「國民精神が溌剌とするといふことは、物質的にや經濟的に惠まれてゐるといふことではない。寧ろ物質的に滿たされてゐる時こそ、精神は得てして衰弱に向かうてゐる。無論、軍備があるかないかでも無い。よつて國防體制の充實を望むのであれば、思想的國防・信仰的國防の萬全を念頭に置くものでなければならない。爲めに我れら有志は、神州の正氣が國内に充滿されることを、何よりも熱望してゐるのである。‥‥

 思想的國防・政治的國防・軍事的國防等を充實させることは勿論のことであるが、これだけでは、惡念惡謀を持つ周到なる強大國の猛攻に抗じきれるものではない。靈的國防の結界を張り巡らせ、天佑神助を賜はらむと、吾人は信仰的國防に就て、深く一顧する必要があるのだ。

 巷、憲法第九條改正の聲、逞しくある。日本の保守を自稱するほどの人らが、何故に軍備なきのみを憾みとするのか。彼れらの淺はかな改憲論に觸れる度び、野生は、維新と云ふも、戰後體制脱却と云ふも、その實現には、猶ほ遠くあることを思はざるを得ない。靈的國防・信仰的國防を蔑ろとする保守派が跋扈する中で、我れらは御先祖や靖國神社に祀られる二百四十六萬柱の御靈に、今日の情況を報告する際、遺憾乍ら、遺憾乍らと、幾度も遺憾乍らを前置きしなければならない。

 此度びの震災では、自衞隊の活躍目覺しく、今後、自衞隊の法的立場に就て、遲蒔きながら議論されるであらう。改憲論者は水を得た魚の如く、之を追ひ風として、一層の氣勢を上げるに違ひない。それが宜しきことであるのか、惡しきことであるのか、野生は返答に苦しまざるを得ない。何故なら、尊皇なき軍隊を欲し、政體を護持する可くの國防を求める天皇機關説者の亞種‥‥、かうした者らを保守派と呼んで、聊かも遲疑しない日本の風潮を、野生は戰後體制と看破するのである。噫、憲法第九條改憲論者と呼べる者、みな、野蠻國や衆盲國の軍事力にばかり目を奪はれ、神州の眞面目に氣付かざるは、何故であらう」と。



 小生にあつても、「靈的國防」を懇祈しつゝあり。
  ↓↓↓↓↓
『日本學の再興』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/69
『大御名奉唱』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832

 而して「靈的國防」について、畏友・掌雲樣からは、嚴しい反省と忠告も拜受した。
  ↓↓↓↓↓
●掌雲樣『神徳私論』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/65

 又、はゆまつかひ樣には、磐山友清歡眞大人が靈著の披露を戴いてゐる。此のスレツドは、幾度も拜讀して戴きたい玉文である。例へば曰く、「靈的國防といふことは、何も奇異なことでも、珍らしいことでもなく、神國日本に於て上代以來行はれて居るところのものであって、手近なところでいへば、國民學校の兒童が、産土神社に参拜して、皇軍武運長久を祈願するのも、靈的國防の行動であるといへるのである。‥‥日本人の天佑神助の信念は、人力を怠つて僥倖を期待するものではない。人力の限りを盡して、全力を全舉して、尚ほ且つ神祇の感格を祷祈するものである。これが、靈的國防の意義である」と。
  ↓↓↓↓↓
●はゆまつかひ樣『靈的國防の本義・拾遺』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/l50

 更に最近、「唯々、天皇陛下の『聖壽萬歳・玉體安穩』をひと筋に祈り、日本國と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粹無邪の生涯を終へた稀有の神人」小泉太志命大人の紹介も偶見した。
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●奈良泰秀氏『小泉太志命大先生』
http://nippon-bunmei.cocolog-nifty.com/nara/2011/07/post-1d21.html

 然しながら、此の至重至大の要事「靈的國防」ほど、難しいものは無く、至信不動の信念、道骨を要して、道遠きことに歎息せざるを得ぬ。小生の神拜は、素人の域を出ぬ、他愛もないにものに過ぎず、掌雲樣仰せの「觀念の遊戲」に終るを恐れるものであるが、それでも、神代以來の本道の神業を目指して、只管ら神縁を乞ひ奉る熱情だけは堅持してゐる心算である。

 現代中今に於いても、神人と呼ばれる御方も居られるに相違は無いが、其の神人ならにび其の神人を語る門下(自稱・他稱を問はず)の眞僞貴賤――「審神(さには)」は、固より容易では無い。畢竟、分相應なる道を、武骨愚直に、獨り往くのみであるが、同時に、神縁恩頼を仰いで已まないのである。而して神縁恩頼を拜受せんが爲には、日々の修祓・神拜が不可缺であり、且つ先哲・同學の教導を必須とする。小生が審神の武器は、此の先哲先賢の教へである。先哲遺文を拜承することによつて、單なる妄信や凝り神道から逃れることが叶ふと思つてゐる。某眞僊の曰く、「神通は、信と不信とに在り矣」。河原氏のめでたき論説に感佩して、筆を執つた次第であります。
 
 

足利三代木像梟首の述志。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月30日(火)21時48分11秒
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  ~承前~

 福井久藏翁・平野彦次郎翁編『勤王文庫』第五編・詩歌集(大正十年五月・大日本明道會刊)は、

『興風集』・『興風後集』・『風簷遺草』・『雄魂雜書』・『精神一注』・『殉難前草』★・『殉難後草』★・『殉難續草』★・『殉難遺草』★・『殉難拾遺』★・『四英獄窓唱和集』・『都氣能雄久志』・『近世殉國一人一首傳』☆・『有節録』・『近世報國志士小傳』☆・『行餘集』・『歎涕和歌集』★※・『彰功帖』・『□[立心+隱の右]玖蒐岐集』・『振氣篇』☆・『嗚世餘音』・『大日本中興先賢志』・『風雲際會繪傳』・『慨士遺音』・『殉難士傳』・『勤王烈士傳』・『防長正氣集』・『維新志士遺芳帖』・『俟采擇録』

