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不逞朝鮮人を警戒するのは当然

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 6日(日)16時18分42秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

えらく朝鮮人を警戒してをられますが、
不逞な者は、何處の國にもをりませう。

不逞朝鮮人は以前も靖国神社の神門に放火をしたことがあります、
日本と朝鮮の歴史を見直せば、今日も朝鮮人の野蛮な性癖は
全くといっていいほどかわっておりません。
のみならず、皇室に対するテロ未遂も
何度も起こしているではありませんか?

在日韓国・朝鮮人の事件年表

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E5%B9%B4%E8%A1%A8

それこそ草薙の剣盗難事件から1000年たっても変わらない。
道徳心の欠如、恥の無さ、犯罪行為に対する善悪の無さ、
根拠なき優越心、日本に対する逆恨み・妬みと嫉妬と羨望。

耶蘇教の流布が原因とおっしゃるが、遠因の一つではあっても
今までのことを考えれば、民族的な性癖と断言できるでしょう。

どこの国にも・・・とは言い難い。支那・南朝鮮・北朝鮮の
3か国を称して『特定アジア』といわるほどの精神の歪んだ
反日思想の塊でありましょう。

やはり開国の手順が間違っていたのだろうか?
警備は日ごろからしていたのだろうが、これからは
空港のセキュリティー並みの警備が靖国神社には必要と
なりましょう。
 

神敵とは。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年12月 5日(土)23時00分7秒
返信・引用 編集済
  愛国主義者樣

 御元氣で、何よりです。

 愛国主義者樣には、えらく朝鮮人を警戒してをられますが、不逞な者は、何處の國にもをりませう。思想的には、韓國が、邪蘇教に牛耳られた結果でせう。朝鮮人の問題と申すより、邪蘇教徒による使嗾でせう。靖國神社への攻撃は、蓋し奴等の陰謀です。所謂從軍慰安婦にしろ、其の與黨は、正に亞米利加人でせう。亞米利加人が、靖國神社を容認することは、畢竟、ありますまい。

 大詔降下の十二月八日も、間近です。歐米の基盤は、邪蘇教に在り。朝鮮人より、砂漠の惟一神とやらに、もつと注意を拂ふべきと存じます。日本の保守家も、相當、邪蘇にやられてをるやうですね。彼の戎夷の教義は、世界皇化の爲めには、正面の神敵です。最近話題のテロとやらも、近親憎惡、民主主義とやらを宣布せんと欲する空爆に對抗するに、政治的弱者には、テロしか無いのでせう。兩者共々、呆れ果てた連中です。御仲間同士の血肉を爭ふ内輪揉め、日本人は、靜觀するしかありますまい。

 本日は、小生も勉強會に參加、「靖國暦」の話も出てをりました。其の末尾に「年齡干支九星早見表」がありますが、何と、「滿年齡」が主となつてをります。靖國神社社務所も、御時勢に掉差してをるやうです。それに引換へ、乃木神社を始めとする神社は、正統な年齡表示を護持してをります。靖國神社社務所も、少しは考へて戴かねばなりませんね。「六十年目が還暦」と、テレビでよく聞きますが、干支を何と心得てをるやら、これも歐米流なのでせう。



●宮地嚴夫掌典『神道普及の方法に就いて』に曰く、

「神道を、今日に興隆し普及せねばならぬは、今更らに申すまでも無きことで有りますが、如何やうにも、遲々として更に興隆致しませぬは、全く其の普及の方法の宜しからぬが故であらうと思ひます。 これに反して、其の傍らに於いて、佛教を廣めます所の僧侶とか、又たキリスト教を主張する所の宣教師とか言ひますが、遣り方は兎に角く、其の方法の宜しきより、追々と意外に、其の潛在力が膨張して、御承知の通り、既に本年の初めに至りては、三教合同などと言ふことの一問題なりたるは、全く其の潛在力の表發したものに違ひ有りませぬ。

 そもゝゝ維新の初め、即ち明治三年庚午正月三日を以て御發し在らせられし、鎭祭詔や大教宣布詔、または其の後、時々に漏れ承りたる多くの御製などに伺ひ奉りますれば、畏れながら先帝陛下の叡慮は、我が神道、即ち惟神の道を以て、我が國家の道徳を保たせ給はんとの叡慮にて在らせられたること、火を見るよりも炳焉で有りますにも拘はらず、斯の道は、一向に振はず、荏苒として打過ぎますに反し、傍らなる佛教は、大いに首を擡げ、又たキリスト教も勢力を表はすに至りますより、當局者の或る部分に於いては、又候ろ外教の方を借つて、我が國の道徳を保たなければならないと言ふ威を起こさしむるに至つたは、先帝の叡慮に對し奉りて、斯道に從事する者に在りては、實に申し譯無き次第にて、殘念とも遺憾とも、恐縮、此の上無き事で有ります」と。



●勅使河原大鳳翁『國魂神の冥護』に曰く、

「たとへ伊勢神宮の荒垣外でも、或いは其の他の有名大社・古社・靈地に於いても、神域外に邪靈は圍集してゐるのである。萬物は不増不減であるから、熱量不變と云ふ原則からしても、プラスエネルギーの強い場には、同時に同じ強さのマイナスエネルギーが 發生する。それが邪靈集團發生の靈理である」と。
 
 

靖国爆弾テロ犯は朝鮮人

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2015年12月 5日(土)19時49分7秒
返信・引用
  備中處士様

ご無沙汰しております。愛国主義者であります。
去る11月23日、靖国神社のトイレにて爆弾テロ
が起きました。すでにご存じのことと思います。

幸い死傷者がでず、また爆発の規模も
大したことは無く不幸中の幸いでした。
警視庁が捜査しておりますが、犯人は韓国籍の男。
つまり朝鮮人でした。

かかるにかの国の者共は日本人を害することに
優越心を持っておおり、きわめて野蛮・危険な人種であります。
日ごろから靖国神社には警察の方々が警備しておられたはずですが、
このたびの爆発物の早期発見及び被疑者の身柄の確保にことごとく
失敗しております。

昨今話題となっておりますイスラム国等のテロリストの動向も
気になる次第ではありますが、不定朝鮮人に対する警戒・警備
を怠ってはならないと痛快しているところであります。
 

不敬な行動は、叱ります。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年11月11日(水)22時14分39秒
返信・引用 編集済
  ●山城國宇治郡に坐す、宇治上神社の社務所置文「小さなお子樣をお連れの親御樣へ」(今、進駐文字遣ひを改めたり)に曰く、

「こゝは、神社です。皆樣が、心を靜めてお參りをされる場所です。テーマパークでも、フアミリーレストランでもありません。サービス業ではないのです。『お客樣は神樣』の自論は通用しません。本當の神樣は、目の前においでです。當然、不敬な行動は叱ります。親御さんが、お子樣をしつかり御監督なさつて下さい。お子樣を叱るのは、親の責任ですし、親が不行き屆きで、周りの人に叱つていたゞいたなら、逆切れではなく、『ありがたうございます』です。自分本位な考への大人になられないやうに、正しい教育で、共にお子樣の健やかなる成長を見守りませう」と。
  ↓↓↓↓↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151111-00000001-withnews-l26



 悲しいかな哉、蓋し現代に於ける名文である。

 靖國神社に於かれましても、時節柄、「おとな用」も併せて、是非とも御取上げ賜はらむことを、切に懇祷いたします。謹白
 
 

櫻山招魂場──山海致死の靈所。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年10月24日(土)14時01分32秒
返信・引用 編集済
   長門國赤間關後地村梨子ケ迫なる、櫻山神社の招魂場は、奇兵隊士の英靈を祀る齋庭にして、靖國神社の源流である。而して『櫻山の歌集』は、阿部恭久宮司より賜はる所、敬みて抄し、益良武雄の志を繼がむことを、おほけなくも、しかと誓ふなり。



●『さくら山の哥集』(櫻山神社祭神への獻詠。題「櫻」。百二十四首。奇兵隊藏板。長門赤間關・佐伯屋藤八刊。谷省吾翁『さくら山の歌集』覆刻と解説──『神道史研究』昭和五十六年七月號。また『櫻山の歌集』平成二十年七月・櫻山神社刊に所收)

──慶應元年八月六日、招魂場、最初の大祭あり。祝詞奏上は、萩・椿八幡宮の社司・青山上總介藤原長清なり──

○櫻山哥集はしがき
こゝの櫻山はしも、かく名におへるやうに、大和こゝろの花、あまた植なへて、咲にほへる所也けり。その木かげを、須賀々々しうはらひて、しるしの石、たてならべにたるは、此花のこゝろを心として、
大御國のみためにいそしみつゝ、みまかれりし人々のみたまになん、ありける。かゝる人たちにしあれば、そのこゝろざしをしたへるまにゝゝ、哥やなにやと、よみてたむけつるを、おなじくは世におほやけにこそと、したしき友どち、はからひて、かくかきあつむる事とは、なりにたり。そのよし、一くだりかいつけゝるは、これの國の殿人白石資風(號は橘圓)。

(慶應二)丙寅年七月

‥‥

○櫻山に詣でゝ──谷(高杉)東行
おくれても おくれても またおくれても ちかひしことを あにわすれめや

○野むら芳共(野村望東)
ふしをがむ こゝろのそこに せきあへぬ なみだは神や しろしめすらむ

人々の、たま、まつる所とて、はり成したる所を、招魂場といふ。さくら、あまたうゑなしたれば、よの人、櫻山とぞよぶ。もとは岡のはら山といひて、赤間が關の、にしのはてなる、尾上にして、つくしのくにゞゝ、みわたす所也けり。いまだまうでぬ人々の爲にもとて、かくは、ゑ、かゝせたるになむ。

‥‥

○白石(正一郎)資風
さくら山 友のすみかと 也にけり あらくなふきそ はなの下風

○白石(庫之進・東一郎)資貞(のち資東。資風の長男)
誰もみよ きみのみためと ますらをが ちりにし花の 色の深さを

○白石(廉太郎)資正(資風の弟・白石廉作資敏の長男)
はる風に 身をばまかせて 櫻山 あなおもしろの ちりのまかひや

‥‥

○青山清(上總介長清。初代靖國神社宮司)
あふぎみよ さきてちりにし 櫻山 やまとこゝろの 花のありかを

‥‥

○長歌并反哥──片山(貫一郎)高岳(文久二年九月二十五日、氣吹舍入門。奇兵隊に學を講ぜり。白石資風翁と共に、此の歌集の編纂者なり)
花とふも さはにあれども ことさはぐ からにはさかで 日の本の ひかりとなれる さくらこそ めでたかりけれ 人とふも 多くあれども きみがため まめにつかふる 人こそは 尊とかりけれ しかばかり めでたき花を ものゝふの こゝろ赤間の 關ちかき 尾上にうゑて かくばかり 尊き人を しが蔭に かくしをさめし その本の ゆゑよしきけば えみじらが 船つらなへて たゝなへて いこぎまゐきて おふけなく みくにせめんと ゆく鳥の あらそふはしに いはまくは かしこけれども あきつ神 吾おほきみ そこをしも きこしめさけて やつこわが つかへまつらふ うみをなす 長門周芳の 國つ神 とのゝみごとに えみしらを うちきためよと おほみこと おふせ給へば おほみこと かしこみまして ふた國に のらし給へば 千萬の いくさおこして ますらをが いさみきほひて いでやつこ とりてつかみて このみゆる うみにしづめて あらしほの からきめみせんと をたけびて きしにいむかひ うちなすや つゞみのひゞき ふきなすや くだのおとなひ くにつちも とゞろゝゞゝと 空かぞふ おほづゝをづゝ なる神の おつるがごとく 玉だれの をだまおほ玉 いなづまの とひかふなして たゝかひの さかりなるころ 玉ぢはふ 神のみいづと 雨まじり あらちふきゝて おほ空も くもりふたがり あらなみの あらくしたてば えみじらは おそれをのゝき 引しほの ひきていにけり しかばかり すゝみきそひて 國のため きみのみために さく花の ちらふがごとく 玉きはる いのちすてつる 人こそは 尊とかる人 その人の おくつきしめし この山の みねにも尾にも めでたかる 花をうゑなへ はることの 手向となして もろ人の まつるゆゑよし きかくしよしも
おほきみの へにこそしなめと うたひつる ますら武雄が たま所これ

‥‥


 愚案、囘天學舍・西村梧樓代表の曰く、「來島又兵衞政久、御所を犯す、と。否、會津・桑名の賊の挑發する所、之を狙ひし彈、御門に當りたるのみ。皇居を犯し奉る意、固より全く無からむ。商賣作家の創作に惑ふ勿れ」と。此の言の葉、甚く心に殘れり。かつて葦津珍彦翁も、亦た此の老雄・來島蓮城を推せり(『永遠の維新者』昭和五十年九月・二月社刊)。靖國神社合祀。贈正四位なり。

 水戸の正學を承けし眞木紫灘先生は、久坂秋湖先生の與する所にして、秋湖先生の志は、亦た松陰・東行兩先生の志なり。而して東行先生の、「是れ此の時、日本の日本たらんと欲する日也」てふ叱咤蹶起は、奇兵隊を奮起せしめ、皇軍の源流を爲す。是れ、山海致死の英靈、櫻山の齋庭に鎭り、遂に靖國神社に祀らるゝに至る所以なり矣。

