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『先哲景傳同血抄』の開板。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月20日(土)19時06分55秒
返信・引用 編集済
   「暘廼舍(あけのや)」樣には、時、恰も「戀闕第一等の人」平野國臣先生殉難一百五十年の日に、スレツド『先哲景傳同血抄』の開板を賜はることになりました。四年前の當月十六日に身罷られし、九段塾々頭・福井金城翁からの援軍でありませうか。眞實に有り難いことです。有志各位には、ご注目たまはらむことを。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t44/l50

【參考・備中處士『戀闕の悲願』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1503

 スレツド主「暘廼舍」樣の屋號は、神ながらかも。主は、蓋し扶桑神洲の暘谷に、かつて住まひされし御方ならんか。

 平田大壑先生(『大扶桑國考』・『三神山餘考』・『三五本國考』等)に據れば、蓬莱──蓬丘・蓬壺・日窟常暘之山・玄牝大壑暘谷咸池の上(ほとり)に在る山──の湯谷・陽谷・谷口、即ち、
『老子』竝『莊子』引く所の『黄帝書』に云ふ「谷神不死・玄牝之門・天地之根」、
『老子』に云ふ「百谷王」、
『列子』の「大壑・無底之谷・歸墟」、
『莊子』の「尾閭」、
『初學記』の「天池・巨壑・朝夕池・咸池・榑桑之墟」、
『初學記』引く所の『山海經』大荒東經に云ふ「少昊之國・甘水・甘淵・黒齒之國」、亦た大荒南經の「羲和之國」、
乃ち我が皇大御國の、祓戸四柱大神の坐す大壑「速吸名門」──蓬莱山の神域、やがて「荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の鹽の八百會」、筑前國の北面志賀島なる玄界洋の海底、豐前國企救郡と長門國豐浦郡との間なる豐前國企救郡速鞆の湍門(せと。迫門)──女嶋(比賣嶋)の邊りの人、即ち神ながらにも名乘られし「暘廼舍」樣、是なるべし。穴々、かしこ。



●小串仙助大倉重威翁『比賣嶋考』に曰く、

「伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神のうみませる島の次第、大嶋の次に女島を生給ふとあり。按ずるに大嶋は周防國大島郡にして、伊波比洋の東北にあり。女島は豐後國國東郡にして、伊波比洋の西南にあり」と。




●平田大壑先生所引『關令尹喜傳』・『老子東遊之文』に曰く、

「東遊して、日窟常暘之山に至りて、榑桑之丹椹(赤き桑の如き實)を綴ひ、若木(榑桑と同木。扶桑・椹樹・櫻木・□木、九千歳に一度び實を生ず。王母の仙桃の如し)之朱華(葉。桐の葉に似るも赤し)を散じ、碧海(我が長門・周防・安藝・吉備・播磨)を觀、東井を悒(汲)み、欝池宮(兩碕の邊)に過れば、暘谷神王・東海青童君・衆仙、丹椹の朱實・金津の碧醴を陳ぬ。次に祖山(また祖州、即ち東岳廣桑山、乃ち我が淤能碁呂島。淡路國屬島西北の浦・津名郡來馬郷繪島。天柱國柱)に登り、芝田を觀て、養神艸を採り、蓬莱宮に息ひ、復た風山に遊び、青丘(我が筑紫の北面、火國・豐國を本にて四國・木國邊まで)に登り、紫府に過れば、太元眞人紫府先生(谷希子・景林眞人、即ち黄帝・東方朔などの師)、九光の甘液・白文の玉英・青林の白子を陳ぬ」と。
 
 

諄辭、其の六。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月19日(金)21時22分59秒
返信・引用 編集済
 

~承前~

●稻村眞里翁『物部守屋大連の奧津城參拜の祝詞』(明治四十二年秋。公の奧津城は、大阪府中河内郡龍華町大字太子堂に在り)

これの荒野に、寂しく鎭まります、物部大連守屋大人命の御奧津城の前に、○○○○、謹み恐みて白さく。

劣(をぢな)き己ら、常に『日本紀』の御書を繙きまつるごとに、そのかみの御國のさまを考へつゝ、常に汝が命の一世(ひとよ)を偲びまつり、哀しみまつるがゆゑに、今囘び國學(みくにまなび)の道の美はしき朋友(ともがき)、相語らひて、この月の今日の生日の足日に、これの御前に參ゐ出でて、草深き御前を掃ひ清めて、携へ持て來し禮代の御饌・御酒を獻奉り、季節(とき)の花・眞榊を手向けまつりて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り額づき拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ聞こしめせと白す。

畏き大連命の御靈、天皇の大御世を、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまはむは、更にも白さず、天翔り國翔りて、現今(いま)の世のさま、眞委曲(まつぶさ)に看そなはしまして、剛毅(たけ)きその御心のごとく、國民諸々を、彌や益々に大和心、雄々しく振り起さしめたまひ、各も々ゝ直く正しく雄健び進みて、その業(なり)に勤めしめたまひ、己ら國學の道におり立てる、我が同志(どち)を、建てそめし靈の眞柱、搖がず撓まず、汝が命の太き嚴しき御心に肖(あ)えしめたまひ、可美(うま)らに、その業(わざ)、恪しみしまり勵みしまりて、御國のために功勳あらしめたまへと、恐み恐みも白す。



【髮長の神社參拜】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/2

【備中處士『宜しく物部大連守屋公を祀りて、大いに國を靖んずべし矣而已』 】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/986
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/987
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/8



●稻村眞里翁『齋部廣成大人慰靈祭の祝詞』(昭和十五年)

謹みて、從五位下・齋部宿禰廣成大人命の御靈の前に、元官幣大社安房神社宮司・從四位・稻村眞里、謹みて白さく。

汝(な)が命は、天つ皇御祖の大御神の御側に仕へまつらしゝ、天太玉命の御末裔(みすゑ)にまして、世々家の職(つかさ)齋部の長と仕へまつりたまひしは、白さくも更にて、神ながらの道、いとおほほしくなり、外つ國の教説(をしへ)など、漸々に入り來行はれて、世はひたぶるに華やぎ浮きたるかたに成り行きつゝ、往古の事ども、おほかた忘らえ果てなむとせる頃しも、御齡ひ八十歳を超えたまひながら、掛けまくも畏き、平城の天皇の、問はしたまひ仰せたまふまにゝゝ、大同二年二月十三日といふに、豫ねてより慨たみ思ふ御心の緒ろを、包まず隱さはず、明白(あからさま)に、遠き代のありしさま、齋部の御家に言ひ傳へたる事ども、また朝廷(おほみかど)の御祭祀の事(わざ)の、漏れ遺ちたりけむ條々(をぢゝゞ)を、記し連ね言擧げして獻奉らしゝ、『古語拾遺』一と卷は、『古事記』・『日本書紀』の二典(ふたみふみ)に次(す)がひて、永久へに、こよなく貴ぶべく重みすべき御書にして、國民の蒙ぶり來りし恩頼は、實に數へても數へ盡すべからず、稱へても稱へ盡すべきにあらず。

かくて今年は、神倭磐余彦の天皇の、天つ日嗣の高御座知ろしめしゝより、また天富命の、この安房國に渡り來まして、安房の神社を建てたまひしより、方に二千六百年といふ年にしも成りぬれば、安房國主基村(すきのさと)の人・松川清らの人々、汝が命を偲びまつりて、『古語拾遺』の御書の古語會といふを設け、これの主基村の、これの主基小學校におきて、汝が命の御靈を祭るがゆゑに、己れ眞里い、安房の神社に仕へまつり、且つはおほけなくも、『古語拾遺』の講説(かうぜち)し、その講説の書の卷を著(つく)りつる因みあるがゆゑに、遙々にこの席(むしろ)に參ゐ出でて、齋しり嚴知り、汝が命の御靈の御前を拜みて、謹みて白さく。

あはれ、世は千歳の昔、汝が命の、「後の今を見むこと、今の古へを見るがごとけむ」と宣はしゝ言の葉は、まことにさながらになもありける。うべ、彼の二千六百年の昔、神倭磐彦の天皇の、肇國知らしめしゝ、嚴しき貴き御事(みわざ)、國民、擧ぞりて輔(あなゝ)ひまつり恪しみまつりしさまのごとく、中今の大御代、吾が天皇の大御旨趣(おほみおもむけ)のまにゝゝ、國民諸々、清き明き眞心に、相和び相睦びて、天の下の諸國、悉に和らぎ交はりなむとす。

あはれ、廣成大人命の御靈、天翔り國翔り、天の下四方の、かくの状・かくの事の趣、審(つば)らかに眞委曲に見そなはしまして、御國人を、大和心、直く正しく助け導きたまひ、神祭りの事ども・百千の事ども、『古語拾遺』録したまひし、往昔の御心のごとくに、成し幸はへたまへと、謹み恐みも白す。



●稻村眞里翁『「古語拾遺」講説考案奏上の祝詞』(昭和五年十二月二十九日)

掛けまくも畏き、安房大神の大前に、宮司・從五位・稻村眞里、恐み恐みも白さく。

明治二十二年の十月三十日に、明治の天皇の下したまへる、掛けまくも畏き、厚き深き大御言は、廣く空蝉の世のさまを看そなはして、御國の國の初めより、遠皇祖の御代々々をも考へたまひ、遙けき將來(ゆくさき)をも思ほしませる、高き貴き上なき御訓へにしあれば、天の下の國民は、老いも若きも男も女も、悉とにこれの御訓へのまにゝゝ、惑ふことなく躊躇(たゆた)ふことなく、一すぢになも進み來たりける。

かくて歳月は流るゝごとく來經行き移ろひて、今年、昭和の五年といふ年は、彼の大御言下したまひてより、はやくも四十年にしもなりぬれば、この年を、人の心に忘るまじき、いと好き可美し年と、この安房國神戸村(かんべのさと)のわたり(邊)に住める、古へ學びに志(こゝろ)ある眞實人(まめびと)ら、掛けまくも畏き、神倭磐余彦の天皇の大御代の初めより、これの里に鎭まり坐す、吾が大神の御裔、從五位・齋部宿禰廣成大人が撰(つく)りて獻奉れる、『古語拾遺』の一と卷を、讀み究め明らむべきことを語らひ定めて、その講説を、拙き劣き眞里に乞へり。眞里い、大神の御傍(みそば)に仕へまつる職に在れば、おほけなくも辭(いろ)はず諾ひて、その講説に添へて、御國の國體(くにがた)の概略(あらまし)、また古へ史の事ども、その百千が一つをだに説き明さまほしく思ひて、時こそあれ、今囘びこの神狩り祭の神事、仕へまつると、御社に齋み籠れゝば、暇々(いとまゝゝゝ)に、この講説の概略を思ひ計り定めむとす。

掛けまくも畏き、吾が大神、かくの事を平らけく諾ひたまひて、劣き眞里が身にも家にも、八十禍つ靈の禍事あらしめたまはず、平らけく安らけく、幸く眞幸く守りたまひ、千歳の遠き昔に、廣成宿禰が、心を碎き思ひを潛めて、撰り成したる、この美書(うましぶみ)、過つことなく違ふことなく、直く正しく明らけく讀み考へ悟り得しめたまひ、説き添へむ講説の條々をも、美らに思ひ構へ組み成さしめたまへと、鵜じもの頸根突くきぬきて、恐み恐みも白す。



●稻村眞里翁『假作──祖靈前「古語拾遺」奉獻奉告の祝詞』(昭和二十年頃)

掛けまくも畏き、遠つ大御祖・天太玉命の珍(うづ)の大前に、御裔孫(みはつこ)・從五位下・齋部宿禰廣成、恐み恐みも白さく。

皇御國の傳へ、上つ代には文字といふものなきがゆゑに、貴きも卑きも、老いたるも若きも、悉とに往古への事業は、口より口に言ひ傳へて、忘るゝことなかりしを、文字ありてよりこのかた、人々、口に往古へを語ることを好まず、浮きたる華やぎたる事のみ競ひ興りて、なかゝゝに舊き事・遠き世の事どもは、卑しみ嘲りて、果て々ゝは時を逐(お)ひ世を經て、事、彌や新たに、物變り遷るに至りて、その事の故實(もと)を問ふに、根をも源をも打忘れぬ。國つ史・家の牒(しるしぶみ)など、その由を載せてはあれど、なほいさゝか漏れ遺ちたるもあり。拙く劣くはあれど、今しも、廣成い、申さずは、恐らくは絶えて世に傳ふることなけむ。幸はひにも、掛けまくも畏き、我が天皇命の大御言以ちて問はしたまふまにゝゝ、胸に思ひたゝなはる憤りの心を□[手+慮。の]べ聞こえまつらまく欲りして、我が家に傳ふる舊説(ふるごと)を録して、かくさまに、この一卷と成して、『古語拾遺』と名づけて、これより、掛けまくも畏き大御前に獻奉らむとす。

己れ廣成、老いさらぼひて、已に八十路を逾(こ)えて、君を思ひまつること、朝暮、少時(しばし)も休(や)む時あらず。若し一度びこの世を罷らば、地の下に悔ゆとも恨むとも、何とかはせむ。巷の邊(わたり)の、そこはかとなき説き言・物語なども、なほ採るべき事はあるべく、卑しきはしたなき賤(しづ)が夫の思へる事どもも、空しく棄つべきにあらずと思ひて、心盡して、この一卷を成しつれば、乃ち今ま汝が命の御前に獻奉らくを、平らけく安らけく諾ひたまひて、この一卷、掛けまくも畏き大御前に、嘉納(おむかし)み看そなはしまさしめたまひ、彌や遠永に守り幸はへたまへと、恐み恐みも乞ひ祈みまつらくと白す。



■香取神宮少宮司・大講義・豐城渡邊重石丸國前直重任翁『固本策』──古語拾遺論に曰く、

神皇之道は、禮樂より大なるは莫し焉。‥‥廣成、禮樂、未だ明かならざるを以て、之を斥くる者は、蓋し婉言以て之を憤りし也。夫れ禮樂の名は、異域に出づと雖も、而も其の實は、神皇の、以て億兆を陶冶し天下を經緯したまふ所以の大法也。廣成、禮樂を神代に復せんと欲す。卓見確論、實に一代の偉人と謂ふ可し矣。嗚呼、廣成の志の行はれざりしより、儒佛の迹、日に興り月に熾んにして、禮樂の化、[火+潛の右。や]みぬ矣。其の極や也、帝王を絶海に移しまつる者、之れ有り、天下を股掌に弄ぶ者、之れ有り。皇室陵替したまひ、華胄も亦た隨ひて凋衰す。其の禍ひ、豈に特(ひと)り忌部氏の不幸のみならむや也。然らば則ち之を如何にせば可ならむ。曰く、鄙俗を往代に易へ、粃政を當年に改む者は、廣成の志也。學者今日の務めは也、无も當に廣成の志を以て心と爲し、時に隨ひて制を埀れ、絶えたるを興し廢れたるを繼ぎて、以て千載の闕典を補ふべきのみ耳。若し明治維新の年に當りて、望秩の禮を制すること能はずんば、又た何をか學と、之れ云はむ哉。‥‥

 嗚呼、天下の曠き、三千八百萬人の衆きも、擧げて之を大觀すれば、則ち比比として、人、外國の奴隷爲らざる者莫し焉。之を「夷狄を中國に養ふ」と謂ふ也も、亦た何ぞ不可ならむ。抑も儒者も人也、佛者も人也、洋學者も、亦た人也。而して其の徒、皆な覿たる面目有りて、浮華、之を尚び、舊老、之を嗤ひ、大日本人爲るを愧づ。甚しきは、則ち降を賣りて後れむことを恐るゝ也。然らば則ち今日、滿天の怪雲愁雨は、安んぞ廣成が大同三年、憂國の涙に淵源せざるを知らむ哉。古人言ふ有り、「禮樂崩れて、夷狄横(ほしいまゝ)なり」と。豈に信ならず乎。‥‥

 神州の正氣、委靡振はざる者は、蓋し異邦の學有りて、以て之を蠧すれば也。何を以てか之を謂ふ。曰く、上古の世、各々承くる所ろ有り。貴賤老少、口口に相ひ傳ふる者は、上古の學也。是の時に當りて、人、各々其の君を君とし、其の祖を祖とし、其の國を國とし、其の家を家とし、其の内を内とし、其の外を外として、天子は此れを以て天下を治めたまひ、國造は此れを以て其の國を治め、蒼生は此れを以て其の家を治む。大小の事、古を師とするに非ざる者無く、亦た神を師とするに非ざる者無き也。予の意へらく、所謂る貴賤老少とは、朝野に通ずるの名にして、其の人、口口に相ひ傳へて、戒愼勅勵すれば、則ち其の功、或は讀書の功に倍する者有らむ矣。其の風を傳へ俗を成すに及びて、則ち誰か疑ひを前言往行に容るゝ者有らむ哉。皇天傳國の詔・二尊經營の跡・醫藥禁厭の類の如き、朝野に播(ほどこ)し談論を發し、耳に觸れ心に勒(しる)し存して忘れざれば、則ち千百世も、猶ほ一日の如し。是れ、其の純一の俗を成せし所以ん也。‥‥

 
蓋し浮華を黜(しりぞ)ければ、則ち實學擧らむ矣。舊老を尚べば、則ち輕躁の風熄まむ矣。故實を問へば、則ち國體立たむ矣。根源を識らば、則ち萬世不易の國是定まらむ矣。嗚呼、果して斯道を興さむと欲すれば、則ち亦た施設の法、陶冶の術、何如を顧みるに在るのみ耳」と。
 

 

諄辭、其の五。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月16日(火)22時32分23秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●中島廣足翁『遊學神拜の祝詞』(『橿園文集』所收。◎稻村眞里翁の曰く、「文字精錬、末節、或は句を重ね、或は句を疊みたるところ、殊に古文の法にかなひてめでたし」と)

天つ神・地つ祇、諸もろの皇神等の大前に、○○○○、恐み恐みも申し賜はく。

某、負ふ氣無くも、吾が皇大御國の古之道をし、仰ぎ恐み尊み、うむが(欣)しみ奉るに依りて、掛け卷くも綾に恐き、久方の天津神代の御書(みふみ)より初めて、皇孫命の大八洲國知ろし食す御代御代の御書・御掟書・歌書・種々の古へ書等を、讀み明め解き明めむと爲てなも、天の下四方の國々、い行き囘らひ、問ひ放(さ)け見論らひ定むなる。

故れ其(◎○○○○)の、い行き囘らふ四方の國々、海より行く路は、朝渡る洋(なだ)の迅風(はやち)に逢はせ(◎逢はしめ給は)ず、夕渡る瀬門の浪折(なをり)に逢はせ(◎逢はしめ給は)ず、山より行く路は、朝越ゆる峰の佐霧に惑はせ(◎惑はしめ給は)ず、夕越ゆる御坂の氷雨に惑はせ(◎惑はしめ給は)ず、留まらむ國々、旅居せむ郷々にて、不平(やくさ)む事なく、惱む事なく、夜の守り・日の守りに、守り幸はへ賜ひて、學びの業を、彌や助けに助け給ひ、彌や獎めに獎め賜ひて、遲き心を速(と)く、暗き心を明けく、思ひ得悟らしめ給へと、

鹿自物、膝折り伏せ、鵜自物、頸根衝き拔きて、恐み恐みも申し給はくと申す。



●草鹿砥宣隆翁『井神祭の祝詞』(『祭文例』所收。◎稻村翁の曰く、「簡淨にして、極めて體を得、結構、井然として、祝詞の體樣を美はしく得たり」と)

掛けまくも畏き、彌都波能賣神・御井神・鳴雷神の大前に、(◎齋主・○○○○、)畏み畏みも白さく。

此の御井を、廣く厚く守り賜ひ幸はへ賜ひて、千代・萬代も、ぬる(温)む事无く濁る事无く、涸るゝ事无く淺(あ)する事无く(◎淺する事无く涸るゝ事无く)、和ごき水の甘き水の、清き水の(◎此の一句、省かば美しくなるべし、或は、淨き)さや(清)けき水を、彌や多に彌や廣に、授け賜ひ與へ賜ひ、諸もろの穢れを祓ひ給ひ清め給ひ、過ち犯す事の有らむをば、見直し聞き直し坐して、夜の守り・日の守りに守り幸はへ給へと、禮代の幣帛を捧げ持ちて、恐み恐みも稱辭竟へ奉らくと白す。



●久保季茲翁『少彦名神を祭る祝詞』(『祝詞作文便覽』所收。◎稻村翁の曰く、「大神の功績を簡明に稱讚して、遺るふしなく、尤も細心の作といふべし」と)

掛け卷くも畏き、少彦名大神の御前に、稱辭竟へ奉らく。

高天の神王(かぶろ)御産巣日大神の御子、一千五百座(ひとちいほくら)坐しゝ中に、御祖の命の御指間(みたちまた)よれり漏(く)き坐せる御子と坐して、彼の日の入る諸もろの國等(くにども)造り堅め給ひ、雀(さゞき)の羽を衣とし、天之羅摩(あめのかゞみ)の船に乘り、此の日出づる國に歸り來給ひ、所造天下(あめのしたつくらしゝ)大穴貴命と兄弟(あにおと)と成り、心合はせ力戮はせて、大八島國を蘆・菅殖(う)ゑて造り堅め、又た顯見蒼生(うつしきあをひとぐさ)、及(ま)た畜産(けもの)の爲めに、藥法(くすり)・咒術(まじなひ)の方(みち)を定め給ひ、又た人皆の給(た)びゑらぐ酒(みき)を造り初め給ひ、伯耆國の粟島に至り給ひ、粟莖(あはがら)に乘りて、再び常世の郷(くに)に渡り給ひ、其の國國の土毛(くにつもの)を、千船・八千船に積み載せて、此の皇國(すめぐに)に獻貢らしめ給ひ、大凡そ内外の萬國々に、盡とに御恩頼を蒙らしめ給ふ、高き貴き御徳(みいつ)を畏み忝み奉りて、今日の生く日の足る日を吉き日と定めて(◎生日の足日に、或は、今日を生日の足日と定めて)、御酒・御食・種々の物を御前に捧げ奉り、稱辭竟へ奉る状を、平らけく安らけく聞こし食し、守り幸はへ給へ(◎彌や守り幸はへ給へ、或は、此の祈願の句を省かば、却りて美しくなるべきか)と、畏み畏みも申す。
 
 

諄辭、其の四。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月13日(土)22時27分39秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●櫻東雄翁『香取大神に奏す祝詞』(『大阪府皇典講究分所録事』所收。◎稻村眞里翁の曰く、「文勢悠揚、一句の冗漫なるものなく、所思を述べつくして遺憾なく、措辭また古文の趣を得たり」と)

掛けまくも畏く、言はまくも貴き(◎此の句、縣居翁に始まると雖も、古典に證も無くして穩かなず)、現つ御神、吾が天皇の大御詔(おほみこと)以ちて、此の下總國なる香取郡に、大宮柱太敷き坐して鎭まり坐せる、經津主大神の大前に宣りたまふ大敕(おほみこと)は、頃年之間(このとしごろ)、海の外なる諸國(もろくに)の蠻夷等(えみしら)、商ひの業を乞ふと言ひて、大海の波、掻き別きて、島の八十島・國の八十國に、船□[手+旁。こ]ぎ寄せ來つゝ、強ちに言ふ辭等(ことゞも)は、吾が大皇國(おほみくに)を□[豈+見]覦(うかゞ)ふに有るらしと思ほして、大御意も安からずなも大座します。故れ天つ神・國つ神の大前を治め奉りてば、天の下は、自らに安寧(やすか)らむと思ほし食す隨(まに)まに、此の吾が大神の大前に、大幣帛の物、横山の如と置き足らはして、此の食す國に、事無からしめむ事を祷み奉る事の由縁(よし)を、神主・祝部等、恐み恐みも申さく。

諸國の夷等の、大皇國に渡り參ゐ來て、なめ(無禮)き言をも禮(ゐや)なき業をも作(し)ぬる事、多年(あまたとせ)に成りにたれども、尚ほおだ(穩)ひ敷く見直し聞き直し坐して、彌や歳月重なり行く隨まに、情進(すゞろ)なる者共は、彼の夷等の、智慧(さとり)深げなる究理と云へる、珍らかなる業爲すを見聞きて、愛で惑ひつゝ、黒(きたな)き心の蠻夷等、近づけ親しみて、商ひの業をも縱(ゆる)して成さしめ、好(よしみ)をも結ばむと言ひ思ふ者も、多(さは)に成り來にたれば、今より後は、彌よ益ます蠻夷風りの事等のみ蔓衍りて、神隨らなる神の御國の人心、皆な悉とに夷心に移ろひなむ。然か移りもて行きなば、國内(くぬち)悉とに、吾が國の人意ざまには非ず成り行きなむ。斯く成りもて行きなむ後に、若し慮(おも)はぬ事出で來たらむには、海路・陸路に、千萬の軍人をば居(す)ゑて守らしむとも、防ぐ事得じと、(◎以下の數句、自己の心情を獨語的に吐露することが主になりて、神をさしおくことになる故に、敬意を失ふべし。愛國の衷情はともあれ、神に敬意を失ふことは本意なきことなり)慨たくも憤ろしくも念ほゆる哉(かも)、悲しくも悔しくもせむ便(すべ)なくも念ほゆる哉。

在昔(いにしへ)、水垣宮に御宇(あめのしたしろしめし)天皇の御代・玉垣宮に御宇天皇の御代の二た御世に、海の外の戎狄等(えみしども)の參ゐ來、仕へ奉りしを始めて、息長足姫尊は、新羅・百濟・高麗の國々を、服從(まつろ)へ賜ひ、文永・弘安と云へる年の頃には、蒙古(むくり)の國より遣(おこ)せたりける千萬の軍人を、皆な悉とに殺し盡したりしかば、大皇國の大稜威、至らぬ隈も无く、天の下、皆な震ひとゞろきたりき。其は皆な天地の神祇等の幸はへ助け座すに依りて、此の大きなる勳功は有りけるを、中今の世の人意、昔に及(し)かず在りとも、變らぬ神の御言と傳へ來し、 萬千秋の長秋に、吾が御子の知ろし食さむ國と、神御祖・天照皇大御神の大御口、自ら詔り賜ひ定め坐し大御言の隨まに、天地の依り合ひの極み、動くこと无く傾くこと无く、吾が天皇の大御代を、夜の守り・晝の守りと(◎に)守り坐して、吾が大神、奇靈なる御意以ちて、道の八衢に踏み惑へる人の意の雲霧をも拂はし坐して、照る日成す、明く淨く健く雄々しく直く忠誠(まめ)なる皇御國の、人民(おほみたから)の本つ意に直さしめ賜ひて、皆な人毎とに、吾が天皇の大御意を意と爲て、八十戎國の穢き夷意に、相率こり相口會ふ事無く、蠻夷が船の千船百船□[手+旁]ぎ寄り來て、相讐なひ奉るとも、吾が大神の比類(たぐひ)無き御稜威を以ちて、若葦成す取り挫(ひし)ぎ坐し、泡雪成す蹴散(くゑはらゝか)し棄(う)て坐して、此の大御世を、手長の大御世の重(いか)し御世の足らし御世と、守り福はへ奉り(◎給ひ)、吾が天皇の大御意、平らけく安らけく笑み榮えしめ(◎坐さしめ)賜ひ、百の官の人等・天の下の萬民に至るまでに、己が乖々(むきゝゝ)有らしめ(◎給は)ず、樂しく仕へ奉らしめ賜へとして、獻出(たてまだ)す、うづの大幣帛の物捧げ奉りて、嘉永六年十二月二十七日の朝日の豐榮登りに、神主・祝部等諸共に、大神の廣前に、宍自物、膝折り伏せ、宇自物、頸根突き拔きて、畏み畏みも白す。



●稻村眞里翁『平景隆公殉國六百五十年記念祭の祝詞』(公は、贈正四位、平内左衞門尉と稱す。大正十二年九月三十日)

掛けまくも畏き、新城神社の大前に、社司・吉野蜜太郎、恐み恐みも白さく。

高天原に神留まります、神漏岐・神漏美命以ちて、遠皇祖(とほすめろぎ)の御世々々、天つ高御座に大坐しまして、安國と平らけく、天の下知ろしめすまにゝゝ、豐葦原の瑞穗の國は、禍神の千早振る荒ぶることなく、外國との交際(まじはり)も、世の遷ろひ行くなべに、疎き・親しき折々はあれど、一囘(ひとたび)もその侮辱(あなどり)を受けたることはあらざりき。さるを唐土(もろこし)は、宋といふ國の世に、蒙古(むくり)の戎狄(えみし)、漸々(やゝゝゝ)に猛くなりて、金の國・宋の國をも滅して、遂に高麗(こま)の國をも從へ靡けて、勝利(かち)の荒(すさ)びに、御國にも迫り來て、幾囘か高麗人を遣はし、また己れも屡々使ひをおこせて、交際を求めき。然はあれど、御國をば高麗・唐土の國々と等格(ひとしなみ)に思ひ蔑(な)みして、禮(ゐや)無く驕りてあれば、何かは許し諾ふべき。終ひには言はまくも忌々(ゆゝ)しき、文永・弘安の役(えだち)となもなりぬる。

掛けまくは畏かれど、汝(な)が命は、現世には、平の景隆と御名は申して、大和心、嚴(いか)く雄々しく、これの壹岐の國の守護(かみ)の代はりと、勤しみ仕へまつらしゝ折しもあれ、御世の號(な)は、文永の十有一年の十月、蒙古の醜の狂奴(たぶれ)ら四百餘人、先づしも對馬の國に攻め入り荒び健び、尋ぎてその十四日の日、これの壹岐阜の國に寄せ來て、今より考ふれば、香椎・鯨伏と思しき里べより陸(くぬが)に上りて、赤幟(あかはた)押立て、東の方に進み來つれば、汝が命い、凶徒(あた)ども寄せ來ば、國人・家人、相催して防ぎ戰へと仰せたる、鎌倉の令書の旨(のりのふみ)を固く守りまして、家人ら、僅かに百有餘人の人々と倶に雄健び、矢合せして防ぎ戰へど、士卒(いくさびと)多に討死し、汝が命も、痛矢串蝟(いたやぐしくさふ)のごと負ひましつれば、家の子・宗の三郎して、包圍(かこみ)を脱がれて、海つ路(ぢ)より博多に赴きて、筑紫の遠の朝廷に、事の由を告さしめたまひ、かくて次の日、親族・家族・家の子らと倶に、みづから身亡せたまひにき。

これよりのちの賊(あた)どもの、醜めき汚きかぎりを盡せる狂行(たはわざ)は、聞くも痛ましく言ふもえ忍びず、悔しく憤ろしく、千歳五百歳ののちにも、これの壹岐の國人のみかは、天の下、悉とに牙噛(きか)み髮逆立ちてなも思ほゆるなる。あはれ、あはれ、この時、國内は搖(ゆす)りて驚き憂ひ、公には、筑紫の武士には、海邊の防備(そなへ)怠らず警めしめ、天の下の寺々社々には、敵(あた)をば掃ひ平(む)けむことを祈み白さしめたまひ、掛けまくも畏き、龜山の天皇命は、惶きかも、現し大御體(おほみま)、世のため御國のため、この禍事に代はらむと、伊勢の皇大御神の宮に、誓約(うけ)ひ白さしめたまひたりき。汝が命、かゝる折しも、大君の醜の御楯と、天の下に先立ちて身亡せましゝは、まことに忠誠(まめ)なる臣の鑑と稱へ申すべく、當時(そのかみ)にも後の世にも、永久に世の人の鋭心(とごころ)振り興さしめたまふ御功勳、誰しの人か、仰ぎ尊ばざらむ。

かくて事態(ことわざ)さまゞゝに移ろひつゝ、時世來經行きて、かの忌々しき恐しき年より掻き數ふれば、今年は、方(まさ)に六百有五十年に成りぬれば、特(こと)なる大き御祭仕へまつりて、汝が命の御靈を慰めまつらむことを、これの壹岐の國人に議れば、國人、悉とに喜び諾へり。故れ汝が命の身亡せましゝ、この月の十五日といふ今日の日を選び定めて、これの大前に、遠方(をち)より近方(こち)より、人々諸々參ゐ來集侍(うごな)はりて、海・川・山・野の種々の物ら獻奉りて御祭仕へまつり、また相撲(すまひ)・撃劍(たちかき)、またさるべき雄々しき技ども演出(しい)でて、大前に奉獻らくを、愛ぐし欣(おむ)かしと、諾ひ知ろしめせと白す。

掛けまくも畏き、我が大神、かくの状を平らけく安らけく、御心も樂(うら)げ諾ひまして、天皇命の大御世を、嚴し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまひ、天の下の人心、汝が大人の命の御心のごと、彌や益々に猛く雄々しくあらしめたまひ、あからさまにも横邪(よこさ)の道に惑ふことなく、君臣の道の大義(おほきことわり)、眞清明(まさや)けく明らめ正して、平生(つね)は、一向(ひとむき)に家の業に勤しみしまりて、幸く眞幸く睦び和び富み足らはしめたまひ、事とある時は、大君の醜の御楯と、功勳しく勤はき仕へまつらしめたまひ、武士の道、彌や遠永に、守り幸はへたまひ、御國の禍難(わざはひ)は兆さぬさきに、神風の伊吹き拂はしめたまひ、御國の大御稜徳(おほみいつ)、天輝(あまかゞ)し國輝し、永久に輝き滿たしめたまへと、鵜じもの頸根突きぬきて、恐み恐みも祈みまつらくと白す。



 先般、岡山縣護國神社にて、皇道日報社・秋田智紀主の誘ふ所、式内縣社足高神社へ無理を申して、御遷宮お白石持行事への參加が叶ひ、備中の一處士、圖らずも一日「特別神領民」とならせて戴けさうです。是れ、二十年に一度、否、一生の譽れ、無上の神縁、而して天地幽契の神都・内宮の中樞に參ゐ登る歡喜と共に、今より身の引締まる思ひです。
 
 

諄辭、其の三──武神を祭りて、雄心を振起せしめよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 9日(火)21時26分9秒
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  ~承前~

 祝詞諄辭に口熟れて、謹みて神の御前に奏せば、嬉しきかな哉、噫、清々しきかな哉。


■稻村眞里翁『評釋・近世名家諄辭集』(昭和七年十一月・明治書院刊)より。なほ「◎」は、翁の批なり。翁の曰く、「今の人の文、往々、大君に對する敬語『奉り』を省くは、『祝詞式』中に、「大御代を幸へ給へ」と云ふやうなる文のあるにひかれて、ふと取りおとすことならむか。『祝詞式』は、主として朝廷の祝詞なれば、敬語の使用法を簡約せるところあるやうなり。注意して看るべきなり」と。



●平田篤胤大人『豐香島の天之大神の御前に祈み白す詞』(『古學諄辭集』所收──大人の説に、「鹿島大神と香取大神とは、二神にして一神の趣あり。一神にして又た二神とも見ゆ」と論ぜられたれば、奏上する祝詞も、自ら同一なりしなるべし。以下[云々]は、香取大神に白す時の詞にして、即ち兩宮に同じ樣に申されたるなり)

衣手の常陸國鹿島郡香島郷[下總國香取郡香取郷]の底津石根に、大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて鎭まり坐す、豐香島の天之大神[香取大神]と、稱辭竟へ奉る。掛けまくも畏き武甕槌之男大神、亦の名(みな)・豐布都神、亦の名・健布都神[布都主大神、亦の名・伊波比主大神]の大御前に、舊と此の邊り領在(しり)たりし、千葉介平常胤が裔孫(はつこ)・平篤胤、畏み畏みも祈み白す事の由を、天迦具神[御前の事執り給ふ神等]、耳、彌や高に聞き取りて執り奏(まを)し賜へと白す。

高天原に神留り坐す、神魯岐・神魯美命の大詔命(おほみこと)以ちて、「豐葦原の水穗國は、吾が皇美麻命の治ろし食さむ國」と言依さし賜ひて、八百萬の神等を、天の高市に神集へ集へ賜ひて、「彼の國は、伊都速振る荒ぶる神の多在(さは)なると(◎天忍穗耳命の)思ほすは、誰(いづれ)の神を使はして言向けまし」と詔り賜ふ時に、八百萬の神等、神議り議り坐して、「天穗日神、是れ遣はす可し」と申しき。故れ此の神を、國體見(くにがたみ)に遣はしゝに、三年に至るまで返り言申さず。次に遣はしゝ、健三熊命も、父の事に從ひて、返り言申さず。又た遣はしゝ、天稚日子は、邪(よこしま)の所爲(しわざ)有りしに依りて、返し矢に中りて、立處に身亡(みまか)りき。是を以て更に八百萬の神等に、思はしめ賜ふ時に、八意思兼神、深く思ひて議り給ひつらく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す神、名は伊都之尾羽張神の子・武甕槌男之神[石拆・根拆神の子、石筒之男・石筒之女神の子、布都主神]、是れ遣はす可し」と白し給ひき。

於是(こゝ)に大神、出雲國の伊那佐の小濱に降り到(つ)き賜ひて、國造らしゝ大國主神、其の子・言代主神を問ひ和はし坐して、現(うつし)國の事、避らしめて、健御名方神を、諏訪の海まで追ひ退(そ)け給ひ、久那斗神を御導きと爲て、大八島の國中(くぬち)悉とに見廻(みめぐ)り賜ひて、千早振る荒振る神・螢なす光(かゞや)く神、狹蠅なす喧(さや)げるを、神攘ひ攘ひ神和はし和はし坐し、石根・木立(このたち)・青水沫(あをみなわ)・草の片葉(かきは)も言止めて、安國と治め賜ひ、歸順(まつろ)ひ坐せる八百萬の神等を帥(ゐ)て、白雲に乘りて、天に參ゐ上りて、返り言白し給ひて、首渠(ひとご)の神・大物主命の齋ひ主として、齋ひ鎭め賜ひ、皇美麻命に、安國と平らけく治ろし看させ奉り賜ひ、橿原宮に初國治ろし看しゝ天皇の、大和國に打入り賜ふ時に、助け奉り賜ひて、御軍人の邪(あやしき)神の氣吹に□[病埀+卒]伏(をえこや)せるを、國平(くにむ)け坐せる御太刀・布都の御靈を降し賜ひて、其の荒振る神を、皆な切仆し賜ひ、天之香島宮より、此の御郷に移り坐して、志貴島宮に大八島國治ろし看しゝ天皇命の御世に、大坂山の頂に、白桙・御服(みそ)を生ふし賜ひ、「食す國の大政事、平らけく安らけく守り坐さむ」と、識(さと)し賜ひて、天神之御子の現御神と、神隨ら治ろし看す御世御世を、手長の大御世と、萬千秋の長秋に、堅磐に常磐に齋ひ奉り、茂かし御世に幸はへ守り(◎奉り)賜ふ、高き貴き御稜威に依りて、荒振る神の喧ぎ無く、穩ひに安らけく住まひ來る事の、廣き厚き御惠みを、悦こび嘉(うれ)しみ(◎て)、大宮の方に向ひて、日に異に拜み奉るになも。

如此(かく)は在れども、三つ栗の中御世より、外(とつ)國國の横さの道の渡り來て、蟹が行くなす邪説(よこさまごと)を、上へ無き物と説き弘むる事知り人の、さ蠅の如く噪(さや)ぎ漫(ほびこ)り、皆な人、其れに率(まじこ)りて、諸越の戎(から)のえみしを、日知りと敬ひ、いなしこめ、穢き底の國邊の國の乞食(かたゐ)の祖(おや)に諂ひて、客神(まろひとがみ)と尊みて、奇靈に畏き皇神の、神隨らなる大道の中に生れて在りながら、其の御蔭を思はずて、神の惠みをおほろかに思ひ居る人、多在なる事の懷悒(いきどほろ)しく慨(うれた)きに、此の頃、又た於蘭陀と云ふ底より、國の學び事さへ始まれるを、立廻(ま)ひて稍や看るに、其の言ふ説の、百足らず八十の中には、少かの善き事も有りげに見ゆれども、善き事に惡(まが)事、い繼(つ)ぐ例し在れば、流れての世に、何状(なにさま)の邪説の蔓り來むも計り難く、神の御國の神の御末と生(あ)れしめ給へる、神の御靈の忝さを、五百濱・千濱の限り無き眞砂(まさご)の數の、其の一つも報い奉らまく欲(ほり)する心に、安からず思ひ慮りて、燒き太刀の利心(とごころ)興し、身に敢へぬ事(わざ)には有れど、然からむ時の倭心の柱の固めに、とほしる(遠著)き神世の道を説き明し、記し置かまく思ひ興して、年まねく間無く閑無く功(いそ)しみ學ぶ、直き厚き心の底を、神に奏して、彌や益益に御靈の徳(ふゆ)を蒙ふらむと、殊更に思ひ立ちて、渡邊之望と共に、御前に參ゐ來て、祷り拜み奉り、

其の禮代(ゐやじろ)と奉る物は、此度び新たに古き状を考へ出でて、鍛冶(かぬち)・川邊正秀に作らせたる眞金の鏡を、青和幣・白和幣と共に、榊の枝に取り著けて奉る、清き赤き心の誠を、此の奉る眞金の鏡の眞清明(まさやか)に、見し明らめ聞こし看し悟り坐して、憐み賜ひ惠み賜ひ、異(こと)國風りの枉説(まがごと)を攘ひ却(やら)ひて、神の御世の直き風(てぶり)を説き明かさむと、功しみ學ぶ篤胤が學びの業を、彌や進めに進め賜ひ、彌や助けに助け賜ひ、古説の學びを、むくさか(繁茂)に榮えしめ賜ひて、神代の昔、大神の、荒振る神を神問はし問はし給ひ、狹蠅なす噪げる神を神攘ひ攘ひ給ひ、石根・木立・青水沫・草の片葉をも言止めて、安國と治め賜へる事の如く、外國學びの徒(ともがら)を、皆な悉とに問ひ和はし言向けしめ賜ひ、戎説(からごと)の氣吹の狹霧に□[病埀+卒]癡(をえし)れたる人等の、忽ちに心醒め和み安みて、長寢(ながい)爲つる哉と悔い驚き、此の正道に面向きて、諸もろ同じ心に助けまつろ(◎ら)ひ、神の御稜威を、大空の壁立つ際(きは)み、青雲の墜坐(おりゐ)向か伏す限り、谷蟆の狹渡る極み、鹽沫の至り留まる限り、彌や弘に説き弘めしめ賜ひ、篤胤が拙き心に思ひ得たらむ考へを、記(か)き著はさむ書の卷卷、有りの盡と、あぶさはず(散らさず・漏らさず)、思ふが任(まゝ)に板に彫(ゑ)りて弘めしめ賜ひ、萬世の永き世に、常磐に傳へしめ賜ひ、咎・過ち在るをば、神直毘・大直毘に見直し聞き直し賜ひて、業(こと)成し竟ふるまで、壽命(いのち)長く身健かに、煩はしき事無く、又た妻子等(めこら)・親族・朋友(ともがき)・教子等が身にも、禍神の禍事無く幸はへ賜はゞ、今ま立奉る御鏡を、八咫鏡に替へて賽(かへりまを)しに奉らむと、誓言(うけひまを)して祈み奉る事の由を、平らけく安らけく聞こし看せと白す事を、天迦具神[御前に事執り給ふ神等]、眞男鹿の耳振立てゝ、聞取り給ひ奏し賜へと、

畏(かじこ)じ物、進退(しゞま)ひ匍匐(はらば)ひ、鵜じ物、項根突き拔きて、天之八平手打上げて、畏み畏みも言告(いの)り祝(ほざ)き奉る(◎奉らく)と白す。



●六人部是香翁『武神祭祝詞』(『私祭要集祝詞』所收)

此の神床に神籬立てゝ、招請(をき)奉り坐せ奉る、建御雷之男神・經津主神の御前に、稱言竟へ奉らくと白す(◎奉らくは)、

高天原に神留り坐す、皇が親(むつ)神魯岐・神魯美の命以ちて、「皇御孫命は、豐葦原の水穗國を、安國と平らけく知ろし食せ」と、天の下、依さし奉りし時、八百萬の神等を、天の安河の河原に、神集へ集へ賜ひ神議り議り賜ひて、「彼の國は、知速振る荒振る神、多在なりと聞こし食すを、誰れの神を遣はしてか、言向けまし」と、問はし給ふ時に、八意思兼神、深く思ひ遠く議り給ひつらく、「天の安河の河上の天の石屋に坐す、伊都之尾羽張神の御子・建御雷之男神、石拆根拆神の御子・經津主神、是れ善(え)けむ」と白し賜ひき。

是を以て二柱の大神等、神漏岐・神漏美の大命を以ちて、出雲國伊那佐の小濱に、天降(あも)り著き給ひて、國造らしゝ大國主神、其の御子・言代主神を、神問はし問はし賜ひて、現國の事避らしめ、久那斗神を郷導(みちびき)と爲て、大八洲國中(くぬち)、悉と廻り給ひて、螢なす耀く神・狹蠅なす邪(あ)しき神等(かみども)をば、神掃ひ掃ひ給ひて、語(こと)問ひし石根・木立・草の片葉をも言止めて、安國と平らけく鎭め給ひき。

又た畝火の橿原宮に、初國治ろし看し天皇命の、大和國に打入り賜ひし時に、邪しき神の氣吹に、□[病埀+卒]臥し坐せるを、國平けの横刀(たち)・布都の魂を、天降し寄さし(◎奉り)給ひて、荒振る神を、皆な切仆し賜ひき。又た師木水垣宮に、大八洲國知ろし看し天皇命の大御代にも、大坂山の頂に、白妙の大御服を著(き)坐し(◎て)、白桙を御杖に取り坐し(◎て)、識し賜ふ命は、「我が御前を治め奉らば、汝(みまし)知ろし食す國平らけく、大國・小國、事依さし給はむ」と識し賜ひき。

故れ此の大稜威の高く(◎き)貴き御靈のふゆを忝みて奉る幣帛(みてぐら)は、射放ち物と弓矢、打斷つ物と太刀、馳せ出づる物と御馬、由紀の御食・御酒は、甕戸(みかのへ)高知り甕腹滿ち雙(な)べて、大野の原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は鮨(はた)の廣物・鮨の狹物・奧津海菜(もは)・邊津海菜に至るまでに、横山の如く几物(つくゑしろ)に置き足らはして奉る幣帛を、大神等の御心も明かに、安幣帛の足る幣帛と、平らけく聞こし看して、

今も去前(ゆくさき)も、武士(ものゝふ)の道、彌や守りに護り、彌や助けに扶け給ひて、靱(ゆき)負ふ伴の男・劒(たち)佩く伴の男等、常に鋒心(とごころ)振り起して、額には箭は立つとも、背は箭は立てじと言立て爲つゝ、劒のたかみ(柄)取りしばりて、順(まつろ)はぬ人等をば、坂の尾毎とに追ひ伏せ、川の瀬毎とに追ひ撥(はら)ひて、悉とに言向けしめ給へと、しゝゞ物、膝折り伏せ、うじ物、頸根突き拔きて、稱言竟へ奉らくと白す。



 かつて偶見せし、次の諄辭あり。拜書して、記し置かまし。

●物集高見博士『平田神社に報告し奉る詞』

贈正四位(後に從三位に陞り給へり)・平田先生の神靈の御前に、弟子・文學博士・物集高見、謹みて申す。高見、初めて先生の貴書を拜讀せしは十七歳の春にして、其の書は、『西籍概論』・『出定笑語』・『古道大意』・『伊吹颪』などにて、『西籍概論』にては儒學の大要を識り、『出定笑語』にては佛教の顛末を辨へ、『古道大意』・『伊吹颪』などにては古道のあるやう、特に惟神の道は、言談の上にあらずして實行の上に存せるを覺りて、『高橋氏文』に載せたる景行天皇の敕語の如きは、古道を説く毎に誦せざる事なくして、五十年を經侍りにき。然かはあれど學淺く識乏しき高見等の心しわざは、行事をもて名に負ふ國の手すさびを、遍く世人に知らせんの便りも知らねば、兎せん角せんと思ひ煩ひてありし程に、往年、一日ゆくりもなく、世に聞えたる先生たちの、皇典講究所といふに來集りて、講演といふ事をせられし事ありしをもて、高見も、其の席末に列りしよすがに、平生の志望は今日をこそとて、「日本學」といふを題にて、

「日本人は、何はありとも、先づ日本の事より學ばざる可からずと述べ、また斯道の學者は、世人に學ばしむべき道を講ぜざる可からずと述べて、竟ひに國書の事に及びて、古來の國書は、天保の末年に至るまでにても、既に三萬餘部十五萬卷あるをもて、百年三萬六千日の齡も覺束なき今人にしては、到底讀了する事あたはず。たとひ好學の閑人ありとしても、此の國家の多事なる今日、決して生涯を讀書三昧に送るを許す可からず。されば奈何もして、別に時を減じ、勞を省きて速成せしむべき方法を講ぜざる可からず。而して方法を講ずべき人は、誰ぞ。今日、此の席に來會せられし碩學諸公を除きて、他にまた人なければ、冀くば諸公は、後進の爲に國家の爲に、大に努力せられん事を願ふなり。高見の淺學固陋なる、本よりかかる大問題に對して、何の辨ふる事なしと雖も、諸公に努力を促して、一身を安逸の地に居らんとする者にはあらず。此の故に高見は、誓ひて今日より名譽も棄て財産も抛ちて、生涯を斯道の犧牲に供せんと期するなり

