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大内山尊崇の道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 2月 9日(月)19時10分42秒
返信・引用 編集済
  ●本居宣長大人『玉勝間・大神宮の茅葺(かやぶき)なる説』に曰く、

「伊勢の大御神の宮殿(みあらか)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒めなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也。質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし。御殿(みあらか)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ。みあらか又た獻り物などを質素にするは、禮(ゐや)なく心ざし淺きしわざ也。

 そもゝゝ伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重みし守りて變へ給はざる物也。然して茅葺ながらに、その莊麗(いかめし)きことの世にたぐひなきは、皇御孫命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故ゑ也。さるを御(み)みづからの宮殿をば、美麗(うるはし)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは。すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古への意にそむけりと知るべし」と。



 或る神主樣のブログに曰く、

「天皇陛下、皇太子殿下、その他の皇族のお方は、個人的財産ではなく、借地借家で住まわれているわけです。これは戦後、GHQ(連合国の占領軍)が、自活されていた皇室の経済を、財閥と同じように解体を図りました。皇室財産には、それまで課されていなかった財産税が課され、皇室財産のほぼ9割を物納の形で、国有財産に移管させました。そのことが、日本国憲法88条をご覧なれば分かります。これは、GHQの日本弱体化政策を受け継いだものです。

 ところで内廷外皇族には、家族構成に応じて、毎年定額が歳費として支給されています。その金額は、たとえば秋篠宮家は年間5000万円程度です。多いと思われますが、その歳費の約半分は人件費に当てられ、御子息の学費なども、その中(愚案、殘りの半分)からお支払いになられています。私たち国民は、皆保険です。それぞれの健保に入っていますので、診療費は2割・3割負担ですが、御皇族(ママ)には、医療保険がありません。例えばインフルエンザに罹られても、10割負担です。しかも歳費から支払わなければなりません。大手術の際には、大変な高額医療費となられます。

 上記のことから、御皇族のお方は、決して絢爛豪華な暮らしをされておられません。30年前に師匠のお供をして、御皇族の御用邸に行ったことがありました。師匠は、デパートで2名分の弁当を買ってくるように言われました。2名分の弁当は、師匠と私の分です。御用邸に入りますと、師匠と御皇族は応接室で、私は控え室でおりました。昼時になりますと、控え室に師匠がやって来られて、そこでお茶を頂き、弁当を二人で食べました。

 普通の家ならば、お客様にお寿司や手作りの食事を出すのでしょうが、師匠から『宮様の負担になられるといけないので、いつも弁当を持参してくるのだ』という説明を受けました。質素に生活されておられていることが、実感できました」と。
  ↓↓↓↓↓
http://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/2015-02-09



 愚案、全て神の御上に、質素を良きにすること、更に無し。御殿のみならず、獻物なども何も、力の勝へたらん限り、美麗しく莊麗しく目出度くするこそ、天子・神明を敬ひ奉るにはあれ。宮殿また獻物などを質素にするは、禮なく志し淺きし業ざ也。鈴屋大人の憤怒、沈潛復誦、已む能はず。

 皇室御質素の御樣子は、申すだに畏し矣。三十年前の御事の由、現在、是れ如何、改善されたことを聞かぬ。政府・與黨の大罪、幾何ぞや。或る御方は、安倍晉三首相の、御歌會始の御儀に拜趨せざるを以て、松陰先生を尊敬する長州人と雖も、全く信を措く能はざる旨、仰せられたり。洵に宜べなり。況んや西暦を奉じて、恬として耻ぢざるをや。

 皇御孫尊、即ち天上より降臨坐しまし、宇内唯一、文字通りの「天子」樣を、厚く尊み敬ひ奉らざる政府・與黨に、占領政策の完全なる成功と、臆病なる心の完全なる慴伏とを見る。已むを得ざる忍從に非ずして、歐米に完全に屈服して疑ふことを知らぬのである。

 又た或る呟きに曰く、「七十代の爺さんが、『戦争は悲惨だよ。二度とやってはいけない』って言ったら、横から『何、言ってやがんだ! お前、戦ってねぇだろ! いゝか、次、アメリカとやるときは、もっとうまくやるぞ。絶対に負けないぞ、次こそは』と、参戦意思を表明してくれた九十の爺さんが、強烈過ぎた」と。

 此の九十老翁の氣概に、我が塾頭を見る思ひあり。大詔に因つて、劍を措きし皇軍兵士は、再びの御召を待つてゐる。然し老翁の言靈の如き、報道されること決して之れ無く、漸く顯界から退場しつゝある。皇室尊崇、絶對臣從の道は、我等、草莽有志に託されてゐると謂はねばならぬ。

 樋口一葉氏の、歳二十三にして、赤貧洗ふが如き女性の身を以てすら、其の『塵之中日記』(明治二十七年三月二十六日)に曰く、

「道徳すたれて、人情、かみの如くうすく、朝野の人士、私利を、これ事として、國是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子の、何事を思ひ立ちたりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂ひを念とせざるものならず。かすか成りといへども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を殘りなく、これになげ入れて、死生いとはず、天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ。わが心は、すでに天地とひとつに成りぬ。わがこゝろざしは、國家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられ、やせ犬のゑじきに成らんを期す

と。志操堅固、氣宇壯大、一葉女史は、明治の人か乎、明治の人なり。明治は遠くなる可からず、復古中興には、須く明治の大御代を想起せざらむと欲して得べからず矣。
 
 

『凛として愛』無料配信。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 2月 3日(火)21時10分27秒
返信・引用 編集済
  ──花時計通信より──

**********

 花時計が拡散活動を行っている映画『凛として愛』が、保守系企業で有名なアパホテルの客室で配信されることになりました。対象となるのは98ホテルで、宿泊者が無料で視聴できるメニューに加えていただくことができました。

http://www.apahotel.com/news/campaign/detail/417.html

 平成14年、上映開始後たった2日で封印されてしまった幻の映画『凛として愛』は、インターネット上で、細々と広められていました。その後、現在、花時計の副代表をつとめる藤真知子が、この映画と出会い、故泉水隆一監督に直接交渉をして、上映会の開催を実現させたのが、平成21年でした。上映会開催を大変喜んだ泉水監督は、藤個人に対して、拡散のためにDVDを頒布する許可を出されました。その後、藤が花時計設立に加わったため、現在、花時計が、『凛として愛』の拡散活動を担うこととなったのです。

 DVD資料の頒布により、地方での上映会や個人病院やお店での上映などが、少しずつ実現してきましたが、ケーブルテレビなど、より多くの人に見てもらう手段で広めたいというのは、私ども花時計の悲願でした。

 今回、ホテルチェーンの客室での配信という、かつてない規模での拡散が実現したことは、非常に嬉しいことです。また『凛として愛』を風化させまいという一心で、拡散活動に力を注いできた藤真知子の働きを、一緒に活動する仲間として誇りに思います。

 『凛として愛』の制作に渾身の力を注がれた泉水隆一監督、講演会の際に、必ず『凛として愛』を上映された東條由布子さん、ブログ上で、『凛として愛』を紹介し続け、花時計による拡散活動を全面的に応援してくださった花うさぎさん‥‥

 『凛として愛』を支えてきた方々は故人となってしまいましたが、映画のチラシを作ってくれた方、英語字幕版を作ってくれた方、海外の図書館に寄贈できるよう手配をしてくれている方、そして自分の身近な人たちに伝えようと頑張っている方‥‥たくさんの方と力を合わせて、今後も拡散活動を続けていきたいと思います。

 長くなりましたが、今後とも『凛として愛』の拡散活動に、ご協力をよろしくお願いいたします。

■凛として愛ホームページ
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
■花うさぎさんのブログより
凛として愛、真実の歴史
http://hanausagifan.web.fc2.com/20090806.pdf
『凛として愛』上映会、花時計一周年記念イベント
http://hanausagifan.web.fc2.com/20110719.pdf

**********



【類似品に御注意】
映画『凛として愛』には著作権があり、生前、泉水隆一監督といくつか約束をし、「愛国女性のつどい花時計」の藤真知子が、映画の拡散、DVDの頒布について許可を頂きました」と云ふ、天下唯一の頒布元
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/entry-11591046032.html
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
 
 

泉水隆一監督映畫『凜として愛』擴散。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 1月31日(土)22時43分43秒
返信・引用
   泉水隆一監督映畫『凜として愛』を、一人でも多くの方に觀て戴けるやうに頑張つてをられる、或る御方から、嬉しい御便りがございました。

塾頭、觀て下さつてをられますか。

 塾頭を慕ふ方々の、地道な努力の賜です。同慶至極、本道に有り難いことであります。滿腔の敬意を表し、謹みてこゝに拜寫させて戴きます。



**********

 泉水隆一監督の映画『凜として愛』が、一部のAPAホテルで視聴可能になりました。一月三十日、APAホテルのサイトに掲載されました!
  ↓↓↓↓↓
http://www.apahotel.com/

APAホテル、平成二十七年二月一日から、 客室VOD無料配信スタート──アパホテル対象九十八ホテル──】
  ↓↓↓↓↓
http://www.apahotel.com/news/campaign/detail/417.html

 また日本とオーストラリアの図書館への拡散も、二月から始まります。図書館に置くことは難しいと思っていたのですが、館内のみ視聴ということで、日本とオーストラリアの図書館に置くことが出来るようです。

**********
 
 

「臥薪嘗膽」の本義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 1月27日(火)22時42分32秒
返信・引用 編集済
  ■明治天皇『在廷の臣僚、及び貴衆兩院議員に告げ給へる敕語』(明治二十六年二月十日)

國家軍防の事に至りては、苟くも一日を緩くするときは、或は百年の悔を遺さむ。朕、茲に内廷の費を省き、六年の間、毎歳三十萬圓を下付し、又た文武の官僚に命じ、特別の情状ある者を除く外、同年月間、其の俸給十分の一を納れ、以て製艦費の補足に充てしむ。



■明治天皇『大孝に就きて土方宮内大臣に下し給へる敕語』(明治二十六年二月)

朕、さきに内廷の費を省き、製艦の費を補はんことを命じぬ。されば力の堪へ、心の及ばん限りは、節約を重ぬべし。されど朕、特に汝に告ぐることあり。朕が祖宗列聖の祭事、及び山陵の費と、皇太后陛下の供御の費とは、少しも動かすこと勿れ。



■明治天皇『第九囘帝國議會の開院式に賜へる敕語』(明治二十八年十二月二十八日)

國防は、曾て漸を以て完實を期せり。今、交戰の爲め缺損せるものを補充し、并びに自衞に必要なる設備をなさむとし、朕が臣僚をして贊畫の任に當らしめ、必要の支出に付いて、議會の協贊を待たしむ。而して其の止むを得ざる國費の増加は、朕が忠良なる臣民の、進んで之を負擔するに躊躇せざるを信ず。



●一般會計決算に於ける軍事費(陸海軍省費)と歳出總額に占める割合(大岡弘氏『明治天皇の靖國神社招魂式の御製に想ふ──軍事費大幅増額への轉換』──『國民同胞』平成二十六年十一月刊に所引。岡田則夫翁の紹介朗讀せられたる文章より)

明治二十三年度・ 二五六九萬圓[三一%]
明治二十四年度・ 二三六八萬圓[二八%]
明治二十五年度・ 二三七七萬圓[三一%]
明治二十六年度・ 二二八二萬圓[二七%]
‥‥
明治二十九年度・ 七三二五萬圓[四三%]
明治三十 年度・一一○五四萬圓[四九%]
明治三十一年度・一一二四三萬圓[五一%
明治三十二年度・一一四二一萬圓[四五%]
明治三十三年度・一三三一一萬圓[四五%]
明治三十四年度・一○二三六萬圓[三八%]
明治三十五年度・ 八五七七萬圓[三○%]
‥‥
平成二十五年度・約 五  兆圓[ 五%
  ↓↓↓↓↓
http://www.kokubunken.or.jp/kokumindouhou/637.html#02
http://www.kokubunken.or.jp/kokumindouhou/638.html#04



 愚案、軍艦製造費を巡つて、吏黨・民黨の相克あつて、明治初期の帝國議會は、混亂を極めた。然し明治天皇の敕語を賜はるや、兩黨は一致協力、臨時軍事費の支出を全院一致で可決した。復た日清戰爭・三國干渉に際しては、反省の機運が一氣に生じ、提携協力、擧國一致、「臥薪嘗膽」、軍事費の大幅増額に因る嚴しい國家財政の運營や、之によつて齎される増税等の國民生活への直接負擔にも、能く凌ぎ得た。此の「臥薪嘗膽」の四文字、現代の國民の、容易に使ふこと能はざる金文字である。此の擧國辛苦の血涙こそ、當に「臥薪嘗膽」の本義、新たなる出典と謂ひつ可きものであらう。

 果して現代、吾好しの功利を貪り、既に飽食暖衣の老若男女、吾人の父祖たる明治の皇民に、些かでも倣ふることあらば、平成の御民として、四方の跳梁、萬里の怒涛、抑も何するものぞ。茲に想起するは、平泉澄先生の玉章である。



●寒林平泉澄博士『明治の光輝』(昭和五十五年五月・日本學協會刊)の「はしがき」に曰く、

「明治の大御代は、氣宇雄大、朝野奮勵、精神充實して、光彩陸離たる時代であつた。曾て延喜・天暦の御代がさうであり、また歐洲に於いてギリシヤ・ローマの盛時がさうであつたやうに、それは黄金時代として、讚美愛惜を以て追憶せられるであらう。無論、衣食の樣式も貧弱であれば、學校その他の設備も低級であり、人々の收入も少なければ、娯樂も云ふに足らなかつたであらうが、それにも拘らず、人々は希望に燃え、努力を樂んだ。維新の變革は、一方に幸運者を生じたと同時に、他方に多くの不運者を出だしたが、しかも雙方それにこだはる事なく、ひとしく上御一人の聖徳を仰ぎ、聖謨を翼贊するところに生甲斐を感じた。あだかも長き眠りよりさめたるが如く、俄然奮起して三千萬國民の總行進が始まり、ひとり自國の興隆を計るのみならず、近隣諸國をも援護して、東洋の平和を目指したのであつた。その國が光り輝いたのに、不思議は無い。私は明治に生れ、明治に育ちたる者として、當時を囘想するごとに、骨髓のうづき、胸の高鳴るを禁ずる事が出來ない」と。
 
 

「鎮霊社」廢祀の天機、正に來れり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 1月 9日(金)20時01分1秒
返信・引用
  ●大野俊康宮司『宮司通達』(平成五年六月一日附)に曰く、

鎮霊社は、靖國神社の本旨とも言へる、明治天皇の聖旨(──我國の爲をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉垣──)とは異なる御社であることを、先づ以つて認識せねばならない。

 又、『靖國神社社憲』の前文に、「本神社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、國事に殉ぜられたる人々を奉齋し、永くその祭祀を齋行して、その『みたま』を奉慰し、その御名を萬代に顯彰するため、明治二年六月二十九日、創立せられた神社である」とあり、次に、『宗教法人靖國神社規則』の第一章總則の第三條には、「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた『安國』の聖旨に基き、國事に殉ぜられた人々を奉齋し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族、その他の崇敬者を教化育成し、社會の福祉に寄與し、その他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふことを目的とする」とある。

 我々奉職者一同は、この『靖國神社社憲』及び『宗教法人靖國神社規則』に則り、職務を遂行せねばならぬことは、言ふまでもない。

 又、鎮霊社を現在の場所より移築したり、圍りの鐵柵を取りはずす等、鎭座當時と同樣に、參詣者が自由に參拜出來るやうにすることは、千鳥ケ淵戰歿者墓苑に見られる通り、一部の政黨や所謂博愛主義者によつて、英靈祭祀二分化に繋がると、大いに懸念されるところである。

 よつて、小職は、昭和四十年、鎮霊社鎭座以來、今日まで嚴肅に奉仕されてきた祭祀に鑑み、鎮霊社を、今後共、現状のまま、密かに奉齋し續けることを見解とする。以上
」と。



●九段塾頭の曰く、

「『靖國神社・社務日誌』(昭和四十年七月十三日、「鎮霊社鎭座祭」條)の參列者の項に、

參列者。筑波宮司・筑波貞子(宮司夫人)・姫野公明(修驗道尼僧・山嶽信仰の行者)・曾根朝起・横濱市西櫻會員二十五名

とだけ、記載されてゐる。靖國神社と無縁の私人による「私祭」である。靖國神社は、鎮霊社建立以降、毎年七月十三日の夜、「鎮霊社例祭」として恆例とした。靖國神社神職も、「ひそかに」奉齋を、平成十八年十月十二日の一般參拜再開まで續けて來てゐた。

 當時の權宮司を始め、幹部神職は、この「鎮霊社」は、「極めて私的な社」であることと、「靖國神社」にふさはしからぬ「社」、即ち聖旨に叛し、社憲に反するものであると云ふ、「正確な、正しい認識」があり、世間に公開するやうな不見識さはなかつた。それでも、祭祀は續けて來たのである。それは、個人的・恣意的とは云へ、神社境内地に、元「宮司の建てた社」に、神職がそれを無視することは出來ず、恐らく「やむを得ず」、奉齋を續けて來たのだらうと思はれる。それが證據に、湯澤貞前宮司が就任するまで、「鎮霊社」は、ひそかに神社内部だけで、祭祀が行はれ、公表されることはなかつた。

 筑波宮司のあとを受けた松平永芳元宮司は、この「鎮霊社は、胡亂なもの」と云ふ認識を有してをり、「鎮霊社を、絶對に外に出しては駄目だ」と、強く言明、『宮司願ひ』として、大野俊康宮司に手渡した。大野宮司はこれを承けて、就任後直ちに「鎮霊社に關する調査小委員會」を設置、徹底的に、其の經緯・趣旨を内部で研究調査させた。その結果においても「小委員會は、鎮霊社の公表を否」としたのである。鎮霊社が總代會なりの正式な機關決定で建てられたものであれば、改めて「會議檢討し、新たな機關決定」を發令して、「廢祀」することも可能だつたが、前任宮司と夫人による、「極めて恣意的に建てられた、私的臭の強い鎮霊社」であるために、逆に後任の宮司が、「勝手に廢祀」することは出來なかつた。

 鎮霊社は元宮と共に、「境内攝社」では無い。境内攝社とは、一般的には、「その神社の祭神と深いつながりがあり、その由縁の神を祭つた神社」を、攝社と謂ふ。本社の境内にある場合に、境内攝社と謂ふ。よろしいか。鎮霊社は、神社ではない。また靖國神社祭神とは縁もゆかりもない、祕かに「誰だかわからぬ敵・味方」、外國のテロリストなどが、七月十三日に、私的に招魂されるだけのもので、神樣ではない。また國内にしても、諸靈・集合靈であり、誰だかわからない人々である。正に神靈不在である。

 鎮霊社は、祭神名が不明なので、神社にならないし、鳥居も作らない。誰がお通りになるかわからないので、鳥居は作れない」と。



 愚案、舊稿再掲、ご容赦を。此の大野宮司の通達に背きて、實に「胡亂なるもの」(松平永芳宮司の認識)、明治天皇の聖旨に叛し、社憲に反する、「鎮霊社」と云ふ、神靈不在の私的「施設」に過ぎない。之を公開せし者は、抑も誰ぞや。罪は重かつ大と謂はねばならぬ。

 平成二十六年の大晦日、靖國神社にて放火あり。「鎮霊社を燃やして燒身自殺すれば、靖國神社に葬つてもらへると思つた。御免なさい」と供述の由。一知半解の徒が出現する始末、是れ亦た困つたものなり。「鎮霊社」の本旨を明かにして、速かに廢祀するを可しとする。

 「鎮霊社」は、「私的臭の強い」私祀にして、固より上奏・敕裁を得ざるもの。此の度の火の手は、大いなる神意を感得す。實に畏し。此の祝融の天機に際し、正式なる手續きを蹈んで、斷然、之を廢祀すべきもの、南洲公他が祀られてゐるなぞとは、報道機關による俗問に窮したる、神職の戲言虚辯に過ぎない。

 抑も「鎮霊社」とは、

一、「嘉永六年以降、幾多の戰爭・事變に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命斷ちにし命等にして、靖國神社に祀られざる諸命の御靈」一座

一、「西暦一八五三年以降、幾多の戰爭・事變に關係して、死歿した諸外國人の御靈」一座

とを併せ祀る。共に無名不特定の集合靈であつて、本殿なる天皇祭祀の「靖國大神」(鈴木孝雄大將宮司の奉られた辭)とは、全く異なる。「鎮霊社」の存在は、招魂する所、非命に斃れしヒツトラーやフセイン、或は政治テロリスト、或は怨念の凝固せる邪靈「も」、歡んで憑依する施設であることを、神道崇敬者は知つておかねばなるまい。

 「鎮霊社」の起原・由來を問はざる論評は、所詮、空理空論にして、今まで其の意義を深めようとした先例はあるものゝ、其の由來の爲めに、悉く頓挫してゐる。而して「鎮霊社」は、知つてか知らずか、我が首相の參拜によつて、政爭の玩具とされたことは記憶に新しい。嗚呼、已んぬるかな哉。

 靖國神社は、天皇陛下から御預りしたる神社なり矣。敕裁あらずんば、「創祀」も「公開」もしてはならぬ。已むを得ず、「一宗教法人」となつたとは申せ、舊「別格官幣社」の矜持・自覺を堅持する所の、「敕使」春秋御差遣の尊き御宮なれば、恣意的なる祭祀は、嚴に愼まねばならぬ。

「鎮霊社」廢祀決斷の時節、正に來れり矣。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/2
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/36
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/38
 
 

大和魂の本義、續。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年11月11日(火)22時44分7秒
返信・引用 編集済
  ●橘曙覽翁の哥

山ざくら にほはぬ國の あればこそ 大和心と ことわりもすれ



【生きては、忠義の大和魂を、骨髓に填め、死しては、忠義の鬼と爲り、極天、皇基を護らむ。】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2223

 前に「大和魂」の本義を探らむと欲して、幾つかを掲げたるも、今、小谷惠造翁『「源氏物語」に見える「大和魂」の眞義』を見るに及んで、屋上、屋を架さうと思ふ。大和魂の具體的な意味は、多くの學者が述べるやうに、『源氏物語』の文章だけでは明かにし難く、『大鏡』の記事を參考しなければならぬ。



■河内本『源氏物語』少女卷──源氏が子息夕霧の爲めに學問の必要性を、懇々と大宮に語る件り──

 高き家の子として、官爵、心にかなひ、世の中の榮えに驕りならひぬれば、學問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむ、覺ゆべかめる。戲れ遊びを好みて、心のまゝなる官爵にのぼりぬれば、時に從ふ世の人の、下には鼻まじろきをしつゝ追從し、氣色にとりつゝ從ふほどは、おのづから人と覺えて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末の際に、人に輕め侮らるゝも、かゝりどころなきためしになむ、覺え侍りける。なほをもととしてこそ、大和魂の、世に用ひらるゝ方も、誠に頼もしき方は侍らめ。さし當りて心もとなきやうなりとも、遂に世のおもしとなるべきおきてを習ひなば、侍らずなりなむ後の世も、うしろやすかりなむ。



■『大鏡』左大臣時平の項──前半は菅原道眞傳、後半は藤原時平一族の末路を總括する件り──

 あさましき惡事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御末は、おはせぬなり。さるは、やまとだましひなどは、いみじくおはしましたるものを。



●小谷惠造翁『「源氏物語」に見える「大和魂」の眞義』(藝林會『藝林』平成二十六年十月)

 (『大鏡』の)「あさましき惡事」が、時平のことを述べたものであることは言ふまでもないことであるが、續く「この大臣の御末は、おはせぬなり」以下の主語は、右大臣顯忠のことなのであつて、「この大臣」を時平と讀むのは誤讀なのであり、この誤讀が「大和魂」の意味を混亂させてゐるのである。‥‥

 『大鏡』の本文の記述を、丹念に精讀すれば明らかなやうに、「この大臣」は、立派だつた(時平の子の)顯忠や敦忠のことを指してゐると讀まねばならないのである。もしも「この大臣」が時平のことであれば、「この大臣」は不要の句であつて、書き入れる必要はないのである。またこの「あさましき惡事」云々の總括的な文章の前に記述されてゐることは、顯忠や敦忠のことが中心であつて、時平に關することは、何一つ書かれてゐないのであるから、「この」といふ指示語の指すものがないことになる。假りに百歩讓つて、「この大臣」が時平であるとしても、「さるは、やまとだましひなどは、いみじくおはしましたるものを」といふ哀惜の言葉が、「あさましき惡事」をしただけの時平に捧げられたものとするのは、どう考へても誤讀曲解なのである。

 このやうに『大鏡』の記述を精確に讀むことをして來れば、「いみじくおはしましたる」「やまとだましひ」は、顯忠と、そして敦忠とのことであることが明らかとなる。そしてその「大和魂」の具體的な内容は、恭謙の徳に厚く、「和歌の上手」・「管弦の道」にすぐれてゐる(文雅の情趣、豐かなり)ことなどであることが知られるのである。‥‥用例を見れば分るやうに、「才」は、習得して得られる知識や技能を廣く言ふのであり、從つてこれと對稱される「魂」や「心」は、生得のものであることを、特に意識してゐることが知られるのである。‥‥

 「世に用ひらるる」といふのは、政界で有能であることを言つたものであるのに、源氏學者のすべてが、この「世」を「世間」のことと誤讀してゐる。これも「大和魂」の意味を讀み誤つてゐることの一因でもある。

 以上のやうに讀み解いて來れば、『源氏物語』の「大和魂」といふ言葉の意味は、諸書が解してゐる「實務的・常識的な思慮分別」といつたやうな意味ではないことが明白であらう。確かに源氏の言つた言葉には、政治家としての「實務の力量」といふやうな意味も含まれてはゐる。だがそれは、生得の「大和魂」に、「漢才」が加はつた時のことであつて、「大和魂」といふ言葉自體に、その意味があるのでない。然もそれは朝廷で重用されるべき、すぐれた「實務の力量」であつて、「常識的」な範圍を超えるものを意味してゐるのである。

 このやうに考察し檢證して來て、また改めて『大鏡』の「左大臣時平」の項で記されてゐたことを併せ考へれば、「大和魂」に關する記述が、よく符合することが理解されるであらう。顯忠の恭謙の人柄や敦忠の雅び心は、夕霧のそれに通ふもので、彼らこそ、「大和魂」の持ち主に他ならないのである。



 愚案、小谷翁の斷案に從ふときは、大和魂の本義は、上田萬年博士『大日本國語辭典』に在るやうに、「日本的識見」の謂に復らざるを得ないのである。黒川眞頼博士『大和魂説』以來の説、即ち現在流行する所の、平安時代に於ける「大和魂」は、「世才、實務的・常識的な思慮分別」てふ俗説は、『大鏡』誤讀に因る解釋であつて、斷然、破棄せられてよい。而してこゝに想起すべきは、『菅家遺誡』卷一に曰ふ所の、

「一、凡そ神國一世無窮の玄妙なる者は、敢へて窺ひ知る可からず。漢土三代周孔の聖經を學ぶと雖も、革命の國風は、深く思慮を加ふ可き也。

一、凡そ國學の要する所は、論、古今に渉り、天人を究めんと欲すと雖も、其の和魂漢才に非ざるよりは、其の閫奧を闞(うかゞ)ふこと能はず矣。

[右、二則は、『遺誡』中の眼目也。既に北野神社東の碑に記す焉。漢籍を學ぶ者は、心を用ふ可きの第一也]。」

の遺訓である。『源氏物語』の「才をもととしてこそ、大和魂の、世に用ひらるゝ方も、誠に頼もしき」は、其の文字の表面から謂へば、漢才を「本」としてゐるやうであるが、小谷翁が云はれるやうに、「生得の大和魂に、漢才が加は」るべきものと解釋すべく、本末論から申せば、生得の「大和魂が本」で、習得する「異國才は末」であることは、固より明かと謂はねばならぬ。是は、磐山友清歡眞翁の、夙に道破せし所、前に引いた──「今から五百年前、一條禪閤兼良は、大和魂に定義を與へて、『わが國の目あかしになる心なり』といつた。近ごろの言葉に直せば、我が國の指導精神‥‥やまと心は、才[ざえ]の本になるもので、藝術も科學も産業も、要するに才であるが、その本は、必ず『やまと心』でなければならぬ」の言を味はふべきである。平時に於いては雅びなる心、非常時に於いては重忠奉公の精神、是れ即ち「大和魂」の本義と謂はねばならぬ。



●徳富蘇峰翁『大正の青年と帝國の前途』(大正五年十一月・民友社刊)に曰く、

「何物を失ふも、失ふ可からざるは、我が日本魂也。何物よりも大切なるは、我が日本魂也。日本帝國の隆替消長は、實に日本魂の隆替消長也。‥‥日本魂なき學問は、所謂る佛作りて、魂を入れざる偶像也。日本魂なき才能は、猿智・牛力の類たるに過ぎざる也。

 日本魂とは、何ぞや。一言にして云へば、忠君愛國の精神也。君國の爲めには、我が生命・財産、其の他のあらゆるものを獻ぐるの精神也。如何なる場合にも、君國を第一にし、我を第二にするの精神也。國家の緩急に際しては、他の催告を待たず、自から率先して、此れに奉ずるの精神也。古人の所謂る『海行かば水づく屍、山行かば草むす屍、大王の邊にこそ死なめ、長閑(のど)には死なじ』とは、此の事也。個人主義とか、國家主義とか、彼是、其の得失を論議するが如きは、畢竟、我が大日本帝國の國體を知らざる輩の譫語のみ。我が帝國には、個人主義もなく、國家主義もなし。祖先以來、帝國の臣民は、君國の爲めに其の身を竭し、其の力を致すは、先天的の約束也。吾人は如何なる學説を信ずることを得可し。如何なる宗教を奉ずることを得可し。されど、如何なる學説にせよ、如何なる宗教にせよ、其の以前に日本魂の持主たることを忘却す可からざる也」と。
 
 

鏡としての歴史。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年11月 4日(火)22時58分52秒
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  ■寒林平泉澄先生『國史學の骨髓』に曰く、

古人を泉下に起して、之と肝膽相照すは、古人と同樣の高き深き精神に非ずんば、不可である」と。


■寒林先生『谷省吾氏・神道原論序』に曰く、

「明治維新以後八十年、神道は保護を受けて興隆し、昭和乙酉以來二十餘年、神道は暴力によつて損傷した。今や神道は、國家「日本」と共に、その本質を明かにし、その本領を發揮し、その本據に立たねばならぬ。それは神道にとつて、國家「日本」に於いてと同樣、正に死活の道である。然るに不幸、斯の道に探玄の士は多からず、參究の書は少ない。神社史はあるが、外形の觀察に止まるものが多く、祭儀の調査はあるが、比較民俗の立場を離れないであらう。若し眞に神道の本質を究めようとするならば、必ずや神々の靈感、冥應(歴史を貫く冥々の力・冥々の導き)にまで參入しなければならぬ。それなくしては、模擬であり、戲談であるに過ぎない。素朴は、恥づる必要が無い。むしろ眞摯を貴ぶべきである。淺薄なる文明進化の思ひあがりを棄てゝ、傳統に隨順し、祖先の深い心を仰ぐ敬虔を必要とするのである。歐米各國に於いては、民族本來の信仰は、大抵キリスト教によつて征服せられ、根絶した。民族原始の信仰が、異教によつて亡ぼされず、むしろそれによつて切磋せられつゝ、生々存續して、高度の文明と竝存し、否、その基調をなせる唯一無二の貴重なる例は、日本の神道であつて、是れこそ、正に萬古を洞視し、當世を愍惻するものである。その究明、その理解は、ひとり神道そのものゝ、また國家「日本」の、復活再生の爲のみならず、第二次大戰後、全世界に露呈し來つた、恐るべき人間破壞の危機を救ふべく、重大なる活路となるであらう」と。



 十一月の第一土曜日の岡山縣愛國者協議會の月例會にて、講師・岡田則夫翁は、小林秀雄翁『學生との對話』を朗讀紹介され、聽者への注意を拂はれた。小生は、小林秀雄翁の本は、難しくて苦手だが、かつて讀んだことのあるやうな‥‥。小林翁は、學生に嚴しい。「自分で考へろ」と。岡田翁の朗讀された所、其の中、極く少なくて恐縮だが、二件ほど披露して、各位の參考に供したい。



●小林秀雄翁『學生との對話』(國民文化研究會・新潮社編。平成二十六年三月・新潮社刊。全集・單行本に未收録)

 君は、天皇といふものについて、關心がある? 天皇制がどうだとか、民衆意識がどうだとか、さういふことに、僕は答へる興味がないんだよ。といふのはね、君は心の底から、さういふことに關心があるわけではないからなのだ。‥‥僕は、陛下に對するアンテイミテ[親近感]つてものが、わかつた氣がした。もちろん普段の僕には、天皇へのアンテイミテといふものはありません。それは僕の性格だし、現代人は、みんなさうでせう。しかし、その話(賢所に於ける新嘗祭に、鴨のお雜炊が振舞はれる話)を聞いた時に、ああ、アンテイミテとは、かういふものだなとわかつた。このアンテイミテを、昔の日本人は持つてゐた。ついこのあいだまで持つてゐた。これも歴史です。僕が、その人から聞いたのは、一つの證言、歴史の資料ですよ。かういふ話を聞いた時、僕たちは歴史家にならなくてはいけない。日本といふ國、あるいは天皇といふものについて、かういふ卑俗なところから經驗するのです。

 だから、天皇制なんて言葉から、いつては駄目だね。あるいは昔の勤王、いはゆる志士のことなどからいつても、よほど資料に對して、眼光紙背に徹する目がなければ駄目だ。さういふふうに、僕は答へるよ。天皇制といふやうな言葉、今の政治問題としての天皇の解釋、今のインテリ風の天皇の解釋、そんなものに、僕は何の興味も持たない。陛下は、かういふことをなさつてきた、いまだになさつてゐるのだなどとは、教育で教はらないだろ。殘念だね。陛下は、われわれの先祖に對して、ちやんとした信仰を持つていらつしやいますよ。‥‥(昭和四十五年八月九日)

 たしかに今、歴史は流行つてゐます。みんなが歴史、歴史と言つてゐる。この風潮で、惡い點が二つあります。一つは、いはゆる何でもロマンテイクにしてしまふ歴史觀。要するに大衆小説的歴史觀だよ。これはいけない。テレビで、何とかといふ役者が、太閤秀吉を演じてゐたが、よく史料を讀めば、秀吉といふ人は、現代の俳優なんかが演じられるやうな男ではないよ。テレビに映るやうな歴史は、信じてはいけない。

