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國危きに見はれたる貞臣孝子、正二位・小松内府平重盛公。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月 4日(土)23時22分27秒
返信・引用 編集済
   今年のNHK大河ドラマは「平清盛」であるが、其の嫡男・重盛公の描かれ方に注目してゐる。以前の『太平記』では、楠公の遺言を改竄して、非道、眞に極まつたものであつたが‥‥。現代の脚本家、驕る者久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。「六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しゝ人のありさま、傳へ承るこそ、心も詞も及ばれね(言語道斷の謂ひ――よう云はぬわ)」(『平家物語』)。



●平泉澄博士『再續・父祖の足跡』(昭和四十一年七月・時事通信社刊)に曰く、

 燈は一たび輝いて、やがて消える。清盛の勢力、西山に沒せむとする太陽さへ、招きかへすとまで云はれた時、外には源氏の擧兵あり、内には病魔の迫るあつて、滿月すでに缺け、燈影大きく搖れるの感があつた。そして翌年(治承五年閏)二月四日、清盛は遂に亡くなつた。兼實は、その日記の中に之を論評して、次の如くに云つた。

『准三宮入道前太政大臣清盛(法名靜海)は、累葉武士の家に生れて、勇名世をおほふ。平治の亂逆以後、天下の權、ひとへに彼の私門に在り。長女は初め妻后に備はり(清盛の長女徳子、高倉天皇の中宮)、ついで國母となれり(安徳天皇の御母――建禮門院)。次女兩人、共に失政の家室となる(六條攝政基實の夫人盛子、基實の子・普賢寺關白基通の夫人)。長嫡の重盛、次男の宗盛、或は丞相に昇り、或は將軍を帶び(共に大將・内大臣)、次の二人の子息、昇進、心をほしいまゝにす(知盛二十六歳にして從三位、重衡二十四歳にして藏人頭)。凡そ過分の榮幸、古今に冠絶する者か。就中、去々年よりこのかた、強大の威勢、海内に滿ち、過酷の刑罰、天下に普ねし。遂に衆庶の怨氣、天に答へ、四方の匈奴、變を成せり。いかにいはんや、天台・法相の佛法を魔滅せるをや。只に佛像・堂舍を湮滅するのみならず、顯密の正教、悉く灰燼となり、師跡相承の口決抄出、諸宗の深義、祕密の奧旨、併せて囘祿に遭へり。かくの如きの逆罪、彼の脣吻にあらざるは無し。つらゝゝ修因感果の理を案ずるに、敵軍の爲に其の身を亡ぼし、首を戈鋒にかれられ、かばねを戰場にさらすべし。弓矢刀劍の難をまぬがれて、病席に命を終ること、まことに宿運の貴きこと、人意の測る所にあらざるか。但し神罰冥罰の條、新に以て知るべし。日月、地に墮ちざること、こゝに憑(たのみ)ある者か。』

清盛歿した其の翌日に記されたものであるが、清盛一生の論評として、まことによく大局をつかみ、判斷正鵠を失はざるものである。兼實、時に年三十四歳、從一位右大臣であつた。流石に識見は拔群、氣の毒だが、『十訓抄』などが、そばへも寄れるものでは無い。蟹は甲羅に似せて穴を掘る、人は自分の器量で他人を論評するものだ。‥‥

 右大臣兼實は、その恐るべき權力者・清盛入道の亡くなつた時に、その功績と權勢とを承認すると共に、晩年、特に治承三年以來の狂暴を許さず、是れほどの惡人が、當然首を斬られねばならぬ筈であるのに、疊の上で病死したのは不思議である、と論斷した。流石は左大臣頼長の甥だけあつて、識見の高く、氣鋒の鋭い事、拔群といはねばならぬ。



■『大日本史』卷之一百五十六・列傳第八十三

 平重盛は、太政大臣・清盛の長子なり。資性、忠謹にして、武勇、人に軼(す)ぎ、物に接して温厚なれば[百錬抄]、内外、意を屬せり[源平盛衰記・平家物語]。久安六年、藏人と爲り、從五位下に敘せらる。久壽二年、中務少輔に任ぜらる[公卿補任]。

 保元元年、上皇、兵を白河殿に集めたまふや、重盛、禁軍を率ゐ、清盛に從ひて之を攻む。源爲朝、兵を將(ひき)ゐて、西門を守る。清盛が將・伊藤忠清・忠直、先登たり。爲朝、一發して、忠直が胸を洞(つらぬ)き、忠清が鎧に及ぶ。軍中、震竦す。清盛、懼れて曰く、「我れ此の門を攻むるは、特命を承くるに非ず。更に東門に嚮ひ、以て之を避けん」と。將士、皆な言ふ、「東門も、亦た爲朝の守る所なり。北門に由るに如かず」と。清盛、乃ち兵を引きて退く。重盛、奮ひて曰く、「敕を奉じて、軍を出す。何ぞ敵の強弱を問はん」と。獨り輕騎を麾きて直進す。清盛、惶れて遽かに左右に命じて、之を遏めしむ。已むことを得ずして、春日表門に向ふ。既にして源義朝、火を縱(はな)ちて之を攻め、白河殿、遂に陷る[保元物語]。二年、正五位下に敘し、左衞門佐に任ぜられ、遠江守を兼ぬ[公卿補任]。

 平治元年、清盛に從ひて、熊野に如く。切部に至り、藤原信賴等の反くを聞く。清盛、進退、據を失ひ、計、猶豫して決せず。重盛の曰く、「身、武臣と爲り、天子の逆徒の逼る所と爲りたまふを聞く。安んぞ亟(すみや)かに國難に赴かざるを得ん」と。衆、皆な之に從ふ。乃ち使ひを熊野別當・湛増等に遣はして、兵を徴(め)す。見兵、僅かに百騎可(ばか)りなり。適々義朝が子・義平、兵三千を擁して、安部野に要すと聞き、清盛、衆寡、敵せざるを恐れ、先づ四國に赴きて、兵士を召聚し、然る後ちに京に入らんと欲す。重盛の曰く、「事、若し稽緩せば、賊、必ず詔を矯めて、我を討たん。之を悔ゆとも、及ぶこと無けん。寡を以て衆を撃つは、將家の常なり。速かに往いて戰死せば、亦た以て各を後昆に耀かすに足らん」と。清盛、意、乃ち決し、遙かに熊野の神に祷り、遂に京師に赴く[○愚管抄に云ふ、「清盛、田邊に至る。從ふ所、子基盛・宗盛、及び兵士、僅かに十五人なり。變を聞きて惶惑し、先づ筑紫に走りて兵を發せんと欲す。紀伊の人・湯淺宗重、兵三十餘有り、勸めて京に入らしむ。熊野の湛快、弓鎧を具し、遂に京師に還る」と。本書と小しく異なる]。行きて鬼中山に至り、一騎士の來るを見る。衆、皆な色を失ひ、以て義平の使ひと爲す。至れば則ち六波羅の使ひ也。言く、「伊勢の兵士三百餘、清盛を安部野に迎ふ」と。是に於て衆の心、始めて安し。重盛、京師の消息を問ふ。對へて曰く、「六波羅は他無し、惟だ播磨中將の、難を遁れ來り投ずる有り。信賴、詔を矯めて之を捕へしかば、勢ひ、匿すこと能はずして、之を出だせり」と。重盛、怒りて曰く、「人の困みて我に歸せるに、之を棄つるは不祥也。後ち孰れか我が用を爲す者ぞ」と。既にして京師に還り、乘輿を迎へて六波羅に幸せしめ、叔父教盛・賴盛と、各々一千騎を將ゐ、道を分ちて信賴を攻む。重盛、士卒を勵まして曰く、「年は平治と號し、地は平安と曰ひ、我は平氏爲り。三者を以て之を卜ふに、賊の平らがんこと疑ひ無し」と。乃ち兵を分ちて二隊と爲し、五百騎を大宮街に留め、其の半を帥ゐて、待賢門を攻む。信賴、大いに懼れて退き、兵、皆な潰走す。重盛、進みて大庭の椋樹の下に至る。源義朝、子・義平をして之を禦がしむ。義平、驍兵十六騎を率ゐ、躬自ら搏戰し、目を重盛に注ぐ。重盛、且つ鬪ひ且つ卻き、大宮街に至り、弓を杖つきて馬を息はしむ。部將・平家貞、進みて贊して曰く、「曩祖・平將軍、再生なり矣」と。重盛、再び其の半を率ゐ、復た大庭に入り、一戰して退く。義平、追躡すれば、重盛・與三左衞門景安・新藤左衞門家泰と、身を脱れて走る[○景安は、姓闕く]。羲平、將に及ばんとして、馬、躓き伏す。鎌田政家、射て重盛に中つるに、甲堅くして入らず。又た馬を射れば、馬殪る。重盛、兜□[務+金](かぶと)を墜す。政家、薄(せま)り近づく。重盛、撞くに弓を以てす。逡巡の間、乃ち兜□[務+金]を著く。景安、馳せ至り、搏ちて政家を倒す。義平、來りて景安を刺す。重盛、怒りて自ら之に當らんと欲す。家泰、馬を進めて義平に當り、亦た政家の殺す所と爲る。重盛、間を得て、六波羅に走る。義朝、來り攻む。重盛、撃ちて之を走らす。時に上皇、仁和寺に御したまふ。信賴等、往いて死を宥されんことを乞ふ。上皇、之を憐みたまひ、手書して帝に請ひまつる。使ひ、未だ還るに及ばず。六波羅、兵士を遣はして、信賴及び黨與・藤原成親等を捕ふ。信賴、誅に伏す。成親も、亦た死に當るも、重盛、請ひて死を宥し、自ら其の縛を解く[平治物語]。是の冬、功を以て伊豫守を兼ぬ[公卿補任・平治物語・源平盛衰記]。明年、從四位上に敘せられ、累りに左馬・内藏頭に遷る。尋いで内藏頭を辭し、右兵衞督と爲る。應保三年、從三位に敘せらる。長寬二年、正三位に進む。永萬元年、參議と爲る[公卿補任]。

 是の秋、帝崩じたまふ。諸寺の僧侶、會葬す。延暦・興福の二寺、次を爭ひて兵を構ふ。時に訛言有り、「上皇、陰かに僧徒に命じて、平氏を討たしめたまふ」と。清盛、大いに驚き、兵を聚めて自ら守る。重盛、堅く執りて、以て妄と爲し、乃ち法住寺殿に造(いた)りて、之を□[言+囘の巳の替りに口。うかゞ]ふ。會々上皇、將に六波羅に幸し、自ら開諭せんとしたまひ、乘輿、已に道に在り。重盛、乃ち扈從して還る。清盛、疾ひと稱して出でず。上皇、宮に還りたまふ。重盛、清盛に諫めて曰く、「我が家、逆を討ち亂を撥(をさ)め、其の功も亦た多し。今、何の咎責有りてか、而も猝(には)かに此に至らん。大人(父・清盛)、宜しく之を詞色に形(あらは)すべからず。恐らくは姦人、機に乘じ、讒説を釀成せん。吾、苟くも上を敬ひ下を□[血+小里。あはれ]まば、神も將に我を助けんとす。何ぞ懼るゝこと之れ有らん」と。清盛、其の恢量を嘆稱す。上皇も、亦た近侍を戒めたまひ、輕々しく浮言を爲すこと勿らしむ[源平盛衰記]。仁安元年、權中納言に任ぜられ、春宮大夫を兼ぬ。二年、從二位に敘せられ、權大納言に遷り、帶劍を聽さる。三年、病ひを以て官を辭す。嘉應元年、正二位に敘せらる[公卿補任]。

 二年、子・資盛、路に攝政・基房に遇ひて、車を下らず。基房が從者、車簾を斫りて之を辱かしむ。重盛、資盛を讓(せ)めて曰く、「官に高下有り、等列、尚ほ敬ふ可し。況んや攝政をや乎。汝、十歳を過ぐるに、禮法を知らず、辱かしめを取るも、固より宜なり」と[源平盛衰記]。基房、其の下手者を縛送して、以て謝す。重盛、畏懼し、慰勞して之を還す[玉海・源平盛衰記]。清盛、聞きて盛んに怒り、心に報復せんと欲す。重盛、諫めて曰く、「資盛は幼蒙にして、禮を攝政に失ふは、罪、從者に在り。而して之を問はずして、反りて尊貴を犯さんと欲するは、豈に悖れるに非ずや邪。夫れ攝□[竹+録]の臣は、皇政を□[田+比]輔し、民庶を撫育する所以ん也。奈何ぞ勢ひを恃みて、之を凌がん。且つ徳を以て人に勝つ者は昌(さか)へ、力を以て人に勝つ者は亡ぶ。願はくは大人、詳かに之を思ひたまへ」と。清盛、納れず、陰かに武士をして、基房を辱かしむ[源平盛衰記・平家物語。○按ずるに、愚管抄及び盛衰記の一説に、「怨を基房に報ゆるは、重盛の意に出づ」と。玉海も、亦た詳かに顛末を載す。但だ云く、「大納言、甚だ之を憂ふ」と、而して報復の、重盛に出づる文無し。今ま其の人と爲りを以て之を察すれば、應に□[手+交]角すること、此の如きに至るべからず。蓋し當時、巷説紛紜、從ひて筆記するのみ耳]。重盛、懼れて、其の事に預る者を黜け、資盛を伊勢に逐ふ[平家物語]。承安元年、權大納言に復す。

 四年、源雅通、病ひを以て右近衞大將を辭す[公卿補任]。諸卿、多く其の闕に補せられんことを望む。重盛、附奏して曰く、「宦職の設け、文武、塗を異にす。止(た)だ華族と世家とに擇ぶは、近世の弊風也。臣、本と將種、且つ大臣の子にして、大將に任ぜらるゝは、古今の通例なり。冀はくは此の職に居らん」と。遂に右近衞大將を兼ぬることを得たり[源平盛衰記]。治承元年、左近衞大將に轉じ、尋いで内大臣を拜せらる[公卿補任]。是の歳、延暦寺の僧徒、訟へ有り。日吉の神輿を奉じて京師に入る。源平の諸將に命じて、之を禦がしむ[源平盛衰記・平家物語]。重盛、三千餘騎を以て、陽明・待閒・郁芳の三門を守り、禦ぎて之を卻く[平家物語。○源平盛衰記、三千を三萬に作る]。是より先、藤原成親、黨を結びて、竊かに平氏を滅ぼさんことを謀り、事、泄れて捕へらる。清盛、武士に命じて、速かに成親を斬らしむ。重盛、諫めて曰く、「彼は、法皇の寵臣なり。其の祖・顯季、白河朝に仕へしより、傳家、既に久しく、爵位も亦た崇し。今、私怨を以て遽かに之を殺さんこと、未だ其の可なるを見ず。唯だ當に之を都外に逐ひ、以て其の餘を□[人+敬。いまし]むべきのみ耳。斯の言、實に國家の爲めにして、彼と姻有るを以てに非ざる也。昔者、嵯峨(天皇)の朝、藤原仲成、誅に伏し、厥の後ち死刑を廢する者、二十五代、保元中に至り、信西、事を用ゐて、多く源平二族を斬り、宇治左府の墓を發く。後ち二年、信西の墓も、亦た信賴の掘る所と爲る。豈に其の報いに非ずや邪。今、我が家の貴盛、世に冠たり。慮る所は、唯だ子孫のみ。願はくは大人、積善の慶を思ひ、子孫の爲めに、少しく之を忍びたまへ」と。清盛、意、稍々釋く。重盛、出でて武士に戒めて曰く、「大人、一旦、怒りを逞うせらるも、後ち必ず之を悔いたまはん。縱ひ命有あるも、汝、愼みて刃を加ふること勿れ」と。此に由りて成親、死せざることを得たり。重盛、既に還る。清盛、恚怒して止まず。法皇を別宮に幽せんと欲し、大いに子弟・臣僚を召す。是に於て平氏の親族、戎服して、畢(ことゞゝ)く清盛が第に集まる。重盛、後れて至り、中門に及ぶ。宗盛、其の烏帽・直衣を見て、袖を引きて之を尼(とゞ)めて曰く、「大事有りて、公を召す。大人、既に甲せらるに、公、尚ほ緩服せらるゝか乎」と[○平家物語に、平貞能の言と爲す]。曰く、「是れ、何の言ぞや也。近衞大將は、兵權の歸す所にして、吾、適々此の職を忝うす。濫りに戎衣を著るは、甚だ宜しき攸に非ず。若し或は賊虜猖獗にして、王師、利を失へば、大臣の重きと雖も、固より宜しく甲を被り兵を執るべし。我、未だ諸君の爲す所の何如を曉らず。其の斥して敵と爲す所の者は、誰ぞや也。且つ所謂る大事とは、朝家の事のみ而已。是は私事なり。何ぞ大事と言ふを得ん」と。衆、皆な聳動す[○平家物語・源平盛衰記を參取す]。清盛、心に慙ぢ、服を改むに遑あらず、俄かに起ちて、素娟を尚(くは)へて出づ。甲の露はれんことを恐れ、手もて頻りに襟を正して、縫裂くるに至り、故さらに間暇を示し、從容として言ひて曰く、「來ること、何ぞ晩き。西光に拷治して、備さに其の情を得たり。成親が姦謀、實は法皇に由る。皆な猥屑の小人、宮□[門+偉の右]に近侍し、非望を僥倖するの致す所ろ也。而して法皇、輕舉して事を生じたまふ。今、當に法皇を他所に徙しまつり、以て禍の本を除くべき也」と。重盛、泣を埀れて曰く、

今、大人の舉動を視るに、悲・懼、交々至る。未だ官、相國に昇る者にして、躬に甲胄を□[手+環の右。き]たることを聞かず。況んや披髴の後に於いてをや乎。聞く、佛説の四恩は、國恩、最も重し。之を知るを人と爲し、知らざるを禽獸と爲す。夫れ吾が家は、桓武(天皇)の苗なりと雖も、中古以來、絶えて顯達する者無く、平將軍の將門を討つも、賞は受領に止まる。刑部卿の得長壽院を造るに及び、始めて昇殿を聽されたるに、人、尚ほ以て過獎と爲す。大人、小官より起りて、位、人臣を極む。闇愚、重盛が如きすら、資蔭を以て叨りに顯要に居る。一門の釆邑、殆んど天下に半するは、寵榮の極なり矣。今、忽ちにして隆恩を忘れ、皇威を輕蔑すれば、鬼神、必ず怒りて、覆亡せんこと、日無からん。重盛、深く焉れを懼る。今、一二の首謀を拘へ、罪す可きを罪して足りなん矣。何ぞ至尊に迫るに至らんや哉。且つ大人、縱ひ之を爲さんと欲せらるも、重盛は、國恩に背くに忍びず。部下に、死士二百有り、以て護法皇を護りまつるに足れり。然りと雖も子を以て父に抗するは、亦た忍びざる所なり。曩に義朝、父を害するは、君命を以てすると雖も、悖逆たるを奈何せん。重盛、孝子爲らんと欲せば、則ち不忠と爲り、忠臣爲らんと欲せば、則ち不孝と爲る。進退、維れ谷(きはま)りぬ。言、若し聽かれずば、請ふ先づ重盛を斬りたまへ

と。清盛の曰く、「餘命、幾くも無ければ、惟だ子孫を慮るのみ而已。今よりして後、唯だ君の計る所のまゝにせよ」と。起ちて内に入る。重盛、諸弟を責めて曰く、「大人、衰耄して、此の不良を謀りたまふ。諸君、何ぞ切に諫めざる、而るに反りて贊成を爲すをや乎」と。又た將士を戒めて曰く、「汝等、愼みて我が言を守り、敢へて妄動すること勿れ。若し大人に從はんと欲せば、必ず先づ我を斬れ」と。既にして第に還り、尚ほ其の暴を爲さんことを慮り、乃ち急を報じて纂嚴す。將士、皆な謂ふ、「此の公、未だ嘗て輕易く事を作さゞるに、今、忽ち此の召有り、何ぞ速かに赴かざる」と。難波經遠・瀨尾兼康・平家貞及び子・貞能等、爭ひて小松第に集まる。乃ち平盛國をして兵を籍せしむるに、見兵二萬餘有り[○平家物語に、一萬餘に作る]。是に於て家貞・貞能をして清盛に言はしめて曰く、「法皇、大人の謀を聞きて、震怒したまひ、詔を重盛に下して、之を討たしめたまふ。恐らくは大人、倉卒の間、非常の事有るに至らん。是を以て二人を遣はして、防閑に備へしむ。我、身を以て固く請はん、幸ひに驚怖せらるゝこと勿れ」と。清盛、大いに惶惑して曰く、「唯だ内府の爲す所のまゝなり」と。重盛、家貞等に謂ひて曰く、「我、權謀を以て父が過ちを救ひ、而も反りて其の心を傷ふ。是れ豈に人の子の道ならんや哉」と。□[三水+玄]然として涙下る。聽く者、皆な悽惻す[源平盛衰記]。既にして兵士を勞ひて曰く、「諸君、期約を失はず、信義、嘉みす可し。唯だ嚮(さき)に聞く所ろ有りて召すも、事、適々解くを得たり。宜しく速かに罷め歸るべし。後ち狃れて常と爲すこと勿れ」と。法皇、聞きて泣を埀れたまひて曰く、「重盛は、何人ぞ。徳を以て怨に報ゆ[源平盛衰記・平家物語]。朕、願はくは斯の人に先だちて命を終へん。勁松は、歳の寒きに彰れ、貞臣は、國危きに見はるとは、其れ此の人の謂ひか乎」と[源平盛衰記]。

 清盛、跋扈、日に甚しく、重盛、居常、憂懼す。一夜、賴朝が神に祷るに、神、父の首を斬るを夢み。覺めて悲泣す。瀨尾兼康、來り謁し、人を屏(しりぞ)けて、其の夢を告ぐも、亦た重盛と夢みる所と符(かな)ふ。重盛、益々感愴す。會々子・維盛來る。命じて酒を飲ましむ。貞能、酒を行(や)る。重盛、貞能をして維盛に大刀を賜はしむ。維盛、以爲らく、「傳家の寶刀・小烏ならん」と。既にして之を視るに、乃ち無文の刀也。維盛、色を失ひ、意に貞能が錯謬ならんと疑ふ。重盛、涙を灑ぎて曰く、「汝、深く怪しむこと勿れ。此れ大臣の葬時に佩ぶる所なり。家君、百歳の後、我、將に之を佩びんも、今ま我、思ふ所ろ有り。故を以て汝に與ふ也」。維盛、仰視すること能はず。飲泣して退く[平家物語。○源平盛衰記を參取す]。何(いくば)くも無くして、左近衞大將を解かる。三年、内大臣を辭す[公卿補任]。重盛、熊野の社に詣でて、自ら死を祈る[山槐記・源平盛衰記・平家物語。○盛衰記・平家物語に曰く、「重盛、證成殿に拜するに、光ありて、自身に生ず。從者、忌みて告げず]と。今、取らず]。歸路、岩田川を經、時に方に盛暑、維盛及び諸子、流れに浴し涼を取り、衣裳霑濕す、左右、其の凶服を著たるが如きを見て、之を惡み、請ひて衣を更へんとするに、重盛、聽さず、以爲らく、「志願、遂げなん矣」と。既にして疾ひに寢ぬ。會々醫、宋より至る。清盛、勸めて疾ひを治せしめんに、辭して曰く、「命は、天の賦する所、治療、何をか爲さん。我れ若し彼に藉りて愈ゆるを得ば、是れ國に醫無きを示す也。況んや位、大臣に具り、私かに異域浮浪の客を見る可からず。縱ひ我れ起たざるも、寧ぞ國を辱しむるに忍びや乎」と。清盛、焉れを強ふること能はず[源平盛衰記・平家物語]。疾ひ、日に篤し。帝、爲めに藥を賜ひ、法皇、臨み視たまふ[山槐記。○「帝、藥を賜ふ」は、百錬抄に據る]。髮を剃りて、法名は證空[帝王編年記。○平家物語に淨蓮に、八坂本平家物語に照空に作る]。薨ず、年四十二[公卿補任・山槐記・帝王編年記。○源平盛衰記・平家物語に、四十三と爲す](治承三年閏七月二十九日薨去)。

 世に小松殿と稱す[平家物語]。其の室中四方、各々十二佛像を置き、像別に長明燈籠を懸け、美女四十八人を妙(抄か)選し、以て其の事を供せしむ。日沒するに及ぶ毎に、禮讚し畢り、□[金+拔の右。ばつ]を撃ちて、行々歌はしめ、身、中央に坐して之を聽けり。時人、又た稱して燈籠大臣と曰ふ[○本書に曰く、「重盛が采地・陸奧氣仙郡より、黄金一千三百兩を貢す。時に宋の人・妙典、筑紫に至る。重盛、之を召して、其の金一百兩を與へ、且つ之に囑して曰く、『今、汝に檜木屋材の一船、及び黄金一千二百兩を附す。其の二百兩は、宜しく育王山の僧侶に捨すべく、一千兩は、之を官に輸し、請ひて我が爲めに育王山に就きて、一小堂を建て、僧の食田を置き、我が冥福を修むべし』と。妙典、乃ち國に歸り、官に請ふ。宋主、之を許す]と。按ずるに、重盛、素より國體を重んじ、疾ひに方つて宋醫を拒む、而して應に以て私かに宋主に請ふべからず。此の時、宋の僧・徳光、育王に主たり。故に後世、徳光と僧正瑛頌とを以て、附會して贈金の證を爲す。其の實、干渉する所ろ無し。本書の説、諸書に載せざる所、故に今ま取らず]。初め相撲節の行事に方り、稠人中に竊かに言ふもの有り、「此の公、多福にして、近衞大將に至る。儀貌心術、亦た人に邁(す)ぐること遠し矣。澆季の世、未だ見ること得易からず。但だ恐らくは壽を享くること能はざらんのみ耳」と。果たして其の言の如し[源平盛衰記]。嘗て事を中宮に啓するとき、蛇有りて、膝下に至る。其の中宮を驚かさんことを恐れ、徐ろに其の首尾を捉へ、藏人・源仲綱を召して、之を收めしむ。仲綱、袖して出で、毫も難ずる色無し。重盛、之を悅ぶ。翌日、駿馬・良刀を贈り、手書して之を褒めて曰く、「昨日の舉止、還城樂の舞に似たり」と。其の性度、此の如し[源平盛衰記・平家物語]。子は、維盛・資盛・清經・有盛・師盛・忠房・宗實。宗實は、出でて左大臣・藤原經宗が子と爲る。重眞・行實・重遍・清雲は、竝びに僧爲り。

(愚案、横尾謙七翁編纂『皇朝靖獻遺言』全八卷三册・明治六年刊に、平重盛「諫言」を掲ぐるは、件の「赤字」であり、殆んど此の『大日本史』の轉載である)



●宮内掌典・宮地嚴夫翁『本朝神仙記傳』――平維盛仙人の條に、『源平拾遺』を引きて曰く、

「小松大臣殿(重盛公)、病ひ重らせ給ひける時、維盛卿を枕邊に召し、傍らの人を退け、重景(與三兵衞)一人をかたへに副へ置きて、遺言ありける樣、『天の下、亂れんこと、三年を過ぐべくも覺えず。若し其の時に至らば、我が一門の者等、皆さすらへられぬべし。然る折は、兼ねて人知れず、我れ占(しめ)し置ける木の國(紀伊)の隱れ家に忍びゐて、世には亡くなりし樣に知らせ、時を待ちて軍を起すべし。重景は、世々傳へ來れる、我が家の忠臣なれば、深く頼む』とて、劒を賜ひき」と。
 
 

金城翁三年祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 7月13日(金)19時37分59秒
返信・引用 編集済
   來る七月十五日の深夜、即ち正確には十六日の午前三分は、我が九段塾塾頭・福井金城翁が身罷られまして、實に二年、足掛け三年であります。

 ご閲覽各位には、塾頭遺文の一節なりとも讀み返されまして、靖國神社正統護持の爲めに、決意を新たにして、心を碎いて戴き、亦た金城翁をお偲び戴ければ、歡喜道福、此の上もございません。

一、泉水隆一監督遺文『靖国神社の真実』平成二十三年十二月八日初版・二十四年四月二十九日第二版・洛風書房刊
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または『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
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二、九段塾塾頭・金城翁最終講義(上記一の續篇・絶筆/未刊)
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 塾頭遺文である、件の兩篇は、誰も書かなかつた、否、書け得なかつた「靖國神社の眞實」が、「靖國神社の事歴」が、否應なく、眼前に露はれて迫り、憂憤哀哭、護持奉贊の至情が、勃然と湧出するを確信します。有志の方々の、靖國神社の正統護持、熱祷奉贊を、只管ら乞ひ奉ります。

 暦を繰りますと、關東では「お盆」の御由、關西に在つては、一箇月遲れの八月十五日が「お盆」なれば、中國の田舍者にはパツと來ませぬが、御偲び申し上げる佳き時節と存じます。

 小生は、と申せば、塾頭の遺言「承詔必謹」、「尊王・勤皇の風を吹かせよ」、「大和民族のふるさとへ還れ――神國日本へ――」。此の遺言を實踐せんが爲め、非力を顧みず、先づは明治維新の志士感奮の書――『靖獻遺言』の拜記を、鋭意、卷之六まで進めて參りました。淺見絅齋先生『靖獻遺言』こそ、平成の大御代に、必要必須、缺くべからざる書と信ずるが故に外なりません。是非とも清覽を乞ひたいと存じます。塾頭在天の御靈、ご照覽たまはらむことを。百拜敬白
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谷秦山先生『中臣祓鹽土傳』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月29日(金)23時53分52秒
返信・引用 編集済
   明日は太陽暦に於ける「大祓」の日、神習うて、神明の廣前に、『大祓詞』を奏上しませう。奏上、一人でも衆ければ、國中の罪穢れ、それだけ祓はれて、愈々清明なるべし。有志が皇猷奉贊、嗚呼、是れ勗むべきかな哉。



●谷秦山先生『中臣祓鹽土傳』(刊年不明。家藏本に墨書して云く、「吉田彌生丸、藏書」と)に曰く、

 中臣は、姓氏也。神代の卷に、天兒屋命を稱して、中臣神と曰ふ。今の藤原・大中臣・卜部、皆な其の裔也。祓は、拂ふ也、洗ふ也。風、薫霧を拂ひ、雨、汚泥を洗ふは、天地造化の功也。神聖、之に則れり。伊弉諾尊、小戸檍か原の祓除(みそぎ)は、身、汚穢(きたなき)に觸れ、水を灑ぎて、之を盪き滌ふ也。素戔鳴尊、千座置戸の解除ひは、心、罪・咎を犯し、贖ひ物を出し、之を解き謝る也。同じく之を祓と謂ふ。

 夫れ汚穢不淨は、神聖と雖も、觸るゝこと無きこと能はず、罪・咎・過・失は、中人以下、固より免るゝこと能はず。苟くも術、以て一新すること無ければ、則ち天と相ひ似ずして、人心の道、殆んど息む焉。是を以て神聖、之れが法を立て、身の汚穢は、則ち盪ぎ滌ひて、之を去り、心の罪・咎は、則ち解き除きて、之を改め、一に皆な本心の誠に歸りて、以て體を神明に合す。此れ人心祓除の道也。

 『舊事紀』に曰く、「大歳辛酉正月庚辰の朔、天孫磐余彦尊、橿原宮に都し、初めて即位(あまつひつぎしろしめす)。號して元年と曰ふ。高皇産靈尊の兒、天富命、天つ璽(しるし)・鏡・劒を□[敬+手]げ、安正殿に奉る矣。天兒屋命の兒、天種子命、神代の古事、天の神の壽詞(よこと)を奏し、天つ罪・國つ罪の事を解除ふ也」と。蓋し天つ璽・鏡・劒は、一人の守り、天が下の教へ也。神代の卷、之を明かにす。此の祝詞は、神代の古事を擧げ、當(そ)の代の壽ふきを祝ひ、天下の天つ罪・國つ罪を索り求めて、之を解除ふて、以て神明の降監を願ふ。是れ神事の宗源也。

 歴朝大嘗會、既に其の式に從ひて、六月・十二月、此を借りて、大いに天が下に祓ひ、人家、故有れば、此を借りて、罪・咎を解除ふ。蓋し神の道を以て、天の下を化す者、然り矣。凡そ祓の祝詞有る、天兒屋命の諄辭(のとこと)に始まりて、此の篇は、則ち天種子命の作れる所、振古以來、中臣の氏人、職掌する所、故に世、稱して『中臣祓』と曰ふ。

‥‥

 夫れ天の益人等が犯し過まつ所の、罪なる者・咎なる者、既に太諄辭に消えて、其の負はする所の祓つ具、又た四神の手に滅すれば、則ち天地の間、果して一點の汚れ無くして、直ちに天照大神の御心と、融貫して體を同じうす。畝傍の橿原に始馭天下(はつくにしらす)るの初め、皇化の人に入る、既に彼が如くにして、神事の天を感ずる、又た此の如し。宜なるかな乎、寶祚の隆んなる、天壤と窮り無きこと也。嗚呼、天種子命、神明を幽贊し、化育を參助するの功、大いなるかな矣哉。吾人、宜しく深く察して、力め體すべし焉。
 
 

谷秦山先生の學風。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月27日(水)22時28分30秒
返信・引用 編集済
  ●谷秦山先生『中臣祓鹽土傳』に曰く、

身の汚穢は、則ち盪滌ぎして之を去り、心の罪咎は、則ち解除いて之を改め、一に皆な本心の誠に歸つて、以て體を神明に合す。此れ人心祓除の道也。‥‥

 明神と御宇す天皇、鎭常へに上に在せり。彼の香香背男が天上に於る、長髓彦が中國に於るが若きは、罪惡顯著、天誅、以て之を祓ふ。豈に解除して後、清明なるを待たんや乎
」と。



 明日の六月二十八日は、贈正四位・赤城高山彦九郎平正之先生が絶命されて、二百二十年になる。

 又た三十日は 、「抑も我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也」(正徳元年。宮地靜軒に與ふる書)と雄叫びして、日本之學」(『私講□[片+旁]諭』――元祿六年)と云ふ名稱の學問を唱道された、贈正五位・秦山谷丹三郎大神重遠先生が、幽顯、界を異にされて、こゝに二百九十五年である。此の「日本學」、固より平泉澄先生主宰「日本學協會」の名の起こる所以なり。
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【谷秦山先生遺文抄】
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 かつて大原富枝氏『婉という女』を讀んだことがあつたが、最近では、秦山先生の師、贈從四位・土守靈社新蘆澁川助左衞門源春海先生(=碁方二世安井算哲)の映畫「天地明察」(本年九月封切)有りと仄聞する。然し觀る氣が起きぬのは、如何したことか‥‥。

 熊本鎭臺司令長官・谷干城翁を偲べば、遙かに秦山先生傳家の精神を想起する。秦山先生と申せば、直ちに平泉澄先生の名著、『萬物流轉』の、彼の椽大の筆を思はずんばあるべからざるなり。今は、近藤紹宇先生の講演録を拜記して、謹みて秦山先生を景仰し奉る。



●紹宇近藤啓吾先生『谷秦山の學風』(昭和三十八年三月十日・秦山先生墓前祭の後にて――『淺見絅齋の研究』昭和四十五年六月・神道史學會刊に所收)に曰く、

「私(紹宇先生)が始めてこの山田の、谷秦山先生のお墓にお詣り致しましたのは、昭和三十五年の五月一日でありました。御案内下さいました方は、濱田晃僖翁であります。お詣りを終へまして、石だたみの參道を降りながら、翁は、南の方に廣がる水田の、その處々に見える稻倉を指差しながら、次のやうに語られました。

「先生が晩年、藩の内紛のまきぞへで、山田に禁錮されますと、藩では、先生に學んでゐた門人に、師を變へるやうに嚴命した。しかも先生を慕ふ門人は、藩の目をかくれながら、高知より山田まで數里の道を、ひそかにやつて來て、晝の間は、あの稻倉の中に身を隱し、夜になつてから、そつと先生の幽居を訪ねて教を受けた。私どもは、故老から、このやうに聞いてゐます。」

私は、濱田翁の語られる所に耳を傾け、既に水を滿々とたゝへ、若苗、薫風にゆらぐ水田を眺めながら、深い々ゝ感激を覺えたのであります。濱田翁の話されましたところは、或は傳説であるかも知れない。しかし私は、この傳説が、蓋し事實であらうと信ずるものであります。

 先生の門人の一人に、宮地靜軒といふ方があります。靜軒は藩命によつて、師を變へて、緒方宗哲や伊藤東涯に就くことになつた。一旦は宗哲や東涯の講義を聞くのであります。しかしその説に滿足することができない。そこで藩に、これを斷るのであります。その結果、藩は怒つて、靜軒を遠く宇佐村に流すのであります。しかも靜軒は、少しもこれに屈しない。しばゝゞ秦山先生に手紙を差上げて教を受け、先生も深く靜軒に期待し、相勵しあつてをられるのであります。

 更に池敬之。敬之も亦た先生が、非常に期待された門人でありましたが、正徳元年、二十八歳で急死してしまつた。先生は非常に落膽し、祭文を作つて、その靈に告げるのでありますが、その中に、次のやうな言葉があります。

「予の禁錮せらるゝや、朋舊も漆膠を解き、坐談にも賤姓を聞くを恐れ、行路にも宿梢を見るを羞づ。たゞ子のみ忍びず、隣壁より安を問ひ、年を經て倦まず。予、その難きに歎じ、墻に穴して子を延き、情、悲歡をあつむ。これより三載、夜に投じて策を挾み、公憲を欽ずと雖も、志、麗澤に切に、孤燈寒月、毎(つね)に丈席を設けぬ。如今よりして後、吾れ復た誰をか客とせん。」

先生が山田に禁錮せられまするや、今まで深くつき合つてゐた人、教を受けてゐた者も、自分が先生と關係があるといふことを藩に知られ、先生の罪にまき添へをくふことを恐れて、世間話の席に於ても、先生の名を聞くことを恐れ、道を歩いてゐても、先生のお宅の木の梢を見ようともしない。全く知らぬふりをする。このやうな輕薄不人情の者、多き中にあつて、敬之の態度は、全く異なつてゐた。夜、ひそかに先生をお訪ねし、御慰めするのである。そこで先生も、「孤燈寒月、毎に丈席を設く」。敬之の爲めに、書物の講義をされたのであります。學ぶ敬之も、命がけである。教へる先生も、命がけであります。

 先生を訪ねる門人の數は、少なかつたかも知れない。しかしこの門人と先生との間に流れるものは、生命をかけた求道心であり、子弟の情誼であります。私は、この先生と先生の門人との間の美しい態度を、深く心にかみしめながら、先生の師である山崎闇齋先生、先生の大先輩である淺見絅齋先生、この方々の學問の態度を併せて考へるのであります。

 絅齋先生が、闇齋先生に入門されましたのは、延寶五年、その二十六歳の時である。その翌年、絅齋先生は、『論語』の「博施濟衆」章の註を作つて、闇齋先生に教を請ふのでありますが、その最後には、次のやうに記されてゐる。

「この義、憚りながら、拙者、一生學問の覺悟に御座候ふ間、少しにても存じちがへ申す義は、如何樣にも仰せられ下さるべく、以上。」

「一生學問の覺悟」、この一句が眼目である。闇齋先生の朱批にいふ、「此の章、見得て此に到ること、最も難し。謂ふ所の『一生の覺悟』の言、殊に感懷、淺からず、々ゝゝゞ」。闇齋先生も、深くこの一語を賞してをられるのであります。

 この絅齋先生が六十歳になられた、正徳元年の春、江戸より稻葉迂齋といふ若い學者が、遙々教を請けに上京した。絅齋先生は、初對面の迂齋に、「何日程、京都に逗留なさるか」。迂齋「三十日ほど逗留致します」。先生「半年も逗留ならば、ゆつくり學問の話もできるが、三十日では、どうにもならない。しかしながら、又た重ねて上京されるがよい。江戸より百二十里の道は、世間では遠い々ゝと、大層にいふが、道を求める者に、遠いと思ふことはない。學問する坊主は、奧州から西國まで、四百里の遠路を往來する。ましてや聖人の道を求めるのに、道が遠いの何のといふことはないのである」。

 絅齋先生は、この年の十二月一日になくなられ、迂齋は、終ひに再び上京して、道を問ふことができなかつたのでありますが、迂齋の胸には、生涯、最初のこの言葉が刻み込まれたのでありました。而してこの絅齋先生こそ、延寶七年六月、秦山先生、初めて上京して、先づ道を問はれた方であり、この年の十月、絅齋先生に伴なはれて、先生は、闇齋先生にお目にかゝるのであります。

