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先哲遺文を承けて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月14日(金)21時18分51秒
返信・引用 編集済
   九段塾塾頭――泉水隆一監督の遺訓は、「尊王・勤皇の風を吹かせよ」でありました。此の管理者の愚鈍なる、其の志を伸べ得ずして、眞に申し訣なく、先哲遺文から、舊稿を抄して掲示させて戴き、其の責めの一端を塞ぎたいと存じます。小生の座右を離れざる玉章であります。必無の論も含みますが、義理の究明の極論、ご賢察ください。
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【神敕嚴然――皇國體の基礎】



■崇道盡敬皇帝舍人親王謹撰『日本書紀』卷第二・一書(所謂「天壤無窮の神敕」)に曰く、

「天照大神、皇孫に敕して曰はく、
葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地なり。宜しく爾、皇孫、就きて治せ。行きくませ矣。寳祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮り無かるべし矣』」と。

――荻原擴博士『天祖の神勅』(昭和十一年八月・藤井書店刊)の訓讀集成の歸結に曰く、
「葦原の千五百秋の瑞穗の國は、是れ吾が子孫(みこ)の王(きみ)たる可き地(ところ)なり。宜しく爾(なむぢ)皇孫(すめみまのみこと)、就(ゆ)いて治ろしめせ。行(さ)きく矣。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさんこと、當に天壤とともに窮まり無かるべし矣」と。

――略訓
「あまつひつきの みさかりは あめつちと きはみなからんものそ」



●北畠准后親房公『神皇正統記』第二代・正哉吾勝々速日天忍穗耳尊の御條に曰く、

「吾勝尊、降り給ふべかりし時、天照大神、三種の神器を傳へ給ふ。後に又た瓊々杵尊にも授ましゝゝしに、饒速日尊は、之を得給はず。然れば日嗣の神には坐さぬなるべし[此事、舊事本紀の説也。日本紀には見えず]。天照大神・吾勝尊は、天上に留り給へど、地神の第一・二に數へ奉る。其の始め、天下の主(きみ)たるべしとて、生れ給し故にや」と。



●濯直靈社遊佐木齋先生『神儒問答(鳩巣室直清に答ふる書)』第二(元祿九年十月十五日)・第三(元祿十年六月十八日)に曰く、

「唯だ『若し王者起ること有らば』の一語(鳩巣の言)、未だ疑ひ有ることを免れず。其の『王者起る』と曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては、則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮り無かるべき者、諱む可きの甚だし焉。‥‥

 夫れ人や也、生るれば必ず死し、王や也、興れば必ず亡ぶ。必然の理也。然れども我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか、之れ有らん。天地と共に主爲り、開闢と共に君爲り。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず」と。



●谷秦山先生『靜軒宮地介直に答ふる書』(正徳元年辛卯・正徳二年壬辰)に曰く、

抑も我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也。神代の古風、猶尚ほ考ふ可し。以て普天に軌則して、愧づる無かる可し。而るに我が國の人、質朴餘り有りて、考究精しからず、反りて外國敗亂、百起百滅の遺塵を信じ、彼の風を移して、以て我が人を化せんと欲す。何ぞ其の思はざるの甚だしき也。‥‥

 日本、開闢以來億萬載、帝皇一統、聨聨綿綿、一日の如し矣。中古而降、武家權を執り、政を天下に施し、閑に王室を衞る。而るに君臣上下の大分、天地と位を同じうし、未だ曾て搖ぐこと有らず焉。是れ本末曲折、顯著明白、舟車の通ずる所、孰か之を知らざらん。‥‥

 夫れ國の強久は、土地甲兵の盛んに在らずして、名分の嚴に在り。‥‥我が朝、終古外國の侵侮を受けざる者は、豈に大小強弱の勢を以てせん哉。唯だ其の名分の正、萬國に冠絶すれば也」と。



●森井左京翁・玉木葦齋翁『神代卷藻鹽草』に曰く、

「近く諭さば、異國には、大君の上に、天帝あり。敕命の上に、上天の命あり。吾が國の大君は、所謂天帝也。敕命は、所謂天命と心得べし。假令ひ天災ありて、大風洪水、或は時疫流行して、人民多く死亡に到ると雖も、一人も天を怨むる者はなく、下民、罪ある故に、天、此の災ひを降せりとして、反つて身を省みる。是れ常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり」と。



●吉田松陰先生『堀江克之助に與ふる書』(安政六年十月十一日)に曰く、

「神敕、相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神敕を疑ふの罪、輕からざる也」と。



【體・用の論――「體」は、天壤無窮の神敕に因り確定す矣。「用」は、皇國臣民の當然當爲、當行當務の覺悟なり矣】



●山口春水翁『強齋先生雜話筆記』(享保四年己亥正月八日。岡彪邨翁『強齋先生雜話筆記』卷一に所收)に曰く、

「予(春水)曰く、「昨日は、白馬の節會を拜見仕り候ふ。幸ひにて忝くも天顔を親しく拜し奉り候ふ次第、如々にて候ふ」。

 (強齋)先生の曰く、『扨々冥加叶はれたることに候ふ。數十年在京申し候へども、彼れ此れ取紛れ、未だ御節會をも拜さず候ふ。よき家づとゝ云ひ、殊には天顔を拜せらるゝこと、難有きことに候ふ。天照大神より御血脈、今に絶せず、統々嗣がせられ候へば、實に人間の種にて之れ無く候ふ。神明を拜せらるゝ如く思はるゝ由、左こそ有る可きことにて候ふ。我が國の萬國に勝れて自讚するに堪へたるは、只だ此のことにて候ふ。あまり難有き物語りを承るにさへ、感慨を催し、返す々ゝも貴く覺え候ふ』。

 曰く、「昨日は、近衞樣、内辨を御勤めにて候ふ。束帶威儀の正しきと申すことは、この上有る可しとも存ぜず。誠に敬の至り、斯くこそ之れ有る可きことゝ、是れ亦た感心仕り候ふ」。

 曰く、『なるほど、ゝゝゝゝ。左こそ之れ有る可きことにて候ふ。扨それについて、可笑しき話、之れ有り候ふ。あまりに天孫綿々として絶えざること言はうとして、今の神道者など云ふ者が、「我が國は神國ぢやによりての筈ぢや」と云ふが、これは愚かなことにて候ふ。丁度、愛宕の札を張つて、我が家は燒けぬはずぢやと云ふに同じく候ふ。焉ぞ湯・武あらざることを知らんや。其の上、神國がそれほどあらたなことならば、何とて今日の如く、王室季微にはなり下らせられ候ふや。これも山崎氏の門人にて候ふが、谷丹三郎(愚案、秦山先生、是れ也)と云ふ男、神道をば主張して説くとて、「日本は、北極紫微宮の帝座にあたりたゆゑ、王統絶えぬ道理ぢや」と申し候ふ。此等の説、皆な「うつけ」たることにて候ふ。前にも云ふ通り、我が國の自慢と云ふは、衰へたりと雖も、幸ひに御血脈が絶えいで、唐の堯・舜の授禪、湯・武の放伐の如くなることないと云ふ迄でこそあれ、今日では本願寺の勢ほどにもなき王室をいかめしく言ふも、片腹痛く候ふ。‥‥』」と。



●山口春水翁『強齋先生雜話續録』に曰く、

「或る時、(山口春水が、若林強齋)先生へ申し上るは、「王室と云へども、氣運によりては御盛衰はあるはずなり。但し御元祖、國常立尊と稱し奉るを初めとして、日神樣の御神敕、『行矣、寳祚之隆、當與天壤無窮者矣』と、仰せられたる事などを以て思ひめぐらし候へば、誠に常磐堅磐に萬世無窮なるべきと、疑なく存じ奉る」旨を申し上ぐれば、

 先生仰せらるゝは、
『夫れは麁相なる了簡なり。今ま王室々々と云へども、本願寺の繁昌ほどもなし。伊勢の祓を屋の棟に建てたれば、此の家、類燒すまじきと云ふやうなもの也。まのあたり平清盛は都を福原へ移し、足利義滿は法皇の眞似をしたり。此の後とても、何時、清盛・義滿に超過したる犯上の者、出來らんも計り難し。さてゝゝ危き事、氣遣ひなる事、言語に述べ難し。此の處を御上にも下にも、忘れず怠らず、大事大切にあらば、庶くは王室の憂なからんか歟。それを其許(そこもと)のやうに、恃みあり、慥かなる事と思ひ安んずるは、以ての外の事なり。わづかに安しと思はるれば、最早や寳劔の旨を忘れたると云ふものなり。是等の處、能く々ゝ合點せらるべし』
とて、甚だ御警戒あり。‥‥

『皇統を仰ぎ崇ぶは勿論なり。但し何時、何樣の變が有らうかと、常々恐怖するが、今日の當務なり。日神の詔敕に違ひの有らう樣はなけれども、清盛もあり、頼朝もあり、何時、將門・純友が出やうも知れぬ。神代に既に天稚彦あり、何時までも動きはない事とおちつくは、惰り也。甚だ危き事也』」と。



●竹内羞齋(式部)先生『奉公心得書』(寶暦七年六月)に曰く、

「此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則ち之を誅して、君に歸すること、吾國の大義なり。‥‥神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むる人なれば、其の身は勿論、紙一枚、絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。‥‥いよゝゝ君を敬ひ、かしづき奉る心、しばらくも忘れ給ふべからず。‥‥

 又た君に疎まるゝ人は、少しも君を怨むる心など出でたらば、勿體なき事と心得、只だ天つ神につかふると心得、猶ほも身持ちを大切にして、奉公を勵み給ふべし。譬へば今ま大風・大雨・飢饉・流行病等ありても、天を怨むる人なし。吾が君は、眞に神といふこと、返すゞゝゝも忘れ給ふべからず。然るを淺はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の亂にも及ぶ事、古今、其の例し多し。愼むべし。楠正成の言葉に、『君を怨むる心起らば、天照大神の御名を唱ふべし』とあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則ち其の御子孫の大君、たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや。まして「至誠、神明に通ずれば、造化と功を同うす」といひ、「人を感ずる能はざるは、誠の未だ至らざる也」ともいへば、誠だに至らば、などか君のかへりみ給ふ事なからんや。其の誠に至るの道は、心に如才なきのみにては至り難し。すべて心を盡すは業にある事なれば、平生、身にする事の道にそむかざる樣に愼しみ、心一ぱいを身と共に盡す故、身心内外、相ひそろひて、誠に至る事なり。さはいへども、餘り恐れをのゝきては、離るゝと云ふ事あり。只だ我が身を顧み、道にそむく事だにあらずんば、云ふ事、すべき事は、すべかりとしたまふべし。



【本末前後の論――絶對尊皇・承詔必謹の道】



●遊佐木齋先生『神儒問答・第三』に曰く、

「天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼也。此れ乃ち我が神教の大意也。‥‥

 明徳(明明徳)・新民有りて、本末を差(たが)へざるは、則ち王道也。明徳・新民有りと雖も、少しく本末を差ふれば、則ち覇道也。明徳・新民を知りて、能く本末を知る者は、道學也。明徳・新民を知ると雖も、本末を知らざる者は、功利の學也」と。



●鈴屋本居宣長大人『葛花』に曰く、

「から國にて、臣、君を三度び諌めて聽かざる時は去るといひ、子、父を三たびいさめて聽かざるときは泣いてしたがふといへり。これは父のみに厚くして、君に薄き惡しき風俗也。‥‥

 皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者、去るべき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ惡しくましゝゝて、從ふに忍びずと思はゞ、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知るべし。たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり。‥‥然れば君あしゝといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて從ひ奉るは、一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其の益、廣大なり」と。



●本居宣長大人『古事記傳』卷四十三に曰く、

「君のしわざの甚だ惡しきを、臣として議ることなくして、爲し給ふまゝに見過ごすは、さしあたりては愚にして、不忠(まめならざ)るに似たれども、然らず。君の惡行は、其の生涯に過ぎざれば、世の人の苦しむも限りありて、なほ暫しのほどなるを、君臣の道の亂れは、永き世までに、其の弊害、かぎりなし。‥‥

 御行爲、惡しく坐し々ゝゝによりて、藤原基經大臣の、下し奉られしは、國のため世のため、忠なる如くに聞ゆれども、古への道に非ず。外つ國のしわざにして、いとも畏る可く、此れより‥‥漸くに衰へ坐して、臣の勢ひ、いよゝゝ強く盛りになれるに非ずや」と。



●吉田松陰先生『又讀七則』(安政三年十一月二十三日『丙辰幽室文稿』に所收)に曰く、

「天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者有り。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふる者有り。余、幼にして家學を奉じ、兵法を講じ、夷狄は國患にして憤らざる可からざるを知り、爾後、遍く夷狄の横(ほしいまゝ)なる所以を考へ、國家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非ざるを知れり。然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。

 向(さき)に八月の間、一友(宇都宮默霖)に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂へしは、竝(み)な夷狄に憤りを爲して見を起せり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるに非ざりし也。‥‥朝廷、上に尊く、幕府、下に恭しといふ。果して言ふ所の如くんば、則ち今ま又た何をか憂へん。唯だ其れ然らず。志士の悲憤する所以ん也。足下、亦た甞て禁闕を拜し、而して江都を觀るか邪。其の尊きは、則ち然り。其の恭しは、安くに在らん。夫れ六百年來の變、皆な臣子の道(い)ふに忍びざる所なり」と。



●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』(『丙辰幽室文稿』卷三)に曰く、

「評。天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。支那は則ち然り。神州に在りては、斷々、然らざる者有り。

 謹みて按ずるに、我が大八洲は、皇祖の肇めたまふ所にして、萬世、子孫に傳へたまひ、天壤と與に窮り無き者、他人の覬覦す可きに非ざるなり焉。其の一人の天下たるや、亦た明かなり矣。

 請ふ、必無の事を設けて、以て其の眞に然らざるを明かにせん。本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらば、億兆の民、唯だ當に首領を竝列し、闕に伏して號哭し、仰いで天子の感悟を祈りまつるべきのみ而已。不幸にして天子、震怒しまたひ、盡く億兆を誅したまはゞ、四海の餘民、復た孑遺あること無けん。而して後、神州亡びん。若し尚ほ一民の存する有らば、又た闕に詣りて死す、是れ神州の民也。或は闕に詣り死せずんば、則ち神州の民に非ざる也。

 是の時に當りて、湯武の如き者、放伐の擧に出でば、其の心仁なりと雖も、其の爲すこと義なりと雖も、支那人に非ざれば、則ち天竺、歐羅人に非ざれば、則ち利漢、決して神州の人に非ざる也。而して神州の民、尚ほ何ぞ之に與せん哉。

 下、邦國に至りても、亦た然り。今、防長兩國は、一人の兩國也。一人にして在らば、則ち兩國在り焉。一人にして亡びなば、則ち兩國亡びん。不幸にして一人、其の人に非ずんば、則ち兩國の民、當に皆な諌死すべし。若し或は死せず、去りて他國に往かば、兩國の民に非ざる也。山中に隱耕するは、兩國の民に非ざる也。萬一、支那の所謂る君を誅し民を弔ふ若き者あらば、虎狼豺犀、決して人類に非ざる也。

 故に曰く、天下は一人の天下なり、と。而して其の一人の天下に非ずと云ふ者は、特だ支那人の語のみ耳。

 然りと雖も普天率土の民、皆な天下を以て己が任と爲し、死を盡して以て天子に事へまつり、貴賤尊卑を以て、之れが隔限を爲さず。是れ則ち神州の道也。是れ或は以て一人の天下に非ずと爲るや耶。

 又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」と。



●中島一光翁『紀元二千六百五十年を目前にして』(平成元年一月『さきもり』第二十四號)に曰く、

「去る二月二十一日に、日本防衞研究會主催で、湊川神社の酒井利行先生を御招きして、大嘗祭に關しての講演會が行はれた。‥‥

 日本の眞の姿を極める命題として、假に横暴非道な天皇樣が立たれた場合、臣下として日本人として如何に爲すべきか、といふものがある。大多數の人は、「日本には、シナのやうな放伐といふ思想は無い」といふ點で一致してゐると思ふが、それ以上問ひ詰められると、言葉が詰まつてしまふのでは無からうか(かく申す私も、その一人であつたが)。

 この命題に對して、酒井先生が明解な答へを出して下さつたので、感激の思ひを込めつつ、御紹介させて戴く。それは「そのやうな場合、日本人總てが近くの神社に集り、そして祈り、祈つて祈つて祈り拔き、最後の一人も祈り死にするまで、祈り拔くことである」と言ふ主旨の御話であつた。「何だ、唯だ祈り拔くだけの話ではないか」と言はれる方もをられると思ふが、この命題について考へに考へ拔いてきた私にとつては、これだけで十分である。この上、どんな言葉をも付け加へる必要が無い程、十分に解らせて戴いた」と。
 
 

顯幽無敵の道を歩む。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月29日(木)18時33分52秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●影山正治翁『忠靈神葬論――皇軍の本義と宗教維新の道』(昭和十七年九月。『影山正治全集』七卷所收)に曰く、

「空の軍神と讚へられる、故陸軍少將・從四位勳五等功四級・加藤建夫氏の陸軍葬が、同少將ベンガル灣頭自爆の日より滿四ケ月の命日にあたる、九月二十二日午後二時より、築地本願寺本堂に於て執行された。靈位は「須彌壇」に安置され、「導師」は「紫衣緋袈裟」の西本願寺大谷光照法主「持念、三奉請」ののち、「敬白文」が讀まれ、「讀經、燒香」の後、告別式に移つたと言ふ。こゝに言ふ導師とは何ぞ、靈位を西方彼岸に渡すための導師である。こゝに言ふ持念とは何ぞ、阿彌陀佛に歸命するための念稱である。こゝに言ふ告別とは何ぞ、皇國土を離れて西方十萬億土へ旅立つ御靈に對する告別である。あゝ、又た言ふに忍びざるところ、軍神の靈、いづくに行かむとするか。かくて戰死者中の華とも言ふべき『軍神』加藤の陸軍葬が、神葬を以て行はれず、佛寺に於て佛葬を以て行はれたと言ふ此の事實は、悲しむべき大東亞戰史上の汚點として、永く後世にのこるであらう。

 あたかも加藤少將葬儀の日に、新たに靖國神社に合祀される陸海一萬五千二十一柱の氏名が發表せられた。戰死者の忠靈は、たゞ護國の神として、靖國神社に神鎭まりますのである。みたみわれらは、生きて大君の御楯となるのみでなく、死して益々大君の御楯となるのである。『大君の邊にこそ死なめ』とは、この意味にほかならない。『天皇陛下萬歳』を奉唱し、固く七生勤皇の誓願をこめつゝ、戰死せる忠烈の英魂は、眞直ぐに高天原の神座にまゐ上るのであつて、斷じて西方十萬億土の極樂世界や天國に行くのではない。若し行くものありとせば、そは生ける忠臣、死せる叛徒に外ならないのである。肉體は捧げるが、靈魂は捧げぬと言ふならば、そのやうな忠節は、斷じて絶對のものではないのである。軍神の意味を、當局の諸公は、何と考へて居るのであらうか。本來、軍神とは、決して單に一二の者に特稱さるべき性質の稱號ではない筈である。即ち靖國の忠神は、すべてこれ軍神に外ならないのだ。

 若し武勳拔群の者を、特に軍神と呼稱し、以て全軍の士氣昂揚を圖るのであると言ふならば、それも一應もつともとして認めてよい。しかしその場合には、軍神に對する死後の扱ひは、特別に留意されなければならない。それは、何よりも忠臣中の忠臣であるのだから、生死を一貫して、純粹無雜に、神ながらでなければならない。萬一、軍神の靈が、釋迦や阿彌陀佛に歸依するやうなことがあつたならば、事は言語道斷に深刻である。國體は、肉の世界のみのこととなつてしまふ。皇國民の行く手は、全く混亂に陷つてしまふのである。

 軍神は、文字通り、皇國のいくさ神であつて、斷じて佛でも、蕃神でもない。このことを銘記するならば、軍神の公葬を、いやしくも佛式で執行出來る筈がないのである。しかも今囘の軍神葬儀は、公葬中の公葬たる陸軍葬ではないか。全陸軍の責任に於て行はるゝ軍神の葬儀が、佛寺に於て佛式にて執行されたる事實を見て、心ある國民は、驚愕悲痛せざるを得なかつたのである。敢てあらはにその悲憤の情を訴へざるは、現下時局の重大さの故に、その結果の波及するところ、或は思はざる方面に便乘の機會を與ふることあらむを恐るゝがためのみである。當局者は、事の國體の根本義に關する一大事なるを痛感し、よろしく三思痛省すべきであると信ずる。

 此の際、我々は、陸海軍部が信仰の點に於て百尺竿頭一歩を進め、陸海軍葬・鎭守府葬・部隊葬のみならず、市町村に於ける戰死者の公葬を、一切、神式に依つて執行すべきことを決定し、速やかにこれを全國に嚴達されむことを切願したい。かくてのみ、始めて國體明徴は、その軌道に乘り、聖戰の眞義は、物と形の面のみでなく、精神と靈魂の面にまで、徹底闡明され行くであらう。我等は、靈肉共に、一點一物もあますところなく、神にまします大君にまつろひまつらなくてはならなぬのである。戰死者の公葬を神式に於て執行すべき所以も、またこゝに存する。

 一方に於て靖國神社に神として祀り、一方に於て佛教、又はクリスト教を以て、高天原以外の靈界に送靈すると言ふことは、皇國精神界の大分裂である。我等は、年々の大祭に方り、至尊御自ら親しく靖國神社社頭に御拜下さる一大事實を深思しなければならない。至尊が臣下達の靈に御拜下さるのである。護國の神なればこそ、である。若し靖國神社の靈位は名のみにして、その實體は遠く西方十萬億土に行つて居ると言ふのであるならば、これほどの大逆不忠はないのである。

 從來、軍は、とかく信仰の方面に對しては、かるく考へがちであつたやうに見受ける。しかしこれからは、斷じてさうあつてはならない。至尊は、單に陸海軍最高御統帥者としての大元帥陛下にあらせらるゝばかりではない。何よりも神にましますのである。皇國軍隊は、大神の率ゐたまふ神軍なればこそ、世界で唯一つの聖戰を行ひ得る資格者であるのだ。皇軍こそ、神を祭り、神敕を奉じ、神意のまにゝゝ行藏すべき神兵・神軍であるのだ。國のうちの、如何なる層に於てよりも、最も正しく深き信仰の體得者でなければならない。萬般維新の根本たる宗教維新は、實は皇軍を最先頭としてこそ行はるべきものであるのだ」と。



■平田大壑先生『春秋命歴序考の自敘』に曰く、

「士君子、知己を千載に待つ。豈に善價を今日に求めむや哉。苟くも帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ者有らば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとす矣。彼の凡庸の徒は、耳を提て之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむこと能はざる也。我れ惟だ々ゞ我が宗とする所を宗とす。亦た豈に信を不信の人に求めむや哉」と。
  ↓↓↓↓↓
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所謂る國防軍なる者は、果して皇軍か、或は幕軍か。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月26日(月)19時23分39秒
返信・引用 編集済
   「自由主義・民主主義に立脚し、利害功利を以て、その窮極の目的とする幕府的存在」が、有らうことか、由縁ある「衞」の字を捨てゝ、「自衞隊」の名稱を「國防軍」と改稱する由、西洋思想に汚染して、疑ふことを知らぬ保守黨を名乘る黨首の言、先に律令以來の古稱「大藏」を捨て、敢へて「財務」と飜譯名稱に變へたもの故ゑ、殊更に驚くことも無いが、洵に寒心憂慮に堪へぬ。

 吾人の熱祷する所の者は、八紘一宇を發揚する皇軍、近衞北面の武人集團の復活再建であつて、異國流の國防軍なぞでは、決して無い。國軍思想こそ、之れ討つ可きの仇敵なり矣。「保守の敵は、保守なり」と。一億總保守の時代を向へつゝある現代に在つて、益々身に詰まされたり。よくぞ言ひ得たり、松平永芳宮司の言なるかな哉。



●影山正治翁『純正維新――皇軍か國軍か將又幕軍か』(昭和十二年四月、發行即日發禁。『影山正治全集』第二卷所收)に曰く、

「抑々その出發點に於て、自由主義・民主主義に立脚し、利害功利を以て、その窮極の目的とするこれら幕府的存在に關しては、『問答無用』として、しばらく口を緘するも、亦た可。しかるに現在、『皇軍』を以て自ら稱する陸海軍が、その首腦部の態勢姿相に於て、殆んどこれら幕府的現状維持勢力の思想・行動と、果していくばくの差異ありやと思はしむる點、多々あるに於ては、如何なる強權の迫害に遭逢するも、我等、斷じてこれを默視する能はざるものである。

 例へば二・二六事件以降、約一ケ年間に於ける寺内前陸相の、一個の言動のみを以て之を見るも、吾人は現實の皇國陸海軍が、果して皇軍なりや否やを疑はざるを得ないのだ。現に寺内前陸相は[國體明徴運動の急先鋒に立つたかの如き觀ありし川島前々陸相も、亦た然り]、皇國陸海軍を指稱する時、殆んど常に『國軍』の名を以てした[杉山陸相、亦た同じ]。

 皇軍は、果して國軍なりや。又た國軍であつてよきものなりや。皇軍は皇軍にして、國軍たるべきものにあらざるなり。陸軍首腦部の思想の貧困も、亦た哀れむべきである。寺内・川島等の老將軍連は、すでにその思想の水準に於いて『國體』を云々し、『皇軍』を云々する資格者に非ざることを知り得るのだ。

 國軍思想こそは、皇軍の正面敵である。彼等の稱する國軍とは、即ち國防軍の謂ひに外ならない。國軍思想は、『軍隊とは、國民の生命財産を擁護し、植民地を確保し、通商・貿易を掩護せんがために存する國家の武裝集團なり』とする、西歐流概念に基く。しかして日本以外の全外國軍隊は[或る程度の意味に於てソ聯軍は、やゝ特異の存在であるが]、すべてがこの概念そのまゝの軍隊に外ならない。日本の軍隊は、果してかゝる國防軍であるか、又あつてよいものであるか。

 皇國軍隊は、何よりもそれが、『天皇の軍隊』、即ち皇軍たるところに、その絶對的本質を有する。『我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある』とは、明治大神が『軍人敕諭』の劈頭に於て御宣明遊ばされたるところである。併して『朕は汝等軍人の大元帥なるぞ』と、御詔示遊ばされ、『天皇は陸海軍を統帥す』と、御法文化遊ばされたるところのもの、一にこゝに原由するのである。こゝにこそ、皇軍の皇軍たる本質が存する。即ち皇軍とは、天皇の御統率の下、天皇の御本質を體認して、以て内外に皇道國體の大事實を防護宣布確立する、神劍聖武たるスメラミイクサであるのだ。

 しかるに國軍思想は、この大事實を歪曲して、日本軍隊は『國家の軍隊たること』を強調せんとするものである。これ『主權は國家に在り、天皇は國家の機關なり』とする大逆、國家法上、天皇機關説に外ならない。國體明徴・天皇機關説排撃を、日々口頭に弄して疑はざる現軍首腦部が、實は何んぞはからん、それ自身、天皇機關説信奉者にも類する言動を行つてはゞからないのである。‥‥

 吾人は繰返して絶叫したい、國軍思想は、皇軍の正面敵であり、且つ現郡首腦部諸公は、殆んど皇軍をして幕軍たらしむる危險性を有する存在であることを。今や正に國體の危機であると共に、皇軍の危機である。皇軍を確保確立するものは、誰ぞ」と。
 
 

眼を開いて、明かに看よ、古人の意。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月12日(月)18時02分47秒
返信・引用
   帝都に、「三條の會」てふ、高山赤城(彦九郎)先生に倣ふ、全國有志の會あり。宮城前にて參拜懇祷する、獨往戀闕者の集ひなり。立雲頭山滿翁の、赤城先生を語る文あり。拜記して、有志に告ぐと云爾。



●天眞藤本尚則翁『巨人頭山滿翁』(昭和七年十月・頭山翁傳頒布會刊。平成三年九月・谷口書店覆刻)に曰く、

「寛政の三桀と云つても、一番エラかつたのは、無論、高山彦九郎先生さ。彼れ眞に勇略大望の士であつた。時の天子は、光格天皇で、この御方が、また却々の英主で在らせられた。

八重葎 茂りて道も 分かぬ世に 降るは涙の 天が下かな

とは、光格帝の御製である。上に此の英明なる天子あり、公卿に中山大納言あり、草莽の臣に高山があり、上中下に不世出の英雄が揃つてゐたのぢやが、時至らずして、遂に其の志は成らなかつたのである。一介の百姓・彦九郎が、天子にお目見えの出來たなどは、容易に出來る事でない。そこが即ち明主たり、英主であらせられし所以である。中山大納言と高山とは、最も肝膽相照らし、大納言が敕使として下向し、若し殺されたら、それを動機として討幕の軍を起さうと云ふので、それが爲め、高山は東奔西走、竊かに雄藩を説いて廻つたのである。高山發するに臨み、中山卿と肘を執つて相談じ、別るゝに臨み、『イヅレ地下でお目にかゝらう』と、決死の誓ひをなしたものぢや。所が大納言の方も、高山の方も、事、意の如くならなかつた。

 高山が、

別れ行く 妻子の末は さもあればあれ 君の御爲に 盡す身なれば

の一首を家人に與へて郷里を立ち、各雄藩を説きつゝ薩摩に下り、その藩公に會はうとした時、其の門番が彼を入れない。そこで彼、

薩摩人 いかにやいかに 苅萱の 關も鎖さぬ 御代と知らずや

と大喝し、遂に面會を遂げたが、併し話が、ヤハリ面白く行かなかつた。そこで彼は、最後に一死を以て、天下の人心を警醒しようとしたのぢや。

 先生が久留米で腹を切つた時、切るに先だち、そこの下男に水桶を持つて來させて、一切の記録を引き裂いて、悉く此の水中に投げ込み、然る後ち腹を割いた。之を見て、そこの主人が大いに驚き、『ドーゾ、待つてくれ。何故ゑの自殺かも分らずに死なれては、俺(わし)の方が、お上のお咎めを受ける。すぐ役人を呼んで來るから、それまで待つてゐて貰ひたい』との事に、高山、『諾(よ)し』と云つて、既に臟腑はハミ出して、血は一面に流れて居る中に、ヂーツと俯伏して、檢視を待つ事にした。所が昔の事だから、役人がオイそれと云つて、すぐに來ない。小半日もかゝつて、漸くやつて來た。見ると、本人はもう縡(こと)切れたらしく、一面の血の中に浸つて居る。そこで役人は、扇子の尻で、そのハミ出した臟腑をツヽいて見た。すると最早や縡切れたやうに見えた高山が、ムクリと起き直つて、大喝一聲、『尾籠ーツ』と、持ち前の雷の如き聲で怒鳴り付けたので、役人は驚いて、尻餅をついたさうだ。

やがて役人が、改めて其の自殺の譯を尋ねると、高山先生曰く、

我れ常に國家に報ぜんと欲する所のもの、忠は不忠となり、義は不義となる。我が爲めに、天下の豪傑に謝せよ。發狂するのみ

と云つて、死んで了つた。死後數日を經て、廣島の人・唐崎常陸介と云ふ者が、高山の墓前に於て、之も見事に自殺を遂げたさうぢや。明治天皇の御製に、

永らへて 今にありせば 高山の 高き勳を 立てましものを

とある。先生の靈、地下に感泣した事であらう。僕の内(立雲翁の家藏)に、高山の書いた一軸がある。

夕螢、朝雪、何事をか學ぶ、
萬卷の讀書、總て放心。
眼を開いて、明かに看よ、古人の意、
今人、離る可し、迂儒○


と云ふのだ。所が一番最後の字が、どんな學者でも讀みきらぬ。三浦[觀樹將軍]なども、首を傾げてゐた。恁(か)ういふ謎の字を、最後にボツンと置く所が、高山式ぢやらうね」と。



●編纂委員會編『頭山滿翁正傳――未定稿』(顧問三宅雪嶺翁序・委員廣田弘毅翁序・進藤一馬翁跋。昭和五十六年十月・葦書房刊)に曰く、

「(立雲翁の曰く、高山)彦九郎の切腹は、計劃の齟齬からぢやらうね。中山大納言の關東下向と密接な關係があるやうぢや。一大變革を志して雄藩を説き廻つたが、うまく行かない。中山大納言と別れる時には、大地を踏んで、『いづれ、この下で、お目にかゝりませう』と、いつたとのことぢや。九州に來て、道載(龜井南冥翁――立雲翁の師である興志塾・仙芝高場亂刀自の師筋なり)に大事を告げた。道載は餘程熱烈な人で、彦九郎にも負けん位ぢやつた。藩政改革の意見が用ひられないで、參政を辭してしまつた。彦九郎と一緒にやる考へぢやつたやうぢや。薩藩に行つて激勵した勢ひなど、凄まじいものぢやつた。當時の雄藩・薩摩へ怒鳴り込んだのは、福岡藩では道載と平野國臣(註)くらゐのものだらう。彦九郎が大事を謀つたのは道載だけで、森嘉膳は友人だつたが、與らなかつたやうぢや。餘程祕密にやつたものと見える。久留米の森の家で切腹したが、その前に一切の書類を水に漬けて破つてから、腹を切つた。宿の者が、役人が檢視に來るまで待つて呉れといふので、朝から夕まで、十時間も待つたさうぢや。檢視の來た時、首を埀れて息も絶えた樣子なので、役人が扇子で臟腑をつゝいたたら、起き上がつて、『尾籠ツ』と、大喝した。役人が魂消て引繰り返つたさうぢや[昭和十八年速記]」と。



(註)頭山滿翁『國士平野國臣傳の序』(買劍今田主税正虎翁の所著)に曰く、

「國臣平野次郎先生は、近代の人にして、而して古代の人なり。死を畏れずして、而して生を重んじたるの人たり。一時の豪傑にして、而して百世の大丈夫たり。玲瓏、玉の如く、潔白、雪の如きの胸懷を以て、風雲的の膽量、縱横的の作略を兼ねたる者、維新前後、唯一、先生を見る。英雄囘頭、即神仙と云ふの心地を以て、奇正の衢に上下し、成敗の林に出沒し、神氣靈魂、遠く千歳の人心を率ゆる者、古今唯一、斯の神異の人有り矣。先生は、我が筑前福岡に出づ。予輩後生、碌々一奇を建つる能はずと雖も、尚ほ大日本士道の上に、區々自ら修むる所あらんと欲するに至る者、一に皆な先生の遺風に服し、聊か自ら起つの賜なり。

 嗚呼、先生の魂魄、長く此の土に留まつて、神州の正氣を鼓舞す。今日、此の篇の出づる、亦た蓋し先生の神(しん)、之を導いて、以て近時の世道人心を警醒せしむる乎。蒼天漠々、而して日月の光は、即ち千歳、變ること莫し。偉人の精氣、豈に萬古を照らす莫からん哉。之を今田君『平野先生傳』の序となす。

 明治二十四年十二月二十六日」と。



【參考・高山赤城先生】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1538
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至誠、神、通ず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月 3日(土)14時27分54秒
返信・引用 編集済
   本日は、明治節。明治天皇崩御ましまして、一百一年、滿百年の歳なり矣。明治天皇こそは、「あらゆる方面から考へて、神武天皇の應化降臨あらせ給ひしものと拜し奉る」。「明治天皇の御降誕と御上天とは、人間世界に於ける一大事件」、神界の經綸の御發動と、拜承謹聽してをります。

 無位の眞人・立雲頭山滿翁、明治神宮參拜の姿を見、其の爲人、殆んど尋常ならざるを覺ゆ。蓋しまさに「使命仙」か、或は「謫仙」のお一人、まがふこと無き神眞であられよう。

「頭山翁の明治神宮參拜は、明治天皇にお目にかゝるのである。翁が神前に進むと、天皇のお姿が現れる。すると、翁は、その場にひれ伏し、天皇のお姿が消えるまで、その姿勢を變へぬのだ」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1415


 さう云へば、立雲翁、若きとき、たゞの人間ではつまらぬからとて、深山幽谷にて分け入り、心膽の錬磨、仙人の修行もなされし由、立雲翁の曰く、

「紅塵萬丈の人寰を去つて、十里山鳥の一聲の境、終日、悠々として天地の自然に對するの時、一種、言ふ可からざるの妙趣を解するものだ」と。

 玄洋平岡浩太郎翁の曰く、

「頭山は、稀代の豪傑ぢや。七たび生れ代つても、彼の眞似は出來るものではない」と。

 
 

無位の眞人・頭山立雲翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月 1日(木)21時27分10秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 天台道士杉浦重剛翁の手より、天覽・台覽の榮を賜はつた、藤本尚則翁『巨人頭山滿翁』――立雲翁に關する一大百科字彙は、八百頁を超える大册であるが、之を讀み出したら、面白くて手放せぬ。「今西郷」たる頭山立雲翁は、明治から昭和の聖代に於ける、不覊獨往の蛟龍にして、徳富蘇峰翁をして「淨化せられたる國寶の一。胸中無一文物、身邊無一物、眼界無一物、唯だ存するものは、君國に報いる丹誠のみ。名士偉人、概ね晩節に傷く、獨り翁に於いて、晩節の愈よ馨しきを覺ゆ」と謂はしめたる「無位の眞人」、また翁の人氣は、大西郷をも凌ぐと云はれる。之を紹介せざらんと欲すと雖も、我慢ならぬ。小生の事とて、面白きこと無き所を、極く一部、記させて戴きたい。然し拜讀の後、洵に爽快痛喜、支那の『三國志演義』の豪傑大侠も、一歩も二歩も引下がるに相違ない。有志の一讀を乞ひたい。



■天眞藤本尚則翁『巨人頭山滿翁』(昭和七年十月・頭山翁傳頒布會刊。平成三年九月・谷口書店覆刻)に曰く、


○(立雲翁の曰く、)日支親善も古臭いが、眞の親善を實現するには、一黨一派の行懸りなどに拘はつた出任せではなく、大所高處から、亞細亞人として避く可からざる、已むを得ざる所に向つて、支那を指導しなければならぬ。此の已むを得ざる所に向つて誠を推せば、日支親善の趨勢は、拒(ふせ)がんとして拒ぎ得ざるものがあるのだ。然るにヤレ共和では困るの、帝制でなくてはイケヌのと、そんな事は、抑も末ではないか。今の官僚とか閥族とか云ふ輩は、兎角く他國の政變を氣にするさうだが、他國の政變がどうならうと、夫れが何だ。そんなに餘計な心配をするのは、心配する者自身、我が國體に對する信念が足らぬからである。我が國には、千古萬古、不動の礎ゑがある。假令へ世界中殘らず共和國になつても、此の國礎は動くものではない。そんな餘計な心配よりは、此の亂麻の如き隣國を、一日も早く、意義あり精神ある國家に仕上げ、以て相互に東亞永遠の大計を啓かねばならぬのだ。支那の民黨も、隨分足許が怪しく、殊に幾度びか國難に遭うて、眞骨頂ある者は大分減つたが、其の身を捨て家を捨て、祖國の爲めに盡して來た精神は、埒も明かぬ日本のガラクタ政黨よりは、餘程、優(ま)しだよ(大正六年。平野國臣先生に、『制蠻礎策』あり。東洋對歐米の根本策として、日支同盟論が唱へられてゐる。日支親善・日支共存も、結局の到達點は、必ずや日支同盟であらねばならぬとした翁は、其の衣鉢を繼げるものなり。「日支關係は、男女關係と同じさ。日本ばかり、獨りヨガリぢや、イカンよ」と)。


○(立雲翁の曰く、)今度のやうな問題(排日案の米國下院通過)の起るのも、我が日本人には、よい藥ぢやよ。是れ迄で日本人は、餘りに米國かぶれが過ぎる。彼等の云ふ事・爲す事なら、是が非でも贊成をしたり、眞似をしたりするといふ行き方ぢや、外交の事でも、此の調子で、腰が弱い。それは役人に意氣地がないからでもあるが、又た國民全體の罪である。そこに付け込んで、米國どもが勝手な眞似をするのぢや。つまり軟弱な國民思想の反映ぢやね。かういふ惡い思想も、腐る所まで腐らして置かねば、根治は出來まいが、米國の今度のやうな遣り方で、日本人の目が覺めるやうな事になれば、寧ろ米國に感謝すべきである。議會を通過して後、大統領が裁可するかせぬかを氣にするものもあるが、之れは徹底的に大統領の裁可までやらせる方が、將來、日本人の爲になるのぢや。何しろ俺どもは、近頃、日本人の精神が、段々と影の薄くなつて行くのを見て、殘念に思ふ。

 かういふ調子では、何時かは、取り返しのつかぬ日が來るよ。米國は、表には正義とか人道とか云うて居るが、ペルリの來朝も、畢竟、東洋併呑の瀬踏みであつたのぢや。米國の云ふ正義・人道は、米國に都合のよい時にのみ通用する主義である。彼は凡ての場合、日本の進歩發達を阻害する事のみを夢みて、徐々に之を實現し、今後もその點では、遺漏なく魔手を擴げ、獨り我が國のみでなく、全亞細亞の平和を亂すことは明かな事實であるにも拘はらず、何故ゑ我が國民は、今まで之を悟らなかつたであらう。時機、既に遲いながらも、今こそ覺醒すべき時である。全亞細亞民族が提携して、亞細亞の發達を圖るこそ望ましい。人種の鬪爭は、世界の續く限り避け難い事であるから、そこに戰爭も起る。戰ひを開かなければならぬ時が來れば、大いに戰ふがよからう。


○(三伏の炎暑中、白の浴衣を纏ひて端坐し、左手をムンヅと左膝に突き、右手に『靖獻遺言』を披いて右膝を立て、眼光烱々として紙背に徹するが如く、宛ら三昧境に入れる立雲翁、漸く卷を措いて曰く、)あゝ、かう云ふものなら、預かるのも快い。先日、浦和の親戚に行つた時、持つて行つて、久し振りに讀んだが、何時見ても、氣持ちがよい(かつて高場亂女史の人蔘畑の塾にて、女史の不在中、翁が代講せしことありき。翁の『靖獻遺言』を講ずるや、理義一貫、辯析、甚だ要を得、毫も難詰の餘地なく、何時の間に斯くまでの素養を積みたりしかと驚嘆せしめ、爾來、翁の頭角、益々抽んづるに至つたと傳へたり)。此の頃の政界では、「綱紀肅正」とやらで、諸所に演説會などがある樣ぢやが、責められる奴は、勿論惡いが、責める奴の方も、果してそれ丈けの資格があるかどうか。臺所で抓み食ひをする奴を捕へて、『貴樣、どうした、穢い奴か』と咎める一方で、『どれ、俺にも一つ喰はせれ』と云ふのが、今日の綱紀肅正ぢやないかね。平田篤胤の歌に、
『皆人に 慾をすてよと 教へつゝ あとより拾ふ 寺の上人』
といふのがある。『どうした、キタナイ奴か』と云ふ迄はよいが、あとが惡いテ。此の本(淺見絅齋先生『靖獻遺言』)にある、謝枋得の、
雪中松柏愈青青、扶植綱常在此行、天下久無□[龍+共]勝潔、人間何獨伯夷清、義高便覺生堪捨、禮重方知死甚輕、南八男兒終不屈、皇天上帝眼分明
と云ふ詩を朗々と吟ずる方が、百人の演説よりも雄辯ぢやよ。此の詩の如き精神の人間が、即ち大丈夫と云ふものだ。今の世の中は、何か一寸した事にも、『ナニ、大丈夫ですよ』と云ふが、一向本當の大丈夫を見當らぬ。此の本を讀んで居ると、顔眞卿などの面目、見るが如しぢや。彼等は兄弟ながら、偉かつたやうぢや。所が昔でも今でも、惡い奴の方が多いね‥‥。


○(天台杉浦重剛翁の曰く、)明治四十五年十二月一日、國學院で、淺見絅齋の二百年祭を執行した時、自分(杉浦翁)は、始めて演説と云ふものをやつた。その時、述べた趣旨は、
淺見先生は、あの當時に於て、支那に對する日本の主義を唱へた。今日、我々は、歐米に對する日本の主義を唱へなければならぬ
と云ふに在つたが、あとで聞くと、頭山君も列席してゐたさうで、自分の演説に同感であつたと聞いた。

 大正元年、乃木さんの殉死せられた翌日、自分は乃木邸へ悔みに行つた歸りに、頭山君を訪ふと、同君、
先帝も、小村(壽太郎)を先供(さきども)に、乃木を後供にせられたら、御滿足でせう
と云はれた。自分も、全く同感である。


○(立雲翁『翁の青年訓――忠孝が本』に曰く、)廟堂に立つものは猶更らであるが、國民も亦た根柢の立脚點を堅固にしなければ駄目ぢや。根本が堅固でないと、我が國の領域のみが空しく擴大しても、要するに生命なき一種の虚榮に過ぎぬ。ドウも日本人は、眞に忠孝を本としなければ駄目ぢや。もう青年の人々には、國家の事に直接關係すると云ふ觀念が、追々と無くなつて來た。借錢をしても、國家の爲めにすると云ふ風は、段々なくなつて來た。身を忘れて、人のため國家のために盡すと云ふ考へが、日増しに少なくなる。

 斯くの如き軟傾向。己れあるを知つて、他あるを知らず、家あるを知つて、國あるを知らぬ樣にしたのは、畢竟、政治家の責任である。一國の政に與かるものが、確乎たる根柢がないからだ。俺の如く人生七十に近くして、國に寸功なきものは、敢へて彼れ是れ天下の事を論ずる資格はないが、併し政治家連に、モツト奮發して貰はねば立ち行かぬ。青年の人々も、亦た先輩を待たずに奮發せねばなるまい。本氣の力と云ふものはエライもので、 一人の至誠でも、國を動かすことが出來る。七度生れ代り、君の爲めに身を殺すと云ふ所に、日本魂の骨髓が存するのぢや。
 
 

皇道を恢弘せよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月28日(日)13時32分6秒
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  ◎佐久良東雄先生の哥

君に親に あつくつかふる 人の子の ねざめはいかに きよくあるらむ

草も木も 我が大君の ものなりと ふかくおもへる 人もあらなん

朝夕に 禮(ゐや)を申さむ 何事も 神と君との 御蔭々々と

飯(いひ)食ふと 箸をとるにも 吾が君の 大御惠みと なみだし流る

君がため 朝霜ふみて ゆく道は たふとく嬉しく 悲しくありけり



●立雲頭山滿翁述・吉田鞆明翁記『英雄を語る』(昭和十七年九月・時代社刊。『頭山滿思想集成』平成二十三年十二月・書肆心水刊に所收)に曰く、

「(立雲頭山滿翁の曰く、)大西郷は、征韓論に敗れたとよく言ふが、さう言ふ譯ぢやない。あの頃、日本政府が歐米諸國に脅かされてをるのを見て、韓國では、日本を西洋の奴隷の如く心得、西洋の奴隷に、韓の國土を汚される譯にはいかんと言ふので、例の大院君が、

『日本人は洋人と交通し、夷狄の民と化したるを以て、自今、日本人と交るものは死刑に處す』

と言ふが如き、無禮の排外令を出し、あまつさへ在韓日本人全部の引上げを要求したのぢや。

 そこで大西郷が、出かけて行つて判るやうにすると、意氣込んだのぢや。彼(あ)の頃の人物、木戸も岩倉も三條も相當のものだが、議論では、板垣が一番傑出して居つた。板垣の意見では、岩倉や大久保などの西洋かぶれの意見に對し、

近い隣同志の國の始末さへつかんのに、西洋の眞似ばかりすると言ふことがあるか。先づ以て近い隣同志の、韓國や支那との折合ひをつけにやいかん

と言ふのだ。大西郷も、全くこれと同意見ぢや。但しロシヤの南下は、手嚴しくやつつけねばならぬと言ふのであつた。さうして韓國や支那とは、仲よくしようと言ふのぢや。

 しかし西郷の言ふ通りに、もし西郷を韓にやつたら、どんなことになるか判らん。是非、西郷が行くと言ふなら、護衞の名義で兵隊を附けてやらう、と言ふ意見もあつたと言ふが、大西郷は笑つて、

『兵隊など附けて貰うても、おいどんは、戰は下手ぢや。なんの、韓國位に出かけるのなら、竹の杖一本と藁草履一足の外、別段、何もいり申さん。きつと譯の判るやうにしてみせる』

と、意氣軒高たるものがあつたさうぢや。しかし一部の反對で、到當成り立たなかつたのは遺憾ぢや」と。



●夢野久作こと、杉山泰道翁『頭山滿先生』(『頭山滿思想集成』所收)に曰く、

「(頭山立雲翁の二十にならない頃に、既に曰く、)日本人の行く道は、云ふまでもなく、皇道である。日本人が神代の昔から守つて來た忠孝の道は、世界に類例が無いと同時に、人間の守るべき道の行き止まりである。吾々が人間に生まれて、一人前になつて生きて行く事が出來るのは、みんな吾々の親樣たちの御蔭である。同じ樣に日本國民が、今日のやうに榮えることが出來たのは、萬世一系の天子樣の御蔭である。天子樣は、日本中の大親樣である。日本中のものは、吾々の身も魂も、髮の毛一本でも、天子樣のものである。大切にしなければならぬ。粗末に心得てはならぬ。この心が、忠であり孝である。

 西洋の道徳では、自分の身體(からだ)も魂も自分のものと云ふことになつて居る。だから自分の勝手にしてよろしい、自分の好きな事をしてよろしい、他人のことは構はないでよろしいと云ふことになつてゐる。それでは、人間では無い。獸とおんなじである。その通りにしたら、世の中はメチヤメチヤである。だから法律といふものを作つて、ドウヤラカウヤラ纏まつた國を作つてゐる。これを個人主義と云ふのだ。

 その獸のやうな心から、西洋の國々は飛行機とか毒瓦斯とか云ふものを作つて、そんなものを持たない弱い國々を取らうとしてゐる。飛行機や毒瓦斯なぞを研究してはイケナイと云ふのでは無い。そんなものに感心して、西洋人をエライと思つて、西洋人の眞似ばかりしてゐると、何時の間にか日本人が西洋人のやうな獸じみた心になるから、イケナイのだ。忠孝の道を忘れた弱い國になつてしまふから、イケナイのだ。