 もう一つ、考古學的歴史觀もよくない。これも歴史と稱しながら、歴史にちつとも觸れてゐないのです。たとへば本當は、神武天皇なんかゐなかつた、あれは嘘だといふ歴史觀。それが、何ですか、嘘だつていいぢやないか。嘘だといふのは、今の人の歴史だ。新井白石が、このごろ評判がいいのは、「本當は、かうだつた」といふ歴史をやつたからです。しかし歴史とは、みんなが信じたものです。昔の人が信じたとほりに信じることができなければ、昔の人が經驗とたとほりに經驗することができなければ、歴史なんて讀まないはうがいい。これは本居宣長の説です。宣長さんは、『古事記』の神話を、すべてあのとほりだと信じた。あれが神話時代の歴史であつたのです。それが信じられなかつたら、神話なんか讀む必要がない。

 現代の歴史家で、この一點を一番徹底させてゐるのは、クローチエです。クローチエは、「どんな歴史でも、現代史なのだ」と言つてゐる。現代の人が、ある史料を通じて過去に生きることができるなら、その人は歴史家と呼べるのです。それに較べて、考古學的歴史といふのは、實にみんな空虚なものだ。まあ、みんな空虚とは言はないまでも、一種の學問に過ぎない。

 昔は、『増鏡』とか、『今鏡』とか、歴史のことを鏡と言つたのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を讀んで、自己を發見できないやうな歴史では駄目です。どんな歴史でも、みんな現代史である、といふことは、現代のわれわれが、歴史をもう一度生きてみるといふ、そんな經驗を指してゐるのです。それができなければ、歴史は、諸君の鏡にはならない。しかし歴史の中に、君の顔を見ることができたら、歴史は、君のためになるぢやないか。『古事記』のどこが本當で、どこは嘘だなどと研究しても、それは一種の學問ではあるけれども、僕の言ふ歴史、鏡としての歴史ではない。

 歴史といふ言葉が、非常に流行つてゐるくせに、一番忘れられてゐるのは、この鏡としての歴史です。現代は歴史について、發達した、進歩した考へを持つてゐると自惚れてゐるが、それはまるで違ひます。‥‥(昭和四十九年八月五日)
 
 

下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年11月 2日(日)15時48分14秒
返信・引用
   下山陽太樣より、『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』てふ論稿を賜はりました。ご高覽たまはれば幸甚です。
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八幡宮姫大神は、道中主貴大神に坐せり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年10月29日(水)21時40分30秒
返信・引用 編集済
  ■若林強齋先生『雜話筆記』卷十四(昭和十八年十二月・虎文齋刊。『乙巳録』享保十年・知非齋坂守口筆記。また金本正孝翁『強齋先生語録』平成十三年二月・溪水社刊に所收)
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 愚案、「天皇尊大事と思召さるゝ素戔鳴尊の荒御魂を、宗像三女神と崇め奉りて、宇佐に祭り奉る八幡宮」、其の御縁故に當らせ給ふであらう周防國熊毛郡の四代正八幡宮の危機は、近代民主主義・功利主義から來るもの、正に神道人の懊惱する所であらねばならぬ。頼りとする神社本廳が、産子を二分することに加擔するとは‥‥、塾頭の靖國神社に於ける本廳批判が、再び頭をよぎる。仲介を試みんとする、一の神道人も居ないのか。情けないのにも、程があらう。本件については、關與する所の具體的神職名もネツトに見られるが、出所確かならず、敢へて申さぬ。神社本廳・縣神社廳は、戰後、神道人の所據ではなかつたのか‥‥。出でよ、平成の熊楠、珍彦。
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天皇陛下萬歳──正學正心。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年10月 3日(金)19時40分32秒
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  ~承前~

●平泉澄博士『魂の復活』(昭和四十五年九月六日。第七囘楠公囘天祭に於ける講話。『日本』四十五年十一月號。奉贊會編『楠公囘天祭──五十年誌』平成二十六年九月刊に所收)

「私は、今日の日本を嘆くと同時に、何とかして、もとの日本にかへしたい。これが我々の願ひであり、祈りである。我々のいのちの限りは、この私も餘生いくばくもないと思ひますが、いのちの限りは、このために盡さなければならぬと云ふことを思ふのであります。その場合に、日本の、若き日本の目標となるものは、私は、回天の勇士、特に黒木少佐である。黒木少佐を思ふことによつて、最も純粹なる日本の道義道徳が考へられ、日本の眞の勇氣、それは大勇とん眞勇とか云ふべきものだと思ひますが、さう云ふ勇氣が湧いて來ると思ふのであります。

 黒木少佐の日記──これは、十八年から十九年の春まで、丁度一年間書かれた日記、御承知の如く、全部血で書かれた日記であります。その日記の一枚を持つて參りました。この半枚が、九月五日の日記であります。うしろが九月六日の日記、丁度、今(今日の楠公囘天祭當日)であります。最初に『天皇陛下萬歳』と書いてあります。次の行に『死の戰法』。月日を書いて、『九月五日、書判』であります。天皇陛下の萬歳を祈る。黒木少佐の願ひとする所は、陛下の萬歳以外にないのであります。それ以外、一切考へてをらぬ。これがかつてビルマのオツタマの驚嘆した所(★註一)であり、印度のヴイヴエーカナンダの讚美した所(★註二)である。日本の明治の興隆は、この一點によつてのみ伸びたのであります。明治の日本に、陛下の萬歳を祈る以外に、何の願ひがあつたでありませう。

 次に死の戰法。忠君愛國の極致は、自分の生命を捨てる以外にはない。死と云ふことを、人は非常に嫌がります。今の日本ほど、死を嫌ふものはありますまい。しかしながら私共の學び得た限りにおきましては、たとへば劍道にしましても、船越(正道)師範がをられますので、その前でまことに恐縮でありますが、私共のかつて聞いた直心影流の劍道の極意と云ふものは、最後に於いては、長短一味と云ふ所に重きを置いてをる。長短一味と云ふのは、いのちは長くても短くても同じものだ。吉田松陰先生の品川彌二郎に與へられた手紙の中に詳しく論じてありまして、何とも言ひやうのない偉いことだと思つて、私は年來、この手紙を愛讀してをりますが、『十七八で死ぬのが惜しいと云ふのならば、八十九十で死ぬのも惜しいんだ。何時まで經つても、惜しいんだ。一體、何時まで生きてをつたら、氣が濟むんだ』。これは實に名言と謂はなければならぬ。劍道に於いては、如何なる勝れたる人と雖も、自分が無傷で殘ると云ふことは考へてをらぬと、私は思ひます。必勝の方法は、必死になる。戰爭に於いて勝たうと云ふものは、必死以外にはない。自ら期する所は、いのちを捨てゝ敵を討つ。まさに大東亞戰爭は、最初より、この死の戰法に據るべくして、本來さうあるべきであつて、或る人には、さうであつた。そして最後に、その最も戰爭の酷烈なるに及んで、黒木少佐によつて、この事はいよゝゝ確認せられ、そして自らこの戰法を推進されたのでありました。

 『九月六日、天皇陛下萬歳、正學正心』。正しい學問をして、心を正しくすると書いてありますが、これであります。これは戰爭の終りました時に──憚るべき事があらうかと思ひますが、私ももう段々餘命あぶなくなりましたんで、皆さんには聞いて置いてほしいと思ひます──、いよゝゝマツカーサーが乘込んで來ると云ふ時に、『今後の國體を維持する力は、何處にありませうか』と云ふことを尋ねられました。『それは特攻隊の生殘りの人々に依頼すべきでありませうか』と云ふことでありました。私は、『不幸にして、さうではありますまい。さうでないと思ひますのは、一時の感激では、隨分お國のために盡されるであらうと思ひます。問題は學問にあつて、正しい學問によつて、日夜、その心を鍛へた者にあらざれば、永久にその力を君國に捧げると云ふことは出來るものではありません。歴史の上に明瞭に現れてをりますが、日夜、正しい學問による鍛錬のみが、人の魂を永久に光あらしめる、力あらしめるものであつて、それを怠るとなれば、それは一時の線香花火に過ぎないでありませう』と云ふことを言ひました。今、黒木少佐は、やはりそれを考へてをられるでありませう。正學正心、それ以外に、自分の一生を通じて、皇國に貢獻すると云ふことは考へられないのであります。

 今度十一月に出ます『少年日本史』の中では、大東亞戰爭の章には、黒木少佐を、特に掲げました。章の分け方を、明治維新からその前で言ひますと、井伊直弼で一章を立てゝ、これは井伊直弼を痛烈に批判したのであります。その次に橋本景岳・吉田松陰・眞木和泉守、やがて明治維新、西郷隆盛。この人に對しては、痛惜の餘りに、特に一章を立てました。いはゆる明治の三傑の中で、特に私は、西郷さんと云ふ人を重大視するのであります。そしてこの人物を、逆賊の名に於いて斃したと云ふことは、明治の聖代の瑕瑾であると信ずるのであります。そして西郷さんが亡くなり、同時に木戸孝允・大久保利通、皆な倒されたあとで、誰が日本を指導したとするか。誰でもない。世間では、伊藤博文と云ふ、山縣有朋と云ふ。さうではない。彼らに全日本を指導するだけの力はない。明治維新、明治日本の興隆は、西郷死後に於いて、全國民の心をつなぎとめたものは、明治天皇以外にない。明治天皇によつてのみ、日本は興隆したのだと云ふことを説いて、それから大正・昭和の日本、これを説くのでありますが、その中で章としましては、日清・日露の役、次に大東亞戰爭、その大東亞戰爭に於いては、前の日露戰爭に於いて東郷元帥、或は乃木大將を仰ぎ見た如くに、黒木少佐を、特に掲げたのであります。眞實、私は、黒木少佐は偉い、これほどの純粹性、これほどの光輝ある魂と云ふものは、古今にまれに見る所だと思ひます」と。


★註一。ビルマの高僧オツタマの曰く、「日本はもう、これで駄目だ。日本の前途は、暗澹たるものだ。何故かと云へば、明治の末に日本に來た時には、日本全國民、何處へ行き、誰を叩いても、天皇陛下を敬こと、神の如くであつた。今日は、さう云ふ、陛下を敬ふ忠誠心と云ふものは、非常に薄らいで、場合によつては、全然持つてをらん者が多い。日本はもう、これで駄目だ」(昭和初め來日。名古屋松阪屋社長・伊藤氏『日本の履歴書』)と。

★註二。哲人ヴイヴエーカナンダの曰く、「印度の國が、日本の進歩について行き得るやうな見込みは、全然ありません。三億の印度人が一つになつて、一つの國民を形成するまでは、その見込みは、全然ありません。日本人ほどに愛國心があるかと言へば、印度には、日本人の如き愛國心はありません。また日本人ほど藝術的な民族は、世界中にをりません。日本の特徴は、全國民が一つになつてをると云ふこと、愛國心が熱烈であると云ふこと、又た非常な優れた藝術的な民族であると云ふこと、これらの點に於いては、世界に最も優れた國は、日本であります。日本の特徴は、實にこのことにあります。歐洲でも他の所でも、藝術は一般に穢れを持つてゐます。然るに日本の藝術は、絶對に清淨潔白であります。日本の佛教は、セイロン島の佛教とは違つて、積極的な、又た有神論的な佛教であります。日本が急速に偉大となつた祕訣は、日本人は、自分を信じ、自分の國を愛したからです。日本人の社會道徳と政治道徳を體得し得るならば、印度も亦た偉大となるでありませう。然し印度では、自分の家族と所有物のために、すべてを犠牲にしてゐるのです」(明治二十五年來日。三十年の印度の新聞記事)と。



【泉水隆一監督『遊就館上映──みたまを継ぐもの』批評】
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 愚案、「印度では、自分の家族と所有物のために、すべてを犠牲にしてゐるから、日本には及ばない」と。今日、是れ如何。現代の日本は、それすら覺束ないと云ふのか。「家族のため、愛する人のため」と、特別に説教しなければならぬ時代となつて、それを描くドラマや映畫が花盛り。小生の道徳觀念では、之を利己主義と謂はざるを得ない。正に西洋物だ。殊更らに唱道しなければならぬものでもあるまいに‥‥、道義道徳の名に價ひしない。而して現代はグローバルの時代とか、それも泰西流だ。元軍人も神職も、現代人に媚びたか、或は舊敵國に倣はんと欲するか、「家族・愛人の爲めに戰つた」と、之を吹聽して已まぬ。道理で、「アメリカと價値觀を同じうする」と申して、恬として耻ぢざる首相も出現する始末、民主主義・個人主義が基盤となつてゐる。松陰先生に、叱られるがよい。

 皇國の道義──古道の復興、未だ緒に就かざるなり。あと二三百年、時を經ねば、皇國の再興、日本の復活はならぬのか。嗚呼、已んぬるかな哉。



【矢嶋立軒先生『啓發録の敍』── 一時の感憤激昂、意氣の恃む可からざるを悟る可し】
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●『緒方竹虎』(修猷館創立七十周年記念講演の祕話。昭和三十一年五月・修猷通信刊)に曰く、

「(緒方竹虎氏の曰く、)終戰の直後でありましたが、私が非常に懇意にしてをりました米内光政といふ海軍大將、永い間、海軍大臣をつとめてゐた、この米内君が、天皇陛下に拜謁(昭和二十年十二月一日參内)いたしまして、
『かういふ敗戰の結果と致しまして、今後、度々參内拜謁をする機會も、恐らくはないことと思ひます。隨つて今日は、ゆつくり陛下のお顔を拜みたいと思つて參りました。このたびの敗戰には、われわれ、大きな責任を感ずるのでありまするが、敗戰の結果、日本の復興といふものは、恐らく五十年はかかりませう。何とも申し譯ないことでありますが、何卒、御諒承をお願ひ致します』といふことを申し上げた。

 ところが陛下は、

五十年で日本再建といふことは、私は困難であると思ふ。恐らく三百年はかかるであらう

といふことを仰せられたといふことで、米内は、そのお言葉に胸を打たれて、暫くは頭が上らなかつた。その敗戰の責任の一端を背負つてゐる米内と致しましては、何とも恐縮に堪へなかつたといふことを、歸つて私(緒方氏)に、直接話してをつたのであります」と。



●田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』(平成十二年十二月・青々企劃刊)の「敗戰直後の平泉先生」に曰く、

「『昭和二十年八月十九日夜、平泉先生御講話打聞』に、「‥‥日本が本物にかへつてゆくのは、先づ三百年位かと思ひますが、しかし天下の風雲は勝手に動きますから、二三十年たてば、相當の事はやれるでせう。‥‥私は見られないでせうが、天翔つて見ることにしませう‥‥」。

 恐らく先生の念頭には、逆に三百年以前の歴史が思ひ起されてゐたのではあるまいか。昭和二十年より三百年遡ると、後光明天皇の正保二年であるが、もとよりこれは概數と考へてよい。幕府でいへば、三代將軍徳川家光の時代であつたが、その頃より、次第に日本の自覺がはじまり、大日本史の編纂を中心とする水戸學、山崎闇齋を祖とする崎門學、或いは國學等の發達を經て、明治維新へと進展する。そして昭和の時代に至るのであるが、先生はこの三百年を囘想して、本物の日本が囘復するには、これ位の年月を必要とすると直觀されてゐたのであらう。‥‥この(現在の)惨状の矯正は、一朝一夕に出來ることではない。純正日本再興のためには、やはり先生が言はれたやうに、三百年前の大日本史の編纂から、新しく始めなければならないであらう」と。
 
 

天皇陛下萬歳の六文字。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月30日(火)23時44分1秒
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  ●平泉澄博士『囘天の感銘』(昭和四十六年九月十二日。第八囘楠公囘天祭に於ける講話。『日本』六十二年九月號。奉贊會編『楠公囘天祭──五十年誌』平成二十六年九月刊に所收)
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└→『楠公囘天祭──五十年誌』、是非とも協贊たまはらむことを。平泉先生はじめ、松平永芳宮司他の論文・講話、多數あります。

「我々の思ひますことは、大東亞戰爭に華と散りました陸海軍の勇士に對する私共の感銘は、まことに言語に絶するものがあります。何とも喩へやうのない感動を以て、これ等の勇士を想ふのであります。就中、囘天の勇士、その志は、幸ひにしてその創案者であり、最初の犠牲者となられました黒木(博司)少佐の書かれましたものに、明瞭一點の疑ひのない證據を殘してをるのであります。黒木少佐の一年間の日記が、全部血を以て書かれてをり、血を以てのみ書かれてをる。そしてどの日記にも、「天皇陛下萬歳」、この文字が大きく書いてありますことは、私共の心魂を搖振るものがございます。この言葉、恐らく今日は、全國民に共通の感動を呼起すものでなくなつてをると思ひます。天皇陛下に對する感動は、今日薄らぎました。先だつての參議院議員選擧に於て、共産黨は天皇制の○○を、公然と口に致しました。これに對する一般の反應の極めて少なかつたことを、私は遺憾に思ふのであります。「自分等が政權を取れば、天皇制を○○するのだ」とまで言切る共産黨に對して、國民がこれを聞き流してをるといふことは、殘念至極といふ他はございません。

 これはアメリカの占領政策以來、所謂自由主義・民主主義といふものが一般に廣まり、精神的に日本を占領して來た證據でありませう。私共の信ずるところは、デモクラシーといふ言葉、意味は色々に分れてをります。然しこれ程の深き害毒を日本人に與へたものはないと思ふのであります。人々は、自分が國の主權者であるかの如くに思ひ上がり、己の劣等劣才、不徳不敏を顧みずして、自分より以上の者は天下に無いが如くに振舞ふに至りました。何とも言ひやうのない状態であります。これはデモクラシーといふものゝ害毒を、昔より秀れたる哲人が、常に指摘してをりますが、この考へを以てします時には、人は、その莊嚴なる精神を、全く損はれるのであります。恐らくアメリカの世界政策の中に、色々よいところがあるかも知れませんが、デモクラシーを以て世界を風靡して行かうとする、この行き方の中には、非常な害毒が流れたと思ひます。天皇陛下に歸一し奉る精神、日本の永き歴史を顧み、その歴史の前に跪く心、無私無慾、たゞ道をのみ守つて行かれます天皇を、ひたむきに仰ぎまつる心に、こゝに日本の特性があり、強みがある。如何なる愚かなる者と雖も、私共、愚かにして無力ではありますものゝ、この大いなる力を仰ぐことによつてのみ、自分も亦た生甲斐を覺える。それが日本人の、從來正しく進んで來た道であつたでありませう。これが損はれましたことは、まことに慨歎に堪へぬことでありますが、黒木少佐が、毎日血を以て、天皇陛下の萬歳を大きく書かれましたことは、その意味は極めて重大であると信ずるのであります。何でもないことのやうに思はれます。然しこれが持つ意味は、極めて重大である。日本の國の歴史を貫くもの、將來の日本が立つか立たないか、それを決定するもの、實にこの一點にかゝると確信するものであります」と。


【天皇陛下萬歳】
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【嗚呼、慕楠黒木博司少佐】
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我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月23日(火)18時24分20秒
返信・引用 編集済
  ■北畠親房公『神皇正統記』に曰く、

 大日本者、神國他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我が國のみ此の事あり。異朝には、其たぐひなし。此の故に、神國と云ふ也。



■濯直靈社・遊佐木齋先生『神儒問答』(『室新助(號・鳩巣)に答ふる書』第二・元祿九年十月十五日。第三・元祿十年六月十八日。『日本學叢書』卷五・昭和十四年十二月・雄山閣刊に所收)に曰く、

「唯だ「(鳩巣の)若し王者起ること有らば」の一語、未だ疑ひ有ることを免れず。其の「王者起る」と曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮り無かるべき者、諱む可きの甚だし焉。‥‥

 夫れ人や也、生るれば必ず死し、王や也、興れば必ず亡ぶ。必然の理也。然れども我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか之れ有らん。天地と共に主爲り、開闢と共に君爲り。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず。‥‥天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼也。此れ乃ち我が神教の大意也。‥‥

 明徳・新民(『大學』綱領)有りて、本・末を差(たが)へざるは、則ち王道也。明徳・新民有りと雖も、少しく本・末を差ふれば、則ち覇道也。明徳・新民を知りて、能く本・末を知る者は、道學也。明徳・新民を知ると雖も、本・末を知らざる者は、功利の學也」と。



 木門の俊才として文名一世に高く、新井白石の薦に依て幕府の儒員に擧げられ、三代の將軍に重用あり、後世に至るまで鴻儒の名を擅にしたる室鳩巣の、萬物流轉して熄まざるを宇宙の定則とし、從つて天子の位も亦た萬古一定のものに非ずとして、畢竟する所、「革命」を承認するに至るや、其の變遷推移の世を認めつゝも、確乎たる道徳の依據を之に求め、自然界に於いて天地、人生に於いて君臣の、定位ありて易ふべからず、「天地の常經、古今の通誼」瞭然たるを見出し、此に倫理の根本を確立して、神道の本旨を闡明し、革命の邪説を教誨筆誅したる遊佐木齋先生は、かつて寒林平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)に顯彰されし所、小生の、長年、仰いで已まざる先哲である。
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【平泉先生『少年日本史』から】
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 殊に件の「我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか之れ有らん。天地と共に主たり、開闢と共に君たり。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず」の寶語は、此の宇宙間、稀に見る祕言にして、我が國體の淵源、神皇之道の祕奧を、數言以て説いたるもの、天皇爲本の皇道は、固より之に籠つて餘蘊なく、更に天之御中主大神・伊邪那岐大神より太陽神界を御委任され給ふ天照大御神、やがて天照大御神即天皇尊の骨髓哲理を傳へ得て、北畠親房公『神皇正統記』卷頭、また本居宣長大人『直毘靈』の、漸くにして之に比すべき一大祕章と謂ふ可きである。我が神道人の注目、未だ十全ならざるを遺憾とすると共に、此の寶語を誦する度びに、木齋先生を埀教誘引した所の、山崎闇齋先生の學勳を仰ぎ、之を慕つて已まないのである。嗚呼、闇齋先生、崇高偉大なるかな哉矣。
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【天皇爲本の大道】
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【先哲遺文を承けて】
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民主主義を否定して、大義を天下に宣明せよ──天皇親政に復し奉るべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月18日(木)22時45分55秒
返信・引用 編集済
   我が皇國の大政は、政黨の弊害を去つて、無黨を期し、全て國體に則り、大御心を仰ぎ奉つて、一億一心、大政翼贊、滅私奉公に徹するを理想とす。是を之れ、天皇親政と曰ふ。吾々日本人は、利己主義・自由主義・民主主義の時代に浸つて長く在り、此の理想を忘却してゐるのではないか。

 下記に紹介するは、頭腦明晰、判斷適確、憂國・尊皇の念厚く、且つ之を心底に祕めて誇示する所のなき秀逸の人物と評される近衞文麿公の、「たとへ殺されても本懷」なりとして、斷然として自ら任じて立たれた玉文である。



●近衞文麿公『寺内壽一陸相に與ふる書』(平泉澄博士の代筆なり。『似鐵記』所收。田中卓博士『平泉史學の神髓』續田中卓著作集五・平成二十四年十二月・國書刊行會刊に所收)

『意見十條』

一、成敗利鈍を眼中に置かず、千載の目標、萬世に規準を示されん事を要す。
 建武の中興は、二年にして敗れ、明治維新は、數年にして轉囘せり。しかれども三千年の中、此の二年の存し、此の數年のあるありて、皇國の歴史、燦然たる光輝を發し、國體の基礎、永遠に牢固たるなり。たとへ目前の利害を顧慮し、懷柔これ努めて、衆望を得んとするとも、利害を得ては、望蜀の念あり、利を得ずしては、嫉視の目あり。破綻を生ぜん事、年を出でざるべし。寧ろ一意、大理想に邁進して、千古の光と仰がれんに如かざるなり。

二、創業の古に立歸る志氣を以て、百弊を一新せらるべし。
 今日、制度固定、人心萎靡、政治は、脈搏衰弱して元氣沈滯し、殆んど老廢の状を呈す。之をして活溌の熱血、全身に漲らしめんには、百事、草創の意氣を以て、非常の英斷を施さるべし。所謂政界の動きの如き、多く之に心を動かす事なく、大化改新・建武中興・明治維新の鴻業に溯つて、深く思ひを致さるべし。

三、大義を天下に宣明せらるべし。
 今日、政界に勢力として目すべきもの、一は政黨にして、一は軍部なり。兩々相讓らず、相克、止む時なし。これを操縱する、尤も難く、廣田内閣は、遂に瓦解せり。しからば如何にして、此の間に處すべきかと云ふに、他なし、大義を天下に宣明せんのみ。大義を前に政黨なく、大義を前に軍部なし。苟くも大命降下して、内閣を組織するに當り、他の掣肘に屈する事あるべからず。すべて人材を主として簡拔し、他の容喙を許さゞるべし。若し組閣の基礎に妥協あり、屈讓ありては、大義を天下に宣べんこと、思ひもよらず。

四、道徳の確立を眼目とせらるべし。
 今日、革新を説くもの、經濟生活の向上、又は安定を主眼とす。其の必要なるは論をまたずと雖も、更に重大なるは、道徳なり。道徳は、一切の基礎なり。國民道徳荒廢しては、經濟の安定、亦た得べからず。假りに得たりとして、國家の基礎、既に危し。國家長久の大計は、一に道徳の確立に在りとす。

五、一人として其の所を得ざる者なきを期せらるべし。
 功利を思ふ徒輩、萬人の怨嗟は、之を恐るゝに足らず。正理實直の士、一人の失望を恐れざるべからず。明治天皇『五箇條の御誓』の際の敕語に、「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なり」と仰せられし一事、敕を奉じて政をなす者の、須臾も忘るべからざる所なり。

六、所謂政黨政治を破棄せらるべし。
 政黨政治と云ひ、議會政治と云ふ、名は異なれども、實質は一にして、其の根本思想は、フランス革命より出で、結局、政治を國民の自治と見、天皇を國家の機關と考ふるなり。曾て岩倉右大臣が、「下民、上を罔(あみ)するの路を牖(みちび)き、大權、下に移るの漸(ぜん)をなし、實に大祖以降、二千五百三十餘年、確然不易の國體をして、一變、復た囘す可からざらしむるの原因たるの虞あり」との深憂、近時、實現したるものに外ならず。この不逞を破る事なくして、國體を闡明し、大義を宣ぶること能はざるなり。

七、議員任官の非望を絶たるべし。
 議會の禍は、議員の議會に安住せず、任官を希望し、内閣を乘取らんとするにあり。此の非望なきは、府會・縣會なり。よろしく國會をして、府縣會の如くならしむべし。この事、至難中の至難と雖も、若し此の點に妥協苟合ありては、結局、大義明かならず、志士、憂憤蹶起の因となるべし。過去數年、幾度か流血を見しもの、結局、この點に於て革新を要望するものに外ならざるなり。

八、自治に制限を加へらるべし。
 今日、地方自治の勢を見るに、種々の弊害あり。就中、東京・大阪等の大都市に於て然りとなす。是等の都市に、中央の威令、徹せざること、殆んど昔の大名封建の制に類す。よろしく之を改正し、大都市に於ては、國家の直接管理に、町村に於ては、適當なる監督の下に置かるべし。その爲には、郡役所の復活の如き、亦た考慮せらるべき歟。

九、天皇の親政に復し奉らるべし。
 尤も重大なるは、此の點なり。皇國の政治は、國體の本義、必ず天皇の親政ならざるべからず。宮中・府中を峻別するは、外國の風なり。我が國にありては、宜しく閣議を宮城に於て開き、天皇親臨あらせらるべし。況んや今日、非常の英斷を以て、庶政を一新せんとす。聖斷に決せずして、何人か之を決すべし。之をしも臣下に一任せらるゝ時は、これ、大權の降下を誘致せらるゝもの、斷じて非なりとす。

十、君徳の涵養に、尤も意を致さるべし。
 古へ、支那に、太師・太傅・太保、各一員あり、之を三師と云ふ。天子の師法とする所、明治に、侍補あり、常侍規諫、闕失を補益するを掌る。其の後、君徳涵養の大事、殆んど忘却せるにちかし。今、天皇親政の實を擧げんには、進講納諫、その人を選び、その道を開かざるべからず。

 曾て岩倉右大臣は、天下の形勢、日に非なるを見、

「斷乎として、一たび府縣會を中止し、上み陛下より、下も百官僚屬に至るまで、主義を一にして動かず、目的を同じふして變ぜず、更に萬機を一新するの精神を奮勵し、陛下の愛信して股肱とし、且つ以て國家の重きを爲す所の海陸軍及び警視の勢威を左右に提げ、凛然として下に臨み、民心をして戰慄する所あらしむべし。凡そ非常の際は、一豪傑振起し、所謂武斷專制を以て治術を施す、古今、其の例少なからず。故に此の時に當て、半期一歳の間、或は嗷々不平の徒あるも、亦た何ぞ顧慮するに足らんや」(『岩倉公實記』明治十五年十二月「具視、府縣會中止の意見書を、三條實美に示す事」)

と述べられしが、今日、正に其の時なりとす。若し今にして非常の英斷なくんば、土崩瓦解、底止する所を知らざるに至るべし。

 右、『意見十條』
昭和十二年丁丑正月二十四日、早朝、一氣に之を草し、夕刻、之を近衞公に呈し[使者・松本純郎氏持參]、別に一部を、大阪府知事・安井(英二)氏に送れり。予の手許には草案のみにて、清書の暇なかりしが、昨今、兩日を以て、之を清書し得たり。昭和十七年九月七日。平泉澄。

○矢部貞治氏『近衞文麿』に曰く、「近衞は、これ(平泉澄博士草案『意見十條』)を(後藤隆之助に)示して、意見を求めたので、後藤は贊意を表したが、近衞は、『先刻、瀧(正雄)君に見せたら、かういふものを出されたら大變だといつて反對してゐたが、自分は、かういふ問題のためなら、たとへ殺されても本懷だ』と、平素に似合はず氣負つて、凛然たる態度で語つた。後藤は、永年交際してゐたが、あの時ほど、近衞が強い態度を示したことは知らぬと言ひ、この時の態度を見て、公に對し、一層畏敬の念を深めたと語つてゐる」と。



●内閣總理大臣・近衞文麿公『大命を拜して』(昭和十五年七月十九日、平泉澄博士代筆。二十三日午後七時半・ラヂオ放送。『似鐵記』所收。田中卓博士『平泉史學の神髓』續田中卓著作集五・平成二十四年十二月・國書刊行會刊に所收)
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○奧書に曰く、「昭和十五年七月十九日午後、一氣に之を草し畢。内閣の顔觸は、未だ定まらず。近公は、東條[陸](英機)・吉田[海](善吾)・松岡[外](洋祐)の三人と、外交の根本を審議中なり。右、一文、念の爲、起草せしに、七月二十二日夕、近衞内閣親任式あり。二十三日、之を富田(健治)内閣書記官長に渡す。その夕七時半、近衞首相の放送あり。殆んど予の原案のまゝにて、僅に多少の添削ありたり。昭和十七年九月十一日夕、之を清書して、將來に備ふ」と。



●近衞文麿公『英米本位の平和主義を排す』──近公の霞山公に於ける、恰かも慶喜公の烈公に於けるが如し。其の傳來、見る可きなり。
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天下無雙の大厦・國中第一の靈神への敕願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月16日(火)19時06分20秒
返信・引用 編集済
  ■後醍醐天皇『王道再興の綸旨』(元弘三年三月十四日。昭和十年國寶。『異本・伯耆卷』に「宸筆の願書」と)

綸旨を被るに儞(い)はく、
 右、以(おも)んみるに、王道の再興は、專ら神明の加護也。殊に當社の冥助を仰ぎ、四海の太平を致さんと欲す。仍つて逆臣を退け、正理に復せしめんが爲めに、義兵を擧げ、征伐を企てらるゝ所ろ也。速かに官軍、戰勝の利を得て、
朝廷静謐の化に歸す可き旨、精誠を凝らし、祈り申す可し。敕願、成就せしめば、勸賞、請に依る可し。者(てへれ)ば、
天氣に依り、状すること、件の如し。
 元弘三年三月十四日 左中將(千種忠顯の花押──臣下に賜はる御書は、天皇の御名を記させ給はず──『禁祕御抄』御書の事の條)
 杵築社神主舘



■靈元天皇『永(よう)宣旨』(寛文七年五月七日。出雲國造家は、吉田・白川兩家の差配に及ばざる聽許)

 出雲國造は、本と壽詞を奏し、恆に潔敬を異にし(即ち御火所の祕事潔齋)、神の爲めに自ら重んず。乃(よ。仍)つて須く永く厥(そ)の職を掌るべき也。復た兼ねて文天、風調(とゝのほ)り、愼みて撫教の信を布くの有典を徽(よ)くし、武日、道泰(ゆた)かに、彌々仁壽、疆(きはま)り無きの祝延(筵)に符(かな)ひ、政術、善化に順ふ。是れ象を北辰に取り、盤石の盛治を安んずること、猶ほ慶を南極に徴(しる)すがごとし。喜感、遂に通じ、瑞應、斯に表はれん。宜しく誠款を效(いた)し、夙夜、口に祝し心に祷るべきのみ焉耳矣。然れば則ち社中の進退に於ては也、事、巨細と无く、其の制度を規倣す可し。者(てへれ)ば、
天氣、此の如し。仍つて執達、件の如し。
 寛文七年五月七日 左少辨・資廉
 國造舘



●寒林平泉澄博士『新に發見せられたる後醍醐天皇宸筆の御感状』(『名和世家』昭和二十九年一月・日本文化研究所刊。五十年九月・皇學館大學出版部刊に所收)に曰く、「

世治まり民安かれと祈るこそ わが身につきぬ思なりけれ

身にかへて思ふとだにも知らせばや 民の心のをさめがたさを


 國體の大義を確立し、國民の安寧を確保せしめんが爲に、千辛萬苦を顧み給はなかつた後醍醐天皇の叡慮は、是等の御製に現れて、今に至るまで之を拜誦する者は、感激恐懼してやまないのであるが、同時に天皇の雄渾にして莊重、殆んど天空を翔るが如き氣高き御筆蹟は、吉野・室町の間、相つぐ騒亂のうちに多く失はれて、心ある者をして黯然悲傷せしめたのであつた。しかるに近年、建武中興の眞實の意義、愈々明かにせられ、聖徳の讚仰、益々盛んとなるや、宸筆の發見、陸續として相つぎ、今や既に三十數通に上つた事は、まことに喜に堪へざる所である」と。