 秦山先生が上京して、直接、闇齋先生の教を受けられましたのは、前後一年に過ぎません。乃ち延寶七年十月に、初めてお目にかゝりまして、翌八年四月歸國。この年九月、また上京されますが、翌天和元年二月歸國。而して天和二年九月十六日に、闇齋先生は沒せられるのであります。從ひまして先生は歸國されましてからは、學問上の疑問を、書翰に記して、遙々京都に送り、闇齋先生の御指導を頂かれたのであります。いく度か質疑の書翰を送られたでありませう。本日、こゝに持參致しましたものは、その中の一通、そして最後のものと考へられるものでありますが、それを忠實に模寫致したものであります。原本は、谷干城將軍が御所藏でありまして、それを私の先生の内田遠湖先生が寫されました。卷き物にして二丈、それに十六條の質疑が認められてあります。御覽のやうに、質疑の文を墨で書きました後は、相當の餘白をおいて、次の質疑が認められてをります。これは、この餘白の部分に、闇齋先生の御答や批判を書いて頂く爲めであります。朱で書いてありますものが、闇齋先生の筆である。「是」――この考へ方でよろしい。「‥‥更思之」――もつと考へるがよろしい。「非也」――この考へ方は誤である。一條毎に、丁寧な批評や訂正が加へられてをります。而して最後に識されてをりますところは、

「七月十四日の書状、具(つぶさ)に披見候ふ。市へ(武村市兵衞)方への状も見候ふ。志學、彌々堅固、貧富毀譽、心に入られざるの段、老悦に存じ候ふ。申すに及ばず、其の通り、彌々懈(おこた)りなきこと、尤もに候ふ。來夏上京あるべきの由、老病存命、期し難く候ふ。存命候はゞ、心事申し述ぶべく候ふ。」

しみゞゝと、心をうつ言葉であります。翌々九月十六日、闇齋先生は、六十五歳を以て沒せられる。然らばこの書状の奧に、闇齋先生が識せられた右の言葉は、遺言といつてよろしいものと存じます。而してこれは、何と懇切にして温かい言葉であるか。實はこの朱書を、ずつと見て參りますと、「重ねて問目され候はゞ、何の書、何の卷、何の丁の表・裏と、書付け越さるべく候ふ。病後草臥、考出に苦勞に候ふ」といふところがあります。闇齋先生は、病後の衰弱の身を推して、期待するこの門人の爲めに筆を執られてゐるのであります。古人の風姿、想起するだに深く心うたれるのであります。

 先生の詩文を集めました『秦山集』には、その卷八に、「問埀加先生」と題しまして、十六條中の三條を、闇齋先生の批答とともに收めてをります。しかしながらこの全體に就きましては、未だ發表され紹介されたことはなかつたのではないかと存じます。猶ほ『秦山集』には、この問目の後に、秦山先生が自註を加へてをられまして、「此の年、九月十六日庚申、先生、易簀したまふ。年六十五。是の書は、八月八日に批示したまふ所、相距たること、三十餘日のみ」。乃ち闇齋先生が筆を執られましたのが、八月八日であることを知り得るのであります。

 世に崎門の學風は、秋霜烈日の如しであるといふ。實に義利の判別の嚴肅さと、道義の實踐の眞劍なる面を見まするならば、秋霜烈日に外ならない。しかもその奧には、春日和風の如き、しみゞゝとした温かい情誼が存するのでありますことは、以上、見來つた通りであります。而して秦山先生か、このやうな學問の目をもちまして、見つめられましたものは、何であつたか。それは、わが國の國體の見事さ、萬世一系の皇室に對する感激、是れであります。萬世一系といふ、しかしながらこれは、自然のまゝに、皇室が二千年、三千年の昔から今日まで續いてをられるのでは御座いません。皇室御歴代の天皇が、代々温かい御心を受け傳へて來られた。國民は、この御仁慈に感動し、御答へ申し上げて來た。こゝに萬世一系といふ、見事なる國體が護られて來たのであります。

 人は物を作り出す能力がある。しかしながら作り出したものも、その後で保護を續けなければ、修理を重ねなければ、忽ち駄目になつてしまふ。例へば橋であります。どんな立派な橋を作つても、作りぱなしで修理しなければ、駄目になつてしまひます。例へば家屋であります。いかに鐵筋の堅固を誇らうとも、建てつぱなしでは、やがて風雨を蔽ふこともできなくなつてしまひます。「續く」といふことは、續ける爲めの努力が、不斷に續けられてゐるといふことに外ならない。これは、非常に困難なことである。しかしながらこの困難に打ち克つて、古い生命を維持發展せしめてゆく、こゝに人間の偉大さがあります。先生は、この人間の偉大さの、最もすぐれた具現を、わが皇室に發見せられたのでありました。

 只今、東京では、古代エジプトの美術の展覽會が催されてをります。五千年以前の數々の遺品、しかもこれは長い歳月を經てゐるといふのみでない、いづれもすぐれた作品である。しかしながら考へたい。これ等の品々を作つたエジプトの古代の王室の理想は、果して今のエジプト人に、その理想として受け繼がれてゐるのであらうか。いふ迄もなく、これ等の遺品は、當時作られた意義とは、全く別の意義を以て眺められてゐるのであります。

 それに對し、わが皇室は、どうであるか。皇祖皇宗の御理想が、そのまゝに、只今の皇室の御理想として、生々と續いてをられるのであります。

 否、かく見ますならば、わが國には、わが皇室のみではない。到る處に、このやうな不斷の繼承の努力が見出される。その一つが、秦山先生であります。先生歿せられましてより、既に二百五十年、しかも先生のお墓は、御郷土の心ある方々の心より心に受けつがれ、昔のまゝにゆかしくお守りされてをります。而して本日は、この秦山先生の直系の御子孫であられる、谷元臣さんと御一緒に、私ども、先生の御墓前に額づき、嚴肅なるお祭りを執り行つたのであります。

 私は、こゝに日本の國の姿を見出すものであります。それとともに、これこそわが國の姿であると、私共にお教へ下さつた先生に、心から感謝を捧げずにはをられません。

 最後に、先生の御生涯は、道を求め、道を踐む人らしい、美しく清らかな、しかもきびしく苦難に滿ちた生涯であられた。私は、今も昔ながらに眺められる、この山田の自然――先生が苦しい晩年、朝に夕に眺めて心を慰められた、この美しい自然を、いつ迄もこのまゝに存したいものであると願ふものであります」と。



【土佐・谷家の傳統――長岡郡八幡村・別宮八幡社祀官の道統】

 採薇翁は、高山赤城先生と、交情頗る密なりき。是れ、赤城先生の遺髮を傳ふる所以なり。

 秦山     塊齋      北溪
∴谷丹三郎重遠──丹四郎垣守─┬─丹内眞潮
               │
               ├○──神作郷兄──丹九郎櫻井──瀧次郎好水
               │採薇
               └─萬六好井─┬─丹作正兄
                      │九淵    隈山
                      └─萬七景井──守部干城

【子爵・隈山谷干城將軍】
  ↓↓↓↓↓
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/131.html?c=0
 
 

大喪・宮中喪。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月 9日(土)00時00分36秒
返信・引用 編集済
  參考・井原頼明翁『増補・皇室事典』より


【大喪義】天皇、大行天皇・太皇太后・皇太后・皇后の喪に丁(あた)る時を謂ふ(『皇室服喪令』)。

大行天皇・皇太后の御爲には、御父母の御續柄で無くとも、一年の大喪(諒闇)。

太皇太后の御爲には、百五十日の大喪(諒闇)。

皇后の爲には、百五十日の喪。


【宮中喪】皇族及び宮内官吏の服喪(神祇奉仕職員は除く)

皇太子の爲には、九十日の喪。但し七歳未滿の場合は、三日の喪。

皇太子妃の爲には、三十日の喪。

其の他の皇族の爲には、特に五日以内の喪を發せられることがある。


【廢朝】天皇、朝政に臨ませられざるを謂ふ。

 『禁祕御抄』に、「廢朝は、諸司、政、恆の如く、天子一人、朝政に臨まず」と。今日、實際に於いても、此の御主旨を以て、廢朝中は、天皇、御學問所に出御のことなく、諸官衙は平常通り事務を執るけれども、緊急已むを得ざることの外、上奏・奏聞等は行はれないと承る。大正天皇崩御の御時、内閣より一般國民への示達(昭和九年十二月二十五日・官報彙報)に因れば、「廢朝は、政務を廢せらるるの儀に非ず。從ひて官廳事務、竝びに諸學校授業は休停・休課せず、廢朝中は、大正元年敕令第二號に依り、囚人の服役を特免し、刑の執行、及び歌舞音曲を停止す」と。

 廢朝の期間は、

天皇崩御の時は、當日、及び其の翌日より五日間、竝びに大喪儀當日。

太皇太后・皇太后・皇后崩御の時は、當日、及び其の翌日より三日間、竝びに大喪儀當日。

皇太子・皇太子妃・攝政皇族薨去の時は、當日、及び其の翌日より三日間、竝びに大喪儀當日。

その他の皇族薨去の時は、三日以内の日數を敕定せられ、また御喪儀當日の廢朝を仰出さるることあり。なほ皇族方、または功臣に國葬を賜はつた時は、國葬當日、廢朝を仰出さる。



●參考・江戸時代の音樂停止
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/7



 愚案、寛仁親王殿下薨去の翌日七日、日本男子排球試合に、監督等、左腕に喪章を附けたるを偶見す。大喪に非ざれども、床しきことなりけり。
  
 

酒井利行大人を偲ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 6月 5日(火)23時01分19秒
返信・引用 編集済
   人も爲すてふ、「グーグル檢索」なるものを、久しぶりに行つてみた‥‥。



●酒井利行大人『王城拜護詞』
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/nagaikoshoten/image-11256542865-11985563121.html



●酒井利行大人『忠誠の系譜について/和氣公――大楠公――松陰烈士』
  ↓↓↓↓↓
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/topic/topic.htm
 
 

元護王神社宮司・酒井利行大人。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月30日(水)21時50分50秒
返信・引用 編集済
  ■□■ 護王公御遺誓 ―― 心神、常に皇城に向ひ、日夜、皇城を拜護せむ ―― ■□■



 平成二十四年五月一日、酒井利行大人が歸幽された由。享年九十。謹みて哀悼の意を表します。

 幼少の交、祖父母に連れられて、京都護王神社に參拜し、和氣清麻呂公を仰ぎました。其の折、酒井大人は、宮司職にあられたかと記憶してをります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t30/4

 殊に中島一光翁のホームページ『彌榮』にて、酒井利行大人の尊話を拜聽し、感泣いたしました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t30/3
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/14

 泉水隆一監督『靖国神社の真実』を上梓くださつた、洛風書房の代表・魚谷哲央翁も、京都護王神社に奉仕されてをられました御由、ご縁の深きに驚いてをる次第です。
 
 

淺見絅齋先生『靖獻遺言』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月18日(金)23時27分40秒
返信・引用 編集済
   スレツド欄に、

淺見絅齋先生『靖獻遺言』筌蹄

てふ新スレツドを、五稜郭の賊徒平定の日を卜して建てさせて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t40/

 皇國の大義、出處進退に就いて考へさせられます。五月二十五日、楠公祭が近づきました。

 舊稿の補訂、未だ緒に就いた許りですが、ご高覽たまはれば幸甚です。
 
 

崎門道義の學を宣揚せむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月13日(日)19時59分2秒
返信・引用 編集済
   皇御民の任は、如何樣にしても、皇天の正嫡に坐します、天津日嗣、天皇陛下を扶翼し奉るに在り矣。生きて扶翼し奉ることが出來るならば、斷じて生くべく、死して扶翼し奉ること叶ふならば、勇みて死すべし。

 然るに「去」つて己を潔くし、隱れて逸るゝの道は、皇國の道義に非ず。況んや「名」を擧ぐる爲めの行藏をや。義理の至當とは、何ぞや。崎門の崎門たる所以、遂に我が神道と幽契す。目を瞠つて見るべきなり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/13



●若林強齋先生『藤房卿遺址に題す』(『強齋先生遺艸』卷二)

内外なく 君が御國と 人とはゞ 何とこたへて いづちゆくらむ



●強齋先生『強齋先生雜話筆記』に曰く、

「日本では、君臣の義が大事。君臣の義が根になりて、教も立つ、學もこゝに根ざしたもの。こゝを外した學は、益に立たぬぞ。何程、傑・紂の樣な君でも、あなた樣をと、戴き切つてをる心でなうては、益に立たぬ」(卷六)と。

何程、惡しきことも、 勅命と云へば、違ふことならぬ。日本正統相續いで、君臣の義の正しき處ぞ」(卷十)と。



●強齋先生『楚辭講義』(享保二年開講)に曰く、

朱子の序「皆、□[糸+遣。以下☆と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、自ら已む能はざるの至意に生ず」

 「☆綣」は、絲のくるりゝゝゝと結ぼれて、解いても々ゝゝゝほどけぬことを云ふ。譬へば棄てられた女の、夫を慕ふ情の、忘れうとしても、忘れられず、理で合點せうとしても、合點ならず、どうほどいてみても、ほどかれぬ樣なことを云ふ。

 「惻怛」は、痛々しう胸にこたへること。此の四字が、忠臣の心の眞味を知る處ぞ。『楚辭』を讀みて、屈原の屈原たる處を見るかねは、こゝにあるぞ。此の心から、あれも出でたり、怨んでも出たり、激しても出たり、怪しうも出たりするが、其のなりが、「皆、☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生ず」ぞ。

 「至意」は、どう云ふに云へぬ、餘義ない思はくを云ふ。此の心(いとしうてならぬ本心)でこそ、忠臣孝子と云はるゝぞ。此の心が無ければ、境界が順なれば、幸ひに背く跡は見えぬが、何時でも狹間くゞる心は持つてゐるぞ。絅齋先生の『靖獻遺言』の第一に、これを載せらるゝも、これが忠義の骨髓で、此の心なりが、三仁(微子・箕子・比干)ともなり、(諸葛)孔明ともなり、文山(文天祥)ともなりたものぞ。此の心を得るで無ければ、忠の字の話はならぬぞ。



●強齋先生『神道大意』に曰く、

 あの天神より下された面々の、此の御靈は、死生存亡の隔ては無い故、此の大事のものを、生きては忠孝の身を立てゝ、どこまでも君父に背き奉らぬ樣に、死しては八百萬神の下座に連なり、君上を護り奉り、國土を鎭むる神靈となる樣に、と云ふより外、志は無いぞ。
 
 

再び奧八兵衞翁の懊惱。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月12日(土)12時26分56秒
返信・引用 編集済
   神式の御火葬、抑々存在し得るものか。火の中より出で坐しゝ神もあり、火の中より神上らせ給ふ神も坐しまさむか。御新儀は未來の先例、神職の研鑽を乞ひ奉る。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/889



●贈從四位・鐵石藤本眞金先生の哥(安政三四年頃――魚屋八兵衞を讚する歌――後光明天皇崩御の御大葬の際、其の火葬にてなさるゝと聞きて、御魚屋八兵衞翁は大いに悲しみ、御所の門外に於て、終日おらび泣いた。遂に雲井に響くやあらむ、爲めに朝議、斷然穢らはしき火葬を廢され、神式にて斂葬されし御故事を詠みしものなり)

なきどよむ ねむころゝゝゝゝに 雲の上 日の高宮も 動きましけむ



●影山正治翁『忠靈神葬への祈り』(『影山正治全集』第七卷・平成二年六月・刊行會刊に所收)に曰く、

「魚屋八兵衞とは、慶安・承應の頃、禁裡に出入してゐた一介の御用商人であつたが、後光明天皇御崩御に際し、廟議、舊例に基き、御火葬に傾きつゝあるを聞き、大いに歎き悲しみまつり、朝夕、御所の門前に號泣拜伏して熱祷、遂に廟議を動かして、古代の儘なる御土葬に附しまつることとなつたのである。この事は、深く幕末烈士の心魂をうち、諸烈士、多くこの草莽八兵衞の熱祷を讚仰して止まなかつた。‥‥

 上代にあつては、神代のまゝに、御遺骸を御土葬に附しまつり、民草の遺骸も、この大御手振りに神習ひまつりて土葬に附したのであるが、佛教渡來後暫くして、神州の風儀衰廢し、多く印度流の火葬に遷移したのである。至尊御火葬の御ならはしは、第四十一代・持統天皇に始り、第百七代・後陽成天皇に終つて居られる」と。



●影山正治翁『忠靈公葬神式統一祈願祭文』

明津御神と、天ケ下治ろしめし給ふ、天津日嗣天皇の大宮の大御前に、草莽の臣ら、謹み恐み拜(をろが)み奏(まを)しまつる。

先きつ昭和十六年十二月八日、神ながらも天降し給ひし大詔のまにま、神敵米英撃攘の大御戰、海・陸(くが)・空をかけて、四方に擴ごり進み來れる所、國民草の祈り足らはずして、國内の汚れ諸々、今に拂はれず、大御稜威、中空に遮り沮(はゞ)まるゝこと多く、爲に仇共、次第にその暴威を加へ、今や、皇軍(みいくさ)、しきり惱みて進むことを得ざるなり。

まこと大御嘆き、日々に深くましまさむと、臣等、悲泣、思ひ參らせるに耐へざるなり。

茲に紀元の嘉節を卜し、臣等、潔齋恐懼、大御前にかく參ゐ集ひて、聖戰貫徹、維新促進の血願を籠めまつり、併せて聖戰眞義明徴上の急務たる、忠靈公葬・神式統一實現の熱祷を捧げまつるなり。

仰ぎ願はくは、この御道開きの御尾前(みをさき)として、大みいのちの邊に、いのちさやけく捧げまつらむとする御民吾らが微衷、あはれと聞召し給へ。又そがうけひの證(しるし)として、各も各もになり代り、醜の○○○○○○○○○○、供へまつる樣を、相諾(うべな)ひ臠(みそなは)し給へと、畏み恐みも奏す。

 昭和十九年二月十一日

  大東塾塾長・新國學協會代表 臣 影山正治
 
 

淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月10日(木)00時40分8秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 次の司馬温公の論は、天下萬世の惑ひを開き、大いに來學に功あるぞ。□[龍+共。以下◎と表示]勝は、かたの如く好い人なれども、眼のあかぬ者は、之を惡く云ふ故、それを辨ぜられた。以下、王莽の時の名節の士を擧げらるゝ。此の竝べ方が面白い。前に揚雄をつぶし、これこそ忠臣ぢやとて、之を擧げられたから、雄の恥が、いよゝゝ能く見える。



 司馬光の曰く、王莽、◎勝の名を慕ひ、沐するに(湯を浴びせる樣に)尊爵厚祿を以てし、劫(おびやか)すに(大かさになりて嚇すに)淫威重勢を以てして、必ず之を致さんとす。勝、逼迫に勝へず、食を絶ちて死す。

[漢の◎勝、名節直言を以て著はる。哀帝崩じ、王莽、政を秉(と)るに會ひ、骸骨を乞ひて(隱居)、郷里に歸老す。莽、既に國を簒ふに及び、使者を遣はし、即ち勝を拜して、講學祭酒(學校の總頭)と爲す。勝、疾と稱して應ぜず。後ち莽、復た使者を遣はし、勝を迎ふ。使者、郡太守・官屬・諸生、千人以上と、勝が里に入り、詔を致す。使者、勝をして起ち迎へしめんと欲す。勝、病ひ篤しと稱す。使者、入りて勝に謂ひて曰く、「聖朝、君を待ちて政を爲さんとす」と。勝、對へて曰く、「命、朝夕に在り、道を上らば、必ず死せん。萬分を益無し」と。使者、印綬を以て、就きて勝が身に加ふるに至る。勝、輒ち推して受けず。使者、勝の子及び門人等の爲に言ふ、「朝廷、心を虚しうして君を待つに、茅土の封(知行)を以てす。疾病と雖も、宜しく動移して傳舍に至り、行く意有るを示すべし。必ず子孫の爲に、大業を遺さん」と。門人等、使者の語を白す。勝の曰く、「吾、漢家の厚恩を受く。以て報ゆること亡し。今ま年老ゆ矣。旦暮、地に入らん(明日か晩に死ぬ)。誼(義)、豈に一身を以て、二姓に事へ、下、故主を見んや哉。因りて敕(古は之を君臣ともに用ふ)するに、棺斂・喪事を以てし、衣は身に周らし(身體を隱しさへすればよい)、棺は衣を周らし、俗に隨ふこと勿れ」と。語り畢りて、遂に復た口を開き飲食せず、十四日を積みて死す。時に七十九なり矣]。

 班固、薫膏の語を以て、焉れを譏る[『漢書』◎勝傳の末に云ふ、「老父有り、來りて弔ひ、哭すること甚だ哀しむ。既にして曰く、『嗟□[虎の上+乎](あゝ)、薫は香を以て自ら燒け(香氣がよいから燒かれる)、膏は明を以て自ら銷(き)ゆ。◎生、竟ひに天年を夭す。吾が徒に非ざる也』と。遂に趨りて出づ。其の誰なるかを知ること莫し」と]。未だ爲めに之を辨する者有るを聞かざる也。大いに哀しまざる可けんや歟。

 昔者、紂、不道を爲し、四海を毒□[病埀+甫]す。武王、天下の困窮に忍びずして之を征す。而るに伯夷・叔齊、深く之を非とし、義、周の粟を食はずして餓死す。仲尼(孔丘の字)、猶ほ之を稱して仁と曰ふ(本心の止まれぬ、隅々から出た故ゑ仁と謂ふ。『論語』述而)は、以て其の節を殞さずと爲すのみ而已。況んや王莽、漢の累世の恩に憑り、其の繼嗣衰絶に因りて、詐僞を飾つて之を盗み、又た清士(◎勝)を誣□[三水+夸。こ。汚]するに、其の臭腐の爵祿を以てせんと欲し、甘言諛禮、必致を期し、智を以て免がる可からず(如何樣の智でも、斷りの云ひ樣が無い)、義を以て讓る可からざる(筋道でも遁れられぬ)に於いては、則ち志行の士、死を舍(す)てゝ、何を以て、其の道を全うせんや哉(死なねば存分が立たぬ)。

 或る者、其の芳を黜(しりぞ)け、明を棄てゝ、其の天年を保つこと能はずと謂ふ。然らば則ち虎豹の□[革+郭]、何を以て犬羊の□[同上]に異ならん。庸人の行ひ、孰れか此の如くならざらん。又た其の詭辭曲對、薛方が若く、然らざるを責む[漢の末の清名の士、齊に薛方有り。莽、國を簒ふに及びて、安車を以て方を迎ふ。方、辭謝して曰く、「堯・舜、上に在り、下に巣・由(巣父・許由。箕山に隱る)有り。今ま明主(王莽)、方(まさ)に唐・虞の徳を隆んにす。小臣(薛方)、箕山の節を守らんと欲す也」と。使者、以聞(いぶん。上奏)す。莽、其の言を説(よろこ)び、強ひて致さず]。然らば則ち將に未だ諂ひに免れずとす。豈に能く賢と曰はん。故に勝、無道に遭遇する、此に及びて窮まれり矣。

 節を失ふの徒[班固を指す也。漢の竇憲、外戚を以て權を專らにす。後ち遂に逆を謀る。和帝、之を誅す。固、憲の客爲るを以て、亦た獄中に死す]、忠正を排毀して、以て己が非を遂げ、察せざる者、又た從ひて之に和す。太史公(司馬遷)の稱す、「伯夷・叔齊も、孔子有らざれば、則ち西山の餓夫、誰か之を識知(し)らん」と。信なるかな矣哉。



 「詐僞を飾つて之を盗む」は、龜の甲へ朱で、天命が莽に歸せしめたと、『符命』を書いて、これが獵師の網にかゝつてなど云つて、天下を盗んだ。

 「或る者」は、志行の士の、命を捨て義理を立つるを見て、「ぬらりくらりして、天命を保つがよい」と云ふ。虎豹の皮は見事なれども、之を揉み革にすれば、犬羊の革と異ること無し。芳を黜け明を棄てたらば、上毛を拔いだもの故、忠義の人やら、不義の人やら分らぬ。

 「太史公の稱す」は、千載、論定まつて、伯夷の伯夷たるを知らぬ者も無いが、それは、孔子の極めが付いたからの事。

 次の文は、漢の武帝は明君であつた故、世を取ると、學校を立てられた。學で無ければ、人道が立たぬと思はれし故なり。夫れからして、名を立て節義を勵み合うた。『(張)南軒文集』に、「名節論」あり。朱子の語にも、「名節一變せば、道に至らむ」となり。日本の武士は、其の場で立つることもあるが、後漢のは、平生立て合うて居る。それを讒人共は、「徒黨を組合ふ」と云つて、賢者も此の中へ入れて追拂うた。それで東漢が亡びた。後世で、これを餘りに勵み過ぎたとて、東漢の名義を惡う云ふ者ある故、朱子が辨ぜられた。



 朱子の曰く、今の世人、多く道(い)ふ、「東漢の名節、事に補ふことなし」と。某の謂ふ、三代よりして下、惟だ東漢の人才、大義、其の心に根ざし、利害を顧みず、生死も變せず、其の節、自から是れ保つ可し。未だ公卿・大臣を説かず。且に當時の郡守、宦官の親黨を懲治するが如き、前なる者、既に治する所と爲ると雖も、來る者、復た其の迹を蹈み、誅・殛・竄・戮、項背相望み、略ぼ創(こ)るゝ所ろ無し。今ま士大夫、顧惜畏懼、何ぞ其の此の如きを望まん。平居暇日、琢磨淬厲するも、緩急の際、尚ほ退縮を免れず。況んや游談聚議、習うて軟熟を爲す。卒然(俄かに)警(一大事)有れば、何を以て其の節に仗り、義に死することを得んや乎。大抵、義理を顧みず、只だ利害を計較するのみ。皆な奴婢の態、殊に鄙厭(下卑た事)す可し。



 「誅」は、其の場で殺す。「殛」は、酷く當つて殺す。「竄」は、流し者。「戮」は、なぶり殺し。

 「項背相望む」は、うなじと背中と相望むと云ふことで、前の郡守が辭めらるれば、又た後の役人が來て、引きも切れぬ事。

 次の文は、東漢の荀彧は、忠臣に紛るゝ故、朱子が論ぜられたるなり。荀淑から言うて來たのは、「祖父は忠臣であつたに」との意なり。温公は、彧を正道ぢやと云はれたが、一生の大誤り、朱子『通鑑綱目』には推し出して、謀反人のあしらひなり。



 又た曰く、荀淑、梁氏の事を用ふるの日に正言して[順帝崩じ、太子幼し。梁の太后、朝に臨む。太后の兄の大將軍・梁冀、事を用ひて跋扈す。時に日食・地震の變有り。淑、策に對して、貴倖(君の御氣に入りの高位の人)を譏刺す。冀の忌む所と爲り、遂に官を弃てゝ歸る]、其の子・爽、已に跡を董卓、命を專らにするの朝に濡す。

[范曄の曰く、「董卓の、朝に當るに及びて、爽及び鄭玄・申屠蟠は、倶に處士を以て召さる。蟠・玄、竟ひに屈せず、以て高尚を全うす。爽、已に黄髮(老人)なるも矣、獨り至る焉。未だ十旬(百日)ならずして卿相を取る。意(おも)ふ者は、其の趣舍(義につき、不義を棄てる。出處進退)に乖(そむ)くを疑ふ。余(范曄)、竊かに其の情を商(はか)りて、以爲らく、「跡を濡して(已むを得ず仕へ)、以て時を匡せるか乎。然らずんば則ち何爲れぞ貞吉に違ひて、虎の尾を履める焉」と(荀爽に對する辯護論)]。

 其の孫・彧(ゐく)に及びては、則ち遂に唐衡(宦官)の壻・曹操の臣と爲り、而して以て非と爲すを知らず矣[彧は、爽の兄・□[糸+昆]の子也。□[同上]は宦官を畏憚して、乃ち彧の爲に、中常侍・唐衡の女を娶り、後に曹操の謀主と爲りて死す。中常侍は、宦者の官名なり。朱子、又た『尤延之及び潘叔昌に答ふる書』に於いて、詳かに彧の身を失するの本末を斷ず矣]。蓋し剛大直方の氣(荀氏の精神)、凶虐の餘に折れて、漸く身を全うし、事を就(な)す所以の計を圖る。故に其の淪胥(手に手を引いて、溝へはまつた樣)して、此に至るを覺らざるのみ耳。想ふに、其の當時、父兄師友の間、亦た自ら一種の議論、文飾蓋覆して、驟かに之を聽く者をして、其の非爲るを覺らずして、眞に以て是れ必ず深謀奇計、以て萬分有一の中に、國を治め民を救ふ可きもの有りと爲さしむる有らん。邪説の横流、洪水・猛獸の害より甚しき所以、孟子、豈に予を欺かんや哉。




 朱子が推量するに、さすが荀氏は後漢の名家なれば、初めより節を曲げて、不義の人にならうとしたではあるまい。毫釐の差は、千里の誤になる。僅かに弛みがあると、宦官の婿となり、亂臣賊子の曹操が謀主となる。『三國志』では、目が闇くて騙された樣に云うてあれども、それ程な男でも無い。

 強齋先生の曰く、此の樣に、節義を失つて、知らぬ者を思ひやるに、其の時分、それらが父兄師友等の間で、一つの了簡をつけて、「宦官の婿になつて居たもよい。何を云ふも、君の御爲ぢや」と云ふ樣に、上つらを見事に言ひ飾つて紛らかして、己の節義を失つた事は隱して、一寸聞いては、「いかさま、是も尤もぢや。定めて深い分別のかはつたよい思案でもあつて、それで萬に一つも、國を治め民も救ふやうな事があらうず」と思はするぞ。その樣に云へば、義理の暗い者は、つひ夫れに陷るによつて、洪水・猛獸の害より、邪説の害は甚だしいこと、信に孟子の仰せられた通りぢや、とある事。

 次の黄氏の論は、朱子と異なる。こゝは、朱子の説はあげられぬ。黄説は正なり、朱説は權なり。後漢には宦官と黨錮と、二つに分れて、宦官は賢者に頭出しをさせぬ樣にしかける。賢者は宦官に唾はきして、惡み切つて居るぞ。時に陳寔が、張讓と云ふ宦官の、父の喪を送つた。それを宦官共が嬉しがつて、黨錮を許し置いた。これは善類が絶えぬやうとて、かうされたであるまい。善類の憂き目を見るが、氣の毒であるからの事であらう。陳太丘の心には、義・不義の考もあるまい。嫂溺るれば、手を引いて助くる樣なもの。朱子の曰く、「陳仲弓、宦者の葬の如き、仲弓の志し有れば則ち可、仲弓の志し無ければ則ち不可」と。案ずるに、程説、朱子と異なる。程子の曰く、「陳寔、張讓を見る。是れ故舊は、之を見て可なり。然らずんば則ち非。此れ所謂る太丘、道廣し」と。



 黄□[幹の左+八+木。かん](勉齋)の曰く「陳太丘(名は寔、字は仲弓。太丘の長と爲る。漢末の名士なり)、張讓[宦官の名]が父の喪を送る。人、以爲らく、「善類、頼りて以て全活する者、甚だ衆し」と。前輩も、亦た以爲らく、「太丘、道廣し」と。嘗て竊かに之を疑ふ。此の如くなれば、則ち尺を枉げて、尋(八尺)を直くして、而も爲す可きか歟。士君子、己を行ひ身を立つる、自ら法度有り、義有り、命有り。豈に宜しく以て法と爲すべけんや。天地、此の如く其れ廣く、古今、此の如く其れ遠く、人物、此の如く其れ衆し。便ち東漢の善類をして、盡く宦官の殺す所と爲らしむるとも、世、亦た曷(なん)ぞ嘗て善類無からんや哉。若し是れ眞丈夫ならしめば、又た豈に宦官の禍を畏れて、太丘、此の如くの屈辱に藉(よ)りて、以て其の身を全うせんや哉。吾人、此等の處に於いて、直ちに須らく見得て分明なるべし。然らずんば、未だ坑(あな)に墮ち、塹(ほり)に落ちざる者有らざる也(うかゝゝと行くと、思ひがけなう、不義に落ちると云ふ意)。

 右、類に因て、後に附録す。後、皆な此に傚へ。




 強齋先生の曰く、「直ちに」と云ふは、大義の立つ處の大根を、眞直に見ぬいたがよい、と云ふ事。かう云ふ譯の、どう云ふ譯のと、云ふ入りわりは、こゝではいらぬ。其の樣な事は除けて、こゝはかうぢやと云ふ大義を、眞直に見ぬくがよい、と云ふ語意。



 淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一、拜記すること、件の如し。實に大義の嚴しきを知るべく、正に吾人の道義錬磨に資する書であります。最も短い卷ゆゑに、些か工夫して、披露させて戴きました。一卷、以て全卷の梗概が窺ふ事が出來ませう。「甚だ解する」こと能はずと雖も、道義討議の雰圍氣は判明するかと、今は恐懼してをる次第です。此の縁故を以て、有志の一人でも、『靖獻遺言』を繙いて戴けたら幸甚であります。

 日夜、心を潛めて、『靖獻遺言』を拜讀すれば、道義の至當を究むることが出來、難に當つて毫も恐るゝ所なく、進んで天下の綱常を扶植せんとの志氣が、勃然として興起するを覺えるでありませう。それにしても、伯夷・叔齊兄弟の出づるあつて、初めて支那に道義が立つたと謂はねばなりませぬ。
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 もつとも絅齋先生は、我が國の忠臣義士の傳を編まれたき存念でしたが、其の生きた時代が、之を許さず、忠臣義士の模範を、已むを得ず、隣國の支那に求められたのであります。皇國と支那との國體の相異を踏まへつゝ、絅齋先生の微意を、何卒、御汲み取り戴ければ幸甚です。



【靖獻遺言目録】
一、屈 平『離騒懷沙の賦』‥‥拜記し畢ぬ
一、諸葛亮『出師表』
一、陶 濳『史を讀みて述ぶ、夷齊の章』
一、顔眞卿『移蔡帖』
一、文天祥『衣帶中の贊』
一、謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』
一、劉 因『燕歌行』
一、方孝儒『絶命詞』
 
 

似て非なる奸賊を討つ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 7日(月)21時24分11秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 朱子、又『反離騒』に敍して曰く、『反離騒』は、漢の給事黄門郎・新莽(王莽)が諸吏中散大夫・揚雄の作る所ろ也。雄、少くして詞賦を好み、司馬相如が作る所を慕ひて、以て式(手本)と爲す。又た屈原の文、相如に過ぎたるを怪しみ、『離騒』を作りて、自ら江に投じて死す容(べ)からざるとするに至り、其の文を悲しみ、之を讀みて、未だ嘗て涕を流さずんばあらざる也。以爲(おもへ)らく、「君子、時を得れば則ち大いに行ひ、得ざれば則ち龍・蛇(時を得ざれば淵に蟄し、雲を得れば天に昇る)、遇・不遇は、命也。何ぞ必ずしも身を湛(しづ)めんや哉」と。廼ち書を作り、往々『離騒』の文を□[手+庶。ひろ]つて之を反し、□[岷+日]山より諸れを江流に投じて、以て原を弔ふと云ふ。

 始め雄、學を好みて博覽、勢利に恬なり。漢に仕へ、三世、官を徙さず。然るに王莽、安漢公と爲る時、雄、『法言』を作り、已に其の美を稱し、伊尹・周公に比ぶ。莽、漢を奪ひ帝號を竊むに及んで、雄、遂に之に臣たり。耆老の久次を以て、轉じて大夫と爲る(何の手柄なくても、奉公久しうした老人をば、官を進める)。又た相如が『封禪文』(『史記』・『文選』に所收)に放(なら)ひ、『劇秦美新』(秦を激しく譏り、新を譽める。『漢書』・『文選』に所收)を獻じて、以て莽が意に媚び、書を天祿閣(天子の文庫)の上に校することを得たり。

 劉尋等、『符命』を作るを以て、莽が誅する所と爲るに會ひ、辭、連なりて雄に及ぶ。使者、來りて之を收めんと欲す。雄、恐懼し、閣上より自ら投下し、幾(ほと)んど死す。是より先き雄、『解嘲』(所著『太玄經』を嘲るに因り、其の嘲りを言ひほどく書)を作り、「爰に清、爰に靜、神の廷(には)に遊び、惟だ寂、惟だ莫、徳の宅を守る」の語有り。是に至りて京師、之が爲に語して曰く、「爰に清靜、『符命』を作り、唯だ寂莫、自ら閣より投ず」と。雄、因りて病免す。既にして復た召されて大夫と爲り、竟ひに莽が朝に死す。其の出處の大致本末、此の如し。豈に其の所謂る龍・蛇なる者か耶。然れば則ち雄、固より屈原の罪人他爲りて、此の文(『反離騒』)は、乃ち『離騒』の讒賊(讒言を入れた故)なり矣。他、尚ほ何をか説かんや哉。


 『反離騒』は、屈原の死なれいでも大事ないに、と云ふことを書いた辭。揚雄、字は子雲、『揚子方言』・『法言』・『太玄』と云ふ書を作りて、世にもて囃され、韓退之の如きは、『孟子』と竝稱し、司馬温公は、之を『論語』に比べられた。けれども大義を誤りし儒者の紛れ者故ゑ、朱子は、その『反離騒』を敍して、別して之を辯ぜられた。

 強齋先生の曰く、司馬相如よりも、屈原の文は、格別すぐれて上手であつたに、其の志行は違うて、江に沈んで死せられた故、何ほど窮したにしても、死せずとも苦しう無い、堪へられふ事ぢやに、と云うて、屈原の文を讀みては、涕を流して悲しんだぞ。

 「漢の給事黄門郎・新莽が諸吏中散大夫」の筆法は、はつきりと二主に事へたことが見える。漢の官と新の官とを擧げて、はつきり雄が、二心を見せた。

 「相如が封禪文」は、天下、大いに治まつた時、天子は、その徳を天に告げん爲に、泰山に登り、土を築いて壇を作つて(封と云ふ)、天を祭り、泰山の下の小山の上の土を除いて(禪と云ふ)、地を祭り、以て天地の功に感謝する儀式の文。相如は、一生、志を武帝に得ずして難儀せる故、何ぞ子孫の爲にせんとて、武帝に媚び、此の文を作り、「我が死後、若し天子の、何ぞ求めらるれば、之を」と遺言せり。後ち果して詔ありて、之を奉る。

 「符命」は、神告などの樣に書いた未來記。これは莽を惡んで、「やがてにも亡びん」と書かれしなり。

 「京師」は、京師の人の惡口するには、「心、清靜なりと云へど、『符命』を作りて榮達を求めんとし、心、寂莫なりと云へど、自ら閣より投じて、死を畏れた」と。面目なさに、病氣にして、役義を免ぜられた。

 「他、尚ほ何をか説かんや哉」は、是れ一つで、尚ほ他に何んの云ふ詞があらうぞ。結局、龍・蛇ですら無い。

 淺見絅齋先生『楚辭師説』に曰く、屈原は、宗國の爲めに死なれた人ぢやに、之を左樣いへば、屈原の罪人ぞ。外の事は云ふに足らぬもの故、何を説かうやう無い。華美な文章を書くことは、司馬相如に次いでは、是ぞ。後世も揚雄と云うて、韓退之はじめとして、口にかけられる。司馬温公ほどの大賢でさへ、『孟子』は尊ばずして、揚雄を尊んで、『太玄經』の註までせられたぞ。それで、程子の、揚雄が書を著はし、色々の文章がある故、人が褒めるさうなが、役に立たぬ者ぢや、と云はれたぞ。然れども漢の爲めに不忠の者ぢやと云ふ、罪を正すは、朱子からの事ぞ。



 愚案、彼の揚雄なる者は、我が國に於いて申せば、吉野の朝廷に仕へ、逆賊足利高氏にもついた、夢窓疎石の如き茶坊主のやうな者なり。又た大西郷も抄(『手抄言志録』)した所の佐藤一齋、實は慕ふ門人を見捨てゝ、幕府に媚び、保身の腐儒――森銑三翁、之を證せりと雖も、今ま猶ほ人氣あるは、不可思議千萬と云はんか、遺憾至極なるべし。人物は皮相に仰ぐのでは無く、よくゝゝ覆審吟味が必要なり。

