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  2. 「九段塾」塾頭・一兵士翁遺文抄(100)(備中處士)
  3. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(8)(備中處士)
  4. 祖神垂示 親譲之道 拾遺(36)(はゆまつかひ)
  5. ★☆★ 時計の間 ★☆★(343)(塾頭)
  6. 賀茂百樹大人遺文(5)(備中處士)
  7. 先哲遺文に學ぶ。(31)(備中處士)
  8. 日本刀四方山話(51)(那須の権太)
  9. 神道に學ぶ。(55)(備中處士)
  10. 平田篤胤大人遺文(31)(備中處士)
  11. 平田篤胤大人『古史成文』(165)(南雄)
  12. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(46)(備中處士)
  13. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(35)(はゆまつかひ)
  14. 參考聚英(15)(備中處士)
  15. 平泉澄博士遺文(9)(備中處士)
  16. おゝ靖国の大神(39)(はゆまつかひ)
  17. 大元靈に坐す天之御中主大神(8)(備中處士)
  18. 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(30)(相州之民艸ならびに備中處士)
  19. 霊的国防の本義 拾遺(34)(はゆまつかひ)
  20. さあ、『少年日本史』を讀みませう!(7)(備中處士)
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困惑‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月25日(土)21時45分32秒
返信・引用 編集済
   「北緯36度以北、慶尚北道高霊邑の水と共に、稲作伝来の伝承に乗って、北緯34度以南の九州説の筑紫に落ちる」と。さやうな御説も、一説として承りました。「慶尚北道高霊邑」にて檢索したら、色々あるものですね。ご示教、有り難うございました。小生も、日韓の姉弟關係につき、かつて名越翁の文を紹介させて戴いたことがありました。須戔鳴尊の天降られた御地は、今の朝鮮白頭山でせうから、まんざら、縁なき事とも申せません。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/222

「堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは、高千穂の峰の垂直の雲の上だ、と」。

 小生は、「皇國の上空に坐しますなむ」と信じ、かく申し上げてをりますが、地上の高天原は、人間世界の四國くらゐの面積ありとの御説もあるやに聞いてをりますので、中らずとも遠からず、さやうに喧嘩腰に云はれることも無いでせう。然し所詮、地上人の、しかも素人の臆説妄想、お聞き流し下さるか、相手にならぬと諦觀されむことを。此の調子ですと、小生は、塾頭では無いのですから、とても御相手かなひませぬ。こらへて下さい。

 何はともあれ、老臺には、何か、不快に思召されました御樣子、御許し下さい。
 
 

R高天原謹考

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月25日(土)19時01分7秒
返信・引用
  そうも警戒心強く、肩肘張っての防衛本能旺盛でレス応対
「こりゃまたお呼びでない、どうも失礼いたしました」と退散せにゃアカンのかな?(笑)

先の塾頭さんは余裕綽々と莞爾の笑いで受け申した。
これは2度目のレスよ・・。

まだ先代が某掲示板と蜜月状態のとき・私のほうが名ウテのゴロツキ投稿者・皇尊心掲示板の趣旨に合わぬとただちに介入削除された。まだ私の本意が伝えぬうちに、スレ主自体が
不満であられた。丁々発止でやろうとした時に。

『垂直』の意味の真意がまだ説明不十分のうちに。
貴殿の申す
「平面史觀、實に艸木ものいふものであります。「垂直に」と貴意が如く、埀直か否かは兎も角く、立体史觀であらねばなりませんね」

そうメカルト図法の平面史観ではないの、もじ通りの立体史観でいかにゃアカンのさ。
ここをはっきりさせないから、北緯36度以北慶尚北道高霊邑の水と共に稲作伝来の伝承に
乗って北緯34度以南の九州説の筑紫に落ちるんや。
堂々と言えばよし、稲は天上でできしもの、その天上とは高千穂の峰の垂直の雲の上だと。

2002年、会社リタイア、その記念に32年ぶりに韓国旅行した。
前にも行った慶州を奥さんと嫁を連れていった。そして、その周辺を、そこで腰をぬかし
かけた。そこに高天原の碑が公園があった。
私はツアーの韓国人案内人に猛烈に抗議した。21世紀に建てる碑なんて信用ならん。
高天原は九州阿蘇山中の高千穂の上空に有るんだと。

でもその韓国人、日本に居たのか日本の歴史を勉強していた。
新井白石流の地上説を陳べる
「神とは人である」と説く。高天原は遠い昔に天皇家の先祖がいた場所であるとし、高天原を地上の特定の場所にあったとする。

「九段塾」塾頭・一兵士翁彼岸の先に行った。まだ私との論に入らぬ前に、もの凄き尊皇心
強き御仁の「やめい!不敬罪である」との命令によって。
そこで何年ぶりだ5年かな6年かな、まあええ、その翁の一番弟子に尋ねる。

「高天原の水田の水が垂直に落ちたはどこだ?」

 

高天原謹考。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月25日(土)16時02分22秒
返信・引用 編集済
 


●本居鈴屋先生『天祖都城辨々』に曰く、

「此の(天照)大御神は、今もまのあたり仰ぎ瞻(み)る天津日にましゝゝて、とこしへに高天原をしろしめせば、大宮所は、天上(あめ)にあること、申すもさら也。いかでか、此の國土(くに)にはあらむ」と。



●平田大壑先生『靈能眞柱』に曰く、

「天照大御神は、御依(みよさし)の髓(まゝ)に、高天原の君と坐して、普く御照らし坐すを以て、天照大御神とは申し奉るなり。また上に次々いへるごとく、天(あめ)とは、やがて日のことなるを、其れをしろし看す神に坐すゆゑ、また日神とも申し奉るなり。

 さて師(鈴屋先生)のいはれたる如く、天にも、この國土の如く國の有りて、高天原とは其を云ふなるを、この大地にある國は、みな地の外表方(うはべ)に屬(つ)きたるを、天にある國は、内裡方(うちべ。内部)に屬きたりとおもはる。そのゆゑは、天若日子が、雉を射上げたりし矢の、高天原に坐す、高木神の御許に至れるを、初めに射上げつる天の穴より衝き返し降し給ふとあればなり[内裡方に國あること、この大地なる國の例(ためし)に泥づみて、疑ふべきにあらず。物の理は、窮まりなく、妙なる物なればなり、と『考』(服部水月翁『三大考』)にいへる、實に然ることなり]」と。



 
愚案、所謂る高天原は、廣狹種々あつて、

一、天之御中主神の坐す、天津眞北の「高天原」(別天神界・北極紫微宮)

一、天照大御神の坐す、天津日の「高天原」(太陽神界)

一、天照大御神の分靈および天津神達の坐す、天上大氣圏内に在る「高天原」(地球神界)

一、天照大御神を地上にて奉齋する、神宮上空に在る「高天原」(伊勢神界)

一、天照大御神の顯現たる現人神天皇尊の坐す、地上の「高天原」、即ち千代田の宮城

一、或は、大宇宙を稱する「高天原」

一、或は、一靈(大元靈・天照御靈)を戴ける人間の體内の「高天原」(「心は、神明の舍なり」)

等の別があらうかと存じます。「高天原の水田の水は、垂直に地上のどこに落ちたか? さすれば、その高天原の場所がわかる」と。お申し越しの謂ひが判然としませぬものゝ、件の「三番目」に當らうかと存じます。然らば皇國の上空に坐しますなむ、と拜察いたしてをります。高天原が、地上の何處かに在ると申すは、平面史觀、實に艸木ものいふものであります。「垂直に」と貴意が如く、埀直か否かは兎も角く、立体史觀であらねばなりませんね。天孫降臨は、今から五千年ないし一萬年前と恐察いたしますので、それ以前の稻作は、諸々の神々・神僊が、天上から招來せるもの、或は大國主大神・少名彦那大神が、世界の民艸を啓導せられたものと拜します。

 
「れきし(蓋し「歴史」か)の観察者」樣は、我が塾頭が氣にかけてをられた有縁の御方、又た塾頭より年上の御方ゆゑ、敢へて申し上げるまでも無いとは存じますが、本掲示板は、最上段に掲げてをりますやうに、

本掲示板およびスレツドは、『靖國神社の正統』を、九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂め、靖國神社の正統を恢復護持し奉らむとする掲示板であります。

 なほ①

神宮
皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げ、②本掲示板の主旨に反する書込み、③禮儀・品位に著しく缺ける言語、④論理・文法が判らないもの、⑤青少年へ惡しき教育效果を與へる書込み
等は、嚴禁であること、勿論であります。かやうな場合は、管理者權限にて削除、または書込禁止の處置をさせて戴きますので、豫め御承知おき賜りますやう、謹んで御願ひ申し上げます」。

③④⑤は常識の範疇でありますが、①②に關しましては、他の掲示板よりも嚴格であります。他の參加者・閲覽者各位の靈眼も之れ有り、宜しく御願ひ申し上げます。

   眞金吹く吉備中國の玄月書院にて、備中處士、敬白
 

 

(無題)

 投稿者:れきしの観察者  投稿日:2014年 1月25日(土)11時54分41秒
返信・引用
  高天原の神の國では、男の神々は、水田で米作りをして働かれ、女の神々は、機(はた)を織つてをられました。地上へ降つた天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、國中を廻つて普及させることが、天照大神の教へであります。これが日本の國の始めで、また建國の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。

高天原の水田の水は、垂直に地上のどこに落ちたか?
さすればその高天原の場所がわかる。
 

日本の歴史物語。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月17日(金)22時52分22秒
返信・引用 編集済
   先般、岡山縣愛國者協議會例會にて、岡田則夫翁により、或る國史物語が紹介されました。この御本は、正に少年少女への贈り物でありませう。一部、平假名を漢字に置換へ、紀元節を控へるに當つて、ほんの一寸だけ、ご紹介申し上げます。「子供向け」と申しても、小學生には、少し難しいでありませうが、義務教育のお子さんがいらつしやれば、是非とも購入して、讀んで上げて下さい。小生も入力しながら、何だか、樂しく嬉しくなつて來る、美しい文章です。そして表紙の裝畫は、我が岡山縣美作國の版畫師・第二代山田昭雲翁の令息尚公氏であります。



●保田與重郎翁『ふるさとなる大和──日本の歴史物語』(平成二十五年十月・展轉社刊)の「神武天皇」

 (神武天皇が)あちこちで永く滯在されるのは、その土地を拓いて、自分らの糧食を作り、また土地の人々に、農業の技術を教へられたのです。これには、深い謂れがありました。天皇のご先祖樣が、高天原から、この地上の國へ降りて來られる時、御祖母の天照大神から、お米の種子(たね)を戴かれ、「地上の國へ降りられたら、この種子を地上に植ゑ、高天原で神々がなさつてゐる手振りに習つて、米作りを生業としなさい。さうすると、地上の國も、高天原と同じ神の國になるのです」と教へられました。

 高天原の神の國では、男の神々は、水田で米作りをして働かれ、女の神々は、機(はた)を織つてをられました。地上へ降つた天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、國中を廻つて普及させることが、天照大神の教へであります。これが日本の國の始めで、また建國の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。

 米作りを生活の本とする時、わが子孫も、この國も、天地と共に永久に榮えるのです。これが、神の教へでした。この米作りを正しく行ふことを、「神習ふ」とか、「神の手振りに習ふ」と言ふのです。

 この神の教への實行は、その後の奈良時代から平安時代へとつゞいて、東北開發の目標でした。神武天皇のご東征と言ふのは、この高天原の水田で米を作られた技術を、各地の土地の人々に教へながら進まれたといふのが、この事實の内容であります。

 ‥‥

 この橿原宮で、ご即位の大典を擧げられるに當つて、前後に行はれた色々の準備は、『古語拾遺』といふ古典に詳しくしるされてゐます。奈良の都を京都へ遷された第五十代の桓武天皇の次の、平城天皇は、「『日本書紀』や『古事記』に、國の歴史はしるされてゐるが、なほ諸々の氏族の傳へて來た古事で、これらの本に出てゐない傳承は、文字にうつして後世に傳へねばならぬ」と、お考へになりました。これは、都遷りといつた大事件があつたりすると、世の中が騒々しくなり、色々の變革が起こつたりして、古い傳承は顧みられなくなつて、忘れられるといふ心配があるからです。この平城天皇の詔に從つて、齋部氏といふ古い氏族の長だつた齋部廣成が著したのが、この『古語拾遺』で、他の家の本はどうなつたか判りませんが、この本だけ、今日まで殘りました。その内容を見ると、『日本書紀』や『古事記』に殘つてゐないことが澤山書かれてあつて、まことに日本民族のために有り難いこの本が、よく殘つてくれたといふ感謝の氣持ちが起ります。

 この本の即位の時の記述によりますと、まづ大殿が建てられ、諸國を開拓して産業を興された樣子がしるされてゐます。これは大嘗祭(おほにへのまつり)を行ふための開發だつたのです。

 天皇陛下のご先祖が、高天原から地上に降りて來られる時、天照大神は、高天原の水田の稻の種子を與へられ、この種子を地上の國に育てゝ、高天原で神々のしてをられる通りの作り方をすれば、神の國が出現すると教へられた、これが、我が國の建國の大本だといふことは、前にもしるした通りです。この時、大神は、鏡を與へられて、「私を見たいと思つた時は、この鏡を見るがよい」と教へられました。

 天上から天降(あも)りして來られる天皇陛下のご先祖神は、お産まれになつたばかりの赤坊の神でした。それで、大きい椅子のやうなつくりの御座(みくら)に、柔らかいお蒲團を敷いて、それにお乘せし、兩手に劍と玉をお持たせして、天上から地上へ、湧き立つ雲の間を、まつしぐらに降りて來られたのです。この鏡と玉が、天皇陛下の皇位の璽(しるし)の傳世の寶物です。これが、所謂る三種の神器(じんぎ)です。

 古來から帝位の璽とされたものは、各國に澤山ありましたが、我が國で、鏡と劍と玉をそれにしてゐたことは、日本人の我々にとつては、格別と思ひませんが、外國人が他國の例と比べた時、この三種の神器を傳へた日本人の叡智に驚嘆すると言ひます。この三種の寶物は、單に珍貴な財物といふものでなく、その象徴する意味の深さに驚いたやうです。その三種には、深い思想と哲學がことよせられてゐるからであります。

 『日本書紀』には、神武天皇のご即位の時のお言葉がしるされてゐますが、その中に、「六合(くぬち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と爲さむ」とのお言葉があり、これは「世界を一つにした都を開き、天の下を一つの家としよう」といふ理想を著されたものと解釋する人が多くゐます。このことは、力で世界を統一するといふ思想とのけぢめが紛らはしいのですが、我が國の建國の理想には、力による支配の思想がないといふことは、高天原で神々がなされてゐたと同じやうに、この土地に米を作つて、この地上の國を、高天原と同じ神の國とするといふ、神の教へが先にあるからです。この神の教へが、我が國のすべての大本となつてゐるのです。

 この天上の神のお教へを事實として現すのが、大嘗祭です。大嘗祭は、ご即位の後に行はれるもので、大嘗會とも言ひ、古來から即位式についで、大嘗祭が行はれることによつて、皇位繼承が完了し、天皇の御位が確立するとされてゐました。天皇が踐祚されてから、大嘗祭が行はれるまでには、新しい御代となつてからの米の收穫との關係がありますので、その秋か、翌年か、時にはもつと延びることもあります。

 ‥‥この大嘗祭の祭場は、全國民が拜觀できるやうに公開されるのですが、これは神武天皇の橿原宮のご即位の時の先例をひきついだものです。この祭場や拜觀の模樣は、寫眞術のない江戸時代などには、町繪師が錦繪などに刷り上げ、遠い國々の人は、それで盛儀の樣を知つたのです。

 神武天皇の即位大嘗祭の樣子は、『日本書紀』には、「今ま諸々の虜(あだ)、已に平(む)け、海内(あめのした)に事無し。天神を郊祀(まつ)りて、大孝(おやにしたがふこと)を申(の)ぶべし」とおつしやつて、鳥見の山中に、靈畤(まつりのには)を立て、皇祖の天神を祭られた、と書いてあります。このお言葉の中の「大孝を申ぶ」とあるのは、大昔から「みおやのみ教へに從ひしことをのぶ」と讀んで來ました。みおやの教へといふのは、高天原から降りる時に、天照大神から米の種子を授り、これを地上で作れとのお教へであります。このお教へをお守りして、このやうに美しい米が、澤山取れましたといふことを、その産物を、神前にお供へして奉告することが、「大孝を申ぶ」といふことであります。

 『日本書紀』は、この一句で、昔の日本人なら、誰でも分つたことをしるしたのですが、『古語拾遺』は、天皇の大和平定後の諸國開發と産業振興の事情を、實に詳細にしるしてゐます。平安朝の始め頃になると、この史實を書き殘す必要があつたのです。それは、多くの人が忘れたからです。『古語拾遺』を書いた齋部廣成は、齋部氏といふ、神代からつゞいた氏族の最長老で、この頃すでに八十歳を超えた翁でした。今人は昔を忘れ、若者は昔の話をする老人を輕んじると憤つてゐます。そして平城天皇のお言葉で、古語を語れることに、生命のあつた生甲斐を味はつてゐるのです。廣成は、立派な學者です。江戸の晩期に出た平田篤胤は、本居宣長の學問をうけついだ大學者ですが、『古語拾遺』を讀んで、廣成の心持ちを察し、涙を流して感動し、感謝したと、繰り返し語つてゐます。



 愚案、昨今は、やゝもすれば農業を損得勘定にて把握してをるやうであるが、農業を忘れた日本は、違詔の大罪を負はねばならぬ。吾々誰人も、父祖を溯れば、必ず稻作に從事した經驗を持つ。周圍の農を生業とする人々を、しかと見よ。苦しい事も多々あらうが、實に樂しさうである。儲かるか損するかと考ふるは、父祖を忘却せる都會人だけであらう。農は國の大本であり、生命であります。歴代の天皇樣の詔敕には、累々と之を拜することが出來ます。父祖の祖業を繼承するのみならず、神國の人は、世界に農を廣め、一人も飢うる者が無きやう、また之に加へて環境の保全に努むることこそ、世界皇化の第一歩としなければならない。
 
 

動き始めてゐる──『凛として愛』擴散プロジエクト。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月14日(火)23時04分1秒
返信・引用 編集済
 

 下記、ご協力、宜しく御願ひ申し上げます。

 小生も、普段お世話になつてゐる氣功の國手に、花時計『凛として愛』DVDを差上げて、聽いて戴きました所、非常に感激して、他の患者さんへも貸出して戴いたやうであります。實に嬉ばしいことです。長船の有名な刀匠も、お弟子と共に、何度も見た由、等々。

 閲覽各位にも、此の機會を利用して、『凛として愛』の擴散に協力たまはれば、道福、此の上なきものと存じます。

     九段塾頭=泉水隆一監督より、御教へを受けし者──備中處士──懇祷、々々。



**********

情報提供のお願い!──『凛として愛』拡散プロジェクト

 泉水隆一監督作品──映画『凛として愛』を、もっともっと広めたいと思います。

 いま百田尚樹さんの「永遠の0」が映画公開され、ヒットしています。戦争の事、日本の事を考えてもらえる、よいチャンスだと思います。どうして日本は、戦わなければいけなかったのか。

 『凛として愛』は、明治開国から大東亜戦争までの事を、その当時の資料を元に制作されたものです。ぜひとも多くの方に見て頂き、日本について見つめ直してほしいと思います。

 そこで、みなさんに情報提供して頂きたい事があります。

① 学校の先生または塾の先生などで、もしかして保守?と思われる先生がいらっしゃいましたら、ご紹介して頂けないでしょうか(左寄りでなければ、保守でなくともいいです)。花時計から、『凛として愛』のDVDとお手紙をいれて、お送りしたいと思います。もちろん情報提供者の情報は、一切だしません。あまりに左に偏っている先生は、送ってもムダだと思いますので、可能性のある先生たちに、『凛として愛』を見てもらいたいと思っています。子供たちにも見せてくれるといいのですが、まずは先生に広めたいと思います。都道府県、学校名、先生の名前を教えて頂ければ、花時計から、『凛として愛』のDVD、紹介文とお手紙をいれてお送りします。

② みなさんの地域にあるケーブルテレビの住所、連絡先の情報を教えて頂けないでしょうか。『凛として愛』の放送をしてもらえないか、交渉してみようと思います。

member@hanadokei2010.com

まで、よろしくお願いします。



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藤真知子:
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【泉水隆一監督・脚本・ナレーター作品『凛として愛』臺本】
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天孫降臨、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月 1日(水)04時50分33秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 是に天照大御神、高皇産靈神の命以ちて、太子・正哉吾勝勝速日天忍穗耳命に詔りたまはく、

今、葦原中國、平け訖へぬ、と白す。故れ言依さし賜へりし隨に、降り坐して知ろし看せ

と詔りたまひき矣。爾に天忍穗耳命の白したまはく、

吾れは、降りなむ裝束(よそひ)せし間(ほど)に、子、生(あ)れ出(ま)しつ焉。名は天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命[天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊]。此の御子を降すべし

と白し給ひき矣。此の御子は、産巣日神の御女・萬幡豐秋津比賣命の子、玉依毘賣命に御合ひて、生ましめたまへる御子にます也。天照大御神・高皇産靈神、特に憐愛(めぐ)みて、崇養(かたてひた)し奉り給ひき矣。



 故れ是を以て白したまふ隨に、日子番能邇邇藝命に科詔せて、天都高御座に坐せ奉りて、

此の豐葦原水穗國は、汝し知らさむ國也

と言依さし賜ふ。故れ「命の隨に、天降ります可し焉」と詔りたまひて、天兒屋命・天太玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命、并せて五伴緒、天忍日命、及た諸部緒の神等を支(くま)り加へて、其のをぎし八咫鏡、及た天叢雲劒、二種の神寶を以て、永へに天日嗣の御璽しと爲さしめて、亦た其のをぎし八尺勾璁、及た平國の廣矛、常世思兼神・布刀玉神・天手力男神・萬幡豐秋津比賣神、護齋の鏡三面・子鈴一合を副へ賜ひ、又た天照大御神、

吾が天原に御(しろ)しめす、齋庭の穗をも、吾が兒に御(まか)せまつる

と敕りたまひて、依さし賜ひき矣。



 是に天照大御神、御手に鏡劒を捧げ持ち賜ひて、言壽ぎ詔りたまはしく、

大八島豐葦原水穗國は、吾が子孫(みこのつぎゝゞ)、王(きみ)とます可き地也。

皇ら我がうつの御子・皇美麻命、就(い)で坐して、此れの天津高御座に御坐(ましま)して、安國と平らけく、天日嗣の瑞穗を、天御膳の長御膳の遠御膳と、萬千秋の長五百秋に安らけく、齋庭に知ろし食せ。

此れの鏡は、專ら吾が御魂と爲て、吾が御前を拜くが如と、同殿・同床に坐さしめて、齋き奉りたまへ。

寶祚の隆え坐さむ事、天壤の無窮(とこしへ)なるべし矣

と詔りたまひて、復た天兒屋命[常世思兼神]・天太玉命に敕りたまはく、

惟爾(やよいまし)二柱神も、同じ殿内に侍ひて、御前の事を取り持ちて、爲政(まを)したまへ焉


と詔りたまひき矣。故れ此の二柱神は、さくゝしろいすゞの宮に并せ祭る。次に天手力男神・萬幡豐秋津比賣神は、佐那縣に坐す。此は、御戸開之神也。次に天懸大神・國懸大神は、木國の名草宮に拜き祭る。次に登由宇氣神。此は、外宮の度相に坐す。次に若御魂神。此は卷向穴師社に坐す神也。



 爾に神魯岐・神魯美の命以ちて、高天原に事始めて、天都詞之太詞事、言依さし賜ひて、天神社・國神社、稱辭竟へ奉らしめて、高皇産靈神、敕りたまはく、

吾れは、天津磐境を造りて、天津神籬を起し樹て、皇美麻命の爲めに齋ひ奉らむ。

汝し天兒屋命・太玉命、天津神籬を持ちて、葦原中國に降りて、亦た皇美麻命の爲めに齋ひ奉れ


と詔りたまひて、復(こと)に太玉命に、

諸部の神を率て、其の職(つかさ)に供へ奉ること、天上之儀(あめのみわざ)の如くせよ

と敕りたまひて、諸々の神をも與に陪へ從はしめたまひき矣。



 爾に日子番能邇邇藝命、天降り坐さむとする時に、先驅者(さきばらひのかみ)、還りて白さく、「天之八衢に、鼻の長さ七咫、背の長さ七尺餘りの神居て、上は天原を光らし、下は葦原中國を光らし、眼は八咫鏡なせり」と白しき矣。即ち從神を遣して問はしめたまふ時に、得目勝ち問はざりき矣。故れ天照大御神、高皇産靈神の命以ちて、天宇受賣神に詔りたまはく、「汝しは、手弱女に有れども、いむかふ神と面勝つ神也。故れ專ら汝し往きて、『吾が御子の天降りまさむとする道を、誰ぞ耶、如此くて居る』と、問ひてよ」と詔りたまひき矣。故れ天宇受賣命、往き向ひて問はす時に、八衢之神、答へ白さく、「吾は國神、名は猨田毘古神也。出で居る由は、天神の御子、天降り坐すと聞きつる故に、參ゐ向ひ待ちて侍らふ焉」と白し給ひき矣。天宇受賣命、復た問ひけらく、「汝ぢ先だち行かむか乎、抑(ま)た吾れ先だち行かむか乎」。答へ白さく、「吾れ先だちて、啓行(みさきはら)はむ焉」。天宇受賣命、復た問ひけらく、「汝ぢは何處に到り、皇美麻命は何處に到りまさむ耶」。答へ白さく、「天神の御子は、筑紫日向高千穗の槵觸之峯(くしふるのたけ)に到りまさむ。吾は、伊勢の狹長田・いすゞの川上に到らむ。我れを發顯はせる者は、汝し也。故れ汝し、吾れを送りたまへ」と白し給ひき矣。爾に天宇受賣命、還り詣りて、其の状を報しき矣。



 故れ爾に天津日子番能邇邇藝命に詔して、天磐座を離(はな)ち、眞床覆衾に褁みまつりて、天磐戸を引開けて、天降し奉りき矣。故れ此の神を稱へて、天國饒石彦火瓊瓊杵尊と曰す。故れ其の猨田毘古神、御先に立たして、天忍日命、背に天磐靭を取り負ひ、臂に稜威高鞆を著け、手に天梔弓を取り持ち、天波波矢を手挾み、八目鳴鏑を副へ持ち、頭槌之劒を取り佩き、大久米部を帥て、御前に立ちて仕へ奉り、天牟羅雲命、太玉串を取り、天忍雲根命、天津諄辭を宣りて祓ひ清めつゝ、天之浮橋[天之磐船]に、うきじまりそりたゝして、天之八重多那雲を排し分けて、稜威の道別き道別きて、果たして先に猨田毘古神の言ひしが如と、筑紫日向之高千穗のくじふる峯に、天降り坐しき矣。然して後ち大來目部を、天靭負部と爲たまふ。天靭負部といふ號、此の時より起(はじ)まりき也。故れ其の天押日命[天槵津大來目命]、此は産巣日神の御孫也。‥‥次に天村雲命は、天曾己多智命の玄孫也。‥‥次に天忍雲根命[天押雲命]は、天兒屋根命の子也。



 爾に天津彦火瓊瓊杵尊、高千穗の二上峯に天降り坐しゝ時に、天(そら)暗冥く、晝夜別たずて、人物(ひとゞも)道に失(まど)ひ、物の色別き難し。茲に土蛛有り。名を大鉗・小鉗と曰ふ。二人、皇美麻命に奏しけらく、「命の御手を以て、稻千穗を拔かして籾に爲て、四方に投げ散らしたまはゞ、虚(そら)、開晴(あかり)なむ」と白しき矣。その時、大鉗等が奏せる如く、千穗の稻を搓(ぬ)き、籾と爲して投げ散らしたまへば、即ち天(そら)、開晴(はれあか)り、日月、照光(てりわた)れり焉。因(か)れ高千穗の二上峯と曰ふ。既にして襲(そ)の高千穗の槵日二上峯に移り幸(いで)ましき矣。



 是に皇美麻命、襲の高千穗のそほりの山の峯の天浮橋より遊行(いで)まして、膂宍空國(そじしのむなくに)、頓丘(ひたを)より國覓ぎ行去(とほ)りて、吾田の笠狹之御碕に到り坐し、長屋之竹島に登り坐して、其の地を巡り覽まして詔りたまはく、「朝日の直刺す國、夕日の日照る國也。故れ此地は、甚と吉き地也」と詔りたまひて、國主・事勝國勝長狹神を召して問ひたまはく、「此地は、誰が國ぞも歟」。對へ曰さく、「此は、長狹が住める國也。然れども今ま乃ち天神の御子に奉上らむ。取捨(ともかく)も意の任(まにま)に遊ばせ」と白しき矣。故れ底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて坐しましき矣。故れ其の事勝國勝長狹神、亦の名は鹽椎神[鹽土老翁]、此は伊邪那岐大神の御子也。



 故れ爾に皇美麻命、御宇受賣命に詔りたまはく、「此の御前に立ちて仕へ奉りし猨田毘古大神は、專ら顯し白せりし。汝し、送り奉れ。亦た其の神の御名は、汝し負ひて、仕へ奉れ」と詔りたまひき矣。即ち天宇受賣命、猨田毘古神の乞はしの随に侍(そ)ひ送りき矣。是を以て猨女君等、其の猨田毘古の男神の名を負ひて、女を猨女君と呼ぶ事、是れ也。



 是に天宇受賣命、狹田毘古神を送りて、還り到りて、乃ち悉とに鰭廣物・鰭狹物を追ひ聚めて、「汝し等は、天神の御子に仕へ奉らむや耶」と問ひたまふ時に、諸々の魚等、皆な「仕へ奉らむ」と白す中に、海鼠(こ)白さず。故れ天宇受賣命、海鼠に謂りたまはく、「此の口や乎、答へせぬ口也」と云ひて、紐小刀以ちて、其の口を拆きゝ矣。故れ今に、海鼠の口拆けたり也。是を以て御世々々、嶋之速贄獻れる時に、猨女君等に給ふ也。‥‥



 爾に天兒屋根命、皇美麻命の御前に仕へ奉りて、天忍雲根命を、神魯岐・神魯美の命の御前に、受け給はり申しに、「天之二上に奉り上げて、皇美麻命の御膳水は、うつし國の水に、天津水を加へて立奉らむ、と白せ」と、事教へ給ひき矣。是に天忍雲根命、天之浮雲に乗りて、天之二上に昇り坐して、神魯岐・神魯美の命の御前に白せば、天玉串を事依さし奉りて、「此の玉串を刺し立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天都詔戸之太詔刀言を以て告れ。如此く告らば、麻知則・弱韮(まちば・わかひる)に、ゆつ五百篁生ひ出でて、其の下より天之八井出でむ。此を持ちて、天津水と聞こし食せ焉」と、事依さし奉り賜ひき矣。

[一(また)の傳へに云はく、皇大神、皇美麻命、天降り坐せる時に、天牟羅雲命、太玉串を取り、御前に立たして、天降り仕へ奉りき矣。是に諸神、白さく、「葦原中國は、潮(うしほ)也。何かにす可き焉」と白す時に、皇美麻命、天村雲命を召して詔りたまひつらく、「食す國の水は、熟(にこ)からず。荒き水に在りけり矣。故れ御祖命の御許に參ゐ上りて、此の由を言して來よ焉」と詔りたまひて、登らしめたまひき。即ち天牟羅雲命、參ゐ上りて、御祖命の御前に、皇美麻命の白せと宣たまふ事を、子細に申し上ぐる時に、神魯岐・神魯美の命、詔りたまはく、「雜々に仕へ奉らむ政は、行ひ下し奉りて在れども、水取(もひとり)の政は、遺して在りけり矣。何れの神を下し奉らむと思ふ間に、勇ましく參ゐ上り來にけり焉」と詔りたまひて、天忍石之長井之水を八盛取りて、玉の瓫(もたひ)に入れて、誨へたまはく、「此の水を持ち下りて、皇大神の御饌に八盛、皇美麻命の御饌に八盛獻りて、遺る水は、天忍石水と、術云(まじの)りて、食す國の水のうへに灌ぎ和はして、朝夕の御饌に獻り初め、御伴に仕へ奉りて、天降れる神等・八十伴の諸人にも、此の水を飲ましめよ焉」と詔りたまひて、神財の玉もひ共に授け給ひて、下し奉り賜ひき矣。天村雲命、受け賜はりて、持ち下りて獻る時に、皇美麻命、詔りたまはく、「何れの道よりぞ耶、參ゐ上りつる乎」と、問ひたまふ時に白さく、「大橋は、皇大神、皇美麻命の天降り坐せるを畏みて、後(しりへ)の小橋より參ゐ上りき也」と申す時に、皇美麻命、詔りたまはく、「後にも畏み仕へ奉る事、勇(いさを)し也」と詔りたまひて、天村雲命・天二登命・後小橋命と云ふ、三つ名を負ふせ賜ひき矣。即ち日向高千穗宮の御井定め、崇(いは)ひ居(す)ゑて、朝夕の御饌に仕へ奉り、而して後に、丹波の氷沼に移し居ゑて、仕へ奉りき矣。]



【神床の御前に、『古事記』を口誦し奉らむ。】
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天孫降臨、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 1月 1日(水)04時35分36秒
返信・引用
  平成 二十六年
中興紀元 二千六百七十四年
天孫降臨以來 五千十四年
天皇正月、歳、甲午に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。



■青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽大人の哥

春にあけて 先づ看る書(ふみ)も 天地の 始めの時と 讀出づる哉

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



 南雄樣から、昨年は、『古史成文』の復刻を賜はりました。平成二十六年の祝頭に當り、此の神史を拜讀音誦させて戴きます。今ま茲に拜記するは、架藏の平田大壑先生『古史成文』卷之三(全三卷・無刊記。本文後半に、些か異同あり)に據りますが、音讀の都合上、一部、訓に工夫を加へ、亦た本文・割註、少しく省かさせて戴きました。寛恕を乞ひ奉ります。



天孫降臨の大御卷 ――平田大壑先生『古史成文』卷之三に據る――



 天照大御神の命以ちて、

豐葦原之千秋長五百秋之水穗國は、我が御子・正勝吾勝勝速日天忍穗耳命の知らす可き國也

と言依さし賜ひて、天降し給ひき矣。是に天忍穗耳命、天浮橋にたゝして、臨睨(ほぜ)りて詔りたまはく、「彼の地(くに)は、未だ平(しづ)まらず矣、いたくさやぎて在りけり矣。いなかぶしゝこめき國かも歟」と詔りたまひて、更に還り上らして、天照大御神に請(まを)し給ひき矣。爾に高皇産靈神・天照大御神の命以ちて、天安河の河原に八百萬神を神集へ集へて、天思兼神に思はしめて、神議り議りたまはく、「此の葦原中國は、我が御子の知らす可き國と、言依さし賜へる國也。故れ彼の國に、道速振る荒振る國神・螢なす光く神・邪しき神等、多(さは)に在りて、磐根木株・草の片葉も、能く言語ふがごと、夜は火瓮(ほべ)の若(もころ)に之(そ)を喧響(おとな)ひ、晝は狹蠅なして、之を沸き騰ぐ。先づ誰(いづ)れの神を遣はしてか、其の邪しき鬼を言趣けまし也」と詔りたまひき矣。爾に思兼神、及た八百萬神等、皆な議り白(まを)さく、「天穗日命は、傑れたる神也。是れ遣はしてむ也」と白しき矣。故れ天穗日命を遣はしつれば、乃(やが)て大國主神に媚び附きて、三年に至(な)るまで、復奏(かへりごとまを)さゞりき矣。故れ復た其の子・武三熊之大人[天鳥船命]を遣はす。此の神も、其の父の事に順ひて、返言申さゞりき矣。



 是に高皇産靈神、更に諸々神等を會へて問ひたまはく、「葦原中國に遣はせる天穗日命、久しく復奏さず。亦た何れの神を使してば吉(え)けむ」。爾に諸神、僉(み)な白さく、「天津國玉神の子・天稚日子は、壯士(たけきかみ)也。遣はしてむ」と白しき矣。故れ是に、天之加久弓・天之加久矢を、天稚日子に賜ひて遣はしき。爾に天稚日子も、忠誠(まめ)ならず。其の國に降り到きて、即ち大國主神の女・下照比賣[稚國玉神]に娶ひて、留まり住みて、「吾れ、此の國を馭めむと欲ふ」と云ひて、八年に至るまで、復奏さゞりき矣。



 是の時、高皇産靈神、其の久しく來報(かへりごとまを)さゞることを怪みて、亦た諸々の神等に問ひたまはく、「天稚日子、久しく復奏さず。又た曷(いづ)れの神を遣はして、其の淹(ひさ)しく留まる由(ゆゑ)を問はしめむ」と問ひ給ひき矣。是に諸々の神等、及た思兼神、答白さく、「雉名鳴女を遣はしてむ焉」と白す時に、詔りたまはく、「汝し、行きて天稚日子に問はむ状は、『汝しを葦原中國に使せる由は、其の國の荒振る神等を言趣け和はせ、と也。何ぞ八年に至るまで、復奏さゞる焉』と問ひてよ」と詔りたまひて、乃ち名鳴き雄雉(をきゞし)を遣はしつれば、此の雉、飛び降りて、粟田・豆田を見て、留まりて返らず。‥‥



 故れ其の雉、天より飛び降りて、天稚日子が門なる湯津杜(かつら)の木の杪(すゑ)に居て、委曲(まつぶさ)に天神の詔命の如と告りき矣。爾に天佐具賣、此の鳥の言(いふこと)を聞きて、天稚日子に語言ひけらく、「此の鳥は、鳴く音(こゑ)、甚と惡しかり也。故れ射殺したまひね」と云ひ進むれば、即ち天稚日子、天神の賜へる天之波士弓・天之波波矢を持ちて、其の雉を射殺しつ焉。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆さまに射上げらえて、高皇産靈神の座前(みまへ)に到りき矣。昔(さき)に高皇産靈神、其の矢を取らして見行(みそな)はすれば、其の羽に、血箸きたりき也。爾に高皇産靈神、「此の矢は、昔、天稚日子に賜へりし矢ぞかし也。今、何にして來つらむ歟。矢の羽に血染(まみ)れたるは、蓋し國神と相戰ひて、然(な)るかも歟」と詔りたまひて、諸々の神等に示(み)せて、咒(とこ)ひて曰りたまはく、「或(も)し天稚日子、命を誤へず、惡ぶる神を射たりし矢の至(き)つるならば、天稚日子に中らざれ。邪なき心有らば、天稚日子、此の矢にまがれ也」と云りたまひて、其の矢を取らして、其の矢の穴より衝き返したまひしかば、天稚日子が胡床(あぐら)に寢たる高胸坂に中りて、立ち處に身死(みまか)りき矣。此は、天稚日子、新嘗して休み臥せる時也。‥‥



 是に高皇産靈神、更に諸々の神等を會(つど)へて、葦原中國に遣はすべき神、選びたまふ時に、天思兼神、及た諸々の神等、僉な白さく、「‥‥經津主神、是れ佳けむ。亦た天安河の河上の天石窟に坐す、名は伊都之尾羽張神、是れ遣はす可し。若し亦た此の神に非ずは、‥‥武甕槌之雄神、是れ遣はすべし。且(ま)づ其の天尾羽張神は、天安河の水を逆さまに塞き上げて、道を塞き居れば、他し神は得行かじ。故れ別に天迦久神を遣はして問ふ可し」と白しき矣。故れ爾に天迦久神を使はして、天尾羽張神に問ふ時に、天尾羽張神、答白さく、「恐し。仕へ奉らむ。然れども此の道には、吾が子・武甕槌神を遣はす可し」と白して、乃ち貢進りき矣。‥‥



 是に其の天穗日命は、天之八重雲を押別けて、天翔り國翔りて、天の下を見廻りて、返事白したまはく、「豐葦原之水穗國は、晝は狹蠅なす水沸き、夜は火瓮なす光く神在り。石根・木根立ち・青水沫も言問ひて、荒振る國也。然れども鎭め平けて、皇美麻命に、安國と平けく、知ろし坐さしめむ」と白して、己れ命の子・天夷鳥命[天鳥船神]を、經津主神・健御雷之男神に副へて、天降し遣はして、荒振る神等を撥ひ平け、國作之大神(くにつくらしゝおほかみ)をも媚び鎭めて、大八島國の現事・顯事(うつしごと・あらはごと)、事避らしめき矣。



 是に經津主神・健御雷之男神、出雲國の伊多佐之小汀に降り到りて、十掬劒を拔きて、浪の穗に逆さまに刺し立てゝ、其の劒の前(さき)に趺坐(あぐみゐ)て、其の大國主神に問ひたまはく、「高皇産靈神の命以ちて、問ひに使せり。『汝(な)がうしはける葦原中國は、我が御子の知らさむ國也』と、言依さし賜へり。故れ先づ吾れ二神を遣はして、駈ひ平けしむ。汝が意、何如に。避り奉らむや、不や乎」と問ひたまふ時に、大國主神、對へ白したまはく、「疑はし。汝し二神は、吾が處に來たるに非じ。故れ須許(うべな)ひまつらじ。唯だ吾が住所をば、天神の御子の天津日繼知ろしめさむ、とだる天之御巣なして、底津石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて治め賜はゞ、吾は、百足らず八十坰手に隱りて侍ひなむ焉」と白し給ひき矣。



 是に經津主神、還り昇りて報告したまふ時に、高皇産靈神、乃ち二神を還し遣はして、大國主神に敕りたまはく、

今、汝しが言ふことを聞くに、深(まこと)に其の理(いはれ)有り。故れ更に條條(おぢゝゞ)にして敕りたまふ。

夫の汝しが治らせる現事(うつしごと)は、吾が皇美麻命に治らしめ、汝しは、神事(かみごと)を治らせ。

又た汝しの住むべき十足る天日隅宮は、今ま供造らせてむ。其の宮造りの制(のり)は、乃ち縱横の御量り、千尋栲繩以て、百結々・八十結々下げて、柱は高く太く、板は廣く厚くし、田供佃(たつく)らせむ。

又た汝しが海に往來(かよ)ひ遊ぶ爲めの具へに、高橋、及た天鳥船をも供造らせむ。天安河にも打橋を造り、又た百八十縫ひの白楯を供へ造り、

又た汝しの祭祀をも主(な)さむ者は、天穗日命也


と詔らしめたまふ時に、大國主神、白したまはく、「天神の敕教(みさとし)、如此くしも慇懃なるを、敢(いか)で命を不從(そむ)きまつらむ乎。吾が兒・八重言代主神に、鳥遊び・漁(すなど)り爲て、三津之碕に在り。今ま之れに問ひて、報命さむ」と白して、熊野の諸手船[天鳩船]に、使者・稻背脛命[天鳥船神]を載せ遣はして、天神の敕を、言代主神に致(の)りて、報命之辭(かへりごとまをさむことば)を問はしめたまひき矣。



 是に積羽八重言代主神、其の父の大神に言さしめたまはく、「恐し。天神の命の如(まにま)に、此の國は、天神の御子に立奉りたまへ。吾れも違ひ奉らじ」と云ひて、即ち其の船の枻(へ)を蹈み傾けて、天逆手を、八重青柴垣に打ち成して隱り坐しき矣。此は宇奈提の神奈備、及た葛城の鴨社に坐す神也。‥‥



 是に稻背脛命、復命す時に、大國主神、其の子の辭(い)ひしが如と、二柱の神に白したまひき矣。故れ爾に健御雷之男神、「亦た白す可き子、有りや乎」と問ひたまへば、大國主神、白したまはく、「亦た我が子・健御名方神[御穗須々美命]あり。此を除きては無し也」と白したまふ間(をり)しも、其の健御名方神、千引石を手末(たなすゑ)に擎(さゝ)げて、來て言ひけらく、「誰ぞ、我が國に來て、忍び々ゞ如此く物言ふ。然らば力競べ爲む。故れ我れ、先づ其の御手を取らむ」と云ふ。故れ其の御手を取らしむれば、即ち立氷(たちび)に取り成し、亦た劒刄に取り成しつ。故れ懼れて退き居り。爾に其の健御名方神の手を取らむと、乞ひ返して取れば、若葦を取るが如と、搤批(つかみひし)ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去(い)にき矣。故れ追ひ往きて、信濃國の諏方海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、健御名方神、白しつらく、「恐し。我を、莫(な)殺したまひそ。此地を除きては、他し處に行かじ。亦た我が父・大國主神の命に違はじ、兄(いろね)・八重事代主神の言に違はじ。此の葦原中國は、天神の御子の命の隨に獻らむ焉」と白し給ひき矣。此は、諏方祝部がいつく神也。此の神の后神を、八坂刀賣命と謂す。



 是に健御雷之男神、更に且た還り來て、其の大國主神に問ひたまはく、「汝が子等、事代主神・健御名方神二神は、『天神の御子の命の隨に、違はじ』と白し訖へぬ。故れ汝が心、奈何にぞ」と問ひ給ひき矣。爾に答へ白したまはく、「吾が子等、二人の白せる隨に、吾れも違はじ。此の葦原中國は、命の隨に、既に獻らむ焉。如(も)し吾れ防禦(ほせ)がましかば、國内の諸神、必ず同(とも)に禦ぎなむを、今ま我れ避り奉らば、誰か順はぬ者あらむ。亦た吾が子等、百八十神は、八重事代主神、神の御尾前と爲りて仕へ奉らば、違ふ神は有らじ」と白し給ひき矣。



 是に大國主神、「皇美麻命の鎭まり坐さむ大倭國」と白して、己れ命の和御魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉命と名を稱へて、大三輪の神奈備に坐せ。己れ命の子・味鉏高日子根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ。事代主命の御魂を、宇奈提の神奈備に坐せ。賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、天神の御子の近き守神と貢り置き給ひき矣。



 故れ大國主神、越の八國を平けて、還り坐しゝ時に、長江の山に來坐して詔りたまはく、「我が造り坐して令(し)らしゝ國は、『皇美麻命、平世(しづみよ)に所知らせ』と、依さし奉れり。但だ八雲立つ出雲國は、我が靜まり坐す國、青垣山廻らして、玉置きて守る也」と詔りたまひき矣。故れ其處を、もりと云ふ。其の越の八國を平けむとして往でましゝ時に、林の地の樹林茂りき矣。爾(そ)の時、「吾が御心のはやし」と詔りたまひき矣。故れ其處を、はやしと云ふ也。



 是に産巣日神の天御量り以ちて、大國主神の請(まを)したまひし如(まにま)に、出雲國の多藝志之小濱に、天之御舍を造らしめて、御子・天御烏命を楯部として、天降し給ひき矣。爾の時、退り下りて、大神の宮の御裝ひの楯造りき。仍(か)れ今に楯桙を造りて、皇神等に立奉る。爾(すなは)ち楯縫の地、是れ也。