●身余堂保田與重郎翁『ふるさとなる大和──日本の歴史物語』(平成二十五年月・展轉社刊)に曰く、

「國を讓られた大國主命は、將來、天神のご子孫は大和國へゆかれると、神の知惠で知られましたので、そのご子孫のために、大和國の三輪山に、ご自身御魂をしづめ、また飛鳥と加茂の二つの神奈備の森に、御子の御魂をしづめ、御子の事代主命を、大和盆地の中央に祭られて、天神のご子孫をお待ちしてゐました。特に尊い三輪の神のご子孫の姫神が、建國第一代の神武天皇の皇后となられたといふことは、まことに深い大國主の神のおんはからひのやうです。このご婚禮によつて、日本國の建國は、何もかも見事にをさまつたわけです。

 日向國へ高天原の大神の御孫の神が天降られたころに、大和國へ高天原から降つてこられて、大神の御孫のご子孫をお待ちしてゐた神がみの話は、饒速日命は古典にも出てゐますが、丹生津姫神のことも、千年の昔にしるされた古典に殘つてゐます。この姫神は、吉野河に沿つた大和國から紀伊國にかけて巡幸せられ、水田で米を作り、新嘗の祭りをするわが國の生活の基本を教へられました。吉野河の上流の小村にある丹生神社は、丹生津姫神を祭る大社で、神武天皇が、戰況の最も苦しい時に、嚴肅なお祭りをして、高天原の神にお祈りをされたご遺蹟です。天武天皇も、一時ここに逃避され、後もこの社を特に崇敬されました。神武天皇の古事を、ご念頭に遊ばしてのことだつたでせう。大和の山間には、高天原から神がこの地へ降りてこられたといふ傳へが、あちこちに殘つてゐます」と。



 平成二十六年九月七日、千家國麿出雲大社禰宜、權宮司に就任。九月九日、告期の儀。十月五日、結婚の儀の由。洵に御同慶に堪へません。天上神界の御宏圖、天地翼贊、允に畏き極みなりけり。恐懼謹白。
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千家國造尊澄┬尊福┬尊統──尊祀──尊祐──國麿
       └尊紀┘
 
 

天皇大權──靖國神社行幸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月10日(水)22時58分27秒
返信・引用 編集済
  ●泉水隆一翁『九段塾塾頭最終講義』に曰く、

「戦後、日本国の象徴となった天皇ではあるが、その全てに奪われた天皇大権の中で、唯一、継承されているものがある。ほとんどの人が気づいていないだろうと思います。実は天皇が、靖國神社に行幸(親拝。愚案、敕使御差遣も、御親拜に同じなる可し)すると云う事実、このことが天皇の大権にあること。即ち靖國神社の祭祀は、天皇に帰一すると云うこと。天皇御一人の祭祀。それが天皇の皇軍将兵を祀る靖國神社の本質であるとも云えるのです(愚案、現状に於いて繼承される天皇大權は、此の祭祀大權に加ふるに、元號大權──瀧川政次郎博士の説──あり)。天皇の臣民である忠烈無比の皇国軍人・盡忠の国民を祀る靖國神社への参拝(行幸)とは何か。それはまさに大元帥陛下としての機能を果たすためでもあり、天皇の治める國、即ち食国(おすくに)の政事を自ら執り行う歴代天皇と変わらず、現在もなお此の国が安国であることをしろしめす為であり、また神々(皇祖皇宗)に、御自らの赤誠を示すためでもあるのです。

 戦後、生きて戦陣から還って来た戦友さんたちが、靖國神社への天皇陛下の行幸――親拝を、心からお待ち申し上げたのは、それは大元帥陛下としての御姿を、此の目で、しかと見たかったからです。戦前に賀茂宮司が、鎮座五十年祭時に、天皇行幸をお願いし、それがお認めになられ、大正天皇行幸が叶った時、賀茂宮司を多くの軍人たちが胴上げして、喜びを顕わしたエピソードが残されています。ひところ、総理大臣の参拝が騒がれたが、天皇が靖國神社に参拝(行幸)するのは、国民の一人である総理大臣が参拝するのとは、わけが違うのです。勅使に御幣帛を持たせ差遣わすのも、天皇自らが行幸するのも、この九段の杜に祀られる二百四十六万六千余柱の神霊が、皆、皇基を支え奉った国民――臣民の忠義忠魂であることをお認めになり、そのいさおし(武勲)を照覧し、現在も、君の為、国の御為に、仕え奉っていることを確認することで、皇祖皇宗・天神神祇に、此の国が安国としろしめすことに他ならないのです。これが天皇の祭祀の意味です。靖國の祭祀を正統に継続・継承することで、天皇はただただひたすらに此の国が安国であることをしろしめすことが出来るのです。英霊が、此の国を守護奉っているのです(昭和天皇は、「勅使」を差し遣わされている。今上陛下も変わらず、「御勅使」を差し向けられている。『天皇御親拝』はされているのだ)。

 靖國に祀られる神霊は、「国家の生命に、己の生命を継ぎ足(た)して来た」脈々の事歴(賀茂百樹宮司『靖國神社忠魂史』の「刊行に際して」──陸海軍大臣官房監修『靖國神社忠魂史』第一卷・昭和十年九月刊)が存するのです。海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、戦いの庭に出で、奮闘し末に、あるいは痛手負いつ命を果てた、我らが先人が祀られています。この、殉義死節の精神を涵養せしめ、拡充して、国民に振作し、教化する。国民は、頭を垂れることで、神前に誓うことで、祭神の神威に触れ、臣民の忠節を興し、進んで國を守護する生命を引き出す。そのことが、国家の安泰を磐石とする。このことのために、靖國神社は護国の祭祠として、天皇の大命により創建せられた、即ち天皇の神社といわれる由縁であるのです(靖國神社の『正統』とは、即ち尊皇。『草莽』とは、勤王を表す言葉)」と。



【靖國神社に於ける第一番・最古の祭神「稻次因幡正訓」大人之命】

 又た曰く、「九州筑後の久留米藩家老・稲次因幡正訓は、藩校「修道館」出身で、水戸学の後継者とも呼ばれた勤皇家・真木和泉などと志を共にし、その地位から押されて、尊皇攘夷派の首領になり、藩政改革を画策、労したが、久留米藩は、もとも徳川恩顧の意識が強い所。稲次の動きは、藩主流の佐幕派家老・吉田監物の目に余るものとなり、嘉永五年には、遂に「父祖以来の恩顧を忘れ、異論を抱いて藩政を擾乱するものである」との無期刑の咎を受け、嘉永六年、有馬右近の邸に幽閉された。若くして家老脇となり、尊皇攘夷を唱う稲次は、ペリー来航から起こり得る先々国事の多難を憂い、時運に合わぬ我が身を憤怒するあまり、その沸騰する己の感情をもって、遂に自刃して相果てた。これぞ、まさに憂国勤皇の「我が国士」の始まりであった。靖國神社に祀られる祭神の死亡年次より合祀せらるる、まず第一番、最初の人である。

久留米藩     嘉永六年十二月三日
有馬右近邸 家老 稲次因幡正訓 二十五歳

 嘉永六年の祭神は、稲次正訓命、ただ一柱なり」と。



 愚案、天皇陛下の、靖國神社行幸(御親拜)を請願し奉る方々が居ることに、長い間、疑念を存して、或は不敬なり、敕使を何だと心得るか、大權干犯に非ざるやと、獨り懊惱してゐたが、塾頭の出現して、其の言靈を聞くや、吾れ孤ならずと、心強く思つた次第であつた。松平永芳宮司は、「私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしない」(『讓ることのできない傳統の一脈』)方針は、其の深意を探求されることなく、完全に無視され續けてゐる。倨傲なる國民は、祭祀大權にも容喙するに至りしか。恐懼、措く可からず。嗚呼、‥‥。

 稻次因幡正訓大人は、『大日本人名辭書』及び補遺・『殉難稿録』に載せざる所、小生の無學なる、塾頭遺文にて初めて知りぬ。稻次正訓大人につき、博雅有志の教示を俟つと云爾。
 
 

敵は本能寺に在り──塾頭の宣戰布告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月 8日(月)19時43分17秒
返信・引用 編集済
   泉水隆一翁の曰く、「靖國神社を「靖国」と呼び捨てにする者の意見は、聴く必要がない」(『靖国神社の真実』)と。

── 洛風書房版『靖国神社の真実』上梓に方つて、裏表紙に刻印せむと欲して能はざりし九段塾「塾頭遺文」の、此の精粹骨髓を、今ま漸く掲げ得たり。──



●泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』平成十四年九月十八日)に曰く、

現在の靖國神社執行部である、湯澤貞・三井勝生・山口建史の三人、又た神社に上映中止を迫ったと言われる阿南惟正・小田村四郎、他に小堀桂一郎氏等の一連の著名な学者・研究者も、私は信じておりません。彼らが、今後、英霊に対して、どのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。‥‥

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません。ただゝゞ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が『靖國神社で逢おう』と云った言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということを、どうかよくお考えになって下さい。その上であらためて、靖國神社と云うものを考えて下さい。決して彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺(自稱保守)にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています。

 大変激高した言葉になってしまいましたが、皆様の中にはご不快になられる方もいると思いますが、英霊の力を借りて二年間、『凛として愛』に、自分の才能を注いだ監督の言葉としてお許し下さい」と。



 愚案、『凛として愛』臺本に、「七五、茶室で憂愁に満ちた湯澤宮司」とありますが、今となっては、痛烈なる皮肉となるでありませう。もとゝゝ此の宮司、松平・大野兩宮司に長年仕へたにもかゝはらず、其の精神を悉く踏みにじり、又た『凛として愛』を鑑賞して之に泪せりと仄聞するも、自稱保守派の容喙使嗾により、一轉、之を中止せしめたのでありました。有志には、これらの方々に、ご留意いたゞきたいと存じます。

 「松平永芳宮司・大野俊康宮司、あの皇国史観のかたまり、花田忠正権宮司時代が懐かしい。右翼ゴロだろうが、サヨクだろうが、韓国人だろうが、屁ともしないで、動じもしなかった。刃物をテーブルに突き刺したって、ヒカリモノには慣れっこの元軍人だ。なんてこたあ、なかった」と云ふ御方(泉水隆一翁『靖国神社の真実』)、亦た首相と雖も、護衞を從へる非禮參拜は之を決して許さゞる、權力に屈せざる御人(松平永芳宮司『誰が御靈を汚したのか』)でなければ、抑も靖國神社の宮司は勤まらないのであります。人を見る、其の志操に在りと謂はねばなりません。




 泉水隆一翁の曰く、「参拝者の卑俗化・俗化は、即ち靖國神社執行部の問題でもある。‥‥靖國神社の正統を広め、以て現在の猥雑化した靖國神社の、殷賑極める境内模様、参拝者の仕儀、悉く復古に戻し、天皇の神社に相応しき神域に戻すことを目指したい。また遊就館の歴史記述を変更し、明治天皇の聖旨に相応しき祭神顕彰、祭神の雄渾剛毅な様子を、克明に映し出す『軍事館』に戻すべきと考える。麗しき身なりで、静かに参拝。ゆかしき巫女舞。『失われつゝある日本の善さが、この境内、社にはある』と言われた、松平永芳宮司の言葉を再興する。惑わしき鎮霊社の公開は閉めて、廃社するか秘匿。パール判事の顕彰碑は、排除もしくは移設。それが然るべき御処置。それを得心させる崇敬者を育てたい。靖國神社正統崇敬奉賛会、その創出まで思考の峯に置いて、今後の言上げ。実際の活動は選りすぐった憂国者により、実践活動。国民一人ひとりが正統を理解し、天皇の神社であることを理解し、敬神を心底清真に収めて下さるよう、教化して行きたい。陸海軍管掌を継承するが如く──。靖國神社執行部が、聖旨にもとる運営顕著ならば致し方なし。全国各地の神社宮司にも、現在の靖國神社の行いに、疑念を抱く人多し。靖國神社を『国に帰す』のではなく、国民が正鵠にお支えする、比翼となる。そのための正統を語り、教え広める、それが目的です」(『九段塾塾頭最終講義』)と。
 
 

『凛として愛』から、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月29日(金)20時17分52秒
返信・引用
   昭和六年九月十八日、日本の經營する南滿洲鐵道の線路が、夜半、奉天に近い柳條溝で、何者かによつて爆破された。報告を聞いた關東軍司令官・本庄繁は、隱忍自重はこれまでと、遂に全軍に出動を命じる。これが、滿洲事變の勃發である。戰後、日本が滿洲を侵略するための謀略と喧傳された事變であるが、事實は、共産勢力に便乘した暴虐な排日テロを一掃するために、遂に軍が動いたのである。事變後、滿洲事變を調査した國際調査團のリツトン卿も、『鐵道爆破のみによつて起こした軍の行動は、自衞手段とは認められないが、しかし、兵が自衞のためと信じて行動したことまで排除するものではない』と、報告書に書いてゐる。『その遠因は、中國の秩序なき混亂にあり、内亂によつて受ける損害は、日本が最も痛切なるものがある』とも書いてゐる。日本の侵略行動と云はれた滿洲事變は、まさに戰後に捏造され、今日まで長く續いてゐるものなのだ。

 眞實を隱し、覆ひ隱すものは、誰か。

 中國軍が一掃された此の地に、滿洲人による滿洲國が、日本の支援により建國され、滿洲人・日本人・朝鮮人・漢人・蒙古人の五族が、平和な王道樂土を築かうとしたが、その夢は、はかなくも消えてしまふ。昭和十二年七月七日、北京西方にある盧溝橋で、夜間演習中の日本軍に、中國側から五發の發砲があつた。盧溝橋事件である。日本は事件の擴大を望まなかつたが、通州に住む日本人居留民約二百六十人が、中國軍により虐殺されるに及び、國民の怒りは頂點に達した。次いで上海事變が起こるや、戰火は大陸全土に擴がつて行つた。これが、支那事變である。

 戰後、日本は、此の支那事變で、中國を侵略・掠奪と殺人を重ねたと、強く非難され續けてゐるが、事實は、中國人同士の内亂に引きずり込まれたと云ふのが眞相である。國内を統一した蒋介石は、自らの地盤を搖るがす中國共産黨と熾烈な戰ひをしてゐたが、昭和十一年に、西安で蒋が共産黨に捕まつた以降、兩者は鬪爭の矛先を日本に向けることに合意。その結果が、日本を戰爭に引きずり出さうと、中國側が劃策した盧溝橋での發砲事件となるのである。

 日本はもとゝゝ中國に敵意はなく、むしろ多くの日本人が中國人を勵まし、近代化を援助してゐた。彼らから掠奪するものなどは何もなく、又た日本軍が南京で三十萬人も虐殺をする必要が、一體どこにあると云ふのだらうか。そして日本が戰つた相手は、現在の中華人民共和國ではなく、蒋介石率ゐる國民黨であつた。全てが、戰後に日本を惡とするために捏造されたものである。日本は、此の支那事變は、簡單に片付くものと考へてゐたが、さうはならなかつた。それは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ聯などが、表では中立を宣言しながら、この支那事變に介入、背後で武器彈藥食料を蒋介石軍に輸送してゐたからだ。日本は、何んとか支那事變の早期解決を圖るため、最大の支援ルートがある北部佛印に進駐することを決議する。輸送ルートさへ斷てば、事變は終はると判斷したからだ。だが、アメリカは直ちに屑鐵を始め、精銅・機械類など、重要物資の輸出を禁止すると云ふ經濟的措置を打ち出した。アメリカが、日本の正面に出て來たのである。日本は重要資源の大半をアメリカからの輸入に頼つてゐたが、屈する譯にはいかない。政府は獨自で重要資源を南方から調達しようとしたが、南方を植民地にしてゐるイギリス・オランダは、アメリカと協調し、何一つ日本には賣らうとしなかつた。アメリカ・イギリス・中國・オランダによる、いはゆるABCD包圍網が、日本を斷崖に追ひ詰める。アジアは、永遠に彼らの支配となるのか‥‥。そして昭和十六年八月には、遂にアメリカは石油の全面輸出禁止を通告して來た。石油がなければ、日本は立ち行かない。産業機械は停止し、失業者が街に溢れ出る。第一、航空機・軍艦が動かない。政府の苦惱は、極限に達した。アメリカは、既に兵器産業に拍車をかけてゐた。戰爭準備である。

 昭和十六年九月六日、大本營政府連絡會議は、天皇御臨席の御前會議で、帝國國策遂行要領を諒承した。それは、本年十月上旬までに外交々渉が成立しなければ、日本は戰爭準備することを決議したものだつた。しかし十月上旬を過ぎても、日米交渉は始まらない。アメリカが求めてゐのは外交々渉ではなく、いかに日本から最初の一發を撃たせ、戰爭を始めるかだつた。日本は、それを知らなかつた。

 陛下は、九月三日の戰爭準備を決議した帝國國策遂行要領を白紙に戻し、日米首腦會談の實現に努力するやう、下知される。戰爭だけは、囘避したい。總理大臣東條英機も、又た同樣に『外交の餘地ある間に戰爭突入は、國民に申し譯がたゝない』として、『止むを得ざる場合は開戰する決意の下に、外交々渉を併行する』と決めた。その期限を、十一月三十日夜十二時迄とする。日本は、戰爭をしたくなかつた。しかしアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に課せられた任務は、いかに日本に最初の一發を撃たせるかであつた。十一月二十七日、ハル國務長官からアメリカ側の意向が、日本側に傳へられた。運命のハルノートである。

 ハルノートには、日本は中國大陸から一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤退させ、大陸における全ての權益を放棄するやう書かれてゐた。政府は絶望した。中國大陸には滿洲を始め、多くの日本の權益地があり、日本人も多數生活してゐる。それを殘して軍隊・警察を撤退することは出來ない。殊に滿洲には、日清・日露の戰ひで多くの同胞が血を流し、勝ち取つた正當な權益がある。それを捨てることは出來ない。國民が許さなかつた。明治開國以來、歐米列強の植民地化を避けるために、必死に刻苦努力して來た。こづきまはされても、じつと我慢を重ねて來た。日本人は多くの天災に襲はれ、幾度とない飢饉にも見舞はれたが、全て耐えぬいて來た。だが、日本民族の息の根を止めようとするアメリカの要求だけは、耐へることが出來ない。戰爭をしない道は殘されてゐた。全ての權益を放棄して、許しを乞ふ道はあつた。しかし、それは戰爭をしなくても、戰爭に敗けたと同樣の悲慘な末路を意味してゐた。國民には、それが出來なかつた。武器を取ることを選擇したのです。

 軍令部總長・永野修身は、『戰ふも、亡國かも知れぬ。だが、戰はずしての亡國は、魂までも喪失する永久の亡國である。たとへ一旦の亡國となるとも、最後の一兵まで戰ひぬけば、我らの子孫は、この精神を受け繼いで、再起三起するであらう』と語つた。大東亞戰爭は、逃げも隱れもしない日本が戰爭を決意した、一億の日本人が武器を取り、決意した戰爭です。恥ぢることも、たぢろくこともない、凛として日本人は、襲ひ來る外敵を撥ね除けるために、日本生存を賭けて戰つた、自存自衞の戰ひです。それが極東の國日本の搖るがすことの出來ない、たゞ一點の戰爭理由です。

 アメリカの望む通り最初の一發を、日本はハワイ眞珠灣に撃ち放つた。アメリカ陸軍・スチムソン長官は、この日のことを日記に書いてゐる。『今やジヤツプは、ハワイで我々を攻撃することで、問題全部を一擧に解決してくれた。日本の攻撃の報を受けた時、これで全米國民を一致團結させるやうな仕方で、危機がやつて來たと云ふ、ほつとした氣持ちであつた』と。このハワイ眞珠灣攻撃で、アメリカはリ「メンバー・パールハーバー」を合ひ言葉に、若者たちは戰場に續々と志願した。日本を最後まで惡者に仕立てたアメリカの謀略に、日本人もアメリカ人自身も、今もだまされ續けてゐる。ピユーリツア賞を受けたアメリカの從軍記者ジヨン・トーランドは、その著書の中で、『アメリカのやうに天然資源と廣い國土に惠まれ 外國に攻撃される恐れもない國が、どうして日本のやうに小さく、ほとんど資源もなく、常にソ聯のやうな假借ない隣國の脅威にさらされてゐる島國の置かれた立場を理解することが出來るだらうか。アメリカが口にする正義は、結局は自己の目標を貫かんがためであり、唱へる道義は、その奧底においては自らの利益のためであつた』と、自らの國家に疑問を投げ掛けてゐる。

 子供を愛し、妻を愛し、兄弟を慈しみ、兩親を尊敬する多くの先人、誰一人、日本が侵略戰爭をしたとは思つてゐません。外國の土地を強奪した事實もありません。禮・義・知・信と云ふ、嚴しい道徳觀の中で育つた日本人は、不正義を憎み、卑怯卑劣を嫌ふ武士道を、軍人魂として教育されて來てゐます。あなたが、もし日本人ならば、そして正義を愛するならば、かつての日本人も、同じ日本人です。あなた方が誇れる、先人の方々です。あなたが自分を信ずるならば、日本を守つた先人を信じて下さい。英靈を、先人の愛を、見つめて下さい。

 今、靖國の宮に祀られる、二四六萬六千餘柱の英靈。英靈を貶めたもの‥‥それは、戰後すぐに始まつた連合國軍による極東國際軍事裁判――いはゆる東京裁判である。この裁判で、一方的に日本の侵略戰爭が押しつけられ、日本軍の殘虐行爲と呼ばれるものが、ほとんど證據もないまゝに確定された。その判決を、今も正しいものとして利用する人々がゐる。だが、この裁判はアメリカが、日本の占領政策を圓滑に行なふために、戰爭に敗けた日本人に、惡いのは軍部であり、政府であつたことを知らしめるために設置されたものだつた。その何よりの證據は、裁判終了後、ウエツプ裁判長も、日本の侵略戰爭を鋭く糾彈したキーナン主席檢事も、この裁判は誤りだつたと述べてゐる。又、この裁判を強行させた連合國軍最高司令官のマツカーサー自身が、昭和二十六年のアメリカ合衆國上院議會での軍事外交合同委員會で、『彼らが戰爭に飛び込んで行つた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつた』と證言。日本の戰爭は、侵略戰爭ではなく、自存自衞の戰ひであつたと、眞實を述べてゐる。インド代表のパル判事は、この裁判は日本が侵略戰爭をしたかどうかを審議するのではなく、最初から侵略戰爭をしたと云ふ前提に基づいての審議をし、大衆の心を支配しようとしたと批判。更に檢察側の云ふ日本の侵略戰爭の歩みを、歴史の僞造とまで斷言したのです。

 獄中で病死した東郷茂徳元外務大臣は、子供たちに、
『いざ兒等よ戰ふ勿れ 戰はゞ勝つべきものぞ夢な忘れそ』
と歌を殘してゐる。子供たちよ、戰爭をするものではない。しかし、もし戰ふならば、絶對に勝たなければ駄目だ。勝たなければ、無法な罪まで押しつけられる悔しさを傳へてゐる。
 戰後、侵略戰爭の張本人のやうに言はれ續けてゐる東條英機は、自分を辯護する證人は、誰一人呼ばず、臆することなく、日本の戰爭は自存自衞の戰ひであり、自分は間違つてゐないと、證言臺で昂然と胸を張つた。但し國民に對しては、敗戰した責任は自分にあると語つてゐる。
 今、この靖國神社には、A級戰犯と云ふ汚名を着せられた東條英機を始め、十四人の方々が、「昭和殉難者」として祀られてゐる。昭和二十七年、日本が獨立した後、當時の日本政府が戰犯で處刑された方々を、戰爭犯罪人(戰犯)とは見做さず、戰爭による公務死と認定したからである。
 日本軍人を裁く裁判は、日本本土以外でも行なはれ、多くの軍人・軍屬が罪もなく、斷頭臺の露と消えた。

 陸軍大尉・星島進の命。ラバウルで法務死、三十五歳。『壽子[かずこ]どの 深愛をもちつづけながら、そのいたはることすくなかりし結婚生活をゆるせ。然し俺の武人としての正しさは、誰かによつて傳へられる。戰犯の名はつらからうが、勿論、俺は日本の罪人ではない。壽子よ、泣くな。子供をひがまさず、正しい人間にしてやつてくれ』と。
 陸軍軍屬・高橋久雄の命は、中國軍の接近を日本軍に通報した爲め、中國軍が殲滅させられたと云ふ、たゞその理由だけで、北京で處刑された。『故國の皆樣、お元氣ですか。御當地は、まだ雪で、畠仕事も出來ないでせう。事實なきことも、良民殺害の罪名のもとに裁かれるのです。今となつては、何をか言はんやです。皆樣、何事も運命と思召しあきらめて下さい』と。高橋久雄の命の兄・久一さんは、取材スタツフが訪れるのを、一日千秋の想ひで待たれてゐたが、訪れた數日前に息を絶たれた。九十四歳の大往生である。生前、「弟には、何の罪もありやせん」と話をしてゐた久一さんは、冥界で今頃は、弟・高橋久雄の命と、悔しさを語つてゐるのだらうか。『後は死して、皆樣のおそばへ參ります。妻・タツの傍に置いてください。はるかに東方を遙拜し、斷腸の思ひを絶つて刑を待つ。かへり見る三十八生、こゝに斃る』と。日本が戰爭に敗けたその一事のために、身に覺えのない罪を被せられ、それでも從容として刑場に赴いた多くの戰犯の方々。雪は深い。全てを覆ひ盡くす。だが、撥ね除ける力を、名もない野の花でも持つてゐる。日本が、現代日本人が目覺めるのを、英靈は待つてゐる。米英を主敵として、不屈の魂で戰つた大東亞戰爭。眞實とは何か。その幕が、切つて落とされる。

 大東亞戰爭は、日本一國で戰つたのではなく、南方の諸民族も一つとなつて、アジアに新しい秩序を確立させるために、米瑛と眞つ向からぶつかつた、一大戰爭である。戰場も銃後も、一億が火の玉となつた。

 池田の曰く、『守る、と。我々の命で日本を守る、と』と。
コロール島人・リキリキの曰く、『やつぱり日本のために、あの、命なくなつても、したかつた氣持ちがありますね』と。
 高砂族・タリ・ワタンの曰く、『私たちは、いつ死んでもかまはない。國のためならば、天皇陛下のためならば、いつ死んでもよろしい。さう云ふこの精神は、非常に覺悟してゐます』と。
 女酋長・リムイ・アベオの曰く、『田を作る。出來ない。それ皆んな日本人が指導してくれた。そして、あの植ゑることも出來ない。種ね。種も出來ない。あれ、みんな日本人の教育。だからね、ようし、日本のために命を投げ出して來ると云ふ決心をして、それから行つたんです』と。
 おほしく、勇敢に、彼らは戰つた。

 當時の朝鮮半島の人々、又た臺灣の人々も、共に戰つてくれた。
靖國神社に祀られる朝鮮籍戰歿者、二萬一千一八一柱英靈。
         臺灣籍戰歿者、二萬七千八六三柱英靈。

 ガダルカナル島上陸を皮切りに、タラワ、マキン、クエゼリンと、日本の占領した島々を奪囘したアメリカ軍は、一氣に日本本土に攻撃をかけ、叩き潰せると考へた。しかしその目論みは、見事に外れた。壓倒的な戰力のアメリカ軍の前に、日本軍が立ちはだかつたからだ。猛烈な鬪爭心、飽くなき抵抗、想像を超えた敢鬪精神。武器彈藥食料が切れても、日本軍將兵は白旗を掲げなかつた。白旗を掲げれば、自分の命は助かる。だが、それは祖國への裏切りとなる。祖國にゐる家族・同胞は、日本の勝利を祈り、日本のために勝つて下さいと送られて來てゐる。何んで、負けて歸れるか。最期の最期、日本軍人としての精華を示すために、將兵は突撃を敢行し、玉碎したのです。

 日本赤十字社元從軍看護婦・蜂須賀つや子の曰く、『鐵砲と銃をよこせ。ね、彈をよこせ。今からでも行くつて言ふの。やつと歩ける、食べもしないで[兵站病院に運ばれて來た重症患者の多くの兵士は、食物もいらない、武器をよこせば、今からでも行くと云ふ]、‥‥食べなくたつて、銃があれば、今からでも行くつて言ふの。何も無いんです。鐵砲も、彈も、もう無いの』と。

  大東亞戰爭最初の玉碎地となつた北のアツツ島では、山崎保代大佐以下、二千五百の將兵が守備していたが、一萬五千のアメリカ軍相手に、十八日間善戰。昭和十八年五月二十九日、敵陣地に突撃、玉碎した。アメリカ軍ハーバート・ロング大尉の手記によれば、『先頭に立つ部隊長は、右手に日本刀、左手に日の丸を持つてゐる。部隊長が倒れた。再び立ち上がり、一フイート、一インチと迫つて來る。擴聲器で降伏せよと叫んだが、耳を貸さうとしなかつた。遂に我が砲火が集中された』と。

 アツツ島守備隊の最期が、天皇陛下に御報告されると、陛下は、
最期まで、よく敢鬪した。そのことを傳へよ
と言はれたが、既に將兵は玉碎し、無線機も破壞されてない。その事を申し上げると、陛下は、嚴しい聲で、
それでもよい。電波を出しなさい
と、御命令されたと云ふ。雪と氷で閉ざされた北のアツツに向けて、陛下の御言葉が打電された。祖國のために散華された二千五百の將兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであらうか。

 元陸軍士官の正規將校・吉武登志夫の曰く、『負けると思つて行つたことはありませんですね。もう我々が行けば、必ず挽囘できるんだ、と云ふ風な氣持ちで行きましたね』と。
 菊池洋の曰く、『やつぱり戰爭をやつてゐる以上は、必ず何處か、死場所があるだらうと。ぢや、一番いゝ死場所は何かと云ふことを考へた時に、私はやつぱりそのねえ、特攻と、これをまあ、決意した譯ですよ』と。
 深川巖の曰く、『本當に純悴ですから、色氣もなにもないしねえ。さあ、國のためにやるんだと。本當にねえ、純悴ですよ。なまじその教育受けた、あるいは年配者が少し色氣あるやうなもんですね。やはりさう云つたものをねえ、一個中隊ちふのは、寢起きを共にした云々』と。
 堀山久生の曰く、『死に遲れたと云ふ感じが、非常に強くてゞすね。その、先に沖繩に突入した同期生に、本當に申し譯なく思ひます。そして、これからは何んとか、日本と云ふ國家を再建してゞすね、もう一度、昔日の如き強力な國にしたいと、あの、思つてゐます』と。

 古城カネ子の曰く、『この人たちが、このまゝ死んで行かにやあ、日本はどうにもならんのぢやらうかと思ふなあ。それこそ思ひましたよ。人間魚雷の上へ特攻隊員が乘つて、日本刀をパーンと、かうしてね、振りかざして、これこそ窓からかう、泣きながら見るのにね、あの日本刀がキラーンと朝日に光つて、あれがいまだ目についてますよ、本當に』と。

 櫻花搭乘員・植木忠治の曰く、『今忘れられてゐる、若い人忘れられてゐるものは何かと言つたら、祖國だと思ふんです。自分一人が死ぬことによつて救はれるならば、自分は死んでもいゝ、と』と。
 野俣正藏の曰く、『櫻花で死ねば、日本は大丈夫と、これだけしか考へてゐませんでしたね』と。
 松林重雄の曰く、『皆んなのために、一丁やらうかと云ふことで、覺悟を決めた譯です』と。
 多くの若者が、身を捨てゝ國を守らうとした。

 豫科練・畠山昭一郎の曰く、『飛行機乘るには、やつぱり豫科練が一番早いといふことで、豫科練希望したと云ふのが、まあ、一つの動機ですね。やはり何んとしても、この國の國土を守ると云ふことですね。國土を守ると云ふことは、親を守ることであり、郷里を守ることなんですから、それが最大の目的だつたでせうね』と。
 千葉昭二の曰く、『早く前線に出て、皆さんのお役に立ちたいと云ふ氣持ちで、一杯でしたね』と。
既に硫黄島は陷ち、沖繩にアメリカ軍が殺到してゐた。

 戰艦大和の死場所として、沖繩が選ばれた。瞑目すれば、大和は日本を守る巨人でなければならなかつた。その主砲は、日本に襲ひ來る邪惡を粉碎する使命を帶びてゐたはずだ。それが航空機の援護もない、特攻攻撃となる。艦隊司令長官・伊藤整一中將には、それが不滿であつた。無駄死が、我慢できなかつた。だが、
『一億總特攻の先驅けとなつて戴きたい。それが本作戰の目的です』
と參謀に言はれ、「それなら、わかつた」と答へたと云ふ。
 大和乘艦者・小林健の曰く、『特攻で突つ込む時には、大和でオレがこれから出て行くんだから、日本の皆さんもう暫く待つといてくれ、さう云ふ意氣込みで進んで行つたものでございましたね』と。

 昭和二十年四月七日、大和は米軍の三百機以上の攻撃を受け、沖繩に着くことなく、九州坊の岬西方九○マイルで沈む。
 大和乘艦者・竹重忠治の曰く、『總員退避の後に、どつからともなく、天皇陛下萬歳が出たんです。それに思はず片手はもう離されん譯ですけど、こんな状態ですからね、兩方で持つてゐた右手をあげて、萬歳を三唱しましたね』と。

『さゝげーつゝー』(捧げ銃)
大東亞戰爭戰歿者、二百一三萬三千七七八柱英靈。

 三年八ケ月。世界を相手に、日本の死に物狂ひの戰ひは終はつた。その勇猛心・鬪魂が、連合國側に恐れを抱かせた。それが、日本を救つた。
 沖繩防衞軍・角田松雄の曰く、『日本人ですからね。降伏と云ふことは知らんから、もうこりや全員、もうこゝで戰死ぢやなと、皆な覺悟決めましたよ。私もその一人ですがね。その時にねえ、何を言うたか。涙が出ますがね。皆んなで、靖國神社で會はうね、言うたもんです。靖國神社で會はうね、と。靖國神社に替はるねえ、國營の戰歿者墓地を作らうなんて言うてましたがねえ、私はねえ、戰友たちが何んと聞いたぢやらうて、涙が出ましたよ。皆んな、靖國神社で會はうつねて、誓ひ合つて死んだんですよね。あの魂がね、靖國神社の中の魂が、日本の國を守つとるんですよ。今でも』と。

 今は亡き戰友のために、大東亞戰爭を共に戰つた國民のために、聲限りに歌つてほしい。
『あゝあの山もあの川も 赤い忠義の血がにじむ 故國まで屆け曉に あげる興亞のこの凱歌』(『曉に祈る』)

 日本よ。陽は、又た昇る。祖國日本を防衞するために、陸に、海に、空に散華された方々に、私たちは誇りと叡知を、此の胸に抱き、凛として愛を捧げる。それがあつて、初めて、日本の、新しい時代が始まる。
 
 

『凛として愛』から、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月29日(金)20時09分56秒
返信・引用 編集済
   九段塾塾頭の監督作品『凛として愛』を、試みに散文化したら如何なるか。玲瓏たる肉聲も、壯嚴たる映像・音聲も無いのであるが、凝縮された玉文からは、一篇の近現代史が抽出される。熟讀、泪が込み上げて來るのは、ひとり小生だけであらうか。