 嗚呼、草莽崛起は、松陰先生の唱道する所、佛蘭西語たる「右翼」てふ名號、此の垢に塗れし呼稱、相對的名稱を脱して、「眞の日本人」と爲る秋、日本中興、推して知る可く、有志草莽、誓つて期す可きなり。



●平泉澄博士『眞の日本人』(『傳統』昭和十五年一月・至文堂刊に所收。六十年五月・原書房復刊)に曰く、「

 甚だしいかな、天下形勢の急轉、朝に連衡の約あつて、夕に合從の盟となり、こゝに權變の術あれば、かしこに反間の策存し、一方に衆力を集めて、猛虎を攻めようとかる者あれば、他方に兩虎、相搏つて、共に疲弊するを待たうとする者がある。斯くの如く詐謀の祕術をつくして、一上一下、動亂やむ時なき外交の怒濤に棹さす者は、抑も何を頼み、何に依るべきであるか。これ今日、護國報恩の志をいだく士人の、日夜、肝腦をくだく問題でなければならぬ。‥‥

 一億一心、上下一和するならば、何ぞ外敵を恐れんや、むしろ進んで、大に國威を發揚すべし。然るに之に就いては、世に異論があらう。蓋し人心は互に相違する事、まさに其の面貌の異なるが如く、從つて之を一つにするといふが如きは、恐らくは單に修飾の辭であつて、實際に於いては、到底、不能の事に屬すると考へられ易いからである。しかしながら事實それは、決して不可能ではない。人々にして若し其の私心を去り、深く祖國の傳統に復歸するならば、こゝに祖國傳統の力は、上下貧富の差、老若男女の別を越えて、よく一億を一心ならしめるのである。天下の人心を一にするの説は、國民のすべてを、國家の正しき傳統に復歸せしむるといふに歸着するのである。國體の大義を明かにし、日本の道義に一命を捧ぐる、これ即ち私を去つて傳統に歸順するものに外ならず、よくかくの如くであるならば、之をこそ眞の日本人と呼ぶべきであるが、國民のすべてが、眞の日本人となる時に於いては、一億こゝに一心となつて、外國の權變、恐るゝに足らず、合從連衡、多く意に介せずして、一路邁進し得るのである。‥‥

 皇國臣子の道の、その後再び忘却せられ、傳統の光の、近年、又も衰微して來た。しからば我等は、此の道を再び明かにし、此の光を今日に輝かしめなければならぬ。我等日本人のすべてが、この忠死の心に立ち、この傳統にかへる時、換言すれば眞の日本人となる時、一億をうつて一心とする事は、始めて可能である。一億をうつて一心となし得たる時、海外の怒濤、それ何物であらうか」と。



**********

 初代靖國神社宮司「青山清」の哥を見たり。かつて「靖國神社祀職」てふスレツドを建て、宮司列傳を試みしが、些か増補して再掲せむと欲す。


 青山清翁は、長門國萩の人。文化十二年五月生る。諱は長清。上總介と稱す。其の家代々、萩城下の總鎭守椿八幡宮の宮司たり。上總、夙に國學を修め、近藤芳樹等と交はる。慶應元年八月六日、下關の櫻山招魂場(文久四年二月三日、長門國招魂社創建)にて、奇兵隊士を祭る(招魂大祭)。伊藤博文主の依頼あつて、兵部省より山口藩御用召し之れ有り、明治四年八月、上京し、同八月二十二日、兵部省十一等出仕・東京招魂社祭事掛に補せらる。同七年七月十二日、陸軍省十等出仕。同十年一月、招魂社雇ひ申付けらる。同十二年六月十六日、別格官幣社靖國神社初代宮司に任ぜらる。同十二月二十七日、權少教正に兼補せらる。同十五年一月二十四日、教導職。同十六年、七月六日、正八位に敍せらる。同二十年三月三十日、職制改正に依り、更めて宮司に補せらる。神社誌編纂を企て、禰宜・黒神直臣をして之に當らしめしが、幾許も無く黒神氏の不幸に接して已む。從七位に至る(特旨進位)。同二十四年二月六日(或は四日)、宮司在職中に歸幽。享年七十七。

●『京都に於ける吉田松陰慰靈祭紀事』文久二年十月十七日條(以下の[云々]は編者の註。(云々)は愚案にして、◎は靖國神社祭神。但し脱漏あるを恐懼す)
○覺
‥‥
一、祭主   寺島忠三郎。
一、[空白] 青山上總。(蓋し神主ならむ)
‥‥
○十月十七日、參詣人
久坂玄瑞(◎・正四位・義助通武・號秋湖)
佐世彦七(經一)
青山上總(從七位・長清)
福原音之進(◎・從四位・乙之進信冬)
寺嶋忠次[三カ]郎(◎・正四位・昌昭・號刀山)
福原三五郎
岡部繁之進(富太郎利濟・號巨川か)
河上彌市(◎・從四位・正義)
杉山松介(◎・從四位・松助律義・號寒翠)
吉田榮太郎(◎・從四位・稔麿秀實・號風萍軒)
澄川敬助(澄川謙藏正義ならば、◎)
楢崎八十槌
佐々木次郎四郎(雅風)
瀧彌太郎(從五位・厚徳・號壕里)
三戸詮藏
結城市郎[筑前の人也]
小國甲[剛]藏[彈正殿(◎・正四位・増田右衞門介親施・號霜台)より代香](從五位・融藏武彝・號嵩陽)
松嶋剛藏(◎・正四位・久誠・號韓峰)
福原龜太郎
今日、大坂より、廣岡(◎・從五位・浪秀正恭)上京に付き、政府廻り、乍(たちま)ち明日あたり、參詣の筈也。
‥‥
○覺
一、狩衣、壹領。
一、差貫き、壹下り。
一、烏帽子、壹頭。
一、中ケイ。
右、青山上總、着用。
‥‥

●『白石正一郎日記』慶應元年條
十月廿五日、今日晝過ぎより、招魂場[今の下關市櫻山]にて、吉田先生(◎・正四位・寅二郎矩方・號松陰)の御祭り執行す。
青山[上總]・
高杉[晉作](◎・正四位・春風・號東行)・
山縣[狂介](從一位・公爵・有朋・號含雪)・
福田[俠平](◎・正四位・公明・號悠々)・
伊藤春介(從一位・公爵・春輔博文・號春畝)君・
小子(正五位・白石正一郎資風・號橘圓)也。
 歸路、伊藤君にて、馳走、之れ有り。

●乃木神社社務所『乃木希典全集』上卷(平成六年六月・國書刊行會刊)の「日記・明治十一年」
十月第廿一日條、午後、青山清を訪ぬ。不在。‥‥
十月第廿二日條、午後、乘車。青山を訪ぬ。又た不在。‥‥
十月第廿三日條、午後、青山に、招魂社に逢ひ、祭事を托す。歸る。

●樟堂吉田祥朔翁『増補・近世防長人名辭典』(昭和五十一年六月増補版・マツノ書店刊)の「青山上總」に、歌一首「暮秋」を引きたり。
古さとの 垣根の小萩 かれしより もとあらはにも くるる秋かな   長清

●青山幹生・青山隆生・堀雅昭の三氏『靖國の源流――初代宮司・青山清の軌跡』(平成二十二年七月・弦書房刊)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/920
 
 

招魂場・櫻山神社。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年10月18日(日)21時49分43秒
返信・引用 編集済
   平成二十七年十月十七日、時局對策協議會・河原博史議長代行の促す所、皇道民族連盟・近藤勝博代表と共に、長門國赤間關後地村梨子ケ迫なる、櫻山神社秋季大祭に參列せむと欲し、一路、下關へ。囘天學舍・西村梧樓代表の案内(下關隨一の案内人とは、仄聞に違ばざる所なり)にて、先づ安徳天皇御陵に伏し、赤間神宮を拜して、宮司・禰宜御兩所に挨拶、而して次々に史蹟を巡り、遂に櫻山神社に至る。

 明日の準備の爲めに上つて居られた、阿部恭久宮司に遭遇、懇篤なる案内を賜はる。靖國神社の元ともなりし、招魂場。松陰吉田先生を始めとする祭神の招魂碑に壓倒されて、感慨、新たなり。

 翌日、櫻山神社創建百五十周年の大祭に參列、玉串奉奠を許され、無上の榮と謂ひつ可し矣。蓋し是れ、囘天學舍・西村代表の御蔭ならむ、深謝に堪へざる所なり。同血新聞社・塚本保嗣相談役に、初めて御目にかゝり、共に相語ることを得たり。同血新聞社・下山陽太主(彼の「廢佛毀釋」は、主の代名詞たるは、夙に知らるゝ所なり)とも再會、將に神出鬼沒の青年なり。健康を祈るや、切なり。下りて、周防國熊毛郡なる、式内社縣社・石城神社、亦た神道天行居の諸神社を登拜す。

 特記すべきは、小生、車輛の燃料携行罐てふものを、生れて初めて見たることなり。備へあれば憂ひ無しとは、此れを云ふか。感心頻りなるは、獨り小生のみ。田舍道、御要愼‥‥呵々。

 時局對策協議會各位の厚恩に接し、歡喜、甚だ大なり。記して感謝の意を表すと、備中の一處士、爾か云ふ。



上=官幣大社・赤間神宮參拜。
中=櫻山神社にて、宮司より案内を賜り、又た『櫻山の歌集』(平成二十年七月・櫻山神社刊。覆刻と解説は、谷省吾翁なり)を戴く。
http://sakurayamajinja.com/
下=招魂場。第一列中央は「松陰吉田先生神靈」、向つて右に「高杉晉作春風神靈」・「入江九一弘毅神靈」、左に「久坂義助通武神靈」・「吉田稔麿秀實神靈」はじめ、招魂碑三百九十一基。
 
 

神社本廳は、何處に行かうとしてゐるのか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年10月 4日(日)20時01分6秒
返信・引用 編集済
   久振りに同志に遇ひ、樂しい日々を送つた。これぞ、道樂の極みなりけり。其の席で、下山陽太氏からは、『闢邪』第四號を戴く。目を疑ふやうな神道界の亂脉、遂に神社界も、明治維新の大精神を踏みにじるが如き體爲、呆れて言葉を失つた。また此の號には、かつて其の『檄文』を紹介させて戴いた、眞橘道義神主の、事件の顛末、現在の心境を綴られた文章も拜讀し得た。有志には、是非とも一讀されむことを乞ふ。

●『闢邪』第四號目次
一、下山陽太氏「本教界の松永久秀たる田中恆清を膺懲す──廢佛毀釋の正統性を喧傳し、神佛習合を排す」
一、眞橘道義氏「再び神の道へ」
一、下山陽太氏「念佛宗膺懲義擧を正當化し、廢佛毀釋を擧行す」
一、下山陽太氏「編集後記」

◎『闢邪』の問合せ先
同血新聞社=一○三-○○○七・東京都中央區日本橋濱町三の二十七の二
      中銀日本橋濱町マンシオン四○五號室
電話番號=○三―五六四五―七七四五
douketsushinbunsha.hekija@gmail.com
 
 

自から 敕かしこむは、我が大君、雲上の神にし座せばなり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月28日(金)22時18分55秒
返信・引用
  ■『萬葉集』抄


○皇は 神にし座せば 天雲の 雷の上ヘに 宮敷き坐す(柿本朝臣人麻呂。流布本云、「廬(いほり)せるかも」。古義軒或本に據れり。卷三・二三五)

○皇は 神にし坐せば 眞木の立つ 荒山中に 海を成すかも(人麻呂・三・二四一)

○皇は 神にし座せば 赤駒の 腹ばふ田ゐを 京師となしつ(大將軍贈右大臣大伴卿・十九・四二六○)

○大王は 神にし座せば 水鳥の すだく水沼を 皇都と成しつ(十九・四二六一)


○晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大王の 命恐み 夜見つるかも(田口益人大夫・三・二九七)

○大船に 眞梶(まかぢ)繁貫(しゞぬ)き 大王の 御命恐み 磯廻(いそみ)するかも(石上大夫・三・三六八)

○物部(ものゝふ)の 臣の壯士(をのこ)は 大王の 任けのまにゝゝ 聞くと云ふものぞ(三・三六九)

○千萬の 軍(いくさ)なりとも 言擧げせず 取りて來ぬ可き 男(をのこ)とぞ念ふ(高橋連蟲麻呂・六・九七二)

○大君の 命畏み 愛し妹が 手枕はなれ よだち來ぬかも(十四・三四八○)

○大君の 命畏み 大船の 行きのまにゝゝ 宿りするかも(雪宅麻呂・十五・三六四四)

○大君の 命畏み 磯に觸り 海原わたる 父母を置きて(助丁丈部造人麿・二十・四三二八)

○大君の 命畏み 出で來れば 我に取りつきて 言ひし子らはも(種准郡上丁物部龍・二十・四三五八)

○霰ふり 鹿島の神を 祈りつゝ 皇御軍に 吾は來にしを(那賀郡上丁大舍人部千文・二十・四三七○)