 今の日本の有樣は、ドウダ。アメリカ人はアメリカの子供を育てて居る。イタリー人はイタリーの子供を育てて居る。ところが日本人ばかりは、皆な西洋人のやうな子供を育ててゐるのは、何故か。日本人の子供は、日本人にならねばならぬ。忠孝の道が、ホンタウにわかる日本人となつて、世界にお手本を示さねばならぬ。これがホンタウの皇道である。日本を一番強い國にして、世界を導いて行く道である。(かうした頭山先生の言葉が、その頃の滿少年の心であつたのだ。滿少年の、かうした覺悟は、それから後ち今日までの永い間、ちつとも變つてゐないのだ)」と。

【參考・夢野久作翁】
  ↓↓↓↓↓
http://www1.kcn.ne.jp/~orio/index.html



 愚案、流石に「仙○位」の眞僊であつたと云ふ、立雲翁の言葉は重い。自らの榮達や金錢は全く求めず、邊幅を飾らない實直さと無心無慾の行動は、多くの人々を魅了し、其の發する片言隻語すら、金石の重みを有つ。浪人道の龜鑑指標であらう。所謂る右翼を自負する若者は、西洋流の右翼であつてはならぬ。根無し艸の右翼は、所詮、現代の脱亞流行の保守と、何等撰ぶ所は無い。勤王黨に源流をもつ右翼は、よろしく立雲翁「ひとりでゐても、淋しくない人間になれ」に學び、其の道統を嗣がねばならぬ。野村望東尼の詠みらく、

武士の やまと心を よりあはせ たゞひとすぢの おほつなにせよ

 固より我々は、日本人である。然し立雲翁の「日本人と成る」ことは、抑も難事であるかな。況んや「眞の日本人と成る」をや。



●寒林平泉澄先生『眞の日本人』(『傳統』昭和十五年一月・至文堂刊に所收)に曰く、

「甚だしいかな、天下形勢の急轉、朝に連衡の約あつて、夕に合從の盟となり、こゝに權變の術あれば、かしこに反間の策存し、一方に衆力を集めて、猛虎を攻めようとする者あれば、他方に兩虎相搏つて、共に疲弊するを待たうとする者がある。斯くの如く詐謀の祕術をつくして、一上一下、動亂やむ時なき外交の怒濤に棹さす者は、抑も何を頼み、何に依るべきであるか。これ今日、護國報恩の志をいだく士人の、日夜肝腦をくだく問題でなければならぬ。

 しかるに明快に此の問題に答ふるものは、實に幕末の俊傑・高杉東行、その人である。曰く、

余を以て之を觀るに、攘夷の第一策は、則ち天下の人心を一にするに在り。天下の人心一なれば、百萬の醜虜と雖も、懼るゝに足らず矣。人心一ならざれば、則ち數十の軍も、亦た懼る可し。』(『東行遺稿』。愚案、卷下「田中子復を送る序」)

即ち國内の人心を一つにする事こそ、外國の侮を禦ぐ第一の要件なりとするのである。所謂一億一心、上下一和するならば、何ぞ外敵を恐れんや、むしろ進んで、大に國威を發揚すべし、といふのである。然るに之に就いては、世に異論があらう。蓋し人心は互に相違する事、まさに其の面貌の異なるが如く、從つて之を一つにするといふが如きは、恐らくは單に修飾の辭であつて、實際に於いては到底不能の事に屬すると考へられ易いからである。しかしながら事實それは、決して不可能ではない。人々にして、若し其の私心を去り、潔く祖國の傳統に復歸するならば、こゝに祖國傳統の力は、上下貧富の差、老若男女の別を超えて、よく一億を一心ならしめるのである。されば前にあげたる「天下の人心を一にする」の説は、國民のすべてを、國家の正しき傳統に復歸せしむるといふに歸着するのであり、更に語を換へて表現するならば、吉田松陰先生が『講孟箚記』卷頭の、左の教となるのである。

聞く、近世海外の諸蠻、各々其の賢智を推擧し、其の政治を革新し、駸々然として、上國を凌侮するの勢あり。我れ何を以てか、是を制せん。他なし、前に論ずる所の我が國體の外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲に死し、闔藩の人は闔藩の爲に死し、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確乎たらば、何ぞ諸蠻を畏れんや。願くは諸君と茲に從事せん。

國體の大義を明かにし、日本の道義に一命を捧ぐるといふ、これ即ち私を去つて傳統に歸順するものに外ならず、よくかくの如くであるならば、之をこそ眞の日本人と呼ぶべきであるが、國民のすべてが、眞の日本人となる時に於いては、一億、こゝに一心となつて、外國の權變、恐るゝに足らず、合從連衡、多く意に介せずして、一路邁進し得るのである。‥‥

 皇國臣子の道の、その後再び忘却せられ、傳統の光の、近年、又も衰微して來た。しからば我等は、此の道を再び明かにし、此の光を今日に輝かしめなければならぬ。‥‥我等日本人のすべてが、この忠死の心に立ち、この傳統にかへる時、換言すれば眞の日本人となる時、一億をうつて一心とする事は、始めて可能である。一億をうつて一心となし得たる時、海外の怒濤、それ何物であらうか」と。
 
 

京都『凛として愛』上映會、竝びに東條由布子刀自講演會ご案内。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月16日(火)22時54分17秒
返信・引用 編集済
   下記、「愛国女性のつどい花時計」の藤真知子樣からのご案内、謹んで轉載、ご紹介申し上げます。

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 11月4日に、京都で、映画「凛として愛」上映会&東條由布子氏講演会が行われます。
 東條由布子氏は、映画「凜として愛」の泉水隆一監督と親交が深く、「凜として愛」が靖国神社で上映中止になったいきさつ、上映中止になったその日の事、泉水隆一監督の熱い思いなど、すぐそばで見てきた方です。
 とても貴重な上映会&講演会になると思います。ぜひこの貴重な上映会&講演会に参加して頂ければと思います。

 一人でも多くの方のご参加お待ちしております。なお高校生以下は無料となっておりますので、ぜひご家族でご参加頂ければと思います。

チラシ
http://kyoto-city.info/20121104.pdf
詳細
http://kyoto-city.info/

~次代に語り継ごう日本人の誇り~ in 京都

【日時】平成24年11月4日(日)
    13:30~16:30(受付開始13:00~)
【場所】こどもみらい館 4階

(京都御所南・地下鉄「丸太町」駅徒歩3分)
【費用】会場協力金1000円(学生500円 高校生以下無料※社会人学生除く)
(定員192名 ※全席自由)
事前申込はこちら
http://kyoto-city.info/script/mailform/joueikai/
※定員を超えた時点で締め切らせて頂きます
(事前申込なしでも入場できますが、事前申込の方を優先します)

第1部:映画『凛として愛』上映会 (上映時間 約70分)監督・脚本:泉水隆一
 明治開国から大東亜戦争まで日本が戦ってきた歴史がよくわかります。
靖国神社において、たったの2日で上映中止に追い込まれた映画
明治27年の朝鮮半島をめぐる清国との戦い
ロシア、フランス、ドイツの三国干渉
朝鮮半島、満州をめぐりロシアと戦った日露戦争
満州事変、支那事変、ABCD包囲網
自存自衛のために戦った大東亜戦争

第2部:講演 「今こそ、真実の歴史を知ってほしい」
講師:東條英機元総理ご令孫 東條由布子先生
 大東亜戦争・東京裁判・靖国(備中處士、補うて云く、靖國神社をめぐる)問題等についてご講演いただきます。
【東條由布子先生 プロフィール】
(経歴)
昭和14年5月20日 東條英機元総理の長男の長女として出生
昭和42年3月 明治学院大学社会福祉学科中退
聖心女子大学で心理学単位習得
昭和60年4月 国士舘大学文学部教育学科編入
昭和63年3月 同校卒業
(職歴)
シンガポール公立中学校にて日本語講師
東京都保護監察局保護司
社会福祉協議会ガイドヘルパー(視覚障害者介添)
市原少年院短期カウンセラー
現在、NPO法人環境保全機構 理事長



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愛国女性のつどい花時計 藤真知子
fuji.machiko@gmail.com
花時計HP:http://www.hanadokei2010.com/
代表者ブログ「マダムの部屋」:http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
週刊花時計:http://www.yamatopress.com/column/pg41.html
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 11/4のイベントは、花時計も協賛させて頂いています。主催の「誇りある日本を取り戻す会」は、花時計でも力をいれている映画「凜として愛」の拡散を、関西で頑張っている団体です。京都での上映会は、今回で3回目の開催になります。

 花時計会員の方で11月4日、お手伝い頂ける方がいましたら、ご連絡頂けますでしょうか。今回は会場が大きく、準備などやる事が沢山ありますので、ぜひともご協力頂ければと思います。

 また関西での告知などご協力頂けますと助かります。一人でも多くの方に来て頂き、このイベントが成功できるよう、お力をお貸しください。どうぞよろしくお願い致します。

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日韓合邦の本義――八紘爲宇の序章・大亞細亞精神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月10日(水)19時19分58秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●硬石内田良平翁『日韓合併の思ひ出話』(夢野久作翁『近世快人傳』昭和十年十二月・黒白書房刊に所收。田中健之主編『内田良平翁五十年祭追慕録』昭和六十二年七月・日本興亞協會竝皇極社出版部刊に所收)に曰く、「

[硬石内田良平翁の曰く、]支那の革命(孫文の第一革命)は、目睫の間に迫つてゐる。ところで此の革命が成功したならば、清朝は、必ずや清朝發祥の地たる滿洲に逃れて來て、露西亞の助力を受けようとするのであらう。萬一、そんな事になつたら、それは露西亞の東洋侵略の口火を切るやうなものである。だから吾々は、これに先手を打つて置かねばならぬので、正に今日こそは、東洋の危急存亡の秋、危機一髮の危局である。實は革命黨の首領・孫逸仙(中山孫文)も、自分と同意見である。孫逸仙は、滿洲と蒙古とを擧げて、日本に與へようと云つてゐるが、これは實を云ふと、孫の怜悧な策略で、萬一、革命が成功した曉に於ける清朝の滿洲蒙塵を虞れ、滿洲を根據地とし、露國の援助を受けた清朝が、無敵の勢で支那内地へ盛り返して來ることを、非常に怖れてゐるからである。だから滿洲を日本に讓つて、其の樣な患を斷つと同時に、日本軍をして、極力、革命軍を援助せしめようとする、一石二鳥の魂膽に相違ない(愚案、是れ孫文が、王道に據らずして、覇術を弄する所以なり)のだから、何れにせよ、此の機を外さず、滿洲を吾が連邦に入れなければならぬと思ふ。

[海山李容九翁の曰く、]御話の通り、一點の異議もありませぬ。吾々一進會員は、御同樣の考へで、朝鮮民族を指導する覺悟であります。現在、我が韓國内は、貴族政治の腐敗と世襲的な兩班政治の爲に、民力を枯渇させられ、國外からは、白人の東漸勢力によつて、内治外交方針を攪亂されて、いつも東洋の禍亂の發生地となり、將來共に、到底、獨立を全うし得ないであらう事は、火を睹るよりも明かであります。ですから此の際、合邦の一擧によつて、國内の階級制度を打破し、人材登用の道を開き、國民の幸福・自由を保證し、進んで日本帝國を宗主とし、王道精神を精神とした亞細亞連邦組織の經綸を行はねば、吾々朝鮮民族は、未来永劫、救はるゝ時は無い、と考へて居ります(明治三十九年八月、朝鮮京城總督府官舍居候堂に於ける、兩雄の初問答)。

(硬石翁の曰く)これが、日韓合邦の、本當の精神なんだ。日韓合邦の眞精神は、區々たる日本が、渺たる朝鮮を征伏したと云ふやうな、簡單な、淺薄な意味のものでは無い。大亞細亞精神、東洋文明の根本精神の實際的なあらはれが、日韓の合邦に外ならないのだ。東洋の諸邦は、此の精神の下に、一致聯盟して、彼の西洋の諸國の唯物文化的侵略を克服しなければならぬ と云ふ、その模範を示したのが、此の日韓合邦の快擧なんだ。‥‥

 李容九と自分の精神の一貫した處は、東洋諸民族が、皆な同感共鳴する處でなければならぬ。此の爲に幾多の同志は、手辨當・無報酬の生命がけで、日韓合邦の爲に奔走し、陋巷に窮死して悔いなかつたのだ。かうした朝鮮民族の誠意が、吾々を動かし、その希望を遂げさせて遣り度いばつかりに、吾々は節を屈して官僚の巨頭連に頭を下げ、實功を彼等に滾(わか)つて吝まなかつたのだ。刀を仗にして血を吐きながら、吾々の後を追うて來て、途中で行倒れになつて恨みなかつた青年も居たのだ。吾々の殘した巨萬の借財を、一人で背負つてくれた篤志家も出て來たのだ。

 かうした彼等鮮人の、自國を犠牲にした東洋民族の爲の大經綸を行ひ、かうした彼等の血と涙とにみちゝゝた内政上の希望を遂げてやつてこそ、日韓合邦の精神が世界に輝き、日本が東洋の盟主たる信用が裏書きされ、地下無數の有名無名の志士の靈を慰め、明治天皇の御聖徳に應へ奉ることが出來るのでは無いか。そこに日本の國體と國是があり、そこに日本の國民精神があるのでは無いか」と。



 愚案、日本人は、もう忘れてしまつたのであらうか。かつての先人が、西洋の跳梁に對して、東洋の復興にかけた、彼の無私奉仕の行藏、皇國精神を。然るに傲然と曰く、脱亞せよ。曰く、アジアよ、さやうなら。中には、此の國難に對して、日章旗と共に星條旗を振り、米國と共に戰はうでは無いか、と。洵に情け無くなる‥‥。血の涙‥‥。「たゞ可哀想でいぢらしくて、腰拔けの弟か何かを守り育てる樣に、どうかして一人前にして遣り度い」と云つても、現代の日本人には、到底、無理だ。

 然し嘉永癸丑以來の、靖國神社祭神は、一に西洋舶來の唯物精神と鬪つて來たのでは無かつたか。而して既に支那・滿洲・北鮮は、西洋由來の共産主義の毒牙に罹かり、韓國は、邪教耶蘇に染められたと聞く。かつての傳來の東洋王道の輝き、果して今ま何處。大亞細亞精神の復興に力めんと欲する者、果して幾人か在る。

 然らば日本人、否、眞の日本精神を志す皇民に對して、敢へて言擧げす。再び東亞に道義の旗を建つる、吾人が先人血涙の志を繼ぐは、吾人が使命と勇む者あらば、共に西洋が利己主義・自由主義・民主主義の魔風に抗して、之を徹底拂攘して、大亞細亞精神を繼承祖述し、皇國の古道を明かにして、至誠の通ずる所、必ず狂瀾を囘し、聊か無窮の皇恩に報ぜむことを期さん矣。



【大亞細亞精神の源流――大西郷『天祖の御神旨、日本の國命』廟議口述筆記】
  ↓↓↓↓↓
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1636
 
 

日韓の、遙かなる紐帶。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月 8日(月)18時47分22秒
返信・引用 編集済
   硬石内田良平翁『日韓合併の思ひ出話』(田中健之主編『内田良平翁五十年祭追慕録』昭和六十二年七月・日本興亞協會竝皇極社出版部刊に所收)を再讀してゐる。大西郷を源流とする、かつての所謂右翼は、現代の所謂保守・右翼とは大いに異なり、其の器量と云ひ、其の識見と云ひ、霄壤の感がある。

 現代人も、皇道は到底無理としても、歐米思想に頼らず、少しは興亞に翔けた先人を偲び、東洋の道徳に覺醒して、之を活かして戴きたいと、切に思ふ。「亞細亞は、一なり矣」とは、當然當爲の悲願である。此の父祖傳來の悲願繼承を以て、欧米が覇術策謀に抗して、大東亞の共存共榮に志したいものだ。それこそ、八紘一宇實現の第一歩であらうと、小生は信じて已まぬ。



「自分(硬石翁)は、若いうちから、伯父の平岡浩太郎(玄洋翁)の處に居て、其處に出入りする朝鮮・支那・南洋の志士に接し、東洋の形勢を聞き慣れ見慣れて、十五六の時から、支那や露西亞の横暴に切齒扼腕し、朝鮮の内政の腐敗墮落を慨し、日本政府の平和政策を、萬事手遲れにして行く所謂追隨外交の自烈度さに憤激の血を湧かし、十八九の時には、既に一見識を倶へ、柔道と共に露西亞語などを研究してゐたものである。

 つまり支那や露西亞が、維新後間も無い日本の軍備の弱少と西洋崇拜的な民心の傾向を見て、大いに輕蔑し、先づ朝鮮を取つて、その次に日本を征伐しようとして居る。朝鮮も、亦た日本を弱小國と見て取つて、事毎に日本を蹶飛ばし、支那や露西亞にクツ付かうとして居る状態が、アリヽヽと眼に映るやうになつたので、東洋の平和を新興日本の力で確保するには、單に朝鮮の獨立を助けるだけで安心出來ない實状を、その時分から既にウスヽヽと感付いてゐたものである。

 明治二十七年、自分が二十歳の時に、東學黨の亂が起つた。‥‥しかし朝鮮民族が、大昔から遺傳して來た、意氣地の無い色々の習慣と、その習慣によつて培はれた朝鮮人の事大思想に根を下してゐる貴族(兩班)政治の弊害は、東孝天道(東學黨第二世道主・崔時享)の教義ぐらゐでは救ふことが出來なかつたらしい。‥‥

 朝鮮人一般の日本人輕蔑の状態は、實に甚だしかつたが、しかし吾々の本心を云ふと、さうした朝鮮人が、實は可哀想で可哀想で仕樣が無いのであつた。歴代の苛政に無力化され、愚昧化させられて、たゞお上を怨み、強い奴を恐れて、自分一個の福利の爲に戰々兢々として居るばかり。自分の郷土がどうなつてゐるか、自國の社稷が何處へ持つて行かれるか、など云ふ事は、夢にも考へる餘裕が無い。たゞウヂヤヽヾヽと生きてゐるばかりの、蟲ケラ同然の朝鮮國民を見ると、吾々はたゞ惻然、愀然として、襟を正すばかりで、憎む氣持や輕蔑する氣持などは、全然動かない。況んや現在の日本人のやうに、此奴等を酷使して搾取して遣らうなど云ふ氣は、毛頭起らない。たゞ可哀想でいぢらしくて、腰拔けの弟か何かを守り育てる樣に、どうかして一人前にして遣り度い。日本人の云ふ事がわかつて、露西亞や支那に對抗出來るやうには、何時なる事であらうと思ふと、胸が一杯になるばかりであつた。

 かうした我々の氣持は、今日に到るまで變つてゐない。今日の日本政府と日本人が、事毎に朝鮮人を押へ付け、彼等の自由を奪ひ、彼等の缺點ばかりを擧げて、これを輕蔑し、彼等の怨みを買つて行く醜態を見ると、却つて我々の方が、烈しい反感を日本人に對して抱き度くなる位である。‥‥

 吾々は、朝鮮の同志諸君に明言し得る。無恥無責任を支配者の本分と心得て居る官僚連中には識らず、吾々は、日韓合邦當時の韓人諸君の日本皇室に對し奉る感激と、當時の日本の廟議に與つた大官諸氏の、吾々日鮮有志に對する契約を、決して忘れてゐない。諸君と吾々とを欺き、日鮮人間の眞の融和方針を混迷させ、東洋千年の大計を誤り、諸君をして悲憤の極、自暴自棄に陷らしめ、明治天皇の御聖旨に背反しつゝ在るのは、日本人の最大缺陷たる官僚根性である。相當の地位と名譽を得るや、之に安んじ、之を固守せんとする我利我欲の爲に、上御一人を欺き、下萬民の眼を眩まして、壓迫と誤魔化しを唯一無上の政治の常道だと心得て居る、日本人の役人根性に外ならない。

 吾々は、徒らに彼等を漫罵して快とする者で無い。彼等がさうした腐つた怠け根性の爲に、日韓合邦の精神を忘れて、東洋千年の大計を過つて行くのが、目の前に見えて居るのだから、吾々は死んでも死に切れない氣持になるのである。日本民間の有志として、朝鮮民族の爲にイクラ謝罪しても、謝罪し切れない事を想うて、深夜、竊かに夜具の襟を噛むのである。‥‥

 申すも畏れ多いことではあるが、我が皇室の李王家に對する御慈しみと云ふものは、吾々民間の者の拜察し奉る以上の、神々しいものがあつたと云ふ。明治陛下が、決して喜怒を外に示現し給はぬ古今の大帝に在しました事は、世人周知の事實である。ところが、皇孫殿下の御參内と李垠殿下の御參内の節ばかりは、いつも滿面に御喜びの色を湛へさせられ、涙ぐましい程の御慈しみを埀れ給ふと洩れ承はつて居る。その崇高な、涯りなき大御心は、今日の心なき日本人が慚死しても仰ぎ得ない、有り難い御親情で、韓国皇室の憂慮と疑惑は、とみに一掃され、韓國上下は蘇生の思ひをしたばかりでなく、この尊く有り難い大御心の下に、何時までも生き永らへて居たいといふ安心立命の色が、全鮮に瀰(はびこ)り渡ることになつた。

 明治天皇の御聖徳によつて、日韓一家の結合は、こゝに遺憾なく完成せられたのである。宋秉□[田+俊の右]も、此の時に初めて明治陛下に拜謁したのであつたが、流石に直諫の鬼と謳はれた彼も、徹頭徹尾、大稜威に打たれて、手も足も出ない氣持になつてしまつた。宮中から退出すると、直に私に向つて、

日本人の云ふ通り、天皇陛下は、神樣だ。天皇を戴くことは、吾々の無上の幸福だ

と、涙を浮かべて云うたものである。‥‥

(丹芳樽井藤吉翁『大東合邦論』の精神を精神とした)李容九は涙を流して、自分の手を握つた。

『吾々は、馬鹿でしたね。欺されましたよ。』

さう云ふ瘠せ衰へた病友の言葉を聞いて、自分は感極つて、返事が出來なかつた。しかし強ひて彼を慰める爲に、呵々大笑した。

『欺されるのは、欺したより増しぢや無いか。實際、君や僕等が、朝鮮二千萬の同胞を欺いた形になつてしまつたのは、いかにも心苦しくてたまらないが、しかし日本國民は、官僚ばかりでは無い。日本國民は、案外、正直一徹な處があるのだ。吾々の樹立した大亞細亞連邦の精神が、日本人の心に印象されてゐる以上、何時かは實現する時か來るのだ。その時には、吾々の精神も、全世界に認識されるであらう。』

李容九は涙を浮かべて頭を擡げ、唯だ一語、

『わかりました』

と言つて、面を蔽うた。さうして間もなく死んでしまつたのである。

 自分は繰返して云ふ。朝鮮の前途は、飽く迄で併合の大精神を徹底して、眞に我が皇化に浴せしむる事だ。それには、唯だ今迄の如き日鮮兩民族の差別を撤廢して、平等の待遇を實現するにある事だ。明治大帝の御聖徳を仰いで、公平至誠を以て一貫した、この李容九の最後の一言と同樣に、日韓一億の心ある人々が、日韓合邦の眞精神を、たゞ一語『わかりました』と云つてくれゝば、自分としては、それで好いのだ。自分等が合邦記念塔(二十五周年記念として、明治神宮表參道神宮橋々畔に建立せしも、現在、碑文のみが東京都下青梅の大東農場に在り)を建てたのも、一に此の精神の實現を、朝野の間に促したい爲に外ならぬのだ」と。



●田中健之主編『内田良平翁青年訓――歐化思想の氾濫を憂へて』(同上)に曰く、

「(硬石翁の曰く、)西洋文明、支那・印度文明と、其のいづれも長短得失がある。その善きを同化し、國家民人に適合せざる點は、これを排すべきで、この同化力・判斷力は、國民各自が有せねばならぬ。皇道精神、即ち皇運扶翼の誠がこれである。然もこの能力は、國民の持つべき唯一のものであるにもかゝはらず、この能力さへ失つた徒輩共が續出するに到つては、誠に慨嘆に堪へぬ次第で、然も美濃部(達吉)の如きは、國家最高の機關なる議場に立ちて、臆面も無く、その非國民振りを暴露するに至つては、アキレ果てた奴である。畏れ多い極みだ。

 我が皇道は、外國文化等の荒浪如きに洗ひ流される樣な事は、斷じて無いが、國内にこんな奴が居る事は、國民全體の辱である。吾が黨(大日本生産黨)が結成された由縁も、實はこの爲めだつた筈だ」と。



●竹廼舍今泉定助翁『國體講話』(昭和十三年十二月・大日本運動本部刊)に曰く、

日本精神、即ち天皇の大御心、日本の天皇は、歴代、天照大神其の儘の御方である、と申し上げて居るのであります。其の大御心が、即ち日本精神でなければならぬ。即ち神の心である。宇宙の心でなければならぬ。隨つて日本人にだけ、或は日本の國家にだけ幸ひするやうなものを以て、日本精神なりと考へるのは間違ひであります。神は、私のあるものではない。所謂る公明正大でなければならぬ。獨り日本人にのみ私するといふやうなことは、眞の神の爲す所ではありませぬ。明治天皇の教育敕語の中にも仰せられてあります、『之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず』といふ思召しが、日本精神であります。世界の心であるから、世界中、何人に對しましても、日本精神の本當の所を説けば、感激して、成る程、さういふことが日本精神であるかと、敬服するものでなければならぬ筈であります」と。



 愚案、想起せよ。素盞鳴尊は、太古、白頭山に天降らせ給ひ、固より日韓の淺さらざる兄弟の關係あることを。一衣帶水の日韓の交渉は、靈的にも密接な關係に在り、天關打開の天意にも關係して、近視眼的な人間界だけで云々する能はざるものであることを。庶幾くば、流行保守の輕佻浮薄、一時の憤慨激怒に惑はさるゝこと無く、見直し聞き直して、日韓兄弟の紐帶を斷たざらんことを。朝鮮・滿洲を所據として、以て眞の宿敵・歐米の覇術策謀に對峙する秋が、必ず來らん矣。

【參考『孤忠悲しき朴鐵柱翁』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/222
 
 

行幸を仰ぎ奉り、再び神社參拜の作法に思ひを致す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月 2日(火)01時18分34秒
返信・引用 編集済
  ■行幸啓御道筋の奉拜(井原頼明翁『皇室事典』冨山房刊より)

【昭和十六年四月制定『文部省禮法要項』】

一、行幸啓の鹵簿・御行列[近衞兵の儀仗御警衞を備へた御行列を申し上げる。宮城内・停車場構内などの儀仗御警衞を備へないものは、單に御列または御行列である。『皇室儀令』第二十二條ないし第二十八條參照]を拜するには、御道筋または指定された場所に整列して、靜かに御通過を待つ。

二、老人や子供は、なるべく前列とし、總て警察官・掛員の指圖に從ひ、混雜を來さぬやうにする。

三、通御の時刻が近づいたら、傘をたゝみ、帽子・外套・襟卷・肩掛を脱ぎ、姿勢を正す。雨雪の際は、傘・外套等、雨具を着用したまゝ拜して差支へない。

四、御車が凡そ六十米[約三十間]の距離に近づいたときに、最敬禮を行ひ、上體を起して目迎・目送し奉る。

五、御召列車御通過の節は、御召列車が凡そ二百米[約二丁]の距離に近づいたときに、最敬禮を行ひ、上體を起して目迎・目送し奉る。

六、坐つて拜する場合も、前各項に準ずる。

七、鹵簿は、塀越し・窓越し、または高い位置から拜してはならない。御通過の後は、喧噪に渉らぬやうに、徐ろに退散する。行幸啓の節の敬禮に關し、特別の規定あるものは、之に從ふ(愚案、『陸軍禮式』・『海軍禮式』等)。

八、皇族・王公族の御成の節は、公式の場合は、前各項に準ずる。

 行幸啓御道筋の敬禮法については、『行幸の節、御道筋通行の者、旗章を見受け候はゞ、馬車を下り、笠竝びに帽等を脱し、總て路傍に立禮致す可き事』といふ、明治六年三月九日・太政官布告があり、これに則つて、大正四年十一月五日・内務省警保局長より廳府縣長官宛の通牒『行幸啓の節、路傍に跪坐拜觀に關する件』が骨子となり、その細目は、各地方警察部で、夫々決めてゐる。學校職員・學生・生徒・兒童の敬禮法については、昭和十二年六月三日『文部省訓令』第二十七號に定められてゐる。



 愚案、抑も天皇陛下には、大神中の大神に坐して、幽境の神々も仕へ奉る所の現人神なるぞ。天照大御神御手づから授け給へる三種の神器、現に嚴在ましまして、天皇陛下御護持し奉らせ給へり。然るに最近は、天皇陛下に對し奉つて、携帶電話を構へて撮り奉らんと欲するが如き、或は手を振り奉るが如き、不敬無禮の輩、後を絶たず、恐れ多しとも、眞に恐れ多し。是れ、神罰天誅の畏る可きを知らざる者にして、日本人たる者は、決して斯ゝる狂人禽獸の類に墮ちざるやう、意を注がねばならぬ。大御手を振らせ給へば、「最敬禮」を以てし、乃至は嚴かに「聖壽萬歳」を以て應へ奉る可し矣。

 靖國神社は、上御一人を始め奉り、勅使・皇族方の行幸啓を賜る、天皇の神社である。境内は固より、其の周邊に於ては、殊に恐懼戒愼に力めなければならぬ。或る會合にて、「行幸啓」に對し奉つての、默止し得ぬ、非道極まる不敬に憤り、亦た「神社の正中」に就いて、些か問題提起を行つたことがあつた。「正中」は、天皇陛下および神明の通らせ給ふ大道なり。



■參道の「正中(尊道・置道)」
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 塾頭の曰く、「靖國神社神門は、葦津耕次郎・珍彦父子が、滿洲事變大成功で沸き立つ全國民の後押しを受けて、第一徴兵保險會社が奉納した楼門、即ち靖國神社神門を作り上げたのである。建築相談役が葦津耕次郎、工事請負は葦津珍彦が代表を務める合資會社社寺工務所である。昭和八年、神門と變更、九年に竣成祭。奉納許可したのが、當時陸軍省の牛島滿副官。竣成祭には、事變で名を擧げた林銑十郎陸軍大臣を始め、錚々たる人々が列席。宮司は賀茂百樹殿。此の神門には、日本最大の大きさを誇る菊花の大紋章が輝いてゐる。「天皇の神社」、「天皇の神門」と謂はれる所以である。

 神門は、靖國神社の正門であり、内陣への大王道である。その眞ん中(正中)は、國民は歩くことが出來ない。天皇の指し示す邊地・外地に赴き、皇國の守護し奉らんが爲めに、戰場で伏した將官・將兵の凱旋である。迎へる皇族・元帥・大將・中將・武官、悉く頭を埀れる中を凱旋する、聲なき英靈之門、それが靖國神社神門である。現在に於いても、例祭日には、天皇陛下のお使ひである敕使が、此の神門を通過される。神門は、殉國の英靈が凱旋する門である。「屍を山野に晒すは、固より軍人の覺悟なり、遺骨の還らざることあるも、心に留めおけ」と、妻子に、家族に言ひ殘し、出征した兵士・將官が、戰野に斃れ、手足をもがれ、頭を吹き飛ばされ、腹を抉られ、五臟六腑を撒き散らされし英靈が招魂されて、漆黒の深夜に、靖國神社に祭神として合祀される時、正に此の神門を御羽車に乘られて歸還・凱旋する門、十六菊花天覽の下、聖域に入る神門である。その神門の前には、「下乘」と云ふ制札があり、門を濳つて、更に奧の拜殿の手前には、「皇族下乘」とある」と。



■參考『神拜式條』、神社參拜のこゝろ――「六色の禁忌」・「内七言・外七言」
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天皇中心論。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月24日(月)19時47分35秒
返信・引用 編集済
  あれはてし 千代のふる道 ふみわけて しるべするこそ 我がつとめなれ

 これは、村山惣作翁(我が國に於いて初めて公立小學校を創られたと云ふ、越後國小千谷神道の魚沼郡川合神社祠官・青鸞山本比呂伎翁の靈的道統を受け繼いだ御方)と好一對を爲す、戰前に於ける神道界の大御所・今泉定助翁の哥である。今泉翁が「皇道」の宣布者なるは、人のよく知る所、近代神道史上の上で、翁ほど廣汎な社會層に大きな精神的影響を及ぼした神道思想家は絶無であらうと云はれる。皇道の概念は、謂はゞそれは「現人神」天皇を註するものゝ謂ひであつた。

 幸ひに日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』全三卷(昭和四十四年九月・十一月・四十五年三月・同所刊)あり。今の時代に於いてこそ、此の憂國慨世の、神道思想家の巨人について、同學の士の參究祖述を乞ひたい。不肖小生も、及ばずながら大いに學ばさせて戴く心算だ。
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【絶筆「世界皇化」――或る神道人の臨終】
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【參考・今泉定助研究會】
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●皇道社總裁・神宮奉齋會長・竹廼舍今泉定助翁『國體講話』(昭和十三年十二月・大日本運動本部刊)に曰く、

「どなたかの外務大臣時代に、『自分の外務大臣たる間は、戰爭は無い』といふやうなことを言はれたことがあつたやうに記憶して居りますが、之に對しては、何處からも異議が出なかつたやうであります。勿論、其の方は惡い心持で、さういふ事を言はれて居るのではないのでありますから、それを咎める方が、或は苛酷かも知れませぬ。が、併し之を一面嚴正なる立場から批判致しますれば、洵に以ての外の言ひ分であります。何となれば、戰爭の有る無しといふことは、陛下の大權であつて、外の人には、さういふ事を言へる筈がないのであります。強く申しましたならば、所謂大權干犯ではありますまいか。さういふ事を言ひましても、人が何とも思はないで居るといふのは、一般の思想が天皇機關説であるからであらうと思ひます。天皇の大權以外に、戰爭の有無などを斷ずるものは、何ものも無い筈であります。‥‥

 それから昨今、世間では、もう天皇機關説といふやうなことはなくなつたやうに申して居る人も相當あるやうでありますが、それはさうではありませぬ。それどころか、私共が無遠慮に申せば、寧ろ天皇機關説で終始してゐると申しても差支へないと思ふのであります。‥‥例へばこゝに閣議を開かるゝ、そして其の閣議で決つた事をば、書記官長の手を經て、直ちに其の日の各新聞夕刊に發表される。誰それは東京府の知事になつた、又た誰それは大阪府の知事になつたとか、人事上の事ばかりでなく、其の他の事柄も、悉く發表される。無論、其の間、陛下に奏上する暇などある筈もありませぬから、奏上して居らぬに決つて居るのであります。それは勿論、新聞記者が探聞し斷定して、それを書き立てるのではない。書記官長の手を經て、公に之を聽いて新聞に出すのでありますが、是等の事も、明かに天皇機關説の思想の一つの現はれであると思ひます。閣議で決めた事は、陛下は必ず御裁可になるものである、斯う決めて居る(愚案、何たる傲慢ぞ)。新聞記者が漏れ聞いて書いて居るなら仕方がありませぬが、さうではない。是は明かに天皇機關説であります。甚だ苛酷な申し分かも知れませぬが、私は唯だ其の理論を申し上げて居るのであります。

 それから又た歴代の司法大臣などが、司法官會議などの席上で、各司法官に西洋流な法治國の精神を強調して居ることは御承知の通りでありますが、私共は、日本は法治國でないと思つて居ります。成る程、明治天皇は、明治初年から法制に御心を注がれまして、明治八年には、立憲政體に關する御詔勅を御下しになつて居り、又た明治十四年には、國會開設の敕語を下されて居ります。又た御承知の通り、明治二十二年には、憲法の御發布があり、同時に憲法發布に關する詔勅も出て居ります。けれども何處にも、法治國なんといふことはありません。是は法律家の方々が、勝手に決められた事であらうと思ふ。尤も法治國といふは、唯だ法律が整備した國であるといふ意味ならば、私共、別に何も申し上げないのであります。併しながら法治國といふことは、法律を中心とした國であるといふ、佛蘭西や英吉利のやうな國を謂ふのであるといふ事であれば、それは私共、大いに異議を申立てなければならぬのであります。日本は、斷じて法律を中心とした國ではありませぬ。日本は、開闢以來、天皇中心の國であります。‥‥

 例へば「オホヤケ」といふ語を公と譯したのは、餘りよく意味を現はして居らぬのであります。「公」の字は、御承知の通り「私」の反對であります。「八」といふ字は「背」の字で、又「ム」の字は「私」といふ字で、後に禾をつけたのであります。即ち「私に背く」といふことを示すものであります。併し此のオホヤケといふ語は、私に背くといふ意味ばかりではありませぬで、「大家(おほやけ)」の意で、一番大きな家といふ義であります。一番大きな家、即ち皇室・朝廷といふことであります。隨つて皇室は大家であり、吾々は「家子(やつこ)」であります。「ヤツコ」を「奴」に譯したのも、間違ひであります。ヤツコは家子であります。然るに家子にヤツコと假名が付いて居らぬものですから、後世の軍記物語などには、「家の子・郎黨」と讀むやうになつたのであります。即ちかゝる言葉の上から考へましても、天皇と臣民との關係を顯して、君民一體を示して居るのであります。

 斯樣に歴史の事實から稽へましても、又た一つの言葉の意味から推しましても、天皇を中心として、吾々は其の家族として擴大せられて來たものである、一族の膨脹擴大したものである。斯う申して居るのであります。是が歴史であり、事實である。それでありますから、「忠孝一本」も、其處から出て來るのであります。他の國では、國に盡すを忠といひ、家に盡すを孝といふのでありますけれども、日本では、「家國一致」である。家が大きくなつて國になつたのだから、忠と孝とは同じものであると申すのであります。忠孝一本も、家國一致も、皆な此の意味から出て來て居るのであります。それから又「都」などと申す言葉も、其の意味を表はすものであります。京の字でも、都の字でも、「ミヤコ」は宮殿のある處といふ意味で、「コ」は處といふことで、宮の在る所であり、天皇の宮殿のある所と言ふ義である。吾々祖先民族は、天皇の大宮所のある處に住むといふことを光榮として、都に集まつたのであります。今日、多くの人々が都會生活を好んで、華かな所に集つて來るのは、全然精神が違ふのであります。只今ま申しまする如く、昔の人が都に住まひましたのは、天皇の住まつて坐します所に集まるといふことを光榮として集つたのでありまして、さういふ點から考へましても、日本の成り立ちといふものゝ一端が窺はれるやうな氣分が致すのであります」と。



●今泉定助翁『皇道論叢』(昭和十年三月發表「天皇機關説を排撃す」。十七年八月・皇道社刊。『今泉定助先生研究全集』第二卷に所收)に曰く、

「天皇が絶對無制限にましますことは、民族精神の確信する所であつて、又た歴史上の事實である。‥‥絶對無制限にましますが故に、天皇は神聖であると申し上げるのである。而して此の天皇神聖は、今上天皇のことを申し上げるのであることは云ふ迄もない。今上天皇は、過去の天皇と對立し給ふものでもなければ、過去の天皇によつて制限を受け給ふものでもない。天皇に父母なく妻子なし(註)と云ふは、此の意である。明治天皇が、その時代に應じて御制定遊ばされた憲法を、今上天皇が御繼續遊ばされるのも、又は變更遊ばされるのも、總て今上天皇の御意志のまゝである。又その變更の方法も、原則として今上天皇の御隨意である、と解すべきである。たゞ今上天皇は、皇祖以來、御歴代の天皇を包容表彰し給ふが故に、皇祖以來の統治の洪範は、そのまゝ今上天皇の大御心の御内容であるのである。こゝに日本國體の、萬國に卓絶する特長があるのであつて、若し天皇が過去の制度によつて制限を受け給ふものならば、時代の進歩が制度に適しなくなると、國家が舊制度と共に亡びることになる。これ、生成發展の産靈の精神に基く日本國家と、斷じて相容れない思想である。國家の進歩に應じ、國情の變遷に適して、制度も亦た何等の澁滯なく自在に屈伸する所に、生成化育の妙所がある。總ての制度が、天皇より發顯して、又た天皇に還元し、天皇は生成化育の根源にましますと云ふのは、此の意である。これが爲めに、日本國家は天壤無窮であると云ふのである。これ、實に萬世一系の理論上の根據であり、又た天皇神聖の眞意義である。

 今日の法學者等は、是等の大精神が、殆んど判つて居ない。それであるから、常に方角違ひの議論をして、殆んど批判に堪へないものばかりである。是等の大精神は何處から出るかと云へば、主として祭祀中の祭祀たる大嘗祭から出るのである。之によつて『天津日嗣のすめらみこと』の意義が、始めて明かになる。國體の中心根本は、『天津日嗣のすめらみこと』であらせらる。此の意義を十分に理解しないことが、總ての誤謬の原因である。‥‥多數の學者等が、百尺竿頭、一歩を進め、西洋型より脱出して、宇宙の眞理たる祭祀を研究し、殊に大嘗祭を研究し、日本精神に徹底して、その根本思想を改められんことである。然らずんば、今日の官立大學も、學士會院も、帝國議會も、總て外國思想の糟粕を嘗めるに止まつて、我が日本國家の興隆を企圖することは、想ひもよらぬ事である。これ、吾人の、到底、默過し得ざる所である」と。



(註)今泉定助翁『皇道の眞髓』(昭和九年三月・東方書院刊。『今泉定助先生研究全集』第三卷に所收)に曰く、

「天皇は、絶對尊嚴の御方に御在します。諸外國の君主は、皆な相對的の尊嚴である。諸外國でも、君主の尊嚴は認めてゐるけれども、それが相對的の尊嚴である。故に臣下の者が君主に忠節を盡すのは、累代の恩を受けて居るか、或は君主が特に禮を厚うして臣下を待遇するかであれば、臣下も亦た生命を犠牲にして君主に忠節を盡さねばならないが、若し其の君主が暴君であつて、下民を苦しめたり、苛酷な政治を行ふ場合には、臣下も亦た相當な方法を執つて差支へは無いとしてゐる。即ち支那などで、『三たび諫めて聽かれずんば去る』とか、『君、君たらずんば、臣、臣たらず』など云ふのが、其れである。此の思想は、矢張り權利・義務的思想であり、相對的思想である。故に君主の方からも、臣民がそれ程いやがるなら隱退すると云つて、其の位を去る事も出來れば、臣下の者からも、そんな君主に君臨して居られては困るから、隱退して貰ひたいと云ふことが出來る。結局、善ければ君となる、惡ければ君とはせないと云ふ君臣である。全く相對的である。然るに我が國の君臣の間には、斯かる事は斷じて有り得ない。我が國では、天皇も絶對、臣民も絶對である。天皇の方から、國民がそれ程いやがるならば、隱退するなどと仰せられる事の出來ないのは勿論、國民の方からも、御隱退を願ひたいなどいへる國柄では、斷じてない。天皇の方から云へば、如何なる不臣な行があるものでも、之をして眞の國民たらしめられなければ、皇祖皇宗に對せらるゝ御責任は、完全とは申されない。又た國民の方から云へば、苟にも差樣な事の有り得べきでなく、亦た有つた例も無いが、萬々一、道に違はせ給ふ御事がありても、何所までも諫め奉つて、天皇たらしめ奉らなくてはならない。恰も如何に不良でも、子に相違なく、親に相違なく、不良であるから親とせず、子とはせないとは云はれないのと同樣である。『三たび諫めて聽かれざれば去る』とか、『君、君たらずんば、臣、臣たらず』など云ふが如き、水臭い君臣では無い。何所々々迄も、止むに止まれない至情から正し合ふのが、我が國君臣の絶對關係である。序でに述べるが、獨り君臣關係のみならず、總ての倫理が絶對である。父子・夫婦・兄弟・朋友の間も、皆さうである。夫の行跡、宜しからずとも、妻は妻たらざるべからず、妻の行状、正しからずとて捨てるならば、夫も夫たらざる所以であつて、斯くの如きは、我が國人倫の許さない所である。

 天皇は唯一絶對であるが故に、古來、『天皇に、父母なく、妻子なく、私なし』と云ふのである。勿論、親子・夫婦・兄弟等の御親しみ深くあらせられる事はさる事にして、優らせ給ふとも、劣らせ給はないのは云ふ迄も無いが、天津日嗣の天皇としては、其の御位が、絶對に尊嚴であり唯一であるから、親子・夫婦・兄弟等の親を以て、此の御位の絶對尊嚴を侵す能はざるを云ふ所以である。明治天皇の大御代に、佐々木高行侯[當時の佐々木伯]に、内親王御教育主任を仰付けられた事は、誰も知つてゐる事であるが、高行侯、或る日、内親王の御供をして參内拜謁して、『恐れながら、内親王樣方に於かせられては、御父君より賜はる御言葉を、此の上なく御嬉しく御親しみ遊ばされ、高輪御殿に御下りましたる後も、其の御言葉を幾度となく御繰返し遊ばされることは、傍らにて拜するも、御いたはしく存じ上げます。されば今少しく御親密なる御言葉を賜はるやう、謹んで御願ひ奉る』と伏奏したれば、陛下は、稍々暫し侯を見つめ給ひ、さて仰せられるやう、

佐々木、それは何と云ふ事であるか。凡そ世の中に、親として子を愛せざる者はなかるべし。然れども朕は、天津日嗣の天皇である。一國一家の天津日嗣の天皇としては、國家全體の親なるぞ。此の子のみの親でない。此の子にのみ、朕の愛を注ぐことは叶はぬ身ぞ

と仰せられたれば、侯は、『誠に恐れ入つたる大御心、何とも御詫びの申し上げやうもござりませぬ』とて、感激恐懼、拜伏して退下したと、仄かに拜聞し奉つてゐる。九重の雪深し、其の前後の御有樣と大御詞とは、固より明かに知る由はないけれども、斯かる意味の大御詞のあつた事は洩れ承つて、常に耳に殘つてゐるから、其の消息の一端を述べるのである。

 また明治二十二年、憲法發布の當時、伊藤博文公[當時の伊藤伯]には、皇后陛下と御同列にて、上野に御幸あらせられんことを奏請し奉つた。然るに陛下には、嚴肅に、

朕は、天津日嗣の天皇である。皇后と同車して宜しきか

と、伊藤公にたゞさせ給うたから、公、恐懼措く所を知らず、謹みて『恐れ多くも此の度は、皇祖皇宗の大御心により、千古不磨の憲法を御欽定遊ばされ、國民全體は歡迎祝賀申し上げたく、國民全體の意志としての御願出にて候ふ』と、奏上し奉つた。それで、陛下には、

『國民全體の意志とあらば、(皇后と)同乘して幸すべし』

と、仰せられたと拜承してゐる。此の事も、私共微臣のよく知る所で無いから、誤傳あらば、謹んで訂正すべきは勿論であるが、佐々木侯に對せられた大御詞と云ひ、伊藤公への御事と云ひ、明治天皇は、全く唯一絶對にして、父母もなく、妻子も無いことを御實現遊ばされたのであつた。亦た先帝崩御遊ばさるれば、皇太子が直ちに御踐祚遊ばされると云ふ事なども、天皇の唯一絶對である事を能く顯してゐる。普通の人情から云へば、先帝崩御あらせられ、皇太子は、人生の最も忍び難い悲哀の極に沈ませ給うた時である。孝道から云へば、唯だ哀悼の情、心中に溢れ、前後左右、何事も顧み給ふ餘裕のない御場合である。左樣な時に當つて、寸秒の暇も無く、踐祚し給はねばならないから、人情に齟齬することは勿論である。併しながら其所が、天皇に私なしで、天皇の二六時中遊ばさるゝ事は、皆な公事であり、一つも私事が無いからである。天皇は、國家の中心、恰も天御中主神が宇宙の根源であるのと同樣であり、國家の伸展は宇宙の運行と同じく、寸隙の休止も無いから、天皇の天業にも、寸秒の休止を許さない。故に悲哀沈痛の間にも、直ちに御踐祚遊ばされるのである。全く唯一絶對に御在しますからである」と。



 愚案、皇后の敬稱たる「陛下」へ統一されしは、近代の御事の御由なり。
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八紘爲宇、世界皇化。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月19日(水)23時58分25秒
返信・引用 編集済
   平泉澄博士は、『日本の悲劇と理想』(昭和五十二年三月・原書房刊)に於いて、特に「滿洲」の一章を設け、白鳥庫吉博士及び其の門下諸氏の研究を紹介し、滿洲は支那に非ざる事を、再論されてをられます。お持ちの御方は、此の機會に、是非とも再讀して戴きたう存じます。曰く、「

一、滿洲の地は、支那本土と地續きではありますが、別物と考へられてゐました。地續きといふ點から云へば、印度も、トルコも、ロシアも、土地は續いてゐますけれども、それ故に支那の物だとは云はず、又た云へないのと同樣であります。殊に萬里の長城を築いて、山海關より東北は、異物として切捨てゝ了つた事が、之を證明します。

二、滿洲の住民は、東胡・□[三水+歳]貊・契丹など、古來名稱も色々變り、實質も違つてゐますが、いづれにしても漢民族と異なり、言語も風俗も、本來は違つた異民族でありました。

三、古代に於いては、漢民族の勢力が南滿洲を經由して、朝鮮半島へまで伸びた事がありました。然し之を第一期として、第二期には、それまで眠つてゐた滿洲民族が、漸く目ざめて國家を形成するに至りました。夫餘・高句麗・渤海が、それであります。大局から見ますと、支那とは無縁の存在であり、相互に關知しない風でありました。

四、第三期は、遼・金、次に蒙古[元]が入つて、やがて清の時代でありますが、この間は、ひとり明代を除けば、滿洲の國家が強勢であつて、支那が常に被害者の立場に在りました。

 以上を通覽し大觀しますならば、滿洲は滿洲であつて、支那は支那、本來別物であると云はねばなりませぬ」と。



●矢野仁一博士『滿蒙藏は支那本來の領土に非る論』(『外交時報』大正十一年一月。『近代支那論』所收)に曰く、

「梁啓超は、昨年末、天津の青年會に於て、『滿洲・蒙古が支那の領域であることは、歴史の明示する所で、五千年以前、支那の開國當時から、既に支那に歸屬して居るものである。日本人は此の歴史を知らないことはないが、東洋の事情に明かでない歐米人を欺かんとする爲めに、滿洲・蒙古を以て特別地域と主張するのである』と云ふ樣な意味の演説を試み、更に之を十二月六日の『上海時事新報』に發表したと云ふことであるが、蒙古は固より、滿洲と雖も、當然支那の領域であると云ふ樣なことはない。支那は元來國境のない國で、世界は凡て支那の支配する所であると云ふ理論より言へば、蒙古・滿洲ばかりでなく、世界は凡て當然に支那の領域であると言つてもよいのである。さう云ふ議論ならば格別、蒙古・滿洲は、實際五千年前以前より支那の領土であつたと云ふ議論ならば、これは唐人の囈語(たはごと)とでも評する外はないのである」と。