と述べたる事侍りき。爾りしよりこなた、日夜、工夫に工夫を重ねて、辛うじて一種の書の編纂に想到し、郡書の索引を企て、星霜を經る事三十年にして、和書・佛書八千餘部十餘萬卷を閲了して、『群書索引』・『廣文庫』の二書を作り、また別に國學の梗概を識得せしめん爲に、『國學撮要』と題する小册子を著し、また別に國書の年表をも製したり。是れ高見が國民として、國恩に報じ(以下、缺詞)。
 
 

『凛として愛』上映會のご案内。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 7日(日)22時33分21秒
返信・引用 編集済
   塾頭、ご照覽を賜はらむことを。

 下記、「愛国女性のつどい 花時計」樣による、泉水隆一監督作品『凛として愛』の上映會がある由、都合のつかれる有志には、是非とも、ご鑑賞ください。

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★ 花時計3周年記念の会&「凛として愛」上映会のお知らせ ★

 2010年(愚案、此の紀年、蓋し平成二十二年の事ならむ)5月、子供手当に反対する「日本のお母さんパレード」から、「愛国女性のつどい 花時計」の活動は始まりました。子供をベビーカーに乗せた若いお母さんがデモをする姿は、当時まだ斬新だったせいか、かなり注目を集めました。以来、3年が経ちました。皆様のご支援のお蔭で、今年、無事に3周年を迎えることができたことに感謝し、お世話になった方々と一緒に過ごす時間を持ちたいと思います。また私どもが拡散活動をしている映画「凛として愛」の上映会も、併せて行います。「凛として愛」は、靖国神社創建130周年記念の映画として製作されながら、たった2回上映されただけで、お蔵入りになってしまった「幻の名画」です。まだご覧になったことがない方、この機会に一緒に映画を見ませんか?
 東條英機元首相のお孫さんで、「凛として愛」の拡散に尽力なさっていた東條由布子さんが、今年、2月に逝去されました。東條由布子さんを偲びながら、皆様と一緒に「凛として愛」を見たいと思います。小さなお子さんがいる方のために「子供部屋」を用意しました。映画を上映している間、運営スタッフがお子さんを見ていますので、子連れの方も、どうぞ、遠慮なくいらして下さい。
 映画終了後、有志による懇親会を行います。レストランは、上映会会場の1階上です。懇親会に参加なさる方は、上映会終了後、エレベーターで9階に上がって下さい。エレベーターを降りると、斜め右にレストラン入り口が見えます。食べ放題・飲み放題の立食形式です。花時計会員による楽器演奏や花時計グッズのプレゼントなど、楽しい企画を用意して、皆様のお越しをお待ちしております。

【日時】8月10日(土)
    第1部 「凛として愛」上映会 11:00 開場  11:40 開演  12:50 終了予定時間
【会費】無料
【会場】コンベンションルームAP渋谷
    渋谷駅西口バスターミナル前「渋谷東急プラザ8階」A+Bルーム
    第2部 懇親会 13:30 受付開始  14:00 開始  16:00 終了予定時間
【会費】大人4千円 子供1千円 *乳幼児は無料です
【会場】イタリア料理 イル・グアッテロ
    「渋谷東急プラザ9階」 電話 03-3780-0759
 参加ご希望の方は ①1部のみ参加 ②懇親会も含めて参加 を明記の上、下記までお申し込みください。
hanadokei2010@gmail.com

 よろしくお願い致します。

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『皇道日報』復元成る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 2日(火)22時45分26秒
返信・引用 編集済
   本日、『防共新聞』改め、其の紙名復元の成つた『皇道日報』第一號を戴いた。皇道日報社は、昭和八年、福田素顯翁が創められもの、現在は、其の令孫・福田邦宏(草民)翁に至る。素顯翁は、其の晩年の昭和三十五年、愛國團體二十八組織を糾合し、『時對協』を發足せしめた。生活指針は、素顯翁の「國民の模範であれ」(別册寶島編集部編『平成元年の右翼』平成元年五月・JIC出版局刊)。其の目覺ましき一例を、こゝに掲げたい。



●時局對策協議會『宮内廳長官に與ふる警告文』(時局對策協議會『時對協十年史』昭和四十八年十一月・同刊行會刊)に曰く、

「新聞の報ずるところによれば、郵政省は、今秋、天皇・皇后兩陛下が外遊されるのを記念して、兩陛下の肖像切手を發行することを決めたとのことであるが、これが事實とすれば、誠に遺憾至極であり、重大問題であると言はざるを得ない。

 消印で汚損されることが歴然としてゐる切手に、天皇・皇后兩陛下の御尊像を印刷する等とは、思ふだに恐懼に堪へない大不敬行爲であり、その罪、萬死に價ひすると言ふも、過言ではないのである。郵政省當局が、かかることをわきまへない筈は無いのにも拘はらず、敢てこれを決定したと云ふのは、皇室の權威失墜を狙ふ思想謀略に基づくものにあらざるか、疑ひ無きを得ない。

 一部には、外國の國王、或は元首の切手が發行されてゐることを例示とするものも居るが、これは思はざるも甚だしいものであり、我が國柄は、諸外國とその成り立ち・歴史を根本的に異にして居り、したがつて、天皇の御身分、その御地位は、外國の國王・元首等と、同一次元に於て思考し判斷すべき性質のものではないのである。

 貴長官は、常に兩陛下の側近に奉仕し、國體の明徴と皇室の尊嚴護持には、最高の使命と責任を持つてゐるといふ立場からしても、この問題については、おそらく我々とその憂ひを等しくするものと、信じて疑はない。果して然らば貴長官は、郵政省のかかる大不敬企劃に斷固反對し、これを阻止するやう、速かに對處すべきてはないか。この際、皇室の尊嚴維持のため、和氣清麻呂公的忠誠心と勇氣を持つて、挺身すべきではないか。

 もしそれ長袖貴族的怯懦・無信念で、この問題を拱手傍觀し、結果するところ、兩陛下の肖像切手發行といふ不祥事が出來したとするならば、貴長官の責任、また輕からざるものがあるを銘記すべきである。ここに本協議會の決議をもつて、勸告し警告するものである。

 昭和四十六年三月二十三日、大日本愛國團體聯合・時局對策協議會
  宮内廳長官・宇佐美毅殿」と。



■攘夷戰鬪紙『皇道日報
  ↓↓↓↓↓
http://somerogi.exblog.jp/
舊・『防共新聞』
http://acpress.exblog.jp/

■大日本愛國團體聯合『時局對策協議會
  ↓↓↓↓↓
http://jitaikyou.org/
 曰く、「時對協の基調と精神は、「承詔必謹」、これある而已。
天照大御神の、天壤無窮の神敕に宣はく、
「豐葦原の千五百秋の瑞穗の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就きて治らせ。行矣。寶祚の隆えまさむこと、まさに天壤と窮まりなかるべし」
普天の下、率土の濱、皇臣・皇土に非ざるなし。萬世一系の天皇、皇祖の神敕を受け給うて、日本を統治し給ふ。萬古不易、世界に冠絶する吾が國體の本義が、こゝにある。悠久、實に三千年、日本、即ち皇國たる歴史的・傳統的精神に立脚して、こゝに國體の闡明を期し、民族の道統を守護することを以て、時對協の第一義とす」と。



 愚案、件の『警告文』以降、小生の寡聞なる、我が國に於いて切手上の不敬は、絶えて無い。而今、時局對策協議會議長・皇道日本社主幹・福田邦宏翁の下、鋭意、尊王精神發揚・國體明徴を本願として、皇國中興を目指し、殊に神道・國學に深く研鑽、之れ力めてをられる。益々の發展を祝祷し、何を措いても、皇室の尊嚴を守る運動に挺身されんことを、切願して已まない。謹白。
 
 

有志有縁の方へ‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月 1日(月)20時05分33秒
返信・引用 編集済
   本日、歸宅した所、日本學協會『日本』平成二十五年七月號到來。就中、井星英翁『先師を偲びて(上)』を拜讀しつゝ、涙埀れたり(先師は、平泉澄先生)。其の内容は、餘りに機微に亙るが故に、こゝに紹介を憚るもの、敢へてご遠慮申し上げますが、皇民として、正に必讀の價値あり、有志有縁の御方には、是非ともご閲覽を賜はりたく、伏して御願ひ申し上げる次第です。
  ↓↓↓↓↓
http://members.jcom.home.ne.jp/nihongakukyokai/

「戰後になつて、自由・平等・民主主義などといふ言葉が當り前のやうに流行し、現在も同樣であります。(平泉)先生は、これらの言葉、とくに民主主義といふ言葉を嫌はれ、『同學のある人が、自分への手紙の中に、始終、民主主義といふ言葉を書いてくる』、といつて嘆いて居られました。‥‥フランス革命は、從來、財政・經濟・貧富の較差に因ると考へられてきたが、實際には、ブルボン王朝の宮廷自ら自由思想に溺れたこと、支配階級がヴオルテールやルソーの自由・平等の思想に惑はされ、自ら特權階級から逃れたいと思ふやうになつたことが原因である、と教へられてゐます。確かに今日、自由・平等・人權、さらには國民主權・民主主義といふ言葉が、何の疑問も持たれず、大手を振つて流行してゐるのは、左翼革命思想の勝利であります。日本本來の思想からすれば、自由は自在であり、平等は公平でなければならぬ。人權を言ひ出したら、訴訟・裁判で埋めつくされ、國民主權・民主主義を言ひ出したら。もはやわが國は、革命騒亂への道を進む外ない」と。

 先に田中卓博士には、『平泉史學の神髓』(續田中卓著作集第五卷。平成二十四年十二月・國書刊行會刊)を上梓され、殊に平泉澄先生の祕録『孔雀記』を、遂に顯世に出されました。併せてご閲覽を賜はりたう存じます。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/21
http://syoukansei.fan.coocan.jp/hiraizumisigaku068.pdf

     備中處士、恐懼頓首、謹みて白す。
 
 

諄辭、其の二。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月30日(日)22時33分25秒
返信・引用
  ~承前~

●稻村眞里翁『伊勢參宮・内宮を拜む詞』(昭和二十五年夏、一般崇敬者に、神宮御鎭座の由縁を、深く知らしめむことを念願に作成せられしものなり。『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊)

神風の伊勢の度會の拆鈴(さくすゞ)五十鈴の川上に、底つ岩根に大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて鎭まり坐す、天照坐皇大御神の大御門の大御前に、恐み恐みも白さく、

大御神は、遠き昔、掛けまくも畏き崇神の天皇の大御代に、九重の大内より、大和の國笠縫邑に遷り出でましてのち、大御杖代と、倭姫命の仕へまつりたまふまにゝゝ、國々處々を移りまして、最後(いやはて)に、この五十鈴の川上に鎭まり坐しましてより後は、異處(ことところ)に遷りますことなく、世々の天皇命の御代々々、彌や次々に、神ながらも平らけく安らけく、天の下、四方の國々を見霽(みはる)かしまして、彌や廣に彌や遠に、惠みたまひ幸はへたまふことを、仰ぎまつり忝みまつりて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り、今日の生日の足日に、大前を拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ知ろしめせと、恐み恐みも白す。



●稻村眞里翁『伊勢參宮・外宮を拜む詞』(同上)

神風の伊勢の度會の山田の原に、底つ岩根に大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、神ながらも鎭まり坐します、掛けまくも畏き豐受大神の宮の大御前に、恐み恐みも白さく、

大御神は、青人草の食ひて活くべき御饌の御靈の大神に坐しませば、雄略の天皇の大御代に、天照皇大御神の御諭しのまにゝゝ、丹波の比沼(ひぬ)の眞名井の原より、この山田の原に遷し坐せまつり、かくて世々の大御心にも、別きて崇め仰ぎまつらしめたまふまにゝゝ、瑞の大御殿も、皇大御祖神の大御殿に、ほとゝゝ同じき状に準(なぞら)へて齋(いは)ひまつりたまひ、時々折々の大御祭、はたおほかた等しく仕へまつりたまふ。

故れかくの事を仰ぎまつり恐みまつりて、今日の生日の足日に、大前を拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ知ろしめせと、恐み恐みも白す。



●千家尊澄大人『天日隅宮に白し奉る祝詞』(『松壺文集』所收)

八雲立つ出雲の國の青垣山内(やまぬち)に、下つ石根に大宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて鎭まり坐す、天の下造營(つく)らしゝ、大國主大神の大前に、出雲宿禰尊澄、畏み畏みも白さく、

皇親(睦)神魯伎・神魯美の命持ちて、吾が遠つ祖・天穗日命に仰せ賜ひし次(つぎて)の隨(まにま)に、天の下知ろしめす、皇御孫命の、手長の大御世を、堅石、常石にいは(齋)ひ奉る事を、平らけく安らけく聞こし食して、足らし御世の茂かし御世と、幸はへ奉り賜ひて、萬世に大坐さしめ賜へし、稱辭竟へ奉る。

更に白さく、公民(おほみたから)の水沫(みなわ)畫(掻)き埀り、向股に泥埀(ひぢか)き寄せて、取り作らむ奧つ御年を始めて、種々の物を、惡しき風・荒き水に相(あは)せ賜はず、八束穗のいかし穗にさき(幸)はへ賜ひて、四方の國の片國なる百姓(おほみたから)に至るまで、平らけく安らけく、夜の守り・日の護りに、護り惠み賜へと、鵜じ物頸根築き拔きて、恐み恐みも白さくと白す。



●久保季茲翁『内外の汚穢れを清むる詞』(『祝詞作文便覽』に所收)

掛け卷くも畏き、天に坐す神・國に坐す神の、惠み給ひ養ひ給ふ、顯見しき蒼人草はも、天の下に在らゆる萬の物の中に勝り優れて、其の靈(みたま)は、即(やが)て其の天つ神の、授け給ひ與へ給へる御賜物と、清き直き美(うるは)しき、奇魂くしびに、幸魂幸はふ、人の本つ主(ぬし)に在れば、傷むる事無く損なふ事無く、放(はふ)らさず汚さず、治め留め齋ひ鎭めて、目には諸々の不淨(けがれ)を見、耳には諸々の不淨を聞き、鼻には諸々の不淨を嗅ぎ、口には諸々の不淨を舐め、且(ま)た諸々の不淨を言ひ、身には諸々の不淨を觸れ、心には諸々の不淨を思ふとも、速やけく直らに美(うま)らに清らに明らに祓ひ清めてば、諸々の事物は、形に影の添ふ事の如く、花の後に菓(このみ)生(な)る事の如く、吉き事には福(さき)はひ從ふ神つ理りの隨に、此の身・此の心盡に、清く明く直く正しく、我が靈(みたま)は、畏けれども天地の大神等と同じ根種(ものだね)・萬の物の靈の物と、平らけく安らけく、天つ神・國つ神、相うづなひ相幸はへ給ひて、請ひ願(ね)ぐ事共、心の隨に、成就(な)し給ひ惠み給はむ物ぞと、大神等の授け給ひ傳へ給へる、可美(うま)し道・可美し御法(みのり)、天つ宮事以て、天つ璽(しるし)の神寶なす、上无き奇靈(くす)しき、天津祝詞の太祝詞事、言ひ祓ひ、祈(ね)ぎ祷(いの)り奉らくと白す。
 
 

『日本書紀』に曰く、「諄辭」

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月29日(土)20時21分21秒
返信・引用 編集済
   明日は、夏越の大祓。累積の罪咎を、只管ら懺悔して、徹頭徹底、祓ひ清めてむ。

 而して今こゝに、稻村眞里翁の所著、
一、『評釋・近世名家諄辭集』昭和七年十一月・明治書院刊
一、『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊
一、『祝詞作文』昭和三十一年七月・神社新報社刊
に據りて、諄辭(祝詞)を些か掲げみむ。



●本居宣長大人『藥神を拜む詞』(『鈴屋集』)

掛け卷くも畏き、大穴牟遲命・少名毘古那命、二柱の大神の大前に、○○○○、恐み恐みも白さく、

遠つ神代に、二柱相竝ばして、御心を合はせ賜ひ、御力を合はせ賜ひて、諸共に、大八洲國、修理(つく)り堅め賜ひて、國作り坐しゝ大神と、稱辭竟へ奉る大神等(たち)、諸々の病を治むる藥の方(みち)をも、始め賜ひ定め賜ひて、天の下に、所有(あらゆ)る顯見(うつ)しき青人草の、苦(う)き瀬に落ちて、あつか(熱)ひ惱むことを、助け賜ひ救ひ賜へば、此の某等が醫藥(くすり)の業(わざ)も、大神等のめぐ(惠)み賜ひ、ちは(靈幸)ひ賜はむ御靈に依りてし、過つ事無く、驗(しるし)は有らむと、廣き厚き恩頼(みたまのふゆ)を、恐み恐みも歡び奉り、うれ(嬉)しみ奉らくと、○○○○、恐み恐みも白す。



●渡邊重春翁『諸神通用・神拜の祝詞』(明治七年。書肆の需むるに應ず)

掛け卷くも綾に畏き、大神の御前を、愼み敬ひ拜(をろが)み奉りて、惶み惶みも白さく、

遠つ神代に、天つ神、諸々の大詔(おほみこと)以ちて、伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神に、此の漂へる國を修理り固め成せと、詔(の)りごち給へるは、青人草を住ましめて、蕃息(うま)はり隆(さか)えしめむの大御心に坐せば、二柱の大神を初めて、八百萬の神等も、其の大御心を受け給ひ續ぎ給ひて、爲しと爲し給ふ御業(みしわざ)に、青人草をめぐ(惠)し愛(うつく)しと念ほし食さぬはなし。

故れ青人草の食物・着物・住家を初めて、有りと有らゆる萬の物は、皆な神等の御恩頼に依りて、生り出づる物にしあれば、遠つ祖(おや)より、一日・片時も落つる事無く、洩るゝ事なく、蒙(かゝぶ)り來つる廣き厚き御恩頼を、嬉しみ奉り忝み奉りて、謝(ゐや)白し奉るとして、拜み奉る眞澄の鏡の、清き赤き心の底ひ知ろし看して、今も往く前(さき)も、枉神の爲さむ枉事に、相率(あひまじこ)り相口會はしめ給はず、遠く遙けく追ひ退け給ひ打拂ひ給ひて、惱ます事なく、害はしむる事なく、日々の行ふ事(わざ)、手の躓(まが)ひ・足の躓ひ有らしめ給はず、親族・家族に至るまで、己が乖(む)き々ゝ有らしめ給はず、彌や益々に和び睦びて、家の業(なり)を彌や務めに務めしめ、彌や進めに進めしめ給ひて、子孫(うみのこ)の八十屬(つゞ)き、彌や嗣々に、茂(いか)し八桑枝の如く、立ち榮えしめ給ひ、過ち犯す事の有るをば、神直日・大直日に、見直し聞き直し坐して、夜の守り・日の守りに、守り給ひ幸はへ給へと、鹿じ物膝折り伏せ、鵜じ物頸根衝き拔きて、畏み畏みも白す。

[稻村翁の曰く、「此の一節、祈願の主意を考ふるに、要するに、一身一家の上を祈願するに止まれり。これは自己繁榮せば、延いて國家の爲に國民の本分を盡すには至るなるべけれど、題意にかなはん祝詞としては、先づ以て、上御一人の御上を祈願し奉りたきなり。願はくば、國民擧りて、陛下の御爲に祈願し奉り、億兆一心、大君の御楯となりて、横邪の僻説の窺ひ寄り來むひまも隙もなきやうにあらまほしきなり」と。愚案、然れば、「辭別きて」(此の「辭別」、こゝは、補遺の意に採らずして、特別に事を取り立てゝ白す謂ひに用ふ也。此の「辭別」の表現を用ゐて巧みにして、而も一定の形式を確立せしは、平田篤胤大人の御由)以下、次の如き祝詞(『内宮御遷宮遙拜詞』──『宮西惟助先生祝詞集』所收)を加上す可きなり。]

辭別きて、天皇朝廷(すめらみかど)の大御榮を、天地の在りの極みに守り導き給ひ、國の光を、天つ日の照らさむ限り耀かせ給へと、恐み恐みも拜み奉り聞え奉らくと白す。



●稻村眞里翁『贈正四位・眞木保臣大人靈祭の祝詞』(近體)

謹みて贈正四位和泉の守・眞木の保臣大人の御靈の前に白さく、

嗚呼、大人の一生は、たゞ精忠の二字に輝きたまへり。世の忠臣・義士たるもの、固より數へも盡すべからず。然れども至誠・至醇、國體の眞髓を明かにし、これが基礎の上に、尊皇の偉業を畫策し、識見、時流を拔きて亭々たるもの、眞に匹儔多からざるなり。己、遠く東國に在りて、二十年前、大人の名を耳にし、近き年頃、この縣に來りて、漸く大人の偉業を聞知し、昨年、大人の奉仕したまひし水天宮に詣で、大人の外孫樋口氏を訪れて、大人の功績を審かにし、大人の遺墨・遺品を拜して、更に愈々敬慕・欽仰の情に堪へず。

嗚呼、大人、世を去りたまひて、乾坤一轉、皇政復古の大業成り、かくて日月怱々、已に五十餘年を經過し、人文の進歩涯なく、世態の變遷、人情の推移、亦た驚くに堪へたり。然はあれどもその進歩は、果して眞の進歩といふべきか。世態・人情、これはた善美の方向にあるか。大人が在天下の英靈、如何にか看そなはすらむ。

嗚呼、聖天子、上に坐しまし、賢良、朝野に充ちてはあれど、大人の高風を欽慕するもの、大人が學術の淵源を究め、大人が至誠・至醇の精神を學び、以て世に處する所以の道を明らめずして、可ならむや。本年本月本日、久留米市の有志諸氏、大人のために靈祭を執行せらるゝに當り、己、亦た席末に列し、俯仰、感慨に堪へず、拙歌一首を獻げて、謹みて欽仰の意を聞えまつる。

足引の み山の露と 消えませど 君が千年の 名こそ朽ちせね

大正九年七月二十一日、國幣大社高良神社宮司・從六位・稻村眞里、謹みて白す。



『聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/18

『明治天皇御惱御平癒奉祷の祝詞』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1501

『雛祭の祝詞』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1520

『高山彦九郎、三條橋上皇居遙拜の詞』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/23
 
 

宮内省藏版『殉難録』は、平家物語・太平記を嗣げる史傳史詩なる可し。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月20日(木)23時50分37秒
返信・引用
    宮内省藏版『修補・殉難録稿』(昭和八年十一月・吉川弘文館刊)は、嘉永六年癸丑より慶應三年丁卯までの殉難者の傳記なり。明治四十二年十二月功成、二千四百八十餘人採録。編纂主任は、梨本宮家令・西尾爲忠、宮中顧問官・文學博士・川田剛、主獵官兼諸陵頭・男爵・足立正聲、圖書助心得・高島張輔を經たり。
一、前篇。卷一~卷二十三・附録。
一、中篇。卷二十四~卷四十一。
一、後篇。卷四十二~卷五十五・附録。

 就中、「殉難」の御字は、畏くも代々木大神の「赤き直き眞心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各もおのも死亡りにし、其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば安國と知し食」され給へる大御祭文、其の漢譯「殉難死節」、「殉難安國」に出づと恐察す。而して其の筆法は、平家物語・太平記に傚へる史傳にして、考證確實、壯大かつ敍事詩的維新通史と爲る、實に川田甕江博士の力に因る所、最も多し矣と云ふ。此の筆法、今日すたるゝ所なりと雖も、之を復興せしめば、少年少女への影響、尠なからずと確信す。各傳大部のものなれば、一の短編を謹寫して、其の面影を傳べし、有志博雅の士の、一夜燈下の伴と成すよしもがな。




○蘇峰徳富猪一郎菅原正敬翁『修補・殉難録に題す』に曰く、

「人生、古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らす。蘇峰正敬、題す」と。



○虚心黒板勝美博士『修補・殉難録の卷頭に辯す』に曰く、

「夫れ事は、成れる日に成るにあらず、必ずや幾多犠牲となれるものありて、その事、すなはち成る。而かも事、大なれば大なる程、多數の犠牲を出す、固よりまた言ふを俟たざるなり。明治維新の鴻業は、實に我が國史に於て、前古未曾有の事に屬す。嘉永癸丑、米艦、浦賀の埠頭を壓して、黒烟を吐きしよりこの方、徳川氏の大政奉還に至るまで、その間、僅かに十五年の短日月にして、而かも勤王憂國の志士、非命に斃れたるもの、幾千ぞ。明治維新の鴻業は、是等勤王憂國の志士が、所謂る人柱となりて築き上げたりといふ、豈に過言ならんや。

 嗚呼、明治天皇、聖徳、日の如し。是等志士の神靈を崇めて、靖國神社に合祀せしめ給へり。志士の神靈は、天翔り國翔り、永く護國の神とまします。『殉難録稿』は、實に是等勤王憂國の志士を傳したるものなり。明治十七八年の交、はじめて宮内省に於て輯録せられ、明治二十六年より、稿成るに從つて、順次、之を上木し、完成に至るまで、凡そ十有五年、採録するところ、實に二千四百八十餘人に上れり。而して本書は、後ち更に修補訂正を加へ、淨寫して、宮内省圖書寮に架藏せられしもの、こゝに二たびその公刊を見るは、國民精神鼓舞作興の上に、大旱雲霓を得たる感なくんばあらず。一は以て明治維新の鴻業が、如何に多數の人柱によつて築き上げられたるかを知らしめ、一は以て是等幾多の憂國慨世の志士が、如何に皇國の大義に本づき、至誠一貫、國家の爲めに盡瘁せしかを覺らしむ。余は、本書の弘く國民の間に讀まれて、天地むた窮まりなき皇運の、ますゝゝ榮えまさんことを祈るものなり」と。



○卷之三・戊午黨獄『櫻眞金』に曰く、

「櫻眞金は、常陸の國眞壁郡眞壁の人にして、本姓・小松崎氏。幼名を一雄、字を飛卿といひ、相良六郎、または村越芳太郎と稱す。後に氏を櫻と改め、任藏と稱す。父・玄瑞は醫師なれど、眞金、其の業を繼ぐことを欲せず。年十六七の頃、水戸藩なる藤田彪(東湖先生)が弟子となりしに、酒を飲み人を罵り、或は劍を拔き柱を斫り、或は歌ひ或は泣き、傍若無人にふるまふをもて、人、これを狂生といへり。されど人、もし急難あれば、嚢中に一錢の蓄へなしと雖も、衣を賣り物を鬻ぎて、これを救ひ、聊かをしむことなし。

 その頃のことにや、潮來村の山中なる養魚池に、毎夜、妖怪來りて魚を取食ふといひ傳ふ。人里遠く、物すごき處なれば、村民等おそれて、敢へて往き見るものなし。眞金、これを聞き、「我に酒錢とらせなば、池守となりてん」とて、そこに廬を結び、唯だ一人、書を讀み、古人を友として、二歳ばかりこもりゐたり。さてその友とする中にも、兒島三郎高徳が風を慕ひていへらく、「楠・新田諸公の勳業は、敢へて企て及ぶ可きにあらず。我は、たゞ三郎が流離艱難、百折不撓の忠節に傚はんと思ふのみ」と。又た高山正之(赤城先生)・蒲生秀實(靜修翁)が事跡を尋ね訪はんがため、其の舊里に赴き、正之が自筆の日記數卷を得て、これを珍重すること、漢儒が孔壁の古文を視るにことならず。天保の末、江戸にゆきて、松本來藏(寒緑)・尾藤高藏(水竹)・藤森恭助(天山翁)など、數多の名士に交はり、かなたこなたに寄食しつゝ、傭書・按摩をもて業とす。その貧窮なること、思ひやるべし。

 是より先、眞金、父におくれ、老母一人を故郷に殘しおきつれば、抱關撃柝、いへばさらなり。いかなる賤役をもして、これを迎へ養はゞやと思ふ折しも、幕府の小普請奉行・川路左衞門尉聖謨(敬齋)の薦めに由りて、ある官署の門卒となり、小普請物書役に擧げらる。聖謨もさる物なれば、彼が凡人にあらざることを察し、よくもてなししかば、眞金、漸く俸祿を得て母氏を養ひ、聊か餘財あるときは、これを貧士に分ち與ふ。ある夜、兩國橋を過ぐるに、若き女の、身を投げんとするがあり、いそぎ引きとめ、事の子細を尋ぬるに、女、つゝみかね、「妾は何某の娘なるが、兄にて候ふもの、無頼にして、此の身を苦界に沈め、酒色の料にせんとす。からうじて内をば逃れ出でたれど、よるべなき身の、生きて父母の恥をさらさんよりはと、思ひ定めて、かくこそ」といふ。眞金、其の志を憐れみ、伴ひ歸りて、女弟のやうにもてなし、年經て後、これをさるべき士人にめあはせける、となり。

 弘化元年、水戸中納言齊昭(烈公)、讒口に由りて押しこめらる。眞金、目を病みてこもりゐたりしが、これを聞き、うち驚き、「こは、一藩の興廢のみならず、天下の治亂にも關係すべし。救はずばあるべからず」とて、日夜奔走、樞機を求めて、さまゞゝに歎き訴へけれども、甲斐なし。然るに阿部伊勢守が臣・石川和介といふ者、日頃親しかるにより、此の人に就きて、其の罪なきよしをいひ解きけるに、程經て幽閉をばゆるされたり。かゝる處に、外國使船渡來し、幕府、其の措置に苦しみ、和戰の議、決せず。小吏・中西忠藏といふ者、眞金と同志の友なりけるが、或る時、打ち寄りかたらひ、「今の時勢を濟はんには、水戸中納言ならで、其の人あるべしとも覺えず」など、又た彼の和介して、これを伊勢守にいはせければ、幕府、遂に齊昭に命じて、軍國の大議に參預せしむ。

 其の頃、攘夷の論を主張するもの、薩摩に西郷隆盛(南洲翁)、長門に吉田矩方(松陰先生)、肥後に長岡是容あり。眞金、是等の人々に交はり、殊に隆盛と親しかりければ、薩摩藩主・島津齊彬(順聖公)、その志を感じ、名刀一口を贈らる。安政二年の冬、江戸大地震あり。齊昭、眞金に米百俵を贈り、その禍を慰問せらる。眞金、大いに喜び、「明君の恩賜、徒費す可きにあらず」とて、盡く之を窮民に施し、升合も家にとゞめず。齊昭、ますゝゝ感稱し、明年、これに七人扶持を送り、客禮をもて待遇せらる。五年、老中・堀田備中守、外交勅許を申請はん爲めに上京す。眞金、かくと聞き、中西忠藏と同じく馳せ登り、同志の人々をかたらひ、公卿に關東の情状を告げ、勅許の事、然るべからざるよしを申す。

 かくて東に歸りしに、程なく黨獄興りて、浪士を追捕す。眞金、ひそかに江戸を立出て、木曾路より伏見にいたれば、こゝも詮議きびしく、剩へ其の容貌雄偉なるをもて、捕手の者ども、追跡してやまず。眞金、一計を案じ出し、旅宿につき、やがて娼妓を招き、歌舞遊興、他事なく見せかけ、遂に虎口を逃れ、山陰・山陽の諸國を經めぐり、又た京師に往き公卿に見え、時勢を陳することを得たり。其の後、播磨より吉野に遊び、後醍醐天皇の山陵を拜し、十津川を踰え、紀伊を經て浪華に至り、形を變じて商家の小者となり、姓名を渡邊純吉と改め、忍びて時機を伺ひたりしが、明くる六年七月六日、俄かに病みてうせぬ。この人、詩歌の道にもくらからず。別號を月波山人といへり。死する時、年四十八。水戸藩、其の志を追賞し、其の子・春雄(允緝。義子)に食祿を與へ、これを士籍に列せしむ」と。



【參考・贈正四位・高山赤城先生と贈從四位・櫻月波翁】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/4
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/18
 
 

天晴れ、烈婦登波は、大和魂の凝固せる、士大夫にも愧ぢざる節操なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 6月 8日(土)14時01分35秒
返信・引用 編集済
  ●吉田松陰先生『諸生に示す』(安政四年丁巳閏五月三日。『丁巳幽室文稿』上卷に所收。山口縣教育會編『吉田松陰全集』第三卷・昭和十年三月・岩波書店刊に所收)

 士、別れて三日なれば、刮目して相待つ。一日見ずんば、三歳の如し兮。朋友相與の情、學問日新の機、誠に是くの如き者有り。況んや一月に於いてをや乎。余、頃ろ心に一文を構ふも、事、考據に待つ有り、遽率(にはか)かに能く辨ずる所に非ず。因つて嚴に一月を課し、諸君を謝絶し、他業を廢棄し、以て之(烈婦登波傳『討賊始末』)を成就せんと欲す。牀に對し燈を分つ、平日の精、裁割すこと易きに匪ず。是を以て文を作つて、諸君に辭す。諸君、顧(おも)ふに亦た時に乘じて精苦し、以て我が目を刮して、三歳の情を慰むる有れ。

 昔、宋の太宗、一年を以て『(太平)御覽』千卷を讀完す。諸れを一月に率すれば、殆んど九十卷なり。『御覽』は、毎卷十數張に過ぎず、多きも僅かに二十許張のみ耳。然れども政を聽くの暇、之を爲せば、則ち勤めたり矣。諸生に在つては、言ふに足らず。先輩・雨森芳州先生は、門人と『漢書』を讀み、一月にして終へり。謂へらく、「晝夜、併せ讀まば、十五日にして乃ち可なり」と。是れ、以て書生の規と爲す可き也。諸君は精鋭なり。意ふに、必ず古人に輸(ま)けざらんも、獨り余の昏惰なる、志の如くする能はざるを恐る。然れども一月にして能くせずんば、則ち兩月にして之を爲さん。兩月にして能くせずんば、則ち百日にして之を爲さん。之を爲して成らずんば、輟めざる也。諸君、願はくは併せて此れを知れ。閏月初三、二十一囘生、書す。



 愚案、嗚呼、烈婦登波、偉なるかな哉、實に懿なるかな哉。彼の烈婦の義擧、岡田則夫翁より拜聽して、感激、尠しとせず。些か次に抄記して、諸賢と感激を共にせむ。『討賊始末』・『烈婦登波の碑』は、抑も松陰先生畢生の大事業、即ち松下村塾の講義を、一箇月間、休講を爲してまでの、決意の撰文である。烈婦登波の爲人は、張至増・勝間田灣翁・靜間衡介・周布觀山・松陰先生・松下村塾門下、亦た高須久子刀自等の認むる所、其の貞烈勳功は、身分種族に非ずして、正に人、其の氣節行義に在るを知るに足らむ矣。

 然るに此の碑の撰文顯彰は、故意か否か、長らく忘れられてゐた。天保十二年復讐の足掛け七十六年後、松陰先生撰文の六十年後の大正五年に至り、長府藩報國隊士・桂彌一孝俊(「長門尊攘堂」建立者)翁の進言に從ひ、地元の中山太一氏の寄附によつて、長門國豐浦郡の郷社・瀧部八幡宮に建碑された。明治四年、登波は七十三歳で終つたと云ふから、實に烈婦沒後四十六年の顯彰であつた。



●吉田松陰先生『烈婦登波の碑』(周布公輔──贈正四位・觀山周布政之助藤原兼翼、字は公輔翁──に代りて起稿す。『全集』第三卷に所收)

 烈婦、名は登波、長門國大津郡角山村の(向津具上村川尻浦の山王社──現・日吉神社)宮番・幸吉の妻也。父を(豐浦郡瀧部村八幡宮の宮番)甚兵衞と曰ひ、弟を勇助と曰ふ。亦た幸吉と職を同じうし、豐浦の瀧部に居る。宮番の職(「乞食非人などに比べて、××(此の二字、『全集』原刻のママ。以下、同然)より又た一段見下けらる程の者」)は、神祠を掃除し、兼ねて盗賊を緝捕するも、良民の齒ひする所と爲らず。而して三人は任侠自負し、劍客博徒、往々焉れに過ぎる。幸吉に、妹・松有り。枯木龍之進の妻と爲る。龍は備後の××也。自ら石見の浪人と稱し、妻を携へて諸國を往來し、撃劍を以て人に教ふ。

 文政(四年)辛巳十月二十九日の夜、枯木夫妻は、幸吉と同じく甚兵衞の家に會す。龍に、先妻の一女有り。甫めて八歳、時に諸れを乞兒小市の所に匿す。龍は、乃ち其の妻を幸吉に託して、獨り上國に遊ばんと欲す。實は之を去る也。其の妻と幸吉とは之を知り、切に其の非義を責む。龍が意色、殊に惡し。座客、爲めに之を慰解す。而して龍は、遂に松と婚を絶ちて、將に去らんとす。時に夜暗く、雨、甚だし。甚兵、留めて之を宿す。丑夜、龍、起きて、盡く甚兵・勇助・幸助及び去妻を刃(き)りて去る。三人は即ち斃れ、獨り幸吉のみ殊(た)えず。

 烈婦、變を聞き、急遽趨き、拯(すく)ふも及ばず。首め復讎を以て請ふ。藩、爲めに龍を追捕するも、獲る所ろ無し。之を久しうして幸吉が創(きず)、稍や已むも、轉じて他の症と爲り、蓐に在ること五年、烈婦が看護、具さに到る。然れども烈婦、心に常に大讎の未だ復せざるを悼み、又た夫の病の輙(たやす)く起つ可からさるを料り、間に乘じ、夫に語るに、志を以てす。幸吉、大いに悦びて曰く、「夫(か)の賊は、既に汝が父弟の讎爲り、又た我が妹の讎爲り。我、汝と久しく偕老を契る。汝が父弟は、猶ほ我が父弟のごとき也。今ま我、不幸にして病廢す。假令ひ汝を助けて讎を復すること能はざるも、寧んぞ汝が志を礙(さまた)ぐるに忍びん。汝、速かに出でて、賊を探せ。我が病ひ少しく平かば、當に追うて汝を助くべけんのみ耳」と。烈婦、且つ泣き且つ拜し、行裝して家を出づ。實に(文政八年)乙酉三月也。時に年二十七。

 烈婦、既に家を出でて、山陰より東上し、近江・美濃を過ぎ、伊勢より紀伊を囘り、京畿諸國、捜索、遺す無し。是に於て賊、復た近くに在らざるを測り、中山より東下し、直ちに南部の恐山を極め、奧羽を探り、關東を捜り、北陸を經、東海を歴り、転じて南海を周り、反りて安藝を過ぐ。外に在ること、蓋し十二年、辛苦、具さに嘗め、然る後に賊の在る所を□[言+絅の右]察するを得たり矣。龍の女にて乞兒の所に匿せし者は、彦山の山伏が收養する所と爲り、既に長じて人に嫁し、龍の母は、備後の三次に居る。故を以て龍、時に或は其の間を往來す。烈婦、既に具さに實を得、大いに悦びて國に歸り、事を以て官に白し、復た復讎を以て請ふ。未だ許さず。烈婦、家を出でて後ち一年、幸吉も、亦た病を力めて、出でて賊を探りしも、其の終はる所を知る莫し。烈婦、痛哭して、志を秉ること益々堅く、急ぎ彦山に如(ゆ)きて、賊を撃たんと欲す。烈婦の東海を歴、獨り常陸に留まること三年、援を求めて龜松を得たり。龜松は、筑波郡若柴驛の民なり。固より壯健、義を好む。烈婦の志を憐れみ、復讎を助くるを許す。是に至り、首として其の謀に贊成し、因つて與に下關に至りしも、代官所の追止する所と爲れり。藩、乃ち追捕を彦山に遣はし、賊状を探問せしむ。天保(十二年)辛丑三月、賊、捕へられて自殺す。因つて瀧部村に梟首す。烈婦、走りて首の下に就き、匕首を之に擬し、睨み且つ罵りて曰く、「汝、豈に我を記するや乎。吾は甚兵衞の女、勇助の姉、而して幸吉の妻也。汝、吾が父と吾が弟とを殺し、吾が夫を傷つけ、又た吾が夫の妹を殺す。吾、爲めに讎を報いんと欲し、五畿七道、探討、粗ぼ盡す。而して一撃を汝の身に逞うする能はざりしは、是れ吾が憾み也。然れども天道國恩は、遂に汝を此に致すを得たり。汝、其れ其の罪を知れ矣。汝、豈に我を記するや乎」と。

 時に本郡の代官・張君至増、之を義とし、建白して一口米を賜ひ、其の身を終はらしめんとす。安政(三年)丙辰、藩命して孝義を旌表す。代官・勝間田君盛稔(權右衞門、號灣翁)、烈婦を建白し、其の門戸に旌表し、特に米一苞を褒賜す。明年、余(周布觀山翁)、君に代り來つて、此の郡を宰す。謂へらく、「幸吉は、身、先に歿すと雖も、而も志は、實に其の妻と同じければ、則ち夫妻は、宜しく永く其の宮番の職を免じて、良民に齒ひすることを得しむべし」と。藩議審重、月日、可すを得たり。余、乃ち因つて郡を巡りて、烈婦を引見す。烈婦、時に五十九歳なり。身體健全にして、容貌、未だ衰へず。其れをして其の復讐始末を語らしむるに、感慨悲□[立心+腕の右]、聲涙、倶に下る。余、既に其の志を悲しみ、又た其の事の久しうして、或は□[三水+民]滅せんことを恐る。是に於て碑を建てゝ、文を勒し、其の跡を紀し、其の烈を表し、之に重ぬるに銘を以てす。銘に曰く、

混々たる原泉、海に朝宗す。
洋々たる大魚、龍門に龍と爲る。
懿なるかな矣、烈婦、習坎、惟れ通ず。
身、賤し兮と雖も、門閭、庸(勳)を表す。

 右、擬稿、粗(ほ)ぼ成る。而るに宮番の良民に齒ひせしは、藩に故事無し。是を以て廰議遷延し、建碑の事も、亦た姑(しばら)く停止す。然れども烈婦の事跡は、此に至りて其の粗(あらまし)を得たり。後に作る者有らば、將た取る所ろ有らん焉。(安政四年)丁巳七月既望、識す。
 (五年)戊午の冬、登波、特に良民に齒ひす。而して公輔は、則ち去りて他の職と爲り、建碑の事、遂に復た議せずと云ふ。重ねて識す。(六年)己未五月。



●吉田松陰先生『討賊始末の敍』

 安政(三年)丙辰、藩命、孝義を旌表す。是に於て都濃郡に、正(まさ)有り。吉敷郡に、石(いし)有り。皆な孝婦也。而して大津郡に、又た登波有り。登波の事、最も烈なり。夫れ正は、一身にて老父母を養ひ、贅壻、一たび去るも、永へに不嫁を誓ふ。石は、空閨、病める舅姑を奉じ、貞節、夫を感ぜしむ。夫、復た出でず。是れ皆な今世、少(まれ)なる所にして、正は年九十四、石は年六十八、生存して今に迄る。今ま竝に旌表を蒙る。亦た榮ならざらんや乎。而して兩婦の貧苦艱難は、多く年所を歴、誠に人の堪へざる所ろ多し。然れども猶ほ平常の事なるのみ耳。登波に至つては、則ち然らず。強敵□[風+場の右]去して、其の所在を知らず。捜りて獲ざれば、死すと雖も、返らんことを顧はず、捜りて獲ては焉、復た其の反撃を懼る。豈に特に流離奔走、困厄艱難のみ而已ならんや哉。其の初めや、蓋し懦夫の忌む所、俗人の怪しむ所にして、其の志、遂に功成るに及んでは、則ち悦服せざる莫し。一旦にして進み、二孝婦の間に列りて、光り有り焉。

 今茲丁巳、余、大津郡代・周布公輔の爲めに、烈婦登波の碑稿に擬す。登波の志を遂げしは、蓋し今を距ること、僅かに十七年なり。登波、年五十九、今ま猶ほ生存す。而も事實轉訛、文書錯亂して、徴す可からざるに至る焉。郡代の胥徒・靜間衡介なる者、古を好み義を重んじ、前代の時より、深く其の湮滅を惜しむ。故牘を點檢し、又た登波及び父老及び其の事を知れる者に歴問して、大抵の記を爲る。余、又た懇ろに知友を求めて、當時の文書數通を得、資りて以て碑稿を擬す。碑稿、已に成りしも、事實の猶ほ挂漏して棄つるに忍びざる者有り。是に於て又た『討賊始末』を作る。噫、登波の烈は、二孝婦に列りて、光り有り焉。之を千秋に傳へて、訛らず錯はず、取りて以て徴す可き者は、其れ或は諸れを此に觀むか也歟。安政四年丁巳六月念五、二十一囘猛士・藤寅(藤原寅二郎)、書す。

[(『討賊始末』に曰く、)抑も登波が事、平民に加へらるゝは、頗る大議にて、初め周布政之助兼翼、御代官たりし時、政府へ申出でたれども、政府にて先例なければ、事、姑く止めになりたり。已にして政府より郡方へ、先例はなきかと問ひければ、郡方本締・佐藤寛作、對へて曰く、「昔、秦人、松を以て五大夫とす。是れ、何ぞ先例に預からん。天下、孝義より重きはなし。登波賤しと云へども、豈に松の比ならんや。松の功、豈に登波の孝義にしかんや。且つ宮番、かゝる復讎せしことも、又た先例なし。非常の事なれば、非常の賞、素より當れり」と。政府、一咲して已む。獨り唐船方・中村道太郎清旭(贈正四位・淡海中村九郎清旭)曰く、「孝義、固より重し。然れども本邦、尤も名分を重んじ、種族を別つ。此の議、輕易にすべけんや。此の議を愼重するは、即ち孝義を重んずる所以なり」と。是に於て儒者・近藤晉一郎芳樹(萬本と號す)に命じて、是を議せしむ。芳樹、古史を引いて例とし、此の議、疑ふべからざる由を建白す。政府、乃ち其の議を採り、且つ登波の素性、播磨の百姓にて、幸吉も、元來、奧阿武郡の百姓なれば、一旦、宮番となると云へども、賤を放つて良に還すの譯なれば、疑ひなしと決したるなり。嗚呼、是れ登波の榮のみならず、實に政府の美事と稱すべきなり。]



●吉田松陰先生『松浦松洞、大津に之き、烈婦を貌するを送る敍』(『丁巳幽室文稿』上卷に所收)

 吾が邑の松浦松洞(贈正五位・龜太郎知新)は、幼きより□[石+間。はざま]西涯に從ひて畫法を學び、夙に神童の稱有り。西涯、甞て『畫斷』を著はす。其の言に曰く、「日月星辰の冕服に於ける、龍虎鳥龜の□[施の也の代りに斤。き]□[施の也の代りに兆。てう]に於ける、畫に無用の者無し。殷高(殷の高宗)の説を獲るや也、物色に於いてし、畫用、益々著はる。其の後ち麟閣雲臺、累々として繼出し、以て功徳を頌す可く、以て規箴に備ふ可し。畫の用爲る、是に於てか書と竝べり矣。唐の王維、出づるに及び、山水樹石、風流の畫と爲り、畫、始めて山人野客の玩物と爲る。歳變り月遷り、古意蕩然として、復た存する者無し。甚だしきは則ち文人もて自ら處り、有用の者を黜けて、俗工と爲す。而して畫、終ひに無用の長物と爲りて止む」と。

 松洞、其の説を服膺し、因つて之を廣めて曰く、「山水を舍いて、人物を貌すれば、畫、始めて用有り。他人を舍いて、邦人を貌すれば、其の用、益々近し」と。是に於て遍く國史を讀み、忠孝義烈の事に遇はゞ、輙ち一圖を作りて、之を表さんと欲す。又た天下を跋渉して、古祠名刹の祕藏を捜り、英雄の遺像を索め、寫して諸れを後世に傳へんと欲す。事、皆な未だ緒に就かず。

 今茲(ことし)七月、余、大津の烈婦(登波)の事を紀して成る。松洞、蹶起して曰く、「古人を舍いて、今人を貌す。是れ、有用の尤なる者なり」と。因つて筆を提(ひつさ)げ紙を持ちて、將に直ちに大津に走らんとす。曰く、「當今二國(周防・長門)、貌す可きの人、亦た尠からず矣。況んや天下の大をや乎。吾れ乃ち隗より始めん也」と。偶々清狂和尚(贈正四位・月性知圓)、破衲弊笠、禿髮數寸にして、新たに京師より還る。余、松洞の袂を引いて之を留め、『狂僧西錫の圖』を爲らしむ。圖、成る。酒を酬して序を作り、餞して其の行を送る。且つ曰く、「他日、有用の圖卷成らば、其れ清狂を以て首と爲せ」と。因つて此の序を以て、遂に之を冠す。



●吉田松陰先生『烈婦登波の書に跋す』(安政四年九月十六日。『丁巳幽室文稿』下卷に所收)