○今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は(火長・今奉部與曾布・二十・四三七三)

○大君の 命にされば 父母を 齋瓮(いはひべ)と置きて 參ゐ出來にしを(結城郡雀部廣島・二十・四三九三)

○大君の 命畏み 弓の共(むた) 寢か渡らむ 長きこの夜を(相馬郡大伴部子羊・二十・四三九四)

○唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ來ぬや 母なしにして(國造丁小縣郡他田舍人大島・二十・四四○一)

○大君の 命畏み 青雲の 棚引く山を 越よて來ぬかむ(小長谷部笠麿・二十・四四○三)

○大君の 命畏み 愛(うつく)しけ 眞子が手離り 島傳ひ行く(助丁秩父郡大伴少歳・二十・四四一四)

○大君の 命畏み 於保の浦を 背向に見つゝ 都へ上る(掾安宿奈杼麿・二十・四四七二)



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/11
  ↓↓↓↓↓
 淺野晃翁『楠木正成』に曰く、「湊川の戰の前における彼を指して、岡倉天心が、あの正成の『やつれた』姿と言つたのを、忘れることが出來ない。やつれた姿。ひたすら重きをになひつづけ、默々として沒落へと急ぐ孤忠の臣の姿である」と。畏命卒伍の臣從は、當然當爲の道と云はむより、抑も吾人固有のこゝろ、草莽戀闕の至情なり。

 湊川大神に獻る哥二首。愚詠。

大君の 命畏み 五月雨の やつるゝまでに 盡くし大人はも

大君の 命畏み ますらをの 餘香は今に 盡きざらむとす
 
 

保守の敵は、保守なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月15日(土)00時53分2秒
返信・引用 編集済
   戰後七十年安倍内閣談話を聽く。絶句‥‥。「保守の敵は保守」てふ言の葉を、更めて噛みしめる。期待も無かつたが、此の憤怒、何處より來れる、知らんと欲して知るを得ず。今夜、『凛として愛』を觀て、獨り哭きたり。



●平泉澄博士『日本の悲劇と理想』(昭和五十二年三月・原書房刊。平成六年十一月・錦正社復刊)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/3



●泉水隆一監督『凛として愛』(平成十四年七月十三日。靖國神社遊就館に於いて上映)に曰く、

「森本文子の曰く、『そのために出たのに、今はもうちょっと世間の常識としたら、厄介者扱いのような、あれでしょう。本当、身内になってみりゃ、情けないですよ。なんのために命まで捨てたんかなあと思うてね。まあ、日本の国はええ国ええ国って云われとりますけど、これをわからん国民が多いんかなあと思ってね。いつも思います。情けないなあ。私は、あんな人間になっちゃならんと思うてね。大げさ云うちゃあれじゃけど、日本の国のためになるんじゃちゅう気が、兄貴にはあったんだろうと思います。とても今の若いものじゃったら、悪いことはする、人を殺したりなんかはするけど、自分の命を絶ってまで国のために尽くそうと思うものは、今はあまりいないんだろうと思いますよ』と。戦争は悲惨なもの、悪と云われ続けている。しかし戦わなければ、国家国民は、それ以上の悲惨な目に遭遇しなければならなかった。極東の小国日本が生き残った理由は、幾度かの国難に常に武器を取り、立ち向かったからである。‥‥

 明治開国以来、欧米列強の植民地化を避けるために、必死に刻苦努力して来た。こづきまわされても、じっと我慢を重ねて来た。日本人は多くの天災に襲われ、幾度とない飢饉にも見舞われたが、全て耐えぬいて来た。だが、日本民族の息の根を止めようとするアメリカの要求だけは、耐えることが出来ない。戦争をしない道は残されていた。全ての権益を放棄して、許しを乞う道はあった。しかし、それは戦争をしなくても、戦争に敗けたと同様の悲惨な末路を意味していた。国民には、それが出来なかった。武器を取ることを選択したのです。軍令部総長永野修身は、『戦うも亡国かも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は、魂までも喪失する永久の亡国である。たとえ、一旦の亡国となるとも、最後の一兵まで戦いぬけば、我らの子孫は、この精神を受け継いで、再起三起するであろう』と語った。大東亜戦争は、逃げも隠れもしない日本が戦争を決意した、一億の日本人が武器を取り、決意した戦争です。恥じることも、たじろくこともない。凛として、日本人は、襲い来る外敵を撥ね除けるために、日本生存を賭けて戦った、自存自衛の戦いです。それが極東の国日本の揺るがすことの出来ない、ただ一点の戦争理由です。‥‥

 子供を愛し、妻を愛し、兄弟を慈しみ、両親を尊敬する多くの先人。誰一人、日本が侵略戦争をしたとは思っていません。外国の土地を強奪した事実もありません。礼・義・智・信と云う厳しい道徳観の中で育った日本人は、不正義を憎み、卑怯卑劣を嫌う武士道を軍人魂として教育されて来ています。あなたが、もし日本人ならば、そして、正義を愛するならば、かっての日本人も、同じ日本人です。あなた方が誇れる、先人の方々です。あなたが自分を信ずるならば、日本を守った先人を信じて下さい。英霊を、先人の愛を、見つめて下さい」と。
 
 

淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』、人

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 8日(土)17時15分39秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

六十四
南の海の もりあがる汐のうねりから
月がのぼる
はるかなものの影が波の上に
生まれ出る

六十五
おお 晩夏の海に
まぶしくまぶしく燃えてゐるもの

六十六
 アジアの岸の歌

曾て不毛の河邊に
寢ずの番してゐた彼らであつた

天のどんな豫兆をも聞きのがすまいと
全身を耳にしてゐた彼らであつた

影に充ちた夜であつた
草はやはらかく幼な子のやうに
眠つてゐた
君たちもどこか草のやうに幼な子めいて
見えてゐた

滿天の星は身をふるはせて
縛された女性を凝視してゐた
アジアといふ名の漠たる女性は
漠たる永い夜に縛されてゐた

あの刻 彼らの耳は 何をきいたのか

さかしらな人間があやつる舞臺が
音 たてて
廻つただけなのか けれど
そんなことが 君らの願ひと
何のかかはりがある

君たちは裝ひを改めた
爭つて祖國の急に赴いた

花のやうな羞ぢらひの中に
五月の夜よりもかぐはしく

やさしい思ひ出とも別れ
答へなき天に
おのれの影を投げながら

ひとり世を超え
おそれもなく ためらひもなく
意味ありげなものの虚妄を
惡しく意味づけられたものの虚妄を
はげしく拒み また拒み

人みなが冷たしと見る
アジアの岸の夜明け前に
虚妄の意味を燒きつくし
おのれひとつの焰と燃えて
おそれもなく ためらひもなく
花のやうな羞ぢらひの中に
五月の夜よりもかぐはしく

聖なる戰の眞實を
おのれひとつに證しして
闇の汐に呑まれていつた

君ら 運命を超えて逝つたものよ
いまこそ 魂を鎭めるとき

六十七
われらが盡きぬ夏の日は
青い海が白い船を逝かせ 渚に光あふれ
瞳燃え いかにながい別離が
われらを捉へ
はるかな夜にさまよはせようとも
いつもここで わたくしらは出會ふ
生きるかぎり のちの世までも

六十八
ミンドロの岬から シブヤンの水道から
スリガオの海峽から デナガツトの海から
ミンダナオの海から
サン・ベルナルデイノの迫門(せと)から
パラワンの島から スルアンの島から
エンガノの沖から サマールの沖から
レイテの沖から サイパンの島から
テニヤンの島から グアムの島から
アンガウルの海から ハルマヘラの海から
パラオの島から ヤツプの島から
トラツクの島から ルオツトの島から
クエゼリンの島から タラワの島から
マキンの島から ペリリユーの沖から
モロタイの沖から ビアクの島から
ニユーギニアの岸から
ブーゲンヴイルの島から
ソロモンの海域から ツラギの島から
ガダルカナルの島から ルンガの泊地から
ミツドウエイの海から アツツの島から
歸つて來い
歸つて來い
歸つて來い


六十九
赤道の秋
ひややかにうねりを返す浪の背に
祖國の聲が 青い天から
呼んでゐる
捧げた君らの 尊い名を

七十
靜謐で清淨な空間を充たす 無盡の光
このひたすらな挺身者
時は いま 重い足どりで 歩いてゐる
僞りの歴史を じつくりと溶かすべく

七十一
すべては逝く
知つてゐたその人も逝く
録されたすべては亡びる
けれど記憶は殘る
けれど天は忘れない
すこやかにありし日のまま

七十二
死を超えて
なほも多くの日付がある



 愚案、愛協會主宰・岡田則夫翁は、

「八月には、故國の爲めに散華せられた英靈に、各人のおもひをこめて、『天と海――英靈に捧げる七十二章』を朗讀して捧げて下さい。この詩を朗讀してゐると、本當に大聲で、『歸つて來い! 歸つて來い!』と叫びたくなり、英靈が頭上にあらはれるやうで、胸が熱くなる」

と云ひ、九段塾頭・泉水隆一翁は、

「第六十八章の『ミンドロの岬から、シブヤンの水道から‥‥』といふ、太平洋の激戰場を連呼する箇所は、何度讀んでもたまらない。頭の中には、大砲の發射、砲彈が海濱に炸裂し、米兵が吹つ飛ぶ、椰子が裂かれる、手榴彈を投げる皇軍兵士が、燒け爛れた椰子の林を突切つて、米軍陣地に飛込んで行く兵士の姿が、『撃てつー』と叫ぶ隊長の顔が――殲滅されるまで、阿修羅のやうに肉彈となつて、米軍におほひかぶさつて行く皇軍將兵の顔が、メチヤクチヤに現はれる。發狂しさうだ! 餓鬼と戰ひ、髑髏のやうになつた眼孔を光らせたまゝ、絶命する兵士の姿が浮かぶ。南雲忠一中將を始めとする、多くの大將・中將・參謀・司令官・守備隊長が、敢鬪しつゝも、遙かに宮城を拜して割腹、自決する姿が浮かぶ。艦と共に海底に沈む將官・兵士の姿が閃く。血みどろの眼球がえぐられた顔で、敬禮しながら沈んでいく兵の姿が浮かぶ。『天皇陛下萬歳』の聲が、がんゞゝと響いてゐる。‥‥溢れ出る涙の粒で、パソコンの畫像が見えにくい」

と云つた。「歸つて來い、歸つて來い、歸つて來い」。彼の國民感情に、異論は固より無い。感動、落涙を禁じ得ない。然し誤解を恐れず申し上げるならば、靖國神社祭神に對し奉る「慰靈と感謝」──素直に表現するに、小生は、些か違和感を覺え、躊躇逡巡せざるを得ない。

 天子樣には、畏れ多くも英靈として「慰靈鎭魂」され給うたならば、其の本魂は、直ちに欣然として歸國昇天し、永く護國の神と坐します。臣民たる我々が、既に敕祭され給うた祭神の「靈を慰め」奉るとは、御鎭座以前ならまだしも、抑も烏滸がましいのではなからうか。これは、小生が『靖國神社考』に於いて、特に申し上げたかつたことであります。平時に在つては、祭神の大和魂を「顯彰」し、吾人の大和魂を堅むることこそ、國民の責務なりと信じます。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

 亦た「感謝」──かつて塾頭は仰つた。

「靖國神社に祀られる英靈つて云ふのは、天皇の爲めに戰つた人達、即ち皇軍兵士が祀られてゐるわけですね。日本の爲めに戰つた人達が祀られてゐるわけでは無いんです。明治天皇は、『よくやつた、可哀想だから祀つてあげよう』と仰つて、祀つたわけでは無いんです。生きてゐる國民に、『お前達の忠義の心、その魂を受け繼がせろ』と。その爲めに、皇軍兵士を祀つたわけです。佛教でもあるまいし、追悼施設なんて、誰も言つて無いです。『感謝もしてくれなくていゝ』と。要は、靖國神社に祀られる祭神、英霊は、『後を頼む』、即ち『後に續いてくれ』と云ふことで逝つたわけです」

と。靖國の祭神に神習うて、「一旦、緩急あれば」、「承詔必謹」、即ち父母妻子を措くこと、萬葉の防人の如く、亦た「妻は病床に臥し、兒は飢に叫(な)くとも、身を挺して、直ちに戎夷に當らむと欲す」ること、幕末の志士の如く、斷々然と「後に續」き、己が一命を捧げ奉らなければならないのであります。是れ即ち靖國神社祭神と國民の關係に於ける本義、靖國神道の要諦でありませう。「慰靈と感謝」てふ字づらに拘つて申すのでは無い、「皇國護持の道」發揚の爲めに、敢へて言擧げさせて戴いたのであります。
 
 

淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』、地

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 8日(土)17時14分20秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