 愚案、昨今、日本流行の反支・反韓は、是れ即ち歐米の覇權主義に外ならず、現代日本の保守・右翼は、支那・韓國、果ては歐米へ行つても、十分代用出來、大いに活躍出來さうです。思想に於いても、グローバル化されました。これでは、我が古賢先哲の繼承紹述は、諦めざるを得ぬでせう。都合のよき時だけ、神武天皇を持ち出して、「八紘爲宇」の理想は、弊履の如く棄てゝ、見向きも致しませぬ。大西郷に學び、頭山立雲翁に指導を仰ぎ、神道・皇道の世界觀に立つて、「世界皇化」を目標とする傑物哲人の出現を、切に望みたいと思ひます。
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 「天台道士杉浦重剛翁の偉業を繼ぐ人格の士」と評(岡田啓介海軍大將の評)された人は、即ち史山猪狩又藏翁である。其の所著『日本皇室論』(昭和七年六月・其刊行會刊)に曰く、

「我が特有の美とは何か。國體の美である。國體の美とは何か。萬世一系の皇室を奉戴することである。是れ外國の眞似得ざる所であるから、我等は、益々我が皇室の美を發揚し、萬國をして等しく之を仰ぎ尊ましむるの覺悟が無くてはならぬ。

 我が皇室は、根本からして王道を實行して來た。若し王道といふ言葉に不足があれば、皇道、或は唯だ神道といつてもよい。つまり敬神・崇祖・仁義・忠孝の大道である。西洋の諸國は、太古からして覇道の實行者である。覇道は富國強兵であり、好んで詐略を用ゐる。かゝるが故に正義が行はれないのだ。我が國の皇室は、正しい道でなければ歩まれない。これが王道であり、正義であり、又た唯だ神道である。將來、正義をもつて全世界を光被すべきは、我が帝國を措いて他にあらう筈が無い。こゝに重大な使命があるのだ。香川景樹の歌に、

 花といふ 花の末には 咲きぬれど 上に匂はむ 花なかりけり

とある。我が帝國の文明は、他の舊國に比して、稍々後れてゐたかも知れぬ。然し花の殿りをつとめて、其の色、其の香、ともに比すべきものは無いのである。斯く我が帝國の使命の重大なるを悟ると同時に、我が政治道徳の中心と源泉とが、常に我が皇室に存することを思ひ、仰ぎ見れば見る程、其の御稜威の宏大なるを讚美せずには居られないのである。我等日本人たるもの、此の尊嚴なる皇室を戴きて、仁愛正義の旗風に、世界を靡かせてやらねばならぬ。恐らく全人類が救はれるであらう」と。
  ↓↓↓↓↓
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滿洲事變勃發――柳條溝事件。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月18日(火)22時28分26秒
返信・引用 編集済
   柳條溝(湖)事件に端を發した滿洲事變は、昭和六年九月二十一日の「閣議決定」に曰く、

九月十八日夜、支那兵の滿鐵爆破に因り生起したる今囘の事件は、之を事變と看做す」と。

 泉水隆一監督は、先づ東京裁判史觀の根源にある滿洲事變の研究を始め、柳條溝の現場へも出向き、「やはり關東軍は、やつて無い」との結論を下す。而して『凛として愛』は、「天皇陛下認證の閣議決定」に據つて、正統に之を承繼してゐる。然るに現在、靖國神社に上映されてゐる、改竄版『私たちは忘れない!――感謝と祈りと誇りを』(ナレーシヨンは浜畑賢吉・上村香子夫妻)には、「關東軍の一部の將校がやつた」と、明確に訴へてゐる。名指しされたに等しい、其の一部の將校とは、勿論、靖國神社の祭神である。にもかゝはらず、英靈を顯彰する筈の『私たちは忘れない!』では、之を貶めて憚らないのである。
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■九段塾藏版『靖国神社の真実』平成十九年一月三十一日條―― 一八二頁~一八八頁參照。



 本日、九月十八日は、太陽暦に換算すれば、奇しくも八紘一宇の實踐者・豐太閤歸天の當日の御由。豐國大神昇天して、三百三十三年後、大東亞戰爭が始まつたのである。而して大東亞戰爭開戰の九九の八十一年の後は、即ち本年本日なる可し矣。神籌囘天、嗚呼、神さびたりとも、神さびたり。あなゝゝ、賢こ。
 
 

天地明察、澁川春海先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月10日(月)23時50分22秒
返信・引用 編集済
   最近、映畫『天地明察』の宣傳を、よく聞くやうになつた。
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 天文・暦學に於いても、小生、固より不案内にして、其の要領を得ず。然れども貞享暦を作りし澁川春海先生は、其の師・埀加山崎闇齋先生の高弟にして、闇齋先生をして「天下の逸才・千歳の一人」と曰はしめたる傑物、其の天人一理の神道は、些か拜讀する所がある。

 『春海先生實記』に曰く、「神道は、天文道・安倍姓(土御門泰福卿)の流を立て、埀加の學ぶ所、(荒木田)經晃の習ふ所を本と爲し、諸家の聞く所を末と爲し、有職の傳ふる所を羽翼と爲す」と。而して春海先生は、「やせたる御老人、なる程、質(質素)樣なる體、文字一つ御存じなき人の樣に相ひ見え候ふ。‥‥凡そ有職の學は、日用の常行、政務の成敗に於いて備はざるなし。眞に古學なり。‥‥『延喜式』の諸々の祭禮は、極盛なりき。故に今は行はれず。宜しく太古の質約に復すべし。此れ我が國の道なり」(『新蘆面命』)と。又た曰く、「老年にて書を見申し候へば、氣力つかれ候ふ。只だ三種(神器の傳)のみ、守り申し候ふ」(『天柱密談』)と。

 春海先生の研究は、完備とは、到底、申し難く、これから大いになされなければならぬ。神儒のみの知識では、覺束ないこと萬々、理數系の方の領域、頭腦が必要だ。こゝに少しく春海先生の傳を抄して、博雅の士の益々の參究研鑽を乞ひたい。



【贈從四位・土守靈社澁川助左衞門源春海先生(棋所二世保井算哲)小傳】――『野史』・『春海先生實記』を基とせる『大日本人名辭書』に、其の他、偶見せる西内雅翁の書を以て、少しく訂正増補す。

 安井氏、後ち延寶五年、保井氏と改む。寛永十六年閏十一月三日、幕府碁所家元の一世・安井次吉算哲(古算哲・准名人)の長男として生る。六藏と稱し、後ち父の名を嗣ぎて算哲と改め、束髮して助左衞門と稱し、名乘は順正(のりまさ)・春海・都翁(つゝち)。新蘆は、其の號なり。安井氏の本貫は、河内國澁川郡の畠山流澁川氏なり。春海、天資、聰敏明達、一を聞きて十を知る。容貌端嚴にして、動作、則あり。蚤く碁家の世業を善くして絶倫、父に踰ゆ。二世・安井算哲、即ち是れなり。慶安四年、始めて江戸城に登りて、業を勤む。寛文十年、本因坊道策相手に、初手天元を打つは、二世算哲の本領と謂ひつべし。

 春海、幼より天文學を好み、其の京に在る師を尋ね、友を會して、議論、少しも懈ることなく、最も九數に通じて、兼ねて暦學に精し。遂に天文の理を研究す。承應初年、埀加靈社山崎闇齋を師とし、神道を學びて、發明する所ろ多し。闇齋、其の才を奇とし、授くるに其の蘊奧を以てす。又た博く諸家の祕奧を探りて、得る所あり。而して志は、專ら天文・暦學に在り。遍く其の書を讀む。經傳より以下、小説・家乘及び國史に至るまで、沈思反覆、通曉せざるなし。其の或は疑ふ所あれば研精を致し、或は寢食を忘るゝに至る。而して其の心に得る者は、之を天に驗し理に察し、旁々索人に聞きて質正す。時人、之を稱し、其の名、一世に聞こゆ。縉紳貴士、高門偉族を問ふ者、日に多し。而して水戸徳川光圀・會津保科正之、最も春海を愛す。春海、嘗て「儀鳳暦の世に行はるゝこと七十二年、而して天と合はず。大衍暦の世に行はるゝこと九十八年、而して亦た漸く差あり。是に於て宣明暦を頒行して、既に八百二十三年に及ぶ。豈に差なきを得んや。是れ治國の要訣にして、萬民の龜鑑なり。此に間然する所あれば、其の弊、勝げて言ふ可からず」と。乃ち中國及び四方諸州に游歴して、日□[日+咎。かげ]を測り刻差を考へ、或は氣候を驗す。寛文十年、新たに『渾天儀』を制し、實測を以て星度を定め、新たに小星と名づくる者六十一座と、古へ名づくる所の衆星と、竝びに之を圖書し、名づけて天球と曰ふ。又た『天文分野方圓二圖』及び『日本度數圖』・『地球圖』を作る。皆な東邦古今に、未だ嘗て有らざるの事なり。十三年、『暦書』を頒行す。十二月丙辰望、月食して、天、食することなし。延寶元年、書を上りて、暦を改めんことを請ふ。三年五月朔日、日食して、天、食することなし。是に於て異論、紛々たり。授時暦は、固より疎んぜらる。然れども大統暦・時憲暦は、節氣定朔、授時暦に異なる故に、衆義、決せず。春海、之を憂ふるの深き、測候推歩、考究精到、遂に自ら新暦を作る。是れ本邦の土地に因つて起る所の法なり。是を以て舊史載する所の晦朔弦望及び交食星行等の日時刻分を推すに、一も密合せざるなし。而して舊暦の差謬、是に於てか著はる。春海、又『左氏暦考』及び『述暦』を作り、『詩書禮記暦考』を合して、三暦考と曰ふ。刊して世に行ふ。是に於てか、經傳暦日の跡、初めて昭明なり。學者、之を便とす。闇齋、嘗て曰ふ、「我が友・春海の天文暦數の學に於ける、乃ち至聖と謂ふ可し。豈に春日麿・安倍晴明以來の一人ならずや。經緯、若し難解あらば、則ち須らく之を春海に問ひて可なり」と。八年、『日本長暦』を作る。神武帝即位元年辛酉に起りて、靈元帝貞享三年丙午に訖はる。因つて太古の時日を推考し、以て伊勢祭奠の日を改たむ。乃ち敕命して遵行す。闇齋、感歎して以爲らく、「之を我が邦の再開闢と謂ひて可なり」と。春海を愛重するの厚き、斯くの如し。

 天和三年、『天球儀』を獻ず。是の年、又た表を上りて言ふ、「臣、累年、表を立て、□[日+咎]を測りて、正に現行の宣明暦は、天に後るゝ二日なることを知る。是れ即ち當に暦を改むべきの秋なり。而して急に之を正さゞれば、即ち寒暑、候に過ぎ、耕時、種を失して、民事、利あらざらん。豈に啻々現行暦、食を記して、終ひに食せざるの比のみならんや」と。禁闕、因つて改暦の議あり。命じて春海を召し、敕して其の事を議せしむ。春海の意は、異國の暦を用ひず、宜しく新暦を以て頒行すべしと云ふに在り。衆義、決せず、貞享三年、詔して大統暦を行はしむ。春海、復た表を上りて、備さに其の用ふ可からざるの故を陳ぶ。乃ち禁闕の西南小路に、八尺の鐵表を立てゝ、天文博士と共に□[日+咎]影を測り、又た星臺を建て、『渾天儀』を以て、七星の運行を窺ふに、春海造る所の新暦、天と密合して、毫も差ふことなし。博士、驚歎して、詳かに其の由を奏す。是に於て初めて新暦を用ふるの命あり。敕して名を「貞享暦」と賜ひ、明年、始めて天下に頒行す。春海、欣躍の甚だし、叩頭して拜謝す。また別に『七曜暦』を作りて、之を上る。爾來、暦日、其の正を得て、天時、錯まらず、民事、差はず。識者、春海の功を賞歎して、千古に拔群なりとす。乘り暦本は、毎年、關東暦官の作る所となり、天文博士・土御門家、暦博士幸徳井家は、唯だ其の式に據りて、名を署するのみ。十二月、天文生に補せらる。三年、敕して暦學生をして新暦の術を受けしむ。是の年、『貞享暦』十卷竝びに『日本長暦』三卷を上る。

 四年、幕府、新祿百五十石を賜ふ。五年、命じて束髮し、名を更めて助左衞門と曰ふ。宅地を駿河臺に賜ふ。諸侯大夫、來り學ぶ者、益々進む。春海、懇々教開して、未だ倦むことを知らず。會津中將保科正之、殊に之を寵遇し、參府ごとに必ず先づ春海の邸宅に入り、而して後ち館に就く。時人、之を榮とす。春海、嘗て謂ふ、「吾れ會津公の知遇を忝うして、此の宿志を成すは、皆な闇齋先生の庇陰に由る。先生は、吾が載遇の知己なり」と。十年、祿百石を加へ賜ふ。十五年、命じて碁家を弟・知哲(安井・三世)に讓らしめ、澁川氏に復せしむ。之を暦家澁川氏の初代と爲す。正徳五年十月六日未刻、病みて歸幽。年七十七。著はす所、件の外、『貞享暦法』・『日本書紀暦考』・『通言天文瓊統』・『瓊矛拾遺』・『土守文集』等あり。嫡子に圖書昔尹(ひさたゞ)あるも、春海より六月前に沒す。因りて昔尹が妻の弟・敬尹(ひろたゞ)を以て孫養子となし、家門を繼がしむ。春海、明治四十年十一月、從四位を贈らる。

 『春海先生實記』に、
一、天文の高弟には、保科正之・谷秦山・薩摩の本田武兵衞・黄赤師あり。
一、暦術の高弟には、幸徳井氏・武江の猪飼豐次郎・谷秦山・本田武兵衞・上野の山崎平次兵衞・甲斐の金子種七・黄赤師あり。
一、神道の高弟には、徳川光圀・保科正之・跡部氏・谷秦山・黄赤師あり。
一、兵學(神軍)の高弟には、徳川光圀・保科正之・谷秦山・山崎平次兵衞・黄赤師あり。



【參考】

■大久保千濤翁『秦山谷重遠先生・都翁澁川春海先生――神代温義』(昭和十五年十一月・高知縣神職會刊。宮地直一博士・井野邊茂雄博士・西内雅陸軍教授・高崎五郎高知縣神職會長の「はしがき」有り)に、次を所收。
一、『神代初問』九卷
一、『神代再講』四卷
一、『神代三批』四卷
一、『天柱密談』七卷
一、『天柱密談後附』二卷
一、『神代卷速別草』六卷

■清家主人西内雅翁『谷秦山の學――皇國學の規範』(昭和二十年七月・富山房刊)に所收する附録論文(昭和十五年十月)に、
一、澁川春海の研究
一、授時暦の研究
一、貞享暦の研究



●谷秦山先生『元亨釋書・王臣傳論の後に書す』(元祿九年。『秦山集』信卷四十三)

 天を以て天と爲し、地を以て地と爲し、日月の終古に照臨して墜ちざる者は、我が豐葦原の中つ國なり矣。是を以て君は則ち日神の嗣、臣は則ち興台産靈の兒、億萬載に亙りて一日の如し矣。隆んなるかな矣哉。

 西土の國を建つるや、簒弑を以て基業と爲す。堯・舜の聖は、禪讓の美を盡すと雖も、然れども實に天地の常經に非ず矣。是を以て伏羲以來、姓を更ふる者三十氏、弑を以て書する者二百事、其の餘の放癈は、紛紛として疏擧す可からず。風俗の薄惡、何如と爲んや哉。釋徒は天竺を指して、閻浮(現世)の本邦と爲す。而るに其の教は、家を出づ(人倫を無みす矣)。儒者は西土を推して、中華禮義の國と爲す。而るに其の俗は、君を弑す。『孟子』の曰く、「父を無みし君を無みするは、是れ禽獸也」と。信に哀む可きのみ已。世人は常を厭ひ異を好み、外國の書を偏執し、自ら稱して夷狄と爲し、甚だしきは私かに佗方の禮を用ひ、敢然として忌諱を爲さゞるに至る焉。名行の壞る、寒心す可き也。

 偶々(本覺禪師・虎關)師錬が『(元亨)釋書』の中に、國寶(三種神器)を論ずる者を讀み、既に其の言の卓絶にして、近世の學者の、或は及ぶこと能はざるを歎じ、又た其の徒らに知つて信ずること能はず、躬ら髮長(『延喜式』に見える坊主に對する忌言葉)の醜類に陷るを悼む。因つて特に之を表出し、聊か鄙意を記して、以て其の説を終ふ。

 抑も甞て諸れを(澁川)源春海翁に聞く、「日本の野(星座)は、張・翼に當つて、太微宮、全く之を掩ふ。翼・軫は巳の宮にして、物の生じて窮らざるの象あり。太微を天子の庭と爲し、帝坐・太子・月卿・雲客、上下濟濟として、班列、愆(あやまら)らず。堅垣、域を限り、將相、護衞し、毎日、天に臨んで、四極、法を受く。本朝の皇統は磐石にして、外夷の窺を絶つ。其の符、此の如き者有り矣(天文と皇國體との一致)。西土の野は、柳・星・張に當つて、軒轅星、全く之を掩ふ。柳・星・張は午の宮にして、陽道著明の象あり。軒轅は後宮を主(つかさど)る。后妃・夫人の居る所なり。西土の國爲るや、道學、大いに明かに、文物、極盛にして、終ひに簒弑・夷狄の禍を免るゝこと能はざる者は、其れ日、中すれば則ち昃(かたむ)き、垣無くして□[土+危。やぶ]れ易きの應か乎。天竺の野は、井・鬼に當る。井・鬼は未の宮にして、萬物曖昧、幽暗に歸する也。天竺の俗は、專ら人道の顯明を捨てゝ、輪廻・因果の冥報に從事するは、其の氣の偏を受くるか乎」と。

 此れに依つて之を言へば、萬國の事は、蓋し皆な天に非ざる莫き也。斯の説は、古人の未だ發せざる所なり焉。因つて併せ載せて、以て朋友に寄す。元祿丙子九月十七日、土佐國・谷重遠、謹みて書す。
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●谷秦山先生『澁川先生を祭る文』(正徳五年十一月二十日、土守(つゝもり)靈社を祭る。『秦山集』信卷四十八)

 嗚呼、哀しいかな哉。先生の天(天文・暦學)に於ける兮、我が國開闢以來、其れ一人か歟。何ぞ其れ符を割つて(考證)、日月を離合し(朔望計算)、掌を指さして星辰を低昴(高低測量)せるや也邪。神代、伊弉諾尊は、春秋を立て、以て表(うは)・中・底の天を分ちたまふ(觀象授時の暦)。人世、神武天皇は、暦法を興し、乃ち十二月の年を成したまふ。神聖の蘊は、微乎として淵(ふか)し矣。爾來千載、斯の道の傳ふること莫し。(陰陽頭兼暦博士・大春日)眞野麿は、暦術に名あるも兮、徐昴(陰陽道)に左袒すれば、其の學の疎なるを知る。(天文博士・安倍)晴明や也、天象に妙なりしも兮、推歩の策(測量・計算)は、則ち闕如を免れず。

 夫れ星宿の天に在るや、城邑の地に列なるが如し。古へに存して今ま亡ぶる者有り、古へに隱れて今に示す者有り。先生、皆な能く識別して、之を字(もじ)せり。日月の會同は、天に在つて、定期有り。淳風(李氏。唐の儀鳳暦を作る)が虚進(太陽の位置計算)は、徒に參差(定差・平差・立差)を爲す。郭氏(守敬。元の授時暦を作る)が乘除は、猶ほ未だ明備ならず。先生、行差の術(參差に、招差・圓理・等差を加ふ)を創めて、兩曜(日月の運行)は、正に天に合す矣。日行の盈縮(軌道運行の遲速)、限るに冬・夏至を以てす。入氣(二十四氣)の□[弋+心。ちが]ひは、先生、始めて試みる。南斗の初め、東井の四(二十八宿の距度を正す)、古今の交食(日蝕・月蝕)、豪釐も貳(たが)はず。

 歳旦に、七曜暦を奏すること、元亨に至つて、無くして廢絶す。干戈の侵尋して、推歩、滅裂せり。貞和に、三星の變、當時、猶ほ恠しみて之を記す有り。降りて近世に至つて、其の光芒の髣髴を識ること莫し。先生の明なるや、毫分縷別し、張子信が積候(隋、太陽運行の實測)、郭守敬が細行、刃を肯綮に游ばし(上手に捌き)、五緯、其の列を得たり(日月星辰の軌道を明確化)。偉なるかな哉、貞享に、朝儀、式に復す。其の他の日月、地の近遠(『天象圖』・『地球儀』の創作)、陰陽暦の強弱、千歳より前なる古暦、千歳より後なる改暦、之を言ひて絲髮に析ち、爬梳抉剔せざること莫し(仔細に未聞の事も闡明整理)。書を著はすこと數千言にして、一一符契に合す。蓋し星辰の降りて人に化するに非ざるよりは、何を以てか此の如く明白ならんや也哉。嗚呼、哀しいかな哉。

 吾が神道の統は、遠く天より出づ。伊弉諾尊は、是を以て之を天照大神に傳へたまひ、天照大神は、是を以て之を瓊瓊杵尊に傳へたまひ、列聖の相承けたまひて、未だ甞て失隕せず。兒屋・太玉・猿田彦は、内外相守つて、一身の如し。中古以來、其の道、分れ崩れて、卜部・伊勢、各々自ら家を立て、佛を雜へ儒を混じ、異を伐ち同に黨(くみ)す。此の如くなること凡そ數百載、學者、折衷する所ろ無し。近時、埀加社(山崎闇齋先生)の出でて、百川を障へて之を東し(諸家を集大成)、『風水』・『風葉』の作(埀加先生の主著『中臣祓風水草』・『神代卷風葉集』)は、藤森(崇道盡敬皇帝舍人親王)の功を似(う)け續ぐ。然り而して一時の門人(六千人)の、亦た未だ其の堂に升るもの有らず。懿なるかな哉、先生、□[土+已。い]上に履を取り(埀加先生に師事)、到底根究し、傍々百氏に及び、蚤く天の柱・國の柱の卓れたるに見、晩く神籬・磐境の□[山+歸。たか]きに登る(埀加先生の天柱・國柱・神籬・磐境の傳を會得)。蓋し先生の、埀加の門墻に於けるや也、實に藍より青く、而して水より寒き者なり矣。嗚呼、哀しいかな哉。

 重遠(秦山先生)の、先生に事ふるや、茲に二十歳なり。先生の家學に於いて、□[立心+夢の上+目。ぼう]然たらざるに庶(ちか)し。晩に禁錮を以て講門を廢し、日日に想ひを馳す、東海の天。天暦(天文・暦學)の妙籌・神道の祕奧、北斗のごとく仰望す。胤子(嫡男・圖書昔尹)の賢なるに、惟だ天、□[言+甚。まこと]とし難く、胤子は先だちて逝く。先生は老いて病み、悲涙、泉を懸く。未だ七月に滿たずして、先生も亦た沒す。既に庶□[薛+子。げつ。子]無く、亦た孫無し。遺傳、忽ち雲散す。東岱(泰山)前後の煙、知らず、何れの世にか、揚子雲有らんや。嗚呼、哀しいかな哉。

 重遠、天(天文・暦學)を録して、壬癸を名づけ、神(神道)を傳へて鹽土と號す。師説の萬一にも、以て不腐ならんことを謀る。奈何せん、天南海北にして、猶ほ未だ郢斧(不合理を直す)を乞ふに及ばず、一世を擧げて質訂す可き莫し。此の恨みは、綿綿として千古に徹す。嗚呼、哀しいかな哉。

 噫、先生の魂、豈に醯□[奚+隹]甕裏の者(甕底の毛蟲)と、同じからんや乎哉。將に東海に沿つて兮、八極(四方四隅)に浮遊せんとするものか乎。抑々富山に攀ぢて兮、氣に御し空を排するや也、必ず其れ列星と爲り明神と爲り、天に後れ地に後れ、以て造物人鬼の窺まる所を觀んと欲するならん焉。彼の塵世の利名・禍福を顧みるに兮、野馬(陽炎)杯水、曾て何ぞ齒牙に掛くるに足らんや也。然らば則ち重遠等の、區區に觴を奉じて、咨嗟(溜息)し悲泣する兮、寧ぞ先生の爲めに嘲侮する所ろ莫しとせんや也耶。嗚呼、哀しいかな哉、尚はくば饗けよ。
 
 

塾頭の絶命詞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月 6日(木)19時30分3秒
返信・引用 編集済
   九段塾「塾頭」ご開講は、平成二十年九月十三日にして、本掲示板の設立は、其の前日であり、此の時季になりますと、塾頭を思ふこと、誠に切なるものがございます。

 而して塾頭最後の書込みは、平成二十一年九月十二日『相原修氏歸幽を通じて、大夢三上卓翁門を思ふ』でありました。これは、偶然か否か、九段塾の設立の當日であります。九段塾に於いては、恰度、一年間の講義でありました。而して最期の斷章は、十二月二日から翌年三月六日にかけての、絶命詞『承詔必謹、尊王勤皇の風を吹かせよ』でありました。小生、固より不學不敏は承知の上、今後とも益々辛苦精勵、塾頭の御遺志を繼承紹述いたしたく、閲覽各位のご投稿ご協贊を賜はりますやう、幾重にも御願ひ申し上げます。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/44

 また本日は、件の、出雲大社相模分祠神職にして、平田篤胤翁顯彰會代表の相原修翁が、幽界に召されて四年となる日、小生には、微かな御縁しかございませんが、其の偉勳を御偲び申し上げたいと存じます。且つ五日後の九月十一日は、神靈能眞柱大人大壑平田先生歸幽の日であります。
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http://aiwajuku.exblog.jp/18779431/

【塾頭『大東塾関係者交通事故』平成二十一年九月七日】
「影山正治大人・神屋二郎大人が、どうしても欲しかつた人物だつたのだらう。相原修氏は、この世における命をむすばれたに過ぎない(相原修氏は、靖國神社に入りたかつたらしいが、適はなかつた。助勤で、靖國神社には奉仕してゐる)‥‥。大東會館新入生歡迎會の最中に、突然、神屋二郎さんが激怒! 「我が大東塾一統には、後輩に煙草を買ひにやらせる流儀はない! 立てい、齒を食ひ縛れ!」と言ひ、ビシツビシツと、平手打ちが飛んだ、かつての體驗談を語る展轉社の藤本隆之社長が、盟友相原修の遺影の前で號泣した‥‥。この日、男たちが泣いた」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/42

【相州之民艸ならびに備中處士『平田篤胤大人顯彰者・相原修神主』――繼續中】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/
 
 

忠魂、皇基を護る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月 5日(水)22時44分14秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●惺軒高瀬武次郎博士『梅田雲濱』(昭和十六年九月・皇教會刊)に曰く、

 雲濱先生は、容貌は清秀にして、言語は明朗なり。其の講義の際にも、十分に義理を發揮して、聽者を感動せしめたり。九州に赴かんと欲し、其の出發前數日、門人に謂つて曰く、「我、今日、諸子の爲めに、一生の心得と爲る道を講ぜんと欲す。別後、幸ひに之を服膺せよ」と、言、畢つて姿を正しうす。門人、心に謂へらく、「此れ、先生得意の、『大學』の三綱領・八條目、若しくは『近思録』ならん」と。其の講義を聽くに及べば、『春秋』の開卷第一の六字「元年春王正月」なり。而して初日は、夏・殷・周三代の禮樂、先王の仁義を講じ、一日二夜は、神武天皇より後陽成天皇に至るまで、二千三百餘年間の聖主が國家民政に誠意を盡し、億兆の民は徳澤に浴し、賢臣才相が聖主を補佐し奉り、國家を維持せし事、郡縣封建の得失に至るまで、議論精確、古今に亙つて詳細に辯論せり。兩日兩夜の永きも、聽者をして倦まざらしむと、子弟の皇道精神の發揚、想見すべきなり。其の講義の一節は、明治四年、京都府より、雲濱先生の後裔に對して、先生の事蹟等を尋ねし時の『答申書の寫』に據る。執筆者の姓名は明かならざるも、末尾に附記する所を見るに、「今を去ること三十年、義理明白。思ふに前日の事の如し」と云へば、其の時の講義を聽きし人なりしと思はる。



●山田登美子刀自『一夕話』

 (雲濱先生の曰く)「歌書には、『新葉集』をば常に繰返して見よ。此の書に入りたるは、皆な南朝の方々の御歌なれば、忘れても疊に下(おろ)すな」とのたまひき。

 此の歳の冬、大高又次郎(重秋。播磨林田の人。赤穗義士大高源吾の末孫)訪ね來て言へるやう、「御身は女史にてこそおはせ、梅田(雲濱)先生の御姪なれば、我等心の底ひを打ち出でて、かくと頼み參らするなり。其は先年、櫻田に於て井伊掃部、頭打たれしより、世の人心も改まりて、先生の御志も、やうゝゝ達すべき時とはなりぬ。長州なる正義の人々も、遠からず上り來ぬべしとぞ。今より御身は、大原重徳卿に詣で、しかゞゝの事の由をも聞え參らせてよ」と言ひけり。これいと女の身にはおふけなきことゝは思ひしかど、やがて心振り起し、彼の卿のみ前に詣でつるに、卿は己れを奧書院に召されて、親しく御目見え賜はせたり。頼まれしことどもを、殘る隈なく聞え上げつ。此の日は、雪いたく降りて、御庭の松の、大方埋もれてありしに、
 消え果てん 明日しら雪の 命とは 知りつゝ積る 我が思ひかな
と詠みて奉りたりしに、卿、ことの外に御氣色よく、頬しもゑませたまひて、「さてこそ、其の許は、梅田が姪なれ」と仰せられたり。其れにつけても、叔父君のましゝ世のみ思ひ出でられて、涙おさへこぼすばかり悲しかりき。

 己れ二十一の歳(文久二年)春の頃、入江九一(贈正四位・弘毅)久坂義助・佐世一誠(從四位・古心前原彦太郎)・秋元正一郎(播磨姫路の人)・大高又次郎・同忠兵衞等も、やうゝゝ京に集まりて、叔父君の御志の、やがて達しぬべき喜びにとて、己れをば七條わたりの某の亭に伴ひて、いと厚く饗應しけり。かゝるむしろにものするにつけても、叔父君の事のみ、そゞろに忍ばれて、
 在りし世の ことこそ思へ 懷かしな 花橘の 咲くにつけても
 忍ぶかな 枯れにし庭の 梅の花 咲き返りぬる 春の空にも
と書きつけしかば、入江九一も、矢立より筆拔き取りて、秋元[秋元は、御國學をたしなみて、典故に通じたり]に打ち向ひ、「幕のことは、御國言葉にては、いかに言ふべきぞ」と問へば、「それは、あげはりと謂へり」と答ふ。さて、入江は、
 時の來て 都の春の 櫻狩り 亡き人(雲濱先生)戀し あけはりの内
と詠みて、己れが前にさし置きぬ。此の時に、長州の人たちに向ひて、「吉田松陰ぬしは、我が叔父君の知人なれば、何にても、其の書かれたるものあらば、己れに取らせ給はらずや」と言ひ出でたるに、佐世一誠、やがて「心得ぬ」とて、後に大高に傳へて、松陰の江戸に送らるゝ折、長州の獄中にて書きたる詩歌一枚をば、贈りおこせたり[此の頃、佐世等は、ひそかに企てたることのありければ、自ら身命の測りがたきを思ひ、己れ梅田の姪なればとて、其の祕藏せし松陰の遺墨を送りけりとぞ。これは今も、己れが手に持ち傳へたり。佐世は、前原一誠の初の姓なりき]。



●平泉澄博士『首丘の人――大西郷』(昭和六十一年二月・原書房刊)に曰く、

 之(山田登美子刀自『一夕話』)を讀んで、不思議とさへ思はれる事は、小濱の城主・酒井若狹守が、京都所司代に任命せられて、治安維持の責任を擔當してゐながら、志士の檢擧には、頗る消極的であつて、最初の雲濱捕縛の際にも、緩慢であるとして、井伊大老の側近や懷刀をいらだたせたのであつたが、果して雲濱に、同志往復の書類を燒却したり、家累家財を分散したりする餘裕を與へたりしたのみならず、雲濱就縛の後にも、その家族親類に對して、苛酷なる追究をせず、郷里の小濱に於いても、人々は特に奇異または嫌惡の感情を以て、雲濱の生家や一族を見ず、特に親切にするといふ風ではなかつたにしても、決して告發したり彈劾したりしなかつた事は、安政大獄の性格を考へる上に、一つの重大なる點である。蓋し雲濱に於いて問題となるのは、その學問であつて、私行ではない。井伊が嫌惡し、恐怖するのは、雲濱の學問が、山崎闇齋の思想を、その最も純粹精鋭なる中核に於いて保持し、繼承し來つた點に在つた。その學問は、闇齋より、淺見絅齋を經て、若林強齋に傳はつた。そして強齋の高足・小野鶴山、酒井讚岐守に迎へられて小濱に入るに及んで、此の學問、小濱の主從に薫染して行つた。同じく強齋に學んだ山口春水は、『強齋先生雜話筆記』を著した人であるが、これが小濱藩士であつて、その子・風簷は、父及び小野鶴山に學び、之を子の菅山に傳へた。その菅山の門人が、即ち雲濱である。‥‥

 安政五年、酒井若狹守忠義、京都所司代として、いはゆる大獄の處置に當る。その處置が、志士の檢擧に於いて頗る消極的であつて、長野主膳をいらだたせたのも當然であれば、十七八歳の乙女(山田)登美子が、いろゝゝ苦勞はしながらも、京都と小濱とを往復しつゝ、兎に角く恐るべき迫害も受けなかつた事は、それも然るべき事とうなづけるであらう。

[附記――昭和八年四月、私(平泉澄先生)は單身滿洲視察の旅に出たが、たまゝゝ吉林へ赴き、旅館に入らうとした時、一人の偉丈夫の、私と入れ違ひに出掛けようとして、ゲートルを卷いてゐるのを見た。足ごしらへに熱中して、私には眼もくれなかつたので、顔を十分に見る事は出來なかつたが、豐にしてあたゝかい感じの人であつた。然るに其の人、出發した其の日のうちに、賊に撃たれて戰死した。女中の話では、梅田雲濱先生ゆかりの人と聞いたと云ふ。して見れば、山田登美子につながるのではあるまいかと考へたのであるが、調べる法もなくて、そのまゝになつて了つた。不確實ではあるが、家内生前の希望によつて、之を附記する]。



●贈正四位・秋湖久坂義助通武先生『古人を追懷す』詩并びに引(詩歌文稿『庚申草稿』萬延元年――椿水福本義亮翁『久坂玄瑞遺稿』昭和九年三月・誠文堂刊)

要港(大坂灣)、上國(京都)を控ゆ、豈に黠虜(露奴)の窺ふを容(ゆる)さんや。
夷舶の闖入するに方りて、妻は病み、兒は飢ゑに叫ぶ。
大劍、起つて募に應ず、國難、安くんぞ遲疑せん。
賊遁れ、志、乃ち躓く、詞賦、鬼神悲しむ。
嗟、公(雲濱先生)は囹圄に斃る、頽厦、孰れか能く支へん。
則ち囹圄に斃ると雖も、忠魂、皇基を護る。

 鄂夷、浪速に闖入す。大和十津川の民、將に雲濱梅田翁を推して首と爲し、膺懲を謀らんとす。翁、起つ時、妻は病み兒は餓う。翁、詞を賦して曰く、「妻臥病牀兒叫飢、挺身直欲當戎夷、今朝死別與生別、唯有皇天后土知」と。既にして虜去り、歸れば則ち妻は既に歿す。戊午の秋、幕疑を蒙り、檻車東下、未だ幾くならずして、病を以て死す。



●福羽美靜翁の哥『雲濱翁を追悼して』

御代のため たゞしき道を ふみわけて 身をつくしつる 君ぞたふとき



●鐵齋富岡百錬翁の詩『明治三十年十一月、雲濱梅田先生頌徳碑を建つと聞き、賦して奠に代ふ』

林下、飢ゑを忍び、逸民と爲る。只だ家國を憂ひて、貧を憂へず。
豐碑、今日、遺徳を頌す。第一流の人、是れ此の人。



 愚案、かつて『花の生涯』なるドラマを見、雲濱先生の赤鬼に殺されるや、其の最期は從容ならず、亂れたやうに創つてあつて、小生、怒髮、天を衝いて、やがて泪せるを想出す。嗚呼、雲濱先生、現代に在つては、吉田松陰先生を際立たせる役目を負つてゐるかの如くである。斯くて歴史は、先哲は、歪められて行く‥‥。無念である。雲濱先生の顯彰は、未だ十分ならず、小生の、最も之を遺憾と爲す所、雲濱先生あらばこそ、雲近き邊りと草莽の志士との聯絡、やうやく密と相成り、地方から來る志士も、皆な先生を頼つたと謂つても、決して過言に非ざるなり矣。
 
 

梅田雲濱先生を仰ぐ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月 4日(火)23時00分58秒
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   藤田東湖先生、安政二年の大地震の爲に孝死された後、天下の志士の中心として、王政復古を指導せられたのは、實に京都の梅田雲濱先生であり、殊に雲濱先生は、橋本景岳・吉田松陰兩先生と共に、安政五年に殺された後は、大橋訥菴先生起ち、次いで眞木紫灘先生、之を統率指導し、其の後を繼いだのは、松陰先生の門弟ならびに大西郷であつた。王政復古の成る、これら諸先生勤王の大勳と謂はねばならぬ。

 就中、雲濱先生・景岳先生は、大西郷が兄事した有馬正義先生と共に、崎門の本流にして、殊に雲濱先生は、京都望楠軒の講主たり。贈正四位・雲濱梅田源二郎源定明先生、安政六年九月十四日卯下刻、獄中に病死。天命四十五歳。

山崎闇齋――淺見絅齋
┌――――――――――┘
├玉木葦齋 ┌松岡仲良―┬竹内羞齋
│     │     │
│     │     └谷川淡齋――唐崎赤齋
│     │                  望楠軒
├山本復齋 ├山口春水――山口風簷――山口菅山―┬梅田雲濱
│     │望楠軒二世            │
│     ├小野鶴山――中山菁莪――落合東堤 └有馬正義
│望楠軒一世│望楠軒三世 望楠軒四世 望楠軒   望楠軒
若林強齋―┴西依成齋―┬西依墨山――西依孝鐸――西依孝博
            │
            ├尾藤二洲――長野豐山――藤森天山
            │
            └鈴木潤齋――鈴木遺音――吉田東篁――橋本景岳



■梅田雲濱先生の詩(安政元年九月)

妻は病牀に臥し、兒は飢ゑに叫ぶ。
身を挺して、直ちに戎夷に當らんと欲す。
今朝、死別と生別と、
唯だ皇天后土の知る有り。

大厦、支へんと欲するも、力、微なるを奈んせん。
此の間、説く可けんや、小是非。
微臣、國に效す、區區の意、
憤激、行に臨みて、帝□[門+韋。ゐ]を拜す。




■梅田雲濱先生の哥(『藤森弘庵(天山)に與ふ』安政元年二月二日。亦た絶命詞とも傳へたれば、先生一貫の戀闕至心なり)

君が代を 思ふ心の 一すぢに 吾が身ありとは 思はざりけり



■梅田雲濱先生『三寺君の鎭西に之(ゆ)くを送る序』(嘉永二年。三寺三作翁、文峰と號す。横井小楠を福井に聘せられたるは、文峰翁の復命に因れりと云ふ)

 境土の大、兵馬の富、文物の多き、古へは鎭西に如くは莫しと稱せり。越前の三寺君、京師に來り、諸儒を訪ひ、合ふ所ろ無く、去つて鎭西に遊ばんとす。

 夫れ京師は、固より商賈の集まる所ろ也。一士を其の間に得る、誠に難し矣。宜べなるかな哉、君、袂を奮うて顧みざる也。其の之くや也、吾れ必ず合ふ所ろ有るを知る也。夫れ千里の遠き、山海の險なる、誰か之を憚らざらん。而るに君、厭はず、博く士を訪ひ風を咨(と)ひ、以て其の國に報ぜんと欲す。苟くも士義有る者、誰か感ぜざらん焉。矧(いは)んや鎭西の賢士大夫、文武の盛んなるに於いてをや哉。

 然れども吾れ聞く、甲辰の歳(弘化元年)、瓊浦(長崎)、事有り(和蘭使節より、歐洲の形勢を幕府に内報し、忠告する所ありしを謂ふ)。諸侯、之が爲めに駭愕し、遽かに兵備を修む、と。又た吾、嘗て鎭西に遊び、意に稱(かな)はず、慨然として歎じて曰く、「士大夫の利に走る、豈に獨り京畿の間のみならんや哉」と。嗚呼、疆土の大、文物の多き、兵馬の富、斯れ亦た畏るゝに足らざるのみ也已。然りと雖も近日、大府(幕府)、令を下して、屡々之を警しむ。則ち又た安ぞ其の今ま吾が嘗て見聞する所に異ならざるを知らんや哉。它日、君、再び京師に來らば、必ず吾が廬を訪へ。吾れ劍を撫し案を撃つて、君の談を聽かん。姑らく書して、君の行を贈る。梅田義質(先生の初名)、拜書。



■梅田雲濱先生『三宅高幸に贈る』(安政三年四月。瓦全三宅定太郎高幸、備中國淺口郡連島の人。後に青蓮院宮の近臣と爲る)

 三宅高幸、來り訪ふ。酒を酌み、談、元弘の事に及ぶ。予、慨然として曰く、功名を以て人を品する者は、俗情也。學者は、只だ當に忠義を論ずべきのみ而已矣。笠蓑赤足、巡駕を追ひ、詩句を題して、宸襟を慰めまつり、孤軍を提げて、逆賊を討ずる者は、是れ誰と爲す。備後三郎兒島高徳、是れ也。

 夫れ元弘の役、楠公の忠節の最爲る、天下、皆な之を稱す。然れども楠公は、詔を待ちて後に起つ。高徳は、詔を待たざる也。高徳は僻遠に在りて、門地は小、楠公は京畿に在りて、門地は大、楠公は節に死し、高徳は百敗して死せず。一身、天下に奔走し、勸奬するに大義を以てす。夫れ南朝六十年、勤王の士、新田氏の如き、北畠氏の如き、結城氏の如き、絶えんと欲して復た起り、滅びんと欲して屡々振ふ者は、抑も亦た皆な高徳の力也。嗚呼、子と我との如きは、一匹夫のみ耳。若し一日、王家、難有らば、豈に高徳の爲す所に倣はざる可けんや哉。

 高幸、盃を擲ち叫びて曰く、「善いかな矣。我、忠義を竭すのみ而已」と。姓名を堙沒するも、亦た顧みざるなり矣。史に云ふ、「高徳、後年、終はる所を知らず」と。今ま高幸は、其の裔孫と云ふ。安政三年三月丙辰四月四日、雲濱梅田定明、稿。



■梅田雲濱先生『兒島高徳の墨蹟の後に題す』(安政五年七月)

 成敗は天也。「時を待つて、而る後ち動く」は、機を見て起つ、大丈夫の志也。大丈夫、其の覆敗の時に當る、豈に其の待つ有るの志を易へんや哉。

 安政五年七月十五日、頼三樹(鴨□[涯の右])と飲み、談、時事に及ぶ。大樂源太郎(奧年)、此の書を出して題を需む。余、源太郎に於いて、亦た待つ有り焉と云ふ。



■梅田雲濱先生『久坂玄瑞を送る序』(安政五年秋)

 安政五年七月、蠻夷、江戸に至り、盟を請ふ。朝庭、可(き)かず。幕府の大吏、之を許す。朝庭、使ひを遣はして之を責め、且つ之を諸侯に質す。

 雲濱子の曰く、我、今の諸侯、其の必ず能くする無きを知る也。今の諸侯は、大率ね童心無知、財竭し武弛み、一日、天下、事有れば、只だ其の自國の立たざるを恐る。又た奚ぞ天朝を奉じ、外寇を憂ふるに暇あらんや哉。然らざれば則ち安ぞ一介の使ひを奉じ、以て速かに命に應じまつらざること有らんや哉。其の之を能くする無きや也、必せり矣。然りと雖も明天子、上に在り、皇威赫赫、日、一日より烈なり。我、千秋の後、必ず古へに復するを知る也。有志の士、其れ勉めざる可けんや哉。

 久坂玄瑞は、長州の人也。京師に來り、予を訪ふ。予、之を拉して、酒を林間に酌む。酒、酣にして、玄瑞、詞を唱ふ。其の聲、□[金+將]然として金石の如く、樹木、皆な振ふ。玄瑞、京師に在り。意を失して、留まるを得ず焉。予、其の志を憐れみ、其の去るに當りてや也、姑らく皇威の必ず古へに復して、終ひに地に墮ちざるを言ひ、以て其の氣を壯んにす。



●遠湖内田先生『梅田雲濱手札の後序』(『遠湖文髓』卷二。昭和十五年四月・正誼塾刊)

 是を梅田雲濱の手札と爲す。小濱藩士・坪内孫兵衞に寄する所の者なり。周平(遠湖先生)、覽訖(をは)り、仰ぎて孝明帝の英斷を念ひまつり、俯して雲濱の誠忠を思ひ、襟を正して敬歎、措く能はず。

 其の略に曰く、「昨日、皇上、詔して、列卿を召したまふ。九條左府(尚忠)・鷹司右府(輔煕)・近衞左府(忠煕)・三條内府(實萬)・中山議奏(忠能)等、皆な朝す。是に於て皇上、親諭したまひ、列卿拜服し、而して廟謨決せり矣。九條左府は、素より彦根侯(大老・井伊直弼)と和協し、密に意を幕府に通ず。故に一語を發する能はず。惶懼、殊に甚だし。今日詰旦、急に敕使を馳せ、閣老に由らず、直ちに旨を尾張(徳川茂徳)・水戸(徳川慶篤)兩侯に宣せられたまふ。
一に曰く、前尾張(徳川慶恕)・水戸(徳川齊昭)・越前(松平慶永)三侯、何の罪有りて、之を幽せるや。宜しく其の事由を陳奏すべし。
二に曰く、尾張・水戸兩侯父子、及び同志懿親は、有志諸侯と、宜しく詔を傳へ、以て速かに奸吏の、旨に違ひ條約を締ぶ者を除くべし。
三に曰く、尾張・水戸兩侯父子は、宜しく詔を有志諸侯に傳へ、各々速かに意見を奏せしむべし。
と。凡べて三條。某(雲濱先生)度るに、數日を出でず、海内、之が爲めに震動せん矣」と。周平按ずるに、是より先、彦根侯、幕府の要路に當り、尾・水・越三侯を黜(しりぞ)け、專斷して、外國と條約を締ぶ。是に至りて孝明帝、幕府を嚴譴したまふ。海内震懼し、諸侯、王命に赴き、志士、王事に勤め、而して中興の端、是に由りて啓けり矣。雲濱の此の札、帝の英斷を贊揚しまつりて、古今獨歩と爲す。溢美に非ざる也。

 又た曰く、「今朝、青蓮院宮親王(今大塔宮・粟田宮・中川宮)、其の臣・伊丹藏人をして、間(ひそ)かに此の事を某に告げしむ。某、竊かに惟ふに、小濱太守は、彦根侯と、親□[目+匿。ぢつ]、間無し。某、太守の爲めに、甚だ之を危ぶむ。請ふ、君、速かに之を大夫・深栖君(典膳)に陳べ、善處するあらしめよ焉。某、逐臣爲りと雖も、胡馬北風の情に勝へず。之を報ずる所以ん也」と。周平按ずるに、小濱太守、即ち小濱藩主・酒井氏(若狹守忠義)は、幕府の舊勳爲り。其の先世は、西依成齋を聘して賓師と爲し、一藩、崎門學に嚮ふ。外交の事起るに及び、藩主、尊王の心は、佐幕の意に勝つ能はず。雲濱、崎門學を確奉し、仕を辭して帷を京師に下し、尊王の説を倡ふ。伊丹藏人なる者は、雲濱の門人爲り。親王、因りて之をして大事を告げしむる也。雲濱の志、報國に在り。平生、詞翰に著はるゝもの、一喜一憂、忠愛の誠に出でざるは莫し。此の札を讀み、以て推す可し焉。既にして黨獄興り、藩主、京尹(京都所司代)と爲り、彦根侯の命を受け、首めに雲濱を囚へ、以て死せしむ。其の絶命の詞も、亦た君を思ふ□[糸+遣]綣の情を抒(の)べまつる。一時傳誦して、士林に□[行の左+扁]し矣。

 此の札は、故と我が州(遠江國)荒井驛・飯田氏(武兵衞)の藏せし所、今ま其の通家氣賀町・松井氏(欽三郎)に歸し、巾して之を笥にし、余に題言を乞ふ。余、雲濱と學系を同じくし、曾て其の事蹟を考へ、又た其の姪・穗香女史を識る。女史の夫・山田勘解由(時章)、伊丹藏人と婚姻爲り。同じく青蓮院に仕へ、同じく業を雲濱に受け、同じく黨獄に繋がる。而して女史も、亦た貞烈、國を憂ひ、且つ和歌・書畫を能くし、雲濱の姪爲るに愧ぢず矣。因つて女史に囑し、雲濱の絶命詞を題し、余、乃ち札後に序すること、此の如し。札尾に、八月八日と署し、而して雲濱及び寄する所の姓名無し。當時、坪内氏、諱避する所ろ有りて、□[册+立刀]去すと云ふ。余、之を諦觀するに、其の眞蹟爲る、疑ふ可き無き也。

 大正六年五月中澣、遠江・内田周平、書(撰)す。



●遠湖内田先生『雲濱先生遺稿竝傳の序』(同上)

 吾が友、青木・佐伯二君、相謀りて、梅田雲濱先生の『遺稿』を編次し、附するに其の『傳』を以てし、將に公にせんとし、余に序を爲らんことを屬す。余は、曩に二君の志を嘉して、其の擧を贊する者、乃ち喜んで之に序して曰く、嗚呼、先生勤王の功、極めて大なり矣。而して二君、編述の勞も、亦た決して尋常に非ざる也。