 是は、烈婦登波、自ら其の名を書せるもの也。登波は賤徒にして、何ぞ曾て書を識らん。顧ふに、其の貞烈奮激、諸れを心に發し、諸れを手に運ぶのみ。乃ち爾か觀る可き也。登波が復讎の事、固より已に烈なり矣。頃ろ又た將に石見に往いて、夫の墓を索めんとす。夫の死して三十年、未だ其の死せし所を知らず。而かも登波の年、且(まさ)に六十なり。斯の行、亦た難し矣。歳丁巳九月十六日、登波、吾が松下を過ぐ。余、止めて之を宿せしむ(愚案、登波の如き者を宿すこと、それ自體、當時に在つては、一種の事件と謂ひつ可し。高須久子刀自が野山獄入獄の經緯を以て、之を知る可き也。松陰先生、刀自を「うし」、即ち大人と稱せり)。登波は寡言沈毅、状貌は猶ほ丈夫のごとく、利き匕首(あいくち)を懷にし、起臥、暫しも離さず。道太(中村淡海)來り見て、其の事に感じ、其れをして自ら其の名を書せしめ、余をして之に跋せしむ。



●吉田松陰先生『烈婦登波の書に跋す、三首』(安政四年十一月七日。『丁巳幽室文稿』下卷に所收)

 是は、烈婦登波の手書也。登波の事は、余、諸れを『討賊始末』に著はせり。丁巳十一月五日、登波、重ねて吾が松下村に來る。權介、婦を拉して其の家に宿せしむ。因つて其れをして之を書せしめし也。初め吾の檻輿、江戸より還る、權介は衡卒の中に在り。有隣(陶峰富永彌兵衞悳彦翁の字)は、吾と同じく野山獄に在り。權介、偶々來りて獄胥と爲る。獄胥衞卒の習ひ、囚を待つこと土芥寇讎の如く。而して其の吾を待つに、士禮を以てする者は、權介のみ而已。其の獄胥と爲るや、常に有隣に從ひて讀を受く。有隣の獄を脱するに及び、小人比周、必ず諸れを海外に投ぜんと欲す。松下諸生、政府と交章し、有隣を村塾に迎へ、立てゝ以て師と爲さんことを請ふに方り、權介、奮然として曰く、「吾れ鈍なり矣と雖も、亦た師恩を蒙る者なり。寧んぞ力を出ださゞる可けんや」と。一室を掃ひ、以て有隣を待つに至る。有隣、既に村塾に來るや、權介、乃ち獄胥を罷め、首として隣保に糾(あつ)め、其の『孝經』を講ぜんことを請ふ。權介の孝義を重んずること、斯くの如し。吾と有隣と、固より胥卒を以て權介を待たず。而して權介の烈婦を宿せしめ、又た其の書を寶とする、皆な徒然に非ざる也。月七日、二十一囘猛士、書す。

 烈婦の上野に宿するや、上野邑の人、皆な往いて焉れを觀る。吾が友・冷泉清稚(天野御民清稚翁、本清と號す)の母、烈婦の事に感じ、煙草一團を贈り、又た其れをして名を書かしむ。此の二字、是れ也。清稚は、新左衞門(冷泉古風)の遺子にして、我が父執・林百非(眞人)翁の從子なり。我に從ひて書を讀むこと、甚だ勤む。今ま其の母も、亦た此くの如し。是れ、其の家訓、知る可き也。故に跋す(天野本清翁『松下村塾零話』に曰く、「大津郡に、烈婦登波なる者あり。千辛萬苦して、父及び夫、并に夫の弟妹四人の仇を報ず。蓋し登波は、宮番と稱する者にして、往昔、××非人と伍を同じうす。先生、其の卑しきも顧みず、招きて之を家に致し、其の節義を賞譽し、爲めに其の傳を立つ。門人、其の高義を感じ、各々競ひて登波を招き、或は之を饗し、或は之に物を贈り、或は之が書を求むるに至る」と)。

 是れ、大津郡の烈婦登波の手書なり。余、甞て烈婦の行事を紀す。故に藏する者、余に跋を求め、諸れを久遠に傳ふるは、權介の志也。



●『吉田松陰全集』第十卷・關係人物略傳「登波」

「長門國大津郡向津具上村(現・油谷町)川尻の山王社(現・日吉神社)・宮番幸吉の妻なり。文政四年冬、夫・幸吉の妹のことより、舅・弟・義妹を殺害し、幸吉を傷けたる備後の××枯木龍之進なる者あり。登波、永く夫の病を看護し居りたるが、後ち文政八年・二十七歳の春、復讐の旅に上り、普く海内を探索すること十七年、遂に龍之進は、その頃、豐前の英彦山に在るを知り、仇を報ぜんとせるに、藩、これを止めて、逮捕の吏を遣はす。龍之進、捕へられて後ち自殺す。藩、その首を豐浦郡瀧部村に梟す。天保十二年三月なり。安政三年、藩主、その孝義を表彰し、翌年、平民に歯ひす。登波、時に六十歳なり。松陰、この事歴に感じ、『討賊始末』なる一書を作り、又た松浦松洞をして、その肖像を作らしめ、四年九月中旬、登波の夫・幸吉の墓を索めて石見に赴く途上、萩に過ぐるや、松陰、杉家にこれを止宿せしめたり」と。
 
 

山跡魂をかたむる一端の爲めに。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 5月 9日(木)21時33分25秒
返信・引用
  ●本居宣長大人『うひ山ふみ』

 物學びとは、皇朝の學問をいふ。そもゝゝむかしより、たゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分たむために、皇國の事の學をば、和學、或は國學などいふならひなれども、そは、いたくわろきいひざま也。みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、たゞ學問とはいひて、漢學をこそ、分けて漢學といふべきことなれ。それもし漢學のことゝまじへていひて、まぎるゝところにては、皇朝學などはいひもすべきを、うちまかせて、つねに和學・國學などふは、皇國を外(よそ)にしたるいひやう也。もろこし・朝鮮・於蘭陀などの異國よりこそ、さやうにもいふべきことなれ。みづから吾が國のことを、然かいふべきよしなし。すべてもろこしは、外の國にて、かの國の事は、何事もみな外の國の事なれば、その心をもて、漢某・唐某といふべく、皇國の事は、内の事なれば、分けて國の名をいふべきにはあらざるを、昔より世の中、おしなべて漢學をむねとするならひなるによりて、萬づの事をいふに、たゞかのもろこしを、みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外にするは、ことのこゝろたかびて、いみじきひがこと也。此の事は、山跡魂をかたむる一端なる故に、まづいふなり。



 先般、「國史」と「日本史」の意味を考へてみたが、小生は、學生時代に拜讀せる、件の鈴屋大人の言靈が、多年、頭腦より離れたことが無い。
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 本日、河原博史主の日乘にて、重松信弘翁の好個の文を拜見させて戴いた。寫させてもらひます。
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●重松信弘翁『國學思想』(昭和十八年七月・理想社刊)に曰はく、

「宣長は、漢學が、當時、單に學問と云はれたのと區別する爲に、和學・國學等云ふのはよくない。漢學をこそ分けて漢學と云ひ、皇朝の學は、ただ學問と云ふべきである。紛れる時は「皇朝學」とも云へばよく、和學・國學など云ふは、皇朝を外にした云ひ方である。皇國の事は内の事だから、國の名を云ふべきではない。此の事は大和魂を堅める一端になるから云ふのだ、と説いてゐる。玉かつまでは、「國學と云へば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も、事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり」としてゐる。春滿の創學校啓の流布本には、國家之學・皇國之學・國學等とあり、草稿本には、國家之學・皇倭之學・倭學等とある。「倭」「和」はよくないとしても、國學は宣長自身も「尊ぶかたにもとりなさ」れるとするのであり、今日に於いては、その「尊ぶかた」の意にとり、宣長の云ふ、皇朝學の意に用ゐてゐるものと云へる。春滿が國家之學・皇國之學等と云ひ、國學が、それらの約言と考へられる用法をしてゐるのも、宣長の云ふ、皇朝學の意と異るものではないと思ふ‥‥。

 併し問題は、國學と云ふ事の當否にあるのではなく、宣長が自己の學について、それ程潔癖に云ふ事の精神そのものにある。即ち國學の名稱が、皇國の學とか、日本國の學とかの意にとられるとしても、それ程の指稱さへも、他との對立意識の上に立つが故に、宣長には不愉快なのである。儒學・佛學、其の他、種々の外國の學は、「皆よその事」なのであり、自國の事は、それらと位次を異にする獨自の地位を占むべきものとするにある。「吾は、あたら精力を外の國の事に用ひんよりは、わがみづからの國の事に用ひまほしく思ふ」のであり、「よその事にのみかゝづらひて、わが内の國の事をしらざらんはくちをしきわざ」なのである。‥‥

 宣長には、外國の學問をするのも、それは自國の學問の爲であつた。漢籍を讀まねば、日本の古代の事は判らないから讀むべきであるとして、「からぶみを見るには、殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことにまどはさるゝことぞ。此の心得、肝要なり」と云ふ。平田篤胤が漢籍・佛典・切支丹の書迄を研究したのも、敍上の意味に於いてであつた。その學は支那を認識する爲に支那學を研究し、印度を識る爲に印度學をやる立場ではない。その立場は、あくまで自國を識り、自己の道を識る事、殊にそれが古學たるが故に、自己存立の根元を究める事に外ならない。宣長の國學は、皇國の學であり、自國の學ではあつても、日本國の學の意とはしたくないのである。何となれば、日本國の學と云ふ名稱は、第三者の立場からの名で、他國人が研究する場合の學問の性格を表はすが、宣長の學は、他國人の日本研究とは立場を異にする「御國の學」であるからである」と。



●平泉澄博士『皇學指要』
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氣骨とは。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 5月 4日(土)23時32分5秒
返信・引用 編集済
   只今、歸宅したら、『靖國』平成二十五年五月號が到着してをりました。大野俊康元宮司の「訃報記事」を拜見しようとしましたが、來月號になるのでせう。棚橋信之元主典であつたら、さぞ、憤慨されてをられたことでせう。小生も急告なきを、大いに遺憾とするものである。‥‥「南の島に雪が降る」てふ映畫上映の記事枠はあつても‥‥。
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 此の「社報」、「靖國」の配字が、以前から納得がいかぬ。二十字詰×二十行の原稿用紙を頭に浮かべてほしい。これが一字詰×二十行の原稿用紙だつたら、當然、「國靖」となる筈だ。家の鴨居に掛かる扁額があつたら、よ~く見て戴きたい。最近の書家は、扁額を求められたら、「左書きにしませうか、右書きにしませうか」など、意味不明な言を發すると云ふ。抑も我が國語には、縱書き有つて、横書き無し矣。嗚呼、國語の書法も、遂に蠻風になつて久しい。左書きの此の掲示板管理者が云ふのも、可笑しいが‥‥(泣)。是を理由として、インターネツト自體を無視する御方も、段々といらつしやる。
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 それにしても、大野元宮司ご歸幽の記事が少なく、これは尋常では無い。熊本縣神社支廳長も勤められた御方にもかゝはらず、『神社新報』も、四月の末に至つて、やうやくベタ記事を掲上するのみ。著作に感動したてふ御方も衆いと聞くに、誰も語らうとされぬ。やはり靖國神社現執行部に氣を遣つてをるのか。氣骨のある人士は、當世には、もうゐないと云ふことか‥‥。歎かはしい時代となつてしまつた證である。
 
 

大野俊康靖國神社第七代宮司ご歸幽。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 4月17日(水)21時17分31秒
返信・引用 編集済
   平成二十五年四月十六日、大野俊康靖國神社第七代宮司(現・熊本縣本渡諏訪神社名譽宮司)には、ご歸幽の御由、享年九十二。謹みて御冥福を懇祷申し上げる次第であります。

 靖國神社宮司としてのご奉公は、平成四年四月一日から、平成九年五月二十日の、足掛け六年間でありました。

 九段塾塾頭・福井金城翁の本志とは、抑々何ぞや。賀茂百樹――鈴木孝雄――松平永芳――大野俊康宮司の精神を繼承し、恢弘し、且つ復古すること、即ち是であります。此の至願は、遙かに
明治天皇の聖旨に應へ奉り、
今上天皇の神業を翼贊し奉ることに外ならないのであります。

 塾頭の曰く、「大野宮司は、宮司職である間は、祕かに懷に短刀を忍ばせてをられた。いつでも宮司として相成らぬ事、不屆きあれば、不始末・遺漏あれば、自裁する心算であつたと聞く。いつも覺悟の短刀を懷に意識することで、言動の緩み無きを、ご自身に言ひ聞かせつゝ、勤めをされたのである」と。



【大野俊康宮司『職員に對する宮司就任の辭』】
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【大野俊康宮司『宮司通達』平成五年六月一日】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t5/3
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 大野宮司の通達、即ち
明治天皇の聖旨を嚴守せんと欲する、靖國神社奉贊者は、今、をられるのか、どうか。をられるのなら、どうか、再び大きな聲を擧げて戴きたい。是れ、大野宮司に報いる一大事、とりもなほさず、靖國神社正統護持の分岐である。



●大野俊康靖國神社第七代宮司『後に續くを信ず――戰歿學徒が殉じた「神國日本」』(『祖國と青年』平成十一年十月號。同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』所收)に曰く、

「今、世の中は「二十一世紀、二十一世紀」と騒いでゐますが、來年(平成十二年)は「皇紀二千六百六十年」です。‥‥「二十一世紀」ではなく、「皇紀二千六百六十年」と、誇りをもつて言へる日本に戻すべく、お互ひに力を盡くして參りませう」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t4/9



 愚案、謹みて申し上げる。有志の士は、大野宮司の遺訓を守り、「二十一世紀」や「2013」てふ辭の使用を控へて戴きたいと、痛切に思ふ。中興紀元、即ち皇紀を奉ずる方も、あれゝ、「二十一世紀」と云つて憚らず、また元號も、西暦の御飾りになりつゝある。大寶律令の御代ならば、現代人は、正に「叛亂豫備罪」が適用される。これは深刻なる問題である。此の皇國から、再び「元號」が無くなるかも知れぬ。否、其の兆候は、至る所に見られよう。天皇による時間支配を拒まざる御方は、深く顧みて戴きたい。
 
 

山口藤園大人、追記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月21日(木)23時38分49秒
返信・引用 編集済
   此の掲示板の最下段なる「自分の投稿の編集」が、間を置いて、突然出來なくなるのは、どうしてだらうか。恐らくは「セキユリテイ」ちふものゝ仕業か、或はクツキーとか申す洋菓子についた蟲のせゐか、困つたもんなり。吁。



【山口藤園大人】
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宜しく神異史實を畏拜すべし矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月20日(水)23時51分8秒
返信・引用 編集済
 

●友清歡眞翁『天乃手抉』(昭和十五年四月十六日。『靈の世界觀』に所收)に曰く、

「近年の東京の出版物では、『古事記』も『書紀』も、勝手な俗解をもつて説き歪められて、如何にも古典の眞意を闡明したかの如くに廣告してあるやうであるが、あれ位ゐ眞の神國日本の姿を冒涜するものはない。官廳の咎めを受けぬために、敬語を巧みに使用しつゝも、其の全體の構想は、全く神國日本の古傳を冒涜するものである。古傳の冒涜は、國體の冒涜である。

 伊勢神宮を始め、全國の官國幣社の傳へにも、古來、その神異史實は澤山にあるのであるが、政府は、何故にそれを嚴重に撰修して公刊しないのか、吾々はそれを殘念がつて居るほどである。國體明徴も國民精神作興も、其れが一番、適切有效である。むろん其の傳説の中には、眉唾ものも混雜して居るから、其れを嚴修して、眞實にあらずと證明し得られるものを削除し、その他は批判を加へずに、ありのまゝに撰修して公刊するがよい。相當の大事業ではあるが、眞の神國日本の姿を顯現するに、最も適切で且つ有效な仕事であると、私共は思ふのである。政府としては、天關打開の爲めに、岩戸びらきの爲めに、是非やらなければならぬ筈のものである。

 伊勢神宮についても、澤山な神異史實の正眞の傳へがあるが、畏れながら其の中の一つについて、簡略に述べることを許していたゞきたい。‥‥(昭和十四年六月十七日)或る人から、突然一軸を送られた。それは長元託宣の神歌を、明治初年頃の皇大神宮主典・山口起業大人が書かれたものなので、それを床にかけて、本部の皆樣へ説明したやうな次第であつた。九百年前と今日とでは、暦法も異なるけれど、神歌の下されたのも六月十七日で、私の方へ一軸到着も六月十七日で、偶然とは云へ、其れをも奇異に感ぜざるを得なかつたからである。私は山口起業大人の謹書された、その神歌を拜觀しながら、何とも云へぬ感慨を催し、その爲め、其の夜は一時間しか眠れなかつた‥‥。この一軸には、墨付五枚の記録が附してあり、この記録は、後年、山口起敬氏[起業大人の令嗣か]が、叔父さんにあたる尾花修平氏の需めによつて書かれたことが附記してある。

 この長元託宣のことは、天行居で刊行してある『口譯・神判記實』の中にも收載してあるから、此處に記述しないが、九百年前における皇大神宮神異史實の一つとして、極めて重大なものゝ一つである。後一條天皇・長元四年六月十六日から十七日にわたり、齋宮・□[女+專。せん]子女王に、荒祭宮の大神があらはれ給ひ、電光雷雨の中に、くしび極まる神異があり、祭主・輔親朝臣に對し、十七日は、畏くも神歌を賜はつたのであるが、その十六日から十七日までの御ありさまは、實に畏くも畏きことで、世間に多くあるところの低級卑俗なる憑靈現象の如きわけのものでなく、神威恐るべき御ありさまであつたのである。本當の敬神の念といふものは、理窟や議論で養はれるものではない。神國日本の本當のことを、ありのまゝに國民に知らせることによつて、理窟拔きに、全國民の精神が火の塊りのやうになつて、如何なる國難をも突破して行く氣魄が、全土に蔽ふやうにならなければならぬのである。要するに此れが、私共の念願である。全國同志諸君とともに、今後いよゝゝますゝゝ此の方針をもつて奮鬪努力し、『神のたもてる國』の光輝を、六合に光徹せしめなければ相ならぬ」と。



●皇大神宮主典兼權大講義・藤園山口傳兵衞起業大人の原撰。鴨居正桓・鈴木重道兩翁の口譯『口譯・神判記實――神異靈驗實話集』(昭和四十七年六月・山雅房刊)の「皇大神宮荒祭の宮、齋内親王に憑り給ふ」に曰く、

「伊勢の齋内親王と稱し奉るのは、天皇の御手代に代らせ給うて、皇大神に奉仕したまふ職掌にましゝゝて、崇神天皇の朝に、豐鋤入姫命、始めて其の職を奉じ給ひ、埀仁天皇の朝に、倭姫命が、其の職をお嗣ぎになつてから、代々に其の跡を推して、其の職をお置きになつたのである。

 さて其の仕へ給ふ状(さま)は、九月、神嘗祭、又た六月・十二月の月次祭毎に、多氣の郡なる齋宮をお出ましになり、度會の郡の離宮(りくう)にお着きになり、大祓を修せしめられて、豐受の宮の祭を奉仕して、離宮にお歸りになり、翌十七日に、皇大神宮の御祭を仕へ奉り給ふ例(ためし)でおはしました。

 しかして後一條天皇の朝には、村上天皇の皇子・二品中務の卿・具平親王の女・□[女+專]子の女王(ひめみこ)と稱し奉るお方が、長和五年に、四十六代に當る齋王に立たせ給うたのであつた。

 齋王にお定まりになつてから十六年を經て、長元四年六月十六日に、例の如く、豐受の宮の御祭、故(こと)なく遂げ給ひ、離宮院に歸りおはしまして、翌十七日に、皇大神宮の祭庭に就かせ給うたが、既に御玉串供奉の前に當つて、忽ちに大雨が注いで來て、電光は雲を穿ち、雷聲は天地を震動するばかりなので、上下の人々は、これがために心神を迷はして恐怖するほどに、齋王候殿の方に當つて荒涼(すさま)じい聲がして、祭主を召し給ふので、祭主・輔親朝臣は驚き恐みながら、禰宜等を率ゐて齋王候殿に參らうとすると、暴雨が餘りに烈しいので、笠を二つまで吹き損ぜられながら、漸く齋王の御前に候すると、齋王の御氣色は常のやうでなく、御聲、猛高(たけだか)におはしまして宣ふやう、

我は、皇大神宮の第一の別宮・荒祭の宮におはしますなり。大神宮の敕宣に依りて、今、齋王にかゝりて託宣する所なり

と宣うた。祭主以下、禰宜等は、恐怖して愼みて奉承るに、宣ふやう、

公家(こうけ)を護り奉る事、更に他念なし、帝王と吾と交ること、絲の如し。しかるに近時(ちかごろ)、公家の懈怠の事あり

とて、種々御咎めになり、

中にも光清といふもの、罪を犯したる事、又た齋宮寮の頭・相通、妻・古木古曾と共に狂亂の企てをなし、「我等夫婦には、二所大神宮、翔(かゝ)りましますなり。吾が男女の子供には、荒祭高の宮の大神の付き通ひ給ふなり。所從の女房共には、五所の別宮の付きたまふなり」と稱ひて、雜人を招き集め、連日連夜、神樂を唱へて狂ひ舞ひ、二宮の御爲めに化異(けい)の行ひをなす事、神明の奉爲(おほんため)、帝王の奉爲、極めて不敬不忠の企てなり。皇大神、高天原より天降御(あまくだります)の後、未だ人に寄り翔りおはしまさず。しかるに件の相通・古木古曾等、無實の詞を出だし、狂言を以て人の耳目を驚かすこと、甚だ輕からぬ罪なり。故に今ま止むことなき祭庭に於て、齋内親王に翔り、天下の爲め、後代のために託宣して、神罰を與ふる處なり。しかして今の齋王の敬神の誠は、前の齋王にまさるといへども、寮の頭の事によりて、過状を進ぜしむべし

と宣うた。輔親、謹みて申すやう、

「齋王、御本心おはしまさゞるの間、讀み申すといへども、聞し食され難き歟と申し上げる」

と申し上げると、神宣し給ふやう、

吾、齋王の神(しん)を取收めたれば、やがて蘇生せしむべし

と宣ふほどに、齋王は本心が出で給うた。よつて輔親は、過状を奏し奉つた。

 さて後、また神宣し給うて、

汚穢の事多し。七箇度、御祓(みそぎ)を奉るべし

と宣うた。輔親、うけたまはりて之を修すると、三ケ度奉仕する間に、大雨のために、河水が湛へて來て、齋王の御座(おまし)を浸すので、御座を退け奉り、其の事、極めて不便なるまゝに、殘れる四度の數は、還御の後、修行し奉るべき旨を奏した。すると、重ねて神宣し給ふやう、

大御酒を獻るべし

と。よつて御酒を三たび供(くう)じ奉るに、毎度(たびごと)に五盃づつ所聞食して、合せて十五盃に及び給うた。其の次に、御製一首を詠じて、御酒盞を祭主に下し給うた。

 その大御歌

さかづきに さやけきかげの みえぬれば ちりのおそりは あらじとをしれ

祭主・輔親は、やがて御和(おんかへし)を奉つた。

「おほぢ父 むまごすけちか みよまでに いたゞきまつる すべらおほむ神」

かくて此の外、何くれと御託宣が條々(さまゞゝ)あつたといふことである。事、訖つて、神はお昇りになつた。

 しかるに齋内親王はお勞れになり、且つ神慮を恐まれて、御玉串、又た酒立五節等も供奉し給はず、明くる十八日辰の時(午前八時)に及んで、御心地平らぎ給うたので、四の御門の東妻の玉垣二間(ふたま)を破り開いて、御輿を寄せ奉り、やがてそれに御(め)して退出し給うた。凡て宮庭には、御輿を用ゐ給はぬ制法なので、腰輿にめされる例であるのを、齋王非常の御事なので、止むを得ず御門を憚つて、御垣を開いて、御輿をば寄せたのであつた。

 しかるに此の日、大川の洪水によつて、酉の時(午後六時)許りに、漸く離宮院に歸着し給ひ、祭主竝びに宮司供奉して、豐明の解祭(げさい)の直會を、亥の時(午後十時)を以て仕へ奉り、同十七日の御託宣の由を記し、三員の司神主寮官主神司、連署して、祭主の解状・寮の解等を相副へて、上奏したのであつた。

 其の後、祭主を禁中の陳頭に召され、託宣の始終を奏聞する時に當つて、頓に雷電大雨烈しく、之が爲めに官人竝びに隨身等を召されて、宜陽殿壇上に候せしめられた。諸卿たちは、皆な色を失つて、怖畏極まりないところ、陳前後陳、水溢れて、頭辨は陳後に妨げられて、敕語を傳へる事が出來ず、南殿を徘徊して、陳腋の床子(しやうじ)を以て橋として、漸く陳に出て、神宣を傳へたのであつた。神威の炳然(いやちこ)なのに、天皇陛下も、殊に恐み給ひて、速かに相通を遠い島に逐(やら)ひ給ひ、御使を立てゝ、神慮を慰め給うたので、其の後は事無く、穩かに過ぎたのであつた。

 謹みて此の事の始終を以て、恐(かしこ)き大神の御上を窺ひ奉るのに、後世の人が、妄りに「大神の託宣ぞ、或は御夢の告げぞ、又た大御歌ぞ」などいつて、人に示して打騒ぐのは、皆な狂妄のわざであつて、此の長元の一事を以て、後世、畏き神の大御上を論らひ汚し奉つてはならぬ御戒めなることを知らぬ罪人といふものである。恐き御託宣に、皇大神、高天原より天降御の後、天下・後代のために、やんごとない祭庭に於て、天皇の御手代なる齋内親王にかゝりおはしまして、始めて託宣し給うた旨を、愼み顧みて、深く戒めねばならぬ事ではある」と。



 愚案、最後の邊りの爲體は、大型の本屋に行けば、彼の所謂る罪人が竝んでをつて、何時でも見ることが出來よう。是れ、其の著者の由つて來る所、容易に推して知る可く(油揚げ・穢肉でも供へ、線香を點して、讚美歌でも唸り、敬して之を遠ざく可し矣)、其の後世、實に懼るべき事と謂はねばならぬ。

 友清翁の仰せの如く、我が皇國の古傳説の中から、混雜せる眉唾もの、或は眞實に非ずと證明し得られるものを削除嚴修し、古眞傳は批判を加へず、有りのまゝに撰修して、博雅の篤志家は、是非とも之を公刊してほしいものである。眞の神國日本の姿を顯現する爲めに、國體明徴・國民精神作興の爲めに、又た何より天關打開の爲めに、適切かつ有效の處方箋であるに相違なからう。

 東岳宮地嚴夫掌典『本朝神仙記傳』は、考證明徹、小生の愛讀して已まざる典籍である。亦た全國の古社・産土社には、古傳神驗・神異史實も事缺かぬ。一例を擧ぐれば、廣島縣賀茂郡三原市大和町下徳良なる龜山神社宮司・松風潮武臣翁『鎭守の杜の神々』(昭和五十五年五月・社務所刊。平成九年十一月増補版・山雅房復刊)の如き、拜讀するに、眞に神さびたり。或は靖國神社に坐しても、不可思議にして畏怖すべき神異奇聞は、往々にして仄聞する所、之を集めて大成してほしいと懇願するや、愈々切なるものがある。
 



【唖然たり矣、悲慘たり矣、合理的・理性的な近代人の歴史觀】
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天壤無窮の神敕を奉戴して、國體の尊嚴を辨ふべし矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月14日(木)19時48分13秒
返信・引用 編集済
  ●出雲大社大宮司・男爵・出雲國造第八十代・千家杖代彦出雲宿禰尊福大人講述『大道要義』第九章「天壤無窮の神敕を奉戴して國體の尊嚴を辨ふべき事」條(全二十二章の一。明治十四年十月刊)に曰く、

「皇統の、萬世一系、連綿なる事は、皇祖天神の期し玉ふ所にして、天壤無窮の神敕は、皇基の因つて立つ所、國體の因つて定まる所の根據なり。

 抑々高皇産靈大神の、幽顯を區別し、主宰を分擔し玉ふは、他なし、斯民を愛養し玉ふに在りて、皇基を萬世不易に定め玉ふは、斯民の心を一にし、頼る所を確定して、其の保護に安んずる事、萬世、一日の如くならしむるの神慮なり。然れば列聖、神敕を相承け、國を治め、人を愛育し玉ひて、崇神天皇は、皇祖の宸極に光臨し玉ふは、一身の爲めならずして、天下を經綸し玉ふにありと詔し玉ひ、仁徳天皇は、君を百姓を本とすと詔り玉ひて、斯民を以て國家の本とし、富強を以て行政の主眼とし玉へるは、則ち皇祖天神の神敕を、歴代に遵守し玉ふ所にして、皇統の永昌も、また此に因るといふべし。

[崇神天皇紀四年に、「詔して曰はく、惟れ我が皇祖、諸々の天皇等、宸極を光臨す者は、豈に一身の爲めならむや乎。蓋し神人を司牧へて、天の下を經綸めたまふ所以なり。故れ能く世に玄功を闡き、時に至徳を流きたまひき。今ま朕れ、大運を奉承りて、黎元を愛み育ふ。何當してか、皇祖の跡を聿べ遵ひて、永へに窮り無き祚を保たむ。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭して、竝な天の下を安かにせむこと、亦た可からずや乎」と。

 仁徳天皇紀七年に、「天皇の曰はく、天の君を立つることは、是れ百姓の爲めなり。然らば君は、百姓を以て本と爲す。是を以て古への聖王は、一人も飢ゑ寒ゆれば、顧みて身を責めき。今ま百姓貧しきは、則ち朕が貧しき也。百姓富めるは、則ち朕が富める也。未だ百姓富みて、君の貧しきこと有らじ矣」と]。

 然るに此の神敕は、獨り治國の本を主宰し玉ふ帝王の遵守し玉ふべきのみにあらず、其の保護を受くる者も、また必ず奉戴して、博愛の神意に答ふべきなり。況むや斯民の曩祖を尋ぬれば、皇御孫命降臨の時に於て、皇祖天神の神慮を翼贊し、大國主大神と共に、皇基を守護する神にあらざれば、國體を景慕し、皇徳に歸化せし者ならざる無く、歴代の祖も、また神敕を繼承し玉ふ聖子皇孫を奉戴翼贊せる者に於るをや。

 然れば此の神敕を奉戴して、國體を確守するは、祖先の遺志を繼承し、孝道を失はざる者にして、即ち皇基を守護し、大政を補佐するなれば、一に神敕を奉戴する時は、忠孝を兩全する理を辨へ、今の天皇に忠なれば、歴代の天皇に貫き、今の親に孝なれば、祖先に徹するの大道を思ふべし。加之のみならず、天地神明の神慮を體認し、敬神の徒と稱する者にして、此の神敕を奉戴せざれば、何を以てか、信徒たるの實を表せむ。斯國に生を稟けたる者にして、國體の尊嚴を確守せざれば、何を以てか、國民たるの分を全くせむ。

 吁、神敕を奉戴して、益々皇基の永昌を補佐し、國體を確守して、益々其の光輝を表すべきは、國民の義務にして、又た敬神の主眼ならずや」と。


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【目録】

第一章 天地萬物の元始を明かにして、造化大神の神徳を辨ふべき事
第二章 修理固成の神敕を奉戴して、人たる務を怠るべからざる事
第三章 博愛の神意を遵守して、同胞の信義を全くすべき事
第四章 天地分掌の神晦を確信して、報謝する所を知るべき事
第五章 幽顯分任の神敕に因て、遵奉する所を定むべき事
第六章 經國の功徳を謝し、治幽の恩頼を仰ぎて、死生依頼すべき事
第七章 幸魂・奇魂の神助を仰ぎて、自己の功業を勉むべき事
第八章 國避の神意を辨へて、貪婪の妄念を去るべき事
第九章 天壤無窮の神敕を奉戴して、國體の尊嚴を辨ふべき事
第十章 靈魂は神賦にして、祖孫命脉を貫くを信ずべき事
第十一章 靈魂の歸着を明かにして、神寵榮福の地を求むべき事
第十二章 善惡の執念は幽冥を貫くを思ひて、心行を正直にすべき事
第十三章 祓禊式を定め給へる神意を奉じて、汚濁の所業をなすべからざる事
第十四章 萬物の増進を見て、神恩の無窮なるを感ずべき事
第十五章 醫藥・禁厭を創め給へる神慮を奉體して、衞生の務を全くすべき事
第十六章 報本反始の務を全くして、自己の分を誤らざるべき事
第十七章 産土神を崇敬して、氏子たるの禮を盡すべき事
第十八章 夫婦の道を正しくして、人倫の大本を亂るべからざる事
第十九章 政令を遵奉して、保護の恩を忘るべからざる事
第二十章 祖先の恩澤を失はずして、子孫の永久を保つべき事
第二十一章 教育を嚴にして、文化の進歩を求むべき事
第二十二章 交遊扶助の情義を辨へて、親愛の誠を缺くべからざる事

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●千家尊福國造『出雲大神』
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●千家尊福國造『稱贊神徳皇恩詞』
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 愚案、昨日、偶々「陰陽師Ⅱ」てふテレビを見たが、不敬極り無き噴飯物であつた。現代人は、何故、あゝ云ふ物しか作れなくなつてしまつたのか。「出雲王朝」とか「怨念」とか、言葉自體も然ることながら、「アマテラス」とか「スサノヲ」とか、片假名の呼捨て、實に不愉快千萬なり。亦た映畫「天地明察」も見るには見たが、愚妻でさへ詰まらぬと申してをつた。闇齋先生は忍者に殺され、公家は相變らずの長袖者流‥‥。これでは、韓國の時代物に茶の間が席捲されても、文句は云へまいて‥‥。
 
 

『九段塾』再開の御報告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 3月 2日(土)00時14分12秒
返信・引用 編集済
   三月始めよりの掲示板故障も、六日午後、どうやら解消されたやうです。「御茶碗」樣、洵に難有うございました。

 塾頭「最終講義」、是非とも御精讀を、と申し上げましても、齒拔けの爲體でありました故に、之を悲しんでをりました。
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 未だ精査はしてをりませぬが、小生、ほつとしてをる次第、なほ削除されてゐる記事に御氣附きの御方には、何なりと、ご通知たまはれば幸甚に存じます。

 ご閲覽各位には、これに懲りませず、鋭意、ご投稿たまはれば、九段塾管理者として、喜び、之に過ぐるものはございません。宜しく御引廻しの程、幾重にも御願ひ申し上げます。

     九段塾管理者・備中處士 敬白
 
 

承詔必謹、遺志繼承の誓ひ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月26日(火)19時13分22秒
返信・引用 編集済
  ●寒林平泉澄博士『松下村塾記講義』(昭和三十五年夏於存道館。『先哲を仰ぐ』に所收)に曰く、「

 先だつて雜誌『日本』(愚案、平泉博士が大川周明博士より、「日本」てふ雜誌名を讓渡されたもの。大川博士が、唯一「先生」と呼んだのは、平泉博士であつた)に、二・二六事件のときの阿南大將の言動を書いておきました。これは私、今まで書かずにをりました。この問題について述べることをひかへてをりましたが、今度の事件に感じて、今こそこれを明白にすべきであると思ひまして、あの事を書きました。阿南將軍は、あの時、少將でありました。東京陸軍幼年學校の校長でありました。その校長に對して、陸軍省から、この事件に關して一切批評することを差控へられたいといふ通牒が參りました。その話は、阿南將軍より、直接私の聞いた所であります。阿南將軍は、これに答へて、

「自分は、幼年學校長を拜命してをります。學校長のなすべきことは、生徒に何を爲すべきか、何を爲す可からざるかを、明確に教へることであります。今、目の前に起つてゐる、この爲す可からざる反亂を見て、生徒は動搖してをります。かくの如きものは、爲すべきものでないといふことを教へました。それについて、御處分あることは致し方ない。私は甘んじて御處分を受けます」。

かう云つて、二・二六事件を批判し、その書かれたものを、全校の生徒に手渡されたのでありました。實に立派な態度と云はなければならぬ(愚案、「若し眞に國體を擁護せんが爲に、非常の手段をとれりとせば、遂行の曉に於ては、直ちに割腹自決するか、しからざれば二重橋の御前にひれふして、謹んで罪を待つべきのみ。しからずして要地を占領し、朝廷に要請し奉りてやまざるが如きは、全く外國革命の手段に同じく、叛軍逆徒にあらずして、何ぞや。之を誅戮する事なくして、皇國の中興いつをか期すべき」と云ふのが、蓋し平泉先生の最大の理由であり、先生は、畏き邊りに奔走獻策した後、尊父に遺詠を殘し、具體的策を立てゝ、肉彈以て突入せんと計劃されました)。あの時に、數多くの人が殺されてをります。その數多くの人が殺されました時に、陸軍省はやはり通達を發して、誰の處へも弔問に行つてはならぬ、お弔ひに行くなとといふ命令が出ました。阿南大將は云ふ、

「高橋是清翁を初め、その他の方々の處へは、自分は特に關係がありませんから、參る考へは持つて居りませぬ。初めから持つてをりませぬ。獨り教育總監渡邊大將に至つては、私の直屬長官であります。如何なる事情にせよ、自分の直屬長官が殺されたと云ふことを耳にしながら、その弔問に行かぬと云ふことは出來ません。私は參ります」。

かう云つて、特に屆を陸軍省に提出して參られたのであります。實に天晴れの態度と云はなければならぬ。大丈夫の進退と云ふのは、かくの如きものであります。處分されることは、これは致し方が無い。しかし自分の爲すべき事は、それにかゝはらずして、これを爲す。實に堂々たる態度と申さねばならぬ。その話は、皆、將軍みづから私に話をされたことであります。

 その渡邊大將の所でお通夜をしてをられます時に、憲兵が飛込んできて、その座に居る或る少將に向つて、「閣下を反亂部隊はねらつてをります、御注意下さい」、かう云つて來ました。その少將は、この憲兵の報告を聞いて、顔色がさつと變りました。どうしてよいか判斷に迷ひ、非常に慌てゝをる。それを見て、阿南將軍が云はれるには、

「このまゝこゝに、今晩は御通夜をされますか、それともお宅へ歸られますか。このまゝ居られるのであれば、それも結構であります、もしお歸りになるといふことであれば、私の車で、私がお守りして、お宅までお屆けします」。

かう云はれます。これは、實に堂々たる態度と云はねばならぬ。その少將の名前は、私は聞き忘れました。又、結果どうされたかも、私は覺えてをりません(愚案、平泉先生の、此の言葉、非常に勉強となります)。しかし阿南將軍の、何といふ立派な態度であるか。校長の態度として、光り輝くものといはねばならぬ。

 かくの如き學長が、今度のデモに一人でも出てをるか。東大總長の最高筆頭に居つて、天下の學界・教育界の牛耳をとつてゐる者、その態度の、何といふ老態醜態でありますことか。日本の國は、こゝまで落ちてをる。驚くべきことであり、悲しむべきことゝ云はなければならぬ」と。



【點描――嗚呼、阿南惟幾大將】
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 嗚呼、阿南惟幾大將、正に古武士の如し矣。幸ひなるかな哉、此の陸軍大臣あつて、「承詔必謹」の大精神が喚起覺醒し、皇國が護持されたと謂はねばならぬ。



 七十八年前の本日、二・二六事件が起きた。而して此の日、「福田草民」樣の、尊き篤論を見るを得た。
  ↓↓↓↓↓
http://sinkou.exblog.jp/19857233/

「決起した青年將校の中で、詔を奉戴して、己の大罪を認め、即時自決をしたのは、野中四郎大尉のみであつた」と云ふが、此の「陸軍歩兵大尉歩兵第三連隊第五中隊長・野中四郎命七十七年慰靈祭」が、一昨日、岡山市平井なる野中家墓地に於いて、嚴かに執り行はれた。集まる者、全て二十七名、大尉の悲しき志を、しかと心に刻んだ。小生も其の末端に加へられ、大尉を御偲び申し上げた。

 野中大尉は、事件前の二月十九日、週番指令室にて、『迷夢昏々萬民赤子の遺書』を書き殘し、『蹶起趣意書』は、大尉の草案に村中孝次大尉が加筆したものである。『蹶起趣意書』に、筆頭人として野中大尉の名がある。二月二十九日午後、陸相官邸の一室に於いて、『實父勝明陸軍少將・養父母・妻あての遺書』を井出大佐に手交し、拳銃を以て自決。「天壤無窮」と認めた絶筆が存してゐる。享年三十四。又た昭和五十四年七月十六日、蹶起決意の手記『自己を否定し盡くした眞の人としての遺書』も、野中大尉の圖嚢から、四十三年目に發見されてゐる。野中大尉の弟・五郎海軍大佐は、昭和二十年三月二十一日、第一囘神雷櫻花特別攻撃隊として出撃、兄・大尉の寫眞を肌身離さず持つてをられたと云ふ。

 本祭典は、昭和五十二年二月、岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁(五草庵主都羅山人三宅萬藏翁の門)が自ら任じて立つて、獨り始められたもの、今年で、第三十七囘を重ねる。一度、當日を偲ばせる雪があつたものゝ、祭典中、かつて一度も雨は無かつた由。祭典中に、種々不可思議な事象も惹起、小生も身震ひしたこともあつた。而して本年からは、其の主催を「日本心の集ひ」に交替し、足高神社・井上直亮禰宜が齋主を、三宅翁の令孫・松下眞啓主が祭主を、防共新聞社岡山縣總支局長・秋田智紀主が典儀を勤められた。小生も參列は四囘目、と云ふことは、初めて岡田翁を拜し、知遇を得て、三年が過ぎたことになる‥‥。感慨無量である。



 追記。思ひに耽つてゐるうちに、同血社主人は、橋本徹馬氏『天皇と叛亂將校』(昭和二十九年五月・日本週報社刊)の紹介を試み、皇軍のあるべき姿を模索されてゐる。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/16678761/
http://sousiu.exblog.jp/18695556/
http://sousiu.exblog.jp/18696332/
http://sousiu.exblog.jp/18696516/
 
 

東條由布子刀自歸幽。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月14日(木)22時34分24秒
返信・引用 編集済
   平成二十五年二月十三日、東條由布子刀自、ご歸幽の御由。享年七十五。謹みて御冥福を御祈り申し上げます。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/18606116/


 塾頭の遺作・映畫『凛として愛』の普及に努めて戴き、本道に難有うございました。言葉も見つかりませんが、今後とも御靈導の程、何卒よろしく御願ひ申し上げます。 百拜


*****「愛国女性のつどい花時計」樣より速報 *****

御通夜:平成25年2月19日(火)18:00~ 代々幡齋場
御葬儀:平成25年2月20日(水)11:00~ 代々幡齋場
http://www.tokyohakuzen.co.jp/funeralhall/yoyohata_map.html

■花時計一周年記念『凛として愛』上映會に於ける、東條刀自のスピーチ
http://www.youtube.com/watch?v=sQ2NR7IMlUk

*****

■東條刀自と塾頭(愛国女性のつどい花時計代表の追悼文)
  ↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/archives/3698511.html

■叔母の他界(東條大將直系曾孫・東條英利氏のブログ)
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/toojoon/entry-11471043469.html
 
 

我が「國史」と「日本史」

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月13日(水)20時47分13秒
返信・引用 編集済
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 贈從三位・秋津彦美豆櫻根大人鈴屋本居中衞平宣長翁は、『うひ山ふみ』の中に、「物學びとは、皇朝の學問をいふ」と述べてゐる。今日流石に各々の學問の名付には細心の論理を追ふ學者達も、我が古學に就ては、大凡そに「國學」と言ひ馴れて濟ましてゐるが、宣長翁自身は、「和學・國學などいふは、皇國を外にしたるいひやう」であり、其は實に「むかしよりたゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分たむために、皇國の事の學をば、和學或は國學などいふならひ」に從つてゐるもので、第二義的に乃至は相對的に、或は「外にして」呼ばうとしてゐるもので、「いたくわろきいひざま」であり、却つて「皇國の學」こそ、たゞ「學問」と云ひ、もし「漢學」の事と言ひ交へて紛れ易い場合に、「皇朝學」等とは謂ふ可きであると、言つてをられる。大人が戎意の學者の「國學」と云ふ言葉を嫌惡し峻別されたのは、其が結局は「山跡魂をかたむる一端なる故に」と、決心を披瀝されてをられる意味に於て、極めて重要な事と思はれる。

 某は日頃ろ、贈正一位准三宮・北畠准大臣源朝臣親房公の「言語は、君子の樞機なり云々。亂臣賊子といふものは、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくるなり」(『神皇正統記』後醍醐天皇條)てふ教誡、或は承陽大師の「愛語、能く囘天の力あることを學すべきなり」(『修證義』)、支那の孔丘仲尼の「必也正名乎云々。君子於其言、無所苟矣」(『論語』子路三)の箴誨を奉ずる者なれば、心底の鬱なる想ひを披露し、安易なる「國學」、或は「國史」と云ふ名稱に、注意を喚起したいのである。

 而して坂本太郎博士は、「國史」と云ふ名稱は、「背後に古き歴史を有し、天皇親政・皇威隆昌の世を象徴する、六國史の名稱たる矜持をもつものでさへあつた」(「國史の名義」雜誌『歴史』十九―一)と云はれるのであるが、かやうな深刻なる謂ひに於て、其の名義を考へると云ふのであれば、暫く可しとし得ようか(但し此の坂本博士、戰後、『日本史概説』てふ題の著書ありて、全く平氣のやうである)。

 因みに承陽大師は、己の宗を禪宗・曹洞宗と呼ぶ事を忌み嫌つた。『正法眼藏』佛道に云ふ、
「佛祖正傳の正法眼藏涅槃妙心、みだりにこれを禪宗と稱す云々。しるべし、この禪宗の號は、神丹(神國の謂ひ。支那)以東におこれり。竺乾(印度)にはきかず云々。これみな僻見を根本とせる枝葉なり。西天東地、從古經今、いまだ禪宗の稱ならざるを、みだりに自稱するは、佛道をやぶる魔なり。佛祖のまねかざる怨家なり云々。この曹洞の稱は、傍輩の臭皮袋、おのれに齊肩ならんとて、曹洞宗の稱を稱するなり云々。佛道は、なんぢが佛道にあらず。諸佛祖の佛道なり。佛道の佛道なり」と。

 言葉名稱の片言も忽緒に出來ぬ事は、先哲の親切叱咤に明かである。例へば、
「神武紀・仲哀紀。かくの如く、天皇の御名をいひすてにする事、古學者には似つかはしからぬわざなり。公式令を、何と見たるにや。そもゝゝ物學ぶ物の本意は、鬼神の情□を窺ひ、天下の大道を知り、君臣の大綱、皇統の紹運を明らめ、經世のみちを講ずべきを、かくなめげなる書法は、何事ぞや。神武天皇御紀、また神武天皇紀とも、略してはかくべし。なんぞ君上の御名を、私にみだるゝや。近世古學者流に、ものゝかたはなる事を禁しめて、漢心々々と口くせに云へど、かやうなるなめげなる事をば、心ある儒者はせぬ事也。それにても、まさりたりとや」(贈正五位・道足別嚴橿根大人鈴木勝左衞門穗積重胤翁『閑窗獨語』)と。

 又た支那を中華・中國と云ふが如き、大東亞戰爭を太平洋戰爭と呼ぶが如き、吉野時代を南北朝時代と曰ふが如き、妄りに邪宗門暦を奉ずるが如き、吾人の懺悔猛省を促さねばならぬ。


【元號大權――天皇の定め給へる年號を奉ぜざる者は、謀叛豫備罪に當れり矣】
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【參考】
一、蓮田善明翁『本居宣長』
一、平泉澄先生『國史概説』第四章「國史概説と稱して日本史概説と稱せざる理由」
一、平泉澄先生「足利高氏名分論」(『建武』四―一)
一、平田俊春博士「吉野時代の原理」(『吉野時代の研究』所收――但し此の平田博士は、「吉野時代」と唱へなければならぬ理を力説するも、戰後は「南北朝時代」と申して、一向平氣であること、坂本太郎博士に同じ)
一、里見岸雄博士『支那の王道論』序言

**********

 件は、小生が、かつて學生時代に論じたものゝ一部であるが、上記「參考」書とは別本の、平泉澄博士『「國史概説」講義ノート』を拜見することが出來た。謹みて掲示し、諸賢の參考に供すること、愈々切なるものがある。



●平泉澄博士『「國史概説」講義ノート』(東京帝國大學教授の自筆、越前白山神社・平泉家所藏本。『藝林』平成二十四年十月號に所收)に曰く、

「これ(本講義)は、國史概説であつて、日本史概説ではないといふ事である。深く考へざる者に於いては、國史概説は、即ち日本史概説であり、名はどちらを取つてもよく、むしろ日本史概説といふ方が、明確であり、正しいやうにすら考へられるのである。しかしながらこれより説くは、國史概説であつて、日本史概説ではないのである。