 如何ほど立派な文章を書いても、大儒と崇められても、あれではなあ~。谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「凡そ忠義と云へば、主人の善惡にかまはず、我が身の持前の義理を盡すより外ない。逆賊などに仕へて忠を盡せば、忠義は忠義なれども、謀反人ぞ。然るによつて、出處と云ふことが大切なことぞ。何程忠義が正しうても、出處が惡ければ、何んの役に立たぬ」と。信なるかな哉、此の言。天網恢々、疎にして漏らさず、「皇天上帝、眼、分明」(謝枋得の詩)、人をして白日の下に明かならしむ矣。「神は見てをる」。
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けん綣惻怛、至誠、自ら已む能はざるの心。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 6日(日)17時59分36秒
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~承前~

■楚の屈平『離騒懷沙の賦』(雪窓沼田宇源太翁『靖獻遺言講義』・紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』に據るも、些か編纂を加へたり。許し給はらむことを)

 貶されて浪人になられた故、官は書かぬ。楚と云ふ字をかぶせたは、浪人になりても、楚を忘れぬ、[糸+遣。以下☆と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)の心を見せたもの。屈平と、名で呼んであるは、名分の大事なり。尊ぶ旨ならば、字(あざな。支那の通稱。[註])で稱する(屈原)ものなれども、此の書(『靖獻遺言』)は日本で出來たこと故、此の國から、あの方の人を呼ぶに、尊んで云ふ譯はない。司馬温公でも、「司馬光の曰く」と云ふてある。

 若林強齋先生講義に云ふ、「☆綣惻怛の心」、こゝが靖獻の旨、『遺言』一部の眼目と云ふは、こゝぞ。(愚案、皇國に於いて、一言を以て申さば、「戀闕」てふ言葉に當るべし矣)

[註]愚案、皇國にては、呼稱、異なれり。生きては通稱を云ひて、諱(忌み名・實名)を文字通り忌み、死しては雅號ないし官名、不明ならば諱を申すが古風にして、後人が通稱を申すは、餘りに憚り多くして、時には當に居傲と謂ひつべきなり矣。人はどうあれ、小生は、呼稱の古風、或は轉じては『靖獻遺言』の筆法、やうやく廢れたるを悲しむこと、頗る大なり矣。
 例へば「赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩」てふ先哲を、赤城先生と申して、彦九郎と呼捨てすること能はざるが如し。一方、漢文ないし支那風ならば、高山仲繩と申せば、敬を籠むる謂ひ也。韓愈を韓退之と云ふが如し。高山子・韓子と申すは、更に尊びて申す也。
 又た吉田松陰先生は、松陰と申して、橋本景岳先生は、左内と呼び捨てる。平仄の合はざること千萬なり。左内の稱を流行させし者の罪、免れず。況んや其の顯彰會「景岳會」あるに於いてをや。元景岳會々長は、松平永芳靖國神社宮司、即ち是なり。

 「離騒」は、遭憂、忌々しい憂愁に遭ふこと。沙石を懷抱し、以て自ら沈むを言ふ也。『離騒』の中には、屈原の辭多けれども、別きて此の賦は、屈原が石を懷にして、身を投げ死せんとするになりても、君を忘れぬ、止むに止まれぬ☆綣惻怛の心が、懷沙の賦となりて出た故、別して忠義の心が見える程に、此の辭を取られた。

 強齋先生の曰く、『離騒』の中にも、段々屈原の辭多けれど、別きて此の『懷沙の賦』は、屈原の石を懷に抱いて、身を投げて死なるゝ、其の臨終に發せられた詞で、身を水に沈むる程になつても、未だ君が忘れられぬ、さう云ふなりより外ない忠義の、已まれぬ☆綣惻怛の心が、『懷沙の賦』となつて出た故ゑ、別して忠義の心が見ゆる程に、この辭を採られたぞ。



浩浩たる□[三水+元]湘、分流、汨たり兮。
――廣々とした二水は、幾筋にも分れて、どんゞゝ流れ行く

脩路、幽蔽し、道、遠忽たり兮。
――長く續く道は、こんもりと樹々に蔽はれてゐて、行く手は定かでない。

曾(すなは)ち傷み、爰に哀しみ、永く歎喟す兮。
――楚國の將來を傷み悲しんで、思はず永い溜息をついた。

世、溷濁し、吾を知ること莫し。人心、謂(かた)る可からず兮。
――思へば、世は亂れ濁つてゐて、私の心の裡を知つてくれるものもなく、この心を語ることも出來ない。

質を懷き、情を抱きて、獨り匹(たゞ)さん無し兮。
――飾りない眞心を抱きながら、私の態度が無理かと、人に正すすべもない。

伯樂、既に沒す、□[馬+北+異]、焉んぞ程(はか)られん兮。
――伯樂が死んでしまつた今日、駿馬とて、誰がそれを品定めしてくれようか。

民生、命を禀け、各々錯く所ろ有り兮。
――人がこの世に生れると、各人、その分、運命が決まつてゐるものである。

心を定め、志を廣めば、余、何ぞ畏懼せん兮。
――されば心を落ち着け、志を廣く持つならば、何の懼れることもない。

死の讓る可からざるを知りぬ、願はくは愛しむこと勿からん兮。
――死が避けられぬものなることを知つた以上、この生命を惜しむことはすまい。

明かに君子に告ぐ、吾、將に以て類(のり)と爲らんとす兮。
――世の君子よ、私は死して忠臣の模範とならうと思つてゐる。



 強齋先生の曰く、俺が、私には死なぬ。拙者が存念は、天下萬世、君子が、我を忠義の類とせうと存ずるとあること。此の類と云ふは、君子の是に類し、是にのつとる樣に類するから云ふ辭。




●『靖獻遺言』に曰く、

 平、字は原。楚と同姓、懷王に仕へて、三閭大夫と爲る。三閭の職、王族の三姓を掌る(善惡を司どる)。昭・屈・景と曰ふ。平は、其の譜屬を序いで(系圖のつゞきを次第する、即ち一國の秩序の根本也)、其の賢良を率ゐ、以て國士を□[勵の左。はげ]まし、入りては則ち懷王と政事を圖義し、嫌疑を決定し、出でては則ち群下を監察し、諸侯に應對し、謀行はれ職修まる。懷王、甚だ之を珍とす。同列の上官大夫、其の能を妬害し、因りて之を譖毀(そし)る。懷王、平を疏んず。平、讒を被むり、憂心煩亂、愬(うつた)ふる所を知らず。乃ち『離騒』を作り、上は唐(堯)・虞(舜)・三后(三代の君。夏・殷・周)の制を述べ、下は桀・紂・羿・澆の敗を序いで、君の覺悟し正道に反りて、己を還さんことを冀ふ也。

 強齋先生の曰く、「遷己」は、屈原の自身の爲めではない。屈原の用ひられねば、小人どもが、いよゝゝ熾んになつて、眞實の忠を、こゝらで一つ見事だて云うて、もう爵祿に望みは無い、跡のことは知らぬと云うて、君を顧みぬは、忠では無い。こゝが、忠臣の情の、已むに已まれぬ、☆綣惻怛の心なりに、かう云うたら人が笑ふの、さもしがらうかの、と云ふ樣な計較の意は無い。只だ君を愛し國を憂ふる心が、已まぬによつて、自然にかうあるぞ。

 是の時、秦、張儀をして、懷王を譎詐せしめ(連衡策)、齊の交り(蘇秦の合從策)を絶たしむ。楚、大いに困しむ。後ち儀、復た楚に來り、又た弊を、事を用ふるの臣・□[革+斤]尚に厚うして、詭辯を懷王の寵姫・鄭袖に設く。懷王、竟ひに復た張儀を釋(ゆる)し去らしむ。時に平、既に疏んぜられ、復た位に在らず。齊に使ひし、顧反(かへ)つて、懷王を諫めて曰く、「何ぞ、儀を殺さゞる」と。懷王、儀を追ふも、及ばず。秦、懷王を誘(あざむ)きて、與倶(とも)に武關に會せんとす。平、又た懷王を諫め、行くこと勿からしむ。聽かずして往き、遂に脅かす所と爲り、之と倶に歸り、拘留して遣らず。卒ひに秦に客死す。而して子・襄王立ち、復た讒言を用ひ、平を江南に遷す(流し者にする)。平、復た『九歌・天問・九章・遠遊・卜居・漁父』等の篇を作り、己が志を伸べ、以て君の心を悟さんことを冀ふ。而れども終ひに省みられず(目を留められぬ)。其の宗國の、將に遂に危亡せんとするを見るに忍びず、遂に汨羅の淵に赴き、石を懷きて、自ら沈んで死す。

‥‥(前記の、司馬遷『史記・列傳・屈平』)‥‥

 朱子の曰く、原の人爲る、其の志行、或は中庸に過ぎて(規矩に外れて)、以て法と爲す可からずと雖も、然れども皆な君に忠し國を愛するの誠心に出づ。原の書爲る、其の辭旨、或は跌宕怪神、怨□[對+心]激發に流れて、以て訓と爲す可からずと雖も、然れども皆な☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生(な)る。其の北方に學びて、以て周公・仲父の道を求むることを知らずして、獨り變風・變雅の末流に馳騁す。故を以て醇儒・莊士、或は之を稱することを羞づと雖も、世の放臣・屏子・怨妻・去婦をして、下に□[手+文。ぶん]涙□[口+金]謳し、而して天とする所の者をして、幸ひにして之を聽かしめば、則ち彼此の間、天性民彜の善に於いて、豈に以交(こもゞゝ)發する所ろ有りて、夫の三綱・五典の重きを増すに足らざらんや。此れ予の毎に其の言に味ふ有りて、敢へて直ちに詞人の賦を以て、之を視ざる所以ん也。

 屈子は吟味のかゝる人なれども、それを載せたは、朱子の説(『楚辭集註』の序)にて見るべし。朱子も大いに用ひらるべきを、讒人の爲めに退けられ、死ぬ二三年前に、『楚辭』の註をなされた。それ迄は『楚辭』を、詞の高いばかりにて、常の詩賦の如くに見られたを、朱子に至りて、始めて詞人のものと同一でないことが分つた。『如何樣にしても、君を助くる筈。楠の討死も、殘念な事ぢや』と、絅齋先生が仰せられたも、是なり(愚案、絅齋先生の謂ひは、皇國と支那との國體の相異から來る、臣民道の在り方は、自ら相異する。皇國は盛衰あるも、興亡なければ、「生死は問ふ所に非ず、如何樣にしても、皇天の正嫡たる天子を扶翼すべし。生きて扶翼できるなら生くべく、死して扶翼できるなら死すべし」となん)。

 「跌宕」は、踏みなじり、蹴散らかす樣な氣味。憂ふる心の、やる瀬なうて、何もかも言ひ破る意。常規を逸脱した不羈の樣を云ふ。「怪神」は、奇怪神祕なことに事寄せて、君をのゝしる。

 「怨□[對+心]」は、うらみ不足のある樣なこと。「激發」は、高まつた感情が外に發する。

 「□[糸+遣]綣」は、心にむすぼほれて、忘れられぬこと。其の君と固く結ぶ也。民が其の君を忘れようとしても忘られぬこと。「惻怛」は、傷み悲しむこと。

 「變風・變雅」は、『詩經』に風と雅とある。本法の正しき性情を歌うたものを、正風・正雅と云ひ、中庸を外れたものを云ふ。

 「放臣・屏子・怨妻・去婦」は、君に逐はれて臣・親に退けられた子・夫に出された妻・舅姑に惡まれた婦。

 「□[手+文]涙□[口+金=吟]謳」は、涙をおし拭ひ々ゝて、節をつけて歌ふこと。

 「天とする所の者」は、君は臣の天、父は子の天、夫は婦の天なり。彼此は、彼は天、此は臣・子・婦を云ふ。

 「民彜」は、民の常、人が生れつき有する所の徳を云ふ。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五典」は五常、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信、是なり。一以て言へば、道義、人たるの道。人間を「ヒト」として抽象的に考へず、三綱五常として、具體的關係に於いて考へ、各々の場に於いて、最善の道を盡くさうとするのが、東洋道徳の本質である。

‥‥(前記の、『漁父の辭』)‥‥



【參看・淺見絅齋先生】
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 愚案、淺見絅齋先生『靖獻遺言』の、後世への影響は甚大であることは、能く知られてゐるが、こゝに一例を加へたい。

●太田天亮翁『河上彦齋言行録』(荒木精之翁『定本・河上彦齋』昭和四十九年七月・新人物往來社刊より)に曰く、

「彦齋(稜威幸神・高田源兵源玄明――河上彦齋翁)の書を讀むや、甚だ解することを求めず。その字音の如き、敢てこれに關せざるなり。常に好んで『靖獻遺言』を讀む。跋山渉水の際と雖も、必ずこれを携ふ。蘿月松風の下に到れば、乃ち奇石に踞し、懷よりこれを出し、以て朗讀す。讀し卒れば、大呼して曰く、『快甚だし、快甚だし』と」と。

 甚だ解することを求めざるも、口に出だして朗讀幾囘すれば、其の大要、自から知るを得て、道に迷はざるに至る。亦た宜しからずや。
 
 

述而不作。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 5日(土)01時01分20秒
返信・引用 編集済
  ■贈從四位・眞爾園竹屋大國仲衞藤原隆正翁の哥(明治三年。自筆軸)

この國に もとつ教へは あるものを など外つくにの みちもとむらむ  七十九翁隆正



■『論語』述而第七に曰く、

「子(孔丘)の曰く、述べて作らず、信じて古を好む」と。



 日本學協會『日本』平成二十四年六月號を拜讀してゐたら、照沼好文翁『栗田寛博士の學問と恩愛』に、從四位・栗里栗田寛(ひろき)博士(賀茂百樹靖國神社宮司の師なり)の、皇國の「正學」に於ける、史家の心得・學問の意味について、重要なる遺文數條の紹介があつた。摘記して、後學の求道研鑽の資とさせて戴かうと存じます。
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●栗里栗田寛博士『大日本史・志類第一神祇志の序』に曰く、

苟しくも載籍(典籍)の存する所、謹んで其の説を擇び、述べて作らず、以て稽古(古書を讀んで、昔の物事を參考にして、理義を明かにすること)に備ふるは、史氏(歴史家)の當に務むべき所ろ也」と。



●清水正健翁『大日本史の編修について』(『水戸學講座』所收)に曰く、

「抑々余(清水翁)ら、彰考館に入るの始め、先師・栗田栗里、戒諭して曰く、『本館は、西山義公以來、天朝の御爲め、中正確實の史を修めて、忠奸順逆の別を正し、是非善惡の迹を詳かにし、 以て義公の誠を致すべき所なれば、校讎刊定に就いては、一小瑣事と雖も、苟且模稜に附すを許さず、片言隻語と雖も、其の考證に誤謬あらば、痛言極論、辨難攻撃を加へられよ。徒らに師匠たるの故を以て、之を憚り、之を避け、腹非面從は、在館者の最も戒むべき所なり。是れ、本館(彰考館)傳統の心法なり』と」と。



●栗里博士『講演記録』に曰く、

「(學問といふものは、)先づ自分の國のことを能く心得て、夫れから外國の事に及んで、我が國の助けとする所の學問である。學問も、自國の事を差し置いて、外國のことを專らにすると云ふ學問であつてはいけない。道義・倫理を本として、それから自國の風俗、或は習慣、これらを精しく知ることが、學問の意味である」と。



●栗里博士『三浦周行に告ぐ辭』(三浦周行博士『日本史の研究』新輯二)に曰く、

「今日の學者、國家の爲めにせむと欲するものなきが如し。而して徒らに外面の事を脩めて、斷つて蘊奧を極めるものなし。此の如くにして已まば、代りて斯學を繼ぐものなきに至らむ」と。



●栗里博士『日本美術の誤りを正す』(『天朝正學』栗田先生述志録)に曰く、

「世の學者と云ふ者も、多くは淺薄の見識にて、今日、美術學など云ふこと流行する上より云ふときは、佛寺あるを以て美術あり、美術あるにより、日本尊ぶべし、日本の尊きを、萬國に示すは、此の佛寺なり。然れば佛寺あらずんば、美術なく、美術なければ、日本尊からじなど云ふ、愚俗を欺くの説も起るべけれど、天地の大道より見を起すときは、決して左樣のものにあらず。日本あるが故に、佛寺あり、佛寺あるが故に、美術も存するにて、其の根源は、萬古一系の天子おはしまして、古風を棄て玉はず、風俗淳樸なり。 風俗淳樸なるが故に、善惡ともに保存するの勢なり。 是れ、佛寺に古來の美術が存せるの譯なり」と。



●『阿部愿履歴』(自筆稿本)に曰く、

「(栗里)先生、常に云く、『人は、決して面責すべからず、また面責すべきものにあらず』と。兄弟、塾(輔仁學舍)に在ること、五年の久しきに及び、過失、甚だ多かりしかど、遂に先生の呵責を蒙りたることなし。先生は、至つて性急なるよしなれども、毫末もその容を見ることなく、常に惰容なり。苟且にも坐を崩せしことなく、いかなる盛夏といへども、袒裼せしことなし」と。
 
 

『靖国神社の真実』増刷出來。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 3日(木)17時31分37秒
返信・引用 編集済
   『九段塾塾頭・一兵士翁こと 泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』を、増刷いたしました。
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 無代頒布を致してをりました第一刷は、御蔭樣を以ちまして、有志の方々、ご希望の各位へ御渡し出來、既に在庫も盡きましたので、こゝに増刷に踏切りました。

第二刷】 平成二十四年壬辰 四月二十九日

 今囘は、洵に申し譯ないのですが、「増刷協贊費」として、一册につき、

一、金 貳千圓 也

を戴きたう存じます。何卒、ご賢察ください。

 増刷の協贊を賜はる御方、ご希望の御方は、在庫を確保してをりますので、下記の頒布取扱先まで、ご連絡ください。送附して戴くやう、御願ひ申し上げてをります(册數・郵便番号・送附先・芳名・電話番號を通知ください)。

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【 連 絡 先 】
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洛風書房

郵便 604-0912
  京都市中京區二條通河原町東入 京都書店會館二階

電話 075-241-3849

電送 075-241-2193


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【『靖国神社の真実』第二刷の正誤表】

●頁・段―― 行‥‥ → 

四一○  ――  六‥‥頒價 壹千圓 → 協贊費 貳千圓

 初刷の誤植は、訂正濟です。
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 増刷に協贊して戴ける御方がをられましたら、是非とも「洛風書房」樣へ御願ひ申し上げます。無代では氣がひけるてふ奇篤なる御方(苦笑)も、どうぞ宜しく御願ひします。

 又たDVD『凛として愛』は、下記にて、御取扱ひされてをられます。共々御願ひ申し上げます。
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 濟南事變の日に、備中處士、恐懼、敬つて白す。
 
 

嗚呼、屈平を弔はんかな。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 2日(水)23時40分21秒
返信・引用 編集済
   五月五日は、楚の屈平、字は原が、汨羅の淵から、石を懷にして身を投じた日である。小生の高校時代、漢文の授業で、『漁父の辭』を讀み習うたことを想出す。素讀幾囘、口に甘うした爲か、横山大觀畫伯「屈原」の繪と共に、殊に懷しい。然し古文の時間には、苦手な文法のみで面白くなかつた。「しむんずざりし、ましまほし、するはしだなら、らるさすは、しだなら以外に、りはサ變」。何の事か、今は忘れてしまうた。誰か教へてたもれ。先生は、地方では有名な詩人の由。此の先生、風邪にて休まれた折、校長先生が來られて、特別講義「徒然草」。黒板に、一氣に空にて書き給へり。『徒然草』は、全て暗記してをられた由。手紙を書かれるのにも、卷紙にてすらゝゝ。戰前の師範學校出は、小生輩とは炳かに違ひ、凄すぎた。

 閑話休題。楚の屈平、御蔭樣にて、大夢翁『青年日本の歌』の歌詞も理解出來たし、絅齋先生『靖獻遺言』卷の第一を拜讀するに入り易かつた。此の漁父(老莊)よりも、屈平(孔朱)に軍配を上ぐるは、小生、歳老いた今も、少しも變らぬ。『靖獻遺言』を讀んでは、尚ほ更らなり。端午の節句、遙かに屈平を弔はむも、亦た宜しからずや。



●屈平『漁父の辭』(『楚辭』所收。沼田雪窓翁編『靖獻遺言講義』を以て補ふ))に曰く、

「屈原、既に放れて、江潭に遊び、行々澤畔に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁せり。

 漁父、見て之に問ひて曰く、「子は、三閭大夫に非ずや與。何の故に斯こに至れる」と。

 屈原の曰く、「世を舉げて、皆な濁り、我れ、獨り清めり。衆人、皆な醉ひ、我れ、獨り醒めたり。是を以て放たれたり」と。

 漁父の曰く、「聖人は物に凝滯せずして、能く世と推移す。世人、皆な濁らば、何ぞ其の泥を□[三水+屈。にご]して、其の波を揚げざる(世俗に合はす)。衆人、皆な醉はゞ、何ぞ其の糟を□[食+甫。くら]ひて、其の□[酉+離の左。しる]を□[綴の右+酉+欠。すゝ]らざる。何の故に深く思ひ、高く舉がりて(高潔にして同調せず)、自ら放たしむるを爲すや」と。

 屈原の曰く、「吾れ之を聞けり。新たに沐(洗髮)する者は、必ず冠を彈(はじ)き、新たに浴する者は、必ず衣を振ふ。安くんぞ能く身の察察(潔白)たるを以て、物の□□[三水+文。もんゝゝ。汚穢]たる者を受けんや乎。寧ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らるゝとも、安くんぞ能く皓皓の白きを以てして、世俗の塵埃を蒙むらん乎」と。

 漁父、莞爾として笑ひ、枻(えい。舟縁)を鼓(たゝ)ひて去る(堅苦しい男ぢや、相手になれぬと去る也)。乃ち歌ひて曰く、「滄浪の水、清まば兮、以て吾が纓(冠の紐)を濯ふ可し。滄浪の水、濁らば兮、以て吾が足を濯ふ可し」と。

 遂に去りて、復た與に言はず」と。


○司馬遷『史記・列傳・屈平』(『靖獻遺言講義』から引き、又た之を以て補ふ)に曰く、

「(淮南王の云く)夫れ天は、人の始め也。父母は、人の本也。人、窮すれば、則ち本に反る。故に勞苦倦極、未だ嘗て天を呼ばずんばあらざる也。疾痛慘憺、未だ嘗て父母を呼ばずんばあらざる也(誰に云はう樣も無い時は、父母を思ひ出す)。

 屈平、道を正し行を直くし、忠を竭し智を盡し、以て其の君に事へ、讒人、之を間す。窮すと謂ひつ可し矣(竭・盡の二字を見よ。屈子のやるせない心が見える。頼み切つた君を、讒人が隔てる。窮すと云ふも、これ程のことは無い)。

 其の志、潔し。故に其の物に稱すること(志のなりが言に發する故に)芳し。其の行ひ、廉なり。故に死して容れられず(了簡のならぬ)。濁穢の中に蝉蛻し、以て塵埃の外に浮游し、世の滋垢を獲ず、□[白+爵。淨白]然として泥して滓されず(水晶の泥中に在る樣に、汚さうとしても穢れぬ)。此の志を推すに、日月と光を爭ふと雖も、可也」と。



●高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、

「端午は初五の意であり、月の初めの五日と云ふことで、初五は毎月ある筈のものであるから、五月五日は五五、重午・重五などと云つた例もある。今は端午とだけで、五月五日のことに通用せられてゐる。『續日本紀』に、

「聖武天皇・天平十九年五月に、昔は五日節に菖蒲を縵としたが、近ごろすたれてゐる。今後は、菖蒲縵をせぬものは、宮中に入るを禁ずと仰せられたこと」

と記してあるから、古い由來のものである。菖蒲は藥草で、食へば長生をするとか、一切の惡を除くと云ふので、邪を祓ふ爲に用ひる。『公事根源』には、「天皇、武徳殿に出御、群臣に酒をたまふ。人々、あやめのかづらをかけ、典藥寮、あやめの御案(おつくゑ)をたてまつり、群臣に藥玉を賜ふ。五色の絲を臂にかければ、惡鬼を祓ふと云ふ」と記してある。酒は菖蒲酒で、菖蒲を切つて酒に漬け、或は雄黄を少し加へる。又た菖蒲を縷とし屑として、酒に泛べたこともあるが、近世は、酒瓶に菖蒲の一切れを漬けただけである。

 鐘馗は、唐の玄宗皇帝の夢に現れ、天下虚耗の□[薛+子。わざはひ]を除くと奏したと云ふ傳説により、邪鬼を祓ふ神像にあつかはれてゐる。大晦日に用ひられたのが、後には五月五日に用ひられるに至つたのであるから、正月と端午の行事の相似を示してゐる。鐘馗は、實は素戔鳴尊であると云ひ、畫家も素戔鳴尊をかくものがあり、大蛇退治の酒を、菖蒲酒に云ひ傳へてゐる人もある。

 民間で五月人形を飾るのは江戸時代以來のことで、始めは厚紙に人形をほり、薄い紙で冑を作り、眞菰の葉で作つた馬、木で作つた鎗長刀を、幟や旗と共に屋外に埓を作つて立てたのが、後には屋内に飾るやうになつたのであり、鯉の吹流しを立てるのも、近世のことである。

 粽を端午に用ひるは、『延喜式』にも出てゐるが、柏餅は萬治以來のことである。蘇民將來の子孫が、五月五日に粽を食して疫病を免れたと云ふ傳説もある。‥‥

 かく考へてくると、端午も正月や盆の行事と同じ趣があつて、先づ菖蒲を軒に葺いて齋屋とし、縵をかけて我が身を淨め、菖蒲酒を飲み粽を食べて體中を清め、眞菰の馬を作つたり、幟や旗を立てるのは、神迎への形である。‥‥

 又『伊勢物語』などにも記してあるが、端午に知人の間に粽を贈答したことや、殊に室町時代以降、幕府から朝廷に粽を獻上してゐたことなどは、正月や盆の行事に贈答が伴ふのと同一の趣であり、又た平安朝の頃、衞府から菖蒲を輿に入れ、諸殿を葺く料として、禁中に奉られたことも考へ合はされる。この菖蒲輿は、『西宮記』・『枕草紙』などによると、花瓶をおき十本入れて、南庭に竝べることになり、更に變化して、菖蒲御殿と云ひ、屋形形のものに入れて奉ることにもなつた。‥‥

 屈原が、五月五日に、汨羅に投じて死んだのを哀しみ、楚の人が、毎年この日に、竹の筒に米を入れて水に投げ入れて祀つたのが、支那の祭の起源だと云ひ、‥‥屈原と限つたことでなく、供物を川に投じて靈を祭る習俗のあつたことを示すものと思ふ。

 かく考へて來ると、三月の雛祭と同じ起源に辿りつくのである。よつて端午の節句に、綺羅びやかな人形を飾り立てるよりも、軒に菖蒲を葺き、藁の馬を作つて靈を迎へ、粽を供へて祭ればよいやうに思ふ。近頃、端午の人形の派手なのが行はれてゐるが、徳川時代にも、度々制壓されたもので、華美に流れて奢に耽けることは避くべきことであり、儀式は、常に清素を尚ばねばならぬ。‥‥度々禁令が出てゐる。この主意は、今も後も、世運を思ふものゝ忘れてならぬ心得である」と。
 
 

中澤伸弘博士『みちのさきはひ』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 1日(火)17時50分53秒
返信・引用 編集済
   本日、はからざりき、柿之舍の翁より、御ふみ『みちのさきはひ』を賜ひぬ。あな、うれしきかも。うなねつきぬき、ゐやたてまつる。



■柿之舍中澤伸弘博士『本居宣長翁・玉鉾百首講義、本居大平翁・倭心三百首抄講義――みちのさきはひ』(平成二十四年四月發行)の「はしぶみ」に曰く、

「さくゞしろ鈴の屋のうしの、玉鉾百首はしも、わが神ながらの道のことわりを、みそあまりひと文字に詠みたまへるものにて、この道にわけいらむとする人の、いとも尊きみをしへなるを、大人神去りましゝより、はや百と數へては二めぐりあまりの、あまたの年月のふるまにゝゝ、見む人、讀まむひとも少なくなりて、わがちはやぶる神代のむかしの傳へすら、天つ狹霧のまがわざに知らですぐす、みくにの國たみの多きを、むらぎもの心やすからずおもひゐたるを、いにし年に若きらがまゐきて、この玉鉾百首なむ教へたまへかし、すめらみくにの物學びせましと、ねもころに願ふを、因幡の山のいなとも言へず、その熱きこゝろざしにほだされて、月にひとたびの御國まなびの集ひをまけて、その折々に拙きときごとをしへまゐらせしが、數つもりて、ふたとせあまりして、この百歌をば説きをへぬ。

 また大人のあと嗣ぎましゝ藤垣内の翁の、詠みたまへる倭心三百首をも、次々にこうさくせしも、あまたとなりぬ。かれ教へ子どもの、このふたつをば刷り卷にして、世にあまねくわかてば、鈴の屋うしのをしへは言ふもさらなり、わが神代の傳へをはじめとして、神ながらの尊き國がらをまなぶよすがになるべしと言立てするを、おほけなきしれわざにこそと聞きもせでありければ、いかでゝゝゞと朝夕べに言ひおこせるを、去ぬる彌生のおほなゐによりて、ひむがしの縣あがた町村に、あまたのそこなひのいできて、人ごころ癒えることなきほどに萎えしぼみしを、こはいかにせむ、さらば日の本のもとつ御國のたてなほしに、やゝに力そふべきなかだちにもならまほしと思ひて、こたびさくら木ににほはせて、みちのさきはひと名付けて、おほけなくも世に弘むるは、たゞゝゞにたまちはふ神代の道のさきはひを祈るがゆゑにこそ

 平らかに成るてふ大御代の二まり四つのとしの はるあさきころ

 かく言ふは 柿の舍にふみよみもの書く すめらみくにの國つみたみ みつぐりの中澤ののぶひろ」と。



 愚案、『漢書』成帝紀・隆朔二年九月條に曰く、「詔して曰く、古の大學を立つるは、將に以て先王の業を傳へ、化を天下に流さんとする也。儒林の官は、四海の淵原なり。宜しく皆な古今に明かにして、故きを温ねて新しきを知り、國體に通達すべし。故に之を博士と謂ふ。否らざるときは則ち學者、述ぶること無し焉。下の輕んずる所と爲る。道徳を尊ぶ所以に非ざるなり」と。
  ↓↓↓↓↓
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 中澤伸弘博士は、現代の皇學者に坐して、博士も衆き中、國體に通達せられ、眞の「博士」の一人でありませう。なほ柿之舍にて、下記を頒布されてをる御由であります。住所等は、敢へて省略させて戴きます。

一、國學研究會講義録『みちのさきはひ』 送料共 一千八百圓
一、考證隨筆『柿の落葉』 送料共 一千五百圓
一、自撰歌集『柿の下枝』 送料共 一千五百圓
一、平田篤胤翁『毀譽相半書・このてかしは』 送料共 三千圓
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/2

一、錦正社刊『徳川時代後期出雲歌壇と國學』
一、ナツメ社『圖解雜學・日本の文化』
一、展轉社刊『宮中祭祀』
  ↓↓↓↓↓
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1476
一、戎光祥出版刊『やさしく讀む國學』
  ↓↓↓↓↓
第一章 「國學」入門
第二章 國語の成り立ち
第三章 國學者が夢見た「日本」の姿
第四章 對立する宗教と靈界のはなし
第五章 日本文化へのまなざし
第六章 現代社會に生きる國學思想
 愚案、該書は、國學の入門書とは申せ、實によくまとまつてをり、通俗本と違ひ、勉強させられること多大、同好の士の一覽を乞ひたいと存じます。たゞ所謂る神風連の總帥・林櫻園大人の項目が立てられてゐないのが、洵に殘念ですが‥‥。また『柿の落葉』は、平泉澄博士にも同名の私家版著作『柿の落葉』――寒林自敍傳・平成二年二月刊あつて、小生には些か複雜な思ひもございます。
 
 

楠公・赤城の志を繼承するとは、常在不斷に名を正して、大義を立つるに在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 1日(火)17時38分37秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 「今楠公」と呼ばれた眞木紫灘先生は、夙に有名であるが、「今高山」と稱せられた人に、贈從四位・靖國神社祭神・有馬新七(武麻呂)平正義先生がゐる(『殉難録稿』に云ふ、「(正義は)幼きより勤王の志を抱き、常に幕府の所爲を憎みて、之を罵詈する事、毫も忌憚なかりしかば、人、皆な今高山と稱せりとなん」と)。

 「(天保)十年己亥の歳に、初めて『神皇正統記』・『保建大記』を讀みて、我が皇國の大道、有るべき由を略ぼ考へたり」てふ、崎門埀加の人・有馬正義先生(『自敍傳』)は、高山赤城先生を傳べするに缺かすことが出來ない。久保田收博士の所論を聽きたい。



●久保田收博士『有馬正義先生』(昭和十九年・至文堂刊。『有馬正義先生遺文』昭和四十五年三月・藝林會刊に所收)

「(有馬正義)先生の正之崇敬を語る一は、正之の傳記編纂のことである。正之の傳記として先生の編纂に係るものが二部存してゐるが、その一は、杉山忠亮著『高山正之傳』に、先生が註を附せられたものである。不幸散逸して、その一部を殘すに過ぎぬが、その中、「余も亦た甞て常陸に遊ぶの日、小沼實の藏する所の正之の肖像を觀るに」云々とあるから、安政五年、常陸周遊の後、恐らくは六年、歸麑(麑=鹿兒島)の後の著述であらう。先生は、杉山の本文の所説を、鹽谷世弘(宕陰)の著『正之傳』・頼山陽の『正之傳』・柴野栗山の『正之を送るの序』・正之の『富士山紀行』などに基づいて再檢討し、附註において之が斷を下されたもので、附録として右の諸文を附載されてゐる。この先生の附註はかなり詳細緻密であるが、その中に、正之の最期の條下に、

『抑も正之、一匹夫を以て四方を遊歴る。其の志は、一筋に皇室を復興し奉り、大義を天下に明かにし、名分を正すに有り。其が忠義誠確の心、凛乎として須臾も朝廷を忘れ奉らず、幕府のために忌諱せらるゝ、宜べなり。依つて幕府より探索ること、甚と密なりしなるべし。豈に正之、此れを聞いて、既に捕はれに就くに至らむとする物から、日乘等をも燒去て自殺せられしなるべし。依つて嘉膳(思齋森敬庸)に、「忠義と思ひしも、今ま皆な不忠不羲云々」と云はれしなるべし』

と述べ、更に筆を進めて、鹽谷世弘の所論に及び、世弘が、「正之、幸ひにして寛政・享和、至平の世に出で、文明の運に會ひ、其れをして節を折り道を學び、刻苦、以て其の□[口+彦]に克たらしむれば、則ち或は大に世用に適はん。然る能はずして、辛を甞め苦を食し、徒らに脾肉を撫し、以て強死に至る。亦た怜れむべきなり」と云つたのは、先生より見るとき、『深く正之が心腑を知らざるが故』であつて、これ、儒者の通弊といふべきであるとし、更に、

『世の儒者ちふ者は、動もすれば己が崇尚る學び以て、我が皇國の忠臣義士を非議るが、常多き習ひにて、深く事情を考へず、己れ實事を經歴せず、紙上にのみ眼をさらし、今日の事に迂闊き類ひ、往々皆な是なり。獨り世弘のみにはあらずかし』

と述べ、儒者がその事とする學問の性質より、自然、支那を尊崇し、日本の國體を忘れ、從つて國史の實態にふれることなく、徒らに抽象的思辨を事とすることを、痛く排議せられた。この世弘の所論に對しては、吉田松陰が、安政四年の『幽室文稿』(卷三)中、『鹽谷の文を讀む』といふ一文において、「是れ、神州の爲に言を立つる者に非ざる也。亦た高山仲繩その人を知る者に非ざる也」と論破したが、先生が世弘の説に推服し得ず、神州の爲に、また正之その人を知る者として、俗儒を批判せられたことと、その揆を一にするものといへる。

 正之傳のその二は、國文による傳記である。‥‥殘るところ僅少に過ぎぬため、内容を詳細にすることはできぬが、前書の附註に參照せられた諸書を以て、新たに先生自身の力を以て正之傳を編し、その『專ら大義を明かにし、名分を正すを以て自らの任と』せられた人であることを闡明せられたのである。

 先生の正之崇拜を示すものは、右に止まらない。安政四年、江戸滯在中の覺えである『遊歴中偶録竝草稿文留』を見ると、正之が楠公追善の爲め『中庸』を講じたといふ逸話を傳へ、鎌倉・浦賀旅中の作に、

『東人いかにやいかに大君の しらせますべき御代としらずや』

とあるのは、正之の「薩摩人いかにやいかに刈萱の 關もとざさぬ御代としらずや」の歌に出づるものであり、『雜録』を見ると、安政五年、常陸笠間でみた正之の歌が記されてをり、『安政擧義記事』には、間中與右衞門(諱宜之、號雲帆)の名をあげて、『正之の剃髮所持にて、墓石建立之賦、長島仁翁話にて候ふ事』とあり、安政六年の『擧義要録』には、正之の人物を記した草稿があつて、

『高山正之、天資英邁、早く朝廷を崇敬し、忠肝義膽、金石を貫き、名分を明かにし、大義を正し、既に將に廢れんとするの綱紀を維持し、至誠感得、靈龜獲られ、宸極の餘光を拜し、慷慨悲憤、尊氏(ママ)の墓を鞭うつ。其の四方を周遊する、蓋し亦た微意あり焉。不幸にして其の志、未だ遂げず、幕府の忌諱する所と爲り、自盡して逝く矣。然れども天下萬世をして『春秋』の大義を知らしむ。其の鼓舞作興の功、豈に魯仲連が輩の及ぶ所ならんや乎。嗚呼、亦た偉なるかな矣哉』

とあり、その大義名分を明かにして、忠肝義膽を深く敬慕されてゐることが伺はれる。更に安政六年四月、土浦の長島仁右衞門(諱尉信、號二齋)より得た、正之が祖母に送つた書簡を、友人平山清寧に與へて、その書簡の後に記して、この書簡に、正之の孝敬の心の深きことを見得ると述べ、かつ、

皇室振はず、名分明かならざるの秋に當りて、正之、特に南朝忠臣の裔を以て、慷慨大志を懷き、一匹夫を以て四方に周遊し、挺然、身を顧りみず、皇室を翼戴し、邦國を靖んずるを以て己が任と爲し、孤忠を奮ひ、誓つて將に名分を正し、大義を天下に明かにせんとす。嗚呼、亦た偉なるかな哉。其の平素、魯仲連の人と爲りを慕ふと雖も、英邁卓越、天下の忠義の心を鼓舞するに至りては、則ち仲連を過ぐること也、蓋し遠し矣

と云ひて、先生の正之を仰ぐ所以を明かにし、

後の觀る者、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て念と爲すべし。乃ち其の王を尊びて名分を正し、禮義を崇びて人倫の實を明かにするに於いては、其れ亦た將に慨然興起して補益する所ろ有らんとす矣

とて、正之を仰慕するのは、直ちに尊皇の大義へ挺身するに外ならざるべきことを強調せられたのである。

 以上の如く、先生の高山正之に對する敬仰は極めて強く、楠公崇拜と相俟つて、先生の精神の純化形成に資益してきたのであつて、楠公を繼ぎ、正之を承けるを己が任として、その志業を推進せしめられたのであつた」と。



●仲田昭一翁『高山彦九郎――天明二年・江戸日記』(平成二年十二月・茨城縣立歴史館史料部史料室複製)に曰く、

「高山彦九郎は、簗又七次正(後ち正記)[寶暦二年~文政十二年。中津藩軍學者で、中津藩・水戸藩の指南役]と親交があり、彦九郎の自刃後は、殆んどの遺品が、次正に預けられた。

 その後、簗紀平[又七の甥]が、高山彦九郎の遺品を引き繼いだが、紀平が、幕府の儒學者で民政家でもある林鶴梁[文化三年生。尊王家でもある]の門下生でもあつたことから、鶴梁は、簗紀平宅の彦九郎遺品を見て請ひ、これらを讓り受けた。鶴梁の盟友であつた櫻任藏(諱眞金、號月波)[文化九年生。父は、江戸の相良氏より眞壁町醫・小松崎氏の養子となる。尊王家で、相良一雄とも稱す]は、鶴梁に懇願して彦九郎の遺品を讓り受け、また自らも上州へ赴き、遺品を收集してゐる。