 先生、一布衣を以て京師に居り、崎門の學を講じ、尊王の説を倡へ、節を持する、甚だ高く、飢寒疾病、皆な以て其の心を動かすに足らず。外患起るに會し、時局を匡濟し、皇政を恢復せんと欲し、慷慨自ら奮ひ、東、水戸に奔り、西、長門に赴き、輒ち必ず大義を辯説し、士氣を鼓舞し、心を盡し力を竭さゞるは靡し焉。幕府、朝命を奉ぜざるに迨び、書を青蓮院親王に上りて、以て大計を陳べ、遂に聖聽に達し、王事、將に濟らんとす矣。大老・井伊直弼、之を諜知し、遽かに先生及び同志の士を執へて、肆に殺戮を行ひ、以て其の事を沮む。所謂る安政の黨獄、是れ也。而して先生、實に罪、魁爲り。吁、其の幕府の罪、魁爲るを以て、其の朝廷の功、首爲るを知る可し矣。

 先生死して、未だ幾ばくならず、水戸浪士、櫻田の擧有り。井伊大老を途に要して、之を斃す。是に由りて時局一變し、士氣、大いに振ふ。長門藩人、京師の戰有り。其の黨、或は皇宮を衞り、或は幕兵に抗し、元を喪ひ腹を割いて悔いず。此れ皆な先生の説を聽き、先生の風を慕うて起つ者也。然らば則ち幕府の亡びて、皇政の復するは、之を先生首倡の力と謂ふも、誣ふるに非ざる也。顧ふに當時、先生と倶に黨獄に列して著はるゝ者、吉田松陰・橋本景岳有り。其の忠□[艸+盡]の志、未だ嘗て先生と同じからずんばあらず。然れども二人の者、齡、尚ほ少く、思慮、未だ必ずしも深からず、且つ身、京師に居らず。則ち其の籌策□[糸+眞]密にして、而して能く九重に達する者は、先生に及ばざるや也、遠し矣。

 明治以後、三人の者、同じく朝廷の旌賞を蒙る。而して松陰と景岳とは、其の『全集』刊行、已に久し矣。獨り先生の『遺稿』、今に至りて始めて世に出づるは、何ぞや也。蓋し二人の者は、藩國の之を前に援く有り、門人の之を後に推す有り。故を以て聲譽傳播し、『全集』も亦た隨うて盛んに行はる。先生は、則ち然らず。藩國を去りて、輦下に寓し、藩國、既に援けず。門人多しと雖も、概ね王事に死す。乃ち『遺稿』の若きも、亦た將に散亡して傳はらざらんとす。是れ吾が二君の長歎深惜して、此の擧有る所以ん也。

 抑々先生の志は、正誼明道に在り。尤も躬行實踐を務む。詩文の如きは、則ち其の緒餘のみ耳。平生、多く作らず、作るも亦た深く修めず。然れども片言隻句も、綱常彝倫の外に出でず。亦た以て其の養ふ所を見る可き也。書牘に至りては、則ち長短同じからずと雖も、大率ね時艱に□[艸+高]目し、君國に憂念し、最も以て其の忠愛□[糸+遣]綣の誠を知るに足る矣。而るに往時、先生の手蹟を藏する者は、咸な忌諱を避けて、毀滅燒燼せり。蓋し什に一を存せず焉。二君、乃ち四方に奔走し、斷簡零箋と雖も、廣訪博捜し、以て七十餘通を輯むるを得たり。勤めたりと謂ふ可し矣。佐伯君、別に先生の事蹟を考覈し、實を採り謬を刊り、大いに心力を費し、終ひに其の『傳』を作成す。讀者、彼此參照せば、則ち庶幾はくは、先生志業の全きを知るを得んか歟。

 嗟呼、先生殉節の後、七十年にして、茲の書出づ焉。一たび之を繙く毎に、英偉の氣、奕々生けるが如く、千載の下、恍として謦□[亥+欠]に接するを覺えん矣。二君の編述に勤めて、而も其の勞を辭せざる者、亦た惡んぞ天下後世に裨益する所ろ無からんや乎哉。

昭和三年十月上澣(内田周平、敬撰)



●遠湖内田周平先生『雲濱先生勤王の大勳』(『梅田雲濱先生』昭和八年十月・有朋堂書店刊に所收)に曰く、

 梅田源次郎は、即ち雲濱先生であります。蓋し嘉永・安政の間、王政復古の大舞臺に臨み、其の樞軸を握つて、之を運轉致したる者は、決して吉田松陰ではありませぬ。決して橋本左内(景岳)ではありませぬ。又た佐久間象山や横井小楠でもありませぬ。私の見る所を以てすれば、身に藩閥の勢を藉らず、腰に藩士の刀を帶して居らない、一個の浪人儒者・梅田雲濱先生こそ、實に其の人であります。‥‥

 雲濱先生の門人にて、後に其の姪・登美子刀自を妻とした山田勘解由時章は、青蓮院宮の家來であつて、安政黨獄の一人であります。明治の初に、堺縣の大參事、又は太政官の權少史となつたことであります。此の人が客の問に答へて、雲濱先生の勤王論を述べられたことがあります。其の大要は、左の如くであります。

雲濱先生の志は、唯一の勤王といふことに在つて、一片の誠忠、何事も、上樣(孝明天皇)の御思召に從はなければならぬといふ考を持つて居られたのである。そこで或時、青蓮院宮に謁して、内々上樣の御思召を伺ひ奉りたるに、上樣は、攘夷の御思召に在らせらるゝと聞いて、彌々一國の臣民たる者は、一同、上樣の御思召を體し奉つて、國家のため攘夷に盡力しなければならふぬといふ決心をせられて、是より益々其の持説を固くせられたのである。先生の卓識にして、天下の大勢を達觀し、今日あるを豫想するの明がなかつたといふことは、決してない。攘夷の、到底、遂げられないといふこと、開國の、遂に已むべからずといふことは、固より知つて居られたのである。先生が攘夷の考を懷かれた主意は、直ちに各國の請を許して開港するときは、外侮を招くの虞がある。故に攘夷を斷行して、内は國家の元氣を鼓舞し、外は他國の侮を禦がなければならぬといふに在つたのです。先生は、上樣の御主意に從ひ、幕府を同意せしめ、全國を糾合し、上下一致して外に當り、一たび攘夷を決行して、二百餘年の間、泰平の夢を貪りたる士民の惰眠を覺醒し、然る後に開國の國是を採るといふ、深い考を持つて居られたのである。先生は幕府に對しても、最初から決して無理に之を討ち倒さうといふ過激な考を持つて居られたのではない。唯だ幕府をして、是非共、上樣の御意に從はしめなければならぬといふ希望を持つて居られたのである。それは先生が、先づ水戸藩・紀州藩の如き徳川の近親に向つて、其の持説を發表せられた事を以ても判ります。即ち先生の論は、攘夷よりも討幕よりも、唯だ勤王といふことが主であつたのです。」

 當時の志士の中には、外夷を惡んで勤王家となつた者もある、即ち攘夷より勤王となつた者である。又た幕府を嫌つて勤王論を倡へた者もある、即ち討幕より勤王となつた者である。此等は、皆な順序が違つて居ると思ひます。必ず雲濱先生の如く、勤王より出でて、攘夷ともなり、討幕ともならねばなりませぬ。外國にして我が國を壓迫せず、幕府にして能く朝廷を尊崇すれば、攘夷せざるも可なり、討幕せざるも可なり。要は王政の恢復と國威の伸張とに在るのであります。先生の計畫は、幕府をして朝旨を遵奉せしめんがために、鳳輦を箱根まで進むるに在りました。それは南朝の故事に倣ひ、其の鳳輦には、青蓮院宮を乘せ奉り、其の護衞兵には、大和十津川の郷士を用ふる積りでありました。‥‥

 雲濱先生は、學者にして又た志士であります。君子にして豪傑を兼ねて居られます。吉田松陰・橋本左内(景岳)も志士であり豪傑でありますが、學者たり君子たる點に於ては、とても先生に及ぶことは出來ませぬ。私は、斯く論定致します。



【備考】

○三上是庵(佐藤直方門流)『日記』に曰く、「此の日、我れ外より來る。梅田兄(雲濱先生)、至る有り。杯酒談論、氣勢相加ふ。小「鵞湖の會」(宋の朱子・陸象山の討論會)と謂ふ可きのみ耳。供客を、吉田寅次郎と曰ふ。長州の人也」と。亦た其の『語録』に曰く、「梅田氏(雲濱先生)、往年、余を八町渠(ぼり)の僑居に訪ふ。會々余、出行し、暮に及んで歸る。梅田、一生徒[即ち長藩臣・吉田寅次郎(松陰先生)といふ者なり]を拉して、座に在り」と。

○吉田松陰先生『杉梅太郎に贈る』(嘉永六年十二月七日)に曰く、「京師、梅田源次郎、事務には甚だ錬達し、議論も亦た正し。事務上に付ては、益を得るの事も多し。森田節齋、上京し、頻りに慷慨仕り候ふ。森田は疎豪、策無く、梅田は精密、策有り。但だ二人共、天下の大計には、頗る疎なり」と。

○吉田松陰先生『久保清太郎に與ふ』(安政二年二月十九日)に曰く、「京師の人、梅田源二郎は、歸京仕り候ふや。是は『靖獻遺言』にて固めたる男、人物の鑑を好み、切直の言を好む。亦た事情にも通じたる所ろ有り。但し酒徒也。江戸に滯り居り候はゞ、御訪問成されて然る可き人物也」と。

○吉田松陰先生『久保清太郎に與ふ』(安政四年正月二十六日)に、朱書して曰く、「去臘、京師・梅田源次郎來游。正月中頃迄、逗留致し候ふ。滿城心服の樣子に相聞え候ふ。松下村塾の額面も頼み候うて、出來申し候ふ」と。

○森田節齋翁『雲濱の遺墨に題す』(慶應元年冬)に曰く、「嗚呼、是れ亡友・楳田雲濱の書也。雄偉飛動、其の從容、死に就くの状を想見する也。乙丑の冬、節翁、醉ひて題す」と。

○有馬正義先生『雲濱の書に附して一子に與ふ』(文久二年二月)に曰く、「梅田子は、忠義の士にて、殊に粟田宮樣へ隨從し奉り、種々朝庭の御爲に心を盡されし人なり。此の書、かく忠義の士の手跡なるを以て、予、ふかく此れを愛藏す。予も亦た往年、梅田子とは知己にて候ふ處、彼は安政戊午の冬に捕はれに就き、遂に獄中に死なれ候ふ。予は今にかくて存命、此の度は、必ず主意を果さむとおもひ込み候ふ故、略ぼ梅田子が事をも書き置き殘し置き候ふ。後年に至り候うても、粗末に致されまじく候ふ。穴賢。二月廿四日、正義。有馬幹太郎殿」と。

○西郷南洲翁、雲濱先生を評(『雲濱先生勤王の大勳』)して曰く、「例へば吉武の刀のやうだ。吉武の刀は、外形は不恰好だが、其の切れ味に至つては、干將・莫邪の劍も及ばぬ。僕の如きは、彼に比べやうもござらぬ。雲濱、今に生きながらへてゐたならば、我々は執鞭の徒に過ぎないであらう」と。



【參考】

一、遠湖内田周平先生序竝閲・老山青木晦藏翁・篁溪佐伯仲藏翁共編『贈正四位・梅田雲濱遺稿竝傳』(昭和四年十月・有朋堂書店刊。遺稿のみは、續日本史籍協會叢書『梅田雲濱關係史料』として、昭和五十一年十一月・東京大學出版會覆刻あり)

一、内田周平先生・佐伯仲藏翁共述『勤王志士領袖・安政大獄首魁――梅田雲濱先生』(昭和八年十月・有朋堂書店刊)
 
 

征韓論。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月28日(火)22時04分40秒
返信・引用 編集済
  ●大西郷『朝鮮御交際の儀』(明治六年十月十五日、三條實美太政大臣へ提出せる始末書)

 御一新の涯(きは)より、數度に及び、使節差し立てられ、百方御手を盡され候へども、悉く水泡と相成り候ふのみならず、數々無禮を働き候ふ儀、之れ有り。近來は、人民互ひの商道も相塞ぎ、倭館詰居りの者も、甚だ困難の場合に立ち至り候ふ故、御據(よんどころ)無く、護兵一大隊、差し出さる可く御評議の趣、承知致し候ふに付き、護兵の儀(板垣退助の征韓論)は、決して宜しからず。是よりして鬪爭に及び候ふては、最初の御趣意に相反し候ふ間、此の節は、公然と使節、差し立てらるゝが相當の事に之れ有る可く、若し彼より交を破り、戰を以て拒絶致す可き哉、其の意底、慥かに相顯れ候ふ處迄は、交渉を盡させられず候はでは、人事に於ても殘る處、之れ有る可く、自然暴擧も計られず抔との御疑念を以て、非常の備へを設け差し遣はされ候ふては、又た禮を失せられ候ふ得ば、是非、交誼を厚く成され候ふ御趣意、貫徹致し候ふ樣、之れ有り度く、其の上、暴擧の時機に至り候ふて、初めて彼の曲事、分明に天下に鳴らし、其の罪を問ふ可き譯に御座候ふ。未だ十分盡さゞるものを以て、彼の非をみ責め候ふては、其の罪を眞に知る所ろ之れ無く、彼我共、疑惑致し候ふ故、討人も怒らず、討たるゝ者も服せず候ふに付き、是非、曲直判然と相定め候ふ儀、肝要の事と見据ゑ、建言致し候ふ處、御採用相成り、御伺ひの上、使節、私へ仰せ付けられ候ふ筋、御内定相成り居り候ふ次第に御座候ふ。此の段、形行(なりゆき)申し上げ候ふ。以上。(明治六年)十月十七日、西郷隆盛(南洲翁の道義外交の眞意は、日本の決意は決して動かぬことを明示することに因つて、壓力的遣韓談判を爲すに在り)。



●横山正太郎藤原安武『建白書別紙添書』(明治三年七月二十六日)

 朝鮮征討の儀、草莽間、盛んに主張する由、畢竟、皇國の萎靡不振を慨歎する餘り、漸く憤激、論を發すと見えたり。然りと雖も兵を起すには、名あり、義あり、殊に海外に對しては、一度び名義を失するに至つては、たとひ大勝利を得るとも、天下萬世の誹謗を免るべからず。兵法に、己を知り、彼を知る、と云ふことあり。今、朝鮮の事は姑らく舍き、我が國の情實を察するに、諸民は飢渇困窮に迫り、政令は瑣細の枝葉のみにて、根本は今に定まらず。何事も名目虚飾のみにて、實效の立所、甚だ薄く、一新とは口に唱ふれど、一新の徳化は、聊かも見えず、萬民洶々として、陰に土崩の兆あり。若し我が國勢、充實盛大ならば、區々の朝鮮、豈に能く非禮を我に加へんや。慮り此に出でず、只だ朝鮮を小國と見侮り、妄りに無名の師を興し、萬一蹉跌あらば、天下の億兆に、何と云はん。蝦夷開拓さへも、其の土民の怨を受くる多し。且つ朝鮮、近年しばゝゞ外國と接戰し、頗る兵革に慣ると聞く。然らば文祿の時勢とは、同日の論にあらず。秀吉の威力を以てすら、尚ほ數年の力を費す。今、佐田某(泰一郎・白茅)輩、言ふ所の如き、朝鮮を掌中に運さんとす。己を欺き人を欺き、國事を以て戲とするとは、是等の言と云ふなるべし。今日の急務は、先づ綱紀を建て、政令を一にし、信を天下に示し、萬民を安堵せしむるに在り。姑く□[艸+肅]牆意外の變を慮るべし。豈に朝鮮の罪を問ふに暇あらんや。



【大西郷『横山安武碑文』】
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 愚案、現在の状況は、明治六年交の國勢に酷似せり。小生と雖も、東亞の情勢無禮に憤怒すること、人後に落ちざるは、勿論なり。然れども此の國勢に至らしむるものは、一に我が國の政治・外交に在り。偶見する所のネツト上の意見、曰く斷交、曰く征伐、と。殆んど韓國を見ること仇敵の如くして、戰前の右翼・保守との血脈連携は、かつて見ざる所、而して戰後の右翼・保守の主張する所は、泰西の覇權主義に終始して、東洋の道義、絶えて有ること無し。一衣帶水の隣國すら、皇化に浴せしむる能はず、況んや八紘一宇の大理想をや。嗚呼、維新に淵源する所の右翼・皇道思想は、遂に其の痕跡を留む可からず矣。塾頭、かつて曰く、「右翼は絶滅す」と。宜なるかな哉、此の言。上下、交々利を征(と)りて、國、信に危し。歐米功利の思想、漸く日本・支那・朝鮮に浸潤して、遂に世界を席卷跋扈するに至る。豈に慨歎に堪ふ可けんや乎。
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紫宸殿に於ける軍神祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月24日(金)23時33分52秒
返信・引用 編集済
   來る八月二十八日は、中納言從三位・大伴家持卿が、陸奧國に於いて薨じた日である。舊稿を纂輯して、古人、尚武故忠の有り樣を想ひ起しつゝ、卿を偲びたい。



●鎌田純一博士『神道史概説』(平成二十二年十月・神社新報社刊)――靖國神社の創建――に曰く、「

 (慶應四年)二月三日、有栖川熾仁親王を東征大總督とされ、三月二十一日に、親征軍を發せられることとなつたが、その前日の二十日に、紫宸殿で、軍神祭を齋行された。すなはちその三月十四日、天神地祇を祭り、五箇條を誓はれた六日後のことであるが、その軍神祭御祭文より、天照大御神・大國主大神・武甕槌之男神・經津主神、四柱を神籬に招請されての祭祀であつたことが知られる。そしてその軍神に、

『隨從ふ大丈夫武雄は、恆に利心振り起して、山行かば、草生す屍、海行かば、水附す屍、君の御爲め、國の御爲めに、顧み无く、天津雄々敷き言立ての隨に、今も仕へしめ給ひて、天之波志弓引末賀那ひ、天の眞鹿兒矢千尋射渡し、悉に伐ち罸め、言向しめ給ひて、大八島國中、悉、石根木根立草の片葉も言止の安國と平けく、八絃の琴の調べとゝのふ言の如く、鎭撫めしめ治めしめ給へと』

と奏上されたことが知られる。その隨ふ兵、大君のため、國のため、生命失ふことも恐れず、ただ國内平らけく安らけくと願ひ戰ふこと、見行はされ信じ給うての祭文である」と。



 愚案、塾頭は、「紫宸殿に於ける軍神祭」について書かれ、近代皇軍の御基ゐと御考へのやうでありました。其の御祭文が見當らぬ、主は知らぬかとの問合せあり、小生が寶藏せる所の賀茂百樹宮司『靖國神社誌』・森清人博士『みことのり』等にも所收されてをらざるもの、偶々、鎌田純一博士『神道史概説』を拜讀してをりましたら、『明治天皇紀』に出てをりましたので、塾頭の靈前に、かつて報告した次第であります。



●稱徳天皇宣命『續日本紀』神護景雲三年十月一日

 また勅りたまひしく、朕が東人に刀を授けて侍(つか)へしむることは、汝の近き護りとして、護らしめよと念(おも)ひてなもある。この東人は、常にいはく、「額(ぬか)には箭を立つとも、背には箭は立たじ」といひて、君を一つ心をもちて護るものぞ。



●蓮田善明陸軍中尉『花のひもとき』(昭和十九年十月・河出書房刊)に曰く、「

 天忍日命(天孫降臨の時に、天孫の御前を奉仕)・道臣(神武天皇東幸の時に、御先導に奉仕した日臣命)を祖とする大伴氏に、その遠祖より傳へた決意の歌がある。即ち、大伴氏言立(ことだて)、

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の邊にこそ死なめ
和(のど)には死なじ


 この闊達にして、決意の美しき清泉の如き歌は、天平勝寶元年四月朔日、聖武天皇、東大寺に幸して、廬遮那佛の開眼に當り、このたび陸奧國小田郡から、我國に初めての黄金を出だして、此の大佛の莊嚴を完成し得た御喜びに添へて、御世重ねて仕へ奉る諸臣を賞し賜うた中に、大伴・佐伯の氏を賞し給うた宣命に、畏くも引き出でて仰せられてある、氏の古傳承であつた。即ちその宣命の一節に、

又、大伴・佐伯宿禰は、常も云ふ如く、天皇が朝(みかど)守り仕へ奉る事、顧みなき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ來らく、「海行かば、水漬く屍、山行かば、草むす屍、王の邊にこそ死なめ、和には死なじ」と、云ひ來る人等となも聞し召す。是を以て遠天皇の御世を始めて、今、朕が御世に當りても、内兵(うちのいくさ)とおもほしめしてなもつかはす。故れ是を以て子は祖の心如(な)すいし、子にはあるべし。此の心失はずして、明き淨き心を以て仕へ奉れとしてなも云々。

 この光榮について、大伴氏の當代大伴宿禰家持は、「陸奥國より金を出せる詔書を賀ぐ歌一首并に反歌」を作つてゐることは、周知の通りである。その長歌の中には、最後の句の「和には死なじ」が、「顧みは爲じ」となつてゐる。「‥‥大皇の、邊にこそ死なめ、顧みは爲じと言立て、丈夫の、清きその名を、古ゆ、今の現に、流さへる、祖の子等ぞ‥‥」と、家持は昂ぶる心を歌ひ上げてゐる。この「海行かば」の歌は、天皇の歴史に、臣の己なく仕へ奉る志が、まことにしらべ深く、たけ高くうたはれてゐるのであつて、寶祚の隆昌に奉仕する最大の讚歌となつてゐる。「‥‥祖の名絶たず、大君に、奉仕(まつろ)ふものと、言ひ繼げる、言の職ぞ、梓弓、手に取り持ちて、劍大刀、腰に取り佩き、朝守り、夕の守りに、大王の、御門の守護り、我をおきて、また人はあらじと、彌立て、思ひし増る云々」と、家持は歌ひつづけてゐる。

丈夫の 心思ほゆ 大君の 御言の幸(さき)を 聞けば貴み

「大君の御言の幸を聞けば貴み(忝くての意)」と、長歌にも反歌にも歌つてゐる。この「幸」とは、不用意に考へるやうな幸福無恙の意ではなく、さかんなるの意であることは、筆者が少しく考證したことがある。大御言の言靈のいきほひのさきはひを受けて、臣はさきはふのである。神武天皇紀に、「赫哉(さかりなるかも)」と仰せられてあり、神勅に、「行矣(さきくませ)」とある。勇進こそ「さき」であり、「さかり」である。すべてかかるふることのさかんさを知つて、日本の古典、日本の文學の道統はわかるのである。今日の文學表現の觀念などが、如何に勇氣のない、弱い、じめじめしたものであるか分らう。

 さて『萬葉集』は、かかる道統を保守する大伴家持の撰する所ともされてゐる。萬葉とは、萬代の意である。萬代無窮に高揚するやまとだましひのふるさとが、實にわが『萬葉集』である。又『萬葉集』は、その卷一・卷二のあたり、勅撰とも稱せられ、また初め葛城王にして、後、橘宿禰の臣姓を賜うた橘諸兄卿に、

降る雪の 白髮までに 大皇に 仕へまつれば 貴くもあるか

の歌が、卷十七に載つて存してゐる。後代、誠忠楠木正成は、この卿の末裔といふ。われらがふることの道は、又かくて亡びぬのである」と。



 愚案、塾頭『靖國神社の正統とは何か』に曰く、「海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てゝ、戰ひの庭に出で、奮鬪し末に、あるいは痛手負ひつ命を果てた、我らが先人が祀られてゐる」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/247

 また先の大戰、一敗、地に塗れて後の世の有樣、掌をかへすが如くに轉變して、昨日は高らかに聖戰の必勝を謳歌し、今日は卑屈にも變説改論して、權力に阿り俗論に媚びようとする者の、餘りに多きを知るが故に、御多聞に漏れず、作曲家ちふ者も、かくやあらんと思つてをりましたが、かつて或る御方から、メールを戴いたことあり。曰く、「『海ゆかば』は、昭和十二年秋、當時、東京音樂學校作曲科教授・信時潔が、皇軍の精忠大義に感激し、『萬葉集』卷十八の大伴家持の歌に作曲せしもの。戰後、作曲者は公職を去り、國を憂ひつゝ隱栖。昭和四十年八月一日歸幽」と。こゝにやうやく信時潔翁の節義を守りたるを確信したるを以て、樂曲『海ゆかば』を、疑なく高かに歌ふことが叶ひ、たゞ尊く嬉しく存じ居ります。
 
 

靖國大神の大精神を呼び覺ませ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月15日(水)02時27分23秒
返信・引用 編集済
   葵園賀茂百樹靖國神社宮司に、『靖國神社事歴大要』一卷あり。是れ『靖國神社誌』の骨髓に、賀茂大人平素の所懷を加へしものにして、靖國神社正史を忘却しつゝある今日、其の紹介心讀は、益々高く、且つ益々切なるを痛感す。因つて昭和の大詔奉戴日を卜して、舊稿の拜記を増補して、更めて掲げさせて戴きたい。



●賀茂百樹大人『靖國神社事歴大要』(明治四十四年二月・國晃館刊)

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40043615&VOL_NUM=00000&KOMA=58&ITYPE=0

 己(賀茂大人)、曾て出雲大社に詣り、御埼山麓に、大己貴神の神徳の大なるを思ふ。大神は、何故に多くの官國幣社に齋はれ給ふか。北海道を開拓するや、何故に大神は、札幌の官幣大社に齋はれ給ひしか。臺灣の新領土となるや、何故に大神は、臺北の官幣大社に齋はれ給ひしか。樺太の我に歸するや、何故に大神は、豐原の官幣大社に齋はれ給ひしか。大神は、少彦名神と協心戮力して、天下を經營し、禁厭醫藥の術を定め給ひ、竟ひに大國の主となり給ひしを以て、然るか。夫れ然り。然りと雖も萬世の下、尚ほ之を欽仰する所以のもの、他に存せずんば有らざるなり。

 昔、天孫を此の土に降し給はんとするや、香取・鹿島の二神を遣はして、大己貴神に、其の領土を避けしめ給ふ。時に皇祖天神、大己貴神に勅して曰く、

『夫れ汝が治むる所の顯露の事は、皇孫、治め給ふべし。汝は幽事を治(し)れ。汝が宮は、柱高く太く、板は廣く厚く造らむ。又た神田を附せん。又た神地に橋を架し、船を備へむ。又た神寶の武器を置かむ。而して汝を祭祀する者は、天穗日命、是れ也』と。

是に於て、大己貴神曰く、『天神の勅、慇懃なること、此の如し。敢へて從ひ奉らざらんや』と、喜んで命を奉じ、曾て治功ありし廣矛を、皇孫に獻貢り、其の從へる岐神を二神に薦め、而して自ら其の御子等を率ゐて、皇基を守護する神とならむことを宣言して、長へに隱れ坐しき。

 斯くて寸毫も大義名分を謬り給はず、天下後世をして、其の嚮ふ所を知らしめ給ひぬ。其の大忠至誠の神徳、洵に偉大なりと云ふべし。宜なり、千載の下、大神の神徳赫々たること。爭(いか)でか之を祭祀せざるを得んや。斯の大忠至誠の大元氣は、終ひに深く吾が國民の腦裡に印象して、違勅を以て不臣の極となし、皇室の御爲には、進んで死し、死しては、則ち喜んで護國の神たらんとする美風を馴致し來りたるをや。爭でか之を欽仰せざらんとして得んや、と。

 而して今や、予は、大神の神徳を、我が靖國神社祭神の高節に見る。御沙汰書(明治元年五月十日・京都東山招魂社創建の御沙汰書)に、

『況んや國家に大勳勞有る者、爭でか湮滅に忍ぶ可けんやと、歎き思し食され候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、且つ其の忠魂を慰めされ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等の靈魂を、永く合祀致さる可き旨、仰せ出だされ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事』

とあるは、恰も皇祖天神の、大神に賜ひし神勅に似たるものあり。

 而してこれに因りて、維新以來、喜んで護國の神となりしもの、夫れ幾千萬人ぞ。わが祭神の高潔、亦た大神の勇退に似たりと云ふべし。而して明治の皇業と、天孫降臨のことゝは、皇祖天神と、わが皇上の仁慈なる御威徳とにより、大己貴神と、わが靖國神社祭神との一大精神を發揮したる結果によりて完成せし、歴史上の二大事件にあらずや。

 斯く叙し來れば、我が國は、實に長へに神の御世なりけり。神、愈々滋くして、國、愈々昌ゆ。神國とは、蓋し此の謂ひなるべし。而して靖國神社は、明治の神の萃り給ふ所、高潔なる大精神の儼在する所、忠烈なる氣魄の磅□[石+薄]する所、長く我が國家元氣の發生する淵源なりと云ふべし。嗚呼、爭でか仰ぎ尊まざるべけむや。

 靖國神社の祭神は、わが國特性の大精神を發揮し盡して、高節を守り給へる忠勇の神靈に坐しませり‥‥。祭神は、其の在世に於ける位勳官等の高卑・族籍・男女の差別こそは坐しませ、其の高潔な大精神に於いては、共に皆な一なり。されば生ける時には、假令ひ身を卒伍の卑きに置けりと雖も、高潔なる大精神に於いては、既に業(すで)に自ら神なり。これ即ちわが陛下の、神と齋はせ給ひて、至尊無上の御身を以て、玉冠を傾けさせられて、禮拜の誠を致させ給ふ所以なり。

 抑も神に、正邪・公私の別あり。恐くも天皇の、神位を與へ給ひしものは、公神なり、正神なり。私に齋きて神と濳稱するものと、霄壤の差あることを知らざるべからず。實にわが天皇の尊嚴たるや、無上絶倫、その大權たるや、無限絶對、敢へて侵すべからず。されば人物に爵位を與奪し、人靈に神格を加削し賜ひぬ。而して神も人も、幽冥よりも、現露よりも、天皇を一大中心として護持し奉るを以て、古來國民の堅く信念とせること、我が光輝ある歴史の明示する所なり。是に於てか、苟しくも天皇の、神位を授け給へば、神も亦た神たるの靈能を發揮し給ふべく、而して朝廷の、之に對し給ふことも、更に從來の神社の神等と別あること無し。其は御祭文に、『掛卷くも畏き靖國神社の大前に云々、聞こし食せと恐み恐みも白す』と、他の大神に宣らせ給ふと同一の、崇敬辭の限りを盡し給ひ、其の他、祈年・新甞の典を始め、苟しくも國家の爲に、或は祈り、或は告げさせ給ふこと、他の神等と、更に異ならせ給はざるにても知るべきなり。遺族たり、國民たるもの、能く此の理を覺らざれば、或は誤りて不敬に陷る事も有らむ。見よ、見よ、春日神も、臣位の神にて坐しき。忌部神も、臣位の神にて坐しき。而して今や、靈能を發揮し給ひて、共に官幣大社に列し給ひぬ。之を思へば、我が祭神十一萬餘の、武徳の神靈を集めて一團とせる、靖國神の大偉徳は、天を極めて湮滅せず、地を極めて朽廢せず、長へに後昆の爲に金鑑と仰がれ給ひて、靈光を天日と與に萬世に輝かし給ふべし。嗚呼、丈夫の志懷、此れを措きて、將た何をか求めむ。嗚呼、忠の徳たるや、偉大なる哉。是に至りて、我が國風の懿美、眞に驚歎に堪へざるなり。

 かくて我が國、古來、國民の皇室を尊崇する念厚く、生きて身を君國に獻げ、死しても亦た神となりて、君國を守護し奉らんとする信念、最も堅固なれば、一朝、事あれば、一死、固より辭せず、從容として死に就く態容、實に爛漫たる櫻花の、春風に散るが如きものあり。蓋し世界無比なるべし。而して此の優越せる氣魄の、最も能く發揮したるは、七百有餘年、積威の覇府を壓倒して、王朝の昔に囘し、延いて老大の國を懲らし、崛疆の邦を伏して、震天撼地の大功業を遂行し得たる、わが祭神の大精神なりと云はざるべからず。是れ實に天孫降臨、神武天皇東征に亞げる偉績にして、皇國史上に特筆大書すべき事なり。上に述べし如く、此の大精神の發揮する所以の原動力は、遠く神代に起り、此の大精神を實行したる神、近く現今に實在し、終始一貫して、今ま猶ほ古の如くなるは、是れ我が國體の萬世不變なる實證ならずや。而して千萬世の後までも、この國體と共に、赫々の光を放たしめざる可からざるものは、この一大精神なりとす。

 靖國神社の御社號は、初めは招魂社とのみ稱せられしが、斯くては、一時、在天の神靈を招きて、祭祀を擧げ神饌を享する、齋庭を指して稱するものゝ如くにして、萬世不易の御社號としも云ふべからず。是を以てか、明治十二年六月四日、太政官より、

『東京招魂社を、靖國神社と改稱、別格官幣社に列せられ候ふ。此の旨、相達し候ふ事』

といふ布達は出でぬ。靖國の熟字は、『春秋左氏傳』に見ゆれども、全くこれに據られしにもあらざるべし。この靖の字は、『韻會』に「安也」とありて、安と同意の字なれば[この靖字は、治也(亂を靖む)、和也(之を和安す)、清也(自ら人を靖め、自ら先王に獻る)ともありて、最も善しき字なれば、安にかへて用ゐられしなるべし]、靖國は、安國の字と同一に心得て然るべし。安國とは、平安なる國家の意義にして、古來、わが國にて、大に唱導し來りし固有國語なり。皇祖の、皇孫をこの土に降臨せしめ給ふ時に、皇孫を天津高御座[天皇の御座の名稱]に坐さしめ、大御手自ら、三種の神器を捧げ持ち賜ひて、

『我が皇うづの御子、皇御孫の命、此の天津高御座に座して、天津日嗣を萬千秋の長秋に、大八洲豐葦原瑞穗の國を、安國と平けく知ろし食せ』

と、言壽ぎ宣り賜ひしを始めとして、古き宣命・祝詞等に、多く見えたる語なり。固有國語の上より云はゞ、文字は假りたるものゝみ。安にても靖にても、關する所ろ無きなり。

 扨て何故に、この神社の御社號を『やすくに』と名け給ひしぞと云ふに、同十二年六月二十五日、招魂社に勅使を御差遣ありて、社格制定、社號欽定の奉告祭典を行はしめられし時の御祭文に、其の由を委しく宣べさせ給ひぬ。左に全文を掲げて、勅諚の深義を衍べ奉らむ。

『天皇の大命に坐せ。此の廣前に、式部助兼一等掌典・正六位・丸岡莞爾を使ひと爲て、告り給はくと白さく。掛卷くも恐き畝火の橿原宮に肇國知し食しゝ天皇の御代より、天日嗣高御座の業と知し食し來る、食國天下の政の衰頽へたるを、古へに復へし給ひて、明治元年と云ふ年より以降、内外の國の荒振る寇等を刑罰め、服はぬ人を言和はし給ふ時に、汝命等の赤き清き眞心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各々も死亡りにし其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば、安國と知し食す事ぞと思ほし食すが故に、靖國神社と改め稱へ、別格官幣社と定め奉りて、御幣帛奉り齋ひ奉らせ給ひ、今より後、彌や遠長に、怠る事無く祭り給はむとす。故れ是の状を告げ給はくと白し給ふ、天皇の大命を聞し食せと、恐み恐みも白す。』

 謹みて其の大旨を窺ひ奉るに、祖宗より繼承し來れる、この大皇國を、天地の與に悠久に、平けく安けく統治し行かんことは、烈聖(愚案、或は列聖ならむか)の、みな祖宗に負ひ給へる天職なるが故に、時に可憐なる祖宗の赤子を、平和の犠牲となすことあるは、誠に已むを得ざるなり。汝神靈等は、克く聖慮を體して、赤誠忠實に、靖獻、其の身と其の家とを顧みずして、大勳績を樹てしによりて、祖宗の御國は、斯の如く平安なる國家となるに至りぬ。汝等が斯く身命を擲ちし功績によりて、國家を平安に統御することを得るを以て、汝等の神靈を奉齋せる招魂社の稱を、靖國神社と改め、更に別格官幣社の社格に列して、自今、千秋萬歳に、緩む事なく怠る事なく、祭祀の典を擧ぐべしと、宣り給ひしに外ならず。

 古來、我が國は、平和を以て國是とす。大古、伊弉諾尊の、此の國を名けて、浦安國と稱し給ひしも、是れなり。元來、わが國民は、協同の祖先に起りて、外には君臣の義あり、内には父子の親あるが故に、君は民を愛撫する御心深く、民は君を尊親する念厚ければ、君は、いかにしてか、國家を平和になして、萬民を安寧ならしめんと、叡慮を勞せさせ給ひ、民は、いかにかして、國家を平和にして、宸襟を慰安し奉らんと、身命を碎きぬ。されば國歩艱難なるや、擧國一致、身を忘れ家を捐てゝ、この平和の爲に致さんとす。親は、斯の如くにして、死して以て子に忠を訓へ、子は、斯の如くにして、死して以て更に孝道を傷らず、祖先の靈も、亦た之を見て、衷心より歡び、子孫も、亦た之を傳へて、家の名譽とす。所謂忠孝一途の要道、茲に存せりと言ふべし。斯く安國たらしめんとする、上下の大精神は、二千有餘年の歳月と戰ひて、世界萬國中、絶對無上の國體を造りぬ。否、是より益々進みて、平和の間に、天壤無窮の皇運を扶翼し奉らんこと、子々孫々、更に變ること無く、わが靖國の神靈の如くなるべし。嗚呼、靖國の御社號、深旨ある哉。嗚呼、國家を泰山の安きに置き坐せるは、靖國の神に坐す哉。

 御社格を別格官幣社に列せられしは、御社號を賜はりしと同時なること、上に引ける太政官達の如し。官社を、官幣・國幣の二つに分つ。官幣は宮中より、國幣は國庫より、幣帛を奉らるゝなり。この官幣・國幣の稱は、延喜の古制に因られしものにして、神祇官より幣を獻るを官幣と云ひ、國司より獻るを國幣と稱したりしなり。現今にしては、いさゝか適合せざるものゝ如しと雖も、其の古制によりて、天つ社・國つ社を尊崇し給へること、最も恐き御事なりと云ふべし。而して兩幣を通じて、延喜の制には、大・小の二つに分ちたりしが、現今は之を大・中・小の三つに分ち、官・國幣社を通じて、大幣を奉らるゝを大社とし、中幣を中社、小幣を小社と云へり。別格官幣社とは、大・中・小に序いで給はざる社格にして、其の幣は、小社と同一なり。靖國神社も、法規上、他の別格官幣社と同じく、官幣小社の次位に坐しませども、亦た更に皇室の御殊遇、國家の尊崇、特別なるもの有り。‥‥

 吾れ聞く、身を殺して仁を爲す。生を捐てゝ義を執る、と。又た聞く、仁は天下の安宅なり、義は天下の廣居なり、と。嗚呼、わが祭神は、生きながらに、斯の安宅に居り、斯の廣居に據り給へりしなりと云ふべし。‥‥

 遺族といへば、即ち祭神の父母なり、妻子なり、兄弟なり、親戚なり。蓋し祭神の遺愛、此れより過ぐるもの無からん。此の纏綿たる情緒は、曾て如何に祭神の心を煩はし奉りたりけん。祭神の、克くこの情緒を一擲し去り給ひしが如きは、個人としては、無情なるが如くなりと雖も、決して然らず。其の大故に處して、小節を捨てゝ大義を取り、行の利義、情の公私を明辨して、更に惑ひ給はず、功成りて忠臣たり、名揚がりて孝子たり、徳顯はれて萬世の龜鑑たり。古語に、父母を顯はすは、孝の終りなりと云へり。父母に對して、既に孝なりとせば、情に於いて、何の缺くる所か有らむ。況んや我が國の如き、忠孝一途の國體にして、爾の父も、爾の祖先も、斯くの如くにして、之を子孫に遺訓したることなるをや。況んや斯くの如きは、國民の當に盡すべき本分なるに於いてをや。さればこそ、祭神の遺愛たる遺族諸氏も、祭神の、斯くの如くなりしを、一家・一門の名譽として、又た祭神の如く、私情を擲ちたるなれ。然りと雖も其の此に至らざるを得ざりし心情を察すれば、其の悲慘、實に同情に堪へず。而して今や、幽顯、界を異にして、斯の熱烈なる情緒を、祭神と共に目前に交ふることを得ざるに於いてをや。是れ恐くも、至尊陛下を始め奉り、國民の共に泣きて、意を注ぐ所なり。‥‥

 思ふに、我が國は、古來、尚武を以て大精神とす。而して亦た文を捨てず。されば鏡を明徳に比し、劍・璽を文武に比せり。上にこの明徳あるを以て、武を弄することなく、文に荒むことなし。若し夫れ武を弄すれば暴に渉り、文に荒めば弱に流る。明徳を以てするに非ずんば、焉ぞ文武を完うすることを得む。

 靖國神社祭神は、我が國の大精神を發揮し給ひ、武徳の神に坐すこと勿論にして、而して亦た文徳を備へましゝこと、この文武兩館(愚案、附屬の遊就館、竝びに圖書館、即ち現今の偕行文庫、是れ也)を通觀して知るべし。文武の運用、其の道に適はむことは、明徳あるものに非ずんば能はざるなり。嗚呼、この兩館に入りて、神徳の大なるに驚き、感奮興起せざるものは、わが國民にあらずとや云はむ。



■賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』――昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm

■賀茂百樹大人遺文『靖國神社忠魂史の序』、其の他
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t8/l50
 
 

國危きに見はれたる貞臣孝子、正二位・小松内府平重盛公。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月 4日(土)23時22分27秒
返信・引用 編集済
   今年のNHK大河ドラマは「平清盛」であるが、其の嫡男・重盛公の描かれ方に注目してゐる。以前の『太平記』では、楠公の遺言を改竄して、非道、眞に極まつたものであつたが‥‥。現代の脚本家、驕る者久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。「六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しゝ人のありさま、傳へ承るこそ、心も詞も及ばれね(言語道斷の謂ひ――よう云はぬわ)」(『平家物語』)。



●平泉澄博士『再續・父祖の足跡』(昭和四十一年七月・時事通信社刊)に曰く、

 燈は一たび輝いて、やがて消える。清盛の勢力、西山に沒せむとする太陽さへ、招きかへすとまで云はれた時、外には源氏の擧兵あり、内には病魔の迫るあつて、滿月すでに缺け、燈影大きく搖れるの感があつた。そして翌年(治承五年閏)二月四日、清盛は遂に亡くなつた。兼實は、その日記の中に之を論評して、次の如くに云つた。

『准三宮入道前太政大臣清盛(法名靜海)は、累葉武士の家に生れて、勇名世をおほふ。平治の亂逆以後、天下の權、ひとへに彼の私門に在り。長女は初め妻后に備はり(清盛の長女徳子、高倉天皇の中宮)、ついで國母となれり(安徳天皇の御母――建禮門院)。次女兩人、共に失政の家室となる(六條攝政基實の夫人盛子、基實の子・普賢寺關白基通の夫人)。長嫡の重盛、次男の宗盛、或は丞相に昇り、或は將軍を帶び(共に大將・内大臣)、次の二人の子息、昇進、心をほしいまゝにす(知盛二十六歳にして從三位、重衡二十四歳にして藏人頭)。凡そ過分の榮幸、古今に冠絶する者か。就中、去々年よりこのかた、強大の威勢、海内に滿ち、過酷の刑罰、天下に普ねし。遂に衆庶の怨氣、天に答へ、四方の匈奴、變を成せり。いかにいはんや、天台・法相の佛法を魔滅せるをや。只に佛像・堂舍を湮滅するのみならず、顯密の正教、悉く灰燼となり、師跡相承の口決抄出、諸宗の深義、祕密の奧旨、併せて囘祿に遭へり。かくの如きの逆罪、彼の脣吻にあらざるは無し。つらゝゝ修因感果の理を案ずるに、敵軍の爲に其の身を亡ぼし、首を戈鋒にかれられ、かばねを戰場にさらすべし。弓矢刀劍の難をまぬがれて、病席に命を終ること、まことに宿運の貴きこと、人意の測る所にあらざるか。但し神罰冥罰の條、新に以て知るべし。日月、地に墮ちざること、こゝに憑(たのみ)ある者か。』

清盛歿した其の翌日に記されたものであるが、清盛一生の論評として、まことによく大局をつかみ、判斷正鵠を失はざるものである。兼實、時に年三十四歳、從一位右大臣であつた。流石に識見は拔群、氣の毒だが、『十訓抄』などが、そばへも寄れるものでは無い。蟹は甲羅に似せて穴を掘る、人は自分の器量で他人を論評するものだ。‥‥

 右大臣兼實は、その恐るべき權力者・清盛入道の亡くなつた時に、その功績と權勢とを承認すると共に、晩年、特に治承三年以來の狂暴を許さず、是れほどの惡人が、當然首を斬られねばならぬ筈であるのに、疊の上で病死したのは不思議である、と論斷した。流石は左大臣頼長の甥だけあつて、識見の高く、氣鋒の鋭い事、拔群といはねばならぬ。



■『大日本史』卷之一百五十六・列傳第八十三

 平重盛は、太政大臣・清盛の長子なり。資性、忠謹にして、武勇、人に軼(す)ぎ、物に接して温厚なれば[百錬抄]、内外、意を屬せり[源平盛衰記・平家物語]。久安六年、藏人と爲り、從五位下に敘せらる。久壽二年、中務少輔に任ぜらる[公卿補任]。

 保元元年、上皇、兵を白河殿に集めたまふや、重盛、禁軍を率ゐ、清盛に從ひて之を攻む。源爲朝、兵を將(ひき)ゐて、西門を守る。清盛が將・伊藤忠清・忠直、先登たり。爲朝、一發して、忠直が胸を洞(つらぬ)き、忠清が鎧に及ぶ。軍中、震竦す。清盛、懼れて曰く、「我れ此の門を攻むるは、特命を承くるに非ず。更に東門に嚮ひ、以て之を避けん」と。將士、皆な言ふ、「東門も、亦た爲朝の守る所なり。北門に由るに如かず」と。清盛、乃ち兵を引きて退く。重盛、奮ひて曰く、「敕を奉じて、軍を出す。何ぞ敵の強弱を問はん」と。獨り輕騎を麾きて直進す。清盛、惶れて遽かに左右に命じて、之を遏めしむ。已むことを得ずして、春日表門に向ふ。既にして源義朝、火を縱(はな)ちて之を攻め、白河殿、遂に陷る[保元物語]。二年、正五位下に敘し、左衞門佐に任ぜられ、遠江守を兼ぬ[公卿補任]。

 平治元年、清盛に從ひて、熊野に如く。切部に至り、藤原信賴等の反くを聞く。清盛、進退、據を失ひ、計、猶豫して決せず。重盛の曰く、「身、武臣と爲り、天子の逆徒の逼る所と爲りたまふを聞く。安んぞ亟(すみや)かに國難に赴かざるを得ん」と。衆、皆な之に從ふ。乃ち使ひを熊野別當・湛増等に遣はして、兵を徴(め)す。見兵、僅かに百騎可(ばか)りなり。適々義朝が子・義平、兵三千を擁して、安部野に要すと聞き、清盛、衆寡、敵せざるを恐れ、先づ四國に赴きて、兵士を召聚し、然る後ちに京に入らんと欲す。重盛の曰く、「事、若し稽緩せば、賊、必ず詔を矯めて、我を討たん。之を悔ゆとも、及ぶこと無けん。寡を以て衆を撃つは、將家の常なり。速かに往いて戰死せば、亦た以て各を後昆に耀かすに足らん」と。清盛、意、乃ち決し、遙かに熊野の神に祷り、遂に京師に赴く[○愚管抄に云ふ、「清盛、田邊に至る。從ふ所、子基盛・宗盛、及び兵士、僅かに十五人なり。變を聞きて惶惑し、先づ筑紫に走りて兵を發せんと欲す。紀伊の人・湯淺宗重、兵三十餘有り、勸めて京に入らしむ。熊野の湛快、弓鎧を具し、遂に京師に還る」と。本書と小しく異なる]。行きて鬼中山に至り、一騎士の來るを見る。衆、皆な色を失ひ、以て義平の使ひと爲す。至れば則ち六波羅の使ひ也。言く、「伊勢の兵士三百餘、清盛を安部野に迎ふ」と。是に於て衆の心、始めて安し。重盛、京師の消息を問ふ。對へて曰く、「六波羅は他無し、惟だ播磨中將の、難を遁れ來り投ずる有り。信賴、詔を矯めて之を捕へしかば、勢ひ、匿すこと能はずして、之を出だせり」と。重盛、怒りて曰く、「人の困みて我に歸せるに、之を棄つるは不祥也。後ち孰れか我が用を爲す者ぞ」と。既にして京師に還り、乘輿を迎へて六波羅に幸せしめ、叔父教盛・賴盛と、各々一千騎を將ゐ、道を分ちて信賴を攻む。重盛、士卒を勵まして曰く、「年は平治と號し、地は平安と曰ひ、我は平氏爲り。三者を以て之を卜ふに、賊の平らがんこと疑ひ無し」と。乃ち兵を分ちて二隊と爲し、五百騎を大宮街に留め、其の半を帥ゐて、待賢門を攻む。信賴、大いに懼れて退き、兵、皆な潰走す。重盛、進みて大庭の椋樹の下に至る。源義朝、子・義平をして之を禦がしむ。義平、驍兵十六騎を率ゐ、躬自ら搏戰し、目を重盛に注ぐ。重盛、且つ鬪ひ且つ卻き、大宮街に至り、弓を杖つきて馬を息はしむ。部將・平家貞、進みて贊して曰く、「曩祖・平將軍、再生なり矣」と。重盛、再び其の半を率ゐ、復た大庭に入り、一戰して退く。義平、追躡すれば、重盛・與三左衞門景安・新藤左衞門家泰と、身を脱れて走る[○景安は、姓闕く]。羲平、將に及ばんとして、馬、躓き伏す。鎌田政家、射て重盛に中つるに、甲堅くして入らず。又た馬を射れば、馬殪る。重盛、兜□[務+金](かぶと)を墜す。政家、薄(せま)り近づく。重盛、撞くに弓を以てす。逡巡の間、乃ち兜□[務+金]を著く。景安、馳せ至り、搏ちて政家を倒す。義平、來りて景安を刺す。重盛、怒りて自ら之に當らんと欲す。家泰、馬を進めて義平に當り、亦た政家の殺す所と爲る。重盛、間を得て、六波羅に走る。義朝、來り攻む。重盛、撃ちて之を走らす。時に上皇、仁和寺に御したまふ。信賴等、往いて死を宥されんことを乞ふ。上皇、之を憐みたまひ、手書して帝に請ひまつる。使ひ、未だ還るに及ばず。六波羅、兵士を遣はして、信賴及び黨與・藤原成親等を捕ふ。信賴、誅に伏す。成親も、亦た死に當るも、重盛、請ひて死を宥し、自ら其の縛を解く[平治物語]。是の冬、功を以て伊豫守を兼ぬ[公卿補任・平治物語・源平盛衰記]。明年、從四位上に敘せられ、累りに左馬・内藏頭に遷る。尋いで内藏頭を辭し、右兵衞督と爲る。應保三年、從三位に敘せらる。長寬二年、正三位に進む。永萬元年、參議と爲る[公卿補任]。