 是に大國主神、其の平國けたまひし時、杖きたまへる廣矛を、二柱神に授けて白したまはく、「吾れ此の矛を以て、卒ひに治功(いさを)を有(な)せり。皇美麻命、此の矛を用て國を治めば、必ず平安(まさけく)ましなむ。吾が治れる顯明事は、皇美麻命治すべし。吾は退りて幽冥事を治らむ」と白して、乃ち岐神を二柱神に薦めて、「此の神、吾れに代りて從(つか)へ奉るべし」と言訖へて、即ち躬から瑞之八坂瓊を披(お)きて、遂に八百丹杵築宮に、長へに隱り鎭まり坐しき矣。此の宮作らしゝ時に、諸々の神等、宮處に參ゐ集ひて、杵築きたまひし故に、杵築と云ふ。亦た百八十神等、集ひ坐し、御厨を立て給ひて、酒を釀しめ給ひて、百八十日喜燕(あそ)びて、解散(あら)け坐しゝ地を、佐香と云ふ也。



 爾に大國主神、鎭まり坐しゝ時に、神魯岐・神魯美命、天穗日命に詔りごちたまはく、

汝し天穗日命は、天皇命の手長の大御世を、堅石・常石にいはひ奉りて、いかしの御世に、幸はへ奉れ

と仰せ賜ひき矣。此は、出雲國造が、統々(つぎゝゞ)杵築宮に仕へ奉りて、神の禮(ゐや)じり・臣の禮じと、天皇命に御祷の神寶を獻りて、神賀ぎの吉詞を奏す縁也。



 是に水戸神の孫・櫛八玉神を膳夫と爲て、天の御饗獻る時に、祷ぎ白して、櫛八玉神、鵜に化(な)りて、海の底に入りて、底の波邇を咋ひ出でて、天の八十平瓮を作りて、海布(め)の柄を鎌(か)りて燧臼(ひきりうす)に作り、海蓴(こも)の柄を以て燧杵(ひきりぎね)を作りて、火を鑚り出でて白しけらく、「是の我が燧れる火は、高天原には、神皇産靈御祖命の、とだる天之新巣の凝烟(すゝ)の、八擧(やつか)埀るまで燒き擧げ、地の下は、底津石根に燒き凝らして、栲繩之千尋繩打ち延(は)へ、釣り爲る海人が、口大之尾翼鱸(くちぶとのをはたすゞき)、さわゝゝに控き依せ騰げて、拆竹(さきたけ)のとをゝゝゝゝゝゝに、天之眞魚咋獻らむ」と白しき矣。



 是に經津主神・健御雷之男神、岐神を郷導きと爲て、周流りつゝ削平けて、逆命はぬ者は斬り戮(はふ)り、歸順ふ者は神和はし和はし、荒振る神等をば、神問はし問はし、神攘ひ攘ひて、語問ひし磐根樹立ち、艸の片葉をも語止ましめて、中に服はざりし、星神・天香香背男[天津甕星]は、倭文神・健葉槌命を遣はせば、乃ち服ひき矣。‥‥



 故れ其の普都大神、葦原中津國を巡り行でまし、山河の荒ぶる類(ものども)を和はし平(しづ)め畢へて、天上(あめ)に歸らむと心存(おも)ほして、即ち身に隨(そ)へる嚴の杖・甲・戈・楯・劒、及た執とらせる玉、悉く常陸信太郷に留め置きて、即ち白雲に乘らして、二柱神、共に天上に還り參ゐ上りて、「葦原中津國は、皆な已に言向け竟へぬ」と奏したまひき矣。



 故れ是の時、歸順へりし首渠者、大物主神・大國御魂神、及た言代主神、乃ち八百萬神を、天高市に合へて、其の諸神を帥て、共に天に昇りて、其の誠欸の至(まつろひのまこと)を陳す時に、高皇産靈神、大物主神に敕りたまはく、

汝し、若し國神を妻(め)とせば、吾れ、猶ほ汝し、疏ぶる心有りと謂(おも)はむ。故れ今、吾が女・三穗津比賣を、汝しに配(あは)せむ、妻と爲よ。

八百萬神を領(ゐ)て、永へに皇美麻命の爲めに護り奉れ


と詔りたまひて、乃ち還り降らしめ給ひき矣。



 故れ即ち手置帆負神を作笠者(かさぬひ)と定め、彦狹知神を楯縫者(たゝぬひ)と爲(さだ)め、天目一箇神を金匠者(かなたくみ)と爲め、天日鷲神を由布作者(ゆふはき)と爲め、櫛明玉神を玉作者(たますり)と爲め、乃ち天太玉命の弱肩に、太手繦被(とりか)けて、御手に代はりて、大物主神を祭らしむること、是の時より始起りき矣。且た天兒屋命は、神事の宗源を主(し)る者也。故れ太兆の卜事(うらわざ)を以て、仕へ奉らしめき矣。是の時の齋之大人を、齋主神と號す。此の神、今ま東國の檝取の地に在す。亦た健御雷之男神は、香島の天の大神と稱す。天にしては、香島宮と號ひしを、此の地にしては、豐香島宮と名づけき矣。此は、鹿島連がいつき奉る神也。



 故れ是の時、大國御魂神、白したまはく、「天照大御神は、天原を悉(み)な治めたまはむ。皇美麻命は、葦原中國の八十魂神を、專ら治めたまはむ。我は、大地官(おほとこのつかさ)を親から治めむ焉」と言訖へたまひき矣。大地主神とまをす號は、此の時より起(まを)しき。是は、大和社に坐す神也。‥‥
 
 

敵國降伏、時は大祓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年12月31日(火)14時32分0秒
返信・引用
   大晦日、各位には、年始の用意にお忙しいと存じ上げます。小生も、疲勞困憊、ふらゝゝの爲體‥‥。

 靖國神社を巡つては、政治的に大變なる情況を釀し出してをりますが、これも亦た大祓ひ、東西内外の敵の正體が露現して來てをります。膿は出るだけ出るにこしたことはありませぬ。然れども皇國は、神敕宮城、固より明明赫赫に大坐しませば、至誠の通ずる所、靖國大神が神劍、必ずや御發動あるものと、恐懼懇祈するのみであります。

 本年も、學恩多謝、各位には、吉き御歳をお迎へ下さい。

     吉備中國、玄月書屋に於て、備中處士、敬白
 
 

高原正作靖國神社權宮司『靖國神社の歴史』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年12月27日(金)00時29分58秒
返信・引用 編集済
  ■靖國神社叢書第一篇・高原正作靖國神社初代權宮司『靖國神社の歴史──附招魂社沿革大要』(昭和十九年四月・十月改訂・靖國神社社務所刊)



○序

 靖國神社の御祭神は、我が國運の進展と共に、御柱數の益々加はらせ給ふことは、國民の齊しく感慨に堪へぬ所である。

 明治二年六月に、九段坂上に、東京招魂社が創建せられ、明治十二年には、靖國神社と改稱し、別格官幣社に列せられ給うて、こゝに七十六年の歳月を閲した。

 此の間、忠靈合祀の大祭を擧げさせられたこと六十四囘、御祭神は三十一萬三千八百十一柱の多きに及ばせられ、御神威は、今や大東亞の全域にも光被し、國民の崇敬はもとより、東亞民族の、あげて崇仰し奉る所となつたのである。

 この赫奕たる御神威を、愈々仰ぎ奉るの一助として、こゝに靖國叢書の編纂を思ひたち、その第一篇として、御創祀當時の御模樣をはじめ、御社頭沿革の大要を略述して上梓せしむる事とした。

 大御稜威の輝き給ふもと、大東亞の聖戰は、日にその逞しい勝利の歩調を進め、亞細亞十億の民衆は、日一日と、その本然の姿に蘇りつゝあるの時、吾等は悠久の大義に生き給ふ、靖國神社御祭神の御威烈を、愈々欽仰し奉り、神習ひつゝ、皇國無窮の彌榮に、奉公の至誠をつくしまつらんことを期する次第である。

  創立七十五周年を迎へて   靖國神社宮司・鈴木孝雄



○明治三十七年の御製『折にふれて』

戰の にはにたふれし ますらをの 魂はいくさを なほ守るらむ

 此の御製を拜誦するにつけても、靖國神社の神靈は、平時には、幸魂・奇魂として國運の隆昌を守り、一朝有事の際には、和魂は天翔つて天朝を守護し奉り、荒魂は國翔つて皇軍人の前に立ちて、その武運と戰勝とを守り給ふ事と確信せられる。實に靖國神社は、武人のためには、武運長久の守護神であり、お國のためには、國運發展の守護神であり、遺族の方には、また子孫繁榮の守り神であらせられるのである。



○「靖國」の典據

 靖國の社號に就いては、天皇が、皇祖皇宗より承け繼ぎ給へる、この大日本國をば、

安國と知食す事

は、汝命等が、海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍と、祖孫一貫の忠誠勇武をもつて、国の大事ある毎に、家を忘れ身を擲つて竭しくれたる、大き高き偉勳によるものぞと、

思食すが故に

こゝに社號を、靖國神社と改め(明治十二年六月二十五日の御祭文)、別格官幣社の待遇を以て、彌厚く永久に齋ひ奉らせ給ふといふ、有り難き叡慮に出でさせ給ひしものであつて、「安國」と「靖國」と、その文字は異つても、「やすくに」といふ固有の日本語に變りはない。「日本者浦安國」、「四方國を安國と平けく」、「大倭日高見國を安國と定め奉り」、「瑞穗の國を安國と平けく」等々、古來、『古事記』・『日本書紀』乃至は『延喜式祝詞』等の我が國神典の中に、はやくから用ひられてゐる言葉である。たまゝゝ支那の『春秋左氏傳』に、「靖國」といふ好文字が一二個所も見えて居るので、文字の出典としては、これをとられたのであるが、その精神に於ては、全く固有のやまと言葉の意をとらせられたものである事を思はねばならない。



 愚案、本二十六日、安倍晋三首相は、「鎮霊社」【註】に參拜の由。此の「非神道的一施設」については、塾頭の詳説にあり、此の厄介なるものへの危惧は、塾頭の豫言の如し。「鎮霊社」を、平成に在つて、再び顯現したる者の罪過を思ひ、悲しみに堪へない。祓ひ給へ、清め給へと、たゞ祈るなり。

 嗚呼、「鎮霊社」なるものは、遂に支那・朝鮮・米國への「言ひ訣」に使はれたのである。松平永芳・大野俊康兩宮司の無念、塾頭の憤怒、如何ばかりであらうか‥‥。靖國神社正統護持の悲願を掲ぐる者は、靖國神社の事歴を闡明にし、「松平宮司の願ひ」を呼覺まして、戰後保守の、靖國神社に於ける跳梁を、決して許してはならぬ矣。

【註】昭和四十年七月、本殿に向つて左奧の「元宮」脇に、「鎮霊社」を建立し、「嘉永六年以降、幾多の戰爭・事變に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命斷ちにし命等にして、靖國神社に祀られざる諸命の御靈」一座と、「西暦一八五三年以降、幾多の戰爭・事變に關係して、死歿した諸外國人の御靈」一座とを併せ祀つてゐる。共に無名不特定の集合靈であつて、本殿なる天皇祭祀の「靖國大神」(鈴木孝雄大將宮司のよく奉られた辭)とは、全く異なる。「鎮霊社」の存在は、理の趨く所、非命に斃れしヒツトラーやフセイン、或は政治テロリスト、或は怨念の凝固せる邪靈「も」、歡んで憑依する施設であることを、神道崇敬者は知つておかねばなるまい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t5/3
 
 

『古史成文』飜刻なる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年12月 4日(水)17時54分5秒
返信・引用 編集済
   平田篤胤先生『古史成文』全三卷── 一百六十四段、「南雄」樣による寫本が、本日、此の「九段塾/スレツド」に完成を見ました。洵に御同慶の至りであります。固より有志の活用を希望されての御事と拜察いたします。此の貴重なる文獻を基に、各位には、自らも原本を參互照看され、更に『古史傳』への研鑽を重ねられむことを、切に懇祷して已みませぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t43/l50

 南雄樣、足掛け二百三十六日、更めて本道に有り難うございました。備中處士、頓首、敬つて白す。
 
 

白山打聞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月30日(土)18時24分33秒
返信・引用
  ■平泉澄先生打聞(昭和五十三年十一月。於越前國平泉寺白山神社)

○二十六日
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol13_4interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol14_3interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol15_3interview-1.pdf

○二十七日
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol16_3interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol17_3interview-1.pdf
http://www.u-tokyo.ac.jp/history/pdf/journal/vol18_3interview-1.pdf



 上記を、讀まれたい。平泉先生の眞面目を知ることが出來よう。然し聞く者が惡かつた‥‥‥。伊藤隆とかいふ、志の分らぬ東大の後輩が、とやかく外野で云つてをるさうだが、何をか曰はんやだ。現代の學者の限界を表してゐる。平泉寒林先生の玉聲に、靜かに耳を傾けて戴きたい。現代祕史の寶庫、貴重なる證言であらう。
 
 

天に愧ぢず、瓦全三宅高幸翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月27日(水)21時31分14秒
返信・引用
   倉敷市「日本心の集ひ」に於いて、松下眞啓樣により、四囘に亙つて、其の伯父上の三宅將三翁『郷土の勤皇──三代の勤皇・米屋三宅氏・三宅高幸傳』(平成十五年六月『まほろば』第一九九號)の講讀あり。三宅將三翁は、大東塾・三宅萬造翁の令男なり。米屋三宅氏──第四代默翁・第五代西浦翁・第六代瓦全翁を通じて、郷土勤皇の足跡を辿り、御一新の辛苦を學ぶ。三宅瓦全翁は、梅田雲濱先生の門、世に喧傳せざるも、崎門に學ぶ小生に在つては、懷しき人なり。瓦全翁の人と爲りを表せる、雲濱先生の玉章と、翁の抄傳を拜記して、感激の一端を述べむと欲す。



●梅田雲濱先生『三宅高幸に贈る』(瓦全三宅定太郎高幸翁は、備中國淺口郡連島西之浦の人。青蓮院宮の近臣たり)

 三宅高幸、來り訪ふ。酒を酌み、談、元弘の事に及ぶ。予、慨然として曰く、功名を以て人を品する者は、俗情也。學者は、只だ當に忠義を論ずべきのみ而已矣。笠蓑赤足、巡駕を追ひ、詩句を題して、宸襟を慰めまつり、孤軍を提げて、逆賊を討ずる者は、是れ誰と爲す。備後三郎兒島高徳(美作作樂神社・吉野船岡神社の祭神。贈從三位)、是れ也。

 夫れ元弘の役、楠公の忠節の最爲る、天下、皆な之を稱す。然れども楠公は、詔を待ちて後に起つ。高徳は、詔を待たざる也。高徳は僻遠に在りて、門地は小、楠公は京畿に在りて、門地は大、楠公は節に死し、高徳は百敗して死せず。一身、天下に奔走し、勸奬するに大義を以てす。夫れ南朝六十年、勤王の士、新田氏の如き、北畠氏の如き、結城氏の如き、絶えんと欲して復た起り、滅びんと欲して屡々振ふ者は、抑も亦た皆な高徳の力也。嗚呼、子と我との如きは、一匹夫のみ耳。若し一日、王家、難有らば、豈に高徳の爲す所に倣はざる可けんや哉。

 高幸、盃を擲ち叫びて曰く、「善いかな矣。我、忠義を竭すのみ而已」と。姓名を堙沒するも、亦た顧みざるなり矣。史に云ふ、「高徳、後年、終はる所を知らず」と。今ま高幸は、其の裔孫と云ふ。安政三年三月丙辰四月四日、雲濱梅田定明、稿。



●中洲三島毅博士『三宅高幸大人之墓』碑文(六尺餘の自然石に、表に縣令・高崎五六の書、裏に此の碑文あり。旭東法師山に在り。三宅將三翁『三宅高幸傳』の所引の書下しに、一部漢字を以てす。他日、原文に當らむと欲す)

 翁、諱は高幸(愚補、定太郎と稱す)、字は子靜、瓦全は其の號、亦た樂哉と號す。備中淺口郡(連島)西浦邑の人なり。其の先は、南朝(ママ)の忠臣・兒島高徳に出づ。高徳の苗裔・高興、大いに産業を興し、邑主・山崎氏(成羽領主・五千石・交代寄合の旗本。後ち高直りして諸侯に列し、京都御番。子爵)に功有り。郷士と爲し、之を世襲せしむ。是れ翁が五世の祖爲り。考は諱高哲(たかあき。號西浦)、書を讀み、南畫を善くす。妣は高橋氏。

 翁、幼にして學を□[艸+霍]里横溝(西山拙齋翁門下)氏に受く。既に壯にして、大和の森田節齋(贈從四位)、來りて近郷に帷を下し、專ら氣節の文章を以て、門下を督勵す。翁、之に從ふ。人と爲り摯直剛果、深く師の説を信ず。

 偶々外夷、來りて互市を乞ふ。翁、杞憂して已まず。財を主に獻じて、海防の費に供す。又た多く亡命を養ひて、不時の用に備ふ。屡々邑吏と論爭して合はず、遂に嫌を獲。乃ち京都に抵(いた)り、梅田源次郎(雲濱先生)・頼三樹三郎(鴨崖)等と締交し、尊皇攘夷の説を主張す。因つて仁和寺前法親王(中川宮。後の久邇宮朝彦親王)に謁し、亦た東遊して、水府景山公(烈公)に謁す(實は謁するに非ず。雲濱先生、瓦全の志を烈公に聞す。烈公の曰く、「其(高幸)の志は愛づ可きなり。然りと雖も人の志は、變じ易し。其れ唯だ之をして、宜しく皇國の爲め、變ず可からざらしむべし」(瓦全翁『上池田相公書』)と、言を賜る也)。遂に西のかた白石正一郎(資風。號橘圓)を赤間關に訪ね、平野國臣・高崎善兵衞(諱友道)と一見して、舊の如し。善兵衞は、薩藩士なり。四人、乃ち相謀り、陽に薩産交易の場を中備に設け、陰に藩兵上京の路を啓く。

 翁、因りて歸郷し、經營する所ろ有るも、邑吏の疑ふ所と爲り、紀州に脱走して、伊達宗興(陸奧宗光伯の兄)に依る。遂に共倶に入京して、久邇親王に仕ふ。時に十津川の兵(天誅組)起る。翁、嘗て其の徒と交はる。嫌を以て屏居す。慶應丁卯(三年)冬、竊かに岩倉(具視)公に建議して、義擧を圖り、丹後に赴きて兵を募る。明年正月、伏見の事起り、乃ち歸郷す。

 是に於て王業、中興す。而して外夷、則ち益々親しむ。翁、悦ばず。居常、怏々たり。偶々大學寮を置き、翁を用ゐて助教と爲す。未だ幾ならず、學制革まり、專ら洋書を講ず。翁、其の非を論ず。聽かず。遂に致仕す。後ち外山三位(光輔・愛宕通旭兩卿)の爲めに經を講ず。三位、竊かに攘夷を圖り、翁、實に之に與かる(二卿事件)。事、覺(あら)はれて縛に就く。明治四年三月、終身禁獄に處せられ、青森縣に配置せらる(抱石鞭叩の拷問に屈せず)。

 翁、獄に在りて、悔悟刻苦して書を讀み、著述すること數十卷(『南朝十二名將傳』二册・『古哲傳』四册・『四龍傳』四册・『幽囚三百律』一册・『幽囚三百絶』一册・『盲聾論』一册・『虎還舊洞』一卷等、家に藏すと云ふ)、同囚を薫化す。官、之を賞し、罪二等を減ず。十三年五月、出獄す。岡山縣令・高崎(五六友愛。男爵)氏に依る。氏は則ち善兵衞の子なり。翁をして(縣史)編纂の事を掌らせ、内田村に寓居せしむ。十五年秋、朝鮮の亂民、我が節署(公使館)を襲ふを聞き、憤激、狂せるが如し。疾ひ之が爲めに劇を加へ、竟ひに起たず。實に夫れ八月二十二日なり。文政元年二月一日に生を距て、春秋六十五。法師山に葬る。

 妻は三宅氏、三男七女を生む。季男・武彦、嗣ぐ。見(いま)に大庭郡長爲り。長女は、高草氏(矢掛本陣・甫介)に適(ゆ)く。季女は、家に在り。餘は、皆な夭す。妾、二男を生む。曰く八郎は、山形氏を嗣ぎ、曰く十郎は、山田氏を嗣ぐ。

 武彦、頃(ちかごろ)、翁の行状を寄示して曰く、「先人は、終身困阨して、一事も成らず。且つ國の爲め産を蕩じ、今ま之に歿するや、歸□[穴+乏。へん]する先(先祖の墓地。瓦全翁、平野國臣先生より祕預せる、月照が遺物──襟卷を、先塋裡に埋め、之を祕祭す)を得ず。蓋し其の恨み、知る可き也。幸ひにして子(三島中洲)の文を得て、墓に表はせば、或は以て其の目を瞑ずるに足らんか(瓦全翁へ追褒の御沙汰ありと雖も、遺嗣・武彦、國家に罪を得し父の遺言として、之を辭すと云ふ。嗚呼、江戸・明治の人なりと、歎息感泣、久しうする也)」と。

 嗚呼、翁、夙に尊攘を唱ふ。而して王室、已に尊く、夷、則ち攘はず。是れ時勢の已む能はざる者也。然れども翁、初志に固執し、以て嚴刑を犯す。蓋し坐して變通を知らざる也。然りと雖も終始一節、自ら欺かず、人を欺かず、其の心は、則ち天に愧ぢず。是れ以て高徳の孫にして、節齋の弟子と爲す可し。銘に曰く、

嗚呼、梅・頼諸氏、翁と志を一にし、同じく策す。
諸氏、中興に先んじて亡く、幸ひにして追褒顯赫たり。
翁や、中興に後れて存し、不幸、刑禍に困阨す。
嗚呼、翁と諸氏をして、存亡、時を異ならしめば、
焉んぞ其の幸不幸も、亦た地を易へざらむを知らむや。

明治十八年十月、東京大學教授・從五位・三島毅(號中洲)、撰す。内閣大書記官兼修史館監事・從五位・勳五等・巖谷脩(號一六)、署す。



【望楠軒主・梅田雲濱先生を仰ぐ】
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【兒島高徳公を仰ぐ】
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皇國の建國、其の淵源は、別天神の詔命に在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月20日(水)20時06分6秒
返信・引用 編集済
 

■『教育に關し下し給へる勅語』(明治二十三年十月三十日)

朕、惟ふに、我が皇祖(天照大御神、或は天照大御神より神武天皇に至る六代)・皇宗(御歴代の天皇)、國を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。

○硬石内田良平翁『國體變革の天皇機關説』に曰く、「我が國家には、肇國があつて、建國が無いのである。建國は人爲的に成るものなれば、革命崩壞等の憂あれども、肇國は神造なるを以て、其の憂が無い」と。



■神典『紀記』──建國・建邦・立國・肇國──

一、夫の邦を建てたまひし神を原ぬれば、天地割判(ひらけわか)れし代、草木言語りせし時、天降來りまして、國家を造り立てたまひし神(伊弉諾尊。或は彦火瓊瓊杵尊)也[紀卷十九・欽明天皇御紀・十六年二月]

一、惟神[惟神とは、神の道に隨ひて、亦た自ら神の道有るを謂ふ也]も、我が子、治らさむと、言寄させき。是を以て天地の初めより、君臨之國(きみとしらすくに)也。始治國皇祖(はつくにしらす・すめみおや。山本信哉博士は「彦火瓊瓊杵尊」、山田孝雄博士は「神武天皇」)の時より、天の下、大同(とゝのほ)りて、都べて彼れ此れといふ者無し也[紀卷二十五・孝徳天皇御紀・大化三年四月二十六日詔]

一、畝傍の橿原に、底つ磐之根に宮柱太しき立て、高天之原に搏風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇(はつくにしらす・すめらみこと)と曰す[紀卷三・神武天皇御紀・元年正月]

一、天つ神・地つ祇、共に和亨みて、風雨、時に順ひ、百穀、用て成り、家給ぎ、人足りて、天の下、大きに平かなり矣。故れ稱へまつりて、御肇國天皇(はつくにしらす・すめらみこと)と謂す也[紀卷五・崇神天皇御紀・十二年九月十六日]

一、爾に天の下、太平ぎ、人民、富み榮えき。‥‥故れ其の御世を稱へて、所知初國之御眞木天皇と謂す也[記卷中・崇神天皇御條]

○山本信哉博士『建國といふ語の出典と其の意義』に曰く、「一部の極めて少數の人々の中には、『我が國は、諸外國の如き建設國家ではない。自然に出來た神ながらの國であるから、「建國」といふより、「肇國」といふ方がよい。建國祭の名は、宜しく肇國祭と改むべきである』といふやうな意見があるやうに存じます。‥‥まづ我が國の歴史を繙き、また現代の詔勅及び文部省の訓令や國定教科書などを見ましても、多く建國といふ語を以て言ひ表はしてゐるのであります。勿論、或る時は肇國といひ、或る時は立國といふ言葉も使つてありますが、建國といふ語の方が古くて、且つ廣く用ひられてをり、‥‥それ故ゑ私は、建國の語は、之を其の歴史的事實に徴しても、また其の意義の上から申しても、更に又その語勢からいつても、建國の方が優つてをる」と。



●『書經』酒誥篇に曰く、「乃(なんぢ)の穆考(ちゝ)・文王、國を肇めて、西土に在り」と。

○山田孝雄博士『國體の本義解説叢書・肇國の精神』(文部省教學局編纂・昭和十三年八月・内閣印刷局刊)に曰く、「周の國基を文王が固くしたことを云つたもので、文王が周の始めの祖で無いことは、昭・穆の順序から考へてもわかる。昭・穆とは、支那の宗廟の制で、中央に太祖の廟があり、それ以下は左右に廟を列ね、左を昭といひ、右を穆といふ。昭を父とすれば、穆は子である。文王を穆とすることは、その上に昭廟あり、なほその上に祖廟のあることを示すものである。それ故に肇國は、國の最初をなすとは限らないのである。‥‥わが國は、神武天皇・崇神天皇の御時に、はじめて生じたのではない。それで『肇國』は『くにをはじむ』とよむけれども、國の創始といふだけに限らない。國家が隆んになり、皇威が新たにかゞやいた御世には、いつでも『はつくにしらす・すめらみこと』と申し奉るのである」と。



 愚案、眞木紫灘先生『經緯愚説・創業の事』に曰く、「太祖(神武天皇)も、中興なり。然れども草昧の運、洪荒の世に、筑紫より中洲へ入りたまひ、皇化を敷きたまひし業は、創業なり。中宗(天智天皇)も、中興なり。然れども封建の弊、出でて修むべからざるを以て、新たに郡縣にかへたまへる業は、創業なり」(景紫堂小川常人翁編『眞木和泉守全集』卷下・平成十年五月・水天宮刊)と。然らば、實に畏れ多き御事ながら、
桓武天皇
後醍醐天皇
明治天皇
におかせられても、『はつくにしらす・すめらみこと』と申し奉るべく、「中興」かつ「創業」の天子樣と仰ぎ奉る。皇國大勢の盛衰を觀望し、神界經綸の大變革・大活動の顯現ならざるべからざるを確信恐察す。

 就中、後醍醐天皇、敕したまへり、
今の例は、昔の新儀なり。朕が新儀は、未來の先例たるべし」(『梅松論』)と。是れ、皇謨の變革、大叡斷なり。詔を承けては、必ず謹しむ可し矣。


 『古事記』に曰く、
「是に天つ神諸々の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二柱の神に、「是のたゞよへる國を修理固成(つくりかためなせ)」と詔りごちて、天沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき也」と。

一、皇産靈大神を始め奉り、「別天津神の大命」を承けて、伊邪那岐大神、豐葦原中國の基を建てさせ給ふ。

一、伊邪那岐大神、やがて「天下之主者」(あめのしたのきみたる神、即ち地神初代)として、天照大御神を生ませ給ふも、惟れ祖、惟れ宗、尊貴靈異の無比なる、遂に天上の日御國に上げさせ給うて、青海原たる地上は、素戔鳴大神に委任し給ふ。然るに素戔鳴大神、母大神を慕うて已まず、遂に其の御胤・大國主大神に、顯國魂神とならしめ、地上主宰の大權を代行せしめ給へり。『神皇正統記』に曰く、「天照大神・吾勝尊は、天上に留まり給へど、地神の第一・二に數へ奉る。其の始めは、天の下の主たる可しとて、生れ給ひし故にや。‥‥下、三代は、西の洲の宮にて、多の年を送り坐します」と。

一、而して高皇産靈大神・天照大御神の皇天二祖、神機、やうやく盈つるや、其の地上の大權を召させ給うて、更めて大國主大神に、大地官を治らす「幽政」を委ね給ひ、皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊(地神第三代)に、宇内を知らす「顯政」を委任せられ、親しく三種の神器を授け賜へり。瓊瓊杵尊、天關を闢き雲路を披けて、筑紫日向の高千穗のくじふる嶽に天降り坐し、吾田長屋笠狹宮に坐しましき。即ち「初國知らす皇御祖」、是なり。凡そ天孫降臨は、寶祚無窮の基始、國土安寧の幸祐なり。村山惣作翁の曰く、「顯政を事依されし皇御孫命は、天照大御神・伊邪那岐神・高皇産靈神に歸一し、幽政を事依されし地祇大國主神は、素盞嗚神・伊邪那美神・神皇産靈神に歸一す。‥‥高皇産靈神の言依しによりて、顯幽は分治せられ、大山祇神の言の葉によりて、皇孫命の御壽命に影響し、石長姫神の言の葉によりて、青人草の命は短くなり、豐玉姫神の言の葉によりて、海陸の交通が杜絶した事は、皆な造化の樞機に參與し給ふ神々の命々の一部改變である」と。

一、其の曾孫・神日本磐余彦尊(地神第六代、即ち初代天皇)、大和橿原宮に即位せられて、「初國知らす皇尊」として君臨し給ひ、以來、其の御子孫、現に萬世一系の天皇として大坐しませり。世界皇化・八紘爲宇の淵源は、固より「別天神界の大命」に基づき、天津日嗣・天皇(第一百二十五代)、人間世界の中府たる皇都宮城に於いて、現に三種の神器を奉じて、天業を恢弘し給へり。『神皇正統記』に曰く、「皇祖天照大神、天孫の尊に詔せしに、寶祚之隆、當與天壤無窮とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。況んや三種の神器、世に現在し給へり。窮まり有るべからざるは、我が國を傳ふる寶祚なり。仰ぎて貴び奉るべきは、日嗣を承け給ふすべらぎになん、おはします」と。『古語拾遺』に曰く、「我が國家は、神物靈蹤、今に皆な見存し、事に觸れて效(しるし)有り」と。神さびたりとも、神さびたり。嗚呼、八紘宇内の民草、只管ら天に於ける神の王の、人間世界に於ける御顯れと申し奉るべき、我が天子樣を仰ぎ奉り、皇謨經綸の下、天壤無窮の皇運を扶翼し奉る可し矣。

【豫言──宇内一帝の原理】
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矢野玄道翁『正保野史』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月15日(金)21時38分44秒
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  久延毘古の 神にとはゝや くたちゆく このよのすゑの はてはいかにと  玄道



 矢野玄道翁『正保野史』一卷は、承久・建武の聖天子の御勇圖を繼承し給ひ、天祖の御威徳を顯彰あそばされし、正保の帝、即ち後光明天皇の御業績を、熱誠もて拜記せしものにして、矢野翁は、固より平田大壑先生後繼の碩學にして、特に王事に篤く、居諸、幕政に慊々たりし鬱懷、凝つて斯の一大文字と成りたるものである。此の卷尾を謹抄して、諸賢に供さむと欲す。



●從六位・稜威道別彦命・扶桑眞人・神皇舊臣・梅廼舍矢野茂太郎平玄道翁『正保野史』(文久二年正月稿。昭和十四年十月刊。愚が試訓なり)

 其の殯宮(大行・後光明天皇)に在しますや也、諸大臣、皆な舊禮に率由し、將に荼毘しまつらんとす焉。或は親臣徳大寺・三條・小倉諸公を距つる者有り。是を以て庭議に與かるを得ず。魚を鬻ぎ、禁門に出入する者有り、八兵衞と呼ぶ。之を聞いて慟して曰く、

「嗚呼、聖天子、何ぞ天命の薄きにましますこと、之を奈何す可き。生平の志、死するに至るも奪はれずとは、匹夫すら、猶尚ほ之を重んず。況んや萬乘の君に於かせらてをや乎。荼毘は、蓋し道に非ざる也。今ま夫の大行には、道徳を行ひ、邪説を闢けさせたまへり。浮屠の虚誕に疾むこと、最も甚だしくして、其の終(はて)を送りまつるに、猶ほ斥けたまふ所に從事せんか邪、小人も、甘心せざる所ろ也。請ひまつる、敢へて百たび諫めて、之を止めまつらむを。能はざれば、則ち之に死せむ」と。

 因つて仙洞・後宮に奔走し、親王家卿百辟の門に曁び、號哭悲泣、敢へて荼毘を止め、以て大行の志に從ひまつらんことを請ふ。又た泉涌が僧徒を嚇して曰く、「火化の、大行在天の靈に恊はざるや也、昭々たり矣。此くして止む莫ければ、則ち天災地妖、何ぞ至らざる所ならむ」と。朝議、之を偉とし、遂に其の言に從へり。蓋し藤原御寓天皇より後、一千有餘歳、朝廷、是に於てか乎、火葬を止む焉。

 蒲生秀實の曰く、「匹夫すら、志有らば、何事か成らざらん。上の人にして爲さゞれば、則ち耻づ可きの甚だしからむ。亦た善からずや乎、其れ之を言ふこと也。夫の八兵衞の如きは、忠且つ仁と謂ひつ可し矣」と。

  ○

 余(作樂居川喜多眞一郎藤原眞彦)、嘗て『正保遺事』及び『山陵志』を讀み、深く八兵衞の忠節に感じ、仰慕すること、年有り。今ま友人・矢野氏に、『正保野史』の撰有り。其の忠節、眞に不朽爲り。亦た偉ならざらんや乎哉。因つて余が考索する所の數事を録し、以て卷尾に附す。

 忠夫(八兵衞翁)が七世の裔、現に京の丸太町富小路の東に在り。世、河内屋八兵衞と呼ぶ。於久(奧)氏と稱す。累世、御魚を貢供するを以て業と爲す。嘗て禁垣の中に家す。是より先き災ひに罹り、家財蕩燼す。故に譜系、絶えて傳ふる无しと云ふ。僅かに傳ふ、忠夫、享年六十又四にして沒し、京東大光寺に葬る、と。蓋し先塋の在る所、纔かに斷碑を存し、勒して「貞享五年戊辰十月八日・賀屋道範、貞享二年乙丑十二月四日・淨屋清春」と云ふ。「道範」とは、則ち浮屠氏の追謚する所に係る。「清春」とは、蓋し其の配ならむ也。茲に因りて之を推すに、其の生るは、寛永二年乙丑に在り。(後光明天皇崩御の)承應三年は、則ち年、實に三十なり矣。其の子は、寛保二年を以て死し、法謚は「淨譽道清」と曰ふ。其の妻は、正徳元年を以て死し、法謚は「到譽涼清」と曰ふ。其の考索する所、僅々此れのみ已。而して血食、輟まず、以て今に至る。豈に忠節の遺澤に非ざらむや哉。余、爲めに一祠を創り、以て忠魂を安んぜんと欲す。竝記し、以て同志君子に告ぐ焉。文久三年春二月、左京の川喜多眞彦、記す。



【贈正五位・奧八兵衞翁の忠節】
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 聞くならく、畏くも、天皇陛下には、萬世將來を鑑み、國民の爲めを祈り給うて、火葬復歸の聖斷を下し給へり、と。臣僚高官の御諫め、必ずや有りしものと確信しつゝも、草莽の情として、實に忍び難く、眞に畏れ多き極みなりけり。然りと雖も難有くも忝くも、尊き大御心を仄聞しては、只管ら拜承必謹、是れ有るのみ而已矣。斯くも宸襟を惱まし奉ること、臣民たる者、懺慙猛省せねばならぬ。こゝに更めて奧八兵衞翁の忠節を囘想し、浮屠氏の穢手に因るものに非ざるを報告して、矢野玄道翁『正保野史』を拜記すと云爾。



 補遺。『尚齋雜談』に曰く、「天皇、素より大志を懷きたまへり。甚だ撃劔を嗜みたまふ。板倉重宗、傳奏氏に就き、奏して曰く、『征夷府をして之を聞かしめば、必ず喜ばざる也。陛下、苟に之を止むること莫ければ、則ち臣、將に屠肚して地に入らんとす』と。天皇、默して應じたまはず。屡々諫むるに及ぶ。然る後ち敕して云はく、

朕、未だ嘗て武の人の、腹を割くるを睹ざる也。宜しく壇を南殿に築きて、自盡すべし焉』と。

重宗、慚謝しまつる。事、稍々解くを得たり。征夷府の聞く者、咸な懾服す」と。



本居宣長大人『玉勝間・大神宮の茅葺(かやぶき)なる説』に曰く、

伊勢の大御神の宮殿(みあらか)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒めなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也。質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし。御殿(みあらか)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ。みあらか又た獻り物などを質素にするは、禮(ゐや)なく心ざし淺きしわざ也。そもゝゝ伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重みし守りて變へ給はざる物也。然して茅葺ながらに、その莊麗(いかめし)きことの世にたぐひなきは、皇御孫命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故ゑ也。さるを御(み)みづからの宮殿をば、美麗(うるはし)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは。すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古への意にそむけりと知るべし」と。
 
 

國士たれ──平泉澄博士『士規七則』講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月 9日(土)00時13分17秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『士規七則講義』(昭和三十年十二月十八嚴寒の日、茨木市に於いて、若き大學生達に對する講義。市村眞一博士解説『先哲を仰ぐ』平成十年九月三訂版・錦正社刊に所收)

吉田松陰先生『士規七則』(松陰先生の玉文は、「赤字」にて表示)

 册子を披繙すれば、嘉言、林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)ふに、人、讀まざるのみ。即ち讀むも、行はざるのみ。苟くも讀みて之を行へば、則ち千萬世と雖も、得て盡すべからず。噫(あゝ)、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざるは、人の至情なり。古人は諸(こ)れを古へに言ひ、我れ今ま諸れを今に言ふ。亦た□(言+巨。なん)ぞ傷(いた)まむ。士規七則を作る。

 書を讀んでみると、良い言葉は澤山あり、躍動して人に迫つて來る。その通りであります。書を讀めば、我々の胸を打ち、又た仰いで光とすべき言葉は、實に多いのであつて、これを見、これを知ることは、非常な驚きであり、喜びであります。たゞこれは、どのやうな書物にもいへることではございますまい。たとへば鑛物を探すにいたしましても、鐵・銅・石炭などは、どの土地にでもあるものではありません。どこにでも鑛脈があるのではなく、どこを掘つても、鑛石が出て來るものではない。今日の世の中には、實に猥雜な書物が氾濫してをり、つまらぬ書物を亂讀してゐる人が多い。これが今の世の中の姿であります。こゝに「册子」といひ、「嘉言」といひますのは、永遠の生命をもつた古典についていはれたものであります。時代の波を越えて、萬世に殘るもの、即ち「古典」を指して、册子といはれたものと考へねばなりません。これに接すれば、我々の心は躍動し、我々の心は勇躍してこれを迎へる。かやうに素晴らしい古典が澤山にあるのに、人はちつとも讀まない。否、讀まないのではない。讀んでも、これを實行しないのであります。かりにもこれを讀んで、しかもこれを行ふのであれば、千萬世たつても、讀みつくし行ひつくすといふことはない。あゝ、もう今更ら自分がいふことは、何もないのである。しかし自分が氣付いてゐることがあれば、言はねば氣が濟まぬといふのは、人情であります。「ものいはぬは、腹ふくるゝわざなり」といふのは、たしか『大鏡』に出てゐましたが、そこで古の人が、既に昔に、かうしたことは言はれてゐるのでありますが、私が今こゝで、今それを述べましても、必ずしも差し支へあるわけではございません。そこで私は、こゝに士たる者の規範となること、七ケ條を述べるのであります。

一、凡そ生れて人となる。宜しく人の、禽獸に異なる所以を知るべし。蓋し人に、五倫あり。而して君臣・父子を、最大となす。故に人の人たる所以は、忠孝を本となす。

 一體、我々は、人と生れたのでありますから、人の禽獸と異なる點を知つてゐなければなりません。これは非常に重要なことであります。終戰後、人々は自由を唱へ、解放といつて、たゞ本能の要求に身をまかせて、それが當然であると考へ、從來、本能を抑壓して來たことを、封建的だといつて非難してゐますが、決して左樣のことはありません。先日も、ある縣で教育者の會合があり、それは中・小學校の校長の集まりでありましたが、その折にも、「本能を押さへることはいけない。從つて修身などは教へない方が良い」といふ人がゐました。もし本能を、そのまゝ認めるといふのであれば、それでは禽獸と異なりません。しかしそれが、戰後の混亂の中での、滔々たる潮流であります。人間の人間たる所以は、道を考へるといふところにあります。いかに貧しくとも、斷じて盗みはしてはならない、いかにひもじくとも、人の物をとつて食べてはならない、斷じて道徳にもとる樣な行ひをしてはならない。これが、人と動物と異なるところであります。思ふに、人が禽獸と異なるところについて考へますと、そこに重大な五つの徳目があります。君臣の關係・父子の關係・夫婦の關係・長幼の關係・朋友の關係についてであります。これは『孟子』から出てゐます。『孟子』を見ますと、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」とかゞげてゐます。これを五常といひ、また五倫といふのであります。

 「長幼、序あり」といひますが、戰後、これはなくなりました。後輩は先輩を馬鹿にし、若い者は年寄を馬鹿にしてゐる。「朋友、信あり」。これも失はれてしまひました。友は、友を裏切つてゐます。これは戰後において、特に顯著になりました。「夫婦の別」もなくなりました。人前で醜行を演じて、恥ぢない状況であります。「君臣の大義」も失はれました。「父子の親しみ」もなくなりました。正しい社會は、君臣の道・父子の道を、最も重大とするのであります。故に人の、人としての根本のことは、忠孝であります。これは實に大きな問題で、今日の世界の問題が、すべてこゝにかゝつて來るといつて、過言ではありません。今日の世界における大國は、アメリカとソ聯でありますが、兩者は著しい思想の對立をなしてゐます。一つはデモクラシーであり、一つはマルクシズムであります。しかしそのいづれも、君臣・父子の道を踏みにじつて、これに反逆して生れて來た思想に外ならないのであります。今日、この混亂を鎭めますためには、デモクラシーとマルクシズムの兩思想が、人間として自殺に等しいことを批判し、明かにしなければならない。何故、デモクラシーが尊くて、封建制は非難されるべきであるか、この點についての深い批判・分析は行はれず、たゞ世界の大勢なるが故に、それを正しいとして受け入れてゐるに過ぎないのであります。かゝる人による、かゝる淺薄なる考へを打破せねばならないのであります。

一、凡そ皇國に生れては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は、萬葉一統にして、邦國の士夫、世々祿位を襲ぎ、人君は民を養ひて、以て祖業を續ぎたまふ。臣民は君に忠して、以て父の志を繼ぐ。君臣一體、忠孝一致、唯だ吾が國を然りとなす。

 一體、我々は、皇國日本に生れた以上は、皇國が世界に尊いわけを知らねばならない。皇國といふ言葉は、いみじくも美しく、我が國をいひ表した言葉でありますが、人々は、今日、皇國といふ言葉を聞いて、恐れる如き感じをもちます。一敗、地にまみれたからといつて、何故、かくまでに卑屈な態度をとるのであるか。不可解といはねばならない。我が國が皇國であるといふことは、古より外國の識者の羨望するところでありました。これについては、ラフカデイオ・ハーン、グリフイス等の書いたものを御覽になればよく、又た多くの支那人も同じことを述べてゐるのであります。それらのことは、この皇國といふ言葉に、まことによく表はれてゐるのであります。一體、我が國の天皇が、民をしろしめした御政事のあとを尋ねて參りますと、形は殆んどデモクラシーといつてよい。しかし民主ではなく、民本であります。主とは、主從といふ風に、從に對する言葉である。もし民が主であるならば、從は何であるか。君を從とするのか、かゝる事はあり得ない。古來、我が國では、君は君、臣は臣として、嚴然と分れるのである。たゞ政治は、あくまで民を本として行はれたのであつて、我が國は、決して民主であつた事はなく、又た今日も、さうではありません。我々は、大君を戴く民であります。このやうに暖かい皇室を上に戴いて來たといふ歴史は、世界史の上に求めましても、何處にもない。正に一つの不思議といつてよいのであります。御承知のやうに、天皇の命に、死刑はない。天皇の嚴命による死刑といふものは、極めて寥々たるものであります。幕府の時代にはありましたが、平安時代には、數百年にわたつて、死刑は行はれてゐない。このやうなことは、世界の歴史に絶えてないのであります。これは、我が國體の然らしめるところであります。又た世界において、革命を見なかつた國、反逆のなかつた國といふものは、我が國を措いて他になく、この意味では、我が國の歴史は、全人類の光であり、誇りであるといつてよく、今後の世界の目標となるものでありませう。反逆につぐ反逆の歴史、そしてその結果としての混亂に陷つてゐるといふのが、各國の實情であります。人間が救はれるのは、神の前にひれふす態度になつた時であります。これが政治にあらはれて、祭政一致、忠孝一本を具現してゐますのが、我が國體に他ならないのであります。

一、士の道は、義より大なるはなく、義は、勇に因りて行はれ、勇は、義に因りて長ず。

 忠孝は重大なことですが、これを實地に行ふには、義勇の精神がなくては行へない。義烈の氣象を養ふことなくして、忠孝の實現は不可能であります。義勇の缺けたところに、忠義は爲し遂げられぬのであります。我々が、かなり多くの人々と袂をわかつのは、この故であります。義烈の魂を養ふことが、忠孝の前提であります。先哲の實踐のあとを、より深く考へて參りますと、このことに氣付かざるを得ないのであります。