等より、王事・國事に關するものを撰擇編輯せるものにして、實にめでたき書なりけり。之を主として、「足利三代木像梟首事件」に於ける志士の詩歌を、こゝに拜記して、其の志操の梗概を、謹みて諸賢に供へ奉らむ。殊に此の義擧の本志は、師岡正胤翁の長歌に、平明に且つ鮮やかに謳はれてゐる。音吐朗々、唱詠されたい。
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【參考】
一、宮内省(圖書寮)藏版『修補・殉難録稿』(明治四十二年十二月成功。修補版・昭和八年十一月・吉川弘文館刊。題字は徳富蘇峰翁。序文は虚心黒板勝美博士)
一、影山正治翁『志士詩文集』昭和十七年十月・小學館刊
一、★藤田徳太郎翁『志士詩歌集』昭和十七年十二月・小學館刊に所收
一、淺野晃翁・竹下數馬翁『尊皇歌人撰集・勤皇烈士篇』昭和十八年四月・文松堂書店刊
一、淺野晃翁・竹下數馬翁『尊皇歌人撰集・勤皇學者篇』昭和十八年七月・文松堂書店刊
一、☆藤田徳太郎翁『維新志士・囘天詩歌集』昭和十九年七月・金鈴社刊に所收
一、田中卓博士『維新の歌――幕末尊王志士の絶唱』昭和四十九年五月・日本教文社刊
一、※近代浪漫派文庫一『維新草莽詩文集』平成十九年六月・新學社刊に所收

等、類書の甚だ多きを數ふるも、今の度びは、『勤王文庫』を以て主と爲せり。何となれば、則ち此書にしか無き歌、多ければなり。

 『修補・殉難録稿』に曰く、「癸丑・甲寅以來、尊攘の論、世に行はる。されど尊王と攘夷とは、一致して二途あり。尊王を主とする輩は、外患より内害を嫉む事甚し。内害とは、鎌倉以來、武家の王權を奪ふもの、是なり。仙石・長尾輩が、足利木像の首を斬りしは、其の所爲、粗暴なれども、其の志は愛すべし」と。

 而して、ふと、北崎勝史神主を想ひ出すこと、頻りなるものあり。未知の御方であるが、此の純乎たる魂の積み重なる所、神祇の照覽を得、其の大成を期するのである。尊皇攘夷の志士のみが有つ所の純魂こそ、夫れ國の寶である。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/729



一、三輪田綱一郎大神元綱
○人に示す
いざ子ども たはわざなせ 大丈夫に 生れ來し世に 又もあるべき
○題しらず
賤が屋の 蘆火のけぶり 一すぢに 心をくだく 世にこそありけれ

一、師岡豐輔正胤
○題しらず
天皇を たふとみ思ふ こころこそ えみしをはらふ 弓矢なりけり
○守の人の、我がいたく歌作る事を好むさまに云ふ
歌好む 我れとやおもふ 籠居の 爲すわざ有らぬ ことをしらずて
○三月十一日、加茂の神宮へ行幸ならせ給ふ由を洩れ聞き奉りて
聞きてだに いともかしこし 見奉らば 如何にか有らん 賀茂の行幸
○囚居の窓より月の影、哀にさし入りたるを
籠り居る 囚屋のまどを もる影も あはれにかすむ 春の夜のつき
○六月晦日
皇國を 汚す戎夷を はらはずば 祓除のわざも しるしなからむ
○おもふ事ありて
まことなき 歌作等が つくり歌 我れはこのまず 世のつくりうた
○寄夢述懷
さびしきは 深山に勝る こもり居に 世の憂き事の など聞ゆらん
○長尾武雄が馭戎雙六を物せしを見て
手ずさみの はかなき物も 國のため 戎夷をうたむ 事のみにして
○道すがらおもふむねあり
尺□[虫+獲の右]の かがむは延びむ 爲なれど いまのうき身は 何にたとへむ
○陳志
云ふやよき いはぬや好けむ 山川も 耳敏耳無し 有る世なりけり
すめろぎの 御爲に死ねと 教へてし 父のこと葉を なに忘れむや
國のため 死なむと思ふ 心こそ 神のたまへる たからなりけれ
國のため つくして死なば 我が魂は 神の御許に 行かずとも善し
○或時、思ひつづけたる
君のため 家をも身をも かへりみず つくす心そ やまとだましひ
○文久三年二月、足利三代の木像を梟首せし時の長歌、竝びに短歌
天地の 廣きが中に 國はしも 多しといへど 日の本の これが正路は 君臣の しな(品)定りて 天皇の 詔かしこみ もろもろの まへつ君たち まめやかに 仕へまつりて 萬代に 動くことなく 大道は 正しかれども まがつ日の 神のしわざと 大みこと 背きまつりて 天皇を 惱ませまつる 醜臣の 稀にはあれど たぶれらは 世にも出づれど 神直日 神の心と 醜臣を 罪したまひて たぶれらを きたむる中に 眞管よし 蘇我の馬子と 足利の 三世の醜臣 事なくて 世を終りきと 年久に うれたみありしを 思ふどち 我につどへて 世のさまを 語らふ時は たぶれらの 事におよびて 今し世に 蘇我の馬子は 其の罪を 責めんよしなし いでやいで 都の西の 何がしの 寺にすゑたる 足利の 世々の醜臣 木の像の 首ひきぬきて 五百年の むかしを今に ます鏡 うつし傳へて 其の罪を 糺すはいかに こころよき 事ならずやと 諸ともに 勇みたけびて わたる日の 暮るるを待ちて 風まじり 雨はふれども 雨まじり 風は吹けども その寺に い往き到りて 竝み立てる 木像に向ひ 雄たけびに たけびいへらく 高氏の 醜の親子は 天皇に 叛きまつりて 諸人を さわぎなやませ ためしなき 國の罪人 くなたぶれ ねじけ義滿 異國の 首長に乞ひて 我が身をば 臣と降して 皇國を 汚す罪人 其の外の 世々の醜臣 後の世の 弊を釀し 世の中の 亂れをおこし 罪のなき 人しもぞ無き 其のもとは ねぢけ高氏 事なくて その世過ぐとも いかでかも ゆるし置くべき 其の罪を 糺さむものと い競ひて 木首ひきぬき しかばねを うちくだかむと たけびつつ きそひかかれど あなしこめ 首はぬけども かかむりを 綾のみけしは 朝廷に おそれしあれば 形代に 手をばふれじと 壯士は 雄たけびしつつ 戰ひに 勝ちしさまして 降りしける 雨もいとはず 吹きすさむ 風もいとはず 鴨川の 河瀬にいたり 三芳野の かたををろがみ 鎌倉の かたに備へて たぶれらの 三つの木首を 板の上に ならべすゑ置き 其の罪を 板にしるして 見る人は 語り傳へよ 讀む人は しるし傳へよ 秀でたる 將軍の君の そのかみは いむかひかねし 高氏に われかち得たり たぶれらの 首を得たりと ほこりかち 言擧げしつつ 諸ともに 勇み喜び 家にかへりぬ
五百年の 昔にわれの 生れなば そのうつし身を 斯くしてましを