 是の秋、帝崩じたまふ。諸寺の僧侶、會葬す。延暦・興福の二寺、次を爭ひて兵を構ふ。時に訛言有り、「上皇、陰かに僧徒に命じて、平氏を討たしめたまふ」と。清盛、大いに驚き、兵を聚めて自ら守る。重盛、堅く執りて、以て妄と爲し、乃ち法住寺殿に造(いた)りて、之を□[言+囘の巳の替りに口。うかゞ]ふ。會々上皇、將に六波羅に幸し、自ら開諭せんとしたまひ、乘輿、已に道に在り。重盛、乃ち扈從して還る。清盛、疾ひと稱して出でず。上皇、宮に還りたまふ。重盛、清盛に諫めて曰く、「我が家、逆を討ち亂を撥(をさ)め、其の功も亦た多し。今、何の咎責有りてか、而も猝(には)かに此に至らん。大人(父・清盛)、宜しく之を詞色に形(あらは)すべからず。恐らくは姦人、機に乘じ、讒説を釀成せん。吾、苟くも上を敬ひ下を□[血+小里。あはれ]まば、神も將に我を助けんとす。何ぞ懼るゝこと之れ有らん」と。清盛、其の恢量を嘆稱す。上皇も、亦た近侍を戒めたまひ、輕々しく浮言を爲すこと勿らしむ[源平盛衰記]。仁安元年、權中納言に任ぜられ、春宮大夫を兼ぬ。二年、從二位に敘せられ、權大納言に遷り、帶劍を聽さる。三年、病ひを以て官を辭す。嘉應元年、正二位に敘せらる[公卿補任]。

 二年、子・資盛、路に攝政・基房に遇ひて、車を下らず。基房が從者、車簾を斫りて之を辱かしむ。重盛、資盛を讓(せ)めて曰く、「官に高下有り、等列、尚ほ敬ふ可し。況んや攝政をや乎。汝、十歳を過ぐるに、禮法を知らず、辱かしめを取るも、固より宜なり」と[源平盛衰記]。基房、其の下手者を縛送して、以て謝す。重盛、畏懼し、慰勞して之を還す[玉海・源平盛衰記]。清盛、聞きて盛んに怒り、心に報復せんと欲す。重盛、諫めて曰く、「資盛は幼蒙にして、禮を攝政に失ふは、罪、從者に在り。而して之を問はずして、反りて尊貴を犯さんと欲するは、豈に悖れるに非ずや邪。夫れ攝□[竹+録]の臣は、皇政を□[田+比]輔し、民庶を撫育する所以ん也。奈何ぞ勢ひを恃みて、之を凌がん。且つ徳を以て人に勝つ者は昌(さか)へ、力を以て人に勝つ者は亡ぶ。願はくは大人、詳かに之を思ひたまへ」と。清盛、納れず、陰かに武士をして、基房を辱かしむ[源平盛衰記・平家物語。○按ずるに、愚管抄及び盛衰記の一説に、「怨を基房に報ゆるは、重盛の意に出づ」と。玉海も、亦た詳かに顛末を載す。但だ云く、「大納言、甚だ之を憂ふ」と、而して報復の、重盛に出づる文無し。今ま其の人と爲りを以て之を察すれば、應に□[手+交]角すること、此の如きに至るべからず。蓋し當時、巷説紛紜、從ひて筆記するのみ耳]。重盛、懼れて、其の事に預る者を黜け、資盛を伊勢に逐ふ[平家物語]。承安元年、權大納言に復す。

 四年、源雅通、病ひを以て右近衞大將を辭す[公卿補任]。諸卿、多く其の闕に補せられんことを望む。重盛、附奏して曰く、「宦職の設け、文武、塗を異にす。止(た)だ華族と世家とに擇ぶは、近世の弊風也。臣、本と將種、且つ大臣の子にして、大將に任ぜらるゝは、古今の通例なり。冀はくは此の職に居らん」と。遂に右近衞大將を兼ぬることを得たり[源平盛衰記]。治承元年、左近衞大將に轉じ、尋いで内大臣を拜せらる[公卿補任]。是の歳、延暦寺の僧徒、訟へ有り。日吉の神輿を奉じて京師に入る。源平の諸將に命じて、之を禦がしむ[源平盛衰記・平家物語]。重盛、三千餘騎を以て、陽明・待閒・郁芳の三門を守り、禦ぎて之を卻く[平家物語。○源平盛衰記、三千を三萬に作る]。是より先、藤原成親、黨を結びて、竊かに平氏を滅ぼさんことを謀り、事、泄れて捕へらる。清盛、武士に命じて、速かに成親を斬らしむ。重盛、諫めて曰く、「彼は、法皇の寵臣なり。其の祖・顯季、白河朝に仕へしより、傳家、既に久しく、爵位も亦た崇し。今、私怨を以て遽かに之を殺さんこと、未だ其の可なるを見ず。唯だ當に之を都外に逐ひ、以て其の餘を□[人+敬。いまし]むべきのみ耳。斯の言、實に國家の爲めにして、彼と姻有るを以てに非ざる也。昔者、嵯峨(天皇)の朝、藤原仲成、誅に伏し、厥の後ち死刑を廢する者、二十五代、保元中に至り、信西、事を用ゐて、多く源平二族を斬り、宇治左府の墓を發く。後ち二年、信西の墓も、亦た信賴の掘る所と爲る。豈に其の報いに非ずや邪。今、我が家の貴盛、世に冠たり。慮る所は、唯だ子孫のみ。願はくは大人、積善の慶を思ひ、子孫の爲めに、少しく之を忍びたまへ」と。清盛、意、稍々釋く。重盛、出でて武士に戒めて曰く、「大人、一旦、怒りを逞うせらるも、後ち必ず之を悔いたまはん。縱ひ命有あるも、汝、愼みて刃を加ふること勿れ」と。此に由りて成親、死せざることを得たり。重盛、既に還る。清盛、恚怒して止まず。法皇を別宮に幽せんと欲し、大いに子弟・臣僚を召す。是に於て平氏の親族、戎服して、畢(ことゞゝ)く清盛が第に集まる。重盛、後れて至り、中門に及ぶ。宗盛、其の烏帽・直衣を見て、袖を引きて之を尼(とゞ)めて曰く、「大事有りて、公を召す。大人、既に甲せらるに、公、尚ほ緩服せらるゝか乎」と[○平家物語に、平貞能の言と爲す]。曰く、「是れ、何の言ぞや也。近衞大將は、兵權の歸す所にして、吾、適々此の職を忝うす。濫りに戎衣を著るは、甚だ宜しき攸に非ず。若し或は賊虜猖獗にして、王師、利を失へば、大臣の重きと雖も、固より宜しく甲を被り兵を執るべし。我、未だ諸君の爲す所の何如を曉らず。其の斥して敵と爲す所の者は、誰ぞや也。且つ所謂る大事とは、朝家の事のみ而已。是は私事なり。何ぞ大事と言ふを得ん」と。衆、皆な聳動す[○平家物語・源平盛衰記を參取す]。清盛、心に慙ぢ、服を改むに遑あらず、俄かに起ちて、素娟を尚(くは)へて出づ。甲の露はれんことを恐れ、手もて頻りに襟を正して、縫裂くるに至り、故さらに間暇を示し、從容として言ひて曰く、「來ること、何ぞ晩き。西光に拷治して、備さに其の情を得たり。成親が姦謀、實は法皇に由る。皆な猥屑の小人、宮□[門+偉の右]に近侍し、非望を僥倖するの致す所ろ也。而して法皇、輕舉して事を生じたまふ。今、當に法皇を他所に徙しまつり、以て禍の本を除くべき也」と。重盛、泣を埀れて曰く、

今、大人の舉動を視るに、悲・懼、交々至る。未だ官、相國に昇る者にして、躬に甲胄を□[手+環の右。き]たることを聞かず。況んや披髴の後に於いてをや乎。聞く、佛説の四恩は、國恩、最も重し。之を知るを人と爲し、知らざるを禽獸と爲す。夫れ吾が家は、桓武(天皇)の苗なりと雖も、中古以來、絶えて顯達する者無く、平將軍の將門を討つも、賞は受領に止まる。刑部卿の得長壽院を造るに及び、始めて昇殿を聽されたるに、人、尚ほ以て過獎と爲す。大人、小官より起りて、位、人臣を極む。闇愚、重盛が如きすら、資蔭を以て叨りに顯要に居る。一門の釆邑、殆んど天下に半するは、寵榮の極なり矣。今、忽ちにして隆恩を忘れ、皇威を輕蔑すれば、鬼神、必ず怒りて、覆亡せんこと、日無からん。重盛、深く焉れを懼る。今、一二の首謀を拘へ、罪す可きを罪して足りなん矣。何ぞ至尊に迫るに至らんや哉。且つ大人、縱ひ之を爲さんと欲せらるも、重盛は、國恩に背くに忍びず。部下に、死士二百有り、以て護法皇を護りまつるに足れり。然りと雖も子を以て父に抗するは、亦た忍びざる所なり。曩に義朝、父を害するは、君命を以てすると雖も、悖逆たるを奈何せん。重盛、孝子爲らんと欲せば、則ち不忠と爲り、忠臣爲らんと欲せば、則ち不孝と爲る。進退、維れ谷(きはま)りぬ。言、若し聽かれずば、請ふ先づ重盛を斬りたまへ

と。清盛の曰く、「餘命、幾くも無ければ、惟だ子孫を慮るのみ而已。今よりして後、唯だ君の計る所のまゝにせよ」と。起ちて内に入る。重盛、諸弟を責めて曰く、「大人、衰耄して、此の不良を謀りたまふ。諸君、何ぞ切に諫めざる、而るに反りて贊成を爲すをや乎」と。又た將士を戒めて曰く、「汝等、愼みて我が言を守り、敢へて妄動すること勿れ。若し大人に從はんと欲せば、必ず先づ我を斬れ」と。既にして第に還り、尚ほ其の暴を爲さんことを慮り、乃ち急を報じて纂嚴す。將士、皆な謂ふ、「此の公、未だ嘗て輕易く事を作さゞるに、今、忽ち此の召有り、何ぞ速かに赴かざる」と。難波經遠・瀨尾兼康・平家貞及び子・貞能等、爭ひて小松第に集まる。乃ち平盛國をして兵を籍せしむるに、見兵二萬餘有り[○平家物語に、一萬餘に作る]。是に於て家貞・貞能をして清盛に言はしめて曰く、「法皇、大人の謀を聞きて、震怒したまひ、詔を重盛に下して、之を討たしめたまふ。恐らくは大人、倉卒の間、非常の事有るに至らん。是を以て二人を遣はして、防閑に備へしむ。我、身を以て固く請はん、幸ひに驚怖せらるゝこと勿れ」と。清盛、大いに惶惑して曰く、「唯だ内府の爲す所のまゝなり」と。重盛、家貞等に謂ひて曰く、「我、權謀を以て父が過ちを救ひ、而も反りて其の心を傷ふ。是れ豈に人の子の道ならんや哉」と。□[三水+玄]然として涙下る。聽く者、皆な悽惻す[源平盛衰記]。既にして兵士を勞ひて曰く、「諸君、期約を失はず、信義、嘉みす可し。唯だ嚮(さき)に聞く所ろ有りて召すも、事、適々解くを得たり。宜しく速かに罷め歸るべし。後ち狃れて常と爲すこと勿れ」と。法皇、聞きて泣を埀れたまひて曰く、「重盛は、何人ぞ。徳を以て怨に報ゆ[源平盛衰記・平家物語]。朕、願はくは斯の人に先だちて命を終へん。勁松は、歳の寒きに彰れ、貞臣は、國危きに見はるとは、其れ此の人の謂ひか乎」と[源平盛衰記]。

 清盛、跋扈、日に甚しく、重盛、居常、憂懼す。一夜、賴朝が神に祷るに、神、父の首を斬るを夢み。覺めて悲泣す。瀨尾兼康、來り謁し、人を屏(しりぞ)けて、其の夢を告ぐも、亦た重盛と夢みる所と符(かな)ふ。重盛、益々感愴す。會々子・維盛來る。命じて酒を飲ましむ。貞能、酒を行(や)る。重盛、貞能をして維盛に大刀を賜はしむ。維盛、以爲らく、「傳家の寶刀・小烏ならん」と。既にして之を視るに、乃ち無文の刀也。維盛、色を失ひ、意に貞能が錯謬ならんと疑ふ。重盛、涙を灑ぎて曰く、「汝、深く怪しむこと勿れ。此れ大臣の葬時に佩ぶる所なり。家君、百歳の後、我、將に之を佩びんも、今ま我、思ふ所ろ有り。故を以て汝に與ふ也」。維盛、仰視すること能はず。飲泣して退く[平家物語。○源平盛衰記を參取す]。何(いくば)くも無くして、左近衞大將を解かる。三年、内大臣を辭す[公卿補任]。重盛、熊野の社に詣でて、自ら死を祈る[山槐記・源平盛衰記・平家物語。○盛衰記・平家物語に曰く、「重盛、證成殿に拜するに、光ありて、自身に生ず。從者、忌みて告げず]と。今、取らず]。歸路、岩田川を經、時に方に盛暑、維盛及び諸子、流れに浴し涼を取り、衣裳霑濕す、左右、其の凶服を著たるが如きを見て、之を惡み、請ひて衣を更へんとするに、重盛、聽さず、以爲らく、「志願、遂げなん矣」と。既にして疾ひに寢ぬ。會々醫、宋より至る。清盛、勸めて疾ひを治せしめんに、辭して曰く、「命は、天の賦する所、治療、何をか爲さん。我れ若し彼に藉りて愈ゆるを得ば、是れ國に醫無きを示す也。況んや位、大臣に具り、私かに異域浮浪の客を見る可からず。縱ひ我れ起たざるも、寧ぞ國を辱しむるに忍びや乎」と。清盛、焉れを強ふること能はず[源平盛衰記・平家物語]。疾ひ、日に篤し。帝、爲めに藥を賜ひ、法皇、臨み視たまふ[山槐記。○「帝、藥を賜ふ」は、百錬抄に據る]。髮を剃りて、法名は證空[帝王編年記。○平家物語に淨蓮に、八坂本平家物語に照空に作る]。薨ず、年四十二[公卿補任・山槐記・帝王編年記。○源平盛衰記・平家物語に、四十三と爲す](治承三年閏七月二十九日薨去)。

 世に小松殿と稱す[平家物語]。其の室中四方、各々十二佛像を置き、像別に長明燈籠を懸け、美女四十八人を妙(抄か)選し、以て其の事を供せしむ。日沒するに及ぶ毎に、禮讚し畢り、□[金+拔の右。ばつ]を撃ちて、行々歌はしめ、身、中央に坐して之を聽けり。時人、又た稱して燈籠大臣と曰ふ[○本書に曰く、「重盛が采地・陸奧氣仙郡より、黄金一千三百兩を貢す。時に宋の人・妙典、筑紫に至る。重盛、之を召して、其の金一百兩を與へ、且つ之に囑して曰く、『今、汝に檜木屋材の一船、及び黄金一千二百兩を附す。其の二百兩は、宜しく育王山の僧侶に捨すべく、一千兩は、之を官に輸し、請ひて我が爲めに育王山に就きて、一小堂を建て、僧の食田を置き、我が冥福を修むべし』と。妙典、乃ち國に歸り、官に請ふ。宋主、之を許す]と。按ずるに、重盛、素より國體を重んじ、疾ひに方つて宋醫を拒む、而して應に以て私かに宋主に請ふべからず。此の時、宋の僧・徳光、育王に主たり。故に後世、徳光と僧正瑛頌とを以て、附會して贈金の證を爲す。其の實、干渉する所ろ無し。本書の説、諸書に載せざる所、故に今ま取らず]。初め相撲節の行事に方り、稠人中に竊かに言ふもの有り、「此の公、多福にして、近衞大將に至る。儀貌心術、亦た人に邁(す)ぐること遠し矣。澆季の世、未だ見ること得易からず。但だ恐らくは壽を享くること能はざらんのみ耳」と。果たして其の言の如し[源平盛衰記]。嘗て事を中宮に啓するとき、蛇有りて、膝下に至る。其の中宮を驚かさんことを恐れ、徐ろに其の首尾を捉へ、藏人・源仲綱を召して、之を收めしむ。仲綱、袖して出で、毫も難ずる色無し。重盛、之を悅ぶ。翌日、駿馬・良刀を贈り、手書して之を褒めて曰く、「昨日の舉止、還城樂の舞に似たり」と。其の性度、此の如し[源平盛衰記・平家物語]。子は、維盛・資盛・清經・有盛・師盛・忠房・宗實。宗實は、出でて左大臣・藤原經宗が子と爲る。重眞・行實・重遍・清雲は、竝びに僧爲り。

(愚案、横尾謙七翁編纂『皇朝靖獻遺言』全八卷三册・明治六年刊に、平重盛「諫言」を掲ぐるは、件の「赤字」であり、殆んど此の『大日本史』の轉載である)



●宮内掌典・宮地嚴夫翁『本朝神仙記傳』――平維盛仙人の條に、『源平拾遺』を引きて曰く、

「小松大臣殿(重盛公)、病ひ重らせ給ひける時、維盛卿を枕邊に召し、傍らの人を退け、重景(與三兵衞)一人をかたへに副へ置きて、遺言ありける樣、『天の下、亂れんこと、三年を過ぐべくも覺えず。若し其の時に至らば、我が一門の者等、皆さすらへられぬべし。然る折は、兼ねて人知れず、我れ占(しめ)し置ける木の國(紀伊)の隱れ家に忍びゐて、世には亡くなりし樣に知らせ、時を待ちて軍を起すべし。重景は、世々傳へ來れる、我が家の忠臣なれば、深く頼む』とて、劒を賜ひき」と。
 
 

金城翁三年祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 7月13日(金)19時37分59秒
返信・引用 編集済
   來る七月十五日の深夜、即ち正確には十六日の午前三分は、我が九段塾塾頭・福井金城翁が身罷られまして、實に二年、足掛け三年であります。

 ご閲覽各位には、塾頭遺文の一節なりとも讀み返されまして、靖國神社正統護持の爲めに、決意を新たにして、心を碎いて戴き、亦た金城翁をお偲び戴ければ、歡喜道福、此の上もございません。

一、泉水隆一監督遺文『靖国神社の真実』平成二十三年十二月八日初版・二十四年四月二十九日第二版・洛風書房刊
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1553

または『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
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二、九段塾塾頭・金城翁最終講義(上記一の續篇・絶筆/未刊)
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 塾頭遺文である、件の兩篇は、誰も書かなかつた、否、書け得なかつた「靖國神社の眞實」が、「靖國神社の事歴」が、否應なく、眼前に露はれて迫り、憂憤哀哭、護持奉贊の至情が、勃然と湧出するを確信します。有志の方々の、靖國神社の正統護持、熱祷奉贊を、只管ら乞ひ奉ります。

 暦を繰りますと、關東では「お盆」の御由、關西に在つては、一箇月遲れの八月十五日が「お盆」なれば、中國の田舍者にはパツと來ませぬが、御偲び申し上げる佳き時節と存じます。

 小生は、と申せば、塾頭の遺言「承詔必謹」、「尊王・勤皇の風を吹かせよ」、「大和民族のふるさとへ還れ――神國日本へ――」。此の遺言を實踐せんが爲め、非力を顧みず、先づは明治維新の志士感奮の書――『靖獻遺言』の拜記を、鋭意、卷之六まで進めて參りました。淺見絅齋先生『靖獻遺言』こそ、平成の大御代に、必要必須、缺くべからざる書と信ずるが故に外なりません。是非とも清覽を乞ひたいと存じます。塾頭在天の御靈、ご照覽たまはらむことを。百拜敬白
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谷秦山先生『中臣祓鹽土傳』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月29日(金)23時53分52秒
返信・引用 編集済
   明日は太陽暦に於ける「大祓」の日、神習うて、神明の廣前に、『大祓詞』を奏上しませう。奏上、一人でも衆ければ、國中の罪穢れ、それだけ祓はれて、愈々清明なるべし。有志が皇猷奉贊、嗚呼、是れ勗むべきかな哉。



●谷秦山先生『中臣祓鹽土傳』(刊年不明。家藏本に墨書して云く、「吉田彌生丸、藏書」と)に曰く、

 中臣は、姓氏也。神代の卷に、天兒屋命を稱して、中臣神と曰ふ。今の藤原・大中臣・卜部、皆な其の裔也。祓は、拂ふ也、洗ふ也。風、薫霧を拂ひ、雨、汚泥を洗ふは、天地造化の功也。神聖、之に則れり。伊弉諾尊、小戸檍か原の祓除(みそぎ)は、身、汚穢(きたなき)に觸れ、水を灑ぎて、之を盪き滌ふ也。素戔鳴尊、千座置戸の解除ひは、心、罪・咎を犯し、贖ひ物を出し、之を解き謝る也。同じく之を祓と謂ふ。

 夫れ汚穢不淨は、神聖と雖も、觸るゝこと無きこと能はず、罪・咎・過・失は、中人以下、固より免るゝこと能はず。苟くも術、以て一新すること無ければ、則ち天と相ひ似ずして、人心の道、殆んど息む焉。是を以て神聖、之れが法を立て、身の汚穢は、則ち盪ぎ滌ひて、之を去り、心の罪・咎は、則ち解き除きて、之を改め、一に皆な本心の誠に歸りて、以て體を神明に合す。此れ人心祓除の道也。

 『舊事紀』に曰く、「大歳辛酉正月庚辰の朔、天孫磐余彦尊、橿原宮に都し、初めて即位(あまつひつぎしろしめす)。號して元年と曰ふ。高皇産靈尊の兒、天富命、天つ璽(しるし)・鏡・劒を□[敬+手]げ、安正殿に奉る矣。天兒屋命の兒、天種子命、神代の古事、天の神の壽詞(よこと)を奏し、天つ罪・國つ罪の事を解除ふ也」と。蓋し天つ璽・鏡・劒は、一人の守り、天が下の教へ也。神代の卷、之を明かにす。此の祝詞は、神代の古事を擧げ、當(そ)の代の壽ふきを祝ひ、天下の天つ罪・國つ罪を索り求めて、之を解除ふて、以て神明の降監を願ふ。是れ神事の宗源也。

 歴朝大嘗會、既に其の式に從ひて、六月・十二月、此を借りて、大いに天が下に祓ひ、人家、故有れば、此を借りて、罪・咎を解除ふ。蓋し神の道を以て、天の下を化す者、然り矣。凡そ祓の祝詞有る、天兒屋命の諄辭(のとこと)に始まりて、此の篇は、則ち天種子命の作れる所、振古以來、中臣の氏人、職掌する所、故に世、稱して『中臣祓』と曰ふ。

‥‥

 夫れ天の益人等が犯し過まつ所の、罪なる者・咎なる者、既に太諄辭に消えて、其の負はする所の祓つ具、又た四神の手に滅すれば、則ち天地の間、果して一點の汚れ無くして、直ちに天照大神の御心と、融貫して體を同じうす。畝傍の橿原に始馭天下(はつくにしらす)るの初め、皇化の人に入る、既に彼が如くにして、神事の天を感ずる、又た此の如し。宜なるかな乎、寶祚の隆んなる、天壤と窮り無きこと也。嗚呼、天種子命、神明を幽贊し、化育を參助するの功、大いなるかな矣哉。吾人、宜しく深く察して、力め體すべし焉。
 
 

谷秦山先生の學風。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月27日(水)22時28分30秒
返信・引用 編集済
  ●谷秦山先生『中臣祓鹽土傳』に曰く、

身の汚穢は、則ち盪滌ぎして之を去り、心の罪咎は、則ち解除いて之を改め、一に皆な本心の誠に歸つて、以て體を神明に合す。此れ人心祓除の道也。‥‥

 明神と御宇す天皇、鎭常へに上に在せり。彼の香香背男が天上に於る、長髓彦が中國に於るが若きは、罪惡顯著、天誅、以て之を祓ふ。豈に解除して後、清明なるを待たんや乎
」と。



 明日の六月二十八日は、贈正四位・赤城高山彦九郎平正之先生が絶命されて、二百二十年になる。

 又た三十日は 、「抑も我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也」(正徳元年。宮地靜軒に與ふる書)と雄叫びして、日本之學」(『私講□[片+旁]諭』――元祿六年)と云ふ名稱の學問を唱道された、贈正五位・秦山谷丹三郎大神重遠先生が、幽顯、界を異にされて、こゝに二百九十五年である。此の「日本學」、固より平泉澄先生主宰「日本學協會」の名の起こる所以なり。
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http://tosareki.gozaru.jp/tosareki/yamada/jinzan.html

【谷秦山先生遺文抄】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/8



 かつて大原富枝氏『婉という女』を讀んだことがあつたが、最近では、秦山先生の師、贈從四位・土守靈社新蘆澁川助左衞門源春海先生(=碁方二世安井算哲)の映畫「天地明察」(本年九月封切)有りと仄聞する。然し觀る氣が起きぬのは、如何したことか‥‥。

 熊本鎭臺司令長官・谷干城翁を偲べば、遙かに秦山先生傳家の精神を想起する。秦山先生と申せば、直ちに平泉澄先生の名著、『萬物流轉』の、彼の椽大の筆を思はずんばあるべからざるなり。今は、近藤紹宇先生の講演録を拜記して、謹みて秦山先生を景仰し奉る。



●紹宇近藤啓吾先生『谷秦山の學風』(昭和三十八年三月十日・秦山先生墓前祭の後にて――『淺見絅齋の研究』昭和四十五年六月・神道史學會刊に所收)に曰く、

「私(紹宇先生)が始めてこの山田の、谷秦山先生のお墓にお詣り致しましたのは、昭和三十五年の五月一日でありました。御案内下さいました方は、濱田晃僖翁であります。お詣りを終へまして、石だたみの參道を降りながら、翁は、南の方に廣がる水田の、その處々に見える稻倉を指差しながら、次のやうに語られました。

「先生が晩年、藩の内紛のまきぞへで、山田に禁錮されますと、藩では、先生に學んでゐた門人に、師を變へるやうに嚴命した。しかも先生を慕ふ門人は、藩の目をかくれながら、高知より山田まで數里の道を、ひそかにやつて來て、晝の間は、あの稻倉の中に身を隱し、夜になつてから、そつと先生の幽居を訪ねて教を受けた。私どもは、故老から、このやうに聞いてゐます。」

私は、濱田翁の語られる所に耳を傾け、既に水を滿々とたゝへ、若苗、薫風にゆらぐ水田を眺めながら、深い々ゝ感激を覺えたのであります。濱田翁の話されましたところは、或は傳説であるかも知れない。しかし私は、この傳説が、蓋し事實であらうと信ずるものであります。

 先生の門人の一人に、宮地靜軒といふ方があります。靜軒は藩命によつて、師を變へて、緒方宗哲や伊藤東涯に就くことになつた。一旦は宗哲や東涯の講義を聞くのであります。しかしその説に滿足することができない。そこで藩に、これを斷るのであります。その結果、藩は怒つて、靜軒を遠く宇佐村に流すのであります。しかも靜軒は、少しもこれに屈しない。しばゝゞ秦山先生に手紙を差上げて教を受け、先生も深く靜軒に期待し、相勵しあつてをられるのであります。

 更に池敬之。敬之も亦た先生が、非常に期待された門人でありましたが、正徳元年、二十八歳で急死してしまつた。先生は非常に落膽し、祭文を作つて、その靈に告げるのでありますが、その中に、次のやうな言葉があります。

「予の禁錮せらるゝや、朋舊も漆膠を解き、坐談にも賤姓を聞くを恐れ、行路にも宿梢を見るを羞づ。たゞ子のみ忍びず、隣壁より安を問ひ、年を經て倦まず。予、その難きに歎じ、墻に穴して子を延き、情、悲歡をあつむ。これより三載、夜に投じて策を挾み、公憲を欽ずと雖も、志、麗澤に切に、孤燈寒月、毎(つね)に丈席を設けぬ。如今よりして後、吾れ復た誰をか客とせん。」

先生が山田に禁錮せられまするや、今まで深くつき合つてゐた人、教を受けてゐた者も、自分が先生と關係があるといふことを藩に知られ、先生の罪にまき添へをくふことを恐れて、世間話の席に於ても、先生の名を聞くことを恐れ、道を歩いてゐても、先生のお宅の木の梢を見ようともしない。全く知らぬふりをする。このやうな輕薄不人情の者、多き中にあつて、敬之の態度は、全く異なつてゐた。夜、ひそかに先生をお訪ねし、御慰めするのである。そこで先生も、「孤燈寒月、毎に丈席を設く」。敬之の爲めに、書物の講義をされたのであります。學ぶ敬之も、命がけである。教へる先生も、命がけであります。

 先生を訪ねる門人の數は、少なかつたかも知れない。しかしこの門人と先生との間に流れるものは、生命をかけた求道心であり、子弟の情誼であります。私は、この先生と先生の門人との間の美しい態度を、深く心にかみしめながら、先生の師である山崎闇齋先生、先生の大先輩である淺見絅齋先生、この方々の學問の態度を併せて考へるのであります。

 絅齋先生が、闇齋先生に入門されましたのは、延寶五年、その二十六歳の時である。その翌年、絅齋先生は、『論語』の「博施濟衆」章の註を作つて、闇齋先生に教を請ふのでありますが、その最後には、次のやうに記されてゐる。

「この義、憚りながら、拙者、一生學問の覺悟に御座候ふ間、少しにても存じちがへ申す義は、如何樣にも仰せられ下さるべく、以上。」

「一生學問の覺悟」、この一句が眼目である。闇齋先生の朱批にいふ、「此の章、見得て此に到ること、最も難し。謂ふ所の『一生の覺悟』の言、殊に感懷、淺からず、々ゝゝゞ」。闇齋先生も、深くこの一語を賞してをられるのであります。

 この絅齋先生が六十歳になられた、正徳元年の春、江戸より稻葉迂齋といふ若い學者が、遙々教を請けに上京した。絅齋先生は、初對面の迂齋に、「何日程、京都に逗留なさるか」。迂齋「三十日ほど逗留致します」。先生「半年も逗留ならば、ゆつくり學問の話もできるが、三十日では、どうにもならない。しかしながら、又た重ねて上京されるがよい。江戸より百二十里の道は、世間では遠い々ゝと、大層にいふが、道を求める者に、遠いと思ふことはない。學問する坊主は、奧州から西國まで、四百里の遠路を往來する。ましてや聖人の道を求めるのに、道が遠いの何のといふことはないのである」。

 絅齋先生は、この年の十二月一日になくなられ、迂齋は、終ひに再び上京して、道を問ふことができなかつたのでありますが、迂齋の胸には、生涯、最初のこの言葉が刻み込まれたのでありました。而してこの絅齋先生こそ、延寶七年六月、秦山先生、初めて上京して、先づ道を問はれた方であり、この年の十月、絅齋先生に伴なはれて、先生は、闇齋先生にお目にかゝるのであります。

 秦山先生が上京して、直接、闇齋先生の教を受けられましたのは、前後一年に過ぎません。乃ち延寶七年十月に、初めてお目にかゝりまして、翌八年四月歸國。この年九月、また上京されますが、翌天和元年二月歸國。而して天和二年九月十六日に、闇齋先生は沒せられるのであります。從ひまして先生は歸國されましてからは、學問上の疑問を、書翰に記して、遙々京都に送り、闇齋先生の御指導を頂かれたのであります。いく度か質疑の書翰を送られたでありませう。本日、こゝに持參致しましたものは、その中の一通、そして最後のものと考へられるものでありますが、それを忠實に模寫致したものであります。原本は、谷干城將軍が御所藏でありまして、それを私の先生の内田遠湖先生が寫されました。卷き物にして二丈、それに十六條の質疑が認められてあります。御覽のやうに、質疑の文を墨で書きました後は、相當の餘白をおいて、次の質疑が認められてをります。これは、この餘白の部分に、闇齋先生の御答や批判を書いて頂く爲めであります。朱で書いてありますものが、闇齋先生の筆である。「是」――この考へ方でよろしい。「‥‥更思之」――もつと考へるがよろしい。「非也」――この考へ方は誤である。一條毎に、丁寧な批評や訂正が加へられてをります。而して最後に識されてをりますところは、

「七月十四日の書状、具(つぶさ)に披見候ふ。市へ(武村市兵衞)方への状も見候ふ。志學、彌々堅固、貧富毀譽、心に入られざるの段、老悦に存じ候ふ。申すに及ばず、其の通り、彌々懈(おこた)りなきこと、尤もに候ふ。來夏上京あるべきの由、老病存命、期し難く候ふ。存命候はゞ、心事申し述ぶべく候ふ。」

しみゞゝと、心をうつ言葉であります。翌々九月十六日、闇齋先生は、六十五歳を以て沒せられる。然らばこの書状の奧に、闇齋先生が識せられた右の言葉は、遺言といつてよろしいものと存じます。而してこれは、何と懇切にして温かい言葉であるか。實はこの朱書を、ずつと見て參りますと、「重ねて問目され候はゞ、何の書、何の卷、何の丁の表・裏と、書付け越さるべく候ふ。病後草臥、考出に苦勞に候ふ」といふところがあります。闇齋先生は、病後の衰弱の身を推して、期待するこの門人の爲めに筆を執られてゐるのであります。古人の風姿、想起するだに深く心うたれるのであります。

 先生の詩文を集めました『秦山集』には、その卷八に、「問埀加先生」と題しまして、十六條中の三條を、闇齋先生の批答とともに收めてをります。しかしながらこの全體に就きましては、未だ發表され紹介されたことはなかつたのではないかと存じます。猶ほ『秦山集』には、この問目の後に、秦山先生が自註を加へてをられまして、「此の年、九月十六日庚申、先生、易簀したまふ。年六十五。是の書は、八月八日に批示したまふ所、相距たること、三十餘日のみ」。乃ち闇齋先生が筆を執られましたのが、八月八日であることを知り得るのであります。

 世に崎門の學風は、秋霜烈日の如しであるといふ。實に義利の判別の嚴肅さと、道義の實踐の眞劍なる面を見まするならば、秋霜烈日に外ならない。しかもその奧には、春日和風の如き、しみゞゝとした温かい情誼が存するのでありますことは、以上、見來つた通りであります。而して秦山先生か、このやうな學問の目をもちまして、見つめられましたものは、何であつたか。それは、わが國の國體の見事さ、萬世一系の皇室に對する感激、是れであります。萬世一系といふ、しかしながらこれは、自然のまゝに、皇室が二千年、三千年の昔から今日まで續いてをられるのでは御座いません。皇室御歴代の天皇が、代々温かい御心を受け傳へて來られた。國民は、この御仁慈に感動し、御答へ申し上げて來た。こゝに萬世一系といふ、見事なる國體が護られて來たのであります。

 人は物を作り出す能力がある。しかしながら作り出したものも、その後で保護を續けなければ、修理を重ねなければ、忽ち駄目になつてしまふ。例へば橋であります。どんな立派な橋を作つても、作りぱなしで修理しなければ、駄目になつてしまひます。例へば家屋であります。いかに鐵筋の堅固を誇らうとも、建てつぱなしでは、やがて風雨を蔽ふこともできなくなつてしまひます。「續く」といふことは、續ける爲めの努力が、不斷に續けられてゐるといふことに外ならない。これは、非常に困難なことである。しかしながらこの困難に打ち克つて、古い生命を維持發展せしめてゆく、こゝに人間の偉大さがあります。先生は、この人間の偉大さの、最もすぐれた具現を、わが皇室に發見せられたのでありました。

 只今、東京では、古代エジプトの美術の展覽會が催されてをります。五千年以前の數々の遺品、しかもこれは長い歳月を經てゐるといふのみでない、いづれもすぐれた作品である。しかしながら考へたい。これ等の品々を作つたエジプトの古代の王室の理想は、果して今のエジプト人に、その理想として受け繼がれてゐるのであらうか。いふ迄もなく、これ等の遺品は、當時作られた意義とは、全く別の意義を以て眺められてゐるのであります。

 それに對し、わが皇室は、どうであるか。皇祖皇宗の御理想が、そのまゝに、只今の皇室の御理想として、生々と續いてをられるのであります。

 否、かく見ますならば、わが國には、わが皇室のみではない。到る處に、このやうな不斷の繼承の努力が見出される。その一つが、秦山先生であります。先生歿せられましてより、既に二百五十年、しかも先生のお墓は、御郷土の心ある方々の心より心に受けつがれ、昔のまゝにゆかしくお守りされてをります。而して本日は、この秦山先生の直系の御子孫であられる、谷元臣さんと御一緒に、私ども、先生の御墓前に額づき、嚴肅なるお祭りを執り行つたのであります。

 私は、こゝに日本の國の姿を見出すものであります。それとともに、これこそわが國の姿であると、私共にお教へ下さつた先生に、心から感謝を捧げずにはをられません。

 最後に、先生の御生涯は、道を求め、道を踐む人らしい、美しく清らかな、しかもきびしく苦難に滿ちた生涯であられた。私は、今も昔ながらに眺められる、この山田の自然――先生が苦しい晩年、朝に夕に眺めて心を慰められた、この美しい自然を、いつ迄もこのまゝに存したいものであると願ふものであります」と。



【土佐・谷家の傳統――長岡郡八幡村・別宮八幡社祀官の道統】

 採薇翁は、高山赤城先生と、交情頗る密なりき。是れ、赤城先生の遺髮を傳ふる所以なり。

 秦山     塊齋      北溪
∴谷丹三郎重遠──丹四郎垣守─┬─丹内眞潮
               │
               ├○──神作郷兄──丹九郎櫻井──瀧次郎好水
               │採薇
               └─萬六好井─┬─丹作正兄
                      │九淵    隈山
                      └─萬七景井──守部干城

【子爵・隈山谷干城將軍】
  ↓↓↓↓↓
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/131.html?c=0
 
 

大喪・宮中喪。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月 9日(土)00時00分36秒
返信・引用 編集済
  參考・井原頼明翁『増補・皇室事典』より


【大喪義】天皇、大行天皇・太皇太后・皇太后・皇后の喪に丁(あた)る時を謂ふ(『皇室服喪令』)。

大行天皇・皇太后の御爲には、御父母の御續柄で無くとも、一年の大喪(諒闇)。

太皇太后の御爲には、百五十日の大喪(諒闇)。

皇后の爲には、百五十日の喪。


【宮中喪】皇族及び宮内官吏の服喪(神祇奉仕職員は除く)

皇太子の爲には、九十日の喪。但し七歳未滿の場合は、三日の喪。

皇太子妃の爲には、三十日の喪。

其の他の皇族の爲には、特に五日以内の喪を發せられることがある。


【廢朝】天皇、朝政に臨ませられざるを謂ふ。

 『禁祕御抄』に、「廢朝は、諸司、政、恆の如く、天子一人、朝政に臨まず」と。今日、實際に於いても、此の御主旨を以て、廢朝中は、天皇、御學問所に出御のことなく、諸官衙は平常通り事務を執るけれども、緊急已むを得ざることの外、上奏・奏聞等は行はれないと承る。大正天皇崩御の御時、内閣より一般國民への示達(昭和九年十二月二十五日・官報彙報)に因れば、「廢朝は、政務を廢せらるるの儀に非ず。從ひて官廳事務、竝びに諸學校授業は休停・休課せず、廢朝中は、大正元年敕令第二號に依り、囚人の服役を特免し、刑の執行、及び歌舞音曲を停止す」と。

 廢朝の期間は、

天皇崩御の時は、當日、及び其の翌日より五日間、竝びに大喪儀當日。

太皇太后・皇太后・皇后崩御の時は、當日、及び其の翌日より三日間、竝びに大喪儀當日。

皇太子・皇太子妃・攝政皇族薨去の時は、當日、及び其の翌日より三日間、竝びに大喪儀當日。

その他の皇族薨去の時は、三日以内の日數を敕定せられ、また御喪儀當日の廢朝を仰出さるることあり。なほ皇族方、または功臣に國葬を賜はつた時は、國葬當日、廢朝を仰出さる。



●參考・江戸時代の音樂停止
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/7



 愚案、寛仁親王殿下薨去の翌日七日、日本男子排球試合に、監督等、左腕に喪章を附けたるを偶見す。大喪に非ざれども、床しきことなりけり。
  
 

酒井利行大人を偲ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月 5日(火)23時01分19秒
返信・引用 編集済
   人も爲すてふ、「グーグル檢索」なるものを、久しぶりに行つてみた‥‥。



●酒井利行大人『王城拜護詞』
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/nagaikoshoten/image-11256542865-11985563121.html



●酒井利行大人『忠誠の系譜について/和氣公――大楠公――松陰烈士』
  ↓↓↓↓↓
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/topic/topic.htm
 
 

元護王神社宮司・酒井利行大人。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月30日(水)21時50分50秒
返信・引用 編集済
  ■□■ 護王公御遺誓 ―― 心神、常に皇城に向ひ、日夜、皇城を拜護せむ ―― ■□■



 平成二十四年五月一日、酒井利行大人が歸幽された由。享年九十。謹みて哀悼の意を表します。

 幼少の交、祖父母に連れられて、京都護王神社に參拜し、和氣清麻呂公を仰ぎました。其の折、酒井大人は、宮司職にあられたかと記憶してをります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t30/4

 殊に中島一光翁のホームページ『彌榮』にて、酒井利行大人の尊話を拜聽し、感泣いたしました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t30/3
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/14

 泉水隆一監督『靖国神社の真実』を上梓くださつた、洛風書房の代表・魚谷哲央翁も、京都護王神社に奉仕されてをられました御由、ご縁の深きに驚いてをる次第です。
 
 

淺見絅齋先生『靖獻遺言』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月18日(金)23時27分40秒
返信・引用 編集済
   スレツド欄に、

淺見絅齋先生『靖獻遺言』筌蹄

てふ新スレツドを、五稜郭の賊徒平定の日を卜して建てさせて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t40/

 皇國の大義、出處進退に就いて考へさせられます。五月二十五日、楠公祭が近づきました。

 舊稿の補訂、未だ緒に就いた許りですが、ご高覽たまはれば幸甚です。
 
 

崎門道義の學を宣揚せむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月13日(日)19時59分2秒
返信・引用 編集済
   皇御民の任は、如何樣にしても、皇天の正嫡に坐します、天津日嗣、天皇陛下を扶翼し奉るに在り矣。生きて扶翼し奉ることが出來るならば、斷じて生くべく、死して扶翼し奉ること叶ふならば、勇みて死すべし。

 然るに「去」つて己を潔くし、隱れて逸るゝの道は、皇國の道義に非ず。況んや「名」を擧ぐる爲めの行藏をや。義理の至當とは、何ぞや。崎門の崎門たる所以、遂に我が神道と幽契す。目を瞠つて見るべきなり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/13



●若林強齋先生『藤房卿遺址に題す』(『強齋先生遺艸』卷二)

内外なく 君が御國と 人とはゞ 何とこたへて いづちゆくらむ



●強齋先生『強齋先生雜話筆記』に曰く、

「日本では、君臣の義が大事。君臣の義が根になりて、教も立つ、學もこゝに根ざしたもの。こゝを外した學は、益に立たぬぞ。何程、傑・紂の樣な君でも、あなた樣をと、戴き切つてをる心でなうては、益に立たぬ」(卷六)と。

何程、惡しきことも、 勅命と云へば、違ふことならぬ。日本正統相續いで、君臣の義の正しき處ぞ」(卷十)と。



●強齋先生『楚辭講義』(享保二年開講)に曰く、

朱子の序「皆、□[糸+遣。以下☆と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、自ら已む能はざるの至意に生ず」

 「☆綣」は、絲のくるりゝゝゝと結ぼれて、解いても々ゝゝゝほどけぬことを云ふ。譬へば棄てられた女の、夫を慕ふ情の、忘れうとしても、忘れられず、理で合點せうとしても、合點ならず、どうほどいてみても、ほどかれぬ樣なことを云ふ。

 「惻怛」は、痛々しう胸にこたへること。此の四字が、忠臣の心の眞味を知る處ぞ。『楚辭』を讀みて、屈原の屈原たる處を見るかねは、こゝにあるぞ。此の心から、あれも出でたり、怨んでも出たり、激しても出たり、怪しうも出たりするが、其のなりが、「皆、☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生ず」ぞ。

 「至意」は、どう云ふに云へぬ、餘義ない思はくを云ふ。此の心(いとしうてならぬ本心)でこそ、忠臣孝子と云はるゝぞ。此の心が無ければ、境界が順なれば、幸ひに背く跡は見えぬが、何時でも狹間くゞる心は持つてゐるぞ。絅齋先生の『靖獻遺言』の第一に、これを載せらるゝも、これが忠義の骨髓で、此の心なりが、三仁(微子・箕子・比干)ともなり、(諸葛)孔明ともなり、文山(文天祥)ともなりたものぞ。此の心を得るで無ければ、忠の字の話はならぬぞ。



●強齋先生『神道大意』に曰く、

 あの天神より下された面々の、此の御靈は、死生存亡の隔ては無い故、此の大事のものを、生きては忠孝の身を立てゝ、どこまでも君父に背き奉らぬ樣に、死しては八百萬神の下座に連なり、君上を護り奉り、國土を鎭むる神靈となる樣に、と云ふより外、志は無いぞ。
 
 

再び奧八兵衞翁の懊惱。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月12日(土)12時26分56秒
返信・引用 編集済
   神式の御火葬、抑々存在し得るものか。火の中より出で坐しゝ神もあり、火の中より神上らせ給ふ神も坐しまさむか。御新儀は未來の先例、神職の研鑽を乞ひ奉る。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/889



●贈從四位・鐵石藤本眞金先生の哥(安政三四年頃――魚屋八兵衞を讚する歌――後光明天皇崩御の御大葬の際、其の火葬にてなさるゝと聞きて、御魚屋八兵衞翁は大いに悲しみ、御所の門外に於て、終日おらび泣いた。遂に雲井に響くやあらむ、爲めに朝議、斷然穢らはしき火葬を廢され、神式にて斂葬されし御故事を詠みしものなり)

なきどよむ ねむころゝゝゝゝに 雲の上 日の高宮も 動きましけむ



●影山正治翁『忠靈神葬への祈り』(『影山正治全集』第七卷・平成二年六月・刊行會刊に所收)に曰く、

「魚屋八兵衞とは、慶安・承應の頃、禁裡に出入してゐた一介の御用商人であつたが、後光明天皇御崩御に際し、廟議、舊例に基き、御火葬に傾きつゝあるを聞き、大いに歎き悲しみまつり、朝夕、御所の門前に號泣拜伏して熱祷、遂に廟議を動かして、古代の儘なる御土葬に附しまつることとなつたのである。この事は、深く幕末烈士の心魂をうち、諸烈士、多くこの草莽八兵衞の熱祷を讚仰して止まなかつた。‥‥

 上代にあつては、神代のまゝに、御遺骸を御土葬に附しまつり、民草の遺骸も、この大御手振りに神習ひまつりて土葬に附したのであるが、佛教渡來後暫くして、神州の風儀衰廢し、多く印度流の火葬に遷移したのである。至尊御火葬の御ならはしは、第四十一代・持統天皇に始り、第百七代・後陽成天皇に終つて居られる」と。



●影山正治翁『忠靈公葬神式統一祈願祭文』

明津御神と、天ケ下治ろしめし給ふ、天津日嗣天皇の大宮の大御前に、草莽の臣ら、謹み恐み拜(をろが)み奏(まを)しまつる。

先きつ昭和十六年十二月八日、神ながらも天降し給ひし大詔のまにま、神敵米英撃攘の大御戰、海・陸(くが)・空をかけて、四方に擴ごり進み來れる所、國民草の祈り足らはずして、國内の汚れ諸々、今に拂はれず、大御稜威、中空に遮り沮(はゞ)まるゝこと多く、爲に仇共、次第にその暴威を加へ、今や、皇軍(みいくさ)、しきり惱みて進むことを得ざるなり。

まこと大御嘆き、日々に深くましまさむと、臣等、悲泣、思ひ參らせるに耐へざるなり。

茲に紀元の嘉節を卜し、臣等、潔齋恐懼、大御前にかく參ゐ集ひて、聖戰貫徹、維新促進の血願を籠めまつり、併せて聖戰眞義明徴上の急務たる、忠靈公葬・神式統一實現の熱祷を捧げまつるなり。

仰ぎ願はくは、この御道開きの御尾前(みをさき)として、大みいのちの邊に、いのちさやけく捧げまつらむとする御民吾らが微衷、あはれと聞召し給へ。又そがうけひの證(しるし)として、各も各もになり代り、醜の○○○○○○○○○○、供へまつる樣を、相諾(うべな)ひ臠(みそなは)し給へと、畏み恐みも奏す。

 昭和十九年二月十一日

  大東塾塾長・新國學協會代表 臣 影山正治
 
 

淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月10日(木)00時40分8秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 次の司馬温公の論は、天下萬世の惑ひを開き、大いに來學に功あるぞ。□[龍+共。以下◎と表示]勝は、かたの如く好い人なれども、眼のあかぬ者は、之を惡く云ふ故、それを辨ぜられた。以下、王莽の時の名節の士を擧げらるゝ。此の竝べ方が面白い。前に揚雄をつぶし、これこそ忠臣ぢやとて、之を擧げられたから、雄の恥が、いよゝゝ能く見える。



 司馬光の曰く、王莽、◎勝の名を慕ひ、沐するに(湯を浴びせる樣に)尊爵厚祿を以てし、劫(おびやか)すに(大かさになりて嚇すに)淫威重勢を以てして、必ず之を致さんとす。勝、逼迫に勝へず、食を絶ちて死す。