一、士の行は、質實、欺かざるを以て要となし、巧詐、過ちを文(かざ)るを以て恥となす。光明正大、皆な是れより出づ。

 我々の行は、質實、欺かぬこと、これが非常に大事なことであります。私は、この一句を、最近、特に痛切に考へることであります。「敗軍の將、兵を語らず」とこそいへ、軍人は、自分の實歴を喋ることさへ恥とするものなのに、戰後の軍人の間に見られることは、自分はこんな事の爲たのに、あれがあんな事を爲たからかうなつたと、友をのゝしつて、自分の功績を飾らうとしてゐます。實に恥づべき行爲であります。またある將軍は、乃木將軍を罵詈してゐますが、自分を辯護せんがために、乃木將軍まで罵詈せねばならぬとは、實に淺ましい態度であります。この切實な教へは、今日、全く忘れ去られてゐるのであります。光明正大なる態度は、嘘・いつはりがないといふことより出て來るのであります。

一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざるは、則ち鄙夫のみ。讀書尚友は、君子の事なり。

 歴史に精通し、古賢先哲の書かれたものを讀んで、その教へを受けてのみ、我々は、その心を磨くことが出來るのであります。聖賢を師としない人は、つまらぬ人であります。

一、徳を成し材を達する、師恩友益、多きに居る。故に君子は、交遊を愼む。

 我々が、その徳を成就し、その才能を働かすといふことは、師友の恩益に預かるところが、實に多いのであります。幸ひにして我々は、このやうな良い友を、澤山もつてゐます。歴史の上より、このやうなことを見ますと、人材は、必ず輩出してゐます。何故、輩出するのか、これは友益を得て、切磋するからであります。私は、いつも東海道を往復して嘆かはしく思ひますのは、名古屋であります。名古屋は、今日、これといふことはありませんが、昔は、織田・豐臣の如き英才が出て、天下の統一をなし遂げたところであります。これは、獨り名古屋のみではないのであります。互ひの切磋があつて、初めて才氣は煥發して來るものであります。

一、死して後ち已むの四字は、言、簡にして、義、廣し。堅忍果決、確乎として拔くべからざるものは、是を舍(お)きて術なきなり。

 これについて感ずるところは多いですが、特に今度の戰爭の敗因について、このことを考へます。同學黒木少佐は、人間魚雷「囘天」を獨創した方であります。黒木少佐が人間魚雷を考へましたのは、かなり早い時期でありましたが、長い間、軍はこれを許さなかつたのであります。黒木少佐は、これを實用に供さんとして、自らその途中の訓練で倒れられました。この人間魚雷は、アメリカの海軍を惱まし、遂に最後まで、何らの對策も出來なかつたものであります。最近の『産經時事』に、軍事評論家の伊藤正徳氏が、今度の戰爭における人間魚雷の威力について書いてゐましたが、その中に、「鈴木貫太郎大將が、この必死の武器に反對であつた」と書いてゐます。多くの人は反對であつたさうですが、必死の戰術なくして、戰を始めるといふことが、既に私には不可解でなりません。この小さい國が、米英に對抗して戰を始めた以上、必死の策に出るのは、當然であります。これは相手の大小によるものではありません。戰爭を始めた以上、當然のことであります。私は劍道のことはよく知りませんが、劍道においては、自分を捨てゝかゝらねば勝てません。自分は安全地帶にゐて、自分の生命を全くして敵を斬らうなんぞといふ、そんな卑怯未練な態度はない。劍道の名人にして、既に必死の覺悟で臨むのである。ましてこの大戰について、必死の覺悟もなく、單なるスポーツの如く考へてゐたところに、敗戰の最大の原因があつたのであります。

【嗚呼、慕楠黒木博司少佐】
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 昭和十六年十二月二十三日でしたが、東京帝國大學の大講堂で、私共の發起で講演會をやりましたが、講師は海軍の平出報道課長と私でありました。平出課長は、實に呑氣な講演をやりました。當時にあつて、眞珠灣の成功を稱へ、「國民よ、安心せよ」といふのであります。私はこれを聞いて、唖然としました。否、唖然といふよりも、憤慨したのでありました。

【海軍の油斷──古人の曰く、勝つて兜の緒を締めよ。】
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 「死而後已」の四字は、言葉は簡單でありますが、意味は廣大であります。如何なる困難がむかつて來ようとも、斷乎として千軍萬馬の前に立つには、堅忍果決、確乎とした覺悟なくしては出來ないのであります。

 右、士規七則、約して三端となす。曰く、立志、以て萬事の源となし、擇交、以て仁義の行を輔け、讀書、以て聖賢の訓(おし)ヘを稽ふ。士、苟くもこゝに得るあらば、また以て成人となすべし。

 右の士規七則は、要約して三つのことになります。志を立てることが、萬事の根本であり、交友をえらぶことが、仁義の道を行ふのを助けることになり、讀書することが、聖賢の教を學ぶ道であるといふことであります。こゝに聖賢といひますのは、支那の聖人・賢者のみでなく、日本人の聖人をも含んでゐます。我々は今日、楠公を仰ぎ、北畠親房公を仰ぎ、吉田松陰先生を仰ぐことによつて、益々道を學び、弘めて行かねばなりません。

 この士規七則は、先生が甥の玉木彦介の元服の火に與へたので、成人[一人前の人]とありますが、しかしこれは、子供が大人になる成人式の時にのみ當てはまる言葉ではなく、我々一生を通じて指南とすべきものであります。嘗て乃木將軍が、士規七則について御講義をされたことがあります。その時の御講義の内容を記したものを、私は持つてゐましたが、戰災で燒いてしまひ、殘念なことをしました。その中で、「凡そ道義を肝に銘じ、志あるものは、普通一般の者とは、何か違つたところがなくてはならぬ」と申されてゐます。これは山口縣の後輩に對して行はれたものでありますが、普通の人と、何か違つたところがなくてはならぬ、人の欲しがるものを欲しがる樣ではつまらぬ、人の爲てゐるやうなことを爲てゐるだけではならない。私は、この言葉を感慨深く讀んで、今も忘れません。内に志あれば、外、風格に必ず現れるのであります。

【乃木靜堂大將『士規七則』講話】
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 元來、國家を雙肩に擔ふのは、國民全體であるといふのが理想でありますが、これはいふべくして行ひ得ない。國家を雙肩に擔ふのは、國民の何割かの、一部の人であります。昔、朝廷に仕へた公卿が腐敗墮落し、朝廷に仕へて國を治めることが出來なくなつた時、國を擔つて立つたのは、武士であります。幕府の出來たのは、殘念ではありますが、武士は生命にかけて國を護つて來ました。殊に國難に當たり、幕末に外國の勢力が日本列島に迫つて來た時、我々が先哲と仰ぐ人々が、決然として立つて、國の守りを全くされたのであります。しかるに不幸にして、國を支へる政治家・軍人にして、大正以後、見るべき人なし。政治家に人なく、陸海軍の傳統も薄らぎ、よしたとへあつても、多勢の中では、如何ともする事が出來ない。大勢は、アメリカに媚び、ソ聯に迎合する輩である。國を雙肩に擔ひ、國家の中核となつて、これを護つて行く人物の必要を痛感します。外國においては、この特殊の人々が、嚴然として存在する。イギリスでは、貴族が偉いのである。ドイツでも、我が武士のやうなのがありました。そのあることが、國家の榮える所以であります。社會的に特殊の地位にある必要はない。たゞ我が國に、このやうな人のないことを慨かねばならない。慨いてやまないだけでは濟まない。かゝる道を、我も行き、人も行き、目覺めたる者が手をたづさへて、國の護りにつかねばならない。「士」とは、かゝる人物をいふ。腰に劍を佩かずともよい。職業は何であつてもよい。眞に道義に目覺めて、道によつて國を守らうとする者、しかも義勇の精神により、死して後ち已むの覺悟ある者、これを士といふのであります。

 我々の願ひは、全國の賢才を得て、我が國の士たらしめることであります。こゝにおいてか、大事なすべし。大廈は、現に傾き始めましたが、何とかしてこれを支へ、もつて囘天の大事を爲し遂げねばなりません。これが、私の士規七則を講じた所以であります。



 愚案、平泉澄先生の講義、眼の前に在ますが如き口吻を傳へて、小生は、慄然として襟を正すのであります。小生が、平泉先生の講義を拜聽したのは、昭和五十二年九月の白山神社崎門祭に於ける、吉田松陰先生『赤川淡水の常陸に遊學するを送るの序』の講義でありました。

師道を慢ること勿れ、私見を立つること勿れ。取捨去就、唯だ先生に是れ聽かば、則ち古道、及び難からざる也。

是れ、一學生が往古の塾に在つて、師から痛棒を喰らふが如く、衝撃、甚だ大きくして、一生の師に邂逅した感激歡喜で、それは一杯でありました。先生の御姿・御聲を、兩の眼耳に刻印燒附けて下山、やがて平泉先生の著書を古書肆に、圖書館に見つけては、之を購入拜讀するやうになつたのであります。今も先生の斷簡遺墨を求めて、已む事はありませぬ。先生の皇國護持の遺志を、不肖不敏なりに、繼承する覺悟であります。國體の闡明護持は、國民の當然當爲、即ち第一義の任務・責務であると考へてをります。

【備中處士『望白之記』── 寒林平泉澄博士を 越前白山神社に拜するの記 ──「其の九」參照】
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險難の一路──平泉澄博士『炳丹録の序』講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月 4日(月)16時11分10秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『萬物流轉』の「險難の一路」(其の掉尾を、一部改編して拜記。昭和十一年十一月・至文堂刊/五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)

炳丹録の序』(谷秦山先生の玉文は「赤字」にて表示。『炳丹録』は、所在不明。『序』は、『秦山集』第五册第四十二卷に收む)

 世のいはゆる眞儒、徒らに中庸・時中の語を執り、深くいたること能はず。妄りに解するに時に諧ふを以てし、己の諛悦側媚の謀に便す。擧俗相ひ慣ひ、靡然として風を成す。余、竊かに懼るゝことあり。因つて繙閲あるごとに、其の忠憤激烈、磊磊落落なる者を勾索し、且つ考へ且つ謄し、このごろ積んで册を成す。題して『炳丹録』といふ。蓋しこれを朱子、「唯だ此の一念、炳然、丹の如し」の言に摘むなり。

 文は、凡そ四節に分れる。即ち第一節は、『炳丹録』編輯の由來を述べたものであつて、こゝに於いては、大勢順應論の否定が、最も注意すべき所である。大勢順應論は、根本に於いて、萬物の流轉を信じ、物すべてうつろひゆき、確乎不動の規準となるものはないのであるから、流れのまにゝゝ隨ふを以て賢明なりとするのである。しかるに秦山先生が、擧世滔々として大勢に順應するを見て、竊かに懼れられたのは、外でもない、萬物を專ら流轉と觀じ、處世をたゞ順應ときめてかゝれば、一朝、革命の變到つて、之に防ぐに由ないからである。かくて大勢順應論を蹴破つて、革命の變を防がん爲には、萬物流轉の中に、千古不易の規準、即ち忠孝の道を確立しなければならぬ。是に第二節に移る。

 夫れ子として孝に死し、臣として忠に死するは、乃ち天倫の常分、人道の大節、天地の間に逃るゝ所なし。是を以て紀綱紊亂、風俗頽弊の朝に立てば、則ち謇謇諤諤、以て上、主聽を悟し、下、民生を保たずんばあるべからざるなり。流竄放謫、較べざる所に在り。國家顛覆、宗社、墟となるの秋にあはゞ、則ち節に仗り義に死して、以て外、平日温飽の恩に酬ひ、内、人心本然の安きに就かずんばあるべからざるなり。刀鋸鼎□[金+獲の右]、辭せざる所に在り。是れ皆な臣子當然の實務、貴賤、問ふ所にあらず、班列、顧みる所にあらざるなり。古昔、箕子・比干といふ者あり、天子の貴戚なり。又た伯夷・叔齊といふ者あり、海濱の褐夫なり。倶に青史に鎭埀し、凛乎として萬世人道の大義を振ふ。其の功、特に此に在り。而して凡そ策書の傳ふる所、忠臣といひ、義士といひ、賢人といひ、君子といふ者も、亦た皆な是れのみ。其れ然り、正に當に天地と竝べ稱して人といふべし。而して其の他は、同じく髮を戴き齒を含むといへども、只だ是れ糞壤草木なるのみ。

 第二節に於いては、忠孝は倫理道徳の根本であつて、貴賤貧富を問はず、萬人の履み行ふべきところであり、履み行つては、死を以て守るべきところであり、これあつて初めて人といふ事が出來、もしこれなければ、外觀は人に類するとしても、到底、人を以て許す事が出來ず、むしろ糞壤草木といふべきであると説かれて、忠孝の宣揚、この節の眼目をなしてゐる。

 然りといへども生死、事、大なり。苟くも義、以て其の私を制し、氣、以て其の決を致すにあらざるよりんば、未だ必ずしも變を歴、險を蹈んで、移らざる者あらざるなり。蓋し義は精すべきなり。其の方、知を致すに在り。氣は大にすべきなり。其の術、志を持するに在り。其の傳、孟子の書に出で、其の説、朱子の言に詳かなり。これを窮むるを儒學といひ、これに達するを眞儒といふ。近世腐儒の云云する所と、其れ豈に絲髮の似たるあらんや。

 しかるに第三節に入つて、俄然、論鋒は他に向ふ。即ち忠孝の實踐實現の爲には、一死を甘しとする覺なくては叶はず、一死を甘しとするは、口にいひて易く、實地に行はうとして困難であつて、中々生やさしい事ではなく、必ずや義勇の精神によつて、日常の生活を規律し、平素より鍛錬する所がなければならない。平素十分の鍛錬あつて、初めて異變に驚かず、危險に恐れず、敢然正道を進む事が出來るのである。而して此の義を精究し、此の勇を長養すること、これ即ち眞の學問修養といふべく、之を學び之を修めて、通達し體得せる人、これこそ眞の學者といふべきであり、從つて眞の學者は、彼の大勢順應論を奉じて、時と共に浮沈し、世と共に流轉する輩とは、全然別個の道を歩むものであるとする。

 今ま斯の一編、漢より明に至り、賢人君子、傾くを支へ躯を捐つる、義膽忠肝、頗る備はれり。方に當世の學者とともに講明するに好き者なり。然りといへども夫の數君子、或は謫死し、或は餓死し、或は斬死し、或は妻子、□[サ+俎]醢せられ、或は父母、屠肉せられ、絶えて一箇の飽食、安居する者なきなり。あゝ、是れ今日、滔滔の士の、聞くことを樂しむ所ならむや。遂に繕寫して之を藏す。貞享三年立春の日、谷重遠、序す。

 さて第四節に於いて、再び『炳丹録』にかへり、全體をまとめて筆を收めてあるのであるが、こゝに於いては、大勢に順應せず、忠孝の道、まつしぐらに進める人々の、悉く悲慘なる最後を遂げて、一人として安き一生を終らず、況んや富貴榮達とは、凡そ無縁のものなるを説いて、無限の感慨を寓して居られるのである。

 一篇、極めて簡潔、文字を數へて五百字を僅かに超えるに止まるのであるが、論ずる所は極めて重大、道徳の根本を明かにすると共に、實踐の要諦を示し、俗學の妄説を撃破して、また餘蘊なしといふべきである。而してその大勢順應論の否定といひ、忠孝の唱道といひ、いづれも見事であるが、就中、最も光彩あるは、義勇の精神の必要を説く第三節であつて、讀んでこゝに至る毎に、感歎、已む事が出來ないのである。

 抑も忠孝の二字が、道徳の眼目として重んぜられ、説かれてゐる事は、一般普通の事であつて、萬人の耳に熱し目に飽いてゐる筈でありながら、實際の問題を吟味し來れば、その實行は甚だ疑はしく、むしろ別個の主義によつて生活を指導し、糊塗して日を送るといふ有樣であり、反逆の思想、天下に横溢した頃の如き、敢然よく之に抗する者少なく、却つて忠孝を餘りに喋々する爲の反動であるとさへ説いて、大義の宣揚を避けようとする風さへ見られたのであつた。しかも實際は、從來、忠孝の唱道が、單に之を口に唱ふるに止まつて、實踐の工夫、綿密を缺いたところより、この弊を生じたのである。しからば實踐の工夫、如何といへば、それは結局、義勇の精神によつて、我等日常の生活を規律し、鍛錬し來るといふの外はない。義勇の精神なきところに於いては、忠孝百遍の唱道、何の役にも立たないのである。義勇を明かにしようとならば、しばらく其の反對を考へて見るがよい。義の反對は、利である。功利主義である。利己主義である。勇の反對は、怯である。臆病である。懦弱である。己一身の安全を欲して危險を恐れ、己一箇の利益を欲して道義をかへりみないといふ事であれば、かくして道徳の根本である忠孝の大節が成しとげられる筈は、斷じてないのである。

 予の不敏、長く此の理をさとらず、數年前、漸く之に想ひ到つて、武士道の復活を、今日の急務なりとしたのであつた。しかるに其の後氣附いた事は、此の理、はやく吉田松陰先生の道破せられた所であるといふ事である。即ち『士規七則』の第三條に、

士道は、義より大なるはなし。義は、勇によつて行はれ、勇は、義によつて長ず

とあるもの、それである。『士規七則』は、人の知るが如く、其の第一條に於いて、人の人たる所以は、忠孝を本となす事を明かにし、次に第二條に於いて、皇國國體の然らしむるところ、我が國に於いては忠孝の一致して、分裂し扞格する所、全くなきを明かにせられたのであるが、今、第三條に入つて、一轉して義と勇とを説かれたのは、第一・第二兩條の間に存する、極めて緊密なる論理的關係より考へて、いかにも突然の轉囘であつて、我等の長く不審とする所であつた。しかしながら一たび此の理、明かになつて見れば、先づ忠孝を説いて、次に義勇に及ぶは、極めて自然であり、否、當然であつて、『士規』の文、餘りに簡單なるが爲め、この間の連關を説明してゐないとはいへ、松陰先生の胸中には、必ず此の理存して、現れて此の順序をなしたのに相違ない。先生が之を書かれたのは、安政二年正月の事であつて、當時、先生二十六歳に過ぎなかつた事を思へば、これは實に驚歎の外はないのである。しかるに後に至つて、谷秦山先生の『炳丹録の序』に、此の理説かれて、極めて昭々たるを見いでたのであるが、『炳丹録の序』を書かれた貞享三年は、『士規七則』の書かれた安政二年より百七八十年も前の事であり、且つまた當時、秦山先生の年齢は、僅かに二十四歳、士規を書かれた松陰先生よりも一段と若かつた事を考へれば、海南の哲人、少年にして道に徹せる、眞に驚歎、已む能はざる所である。

 それにしても『炳丹録の序』末尾の一句、何ぞ、その哀痛の調べの切なるや。まことに歴史をかへりみれば、凡そ忠臣といひ、義士といはるゝ人の、慘澹たる苦しみの中に生き、苦みの中に死せざるは、殆んどないといつていゝ。先哲を皮相の名聲に仰ぎ見て、苦心を實地の體驗に思はざるものは、いざ知らず、苟しくも實に履み實に思うて、正學に志すほどの者の、誰人か骨身に徹する切實の感慨なくして、容易に忠孝を談じ得よう。

 忠孝は、道の窮極であり、學の發端である。道、忠孝に窮まるといふは、こゝに道徳、千古の準則あるを示す。而して學、こゝに始まるといふは、これより修練の險難に、足一歩を踏み出だすをいふのである。よどみに浮ぶうたかたを、たゞ束の間の命と看破つて、一時の幻影にあざむかれざるすら、竝大抵の事ではない。まして變化改換、曾てやまざる流轉のうちに、永遠不朽の道徳を認むる事は、猶更ら容易の事ではないのに、かくして見出されたる忠孝の道は、これより漸く險難の一歩を踏み出だすといふのである。然らば眞にこの道に志す者の、猛く精彩を著けて、堅固不拔、千辛萬苦を甘しとするの覺悟なかるべからざるは、もとよりいふまでもない。



●平泉澄先生の哥

青々の子等 皆緋縅(ひをどし)の 鎧着て 今日のいくさに 馳せ向ふらむ 御印澄(帝都青々第一塾に懸ける色紙)

丈夫(ものゝふ)は かへりみなくて 一筋に けはしき道も ひとりこそ往け

丈夫は 寂しきものか さしてゆく まことの道の 友まれにして

單騎なほ 千里行くべし しかあるを 友あり同じ 斯の道を行く



 愚案、功利主義・利己主義の跳梁蔓延して、誰人も疑はざる現代に於いて、道徳千古の準則、即ち忠孝の道を堅持して、之を貫くに義勇の精神を以てするは、固より千辛萬苦を甘しとするの覺悟を要する。萬物流轉の世に在つて、吾々の依據を闡明にして、世間の聞くことを樂まざる所を、固より當然なりと受け留め、鋭意、當爲當行に力めなければならない。是れ、先哲古賢を景仰繼承する所以にして、正學に生きむと欲する者の道標である。單騎は辭せざる所なりと雖も、友あつて、同じ斯の道を行きたい。
 
 

宮城縣栗原郡の奉公。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年11月 2日(土)23時35分53秒
返信・引用
   本日は、第四百十六囘岡山縣愛國者協議會・平成二十五年十一月例會に參加。

 岡田則夫翁は、『皇居を愛する人々』を紹介、一氣に朗讀された。いつ讀んでも、泪が止まらない、と。小生も感激、參加者共々、目に光るものがあつた。昭和二十一年十二月八日、宮城縣栗原郡の「みくに奉仕團」六十名、進駐軍の監視下、家族と水盃をしての、決死の奉仕の記録。受ける宮内省も、義勇の精神が溢れてゐた‥‥。正に君臣一體の精華と謂ひつ可し矣。亦た共産黨員も、皇居清掃奉仕にて、開眼轉向の由。早速、注文。未讀の御方には、古本を求めて、是非とも拜讀されむことを。



■□■『皇居を愛する人々──清掃奉仕の記録』(昭和五十三年九月・日本教文社刊)■□■
 
 

天地の常經、古今の通義──神道の大意、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月26日(土)15時40分1秒
返信・引用
  ~承前~

 次に足下の論、不亡不死は、道理に於いてあるへからず、我が國、天壤と窮りなしとの説、もとより信じ難いといふに就いては、詳かに之を辯じなければならない。

「夫れ人や、生るれば必ず死し、王や、興れば必ず亡ぶ。必然の理なり。然れども我が王や、盛衰ありて、未だ興亡あらず。興らず、何の亡ぶことか、これあらん。天地と共に主たり、開闢と共に君たり。天地に主として、萬物に君たる者は、其の創業・埀統を言ふべからず。天地あれば、則ち氣化あり。氣化あれば、則ち形化あり。形化あれば、則ち生々して窮まらず。人物は、固より物なり。天地も、亦た物なり。これ人物と天地と、たがひに始終をなす所以の者なり。清濁、一たび判れて天地となれば、則ち上は天、下は地、位を定めて變ぜず。人物、已に生ずれば、則ち正通偏塞分れて、貴賤移らず。衆人、已に生ずれば、則ち天地の神なる者、君主となり、其の次なる者、臣民となる。君位を上天に準じ、臣位を下地に擬して、萬古改めず。かの桑田變じて海となり、海變じて桑田となるが如きは、則ち改まらんのみ。天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼なり。これ乃ち我が神教の大意なり。我が天祖ののたまはく、「寶祚の隆ならんこと、まさに天壤と窮りなかるべし」と。その祝詞たるは、則ち祝詞たり。しかも實に萬代、祝詞の如くなる者ありてたがはず。凡そ我が神州に生るゝ者は、皆そのかくの如くならんを欲して已まず。これ其の无窮なる所以なり。後來を證するに往事を以てすれば、神代萬々歳、年紀、未だ言ひ易からず。人皇に及んで年月を紀してよりこのかた、今に至りて既に二千三百有餘歳、其の間、天下の政治にあづかり給はざるもの五百歳、しかも其の之を尊奉するや、猶ほ未だ其の初に降らず、日に以て益々厚し。おのづから尊敬せざる能はざる者ありて、已むべからず。壤地褊小なるを以てして、豈に夫れ然らんや。方輿の中、我より褊小なるもの、幾何ぞ。民俗倥□[人+同]、鬼を尚ぶを以てして、豈に夫れ然らんや。我より倥□[人+同]に、我より鬼を尚ぶもの、幾何ぞ。獨り其の神を崇むるの教ありて、以て之を誘き、民、その教に化する二千餘歳といふは、實に之を得たり。神徳至妙なり。故に人、自ら之を崇む。徳なくして、強ひて之を崇むるに非ず。又た神徳至妙なりと雖も、之を崇むるの教なければ、則ち久しうして、後やまんのみ。是を以て神を崇むるの教あり、以て寶祚の窮りなきを致すは、神國神明の立つ所、地精風氣の然らしむる所なり。凡そ天の覆ふ所、日月照らす所の地に於いて、未だ我が國の如く、神にして靈、強にして威、正にして直なるもの有らず。故に威を以て奪ふべからず、力を以て爭ふべからず、逆を以て立つべからず、實に萬國に秀出する者なり。異邦の人をして、此の道ありて、以て此の王統を傳ふることを聞かしめば、則ち其の褒揚贊歎、將に言ふにたへざらんとす。而して彼の簒弑の國、以て恥となすべし。何ぞ譏議を生ずること、これ有らんや。」

 外人、我が國體を傳聞して贊歎したる一例は、之を『宋史・外國傳』に見るのである。即ち宋の大宗、我が國の皇統、萬世一系、文武百官、また世襲して絶えざるをきいて、「これ蓋し古の道なり。中國は、唐宋以來、大に亂れて革命相つぎ、大臣舊家、存續するものなし。今日、よろしく日本を範として、无窮の業をたて、大臣の後をして祿位を世襲せしむべし」といつたといふのである。之に對しては、山崎先生、批判を加へて、「彼の國の亂るゝは、豈に獨り唐宋以來の事ならんや。秦漢以來、皆さうであり、上に溯つて極言すれば、太古以來、常にさうである。我が國の如きは、實に天壤無窮の神敕、萬々歴々たり。則ち全世界に於いて、未だ曾て見聞せざる所である」と論ぜられたのである。即ち外國は、その革命の故を以て恥づべく、我が國は、その萬世一系の故を以て誇るべく、誇つて以て我が國こそ中國なりとすべきに拘らず、足下、世間俗儒の惑を脱せず、依然支那を以て中國とし、その革命の風をよしと考へ、我が國に於いても、「王者起るべし」と論ずるは、甚だ其の意を得ない。我が國、今日、王道衰微すといへども、未だ衰周の如きに至らない。衰周の世に於いてすら、孔子は、未だ必ずしも王者の起るを是認せられなかつたのである。況んや一王の神統、無窮を祝すべき我が國に於いて、「王者起るべし」といつてよいものであらうか。最も諱むべき所である。

 我が國は、開闢以來、日神の一種、萬世、統を傳へ給ひ、終ひに簒弑の事のない國である。もし徳を以て自ら王とならうといふ者があるならば、その人、たとへ堯舜の如くであらうとも、讓られる筈はなく、湯武の如くであつても、誰か之に歸する者があらう。國民は、皆いふであらう、「我が神國の王は、天照大神の尊胤にましますぞ」と。若しまた放伐の事をいふならば、凡そ神國に生れて血氣ある者、誰か奮起して、之を誅しない者があらう。抑も王者の起るを翹望するの説、往年、羽黒養潛、ほゞその端を發したのである。予は、當時、之を聞いて、たゞ一時激發の言となし、深く意に介しなかつたのであるが、しかも時々之を囘想して、終ひに養潛に不滿なるものがあつた。しかるに今や足下、亦た此の説をなすのである。今日、王道の衰微に當り、志ある者、憂慮に勝へざるに、反つて亂賊の首唱者となる。嗚呼、是れ王法の必ず誅する所、明神の必ず罰したまふ所である。昔は文天祥、宋の亡ぶるに當つて、二幼君を立て、頻りに囘復を計つて、事、終ひに成らず、囚はれの身になつて了つたのであつたが、當時、元の博羅の責むるに答へて曰く、「國家、不幸にして喪亡し、予、君を立てゝ、以て宗廟を存せり。存すること一日なれば、則ち臣子、一日の責を盡す」と。また曰く、「人臣の君に事ふるは、子の父に事ふるが如し。父、不幸にして疾ひ有れば、明かに爲すべからざるを知ると雖も、豈に藥を下さゞるの理あらんや。吾が心を盡さんのみ。救ふべからざるは、則ち天命なり。今日、文天祥、こゝにいたる、死あるのみ。何ぞ必ずしも多言せん」と。臣子の道、まさにかくの如くなるべきである。況んや此の神州、我れ人ともに、神代の祖先より、神明風化の中に覆育成長して、一王罔極の恩を受けてゐるのである。今ま萬々世に至るまで、身、匹夫たりといへども、伯夷・叔齊・魯連の志を懷かない者はないのである。足下、いふ所の藤井懶齋にして、未だ死せざれば、これも亦た國賊の一人といふべきである。予、平生、その人となりを聞き、又その著『本朝孝子傳』・『本朝諫諍録』等を見るに、甚だよみすべきものあるに、知見の一差、終ひにかくの如き亂賊となるに至つたのは、惜しむべき事といはなければならぬ。老漢、之を聞くも、頑固、容易にその思想を變へないであらうが、萬一、之を聞いて、其の志を易へ、其の説を改めるならば、これも亦た本邦神化の一であるから、もし縁あらば、足下、之を忠告せられん事を希望する。

(以下、平泉先生の評)

 以上は、木齋が鳩巣に答ふる書の大要である。流石は恭謹順厚、山崎先生に從學し、師説を崇奉してやまざりし篤信の士だけありて、鳩巣の惑を解き、妄を斥け、不臣を責め、亂逆を撃つて、餘すところなしといふべきである。而して前に述べたるが如く、鳩巣の思想が、ひとり鳩巣の思想たりしに止まらず、今日も猶ほ滔々たる一部の潮流を代表するものである以上、鳩巣を論破してやまなかつた木齋の説は、そのまゝ以て今日、學界・思想界の一大指針とすべきである。

 殊には右に、只だ假名まじりに書下したるのみにて、原文の趣を存して引用したる一節の如きは、正しく今ま我等の問題とする、最深最奧の問題を論じたるもの、我等の珍重、措く能はざる所である。即ち鳩巣が、凡そ物、始あれば終あるは、これ天地の常理、不亡不死の理のなき所、人生れたる以上は必ず死し、國興りたる以上は必ず亡ぶ。されば天壤無窮の國體の、あるべき道理はないと論じたのは、萬物流轉してやまざるを宇宙の定則とし、月は盈ちてやがては缺け、人生れてやがて死するが如く、國家も亦た興亡あるを免れず、從つて天子の位も、亦た萬古一定のものにあらずとして、結局、革命を承認したるものであり、ひとり之を承認せるのみならず、その末文、藤井懶齋に託して説けるが如く、之を希望し、之を鼓吹せんと欲したのであつて、もとゝゝ萬物流轉の易理、パンタレイの哲學、諸行無常の思想に立脚するものである。而して木齋が之を反撃して、萬物流轉は、いかにも宇宙の一法則であるが、定位不變も、亦た天地の常經である。桑田變じて碧海となり、紅顔、遂に白髮となり、生れては死し、興りては亡ぶるは、即ち流轉の法則に支配せらるゝものであらうが、しかしながら清濁、一たび判れて、天地變ぜず、人物、已に生じて、貴賤移らず、千萬世を經るといへども、天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、これ實に天地の常經、古今の通誼、神教の大意なり。況んや我が神州、天地と共に開けて、後世の建國にあらず。即ち未だ曾て勃興なきが故に、滅亡といふ事、斷じてあるべからず。されば寶祚は、天壤と窮りなく、無比の國體、威を以て奪ふべからず、力を以て爭ふべからず、逆を以て立つべからずと論じたのは、萬物流轉の世に立ちて、アルキメデスの如くに、確乎たる道徳の依據を求め、自然界に於いて天地、人生に於いて君臣の、定位ありて易ふべからざるを見出し、こゝに倫理の根本を確立して、神道の本旨を闡明し、革命の邪説を筆誅したものである。見來れば、後年、根本通明博士の發揮せられたる所、それより百六十年以前に於いて、遊佐木齋の、既に明瞭に論究したる所である。もとより是れ其の師闇齋先生の學説を承けて、之を祖述したるものであらうが、明師に就いて哲理を究め、篤信、少しも惑はず、異説を排撃し、正學を高唱して已まなかつた態度の見事さ、予は、こゝに斯の人を先生と呼んで、謹んで尊敬の意を致さうと思ふ。



 愚案、木齋先生は、鳩巣と同甲、共に四十歳不惑の論爭を拜記しつゝ、木齋先生の恭謹丁寧なる論、之を仰いで已まず、又た平泉澄先生の大文章、之に和して餘す所が無い。平泉先生の崎門への研鑽は、前の土佐・谷秦山先生、此の仙臺・遊佐木齋先生、而して水戸・栗山潛鋒先生、望楠軒・若林強齋先生を縁として、偉大崇高なる學祖・山崎闇齋先生の骨髓をつかまれて、崎門埀加の皇學が、こゝに闡明確立したと謂はねばならぬ。一字々々謹録しつゝ、知らず、泪の頬を下るを如何ともする事が出來ない。

 信に恐るべきかな哉、室直清の蓄懷、亂逆を藏することの深きを。允に宜べなるかな哉、高山赤城先生、憤怒して腐儒直清を之れ叱るを(室氏、其の號「鳩巣」と呼ぶを用せず、單に通稱にて可なり)。曰く、

「(高山赤城先生)其の書史を覽る、初め意を經ざるも、目を過ぐれば、則ち是非を剖ち、義理を析(と)くこと、精思する者の若し。甞て室直清の論著する所(『駿臺雜話』)を見、其の楠公を論じて、召に應じ、直ちに笠置に造(いた)るを以て、度量の足らずと爲し、諸葛亮が三顧して、乃ち廬を出づるの事を引き、以て之を議するに至つて、憤然として罵りて曰く、

『腐儒、何ぞ事を論ずるの迂なるや也。夫れ元弘の時、豈に三國(支那の魏・呉・蜀)と、年を同じうして論ず可けんや哉。劉漢の末、天下分裂し、豪傑、竝び起る。此の時に當りて劉玄徳なる者は、故(も)と履を販り席を織るの人、自ら稱して「帝室の冑」と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや哉。亦た猶ほ今世の奴僕が輩の、源平を號稱し、以て自ら誇る者のごとき也。孔明の三顧して出づるは、我が心に於いて、猶ほ以て速しと爲す。百顧・二百顧を累(かさ)ぬと雖も、猶ほ未だ緩(おそ)しと爲さず焉。楠公の如きは、則ち是れに異る。赫々たる天朝は、神器の在します所、六合の仰ぎまつる所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳へたまふ。普天率土、孰れか皇民に非ざらん。而して楠公は、則ち廷臣(左大臣正一位・橘諸兄公)の裔にして、畿内の民也。召命無しと雖も、豈に國家の難を視て、恬然として自ら安んず可けんや哉。天皇、蒙塵したまふを聞かば、奮然として袂を投じて起つ。安んぞ彼の諸葛が輩の爲すに效ふを得んや也。書を讀むこと是の如くんば、百萬卷と雖も、何の益かあらんや乎』と。

其の書を取りて、之を堂下に投ず」(杉山復堂翁『高山正之傳』)と。



【蘇つた遊佐木齋先生の學勳】
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天地の常經、古今の通義──神道の大意、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月24日(木)23時09分22秒
返信・引用
   濯直靈社木齋遊佐次郎左衞門藤原好生先生と、鳩巣室新助直清との往復の書状は、
第一書、元祿八年の學界人物論。
 往・鳩巣八月二十六日/復・木齋先生九月六日
第二書、元祿九年の王者論。
 往・鳩巣五月頃/復・木齋先生十月十五日
第三書、元祿十年の神道論。
 往・鳩巣二月十六日/復・木齋先生六月十八日
是れ即ち所謂る「神儒問答」と爲す(日本學叢書第五卷『神儒問答』昭和十四年十二月・雄山閣刊)。

 今は、其の第三條の神道論を、平泉澄博士『萬物流轉』の流暢なる麗筆により、之を拜記して、有志が求道參究の資に供せんと欲す。實は小生、之を拜讀、魂を搖ぶられて、深く崎門道義の學に入る契機を作したるもの、而して長年、紹介披露せんとして、猶ほ躊躇温存したるものなり。些か長文となるが、名代の國體論爭の玉章なるべし。有志に對して、切に乞ひ奉る、名文玉章の美を見て、神儒大義の存する所を等閑にすること無く、正邪の分岐、己の身に驗さんが爲め、括目して熟讀解義せられむことを。懇祷、々々。



■平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)

 是に於いて(室)鳩巣も、亦た默する能はず、あくる元祿十年二月十六日、三たび書を裁して(遊佐)木齋に與へ、詳しく意見を吐露したが、その書こそは、神道を議すると共に、萬物の流轉してやまず、從つて國に萬世一系、天壤無窮の道理なきを説き、道徳を無視し、國體を否定したものである。よつて今、その概要を述べよう。

(以下、室鳩巣の論)

 神道は、木齋の信ずる所、而して鳩巣の疑ふ所である。木齋は、頻りに其の信ずべきをいふけれども、しかも鳩巣は、之を善しとする事は出來ない。蓋し道の大原は、天に出づるのである。天に出づるが故に、道は一本である。聖人、之を承けて天下後世に教へ、天下後世、之を以て聖人の道となすのである。この故に道は、一統である。されば天の覆ふ所、地の載する所、日月の照らす所、霜露の墜つる所、人に異道なく、道に二稱なく、即ち道は世界に通じて、唯一つあるのみである。後世に及んで楊墨の道現はれ、老佛の道起つたが、しかもこれらは、實は道に反するものであつて、聖人の道と相竝ぶが如きものでは決してない。しかるに今や木齋は、或は「我が神州の道」といひ、または「我が國の神道」といひ、神道を遵奉すること、殆んど儒學の上に出て居るのであるが、いふ所の道、果して何の道であるか。もしそれが聖人の道と合はないものであるならば、則ち是れ異端であつて、我等の力を盡して排斥しなければならない所である。もしまた聖人の道と合致するといふならば、神道即ち儒教であり、特に神道と稱するの必要はない。之を神道と稱するは、「我國」の二字に拘泥してゐる爲に外ならぬ。

 聞くが如くんば、山崎(闇齋)氏は、神道を學ぶに、異國の道を以て習合するを禁じ、儒教を交へて之を説くは、猶ほ佛教に附會するに等しとして、共に之を排斥したといふ事であるが、もし果してこの言ありたりとせば、これ儒教即ち眞の道の外に、更に別の道ある事を許すものであつて、道を二本とするの説であり、その不可なる事、いふまでもない。蓋し山崎氏は、儒教の外に、我が國の道を立て、以て中國に抗衡せんと欲して、之を主張したのであらうが、これ恐らくは我が國民性の、勇を好み氣を尚び、小を得て自ら足れりとする風習、賢者と雖も、亦た免れざる者であらう。畢竟するに、これ「我國」の二字に拘泥してゐる爲に外ならない。

 鳩巣の如きは、たゞ孔孟の道を道とし、程朱の學を學ぶもの、誓つて此を以て一生を終へようとするのである。司馬温公、釋老を喜ばずして曰く、「その正しき説は、儒教以外に出でず。その儒教と合はざるものは、吾れ信ぜず」と。鳩巣は、竊かに之を取りて、以て法とするのである。今や足下(木齋)、山崎氏を稱して、元明の大儒の上にのぼせ、朱子以後の第一人者となし、又た神道を推尊して、之を聖人の道の上に加へ、之を以て我が國の最も貴き所となすのであるが、かくの如きは、世間に曾て聞かざる異説であつて、我等の驚き且つ惜しむ所である。

 予(鳩巣)の前に贈りし書中、「王者の起ることあらば」(『第二書・王者論』)といつたに對して、足下おもへらく、「かゝる言は、外國に在りては可なりとするも、我が國に於いては、斷じて不可である。我が國は、一王の神統、當に天壤と終窮なかるべく、外國の如く、王者、姓を易ふるものではない」(木齋先生の曰く、「唯だ『若し王者起ること有らば』の一語、未だ疑ひ有ることを免れず。其の王者起ると曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては、則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮りなかるべき者、諱む可きの甚だし焉」)と。これは神道者の常にいふ所であり、之を以て我が國の誇としてゐる所である。足下の言も、固より此の神道者の説より出てゐるのであらう。しかるに愚見は、之に反する。もし此の事、果して盛徳の致す所、天命の與みする所であるならば、しからば我が國の徳と道とは、支那の昔、唐虞三代に勝る事萬々であり、今更ら堯舜禹湯の法を學ぶ必要はない筈である。しかも予の聞く所を以てすれば、決してさうではない。

凡そ物、始あれば、必ず終あり。これ天地の常理なり。君子、業を創め統を埀る、繼ぐべきが爲のみ。未だ嘗て亡びざるを以て榮とせざるなり。生を保ち疾を謹む、壽すべきが爲のみ。未だ嘗て不死を以て貴とせざるなり。何となれば則ち永祚引年は、理のある所なり、不亡不死は、理のなき所なり。故に國興りて亡びざるなく、人生れて死せざるなし。三代の盛といへども、世に更へて必ず亡び、大徳の壽といへども、年を終へて必ず死す。惟ふに我が國に一王の統あり、神仙に不死の道ある、豈にそれ故なくして、然らんや。我が國、壤地褊小なるを以て、民俗倥□[人+同]なり。而して鬼を尚び神を崇むるの教ありて、以て之を誘ふ。民、その教に化する二千餘歳、常に天子を以て神孫となして、敢て褻さず。強主迭起し、國柄遞移すといへども、亦た敬して之を遠ざけ、之を度外に置き、天下に輕重なからしむ。そのより來る所は、漸なり。さきに上世をして禮樂刑政あらしめ、以て陽明の化を開いて、好鬼の俗を變ぜしめば、則ちその國を享くることも、亦た當に三代の久しきが如くなるべきのみ。是に由りて之を觀れば、いはゆる一王の統なるもの、是を我が國、風化の致す所といふは、則ち可なり。もし此を誇りて、盛徳の報、至道の應なりといはゞ、則ち恐らくは中國の人をして之を聞いて、反つて譏議を生ぜしむ。」

所謂天壤と終窮なしとは、古人道徳の至れるを讚して之をいふのであつて、道徳に於いては、正にその通りであらうが、形而下のものに於いては、あり得べき事ではない。聖神といふも人であり、國も亦た物である。而して人も物も、すべて造化の迹なるに拘らず、國、天地と窮りなしとすれば、その國は、則ち造化の規則に從はないものであり、道理に於いてあるべき事ではない。

 おもふに神道の辨といひ、一王の議といひ、足下の尊信する所であり、國民の忌諱する所であれば、もとよりみだりに之を論じて禍を招くべきでないが、今ま言論を恣にして、毫も顧慮する所のないのは、我が性、もとより疏直なるによると雖も、亦た足下、能く人の言を受くるを知るが故である。京都の藤井懶齋といふ人は、直接面會した事はないが、聞くが如くんば、有徳の隱君子であつて、孟子、王を以て齊梁の君に説くを慕ひ、慨然として曰く、「幕府、もし命あつて隱士を召さば、老衰すといへども、必ず往かう。江戸に赴いて、一たび此の義を開陳する事が出來れば滿足であり、之を一言せる後は、舌を拔かれても、悔ゐる所はない」といつてゐるさうである。足下の如きは、之を言語道斷の事として、大に憎惡するであらうが、しかも彼れ平生の志、實にこゝに在るのであり、併せて足下の反省を乞ふ所である。

(以下、平泉先生の評)

 以上は、鳩巣が木齋に答へて、神道を議する書の大要である。今ま讀過に便ならしめんが爲に、眼目をなす一節の外は、すべて要を摘み文を改めたのであるが、要を摘んで、猶ほこの長さを存したのは、この論の關する所、今日に於いても、極めて重大なるが爲である。即ち鳩巣の論は、文辭簡古にして、胸をうつ痛切ではないが、若し之を現代語に飜譯するならば、學問に國境なしとして、專ら外國の學に耽溺し、日本の傳統を無視して、之を顧みず、世界主義を奉じて、最も「我國」の二字を忌み、神敕を信ぜず、國體を思はず、外面、之に和するが如くであつて、しかも内心、之を哂ふ所の、滔々たる學界・思想界の風潮を、殆んどそのまゝ代辯するものであり、讀過再三にして、深く之を思へば、邪説の横行、昔なほ今の如く、今なほ昔の如き、歎息、之を久しうするの外はない。

 或はいふであらう、是等の思想は、之を等閑に附するも大過なく、餘りに嚴密に之を責むるは、頑固の譏りを免れず、頑固に過ぎては、却つて反逆の思想を挑發するのおそれなしとしない、と。しからば乞ふ、鳩巣の書の末尾に附記せる、藤井懶齋の志を見よ。懶齋は、何を以て一生の志願としたのであるか。舌を斷たれて、猶ほ且つ悔ゐずといふ彼の、幕府に向つて入説せんとしたるは、抑も如何なる説であつたのであるか。即ちそれは、孟子が齋梁の君に説いた所を説かうとしたのである。これ以上は、最早こゝに解説すべきであるまい。我等は、むしろ彼の舌を、その未だ幕府に説かざる前に於いて拔かん事を欲するのみである。懶齋は、もと眞邊仲庵といひ、筑後久留米の人であつて、醫を以て有馬侯に仕へたが、後ち致仕して京に住した。その學は、初め陽明學を主としたが、やがて闇齋先生に師事して、其の教を受け、後に師説にそむいて、別に一家をなし、最も中村□[立心+易]齋と親しかつた。またその姓名を改め、本姓藤井に復し、之を支那風に飾らうとして、滕といつたといふ[『日本道學淵源續録』・『先哲叢談』]。査檢し來れば、彼が邪説を包藏するは、その經歴の間に於いて、既に現れて明瞭なりといふべきである。しかるに室鳩巣は、いまだ半面の識なくして、いたく之を推尊したのである。しかもその推尊の理由、彼の邪説の最も惡逆危激なる點に存したのである。

 木門(木下順庵の門下)の俊傑として、文名、一世に高く、早く加賀藩に重んぜられ、やがて幕府の儒員に擧げられ、將軍の命をうけて、『六諭衍義大意』等を著はし、當時、天下の木鐸を以て自ら任じ、後世に至るまで大儒の名を恣にした所の鳩巣は、實にかくの如き不正邪僻の思想を懷いて居つたのである。木齋にして、若しよく崎門の正學を傳へ得たりとするならば、必ずや之に對して、堂々の筆陳を張り、僻説を論破して、大義を宣揚しなければならぬ。果せるかな、彼は同年六月十八日、再び一書を裁して、之に答へた。その要旨は、左の通りである。

(以下、木齋先生の論)