 任藏の親友であつた長島尉信(二齋)は、高山彦九郎遺品の多くを、任藏から讓り受けたと思はれる。それらの一部が、更に岩倉具視・有馬新七・松浦武四郎・藤田東湖・藤森天山らへ讓られてゐる。‥‥

 また尉信が、櫻任藏より讓り受けた高山彦九郎の遺髮は、天保十一年五月二日に、水戸藩士・杉山千太郎(諱忠亮。號復堂)に預けられたが、杉山の死後、藤田東湖の推薦もあつて、尉信の手を介して、高山彦九郎崇拜者である猿島郡岩井の間中雲帆へ讓られ、その後、谷干城(隈山)へ渡り、更に山内家へ渡つたとされてゐる」と。
 
 

名分を紊るは、誰人がするや。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月28日(土)17時23分34秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 吉田松陰先生を導いた人に、宇都宮默霖翁がゐる。其の默霖翁の、高山赤城先生を説ける一條あり、こゝに紹介したい。

【贈從五位・湊川神社權宮司兼權中講義・史狂王民宇都宮眞名介源雄綱――默霖翁】
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●宇都宮王民翁『二十一囘烈士(吉田松陰)に復する書』(安政三年八月二十六日~九月一日の間。川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』第二十二――國學研究叢書・昭和四十七年七月・錦正社刊――『吉田松陰全集』卷二「講孟餘話[實は講孟箚記と申す也。考證の不足なり]附録第八・默霖書撮抄一條」)に曰く、

「山陽・山陰・四國・九州、諸侯、何人ありや。一人どもは、朝夕、天家を遙拜する國君あるか。江戸に往反の間、畿内を過ぎるときに、京都を拜する人あるか。輿(かご)に坐し馬に騎して、王室をば目下に見て過ぎる程の大名、何ぞ王室に復する志を抱かんや。侍儒にも、一人も夫れを勸むる人はあるまい。終日、その君の惡をすゝむるやうなる儒生多し。何ぞや。偶々明賢の邦君ありても、儒生より時勢々々と、時勢ごかしにして、なにもかも時勢と云うてすめる。左樣の志ある人は、往昔の天子の失徳も、口に信(まか)せて譏(そし)るなり。今の史學家の論を見玉へ。豈に臣たる人の心ならんや。今迄の事は、みなゝゝ禍を王室に嫁してすめる心なり。學問は、いかやうなる事を教へたるぞ。願ふにそれを知らぬは、人に非ず。却つて道を枉げる事、天下の通弊となれり。今時の儒生の多き事は、日本開闢以來の盛なるありさまなり。名分を紊るは、誰人がするや。一人紊したるを、次第々々に繼いで行き、‥‥此の如くなり行きし事なり。

 しかればこれより後に興れる伯(=覇)者の時には、前轍を履んで、儒生の論は今時より盛に媚びるなり。これ、勢なり。伯者三四人更はれば、必ず自ら天子に比するやうになる勢なり。これらの事は、少々王室に志を傾けたらむ人は明知する事なり。しかれば筆誅せねば、後は繼いで筆誅するものもなきやうになる。武臣、竊權より一千年にならぬ。然るに此の如くなり行きし世のありさま、中々腸を斷つほどなり。今、千年二千年せば、いかなる儒生の論をなすやらん。いとゝゝ恐しき事なり。それも、天子の位も三種の神璽も外にわたし、革命の國と見たらば、筆誅には功なき事なり。筆誅の本懷を明かに人に察せらるゝ事は、我が本心に非ず。とてもそれに與する事はならぬ世なり。

 嘗(こゝろみ)に蒲生(君平)と林子平との爭をみよ。又、林平が中山公に詰りし事をみよ。子平が、高山(赤城)が顛末を惡んだる事を見よ。その時には、皇家には、御難題山々なり。中山卿(准大臣正二位・中山愛親)、中年時より惡まるゝ事なり。六十歳斗(ばかり)の時に、一勇を振ふ。もしかの時に、君命を辱めたらば、蒲生・高山・諸同志を引き來て、正名の軍を張る心なり。勢は不可なれども、その志は感泣するほどなる事なり(所謂る尊號一件)。江戸には、全く大貳(山縣柳莊)などにもこりてあり。故に蒲・高を、益々好まず、その上に、二子を感じて謁見を許せる諸侯多ければ、江戸には内をもおそれたる心もあり。且つは公卿の器量をも、これにて見定めんとなり。徳大寺のやうなる人あらば、宜しかるまじとなり。もし五説(寛政四年、後櫻町天皇の幕府に下されたる御詠に對し奉り、幕府が朝廷に上りし五箇條の難題、是れ也)に、之に當るの答なくば、その後は江戸より自在に、王家を指揮せんと云ふ心なり。その危き事、累卵とやいはん。天子の御心を、少々察し見てくれよ。徒らに昔の事を言うて談話する心では、高・蒲や中山の大忠の心いきは、よもしれまじ。人、木石に非ず。なにとて、御叡慮が察せらぬやらん。我には血熱斗にて、誰にか之を吐かんや。平生、怏々たり。しかれども神明あり。二十一日斷食して、『僕が議論、もし公道を害し候はゞ、速かに命を斷ち玉へ。もしその論、公案ならば、守護して、その志を助け玉へ』と誓ふ。その事、誰にもしられたき心なし。義卿(吉田松陰)にも云ひたくなし。他人に説く勿れ」と。



 贈正四位・靜修菴蒲生君平秀實翁は、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と申された。然るに明治「御一新」を、現代の史家・文人は、「革命」と云つて憚らず、嗚呼、何たる言靈ぞや。抑も我が國には、絶えて革命の亂逆を見ざるなり矣。然るに輓近、人心浮薄にして邪説横行し、國勢陵夷して、遂に未曾有不敬の言辭を弄ぶに至れり。豈に慨歎に堪ふべけんや哉。

 また同血社主人『一艸獨語』に、『山陵志』の紹介あり。
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http://sousiu.exblog.jp/16917357/
http://sousiu.exblog.jp/16922717/



 愚案、川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』は、正に「大義」答問であつて、有志には、是非とも研鑽を乞ひたき書ゆゑ、古書を探索し、八方、手を盡して、何としても座右に置いて戴きたいものであります。錦正社、何故ゑ再版せざる、眞に遺憾千萬なるべし。

【參考・春風文庫】
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http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/hakubutu/hakubutu.html
 
 

赤城先生遙拜の姿は、斷哭絶慟の悲しみを顯せしものなり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月28日(土)00時14分50秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 下記は、雀里新井小一郎正道翁の編纂する所の『高山芳躅誌』、書肆に注して、やつと到來。此の雀里翁は、上野國伊勢崎藩の儒臣にして、幕末には函館御雇奉行に拔擢、明治御一新後は、一宮貫前神社權宮司となりしも、幾ならずして之を罷め、郷里に南淵塾を開き、地方の育英に盡されし人なり。此の篇は、雀里翁が、弱冠の時、躬親から高山赤城先生の令妹・錦子刀自、及び親交ありし浦野神村翁を首め、岸昌榮・關睡□[山+同]・長尾西山の如き、學徳共に地方の師表たる諸老の舌端より出でたるもの、洵に珍重の書と謂ひつ可し矣。赤城先生の悲しみは、不臣たる懺悔から來り、遂に決意となる、而してそれを貫くもの、戀闕のこゝろ、即ち是なり。



●新井雀里翁編『高山芳躅誌』の「高山君略傳」(大正十五年四月・雀里會刊)に曰く、

「君(赤城先生)、人と爲り、慷慨奇節の士にして、精悍倔強、好んで氣を使ひ、人の惡を疾むこと深かりし故に、郷黨、之を畏憚して、相親しむ者、少なかりしと云ふ。其の人と交接の際、然諾を重んじ、能く師友の諫を容れ、過を悔い善に與する、流るゝ如く、毫も吝惜の意なし。獨り王覇隆替の形勢を論ずるに至つては、其の身、布衣の分に在り乍ら、王家を奉戴して、尊崇敬肅するの形容、其の身、親しく朝廷に仕へて、至尊に咫尺し奉るものゝ如し。覇府を嫉視し、叱咤憤懣する、恰かも不倶戴天の仇に似たり。毛膚に浹り、骨髓に徹せる、又た其の太甚だしきを見る、と。其の奇幹突兀として、口吻、都て人表に閃發せり。

 書を讀む、電覽一過するのみなれども、能く其の大義を發揮す。又た好んで詠歌すれども、造詣を覓めず、眞率、獨り情を遣るのみ。曾て撃劒を學びしかど、殺活の機、只だ一撃に寓せりと云つて、遂に習熟を要せざりし、と。

 夙に遠遊を好み、西は肥薩を究め、東は羽奧を探り、北は二越に憩ひ、南は房總に客たり。各國所在の名山大川、縱横跋渉せざるなく、足跡、海内に遍ねし云ふ。然るに其の志の存し、意の注する處は、吉野・隱岐・佐渡・讚岐・土佐など、天皇巡狩、親王遷徙の遺蹟に在つて、其の地に至るや、必ず洒掃して塵を淨め、草華を捧げ、俯伏流涕、佇立低囘、其の情の濃やかなる、宮人の舊恩を感じて忘るゝ能はず、之に泉下に隨はんと欲する者の如し。

 君、曾て云ふことあり。『吾、京師に遊ぶ、數囘なり。九重の宮闕を拜する毎に、雲霧を披いて青天を望むが如く、人間世界に、此の如きの愉快を覺えねども、又た忽ちに數石の血涙、滿面に漲り來り、斷哭絶慟を促す。此の悲み、如何』と。

 最後に再び西遊して、肥薩の故人を訪はんと、筑後の久留米に至り、同國御井郡櫛原村の閑士、森嘉膳と云へる人の宅に寓し、終ひに屠腹して歿す。實に寛政五年六月二十七日也。享年四十有七。久留米寺町・眞言宗遍照院中に葬る。僧、諡して松陰以白居士と云ふ。

 嗚呼、君が家を忘れ、身を擧げて國に許し、山を裂き海を屠らんと欲する、勤王の志氣、遂に達せず、海内、又た一人の相傳ふなくして斃る。然りと雖も其の正大の氣、宇宙に□[石+旁]□[石+薄]たり。豈に百載の下、之れが志を繼ぎ、感發勃興せしむるなからんや」と。


●『高山芳躅誌』に曰く、

「君の妹氏(伊與久嘉吉政明の室・高山氏錦刀自)云ふ、兄の死する、其の故あるを覺ふ。兄、遠遊より歸る毎に、怏々として樂しまず。『文士・儒生、恬熙宴安の人より、却つて遊侠・賭博の徒には、約を信にし、諾を重んずる者少なからず、然して文士・儒生は、皆な名教の流なり。賭博・遊侠は、多く刑餘の儔なり。其の人、得難きを悲しむ』と云はれしが、一日、幕政大いに改正し、兄の志を同じうし、相謀る新善なる友、冤枉に罹り、死刑・流罪に行はれたる者六七人、是を聞いて、『吾が志、休みぬ矣』と云つて、衾を擁して打伏すること十餘日、漸くに起き出で、西遊を志すとて、暇乞に來られしが、いつもより氣勢無く、相訣れたり。此の行、遂に永訣と成りし、と。

 君の遺墨、今尚ほ其の家に存する者數種、中に就て、左の數首、尤も其の志操を見るに足る。因て之をこゝに寫す。
神風になびくや廣き天の下 民の草木の數ならぬ身も
君につかへ神につかふる心もて なきあと問へよ人の世の中
君を思ふ心の人をたづぬるに 親を養ふものにぞありける
我をのみ思ふばかりにあめつちの めぐみも露ぞ知らぬ民草
同じきは親をば思ふ心にて 誰もかはらぬものにぞありける
願ふ事の惡しきは止めよ道ならば 叶はぬものあらじと思へ」と。
 
 

忘年の交――英雄、英傑を知る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月26日(木)23時36分23秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●幽谷藤田一正先生の詩

○「上野高山君[彦九郎]王母八十八初度を賀す[壽し奉る]」幽谷先生十三歳の作

階庭の玉樹、紫蘭に肥ゆ。孫子、觴を稱げて、北韋に獻ず。
膝下の醉歌、塵外の興。香風、時に捲く、老來の衣。

 一正、嘗て高山君の奇節を聞き、未だ見ゆるを得ざるを以て憾みとす。この頃、赤水先生(長久保氏)、其の王母の壽詩の求め有るに因つて、聊か蕪章を呈し、併せて之を賦して奉呈す。

○「高山君に詩を呈す」

聞く、君が高節、一心の雄。奔走、賢を求めて、西、復た東。
遊學、元より懷く、奇偉の策。正に知る、踏海魯連の風。



●復堂杉山忠亮翁『高山正之傳』に曰く、

「(寛政元年秋)一正、萬(立原翠軒)に隨つて江戸に在り。正之、見て甚だ驩ぶ。一正に謂つて曰く、『我れ天下を遊歴し、人に閲すること多きも、未だ足下の如く卓越せる者を見ず。足下、自愛せよ。言に因れば、足下、多病なり、と。講學の餘には、宜しく武藝を試みるべし。劍は一人の敵と雖も、而して陣に臨んでは、衆に先んず。身に精藝無かるべからず。且つ以て身體健やかに、亦た勤學に益有るなり』と。‥‥『我(赤城先生)、遊學を以て事となす。今日の行、萬死、固より甘んずる所なり。身後の事、復た念慮に關はり無し。但し君(長久保赤水)に託すべく、一事有り。某に息女(せい)有り、天下の名士を得て、これに與へんと欲す。藤田子定(幽谷)は、國士無雙、若し君によりて、これを箕帚の妾と爲すを得ば、死するも結草たるべし』と」と。



●赤城高山先生『北行日記』寛政二年七月朔日條に曰く、

「藤田熊之助一正を尋ねける。早や予(赤城先生、四十四歳)が來るべしとて、待ち迎へたり。與助と名を替へたり。親を與右衞門と號す。よろこび出でて、冷麺に酒を出だす。夜半に及んで立つ。‥‥一正と、大義の談有りける。一正、能く義に通ず。存慮の筆記を見す。『同じくは、公(あなた。幽谷)、よろしからん』と示しけるに、忽ち筆を取りて改めける。才子にして、道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける。‥‥藤田一正へ、詩箋十枚を寄せける」と。



●頼山陽外史『高山彦九郎傳』(『山陽遺稿』所收)に曰く、

「高山正之は、上野の人也。字は彦九郎、家、世々農なり。正之、生れながらにして俊異、喜(この)みて書を讀み、略ぼ大義に通ず。人と爲り、白皙精悍(★)、眼光、人を射、聲、鐘の如し。奇節有り。

 母(實は祖母)死りて、冢の側に廬すること三年。□[食+亶]粥も給せず、骨立すること、枯木の如し。事、聞す。官、之を旌(あらは)さんと欲す。其の郷俗、博弈・健訟を喜び、素より正之の爲す所を嫉み、吏に誣告して、之を獄に繋がしむ。獄胥、之に食はしむも、食はざりき。

 已にして出づるを得たり。即ち家を辭して四方に遊び、豪俊奇傑の士を求めて之に交る。江門の人・江上關龍(司馬之介武秀。揚心古流柔術第三世)、豐前の人・梁又七(正記。中津奧平藩士。水戸家指南役兵學者。小野派一刀流)が輩、最も親善なり。天明四年、歳、饑ゑ、所在、盗、起こり、上野も亦た靖からず。正之、袂を奮ひ起ちて曰く、『吾が郷をして、此の不良の事、有らしむ可からず』と。往いて之を理(をさ)めんと欲し、關龍に辭す。關龍、之を援けんと欲す。正之、欲せず。贐(おく)るに衷甲(鎖帷子)を以てす。之を受けて獨行し、板橋驛に至れば、時、已に夜なり矣。二男子有り、橋上に在りて、相ひ嚮(むか)ひて臥す。兩尻高くして、頭凹(くぼ)めり。正之、念へらく、□[足+日+羽。ふ]まずんば、行く可からず、と。之を患ふ。已にして曰く、『是れ官道也。彼れ之を塞ぐは無状なり。□むも可なり』と。凹みし處を□みて過ぐ。其の人、蹶起し竝び呼びて曰く、「誰か吾が頭を□む者ぞ」と。刀を拔き鋒を連ねて追撃す。正之、顧みて睨みて曰く、『喝』と。其の人、辟易して敢へて迫らず。遂に往く。未だ其の郷に至らずして、一旅店を過ぐ。喧嘩して飲酒する者有り。則ち關龍と又七と、徒を帥ゐ途を殊にして先づ往き、事の平ぐに會ひ、會飲せる也。正之を呼びて同醉し、倶に還りぬ。後に官、劇賊の渠帥を獲たり。自ら語るに、「平昔、未だ嘗て難當漢に遇はず。嘗て板橋に在りて、人を要して劫を行はむとし、一眇小丈夫(★)に遇ふ。目を瞋らして我を呵せり。之を憶へば、今ま猶ぽ股栗する也」と。

 關龍、劍を善くす。毎に正之に謂つて曰く、「子、氣を以て人を服すと雖も、武藝に熟せず。眞の英雄に遇はゞ、乃ち窮せん矣」と。正之、服せず。關龍、罵りて曰く、彦九は、無用の男子、能く死せば我を斬れ」と。正之、憤然として刀を拔かんと欲す。關龍、手を以て刀□[木+雨+革+月。は=柄]を壓へ、笑うて曰く、「止めよ焉」と。正之、□[口+音。いん]□[口+惡。を]するも、終ひに拔くこと能はざる也。是に於て節を折り劍を學び、毎夜、自ら試みること千遍に至りて、乃ち寢ぬ。

 正之、又た喜みて文學の士と交はる。人の孝子・義僕の事を説くを聞けば、遠しと雖も、輒ち往いて之を問ひ、轉じて之を人に述べ、殷殷として涙、聲に隨ひて墮つ。古今の君臣順逆の跡を談ずれば、慷慨して、己、與に時を同じうして、其の事に關はるが如し。

 少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、『皇居は何れの方にかまします』と問ふ。人、之を指して示す。即ち地に坐して、拜跪して曰く、『草莽の臣、正之』と。行路、聚まり觀て、怪みて笑ふも、顧りみざる也。京郊に遊び、足利高氏の墓を過ぎ、其の罪惡を數(せ)め、大いに罵り、之を鞭うつこと三百なりき。

 故に平時、人の惡を見れば、之を疾むこと仇の如し。一權人、利を專らにす。中外愁怨するも、敢へて言はず。正之、同志と語り、涕を攬(ぬぐ)ひて曰く、『噫、公上(將軍)、百、知らざる也。今ま故紙を接ぎて幟を爲し、山廟・門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得可し。豎子を誅するに於て、何か有らん』と。聞く者、耳を掩ふ。其の後、弊事、悉く革まり、一號令の出づるを聞く毎に、喜び、色に形はる。

 正之、游道、極めて廣し。公侯、時に之を招致すれば、辭せず。嘗て一侯(松平定信)の政路に與かる者に抵(いた)る。兩童子、澣濯の衣袴褶を穿ち、食を饋(おく)ること甚だ謹めり。侯、指して曰く、「是の小兒輩、長者の之を教誨せんことを欲す」と。正之、之を聞きて逡巡す。侯の曰く、「然かすること勿れ。余と雖も、闕失有らば、之を聞かんことを願ふ也」と。正之、拜して曰く、『然らば則ち敢へて言ふ所ろ有らん。往年、某處の民、兄弟、父が讎を復せし者あり。之を護送するに、囚徒と同じうす。是等の事、風教に關はれり。願はくは意を加へたまはんことを焉』と。侯、謝して曰く、「一時の指揮、到らざりき。後ち當に之を謹しむべし」と。其の世の重んずる所と爲りて、己に直く阿らざること、此の如し。

 然れども正之、東に在りて意を得ず。西游して筑後に至り、一關を過ぐ。關吏、呵して止む。正之、館に歸りて、自ら刺す。館の主人、驚きて故を問ふ。答へず。曰く、「吾れ子を館し、子、自刃す。死して他證無く、又た其の故を知らざれば、吏、來りて尸を檢せんとき、何の辭か之に答へん。願はくは殊(絶命)する勿くして、以て待て」と。正之の曰く、『諾』と。刀を腹に剚し、與に劇談して、夜分に至る。吏、來り、燭を秉りて之を檢し、又た故を問ふ。答へず。固く問ふ。曰く、『狂發せしのみ而已』と。乃ち刀を□[手+堰の右。ぬ]き、突き入ること尺餘にして、即ち死す。死に臨み、館主、言はんと欲する所を問ふ。正之の曰く、『語を海内の豪傑に寄す、好在なるのみ而已』と。

 正之、既に死し、事、三都に傳はる。其の死せし所以を知る莫し。或は曰く、「關吏の辱めを受け、慙憤して死せし也」と。關龍の曰く、「吾れ數々(しばゝゞ)人を罵りて之を試みしも、眞に我を斬らんと欲せし者は、獨り正之のみ。渠れ已に人を殺すに果なり。故に亦た自ら殺すに果なるのみ耳」と。又七、之を聞きて曰く、「否、否。彦九は、蓋し夢寐の中に感ずる所ろ有りしのみ爾、渠は夢むと雖も、猶ほ能く死する者也」と。

 外史氏の曰く、予(頼山陽翁)、幼きとき、先人(尊父・春水翁)の、善く彦九郎を談ずるを聞けり。先人も亦た嘗て數々三都の間に相逢ふ。記せば、其の郷貫は、新田郡細谷村の人に係る。先世、蓋し南朝に屬せし者なり。其の義を好むこと、自る所ろ無しとせずと云ふ。

 嘗て客と語り、元弘帝(後醍醐天皇)の伯耆に逃れたまひし事に及び、其の地名の訓讀を爭ふ。正之の曰く、『吾れ嘗て再び伯耆に赴き、土人に訪ひて之を識る』と。客、復た爭ふこと能はず。其の人の確實なること、此に類せり。先人、嘗て之れが傳を爲(つく)らんと欲して果さず。近ごろ或は正之が事を書せるを讀むに、疑ひて不軌の民と爲すは、冤なり矣。予、故に略ぼ聞く所を敍すること、此の如し」と。



 愚案、高山赤城先生を、山陽翁「白皙精悍・一眇小丈夫」(★)と云ひ、齋藤拙堂翁「短小精悍、皙きこと女子の如し」と形容するも、それは水戸の徂徠學派・立原翠軒の肖像を見誤りしものにして、前に引用せる菅茶山翁『筆のすさび』、亦た柴野栗山翁『高山仲繩を送る序』・池大雅翁寫生の「肖像畫」、竝びに雀里新井小一郎正道翁編纂『高山芳躅誌』(大正十五年四月・雀里會刊)に、

「伊勢崎の醫員・岸昌榮と云ふ者、曾て君(赤城先生)と甚だ親善にして、君、伊勢崎に來るや、必ず投宿す。其の宿する、大に人と異なり。寒暑を論ぜず、覓むる所、必ず定規あつて、蒲團一枚・机一隻・燈一□[火+主]を借るのみ。家人、深更に其の室を窺へば、蒲團上に端坐し、燈下の机上に對し、看書、又は運筆するを見るのみ。來り投ずること數十囘、皆な一樣なり。

 或る時、深夜、婢、厨下に火口を捜索すれども無しと云ふ。家人、明日を待ち買はんと欲す。君、乃ち婢を呼び、色を正して、『片時も無くて叶はぬもの、至大なるものにては、天皇、至小なるものにては、火口なるぞ』と云ひつゝ、行李より火口を取出し與へしとぞ。

 昌榮、偶々君の容貌を話するを聽くに、身の長け高く、總髮にして、眉毛太く長し、眼鋭く、鼻隆く、肩怒り、脣厚く、口大に、頬骨荒れ、顔色赭く、鬚髯美しく、音聲遠く響き、情義、極めて懇切なれども、何となく怖ろしき容態あり。雙刀・衣服とも儉素にして、禮義、究めて鄭重なれども、自から昂然として、凡人とは見えざりし、と」

とあるを確實とすべく、其の錯誤を明かにしておきたい。最近、美少年たる九郎判官義經公、實は出齒にして不細工なる男なりと喧傳する者もあるが、これも亦た同時代の、其の名も「山本九郎義經」の肖像畫を見誤りしもの、識者、之を指摘するも、如何ともする能はざるの勢なり。

 往昔、漢の張良は、力士をして百二十斤の鐵椎を擲たしめ、秦の始皇帝を博浪沙に撃ちて、天下を震駭せしめたるも、其の容貌、婦人好女の如くなりきと云ひ、亦た幕末の橋本景岳先生は、其の識見、古今に卓越し、果決よく亂麻を斷つの力量ありて、而も身丈、僅かに五尺、白皙纎妍、一瞥すれば、殆ど婦女子に似たりと傳ふ。震天動地の大事を能くする者、必ずしも魁梧奇偉の豪傑たるを要せず、所謂英雄首を囘せば即ち神仙と云ふものであらうが、圖らざりき、赤城先生こそは、實は豪傑中の豪傑、小男優男に非ずして、二メートルを超える偉丈夫なりき矣。

 又た盗賊の親分の咄は、赤城先生に付きものであるが、其の場は、或は板橋宿と云ひ、或は木曾山中と云ひ、一定ならず。一説に、短小に見ゆとの盗賊の言を正見とするならば、蓋しそれは、赤城先生の守護せし童子眷族の類にして、賊を股慄せしむる程の大喝を發せしに非ざるか、得て知るべからざるなり。
 
 

草莽のこゝろ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月22日(日)23時01分36秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『明治天皇の聖徳』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、

「高山彦九郎は、上野(群馬縣)の人、十三歳にして『太平記』を讀み、慨然として志を立てました。家の系圖に、先祖は新田十六騎の一であつたとあるを見ては、感奮、禁ずる能はざるものがあつたのでありませう。備前兼光の刀と、菊一文字の脇差とを帶びて、ひろく天下を周遊し、仁人義士を尋ね、國體の明かならず、皇威の衰へた事を歎‥‥寛政五年六月二十七日、久留米に於いて自決して果てました。流浪、四十七歳の一生は、當時の常識から見れば、只だ奇人としか思はれず、或はむしろ狂人に近いかと疑はれたでありませう。しかるに明治十一年九月、北陸巡幸の途中、群馬縣に入らせ給ふや、明治天皇は、高山彦九郎の玄孫・孫四郎を行在所に召され、拜謁を許されたのでありました。曾て三條の橋に平伏して、泣いて御所を遙拜した高山の忠誠を御嘉納あらせられたのであります。その人、逝いてより八十五年の後、天恩、枯骨に及んだのであります」と。



●森銑三翁『高山彦九郎』(『森銑三著作集』第九卷――近世畸人研究――昭和四十六年五月・中央公論社刊に所收)

「奇士とか、奇人とかいふところからして、彦九郎を以て、常軌を逸した、奇行ばかりを演じてゐる、奇人傳中の人のやうに思ふならば、それは大きな誤で、むしろ反對に、行の正しい實直な人だつたのである。旅行の折などにも、行く先々で歡迎せられたことは、「適(ゆ)く所として愛敬せられざる莫し」と、『續近世叢語』に記されてゐるほどで、彦九郎は、世間的な、いはゆる奇人などいふ人々とは肌合ひを異にした、信頼するに足る人物だつたのである」と。



 愚案、先の『大日本人名辭書』と重複しないやうに、もう少し、赤城先生を傳べしたい。「(彦九郎)其の人、鼻高く、目深く、口ひろく、たけたかし。總髮なり。‥‥其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚だしき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一も誤らず」とは、菅茶山翁『筆のすさび』に云ふ所、先生は、將に我が國史が生んだ、皇御民であつた。事、皇室の御事に話が及べば、はらゝゝと涙を流す光景は、小生の學生時代、帝都青々塾に於てよく目にしたものであり、珍しくは無いものゝ、其の源流の近き一例を、赤城先生に見るのである。



●名越時正翁『日本學入門――その形成と展開』(昭和五十四年四月・眞世界社刊)に曰く、

「彼は、皇室の御衰微に悲泣し、徳川幕府、とくに田沼の弊政に憤激し、大義のために奮起する人を全國に探し求めた。彼は、明和元年、十八歳の時を最初として、數囘、帝都に上つた。都に入る時は、必ず三條橋のたもとに土下座して、皇居を拜し、『草莽の臣、高山彦九郎正之』と挨拶することを常とた。それは日記にも見えることだが、天明二年十一月十六日條(『上京旅中日記』)には、

禁門を拜し奉らむと、先づ、仙洞御所の御門前を經る。時に地上に稽首し奉る。日の御門をば向ふて拜し奉り、南門より公卿御門をば經るまゝに稽首し奉る。恐れみ恐れみ敬み謹み奉りて、帝位の尊きを仰ぎ奉りて、歸りて袴になりて他出す』

と記され、その戀闕のほとばしりを伺ふことができる。またその翌年正月元旦には、御所内に入つて御節會の大禮を拜觀することが許されたが、彼は、『仰げば、天象明かに星の位正しく、是れぞ皇統綿綿、寶祚長久のしるしと嬉しく、手の舞ひ足の踏む事を知らずぞありける』(『京都日記』)と記してゐる。まして寛政三年三月、四囘目の入京の時、光格天皇が側近に、『高山彦九郎といへるものを知れるや』とのお言葉があつた。このことを聞いた時の、

われをわれとしろしめすぞや 皇(すべらぎ)の玉の御こゑのかゝる嬉しさ

と、狂喜して詠んだ歌は、實感をもつて察することができよう。その頃、彼はたまゝゝ緑毛のある龜を手に入れ、これを瑞兆として朝廷に獻上し、天皇・上皇はじめ、皇族・公卿にお見せしたことは、王政復古を願ふ彼の念願の表はれと考へられよう(皇室と國民との關係は、幕府のめぐらした垣を越えて復活し、接近してゆく)。

 彼は天顔を拜することができたが、一介の草莽の臣が、どうして御所中に出入りし、お姿を拜し得たのか、それは一見不思議な思ひを懷くであらう。時は寶暦事件から、いくらも經つてゐない。當時、竹内式部の講義を聞いた公卿廷臣は、まだ少なからず存命してゐた。中でも彦九郎を最も厚遇した伏原宣條は、かつて崎門學を、桃園天皇に進講した一人であり、今は明經博士として、光格天皇の侍講であつた。彦九郎が正月の御節會拜觀を許され、その案内をしたのは、宣條の子・宣光であつた。また彼が、天皇に拜謁を許されたのは、寶暦事件で處罰された岩倉尚具の孫・具選の奔走によつたものであつた。式部を失つたあとの公卿たちが、高山彦九郎の出現をどれほど喜んだか、察することができよう。

 このほか、中山愛親は、正親町實連から埀加神道を學び、幕府の横柄を憎んだ硬骨派の公卿で、後には尊號事件で、幕府の處罰を受けた人である。また芝山持豐は歌人でもあつて、本居宣長と親しい間柄の公卿である。彦九郎は、これらの公卿廷臣からも、喜んで迎へられた。彼は、また大坂の中井竹山と、京都に學校を興す運動に奔走したが、竹山とは意見の相違もあり、このことは實現を見なかつた。

 彼は、天明六年八月、祖母が歿してから、墓の側に廬を建てゝ、叔父とともに三年の喪に服したが、その期間以外は、ほとんど毎年、席の温まる暇なく旅行し、しかも詳細な日記を作つた。備後の菅茶山は、彦九郎の來訪を受けたとき、『其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚しき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一つも誤らず。亂世には武者修行と云うて、天下を周遊するものあり。今、治世なれば、徳義學業の人を尋ねありくも、少年の稽古なりとおもひて、六十餘國を遊觀せんと志し』たと言ひ、そして人を尋ねるのは、『忠孝の事より外にては候はず』と語つたと記してゐる。彼は旅行するに當つて、ほとんど金錢を使はず、一枚の袷衣に大刀を差し、夜は野宿を常とした。たまゝゝ山中で盗賊に遭つたとき、唯一渇を加へただけで、賊を震へ上らせたといふ。その交つた人物は、地位・身分・學派等には拘はらなかつたやうだが、志の通じたのは、やはり崎門と水戸學派が多かつた。

 京都では、望楠軒の西依成齋、久米訂齋、谷秦山の孫・伴兄、その伴兄と會つた家の主人・玉木愼齋も、崎門であらう。谷川士清の門人で、安藝の神官・唐崎常陸之介との出會ひは餘りにも有名で、その交はりも深かつた。甲州では、加賀美櫻塢と會ひ、山縣大貳の話を聞いて景慕してゐる。また柴野栗山・皆川淇園・頼春水・細井平州・荒木田久老・岡田寒泉等とも交はつた。彦九郎は、かねて水戸義公を景慕し、江戸の水戸邸にも出入りしたが、最も早くから交つたのは、地理學者・長久保赤水である。但し赤水は、彦九郎から『義公以來、水戸家は名分を正すと、兼ねては聞けり。徂徠・春臺を法とする事なかれ』と、手痛い忠告を受けた。また赤水から神童・藤田幽谷のことを聞くと、寛政元年六月、江戸で面會して大いに激勵したが、翌年、水戸を訪れて、幽谷の宅で、大義の談をなしたといふ。

 彦九郎は、かねてロシヤの蝦夷侵入を憤つて、自ら彼の地に渡らうとし、この年、水戸から北上して三厩に達したが、船の便を得ず、斷念して引き返し、途中、仙臺で、林子平・藤塚式部を尋ね、年末に京都に着いた。

 彦九郎は、寛政三年九月以降、九州各地に遊歴して有志を尋ねた。そして五年六月、三たび久留米に來て、十九日以來、櫛原の森嘉膳の家に滯留したが、その二十七日、携行した文書類を全て引き割いて水に溶かした上、突然、切腹自刃を計つた。嘉膳の手記には、切腹した後に、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひしこと、皆、不忠不義のことになれり』と述べ、端然と坐して、帝都と故郷の方を拜し、やがて絶命した、と記してゐる。年、四十七歳であつた。

 彦九郎の謎の自刃は、尊號一件(★)を聞いたためであらうと、今日は推察されてゐる。彼の最期は、これを聞いた人々、ことに彼と親交を結び、彼の激勵期待を受けた人々に、言ひやうのない深刻な衝撃を與へた。彼との再會を一日千秋の思ひで待つてゐた藤田幽谷は、涙ながらに彦九郎を祭つて祭文を讀み、唐崎常陸之介は、直ちに久留米に駈けつけて墓前に號泣し、歸國して同志を集めて運動中、幕府の探索を受け、寛政八年十一月、竹原で割腹した。爾來、高山彦九郎は、勤王家の熱烈に仰望するところとなり、世を導いた力は、生前・死後の別がなかつた。

 彦九郎が、天明七年に、祖母の墓前で詠んだ、

おのがまゝしげりし草も夏を經て 朽行く秋のはじめとはなる

は、後水尾天皇の「葦原やしげらばしげれ」の御歌を意中に置いたものであらうが、幕府の滅亡を祈つた彼の念願を汲みとることができよう。

(★ 光格天皇は、御父・閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊號をたてまつらうとお考へになり、これを幕府に傳へられたので、松平定信は前例を調査したところ、御即位なくして太上天皇と稱することは、國體名分上、正しくないと判斷して反對した。これが意外にも朝幕間のもつれとなり、寛政五年三月、中山愛親・正親町公明兩前大納言の處罰といふ事態に至つて、やうやく落着した)」と。
 
 

平成の高山彦九郎になりきる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月22日(日)00時21分21秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)に曰く、

「本書は、百年前の先師、高山彦九郎の眞姿を傳ふることのみを目的としない。史傳の眞諦は、千歳を貫いて、更ゆべからざる『生命』(いのち)の傳承脈絡にある。故に本著の使命は、『高山彦九郎』の生命を信解し、心讀し得る讀者の一個半個が、躬から昭和の高山彦九郎になり切ることにある。然らば『高山彦九郎』は、溌剌として、昭和の聖代に生きるであらう。‥‥

 皇政復古へ! 烽火は、既に二度(寶暦・明和兩事件)も掲げられた。かうした時代に、凡ゆる封建的約束を無視して、『天皇の赤子』として行動すべく生れ出でたのが、我が高山彦九郎、その人であつた。

 先生が、生れながらに啓示された使命は、全國の山澤巖穴の間から、時を同じうして湧出する、高山彦九郎的義人の總結集と、朝廷公卿有志との連絡、やがては寶暦・明和・安永の三事件による犠牲者の靈を弔ふに足る一大勢力を提げて、討幕の義軍を興し、陣容堂々、建武未遂の遺業を完遂せんとすることに在つた。

 そして此等の高山彦九郎的義人達は、山縣大貳の『柳子新論』に於ては、「英雄豪傑、忠信智勇の士」と形容され、頼山陽の『高山彦九郎傳』に於ては、「今、故紙を接して幟とにし、これを山廟門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得べし」と傳へ、高山先生の自作の和歌によれば、「てらす日の本の神々三千あまり 道をば守ることゝこそ思へ」とあつて、三千の神々によつて守護された、三千有餘の義人が地底に雌伏して、討幕の妙機を窺つて居ることを暗示してゐるやうである」と。



 愚案、高山赤城先生の「死する所以を推究」し、天下に闡明したるは、實に、備中の碩儒・川田甕江翁の『高山仲繩祀堂記』であつた。

 然るに明治の精神、やうやく崩れ、赤城先生の名のみ高くして、其の眞姿は忘れられ、而して戰後以降、三再び湮滅して、單なる旅行・探檢家になりつゝある其の秋、平成の小高山、出でよ、出でて、大高山を奉じて、明治維新の遺業を完遂せしめよ、との血の雄叫びを、小生は確かと聽いた。高山赤城先生の眞志を、現代に甦らせるもの、三上卓翁一卷の書、即ち是である。併せて之を表出し、有志の喚起を促すと云爾。

【參考・「青年日本の歌」史料館】
  ↓↓↓↓↓
http://www.taimukan.com/
 
 

赤城先生顯彰とは、名分を正し、大義を明かにする實踐に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月20日(金)21時28分12秒
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  ~承前~

■赤城高山彦九郎平正之先生『高山彦九郎日記』第二卷に曰く、

「日本は、君臣の禮、正し。武將、威勢ありといへども、人臣、安んじ居る。然るを近世の俗儒共、文章の飾りに名分をみだる、大不敬也。先生(長久保赤水、豐臣秀吉公を『豐王』と稱することを)、改め給へ。義公、水戸家は、名分を正すと、兼ねて聞けり。徂徠・春臺等を法とする事なかれ」と。



●仲田昭一翁『高山彦九郎と常陸の人々』(『水戸史學』平成三年五月號)に曰く、

「高山彦九郎が、京都を中心に皇道の振起に努めると共に、水戸を訪れては、藤田幽谷らを激勵して、水戸の學問の興隆にも大きく影響するところがあつた。しかも彦九郎の歿後、その遺書等が蒐集されることによつて、その精神を體得し、實踐する尊王運動を喚起していつたことは注目されるところである。

 それが、常陸においては、杉山忠亮・藤田東湖・櫻任藏・加藤櫻老・長島尉信らが競つて蒐集し、水戸の尊皇會に於いて互ひにそれらを示し合ひ、勤王精神を鼓舞したのである。それはやがて眞木和泉守や有馬新七・矢嶋行康ら、他藩の者にも大きな影響を與へ、彼らをして幕末尊王運動に挺身させることになつた‥‥。

 このやうに、遺書など史料の蒐集は、重要な意義を持つものであり、單なる好事家のものであつてはならない。これについて林鶴梁は、蒐集にやつて來た矢嶋行康に對して、

『夫れ仲繩は、忠義の人也。足下外は、仲繩に深しと雖も、内は或は忠義に淺からんか乎。則ち家に萬卷を藏するも、何ぞ天下に益せんや哉。苟くも天下に益無きは、仲繩の喜ばざる所以ん也。然れば所謂る忠と義とは、古今の人々の爲し難き所ろ也。僕、老いたり矣。爲す能ふる無し焉。足下、 毎に仲繩の書を披けば、輒ち果して能く仲繩の人と爲りを庶幾せん。以て誠實摯篤の行に從事せば、則ち仲繩、復た今日に生くる也。 知らず、足下、以て如何と爲さん』

と述べ、常に彦九郎の書を披いて、忠義心を厚くし、天下に貢獻せよと教誡した。

 同じく有馬新七も、『高山彦九郎が手跡の後に書す』(長島尉信より彦九郎の書翰を得て、安政六年)の中で、

『抑も其の手跡を慕ふは、乃ち其の人を慕ふ所以ん也。後の觀る者は、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て、念ひと爲すべし。乃ち王を尊びて名分を正し、禮儀を崇びて、人倫をの實を明かにするに於ては、其れ亦た將に慨然興起して、補益する所ろ有るべし矣』