 いふ所の意味を闡明ならしめんが爲には、これより日本といふ國號の起原に溯つて考究しなければならぬ。‥‥是等の考察のうちに自ら明かになるのは、日本なる國號が、對外的なるものであるといふ事である。外國人が唱へ始めたとすれば、いふまでもない事であるが、しからずして、我が國にて自ら唱へたとしても、それは外國に對して「日の本」と考へるのであり、外國を考慮のうちに入れ、之と對比する事なくしては考へられないものである。高麗王より日本といひ、新羅王より日本と呼び、隋の煬帝に對して日出處天子と稱せられた事を考へるがよい。

 もとより物の名は、すべて他に對しての稱ではあるが、しかし「やまと」(皇都のあつた國の名が、全國の名稱となつたもの)の如きは、必ずしも他國を考慮の中に入れ、之と對比し對揚しての名稱ではない。さればこそ、令の規定に於ては、日本なる國號を外交用と定められたのである。

 以上は、日本なる國號を、其の起原及び規定の上より見て來たのであるが、その起原は忘れられ、その規定も、亦た今は知られなくなつてゐるものゝ、我等の意識の上に於いては、この國號は、依然として對外的なるものであり、此の點に於ては、終始變りはないといつていゝ。

 それ故に今、日本史概説といへば、それは二つの場合が考へられる。
第一、外國人が日本の歴史を見る場合。逆にいへば、我等が英國史・獨逸史などいふと同じ場合。
第二、外國人に示す事を目的とし、或は少なくとも目的の一部として著はされたる場合。

 しかるに今、予が講ぜんとするは、日本人たる予が、日本の大學に於いて、日本人たる諸子に向つて、日本の歴史を講ずるのである。或は二三の外國人もまぢつて聽講しようとも、それは例外であつて、本體ではない。それ故に、これは國史概説であり、日本史概説ではない。

 或はかくの如き議論を、無意味なる贅論と考へるかも知れない。しかし之は決して等閑に附せらるべき問題ではない。何となれば、今日の學界に於いては、祖國意識を喪失する事を以て、我が國を諸外國と全然一樣に考へ、一樣に取扱ふ事を以て、進歩せる思想とし、科學的な態度であるとする、驚くべの怖るべき僻説が横行して居り、その極は、日本國の歴史の眞に解明されるのは、公平なる立場に在る外國人の手を待たねばならぬと考へ、或は東京の某大學の如く、外人の筆になる日本史を教科書として用ふるが如き事の存するからである。

 即ち我等の、これより講ぜんとするは、國史である。我等の之を繼承する事によつて、初めて眞に我等たり得る所の、祖國の歴史を明かにし、祖先の精神を尋ねんとするのである。

 これに就いては、本居宣長先生が、『古事記傳』の首に、『日本書紀』を評論して、
まづ日本書紀といふ題號(な)こそ、心得ね。こは漢の國史の、漢書・晉書などいふ名に倣ひて、御國の號を標(あ)げられたるなれども、漢國は、代々に國の號のかはる故に、其の代の號もて名づけざれば、分り難ければこそあれ。皇國は、天地の共(むた)遠長く天津日嗣續き坐して、かはらせ賜ふことし無ければ、其れと分けて云ふべきにあらず。かゝることに國の號をあぐるは、竝ぶところある時のわざなるに、是れは何に對(むか)ひたる名ぞや。たゞ漢國に對へられたりと見えて、彼れに邊(へ)つらへる題號なりかし
といはれた事、また藤田幽谷先生が、寛政九年、其の二十四歳の秋に、彰考館の同僚に與へて、『大日本史』の題號に反對し、四不可をあげて、具さに之を難じ、就中、第三條に於いて、全然本居先生と同じ見地に立ち、支那が班固以來、代號を以て其の書に命ずるは、易姓革命の國なるが故に、之を殊別するのであり、我が國の如き萬世無窮の國に於いては、國號を冠すべきでないとし、『日本書紀』以下、六國史の日本を冠かるは、深く考へざるの過なり、と説かれた事(『校正局の諸學士に與ふ』――幽谷先生遺稿。愚案、因みに『大日本史』は、敕賜の題名なり)が思出されるのである。

 是等の説は、二つに分けて之を考へなければならぬ。その一つは、我が國の歴史を説いて國史といはず、みだりに日本史と稱する者に對する、深刻なる警告としてゞある。この點に於いては、予は全然之に同感である。而して今一つは、『日本書紀』に對する非難としてゞある。この點に於いては、予は反對である。『日本書紀』の題するに、日本の二字を以てせられたのは、其の文の漢文を以て修飾せられたると共に、外國にも示さんが爲に外ならず、むしろその意圖、頗る雄大なりとして、讚歎すべきを思ふからである。而してこの點に於いては、伊勢の度會延佳神主が、『神代講述鈔』に於いて、
日本の二字を以て、此の書に冐するものは、吾が葦原の中つ國の名、許多(そこばく)あれども、其の中に、日本は、倭漢通用の美名なれば、取り分けて用ひたると見えたり。此の書を漢字に書きて、其の下に「泥土(はんと)、此を于毘尼(うひぢ)、沙土、此を須毘尼」など書きたるは、倭語の古きを、世に知らしめむとするさまなれど、實は佛氏の梵語を飜譯して、梵漢語を通用し、其の道を漢土迄におしひろめむとするに似たり。其の志、大なるかな。其の誠、通達して、此の書、終ひに漢土にもひろまりけるにや。近古の書に、日本紀を引きて正史と云へり。吾が國、中古よりは、博學宏才、又は其の徳ありける人達も、異國の道を、此の土にひろめむとの志のみにして、いかにぞや。吾が國、天地開闢より、神聖傳授の至道を、異國までもひろめむとの志は、有もこそせめ、聞くにも及び侍らず。苟くも道に志あらん人は、此に興起すべき事ならんかし」(序説)
と論じたのを、卓見なりとしなければならぬ。

 延佳神主の慨歎したる如く、中世以來、我が國の學者、卑屈にして、膝を外國に屈し、學問といへば外國の學問、學者の事業といへば外國の道を、我が國にひろめんとするもののみ多くして、近來、此の弊、いよゝゝ極まれる時に於いて、三百年前に於ける延佳神主の卓見により、千二百年前に於ける舍人親王の雄渾正大の精神を知り、之を仰ぎ得ることは、眞に尊ぶべき事であり、學者の規模とすべき所である」と。
 
 

野村玉枝刀自『御羽車』から。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月 9日(土)19時29分20秒
返信・引用 編集済
   明日は、太陰太陽暦正月一日、明後日は、紀元節なり。塾頭が、特に感激されたと云ふ、野村玉枝刀自『御羽車』(昭和十七年三月・六興商會出版部刊)を沈讀してゐる。塾頭所引の玉文を編纂再掲し、靖國神社招魂式の意義を深め、そして『戰陣訓』を拜讀す。



●九段塾・塾頭遺文『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

 野村玉枝と云ふ、戰前の歌人がゐる。富山の人である。夫・野村勇平大尉は、昭和十二年に召集令状が下る。そして昭和十三年十月十四日、漢口攻略戰、岳州の先陣で戰死。遺された若妻・玉枝には、あどけなき娘一人と乳飲み子がゐた。

きさらぎの 雪華落つる 驛頭に 今し下りたたす 白木の箱は

 戰死の公報の日にも、雪の華が舞ひ降る驛頭に白木の箱を迎へても、玉枝は泣かなかつた。滂沱と涙の粒が、雙眸から溢れたのは、深夜、靖國神社に夫が合祀される時、まさに靖國神社神門を御羽車に乘り、十六菊花天覽のもと、聖域に入る時であつた‥‥。夫が明日、出征すると云ふ前夜、玉枝は一人娘の暉美をすつかりねむらせ、日ごとに大きくなるお腹を大事に抱へて、夫の前に座る。夫は玉枝に言ふ。
「今、私は戰場へ出る身だが、戰爭といふことはどういふことか、お前もわかると思ふが、とにかく命をとるかとられるかといふことで、その二つの一つなのだが、まづ覺悟をしておく方が、あやまりがないと思ふのだ。それに戰ひ甲斐のあるいくさだ。一日も早く行きたいと思つてゐた」
と、夫は言ふ。しかし夫は死ぬことばかりを言つてゐる。何故、還ることを言はないのであらうか。玉枝はそのことを、なじるやうに云ふ。既に頬には、涙の雫が溢れ流れてゐた‥‥。戰前の不朽の名作中の名作と言はれた、歌人野村玉枝、珠玉の絶唱詞『御羽車』、その拔粹をしたい。國民が忠節を、忠義を、どのやうに思ひ、戰場へ赴いたか、死して靖國神社に祀られることを、どのやうに見てゐたのかが知れる。靖國神社内苑は、戰ひの庭であり、天皇陛下御一人あらせられる庭である。そのことを、髓まで滲みこませて讀んで欲しい。

(夫の言葉を聞いた玉枝は、涙の粒を溢れさせながら、)「きつとりつぱに、お留守をまもります。家の事はおひきうけ致しました。御安心なさつて、存分におはたらきくださいませ。しかしたゞ一つ、はじめからかへらぬこととばかりおきめにならないで、勝つてかへるといふことばをきかせて下さいませ。御武運を祈つてをります。二人の子供を大きくして、おかへりになるのをまつて居ります」。
(夫は、玉枝の涙が流れ落ちる顔をじいつと見て、)「はじめから死ぬ約束でゆくのではない。しかし人間が最も眞劍にものをする時は、命をかけてなす時だ。命をかけて、我を忘れてなす時に、はじめて本當の仕事が出來る。それは戰爭の場合ばかりではない筈だ。ことに今の場合は、部下をあづかつてゆくからだだ。かへるとは決して思ふな」。
夫は、既に我がものではなかつた。その身は戰場にはないけれど、身心は、既に皇國に捧げつくして、家にも妻にも子にもあるべきではなかつた。私は、本當にはづかしいことを言つてしまつたと、すまなく思つた。夫がいふ、「一命を捧げつくしてこそ、本當のことが出來るのだ」といふ言葉を‥‥。
(玉枝は深夜、心に語りかける。)「蟲の音に更けくだち、もの皆ねむる夜半を目ざめて、私は出で征くますらをの、燃え上がる誠の聲を聞き、姿を見、さとしを耳にし、今更に軍人の妻としての我が身の何物であつたかを知らされて、自分の責任の重さを、はつきりと感じることが出來た。いつか涙も乾き、深く心の落着く樣な思ひが湧き上つて來たのであつた。そして、今は夫のみか、我が身もそのかげに召されて、すべての我を捧げつくし、妻として進むべき新しい道が、眼前にひらき示されたことを、はつきりと知ることが出來たのであつた。」
(玉枝は、いつか自分も夫の陰で召されて、妻としての戰ひに出征することを自覺するのである。そして夫は、やがて生まれ出る赤子のために、「毅」といふ字を、むしりとつた手帳の紙切れに書いて、玉枝に渡し、出征していくのである。海も荒れず波も靜かに、無事、支那大陸に無事着けるやうに、星の一つ一つに玉枝は祈り、新しい墨をおろして歌を詠む。)

家もなく 妻も子もなく 天つ日の 赤きにもえて 征きませわが背

新しい筆に、まごころをこめて歌を書いた。そして、ともしの下によみかへすと、泣くとはなしに涙がわいてきた。それは、いまだかつて感じたことのない、深い感激の涙であつた。大君のみ盾の一人として、夫を奉る。そして如何なることが、よしあらうとも、必ず正しく強い妻の道、母の道をあゆみつゞけて、たふれる日までつとめよう、はげまう。」
(玉枝は、大事な大事な夫の身を、大君の御楯の一人として、奉つたのである。御國に差し出したのである‥‥。そして夫の武運を、いつまでもいつまでも祈り續けたのである。だが、玉枝の祈りとはうらはらに、夫は漢口攻略戰で、戰の庭に倒れたのであつた。そして昭和十六年二月二十八日。「滿洲事變竝支那事變ニ關シ、死歿シタル軍人・軍屬等ニシテ、合祀未濟ノ者ヲ、靖國神社ヘ合祀ノ爲、來ル四月二十三日、招魂式執行、同二十四日・二十五日・二十六日・二十七日・二十八日、臨時大祭擧行ノ儀、敕許アラセラル旨」、陸海軍省告示あり、夫野村勇平大尉は合祀されることになつた。四月二十三日、玉枝は富山の山奧から上京した娘暉美と、夫の忘れ形身三歳になる毅、それに年老いた父母と共に、靖國神社に參るのである。招魂式前日に上野驛に到着した遺族團は、本郷の指定旅館で旅裝を解き、翌日、係官の案内で、靖國神社に引率され、招魂式の座席に、夫々が落着く。玉枝の珠玉の詞が連なる。折りしも夕陽は斜に御社の屋根を照らし、青銅の大鳥居、中門扉なる菊の御紋章に燦然とかゞやき、神域を流れて、櫻若葉のにほひをはなち、全國より上り來れる、今日を晴なる幾萬の遺族の頬を照らす。)
――ひたぶるに 命さゞげし つはものを 我が大君は 神とし給ふ  茂吉――
昭和十三年十月十四日、漢口攻略戰、岳州の先陣に、夫戰死してこゝに三歳、今宵しも夫が靈は、再び召されて神としづまるのである。(やがて、時は移り、打ち上げ花火の壯麗さ。そして空砲二發が轟いて、招魂の儀式が執行される‥‥。)

 突然高々と靈を呼ばす御聲、おのづと頭をたれる。あゝ、陸に海に空に、尊くも命散らせ給ひし幾萬の英靈は、今し天がけり天くだりまして、神と鎭まり給ふのである。やがてどこからともなく高く低くむせぶが如く、或はすゝり泣くが如く流れ來る清き楽の音、莊重なる祝詞、捧げ物と進み、再び祝詞が奏上せられて、いよゝゝ靈うつしの御儀は、とり進められるのである。あかあかと燃え上がるかゞり火に、頬を傳ふ涙を光らせて、遺族はたゞ感激にふるへてゐる。一瞬、はたと幾百のかゞり火はかき消された。そこには何物の姿もない。何たる深い沈默であらう。いつか遠い々ゝ日に、一度味はつたことのあるやうな沈默である。ぬばたまの夜の神祕、寂として聲一つない。やがて瞑目する心の奧底から、靜かに、いとも莊重に流れいづる樂の音。心は世界をさ迷ふ。ふと我にかへつて耳をすまして見ると、音がする。さらゝゝと、川底の砂のゆすれる樣な音がする。それはすゝり泣きの聲であつた。我と我が魂が泣いてゐたのである。とめどもなく涙が湧き、頬を流れ、あごをつたひ、我が身は泣いてゐるのである。戰死の公報の日にも、遺骨を迎へる日にも、人には見せなかつた涙が、このくらやみの中に、そこひもしれずに流れ出るのであつた。あゝ、しかし何といふ幸であらう。今この庭に、なき人の靈は、かへつてゐるのである。ひたぶるに命を捧げたつはものの一人として、わが大君は、ありし日のわが夫をも、今宵は神とし給ふのである。何といふ尊い御ことであらう。涙をぬぐひつゝ、ひざの毅をゆすりあげる。

 とつぜん左遠く前の方向に當つて、はたゝゝと拍手が相ついで起る。その闇の中へ視線をやる。あはれ白いかげ、白いつらなり、ぬばたまの夜目にも白々と、今數しれぬ靈をのせて、御羽車は、こなたへと近づき給ふのである。拍手の音は、雨の樣に次第に左から右へと移つて來る。抱いた子の前に兩手を合はせた。そして心をこめて打ち合はせた。それは私の全身を搖動かす樣な、大きな張りのある音であつた。膝の毅も、私にまねてパチパチと小さい音に、又膝を竝べた暉美も、その隣の父母も枯れた音に、それゞゝの音に拍手された。御羽車はしづゝゞと、次第にお近づきになつた。

ぬばたまの 夜目にも白く まなかひに 近づきませる 御羽車のかげ

何といふ莊嚴な、その列なりであらう。その御姿であらう。右も左も前も後も、たゞ泣いた。泣くより他に、拜むより他に、なすすべはなかつたのである。稱名念佛の聲さへきこえてきた。それは人間が最も感動した時の姿であつた。私は聲ひくゝ、二人の子にさゝやいた。「二度と見ることの出來ないお父樣のお姿、あの御羽車を、よく拜めよ、そしてよく記憶せよ」と。暉美だけは闇にうなづいた。膝の毅はわからないのであらうか、だまつてゐる。毅にとつては、これがこの世に於ける親と子の最初の對面であり、最後の對面であるのに。そのたまゆらの悲しみが、矢の樣に胸の中を走り過ぎた。突然、何を思つたのであらう、腕の中から下に立つた毅が、「お父ちやん」と、御羽車に向つて聲を發した。その幼い聲が、庭にみちみつ低いすゝり泣きの中へ吸ひこまれた。私は毅を抱きとつた。そして、御羽車の方向にむけて差し上げてやつた。「お父ちやん」と、たしかに毅は呼んだ。何といふ、したしなみをもつたその聲であつたらう。これがこの世によび交すことなかりし子が、父への思慕の聲であらうか。私は泣いた。父母も泣いた。

 私は泣きながら、この子の父がこの子を氣づかつて、出發の船中より發した遺書の最後にしるした一行を、新しく胸に思ひうかべた。「なほ生れ出づる子も、大切に育てよ」と。言葉は簡單ではあるが、千均の重みを以て、今宵、我が胸によみがへる。一命を捧げて戰地へきほひ向ふそのきはまで、心を殘したこの子。「大切に育てよ」との言葉の中には、もはや私のものとしての子でなく、「我が身とともに、その子も大切なお國の大みたからなれば」の意がふくめられて居り、又、私が今後なすべきことは、母としてのつとめであるといふことも、最も素直に言ひ殘されてゐた。私は、風の樣に音もなく遠ざかり給ふ御羽車を仰いで、どんな苦難が、よしあらうとも、二人の子は、必ず一人前に育てて御意志をつがせますと、心に誓つた。母の聲が、暉美にさゝやいた。「お前のお父さんは、天皇陛下に忠義なお父さんであつた。お前も、お母ちやんや、おぢいちやん、おばあちやんのおつしやることをよくきいて、おりかうに大きくなつておくれ。それが、天皇陛下に忠義といふことです」。母の聲は、ともすれば涙にとぎれた。暉美はだまつてゐた。父も物をいはなかつた。だまつてゐる父の胸中を、私は思ひやつた。なき人が、あんなにまで大切にしてきた父母、私には父母に對しても、なき夫に代つてつくさねばならない澤山のことが殘されてゐるのだ。

 さう考へるひまにも、御羽車は遠ざかりゆく。拍手はずつと右へ移動して、あたりはひつそりとして、すゝり泣きの聲だけが闇にのこつた。いつまでもいつまでも拜んでゐたい。ああ、もうよほどおはなれになつた。全身の注意を兩の眼に集中して、もう一度御羽車を送る、兩腕に二人の子を抱きしめつゝ。樂の音は、なほも清らかに流れた。しかしもう白い尊い御羽車の御姿は、視野に求められなくなつてしまつた。御羽車の御姿は闇の中に吸ひ込まれて、再び深い々ゝすゝり泣きがきこえるだけであつた。さらゝゝと葉ずれの音をたてゝ、夜風が吹きすぎた。あゝ、毅の父は、遂に神にまつられたのである。二人の子を抱きよせて、私は闇の中に深く目をつぶつた。‥‥

 玉枝の話は、この後『戰陣訓』に移つて行く。その『戰陣訓』の中に、玉枝の感懷が奔流となつて溢れて行く。夫勇平は、『戰陣訓』なき時に、既に『戰陣訓』を實行し、そして軍人の龜鑑として、その忠烈が語られて行く。‥‥

(野村玉枝の夫、野村勇平は、出征の途上、遺書を書き、それを兩親に宛てた。)
「出發したからには、既に死亡したものと思ひ下されたく、自分は既に覺悟をしてゐます。戰場に於ける生死は運命とは言へ、少なくとも一個小隊を率ゐる以上、兵を殺して自分が生還するといふことは考へられません。しかし犬死は致しませんから、御安心下さい。戰場に於ても、死すべからざる時はある筈です。死すべからざる時は、つとめて死をさける樣にすると共に、部下をも殺さざる樣つとめる事は無論ですが、必ず死を賭して戰ふべき時が來ると思ひます――。」
(この遺書を、玉枝は夫が初陣の上海攻撃が始まつた頃に手にしたのである。玉枝は、)
「今更の樣に、皇軍の一人としての夫の覺悟に感じ、その妻としての我が身の、あまりに貧弱なことを嘆いたのであつた。」
(野村玉枝の玉章が續く。)
「夫はその言葉通りに、武人として、最もよき時とよき所を得て、部下の先頭に肉彈となつて敵陣へ飛び込み、山嶽要塞戰の露と消えたのである。それから三年經つた一月八日、陸軍始の佳日に、戰陣訓が世に發表せられて、拜讀するに、その一訓一節、悉く軍人精神の具體的表現であつて、戰陣にある將兵の道義昂揚の座右銘ともいふべき金玉の文字のみである。讀みゆくうち、本訓其三・第二戰陣の嗜(たしなみ)・二に、

後顧の憂を絶ちて、只管奉公の道に勵み、常に身邊を整へて、死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戰野に曝すは、固より軍人の覺悟なり。縱ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる樣、豫て家人に含め置くべし

の項を讀んで、夫の遺書のこゝろが、ぴつたりと之に歸着する事を發見したのである。戰陣訓なくとも、その精神は、今も昔もかはりなく、又反對に今も昔も変りなき武士道精神の節々をまとめられてこそ、この尊き戰陣訓なりしことに思ひ及んだことである。」
(玉枝は『戰陣訓』を拜讀し、悉く其の一節一節は、軍人精神の具體的表現であり、戰陣にある皇軍將兵の道義昂揚の座右銘として、金玉の文字の一文字一文字を目で追つたのである。そして夫勇平は、『戰陣訓』なくも、立派に軍人精神を體現したことに尊貴を受けたのだつた。)

『後顧の憂を絶ちて、只管奉公の道に勵み、常に身邊を整へて、死後を清くするの嗜を肝要とす。屍を戰野に曝すは、固より軍人の覺悟なり。縱ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる樣、豫て家人に含め置くべし』。これが戰前國民の御奉公の大方の姿、心だつたのです。一兵士は思ふ。勇者は、皆、山野に屍を曝して、醜の御楯として大君に殉じたのである。その御靈を安らかに祀るために、靖國神社の招魂齋庭の祭壇に在る御羽車は、支那大陸を始め、昭和の激戰地を、天空の奔馬の如く、轉瞬の時空を驅け巡り、戰場に伏した雄渾無比の皇軍兵士、勇者を迎へに走り回るのだ。その御羽車の脇には、畏くも大君がおはします。天皇御自ら、聲を限りに「おーい」「おーい」と、勇者の名を呼び、御靈を集めて行くのです。それは、あたかも戰後の遺骨收集で、ガダルカナルで、ペリリュウーで、ニューギニアで、戰友たちが、「おーい、吉田ー、河瀬ー、田中ー、迎へに來たぞー」と、聲限りにジャングルに呼びかける、「涙ながらの叫び聲」と同じなものなのです。有り難いこと、至上この上ないことであります。

 「招魂」とは、英靈之御靈が降りて來るのではなくて、迎へに行くのです。現在は「降神・昇神」と、言葉が統一されたが、以前は「迎神・送神」と言はれてゐた。招くのではなく、勇敢なる戰没將兵を迎へに行くのです。勇者皇軍兵士の額を貫く敵の矢は立てど、後ろに刺さる矢はないのです。そして漆黒の夜、激戰地から呼び集められた英靈の乘る御羽車は、たつた一度しかくぐらない招魂齋庭の鳥居を通り、凱旋の途に就くのです。招魂齋庭の鳥居は、參道の鳥居とは違ひます。激戰地から集めて來た英靈が、生涯に一度だけくぐる、凱旋するための門――鳥居なのです。出たり入つたりする參道の鳥居とは違ふのです。そして遺族が鎭まりかへる中を、英靈の乘る御羽車は巡行し、神門を入り、靖國神社本殿に向かふのです。畏敬の神になるのです‥‥。即ち靖國神社の庭は、境内は、内苑も外苑も、常に戰場であり、戰の庭なのです。從つて參拜者は、いつになく腰をかがめ、私語を愼み、伺候する場所なのです。(――亦た塾頭の曰く、「招魂式に、何故、貴人の乘る御羽車があるのか‥‥。ただの車ではなく、羽を冠した車、「御羽車」。それは、天馬の如く時空を驅け巡り、雄渾無敵、皇軍兵士の御靈を、激戰場から集めて來るためです。そのために、天孫降臨・天の磐船の如く、天驅ける羽を付けた貴人の乘り物である御羽車が用意された。その御羽車が、激戰場を驅け巡り、御國(みくに)のために命を捧げた勇者の御靈を集めに、迎へに行く‥‥。それが靖國神社の招魂式だ」と――)

(玉枝は、夫が招魂された夜を思ひ出して書く。)
「今は死んだ人を追ひすがる氣持でもなく、殘された我が身をいたむ氣持でもなく、ただゝゞ日本といふ、有り難い御國に生きてゐたよろこびに、泣けるばかりであつた。

右左 前も後(うしろ)も 我も人も 泣くばかりなり ただ泣くばかり

數知れぬ 英靈(みたま)のかげに 身は生きて 皇國の民の 感激に泣く


土にひれ伏して、ひた泣きに泣いた。拜んだ。泣くよりほか、拜むよりほかに、なすすべはなかつたのである。‥‥『二度と見ることの出來ないお父樣の御姿、尊いあの御羽車を、よく拜めよ。そして記憶せよ』と。
(玉枝は、二人の我が子に言ひ聞かせた。)

ぬばたまの 夜目にも白く まなかひに 近づきませる 御羽車のかげ

白々と 風の如くに 音もなく 我がまなかひを ゆきすぎ給ふ


(そして玉枝は、故郷に歸るのであるが、數日後に、玉枝を世話した係の兵から手紙を貰ふ。陸軍豫科士官學校・石井曹長の手紙の一節を、玉枝は書いてゐる。)

「靈魂は永久に生くるものにして、決して滅するものではありません。故野村勇平大尉は、永遠に靖國の社に生きて居られます‥‥。軍人の人生觀は、「名を竹帛に埀れる」でもなく、「丹心を留守して汗青を照らす」とかいふ、歴史に名を殘す事を以て、人の理想とするのでもなく、陛下から賜つた天職に全智全能を注ぎ、武を以て人生を完ふするもので、すべて死を以て奉じてゐる事で、決して決して死を悔ゆるものではありません。戰場に於て死の直前、「天皇陛下萬歳」の絶叫は、笑つて死する神への權化であると思ひます。故野村大尉殿も、死を以て軍人の人生を完ふなされた軍人の龜鑑です。そして身は死してゐるけれど、その人となりては、必ずその部下、或は奧樣、お子樣が稟けてゐると思ひます。そして常にこの世に在ると思ひます。大楠公死すとも、今なほその忠烈が、小さな子供にまで忠血を注いでゐるのは、決して偶然でないと思ひます。」

(まさに戰前の將兵の心膽が明眸の如く、照らされて披露されてゐます。體感して下さい。野村玉枝は、合祀祭で係となつた三人の兵からの便りをもらひ、最後に、かう書いてゐる。)
「便りにきけば、三人ともノモンハンの戰士である。そのなされる一擧一動に誠心があふれ、如何なる時にも、常に遺族に對し、獻身的の思ひやりがあらはれた。その一擧一言、死を超えて來た人の姿がにじんでゐた。

萬死に一生を得て、歸還の大命に浴することあらば、具に思ひを護國の英靈にいたし、言行を愼みて國民の範となり、愈々奉公の覺悟を固くすべし。

それは戰陣訓本訓其三・第二戰陣の嗜の最後の項目であるが、まさにあの三人の姿は、この項目にいひつくされて遺憾がない。

 戰陣訓は、形は軍人にたまはつたものであるけれども、その精神は、單に軍人にとどまらず、老若を問はず、男女の性を分たず、日本に生を享けた誰しもが目指して進むべき生活の目標である。中外にほどこしてもとらぬ人の道である。臣の道である。それは動搖する世態を一貫して、普遍に嚴然として存する人の道である。『大日本は神國なり』。嚴かに華やかにいひ放たれた、その一句。あの戰陣訓を讀んで、誰が感奮しないでゐられよう。それは我々の體内をかけめぐつて流れる祖先の忠烈の血が、ひとしく湧き立ち騒ぐからに他ならない。さう考へれば、まことに尊いことであり、祖先から受け、子孫へ傳ふべき、お國のあづかりものとしての我が身であることを悟り、この血を汚すことなく、いよゝゝ淨化して後代におくるべき責務に、胸せまる希望と歡喜を感ぜずにはゐられないのである。」

 戰前囘歸の珠玉がちりばめられてゐる。體内を驅け巡る祖先の忠烈の血が、ひとしく騒ぐ臣の道である『戰陣訓』を、戰後人は決して貶めるやうなことをしてはならない。それが大命に從ひ、御國の爲に戰沒した皇軍兵士に對する節義である、儀禮である。鬼と化し、形相化して戰鬪する將兵が、命を落とした瞬間――英靈は、國家の柱石となつた。



■『軍人敕諭』
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●『戰陣訓』
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【野村玉枝刀自】

明治四十四年六月二十一日、越中國西礪波郡東太美村土生新の矢留に、吉井藤三郎の四女として生る。十歳より作歌。
昭和七年、縣立富山高女高等科修了。
八年八月一日、上京して、竹柏園主人佐佐木信綱博士に師事。以來、竹柏會に入り、新體詩集『心の花』に作品を發表し續ける。誌上名は「吉井玉枝」。
十年三月、陸軍歩兵大尉・野村勇平に嫁す。十二年九月十日、勇平應召、十三年十月、中支湖北省に戰死。
十五年より十七年まで、二兒を置き、東京特設中等教員養成所に學ぶも、戰後、『御羽車』により教職追放。後ち教職員適格再審査により、教壇復歸。富山縣立福野高等學校に奉職。
平成二十年逝去。享年九十八。

一、歌集『雪華』(昭和十六年四月・湯川弘文社刊)
  ↓↓↓↓↓
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一、歌文集『御羽車』(昭和十七年三月・六興商會出版部刊)
○佐佐木信綱の題歌に曰く、「
ぬばたまの しじまの夜の 御羽車 音なき音を とはに傳へむ
母子草 あはれ母子草 ますらをの 靈天がけり 守りてあらむ」と。
○吉川英治の序に曰く、「
 この書の原稿は、あわたゞしい歳末から、この新春にかけて、印刷工場を通つたものである。にも關らず、組版も校正ゲラも、おそろしく迅速に運んで、豫定期日よりもずつと遲れ勝なのが通例とされてゐる近頃なのに、書肆自身でさへびつくりするやうな進捗ぶりで、忽ち製本所へ廻されたといふ。
 理由は、かうである。あとで聞いたはなしであるが、この書の原稿を手にした印刷所の組版員や校正の人々は、一字々々活字を拾つてする、その忙しい仕事の中なのに、この原稿にふかく心を打たれて、まつたくひたぶるな勵みを、無意識に注ぎこくでくれたが爲であつたといふ」と。

一、第二歌集『ひとすぢの道』(昭和二十年四月・八雲書店刊)
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一、隨筆集『石南花の記』(昭和三十八年十一月・日本文藝社刊・短歌新聞社發賣・棟方志功裝幀)

一、CD『雪華』(平成十四年九月・World・Wide・War・Singers!刊。昭和十八年、作曲家平井保喜(康三郎)作曲「聖戰歌曲集・雪華」を完全復刻)等。
 
 

歌御會始の儀。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 2月 4日(月)23時18分56秒
返信・引用 編集済
  ●荒魂之會・駒井鐵平翁編輯『あらたま』平成二十二年十二月の「風信帖」に曰く、

「平成の御代の宮中歌會始御儀は、平成三年に始まり、本年平成二十二年で二十囘である。‥‥平成三年の海部俊樹に始まり、本年平成二十二年の鳩山由紀夫に至る十二名の首相の中で、歌會始御儀の陪聽の席に列つた者は一人もゐない」と。



 平成二十四年十二月の『あらたま』には、御儀當日に於ける首相の動靜が掲載されてゐる。無論、菅・野田兩首相も無い。而して平成二十五年は、「歴史と傳統文化」を重んずると云ふ安倍首相なればと期待されたが、案の定、「君臣一體」の美しき雅びの事實は、望むべくも無かつた。一昨日の岡山に於ける勉強會にて、再び之を嚴しく指摘し、激しく怒られたのが、岡田則夫翁であつた。翁の思ひを共有し、之を悲しむこと、萬々なり。



●九段塾・塾頭遺文『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「安倍總理が、會津白虎隊の地で、『(長州の)先輩が迷惑をかけました』といふ挨拶をした。‥‥これも重要な問題です。この設問で重要なのは、安倍總理は、本當は會津で、「どのやうな挨拶をしなければいけなかつたのか」、といふ問題なのです。『先輩が迷惑かけた』といふ挨拶一言で、安倍總理の歴史觀が、全部、吐き出されてしまつた。歴史觀といふより、「何にも無い歴史」といふ方が適正かな? ブレーンに優秀な人がゐないのだらう。でもまあ、ふつー、こんなもんだらう、歴史觀なんていふのは。勤皇・勤王精神は、消えて久しい」と。



 愚案、塾頭の曰く、「會津・東北諸藩は、武士の一分で戰つた。それはそれで、立派である。落葉のやうにおちていく幕府を盛り返さうと、二百五十年の恩顧を受けた徳川家に殉じるこそ、武士。戰塵に立つた新撰組にも、旗幟はある。だが、天皇に叛旗を飜せば、それは賊とならざるを得ない。皇運を挽囘、皇國の扶翼たらんとした盡忠報國の英魂と、武士の一分で戰つた徳川恩顧の藩士とは、共に祀ることは出來ない。靖國神社は、追悼施設では無いからだ。英魂は玉垣に留まり、天皇の御座す皇國を守護奉つてゐる。白虎隊は、會津藩主に忠誠を誓つた武士集團である。彼らに天皇の皇軍になつて、天皇を守護せよとは言へないでせう。靖國神社は、「單に戰爭で死んだ人々を弔つてゐる」のでは無い。靖國神社は、「敵・味方を祀つて追悼する施設でなく、皇國を守護する義烈忠魂の御靈を讚へ、玉垣に顯在し、國民に、その振作を奮勵する所」なのです」と。

 また曰く、「會津士魂と忠義・歸順か抗戰か・諸藩の混迷・勤皇と佐幕・家憲・家訓、そして會津藩が、北端の下北半島に流され、その原野の開墾と、現在の大畑に殘る會津士魂を語りたかつた。この邊りは、小生の最大の得意分野である。まづ右に出るものはゐない、と云ふのは言ひ過ぎだが‥‥」と。蓋し塾頭は、詩吟大和流宗家第二代(福井金城宗匠)にして、得意とされた題目であられたらうが、其の高説は、遂に語られることが無かつた‥‥。

 谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「何程、忠義が正しうても、出處が惡ければ、何んの役に立たぬ」と。亦た吉田松陰先生『講孟箚記』梁惠王下に曰く、「天子の命を奉ぜずして、敵國相征するは、何程の正義に依ると云ふとも、義戰にあらず」と。言ふ勿れ、「勝てば官軍」と。承久・建武と、官軍は、辛酸を嘗め續けたのである。先哲の尊き嚴烈なる教へに導かれて、出處進退には、決して惑はざる可し矣。加へて一斑は全豹を卜するに足る、と申します。殊に君國の大事に關はる輕率不用意な發言は、嚴に之を愼みたいものであります。
 
 

賊軍なりし末裔が、靖國神社宮司になるといふ、驚天動地の人事。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 1月25日(金)20時53分11秒
返信・引用 編集済
   平成二十五年一月十九日附で、靖國神社第十一代宮司に、徳川慶喜公の曾孫・徳川康久氏(男爵家。米國資本の企業管理職を經て、芝東照宮神職。祖父は誠貴族院議員、祖母は名和公の血統、伯父は祭神・熙海軍少佐、父は脩海軍主計大尉なり)が就任された御由。噂には聞いてをりましたが、十八日に、靖國神社發表とは、つゆ知らず‥‥。
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 慶喜公の尊王心は疑ふべくも無く、敕免を蒙つて久しいものゝ、其の子孫の御方が、靖國神社宮司として適任か否かは、大いに疑はざるを得ない。新宮司には、「禁中竝公家諸法度」公布以來、二百五十三年間に亙る「東照宮」以來の不敬專横、又た王師に抗せる幕軍となり果てた責任を懺悔猛省して、慶喜公傳來の「謹愼のこゝろ」、亦た贈正一位・名和右衞門尉兼伯耆守源長年公が盡忠の至誠を以て、只管ら勤務奉公を願ふばかりである。松平永芳宮司の定められた宮司定年まで、指を屈すること十一年なり。恐懼、懇祷、々々‥‥。

 然し「東照宮」とは、何たる大仰なる神名かな哉。而も「宮」とは‥‥。今からでも、せめて自ら謙退して「社」と名乘らる可く、宜しく申し出て然る可し矣。抑も靖國神社こそ、能久親王・永久王を奉祀して、「宮」の御資格ありながら、遠慮されてをられるではないか。現在の靖國神社神座の御位置は、松平宮司畢生の決定、神ながらの鎭座と、仄聞し奉る。畏し、々々‥‥。



●九段塾・塾頭遺文『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「産經新聞で、元キヤスターの櫻井よしこさんと北康利さんのといふ方の對談を讀んだが、ここでも北さんは、「會津の白虎隊は賊軍で、靖國神社に祀られてゐないので、合祀してもいいと思ひます」と語つてゐる。この方も戰後生まれの若い方なので、靖國神社が、日本のために犠牲になつた人を祀る神社だと、誤解してゐる。「どうしてかういふことになるのか」の原因は、靖國神社側も發言しないし、左はともかく、右の方々も、「平和」にどつぷりと漬かつてゐるので、思考が「平和的」・「人道的」になつてゐるからだと思ひます。「戰爭のないことがいいといふ發想」が、原點にあるせいです。

 土臺、現在の靖國神社も、おかしなことに、「靖國神社は、平和を祈願する神社です」などと、「ええつ」と、疑ひたくなるやうな妄言を、案内に書き出しました。左翼的な人間が根つこに忍び込んで來たのでないか、心配だ。祀られてゐる英靈は、「世界が、皇國が、平和である」ことは願つたが、平和を祈つて戰つたのではない。「安直なことを言うな!」です。そして靖國神社そのものは、「人道的解釋」・「現代的解釋」ではなく、歴史事實として存在してゐます。何度も言ひますが、靖國神社は、「賊軍」と戰ひ、山野に倒れし「皇軍兵士」を祀り、その雄を、武勳を、國民に傳へ、またその精神を受け繼ぎ、皇國の柱石たらんことを國民に願ひ、いつでもその靈魂に接することが出來る神社にしたのです。祀られる方は、日本のために犠牲となつた方ではなく、天皇の軍隊――「皇軍兵士」の方だけです。

 以前、勤皇志士を匿ひ、追つての新撰組に斬られた農婦の方が祀られてゐると書きましたが、この方は、皇軍兵士同樣に、賊軍に裸一つで立ち向かはれたので、皇軍兵士同等として祀られました。一般人として祀られたわけではありません。ですから、賊軍の會津藩士も、天皇の軍隊でもない自衞隊隊員は、「祀ることが出來ない」のです。善い惡いではなく、日本は「すめらぎ(天皇)」の國であり、皇土を守護するのは、皇軍兵士です。‥‥

 盛岡藩は、賊軍です。南部利昭宮司は、靖國神社に來る以前は、當然のやうに「南部藩士の慰靈祭の祭主」をされてゐます。南部藩士祭といふのは、完全な賊軍の状態としての慰靈祭です。これは、會津藩士慰靈祭でも、同樣です。護國の英靈として、祝詞奏上いたします。南部藩士慰靈祭では、朝敵といふのは、南部盛岡藩ではなく、薩摩・長州の官軍側です。ですから、南部さんが、次期宮司の話が出た際には、この「賊軍慰靈祭祭主といふのが問題だ」と、神社でも口にする人が多かつた。 だが、所詮、職員らの意見などはムシケラ同然、何の役にもたちません。結局は、執行部に押し切られて、南部さんが宮司になりました。

 まあね、もともと、南部さんが望んで宮司を希望したわけではなく、劃策する側に、「一時しのぎ」といふ思ひがあつて、それで、宮司就任を依頼したわけですから、南部宮司にしてみれば、靖國神社は「副」といふ感覺があつても、やむをえんでせう。心は、南部藩士の方が大事な筈です。盡忠報國の南部藩士ですから。南部藩士あつての、現在の南部家ですから。何時だつたか、テレビで南部藩出身の新撰組の話が放送されてゐたが、南部は賊軍を誇りとしてゐる。まあ、いづれ南部さんは、靖國神社を辭めて國に歸り、殿樣をしなければなりませんし。ですから、ハナカラ、南部家を、靖國神社宮司にすること自體が過ちで、不適任そのものだつたのですと、小生らは、さう思うてをります。‥‥

 そのうち靖國神社は、賊軍の南部藩士も、密かに合祀し出すのかもしれない。あるいは岩手に出向いて、南部藩士を慰める「なほらひ」を、神職總出で、派手に始めるんぢやないか。「この方達も、日本のために、勤皇と戰つたのです」などと、話し出すのではないか。そして盛岡市内で、バカ騒ぎをするのかな。小生は思ふのだが、南部宮司は、「靖國神社の宮司」として、毎日、自らの家臣であつた南部藩士を斬りまくり、銃彈で射殺した勤皇の志士・官軍兵士の勇武を譽めそやし、慰めてゐるが、それで、國もとの南部藩士の靈魂は、何も言はないものなのだらうか、不思議な氣がする。朝敵にならうとも、士魂を傾け、官軍と戰つた南部藩士の靈魂は、靖國神社の宮司に納まつた殿樣子孫を、何んとも感じないのだらうか、何も批判しないのだらうか、不思議でならない。會津は、今でも會津藩士の雄渾を展示する博物館では、「新潟縣人は、入館禁止の措置」を取つてゐる。會津戰爭で、官軍に付いた新發田藩(愚案、崎門道義の學を奉ぜし藩なり矣)を、「寢返つた裏切り者」として、許してゐないからだ。

 とりあへず小生の言はんとする所は、現下執行部の魔手により、靖國神社が、さう、あたかも炎に包まれるやうな感觸を抱く、あくどい猛火に包まれてゐる。魑魅魍魎、邪神が放つた「火」の爲に、本殿屋上が燃えてゐる。その中に、ケタケタと哄笑してゐる惡魔が居る。魑魅魍魎が、勝ち鬨の聲を擧げて居る。汚辱された猛火の中で、本殿の大黒柱が崩れて行く。猛火襲來。誰か防ぐものはいないか!」と。



【義公傳來・徳川慶喜公の本心】
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【會津藩の不徹底は、吉川神道の影響下にあつた藩祖・保科正之に在り】
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【慙懼に堪へざる心より來る祭祀を懇祷す】

■徳川慶喜公『政權竝びに位記返上の上表』――大政奉還の上表文

 臣慶喜、謹みて皇國時運の沿革を考へ候ふに、昔し王綱、紐を解きて、相家、權を執りて、保平の亂、政權、武門に移りてより、祖宗(家康)に至り、更に寵眷を蒙り、二百餘年、子孫相受け、臣、其の職を奉ずと雖も、政刑、當を失ふこと、少なからず、今日の形勢に至り候ふも、畢竟、薄徳の致す所、慙懼に堪へず候ふ。

 況んや當今、外國の交際、日に盛んなるにより、愈々朝權、一途に出で申さず候うては、綱紀、立ち難く候ふ間、從來の舊習(幕府)を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡し、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と竝び立つ可く候ふ。臣慶喜、國家に盡す所、是に過ぎずと存じ奉り候ふ。

 去り乍ら猶ほ見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く(一に「申し聞かす」と訓ずるは、甚だ非なり。慶喜公の意に反すと謂ふべし)可き旨、諸侯へ相達し置き候ふ。之に依り、此の段、謹みて奏聞仕り候ふ。以上。[詢]

 (慶應三年)十月十四日、慶喜



招魂祭の祭文】――明治元年六月二日
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【大義と義】

●平泉澄博士『忠と義』(昭和九年九月・十年十月増補・非賣品)に曰く、

「あの義士の擧が、所謂小さな忠義であつて、大きな忠義でないといふ非難につきましては、小さな忠義と大きな忠義が離反する場合には、大きな忠義を取るといふことが、即ち小さな忠にもなるのでありますが、今の場合(赤穗義士)には、皇室に對する忠義を損なつてゐないといふことを考へなければならない。それは(山鹿素行先生の精神を承け繼いだ)吉田松陰先生や乃木大將が、義士を敬慕されてゐる點からも明かになりますが、それを今一層明白にしますためには、明治元年に、明治天皇が、初めて東京へ行幸遊ばされまして、四五日目に、直ちに勅使を大石の墓へ遣はされ、幣帛を賜つてをります事を憶起せばよろしいのであります。その時、賜はりました勅書には、恐れ多い事でありますが、「汝、良雄等、固く主從の義を執り、仇を復し、法に死す。百世の下、人をして感奮興起せしむ。朕、深くこれを嘉賞す」と、かう仰せられてをります。即ちその行爲は大忠において少しも損ふ所なく、而してその精神は、全く義により起つたことでありまして、これに對する非難は、少しも當らないと思ひます。法がこれを處斷したことは、それはそれで別のことでありまして、これ等の人を非難するは當らないと思ひます。法に背いてはならない、法はどこまでも守らなければなりませんが、しかも實は、法よりもさらに重いものがあるといふことを、又た考へなければなりません。さきに分といふことを述べましたが、分は守らなければならないが、併しそれも非常な時に臨んでは、これを越えなければならない、君國の大事に臨んでは、人は分を越えなければならない、法は守らなければならぬ、しかし時には之を破らなければならぬ場合がある、これはよく考へなければならぬことであります。若しさういふことが全くなくして、どんなことがあらうとも、國家こゝに轉覆しようとも、皇室こゝに一大事に際會し給はうとも、自分の與へられた分を守つて行き、定められた法律に從つて、知らぬ顔をしてゐるといふが如きことでありましては、これこそ實に恐るべきだと思ひます。こゝにおいて吾々は、根本において深き所のものを掴んでゐなければ、一朝、大變に際して、到底、君國を護持するといふことは出來ないと思ふのであります」と。



 謹みて惟んみるに、「大義」に殉じた官軍の英靈、「義」に殉じた幕軍の傑靈、其の正邪賞罰は、顯界の天皇陛下により、また神界の天神地祇によつて決定され、各々其の所を得て安鎭にして、問題は無い矣。問題は、顯界の人間――各々の司祭者・參拜者・崇敬者の思ひに在るのであらう。其の複雜なる思ひが幽界と交通し、幽顯各々の祭祀に影響が及ばざるやう、切に祈り奉る。靖國神社祭祀の根源たる、代々木大神の聖旨を奉戴して、只管らなる無私の奉仕を、幾重にも懇祷し奉る。恐懼して白す。
 
 

物ごとに清めつくして神習ふ國風しるき春は來にけり――曙覽翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 1月 1日(火)17時55分35秒
返信・引用
  平成二十五年
中興紀元二千六百七十三年
天孫降臨以來五千十三年
天皇正月、歳、癸巳に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。

 架藏の『神宮遙拜詞』(備前の吉備津彦神社より拜戴の『神拜詞』に所收)に曰く、掛けまくも畏き
神宮の大前を、謹しみ敬(うやま)ひ、遙かに拜み奉りて、
天皇命の大御代を、嚴し御代の足らし御代に、守り幸はへ奉り給ひ、
皇御國を、彌榮えに榮えしめ給へと、畏み畏みも白す。



【左左右右詞】――『倭姫命世記』

黒(きたな)き心無くして、丹(あか)き心を以ちて、清潔(いさぎよ)く齋(い)み愼しみ、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に歸り、右に廻る事も、萬の事違ふ事なくして、大神に仕へ奉れ。元(はじめ)を元とし、本を本とする故なり。



【天下神物詞・清淨眞信詞】――『伊勢二所大神宮寶基本紀』

人は、乃ち天下の神物(みたまもの)なり。須らく靜め謐まることを掌るべし。心は、乃ち神明の主たり。心神(こゝろのたましひ)を傷ましむる莫れ。(以下、神埀冥加詞――『倭姫命世記』にも在り)神は埀るゝに、祈祷を以て先となし、冥は加ふるに、正直を以て本となす。‥‥

神を祭る禮は、清淨を以て先となし、眞信(まこと)を以て宗となす。



【一切成就祓】――『神宮古代祝詞集』

極めて汚濁(きたな)き事も、滯(たま)り無ければ、穢濁(きたな)きはあらじ。内外(うちと)の玉垣、清し淨しと申す。
 
 