一、長尾郁三郎平武雄
○折にふれて
あはれ世に ことあら磯の 浪立たば 水づくかばね 我が願ふこと
○題しらず
忠やかに つとめましつる 年月の いさをあらはる 君のたまもの
もののふの 思ひこめにし あづさ弓 いま引くかたに 任す身の上
○獄中詠
君がため 死なむとおもひ 定めては ひとやの中は ものの數かは
はし鷹(一本作・わしたか)の たけきこころも 籠なれて あはれはかなく 送る月日か

一、大庭恭平景範
○題しらず
なみあらき 外の濱邊は しほかれて 秋さへかすむ 月を見るかな
罪なくて 見ばやと人の ねがふらん ひとやの中の 月を知らずや
○護送されるとき、紙筆を乞うて詠みし哥(『七年史』)
心なき 野邊の花さへ あはれなり 今年限りの 春と思へば
○獄に下る途中の作
君恩、深きこと、海に似たり。臣命、一毫、輕し。
復た心に關する事無し。檻車、夢を戴せて行く。
○獄中の雜作
鼎□[金+獲の右]、飴の如し、豈に敢て辭せんや。狂夫の心事、鬼神知る。
朝々只だ讀む、文山集。賦せんと要す、從容、死に就くの詞。
○又
三十三年、一夢の如く。平生の大志、遂に伸び難し。
言に寄す、天下の英雄の士。總べて從容、死に就くの人と作れ。
○又
身は獄中に落ちて、再び逢ひ難し。三間の板屋、晝、朦朧。
想ふ、君が醉後、時務を談ずるを。臥して見る、東山の臥容に似たるを。
○又
家山遠く隔つ、路、三千。身は縲紲と作りて、徒らに自ら憐れむ。
今日、衣を見るは、母を見るが如し。朝朝、著し得て、東山を拜す。
○又
誰か言ふ、忠孝、兼ね得難しと。一死、國に酬ゆれば、即ち兩全。
萬事、平生、人後に落つ。今年、初めて祖鞭の先に著く。

一、仙石佐多雄隆明
○武藏の六郷の渡を過ぐる時
後の世の 名をこそ惜しめ 玉川の ながれも清き ゆくすゑを見て
○川崎驛にて父母を思ひ出て
歎くにも なほあまりある 父母に これや別れの 限りとおもへば
○辭世
よしや身は いづこの浦に しづむとも 魂はまもらむ 九重のには
(一本作・たとひ身は いづこのはてに さらすとも 魂は都の 空にとどめむ)

一、角田由三郎紀忠行
○帝道唯一
すめろぎの 道にちまたは なかりけり 人のまことを 一すぢにして

一、石川一源貞幹
○折にふれて
大皇の 御こころ休め まつらむと 露のいのちも ながらへにけり
○述志
大君の みためとつくす(一本作・すめみこに 心つくせし) 大丈夫に 神のめぐみの なからましやは
○刑に臨みて
芳ばしき 名をやとゞめん 武夫の 世にさきがけて 花は散れども

一、梅村眞一郎眞守(『修補・殉難録稿』)
○櫻田義擧の烈士が靈を祀りて
消えて無き 後の名すらも 君が代の 護りと爲れる いさを雄々しも
薫る香を とめて散り行く 人よりも 後れて忍ぶ 身こそつらけれ
○師平田銕胤翁が都に上るに從ひ行くとて、從弟等にのこす
四方八方の くなたぶれらも 言止めて いそしき神の あとあるを見よ
知ると言はゞ いざこと問はん 石の上 古野の原の 道はいかにと
出てゝまた 歸らじと思ふ 武夫の 心の花を かゞみとも見よ
○鹿島の宮に詣でて
天の下 攘ひ清めし 古事を 今の此の世に 見んよしもがな
○香取宮にて
かくまでに 愚なる身を かゝる世に 何に爲んとて 神はうみけん
よしあしは 神に任せて ますら雄の 心のたけを 今や盡さん

一、伊藤益荒藤原嘉融(『修補・殉難録稿』)
○文久四年、思ふ旨ありて東に下る時
思ふ事 爲して成らずは 梓弓 ひき廻さじと 誓ふ都路
○辭世
春雨に みの覆ふべき 方もなく 今は笠間の 露と消ゆなり

一、水郡善之祐紀長雄
○吉村寅太郎に示す(『修補・殉難録稿』)
今よりは 互になれて 大丈夫の いづれ猛しと 磨かざらめや
○辭世
皇國の ためにぞつくす まごころは 知るひとぞ知る 神や知るらん

一、大樂源太郎弘毅
○放言十五首之一(内田伸氏『大樂源太郎』昭和四十六年四月・風説社刊。五十三年五月・マツノ書店復刻)
詔を奉じて、賊臣を誅す。大義、鬼神を泣かしむ。
遺風、餘烈の美。今、窮陬の民に在り。



**********

附載【靖國神社第二代宮司・賀茂水穗翁の哥】――『勤王文庫』所收

○題しらず

えみし討つ 勅言を待つも 年久し 老いぬさきにと 思ひぬる身は

**********
 
 

逆賊の首。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月25日(木)21時08分49秒
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  【後醍醐天皇・御遺詔――『太平記』延元四年八月十六日】

 たゞ逆賊、平がず、四海、未だ安からず。たゞ此れを恨みとなすのみ。太子、位に即かば、それ賢を任じ能を使ひ、(新田)義貞・義助の功を録し、務めて恢復を成し、以て朕が志を稱(かな)へよ。身を南山に□[病埀+夾土、うづ]むと雖も、しかも神(たましひ)は、常に北闕を望まむ。もし命を墜すものあらば、子は繼體に匪ず、臣は□[サ+盡]忠に乖かむ。



●角田忠行翁の哥――梟首事件詠歌二首

しこの首 きりて晒して みよし野の 君と臣とに 今はたむけん
いましよに ほてるたふら 心せよ このしなくさを おのが身にして



 「等持院足利將軍木像首斬り事件」とは、文久三年二月二十二日夜、京都北野天滿宮の西、衣笠山の萬年山等持院に在つた、足利氏三世、即ち等持院高氏・寶篋院義詮・鹿苑院義滿の塑像の首と位牌が引出され、翌二十三日未明、三條大橋(鴨川河原)に梟首された事件であつて、草莽の平田派國學者による義擧と云ふ。久坂秋湖(玄瑞)先生の曰く、「會津、若し捕縛の處置に出づる有らば、浪士等、皆、我が藩邸に來る可し、能く庇保せん」と。小生、年來、快哉すべき此の擧を注目してゐたのであるが、先般、菊池明氏『幕末天誅斬奸録』(平成十七年四月・新人物往來社刊)を落掌したるを機に、其の概略を筆記したい。