 泉水隆一監督『凛として愛』臺本
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50

靖國神社遊就館上映作品(平成十四年七月十三日・十四日)
『 凛として愛 』
脚本・監督  泉水 隆一
ナレーター  花椿 一心(即ち泉水隆一)

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 國家によつて、安全と平和、生命と財産を護れなかつた國民の悲慘さを、私たちは知らない。

 この一篇を、明治開國から大東亞戰爭に至るまで、祖國のために力の限り戰つた幾千萬の將兵と銃後の守りに盡くされた總ての先人に、感謝と畏敬の念を籠めて捧げます。

 昭和二十年八月――廣島・長崎に、原子爆彈が投下される。八月十五日、日本は三年八ケ月に及ぶ大東亞戰爭に、終止符を打つた。建國以來、初めての敗戰であつた。この日から、日本の近代史がひゞ割れた鏡のやうに、歪んで傳へられて行く汚辱の日となつた。戰爭に負けたのは仕方がない。だが、日本人は戰ひに敗れても、誠實さが必要だつた。日本と云ふ國に、祖國に盡くした幾百萬の英靈に、幾千萬の先人に、愛を籠めた感謝を捧げるべきであつた。‥‥が、果たせなかつた。多くの日本人が、裏切つた。戰後の荒廢した日本に、赤旗がなびき、社會主義思想が廣まり、戰勝國による一方的な東京裁判が開かれる中で、日本の近代史は僞りに滿ちた惡意の下に、大きく書き替へられて行つた。

 女高生の曰く、『私はあの、小學校の時に初めて遊就館に行つたんですけれども、その時に初めて戰爭に行つた方の遺書や思ひが綴つてある資料を見て、涙が出て來たんです。それで、その事について、私は小學校で何も教はつてなかつたなあと、氣が付いたんです。教科書にも、餘りさう云ふことは載つてゐなかつたし。日本の歴史だけぢやないかも知れないんですけれど、世界の歴史を學んでも、やつぱりその時代に生きた人にしか分らない歴史つて云ふのがあると思ふんです。絶對にその状況になんなきや、分らない。何んで、その人が、さう云ふ行動を云々』と。

 私たちの國には、明治維新以來、幾度かの國難に、敢然と立ち向かつた日本民族の不屈の歴史があります。たつた一つしかない命を、國家に同胞に捧げた、凛とした眞實の歴史があります。その扉を、今、開け放さう。

凛として愛

 六十數年前、日本はアメリカを始め、世界百十數國を相手に大戰爭をした。しかしその戰爭は、國家國民の安全と平和を護るため、アジアの安定を築くため、世界の平和を請ひ願つたものであることに間違ひなかつた。戰場に出て行つた將兵は、皆な同じ考へであり、力の限り、彼らは戰つた。だが、事、志と違ひ、戰ひに敗れたことで、日本の掲げた理想は實ることはなかつた。日本は、敗れたまゝでゐる。

 平和を享受する現代日本から遠く離れた異國には、未だ收拾されない將兵の遺骨が、山野に埋もれてゐる。何時になつたら日本は、戰ひに散つた將兵を暖かく迎へてくれるのだらうか‥‥。全國民が祈りを捧げてくれるのだらうか。靖國神社に祀られる二百四十六萬六千餘柱の英靈は、いまだ侵略戰爭の汚名を着せられたまゝでゐる。かつて南方の島々で戰つた日本軍に、援軍は來なかつた。ならば、今から援軍を送る。日本を變へる援軍を送る。あなた方の眞實を、痛みを、私たちは傳へて行きます。

 昭和十六年十二月八日、日本は西太平洋に浮かぶハワイ眞珠灣に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃、米英を相手とした大東亞戰爭を起こした。この開戰の意義を、『智惠子抄』で知られる詩人・高村光太郎は、一篇の詩に書き綴つてゐる。
『黒船以來の總決算の時が來た。民族の育ちが、それを可能にした。長い間こづきまはされながら、なめられながら、しぼられながら、假裝舞踏會まで敢てしながら、彼等に學び得るかぎりを學び、彼等の力を隅から隅まで測量し、彼等のえげつなさを滿喫したのだ。今こそ古へにかへり、源にさかのぼり、一瀉千里の奔流と成り得る日が來た云々』と。
大東亞戰爭は、黒船來航以來、長い間、歐米列強にこづきまはされて來た日本人の、白人社會の強壓に對抗する總決算であることを、詩に託してゐる。何が總決算だつたのか‥‥、その慟哭の聲を聞かう。

 高千穗商科大學前教授・名越二荒之助の曰く、『そこがまあ、日本人の個性と云ふのかねえ。今でもわからんですよ。終戰直後に朝日新聞なんか見ればですね、一億が慟哭して、皇居前でその土下座してゞすね、靖國神社の社殿でも土下座して、その自分の至らなさねえ、そしてその慟哭した譯でせう。それがもう僅かな間に、クルツと引つ繰り返つてしまつた。それで、そこにまあ、日本人の輕薄さと云ひますかねえ、日本がこんなに惡いことをした、こんな惡行をしたと云ふことをですね、ラヂオを通じて、テレビを通じてやり出した。皆んなそれに染まつてしまつたといふ、さう云ふ日本人の便乘癖ですねえ‥‥』と。
 又た曰く、『明治維新に成功する。見事な成功ぶりです。それから國論の一致。富國強兵と云ひですねえ、それで大國ロシアを打ち破る。アジア諸國に大きな感動を與へる。それでアジア諸國はですねえ、それに觸發されてゞすねえ、皆な獨立精神を奮ひ起こさうとし出す。それでその最終結論みたいなものが、大東亞戰爭であつた、と。これはまあ、歐米諸國の植民地勢力に對する日本の抵抗。アジアを代表する日本の抵抗であつた、と。日本が敗れたらですねえ、もうアジアは、永遠に彼らの支配下に陷つてゞすねえ、永遠に植民地にされてしまふ、と。アジア安定の責任は、日本に在る、と。日本人の使命である、と、日本の責任だ、と云ふことですね、常にまあこの口ずさんでをつたし、私なんか小學校以來、さう考へてをつた。日本が負けたら、日本が弱くなつたらですね、まあ負けることはなかつた、負けるとは考へなかつた。日本が弱くなつたら、アジアが駄目になる、と、アジアの責任を感じてをつた、と、アジア安定の。それは一言で云へば、日本の近代史の最大の使命だつたですね』と。

 どんな山奧からも、小さな村からも、國民は一つとなつて、日本の戰ひに出て行つた。
森本文子の曰く、『そのために出たのに、今はもう、ちよつと、世間の常識としたら厄介者扱ひのやうな、あれでせう。本當、身内になつてみりや、情けないですよ。何んのために命まで捨てたんかなあと思うてね。まあ、日本の國はえゝ國えゝ國つて言はれとりますけど、これをわからん國民が多いんかなあと思つてね、いつも思ひます。情けないなあ。私はあんな人間になつちやならんと思うてね。大袈裟いふちや、あれぢやけど、日本の國のためになるんぢやちふ氣が、兄貴にはあつたんだらうと思ひます。とても今の若いものぢやつたら、惡いことはする、人を殺したりなんかはするけど、自分の命を絶つてまで、國のために盡くさうと思ふものは、今は餘りゐないんだらうと思ひますよ』と。

 戰爭は悲慘なもの、惡と云はれ續けてゐる。しかし戰はなければ、國家國民は、それ以上の悲慘な目に遭遇しなければならなかつた。極東の小國日本が生き殘つた理由は、幾度かの國難に、常に武器を取り、立ち向かつたからである。

 嘉永六年、日本がペリー率ゐる黒船艦隊により開國された時、アジアは歐米列強の植民地化の中にあつた。白人こそ、最も優れた人種であると考へた彼らは、アジアを文化果てる未開の地・非文明地と見做し、次々と植民地化して行つた。しかし、日本を植民地にすることは出來なかつた。サムラヒたちが、歐米人の差別と蔑視を跳ね返すために、明治維新を成し遂げ、新しい體制の下に國民を一つにまとめ、近代化に取り組んだからである。その大膽さと決斷力が、日本を護つた。

 この列強の勢力に對抗するため、日本は朝鮮半島にあつた朝鮮國が、長い間服屬してゐた清國より獨立し、共にアジアの安定に關はることを強く願つたのだが、朝鮮は國論が一致せず、清國もそれを許さず、明治二十七年、朝鮮の獨立を巡つて、清國との間に日清戰爭が起きた。

靖國神社に祀られる日清戰爭戰歿者、一萬三千六一九柱英靈。

 大國清に勝つて喜ぶ日本に、突然、襲ひかゝつて來たのは、ロシアだつた。下關條約で清國より遼東半島・臺灣を領土として讓渡された日本に、ロシアはフランス・ドイツを誘ひ、遼東半島を清國に返せと要求して來たのである。三國干渉である。日本に、三國と戰ふ力はなかつた。

深く時世の大局に視、邦家の大計を誤まること勿きを期せよ
との、明治天皇の御言葉に、國民は涙を呑んで、ロシアの要求に從つた。しかしロシアは、直ぐにその遼東半島を自國のものとしてしまつた。力が全ての時代だつた。日本人の魂に、怒りの炎がついた。國家が強くならなければ、白人社會の横暴に對抗できない。臥薪嘗膽。將來、恨みを晴らすまで、どんな苦労にも耐へると云ふ此の言葉が、國民の合ひ言葉となつた。

 十年後、東アジア征服を目論むロシアは、遂に牙を剥いた。滿洲を占領し、大兵力を朝鮮半島に進出させて來た。日本に、危機が迫る。

 名越二荒之助の曰く、『朝鮮はロシア領。さうなると匕首を突き付けられたやうなもんですから、遂に日本は立ち上がつた譯ですね』と。

 ロシアは當時、世界最大の陸軍大國であつた。ロシア陸軍三百五十萬に對し、日本は僅か十八萬。海軍戰艦もロシア十一隻に對し、日本は六隻。鐵鋼生産量ロシア百五十萬トンに、日本は數萬トン。日本が勝てるデータは。何處にもない。世界もまた日本の大敗を豫測してゐた。

 天皇は、深い憂慮を示された。だが、若き内閣總理大臣桂太郎は、天皇に心の内を明かす。宣戰布告である。負ければ、日本はロシアに占領される。まなじりを決した七千萬人の國民が、背後にゐる(備中處士案、實は同胞四千萬人と云ふ)。日本は、蹶然と立つた。陸に大山巖・兒玉源太郎・黒木爲禎・奧保鞏・乃木希典。海に連合艦隊司令長官東郷平八郎・天才作戰家秋山眞之がゐた。渾身の力で、ロシアに立ち向かつたのが、明治三十七年の日露戰爭である。この戰爭は、ロシア國家を滅ぼすことが目的ではなく、朝鮮半島・滿洲から、ロシア兵を追ひ返すことにあつた。

 名越二荒之助の曰く、『セオドア・ルーズベルト大統領がですね、もう日本海海戰で勝利した時には、もうその嬉しくて、仕事が手に付かなかつたと云ふことを言つてますし、ネールがですね、自分の青年時代の最大の感激は、日本が大國ロシアを打ち破つたことだと云ふ言葉も引用しとります。そりやもう、バーモンも、さう言つてゐる。チャンドラボースも、さう言つてゐる。皆、感動を與へましたね』と。

 日露戰爭の日本の勝利は、列強の植民地化にあつた全世界の人々に、勇氣と希望を與へた。自分たちでも、白人社會に對抗できる‥‥と、獨立運動の風を捲き起こしたのである。人種差別の激しいアメリカでも、黒人活動家アーチボールド・グリムケの曰く、『小さき褐色の人々よ、征服せよ。汝の恐るべき劍を鞘に收むるなかれ。汝はロシア人を打ち据ゑた。汝はロシア人以外の人々の誇りを、權力を打ち据ゑるやう運命づけられてゐる』と。グリムケは、強大な白人社會を打ち破つた同じ有色人種の日本に、なほも世界の權力者たちを、その誇りを打ち破ることを激勵してゐる。人種差別こそ、二○世紀(備中處士案、ママ)最大の惡であつた。これがなければ、世界は血を流さなかつたかも知れない。

靖國神社に祀られる日露戰爭戰歿者、八萬八千四二九柱英靈。
 日本のために、地に伏した人々である。

 全國津々浦々には、國家に忠義を盡くした英靈を讚へる忠魂碑が、數多く建てられてゐます。あなたがもしも通りかゝつたなら、心の想ひを傳へて下さい。英靈は、きつと喜ばれることでせう。あなたの愛を。國を想ひ、家族を慈しむ日本人は、一度國難があれば、身を挺して戰場に赴いた。後顧の憂ひを斷ち、肅々として征つた將兵の胸にあるのは、今はもう誰も言はなくなつた、忠義と云ふ心であつた。その心があつて、今日、日本は亡國とならずにゐる。現代日本人よ、祖國のために逝つた英靈に、默祷を捧げてほしい。

 日清・日露戰爭を勝つた日本は、アジアに國力を伸ばして行つた。大正三年、日本は第一次世界大戰に參戰後、カロリン諸島など南洋諸島の統治權を、國際聯盟より委託される。又た明治四十三年には、韓國を併合する。

 名越二荒之助の曰く、『國論が一致しない。一つにならなかつた。お互ひに派閥爭ひが絶えない、權力爭ひが絶えない、と云ふことと、外國の勢力に直ぐ便乘すると云ふことですね。そりやもう、あの頃の韓國と、現在の日本は似てますよ。國論が常に二つに割れて、一致しないでせう。靖國(備中處士案、ママ)問題とかね、教科書問題とかね。分裂しとるんですからね。大正八年に、三・一獨立運動いふのがありました。萬歳事件いひまして、獨立だ獨立だ言うて、全國に擴がりましたね。それで、それに對して獨立いふのはですね、デモをやつて獨立できるんぢやないんだと、あらゆる條件そろへないとですね、たゞ萬歳萬歳いふとるだけで獨立できるかと、こんな輕薄な民族はですね、こりやもう履き捨てるべきだと言つてゞすね、あの當時、あの獨立運動批判した韓國人もをる譯ですね。だから、その一概にですね、そのいゝとか惡いとか云々』と。

 しかしアジアをあくまでも支配したい歐米列強にとつて、東洋に突出して來た日本は、邪魔な存在に見えた。大正十年のワシントン軍縮會議では、日本の海軍力は抑へられ、それまで最大の支援國であつたイギリスとの同盟が破棄された。日本を孤立化させようとする、アメリカの意志である。一方、中國(備中處士案、ママ)大陸では、排日の嵐が吹き荒れてゐた。大國清は、既に革命で倒れ、國内は中國人同士の權力爭ひで亂れに亂れ、民衆は西に東に逃げ惑つてゐたが、國内を統一しようと現はれたのが、國民黨を率ゐる蒋介石である。日本の近代化を見習はうと、蒋を始め多くの中國人が日本に留學、共にアジアの安定に協力しようと云ふ氣運が盛り上がつてゐたが、それを遮つたのが、共産勢力であつた。第一世界大戰中に、ロシアは革命によつて倒れ、社會主義國ソビエト聯邦共和國が成立してゐた。この新たに興つた國家の共産主義は、當時、赤の恐怖と呼ばれてゐた。ソ聯は中國を赤化するために、中國人の手により、外國勢力を排除しようとした。その矢面に立たされたのが、中國各地に正當な權益を持つ日本であつた。ソ聯共産黨に扇動された多くの民衆・國民黨が、抗日運動に加はり、各地の日本人居留民が襲撃され、無殘にも殺された。滿洲東北部のニコラエフスクでは、石田領事以下、七百數十名が殺され――、昭和三年には、濟南に住む日本人居留民が――(尼港事件・濟南事件)、イギリスのデイリーテレグラフは、『中國人は掠奪と殺人を、天與の權利であるかの如く、暴行を繰り返してゐる。日本人の忍耐にも限度がある』と書いてゐる。しかし日本は、世界と協調するために、動かうとしなかつた。

 過激な排日の嵐は、滿洲にも及んだ。滿洲には、日露戰爭で勝ち取つた正當な權益があり、多くの日本人・朝鮮人が住んでゐたが、その平和郷も、排日テロの波に曝された。背後には、日本を追ひ出さうとする中國軍の暗躍がある。廣大な滿洲には、關東軍と呼ばれた日本軍が駐留してゐたが、その數は、僅かに一萬。中國軍は二十五萬。滿洲各地で、日本人が無差別に襲はれてゐたが、日本政府は中國側との摩擦を恐れ、關東軍の出動を許さなかつた。「腰の軍刀は竹光か」と、日本人居留民からも涙の抗議を受けるが、關東軍は、命令がなければ動けない。だが、忍耐の緒が切れる時が來た。
 
 

靖國神社の本義・正統に戻れ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月18日(月)22時36分6秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●泉水隆一こと九段塾塾頭・金城福井忠翁『靖國神社の眞實』(昭和二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、『若い世代はピント來んかも知れんが、戰後の靖國神社と云ふのは「遺族」と「戰友」さんが訪れる所で、それ以外の一般者や文化人と云ふ人たちは、靖国懇など保守論壇者であつても、靖國神社に參拜すると云ふことはなかつた。この場所は、「あくまでも遺族さんと戰友さんが」參拜する場所だつたのです。文化人は、一般的に靖國神社護持運動・崇敬奉贊と云ふ姿勢ではなく、保守論壇の地位にあつて、哲學的に、思想的に、靖國神社を捉へてゐた。遺族・戰友でもないのに、特別に「參拜する」と云ふ風潮は無かつた。現在の「靖国フアン」が異色で、特別なんです。これが當たり前ではなかつたんです。‥‥神社參拜と云ふのは、「理由」があつて參拜する。「特別の理由」がなければ、文化人は參拜しなかつた‥‥、昔はデスよ。今は──色々ですなあ。崇敬・敬神・尊崇でないのが多い──と感じてゐますなあ。‥‥英靈を守るために身を捧げた松平永芳宮司も、生前、祕かに口にしてゐたのは、「敵は左翼ではなく、保守だ。これに氣をつけにやいかん」と話されてゐた。‥‥純然たる勤王黨が、境内に欲しい。‥‥「話の合わない人が多くなつた」と、晩年、親しい人には漏らしてゐた名越二荒之助先生。‥‥』と。



●『靖國神社社憲の前文』(昭和二十七年九月三十日)に曰く、『本神社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、國事に殉ぜられたる人々を奉齋し、永くその祭祀を齋行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を萬代に顯彰するため、明治二年六月二十九日、創立せられた神社である。いやしくも本神社に職を奉ずる者は、その任の輕重・職域の如何を問はず、深く本神社を信奉し、祭神の御神徳を體し、清明を以てその任に當り、祭祀を嚴修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、以て萬世にゆるぎなき太平の基を開き、本神社御創立のよつて立つ安國の理想の實現に、一意邁進しなければならない』と。

 終戰の日、即ち畏くも天皇陛下御謹愼の日に、事もあらうに、「天皇の神社」たる靖國神社境内に於いて、「正午のラヂオ中繼では、安倍首相の挨拶には、皆かしこく聞いてゐたのだが、天皇陛下の詔の時には、多くの參拜者はチヨロヽヽヽ動き囘り、中には飲み物を飲んでゐた」者が、どうして存在するのか。『靖國神社を惡くしていゐるのは、實はこの「靖国フアン」‥‥(靖國神社の静謐と清淨を守らうとする者が存在しないのは、)右翼と云ふものが、完全にこの國から消滅したと思はざるを得ない。‥‥今、戰後六十年、靖國神社は、正統を捨てつゝある』(『靖國神社の眞實』)。崇敬者が注意せず、頼りにならぬのなら、何故に、「いやしくも本神社に職を奉ずる者は、その任の輕重・職域の如何を問はず、遺族・崇敬者を教導」、或は叱責しないのか。



●大野俊康宮司『宮司通達』(平成五年六月一日附)に曰く、 『鎮霊社は、靖國神社の本旨とも言へる、明治天皇の聖旨とは異なる御社であることを、先づ以つて認識せねばならない。‥‥鎮霊社を現在の場所より移築したり、圍りの鐵柵を取りはずす等、鎭座當時と同樣に、參詣者が自由に參拜出來るやうにすることは、千鳥ケ淵戰沒者墓苑に見られる通り、一部の政黨や所謂博愛主義者によつて、英靈祭祀二分化に繋がると、大いに懸念されるところである。よつて小職は、昭和四十年、鎮霊社鎭座以來、今日まで嚴肅に奉仕されてきた祭祀に鑑み、鎮霊社を、今後共、現状のまゝ、密かに奉齋續けることを見解とする』と。

 此の大野宮司の通達に、敢へて公然と背き(鎮霊社は「胡亂なるもの」とは、松平永芳宮司の認識)、明治天皇の聖旨に叛し、社憲に反する、「鎮霊社」と云ふ神靈不在の私的施設を公開した者は、抑も誰ぞや。

 『祭神をコンピユータで管理しようなんて發言した奴は、誰だ』と、靖國神社社務所に怒鳴り込んで來た松平永芳前宮司の無念、『神社のたゝずまひを絶對に變へてはならぬ(改修嚴禁)』との言ひ渡しにも拘らず、一層の參集所を、キンキラキンの大佛殿と揶揄される「二層」の參集「殿」に「改修」した不敬と改稱と悲願無視、且つ菊花御紋を社紋に替へた不敬不見識、靖國神社のたゝずまひを崩壞せしめむと圖つた者は、抑も誰ぞや。



●松平永芳宮司の曰く、『靖國神社も、戰前と異質な戰後の國家による國家護持では危險なので、國民護持・國民總氏子でいくんだと、私は繰り返し申し上げた。‥‥靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見「愛國」・「憂國」を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく權力に迎合したらいけない。權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけないと云ふことを、次の宮司への一番の申し送りにいたしました』(『誰が御靈を汚したのか』)と。

 「ボデイガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだ。靖國の御祭神は、手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇樣でもなさらない警備つきとは何事かと、七年經つた今でも無念」(同上)と云ふに、其の形式を踏襲する總理大臣の政治權力に媚び、亦た一日千秋の如く「公人だ、私人だ」と言ひ訣する二重人格の政治家、靖國神社をして政治の渦中に投ぜしむる政治屋、或は「國家護持・首相參拜」請願一邊倒に終始し、靖國神社を「靖国、靖国」と呼捨てにし、昭和殉難者を「○○戰犯」と改稱連呼する自稱保守の輩に阿諛して、畏れ多くも聖旨を蔑ろし奉り、松平永芳・大野俊康兩宮司の「申送り・悲願・通達」を無かつたものとして扱ひ、其の大精神を、悉く踏みにじつた者は、抑も誰ぞや。



●泉水隆一翁の曰く、『靖國神社に祀られる英靈つて云ふのは、年輩者の方なら、もうお分りだと思ひますけれども、天皇の爲めに戰つた人達が祀られてゐるわけですね。皇軍兵士が祀られてゐるわけですね。日本の爲めに戰つた人達が祀られてゐるわけでは無いんです。明治天皇は、「よくやつた、可哀想だから祀つてあげよう」と言つて、祀つたわけでは無いんです。生きてゐる國民に、「お前達の忠義の心、その魂を受け繼がせろ」と。その爲めに、皇軍兵士を祀つたわけです。追悼施設なんて、誰も言つて無いです。「感謝もしてくれなくていゝ」と。要は、靖國神社に祀られる祭神・英靈は、「後を頼む」と、「後に續いてくれ」と云ふことで、い(逝)つたわけです』(『監督はかく語りき』)と。

 靖國神社「正統」護持を唱へた泉水隆一翁血涙の遺訓は、「承詔必謹」、「勤皇の風を吹かせよ」、「神國日本へ還れ」でありました。靖國神社の本義・正統に復さんが爲めには、斷々然として政治家・流行保守を境内より驅逐して、賀茂百樹・鈴木孝雄・松平永芳・大野俊康宮司の「軍務」を繼承し得て、靖國神社の清淨と静謐を死守しなければならぬ。



●映畫『凛として愛』に曰く、『日本軍に、援軍は來なかつた。ならば、今から援軍を送る。日本を變へる援軍を送る。あなた方の眞實を、痛みを、私達は傳へて行きます』と。

  「援軍」── 備中處士、慟哭して詠む ──
援軍の 來たるを待つに 横槍を 入れたる奴は たぶれ誰が奴
援軍を 送ると聞くに 幾年ぞ 未だ來らず 髮逆立つを
 
 

大詔奉戴日──終戰の日に、痛切に想ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月16日(土)23時37分49秒
返信・引用 編集済
  ●泉水隆一翁『靖国神社の真実』に曰く、

「十年ほど前から、「日本は無条件降伏したのではない。政府は無条件降伏ではなく、日本軍が無条件降伏しただけだ」と云う、妙な論旨が出回り始めました。自虐史観を粉砕し、日本人に誇りを持たそうとするお気持ちはようくわかるし、味方潰しみたいになるので言いたくないのですが、いつ自分が死ぬかわからないので言います。違います。法律論的にどうなのか知りませんが、皇軍が降伏したことは、日本が降伏したのです。皇軍が降伏すれば、日本は終わりです。日本政府は違うもナニモありません。当時の国民全員が、そう思っています。またもしあの時、「皇軍は一部条件付で降伏した。無条件降伏でないから、国民は落胆するな」など弁明したら、大暴動になるでしょう。「ならば、戦争続行だ!」 皇軍兵士に、条件付き降伏はないと云うのが鉄則です。

 「勝利か、降伏です」。山下将軍が降伏した英国軍人に、「イエスか、ノウか」を迫ったのは、短絡的でなく、イギリス軍将官に敬意を表して言われたのであります。「無条件降伏」だから、血気盛んな小生らも、「涙を呑んだのです」。潔さが、日本人の美徳です。日本の敗戦は、日本人の潔さが禍した、もっと上手く立ち回れ、外交が下手だ、狡猾にやれなどと、戦後、言われ続けていますが、それは戦後の発想。狡猾でなく、潔く戦い、身を挺し、国家に命を捧げ、「無条件降伏」を受け入れ、整然と軍を収めた皇軍兵士の名誉と誇りを貶めてはいけません。無条件降伏だから、兵士は号泣し、天皇陛下に申し訳なく、慟哭したのです。間違っては困ります。

 戦後、日本ではあまり知られていませんが、自衛隊が初めて海外航海に出た時、各国の軍人が最高敬礼したのは、現在の自衛隊員にではなく、かつての大日本帝国の軍人に対する敬礼であると、言われたそうである。自衛隊の方が語っている。またパナマ運河の機雷除去の掃海作業に派遣された海上自衛隊に対し、当時の敵側にあたるゲリラ部隊が戦闘を中止し、アメリカ軍を支援する自衛隊であるにも関わらず、数百人が整然と敬礼で迎え、「貴国の先人が、国のために身を挺し、敢闘されたことに敬意を表する」と、一斉に「捧げ銃」をしたことに感激したことを書いています。末代まで残る戦いを、皇軍兵士は展開しました。そのことは日本でなく、世界の軍人が知っていて、賞賛しているのです。軍人は栄誉を重んじます。潔さを重んじます。国家のために命を差し出します。「日本は無条件降伏していない」と云う論は、皇軍兵士の名誉を貶めるものと思って下さい。小生らは「無条件降伏」なので、大御心に(頭を)垂れ、敵愾心を収めたのです」と。

 又た曰く、「靖國神社は、『戦争を肯定し、殉国の思想を祀る軍国主義そのものであり、英霊の殉義死節を奉斎する神社』ぐらいのことを、びしっと書いてほしい。それが全祭神のお気持ちだろうと、小生は思う。靖國神社は、「善いも悪いもない」、こう云う神社なのである。軍国主義・(英霊)美化・戦争肯定と云う文言に、反撥ないし違和感を覚える人では、靖國神社を理解したり支えたりすることは不可能であろう」と。

 又た曰く、「醜の御楯と云えば、万葉の句に代表される有名な歌がある。

今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つわれは

 これの解釈は、『大君の命令が出た。最早、我が命のことも家族のことも顧みる必要はない。自分はこれから大君の御楯となって、敵の矢を受けるために、刃を受けるために出で立つ』、即ち――死を捧げます、と云う大句である。醜の御楯とは、戦いで勇戦することではなく、文字通り、天皇の楯となり、敵の矢を受け、覆い来る敵の刃を受ける――。即ち自分の命は楯として、「使い捨てて下さい」と、命を差し出す覚悟を云います。その想いを顕わしたのが、「醜の御楯」だと、小生は「聞きに来る者」あるときは、常に答えている。戦場に向かう兵士は、戦うことが重要なのではなく、命を捧げる誓約が大事です。「一応、命令ですから戦場には行きますが、自分の命が無くなったら怨みますよ」では、戦争は出来ない、将官は兵を「駒」のように動かせない。「命はいりません。どうぞ使い捨てて下さい」。これが「醜の御楯」であり、日本の戦争である。だから、精強皇軍と云う。「妻や恋人の為に」、恣意的に戦うのではなく、「天に代わりて不義を討つ」のが、皇軍なのである。

 大東亜戦争も同様である。大東亜戦争とは、「敵が幾萬あろうとも、天に代わりて不義を討つ」戦争であった。日本の戦争が「侵略戦争だった」とか、「人権無視の特攻作戦」とか、戦後人やサヨクがワアワア云うのは、勝手なことではあるし、自由であるが、その時代がわからないから、戦後の米国歴史観で、西洋的史観で、物事を見てしまい、無知蒙昧の徒になってしまう。まあ、仕方がないことだがね。その時代に生きていないから、まったくその時代を知らない。‥‥だが、戦前の日本は、まったく現代とは違う。似た所は、ほとんどない。そう云う解釈である。現代では、「大君」が理解できない。意味はわかるが、国民の心には、まったく投影されていない。刻印されていない。もう、まったく違う国柄である。

 「命を捧げる兵」がいるから、初めて将官は兵士を、後顧を憂うことなく、兵を敵の矢玉にもさらし、戦場に捨てることも、間髪をおかず、非業な命令さえも出来る。戦場で華々しく倒れるのも、船もろとも海底深く沈んだ輸送船の将兵、食料弾丸なくも餓死した将兵も、「醜の御楯」となって死んだのである。同じ忠誠を尽して死んだのである。だから、国家は尊厳をもってお祀りする。一視同仁。大君の思し召しで、靖國神社に御祭する。そう云う志操を理解できないと、日本の戦争は理解できない。「勝って来て下さい」と、同胞から歓呼の声を受けて出征して来た身である。敵の捕虜になることなど、なんで出来ようか。それならば、潔く死んで名誉を残す。瓦となって死んで行くより、玉となって散ることの方が、名誉ではないか。「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」(『北斉書』)。『立派な男であるならば、むしろ玉となって潔く砕けるべきで、取るに足らぬ瓦のようになって命を長らえるべきではない』。為に、大本営は将兵の名誉を重んじて、「潔く死ぬことを」命令した。これが玉砕命令である。「玉砕」は、「名誉」なのである。だから、生き残った者達、新しく命を産み継いだ戦後人は、敬謙に靖國神社に祀られる祭神に畏敬と尊崇をもって、社殿に伺候して、頭を垂れる必要があるのです。良い悪いではない。それを「侵略戦争」だの、「手先」だの云う人は、バチがあたるのです。本人にはバチが当っているかどうかは、なかなか分からないが、確実にバチは当っているのです。死ねば、はっきり分かります。地獄で閻魔が待っています。

 日本の戦争は、勝つことがよいことなのではなく、「大君の醜の御楯」として命を捧げ、「天に代わりて不義を討つ」(皇軍の本義)が重要なのです。それほど高みに立った戦争なのです。だから日本の戦争は、勝とうが負けようが、誇りに思うことです。靖國神社の正統を受け継ぐとは、日本の戦争そのものを誇りとする。そのことを原点に抱えないと、継承にならないのです」と。



 愚案、昨日は、
大詔奉戴七十年の日でありました。松平永芳宮司の曰く、「(政治家は、)遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました」(『讓ることのできない傳統の一脈』)と。松平宮司、凝視血涙の結論である。

 なほ現代の流行は、外國に向けて「不戰の誓ひ」・「恆久平和の誓ひ」を爲すと云ふ。靖國神社境内への政治家の侵入を、遠慮してもらふ秋に至つてゐるのではなからうか。民主主義を奉ずる政治家が來るから、報道機關が押し寄せ、靖國神社を巡る諸問題が惹起する。而して正午には、不敬事件も發生してゐたと云ふ。こゝは、「帝國の神祇」を祀る「一宗教法人」の齋庭でありませう。民主政治家の拘はる所ではありませぬ。遠慮して下さい。遺族を除く政治家は、「來て戴かなくて、もう結構。否、來るな」である。悲しみは彌益して盡きない。

【不敬事件──護國鐵拳隊長のブログから】
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「我が國」考。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 7月16日(水)00時06分6秒
返信・引用 編集済
  ●強齋若林先生『強齋先生雜話筆記』卷十三(彪邨岡次郎直養先生謹校。昭和十七年十月・虎文齋刊)に曰く、

「本朝と云ふ詞は、畢竟、吟味してゆけば、少しあたらぬぞ。尤もあの方に對して云つたときは、本朝ではあれども、一つ譯がある。あの方では、代がかはりて、宋の晉の齊の唐のと云つて移り代る故、今の朝廷を前に對して、本朝と云つたもの、此の方では、百王一統ぢやによつて、我が朝・我が邦などと云ふがよいはずぞ」と。



 愚案、稱呼「本朝」を嫌うて「我が國」を推重するは、淺見絅齋先生の師説を重んじたもの、蓋し我が國の稱呼は、『魏志倭人傳』を引くまでも無く、「我が國」と申し上げるのが最もよいと思はれます。「皇國」も、二字にて我が國體を表して、全く餘蘊なし矣。なほ宇内の本つ國の謂ひを以て「本朝」と稱ふるは、誤解を虞れなければ、甚だ吉からうと思ひます。たゞ現代流行する所の「この國」なぞと、我が國を稱呼するのは、洵に遺憾千萬であります。我が國は、我が天皇(「天皇」の訓、保田與重郎翁の如く、「すめらみこと」と御訓み申し上げたい)の大御國であります。時に盛衰がありませうとも、天地生拔きの正嫡、興亡の絶えて無き、皇御國であります。
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 本日は、塾頭歸幽の日、謹んで申し上げます。曰く、