二十五
 銀河と花の露の歌

大いなる向日葵の花ひとつたそがれ
天の銀河はかたむき流れる

ほのぐらい薊の花に蝶ねむり
どこかで名知らぬ母が呼んでゐる

こよひ銀河のもとに息づく
人のいのち 花の露

銀河の末は滿ちてくる青い汐に 洗はれる

百千の花のいのちをさながらに
銀白の波のぞめき 時のながれ

露といふ露のきらめき
はたおりは織り うまおひは追ひ

天の銀河 答へるいのち
汐は滿ち 時はすぎる

二十六
海が日をうたふ 海が夜をうたふ
海が生をうたふ 海が死をうたふ

二十七
この夜 晩夏の海は炎熱を收めた
まつくらな天に 汐だけが鳴つてゐる

二十八
秋よ來い そして 秋の花
朝顔の花 水引の花 露草の花
桔梗の花 撫子の花 コスモスの花
色のつめたい つまくれなゐ
赤のまんま ねぢり花 そばの花
カンナの花 龍膽の花 萩の花
また女郎花 くず 吾亦紅に 菊の花

二十九
南の海は暗かつた 母の胎内のやうに
月も星もみえなかつた
うねりだけが身をゆさぶつた
ながい夜だつた かれらは眠らなかつた
東から太陽がのぼる時までを

三十
ながいながい夜だつた
かれらは耳を傾けてゐた
じつにいろいろの聲が
語りかけて來たから
父なる聲
母なる聲
姉なる聲
師なる聲
友なる聲
逝いて遠い友の聲さへ
かれらは見たのだ
めいめいの持場にあつて
美しい形を まだ生れない前に見た
數々の 美しい形を
見たのだ
責務といふ名のもとに

三十一
舷側を打つ重いうねり

三十二
こだまするこだまする君が代の合唱

三十三
出撃 出撃 出撃

三十四
シツカリ ヤツテ クダサイ────
母の聲がきこえてゐる

三十五
海暗く 夜暗し 海深く 夜深し

三十六
不沈をうたはれた巨艦を中にして
艦隊速力二十五ノツトの雄大な輪形陣が
いま肅々と 進んでゆく

三十七
艨艟をのせて走る 夜の海の
たくましい 背中

三十八
平和といふ名の大洋に
はやくも立ちかがやく
水柱 水柱 水柱 水柱

三十九
祕められた天の明りをことごとく集め
燦然と立ちかがやく
水柱 水柱 水柱 水柱

四十
海坂(うなさか)の浪折(なをり)にふれて ただ一筋
針をひいた 雷跡

四十一
めくるめく衝撃のただなかに
赤道は天にあり
母國はかぐはしい一片の 朴の花びら

四十二
ぶちあてたものを すぐにも引取つて
沈痛なうねりを返す 海の水たち

四十三
雲は月を隱し 刻々とおしうつる時を
淨瑠璃の沈默が 充たす

四十四
海といふ戰場での 海といふ戰士の
巨いさ 虚しさ

四十五
赤と黒との焰の下に まだ光つてゐる
浪の穗の 青

四十六
つひに 天と海と
ひしと抱きあつてゐる 暗さ

四十七
どこからきたのか
飛んでゐる赤とんぼ

四十八
多く被彈し被雷し 傾き沈み落伍して
殘るは幾隻ぞ 艦隊速力いま辛うじて
二十二ノツトの減速輪型陣
前後左右を百尺の水柱に
ひしひしと取卷かれ
されど────(いいんだ いくんだ)
ワレ舵故障! いまつひに速力
二十一ノツト 二十ノツト
十九ノツト 十八ノツト
ワレ舵故障!
されど────(いいんだ いくんだ)

四十九
呼んでゐる 呼んでゐる
一つの聲が
むかしからいつも一つであつた國土が
呼んでゐる 呼んでゐる

五十
この生を祖國に捧げるだらう
といふことは たしかに
誰の知つたことでもない
けれども 自分が責務を果たすだらう
といふことは 誰よりも
自分がよく知つてゐる
わたくしらはみんな
不滅な風景を見てきてゐる
子供の時分から──そして今も
それが見えてゐる
そこに

五十一
うつくしい國土よ 山河よ
去つてゆくな どこへもゆくな
わが父母よ

五十二
天に白蓮 海に眞珠
閉ざされた雙のひとみの
なんといふやさしさ 若々しさ

五十三
ハタオリは機織れ ウマオヒは馬追へ
マツムシは人待て スズムシは鈴ふれ
カネタタキ鐘たたけ
クツワムシくつわ鳴らせ

五十四
生きてゐるといふのではない
存在してゐるのだ
と そのやうに感ずるとき
ひとは連嶺の雪みたいに ただ
光りかがやいてゐるのらしい
晝となく 夜となく 天の
一枚の青の下で

五十五
あのやうな きびしい形で
しつかと目をつむり 底ふかく
見てゐる 聞いてゐる
山 沈んだ山
こちらの山の谷をつたつて
あちらの艦のなかへ出る
みんなしつかり持場をまもり
水漬いてゐる
わたくしはそれをかかへ
すばやく 飛ぶやうに尾根を
かけあがる

五十六
暗雲は月を蔽ひ 視界に一點の光もない

五十七
けれどもまだ明るいうねりの上を
嬰兒のやうに這つてゐる 巨艦
五千トンの海水を呑みこんで
まだ沈まない七萬三千トンの 巨艦
 (大和よ 沈むな!)

五十八
櫻花散り 菊花散り
すべて季節の花散り

五十九
岸には カンナの花の赤と黄と
水は 太平洋の水

六十
夏草の列をうつして
水は逝き 河骨のかげ
さらばラバウルよ とうたつてゆく

六十一
録されてその名は殘り
録されたその人は還らず

六十二
録されなかつた名もあつた
その人も還つて來なかつた

六十三
ときとして忘却のなつかしさ
それの周邊へと思ひは歸る
きつとそれは
沈んでしまつた場所の確かさの
記憶からだ
 
 

淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』、天

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 8日(土)17時07分52秒
返信・引用
  ~承前~

■□■ 御製(平成六年、硫黄島に行幸啓。七年年頭御發表)

精根を 込め戰ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき

戰火に 燒かれし島に 五十年(いそとせ)も 主なき蓖麻(ひま)は 生ひ茂りゐぬ




□□□ 皇后陛下御歌

慰靈地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり 君ら水を欲りけむ(同上)

海陸(うみくが)の いづへを知らず 姿なき あまたの御靈 國護るらむ(平成八年、終戰の日。九年年頭御發表)


**********


●淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』(昭和三十九年夏成る。今は、岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁『愛協通信』平成四年六月・七十一號/七月・七十二號に據れり)


琅玕をふふむ 海の微笑
絲切齒に
日光をひきとめ 月光をひきとめ
どの瞬間もが 我を忘れる


たんぽぽの花を手にして
川口をゆく
春の證しの この黄いな花


海の影に染まり 草地をゆく
子供の手がかぶとむしをつかむ
小さな指のあひだで蟲が
角をかちあげる 波打際まで出る
ふりかへる 子供が石になつてゐる
はつとするとき 汐の香
胸をなでおろし 歩き出す


はまなすの花の 香氣のなかをゆく
すつくとたちあがり 乙女のひとみが
微笑をおくる 君のひとみに見入るとき
逝くものの なんと杳かであることか
紅い紅いこの花
手にはとらず そして歸る


桐の花の落ちた 小川の路をゆく
地にくつきりと印された
豆粒よりも小さな 這ふ蟲の影
それが のろのろと動いてゆき
瞬間 翅をひろげ 點ともならず消える


濃くなつた夕闇のなかで
かたまつて咲く除蟲菊の花 かと思つたら
一枚のホワイトシヤツで
草に埋もれた軌條の方へ
しだいに遠く動いていつた
見送り 頭をふつて 括弧を閉ぢる
そしてまた 歩きだす


亞麻の畠におりたち
亞麻の花のあひだをゆく
燃える正午の天の青さ
そこにはつねに思慕がある
それは咏嘆の盡きぬ源である
日は倦まずめぐり
亞麻の花は地平に 海の色を注ぎこむ


峽にはいり しげみに沿つてゆく
花すぎたアカシアが
ひつそりと潛んでゐる けれど見つけた
光はこぼれ 葉はみんな濡れてゐる
峽の道は暗くとも 誰が君を見忘れよう


明けがたの海の ほの白い渚をゆく
海は ただ 青く 遠い
世の人の永訣の時を いまこの時と
何が決めるのか けれど
海にはおもいいとなみがある
星には彼の光度がある
人には責務がある われらは みな
責務を愛した また この國土と
東洋の滿月を われらは みな
愛した 責務と 永訣の時を


湖畔の丘では 白樺の若葉のしげり
朴散華 雷が鳴り 地が震ひ 時を碎く

十一
夜となり不變の星が ふたたびあらはれる
さきだち逝つたもの 遠く杳かにあるもの
かれらを歡び迎へる ものがわが胸うちに
あり歡喜をおぼえる
不變の星と 不變の友情と

十二
脚速に更けてゆく夜
のなかにすべてがある
と考へるのはつつましい 哲學だ
見えてゐるのは 青い疊と
掛布團に描いてある 秋の七草 それが
一雙の屏風を倒したやうで
それがすべて そして
脚速に更けてゆく夜

十三
じわじわと夜が 水の上に
その壓を加へる
みんなみんな行つてしまつた そして
一人も歸つては來ぬ

十四
南の海の ねむたい午後だ
君の雙眼鏡のなかにゐるのは
瑠璃光の天と 雲の大入道
むかし小學校の校庭の空にゐた
天と雲だ

十五
歸つて茶を喫まう
かとも思つたが ひどい 濕地帶だから
水が よくない でも
沖の方から呼びかけて みんな
ぞろぞろ還つて來て いきなり
むずと抱きつかれたら
こちらもずぶ濡れだらう
さうなればやはり つれて歸つて 熱い
茶でも喫ませる ほかはあるまい

十六
この汐鳴り この滿ちてくるもの
われらが故國の天のしたで
聲をあげるもの 遠くで雷がなり
ここら一杯まだ漂つてゐる 夜光蟲

十七
北の夏は 無言の火花をそそぎ
南の夏は 赤道の黒いうねりか

十八
そこでは くろい浪は重くうねり
夜の艨艟―――
艦橋にふれて 南十字がよぎり
白く傾いた 銀河

十九
燈火は默々と蛾をいざなひ
網戸はかたく彼を拒む
いざなふものと 拒むものとがあつて
光に寄る生きものら かく 拒まれ また
いざなはれる

二十
君らは自分のからだをうまく敵にぶちあてるやうに
對角表をこしらへる
ちやうど學期試驗の前みたいな氣分で
君らはゐる 信號の教課も
そろそろ終る頃だらう
ここでは正午の草いきれの中で
すいつちよが鳴いてゐる

二十一
虚しい時空の一點に
積めるだけの紺青を積み
重すぎるまで生き そして 沈む
ああ すべて 吃水の深さのよさ
歸りの道は 考へることはない
明日は上らぬ落日のやうに
闇へ行く 闇はどれほど 深いか
虚しく偉大な夜を 雷火が打ち
おれは燃えあがり この夜を 照らす

二十二
在るといふことのよさ
在るといふことのいさぎよさ
在るといふことの確かさ まぎれなさ
在つたといふことの
絶對さと 不滅さ

二十三
月のあかるい椽先で
桃の冷えたのをたべてゐる
ひとしづくをも惜しんで
すするやうにしてたべてゐる
どこかで君らの聲が してゐる

二十四
くらい燈火のしたで 腕時計のねぢを卷く
もう明日である 燈火を消し 横になる
君らの顔が 笑ひながら過ぎる
 
 

嗚呼、招魂鎭魂の國民歌謠。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 8月 5日(水)22時10分45秒
返信・引用 編集済
   先般の岡山縣愛國者協議會例會は、倭建命、天翔りて‥‥から、「鎭魂」と「責務(責任と義務)」について考へるてふ主題の下に、淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』他、盛澤山の朗讀會と相成つた。古事記講義は、故に休講。其の語られた一部であるが、御紹介したい。

 岡田則夫翁は、三時間ぶつ通しで喋つても、聲が嗄れることが、絶えて無い。嗄れるどころか、其の聲が、實に佳い。殊に『天と海』を獨朗されること、凡そ三十分。次月は、一同にて朗讀會、これは大變である。かつて其の一部を、拜記させて戴いたことがあり、塾頭も大層喜ばれた想出が、目に浮かぶ。大詔奉戴日までには、岡田翁に傚ひ魂を籠めて、全七十二章、謹寫したい。



■大木惇夫氏『戰友別盃の歌──南支那海の船上にて』

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
滿月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ醉ひて勢(きほ)へよ、
わが征(ゆ)くはバタビヤの街(まち)、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜(よ)か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
默々と雲は行き雲はゆけるを。



●大木惇夫氏改作・古關裕而氏作曲『海を征く歌』
https://www.youtube.com/watch?v=EWO4WjQImrw

君よ、別れを言ふまいぞ
口にはすまい、生き死にを
遠い海征(ゆ)くますらをが
なんで涙を見せようぞ

熱い血潮を、大君に
捧げて遂(とぐ)るこの胸を
がんと叩いて、盃に
くだいて飲まう、あの月を

僕は遙かなつんどらの
北斗の空を振(ふる)はすぞ
君は、むらがる敵艦を
南十字の下(もと)に撃て

誓ひ誓ふて、征くからは
きつと手柄をたてようぞ
萬里の雲にうそぶけば
波は散る散る、雪の華



□岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁『愛協通信』(昭和十年十月・百四十六號/十一月・百四十七號)