祓給清給。無上靈寶、神道加持。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月30日(日)23時39分25秒
返信・引用
   年の瀬も押し迫り、明日は愈々大祓へ、本年、關係各位の協贊を得、塾頭遺文『靖国神社の真実』を、京都洛風書房より上梓かつ増刷することが叶ひ、先づは「ほつと」してをります。

 泉水隆一監督こと、福井金城翁、ご照覽あれ。

 來る御歳も、皆樣の福壽、無量ならむことを懇祷申し上げ、ご挨拶に代へさせて戴きます。難有うございました。備中處士、敬つて白す。



■伯家神道『吉備津祓』(吉備津神社祓詞。岡田米夫翁編輯註解『諸祓詞集――附祈願詞・祓神歌・修祓式』昭和三十六年七月・神社本廳刊に所收)

天照る神の教への祓、一度び祓へば、百日の災難を除き、百度び祓へば、千日の咎を捨つる。千代萬代、年を經ても、天の神の惠みはつきじ。生き生き、代々に尊きは、天地の恩、仰ぎても猶ほ餘りあるは、神の徳に越ゆることなし。
 
 

大正天皇例祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月24日(月)22時15分47秒
返信・引用 編集済
   明日、即ち十二月二十五日は、孝明天皇(後月輪東山陵)・大正天皇(多摩陵)の崩御ましませる日なるべし矣。
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 大正天皇を偲び奉りて、謹みて大正五年の御製詩を掲げ奉らむ。


●『金剛山を望み、楠正成に感有り』

金剛の□□[山+律。山+卒。りつしゆつ。高且嶮]、勢、何ぞ豪なる、
絶頂の浮雲、白旄を想ふ。
絶代の忠臣、大義に憑る、
偉勳、長へに、此の山と高し。

一峯、高く、白雲の中に在り、
千歳、猶ほ存す、氣象の雄。
負かず、行宮、半宵の夢、
長く孫子をして、誠忠を竭さしむ。


●『楠正成』

勤王、百戰、甚だ艱辛、
妙算、奇謀、本とより絶倫。
死に臨みて、七生滅賊を期す、
誠忠、大節、斯の人に屬す。


●『楠正行』

王事に勤勞して、節、逾(いよゝゝ)堅し、
表志、扉に題す、歌、一篇。
負かず、當時、遺訓の切なるに、
千秋の忠義、姓名、傳ふ。
 
 

奉祝――皇尊彌榮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月23日(日)21時12分20秒
返信・引用 編集済
  天皇陛下萬歳


【敕語】――平成二十四年壬辰の天長節――

 沖繩は、色々な問題で、苦勞が多い事と察してゐます。其の苦勞があるだけに、日本全體の人が、皆で沖繩の人々の苦勞をしてゐる面を考へて行くと云ふ事が大事ではないかと思つてゐます。地上戰で、あれだけ大勢の人々が亡くなつたことは、ほかの地域では無い訣です。其の事なども、段々時が經つと忘れられて行くと云ふ事が心配されます。やはりこれまでの戰爭で、沖繩の人々の被つた災難と云ふものは、日本人全體で分かち合ふと云ふ事が大切ではないかと思つてゐます。
 
 

先哲遺文を承けて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年12月14日(金)21時18分51秒
返信・引用 編集済
   九段塾塾頭――泉水隆一監督の遺訓は、「尊王・勤皇の風を吹かせよ」でありました。此の管理者の愚鈍なる、其の志を伸べ得ずして、眞に申し訣なく、先哲遺文から、舊稿を抄して掲示させて戴き、其の責めの一端を塞ぎたいと存じます。小生の座右を離れざる玉章であります。必無の論も含みますが、義理の究明の極論、ご賢察ください。
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【神敕嚴然――皇國體の基礎】



■崇道盡敬皇帝舍人親王謹撰『日本書紀』卷第二・一書(所謂「天壤無窮の神敕」)に曰く、

「天照大神、皇孫に敕して曰はく、
葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地なり。宜しく爾、皇孫、就きて治せ。行きくませ矣。寳祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮り無かるべし矣』」と。

――荻原擴博士『天祖の神勅』(昭和十一年八月・藤井書店刊)の訓讀集成の歸結に曰く、
「葦原の千五百秋の瑞穗の國は、是れ吾が子孫(みこ)の王(きみ)たる可き地(ところ)なり。宜しく爾(なむぢ)皇孫(すめみまのみこと)、就(ゆ)いて治ろしめせ。行(さ)きく矣。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさんこと、當に天壤とともに窮まり無かるべし矣」と。

――略訓
「あまつひつきの みさかりは あめつちと きはみなからんものそ」



●北畠准后親房公『神皇正統記』第二代・正哉吾勝々速日天忍穗耳尊の御條に曰く、

「吾勝尊、降り給ふべかりし時、天照大神、三種の神器を傳へ給ふ。後に又た瓊々杵尊にも授ましゝゝしに、饒速日尊は、之を得給はず。然れば日嗣の神には坐さぬなるべし[此事、舊事本紀の説也。日本紀には見えず]。天照大神・吾勝尊は、天上に留り給へど、地神の第一・二に數へ奉る。其の始め、天下の主(きみ)たるべしとて、生れ給し故にや」と。



●濯直靈社遊佐木齋先生『神儒問答(鳩巣室直清に答ふる書)』第二(元祿九年十月十五日)・第三(元祿十年六月十八日)に曰く、

「唯だ『若し王者起ること有らば』の一語(鳩巣の言)、未だ疑ひ有ることを免れず。其の『王者起る』と曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては、則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮り無かるべき者、諱む可きの甚だし焉。‥‥

 夫れ人や也、生るれば必ず死し、王や也、興れば必ず亡ぶ。必然の理也。然れども我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか、之れ有らん。天地と共に主爲り、開闢と共に君爲り。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず」と。



●谷秦山先生『靜軒宮地介直に答ふる書』(正徳元年辛卯・正徳二年壬辰)に曰く、

抑も我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也。神代の古風、猶尚ほ考ふ可し。以て普天に軌則して、愧づる無かる可し。而るに我が國の人、質朴餘り有りて、考究精しからず、反りて外國敗亂、百起百滅の遺塵を信じ、彼の風を移して、以て我が人を化せんと欲す。何ぞ其の思はざるの甚だしき也。‥‥

 日本、開闢以來億萬載、帝皇一統、聨聨綿綿、一日の如し矣。中古而降、武家權を執り、政を天下に施し、閑に王室を衞る。而るに君臣上下の大分、天地と位を同じうし、未だ曾て搖ぐこと有らず焉。是れ本末曲折、顯著明白、舟車の通ずる所、孰か之を知らざらん。‥‥

 夫れ國の強久は、土地甲兵の盛んに在らずして、名分の嚴に在り。‥‥我が朝、終古外國の侵侮を受けざる者は、豈に大小強弱の勢を以てせん哉。唯だ其の名分の正、萬國に冠絶すれば也」と。



●森井左京翁・玉木葦齋翁『神代卷藻鹽草』に曰く、

「近く諭さば、異國には、大君の上に、天帝あり。敕命の上に、上天の命あり。吾が國の大君は、所謂天帝也。敕命は、所謂天命と心得べし。假令ひ天災ありて、大風洪水、或は時疫流行して、人民多く死亡に到ると雖も、一人も天を怨むる者はなく、下民、罪ある故に、天、此の災ひを降せりとして、反つて身を省みる。是れ常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり」と。



●吉田松陰先生『堀江克之助に與ふる書』(安政六年十月十一日)に曰く、

「神敕、相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神敕を疑ふの罪、輕からざる也」と。



【體・用の論――「體」は、天壤無窮の神敕に因り確定す矣。「用」は、皇國臣民の當然當爲、當行當務の覺悟なり矣】



●山口春水翁『強齋先生雜話筆記』(享保四年己亥正月八日。岡彪邨翁『強齋先生雜話筆記』卷一に所收)に曰く、

「予(春水)曰く、「昨日は、白馬の節會を拜見仕り候ふ。幸ひにて忝くも天顔を親しく拜し奉り候ふ次第、如々にて候ふ」。

 (強齋)先生の曰く、『扨々冥加叶はれたることに候ふ。數十年在京申し候へども、彼れ此れ取紛れ、未だ御節會をも拜さず候ふ。よき家づとゝ云ひ、殊には天顔を拜せらるゝこと、難有きことに候ふ。天照大神より御血脈、今に絶せず、統々嗣がせられ候へば、實に人間の種にて之れ無く候ふ。神明を拜せらるゝ如く思はるゝ由、左こそ有る可きことにて候ふ。我が國の萬國に勝れて自讚するに堪へたるは、只だ此のことにて候ふ。あまり難有き物語りを承るにさへ、感慨を催し、返す々ゝも貴く覺え候ふ』。

 曰く、「昨日は、近衞樣、内辨を御勤めにて候ふ。束帶威儀の正しきと申すことは、この上有る可しとも存ぜず。誠に敬の至り、斯くこそ之れ有る可きことゝ、是れ亦た感心仕り候ふ」。

 曰く、『なるほど、ゝゝゝゝ。左こそ之れ有る可きことにて候ふ。扨それについて、可笑しき話、之れ有り候ふ。あまりに天孫綿々として絶えざること言はうとして、今の神道者など云ふ者が、「我が國は神國ぢやによりての筈ぢや」と云ふが、これは愚かなことにて候ふ。丁度、愛宕の札を張つて、我が家は燒けぬはずぢやと云ふに同じく候ふ。焉ぞ湯・武あらざることを知らんや。其の上、神國がそれほどあらたなことならば、何とて今日の如く、王室季微にはなり下らせられ候ふや。これも山崎氏の門人にて候ふが、谷丹三郎(愚案、秦山先生、是れ也)と云ふ男、神道をば主張して説くとて、「日本は、北極紫微宮の帝座にあたりたゆゑ、王統絶えぬ道理ぢや」と申し候ふ。此等の説、皆な「うつけ」たることにて候ふ。前にも云ふ通り、我が國の自慢と云ふは、衰へたりと雖も、幸ひに御血脈が絶えいで、唐の堯・舜の授禪、湯・武の放伐の如くなることないと云ふ迄でこそあれ、今日では本願寺の勢ほどにもなき王室をいかめしく言ふも、片腹痛く候ふ。‥‥』」と。



●山口春水翁『強齋先生雜話續録』に曰く、

「或る時、(山口春水が、若林強齋)先生へ申し上るは、「王室と云へども、氣運によりては御盛衰はあるはずなり。但し御元祖、國常立尊と稱し奉るを初めとして、日神樣の御神敕、『行矣、寳祚之隆、當與天壤無窮者矣』と、仰せられたる事などを以て思ひめぐらし候へば、誠に常磐堅磐に萬世無窮なるべきと、疑なく存じ奉る」旨を申し上ぐれば、

 先生仰せらるゝは、
『夫れは麁相なる了簡なり。今ま王室々々と云へども、本願寺の繁昌ほどもなし。伊勢の祓を屋の棟に建てたれば、此の家、類燒すまじきと云ふやうなもの也。まのあたり平清盛は都を福原へ移し、足利義滿は法皇の眞似をしたり。此の後とても、何時、清盛・義滿に超過したる犯上の者、出來らんも計り難し。さてゝゝ危き事、氣遣ひなる事、言語に述べ難し。此の處を御上にも下にも、忘れず怠らず、大事大切にあらば、庶くは王室の憂なからんか歟。それを其許(そこもと)のやうに、恃みあり、慥かなる事と思ひ安んずるは、以ての外の事なり。わづかに安しと思はるれば、最早や寳劔の旨を忘れたると云ふものなり。是等の處、能く々ゝ合點せらるべし』
とて、甚だ御警戒あり。‥‥

『皇統を仰ぎ崇ぶは勿論なり。但し何時、何樣の變が有らうかと、常々恐怖するが、今日の當務なり。日神の詔敕に違ひの有らう樣はなけれども、清盛もあり、頼朝もあり、何時、將門・純友が出やうも知れぬ。神代に既に天稚彦あり、何時までも動きはない事とおちつくは、惰り也。甚だ危き事也』」と。



●竹内羞齋(式部)先生『奉公心得書』(寶暦七年六月)に曰く、

「此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則ち之を誅して、君に歸すること、吾國の大義なり。‥‥神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むる人なれば、其の身は勿論、紙一枚、絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。‥‥いよゝゝ君を敬ひ、かしづき奉る心、しばらくも忘れ給ふべからず。‥‥

 又た君に疎まるゝ人は、少しも君を怨むる心など出でたらば、勿體なき事と心得、只だ天つ神につかふると心得、猶ほも身持ちを大切にして、奉公を勵み給ふべし。譬へば今ま大風・大雨・飢饉・流行病等ありても、天を怨むる人なし。吾が君は、眞に神といふこと、返すゞゝゝも忘れ給ふべからず。然るを淺はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の亂にも及ぶ事、古今、其の例し多し。愼むべし。楠正成の言葉に、『君を怨むる心起らば、天照大神の御名を唱ふべし』とあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則ち其の御子孫の大君、たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや。まして「至誠、神明に通ずれば、造化と功を同うす」といひ、「人を感ずる能はざるは、誠の未だ至らざる也」ともいへば、誠だに至らば、などか君のかへりみ給ふ事なからんや。其の誠に至るの道は、心に如才なきのみにては至り難し。すべて心を盡すは業にある事なれば、平生、身にする事の道にそむかざる樣に愼しみ、心一ぱいを身と共に盡す故、身心内外、相ひそろひて、誠に至る事なり。さはいへども、餘り恐れをのゝきては、離るゝと云ふ事あり。只だ我が身を顧み、道にそむく事だにあらずんば、云ふ事、すべき事は、すべかりとしたまふべし。



【本末前後の論――絶對尊皇・承詔必謹の道】



●遊佐木齋先生『神儒問答・第三』に曰く、

「天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼也。此れ乃ち我が神教の大意也。‥‥

 明徳(明明徳)・新民有りて、本末を差(たが)へざるは、則ち王道也。明徳・新民有りと雖も、少しく本末を差ふれば、則ち覇道也。明徳・新民を知りて、能く本末を知る者は、道學也。明徳・新民を知ると雖も、本末を知らざる者は、功利の學也」と。



●鈴屋本居宣長大人『葛花』に曰く、

「から國にて、臣、君を三度び諌めて聽かざる時は去るといひ、子、父を三たびいさめて聽かざるときは泣いてしたがふといへり。これは父のみに厚くして、君に薄き惡しき風俗也。‥‥

 皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者、去るべき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ惡しくましゝゝて、從ふに忍びずと思はゞ、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知るべし。たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり。‥‥然れば君あしゝといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて從ひ奉るは、一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其の益、廣大なり」と。



●本居宣長大人『古事記傳』卷四十三に曰く、

「君のしわざの甚だ惡しきを、臣として議ることなくして、爲し給ふまゝに見過ごすは、さしあたりては愚にして、不忠(まめならざ)るに似たれども、然らず。君の惡行は、其の生涯に過ぎざれば、世の人の苦しむも限りありて、なほ暫しのほどなるを、君臣の道の亂れは、永き世までに、其の弊害、かぎりなし。‥‥

 御行爲、惡しく坐し々ゝゝによりて、藤原基經大臣の、下し奉られしは、國のため世のため、忠なる如くに聞ゆれども、古への道に非ず。外つ國のしわざにして、いとも畏る可く、此れより‥‥漸くに衰へ坐して、臣の勢ひ、いよゝゝ強く盛りになれるに非ずや」と。



●吉田松陰先生『又讀七則』(安政三年十一月二十三日『丙辰幽室文稿』に所收)に曰く、

「天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者有り。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふる者有り。余、幼にして家學を奉じ、兵法を講じ、夷狄は國患にして憤らざる可からざるを知り、爾後、遍く夷狄の横(ほしいまゝ)なる所以を考へ、國家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非ざるを知れり。然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。

 向(さき)に八月の間、一友(宇都宮默霖)に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂へしは、竝(み)な夷狄に憤りを爲して見を起せり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるに非ざりし也。‥‥朝廷、上に尊く、幕府、下に恭しといふ。果して言ふ所の如くんば、則ち今ま又た何をか憂へん。唯だ其れ然らず。志士の悲憤する所以ん也。足下、亦た甞て禁闕を拜し、而して江都を觀るか邪。其の尊きは、則ち然り。其の恭しは、安くに在らん。夫れ六百年來の變、皆な臣子の道(い)ふに忍びざる所なり」と。



●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』(『丙辰幽室文稿』卷三)に曰く、

「評。天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。支那は則ち然り。神州に在りては、斷々、然らざる者有り。

 謹みて按ずるに、我が大八洲は、皇祖の肇めたまふ所にして、萬世、子孫に傳へたまひ、天壤と與に窮り無き者、他人の覬覦す可きに非ざるなり焉。其の一人の天下たるや、亦た明かなり矣。

 請ふ、必無の事を設けて、以て其の眞に然らざるを明かにせん。本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらば、億兆の民、唯だ當に首領を竝列し、闕に伏して號哭し、仰いで天子の感悟を祈りまつるべきのみ而已。不幸にして天子、震怒しまたひ、盡く億兆を誅したまはゞ、四海の餘民、復た孑遺あること無けん。而して後、神州亡びん。若し尚ほ一民の存する有らば、又た闕に詣りて死す、是れ神州の民也。或は闕に詣り死せずんば、則ち神州の民に非ざる也。

 是の時に當りて、湯武の如き者、放伐の擧に出でば、其の心仁なりと雖も、其の爲すこと義なりと雖も、支那人に非ざれば、則ち天竺、歐羅人に非ざれば、則ち利漢、決して神州の人に非ざる也。而して神州の民、尚ほ何ぞ之に與せん哉。

 下、邦國に至りても、亦た然り。今、防長兩國は、一人の兩國也。一人にして在らば、則ち兩國在り焉。一人にして亡びなば、則ち兩國亡びん。不幸にして一人、其の人に非ずんば、則ち兩國の民、當に皆な諌死すべし。若し或は死せず、去りて他國に往かば、兩國の民に非ざる也。山中に隱耕するは、兩國の民に非ざる也。萬一、支那の所謂る君を誅し民を弔ふ若き者あらば、虎狼豺犀、決して人類に非ざる也。

 故に曰く、天下は一人の天下なり、と。而して其の一人の天下に非ずと云ふ者は、特だ支那人の語のみ耳。

 然りと雖も普天率土の民、皆な天下を以て己が任と爲し、死を盡して以て天子に事へまつり、貴賤尊卑を以て、之れが隔限を爲さず。是れ則ち神州の道也。是れ或は以て一人の天下に非ずと爲るや耶。

 又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」と。



●中島一光翁『紀元二千六百五十年を目前にして』(平成元年一月『さきもり』第二十四號)に曰く、

「去る二月二十一日に、日本防衞研究會主催で、湊川神社の酒井利行先生を御招きして、大嘗祭に關しての講演會が行はれた。‥‥

 日本の眞の姿を極める命題として、假に横暴非道な天皇樣が立たれた場合、臣下として日本人として如何に爲すべきか、といふものがある。大多數の人は、「日本には、シナのやうな放伐といふ思想は無い」といふ點で一致してゐると思ふが、それ以上問ひ詰められると、言葉が詰まつてしまふのでは無からうか(かく申す私も、その一人であつたが)。

 この命題に對して、酒井先生が明解な答へを出して下さつたので、感激の思ひを込めつつ、御紹介させて戴く。それは「そのやうな場合、日本人總てが近くの神社に集り、そして祈り、祈つて祈つて祈り拔き、最後の一人も祈り死にするまで、祈り拔くことである」と言ふ主旨の御話であつた。「何だ、唯だ祈り拔くだけの話ではないか」と言はれる方もをられると思ふが、この命題について考へに考へ拔いてきた私にとつては、これだけで十分である。この上、どんな言葉をも付け加へる必要が無い程、十分に解らせて戴いた」と。
 
 

顯幽無敵の道を歩む。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月29日(木)18時33分52秒
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  ~承前~

●影山正治翁『忠靈神葬論――皇軍の本義と宗教維新の道』(昭和十七年九月。『影山正治全集』七卷所收)に曰く、

「空の軍神と讚へられる、故陸軍少將・從四位勳五等功四級・加藤建夫氏の陸軍葬が、同少將ベンガル灣頭自爆の日より滿四ケ月の命日にあたる、九月二十二日午後二時より、築地本願寺本堂に於て執行された。靈位は「須彌壇」に安置され、「導師」は「紫衣緋袈裟」の西本願寺大谷光照法主「持念、三奉請」ののち、「敬白文」が讀まれ、「讀經、燒香」の後、告別式に移つたと言ふ。こゝに言ふ導師とは何ぞ、靈位を西方彼岸に渡すための導師である。こゝに言ふ持念とは何ぞ、阿彌陀佛に歸命するための念稱である。こゝに言ふ告別とは何ぞ、皇國土を離れて西方十萬億土へ旅立つ御靈に對する告別である。あゝ、又た言ふに忍びざるところ、軍神の靈、いづくに行かむとするか。かくて戰死者中の華とも言ふべき『軍神』加藤の陸軍葬が、神葬を以て行はれず、佛寺に於て佛葬を以て行はれたと言ふ此の事實は、悲しむべき大東亞戰史上の汚點として、永く後世にのこるであらう。

 あたかも加藤少將葬儀の日に、新たに靖國神社に合祀される陸海一萬五千二十一柱の氏名が發表せられた。戰死者の忠靈は、たゞ護國の神として、靖國神社に神鎭まりますのである。みたみわれらは、生きて大君の御楯となるのみでなく、死して益々大君の御楯となるのである。『大君の邊にこそ死なめ』とは、この意味にほかならない。『天皇陛下萬歳』を奉唱し、固く七生勤皇の誓願をこめつゝ、戰死せる忠烈の英魂は、眞直ぐに高天原の神座にまゐ上るのであつて、斷じて西方十萬億土の極樂世界や天國に行くのではない。若し行くものありとせば、そは生ける忠臣、死せる叛徒に外ならないのである。肉體は捧げるが、靈魂は捧げぬと言ふならば、そのやうな忠節は、斷じて絶對のものではないのである。軍神の意味を、當局の諸公は、何と考へて居るのであらうか。本來、軍神とは、決して單に一二の者に特稱さるべき性質の稱號ではない筈である。即ち靖國の忠神は、すべてこれ軍神に外ならないのだ。

 若し武勳拔群の者を、特に軍神と呼稱し、以て全軍の士氣昂揚を圖るのであると言ふならば、それも一應もつともとして認めてよい。しかしその場合には、軍神に對する死後の扱ひは、特別に留意されなければならない。それは、何よりも忠臣中の忠臣であるのだから、生死を一貫して、純粹無雜に、神ながらでなければならない。萬一、軍神の靈が、釋迦や阿彌陀佛に歸依するやうなことがあつたならば、事は言語道斷に深刻である。國體は、肉の世界のみのこととなつてしまふ。皇國民の行く手は、全く混亂に陷つてしまふのである。

 軍神は、文字通り、皇國のいくさ神であつて、斷じて佛でも、蕃神でもない。このことを銘記するならば、軍神の公葬を、いやしくも佛式で執行出來る筈がないのである。しかも今囘の軍神葬儀は、公葬中の公葬たる陸軍葬ではないか。全陸軍の責任に於て行はるゝ軍神の葬儀が、佛寺に於て佛式にて執行されたる事實を見て、心ある國民は、驚愕悲痛せざるを得なかつたのである。敢てあらはにその悲憤の情を訴へざるは、現下時局の重大さの故に、その結果の波及するところ、或は思はざる方面に便乘の機會を與ふることあらむを恐るゝがためのみである。當局者は、事の國體の根本義に關する一大事なるを痛感し、よろしく三思痛省すべきであると信ずる。

 此の際、我々は、陸海軍部が信仰の點に於て百尺竿頭一歩を進め、陸海軍葬・鎭守府葬・部隊葬のみならず、市町村に於ける戰死者の公葬を、一切、神式に依つて執行すべきことを決定し、速やかにこれを全國に嚴達されむことを切願したい。かくてのみ、始めて國體明徴は、その軌道に乘り、聖戰の眞義は、物と形の面のみでなく、精神と靈魂の面にまで、徹底闡明され行くであらう。我等は、靈肉共に、一點一物もあますところなく、神にまします大君にまつろひまつらなくてはならなぬのである。戰死者の公葬を神式に於て執行すべき所以も、またこゝに存する。

 一方に於て靖國神社に神として祀り、一方に於て佛教、又はクリスト教を以て、高天原以外の靈界に送靈すると言ふことは、皇國精神界の大分裂である。我等は、年々の大祭に方り、至尊御自ら親しく靖國神社社頭に御拜下さる一大事實を深思しなければならない。至尊が臣下達の靈に御拜下さるのである。護國の神なればこそ、である。若し靖國神社の靈位は名のみにして、その實體は遠く西方十萬億土に行つて居ると言ふのであるならば、これほどの大逆不忠はないのである。

 從來、軍は、とかく信仰の方面に對しては、かるく考へがちであつたやうに見受ける。しかしこれからは、斷じてさうあつてはならない。至尊は、單に陸海軍最高御統帥者としての大元帥陛下にあらせらるゝばかりではない。何よりも神にましますのである。皇國軍隊は、大神の率ゐたまふ神軍なればこそ、世界で唯一つの聖戰を行ひ得る資格者であるのだ。皇軍こそ、神を祭り、神敕を奉じ、神意のまにゝゝ行藏すべき神兵・神軍であるのだ。國のうちの、如何なる層に於てよりも、最も正しく深き信仰の體得者でなければならない。萬般維新の根本たる宗教維新は、實は皇軍を最先頭としてこそ行はるべきものであるのだ」と。



■平田大壑先生『春秋命歴序考の自敘』に曰く、

「士君子、知己を千載に待つ。豈に善價を今日に求めむや哉。苟くも帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ者有らば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとす矣。彼の凡庸の徒は、耳を提て之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむこと能はざる也。我れ惟だ々ゞ我が宗とする所を宗とす。亦た豈に信を不信の人に求めむや哉」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/2
 
 

所謂る國防軍なる者は、果して皇軍か、或は幕軍か。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月26日(月)19時23分39秒
返信・引用 編集済
   「自由主義・民主主義に立脚し、利害功利を以て、その窮極の目的とする幕府的存在」が、有らうことか、由縁ある「衞」の字を捨てゝ、「自衞隊」の名稱を「國防軍」と改稱する由、西洋思想に汚染して、疑ふことを知らぬ保守黨を名乘る黨首の言、先に律令以來の古稱「大藏」を捨て、敢へて「財務」と飜譯名稱に變へたもの故ゑ、殊更に驚くことも無いが、洵に寒心憂慮に堪へぬ。

 吾人の熱祷する所の者は、八紘一宇を發揚する皇軍、近衞北面の武人集團の復活再建であつて、異國流の國防軍なぞでは、決して無い。國軍思想こそ、之れ討つ可きの仇敵なり矣。「保守の敵は、保守なり」と。一億總保守の時代を向へつゝある現代に在つて、益々身に詰まされたり。よくぞ言ひ得たり、松平永芳宮司の言なるかな哉。



●影山正治翁『純正維新――皇軍か國軍か將又幕軍か』(昭和十二年四月、發行即日發禁。『影山正治全集』第二卷所收)に曰く、

「抑々その出發點に於て、自由主義・民主主義に立脚し、利害功利を以て、その窮極の目的とするこれら幕府的存在に關しては、『問答無用』として、しばらく口を緘するも、亦た可。しかるに現在、『皇軍』を以て自ら稱する陸海軍が、その首腦部の態勢姿相に於て、殆んどこれら幕府的現状維持勢力の思想・行動と、果していくばくの差異ありやと思はしむる點、多々あるに於ては、如何なる強權の迫害に遭逢するも、我等、斷じてこれを默視する能はざるものである。

 例へば二・二六事件以降、約一ケ年間に於ける寺内前陸相の、一個の言動のみを以て之を見るも、吾人は現實の皇國陸海軍が、果して皇軍なりや否やを疑はざるを得ないのだ。現に寺内前陸相は[國體明徴運動の急先鋒に立つたかの如き觀ありし川島前々陸相も、亦た然り]、皇國陸海軍を指稱する時、殆んど常に『國軍』の名を以てした[杉山陸相、亦た同じ]。

 皇軍は、果して國軍なりや。又た國軍であつてよきものなりや。皇軍は皇軍にして、國軍たるべきものにあらざるなり。陸軍首腦部の思想の貧困も、亦た哀れむべきである。寺内・川島等の老將軍連は、すでにその思想の水準に於いて『國體』を云々し、『皇軍』を云々する資格者に非ざることを知り得るのだ。

 國軍思想こそは、皇軍の正面敵である。彼等の稱する國軍とは、即ち國防軍の謂ひに外ならない。國軍思想は、『軍隊とは、國民の生命財産を擁護し、植民地を確保し、通商・貿易を掩護せんがために存する國家の武裝集團なり』とする、西歐流概念に基く。しかして日本以外の全外國軍隊は[或る程度の意味に於てソ聯軍は、やゝ特異の存在であるが]、すべてがこの概念そのまゝの軍隊に外ならない。日本の軍隊は、果してかゝる國防軍であるか、又あつてよいものであるか。

 皇國軍隊は、何よりもそれが、『天皇の軍隊』、即ち皇軍たるところに、その絶對的本質を有する。『我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある』とは、明治大神が『軍人敕諭』の劈頭に於て御宣明遊ばされたるところである。併して『朕は汝等軍人の大元帥なるぞ』と、御詔示遊ばされ、『天皇は陸海軍を統帥す』と、御法文化遊ばされたるところのもの、一にこゝに原由するのである。こゝにこそ、皇軍の皇軍たる本質が存する。即ち皇軍とは、天皇の御統率の下、天皇の御本質を體認して、以て内外に皇道國體の大事實を防護宣布確立する、神劍聖武たるスメラミイクサであるのだ。

 しかるに國軍思想は、この大事實を歪曲して、日本軍隊は『國家の軍隊たること』を強調せんとするものである。これ『主權は國家に在り、天皇は國家の機關なり』とする大逆、國家法上、天皇機關説に外ならない。國體明徴・天皇機關説排撃を、日々口頭に弄して疑はざる現軍首腦部が、實は何んぞはからん、それ自身、天皇機關説信奉者にも類する言動を行つてはゞからないのである。‥‥

 吾人は繰返して絶叫したい、國軍思想は、皇軍の正面敵であり、且つ現郡首腦部諸公は、殆んど皇軍をして幕軍たらしむる危險性を有する存在であることを。今や正に國體の危機であると共に、皇軍の危機である。皇軍を確保確立するものは、誰ぞ」と。
 
 

眼を開いて、明かに看よ、古人の意。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月12日(月)18時02分47秒
返信・引用
   帝都に、「三條の會」てふ、高山赤城(彦九郎)先生に倣ふ、全國有志の會あり。宮城前にて參拜懇祷する、獨往戀闕者の集ひなり。立雲頭山滿翁の、赤城先生を語る文あり。拜記して、有志に告ぐと云爾。



●天眞藤本尚則翁『巨人頭山滿翁』(昭和七年十月・頭山翁傳頒布會刊。平成三年九月・谷口書店覆刻)に曰く、

「寛政の三桀と云つても、一番エラかつたのは、無論、高山彦九郎先生さ。彼れ眞に勇略大望の士であつた。時の天子は、光格天皇で、この御方が、また却々の英主で在らせられた。

八重葎 茂りて道も 分かぬ世に 降るは涙の 天が下かな

とは、光格帝の御製である。上に此の英明なる天子あり、公卿に中山大納言あり、草莽の臣に高山があり、上中下に不世出の英雄が揃つてゐたのぢやが、時至らずして、遂に其の志は成らなかつたのである。一介の百姓・彦九郎が、天子にお目見えの出來たなどは、容易に出來る事でない。そこが即ち明主たり、英主であらせられし所以である。中山大納言と高山とは、最も肝膽相照らし、大納言が敕使として下向し、若し殺されたら、それを動機として討幕の軍を起さうと云ふので、それが爲め、高山は東奔西走、竊かに雄藩を説いて廻つたのである。高山發するに臨み、中山卿と肘を執つて相談じ、別るゝに臨み、『イヅレ地下でお目にかゝらう』と、決死の誓ひをなしたものぢや。所が大納言の方も、高山の方も、事、意の如くならなかつた。

 高山が、

別れ行く 妻子の末は さもあればあれ 君の御爲に 盡す身なれば

の一首を家人に與へて郷里を立ち、各雄藩を説きつゝ薩摩に下り、その藩公に會はうとした時、其の門番が彼を入れない。そこで彼、

薩摩人 いかにやいかに 苅萱の 關も鎖さぬ 御代と知らずや

と大喝し、遂に面會を遂げたが、併し話が、ヤハリ面白く行かなかつた。そこで彼は、最後に一死を以て、天下の人心を警醒しようとしたのぢや。

 先生が久留米で腹を切つた時、切るに先だち、そこの下男に水桶を持つて來させて、一切の記録を引き裂いて、悉く此の水中に投げ込み、然る後ち腹を割いた。之を見て、そこの主人が大いに驚き、『ドーゾ、待つてくれ。何故ゑの自殺かも分らずに死なれては、俺(わし)の方が、お上のお咎めを受ける。すぐ役人を呼んで來るから、それまで待つてゐて貰ひたい』との事に、高山、『諾(よ)し』と云つて、既に臟腑はハミ出して、血は一面に流れて居る中に、ヂーツと俯伏して、檢視を待つ事にした。所が昔の事だから、役人がオイそれと云つて、すぐに來ない。小半日もかゝつて、漸くやつて來た。見ると、本人はもう縡(こと)切れたらしく、一面の血の中に浸つて居る。そこで役人は、扇子の尻で、そのハミ出した臟腑をツヽいて見た。すると最早や縡切れたやうに見えた高山が、ムクリと起き直つて、大喝一聲、『尾籠ーツ』と、持ち前の雷の如き聲で怒鳴り付けたので、役人は驚いて、尻餅をついたさうだ。

やがて役人が、改めて其の自殺の譯を尋ねると、高山先生曰く、

我れ常に國家に報ぜんと欲する所のもの、忠は不忠となり、義は不義となる。我が爲めに、天下の豪傑に謝せよ。發狂するのみ

と云つて、死んで了つた。死後數日を經て、廣島の人・唐崎常陸介と云ふ者が、高山の墓前に於て、之も見事に自殺を遂げたさうぢや。明治天皇の御製に、

永らへて 今にありせば 高山の 高き勳を 立てましものを

とある。先生の靈、地下に感泣した事であらう。僕の内(立雲翁の家藏)に、高山の書いた一軸がある。

夕螢、朝雪、何事をか學ぶ、
萬卷の讀書、總て放心。
眼を開いて、明かに看よ、古人の意、
今人、離る可し、迂儒○


と云ふのだ。所が一番最後の字が、どんな學者でも讀みきらぬ。三浦[觀樹將軍]なども、首を傾げてゐた。恁(か)ういふ謎の字を、最後にボツンと置く所が、高山式ぢやらうね」と。



●編纂委員會編『頭山滿翁正傳――未定稿』(顧問三宅雪嶺翁序・委員廣田弘毅翁序・進藤一馬翁跋。昭和五十六年十月・葦書房刊)に曰く、

「(立雲翁の曰く、高山)彦九郎の切腹は、計劃の齟齬からぢやらうね。中山大納言の關東下向と密接な關係があるやうぢや。一大變革を志して雄藩を説き廻つたが、うまく行かない。中山大納言と別れる時には、大地を踏んで、『いづれ、この下で、お目にかゝりませう』と、いつたとのことぢや。九州に來て、道載(龜井南冥翁――立雲翁の師である興志塾・仙芝高場亂刀自の師筋なり)に大事を告げた。道載は餘程熱烈な人で、彦九郎にも負けん位ぢやつた。藩政改革の意見が用ひられないで、參政を辭してしまつた。彦九郎と一緒にやる考へぢやつたやうぢや。薩藩に行つて激勵した勢ひなど、凄まじいものぢやつた。當時の雄藩・薩摩へ怒鳴り込んだのは、福岡藩では道載と平野國臣(註)くらゐのものだらう。彦九郎が大事を謀つたのは道載だけで、森嘉膳は友人だつたが、與らなかつたやうぢや。餘程祕密にやつたものと見える。久留米の森の家で切腹したが、その前に一切の書類を水に漬けて破つてから、腹を切つた。宿の者が、役人が檢視に來るまで待つて呉れといふので、朝から夕まで、十時間も待つたさうぢや。檢視の來た時、首を埀れて息も絶えた樣子なので、役人が扇子で臟腑をつゝいたたら、起き上がつて、『尾籠ツ』と、大喝した。役人が魂消て引繰り返つたさうぢや[昭和十八年速記]」と。



(註)頭山滿翁『國士平野國臣傳の序』(買劍今田主税正虎翁の所著)に曰く、

「國臣平野次郎先生は、近代の人にして、而して古代の人なり。死を畏れずして、而して生を重んじたるの人たり。一時の豪傑にして、而して百世の大丈夫たり。玲瓏、玉の如く、潔白、雪の如きの胸懷を以て、風雲的の膽量、縱横的の作略を兼ねたる者、維新前後、唯一、先生を見る。英雄囘頭、即神仙と云ふの心地を以て、奇正の衢に上下し、成敗の林に出沒し、神氣靈魂、遠く千歳の人心を率ゆる者、古今唯一、斯の神異の人有り矣。先生は、我が筑前福岡に出づ。予輩後生、碌々一奇を建つる能はずと雖も、尚ほ大日本士道の上に、區々自ら修むる所あらんと欲するに至る者、一に皆な先生の遺風に服し、聊か自ら起つの賜なり。

 嗚呼、先生の魂魄、長く此の土に留まつて、神州の正氣を鼓舞す。今日、此の篇の出づる、亦た蓋し先生の神(しん)、之を導いて、以て近時の世道人心を警醒せしむる乎。蒼天漠々、而して日月の光は、即ち千歳、變ること莫し。偉人の精氣、豈に萬古を照らす莫からん哉。之を今田君『平野先生傳』の序となす。

 明治二十四年十二月二十六日」と。



【參考・高山赤城先生】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1537
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1538
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1539
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至誠、神、通ず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月 3日(土)14時27分54秒
返信・引用 編集済
   本日は、明治節。明治天皇崩御ましまして、一百一年、滿百年の歳なり矣。明治天皇こそは、「あらゆる方面から考へて、神武天皇の應化降臨あらせ給ひしものと拜し奉る」。「明治天皇の御降誕と御上天とは、人間世界に於ける一大事件」、神界の經綸の御發動と、拜承謹聽してをります。

 無位の眞人・立雲頭山滿翁、明治神宮參拜の姿を見、其の爲人、殆んど尋常ならざるを覺ゆ。蓋しまさに「使命仙」か、或は「謫仙」のお一人、まがふこと無き神眞であられよう。

「頭山翁の明治神宮參拜は、明治天皇にお目にかゝるのである。翁が神前に進むと、天皇のお姿が現れる。すると、翁は、その場にひれ伏し、天皇のお姿が消えるまで、その姿勢を變へぬのだ」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1415


 さう云へば、立雲翁、若きとき、たゞの人間ではつまらぬからとて、深山幽谷にて分け入り、心膽の錬磨、仙人の修行もなされし由、立雲翁の曰く、

「紅塵萬丈の人寰を去つて、十里山鳥の一聲の境、終日、悠々として天地の自然に對するの時、一種、言ふ可からざるの妙趣を解するものだ」と。

 玄洋平岡浩太郎翁の曰く、

「頭山は、稀代の豪傑ぢや。七たび生れ代つても、彼の眞似は出來るものではない」と。

 
 

無位の眞人・頭山立雲翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年11月 1日(木)21時27分10秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 天台道士杉浦重剛翁の手より、天覽・台覽の榮を賜はつた、藤本尚則翁『巨人頭山滿翁』――立雲翁に關する一大百科字彙は、八百頁を超える大册であるが、之を讀み出したら、面白くて手放せぬ。「今西郷」たる頭山立雲翁は、明治から昭和の聖代に於ける、不覊獨往の蛟龍にして、徳富蘇峰翁をして「淨化せられたる國寶の一。胸中無一文物、身邊無一物、眼界無一物、唯だ存するものは、君國に報いる丹誠のみ。名士偉人、概ね晩節に傷く、獨り翁に於いて、晩節の愈よ馨しきを覺ゆ」と謂はしめたる「無位の眞人」、また翁の人氣は、大西郷をも凌ぐと云はれる。之を紹介せざらんと欲すと雖も、我慢ならぬ。小生の事とて、面白きこと無き所を、極く一部、記させて戴きたい。然し拜讀の後、洵に爽快痛喜、支那の『三國志演義』の豪傑大侠も、一歩も二歩も引下がるに相違ない。有志の一讀を乞ひたい。



■天眞藤本尚則翁『巨人頭山滿翁』(昭和七年十月・頭山翁傳頒布會刊。平成三年九月・谷口書店覆刻)に曰く、


○(立雲翁の曰く、)日支親善も古臭いが、眞の親善を實現するには、一黨一派の行懸りなどに拘はつた出任せではなく、大所高處から、亞細亞人として避く可からざる、已むを得ざる所に向つて、支那を指導しなければならぬ。此の已むを得ざる所に向つて誠を推せば、日支親善の趨勢は、拒(ふせ)がんとして拒ぎ得ざるものがあるのだ。然るにヤレ共和では困るの、帝制でなくてはイケヌのと、そんな事は、抑も末ではないか。今の官僚とか閥族とか云ふ輩は、兎角く他國の政變を氣にするさうだが、他國の政變がどうならうと、夫れが何だ。そんなに餘計な心配をするのは、心配する者自身、我が國體に對する信念が足らぬからである。我が國には、千古萬古、不動の礎ゑがある。假令へ世界中殘らず共和國になつても、此の國礎は動くものではない。そんな餘計な心配よりは、此の亂麻の如き隣國を、一日も早く、意義あり精神ある國家に仕上げ、以て相互に東亞永遠の大計を啓かねばならぬのだ。支那の民黨も、隨分足許が怪しく、殊に幾度びか國難に遭うて、眞骨頂ある者は大分減つたが、其の身を捨て家を捨て、祖國の爲めに盡して來た精神は、埒も明かぬ日本のガラクタ政黨よりは、餘程、優(ま)しだよ(大正六年。平野國臣先生に、『制蠻礎策』あり。東洋對歐米の根本策として、日支同盟論が唱へられてゐる。日支親善・日支共存も、結局の到達點は、必ずや日支同盟であらねばならぬとした翁は、其の衣鉢を繼げるものなり。「日支關係は、男女關係と同じさ。日本ばかり、獨りヨガリぢや、イカンよ」と)。


○(立雲翁の曰く、)今度のやうな問題(排日案の米國下院通過)の起るのも、我が日本人には、よい藥ぢやよ。是れ迄で日本人は、餘りに米國かぶれが過ぎる。彼等の云ふ事・爲す事なら、是が非でも贊成をしたり、眞似をしたりするといふ行き方ぢや、外交の事でも、此の調子で、腰が弱い。それは役人に意氣地がないからでもあるが、又た國民全體の罪である。そこに付け込んで、米國どもが勝手な眞似をするのぢや。つまり軟弱な國民思想の反映ぢやね。かういふ惡い思想も、腐る所まで腐らして置かねば、根治は出來まいが、米國の今度のやうな遣り方で、日本人の目が覺めるやうな事になれば、寧ろ米國に感謝すべきである。議會を通過して後、大統領が裁可するかせぬかを氣にするものもあるが、之れは徹底的に大統領の裁可までやらせる方が、將來、日本人の爲になるのぢや。何しろ俺どもは、近頃、日本人の精神が、段々と影の薄くなつて行くのを見て、殘念に思ふ。

 かういふ調子では、何時かは、取り返しのつかぬ日が來るよ。米國は、表には正義とか人道とか云うて居るが、ペルリの來朝も、畢竟、東洋併呑の瀬踏みであつたのぢや。米國の云ふ正義・人道は、米國に都合のよい時にのみ通用する主義である。彼は凡ての場合、日本の進歩發達を阻害する事のみを夢みて、徐々に之を實現し、今後もその點では、遺漏なく魔手を擴げ、獨り我が國のみでなく、全亞細亞の平和を亂すことは明かな事實であるにも拘はらず、何故ゑ我が國民は、今まで之を悟らなかつたであらう。時機、既に遲いながらも、今こそ覺醒すべき時である。全亞細亞民族が提携して、亞細亞の發達を圖るこそ望ましい。人種の鬪爭は、世界の續く限り避け難い事であるから、そこに戰爭も起る。戰ひを開かなければならぬ時が來れば、大いに戰ふがよからう。


○(三伏の炎暑中、白の浴衣を纏ひて端坐し、左手をムンヅと左膝に突き、右手に『靖獻遺言』を披いて右膝を立て、眼光烱々として紙背に徹するが如く、宛ら三昧境に入れる立雲翁、漸く卷を措いて曰く、)あゝ、かう云ふものなら、預かるのも快い。先日、浦和の親戚に行つた時、持つて行つて、久し振りに讀んだが、何時見ても、氣持ちがよい(かつて高場亂女史の人蔘畑の塾にて、女史の不在中、翁が代講せしことありき。翁の『靖獻遺言』を講ずるや、理義一貫、辯析、甚だ要を得、毫も難詰の餘地なく、何時の間に斯くまでの素養を積みたりしかと驚嘆せしめ、爾來、翁の頭角、益々抽んづるに至つたと傳へたり)。此の頃の政界では、「綱紀肅正」とやらで、諸所に演説會などがある樣ぢやが、責められる奴は、勿論惡いが、責める奴の方も、果してそれ丈けの資格があるかどうか。臺所で抓み食ひをする奴を捕へて、『貴樣、どうした、穢い奴か』と咎める一方で、『どれ、俺にも一つ喰はせれ』と云ふのが、今日の綱紀肅正ぢやないかね。平田篤胤の歌に、
『皆人に 慾をすてよと 教へつゝ あとより拾ふ 寺の上人』
といふのがある。『どうした、キタナイ奴か』と云ふ迄はよいが、あとが惡いテ。此の本(淺見絅齋先生『靖獻遺言』)にある、謝枋得の、
雪中松柏愈青青、扶植綱常在此行、天下久無□[龍+共]勝潔、人間何獨伯夷清、義高便覺生堪捨、禮重方知死甚輕、南八男兒終不屈、皇天上帝眼分明
と云ふ詩を朗々と吟ずる方が、百人の演説よりも雄辯ぢやよ。此の詩の如き精神の人間が、即ち大丈夫と云ふものだ。今の世の中は、何か一寸した事にも、『ナニ、大丈夫ですよ』と云ふが、一向本當の大丈夫を見當らぬ。此の本を讀んで居ると、顔眞卿などの面目、見るが如しぢや。彼等は兄弟ながら、偉かつたやうぢや。所が昔でも今でも、惡い奴の方が多いね‥‥。


○(天台杉浦重剛翁の曰く、)明治四十五年十二月一日、國學院で、淺見絅齋の二百年祭を執行した時、自分(杉浦翁)は、始めて演説と云ふものをやつた。その時、述べた趣旨は、
淺見先生は、あの當時に於て、支那に對する日本の主義を唱へた。今日、我々は、歐米に對する日本の主義を唱へなければならぬ
と云ふに在つたが、あとで聞くと、頭山君も列席してゐたさうで、自分の演説に同感であつたと聞いた。

 大正元年、乃木さんの殉死せられた翌日、自分は乃木邸へ悔みに行つた歸りに、頭山君を訪ふと、同君、
先帝も、小村(壽太郎)を先供(さきども)に、乃木を後供にせられたら、御滿足でせう
と云はれた。自分も、全く同感である。


○(立雲翁『翁の青年訓――忠孝が本』に曰く、)廟堂に立つものは猶更らであるが、國民も亦た根柢の立脚點を堅固にしなければ駄目ぢや。根本が堅固でないと、我が國の領域のみが空しく擴大しても、要するに生命なき一種の虚榮に過ぎぬ。ドウも日本人は、眞に忠孝を本としなければ駄目ぢや。もう青年の人々には、國家の事に直接關係すると云ふ觀念が、追々と無くなつて來た。借錢をしても、國家の爲めにすると云ふ風は、段々なくなつて來た。身を忘れて、人のため國家のために盡すと云ふ考へが、日増しに少なくなる。

 斯くの如き軟傾向。己れあるを知つて、他あるを知らず、家あるを知つて、國あるを知らぬ樣にしたのは、畢竟、政治家の責任である。一國の政に與かるものが、確乎たる根柢がないからだ。俺の如く人生七十に近くして、國に寸功なきものは、敢へて彼れ是れ天下の事を論ずる資格はないが、併し政治家連に、モツト奮發して貰はねば立ち行かぬ。青年の人々も、亦た先輩を待たずに奮發せねばなるまい。本氣の力と云ふものはエライもので、 一人の至誠でも、國を動かすことが出來る。七度生れ代り、君の爲めに身を殺すと云ふ所に、日本魂の骨髓が存するのぢや。
 
 