「英霊」を口にする時、丁寧語のつもりで「ご」をつけて、「ご英霊」と云う風潮がありますが、おかしいからやめなさい。「お社長」と云うようなものです。「英霊」が尊称です。それと「英霊たち」と云う、「たち」と云う言葉は、これもやめなさい。「英霊」は複数形なので、「たち」をつける必要もなく、また「失敬」にあたります。確かに合祀祭の祝詞奏上の一文に、「英霊たち」と云う言葉はありますが、それは「神々に対して」、人間側の卑称として使われています。小生らにしてみれば、「聞き苦しい」。靖國神社の広報でも、ずいぶん注意していますが、やはり若い神官が多いので、つい「たち」をつけてしまいがちです。

 皆さんが正道に戻して下さい。東條由布子さんが、テレビなどで「ご英霊」とよく口にされているので、正しい呼称のように思われていますが、「英霊」と、直裁的に口にするのは、ご婦人には言いにくいので、東條さんは、「ご英霊」と言われているのでしょう。あの方は言葉がきれいなので、耳障りが良く聞こえますが、それでも間違いは、間違いなのです。でも、東條大将のお孫さんですから、私らではナニモ言えません。戦前は、ご婦人方が、英霊のことを口にするのははばかれるきらいがありましたから、なかなか難しいんですね。とりあえず下々の一般人である皆さんが、「英霊たち」・「兵隊たち」・「彼らは」・「ご英霊」・「横文字のシャツ」・「酒席での議論」、これだけは禁止事項にされることが望みです
」(『靖國神社の真実』)と。
 
 

改正憲法の文字遣ひは、國語正書法に據るべし──荒魂之會は訴へる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 7月13日(日)15時51分0秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 昭和五十年十月に、正統表記の護持とその普及とを目的として發足された「荒魂之會」は、昭和五十一年八月に、『あらたま』を創刊(年二囘刊)、同五十二年十月以來、國語國字正常化の提言「同胞各位に訴へる」を發表し續け、現在に至つてゐる。同憂の士の、注意贊同を乞ひまつる。



●荒魂之會・駒井鐵平翁『同胞各位に訴へる──再び、御(ご)の字は御(ご)の字の儘に』(平成二十六年六月八日)

────平成二十一年七月「御の字は御の字の儘に」の後半部分────

 葉山御用邸の語に見られる接頭語の御(ご)の字は、常用漢字表に「ご」の音が示され、御三家、御家人、五箇條の御誓文の如き歴史用語から、御用や御飯の如き日常語に至る迄、廣く使はれてゐます。地名では、東海道の宿場に御油があります。が、奇怪な事に、昨今では御の字を、かなで「ご」と記す例が目立つやうになりました。四月末日の新聞に見える某企業の「お詫び」廣告には、「ご愛顧」や「ご指導」の如き語が幾つも見られます。

 常用漢字表では、御の字に「お」の訓は示されてゐません。が、地名では、東に御茶の水や御成街道があり、西には御池通りがあります。御の字には「ぎよ」の音があり、これは常用漢字表に見られます。東京には新宿御苑があり、京都には京都御苑があります。皇室用語には、御製や御物の語があるのは古くから知られてゐます。が、これも奇怪な事に、歌會始御儀の報道に際しては御製の語が、正倉院展の報道に際しては御物の語が使はれてゐるのは、絶えて見られません。御の字には「おん」の訓があり、常用漢字表に示されてゐます。地名には、東に御宿があります。宛名の敬稱の御中や大相撲の滿員御禮は、今日馴染の語でありませう。御の字は、御の字の儘に。御の字一字の使はれ方に、常用漢字表の破綻が垣間見えると言へませう。

────

 「御」の字の難は續きます。伊勢の神宮の御遷宮の年である昨年平成二十五年から、御蔭の年の本年平成二十六年にかけて、一般の刊行物に「ご神体」や「ご祭神」の、面妖な表記を見出だして、言葉を失ひます。どういふ積りなのでせう。テレビの時代劇の捕物の場面で、捕り方の御用提燈に「ご用」と書かれてある例といふのは、小學生でも思ひつきますまい。殘念乍ら「御の字は御の字の儘に」と、改めて言はざるを得ません。



●國語問題協議會の聲明文「改正憲法の文字遣は、國語正書法によるべし」(平成二十五年十月)

 昭和二十一年十一月三日に公布された現行憲法が、占領下において、國家主權を奪はれた状態の中で、占領軍權力の強制によつて生れたことは周知のことである。今日、憲法改正の議が安倍政權によつて提起されてゐるのは、あらゆる觀點から當然の事である。

 ただ、占領下といふ不自然な状況下に生れた現行憲法が、現代假名遣の告示より、わづか二週間前に公布されたため、歴史的假名遣によつて表記されたことは、我々にとつて幸ひであつた。この僥倖を、改正憲法において、我々は自覺的に保守すべきである。

 現在、官府のみならず、學校教育、一般報道機關において行はれてゐる現代假名遣は、昭和二十一年十一月十六日に、時の政府によつて告示されたものである。この告示が拘束力をもつのは各官府だけの筈であつたが、その後、新聞ジヤーナリズム、出版界、やがては一般國民にまでひろまつて今日にいたつてゐる。(愚案、同樣に「教育漢字」は、小中學校教育に於いてのみ通用。今でも、しぶとく生きてゐるやうです。)

 この國語問題の背後に、GHQの意向がはたらいてゐたことは確かであるが、それが唯一の要因ではない。さかのぼれば、その淵源は、遠く明治期の文明開化の進展とともに生れた國語改良論にある。

 これに對し、當時、我が國に遺されてゐた厖大な古典文獻から、その標準となし得る正則を抽出する作業が、明治四十年代にほぼ完成してゐた。これを正書法といふ。正書法とは、洋の東西を問はず、語源にもとづく表記であつて、これが歴史的假名遣である。日本語が國語になるのは、正書法による。正書法を抛棄した民族と國家は、國語を抛棄したのも同じであり、國語を抛棄した日本人は、日本人とは言へない。

 現行憲法の發想法が、近代歐米憲法思想の恣意的適用によつて、歴史としての日本を見えなくしたやうに、正書法を抛棄した現代假名遣は、歴史としての日本語を見えなくするのである。歴史としての日本を取戻すのが憲法改正であるから、改正憲法の文章は、現行憲法のそれを蹈襲して、すべて正書法によつて綴らなければならない。

 右、宣言し、博く國民各位に訴へる。
 
 

一葉の落つるを見て天下の秋を察するに足り、一斑を見て全豹を卜するに足る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 7月12日(土)02時30分0秒
返信・引用 編集済
   平成二十六年七月五日、第四百二十四囘岡山縣愛國者協議會が開かれ、岡田則夫翁の『朗讀のための古訓古事記』(岸本弘翁編・平成二十三年十月刊)を用ゐた素讀・講義ならびに『あらたま』の紹介があつた。今囘は、相模國横濱より、時局對策協議會理事・同血新聞社「下山陽太」主てふ珍客參加を得た。岡田翁が讀まれた『あらたま』の一部を、こゝに紹介させて戴きたい。
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●桃太郎『風信帖』(平成二十六年六月。荒魂之會『あらたま』第七十七號)

◎本年平成二十六年一月十五日、皇居の宮殿松の間に於て、恆例の新年歌會始の御儀が行はれた。この席の陪聽者の中には、今年も亦、我が國の首相の姿は見られない。

◎東京新聞一月二十五日附朝刊九面に全面を費して、前日の二十四日に、安倍首相が衆參兩院の本會議で行つた、施政方針演説の全文が載つてゐる。ざつと目を通して、呆れたる事、第一。元號表示の排除。「東京五輪の一九六四年、二〇二〇年の東京オリンピック・パラリンピック、二〇一五年度、二〇一〇年度」等々。

第二に、御の字の排除。「ご冥福、お見舞、お願い、ご清聽」等々(註)。

第三に、米の字の音訓の分離。「コメの生産調整、日本は米国と手を携え」。凡そ、頭を使つてゐるとは思へない文章である。

◎東京新聞二月四日附朝刊一面に、「最古の日本語紙発見 京都、『1862年正月元日』発行」といふ小記事が見える。「京都市下京区の本草漢学塾『山本読書室』跡から見つかった新史料の中に、日本語の新聞としては最古の日付と見られる『文久二(一八六二)年正月元日』と印刷したもの」があるといふ。現物の寫眞が添へられてある。寫眞の中の文言を記す。

「大日本國文久二年壬戌正月元日、神武帝元年後二千五百二十二年」

とある。東京新聞の記事の見出しも本文も、何れも正しく史料の姿を示してゐない。自國の紀年法を正しく用ゐようとはしない安倍首相とは、好一對ではあるまいか。

◎東京新聞二月十一日附朝刊六面に、「建国記念日に初の首相談話」といふ記事が見える。「安倍晋三首相は、十日、十一日の『建国記念の日』に合わせて談話を発表した。『私たちの愛する国、日本をより美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにする』という内容」、「首相談話として発表するのは初めて」とある。

◎東京新聞二月十二日附九面の「首相の一日」欄の十一日を記す。「『午前』来客なく、東京・富士ケ谷の私邸で過ごす。『午後』2時22分、東京・六本木のホテル『グランドハイアット東京』。『NAGOMIスパアンドフィットネス』で運動。6時4分、私邸」である。呑氣なものだ。

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 本道に、々々ゝ、「呑氣なものだ」。之を聞いて、皆で嘲笑し呆れ合つたものゝ、悲しみが、彌益して襲ひ來る。何れの國の首相なのか。頼むから、御願ひだから、元號を用ゐて戴きたい。元號法によつて元號は、閏年決定の爲めの太政官布告によつて皇紀は、現在、法的に活きてをる事、此の首相は知らない。「米国」と友好を深めるのもよからうが、耶蘇暦を奉じて、恬として之を怪しまないとは、呆れて言葉を失つてしまふ。あらうことか、連立與黨の一角も、耶蘇暦大好きだから、在家日蓮主義も疑はしい。どちらにせよ、皇室の尊嚴を知らぬ、今どきの保守の代表に相違ない。權力鬪爭の爲めに、身體の鍛錬は缺かせないだらうが、紀元節奉祝には興味が無いのだから、初めての首相談話なるものも、まあ、言つてみたゞけだらう。

(註)「伊勢の神宮の御遷宮の年である昨年平成二十五年から、御蔭の年の本年平成二十六年にかけて、一般の刊行物に、『ご神体』や『ご祭神』の、面妖な表記を見出だして、言葉を失ひます。どういふ積りなのでせう。テレビの時代劇の捕物の場面で、捕り方の御用提燈に『ご用』と書かれてある例といふのは、小學生でも思ひつきますまい。殘念乍ら『御の字は御の字の儘に』と、改めて言はざるを得ません」とは、荒魂之會代表・駒井鐵平翁の訴へなり(詳細は後稿參看)。小生は、例へば「御自愛御專一」よりも「ご自愛ご專一」のはうが、讀手にとつて讀み易いのではと、勝手に存じてをりましたが、反省しなければなりますまい。

 事實だけを拾つて、首相の識見・本性を見拔く、鬼退治の「桃太郎」翁の筆力には、舌を卷く。發言は、たゞ一言、「呑氣なものだ」。寸鐵、骨を碎く。紙背に徹して讀まれたい。
 
 

「國」異體字考。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 7月10日(木)22時17分37秒
返信・引用 編集済
   舊稿を合纂して、「國」の漢字につき、諸賢の參考に供したい。



●千秋廼舍名越時正翁『新版・水戸光圀』(水戸史學選書。昭和六十一年七月・錦正社刊)に曰く、

「光國といふ名は、のちに光圀と改められた。その光圀を、はじめて用ゐたのは、天和三年十月ごろからである‥‥。しかしわからないのは、なぜ國を圀に變へたかといふことである。光國の文字は、家光からもらつた光の字と、『晉書陸雲傳』に、「聖徳龍興して、大國を光有す」といふ文句からとつたのであるが、これは九歳の時のことで、自分でつけた名ではない。やがて學問が進んでくると、國といふ字を名にするのは、どうも遠慮すべきことだと考へたらしい。ことに天和三年の頃は、靈元天皇の勅によつて、鳳足硯の銘を作り、それに對してお褒めの宸翰をいたゞき、さらに『禮儀類典』の編纂の勅命を受けた年で、これまでになく、皇室との關係の深まつた時である。かうしたことから、國の字を使ふのを遠慮して變へたのであらうと思はれる。しかし圀の字は、唐の則天武后が作つた文字であつて、則天武后といふやうな暴惡な女帝の作つた文字を、光圀が使ふのは、ふさはしくないことである。この理由は、今だにわかつてゐない」と。



 愚案、直ぐ浮かぶ推測としては、義公、「國・国」てふ字に憚りあり、故に彼の簒奪者の作字たる「圀」を敢へて用ゐるは、暗に幕府の專横を彼に比して、吾は其の家の子たり、故に自ら懺悔するならめと愚考したいが、名越翁が不明と仰るのだから、固より確信が無い。源實朝公の哥に、「ひんがしの 國にわがをれば 朝日さす はこやの山の かげとなりにき」とあるは、或は義公の心境、謹愼の極致ならむか。

 又た平野國臣先生の諱は、「或」を嫌ひ、「王」(玉に非ず)の俗字を用ゐられし由。「或」は人、皇國は「王」の國なりと云へり。其の戀闕の情、此に至ると謂ふべきか。教育漢字(當用・常用)では、「玉」の俗字を用ゐる。然らば神器の一を表す「玉」の方が、亦た穩當ならむとも謂ひつべし。

 亦た平田大壑大人はじめ、其の門流は、「八方」に非ざる「八土」の國てふ古字(『玉篇』)を用ゐられてをるものゝ、我が所謂國字にも見えず、其の據る所、果して如何。「禮」を用ゐず、古字「礼」と書くが如きか。

 持統天皇の御代、那須の評督(郡大領・郡司)に任命されし「那須國造・追大壹(八色四十八階制の第七色上階の爵位)なる那須直韋提」の墓(那須郡湯津上村に在り)が、延寶四年四月、陸奧磐城の髮長の圓順により發見され、馬頭村梅ケ平の里正・大金久左衞門源重貞は『那須記』を著し、天和三年六月七日、義公が馬頭村へ巡視の爲め來訪したときに該書を獻上、那須國造碑は、義公の知る所となつた。碑には冒頭「永昌元年己丑」(持統天皇三年)てふ則天武后の年號があり、義公と武后との縁故を見る。而して其の年(天和三年)の十月頃、義公は光圀と改名するのである。即ち此の十月とは、永昌の年號が、考證の末、武后の年號であることが明かになつた、正に其の時であつた。

【後補して云ふ。先般、水戸史學會『水戸史學』(昭和二十六年六月號。前會長名越時正先生歸幽十年追悼號)を得たり。中に、但野正弘翁『水戸義公の諱「光圀」考(一)』を收む。續きが樂しみなり。】

 手許に在る二三の字書に據るに、漢字「國」につき、次を拾ふことが出來た。まだゝゞあることでせう。

【くに】
土・地・邑・郷・邦・州
或・域・國
「口」=『字彙』に、「古文國字」。
「口に玄」=『龍龕手鑑』に、「國に同じ」。
「口に氏」=『龍龕手鑑』に、「國に同じ」。
「口に民」=『字彙補』に、「國に同じ」。
「口に八土」=『玉篇』に、「古文國字」。
「口に八一夕」=『字彙』に、「古文國字」。
「口に八方」=『玉篇』に、「古文國字、唐武后の作る所」。『正字通』に、「唐武后の時、言有り。國の中の或は惑也。武を以て之を鎭ぜむ。又た言あり。武は國の中に在つて、困と何ぞ異ならむ。復た改めて圀と爲さむ」。
「口に王」=『正字通』に、「俗國字」。
「口に玉」=俗字。
「口に臣戈」=『龍龕手鑑』に、「國と同じ」。

 又た或る御方より、「川面凡兒門下・中村文山翁の、最晩年の著作に、「口に皇」の「くに」を使つてをられた」由、御示教あり。更に舊掲示板にて、金剛満洲男樣てふ御方より、貴重なご埀示を賜つてをりますので、ご紹介したい。此の「或る御老人」は、蓋し泉水隆一監督、即ち我が塾頭でありませう。

 平成二十二年七月十六日、塾頭歸幽せられ、まもなく數へて五年、塾頭、眼の前に坐すが如し。塾頭に非ざれば、誰か爲す、次の言靈を。

**********

 或る御老人から、普段なにげなく言う「我が国」という言い方について、ご教示をうけました。曰く、

「我が国」というのは、天皇陛下が、この国をさして言われる御言葉である。国民からは、これを「君が代」とたたえ奉る。日本は、天孫降臨に際して、天皇が「王」として治める国とされた「天皇の国」であって、「国民の国」ではない。天皇と臣民が横に並んで、ひとしく「我が国」ということはありえない』と。

 靖國神社の御本殿に、次のような明治天皇の御製がおさめられている。

「我が国のためをつくせる人々の名も武蔵野にとむる玉垣」

明治天皇が国民と並んで、「我が国」と仰せになっているのではなく、大政奉還をうけて王政復古を令し、この国を「我が」国とされた。であるから国民は、

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

と、時に御代の安きを期して、天皇に命を捧げた
』と。

**********
 
 

靖國神社の御本質。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 7月 2日(水)22時05分6秒
返信・引用
  ●吉川正文翁『靖國神社の國家祭祀原理』(昭和四十五年、神道史學會大會發表。補訂して『志士神道と神社』昭和六十一年十月・神社新報社刊に所收)に曰く、

「第一に、靖國神社は、未だ死すべからざる方達の、死んで祀られる所であると云ふことであります。凡そ人の人たるは、不斷に生と死との境に立つて、道を踐むことにあります。死ぬには惜しい命を捧げることによつて、生きることよりも尊いものゝあることを明らかにする、此處に、自然の死ならぬ、血しぶく生命の永遠に燃え立つ姿を拜します。これを拜するところ、拜して、己れも斯の道を繼がうと志す、それが靖國神社です。「生ける身は 戰死せる身の 願ひをば 果たさむ爲に 厚き肌もつ」と詠んだ人を思ひます。繼述者が出ねば、御靈は安んじ給はぬのです。『萬葉集』の古からの歎き──、「唐衣 腰に取りつき 泣く子等を 置きてぞ來ぬや 母(おも)無しにして」。詠んで額けば、涙とゞまらぬ齋庭です。

 次には、此處は、哀しみ弔ふ爲に設けられたと云ふこと。一體、弔ふとは、どんなことか。有限なる我々は、死者の姿を目の邊りにすることによつて、誰人も生命の極限に立たしめられます。その悲哀は、直ちに、最も深い生命の活動に、惜しみなく踐み切る力と轉じます。後鳥羽上皇の隱岐に坐(おは)しての『無常講式』を御覽下さい。信長出陣の際の『敦盛』の舞を、そして乃木將軍『武運短急を祈る』の詩を──。人は祭りによつて御靈を己れに迎へ、弔ひによつて御靈に着いて行くのです。それは、單なる無常の悟りではない、「無常迅速、はかない生命ゆゑにこそ、進んで惜しみなく大義に捧げよう」と悟るところ、起つところです。革命の民の所謂宗教の、現世否定意識による供養や追悼、ミサの行事によつて達し得る境地でせうか。

 第三には、敕裁によつて、御靈の迎へられるのが本質とされたといふことです。人は己れの力ならぬ親から生まれますとゝもに、生命は生命自身の力によつて、其の根源に歸るでせう。その根源の親の心を、萬世一系に傳へ給ひ深め給ふ天皇の御招きといふものは、まさしく是れ生命の根源からの招きであり、敢へて革命的宗教の言葉を借りれば、「彌陀の招還の敕命」であります。故にこそ、此處は、宇宙の中で最も安住のところ、譽れあるところと云つてよいでせう。

 第四には、全國民の忠死の御靈の集ひ給ふ所です。全國の──、それ故に子々孫々も、そして「山河も 寄りて仕ふる 神ながら」の所、「大皇の 設(ま)けの御贄(みにへ)と 魚すらも 神代よりこそ 仕へ來」たつたと云ふ本質を具へて存する聖所です。こゝに於いて「國民皆兵」の道──悉く忠孝護國の爲に殉ずべきものたるべきこと、『軍人敕諭』は、武士道は、全國民の道なることが始めて肯かれ、それは極めて明瞭となるのも、此の神社有つてこそであります。

 第五には、神社の位置が語る精神であります。『木戸日記』によると、始めは上野東叡山の内にと考へられてゐました。そこは江戸城の鬼門、もと京都御所の鬼門を護る比叡山に習つたもの、即ち皇居守護の、最も要所難局を引き受ける姿と拜されました。が、大村益次郎の、「上野は亡魂の地」だから、といふ意見によつて、九段坂に決められたと云ひます。要所難局を引き受けて立つ志に出發して、更に亡魂の地を去つたのであれば、その志、一段と砥がれ清められたのであり、而かも進んで皇居に眞近くなつて、「さや」と云へば、直ちに刀の鯉口を切り得て、陛下の御側近にお仕へする、純正日本人の風姿凛然、此處に額く者の覺悟をせまる齋庭であります。

 第六に、其處に行はれる祭式です。これこそ、「神社も、宗教の中から脱けられない行事だ」と(革命的宗教陣營から)押へて來ます。が、一體、「人の禽獸と異なる所以」は、禮節の立つ所に見られるもの、それは親子の間に始まり、節度ある體制となつて、家を成します。其れを擴めて、萬人の信頼する現實の世の主を中心に結束する永遠の體制、これを眞の國家といふ。禮節によつて結ばれたその組織、即ち家國が、歴史的に續いて革命の無いところ、その禮節の形は、當然に民族の歴史風俗の整備されたもの──それは祖先に仕へる祭式となります。萬世一系の祭祀に結ばれる歴史國民が、祖先に習つた作法、祖先と結ぶ禮節、それはわが家運・國運と分離出來ることではありません。生命を捧げて「歸命」信頼すべき主體を現實に求めて得ず、やむなく觀念の中に描いて、これに縋つて、わづかに安心すべく創作された所謂宗教儀禮とは、まさに其の本質を異にして、是れは祖先の遺風であり、祖先と現在の國運、即ち國家國民生活とを直結してゐるものであります。これが、どうして宗教儀禮なのですか、一宗派と云へるのですか。我々は祖先なる祭神方と、斯の禮節作法によつて相見えます。祖先の禮節を傳へ、歴史を表現する祭式によつて、其處に神々の面影に接し、日本の姿を瞻(み)ます。世界の各民族にも、革命以前に遡れば、それゞゝに民族の初發に承ける、かけがへ無く嚴肅な、宗教ならぬ祭式がある筈です。

一筋を 踐みて思へば 千早ぶる 神代の道も 遠からぬかな

とは、明治天皇の深い御心ですが、祖先の祭式を國家が奉仕するとき、國家の體制に、神代の歴史が現れて參るのであります。

 最後に、靖國神社の、最も深刻にして壯大なる御本質は、かの所謂宗教の描く神祕的理想をも、それを彼岸・天國に飛び去らしめずして、現實の世界に引き戻すに死力を盡くすところたるにあります。即ちこゝは、世界の革命を、悉く革命以前の道に復古して、それゞゝの民族の永遠なる生命の祖先祭祀の護持の爲に、死力を盡くすところです。世界の革命に塗れた民をして、永遠の磨かれた親心に立つ道に、命をかけて復歸せしめる、最後の要塞たるにあります。我々は、此處にこそ、生命を捧げる究極の道を拜するのです。人類永遠の悲願を現實化するに、命をかけるところ、具體的歴史體系たらしめる據點たるところ、こゝ靖國神社であります」と。



 愚案、靖國神社國家護持──此の悲願は、遂に達成もかなはぬ時代となつた。戰後數十年は、臥薪嘗膽を心底に潛める政治家・國民が存した。其の時代には、靖國神社國家護持の宣言も、蓋し當然であつたらう。然し「自由主義と民主主義てふ價値觀」を公言して憚らぬ總理大臣の出現に、誰も憤怒も疑問も持たぬ世代に溢れ、今ま茲に、猶ほ靖國神社國家護持を叫ぶは、實に危きかな哉。彼の云ふ「國家」とは、何ぞや。主權を存するてふ、歐米もどきの國民の多數決にて、「天皇の神社」が穢されようとしてゐる。靖國神社に、絶えて不必要なるもの、それは、「からごころ」ならぬ洋魂、即ち「自由主義と民主主義てふ價値觀」である矣。

 平泉澄博士『意見十條』(『似鐵記』所收。近衞文麿公『寺内壽一陸相に與ふる書』の代筆なり。田中卓博士『平泉史學の神髓』續田中卓著作集五・平成二十四年十二月・國書刊行會刊に所收)の第六に、
「六、所謂政黨政治を破棄せらるべし。
 政黨政治と云ひ、議會政治と云ふ、名は異なれども、實質は一にして、其の根本思想は、フランス革命より出で、結局、政治を國民の自治と見、天皇を國家の機關と考ふるなり。曾て岩倉(具視)右大臣が、「下民、上を罔(あみ)するの路を牖(みちび)き、大權、下に移るの漸(ぜん)をなし、實に大祖以降、二千五百三十餘年、確然不易の國體をして、一變、復た囘す可からざらしむるの原因たるの虞あり」との深憂、近時、實現したるものに外ならず。この不逞を破る事なくして、國體を闡明し、大義を宣ぶること能はざるなり」と。

 皇國中興を期さんと欲する吾人有志は、靖國神社祭神の「繼述者」たる可く、自ら任じて立ち、「天皇の大權」の下に、一致團結、皇運を翼贊し奉らうではないか。
 
 

大祓詞四卷、奏上仕り候ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 6月30日(月)22時42分1秒
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  ●鈴本武一翁『氏神と氏子』(大正四年四月・誠之堂書店刊より所引。また昭和十年十一月改訂・五色屋書房刊。平成元年九月・山雅房覆刻)に曰く、

「大祓の神事に、恆例と臨時との區別あり。恆例の大祓は、一人一己の祓に非ずして、六月と十二月との晦の日に、宮中にて、百官人を始め、天下萬民の爲めに、種々の罪穢れを祓ひ清め給ふ神事なり。又た宮中にては、當時、大祓の式後、『節折(よをり)の神事』とて、天皇、及び皇后・皇太子の御爲めに、竹の枝を折りて、御長(おんたけ)の寸法を量り奉る、特別の御祓あり。因つて當日は、全國の官國幣社を始めて、府・縣・郷・村社に於ても、此の大祓の式を行ひ奉るなり。

 さて六月の大祓は、一月より六月までに犯せる罪穢をば、官より祓物[はらへつもの。過罪の、あがなひとして出だすもの]を出して、六月三十日の大祓に祓ひ清め、七月より十二月までに犯せる罪穢れをば、十二月三十一日の大祓に祓ひ清め給ふ。之を恆例の大祓と云ふなり。臨時の大祓とは、罪穢れある時にのぞみて之を行ふ。また平生、大祓の詞を唱ふることあり。そは、此の大祓の徳を以て、知らず識らずの内に犯せる、各自の罪穢れをば、祓ひ清めて、幸福を祈る爲めに行ふなり。故に氏子各自に對する御祭[氏神の御祭にも、此の祓の詞を奉唱することあり]などには、最も盛んに、此の大祓の詞を唱へて、觸穢を解除し、内心一點の疚しき事なく、清々しき人となるこそ、誠の敬神尊皇の民と云ふべきなれ。

 太古、伊邪諾尊、黄泉國に往きて、汚穢に觸れ給ひ、海水に沐浴して、祓除し給ふ。又た素盞鳴尊、高天原朝廷に於て、天罪を犯し給ふに方(あた)り、諸神、之を責めて、千座置戸[數多の祓物を出して、其の罪過の贖料(あがなひ)とす]を以て、其の罪を贖はしめ、天兒屋命をして、祓の詞を宣べしめ給へり。

 神武天皇、已に天下を平定し給ひ、皇祖天神を祭り、天兒屋命の孫・天種子命をして、天罪・國罪[國罪は、天罪に對して、此の國にて犯せる種々の罪を云ふ。天罪、上に出づ]を解除せしめ給ふ。又た十四代仲哀天皇崩御の時、皇后・息長足姫命[亦た神功皇后と申す]は、武内宿禰に命(おほ)せて、國の大幣(おほぬさ)を取つて、天罪・國罪を求めて、諸國の大祓を爲さしめ給ふ。四十二代文武・六十代醍醐兩朝の官制に、天皇踐祚大甞祭[御即位後に行はせらるべき、御一代一度の大祭]の御時には、大祓使を諸國に遣はして、大祓を行はしめ給ふことに定めさせたり。

 因みに大正二年七月三十日は、先帝陛下の御一年祭に當らせ給ふを以て、當日、一年祭御終了後、御尊靈は、皇靈殿に移御し奉り、然して後、宮城二重橋門内にて、大祓の式を擧げさせられ、此に全く宮中の御大喪は解除さるゝに至るべしと拜承す。こは、元より上古の御制度に准(よ)らせらるゝ御事にて、各氏子の家々にても、忌明など[五十日・百ケ日、或は一周忌など、宗旨の如何に拘らず、家々の都合にてよろし。又た病氣、其の他の事故にて行ふことも、數多あるべし]には、土地の神官を招きて、大祓の式を行へるは、全く朝廷の御儀式に傚ひ奉れるなり」と。



 愚案、本日は大祓。然し太陰太陽暦の六月三十日に行ふ神宮・神社あり、太陰暦(今年は、太陰太陽暦七月二十六日)に擧行する神主あり、或は關西に在ては、「夏越」てふ御名に應せてか、一箇月遲れの七月三十一日に行ふ産土神社あり。然れども『大祓詞』に、

「如此く所聞食しては、皇御孫命の朝廷を始めて、天下四方國には、罪と云ふ罪は在らじ」

とあれば、大祓式の齋日に統一なきは、好ましからざるものありと恐察す。擧國一齊の御式に非ざれば、蓋し氣線の亂れ、靈的國防の全からず、果して是れ、如何ぞや。或はいづれの日も尊びて、之を懇祈解除すと雖も、或は神道人の、斷然、熟思默考を要する所なるべし。

【はゆまつかひ樣『大祓』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/33

 こゝに、贈正五位・加藤錦山神社祠官兼少講義・敬神黨副首領・加屋榮太霽堅翁(諡は大御門護嚴矛神靈)の言靈を仰いで、諸賢の參考に供すと云爾。



●荒木精之翁『神風連實記』(昭和四十六年十一月・新人物往來社刊)に曰く、

「加屋(霽堅)は、またある時、和歌の會の定日をたづね、それが新暦か舊暦かを問ふた時、辻橋見直(玉名大神宮祠官)が、
『むろん、舊暦です』
といつたら、加屋は、
『新暦に一定した方が便利ですよ。太陽暦も、大君の御採用になられたものなれば、正しく日本の正朔です』
といつた。
『しかし正月といつても、季節が合はないでせう』
といふと、
あなたは知らないのか。大君は神にしませば、といふでせう。大君の用ゐたまふ以上は、必ず新暦にして、正月に梅も咲きいづるだらうし、氣候も正月めくに至るでせう
といつたといふ」と。
 
 

氏子と共にあつて、ひたすら神樣を拜する神主たれ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 6月 1日(日)17時37分26秒
返信・引用 編集済
  ■寒林平泉澄先生『遺詠』(寒林先生一年祭に、平泉洸先生より拜戴せし色紙複製)

怒り無し 怖れあらめや 我は只 いにしへの道 今にふむのみ



 日本學協會編『平泉澄博士神道論抄』(平成二十六年五月・錦正社刊)の上梓を見た。ご令孫・平泉隆房博士「神職としての祖父平泉澄」から、平泉寒林先生の玉聲を紹介したい。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/296

 其の論文十九編の大概は、既に拙稿『靖國神社考』や本掲示板・スレツド等にて、再々紹介させて戴いた所であるが、是非とも本文を手に執つて、其の全體を見られむことを。
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

 亦た靖國神社に直接關係する遺文拾遺は、次に拜記させて戴いた。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/l50



「わし(平泉澄先生)が(昭和十六年、神祇院)參與になつた時、もしもお父樣(清泉平泉恰合白山神社宮司)が生きてをれば、さぞ、お喜びであつたことと思ふ。白山社の社司の家に生まれて、長年、神域近く仕へてきたものゝ、大學にとゞまり、神社に何らのご奉仕もできずにゐたことでもあり、わしも嬉しかつた。昭和十年頃より、神職講習會の講師といふことで、明治神宮に參上したことが、何度かあるだけだ。」



「その日[昭和十六年七月十七日]、内務大臣官邸で會議があつた。神祇院より飯沼副總裁・石井總務局長・宮村教務局長、參與として山田孝雄博士・吉田茂氏[のち神社本廳事務總長。首相の吉田茂氏とは別人]・今泉定助氏・高山(昇)氏・桑原氏・宮地直一博士、宮内省から岡本參事官が來てをられた。この日の議題で重大だつたのは、明治の末に、神社合併によつて廢止せられた神社のなかで、復活すべきものを調査した結果の概要が、總務局長より報告せられたことだつた。わしは非常に嬉しくなつた。ところが意外なことに、高山・桑原兩翁が、依然神社合併策を良しとされて、復活に反對された。そこで、わしは反對意見を述べた。

『神道がずつと不振であつた原因は、当局が神社の形式のみを整備しようとして、神社の廣さ・氏子の數・資産等に、種々の制約を設けて、不適格なものを、表面上は合併の名のもとに、事實上廢止し、少しも由緒や信仰として顧みないことにあるのであります。かゝる形式的なものとして取り扱ふ以上、世間の人々の信仰は薄らぎ、神社のさびれゆくのは、當然のことであります。延喜式内社の古いお社が、由緒もない新興の村社に併合され、村人が畏敬してきた神の森は伐採開墾され、傳統は破壞され、信仰は蹂躙されてきたのです。私は、年來これを遺憾としてきたのでありますが、今日、当局が、昨日までのそれを非とされ、方針を一變されたことは、誠に感謝に堪えないところであります』と。

 幸ひにも山田・今泉・吉田の三氏も、わしの意見に贊成、かくして明治四十年代の合併は、これを否定することに決した。しかし先輩に對して、公然と間違ひであつたと言ふのもどうかといふことで、氏子の熱望に應じて復活するのを默認することに落ち着いた。」



「戰前も戰後も、神職界を見ると、大體二通りの神主がをる。一方は、神樣に對して尻を向けて、自分が神樣になつたくらゐの氣分で、氏子や庶民に、神道やご祭神の徳を吹聽し、説教する神主だ。意氣込みは良いとしても、お前(令孫の隆房博士)は、決してこのやうな神主になつてはならぬ。もう一方は、氏子と共にあつて、氏子と一緒に、ひたすら神樣を拜する神主、お父樣(寒林博士の尊父・清泉宮司)がさうだつた。お父樣を見習つて、立派な神主になるんだ。」