 藍川由美の『レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」──古關裕而歌曲集二』の解説には、かう書いてある。

「文化部隊の一員として、ジヤワに參加した大木惇夫が、歸國後、發表した詩集『海原にありて歌へる』の中の「戰友別盃の歌──南支那海の船上にて」に感動した古關は、大木に改作を依頼して、この歌を書いた。『私の作つた、いくつかの戰時歌謠の中でも、好きな曲の一つである』と、古關はいふ。

 しかし、この歌には、歌詞の誤植や樂譜上の問題があつた。中でも、レコードの演奏が八分の六拍子なのに、全音樂譜出版社『古關裕而作品集』のピアノ伴奏譜が、四分の二拍子になつてゐる點が重要で、記念館で調べたところ、八分の六拍子の自筆オーケストラ・スコアが出てきた。すると、出版の際、便宜的に四分の二拍子に書き替へられた可能性もある。そこで今囘の録音には、改めて現存する自筆スコアから、ピアノ譜をおこして用ゐることにした。」

 こゝにある「今囘の録音には云々」といふのは、『ああ此の涙をいかにせむ』で、日本コロムビアからCDで、定價三○五九圓で發賣されてゐる。古關が「好きな曲の一つである」と言ふだけあつて、此の曲を初めて聞いた時の感動は、一言では表はせない。曲がながれだした時から、一點集中となり、曲が終了して、すぐ解説書を開いた。そこで、またゝゝ衝撃をうける。その詞が、以前から私の好きな『戰友別盃の歌』の改作であつたからである。

 大木惇夫の心(精神・魂)が、古關裕而の心が、藍川由美の美聲にのつて、聞くものゝ心をうつ。大木惇夫の言魂(詞)は、古關裕而の魂を振はせ、藍川由美の言魂(美聲)は、それゞゝの魂を融合して、さらに大きな言魂となつて、聞くものゝ魂を振はせる。嗚呼、‥‥。この感動を、ぜひともあなたの耳と心で、確かめて頂きたい。

 そして、祖國防衞のために生命を捧げられた英靈の心を偲び、慰靈のあり方を考へて頂きたい。さらに、現在もなほ遠くはなれた地に埋もれたまゝになつてゐる、多くの英靈の遺骨があるといふことを忘れてはならない‥‥。我々は、いま何ができるのだらうか。一人一人が、ひとりの日本人として、英靈と向かひ合ひ、答へをださなければ‥‥。英靈と向かひ合ふ事は、不可能ではない。何故ならば、殘つてゐる英靈の『遺書』に向かふことだ。一人一人と語ることができる。一人一人の言魂(ことだま)を、あなたの魂(こゝろ)で受け止めて頂きたい。そして、あなたの聲で、英靈に答へを告げてください。‥‥

 さきに紹介した、『ああ此の涙をいかにせむ』の藍川由美の解説書の中から、古關裕而の言葉を拔粹し、ご紹介いたします。ある時、陸軍病院へ慰問にゆき、

「隊長が、突然、私をステージの上にあげて紹介した。私は、なにか挨拶をしようとしたが、酷暑の炎火に座つて聞いてゐる、多くの兵隊の顔を見たとき、その一人一人の肉親が、無事に歸ることを祈つてをり、はたしてその中の何人が?と思ふと、萬感が胸に迫り、絶句して、一言もしやべれなく、たゞ涙があふれてきた。」

「私も何度か、戰地や戰跡に出向き、悲慘な樣子を目の當たりにしてきた。それらの體驗が、『露營の歌』や『曉に祈る』・『ラバウル海軍航空隊』等の歌となり、國民のために少しでも役に立てたことはよかつたと思ふ。」

『露營の歌』について──「「土も草も火と燃える」とか、「鳴いてくれるな草の蟲」など、詩は旅順で、見たまゝの光景で、私には、あの戰跡の、かつての兵士の心が、そのまゝ傳はつてくるのであつた。夏草の搖れ・蟲の聲も、そこにあつた。」

『曉に祈る』について──「私は、この詞を見た時、中支戰線に從軍した經驗がそのまゝ生きて、前線の兵士の心と一體になり、作曲が樂だつた。兵隊の汗にまみれ、勞苦を刻んだ日燒けした黒い顔、異郷にあつて故郷を想ふ心、遠くまで何も知らぬまゝに運ばれ、歩き續ける馬のうるんだ眼、すべては私の眼前に髣髴とし、一氣呵成に書き上げた。」

 古關裕而その人の、心のやさしさを感じる文章である。このやさしさが、彼の曲の根底にあるから、彼の「戰時歌謠」は、聞く人の胸をうち、魂をゆさぶるのだと思ふ。

‥‥

 詩歌は、默讀でなく、聲をだして拜讀したい。そしてできれば、詩歌を書き寫したい。書き寫してゆくと、作者の思ひが、惻々として心に響く。それに關連してだが、先月、萬葉學會の長老・犬養孝博士が亡くなられた。讀賣新聞(十月六日)に、中西進・大阪女子大學學長が、次の樣な事を書かれてゐた。

「『萬葉集』の歌を文字として見るのは、寄席の落語を書物で讀むのと一緒である。半分死んでゐる。いはゆる「枕詞」といふのも、無意味につけるはずがない。なかば音樂に依存しながら、聞きなれたリズムの中に相手を引き入れつつ、歌いかけていく。なにしろ「うた」は、「うつた(訴)へる」ものなのだ。ことばのひゞきやリズムは、もつとも人の心を動かしやすい。ところが現代人は、ことばを意味だけに置きかへて使つてゐる。ひゞきの美しさなど、日常語では邪魔にさへされかねない。せいゞゝことばのひゞきの美しさを考へるのが、四股名と藝名だといふのは、情けない。この現代人と正反對なのが、萬葉びとだつた。

 ことばの音樂性を十分大切にし、ひゞきも、意志を傳へる大きな武器であつた。そこで萬葉の歌を生かさうとするには、朗々と聲をあげて味はふしかない。事實、聲に出して詠んでみると、新しい發見をすることも、少なくない。古代、歌をチヤンネルとして、人間と神は會話をかはした。また相手をやつつけることを、「言向け」といつた。歌を相手に向けて歌ふと、相手をことばで壓倒してしまふのである。萬葉の歌の魔力は、朗々とした歌のひゞきにやどり、歌はれた歌は、言靈をいかんなく發揮した。博士(犬養先生)が野外に立つて朗詠されるのも、よく聞いた。とくに博士は、古代そのまゝの風土を愛されたから、その大自然の中に、歌の言靈は、はるゞゝと放たれ、木精(こだま)となつた。その意志を繼承しなければならない。」

 『海を征く歌』を、そんな思ひで聞き直して見てください。新しい何かが發見されると思ひます。そしてそれは、すべての事にあてはまるのではないでせうか。人に思ひを傳へるといふことに。演劇や歌謠曲から演説まで、あらゆるものに、すべてあてはまるのではないでせうか。



■柳井道弘氏『招魂の賦』

一、
南の海はおもくうねり 南天の星はみをふるはせて
美しい魂の炎(も)えつきるのを 言葉もなくみまもつてゐた
焦げつく飢と生への渇望を 枯木のやうな祈りにこめて
清純な花の羞ぢらひに散つて逝つた乙女たち
そのやはらかな乳房や小さな脣はすでに風化してしまひ
遙かな海がうたふ もりあがる汐のうねりが
ああ空がうたふ 南の夜空の滿天の星たちが
戰野に散つた靈たちの 魂乞(たまご)ひのうたを
おおけなげなみ靈たち
海坂(うなさか)の浪折をふんで歸つてこい
歸つてこい
なぐはしい大和島根に
さうして
涙にぬれた苦しみの重さを
ふる里の山河に返し與へるがいい
み戰に散つた優しい乙女たち

二、
櫻の花を 見たいとゆふ
日本の乙女 心は故郷
南天の星 みをふるはせて
思慕(おもひで)だけが 靜かに流れ
ああ海が 歌ふ
ああ空が 歌ふ
歸つてこいよ ふる里の山河
歸つてこいよ ふる里の山河
きれいな魂 炎えつきて
言葉もでなく みまもつてゐ た
戰野に散つた 若き靈たちの
あなたの命 むだにはしない



 岡田則夫翁の曰く、「昭和五十七年五月二日、岡山縣奈義町『直毘塾』で、物故者合同慰靈祭・塾長就任奉告祭があり、當日に『招魂の賦』と題された詩に、中村武彦塾長と共に出席されてゐた作曲家の濱圭介氏が、武山巖氏令室の從軍看護婦の話により、其の二番を即興にて作曲、ギターを彈きながら歌はれた。私は感動に胸熱くなり、涙を禁じ得なかつた。柳井氏は、詩人。岡山縣出身。大正十一年生。明治大學卒」と。



□岡田則夫翁『愛協通信』(平成四年六月・七十一號/七月・七十二號)

 三島由紀夫氏は、かつて「ポエムジカ」と名付け、この詩を朗讀。音樂は山本直純氏。山本氏は、「ポエムジカは、たつた一人でピアノやギターの彈き語りもできるし、またあり合せのレコードをかけて朗讀してもよい。好きな詩と好きな音樂が一つづつあれば、それでよいのである。日ごろ愛唱してゐる、古典の朗讀であつてもよい。要は音樂と朗讀の結合を、どう表現するかといふことで、最もたいせつな事は、その詩の精神を、どう表現するかといふ點である」と語つてをられる。三島氏は「この七十二章を讀み返すごとに、私の胸には、大洋のやうな感動が迫り、國が敗れたことの痛恨と悲しみが、ひたゝゝと寄せてくる。淺野晃氏は、日本の詩人としての最大の『責務』を果たしたのである。」

 八月には、故國の爲めに散華せられた英靈に、各人のおもひをこめて、『天と海――英靈に捧げる七十二章』を朗讀して捧げて下さい。この詩を朗讀してゐると、本當に大聲で、「歸つて來い! 歸つて來い!」と叫びたくなり、英靈が頭上にあらはれるやうで、胸が熱くなる。



●淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』(昭和四十年四月・翼書院刊)
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●淺野晃翁『楠木正成』(昭和十八年三月・日本打球社刊)

「わたしは、この『櫻井の訣別』を、眞下飛泉の作にかゝる『戰友』と、土井晩翠の作といふ『荒城の月』とともに、明治時代に於ける三つの偉大な國民歌謠てあると信じてゐる。三者ともに、太平を謳歌する、豪華な饗宴の調べではない。危機に直面して、國の重きをになふ民庶の、野にあつて低唱する、沈痛ななげきである。だからそこには、實朝の歌に於けるあの叫びや、人麿の歌に於けるあの慟哭や、防人の歌に於けるあの嘆きやが、抗しがたい力を以て脉打つてゐる。わたしの謂はゆる卒伍の決意である。そしてそれは、明治の精神のあらゆる偉大さの中での、最も偉大なるものであつた。

 中に就いて、『櫻井の訣別』の一作は、偉大な孤忠の臣正成の囘想に於いて、盡くるところのない草莽の恨みと、身を以て語らうとする、その一死の志とを傳へてゐる。

木の下かげに駒とめて
世の行末をつくづくと‥‥

 「世の行末をつくづくと」──この一句のなかに、臣從の衷情がこめられてゐることを、われゝゝは少年の日の生活のなかで、無意識のうちに、それと知つたのである。それは、(岡倉)天心の謂ふところの劍の精神に於いて、われゝゝの國史を今日まで護り通して來たところの、われゝゝの父祖の孤忠のこゝろなのである。わたしは、かやうな意味から、この歌を、明治の國民文學中に於いて、ながく愛誦されるであらう傑作の一つに數へたいと思ふ。もしこれが、坊間傳へる如く、まことに落合直文の作であつたとするならば、直文は、(頼)山陽と竝稱されてよいのである」と。
 
 

小人「豆津魔」──精米にて祓ふべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 7月24日(金)18時28分26秒
返信・引用 編集済
   幼き頃、二階の欄干に倚りて道を眺めてゐたとき、小生は、確かに「鬼」を見た。向ふから歩いて來た近所のをばさんの頭から、一本の「角」が生へてゐたのだ。周りに云つても、誰も信じてくれなかつた。以來、其の家に行くのに、足が竦んだ。今も小生は、「鬼の實在」を、確と信じて疑はない。

 最近、「やりすぎコージー都市傳説が面白い」と、愚息が云ふので、録畫を見る機會があつた。「小人(こびと)が實在してをる」と云ふ趣旨の映像、複數の出演者も、「私も小さなをぢさんを、見た、々ゝ」と、確信を以て主張してをるやうだ。見るからに胡散くさい男のロケもあり、他愛の無いものであつたが、ネツトで檢索したら、出るは、々ゝゝ。これは注意を要する。笑ひ所では無い。枕邊に「精米」を置いて、自ら祓はれむことを。各位の周圍に、同樣の御方が居られましたら、是非とも勸めて戴きたい。