と述べ、手跡を慕ふことは、その人物の志を體して實踐することであると力説してゐる。

 それ故に矢嶋行康(愚案、平田銕胤大人門。上野高山神社祀官。『玉廼御聲』百卷・『高山朽葉集』八卷編纂)も、次のやうに決意を述べ、高山彦九郎の顯彰を實踐して行つたのである。

『予は、高山正之を只だ信ずるにあらず、正之の生を捨てし、その大義をとる。「正名分、明大義」の六文字をとるのみ‥‥。高山遺墨の蒐集は、徒らに物を集めんとする蒐集欲に出でたるにはあらず、其の純忠至誠の一點の、私心無く、生涯を勤王運動の實踐に徹したる、その高風遺徳を慕ひ、後世、勤王運動の龜鑑たる典籍を著し、尊王運動の思想の鼓吹と臣道實踐の大道を明らかにするにある』(矢嶋憲三郎氏『矢嶋行康と高山彦九郎』)」と。



 愚案、高山赤城先生の志は、藤田幽谷先生、最も能く紹述し得て、彼の『正名論』と成り、水戸學中興の礎を爲したのである。赤城先生逝いて二百二十年、平成の御代に於いて、先生を顯彰するとは何か、小高山たる者、各々深く省察する所あらねばならない。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/10

【參考・興亞思想】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asia2020.jp/japan/htakayama.htm

【參考・高山彦九郎記念館――データフアイル】
  ↓↓↓↓↓
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/
 
 

仰げば彌々高し、赤城先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月14日(土)21時29分14秒
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  ~承前~

●贈正五位・醉古館木村下野介源謙翁『高山子吟』(『□[石+監]詩集』に所收。寛政二年七月六――八日)

高山子、高山子。東山の壯士、氣翩々。
七尺の形躯、三尺の劍。一箇の行李、半肩に在り。
天下の山川、躋攀し盡し。堰蹇口吟す、遠遊の篇。
行々鐵杖、長蛇を驅り。懷中の明珠、海天を照す。
自ら言ふ、四海、皆な兄弟。愁ひず、郷國の山川を隔つるを。
秋風、先づ到る、白川の上。眞人の紫氣、關邊に滿つ。
關尹、相豫して來往を占し。留め得たり、道徳、玄の又玄。
風塵俗物、誰か讀むを得ん。賓篆一字、直(あた)ひ十千。
天下の野人、醜男子。相見て笑談して、夜、年の如し。
天厨、饌を薦めて、君が爲に供し。玉液滾々、炊煙に對す。
座間、鮮を割いて、肉、堵の如く。樽前の大杯、酒、泉に似たり。
醉中、孝を談じて、奇癖を同じうし。尋問す、本朝の孝子傳。
人世の高行、誰か羨まざらん。君と同好、亦た自ら然り。
今日相逢うて、今日別る。惜しむ可し、再遊、已に愆多し。
老を忘れて、一時意氣豪なるも。鬢上□[參+毛]々、二毛を奈(いか)んせん。
吁(あゝ)、高山子、高山子。天下の要道、君が曹に屬す。
草鞋、虎の如く、雲霧を開く。知んぬ、君が至徳、高山、仰げば彌々高きを。



 三上大悲翁の曰く、「この長詩は、晩年の(赤城)先生旅行中の風格性行を能く寫し出して居るが、『天下の野人、醜男子、相見て笑談して、夜、年の如し』の二句に、兩快男子の面目躍如たるを見る。高山彦九郎と云へば、多血質の激情家の代名詞の如く思はれてゐるが、何ぞ圖らん、當時の知人達からは、屡々支那南方の古聖人老子に喩へられたものである。説かずして説き、説いて道學先生らしからざるところが、魁偉脱俗の風貌と相俟つて、『道徳經』五千言を殘して、遙かにペルシヤに向つて去つたと傳へられる、虚靜無爲の思想家老子を彷彿せしめたのであらう。

 木村謙、‥‥近藤重藏守重に從つて蝦夷地を視察し、エトロフ島に大日本國標を建てゝ、遙かに京都朝廷に向つて、拍手跪拜して祈念したと云ふ。藤田東湖の遺文には、『人となり、外狂簡に托し、内に忠義を存す。慨然として大志あり』とある。高山彦九郎的人桀の一人(愚案、吉澤義一氏『天下の豪傑・木村謙次』昭和六十三年二月・水戸史學會刊に詳かなり)‥‥

 先生の風貌は、その性行と相伴つて、一見して人に非常なる感銘を與へたらしく、當時の知人同志達は、先生を擬するに、或は老子を以てし、或は魯仲連・王猛・伯夷叔齊・荊軻等の戰國策士、豪傑または義人・刺客を以てし、或は漠然と英雄・神仙・奇士等を以てして、之を畏敬した」と。



●大西郷『偶成』(沖永良部島在囚中)

天歩艱難、獄に繋るゝの身、
誠心、豈に忠臣に耻づる莫からむや。
遙かに事跡を追ふ高山子、
自ら精神を養うて人を咎めず。



●大悲三上卓翁の詩(『高山彦九郎』卷末)

佯狂屠腹、斯の身を殺す。
豈に是れ尋常過激の人ならんや。
遺烈、長へに萬民をして起た教(し)む。
皇運を扶持して、日に維れ新たなり。



●保田與重郎翁『日本語録』に曰く、

「京都三條橋上より皇居をふし拜み、『草莽の臣・高山正之』と唱へた、この傑人の志は、天下に志ある人士の生命の原理となる思想を、白日の如くに表現したといふことが、今日では一段と明白になつた。わが國の臣の志を述べた思想として、又た文學として、高山彦九郎の、この一句より深いものはないのである。彼が何を思ひ描いた末に、草莽の臣と唱へて慟哭したか、この點を今日考へるがよい。

 この瞬間に、我が國民の草莽の志の中に、一本の筋金の如くに、神ながら、わが大君より傳る光は、貫流するのである。わが大君と、みたみわれの中間には何ものもないといふ自覺、神ながら、わが心に鎭り坐すといふ自覺こそ、あらゆる創造と、その表現と、その激しい行爲の根源である。我々の生命の原理は、こゝにあるのである。それは教へることも、説く必要もない、それをいのちの原理として生きるのが、わが古の道の教へのまゝに、君に仕へ國に報いうるのである。もしその契點を失つたとき、彼らは、わが自我を根柢とする時務の愛國論を、たとへ説き得ても、それは命の原理を了知せぬゆゑに、すでに死した精神の言擧に他ならぬのである。

 我々が『草莽』であるといふ深奧な思想の自覺を教へたのは、高山正之であつた。これほど偉大な思想の行爲は例のないことであつた。彼の志は、今日も生きてゐるのである。勤皇の思想と行爲の中で、最も明らかにそのまゝに生きてゐるものは、この純粹な高山正之の精神である。高山彦九郎の出現こそ、近世勤皇史の、嚴密な意味では第一頁におくべきものであつた。今日も我々は、高山彦九郎を思ふとき、感動と嗚咽を思ふのである。彼の志と精神こそ、今日の我々の生命の原理である」と。



 愚案、我が忠良臣道の龜鑑にして儀表、高山赤城先生を思ふとき、感動と嗚咽を覺えざる者、即ち「わが自我」を根柢とする時務論を展開して已まない所謂保守は、畢竟、君臣父子の大義に透徹すること能はず、皇國の歴史の組立てに與かることを得ないものとして、之を諦めなければならぬ。而して自ら任じて、赤城先生の精神に生きんと欲する者こそ、此の平成の聖代に、「維新」を唱道することが出來るのである。其の責任は、また重いと謂はねばならぬ。
 
 

高山赤城先生傳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月11日(水)21時22分27秒
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  ~承前~

■高山赤城先生傳抄――『大日本人名辭書』(昭和十二年三月増訂・講談社刊)より。(云々)は、愚案なり。

 高山彦九郎。勤王家。字は仲繩、正之と稱す。上野新田郡細谷村の人なり。其の先、遠江守某(愚案、平重遠)、建武の亂(ママ。變と謂ひつべし。雲上の御計劃に、亂とは何事ぞや)、新田氏に屬す(義貞公馬側十六騎の一)。新田氏滅ぶるに及びて、其の裔、遂に微にして民間に在り。然れども其の郷里の舊姓たるを以て、猶ほ常に雙刀を佩ぶ。官、また之を禁ずることなし。父を良右衞門(正教)と曰ふ。膂力、人に過ぐ。毎に出づるに、必ず僕をして弓矢を負はし、數々(しばゝゞ)山野に遊獵して、猛獸を挌殺す。時人、其の勇を稱す。正之、幼にして孤となり(實は正之二十三歳の節、父横死すと云ふ)、祖母の爲めに鞠(やしな)はる。年、甫めて十三(寶暦九年)、『太平記』を讀みて、中興の忠臣、志業の遂げざるを見て、慨然として憤りを發し、頗る功名の志あり。

 年十八にして京都に遊び、書を讀むこと二歳、乃ち出でて都下の書生を見、交通、日々に廣く、名聲、藉(し)くこと甚だし。高門・巨室、多く布衣の交を爲す。名卿中山大納言(愛親卿)も、亦た其の人と爲りを奇として、善く之を遇す。是に於て正之、劍を杖いて四方に周遊し、至る所、必ず賢豪長者と交はる。此の時に當りて田沼氏(意次)、政を江戸に執り、風俗、大いに敗れて、侈靡、日に甚だし。識者、竊かに之を憂ふ。正之、上野に歸る。

 正之、長け八尺餘にして、鬚髯、神の如く、高邁にして奇節あり。議論英發、忠誠にして人を動かす。嘗て室直助(鳩巣)、論ずる所の著を見て、其の楠公、召に應じて、直ちに笠置に造(いた)るを以て、度量足らずと爲し、諸葛亮、三顧して乃ち出づるの事を引き、以て之を議するに至りて、憤然として罵りて曰く、

『腐儒(室鳩巣)、何ぞ事を論ずるの迂なるや。夫れ元弘の時、三國(支那の魏・呉・蜀)と年を同じうして論ず可けんや。漢の末、天下分裂して、豪傑竝び起る。此の時に當りて劉玄徳は、故(も)と履を販り席を織るの人、自ら稱して漢室の冑と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや。また猶ほ今世の奴婢輩の、號して源・平と稱し、以て自ら誇る者の如し。孔明の三顧して盧を出づるは、我が心に於て、猶ほ以て速かなりとす。百顧・二百顧を累ぬると雖も、猶ほ未だ緩と爲さず。楠公の如きは、則ち異なり。

 夫れ我が國體なる天朝は、神(「器」字の缺か)の在る所、六合の仰ぐ所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳ふ。普天の下、率土の濱、孰れか皇民に非ざらんや。而して楠公は、即ち廷臣(橘諸兄公)の裔、近畿の民なり。召命なしと雖も、豈に國家の難を見て、恬然、自ら安んず可けんや。天皇、塵を蒙ると聞き、奮然、袂を投じて起つ。安んぞ彼れ諸葛輩の爲すに倣ふことを得んや。書を讀む、是くの如くなれば、百萬卷と雖も、何の益かあらん』と。其の書を取りて、之を堂下に投ず。

 天明季年(八年正月晦日)、京都災す。正之、之を聞き、晝夜兼行して、馳せて京に赴く。夜、木曾山中を過ぐ。賊、數人あり。刀を拔いて、正之を脅かさんと欲す。正之、目を瞋らして叱して曰く、『汝、上野の高山彦九郎を知らざるか。今、天闕、災ありと聞き、馳せて之に赴く。汝輩、豈に我が刃を汚さんや』と。賊、皆な慴伏す。後ち巨賊、大阪の獄に繋がれ、自ら語りて云ふ、「平昔、未だ嘗て恐怖せることあらず。嘗て木曽山中に在りて、人を要して劫をなす。一丈夫の、目を瞋らして我を叱するに遇ふ。之を憶へば、いま尚ほ股慄するがごとし。彼れ自ら呼ぶ、高山某、と。豈に所謂天狗なる者ならんか」と。

 此の時、田沼氏、既に罷め、白川侯(樂翁松平定信)、之に代りて政を執り、改正する所ろ多し。之より先き正之、嘗て祖母の憂に遭ひ、鞠養の恩あるを以て、再期の喪に服せんと欲す。其の兄(專藏正晴)、之を止む。正之、聽かず。叔父長藏(劍持正業)と共に、冡側に廬すること三年。郷邑、之を稱し、事、江戸に聞こえ、有司、之を旌さんと欲す。會々正之を害せんと欲する者あり。兄に友ならずと誣告す。有司も亦た其の人の異常なるを以て、召して之を詰りて曰く、「庶民、刀劍を帶ぶるは、國に定制あり。汝、□[田+犬]畝の中に在りて、雙劍、身を離さざるは、抑々何の義ぞや」。正之、對へて曰く、『某、高山遠江守より以來、二十餘世、未だ嘗て一人の帶劍せざる者あらず』と。有司、其の言を奇とし、且つ其の磊落、他なきを憐み、因て之に謂つて曰く、「汝、仕官を欲するか。業とする所は何技ぞ。撃劍か、將た儒學か」。正之、曰く、

士は貧賤なりと雖も、身を以て人に許すこと、豈に容易ならんや。君子の仕ふるや、其の義を行ふなり。道の行はれざる、豈に一毫だも爵祿を獲取するの徳あらんや。且つ學は、人倫を明かにする所以なり。士の道に志す者、豈に盡く儒のみならんや。某、平生、書を讀む。然れども初めより未だ嘗て文士を以て、名あるを欲せず。故に書生の章句を治むるに倣はざるなり。また幼にして撃劍を好む。然れども技藝を以て身を立つるは、固(も)と欲する所に非ず。故を以て、肯へて仕へざるなり(赤城先生、天朝にのみ仕ふるの志あり。是れ處士たる所以なり矣)』

と。有司、微笑して曰く、「汝の言ふ所を以てするに、汝、亦た未だ仕へざる者は、唯だ之を求む可からざるの日に求めざるのみ。汝、文學者流に非ずと雖も、亦た道を以て自任す。儒と謂ふ可し。試みに『大學』を講ぜよ」と。正之、之を講ず。有司、曰く、「果して其の言ふ所に負かず」と。竟ひに之を釋す。是より正之、遂に家を辭して、日に遊歴を事とし、將に以て齒(よはひ)を沒せんとす。

 是より先き露人、屡々蝦夷に往來して、邊海を窺□[穴+兪]す。正之、深く之を憂ひ、躬自ら北地を歴視して、竊かに敵情を探らんと欲し、庚戌(寛政二年)の夏、遂に意を北游に決す。時に長久保玄珠(赤水)、江戸に在り。往いて別れを告ぐ。玄珠、之を壯なりとし、酒を置いて之を餞す。玄珠、家に鎭神露鐸を藏す。建武中、楠木河内(楠公)、奉獻する所の物なり。紋に玄武神あり。正之をして之を拜せしむ。正之、大いに喜びて曰く、『我れ將に北行せんとし、祖道に當りて此の神を拜す。吉、孰れか焉れより大ならん』と、盥嗽して禮服を着し、拜して感泣するに至る。

 竟ひに去りて水戸に至り、立原萬(翠軒)・藤田一正(幽谷先生)及び他の有名の士を訪ひ、留まること數日、乃ち發す。下野の人・蒲生秀實(贈正四位・修靜菴)も、亦た素より正之の人と爲りを慕ふ。其の北游を聞き、追ひて陸奧石卷に至る。及ばず。適々後醍醐天皇の塔婆の下に出づ。蓋し南北の亂に、官軍、嘗て陸奧に鎭す。故を以て今に至るまで、天皇の爲めに之を供養すと云ふ。秀實、彷徨遲囘して、一樵夫に遇ひ、問うて曰く、「汝、偉人を見ざるか」。對へて曰く、「小人、前きに一士人の爲めに傭せられ、水を荷ひて此に至る。其の人、即ち水に浴して禮服を着し、塔婆の下に就いて跪拜し、懷中の文を出して之を讀み、一字終はる毎に、歔欷して禁まず。今を去る、既に十日。君、問ふ所は、或は此の人か」と。秀實、其の竟ひに及ぶべからざることを慮りて、乃ち返る。正之、南部・津輕を經て松前に至り、竟ひに蝦夷の境に入る。奔走累日、頗る足力を極む。既にして忽ち囘顧の志あり。乃ち松前より海に航す。風帆、飛ぶが如く、三日三夜にして中國に達し、京に留まること數月、明年辛亥(寛政三年)、京を辭して西海に遊ぶ。是の歳三月、夷舶、紀伊大島浦に至り、また筑前・長門の邊海に出沒す。幕府、令を下して備を嚴にせしむ。壬子(寛政四年)夏、露人、我が漂民を送りて、禰牟呂に到る。明年、幕府、石川將監等を遣はして、事由を按檢せしむ。正之、西海に在る、凡そ三年。是に至りて、遂に京都に歸る。

 是の歳、中山大納言、詔を奉じて、江戸に至る。其の事祕して、世に其の實を知るもの莫し。是より先き(寛政三年)正之、京に在りて、嘗て鴨川の湄を過ぐ。童子の龜を捉へて、之を玩ぶあり。甲上に文あり。尾毛□[參+毛]々、所謂緑毛龜なるものなり。正之、見て之を奇とし、乃ち金若干を與へて之を得、伏原正二位(清原宣條卿)に謁して覽に呈す。二位、また以て祥瑞と爲し、即ち天覽に供す。叡覽、焉れを嘉賞す。蓋し竊かに宸極の餘光を瞻仰するを獲ると云ふ。正之、布衣羇旅の士を以て、其の志、常に皇室を尊び、夷狄を攘ふに在り。其の天下を跋渉して、人心を激勵し、義者を鼓動する所以、未だ嘗て其の至誠に出でざるはあらず。其の寶龜を得る、人、以て精誠の感ずる所と爲す。其の後ち之を久しうして、正之、遂に意を當世に得ず。居ること、常に怏々として樂しまず。再び西海に遊びて、筑後久留米藩士林嘉膳(實は森氏。思齋)の家に至り、居ること數日、忽ち病む所あるが如し。

 一日、齎らす所の日乘を出し、寸裂して之を水中に投ず。嘉膳、驚いて其の故を問ひ、且つ曰く、「積年の盡力、一期にして之を失ふ。豈に甚だ惜しむ可からずや」と。正之、曰く、『我また之を愛惜するを知らざるに非ず。然れども百事、已みなん。況んや此の鷄肋、何ぞ深く惜しむに足らん』と。嘉膳、曰く、「足下の所爲を以て、後世、或は不良の事を爲すと疑はば、其れ何を以てか、之を解かん」。正之、即ち止む。嘉膳、既にして退く。須臾ありて、正之、刀を拔いて腹を屠る(白晝の刻)。嘉膳、驚き見て問ひて曰く、「何爲れぞ、此の如きに及ぶ」。正之、曰く、『我れ常に國家に報いんと欲し、其の忠を爲し義を爲す所以のもの、今、不忠不義の事と爲る。已むべし、我が智の及ばざるなり。是れ天、我を殺すのみ。幸ひに我が爲めに、天下の人に謝せよ』と。嘉膳、曰く、「國に法あり。願はくは、子、治療を加へよ」と。聽かず。嘉膳、曰く、「我れ子を館して、子、自殺し、若し治を加へざれば、我が違法の罪も、亦た逃るる所なし。願はくは、子、之を諒せよ」と。正之、之を許す。

 頃之して東方を指して問ひて曰く、『帝都、及び故國は、此れか』。嘉膳、爲めに東北を指示す。正之、拍手再拜して、嚴然端坐し、談話、平生の如し。既にして醫、來りて之を視、吏、來りて之を檢し、故を問ふ。正之、曰く、『發狂のみ』と。其の郷貫を問ふ。曰く、『上野新田郡細谷村』と。是に於て問ふこと屡々なれども、また答へず。吏、乃ち正之齎らす所のものを閲す。毫も疑ふ可きものなし。唯だ天下、名山・大川・勝區の圖書、及び忠臣孝子の行状・諸名家送る所の詩文あるのみ。曉に至りて、正之、竟ひに絶す(辰の中刻)。年四十七。實に寛政五年六月二十七日(實は二十八日)なり。久留米侯、聞いて之を憐み、乃ち命じて新田領主に告げ、其の貯ふる所の物件を封じて郷里に送還し、正之を府下遍照院に葬る(髮長、諡して松陰以白居士と曰ふ)。

 正之、既に死して、數月を後れて、其の墓下に自死する者あり(西道俊、即ち是れ也)。世、其の所以を知ること莫し。其の人、状貌魁偉、蓋し唐崎常陸介(贈正四位・赤齋先生。安藝竹原の人。曰く、「首は宮闕に向ふ」と)なり。唐崎も、亦た慷慨の士、正之、初め其の名を聞き、未だ其の面を識らず。一日、聖護院法親王に詣り、一士人に遭ふ(實は寛政三年六月二十九日、若槻幾齋の家)。骨相、非常なり。正之を見て曰く、「高山殿に非ざるか」。正之、曰く、「君は唐崎殿か」と。因りて手を執りて、相泣いて曰く、『天下の事、何爲れぞ、此の極に至る』と。卒ひに相與に結んで、膠漆の交を爲す。適々正之の死を聞き、豈にまた相感ずるに非ざるなからんや。

 明治十一年(三月八日)、正四位を贈り、(十二年十一月)上野太田町に、高山神社を建て、正之の靈を祀る(十三年三月二十二日、縣社に列す。大祭三月十五日)。『事實文編』。


**********


【――寛政事件(尊號問題)にて、七士憤死し、皇政復古を俟つ――】

一、高山赤城、屠腹。寛政五年六月二十八日歸幽。
一、山本以南、投水。寛政七年七月二十五日歸幽。
一、唐崎赤齋、自刃。寛政八年十一月十八日歸幽。
一、權藤涼月子、斥藥。寛政十年八月十日歸幽。
一、西道俊、刎首。享和二年五月二日歸幽。於赤城先生墓前。
一、富田大鳳、自病。享和三年二月二十五日歸幽。
一、龜井南溟、投火。文化十一年三月三日歸幽。

 三上大悲翁の曰く、「以上の七士は、尊號問題を契機として遂行されんとした、皇政復古・維新事件――吾人の所謂寛政事件の犠牲者である。しかも此の七士が、何れも幕府の爲めに刑戮せられることなく、符を合した如く自殺の道を選んだところに、此の事件の深刻な骨格を見るのである。

 さもあらばあれ、高山先生及び此の六士の忠死は、徒爲でなかつた。‥‥先生等の滿身の碧血は流れて、全日本の山澤巖穴に浸透し、やがて五十年の後、明治御維新に起つた、澎湃たる尊王討幕の大風濤と化した。唐崎常陸介が、有馬主膳へ傳へた埀加神道の傳書奧書に、『永く斯道に矢(ちか)つて、忽焉たること勿れ』とあるによつても、明白なる道統血脈の連結は、士民を問はず、簇々として生起する討幕の義士達の懸命の誠忠となり、遂に幕閣を倒覆して、克く明治維新の大業を翼贊し得たのである。藤田幽谷が、先生を弔ふ文に、『志士の世を憂ふるや、瞻言百里、識慮の深長なる有り云々』とある。

 嗚呼、多きは人、少なきも亦た人。高山先生も、亦た在世の時、屡々此の長嘆を發したことであらう。嗚呼、少なきは人。更に少なきは、人の『むすび』、眞人の血盟である」と。
 
 

嗚呼、囘天創業の首倡者・高山赤城先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月10日(火)18時27分15秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■明治天皇御製

國のため こゝろ盡して 高山の いさをもなしに はてしあはれさ


□照憲皇太后御歌

ながらへて 今世にあらば 高山の 高きいさをゝ たてましものを


□有栖川宮熾仁親王御歌

高山の いさを思へば 大方の 人にこえたる 人にぞありける


□有栖川宮妃御歌

大御代に 心つくして 高山の いさをは世々に 鏡とぞなる



●赤城先生の哥抄

○寶暦十四年詠
東山 上りて見れば 哀れなり 手の平らほどの 大宮どころ

○寛政三年三月十五日、恐れみ畏れみ敬み謹みてよめる。同一月十九日、琵琶湖にて得し緑毛なる瑞龜を天覽に奉りし時、聖護院の人となりて參入り、龍顔を伏拜みけるに、光格天皇には、高山彦九郎なる者を知れるやと問はせ給ひける由、承りぬるを嬉しみ忝み奉りて
われをわれと しろしめすか[一作、ぞ。或作、と]や すべ[め]らぎの 玉の御こゑの かゝるうれしさ

○寛政四年詠(鎌田忠助・雜録)
薩摩びと[薩摩潟] いかにやいかに 苅萱の 關もとざさぬ[關の戸さゝぬ] 御代と[御世を]知らずや

○寛政五年六月二十七日、心に思ひ定むる事ありて
まつざき[松の木]の 驛(うまやぢ)[厩(うまや)]の長(をさ)に 聞い[問ふ]て知れ 心つくしの 旅のあらまし
朽ちゝりて[朽ちはてゝ] 身は土となり はか[墓]なくも 心は國を 守らんものを

○久留米來客中、故ゑ有り、屠腹辭世(執行俊風に遺す)
さはがしき この雲風は いつはれて さやけき皇(きみ)の 御代となるらん

○赤崎海門に託せし辭世(西山拙齋翁遺文)
あふ事の おぼつかなみの わかれ路は いとゞ名殘の 惜むとぞ知れ



●赤城先生『長子儀助に與ふる訓戒』に曰く、

「其許(儀助)、學問に志し候ふ上は、能々心掛くべき肝要の事、是あり候ふ。章句に拘り實事を研究せざるは、學文の何たるを知らざるものに候ふ。人倫の大道は、修身・齊家、專一に候ふ。然る上は、天下も治め得らるゝものに候ふ。益なき詩文を作り、學文を文(かざ)るは惡きに候ふ。必ず實直に學文する事、肝要に候ふもの也」と。



●『高山芳躅志』に曰く、

「神村(伊勢崎藩儒・浦野知周)、曾て門人に對し、『論語』を講ずる時、君(赤城先生)、偶々訪ひ來り、門人と均しく列次し聽き居たりしが、「景公、政を問ふに對へたまひ、君々臣々父々子々たり」の一段に及ぶ。君、潸然と流涕し、終に聲を放つて號哭せり。門人、傍らより「此の講談、左程に悲しきものにや」と云ふ。君、忽ち膝立直し劍を按じて、『景公の如き錦衣玉食の、世情に疏き公子さへ、「君子、名分を正す」の聖語に感激し、「食を絶ちて死なん」とこそのたまふに、かゝる講談を餘所に聞流すことの情けなさよ。畢竟、汝等は、皇國の糟粕、亂臣賊子(將軍徳川)の奴僕なるべし』と罵り、猶ほ數行の涙を拭ひしとぞ」と。



 愚案、高山赤城先生は、燈涙を剪つて學に勉むる讀書子であると共に、何より至孝の人であつた。其の熱祷は、神祇伯吉田二位卜部良倶卿に請願して、祖父母の神號・壽號「伊賀鎭(いがし)靈神・鎭得靈神」の宣授にも成功してゐる。殊に敬神崇祖は、其の行旅に祖神の靈儀を體携して、常時供饌菓果を薦め、出入、必ず之に拜禮することを例とした。且つ其の式事、禮拜稽首の度數に於いては、或は何萬何千を算することもあり、赤城先生、此の孝心の根柢あらばこその、「忠魂一貫」(今泉定助翁の贊)・「至誠動天」(頭山立雲翁の贊)の、無位の「眞人」(近衞文麿公の贊)である。



●赤城先生『京日記』寛政二年十二月二十五日條(高山彦九郎先生頌讚會編『高山彦九郎京日記』昭和六年三月・參龍閣刊)に曰く、

「昨夜、寢る。事ありて、すぐに起きて、早朝に行水し、麻上下になりて、謹みて鎭得靈神(赤城先生の祖母・大槻氏りん子刀自)を拜し奉り云々。七萬九千百六十拜に至れり、及び十萬餘の拜と、‥‥早朝より夜に入るまで、座せるまゝ動かず云々」と。



●赤城先生『楠公の墓前に於いて敬録す』
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 なほ時間が許すならば、『大日本人名辭書』より、赤城先生の傳の筆寫を期したい。また大悲三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)は名著なれば、是非とも清覽を乞ふものである。「囘天創業、是れ斯の人」(大西郷の贊)、高山赤城先生、何としても現代に蘇つて戴かねば、戰後の闇は照らされぬ。

 服部栗齋も曰はずや、「昔は芭蕉ありき。松島や、あゝ松島や、松島や、と。今は余は、あゝ高山や、高山や」と。
 
 

三條戀闕の志を繼ぐ者。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月 5日(木)21時38分51秒
返信・引用 編集済
   平成二十四年三月二十四日、「三條の會」發足の御由、洵に同慶の極みなりけり。命名者・祝詞奏上者は、大行社青年隊長・木川智氏なり矣。

 贈正四位・縣社高山神社祭神・赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩先生、「少(わか)くして平安に入り(寶暦十四年、先生齡十八)、三條橋の東に至る。『皇居は、何方ならむ』と問ふ。人、指して之を示す。即ち地に坐し、拜跪して曰く、『草莽の臣、正之』と。行路、聚りて觀、哭きて顧みざるを恠しむ也」とは、頼山陽外史の文にして、赤城先生は、等持院に到り、足利高氏の古墳を見、弗然として曰く、「汝(高氏奴)、國賊よ、皇朝連綿たる不磨の歴史を傷つけ、私しに累代不易の帝位を左右し、徒らに皇謨の綱紀を紊し、所謂る北朝なるを立てゝ後ち、天朝を攻め奉るに到る。其の暴悖、厭く所を知らず、洵に其の專横逆激の状、允す可からず矣。汝、來りて速かに罪を天下に謝せよ」と、暫し瞑目、忠涙、滂沱として滴る。忽ち鐵鞭を執つて、其の墓碑を擲つこと、數次たりと傳へたり。
  ↓↓↓↓↓
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http://sousiu.exblog.jp/17354100/

○橘曙覽翁「高山彦九郎正之」(『松籟艸』所收)

大御門 そのかたむきて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 眞心たふと

○眞木紫灘先生「草莽臣高山彦九郎正之を詠める」

高山の 大人なにひとぞ 人ならば よぢてもみてん 我何人ぞ

○平野國臣先生(安政五年十月一日詠、赤城の墓を奠し、石燈一基を獻ず)

一筋に おもひしみちは さりながら まだき時よは せんすべもなし
よしやその 時こそ至らね 益荒雄の 捨てし命は 大きみのため
苔の下に なほ魂あらば 大御爲 つくす我身に 添ひて守れや

○西郷南洲翁「彦九郎を詠める」

精忠純孝、群倫に冠し、豪傑の風姿、畫圖に眞なり。
小盗、膽驚く、何ぞ恠むに足らむや、囘天、業を創むるは、是れ斯の人。

 「三條の會」、一人でも多くの御方の贊同を得むことを‥‥、只管ら懇祷す。其の發足、餘りに嬉しくて、些か赤城先生を抄せざらむと欲すと雖も能はざるなり。



【參看『宮城遙拜詞』・『宮城參拜詞』、竝びに作法】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/19

 愚案、吉田松陰先生『松下村塾規則』に曰く、「一、晨起盥梳、先祖を拜し、‥‥東にむかひ、天朝を拜する事、假令ひ病に臥す共、怠るべからず」と。戀闕者の已む能はざる所、松陰先生の嚴命する所、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。



●日岳富田大淵藤原大鳳先生『高山仲繩を送るの序』・『晩秋、祇山に上つて感あり、賦して諸生に示す』
  ↓↓↓↓↓
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/2



●森嘉膳翁手記『高山彦九郎自殺の事を記す』(福井久藏博士『高山朽葉集』卷之七・昭和十九年七月・日本書院刊に所收)に曰く、

「(赤城先生、屠腹、遺言して)曰く、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひし事、皆、不忠・不義の事になれり。今にして吾、智の足らざる事を知る。故に天、吾を攻めて、斯の如く狂せしむ。天下の人に、宜しく告ぐべし』と云々。‥‥

(赤城先生)東方を指し、問うて曰く、『帝都、竝に故國は、此の如きや』と。(森嘉膳・永野十内)答へて曰く、「丑寅へも當る可きか」と。此に於て(赤城先生)席を改め、柏手を打ち、心念じ終つて、又た談話、初始の如し。端座嚴然として、容を亂さず。其の夜、戌の刻許りに至つて、氣力衰へ、倒れ伏す」と。



●幽谷藤田一正先生『高山處士を祭る文』(菊池謙二郎翁『幽谷全集――幽谷先生遺稿』昭和十年六月刊に所收)に曰く、

「維れ寛政六年、歳は甲寅に次る、三月戊子の朔、越えて十一日戊戌、水戸の藤田一正、謹んで清酌庶羞の奠を以て、上野の高山處士(赤城先生)の靈に告げて曰く、

 嗚呼、吾れ子(赤城先生)と別れて、一日三秋、豈に圖らんや、不幸、自ら大憂に遭ひ、孤廬に泣血せんとは。再期、未だ周らず。側(ほの)かに聞く、處士の暴(には)かに西州に死するを、夢みるが如く覺むるが如く、驚嘆、休まず。一たび之を思ふ毎に、人をして悸を病ましむ。喪(幽谷先生の尊父)、既に服を除し、月を閲すること凡そ四たび(四箇月)、乃ち始めて酒を取り、祭哭して位を爲す。

 鳴呼、子よ、奚を以てして、暴かに死せるや邪。豈に誠に已む能はざる有りて已むか邪、將た已むを得て已まざらんとするか邪。獨り夫の先哲、身を守るの義を聞かずや邪。假使ひ衾を啓き簀(病床)を易へ、以て全歸せざるも、何爲れぞ乎、腹を割き腸を屠し、以て死に就けりや。西海と東海と、風馬及ぶ莫し。傳へ聞く、之が紛紛たるを、曷んぞ異議を免れん。人、堯・舜に非ざれば、誰か能く善を盡くさん。

 鳴呼、子よ乎、吾れ其の變に處するを悲しむ。惟だ子の、王母(祖母)に供養し兮、湯藥に侍して倦まず、喪に服し冢に盧すること三年兮、實に今世の鮮しとする所、兄弟の撰(兄上の專藏翁と赤城先生の行ひ)を異にする兮、人心の面におけるが如きを奈んせん。既に棣萼の芳を聯ぬる(兄弟愛)無く兮、鶺鴒の原に在るを嘆ず。其の祖妣に於けるや、孝敬、斯に至る。豈に獨りの同胞のみ、友愛存する莫からんや。噫、彼の小人は、好んで人の惡を成す兮。爰に郷議の愈々喧なるに罹り、西の方に遊び、志を桑孤に償はんと欲す兮。宅一區(資産)、寧んぞ身を田園に終へんや。

 嗚呼、子、匡章に類する有るか(『孟子』離婁篇三十章の齊人)。自ら吾が賢の、孟軻に非ざるを痛み、隷貌交接、他日、之が冤(郷里を捨てし不孝)を雪がんと欲す。獨行異調、固より時俗の能く和する所に非ず。況んや乃ち生死の路を殊にする、千秋□(貌+之繞)乎として、山河を隔つ。昔、予(幽谷先生)、師(立原翠軒翁)に從ひ江戸に宦學し、始めて子と蓋(盃)を傾けて、晤言(對面親語)するを得たり。久しく□(人+周。てき)儻の高節を想像し、忽ち奇偉の盛論に激昂す。吾れ何を以てか、大兒、忘年の交(年齡を問はぬ交流)を辱くするや。獨り禰衡(後漢の人)の偃蹇(驕慢)たるを愧づ。疾めば則ち藥を餽り、歸れば則ち行を送る。子の東するや(寛政二年)、又た余が門を顧みる、堂に上り親しみを拜して、已に數歳、音容、目に在つて□[言+爰。わす]る可からず。

 嗚呼、子、夙に高尚の質を懷き兮、魯仲連の人と爲りを慕ふ有り。難を排し紛を解く、戰國の策士に非ずと雖も、世を輕んじ志を肆まゝにし、太平の逸民と爲らんことを庶ふ。能く王を尊び、而して覇を賤しむを知る。豈に啻に當年の秦を帝とせざるのみ(魯仲連、秦に屈せず)ならんや。□(士+宕+木=袋。たく)中の裝、一錢無く、而して□□(萠+刂。糸+侯。かいこう。祖末な劍)を彈じて、以て津を問ふ。書は纔かに名姓を記するに足り、而も劒は身を防ぐに餘り有り。身、國に爵位有るに非ず。仕へずして、乃ち朝廷に心す(是れ其の「處士」たる所以なり)。赤狄(露奴)の北陲を蠶食し、而して神州を窺□[穴+兪。ゆ]するを聞き兮、其の後世、天下蒼生の害とならんことを恐る。上下宴安、方に鴉毒に耽る兮。子、獨り慷慨、命を受けずして、以て私かに行き、陽つて浪客となり、而して山水を漂遊し兮、陰に國家の爲に虜情を偵探せんことを欲す。衣冠禮樂の文物(歴史傳統)をして、被髮左衽の羶腥(夷狄の風俗)に變ぜざらしめんことを期す。豈に萬里の外に封侯し、以て一身を富貴の榮に取らんと云はんや。杞人は天地を憂ヘ、而して孀(やもめ)は緯を恤へず(天下國家を憂へり)。知らざる者は、誣ふるに狂名を以てす。一別の後、杳として消息無し。或は其の北海より、直ちに帝京に入ると傳ふ。豈に關防嚴禁、其の要領を得る能はざるか邪。

 抑も黠賊の濳謀、未だ狡計の其の形に見はるゝ有らず。志士の世を憂へるや、百里を瞻言し、識慮の深長有り。偸惰、自ら喜び、快を一時に取るは、乃ち愚人の常のみ。爾後三年、果して北使の事(露ラツクスマンの根室來港)有り。關を叩き塞を欵き、而して互市□(手+寉。かく)場(通商貿易)を請ふ。既已に甘言重幣、以て我を誘ひ、加之のみならず虚聲恫喝、以て其の富彊を誇る。彼れ將に還つて我が國を股掌の上に玩び、以て其の志を得んとす。何ぞ我が國勢の陵遲せる、而して威武は張らず、中行の説に伏し、而も其の背に苔うたず、遂に醜虜をして、我が東方を輕視せしむ。廊廟、豈に策を獻じ纓を請ふの士乏しからんや。徒らに草茅の人(庶民)をして、筆を投じて心傷ましむ。是の時に當り、子、其れ何くにか在る。劒に倚り、而して子を長天の一涯に望む。它日、國家、或は子を得て之を用ひば、死を視ること、歸するが如く、水火に赴いて、而も辭せず、當に惰夫をして敵愾の志を立たしめ、古人をして蹈海の奇を專にせしめざらしむべし。

 嗚呼、晝夜の道、死生も、亦た大なり矣。太山鴻毛、輕重、各々其の時有り。羞惡の義は、天性に根ざす兮。道行く餓夫も、亦た猶ほ磋來(無禮)の食を屑しとせず。唯だ豪傑の士は、能く忍ぶこと有つて、大謀を成す兮。胯を出て履を取るの辱、皆な之を爲して疑はず。惟だ子の羇旅するや、備さに險阻の艱難を嘗む兮。千辛萬苦、其れ誰にか語らん。麑島の行・筑州の寓、豈に節を屈し、以て心思を拂亂する有らんや。惜しいかな夫、身を以て君父の急に殉ずる能はず、空しく劍鋩に伏して、以て鮑焦(周の隱士)の徒と、歸を同じうす。絶に臨み、從容として天下の人に謝す兮。萬里、之を聞いて、我が心をして悲しましむ。英魂招くも返らず兮、彼の白雲を仰げば、而して神馳せ、寤寐の間に耿々たり兮。猶ほ其の雄偉の氣と、魁岸の姿とを見るがごとし。吾れ既に兒女子の態を作し、而して子を弔するを欲せず兮。風に臨んで悵然、獨り涕涙の相隨ふを覺えず、疇昔を感念し、哀しみを一奠の詞(弔辭祭文)に寄せり。惟れ子の知る有らば、髣髴として來つて、此の巵(盃)を擧げよ。尚くは享けよ」と。
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●復堂杉山忠亮翁『高山正之傳』に曰く、

「(赤城先生)嘗て室直清、論著する所(室鳩巣『駿臺雜話』)を見、楠公を論じ、召に應じて、直ちに笠置に造るを以て、度量足らずと爲し、諸葛亮、三顧して、乃ち廬を出づるの事を引きて、之を議するに至つて、憤然として罵つて曰く、