 更に平泉隆房博士の曰く、「某氏が著者(寒林先生)に、かう言つたのである。『私が幼い頃に、あなたのご尊父(清泉宮司)の祝詞を聽いて育ちました。少年の日に東京に出て働くやうになつて、實に多くの神社で、祝詞を聽いてきました。しかし低く重々しい祝詞に、どうしても飽き足らず、今日まできました。今日、たまゝゝ故郷に一旦歸つて、祭禮にも參列し、久々にさはやかに清く澄んだ祝詞を聽きましたが、祝詞は、さういふのが良いのです』。著者が、白山神社宮司として、神前で奏上する祝詞は獨特なものであつて、谷省吾教授が、著者の神葬祭の際に、齋主として讀まれた『葬祭詞』に、「銀の御鈴なす、清く透れる御聲」と表現されたのは、まさにその聲のことであつた。‥‥

 祖父(寒林先生)は神佛を尊び、ひたすら神佛に祈り感謝する日々であつた。毎朝、平泉寺(越前白山神社)でも、品川(東京)でも、神前に額づき、就寢前には、白山の神を拜し、それは終生變はることがなかつた。旅行先でも、もちろんである。‥‥祖父の歸幽は、昭和五十九年二月、數へで九十歳、生涯を青袴の一神職として、ひたすら氏子と共に神を拜み、神に仕へた一生であつた」と。
 
 

謹みて賀し奉ります。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 5月27日(火)17時50分55秒
返信・引用 編集済
  宮内廳發表──平成二十六年五月二十七日──

『 典子女王殿下には、本日、千家國麿氏と、ご婚約がご内定になりました。



 青天の霹靂の如き報道に接し、眞實に慶祝至極の御事と拜承恐察いたします。昨年、神宮の式年御遷宮と大社六十年ぶりの御遷座が重なり、如何なる御事ならむと存じ上げてをりましたが、かやうな御慶事がありませうとは、無上無比の歡喜で一杯あります。

 出雲國造家は、
天照大御神の
皇太子・正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊の御弟君・天穗日命の御血脈。こゝに、
皇室と、皇國の最古最尊の門閥家との御妙契、悠久の歳月を中にして、更に深く結ばせられようとしてをります。雲上、綾に尊き高圓宮の日女殿下と出雲國活神樣の御嫡男樣と‥‥。亦た天神地祇の宏謨神算に、只管ら々々ゝ畏むばかりであります。天地の神祇、よりてまつらふ、神の御代かも。正に皇大御國、不滅の證明であります。

 第七十五世・第八十四代出雲國造・千家杖代彦出雲宿禰尊祐大社宮司の曰く、

今度びの御内定につきまして、大變畏れ多きことではございますが、誠に目出度き事と、感謝申し上げてをります。大きな慶びを戴きました事を、有り難く存じてをります」と。



○天皇は 神にしませば 君が代は この世ながらの 神代なりけり(千家尊孫大人。『出雲』創刊號)

○殿内に、客座五神あり。こは、もと大國主命の祭祀せられし神々なり。故に社殿と同じく南面し給ひ、大國主命御自身は、脇座に在りて、西面し給ふ(千家尊福大人。『神祇志料』)。

○君が代の もとゐ杵築の 宮柱 貴(たか)きみかげを 仰がざらめや(尊福大人)

○幽冥(かくりよ)の 神のめぐみし なかりせば 靈の行方は 安くあらめや(尊福大人)

○年の始の 例とて 終りなき世の 目出たさを 松竹立てゝ 門ごとに 祝ふ今日こそ 樂しけれ。
初日の光 さし出でて 四方に輝く 今朝の空 君が御影に たぐへつゝ 仰ぎ見るこそ 尊けれ(一月一日。尊福大人)



【出雲大神】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1707
 
 

生きては、忠義の大和魂を、骨髓に填め、死しては、忠義の鬼と爲り、極天、皇基を護らむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 5月18日(日)12時50分56秒
返信・引用 編集済
   眞木和泉守の辭世の哥(眞蹟。元治元年七月二十日、三條實美公に贈る)

大山の ミ祢の岩祢(峰の岩根)に 埋にけり わがとし都き(我年月)の 大和魂

に云ふ、「大和魂」とは、何ぞや。

 訓詁的には、大和魂(日本魂・倭魂・和魂・皇國魂・大和心・日本膽)とは、

一、處世の才能。世々に賢きこと、即ち學事に耽るとも、世事に迂遠ならず、事に對して頑固ならぬこと。而して漢學の力に頼らず、獨り自ら活動するを得る心・魂(氣力)の名なり(後拾遺集俳諧・源氏物語卷二十一・大鏡卷二・今鏡・愚管抄卷三)。

二、日本人獨特の元氣・勇氣は、即ち不撓不屈・堅忍持久の精神、不敗必勝の精神、愛國・尚武・廉潔・義侠の精神なり。其の本源は、絶對大忠の心より湧出する所の國民的自覺の精神の名なり。

を云ひ、主として「一」の謂ひから、近世に至り、埀加・國學諸家の解釋、志士・國民の鼓吹によつて、やがて「二」に轉ぜし、或は千古の眠りより醒めし、日本固有の精神を謂ふなり。こゝに云ふ「志士」とは、「家庭の恩愛の情に流されず、やむにやまれぬ戀闕の憂憤によつて、召されざるに起ち、革新の渦中に投じ、大義に生きし人々」(鳥巣通明翁『戀闕』の「眞木和泉守の立場」昭和十九年九月・朝倉書店刊。平成九年四月・青々企画覆刻)の謂ひである。



■明治天皇御製

いかならむ 事にあひても たわまぬは わがしきしまの 大和だましひ

事しあらば 火にも水にも いりなむと 思ふがやがて やまとだましひ

思ふこと つらぬかずして やまぬこそ 大和をのこの こゝろなりけれ

國といふ くにのかゞみと なるばかり みがけますらを 大和魂

くろがねの まと射し人も あるものを 貫き通せ 大和たましひ

とき遲き たがひはあれど 貫かぬ ことなきものは まことなりけり




●諸家の哥

なにゆゑに 碎きし身ぞと 人問はゞ それと答へむ 大和魂(谷川淡齋先生)
敷島の 大和心を 人問はゞ 朝日に匂ふ 山櫻花(本居宣長大人)
漢に才 やまとに魂(たま)と 教へてし 神の御語の たふときろ哉(一に「かしこきろ哉」。平田大壑大人)
皇一人 知ろし食せとて 花木に 書く漢文字ぞ 日本魂(佐久良東雄翁)
打てば斬り ふるればほふる 劍おひ 股はくゞらじ 大和魂(清川樂水翁)
備へとは 艦や砲との 謂ひならず この敷島の 大和魂(吉田松陰先生)
かくすれば かくなるものと 知ながら 已むに已まれぬ 大和魂(吉田松陰先生)
身はたとひ 武藏の野邊に 朽ぬとも 留置まし 大和魂(吉田松陰先生)
斯て世に 有らむ限りは 山科の 止まず盡さぬ 大和眞情(まごころ。有馬正義翁)
玉の緒は よしやなかばに 絶ゆるとも 朽ち果つべしや 倭たましひ(中山忠能公)
誰が身にも ありとは知らで まどふめり 神のかたみの 日本魂(野村望東尼)
打たばうて 碎かばくだけ 碎くとも 身にみがきえし 大和魂(平野國臣翁)
はれ曇り しばし霞の かゝるとも うごかぬものは やまとだましひ(平野國臣翁)
山ざくら にほはぬ國の あればこそ 大和心と ことはりもすれ(橘曙覽翁)
火もて燒き 水もて消せど 變らぬは わがしきしまの 大和魂(河上彦齋翁)
大君の 御楯とならん 身にしあれば 磨かざらめや 日本こゝろを(乃木希典將軍)


●『菅家遺誡』卷一に曰く、

「一、凡そ神國一世無窮の玄妙なる者は、敢へて窺ひ知る可からず。漢土三代周孔の聖經を學ぶと雖も、革命の國風は、深く思慮を加ふ可き也。

一、凡そ國學の要する所は、論、古今に渉り、天人を究めんと欲すと雖も、其の和魂漢才に非ざるよりは、其の閫奧を闞(うかゞ)ふこと能はず矣[右、二則は、『遺誡』中の眼目也。既に北野神社東の碑に記す焉。漢籍を學ぶ者は、心を用ふ可きの第一也]」と。
  ↓↓↓↓↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543229


●山田孝雄博士『菅公の識見』(北野神社編『菅公頌徳録』昭和十九年七月・官幣中社北野神社奉贊會刊に所收)に曰く、

「公は、その漢學の才に至りては、白樂天の再來なりと、渤海の使をして驚嘆せしめたる人、本邦の鴻儒をして、文道之大祖と仰がしめ、近き頃まで、國民の教育の祖神として祭られたる人なり。かくの如く漢才に富める人にして、然も眞の日本人たるの雄偉なる識見を有せらるゝこと、誠に驚嘆するに堪へたり。後人、和魂漢才の語を唱ふるや、人、皆な期せずして之を菅公の言とせり。これもとよりその實を證すること能はずといへども、若し古來の偉人にして、眞に和魂漢才の語に當るべき人を求めむとせば、恐らくは、公は唯一の人ならむ」と。


●山本信哉博士『和魂漢才』(『國學院雜誌』第三十四卷第四號)に曰く、

「和魂とは、『やまとだましひ』、又は『やまとごころ』ともいつて、日本民族固有の精神を謂ふのである。日本人たるの自覺を以て、國家の爲め、天皇の御爲めに獻身的行爲・犠牲的動作を實行する國民性を謂ふのである。我々日本人が、天皇の御命令に絶對服從するのは、屈從に非ずして、自由意志である。義務でなくて、權利である。この精神を有せずして、徒らに漢才、即ち『からざえ』を修め、支那の文化に心醉するのは、寧ろ有害無益であるが、さりとて和魂のみで漢才の無いのも、亦た頑固固陋で宜しくない。妙は和魂と漢才とを兼備する所に在るといふのが、和魂漢才の要訣である」と。


●友清歡眞翁『吾等が道標』(昭和二十年九月七日記。『春風遍路』・『全集』卷五に所收)に曰く、

「斬つたり殺したりすることが、『やまとだましひ』ではない。『やまとだましひ』といふ言葉は、紫式部の『源氏』に書いてあるのが初見であらうし、『やまとごころ』といふのは、同時代の御堂關白道長の室倫子に仕へた女官の赤染衞門の歌に出てゐるのが初見であらうし、‥‥『源氏物語』をとめ卷に出てゐる大和魂といふ言葉の意味は、多くの學者によつて誤解されたまゝで傳へられて來たやうで、當時の新思想たる漢學を才[ざえ]を本とし、大和魂を末としたかのやうに解されたが、事實、其の反對で、才は種々あるが、やまとだましひが本でなくてはならぬことを、紫式部は強く主張してゐるので、これは、其の當時の漢學は、表向き男子の獨占するところであつたので、それに對する女性の立場からの抗議の意味も含まれて居るのである。そんなら、大和魂は何であるかといふと、今から五百年前、一條禪閤兼良は、大和魂に定義を與へて、『わが國の目あかしになる心なり』といつた。近ごろの言葉に直せば、我が國の指導精神といふこゝろであらう。これは如何にも立派な定義で、我が國の目あかしとなる大和魂が、すべての基本となつて、世界への文化も世界への平和へも、力を及ぼして行かねばならぬのである。‥‥

 平安時代の原義による『やまとごころ』は、即ち大和魂であつて、それが『わが國の目あかしになる心』である。この本來の、純潔な、媚態も嬌態もない美、すなはち其の『うるはしき心』(何の濁りもなく、崇高な清く匂やかな美を、言葉にうつせり)は、神典にある『清明心』であり、又た『平心』である。その本來の『やまとごころ』が『我が國の目あかしになる心』であつて、これは決して昔のことでなく、今日に於ても明日に於ても、特に國民の注意を要する重大なことであると思ふ。やまと心は才の本になるもので、藝術も科學も産業も、要するに才であるが、その本は、必ず『やまと心』でなければならぬ。これは民族の優越感とか、お國自慢とかいふやうなものではない。世界共通的なものであると思ふ。東洋であれ西洋であれ、古來の大詩人や大藝術家や大哲學者や大宗教家や大科學者に共通するところのものである。この本來の意味の『やまと心』が、新しき才と正しく調節されて進むところに、人類の新しい理想境が描かれるものと信ずる。世界の人々はそれゞゝの立場から、又た同じ日本民族でもそれゞゝの立場から、其の目標に進むべきものと信ずる」と。


●若林強齋先生『神道大意』(谷省吾翁『神道原論』昭和四十六年六月・皇學館大學出版部刊に所收)に曰く、

○京都市眞言宗阿刀家所藏本(淡齋野村新左衞門正明自筆・強齋先生朱批)「志を立つるも、此の形は氣のつゞくほど、つゞいてくちはつる事ぢやが、それは形あるものは、始めがあれば終りがあるはづは知れた事、あの天神より下された面々の、このみたまは、死生存亡のへだてはないゆゑ、この大事のものを、生きては忠孝の身をたてゝ、どこまでも[(朱批)即今、忠孝の身となして]、君父にそむき奉らぬ樣に、死しては[(朱批)君父にそむき奉らぬ樣に、其のなりにどこまでも]八百萬神の下座につらなり、君上を護り奉り、國土を鎭むる神靈となる樣に、と云ふより外、志はないぞ。ぢやによつて、死生の間にとんぢやくはない。‥‥末の世ぢやと云うて、吾れと身をいやしめふ樣もない事。天地も、古の天地なり。日月の照臨も、今にかはらせらるゝ事なければ、面々にきたなき心をもたぬ樣に、常に幽(いう)には、神明を畏れ、明(めい)には、上に事へまつり、下をいつくしみて、萬事すぢめにたがふ事なければ、我が身一分の日本魂は失はぬと云ふものゆゑ、餘所を見る事も、何にもない。只だ我が志のつたなき事、我が身のろくにない事をなげいたがよいぞ」と。

○伊豫大洲常磐井家所藏本「志を立つるといふても、此の五尺のからだのつゞく間のみではない。形氣は衰へうが、斃れうが、あの天の神より下し賜はる御玉を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命(かへりことまを)して、八百萬神の下座に列り、君上を護り奉り、國家を鎭むる靈神となるに至る迄と、ずんと立てとほす事也。さるによりて、死生存亡のとんちやくはなき事也。‥‥末の世というて、我と身をいやしむべからず。天地も、古の天地なり。日月の照臨も、今にあらたなれば、面々の黒心(きたなきこゝろ)を祓ひ清め、常々幽(いう)には、神明を崇め祭り、明(めい)には、君上を敬ひ奉り、人をいつくしび物をそこなはず、萬事すぢめたがふ事なければ、おのれ一箇の日本魂は失墜せぬといふもの也。餘所を見て怨み尤(とが)むる事なく、たゞ我が志のつたなき事を責め、我が心身のたゞしからぬ事のみをうれひ、冥加を祷りてあらためなほすべし」と。


●松岡渾成翁『神道學則日本魂』第三則に曰く、

「第令(たと)ひ儒生・釋徒・異端・殊道の頑、村甿(農)・野夫・賈販・奴隷の愚なるも、悃悃欵欵(こんゝゝくわんゝゝゝ。至誠)、國祚(皇位)の永命を祈り、紫極(御所)の靖鎭を護る者は、此れを之れ日本魂と謂ふ。予、呶呶然として此の如く、其の已まざる所以の者は、實に日本魂の教の著れざるを懼るれば也。辯を好むに非ざる也。學者、諸れを諒せよ」と。


●藤田東湖先生『常陸帶』に曰く、

「おほよそ神國に生れむ人々は、一人づつも大和魂を礪ぎ、一人づつも猛きわざを學び、邪なる教もて誑かざるゝとも、露だに心を動かさず、おほけなくも穢き夷狄の寄せ來らむ事有らむには、煙の下より一さんに馳入り、八尋の矛・十握の劍、思ふまゝに打振りて、彼の鼻高く眼入りたる奴原、一人も殘さぬ許りに、憂き目見せたらむには、いかに心地よきわざならずや」と。


●平田大壑先生『靈能眞柱』に曰く、

「この築き立つる柱はも、古へ學びする徒(とも)の大倭心の鎭りなり。然るはこの柱の固めは、底つ磐根に築き立て、千引きの石の堅固めずては、その言ひと言ひ爲しと爲す、言にさへ事(わざ)にさへ柱なくて、桁・梁・戸・窓の錯(きかひ)鳴り動き、引き結べる葛目の緩び、取り葺ける草(かや)の噪(そゝ)ぎつゝ、夜目のいすゝき、いつゝしき事なも、これに因りて出で來める。然のみならず、その靈の行方をだに鎭め得ずて、潮沫の成れる國々、いな醜目、穢き底の國方(べ)の國より、荒び疎び來し説に、相率(まじこ)り相口會へむとするも多かるを、見るに得堪へねば、いかでその心の柱を、太く高く磐根の極み築き立てさせ、鎭めてまし率らせじと、思ふまにゝゝ、屋船神の幸ひ坐して、築き立てさせし此の柱よ。はたその因(ちなみ)に彼處や此處へ遊(うか)れ行く靈の行方も、尋(と)めおきて鎭めに立てし、これの柱ぞも。

眞木柱 太き心を 幸へむと 進(そゞ)ろ心は 鎭め兼ねつも

 古へ學びする徒は、まづ主と大倭心を堅むべく、この固めの堅在らでは、眞の道の知りがたき由は、吾が師(本居宣長大人)の翁の、山菅の根の丁寧ろに教へ悟しおかれつる。此は磐根の極み突き立つる嚴し柱の、動くまじき教へなりけり。斯くてその大倭心を、太く高く固めまく欲りするには、その靈の行方の安定(しづまり)を知ることなも、先なりける。‥‥

 たまゝゝも大御國へ射向ひ奉る夷のありて、翁の御心をいためまさば、この篤胤がまかり向ひ、見て參り候はむと、賊の軍中に翔入りて、蟻の集へる奴原を‥‥追しき追伏せ、‥‥蹴散らかしうち罸め、山室山にかへり來て、老翁の命に復命まをしてなまし。あな、愉快かも。此は、篤胤が常の志なり」と。


●平田大壑先生『玉襷』卷一に曰く、

「人の國にては、文武とついでて、文を重き事にすめれど、我が皇神の道は、武の道ぞ、文にまさりて重かりける。其は武とし云へども、弓箭・劍戟を用ふる術のみを云ふに非ず。神武にして雄々しき倭心ぞ、本なりける」と。


●川合清丸翁『大和魂』(明治四十年九月・日本國教大道社刊)に曰く、

「此の(大和)魂の、高尚優美にして、麗しく嫻(みやびや)かなる氣品は、我が天度の中正和暢なる所より産み出だされしものなるべし。又た其の剛毅果斷にして、雄々しく逞しき氣勢は、我が地形の嶮峻雄拔なる所より産み出だされしものなるべし。又た其の和樂愷悌にして、安らけく樂しき氣象は、我が人種の國産國出なる所より産み出だされしものなるべし。又た其の忠勇義烈にして、猛く勇ましき氣概は、我が皇統の神聖無比にまします所より産み出だされしものなるべし。又た其の尊嚴、武を尚ぶの嚴(いかめ)しく尊大なる氣質は、我が國體の卓犖不群なる所より産み出だされしものなるべし。又た其の虚懷、衆を容るゝの裕に優しき氣宇は、我が宗教の天を覆ひ地を載する所より産み出だされしものなるべし。又た其の職を勵み業を勉むる忍耐の氣力は、我が道徳の天に報い地に答ふる所より産み出だされしものなるべし。又た其の己を捨てゝ人を救ふに任侠(じんけふ)の氣骨は、我が風俗の強を挫(ひし)ぎて弱を扶(たす)くる所より産み出だされしものなるべし。

 我が大和魂の生れ故郷は、斯くの如く宏大に、斯くの如く深遠なれば、彼の儼乎として易ふべからず、確乎として拔くべからず、凛乎として犯すべからざる氣象は、謂はゆる附燒刃の切れ味には有らで、是れぞ眞の無垢鍛(ぎたひ)より生ずる所の作用なるべき。再言すれば、天地間の衆善衆美を集めたる精氣が、天地間の至神至聖を極めたる寶祚と、相結托し相煥發して、天地の間に生(は)え貫きたるものなけば、長き間には、時運の泰否に因りて、消長汚隆はこれ有るべきも、隱れしかと思へば復た發顯し、廢れしかと思へば復た勃興して、天地の在らむ限りは、活動變化、極まり有るべからざるものぞ。因りて憶ふに、從來、古人が此の魂の全體大用を辯論し置かざりしは、中々に其の信ずる所の深く、頼む所の厚かりし故にや有らむ」と。


●村山惣作翁『タマシヒの安定は鎭守樣から――日本精神の本義顯彰は産土神信仰から』(昭和十二年九月・五色屋書房刊。平成元年六月・山雅房復刻)に曰く、

「天皇陛下の寶祚無窮を使命とせられて、出雲大神主宰の基に、各土地々々の幽政萬般を掌らせ給ふ産土神は、我等國民をして、一意專心、陛下に仕へ奉らしめんが爲め、萬物を守り惠み幸ひ賜ひ、同時に我等個人々々の正邪曲直を審判して、道徳の根源を把握し給ふ、最も縁深き親神樣なり。此の故に産土神奉齋の根源は、天皇陛下の御爲なり。而して大和魂や日本精神の本源は、實に産土神の御意志にして、此の御意志を己が意志にすること、即ち産土神信仰の最奧義たり。是れ「日本精神の本義顯彰は産土神信仰から」と絶叫する所以にして、産土神を信仰してこそ、日本人本來の熱も力も勇氣も安命も得らるゝなり。而して産土神は國魂の神であり、地主の神であるが故に、此の神を信仰することは國魂信仰にして、其の國魂を基として祀り信仰してこそ、其の土地は治まり、萬物に處を得せしむる所以にして、其の具體化せるもの、即ち神社(鎭守)なり」と。
 
 

恐惶恐懼して稽首。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 5月12日(月)00時11分36秒
返信・引用 編集済
   昨日、第四百二十二囘岡山縣愛國者協議會月例會に參加。岡田則夫翁より、幡掛正浩翁『皇家第一の重事』の文章ご紹介の後、

一、日野西資博子爵『明治天皇の御日常──臨時帝室編集局に於ける談話速記』(『明治天皇御紀』の爲めの聞取り。昭和二十八年二月・祖國社刊。五十一年七月・新學社教友館刊)により、神宮式年造替につき、明治天皇の聖旨を拜聽。
  ↓↓↓↓↓
http://www.ttcc.or.jp/chair/report/deac51eb11

【明治天皇の御沙汰】

「その御沙汰は、建築の方法はだんゞゝ進歩をする、今後もますゝゝこれは進歩するに違ひはない。さういふ時分に、神宮の御造營のやうな、萬事舊式な、いはゆる掘立柱に藁の屋根といふやうな建築をして、二十年ごとに改築をするといふことは、これは實に時代錯誤のことである。よろしくこれはこの進歩の建築法によつて、煉瓦造りとか何かで、永世不朽の御造營をする方がよろしからうといふやうな議論をする者が、必ず出來て來るだらうと思ふ。しかしそれは、大變な間違ひであらうと思ふ。神宮の御造營といふものは、我が國の固有の建て方である。これを見て始めてこの國の建國の昔の古い事を知り、一つはまた祖宗が、かくの如く御質素な建物の中に起臥をあそばされたといふことも知るし、神宮を介して始めて我が國建國の基を知るのであるから、現在のこの建て方は、全く永世不變のものでなくてはならぬ。決して建築法が進歩したからと言つて、煉瓦とかコンクリートで造るものではないといふことを、懇々と御沙汰がございまして」と(小生が拜承した御沙汰には、更に畏れ多き、代々木大神樣の大御言が、「懇々」と續いてございます‥‥拜記不能、無念)。

一、『頭山滿翁生誕百五十年祭記念誌──近現代戰鬪精神の繼承──西郷隆盛・頭山滿・葦津珍彦の思想と行動』(平成十八年二月・實行委員會刊)所收の明治神宮禰宜の論考により、乙酉大詔に於ける國體に關する尊話──三種神器につき、昭和天皇の叡慮を拜聽。

 現在、兩書は小生の手許に無い。無いので紹介出來ませぬが、極めて重要なる逸史であるので、各位ご所持の方々には、是非とも清覽を乞ひたいと存じます。又た有志には、ご紹介の勞(本掲示板にでも、各位のサイトにでも、御仲間内の會議にでも)を賜はれば、道福彌益、幸甚であります。

 標題「稽首」とは、座つて頭を地面につけ平伏する最敬禮、本道に有り難き大御思召に感泣慟哭、恐惶恐懼の極みでありました。あなゝゝ畏こ。



 こゝに於いて想起するは、【皇家祕奧の傳統】の御事である。



●木下道雄元從侍次長『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』(平成十年一月・日本教文社刊)に曰く、

「(小泉信三)博士が、東宮殿下の御補導役を命ぜられたときのことであるが、自分は、かつては慶應義塾の塾長として、青年教育には經驗があるが、將來、天皇の位につかれる皇太子の御教育には、全く經驗がない。この特殊教育の經驗者といへば、東郷・乃木・杉浦の諸公、すでになき今日、たゞ一人の御經驗者、今上陛下にお話を承るより他に途がない。甚だ畏れ多いことながら、自分の任務の重大性に鑑み、敢へて陛下に拜謁して、質問を申し上げた。

一、陛下は、何か物事を御決定になるときに、御自身のお考へだけで、それを御決定になるや、それとも、それゞゝ擔當者の意見を徴して御決定になるや。お答へは、

それゞゝ擔當者の意見を徴し、その結論を聞いた上で、自分の責任に於て、これを決定する

とのことであつた。

二、博士は、更に、陛下の、その御態度は、誰か侍臣のおすゝめ參らせた結果によるものか、將又(はたまた)陛下が古への聖人・明哲の傳記等をお讀みになつて、さういふ習慣をおん身につけられたのか、お尋ねしたところ、陛下は、いとも簡單に、

それは人のすゝめによつたのでもなく、また讀書の結果でもない。これは、わが家の傳統である

とお答へになつたさうだ。

 
博士は、この言葉を承つて、まことにこれなるかな、これなるかなと、感嘆したとのことである」と。



 
謹記。雲上祕奧の洩傳を拜承して、洵に畏れ多いことながら、我々皇民は、此の御國に生を享けしことに恐懼すると共に、神ながらなる皇家傳統の御精神の下、只管ら聖徳を仰ぎ奉り、滅私奉皇に生きるのみである。
 
 

神武天皇に仰ぎ奉れ ── 皇國中興の本幹。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 5月 4日(日)19時22分48秒
返信・引用 編集済
   前に、贈從三位・大學中博士・毅軒玉松操眞弘翁の名が出て來たので、こゝに眞木紫灘先生を掲げて、世の喚起注視を、特に促して置きたいと思ひます。

 神武天皇御創業に立囘るてふことは、即ち「神武天皇、神代の例をのみ、とり行ひ給ふ樣にあらまほしき事」(『經緯愚説』)を申し上げるのであります。平成中興の理想に在つても、亦た然りであること、勿論であります。決して「普通の國」になる事では無いのであります。



■贈正四位・靖國神社祭神・久留米水天宮第三十二代祀家大宮司・山梔窩紫灘眞木和泉守平保臣先生『南僊雜稿』

茫茫たる彼の蒼天、視聽、自ら有り焉。
悠悠たる此の人世、大道、則ち坦然たり。
死して以て仁を爲す、屈すと雖も、亦た猶ほ伸びん。
生きて以て僥倖なる、萬世、公論を奈(いかん)せん。
我、唯だ吾が志を展(の)ぶ、生死、一に義を取らん。
我、其の他を知らず、以て丈夫の事を爲すのみ。



■眞木紫灘先生『木村三郎に與ふる書』(文久三年十月二十日)

一朝、忽ちに奸人に忌まれ、天下、既に足を容るゝの地無し。
數畝の山園、猶ほ求む可し、如何、聖主、中興の事。

‥‥必死の地に陷り、却つて綽々仕り候ふ樣、相覺え申し候ふ。『大日本史』、恐ろ敷く候ふ間、此の節は、見事、戰死の積りに御座候ふ。



●平泉澄博士『眞木和泉守の理想』(神道史學會『神道史研究』昭和三十九年五月號所收)

「眞木和泉守は、二心なく君を慕ひ君を思ふ純情を、菅公によつて養はれ、一身一家を棄てゝ皇統を護持し奉らんとする熱情を、楠公によつて鍛へられた。眞木和泉守にとつて、最も大切なる恩師であつた。しかし菅公は、和泉守の生れた文化十年より、九百年も前の人であり、楠公にしても、四百七十餘年前になくなつてゐるのである。年代の斯くの如きへだたりは、現實との結びつきを困難ならしめ、敬慕は敬慕として、とかく現實の批判とは遊離せしめやすい。こゝに媒介の勞をとつて、先哲先賢の教を、今の世に切實ならしめたものは、水戸學であつた。‥‥

 既に『大日本史』に觸れて激發せられ、『大日本史』によつて開眼せられたとすれば、和泉守の見る所は、悠々二千數百年、國史の全體を達觀するものであり、その目標とする所が、特に建國創業の際にあつて、現在の改革が、その精神、その規模を、神武天皇の創業に則るべしとするものであつた事に、少しの不思議もない。されば文久元年の『經緯愚説』(★註一)には、

一、創業の御心得の事の條に、神武天皇、九州より東征して、中州に皇化を敷き給うた功業を目標にし給ふべきを説き、
二、節儉を行ふ事の條に、太古の朴素に挽囘すべきを説き、
三、百敗百成の事の條に、神武天皇、御東征の際、軍いくたびか利あらず、御兄弟の宮、相ついで戰死し給うたに拘らず、それに屈せずして、終ひに大業を成就し給うた、其の不屈の御精神を繼承のあらせらるべきを説き、
四、舊弊を破る事の條に、奈良・平安以降の例格になづむ事なく、遠く古に立囘り、天智天皇以前、神武天皇もしくは神代の例を御考へありたしと説き、

くりかへしゝゝゝゝゝて、神武天皇の御創業を規模とすべきを論じてゐるのである。

 同樣の趣旨は、文久三年七月の『五事建策』にも見え、また文久三年八月以後、坂木氏に與へたる書翰にも見えて、和泉守が建武中興に目標を置かず、それを遙かに越えて、遠く神武天皇の創業に着目した事は、明瞭である。只こゝに問題となるのは、和泉守の此の目標が、いつ頃より説かれたものであるか、また果してそれが中央にまで達したものであるか、といふ二つの點である。

 何故かと云へば、明治維新の際に、人々多くは建武の中興を目標として進んでゐたのに、これを一轉して、神武天皇の創業にまで遡らせたのは、玉松操の功績であつて、操は此の理想を、その師・大國隆正より受けて、之を岩倉具視に進言し、具視、之を以て朝議を決した爲である(★註二)とするのが、從來の通説であつて、此の通説の前には、和泉守の理想は、殆んど無視せられて來たからである。

 玉松操を、かやうに重視するのは、よりどころのある事であつて、それは井上毅の『梧陰存稿』(明治二十八年刊)に見え、更に『岩倉公實記』(明治三十九年刊)に述べられてゐるのであり、その事、疑ふべき所ろ無いやうに見えるが、しかし玉松操が初めて岩倉具視に會つたのは、慶應三年二月であつて、眞木和泉守の歿後すでに二年半を經過してゐるのである。和泉守の、神武天皇の創業に復すべしとの論は、すでに述べた如く、文久元年の『經緯愚説』に見えてゐるが、それが最初かといふに、さうではなくして、安政五年六月、『野宮定功に呈した書』の中に、承久・建武の着眼、狹小であつて、範とするに足らず、よろしく古昔の隆世に挽囘せらるべしと説いてゐるのを以て、その初見とすべきであらう。

 しかも同樣の趣旨は、安政五年の四月に、大宰府延壽王院信全僧都に託して、『三條實萬に呈した書』の中に、すでに述べられた筈である[『(眞木和泉守)遺文』四十八頁・『年譜』二十頁參照]。當時、野宮定功は參議であり、三條實萬は前内大臣であつて、地位から云つても、人物から云つても、實萬(★註三)を重しとしなければならぬ事、いふまでも無い。そして實萬が、和泉守の建白を見て感動した事は、翌年正月二十八日、實萬より延壽王院に與へた書翰に見えてゐる。‥‥(紫灘先生自寫『澹空公御俗翰三通・安政六年九月十八日』──平泉澄博士、之を發見、祕匣に藏して、『丹精帖』と名づけられたり)‥‥和泉守の「丹精」をこめた「一策」は、内々實萬の手に入り、實萬は之を「熟覽」し、「感佩」してゐる事、明かである。そしてそれが、參議野宮定功に呈したものと同趣旨でなければならぬ事は、『遺文』の編者の記述によつて知られるのであるから、主要なる内容は、承久・建武に則る事なく、直ちに神武天皇建國創業の古に溯り、こゝに理想を仰ぎ、こゝに目標を定め、百敗屈せず邁進すべしとの進言であつたに相違ない。

 果して然らば、明治維新の規模・理想・目標、一に之を神武天皇に仰ぐべしとするは、決して慶應三年二月、玉松操の岩倉具視への進言に始まるものでなく、それはそれで岩倉を動かしたであらうが、實ははやく安政五年四月に、和泉守の喝破して、三條實萬に進言し建策した所であり、實萬は不幸にして間もなく倒れたが、その子・實美、父の志をついで奮起し、和泉守の輔翼をうけて達成しようとした事を思へば、維新の主流は、やはり此の筋にあつたとしなければならないであらう。和泉守が大山の峰の岩根に埋めた所の、その年來丹精をこめた「大和魂」が、いかなる深刻、いかなる純忠、いかなる規模をもつものであつたかは、是に於いて想察せられるであらう」と。



★註一。
「經」
一、宇内一帝を期する事。一、創業の御心得の事。一、徳を修むる事。一、經筵の事。一、紀綱を嚴にする事。一、賞罰を明かにする事。一、節儉を行ふ事。一、親征の事。一、百敗一成の事。
「緯」
一、言路を開く事。一、舊弊を破る事。一、封建の名を正す事。一、古來の忠臣義士に神號を賜ひ、或は贈位・贈官、或は其の子孫を祿する事。一、九等の爵位を修むる事。一、文武一途にして、其の名を正す事。一、勳位を復する事。一、服章を正す事。一、文武の大學校を建て、天下の人材を網羅する事。一、伊勢・尾張の神器御扱方の事。一、親衞の兵を置く事。一、僧を以て兵とし、寺院を衞所とする事。一、兵器を改め造る事。一、古訓師を學校に置きて、舶來の器械に名を命ずる事。一、財貨を公にする事。一、邦畿を定むる事。一、帝都竝びに離宮を定むる事。一、租税を輕くする事。一、官制を改むる事。‥‥