 足下、神道を無視して、或は「所謂神國の道とは、果して何の道ぞや」といひ、或は又た「山崎氏、晩年神道を好み、人をして失望せしめた」といふ。之を見るに、足下も亦た滔々たる世間の儒者の見解を免れざるもの、まことに嗟嘆に勝へないのである。それ思想邪僻なれば、心に生じて政を害し、政に發して事を害するもの、楊墨の利己主義・博愛主義の偏僻は、必ず君父をなみするに至り、老氏の害は、禮義を廢し人倫を亂るに至り、佛教の害は、直ちに人倫を絶滅するものであり、その他、權謀術數及び百家の如き、いづれも害があるが故に、聖賢、之を異端として大に排撃し、之を技術として甚だ鄙下したのである。しかるに我が神道の如きは、天理に本づき、陽明を好んで陰濁を惡み、君臣上下の道を重んじ、父子骨肉の親を厚くし、禮義を正しくし、正直を尊ぶ所の教である。今ま足下のいふが如くんば、神道を以て大節を失ひ異端に陷るものとして、之を憎惡するのである。研究する所なくして、みだりに我が王國の道を異端として斥くるは、最も愼むべきであらう。

 足下の論、道は一本、儒教の外に、之と併立する所の道はあるべきでない、神道にして儒教に合はなければ即ち異端であり、合へば即ち儒教、別に神道の名稱を必要としない、之を特稱するは、「我國」の二字に拘泥しての事であるといふ。いかにも道は一本、ひろめて之をいへば世界に通じ、天下の公共なるものであらう。たゞ我が國に於いては、神々よく神理に通じ、天道に合し、自ら天下の君と爲り、天下後世を教へられるのである。よりて後世、之を神道としてたつとぶのであるが、神といひ、天といひ、人といひ、皆な一理なるが故に、或は之を天道といつてもよく、また人道と稱しても差支へないであらう。たゞ神々の教へ給ふ所なるよつて、神道と稱し來るのみである。人倫を正す本旨よりいへば、固より儒教と異なる所はないのである。初め儒といふ名のなかつた以上、之を儒道といふべきではなく、之を我が國の神道といひ、我が神州の道といはなければ、一體、之を何といふべきであるか。我が國に於いて、初め儒道を知らなかつた事は、支那の我が神道あるを知らざると同じ事である。道、もと一本、本旨、全く同趣であつても、土地風氣、相違して、説く所、小異あるは當然である。儒教の中に於いてさへ、孔子は專ら仁を教へ、孟子は兼ねて仁義を説き、子思は誠を説き、周子は無極を説き、程子は敬を説くといふ風であつて、必ずしも一樣でなく、互に相發して、此の道を明かにして居るのである。果して然らば神道を學ぶ者も儒教を學ぶべく、儒教を學ぶ者も神道を學ぶべく、相互に參考發明するは、最も望ましい事ではないか。たゞ其の際に注意すべきは、牽合附會、みだりに兩者を混淆して、その理脈を紛糾せしめてはならないといふ事である。もしそれ足下の、我が輩を指して「我國」の二字に拘はるを歎息すといふに對しては、我が輩は、足下が「我國」の二字を知らざるを歎息するのみである。我が國に生れて、我が國の道を學ばず、之を歎かずして、抑も何をか歎くべき。

 「我國」の「我」は、親愛の意を表はす詞である。しかるに足下は、予の「我國」といふを非難しながら、己は「我聖人之道」と稱してゐる。父母の本國は、之を親愛せず、萬里遠隔の異邦は、之を親愛するといふのは、結局、「聖道」の二字に拘泥してゐるのである。國の尊卑は、もとより國土の大小廣狹によるものではない。國土の廣大をいへば、我が日本國より廣大なるもの、いくばくあるや計り難いが、それらの國は、皆な我が國より尊いのであるか、それとも卑しいのであるか。道を知る上に於いて、我に勝つてゐるのであるか、劣つてゐるのであるか。我が神州の如きは、四方萬國にすぐれて、神の開き給ふ所、世々統を傳へ給うて、天壤と窮りなきもの、まことに他邦と年を同じうして語るべからざる國である。

 但し足下は、我が國古代の禮樂刑政、典章文物、即ち一言にしていへば、古代の文化が、支那の古代、唐虞三代のそれに及ばないといふであらう。蓋し我が國に於いては、一王一統の治、よく太平無事の化を致し、必ずしも制度典禮の發達を要しなかつたのである。支那に於いても、太古はその通りであつた事、程子のいふ所に見、楊子のいふ所に考へて、明瞭である。それが唐虞に至つて、初めて法度典制を立て、三代に至つて、益々備はつて來たのは、彼の邦に於いては、明王、異姓かはるゞゝゝ起るが故に、新たに位に登つては、天下の耳目を一新しようとして、正朔を改め、法度を更へ、頻りに文物を修飾しようと努めた爲である。我が神州の如きは、もとより一王の治であつて、禮樂を制し、制度を立つるに汲々たる必要がなく、從つて文化の發達がおくれたのである。而してそのおくれてゐる間に、支那に於いて先づ發達した文物を、後世、彼我の交通の盛になつて後、自由に採用して、用ふべきを用ひ、則るべきに則り、自ら製作するの煩勞を省いただけの事である。

 我が神書・皇書は、惜しいかな、大化改新の際、蘇我氏の兵燹に焚かれて、其の全書を傳へないが、『神代卷』及び『中臣祓』等によつて察すれば、古代に於いて、道理、既に悉く皆な具はつてゐたのである。たゞ後世、その訓を失し、その傳を誤り、遂に明かならざるに至つたのであるが、幸に山崎先生出でて、之を註解し、それより相ついで此の道を講明する者が現はれて來たのは、天意といふべきである。而して「この神道を講ずるに當つて、異國の道を習合すべからず」とは、正しく山崎先生の言である。蓋し未だ神道の傳ふる所を解せずして、みだりに儒教を以て之を註釋すれば、牽強附會、條理を紊り、血脈を失ふ弊に陷るが故に、之を禁ぜられたのであつて、中世、神書を解するに佛説を以てしたのが、近世、その非を悟つて、佛説の習合を排するに至つたものゝ、却つて儒教をまじへて之を説く者があるので、特に之を誡められたのである。佛説を混ずるも、儒教をまじふるも、その混雜して醇粹精一ならざるに至つては、則ち一である。

~續く~
 
 

貧に安んずる、皇國傳家の精神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月19日(土)18時22分6秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 平泉澄博士は、『萬物流轉』の「險難の一路」に於いて、谷秦山先生を擧揚された。「谷秦山先生は、世の必ずしも嘖嘖もてはやさゞるところ、而して予の讚歎敬慕、措く能はざる哲人である」として、次の五條を數へられた。

一、求道の態度。
一、貧に安んずるの態度。
一、學問の筋の、最も正しかつた事。
一、義に勇み、正を履んで、少しも恐るゝ所なかつた事。
一、先生の精神、よく其の子孫に傳はり、忠誠、前後を一貫してゐる事。

 今は、其の第二條の論を、拜記させて戴かうと思ふ。「安貧」は、土佐谷家傳來の寶刀、前に谷干城子の清貧、よく父祖を嗣ぐを見た。小生の仰いで已まざる所以、即ち是である。

 分に應じた偶の贅澤は、父祖勤勉の御蔭、之を許されよう。然し清貧に安んずると云ふは、史上稀有の飽食、惠まれた今中に在ると雖も、固より社會生活の基礎であらう。幸ひにして餘剩あらば、社會に還元奉還すればよい。大西郷の無慾は天賦のもの、眞似も出來まいが、愼ましき生活は、古來、皇國武士傳家の精神にして、殊に道義に生きんと欲する者にとつては、實に道樂道福、靖安なるかな哉。



●平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊)

 第二は、其の貧に安んずるの態度である。先生の家は、もと世々土佐の國長岡郡江村郷八幡宮の神職であつたが、中頃、長曾我部氏に仕へて武士となつた。慶長年間、長曾我部氏亡び、山内氏代つて入國するに及び、長曾我部氏の遺臣、やむを得ずして農耕に從ひ、いづれも貧困に陷つたのであつたが、谷家も亦た御多分に洩れず、後に藩老・野中兼山、長曾我部氏の遺臣を擧げて郷士とし、地を與へて田を開かしめ、谷家も亦た之にあづかつたが、しかも家計は決して樂でなかつたらしく、先生の父・重元の代には、先生の筆に成る『谷氏族譜』に、「中年以來、家産、益々落つ」とあり、而して先生の時に至つては、先生の『小傳』に、「元祿元年、父重元卒す。家貧にして、葬ること能はず」と見えて、その窮迫の状、想像に餘りある。前に記した先生の上京遊學も、殊には藩に於いて登用して祿を與へようといはれたのを斷つての再度の上京も、この貧困のうちになされたものである事を思はないでは、眞に先生の熱烈なる求道の精神に觸れる事は出來ないのである。

 先生は、既にかくの如き貧困のうちに在つて、祿を求めずして、道を求められたのである。しからば道を得て貧に安んぜられたのは、もとより當然の事でなければならない。先生が道を樂しんで、窮乏を意に介せられなかつたに就いては、こゝに二つの例を擧げよう。一つは、先生、外出の衣服に事缺かれた例である。即ちその『美代重本に與ふる書』の中に、

「某、明日、將に先塋を豐岡に省せんとす。驢馬は、已に依光に取れり。但だ鶉衣百結、往往、體を蔽はず。貴下、木綿の袷衣、敢て一領を借らん。垢・潔を問はず、只だ破綻せずして足れり。愚拙、由也が恥ぢざるに愧づと雖も、賢兄、よろしく子路が憾なきに志すべくんば、幸甚、幸甚。」(『秦山集』)

とあるもの、之を示す。豐岡の先塋といふのは、谷家先祖の墓、豐岡に在るを指すのであつて、今日、之を尋ぬるに、岡豐の村[古いものには、豐岡と見えてゐるが、今日は岡豐と書いてゐる。ヲカウとよむのである]より西して、右すれば高知に至り、左すれば大津に至る追分道を、左に進む事しばし、間もなく右手に現はるゝ丘の上にあるのであるが、土崩れ落ち薄生ひ茂つて、道とも思はれぬ道を登れば、叢の中にいくつかの墓の散在するを見る。但し一々標記するところなく、果して其のどれゞゝが先生の先塋であるか、明かでないが、たゞ祖父と祖母との墓は、墓石に銘あつて、直ちにそれと知られるのである。即ち祖父の墓には、「谷甚右衞門墓。寛文六年十月二十七日」と記され、秦山先生の筆に成る『谷氏族譜』に、祖父・神右衞門の傳を述べて、「寛文六年丙午十月二十七日甲戌歿、年七十九。前山に葬る」とあるに合ふのである。たゞ「甚」と「神」と、文字を異にしてゐるが、蓋し甚を以て世間に通用し、神を以て家に傳へたのであらう。この祖父・神右衞門は、是れ亦た毅然たる大丈夫であつて、藩老・野中兼山、長曾我部氏の遺臣を召出して郷士とした時、くわしくその系譜と武功とを調査し、長曾我部氏の感状をもつてゐなければ、之を許さなかつたのであつたが、たゞこの谷神右衞門、一言を以て保證すれば、文書の有無を問はずして、之を郷士に擧げたといふ事である。兼山は、もとより豪邁嚴毅の士、容易に人をゆるす筈はないのであるから、その兼山に信用せらるゝ事、かくの如くであるのを見れば、神右衞門の風格も、自ら想察せられるのである。さて秦山先生は、此の豐岡の墓へ參らうとして、己の衣服破れて體を蔽はず、到底、外出し難きを以て、木綿の袷一枚の借用を、友人に依頼せられたのである。

 今ま一つは、先生窮乏の甚だしき、往往絶食せられた事である。即ち『美代重本に與ふる』別の書に、

「某、去年乏絶の中、時に或は粮を斷つ。某は則ち男兒、何を以てか顰蹙せん。たゞ一僕、困頓、見るに忍びず、つねに之に苦しむ。今年は則ち乏絶中の乏絶、故を以て、月の初め、一僕を遣り歸し、兀然獨坐す。」(『秦山集』)

云々とあるもの、之を語る。これは當時、友人、先生の自炊に同情し、金を集めて一人の下男を傭ひ、之を先生に寄附しようとしたのに對して、厚くその親切を謝すると共に、固く之を斷られた書状の一節であるが、今ま之を讀んでは、心、實に黯然たらざるを得ないのである。清貧に安んずといひ、窮乏に甘んずといふ。口にいへば易く、文字に記して美しいが、實地に之を驗し、實境に之を味へば、痛苦、骨を削り、憤懣、心を亂して、自如たり晏如たる事、もとより容易ではない。しかるに秦山先生は、外出するに衣服なきばかりでなく、食するに物なくして、往々絶食するといふほどの困厄の中に在つて、靜かに學を究め、樂しんで道を講ぜられたのである。これ、予の深く先生に服する第二の點である。



 愚案、谷秦山先生の清貧、固より崎門、即ち山崎埀加先生が皇國道義の學を承けしに由る。或は誤つて崎門三傑の名を恣にする三宅尚齋に對して、訓戒、猛省を求め、或は豪邁木強、自ら信ずること最も厚き淺見絅齋先生をして、晩年、遂に神道に志あらしむる契機を作り、而して闇齋先生神儒の學問の骨髓、また闇齋先生捐館の後は、澁川春海先生の天文暦學の神髓を傳へて、遙か海南の地に「日本の學」(『秦山集』卷十四「私講□[片+旁]諭」)の大旆を掲げたる秦山谷先生、實に皇國にとつて忘るゝ事があつてはならぬ哲人である。

【秦山先生の學風】
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 「よく愚妻と喧嘩になるのが、老後のこと。病氣になつたらどうするの、とか、葬式を出すお金も無い、と云ふんだ。僕はなるべく話をそらせるやうにしてゐるが、右翼は老後を考へてはいけないんだ。若し老後を考へるなら、運動をするべきぢや無い、即刻やめたはうがいゝ。右翼は大義のために生きてゐるんだから。色んな挫折感を繰返し味はつて、本物の右翼になつて行くんだ」(別册宝島編集部編『平成元年の右翼』平成元年五月・JICC出版局刊)と語つた、平成元年に四十五歳だつた平澤次郎翁。其の翁の原稿「皇道の語源」を、『皇道日報』復刊第二號にて拜見。平成豐饒の中今、秦山先生の時代とは比較になるまいが、ふと想起した次第、皇民の心得としたい。老翁のご健筆を祈る。
 
 

平泉澄先生の觀る、谷干城子爵。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月17日(木)23時57分14秒
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   平泉澄先生は、大正四年九月、東京帝國大學文科大學(後の文學部)國史學科に入學。下記は、其の翌月、即ち十月、西洋史の坪井九馬三教授(史學の最長老)の史學概論演習問題に對する答案の、極く一部である。因みに全體綜括の批評には、「考證極精。坪井妄評」と。



●平泉澄先生『谷干城の漢詩』(大正四年十月稿。先生二十一歳。『芭蕉の俤』昭和二十七年五月・日本書院刊の「附録・銀杏落葉」に所收)

○偶成 谷干城

爭取銖錙費如塵 絃歌湧出滿城春

煌々金殿夜明晝 不照寒村菜色人

 「銖錙」は、共に量名。こゝには金錢といはんが如し。「如塵」、干城の『詩集』には、「似塵」に作る。「夜明晝」、字の如くなる時は、夜、明かなること晝のごとし、とよむべきなり。されど『干城詩集』には、「夜如晝」とせり。思ふに、草字に於ては、如と似と、明と如との、混じ易きより來れるあやまりなるべく、この詩が仄起なるを以て、如塵が似塵の誤りなるは明らかなるも(如は平、似は仄)、夜明晝は、明とするも、如とするも、共に平にして、平仄の法に悖る事なきが故に、是非を判定する事難し。「菜色」は、青くしをれたる顔色、『禮記』に、「民に菜色なし」とあり。

 谷干城は、土佐高知の士、家系を檢するに、有名なる谷重遠(愚案、海南の哲人・秦山先生、是なり)五世の孫に當れり。この家、代々學を好み、才幹に富む。干城が父祖よりうくる所、知る可きなり。干城、天保八年丁酉二月を以て生る。幼より學を好み、江戸に遊んで、安井息軒の門に入る。歸國後、小監察、大監察に歴任し、東北の亂るゝや、軍に從ひて功あり。やがて陸軍少將となり、熊本鎭臺司令長官となる。明治七年、臺灣の役に赴く。後、一時職を辭せしが、九年十一月、再び熊本に司令長官たり。十年の亂に、孤城固守の功は、普く世の知るところ。翌年、中將に昇進し、十八年、農商務大臣となる。已にして歐洲に遊び、歸朝後、伊藤内閣の歐化主義に反對し、假裝會・舞踏會等の宴遊の弊を痛論し、又た條約改正の議に合はず、遂に職を辭して國に歸り、沿道至る所、盛なる歡迎を受けたり。その後、民間に優游して有志を鼓舞し、二十三年、貴族院議員となりて、正論□[言+黨]議を以てあらはれ、四十四年五月十三日、七十五歳にして薨ず。

 人となり、忠醇廉潔、名譽を見る事浮雲の如く、富貴に對する事塵芥に似たり。躬を律する格勤、論を立つる硬直、實に近世、罕(まれ)に見る所の國士なり。息軒の門に、雲井龍雄と窓を同じうするや、龍雄の氣を以て勝るに對し、干城は徳を以て勝れりといふが如き、『優然集の序』に、「金屋大廈は、人の欲する所ろ也。吾子に利ならざれば、捨てゝ顧みず云々」といへるが如き、『長岡公使を送る詩』に、「飽食暖衣、看ること塵の如し」といへるが如き、墺國にありて、母國歐化主義の狂態を聞き、『憤慨の詩』を作りしが如き、『日露開戰の期、迫りし時の詩』に、「富貴巧名、白雲に對す」といへるが如き、さては柴四朗が「清廉寡慾の人」と評し、柏堂が「至誠憂國の士」と評し、富田鐵之助が「清廉潔白の人」といへるが如き、皆な以て干城の面目を見るべし。

 殊に農民を憐むの情厚く、何れの時にも増税案に反對し、政費を節減して民力を休養せしめんとし、議會開設の當初も、當時、盛に行はれし歐化主義に反對して、勤儉尚武の氣風を作るべしと論じたり。『新春有述の詩』に、「寒去暖來、未だ雪を看ず。農家、果して隱憂有りや不や」といひ、又『貧民行の詩』に、「村落、煙稀れに、雨雪急なり。東風、何れの日か、悲慘を解かん」といへるが如き、仁慈の丹誠を見るべし。

 『偶成の詩』、亦た彼れが滿腔、憂國憐民の至誠の流露せしもの。賦作の年代、明かならずと雖も、『干城詩集』配列の次第より推し、又た三十三年一月一日の日記に、

今年の税、去年の税より重く。今年の寒、去年の寒より寒し。
妻兒は、飢ゑを訴へ、號き且つ□。□、昇平に屬するも、安んずる所ろ莫し。
羨み聞く、城中管絃の響き。羨み見る、高楼、興、更に闌なるを。
嗚呼、普天之下、皆な王土なるに。幸福、獨り□、此の長官。
村落、煙稀れに、雨雪急なり。東風、何れの日か、悲慘を解かん。

の詩あるによりて考ふるに、恐らくは日清戰爭後、數年の間にあるべし。

 時に在朝の士は、戰勝の好夢、醒めやらで、春光の搖蕩する所、永く歡樂の美酒に醉ひ、爭つて金銀を取つて費す事塵の如く、朝遊夕讌、歡愉の極を究め、瓊筵を開いて以て花に座し、羽觴を飛ばして月に醉ふ。煌々たる金殿に、紅蠟滿ちて、夜明らかなる事、さながら晝に異ならず。

 さはれ飜つて寒村の百姓をかへりみるに、税重く、澤少なく、妻は寒をかこち、兒は飢を訴ふ。營々辛苦、努むる所多くして、得る所少なし。顔色、菜に似て青く、形容、枝の如く痩せたり。廟堂の春、こゝに來らずして、衾、水の如く、金殿の燈、こゝに及ばずして、茅屋暗し。

 嗚呼、何等悲慘のコントラストぞ。かくの如きは、干城が憂悶、措く能はざる所、詩を作りて以て懷を放りしもの、詩は、これ蓬莱(我が皇國)の文章にあらざるも、しかも讀む者をして惻々として感動せしむるは、干城が至誠、その中にこもれるが爲なるべし。



【隈山谷干城子】
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忠勇義烈、滅私奉公は、臣子の大節なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月15日(火)19時15分53秒
返信・引用 編集済
 

~承前~

●東京帝國大學總長・國本社副會長・男爵・山川健次郎博士『乃木大將への感謝状』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 旅順は、東清の咽喉にして、露國の據つて以て東亞を窺ひし處なり。其の地たるや、山海の險を阨し、峰巒環合、港灣深固、露國、以て要塞となし、經營十年、人工を窮極し、號して難攻不拔と稱す。將軍、第三軍を督し、聯合艦隊と水陸相應じ、合圍半歳、奮戰挌鬪、其の堅壘を拔き、其の巨艦を殲(つ)くし、遂に敵帥をして手を束ねて降を乞ひ、城を開きて命に歸するに至らしむ。其の戰鬪の烈、勳功の偉、古來、未だ比類を見ず。是れ聖天子威徳の隆赫に由ると雖も、亦た將軍以下、忠誠勇武、鞠躬盡瘁の致す所と謂はざるを得ず。

 夫れ鋭を挫き強を破り、命を土芥(とかい)に比し、公の爲めに私を忘れ、以て君國に盡くすは、臣子の大節、而して將軍以下、實に是れを以て終始とす。豈に所謂「道理、心肝を貫き、忠義、骨髓に填む」(蘇軾『李公擇に與ふる書』に、「道理、心肝を貫き、忠義、骨髓に填め、直ちに須らく死生の際に談笑すべし」と)るに非ずや。獨り國威を中外に發揚するのみならず、東亞治安の端も、亦た將に是れに由つて開かれんとす。

 健次郎等、此の盛時に際し、其の關係する所、重、且つ大なるを以て、感激に堪へず。功勞を稱贊し、復た辭の口を衝いて出づるを禁ぜざるなり。



●山川健次郎博士『東郷大將への感謝状』(同上)

 征露の師は、東亞治亂の關紐(かんちう)にして、我が帝國安危の係る所なり。聯合艦隊は、國家の重寄を負ひ、其の機先を制し、首めに旅順・仁川を衝きて、奇捷を奏せしより、艦を碎き港を封じ、連戰連勝、其の海權を收め、遂に旅順攻圍軍と水陸相應じ、神機百出、利器を妙用し、敵をして氣沮み膽落ち、復た戰ふ能はず、其の東洋艦隊を擧げて全滅するに至らしめ、以て旅順の降服を速やかにす。此れ我が皇上威徳の遠覃(えんだん。遠くまで及ぶ)、廟算素定の致す所に由ると雖も、抑々亦た將軍の指麾、宜しきを得て、萬衆一心、左右相助け、忠勇義烈、命を鴻毛に比し、以て報效を圖るの結果に非ざるはなし。

 顧ふに旅順開戰以來、茲に十有餘月、風濤の險、寒暑の變、朝夕を測られず。而して百難を排し、萬難を凌ぎ、堂々たる艦隊、渤海の形勝を扼し、終始威嚴を失はず、以て露國第二艦隊の東航を邀撃するの餘勇を示す。將來の深謀遠慮を以て、精鋭無比の艦隊を率ゐ、益々我が武を宣揚し、以て有終の美を收めんこと、健次郎等、切望して措かざる所なり。

 茲に東旋(東歸)を機とし、其の偉勳を頌し、併せて前途の成功を祝す。



■平泉澄博士『山川總長』(『芭蕉の俤』昭和二十七年五月・日本書院刊の「附録・銀杏落葉」に所收)

 私が(山川)先生から受けた印象は、悲壯なる憂國の士といふ感じである。それは、單なる愛國では無い、今一歩深くふみこんで、國の前途を憂慮するといふ、痛切なる至誠である。かやうな感じを、強く私に與へられた先生は、考へて見ると、他に類例がすくないと言つてよい。これはやはり會津藩の運命、從つて先生が少年時代の經歴に負ふものであつて、その險阻艱難が、かゝる風格を養ひ來つたものであらう。‥‥

 山川先生は、快く(平泉を)引見して、くわしく(大正八年の壹岐・對馬の史料採訪の)報告を聞いて下さつたが、先生が興味をもたれたのは、主として蒙古襲來の際の史料や史蹟であつた。いふまでも無く、對馬と壹岐とは、文永・弘安の昔に於ける硫黄島であり、沖繩であつた。文永十一年、蒙古・支那・朝鮮、聯合して兵數凡そ三萬、九百餘艘の船を連ねて來襲した時には、對馬に於いては、守護代・宗助國、一族郎等を擧げて、わづかに八十餘騎の小勢ながら、少しもためらはず迎へ討つて、さんゞゝに敵をなやまし、遂に壯烈なる戰死を遂げ、壹岐に於いては、守護代・平景隆、百餘騎を率ゐて善戰し、城陷るに及んで、自害して果てた。弘安四年には、對馬には襲來しなかつたが、壹岐は再び侵寇を受け、小貳資能入道覺惠の孫・資時、奮戰したが、衆寡敵せず、遂に討死した。この時には、祖父の資能も、八十四歳の老齡ながら、博多に防戰して負傷し、その疵の爲に、やがて死んだのであるが、資時は、其の子・經資の三男といふ事であるから、恐らくはまだ二十代の若武者であつたらう。二十代の若武者にして、壹岐守護の全責任を負ひ、遂にこゝに戰死したのである。その墓には、後々に至るまで、武器を供へて祭るならはしで、松の木の下に之を弔ふ時、まことに感慨の深いものがある。山川先生は、さういふ話を、しづかに聽いて下さつたが、最後に私に、一喝をあびせかけられた。

博多には、隨分目ざはりなものがあるではないか。何故、あなたはそれを、玄界灘へ投げ込んで來なかつたか。

一語雷霆の如く、今も私の耳朶をうつのである。



 愚案、學生時代、越前平泉寺の白山神社に於いて、平泉澄先生の先哲遺文講義あり。其の節、「白山寶藏・元寇戰利品の銅鑼」とて、先生、彼の銅鑼をたゝき給うた。其の音色は、今も之を忘るゝことが出來ないでゐる。
 

 

絶代の先哲・橋本景岳先生と、晩學の青年・伊能東河翁と。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月14日(月)22時04分43秒
返信・引用
  ~承前~

●日南福本誠翁『橋本左内』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收。愚案、題「橋本左内」は、玉章の呼稱と調はず、編者の附する所と爲るか。宜しく必ず「橋本景岳」と題す可きなり矣)

 人生二十二三歳といへば、是れ盛春の一青衿のみ。而も藤田東湖は、之れを偉器とし、川路聖謨は、之れを畏敬し、武田耕雲齋は、之れを贊嘆し、一時の名流、皆な爭ひて之れと交を訂(たゞ)したりと聞けば、(橋本)景岳の人となりや、身材魁梧、意氣軒昴、威風、人を壓し、一世を睥睨するの人なりしならんと想望せらるべし。何ぞ知らん、其の人は、身長五尺を出でず、白皙纎妍にして、状貌、婦人の如く、其の性も、亦た温粹謙和にして、嘗て人と爭ひたることあらざりきとぞ。然も其の人、一たび節に臨み事に當れば、侃論(剛直の論)正言して、少しにても屈撓せず、必ず其の所志を徹底し、其の委曲を竭盡せざれば已まず。是れを以て人、皆な其が誠意に服したりと云ふ。

 之れを證すべき一佳話あり。景岳、一日、江戸の水戸藩邸に在る原田某が曹舍に於て、西郷南洲に邂逅したりしが、共に多く語を交へず。南洲は、景岳の状貌を觀て、一の「ハイカラ」書生と爲し、心に頗る彼れを慢侮せり。後ち數日にして、景岳、往きて南洲を薩摩邸に訪ひ、國事を談ず。南洲、時に健兒を會して、庭前に角力を取りつゝあり。冷然として、景岳に謂つて曰く、「予は、未だ國事を知らず。唯だ角力を事とするのみ」と。景岳、聽かず。諄々として天下の形勢より、未來の安危を論ず。言々肯綮に中り、凱切を極む。蓋し當時の志士たる、概ね外藩草莽の徒なれば、多くは幕府の機密を知らず。故に其の論議畫策する所も、亦た多くは胸臆揣摩(しま。憶測)の外に出ず。南洲翁と雖も、亦た其の一人たるを免れず。獨り景岳は、夙に幕府の懿親(いしん。親戚)たる春岳公に識られて、公の密勿(みつふつ。機密の政務)に參したれば、其の幕情を知ること、指掌の如く、隨ひて其の着眼も、亦た高處・遠處・大處に在り。南洲、景岳の談を聽くこと暫くにして、瞿然(くぜん。驚く貌)として容を改め、畏敬、其の辭色に現はる。翌日、南洲、答訪して深く前の無禮を謝し、是れより二人、莫逆の友となりきと云ふ。此の頃、薩摩の加治木翁、來訪せられたれば、談、此の事に及ぶ。翁、我れに語りけらく、「南洲の晩年に、人の之れに對して、景岳の人となりを問ふ者ありしに、南洲は曰はく、『之れを刀劍に譬へんか。橋本は畏るべき名作の新刀なりき。外觀、甚だ美ならざりきと雖も、其の切味の鋭利なる、實に海内無比なりき』」と。英雄、自ら英雄を知る。南洲の此の語、以て景岳の小傳に充つべし。而して其の刀や、惡魔の殺人刀ならずして、天神の活人刀なりしなり。

 重野安繹(成齋)、命を奉じて、君の碑文を草するや、景岳・南洲の際會に言及して曰く、「嗚呼、君の達見老識、豈に慷慨□[手+益]腕(やくわん)、快を一時に取りて、大計を知らざる者の比ならんや乎哉。誠に其の生をして中興の際に及び、西郷隆盛等と左提右□[契の上+手](互に相助け合ふ)して、鴻業を贊成せしめば、則ち其の勳績赫々、典型(模範)を天下後世に貽(のこ)しゝこと、顧ふに果して如何ぞや耶。而して隆盛、素と君を推服したれば、其の匡益に頼りて、以て晩節を全くするを得たらんも、亦た未だ知る可からず。豈に重く惜しむ可からざらんや哉」と。其れ或は然りつらんか。春畝老人(伊藤博文公)、太(はなは)だ尊大、人に於て許可すること鮮(すく)なけれど、景岳に對すれば、今ま尚ほ「橋本景岳先生」と呼べり。其の人の器宇識見、一世に空しくするものあるに非ずんば、安んぞ斯くの如く、英俊の崇敬推重を一身に萃(あつ)むるを得んや。

 景岳の行事に關し、特筆大書すべきは、所謂公武合體の擧を策成せんが爲めに、大飛躍を試みたるに在り。安政五年の我が國を囘顧すれば、將軍家定公、俄かに薨じて、幕府に儲君なく、人心、爲めに恟々(不安)たり。當時、景岳は春岳公を助け、水戸烈公の長子にして賢明の聞こえある一橋慶喜公を迎立して、公武の間を調和し、以て國難を救はんことを志せり。時に井伊直弼、大老たり。慶喜公の賢明にして制し易からざるを想ひ、紀州の一公子を迎立して、己れ依然威福を擅にせんとせり。景岳、乃ち意を決して京都に上り、青蓮院宮を始め、鷹司・三條等、□[手+晉]紳諸家の間に周旋し、傍ら天下の志士と協謀し、外國との條約は、敕許批准を朝廷に請ひて、而る後ち實行する事とし、將軍の儲貳は、賢明・年長・輿望を兼ね備へたる一橋家を擁立すべしとの降旨を内定し、將に公表せられんとするまでに至らしめたり。是れ實に二十五歳の一青衿・景岳の手に由りて畫策せられし所なりき。惜しいかな、其の事、幾(ほと)んど成るに埀んとして、奸物輩に沮止せられ、井伊直弼は、遂に將軍家茂公を策立し、同時に所謂安政戊午の大獄を起して、海内の志士を羅織(無辜を網羅して、其の罪を織り成す)し、景岳、陪臣の身を以て、僭越亡禮の擧を企てたりと罪状して、之れを獄に下し、翌年十月を以て、終ひに彼れを小塚原に刑死せり。景岳、時に僅かに二十六歳なりき。

 是に至りて我れは、懇ろに天下の有爲の青年に告げんと欲す。景岳が十餘歳、螢雪の苦行は、最後の一年間の大飛躍を準備し、最後の一年間の大飛躍は、其の人を不朽にし、帝國歴史の在らん限りは、之れを天下後世に傳へ、人をして景仰已まざらしむ。彼れが絶倫の天資は、人々の企及し易からざる所なりとはいへ、彼れに不朽の生命を得しめたるものは、抑々彼れの自奮に由れり。天下の青年、手を咬みて痛痒を感じなば、爾(なんぢ)の身體には、温血あり。爾の身體あらば、爾は、爾其れ自身に樹立する所以を思へ。自奮なるかな、自奮なるかな。



【矢嶋立軒先生『啓發録の敍』】
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【平泉澄博士『景岳先生と大西郷』】
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【備中處士「橋本景岳と書して、橋本左内と呼ばない理由」】
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●露伴幸田成行博士『伊能忠敬の晩學』(同上)

 忠敬(東河と號す)、年十八にして、伊能氏の養嗣子となり、五十歳にして、家を其の子景敬に讓るまで、自ら抑へて平々凡々の人となり、一意專心、唯だ伊能家の衰へたるを興し、己が任務を、最も圓滿に最も美はしく果たさんことを期し居りき。

 凡そ才氣あるものゝ常として、己が欲せざることには、一擧手一投足の勞をもをしみ、單に己が欲することにのみ身を委ねんとするは、免れがたき習ひなり。たとひ己が欲せざることなりとも、其の爲さゞるべからざることなる以上は、甘んじて我が情を屈し、我が氣を抑へて、我が爲すべきことをなすは、其の人、啻に才氣あるのみならず、また實に徳量ある人なりと謂ふべし。

 世に才氣ある人は多し。才氣ありて、徳量ある人は少なし。年少くして才のみ優れたるは、譬へば鋭き刀の肉薄きが如し。物を截ることはよくすべし、折るゝ恐れは免るべからず。されば世の奇才を抱きながら、成功を見ずして、中途に事を廢する例は、數へも盡くしがたし。忠敬が算數・暦術の學を嗜み、且つ之れをよくすべき資を抱きながら、自ら甘んじて市井の凡人に伍し、「伊能氏を嗣ぎたる上は、伊能氏を榮えしむべし」といふを、唯一の望みとして、三十餘年、一日の如く、ひたすら家業に丹誠したるが如きは、實に其の徳量の大なるを見るべきなり。

 かくの如くにして、伊能家は興りぬ。景敬は家を嗣ぎぬ。一家の事、また憂ふべきものなし。忠敬が伊能家に對する義務は、是に於て圓滿に果たされたりと謂ふべし。

 忠敬は、始めて閑散の身なりぬ。忠敬の身は、是れより忠敬の自由に用ふることを得べし。是の時は、忠敬、年既に五十歳、常人にありては、もはや老境に入るべき時なり。されど心の壯んなる人には、何歳の時も、前途多望なる青年の春なり。爲すある人には、如何なる場合も、我が力を試むべき處たり。忠敬は、常人が世の務めを辭し、花月の遊びを事とすべき時に當つて、始めて學に就き、而して後ち漸く世に出でんとせり。後の爲すあらんと欲する者、苟くも眞に爲すあらんと欲せば、青年空しく過ぎて、身の將に老いんとするを歎ずることなかれ。

 さるほどに忠敬は、その郷里佐原を出でて、飄然として江戸に到り、寓を深川に定めて、一學生となれり。

 年こそ老いたれ、實に一學生となれるなり。尋常一樣に笈を負ひて郷關を出で、都門に遊びて師を尋ね學に就く書生と異なる所は、唯だ其の若きと老いたるとの差のみ。かくして忠敬は、身を己が好める學に委したるが、己が滿足し信仰すべき師を得ることは容易ならざりき。をりから幕府には、暦法改正の擧ありて、之れが爲め、特に大阪より高橋作左衞門(諱は至時)といふものを召されたり。作左衞門、東岡と號す。算數・暦象の學に精(くは)し。忠敬、急ぎ東岡を訪ひ、其の學の深きに服して、直ちに師弟の契りを結びぬ。時に忠敬五十歳にして、東岡は三十二歳なりき。普通の人情にては、己れより年若き人に會ひては、たとひ己れが學業など、其の人に及ばずとも、猶ほ強ひて自ら高ぶり、敢へて頭を下げざるが習ひなれど、徳量ある忠敬は、いかで誠に敬ふべき學識ある人に向ひて拜伏するを厭ふべき。喜びて、それが門下生となれり。然れども同門の學生等は、師たる東岡の若くして、弟子たる忠敬の老いたるをば、屡々笑柄となしたりと云ふ。

 晩學の難きは、實にいづれの世にありても、かゝる事實の存するがためなり。是を以て非凡の士にあらざれば、大抵、自ら耻ぢて、師に就き學を修むる勇氣を失ひ、空しく志を抱いて墓穴に入るに至るなり。本來の上より云へば、老いて學ぶは、適々其の志の淺からざるを顯はすのみ、復た何の不可かあらん。況んや復た何の耻づべき所かあらん。思ふに區々たる群小の嘲笑も、忠敬に於ては、唯だ蛙鳴蝉噪を聞くが如くなりしなるべきのみ。かゝれば忠敬と同門學生との優劣勝敗は、比較するまでもなく明らかなることなり。忠敬の學術は、さながら堤防の決潰して、洪水のおし寄するが如き勢をもつて歩を進め、終ひに其の學の蘊奧を極めて、東岡門下に肩を比すべきものなきに至れり。

 かくて忠敬が、はじめて幕府より測量の命を蒙り、其の修得したる學術を實地に運用する機に際したるは、實に其の年、五十五歳の時なりき。五十五歳といへば、人は頽齡、用ふるに堪へずとする年齡なり。されど忠敬は、氣力旺盛、さながら壯年の人の如く、測量の命下るに會ひて、喜色滿面に溢れ、即日にも出發せんとする勢ありきといふ。忠敬が、事に當りて勇往直前、險阻に屈せず、風濤に辟易せず、遂に其の志す所を完成したりしは、一に此の元氣勃々として、燃ゆるが如き熱心を、胸裏に藏(をさ)めたるによれるなり。誰か日本人を、早熟早老の人種なりといふ。是れ豈に我れに、伊能忠敬あるを知らざるものにあらずや。
 
 

福井縣に於ける、泉水隆一監督作品『凛として愛』上映。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月11日(金)23時57分12秒
返信・引用 編集済
   花時計の「藤」樣からの御知らせです。福井縣鯖江市にて、泉水隆一監督作品『凛として愛』が上映されます。お知り合ひの御方がいらつしやれば、ご連絡くださいますやう、幾重にも御頼み申し上げます。



── 記 ──

 明日から三日間、福井県の平和祈念館で行われる「戦争資料伝えたい。平和の尊さ‥‥特別展示会」の中で、 泉水隆一監督作品『凛として愛』の上映が行われます。お近くの方は、ぜひご参加ください。

~戦争資料伝えたい。平和の尊さ‥‥特別展示会。『凛として愛』上映会もあります。~

【日時】平成25年10月12日(土)~14日(月)10:00~17:00

【場所】福井県平和祈念館(鯖江市水落町・嶺北忠霊場内)
    福井県鯖江市水落町1丁目18番22号(TEL=0776―22―0822)

【主催】一般財団法人・福井県遺族連合会
【協賛】英霊にこたえる会福井県本部
【後援】福井県
    鯖江市
    福井新聞社
    FBC福井放送
    福井テレビ

チラシhttp://www.hanadokei2010.com/images/calender/20131012.jpg

~泉水隆一監督作品「凛として愛」上映スケジュール~
≪上映時間≫
10:15~11:25
11:30~12:40
12:45~13:10
14:00~15:10
15:15~16:25

【協力】愛国女性のつどい花時計

チラシhttp://www.hanadokei2010.com/images/calender/20131012.pdf

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藤真知子:fuji.machiko@gmail.com
花時計HP:http://www.hanadokei2010.com/
代表者ブログ「マダムの部屋」:http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
週刊花時計:http://www.yamatopress.com/column/pg41.html
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思ひ立ちぬる、草枕かな哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月11日(金)21時28分11秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 遲塚麗水翁の紀行文の玉章に、暫く立ち留まられむことを。學ぶ所、亦た多かる可し。燈下に之を讀めば、精神脱魂、其の地に在つて、宛ら行くが如し。風韻千古、恍として、往昔に憶ひ及ぼさしめ、思ひ立ちぬる、草枕かな哉。殊に『不二の高根』は、名文中の名品、世に聞こえたるも、大作第一段のみ之を抄して、無盡の餘韻を、少しく燻らせんと欲す。吁。



●麗水遲塚金太郎翁『筥崎の宮』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 筥崎の宮は、應神天皇の胎衣を埋め奉りし處にして、頗る神靈の地なり。廟の四邊、大樹森然として、極めて幽高なり。林の盡くる處に、邃然(すゐぜん。奧深き貌)として廟門を望む。金碧の彩色、多く剥落すと雖も、老丹古紺、一脈崇高の氣、人の懷中に入る。廟門の□[匚+扁]額は、醍醐帝(愚案、龜山上皇)の宸筆「敵國降伏」の四字にして、其の縁を紺にし、其の地を朱にし、御筆の痕、豐腴敦和(肉太く豐かに穩かなり)のうちに、自ら矯勁(強く力あり)の氣あり。人をして仰ぎ看て、襟を正しうせしむ。廟前の函松、蒼々たり。謂ふ、「是れ、應神天皇の胎衣を埋め奉りし處なり」と。廟門を入れば、廟門の關貫(くわんぬき)は、有名なる千頭猿(せんびきざる)なり。畫梁繪欄(梁・欄干への彫刻彩色)、莊麗を極む。宮司の家に、「敵國降伏」の神符を賣る。

 廟の邊は、即ち「千代の松原」公園にして、支那人の、目して十里松といふものなり。滿目の赤松、異態千萬、豐臣秀吉、名護屋に在りし時、屡々千の利休を拉(らつ)して、來りて此に遊び、松風のうちに茶を煎しめき、と。三百年風流の跡は、今ま此の林中に在り。「千宗易點茶地」といふ、一小碑立てり。傳へ曰ふ、「利休、毎々此の松枝に小釜を懸け、松子を燃きて茶を煮、以て豐公に獻じたり」と。松釵(しようさい。松葉)萬地、沙の軟らかなること、蒲團の如し。猿面炯目の人、便服(平生の服)して箕踞(脚を投出して坐す)し、清□[病埀+懼の右。く]、鶴の如き一衲子(坊主)と共に、蕭然として松籟(松風)を聽く。風韻千古、恍として、當時に憶ひ及ぼさしむ。



●遲塚麗水翁『吉野山』(同上)

 星かと咲き、霞かと蒸し、雪かと散る、日出の國の名花と稱せられし櫻花が、二十四番の春風に殿して開き、一夜の風雨に潔く散り果つるは、之れを沈毅淵默、然諾を苟くもせずして、一たび諾哉を呼ぶに及べば、腰間の寶刀と共に亡びて、些かも悔ゆることなき古武士に比喩せられたり(櫻を古武士喩ふるは、吉野を記するに於て、最も當を得たり矣)。

 實に朝日に匂ふ此の花を仰ぎ見ては、唐人も高麗人も、大和心になりぬべき吉野の山は、別に汗青(史籍)の上に、萬古の事蹟を傳へ、名勝の區は、更に又た一の靈地となり、「あさぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」の風流温雅の雪は、「眉雪の老僧、時に箒を輟め、落花、深き處に、南朝を説く」の悲愴感慨の山となりたり。

 京都、若しくは大阪より、奈良・下田驛を歴て、高田驛に至る南和鐵道に乘じ、新庄・御所・壺坂の諸驛を過ぎて、吉野口の停車場より汽車を下る。是れより吉野山に至るまで、僅かに二里、吉野川の邊、六田の渡、□[目+屬。しよく]目(目に映る景色)、既に凡にあらず。水碧に山青く、遠櫻の色、さながら幾團不動の屯雲(堆積せる雲)を作る。上峰萬朶の花の露、隕(お)ちて水中に入り、水も亦た香しからんと疑はるゝ吉野川を渡れば、路、漸く嶮なり。路に傍うて、稚櫻あり。昔は、老樹竝立して天を掩ひ、花時には、宛ら花洞を作りしが、維新の際に、多く伐斫(ばつしやく)せられしかば、後ち栽うるに幼木を以てしきと云ふ。路傍に石碣(石標)を立て、町程を誌す。二十町にして、老樹多し。長峰の樓の邊より、稍々佳境に入り來る。路傍の山に、村上義光の墳あり。碑を路側に立つ。別に豐太閤の、侯伯を率ゐて、觀花の盛宴を張りたる舊蹟あり。行くこと數町にして、「口の千本」に至る。茶亭あり。竹欄に凭(よ)つて、下瞰すれば、皆な櫻花なり。花氣氤□[气+温の右](いんうん。氣の盛んなる貌)、山谷に充滿し、身は白雲の上に坐するが如し。峰脚溪頭、馬を牽くもの、草を負ふもの、施々(舒行する貌)として路を行き、花を穿ち、また花を出づ。三十三町の石碣を過ぐれば、一水、路を絶ち、橋ありて通ず。欄干の邊に、豐臣秀頼再修の銘を誌す。之れを過ぐれば、則ち吉野町南北十餘町、簇々として數千百家あり。旅館と商舗と相交はる。吉野の坊門の中に、「隱れ松」といふものあり。櫻雲に埋沒して、矯姿(氣高き姿)を覓(もと)め得ず。花散して、始めて晩翠を見るが故か。此の邊の櫻を、「關屋の櫻」といふ。

 藏王堂に詣れば、先づ山門を見る。甚だ荒涼たり。村上義光が、大塔の宮の御鎧を□[手+環の右。くわん]し、詐り名のりて健鬪し、終ひに腹を割き腸を抉出し、賊に抛(なげう)ちて、「最期の模範にせよ」と呼ばりしは、正に此の門上欄干の邊なり。門を入れば、一庭落莫、藏王權現堂あり。堂は粉壁朱楹(白壁・朱塗りの丸柱)、簷(のき)高く啄(ついば)む。堂の前の中庭は、即ち大塔の宮が、生別の酒宴を催したまひし處なり。山風晩寒を催し、櫻花やうゝゝ碧なる時、人をして徘徊顧望して、去る能はざらしむ。

 更に溪畔の逕を行き、杉の森を過ぎて、一坂を陟(のぼ)れば、則ち後醍醐帝の英靈の、長へに在します處なり。御陵は、北に向へり。「常に北闕(京都の皇居)を望む」と宣ひ、慷慨して劒を按じて崩じ給ひし事を憶へば、誰れか涙を墮(おと)さゞらん。御陵の上、松柏森然、□[風+叟。しう]々(風の音)として、天風に鳴る。御陵の左右、櫻花多し。