皇道を恢弘せよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月28日(日)13時32分6秒
返信・引用 編集済
  ◎佐久良東雄先生の哥

君に親に あつくつかふる 人の子の ねざめはいかに きよくあるらむ

草も木も 我が大君の ものなりと ふかくおもへる 人もあらなん

朝夕に 禮(ゐや)を申さむ 何事も 神と君との 御蔭々々と

飯(いひ)食ふと 箸をとるにも 吾が君の 大御惠みと なみだし流る

君がため 朝霜ふみて ゆく道は たふとく嬉しく 悲しくありけり



●立雲頭山滿翁述・吉田鞆明翁記『英雄を語る』(昭和十七年九月・時代社刊。『頭山滿思想集成』平成二十三年十二月・書肆心水刊に所收)に曰く、

「(立雲頭山滿翁の曰く、)大西郷は、征韓論に敗れたとよく言ふが、さう言ふ譯ぢやない。あの頃、日本政府が歐米諸國に脅かされてをるのを見て、韓國では、日本を西洋の奴隷の如く心得、西洋の奴隷に、韓の國土を汚される譯にはいかんと言ふので、例の大院君が、

『日本人は洋人と交通し、夷狄の民と化したるを以て、自今、日本人と交るものは死刑に處す』

と言ふが如き、無禮の排外令を出し、あまつさへ在韓日本人全部の引上げを要求したのぢや。

 そこで大西郷が、出かけて行つて判るやうにすると、意氣込んだのぢや。彼(あ)の頃の人物、木戸も岩倉も三條も相當のものだが、議論では、板垣が一番傑出して居つた。板垣の意見では、岩倉や大久保などの西洋かぶれの意見に對し、

近い隣同志の國の始末さへつかんのに、西洋の眞似ばかりすると言ふことがあるか。先づ以て近い隣同志の、韓國や支那との折合ひをつけにやいかん

と言ふのだ。大西郷も、全くこれと同意見ぢや。但しロシヤの南下は、手嚴しくやつつけねばならぬと言ふのであつた。さうして韓國や支那とは、仲よくしようと言ふのぢや。

 しかし西郷の言ふ通りに、もし西郷を韓にやつたら、どんなことになるか判らん。是非、西郷が行くと言ふなら、護衞の名義で兵隊を附けてやらう、と言ふ意見もあつたと言ふが、大西郷は笑つて、

『兵隊など附けて貰うても、おいどんは、戰は下手ぢや。なんの、韓國位に出かけるのなら、竹の杖一本と藁草履一足の外、別段、何もいり申さん。きつと譯の判るやうにしてみせる』

と、意氣軒高たるものがあつたさうぢや。しかし一部の反對で、到當成り立たなかつたのは遺憾ぢや」と。



●夢野久作こと、杉山泰道翁『頭山滿先生』(『頭山滿思想集成』所收)に曰く、

「(頭山立雲翁の二十にならない頃に、既に曰く、)日本人の行く道は、云ふまでもなく、皇道である。日本人が神代の昔から守つて來た忠孝の道は、世界に類例が無いと同時に、人間の守るべき道の行き止まりである。吾々が人間に生まれて、一人前になつて生きて行く事が出來るのは、みんな吾々の親樣たちの御蔭である。同じ樣に日本國民が、今日のやうに榮えることが出來たのは、萬世一系の天子樣の御蔭である。天子樣は、日本中の大親樣である。日本中のものは、吾々の身も魂も、髮の毛一本でも、天子樣のものである。大切にしなければならぬ。粗末に心得てはならぬ。この心が、忠であり孝である。

 西洋の道徳では、自分の身體(からだ)も魂も自分のものと云ふことになつて居る。だから自分の勝手にしてよろしい、自分の好きな事をしてよろしい、他人のことは構はないでよろしいと云ふことになつてゐる。それでは、人間では無い。獸とおんなじである。その通りにしたら、世の中はメチヤメチヤである。だから法律といふものを作つて、ドウヤラカウヤラ纏まつた國を作つてゐる。これを個人主義と云ふのだ。

 その獸のやうな心から、西洋の國々は飛行機とか毒瓦斯とか云ふものを作つて、そんなものを持たない弱い國々を取らうとしてゐる。飛行機や毒瓦斯なぞを研究してはイケナイと云ふのでは無い。そんなものに感心して、西洋人をエライと思つて、西洋人の眞似ばかりしてゐると、何時の間にか日本人が西洋人のやうな獸じみた心になるから、イケナイのだ。忠孝の道を忘れた弱い國になつてしまふから、イケナイのだ。

 今の日本の有樣は、ドウダ。アメリカ人はアメリカの子供を育てて居る。イタリー人はイタリーの子供を育てて居る。ところが日本人ばかりは、皆な西洋人のやうな子供を育ててゐるのは、何故か。日本人の子供は、日本人にならねばならぬ。忠孝の道が、ホンタウにわかる日本人となつて、世界にお手本を示さねばならぬ。これがホンタウの皇道である。日本を一番強い國にして、世界を導いて行く道である。(かうした頭山先生の言葉が、その頃の滿少年の心であつたのだ。滿少年の、かうした覺悟は、それから後ち今日までの永い間、ちつとも變つてゐないのだ)」と。

【參考・夢野久作翁】
  ↓↓↓↓↓
http://www1.kcn.ne.jp/~orio/index.html



 愚案、流石に「仙○位」の眞僊であつたと云ふ、立雲翁の言葉は重い。自らの榮達や金錢は全く求めず、邊幅を飾らない實直さと無心無慾の行動は、多くの人々を魅了し、其の發する片言隻語すら、金石の重みを有つ。浪人道の龜鑑指標であらう。所謂る右翼を自負する若者は、西洋流の右翼であつてはならぬ。根無し艸の右翼は、所詮、現代の脱亞流行の保守と、何等撰ぶ所は無い。勤王黨に源流をもつ右翼は、よろしく立雲翁「ひとりでゐても、淋しくない人間になれ」に學び、其の道統を嗣がねばならぬ。野村望東尼の詠みらく、

武士の やまと心を よりあはせ たゞひとすぢの おほつなにせよ

 固より我々は、日本人である。然し立雲翁の「日本人と成る」ことは、抑も難事であるかな。況んや「眞の日本人と成る」をや。



●寒林平泉澄先生『眞の日本人』(『傳統』昭和十五年一月・至文堂刊に所收)に曰く、

「甚だしいかな、天下形勢の急轉、朝に連衡の約あつて、夕に合從の盟となり、こゝに權變の術あれば、かしこに反間の策存し、一方に衆力を集めて、猛虎を攻めようとする者あれば、他方に兩虎相搏つて、共に疲弊するを待たうとする者がある。斯くの如く詐謀の祕術をつくして、一上一下、動亂やむ時なき外交の怒濤に棹さす者は、抑も何を頼み、何に依るべきであるか。これ今日、護國報恩の志をいだく士人の、日夜肝腦をくだく問題でなければならぬ。

 しかるに明快に此の問題に答ふるものは、實に幕末の俊傑・高杉東行、その人である。曰く、

余を以て之を觀るに、攘夷の第一策は、則ち天下の人心を一にするに在り。天下の人心一なれば、百萬の醜虜と雖も、懼るゝに足らず矣。人心一ならざれば、則ち數十の軍も、亦た懼る可し。』(『東行遺稿』。愚案、卷下「田中子復を送る序」)

即ち國内の人心を一つにする事こそ、外國の侮を禦ぐ第一の要件なりとするのである。所謂一億一心、上下一和するならば、何ぞ外敵を恐れんや、むしろ進んで、大に國威を發揚すべし、といふのである。然るに之に就いては、世に異論があらう。蓋し人心は互に相違する事、まさに其の面貌の異なるが如く、從つて之を一つにするといふが如きは、恐らくは單に修飾の辭であつて、實際に於いては到底不能の事に屬すると考へられ易いからである。しかしながら事實それは、決して不可能ではない。人々にして、若し其の私心を去り、潔く祖國の傳統に復歸するならば、こゝに祖國傳統の力は、上下貧富の差、老若男女の別を超えて、よく一億を一心ならしめるのである。されば前にあげたる「天下の人心を一にする」の説は、國民のすべてを、國家の正しき傳統に復歸せしむるといふに歸着するのであり、更に語を換へて表現するならば、吉田松陰先生が『講孟箚記』卷頭の、左の教となるのである。

聞く、近世海外の諸蠻、各々其の賢智を推擧し、其の政治を革新し、駸々然として、上國を凌侮するの勢あり。我れ何を以てか、是を制せん。他なし、前に論ずる所の我が國體の外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲に死し、闔藩の人は闔藩の爲に死し、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確乎たらば、何ぞ諸蠻を畏れんや。願くは諸君と茲に從事せん。

國體の大義を明かにし、日本の道義に一命を捧ぐるといふ、これ即ち私を去つて傳統に歸順するものに外ならず、よくかくの如くであるならば、之をこそ眞の日本人と呼ぶべきであるが、國民のすべてが、眞の日本人となる時に於いては、一億、こゝに一心となつて、外國の權變、恐るゝに足らず、合從連衡、多く意に介せずして、一路邁進し得るのである。‥‥

 皇國臣子の道の、その後再び忘却せられ、傳統の光の、近年、又も衰微して來た。しからば我等は、此の道を再び明かにし、此の光を今日に輝かしめなければならぬ。‥‥我等日本人のすべてが、この忠死の心に立ち、この傳統にかへる時、換言すれば眞の日本人となる時、一億をうつて一心とする事は、始めて可能である。一億をうつて一心となし得たる時、海外の怒濤、それ何物であらうか」と。
 
 

京都『凛として愛』上映會、竝びに東條由布子刀自講演會ご案内。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月16日(火)22時54分17秒
返信・引用 編集済
   下記、「愛国女性のつどい花時計」の藤真知子樣からのご案内、謹んで轉載、ご紹介申し上げます。

**********

 11月4日に、京都で、映画「凛として愛」上映会&東條由布子氏講演会が行われます。
 東條由布子氏は、映画「凜として愛」の泉水隆一監督と親交が深く、「凜として愛」が靖国神社で上映中止になったいきさつ、上映中止になったその日の事、泉水隆一監督の熱い思いなど、すぐそばで見てきた方です。
 とても貴重な上映会&講演会になると思います。ぜひこの貴重な上映会&講演会に参加して頂ければと思います。

 一人でも多くの方のご参加お待ちしております。なお高校生以下は無料となっておりますので、ぜひご家族でご参加頂ければと思います。

チラシ
http://kyoto-city.info/20121104.pdf
詳細
http://kyoto-city.info/

~次代に語り継ごう日本人の誇り~ in 京都

【日時】平成24年11月4日(日)
    13:30~16:30(受付開始13:00~)
【場所】こどもみらい館 4階

(京都御所南・地下鉄「丸太町」駅徒歩3分)
【費用】会場協力金1000円(学生500円 高校生以下無料※社会人学生除く)
(定員192名 ※全席自由)
事前申込はこちら
http://kyoto-city.info/script/mailform/joueikai/
※定員を超えた時点で締め切らせて頂きます
(事前申込なしでも入場できますが、事前申込の方を優先します)

第1部:映画『凛として愛』上映会 (上映時間 約70分)監督・脚本:泉水隆一
 明治開国から大東亜戦争まで日本が戦ってきた歴史がよくわかります。
靖国神社において、たったの2日で上映中止に追い込まれた映画
明治27年の朝鮮半島をめぐる清国との戦い
ロシア、フランス、ドイツの三国干渉
朝鮮半島、満州をめぐりロシアと戦った日露戦争
満州事変、支那事変、ABCD包囲網
自存自衛のために戦った大東亜戦争

第2部:講演 「今こそ、真実の歴史を知ってほしい」
講師:東條英機元総理ご令孫 東條由布子先生
 大東亜戦争・東京裁判・靖国(備中處士、補うて云く、靖國神社をめぐる)問題等についてご講演いただきます。
【東條由布子先生 プロフィール】
(経歴)
昭和14年5月20日 東條英機元総理の長男の長女として出生
昭和42年3月 明治学院大学社会福祉学科中退
聖心女子大学で心理学単位習得
昭和60年4月 国士舘大学文学部教育学科編入
昭和63年3月 同校卒業
(職歴)
シンガポール公立中学校にて日本語講師
東京都保護監察局保護司
社会福祉協議会ガイドヘルパー(視覚障害者介添)
市原少年院短期カウンセラー
現在、NPO法人環境保全機構 理事長



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愛国女性のつどい花時計 藤真知子
fuji.machiko@gmail.com
花時計HP:http://www.hanadokei2010.com/
代表者ブログ「マダムの部屋」:http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
週刊花時計:http://www.yamatopress.com/column/pg41.html
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 11/4のイベントは、花時計も協賛させて頂いています。主催の「誇りある日本を取り戻す会」は、花時計でも力をいれている映画「凜として愛」の拡散を、関西で頑張っている団体です。京都での上映会は、今回で3回目の開催になります。

 花時計会員の方で11月4日、お手伝い頂ける方がいましたら、ご連絡頂けますでしょうか。今回は会場が大きく、準備などやる事が沢山ありますので、ぜひともご協力頂ければと思います。

 また関西での告知などご協力頂けますと助かります。一人でも多くの方に来て頂き、このイベントが成功できるよう、お力をお貸しください。どうぞよろしくお願い致します。

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日韓合邦の本義――八紘爲宇の序章・大亞細亞精神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月10日(水)19時19分58秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●硬石内田良平翁『日韓合併の思ひ出話』(夢野久作翁『近世快人傳』昭和十年十二月・黒白書房刊に所收。田中健之主編『内田良平翁五十年祭追慕録』昭和六十二年七月・日本興亞協會竝皇極社出版部刊に所收)に曰く、「

[硬石内田良平翁の曰く、]支那の革命(孫文の第一革命)は、目睫の間に迫つてゐる。ところで此の革命が成功したならば、清朝は、必ずや清朝發祥の地たる滿洲に逃れて來て、露西亞の助力を受けようとするのであらう。萬一、そんな事になつたら、それは露西亞の東洋侵略の口火を切るやうなものである。だから吾々は、これに先手を打つて置かねばならぬので、正に今日こそは、東洋の危急存亡の秋、危機一髮の危局である。實は革命黨の首領・孫逸仙(中山孫文)も、自分と同意見である。孫逸仙は、滿洲と蒙古とを擧げて、日本に與へようと云つてゐるが、これは實を云ふと、孫の怜悧な策略で、萬一、革命が成功した曉に於ける清朝の滿洲蒙塵を虞れ、滿洲を根據地とし、露國の援助を受けた清朝が、無敵の勢で支那内地へ盛り返して來ることを、非常に怖れてゐるからである。だから滿洲を日本に讓つて、其の樣な患を斷つと同時に、日本軍をして、極力、革命軍を援助せしめようとする、一石二鳥の魂膽に相違ない(愚案、是れ孫文が、王道に據らずして、覇術を弄する所以なり)のだから、何れにせよ、此の機を外さず、滿洲を吾が連邦に入れなければならぬと思ふ。

[海山李容九翁の曰く、]御話の通り、一點の異議もありませぬ。吾々一進會員は、御同樣の考へで、朝鮮民族を指導する覺悟であります。現在、我が韓國内は、貴族政治の腐敗と世襲的な兩班政治の爲に、民力を枯渇させられ、國外からは、白人の東漸勢力によつて、内治外交方針を攪亂されて、いつも東洋の禍亂の發生地となり、將來共に、到底、獨立を全うし得ないであらう事は、火を睹るよりも明かであります。ですから此の際、合邦の一擧によつて、國内の階級制度を打破し、人材登用の道を開き、國民の幸福・自由を保證し、進んで日本帝國を宗主とし、王道精神を精神とした亞細亞連邦組織の經綸を行はねば、吾々朝鮮民族は、未来永劫、救はるゝ時は無い、と考へて居ります(明治三十九年八月、朝鮮京城總督府官舍居候堂に於ける、兩雄の初問答)。

(硬石翁の曰く)これが、日韓合邦の、本當の精神なんだ。日韓合邦の眞精神は、區々たる日本が、渺たる朝鮮を征伏したと云ふやうな、簡單な、淺薄な意味のものでは無い。大亞細亞精神、東洋文明の根本精神の實際的なあらはれが、日韓の合邦に外ならないのだ。東洋の諸邦は、此の精神の下に、一致聯盟して、彼の西洋の諸國の唯物文化的侵略を克服しなければならぬ と云ふ、その模範を示したのが、此の日韓合邦の快擧なんだ。‥‥

 李容九と自分の精神の一貫した處は、東洋諸民族が、皆な同感共鳴する處でなければならぬ。此の爲に幾多の同志は、手辨當・無報酬の生命がけで、日韓合邦の爲に奔走し、陋巷に窮死して悔いなかつたのだ。かうした朝鮮民族の誠意が、吾々を動かし、その希望を遂げさせて遣り度いばつかりに、吾々は節を屈して官僚の巨頭連に頭を下げ、實功を彼等に滾(わか)つて吝まなかつたのだ。刀を仗にして血を吐きながら、吾々の後を追うて來て、途中で行倒れになつて恨みなかつた青年も居たのだ。吾々の殘した巨萬の借財を、一人で背負つてくれた篤志家も出て來たのだ。

 かうした彼等鮮人の、自國を犠牲にした東洋民族の爲の大經綸を行ひ、かうした彼等の血と涙とにみちゝゝた内政上の希望を遂げてやつてこそ、日韓合邦の精神が世界に輝き、日本が東洋の盟主たる信用が裏書きされ、地下無數の有名無名の志士の靈を慰め、明治天皇の御聖徳に應へ奉ることが出來るのでは無いか。そこに日本の國體と國是があり、そこに日本の國民精神があるのでは無いか」と。



 愚案、日本人は、もう忘れてしまつたのであらうか。かつての先人が、西洋の跳梁に對して、東洋の復興にかけた、彼の無私奉仕の行藏、皇國精神を。然るに傲然と曰く、脱亞せよ。曰く、アジアよ、さやうなら。中には、此の國難に對して、日章旗と共に星條旗を振り、米國と共に戰はうでは無いか、と。洵に情け無くなる‥‥。血の涙‥‥。「たゞ可哀想でいぢらしくて、腰拔けの弟か何かを守り育てる樣に、どうかして一人前にして遣り度い」と云つても、現代の日本人には、到底、無理だ。

 然し嘉永癸丑以來の、靖國神社祭神は、一に西洋舶來の唯物精神と鬪つて來たのでは無かつたか。而して既に支那・滿洲・北鮮は、西洋由來の共産主義の毒牙に罹かり、韓國は、邪教耶蘇に染められたと聞く。かつての傳來の東洋王道の輝き、果して今ま何處。大亞細亞精神の復興に力めんと欲する者、果して幾人か在る。

 然らば日本人、否、眞の日本精神を志す皇民に對して、敢へて言擧げす。再び東亞に道義の旗を建つる、吾人が先人血涙の志を繼ぐは、吾人が使命と勇む者あらば、共に西洋が利己主義・自由主義・民主主義の魔風に抗して、之を徹底拂攘して、大亞細亞精神を繼承祖述し、皇國の古道を明かにして、至誠の通ずる所、必ず狂瀾を囘し、聊か無窮の皇恩に報ぜむことを期さん矣。



【大亞細亞精神の源流――大西郷『天祖の御神旨、日本の國命』廟議口述筆記】
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日韓の、遙かなる紐帶。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月 8日(月)18時47分22秒
返信・引用 編集済
   硬石内田良平翁『日韓合併の思ひ出話』(田中健之主編『内田良平翁五十年祭追慕録』昭和六十二年七月・日本興亞協會竝皇極社出版部刊に所收)を再讀してゐる。大西郷を源流とする、かつての所謂右翼は、現代の所謂保守・右翼とは大いに異なり、其の器量と云ひ、其の識見と云ひ、霄壤の感がある。

 現代人も、皇道は到底無理としても、歐米思想に頼らず、少しは興亞に翔けた先人を偲び、東洋の道徳に覺醒して、之を活かして戴きたいと、切に思ふ。「亞細亞は、一なり矣」とは、當然當爲の悲願である。此の父祖傳來の悲願繼承を以て、欧米が覇術策謀に抗して、大東亞の共存共榮に志したいものだ。それこそ、八紘一宇實現の第一歩であらうと、小生は信じて已まぬ。



「自分(硬石翁)は、若いうちから、伯父の平岡浩太郎(玄洋翁)の處に居て、其處に出入りする朝鮮・支那・南洋の志士に接し、東洋の形勢を聞き慣れ見慣れて、十五六の時から、支那や露西亞の横暴に切齒扼腕し、朝鮮の内政の腐敗墮落を慨し、日本政府の平和政策を、萬事手遲れにして行く所謂追隨外交の自烈度さに憤激の血を湧かし、十八九の時には、既に一見識を倶へ、柔道と共に露西亞語などを研究してゐたものである。

 つまり支那や露西亞が、維新後間も無い日本の軍備の弱少と西洋崇拜的な民心の傾向を見て、大いに輕蔑し、先づ朝鮮を取つて、その次に日本を征伐しようとして居る。朝鮮も、亦た日本を弱小國と見て取つて、事毎に日本を蹶飛ばし、支那や露西亞にクツ付かうとして居る状態が、アリヽヽと眼に映るやうになつたので、東洋の平和を新興日本の力で確保するには、單に朝鮮の獨立を助けるだけで安心出來ない實状を、その時分から既にウスヽヽと感付いてゐたものである。

 明治二十七年、自分が二十歳の時に、東學黨の亂が起つた。‥‥しかし朝鮮民族が、大昔から遺傳して來た、意氣地の無い色々の習慣と、その習慣によつて培はれた朝鮮人の事大思想に根を下してゐる貴族(兩班)政治の弊害は、東孝天道(東學黨第二世道主・崔時享)の教義ぐらゐでは救ふことが出來なかつたらしい。‥‥

 朝鮮人一般の日本人輕蔑の状態は、實に甚だしかつたが、しかし吾々の本心を云ふと、さうした朝鮮人が、實は可哀想で可哀想で仕樣が無いのであつた。歴代の苛政に無力化され、愚昧化させられて、たゞお上を怨み、強い奴を恐れて、自分一個の福利の爲に戰々兢々として居るばかり。自分の郷土がどうなつてゐるか、自國の社稷が何處へ持つて行かれるか、など云ふ事は、夢にも考へる餘裕が無い。たゞウヂヤヽヾヽと生きてゐるばかりの、蟲ケラ同然の朝鮮國民を見ると、吾々はたゞ惻然、愀然として、襟を正すばかりで、憎む氣持や輕蔑する氣持などは、全然動かない。況んや現在の日本人のやうに、此奴等を酷使して搾取して遣らうなど云ふ氣は、毛頭起らない。たゞ可哀想でいぢらしくて、腰拔けの弟か何かを守り育てる樣に、どうかして一人前にして遣り度い。日本人の云ふ事がわかつて、露西亞や支那に對抗出來るやうには、何時なる事であらうと思ふと、胸が一杯になるばかりであつた。

 かうした我々の氣持は、今日に到るまで變つてゐない。今日の日本政府と日本人が、事毎に朝鮮人を押へ付け、彼等の自由を奪ひ、彼等の缺點ばかりを擧げて、これを輕蔑し、彼等の怨みを買つて行く醜態を見ると、却つて我々の方が、烈しい反感を日本人に對して抱き度くなる位である。‥‥

 吾々は、朝鮮の同志諸君に明言し得る。無恥無責任を支配者の本分と心得て居る官僚連中には識らず、吾々は、日韓合邦當時の韓人諸君の日本皇室に對し奉る感激と、當時の日本の廟議に與つた大官諸氏の、吾々日鮮有志に對する契約を、決して忘れてゐない。諸君と吾々とを欺き、日鮮人間の眞の融和方針を混迷させ、東洋千年の大計を誤り、諸君をして悲憤の極、自暴自棄に陷らしめ、明治天皇の御聖旨に背反しつゝ在るのは、日本人の最大缺陷たる官僚根性である。相當の地位と名譽を得るや、之に安んじ、之を固守せんとする我利我欲の爲に、上御一人を欺き、下萬民の眼を眩まして、壓迫と誤魔化しを唯一無上の政治の常道だと心得て居る、日本人の役人根性に外ならない。

 吾々は、徒らに彼等を漫罵して快とする者で無い。彼等がさうした腐つた怠け根性の爲に、日韓合邦の精神を忘れて、東洋千年の大計を過つて行くのが、目の前に見えて居るのだから、吾々は死んでも死に切れない氣持になるのである。日本民間の有志として、朝鮮民族の爲にイクラ謝罪しても、謝罪し切れない事を想うて、深夜、竊かに夜具の襟を噛むのである。‥‥

 申すも畏れ多いことではあるが、我が皇室の李王家に對する御慈しみと云ふものは、吾々民間の者の拜察し奉る以上の、神々しいものがあつたと云ふ。明治陛下が、決して喜怒を外に示現し給はぬ古今の大帝に在しました事は、世人周知の事實である。ところが、皇孫殿下の御參内と李垠殿下の御參内の節ばかりは、いつも滿面に御喜びの色を湛へさせられ、涙ぐましい程の御慈しみを埀れ給ふと洩れ承はつて居る。その崇高な、涯りなき大御心は、今日の心なき日本人が慚死しても仰ぎ得ない、有り難い御親情で、韓国皇室の憂慮と疑惑は、とみに一掃され、韓國上下は蘇生の思ひをしたばかりでなく、この尊く有り難い大御心の下に、何時までも生き永らへて居たいといふ安心立命の色が、全鮮に瀰(はびこ)り渡ることになつた。

 明治天皇の御聖徳によつて、日韓一家の結合は、こゝに遺憾なく完成せられたのである。宋秉□[田+俊の右]も、此の時に初めて明治陛下に拜謁したのであつたが、流石に直諫の鬼と謳はれた彼も、徹頭徹尾、大稜威に打たれて、手も足も出ない氣持になつてしまつた。宮中から退出すると、直に私に向つて、

日本人の云ふ通り、天皇陛下は、神樣だ。天皇を戴くことは、吾々の無上の幸福だ

と、涙を浮かべて云うたものである。‥‥

(丹芳樽井藤吉翁『大東合邦論』の精神を精神とした)李容九は涙を流して、自分の手を握つた。

『吾々は、馬鹿でしたね。欺されましたよ。』

さう云ふ瘠せ衰へた病友の言葉を聞いて、自分は感極つて、返事が出來なかつた。しかし強ひて彼を慰める爲に、呵々大笑した。

『欺されるのは、欺したより増しぢや無いか。實際、君や僕等が、朝鮮二千萬の同胞を欺いた形になつてしまつたのは、いかにも心苦しくてたまらないが、しかし日本國民は、官僚ばかりでは無い。日本國民は、案外、正直一徹な處があるのだ。吾々の樹立した大亞細亞連邦の精神が、日本人の心に印象されてゐる以上、何時かは實現する時か來るのだ。その時には、吾々の精神も、全世界に認識されるであらう。』

李容九は涙を浮かべて頭を擡げ、唯だ一語、

『わかりました』

と言つて、面を蔽うた。さうして間もなく死んでしまつたのである。

 自分は繰返して云ふ。朝鮮の前途は、飽く迄で併合の大精神を徹底して、眞に我が皇化に浴せしむる事だ。それには、唯だ今迄の如き日鮮兩民族の差別を撤廢して、平等の待遇を實現するにある事だ。明治大帝の御聖徳を仰いで、公平至誠を以て一貫した、この李容九の最後の一言と同樣に、日韓一億の心ある人々が、日韓合邦の眞精神を、たゞ一語『わかりました』と云つてくれゝば、自分としては、それで好いのだ。自分等が合邦記念塔(二十五周年記念として、明治神宮表參道神宮橋々畔に建立せしも、現在、碑文のみが東京都下青梅の大東農場に在り)を建てたのも、一に此の精神の實現を、朝野の間に促したい爲に外ならぬのだ」と。



●田中健之主編『内田良平翁青年訓――歐化思想の氾濫を憂へて』(同上)に曰く、

「(硬石翁の曰く、)西洋文明、支那・印度文明と、其のいづれも長短得失がある。その善きを同化し、國家民人に適合せざる點は、これを排すべきで、この同化力・判斷力は、國民各自が有せねばならぬ。皇道精神、即ち皇運扶翼の誠がこれである。然もこの能力は、國民の持つべき唯一のものであるにもかゝはらず、この能力さへ失つた徒輩共が續出するに到つては、誠に慨嘆に堪へぬ次第で、然も美濃部(達吉)の如きは、國家最高の機關なる議場に立ちて、臆面も無く、その非國民振りを暴露するに至つては、アキレ果てた奴である。畏れ多い極みだ。

 我が皇道は、外國文化等の荒浪如きに洗ひ流される樣な事は、斷じて無いが、國内にこんな奴が居る事は、國民全體の辱である。吾が黨(大日本生産黨)が結成された由縁も、實はこの爲めだつた筈だ」と。



●竹廼舍今泉定助翁『國體講話』(昭和十三年十二月・大日本運動本部刊)に曰く、

日本精神、即ち天皇の大御心、日本の天皇は、歴代、天照大神其の儘の御方である、と申し上げて居るのであります。其の大御心が、即ち日本精神でなければならぬ。即ち神の心である。宇宙の心でなければならぬ。隨つて日本人にだけ、或は日本の國家にだけ幸ひするやうなものを以て、日本精神なりと考へるのは間違ひであります。神は、私のあるものではない。所謂る公明正大でなければならぬ。獨り日本人にのみ私するといふやうなことは、眞の神の爲す所ではありませぬ。明治天皇の教育敕語の中にも仰せられてあります、『之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず』といふ思召しが、日本精神であります。世界の心であるから、世界中、何人に對しましても、日本精神の本當の所を説けば、感激して、成る程、さういふことが日本精神であるかと、敬服するものでなければならぬ筈であります」と。



 愚案、想起せよ。素盞鳴尊は、太古、白頭山に天降らせ給ひ、固より日韓の淺さらざる兄弟の關係あることを。一衣帶水の日韓の交渉は、靈的にも密接な關係に在り、天關打開の天意にも關係して、近視眼的な人間界だけで云々する能はざるものであることを。庶幾くば、流行保守の輕佻浮薄、一時の憤慨激怒に惑はさるゝこと無く、見直し聞き直して、日韓兄弟の紐帶を斷たざらんことを。朝鮮・滿洲を所據として、以て眞の宿敵・歐米の覇術策謀に對峙する秋が、必ず來らん矣。

【參考『孤忠悲しき朴鐵柱翁』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/222
 
 

行幸を仰ぎ奉り、再び神社參拜の作法に思ひを致す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年10月 2日(火)01時18分34秒
返信・引用 編集済
  ■行幸啓御道筋の奉拜(井原頼明翁『皇室事典』冨山房刊より)

【昭和十六年四月制定『文部省禮法要項』】

一、行幸啓の鹵簿・御行列[近衞兵の儀仗御警衞を備へた御行列を申し上げる。宮城内・停車場構内などの儀仗御警衞を備へないものは、單に御列または御行列である。『皇室儀令』第二十二條ないし第二十八條參照]を拜するには、御道筋または指定された場所に整列して、靜かに御通過を待つ。

二、老人や子供は、なるべく前列とし、總て警察官・掛員の指圖に從ひ、混雜を來さぬやうにする。

三、通御の時刻が近づいたら、傘をたゝみ、帽子・外套・襟卷・肩掛を脱ぎ、姿勢を正す。雨雪の際は、傘・外套等、雨具を着用したまゝ拜して差支へない。

四、御車が凡そ六十米[約三十間]の距離に近づいたときに、最敬禮を行ひ、上體を起して目迎・目送し奉る。

五、御召列車御通過の節は、御召列車が凡そ二百米[約二丁]の距離に近づいたときに、最敬禮を行ひ、上體を起して目迎・目送し奉る。

六、坐つて拜する場合も、前各項に準ずる。

七、鹵簿は、塀越し・窓越し、または高い位置から拜してはならない。御通過の後は、喧噪に渉らぬやうに、徐ろに退散する。行幸啓の節の敬禮に關し、特別の規定あるものは、之に從ふ(愚案、『陸軍禮式』・『海軍禮式』等)。

八、皇族・王公族の御成の節は、公式の場合は、前各項に準ずる。

 行幸啓御道筋の敬禮法については、『行幸の節、御道筋通行の者、旗章を見受け候はゞ、馬車を下り、笠竝びに帽等を脱し、總て路傍に立禮致す可き事』といふ、明治六年三月九日・太政官布告があり、これに則つて、大正四年十一月五日・内務省警保局長より廳府縣長官宛の通牒『行幸啓の節、路傍に跪坐拜觀に關する件』が骨子となり、その細目は、各地方警察部で、夫々決めてゐる。學校職員・學生・生徒・兒童の敬禮法については、昭和十二年六月三日『文部省訓令』第二十七號に定められてゐる。



 愚案、抑も天皇陛下には、大神中の大神に坐して、幽境の神々も仕へ奉る所の現人神なるぞ。天照大御神御手づから授け給へる三種の神器、現に嚴在ましまして、天皇陛下御護持し奉らせ給へり。然るに最近は、天皇陛下に對し奉つて、携帶電話を構へて撮り奉らんと欲するが如き、或は手を振り奉るが如き、不敬無禮の輩、後を絶たず、恐れ多しとも、眞に恐れ多し。是れ、神罰天誅の畏る可きを知らざる者にして、日本人たる者は、決して斯ゝる狂人禽獸の類に墮ちざるやう、意を注がねばならぬ。大御手を振らせ給へば、「最敬禮」を以てし、乃至は嚴かに「聖壽萬歳」を以て應へ奉る可し矣。

 靖國神社は、上御一人を始め奉り、勅使・皇族方の行幸啓を賜る、天皇の神社である。境内は固より、其の周邊に於ては、殊に恐懼戒愼に力めなければならぬ。或る會合にて、「行幸啓」に對し奉つての、默止し得ぬ、非道極まる不敬に憤り、亦た「神社の正中」に就いて、些か問題提起を行つたことがあつた。「正中」は、天皇陛下および神明の通らせ給ふ大道なり。



■參道の「正中(尊道・置道)」
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/1
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/319

 塾頭の曰く、「靖國神社神門は、葦津耕次郎・珍彦父子が、滿洲事變大成功で沸き立つ全國民の後押しを受けて、第一徴兵保險會社が奉納した楼門、即ち靖國神社神門を作り上げたのである。建築相談役が葦津耕次郎、工事請負は葦津珍彦が代表を務める合資會社社寺工務所である。昭和八年、神門と變更、九年に竣成祭。奉納許可したのが、當時陸軍省の牛島滿副官。竣成祭には、事變で名を擧げた林銑十郎陸軍大臣を始め、錚々たる人々が列席。宮司は賀茂百樹殿。此の神門には、日本最大の大きさを誇る菊花の大紋章が輝いてゐる。「天皇の神社」、「天皇の神門」と謂はれる所以である。

 神門は、靖國神社の正門であり、内陣への大王道である。その眞ん中(正中)は、國民は歩くことが出來ない。天皇の指し示す邊地・外地に赴き、皇國の守護し奉らんが爲めに、戰場で伏した將官・將兵の凱旋である。迎へる皇族・元帥・大將・中將・武官、悉く頭を埀れる中を凱旋する、聲なき英靈之門、それが靖國神社神門である。現在に於いても、例祭日には、天皇陛下のお使ひである敕使が、此の神門を通過される。神門は、殉國の英靈が凱旋する門である。「屍を山野に晒すは、固より軍人の覺悟なり、遺骨の還らざることあるも、心に留めおけ」と、妻子に、家族に言ひ殘し、出征した兵士・將官が、戰野に斃れ、手足をもがれ、頭を吹き飛ばされ、腹を抉られ、五臟六腑を撒き散らされし英靈が招魂されて、漆黒の深夜に、靖國神社に祭神として合祀される時、正に此の神門を御羽車に乘られて歸還・凱旋する門、十六菊花天覽の下、聖域に入る神門である。その神門の前には、「下乘」と云ふ制札があり、門を濳つて、更に奧の拜殿の手前には、「皇族下乘」とある」と。



■參考『神拜式條』、神社參拜のこゝろ――「六色の禁忌」・「内七言・外七言」
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/240
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1060
 
 

天皇中心論。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月24日(月)19時47分35秒
返信・引用 編集済
  あれはてし 千代のふる道 ふみわけて しるべするこそ 我がつとめなれ

 これは、村山惣作翁(我が國に於いて初めて公立小學校を創られたと云ふ、越後國小千谷神道の魚沼郡川合神社祠官・青鸞山本比呂伎翁の靈的道統を受け繼いだ御方)と好一對を爲す、戰前に於ける神道界の大御所・今泉定助翁の哥である。今泉翁が「皇道」の宣布者なるは、人のよく知る所、近代神道史上の上で、翁ほど廣汎な社會層に大きな精神的影響を及ぼした神道思想家は絶無であらうと云はれる。皇道の概念は、謂はゞそれは「現人神」天皇を註するものゝ謂ひであつた。

 幸ひに日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』全三卷(昭和四十四年九月・十一月・四十五年三月・同所刊)あり。今の時代に於いてこそ、此の憂國慨世の、神道思想家の巨人について、同學の士の參究祖述を乞ひたい。不肖小生も、及ばずながら大いに學ばさせて戴く心算だ。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/229

【絶筆「世界皇化」――或る神道人の臨終】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/11

【參考・今泉定助研究會】
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http://w01.tp1.jp/~a251757002/



●皇道社總裁・神宮奉齋會長・竹廼舍今泉定助翁『國體講話』(昭和十三年十二月・大日本運動本部刊)に曰く、

「どなたかの外務大臣時代に、『自分の外務大臣たる間は、戰爭は無い』といふやうなことを言はれたことがあつたやうに記憶して居りますが、之に對しては、何處からも異議が出なかつたやうであります。勿論、其の方は惡い心持で、さういふ事を言はれて居るのではないのでありますから、それを咎める方が、或は苛酷かも知れませぬ。が、併し之を一面嚴正なる立場から批判致しますれば、洵に以ての外の言ひ分であります。何となれば、戰爭の有る無しといふことは、陛下の大權であつて、外の人には、さういふ事を言へる筈がないのであります。強く申しましたならば、所謂大權干犯ではありますまいか。さういふ事を言ひましても、人が何とも思はないで居るといふのは、一般の思想が天皇機關説であるからであらうと思ひます。天皇の大權以外に、戰爭の有無などを斷ずるものは、何ものも無い筈であります。‥‥

 それから昨今、世間では、もう天皇機關説といふやうなことはなくなつたやうに申して居る人も相當あるやうでありますが、それはさうではありませぬ。それどころか、私共が無遠慮に申せば、寧ろ天皇機關説で終始してゐると申しても差支へないと思ふのであります。‥‥例へばこゝに閣議を開かるゝ、そして其の閣議で決つた事をば、書記官長の手を經て、直ちに其の日の各新聞夕刊に發表される。誰それは東京府の知事になつた、又た誰それは大阪府の知事になつたとか、人事上の事ばかりでなく、其の他の事柄も、悉く發表される。無論、其の間、陛下に奏上する暇などある筈もありませぬから、奏上して居らぬに決つて居るのであります。それは勿論、新聞記者が探聞し斷定して、それを書き立てるのではない。書記官長の手を經て、公に之を聽いて新聞に出すのでありますが、是等の事も、明かに天皇機關説の思想の一つの現はれであると思ひます。閣議で決めた事は、陛下は必ず御裁可になるものである、斯う決めて居る(愚案、何たる傲慢ぞ)。新聞記者が漏れ聞いて書いて居るなら仕方がありませぬが、さうではない。是は明かに天皇機關説であります。甚だ苛酷な申し分かも知れませぬが、私は唯だ其の理論を申し上げて居るのであります。

 それから又た歴代の司法大臣などが、司法官會議などの席上で、各司法官に西洋流な法治國の精神を強調して居ることは御承知の通りでありますが、私共は、日本は法治國でないと思つて居ります。成る程、明治天皇は、明治初年から法制に御心を注がれまして、明治八年には、立憲政體に關する御詔勅を御下しになつて居り、又た明治十四年には、國會開設の敕語を下されて居ります。又た御承知の通り、明治二十二年には、憲法の御發布があり、同時に憲法發布に關する詔勅も出て居ります。けれども何處にも、法治國なんといふことはありません。是は法律家の方々が、勝手に決められた事であらうと思ふ。尤も法治國といふは、唯だ法律が整備した國であるといふ意味ならば、私共、別に何も申し上げないのであります。併しながら法治國といふことは、法律を中心とした國であるといふ、佛蘭西や英吉利のやうな國を謂ふのであるといふ事であれば、それは私共、大いに異議を申立てなければならぬのであります。日本は、斷じて法律を中心とした國ではありませぬ。日本は、開闢以來、天皇中心の國であります。‥‥

 例へば「オホヤケ」といふ語を公と譯したのは、餘りよく意味を現はして居らぬのであります。「公」の字は、御承知の通り「私」の反對であります。「八」といふ字は「背」の字で、又「ム」の字は「私」といふ字で、後に禾をつけたのであります。即ち「私に背く」といふことを示すものであります。併し此のオホヤケといふ語は、私に背くといふ意味ばかりではありませぬで、「大家(おほやけ)」の意で、一番大きな家といふ義であります。一番大きな家、即ち皇室・朝廷といふことであります。隨つて皇室は大家であり、吾々は「家子(やつこ)」であります。「ヤツコ」を「奴」に譯したのも、間違ひであります。ヤツコは家子であります。然るに家子にヤツコと假名が付いて居らぬものですから、後世の軍記物語などには、「家の子・郎黨」と讀むやうになつたのであります。即ちかゝる言葉の上から考へましても、天皇と臣民との關係を顯して、君民一體を示して居るのであります。

 斯樣に歴史の事實から稽へましても、又た一つの言葉の意味から推しましても、天皇を中心として、吾々は其の家族として擴大せられて來たものである、一族の膨脹擴大したものである。斯う申して居るのであります。是が歴史であり、事實である。それでありますから、「忠孝一本」も、其處から出て來るのであります。他の國では、國に盡すを忠といひ、家に盡すを孝といふのでありますけれども、日本では、「家國一致」である。家が大きくなつて國になつたのだから、忠と孝とは同じものであると申すのであります。忠孝一本も、家國一致も、皆な此の意味から出て來て居るのであります。それから又「都」などと申す言葉も、其の意味を表はすものであります。京の字でも、都の字でも、「ミヤコ」は宮殿のある處といふ意味で、「コ」は處といふことで、宮の在る所であり、天皇の宮殿のある所と言ふ義である。吾々祖先民族は、天皇の大宮所のある處に住むといふことを光榮として、都に集まつたのであります。今日、多くの人々が都會生活を好んで、華かな所に集つて來るのは、全然精神が違ふのであります。只今ま申しまする如く、昔の人が都に住まひましたのは、天皇の住まつて坐します所に集まるといふことを光榮として集つたのでありまして、さういふ點から考へましても、日本の成り立ちといふものゝ一端が窺はれるやうな氣分が致すのであります」と。



●今泉定助翁『皇道論叢』(昭和十年三月發表「天皇機關説を排撃す」。十七年八月・皇道社刊。『今泉定助先生研究全集』第二卷に所收)に曰く、

「天皇が絶對無制限にましますことは、民族精神の確信する所であつて、又た歴史上の事實である。‥‥絶對無制限にましますが故に、天皇は神聖であると申し上げるのである。而して此の天皇神聖は、今上天皇のことを申し上げるのであることは云ふ迄もない。今上天皇は、過去の天皇と對立し給ふものでもなければ、過去の天皇によつて制限を受け給ふものでもない。天皇に父母なく妻子なし(註)と云ふは、此の意である。明治天皇が、その時代に應じて御制定遊ばされた憲法を、今上天皇が御繼續遊ばされるのも、又は變更遊ばされるのも、總て今上天皇の御意志のまゝである。又その變更の方法も、原則として今上天皇の御隨意である、と解すべきである。たゞ今上天皇は、皇祖以來、御歴代の天皇を包容表彰し給ふが故に、皇祖以來の統治の洪範は、そのまゝ今上天皇の大御心の御内容であるのである。こゝに日本國體の、萬國に卓絶する特長があるのであつて、若し天皇が過去の制度によつて制限を受け給ふものならば、時代の進歩が制度に適しなくなると、國家が舊制度と共に亡びることになる。これ、生成發展の産靈の精神に基く日本國家と、斷じて相容れない思想である。國家の進歩に應じ、國情の變遷に適して、制度も亦た何等の澁滯なく自在に屈伸する所に、生成化育の妙所がある。總ての制度が、天皇より發顯して、又た天皇に還元し、天皇は生成化育の根源にましますと云ふのは、此の意である。これが爲めに、日本國家は天壤無窮であると云ふのである。これ、實に萬世一系の理論上の根據であり、又た天皇神聖の眞意義である。

 今日の法學者等は、是等の大精神が、殆んど判つて居ない。それであるから、常に方角違ひの議論をして、殆んど批判に堪へないものばかりである。是等の大精神は何處から出るかと云へば、主として祭祀中の祭祀たる大嘗祭から出るのである。之によつて『天津日嗣のすめらみこと』の意義が、始めて明かになる。國體の中心根本は、『天津日嗣のすめらみこと』であらせらる。此の意義を十分に理解しないことが、總ての誤謬の原因である。‥‥多數の學者等が、百尺竿頭、一歩を進め、西洋型より脱出して、宇宙の眞理たる祭祀を研究し、殊に大嘗祭を研究し、日本精神に徹底して、その根本思想を改められんことである。然らずんば、今日の官立大學も、學士會院も、帝國議會も、總て外國思想の糟粕を嘗めるに止まつて、我が日本國家の興隆を企圖することは、想ひもよらぬ事である。これ、吾人の、到底、默過し得ざる所である」と。



(註)今泉定助翁『皇道の眞髓』(昭和九年三月・東方書院刊。『今泉定助先生研究全集』第三卷に所收)に曰く、

「天皇は、絶對尊嚴の御方に御在します。諸外國の君主は、皆な相對的の尊嚴である。諸外國でも、君主の尊嚴は認めてゐるけれども、それが相對的の尊嚴である。故に臣下の者が君主に忠節を盡すのは、累代の恩を受けて居るか、或は君主が特に禮を厚うして臣下を待遇するかであれば、臣下も亦た生命を犠牲にして君主に忠節を盡さねばならないが、若し其の君主が暴君であつて、下民を苦しめたり、苛酷な政治を行ふ場合には、臣下も亦た相當な方法を執つて差支へは無いとしてゐる。即ち支那などで、『三たび諫めて聽かれずんば去る』とか、『君、君たらずんば、臣、臣たらず』など云ふのが、其れである。此の思想は、矢張り權利・義務的思想であり、相對的思想である。故に君主の方からも、臣民がそれ程いやがるなら隱退すると云つて、其の位を去る事も出來れば、臣下の者からも、そんな君主に君臨して居られては困るから、隱退して貰ひたいと云ふことが出來る。結局、善ければ君となる、惡ければ君とはせないと云ふ君臣である。全く相對的である。然るに我が國の君臣の間には、斯かる事は斷じて有り得ない。我が國では、天皇も絶對、臣民も絶對である。天皇の方から、國民がそれ程いやがるならば、隱退するなどと仰せられる事の出來ないのは勿論、國民の方からも、御隱退を願ひたいなどいへる國柄では、斷じてない。天皇の方から云へば、如何なる不臣な行があるものでも、之をして眞の國民たらしめられなければ、皇祖皇宗に對せらるゝ御責任は、完全とは申されない。又た國民の方から云へば、苟にも差樣な事の有り得べきでなく、亦た有つた例も無いが、萬々一、道に違はせ給ふ御事がありても、何所までも諫め奉つて、天皇たらしめ奉らなくてはならない。恰も如何に不良でも、子に相違なく、親に相違なく、不良であるから親とせず、子とはせないとは云はれないのと同樣である。『三たび諫めて聽かれざれば去る』とか、『君、君たらずんば、臣、臣たらず』など云ふが如き、水臭い君臣では無い。何所々々迄も、止むに止まれない至情から正し合ふのが、我が國君臣の絶對關係である。序でに述べるが、獨り君臣關係のみならず、總ての倫理が絶對である。父子・夫婦・兄弟・朋友の間も、皆さうである。夫の行跡、宜しからずとも、妻は妻たらざるべからず、妻の行状、正しからずとて捨てるならば、夫も夫たらざる所以であつて、斯くの如きは、我が國人倫の許さない所である。

 天皇は唯一絶對であるが故に、古來、『天皇に、父母なく、妻子なく、私なし』と云ふのである。勿論、親子・夫婦・兄弟等の御親しみ深くあらせられる事はさる事にして、優らせ給ふとも、劣らせ給はないのは云ふ迄も無いが、天津日嗣の天皇としては、其の御位が、絶對に尊嚴であり唯一であるから、親子・夫婦・兄弟等の親を以て、此の御位の絶對尊嚴を侵す能はざるを云ふ所以である。明治天皇の大御代に、佐々木高行侯[當時の佐々木伯]に、内親王御教育主任を仰付けられた事は、誰も知つてゐる事であるが、高行侯、或る日、内親王の御供をして參内拜謁して、『恐れながら、内親王樣方に於かせられては、御父君より賜はる御言葉を、此の上なく御嬉しく御親しみ遊ばされ、高輪御殿に御下りましたる後も、其の御言葉を幾度となく御繰返し遊ばされることは、傍らにて拜するも、御いたはしく存じ上げます。されば今少しく御親密なる御言葉を賜はるやう、謹んで御願ひ奉る』と伏奏したれば、陛下は、稍々暫し侯を見つめ給ひ、さて仰せられるやう、