 此の事件の影響する所、頗る大きく、亦た取締る者(吉川神道――京都守護職)の思想信條を知ることが出來る、好き手がかりともなる。松平容保の曰く、「かゝる尊貴(高氏等)を辱しむるは、即ち朝廷を侮辱する者、殊に其の暴行たる、屍を鞭うつに同じ。速かに之を逮捕して嚴刑に處せざれば、國家の典刑、立ち難し」(『京都守護職始末』)となん。其の陋見、憐れむべし矣。何ぞ、朝廷を侮辱する者とは。惡逆無道を祀る、何ぞ神祇の赦す所ならむや。武士と云ふは、抑も誰が臣ぞ。天朝北面の古武士觀に還り、之に目覺めたる者、楠公祠を野晒しにして、醜奴足利の足を拜むこと、堪ふること能はず、七生報皇の至願の凝る所、斬奸梟首、吉野神宮ご祭神に奉獻するもの、固より已むを得ざるの至誠に出づるなり。快哉、々々。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/22

 然るに竹屋光晶樣の報告によれば、京都時代祭に、何と、足利高氏の復權を見たと云ふ。現代の闇は深くて長い。快哉を叫んで、今ま復た悲しみに沈む、腹悶、醫し難く候ふ也。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/91



●『修補・殉難録稿』・『京都風聞書』――三條大橋西詰の制札場「罪状書」――仙石隆明の筆

  逆賊・足利十五代

 此の者共の惡逆は、既に先哲の辯駁する所、萬人の能く知る所にして、今更ら云ふに及ばず。因て此の影像を斬戮せしむ。就ては贅言乍ら、聊か其の罪を示すべし。

 抑も此の大皇國の大道、只々忠義の二字を以て、其の大本とす。是れ神代以來の御風習なるを、賊魁・鎌倉の頼朝、世に出て、朝廷を惱まし奉り、不臣の手始めを致し、尋いで北條・足利に至りては、其の罪惡、實に容る可からず。是れ天地神人、共に知る所なり。然りと雖も當時、天下錯亂、名分紛擾の世、朝廷御微力にして、其の罪を糺し給ふこと克くせず。遺憾なり。豈に悲泣す可からざらんや乎。

 今、彼等の遺物を見るに至りても、眞に憤激に堪へず。我々不敏なりと雖も、五百年往古の世に出でたらんには、生首、引き拔かんものをと、握拳切齒、片時も止むこと能はざる事なり。今や、萬事復古し、舊弊一新の時運、追々不臣の奴原、罪科を糺す可きの機會也。故に我々申し合はせ、先づ其の臣賊の大罪を罸し、大義名分を明かさんが爲め、昨夜、等持院に在る所の、尊氏始め、其の子孫の奴原の影像を取り出し、首を刎ねて、是を梟首し、聊か舊來の蓄憤を散ずる者也。

 文久三年癸亥二月二十三日

 大將軍織田公に至り、右の賊統斷滅す。是れ些か愉快といふべし。然るに夫より爾來、今世に至り、此の奸賊に、猶ほ超過する者あり。其の黨、許多(あまた)にして、其の罪惡、足利等の右に出づ。若し夫れ等の輩、眞に舊惡を悔い、忠勤を抽て、鎌倉以來の惡弊を掃除し、朝廷を補佐し奉り、古昔に復し、積罪を贖ふの所置無きに於ては、滿天下の有志、追々大擧して、罪科を糺す可きもの也。

 右は、三日の間、晒し置く。若し取り捨て候ふ者は、急度、罪科を行ふ可き者也。



●『官武通紀』

一、逆賊 足利尊氏
一、   同 義詮
一、   同 義滿

 名分を正すの今日に至り、鎌倉以來の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致す可きの處、此の三賊、巨魁たるに依りて、先づ其の醜像へ誅を加ふる者也。

 二月二十三日



●『東西紀聞』

 三條と四條の間に、河原に晒し之れ有る首の下の札は、等持院の飾牌にて、黒塗りにて、金にて認め之れ有る上を、はりがねにて下げ之れ有り。‥‥等持院御靈屋番人六人、之れ有るを、拔き身にて追ひ拂ひ、役僧一人に案内致させ候ふ由。



【首謀者および實行者三十餘】――「*」(不明を含む)以外は、平田銕胤先生の門下、即ち平田大壑先生沒後の門人なり――

[捕縛]
一、三輪田綱一郎元綱(氏=大神/伊豫久米郡/處分=百日押込・當分京極飛彈守預け/外務權大丞・大山祇神社宮司)
一、布志乃舍・節齋・師岡豐輔正胤(武藏江戸/遠島・當分松平伊賀守預け/松尾大社大宮司・宮内省御用掛)
一、竹廼舍・宮和田勇太郎胤景(平/下總相馬郡・名主/洛中洛外追放・當分土方智千代預け/東京深川八幡神社神職)
一、鼎齋・青柳建麿高鞆(源/下總香取郡・豪農/遠島・當分藤堂佐渡守預け/鹿島神宮少宮司・實行教權大教正)
一、建部建一郎(常陸・牛久藩士/遠島・當分藤堂佐渡守預け)*
一、長尾郁三郎武雄(平/京都・綿商/永牢/贈正五位・靖國神社祭神)
一、長澤眞事文敬(陸奧/遠島・當分西尾謙之助預け)*
一、含章齋・野呂久左衞門直貞(備前・岡山藩陪臣/洛中追放・當分小笠原左衞門佐預け/彈正臺大巡察)
一、武廼舍・龜洲・西川善六吉輔(平/近江蒲生郡・肥料商/山城國中構ひ・江戸十里四方追放・當分親類預け・押込/日吉大社大宮司・生國魂神社宮司)
一、松齋・大庭恭平景範(陸奧・會津藩士・御聞番/遠島・當分松平伊賀守預け/司法省判事)*
一、仙石佐多雄隆明(武藏江戸・因幡鳥取新田藩士/自刃・靖國神社祭神)
一、高松超之助信行(信濃更級郡・豪農/鬪死/靖國神社祭神)