 御陵の下、數十歩にして、小楠公の髻(もとゞり)塚あり。數百歩にして、如意輪寺あり。本尊の如意輪觀音は、後醍醐帝の宸作なり。巨勢金岡の、吉野より熊野までの山水を繪きし龕(がん)の扉に、亦た御題の詩ありと云ふ。後醍醐帝の御像あり。又た小楠公の梓弓の歌扉あり。鏃痕、今ま猶ほ鮮明なり。寺僧、髻塚の碑と歌扉の摺本とを賣る。「中の千本」は、此の邊なり。

 如意輪寺に近く、竹林院あり。山中の一名勝なり。園は小堀遠州の經營したるもの、樹石の按排(配置)、自然に出で、老櫻數十幹あり。花、稠密(ちうみつ)にして、空を見ず。假山に上りて、軟草の氈の如きところに、箕踞して騁望(ていばう。眺め渡す)すれば、藏王堂は眼下にあり。南は千丈ケ谷、東は溪を隔てゝ、低松一路、麥疇(麥の畝・畑)あり、茅屋あり。山櫻、處々に屯雲を作り、峯に陰晴あり。

 如意輪寺の南に、吉水神社あり。元と吉水院と稱し、後醍醐帝の吉野山に入り給ふや、先づ行宮を此に定め給ひし處、「花に寢て よしや吉野の よし水の 枕の下に 石ばしる音」とは、此の院に在しましゝ時の御詠なり。後醍醐帝の靈を祀る。

 義經の臣・佐藤忠信が、主に代はりて詐り名のり、僧兵と力鬪したるところの花矢倉の邊を過り、子守神社に詣る。社殿廻廊、亦た華美なり。社背に行けば、衆谷の花を看盡くすべし。「奧の千本」とは、此の邊なり。是れより花、漸く稀に、路も亦た險なり。更に上峯に至り、「淺くとも よしや又汲む 人はあらじ 我れにことなる 山の井の水」なる苔清水の細流を渡れば、則ち西行庵あり。白雲青山、世と隔離す。吉野の花は、此に盡く。

 勝手明神の背後の路を右すれば、後醍醐帝の行幸の芝生あり。又た行くこと四五町にして、櫻茶屋あり。老櫻あり。枝は、さながら解きたる索(なは)を懸けたるが如し。埀枝櫻なり。花、甚だ密著し、玉簾、中宵(中空)より埀る。「雲井の櫻」といふは、是れなり。櫻の下に立ちて眺望すれば、白雲平布して、谷を見ず。諦視(明かに能く見る)すれば、皆な花なり。雲の缺くるところ、吉野の町を見る。金剛の峯、葛城の山、龍王・多武の峯、遙青近碧、來りて人を照らす。



●遲塚麗水翁『不二の高根』(同上)

 帝、紫微の宮に坐し、群仙を會して曰はく、「東方精華の鍾(あつ)まる處、坤輿(大地)の中樞なり。それ大山を作りて、永く萬邦の鎭めとなすべし」と。一夜にして大地を擘(へき)して、此の不二の高根を成す。史あるの前、幾千萬載、斯の山、既に秀でて靈あり。惟れ孝靈帝の御宇、東海の氣、漸く清明に、始めて斯の山を中宵に見る。頂は分かれて八峰を成し、其の雪を戴くが爲めに、宛も玉芙蓉の如し。爾來二千年、仰げばいや高く、望めばいや尊し。歌仙も、其の高きさまを歌ひ盡くす能はず、畫聖も、其の尊き形を畫き盡くす能はず。岳神は、容易に祕奧の符を示さずして、唯だ人の、獨詣して冥契を得るに任(まか)せ、三千年にして、一人、之れを歌ふものあり、五千年にして、一人、之れを畫くものあるを俟つ。‥‥




 愚案、文に恍たるも、偶には宜けれども、然り而して吉田松陰先生、かつて大和に、文人として名ありし森田節齋翁を見、暫く逗留、「文事を治むるに精力を注がんか、又た文事を棄絶して、專ら兵學を用ゐんかと、心緒錯亂」したが、「斷然一決」して、本務たる兵學に復したと傳へらる。文事を治むるは有益であらうが、こゝに佐久良東雄先生の嚴訓を記し置くものなり。

かならずゝゝゝゞ學者にも、詩人にも、歌よみにも、何にも、成らんと思ふ事、狂人の心也。唯々々々、楠正成の尊の如き忠臣にならうと、一向一心に思慮ふべし、思うて修行すべし。無事なる時には、家業の餘暇には、他人の寢る間、遊ぶ間、千萬の御恩奉謝の一端に、著述すべし。御國に事ある時は、御爲に、天神地祇をいのり奉り、はかりごとをめぐらし、事を成すべし。事ある時、書物をよみ、著述などのみして、默々としてあるは、畜生とも、何とも、名付け難し。誠に學者は無用なものと思はるべし。愚父(佐久良東雄先生)が自歌に、
人丸や 赤人の如 いはるとも 詠歌者(うたよみ)の名は とらじとぞおもふ
一筋に 君に仕へて 永世(ながきよ)の 人の鑑と 人は成るべし」(『遺書』)と。
 
 

河原博史翁の講筵『尊皇と勤皇』ご案内。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 9日(水)23時34分26秒
返信・引用 編集済
  『皇國復古中興の集ひ』の御案内

──「九段塾」縁故の河原博史翁の講演です。近隣の御方には、是非ご參加ください。講演だけでも、お聞きになつて下さい。──

     記

演題:『尊皇と勤皇』

講師:河原博史氏

     ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/

日時:平成二十五年十月二十日(日曜)五時半開場・六時開演

會場:新宿區立新宿文化センター四階(東京都新宿區新宿六の十四の一)
會費:千五百圓(飲物附)

懇親會費:三千圓(懇親會々場は豫約の爲め、十月十日迄に、主催者への電送にて御連絡を)

主催:むさしの倶樂部(代表・貴田誠)
 住所:東京都新宿區歌舞伎町二の二の六の六〇一
 電送:〇三―五二八五―四九一二
 電話:〇八〇―一二五七―九六二七
協贊:盛道烈士會
   亞細亞史觀研究會
   山縣大貳大人顯彰會
 
 

吾人臣民の、皇室に對し奉る本務。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 9日(水)21時15分29秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 古人學問の教養として、『唐宋八家文』・『文章軌範』あり。然るに小生、就中、好む所の支那先哲が文を讀むのみして、全く無學を耻づる所なるも、今ま幸ひに小生が机上に、陸軍中央幼年學校の讀本『今古文粹』を存す。是には、嘗て高校の圖書館にて借出した所の、高山樗牛の論説も收め得たり。『瀧口入道』以來、樗牛の名文は、小生の好む所であつたものゝ、論に些か異見あつて、暫く繙くことも無かつたが、次の前者の文章は、簡にして要、日本精神を涵養するに足る。後者の名文は、一讀、小生をして慕情を懷かしめたり。記して有志と與に、音讀朗誦に資せんと欲す。



●樗牛高山林次郎博士『皇室に對する本務』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 熟々史を案ずるに、天祖天照大御神、瓊瓊杵尊に詔して宣はく、「豐葦原の瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。爾ぢ皇孫、宜しく就きて治むべし。行け。寶祚の隆えは、當に天壤と窮りなかるべし」と。皇孫、此の詔を奉じて、此の土に降臨し給ひてより、列聖相承け、神武天皇に至り、奸を討じ逆を誅し、以て四海を統一し、始めて政を行ひ民を治め、以て我が大日本帝國を建て給ふ。神武天皇の即位を以て、國の紀元と定む。

 神武天皇の即位より今日に至るまで、年を閲すること殆んど二千六百年、歴聖相承け給ふこと、茲に一百二十餘代、皇統連綿として一絲紊(みだ)れず。道に盛衰あり、時に汚隆なきに非ずと雖も、未だ曾て臣下にして、神器を覬覦したるものあらず。偶々是くの如き狂暴の徒あれば、天誅、立(たちどころ)に至りて、皇道、益々蕩々(盛なる貌)たり。萬世一系の皇統と、無窮不易の寶祚とは、大日本帝國の、世界萬國に秀絶する所なり。

 之れを世界の歴史に徴するに、古今を貫き東西を通じて、何處に我が國の如き崇嚴なる國體あるか。外國の中には、間々廢讓常なく、革命相追ひ、君臣の情、見るべきもの無く、國體の美、取るに足らざるものあり。之れを我が帝國に比すれば、其の差、啻に天淵(天地)のみに非ざるなり。されば我が國民たるものは、常に皇祖皇宗の宏謨悠大なる遺業と、歴代聖主の宏深篤厚なる遺徳とを思ひて、報效の實を擧げんことを期すべきなり。

 且つ夫れ皇恩の大なるや、殆んど物の得て比すべきなし。其の遠きを言へば、天祖、此の國を肇め給ひしより、以て今日に至る。其の廣きを言へば、億兆を擧げ四海を包みて、遠く異邦に及ぶ。其の政教を施すや、刑憲の密なる、非違を抑へて遺漏なく、聖恩の普き、普天の下、率土の濱に及ぶ。世々の臣民、禍害を免れ壽康を保つを得たる者は、一に皇恩に非ざるはなし。實に歴代の聖主は、天下の心を以て心とし、萬民の休戚(安否)を以て一身の利害となし給ふ。是を以て聖主、或は高臺に登りて炊烟を望み、或は寒夜、下民の窮苦を憐みて御衣を脱がせ給ひき。宵衣□[日+干]食(夜未だ明けざるより日暮るゝまで、事を執り給ふ)、偏へに國民一般の利益の爲めに、叡慮を惱まし給ふことの深厚なるは、國民の能く想ひ到る所に非ざるなり。國に禍災あれば、内帑を割きて窮民を賑はし、國防軍備、其の急を告げて、而も國庫歳入、未だ遽かに其の鉅費を辨じ易からざるに當りては、宮禁の儲餘を擧げ、内廷の歳費を省きて、其の費に充(あ)て給ふ。山高く海深きも、未だ以て國家臣民を軫念し給ふ、聖慮の優渥なるに比するに足らず。吾人臣民たるもの、思ひ一たび茲に至れば、感涙、袂を濕さずんばあらざるなり。

 國體の美、皇恩の大、其れ此くの如し。されば苟くも事、皇室に關する時は、國民は國法の容(ゆる)す限り、躬を挺(ぬき)んでて、忠良の誠を致さゞるべからず。若し夫れ一朝緩急ある時は、粉骨碎身、以て義勇奉公の精神を鼓舞し、各々皇室の干城たらざるべからず。男子生れて、皇室の爲めに一命を犠牲に供するは、實に千載一隅の名譽と謂ふべきなり。且つ我が帝國、今日の盛運は、歴聖の偉業に成るが故に、之れを天壤無窮に奉戴守衞するは、吾人臣民の務めなり。而して之れを爲すの道、唯だ一身を修め、一家を齊へ、其の躯を健にし、其の産を治め、平素、忠勇無雙の精神を涵養するにあり。臣民にして、文弱に流れて、尚武の氣象に乏しく、忠憤、死を辭せざるの精神なきに至らば、遂に國家の萎靡(漸く衰ふ)を來し、皇室の衰替を速(まね)かん。是くの如きは、君國に對して不忠不義の甚だしきものと謂はざるべからざるなり。



●臨風笹川種郎博士『鎭守の森』(同上)

 滿目蕭然(物淋しき貌)として、田も畠も霜枯の風情、見るかげもなき間に、一むら緑樹の鬱葱たるものは、鎭守の森なり。金も石も□[火+樂。と]けんばかりの夏の眞晝中に、一陣の涼風、殿角より起りて、行人田夫の汗を拂ふものは、鎭守の森なり。春の朝には、祠前一二株の彼岸櫻咲きこぼれて、一村に花信(花の便り)を傳へ、秋の夕には、社後の蔦葛、紅を染めて、夕日の色もまばゆし。花朧(おぼろ)なる曉、月細き夜、松杉暗くして、瑞籬(みががき)のほとり神さびたり。詩趣、獨りこゝに饒(ゆた)かにして、何事のおはしますかは知らねど、神々しく覺ゆるなり。

 日落ちて、月漸く上る時、涼を趁(お)ふ人々の影、婆娑(影映れる貌)として、鎭守の森は、村人一日の勞を慰する處たり。祠頭の旗幟、翩翻として、風に靡く時、村の老幼、織るが如く、鎭守の祭禮は、一歳中、復たと得がたき歡樂たるなり。年豐かなれば詣り謝し、天旱すれば雨を乞ふ。洵に鎭守の森は、一村の望を聚め、一郷の中心として、神聖なる、しかも面白き處たるなり。

 かゝる鎭守の森にゐます神は、多くは、其の土地、其の土著の民と、何等かの關係あり。遡つて之れを考ふれば、氏族部民の祖先を祀りたるものも少なからず。諸國に鎭座したまふ神社は、畢竟、鎭守の森の大いなるものなり。鹿島・香取の神宮は、經津主神・武甕槌神の子孫が創めたる處にして、宇都宮二荒神社は、毛野君の一族が、其の祖先を祀れる處なるべし。其の一層大いなるものには、出雲大社あり。其の最も大いにして、日本の鎭守たるものには、五十鈴川の上に宮柱太しく高き、伊勢大神宮もあらせ給ふなり。

 之れを小にしては、一村の中心にして、之れを大にすれば、帝國の中心なり。祖先の神靈・前賢の精魂は、長へに鎭守の社中に留まりて、子孫・後人の精神に通ひ、彼れ等をして奮勵自進せしむべし。天佑神助の信仰は、勇氣鼓舞の最良法なり。しかも信仰とは、權道に非ず、方便にあらずして、直ちに神に接し、靈に感ずる唯一の法なり。

 祖先崇拜なるかな。是れ獨り原始の觀念のみにあらず、祖先の功勳は、後人奮勵の料たり。子孫の名譽心を發揮すべき興奮劑なり。但し其の崇拜をして保守的たらしむる勿れ、囘顧的たらしむる勿れ、進歩的たらしめざるべからず、自覺的たらしめざるべからず。

 是に於てか、鎭守の森をして、一層、一村一郷の中心たるの寶あらしむべきなり。森をして神さび、靈の窟宅たるに適せしむべきなり。之れが爲めには、樹の苗を植ゑ、草莱を去り、祠宇を修め、園池を美にすべし。一村一郷の崇敬地たらしめ、遊樂地たらしめ、集會所たらしめ、心なき田夫にも美の觀念を與ふる處、村人の誇りとする處、他郷に在りても、猶ほ戀々の思ひあるべき處たらしむべし。小學兒童の運動會も、之れを中心として、此の附近に行はしむべし。小やかなる村落圖書館の如きも、このほとりに設けらるれば、最も妙なるべし。鎭守の森をして、一村一郷の中心たるの寶あらしむるは、蓋し風化の上に得る處、極めて大いなるものあらん。



【泉水隆一翁『涙流るゝ、有り難き哉』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/17



【備中處士『産土大神の御神徳を仰ぎませう』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t21/l50
 
 

日本魂を錬磨するに、簡にして要なる文髓を以てす。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 7日(月)21時13分21秒
返信・引用 編集済
  ●隈山谷干城將軍『精神』(『今古文粹──陸軍幼年學校用』大正八年四月・陸軍中央幼年學校刊に所收)

 我れ我れ日本人は、日本魂といふ、最も鞏固なる精神を持てり。此の精神を持ちて、此の日本國を護り來りしかば、古へより他國の侮りを受けざるのみならず、世界無比の國なりといふ名譽をさへ得るに至れるなり。今後、此の名譽を保たんも、失はんも、此の精神の如何にあるべきを、おひゝゝ此の精神を持てる者の少なくなりゆくは、いかにぞや。

 日本魂と云ふ精神を持てばこそ、眞の日本人なれ。此れなくば、形こそあれ、眞の日本人とはいふべからず。何とならば、さる人は、亞米利加へ行かんには、亞米利加人となり、英吉利へ渡らんには、英吉利人となるべければなり。昔し、山崎闇齋といふ學者ありき。或る時、その弟子に向ひて、「若し孔子・孟子が大將となりて、此の國に攻め來らば、如何にかする」と問ひしに、弟子ども、答ふる能はず。闇齋、容(かたち)を改め、「何をか躊躇する。たとひ孔子・孟子なりとも、此の國に害をなさんには、直ちに撃ち攘ふべし。是れやがて孔子・孟子の教ならずや」といへり。また物徂徠といふ學者ありき。こは、きはめたる支那崇拜者にて、何事も彼れを尊ぶあまり、遂に「東夷の物茂卿」と自稱して怪しまざるに至れり。闇齋といひ、徂徠といひ、同じく漢書を讀みたるものなり。さるに其の言ふところ、此く異なるは、一は此の精神を保ち、一は此の精神を失ひたるがためなり。徂徠のごとき人のみ多くならんには、此の日本國の前途を如何にせん。

 世人は、ともすれば「富國強兵」を口にせり。余、思ふに、いかに學理は進歩すとも、實業は發達すとも、之れに從事する人にして、此の精神を失はんには、國家にとりて、何の利益もなからん。又た海に千萬の艨艟を浮かべ、陸に億萬の巨砲をならぶとも、それを運用する人にして、此の精神なからんには、たゞ一の形容の具に過ぎざらん。言ひかふれば、富國策も、強兵論も、日本魂といふ精神を定めたる後にすべきなり。それを定めざるうちは、到底、其の實をあぐること能はざらん。

 要するに、日本魂ありて、始めて日本人なり。日本人ありて、始めて日本國なり。我れ我れ日本人たるもの、此の日本魂といふ精神を失ひて可ならんや。



●谷干城熊本鎭臺司令長官『熊本守城概要報告』(同上)

 今般、鹿兒島縣賊徒暴擧の勢あるにつき、當臺防戰の儀に就いては、進んで之れを薩界の險に要し、或は之れを半途に迎ふるの略なきに非ず。然るに當城の兵、去冬不意の襲撃を受けしより、兵卒の氣力、未だ全く舊時に復せず。諸士官、專ら士氣を鼓舞するに注意し、或は招魂祭に依り、或は競馬、或は烟花(花火)、或は角力(相撲)等を以て、士氣を勵ますの事に勉むと雖も、賊徒、素より強兵の名あり。且つ其の怒氣の發する所、容易に當り難し。加之(しかのみならず)縣下の士族、賊に消息を通ずる者少なからず。故に進んで熊本市街を保護せんとすれば、賊、脚下に生ずるの患ひあり。且つ決死の兇徒を平原曠野に防ぐ、其の勝算、固より期し難し。一旦迎へ、戰つて敗るゝ時は、士氣沮喪して、大いに賊勢を長ずべく、已に沮喪せし兵を以て、始めて守城を謀る時は、遂に堅守を期し難し。是れ今般、熊本城を堅守し、以て賊の據る處を失はしめんとせし所以なり。

 陸軍卿、曩に我れに示すに、攻守、共に適宜にすべきを以てせらる。蓋し本臺の存亡は、西國一般の人心に關するを以てなり。我が輩の所見、亦た全く此にあり。故に橋梁を撤し、砦柵を結び、通路を塞ぎ、要地に地雷を埋め、障碍の家屋を毀ち、展望を便にす。準備、稍々成るに埀んとして、本城、忽ち火を失し、糧食、悉く灰燼に歸し、餘す所、唯だ彈藥諸器のみ。故に已むを得ず、一時、民家に徴收し、以て數旬を支ふるを得たり。賊、素より本臺を輕侮し、一朝にして之れを拔くべしと爲し、二月二十二日・同二十三日、力を極めて攻撃す。我が兵、期する所の略に依り、歩・砲・工、各々兵を配置し、十分防戰す。賊、遂に退き、長圍の策を決する似たり。是に於て本臺、賊中に孤立し、外情を探知するに由なし。加ふるに我が小倉營所の兵、二月二十二日を以て著臺すべき心算なりしかども、途中障碍を受けしを以て來る能はず。故に兵數寡少、守るべくして、攻むるに足らず。益々堅守の方略を固うす。

 賊、別に兵を分かちて、官兵の熊本に入るものを防ぐ。賊兵、已に分かると雖も、縣下の士族等、賊に黨するもの多く、我が隙を窺ふの虞(おそれ)あり。且つ官兵の小倉より來る者、其の何の地方に在るを知らず。來援の官軍と賊兵との間隔も、亦た知るべからず。或は賊の後路を突かざるの悔ひなしとも謂ふべからず。因つて官兵の情況を知らんと欲して、人を遣ること數度に及ぶと雖も、其の功を遂ぐること能はず。獨り典獄宍戸正輝の、其の目的を達するあり。彼我兩情、悉く知ることを得たり。是に於て策を決し、官兵の大軍山鹿・木の葉等の賊を破るを待ち、我れ敗賊の側面を攻撃し、尾して川尻・八代を占め、賊をして足を止むるに地なからしめんとす。

 既にして官兵、漸次進撃すと雖も、賊、田原其の他の險に據り、拔き難きを聞く。且つ當臺、糧食の如き、百方收聚の策をなすと雖も、遂に盡くる期あらんとす。是に於て策を決し、糧食、未だ全く盡きざるに及び、周圍の守線を短縮し、兵若干を以て、本月八日を期し、植木口に向ひて圍を突かんとす。適々前一日、川尻口に當りて、砲聲の盛んなるを聞き、又た之れに應援するの要を生ぜり。且つ川尻口は、道路平夷にして、容易に官兵を合するを得べきを以て、遂に前策を轉じ、八日拂曉、急に川尻口に突貫し、以て官兵の進路を開くに至る。是れ當城戰略の大概なり。書して以て、總督殿下に獻ず。



 愚案、巷間流布する所に曰く、靖國神社創立當初、「或は競馬、或は烟花、或は角力等」を、庶民の憩ひ・娯樂の爲めに催す、と。何ぞ知らむ、「專ら士氣を鼓舞する」爲めの策略なるを。本末を失へる俗説、こゝに明かなる可し矣。宜なり、之が亂雜放縱、卑俗淫猥となるや、直ちに禁止一掃となりしは。



●龍江芳賀矢一博士『遊就館』(同上)

 靖國神社の鳥居を入れば、右の方、立ち竝ぶ木立の間に、嶷然たる煉瓦造の一館あり。之れを遊就館となす。

 館前の假小屋には、日露戰爭の戰利品、及び記念品を陳列せるが、最も人目を惹くは、旅順口第三閉塞船米山丸附屬の端艇にして、兩舷は敵彈の爲めに破碎せられ、船體に無數の彈痕を留む。一見、人をして當時を追想して、酸鼻に堪へざらしむ。

 本館を右に廻りて、入口より入れば、こゝにも各種の銃砲・砲車・彈藥車等を陳列したり。多くは皆な日清・日露兩役の戰利品にして、一として我が國民が忠勇報國の記念物たらざるはなし。

 本館には、階上に五室、階下には十五室あり。銃砲は加農(カノン)砲・野砲・速射砲・機關銃を始めとして、種類、甚だ多く、枚擧に遑あらず。刀槍には、古代の飾太刀・庖丁正宗・十字槍・大身槍等あり。其の他、軍旗・甲冑・弓矢・軍服・馬具等に至るまで、古今を問はず、新舊を論ぜず、苟くも武器に關する一切の種類は、大抵、備はらざるなし。

 圖畫は、皆な高く壁間に掲げらる。其の昔し、壹岐の守護代・平景隆が、手勢百騎を率ゐて、元の大兵と決戰し、全島の士の皆な斃れたる圖の如き、最も壯烈悲慘を極む。肖像畫は、有栖川宮殿下を始め奉り、陸海軍將校、及び戰死者等にして、其の胸間を飾れる勳章は、明治の歴史と共に、長へに名譽の光を放つに足る。寫眞は、從軍者の撮影せしもの多きが中に、乃木・ステツセル兩司令官の水師營會見、乃木司令官入城の光景等、實に世界歴史に於ける好箇の大畫題と謂ふべし。

 館内に收むる所の武器を觀ては、東西古今、兵器の變遷を知り、古城址・戰場の圖に對しては、上下幾百歳、興亡盛衰の歴史を思ふ。忠勇の念、懷古の情、交々起りて、俯仰低徊、人をして去ること能はざらしむ。

 青年諸氏、東京に來らば、必ず靖國神社に詣でよ。靖國神社に詣でば、必ず遊就館を觀よ。



【參考/稻村眞里翁『平景隆公殉國六百五十年記念祭の祝詞』】
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●東郷平八郎提督『海軍戰死者を祭る文』(同上)

 海陸の戰雲、已に散じて、滿都の和氣、藹々たり。童幼、歡び迎へて、六親、門に待つ。是れ諸子と生死を共にしたる將卒が、大纛の下に凱旋したる、頃日の光景なり。

 囘想すれば、諸子が冱寒を冒し、炎熱を凌ぎ、勁敵と戰ふに方(あた)りてや、戰局の前途は、猶ほ未だ知るに由なく、諸子の逝く毎に、先づ其の忠死の榮を得たるを羨み、我れ等も、亦た必ず諸子に傚うて、君國に報ゆるを期せり。然るに諸子の勇戰奮鬪は、常に其の效果を奏し、皇軍、戰ふ毎に勝たざることなく、旅順の連陳、十閲月にして大勢を定め、日本海の鏖戰、一擧に勝敗を決し、爾後、海上、敵影を見ざるに至れり。是れ固より無量の皇徳に基づくと雖も、亦た諸子が、身を外に忘れて奉公したるの致す所ならずんばあらず。今や、征戰、其の終りを告げ、我れ等、凱旋の將卒、四顧歡喜の光景を見るに方り、諸子と此の悦びを頒つ能はざるを懷ひ、悲喜、交々至りて、感慨、言ふべからざるを覺ゆ。然れども今日あるは、即ち諸子が一死の榮ある所以にして、諸子の忠烈は、永く我が海軍の精神と爲り、帝國を無窮に守護せん。

 茲に典を擧げて、諸子の靈を祭り、聊か懷を陳べて、弔辭に代ふ。尚(こひねが)はくは、來り饗(う)けよ。



【參考/東郷司令長官『聯合艦隊解散の辭』】
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●徳富蘇峯翁『祖宗の宏謨』(同上)

 恭しく、天皇陛下御踐祚の翌日、朝見式の敕語を奉讀するに、「祖宗の宏謨に遵ひ」の一句あり。又た議會開院式の敕語にも、此の句あり。吾人は、祖宗の宏謨の、如何に陛下の御心に掛かりつゝあるかを、恐れながら忖度し奉らざるを得ず。而して私かに自ら顧みて、祖宗の宏謨とは何ぞやと、胸に手を當て熟思精想するを禁ずる能はず。蓋し之れを解釋し得るは、我が陛下の臣民を統率し給ふ大本、大綱を解釋し得る所以なればなり。

 吾人、豈に敢へて解釋を試みると謂はんや。然れども諺に、「一寸の蟲にも、五分の魂あり」と曰へり。姑く自ら領會したる梗概を擧ぐれば、祖宗の宏謨には、二個の要素あり。第一は、帝國の統治なり。即ち、

瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地也。宜しく爾ぢ皇孫、就いて治むべし焉。行け矣。寶祚の隆えは、當に天壤と窮り無かるべし矣

の一節にて嚢括(なうくわつ。包括して言ふ)す。我が帝國の、萬世一系の皇統の下に統治せられ、宇内無比の國體として特立する所以は、實に此に存す。吾人は之れを稱して、皇室中心主義と曰ふ。然れども唯だ皇室を中心として、大和民族が一孤島に蟄伏するは、決して祖宗の宏謨にあらず。蓋し皇室中心主義は、なり。其のに至りては、更に他に存す。吾人は之れを稱して、日本中心主義と曰ふ。是れ世界に對して然るなり。而して此の主義や、我が帝國の上代文學に、最も高朗昭著に之れを説明したり。

辭別けて、伊勢に坐す天照大御神の太前に白さく、皇太御神の見霽(みはる)かし坐す四方の國は、天の壁(か)き立つ極み、國の退(そ)き立つ限り、青雲の靄(たなび)く極み、白雲の墜(お)り坐(ゐ)向伏(むかふ)す限り、青海原は棹柁(さをかぢ)干さず、舟の艫(へ)の至り留まる極み、大海原に舟滿ちつゞけて、陸(くが)より往く道は、荷の緒(を)縛(ゆ)ひ堅めて、磐根・木根(いはね・きね)履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道(ながち)間(ひま)無く立ちつゞけて、狭(さ)き國は廣く、峻(さか)しき國は平らけく、遠き國は八十綱(やそつな)打ち挂けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉りたまはゞ、荷前(のさき)は、皇大御神の太前に、横山の如く打ち積み置きて、殘りをば平らけく聞こし食さし、又た皇孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に齋ひ奉り、茂(いか)し御世に幸はへ奉るが故に、皇吾が睦、神漏伎・神漏彌命と、うじもの頸根衝き拔きて、皇御孫命のうづの幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣る。

今ま夫れ「智識を世界に求め、大いに皇基を振起す」と云ひ、開國進取と云ひ、若しくは帝國主義と云ふ。然も皆な此の祈年祭の文句の外に出でず。此くの如き崇高・雄大・莊嚴の文字、單に文學として之れを觀るも、眞に萬古の心胸を開拓するの概あり。況んや列聖の鴻業、祖宗の遺烈、悉く皆な此の中に含蓄せらるゝに於てをや。吾人は、帝國主義を古への羅馬人に求むるに及ばず、現今の英獨人に倣ふを要せず。苟くも之れを一讀せば、思ひ半ばに過ぎん。

 但し、誤解なきを望む。皇室中心主義は、皇室を中心とする主義なり。皇室を中心とするが故に、人民を無視するにあらず。皇室を畏くも宗家とし、之れを仰ぎ、之れを崇め、之れを本體とし、大和民族、悉く之れを簇擁(擧衆擁護)し、皇室の隆昌と與に民族の繁榮を期するが如く、日本中心主義も、日本を中心とするが故に、世界を無視するにあらず。凡そ世界のあらゆる長所・善所・美所は、八十綱打ち掛けて之れを我れに採用し、而して我が國光を、白雲の埀るゝ限り、青波の洗ふ極みまで、發揚せんとするに外ならず。苟くも然らざらんか、日本中心主義は、是れ夜郎自大主義なり。支那人の自ら中華を以て居り、他を夷狄視するものと、何ぞ擇ぶ所かある。

 惟ふに維新の大改革や、畢竟、内に皇室中心主義を宣明し、外に日本中心主義を實行するの端を啓きたるに過ぎず。我が陛下の御踐祚と同時に、屡々祖宗の宏謨なる大御言を宣らせ給ふは、蓋し陛下御統率の下に、嚮ふ所を知らしめ、由る所を示し給ふ聖慮たらざるなきを知らんや。吾人は、斯く忖度し奉るを以て、敢へて大なる咎なきを信ぜずんばあらず。

 皇室中心主義の歸著する所は、忠君なり。日本中心主義の歸著する所は、愛國なり。忠君愛國は、偶然に生ずるものにあらず。必ず其の淵源なかるべからず。吾人は、之れを一に祖宗の宏謨に溯りて求むるを以て、最も確實に且つ根據ある斷定と認む。而も此の忠君や、日本帝國を一家とし、皇室を家長として然るなり。此の愛國や、世界を大觀し、日本を其の原動力として然るなり、中心點として然るなり。



【參考/徳富蘇峯翁『あらゆる荊棘の道を辿つて、ヘトヽヽになつて、漸く行き着いた、皇室中心主義』】
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皇民參宮の心得。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年10月 3日(木)18時24分53秒
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  ●『參宮の栞』(昭和六年三月・神宮司廳内神宮神部署刊)

○一般參拜者心得

一、參拜にあたつては、先づ心身を清淨にし、服裝を正しうして、お鳥居をくゞる樣に心がけねばなりません。

一、手水舍で口を滌ぎ手を淨めて、板垣御門に達しましたら、必ず帽子・外套を脱いで、適當の場所に置き、外玉垣御門前まで進んで拜禮をします。

一、宮域では、喫煙・痰唾・放歌・高聲を愼しみ、又た寫眞を撮る等のことは、すべて差控へられたい。‥‥

一、神宮では、一切、寄附の勸誘などは致さない事を、御承知置き下さい。

一、宮域内の取締りに關しては、すべて神宮衞士の指圖に從ひ、苟くも不敬亂雜に渉るやうな事の無い樣、御注意下さい。

○正式參拜の服裝心得

一、男子は正裝・通常禮服・通常服・制服・紋服羽織袴。
 * 通常服(フロツクコート)の場合、黒山高帽子は差支へなきも、靴は黒革製とす。制服とは、法令にて定められたる服裝をいひ、神佛各宗派管長は、其の教規宗制に依る服裝。
 * 學生は、其の學校の制服を認めらる。
 * 軍人は、武裝して正式參拜をなすを得ず。又た在郷軍人たる下士は、帶劍せざるものとす。

一、 女子は、通常服(袿袴、又はブイヂツチングドレス)、若しくは白襟紋付(袴着用、差支へなし)、又は制服。
* 紋服着用の場合は、草履。但し靴は差支へなし。



【參拜の心得、竝びに荒木田神主『神拜式條』・正中】
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 愚案、御遷宮の佳節、今一度、神社參拜の本義に立ち戻りたい。昨今、寫眞機や携帶電話の普及に因つて、神宮に於いても、遠慮も無く、パチパチ音が鳴る。參拜は、物見遊山では無からうに‥‥。「宮域では、喫煙・痰唾・放歌・高聲を愼しみ、又た寫眞を撮る等のことは、すべて差控へられたい」と。たとひ寫眞撮影の御許可が下りたとしても、特に正殿正面からの撮影だけは、嚴に愼まれたい。蓋し神社の「正中(尊道・置道)」に關はる祕事に屬する重事、幾重にも御留意を乞ふ。

 今一つ、巷間よく聞く所の「神社に行く」とは、是れ如何。せめて「參る」ないし「詣づ」と申すことは出來ぬものか。不躾な報道のせゐか、無意識か、或は教育されてをらぬか知らないが、「苟くも不敬亂雜に渉るやうな事の無い樣」に。もろ肌だしての訪問、パワースポツトとか、靈磁場とか、彼とか此とか、些か五月蠅いぞ。「天地と共に改まるまじき常の典と、立て給ひ敷き給へる御法」(『神宮式年遷宮大御饌祝詞』)、「皇家第一の重事、神宮無雙の大營」(『遷宮例文』)なるぞ。それとも、我れ關せず焉か。外宮遷御の御儀の終はるまでは、沈默無言、獨り謹愼しようと控へて居たが、喧しく云ふ者もゐないやうなので、我慢ならず、敢へて言上げする次第なり。
 
 

奉祝・第六十二囘神宮式年遷宮──諄辭、其の十三。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月30日(月)23時20分12秒
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  ●神宮『第五十九囘神宮式年遷宮(大御饌)祝詞』(昭和二十八年十月。[云々]は、外宮の祝詞。梅田義彦博士編『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊に所收)

 大御饌
  皇大神宮 (二日)
  豐受大神宮(五日)
   祝 詞

度會の宇治の五十鈴の川上[度會の山田が原]の、下津磐根に大宮柱太敷き立て、高天の原に千木高知りて、稱辭竟へ奉る。

掛けまくも畏き、天照坐皇大御神の大御前を愼敬(みゐやま)ひ[豐受大御神の大前に]、恐み恐みも白さく。

遠天皇(とほすめろぎ)の大御代より、天地と共に改まるまじき常の典(のり)と、立て給ひ敷き給へる御法(みのり)の隨に、御殿を二十年(はたとせ)に一度び、新しく造り仕へ奉らむ爲めの故に、天皇命の大命(おほみこと)以ちて、昭和の十まり六年四月、御杣山を定め奉り、大峡・小峡(をかひ)に生ひ立てる大木・小木を、本末打切り、中間(なから)を持ち參ゐ來て、天の御蔭・日の御蔭と隱り坐さむ、皇大御神[大御神]の瑞の御殿、清く美はしく造り仕へ奉り、御裝束(おむよそひ)・神寶捧げ奉りて、遷御(みうつし)の神事(かむわざ)仕へ奉りき。

故れ御壽ぎの壽詞(よごと)、稱へ奉らくと、職・○○○○を、大御使と爲て、うづの大幣帛、奉出(たてまだ)し給ふに依りて、朝日の豐榮登りに、持ち齋(ゆ)まはり持ち清まはりて、大御饌供へ奉る状を、平らけく安らけく聞し食して、高く尊き大御光を、彌や益々に伊照り輝かしめ給ひて、天皇命の大御壽(おほみいのち)を手長の大御壽と、湯津磐村の如く、常磐に堅磐に齋ひ奉り給ひ、崇敬者等(まめびとら)の上は白さくも更なり、天の下、萬の國の諸人に至るまで、直く正しき誠の道に教へ導き給ひ、夜の守り・日の守りに、護り惠み幸はへ給ひて、作り食ぶる五穀(たなつもの)を始めて、作りと作る種々の物を、豐かにむくさかに成し幸はへ給へと、恐み恐みも申す。



【參看・神宮參宮の拜詞】
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 愚案、昭和四年十月に於ける第五十八囘神宮式年遷宮の祝詞には、其の結句「常磐に堅磐に齋ひ奉り、茂し御代に幸へ賜ひ、生れ坐さむ皇子等をも惠み賜ひ、百官人等、天の下、四方の國の公民(おほみたから)に至るまで、長く平らけく護り惠み幸はへ賜ひ」とあり、之と比べて些か繁簡あるも、戰前・戰後、殆んど同じ壽詞である。即ち「天の下、萬の國の諸人に至るまで、直く正しき誠の道に教へ導き給ひ、夜の守り・日の守りに、護り惠み幸はへ給」はむことを懇祷して、世界皇化を期されてをられるのであり、其の稱辭を奉らせ給ふは、皇御孫命に大坐しますこと、勿論である。誠に忝く有り難き極み、尊く畏き極みと謂はねばならぬ。皇國の御民は固より、四方の蕃民に至るまで、心して謹聽感泣するがよい。

 本日、『不二』九月號拜戴。劈頭に影山正治翁の哥(「壬子元旦」)あり、謹みて掲げさせて戴く。

伊勢神宮 おんたてかへの ときせまる 擧國のともら 眉あげて起て
 
 

「中今」こそ、天壤無窮の表現なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月21日(土)00時20分1秒
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  ■『續日本紀』卷第二・文武天皇即位の詔(元年八月十七日。「中今」の出典は、他に卷第四・和銅改元の詔、卷第九・神龜元年五月・聖武天皇即位の宣命、卷十七・天平勝寶元年四月一日の宣命)

高天原に事始めて、遠天皇祖(とほすめろぎ)の御世(みよゝゝ)、中今(なかいま)に至るまでに、天皇が御子のあ(生)れ坐さむ彌や繼々に、大八嶋國知らさむ次(つぎて)と、天つ神の御子隨(なが)らも、天に坐す神の依さし奉り隨(まにま)に、聞こし看し來る、此の天津日嗣、高御座の業と、現御神と、大八嶋國知ろしめす、倭根子天皇命の授け賜ひ負(おほ)せ賜ふ、貴き高き廣き厚き大命を受け賜はり恐み坐して、此の食す國天の下を調(とゝの)へ賜ひ平げ賜ひ、天の下の公民を惠み賜ひ撫で賜はむとなも、隨神らも思ほしめさくと、詔る。



 從三位勳二等・愛宕神社名譽宮司・神宮皇學舘大學學長・山田孝雄博士の曰く、

「中今とは何ぞ。現實の世界をば觀じて、「中」にありとなす。「中」とは何ぞ。之を歴史的に見れば、悠久の過去と永遠の未來とを連絡せる中心點なり。之を道徳的にみれば、人世を發展の中途にありとし、過去を顧みて徒らに悲しまず、將來を夢みて漫りに放浪せざる、穩健なる思想を含む。中今と觀ずるが故に進歩に努力す、中今と觀ずるが故に滿足せず、中今と觀ずるが故に失望せず、中今と觀ずるが故に志氣旺盛にして、活動、これによりて生ず。中今の人生觀は、進歩的なり、現世的なり、實際的なり、改善的なり、向上主義なり、發展主義なり、小成に安んぜざるなり、理想を將來にかくるなり」

との覺書を有するも、其の出典を知らず(明治四十三年の小册子の由)、博士の「中今」發見は、或は『大日本國體概論』に出づと云ふが、之も有する所に非ざれば、別に小倉鏗爾翁『國體神祇辭典』(昭和十五年十月・錦正社刊)より、博士の所説を引きて、之を示さむ。ともあれ、生成化育、「中今」彌榮の大精神を以て、現實の經營努力を尊ぶは、神道の眼目とする所なる可し矣。因みに葵園賀茂百樹靖國神社宮司の別號「中今亭」は、蓋し此に出づるならむ。而して小生が關防印は、此の「中今」を用ゐたり。



●山田孝雄博士『國體の本義』に曰く、

「抑も『中今』といふ語を考ふるに、これには『今』といふ觀念と『中』といふ觀念とありて、さてその二者の統合によりて、その『今』を『中』と觀ずるものたるや明かなり。而してその『今』といふ語は、如何なる觀念をあらはすかといふに、これは時間上の概念としての現今をさす語たること明かなり。而してその時間といふものは、過去より現在に、現在より未來にわたる一延長をなせるものたることは明かにして、その時間の一部分たる現在をば、『今』といへることは明白なることなり。

 次に『中』といふ觀念は如何といふに、『中』といふ語は、相對的の觀念をあらはすものにして、この『中』といふ觀念は、必ずそれに對して相反する二方面を考へざるべからざるなり。たとへば空間的にいへば、前・後・中とか、上・中・下とか、左・右・中といふが如し。時間にいへば、以前と以後との中間といふ觀念なくば考へられず、いはれざる語たるや明かなり。

 而してこの『今』といふ語と『中』といふ語を結びつけたるものを考ふるに、『今』は時間についての現在をさせる語にして、これを『中』といふ語を用ゐて、それを制限せる以上、その『中』といふ語は、時間の上に用ゐられたるものなるはいふをまたず。然る時に、時間は一延長のみのものなれば、その『中今』といふ語は、『現今』といふものを以て、その時間そのものゝ『中』なりと觀ずるものたるや明かなり。さればこれは、この『今』は以前即ち過去と、以後即ち未來との中なりと觀じたるものといふべきなり。而してこれは、現在の世を『中』なりと觀ずる思想をあらはしたるものにして、即ち現在を以て過去より將來にわたる永遠の時の中間なりとするものたること明かなり。

 なほ又た中今の世といふ、その『よ』といふ語も、この思想の存することを證するものなり。『よ』といふ語は、竹にて節と節との間をいふ意に用ゐたるものが、最も具體的に簡單に、その本義を示すものといふべく、これを今も人生について『よ』といへるは、人が生るといふ節より死ぬといふ節までの中間をいふものなりと知られたり。こゝには個人の生命の存する間を『よ』といひ、それは永遠の生命のうちの節間なりと見たるものなること明かなり。かくの如くなれば、この思想は、古今に通じて存すといふべし。即ちこの『中今』といふ語は、過去を離れての現在なく、現在を離れての將來なく、過去及び將來を考へざるの現在なしといふ精神を、一言にして明かにしたる至大の金言なりといふべし。

 吾、かつていさゝか西洋の哲學を研究して、現在といふことの説明を見て、豁然として悟るところあり。以てわが『中今』の義を解するに重大の關係あるを知るに至りて、深くわが國語の周到精密なる思想を含めるに驚きたり。現在とは何か。時の實在點なり。時は實に現在といふ一點によりて、實有のものたるを證明せらるゝものにして、過去も將來も、この現在といふ支點を基として、始めて了解せらるゝものなり。古、虚無の論をなしたるものあり。曰はく、「過去は、今や有るものにあらず、將來は、未だ有るものとならず。現在は過去と將來との境界たる一の點にすぎず。この故に現在は、實有にあらず」といふなり。實に過去と將來とが、實有のものにあらずして、しかして現在が、それら實有にあらぬものゝ、たゞの境界點にすぎずとせば、これ現在は、實有のものにあらずともいはるべし。かくの如くにして多くの懷疑説は、これより起り、多くの虚無論も、これを出發點とせり。

 されど、これは誤なり。過去とは何か。一旦、現在たりしことありしものなり。將來とは何か。いつか、現在となりて來ることあるべしとの義なり。而してこの過去も現在も將來も、たゞ無限の延長をなせる『時』といふものゝ、或る點につきて名づけたるものにすぎず。然らば、時とは何か。獨逸の哲學者キルヒマン、之を解して曰はく、「時とは、不斷の流なり。而して時は、現在といふ一點のみが實有のものにして、この現在といふ一點が、それ自身にて流るゝ爲に、過去より將來に亙れる線状を呈するに至る」といへり。時の實在性は、現在といふ一點を以て支持せらるゝこと、かくの如く明かなり。

 かくの如く見るときは、現在といふものは、時といふものゝ上に於ては、絶對的の價値ありといふべきにあらずや。而してこれ、實にわが『中今』の思想を、恰も哲學的に解釋したるが如き觀あるは、頗る驚くべき事なりとす。西洋の哲學史を見るに、現在とは如何なるものかといふことを哲學的に説明することは、古代の希臘以來、何人も完全に解釋し能はざりしものにして、それが爲に、上述の如き懷疑思想・虚無思想の跋扈せしなりき。然るに六十年許り前に、獨逸のキルヒマン出で、前述の如き解釋を下して、はじめて『時』の哲學的説明を得たるものなり。而してこれ即ち『中今』の思想の、時間的方面の哲學上の根據を示す用に供せらるべきものなるが、この偉大なる思想は、わが國語として、一千二百年の昔に、既に言明せられてあることと、西洋の哲學者が、その二千年間も解釋に苦しみ來りしこととを對比するときは、吾人は、わが民族思想の偉大なることを思ひ、この國語の偉大なる所以の偶然ならざるを惟ふものなり」と。



●山田孝雄博士『國語と國民性』に曰く、

「古事記を繙くと、その最初に書きあげられてゐるのは、天御中主神である。この神の御名の主眼點は、『中』である。この『なか』といふことが、わが古典の最初にあらはれてゐるといふことは、非常に深い意味があると思ふ。私は、この『中』といふことが、日本人の思想の中核であると思ふ。この『中』は、空間の中心であり、同時に時間の中である。天照大御神御出現の前に、伊弉諾尊が、日向の橘の小門の檍原で禊を遊ばされた時には、『上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し』と仰せられて、中瀬に下り潛(かづ)きて禊を遊ばされた。禊をする時に、中瀬に下りることは、古典に屡々見る所である。これは空間の上の中を尊ぶ思想のあらはれであることは、疑ふべくもない。