佐々木、それは何と云ふ事であるか。凡そ世の中に、親として子を愛せざる者はなかるべし。然れども朕は、天津日嗣の天皇である。一國一家の天津日嗣の天皇としては、國家全體の親なるぞ。此の子のみの親でない。此の子にのみ、朕の愛を注ぐことは叶はぬ身ぞ

と仰せられたれば、侯は、『誠に恐れ入つたる大御心、何とも御詫びの申し上げやうもござりませぬ』とて、感激恐懼、拜伏して退下したと、仄かに拜聞し奉つてゐる。九重の雪深し、其の前後の御有樣と大御詞とは、固より明かに知る由はないけれども、斯かる意味の大御詞のあつた事は洩れ承つて、常に耳に殘つてゐるから、其の消息の一端を述べるのである。

 また明治二十二年、憲法發布の當時、伊藤博文公[當時の伊藤伯]には、皇后陛下と御同列にて、上野に御幸あらせられんことを奏請し奉つた。然るに陛下には、嚴肅に、

朕は、天津日嗣の天皇である。皇后と同車して宜しきか

と、伊藤公にたゞさせ給うたから、公、恐懼措く所を知らず、謹みて『恐れ多くも此の度は、皇祖皇宗の大御心により、千古不磨の憲法を御欽定遊ばされ、國民全體は歡迎祝賀申し上げたく、國民全體の意志としての御願出にて候ふ』と、奏上し奉つた。それで、陛下には、

『國民全體の意志とあらば、(皇后と)同乘して幸すべし』

と、仰せられたと拜承してゐる。此の事も、私共微臣のよく知る所で無いから、誤傳あらば、謹んで訂正すべきは勿論であるが、佐々木侯に對せられた大御詞と云ひ、伊藤公への御事と云ひ、明治天皇は、全く唯一絶對にして、父母もなく、妻子も無いことを御實現遊ばされたのであつた。亦た先帝崩御遊ばさるれば、皇太子が直ちに御踐祚遊ばされると云ふ事なども、天皇の唯一絶對である事を能く顯してゐる。普通の人情から云へば、先帝崩御あらせられ、皇太子は、人生の最も忍び難い悲哀の極に沈ませ給うた時である。孝道から云へば、唯だ哀悼の情、心中に溢れ、前後左右、何事も顧み給ふ餘裕のない御場合である。左樣な時に當つて、寸秒の暇も無く、踐祚し給はねばならないから、人情に齟齬することは勿論である。併しながら其所が、天皇に私なしで、天皇の二六時中遊ばさるゝ事は、皆な公事であり、一つも私事が無いからである。天皇は、國家の中心、恰も天御中主神が宇宙の根源であるのと同樣であり、國家の伸展は宇宙の運行と同じく、寸隙の休止も無いから、天皇の天業にも、寸秒の休止を許さない。故に悲哀沈痛の間にも、直ちに御踐祚遊ばされるのである。全く唯一絶對に御在しますからである」と。



 愚案、皇后の敬稱たる「陛下」へ統一されしは、近代の御事の御由なり。
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八紘爲宇、世界皇化。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月19日(水)23時58分25秒
返信・引用 編集済
   平泉澄博士は、『日本の悲劇と理想』(昭和五十二年三月・原書房刊)に於いて、特に「滿洲」の一章を設け、白鳥庫吉博士及び其の門下諸氏の研究を紹介し、滿洲は支那に非ざる事を、再論されてをられます。お持ちの御方は、此の機會に、是非とも再讀して戴きたう存じます。曰く、「

一、滿洲の地は、支那本土と地續きではありますが、別物と考へられてゐました。地續きといふ點から云へば、印度も、トルコも、ロシアも、土地は續いてゐますけれども、それ故に支那の物だとは云はず、又た云へないのと同樣であります。殊に萬里の長城を築いて、山海關より東北は、異物として切捨てゝ了つた事が、之を證明します。

二、滿洲の住民は、東胡・□[三水+歳]貊・契丹など、古來名稱も色々變り、實質も違つてゐますが、いづれにしても漢民族と異なり、言語も風俗も、本來は違つた異民族でありました。

三、古代に於いては、漢民族の勢力が南滿洲を經由して、朝鮮半島へまで伸びた事がありました。然し之を第一期として、第二期には、それまで眠つてゐた滿洲民族が、漸く目ざめて國家を形成するに至りました。夫餘・高句麗・渤海が、それであります。大局から見ますと、支那とは無縁の存在であり、相互に關知しない風でありました。

四、第三期は、遼・金、次に蒙古[元]が入つて、やがて清の時代でありますが、この間は、ひとり明代を除けば、滿洲の國家が強勢であつて、支那が常に被害者の立場に在りました。

 以上を通覽し大觀しますならば、滿洲は滿洲であつて、支那は支那、本來別物であると云はねばなりませぬ」と。



●矢野仁一博士『滿蒙藏は支那本來の領土に非る論』(『外交時報』大正十一年一月。『近代支那論』所收)に曰く、

「梁啓超は、昨年末、天津の青年會に於て、『滿洲・蒙古が支那の領域であることは、歴史の明示する所で、五千年以前、支那の開國當時から、既に支那に歸屬して居るものである。日本人は此の歴史を知らないことはないが、東洋の事情に明かでない歐米人を欺かんとする爲めに、滿洲・蒙古を以て特別地域と主張するのである』と云ふ樣な意味の演説を試み、更に之を十二月六日の『上海時事新報』に發表したと云ふことであるが、蒙古は固より、滿洲と雖も、當然支那の領域であると云ふ樣なことはない。支那は元來國境のない國で、世界は凡て支那の支配する所であると云ふ理論より言へば、蒙古・滿洲ばかりでなく、世界は凡て當然に支那の領域であると言つてもよいのである。さう云ふ議論ならば格別、蒙古・滿洲は、實際五千年前以前より支那の領土であつたと云ふ議論ならば、これは唐人の囈語(たはごと)とでも評する外はないのである」と。



 愚案、昨今、日本流行の反支・反韓は、是れ即ち歐米の覇權主義に外ならず、現代日本の保守・右翼は、支那・韓國、果ては歐米へ行つても、十分代用出來、大いに活躍出來さうです。思想に於いても、グローバル化されました。これでは、我が古賢先哲の繼承紹述は、諦めざるを得ぬでせう。都合のよき時だけ、神武天皇を持ち出して、「八紘爲宇」の理想は、弊履の如く棄てゝ、見向きも致しませぬ。大西郷に學び、頭山立雲翁に指導を仰ぎ、神道・皇道の世界觀に立つて、「世界皇化」を目標とする傑物哲人の出現を、切に望みたいと思ひます。
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 「天台道士杉浦重剛翁の偉業を繼ぐ人格の士」と評(岡田啓介海軍大將の評)された人は、即ち史山猪狩又藏翁である。其の所著『日本皇室論』(昭和七年六月・其刊行會刊)に曰く、

「我が特有の美とは何か。國體の美である。國體の美とは何か。萬世一系の皇室を奉戴することである。是れ外國の眞似得ざる所であるから、我等は、益々我が皇室の美を發揚し、萬國をして等しく之を仰ぎ尊ましむるの覺悟が無くてはならぬ。

 我が皇室は、根本からして王道を實行して來た。若し王道といふ言葉に不足があれば、皇道、或は唯だ神道といつてもよい。つまり敬神・崇祖・仁義・忠孝の大道である。西洋の諸國は、太古からして覇道の實行者である。覇道は富國強兵であり、好んで詐略を用ゐる。かゝるが故に正義が行はれないのだ。我が國の皇室は、正しい道でなければ歩まれない。これが王道であり、正義であり、又た唯だ神道である。將來、正義をもつて全世界を光被すべきは、我が帝國を措いて他にあらう筈が無い。こゝに重大な使命があるのだ。香川景樹の歌に、

 花といふ 花の末には 咲きぬれど 上に匂はむ 花なかりけり

とある。我が帝國の文明は、他の舊國に比して、稍々後れてゐたかも知れぬ。然し花の殿りをつとめて、其の色、其の香、ともに比すべきものは無いのである。斯く我が帝國の使命の重大なるを悟ると同時に、我が政治道徳の中心と源泉とが、常に我が皇室に存することを思ひ、仰ぎ見れば見る程、其の御稜威の宏大なるを讚美せずには居られないのである。我等日本人たるもの、此の尊嚴なる皇室を戴きて、仁愛正義の旗風に、世界を靡かせてやらねばならぬ。恐らく全人類が救はれるであらう」と。
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滿洲事變勃發――柳條溝事件。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月18日(火)22時28分26秒
返信・引用 編集済
   柳條溝(湖)事件に端を發した滿洲事變は、昭和六年九月二十一日の「閣議決定」に曰く、

九月十八日夜、支那兵の滿鐵爆破に因り生起したる今囘の事件は、之を事變と看做す」と。

 泉水隆一監督は、先づ東京裁判史觀の根源にある滿洲事變の研究を始め、柳條溝の現場へも出向き、「やはり關東軍は、やつて無い」との結論を下す。而して『凛として愛』は、「天皇陛下認證の閣議決定」に據つて、正統に之を承繼してゐる。然るに現在、靖國神社に上映されてゐる、改竄版『私たちは忘れない!――感謝と祈りと誇りを』(ナレーシヨンは浜畑賢吉・上村香子夫妻)には、「關東軍の一部の將校がやつた」と、明確に訴へてゐる。名指しされたに等しい、其の一部の將校とは、勿論、靖國神社の祭神である。にもかゝはらず、英靈を顯彰する筈の『私たちは忘れない!』では、之を貶めて憚らないのである。
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■九段塾藏版『靖国神社の真実』平成十九年一月三十一日條―― 一八二頁~一八八頁參照。



 本日、九月十八日は、太陽暦に換算すれば、奇しくも八紘一宇の實踐者・豐太閤歸天の當日の御由。豐國大神昇天して、三百三十三年後、大東亞戰爭が始まつたのである。而して大東亞戰爭開戰の九九の八十一年の後は、即ち本年本日なる可し矣。神籌囘天、嗚呼、神さびたりとも、神さびたり。あなゝゝ、賢こ。
 
 

天地明察、澁川春海先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月10日(月)23時50分22秒
返信・引用 編集済
   最近、映畫『天地明察』の宣傳を、よく聞くやうになつた。
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http://www.tenchi-meisatsu.jp/index.html

 天文・暦學に於いても、小生、固より不案内にして、其の要領を得ず。然れども貞享暦を作りし澁川春海先生は、其の師・埀加山崎闇齋先生の高弟にして、闇齋先生をして「天下の逸才・千歳の一人」と曰はしめたる傑物、其の天人一理の神道は、些か拜讀する所がある。

 『春海先生實記』に曰く、「神道は、天文道・安倍姓(土御門泰福卿)の流を立て、埀加の學ぶ所、(荒木田)經晃の習ふ所を本と爲し、諸家の聞く所を末と爲し、有職の傳ふる所を羽翼と爲す」と。而して春海先生は、「やせたる御老人、なる程、質(質素)樣なる體、文字一つ御存じなき人の樣に相ひ見え候ふ。‥‥凡そ有職の學は、日用の常行、政務の成敗に於いて備はざるなし。眞に古學なり。‥‥『延喜式』の諸々の祭禮は、極盛なりき。故に今は行はれず。宜しく太古の質約に復すべし。此れ我が國の道なり」(『新蘆面命』)と。又た曰く、「老年にて書を見申し候へば、氣力つかれ候ふ。只だ三種(神器の傳)のみ、守り申し候ふ」(『天柱密談』)と。

 春海先生の研究は、完備とは、到底、申し難く、これから大いになされなければならぬ。神儒のみの知識では、覺束ないこと萬々、理數系の方の領域、頭腦が必要だ。こゝに少しく春海先生の傳を抄して、博雅の士の益々の參究研鑽を乞ひたい。



【贈從四位・土守靈社澁川助左衞門源春海先生(棋所二世保井算哲)小傳】――『野史』・『春海先生實記』を基とせる『大日本人名辭書』に、其の他、偶見せる西内雅翁の書を以て、少しく訂正増補す。

 安井氏、後ち延寶五年、保井氏と改む。寛永十六年閏十一月三日、幕府碁所家元の一世・安井次吉算哲(古算哲・准名人)の長男として生る。六藏と稱し、後ち父の名を嗣ぎて算哲と改め、束髮して助左衞門と稱し、名乘は順正(のりまさ)・春海・都翁(つゝち)。新蘆は、其の號なり。安井氏の本貫は、河内國澁川郡の畠山流澁川氏なり。春海、天資、聰敏明達、一を聞きて十を知る。容貌端嚴にして、動作、則あり。蚤く碁家の世業を善くして絶倫、父に踰ゆ。二世・安井算哲、即ち是れなり。慶安四年、始めて江戸城に登りて、業を勤む。寛文十年、本因坊道策相手に、初手天元を打つは、二世算哲の本領と謂ひつべし。

 春海、幼より天文學を好み、其の京に在る師を尋ね、友を會して、議論、少しも懈ることなく、最も九數に通じて、兼ねて暦學に精し。遂に天文の理を研究す。承應初年、埀加靈社山崎闇齋を師とし、神道を學びて、發明する所ろ多し。闇齋、其の才を奇とし、授くるに其の蘊奧を以てす。又た博く諸家の祕奧を探りて、得る所あり。而して志は、專ら天文・暦學に在り。遍く其の書を讀む。經傳より以下、小説・家乘及び國史に至るまで、沈思反覆、通曉せざるなし。其の或は疑ふ所あれば研精を致し、或は寢食を忘るゝに至る。而して其の心に得る者は、之を天に驗し理に察し、旁々索人に聞きて質正す。時人、之を稱し、其の名、一世に聞こゆ。縉紳貴士、高門偉族を問ふ者、日に多し。而して水戸徳川光圀・會津保科正之、最も春海を愛す。春海、嘗て「儀鳳暦の世に行はるゝこと七十二年、而して天と合はず。大衍暦の世に行はるゝこと九十八年、而して亦た漸く差あり。是に於て宣明暦を頒行して、既に八百二十三年に及ぶ。豈に差なきを得んや。是れ治國の要訣にして、萬民の龜鑑なり。此に間然する所あれば、其の弊、勝げて言ふ可からず」と。乃ち中國及び四方諸州に游歴して、日□[日+咎。かげ]を測り刻差を考へ、或は氣候を驗す。寛文十年、新たに『渾天儀』を制し、實測を以て星度を定め、新たに小星と名づくる者六十一座と、古へ名づくる所の衆星と、竝びに之を圖書し、名づけて天球と曰ふ。又た『天文分野方圓二圖』及び『日本度數圖』・『地球圖』を作る。皆な東邦古今に、未だ嘗て有らざるの事なり。十三年、『暦書』を頒行す。十二月丙辰望、月食して、天、食することなし。延寶元年、書を上りて、暦を改めんことを請ふ。三年五月朔日、日食して、天、食することなし。是に於て異論、紛々たり。授時暦は、固より疎んぜらる。然れども大統暦・時憲暦は、節氣定朔、授時暦に異なる故に、衆義、決せず。春海、之を憂ふるの深き、測候推歩、考究精到、遂に自ら新暦を作る。是れ本邦の土地に因つて起る所の法なり。是を以て舊史載する所の晦朔弦望及び交食星行等の日時刻分を推すに、一も密合せざるなし。而して舊暦の差謬、是に於てか著はる。春海、又『左氏暦考』及び『述暦』を作り、『詩書禮記暦考』を合して、三暦考と曰ふ。刊して世に行ふ。是に於てか、經傳暦日の跡、初めて昭明なり。學者、之を便とす。闇齋、嘗て曰ふ、「我が友・春海の天文暦數の學に於ける、乃ち至聖と謂ふ可し。豈に春日麿・安倍晴明以來の一人ならずや。經緯、若し難解あらば、則ち須らく之を春海に問ひて可なり」と。八年、『日本長暦』を作る。神武帝即位元年辛酉に起りて、靈元帝貞享三年丙午に訖はる。因つて太古の時日を推考し、以て伊勢祭奠の日を改たむ。乃ち敕命して遵行す。闇齋、感歎して以爲らく、「之を我が邦の再開闢と謂ひて可なり」と。春海を愛重するの厚き、斯くの如し。

 天和三年、『天球儀』を獻ず。是の年、又た表を上りて言ふ、「臣、累年、表を立て、□[日+咎]を測りて、正に現行の宣明暦は、天に後るゝ二日なることを知る。是れ即ち當に暦を改むべきの秋なり。而して急に之を正さゞれば、即ち寒暑、候に過ぎ、耕時、種を失して、民事、利あらざらん。豈に啻々現行暦、食を記して、終ひに食せざるの比のみならんや」と。禁闕、因つて改暦の議あり。命じて春海を召し、敕して其の事を議せしむ。春海の意は、異國の暦を用ひず、宜しく新暦を以て頒行すべしと云ふに在り。衆義、決せず、貞享三年、詔して大統暦を行はしむ。春海、復た表を上りて、備さに其の用ふ可からざるの故を陳ぶ。乃ち禁闕の西南小路に、八尺の鐵表を立てゝ、天文博士と共に□[日+咎]影を測り、又た星臺を建て、『渾天儀』を以て、七星の運行を窺ふに、春海造る所の新暦、天と密合して、毫も差ふことなし。博士、驚歎して、詳かに其の由を奏す。是に於て初めて新暦を用ふるの命あり。敕して名を「貞享暦」と賜ひ、明年、始めて天下に頒行す。春海、欣躍の甚だし、叩頭して拜謝す。また別に『七曜暦』を作りて、之を上る。爾來、暦日、其の正を得て、天時、錯まらず、民事、差はず。識者、春海の功を賞歎して、千古に拔群なりとす。乘り暦本は、毎年、關東暦官の作る所となり、天文博士・土御門家、暦博士幸徳井家は、唯だ其の式に據りて、名を署するのみ。十二月、天文生に補せらる。三年、敕して暦學生をして新暦の術を受けしむ。是の年、『貞享暦』十卷竝びに『日本長暦』三卷を上る。

 四年、幕府、新祿百五十石を賜ふ。五年、命じて束髮し、名を更めて助左衞門と曰ふ。宅地を駿河臺に賜ふ。諸侯大夫、來り學ぶ者、益々進む。春海、懇々教開して、未だ倦むことを知らず。會津中將保科正之、殊に之を寵遇し、參府ごとに必ず先づ春海の邸宅に入り、而して後ち館に就く。時人、之を榮とす。春海、嘗て謂ふ、「吾れ會津公の知遇を忝うして、此の宿志を成すは、皆な闇齋先生の庇陰に由る。先生は、吾が載遇の知己なり」と。十年、祿百石を加へ賜ふ。十五年、命じて碁家を弟・知哲(安井・三世)に讓らしめ、澁川氏に復せしむ。之を暦家澁川氏の初代と爲す。正徳五年十月六日未刻、病みて歸幽。年七十七。著はす所、件の外、『貞享暦法』・『日本書紀暦考』・『通言天文瓊統』・『瓊矛拾遺』・『土守文集』等あり。嫡子に圖書昔尹(ひさたゞ)あるも、春海より六月前に沒す。因りて昔尹が妻の弟・敬尹(ひろたゞ)を以て孫養子となし、家門を繼がしむ。春海、明治四十年十一月、從四位を贈らる。

 『春海先生實記』に、
一、天文の高弟には、保科正之・谷秦山・薩摩の本田武兵衞・黄赤師あり。
一、暦術の高弟には、幸徳井氏・武江の猪飼豐次郎・谷秦山・本田武兵衞・上野の山崎平次兵衞・甲斐の金子種七・黄赤師あり。
一、神道の高弟には、徳川光圀・保科正之・跡部氏・谷秦山・黄赤師あり。
一、兵學(神軍)の高弟には、徳川光圀・保科正之・谷秦山・山崎平次兵衞・黄赤師あり。



【參考】

■大久保千濤翁『秦山谷重遠先生・都翁澁川春海先生――神代温義』(昭和十五年十一月・高知縣神職會刊。宮地直一博士・井野邊茂雄博士・西内雅陸軍教授・高崎五郎高知縣神職會長の「はしがき」有り)に、次を所收。
一、『神代初問』九卷
一、『神代再講』四卷
一、『神代三批』四卷
一、『天柱密談』七卷
一、『天柱密談後附』二卷
一、『神代卷速別草』六卷

■清家主人西内雅翁『谷秦山の學――皇國學の規範』(昭和二十年七月・富山房刊)に所收する附録論文(昭和十五年十月)に、
一、澁川春海の研究
一、授時暦の研究
一、貞享暦の研究



●谷秦山先生『元亨釋書・王臣傳論の後に書す』(元祿九年。『秦山集』信卷四十三)

 天を以て天と爲し、地を以て地と爲し、日月の終古に照臨して墜ちざる者は、我が豐葦原の中つ國なり矣。是を以て君は則ち日神の嗣、臣は則ち興台産靈の兒、億萬載に亙りて一日の如し矣。隆んなるかな矣哉。

 西土の國を建つるや、簒弑を以て基業と爲す。堯・舜の聖は、禪讓の美を盡すと雖も、然れども實に天地の常經に非ず矣。是を以て伏羲以來、姓を更ふる者三十氏、弑を以て書する者二百事、其の餘の放癈は、紛紛として疏擧す可からず。風俗の薄惡、何如と爲んや哉。釋徒は天竺を指して、閻浮(現世)の本邦と爲す。而るに其の教は、家を出づ(人倫を無みす矣)。儒者は西土を推して、中華禮義の國と爲す。而るに其の俗は、君を弑す。『孟子』の曰く、「父を無みし君を無みするは、是れ禽獸也」と。信に哀む可きのみ已。世人は常を厭ひ異を好み、外國の書を偏執し、自ら稱して夷狄と爲し、甚だしきは私かに佗方の禮を用ひ、敢然として忌諱を爲さゞるに至る焉。名行の壞る、寒心す可き也。

 偶々(本覺禪師・虎關)師錬が『(元亨)釋書』の中に、國寶(三種神器)を論ずる者を讀み、既に其の言の卓絶にして、近世の學者の、或は及ぶこと能はざるを歎じ、又た其の徒らに知つて信ずること能はず、躬ら髮長(『延喜式』に見える坊主に對する忌言葉)の醜類に陷るを悼む。因つて特に之を表出し、聊か鄙意を記して、以て其の説を終ふ。

 抑も甞て諸れを(澁川)源春海翁に聞く、「日本の野(星座)は、張・翼に當つて、太微宮、全く之を掩ふ。翼・軫は巳の宮にして、物の生じて窮らざるの象あり。太微を天子の庭と爲し、帝坐・太子・月卿・雲客、上下濟濟として、班列、愆(あやまら)らず。堅垣、域を限り、將相、護衞し、毎日、天に臨んで、四極、法を受く。本朝の皇統は磐石にして、外夷の窺を絶つ。其の符、此の如き者有り矣(天文と皇國體との一致)。西土の野は、柳・星・張に當つて、軒轅星、全く之を掩ふ。柳・星・張は午の宮にして、陽道著明の象あり。軒轅は後宮を主(つかさど)る。后妃・夫人の居る所なり。西土の國爲るや、道學、大いに明かに、文物、極盛にして、終ひに簒弑・夷狄の禍を免るゝこと能はざる者は、其れ日、中すれば則ち昃(かたむ)き、垣無くして□[土+危。やぶ]れ易きの應か乎。天竺の野は、井・鬼に當る。井・鬼は未の宮にして、萬物曖昧、幽暗に歸する也。天竺の俗は、專ら人道の顯明を捨てゝ、輪廻・因果の冥報に從事するは、其の氣の偏を受くるか乎」と。

 此れに依つて之を言へば、萬國の事は、蓋し皆な天に非ざる莫き也。斯の説は、古人の未だ發せざる所なり焉。因つて併せ載せて、以て朋友に寄す。元祿丙子九月十七日、土佐國・谷重遠、謹みて書す。
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●谷秦山先生『澁川先生を祭る文』(正徳五年十一月二十日、土守(つゝもり)靈社を祭る。『秦山集』信卷四十八)

 嗚呼、哀しいかな哉。先生の天(天文・暦學)に於ける兮、我が國開闢以來、其れ一人か歟。何ぞ其れ符を割つて(考證)、日月を離合し(朔望計算)、掌を指さして星辰を低昴(高低測量)せるや也邪。神代、伊弉諾尊は、春秋を立て、以て表(うは)・中・底の天を分ちたまふ(觀象授時の暦)。人世、神武天皇は、暦法を興し、乃ち十二月の年を成したまふ。神聖の蘊は、微乎として淵(ふか)し矣。爾來千載、斯の道の傳ふること莫し。(陰陽頭兼暦博士・大春日)眞野麿は、暦術に名あるも兮、徐昴(陰陽道)に左袒すれば、其の學の疎なるを知る。(天文博士・安倍)晴明や也、天象に妙なりしも兮、推歩の策(測量・計算)は、則ち闕如を免れず。

 夫れ星宿の天に在るや、城邑の地に列なるが如し。古へに存して今ま亡ぶる者有り、古へに隱れて今に示す者有り。先生、皆な能く識別して、之を字(もじ)せり。日月の會同は、天に在つて、定期有り。淳風(李氏。唐の儀鳳暦を作る)が虚進(太陽の位置計算)は、徒に參差(定差・平差・立差)を爲す。郭氏(守敬。元の授時暦を作る)が乘除は、猶ほ未だ明備ならず。先生、行差の術(參差に、招差・圓理・等差を加ふ)を創めて、兩曜(日月の運行)は、正に天に合す矣。日行の盈縮(軌道運行の遲速)、限るに冬・夏至を以てす。入氣(二十四氣)の□[弋+心。ちが]ひは、先生、始めて試みる。南斗の初め、東井の四(二十八宿の距度を正す)、古今の交食(日蝕・月蝕)、豪釐も貳(たが)はず。

 歳旦に、七曜暦を奏すること、元亨に至つて、無くして廢絶す。干戈の侵尋して、推歩、滅裂せり。貞和に、三星の變、當時、猶ほ恠しみて之を記す有り。降りて近世に至つて、其の光芒の髣髴を識ること莫し。先生の明なるや、毫分縷別し、張子信が積候(隋、太陽運行の實測)、郭守敬が細行、刃を肯綮に游ばし(上手に捌き)、五緯、其の列を得たり(日月星辰の軌道を明確化)。偉なるかな哉、貞享に、朝儀、式に復す。其の他の日月、地の近遠(『天象圖』・『地球儀』の創作)、陰陽暦の強弱、千歳より前なる古暦、千歳より後なる改暦、之を言ひて絲髮に析ち、爬梳抉剔せざること莫し(仔細に未聞の事も闡明整理)。書を著はすこと數千言にして、一一符契に合す。蓋し星辰の降りて人に化するに非ざるよりは、何を以てか此の如く明白ならんや也哉。嗚呼、哀しいかな哉。

 吾が神道の統は、遠く天より出づ。伊弉諾尊は、是を以て之を天照大神に傳へたまひ、天照大神は、是を以て之を瓊瓊杵尊に傳へたまひ、列聖の相承けたまひて、未だ甞て失隕せず。兒屋・太玉・猿田彦は、内外相守つて、一身の如し。中古以來、其の道、分れ崩れて、卜部・伊勢、各々自ら家を立て、佛を雜へ儒を混じ、異を伐ち同に黨(くみ)す。此の如くなること凡そ數百載、學者、折衷する所ろ無し。近時、埀加社(山崎闇齋先生)の出でて、百川を障へて之を東し(諸家を集大成)、『風水』・『風葉』の作(埀加先生の主著『中臣祓風水草』・『神代卷風葉集』)は、藤森(崇道盡敬皇帝舍人親王)の功を似(う)け續ぐ。然り而して一時の門人(六千人)の、亦た未だ其の堂に升るもの有らず。懿なるかな哉、先生、□[土+已。い]上に履を取り(埀加先生に師事)、到底根究し、傍々百氏に及び、蚤く天の柱・國の柱の卓れたるに見、晩く神籬・磐境の□[山+歸。たか]きに登る(埀加先生の天柱・國柱・神籬・磐境の傳を會得)。蓋し先生の、埀加の門墻に於けるや也、實に藍より青く、而して水より寒き者なり矣。嗚呼、哀しいかな哉。

 重遠(秦山先生)の、先生に事ふるや、茲に二十歳なり。先生の家學に於いて、□[立心+夢の上+目。ぼう]然たらざるに庶(ちか)し。晩に禁錮を以て講門を廢し、日日に想ひを馳す、東海の天。天暦(天文・暦學)の妙籌・神道の祕奧、北斗のごとく仰望す。胤子(嫡男・圖書昔尹)の賢なるに、惟だ天、□[言+甚。まこと]とし難く、胤子は先だちて逝く。先生は老いて病み、悲涙、泉を懸く。未だ七月に滿たずして、先生も亦た沒す。既に庶□[薛+子。げつ。子]無く、亦た孫無し。遺傳、忽ち雲散す。東岱(泰山)前後の煙、知らず、何れの世にか、揚子雲有らんや。嗚呼、哀しいかな哉。

 重遠、天(天文・暦學)を録して、壬癸を名づけ、神(神道)を傳へて鹽土と號す。師説の萬一にも、以て不腐ならんことを謀る。奈何せん、天南海北にして、猶ほ未だ郢斧(不合理を直す)を乞ふに及ばず、一世を擧げて質訂す可き莫し。此の恨みは、綿綿として千古に徹す。嗚呼、哀しいかな哉。

 噫、先生の魂、豈に醯□[奚+隹]甕裏の者(甕底の毛蟲)と、同じからんや乎哉。將に東海に沿つて兮、八極(四方四隅)に浮遊せんとするものか乎。抑々富山に攀ぢて兮、氣に御し空を排するや也、必ず其れ列星と爲り明神と爲り、天に後れ地に後れ、以て造物人鬼の窺まる所を觀んと欲するならん焉。彼の塵世の利名・禍福を顧みるに兮、野馬(陽炎)杯水、曾て何ぞ齒牙に掛くるに足らんや也。然らば則ち重遠等の、區區に觴を奉じて、咨嗟(溜息)し悲泣する兮、寧ぞ先生の爲めに嘲侮する所ろ莫しとせんや也耶。嗚呼、哀しいかな哉、尚はくば饗けよ。
 
 

塾頭の絶命詞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月 6日(木)19時30分3秒
返信・引用 編集済
   九段塾「塾頭」ご開講は、平成二十年九月十三日にして、本掲示板の設立は、其の前日であり、此の時季になりますと、塾頭を思ふこと、誠に切なるものがございます。

 而して塾頭最後の書込みは、平成二十一年九月十二日『相原修氏歸幽を通じて、大夢三上卓翁門を思ふ』でありました。これは、偶然か否か、九段塾の設立の當日であります。九段塾に於いては、恰度、一年間の講義でありました。而して最期の斷章は、十二月二日から翌年三月六日にかけての、絶命詞『承詔必謹、尊王勤皇の風を吹かせよ』でありました。小生、固より不學不敏は承知の上、今後とも益々辛苦精勵、塾頭の御遺志を繼承紹述いたしたく、閲覽各位のご投稿ご協贊を賜はりますやう、幾重にも御願ひ申し上げます。
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 また本日は、件の、出雲大社相模分祠神職にして、平田篤胤翁顯彰會代表の相原修翁が、幽界に召されて四年となる日、小生には、微かな御縁しかございませんが、其の偉勳を御偲び申し上げたいと存じます。且つ五日後の九月十一日は、神靈能眞柱大人大壑平田先生歸幽の日であります。
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【塾頭『大東塾関係者交通事故』平成二十一年九月七日】
「影山正治大人・神屋二郎大人が、どうしても欲しかつた人物だつたのだらう。相原修氏は、この世における命をむすばれたに過ぎない(相原修氏は、靖國神社に入りたかつたらしいが、適はなかつた。助勤で、靖國神社には奉仕してゐる)‥‥。大東會館新入生歡迎會の最中に、突然、神屋二郎さんが激怒! 「我が大東塾一統には、後輩に煙草を買ひにやらせる流儀はない! 立てい、齒を食ひ縛れ!」と言ひ、ビシツビシツと、平手打ちが飛んだ、かつての體驗談を語る展轉社の藤本隆之社長が、盟友相原修の遺影の前で號泣した‥‥。この日、男たちが泣いた」と。
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【相州之民艸ならびに備中處士『平田篤胤大人顯彰者・相原修神主』――繼續中】
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忠魂、皇基を護る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月 5日(水)22時44分14秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●惺軒高瀬武次郎博士『梅田雲濱』(昭和十六年九月・皇教會刊)に曰く、

 雲濱先生は、容貌は清秀にして、言語は明朗なり。其の講義の際にも、十分に義理を發揮して、聽者を感動せしめたり。九州に赴かんと欲し、其の出發前數日、門人に謂つて曰く、「我、今日、諸子の爲めに、一生の心得と爲る道を講ぜんと欲す。別後、幸ひに之を服膺せよ」と、言、畢つて姿を正しうす。門人、心に謂へらく、「此れ、先生得意の、『大學』の三綱領・八條目、若しくは『近思録』ならん」と。其の講義を聽くに及べば、『春秋』の開卷第一の六字「元年春王正月」なり。而して初日は、夏・殷・周三代の禮樂、先王の仁義を講じ、一日二夜は、神武天皇より後陽成天皇に至るまで、二千三百餘年間の聖主が國家民政に誠意を盡し、億兆の民は徳澤に浴し、賢臣才相が聖主を補佐し奉り、國家を維持せし事、郡縣封建の得失に至るまで、議論精確、古今に亙つて詳細に辯論せり。兩日兩夜の永きも、聽者をして倦まざらしむと、子弟の皇道精神の發揚、想見すべきなり。其の講義の一節は、明治四年、京都府より、雲濱先生の後裔に對して、先生の事蹟等を尋ねし時の『答申書の寫』に據る。執筆者の姓名は明かならざるも、末尾に附記する所を見るに、「今を去ること三十年、義理明白。思ふに前日の事の如し」と云へば、其の時の講義を聽きし人なりしと思はる。



●山田登美子刀自『一夕話』

 (雲濱先生の曰く)「歌書には、『新葉集』をば常に繰返して見よ。此の書に入りたるは、皆な南朝の方々の御歌なれば、忘れても疊に下(おろ)すな」とのたまひき。

 此の歳の冬、大高又次郎(重秋。播磨林田の人。赤穗義士大高源吾の末孫)訪ね來て言へるやう、「御身は女史にてこそおはせ、梅田(雲濱)先生の御姪なれば、我等心の底ひを打ち出でて、かくと頼み參らするなり。其は先年、櫻田に於て井伊掃部、頭打たれしより、世の人心も改まりて、先生の御志も、やうゝゝ達すべき時とはなりぬ。長州なる正義の人々も、遠からず上り來ぬべしとぞ。今より御身は、大原重徳卿に詣で、しかゞゝの事の由をも聞え參らせてよ」と言ひけり。これいと女の身にはおふけなきことゝは思ひしかど、やがて心振り起し、彼の卿のみ前に詣でつるに、卿は己れを奧書院に召されて、親しく御目見え賜はせたり。頼まれしことどもを、殘る隈なく聞え上げつ。此の日は、雪いたく降りて、御庭の松の、大方埋もれてありしに、
 消え果てん 明日しら雪の 命とは 知りつゝ積る 我が思ひかな
と詠みて奉りたりしに、卿、ことの外に御氣色よく、頬しもゑませたまひて、「さてこそ、其の許は、梅田が姪なれ」と仰せられたり。其れにつけても、叔父君のましゝ世のみ思ひ出でられて、涙おさへこぼすばかり悲しかりき。

 己れ二十一の歳(文久二年)春の頃、入江九一(贈正四位・弘毅)久坂義助・佐世一誠(從四位・古心前原彦太郎)・秋元正一郎(播磨姫路の人)・大高又次郎・同忠兵衞等も、やうゝゝ京に集まりて、叔父君の御志の、やがて達しぬべき喜びにとて、己れをば七條わたりの某の亭に伴ひて、いと厚く饗應しけり。かゝるむしろにものするにつけても、叔父君の事のみ、そゞろに忍ばれて、
 在りし世の ことこそ思へ 懷かしな 花橘の 咲くにつけても
 忍ぶかな 枯れにし庭の 梅の花 咲き返りぬる 春の空にも
と書きつけしかば、入江九一も、矢立より筆拔き取りて、秋元[秋元は、御國學をたしなみて、典故に通じたり]に打ち向ひ、「幕のことは、御國言葉にては、いかに言ふべきぞ」と問へば、「それは、あげはりと謂へり」と答ふ。さて、入江は、
 時の來て 都の春の 櫻狩り 亡き人(雲濱先生)戀し あけはりの内
と詠みて、己れが前にさし置きぬ。此の時に、長州の人たちに向ひて、「吉田松陰ぬしは、我が叔父君の知人なれば、何にても、其の書かれたるものあらば、己れに取らせ給はらずや」と言ひ出でたるに、佐世一誠、やがて「心得ぬ」とて、後に大高に傳へて、松陰の江戸に送らるゝ折、長州の獄中にて書きたる詩歌一枚をば、贈りおこせたり[此の頃、佐世等は、ひそかに企てたることのありければ、自ら身命の測りがたきを思ひ、己れ梅田の姪なればとて、其の祕藏せし松陰の遺墨を送りけりとぞ。これは今も、己れが手に持ち傳へたり。佐世は、前原一誠の初の姓なりき]。



●平泉澄博士『首丘の人――大西郷』(昭和六十一年二月・原書房刊)に曰く、

 之(山田登美子刀自『一夕話』)を讀んで、不思議とさへ思はれる事は、小濱の城主・酒井若狹守が、京都所司代に任命せられて、治安維持の責任を擔當してゐながら、志士の檢擧には、頗る消極的であつて、最初の雲濱捕縛の際にも、緩慢であるとして、井伊大老の側近や懷刀をいらだたせたのであつたが、果して雲濱に、同志往復の書類を燒却したり、家累家財を分散したりする餘裕を與へたりしたのみならず、雲濱就縛の後にも、その家族親類に對して、苛酷なる追究をせず、郷里の小濱に於いても、人々は特に奇異または嫌惡の感情を以て、雲濱の生家や一族を見ず、特に親切にするといふ風ではなかつたにしても、決して告發したり彈劾したりしなかつた事は、安政大獄の性格を考へる上に、一つの重大なる點である。蓋し雲濱に於いて問題となるのは、その學問であつて、私行ではない。井伊が嫌惡し、恐怖するのは、雲濱の學問が、山崎闇齋の思想を、その最も純粹精鋭なる中核に於いて保持し、繼承し來つた點に在つた。その學問は、闇齋より、淺見絅齋を經て、若林強齋に傳はつた。そして強齋の高足・小野鶴山、酒井讚岐守に迎へられて小濱に入るに及んで、此の學問、小濱の主從に薫染して行つた。同じく強齋に學んだ山口春水は、『強齋先生雜話筆記』を著した人であるが、これが小濱藩士であつて、その子・風簷は、父及び小野鶴山に學び、之を子の菅山に傳へた。その菅山の門人が、即ち雲濱である。‥‥

 安政五年、酒井若狹守忠義、京都所司代として、いはゆる大獄の處置に當る。その處置が、志士の檢擧に於いて頗る消極的であつて、長野主膳をいらだたせたのも當然であれば、十七八歳の乙女(山田)登美子が、いろゝゝ苦勞はしながらも、京都と小濱とを往復しつゝ、兎に角く恐るべき迫害も受けなかつた事は、それも然るべき事とうなづけるであらう。

[附記――昭和八年四月、私(平泉澄先生)は單身滿洲視察の旅に出たが、たまゝゝ吉林へ赴き、旅館に入らうとした時、一人の偉丈夫の、私と入れ違ひに出掛けようとして、ゲートルを卷いてゐるのを見た。足ごしらへに熱中して、私には眼もくれなかつたので、顔を十分に見る事は出來なかつたが、豐にしてあたゝかい感じの人であつた。然るに其の人、出發した其の日のうちに、賊に撃たれて戰死した。女中の話では、梅田雲濱先生ゆかりの人と聞いたと云ふ。して見れば、山田登美子につながるのではあるまいかと考へたのであるが、調べる法もなくて、そのまゝになつて了つた。不確實ではあるが、家内生前の希望によつて、之を附記する]。



●贈正四位・秋湖久坂義助通武先生『古人を追懷す』詩并びに引(詩歌文稿『庚申草稿』萬延元年――椿水福本義亮翁『久坂玄瑞遺稿』昭和九年三月・誠文堂刊)

要港(大坂灣)、上國(京都)を控ゆ、豈に黠虜(露奴)の窺ふを容(ゆる)さんや。
夷舶の闖入するに方りて、妻は病み、兒は飢ゑに叫ぶ。
大劍、起つて募に應ず、國難、安くんぞ遲疑せん。
賊遁れ、志、乃ち躓く、詞賦、鬼神悲しむ。
嗟、公(雲濱先生)は囹圄に斃る、頽厦、孰れか能く支へん。
則ち囹圄に斃ると雖も、忠魂、皇基を護る。

 鄂夷、浪速に闖入す。大和十津川の民、將に雲濱梅田翁を推して首と爲し、膺懲を謀らんとす。翁、起つ時、妻は病み兒は餓う。翁、詞を賦して曰く、「妻臥病牀兒叫飢、挺身直欲當戎夷、今朝死別與生別、唯有皇天后土知」と。既にして虜去り、歸れば則ち妻は既に歿す。戊午の秋、幕疑を蒙り、檻車東下、未だ幾くならずして、病を以て死す。



●福羽美靜翁の哥『雲濱翁を追悼して』

御代のため たゞしき道を ふみわけて 身をつくしつる 君ぞたふとき



●鐵齋富岡百錬翁の詩『明治三十年十一月、雲濱梅田先生頌徳碑を建つと聞き、賦して奠に代ふ』

林下、飢ゑを忍び、逸民と爲る。只だ家國を憂ひて、貧を憂へず。
豐碑、今日、遺徳を頌す。第一流の人、是れ此の人。



 愚案、かつて『花の生涯』なるドラマを見、雲濱先生の赤鬼に殺されるや、其の最期は從容ならず、亂れたやうに創つてあつて、小生、怒髮、天を衝いて、やがて泪せるを想出す。嗚呼、雲濱先生、現代に在つては、吉田松陰先生を際立たせる役目を負つてゐるかの如くである。斯くて歴史は、先哲は、歪められて行く‥‥。無念である。雲濱先生の顯彰は、未だ十分ならず、小生の、最も之を遺憾と爲す所、雲濱先生あらばこそ、雲近き邊りと草莽の志士との聯絡、やうやく密と相成り、地方から來る志士も、皆な先生を頼つたと謂つても、決して過言に非ざるなり矣。
 
 

梅田雲濱先生を仰ぐ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 9月 4日(火)23時00分58秒
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   藤田東湖先生、安政二年の大地震の爲に孝死された後、天下の志士の中心として、王政復古を指導せられたのは、實に京都の梅田雲濱先生であり、殊に雲濱先生は、橋本景岳・吉田松陰兩先生と共に、安政五年に殺された後は、大橋訥菴先生起ち、次いで眞木紫灘先生、之を統率指導し、其の後を繼いだのは、松陰先生の門弟ならびに大西郷であつた。王政復古の成る、これら諸先生勤王の大勳と謂はねばならぬ。

 就中、雲濱先生・景岳先生は、大西郷が兄事した有馬正義先生と共に、崎門の本流にして、殊に雲濱先生は、京都望楠軒の講主たり。贈正四位・雲濱梅田源二郎源定明先生、安政六年九月十四日卯下刻、獄中に病死。天命四十五歳。

山崎闇齋――淺見絅齋
┌――――――――――┘
├玉木葦齋 ┌松岡仲良―┬竹内羞齋
│     │     │
│     │     └谷川淡齋――唐崎赤齋
│     │                  望楠軒
├山本復齋 ├山口春水――山口風簷――山口菅山―┬梅田雲濱
│     │望楠軒二世            │
│     ├小野鶴山――中山菁莪――落合東堤 └有馬正義
│望楠軒一世│望楠軒三世 望楠軒四世 望楠軒   望楠軒
若林強齋―┴西依成齋―┬西依墨山――西依孝鐸――西依孝博
            │
            ├尾藤二洲――長野豐山――藤森天山
            │
            └鈴木潤齋――鈴木遺音――吉田東篁――橋本景岳



■梅田雲濱先生の詩(安政元年九月)

妻は病牀に臥し、兒は飢ゑに叫ぶ。
身を挺して、直ちに戎夷に當らんと欲す。
今朝、死別と生別と、
唯だ皇天后土の知る有り。

大厦、支へんと欲するも、力、微なるを奈んせん。
此の間、説く可けんや、小是非。
微臣、國に效す、區區の意、
憤激、行に臨みて、帝□[門+韋。ゐ]を拜す。




■梅田雲濱先生の哥(『藤森弘庵(天山)に與ふ』安政元年二月二日。亦た絶命詞とも傳へたれば、先生一貫の戀闕至心なり)

君が代を 思ふ心の 一すぢに 吾が身ありとは 思はざりけり



■梅田雲濱先生『三寺君の鎭西に之(ゆ)くを送る序』(嘉永二年。三寺三作翁、文峰と號す。横井小楠を福井に聘せられたるは、文峰翁の復命に因れりと云ふ)

 境土の大、兵馬の富、文物の多き、古へは鎭西に如くは莫しと稱せり。越前の三寺君、京師に來り、諸儒を訪ひ、合ふ所ろ無く、去つて鎭西に遊ばんとす。

 夫れ京師は、固より商賈の集まる所ろ也。一士を其の間に得る、誠に難し矣。宜べなるかな哉、君、袂を奮うて顧みざる也。其の之くや也、吾れ必ず合ふ所ろ有るを知る也。夫れ千里の遠き、山海の險なる、誰か之を憚らざらん。而るに君、厭はず、博く士を訪ひ風を咨(と)ひ、以て其の國に報ぜんと欲す。苟くも士義有る者、誰か感ぜざらん焉。矧(いは)んや鎭西の賢士大夫、文武の盛んなるに於いてをや哉。

 然れども吾れ聞く、甲辰の歳(弘化元年)、瓊浦(長崎)、事有り(和蘭使節より、歐洲の形勢を幕府に内報し、忠告する所ありしを謂ふ)。諸侯、之が爲めに駭愕し、遽かに兵備を修む、と。又た吾、嘗て鎭西に遊び、意に稱(かな)はず、慨然として歎じて曰く、「士大夫の利に走る、豈に獨り京畿の間のみならんや哉」と。嗚呼、疆土の大、文物の多き、兵馬の富、斯れ亦た畏るゝに足らざるのみ也已。然りと雖も近日、大府(幕府)、令を下して、屡々之を警しむ。則ち又た安ぞ其の今ま吾が嘗て見聞する所に異ならざるを知らんや哉。它日、君、再び京師に來らば、必ず吾が廬を訪へ。吾れ劍を撫し案を撃つて、君の談を聽かん。姑らく書して、君の行を贈る。梅田義質(先生の初名)、拜書。



■梅田雲濱先生『三宅高幸に贈る』(安政三年四月。瓦全三宅定太郎高幸、備中國淺口郡連島の人。後に青蓮院宮の近臣と爲る)

 三宅高幸、來り訪ふ。酒を酌み、談、元弘の事に及ぶ。予、慨然として曰く、功名を以て人を品する者は、俗情也。學者は、只だ當に忠義を論ずべきのみ而已矣。笠蓑赤足、巡駕を追ひ、詩句を題して、宸襟を慰めまつり、孤軍を提げて、逆賊を討ずる者は、是れ誰と爲す。備後三郎兒島高徳、是れ也。

 夫れ元弘の役、楠公の忠節の最爲る、天下、皆な之を稱す。然れども楠公は、詔を待ちて後に起つ。高徳は、詔を待たざる也。高徳は僻遠に在りて、門地は小、楠公は京畿に在りて、門地は大、楠公は節に死し、高徳は百敗して死せず。一身、天下に奔走し、勸奬するに大義を以てす。夫れ南朝六十年、勤王の士、新田氏の如き、北畠氏の如き、結城氏の如き、絶えんと欲して復た起り、滅びんと欲して屡々振ふ者は、抑も亦た皆な高徳の力也。嗚呼、子と我との如きは、一匹夫のみ耳。若し一日、王家、難有らば、豈に高徳の爲す所に倣はざる可けんや哉。