[漢の◎勝、名節直言を以て著はる。哀帝崩じ、王莽、政を秉(と)るに會ひ、骸骨を乞ひて(隱居)、郷里に歸老す。莽、既に國を簒ふに及び、使者を遣はし、即ち勝を拜して、講學祭酒(學校の總頭)と爲す。勝、疾と稱して應ぜず。後ち莽、復た使者を遣はし、勝を迎ふ。使者、郡太守・官屬・諸生、千人以上と、勝が里に入り、詔を致す。使者、勝をして起ち迎へしめんと欲す。勝、病ひ篤しと稱す。使者、入りて勝に謂ひて曰く、「聖朝、君を待ちて政を爲さんとす」と。勝、對へて曰く、「命、朝夕に在り、道を上らば、必ず死せん。萬分を益無し」と。使者、印綬を以て、就きて勝が身に加ふるに至る。勝、輒ち推して受けず。使者、勝の子及び門人等の爲に言ふ、「朝廷、心を虚しうして君を待つに、茅土の封(知行)を以てす。疾病と雖も、宜しく動移して傳舍に至り、行く意有るを示すべし。必ず子孫の爲に、大業を遺さん」と。門人等、使者の語を白す。勝の曰く、「吾、漢家の厚恩を受く。以て報ゆること亡し。今ま年老ゆ矣。旦暮、地に入らん(明日か晩に死ぬ)。誼(義)、豈に一身を以て、二姓に事へ、下、故主を見んや哉。因りて敕(古は之を君臣ともに用ふ)するに、棺斂・喪事を以てし、衣は身に周らし(身體を隱しさへすればよい)、棺は衣を周らし、俗に隨ふこと勿れ」と。語り畢りて、遂に復た口を開き飲食せず、十四日を積みて死す。時に七十九なり矣]。

 班固、薫膏の語を以て、焉れを譏る[『漢書』◎勝傳の末に云ふ、「老父有り、來りて弔ひ、哭すること甚だ哀しむ。既にして曰く、『嗟□[虎の上+乎](あゝ)、薫は香を以て自ら燒け(香氣がよいから燒かれる)、膏は明を以て自ら銷(き)ゆ。◎生、竟ひに天年を夭す。吾が徒に非ざる也』と。遂に趨りて出づ。其の誰なるかを知ること莫し」と]。未だ爲めに之を辨する者有るを聞かざる也。大いに哀しまざる可けんや歟。

 昔者、紂、不道を爲し、四海を毒□[病埀+甫]す。武王、天下の困窮に忍びずして之を征す。而るに伯夷・叔齊、深く之を非とし、義、周の粟を食はずして餓死す。仲尼(孔丘の字)、猶ほ之を稱して仁と曰ふ(本心の止まれぬ、隅々から出た故ゑ仁と謂ふ。『論語』述而)は、以て其の節を殞さずと爲すのみ而已。況んや王莽、漢の累世の恩に憑り、其の繼嗣衰絶に因りて、詐僞を飾つて之を盗み、又た清士(◎勝)を誣□[三水+夸。こ。汚]するに、其の臭腐の爵祿を以てせんと欲し、甘言諛禮、必致を期し、智を以て免がる可からず(如何樣の智でも、斷りの云ひ樣が無い)、義を以て讓る可からざる(筋道でも遁れられぬ)に於いては、則ち志行の士、死を舍(す)てゝ、何を以て、其の道を全うせんや哉(死なねば存分が立たぬ)。

 或る者、其の芳を黜(しりぞ)け、明を棄てゝ、其の天年を保つこと能はずと謂ふ。然らば則ち虎豹の□[革+郭]、何を以て犬羊の□[同上]に異ならん。庸人の行ひ、孰れか此の如くならざらん。又た其の詭辭曲對、薛方が若く、然らざるを責む[漢の末の清名の士、齊に薛方有り。莽、國を簒ふに及びて、安車を以て方を迎ふ。方、辭謝して曰く、「堯・舜、上に在り、下に巣・由(巣父・許由。箕山に隱る)有り。今ま明主(王莽)、方(まさ)に唐・虞の徳を隆んにす。小臣(薛方)、箕山の節を守らんと欲す也」と。使者、以聞(いぶん。上奏)す。莽、其の言を説(よろこ)び、強ひて致さず]。然らば則ち將に未だ諂ひに免れずとす。豈に能く賢と曰はん。故に勝、無道に遭遇する、此に及びて窮まれり矣。

 節を失ふの徒[班固を指す也。漢の竇憲、外戚を以て權を專らにす。後ち遂に逆を謀る。和帝、之を誅す。固、憲の客爲るを以て、亦た獄中に死す]、忠正を排毀して、以て己が非を遂げ、察せざる者、又た從ひて之に和す。太史公(司馬遷)の稱す、「伯夷・叔齊も、孔子有らざれば、則ち西山の餓夫、誰か之を識知(し)らん」と。信なるかな矣哉。



 「詐僞を飾つて之を盗む」は、龜の甲へ朱で、天命が莽に歸せしめたと、『符命』を書いて、これが獵師の網にかゝつてなど云つて、天下を盗んだ。

 「或る者」は、志行の士の、命を捨て義理を立つるを見て、「ぬらりくらりして、天命を保つがよい」と云ふ。虎豹の皮は見事なれども、之を揉み革にすれば、犬羊の革と異ること無し。芳を黜け明を棄てたらば、上毛を拔いだもの故、忠義の人やら、不義の人やら分らぬ。

 「太史公の稱す」は、千載、論定まつて、伯夷の伯夷たるを知らぬ者も無いが、それは、孔子の極めが付いたからの事。

 次の文は、漢の武帝は明君であつた故、世を取ると、學校を立てられた。學で無ければ、人道が立たぬと思はれし故なり。夫れからして、名を立て節義を勵み合うた。『(張)南軒文集』に、「名節論」あり。朱子の語にも、「名節一變せば、道に至らむ」となり。日本の武士は、其の場で立つることもあるが、後漢のは、平生立て合うて居る。それを讒人共は、「徒黨を組合ふ」と云つて、賢者も此の中へ入れて追拂うた。それで東漢が亡びた。後世で、これを餘りに勵み過ぎたとて、東漢の名義を惡う云ふ者ある故、朱子が辨ぜられた。



 朱子の曰く、今の世人、多く道(い)ふ、「東漢の名節、事に補ふことなし」と。某の謂ふ、三代よりして下、惟だ東漢の人才、大義、其の心に根ざし、利害を顧みず、生死も變せず、其の節、自から是れ保つ可し。未だ公卿・大臣を説かず。且に當時の郡守、宦官の親黨を懲治するが如き、前なる者、既に治する所と爲ると雖も、來る者、復た其の迹を蹈み、誅・殛・竄・戮、項背相望み、略ぼ創(こ)るゝ所ろ無し。今ま士大夫、顧惜畏懼、何ぞ其の此の如きを望まん。平居暇日、琢磨淬厲するも、緩急の際、尚ほ退縮を免れず。況んや游談聚議、習うて軟熟を爲す。卒然(俄かに)警(一大事)有れば、何を以て其の節に仗り、義に死することを得んや乎。大抵、義理を顧みず、只だ利害を計較するのみ。皆な奴婢の態、殊に鄙厭(下卑た事)す可し。



 「誅」は、其の場で殺す。「殛」は、酷く當つて殺す。「竄」は、流し者。「戮」は、なぶり殺し。

 「項背相望む」は、うなじと背中と相望むと云ふことで、前の郡守が辭めらるれば、又た後の役人が來て、引きも切れぬ事。

 次の文は、東漢の荀彧は、忠臣に紛るゝ故、朱子が論ぜられたるなり。荀淑から言うて來たのは、「祖父は忠臣であつたに」との意なり。温公は、彧を正道ぢやと云はれたが、一生の大誤り、朱子『通鑑綱目』には推し出して、謀反人のあしらひなり。



 又た曰く、荀淑、梁氏の事を用ふるの日に正言して[順帝崩じ、太子幼し。梁の太后、朝に臨む。太后の兄の大將軍・梁冀、事を用ひて跋扈す。時に日食・地震の變有り。淑、策に對して、貴倖(君の御氣に入りの高位の人)を譏刺す。冀の忌む所と爲り、遂に官を弃てゝ歸る]、其の子・爽、已に跡を董卓、命を專らにするの朝に濡す。

[范曄の曰く、「董卓の、朝に當るに及びて、爽及び鄭玄・申屠蟠は、倶に處士を以て召さる。蟠・玄、竟ひに屈せず、以て高尚を全うす。爽、已に黄髮(老人)なるも矣、獨り至る焉。未だ十旬(百日)ならずして卿相を取る。意(おも)ふ者は、其の趣舍(義につき、不義を棄てる。出處進退)に乖(そむ)くを疑ふ。余(范曄)、竊かに其の情を商(はか)りて、以爲らく、「跡を濡して(已むを得ず仕へ)、以て時を匡せるか乎。然らずんば則ち何爲れぞ貞吉に違ひて、虎の尾を履める焉」と(荀爽に對する辯護論)]。

 其の孫・彧(ゐく)に及びては、則ち遂に唐衡(宦官)の壻・曹操の臣と爲り、而して以て非と爲すを知らず矣[彧は、爽の兄・□[糸+昆]の子也。□[同上]は宦官を畏憚して、乃ち彧の爲に、中常侍・唐衡の女を娶り、後に曹操の謀主と爲りて死す。中常侍は、宦者の官名なり。朱子、又た『尤延之及び潘叔昌に答ふる書』に於いて、詳かに彧の身を失するの本末を斷ず矣]。蓋し剛大直方の氣(荀氏の精神)、凶虐の餘に折れて、漸く身を全うし、事を就(な)す所以の計を圖る。故に其の淪胥(手に手を引いて、溝へはまつた樣)して、此に至るを覺らざるのみ耳。想ふに、其の當時、父兄師友の間、亦た自ら一種の議論、文飾蓋覆して、驟かに之を聽く者をして、其の非爲るを覺らずして、眞に以て是れ必ず深謀奇計、以て萬分有一の中に、國を治め民を救ふ可きもの有りと爲さしむる有らん。邪説の横流、洪水・猛獸の害より甚しき所以、孟子、豈に予を欺かんや哉。




 朱子が推量するに、さすが荀氏は後漢の名家なれば、初めより節を曲げて、不義の人にならうとしたではあるまい。毫釐の差は、千里の誤になる。僅かに弛みがあると、宦官の婿となり、亂臣賊子の曹操が謀主となる。『三國志』では、目が闇くて騙された樣に云うてあれども、それ程な男でも無い。

 強齋先生の曰く、此の樣に、節義を失つて、知らぬ者を思ひやるに、其の時分、それらが父兄師友等の間で、一つの了簡をつけて、「宦官の婿になつて居たもよい。何を云ふも、君の御爲ぢや」と云ふ樣に、上つらを見事に言ひ飾つて紛らかして、己の節義を失つた事は隱して、一寸聞いては、「いかさま、是も尤もぢや。定めて深い分別のかはつたよい思案でもあつて、それで萬に一つも、國を治め民も救ふやうな事があらうず」と思はするぞ。その樣に云へば、義理の暗い者は、つひ夫れに陷るによつて、洪水・猛獸の害より、邪説の害は甚だしいこと、信に孟子の仰せられた通りぢや、とある事。

 次の黄氏の論は、朱子と異なる。こゝは、朱子の説はあげられぬ。黄説は正なり、朱説は權なり。後漢には宦官と黨錮と、二つに分れて、宦官は賢者に頭出しをさせぬ樣にしかける。賢者は宦官に唾はきして、惡み切つて居るぞ。時に陳寔が、張讓と云ふ宦官の、父の喪を送つた。それを宦官共が嬉しがつて、黨錮を許し置いた。これは善類が絶えぬやうとて、かうされたであるまい。善類の憂き目を見るが、氣の毒であるからの事であらう。陳太丘の心には、義・不義の考もあるまい。嫂溺るれば、手を引いて助くる樣なもの。朱子の曰く、「陳仲弓、宦者の葬の如き、仲弓の志し有れば則ち可、仲弓の志し無ければ則ち不可」と。案ずるに、程説、朱子と異なる。程子の曰く、「陳寔、張讓を見る。是れ故舊は、之を見て可なり。然らずんば則ち非。此れ所謂る太丘、道廣し」と。



 黄□[幹の左+八+木。かん](勉齋)の曰く「陳太丘(名は寔、字は仲弓。太丘の長と爲る。漢末の名士なり)、張讓[宦官の名]が父の喪を送る。人、以爲らく、「善類、頼りて以て全活する者、甚だ衆し」と。前輩も、亦た以爲らく、「太丘、道廣し」と。嘗て竊かに之を疑ふ。此の如くなれば、則ち尺を枉げて、尋(八尺)を直くして、而も爲す可きか歟。士君子、己を行ひ身を立つる、自ら法度有り、義有り、命有り。豈に宜しく以て法と爲すべけんや。天地、此の如く其れ廣く、古今、此の如く其れ遠く、人物、此の如く其れ衆し。便ち東漢の善類をして、盡く宦官の殺す所と爲らしむるとも、世、亦た曷(なん)ぞ嘗て善類無からんや哉。若し是れ眞丈夫ならしめば、又た豈に宦官の禍を畏れて、太丘、此の如くの屈辱に藉(よ)りて、以て其の身を全うせんや哉。吾人、此等の處に於いて、直ちに須らく見得て分明なるべし。然らずんば、未だ坑(あな)に墮ち、塹(ほり)に落ちざる者有らざる也(うかゝゝと行くと、思ひがけなう、不義に落ちると云ふ意)。

 右、類に因て、後に附録す。後、皆な此に傚へ。




 強齋先生の曰く、「直ちに」と云ふは、大義の立つ處の大根を、眞直に見ぬいたがよい、と云ふ事。かう云ふ譯の、どう云ふ譯のと、云ふ入りわりは、こゝではいらぬ。其の樣な事は除けて、こゝはかうぢやと云ふ大義を、眞直に見ぬくがよい、と云ふ語意。



 淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一、拜記すること、件の如し。實に大義の嚴しきを知るべく、正に吾人の道義錬磨に資する書であります。最も短い卷ゆゑに、些か工夫して、披露させて戴きました。一卷、以て全卷の梗概が窺ふ事が出來ませう。「甚だ解する」こと能はずと雖も、道義討議の雰圍氣は判明するかと、今は恐懼してをる次第です。此の縁故を以て、有志の一人でも、『靖獻遺言』を繙いて戴けたら幸甚であります。

 日夜、心を潛めて、『靖獻遺言』を拜讀すれば、道義の至當を究むることが出來、難に當つて毫も恐るゝ所なく、進んで天下の綱常を扶植せんとの志氣が、勃然として興起するを覺えるでありませう。それにしても、伯夷・叔齊兄弟の出づるあつて、初めて支那に道義が立つたと謂はねばなりませぬ。
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 もつとも絅齋先生は、我が國の忠臣義士の傳を編まれたき存念でしたが、其の生きた時代が、之を許さず、忠臣義士の模範を、已むを得ず、隣國の支那に求められたのであります。皇國と支那との國體の相異を踏まへつゝ、絅齋先生の微意を、何卒、御汲み取り戴ければ幸甚です。



【靖獻遺言目録】
一、屈 平『離騒懷沙の賦』‥‥拜記し畢ぬ
一、諸葛亮『出師表』
一、陶 濳『史を讀みて述ぶ、夷齊の章』
一、顔眞卿『移蔡帖』
一、文天祥『衣帶中の贊』
一、謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』
一、劉 因『燕歌行』
一、方孝儒『絶命詞』
 
 

似て非なる奸賊を討つ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 7日(月)21時24分11秒
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  ~承前~

 朱子、又『反離騒』に敍して曰く、『反離騒』は、漢の給事黄門郎・新莽(王莽)が諸吏中散大夫・揚雄の作る所ろ也。雄、少くして詞賦を好み、司馬相如が作る所を慕ひて、以て式(手本)と爲す。又た屈原の文、相如に過ぎたるを怪しみ、『離騒』を作りて、自ら江に投じて死す容(べ)からざるとするに至り、其の文を悲しみ、之を讀みて、未だ嘗て涕を流さずんばあらざる也。以爲(おもへ)らく、「君子、時を得れば則ち大いに行ひ、得ざれば則ち龍・蛇(時を得ざれば淵に蟄し、雲を得れば天に昇る)、遇・不遇は、命也。何ぞ必ずしも身を湛(しづ)めんや哉」と。廼ち書を作り、往々『離騒』の文を□[手+庶。ひろ]つて之を反し、□[岷+日]山より諸れを江流に投じて、以て原を弔ふと云ふ。

 始め雄、學を好みて博覽、勢利に恬なり。漢に仕へ、三世、官を徙さず。然るに王莽、安漢公と爲る時、雄、『法言』を作り、已に其の美を稱し、伊尹・周公に比ぶ。莽、漢を奪ひ帝號を竊むに及んで、雄、遂に之に臣たり。耆老の久次を以て、轉じて大夫と爲る(何の手柄なくても、奉公久しうした老人をば、官を進める)。又た相如が『封禪文』(『史記』・『文選』に所收)に放(なら)ひ、『劇秦美新』(秦を激しく譏り、新を譽める。『漢書』・『文選』に所收)を獻じて、以て莽が意に媚び、書を天祿閣(天子の文庫)の上に校することを得たり。

 劉尋等、『符命』を作るを以て、莽が誅する所と爲るに會ひ、辭、連なりて雄に及ぶ。使者、來りて之を收めんと欲す。雄、恐懼し、閣上より自ら投下し、幾(ほと)んど死す。是より先き雄、『解嘲』(所著『太玄經』を嘲るに因り、其の嘲りを言ひほどく書)を作り、「爰に清、爰に靜、神の廷(には)に遊び、惟だ寂、惟だ莫、徳の宅を守る」の語有り。是に至りて京師、之が爲に語して曰く、「爰に清靜、『符命』を作り、唯だ寂莫、自ら閣より投ず」と。雄、因りて病免す。既にして復た召されて大夫と爲り、竟ひに莽が朝に死す。其の出處の大致本末、此の如し。豈に其の所謂る龍・蛇なる者か耶。然れば則ち雄、固より屈原の罪人他爲りて、此の文(『反離騒』)は、乃ち『離騒』の讒賊(讒言を入れた故)なり矣。他、尚ほ何をか説かんや哉。


 『反離騒』は、屈原の死なれいでも大事ないに、と云ふことを書いた辭。揚雄、字は子雲、『揚子方言』・『法言』・『太玄』と云ふ書を作りて、世にもて囃され、韓退之の如きは、『孟子』と竝稱し、司馬温公は、之を『論語』に比べられた。けれども大義を誤りし儒者の紛れ者故ゑ、朱子は、その『反離騒』を敍して、別して之を辯ぜられた。

 強齋先生の曰く、司馬相如よりも、屈原の文は、格別すぐれて上手であつたに、其の志行は違うて、江に沈んで死せられた故、何ほど窮したにしても、死せずとも苦しう無い、堪へられふ事ぢやに、と云うて、屈原の文を讀みては、涕を流して悲しんだぞ。

 「漢の給事黄門郎・新莽が諸吏中散大夫」の筆法は、はつきりと二主に事へたことが見える。漢の官と新の官とを擧げて、はつきり雄が、二心を見せた。

 「相如が封禪文」は、天下、大いに治まつた時、天子は、その徳を天に告げん爲に、泰山に登り、土を築いて壇を作つて(封と云ふ)、天を祭り、泰山の下の小山の上の土を除いて(禪と云ふ)、地を祭り、以て天地の功に感謝する儀式の文。相如は、一生、志を武帝に得ずして難儀せる故、何ぞ子孫の爲にせんとて、武帝に媚び、此の文を作り、「我が死後、若し天子の、何ぞ求めらるれば、之を」と遺言せり。後ち果して詔ありて、之を奉る。

 「符命」は、神告などの樣に書いた未來記。これは莽を惡んで、「やがてにも亡びん」と書かれしなり。

 「京師」は、京師の人の惡口するには、「心、清靜なりと云へど、『符命』を作りて榮達を求めんとし、心、寂莫なりと云へど、自ら閣より投じて、死を畏れた」と。面目なさに、病氣にして、役義を免ぜられた。

 「他、尚ほ何をか説かんや哉」は、是れ一つで、尚ほ他に何んの云ふ詞があらうぞ。結局、龍・蛇ですら無い。

 淺見絅齋先生『楚辭師説』に曰く、屈原は、宗國の爲めに死なれた人ぢやに、之を左樣いへば、屈原の罪人ぞ。外の事は云ふに足らぬもの故、何を説かうやう無い。華美な文章を書くことは、司馬相如に次いでは、是ぞ。後世も揚雄と云うて、韓退之はじめとして、口にかけられる。司馬温公ほどの大賢でさへ、『孟子』は尊ばずして、揚雄を尊んで、『太玄經』の註までせられたぞ。それで、程子の、揚雄が書を著はし、色々の文章がある故、人が褒めるさうなが、役に立たぬ者ぢや、と云はれたぞ。然れども漢の爲めに不忠の者ぢやと云ふ、罪を正すは、朱子からの事ぞ。



 愚案、彼の揚雄なる者は、我が國に於いて申せば、吉野の朝廷に仕へ、逆賊足利高氏にもついた、夢窓疎石の如き茶坊主のやうな者なり。又た大西郷も抄(『手抄言志録』)した所の佐藤一齋、實は慕ふ門人を見捨てゝ、幕府に媚び、保身の腐儒――森銑三翁、之を證せりと雖も、今ま猶ほ人氣あるは、不可思議千萬と云はんか、遺憾至極なるべし。人物は皮相に仰ぐのでは無く、よくゝゝ覆審吟味が必要なり。

 如何ほど立派な文章を書いても、大儒と崇められても、あれではなあ~。谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「凡そ忠義と云へば、主人の善惡にかまはず、我が身の持前の義理を盡すより外ない。逆賊などに仕へて忠を盡せば、忠義は忠義なれども、謀反人ぞ。然るによつて、出處と云ふことが大切なことぞ。何程忠義が正しうても、出處が惡ければ、何んの役に立たぬ」と。信なるかな哉、此の言。天網恢々、疎にして漏らさず、「皇天上帝、眼、分明」(謝枋得の詩)、人をして白日の下に明かならしむ矣。「神は見てをる」。
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けん綣惻怛、至誠、自ら已む能はざるの心。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 6日(日)17時59分36秒
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~承前~

■楚の屈平『離騒懷沙の賦』(雪窓沼田宇源太翁『靖獻遺言講義』・紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』に據るも、些か編纂を加へたり。許し給はらむことを)

 貶されて浪人になられた故、官は書かぬ。楚と云ふ字をかぶせたは、浪人になりても、楚を忘れぬ、[糸+遣。以下☆と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)の心を見せたもの。屈平と、名で呼んであるは、名分の大事なり。尊ぶ旨ならば、字(あざな。支那の通稱。[註])で稱する(屈原)ものなれども、此の書(『靖獻遺言』)は日本で出來たこと故、此の國から、あの方の人を呼ぶに、尊んで云ふ譯はない。司馬温公でも、「司馬光の曰く」と云ふてある。

 若林強齋先生講義に云ふ、「☆綣惻怛の心」、こゝが靖獻の旨、『遺言』一部の眼目と云ふは、こゝぞ。(愚案、皇國に於いて、一言を以て申さば、「戀闕」てふ言葉に當るべし矣)

[註]愚案、皇國にては、呼稱、異なれり。生きては通稱を云ひて、諱(忌み名・實名)を文字通り忌み、死しては雅號ないし官名、不明ならば諱を申すが古風にして、後人が通稱を申すは、餘りに憚り多くして、時には當に居傲と謂ひつべきなり矣。人はどうあれ、小生は、呼稱の古風、或は轉じては『靖獻遺言』の筆法、やうやく廢れたるを悲しむこと、頗る大なり矣。
 例へば「赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩」てふ先哲を、赤城先生と申して、彦九郎と呼捨てすること能はざるが如し。一方、漢文ないし支那風ならば、高山仲繩と申せば、敬を籠むる謂ひ也。韓愈を韓退之と云ふが如し。高山子・韓子と申すは、更に尊びて申す也。
 又た吉田松陰先生は、松陰と申して、橋本景岳先生は、左内と呼び捨てる。平仄の合はざること千萬なり。左内の稱を流行させし者の罪、免れず。況んや其の顯彰會「景岳會」あるに於いてをや。元景岳會々長は、松平永芳靖國神社宮司、即ち是なり。

 「離騒」は、遭憂、忌々しい憂愁に遭ふこと。沙石を懷抱し、以て自ら沈むを言ふ也。『離騒』の中には、屈原の辭多けれども、別きて此の賦は、屈原が石を懷にして、身を投げ死せんとするになりても、君を忘れぬ、止むに止まれぬ☆綣惻怛の心が、懷沙の賦となりて出た故、別して忠義の心が見える程に、此の辭を取られた。

 強齋先生の曰く、『離騒』の中にも、段々屈原の辭多けれど、別きて此の『懷沙の賦』は、屈原の石を懷に抱いて、身を投げて死なるゝ、其の臨終に發せられた詞で、身を水に沈むる程になつても、未だ君が忘れられぬ、さう云ふなりより外ない忠義の、已まれぬ☆綣惻怛の心が、『懷沙の賦』となつて出た故ゑ、別して忠義の心が見ゆる程に、この辭を採られたぞ。



浩浩たる□[三水+元]湘、分流、汨たり兮。
――廣々とした二水は、幾筋にも分れて、どんゞゝ流れ行く

脩路、幽蔽し、道、遠忽たり兮。
――長く續く道は、こんもりと樹々に蔽はれてゐて、行く手は定かでない。

曾(すなは)ち傷み、爰に哀しみ、永く歎喟す兮。
――楚國の將來を傷み悲しんで、思はず永い溜息をついた。

世、溷濁し、吾を知ること莫し。人心、謂(かた)る可からず兮。
――思へば、世は亂れ濁つてゐて、私の心の裡を知つてくれるものもなく、この心を語ることも出來ない。

質を懷き、情を抱きて、獨り匹(たゞ)さん無し兮。
――飾りない眞心を抱きながら、私の態度が無理かと、人に正すすべもない。

伯樂、既に沒す、□[馬+北+異]、焉んぞ程(はか)られん兮。
――伯樂が死んでしまつた今日、駿馬とて、誰がそれを品定めしてくれようか。

民生、命を禀け、各々錯く所ろ有り兮。
――人がこの世に生れると、各人、その分、運命が決まつてゐるものである。

心を定め、志を廣めば、余、何ぞ畏懼せん兮。
――されば心を落ち着け、志を廣く持つならば、何の懼れることもない。

死の讓る可からざるを知りぬ、願はくは愛しむこと勿からん兮。
――死が避けられぬものなることを知つた以上、この生命を惜しむことはすまい。

明かに君子に告ぐ、吾、將に以て類(のり)と爲らんとす兮。
――世の君子よ、私は死して忠臣の模範とならうと思つてゐる。



 強齋先生の曰く、俺が、私には死なぬ。拙者が存念は、天下萬世、君子が、我を忠義の類とせうと存ずるとあること。此の類と云ふは、君子の是に類し、是にのつとる樣に類するから云ふ辭。




●『靖獻遺言』に曰く、

 平、字は原。楚と同姓、懷王に仕へて、三閭大夫と爲る。三閭の職、王族の三姓を掌る(善惡を司どる)。昭・屈・景と曰ふ。平は、其の譜屬を序いで(系圖のつゞきを次第する、即ち一國の秩序の根本也)、其の賢良を率ゐ、以て國士を□[勵の左。はげ]まし、入りては則ち懷王と政事を圖義し、嫌疑を決定し、出でては則ち群下を監察し、諸侯に應對し、謀行はれ職修まる。懷王、甚だ之を珍とす。同列の上官大夫、其の能を妬害し、因りて之を譖毀(そし)る。懷王、平を疏んず。平、讒を被むり、憂心煩亂、愬(うつた)ふる所を知らず。乃ち『離騒』を作り、上は唐(堯)・虞(舜)・三后(三代の君。夏・殷・周)の制を述べ、下は桀・紂・羿・澆の敗を序いで、君の覺悟し正道に反りて、己を還さんことを冀ふ也。

 強齋先生の曰く、「遷己」は、屈原の自身の爲めではない。屈原の用ひられねば、小人どもが、いよゝゝ熾んになつて、眞實の忠を、こゝらで一つ見事だて云うて、もう爵祿に望みは無い、跡のことは知らぬと云うて、君を顧みぬは、忠では無い。こゝが、忠臣の情の、已むに已まれぬ、☆綣惻怛の心なりに、かう云うたら人が笑ふの、さもしがらうかの、と云ふ樣な計較の意は無い。只だ君を愛し國を憂ふる心が、已まぬによつて、自然にかうあるぞ。

 是の時、秦、張儀をして、懷王を譎詐せしめ(連衡策)、齊の交り(蘇秦の合從策)を絶たしむ。楚、大いに困しむ。後ち儀、復た楚に來り、又た弊を、事を用ふるの臣・□[革+斤]尚に厚うして、詭辯を懷王の寵姫・鄭袖に設く。懷王、竟ひに復た張儀を釋(ゆる)し去らしむ。時に平、既に疏んぜられ、復た位に在らず。齊に使ひし、顧反(かへ)つて、懷王を諫めて曰く、「何ぞ、儀を殺さゞる」と。懷王、儀を追ふも、及ばず。秦、懷王を誘(あざむ)きて、與倶(とも)に武關に會せんとす。平、又た懷王を諫め、行くこと勿からしむ。聽かずして往き、遂に脅かす所と爲り、之と倶に歸り、拘留して遣らず。卒ひに秦に客死す。而して子・襄王立ち、復た讒言を用ひ、平を江南に遷す(流し者にする)。平、復た『九歌・天問・九章・遠遊・卜居・漁父』等の篇を作り、己が志を伸べ、以て君の心を悟さんことを冀ふ。而れども終ひに省みられず(目を留められぬ)。其の宗國の、將に遂に危亡せんとするを見るに忍びず、遂に汨羅の淵に赴き、石を懷きて、自ら沈んで死す。

‥‥(前記の、司馬遷『史記・列傳・屈平』)‥‥

 朱子の曰く、原の人爲る、其の志行、或は中庸に過ぎて(規矩に外れて)、以て法と爲す可からずと雖も、然れども皆な君に忠し國を愛するの誠心に出づ。原の書爲る、其の辭旨、或は跌宕怪神、怨□[對+心]激發に流れて、以て訓と爲す可からずと雖も、然れども皆な☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生(な)る。其の北方に學びて、以て周公・仲父の道を求むることを知らずして、獨り變風・變雅の末流に馳騁す。故を以て醇儒・莊士、或は之を稱することを羞づと雖も、世の放臣・屏子・怨妻・去婦をして、下に□[手+文。ぶん]涙□[口+金]謳し、而して天とする所の者をして、幸ひにして之を聽かしめば、則ち彼此の間、天性民彜の善に於いて、豈に以交(こもゞゝ)發する所ろ有りて、夫の三綱・五典の重きを増すに足らざらんや。此れ予の毎に其の言に味ふ有りて、敢へて直ちに詞人の賦を以て、之を視ざる所以ん也。

 屈子は吟味のかゝる人なれども、それを載せたは、朱子の説(『楚辭集註』の序)にて見るべし。朱子も大いに用ひらるべきを、讒人の爲めに退けられ、死ぬ二三年前に、『楚辭』の註をなされた。それ迄は『楚辭』を、詞の高いばかりにて、常の詩賦の如くに見られたを、朱子に至りて、始めて詞人のものと同一でないことが分つた。『如何樣にしても、君を助くる筈。楠の討死も、殘念な事ぢや』と、絅齋先生が仰せられたも、是なり(愚案、絅齋先生の謂ひは、皇國と支那との國體の相異から來る、臣民道の在り方は、自ら相異する。皇國は盛衰あるも、興亡なければ、「生死は問ふ所に非ず、如何樣にしても、皇天の正嫡たる天子を扶翼すべし。生きて扶翼できるなら生くべく、死して扶翼できるなら死すべし」となん)。

 「跌宕」は、踏みなじり、蹴散らかす樣な氣味。憂ふる心の、やる瀬なうて、何もかも言ひ破る意。常規を逸脱した不羈の樣を云ふ。「怪神」は、奇怪神祕なことに事寄せて、君をのゝしる。

 「怨□[對+心]」は、うらみ不足のある樣なこと。「激發」は、高まつた感情が外に發する。

 「□[糸+遣]綣」は、心にむすぼほれて、忘れられぬこと。其の君と固く結ぶ也。民が其の君を忘れようとしても忘られぬこと。「惻怛」は、傷み悲しむこと。

 「變風・變雅」は、『詩經』に風と雅とある。本法の正しき性情を歌うたものを、正風・正雅と云ひ、中庸を外れたものを云ふ。

 「放臣・屏子・怨妻・去婦」は、君に逐はれて臣・親に退けられた子・夫に出された妻・舅姑に惡まれた婦。

 「□[手+文]涙□[口+金=吟]謳」は、涙をおし拭ひ々ゝて、節をつけて歌ふこと。

 「天とする所の者」は、君は臣の天、父は子の天、夫は婦の天なり。彼此は、彼は天、此は臣・子・婦を云ふ。

 「民彜」は、民の常、人が生れつき有する所の徳を云ふ。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五典」は五常、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信、是なり。一以て言へば、道義、人たるの道。人間を「ヒト」として抽象的に考へず、三綱五常として、具體的關係に於いて考へ、各々の場に於いて、最善の道を盡くさうとするのが、東洋道徳の本質である。

‥‥(前記の、『漁父の辭』)‥‥



【參看・淺見絅齋先生】
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 愚案、淺見絅齋先生『靖獻遺言』の、後世への影響は甚大であることは、能く知られてゐるが、こゝに一例を加へたい。

●太田天亮翁『河上彦齋言行録』(荒木精之翁『定本・河上彦齋』昭和四十九年七月・新人物往來社刊より)に曰く、

「彦齋(稜威幸神・高田源兵源玄明――河上彦齋翁)の書を讀むや、甚だ解することを求めず。その字音の如き、敢てこれに關せざるなり。常に好んで『靖獻遺言』を讀む。跋山渉水の際と雖も、必ずこれを携ふ。蘿月松風の下に到れば、乃ち奇石に踞し、懷よりこれを出し、以て朗讀す。讀し卒れば、大呼して曰く、『快甚だし、快甚だし』と」と。

 甚だ解することを求めざるも、口に出だして朗讀幾囘すれば、其の大要、自から知るを得て、道に迷はざるに至る。亦た宜しからずや。
 
 

述而不作。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 5日(土)01時01分20秒
返信・引用 編集済
  ■贈從四位・眞爾園竹屋大國仲衞藤原隆正翁の哥(明治三年。自筆軸)

この國に もとつ教へは あるものを など外つくにの みちもとむらむ  七十九翁隆正



■『論語』述而第七に曰く、

「子(孔丘)の曰く、述べて作らず、信じて古を好む」と。



 日本學協會『日本』平成二十四年六月號を拜讀してゐたら、照沼好文翁『栗田寛博士の學問と恩愛』に、從四位・栗里栗田寛(ひろき)博士(賀茂百樹靖國神社宮司の師なり)の、皇國の「正學」に於ける、史家の心得・學問の意味について、重要なる遺文數條の紹介があつた。摘記して、後學の求道研鑽の資とさせて戴かうと存じます。
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●栗里栗田寛博士『大日本史・志類第一神祇志の序』に曰く、

苟しくも載籍(典籍)の存する所、謹んで其の説を擇び、述べて作らず、以て稽古(古書を讀んで、昔の物事を參考にして、理義を明かにすること)に備ふるは、史氏(歴史家)の當に務むべき所ろ也」と。



●清水正健翁『大日本史の編修について』(『水戸學講座』所收)に曰く、

「抑々余(清水翁)ら、彰考館に入るの始め、先師・栗田栗里、戒諭して曰く、『本館は、西山義公以來、天朝の御爲め、中正確實の史を修めて、忠奸順逆の別を正し、是非善惡の迹を詳かにし、 以て義公の誠を致すべき所なれば、校讎刊定に就いては、一小瑣事と雖も、苟且模稜に附すを許さず、片言隻語と雖も、其の考證に誤謬あらば、痛言極論、辨難攻撃を加へられよ。徒らに師匠たるの故を以て、之を憚り、之を避け、腹非面從は、在館者の最も戒むべき所なり。是れ、本館(彰考館)傳統の心法なり』と」と。



●栗里博士『講演記録』に曰く、

「(學問といふものは、)先づ自分の國のことを能く心得て、夫れから外國の事に及んで、我が國の助けとする所の學問である。學問も、自國の事を差し置いて、外國のことを專らにすると云ふ學問であつてはいけない。道義・倫理を本として、それから自國の風俗、或は習慣、これらを精しく知ることが、學問の意味である」と。



●栗里博士『三浦周行に告ぐ辭』(三浦周行博士『日本史の研究』新輯二)に曰く、

「今日の學者、國家の爲めにせむと欲するものなきが如し。而して徒らに外面の事を脩めて、斷つて蘊奧を極めるものなし。此の如くにして已まば、代りて斯學を繼ぐものなきに至らむ」と。



●栗里博士『日本美術の誤りを正す』(『天朝正學』栗田先生述志録)に曰く、

「世の學者と云ふ者も、多くは淺薄の見識にて、今日、美術學など云ふこと流行する上より云ふときは、佛寺あるを以て美術あり、美術あるにより、日本尊ぶべし、日本の尊きを、萬國に示すは、此の佛寺なり。然れば佛寺あらずんば、美術なく、美術なければ、日本尊からじなど云ふ、愚俗を欺くの説も起るべけれど、天地の大道より見を起すときは、決して左樣のものにあらず。日本あるが故に、佛寺あり、佛寺あるが故に、美術も存するにて、其の根源は、萬古一系の天子おはしまして、古風を棄て玉はず、風俗淳樸なり。 風俗淳樸なるが故に、善惡ともに保存するの勢なり。 是れ、佛寺に古來の美術が存せるの譯なり」と。



●『阿部愿履歴』(自筆稿本)に曰く、

「(栗里)先生、常に云く、『人は、決して面責すべからず、また面責すべきものにあらず』と。兄弟、塾(輔仁學舍)に在ること、五年の久しきに及び、過失、甚だ多かりしかど、遂に先生の呵責を蒙りたることなし。先生は、至つて性急なるよしなれども、毫末もその容を見ることなく、常に惰容なり。苟且にも坐を崩せしことなく、いかなる盛夏といへども、袒裼せしことなし」と。
 
 

『靖国神社の真実』増刷出來。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 3日(木)17時31分37秒
返信・引用 編集済
   『九段塾塾頭・一兵士翁こと 泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』を、増刷いたしました。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1509

 無代頒布を致してをりました第一刷は、御蔭樣を以ちまして、有志の方々、ご希望の各位へ御渡し出來、既に在庫も盡きましたので、こゝに増刷に踏切りました。

第二刷】 平成二十四年壬辰 四月二十九日

 今囘は、洵に申し譯ないのですが、「増刷協贊費」として、一册につき、

一、金 貳千圓 也

を戴きたう存じます。何卒、ご賢察ください。

 増刷の協贊を賜はる御方、ご希望の御方は、在庫を確保してをりますので、下記の頒布取扱先まで、ご連絡ください。送附して戴くやう、御願ひ申し上げてをります(册數・郵便番号・送附先・芳名・電話番號を通知ください)。

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【 連 絡 先 】
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洛風書房

郵便 604-0912
  京都市中京區二條通河原町東入 京都書店會館二階

電話 075-241-3849

電送 075-241-2193


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【『靖国神社の真実』第二刷の正誤表】

●頁・段―― 行‥‥ → 

四一○  ――  六‥‥頒價 壹千圓 → 協贊費 貳千圓

 初刷の誤植は、訂正濟です。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/99



 増刷に協贊して戴ける御方がをられましたら、是非とも「洛風書房」樣へ御願ひ申し上げます。無代では氣がひけるてふ奇篤なる御方(苦笑)も、どうぞ宜しく御願ひします。

 又たDVD『凛として愛』は、下記にて、御取扱ひされてをられます。共々御願ひ申し上げます。
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 濟南事變の日に、備中處士、恐懼、敬つて白す。
 
 

嗚呼、屈平を弔はんかな。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 2日(水)23時40分21秒
返信・引用 編集済
   五月五日は、楚の屈平、字は原が、汨羅の淵から、石を懷にして身を投じた日である。小生の高校時代、漢文の授業で、『漁父の辭』を讀み習うたことを想出す。素讀幾囘、口に甘うした爲か、横山大觀畫伯「屈原」の繪と共に、殊に懷しい。然し古文の時間には、苦手な文法のみで面白くなかつた。「しむんずざりし、ましまほし、するはしだなら、らるさすは、しだなら以外に、りはサ變」。何の事か、今は忘れてしまうた。誰か教へてたもれ。先生は、地方では有名な詩人の由。此の先生、風邪にて休まれた折、校長先生が來られて、特別講義「徒然草」。黒板に、一氣に空にて書き給へり。『徒然草』は、全て暗記してをられた由。手紙を書かれるのにも、卷紙にてすらゝゝ。戰前の師範學校出は、小生輩とは炳かに違ひ、凄すぎた。

 閑話休題。楚の屈平、御蔭樣にて、大夢翁『青年日本の歌』の歌詞も理解出來たし、絅齋先生『靖獻遺言』卷の第一を拜讀するに入り易かつた。此の漁父(老莊)よりも、屈平(孔朱)に軍配を上ぐるは、小生、歳老いた今も、少しも變らぬ。『靖獻遺言』を讀んでは、尚ほ更らなり。端午の節句、遙かに屈平を弔はむも、亦た宜しからずや。



●屈平『漁父の辭』(『楚辭』所收。沼田雪窓翁編『靖獻遺言講義』を以て補ふ))に曰く、

「屈原、既に放れて、江潭に遊び、行々澤畔に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁せり。

 漁父、見て之に問ひて曰く、「子は、三閭大夫に非ずや與。何の故に斯こに至れる」と。

 屈原の曰く、「世を舉げて、皆な濁り、我れ、獨り清めり。衆人、皆な醉ひ、我れ、獨り醒めたり。是を以て放たれたり」と。

 漁父の曰く、「聖人は物に凝滯せずして、能く世と推移す。世人、皆な濁らば、何ぞ其の泥を□[三水+屈。にご]して、其の波を揚げざる(世俗に合はす)。衆人、皆な醉はゞ、何ぞ其の糟を□[食+甫。くら]ひて、其の□[酉+離の左。しる]を□[綴の右+酉+欠。すゝ]らざる。何の故に深く思ひ、高く舉がりて(高潔にして同調せず)、自ら放たしむるを爲すや」と。

 屈原の曰く、「吾れ之を聞けり。新たに沐(洗髮)する者は、必ず冠を彈(はじ)き、新たに浴する者は、必ず衣を振ふ。安くんぞ能く身の察察(潔白)たるを以て、物の□□[三水+文。もんゝゝ。汚穢]たる者を受けんや乎。寧ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らるゝとも、安くんぞ能く皓皓の白きを以てして、世俗の塵埃を蒙むらん乎」と。

 漁父、莞爾として笑ひ、枻(えい。舟縁)を鼓(たゝ)ひて去る(堅苦しい男ぢや、相手になれぬと去る也)。乃ち歌ひて曰く、「滄浪の水、清まば兮、以て吾が纓(冠の紐)を濯ふ可し。滄浪の水、濁らば兮、以て吾が足を濯ふ可し」と。

 遂に去りて、復た與に言はず」と。


○司馬遷『史記・列傳・屈平』(『靖獻遺言講義』から引き、又た之を以て補ふ)に曰く、

「(淮南王の云く)夫れ天は、人の始め也。父母は、人の本也。人、窮すれば、則ち本に反る。故に勞苦倦極、未だ嘗て天を呼ばずんばあらざる也。疾痛慘憺、未だ嘗て父母を呼ばずんばあらざる也(誰に云はう樣も無い時は、父母を思ひ出す)。

 屈平、道を正し行を直くし、忠を竭し智を盡し、以て其の君に事へ、讒人、之を間す。窮すと謂ひつ可し矣(竭・盡の二字を見よ。屈子のやるせない心が見える。頼み切つた君を、讒人が隔てる。窮すと云ふも、これ程のことは無い)。

 其の志、潔し。故に其の物に稱すること(志のなりが言に發する故に)芳し。其の行ひ、廉なり。故に死して容れられず(了簡のならぬ)。濁穢の中に蝉蛻し、以て塵埃の外に浮游し、世の滋垢を獲ず、□[白+爵。淨白]然として泥して滓されず(水晶の泥中に在る樣に、汚さうとしても穢れぬ)。此の志を推すに、日月と光を爭ふと雖も、可也」と。



●高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、

「端午は初五の意であり、月の初めの五日と云ふことで、初五は毎月ある筈のものであるから、五月五日は五五、重午・重五などと云つた例もある。今は端午とだけで、五月五日のことに通用せられてゐる。『續日本紀』に、

「聖武天皇・天平十九年五月に、昔は五日節に菖蒲を縵としたが、近ごろすたれてゐる。今後は、菖蒲縵をせぬものは、宮中に入るを禁ずと仰せられたこと」

と記してあるから、古い由來のものである。菖蒲は藥草で、食へば長生をするとか、一切の惡を除くと云ふので、邪を祓ふ爲に用ひる。『公事根源』には、「天皇、武徳殿に出御、群臣に酒をたまふ。人々、あやめのかづらをかけ、典藥寮、あやめの御案(おつくゑ)をたてまつり、群臣に藥玉を賜ふ。五色の絲を臂にかければ、惡鬼を祓ふと云ふ」と記してある。酒は菖蒲酒で、菖蒲を切つて酒に漬け、或は雄黄を少し加へる。又た菖蒲を縷とし屑として、酒に泛べたこともあるが、近世は、酒瓶に菖蒲の一切れを漬けただけである。

 鐘馗は、唐の玄宗皇帝の夢に現れ、天下虚耗の□[薛+子。わざはひ]を除くと奏したと云ふ傳説により、邪鬼を祓ふ神像にあつかはれてゐる。大晦日に用ひられたのが、後には五月五日に用ひられるに至つたのであるから、正月と端午の行事の相似を示してゐる。鐘馗は、實は素戔鳴尊であると云ひ、畫家も素戔鳴尊をかくものがあり、大蛇退治の酒を、菖蒲酒に云ひ傳へてゐる人もある。

 民間で五月人形を飾るのは江戸時代以來のことで、始めは厚紙に人形をほり、薄い紙で冑を作り、眞菰の葉で作つた馬、木で作つた鎗長刀を、幟や旗と共に屋外に埓を作つて立てたのが、後には屋内に飾るやうになつたのであり、鯉の吹流しを立てるのも、近世のことである。

 粽を端午に用ひるは、『延喜式』にも出てゐるが、柏餅は萬治以來のことである。蘇民將來の子孫が、五月五日に粽を食して疫病を免れたと云ふ傳説もある。‥‥

 かく考へてくると、端午も正月や盆の行事と同じ趣があつて、先づ菖蒲を軒に葺いて齋屋とし、縵をかけて我が身を淨め、菖蒲酒を飲み粽を食べて體中を清め、眞菰の馬を作つたり、幟や旗を立てるのは、神迎への形である。‥‥

 又『伊勢物語』などにも記してあるが、端午に知人の間に粽を贈答したことや、殊に室町時代以降、幕府から朝廷に粽を獻上してゐたことなどは、正月や盆の行事に贈答が伴ふのと同一の趣であり、又た平安朝の頃、衞府から菖蒲を輿に入れ、諸殿を葺く料として、禁中に奉られたことも考へ合はされる。この菖蒲輿は、『西宮記』・『枕草紙』などによると、花瓶をおき十本入れて、南庭に竝べることになり、更に變化して、菖蒲御殿と云ひ、屋形形のものに入れて奉ることにもなつた。‥‥

 屈原が、五月五日に、汨羅に投じて死んだのを哀しみ、楚の人が、毎年この日に、竹の筒に米を入れて水に投げ入れて祀つたのが、支那の祭の起源だと云ひ、‥‥屈原と限つたことでなく、供物を川に投じて靈を祭る習俗のあつたことを示すものと思ふ。

 かく考へて來ると、三月の雛祭と同じ起源に辿りつくのである。よつて端午の節句に、綺羅びやかな人形を飾り立てるよりも、軒に菖蒲を葺き、藁の馬を作つて靈を迎へ、粽を供へて祭ればよいやうに思ふ。近頃、端午の人形の派手なのが行はれてゐるが、徳川時代にも、度々制壓されたもので、華美に流れて奢に耽けることは避くべきことであり、儀式は、常に清素を尚ばねばならぬ。‥‥度々禁令が出てゐる。この主意は、今も後も、世運を思ふものゝ忘れてならぬ心得である」と。
 
 

中澤伸弘博士『みちのさきはひ』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 1日(火)17時50分53秒
返信・引用 編集済
   本日、はからざりき、柿之舍の翁より、御ふみ『みちのさきはひ』を賜ひぬ。あな、うれしきかも。うなねつきぬき、ゐやたてまつる。



■柿之舍中澤伸弘博士『本居宣長翁・玉鉾百首講義、本居大平翁・倭心三百首抄講義――みちのさきはひ』(平成二十四年四月發行)の「はしぶみ」に曰く、

「さくゞしろ鈴の屋のうしの、玉鉾百首はしも、わが神ながらの道のことわりを、みそあまりひと文字に詠みたまへるものにて、この道にわけいらむとする人の、いとも尊きみをしへなるを、大人神去りましゝより、はや百と數へては二めぐりあまりの、あまたの年月のふるまにゝゝ、見む人、讀まむひとも少なくなりて、わがちはやぶる神代のむかしの傳へすら、天つ狹霧のまがわざに知らですぐす、みくにの國たみの多きを、むらぎもの心やすからずおもひゐたるを、いにし年に若きらがまゐきて、この玉鉾百首なむ教へたまへかし、すめらみくにの物學びせましと、ねもころに願ふを、因幡の山のいなとも言へず、その熱きこゝろざしにほだされて、月にひとたびの御國まなびの集ひをまけて、その折々に拙きときごとをしへまゐらせしが、數つもりて、ふたとせあまりして、この百歌をば説きをへぬ。