[以下、轉進]
一、伊吹舍・鎭石室・角田由三郎忠行(紀/信濃佐久郡・岩村田藩士/熱田神宮大宮司・贈從四位勳六等)
一、小室理喜藏信夫(丹後宮津・生糸縮緬商/貴族院議員)
一、可庵中島永吉錫胤(阿波・徳島藩士・京儒中島椋隱の養子/男爵・貴族院議員)*
一、岡元太郎敦(備前・岡山藩陪臣)
一、北村善吉義貞(播磨飾東郡・豪農/姫路藩士)*
一、榮齋・梅村眞一郎眞守(肥前・島原藩士/靖國神社祭神)
一、伊藤益荒嘉融(藤原/肥前・島原藩士/靖國神社祭神)
一、石川一貞幹(源/武藏江戸・因幡鳥取鹿奴藩士/贈正五位・靖國神社祭神)
一、水郡善之祐長雄(紀/河内錦部郡・大庄屋・水郡神社祀官/贈正五位・靖國神社祭神)*
一、中村愼吾(常陸・郷士・豪農)*
一、野城廣助信哉(上總市原郡・庄屋)
一、西山・大楽源太郎弘毅(長門萩・萩藩陪臣)*
‥‥



――乞、ご示教を。――

 件は、國學院大學竝日本文化研究所編『和學者總覽』平成二年三月・汲古書院刊、他を參看せり。誤謬・遺漏の多きを恐る。博雅の士の増補・訂正を求むるなり。願はくば、只管ら批正を乞ひ奉ると云ふ。

 なほ『勤王文庫』第五編・詩歌集・大正十年五月・大日本明道會刊に、志士の哥詩多し。三輪田綱一郎大神元綱翁は、『幸安仙界物語』第二卷が後記を書きし人、亦た角田由三郎紀忠行翁は、『古史略』を編み、神代史の年代を定めし人、いとゞ床しく思ふなり。
  
 

建武中興‥‥、明治中興‥‥、そして、平成中興‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月24日(水)22時45分3秒
返信・引用 編集済
  【吉野時代と所謂南北朝正閏問題】
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm



 こゝに先師に據る、一代の碩學の斷案あり、亦た之を繼承せる先師の定論がある。謹みて拜記するは、即ち是れ現代我等の問題と捉へるからに外ならず、諸賢の參考に供したい。



■虚心黒板勝美博士『南北兩朝正閏論の史實と其斷案』(『日本及日本人』明治四十四年三月特輯號に所收)を、寒林平泉澄博士が、其の要領の大體(『悲劇縱走』昭和九年條。昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊に所收)を書して曰く、「

一、みだりに激昂せず、感情に走らずして、先づ事實を究める事が大切である。

二、事實が定まつて後に、初めて大義名分が論ぜられるのであつて、大義名分があつて後に、事實が出て來るのではない。

三、「問題は、すでに『大日本史』で決定してゐる。今更ら之を改める必要が無い」といふ論者もあるが、それは最近史學の進歩を無視したものだ。一例をあぐれば、笠置山陷つた時、光嚴天皇に御渡しになつた神器を、『大日本史』は『増鏡』によつて僞器であらうと推斷したが、それは誤りであつて、實は眞器であつた事が、今日確認せられるに至つたのである。

四、歴史を教育に應用するに當つて、取捨はよろしい。事實を曲げてはならない。教育上、都合のよいやうに曲げるのは、歴史の權威を無視するものだ。

五、「正閏の論は、事、皇室に關し、臣子の分として口にすべきでは無い」と論ずる人もあるが、正成が忠臣なりや、尊氏(備中處士案、ママ。「高氏」と書すべし)が逆臣なりやを定める爲には、正閏が先決であり、兩方とも正しいなどと云ふのでは、歸趨に迷ふ事となる。

六、皇位繼承の問題は、關連する所、非常に複雜であつて、之を詳述解明する事、容易でないが、とにかく私見を述べよう。

七、兩統迭立といふは、後嵯峨天皇崩御の後、遺詔によつて、後深草天皇(御兄)には、所領を多く御讓りになり、その代り、龜山天皇(御弟)には、惣領として皇位繼承の權を與へられた。その御兄の御系統を持明院統といひ、御弟の御系統を大覺寺統といふ。しかるにやがて幕府が介入して、大覺寺統の後宇多天皇の次に、持明院統の伏見天皇が御立ちになる事になり、後嵯峨天皇の御遺詔とは違つて來た上に、その伏見天皇の次には、後伏見天皇の御即位となつた爲、大覺寺統の不平は高まり、再び幕府の介入があつて、後伏見天皇の次には、大覺寺統の後二條天皇が御立ちになる事になり、それよりいはゆる兩統迭立の形をなすに至つた。幕府としては、是れが朝廷の勢力を弱める爲の巧妙なる政策であつた。つまり迭立といふ事は、幕府の介入によつて起つたのであつて、朝廷に於いて初めから定められた方針では無かつたのであります。

八、やがて文保元年、又もや幕府の介入があつて、後醍醐天皇御即位の後には、やはり大覺寺統の邦良親王を御立て申し上げ、次には持明院統の光權院を豫定される事になりました。之を「文保の御和談」と云ふ。このまゝ進めば、後醍醐天皇は非常に不利な立場に御立ちになり、その系統は、皇位繼承に無縁とおなりになるおそれがありました。

九、元亨元年、後宇多上皇、院政を御やめになり、後醍醐天皇の親政となりました。

十、是に於いて天皇は、北條氏を討伐して幕府を倒し、政權を朝廷に取戻さうと企てられました。それは皇位繼承問題のみでは無く、百弊を一新して、日本國を正しい姿に戻す所以である。

十一、討幕のいくさ敗れて、笠置の陷つた時、幕府は光嚴天皇を擁立するのであるが、後醍醐天皇が之を承認し給うた形迹は、一つも無い。

十二、笠置の敗れた時、御渡しになつた神器を、『大日本史』が新器とし、栗田寛博士の『神器考證』にも、そのやうに論じてゐるが(平泉博士の曰く、「『先師の説を撃つは、遠慮すべきことなるが』と、特に斷つて居られるのは、美しい態度と、ゆかしく思ふ事であります」と。)、『花園院宸記』によれば、正に神器であつた事、疑を容れない。然しそれは強奪せられたのであつて、御讓りになつたのではない。

十三、建武の中興やぶれて、延元元年、尊氏、九州より攻上つた時、尊氏は、光嚴院の院宣を申し下して、賊名を避け、そして光明天皇を擁立した。即ち北朝の第一代と稱せられ給ふ御方である。後醍醐天皇が、尊氏の強請により御渡しになつた神器は、かねて用意された模造品であつて、眞正の神器は、御身に附けて、吉野にお入りになつたのである。