『腐儒、何ぞ事を論ずるの迂なるや。夫れ元弘の時、豈に三國と年を同じうして論ずべけんや。劉漢の末、天下分裂し、豪傑竝び起る。此の時に當り、劉玄徳なる者は、故と履を販り席を織るの人、自ら稱して「帝室の冑」と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや。亦た猶ほ今世の奴僕輩、源平を號稱して、以て自ら誇る者のごとき也。孔明の三顧して出づるは、我が心に於て、猶ほ以て速しと爲す。百顧・二百顧を累ぬと雖も、猶ほ未だ緩しと爲さず。楠公の如きは、則ち是に異る。赫々たる天朝、神器の在る所、六合の仰ぐ所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳ふ。普天率土、孰れか皇民に非ざらん。而して楠公は、則ち廷臣の裔にして、畿内の民也。召命無しと雖も、豈に國家の難を視て、恬然として自ら安んず可けんや。天皇、蒙塵したまふを聞かば、奮然として袂を投じて起つべし。安んぞ彼の諸葛輩に效ふことを、之れ爲すを得んや。書を讀むこと、是の如くんば、百萬卷と雖も、何の益かあらんや』と。

 其の書を取りて、之を堂下に投ず」と。



●紫灘眞木保臣先生『高山處士五十年忌辰祭文』に曰く、

「嗚呼、公(赤城先生)や、果は義たり、而して勇は仁たり。識見高邁、風節超然、凛乎として寒松の墓山に立つが如し。公、尊皇攘夷を以て自ら任じ、蝦夷に事有るを聞くや、獨り大刀を提げ、晝夜兼行、怒浪を蹶り、鯨鼈を叱し、以て深く不毛を究む。其の京師に在るや、禁闕の蕪を視、以て朝典の衰を慨し、痛心疾首、涙、常に衣を濕す。而して□[手+晉]紳の徒、此に奮起す。公、竊かに焉れを知る有り。晩に遂に天下を周遊し、觀風察俗を以て事と爲す。東西南北、至らざる所ろ無し。深山大川、艱勞避けず、所在、孝を勸め、過ぐる所、義を起す。而して異學を斥け、世教を敷き、其の功、孟子と異ならず。一日、義に感ずる所ろ有り、慷慨、我が地に客死す。

 嗚呼、公や、其の才徳、天、實に之を生じ、而して之をして位を得せしむること能はず。地、實に之を育し、而して之をして榮に居らしむこと能はず。然れば則ち其の之を生育する所以の者は、何ぞや。世衰へ、倫喪ぶに及べば、則ち天、有徳を生じ、以て之を匡正せしむ。公、蓋し其の任に當り、而して庶□[王+民]を木鐸する者也。公の世に在るに方つてや、其の意を知る者は、數人に過ぎず、而して今や、五尺の童子も、其の名を稱し、以て其の誠を仰がざるは無き也。公は今を距ること五十年、古碑、榛荊に委すと雖も、精氣の世を蓋ふや、赫々乎として、雷霆の蒼黄を動かすが如し。乃ち知る、天地の之を生育する所以は、此に在つて彼に在らざるは明けし。

 今年壬寅(天保十三年)六月二十七日、實に公の正辰に當る。乃ち同志とともに、敬しく薄奠を陳べ、以て厚志を表す。予、公の義を慕ふや深し。時、此の日に刄る。感勵の至に堪へず、泣いて以て酒を薦む。神、尚くば思へ。眞木和泉守平保臣、外か同志一同」と。



●甕江川田剛翁『高山仲繩祀堂記』に曰く、

「夫れ仲繩は、曠世の偉人にして、先儒、其の事を録する者、前には則ち淇園(皆川)・栗山(柴野)・石梁(樺島)・茶山(菅)、後には則ち幽谷(藤田)・復堂(杉山)・山陽(頼)・拙堂(齋藤)、序あり、傳あり、祭文・碑銘あり、多くして且つ備はる。顧みるに獨り未だ其の死する所以を推究せず、或は目して病風喪心の致す所と爲す。今ま竊かにこれを憾みとす。

 蓋し仲繩の忠義は、天性に根ざし、而して其の先も、また節を南朝に殉ず。嘗て『太平記』を讀み、大いに感憤する所あり。此の時に當り、光格天皇、妙齡英發にましたまふ。佐くるに一條(關白輝良公)・中山(大納言愛親公)の諸公を以てす。而して幕府は、則ち大將軍浚明公(家治)、田沼意次を寵任し、群小、柄を弄し、綱紀、大いに紊る。仲繩謂へらく、『以て王權を復すべきなり』と。乃ち名を文事に託して、四方を周遊し、地形を觀、民情を察す。人に遇ふ毎に、輒ち正閏・王覇を論じ、以て陰に同志を募る。既にして公薨じ、文恭公(家齊)、繼ぎて立つ。意次を黜けて、松平定信を用ひ、衆賢茅茄、百弊、頓に革り、徳川氏の業績、復た興る。是に於て仲繩、自ら其の時機、未だ至らざるを知り、身を殺して、以て其の跡を滅す。‥‥

 もしそれ遲疑して生を偸まば、府吏の逮捕する所と爲り、則ち承久・元弘の變、立ちどころに待つべし。何ぞ其のあやふきを見ることの早くして、且つ明かなるや。或は其の敕を受けずして、妄りに動くを議するものあるも、是もまた過てり。何となれば、事成れば、則ち功を朝廷に歸し、成らざれば、害を一身に止む。又いづくんぞ其の敕あると否とを問はんや。且つ夫れ九重深嚴にして、尊卑懸隔す。而して仲繩は、東鄙の一匹夫を以て、交を公卿に納め、嘗て竊かに天顔を窺ふことを得たり。則ち其の密旨を奉じて、以て義故を募るも、亦た未だ知るべからず。然らずんば其の將に死なんとするとき、手記を寸裂して、以て水中に投ずる者は、何ぞや。其の東に向ひて、遙かに帝都を拜する者は、何ぞや。其の語を海内の豪傑、好在せよと寄する者は、何ぞや。嗚呼、仲繩の死は、上は公卿流竄の禍を當時に救ひ、下は志士勤王の端を後日にひらく」と。
 
 

泉水隆一監督の至願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月31日(土)19時19分53秒
返信・引用 編集済
   櫻花の季節を迎へようとしてをります折節、或る「靖國神社研究家」と稱せられる御方から、實は『靖国神社の真実』の骨髓とも謂ふべき論評を賜はりました。曰く、

靖國神社論・靖國神社史を書く後學の諸賢には、隨一の出典となる新論ばかり、戰後のフイルターを除去して、一擧に靖國神社の眞姿を目の當たりにするの思ひを抱懷せしめる貴重の書です」と。

 然うなんです、御氣づきでせうが、本書には、誰も聞いたことも無い、書くことが出來なかつた、

靖國神社の事歴

が書かれてをるのです。現代「保守」の醜態は、それはそれで貴重でありますものゝ、所詮、一座の泡沫にして、我が光輝ある歴史の組立てに與かること能はざるを證したものに過ぎず、寧ろ我が塾頭が書かれた、靖國神社精神の歴史にこそ瞠目すべく、諸賢の精讀熟覽を乞ひたいと存じます。

御羽車
合祀祭
諸霊祭
みたま祭
鎮霊社
昭和殉難者合祀
‥‥

 明治天皇の聖旨に基づく、此の大精神史、祭祀の本義を、我が塾頭は、一體、何方から聞かれたのでありませうか。其の論究の成果だけでは、決して無いでありませう。洵に貴重なる「歴史の證言」と謂はねばなりません。

 『靖国神社の真実』を讀まれて、目が醒めた、感激したとの仰せは、幾人もをられました。本道に嬉しい事であります。願はくば、此の掲示板でも、或は他の媒體でも宜しいので、書評・感想を賜はりたいと存じます。

 『靖国神社の真実』初版九百册、増刷三百册(未版)、計一千二百册――泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭・福井金城翁「血の雄叫び」を、どうか、滿天下に恢弘宣傳して戴き、靖國神社正統護持、引いては皇國護持、皇室翼贊の誠を捧げて戴きたいと存じます。
 
 

贈書に祈りを籠めて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月30日(金)19時21分41秒
返信・引用 編集済
  ■淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷三「史を讀みて述ぶ、夷齊の章――晉の處士陶濳」に曰く、

「韓愈『伯夷の頌』に曰く、

 士の特立獨行は、義に適(かな)ふのみ而已。人の是非を顧みざるは、皆な豪傑の士、道を信ずること篤くして、而も自ら知ること明かなる者也。一家、之を非とするも、力行して而も惑はざる者は、寡(すくな)し矣。一國一州、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、蓋し天下に一人のみ而已矣。若し擧世、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、則ち千百年に、乃ち一人のみ而已耳。伯夷の若き者は、天地を窮め、萬世に亙りて、而も顧みざる者也。昭乎たる日月も、明かと爲すに足らず、崒(しゆつ)乎たる泰山も、高しと爲すに足らず、巍乎たる天地も、容(い)るゝと爲すに足らざる也。

 殷の亡び周の興るに當りて、微子(殷の紂王の庶兄)は賢也、祭器を抱きて、而して之を去れり。武王・周公は聖人也、天下の賢士と天下の諸侯とを率ゐて、而して往きて之を攻めしに、未だ嘗て之を非とする者有るを聞かざる也。彼の伯夷・叔齊なる者は、乃ち獨り以て不可と爲せり。殷、既に滅び矣、天下、周を宗とせしかども、彼の二子なる者は、獨り其の粟を食ふを恥ぢ、餓死して而も顧みず。是に繇(よ)りて言へば、夫れ豈に求むること有つて、而して爲さむや哉。道を信ずること篤くして、而して自ら知ること明かなる者なれば也。

 今世の所謂る士といふ者は、一凡人、之を譽むれば、則ち自ら以て餘り有りと爲し、一凡人、之を沮めば、則ち自ら以て足らずと爲す。彼れ獨り聖人を非として、而も自ら是とすること、此くの如し。夫れ聖人は、乃ち萬世の標準也。余れ故に曰く、「伯夷の若き者は、特立獨行して、天地を窮め、萬世に亙つて、而も顧みざる者也」と。然りと雖も二子、微(な)かりせば、亂臣賊子、迹を後世に接(つ)がむ矣、と」と。



 愚案、先に、謝疊山『初めて建寧に到りて賦する詩』を拜記し、靖國神社遊就館に於いて、橋本景岳先生の掛軸を拜觀したことを記した。此の詩は、淺見絅齋先生の『靖獻遺言』に依つたのであるが、其の典據は、多く、中山菁莪・落合東堤兩翁遺著・雪窓沼田宇源太翁編『靖獻遺言講義』および紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』である。殊に紹宇先生の講義は精微を極め、『靖獻遺言』を學ばむと欲する者の巨燈と申してよい。紹宇先生の序を謹記し、江湖に紹介して、有志が再び『靖獻遺言』を手に執つて戴く契機をつくりたい。

 蘇れ、古書先賢。期す、日本中興。



●紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』の「序」(昭和六十二年九月・國書刊行會刊)に曰く、

「初めて『靖獻遺言』を繙いてから、四十餘年になる。從軍中、常に携へてゐたのは、慶應紀元乙丑年新刻といふ刊記のある、薄葉一册の小形本であつた。敗戰復員後に得ることができて精讀したのは、沼田宇源太氏編輯に係る、中山菁莪・落合東堤遺著と冠した洋裝本の『靖獻遺言講義』である。いく度か繰返した講義も、この本によつたことなので、手澤滿紙、綴ぢ絲も切れてしまつてゐる。

 『靖獻遺言』に收められてゐる韓退之『伯夷頌』と『唐宋八大家文讀本』に收めてゐる同文との間には、わづかであるが、文字に異同がある。そのことに氣づき、その理由を調べたことは、絅齋の、『遺言』成就に、四年かかつたぞ、といふ辛苦の跡を如實に知る契機となつた。また、たまたま手に入つた原刊の一本の書入れを精査することによつて、谷秦山が本書の初刻本を見て、その記述の上に、いく個所かの疑問を持ち、絅齋がその質疑によつて訂正を加へるところがあつたものが、現行本の本文であることを知つた。そしてこれ等の事實を知つたことは、本書の全卷にわたつて、その記述の依據とした原典をすべて明らかにし、それによつて絅齋の取捨の跡を知りたいといふ氣持をかき立てた。

 しかし絅齋は、依據とした原典の名を全くといつてよいほど記してゐないので、漸く探し出した、これと思はれる書物があつても、『靖獻遺言』の文と照してゆくうちに、大きな異同があることがわかり、あらためて原典を探さねばならなくなつたことも、少なくなかつた。しかし努力の末、ともかくも記述の殆んどといつてよい部分の典據を探し出し得たが、そのために二十數年を要したことであつた。

 『靖獻遺言』には、絅齋みづから本書を講じた『講説』・『講義』の外に、若林強齋・谷秦山・西依墨山等、門下門流の學者の講義も、その筆録が存してゐる。その寫本も次第に弊架に收めることができ、それによつて絅齋の本書編纂の意も、次第に明らかになつて來た。

 このやうにして知ることができたことは、家藏本の行間に書入れたり、專帖に箚記しておいたので、それはいつしか厖大の量となつて來た。そこでわたくしは、それを整理し編集して、一書としておきたいと考へるやうになつたが、なかなかその機を得ずにゐたところ、それを知つて、一日も早く成就してほしいと激勵し、かつその協力まで申出られたのは、かつてわたくしの講義を聽いた一人である、金本(愚案、靖獻堂金本正孝學兄。廣島縣三原の人。故人――『かたくなにみやびたる人――蓮田善明と清水文雄』・『強齋先生語録』・共編『淺見絅齋集』竝びに遺著『評傳・乃木希典』あり)兄であつた。わたくしはこの言に激せられて、昨年十月、『山崎闇齋の研究』を脱稿したことを機とし、引續き『靖獻遺言講義』の完成を志し、爾來、舊い書入れや箚記を整理し、新たに本文の現代語譯や語釋を書加へて、今年八月、一應、その稿を書上げたのである」と。



【參考・崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50



追伸。

 『靖獻遺言』は、竹内羞齋先生、かつて之を堂上に講じて處罰せられたる書なりと雖も、幕末の志士、之を讀みて志を益々堅うし、亦た平泉澄先生、戰後、攻撃重圍、辛苦艱難の中に在つて、能く支へたる一卷であつたと云ふ。

 中山菁莪(平田篤胤大人の舊師)・落合東堤兩翁遺著・雪窓沼田宇源太翁編『靖獻遺言講義』は、先般、我が友に贈つた。今、紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』を、小生は未見の友に送らうとしてゐる。恙なく屆き、幸ひに嘉みして之を披繙し、將來の糧と爲してもらへればよいが‥‥。祈りを籠めて、之を贈る。
 
 

『靖国神社の真実』初版の誤植訂正願ひ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月26日(月)00時18分59秒
返信・引用 編集済
   下記、自ら氣がついたり、或はご指摘がありましたら、隨時、増補してをります。本書のご訂正を賜はれば幸甚です。

 謹みて御詫び申し上げます。亦たご指摘いたゞきました方、幾重にも御禮申し上げる次第であります。

 各位には、偶にクリツクして戴きたいと存じます。



【『靖国神社の真実』初版の正誤表】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/99
 
 

靖國神社偕行文庫へ、『靖国神社の真実』を獻本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月25日(日)01時30分44秒
返信・引用 編集済
   三月二十四日、上京、宮城遙拜の後、靖國神社參拜。懸案だつた偕行文庫へ、九段塾藏版『靖国神社の事実』二册を、恙なく獻本いたしました。其の後、遊就館拜觀。橋本景岳先生の「雪中松柏愈青青云々」の掛軸を拜して、一昨日、拜記したばかり、感慨一入でありました。

 午後は、河原博史同血社主の講演あると聞き、こつそり聞いて、帝都を辭す心算でしたが、運惡く講師に遭遇してしまひました。然し講演は、東西來會、洵に盛會、熱氣あふれるものでありました。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/255

 河原講師は、「維新」の眞義を「尊皇・敬神・崇祖」の有無に求め、維新てふ言葉の獨歩きに懸念憂慮を示すと共に、右翼民族派の奮起を促し、支那の王道・西洋の覇道、皇國の皇道の相違に及んでは、我が日本の、神國・皇國たる認識を深く護持することを求め、吉田松陰先生の書翰(『(水戸藩士)堀江克之助に與ふる書』安政六年十月十一日)、

神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる也。

を紹介して、皇國は盛衰あるも興亡なし矣、神洲の決して滅びざる所以を闡明すると共に、神國に生れ、育ち、死んで行くことに感謝するが故に、維新運動の意義を見出し、而して戰後、昭和天皇の、

五十年で日本再建といふことは、私は困難であると思ふ。恐らく三百年はかかるであらう。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/874

との仰せを拜承しては、維新は一朝一夕に成らざれば、只今の時勢に頓着すること無く、「尊皇・敬神・崇祖」の基礎を涵養して、將來へ襷を渡すことの重要性を強調された。

 講演前後、陣營の先輩諸氏や、『靖国神社の真実』の「遺響篇」に玉稿を賜はつた若き俊英烈士とも、初めて會し、洵に有意義な一日でありました。皆樣、禮儀正しく、求道心篤く、且つやさしい方々ばかりで、右翼は恐ろしいてふ世間の評判は、眞赤な嘘僞りであることを、身を以て知ることが出來た次第(はじめから自明のこと)です。所謂保守と呼ばれる連中のはうが、餘程、下品で、輕佻浮薄、不敬頑迷、中にはゴロツキも居ると感ずるのは、小生だけでありませうか。御蔭樣にて、歸宅は午前樣、有り難う樣でございます。
 
 

雪中の松柏、愈々青々。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月22日(木)20時04分52秒
返信・引用 編集済
   下記は、大野俊康靖國神社第七代宮司の『宮司就任の辭』であります。見事と申し上げる外、言葉を知りません。どうか熟讀されて、吾人一同、靖國神社奉贊の資と爲すべく、存養留意の程、只管ら歎願いたします。

 然し大野宮司の唯一の失敗は、後任に其の人を得なかつたことであります。千慮の一失と申せませう。「松平永芳宮司を尊敬する」と云ひながら、彼の面從腹背の人によつて、松平・大野兩宮司の方針は、次々に踏みにじられて行きました。無念です。俗流の權力や權威に弱き者では、靖國神社正統護持は、到底、之を望むべくもありません。後は急轉直下、戰後世代によつて、現状の爲體であります。之に媚びへつらふ應援團も後を絶たず、異樣な風潮を釀し出し、祭祀は荒れ果てゝをります。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/21
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/22
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/23

 庶幾くば、松平永芳・大野俊康宮司の時代へ、速かな復古を、痛切に悃祷します。九段塾・塾頭血涙の聲を、『靖国神社の真実』から、どうか、お聽き取り下さい。靖國神社正統尊崇奉贊の聲を擧げることから、其の第一歩を進めねばならぬと恐察いたします。

 靖國神社の祭祀の嚴修を‥‥、熱祷を‥‥、

 境内から、民主主義を奉ずる政治家・文筆家の排除を‥‥、

 境内外に、清淨と静謐を‥‥、

 遊就館に、泉水隆一監督『凛として愛』再上映の聲を‥‥。



●大野俊康翁『職員に對する宮司就任の辭』(平成四年四月一日附『宮司通達』第一號。『特攻魂のままに――元靖國神社宮司大野俊康講演集』平成二十四年二月・展轉社刊に所收)に曰く、

「前宮司・松平永芳宮司の後任として、本日ただ今、靖國神社の第七代宮司に就任させて戴きました、大野俊康でございます。先程、宮司就任奉告祭を御丁重に御齋行戴き、感激も一入なものがありますが、靖國神社宮司といふ重職に、いかにお答へしていくか、改めて責任を感じてゐる處であります。

 歴代の宮司各位は、まことに高位高官、名門の御出身であられました。私は地方から出てまゐりました、一介の田舍神主であります。熊本縣天草島の總鎭守・舊縣社ですが、本渡諏訪神社の社家・大野家の第十八代宮司として、四十五年間奉仕してまゐりました。又、昭和六十一年十一月より五年五ケ月、熊本縣神社廳長も務めさせて戴きました。

 昨年春、靖國神社の宮司といふ御話を戴きましたが、歴代の社家でありますので、生涯他所へ出ることなど、全く考へてみたこともなく、まして靖國神社宮司に、私ごとき田舍神主ではと、固くお斷り致しました。しかし私の恩師・石井壽夫先生と、日頃格別の御指導を戴いてをります、靖國神社責任役員・森田康之助先生よりも、強い御勸めがありました。ことに松平宮司樣の三顧の禮を盡くされての御要請に、遂に不肖を顧みず、宮司の重職を御受けさせて戴きました。何卒、今後とも宜敷くお願ひ申し上げます。

 私は、大正十一年五月二十日生まれで、來月でちようど七十歳となります。風光明媚な天草に生まれ、田舍ではありますが、人情豐かな天草に育ち、良き氏子の方々に圍まれて、大變な幸せに惠まれた、一介の田舍神主として奉仕して參りました。

 昭和十八年、神宮皇學舘大學豫科を終了、學部の祭祀專攻科に進みましたが、大東亞戰爭が熾烈となり、その年の十二月一日、學徒出陣によりまして、熊本の陸軍歩兵部隊に入隊しました。大隊砲といふ、日本の軍隊で一番小さな大隊砲小隊でした。しかも次々に入隊してくる補充兵は老兵ばかりでありまして、その樣な部下を率ゐて戰地に向ふよりは、一人で潔く、思ひ切り戰鬪機に乘つて、少しでも御國のために役立ちたいと決意し、陸軍航空特別操縱見習士官に轉屬いたしました。しかし一人前の飛行將校となることができず、つひに敗戰となりました。

 神宮皇學舘大學も、神道指令のために廢校となりましたので、九州大學に轉校致しました。昭和二十二年二月、未だ在學中に父が急逝しました。父は、實に立派な神主でありました。當時、占領政策により、戰死者の御葬儀も、公葬は禁ぜられ、まことに御氣の毒な時代でしたが、氏子の方々は、立派な氏子葬を營んでくださいました。私は、この樣な氏子に對して、少しでも御恩返しのできる立派な神主にならねばと決意しました。それと同時に、父の立派な氏子葬に對して、戰歿者の方々は、公の葬儀も出來ず、まことに御氣の毒なことで、心から申し譯ないと思ひました。

 ことに熊谷飛行學校で、私の指導教官は、沖繩決戰に特攻隊員として出陣されましたが、その最期の別れに、手をしつかりと握られ、『大野、後は頼むぞ!』と言つて飛び立たれました。その最後の御言葉、手の感觸は、未だに忘れることはできません。また竹馬の友・學友・知己と、數多くの人々が戰死。二つ年下の實弟も、遠くシベリアのイルクーツクで戰病死しました。その樣なことで、英靈の慰靈鎭魂と、御遺族の御慰めのために、神主として出來得る限りの御奉仕をしなければならぬと決意しました。私の神主としての出發は、實にこの二つの決意に立つものであります。

 翌二十三年のお盆には、淨衣を着けて、御遺族の家を一軒一軒御參りして廻りました。氏子の家は、大方が佛教。その佛壇の前で、神道にての慰靈鎭齋を奉仕したことが、大いに感謝されたのでした。そして翌二十四年、境内に御靈(みたま)神社を創建し、氏子戰歿者の御靈を合祀申し上げ、靖國神社秋季例大祭の十月十八日を例祭日と定め、今日まで慰靈と顯彰の御祭を續けてをります。

 それから、昭和六十年、終戰四十年記念にと、本渡町遺族會の申し入れで、『靖國の碑』を境内に建立することになり、松平永芳前宮司樣の御揮毫を頂戴し、八月十五日に除幕式を嚴修し、爾來、八月十五日に、終戰記念祭を齋行致してをります。また、昭和五十年と昭和六十三年の二度、本渡諏訪神社大神樂の「天草太鼓」を御社頭にて奉奏、御神前に御奉納致しました。

 又、社報の『靖國』にも御縁があります。天草招魂祭での祭員代表の挨拶文を、四十六年五月號に、『靖國のこころ』として御掲載戴きました。さらに六十三年春、遊就館で『やしの實』を拜觀し、感激のあまり、拙い筑前今樣十七節『奇跡のヤシの實』を作詞して獻納申し上げた處、昭和六十三年七月號に御掲載くださいました。又、熊本縣神社廳天草支部長に就任後、支部神職にはかり、神職全員四十名で、『熊本縣神社廳天草支部靖國講』を結成いたしました。恐らく神職だけの靖國講は、全國でも數少ないものと存じます。

 この樣に、私の歩いてきた神主としての道をふり返つてみますと、靖國神社とは深い御縁で結ばれてをりますことに、私自身が改めて氣が付いた次第であります。まことにおこがましいと存じますが、今では、靖國神社の神々が、私を御呼び戴いたのではないかと、畏んでゐる次第であります。本日午前十時の月次祭に參列。引き續き正午に、宮司就任奉告。ついで十二時半、古屋(哲男)總代樣より、宮司の辭令を頂戴致しました。一介の神主として、これ以上の感激はありません。ことに初めての月次祭での感激は、筆舌に盡くせぬものがありました。十餘名の神職と三名の仕女が、古儀のまにまに誠心誠意の御奉仕に、御祭神もいたく御感應遊ばされ、その靈氣に強く打たれるものがありました。まさに「祭祀の至極」と、感涙にむせびました。この樣な立派な祭儀を、戰後も一貫して今日まで御續け戴いたことに、心から感謝申し上げ、心から厚く御禮申し上げる次第です。

 戰後の占領政策に惑はされ、日本精神を骨ぬきにされて、靖國の神々への感謝を忘れ去るもの多き中、默々として、この「至極の祭祀」が見事に遵守されてをればこそ、靖國の神々が、今日の日本の繁榮を成就されたものと、改めて肝に銘じた次第であります。『神は非禮を受け給はず』。假にも靖國神社の祭祀が亂れ、衰微する處があれば、立ち處に靖國の神々の御怒りを買ひ、祖國は滅亡の一途を辿るに相違ありません。私は、この祭祀の嚴修を旨とし、御祭神の慰靈・鎭魂に全身全靈を捧げ、松平前宮司の目標『國民總氏子運動』(註一)に、皆さまと一體となり邁進しなければと、決意を新たにした次第です。

 また先ほどの辭令交付式に當り、森田總代樣より、『雪中の松柏たれ』(註二)といふ、まことに有り難い御言葉を賜りました。靖國神社をとりまく現状が、いかに困難を窮めても、「大雪の中にあつても、常に青々と榮え繁る松や柏の樣に、榮えある靖國神社の宮司たれ」との仰せと畏みました。私もその覺悟で奉仕致します。何卒、皆樣も、この『雪中の松柏』となつてください。私と一緒に一致團結、この靖國神社にお仕へ申し上げませう。

 最後に、特にお願ひ申し上げたいことは、前宮司松平先生は、人格識見、統率力等、全てに傑出された御方であります。先生を百點滿點とする時、私は三十點以下です。そのマイナス七十點を埋めるためには、皆樣方の御協力を得なければなりません。これまで皆樣方は最善を盡して御奉仕してをられますが、あと一%、さらに百尺竿頭、一歩を進めての御協力をお願ひ申し上げます。百十名の方々が、この拙い私を助けて戴き、更に今一歩の御努力を戴いたならば、何とか、松平前宮司時代に追ひつけるのではないかと存じます。私も、宮司を拜命した以上、懸命に務めさせて戴きます。何卒、皆樣方も、この拙い宮司を、『自分が助けるのだ! 一緒にやるのだ!』と、いま一歩の御務めを戴きまして、榮えある靖國神社が、國の鎭めとして、さらに榮えて行く樣に、御協力のほどを、切に御願ひ申し上げます。

 又、私は人格的にも至らぬ點が多いのですが、何か不屆の點がありました時は、御遠慮なく御指摘をお願ひ致します。私も九州男兒の端くれです。腹の中は、からつとしてをります。御遠慮は無用です。どうぞ、靖國神社第七代の宮司・大野俊康を、皆樣の御力添へで、御祭神に對し奉り、恥かしからぬ宮司たらしめて戴きたく、切にお願ひ申し上げ、就任挨拶と致します」と。



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●註一・松平永芳宮司の申送り『國民總氏子運動』
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■註二・疊山謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』(淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之六)

魏參政、執拘して北に投ず。行くに期有り、死するに日有り。此の詩を爲(つく)りて、其の門人・故友に別る。

 中山菁莪翁・落合東堤翁増補云、これが序なり。「執拘」は、無理にとらへること。

雪中の松柏、愈(いよゝゝ)青青。
綱常を扶植するは、此の行に在り。


 若林強齋先生云、孔子の「歳寒くして然る後に松柏の彫(しぼ)むに後るゝことを知るなり」(『論語』子罕)と仰せられたから、云はれたぞ。「愈」とあるが、別して孔子の餘意まで發せられたぞ。孔子の「松柏後凋」と仰せられたが、雪中でも操をかへず、愈々青々として見える。節義を守る者は、常から人には越えて見えるものぢやが、亂世で、愈々忠義の程が見える。三綱・五常の大節義を扶け立つるは、此の度びのことぢや。

 菁莪云、昔から忠義の人の詩も多いが、これ程、よく揃うた詩は無い。よくゝゝ暗誦すべし。疊山の行かるゝ時も、丁度、雪中ぞ。「愈々青々」、この愈の字が肝要ぞ。普段、青けれども、雪中になりて、愈々色が増す。平生しらけた枋得ぢやが、此の時になりて、愈々ぞ。「扶植」、扶け立つる事。「此の行に在り」、俺が、此の度は一大事ぢや。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五常」は、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。道義。人たるの道。

 愚案、此の「青々」は、平泉澄先生の塾名「青々塾」の出典なり矣。色は、現代一般に云ふ青に非ずして、緑なり。間違ふこと勿れ。此の「九段塾」掲示板の背景の色、即ち是れ也。

天下久しう無し、□[龍+共]勝が潔。
人間、何ぞ獨り伯夷のみ清からむ。


 淺見絅齋先生云、「天下久しう無し」、忠義仲間がさみしい。

 強齋云、さゝへて久しう□[龍+共]勝の樣な忠義の仲間が無うて淋しかつたが、されども拙者が居るからは、何の伯夷ばかりが清からふず、とあること。忠義のなりを任じた語意ぞ。前の「綱常を扶植する、此の行に在り」と云はれた氣象は、こゝで見えるぞ。

 菁莪云、忠義の人も多い中に、此の兩人を擧げられたは、忠義の爲に餓死した人々、自分の事實に叶ふ故なり。久しく無いから、此の度び俺がする。孟子が、「伯夷は、聖之清なる者也」(『孟子』萬章下)と云はれたが、今、俺が其の連れになりて死なう。

義高うして便ち覺る、生の捨つるに堪ゆるを。
禮重うして方に知る、死の甚だ輕きを。

 強齋云、「義高くして便ち覺る、生、捨つるに堪ふるを」、義のなりにかへられず、義なりに高い場になつては、命ほど大事なものはなけれども、何とも思はれぬ、惜しい氣はない、とあること。「禮重くして方に知る、死、甚だ輕きを」、子としては孝、臣としては忠と云ふなりに、身を盡すが禮。其の禮なりに、かへ樣もなく、大事な時に至りては、死はものの數とも思はれぬ、禮にくらべてみれば、甚だ輕いことぢや、とあること。

 菁莪云、生の、捨て易きを知つた。

 『孟子』告子下に、「生を舍てゝ義を取る者也」と。『孟子』告子下に、「禮と食と、孰れが重き。曰く、禮重し云々。曰く、禮を以て食めば、則ち飢ゑて死す云々」と。禮は、人の人たる世界を構成してゐる秩序。即ち子として孝、臣として忠を盡くして、それが筋目に違はず、具現されてゐるを謂ふ。

南八男兒、終ひに屈せず。
皇天上帝、眼(まなこ)分明(ぶんめい)。


 絅齋云、「屈せず」、俺があるもの。

 強齋云、南霽雲、忠義な者で、遂に節義なりに身を屈せず死した。天道の能く見すかしてござるではないか、とあること。

 菁莪云、かゝる時に當つて、嘗て忠・不忠の人の評判は、證據にならぬ。どこ迄もたしかな證人は、天道ぢやに因つて、あなたは分明に見てござる、あなたが證人ぢや、とのこと。

 南霽雲は、南氏の八番目の男子、「南八」と排行で呼ぶと、親しみの意が籠もる(愚案、我が八郎と云ふが如し)。唐の張巡の部下の將。皇天上帝は、單に天といふに等しい。宇宙を主宰統括してゐる至上の神を謂ふ。


【參看出典】
○遠湖内田周平翁校・雪窓沼田宇源太翁編『中山菁莪・落合東堤遺著・靖獻遺言講義』明治四十四年九月・昭文堂刊
○寒林平泉澄博士編・解説『日本學叢書』第三・九・十三卷・佐々木望翁校訂註釋『淺見絅齋・靖獻遺言竝講義』上・中・下・昭和十四年三月・十五年七月・十五年九月・雄山閣刊
○紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』昭和六十二年九月・國書刊行會刊



 友、有り。來る二十四日、講演を爲す、と。因つて『雪中の松柏』の詩を贈り、之を激勵すと云ふ。
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もう一つの『凛として愛』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月19日(月)22時52分23秒
返信・引用 編集済
   久方ぶりに、凛氏『凛として愛』を訪れた。『靖国神社の真実』も、何と紹介して下さつてゐるではないか。再開されたやうだ。有り難い。無理せず、氣長に書き續けて欲しいと願ひます。

 此の凛氏、もしかして‥‥。あ、道理で‥‥。「泉水隆一監督の語り部」でしたか‥‥。

 此のブログに在る「泉水隆一監督のお手紙」(平成十四年九月)は、『靖国神社の真実』にも引用させて戴いたもの、小生は之により、我が塾頭を發見したのでありました。
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/



 件に曰く、

「泉水隆一監督は、若い人たちの靖国神社への参拝についてや、今の保守の活動について、色々と思うところがあったようです。監督が、「アレは、ダメだ」と言われた事を、私も知らずにやっていたので、監督に、「みんな、知らないだけだと思います。そういう話は聞いた事もないし、知れば、きっと変わります」と申し上げたら、

そうか。では、君の言葉を信じて、文句を言うのではなく、教えよう。私は、すぐにそんなことも知らないのか!と思ってしまうんだよ。本当に変わると信じて、教えよう

と、笑顔で話されていました」と。



 愚案、聽く耳を持つ素直な人もをれば、長老に食つてかゝる者もゐる。民主主義の世代も、十人十色だ。監督は、「反日をばさん」にも優しく接し、其の本心を聽き出したと云ふに‥‥。あ、しまつた、憶ひ出してしまつた――、何處ぞの「保守」とやらの言葉を‥‥、敵はんなあ~~、嫌だ々ゞ。お休みなさい。
 
 

緊急告知、『靖国神社の真実』増刷について。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月17日(土)16時26分54秒
返信・引用 編集済
  ご閲覽の皆樣へ

緊急告知

 今の度び、或る御方のご希望により、九段塾藏版『靖国神社の真実』を【増刷】することに致しました。

 ご閲覽各位には、此の増刷の機に、もし【頒布の希望、或は追加】がございましたら、ご融通申し上げたく、

 至急本掲示板へでも、或は『靖国神社の真実』四百九頁の連絡先へでも、ご一報たまはりますやう、御願ひ申し上げます。

 泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭の遺志恢弘――「靖國神社正統護持」に奉贊する爲めでありますから、遠慮は全く要しません。

 なほ、現在、小生の在庫若干分のある限りは無代(送料着拂ひを御願ひすることもあります)、

 今の度びの増刷分につきましては、一册當り「一、金一千圓」(送料着拂ひを御願ひすることもあります)を賜はり、不肖備中處士と共同企劃とさせて戴きたいと、取り敢へずは考へてをります。ご賢察ください。

 ただし頒布希望の期限は、勝手ながら、【三月二十五日】とさせて戴きます。以降、増刷は致しかねますので、豫めご諒承ください。

     備中處士 謹白
 
 

嬉しい悲鳴‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月 7日(水)18時50分59秒
返信・引用 編集済
   九段塾藏版『靖国神社の真実』、取り敢へずは好評のやうで、更に「増刷」も考へねばならぬ事態と相成るかも知れません。本道に有り難いことであります。本書は、誰も云はず、何處にも書かれてゐない、文字どほり、「靖國神社の眞實」が書かれてをりますので、一部には敬遠されるでありませう。

 然しさゝやかなる此の上梓は、小生が、一に、泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭への報恩感謝の爲めと、而して何より其の志を紹述せんと欲して企劃したものであります。滿天下、識見ある方々の御目に留まつて、何卒、塾頭の本志を恢弘して戴きたいと、切に懇願して已みません。

 九段塾塾頭・金城翁の本志とは、抑々何ぞや。賀茂百樹――鈴木孝雄――松平永芳――大野俊康宮司の精神を繼承し、恢弘し、且つ復古すること、即ち是であります。此の至願は、遙かに明治天皇の聖旨に應へ奉り、今上天皇の神業を翼贊し奉ることに外ならないのであります。

 而して最も恐るゝ所は、「何處も同じだなあ、困つたものだ」で、終はつてしまふことであります。抑々靖國神社は、天皇の神社、明治神宮と密接なる關係あつて、皇國護持の所據であります。尊皇戀闕の有志は、深く肝に銘じて戴かねばなりませぬ矣。
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm

 なほ一言、申し上げておきますが、本書は無代、即ち非賣本であります。奧附には、なるほど「頒價」の文字がありますが、これは、或る御方が形の上からも入れろ、との仰せに、迂闊にも挿入したもの、今になつては悔いてをります。之を信じて金子を封入して來られた御方がをられて、小生は困惑、謹んで返送させて戴きました。續編を熱望されましたが、それは寶籤でも中りましたら(苦笑)、鋭意、考へたいと存じます。

 本書を熟讀された有志――遺響篇の執筆者・九段塾參加者および見守つて下さつた御方、また本書を落掌した未知の方々は、あらためて讀後の感想や自身の御志を、是非とも此の九段塾へ投稿して戴きたいと存じます。塾頭の箴言・名句、頗る多くして、今後に於ける奉皇報國の所據ともなりませう。九段塾は、塾頭ご照覽の掲示板であります。たとへ短文であらうとも、塾頭の御靈、必ずや、御嘉納たまはるものと確信してをります。期日は申しません、どうか、ゞゝゝ、宜しく御頼み申し上げます。

 本書は、謂はゞ靖國神社正統護持の爲の序論であつて、本掲示板所收の「最終講義」が、塾頭渾身の雄叫び、教化の本論であることは云ふまでもありません。續いて御高覽たまはれば、小生の喜び、之に過ぐるものはございません。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/

 下記は、本書を謹呈した御方から賜はつたもの、其の一部を紹介させて戴きます。



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「送っていただいた『靖国神社の真実』、さっそく拝読しております。すでに掲示板で読んでいる内容ですが、あらためて書物として読み進めてまいりますと、実に切実なる感想を覚えます。九段塾塾頭の声が、まさによみがえってまいります。愉快、痛快なるあり、また真に沈思黙考せざるを得ない口演もあり、憤懣やるかたなし、もあり。

 また、あまりにも膨大なる掲示板の投稿であったことにも、いまさらのごとく驚いております。やがて、人々の手にわたり、ネット上の掲示板ではなく、書籍の形態なるがゆえに、あらたなる読者をえて、故塾頭の志操が広まりゆくことと思います。本書の刊行が、これからの情勢にどのような反響を呼ぶかは、はかり得ぬも、見識を持つ方々には、見過ごせないものとなるのは間違いないと思います」と。

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【參考『一、一兵士翁、掲示板に登壇』(『靖国神社の真実』十七頁から五十六頁)――『二、靖國神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか』以前の文章――からの摘記】

一、靖國神社は、額に矢じりは受けても、後ろには受けない草莽の兵士の勇武、皇軍兵士の武勲を祀っている、天皇の軍隊の神社である。誰一人、後ろ傷を持つ兵士は祀られていない。賊軍の会津藩士も、天皇の軍隊でもない自衛隊隊員は、祀ることが出来ない。英霊の武勲をいただき、それを社会に役立てる、これが顕彰であり、英霊参拝の意義がある。