 また大人のあと嗣ぎましゝ藤垣内の翁の、詠みたまへる倭心三百首をも、次々にこうさくせしも、あまたとなりぬ。かれ教へ子どもの、このふたつをば刷り卷にして、世にあまねくわかてば、鈴の屋うしのをしへは言ふもさらなり、わが神代の傳へをはじめとして、神ながらの尊き國がらをまなぶよすがになるべしと言立てするを、おほけなきしれわざにこそと聞きもせでありければ、いかでゝゝゞと朝夕べに言ひおこせるを、去ぬる彌生のおほなゐによりて、ひむがしの縣あがた町村に、あまたのそこなひのいできて、人ごころ癒えることなきほどに萎えしぼみしを、こはいかにせむ、さらば日の本のもとつ御國のたてなほしに、やゝに力そふべきなかだちにもならまほしと思ひて、こたびさくら木ににほはせて、みちのさきはひと名付けて、おほけなくも世に弘むるは、たゞゝゞにたまちはふ神代の道のさきはひを祈るがゆゑにこそ

 平らかに成るてふ大御代の二まり四つのとしの はるあさきころ

 かく言ふは 柿の舍にふみよみもの書く すめらみくにの國つみたみ みつぐりの中澤ののぶひろ」と。



 愚案、『漢書』成帝紀・隆朔二年九月條に曰く、「詔して曰く、古の大學を立つるは、將に以て先王の業を傳へ、化を天下に流さんとする也。儒林の官は、四海の淵原なり。宜しく皆な古今に明かにして、故きを温ねて新しきを知り、國體に通達すべし。故に之を博士と謂ふ。否らざるときは則ち學者、述ぶること無し焉。下の輕んずる所と爲る。道徳を尊ぶ所以に非ざるなり」と。
  ↓↓↓↓↓
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 中澤伸弘博士は、現代の皇學者に坐して、博士も衆き中、國體に通達せられ、眞の「博士」の一人でありませう。なほ柿之舍にて、下記を頒布されてをる御由であります。住所等は、敢へて省略させて戴きます。

一、國學研究會講義録『みちのさきはひ』 送料共 一千八百圓
一、考證隨筆『柿の落葉』 送料共 一千五百圓
一、自撰歌集『柿の下枝』 送料共 一千五百圓
一、平田篤胤翁『毀譽相半書・このてかしは』 送料共 三千圓
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一、錦正社刊『徳川時代後期出雲歌壇と國學』
一、ナツメ社『圖解雜學・日本の文化』
一、展轉社刊『宮中祭祀』
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一、戎光祥出版刊『やさしく讀む國學』
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第一章 「國學」入門
第二章 國語の成り立ち
第三章 國學者が夢見た「日本」の姿
第四章 對立する宗教と靈界のはなし
第五章 日本文化へのまなざし
第六章 現代社會に生きる國學思想
 愚案、該書は、國學の入門書とは申せ、實によくまとまつてをり、通俗本と違ひ、勉強させられること多大、同好の士の一覽を乞ひたいと存じます。たゞ所謂る神風連の總帥・林櫻園大人の項目が立てられてゐないのが、洵に殘念ですが‥‥。また『柿の落葉』は、平泉澄博士にも同名の私家版著作『柿の落葉』――寒林自敍傳・平成二年二月刊あつて、小生には些か複雜な思ひもございます。
 
 

楠公・赤城の志を繼承するとは、常在不斷に名を正して、大義を立つるに在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 1日(火)17時38分37秒
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  ~承前~

 「今楠公」と呼ばれた眞木紫灘先生は、夙に有名であるが、「今高山」と稱せられた人に、贈從四位・靖國神社祭神・有馬新七(武麻呂)平正義先生がゐる(『殉難録稿』に云ふ、「(正義は)幼きより勤王の志を抱き、常に幕府の所爲を憎みて、之を罵詈する事、毫も忌憚なかりしかば、人、皆な今高山と稱せりとなん」と)。

 「(天保)十年己亥の歳に、初めて『神皇正統記』・『保建大記』を讀みて、我が皇國の大道、有るべき由を略ぼ考へたり」てふ、崎門埀加の人・有馬正義先生(『自敍傳』)は、高山赤城先生を傳べするに缺かすことが出來ない。久保田收博士の所論を聽きたい。



●久保田收博士『有馬正義先生』(昭和十九年・至文堂刊。『有馬正義先生遺文』昭和四十五年三月・藝林會刊に所收)

「(有馬正義)先生の正之崇敬を語る一は、正之の傳記編纂のことである。正之の傳記として先生の編纂に係るものが二部存してゐるが、その一は、杉山忠亮著『高山正之傳』に、先生が註を附せられたものである。不幸散逸して、その一部を殘すに過ぎぬが、その中、「余も亦た甞て常陸に遊ぶの日、小沼實の藏する所の正之の肖像を觀るに」云々とあるから、安政五年、常陸周遊の後、恐らくは六年、歸麑(麑=鹿兒島)の後の著述であらう。先生は、杉山の本文の所説を、鹽谷世弘(宕陰)の著『正之傳』・頼山陽の『正之傳』・柴野栗山の『正之を送るの序』・正之の『富士山紀行』などに基づいて再檢討し、附註において之が斷を下されたもので、附録として右の諸文を附載されてゐる。この先生の附註はかなり詳細緻密であるが、その中に、正之の最期の條下に、

『抑も正之、一匹夫を以て四方を遊歴る。其の志は、一筋に皇室を復興し奉り、大義を天下に明かにし、名分を正すに有り。其が忠義誠確の心、凛乎として須臾も朝廷を忘れ奉らず、幕府のために忌諱せらるゝ、宜べなり。依つて幕府より探索ること、甚と密なりしなるべし。豈に正之、此れを聞いて、既に捕はれに就くに至らむとする物から、日乘等をも燒去て自殺せられしなるべし。依つて嘉膳(思齋森敬庸)に、「忠義と思ひしも、今ま皆な不忠不羲云々」と云はれしなるべし』

と述べ、更に筆を進めて、鹽谷世弘の所論に及び、世弘が、「正之、幸ひにして寛政・享和、至平の世に出で、文明の運に會ひ、其れをして節を折り道を學び、刻苦、以て其の□[口+彦]に克たらしむれば、則ち或は大に世用に適はん。然る能はずして、辛を甞め苦を食し、徒らに脾肉を撫し、以て強死に至る。亦た怜れむべきなり」と云つたのは、先生より見るとき、『深く正之が心腑を知らざるが故』であつて、これ、儒者の通弊といふべきであるとし、更に、

『世の儒者ちふ者は、動もすれば己が崇尚る學び以て、我が皇國の忠臣義士を非議るが、常多き習ひにて、深く事情を考へず、己れ實事を經歴せず、紙上にのみ眼をさらし、今日の事に迂闊き類ひ、往々皆な是なり。獨り世弘のみにはあらずかし』

と述べ、儒者がその事とする學問の性質より、自然、支那を尊崇し、日本の國體を忘れ、從つて國史の實態にふれることなく、徒らに抽象的思辨を事とすることを、痛く排議せられた。この世弘の所論に對しては、吉田松陰が、安政四年の『幽室文稿』(卷三)中、『鹽谷の文を讀む』といふ一文において、「是れ、神州の爲に言を立つる者に非ざる也。亦た高山仲繩その人を知る者に非ざる也」と論破したが、先生が世弘の説に推服し得ず、神州の爲に、また正之その人を知る者として、俗儒を批判せられたことと、その揆を一にするものといへる。

 正之傳のその二は、國文による傳記である。‥‥殘るところ僅少に過ぎぬため、内容を詳細にすることはできぬが、前書の附註に參照せられた諸書を以て、新たに先生自身の力を以て正之傳を編し、その『專ら大義を明かにし、名分を正すを以て自らの任と』せられた人であることを闡明せられたのである。

 先生の正之崇拜を示すものは、右に止まらない。安政四年、江戸滯在中の覺えである『遊歴中偶録竝草稿文留』を見ると、正之が楠公追善の爲め『中庸』を講じたといふ逸話を傳へ、鎌倉・浦賀旅中の作に、

『東人いかにやいかに大君の しらせますべき御代としらずや』

とあるのは、正之の「薩摩人いかにやいかに刈萱の 關もとざさぬ御代としらずや」の歌に出づるものであり、『雜録』を見ると、安政五年、常陸笠間でみた正之の歌が記されてをり、『安政擧義記事』には、間中與右衞門(諱宜之、號雲帆)の名をあげて、『正之の剃髮所持にて、墓石建立之賦、長島仁翁話にて候ふ事』とあり、安政六年の『擧義要録』には、正之の人物を記した草稿があつて、

『高山正之、天資英邁、早く朝廷を崇敬し、忠肝義膽、金石を貫き、名分を明かにし、大義を正し、既に將に廢れんとするの綱紀を維持し、至誠感得、靈龜獲られ、宸極の餘光を拜し、慷慨悲憤、尊氏(ママ)の墓を鞭うつ。其の四方を周遊する、蓋し亦た微意あり焉。不幸にして其の志、未だ遂げず、幕府の忌諱する所と爲り、自盡して逝く矣。然れども天下萬世をして『春秋』の大義を知らしむ。其の鼓舞作興の功、豈に魯仲連が輩の及ぶ所ならんや乎。嗚呼、亦た偉なるかな矣哉』

とあり、その大義名分を明かにして、忠肝義膽を深く敬慕されてゐることが伺はれる。更に安政六年四月、土浦の長島仁右衞門(諱尉信、號二齋)より得た、正之が祖母に送つた書簡を、友人平山清寧に與へて、その書簡の後に記して、この書簡に、正之の孝敬の心の深きことを見得ると述べ、かつ、

皇室振はず、名分明かならざるの秋に當りて、正之、特に南朝忠臣の裔を以て、慷慨大志を懷き、一匹夫を以て四方に周遊し、挺然、身を顧りみず、皇室を翼戴し、邦國を靖んずるを以て己が任と爲し、孤忠を奮ひ、誓つて將に名分を正し、大義を天下に明かにせんとす。嗚呼、亦た偉なるかな哉。其の平素、魯仲連の人と爲りを慕ふと雖も、英邁卓越、天下の忠義の心を鼓舞するに至りては、則ち仲連を過ぐること也、蓋し遠し矣

と云ひて、先生の正之を仰ぐ所以を明かにし、

後の觀る者、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て念と爲すべし。乃ち其の王を尊びて名分を正し、禮義を崇びて人倫の實を明かにするに於いては、其れ亦た將に慨然興起して補益する所ろ有らんとす矣

とて、正之を仰慕するのは、直ちに尊皇の大義へ挺身するに外ならざるべきことを強調せられたのである。

 以上の如く、先生の高山正之に對する敬仰は極めて強く、楠公崇拜と相俟つて、先生の精神の純化形成に資益してきたのであつて、楠公を繼ぎ、正之を承けるを己が任として、その志業を推進せしめられたのであつた」と。



●仲田昭一翁『高山彦九郎――天明二年・江戸日記』(平成二年十二月・茨城縣立歴史館史料部史料室複製)に曰く、

「高山彦九郎は、簗又七次正(後ち正記)[寶暦二年~文政十二年。中津藩軍學者で、中津藩・水戸藩の指南役]と親交があり、彦九郎の自刃後は、殆んどの遺品が、次正に預けられた。

 その後、簗紀平[又七の甥]が、高山彦九郎の遺品を引き繼いだが、紀平が、幕府の儒學者で民政家でもある林鶴梁[文化三年生。尊王家でもある]の門下生でもあつたことから、鶴梁は、簗紀平宅の彦九郎遺品を見て請ひ、これらを讓り受けた。鶴梁の盟友であつた櫻任藏(諱眞金、號月波)[文化九年生。父は、江戸の相良氏より眞壁町醫・小松崎氏の養子となる。尊王家で、相良一雄とも稱す]は、鶴梁に懇願して彦九郎の遺品を讓り受け、また自らも上州へ赴き、遺品を收集してゐる。

 任藏の親友であつた長島尉信(二齋)は、高山彦九郎遺品の多くを、任藏から讓り受けたと思はれる。それらの一部が、更に岩倉具視・有馬新七・松浦武四郎・藤田東湖・藤森天山らへ讓られてゐる。‥‥

 また尉信が、櫻任藏より讓り受けた高山彦九郎の遺髮は、天保十一年五月二日に、水戸藩士・杉山千太郎(諱忠亮。號復堂)に預けられたが、杉山の死後、藤田東湖の推薦もあつて、尉信の手を介して、高山彦九郎崇拜者である猿島郡岩井の間中雲帆へ讓られ、その後、谷干城(隈山)へ渡り、更に山内家へ渡つたとされてゐる」と。
 
 

名分を紊るは、誰人がするや。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月28日(土)17時23分34秒
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  ~承前~

 吉田松陰先生を導いた人に、宇都宮默霖翁がゐる。其の默霖翁の、高山赤城先生を説ける一條あり、こゝに紹介したい。

【贈從五位・湊川神社權宮司兼權中講義・史狂王民宇都宮眞名介源雄綱――默霖翁】
  ↓↓↓↓↓
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●宇都宮王民翁『二十一囘烈士(吉田松陰)に復する書』(安政三年八月二十六日~九月一日の間。川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』第二十二――國學研究叢書・昭和四十七年七月・錦正社刊――『吉田松陰全集』卷二「講孟餘話[實は講孟箚記と申す也。考證の不足なり]附録第八・默霖書撮抄一條」)に曰く、

「山陽・山陰・四國・九州、諸侯、何人ありや。一人どもは、朝夕、天家を遙拜する國君あるか。江戸に往反の間、畿内を過ぎるときに、京都を拜する人あるか。輿(かご)に坐し馬に騎して、王室をば目下に見て過ぎる程の大名、何ぞ王室に復する志を抱かんや。侍儒にも、一人も夫れを勸むる人はあるまい。終日、その君の惡をすゝむるやうなる儒生多し。何ぞや。偶々明賢の邦君ありても、儒生より時勢々々と、時勢ごかしにして、なにもかも時勢と云うてすめる。左樣の志ある人は、往昔の天子の失徳も、口に信(まか)せて譏(そし)るなり。今の史學家の論を見玉へ。豈に臣たる人の心ならんや。今迄の事は、みなゝゝ禍を王室に嫁してすめる心なり。學問は、いかやうなる事を教へたるぞ。願ふにそれを知らぬは、人に非ず。却つて道を枉げる事、天下の通弊となれり。今時の儒生の多き事は、日本開闢以來の盛なるありさまなり。名分を紊るは、誰人がするや。一人紊したるを、次第々々に繼いで行き、‥‥此の如くなり行きし事なり。

 しかればこれより後に興れる伯(=覇)者の時には、前轍を履んで、儒生の論は今時より盛に媚びるなり。これ、勢なり。伯者三四人更はれば、必ず自ら天子に比するやうになる勢なり。これらの事は、少々王室に志を傾けたらむ人は明知する事なり。しかれば筆誅せねば、後は繼いで筆誅するものもなきやうになる。武臣、竊權より一千年にならぬ。然るに此の如くなり行きし世のありさま、中々腸を斷つほどなり。今、千年二千年せば、いかなる儒生の論をなすやらん。いとゝゝ恐しき事なり。それも、天子の位も三種の神璽も外にわたし、革命の國と見たらば、筆誅には功なき事なり。筆誅の本懷を明かに人に察せらるゝ事は、我が本心に非ず。とてもそれに與する事はならぬ世なり。

 嘗(こゝろみ)に蒲生(君平)と林子平との爭をみよ。又、林平が中山公に詰りし事をみよ。子平が、高山(赤城)が顛末を惡んだる事を見よ。その時には、皇家には、御難題山々なり。中山卿(准大臣正二位・中山愛親)、中年時より惡まるゝ事なり。六十歳斗(ばかり)の時に、一勇を振ふ。もしかの時に、君命を辱めたらば、蒲生・高山・諸同志を引き來て、正名の軍を張る心なり。勢は不可なれども、その志は感泣するほどなる事なり(所謂る尊號一件)。江戸には、全く大貳(山縣柳莊)などにもこりてあり。故に蒲・高を、益々好まず、その上に、二子を感じて謁見を許せる諸侯多ければ、江戸には内をもおそれたる心もあり。且つは公卿の器量をも、これにて見定めんとなり。徳大寺のやうなる人あらば、宜しかるまじとなり。もし五説(寛政四年、後櫻町天皇の幕府に下されたる御詠に對し奉り、幕府が朝廷に上りし五箇條の難題、是れ也)に、之に當るの答なくば、その後は江戸より自在に、王家を指揮せんと云ふ心なり。その危き事、累卵とやいはん。天子の御心を、少々察し見てくれよ。徒らに昔の事を言うて談話する心では、高・蒲や中山の大忠の心いきは、よもしれまじ。人、木石に非ず。なにとて、御叡慮が察せらぬやらん。我には血熱斗にて、誰にか之を吐かんや。平生、怏々たり。しかれども神明あり。二十一日斷食して、『僕が議論、もし公道を害し候はゞ、速かに命を斷ち玉へ。もしその論、公案ならば、守護して、その志を助け玉へ』と誓ふ。その事、誰にもしられたき心なし。義卿(吉田松陰)にも云ひたくなし。他人に説く勿れ」と。



 贈正四位・靜修菴蒲生君平秀實翁は、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と申された。然るに明治「御一新」を、現代の史家・文人は、「革命」と云つて憚らず、嗚呼、何たる言靈ぞや。抑も我が國には、絶えて革命の亂逆を見ざるなり矣。然るに輓近、人心浮薄にして邪説横行し、國勢陵夷して、遂に未曾有不敬の言辭を弄ぶに至れり。豈に慨歎に堪ふべけんや哉。

 また同血社主人『一艸獨語』に、『山陵志』の紹介あり。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/16917357/
http://sousiu.exblog.jp/16922717/



 愚案、川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』は、正に「大義」答問であつて、有志には、是非とも研鑽を乞ひたき書ゆゑ、古書を探索し、八方、手を盡して、何としても座右に置いて戴きたいものであります。錦正社、何故ゑ再版せざる、眞に遺憾千萬なるべし。

【參考・春風文庫】
  ↓↓↓↓↓
http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/hakubutu/hakubutu.html
 
 

赤城先生遙拜の姿は、斷哭絶慟の悲しみを顯せしものなり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月28日(土)00時14分50秒
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  ~承前~

 下記は、雀里新井小一郎正道翁の編纂する所の『高山芳躅誌』、書肆に注して、やつと到來。此の雀里翁は、上野國伊勢崎藩の儒臣にして、幕末には函館御雇奉行に拔擢、明治御一新後は、一宮貫前神社權宮司となりしも、幾ならずして之を罷め、郷里に南淵塾を開き、地方の育英に盡されし人なり。此の篇は、雀里翁が、弱冠の時、躬親から高山赤城先生の令妹・錦子刀自、及び親交ありし浦野神村翁を首め、岸昌榮・關睡□[山+同]・長尾西山の如き、學徳共に地方の師表たる諸老の舌端より出でたるもの、洵に珍重の書と謂ひつ可し矣。赤城先生の悲しみは、不臣たる懺悔から來り、遂に決意となる、而してそれを貫くもの、戀闕のこゝろ、即ち是なり。



●新井雀里翁編『高山芳躅誌』の「高山君略傳」(大正十五年四月・雀里會刊)に曰く、

「君(赤城先生)、人と爲り、慷慨奇節の士にして、精悍倔強、好んで氣を使ひ、人の惡を疾むこと深かりし故に、郷黨、之を畏憚して、相親しむ者、少なかりしと云ふ。其の人と交接の際、然諾を重んじ、能く師友の諫を容れ、過を悔い善に與する、流るゝ如く、毫も吝惜の意なし。獨り王覇隆替の形勢を論ずるに至つては、其の身、布衣の分に在り乍ら、王家を奉戴して、尊崇敬肅するの形容、其の身、親しく朝廷に仕へて、至尊に咫尺し奉るものゝ如し。覇府を嫉視し、叱咤憤懣する、恰かも不倶戴天の仇に似たり。毛膚に浹り、骨髓に徹せる、又た其の太甚だしきを見る、と。其の奇幹突兀として、口吻、都て人表に閃發せり。

 書を讀む、電覽一過するのみなれども、能く其の大義を發揮す。又た好んで詠歌すれども、造詣を覓めず、眞率、獨り情を遣るのみ。曾て撃劒を學びしかど、殺活の機、只だ一撃に寓せりと云つて、遂に習熟を要せざりし、と。

 夙に遠遊を好み、西は肥薩を究め、東は羽奧を探り、北は二越に憩ひ、南は房總に客たり。各國所在の名山大川、縱横跋渉せざるなく、足跡、海内に遍ねし云ふ。然るに其の志の存し、意の注する處は、吉野・隱岐・佐渡・讚岐・土佐など、天皇巡狩、親王遷徙の遺蹟に在つて、其の地に至るや、必ず洒掃して塵を淨め、草華を捧げ、俯伏流涕、佇立低囘、其の情の濃やかなる、宮人の舊恩を感じて忘るゝ能はず、之に泉下に隨はんと欲する者の如し。

 君、曾て云ふことあり。『吾、京師に遊ぶ、數囘なり。九重の宮闕を拜する毎に、雲霧を披いて青天を望むが如く、人間世界に、此の如きの愉快を覺えねども、又た忽ちに數石の血涙、滿面に漲り來り、斷哭絶慟を促す。此の悲み、如何』と。

 最後に再び西遊して、肥薩の故人を訪はんと、筑後の久留米に至り、同國御井郡櫛原村の閑士、森嘉膳と云へる人の宅に寓し、終ひに屠腹して歿す。實に寛政五年六月二十七日也。享年四十有七。久留米寺町・眞言宗遍照院中に葬る。僧、諡して松陰以白居士と云ふ。

 嗚呼、君が家を忘れ、身を擧げて國に許し、山を裂き海を屠らんと欲する、勤王の志氣、遂に達せず、海内、又た一人の相傳ふなくして斃る。然りと雖も其の正大の氣、宇宙に□[石+旁]□[石+薄]たり。豈に百載の下、之れが志を繼ぎ、感發勃興せしむるなからんや」と。


●『高山芳躅誌』に曰く、

「君の妹氏(伊與久嘉吉政明の室・高山氏錦刀自)云ふ、兄の死する、其の故あるを覺ふ。兄、遠遊より歸る毎に、怏々として樂しまず。『文士・儒生、恬熙宴安の人より、却つて遊侠・賭博の徒には、約を信にし、諾を重んずる者少なからず、然して文士・儒生は、皆な名教の流なり。賭博・遊侠は、多く刑餘の儔なり。其の人、得難きを悲しむ』と云はれしが、一日、幕政大いに改正し、兄の志を同じうし、相謀る新善なる友、冤枉に罹り、死刑・流罪に行はれたる者六七人、是を聞いて、『吾が志、休みぬ矣』と云つて、衾を擁して打伏すること十餘日、漸くに起き出で、西遊を志すとて、暇乞に來られしが、いつもより氣勢無く、相訣れたり。此の行、遂に永訣と成りし、と。

 君の遺墨、今尚ほ其の家に存する者數種、中に就て、左の數首、尤も其の志操を見るに足る。因て之をこゝに寫す。
神風になびくや廣き天の下 民の草木の數ならぬ身も
君につかへ神につかふる心もて なきあと問へよ人の世の中
君を思ふ心の人をたづぬるに 親を養ふものにぞありける
我をのみ思ふばかりにあめつちの めぐみも露ぞ知らぬ民草
同じきは親をば思ふ心にて 誰もかはらぬものにぞありける
願ふ事の惡しきは止めよ道ならば 叶はぬものあらじと思へ」と。
 
 

忘年の交――英雄、英傑を知る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月26日(木)23時36分23秒
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  ~承前~

●幽谷藤田一正先生の詩

○「上野高山君[彦九郎]王母八十八初度を賀す[壽し奉る]」幽谷先生十三歳の作

階庭の玉樹、紫蘭に肥ゆ。孫子、觴を稱げて、北韋に獻ず。
膝下の醉歌、塵外の興。香風、時に捲く、老來の衣。

 一正、嘗て高山君の奇節を聞き、未だ見ゆるを得ざるを以て憾みとす。この頃、赤水先生(長久保氏)、其の王母の壽詩の求め有るに因つて、聊か蕪章を呈し、併せて之を賦して奉呈す。

○「高山君に詩を呈す」

聞く、君が高節、一心の雄。奔走、賢を求めて、西、復た東。
遊學、元より懷く、奇偉の策。正に知る、踏海魯連の風。



●復堂杉山忠亮翁『高山正之傳』に曰く、

「(寛政元年秋)一正、萬(立原翠軒)に隨つて江戸に在り。正之、見て甚だ驩ぶ。一正に謂つて曰く、『我れ天下を遊歴し、人に閲すること多きも、未だ足下の如く卓越せる者を見ず。足下、自愛せよ。言に因れば、足下、多病なり、と。講學の餘には、宜しく武藝を試みるべし。劍は一人の敵と雖も、而して陣に臨んでは、衆に先んず。身に精藝無かるべからず。且つ以て身體健やかに、亦た勤學に益有るなり』と。‥‥『我(赤城先生)、遊學を以て事となす。今日の行、萬死、固より甘んずる所なり。身後の事、復た念慮に關はり無し。但し君(長久保赤水)に託すべく、一事有り。某に息女(せい)有り、天下の名士を得て、これに與へんと欲す。藤田子定(幽谷)は、國士無雙、若し君によりて、これを箕帚の妾と爲すを得ば、死するも結草たるべし』と」と。



●赤城高山先生『北行日記』寛政二年七月朔日條に曰く、

「藤田熊之助一正を尋ねける。早や予(赤城先生、四十四歳)が來るべしとて、待ち迎へたり。與助と名を替へたり。親を與右衞門と號す。よろこび出でて、冷麺に酒を出だす。夜半に及んで立つ。‥‥一正と、大義の談有りける。一正、能く義に通ず。存慮の筆記を見す。『同じくは、公(あなた。幽谷)、よろしからん』と示しけるに、忽ち筆を取りて改めける。才子にして、道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける。‥‥藤田一正へ、詩箋十枚を寄せける」と。



●頼山陽外史『高山彦九郎傳』(『山陽遺稿』所收)に曰く、

「高山正之は、上野の人也。字は彦九郎、家、世々農なり。正之、生れながらにして俊異、喜(この)みて書を讀み、略ぼ大義に通ず。人と爲り、白皙精悍(★)、眼光、人を射、聲、鐘の如し。奇節有り。

 母(實は祖母)死りて、冢の側に廬すること三年。□[食+亶]粥も給せず、骨立すること、枯木の如し。事、聞す。官、之を旌(あらは)さんと欲す。其の郷俗、博弈・健訟を喜び、素より正之の爲す所を嫉み、吏に誣告して、之を獄に繋がしむ。獄胥、之に食はしむも、食はざりき。

 已にして出づるを得たり。即ち家を辭して四方に遊び、豪俊奇傑の士を求めて之に交る。江門の人・江上關龍(司馬之介武秀。揚心古流柔術第三世)、豐前の人・梁又七(正記。中津奧平藩士。水戸家指南役兵學者。小野派一刀流)が輩、最も親善なり。天明四年、歳、饑ゑ、所在、盗、起こり、上野も亦た靖からず。正之、袂を奮ひ起ちて曰く、『吾が郷をして、此の不良の事、有らしむ可からず』と。往いて之を理(をさ)めんと欲し、關龍に辭す。關龍、之を援けんと欲す。正之、欲せず。贐(おく)るに衷甲(鎖帷子)を以てす。之を受けて獨行し、板橋驛に至れば、時、已に夜なり矣。二男子有り、橋上に在りて、相ひ嚮(むか)ひて臥す。兩尻高くして、頭凹(くぼ)めり。正之、念へらく、□[足+日+羽。ふ]まずんば、行く可からず、と。之を患ふ。已にして曰く、『是れ官道也。彼れ之を塞ぐは無状なり。□むも可なり』と。凹みし處を□みて過ぐ。其の人、蹶起し竝び呼びて曰く、「誰か吾が頭を□む者ぞ」と。刀を拔き鋒を連ねて追撃す。正之、顧みて睨みて曰く、『喝』と。其の人、辟易して敢へて迫らず。遂に往く。未だ其の郷に至らずして、一旅店を過ぐ。喧嘩して飲酒する者有り。則ち關龍と又七と、徒を帥ゐ途を殊にして先づ往き、事の平ぐに會ひ、會飲せる也。正之を呼びて同醉し、倶に還りぬ。後に官、劇賊の渠帥を獲たり。自ら語るに、「平昔、未だ嘗て難當漢に遇はず。嘗て板橋に在りて、人を要して劫を行はむとし、一眇小丈夫(★)に遇ふ。目を瞋らして我を呵せり。之を憶へば、今ま猶ぽ股栗する也」と。

 關龍、劍を善くす。毎に正之に謂つて曰く、「子、氣を以て人を服すと雖も、武藝に熟せず。眞の英雄に遇はゞ、乃ち窮せん矣」と。正之、服せず。關龍、罵りて曰く、彦九は、無用の男子、能く死せば我を斬れ」と。正之、憤然として刀を拔かんと欲す。關龍、手を以て刀□[木+雨+革+月。は=柄]を壓へ、笑うて曰く、「止めよ焉」と。正之、□[口+音。いん]□[口+惡。を]するも、終ひに拔くこと能はざる也。是に於て節を折り劍を學び、毎夜、自ら試みること千遍に至りて、乃ち寢ぬ。

 正之、又た喜みて文學の士と交はる。人の孝子・義僕の事を説くを聞けば、遠しと雖も、輒ち往いて之を問ひ、轉じて之を人に述べ、殷殷として涙、聲に隨ひて墮つ。古今の君臣順逆の跡を談ずれば、慷慨して、己、與に時を同じうして、其の事に關はるが如し。

 少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、『皇居は何れの方にかまします』と問ふ。人、之を指して示す。即ち地に坐して、拜跪して曰く、『草莽の臣、正之』と。行路、聚まり觀て、怪みて笑ふも、顧りみざる也。京郊に遊び、足利高氏の墓を過ぎ、其の罪惡を數(せ)め、大いに罵り、之を鞭うつこと三百なりき。

 故に平時、人の惡を見れば、之を疾むこと仇の如し。一權人、利を專らにす。中外愁怨するも、敢へて言はず。正之、同志と語り、涕を攬(ぬぐ)ひて曰く、『噫、公上(將軍)、百、知らざる也。今ま故紙を接ぎて幟を爲し、山廟・門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得可し。豎子を誅するに於て、何か有らん』と。聞く者、耳を掩ふ。其の後、弊事、悉く革まり、一號令の出づるを聞く毎に、喜び、色に形はる。

 正之、游道、極めて廣し。公侯、時に之を招致すれば、辭せず。嘗て一侯(松平定信)の政路に與かる者に抵(いた)る。兩童子、澣濯の衣袴褶を穿ち、食を饋(おく)ること甚だ謹めり。侯、指して曰く、「是の小兒輩、長者の之を教誨せんことを欲す」と。正之、之を聞きて逡巡す。侯の曰く、「然かすること勿れ。余と雖も、闕失有らば、之を聞かんことを願ふ也」と。正之、拜して曰く、『然らば則ち敢へて言ふ所ろ有らん。往年、某處の民、兄弟、父が讎を復せし者あり。之を護送するに、囚徒と同じうす。是等の事、風教に關はれり。願はくは意を加へたまはんことを焉』と。侯、謝して曰く、「一時の指揮、到らざりき。後ち當に之を謹しむべし」と。其の世の重んずる所と爲りて、己に直く阿らざること、此の如し。

 然れども正之、東に在りて意を得ず。西游して筑後に至り、一關を過ぐ。關吏、呵して止む。正之、館に歸りて、自ら刺す。館の主人、驚きて故を問ふ。答へず。曰く、「吾れ子を館し、子、自刃す。死して他證無く、又た其の故を知らざれば、吏、來りて尸を檢せんとき、何の辭か之に答へん。願はくは殊(絶命)する勿くして、以て待て」と。正之の曰く、『諾』と。刀を腹に剚し、與に劇談して、夜分に至る。吏、來り、燭を秉りて之を檢し、又た故を問ふ。答へず。固く問ふ。曰く、『狂發せしのみ而已』と。乃ち刀を□[手+堰の右。ぬ]き、突き入ること尺餘にして、即ち死す。死に臨み、館主、言はんと欲する所を問ふ。正之の曰く、『語を海内の豪傑に寄す、好在なるのみ而已』と。

 正之、既に死し、事、三都に傳はる。其の死せし所以を知る莫し。或は曰く、「關吏の辱めを受け、慙憤して死せし也」と。關龍の曰く、「吾れ數々(しばゝゞ)人を罵りて之を試みしも、眞に我を斬らんと欲せし者は、獨り正之のみ。渠れ已に人を殺すに果なり。故に亦た自ら殺すに果なるのみ耳」と。又七、之を聞きて曰く、「否、否。彦九は、蓋し夢寐の中に感ずる所ろ有りしのみ爾、渠は夢むと雖も、猶ほ能く死する者也」と。

 外史氏の曰く、予(頼山陽翁)、幼きとき、先人(尊父・春水翁)の、善く彦九郎を談ずるを聞けり。先人も亦た嘗て數々三都の間に相逢ふ。記せば、其の郷貫は、新田郡細谷村の人に係る。先世、蓋し南朝に屬せし者なり。其の義を好むこと、自る所ろ無しとせずと云ふ。

 嘗て客と語り、元弘帝(後醍醐天皇)の伯耆に逃れたまひし事に及び、其の地名の訓讀を爭ふ。正之の曰く、『吾れ嘗て再び伯耆に赴き、土人に訪ひて之を識る』と。客、復た爭ふこと能はず。其の人の確實なること、此に類せり。先人、嘗て之れが傳を爲(つく)らんと欲して果さず。近ごろ或は正之が事を書せるを讀むに、疑ひて不軌の民と爲すは、冤なり矣。予、故に略ぼ聞く所を敍すること、此の如し」と。



 愚案、高山赤城先生を、山陽翁「白皙精悍・一眇小丈夫」(★)と云ひ、齋藤拙堂翁「短小精悍、皙きこと女子の如し」と形容するも、それは水戸の徂徠學派・立原翠軒の肖像を見誤りしものにして、前に引用せる菅茶山翁『筆のすさび』、亦た柴野栗山翁『高山仲繩を送る序』・池大雅翁寫生の「肖像畫」、竝びに雀里新井小一郎正道翁編纂『高山芳躅誌』(大正十五年四月・雀里會刊)に、

「伊勢崎の醫員・岸昌榮と云ふ者、曾て君(赤城先生)と甚だ親善にして、君、伊勢崎に來るや、必ず投宿す。其の宿する、大に人と異なり。寒暑を論ぜず、覓むる所、必ず定規あつて、蒲團一枚・机一隻・燈一□[火+主]を借るのみ。家人、深更に其の室を窺へば、蒲團上に端坐し、燈下の机上に對し、看書、又は運筆するを見るのみ。來り投ずること數十囘、皆な一樣なり。

 或る時、深夜、婢、厨下に火口を捜索すれども無しと云ふ。家人、明日を待ち買はんと欲す。君、乃ち婢を呼び、色を正して、『片時も無くて叶はぬもの、至大なるものにては、天皇、至小なるものにては、火口なるぞ』と云ひつゝ、行李より火口を取出し與へしとぞ。

 昌榮、偶々君の容貌を話するを聽くに、身の長け高く、總髮にして、眉毛太く長し、眼鋭く、鼻隆く、肩怒り、脣厚く、口大に、頬骨荒れ、顔色赭く、鬚髯美しく、音聲遠く響き、情義、極めて懇切なれども、何となく怖ろしき容態あり。雙刀・衣服とも儉素にして、禮義、究めて鄭重なれども、自から昂然として、凡人とは見えざりし、と」

とあるを確實とすべく、其の錯誤を明かにしておきたい。最近、美少年たる九郎判官義經公、實は出齒にして不細工なる男なりと喧傳する者もあるが、これも亦た同時代の、其の名も「山本九郎義經」の肖像畫を見誤りしもの、識者、之を指摘するも、如何ともする能はざるの勢なり。

 往昔、漢の張良は、力士をして百二十斤の鐵椎を擲たしめ、秦の始皇帝を博浪沙に撃ちて、天下を震駭せしめたるも、其の容貌、婦人好女の如くなりきと云ひ、亦た幕末の橋本景岳先生は、其の識見、古今に卓越し、果決よく亂麻を斷つの力量ありて、而も身丈、僅かに五尺、白皙纎妍、一瞥すれば、殆ど婦女子に似たりと傳ふ。震天動地の大事を能くする者、必ずしも魁梧奇偉の豪傑たるを要せず、所謂英雄首を囘せば即ち神仙と云ふものであらうが、圖らざりき、赤城先生こそは、實は豪傑中の豪傑、小男優男に非ずして、二メートルを超える偉丈夫なりき矣。

 又た盗賊の親分の咄は、赤城先生に付きものであるが、其の場は、或は板橋宿と云ひ、或は木曾山中と云ひ、一定ならず。一説に、短小に見ゆとの盗賊の言を正見とするならば、蓋しそれは、赤城先生の守護せし童子眷族の類にして、賊を股慄せしむる程の大喝を發せしに非ざるか、得て知るべからざるなり。
 
 

草莽のこゝろ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月22日(日)23時01分36秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『明治天皇の聖徳』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、

「高山彦九郎は、上野(群馬縣)の人、十三歳にして『太平記』を讀み、慨然として志を立てました。家の系圖に、先祖は新田十六騎の一であつたとあるを見ては、感奮、禁ずる能はざるものがあつたのでありませう。備前兼光の刀と、菊一文字の脇差とを帶びて、ひろく天下を周遊し、仁人義士を尋ね、國體の明かならず、皇威の衰へた事を歎‥‥寛政五年六月二十七日、久留米に於いて自決して果てました。流浪、四十七歳の一生は、當時の常識から見れば、只だ奇人としか思はれず、或はむしろ狂人に近いかと疑はれたでありませう。しかるに明治十一年九月、北陸巡幸の途中、群馬縣に入らせ給ふや、明治天皇は、高山彦九郎の玄孫・孫四郎を行在所に召され、拜謁を許されたのでありました。曾て三條の橋に平伏して、泣いて御所を遙拜した高山の忠誠を御嘉納あらせられたのであります。その人、逝いてより八十五年の後、天恩、枯骨に及んだのであります」と。



●森銑三翁『高山彦九郎』(『森銑三著作集』第九卷――近世畸人研究――昭和四十六年五月・中央公論社刊に所收)

「奇士とか、奇人とかいふところからして、彦九郎を以て、常軌を逸した、奇行ばかりを演じてゐる、奇人傳中の人のやうに思ふならば、それは大きな誤で、むしろ反對に、行の正しい實直な人だつたのである。旅行の折などにも、行く先々で歡迎せられたことは、「適(ゆ)く所として愛敬せられざる莫し」と、『續近世叢語』に記されてゐるほどで、彦九郎は、世間的な、いはゆる奇人などいふ人々とは肌合ひを異にした、信頼するに足る人物だつたのである」と。



 愚案、先の『大日本人名辭書』と重複しないやうに、もう少し、赤城先生を傳べしたい。「(彦九郎)其の人、鼻高く、目深く、口ひろく、たけたかし。總髮なり。‥‥其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚だしき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一も誤らず」とは、菅茶山翁『筆のすさび』に云ふ所、先生は、將に我が國史が生んだ、皇御民であつた。事、皇室の御事に話が及べば、はらゝゝと涙を流す光景は、小生の學生時代、帝都青々塾に於てよく目にしたものであり、珍しくは無いものゝ、其の源流の近き一例を、赤城先生に見るのである。



●名越時正翁『日本學入門――その形成と展開』(昭和五十四年四月・眞世界社刊)に曰く、

「彼は、皇室の御衰微に悲泣し、徳川幕府、とくに田沼の弊政に憤激し、大義のために奮起する人を全國に探し求めた。彼は、明和元年、十八歳の時を最初として、數囘、帝都に上つた。都に入る時は、必ず三條橋のたもとに土下座して、皇居を拜し、『草莽の臣、高山彦九郎正之』と挨拶することを常とた。それは日記にも見えることだが、天明二年十一月十六日條(『上京旅中日記』)には、

禁門を拜し奉らむと、先づ、仙洞御所の御門前を經る。時に地上に稽首し奉る。日の御門をば向ふて拜し奉り、南門より公卿御門をば經るまゝに稽首し奉る。恐れみ恐れみ敬み謹み奉りて、帝位の尊きを仰ぎ奉りて、歸りて袴になりて他出す』

と記され、その戀闕のほとばしりを伺ふことができる。またその翌年正月元旦には、御所内に入つて御節會の大禮を拜觀することが許されたが、彼は、『仰げば、天象明かに星の位正しく、是れぞ皇統綿綿、寶祚長久のしるしと嬉しく、手の舞ひ足の踏む事を知らずぞありける』(『京都日記』)と記してゐる。まして寛政三年三月、四囘目の入京の時、光格天皇が側近に、『高山彦九郎といへるものを知れるや』とのお言葉があつた。このことを聞いた時の、

われをわれとしろしめすぞや 皇(すべらぎ)の玉の御こゑのかゝる嬉しさ

と、狂喜して詠んだ歌は、實感をもつて察することができよう。その頃、彼はたまゝゝ緑毛のある龜を手に入れ、これを瑞兆として朝廷に獻上し、天皇・上皇はじめ、皇族・公卿にお見せしたことは、王政復古を願ふ彼の念願の表はれと考へられよう(皇室と國民との關係は、幕府のめぐらした垣を越えて復活し、接近してゆく)。

 彼は天顔を拜することができたが、一介の草莽の臣が、どうして御所中に出入りし、お姿を拜し得たのか、それは一見不思議な思ひを懷くであらう。時は寶暦事件から、いくらも經つてゐない。當時、竹内式部の講義を聞いた公卿廷臣は、まだ少なからず存命してゐた。中でも彦九郎を最も厚遇した伏原宣條は、かつて崎門學を、桃園天皇に進講した一人であり、今は明經博士として、光格天皇の侍講であつた。彦九郎が正月の御節會拜觀を許され、その案内をしたのは、宣條の子・宣光であつた。また彼が、天皇に拜謁を許されたのは、寶暦事件で處罰された岩倉尚具の孫・具選の奔走によつたものであつた。式部を失つたあとの公卿たちが、高山彦九郎の出現をどれほど喜んだか、察することができよう。

 このほか、中山愛親は、正親町實連から埀加神道を學び、幕府の横柄を憎んだ硬骨派の公卿で、後には尊號事件で、幕府の處罰を受けた人である。また芝山持豐は歌人でもあつて、本居宣長と親しい間柄の公卿である。彦九郎は、これらの公卿廷臣からも、喜んで迎へられた。彼は、また大坂の中井竹山と、京都に學校を興す運動に奔走したが、竹山とは意見の相違もあり、このことは實現を見なかつた。

 彼は、天明六年八月、祖母が歿してから、墓の側に廬を建てゝ、叔父とともに三年の喪に服したが、その期間以外は、ほとんど毎年、席の温まる暇なく旅行し、しかも詳細な日記を作つた。備後の菅茶山は、彦九郎の來訪を受けたとき、『其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚しき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一つも誤らず。亂世には武者修行と云うて、天下を周遊するものあり。今、治世なれば、徳義學業の人を尋ねありくも、少年の稽古なりとおもひて、六十餘國を遊觀せんと志し』たと言ひ、そして人を尋ねるのは、『忠孝の事より外にては候はず』と語つたと記してゐる。彼は旅行するに當つて、ほとんど金錢を使はず、一枚の袷衣に大刀を差し、夜は野宿を常とした。たまゝゝ山中で盗賊に遭つたとき、唯一渇を加へただけで、賊を震へ上らせたといふ。その交つた人物は、地位・身分・學派等には拘はらなかつたやうだが、志の通じたのは、やはり崎門と水戸學派が多かつた。

 京都では、望楠軒の西依成齋、久米訂齋、谷秦山の孫・伴兄、その伴兄と會つた家の主人・玉木愼齋も、崎門であらう。谷川士清の門人で、安藝の神官・唐崎常陸之介との出會ひは餘りにも有名で、その交はりも深かつた。甲州では、加賀美櫻塢と會ひ、山縣大貳の話を聞いて景慕してゐる。また柴野栗山・皆川淇園・頼春水・細井平州・荒木田久老・岡田寒泉等とも交はつた。彦九郎は、かねて水戸義公を景慕し、江戸の水戸邸にも出入りしたが、最も早くから交つたのは、地理學者・長久保赤水である。但し赤水は、彦九郎から『義公以來、水戸家は名分を正すと、兼ねては聞けり。徂徠・春臺を法とする事なかれ』と、手痛い忠告を受けた。また赤水から神童・藤田幽谷のことを聞くと、寛政元年六月、江戸で面會して大いに激勵したが、翌年、水戸を訪れて、幽谷の宅で、大義の談をなしたといふ。

 彦九郎は、かねてロシヤの蝦夷侵入を憤つて、自ら彼の地に渡らうとし、この年、水戸から北上して三厩に達したが、船の便を得ず、斷念して引き返し、途中、仙臺で、林子平・藤塚式部を尋ね、年末に京都に着いた。

 彦九郎は、寛政三年九月以降、九州各地に遊歴して有志を尋ねた。そして五年六月、三たび久留米に來て、十九日以來、櫛原の森嘉膳の家に滯留したが、その二十七日、携行した文書類を全て引き割いて水に溶かした上、突然、切腹自刃を計つた。嘉膳の手記には、切腹した後に、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひしこと、皆、不忠不義のことになれり』と述べ、端然と坐して、帝都と故郷の方を拜し、やがて絶命した、と記してゐる。年、四十七歳であつた。

 彦九郎の謎の自刃は、尊號一件(★)を聞いたためであらうと、今日は推察されてゐる。彼の最期は、これを聞いた人々、ことに彼と親交を結び、彼の激勵期待を受けた人々に、言ひやうのない深刻な衝撃を與へた。彼との再會を一日千秋の思ひで待つてゐた藤田幽谷は、涙ながらに彦九郎を祭つて祭文を讀み、唐崎常陸之介は、直ちに久留米に駈けつけて墓前に號泣し、歸國して同志を集めて運動中、幕府の探索を受け、寛政八年十一月、竹原で割腹した。爾來、高山彦九郎は、勤王家の熱烈に仰望するところとなり、世を導いた力は、生前・死後の別がなかつた。

 彦九郎が、天明七年に、祖母の墓前で詠んだ、

おのがまゝしげりし草も夏を經て 朽行く秋のはじめとはなる

は、後水尾天皇の「葦原やしげらばしげれ」の御歌を意中に置いたものであらうが、幕府の滅亡を祈つた彼の念願を汲みとることができよう。

(★ 光格天皇は、御父・閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊號をたてまつらうとお考へになり、これを幕府に傳へられたので、松平定信は前例を調査したところ、御即位なくして太上天皇と稱することは、國體名分上、正しくないと判斷して反對した。これが意外にも朝幕間のもつれとなり、寛政五年三月、中山愛親・正親町公明兩前大納言の處罰といふ事態に至つて、やうやく落着した)」と。
 
 

平成の高山彦九郎になりきる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月22日(日)00時21分21秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)に曰く、

「本書は、百年前の先師、高山彦九郎の眞姿を傳ふることのみを目的としない。史傳の眞諦は、千歳を貫いて、更ゆべからざる『生命』(いのち)の傳承脈絡にある。故に本著の使命は、『高山彦九郎』の生命を信解し、心讀し得る讀者の一個半個が、躬から昭和の高山彦九郎になり切ることにある。然らば『高山彦九郎』は、溌剌として、昭和の聖代に生きるであらう。‥‥

 皇政復古へ! 烽火は、既に二度(寶暦・明和兩事件)も掲げられた。かうした時代に、凡ゆる封建的約束を無視して、『天皇の赤子』として行動すべく生れ出でたのが、我が高山彦九郎、その人であつた。

 先生が、生れながらに啓示された使命は、全國の山澤巖穴の間から、時を同じうして湧出する、高山彦九郎的義人の總結集と、朝廷公卿有志との連絡、やがては寶暦・明和・安永の三事件による犠牲者の靈を弔ふに足る一大勢力を提げて、討幕の義軍を興し、陣容堂々、建武未遂の遺業を完遂せんとすることに在つた。

 そして此等の高山彦九郎的義人達は、山縣大貳の『柳子新論』に於ては、「英雄豪傑、忠信智勇の士」と形容され、頼山陽の『高山彦九郎傳』に於ては、「今、故紙を接して幟とにし、これを山廟門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得べし」と傳へ、高山先生の自作の和歌によれば、「てらす日の本の神々三千あまり 道をば守ることゝこそ思へ」とあつて、三千の神々によつて守護された、三千有餘の義人が地底に雌伏して、討幕の妙機を窺つて居ることを暗示してゐるやうである」と。



 愚案、高山赤城先生の「死する所以を推究」し、天下に闡明したるは、實に、備中の碩儒・川田甕江翁の『高山仲繩祀堂記』であつた。

 然るに明治の精神、やうやく崩れ、赤城先生の名のみ高くして、其の眞姿は忘れられ、而して戰後以降、三再び湮滅して、單なる旅行・探檢家になりつゝある其の秋、平成の小高山、出でよ、出でて、大高山を奉じて、明治維新の遺業を完遂せしめよ、との血の雄叫びを、小生は確かと聽いた。高山赤城先生の眞志を、現代に甦らせるもの、三上卓翁一卷の書、即ち是である。併せて之を表出し、有志の喚起を促すと云爾。

【參考・「青年日本の歌」史料館】
  ↓↓↓↓↓
http://www.taimukan.com/
 
 

赤城先生顯彰とは、名分を正し、大義を明かにする實踐に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月20日(金)21時28分12秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■赤城高山彦九郎平正之先生『高山彦九郎日記』第二卷に曰く、

「日本は、君臣の禮、正し。武將、威勢ありといへども、人臣、安んじ居る。然るを近世の俗儒共、文章の飾りに名分をみだる、大不敬也。先生(長久保赤水、豐臣秀吉公を『豐王』と稱することを)、改め給へ。義公、水戸家は、名分を正すと、兼ねて聞けり。徂徠・春臺等を法とする事なかれ」と。