十四、當時、主權は何處に在つたかといへば、元亨元年、後宇多上皇の院政廢止以後、主權は完全に後醍醐天皇に存したのである。此の點が、此の問題の解決上、最も大切である事を忘れてはならぬ。

十五、皇位と神器とが、密接にして離るべからざる事は云ふまでも無い。然し一考すべきは、神器の所在のみに依りて、皇位の正閏を定むるの可否である。壓迫によつてやむを得ず、神器を渡された場合、御讓位の御意志が無ければ、それは無效である。

十六、北朝論者と南朝論者と、それぞれの立場に於いて主張する所があるが、當時の爭、かはるがはる立たれて、其の順位を爭はれたので、正閏を爭はれたのでは無い。問題は、主權の所在である。元亨以後、主權は、絶對に後醍醐天皇に在つた。文保の御和談も、幕府の強壓も、天皇の絶對主權を曲げる事は出來ない。その後醍醐天皇が、光嚴天皇・光明天皇を認められなかつた以上、いはゆる北朝は、決して正統とは云へないのである。

十七、南北分立の間、正閏を論ずれば、南を正統としなければならないが、後に南北合一の議成つて、後龜山天皇より、神器を後小松天皇に傳へ給ふに及んで、後小松天皇は、完全に正統を御繼承になつたのである。南北の對立を、臣下より見れば、強弱の問題であるが、皇室から云へば、北朝に於いても、初めより終りまで、いさゝかの御惡意は無く、迭立の慣行上、當然の順序を受けようとし給うただけの事である。況んや合一以後に於いては、南も北も、今は無く、一點の曇りも無き、萬世一系の尊嚴を仰ぐのみである」と。



■寒林平泉澄博士『建武中興の本義』を、自ら書かれた概略(『悲劇縱走』昭和九年條に所收)に曰く、「

一、「當時、鎌倉幕府衰へて來たから、討伐を思ひ立たれたとする説」は誤りであつて、九州探題自害の時、殉死二百四十人、六波羅探題自害の際、殉死四百三十二人、鎌倉陷落の日、高時に殉ずる者、一族二百八十三人、從兵八百七十餘人、其の他六千餘人といふを見れば、鎌倉武士、勇武義烈の氣象は、猶ほ衰へてゐなかつた事。

二、「嘉暦元年三月、皇太子邦良親王薨去の後、後醍醐天皇は、御自分の皇子を皇太子にしたいとの御希望であつたのに、幕府の介入によつて、持明院統の光嚴院が皇太子に立たれた爲、天皇は討幕に踏切られたとする説」は誤りであつて、それより二年前の正中元年九月、天皇御討幕の計劃漏れて、土岐・多治見等は殺され、日野資朝は佐渡へ流された事。

三、護良親王は、後醍醐天皇の第一皇子であつたのに、文保二年二月二十六日、梶井門跡に入つて僧侶となり、やがて叡山をひきゐて、官軍を指揮し給うたが、此の梶井御入堂の日は、後醍醐天皇御踐祚の日であるから、こゝにすでに重大なる御決意がうかゞはれる事。

四、後醍醐天皇と申し上げるのは、崩御の後の御謚では無く、御生前御自ら名乘らせ給うた御稱號である事は、延元元年六月の日光の銅□[金+宛]の銘によつて明かであり、それが醍醐天皇・延喜の御代を目標として、日本國の中興を志し給うたからである事は、『元亨釋書』上表によつて察せられる事。

五、更に溯れば、後醍醐天皇をして、醍醐天皇の再來再生たらしめようとの御考へは、御父後宇多天皇に、すでに窺はれ、元亨元年十二月九日、後宇多上皇の院政を廢して、後醍醐天皇の親政とし給うた時、建武中興は、すでに約束せられてゐたとすべき事。

六、その討幕及び中興の御計劃は、頗る雄大且つ深遠であつて、一例をあぐれば、楠木正成をして城を常陸の瓜連に築いて、此處に代官を置いて守らしめ、又た出羽國屋代庄の地頭職を正成に與へて、此處にも其の代官を配置せしめ給うた事。

七、「中興の事、一たび成功するや、天皇は驕奢遊宴に耽り給ひ、その爲に國費窮乏して、人心離反したとする説」は誤りであつて、建武元年九月、石清水行幸、ついで東寺の塔供養の際の御願文には、中興の希望であるから、節儉の法令を出だし、衣服等すべて粗品を用ゐしめたとあるが、之に對して東寺の人々、大いに驚き、その法令の緩和を願ひ出た程である事」と。



●寒林平泉澄博士『建武中興の本義』(昭和九年九月・至文堂刊。五十八年五月・日本學協會水戸支部復刊)に曰く、「

 王政復古を目指す幕末の志士、安政の大獄に倒れ、櫻田門外及び坂下門に散り、五條また生野に敗れ、敦賀に斬られ、更に禁門に躓いて、大事も今は最早や是迄と思はれた時、二十六歳の青年にして、單騎身を挺して、囘天の偉業に口火を切つた高杉東行は、その直面する時機を洞察して、「是れ此の時、日本の日本たらんと欲する日也」と喝破した。まことに明治維新の大業は、これ日本の日本たらんとする大理想の實現であつたのである。しかるに日本の日本たらんとする大理想は、之に先だつ事數百年、後醍醐天皇によつて掲げられ、楠木正成を始めとして幾多忠烈の士の、生命を捨て家を失ひ、一切を犠牲にして之を護りし爲に、暴風雨の中にも空高く飜る事數十年、しかも時、利あらず、その大旆は遂に倒されて了つたのであつた。明治維新の志士は、この一度倒されたる大旆、日本の日本たらしめんとかる大旆を、再び高く中天に掲げんとしたるもの、即ち特に具體的にいふならば、正成の遺志を繼承せんとしたのであつた。曠古の雄圖、「宇内一帝を期し」たる眞木和泉守が、病中血を吐いて、しかも猶ほ五月二十五日、楠公の祭を怠らざりしもの、よく之を證するではないか。即ち見る、建武の中興は、日本の日本たらんとする大苦修、大試練、前には上代憧憬の情に包まれて大化の改新をかへりみ、後には七生報國の志の遺して明治維新を望み、承前起後の偉大なる働き、まことに日本歴史の中軸をなすものといふべきである。‥‥