 西洋の精神世界の研究は、古來より進んでをると云ふが、所詮、それは、人靈の研究に過ぎず、神靈の研究は遲れてをる由。潮の凝まりし野蠻の國々なれば、無理もなからうが、低級靈・邪靈に誑かされぬやう、たゞ祈るばかりだ。魑魅妖魔を退くる、大壑平田先生の學識・心構へに非ずんば不可にして、凡人は「精米による祓へ」に頼るが吉からう。關西では「輪くゞり樣」の季節、周圍の清祓に力めたいものだ。



■平田大壑先生『玉襷』七之卷
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/3

 往(さきつ)年ごろ、我(大壑先生)が許に、幼くて幽境(かくれぐに)の山人(地仙・杉山組正──杉山「そうしやう」と清みて唱ふ。俗に杉山僧正と云へり。常陸國岩間山十三天狗の取締役。光仁天皇寶龜八年二月入幽。嘉永年間以降、杉山石麿清定君と改名。亦た常陸國筑波山・愛宕山・男體山に住めり。大山では杉山常昭、或は諸越等の山では雙岳山人と名乘り、唐土上代の高官にも轉生すと云ふ。誕辰は三月十三日。三千餘歳。本山は信濃國淺間山にして、實は眞薦苅る信濃國いつ速き淺間山に鎭まり坐す磐長比賣神に副ひて守らす天仙・日々津高根王命の分身に坐せり矣)に伴はれて、年久しく役(つか)はれたる、寅吉(仙名は高山嘉津間。越中屋與惣次郎二男、文化三寅年十二寅月三十寅日朝七ツ寅刻生、車屋と號す。後ち蛭子流神道・筑波六所社人白石丈之進の養子、顯名は白石平馬。宮負定雄翁『奇談雜史』卷十云、醫者の石井數馬篤任。文政三年三月出山。『氣吹舍日記』云、十月一日、平田先生と對面。『異境備忘録』云、亦名は定元知坊、日石。明治になりて、大山常照僧正の應へて、奇乙上位・白石玄達と曰ふ)と云ふ者居たりしが、文政四年五月の或る日に、人々と火の穢れの物語りに及びて、「穢火のもとは、伊邪那美命の、火神を産み給へる時の、後の物より起れり。(『仙境異聞』三之卷に、「京の愛宕の社は、火の神・迦具土命なるが、火の穢れを忌ひ給ふ中にも、産火を殊に惡み給ひ、」)伊勢の神宮の御定めにも、産火を重き汚れと立てられ、胞衣(えな)を納めたる者の穢れを、□(某)日の定められしも、故ある事なり」と語り相ひて在りけるに、寅吉、傍らにきゝ居て、「『豆つま』と云ふ物あり。知り給へりや」と云ふに、吾も人も、「其は、何(いか)なる物ぞ」と問ふに、

(寅吉の云く、)「己、さきに山に居たりし時に、友どち連れ立ちて、月夜に里近き野に出でけるに、長(たけ)四五寸許りなる小さき人の、髭生ひたるが、七八寸許りなる小さき馬に乘りて、甲冑を著し、弓・鎗・太刀など、種々の武器を持ちて、いと數(あまた)現はれ出でて、入り交り合戰するを見たり。甲冑の製、また鎗の鋒(さき)、太刀の刃の光りなど、人間のに異(か)はること無し。いと怪しく覺えて、捕へ見ばやと思へど、神速なる樣、なかゝゝ捕へ得べくも覺えねば、友どちと小石交りなる土の塊りを取りて、散々に打ちつくるに、何處とも無く、皆な見えず成れり。打ち殺したるが有りやと求むるに、一とつも無くて、石塊などに血つきて有りしなり。山に歸りて、其の事を師の山人に申せるに、

其は、「豆つま」と云ふ妖物にて、産の穢物。また胞衣を隱(かく)し納むること等閑なれば、鼹鼠(うごろもち)を生ずるを、其の中に、然る怪をなすが有りて、小兒を魘(おそ)ひ驚かして、夜啼きせしめ、猶ほ種々の妖(わざ)をなして、小兒を誑かし惱ましむ。其は、小兒の時のみならず、其の人の生涯にも妖をなす物なり。彼の謂ゆる鎌鼬(かまいたち)の態とて、物も見えず身を切らるゝ事あるも、此れが年經たる物の爲る事なり。然るに豆つま、甚(いた)く精米(しらげよね)を嫌ひ畏るゝ故に、胞衣を埋むる時に、少(いさゝ)か精米を、その器に入れて藏むれば、其の物生ぜず。總べて鼹鼠は、人の血の、土に塗れたるより生じて、子をも生み蕃(ふや)す物なり

と教へられき(豆つまは、丑寅の方よりも來る。又た産の穢物どもは、究奇(かまいたち)とも化るといふ)」と語れり[こは、寅吉が、山より歸り來れる近き頃(ほど)にて、殊に其の性の奇異(あや)しかりし時なり。此の物語りの時に居り合ひたりしは、屋代弘賢ぬし・竹内健雄・佐藤信淵・上椙篤興など、其の餘にも人ありしが、誰に有りけむ、忘れたり。此れより後に聞きたる人は、いと數多あり]。居り合ひたる人々、みな甚く驚けり。

 己れ按ふに、『今昔物語集』(卷二十七)に、

「ある人、方違ひに、下の京邊りに、幼兒を具して行きけり。其の家に靈(たま)ありしを、彼の人は知らざりけり。幼兒の枕の上(ほとり)に、火を近く燈(とも)して、傍らに二三人ばかり寢たり。乳母は目を寤(さま)して、兒に乳をふくめて居たるに、夜半(よなか)ばかりに、塗籠(ぬりごめ)の戸を細めに開けて、長五寸計りなる男の裝束(そうぞき)したるが、馬に乘りて十人ばかり、枕のほとりを渡りければ、乳母、恐ろしと思ひながら、傍らに置きたる打ちまきの米をつかみて、投げかけゝるに、此のわたる物ども、さつと散りて失せけり。打ちまきの米ごとに、血つきけり。幼き兒の邊りには、必ず打ちまきを置くことなり」

と有り[中つ世に、方違ひといふ事のありしは、皆な人の知れるが如し。其の中つ世には、人の住み捨てたる家の、所々に有りしかば、其の明(空)家に、方違ひに行きたるなり。斯くて其の出でたる物を、靈と云へれど、寅吉が言に依れば、此は「豆つま」にぞ有りける。さて豆つまと云ふ名の義を、いかならむと語り相ひけるに、屋代ぬしの言に、「小さきゆゑに豆といひ、ツは助辭にて、豆つ魔といふ義には非じか」と云はれき。此は然も有りなむ]。

 此の事は、上に引きたる『大殿祭の詞』を講ずる(『延喜式』なる其の祝詞の分註に、「今世、産屋、米を以て屋中に散らす」と)ごとに、『貞觀儀式』に、其の祭の時に、「殿の内、また御門に、米と酒とを散らす」事を載せられたる文と共に、引き出でたりしかど、唯に散米の功をのみ述べて、馬に乘り出でたる物は、何物とも考へ及ばで在りけるに、此の時、始めて豆つまと云ふ名を知り、散米する事は、其の妖(まが)を消する術と知れるは、實に寅吉が賜物にぞ有りける[斯くて後に、漢土の雜書ども(『聊齋志異』等)、彼れ此れと見し中に、然る小人の形せる妖物の、いと多く出でて、怪を爲したる事實を、あまた見出したり。其が中に、鼠婦ちふ蟲の、さる怪を爲したる事もありき。此こには所狹く煩はしければ、其の事どもは、『仙境異聞』(三之卷)に集め記して、此こには出ださず]。

 また『紫式部日記』[皇子御誕生後の事を云ふ處]に、「うへにもわたらせ給ひて御(ご)らむず。若宮おはし坐せば、うちまきしのゝしる云々」[また「源少將雅通など、うちまきをなげのゝしり、たか打ちなさむと爭ひさわぐ云々」。また『源氏物語』横笛の卷に、「いとよく肥えて、つぶゝゞとおかしげなるむねをあけて、乳などくゝめ給ふ。ちごも、いとうつくしうおはすする君なれば、白くおかしげなるに、御乳は、いとかはらかなるを、心をやりてなぐさめ給ふ。男君もよりおはして、いかなるぞなどのたまふ。うちまきちらしなどして、みだりがはしきに、夢のあはれもまぎれぬべし云々」]。是れも豆つまの出で來ざるやう、豫ねて拂ふ事と見えたり。

 また右等に就きて思ひ出づるに、我が本生の祖母は、九十歳餘にて終られたるが、己が十八九歳の頃、既に七十に近かりしが、嫂(あによめ)など、凡て幼兒を養ふ婦女には、「兒の枕上(まくらべ)に、精米を忘れず置け」と云ふことを常に言はれしは、此の故實をとり傳へしにや有らむ。然れば精米を、女詞に「打ちまき」と云ふも、『今昔物語』の事と合はせて考ふるに、妖物を避くるに、打蒔くより出でたる語なり。此の『今昔』の事實によりて、古へ兒(ちご)を育つる婦女の寢る傍らに、米を置きたる事も、詳(さだ)かに知られて、最(いと)も感(めで)たき事なりかし[古道を信ぜむ人々の、兒を生みたらむには、産屋に散米すること、胞衣を藏(をさ)むる土器に、精米を入るゝ事、また兒を育つる婦女の枕上に、米を置くことは、必ず忘るまじき事にこそ。○下總人・千本松恭壽の云く、「我が郷のあたりにて、嬰兒(みどりこ)の生れて僅か一と月計りにて、いまだ物心も有らぬが、時として甚く聲立てゝ、限りなく笑ふ事あり。然るを俚諺に、『えながあやす』と云へり。其の状、ものに捎(こそ)ぐらるゝやうにて、いと異(あや)し。此は何(いか)なる事とも心づかで在りつるを、いま師の講説を承はりて、思ひ得侍りぬ。然るは「えな」は、胞衣。「あやす」は、其の胞衣より成(いでき)たる豆つまが、肖(あや)し笑はしむるにて、其の後には必ず病み煩ひ、蟲など生ずること有るものなり。然か有らむ時には、かの精米もて拂ひ袪(さ)るべき事と、心得侍りぬ」と云へり。此は、實に然るべし」]。

 總じて古道の學問は、かゝる事までに深く心を用ひて、其の實地の道理を探ね究めて、偶々に然る事ありとも、怖ること無く、惑ふことなく、退散せしむるを、倭心の鎭まりと云ふ。然れば常に謂ゆる奇談の實事を記せる籍をも讀み味はひて、其の實徴を明かさむ事も、また古學の肝要なり。其は、さる學問の魂の御柱なき人は、偶々にさる事に出で會ふ時は、大きに惑ひて、彼の謂ゆる戸牖の錯(きかひ)、なり動くにも愕然(びつくり)して、夜目のいすゝき、いつゝしきこと有るめるを、魂に柱の立ちたる人は、まづ斯くの如き奇(あや)しき天地の間(なか)に居て、神祇の妙なる理を辨へて、世には樣々のわざを爲す妖魅のある事も、常に知りて在る故に、怪しき事の有りと聞きても驚かず、譬へば某(それ)の所に、「へうすべ」出でたり、「見越し入道」出でたりと噂ありとも、然る化物(ばけもの)も有る事ぞと知りて在れば、驚くこと無く、驚かぬ故に、惑はされず[是ぞ、彼の兵書に、謂ゆる彼を知り己を知るときは、百度戰ひて、百度勝つといふ場にて、化物も、化しやうに困るべき所と覺えたり]。

 然るに俗(よ)の儒者らが如く心狹く、この天地と云ふ、大きに奇異しき中に居て、己が身の大きに、怪しき物なる事にも心つかず、『玉鉾百首』に、「奇しきを 非じと云ふは 世の中の 奇しき知らぬ 癡(しれ)心かも」と詠まれたる如く、「世に怪しき事とては無きを、奇しと思ふは、惑ひなり。狐、いかで人を化さむ。豈に妖物・幽靈など云ふ物有らむや」など言ふ徒は、適々に怪しき事を見ては、膽を消し、或は化されも爲るなり[『川柳點』といふ口吟(ずさ)みに、「化物の咄しを 儒者はひつしかり」と云へるも、其の見を高しと贊せる句に非ず。その癡心を笑へる句なり。心をつけて味はふべし]。‥‥