一、武器弾薬なくも、自決もしないで餓死するまで、皇軍兵士は戦ったことを誉れと、なぜ思わないのか。餓死は恥ではなく、誉れである。戦争は、戦いは勝つか負けるかではなく、突き進むこと、向い続けることが正義であり、常に正義のためにある。「転進」は、靖國神社に祀られることが第一義なために、皇軍兵士の名誉を守るために、大東亜戦争で生まれた用語である。しかし戦争には、絶対勝たなければだめである。

一、靖國神社の祭神は、未だ皇軍兵士の精神と矜持を維持したまま居られる。兵士を可哀想だと思わないで下さい。よくぞ戦って下さったと思って下さい。勇猛果敢な皇軍兵士の神々に、慰霊はおかしい。靖國神社は、御霊を慰めるためではなく、皇軍兵士の雄渾、武勲の魂をお祀つりしているのであって、戦死者を祀っている訳ではない。靖國神社を、今次大戦の戦没者を祀る「慰霊の場所」などと、得心なさらぬように。吶喊の声をあげて鴨緑江を駆け参じ、額に敵弾を受けて真っ先に伏された草莽の兵士の御霊は、凱旋帰国して、靖國神社に祀られている。その方々に「慰霊」などと口にすれば、たちどころに「無礼者」と、社殿に額づく皆さんでも足蹴りされて、「下がれ」と言われるかもはなく、間違いなく言われることを覚悟せよ。

一、遺書に「護国の鬼となって、皇国を護る」とあったら、絶対に遺骨を捜してはいけない。護国の鬼は、地中深くに立ったまま、文字通り「鬼」として、未来永劫、無限の果てまで祖国日本を護り続けている。

一、日本人は現地人を馬鹿にはしたが、「差別」はしなかった。現地人に恐れられたのは、関東軍が現地人を殴るときは拳骨だったからであり、関東軍に対する恐怖心は、国民党にも中共軍にも浸透している。

一、歴史は実感なんです。その時の国民が、どう実感したかである。「日本が敗戦したから」、悲惨な目にあったのです。戦争だから、悲惨なのではない。

一、敵を殺すのではなく、一人でも多くの敵を倒し(殺すのではなく倒すのである。殺すより倒したほうがいい。傷を負わせれば、救助のために戦闘員が割かれ、能力が低下するからである。地雷は、まさにそのための兵器。即死では敵の兵力が一人減っただけでしかない)、一分でも長く戦闘が出来る兵を作り上げるために、「しごく」のである。それは自身の命を守るための訓練である。

一、皆さんが、靖國神社を想い、英霊を顕彰し、本当に心から祭神を尊いと思うなら、酒を飲みながら靖国護持だの、英霊の話をするのはおやめなさい。タバコをくゆらせ、酒を酌み交わし、英霊のことを話すなどは厳禁。また「英霊たち」・「兵隊たち」・「彼らは」・「ご英霊」・「横文字のシャツ」・「酒席での議論」、これだけは禁止事項にされることが望みである。「靖國神社」と、必ず正式名称を呼称して下さい。真性に靖國神社を尊ぶ者は、「靖国」などと、呼び捨てには出来ない。小生が、もし暗黒の時代になり、どれが味方かどうかを審議するなら、まず、「靖国」と呼び捨てにする者は、例え宮司であろうが、「斬れ」と命じる。裏切り者だからである。

一、「表裏」「表と裏」などの言葉は禁句である。帝国軍人に、「うら・おもて」はない。常に自分を諌め、己を慎み、軍人精神に徹することが、皇軍兵士の真髄であり、正道と思い至らしめることにある。

一、英霊を尊ぶなら、遺書を使うなら、遺族の了解を取り付けてからにして下さい。

一、祀られている英霊は、「世界が、皇国が平和であることは願った」が、平和を祈って戦ったのではない。

一、日本は、天皇の国であり、皇土を守護するのは、皇軍兵士である。皇軍が降伏したことは、日本が降伏したのである。皇軍兵士に、条件付き降伏はない、皇軍軍紀の神髄は、命令絶対服従というのが鉄則である。無条件降伏だから、兵士は号泣し、天皇陛下に申し訳なく、慟哭した。軍人は栄誉・潔さを重んじる。国家のために命を差し出す。「日本は無条件降伏していない」という論は、皇軍兵士の名誉を貶めるものと思って下さい。

一、英霊のことを書くのであれば、身を引き締めろと、小生強く言いたい。英霊は、天皇統率の下に、純白の正義を保ちて、そのままに陣中に没しておられ、神として祀られている。いま靖國神社に行かれれば、あなたを見ている英霊は、紅顔の青年ではなく、唇を引き締めた皇軍兵士である。峻厳端正、光輝ある英霊を侮るようなことは、絶対にされないように、身を膝下において、英霊を常に仰ぎ見ていれば、失態は絶対に起こさないはずである。あなたと小生の話を、英霊は聞いているかもしれない、そいう発想を、常に持ちなさい。

一、英霊を守るために身を捧げた松平永芳宮司も、生前、ひそかに口にしていたのは、「敵は左翼ではなく、保守だ。これに気をつけにゃいかん」と、話されていた。当時の広報課長馬場さんが、松平宮司に「旧宮家」の威風を吹かせたので、松平宮司に嫌われたのが、あの恨みの「コノヤロー」となった。

一、「一部将校」の方々も、英霊として目と鼻の先に祀られているにも関わらず、なぜ、「関東軍の一部将校は」などと、なじる歴史を「遊就館内」に書くことができるのですか。

一、。靖國神社は、戦争を肯定している神社である。だから「靖國神社」たりえる。間違っても「平和を祈る神社」などと、思わないように。皆さんの感性で神社を理解するのではなく、時代の中に遡及して理解されるように。

一、関東軍が「やった」というのではなく、「やったに違いない」が、「やった」の歴史になっただけである。それは全て「告白」・「日記」・「メモ」・「証言」などで構築された、戦後人による「日本近代史」でしかない。命令書とか、公文書で明らかになった歴史ではない。

一、天皇陛下のご発言メモとしたら、情報が正確に伝達されていないことである。誰が天皇陛下に情報操作を行っているのか、それが重要。あのメモに書かれていることは、嘘の情報なのである。真実は違う。

一、第一鳥居が汚れているのは、神々に不敬であると申されて、一晩中かけて、たった一人で、あの大鳥居を洗われた方がいる。英霊にこたえるためには、理屈が必要なのです。実感が必要なのです。論理が必要なのです。感性だけでは、こたえることが出来ない。

一、若いうちは恥を掻くのも、修行の一つです。お励みなさい。

‥‥‥‥
 
 

御内裏樣への祈願‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月 1日(木)00時03分9秒
返信・引用 編集済
   帝都では、桃は咲かねど、太陽暦三月三日、太陰太陽暦では三月二十四日、關西では月遲れの四月三日。然り、御雛樣である。

 御内裏樣、即ち天子樣へ、祈ぎ事を奏す人あり(武藤嚴男翁編『肥後先哲遺蹟』明治二十七年二月・普及舍刊に見ゆ)。
  ↓↓↓↓↓
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●荒木精之翁の哥

「ひなまつり」――三月三日、雛壇をつくる。時に肥後の勤皇家・富田大鳳先生のことをしのぶことあり。或る年、先生、三月の雛祝に招かれて、奧の座敷に雛見にとて立ちゆきしが、いつまでも歸らず、主人ゆきて見るに、先生は内裏樣の方を向き、小聲になりて、『御氣遣ひめさるな、この大鳳が一生の間には、如何樣とぞ、御恢復のことはかり奉るべし』とて、落涙せられゐたりとぞ――

女の子ふたり わが家にありて ひなまつり まつるとすれば ひとのおもほゆ



 愚案、かつて左右、孰れか尚きか、論ぜしこと有り。
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 童謠に曰く、「御内裏樣と御雛樣、二人竝んで云々」と。然れども熟々考ふるに、天皇陛下は、宇宙に於ける北辰の如く、固より絶對唯一に大坐します御方にして、昭和の御大典に於る天皇・皇后兩陛下出御の御立ち位置を以て、以降、尚右とすることは出來ないのではないか。高御座は、飽くまで中央に座し、皇后の御帳臺は、其のやゝ左に退つて置かれてゐることからも判る。

 雛飾りの飾り方、昭和御大典以降の關東方式に習ひ奉るにしても、御内裏樣は出來るだけ中央に、御雛樣は、御内裏樣より奧に少し退いて、向つて右に御飾り申すべきでは無からうか。然しこれは理屈であつて、推奬は出來ますまい‥‥(苦笑)。小生も何を申してゐるか、支離滅裂の爲體‥‥。然しながら天子樣の一寸した御行動にて、數千年來の樣式に變更を來たすこと、之れ有り。是れ、稜威の大なる、臣民は、其の影響に驚く所あらねばならぬ。



●稻村眞里翁『雛祭の祝詞』(『國民の祝日・年中行事・新作祝詞選集』昭和二十六年五月・京文社刊――占領下の出版ゆゑに、工夫の程が偲ばるゝ)

――清祓の後、「雛祭に雛人形を拜む詞」。
この壇(うてな)に坐します雛の君たち、この家(や)の童兒(わらべ)らに、平らけく安らけく和やかに齋かれ坐しませと白す。――

この神床に鎭まり坐す、掛けまくも畏き大神たちの大前に、恐み恐みも白さく。

掻き數ふ四つの時のうち、心(うら)樂しきは、春の時(ほど)に優るものなく、春のうちにも、心落ちゐて樂しきは、桃の花咲く時にこそあれ。

三月の三日の日は、遠き古へは、上巳(じやうみ)の節句とて、大宮人たちは、遣水(やりみづ)の流れのほとりに、觴(つののさかづき)を浮かべ、漢詩を謠ひ交はし、また物合せなどして遊べりと、物などには記したれど、今には倣ふ者もなし。

たゞ中昔に始まれる雛遊びは、いともゆかしき風雅(みやび)わざにして、殊に少女(をとめ)の祭といひはやして、天の下の家といふ家は、甘き白酒など釀して供へまつるは更なり、緑なる蓬の餅(もちひ)・紅き白き豆の菓子(このみ)・美はしき草花などさへ取添へて、御祭する慣習(ならはし)にしあれば、

この○○の家にも、今日の生日の足日に、ねもころに雛祭することを、愛(め)ぐし欣(うむが)しと諾ひ看そなはしまして、生ひ先こもれる少女の齡(よはひ)、いよゝ永く、立居・振舞ひ、いよゝ風雅に、艶(ゐや)やかに人とならしめたまひ、家族・親族、睦び和(にぎ)びつゝ、家門高く廣く、彌遠永に、立ち榮えしめたまへと、

産土大神の宮司○○○○、乞ひのまにゝゝ、嚴(いか)し桙、仲執り持ちて、恐み恐みも白す。



●高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、

「三月上巳の雛祭を、女子の遊びとのみ解してゐる人が多いが、この日を戰の祝と云ひ、菱餅は、實は鏃の形であるとし、男子は竹の弓矢を持つて、歌ひ乍ら遊ぶところがある。歌は『じやんゝゝゝめつこかいめつこ、節句の團子、引つちぎつて來い』と云ひ、お供への團子は、必ず引きちぎつた。弓矢は神を迎へるものであり、矢を射るは、魔障を祓ふのであり、團子を引きちぎるのは、神を送るのであらう。このあたりでは、雛は家々の火の番だと云ふが、恐らくは古意は、火の神・家つ神であつたらうと思ふ。これは甚だ古い形を殘したものと思ふが、‥‥

 雛人形の由來を考へる時、思ひ出されるのは、天兒(あまがつ)である。上古から天兒と云つて、幼兒の形を作つたものがある。兒女の身に副へておくもので、平安時代には、出産の時、子供の枕もとに、必ず置いた。三歳になるまでは、必ず兒の枕もとにおき、お守りとした。小供の災厄は、この天兒が負ひ、子供が健康に育つやうに守つてもらふのである。後にはこの人形に衣裳を着せて、十歳迄の子供の遊び友達ともした。‥‥天兒這子から轉じて、立雛が出來、神雛・紙雛などとも云つた。室町頃には、座した雛も出來た。江戸時代に入り、綱吉將軍の頃、三月三日に行ふこととなり、其の後、段々發達して、今日のやうになつたのであるが、本來は祓の人形や天兒から起きたものであり、更に溯れば、神の憑代である。『ひな』と云ふ言葉は、小さい意味とだけ解してゐるが、雛は火の番だと云つてゐる所の用法から考へても、神と云ふ意味を含んでゐる言葉だと思ふ。

 室町時代には夫婦の雛を飾り、桃酒・母子餅を供へた記録があり、内裏雛・五人囃などは、徳川時代に入つて出來たものである。古來の沿革に考へ、本義を考へて、今日、雛祭を如何にして行へばよいかと云ふに、今のやうに多くの人形を飾るよりも、立雛二體に、桃花柳の枝を折りそへて、供へ物をして、神を祭ればよい。家の作法としては、鏡餅に菱餅・熨斗鮑を添へ、桃の花を折りそへて供へてゐる例もある」と。
 
 

徳、必ず隣あり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月27日(月)18時19分7秒
返信・引用
   中島一光翁のご紹介にて、或る遠方の御方より、下記の書を戴きました。

「泉水隆一監督の作品をコピー、拡散を続けております。

 映像に『今から援軍をおくる』というナレーションがあります。泉水監督の遺志を継いで、台湾・ブラジルはじめ、あらゆるご縁・機会をとらえ、全国に拡散の波動を広げる運動をおこなっております。現在2000枚配布したところで、息の長い拡散運動になるかと存じています。

 各地で心ある方々により自主拡散が始まっています。小生、戦後生まれではありますが、英霊の志しに感謝し尽すことはない、という思いでおります。

 DVD『戦艦大和主砲音1分/凛として愛67分』――大和は、小生が付け加えました」と。



 愚案、映畫『凛として愛』は、日本青年社・東條由布子刀自・愛国女性の集い花時計が、擴散・配布されてをられます。又ユーチユーブでは、クルーンP・よーめん兩氏がアップ(後者は英語字幕附)されてをり、誰でも見ることが叶ひます。今、お一人、件のやうな御方がをられる事を知りました。映畫『凛として愛』の力量の所爲もありませうが、天下は、實に廣い‥‥。我が九段塾の志も、孤ならずと謂はねばなりません。有り難く、洵に喜ばしい事であります。
 
 

塾頭、ご照覽を‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月26日(日)22時33分26秒
返信・引用 編集済
   暘廼舍河原博史同血社主も、泉水隆一翁『靖国神社の真実』出版を喜んでくれてゐる御方である。河原兄の無かりせば、書中の「遺響篇」は幻に終つたと申してよい。各分野の方々、長老俊英に、八方、聲をかけて戴き、各位の追悼文を得、我が塾頭の志に華を添へることが出來た。小生は感激したが、それよりも編輯中、何度も激勵を戴いた。此の書の成る、眞に暘之舍主人の賜である。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/17242360/

 塾頭の最晩年、相原修神主の歸幽を告げられた。小生は、直ちに相原神主の書を得んが爲めに、暘之舍主人に連絡、それ以來、眷顧を忝うしてゐる。其の直後、塾頭は入院、やがて顯幽、界を異にされた。塾頭が、小生に對して暘之舍主人を紹介、導いて下さつたと、獨り勝手に思つてゐる。河原兄も、亦た塾頭を慕ふお一人である。然し『靖国神社の真実』の上梓を喜んでばかりではをられない。其の遺志の繼承は、始まつたに過ぎぬ。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/568
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/573


同血社主人の一艸獨語
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http://sousiu.exblog.jp/
 
 

泉水隆一翁『靖国神社の真実』紹介。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月26日(日)15時39分51秒
返信・引用 編集済
   小生が敬慕する御二人の大先輩より、泉水隆一翁『靖国神社の真実』出版につき、温かい御紹介を賜はりました。我が塾頭の御靈、さぞや御悦びの御事と拜察します。小生も、亦た本道に嬉しうございます。兩翁に對し、謹みて深く御禮申し上げます。



 『靖国神社に参拝しよう』(平成十八年四月・栄光出版社刊)の著者であり、何時も目にかけて戴いてをる、オロモルフ博士からは、圖らずも『靖国神社の真実』書影の掲示を戴きました。装幀は、洛風書房の魚谷哲央翁に御任せしたもの、氣に入つてをります。
  ↓↓↓↓↓
http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/12232


オロモルフ翁のホームページ
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/



 草地宇山翁の門下にして、『尊皇・愛國のホームページ「彌榮」』を主宰されてをられる、中島一光(枝島賢二)翁より、玉翰と玉章を拜戴いたしました。曰く、「泉水隆一監督の御略歴を拜見し、小職と同世代であることが解り、何か通ずる思ひが有るのではと感じました。終戰時に、まだ幼兒、まさに御靈に護られた世代なのです」と。之を拜して、我が塾頭を想ふこと、切なるものがあります。又た「『御靈に護られた』との思ひを綴つた」文章も賜はりました。謹みて御披露申し上げます。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Motoyouji.htm


中島一光翁のホームページ
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http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/
http://www1.ocn.ne.jp/~kazumitu/
 
 

九段塾藏版『泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』頒布。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月23日(木)18時27分35秒
返信・引用 編集済
   泉水隆一翁『靖国神社の真実』頒布、長い間、お待たせ申し上げました。數日中には、「遺響篇」の玉稿を賜はりました方々、頒布を希望された方々の御手許に屆くかと思ひますので、ご嘉納ご閲覽たまはれば幸甚であります。ご協力、本道に有り難うございました。なほ失禮不備の段もあるかとは存じますが、自費出版に免じまして、何卒、御海容の程、只管ら御願ひ申し上げます。 九拜



■□■靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版

『「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』
■□■


一頁は、三十二字×二十五行×二段の縱書きにして、全て四百十六頁なり。
四六版(152ミリ×220ミリ)・淡クリーム菊判、塾頭原稿の文字、實に五十萬餘字なりき。
出版社は、京都なる「洛風書房」(代表・魚谷哲央翁)、即ち是れ也。
發行日は、平成二十三年辛卯十二月八日なり矣。
なほ此の自費出版における内容責任は、全て、編輯者たる不肖「備中處士」に在り。



***************

【 扉 】

―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社なり ――

我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、
是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、
映畫『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。
塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、歸幽。享年七十。
謹みて此の書を、塾頭の靈前に捧げ、ご照覽を乞ひ奉る。


本書は、一兵士翁が、戰後の人々に、或は靜かに滾々と、或は荒び迸り、
或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、
「靖國神社の眞實」の記録、
そして、
「靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか」の覺悟を問ひ、
皇猷神算を翼贊し奉らむと欲するものであります。
ご閲覽の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聽き取り下さい。



【目  次】

一、年 譜 篇  九段塾塾頭・福井金城翁事歴抄 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥   一

二、本 篇 一  一兵士翁、掲示板に登壇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  一七

三、本 篇 二  靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか ‥‥‥  五七

四、遺 響 篇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 三六九

五、參考文獻・跋 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 四○八


 就中、【四、遺響篇】の内容――本文・敬稱省略/五十音順

一、真の歴史観を伝へた「凛として愛」
   全日本愛国者団体会議最高顧問 靖國會特別顧問 国民協議会名誉顧問 阿形 充規

一、日本を失ってはならない
   女性塾幹事長 伊藤 玲子(元・鎌倉市議)

一、映画「凛として愛」を観て
   日本ネイビークラブ理事長 大橋 武郎(元・空将補)

一、保守による大衆運動を
   大東亜青年塾々生 岡本 美麗

一、日本人は今こそ「萬邦萬人 天皇歸一」の大理想を成就せよ
   神奈川縣維新協議會政策實行局長 海法 文彦

一、翁見えずとも、其の言や今猶ほ生命躍動す
   同血社會長 河原 博史

一、泉水隆一氏の遺文集に寄せて
   大行社本部青年隊長 木川 智

一、天皇の神社
   九段塾參加者 見目 和昭

一、泉水監督の作品に想を馳せ
   青年意志同盟青水塾々長 坂田 昌己

一、現代を生きる私達があの戦争の真実を伝える援軍になりたい
   ジャーナリスト 佐波 優子

一、映画「凛として愛」に思う
   ミュージシャン 實吉 幸郎(實吉安純海軍軍醫中将の令曾孫)

一、泉水隆一監督の遺稿輯發刊にあたり
   原道社代表 鈴木田 舜護

一、靖國神社を語る重さ
   靖国神社清掃奉仕有志の会代表 維新政党・新風代表 鈴木 信行

一、英霊が残したあるべき未来――「凛として愛」泉水隆一監督に捧ぐ
   株式会社カルチャージ代表取締役 東條 英利(東條英機首相の直系令曾孫)

一、英霊の為に生き 英霊の為に逝く
   時局對策協議會議長・防共新聞社主幹 福田 邦宏

一、映画「凛として愛」普及に協力したい
   大東塾 福永 武(不二歌道會代表)

一、泉水隆一監督の思い出
   愛国女性のつどい花時計代表 藤 真知子

一、「凛として愛」に思う
   大東亜青年塾東京本部青年部長 森川 俊秀

一、映画「凛として愛」を鑑賞して
   公益財団法人水交会――慰霊顕彰・援護委員会委員長 山口 宗敏(山口多聞海軍中将の令息)

一、大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり
   大東亜聖戦大碑護持会顧問 山本 邦法(山崎幸一郎日本民族覺醒の會々長の令従甥)

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 「九段塾」ご參加ご閲覽各位にて、『靖国神社の真実』頒布ご希望の御方は、
芳名・送付先・册數を、遠慮なく、本篇掲示板の最下段なる「管理者へメール」
にて、ご一報たまはれば、在庫がある限り、無代にて御送付申し上げます(但し郵送代は、着拂ひとさせて戴く場合もございます)。

     眞金吹く吉備中つ國なる玄月書屋に於いて、備中處士、謹みて白す。



*** 靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書 ***

【第一輯】――今囘の自費出版『靖国神社の真実』の元原稿――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/


◎ 以下は、小生の夢にして、容易に期す能はざるもの、些か開陳して、我が心を慰めむと欲するも、亦た可からずや。


【第二輯】――第一輯續篇・本「九段塾掲示板」の塾頭遺文/未版――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・金城翁最終講義』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50

【參考/泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』臺本】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50

【第三輯】――未版――
■靖國神社宮司賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』覆刻
昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm

【第四輯】――未版――
■九段塾藏版『靖國神社宮司松平永芳大人遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50

‥‥‥‥
 
 

戀闕の悲願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月18日(土)23時06分28秒
返信・引用 編集済
  み濠(ほり)べの 寂(しづ)けき櫻 あふぎつつ 心は遠し わが大君に

 三浦義一翁の哥である。小生の最も好きな哥の一つにして、幾度び詠んでも飽くことは無い。靜寂ではあるが、激しい情熱が滾つてゐるを見る。將に「戀闕」の歌、千古の絶唱と申すに相應しい。謹誦するごとに、吾が心は、遙か大内山に至る。國手の術、事無きを得つゝある御由、少しく安堵すると共に、天皇陛下の、ひたすらなる御平癒御平安を祈り奉る。

 「戀闕」とは、眞木紫灘先生『南遷日録』卷五・萬延元年九月二十六日條に、

「日暮れ、北筑の人・平野國臣、東火の人・松村深、來訪。國禁を以て焉を辭す。焉を強ふ。竊かに面す。國臣は、戀闕第一等の人也。而して曾つて午年の禍に係り、今ま人に忌まるところと爲り、薩に入らんと欲して、關、硬くして入る可からず、東火の間に逡巡すと云ふ。」

と見ゆ。此の「戀闕」とは、紫灘先生獨特の辭とも云はれるが、其の淵原は定かでは無い。定かでは無いが、其の響きから、皇國ならでは發し得ない辭と申してよい。贈正四位・獨醒軒月廼舍平野二郎大中臣國臣先生は、京都六角獄中にて、日々怠ること無く、同じく捕縛されし志士達に對して、『神皇正統記』を講義したと傳へられる。頭山立雲翁は、「國臣平野次郎先生は近代の人にして、而して古代の人なり」(『平野國臣傳』序文)と云ひ、大川周明博士は、「明治維新の志士、雲の如し。而も其の純情の無垢の點に於て、予は最も國臣の人格に傾倒す」(『純情の人・平野二郎國臣』)と云ふ。

 平泉澄先生からも、「人は『純粹』で無ければ、話にならぬ」との教へを戴いてゐる。此の「純粹」なる者が、或は自覺特立に因るか、或は教育影響に基づくかは知らねども、「戀闕」の至情が迸り、畏くも大内山の大御心に沿ひ奉らむとするとき、自己維新は成り、而して衆ければ、必ず平成維新は成るのである。



●影山正治翁『天皇論への示唆』(維新叢書第一輯・昭和四十六年九月・大東塾出版部刊)に曰く、「

 實は、「天皇」と申し上げることに、僕(影山正治翁)などは、少なからず躊躇を感じるわけです。本來、日本の庶民は、「天皇」と申し上げることに、非常にはばかりを感じてゐた、したがつて申し上げなかつた。「天皇樣」とか、「天子樣」とか、「天朝樣」とかいふふうに申し上げてゐたわけです。「天皇」といふ言葉そのものに、本來は深い尊敬の意味がふくまれてゐるわけですが、一般的には、さうでない、即ち愼みと尊敬の念のうすい使ひ方に、戰前に於いてもなつてゐたし、特に戰後に於いては、極度にさうなつて來て居るわけです。しかし今は一つの「學術語」といふ意味を主として、僕自身も「天皇」と申し上げて話を進めたいと思ひます。大體に於いて僕は、「すめらみこと天皇」とか、「あまつひつぎ天皇」とか申すことに出來るだけして、そこに、愼みと尊敬の思ひを、ひそかにこめようとしてゐるわけです。‥‥

 日本古來の言葉でいふと、「戀闕」といふこと、即ち切なきまでに、生命の底から、「天朝・天子を戀ひ慕ふ心」‥‥。「戀闕性」といふことは、單的に云へば、「ほれる」といふことなんです。「天子さまにほれる」といふことです。「ほれる」といふことは、無條件であるわけです。論理を越えることなんです。理屈を越えることなんです。それはもう、「詩の世界」であり、もつと云ふならば、「宗教的な境地」に近いわけです。で、天皇の本質を探究してゆくためには、「理」を主體とした理論的な探求の仕方の半面に、「情」を主體とした戀闕的な探求の仕方が、切實にないといけないわけなのです。といふのは、天皇の御存在を、我々の外にだけ見て、これをあちらから見たり、こちらから見たり、上から見たり、下から見たりして探求して行く面だけでは、「天皇の本質」の全體的把握といふのはできないわけです。なぜかといふと、(松永材教授『日本主義の哲學』には)「超越性と内在性の合體」といふ表現をしてゐるやうに、それは「現人神」であり、「明つ御神」であるから、「人の面」は客觀的・理論的な分析や研究でつかめるけれども、「神の面」がつかめないわけです。その「神の面」をつかむ爲には、禪の方でいふと、「直視人心」と云つた、論理を超越して、直接に「ものの實相」を突きぬいて直入してゆく、さういふ直観力といふか、信仰といふか、論理を超越した「ほれる」と云ふ言葉がよく示してゐるやうな、さういふ觸れ方、つかみ方といふものが、半面になければつかめないわけです。このことは、「天皇の御本質」を探究してゆく上に於ける根本の一つの重要ポイントであるわけです。

 ですから、「すめらみこと天皇」を、我の外にだけ見ると思ふことではつかめない。「天皇は、我の外に在ると共に、我の生命の中にをられるんだ」といふことが、實感としてつかめてこなければわからないと云ふことなんです。そして日本の庶民は、それをおのづからしてつかんでゐるんです。非常なナイーブな形、うぶな形であるけれども、それをつかんで居るんです。

 たとへば‥‥、戰國時代から江戸時代にかけて、皇室の式微といふもの、衰微といふものが極度に達してゐた時、現在諸君が考へても、到底わからない程に式微してゐたからこそ、高山彦九郎といふ存在が、きは立つたわけです。三條大橋の上から、御所の燈が見えたといふことは、皇居があばら屋になつてゐたからです。そこで、三條大橋の上に土下座して、伏拜して泣きふした。そして「將來、必ずや維新を成しとげて、御皇室(愚案、マヽ。「皇室」とあるべきなり)の御囘復をはかり、み心を安んじたてまつるであらう」と誓つた。しかし遂にそのことが出來ず、「我れ狂へり」とだけ云つて、みづからの命を絶つわけです。その彦九郎の「戀闕の悲願」といふものが受け繼がれて、明治維新といふものになつて行く譯ですが、その高山彦九郎が「寛政の三奇人」の一人として傳へられてゐる。「奇人」といふことは、常識からはずれてゐる人、變り者であるといふことです。當時の人々は、さういふ意味で、幕府・將軍あるを知つて、皇室・天皇あるを忘れて居るやうに見える世相の中にあつて、「奇人だ」と云ひながら、その心の底で、「氣慨は高山彦九郎」で、彦九郎に同情し、ひそかに拍手を送つてゐたのです。さういふ時代だから、當時の支那思想を濃厚に研究して居つた伊藤仁齋などは、天皇を稱して、「山城王」と呼んでゐた事實があるわけです。日本國の國王ではなくして、日本國六十餘州の内の一つである山城の國の國王であると呼んだ事實までがあるわけです。‥‥明治維新は、そのやうな日本の名もなき庶民、民草の心の中の「戀闕の思ひ」が背景になつてでき上つたわけなのです。‥‥

 天皇を我の外にだけ、特に皇居の中にだけ見るといふのではなく、我が内にも見るといふこと、むしろ僕は、これが根本だと思ふわけです。明治維新の時の本流の先輩達は、その線を行つた人々です。彦九郎先生の線の先輩達は、みんなさうなんです。さうでない人々、いはゆる外にだけ見た人々、これは、いはゆる「天皇機關説」です。‥‥戀闕派の西郷と天皇機關説派の大久保では、最初から本質的には、非常に違ふんです。さうして大久保利通の方は、合體すべくして、合理主義・實利主義・近代主義・西洋主義の福澤諭吉と合體したわけです。この系列が、近代日本といふものを、ずつとひつぱつたわけです。明治七年から十年にかけて、西郷黨の人々は全滅しましたからね。しかしこの人々の悲願といふか、眞意といふものを、一番よく理解して居られたのが、明治天皇であられたわけだと思ひます。そのことは、純粹な日本の歴史眼をもつて、明治史をじつと奧底まで洞察すれば、よくわかることです。さういふ明治天皇のお心を、一番よく體感してゐたのが、西郷黨の系列に立つ戀闕派の頭山滿とか、内田良平とかいつた人々を主體とする、明治のすぐれた浪人たちであつたわけでせう。

 この點は、三島事件の見方にも現はれてくるのですが、三島由紀夫といふ人は、『文化防衞論』の中で鮮明に申してゐるが、「私は政治ではないのだ。文化なんだ」とね。「政治」をどう解するかといふことには問題がありますが、要するに三島由紀夫といふ人は、「戀闕」といふことを云はうとしてるんです。「天皇陛下萬歳」で生死を決するわけで、滿十年前、昭和三十五年秋の山口二矢君を繼いだわけです(――影山正治翁は、三島氏の國學的傾向の始まりを、昭和三十八年の『林房雄論』以降とするも、四十一年の『英靈の聲』は「亡靈の聲」と斷じ、支那的革命思想の磯部が怨靈からの脱却を試み、遂に四十五年の「天皇陛下萬歳」絶叫の自決を以て、國學の本義、即ち天皇の御本質に直結した、と見てをられる――)。簡單にいふならば、明治維新の正統派の人々の行き方をついだわけで、あるいは神代以來の日本人の正統をついだわけですが、しかし大久保利通の現實的な天皇観といふもの、さういふ天皇觀を持つた人々を、これを全面否定したりするのは間違ひだと思ふ。たゞ問題は、かういふ人々に方向を與へるといふこと、これが必要なのです。これが、やはり「天皇の御存在」であるわけです。明治天皇は、西郷一統の眞情を十分に御理解されながら、しかもこの大久保利通的やり方に方向づけをしてをられたといふことなのです。大日本帝國憲法の欽定や、義戰としての日清・日露兩戰の實施などが、それです。

 しかし方向づけが、日露戰爭に於いて限界性がきた。この限界性がきたといふことを、率直に表現されたのが、人々は全くそれを讀みとらなかつたが、明治四十三年に發せられた『戊申詔書』であるわけです。「維新ノ皇猷ヲ恢弘シ」と申されてゐます。幸徳秋水の「大逆事件」の起きた年のことです。

罪あらば 我をとがめよ 天つ神 民は我が身の 生みし子なれば

のお歌は、この大逆事件のことをおききになられて、お作りになられたものと傳へられてゐます。またそれは、「日韓合邦」の年でもあるのです。いふなれば、戀闕の先輩達の手によつて、朝鮮のアジヤ主義的同志とともに進められた「日韓合邦」、樽井藤吉さんの『大東合邦論』の純粹路線で進められ、明治天皇によつて裏づけられて進められた「日韓合邦」が、忽ちにして「韓國併合」の植民地主義的路線におちていつたといふことの時代的意味が、『戊申詔書』をすこし深く讀むと、すぐわかるのです。「このまゝでゆくと、明治維新は崩壞する、なくなる。こゝでもう一度、明治維新にかへるべきだ」といふことをいふてをられるのです。その意味での「第二の維新」の宣言が、『戊申詔書』であるわけです。

 昭和維新といふことで云ふならば、昭和維新の明治に於ける民間的出發點は、明治七年から十年にかけての西郷一統の蹶起なのです。これは、「第二維新」をやらうとしたのです。‥‥天朝・天皇の面からいふと、明治四十三年の『戊申詔書』といふものが、昭和維新の一つの原點であるわけです。さうして大正時代、大正十二年の關東大震災の後で發せられた、現(愚案、今上)陛下の攝政の宮の時の『國民精神作興の詔書』などに、この『戊申詔書』の御精神が受けつがれてゐるわけです。「今ニ及ビテ時弊ヲ革メズムバ、或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル」と申されて居るのです」と。



【「戀闕」――大君がいとしうてならぬ、至誠惻怛の心――備中處士】
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【肥後勤王黨の源流・富田大鳳先生の「戀闕」――備中處士】
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大内山立ち覆ふ、暗欝しき雲・霧‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月16日(木)21時52分7秒
返信・引用 編集済
   「はゆまつかひ」樣には、稻村眞里翁『聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞』のご紹介を賜はりました。洵に難有うございます。

 有志の御方には、一人でも多く、諸共に、或は宮城の大前に於いて、或は神社の廣前に於いて、或は神床の御前に於いて、謹みて、且た熱祷もて奏上して戴きますやう、伏してお願ひ申し上げる次第であります。
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【 參  考 】
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●稻村眞里翁『明治天皇御惱御平癒奉祷の祝詞』(稻村眞里翁著・稻村徳氏校註『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊――題辭は佐佐木行忠翁、題簽は石川岩吉翁、序文は鷹司信輔・石川岩吉・高山昇・今泉定助・塚本清治・宮地直一・鳥野幸次諸翁、後序は稻村眞里翁、跋文は川合茂樹・矢田部盛枝諸翁――に所收)

この小床を、嚴(いつ)の眞屋と祓へ淨めて、神籬(ひもろぎ)挿し立てて、招(を)ぎまつり坐せまつる、掛けまくも畏き、天つ神・國つ神・八百萬の大神たちの大前に、齋主[姓名]恐み恐みも白さく。

掛けまくもあやに畏き天皇、‥‥、大御心地(おほみここち)、例(つね)のごと坐しまさず、この頃、篤しく不豫(やくさ)みますと、承り畏みて、天の下、悉とに慨(うれ)たみ惑ひつつ、せむすべのたづきを知らず。

故(かれ)○○○○ら、これの○○○○に來集へる、○○○○ら、諸々相議りて、天つ神・國つ神・八百萬の大神たちを、一柱も漏れ遺ちたまふことなく、これの眞床に招ぎまつり齋(いは)ひまつり、

別きて○○○○らが、日にけに持ち齋(いつ)き仕へまつる大神たちを拜(をろが)みまつりて、禮代(ゐやじろ)の御饌・御酒・諸々の物を獻奉りて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り御祭り仕へまつらくを、平らけく安らけく諾(うづな)ひたまひて、

掛けまくもあやに畏き天皇の大御體(おほみま)、速(すむや)けく舊(もと)のごと、清々しく癒えまさしめたまひ、大内山立ち覆ふ暗欝(おほほ)しき雲・霧を、科戸(しなど)の風の、忽ちに息吹き拂ひ退(そ)けたまひ、ただ一つ心に慨たみ惑ふ、天の下の青人草の心を安からしめたまへと、乞ひ祈(の)みまつることのよしを、彌高々に聞こしめせと、集侍(うごな)はれる○○○○ら諸々に代りて、恐み恐みも白す。



【『宮城遙拜詞・宮城參拜詞』】――平成二十四年二月十七日、『宮城參拜詞』追記
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紀元節に哭く。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月11日(土)12時55分57秒
返信・引用 編集済
   紀元節を祝し奉るに、こゝに舊稿を掲げ、些か修訂を以てす。亦た可からずや。

 神武天皇紀元以前に、悠久積年の歴史あり。我が「すめらみこと(天皇尊)」の起原は、固より天上、即ち天津日の高天原に存す。而して皇位の淵源大宗は、其の主宰・天照坐皇大御神(あまてらしましますすめおほみかみ)に在り。何となれば、抑々皇祖と申し上げる所以は、其の血統上の御事もさることながら、則ち「天下の主たる神」として、本來、御生れになり給うたが故ゑなればなり。

 神武天皇には、此の大地、即ち地球を治めさせ給ふ地神として、即ち第六代の現津御神に坐しませり。中今に仰ぎ奉る所の今上の天皇陛下には、人皇第一百二十五代の大君にして、第一百三十代の地神に大坐します矣。畏しとも、畏き極みなりけり。

 平成二十四年壬辰歳は、皇紀2672年、天降(或は中興)5012年なり矣。「天地も昔に變らず、日月も光を改めず。況んや三種の神器、世に現在し給へり。極まり有るべからざるは、我が國を傳ふる寶祚也。仰ぎて貴び奉るべきは、日嗣を受け給ふ『すべらぎ』になん、おはします」(『神皇正統記』)。



■『日本書紀』卷一・第五段・四神出生章・本文に曰く、

「伊弉諾尊・伊弉冉尊、共に議りて曰く、『吾れ已に大八洲國、及(ま)た山川草木を生めり。何にぞ、天の下の主(きみ)たる者(かみ)を生まざらむや』[御紀卷一・第五段・一書第一『吾れ、宇宙之珍子(あめのしたしろしめすうづのみこ)を生まむ』とのたまふ]と。是に共に日の神を生みます。大日□[靈の上+女]貴と號す。

 此の子、光華明彩、六合の内に照り徹らせり。故れ二神、喜びて曰はく、『吾が息(みこ)多なりと雖も、未だ若此(かく)靈異(くしび)なる兒は有さず。久しく此の國に留めまつるべからず。自ら當に早く天に送りまつるべし』とのりたまひて、天上の事を授けまつりき」。



●北畠親房公『神皇正統記』天忍穗耳尊條に曰く、

「吾勝尊、降り給ふべかりし時は、天照大神、三種の神器を傳へ給ふ。又た後に瓊々杵尊にも授けましゝゝに、饒速日尊は、是を得給はず。然れば日嗣の神にはましまさぬなるべし。天照大神・吾勝尊は、天上に留り給へど、『地神』の第一・二に數へ奉る。其の始めは、『天下の主たるべし』とて、生れ給ひし故にや」と。



●古愚軒栗山柴野邦彦先生の詩(寛政四年)

遺陵[神武天皇]、纔かに里民に問ひて求む、
半死の孤松、數畝の丘、
聖神ありて、帝統を開きたまはずんば、
誰か品庶をして、夷流を脱せ教(し)めむ。
厩王[聖徳太子]の像設は、金閣を專らにし、
藤相の墳塋[大織冠の多武峯十三層堂塔]は、玉樓を層にす、
百代の本支、麗(かず)、億ならず、
誰か能く此の處に、一たび頭を囘らす。

――平泉澄先生『少年日本史』に、意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、やうやくの事でお參り出來たが、來て見ると、小さい丘の上に、枯れかかつた松が、一本立つてゐるだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導し、そして『日本』と云ふ國家を建設して下さらなかつたならば、日本民族は、いつまでもバラバラに分散して、低級な生活から脱出する事が出來なかつたであらうから、神武天皇は、我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は皆、神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千數百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の數は、幾億人と云ふ多數にのぼつてゐる。即ち神武天皇は、我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかへりみる人が無いと云ふのは、何と悲しい事では無いか」と。