  建武中興は、かくの如くして起り、かくの如くして成つた。それは決して幕府の衰微に乘じ、皇室の御私情の爲に起されたものではなかつた。又それは決して大勢に隨ひ、世論に追從する人々によつてなされたのではなかつた。即ちそれは日本をして眞の日本たらしめんとする大理想の下に、強敵怖れず、百難屈せず、君は君として、臣は臣として、まつしぐらに日の本の道を進み給うたものに外ならぬ。建武の中興、その目ざさるゝ所は、まこと皇國日本の中興に外ならなかつたのである。‥‥

 是に於いて建武中興失敗の原因は、明瞭となつた。即ちそれは天下の人心、多く義を忘れ利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏、誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ參じ、其等の逆徒、滔々として天下に充滿するに及び、中興の大業、遂に失敗に終つたのである。こゝに我等は、この失敗の原因を、恐れ多くも朝廷の御失政、殊には後醍醐天皇の御失徳に歸し奉つた從來の俗説を、大地に一擲しなければならぬ。否、我等の先祖の、或は誘はれて足利につき、或は義を守つたとしても、力乏しくして、遂に大業を翼贊し奉る能はざるのみならず、却つて聖業を誹謗し奉る事、六百年の長きに亙つた罪を懺悔し、陳謝しなければならぬ。建武中興の歴史は、まことに懺悔の涙を以て讀まるべきである。しかも懺悔の涙を以て讀むといふを以て、單なる追想懷古と誤解することなかれ。建武の昔の問題は、實にまた昭和の今の問題である。見よ、義利の戰、今如何。歴史を無視して、己の由つて來る所を忘れ、精神的放浪の旅、往いて歸る所を知らず、國體を閑却し、大義に眛く、奸猾、利を求め、倨傲、利に驕る、これ何人であるか。滔々たる世の大勢に抗して正道を求め、眞の日本人として己の分をわきまへ、一意、至尊を奉戴して、その鴻恩に報い奉り、死して大義を守らんとする、果して何人であるか。問題は、こゝに、六百年前の昔より、六百年後の今日に、飛瀑の如く急轉直下し來る」と。
 
 

「九段塾」塾頭・最終講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月15日(月)23時20分4秒
返信・引用 編集済
   スレツド欄に、本掲示版に於ける塾頭遺文を抽出せむと欲し、

「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

てふ新スレツドを、些か期する所あつて、建てさせて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/

 一日一枠、同學相共に、ご高覽、或は再勉強たまはれば、之に過ぐる喜びはありません。

 先づは、靖國神社遊就館に於いて、我が塾頭、即ち泉水隆一監督作品『凛として愛』の再上映を期したいものであります。是れ「靖國神社正統護持」の爲めの、さゝやかな第一歩であります。然し此のさゝやかなる義擧の果たす所、其の意義、其の影響は、眞に甚大にして、皇國の正氣を覺醒せしむることになるに相違ありません。
 
 

生年月日考證。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月12日(金)21時19分25秒
返信・引用 編集済
   大げさな表題であるが、小生、これでも苦慮いたしました。

 我が塾頭歸幽日は、

http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/
  ↓↓↓↓↓
平成二十二年七月十六日、行年六十九。

此の享年は、小生が常識としては、數へ歳であるからして、先づは生年は、昭和十七年壬午と推定。しかし待てよ、關東では、或は滿年齡で云ふのか知らんと、疑念が湧く‥‥。まさか‥‥。坊主が滿年齡で云ふものか‥‥。そこで、藤真知子女子にお聞きしたら、「普通、滿年齡ですよ」となん。嗚呼、我が國俗、享年の數へ方も、遂に「個人主義」に犯されてしまつたと云ふことか。悲しみは、暫く措く。兎も角も我が塾頭は、昭和十六年辛巳に生れたるなるべし。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1070

 後は月日。これは皆目、判らない。藤女史の曰く、
塾頭は、どうしても年齡を仰せにならない。誕生日だけでも教へ下さいと御願ひしたら、四月十二日である由」と。暦を繰れば、陸軍大學校開校日なり。然し塾頭は、海軍畑、これは些か牽強附會でした。

 福井金城翁の生年月日が、これにて遂に決定された。

昭和十六年辛巳四月十二日、禀生。

 然し數へ歳七十とは、我々の豫想を遙かに裏切る若さでありました。塾頭の文章から、年齡を窺はせるもの二三あるも、最後まで‥‥韜晦‥‥。長い間、小生は、塾頭は大正生れと確信してをりました。然れども再言す、「塾頭は、身も心も、どうしても『戰前の人』でなければならなかつたのだ‥‥」と。小生が五十半ばだと云ふに、二三年前までは、四十前にしか見えぬと云はれたのとは、大きい相違なり。小生も、七十歳に見られる貫禄をつけねばならぬ。
 
 

あな、嬉しき哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月11日(木)00時12分40秒
返信・引用 編集済
   御忙しい中、「花時計」藤真知子會長から、此の九段塾に投稿くださいました。本道に有り難うございます。

 藤會長は、最晩年の塾頭の動靜を知る御方、そして『凛として愛』を頒布して下さつてをられます。今の度びは「泉水隆一監督の想出」を語つて戴ける由、九段塾としては、歡喜して御迎へ申し上げたいと存じます。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

 かつて塾頭の曰く、「今、若い女性と付き合っています。これが元気のもとか」と。



追記。
 藤會長には、『凛として愛』の脚本の消息を知られませんでせうか。若し天下に一本でもあれば、拜記して九段塾のスレツドに掲げたく、是非とも御周旋、宜しく御願ひ申し上げます。



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/58
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 塾頭の曰く、「名越二荒之助前高千穂商科大教授が、去る(平成十九年四月)十一日、呼吸不全で亡くなられた。今日(十四日)、午前十一時、目黒正覚寺で葬儀・告別式。ごく親しい人だけに訃報は知らされて、今朝まで内密にされていた。ソ連に抑留された経験から、『ともかく長いものに巻かれても、生き拔くことが最先決だ』と云う信念を、秘かに持ち続けて来られた先生でした。生き抜かれたことで、復員後、捻じ曲げられた歴史の修正に、生涯を賭けられることが出来た。貴重な考え方だと、小生は思った。何度か親しくお話したことがあった。小生を先生は、『自分より三つぐらい、年上かと思っていましたよ』と、以前言われたことがある。『じっと我慢する』ことも必要なんです――と、小生にはよく言っていた。「一兵士」で書いていることは、先生は、多分、知らなかったろう。ご冥福を心からお祈りします。人生、古より、誰か死無からん、丹心を留取して、汗青を照らさん‥‥」と。