 更に續日本紀に至れば、文武天皇御即位の宣命をはじめ、多くの宣命に、『中今に至るまでに』といふ御詞が見ゆる。これは、時間の本質が現在といふ點に存し、それが無限の流れをなすといふ眞理の表現であると共に、天壤無窮の皇運といふことの思想の裏打する所のあると共に、わが國民性の中核が、努力的・改善的無窮の生命に存することを示すものであると思ふが、なほそれと共に、この中を最も重く見る國民性は、極端なることを好まないといふ思想を示すものである。

 國語の『中』といふ語は、或る點は、支那の「中庸」といふ觀念に似てゐるやうであるけれど、質は違ふのである。かの『中瀬』と仰せられた場合の『中』といふのは、適當なといふ意をあらはしたものである。人は、往々中なるが故に適當だといふけれども、それは本末をとりちがへたいひ方である。わが國語で、かやうな場合にいふ『中』は、適當なといふ意味でいふのである。たとへば『加減のよい』といふのが、浴場の中である。過不及の中間が『なか』なのでなくて、『なか』でない場合が、過か不及かになるのである。かくしてこの『中』を貴ぶ思想は、いづれの方面から見ても、國民性の中核をなすものである」と。



●山田孝雄博士(紀平正美博士『國體の眞意義』に所引)の曰く、

「自分は、從來多くの國體に關しての議論を聞いて居るが、何れもぴつたりと自分の頭へ來るものはない。‥‥若し國體なるものが本當に存在するならば、それは我々の國語の上に、其の儘ま現れて居らなくてはならない。さうした語が何處に在るかと捜して居たのであるが、茲に十數年、やつとそれを見出したのが、文武天皇の即位の宣命の中にある『中今』といふ語である。この中今の精神こそ、日本の國體を明瞭に現したものである。‥‥此の『中今』と云ふことを、私の專門の論理の上から見ると、更に意義のあることである。只今の御世といふべき場合に、『中今』と書いた精神こそ、天皇の御即位といふ如き重大な場合に出た思想として、誠に愉快なるものと考へられるのである」と。



山田孝雄博士『國體の本義解説叢書・肇國の精神』(文部省教學局編纂・昭和十三年八月・内閣印刷局刊)に曰く、

「中といふことは、如何なる意味を有するか。これを單に平面的に見れば、圖形の中點をさすこととなるが、平面そのものは實在でないから、立體の中心をさすことにならうが、それもたゞ空間に止まるものであつてはならぬ。精神を有し、生命を有するものは、空間の中などに止まるもので無い。こゝに時間の上の中があらはれなければならぬ。その中は、空間的の中でありながら、そのまゝ時間の上の中であるべき筈である。天之御中主神の『中』は、即ちこの中である。この中は宇宙、即ち空間と時間とを具象したものゝ中である。かくしてその中は、
無始無終であらうが、それは靜的に無始無終なものではない。靜的に見れば、空間的の中と思はるゝものが、時間の上に無限に展開して息まない中である。かやうな『中』が、即ち天之御中主神の中であらねばならぬ。かやうに考へてくれば、天之御中主神は、即ち天壤無窮そのものを表はしたものと云へるであらう。‥‥

 『中今』といふ語は、現在を過去と未來との中と觀ずるものであるが、これは時そのものを永遠の存在と觀ずる思想が根柢をなしてゐて、しかも時間の現實性を、『今』によりて認むる思想である。即ちこれは永遠そのものを閾下に有しつゝ、現在を現してゐる語である。かくして今を中と觀じて、永遠の過去と永遠の未來との存在を同時に肯定してゐる思想をあらはしてゐる。抑々無窮と云ふことを、時間的連續に於てのみ抽象的に考へるのは、我が天壤無窮といふ言葉を以て表はされてゐる意味とは異なるところがある。中今の『今』は、その中(うち)に永遠を含む。『中今』の今は、過去を含み、未來を含む。否、過去から生まれて、未來を孕むところの中である。中今が在つて、はじめて過去の存在が實證せらるゝのである。中今が在つて、はじめて未來そのものが生ずるのである。過去といふことは、單に觀念だけとして見ても、現在を基礎にしなければ考へられぬ觀念である。未來といふことも、亦た單に觀念だけとして見ても、現在を基礎にしなければ考へられぬ觀念である。しかもその今を中今と觀ずる時に、その今は、必ず過去から生まれて來た今であり、未來を必ず生ずる今であるといふことが明らかになる。こゝに於て『中今』は、永遠そのものゝ認識を、確かに示す實在點であるといはねばならぬ。この『中今』こそは、天壤無窮といふことの思想的原理であらねばならぬ。かくて神國の自覺を有し、血族的一團に基づく愛を力の源とする一の精神が、この中今の思想によつて、一歩々々現實性を確保しつゝ、展開して進んで行く。これが天壤無窮の寶祚、萬世一系の皇統の永遠である原理である。

 『中今』が血族的にあらはれたのが、現實の親子の關係とその親子の間の愛である。その中今たる親子の關係が、現實として永遠に展開して行くことが、萬世一系の原理である。その中今たる親子の間の愛が、永遠にその力を發揮しつゝ活動して行くことが、天壤無窮の生命の原理である。かくしてわが現在の天皇の大御心・大御業の中には、過去永遠からの皇祖皇宗の大御心が、活々として働き遊ばされ、過去永遠からの皇祖皇宗の大御業が、その結果をあらはさるゝのであり、又その大御心・大御業の中に、わが國の無限の將來が生きてゐるのである。臣民に於ても同樣であつて、我等臣民の祖先は、我等の今の心・今の活動の中に活きてゐるのであり、我等の今の心・今のしわざは、我等の子孫の心・我等の子孫のしわざを生むのである。かやうな意味に於て、この大日本帝國といふ國の肇國の大事實は、今、現にこの我が國に生きて働いてゐるのである。わが皇運が天壤無窮である所の意味は、實にこの昔も今も後々も一である所に、その根源を有してゐる。而してそれは實に『天つ神、諸々の命以ちて』の神慮の展開に外ならぬ。かくして億兆、心を一にして、天皇の大御業を翼贊し奉りつゝ、一日も息まぬところに、天壤無窮の皇運が展開しつゝ進むのである。まことにこの『中今』の精神あつてこそ、我が國が永遠の生命を有し、永遠に發展することも、深い根柢を得るのである。我が歴史は、永遠そのものが『今』といふ形に於てあらはるゝ所の展開であり、我が歴史の根柢には、いつもその永遠そのものが、不斷の生命を以て流れてゐる
」と。
 
 

靖國神社行幸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月15日(日)17時55分44秒
返信・引用 編集済
   あな、嬉しや哉。我が不快感を同じうする所の、碩學の文章を偶見、年來の溜飲を下ぐるを得たり。こゝに特記して、之を高く掲げて置きたい。其の違和感を同じうする御方には、今日よりは、直ちに之を改め、何事に於いても、一字一句に拘り、戰々恐々、些かも不敬に亙ること莫からむことを。懇祈々々‥‥。



●山田孝雄博士『國語と國民性』(『國語尊重の根本義』昭和十三年十一月・白水社刊に所收)に曰く、

「『菅原傳授手習鑑』に、「王は十善、神は九善」といふ諺がある。これはもとより佛教で、十善の王位といふことに基づいて言つた話であるけれど、さやうな佛教思想には、少しも累せられてゐないものであつて、神よりも國王が上にましますといふ思想をあらはしたもので、『世話盡』に、「神より君」とも云ふ如く、わが天皇は、現人神でましますのみならず、普通の神々よりも上位にましますといふ思想のあらはれであつて、わがすめらみことの御地位をよくあらはしてゐるものである。近頃、新聞などに、往々、「某神社に御參拜遊ばされた」などいふことを書くものを見受けるが、古から御在位の天皇の「神社御參拜」といふ語は、かつて聞かない。たとへば「賀茂行幸」・「石清水行幸」などと申し上げたものであつた。近頃は西洋語などにかぶれて、かやうな國語の正しい意義や用法を心得ないものが見えるやうになつて、神聖をけがし奉るかの如き嫌ひあることの、往々耳目に觸れるのは、甚だ遺憾とする所である」と。



 愚案、「參拜(參詣して拜禮)」にしろ、「親拜(親から拜禮)」にしろ、共に一般名詞、全く敬語を含まず。而して何でも「御」をつけ、敬意を表したりと、獨り安心すること勿れ。皇室に對し奉つては、皇室に對し奉るの敬語あり。況んや天子樣に關はる御事に於いてをや。先人の教へ、一字一句、決して忽せにす可からず矣。
 
 

「九段塾」開板五周年を迎へて。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月12日(木)18時37分14秒
返信・引用 編集済
   本日、「九段塾」開板以來、こゝに滿五年を迎へ、洵に感慨無量なるものがございます。玉稿を賜ひし御方はじめ、大方(たいはう)のご閲覽各位には、謹みて御禮申し上げます。

 塾頭・金城福井忠翁、逝いて既に滿三年餘、懸命に書き繼いで參りましたものゝ、力及ばず、各位には、ご不滿もあられませうが、何卒、御許し賜はらむことを、切に懇祷申し上げます。

 「夫れ皇國の尊嚴なる所以は、開闢以來、幾千年、上下、相信じて、君民和樂し、父子、相親しんで、代々、志を傳へ、内に絶えて革命の亂逆を見ず、一朝、外に事あれば、忠勇、無敵なりしに因る。これ固より神威の尊く、君徳の高きに依ると雖も、抑も亦た先哲、道を弘め、教を布くの深きが致す所なり。然るに輓近、人心浮薄にして、邪説横行し、國勢陵夷して、遂に未曾有の大難を招くに至れり」とは、平泉澄先生の述懷にして、所謂る戰後てふ時代、保守とよばれる大方(おほかた)の人は、先哲の教へを顧みること無く、其の軸足は泰西の思想下に在つて、我が皇國は、益々混迷の度を深めつゝあります。

 其の中に在つて、九段塾の塾頭の出現は、思想の正邪と峻別に、大なる鐵鎚を下して、我々の、己の據つて立つ位置を省み、覺醒堅固にする契機になつたのであります。「保守の敵は、保守なり」とは、松平永芳宮司の箴訓、憂國の言靈にして、流行保守の正體が、漸く白日顯然となつたかと恐察します。聖旨奉戴、國體明徴を叫ばざるを得ない趨勢、是れ即ち九段塾の存して、未だ閉鎖に至らざる所以であります。

 「九段塾・塾頭」の雄叫び徹底せざるは、殘されし「靖國神社正統護持」者の罪にして、未だ靖國神社參拜を、「靖国参拝」と稱して憚らず、昭和殉難者を、「○級戦犯」と申して耻ぢず、參拜を以て集票、或は政治問題化せんと欲する政治家の絶えざる中今、塾頭不在の、名ばかりの「九段塾」でありますが、今後とも御見限りなきやう、有志諸賢には、ご鞭撻ご示教の程、只管ら乞ひ奉る次第であります。

 而して明日は、乃木靜堂將軍の歸幽日にして、塾頭「九段塾」臨在講義始めの日。嗚呼、塾頭には、再び臨板叱咤されるでありませうか。

 平成二十五年九月十二日、吉備中國御民・備中處士、恐惶恐懼、謹みて白す。



平泉澄博士『日本國民精神』(『日本精神講演集』所收)

「足利の外交と云ひますのは、丁度、支那の明の時でありますが、明に對する外交は、明に對して「臣」と稱する。さうして年號も、日本の年號を用ひないで、皆な支那の年號を使つて居ります。是は、それだけ聞くと、笑ひ事でありますが、實際は、今日も笑へた義理ではない。今日の我が國民は、大部分西暦を使つて居るから、餘り昔のことを笑へた義理ではないと思ひます。實際、今日の現状を見ても、慨歎に堪へない。どういふ年號を使ふかといふことは、是は非常に重大な問題であつて、其の國家觀念、其の歴史觀念の根本が、是で決まることであります。支那に於て、正朔を奉ずるといふことは、その暦を用ひ、其の年月日を用ひるといふことは、即ち之に服屬するといふことを意味するものであつて、今、我が國が一般に西暦を用ひるものゝ多いといふことは、今日の日本が、西洋思想に屈服して居ることの證據であります」と。
 
 
 

靖國神社は、悉く皇運扶翼の極致にして、君民一體の實現なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月11日(水)23時45分38秒
返信・引用
  ●今泉定助翁『國體原理』(日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』第三卷・昭和四十五年三月・同研究所刊に所收。小倉鏗爾翁『國體神祇辭典』昭和十五年十月・錦正社刊の「靖國神社」條にも引用)

靖國神社は、明治の初年、明治天皇の思召では、最初、宮中に御祭りにならうと遊ばされた趣である。處が側近の人々が、それでは誠に恐れ入つた事柄で、宮中に臣民の靈を御祭り遊ばされることは、何としても恐れ入る次第であるから、他に場所の御選定を冀ひ、外に御祭り遊ばすやうにと云ふことを、徳大寺侍從長や其の他の人々が、頻りに御懇願申し上げて、陛下も御聽濟みになり、それならば成る可く高燥な綺麗な場所を選ぶやうにと云ふ御沙汰で、今の九段の上に選定せられたものであると承つて居る。さうして靖國神社が出來て、今日は御承知の通り、十二萬何千の御祭神になつて、社格は別格官幣社である。人臣を祭つた神社は、皆な別格官幣社である。楠公でも、和氣公でも、又た織田氏・豐臣氏でも、皆な同樣である。

 何故、私が、靖國神社を君民一體の實現であると云ふかと云ふと、歴代の天皇が、神社に御參拜[小倉鏗爾翁の云く、「御參拜と申し上ぐるは適當でなく、行幸と申し上ぐべきであると思ひます」と]になることは、非常に重いことで、‥‥然るに靖國神社へは、明治天皇は七度も御參拜になつて居る。靖國神社の祭神は、立派な人もあるけれども、多くは兵士である。身分の低い人々が多數である。その身分の低い祭神に對して、明治天皇が七度までも、御自ら御參拜になり、大正天皇も、今上陛下も、例祭には御參拜になると云ふことは、他の神社に例のないことである。さう云ふ特例を、明治天皇が御開きになつたと云ふことは、どう云ふ譯であるか。

 靖國神社の祭神は、皆な悉く皇運扶翼の極致である。此の位ゐ徹底した皇運扶翼はない。それであるから、身分の低い人々が多數であるけれども、皇運扶翼の極致であると云ふ意味に於いて、明治天皇は、御自分と一體であると云ふ思召であつたのであらう。そこで幾度も御參拜になつたのであると拜察し奉る。

 君民一體と云ふ事は、誰でも云ふことであるが、唯だ机上の空論でなく、實現させねばならぬ。大臣も議員も、知事も市町村長も、富豪も一般国民も、君民一體と云ふことを觀念的の事柄のやうに思はずに、實現させねばならぬのである。理想と實行とを別々に考へるのは、相對觀である。理想と云ふことは實行の表現であり、実行は理想の一部分でなければならぬのである。理想と實行とは、二つではない。それを二つに見る所に、矛盾が起り、間違ひが生ずるのではないか。眞實に、義は君臣にして、情は父子の如し、と云ふ御言葉を實現せねばならぬのである」と。



 愚案、臣民にして、天子の靖國神社行幸を仰ぎ奉ると云ふことは、洵に畏れ多くして、臣民は固より、祭神にとつても、名譽道福、此の上なき御事であります。我々は、天皇陛下の行幸を、百年でも二百年でも、靜かに御待ち申し上げれば宜しい。小倉鏗爾翁の曰く、「(靖國神社)御參拜と申し上ぐるは適當でなく、行幸と申し上ぐべきであると思ひます」と。塾頭も、正しくは「行幸」なりと仰せでした。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/21
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/9
 
 

正學とは──皇學・日本學。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 8日(日)23時30分41秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●栗里栗田寛博士『天朝正學』(明治二十九年十二月・國光社刊)

 學問とは、世に文字ありて後、始めて之あるにあらず。天地開闢の始め、未だ文字あらざるの時、天祖あり、天神あり。天祖の行ふ所、天神の言ふ所のもの、萬民、從つて之に經由し、之に遵奉して違ふことなきを、道と云ひ教と曰ふ。是れ乃ち學也。天祖・天神ありて、而後に國家あり。國家ありて、而後に萬民あり。萬民、其の覆育の恩を蒙むるは、天祖・天神の賜もの也。故に天祖・天神は、國家の大本也、萬民の祖先也。天下の大なるも、國家より貴きはなく、萬民の衆きも、祖先より重きはなし。既に君民あり、父子あり。君令して臣從ひ、父命じて子順ふ。君は即ち天祖の皇裔にましゝゝて、萬古一系、かはらざるの天日嗣にませり。父は即ち天神の神胤にして、朱髯緑眼の非類に異なり。君に事へて節義を致し、忠誠を盡すときは、天下、爲めに感動し、祖に事へて祭祀を致し、敬禮を極むるときは、神明、其の祭を享く。神人、是に於て感應し、天地、是に於て和洽する者、之を道と云ひ教と云ふ。この道を行ひ、この教を言ひ、子孫繼承して倍(そむ)かざる、之を學と云ふ。大凡そ世に、詩歌文章を作爲し、講釋演説をなして、揚々自得し、時々機軸を出して、新奇の説を吐き、世を惑はし俗を玩び、權家に媚び當世に阿り、世と浮沈し時と推移し、博士と稱し學士と呼び、天下に衒ふ者を學問と思ふは、非也。 學とは、神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に倍かず、天業を恢弘し、皇運を翼贊するもの、是れ之を正學と謂ふ。請ふ、試みに之を述べん。

 夫れ天地剖判の始めに當りて、神聖あり。神々相傳へて、創業開物の事をなし、諾冉二尊に命じて、天下國土を經營せしむ。二神、已に天神の命を奉じ、國魂の神を生み、草木を繁殖し、河海物産の事を明かにし、國土の疆域を定め、各々其の國民を治めしむ。是に於てか乎、三貴子を生みて、天下の君を定め、以て君臣の分を明かにし給へり。

 二尊經畫する所の天下は、天神授くる所の天下にして、他人民の私にす可き所にあらず。天神の授くる所の天下を以て、之を經畫し之を平定し、以て天下の君とますべき天照大神に授け奉れるにて、天下の地、一民も天子の民にあらざるなく、尺土も天子の有にあらざるなきは、彼の西洋諸國、白黒人種の水草を逐うて、移住結合して國をなすものとは、もとより異なること、顯然たり。世人、或は此の義を明かにせず、一個人の主義を立て、自由を唱へ、民權を主張するを、無上の大義と心得、自國の國體をば打忘れて、彼の外國の事を模範とし、稱するに文明以てし、自ら居るに半開野蠻を以てするは、是れ君父の國を輕蔑するもの、もとより學問の主意を失へる者なり。

 學問の主意とは、神聖彝訓を奉じて、天地の大道に倍かざるを云ふ。神聖の彜訓とは、君臣の大義なり、父子の至親なり、祖先の祭祀なり。天照大神、五穀の種を獲て、敕して曰く、「此の物や、顯見蒼生(うつしきあをひとくさ)、食ひて活くべき也」と、かの生民を愛するの情、靄然として言外に溢る。其の君徳の大なるや、知るべし。天祖の天窟に隱るゝや、百神奔走して、各々其の誠敬を致し、幣物を供す。人臣の禮、明かなり。其の皇孫をして下土を治めしむるや、群臣に敕して、皇孫を輔翼すること、天上の儀の如くならしむ。君臣の義、儼乎として正しきを見るべし。天智帝の蘇我氏に令するに、「開闢以來、君臣、始めより有り」と云ふものは、之が爲めなり[かゝる道理あることを知らずして、自由の説を唱ふる者は、政府の干渉を慊しとせず、民權を唱ふる者は、上に抗するを旨とするに至る。是れ、大いに學問の主意を失へるものなり]。

 天祖の、神器を皇孫に授くるや、敕して曰く、「汝、此の寶鏡を視ること、朕を視るが如く、以て齋鏡とせよ」と。齋鏡は、即ち天祖の神體をうつしたまへる所のもの、皇孫は、即ち其の神胤にましませり。神胤を以て、其の寶鏡を視る、其のうつる所の玉體は、即ち天祖の遺體なり。天祖の遺體を以て、天神の神器を奉ず。父子の親、一系綿々、萬古、絶えることなし[たゞ朝廷、萬古一系、父子の血脉を傳へ給ふのみにあらず、下、萬民の賤しきに至るまで、何れも天神の裔・地祇の冑にあらざるもの有ることなし。君臣共に天地を窮めて、萬世血脉を保ち、一種族相うけて、他血屬の、之を間するものなし。豈に萬國、無上無比の至尊至貴なる神明の國ならずや。然るを外國學をする者、輙もすれば則ち曰く、「君臣の大義は、野蠻蒙昧の俗なり」と。何ぞ不遜無禮、大體を知らざるの甚だしきや。かゝる學者をして、舌を鼓し辯を弄せしめ、默々して世に視息するは、日本人民、朝廷に敬事するの大道に背き、學問の道理に違ふものなり]。

 又た天祖の、皇孫を筑紫に降し給ふや、高皇産靈尊、敕して曰く、「吾は、天津神籬・天津磐境を起樹(たて)て、吾が孫の爲めに奉齋せん。汝、天兒屋命・太玉命、宜しく天津神籬を持て、葦原の中國に降つて、皇孫の爲めに奉齋せよ」と云つて、二神を陪從せしむ。又た敕して曰く、「吾、高天原に所御齋庭(きこすゆには)の穗(いなほ)を以て、我が兒に御せ奉るべし」と云へり。この神籬は、神社なり。磐境は、疆域なり。神社を設けて、天祖・天神の恩に報い、其の國土に生ずる所の衣食の物を以て、祭禮を致せとの御事なり。祖先に敬事するの道、是に於て盡せりと謂ふべし。

 神武天皇の東征、天下を平定し給ふに當つて、先づ第一に主として、皇祖・天神を鳥見山中に祀りて、大孝を申べ給へるは、天祖・天神の天敕に從ふなり。崇神天皇の、神祇を崇敬して、同殿共床を畏み給へるは、祖宗の神敕と異なるが如くなれども、其の孝敬の心、惻怛の情、實に同殿にますに忍びざることあるに起れり。神敕と異なるが如くにして、神敕を奉遵するの道なり。景行天皇の、威風を耀かして、東西を征伐し給ひ、成務天皇の、山河を疆ひし邑里を定め、國造・縣主を置き、以て皇化を扇ぐもの、亦た祖宗の神慮に本づけり。是れ皆な未だ文學あらざるときに、神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に順ひ給ひしもの、此の如し。是れ、天朝の正學なり。我れ故に曰く、學問とは、文字ありて、始めて之あるにあらず。未だ文字あらざるの時より、天祖・天神の、皇基を建て、日本國民をして遵行せしめしもの、之を學と云ふ。此の故に諾冉二神は、よく天神の道を遵奉し、國土を經營せり。大己貴命は、素戔鳴尊の命を守つて、よく大國主の大業を致せり。經津主・武甕槌命は、天祖の敕を以て、天下の邪徒を掃蕩し、皇威を八洲の内に輝かせり。神武・崇神・景行・成務・神功は、天祖・天神の大道を恢弘して、大いに稜威を海外に施し給へり。是れ之を學と云ひ、是れ之を道と云ふ、是れ之を大和魂と云ふ。この神聖の彜訓を奉じて、世界萬國に及ぼすに非ずんば、日本の民と云ふべからず、日本の學と云ふべからず。日本の道に叶ひがたく、君臣の大義に背き、大和魂に違ふものぞ。然らば此の心なくして、學問をなし、詩をよくし文を作りたりとも、忠心義膽なければ、其の詩は、戲作者の小説を作るが如きものゝみ耳、伊勢物語・源氏物語のあとなし言のみ。安んぞ人をして感動せしむることを得ん。感ずる人ありとも、之を眞と思ふ愚惑の徒のみ、言ふに足る可からず。たとひよく演説をなし講義をなし、其の儀容は見るべきが如きも、亦た冠玉の如くならんのみ耳、所謂る俗儒曲學、阿世の徒のみ耳、忠臣を誹謗し、義士を排却し、得々揚々たるの類のみ耳。もとより君子儒者の流には齒ひすべきにあらず。然るに世には、かゝるたぐひを以て、學問の正理を得たるものと思ふは、甚だしきあやまりなり。思ひ惑ふこと勿れ。是の如きものは、決して天朝の正學とは云ひがたきものぞかし。‥‥

 應神天皇の御世、漢土の學を弘め玉ひし後、國史・律令・格式等のめでたき書、多く出來つれど、未だよく神聖の彜訓を掲げて、天地の大道を論ぜし者あらず。其れ之れあるは、北畠准后の『神皇正統記』に始まる。准后、南北播遷の際、常陸に流離し、北軍、四方環攻するの時に當り、一旅の衆を以て、關の孤城に據り、義徒を糾合するも、時の盛衰と戰の勝敗を觀望する者衆く、其の困苦艱難、實に名状す可からざるものあり。而して准后、忠義の心、凛然として屈せず、確乎として撓まず、僅かに王代記に據つて、正統記を著はし、神器の嚴、犯す可からず、皇統の尊、干す可からざるの理を明かにす。正氣の磅□[石+薄]、萬古磨滅せざる者あり。是れ眞に天朝の正學と謂ふべし。爾後三百二三十歳にして、源義公の如き、朝廷あることを知つて、自家あることを知らず、名分を正して、君臣の義を明かにし、天朝を尊崇して、亂賊を筆誅するの『大日本史』あり。‥‥みな神聖の彜訓を奉じて、天地の大道を明かにするに非ざるなし。北畠准后以後、始めて此の大著作あり。古人の、義公の學を稱して、天朝の正學と謂ふ。實に當れり。

 嗚呼、天地間の事物、取つて人世の用に供すべき者、兵也、刑也、禮也、樂也、天文地理也、山川草木禽獸也、文章畫圖・文字諸工藝・農商の業也、學に非ざる者なければ、洋の東西と國の遠近に論なく、其の科目を設けて之を文學に置き、人の好む所に隨つて之を學ばしめ、而して神聖の彜訓に照らして誤らず、天地の大道に準じて違はず、而して後に之を大小事物の上に施して干格すること無からしめば、天朝の正學、全く備はりて、善を盡し美を盡せるものと謂ふべき也。世人、或はこの義を知らず、神聖の大道を主張すれば、頑と云ひ、東洋の美をのぶれば、僻と云ひ、身は日本人なることを忘れて、心を歐米の風に迷溺し、宗教の中に陷沒して、殆んど萬古一系の天子と、天壤無窮の皇統あることを知らざるものあり。豈に慨歎せざることを得んや。‥‥



 愚案、「正學」とは、君臣の大義・父子の至親・祖先の祭祀の本源、開闢以來の神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に倍かず、天業を世界萬國に恢弘して、皇運を翼贊せんとする、天上將來の學問を謂ふなり。蓋し是れ、即ち平泉澄先生の祖述開展せられたる「皇學」に外ならず、何れの日か、天朝に採用宣布せられて、宇内に光輝せずんばあるべからざるなり。

【寒林平泉澄博士『皇學指要』】
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栗田栗里博士『祭禮私攷』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 7日(土)12時33分20秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●從四位勳四等・栗里栗田寛博士『祭禮私攷』(明治八年七月二十一日成稿。二十八年一月・皇典講究所刊。大正七年十一月・茨城縣神職會再刊。今ま其の綱文──本文のみを掲げ、大部なる考證・補註は、之を略させて戴いた。謂はゞ「祭禮私攷成文」十五段、即ち是なり。穗積陳重博士、之を携帶愛玩して、『祖先祭祀と日本法律』てふ講演・著述を成せりと云ふ)

[一]世に生きとし生ける人、誰か父母を敬まふ心なからむ。父母を敬ふ人にして、誰か又た先祖(とほつおや)を崇めざるものあらん。假初(かりそめ)にも父母を敬ひ、とほつ親を崇むる者、いかでかその靈祭(みたままつり)に情(こゝろ)を極め、誠を盡さゞらむや。その誠の情を盡すが、自然(おのづから)の天理(ことわり)なれば、神代の昔より、神魂(みたま)を祭る禮儀(ゐやわざ)もありけるにこそ。

[二]故れ伊弉冉尊の神を祭るに、菓(このみ)の時は菓を以て祭り、花の時は花もて祭り、又た鼓うち笛吹き幡旗(はた)たて竝(な)め、歌舞ひしつゝ祭る事もありしなるべし。

[三]凡て人の神魂は、尊き卑(みじか)き差別(けじめ)なく、天上(あめ)にも國土(くに)にも往來(ゆきかふ)ものにて、其の運用(はたらき)の異(あや)しく奇(くす)しき事、凡人(たゞひと)の得喩(えさと)るべきわざならねば、いにしへの樸實(すなほ)なりし御世には、特に社また祠を定めて、神とも神と齋ひ鎭めしものとみえたり。しか齋きかしづき奉らるゝにつきては、世にすぐれて健く雄々しき人の神魂は、いと神々しき威靈を顯はす事も、往々(をりゝゝ)聞ゆれば、天神・地祇(あまつかみ・くにつかみ)の神たちを崇むるは、いふもさらなり、人の子孫たらむもの、其の先祖・父母の神社、また奧つきをば、よく敬ひまつるべき事になむありける。

[四]こゝをもて朝廷(みかど)にも、皇太神宮、及(ま)た畏所を始め、世々の御陵には、馬及た種々の兵器を奉り、御即位(みよつぎ)を告げ、御病を祈り申し、或は海外(とつくに)の信物(くにつもの)を獻り、また禍亂(まがわざ)・御祟りある時には、使を遣(まだ)し、幣帛(みてぐら)を捧げて、恭しく仕へ奉らしめ、

[五]陵守・陵戸をも置きて、山陵を守らしめ、

[六]そのうへ、諸陵司といふをおきて、其の正(かみ)なる人には、陵靈(おほみたま)を和(なご)め祭り、荷前(のさきの)幣を奉る事をも掌らしめ給ひき。

[七]後に皇子また功ありし臣たちの墓を定めて、遠近の陵墓の制を始め、それゞゝの儀式なども、いとよく備れるを、

[八]淳和・仁明(天皇)の二御世、佛法を好み給へるをもて、さる禮制(みおきて)を停めさせ給ひつるより、やゝゝゝに山陵に御使を遣さるゝ事も衰へにたるは、あかぬわざなれど、

[九]古へより、墓に就いて神魂を祭るが、皇國風(みくにぶり)なる故に、下さまにも、其の遺風(なごり)、しかすがに絶え亡せずて、後の世までも、年の終(はて)に玉祭りすること聞こえ、其の供物には、弓弦葉(ゆづるは)をしき設(ま)けて、なにくれとなく備へ奉り、

[十]また氏々の祖神(おやがみ)を、そのほどゝゞに、二月・四月・十一月の三度に祭りて、氏神祭とも、庶人の宅神(やかつかみの)祭と云ふは、みな古への遺風なるを、

[十一]氏神とは、吾が遠つ祖神を申す稱(な)なる事を忘れて、産土の神の如く思ふめるは、いみじきあやまりなり。

[十二]大凡そ古へ人は、其の俗(ならはし)淳朴(すなほ)にして、祖を思ふ心深かりければ、吾が氏神に仕ふとしては、神殿(みあらか)を建て齋き祭れるも、家内(いへぬち)に神棚を構へて崇むるもありしなるべく、その祭式は、奧山の賢木(さかき)が枝に白(しを)が(香)つけ、木綿(ゆふ)とりしで、齋瓮(いはひべ)を齋ひ堀りすゑ、竹玉(たかたま)をしゞにぬき埀れ、荒稻・和稻・明衣・照衣・甘菜・辛菜・魚鳥の類まで、種々の味物(ためつもの)を、横山の如と、八取机に置き足らはして祭りたるものと見ゆれば、

[十三]今の世にありて、古への禮典(ゐやわざ)を行はむとするもの、毎日(ひごと)に先祖・父母の靈を拜み、又その忌日には、かならず其の墓所(おくつき)に詣でて、誠敬を盡し、

[十四]又た世々の靈を、とりすべて祭る時には、殊に忌み清まはり、家屋の穢れざる所に、神位(かみしろ)をませ奉り、五百玉串をたてゝ、神の御室と、すがゝゞしく齋ひ祭り、其の直會には、親戚(うからやから)打つどひ、神酒いたゞきつゝ、祖先の功業(いそしみ)を語らひ、我も人も、祖の名たゝじと、思ひ勵むべき事になもありける。

[十五]然はあれど、中世より以降、氏神祭する事も廢れて、先祖を齋くべきものとしも思ひたらず、先祖祭とては、たゞ年忌・追善など唱へて、佛舍(てら)にて素饌を備へ、僧徒等(ほうしども)に誦經せしむる事とのみ思ひあやまりてあり來しを、今しも朝廷の大御政、古へに立復り、絶えて久しき諸陵の幣帛をたて遣し給ふばかり、厚き御禮の世に行はるゝは、いとおむかしき事(わざ)に侍れば、下が下まで、其の御教化(みおもむけ)にしたがひて、我が祖先に誠敬を盡し、かりそめにも彼の異(け)しき教・邪(よこしま)なる説(こと)に惑はさるまじき事にこそは、あるべけれ。



●耻叟内藤彌太郎正直博士撰文『故文科大學教授・從四位勳四等・文学博士・栗田君墓碑銘』(水戸・六反田の六地藏寺境内に建立。大概は同上の茨城縣神職會版に據れり。なほ照沼好文翁『栗田寛博士と「繼往開來」の碑文』平成十四年三月・錦正社刊に詳し)

 大いなるかな哉、我が神州、國を肇むること、寶祚、天壤と窮まり無く、至隆、宇内に冠絶する者は、蓋し祖宗、立極埀訓の致す所ろ也。之を古史に稽へ、之を古禮に參ゆるに、歴歴として徴す可し。是れ、史の修めざる可からず、禮の講ぜざる可からざる所以ん也。

 我が栗里先生は、實に修史審禮を以て自に任じ、畢生、精(こゝろ)を此に竭せり。古史、因つて以て明かに、古禮、因つて以て存す。何ぞ其の功の偉なるや也。君、諱は寛、字は叔栗、通稱は利三郎、栗里と號す。栗田氏、其の先は、信濃の人、諏訪の神裔・神氏の後と云ふ。中ごろ亂離に遭ひ、常陸茨城郡六段田村に遷り、農を以て業と爲す。五世の祖・勝重、元祿中、水戸城東に轉居す。祖・諱は惟肖、考・諱は雅文、妣は中村氏、君は其の第三子也。天保六年九月庚子を以て生る。幼にして敏慧超倫。年十三、意を古典に用ゐ、夙に復古の志有り。乃ち『神器説』を著はす。年十七、詩を作りて、志を述ぶ。「何れの日か、三千歳を貫穿して、神州典章の虧けを補はん」の句有り。甞て慨然として人に謂ひて曰く、「吾が邦人にして、古典に通ぜずんば、何ぞ以て學者と稱するに足らん」と。是より學業、日に進み、志、史を修めて、以て國に報ずるに在り。

 時に豐田天功、修史の總裁爲り。君を薦めて、舘に入らしむ。年二十七、『國造本紀考』を作る。江戸の黒川春村(淺草庵)・鈴木重胤(橿廼家)等、極めて之を讚稱せり。君、又た「神祇志」を修むるに志有り。考究周悉、『神祇志料』を著はす。慶應二年、感ずる所ろ有り、『葬禮私考』を著はす。會々宮車晏駕、君、乃ち之を當路に上り、以て參稽に供す。古禮、因つて行はる。明治元年、藩公(節公・鑾山昭武)、意見を上つて、封建・郡縣の利害を論ず。一に君の議を用ふ。其の經世の略、以て見る可し。二年八月、書を藩公に上り、『大日本史』の「志表」を刊し、以て歴世未成の業を成さんと請ふ。公、乃ち委するに校訂の事を以てす。初め國史の「紀・傳」、既に成り、「志・表」、未だ備はらず。烈公、之を憂へ、天功に命じて之を修正せしむ。未だ竟らずして歿す。是に至つて君、專ら之に任じ、拮据校讐、四十年、一日の如く、「十志五表」、皆な完し焉。公、成るに隨つて、之を朝廷に上る。遺す所は「國郡志」及び「三表」、將に相踵いで上呈せんとすと云ふ。

 是より先、藩、廢す。君、教部の權大録に拜し、『特撰神名牒』を修む。十月一月、修史舘の掌記に遷り、何(いくばく)も亡(な)ふして辭し還る。十七年、再び元老院に徴せられ、古制度を考ふ。期畢りて罷む。二十三年、車駕、水戸に幸す。君、其の『神祇志料』を上つて、以て御覽に備ふ。既にして『教學の大詔』(教育敕語)降れり矣。君、感激已まず、『敕語述義』を作りて、其の義を發揚せり。初め侍講・元田永孚(東野)、君に就いて、教道の要を問ふ。君、爲めに『神聖寶訓廣義』を作つて、之に應ず。蓋し啓沃に資すと云ふ。二十五年、復た大學の教授を拜し、職に居ること八年、正五位に累進せり。一朝、疾を獲、事、聞す。文學博士を授け、高等官一等に陞り、從四位・勳四等に敍し、瑞寶章を錫ふ。尋いで卒す。實に明治三十二年一月二十五日也。享年六十有五。二十八日、敕使、第に臨んで賻を賜ふ。即日、柩を護して郷に還る。三十一日、六段田先塋の側らに葬る(六地藏寺境内)。四方聞く者、歎惜せざるは莫し焉。君、小澤氏を娶つて、子無し。兄・龜井直(有斐)の子・勤(晦屋。明治三十九年十二月二十六日、『大日本史』四凾全四百二卷を天堂に捧呈し、彰考舘史局を閉鎖す)を養つて、嗣と爲す。

 君、人と爲り、温雅厚重、行儀端正、言論、苟くもせず。識見高邁、學問淵博、著す所ろ一百部・五百餘卷、皆な明道經世の書也。昔、義公、深く皇室の式微を慨へ、國史を修め、禮典を緝め、以て興復の志を寓し、將に一世を振起せんと欲す。烈公繼述、大義、未だ達せずして薨ぜり。君、深く其の遺志を體し、旃(これ)に加ふるに昭代の休明に遭逢し、乃ち大いに憤を發し、至道を弘めて、以て聖猷を贊(たす)けんことを庶幾ふ。常に謂へらく、「祖宗、地を開き民を育し、以て區夏(天下)を肇造す。立極埀訓、固より萬國と異なれり矣」と。故に其の國體を論ずるときは、則ち必ず天祖の訓に原き、以て大順を建て、正名定分、最も僭越を戒む。政事を論ずるときは、則ち尊祖敬神を以て重しと爲し、風俗を厚ふし民心を正しふす。道義を論ずるときは、則ち忠孝を以て極と爲し、佐くるに仁義の教を以てし、然して後ち開智明物の學に及ぶ。苟くも長ずる所ろ有れば、遠西異方の言と雖も、肯へて遐棄せず。甞て曰く、「學問の要は、建國の大體を知るに在り。苟くも之に通ぜざるときは、則ち政治・學術、皆な其の本を失ふ。博く内外に渉り、旁(あまね)く古今に通ずと雖も、皆な我が用を爲すに足らざる也。抑も神道は即ち彝倫、帝訓は即ち人極、二揆有ること莫し」と。故に其の論述する所は、必ず世道に益し、治術を裨けて、而して已む。治亂盛衰の故、制度典章の詳、委曲辨明、□□[女+尾。詳述]千言、燦として掌を示すが如し。又た曰く、「尚古以來、祀る所の神祇は、咸な我が至尊、及び有功の群民、即ち亦た臣民の祖先也。其の徳、誼(はか)る可からず、其の恩、報いざる可からず。故に歴朝秩祀、以て民情に達し、以て國基を固ふす。是れ我が祀典の重き所以、彼の邪神姦鬼、天を誣ひ人を欺くの類に非ざる也」と。甞て西教(耶蘇伴天連)の國體を害するを歎じて曰く、「神州、忠孝を以て國を建つ。彼は則ち之に反すること、水火も啻ならず、其の深患大禍爲ること、豈に佛・老の比ならんや乎」と。深く憂ひ遠く慮ること、率ね此の如し。要は皇訓を奉じて、教化を敦ふし、國體に原きて、治本を立つるに在る也。其の少壯、郷閭に在る、國事、難多し。君、其の間に處して、公正、偏せず、君子・小人を審かにして、自ら分辨有り。是れ、一藩の事のみ已、必ずしも論列せず。

 君卒するの明年、嗣子・勤、余に墓上の文を爲(つく)らんことを謁ふ。余の君に於ける、其の交はり、尤も親し。義、辭す可からず。乃ち議論行事の略を敍し、以て其の萬一を述ぶ。會々前の征夷大將軍・徳川(慶喜)公、君の學業、國家に益することを嘉みし、「繼往開來」の四字を書して之を賜ふ。勤等、感泣の餘り、勒して碑額と爲す。

 又た銘を繋けて曰く。
神聖、極を立て、品物、咸な亨る。皇運、疆(きは)まり无く、時に止り、時に行く。
義公、熈を緝め、烈公、精を繼ぐ。神を敬ひ儒を崇め、倫を明かにし名を正す。
往を繼ぎ來を開く、君、實に生を畢ふ。發揚振發して、八紘を彌綸せり。

 明治三十六年一月二十五日、兄・龜井直、丹に書し(能筆たりし令兄の絶筆と云ふ)、男・勤、石を立て、矢須郁次郎、鐫る。
 
 

發見・公刊されざる、栗里栗田寛博士『古史』六卷。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 3日(火)19時03分18秒
返信・引用
  ~承前~

■美甘政和大人「絶筆遺詠」
しきしまの 大和ごころを みがきなば わが日の本の ひかりますらむ

■栗田栗里博士「遺詠」(──『遺言』に曰く、「神を敬ひ、皇室を尊び、大義を昭かにし、名分を正し、惟神の大道を奉じて、異端邪説を排し、以て天下人心を維持するを得ば、おのづから崇祖の道にもかなひ、國土は堅石常石の搖ぐことなく、萬世安んじ、我が常陸に降り鎭まり坐す、鹿島大神の御神慮にも添へ奉るべしと思惟す」と)
あまてらす 神の尊の みすゑなる 吾大君は 現人(あらひと)の神



 我が九段塾のスレツドには、「南雄」樣が、平田大壑先生『古史成文』を拜記して下さつてゐる。感謝に堪へない。有志には、此の機會に、是非とも『古史成文』を手に執つてもらひたい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t43/-100

 先に平田大壑先生『古史』を嗣ぐ者であるとして、美甘政和大人『天地組織之原理』を紹介したが、更に栗里栗田寛博士『古史』あるを、特に述べておきたい。『古史』六卷の存在は、照沼好文翁『栗田寛の研究』(昭和四十九年十一月・錦正社刊)にて知る所、其の實物は公刊されたことも無く、幻の書と云つてよい。栗田家はじめ、其の探索博捜が求められる所である。學生時代に、山田孝雄博士が、栗田栗里博士を紹介された論文を拜見して、之に泪したが、今ではネツトにても拜讀することが出來る。山田博士が感動された「國語讀本の卷首の栗田先生『父子』といふ文章」にまつはる、いとも尊い逸話と共に、有志には、ご高覽を賜はらむことを。曰く、

「(栗田栗里博士は、明治)十二年一月には、『古史』二卷を脱稿せられた。‥‥『古史』六册、これは版になつてゐない。‥‥『古史』六卷がある。これは明かに平田先生の後繼者であることを物語つてゐる。その『古史』について、栗田先生の「著書目録」の初めに、前述の(令嗣)勤といふ方が説明してをられる文句がある。それを讀んでみると、「この書は、平田氏の『古史成文』に倣ひて、神武天皇より推古天皇までの事をしるせり。『記』・『紀』に載る所は云ふまでもなく、務めて件の史に洩れたる事實を、『風土記』また古記中より探集せるものなり」とある。これはどういふことかといふと、平田篤胤の『古史成文』――これは元來、『古史』といふものが本名である。成文といふのは本文といふ意味で、この古史に對して、平田篤胤先生が詳しく説明したのを『古史傳』といふので、この傳に對して、本文を古史成文といつたわけである。それで、平田先生の目録によると、『古史成文』は全部で十五卷、神代から推古天皇の御代までのことをも、古典の文を集成して綴るのが本旨であつたが、その刻成せられたのは神代の部だけであつて、その他は世に傳はらないのである。恐らく、平田先生も、それを書かれずに終られたのではないかと思ふ。ところが、その神武天皇以後の古史を書き繼いだ人が、栗田先生である。さういふ意味に於いて、栗田寛といふ人は、學問の系統は違ふけれども、平田の學問を繼承した人だと考へるのである。この點に於いて、平田篤胤に傾到してゐる人々は、また栗田先生に感謝もしなければならず、傾到もしなければならない。私が栗田先生に感謝してゐる點の著しい一として、そのことを申すのである」と。
  ↓↓↓↓↓
【山田孝雄博士『栗田寛のこと―――私の欽仰する近世人・その三』】
  ↓↓↓↓↓
http://snob.s1.xrea.com/fumikura/yamadayoshio/kinseijin03_kurita.html



【參考・栗里栗田寛博士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/327
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/11
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/780
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/792
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/889
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1262
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1554
 
 

美甘政和大人『天地組織之原理』

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 9月 1日(日)12時40分33秒
返信・引用 編集済
   小生が一覽、感銘尊崇、措く能はざるの神書たる、美甘政和大人『天地組織之原理』の序を紹介拜記せんと欲す。殊に幽政主宰の大權を御分任せられたる大地官・大國主大神の御段(卷四)は、小生、夙に之を拜讀、感激、愈々深くして、愛藏、益々切なり。然れども茲には、「緒言」・「書目」のみ紹介して、謹みて筆を擱く可し矣。有志の士、更に進んで、全卷、繙覽熟讀せられむことを懇望すと云爾。
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●國幣中社中山神社宮司・從六位勳六等・權少教正(大社教大教正・贈一等教勳/美作國神典研究會主宰)・樂天翁旭香美甘與一郎源政和大人『天地組織之原理』(明治二十四年七月・神典研究會事務所刊。卷首には、嵯峨院寶庫藏の和氣清麿公眞筆「我獨慙天地。清滿呂書」題字、及び先哲平田大人染筆の和歌を掲げたり)の「緒言」