●『水鏡』に曰く、

「神武天皇‥‥位につき給ひし辛酉のとしより、嘉祥三年庚午の年まで、千五百二十二年(愚案、實は千五百十年)にやなりぬらん」と。


●藤田東湖先生『囘天詩史』邦家隆替非偶然條に曰く、

「其の説、以爲らく、神武天皇、辛酉元年より今に至るまで、二千四百九十餘年なり。近年庚子の歳(天保十一年)、將に二千五百に盈たんとす。宜しく斯の時に及びて、山陵を修め、以て忠孝を天下に明かにすべし」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、正しく皇紀2672年なるべし矣。


●藤田東湖先生の詩(「庚子新年」即ち天保十一年)

鳳暦、二千五百の春、
乾坤、舊に依りて、韶光、新たなり。
今朝、感を重くするは、何事にか縁る、
便ち是れ、橿原即位の辰。


○古義軒醜翁鹿持雅澄翁の哥(山齋短歌集)

大君の 宮敷きましゝ 橿原の 雲飛(うねび)の山の 古おもほゆ


○獨醒軒月廼舍平野二郎國臣先生の哥(文久元年、肥後松村大成の家にありて元旦を迎へ)

いくめぐり めぐりて今年 橿原の 都の春に あひにけるかな


○神祇道學師・神習舍薑園佐久良東雄大人の哥

死に變り 生き反りつゝ 諸共に 橿原の御代に かへさゞらめや

――天皇、御位につかせたまふの日、この御式のあとをろがみて、かたじけなみ、たふとみおもひまつるあまりに、かしこかれど、かうなん、おもひつゞけはべりし――
いつはりの かざり拂ひて 橿原の 宮のむかしに なるよしもがな



■『日本書紀』神武天皇御紀に曰く、

「天祖の降跡りまし自り以逮(このかた)、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳」と。


●『倭姫命世記』に曰く、

「天津彦彦火瓊瓊杵尊、筑紫日向高千穗槵觸の峯に天降り到り給ひて、天下を治しめすこと、三十一萬八千五百四十三年。彦火火出見尊、天下を治しめすこと、六十三萬七千八百九十二年。彦波瀲武鸕草葺不合尊、天下を治しめすこと、八十三萬六千四十二年」と。

――愚案、然らば、御紀の「餘歳」は、七年なること、疑ひ無し。


●平田大壑先生『弘仁歴運記考』に曰く、

「決め難(か)ねつれば、毎もかく苦しき瀬には行ふ如く、久延毘古神(天勝國勝奇靈千憑毘古命――飛行自在の神通を得たる谷神なり)に祈りて寢たるに、夢現の間に、『萬の大數を捨て、千の小數を取れ』と告ぐる聲、しきりに響き聞えたり。此は實に天保二辛卯年の九月朔日の夜の事にて、素より神の照覽はし給ふ所なり。

 此の事のみに非ず。己が考へには、往々かゝる夢想の事あり。『管子』の内業心術などの篇に、「之を思へ、之を思へ、又た重ねて之を思へ。之を思ふて通ぜざれば、鬼神、將に之を通ぜむとす。鬼神の力に非ず、精氣の極み也」と云へるが、かゝる事にや。‥‥

 本文の小數たる二千四百七十餘歳(『帝王編年記』云、神武天皇御宇七十六年、或は七十九年。『天神祇王代記』云、天祖の天降以來、神武天皇に至り、合せて壹百七十九萬二千四百七十九年)は、天祖降臨辛酉年より、神武天皇の崩御までを數へたる實數の古説なること疑なし」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降4996年ならむ。


●平田大壑先生『春秋命歴序考自敍』に曰く、

「余、雅(もと)より謂ふ、士君子、知己を千載に待つ、豈に善價を今日に求めむや哉。苟も帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ者有らば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとす。彼の凡庸の徒は、耳を提げて之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむること能はざる也。我れ惟だ我が宗とする所を宗とす。亦た豈に信を不信の人に求めむや哉。昔に太昊(大國主大神)、甲暦を作る甲寅歳よりして、四千八百四十年。天保四年」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降5019年ならむ。


●眞爾園竹屋大國仲衞藤原隆正翁『新眞公法論』に曰く、

「平田翁の大數・小數の説によりて、『日本書紀』にみえたる百七十九萬二千四百七十餘年の數に從ひながら、これを天孫下世よりの年數とせず。大數を爾前にとり、第一別天五神はさしおき、第二神世七代より、第三天照大神の神代、第四大汝・少彦名の神代までの年數とし、小數二千四百七十餘年を、伴信友の説をとりて、二千四百七十六年とし、その間を日子火火出見尊、一名にて凡百代あまり、二千四百七十六年とし、神武天皇の十八年を、二千五百年と定め(中興紀元――『馭戎問答』)、同十九年己卯のとしを二千五百一年として、かぞへゝゞゝて、先帝の安政六年己未のとしを、天孫下世よりの五千一年とし、このとし、江戸よりとりはからはれし異言の國條約を、天上よりあやどりたまへる、五千年革運のはじめとおもひしるべきなり。これを神慮にあらじとおもふは、まことの神慮をしらぬものなり」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降5154年ならむ。


●熱田神宮大宮司贈從四位・鎭石室角田由三郎紀忠行翁『古史略』(文久二年七月)に曰く、「

○第一、天御中主大御神‥‥初年甲寅歳より、渾りて在りしほど、一萬八千歳。

○第二、高皇産靈大御神・神皇産靈大御神‥‥天地分判の初年甲寅歳より、天地と成し定り終る間、一萬八千歳。

○第三、伊邪那岐命・伊邪那美命‥‥自凝島に坐して世の中の事始め給へる元年甲寅歳より、報命白し給ひて日少宮に留宅り給ふに至りて、一萬八千歳。

○第四、健速須佐之男命‥‥蕃國しろし看し給ふ元年甲寅歳より、大國主大神に其の御業を讓りまして夜見國に行幸し給ふ癸丑歳に至りて、三千三百歳。
(愚案、『神祇譜傳圖記』に、「素戔鳴尊。一書に曰く、天下を治しめすこと、一萬八千五百三十二年」と)。

○第五、大國主大神‥‥御世繼ぎ給へる元年甲寅歳より、皇美麻命に國土を避り奉らしめ給ふ庚申歳に至りて、千六百八十七年。

○第六
 天津日高日子番の邇々藝命は、大國主神の千六百八十七年庚申歳に、大地(おほくに)の大君主と定り給ひて、翌る天降元年辛酉春、天照大御神の高御座にして、天津日嗣受け繼ぎ給ひ、鏡・劍・玉の三種の神器[此は天津日嗣の御璽として賜へるなり]、大國主神の奉る國むけの尋ね、種々の寶物、及び大御神の齋庭の稻穗を賜はり、[此の時、天皇命、いと稚く坐ませれば]眞床覆衾に裹(つゝ)まれ給ひ、天兒屋根命・天太玉命・天宇受得賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命[以上、五柱を五部長の神と稱す]・天手力雄神・萬幡豐秋津比賣神・登由宇氣神・若御魂神を御側に陪(したが)へ、猿田毘古大神御啓行し、天忍日命、背に天磐靭を負ひ、臂(たゞむき)に稜威の高鞆を著け、手に天梔弓を持ち、天波々矢を手挾み、八目の鳴鏑を副へ持ち、頭槌の劍をはき、天靭負部を帥て、御先陣仕へ奉り、天村雲命、太玉串を取り、天忍雲根命、天津諄辭を宣り祓ひ清めつゝ、天磐船に乘り、天八重雲を排し分けて、筑紫の日向の高千穗のくしふる峯に天降りまし、吾田笠狹長屋竹島に都し給ひて、大地球(おほくに)知ろし食し給ふ。天村雲命は、御井を定めて、朝夕の御饌に仕へ奉る[是れ主水司・内膳司の始なり]。此の年、かの賜はりし齋庭の穗を、御田に作りて、その十一月中卯日に、大嘗祭あり。總ての御政事、みな天上の御儀に準ひ給ふ。‥‥この天皇命の御世は、元年辛酉より、ことし辛卯に至りて、千五百三十一年なり[此のあくる壬辰より、火遠理命の御世なり]。天皇命崩御せり。日向の埃の山陵に葬(かく)し奉る。

○第七
 天津日高日子穗々手見命[則ち火遠理命なり]は、壬辰年に、高千穗宮に坐まして、天津日嗣受け繼ぎ給ふ。‥‥この天皇命は、壬辰元年より、ことし辛未年に至りて、五百八十歳、大御代知ろし食し給ふ。崩御まして後、日向の高千穗山の西、高屋の山の上の陵に葬し奉る。

○第八
 天津日高日子波限建鵜草葺不合命、高千穗宮に坐まして、壬申歳より、天津日嗣受け繼ぎ給ふ。‥‥この天皇命は、壬申元年より、ことし庚申歳に至りて、二百八十九年、大御世知ろし食し給ふ。崩御まして後、日向の吾平山の上の陵に葬し奉る。


●友清磐山大人『靈學筌蹄』に曰く、

「神仙界に傳はる『年代記』[註イ]によると、
天降天皇は、大歳元年(辛酉)から辛卯に至りて、千五百三十一年御在位、
次ぎに彦穗々出見尊は、翌壬辰年から辛未に至る、五百十八年御在位[註ロ]、
次ぎに鵜草葺不合尊は、翌壬申年から庚申年に至る、二百八十九年御在位となつて居る」と。

――愚案、註イ=神仙傳『年代記』は、角田忠行翁『古史略』と、ほゞ同じ紀年の御由であるが、『古史略』には、彦穗々出見尊の壬辰年から辛未に至る、「五百八十年」御在位とあり、十八と八十と、或は誤記ならむか、或は誤算ならむか、得て知るべからざるなり。

――註ロ=田中洗顯翁云「干支から計算するに、實は五百二十年、先師(磐山大人)の誤算」と。又た田中翁『天孫降臨』云、「天孫降臨五千年は、平成十二年なり矣。天降三千年を西暦の紀元と爲す、西暦には、或る程度の神縁があるが如し。先師は、所謂る新人を人間と認むるが如し。猿人は勿論人間に非ず、舊人も亦た人間に近くなつて來てゐるものゝ、未だ人間とは謂ふべからず」と。是れ丁度六十年の差あり。

――然らば、平成二十四年は、天降5012年ならむ。而して今、之を採れり。
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●或は云ふ、

「書紀の紀年法が不正確であると云ふ學説には、必ずしも反對せぬも、神武(天皇)紀元を、二三百年または五六百年も値切らんとする各方面の學者の考へには、輕々しく贊同いたしかねる。不實なるものを改めて實とする事には、異議は申さぬが、甲の不正確に代るに、乙の不正確を以てする程ならば、妄りに古傳を更改しない方がよろしい。現行紀年法は、少くとも千年以來、我が國土の上に凝り固つて、大きな靈氣となつて居る。‥‥

 又た神武(天皇)紀明記の月日干支等も、後世、支那暦渡來後に逆算され記述されたもので、且つ出鱈目のものと見る學説が通用して居るが、我が國には太古以來、天上傳來の暦法もあつたもので、大年神の御子『聖神』と申すは、日知(ひじり)神にして、天時暦法に精通せられた神であり、大年神と共に、農民から至大の尊敬を受けられたものである」と。



●眞木紫灘先生『經緯愚説』に曰く、

「太祖(神武天皇)も、中興なり。然れども草昧の運、洪荒の世に、筑紫より中州へ入りたまひ、皇化を敷きたまひしは、創業なり。中宗(天智天皇)も、中興なり。然れども封建の弊、出でて修むべからざるを察して、新たに郡縣にかへたまへるは、創業なり。‥‥

 太祖の中州に入りたまへる、暴風にて稻飯命を失ひたまひ、流矢にて五瀬命を失ひたまひ、御軍も幾度か利あらざりき。されども少しも御志をかへさせたまはず、終ひに大業を成就したまひぬ。‥‥創業の主の、事を起す始め、死ぬばかりうき目を見ぬはなし。‥‥

 然らば此の際に於ては、何事も打破り、遠く古へに立ちかへり、天智天皇以上、神武天皇の神代の例をのみとり行ひ給ふ樣にあらまほしき事也」と。


●『岩倉公實記』下卷に曰く、

「(玉松)操、屡々(岩倉)具視の門に出入し、機事を計議す。(慶應三年)九月、具視は、中山忠親・正親町三條實愛・中御門經之と共に、王政復古の大擧を圖議するや、忠能等、建武中興の制度を採酌し、官職を建定せんと論ず。具視、以謂らく、『建武中興の制度は、以て模範と爲すに足らず』と、之を操に咨問す。操の曰く、『王政復古は、務めて度量を宏くし、規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、當に神武帝の肇基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機の維新に從ふを以て、規準と爲すべし』と。具視、之を然りとす。是に於て新政府の官職制度は、操の言に從ふて、之を建定すと云ふ」と。



 愚案、然るに神皇舊臣扶桑眞人梅廼舍矢野茂太郎平玄道大人、詠みらく、

橿原の 御代に返ると 思ひ[一作、頼み]しは あらぬ夢にて 有りけるものを

と。嗚呼、此の絶唱を朗誦する、こゝに幾度びぞ。此の夢を繼がんと欲して、中興の大業翼贊に自ら任じて立つ者、果して滿天下に幾人ぞや。紀元節を迎ふるごとに、今日滿天の怪雲愁雨の、如何ともする無きに哭き、筆を呵して書す、と云爾。
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我が國と、何故ゑ申さぬ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月 7日(火)23時44分48秒
返信・引用 編集済
   先日の勉強會での話。岡田則夫翁は、怒つてをられた‥‥。

 最近は、司馬遼の影響かどうかは知らないが、我が國を、「此の國」と云ふ者ばかり。特に保守と稱する輩に多い。今では、右翼も言ひ出してゐる。嘆かはしい‥‥許すこと能はぬ、と。

 然り。小生も、腹に据ゑかねてゐる。小生は決めた、西暦を云つて元號を申さぬ奴、靖國神社を靖國と呼捨てゝ憚らぬ者、我が國を此の國と稱して耻ぢぬ輩、これら「謀叛豫備罪を犯す」不敬不義の醜原の書いた物は、もう、讀まぬ。
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●戸田義雄博士『よみがえる三島由紀夫――靈の人の文學と武と』(昭和五十三年十一月・日本教文社刊)に曰く、

「『故忠』とは、『孤忠』や『獨忠』と同じ意味の言葉である。人の力をからず、獨り忠義を盡すことが、『故忠』の元々の意味であるが、かうした故忠・孤忠・獨忠の意味に加へて、終始變らずに、長い間、忠節の心を持ち續けるといふ意味があるやうである」と。



●平泉澄先生の哥

青々の子等 皆緋縅(ひをどし)の 鎧着て 今日のいくさに 馳せ向ふらむ

丈夫(ものゝふ)は かへりみなくて 一筋に けはしき道も ひとりこそ往け

滿洲の 曠野に立ちて 祝詞よみ やまとの神に 乞ひのみ申す

天津日の 光かゞやく 世となさで 益良雄なんぞ 朽ち果つるべき

鍬執りて 七年八年 荒れし手に 今ぞ掲げむ 日の丸の旗

爲すわざの 一つ一つに 祈りあれ 祈らば國は またも興らむ

丈夫は 寂しきものか さしてゆく まことの道の 友まれにして

單騎なほ 千里行くべし しかあるを 友あり同じ 斯の道を行く

怒り無し 怖れあらめや 我は只 いにしへの道 今にふむのみ

白山の 神のしるしの 杉の木の 直ぐなる道を 行かむとぞ思ふ[白山、平泉澄、九十才。遺詠]
 
 

寸楮拜呈。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月 3日(金)20時54分10秒
返信・引用 編集済
   本日は節分、鬼やらひの日であります。
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靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版
「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――

は、既に本文は刷上がり、製本豫定の由、些か遲れましが、二月中には送本、「遺響篇」執筆いたゞいた各位、また希望された方々の御手許に屆く豫定であります。今ま暫く御待ち下さい。
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――――――以下、「扉」より

本書は、一兵士翁が、戦後の人々に、或は静かに滾々と、或は荒び迸り、
或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、
「靖國神社の真実」の記録、
そして、
「靖國神社の正統を、次代者はどう受け継ぐべきか」の覚悟を問ひ、
皇猷神算を翼賛し奉らむと欲するものであります。
ご閲覧の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聴き取り下さい

―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する神社なり ――

我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、
是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、
映画『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。
塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、帰幽。享年七十。
謹みて此の書を、塾頭の靈前に捧げ、ご照覧を乞ひ奉る。


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     寸楮拜呈、敬つて白す。備中處士、九拜

 

景仰、平安神宮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月30日(月)22時21分7秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 孝明天皇祭に當り、御父仁孝天皇の宣命を拜記し、亦た孝明天皇の詔敕を謹録して、其の聖徳の一端を偲び奉らむ。



■仁孝天皇『故徳川光圀に權大納言從二位を追贈し給ふの宣命』(天保三年五月七日『常磐神社記録』)

 天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故權中納言從三位・源朝臣光圀に詔(のりたま)へと、敕命(おほみことのり)を聞し食さへと宣りたまふ。

 義(たゞしきことわり)を嗜むの至れる、身を修むるの潔(きよ)さ、行ひ瑕玷(きず)なくして、學(まなびのわざ)古今を通せる、闕廷(みかど)の尊きも久しく徽烈(うるはしきいさを)を感(かま)けたまひ、里閭(むらざと)の鄙しきも永く流風(てぶり)を仰げり。本朝(わがくに)の典籍(ふみ)を研究(きはめたゞ)して著述(かきあらはすわざ)の盛んなる事、大いに成しとげ、古へを稽へることの精力(ちから)を覃(の)べ及ぼして、緒餘(あまりのわざ)の遺迹(あと)、益(くぼさ)有り。此の先賢を禮し、其の舊き勳を賞せむと、故れ是を以て、權大納言從二位に上げ給ひ贈り賜ふ天皇が敕命(おほみこと)を、遠(はろ)かに聞し食さへと宣る。
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【更に正一位を贈らせ給ふ。勤王之倡首・復古之指南たり矣】
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■孝明天皇『和氣清麿に護王大明神の神號を贈り、且つ正一位を追贈し給ふの宣命』(嘉永四年三月十五日『孝明天皇紀』四十一)

 天皇が詔旨らまと、贈正三位行民部卿兼造宮大夫・和氣朝臣清麿に詔(のりたま)ふと、敕命(のりたまふおほみこと)を聞し食さへと宣りたまふ。

 奈良の宮の御宇に、淨く貞かに明らかなる心を以て仕へ奉りしが、宇佐に詣でし時にしも、猶ほ正しく直き眞事を以て請(う)け問ひ奉るに、大神も相うづなひ愛しみ大坐して、貴く畏き御教言を以て、悟し給ひ慈(めぐ)み給ひしに依りて、君と臣との道、驗(しる)く立ちぬ。此の時に當りて、汝(いまし)微(な)かりせば、下として上を凌ぎ、上として下を欺くことの有りつらむに、身の危きを顧みず、雄雄しく烈(はげ)しき誠の心を盡くせるは、古への人の云ひて在るらく、危きに臨みて命を致せるものなり。また云へらく、至忠に至正にして、能く道を以て君を濟ふと云へるは、汝の事ならむ。

 然るに世に顯るる事の足らざることを歎き給ひ愍み給ひ、彼れ是を以て吉き日・吉き辰(とき)を擇び定めて、護王大明神に崇め給ひ尊び給ひ、又た御冠(みかゞふ)り位を、正一位に上し給ひ治め給ひ、從四位上行神祇少副兼淡路守・卜部朝臣良祥を差し使はして、御位記(しるしのふみ)を捧げ持たしめて、出だし奉り給ふ。

 此の状を平けく安けく聞し食して、天皇朝廷(すめらみかど)を、堅磐に常磐に動(ゆる)ぎ無く、夜の守り日の守りに護り幸へ給ひて、天下泰平に、いかし御世の足らし御世に、護り恤(めぐ)み給へと、恐み恐みも申し給はくと申す。



■孝明天皇の宸翰(徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十一日。『孝明天皇紀』百七十七所收「山階宮國事文書」)

 嗚呼、汝、方今の形勢、如何と顧(み)る。内は則ち紀綱廢弛、上下解體、百姓塗炭に苦しむ。殆んど瓦解土崩の色を顯し、外は則ち驕虜、五大州の凌侮を受け、正に併呑の禍ひに罹からんとす。其の危きこと、實に累卵の如く、又た燒眉の如し。之を思うて、夜も寢ぬる能はず、食も咽を下らず。

 嗚呼、汝、夫れ是れを如何と顧る。是れ則ち汝の罪に非ず、朕が不徳の致す所、其の罪、朕が躬に在り。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ゆることを得んや。由つて思へらく、汝は、朕が赤子、朕、汝を愛すること子の如く、汝、朕を親しむこと父の如くせよ。其の親睦の厚薄、天下挽囘の成否に關係す。豈に重きに非ずや。

 嗚呼、汝、夙夜、心を盡し、思ひを焦がし、勉めて征夷府の職を盡し、天下人心の企望に對答せよ。夫れ醜夷征服は、國家の大典、遂に膺懲の師を興さずんばある可からず。然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕、其の可否を論ずる詳悉、以て一定不拔の國是を定むべし。

 朕、又た思へらく、古へより中興の大業を爲さんとするや、其の人を得ずんば有る可からず。朕、凡百の武將を見るに、苟しくも其の人有りと云へども、當時、會津中將・越前前中將・伊達前侍從・土佐前侍從・嶋津少將等の如きは、頗る忠實純厚、思慮宏遠、以て國家の樞機を任ずるに足る。朕、之を愛すること子の如し。願はくは汝、是を親しみ、與に計れよ。

 嗚呼、朕、汝と誓つて衰運を挽囘し、上は先皇の靈に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして成功なくんば、殊に是れ朕と汝の罪なり。天地鬼神、夫れ是を殛すべし。汝、勉旃(つとめよ)、勉旃。



■孝明天皇の宸翰(再び徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十七日。『孝明天皇紀』百七十七所收「議奏役所文書」)

 朕、不肖の身を以て、夙に天位を踐み、忝くも萬世無缺の金甌を受け、恆に寡徳の、先皇と百姓とに背かんことを恐る。就中、嘉永六年以來、洋夷、頻りに猖獗來港し、國體、殆んど云ふべからず。諸價沸騰し、生民塗炭に困しむ。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。

 嗚呼、是れ誰の過ちぞや。夙夜、是を思うて止むこと能はず。嘗て列卿・武將と、是を議せしむ。如何せん、昇平二百餘年、威武の以て外寇を制壓するに足らざることを。若し妄りに膺懲の典を擧げんとせば、却つて國家不測の禍ひに陷らんことを恐る。幕府、斷然、朕が意を擴充し、十餘世の舊典を改め、外には諸大名の參覲を弛め、妻子を國に歸し、各藩に武備充實の令を傳へ、内には諸役の冗員を省き、入費を減じ、大いに砲艦の備へを設く。實に是れ朕が幸ひのみに非ず、宗廟・生民の幸ひ也。

 且つ去春、上洛の廢典を再興せしこと、尤も嘉賞すべし。‥‥然りと雖も、皆な是れ朕が不徳の致す處にして、實に侮慙に堪へず。朕、又おもへらく、我の所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比すれば、未だ慢夷の膽を呑むに足らず、國威を海外に顯すに足らず。却つて洋夷の輕侮を受けしか歟。故に頻りに願ふ、入りては天下の全力を以て、攝海の要津に備へ、上は山陵を安んじ奉り、下は生民を保ち、又た列藩の力を以て、各々其の要港に備へ、出でては數艘の軍艦を整へ、無□[食+孚。へう]の醜夷を征討し、先皇膺懲の典を大にせよ。

 夫れ去年は、將軍、久しく在京し、今春も亦た上洛せり。諸大名も亦た東西に奔走し、或は妻子を其の國に歸らしむ。宜べなり、費用の武備に及ばざること。今よりは、決して然る可からず。勉めて大平因循の雜費を減省し、力を同じうし、心を專らにし、征討の備へを精鋭にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱しむること勿れ。

 嗚呼、汝、將軍及び各國の大小名、皆、朕が赤子也。今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す。民の財を耗(へら)すこと無く、姑息の奢りを爲すこと無く、膺懲の備へを嚴にし、祖先の家業を盡せよ。若し怠惰せば、特(たゞ)に朕が意に背くのみに非ず、皇神の靈に叛く也、祖宗の心に違ふ也。天地鬼神も、亦た汝等を何とか云はんや。



●徳富蘇峰翁『近世日本國民史・孝明天皇御宇終篇』序文(昭和十四年・明治書院刊)に曰く、

「何れの時代も、前代に對しては債務者である。然も別けて明治時代の孝明天皇御宇に對する債務は、更に格段である。明治天皇の盛徳大業は、固より日本歴史の最高峰である。然も其の基礎工事の殆んど全部は、皆な孝明天皇時代に成就し、然らざれば準備せられ、計企せられ、用意せられたるものである。別言すれば、孝明天皇時代を閑却しては、到底、明治天皇時代を諒解することは不可能だ。‥‥

 而して世の史家たるもの、須らくこの孝明天皇御宇史と明治天皇御宇史との間に、至緊至密の關係ある事を會得して、其の連絡、接續の經緯・曲折を研究し、闡明せねばならぬ。明治天皇御登遐の際に、明治神宮建立の事を江湖に向つて唱説したる著者が、更にこの數年來、孝明天皇の神社建立を絶叫したるも、畢竟、如上の理由がある爲めだ」と。



 愚案、後鳥羽天皇の御製、

奧山の おどろが下も ふみわけて 道ある世とぞ 人に知らせむ

亦た後水尾天皇には、

葦原や しげればしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず

と詠ませ給うた。孝明天皇の、件の「葦原の頼む甲斐なき武藏野の原」の御製は、之を踏まへさせ給うたものに他ならず、慟哭を禁じ得ないのである。孝明天皇には、かくも懇篤親切なる敕書を、再三に埀れ給うた。之に應へ奉らざる者は、遂に倒れざるを得ない。かつて徳富蘇峰翁は、「維新の大業を立派に完成した其の力は、薩摩でもない、長州でもない。其の他の大名でもない。又た當時の志士でもない。畏れ多くも明治天皇の父君にあらせられる孝明天皇である」と云はれたが、承久・建武以來の御悲願は、孝明天皇によつて果されたと申し上げてよい。

 昭和十三年五月一日、孝明天皇には、平安神宮の祭神・桓武天皇と相竝び坐して鎭り給うて、祭神とならせ給ひ、日夜、神徳を仰ぎ奉ること、誠に畏き極みである。
 
 

『養神延命録』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月29日(日)23時17分45秒
返信・引用
  幽瀛觀遯人 樣

 初めまして。

 攝津國東成郡上之宮神職・龍雷神人山口日向守大神貫道大人の『養神延命録』のご紹介、有り難く拜受いたしました。ご勞作、後日、ゆつくりと拜讀させて戴きます。

 『至道物語』にも、大人の事が、黒住宗忠大人と共に出て參りますね。然し「明和九年壬辰」との御表示直後に在る括弧内の紀年、大人には沒交渉の紀年法にして、大人には悲しまれると存じ上げます。

 こゝは、靖國神社正統護持の爲の掲示版ですので、此の話題の更なるご發言は、スレツド「時計の間」の方へ御願ひ申し上げます。懇請、敬つて白す。
 
 

龍雷神人 大神貫道大人『養神延命録』

 投稿者:幽瀛觀遯人メール  投稿日:2012年 1月29日(日)21時55分58秒
返信・引用
  突然失礼致します。
以下のブログに明和九年壬辰(1772)刊の大神貫道著『養神延命録』の原文を一部不完全(返り点など)ながら拙文禄に掲載しましたので、こちらにてご案内させて頂きます。

この『養神延命録』は、現在日本の神仙道の嚆矢とされる平田篤胤大人の『仙境異聞』に先立つことちゃうど五十年、埋もれたる日本神仙道最初の書でありまして、いやしくも日本神仙道を奉じるものであれば一度は眼を通して置くべき貴重な書と愚考いたします。

併せて埋もれたる大神仙家・大神貫道大人の顕彰にもご助力の程宜しくお願申上候。

http://iueikwan.blog.fc2.com/

 

明治天皇の敕諭を仰ぎ、靖國大神を想ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月27日(金)21時46分58秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 舊稿を再び掲げて、明治天皇の聖徳を偲び奉り、其の聖徳に應へ奉り、勇武を九段の玉垣に留めた、靖國神社祭神の恩頼を乞ひたいと存じます。



■明治天皇の宸翰(慶應四年三月十四日。『岩倉公實紀』所收。「明治維新の宸翰」、或は「國威宣布の宸翰」と云はれる)

 朕、幼弱を以て、猝(には)かに大統を紹(つ)ぎ、爾來、何を以て萬國に對立し、列祖に事へ奉らんやと、朝夕、恐懼に堪へざる也。竊かに考ふるに、中葉、朝政、衰へてより、武家、權を專らにし、表は朝廷を推尊して、實は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるや、云ふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯だ名のみに成り果て、其が爲に、今日、朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますゝゝ)衰へ、上下相離るゝこと、霄壤の如し。かゝる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。

 今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、今日の事、朕、自ら身骨を勞し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし。往昔、列祖、萬機を親らし、不臣のものあれば、自ら將として、これを征し玉ひ、朝廷の政、總て簡易にして、如此(か)く尊重ならざるゆゑ、君臣相親しみて、上下相愛し、徳澤、天下に洽く、國威、海外に輝きしなり。然るに近來、宇内、大いに開け、各國、四方に相雄飛するの時に當り、猶ほ我が國のみ、世界の形勢にうとく、舊習を固守し、一新の效をはからず、朕、徒(いたづ)らに九重の中に安居し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂ひを忘るゝときは、遂に各國の凌侮を受け、上は列祖を辱しめ奉り、下は億兆を苦しめん事を恐る。故に、朕、こゝに百官諸侯と廣く相誓ひ、列祖の御偉業を繼述し、一身の艱難辛苦を問はず、親ら四方を經營し、汝億兆を安撫し、遂には萬里の波濤を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かんことを欲す。

 汝億兆、舊來の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし、神州の危急をしらず、朕、一たび足を擧ぐれは、非常に驚き、種々の疑惑を生じ、萬口紛紜として、朕が志をなさゞらしむる時は、是、朕をして君たる道を失はしむるのみならず、從つて列祖の天下を失はしむる也。汝億兆、能々朕が志を體認し、相率ゐて、私見を去り、公義を採り、朕が業を助けて、神州を保全し、列聖の神靈を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。


 右、御宸翰の通り、廣く天下億兆、蒼生を思し食させ給ふ、深き御仁惠の御趣意に付き、末々の者に至る迄、敬承し奉り、心得違ひ之れ無く、國家の爲に、精々其の分を盡すべき事。
 三月       總裁
          輔弼。



●平泉澄博士『明治天皇の宸翰』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、「

 「國是五箇條」は、之を天地神明に誓はれたのでありますが、それと同時に、國民全體に宸翰を賜はつたのであります。しかるに『五箇條の御誓文』のみ喧傳せられて、誰知らぬ者は無い有樣でありますのに、國民全體に呼びかけさせ給うた宸翰の方が、殆んど忘れ去られた事は、不思議でもあり、申譯の無い事と云はねばなりませぬ。‥‥

 さて此の宸翰の中に、「汝億兆」と仰せられた所が、前後二箇所にあります。これは『教育敕語』に「爾臣民」と仰せられたのと同樣、全國民を對象とし、全國民に親しく呼掛けさせ給うたからであります。それでは何をお呼掛けになつたのであるかと云ひますと、‥‥其の中に極めて重大なる政治の原理原則が示されてをります事は、注意し、審思していただかねばなりませぬ。それは「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば」と仰せられた點であります。此の一句には、至つて深い意味が籠められ、至つて高い原理が示されてゐるのであります。かやうな原理は、不幸にして今日、世界のどの國に於いても考へられず、況んや實行せられてゐないのであります。今日、ある國々に於いては、多數決が政治の原則となつてゐます。若し其の多數が正しい時には、結果的にいへば、それはそれで良いやうに見えますが、其の多數が正しからず、却つて少數が正しい場合には、正しいものが、少數なるが故に、踏潰されるのであります。またある國々に於いては、名目は民主主義を唱へ、委員會を稱するにせよ、實質は少數幹部の專斷強制によつて、政治が行はれてゐるのであります。そこには異議を唱へ、異論をさしはさむ餘地は無く、もしそれを敢てすれば、鐵槌は直ちに下されるでありませう。然るに今、明治天皇のお示しになりました政治の原理原則は、「天下、一人も其の所を得ざる者、無からしむるを期す」といふのであります。是に於いては、多數も少數も、強者も弱者も、一樣に正道の批判の前に立たされるのであります。

 此の如きは、ひとり明治天皇の御理想であつたばかりでなく、御歴代天皇の常に目指し給うた所であつた事は、たとへば後醍醐天皇の御事蹟から考へても明かでありますが、言葉の上に先蹤をたどりますと、仁明天皇の敕の中に見出されます。仁明天皇の承和九年、橘逸勢は、謀反の罪に問はれて伊豆へ流され、配所へ赴く途中、遠江の板築に於て病歿しました。その孫・珍令(よしのり)、祖父に隨つて伊豆へ下らうとしてゐましたが、はからずも祖父の死にあひ、幼少の身の置きどころ無きを苦しみました。その時、仁明天皇、之をきこしめして、

罪人の苗胤と雖も、猶ほ一物の所を失ふを悲しむ。よろしく更に追還して、舊閭に就かしむべし

と、敕せられたのでありました事、『續日本後紀』に見えてをります。あゝ、ギリシヤの古代に於いて理想とせられたる哲人政治、その高遠なる理想は、我が國に於いて、御歴代天皇によつて實現せられたと云つてよいでありませう。

 これに就いて深い感銘を示されたのは、近衞文麿公でありました。昭和十二年正月、國會議事堂の新築落成の際、貴族院議長として祝辭を述べられる事になりました近衞公は、その草案の作製を私(平泉澄博士)に求められました。よつて即刻筆を執りました私は、その草案の中に、次のやうに書きました。

――――――

「この堂々たる新建築に對しまして、我々の反省いたします所、反省して深く責任を感じます所は、尠なくないのであります。こゝには、その中の最も重大なる一つに就いて、申し述べようと思ひます。

 一體、議會を考へます時に、我々の頭に、直ちに浮かんで參りますものは、明治の初めの『五箇條の御誓文』、就中、その第一條に掲げられました所の、「廣ク會議ヲ興シ、萬機、公論ニ決スベシ」との御言葉であります。いふまでもなく、此の御誓文は、萬人周知の事でありますが、しかしながらこの第一條の意味は、一般には餘りに簡單に、また餘り淺薄に考へられてゐるのではないかと思ひます。即ち之を只だ多數の意見に從ふやうにとの御趣旨にのみ解しまして、多數決であれば事がすむやうに考へてゐるのではないかと思ふのであります。しかしながらこの萬機公論に決すべしとの御言葉は、只だ多數決といふやうな簡單な機械的な意味ではないと拜察いたします。何故ならば、當時賜はりました御宸翰に、「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば」と仰せられてゐるのであります。もし多數決で物がきまつて、少數が否決せられるといふ事であれば、少數の意見は、常に其の所を得ないのであります。しかるに明治天皇は、一人も其の所を得ざる時は、朕の罪なりと仰せられてゐるのであります。して見れば、萬機公論に決すべしとの御言葉は、之を只だ多數決といふ風に、機械的に解釋し奉る事は出來ないのであります。

 こゝに思ひ當りますのは、同じ御宸翰の中に、「汝億兆、能々朕が志を體認し、相率ゐて、私見を去り、公義を採り、朕が業を助けて、神州を保全し」云々と、勅せられました事であります。即ち「萬機、公論に決すべし」との御言葉は、此の「私見を去り、公義を採り」との御言葉と相照應するものであります。して見ますれば、我々は、只だ多數で物をきめてゆけばよい、といふわけではない。形の上からいへば、いかにも多數で物がきまるのであるが、しかしそれだけでは、聖旨に副ひ奉る事は出來ないのである。どうしても我々は、私見を去り、公義を採らなければならないのであります。私見を去り、公義を採る事によつてのみ、第二條に仰せられました所の、「上下、心を一にして、盛んに經綸を行ふ」事は出來るのであります。而してかやうに上下心を一にして、盛んに經綸を行ひます事によつて、初めて第三條に仰せられましたやうに、天下の人心を倦まざらしめる事が出來るのであります。而してかくして、初めて舊來の陋習を破り、天地の公道に基づき、また智識を世界に求め、大いに皇基を振起しようとの御叡慮にそひ奉る事が出來るのであります。天下億兆、一人も其の所を得ざるものなきを得るのであります。

 新築せられました議事堂に對して、色々感ずる所が多いのでありますが、その一つは、實にこの私見を去り、公義を採らなければならないといふ事であります。」

――――――

 此の草案をお屆けしました時に、近衞公は、すぐに之を一讀せられましたが、腑に落ちかねる御樣子で、「此の明治天皇の御宸翰は、何に載つてゐますか」と訊ねられました。「『岩倉公實記』に載せてあります」とお答へしますと、公は、その正確さに安心せられて、再度之を讀みかへし、いかにも感嘆に堪へざる如く、大きく目を見張つて云はれました。

「是れは宸翰と呼ばずに、敕語と申し上げるべきものですね。そして『教育敕語』と竝べて、全國民の服膺すべきものですね。」

その時、示された近衞公の深い感動を、私は今に至つて忘れる事は出來ませぬ。

 ‥‥宸翰を拜して受けられた感動は、近衞公の胸に深く刻み込まれて、大政翼贊の根本理念となつたに違ひありませぬ。それは、昭和十五年九月二十七日に下されました詔書に、

惟ふに、萬邦をして、各々其の所を得しめ、兆民をして、悉く其の堵に安んぜしむるは、曠古の大業にして

と仰せられてあります事、また同日締結せられましたる日獨伊三國條約の前文にも、「萬邦をして、各々其の所を得しむるを以て、恆久平和の先決要件なりと認めたるに依り」とある事によつて明かであります。輔弼の重臣として考へます時、近衞公純忠の貴い精神と、聰明にして深い洞察力とには、頭が下がる事であります」と。



●内閣總理大臣・近衞文麿公『大命を拜して』(昭和十五年七月二十三日夕のラヂオ放送。平泉澄博士『日本の悲劇と理想』昭和五十二年三月・原書房刊に所引)に曰く、「

 蓋し國内に種々の意見が對立して、互ひに相爭ふといふ事でありましては、摩擦相剋して力を外に專らにし得ず、左顧右眄して勇斷の機會を失ふからであります。思ふに從來、政黨の弊害は二つであります。その一つは、立黨の趣旨に於きまして、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社會主義をとりまして、其の根本の世界觀が、既に國體と相容れないものがあるといふ點でありまして、これは今日、急速に轉囘し、拔本的に改正しなければならない所であります。其の二つは、黨派結成の主要なる目的を、政權の爭奪に置く事でありまして、かくの如きは、立法府に於ける大政翼贊の道では、斷じて無いのであります。

 以上、二つの弊害を去りまして、すべて國體に則り、大御心を仰いで、一億一心、眞實の御奉公を期しなければならないと思ひます。隨つて私の考へます新體制は、決して從來の黨派の離合集散によつて、新たに一個の新黨の成立を企てるといふのではなく、實に無黨を期するのであります。これは國體の本義から申しまして、當にしかあるべき事と信ずるのでありますが、幸ひに各方面の贊同を得、協力を得ました事は、私の深く欣快とする所であります。‥‥

 それは變轉極まりなき國際情勢の中に在つて、國家防衞の手段を確保して、國家永遠の繁榮を期すると共に、皇道の發揚によつて、世界の情勢に新生面を開發し、新理想を賦與し、之を正しきに指導するものでなければならないのであります」と。
  ↓↓↓↓↓
【近衞文麿公『大命を拜して』全文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/367

【近衞文麿公『英米本位の平和主義を排す』】
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 愚案、近衞文麿公は、明治天皇の宸翰、即ち『教育敕語』と相竝ぶべき、極めて重大なる敕諭に驚歎して、國民の全てに、即ち外ならぬ我々に御下賜遊ばされた事に想ひを致して、明治天皇の聖徳を景仰し、やがて八紘一宇の眞諦を、此の謂ひに於いて理解された事は、今日に在つても、我々の大いに繼述しなければならない理想と考へます。
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