 愚案、名越二荒之助翁、大正十二年、備中國笠岡生れ。享年八十五。然らば塾頭は、翁より大正九年生れに見られてゐたことになる。塾頭は、生前に其の周圍にも、自らの生年を容易に漏らさずと、藤真知子女史から聞くも、實は昭和十六年生れ、翁より十八歳も若ければ、其の老成、見るべきである。蓋し塾頭は、大正生れなるを祕かに渇望自任し、病身のこともあつて、かく振舞はれてゐたのだらうか。‥‥塾頭は、どうしても「戰前の人」でなければならなかつたのだ‥‥。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/65



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1075
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 泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』(平成十四年九月十八日)に曰く、

「現在、私は靖國神社に祀られる英霊そのものは、大切にしたいと考えておりますが、現在の靖國神社執行部である、湯澤(貞)宮司・三井(勝生)権宮司・山口(建史)総務部長の三人を信じてはおりません。又、神社に上映中止を迫ったと言われる阿南(惟正)総代(阿南惟幾大将の遺児)・小田村四郎総代(拓殖大学総長)、他に小堀桂一郎氏などの一連の著名な学者・研究者も、私は信じていません。彼らが、今後、英霊に対してどのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。‥‥

 本作品(『凛として愛』)の完成後、同時進行していた真珠湾攻撃の真実を描いたアニメ併用の『太陽に向かって翔べ』や『大東亜戦争の真実』の二作品も、編集を中止しました。

 『太陽に向かって翔べ』の作品では、スタジオに、真珠湾攻撃に出撃した三十隻の縮小艦船模型に、潜水艦部隊三十数隻(縮小模型は龍角散社長よりお借りする)、また航空部隊の三機種の模型を準備し、三日がかりで、その威容を撮影。そして真珠湾攻撃に参加した空母加賀の雷撃隊のお一人のインタビューや、ハワイまでロケ、真珠湾攻撃を直接目撃した日系二世の元米軍将校のインタビューなどで構成、真珠湾攻撃の真実の姿を描く予定でしたが、これも中断せざるを得なくなったこと、誠に残念です。ご協力頂いた方々には、申し訳ないの一言です。

 『大東亜戦争の真実』では、戦後、初めてカメラの前に立たれたアッツ島生き残りの元兵士の貴重な証言、山崎大佐の遺児・山崎保之さんのインタビュー。また日赤の従軍看護婦の方、島根県の山村で戦後の日本の歩みを批判する人々の話、あるいは玉砕の島ペリリューに十日間ロケ、彼らは、どのように執拗に闘ったか――その雄渾の姿を描くつもりでしたが、これも中止という運命になりました。

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません(ママ。愚案、「浮かばれない」とは‥‥。塾頭、餘程憤慨せしならむ。晩年の塾頭には、考ふべからざる表現なり矣)。ただただ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が「靖國神社で逢おう」といった言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということを、どうかよくお考えになって下さい。その上で改めて、靖國神社というものを考えて下さい。決して彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています」と。



 愚案、『太陽に向かって翔べ』と『大東亜戦争の真実』と‥‥、此の二作品は、何處へ消えてしまつたのであらうか。靖國神社の倉庫に、或は其の斷片が存在してゐるのかも知れない。其の關係協力者は、何處へ霧散してしまつたのであらうか‥‥。塾頭の誠心は、インタビユー・取材を通して、已むを得ず、反國家を裝はざるを得ぬ人をして、其の穢れを祓ひ、其の眞實の聲を引出したと云ふ(『凛とし愛』囘天の件りに出る老婆等)。其の散逸は、惜しみても餘りあるものと謂はねばなるまい。
 
 

思い出

 投稿者:藤 真知子  投稿日:2011年 8月10日(水)23時24分16秒
返信・引用
  九段塾のみなさま、初めまして。
藤真知子と申します。
思い出話しを書き込ませて頂きます。

塾頭こと泉水隆一監督とは平成21年の年末に「凛として愛」の上映会を行った時に知り合いました。
それから色んなお話をしました。

最初に監督と連絡を取った時に
「凛として愛」の上映会を企画はしたものの、予算はほとんどなくて許可してもらえるのか、とても心配でした。
でも連絡をしたら「どうぞご自由に」とのお返事で、
条件など聞いたらそういうものは何もないという事でした。

初めてお会いした時はリハビリセンターに入院中で、
そこのビル内にある喫茶店に入り、2~3時間お話をしました。
今の保守に呆れている事や「女性はデモや抗議などに参加するのではなく
女性にしかできない事をやりなさい。子供の教育の事などに力をいれたほうがいいよ。」というような事を話されていました。

それから何度かお見舞いに行くたびに1時間から2時間、色んな話をしました。
お見舞いに行くと帽子やマフラーを身につけたりしていてとてもオシャレをしていました。
監督は「私はネットはほとんどしない」と言っていたのですが、
行くと一生懸命パソコンに向かっている事がありました。
きっと九段塾に書き込みをしていたのかもしれませんね。

パソコンのそばには「少年日本史」という歴史の本があり、
沢山の付箋がはられており、書き込みも沢山してあって、
「次回の映画の構想をねってる」と言っていました。

足が不自由だったのでリハビリをしていたのですが、
九段会館での「凛として愛」の上映会が決まり、壇上に立つ事になった時に
九段会館の壇上へは自分の足で歩いてあがりたいと言われ、
九段会館の階段の段数、階段の幅、高さを調べて、
上映会までの約1カ月、リハビリセンターで同じサイズの階段で同じ段数を毎日あがってリハビリをし
九段会館では自分の足で階段をあがり、壇上に立ちました。


~まだ続きます~

http://www.hanadokei2010.com/

 

自衞隊が皇軍になる日。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月 7日(日)09時51分40秒
返信・引用 編集済
   謹みて、中島一光翁の『自衞隊が皇軍になつた』を紹介させて戴きたい。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Kougun.htm



 愚案、「自衞隊が皇軍」となつたならば、其の殉職者は、靖國神社に合祀されることが叶ふが、隊内に於いて、未だ「邪蘇暦」で教育されてをるやうでは、眞の皇軍たるを得まい。「國民の生命・財産を守る」所の國軍では、「愛する家族・戀人」しか守ること能はぬ。此の西暦で國史の論文を書く最高幹部も、かつて存在した。元號の敕裁は、天皇大權の一つであるが、之を奉ずる者(大御政の下に生くる民)、眞に鮮し矣。關係各位の覺醒を乞ひ奉る。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/106
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/146
  
 

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