 こゝに古學の意(こゝろ)を熟(よ)く得て、大倭魂を突き堅め、彼をも己をも知りて在るは、假令(よし)目の前に、「へうすべ」・「見越し入道」など出でたらむも、人のならひは然る者にて、馬の放屁にも驚くことの有るなれば、見馴れぬ物の不意に出でては、少か悸動(びつくり)する事有るまじきに非ざれども、元より心の修行、殊なる故に、腰の拔くる計(ほど)の事なく、忽ち靜まり反りて、「扨てもわぬし(和主、即ち化物)は、失禮ながら稀有なる面なり。然れどもまづ初めて出で會ふて、滿足に思ふことなり。年ごろ、和主ら如き物の、世に有ること、慥かに心得て在るを、元來、おぬしは、何處に住まふ者にて、今、何の用ありて出で來しぞ。次々に問(たづ)ねま欲しく思ふこと多かり。立ちはだかりては、人に對する道に非ず。まづ下に居て語れ」など諭しおきて、豫ねてよく知らむと思へる幽冥界のこと、また彼らが仲間の有り趣(さま)をし、問ひ試みむと構へむには、其の出でたる化物、もし文盲ならむには、大きに困りて逃げ去るべく、もし然る問ひの答へもなるべき程の化物ならば、其れいと面白き化物なり。隨分に馳走して、幽冥世界の事を問ふべし。然るは此の顯世より、幽冥界の事を知らむと爲るには、古今の籍に記し傳ふる事の迹を見て、知り辨ふる事なれば、迂遠(まはりどほ)なるを、然る幽界の物より、直にその界の事を問はむは、斯くばかり手近き事の無ければなり[然るは甚と古く漢土にては、黄帝が目澤といふ異物に問ひて、萬物の情に達し、天下鬼神の事、また其の古へより精氣、物を爲し、遊魂、變を爲す者、凡そ萬一千五百二十種の事を聞きたるを始め、彼の國の達人たち、神仙・鬼鬽(おに・すだま)の類に出會して、幽界の祕説を聞きたる事ども、今、計ふるに遑あらず。中にも梁の陶弘景が『眞誥』などを見ても知るべく、此方にも然るためし多かり。其は、後白河天皇、住吉大神の眞似して、開發源大夫と稱(な)のれる物より、天狗界の事を聞こし召され、羽黒山の山伏・雲景が、愛宕山の天狗界にて、其の世の治亂の未來を聞きたる抔を思ふべし。斯くの如き皇國の事實、また今ま計ふるに堪へず。己、はやく然る例を思ひてなむ。神に誘はれ、物に伴はれて、幽界に至れる者どもに出會して、其の趣を探ぬるを、俗の愚昧なる學者らが、然る大志をば得知らずて、余をし、徒に奇談を好むと論(さだ)するとか。穴をかし]。

 然は有れ、鬼神に横道なしとは言へど、また絶えて妄語なしとは言ひ難し。其は、中に不正の鬼魅、文盲の鬼神も有るべければなり。然れば其の言を聞かむには、我がかねて學び得たる古道學の眞規格をもて、之を正し、能くその信ずべきを信じ取りて、信ずまじきを擇び捨つるぞ、鬼神幽界の事蹟を探ぬる對問の眞訣なる。然れど此の眞訣はも、父また子にも傳へ得べからぬ、機變の心法にし有れば、行尸に等しき鈍學者流の、得知る所に非ざるなり[抑々この大旨を知らむとするには、常に『古今妖魅考』に記せる趣を、よく讀み味はひて、まづ世に妖怪の出で來たる由來を知り、また『稻生物怪録』などをも見て、その妖怪の、人を化す由縁を辨へ、凡て妖物の状態を知り得る時は、さる對問の眞訣も、腹中に出來ぬべし。其れ、やがて大倭魂の、固めの柱の立つにぞ有りける]。



──參考・『仙境異聞』一之卷──

 さて此の夕がたに、(山崎)美成來たりて、「寅吉、わが方に居たりしほど、大關侯の奧方の七年がほど惱まれし癪を、ただ一度、まじなひの符を奉りつれば、直れる故に、頻りに見たく思ひ給ふ由なり。また水戸家の立原水謙(翠軒)翁も、寅吉が事を聞きて、逢ひたしとて、我が家に尋ねられたれば、今日、伴ひたき」よしいふ故に、遣はしぬ。立原翁、甚く悦び、書(幽界文字)をも多く書かしめ、種々の事を尋ねて、其の答を感ぜられしとぞ。

 さて大關侯へも伴ひ、夜に入りて連れ歸りぬ。翠軒翁、後に屋代(弘賢)翁に語られけるは、

「世の生漢意なる輩は、此の童子の事を疑へども、我は幽界に誘はれたる事實を、目のあたり數々見聞きたる故に、一點も疑ふ心なし。また誘はれて、彼の境に行きたるには非ねども、神仙に藥方を授かりたる者も、正しく見えたり。其は、水戸の上町といふ坊に、鈴木壽安といふ町醫の子に、精庵と云ふ者あり。今は三十歳ばかりなるが、十五六歳なりける或る時に、容貌、凡ならぬ異人、忽然と來りて、『某の日に、下總國神崎社の山に來たるべし。方書を授けむ』といふに、辱しと諾しつれど、覺束なく覺えて、其の日行きざりしかば、また或る日、その異人來たりて『何とて約を違へて、某日に來たらざりしぞ。某の日には、必ず來たれ』と云ひて歸りぬ。

 爰に精庵、不思議に思ひつつ、約せる日の前日、家を出でて、神崎社の山に至れば、かの異人、まち居て、一卷の方書を授けて、『返す々ゝ人に示(み)する事勿れ』と、禁めて歸しぬ。其は、○○病の藥なり。用ふるに從ひて、功を成しゝかば、此の事、遂に侯廳に達えて、役人中より、「其の一卷を出だし見せよ」とありけるに、異人の禁を申したれど、聴き入れられず、是非なく、役所へ出だす事となりける。其の前日に、家に紙の燒くるかほりす。此れ彼れと見れど、知れざれば、近き邊りの事ならむと云ひて有りけるに、翌日、役所へ彼の一卷を持ち出でむと、納めたる所を見れば、彼の方書は、みな燒けて少しも殘らず、殊に奇しきは、反故もて包み置きたるに、其の包紙は、くすぶりたるのみにて、少しも燒けず有りけり。家内、大きに驚きて、此の由を申さば、僞りと聞こし召さむかと、甚く心を痛めけるが、是非なく、其の焦たる包紙の反故をもち出でて、右の由を訟へたる事あり。神仙の不測、かくの如くなれば、寅吉童子が事は、疑ふべきに非ず」

と語られしとぞ。然すがに彰考館の總裁とありし人とて、よくも辨へられたるかな。
 
 

頼神祇之靈、借天皇之威。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 7月 5日(日)00時54分36秒
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  ■日本書紀卷第七

 日本武尊、乃ち斧鉞を受けたまはりて、再拜みたまひて曰さく、

「嘗(むかし)、西に征ちし年、皇靈之威(みたまのふゆ)に頼り、三尺劔を提げて、熊襲國を撃ちしに、未だ浹辰(いくばく)も經ざるに、賊首、罪に伏しぬ。今ま亦た神祇之靈に頼り、天皇之威を借りて、往きて其の境に臨み、示すに徳教を以てせむに、猶ほ服はざること有らば、即ち兵を擧げて撃たむ」

とまうす。仍りて重ねて再拜みまつる。‥‥

 吉備武彦を遣はして、天皇に奏して曰さく、

「臣、命を天朝に受けて、遠く東夷を征つ。則ち神恩を被り、皇威に頼りて、叛く者、罪に伏し、荒ぶる神、自らに調(したが)ひぬ。是を以て甲を卷き戈を戢(をさ)めて、愷悌(いくさと)けて還れり。曷(いづ)れの日、曷れの時にか、天朝に復命(かへりごとまを)さむと冀ひしが、然るに天命、忽ちに至りて、隙□[馬+四](ひまのひかり)、停め難し。是を以て獨り曠野に臥して、誰にも語ること無し。豈に身の亡せむことを惜しまむや。唯だ面(まのあた)りつかへまつらずなりぬることを愁ふ」

と、まうしたまふ。



 昨日の岡山縣愛國者協議會月例會は、奇しくも古事記景行天皇の御段の講義、倭建命(やまとたけのみこと)には、「明衣(みそ)のみ空しく留りて、屍骨は無し」、「白鳥(八尋白智鳥)と化(な)りたまひて」、「遂に高く翔りて、天に上りしかば、徒に衣冠(みそつもの)を葬しまつ」れり(愚案、此の奧義は、宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』參看)。

 倭建命の御訓は、江戸時代以降、鈴屋大人始め、「タケ」が、古來の正訓。「タケル」の訓は、伴信友翁の説を受けし、田中頼庸翁以來、流行の由。魁帥・梟帥の如き夷賊の長が「タケル」にして、「タケル」は賤しき語なれば、獻られし御名は、「武(タケ)き皇子」なるべしとは、講師・岡田則夫翁の、嘗て紹介された所である(飯田季治翁『日本書紀新講』中卷に、「伴信友は、川上梟帥が自己の梟帥と云ふ名を獻上せる如く誤解して、『川上梟帥に對して、日本梟帥と訓むべし』と云はれたので、往々此の妄説に從ふ學者もあるが、右は甚だしき僻事である。日本紀竟宴歌にも、『やまとたけ』とあり、且た如何なる古典にも、日本武(たける)と傍訓せる書は無い」と)。

 天皇「大御葬の四歌」(大正天皇の御節は新歌曲であつたものゝ、昭和天皇の御節に復興せられたり)の一、

「なづきの 田の稻幹(いながら)に、稻幹に はひ廻(もとほ)ろふ ところ葛(づら)」

は、鈴屋大人は未完脱漏の歌と解かれ、神武天皇「かむかぜの 伊勢のうみの 大石に はひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り うちてしやまむ」に照らせば、後に「い這ひもとほり 音(ね)のみし泣くも」と補ふぞ、あるべき、と。

 「頼神祇之靈、借天皇之威」りまつりて、大政に翼贊せむと欲する者は、天下、一人だに存しないものか。費用對效果とか何とか知らぬが、國の大本立ちて、道生ずるなり。虎ならぬ、西蕃の威を借る功利主義者共の退場を、切に熱祷せむ。

 次囘は、八月の祖靈月、岡田則夫翁には、淺野晃翁『天と海――英靈に捧げる七十二章』の朗讀を賜ふと云ふ。今から樂しみに俟ちたい。
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 又た荒魂之會『あらたま』七十九號を拜戴。中に見逃し難き一文あり。駒井鐵平翁『元號が蹂躙されてゐる』に曰く、

「西暦が跋扈し、『平成』といふ元號を聞いたことがない小學生、自分の生まれた年を、西暦では言へるが、平成では言へない中學生が出現し、驚愕したのが三年前の話である。状況はますます惡化しつつある。中學校の定期試驗、範圍表等、最も子供が目にするものは、ほとんど西暦で表記されてゐる。

 國立であるはずの博物館も西暦、幕末の志士を顯彰する京都・東山の靈山歴史館のポスターも西暦であつた。

 平成二十六年五月、伊勢神宮に參拜した折に、内宮に隣接した崇敬會が經營する會館に初めて宿泊した。豫約確認書なる書類が事前に送られてきた。右上の送付日の年次、豫約日の年次、二箇所とも西暦であつた。一枚の紙の中に、元號がどこにも見當たらない。早速、會館に問ひ合はせてみると、コンピユーターの關係で西暦にしてゐるとの囘答であつた。

 しかし、伊勢神宮の崇敬會が西暦を用ゐることに、どうしても納得がいかず、神宮司廳、東京の神社本廳に電話て訴へたが、管轄外である爲、直接指導はできないといふ返事があつた。諦めたまま宿泊當日、受付で宿泊手續をすると、擔當者に、『西暦から元號に變更します』と告げられた。眞僞を確かめる術はその後ないが、神宮の御膝元で、これまで西暦を使用し續けて、誰も今まで違和感を覺えなかつたのだらうか。電話の遣り取りの中でも、神宮會館の方には、殘念ながら元號の持つ意味の重要性を認識してゐるとは感じられず、更に落膽させられた。

 年末には又追ひ撃ちをかけられる出來事があつた。以前から境内に西暦で記した石碑のある近所の氏神神社から、氏子一同への囘覽板が囘つて來た。そこには新年の伊勢神宮參拜の日歸り旅行の參加者を募る文面が記されてゐたが、年次は西暦であつた」と。
 
 

夏越大祓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月30日(火)22時05分35秒
返信・引用 編集済
   本日は、夏越大祓の日なり。

 于時、「はゆまつかひ」樣には、玉章の御紹介、殊に「毎朝の神拜後、皇居に向つて、心から頭の下げられぬ御方は、如何に靈の研究とか、神法道術の修錬とかに精出されても、所詮は正眞の神仙道(愚案、神道と申すも同じなり)とは、凡そ無縁」との、畏くも貴き御訓の紹介を賜はつてをります。
  ↓↓↓↓↓
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【大内山遙拜詞】

掛卷くも畏き、
天津日嗣の高御座に大座しまして、天(あま)が下知ろし食す、
現津御神 皇孫命の大御門の大前を、
愼しみ敬(ゐや)まひ、遙(はろ)かに拜(をろが)み奉らくと、恐み恐みも白す。




 平成二十七年乙未歳に、三箇日の「夏越大祓」あり。

一、太陽暦の六月三十日(本日)

一、關西に於ける一箇月遲れの七月三十一日

一、太陽暦の八月十三日(太陰太陽暦六月晦)

 謹みて「頼神祇之靈、借天皇之威(アマツカミ・クニツカミノ、ミタマノフユニヨリ、スメラミコトノ、ミイキホヒヲカリテ)」、『大祓詞』を奏上いたしませう。

 本年は、天地陰陽の氣、特に順ならず、變の至るや、知る可からず、各位の御自愛御專一を乞ひ奉る。敬みて白す。
 
 