★註二。『三宮(義胤)覺書』(伊藤武雄氏『復古の碩師・玉松操』上卷──昭和二年八月・金鷄學院刊に所收。玉松操(深青)翁は、大國隆正翁の所謂門人に非ずして、特立の皇學者なり。是れ大国翁、亦た平田大壑先生の所謂門人に非ざるに、亦た同じ。而して玉松翁は、就中、栗山潛鋒先生に畏服せりと云ふ)に曰く、
「始め玉松先生の、北山に岩公を訪はるゝや、即夜、天下の形勢を論じ、談次、公が後醍醐天皇中興の偉業に復せんとするの宿望あるを聞き、先生、襟を正して曰く、『凡そ天下に事を爲さんとする、須らく志望、遠大なるを尊ぶ。今ま公が建武中興の事を企圖するが如き小慮ならんには、奚んぞ能く天下の大事を爲す可けんや。何ぞ神武天皇創業の大に傚ひ、大政復古の基礎を建てざるや』と、確論、凛乎として動かす。是に於て公、初めて夢の醒むる心地し、遂に先生の卓論に服し、始終、先生を師父として敬せりといふ」と。

 『岩倉公實記』中卷に曰く、
「(慶應三年)九月、具視は、中山忠能・正親町三條實愛・中御門經之と共に、王政復古の大擧を圖議するや、忠能等、『建武中興の制度を採酌し、官制を建定せん』と論ず。具視、以謂へらく、『建武中興の制度は、以て模範と爲すに足らず』と。之を操に諮問す。操の曰く、『王政復古は、務めて度量を宏くし、規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、當に神武帝の肇基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機、維新に從ふを以て規準と爲すべし』と。具視、之を然りとす。是に於て新政府の官職制度は、操の言に從うて、之を建定すといふ」と。

 井上毅翁『梧陰存稿』に曰く、
「(岩倉)公は、玉松の功を推して、『己れの初年の事業は、皆な彼の力なり』とまでのたまへり。薨去の前年に、一夕ことさらに余をめして、玉松の履歴を物語り、『其の人の績を空しくなせそ。書きしるして、後の世の語り繼ぎの料とせよ』と、慇懃に仰せられけり」と。

 甕江川田剛翁『從五位・玉松君碑銘』に曰く、
「(岩倉)公、甞て人に語りて曰く、『博識多才、狷介、自ら守ること、吾が眞弘(操)の如き者は、世、未だ其の比ひを見ず』と。而して君も亦た曰く、『鞠躬盡瘁とは、甞て其の語を聞く。今ま其の人を見る、岩倉公、是也』と」と。

★註三。文部省維新史料編纂事務局『維新史料聚芳』(昭和十一年十二月・巧藝社刊)に曰く、
「實萬、天資英邁、學徳竝び高く、光格・仁孝・孝明三朝に歴仕して、信任、特に厚く、聲望識見、遠く菅丞相に比せらる。嘉永・安政の交、武家傳奏を兼ね、廷中の振肅、時艱の匡救に、其の力を効せり。安政の末、幕府内外の措置を失し、公武の間、乖離するに及び、慨然として叡慮の貫徹、幕府の革新に志し、獻替劃策これ勗め、上、亦た一に倚頼し給へり。幕府の大獄を起すや、最もその忌む所と爲る。屡々叡旨を下して救解し給ふも、遂に及ばず。落飾して澹空と稱す」と。



●平泉澄博士『維新の先達・眞木和泉守』(『先哲を仰ぐ』所收)に曰く、

凡そ明治維新の偉大なる改革の殆んど全部は、眞木和泉守の方寸より出て來たものであります。どれを見ても、さうであるとさへいつてよい。第一に、神武天皇創業の昔に歸れといふのが、眞木和泉守の精神でありました。これは從來、誤解されてをりまして、元は建武中興を目標としてをつたのが、神武天皇の昔に歸れといふことをいひ出したのは玉松操であつて、その玉松操が、慶應三年に、岩倉具視に進言したところより、初めて建武より更に一變して、神武天皇の昔に復古することを目標とするに至つたといふことは、明治を通じていはれてきたところであります。これは、であります。玉松操が出て來、岩倉具視と提携して、神武天皇の昔に歸らうといふことをいひ出すに至りましたのは、今ま申し上げました如くに、慶應三年でありまして、それ迄は、玉松は働いてをりませぬ。玉松が働いてをらぬばかりではない。岩倉その人が、明治維新には反對の立場にをつた人とであります。眞木和泉守のをられます間は、岩倉具視といふ人は、眞木和泉守と、むしろ正反對であるところの公武合體、即ち現状維持に力をいたしてをつた人であります。それが王政復古派として立ち、玉松操の建言を入れて、神武創業の昔に歸れといふことをいひ出したのは、慶應三年であります」と。



●阪本健一翁『津和野藩主從と眞木和泉守』(『神道史研究』昭和三十九年五月號。『明治維新と神道』・『明治神道史の研究』所收)に曰く、

「『岩倉公實記』には、具視が王政復古の基礎を玉松操に諮問した事がのせてあるが、それはそれとして、吾々は、明治の新政に於て、次々と發せられた諭告文や布告・達等を檢討すればする程、和泉守、朝廷の側近にありて、文案を起草せしにあらざるかと疑ふのである」と。

○愚案、阪本健一翁は、平泉澄博士の所論に同調せられしものならむ。『王政復古の大號令』渙發の前日に、三條實美公等の所謂七卿の復權が認められたが、紫灘先生大見識の影響は、在朝の同盟公家の腦裡に、嚴として猶ほ存してをり、中興復古の「文案を起草」せしめたであらう。春秋の筆法を以て之を書すならば、眞木和泉守、玉松操を靈導し、岩倉具視をして「神武創業」の大精神に囘轉せしめたり、と謂つてよい。而して「神武天皇に仰ぎ奉る」は、復た百五十年後の我々が指標であつて、辛苦艱難の重疊なると雖も、必ずや期すべき使命課題である。
 
 

神道人の悲願──神佛分離。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月14日(金)22時37分20秒
返信・引用 編集済
   sakamoto樣「明治の『国家神道』や『神仏分離令』を、『それは歴史性のない近代主義に基づく設計主義ではないのか』と、誤解していた節があります」と。



 それはゝゝゝ、祝着至極です。小康小閑を得たので、書き掛けのものを書き込んでおきます。世の流布する國家神道論は、葦津珍彦翁の著作『国家神道とは何だったのか』が出るまでは、左翼御用學者の獨壇場にして、其の所論は、淺薄皮相を免れませんでした。「神佛分離令」と「國家神道」とは、直接つながらざるものであつて、所謂る國家神道なるものは、明治三十三年、

「内務省のなかに神社局(後の神祇院)の官制を立て、社寺局の宗教行政下から、公的神社と認めない神道の一部と區別して、宗教行政を改めた時に、決定的に確立したもの」、「國家神道なるものは、明治以來の、眞摯なる神道人の志を前提源流として出發したものではあるが、有力な非神道の政治勢力や宗教勢力からの強いブレーキ(殊に眞宗僧・島地默雷の工作、即ち神道非宗教論てふ、宗教的神道を封殺するための佛教徒の對神道政略)との交錯が重なつて、それらの諸勢力に中和されて、その精神は、全く空白化してしまつた無精神な世俗合理主義で、無氣力にして無能なものであつたといふのが、歴史の眞相に近い」

のであつて、現代通説の國家神道論とは全く異なるもの、俗説は「虚像・幻想」と謂ふ可きものでありませう。神道人の悲願──「神佛分離」は、明治初年には形骸化してをり、所謂る國家神道の爲せる所業では無く、一朝の「神計り」と申すものと謂ひつ可きものであります。若し「廢佛毀釋」が、神佛分離から逸脱し過ぎ、「文化的破壞」と見なされようと、「神武創業」に無かりし不純物を清めむと欲する、庶民の熱禱・復古精神(其の指導者は、地方の國學者・神主であつたでありませう)に出づるものであれば、小生は、咎む可きものとは思ひません。

 戰後の神道指令なるものは、「國家神道なる用語は、日本政府の法令に依て、宗派神道、或は教派神道と區別せられたる神道の一派、即ち國家神道、乃至神社神道として、一般に知られたる、非宗教的なる國家的祭祀として類別せられたる神道の一派」と定義し、之を彈壓したが故に、眞摯なる神道人の苦惱は測り知れないが、

「國の神祇制度上、神宮・神社を、法制的に國の宗祀として復古する希望が消えたとしても、神社の精神の本質が、日本人の社會國家の精神的基盤であるとの信條を死守する線からの退却は、決して許されない。神社が、自ら私人の一宗教の類と認めることは、決して許されない

との、笏を持たざる神主・葦津珍彦翁の決意悲願は、吾々神國に生くる者として、心して覺悟繼承せねばならぬと思ひます。



●葦津珍彦翁『国家神道とは何だったのか──現代史通説の虚像を論破する』(昭和六十二年四月・神社新報社刊。平成十八年七月増註新版)に曰く、

「この(王政復古の大號令)卓拔な宣言の實際のプランを立てた神道家・玉松操の提案した「神武創業の始めにもとづく」との語には、岩倉や維新派武士團一般が、同感した程度の意味以上の深刻な意味があつた。この大號令の文章の終りには、今後、皇室・政府の官制や朝廷の禮式の御改正あるべきことを豫告してゐるが、玉松には、その構想があつた。この大號令から、わづか三四ケ月で、明治元年三月には、「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祇官に所屬せしむ」と表明され、次いで「神佛分離令」が、太政官から發せられてゐる。玉松のみならず、神道の諸大家が岩倉にせまつて、神道人多年の悲願を、この維新にさいして一擧に實現すべく急進した(矢野玄道『獻芹□[瞻の右]語』・大國隆正『神祇官本義』他)。

 これは、神道人としては、少なくとも百年以上も前からの悲願であつた。徳川幕府時代は、切支丹禁壓のために、佛教國教制を強く固めてゐて、神社と佛道との集合の下に、佛寺への從屬を強ひられて來た(一例。神主でも、原則として佛葬で、寺院の監督下にあつた)。徳川幕府は、學者の學問的言論には比較的寛容で、神道や國學の立場からの佛教批判や非難でも許した。しかしその思想的影響をうけて、地方の神主なとが社會實踐の場で、佛教への不服從を實現しようとすると(特殊例外的な神道好意の藩でないかぎり)、きびしい強壓と制約をうけた。そのために自刃したり、終身流島されたり、地位を剥奪されて社家が倒産したやうな例は、少なくない。神佛を別だとして、神道の高揚を欲する神主のなかから、幕政に反抗する神道人がいくらも出て來た。そしてかれらの神佛分離論に、多分の排佛的な感情があつたのは、歴史的にも理由がある。その社會勢力は、全國に及んでゐた(水戸・岡山・長州・薩摩他)。

 しかしながらその社會勢力が、政治的に見て、どの程度の力關係にあつたかは、また別の一問題である。神佛習合の精神傳統は、千有百年の根づよさがある。しかも佛教教團が、徳川幕藩體制下の國教的特權の上に築いて來た、社會的組織影響力も財的勢力も強大である。幕府が大政を奉還したからとて、未だ中央權力としての實力のない(兵權も財力もなく、地方の諸藩に依存するほかない)太政官の一片の文書で、このやうな精神的大變革は、佛教側の同意なくしては進めがたい。しかしあへてこの史上未曾有の大變革を斷行したのは、神道雄飛の最高調をしめしたといつてもいいかもしれない。神佛分離の思想を排佛であると見た佛教教團からは、即刻に抗議の意が内示され、太政官は、忽ちに(わづか十數日後に)「排佛行動は、これを犯罪とする」と公示した。とくに六月になると、眞宗の反抗をおそれて、太政官名にて、佛教(眞宗)本山への宥和妥協工作をせねばならなかつた。

 眞宗は、佛教でも最大の教團だつた。しかも維新にさいして西本願寺は、特に長州の討幕急進派と同盟して、強力な支援をして來た(月性──大洲鐵然、他)。明治新政府へ出て來た長州系權力者は、そのほとんどが眞宗の盟友である。眞宗としては、たゞ薩摩系が、維新前から國學・水戸學流の神道排佛家が多い(例。伊地知正治の宮中での神佛分離の徹底を求めた明治四年九月の『建白』は、西郷隆盛の筆跡と云ふ。愚案、大西郷は、陽明學・禪の徒と云ふ者あるも、佛は胡神として嫌ひし所、實は平田篤胤大人歿後の門人にして、其の私塾・氣吹舍の門を、自ら叩くこと四度び、又た薩摩藩士を多く門人として氣吹舎に送り込みし由──國立歴史民俗博物館研究報告第百二十二・三集『平田國學の再檢討・一~二』平成十七年三月・十八年三月刊)ので、輕々しく政府への抗爭は愼まねばならないが、「新政權、必ずしも恐れるら足らず」との自信がある。それは事實、政權内の西郷薩摩系の後退した明治六七年後から、次々に實證されて行く。

 岩倉は、さすがに政治能力者である。岩倉が、討幕から王政復古の大號令まで、玉松を最高ブレーンとしたのは、非常に成功であつた。しかし新政府の建設工作では、玉松流の神道家には、あまりにも敵が多きにすぎると見た。玉松以下の神道要人は、全國の尊攘神道家を結集して、祭政一致の公約を基にして、京都皇學所をして日本の神道的教學の本據とすることを要求する。この皇學所を中心とする神道學には、新政府の開明派エリートの、強い反對がある。岩倉は、政府の神祇政策は、開明派と妥協的な津和野藩の龜井茲監──福羽美靜等に實務をとらせて、玉松等の強硬神道家を敬遠しはじめる。玉松は、剛氣で氣迫の強い人で、岩倉も相對すると、壓力を感じた。岩倉は、晩年に玉松の維新當初の功をたゝへて、追慕の談を井上毅に筆談させてゐる(『梧陰存稿』卷一「岩倉公逸事」)が、玉松その人は、すでに明治三年、岩倉を痛烈に難詰して、決裂を宣告して京都に歸り、門を閉ぢて憤りの念禁じがたきまゝ、明治五年に歿した。そのころ、激派の地方神道人には、外山光輔卿を立てゝ蹶起をはかり、また愛宕通旭卿を立てゝ、謀叛を企てたとして、死罪となつた者が多いが、政治的暗黒裁判の疑念が多い。

 明治四年には、玉松と親しかつた矢野玄道・權田直助・角田忠行および丸山作樂等の一連の神道家が、突如として檢擧された(丸山は、その後も長い在獄生活をした。他の多くのは、五年七月二十四日には免罪となつたが、發言力を失つてしまふ。所謂る平田派の國事犯事件)」と。



【丸山作樂翁と須多因博士】
  
↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/780
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/792
 
 

謹んで訂正します。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月10日(月)23時00分28秒
返信・引用 編集済
  いちのへ樣

 ご退出の諒承、有り難うございます。

一、貴殿は「三八云々」と、執拗に仰せですが、塾頭は、一言も仰せではありませんよ。「黒色火薬は、黒煙があがる」てふ一件です。どこかで筋が違つてをります。この件の蒸返しは、ご遠慮ください。

一、「あなたの要求通り退出しましょう、ですから私に対するいいがかり、【チヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】は、取り消してください。私はそのような行為に、チャンネル桜の掲示板上で賛同を表明したことはありません」。これは、小生の勇み足でありました。いちのへ樣の名譽の爲めに、謹んで訂正いたします。

一、明日は、紀元節。こゝ二三日の騒動に關する一件は無かつたものとして、各位には、ご諒承たまはりたう、宜しく御願ひ申し上げます。

 いちのへ樣、ご退出の御件、お聞き屆たまはり、重ねて御禮申し上げます。小生も、體調不良、介護する母の看護も重なり、暫く謹愼させて戴きます。なほ掲示板管理は、出來る限り行ふ心算ですので、御安心ください。

     九段塾管理者・備中處士、謹白
 
 

訂正を求め、退出とします

 投稿者:いちのへ  投稿日:2014年 2月10日(月)22時43分45秒
返信・引用 編集済
  備中處士さん

初めに申し上げますが、退席要求されるのも結構、受け入れるに吝かではありませんが、
退席を要求した相手には最期に言説の場を与えられることが公正だと思いますので、
以下書かせて頂くことをご了承ください。駄目なら即刻削除で結構です。

まず、

【塾頭は、『藝林』(昭和五十七年十二月號)の論文にて引用されましたし、
小生も、其の論文の主が、山岡貞次郎こと井星英翁であることから、 信用出來る旨、申し上げてをります】


わかりました、要は山岡氏という人が論文で叙述した三八式実包に関する内容を、
終戦時は4歳だった泉水氏が戦後に『藝林』で引用した、ということですね。

備中處士さんが、
『○○は△△である。何故ならば、それを云った誰それを私は無条件に全幅で信じるから』
という理由で、弾着距離測定用6.5ミリ特殊実包は存在したとするならば 、それはそれでいいのです。
『信じることで何かが物質的的に実存した』とする思考プロセスならば これ以上申し上げることはありません。


最期に。
備中處士さんは直前の投稿にて

【抑もチヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】

とまたもヘンなことを仰っていますが、これを唱えたのは『原風景』氏でしょう。私はちゃんと記憶しています。
私は彼のこの提案に唱和したこともないし、一緒に徒党を組んで参拝したこともない。
寧ろ、『靖国というところは徒党を組んで参拝するとこぢゃない、一人でひっそりいけばいいんだ』
と、ある人とネットの会話チャットで批判的に語っていたくらいです。そんな示威行動は恥ずかしいことだ、と。
私が徒党を組んでの昇殿参拝などしていないことを、あなたはご存知ないしょうが.......。

ですから、あなたが言う【チヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】は正しくありません。

あなたがいくら過去を検索しても私が『靖国闊歩』に賛同している書き込みなど探し出すことは出来ないでしょう。
何故なら、私はそんなことは一言も発言していませんから。
何故このような有りもしないことを頭ごなしに決めつけて、他者を誹るのでしょうか?

再度。
備中處士さんの要求通り退出しましょう、ですから、あなたも私に対する有りもしないいいがかり

【チヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿】

は取り消してください。チャンネル桜の掲示板上で私はそのような行為に賛同を表明したことはありません。
 
 
<textarea id="adlesse_unifier_magic_element_id" style="display:none;"></textarea>

http://

 

これにて辞去いたします

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月10日(月)21時21分9秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

 ご丁寧なご挨拶をいただきありがとうございます。
 私は長らくこのスレッドの読者でした。そこに、自らの掲示板を閉じた方が突然やってきて、「靖國神社の正統護持のために」とは無関係の自らの思想を語り出しました。もちろん、それは備中處士様が

> ②本掲示板の主旨に反する書込み

をお認めになられたのであり、私にはそのことに口を差し挟むことはできません。しかしながら、彼の書込は、備中處士様が別にスレッドを作るからそこでやって欲しいという段階にまで及んだと、私は理解しました。
 彼の言説に聞くべきものがあればともかく、言説の内容以前に、公の場に言論・意見を開陳するにはあまりにも「言論の作法」をわきまえないその姿勢(知的怠惰とでも申しましょうか)に苦言を呈したものです。

> 塾生と否とは問ひませぬが、せめて九段塾の『常識』の範圍、殊に喧嘩は、絶對に御法度
> です。論爭も一二囘はあり得ませうが、君子の爭ひにて、宜しく御願ひ申し上げます。な
> ほ我慢ならぬ所もありませうが、堪忍も修業の内、私見は程々に。感情が昂揚した折は、
> 一日おいて、冷靜を取り戻して意見を述べて下さい。切磋琢磨は當然ですが、抑も論爭の
> 勝ち負けは、此の掲示板ではありませぬ。かう云ふ意見もあるのかと、勉強の一助として
> お聞き置き下さい

 これは、彼と私の両方に向けて呼びかけられたものと理解し、私が年来のこのスレッドの読者であることを明らかにした上で、彼の「言論の作法」に疑問を呈しているのであり、彼の思想に問題にしているわけではない旨を再確認させていただき、それにて辞去しようと思っておりました。しかし、これは私にのみ向けられた「警告」だったのですね。

> 「度が過ぎる」論爭ないし喧嘩は、ご法度です。

 とのことですが、汚い言葉で私を侮辱し、私の思想信条を勝手に決めつけて「論争」(というか「目を覚ませ」等の命令ですね)と「喧嘩」をふっかけてきたのは彼の方ではありませんか。やむを得ず対応した、というのが私の認識です。

 備中處士様は、彼の私への態度を

> ③禮儀・品位に著しく缺ける言語

とは認識されず、また彼の言説が、

> ④論理・文法が判らないもの

に該当しないと認識されました。そして、彼には、

> 「度が過ぎる」論爭ないし喧嘩は、ご法度です。

というこの掲示板のルールは適用せず、私にだけ、

> 場を少しは辨へて戴かないと‥‥、再度、御願ひ申し上げたいと存じます。

ということなのですね。彼は場を辨えているが、私は場を辨えていないと・・・。了解致しました。認識が違うのは仕方ありません。

 この掲示板の管理人は備中處士様であり、この掲示板の中でこれ以上異論を申し上げるわけには参りますまい。丁寧なご挨拶をいただいたばかりですが、これにて辞去し、泉水隆一氏の肉声である「靖国神社の真実」を読み返すことと致しましょう。
 今後のご活躍をお祈り致します。
 

九段塾掲示板の作法。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月10日(月)18時59分28秒
返信・引用 編集済
  いちのへ樣

 本掲示板は、最上段に掲げてをりますやうに、

「本掲示板およびスレツドは、『靖國神社の正統』を、九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂め、靖國神社の正統を恢復護持し奉らむとする掲示板であります。
 なほ①
神宮
皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げ、②本掲示板の主旨に反する書込み、③禮儀・品位に著しく缺ける言語、④論理・文法が判らないもの、⑤青少年へ惡しき教育效果を與へる書込み
等は、嚴禁であること、勿論であります。かやうな場合は、管理者權限にて削除、または書込禁止の處置をさせて戴きますので、豫め御承知おき賜りますやう、謹んで御願ひ申し上げます」。

③④⑤は常識の範疇でありますが、①②に關しましては、他の掲示板よりも嚴格であります。他の參加者・閲覽者各位の靈眼も之れ有り、宜しく御願ひ申し上げます。

 「此所は、友人からたまたま紹介され、昨日、覗いただけのこと‥‥この掲示板に連投するつもりなどは、更々ありません」由、掲示板の趣旨は、件の如し。「九段塾頭より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂」めむと欲せず、他の投稿を閲覽する氣も、始めから無く、「情報を貼っただけで、他意はありません」とのこと、一見の投稿なら幸甚、切にご遠慮ご退場を乞ひます。

 「私が、何処でどう、揶揄罵倒したのか、具体的に示して頂けませんか? もしそのような非礼を仕出かしていたならば、記録を示してください」と。貴殿は、もう、お忘れでせうか。貴殿等の仰る「奥座敷」とやらの、――塾頭の言葉で申すなら、「三銃士」間の遣り取りを‥‥。塾頭も覗かれて

扉を開けたら、なんだ石ころが三つ転がっていただけか、という感想ですかな。要は「脇が甘い」から、こういう失態を晒す。しかし、傑作だった。なんか、熊野山中の盗賊の棲家を覗いたみたいで、酒盛りの真っ最中だった。向こうも笑っていたが、こちらもゲラゲラ」笑つてをられました。


小生は、不愉快千萬でしたが、諦觀の氣持ちもございました。古參の方々は、周知のことです。「【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】との人格誹謗」とのことですが、「奥座敷」での言辭は、あれは何だつたのでせうか。人間は、悲しいことながら、感情を持ち合はせてをりますので、貴殿と交はることは、畢竟、無理と申すものでせう。「先に仕掛けたのは、アンタ」と。違ふのですか。抑もチヤンネル櫻の「靖国闊歩」の贊同者であつた貴殿が、「一兵士」翁を快く思はない、否、チヤンネル櫻主宰者某と同類ならむと、小生は考へてをりますが‥‥。

 小生が「一言『挨拶』あつて然るべき」と申したのは、「ご挨拶が遅れた段、先ずはお詫びいたします」てふ、取つてつけたやうな無機質な遲延のことでは無いのです。況んや「挨拶が無いと、先ずは叱責」と。誹謗・叱責など、とんでも無い、闖入・喋々再言に、貴殿が「呆れる」以上に、小生も、たゞ呆れてゐるだけです。

 「私は『一兵士の三八式実包に関する記述はおかしい、この人は、経験を偽っているのではないか?』と、疑義を呈しただけ、あなたはそれが面白くないようですが」と。塾頭は、『藝林』(昭和五十七年十二月號)の論文にて引用されましたし、小生も、其の論文の主が、山岡貞次郎こと井星英翁であることから、信用出來る旨、申し上げてをります。貴殿は自己主張が強烈で、聞く耳を持たぬだけの事です。

 「もしそれが虚偽であったならば、他の体験談や断定も、本当に確かなものかどうか、不明と思われることは当然でしょうし」と。仰せの如くであれば、貴殿はご存知あるまいが、塾頭が如何なる御方か、この掲示板の閲覽者は、既にご承知です。然しsakamoto樣との應答によれば、どうも知つて、敢へて申されてゐるやうですから、なかゝゝの御方です。此の言は、世に云ふ「荒し・煽り」の類でせう。屋上、屋を重ねて、なほ挑發されますか。

 「一兵士氏への疑念/批判が【執拗な揶揄罵倒】であるとするならば、今まさにあなたが、私の示した技術的疑念について回答する責務を負うことになった」由、「執拗な揶揄罵倒」と「技術的疑念」とは、全く連動しません。前者は「奥座敷」でのこと。小生の愚鈍なる、貴殿の、

○○さま、読んでいらっしゃると思いますが、少しは面白くなってきたかナ?と。........んなこたないか.......?笑 ウヌボレにすぎませんが、長年、『正論だんわ室』でモマれてきた、カラミ技術の成果がチッタァでないと、今迄使った時間がバカみたいですもんネ(泣)」、

其の蕃流の「リベート」とやらの御相手は、到底、出來かねません。貴殿と小生とでは、餘りにも思想の根底が違ひ過ぎます。

 「出鱈目なことを書いている、やっている相手に対しては、ストレートに批判指摘を行うのが、当方のスタイル」の由。さうですか、どうか、他所で頑張つて下さい。貴殿の明晰なる頭腦では、本掲示板も「出鱈目」だらけなのでせう。貴殿の口は、天下無敵、誰も叶ふまいと、小生は諦めてをります。管理者・備中處士は、暇つぶしの恰好の鴨、與し易しと思はれたのでせう。一度だけ、及ばすながら、お相手させて戴きました。光陰、矢の如し。もう、ご放念ください。ご返事は、ご無用に願ひます。

 いちのへ樣、「この掲示板に連投するつもりなどは、更々ありません」實證を、是非とも御示し賜はらむことを。



 Sakamotoさん、塾頭への配慮、洵に有り難うございます。願はくば「いちのへ」樣への應對、何卒、中止して下さい。伏して幾重にも御願ひ申し上げます。

 ひぐらしさん、「初めての投稿」で、「九段塾の読者」の由。挨拶が遲れましたが、それはゝゝゝ、有り難うございます。然し前の「九段塾の本義」にて、「塾生と否とは問ひませぬが、せめて九段塾の『常識』の範圍、殊に喧嘩は、絶對に御法度です。論爭も一二囘はあり得ませうが、君子の爭ひにて、宜しく御願ひ申し上げます。なほ我慢ならぬ所もありませうが、堪忍も修業の内、私見は程々に。感情が昂揚した折は、一日おいて、冷靜を取り戻して意見を述べて下さい。切磋琢磨は當然ですが、抑も論爭の勝ち負けは、此の掲示板ではありませぬ。かう云ふ意見もあるのかと、勉強の一助としてお聞き置き下さい」と申しましたが、ご理解いたゞけませんか。此の掲示板は、「塾」と銘打つてをる以上、塾頭なき後では、勉強會・切磋琢磨の場でありませう。何處の團體でも、勉強會でも、「度が過ぎる」論爭ないし喧嘩は、ご法度です。こゝは2チヤンネルでも、櫻のやうな巨大掲示板でも無いのです。場を少しは辨へて戴かないと‥‥、再度、御願ひ申し上げたいと存じます。

 閲覽者各位、此の掲示板管理者の不徳無能により、紀元節の前日、かくも醜惡無樣なる體を曝し、「九段塾」掲示板を穢しまして、慙愧に堪へません。幾重にも御詫び申し上げます。何卒、ご容赦ください。懇祈、懇祷。
 
 

日韓併合条約

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)18時26分20秒
返信・引用 編集済
  第六條

日本國政府ハ前記?合ノ結果トシテ全然韓國ノ施政ヲ擔任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身體及財?ニ對シ十分ナル保護ヲ與ヘ且其ノ福利ノ增進ヲ圖ルヘシ

第七條

日本國政府ハ誠意忠實ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ相當ノ資格アル?ヲ事情ノ許ス限リ韓國ニ於ケル帝國官吏ニ登用スヘシ

日韓併合条約の第六条第七条に着目してみた。この条約の文言をもってなお、いちのへさんの言う、

「戦中の雇用に関して『日韓条約』の枠外と『条理解釈』して日本企業に賠償を求めることと同じ」というような結論を導くことが果たして妥当だろうか。

この二つの条文には明文としては朝鮮人の雇用に関する具体的な文言はないが、これに反対解釈もしくは類推解釈を加えることによって、朝鮮人の強制労務や強制徴用を合法のものとする根拠が見出すことが可能となる。

条文にある「法規ヲ遵守スル韓人」とか「制度ヲ尊重スル韓人」には十分な福利を与えるとか、官吏に登用する、といった「負担付き」の契約だな。これら法律に付記された条件を「附款(ふかん)」というのだが、当時の韓国政府は合意の上でこの条約に調印し、国内的にも批准しているのだから、ここ(日韓併合条約)に、いちのへさんの言うように「条理解釈」を持ち込む余地はない。

そしてこれらの条文を「反対解釈」すれば、「法規ヲ遵守シナイ韓人」や「制度ヲ尊重シナイ韓人」には強制労働を課してもそれは法律の許す範囲内である、ということになる。解釈的に可笑しかろうが苦しかろうが、法律とはそういうものです。

従って、いちのへさんのお説はとんだ的外れということになる。
 

荒らしは即刻削除

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)17時43分41秒
返信・引用 編集済
  これだからオツムのよろしくない方とのやり取りは嫌なんだ。

一次的には法律の文理解釈という方法を取る。これがまずは基本だ。次に、法律に直接的な規定が置かれていない場合、他の条文の反対解釈もしくは類推解釈が準用できないか、とやる。

そして、反対解釈や類推解釈の元となる規定がないとなった場合に、ようやく条理解釈の出番となる。

こんなことは法律を少しかじったことがあれば常識中の常識だ。そしてその条理解釈は法律の趣旨・目的・条理等を根拠として、言外に意味を読み取って解釈することが許される。このぐらいはどこの法学部の学生だって知っている基礎のそのまた基礎だ。

あなたの言うのは、法律用語でいうなら「趣旨の操作」あるいは「文言の操作」というものです。従ってそれは条理解釈とはまったく違う。「自分流の解釈」などと余り無礼を言うなよ。

備中さん

私が来たことで、とんだ騒動となってしまい申し訳ありません。おそらく塾頭を快く思わない者が、乱入するタイミングを虎視眈眈と狙っていたのでしょう。

田母神は単なるその「ダシ」です。間違いない。荒らしは即刻削除がよろしいかと存じます。
 

知的誠実性

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月10日(月)15時11分12秒
返信・引用 編集済
  sakamoto様

 私の問いかけには無視を決め込んでおられるようですね。同じことの繰り返しになりますが、再度、貴殿にご意見申し上げることとします。

 何故、貴殿は、泉水隆一氏の生年を調べる努力をされてから書込をなされないのですか。その努力や手間を惜しみ、「条理解釈」などという言葉を持ち出してこのように一兵士氏を擁護されていますね。

> まあこれは私の勝手な推測ですが、おそらく一兵士さんはその時(それも60年以上昔
> の記憶を辿って)の「印象(impression)」を述べたに過ぎなく、事実がどうであったか
> などは二義的なことであり、大事なこととは一兵士さんがその時それをどう感じていた
> のか、といった、そういう表象的な事実のほうを大事にしようじゃないか、ということ
> だ。

> 年齢的にいって一兵士さんの従軍経験は不自然だ、との指摘には正直一兵士さんのお歳
> を知らないからコメントは控えるが、戦場での実戦で撃ったのか、少年練兵の一環とし
> て撃っただけに過ぎないのか、そこらへんが定かでない以上(故人である以上、確かめ
> ようもない)死者についてたかだかの生者があれこれ詮索するのはいかがなものかと思
> う。

 一兵士こと泉水隆一氏は、平成22年7月16日に逝去されました。享年69歳。終戦時には4歳か5歳でしょう。これは、まさにこの掲示板に備中處士氏が書かれていることです。
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/l50

 一兵士氏は、「印象(impression)」を述べた」のでしょうか。「少年練兵の一環として撃った」のでしょうか。「故人である以上、確かめようもない」とのことですが、本当にそうですか。少しの努力や手間を惜しむので、結果としてこのような突拍子もない文章になるのです。
 「死者についてたかだかの生者があれこれ詮索するのはいかがなものかと思う」となにやら「保守思想」的なことを語っておられますが、「死者」について自分の思い込みを書き殴ることは「死者」への冒涜ではないですか。「生者」として「死者」について語るときには、基本的なことくらい調べてから語らなければ「死者」に対して失礼だとは思われませんか。いや、貴殿の場合、「生者」にも勝手な自分の思い込みを語っておられますね。

 「条理解釈」という法律用語を持ち出しておられますが、「条理解釈」は

> (条約=国際法も含め)法令等の条文に書かれていない事案に直面した場合、それらが
> 反対解釈や類推解釈の適用も困難な場合に限って言外に意味を読み取って解釈すること
> が許されるというものです。

 との説明は全く間違っています。法律用語としての「条理解釈」とは、「法令の文言にとらわれることなく、法令の目的・趣旨・道理(条理)などに重きをおいて解釈すること」です。すなわち、「望ましい法規範を創造するために、文理解釈で不十分と考えられる場合」に例外的に用いられる法解釈です。「条文に書かれていない事案に直面した場合」に「許される」法解釈の方法などではありません。

(条理解釈の定義については、例えばここに記載されています。)
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=nen&query=/lib/khk071a3.htm

 しかも、法律用語としての「条理解釈」の適用範囲を法律ではない文章にまで拡大させ、

> 重要なのは直接書かれたことそれ自体を根拠に事実かそうでないかを論うのでなく、
> 言外に意味を汲み取って解釈する『条理解釈』なんだ

とは、私の理解の範疇を超えています。しかしながらこれで得心しました。田母神論文を徹底的に読み間違え、私の書込の論旨をまるで理解できなかった理由が。「言外に意味を汲み取って」ご自分の解釈したいように解釈していたということですね。
 なるほど、話が通じないわけです(嗚呼)。

平成26年2月10日 15時23分
 句読点修正

平成26年2月10日 16時06分
 文言修正。論旨に変更なし。
 

成文法主義を排せ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)13時39分30秒
返信・引用
  法律的な意味で「条理解釈」という言葉を使う場合は、(条約=国際法も含め)法令等の条文に書かれていない事案に直面した場合、それらが反対解釈や類推解釈の適用も困難な場合に限って言外に意味を読み取って解釈することが許されるというものです。

日韓条約をきちんと読んだことはないが、おそらくそこには「戦後の損害賠償」に関する規定など書かれていないでしょう(敗戦を予定していたなら話はまた別でしょうけど)が、仮にそこに反対解釈や類推解釈できる文言が条文に書かれていれば、「日韓条約の枠外」を理由に日本企業に損害賠償請求することはできない。

ですから「なんでもあり」というのは的外れであって、「条理解釈」の適用が妥当なのは今のこの論点・・・一兵士さんが実戦で撃ったかどうかが論争となっている三八式歩兵銃についての・・・に限ってのことであり、日韓条約に関して言うなら、反対解釈や類推解釈が可能であれば、それらで対応すべきことであって、ここに「条理解釈」を持ってくるのは条理解釈の適用の範囲を逸脱している、ということだな。

そもそも、国際法にせよ国内法にせよ、無限にあるであろう様々な事象に対応するための個別具体的な条文を用意せよ、などとやっていたら、それこそ条文が何千何万あっても足りなくなってしまう。解釈学(ハーマニューティクス)というのは抽象的な言い回しの条文を、個別の案件にどう具体的に落とし込んでいくかについて考察するためには不可欠な学問なんだな。

おそらく日韓条約にも具体的な規定こそないにせよ、戦時徴用や戦時労務に関する免責事項(つまり意思の合意があった妥当なもの)と解釈可能な条文があった、とみておくのがまともな思想ではないか。

年齢的にいって一兵士さんの従軍経験は不自然だ、との指摘には正直一兵士さんのお歳を知らないからコメントは控えるが、戦場での実戦で撃ったのか、少年練兵の一環として撃っただけに過ぎないのか、そこらへんが定かでない以上(故人である以上、確かめようもない)死者についてたかだかの生者があれこれ詮索するのはいかがなものかと思う。

 

Re: 戦後の悪弊としての科学主義を撃つ

 投稿者:いちのへメール  投稿日:2014年 2月10日(月)12時16分17秒
返信・引用 編集済
  sakamoto氏への返書。

おそらく一兵士さんはその時(それも60年以上昔の記憶を辿って)の「印象(impression)」を述べたに過ぎなく

↑ということは、一兵士氏は従軍経験があって、実際の三八式歩兵銃を撃ったことがあるということですね?
氏の生年あるいは軍歴は御存知ですか? 氏は何歳で平成22年に逝去されたのか御存知ですか?