●仲田昭一翁『高山彦九郎と常陸の人々』(『水戸史學』平成三年五月號)に曰く、

「高山彦九郎が、京都を中心に皇道の振起に努めると共に、水戸を訪れては、藤田幽谷らを激勵して、水戸の學問の興隆にも大きく影響するところがあつた。しかも彦九郎の歿後、その遺書等が蒐集されることによつて、その精神を體得し、實踐する尊王運動を喚起していつたことは注目されるところである。

 それが、常陸においては、杉山忠亮・藤田東湖・櫻任藏・加藤櫻老・長島尉信らが競つて蒐集し、水戸の尊皇會に於いて互ひにそれらを示し合ひ、勤王精神を鼓舞したのである。それはやがて眞木和泉守や有馬新七・矢嶋行康ら、他藩の者にも大きな影響を與へ、彼らをして幕末尊王運動に挺身させることになつた‥‥。

 このやうに、遺書など史料の蒐集は、重要な意義を持つものであり、單なる好事家のものであつてはならない。これについて林鶴梁は、蒐集にやつて來た矢嶋行康に對して、

『夫れ仲繩は、忠義の人也。足下外は、仲繩に深しと雖も、内は或は忠義に淺からんか乎。則ち家に萬卷を藏するも、何ぞ天下に益せんや哉。苟くも天下に益無きは、仲繩の喜ばざる所以ん也。然れば所謂る忠と義とは、古今の人々の爲し難き所ろ也。僕、老いたり矣。爲す能ふる無し焉。足下、 毎に仲繩の書を披けば、輒ち果して能く仲繩の人と爲りを庶幾せん。以て誠實摯篤の行に從事せば、則ち仲繩、復た今日に生くる也。 知らず、足下、以て如何と爲さん』

と述べ、常に彦九郎の書を披いて、忠義心を厚くし、天下に貢獻せよと教誡した。

 同じく有馬新七も、『高山彦九郎が手跡の後に書す』(長島尉信より彦九郎の書翰を得て、安政六年)の中で、

『抑も其の手跡を慕ふは、乃ち其の人を慕ふ所以ん也。後の觀る者は、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て、念ひと爲すべし。乃ち王を尊びて名分を正し、禮儀を崇びて、人倫をの實を明かにするに於ては、其れ亦た將に慨然興起して、補益する所ろ有るべし矣』

と述べ、手跡を慕ふことは、その人物の志を體して實踐することであると力説してゐる。

 それ故に矢嶋行康(愚案、平田銕胤大人門。上野高山神社祀官。『玉廼御聲』百卷・『高山朽葉集』八卷編纂)も、次のやうに決意を述べ、高山彦九郎の顯彰を實踐して行つたのである。

『予は、高山正之を只だ信ずるにあらず、正之の生を捨てし、その大義をとる。「正名分、明大義」の六文字をとるのみ‥‥。高山遺墨の蒐集は、徒らに物を集めんとする蒐集欲に出でたるにはあらず、其の純忠至誠の一點の、私心無く、生涯を勤王運動の實踐に徹したる、その高風遺徳を慕ひ、後世、勤王運動の龜鑑たる典籍を著し、尊王運動の思想の鼓吹と臣道實踐の大道を明らかにするにある』(矢嶋憲三郎氏『矢嶋行康と高山彦九郎』)」と。



 愚案、高山赤城先生の志は、藤田幽谷先生、最も能く紹述し得て、彼の『正名論』と成り、水戸學中興の礎を爲したのである。赤城先生逝いて二百二十年、平成の御代に於いて、先生を顯彰するとは何か、小高山たる者、各々深く省察する所あらねばならない。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/10

【參考・興亞思想】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asia2020.jp/japan/htakayama.htm

【參考・高山彦九郎記念館――データフアイル】
  ↓↓↓↓↓
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/
 
 

仰げば彌々高し、赤城先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月14日(土)21時29分14秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●贈正五位・醉古館木村下野介源謙翁『高山子吟』(『□[石+監]詩集』に所收。寛政二年七月六――八日)

高山子、高山子。東山の壯士、氣翩々。
七尺の形躯、三尺の劍。一箇の行李、半肩に在り。
天下の山川、躋攀し盡し。堰蹇口吟す、遠遊の篇。
行々鐵杖、長蛇を驅り。懷中の明珠、海天を照す。
自ら言ふ、四海、皆な兄弟。愁ひず、郷國の山川を隔つるを。
秋風、先づ到る、白川の上。眞人の紫氣、關邊に滿つ。
關尹、相豫して來往を占し。留め得たり、道徳、玄の又玄。
風塵俗物、誰か讀むを得ん。賓篆一字、直(あた)ひ十千。
天下の野人、醜男子。相見て笑談して、夜、年の如し。
天厨、饌を薦めて、君が爲に供し。玉液滾々、炊煙に對す。
座間、鮮を割いて、肉、堵の如く。樽前の大杯、酒、泉に似たり。
醉中、孝を談じて、奇癖を同じうし。尋問す、本朝の孝子傳。
人世の高行、誰か羨まざらん。君と同好、亦た自ら然り。
今日相逢うて、今日別る。惜しむ可し、再遊、已に愆多し。
老を忘れて、一時意氣豪なるも。鬢上□[參+毛]々、二毛を奈(いか)んせん。
吁(あゝ)、高山子、高山子。天下の要道、君が曹に屬す。
草鞋、虎の如く、雲霧を開く。知んぬ、君が至徳、高山、仰げば彌々高きを。



 三上大悲翁の曰く、「この長詩は、晩年の(赤城)先生旅行中の風格性行を能く寫し出して居るが、『天下の野人、醜男子、相見て笑談して、夜、年の如し』の二句に、兩快男子の面目躍如たるを見る。高山彦九郎と云へば、多血質の激情家の代名詞の如く思はれてゐるが、何ぞ圖らん、當時の知人達からは、屡々支那南方の古聖人老子に喩へられたものである。説かずして説き、説いて道學先生らしからざるところが、魁偉脱俗の風貌と相俟つて、『道徳經』五千言を殘して、遙かにペルシヤに向つて去つたと傳へられる、虚靜無爲の思想家老子を彷彿せしめたのであらう。

 木村謙、‥‥近藤重藏守重に從つて蝦夷地を視察し、エトロフ島に大日本國標を建てゝ、遙かに京都朝廷に向つて、拍手跪拜して祈念したと云ふ。藤田東湖の遺文には、『人となり、外狂簡に托し、内に忠義を存す。慨然として大志あり』とある。高山彦九郎的人桀の一人(愚案、吉澤義一氏『天下の豪傑・木村謙次』昭和六十三年二月・水戸史學會刊に詳かなり)‥‥

 先生の風貌は、その性行と相伴つて、一見して人に非常なる感銘を與へたらしく、當時の知人同志達は、先生を擬するに、或は老子を以てし、或は魯仲連・王猛・伯夷叔齊・荊軻等の戰國策士、豪傑または義人・刺客を以てし、或は漠然と英雄・神仙・奇士等を以てして、之を畏敬した」と。



●大西郷『偶成』(沖永良部島在囚中)

天歩艱難、獄に繋るゝの身、
誠心、豈に忠臣に耻づる莫からむや。
遙かに事跡を追ふ高山子、
自ら精神を養うて人を咎めず。



●大悲三上卓翁の詩(『高山彦九郎』卷末)

佯狂屠腹、斯の身を殺す。
豈に是れ尋常過激の人ならんや。
遺烈、長へに萬民をして起た教(し)む。
皇運を扶持して、日に維れ新たなり。



●保田與重郎翁『日本語録』に曰く、

「京都三條橋上より皇居をふし拜み、『草莽の臣・高山正之』と唱へた、この傑人の志は、天下に志ある人士の生命の原理となる思想を、白日の如くに表現したといふことが、今日では一段と明白になつた。わが國の臣の志を述べた思想として、又た文學として、高山彦九郎の、この一句より深いものはないのである。彼が何を思ひ描いた末に、草莽の臣と唱へて慟哭したか、この點を今日考へるがよい。

 この瞬間に、我が國民の草莽の志の中に、一本の筋金の如くに、神ながら、わが大君より傳る光は、貫流するのである。わが大君と、みたみわれの中間には何ものもないといふ自覺、神ながら、わが心に鎭り坐すといふ自覺こそ、あらゆる創造と、その表現と、その激しい行爲の根源である。我々の生命の原理は、こゝにあるのである。それは教へることも、説く必要もない、それをいのちの原理として生きるのが、わが古の道の教へのまゝに、君に仕へ國に報いうるのである。もしその契點を失つたとき、彼らは、わが自我を根柢とする時務の愛國論を、たとへ説き得ても、それは命の原理を了知せぬゆゑに、すでに死した精神の言擧に他ならぬのである。

 我々が『草莽』であるといふ深奧な思想の自覺を教へたのは、高山正之であつた。これほど偉大な思想の行爲は例のないことであつた。彼の志は、今日も生きてゐるのである。勤皇の思想と行爲の中で、最も明らかにそのまゝに生きてゐるものは、この純粹な高山正之の精神である。高山彦九郎の出現こそ、近世勤皇史の、嚴密な意味では第一頁におくべきものであつた。今日も我々は、高山彦九郎を思ふとき、感動と嗚咽を思ふのである。彼の志と精神こそ、今日の我々の生命の原理である」と。



 愚案、我が忠良臣道の龜鑑にして儀表、高山赤城先生を思ふとき、感動と嗚咽を覺えざる者、即ち「わが自我」を根柢とする時務論を展開して已まない所謂保守は、畢竟、君臣父子の大義に透徹すること能はず、皇國の歴史の組立てに與かることを得ないものとして、之を諦めなければならぬ。而して自ら任じて、赤城先生の精神に生きんと欲する者こそ、此の平成の聖代に、「維新」を唱道することが出來るのである。其の責任は、また重いと謂はねばならぬ。
 
 

高山赤城先生傳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月11日(水)21時22分27秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■高山赤城先生傳抄――『大日本人名辭書』(昭和十二年三月増訂・講談社刊)より。(云々)は、愚案なり。

 高山彦九郎。勤王家。字は仲繩、正之と稱す。上野新田郡細谷村の人なり。其の先、遠江守某(愚案、平重遠)、建武の亂(ママ。變と謂ひつべし。雲上の御計劃に、亂とは何事ぞや)、新田氏に屬す(義貞公馬側十六騎の一)。新田氏滅ぶるに及びて、其の裔、遂に微にして民間に在り。然れども其の郷里の舊姓たるを以て、猶ほ常に雙刀を佩ぶ。官、また之を禁ずることなし。父を良右衞門(正教)と曰ふ。膂力、人に過ぐ。毎に出づるに、必ず僕をして弓矢を負はし、數々(しばゝゞ)山野に遊獵して、猛獸を挌殺す。時人、其の勇を稱す。正之、幼にして孤となり(實は正之二十三歳の節、父横死すと云ふ)、祖母の爲めに鞠(やしな)はる。年、甫めて十三(寶暦九年)、『太平記』を讀みて、中興の忠臣、志業の遂げざるを見て、慨然として憤りを發し、頗る功名の志あり。

 年十八にして京都に遊び、書を讀むこと二歳、乃ち出でて都下の書生を見、交通、日々に廣く、名聲、藉(し)くこと甚だし。高門・巨室、多く布衣の交を爲す。名卿中山大納言(愛親卿)も、亦た其の人と爲りを奇として、善く之を遇す。是に於て正之、劍を杖いて四方に周遊し、至る所、必ず賢豪長者と交はる。此の時に當りて田沼氏(意次)、政を江戸に執り、風俗、大いに敗れて、侈靡、日に甚だし。識者、竊かに之を憂ふ。正之、上野に歸る。

 正之、長け八尺餘にして、鬚髯、神の如く、高邁にして奇節あり。議論英發、忠誠にして人を動かす。嘗て室直助(鳩巣)、論ずる所の著を見て、其の楠公、召に應じて、直ちに笠置に造(いた)るを以て、度量足らずと爲し、諸葛亮、三顧して乃ち出づるの事を引き、以て之を議するに至りて、憤然として罵りて曰く、

『腐儒(室鳩巣)、何ぞ事を論ずるの迂なるや。夫れ元弘の時、三國(支那の魏・呉・蜀)と年を同じうして論ず可けんや。漢の末、天下分裂して、豪傑竝び起る。此の時に當りて劉玄徳は、故(も)と履を販り席を織るの人、自ら稱して漢室の冑と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや。また猶ほ今世の奴婢輩の、號して源・平と稱し、以て自ら誇る者の如し。孔明の三顧して盧を出づるは、我が心に於て、猶ほ以て速かなりとす。百顧・二百顧を累ぬると雖も、猶ほ未だ緩と爲さず。楠公の如きは、則ち異なり。

 夫れ我が國體なる天朝は、神(「器」字の缺か)の在る所、六合の仰ぐ所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳ふ。普天の下、率土の濱、孰れか皇民に非ざらんや。而して楠公は、即ち廷臣(橘諸兄公)の裔、近畿の民なり。召命なしと雖も、豈に國家の難を見て、恬然、自ら安んず可けんや。天皇、塵を蒙ると聞き、奮然、袂を投じて起つ。安んぞ彼れ諸葛輩の爲すに倣ふことを得んや。書を讀む、是くの如くなれば、百萬卷と雖も、何の益かあらん』と。其の書を取りて、之を堂下に投ず。

 天明季年(八年正月晦日)、京都災す。正之、之を聞き、晝夜兼行して、馳せて京に赴く。夜、木曾山中を過ぐ。賊、數人あり。刀を拔いて、正之を脅かさんと欲す。正之、目を瞋らして叱して曰く、『汝、上野の高山彦九郎を知らざるか。今、天闕、災ありと聞き、馳せて之に赴く。汝輩、豈に我が刃を汚さんや』と。賊、皆な慴伏す。後ち巨賊、大阪の獄に繋がれ、自ら語りて云ふ、「平昔、未だ嘗て恐怖せることあらず。嘗て木曽山中に在りて、人を要して劫をなす。一丈夫の、目を瞋らして我を叱するに遇ふ。之を憶へば、いま尚ほ股慄するがごとし。彼れ自ら呼ぶ、高山某、と。豈に所謂天狗なる者ならんか」と。

 此の時、田沼氏、既に罷め、白川侯(樂翁松平定信)、之に代りて政を執り、改正する所ろ多し。之より先き正之、嘗て祖母の憂に遭ひ、鞠養の恩あるを以て、再期の喪に服せんと欲す。其の兄(專藏正晴)、之を止む。正之、聽かず。叔父長藏(劍持正業)と共に、冡側に廬すること三年。郷邑、之を稱し、事、江戸に聞こえ、有司、之を旌さんと欲す。會々正之を害せんと欲する者あり。兄に友ならずと誣告す。有司も亦た其の人の異常なるを以て、召して之を詰りて曰く、「庶民、刀劍を帶ぶるは、國に定制あり。汝、□[田+犬]畝の中に在りて、雙劍、身を離さざるは、抑々何の義ぞや」。正之、對へて曰く、『某、高山遠江守より以來、二十餘世、未だ嘗て一人の帶劍せざる者あらず』と。有司、其の言を奇とし、且つ其の磊落、他なきを憐み、因て之に謂つて曰く、「汝、仕官を欲するか。業とする所は何技ぞ。撃劍か、將た儒學か」。正之、曰く、

士は貧賤なりと雖も、身を以て人に許すこと、豈に容易ならんや。君子の仕ふるや、其の義を行ふなり。道の行はれざる、豈に一毫だも爵祿を獲取するの徳あらんや。且つ學は、人倫を明かにする所以なり。士の道に志す者、豈に盡く儒のみならんや。某、平生、書を讀む。然れども初めより未だ嘗て文士を以て、名あるを欲せず。故に書生の章句を治むるに倣はざるなり。また幼にして撃劍を好む。然れども技藝を以て身を立つるは、固(も)と欲する所に非ず。故を以て、肯へて仕へざるなり(赤城先生、天朝にのみ仕ふるの志あり。是れ處士たる所以なり矣)』

と。有司、微笑して曰く、「汝の言ふ所を以てするに、汝、亦た未だ仕へざる者は、唯だ之を求む可からざるの日に求めざるのみ。汝、文學者流に非ずと雖も、亦た道を以て自任す。儒と謂ふ可し。試みに『大學』を講ぜよ」と。正之、之を講ず。有司、曰く、「果して其の言ふ所に負かず」と。竟ひに之を釋す。是より正之、遂に家を辭して、日に遊歴を事とし、將に以て齒(よはひ)を沒せんとす。

 是より先き露人、屡々蝦夷に往來して、邊海を窺□[穴+兪]す。正之、深く之を憂ひ、躬自ら北地を歴視して、竊かに敵情を探らんと欲し、庚戌(寛政二年)の夏、遂に意を北游に決す。時に長久保玄珠(赤水)、江戸に在り。往いて別れを告ぐ。玄珠、之を壯なりとし、酒を置いて之を餞す。玄珠、家に鎭神露鐸を藏す。建武中、楠木河内(楠公)、奉獻する所の物なり。紋に玄武神あり。正之をして之を拜せしむ。正之、大いに喜びて曰く、『我れ將に北行せんとし、祖道に當りて此の神を拜す。吉、孰れか焉れより大ならん』と、盥嗽して禮服を着し、拜して感泣するに至る。

 竟ひに去りて水戸に至り、立原萬(翠軒)・藤田一正(幽谷先生)及び他の有名の士を訪ひ、留まること數日、乃ち發す。下野の人・蒲生秀實(贈正四位・修靜菴)も、亦た素より正之の人と爲りを慕ふ。其の北游を聞き、追ひて陸奧石卷に至る。及ばず。適々後醍醐天皇の塔婆の下に出づ。蓋し南北の亂に、官軍、嘗て陸奧に鎭す。故を以て今に至るまで、天皇の爲めに之を供養すと云ふ。秀實、彷徨遲囘して、一樵夫に遇ひ、問うて曰く、「汝、偉人を見ざるか」。對へて曰く、「小人、前きに一士人の爲めに傭せられ、水を荷ひて此に至る。其の人、即ち水に浴して禮服を着し、塔婆の下に就いて跪拜し、懷中の文を出して之を讀み、一字終はる毎に、歔欷して禁まず。今を去る、既に十日。君、問ふ所は、或は此の人か」と。秀實、其の竟ひに及ぶべからざることを慮りて、乃ち返る。正之、南部・津輕を經て松前に至り、竟ひに蝦夷の境に入る。奔走累日、頗る足力を極む。既にして忽ち囘顧の志あり。乃ち松前より海に航す。風帆、飛ぶが如く、三日三夜にして中國に達し、京に留まること數月、明年辛亥(寛政三年)、京を辭して西海に遊ぶ。是の歳三月、夷舶、紀伊大島浦に至り、また筑前・長門の邊海に出沒す。幕府、令を下して備を嚴にせしむ。壬子(寛政四年)夏、露人、我が漂民を送りて、禰牟呂に到る。明年、幕府、石川將監等を遣はして、事由を按檢せしむ。正之、西海に在る、凡そ三年。是に至りて、遂に京都に歸る。

 是の歳、中山大納言、詔を奉じて、江戸に至る。其の事祕して、世に其の實を知るもの莫し。是より先き(寛政三年)正之、京に在りて、嘗て鴨川の湄を過ぐ。童子の龜を捉へて、之を玩ぶあり。甲上に文あり。尾毛□[參+毛]々、所謂緑毛龜なるものなり。正之、見て之を奇とし、乃ち金若干を與へて之を得、伏原正二位(清原宣條卿)に謁して覽に呈す。二位、また以て祥瑞と爲し、即ち天覽に供す。叡覽、焉れを嘉賞す。蓋し竊かに宸極の餘光を瞻仰するを獲ると云ふ。正之、布衣羇旅の士を以て、其の志、常に皇室を尊び、夷狄を攘ふに在り。其の天下を跋渉して、人心を激勵し、義者を鼓動する所以、未だ嘗て其の至誠に出でざるはあらず。其の寶龜を得る、人、以て精誠の感ずる所と爲す。其の後ち之を久しうして、正之、遂に意を當世に得ず。居ること、常に怏々として樂しまず。再び西海に遊びて、筑後久留米藩士林嘉膳(實は森氏。思齋)の家に至り、居ること數日、忽ち病む所あるが如し。

 一日、齎らす所の日乘を出し、寸裂して之を水中に投ず。嘉膳、驚いて其の故を問ひ、且つ曰く、「積年の盡力、一期にして之を失ふ。豈に甚だ惜しむ可からずや」と。正之、曰く、『我また之を愛惜するを知らざるに非ず。然れども百事、已みなん。況んや此の鷄肋、何ぞ深く惜しむに足らん』と。嘉膳、曰く、「足下の所爲を以て、後世、或は不良の事を爲すと疑はば、其れ何を以てか、之を解かん」。正之、即ち止む。嘉膳、既にして退く。須臾ありて、正之、刀を拔いて腹を屠る(白晝の刻)。嘉膳、驚き見て問ひて曰く、「何爲れぞ、此の如きに及ぶ」。正之、曰く、『我れ常に國家に報いんと欲し、其の忠を爲し義を爲す所以のもの、今、不忠不義の事と爲る。已むべし、我が智の及ばざるなり。是れ天、我を殺すのみ。幸ひに我が爲めに、天下の人に謝せよ』と。嘉膳、曰く、「國に法あり。願はくは、子、治療を加へよ」と。聽かず。嘉膳、曰く、「我れ子を館して、子、自殺し、若し治を加へざれば、我が違法の罪も、亦た逃るる所なし。願はくは、子、之を諒せよ」と。正之、之を許す。

 頃之して東方を指して問ひて曰く、『帝都、及び故國は、此れか』。嘉膳、爲めに東北を指示す。正之、拍手再拜して、嚴然端坐し、談話、平生の如し。既にして醫、來りて之を視、吏、來りて之を檢し、故を問ふ。正之、曰く、『發狂のみ』と。其の郷貫を問ふ。曰く、『上野新田郡細谷村』と。是に於て問ふこと屡々なれども、また答へず。吏、乃ち正之齎らす所のものを閲す。毫も疑ふ可きものなし。唯だ天下、名山・大川・勝區の圖書、及び忠臣孝子の行状・諸名家送る所の詩文あるのみ。曉に至りて、正之、竟ひに絶す(辰の中刻)。年四十七。實に寛政五年六月二十七日(實は二十八日)なり。久留米侯、聞いて之を憐み、乃ち命じて新田領主に告げ、其の貯ふる所の物件を封じて郷里に送還し、正之を府下遍照院に葬る(髮長、諡して松陰以白居士と曰ふ)。

 正之、既に死して、數月を後れて、其の墓下に自死する者あり(西道俊、即ち是れ也)。世、其の所以を知ること莫し。其の人、状貌魁偉、蓋し唐崎常陸介(贈正四位・赤齋先生。安藝竹原の人。曰く、「首は宮闕に向ふ」と)なり。唐崎も、亦た慷慨の士、正之、初め其の名を聞き、未だ其の面を識らず。一日、聖護院法親王に詣り、一士人に遭ふ(實は寛政三年六月二十九日、若槻幾齋の家)。骨相、非常なり。正之を見て曰く、「高山殿に非ざるか」。正之、曰く、「君は唐崎殿か」と。因りて手を執りて、相泣いて曰く、『天下の事、何爲れぞ、此の極に至る』と。卒ひに相與に結んで、膠漆の交を爲す。適々正之の死を聞き、豈にまた相感ずるに非ざるなからんや。

 明治十一年(三月八日)、正四位を贈り、(十二年十一月)上野太田町に、高山神社を建て、正之の靈を祀る(十三年三月二十二日、縣社に列す。大祭三月十五日)。『事實文編』。


**********


【――寛政事件(尊號問題)にて、七士憤死し、皇政復古を俟つ――】

一、高山赤城、屠腹。寛政五年六月二十八日歸幽。
一、山本以南、投水。寛政七年七月二十五日歸幽。
一、唐崎赤齋、自刃。寛政八年十一月十八日歸幽。
一、權藤涼月子、斥藥。寛政十年八月十日歸幽。
一、西道俊、刎首。享和二年五月二日歸幽。於赤城先生墓前。
一、富田大鳳、自病。享和三年二月二十五日歸幽。
一、龜井南溟、投火。文化十一年三月三日歸幽。

 三上大悲翁の曰く、「以上の七士は、尊號問題を契機として遂行されんとした、皇政復古・維新事件――吾人の所謂寛政事件の犠牲者である。しかも此の七士が、何れも幕府の爲めに刑戮せられることなく、符を合した如く自殺の道を選んだところに、此の事件の深刻な骨格を見るのである。

 さもあらばあれ、高山先生及び此の六士の忠死は、徒爲でなかつた。‥‥先生等の滿身の碧血は流れて、全日本の山澤巖穴に浸透し、やがて五十年の後、明治御維新に起つた、澎湃たる尊王討幕の大風濤と化した。唐崎常陸介が、有馬主膳へ傳へた埀加神道の傳書奧書に、『永く斯道に矢(ちか)つて、忽焉たること勿れ』とあるによつても、明白なる道統血脈の連結は、士民を問はず、簇々として生起する討幕の義士達の懸命の誠忠となり、遂に幕閣を倒覆して、克く明治維新の大業を翼贊し得たのである。藤田幽谷が、先生を弔ふ文に、『志士の世を憂ふるや、瞻言百里、識慮の深長なる有り云々』とある。

 嗚呼、多きは人、少なきも亦た人。高山先生も、亦た在世の時、屡々此の長嘆を發したことであらう。嗚呼、少なきは人。更に少なきは、人の『むすび』、眞人の血盟である」と。
 
 

嗚呼、囘天創業の首倡者・高山赤城先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月10日(火)18時27分15秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■明治天皇御製

國のため こゝろ盡して 高山の いさをもなしに はてしあはれさ


□照憲皇太后御歌

ながらへて 今世にあらば 高山の 高きいさをゝ たてましものを


□有栖川宮熾仁親王御歌

高山の いさを思へば 大方の 人にこえたる 人にぞありける


□有栖川宮妃御歌

大御代に 心つくして 高山の いさをは世々に 鏡とぞなる



●赤城先生の哥抄

○寶暦十四年詠
東山 上りて見れば 哀れなり 手の平らほどの 大宮どころ

○寛政三年三月十五日、恐れみ畏れみ敬み謹みてよめる。同一月十九日、琵琶湖にて得し緑毛なる瑞龜を天覽に奉りし時、聖護院の人となりて參入り、龍顔を伏拜みけるに、光格天皇には、高山彦九郎なる者を知れるやと問はせ給ひける由、承りぬるを嬉しみ忝み奉りて
われをわれと しろしめすか[一作、ぞ。或作、と]や すべ[め]らぎの 玉の御こゑの かゝるうれしさ

○寛政四年詠(鎌田忠助・雜録)
薩摩びと[薩摩潟] いかにやいかに 苅萱の 關もとざさぬ[關の戸さゝぬ] 御代と[御世を]知らずや

○寛政五年六月二十七日、心に思ひ定むる事ありて
まつざき[松の木]の 驛(うまやぢ)[厩(うまや)]の長(をさ)に 聞い[問ふ]て知れ 心つくしの 旅のあらまし
朽ちゝりて[朽ちはてゝ] 身は土となり はか[墓]なくも 心は國を 守らんものを

○久留米來客中、故ゑ有り、屠腹辭世(執行俊風に遺す)
さはがしき この雲風は いつはれて さやけき皇(きみ)の 御代となるらん

○赤崎海門に託せし辭世(西山拙齋翁遺文)
あふ事の おぼつかなみの わかれ路は いとゞ名殘の 惜むとぞ知れ



●赤城先生『長子儀助に與ふる訓戒』に曰く、

「其許(儀助)、學問に志し候ふ上は、能々心掛くべき肝要の事、是あり候ふ。章句に拘り實事を研究せざるは、學文の何たるを知らざるものに候ふ。人倫の大道は、修身・齊家、專一に候ふ。然る上は、天下も治め得らるゝものに候ふ。益なき詩文を作り、學文を文(かざ)るは惡きに候ふ。必ず實直に學文する事、肝要に候ふもの也」と。



●『高山芳躅志』に曰く、

「神村(伊勢崎藩儒・浦野知周)、曾て門人に對し、『論語』を講ずる時、君(赤城先生)、偶々訪ひ來り、門人と均しく列次し聽き居たりしが、「景公、政を問ふに對へたまひ、君々臣々父々子々たり」の一段に及ぶ。君、潸然と流涕し、終に聲を放つて號哭せり。門人、傍らより「此の講談、左程に悲しきものにや」と云ふ。君、忽ち膝立直し劍を按じて、『景公の如き錦衣玉食の、世情に疏き公子さへ、「君子、名分を正す」の聖語に感激し、「食を絶ちて死なん」とこそのたまふに、かゝる講談を餘所に聞流すことの情けなさよ。畢竟、汝等は、皇國の糟粕、亂臣賊子(將軍徳川)の奴僕なるべし』と罵り、猶ほ數行の涙を拭ひしとぞ」と。



 愚案、高山赤城先生は、燈涙を剪つて學に勉むる讀書子であると共に、何より至孝の人であつた。其の熱祷は、神祇伯吉田二位卜部良倶卿に請願して、祖父母の神號・壽號「伊賀鎭(いがし)靈神・鎭得靈神」の宣授にも成功してゐる。殊に敬神崇祖は、其の行旅に祖神の靈儀を體携して、常時供饌菓果を薦め、出入、必ず之に拜禮することを例とした。且つ其の式事、禮拜稽首の度數に於いては、或は何萬何千を算することもあり、赤城先生、此の孝心の根柢あらばこその、「忠魂一貫」(今泉定助翁の贊)・「至誠動天」(頭山立雲翁の贊)の、無位の「眞人」(近衞文麿公の贊)である。



●赤城先生『京日記』寛政二年十二月二十五日條(高山彦九郎先生頌讚會編『高山彦九郎京日記』昭和六年三月・參龍閣刊)に曰く、

「昨夜、寢る。事ありて、すぐに起きて、早朝に行水し、麻上下になりて、謹みて鎭得靈神(赤城先生の祖母・大槻氏りん子刀自)を拜し奉り云々。七萬九千百六十拜に至れり、及び十萬餘の拜と、‥‥早朝より夜に入るまで、座せるまゝ動かず云々」と。



●赤城先生『楠公の墓前に於いて敬録す』
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 なほ時間が許すならば、『大日本人名辭書』より、赤城先生の傳の筆寫を期したい。また大悲三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)は名著なれば、是非とも清覽を乞ふものである。「囘天創業、是れ斯の人」(大西郷の贊)、高山赤城先生、何としても現代に蘇つて戴かねば、戰後の闇は照らされぬ。

 服部栗齋も曰はずや、「昔は芭蕉ありき。松島や、あゝ松島や、松島や、と。今は余は、あゝ高山や、高山や」と。
 
 

三條戀闕の志を繼ぐ者。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月 5日(木)21時38分51秒
返信・引用 編集済
   平成二十四年三月二十四日、「三條の會」發足の御由、洵に同慶の極みなりけり。命名者・祝詞奏上者は、大行社青年隊長・木川智氏なり矣。

 贈正四位・縣社高山神社祭神・赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩先生、「少(わか)くして平安に入り(寶暦十四年、先生齡十八)、三條橋の東に至る。『皇居は、何方ならむ』と問ふ。人、指して之を示す。即ち地に坐し、拜跪して曰く、『草莽の臣、正之』と。行路、聚りて觀、哭きて顧みざるを恠しむ也」とは、頼山陽外史の文にして、赤城先生は、等持院に到り、足利高氏の古墳を見、弗然として曰く、「汝(高氏奴)、國賊よ、皇朝連綿たる不磨の歴史を傷つけ、私しに累代不易の帝位を左右し、徒らに皇謨の綱紀を紊し、所謂る北朝なるを立てゝ後ち、天朝を攻め奉るに到る。其の暴悖、厭く所を知らず、洵に其の專横逆激の状、允す可からず矣。汝、來りて速かに罪を天下に謝せよ」と、暫し瞑目、忠涙、滂沱として滴る。忽ち鐵鞭を執つて、其の墓碑を擲つこと、數次たりと傳へたり。
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○橘曙覽翁「高山彦九郎正之」(『松籟艸』所收)

大御門 そのかたむきて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 眞心たふと

○眞木紫灘先生「草莽臣高山彦九郎正之を詠める」

高山の 大人なにひとぞ 人ならば よぢてもみてん 我何人ぞ

○平野國臣先生(安政五年十月一日詠、赤城の墓を奠し、石燈一基を獻ず)

一筋に おもひしみちは さりながら まだき時よは せんすべもなし
よしやその 時こそ至らね 益荒雄の 捨てし命は 大きみのため
苔の下に なほ魂あらば 大御爲 つくす我身に 添ひて守れや

○西郷南洲翁「彦九郎を詠める」

精忠純孝、群倫に冠し、豪傑の風姿、畫圖に眞なり。
小盗、膽驚く、何ぞ恠むに足らむや、囘天、業を創むるは、是れ斯の人。

 「三條の會」、一人でも多くの御方の贊同を得むことを‥‥、只管ら懇祷す。其の發足、餘りに嬉しくて、些か赤城先生を抄せざらむと欲すと雖も能はざるなり。



【參看『宮城遙拜詞』・『宮城參拜詞』、竝びに作法】
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 愚案、吉田松陰先生『松下村塾規則』に曰く、「一、晨起盥梳、先祖を拜し、‥‥東にむかひ、天朝を拜する事、假令ひ病に臥す共、怠るべからず」と。戀闕者の已む能はざる所、松陰先生の嚴命する所、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。



●日岳富田大淵藤原大鳳先生『高山仲繩を送るの序』・『晩秋、祇山に上つて感あり、賦して諸生に示す』
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●森嘉膳翁手記『高山彦九郎自殺の事を記す』(福井久藏博士『高山朽葉集』卷之七・昭和十九年七月・日本書院刊に所收)に曰く、

「(赤城先生、屠腹、遺言して)曰く、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひし事、皆、不忠・不義の事になれり。今にして吾、智の足らざる事を知る。故に天、吾を攻めて、斯の如く狂せしむ。天下の人に、宜しく告ぐべし』と云々。‥‥

(赤城先生)東方を指し、問うて曰く、『帝都、竝に故國は、此の如きや』と。(森嘉膳・永野十内)答へて曰く、「丑寅へも當る可きか」と。此に於て(赤城先生)席を改め、柏手を打ち、心念じ終つて、又た談話、初始の如し。端座嚴然として、容を亂さず。其の夜、戌の刻許りに至つて、氣力衰へ、倒れ伏す」と。



●幽谷藤田一正先生『高山處士を祭る文』(菊池謙二郎翁『幽谷全集――幽谷先生遺稿』昭和十年六月刊に所收)に曰く、

「維れ寛政六年、歳は甲寅に次る、三月戊子の朔、越えて十一日戊戌、水戸の藤田一正、謹んで清酌庶羞の奠を以て、上野の高山處士(赤城先生)の靈に告げて曰く、

 嗚呼、吾れ子(赤城先生)と別れて、一日三秋、豈に圖らんや、不幸、自ら大憂に遭ひ、孤廬に泣血せんとは。再期、未だ周らず。側(ほの)かに聞く、處士の暴(には)かに西州に死するを、夢みるが如く覺むるが如く、驚嘆、休まず。一たび之を思ふ毎に、人をして悸を病ましむ。喪(幽谷先生の尊父)、既に服を除し、月を閲すること凡そ四たび(四箇月)、乃ち始めて酒を取り、祭哭して位を爲す。

 鳴呼、子よ、奚を以てして、暴かに死せるや邪。豈に誠に已む能はざる有りて已むか邪、將た已むを得て已まざらんとするか邪。獨り夫の先哲、身を守るの義を聞かずや邪。假使ひ衾を啓き簀(病床)を易へ、以て全歸せざるも、何爲れぞ乎、腹を割き腸を屠し、以て死に就けりや。西海と東海と、風馬及ぶ莫し。傳へ聞く、之が紛紛たるを、曷んぞ異議を免れん。人、堯・舜に非ざれば、誰か能く善を盡くさん。

 鳴呼、子よ乎、吾れ其の變に處するを悲しむ。惟だ子の、王母(祖母)に供養し兮、湯藥に侍して倦まず、喪に服し冢に盧すること三年兮、實に今世の鮮しとする所、兄弟の撰(兄上の專藏翁と赤城先生の行ひ)を異にする兮、人心の面におけるが如きを奈んせん。既に棣萼の芳を聯ぬる(兄弟愛)無く兮、鶺鴒の原に在るを嘆ず。其の祖妣に於けるや、孝敬、斯に至る。豈に獨りの同胞のみ、友愛存する莫からんや。噫、彼の小人は、好んで人の惡を成す兮。爰に郷議の愈々喧なるに罹り、西の方に遊び、志を桑孤に償はんと欲す兮。宅一區(資産)、寧んぞ身を田園に終へんや。

 嗚呼、子、匡章に類する有るか(『孟子』離婁篇三十章の齊人)。自ら吾が賢の、孟軻に非ざるを痛み、隷貌交接、他日、之が冤(郷里を捨てし不孝)を雪がんと欲す。獨行異調、固より時俗の能く和する所に非ず。況んや乃ち生死の路を殊にする、千秋□(貌+之繞)乎として、山河を隔つ。昔、予(幽谷先生)、師(立原翠軒翁)に從ひ江戸に宦學し、始めて子と蓋(盃)を傾けて、晤言(對面親語)するを得たり。久しく□(人+周。てき)儻の高節を想像し、忽ち奇偉の盛論に激昂す。吾れ何を以てか、大兒、忘年の交(年齡を問はぬ交流)を辱くするや。獨り禰衡(後漢の人)の偃蹇(驕慢)たるを愧づ。疾めば則ち藥を餽り、歸れば則ち行を送る。子の東するや(寛政二年)、又た余が門を顧みる、堂に上り親しみを拜して、已に數歳、音容、目に在つて□[言+爰。わす]る可からず。

 嗚呼、子、夙に高尚の質を懷き兮、魯仲連の人と爲りを慕ふ有り。難を排し紛を解く、戰國の策士に非ずと雖も、世を輕んじ志を肆まゝにし、太平の逸民と爲らんことを庶ふ。能く王を尊び、而して覇を賤しむを知る。豈に啻に當年の秦を帝とせざるのみ(魯仲連、秦に屈せず)ならんや。□(士+宕+木=袋。たく)中の裝、一錢無く、而して□□(萠+刂。糸+侯。かいこう。祖末な劍)を彈じて、以て津を問ふ。書は纔かに名姓を記するに足り、而も劒は身を防ぐに餘り有り。身、國に爵位有るに非ず。仕へずして、乃ち朝廷に心す(是れ其の「處士」たる所以なり)。赤狄(露奴)の北陲を蠶食し、而して神州を窺□[穴+兪。ゆ]するを聞き兮、其の後世、天下蒼生の害とならんことを恐る。上下宴安、方に鴉毒に耽る兮。子、獨り慷慨、命を受けずして、以て私かに行き、陽つて浪客となり、而して山水を漂遊し兮、陰に國家の爲に虜情を偵探せんことを欲す。衣冠禮樂の文物(歴史傳統)をして、被髮左衽の羶腥(夷狄の風俗)に變ぜざらしめんことを期す。豈に萬里の外に封侯し、以て一身を富貴の榮に取らんと云はんや。杞人は天地を憂ヘ、而して孀(やもめ)は緯を恤へず(天下國家を憂へり)。知らざる者は、誣ふるに狂名を以てす。一別の後、杳として消息無し。或は其の北海より、直ちに帝京に入ると傳ふ。豈に關防嚴禁、其の要領を得る能はざるか邪。

 抑も黠賊の濳謀、未だ狡計の其の形に見はるゝ有らず。志士の世を憂へるや、百里を瞻言し、識慮の深長有り。偸惰、自ら喜び、快を一時に取るは、乃ち愚人の常のみ。爾後三年、果して北使の事(露ラツクスマンの根室來港)有り。關を叩き塞を欵き、而して互市□(手+寉。かく)場(通商貿易)を請ふ。既已に甘言重幣、以て我を誘ひ、加之のみならず虚聲恫喝、以て其の富彊を誇る。彼れ將に還つて我が國を股掌の上に玩び、以て其の志を得んとす。何ぞ我が國勢の陵遲せる、而して威武は張らず、中行の説に伏し、而も其の背に苔うたず、遂に醜虜をして、我が東方を輕視せしむ。廊廟、豈に策を獻じ纓を請ふの士乏しからんや。徒らに草茅の人(庶民)をして、筆を投じて心傷ましむ。是の時に當り、子、其れ何くにか在る。劒に倚り、而して子を長天の一涯に望む。它日、國家、或は子を得て之を用ひば、死を視ること、歸するが如く、水火に赴いて、而も辭せず、當に惰夫をして敵愾の志を立たしめ、古人をして蹈海の奇を專にせしめざらしむべし。

 嗚呼、晝夜の道、死生も、亦た大なり矣。太山鴻毛、輕重、各々其の時有り。羞惡の義は、天性に根ざす兮。道行く餓夫も、亦た猶ほ磋來(無禮)の食を屑しとせず。唯だ豪傑の士は、能く忍ぶこと有つて、大謀を成す兮。胯を出て履を取るの辱、皆な之を爲して疑はず。惟だ子の羇旅するや、備さに險阻の艱難を嘗む兮。千辛萬苦、其れ誰にか語らん。麑島の行・筑州の寓、豈に節を屈し、以て心思を拂亂する有らんや。惜しいかな夫、身を以て君父の急に殉ずる能はず、空しく劍鋩に伏して、以て鮑焦(周の隱士)の徒と、歸を同じうす。絶に臨み、從容として天下の人に謝す兮。萬里、之を聞いて、我が心をして悲しましむ。英魂招くも返らず兮、彼の白雲を仰げば、而して神馳せ、寤寐の間に耿々たり兮。猶ほ其の雄偉の氣と、魁岸の姿とを見るがごとし。吾れ既に兒女子の態を作し、而して子を弔するを欲せず兮。風に臨んで悵然、獨り涕涙の相隨ふを覺えず、疇昔を感念し、哀しみを一奠の詞(弔辭祭文)に寄せり。惟れ子の知る有らば、髣髴として來つて、此の巵(盃)を擧げよ。尚くは享けよ」と。
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http://komonsan.jp/images/komonsan/pdf/tokusyu8-2.pdf



●復堂杉山忠亮翁『高山正之傳』に曰く、

「(赤城先生)嘗て室直清、論著する所(室鳩巣『駿臺雜話』)を見、楠公を論じ、召に應じて、直ちに笠置に造るを以て、度量足らずと爲し、諸葛亮、三顧して、乃ち廬を出づるの事を引きて、之を議するに至つて、憤然として罵つて曰く、

『腐儒、何ぞ事を論ずるの迂なるや。夫れ元弘の時、豈に三國と年を同じうして論ずべけんや。劉漢の末、天下分裂し、豪傑竝び起る。此の時に當り、劉玄徳なる者は、故と履を販り席を織るの人、自ら稱して「帝室の冑」と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや。亦た猶ほ今世の奴僕輩、源平を號稱して、以て自ら誇る者のごとき也。孔明の三顧して出づるは、我が心に於て、猶ほ以て速しと爲す。百顧・二百顧を累ぬと雖も、猶ほ未だ緩しと爲さず。楠公の如きは、則ち是に異る。赫々たる天朝、神器の在る所、六合の仰ぐ所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳ふ。普天率土、孰れか皇民に非ざらん。而して楠公は、則ち廷臣の裔にして、畿内の民也。召命無しと雖も、豈に國家の難を視て、恬然として自ら安んず可けんや。天皇、蒙塵したまふを聞かば、奮然として袂を投じて起つべし。安んぞ彼の諸葛輩に效ふことを、之れ爲すを得んや。書を讀むこと、是の如くんば、百萬卷と雖も、何の益かあらんや』と。

 其の書を取りて、之を堂下に投ず」と。



●紫灘眞木保臣先生『高山處士五十年忌辰祭文』に曰く、

「嗚呼、公(赤城先生)や、果は義たり、而して勇は仁たり。識見高邁、風節超然、凛乎として寒松の墓山に立つが如し。公、尊皇攘夷を以て自ら任じ、蝦夷に事有るを聞くや、獨り大刀を提げ、晝夜兼行、怒浪を蹶り、鯨鼈を叱し、以て深く不毛を究む。其の京師に在るや、禁闕の蕪を視、以て朝典の衰を慨し、痛心疾首、涙、常に衣を濕す。而して□[手+晉]紳の徒、此に奮起す。公、竊かに焉れを知る有り。晩に遂に天下を周遊し、觀風察俗を以て事と爲す。東西南北、至らざる所ろ無し。深山大川、艱勞避けず、所在、孝を勸め、過ぐる所、義を起す。而して異學を斥け、世教を敷き、其の功、孟子と異ならず。一日、義に感ずる所ろ有り、慷慨、我が地に客死す。

 嗚呼、公や、其の才徳、天、實に之を生じ、而して之をして位を得せしむること能はず。地、實に之を育し、而して之をして榮に居らしむこと能はず。然れば則ち其の之を生育する所以の者は、何ぞや。世衰へ、倫喪ぶに及べば、則ち天、有徳を生じ、以て之を匡正せしむ。公、蓋し其の任に當り、而して庶□[王+民]を木鐸する者也。公の世に在るに方つてや、其の意を知る者は、數人に過ぎず、而して今や、五尺の童子も、其の名を稱し、以て其の誠を仰がざるは無き也。公は今を距ること五十年、古碑、榛荊に委すと雖も、精氣の世を蓋ふや、赫々乎として、雷霆の蒼黄を動かすが如し。乃ち知る、天地の之を生育する所以は、此に在つて彼に在らざるは明けし。

 今年壬寅(天保十三年)六月二十七日、實に公の正辰に當る。乃ち同志とともに、敬しく薄奠を陳べ、以て厚志を表す。予、公の義を慕ふや深し。時、此の日に刄る。感勵の至に堪へず、泣いて以て酒を薦む。神、尚くば思へ。眞木和泉守平保臣、外か同志一同」と。



●甕江川田剛翁『高山仲繩祀堂記』に曰く、

「夫れ仲繩は、曠世の偉人にして、先儒、其の事を録する者、前には則ち淇園(皆川)・栗山(柴野)・石梁(樺島)・茶山(菅)、後には則ち幽谷(藤田)・復堂(杉山)・山陽(頼)・拙堂(齋藤)、序あり、傳あり、祭文・碑銘あり、多くして且つ備はる。顧みるに獨り未だ其の死する所以を推究せず、或は目して病風喪心の致す所と爲す。今ま竊かにこれを憾みとす。

 蓋し仲繩の忠義は、天性に根ざし、而して其の先も、また節を南朝に殉ず。嘗て『太平記』を讀み、大いに感憤する所あり。此の時に當り、光格天皇、妙齡英發にましたまふ。佐くるに一條(關白輝良公)・中山(大納言愛親公)の諸公を以てす。而して幕府は、則ち大將軍浚明公(家治)、田沼意次を寵任し、群小、柄を弄し、綱紀、大いに紊る。仲繩謂へらく、『以て王權を復すべきなり』と。乃ち名を文事に託して、四方を周遊し、地形を觀、民情を察す。人に遇ふ毎に、輒ち正閏・王覇を論じ、以て陰に同志を募る。既にして公薨じ、文恭公(家齊)、繼ぎて立つ。意次を黜けて、松平定信を用ひ、衆賢茅茄、百弊、頓に革り、徳川氏の業績、復た興る。是に於て仲繩、自ら其の時機、未だ至らざるを知り、身を殺して、以て其の跡を滅す。‥‥

 もしそれ遲疑して生を偸まば、府吏の逮捕する所と爲り、則ち承久・元弘の變、立ちどころに待つべし。何ぞ其のあやふきを見ることの早くして、且つ明かなるや。或は其の敕を受けずして、妄りに動くを議するものあるも、是もまた過てり。何となれば、事成れば、則ち功を朝廷に歸し、成らざれば、害を一身に止む。又いづくんぞ其の敕あると否とを問はんや。且つ夫れ九重深嚴にして、尊卑懸隔す。而して仲繩は、東鄙の一匹夫を以て、交を公卿に納め、嘗て竊かに天顔を窺ふことを得たり。則ち其の密旨を奉じて、以て義故を募るも、亦た未だ知るべからず。然らずんば其の將に死なんとするとき、手記を寸裂して、以て水中に投ずる者は、何ぞや。其の東に向ひて、遙かに帝都を拜する者は、何ぞや。其の語を海内の豪傑、好在せよと寄する者は、何ぞや。嗚呼、仲繩の死は、上は公卿流竄の禍を當時に救ひ、下は志士勤王の端を後日にひらく」と。
 
 

泉水隆一監督の至願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月31日(土)19時19分53秒
返信・引用 編集済
   櫻花の季節を迎へようとしてをります折節、或る「靖國神社研究家」と稱せられる御方から、實は『靖国神社の真実』の骨髓とも謂ふべき論評を賜はりました。曰く、

靖國神社論・靖國神社史を書く後學の諸賢には、隨一の出典となる新論ばかり、戰後のフイルターを除去して、一擧に靖國神社の眞姿を目の當たりにするの思ひを抱懷せしめる貴重の書です」と。

 然うなんです、御氣づきでせうが、本書には、誰も聞いたことも無い、書くことが出來なかつた、

靖國神社の事歴

が書かれてをるのです。現代「保守」の醜態は、それはそれで貴重でありますものゝ、所詮、一座の泡沫にして、我が光輝ある歴史の組立てに與かること能はざるを證したものに過ぎず、寧ろ我が塾頭が書かれた、靖國神社精神の歴史にこそ瞠目すべく、諸賢の精讀熟覽を乞ひたいと存じます。

御羽車
合祀祭
諸霊祭
みたま祭
鎮霊社
昭和殉難者合祀
‥‥

 明治天皇の聖旨に基づく、此の大精神史、祭祀の本義を、我が塾頭は、一體、何方から聞かれたのでありませうか。其の論究の成果だけでは、決して無いでありませう。洵に貴重なる「歴史の證言」と謂はねばなりません。

 『靖国神社の真実』を讀まれて、目が醒めた、感激したとの仰せは、幾人もをられました。本道に嬉しい事であります。願はくば、此の掲示板でも、或は他の媒體でも宜しいので、書評・感想を賜はりたいと存じます。

 『靖国神社の真実』初版九百册、増刷三百册(未版)、計一千二百册――泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭・福井金城翁「血の雄叫び」を、どうか、滿天下に恢弘宣傳して戴き、靖國神社正統護持、引いては皇國護持、皇室翼贊の誠を捧げて戴きたいと存じます。
 
 

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