 高幸、盃を擲ち叫びて曰く、「善いかな矣。我、忠義を竭すのみ而已」と。姓名を堙沒するも、亦た顧みざるなり矣。史に云ふ、「高徳、後年、終はる所を知らず」と。今ま高幸は、其の裔孫と云ふ。安政三年三月丙辰四月四日、雲濱梅田定明、稿。



■梅田雲濱先生『兒島高徳の墨蹟の後に題す』(安政五年七月)

 成敗は天也。「時を待つて、而る後ち動く」は、機を見て起つ、大丈夫の志也。大丈夫、其の覆敗の時に當る、豈に其の待つ有るの志を易へんや哉。

 安政五年七月十五日、頼三樹(鴨□[涯の右])と飲み、談、時事に及ぶ。大樂源太郎(奧年)、此の書を出して題を需む。余、源太郎に於いて、亦た待つ有り焉と云ふ。



■梅田雲濱先生『久坂玄瑞を送る序』(安政五年秋)

 安政五年七月、蠻夷、江戸に至り、盟を請ふ。朝庭、可(き)かず。幕府の大吏、之を許す。朝庭、使ひを遣はして之を責め、且つ之を諸侯に質す。

 雲濱子の曰く、我、今の諸侯、其の必ず能くする無きを知る也。今の諸侯は、大率ね童心無知、財竭し武弛み、一日、天下、事有れば、只だ其の自國の立たざるを恐る。又た奚ぞ天朝を奉じ、外寇を憂ふるに暇あらんや哉。然らざれば則ち安ぞ一介の使ひを奉じ、以て速かに命に應じまつらざること有らんや哉。其の之を能くする無きや也、必せり矣。然りと雖も明天子、上に在り、皇威赫赫、日、一日より烈なり。我、千秋の後、必ず古へに復するを知る也。有志の士、其れ勉めざる可けんや哉。

 久坂玄瑞は、長州の人也。京師に來り、予を訪ふ。予、之を拉して、酒を林間に酌む。酒、酣にして、玄瑞、詞を唱ふ。其の聲、□[金+將]然として金石の如く、樹木、皆な振ふ。玄瑞、京師に在り。意を失して、留まるを得ず焉。予、其の志を憐れみ、其の去るに當りてや也、姑らく皇威の必ず古へに復して、終ひに地に墮ちざるを言ひ、以て其の氣を壯んにす。



●遠湖内田先生『梅田雲濱手札の後序』(『遠湖文髓』卷二。昭和十五年四月・正誼塾刊)

 是を梅田雲濱の手札と爲す。小濱藩士・坪内孫兵衞に寄する所の者なり。周平(遠湖先生)、覽訖(をは)り、仰ぎて孝明帝の英斷を念ひまつり、俯して雲濱の誠忠を思ひ、襟を正して敬歎、措く能はず。

 其の略に曰く、「昨日、皇上、詔して、列卿を召したまふ。九條左府(尚忠)・鷹司右府(輔煕)・近衞左府(忠煕)・三條内府(實萬)・中山議奏(忠能)等、皆な朝す。是に於て皇上、親諭したまひ、列卿拜服し、而して廟謨決せり矣。九條左府は、素より彦根侯(大老・井伊直弼)と和協し、密に意を幕府に通ず。故に一語を發する能はず。惶懼、殊に甚だし。今日詰旦、急に敕使を馳せ、閣老に由らず、直ちに旨を尾張(徳川茂徳)・水戸(徳川慶篤)兩侯に宣せられたまふ。
一に曰く、前尾張(徳川慶恕)・水戸(徳川齊昭)・越前(松平慶永)三侯、何の罪有りて、之を幽せるや。宜しく其の事由を陳奏すべし。
二に曰く、尾張・水戸兩侯父子、及び同志懿親は、有志諸侯と、宜しく詔を傳へ、以て速かに奸吏の、旨に違ひ條約を締ぶ者を除くべし。
三に曰く、尾張・水戸兩侯父子は、宜しく詔を有志諸侯に傳へ、各々速かに意見を奏せしむべし。
と。凡べて三條。某(雲濱先生)度るに、數日を出でず、海内、之が爲めに震動せん矣」と。周平按ずるに、是より先、彦根侯、幕府の要路に當り、尾・水・越三侯を黜(しりぞ)け、專斷して、外國と條約を締ぶ。是に至りて孝明帝、幕府を嚴譴したまふ。海内震懼し、諸侯、王命に赴き、志士、王事に勤め、而して中興の端、是に由りて啓けり矣。雲濱の此の札、帝の英斷を贊揚しまつりて、古今獨歩と爲す。溢美に非ざる也。

 又た曰く、「今朝、青蓮院宮親王(今大塔宮・粟田宮・中川宮)、其の臣・伊丹藏人をして、間(ひそ)かに此の事を某に告げしむ。某、竊かに惟ふに、小濱太守は、彦根侯と、親□[目+匿。ぢつ]、間無し。某、太守の爲めに、甚だ之を危ぶむ。請ふ、君、速かに之を大夫・深栖君(典膳)に陳べ、善處するあらしめよ焉。某、逐臣爲りと雖も、胡馬北風の情に勝へず。之を報ずる所以ん也」と。周平按ずるに、小濱太守、即ち小濱藩主・酒井氏(若狹守忠義)は、幕府の舊勳爲り。其の先世は、西依成齋を聘して賓師と爲し、一藩、崎門學に嚮ふ。外交の事起るに及び、藩主、尊王の心は、佐幕の意に勝つ能はず。雲濱、崎門學を確奉し、仕を辭して帷を京師に下し、尊王の説を倡ふ。伊丹藏人なる者は、雲濱の門人爲り。親王、因りて之をして大事を告げしむる也。雲濱の志、報國に在り。平生、詞翰に著はるゝもの、一喜一憂、忠愛の誠に出でざるは莫し。此の札を讀み、以て推す可し焉。既にして黨獄興り、藩主、京尹(京都所司代)と爲り、彦根侯の命を受け、首めに雲濱を囚へ、以て死せしむ。其の絶命の詞も、亦た君を思ふ□[糸+遣]綣の情を抒(の)べまつる。一時傳誦して、士林に□[行の左+扁]し矣。

 此の札は、故と我が州(遠江國)荒井驛・飯田氏(武兵衞)の藏せし所、今ま其の通家氣賀町・松井氏(欽三郎)に歸し、巾して之を笥にし、余に題言を乞ふ。余、雲濱と學系を同じくし、曾て其の事蹟を考へ、又た其の姪・穗香女史を識る。女史の夫・山田勘解由(時章)、伊丹藏人と婚姻爲り。同じく青蓮院に仕へ、同じく業を雲濱に受け、同じく黨獄に繋がる。而して女史も、亦た貞烈、國を憂ひ、且つ和歌・書畫を能くし、雲濱の姪爲るに愧ぢず矣。因つて女史に囑し、雲濱の絶命詞を題し、余、乃ち札後に序すること、此の如し。札尾に、八月八日と署し、而して雲濱及び寄する所の姓名無し。當時、坪内氏、諱避する所ろ有りて、□[册+立刀]去すと云ふ。余、之を諦觀するに、其の眞蹟爲る、疑ふ可き無き也。

 大正六年五月中澣、遠江・内田周平、書(撰)す。



●遠湖内田先生『雲濱先生遺稿竝傳の序』(同上)

 吾が友、青木・佐伯二君、相謀りて、梅田雲濱先生の『遺稿』を編次し、附するに其の『傳』を以てし、將に公にせんとし、余に序を爲らんことを屬す。余は、曩に二君の志を嘉して、其の擧を贊する者、乃ち喜んで之に序して曰く、嗚呼、先生勤王の功、極めて大なり矣。而して二君、編述の勞も、亦た決して尋常に非ざる也。

 先生、一布衣を以て京師に居り、崎門の學を講じ、尊王の説を倡へ、節を持する、甚だ高く、飢寒疾病、皆な以て其の心を動かすに足らず。外患起るに會し、時局を匡濟し、皇政を恢復せんと欲し、慷慨自ら奮ひ、東、水戸に奔り、西、長門に赴き、輒ち必ず大義を辯説し、士氣を鼓舞し、心を盡し力を竭さゞるは靡し焉。幕府、朝命を奉ぜざるに迨び、書を青蓮院親王に上りて、以て大計を陳べ、遂に聖聽に達し、王事、將に濟らんとす矣。大老・井伊直弼、之を諜知し、遽かに先生及び同志の士を執へて、肆に殺戮を行ひ、以て其の事を沮む。所謂る安政の黨獄、是れ也。而して先生、實に罪、魁爲り。吁、其の幕府の罪、魁爲るを以て、其の朝廷の功、首爲るを知る可し矣。

 先生死して、未だ幾ばくならず、水戸浪士、櫻田の擧有り。井伊大老を途に要して、之を斃す。是に由りて時局一變し、士氣、大いに振ふ。長門藩人、京師の戰有り。其の黨、或は皇宮を衞り、或は幕兵に抗し、元を喪ひ腹を割いて悔いず。此れ皆な先生の説を聽き、先生の風を慕うて起つ者也。然らば則ち幕府の亡びて、皇政の復するは、之を先生首倡の力と謂ふも、誣ふるに非ざる也。顧ふに當時、先生と倶に黨獄に列して著はるゝ者、吉田松陰・橋本景岳有り。其の忠□[艸+盡]の志、未だ嘗て先生と同じからずんばあらず。然れども二人の者、齡、尚ほ少く、思慮、未だ必ずしも深からず、且つ身、京師に居らず。則ち其の籌策□[糸+眞]密にして、而して能く九重に達する者は、先生に及ばざるや也、遠し矣。

 明治以後、三人の者、同じく朝廷の旌賞を蒙る。而して松陰と景岳とは、其の『全集』刊行、已に久し矣。獨り先生の『遺稿』、今に至りて始めて世に出づるは、何ぞや也。蓋し二人の者は、藩國の之を前に援く有り、門人の之を後に推す有り。故を以て聲譽傳播し、『全集』も亦た隨うて盛んに行はる。先生は、則ち然らず。藩國を去りて、輦下に寓し、藩國、既に援けず。門人多しと雖も、概ね王事に死す。乃ち『遺稿』の若きも、亦た將に散亡して傳はらざらんとす。是れ吾が二君の長歎深惜して、此の擧有る所以ん也。

 抑々先生の志は、正誼明道に在り。尤も躬行實踐を務む。詩文の如きは、則ち其の緒餘のみ耳。平生、多く作らず、作るも亦た深く修めず。然れども片言隻句も、綱常彝倫の外に出でず。亦た以て其の養ふ所を見る可き也。書牘に至りては、則ち長短同じからずと雖も、大率ね時艱に□[艸+高]目し、君國に憂念し、最も以て其の忠愛□[糸+遣]綣の誠を知るに足る矣。而るに往時、先生の手蹟を藏する者は、咸な忌諱を避けて、毀滅燒燼せり。蓋し什に一を存せず焉。二君、乃ち四方に奔走し、斷簡零箋と雖も、廣訪博捜し、以て七十餘通を輯むるを得たり。勤めたりと謂ふ可し矣。佐伯君、別に先生の事蹟を考覈し、實を採り謬を刊り、大いに心力を費し、終ひに其の『傳』を作成す。讀者、彼此參照せば、則ち庶幾はくは、先生志業の全きを知るを得んか歟。

 嗟呼、先生殉節の後、七十年にして、茲の書出づ焉。一たび之を繙く毎に、英偉の氣、奕々生けるが如く、千載の下、恍として謦□[亥+欠]に接するを覺えん矣。二君の編述に勤めて、而も其の勞を辭せざる者、亦た惡んぞ天下後世に裨益する所ろ無からんや乎哉。

昭和三年十月上澣(内田周平、敬撰)



●遠湖内田周平先生『雲濱先生勤王の大勳』(『梅田雲濱先生』昭和八年十月・有朋堂書店刊に所收)に曰く、

 梅田源次郎は、即ち雲濱先生であります。蓋し嘉永・安政の間、王政復古の大舞臺に臨み、其の樞軸を握つて、之を運轉致したる者は、決して吉田松陰ではありませぬ。決して橋本左内(景岳)ではありませぬ。又た佐久間象山や横井小楠でもありませぬ。私の見る所を以てすれば、身に藩閥の勢を藉らず、腰に藩士の刀を帶して居らない、一個の浪人儒者・梅田雲濱先生こそ、實に其の人であります。‥‥

 雲濱先生の門人にて、後に其の姪・登美子刀自を妻とした山田勘解由時章は、青蓮院宮の家來であつて、安政黨獄の一人であります。明治の初に、堺縣の大參事、又は太政官の權少史となつたことであります。此の人が客の問に答へて、雲濱先生の勤王論を述べられたことがあります。其の大要は、左の如くであります。

雲濱先生の志は、唯一の勤王といふことに在つて、一片の誠忠、何事も、上樣(孝明天皇)の御思召に從はなければならぬといふ考を持つて居られたのである。そこで或時、青蓮院宮に謁して、内々上樣の御思召を伺ひ奉りたるに、上樣は、攘夷の御思召に在らせらるゝと聞いて、彌々一國の臣民たる者は、一同、上樣の御思召を體し奉つて、國家のため攘夷に盡力しなければならふぬといふ決心をせられて、是より益々其の持説を固くせられたのである。先生の卓識にして、天下の大勢を達觀し、今日あるを豫想するの明がなかつたといふことは、決してない。攘夷の、到底、遂げられないといふこと、開國の、遂に已むべからずといふことは、固より知つて居られたのである。先生が攘夷の考を懷かれた主意は、直ちに各國の請を許して開港するときは、外侮を招くの虞がある。故に攘夷を斷行して、内は國家の元氣を鼓舞し、外は他國の侮を禦がなければならぬといふに在つたのです。先生は、上樣の御主意に從ひ、幕府を同意せしめ、全國を糾合し、上下一致して外に當り、一たび攘夷を決行して、二百餘年の間、泰平の夢を貪りたる士民の惰眠を覺醒し、然る後に開國の國是を採るといふ、深い考を持つて居られたのである。先生は幕府に對しても、最初から決して無理に之を討ち倒さうといふ過激な考を持つて居られたのではない。唯だ幕府をして、是非共、上樣の御意に從はしめなければならぬといふ希望を持つて居られたのである。それは先生が、先づ水戸藩・紀州藩の如き徳川の近親に向つて、其の持説を發表せられた事を以ても判ります。即ち先生の論は、攘夷よりも討幕よりも、唯だ勤王といふことが主であつたのです。」

 當時の志士の中には、外夷を惡んで勤王家となつた者もある、即ち攘夷より勤王となつた者である。又た幕府を嫌つて勤王論を倡へた者もある、即ち討幕より勤王となつた者である。此等は、皆な順序が違つて居ると思ひます。必ず雲濱先生の如く、勤王より出でて、攘夷ともなり、討幕ともならねばなりませぬ。外國にして我が國を壓迫せず、幕府にして能く朝廷を尊崇すれば、攘夷せざるも可なり、討幕せざるも可なり。要は王政の恢復と國威の伸張とに在るのであります。先生の計畫は、幕府をして朝旨を遵奉せしめんがために、鳳輦を箱根まで進むるに在りました。それは南朝の故事に倣ひ、其の鳳輦には、青蓮院宮を乘せ奉り、其の護衞兵には、大和十津川の郷士を用ふる積りでありました。‥‥

 雲濱先生は、學者にして又た志士であります。君子にして豪傑を兼ねて居られます。吉田松陰・橋本左内(景岳)も志士であり豪傑でありますが、學者たり君子たる點に於ては、とても先生に及ぶことは出來ませぬ。私は、斯く論定致します。



【備考】

○三上是庵(佐藤直方門流)『日記』に曰く、「此の日、我れ外より來る。梅田兄(雲濱先生)、至る有り。杯酒談論、氣勢相加ふ。小「鵞湖の會」(宋の朱子・陸象山の討論會)と謂ふ可きのみ耳。供客を、吉田寅次郎と曰ふ。長州の人也」と。亦た其の『語録』に曰く、「梅田氏(雲濱先生)、往年、余を八町渠(ぼり)の僑居に訪ふ。會々余、出行し、暮に及んで歸る。梅田、一生徒[即ち長藩臣・吉田寅次郎(松陰先生)といふ者なり]を拉して、座に在り」と。

○吉田松陰先生『杉梅太郎に贈る』(嘉永六年十二月七日)に曰く、「京師、梅田源次郎、事務には甚だ錬達し、議論も亦た正し。事務上に付ては、益を得るの事も多し。森田節齋、上京し、頻りに慷慨仕り候ふ。森田は疎豪、策無く、梅田は精密、策有り。但だ二人共、天下の大計には、頗る疎なり」と。

○吉田松陰先生『久保清太郎に與ふ』(安政二年二月十九日)に曰く、「京師の人、梅田源二郎は、歸京仕り候ふや。是は『靖獻遺言』にて固めたる男、人物の鑑を好み、切直の言を好む。亦た事情にも通じたる所ろ有り。但し酒徒也。江戸に滯り居り候はゞ、御訪問成されて然る可き人物也」と。

○吉田松陰先生『久保清太郎に與ふ』(安政四年正月二十六日)に、朱書して曰く、「去臘、京師・梅田源次郎來游。正月中頃迄、逗留致し候ふ。滿城心服の樣子に相聞え候ふ。松下村塾の額面も頼み候うて、出來申し候ふ」と。

○森田節齋翁『雲濱の遺墨に題す』(慶應元年冬)に曰く、「嗚呼、是れ亡友・楳田雲濱の書也。雄偉飛動、其の從容、死に就くの状を想見する也。乙丑の冬、節翁、醉ひて題す」と。

○有馬正義先生『雲濱の書に附して一子に與ふ』(文久二年二月)に曰く、「梅田子は、忠義の士にて、殊に粟田宮樣へ隨從し奉り、種々朝庭の御爲に心を盡されし人なり。此の書、かく忠義の士の手跡なるを以て、予、ふかく此れを愛藏す。予も亦た往年、梅田子とは知己にて候ふ處、彼は安政戊午の冬に捕はれに就き、遂に獄中に死なれ候ふ。予は今にかくて存命、此の度は、必ず主意を果さむとおもひ込み候ふ故、略ぼ梅田子が事をも書き置き殘し置き候ふ。後年に至り候うても、粗末に致されまじく候ふ。穴賢。二月廿四日、正義。有馬幹太郎殿」と。

○西郷南洲翁、雲濱先生を評(『雲濱先生勤王の大勳』)して曰く、「例へば吉武の刀のやうだ。吉武の刀は、外形は不恰好だが、其の切れ味に至つては、干將・莫邪の劍も及ばぬ。僕の如きは、彼に比べやうもござらぬ。雲濱、今に生きながらへてゐたならば、我々は執鞭の徒に過ぎないであらう」と。



【參考】

一、遠湖内田周平先生序竝閲・老山青木晦藏翁・篁溪佐伯仲藏翁共編『贈正四位・梅田雲濱遺稿竝傳』(昭和四年十月・有朋堂書店刊。遺稿のみは、續日本史籍協會叢書『梅田雲濱關係史料』として、昭和五十一年十一月・東京大學出版會覆刻あり)

一、内田周平先生・佐伯仲藏翁共述『勤王志士領袖・安政大獄首魁――梅田雲濱先生』(昭和八年十月・有朋堂書店刊)
 
 

征韓論。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月28日(火)22時04分40秒
返信・引用 編集済
  ●大西郷『朝鮮御交際の儀』(明治六年十月十五日、三條實美太政大臣へ提出せる始末書)

 御一新の涯(きは)より、數度に及び、使節差し立てられ、百方御手を盡され候へども、悉く水泡と相成り候ふのみならず、數々無禮を働き候ふ儀、之れ有り。近來は、人民互ひの商道も相塞ぎ、倭館詰居りの者も、甚だ困難の場合に立ち至り候ふ故、御據(よんどころ)無く、護兵一大隊、差し出さる可く御評議の趣、承知致し候ふに付き、護兵の儀(板垣退助の征韓論)は、決して宜しからず。是よりして鬪爭に及び候ふては、最初の御趣意に相反し候ふ間、此の節は、公然と使節、差し立てらるゝが相當の事に之れ有る可く、若し彼より交を破り、戰を以て拒絶致す可き哉、其の意底、慥かに相顯れ候ふ處迄は、交渉を盡させられず候はでは、人事に於ても殘る處、之れ有る可く、自然暴擧も計られず抔との御疑念を以て、非常の備へを設け差し遣はされ候ふては、又た禮を失せられ候ふ得ば、是非、交誼を厚く成され候ふ御趣意、貫徹致し候ふ樣、之れ有り度く、其の上、暴擧の時機に至り候ふて、初めて彼の曲事、分明に天下に鳴らし、其の罪を問ふ可き譯に御座候ふ。未だ十分盡さゞるものを以て、彼の非をみ責め候ふては、其の罪を眞に知る所ろ之れ無く、彼我共、疑惑致し候ふ故、討人も怒らず、討たるゝ者も服せず候ふに付き、是非、曲直判然と相定め候ふ儀、肝要の事と見据ゑ、建言致し候ふ處、御採用相成り、御伺ひの上、使節、私へ仰せ付けられ候ふ筋、御内定相成り居り候ふ次第に御座候ふ。此の段、形行(なりゆき)申し上げ候ふ。以上。(明治六年)十月十七日、西郷隆盛(南洲翁の道義外交の眞意は、日本の決意は決して動かぬことを明示することに因つて、壓力的遣韓談判を爲すに在り)。



●横山正太郎藤原安武『建白書別紙添書』(明治三年七月二十六日)

 朝鮮征討の儀、草莽間、盛んに主張する由、畢竟、皇國の萎靡不振を慨歎する餘り、漸く憤激、論を發すと見えたり。然りと雖も兵を起すには、名あり、義あり、殊に海外に對しては、一度び名義を失するに至つては、たとひ大勝利を得るとも、天下萬世の誹謗を免るべからず。兵法に、己を知り、彼を知る、と云ふことあり。今、朝鮮の事は姑らく舍き、我が國の情實を察するに、諸民は飢渇困窮に迫り、政令は瑣細の枝葉のみにて、根本は今に定まらず。何事も名目虚飾のみにて、實效の立所、甚だ薄く、一新とは口に唱ふれど、一新の徳化は、聊かも見えず、萬民洶々として、陰に土崩の兆あり。若し我が國勢、充實盛大ならば、區々の朝鮮、豈に能く非禮を我に加へんや。慮り此に出でず、只だ朝鮮を小國と見侮り、妄りに無名の師を興し、萬一蹉跌あらば、天下の億兆に、何と云はん。蝦夷開拓さへも、其の土民の怨を受くる多し。且つ朝鮮、近年しばゝゞ外國と接戰し、頗る兵革に慣ると聞く。然らば文祿の時勢とは、同日の論にあらず。秀吉の威力を以てすら、尚ほ數年の力を費す。今、佐田某(泰一郎・白茅)輩、言ふ所の如き、朝鮮を掌中に運さんとす。己を欺き人を欺き、國事を以て戲とするとは、是等の言と云ふなるべし。今日の急務は、先づ綱紀を建て、政令を一にし、信を天下に示し、萬民を安堵せしむるに在り。姑く□[艸+肅]牆意外の變を慮るべし。豈に朝鮮の罪を問ふに暇あらんや。



【大西郷『横山安武碑文』】
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 愚案、現在の状況は、明治六年交の國勢に酷似せり。小生と雖も、東亞の情勢無禮に憤怒すること、人後に落ちざるは、勿論なり。然れども此の國勢に至らしむるものは、一に我が國の政治・外交に在り。偶見する所のネツト上の意見、曰く斷交、曰く征伐、と。殆んど韓國を見ること仇敵の如くして、戰前の右翼・保守との血脈連携は、かつて見ざる所、而して戰後の右翼・保守の主張する所は、泰西の覇權主義に終始して、東洋の道義、絶えて有ること無し。一衣帶水の隣國すら、皇化に浴せしむる能はず、況んや八紘一宇の大理想をや。嗚呼、維新に淵源する所の右翼・皇道思想は、遂に其の痕跡を留む可からず矣。塾頭、かつて曰く、「右翼は絶滅す」と。宜なるかな哉、此の言。上下、交々利を征(と)りて、國、信に危し。歐米功利の思想、漸く日本・支那・朝鮮に浸潤して、遂に世界を席卷跋扈するに至る。豈に慨歎に堪ふ可けんや乎。
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紫宸殿に於ける軍神祭。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月24日(金)23時33分52秒
返信・引用 編集済
   來る八月二十八日は、中納言從三位・大伴家持卿が、陸奧國に於いて薨じた日である。舊稿を纂輯して、古人、尚武故忠の有り樣を想ひ起しつゝ、卿を偲びたい。



●鎌田純一博士『神道史概説』(平成二十二年十月・神社新報社刊)――靖國神社の創建――に曰く、「

 (慶應四年)二月三日、有栖川熾仁親王を東征大總督とされ、三月二十一日に、親征軍を發せられることとなつたが、その前日の二十日に、紫宸殿で、軍神祭を齋行された。すなはちその三月十四日、天神地祇を祭り、五箇條を誓はれた六日後のことであるが、その軍神祭御祭文より、天照大御神・大國主大神・武甕槌之男神・經津主神、四柱を神籬に招請されての祭祀であつたことが知られる。そしてその軍神に、

『隨從ふ大丈夫武雄は、恆に利心振り起して、山行かば、草生す屍、海行かば、水附す屍、君の御爲め、國の御爲めに、顧み无く、天津雄々敷き言立ての隨に、今も仕へしめ給ひて、天之波志弓引末賀那ひ、天の眞鹿兒矢千尋射渡し、悉に伐ち罸め、言向しめ給ひて、大八島國中、悉、石根木根立草の片葉も言止の安國と平けく、八絃の琴の調べとゝのふ言の如く、鎭撫めしめ治めしめ給へと』

と奏上されたことが知られる。その隨ふ兵、大君のため、國のため、生命失ふことも恐れず、ただ國内平らけく安らけくと願ひ戰ふこと、見行はされ信じ給うての祭文である」と。



 愚案、塾頭は、「紫宸殿に於ける軍神祭」について書かれ、近代皇軍の御基ゐと御考へのやうでありました。其の御祭文が見當らぬ、主は知らぬかとの問合せあり、小生が寶藏せる所の賀茂百樹宮司『靖國神社誌』・森清人博士『みことのり』等にも所收されてをらざるもの、偶々、鎌田純一博士『神道史概説』を拜讀してをりましたら、『明治天皇紀』に出てをりましたので、塾頭の靈前に、かつて報告した次第であります。



●稱徳天皇宣命『續日本紀』神護景雲三年十月一日

 また勅りたまひしく、朕が東人に刀を授けて侍(つか)へしむることは、汝の近き護りとして、護らしめよと念(おも)ひてなもある。この東人は、常にいはく、「額(ぬか)には箭を立つとも、背には箭は立たじ」といひて、君を一つ心をもちて護るものぞ。



●蓮田善明陸軍中尉『花のひもとき』(昭和十九年十月・河出書房刊)に曰く、「

 天忍日命(天孫降臨の時に、天孫の御前を奉仕)・道臣(神武天皇東幸の時に、御先導に奉仕した日臣命)を祖とする大伴氏に、その遠祖より傳へた決意の歌がある。即ち、大伴氏言立(ことだて)、

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の邊にこそ死なめ
和(のど)には死なじ


 この闊達にして、決意の美しき清泉の如き歌は、天平勝寶元年四月朔日、聖武天皇、東大寺に幸して、廬遮那佛の開眼に當り、このたび陸奧國小田郡から、我國に初めての黄金を出だして、此の大佛の莊嚴を完成し得た御喜びに添へて、御世重ねて仕へ奉る諸臣を賞し賜うた中に、大伴・佐伯の氏を賞し給うた宣命に、畏くも引き出でて仰せられてある、氏の古傳承であつた。即ちその宣命の一節に、

又、大伴・佐伯宿禰は、常も云ふ如く、天皇が朝(みかど)守り仕へ奉る事、顧みなき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ來らく、「海行かば、水漬く屍、山行かば、草むす屍、王の邊にこそ死なめ、和には死なじ」と、云ひ來る人等となも聞し召す。是を以て遠天皇の御世を始めて、今、朕が御世に當りても、内兵(うちのいくさ)とおもほしめしてなもつかはす。故れ是を以て子は祖の心如(な)すいし、子にはあるべし。此の心失はずして、明き淨き心を以て仕へ奉れとしてなも云々。

 この光榮について、大伴氏の當代大伴宿禰家持は、「陸奥國より金を出せる詔書を賀ぐ歌一首并に反歌」を作つてゐることは、周知の通りである。その長歌の中には、最後の句の「和には死なじ」が、「顧みは爲じ」となつてゐる。「‥‥大皇の、邊にこそ死なめ、顧みは爲じと言立て、丈夫の、清きその名を、古ゆ、今の現に、流さへる、祖の子等ぞ‥‥」と、家持は昂ぶる心を歌ひ上げてゐる。この「海行かば」の歌は、天皇の歴史に、臣の己なく仕へ奉る志が、まことにしらべ深く、たけ高くうたはれてゐるのであつて、寶祚の隆昌に奉仕する最大の讚歌となつてゐる。「‥‥祖の名絶たず、大君に、奉仕(まつろ)ふものと、言ひ繼げる、言の職ぞ、梓弓、手に取り持ちて、劍大刀、腰に取り佩き、朝守り、夕の守りに、大王の、御門の守護り、我をおきて、また人はあらじと、彌立て、思ひし増る云々」と、家持は歌ひつづけてゐる。

丈夫の 心思ほゆ 大君の 御言の幸(さき)を 聞けば貴み

「大君の御言の幸を聞けば貴み(忝くての意)」と、長歌にも反歌にも歌つてゐる。この「幸」とは、不用意に考へるやうな幸福無恙の意ではなく、さかんなるの意であることは、筆者が少しく考證したことがある。大御言の言靈のいきほひのさきはひを受けて、臣はさきはふのである。神武天皇紀に、「赫哉(さかりなるかも)」と仰せられてあり、神勅に、「行矣(さきくませ)」とある。勇進こそ「さき」であり、「さかり」である。すべてかかるふることのさかんさを知つて、日本の古典、日本の文學の道統はわかるのである。今日の文學表現の觀念などが、如何に勇氣のない、弱い、じめじめしたものであるか分らう。

 さて『萬葉集』は、かかる道統を保守する大伴家持の撰する所ともされてゐる。萬葉とは、萬代の意である。萬代無窮に高揚するやまとだましひのふるさとが、實にわが『萬葉集』である。又『萬葉集』は、その卷一・卷二のあたり、勅撰とも稱せられ、また初め葛城王にして、後、橘宿禰の臣姓を賜うた橘諸兄卿に、

降る雪の 白髮までに 大皇に 仕へまつれば 貴くもあるか

の歌が、卷十七に載つて存してゐる。後代、誠忠楠木正成は、この卿の末裔といふ。われらがふることの道は、又かくて亡びぬのである」と。



 愚案、塾頭『靖國神社の正統とは何か』に曰く、「海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てゝ、戰ひの庭に出で、奮鬪し末に、あるいは痛手負ひつ命を果てた、我らが先人が祀られてゐる」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/247

 また先の大戰、一敗、地に塗れて後の世の有樣、掌をかへすが如くに轉變して、昨日は高らかに聖戰の必勝を謳歌し、今日は卑屈にも變説改論して、權力に阿り俗論に媚びようとする者の、餘りに多きを知るが故に、御多聞に漏れず、作曲家ちふ者も、かくやあらんと思つてをりましたが、かつて或る御方から、メールを戴いたことあり。曰く、「『海ゆかば』は、昭和十二年秋、當時、東京音樂學校作曲科教授・信時潔が、皇軍の精忠大義に感激し、『萬葉集』卷十八の大伴家持の歌に作曲せしもの。戰後、作曲者は公職を去り、國を憂ひつゝ隱栖。昭和四十年八月一日歸幽」と。こゝにやうやく信時潔翁の節義を守りたるを確信したるを以て、樂曲『海ゆかば』を、疑なく高かに歌ふことが叶ひ、たゞ尊く嬉しく存じ居ります。
 
 

靖國大神の大精神を呼び覺ませ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 8月15日(水)02時27分23秒
返信・引用 編集済
   葵園賀茂百樹靖國神社宮司に、『靖國神社事歴大要』一卷あり。是れ『靖國神社誌』の骨髓に、賀茂大人平素の所懷を加へしものにして、靖國神社正史を忘却しつゝある今日、其の紹介心讀は、益々高く、且つ益々切なるを痛感す。因つて昭和の大詔奉戴日を卜して、舊稿の拜記を増補して、更めて掲げさせて戴きたい。



●賀茂百樹大人『靖國神社事歴大要』(明治四十四年二月・國晃館刊)

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40043615&VOL_NUM=00000&KOMA=58&ITYPE=0

 己(賀茂大人)、曾て出雲大社に詣り、御埼山麓に、大己貴神の神徳の大なるを思ふ。大神は、何故に多くの官國幣社に齋はれ給ふか。北海道を開拓するや、何故に大神は、札幌の官幣大社に齋はれ給ひしか。臺灣の新領土となるや、何故に大神は、臺北の官幣大社に齋はれ給ひしか。樺太の我に歸するや、何故に大神は、豐原の官幣大社に齋はれ給ひしか。大神は、少彦名神と協心戮力して、天下を經營し、禁厭醫藥の術を定め給ひ、竟ひに大國の主となり給ひしを以て、然るか。夫れ然り。然りと雖も萬世の下、尚ほ之を欽仰する所以のもの、他に存せずんば有らざるなり。

 昔、天孫を此の土に降し給はんとするや、香取・鹿島の二神を遣はして、大己貴神に、其の領土を避けしめ給ふ。時に皇祖天神、大己貴神に勅して曰く、

『夫れ汝が治むる所の顯露の事は、皇孫、治め給ふべし。汝は幽事を治(し)れ。汝が宮は、柱高く太く、板は廣く厚く造らむ。又た神田を附せん。又た神地に橋を架し、船を備へむ。又た神寶の武器を置かむ。而して汝を祭祀する者は、天穗日命、是れ也』と。

是に於て、大己貴神曰く、『天神の勅、慇懃なること、此の如し。敢へて從ひ奉らざらんや』と、喜んで命を奉じ、曾て治功ありし廣矛を、皇孫に獻貢り、其の從へる岐神を二神に薦め、而して自ら其の御子等を率ゐて、皇基を守護する神とならむことを宣言して、長へに隱れ坐しき。

 斯くて寸毫も大義名分を謬り給はず、天下後世をして、其の嚮ふ所を知らしめ給ひぬ。其の大忠至誠の神徳、洵に偉大なりと云ふべし。宜なり、千載の下、大神の神徳赫々たること。爭(いか)でか之を祭祀せざるを得んや。斯の大忠至誠の大元氣は、終ひに深く吾が國民の腦裡に印象して、違勅を以て不臣の極となし、皇室の御爲には、進んで死し、死しては、則ち喜んで護國の神たらんとする美風を馴致し來りたるをや。爭でか之を欽仰せざらんとして得んや、と。

 而して今や、予は、大神の神徳を、我が靖國神社祭神の高節に見る。御沙汰書(明治元年五月十日・京都東山招魂社創建の御沙汰書)に、

『況んや國家に大勳勞有る者、爭でか湮滅に忍ぶ可けんやと、歎き思し食され候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、且つ其の忠魂を慰めされ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等の靈魂を、永く合祀致さる可き旨、仰せ出だされ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事』

とあるは、恰も皇祖天神の、大神に賜ひし神勅に似たるものあり。

 而してこれに因りて、維新以來、喜んで護國の神となりしもの、夫れ幾千萬人ぞ。わが祭神の高潔、亦た大神の勇退に似たりと云ふべし。而して明治の皇業と、天孫降臨のことゝは、皇祖天神と、わが皇上の仁慈なる御威徳とにより、大己貴神と、わが靖國神社祭神との一大精神を發揮したる結果によりて完成せし、歴史上の二大事件にあらずや。

 斯く叙し來れば、我が國は、實に長へに神の御世なりけり。神、愈々滋くして、國、愈々昌ゆ。神國とは、蓋し此の謂ひなるべし。而して靖國神社は、明治の神の萃り給ふ所、高潔なる大精神の儼在する所、忠烈なる氣魄の磅□[石+薄]する所、長く我が國家元氣の發生する淵源なりと云ふべし。嗚呼、爭でか仰ぎ尊まざるべけむや。

 靖國神社の祭神は、わが國特性の大精神を發揮し盡して、高節を守り給へる忠勇の神靈に坐しませり‥‥。祭神は、其の在世に於ける位勳官等の高卑・族籍・男女の差別こそは坐しませ、其の高潔な大精神に於いては、共に皆な一なり。されば生ける時には、假令ひ身を卒伍の卑きに置けりと雖も、高潔なる大精神に於いては、既に業(すで)に自ら神なり。これ即ちわが陛下の、神と齋はせ給ひて、至尊無上の御身を以て、玉冠を傾けさせられて、禮拜の誠を致させ給ふ所以なり。

 抑も神に、正邪・公私の別あり。恐くも天皇の、神位を與へ給ひしものは、公神なり、正神なり。私に齋きて神と濳稱するものと、霄壤の差あることを知らざるべからず。實にわが天皇の尊嚴たるや、無上絶倫、その大權たるや、無限絶對、敢へて侵すべからず。されば人物に爵位を與奪し、人靈に神格を加削し賜ひぬ。而して神も人も、幽冥よりも、現露よりも、天皇を一大中心として護持し奉るを以て、古來國民の堅く信念とせること、我が光輝ある歴史の明示する所なり。是に於てか、苟しくも天皇の、神位を授け給へば、神も亦た神たるの靈能を發揮し給ふべく、而して朝廷の、之に對し給ふことも、更に從來の神社の神等と別あること無し。其は御祭文に、『掛卷くも畏き靖國神社の大前に云々、聞こし食せと恐み恐みも白す』と、他の大神に宣らせ給ふと同一の、崇敬辭の限りを盡し給ひ、其の他、祈年・新甞の典を始め、苟しくも國家の爲に、或は祈り、或は告げさせ給ふこと、他の神等と、更に異ならせ給はざるにても知るべきなり。遺族たり、國民たるもの、能く此の理を覺らざれば、或は誤りて不敬に陷る事も有らむ。見よ、見よ、春日神も、臣位の神にて坐しき。忌部神も、臣位の神にて坐しき。而して今や、靈能を發揮し給ひて、共に官幣大社に列し給ひぬ。之を思へば、我が祭神十一萬餘の、武徳の神靈を集めて一團とせる、靖國神の大偉徳は、天を極めて湮滅せず、地を極めて朽廢せず、長へに後昆の爲に金鑑と仰がれ給ひて、靈光を天日と與に萬世に輝かし給ふべし。嗚呼、丈夫の志懷、此れを措きて、將た何をか求めむ。嗚呼、忠の徳たるや、偉大なる哉。是に至りて、我が國風の懿美、眞に驚歎に堪へざるなり。

 かくて我が國、古來、國民の皇室を尊崇する念厚く、生きて身を君國に獻げ、死しても亦た神となりて、君國を守護し奉らんとする信念、最も堅固なれば、一朝、事あれば、一死、固より辭せず、從容として死に就く態容、實に爛漫たる櫻花の、春風に散るが如きものあり。蓋し世界無比なるべし。而して此の優越せる氣魄の、最も能く發揮したるは、七百有餘年、積威の覇府を壓倒して、王朝の昔に囘し、延いて老大の國を懲らし、崛疆の邦を伏して、震天撼地の大功業を遂行し得たる、わが祭神の大精神なりと云はざるべからず。是れ實に天孫降臨、神武天皇東征に亞げる偉績にして、皇國史上に特筆大書すべき事なり。上に述べし如く、此の大精神の發揮する所以の原動力は、遠く神代に起り、此の大精神を實行したる神、近く現今に實在し、終始一貫して、今ま猶ほ古の如くなるは、是れ我が國體の萬世不變なる實證ならずや。而して千萬世の後までも、この國體と共に、赫々の光を放たしめざる可からざるものは、この一大精神なりとす。

 靖國神社の御社號は、初めは招魂社とのみ稱せられしが、斯くては、一時、在天の神靈を招きて、祭祀を擧げ神饌を享する、齋庭を指して稱するものゝ如くにして、萬世不易の御社號としも云ふべからず。是を以てか、明治十二年六月四日、太政官より、

『東京招魂社を、靖國神社と改稱、別格官幣社に列せられ候ふ。此の旨、相達し候ふ事』

といふ布達は出でぬ。靖國の熟字は、『春秋左氏傳』に見ゆれども、全くこれに據られしにもあらざるべし。この靖の字は、『韻會』に「安也」とありて、安と同意の字なれば[この靖字は、治也(亂を靖む)、和也(之を和安す)、清也(自ら人を靖め、自ら先王に獻る)ともありて、最も善しき字なれば、安にかへて用ゐられしなるべし]、靖國は、安國の字と同一に心得て然るべし。安國とは、平安なる國家の意義にして、古來、わが國にて、大に唱導し來りし固有國語なり。皇祖の、皇孫をこの土に降臨せしめ給ふ時に、皇孫を天津高御座[天皇の御座の名稱]に坐さしめ、大御手自ら、三種の神器を捧げ持ち賜ひて、

『我が皇うづの御子、皇御孫の命、此の天津高御座に座して、天津日嗣を萬千秋の長秋に、大八洲豐葦原瑞穗の國を、安國と平けく知ろし食せ』

と、言壽ぎ宣り賜ひしを始めとして、古き宣命・祝詞等に、多く見えたる語なり。固有國語の上より云はゞ、文字は假りたるものゝみ。安にても靖にても、關する所ろ無きなり。

 扨て何故に、この神社の御社號を『やすくに』と名け給ひしぞと云ふに、同十二年六月二十五日、招魂社に勅使を御差遣ありて、社格制定、社號欽定の奉告祭典を行はしめられし時の御祭文に、其の由を委しく宣べさせ給ひぬ。左に全文を掲げて、勅諚の深義を衍べ奉らむ。

『天皇の大命に坐せ。此の廣前に、式部助兼一等掌典・正六位・丸岡莞爾を使ひと爲て、告り給はくと白さく。掛卷くも恐き畝火の橿原宮に肇國知し食しゝ天皇の御代より、天日嗣高御座の業と知し食し來る、食國天下の政の衰頽へたるを、古へに復へし給ひて、明治元年と云ふ年より以降、内外の國の荒振る寇等を刑罰め、服はぬ人を言和はし給ふ時に、汝命等の赤き清き眞心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各々も死亡りにし其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば、安國と知し食す事ぞと思ほし食すが故に、靖國神社と改め稱へ、別格官幣社と定め奉りて、御幣帛奉り齋ひ奉らせ給ひ、今より後、彌や遠長に、怠る事無く祭り給はむとす。故れ是の状を告げ給はくと白し給ふ、天皇の大命を聞し食せと、恐み恐みも白す。』

 謹みて其の大旨を窺ひ奉るに、祖宗より繼承し來れる、この大皇國を、天地の與に悠久に、平けく安けく統治し行かんことは、烈聖(愚案、或は列聖ならむか)の、みな祖宗に負ひ給へる天職なるが故に、時に可憐なる祖宗の赤子を、平和の犠牲となすことあるは、誠に已むを得ざるなり。汝神靈等は、克く聖慮を體して、赤誠忠實に、靖獻、其の身と其の家とを顧みずして、大勳績を樹てしによりて、祖宗の御國は、斯の如く平安なる國家となるに至りぬ。汝等が斯く身命を擲ちし功績によりて、國家を平安に統御することを得るを以て、汝等の神靈を奉齋せる招魂社の稱を、靖國神社と改め、更に別格官幣社の社格に列して、自今、千秋萬歳に、緩む事なく怠る事なく、祭祀の典を擧ぐべしと、宣り給ひしに外ならず。

 古來、我が國は、平和を以て國是とす。大古、伊弉諾尊の、此の國を名けて、浦安國と稱し給ひしも、是れなり。元來、わが國民は、協同の祖先に起りて、外には君臣の義あり、内には父子の親あるが故に、君は民を愛撫する御心深く、民は君を尊親する念厚ければ、君は、いかにしてか、國家を平和になして、萬民を安寧ならしめんと、叡慮を勞せさせ給ひ、民は、いかにかして、國家を平和にして、宸襟を慰安し奉らんと、身命を碎きぬ。されば國歩艱難なるや、擧國一致、身を忘れ家を捐てゝ、この平和の爲に致さんとす。親は、斯の如くにして、死して以て子に忠を訓へ、子は、斯の如くにして、死して以て更に孝道を傷らず、祖先の靈も、亦た之を見て、衷心より歡び、子孫も、亦た之を傳へて、家の名譽とす。所謂忠孝一途の要道、茲に存せりと言ふべし。斯く安國たらしめんとする、上下の大精神は、二千有餘年の歳月と戰ひて、世界萬國中、絶對無上の國體を造りぬ。否、是より益々進みて、平和の間に、天壤無窮の皇運を扶翼し奉らんこと、子々孫々、更に變ること無く、わが靖國の神靈の如くなるべし。嗚呼、靖國の御社號、深旨ある哉。嗚呼、國家を泰山の安きに置き坐せるは、靖國の神に坐す哉。

 御社格を別格官幣社に列せられしは、御社號を賜はりしと同時なること、上に引ける太政官達の如し。官社を、官幣・國幣の二つに分つ。官幣は宮中より、國幣は國庫より、幣帛を奉らるゝなり。この官幣・國幣の稱は、延喜の古制に因られしものにして、神祇官より幣を獻るを官幣と云ひ、國司より獻るを國幣と稱したりしなり。現今にしては、いさゝか適合せざるものゝ如しと雖も、其の古制によりて、天つ社・國つ社を尊崇し給へること、最も恐き御事なりと云ふべし。而して兩幣を通じて、延喜の制には、大・小の二つに分ちたりしが、現今は之を大・中・小の三つに分ち、官・國幣社を通じて、大幣を奉らるゝを大社とし、中幣を中社、小幣を小社と云へり。別格官幣社とは、大・中・小に序いで給はざる社格にして、其の幣は、小社と同一なり。靖國神社も、法規上、他の別格官幣社と同じく、官幣小社の次位に坐しませども、亦た更に皇室の御殊遇、國家の尊崇、特別なるもの有り。‥‥

 吾れ聞く、身を殺して仁を爲す。生を捐てゝ義を執る、と。又た聞く、仁は天下の安宅なり、義は天下の廣居なり、と。嗚呼、わが祭神は、生きながらに、斯の安宅に居り、斯の廣居に據り給へりしなりと云ふべし。‥‥

 遺族といへば、即ち祭神の父母なり、妻子なり、兄弟なり、親戚なり。蓋し祭神の遺愛、此れより過ぐるもの無からん。此の纏綿たる情緒は、曾て如何に祭神の心を煩はし奉りたりけん。祭神の、克くこの情緒を一擲し去り給ひしが如きは、個人としては、無情なるが如くなりと雖も、決して然らず。其の大故に處して、小節を捨てゝ大義を取り、行の利義、情の公私を明辨して、更に惑ひ給はず、功成りて忠臣たり、名揚がりて孝子たり、徳顯はれて萬世の龜鑑たり。古語に、父母を顯はすは、孝の終りなりと云へり。父母に對して、既に孝なりとせば、情に於いて、何の缺くる所か有らむ。況んや我が國の如き、忠孝一途の國體にして、爾の父も、爾の祖先も、斯くの如くにして、之を子孫に遺訓したることなるをや。況んや斯くの如きは、國民の當に盡すべき本分なるに於いてをや。さればこそ、祭神の遺愛たる遺族諸氏も、祭神の、斯くの如くなりしを、一家・一門の名譽として、又た祭神の如く、私情を擲ちたるなれ。然りと雖も其の此に至らざるを得ざりし心情を察すれば、其の悲慘、實に同情に堪へず。而して今や、幽顯、界を異にして、斯の熱烈なる情緒を、祭神と共に目前に交ふることを得ざるに於いてをや。是れ恐くも、至尊陛下を始め奉り、國民の共に泣きて、意を注ぐ所なり。‥‥

 思ふに、我が國は、古來、尚武を以て大精神とす。而して亦た文を捨てず。されば鏡を明徳に比し、劍・璽を文武に比せり。上にこの明徳あるを以て、武を弄することなく、文に荒むことなし。若し夫れ武を弄すれば暴に渉り、文に荒めば弱に流る。明徳を以てするに非ずんば、焉ぞ文武を完うすることを得む。

 靖國神社祭神は、我が國の大精神を發揮し給ひ、武徳の神に坐すこと勿論にして、而して亦た文徳を備へましゝこと、この文武兩館(愚案、附屬の遊就館、竝びに圖書館、即ち現今の偕行文庫、是れ也)を通觀して知るべし。文武の運用、其の道に適はむことは、明徳あるものに非ずんば能はざるなり。嗚呼、この兩館に入りて、神徳の大なるに驚き、感奮興起せざるものは、わが國民にあらずとや云はむ。



■賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』――昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm

■賀茂百樹大人遺文『靖國神社忠魂史の序』、其の他
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