重要なのは直接書かれたことそれ自体を根拠に事実かそうでないかを論うのでなく、言外に意味を汲み取って解釈する「条理解釈」なんだ

↑ それが世の中に通るなら韓国の司法が戦中の雇用に関して『日韓条約』の枠外と『条理解釈』して日本企業に賠償を求めることと同じ、
 そして、それは法理よりもさらに【重要なこと】なのですね。それならば、世の中なんでもアリですね。






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戦後の悪弊としての科学主義を撃つ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月10日(月)11時53分34秒
返信・引用
  「もう出てこない」と言いながら、たびたびの出現で申し訳ないが(笑)、いちのへさんのそれは文理解釈といって、書いてある文言ただその一点だけを捉えて、それがある事柄についての定説や理論と合致しないとなると直ちに虚偽で片付けてしまう、言わば、戦後の悪しき悪弊としての科学主義に依存した物の見方ではないか。

違うのだ。

重要なのは直接書かれたことそれ自体を根拠に事実かそうでないかを論うのでなく、言外に意味を汲み取って解釈する「条理解釈」なんだ。

科学主義は人間精神を一つの範型に押し込み、その規定にないようなもの、その型からはみ出したものを一切認めようとしない、杓子定規的な物の見方をモットーとする。今言った「文理解釈」や「法規的解釈(定義解釈)」などがその見本だな。

まあこれは私の勝手な推測ですが、おそらく一兵士さんはその時(それも60年以上昔の記憶を辿って)の「印象(impression)」を述べたに過ぎなく、事実がどうであったかなどは二義的なことであり、大事なこととは一兵士さんがその時それをどう感じていたのか、といった、そういう表象的な事実のほうを大事にしようじゃないか、ということだ。

確かに科学は大事ですよ、しかし、科学に人間が使われるようになっちゃお仕舞いですよ。
 

これは失礼しました

 投稿者:いちのへメール  投稿日:2014年 2月10日(月)02時02分7秒
返信・引用 編集済
  備中處士さん
ご挨拶が遅れた段、先ずはお詫びいたします。
早速ですが...........。

「いちのへ」氏、貴殿は、チヤンネル櫻と一味して、我が一兵士翁を、執拗に揶揄罵倒した「三銃士」の一人ではないか。
 何の顔せあつて、此の掲示板に闖入し來れるや


わかりました。ですが、ならば私が何処でどう揶揄罵倒したのか、具体的に示して頂けませんか?
私の記憶では『一兵士』が三八式歩兵銃の弾着を見るに特殊弾(黄色い煙が出る?)を使って距離を計った云々の記述がありましたので、
はて、当時は既に三八式用6.5ミリ実包には無煙火薬が使われている、あるいはトレーサー(曳光弾)を使ったのか、
しかし今迄読んだ支那大陸の戦記では歩兵が携行する三八式実包にトレーサーが含まれていたような記述は一度も読んだことがない、
この『一兵士』なる人物は本当に実戦で三八式用6.5ミリ実包を撃ったことがあるのだろうか?という疑念を素直に桜の掲示板に書いたつもりです。
(もしそれが虚偽であったならば、他の体験談や断定も本当に確かなものかどうか不明と思われることは当然でしょうし。)

まずは、上記の一兵士氏が云う『特殊弾』がどのようなものか、御存知でしたら御教示ください。
それについて当方が無知であるか勘違いしていたのならば勿論平伏して陳謝致します。
此所は友人からたまたま紹介され昨日覗いただけのこと、核武装についてあきらかに誤った断定がありましたので
参考までに情報を貼っただけで他意はありません。

しかしですね.......。挨拶が無いと先ずは叱責、それはいいでしょう、しかし次段で【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】との人格誹謗とは畏れ入りました。
いままで、私が、このような言葉を受けるに値する何か批判や攻撃的なこと、失礼なことをあなたに云ったことがありますか?
もしそのような非礼を仕出かしていたならば、記録を示してください。平伏陳謝致します。
私は『一兵士の三八式実包に関する記述はおかしい、この人は経験を偽っているのではないか?』と疑義を呈しただけ、
あなたはそれが面白くないようですが、ならば一兵士氏のかわりに、先ずは私が『疑念を呈した』三八式実包に関する
技術的説明をすれば良いではないですか。

御存知でしょうが、三八式実包6.5ミリの初速は762m/sで音速の倍以上の速度で射出されていく、
実戦に於いては着弾する場所が砂埃が立つ場所とは限らない、ましてや戦闘地域は支那の山野、
プローン(伏せ)姿勢での射撃では着弾地点は尚更視認しづらい。
プラス、日本軍における小銃弾が6.5ミリから7.7ミリに変更された経緯は備中處士さんも御存知でしょう、
威力不足のみならず、6.5ミリでは曳光弾は仕込めないことがひとつの理由だったわけです。
曳光弾が仕込めないならば、着弾確認の為に『黄色い煙?』だかが出る発煙実包も製作が困難だったろう、
一兵士氏の体験談通り、そのような発煙実包が本当に製造されたのだろうか?という疑念を持つのは自然だと思いませんか?

当方の考えでは、プローンで撃とうがニーリングで撃とうが、音速の2倍の速さで飛ぶ小銃弾の実戦射撃開始距離は
400メートルくらいなそうですが、その400メートル先の地点で着弾したとしても、さらに跳弾してポンポン先へ飛ぶ、
だからたとえ発煙する弾頭であろうとも、煙によって弾着を把握することは実用的ではない、と推測しています。
仮令、トレーサーを使用したとしても、機関銃のように連続射撃が出来ないボルトアクション式単発射撃において
音速の2倍で飛んでいくトレーサー弾頭を射撃した本人が直視確認することは反動で銃が大きくリバウンドするので不可能だと思います。

私は、根拠なく、他人の人格や性格を誹謗罵倒することは『どちらかというと』やらないほうですが、
今回はあなたのほうが

【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】

と私の人格を断定しています。自己省察をすることなどない人間である、と人間の性向を断定している。
つまり、ランボー風に云えば、『You drew first blood=先に仕掛けたのはアンタだ』ということになると思います。
 
この掲示板に連投するつもりなどは更々ありませんが、私が記述した上記の技術的な疑問については綺麗にお答えいただければと思います。
この技術的疑問に対して明解な回答が無いのであれば、一兵士氏の発言のあやふやさ/論拠の不明さに起因する氏への批判が甚だしく
不当非礼であるとはいえないでしょう。すなわち、一兵士氏への疑念/批判が【執拗な揶揄罵倒】であるとするなば、
今まさにあなたが私の示した技術的疑念について回答する責務を負うことになったと思います。
 
 
尚、何処かで『一兵士』という人が泉水隆一という映画監督で、『凛として愛』という映画をリリースした人であることは
後日知りましたが、この方の生年は存じ上げませんが、従軍経験はあるのでしょうか?
また、水島総の『映画:南京の真実第一部』に批判があるならば、
何故『私は泉水隆一という者で、自分でも映画を撮っているものだが』と素直にモノを書かず『一兵士』などというハンドルで
他人の本業を批判するのかわからないですね。
私の場合は水島総の『映画:南京の真実第一部』の論理的反駁性の無さ、第二部の放擲に対しては実名も出して
徹底的に批判していますし、水島の金勘定の出鱈目さを突くために検察庁特捜部に水島を告発もしています。
詳しくは下記ブログを御覧ください。
 
憂鬱いちのへ空間
 
出鱈目なことを書いている、やっている相手に対してはストレートに批判指摘を行うのが当方のスタイル、
一兵士氏の云う『三八式実包特殊弾』への疑念もたまたま当方のセンサーにひっかかっただけ。
私は一兵士なる人がどのような人かは当時知らなかったし興味もなかった、ただ『弾着は特殊弾で計る』という言説に
『それは真実なのか?』と疑念を抱いただけ。その疑念を提示したことにより、数年後に遣り取りもしたこともない方から
 
【己を省みることとは無縁の貴殿のこと】
 
と性向を断定されるとは。正直に申し上げて、呆れております。
 
 
 
 
 
 




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九段塾の本義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 2月 9日(日)23時19分59秒
返信・引用 編集済
  ●九段塾頭の曰く、「

 喫茶室・酒場は困りますが、皆さんが、塾の講義を聞いているだけでは疲れるでしょう。私も以前から、気楽にみなさんがお話を出来る「休憩室」みたいなものを作ったら、案外、いろいろなことをおしゃべりできていいかな、とは思っています。酒の「話だけ」なら構わないが、持ち込みは厳禁です。お茶とお菓子ぐらいで、あとは手弁当を食べるぐらいはいいでしょう。あくまでも「九段塾の休憩室」ですから。居酒屋ではありませんよ(笑)。

 そこで『時計の間』という部屋を、スレッドの中につくってもらいましょう。「時計の間」の意味は、休憩室ではあるが、常に柱には「時計」が架っていますので、いつまでもグダグダ、この休息の場でだべってばかり、寝そべっていては困るという話です。

 焼酎の話でも、孫の話でも、世間話でも、それは一向に構わないと思いますが、それでもこれから天下に名を馳せようと考えている九段塾ですから、あまり品位の無い話はまずいでしょう。政治の話、神社の話し、時世の話、日常の話、旅の話し、よもやま話――九段塾の掲示板では、少し不似合いな話。それは、なんでも自由でいいでしょう。あくまでも皆さんの休憩室。講義の間の休憩室です。そこらへんは、皆さんなんですから、善く飲み込んで理解して下さい。九段塾の「常識」の範囲で。

 喧嘩は、絶対ダメですよ。つい、激論、激昂にはしりそうなメンバーもいそうなので、塾生同士の喧嘩は、絶対にご法度。

 「時計」がありますから、あくまでも時計を眺めて、お話を適度にされて。

 ‥‥それと、これは私の気持ちだが、あまり食い物と飲み物の話ばかりというのは、私は好きではない。歳をとると(若ければなおさらだが)、必ず「どこそこの酒はいいとか、名物はいいとか」話し出す。昔、大先輩より云われた言葉があって、「人間、食い物・酒の話の自慢話をやるようになったらおしまいだ」というのがあります。それはプチ人間になるからです。やはり食い物が無くて困った生活をしている人たちが、世間には沢山いるし、自分もそういう経験をしてきている。みなさんはそれなりの生活を作ってきているのでしょうけれど、自分たちだけが幸せな話をされるのは、私は好まない。「たまには、すこしは、いいでしょうが、あまり食い物・酒の話をするのは困ります」。これは私の性格で、もともと酒宴が嫌いなもので、申し訳ない。食い物にもあまり興味が無い。なんでも、あれば食べるので。どれがおいしい、まずいを云うと、怒られる。今でも。「なんでもおいしいおいしい」と食べるのが普通ですからね。それと‥‥結構、うるさいですが、「今日は俺がおごるとか、ごちそうするとか」の会話。これも好きではない。申し訳ないね。なんだかんだ、うるさくて。

 「じゃ、ちっとも自由にしゃべれないじゃないか。そんなら休憩室はいらねえよ」とは言わないで下さいよ。九段塾ですからね。そこらここらにあるもんじゃない。××社を始め、多くの正統保守が見ている掲示板ですから。そこはそれ、お願いします。じゃんじゃん、やってもいいですよ。お茶とお菓子と弁当で。なんとか間を持たせて、休憩して下さい」と。

**********

 九段塾管理者、謹んで白す。

 件は、別スレツド「時計の間」卷頭に掲ぐる、塾頭の言であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/l50

 本掲示板は、九段塾頭、亦た花椿一心・一兵士・泉水隆一と號す所の、金城福井忠翁が、『靖國神社の正統護持』を期さむと、それはゝゝゝ、大切にされてをられる掲示板であります。塾頭の『尊皇・勤皇の風を吹かせよ』との遺言を承け、備中處士、固より不肖を顧みず、管理をさせて戴いてをります。他の凡百の掲示板と違ひ、其の趣旨に反するものは、之を許さず、又た「塾生」と否とは問ひませぬが、せめて「九段塾の『常識』の範圍、殊に喧嘩は、絶對に御法度」です。論爭も一二囘はあり得ませうが、「君子の爭ひ」にて、宜しく御願ひ申し上げます。なほ我慢ならぬ所もありませうが、堪忍も修業の内、私見は程々に。感情が昂揚した折は、一日おいて、冷靜を取り戻して意見を述べて下さい。切磋琢磨は當然ですが、抑も論爭の勝ち負けは、此の掲示板ではありませぬ。かう云ふ意見もあるのかと、勉強の一助としてお聞き置き下さい。

 然しこゝからは言葉を改める。「いちのへ」氏、貴殿は、チヤンネル櫻と一味して、我が一兵士翁を、執拗に揶揄罵倒した「三銃士」の一人ではないか。何の顔せあつて、此の掲示板に闖入し來れるや。一言、「挨拶」あつて然るべきであらう。塾頭、現身はあらずとも、此の掲示板を見てをられる。貴殿を許容することは、管理者の責任を問はれる。己を省みることとは無縁の貴殿のこと、面白半分にて書込まれることは、ご遠慮あらむことを切に乞ふ。此の零細掲示板に、貴殿のやうな有名な御方は、抑も似つかはしくありませんでせう。 ご活躍を御祈り申し上げたい。



●松陰先生『講孟箚記』梁惠王上・第六章に曰く、「

[孟子、梁の襄王を見る。卒然として問ひて曰く、『天下、惡(いづ)くにか乎、定まらん』と]

 梁の襄王の暗愚、固より論を待たず。但だ其れ尤も暗愚を見るべき者、果して何れにありや。曰く、『天下、惡くにか、定まらん』の一句にあり。‥‥此の時、梁國、四方に難多し。然るに襄王、一も憂勤□[立心+易。てき]□[勵の左。れい]の色、あることなし。其の『天下、惡くにか、定まらん』と云ふは、世上話なり。かゝる田別(たわけ)者、安(いづ)くんぞ與に語るに足らん。蓋し此の章を擧げて、孟子、梁を去る所以を示すなり。

 抑も有志の人、言語、自ら別なり。心・身・家・國、切實の事務を以て世上話となす者、取るに足る者、有ることなし。是れ人を知るの眞訣なり。然れども是を以て人を知るの眞訣とするも、亦た世上話の類のみ。宜しく親切反省すべし。辭を修め誠を立つる(『易經』文言傳)、是れ君子の學なり」と。



 愚案、「心・身・家・國、切實の事務を以て世上話となす者、取るに足る者、有ることなし」とは、松陰先生の嚴訓、仲間内の密室ならいざ知らず、テレビ等の公的媒體にて、政治・國防等、皇國の重大事を、漫才師よろしく、誇つて漫談を爲す者は、小生の好まざる所、反省する所であります。
 
 

だからもう休ませてくれってば

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 9日(日)16時00分40秒
返信・引用 編集済
  おそらくそれは、NATOに見るようなNS(ニュークリア・シェアリング)制度を言ってのものでしょうよ。

私がアメリカが決して許容しないだろうというのは、アメリカ本土を射程に収めるような大陸弾道弾(つまりしょぼい戦術核なんかではなく、ニューヨークやワシントンを数発で瞬時に灰にできる能力を持った戦略核を言っている)のことであり、コレまでをアメリカが認めるなどということは絶対にないということですよ。

しかしそれでは意味がないんだ。中朝韓への抑止力に期待するだけなら射程2000キロもあれば十分だろうが、アメリカの内政干渉を跳ね除けるために持つ核はアメリカを射程に入れたものでなければ意味がない。

核に中韓への威嚇効果だけを求め、アメリカとの離別の手段というのをお座成りにしてるから、何時まで経ってもそのイデオロギーから自由になれないんだ。

 

核武装は大事なイシュウなので事実提示

 投稿者:いちのへメール  投稿日:2014年 2月 9日(日)13時50分57秒
返信・引用 編集済
 
【日本人特有の楽観主義といえばそれまでだが、アーミテージやナイらの言葉からも自明のように、
 わが国の核武装を歓迎するお人好しのアメリカ人など一人も居ないということだ。】


以下、御参考まで証拠提示。


http://megalodon.jp/2012-0517-0640-09/sankei.jp.msn.com/politics/news/111009/plc11100920310007-n3.htm

安全保障読本(55)米国から提唱する「日本の核武装」

【有力政治評論家クラウトハマー氏による米ワシントン・ポスト紙などのコラムはその典型だ。
氏は「日本が唯一の核兵器被爆国として過去、 自国の核武装に強く抵抗する理由は明白だったが、
常軌を逸した隣国が核兵器保有を公式宣言するに至った今、再考が必要になった」と言明。

「国際社会の模範的一員というだけでなく、米国にとり英国に次ぐ最も重要で最も信頼できる同盟国となった」と指摘しつつ、
「主要国は全て核保有国になったのに、日本は真の異端」とまで踏み込んだ。

同じ頃、ブッシュ前大統領のスピーチライターだったフラム氏も米ニューヨーク・タイムズ紙への寄稿で、
日本にNPT(核拡散防止条約)破棄と核抑止力構築を奨励せよと、驚くべき提案をしている】

【日本への独自核の勧めを説いたのは、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しした2002年のブッシュ大統領の
 一般教書演説の草稿を執筆したことで知られるデビッド・フラム氏。
10日付の米紙、ニューヨーク・タイムズへの寄稿で日本に核拡散防止条約(NPT)の破棄と核抑止力の構築を奨励せよと
ブッシュ政権に求め、「中国や北朝鮮が最も恐れることだ。地域の核バランスを崩そうとする無法国家の試みを、
米国や友好国が積極的に正そうとすることを示す」と、その理由を説明した。】


【米政治評論家・クラウトハマー氏 日本に核武装奨励を 中朝抑止、東アジア安定
2006/10/22, 産経新聞

【ワシントン=古森義久】米国の有力な政治評論家でコラムニストのチャールズ・クラウトハマー氏は20日、
北朝鮮の核実験に関連して米国は最も信頼できる同盟国としての日本に核武装を促すことが東アジアの安定に
つながるという見解を発表した。ブッシュ政権の周辺ではこれまでの思考を根本から変えたこの種の日本核武装奨励論が目立ってきた。

クラウトハマー氏は20日付のワシントン・ポストなどに掲載された「第二次世界大戦はもう終わった」と題するコラムで
北朝鮮の公式の核兵器保有宣言という新たな事態に対し「日本が唯一の核兵器被爆国としてこれまで自国の核武装に
強く抵抗する理由は明白だったが、常軌を逸した隣国が核兵器保有を公式に宣言するにいたった現在、再考が必要となった」と述べた。

同コラムは「世界の主要国はみな核保有国になったのに、日本は真の異端だ」として、「米国も日本が核クラブに入ることに
疑念を抱いてきた」と述べる一方、「日本は国際社会の模範的一員というだけでなく、米国にとってイギリスに次ぐ
最も重要で最も信頼できる同盟国となった」ため、もはや核兵器保有を奨励した方がよいと示唆した。

同コラムは日本の核武装は日本がその関心を表明するだけでも

 (1)中国に朝鮮半島の非核化継続を強めさせる(中国は北朝鮮の核武装が米国の東アジアでの関心を奪うという理由からだけでも、
   北の核を放置している気配がある)
 (2)中国は日本の核武装を止めるために北朝鮮に本格的圧力をかけてその核武装を破棄させようとする
 (3)日本の「核カード」が北の核開発阻止の唯一の方法かもしれない-などと述べた。

同コラムは東アジアでの日本の政策目標は「軍事と政治の安定、陶酔したように膨張する中国の平和的な封じ込め、
無法な北朝鮮政権への反対、民主主義の拡散などという点で米国と同じ」だとして、だから日本の核武装を促した方が
中国や北朝鮮への抑止が効果を発揮する、と論じている。

そして結論として「なぜ米国は太平洋地域で安定し、信頼でき、民主主義の同盟国である日本が核武装により米国自身の
負担をも削るという展望に反対しつづけるのか」と 疑問を提起する形でブッシュ政権が日本の核兵器保有を奨励するよう訴えている。

クラウトハマー氏はブッシュ政権とも近い保守派の大物政治評論家だが、同じ保守派ではブッシュ大統領補佐官だった
デービッド・フラム氏も米国政府が日本核武装を奨励すべきだと提言したばかりだった。】

以上、『
わが国の核武装を歓迎するお人好しのアメリカ人は一人ならず居た』証明完了。





 

言論の作法 再び

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月 9日(日)13時36分37秒
返信・引用 編集済
  > No.2066[元記事へ]

sakamoto様

 私を誰と勘違いされたのかはわかりませんが、私に対して「またストーカーが出てきたようだ。」、「どこにいっても後をついてくるな。なんで私の後ばかり付いてくるんだ?」、「私の熱烈な『追っかけファン』が出てきたようですので(後略)」と私にとって非常に不愉快な言葉を投げたことへの言及はなしですか・・・。ネット上とは言え人間関係です。初めて言葉を交わす人にこれですか。

 私を「その方」とは別人と認識されて「覚醒せよ」を書かれたのであれば、貴殿が認識できる私の意見は、私の二つの書込だけの筈です。私は二つの書込で、貴殿の「言論の作法」を問題にしたのであって、「私の意見」を述べたのではないことは普通の読解力があれば自明でしょう。私は自分の思想信条を述べていないのです。それなのに、何故、「ご貴殿のような『産経新聞系保守』の方を私は散々見てきましたから(後略)」と私の思想信条を決めつけることができるのですか。このことを見てもやはり、貴殿の「言論の作法」には問題ありとせざるを得ません。「覚醒せよ」において、その後貴殿が書かれていることは貴殿が貴殿の意見を書かれただけで、私の書込の論点とは無関係ですから私の意見は差し控えます。しかし、何故、私は、貴殿に「安直な思想はそろそろ止」めろとか「いい加減に目を覚ませ!」とまで言われなければならないのでしょうか。私の思想信条を勝手に決めつけ、初めて言葉を交わす私に「安直な思想は止めろ」、「いい加減に目を覚ませ!」と命令することの異常さをお感じになられませんか。

 「そんな『高級』なことを言ってるわけじゃないのか。」というのはある意味当たっています。思想を語る前に、思想を語る言論には作法がある筈だというのが私の今回の書込の主旨です。
 いろいろ書かれていますが、書かれる前に、貴殿は再度田母神論文を全文読み通されましたか。読むのに便利なようにURLを記載しておきましたがクリックされましたか。ほんの9ページ程度のものです。さらに、貴殿はこの論文が何をテーマに書かれたものか確認されましたか。この論文は「真の近現代史観」をテーマにしたものです。ですので、私が引用した部分は、この論文の「核心部」ではありません。さらに、論文を読めば、私が引用した部分の後に「自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。」という文章が続いていますが、これを確認されましたか。さらに、「田母神が核武装肯定派かどうかは知らないが(後略)」とさらっと書かれていますが、「田母神俊雄 核武装」で検索すれば、彼が、こういう本を書いていることくらい10秒もかからずわかります。10秒の手間を惜しんだのですね。
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A0%B8%E6%AD%A6%E8%A3%85%E8%A8%88%E7%94%BB%E2%80%95%E2%80%95%E7%9C%9F%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%A8%E8%87%AA%E7%AB%8B%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E7%94%B0%E6%AF%8D%E7%A5%9E-%E4%BF%8A%E9%9B%84/dp/4396614691
 私は、このように10秒もあればわかることすら調べもせず、批判すべき文章(田母神論文や私の書込)をよく読みもせず、どう読めばそう解釈できるかはわかりませんが、高圧的に決めつけ、自分の思想を理解しない人は馬鹿だと言わんばかりの貴殿の「言論の作法」を問題にしているのです。

 このスレッドは、「靖國神社の正統護持のために」をテーマとするスレッドです。それを私は静かに読んできました。ご自分の思想を語りたいのであれば、ご自分の掲示板を再開されてはいかがでしょうか。

平成26年2月10日
 「私は自分の意見を述べていないのです」を「私は自分の思想信条を述べていないのです」に修正。
 句読点修正。

平成26年2月10日 15時56分
 「田母神俊雄」を「田母神俊雄 核武装」に修正。
 

「一国独立」それこそが国体を護持するということである

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 9日(日)11時55分58秒
返信・引用 編集済
  そんな「高級」なことを言ってるわけじゃないのか。

「親子関係である」と田母神が言ったか言わないか、といった、低級な質問なんだから、ひと言「言ってるじゃん」でお仕舞いで良かったな。

田母神:

①私は日米同盟を否定しているわけではない。

②アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。

③但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。

④子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

問題となっている田母神論文の「核心部」である部分を4段落に分けて考えてみよう。

第一段落において既に田母神氏の思想の中心にあるものが正直に吐露され、続く第二段落でその理由が述べられる。「中韓の脅威への対抗手段としての良好な日米関係が不可欠である」と。

そして問題の第三段落にある、「但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい」だが、これを普通の読解力をもってどう捉えるか。

確かに言い回しとしては「親子の関係である」とは言ってないが、「親子関係のようなものであることが望ましい」と、田母神氏自身の希望として「親子関係が望ましい」と正直に述べられているではないか。

確かに、「必要なときに助け合う」という条件を前置してはあるが、そんなものは言い訳にもならない詭弁であって、アメリカの核の傘にうずくまりながらの、アメリカの圧倒的軍事力に依存しながらの、そういった対等にない者同士の助け合いが果たして最後の段落にあるような、「子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている」の実現にどれだけ寄与するというのか。

日本人特有の楽観主義といえばそれまでだが、アーミテージやナイらの言葉からも自明のように、わが国の核武装を歓迎するお人好しのアメリカ人など一人も居ないということだ。

田母神が核武装肯定派かどうかは知らないが、仮にそうだとして、日米安保を友好な状態に保持したまま核武装を成し遂げようなどと氏が考えているとしたならそれは人間性に対する度し難い過信であり、その思想は左翼の基本形としての啓蒙主義の所産である。

核武装によって対等な関係を獲得せずして、氏の懸念する「日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく」などといったアメリカナイゼーションが治癒することなどあり得ないのですよ。残念ながら人間という生き物はそこまでご立派な生き物じゃないのですよ閣下。

核武装なくして東京裁判の否定も我々日本人の「靖国神社崇拝思想」をアメリカに認めさせることも日本を日本たらしめる根拠としての国体(一国独立というもっともベーシックなそうあるべき国の姿)の連続性を取り戻すことも到底叶わぬことと自覚すべし。

備中さん、遠慮すると言っておきながらどうもすみません。これで当分出てきませんからどうかご安心を。

それから風邪とノロウィルスにくれぐれもお気をつけください。奥方様にもそうお伝えください。

ありがとうございました。

 

覚醒せよ

 投稿者:sakamoto  投稿日:2014年 2月 9日(日)10時16分13秒
返信・引用 編集済
  ひぐらしさん

ご貴殿のような「産経新聞系保守」の方を私はもう散々見てきましたから、本来なら何らのコメントもないのですが、貴殿は真面目そうな方ですから敢えてひと言言わせてもらいます。

「貴方は甘い」

田母神氏が言いたいこととは、(貴殿の理解をそのままお借りして言えば)、アメリカとの関係を友好なものにとどめつつ、これまでの片務的な関係を改善し双務的な同盟関係にしていこうじゃないか、そして何よりもその実現には「集団的自衛権の行使」が不可欠であって、田母神氏の発言の本旨はそこにあった、だから「親子関係」という言葉は肯定的に使ったのではなく、否定的に使ったのだ、とこう貴殿は言いたいのでしょう?集団的自衛権行使の中身に深い考察を加えることなく、直ちにそれ自体が「良かれしもの」であるかのごとき結論を結んでしまう「思想のチップインバーディ」・・・結論に至るまでのきちんとしたアプローチを省略し、直ちに結論を出してしまうような安直な思想・・・はそろそろお止めになったほうがよろしい。

いいですか、ひぐらしさん。

アメリカがわが国に対して有する様々な軍事的プレゼンスや政治的イニシアチブの根拠がどこから来るのかと言いますと、日米間における軍事的非対象性にあるということはもはや自明でしょう。

例えばですが、私はわが国の核武装肯定の立場ですが、仮にわが国が近隣の脅威を退けるに充分な核を手に入れたとしたら、アメリカのわが国に対するこのアドバンテージは滅失する。これまでの上下関係の根拠だった軍事力の不均衡が治癒し、アメリカと日本は文字通り対等となるのですからね。

そうすると、これまでは上命下服(上からの命令に下が服すということ)の関係だった米軍と自衛隊との関係にイコーリティが生まれ、「その案件には我々の合意が必要である」などと自衛隊が言うようになったらアメリカはどう思うか。当然面白くないでしょう。これまで主体と客体とに明確に分離していたた米軍と自衛隊とがイーブンな関係になることなどアメリカは欲しもしないだろうし考えもしないだろう、と見ておくのがまともな思想というものです。

戦後民主主義に保蔵されるヒューマニズムの毒をたっぷり食らってきたナイーブな「田母神閣下様」のように、アメリカとの仲睦まじい同盟関係を堅持しながら主体性をもって国防にあたろうなどと虫のいいことを考えてるからこの国は何時までたっても独立と無縁なのですよ。

いいですか、はっきりいいますが、我々が念願の核武装を果たし、自主独立を叶えたいと本気で願うなら、アメリカとの同盟破棄を覚悟に入れてそれに挑まねばならない、ということですよ。アメリカとの同盟を維持しながらわが国の主体性も保持するということなどは白日夢に等しいと認識すべきなのですよ。

核はないは、国軍はないは、民主主義の毒が全身に回った国民精神のままで集団的自衛権などに突入したらまたイラク戦争の二の舞を繰り返すだけです。アメリカの義のない戦争、つまり、侵略戦争の片棒を担がされるだけが関の山なのですよ。

繰り返す。核武装でアメリカと決別する覚悟がありますか、それともこのままアメリカの属国を維持し、安全と生存を保持していきますか、その二つに一つしか答えはないんだ。

いい加減に目を覚ませ!
 

言論の作法

 投稿者:ひぐらし  投稿日:2014年 2月 8日(土)21時42分43秒
返信・引用
  > No.2063[元記事へ]

 私は、sakamoto氏が主催されていた掲示板に書込をしたことは一度もありませんし、旧桜掲示板でもsakamoto氏とやりとりをしたことは一度もありません。私は、一兵士氏が桜掲示板から追放されて以来のこの掲示板の読者です。その私が、何故、何の根拠もなく「ストーカー」とか「おっかけファン」とかのレッテルを貼られなければならないのでしょうか。それが「保守思想の正しい現れ方」だというのなら何も申しません。
 備中處士様、別に謝られる必要はありません。私の書込を読まれれば、私はあの書込で田母神氏を擁護したのではないというのはすぐにわかるでしょう。田母神氏が「俄かの西暦保守」であり「苦手」で「意見に感心しない」のは理解できます。私の書込の趣旨は、田母神氏の論文をきちんと読まず、「わが国とアメリカは親子の関係なんだ」という田母神氏が言ってもいないことを根拠に批判することに問題ないですか、という問題提起です。あの論文を読めば、田母神氏が「親子関係」という言葉で比喩したものは片務的日米同盟であり、これを双務的日米同盟にすべき(まず、集団的自衛権を認めるべき)というのは自明ではないですか。「親子関係」という言葉を使わなくても説明できることに「親子関係」という言葉を使ってしまった。その片言隻語を捉えて、あそこまで批判するのは正当でしょうか。もし、あそこまで批判するなら、片言隻語ではなく、それなりの根拠を示して行うべきではないでしょうか。すなわち、私は言論の作法を問題にしたのです。
再掲します。
<これらの批判にあるように、田母神氏は当該論文で「わが国とアメリカは親子の関係なんだ」と言われているでしょうか。本当に論文を読まれての批判なのでしょうか。こういう批判の仕方は妥当なものでしょうか。>
 

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