 夫れ人は、天地の間に生を禀け、天地の間に生活するものなり。故に政治に教法に、凡百の事、皆な天地造化の原理に法(のつと)らざるべからず。然るに其の天地の間に住する人として、此の天地は、開闢の始め、如何なる理由ありて、如何なる組織に成りたるものと云ふ大原理を發見せざる間は、假令ひ天文地理の學科によりて、今日の現象を見るの眼ありと雖も、未だ眞の文明を稱ふることは許すべからざるものなり。然れば何等の學科に就いて、これを求めんか。各國共に、多少、天地開闢の傳へ無きには非ざれ共、未だ道理に訴へて、全く信を措くべき説あるを聞かず。獨り吾が日本帝國は、開闢以來、萬世一系の皇位なるを以て、國體と共に、天地開闢より、神世の遺傳を存するもの、他各國の比に非ず。故に天地組織造化の原理を求めんと欲すれば、吾が太古の傳説を除き、他にこれを求むべきもの無し。

 然れば文化日新の今日、吾が神國して、最も講ずべきは、神典に非ずして何ぞや。偶々本居・平田兩先哲の説ありと雖も、先哲在世の昔日に在りては、本傳の講究、未だ創業の際、講じられたるものにして、本辭解釋の如きは盡されたりと雖も、大綱の眞理を論じられたるに至りては、其の説を改むるに非ざれば、適せざるもの無きに非ず。是れ吾が神典の世に行はれんと欲して、未だ盛んに行はれざる所以なり。政和、不肖なりと雖も、天地組織之原理を發見せんと欲して、神典の明文に隨ひ、道理に訴へて、これを講究し、天地分判の眞理は素より、地球海底内部の組織如何の原理、且つ太古の天象と現今の天象に、一大變革のありし理由を始めて、政治・道學、其の他萬物の因りて起る所の原則に至る迄、聊か發見したりと自信するものあるを以て、同學と他學とを論ぜず、遍く世の識者に質し、其の教を受けんが爲め、こゝに自家發見の説を擧げて、『天地組織之原理』五卷・附録壹卷を著はす。識者、幸ひに其の誤りを叱正して、益々眞理薀奧を窺ひ、内外人の別無く、之を信ずるに至らしめんことを、懇望の至りに堪へざるなり。

其の二。
 吾が大日本帝國をして、太古より神國と稱ふるは、凡そ日本の國土に生を禀けたる人として、知らざるもの有るべからず。然れば「何が故に、吾が國を神國なりと稱ふ」と問はゞ、何等のことを以て、これに答へんとするか。必ずや「太古神世にありて、神祇、此の國土を經營し玉ひ、天祖、皇孫に敕りして、降臨座さしめ玉ひし璽來、萬世一系の皇位にして、君臣共に、神世より連綿相承の國なるが故なり」と答ふるなるべし。然るに近時に至りては、時弊に流れ、其の神國たる所以を忘るゝもの多きが如し。これ、吾が國體に於て大害の兆なり。如何となれば、時流者、偶々吾が神典を一讀するも、其の意の解すべからざるを以て、匆卒、一言の下(もと)に論じて曰く、「吾が神典に、所謂る諾册兩神國生の傳は、全く上古、男女兩人、始めて吾が日本の國土を發見し、其の荒蕪の地を開拓したる經營の事業を、國生と云ひ傳へたるに過ぎず」と論じ、或は「兩神國生の傳は、國民を生むを云へるものなり」と説き、又た或は「神典なるものは、上古の小説にして、譬喩を以て作爲したるものにて、彼の俵藤太秀郷が蜈蚣山の昔噺に類するものなり」と評し、甚だしきに至りては、「神典なるものは、上古の英雄が、奇事を説きて神に託し、野蠻の民を治むるの具に用ひたる策略の書なり」と云ふに至る。

 前三者の如きは、太古の傳説を見るの具眼無きものとして、暫くこれを恕するも、英雄、愚民を治むるの具に用ひたる作爲なりと云ふに至りては、歴世天皇の御徳化に關するものにして、不倶戴天、赦すべからざる放言なり。斯くの如き妄説行はるゝ今日なるが故に、自ら神國の臣民たることを忘れ、終ひに其の心意を問へば、外人と異なること無きに至る。今にして此の弊を矯正せずんば、吾が一系正統の皇位は、日本の習慣なりとして、君臣の大義も、只に習慣と法律の上に存して、精神の上に存せざるに至らん。此の惡弊をして、漸々養生すれば、眼前に大害なきも、終ひには神世相承の國體に大害を及ぼし、如何ともすべからざるに至らん。恐れ愼みて此の弊をして、未だ盛んならざるの今日に挽囘せずんばあるべからず。其れこれを挽囘せんと欲するの道、他なし、吾が神代の遺傳を講究し、神典の何物たることを知らしむるにあり。余や、又た神國の臣民たるを以て、壯年の頃より、本居・平田兩先哲の遺教を奉じ、神代の遺傳を講じ、間々論ずべき所あるを以て、止むことを得ず、此の講述を成すに至りしなり。

其の三。
 曩に本居・平田兩先哲、『記(古事記傳)』・『史(古史傳)』兩傳の著述ありしによりて、余が如きも、聊か神典の眞理を窺ふ端緒を得たるは、全く先哲の賜ものなり。然るに兩先哲の説と雖も、未だ時運の熟せざる昔日にありて、神典の講究は、創業の際なるを以て、今日に至りては、天地組織の大原理に於ては、其の説を改めざるを得ざるものあり。故に余、これを徒弟に嘱して、自家の意見を筆記せしむ。記中、間々先哲の説に反するものありと雖も、忌憚する所無きは、先哲に對するに不遜の憚りはありと雖も、兩先哲の著書中、「後の人、よく考へ正してよ」と、幾囘か後學に依託し置かれたり。これ則ち先哲の遺言なれば、後學の徒は、必ず此の遺言に對する勉めなかるべからず。然るに後學者、多くは先哲の舊説を墨守するを以て勤めとするが如き傾向あるにより、偶々神典を講ずるも、國學者流の名を以て、時流者に愚弄せらるゝに至る。これ、愚弄するものゝ罪にあらず、同學者、勉めざるの罪なり。神典の講究にして、天地の眞理に合する迄の確論あらば、時流者の信用は勿論、洋人と雖も、亦これを信ずるに至らん。

 故に吾が邦人は、相共に天地に貫く眞理を發見するに至る迄、此の傳を講究すべきなり。然ればたとひ先哲の説に反するも、其の不可とする所あらば、必ずこれを論究し、其の説を改むるを以て、先哲の遺志を繼ぐものと云ふべし。先哲の深意は、只に神典をして、後世、益々明かならしめんとするにありて、自家の説を立てんとせらるゝものに非ざることは、凡そ『記』・『史』兩傳を拜讀したる程の人に於ては、必ずこれを知らるゝならん。然れば後學者は、此の旨を體して、益々此の傳を講ぜざるべからず。余も亦た先哲の遺志を繼がんと欲するものなれば、自家の説を維持せんと欲するが如き野心あるに非ず。只だ神典の講究は、舊説を墨守するに止まらざるを示し、今の時に當りて、改正を加ふべきを忠告すると共に、余が一家説の叱正を乞はんとするの素志なれば、此の筆記を一讀あらん諸賢は、余が説の至らざるを補ひ玉はるは勿論、其の誤りを叱正して、益々神典の眞理薀奧を窺ひ、先哲、後人に依託せられたる遺言をして、空しくせざらしめんことを。

 然るに近時後世の風潮を察するに、神武天皇以後に於ては、御記の講究、大いに振起し、陸續、高論卓説を聞くことを得、雀躍の至りなりと雖も、神代のことに至りては、暫く措きて問はざるものゝ如く、偶々二三の説無きに非ざるも、或は言詞の細末を論じ、或は一二の考證を擧ぐるに過ぎざるもの多くして、天地組織の大綱に至りては、一向、先哲の説を墨守するに止まるものゝ如し。こゝに於てか、偶々兩先哲の後學に依託せられたる遺言、空しからんとす。慨歎の至りに耐へざるなり。見ずや、近時に至りては、洋人すら、吾が太古の傳説を拜讀し、これを評し、これに注解を加ふるにあらずや。今にして先哲の遺志を繼ぐにあらずんば、何を以てか、天地組織の眞理を明かにし、吾が國體の根據を確かめんや。これ、獨り同學者のみに放任すべきにあらず。凡そ日本臣民たるものに於ては、何等の學派を問はず、一日も此の傳を講ずることを、忽せにすべからざるものなり。

 夫れ菊花は千載のものとし、其の根の培養無くとも、凋枯の愁ひ無きものと云はんか。これを其の根を培養して、天壤無窮、年々歳々の盛花を見ると、何れぞ。然るに神代のことを措きて問はざるは、根を斷ちて國體を挿花たらしむるに異ならず。こゝに人あり、或は云はん、「神武天皇以後と雖も、三千年の久しき習慣あり。たとひ神世の事を講ぜざるも、國體に於て何かあらん」と。これ、深く思はざるの甚だしきものと云ふべし。習慣の久しきは、一時に變ずべからずと雖も、其の根を培養せずんば、終ひに或は凋枯を免るべからず。故に此の時に當りて、益々國體の根原を培養せずんばあるべからず。其れこれを培養せんと欲すれば、神代の傳を講ぜざるべからず。神代の傳にして、天地に貫く正論あらば、何ぞ國體の尊嚴を維持するに苦しむことかあらん。然るも尚これを等閑に付し、舊説を墨守するに止まるものとすれば、到底、時流理學の爲めに壓せられ、國體の起原、確からざるのみにあらず、吾が神道の後榮は望むべからざるに至らん。天地と共に開けて、萬世の今日に貫く大道は、獨り吾が神道あるのみ。其の大道を(「を」は、衍ならん歟)、吾が國に存する所以のものは、又た吾が神典あるが爲めなり。故に余、不肖を顧みず、其の眞理を發見せんと欲して、神世を五期に別ち、一家の意見を吐露して、識者の訂正を仰ぎ、併せて諸家の高論を喚起せんと企て、此の不遜の言を發する所以なり。幸ひに萬恕を乞ふ。

明治廿二年十二月、美甘政和、敬白。

○『天地組織之原理』を講述し、其の筆記を、先哲の神靈に奉るにつけて、政和。
教へ祖の 傳への書を しをりにて たづね入けり 奇しき神路に
八十國に 繼て弘めと をしへ置し 大人が言葉ぞ わすれかねつる



●『天地組織之原理』全五卷・附録壹卷・書目

卷之第一・開闢第一期・天地分判・物質凝固世記之部
卷之第二・開闢第二期・神祇彰呈・變化玄妙世記之部
卷之第三・開闢第三期・天地定位・種業興基世記之部
卷之第四・開闢第四期・造化大成・顯幽分政世記之部
卷之第五・開闢第五期・皇孫降臨・顯幽通婚世記之部
附録・幽中の玄妙を示すに、實踐の考證を擧げ、以て本説の參考に供す。
 
 

諄辭、其の十二──古學の正統・道統傳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月28日(水)19時18分43秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●本居宣長大人『縣居大人の御前に乞み申せる詞』(『鈴屋文集』上卷。梅田義彦博士編『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊にも所收)

さきゞゝ『萬葉集』に、いぶかしきくさゞゝかきつらねて、つぎゝゞにとひあきらめ、又宣長がつたなき心に、「おふけなく思ひえたる事どもをも、かつゞゝかきまじへて、よき・あしき、ことわり給へ」と、こひ申せるをぢゝゞ(條々)の中に、「いとよこさまにしひたることども、これかれまじれり。今より後、かくさまのことは、つゝしみてよ」と、深くいさめ給ふ、みことをかゞふりて、いともゝゝゝかしこみ、はぢ思ふが中に、かの『集』の卷のつぎゝゞ、かりこものみだれてあるを、淺茅原、つばらゝゞゝにわきため正し給へる、うしの御心にたがひて、これはたおのが思ほしきまにゝゝ、こと(異)さまにしも論ひさだめて、こゝろみに見せ奉りし事はしも、いま思へば、いとゐや(禮)なく、かしこきわざになも有ける。かれ(故)今のみの詞をさゝげて、「かしこまりまをすことを、たひらけくきこしめさへ。又うたがはしき事は、猶はらぬちにつちたくはひおきて、ひらく時をしまつべきものぞ」と、をしへ玉へる、まことに然(しか)はあれども、しかうたがひつゝのみあらむに、おろかなる心は、いつもはるく時あらまし。然るに今大人の、みさかりに上つ代の道をとなへます世に生れあひて、雲ばなれそきをる身は、御むしろのはしつかたにも、えさもらはぬものから、其人かずにはかずまへられ奉りて、心ばかりは、朝よひさらず、御許にゆきかひつゝ、百重山、かさなる道の長手はあれど、玉づさのたよりにつけては、とひ申す事どもを、いさゝかもかくさふことなく、菅の根の、ねもころにをしへ玉ひさとし給へば、しぬばしきいにしへの事は、ますみの鏡にむかへらむごとくに、たまちはふ神の御世まで、のこるくまなくもなも有ける。かゝるさきはひをしもえてしあれば、おろかなる心に、つもるうたがひは、おのづから開けむ世を、まつべきにしあらずと思へば、かつゞゝもおもひよれるすぢは、さらに心にのこすことなく、おもほしきまにゝゝまをし、こゝろみあげつらふになも。そが中には、しひ(誣)たるもひが(僻)めるも、おほかるべけれど、本よりすみぞめのくらき心には、それはたえしもわきまへ知らねば、よきもあしきも、たゞ明らけき大人のことわりを待ちてこそと、ひたぶるにうち頼みてなも。かれいまゆくさきも、なほさるふしのあらむには、しかおもほしなだらめて、罪おかしあやまてむをも、神直日の大直日に、見直し聞直したまへと、かしこみゝゝゝゝもまをす。



●水月服部義内源中庸翁『秋津彦美豆櫻根大人命の大御靈の大御前に申す詞』(本居宣長大人二十三年祭。平田篤胤大人『毀譽相半書──本教道統傳』上卷「箕田水月翁祝詞」。同上)

秋津彦美豆櫻根大人命の大御前(愚案、「大」字は、宜しく削くべし)に、源中庸、恐み恐みも今ま告げ奉る事あり。うまらに聞こし看せ。

秋津彦美豆櫻根大人命や、大人命、世に在(いま)しける時、中庸に教へ給へるは、

常に神代の御史(みふみ)を見て、神代の古事を好く考へ糾して、上つ代の道を、廣く深く釋き明かし道引き諭して、大八洲國、嶋の八十嶋の殘る曲(くま)なく押廣めて、くなたぶれ惡(きたな)き漢國の風(てぶり)、彌や穢しに穢したる佛の風等を、科戸の風の、天の八重雲を吹拂ふ事の如く、朝たの御霧・夕べの御霧を、朝風・夕風の吹拂ふ事の如く、禍津日神の相雜(あひまじこ)りし禍業は、悉に祓ひ清めて、皇神の大御教へに押戻して、天地と共に極み無き大御代を仰ぎ奉らむ事をし、朝宵に心に挂けて、勤め學ぶ可き

よし、御教への隨意(まにゝゝ)、いそしみ學びてむと思ひ給へ侍(さもら)ひしに、早くより殿の命の大命令を蒙りて、其の事に就きては、晝夜を別かず、紀道・伊勢道を駈け廻りて暇(いとまのひま)無く、徒らに過ぐしつる事は、二十餘年なりき。然かして享和元年九月十三日夜、藤垣内(本居大平翁の號)にて、月見の圓居(まどゐ)し給ふ歸(かへさ)に、中庸、伴なひ申しゝ道すがら申し侍ひしは、「此の秋より勤めの道、漸や暇ま有りぬ可く思ひ給へれば、歌詠み文章(ふみ)書く事をしも、聊か學び侍ひなむ」と申し侍りしに、大人命、宣り曰く、

「いな、歌詠み文章書く事は、汝しはせずとも有れな。兎に角に其の學び好く人こそあれ、如此て宗と立てつる古學(いにしへまなび)する人の、ふつに無きは、歎きても猶ほ歎かるゝ事にし有れば、先々も教へ掟てつる如く、汝しは、歌詠み文章書く事は心とめずて、神代の道を考へ勤めてよ。此は、此の學びに深く心止むる教へ子の無き所以(ゆゑ)、取り別きて諫む

と語り給ひき。如是て其の夜、家に歸り給ひて後、風の心地とて、假初めに病み給ふ樣にて、次第におもらせ給ひて、終ひに同じ月の廿九日と云ふ日に、御命失せ給ひぬ。

故れ中庸、倩々考へ思ふに、去ぬる十三日の夜に教へ給ひし御心は、必ず遺言し給ふにこそ有りつらめ。大人命の教へ子五百餘人、其の人・彼の人と、數へ以て見れど、風流(みやび)をのみ好きて歌詠み文章書く人は、春庭翁(後鈴屋)を始めて、其の他の諸國(くにゞゝ)にも一家(いへ)を張(な)す人、多なれど、神代の御史に心止めて、大人命の御心を續ぎて、古學を專らと爲る人は、徒だの一人も有らず也。皆な『古事記傳』にて、事、終(す)みたりと思へり。其を如何にと思ひ給ふるに、大人命の御詞に、「古への傳説(つたへ)は、一言一文字といへど、傳へ越し隨に才智(さかしら)を加へず、説き諭す可き」よしを教へ給へるを、惡しく僻が心得て、中庸が『三大考』を取用ひ給ひしを、藤垣内を始め、爭ひ止められしは、此を新しき説(つくりごと)とのみ心得て、古傳(いにしへのつたへ)より考へ出でたりと云ふ處に、心著く人無き故ゑ也。大人命の『三大考』を取揚げ給ひし所以由は、後の世に成りて、上つ代の道に心を寄せ、古學する人は、古傳を能く考へ糾して、猶ほ世に有りと有る所の書を、漢のにまれ天竺のにまれ、猶ほ其の先々の國のにまれ、史云(ち)ふ史は、有る限り探り見極めて、扨て皇國の神代の古き傳へに著きて考へ合せ、其の由・此の縁・種々の事共は、皆な吾が大御神の道にして、如此く證し有りて、違ふ事無きを正しとして、繼々に深く釋き諭しめ給はむとの御心しらびにぞ有りける。故れ其の本つ書には、古傳の隨々、違ふ可からずと教へ給へるに、『三大考』は、日を天とし月を黄泉とし、須佐之男命と月讀命を同じ神と定め申すなど、總て古傳に言はざれども、悉く古傳より考へ出でて、今の現に見る所の、天傳ふ日・久方の月、其れと指す由縁(ゆゑ)の有ればぞ、揚用ひ給ひたる也。神代の形成(ありさま)、神々の御名の由縁なども、如此く考へ以て往かば、遂には天地の神、相うづなひ、其の實に違はざる考への定まる時を待ち給はむ事を、思ひ計り給ふぞ有りける。

然か有れど此の學びは、倭魂を能く堅めて、外つ國の國の八十國・嶋の八十嶋、落つる隈無く、天の下に有りと有る國の書云ふ書等、悉く見極めて、且つ決斷(ことわり)の智り大きならざれば、難業(なしがた)きゆゑ、然る人は千萬の人に一人にし有れば、最も難有きも理りと思ひ給へれど、御教子の中に、實の道を續ぐ人の、唯の一人だに無きは、最(い)と本意無く、大人命の御魂も、嘸ぞ云ひ甲斐無き者に、天翔りても見給ふらむと、最と悲しくさへ思ひ給へ侍ひしに、去ぬる文化十年と云ふ年、大江戸に、姓は平、名は篤胤(厚胤・篤胤、混用せり。以下、篤胤に統一。★)云ふ人、『玉の(靈能)御柱』と云ふ書を著(か)きて、藤垣内、并びに中庸にも贈りて、全(もは)ら大人命の教へを信(う)け、御心を續ぎて、又た『三大考』に心同(あひ)たり。其の志、實に厚し。然れど藤垣内、未だ能同意(うべな)はずして、論ひ辨ふ事侍ひしに、篤胤、答への三度び、大人命の深意を探り、中庸が心を釋く事、厘毫(すこし)も違はず、大人命の恩頼の助け給へるにか、遂には篤胤、(藤垣内本居)大平に勝ちぬ。中庸、喜悦びに堪へざる處に、京都も伊勢も、押靡べて、「篤胤は、博く學びたれども、心(はら)惡しき者也」と流言(いひふら)す。

一年(ひととせ)、本つ國の有田郡・阿刀宿禰長彦の家に、篤胤の著(つく)りし『眞(新)鬼神論』云ふ書を見給へしに、其の理り、實に的當れり也。是を以て篤胤は虚談(そらごと)無きを知り侍ひき。然かして熊野に止まること、九箇月也。翌(つぎ)の年の五月、伊勢に往き侍ひて、篤胤の事を議り云(まを)しゝに、春庭翁は、是非(よしあし)論(の)給はず。殿村安守(篠舍)は、其の才(ざえ)、博く學びの廣(おほ)きなるを稱め申しき。然て後ち京に歸りつるに、大江戸の清水濱臣(月齋)云ふ者、京に上りて、「篤胤は、博く學びたれど、最と心惡しき者也」と、(鐸舍城戸)千楯に語りしよし、千楯、中庸に申し侍ひき。

文政四年の秋、又た伊勢國に到(ゆ)きさもらひしに、足代弘訓・橋村正兌神主等、篤胤、天狗を歸依する風聞(さた)を語り侍ひし。京に歸りて後も、其の説(さた)侍ひき。唯ゞ藤井高尚は、大江戸に在りて、篤胤に親しく睦びの所以、其の事實(ひとわり。參照『仙童異聞』)を知れば、恠しからぬ事を申しき。然れども猶ほ疑ひの事侍ひて、今は中庸等も、心解けぬ事に成り以て往きて、外に考(かゝな)べ正す縁(よし)も侍はねば、暫らく猶豫(ためらひ)侍ひしに、今年文政六年八月七日、藤井高尚、鐸舍に在りて病ひし侍ふを、問ひ侍ひしに、「平田篤胤、京に上る」と、告げ來る者侍ひしかば、高尚、「此方へ」と申すに附きて、篤胤、入り來侍ひぬ。容貌温良(かたちやはら)かに恭しくて、且た好言令色(へつらひかざり)無し。於是に始めより思ひつる人の形勢に違はざるを、心に喜び侍ひぬ。博覽廣才(ひろくまなびざえのおほきなる)は、今の代には、天の下に比類ひ無く思ひ給へて、一たび相見て、此の人こそはと、喜悦び堪へず思ひ給へれ。

翌の朝、又た高尚が病ひを問ひ侍ひし序でに、篤胤の才學(ざえ)を稱美め侍ひしかば、高尚、於是に篤胤の美(よ)き事を、ねもごろに語り侍ひけらく、「一年、高尚、公け事に附きて、大江戸に到(おもむ)き、篤胤が家に養育はるゝこと、百餘日なりき。其の恩義(めぐみ)忘らえねば、今ま此の鐸舍に如此く在れば、篤胤をも此所に止めて、諸共に、大人命の御教導を釋かまく思へど、今朝、疾く千楯、來りて云ひけらくは、『此の鐸舍は、紀國の大平翁・伊勢國の春庭翁、扨ては此の高尚の外は、入れ立てず』とて、堅く制止めたりき。然ては高尚、如何に説くとも、諾(う)け引くまじき勢(さま)也。如是ては吾も、篤胤に向ひて面目(おも)無し。嗟嘆(あはれ)、汝し、我に代はりて、兎も角くも計らひたびてんや」と申し侍ひき。中庸、答へけらく、「吾れ、未だ篤胤が奧き意を知らざれば、今ま一度び面會ひて問ふ可き事も問ひ、尋ぬ可き事も尋ねて、彌(いよゝ)魂合ひなば、如何にも計らひなむ」と申し侍ひき。高尚、「然らば篤胤を招く可し」とて文書きて、篤胤許(がり)遣りければ、次の九日云ふ日に、篤胤も高尚も、中庸許來りて、相共に語り侍ひき。然て心に挂かる隈も無く成り侍へば、篤胤の事、先づ土山武貞主に語(まを)し試みて、「此の主、諾はれ侍はゞ、其の指揮(さしづ)に任す可し」とて、土山主に申し侍ひしに、其の後ち彼家(かしこ)にて三四輩と、中庸・篤胤を同伴ひて參ゐ會ひたり。於是に中庸、始めより鐸舍の近藤・大橋云ふ者にも、篤胤の事を語り侍ひしに、近藤は深く心止めし形也。然るに土山氏に集(あども)ひし人々、各々家にて順會(まはり)に圓居せらるゝ故に、他の人は其の席に推して參(ゆ)くことをえせずて、憚り思ふ由也。「然らば中庸が隱家にて行(な)す可き」由、近藤に申し侍ひしに、諾なひ侍ひて、「大橋にも、如此く、と告げて給べ」と申しゝにより、大橋許云ひ遣り侍ひぬ。其の翌の日、大橋來りて、「近藤、約を變(たが)へし」と申しき。中庸、思ひけらく、近藤は約を變ふる人に有らねば、彼れ必ず千楯と計りて、如是く近藤をも障へりし成る可しと智り給へて、其の事は止み侍ひき。後に近藤、中庸許來りて、其の所以を語り申しゝに、中庸が思ひ給ひつる所にぞ有りける。

大膽(おほけ)なくも大人命の御名を以て事計り、鈴屋を像(かたど)りて鐸舍とし、入り來る人を欺き誑かして、詞花(みやび)言の葉の遊戲をのみ、大人命の教への道とし、宗と立て給ひつる古學の道は、露も學ばずて、邂逅(たまさか)に篤胤が如き英明(ざえある)人の出來れば、己に甚(いた)く立ち増さりたる事を憎(そね)み妬みて、大人命の道を學ぶと云ひつゝも、拒み防ぎ入れ立てず、剩へ侫(ねぢ)け言を流言す。如是る事は、他の異見(みるところ)、實に愧づ可し。大人命の御名の穢れと成る事を、辨へ知らぬには有る可からざれど、唯だ己が學びの拙さの顯れむ事と、業ひの助けに成らざるを憤りてなり。□[立心+可]怜有(あわれ)、如此る惡き奴は、大人命の荒御魂を以て、大(いた)く罪なひ給ひ、鐸舍に集會(うごな)はれる蠅聲(さばへなす)蟲の子等は、伊吹戸神に申し給ひて、伊吹き放ち給ひね。然して篤胤が學びを、彌や益々に、大人命の古學の正統(まさみち)と守護らせ給ひて、漏れ落ちむ事・違はむ節をば、神直日・大直毘に見直し聞直し坐して、恩頼を以て助け導き給へ。中庸は年老い耄(ぼ)けて物にも有らねど、往昔、大人命の教へ給ひし隨々、其の千々の一つ二つを、篤胤に傳へ侍ひしかば、一つを聞きて百を知るの大才、實に以て大人命の古學の教へは、篤胤よりぞ榮え弘まり侍ひなむ。如此れば大人命の御遺言(いひのこしたまへるみことば)は、中庸、不學不才(まなびのざえなく)て、自ら御跡は、え續がざれど、今ま博覽廣才(まなびひろくざえすぐれたる)篤胤に讓り侍へば、大人命の御志も、空しく成し奉らじと思ひ給ふれば、明日より黄泉に往(おもむ)き侍ふとも、今ま思ひ殘す事侍はじ者ぞ。

又た言の序でに聞こえ奉る。篤胤が著はし述ぶる所の『古史成文』・『古史徴』・『古史傳』は、恐くも此の度び、雲の上に聞こえ上り侍ひき。又た冨小路貞直卿、此れが序文を書かせ給ひしに、先づ岡部(衞士賀茂眞淵。縣居)大人を、古學の開祖(おや)と定め給ひて、次に(本居中衞平宣長。鈴屋)大人命の大きなる功を言揚げし給ひ、次ぎて(平田大角平)篤胤が博學大才を稱美め給へり。實に古學の光暉り、篤胤の功は、大人命も、嘸ぞな滿足(うれし)と然こそ思し給はめ。又た『三大考』の追考は、御教への隨々、天津日を中心(なかご)とし、『七大旋考』と號づけて、著はし侍ひき。又た「青山に日がかくらば」の御歌も、中庸が考への如と免し給ふにより、然か定め申しつ。

文政六年九月廿九日、秋津彦美豆櫻根大人命の御魂の御前に、平篤胤と共に、源中庸、牡鹿成す膝折伏せ、鵜自物頸根衝き拔きて、恐み恐みも申し給はくと申す。



★ 服部中庸翁『贈本居太平書』に云ふ、「藤井高尚申し候ふは、篤胤は、殊之外、信心者にて、毎朝神拜をいたし候ふ事は、誠に丁寧成る事にて」と。曾孫平田盛胤翁の云ふ、「(銕胤翁室・遺子千枝子大刀自の曰く、父上は)毎朝盥漱の後、神前に向ひ、今の三四十分許り拜禮するを常とせるが、傍觀者の眼にも、眞に神靈、そこに坐しますと覺えしめたり」と。

 平田大壑先生は、嫉忌の偏心より來る所の、城戸千楯・村田春門輩の貶謗冷罵、陰險なる遣口に閉口しながらも、鈴屋大人の遺教を、服部水月翁より傳授され、且つ後日、紀伊の藤垣内本居大平翁(大人の御笏靈代、竝びに大人畫像を授與)・伊勢の後鈴屋本居春庭翁(大人古筆三本を授與)からも歡待されて、鈴屋大人の道統を嗣ぐに至ることを證するに足る、至重至要なる『祝詞』である(伊藤裕翁『大壑平田篤胤傳』昭和四十八年七月・錦正社刊)。

「『平田の學問も、わたし(盛胤翁)が最後だらうと思はれる。子孫に家學を繼ぐだけの者がゐない。どうか、御兩所(山田孝雄博士・伊藤裕翁)にたのみます』といつて、秋田縣に疎開された盛胤翁は、その後いくばくもなくて歸幽された。‥‥『時機は、必ず來る。それまでまて。じつくりと研究して、本當の決定版(平田篤胤)全集を出さうよ』といつて居られた山田先生も、その後しばらくして歸幽された。兩先生から埀教を受けることが出來なくなつた。今や、兩先生亡し矣」(伊藤裕翁「あとがき」)と。



 伊勢國松阪の「本居宣長ノ宮」は、舊・縣社山室山神社・本居神社なり。平成七年に改稱すと云ふ。誰か反對する者は居なかつたのか、何とも「宮」號が氣にかゝる。蓋し祭神たる秋津彦美豆櫻根大人命・神靈能眞柱大人命の、諾ひ給ふ所に非ざる可し矣。指を屈するに、來る九月六日は、相原修神主の五年祭(四周年)。神主は、如何に思はれたのであらうか。
 
 

諄辭、其の十一 ──天皇の守護・皇國の鎭護に坐す、靖國大神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月27日(火)19時00分9秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●靖國神社『靈璽奉安祭』(梅田義彦博士編『祝詞範例全書』昭和四十五年一月・堀書店刊に所收)

[遷靈詞]

掛けまくも畏き靖國神社の、此れの相殿に齋ひ鎭め奉る、諸々の命等の中に、今し御前の靈璽(みしるし)に、奇しき御名を稱へ奉り列ね奉る、
陸軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈(みたま)、
海軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈はや、
共々に御手携へ坐して、此れの靈璽に御懸り坐せと、恐み恐みも白す。

昭和三十四年四月六日

[第一祝詞]

今し此れの靈璽に遷し奉りし、
陸軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈、
海軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈の御前に、
宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、敬(ゐやま)ひも白さく。

汝し命等の、千代萬代に、かぐはしき御名を、是れの靈璽に列ね奉り、神殿(みあらか)の内つ正床(まさどこ)に、靖國の神と、稱へ辭竟へ奉りて、齋ひ鎭め奉り、永遠へに祭祀(みまつり)絶たず、仕へ奉らむと爲る事の状(さま)を、御心も清々しく聞こし食し諾ひ給ひて、安らけく平穩(おだ)ひに遷り出で坐せと、恐み恐みも告げ奉らくと白す。

昭和三十四年四月六日

[第二祝詞]

掛けまくも畏き、靖國神社の内つ正床に、今し新たに齋ひ奉り鎭め奉る、
陸軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈、
海軍・位・勳・○○○○命を始めて、○柱の御靈の御前に、
宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、恐み恐みも白さく。

汝し命等の奇しき神靈(みたま)をば、今し此れの神殿の内つ正床に、齋ひ鎭め奉りしを以ちて、齋(ゆ)まはり清まはりて、捧げ奉る御衣(みそ)は、和妙・荒妙、御食は、高坏の彌や高に襲(よそ)ひ高盛り、御酒は、□[瓦+長。みか]の八腹に滿て湛へ、大海原に住む物は、鮨(はた)の廣物・鮨の狹物、海底に生(お)ふる物は、奧津藻菜・邊津藻菜、山野の物は、甘菜・辛菜、種々の物を、机代(つくゑしろ)に置き足らはして、崇敬者總代・○○○○を始めて、縁(ゆか)り深き各都道府縣の御遺族代表等、參ゐ列なり、神靈和めの樂(がく)を奏で奉り、菅の根の懇ろに御祭り仕へ奉らくを、御心も平穩ひに聞こし食し諾ひ給ひて、此れの神殿を、永遠への嚴(いつ)の神座(おまし)と、天地の極み、月日と共に、彌や遠永に神鎭まり坐して、御祭り嚴(いか)しく美はしく仕へ奉らしめ給へと、謹み敬ひも齋ひ鎭め奉らくと白す。

辭別きて曩(さき)に齋ひ奉る、諸々の神靈等の大前に、恐み恐みも白さく。

今し稱へ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御食津物をも、平らけく安らけく、相嘗(あひな)へに聞こし食めし諾ひ坐して、今も將來(ゆくさき)も共に、御國の鎭めと、永遠へに鎭まり坐して、四方の海、風立たず、浦安の國と守り幸はへ給へと、恐み恐みも白す。

昭和三十四年四月六日



●靖國神社『臨時大祭』(同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、齋まはり清まはりて、昭和二十一年四月より以降(このかた)、内の正床に、遷し齋ひ鎭め奉りし、
陸軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
海軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
及(ま)た今囘び新たに遷し齋ひ鎭め奉りし、
陸軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
海軍○將・正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈、
正從○位・勳○等・功○級・○○○○命を始めて、○柱の神靈等の御前に、畏み畏みも白さく。

汝し諸々の命等は、日の本の大和心の、清き赤き眞の心以ちて、皇朝廷(すめらみかど)の御爲(おほむた)め、皇國(すめらみくに)の爲めに、いそはき勤め、生きの緒の限りを極め盡して、終ひに身失せ給ひし、偉(うらぐ)はしき命等にし有れば、四月七日の、今日の生く日の足る日の、朝日の豐榮登りに仕へ奉る、臨時(ときじく)の大祭りに、言は卷くも文(あや)に畏き、天皇の大御心以ちて、掌典・矢尾板敦を、敕使(みつかひ)として、うづの大幣帛を奉らしめ給ふ事が故に、神職(かむづかさ)等、諸々齋まはり清まはりて、捧げ奉る神寶は、御鏡・御劔、御衣は、和妙・荒妙、御食は、和稻・荒稻の飯(いひ)に仕へ奉りて、高坏の彌や高に襲ひ高盛り、御酒は、□[瓦+長]の八腹に滿て湛へ、大海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狹物・海川・山野の種々の味物を、百取り机代に置き足らはして、崇敬者總代・北白川祥子を始めて、御遺族・崇敬者等、廣前も狹らに參ゐ集ひて、御祭り嚴しく美はしく仕へ奉らくを、平らけく安らけく聞こし食し諾ひ給ひて、今も往く先も變はる事無く、朝廷の守護り、御國の鎭めと、彌や遠永へに鎭まり坐して、天皇命の大御代を、嚴し御代の足らし御代と、堅磐に常磐に齋ひ奉り、手長の大御代と幸はへ奉り給ひ、四方の海、浪風立たず、浦安の國と守り給へと、畏み畏みも稱言竟へ奉らくと白す。

辭別きて曩に鎭り坐す、諸々の神靈等の御前に、畏み畏みも白さく。

今し告げ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御饌津物をも、平らけく安らけく、相嘗へに聞こし食めし諾ひ給ひて、共に永く久しく守り幸はへ給へと、畏み畏みも白す。

昭和三十四年四月七日



●靖國神社『秋季例大祭當日祭』(十月十八日。同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、宮司・從三位・勳一等・筑波藤麿、恐み恐みも白さく。

恆の例しのまにゝゝ、十月十八日に、仕へ奉る秋の大祭りに、言は卷くも綾に畏き、天皇命の大御心以ちて、掌典・矢尾板敦を、敕使(みつかひ)として、うづの大幣帛を奉らしめ給ふ事を、嬉しみ奉り忝み奉りて、今日の朝日の豐榮登りに、齋まはり清まはりて、捧げ奉る御衣は、和妙・荒妙、御酒は、□[瓦+長]の八腹に滿て湛へ、御食は、和稻・荒稻の飯に仕へ奉り、山野の物は、毛の和物・毛の荒物・甘菜・辛菜、海川の物は、鮨の廣物・鮨の狹物・奧津藻菜・邊津藻菜、種々の物に、御縁り深き人々より獻奉れる味物をも、机代に置き足らはして、神靈(みこゝろ)慰(なご)みの樂典(ねいろ)を奏で奉り、崇敬者總代・○○○○を始めて、御遺族・崇敬者等、廣前も狹らに參ゐ集ひ、菅の根の懇ろに拜み偲び奉る状を、御心も平穩ひに聞こし食し諾ひ給ひて、今も往く先も、御國の鎭めと、永遠へに鎭まり坐して、天皇命の大御代を、常磐に堅磐に齋ひ奉り、嚴し御代の足らし御代と、幸はへ奉り給ひ、御縁り深き御遺族を始めて、天の下の國民(おほみたから)に至るまでに、守り導き給ひ、四方の海、波風立たず、浦安の國と成し幸はへ給へと、恐み恐みも稱言竟へ奉らくと白す。

辭別きて今度び、新たに合せ祀り齋ひ鎭め奉りし、○○○○の神靈(みたま)等の御前に白さく。

今し告げ奉れる事の由をも、捧げ奉れる御食物をも、平らけく安らけく、相嘗へに聞こし食めし諾ひ給ひて、天地の極み、月日と共に、常磐に堅磐に鎭まり坐して、國内(くぬち)平穩ひに、浦安の國と守り幸はへ給へと、恐み恐みも白す。

昭和四十三年十月十八日



●靖國神社『みたま祭』(神社新報社編『最新祝詞例文集』下卷。同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、宮司・從三位・勳三等・筑波藤麿、恐み恐みも白さく。

年毎の例しの隨に、みたま祭り仕へ奉らむとして、今日の夕日の降(くだち)の清祓に、神職を始め、此の御祭に預り仕へ奉らむ諸人等を、祓ひ清め、今日より四日の間(ほど)、御垣邊には、花火打ち揚げ、御燈懸け列ね、種々の演藝(わざをぎ)を行ひ、御前には、數々の花を活け生(は)やし、裝ひも美しく飾り立て、今宵はしも、神靈和めの御神樂を始めて、調べ床しき雅樂の舞歌仕へ奉りつゝ、崇敬者總代・池田清始め、縁故(ゆか)り深き人々、齋庭に狹らに參ゐ集ひ、菅の根の懇ろに、前夜の御祭り仕へ奉る状を、あなうむがしと見行(みそな)はし給ひて、御祭り事、落つる事なく、美はしく仕へ奉らしめ給へと、御食・御酒・海川・山野の味物を獻り、恐み恐みも稱言竟へ奉らくと白す。



●靖國神社『御創立九十年奉祝大祭』(神社新報社『新作諸祭祝詞撰集』所收。同上)

此れの所の底津岩根に、宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて、稱言竟へ奉る。

掛けまくも畏き、靖國神社の大前に、職・○○○○、恐み恐みも白さく。

言はまくも綾に畏き、明治御宇、天皇の御心以ちて、此の神社を創めて、齋ひ建て給ひしより、年竝(な)めて今年はしも、九十年の歳月を重ねたる、うまし歳の慶(よ)き年にし有れば、霜月の五日の今日を、生く日の足る日と選定めて、記念(かたみ)の御祭の第一日の儀、仕へ奉らくと、神職等、齋まはり清まはりて、獻奉る物は、明妙・照妙、御饌は、高坏の彌高によそひ高盛り、御酒は、□[瓦+長]の八腹に滿て湛へ、大海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狹物、海底に生ふる物は、奧津藻菜・邊津藻菜、山野の物は、甘菜・辛菜、種々の物を、机代に置き足らはして、神靈慰めの鎭魂頌を奏で奉り、崇敬者總代を始め、縁故り有る人々、御前も狹らに參ゐ列なり、豐祝(ほ)ぎ神祝ぎ奉り、御祭り美はしく仕へ奉らくを、御心も平穩ひに聞こし食し給ひて、今も往く先も變はる事無く、此の宮を常呂の靜宮と、千代萬代に鎭まり坐して、皇朝廷の大御代を、嚴し御代の足らし御代と、常磐に堅磐に守り幸はへ給ひ、御遺族・崇敬者等をも、夜の守り・日の守りに守り幸はへ給ひ、四方の海、浪風立たず、浦安の國と成し幸はへ給へと、今日の朝日の豐榮登りに、恐み恐みも稱言竟へ奉らくと白す。
 
 

教育正常化のために‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月24日(土)00時24分13秒
返信・引用 編集済
   塾頭の曰く、「女性は、デモや抗議などに參加するのではなく、女性にしか出來ない事をやりなさい。子供の教育の事などに力をいれたはうがいゝよ」と。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1285



 花時計の「藤」樣よりの情報です。

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■やっぱりいらない!『はだしのゲン』閲覧制限支持! 松江市応援! 署名
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 少しく調べてみたところ、作者「中沢某」なる者の發言は、不敬至極、殆んど人間に非ず。事もあらうに、幽都・大社の御膝下ではないか。我慢ならぬ。「子供に閲覽させよ」てふ者を、よく見ておくがよい。早速、與黨の中にも手を擧げてゐる。深沢某『風流夢譚』と同樣、中沢某『はだしのゲン』の發禁焚書につき、皆樣のご協力を御願ひ申し上げます。
 
 

諄辭、其の十 ──古聖先哲を祭るの本義は、其の繼志紹述に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月18日(日)17時43分36秒
返信・引用 編集済
  ●稻村眞里翁『安房先賢偉人慰靈祭の祝詞』(近體。昭和十年十月十七日、孝子たる伴直家主・儒者の三朶花石井彌五兵衞收・國學者の杉庵山口志道・烈女の畠山勇子ら十六柱の顯彰の碑を建て、慰靈祭を執行し、又た『安房先賢偉人傳』・『安房先賢遺著全集』を刊行せり)

この神床に齋きまつる、我が安房の國の功勳の大人たち、十六柱の命の御靈の前に、謹みて白さく。

秋津島大和の國は、遠皇祖の御世より、世々の天皇は、國民を吾が子と慈しみたまひ、我ら國民は、天皇を尊びて吾が親とも親と懷(なつ)きまつり、遠き祖先の遺績を奉じて、清明・正直なる心を以て、億兆一心、各々その業務を勵み來れり。これ、實に我が國體にして、熟々この國體の眞意を窺へば、貴賤を云はず、貧富を問はず、皆な忠實にその業務に勵みて、坐臥常住、一擧一動、皆な君國のため、人とある道を完うするところの努力にあらざるはなく、而してそのため、功績の大いなるは、愈々祖先の遺風を顯彰する所以にして、當に永く世の尊崇を受くべきなり。然はあれども、世には汚隆あり變遷あり、人の家には榮枯盛衰さまゞゝにして、事、必ずしもその道を得ず、功績ある人も世に酬いられずして、おのづからその名さへ忘られ果つる例(ためし)なきにあらず。かくの如き事、己れ等、今ま眼のあたりに遭遇して、慨然として默しえず、同志相議りて、世にも貴く大いなる功績を寄與したまへる、我が十六人の大人たちが御靈を祭るとして、今この祭儀を仕へまつるは、豈にたゞ我が一人の喜びのみならむや。

今この祭壇に齋かれたまふ大人たちのうち、伴直家主の大人は、遠き千有餘年の昔、孝子たる故を以て、時の帝・仁明天皇の褒賞・旌表を忝うしたまひ、世を降りて他の大人たちは、幼き時より、天性穎悟、學の業、世に立ちたまふ業、その自らの務めを務めとして、各々とりゞゝに同じからぬ道には進みたまひしかど、その御名、世に聞こえ、人のため世のため、等しく大いなる訓化・功績を成したまへるを、なかにも、石井三朶花の大人は、山荻の山里より出でて、一世の名諸侯・徳川光圀卿に仕へたまひ、彼の不朽の名著『大日本史』の編纂にも與りたまひ、漢詩を詠みては、唐人をさへ驚かしたまひしばかりなるを、星移り物變りて、水戸の里なる御墓に詣づる者ならでは、その御名は全く故郷にだに忘れられてありき。

かくの事、さきつ頃、ゆくりなくも、我が同志に知らるゝに至りつれば、遠方(をち)にも近方(こち)にも驚き歎かれつるまゝに、更に郡内に、世に名立ちたる人々を數へ覓めて、學問は和漢詩文を問はず、醫術の士、藝術の人、政治・經濟の士、慷慨憂國の志士、烈々たる女丈夫、總べて今日、こゝに齋きまつる十六人の貴き大人たちを得つれば、いかでその大いなる功績を世に顯はし、後の世にも眞清明かに稱へ傳へまほしと思ふ、我が安房の國なる有志者の心、忽ち相一致して、○月○日、この先賢偉人のために、郷社・八幡神社の神域に、顯彰の碑を立て畢はり、差次ぎて、今この北條黌の講堂の教壇を、嚴(いづ)の磐境と祓へ清めて、神籬挿し立てゝ、暫時し大人たちの御靈を請(しやう)じて、御前に山海の御饗物を獻奉りて、御祭り仕へまつりて、謹みて白さく。

大人たちが世に遺したまへる功績・偉勳は、譬へば日月の光の雲間を洩るゝが如く、その燦然たる光輝は、蓋し鶴ケ谷なる豐碑とともに、眞に千歳不朽なるべく、無言の教化を無窮に施しつゝ、後人を感奮興起せしめて、更に忠實卓越なる國民、偉人・傑士を出でさしめむこと、それはた幾何(いくばく)ならん。今この御靈の前には、大人たちが遺族・遠裔、謹みて祭儀に侍り、朝野の貴紳を始めて、郡内の有志者、雲の如くに集まり、東京・千葉は更なり、大阪の地方よりさへ、遙々にこの式典に參列して、恭しく追遠の辭を述べ、眞心籠めたる玉串を獻奉りて拜禮せらる。大人たち・御靈たち、このさまを平らけく見そなはしまして、御心も和やかに安らかに、喜び嬉しみたまへと、齋主・千葉縣神職會安房郡支部會長・官幣大社安房神社宮司・從五位・稻村眞里、謹み恐みて白す。

辭別けて白さく。今日の御祭、かく仕へまつるによりて、大人たちが家族・親族の人々を、禍神の禍事なく守りたまひ、その家門、永遠に繁榮ならしめたまひ、又た己れらが顯彰事業の一つと、大人たちの傳記、及び大人たちが心盡して書き留められたる遺著・遺文・詩歌など、美はしく輯め整へて刊行せんとする事ども、滯ることなく成し竟へて、普ねく永く世に行はれしめたまひ、又この北條黌の別室には、大人たちを偲びまつるよすがと、大人たちが遺著・遺墨・遺品等を陳列して、衆庶に觀覽せしむることを諾ひたまへと、謹みて白す。

[當祭典に出席せる曼洞小池重醫學博士の感想に云ふ、「建碑の當日、稻村氏が奉讀せられたる祝詞の内容、竝びにその祝詞の句讀・發聲は、氏獨特の朗誦法にして、滿場、肅として聲なく、滿座、森として頭を埀れ、一句一節ごとに、人をして感激せしめたものであつた。あの虚弱なる身體、あの扁平なる胸郭より、如何にしてあのやうな、時として朗々たる、時として切々たる聲韻が迸り出でしかを、今日もなほ自分は不可思議に思ふくらゐである」と。稻村眞里翁、之に就きて云ふ、「余は、文を重んじ句讀を考へ、抑揚緩急、すべての文の内容を十分に心得て、これによりて聲音を調ふべきものなることを信ず。但し小池博士の右の評は過賞、敢へて當る所にあらざれども、余が祝詞奏上の所信・精神を聽取せられたるは、知己の感、感謝にたへず」と。]



 翁には、古聖先哲を景仰する諄辭佳文、いと多なり。吾人は、翁の祝詞に學び、之に傚ひて文を修め、何より心を正して祭祀に勉め、其の古聖先賢の志を繼述して、皇國中興に、鋭意微力を盡さむことを、茲に固く誓ひ申し上げたい。



‥‥高天原に神留り坐す、神漏岐・神漏美の命以ちて、我が大倭の國は、遠皇祖の御世より、君・臣の分(けぢめ)正しく、神ながらも安國と平らけく榮え來しを、大朝廷の大御政治、武士の門(かど)に遷ろひてよりのち、漸々に下は上を凌ぎて、世はひたすらに降ち行きつゝ、建武の大御世には、一たび麗らかなる天つ日影を仰ぎまつりつれど、禍雲、また忽ちに天を覆ひ、四方の波風、頻りに騒ぎて、國民(おほみたから)の彷徨ひ艱(なや)むことは、白さくも更なり、天つ日の嚴し日影も隱ろひて、惶き忌々しき極みに成りつるをりしも、大和雄心、振り起して、天皇の御ために、身も棚知らず、恪しみ仕へまつりし、臣・武士も、いと多なるなかに、汝が命(千早大神・橘朝臣正成公)が高き大き御功勳は、天そゝる金剛の嶺も、見霽かす兵庫の海も物かはと思ふばかりなりしを、樹てましゝ御志は徹りあへず、今はの際(きは)にしも、御弟の君・正季命の、「七度び、この世に生(あ)れ出でて」の言の葉を、寛(ゆる)やかに微笑み諾ひ聞かして、逝きて還らぬ湊川の水沫と消え果てたまひにしかど、かくの事はしも、御子・御孫(みうまご)・親族・家族・家の子たちの末が末に至るまで、畏き嚴しき家の訓へと、深く固く崇まへ守りて、背きまつることなく、その言靈は失(う)せず消えせず、天地日月を貫きて、彌や遠に彌や永に、日本男子の心を、いかばかりか訓へ導き勇め勵ましけむ。されば、汝が命の誠實(まめ)なる御心は、そのかみ建武の大御世を興しまつり、降りては六百年ののちに、明治の新たまりなむ大御世の原動(もと)つ力の一つと、大御世を、遠皇祖の御世の昔に復しまつれるものと稱へ白さむも、誰かは否みもどきまつらむ。故れ世を經るまにゝゝ、御功勳の光、いよゝ輝きわたりて、天の下、仰ぎまつらぬ者なく、かくて、明治天皇の大御世の初めに、掛けまくも畏き大御心と、いちはやく湊川神社と、齋き祀らしめたまひて、別格官幣社の列(つら)にさへ崇まへしめたまひ、汝が命の立籠りまして、世に雄健び魁けて、この世の臣とある者の、君を思ふ心を振り起さしめたまひ、攻め寄り來し天の下の百萬の賊(あだ)の心をも寒からしめたまへりし、大城(おほき)の址なる、これの千早の山にも‥‥(稻村眞里翁『擬・千早神社昇格奉祝祭の祝詞』昭和六年十二月三日)。



【寒林平泉澄博士『存道館記』・『楠公祭の祝詞』】
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【谷省吾翁『平泉澄先生の葬祭詞』・名越時正翁『弔詞』】
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●松平永芳翁『中根雪江先生百年祭の祭文』(『中根雪江先生』昭和五十二年十月・中根雪江先生百年祭事業會刊に所收。雪江翁は、平氏、名は師質、靱負と稱し、隱居して雪江と號す。明治十年丁丑十月三日卒。贈從四位・諡は堅岩松蔭命)

維れ時、昭和五十二年十月三日、福井神社(祭神は、松平春嶽公)の神域なる、恆道神社(祭神は、中根雪江・鈴木主税・橋本景岳の三柱)の御前に、清淨の祭壇を設け、中根雪江先生を敬ひ慕ふ有志の士相會し、謹みて先生の靈に告げ奉る。

夫れ先生は、幕末多難の際に當り、拔擢せられて越前藩の要職に陞り、千辛萬苦して、國事に盡瘁せられたるも、藩主・春嶽公に對する輔佐の道に徹せられたれば、克く適材を藩の適所に配し、これに指示し、これを指導し、よくそれ等をして活躍精進むせしめしも、自らは謹愼謙虚、終世、その功を誇ることなく、その行動を喧傳せらるゝことなかりき。故に先生の功たるや、幕末越前藩の冠たりしにも拘らず、その活躍を記し、その功業を傳ふるものは、絶えて無くして今日に至れり。是れ、我等が先生の爲めに悲しむべしとなし、惜しむべしとなす所なり。

是に於て吾等、先生を慕ふの有志は、この百年忌を迎へんとするに當り、先生の傳記を編纂して、先生の人物・功業を世に廣め、後に消ゆることなからしめんことを期し、その業に着手せり。幸ひにしてその刊行は、近きにあり。而して同書の内容たる、唯に先生個人を傳ふるに止まらず、正に幕末の福井藩史を傳ふるものと言ふべき。又た春嶽公の人格形成の由る所と、公の理想の在る所とを明知すべき好個の資料たることを疑はず。我等、本傳の完成に勉勵したるも、力足らずして、未だ上梓に至らずと雖も、その公刊については、既に福井市當局の絶大なる理解と、四百五十名にも及ばんとする有志者、及び有志法人の協贊支援を得たるは、先生の靈前に供へ奉ることは、蓋し旬日の内にあらんとす。先生、もし我等が追慕の念の切なるを、これによつて察したまはゞ、我等の喜び、何か之に加へん。

冀くは先生の靈、先生を敬慕するの福井に生を承けし後進と全國の有志とに、國に報ぜんとするの志願を激勵し、併せて懇切なる指導を埀れ賜はらんことを。中根雪江先生百年祭事業代表責任者・景岳會會長・松平永芳、謹みて白す。



【中根雪江翁『三五本國攷の序』】
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第六十二囘神宮式年遷宮──御白石持行事奉獻。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月13日(火)22時31分35秒
返信・引用 編集済
   岡山縣神社廳による、十一日の濱參宮、そして外宮參拜、十二日の内宮御白石持行事奉獻、滯り無く奉仕、また第一番車の爲か、熱波の中でも清々しく、祭神・大山祇大神の式内縣社・足高神社宮司引率の下、無事相勤めました。井上亮二宮司のご配慮にて、豫定になかつた遷宮館も拜觀、また伊勢神領民の御接待にも、感激を新たにしてをります。

 外宮奉拜にて、御帳が嚴かに上る體驗に、圖らずも戰慄、遷宮新宮を仰ぎ見た後、外宮拜辭にも、再び「ふあつと」御帳が上るてふ不思議‥‥。同伴の愚妻も、其の奇瑞に、思はず祈念を籠めた由、申してをりました。岩間弘翁『國ありて我あり』(平成二十一年七月・創榮出版刊)を拜讀して、御帳の奇蹟あるを承知してをりましたが、小生等の場合は、單なる偶然に過ぎないでありませうが、何とも難有き經驗を頂戴した次第であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/947



 花時計の藤樣より、「泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』上映會」のご報告がありました。ご披露申し上げます。

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 平成二十五年八月十日、泉水隆一監督作品・映画「凛として愛」の上映会を、東京都渋谷にて行いました。参加者は、約70人でした。愛知・福島・宮城から参加された方や、台湾からの留学生の方も参加してくれました。本当にありがとうございました。

 懇親会では、花時計で会計を担当してくれている結城純子さん、街宣で活躍してくれているさこさん、にゃんにゃんさんの三人による余興もあり、歌によって衣装を変える凝った演出で盛り上がりました。また山際澄夫さんも、前日、「朝まで生テレビ」に出演されて、体力的に厳しかったと思いますが、三周年記念にかけつけてくださり、怒りあり笑いありで、懇親会を大いに盛り上げてくれました。参加してくださったみなさま、本当にありがとうございました。

 多くの方に支えられ、会員数も620人(十一日の時点)となりました。どうぞ、今後とも花時計をよろしくお願いいたします。

 現在、動画をアップ中です。まだ途中までしかアップできていませんが、ご覧頂ければと思います。

【三周年記念・映画鑑賞会】
  ↓↓↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=w-UEgbORTsA

【泉水隆一監督作品・映画「凛として愛」について重要なお知らせ】
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/entry-11591046032.html

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諄辭、其の九。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月10日(土)16時31分24秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●稻村眞里翁『無縁戰病死者弔意日拜の詞』(昭和二十五年秋。恐らくは編者の手に因るであらう、訂正の書込みに據れり)

頼(よ)るべなき弔ふものもなき、悲しき御靈たち諸々の前に白さく。

汝が命たちは、御國の重き大命を惶みまして、東亞細亞の大き戰に出で立ち、恪しみ勵みまして、御國のため、身亡せたまひしは、悲しとも悲しく、痛ましとも痛ましきかぎりにしありけり。

しかはあれど、汝が命たちの御功勳は、天地・日月と共に、永久へに消えせず、天地の神々も、愛ほしみ憐みまさむを、今は弔ひまつる人もなきなめれば、かくの事を歎き悲しみて、日にけに、御饗物(みあへもの)獻奉りて、御靈の前を弔ひまつらくを、平らけく安らけく諾ひ聞こしめせと、謹みて白す。



 明日曉天、恐れ多くも畏くも、第六十二囘・神宮式年遷宮──御白石持奉獻の爲め出立。二見興玉神社にて、濱參宮。外宮參拜。明後日には、愈々内宮最終日の御白石持神行、特別神領民として、實に恐懼謹愼、措く能はざるものあり。無事竟へ奉らむことを、只管ら懇祈仕り候ふ。

●鎌田純一博士講演『兩御正宮遷御の儀を終へられて』
  ↓↓↓↓↓
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f14-1.pdf#search='%E7%99%BD%E7%9F%B3%E6%8C%81+%E7%9A%87%E9%81%93%E6%97%A5%E5%A0%B1'



 而して歸り來たれば、家族・親族も相集ふ御盆奉孝の御季、産土大神の御前に、先祖累代の御靈たちは申すも更なり、別辭きては、有縁・無縁の萬靈たちの靈格冥福の御啓導・御守護を祈念し奉らむ。

 酷暑熱波の候、ご投稿ご閲覽の各位には、ご自愛ご專一、幾重にも御願ひ申し上げ候ふ。 備中處士、百拜
 
 

腹切る術を、丈夫は忘る可からず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月 5日(月)18時31分48秒
返信・引用 編集済
   下記は、岡田則夫翁が、先般の岡山縣愛國者協議會例會に披露されたもの、感銘深く拜聽。色々な教へが籠つてをる一章ゆゑ、こゝに拜記させて戴く。劍道は、切腹の作法を教ふる事は無く、既にもう武道では無い。武道の劍道は、現代では、古武術の師匠に就くしか、術は無いのである。

 又た柔道も、講道館に蹂躙されて久しいが、其の創始者・嘉納治五郎なる親分、何を血迷つたか、耄碌したるか、次の言を吐いてをる(虎童村尾次郎博士の受賣り)。曰く、「かつての志士は、繩目を恐れなかつた。マルキストも、今は取締まれてをりますが、何時の時代にか、英雄となりませう」と。斯くの如き者に、柔道界が率ゐられたかと思ふと、柔術・柔道、餘りに悲しいと謂はねばなりませぬ。

 又た漫畫界、これも非道い。巷間流行の宮崎駿監督、この人の「もののけ姫」に嫌惡感を抱き、「千と千尋の神隱し」の描き方に、其の人格を垣間見た小生であるが、韓國人の取材に、「日本は、もつと早くに慰安婦問題を解決しておくべきだつた。日本は韓國と中國(ママ)に對し、謝罪すべきだ」(「人民網/日本語版」七月二十九日)となん。さすがは神武天皇ご東征を、奴隷史觀で描いた手塚治虫のご一黨だ。空いた口も塞がらぬ。一斑は全豹を卜するに足れり矣。知らぬことは、にこゝゝしても、天網恢々、喋々云ふ可からず(心配になつて、ウイキペデイアを覗いてみた所、何と‥‥確信犯でありました。小生も知らぬことは、喋る可からず、だ‥‥反省しきりなり)。
  ↓↓↓↓↓
http://j.people.com.cn/94475/8344399.html



●梅溪高須芳次郎博士『乃木將軍詩歌物語』(昭和十三年九月・新潮社刊。平成二十五年四月・島津書房復刻)「乃木魂」に曰く、「

花を活け 茶をのむ道は ならふとも 腹切るすべを わするなよ君

 詞書きに、「某氏と談話中、偶々茶事に話が移りし折、これを書きて示す」とあります。乃木さんは、明治天皇の御あとを慕ひまゐらせて、切腹・殉死した人で、その一生を振返つて見ると、最初から切腹と離れることの出來ぬ關係を持つてゐるやうにも解(と)れます。

 乃木さんは、嚴父から、先づ少年時代に、赤穗義士の切腹について、度々話を聞かされました。申すまでもなく、江戸時代には、場合により、君父のため、切腹するのを武士の花としたのです。この點から、乃木さんの父は、深く赤穗義士に共鳴し、「是非、四十七士にあやからせたい」と思つたと見えます。

 丁度、乃木さんが生れた土地──江戸麻布日ケ窪の長府毛利邸は、赤穗義士に關係がありました。乃木さんは、それについて、『自分の幼時は、義士の中の竹林唯七ら十名の切腹した、麻布日ケ窪の長府邸内に生れて、十歳になるまで、其處に住んだので、稍々物心のつく頃から、赤穗義士といふことは、おのづから自分の頭に刻み込まるゝに至つた』と話してゐます。義士切腹の跡! そこに生れた乃木さんは、最初から武士道の實地教訓を受けたのです。‥‥

『素より頑是ない子供の時代だつたから、その深い意味は知らう術もなく、僅かに親たちの話などを聞いて、さう云ふえらい人達であつたか、して、この邸内で切腹したのであるか、と云ふくらゐの考へにすぎぬので、能く人が御庭拜見と云つて、折々裏門の方から出入りしたことを覺えてゐるが、然しその切腹した場所は、果して何の邊であつたかと云ふことなどは、別に聞かうともしなければ、また覺えても居らない。‥‥唯だ最も深く義士といふ事を、自分の幼い頭に彫り付けたのは、五日と十六日との御命日には、未明に泉岳寺の墓所へ參詣して、明け方に歸ることにされて居つたことが、大いに關係がある。』

その墓參の日、乃木さんは、大抵、父に伴はれ、父が義士の墓の前で線香を立てゝ、恭しく禮拜する後について、自分も拜んだのです。場合によると、父に所用がある際は、唯ひとりで參拜したこともあります。それに家庭では、父が好んで義士の話をする。母も亦た容(かたち)を正して語るといつた工合でしたから、乃木さんは、不知不識、義士好きになり、一枚摺りの錦繪なども買つて貰つて、大切にしたものでした。

 かうして忠孝のため、目的を遂げて、潔く切腹した義士のことが、深く乃木さんに感化を與へたのです。その次に乃木さんに切腹の手本を示したのは、父の友人・玉木文之進(韓峰。松下村塾主)でした。文之進は、長州の勤皇運動に貢獻した人で、乃木さんの恩師でもあり、親戚でもあります。文之進の自刄は、乃木さんの弟・眞人(正誼)から起つたのでした。正誼は、玉木家の養子となつた後、郷黨の先輩・前原一誠に心を傾け、その謀叛に與みしたのです。

 乃木さんは、正誼が袂別に來たとき、切に反省を促したが、『一旦、盟約した以上、斷じて後へ引くことが出來ぬ』といふのです。到頭、涙の中に盃を酌みかはして、『しつかりやれ、立派に死ね』と云つて、手を分つたのであります。間もなく明治九年十月、正誼は、前原の亂に、二十三歳で討死しました。その時、文之進ひとりは、何の關係もなかつたが、

自分の家から賊徒を出したことは、朝廷に申しわけない。

と云つて、代々の墓所の近くで、見事切腹したのであります。勤王の志厚く、義理堅かつた文之進は、かうして乃木さんに、武士の手本を見せたのです。

いざといふ時は、立派に腹を切れ!

これが、文之進の實物教育です。乃木さんが、こゝに掲げた歌で、『腹切るすべを忘るなよ君』と云つたのは、平生の用意を、自然に流露したのでせう。

 かの軍旗問題で、二度まで切腹しかけたとまで噂された乃木さん。日清・日露兩役に死所を得ようとした乃木さん。最後に切腹した乃木さん。これを考へると、この歌に、深い意味が籠つてゐるやうです」と。
 
 

再掲・幻の映畫『凛として愛』上映會、帝都にて開かる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 8月 4日(日)00時21分24秒
返信・引用 編集済
   見事なチラシですね。小生なんぞ、作りたくても叶ひませぬ。ご都合のつく御方は、泉水隆一監督作品『凛として愛』、是非とも大畫面にて御覽ください。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/pdf/20130810.pdf

http://www.hanadokei2010.com/schedule_detail.php?schedule_no=299



 こゝだけの咄なんですが、泉水隆一監督は、我が九段塾の塾頭なんですよ。皆さん、ご存知でしたか~(我ながら苦笑)。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50
 
 

諄辭、其の八──國史の樞軸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月27日(土)00時11分39秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●從四位・稻村眞里翁『後醍醐天皇六百年祭遙拜の詞』(昭和十四年七月二十七日)

掛けまくも畏き、大和の塔尾の陵の大前を、遙かに拜みまつりて、○○神社・職・位・勳・功・爵・○○○○、恐み恐みも白さく。

掛けまくも畏くはあれど、我が大神・後醍醐の天皇命は、現世(うつしよ)に生(あ)れ出でまして、御智(みさとり)、神ながらも明らけく、御心、剛く雄々しく、人と成りまして、時世の勢ひ、関東(あづま)の武士(ものゝふ)のほしきまゝに、天の下を政ち振舞ふ事を、憤ろしく思ほしまして、いかで後鳥羽の天皇命の大御心のごと、大御政を古へに復さむと、ひそかに圖りましつるを、事成らず、なかゝゝに世は、益々難しく煩はしく成りぬれば、元弘の御世、天の下の武士を召して、立てそめたまひし大御計畫(おほみはかり)のまにゝゝ、健び進みたまふとはすれど、時到らずして、彼の笠置の山に遷り籠らし、それより更に隱岐の島に彷徨ひましゝゝつる事、今更ら偲びまつるだに惶くなむ。

かくて天の下の忠誠(まめ)なる心の武士たち、戈執りて四方に起り立つまゝに、幾程もなく、鸞輿(おほみこし)、嚴しく華やかに都に還りまし、鎌倉も忽ちに滅亡びて、こゝに建武の輝かしき大御世に成りぬれば、天の下、始めて再び古へながらの天つ日影をなも仰ぎまつれる。しかはあれど、こはたゞ暫時(しまし)のほどにして、あはれ、あはれ、世は大御心に違ひて、天の下、そゞろに安からず、成りとゝはぬを、時こそ好けれと、狂漢(くなたぶれ)、醜の高氏い、頼(よ)そりまつる厚き廣き大御蔭、狎れまつり蔑(なみ)しまつりて、なかゝゝに己が私を成さむと、軍(いくさ)を起して叛きまつりつれば、これよりのち、世の道・人の心、亂れに亂れて、畏き大御勢力は、漸々に頽(くづ)ほれ蹙(しゞま)りて、我が大神・天皇命は、惶くも吉野の山に遷り入りまし、かくてそが前後(あとさき)、畏きや、大君の弓杖(ゆづゑ)と頼み思ほす皇子たちの、悲しくも御身亡(う)せたまふもあり。猛き恪しき武士の臣も、相次ぎて討死するが多ければ、吉野の山の山風も、伊吹きおろす力、漸々に衰へ、慨(うれた)き憤ろしき事のみ伊繼ぎ聞え繼ぎつゝ、延元の四年といふ年の、この月の今日の日なも、遂に神上り上りましぬる。あはれ、悲しきかも、悼ましきかも。

しかはあれども、つらゝゝ思へば、掛けまくも畏き、我が大神・天皇命の大御業は、現しその世にこそ、成し畢へたまはざりけれ、崩御(かむさ)りましてより五十年のゝちには、大御心に煩はし惱ましゝゝけむ、天つ日嗣承け繼がす大御血統(おほみちすぢ)も、たゞ一系(ひとすぢ)の昔に復り、身を棄てゝ、大御業、助け輔(あなゝ)ひまつりし武士の臣たちが功勳は、千代萬代に消えせず朽ちせず、世を經るまゝに、彌や益々に光を顯はして、天の下の國民を、直き正しき鋭心(とごころ)、限りなく振り興さしめ、明治の天皇命は、我が大神・天皇命の大御心を、畏くも成し竟へたまひて、遠く神武の天皇の大御世の古へに復したまひ、朝日の豐榮昇るなす御國のさまは、我が大神も、いかにか愛で喜び思ほすらむ。

しかのみならず、明治の天皇命は、そのかみの事の蹟を思ほしまし、我が大神の大御心を、深く厚く偲びまつりたまひて、大神の皇子たち・功勳の臣たちを、縁故(ゆかり)の處々に齋き祀らしめたまひ、殊に吉野の山に、大神の神宮(かむみや)を建てゝ、彌や遠に彌や廣に、大御神徳(おほみいつ)を仰ぎまつらしめたまふ事は、別きても大御心、足らひに諾ひ思ほすらむと、古へをも今の世をも、とさまかくさま偲びまつり惶みまつりつゝ、齋知り嚴知り、遙かに大前を拜みまつらくを、平らけく安らけく諾ひ聞こしめして、天皇命の大御世を、淨く清明(さや)けく、嚴し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまひ、國民諸々を、君を念ひ國を念ふ眞心、永久へに渝(かは)ることなく移ろふことなく、恪しみしまり勵みしまらしめたまひて、天の下、悉とに安國の足る國と、互(かた)みに睦び和び、榮ゆる御世に成し幸はへたまへと、恐み恐みも祈みまつらくと白す。



●稻村眞里翁『假作──頼山陽・塔尾山陵奉拜の詞』

掛けまくも畏き、塔尾の山陵(みさゝぎ)の大前に、御民・頼の久太郎、恐み恐みも白さく。

劣き久太郎い、おほけなくも我が大日本の世繼の史書(ふみ)作らむことを思ひ立ちて、夜を日に恪しみ勵みつゝ、我が大君・後醍醐の天皇命の大御代の事に至りては、醜の逆臣(さかおみ)どもが逆事(さかしまわざ)を憤り、忠實(まめ)なる臣どもの、心盡し・力盡しを思ひつゝ、執る筆、放棄(なげう)てゝ、息突き慨(なげ)かひまつりつること、幾囘びにかありけむ。

ゆくりなくも今年、今囘び、埀乳根の母に侍(かしづ)き從ひて、この御山に登りて、この大前に參ゐ出でては、心は忽ちに現實(うつゝ)を忘れて、親しくその大御代に遭ひまつる心地して、激(たぎ)ち溢るゝ胸の内、いかさまにとも訴へ白さむ言の葉を知らず、只々塞(せ)きあへぬ涙、しとゞに袂を濡らして、い這ひ侍(さも)らひ、頸根衝き貫きて、恐み恐みも、大前を拜みまつらくと白す。



●秋廼屋本居豐穎博士『北畠神社臨時祭詞』(伊勢國一志郡上多氣村に鎭座。明治十四年一月、臨時祭の祝詞なり。『諄辭集』所收)

北畠と、家の名は申せど、天傳ふ日の影面(かげとも)の南の朝(みかど。愚案、「南」字は不要なり矣)に、世々を經て、忠(まめ)に勤しく、赤き心の眞心以て仕へ奉らしゝ、

從一位(贈正一位・准三宮)・源朝臣親房命
贈從一位・(贈)右大臣・源朝臣顯家命
從一位・行・右大臣・源朝臣顯能命

を始めて、其の親族と座す君等諸々の神靈(みたま)を齋ひ鎭めて、北畠神社と稱言竟へ奉る、是れのうづの大前に、官職位・○○○○、今日の齋主、仕へ奉ると爲て(◎奉りて)、畏み畏みも白さく。

掛け卷くも忌々しく、言は卷くも憤ろしかれど、大御代の名を、元弘と云ひ建武と稱ひし年の比(ころ)は、如何なる時にか有りけむ。天津日の光、立ち覆ふ雲の亂れに、四面の海の暴き風、彌や吹きに吹き惑ひて、武士の醜のたぶれが逆状(さかわざ)と、隱岐の荒磯(ありそ)の波に、うづの大御文を漂蕩(たゞよ)はしめ奉り、又た三芳野の山下露に、綾の大御袖を濡らさしめ奉りし、常闇成す世の禍事に遇ひて、固より忠に雄々しき心の緒ろの一筋に、顧みは爲じ、大君の邊にこそ死なめと、仕へて在りし、淨き公民は數多きが中に、汝が命等や、世々を重ねて、陸奧の遠の鎭めと、其の御名は、東の空、著明(いちじる)く顯(あらは)え、此の伊勢の國司と、其の御勳は、南の朝に隱れ無く、伊勢の海、渚の玉の清き御志は、掛け卷くも恐き天皇も、吉野山、谷の眞清水流れて、後の世々までも、深く遠く頼み思ほし、汝が命等も、良く武士の八十伴男の心を得てあともひ給ひ、又た此の近き國々の益荒男も、汝が命等の御蔭には、好く靡き寄り奉りて在りければ、北の朝(愚案、「朝」の字、祭神の亨け給はざる所、決して用ふ可からず矣)の軍人等も、汝が命等の御名には怕(お)ぢ奉りて在りき。殊に親房命は、軍の道に、猛く雄々しく座すのみに非ず、古へ今の史、讀み渉して、事の蹟・物の理りにも聰く明けく座しければ、然ばかり荒振る世の中にして、種々の書をも記し著はして、朝廷に奉り賜ひし大き御功は、又た比類ひも無かりけり(◎無かりき)。

然るを、顯家命・顯能命、打ち續きて猛く雄々しく、賊(あだ)の軍を撃ち破り追ひ退(そ)け給ひしも(◎給ひしを)、漸々に大御方の武夫等、戰死(みまか)り、南の空を巡る日のくだちの髓々、光を覆ふ雲立ち渡りて、汝が命等の清き御心も、吉野川末徹りあへず、後ち遂に又た形々(さまゞゝ)に遷り變りし代の形と共に、其の御裔(みすゑ)さへ、曉の雲尻の星の影、薄く混(まが)ひて消えにし事の状(さま)は、然こそ、汝が命等の神靈も、御心晴れず、此の霧山の城(き)の邊の草の露霜の、結ぼほれつゝ、年經座しけめ。

萩の下水、本(もと)の心を汲み知る里人等の眞心以て、如此く仕へ奉り來し御社を、今ま又た同じ心の人々諸々、相議り相談らひて、此の嚴し代の大御世の光と共に、瑞の玉垣、美はしく造り改め奉らむと爲て、先づ今年、明治の十四年は、汝が命等の御裔の、遂に絶え果て給ひし、天正の四年より、三百有四年に成りぬるを以て、遠き昔を仰ぎ忍び、此の里人等が、年まねく蒙り奉りし御惠みに報い、又た其の神靈をも、廣く厚く慰め奉り、稱言竟へ奉ると、十月の五日の今日より、來む十一日まで、日は七日・夜は七夜、御前に侍らひ、御祭の式、仕へ奉る禮代と、幣帛は照る妙・明る妙に、御酒・御饌より始めて、海・川・山・野の種々のためつ物を、机代と捧げ奉り、秋萩の下行く水の、清き心・深き思ひに、書の卷卷繰り返し、昔を忍ぶ人々の心々に、歌ひ出で詠め出でたる和・漢の言の葉をも、御前に□[敬+手。さゝ]げて、笛吹き遊び□[人+舞]ひ奏で、仕へ奉る事の状を、御心も穩ひに聞こし食し、うづなひ給へと、畏み畏みも稱言竟へ奉らくと申す。

[稻村眞里翁の曰く、「四大人、出でてより、古學、勃然として興り、爾來、許多の歳月を經たれども、諄辭の文は、明治に至りても、なほ未だ眞の發達を見るに至らず。これ、吾人の大いに遺憾とするところなり。此の時に當りて、本居豐穎大人、家學を傳へ、文藻ゆたかに、殊に力を諄辭文に用ゐられ、此の方に於いて、一新機軸を出されたるさまなり。たゞ大人の文、往々冠辭・縁語・序語等を用ゐ、又た對句を多く用ゐられたるは、古文としては如何あらむ。全然、贊意は表しかぬれど、古意を離れて看れば、筆々自在、絢爛の美を極めて眩きばかりなり。‥‥殊に修辭に心せられたるが如き、文の流麗なるは、素朴を離れ、上古文に遠ざかること、いふ迄もなく、而して初學の甚だ學び易からざる所なり。そもゝゝ諄辭の文を作るに、大人が示されたる、此くの如き境地に至らんは、深く諄辭の文に習熟したる上に、更に平安朝時代及び其の以降の歌文をも味はざるべからず。初學の士、たゞ文の美しきに感けて、順序を顧みることなく、直ちに大人の如き文にならはむとせば、なかゝゝに思はぬ失敗に陷ることあるべし。返す々ゝも秩序ある考究を要すべきなり」と。]



 愚案、「凡そ皇國に生れて道義を思ふ者は、深く國體を考へざるを得ず、深く國體を考ふる者は、必ず國史に歸らざるを得ず、國史に歸る者は、建武中興の昔に胸をうたれざるを得ず、建武に胸をうたるゝ者は、後醍醐天皇の聖徳を仰ぎ奉つて、感銘措く能はない」(建武義會編『後醍醐天皇奉贊論文集』昭和十四年九月・至文堂刊)とは、有馬良橘大將の言であるが、後醍醐天皇の大御代は、溯りては大化・延天を仰ぎ、承久の御企を承け、降りては明治維新を覺醒せしむるもの、正に國史の樞軸と謂はねばならぬ。平泉澄先生、畢生一代の金音を拜記して、百代の國師・北畠親房公を景仰すること、次の如し。



●寒林平泉澄博士『百代の國師親房公』(日本學研究所『北畠親房公の研究』昭和二十九年十一月・日本文化研究所刊。増補版・五十年三月・皇學舘大學出版部刊に所收)に曰く、

「昔は顔囘、深く孔子の盛徳に服し、喟然として嘆じて、之を仰げばいよゝゝ高く、之を鑽ればいよゝゝ堅しと云つた。此の讚歎の語は、之をそのまゝ移して、我が親房公に捧げてよい。私は十三歳の春、神皇正統記を手にし、反復、之を熟讀した。爾來、今に至つて、殆んど五十年である。しかも年を經るに隨ひ、研究を重ねるにつれて、公に對する畏敬の念は、益々深まるのみである。‥‥

 私共が仰ぎ見る親房公は、實は至大至高、殆んど言語に絶するのである。公の誠忠は、菅公と比肩すべくして、其の功勞は遙かに上に出づる。艱難の日に三軍を指揮して大義を守るは、楠公に類する所あつて、其の學問は遠く超越する。菅楠二公を併せ、加ふるに義公の修史を以てすれば、先づは公の全貌をうかゞふべくして、神道哲學の深遠は、猶ほ其の外に在る。かゝる偉大なる人物、碩學であり、哲人であり、國家柱石の重臣であり、苦難不屈の武將であり、而して祖宗より子孫に至り、數百年の間、仕ふる所に殉じて皇統を護り、のみならず其の著書を通じて天下の正氣を喚起し、百代に亙つて國體を護持したる人物、かゝる人物を、何として讚美すべきであらうか。こゝに思ふは、國師と云ふ稱號である。それは從來、特に佛教に於いて、二三の高僧に對して用ゐらるゝ所であるが、其の人物を見、其の行動に照らして、必ずしも名實の適はざるを遺憾とする。親房公の如き人物こそ、眞に國家百世の指導者、即ち國師と謂ふべきであらう」と。
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【所謂南北朝正閏問題と内田遠湖先生】
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諄辭、其の七──至純の忠誠。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月24日(水)22時04分34秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●稻村眞里翁『大宰府神社・菅公一千年祭の祝詞』(明治三十六年三月二十五日)

筑前國(つくしのみちのくち)筑紫郡大宰府の郷に、底つ岩根に宮柱太敷き立てゝ鎭まり坐す、大宰府神社の珍の大前に、宮司(・位・勳・功・爵)・○○○○、恐み恐みも白さく。

 白さくも畏かれど、汝が命の、これの現世に、官位(つかさくらゐ)、いまだ世の常に坐しましゝほどは、天つ日嗣の高御座こそ、常磐に堅磐に障(さや)りたまふことは坐しまさゞりけれ、吹きすさぶ嵐に叢雲(むらくも)起ちはびこりて、大内山の御空、そゞろに小暗(をぐら)き世なりければ、萬の御政治も、天皇の大御心のまゝならず、綾の御袖に時雨の雨の零(ふ)りそゝぐ折々も坐しましけむを、汝が命は、久方の月の桂、華やからに折りかざして、官位も人の目を驚かすばかりに立昇りたまひて、明き淨き大和魂、嚴(いか)しく雄々しく振起しまして、世々の御祖の誠實(まめ)に恪しく仕へまつり來し、漢學(からまなび)の道の業は申すも更なり、萬の事(わざ)異なる節を立てず、和やかに穩ひに、親に事ふる道も、君に仕へまつる道も、たゞ一すぢと、大御政治の道を輔け翼(あなゝ)ひまつりたまひつゝ、大御世のみため、國民(おほみたから)のために、御心を碎きて、何事もさまゞゝに勵み恪しみ仕へまつりたまひしまにゝゝ、御園生の草も木も、漸々に打靡き、天つ日も影覆ひぬべく、稍や繁(しみ)みに立ち廣ごれる池の藤波さへ、稍や色あせて見えにしを、あはれ、月花の雲に、嵐に嫉まるゝ譬を、忽ち我が御身の上に歎きたまふことゝなりて、昨日の御勢ひにひきかへて、塵泥(ちりひぢ)なす放(はふ)らされたまひて、流れ逝く水屑(みくづ)は、藐姑射(はこや)の山の山松も、しがらみとゞむべき術もなく、天つ星には、道も宿りもありながら、如月・彌生はろゞゝと、道なき道をたどりて、これの筑紫國にぞ、さまよひ著きたまひしにし。

 かくてこれの地(ところ)に坐しましけるほど、いさゝかも大朝廷を恨みまつりたまふことなく、人をも咎めたまふことなく、ひたぶるに我が御身の幸なくて、著(き)たまひつる濡衣の干(ひ)るよしもなきことをのみ歎きたまひ悲しみたまひ、都府楼觀音寺も、纔(はつ)かに甍を望み、朝た夕べの鐘の音を聽きたまふのみにて、八重葎鎖せる門(かど)も、開きたまふことなく、畏み愼み大坐しまして、風雅(みやび)の道に御思ひを寄せ、漢・倭の書に御心を慰めたまひつゝ、山別れ飛び行く雲にも、さりともと、はかなき頼みをかけ、野山に立つ煙を眺めては、更に御歎きを増したまひ、御庭の花・空鳴き渡る鳥にも、御袖をしぼり、しかあるのみならず、燈火に油盡きて、書もえ讀みたまはず、ぬばたまの闇の一夜を思ひ明かしたまひしこともあり。雨の雫、板屋の軒を漏りて、御衣も御書も、しとゞに濡れそぼちし折もあり。竈には煙さへ絶えて、空しき御夢のみ、花と散り玉と見えつゝ、雪降る里に往き通はすばかりを、天皇の大御手づから、被(かづ)けたまへりし大御衣を、日にけ(異)に捧げ戴き坐しまして、大御惠みの餘香(なごり)を拜み偲びたまへりし眞心には、天地も感(かま)け動き、後の世の人も哭き悲しみて、ひとへに臣の鏡・人の鏡となも慕ひまつり、哀しび仰ぎ尊びまつりぬる。

 汝が命の薨(かむさ)りましてのち、侫人(ねぢけびと)どもは、おのれと心を責めて怖れ戰き、空吹く風・鳴く鳥の音にも、むらきもの心を消ちつゝ、終ひには篤しく病み臥(こや)して死(みまか)りぬるもあり。又おのづから鳴雷(なるかみ)の、落つるはためきに撃たれて死るもありければ、天皇も怪しみ歎き思ほして、二十年のゝち、汝が命を、故(もと)つ官位に復へしたまひ、天暦の天皇の大御世には、京なる北野に御社を建て、後に正一位(おほきひとつのくらゐ)・太政大臣(おほきおほいまうちぎみ)をさへ贈らしめたまひ、かくてこれよりのち、御世々々の朝廷(みかど)にも、世の常ならず、崇め祀らしめたまへるに、掛けままくも畏き、今の天皇の大御世になりては、特に官幣中社の列(つら)にさへ加へたまひ定めたまへるまにゝゝ、御稜威は彌や高に彌や廣に輝きて、天の下の人ども、學問(まなび)の祖とも神とも仰ぎまつりて、今は、汝が命の分靈を齋き祀らぬ地もなきに至れり。

 かくて白さくも畏かれど、汝が命の薨りましてより、移り來し世の年次(としなみ)を掻き數ふれば、今年はしも、まさに千年に當りぬれば、世の人、皆な同じ心に、そのかみ(當昔)を偲びまつらぬはなきを、別きてこれの筑紫國を預り知らしゝ縁(ゆかり)によりて、侯爵・黒田長成の君を始めて、志厚き人々諸々、廣く天の下の人々に議(たばか)りて、菅公會といふ會(まとゐ)を設けて、嚴しく美はしく、これの瑞の御殿を修めつくり仕へまつり、この里人諸々も、心のかぎり翼ひ輔けて、御祭の式(わざ)、可美(うま)らに仕へまつるとして、宮司、劣き○○○○を始めて、神職(かむづかさ)諸々、持ち齋(ゆ)まはり持ち淨まはりて、獻奉る禮代の物は、和妙・荒妙、御酒は、甕(みか)の上(へ)高知り、甕の腹滿て雙(な)べて、洗米(あらひよね)・御水(みもひ)、山の物は、甘菜・辛菜・果實(このみ)、大海原に棲む物は、鮨(はた)の廣物・鮨の狹物、沖つ藻菜(もは)・邊つ藻菜に至るまでに、横山のごとく置き足らはして獻奉り、また種々の歌舞ひ仕へまつりつゝ、三月といふ月の二十五日の今日より、四月といふ月の二十四日まで、日にけに御祭の式、心盡して仕へまつるさまを、平らけく安らけく欣納(おむかし)み諾ひ聞こしめせと白す。

 かく聞こしめしてば、天の下の人の心を、汝が命の、この現世に、天皇の大朝廷に仕へまつりたまひしことのごとくに、直く正しく護りたまひ導きたまひて、大御世を茂し御世の足らし御世と、堅磐に常磐に齋ひまつり幸はへまつりたまひ、また今囘びの事業を翼ひ輔け勤しめる、黒田侯爵たちの人々、この里の人草諸々の家にも身にも、禍つ靈の禍事あらしめたまはず、彌や茂盛(むくさか)に立ち榮えしめたまへと、鹿じもの膝折り伏せ、鵜じもの頸根衝きぬきて、恐み恐みも乞ひ祈みまつらくと白す。



●友清歡眞翁『古道眞髓』(昭和十年一月筆。昭和十四年九月・山雅房刊)に曰く、

「藤原保則が、菅公の御性格を(「當今の碩儒であるが、其の内心をみると、危殆の士なり」と)非難したのは、保則の私言である。換言すれば保則は、菅公に對して面白からぬ感情を抱いて居たから、彼れの言ひさうなことである。菅公の如く、高潔正直な御性格で、八方美人主義でない御方には、斯ういふ非難は、必ず起り勝ちである。菅公の如く、諫を好み給ひ、直言を好まれ給ふ御性格では、其の時代の如き、腐敗墮落し切つて居た社會の各方面から、悉く歡迎を受けられる筈はないのである。‥‥

 當時の學問・思想・信仰は、支那流・印度流全盛であつたけれど、菅公の根本理想が、皇國第一主義であつたことは申す迄もない。『菅家遺誡』の中にある、「凡そ神國、一世無窮之玄妙者云々」とあるは、恐らく菅家の家學の上からの主張であるにちがひない。此の書は後人の僞作との説が有力ではあるが、菅家の思想を書き傳へた多數の斷簡が材料になつて居るものらしい。申す迄もなく、菅公の家は代々歴史家で、紀傳道が家學なのである。この國學の家筋は、菅家と大江家とに分かれたけれど、大江氏の學問も、元來菅家から出たのである。‥‥

 菅公は正直な御方であつた。或は少し正直過ぎるといふ點もあつたかも知れない。即ち過直といふ氣味があつたやうである。此の御性格の一面が、後世の俗な人間から、彼れ此れと非難を受けられたやうである。鼻かけ猿が、鼻のかけぬ猿を笑つたといふ話があるが、人間の世の中は、如何なる時代も五月蠅いものである。‥‥

 菅公が大宰權帥に貶黜になつたのは、只の貶謫ではない。時平等の誣奏の内容は、世人の知るところの如く、言語道斷のものである。誠忠一途の正直なる菅公として、至大の憂患であるのみならず、恐らく人間世界に、此れほど悲痛な事件といふものが、又とあるべきものでない。

 しかし其れは、菅公の眞面目の發揮さるべき一大時機でもあつたのである。平素は立派なことを云つて居ても、多少の災厄みたいなものに遭遇すると、うろたへて正體を現はし、醜態を演ずる人間が多いものであるが、古人の『窮を以て節を變ぜず』と云つたやうにやるのは、タマが底から良くないと六かしいものだが、菅公の大人格は、此の場合に、愈々光明を發したのである。一身一家の不幸は悲しまれたけれど、主上を怨み奉るといふやうなことは微塵もなく、公の誠忠の至情は、益々光りを放つた。賜衣の餘香、孤臣中夜の涙を濺ぎたまふに至つて、臣子の儀表として、百世に輝き給うた」と。



【參考・菅公と拘幽操】
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『先哲景傳同血抄』の開板。

 投稿者:備中處士  投稿日:2013年 7月20日(土)19時06分55秒
返信・引用 編集済
   「暘廼舍(あけのや)」樣には、時、恰も「戀闕第一等の人」平野國臣先生殉難一百五十年の日に、スレツド『先哲景傳同血抄』の開板を賜はることになりました。四年前の當月十六日に身罷られし、九段塾々頭・福井金城翁からの援軍でありませうか。眞實に有り難いことです。有志各位には、ご注目たまはらむことを。
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【參考・備中處士『戀闕の悲願』】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1503

 スレツド主「暘廼舍」樣の屋號は、神ながらかも。主は、蓋し扶桑神洲の暘谷に、かつて住まひされし御方ならんか。

 平田大壑先生(『大扶桑國考』・『三神山餘考』・『三五本國考』等)に據れば、蓬莱──蓬丘・蓬壺・日窟常暘之山・玄牝大壑暘谷咸池の上(ほとり)に在る山──の湯谷・陽谷・谷口、即ち、
『老子』竝『莊子』引く所の『黄帝書』に云ふ「谷神不死・玄牝之門・天地之根」、
『老子』に云ふ「百谷王」、
『列子』の「大壑・無底之谷・歸墟」、
『莊子』の「尾閭」、
『初學記』の「天池・巨壑・朝夕池・咸池・榑桑之墟」、
『初學記』引く所の『山海經』大荒東經に云ふ「少昊之國・甘水・甘淵・黒齒之國」、亦た大荒南經の「羲和之國」、
乃ち我が皇大御國の、祓戸四柱大神の坐す大壑「速吸名門」──蓬莱山の神域、やがて「荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の鹽の八百會」、筑前國の北面志賀島なる玄界洋の海底、豐前國企救郡と長門國豐浦郡との間なる豐前國企救郡速鞆の湍門(せと。迫門)──女嶋(比賣嶋)の邊りの人、即ち神ながらにも名乘られし「暘廼舍」樣、是なるべし。穴々、かしこ。



●小串仙助大倉重威翁『比賣嶋考』に曰く、

「伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神のうみませる島の次第、大嶋の次に女島を生給ふとあり。按ずるに大嶋は周防國大島郡にして、伊波比洋の東北にあり。女島は豐後國國東郡にして、伊波比洋の西南にあり」と。




●平田大壑先生所引『關令尹喜傳』・『老子東遊之文』に曰く、

「東遊して、日窟常暘之山に至りて、榑桑之丹椹(赤き桑の如き實)を綴ひ、若木(榑桑と同木。扶桑・椹樹・櫻木・□木、九千歳に一度び實を生ず。王母の仙桃の如し)之朱華(葉。桐の葉に似るも赤し)を散じ、碧海(我が長門・周防・安藝・吉備・播磨)を觀、東井を悒(汲)み、欝池宮(兩碕の邊)に過れば、暘谷神王・東海青童君・衆仙、丹椹の朱實・金津の碧醴を陳ぬ。次に祖山(また祖州、即ち東岳廣桑山、乃ち我が淤能碁呂島。淡路國屬島西北の浦・津名郡來馬郷繪島。天柱國柱)に登り、芝田を觀て、養神艸を採り、蓬莱宮に息ひ、復た風山に遊び、青丘(我が筑紫の北面、火國・豐國を本にて四國・木國邊まで)に登り、紫府に過れば、太元眞人紫府先生(谷希子・景林眞人、即ち黄帝・東方朔などの師)、九光の甘液・白文の玉英・青林の白子を陳ぬ」と。
 
 

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