大君の ためとし云へば いと蟲も 貴ぶ命 その命 すてゝ惜しまず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月27日(土)22時04分47秒
返信・引用
   明治は遠くなりにけり‥‥。

 明治の精神と戰後の精神との差を相互參照すれば、其の一目瞭然たるを歎かざるを得ないが、日本中興を目標とする有志は、之を深く切に考察する所があらねばなるまい。それは吾人の精神の劣化であり、古典の破棄であり、先哲の無視であるが、其の由つて來る所は、畢竟、歴史の忘却に在ると謂はねばならぬ。古典を復興し、先哲を呼起し、皇民の精神を長養して、光輝ある歴史に參ぜむとするは、吾人の使命、志であらう。



http://blogs.yahoo.co.jp/takeyukitanaka1105/2800024.html
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●佐藤春夫翁『清水正次郎を悼む長歌并短歌』(『スバル』明治四十四年十二月)

──十一月十日 至尊 門司行幸に際し 門司驛構内に於て 御召列車脱線の事あり、爲に御乘車約一時間遲延す。九州鐵道管理局門司構内主任 清水正次郎、一死以て罪を償はんとて 轢死す。乃ち、清水正次郎を悼む長歌并短歌一首。
 附記す、作者は 斯の如き忠烈悲壯なる事蹟を敍するにあたり 輕佻なる自家の詩風を避け ことらに萬葉の古調を傚ふと云爾。

かけかくも あやにかしこき
大君の のります車
あやまりて 動かずなりぬ、
司人(つかさびと) うろたへさわぎ
やうやくに 一時を經て動きけり、
大君は 煙草きこして
この間(ひま)を まちあぐませつ、
司長(つかさをさ) おそれかしこみ
身をころし 詫びまつらむと
夜をまちて 命絶ちぬと。
世人みな 美しとたたふるものを、
若草の 妻もな泣きそ、
尸(しかばね)は 千千にくだけて
見る眼には 悲しかりとも
耐へこらへ 妻もな泣きそ。
この國の 大丈夫(ますらたけを)ら
大君の ためとし云へば
いと蟲も 貴ぶ命
その命 すてて惜しまず、
あなかしこ、大丈夫は
いと蟲に おとれる命 もてるならねど。

──反歌
大君の きこしたまひし 匂ひよき 煙のごとく 消えし君はも



●佐藤春夫翁『現代日本を歌ふ』(『讀賣新聞夕刊』昭和三十九年五月)

──國の盛りに人と成り 國衰へて老となる 春夫「老殘歌」

國破れて山河あり 秀麗なりしを
背は腹に代へがたく 産業大に興り
空にスモツグといふ 毒霞立てこめ
清流は毒液をまじへて 死魚浮かべ
大臣は トランジスターのセールスマンを兼ぬ
官廳とホテルと都には 高樓多きも
土一升 金一升 疊一疊 庶民は枕するに處なし
我ら不毛の野に住まねど 食ふに糧なく
沙漠に生きねど 飲むに水なきを如何せん
物價倍増にあへぐ家々に
慈母を職場に送つて さびしき子らは
みな非行少年となりゆくか
知らず 國の前途を憂ふるは 誰ぞや
教員者は 月給値上げに餘念なく
憐むべし むかし東海の君子國
今 世界の犯罪國となり
婦女を犯し 小見を奪ふ者 あとを絶たず
君子ら 現に爭うて 梁上にあり
廟堂の人ら 汚職を事とす
かかる國土に 咲き出づるを恥ぢてか
わが傳來の名花、花は絶えんとして
遠く異邦の河畔に にほふとぞ
多謝す フランス文化相アンドレ・マルロー氏
速かに國寶女神像を送り來て 美を教へ
この國の映畫女優らをして
美しくもなき裸身をさらすを反省せしむ
テレビジヨンやラジオや
アンテナ 林なして家々に行きわたりぬ
一億白癡化とは言はじ
もと賢明なるにあらねば
「着ものは着れる、物は見れる、彼女は來れる
わりかしイカシハツスル」とやら
卑俗なる國語の普及に 日も夜も足らず
蓋し文部省の 亡國語教育に協力するか
その美化と純化とは忘れられ
國語をだに滿足に語り得ざるは
げに 奇怪無比の文化國なるかな



●平泉澄博士『明治との隔たり』(『日本』昭和四十七年十一月號。『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、

「美しい自然は、都市の膨脹と共に段々と後退し、そして終戰後、いはゆる所得倍増の掛聲のうちに、急速に影を沒したのである。乾燥し切つた鐵筋コンクリートの、行けども行けども果てしなく續き、工場の煙突と自動車の排氣とに汚された今日の都市には、自然は、到底生き續ける事は出來ないのであらう。

 いや、問題は都市にのみ限られてゐるのではない。自然は、田舍に於いても、山上に於いても、また海濱に於いても、虐待せられ、破壞せられ、蹂躙せられてゐるのである。之を都市のみに限つて考へる時、それは文化の進歩に伴ふ必要惡であり、不可避の現象の如く思はれるが、之をひろく田舍にまで擴張して考へると、それは寧ろ趣味の問題であり、徳操の問題であり、人生觀の問題であつて、もし其の精神を向上せしめて、いたづらに金錢の奴隷たるに甘んぜず、誠實にして勤勉なる生活を貴しとする氣風を長養せしめるならば、そして政治、特に税制に英智が働くならば、問題は、その大半を解決せられるのであらう。

 明治には、自然と人生とが、併存し、兩立し、そして其の間に調和があつた。その調和が失はれて、人生が自然を追放し、絶交した所に、今日の問題がある。しかるに更に考へると、精神にすでに變つてゐる所があるのではないか。戰前と戰後との間に、國際的にも國内的にも、想像も及ばぬ大きな變化があつて、人々の心情にも、互に理解しがたき斷絶の存する事は、情勢の變轉がもたらした自然の結果といふよりは、意識的に日本を變貌し、解體し、破壞しようとした占領政策と、それに便乘せる邪惡の徒輩が、玉石共に燒いて、古來の良風美俗を破棄した所に、大きな原因があるとしなければならぬ【註】。歴史的假名遣を廢止し、漢字を極端に制限して、古典をば難解にして近づきがたきもの、異樣にして馴染みがたきものとし、結局、一般には無縁にして無價値なるものとして了つた事は、積極的に歴史を裏返しにし、之を誹謗し、之を告發しようとする運動に基盤を與へ、兩々相まつて、明治の精神は、いつしか斷絶の彼方(あなた)に追ひやられた。‥‥

 失はれたるものは、美しき自然のみではない。貴い精神も、また消えてゐるのだ。その自然と、その精神とを取り戻す事こそ、今日の急務である」と。


【註】
吉田松陰先生『講孟箚記』卷之二上に曰く、
「(『孟子』公孫丑上・首章の「故家・遺俗・流風・善政」)故家は、註に云ふ、舊臣の家也。遺俗は、殘りたる風俗なり。流風は、上より下々へ流れ下る風なり。善政は、よき仕置き也。‥‥抑々國の治安長久なるは、地廣きにもあらず、民衆きにも在らず、惟だ頼みとすべき者は、此の四者(故家・遺俗・流風・善政)にしくはなし。然れば政を爲す者、茲に心を用ひずんば有るべからず。是を知らずして、妄りに祖宗の成法を變じ、國家の美俗を易ふる者は、國賊と云ふべし。今ま我輩、至賤と雖も、苟くも國の爲めにせんことを思はゞ、亦た茲に心を用ふべし。我が家先代の事を考へ、又た君家祖宗の業を稽へ、次は大臣其の他、勳舊の家の傳記を尋ね、古來の制度・風俗等に至る迄、悉く考究して、湮沒を著はし、晦昧を顯はし、務めて古を存する如く心掛くべし。心の用ふるの深く、功を積むの久しくして、遂に一大撰述を成し、遍く世に傳へ、故家・遺俗・流風・善政、益々盛んに、益々明かならしめば、是れ亦た國の爲めなり。是れ、學者、最も務むべきことなり。余、常に茲に志あり。而して未だ及ぶこと能はず。今、此の章を讀みて、益々奮發す。願はくは徐ろに、諸君と之を謀らん」と。
 
 

生まれし國を恥づるは、病なりけり──佐藤春夫詩抄。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月17日(水)22時07分47秒
返信・引用 編集済
   学生時代、或る新刊本を扱ふ書肆にて、愛國の詩人・佐藤春夫翁の、豪壯なる詩『艦たてまつれ』(『奉公詩集』)を拜讀、欲しくてたまらなかつたが、愛藏版の大册のためであつたらうか、價高うして購入を諦めたことが、懷しく思ひ出される。抄すること幾篇、限がない。ネツトにて佐藤翁の記事を見るに、「文學者として從軍し、戰爭を贊美するかのような詩を殘す。戰後は、○級戦○に問はれてゐる知人などを辯護した」と。戰爭を贊美したらいけないとの書振り‥‥。邪鬼か土蜘蛛の言、賣文評論家常套の句。

 何か、惡い事でもしたのかね、我が國が。小林秀雄翁の曰く、

僕は無智だから、反省なぞしない。利巧な奴は、たんと反省してみるがいゝぢやないか」(『近代文學』昭和二十一年二月號「座談會「コメデイ・リテレール──小林秀雄を圍んで」に於て、戰爭に對する態度について尋ねた本多秋五への發言)。

と。無智たるを、小林翁と共に、矜持とせむ。おつと、忘れちやならぬ。我が國の利巧者。米國には「深い悔悟」、亞細亞には「苦しみを與へた」、そして「先の大戰に對する痛切なる反省」‥‥。詔敕を奉じ、身を殺して仁を成せる英靈を祭る、靖國神社。我が首相よ、二度と參拜されませぬやう、幾重にも懇願す。而してもつと「たんと反省」するがよい。

 七十年も經てば、何處の國と戰ひしか忘れ、「過ちは繰返しませぬから」とは、かつて聞きし臺詞、敵の戰略が、五黄殺的に效いてゐる。安倍晉三首相、さう云へば、貴殿の御祖父・岸信介元首相は、平泉澄博士の講義を受けてをる筈だ。讀まれましたか、『日本の悲劇と理想』を。西蕃の議會場で、拍手喝采を浴びてをる閑はありませんぞ。
  ↓↓↓↓↓
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 田中忠雄・林房雄兩翁に傚つて、佐藤春夫翁が小曲二章の一・『病』と題する詩の一節を引く。

うまれし國を恥づること。
古びし戀をなげくこと。
否定をいたくこのむこと。


赤チン(赤のチンピラの謂ひ)の云ふ「精神的苦痛」を受け、「訴へてやる!」てふ醉狂も無いが、「悔悟」だけは、金輪際、御免蒙りたい。



●靖國神社の頌(『日本頌歌』)

ここ 日の本の み民らが
高きこころの ふるさとぞ
九段の丘に そそり立つ
御代 やすくにの大鳥居

げに 千萬の み靈ゆゑ
いよよ尊く おごそかに
しき島のみか 四面の海の
人みな仰ぐ 聖域(みやどころ)

見よ 春ごとに 人の子に
散るべき時を 教へては
咲くや み靈の さくらばな
九重にまで 照り映えて

ああ 忠と義と志
成りてくだくる たまゆらに
天馳せかへる 神々が
國を護りの大社(おほやしろ)



●英靈を謳ひて遺族に捧ぐる歌(『日本頌歌』)

哭(な)かずわれ 君をこと祝ぐ
男の子はも 空しかるべき
國のため 人の世のため
大きみが 任(まけ)のまにまに
ささぐとて 日ごろ年ごろ
愛(を)しみ來し 君がいのちは
ゆゆしくも 今捨てられぬ
ますら男が よきこころざし
時を得て 遂げられしかな
わかくさの 妻勿(な)なげきそ
おもひみる そのひと時の
さかんなる ますら男ごころ
たまきはる 命もものか
君こそは 死にしにあらで
生きしなれ その一ときに
ねぎごとに すめら御門(みかど)の
彌榮を おらびさけびて
よろづ代の 國の護りと
生(あ)れませし 神一はしら
たらちねの 母も勿泣きそ



●大詔を戴き奉る(『大東亞戰爭』)

すめろぎの 神のみことは
四方のうみ みなはらからと
おぼしめす おほみこころに
たたかへと 本意(ほい)ならなくに のらせられけり

すめろぎの 神のみことは
國こぞりてぞ かつべきを
汝(なん)たちの 力をぞたのむ
わが民と あやにかしこく のらせられけり

すめろぎの 神のみことの
おほみこと 國内(くぬち)にひびき
山がつも すなどる子らも
わが命 いざささげむと
かしこまり 遠つ宮居を をろがみてけり



●我等は何と戰ふか(『大東亞戰爭』)

我等は 何と戰ふか
我等は 戰ふ──
あのうわ面だけの人道と
物質を萬能とする その思想と
多衆を恃む 下劣に俗惡な根性と
それに我慢がならないのだ。

敵は わが國をとりかこみ
また國内にも 尠くはない。
いや待て、この心中にもゐさうである。

かくて我等の戰(たたかひ)は
最も深刻であり 最も決意を要し
それ故に 最も緊要な戰である。
とことんまでやり拔いて
國外のは無論、國内のにも 心中のにも
必ず勝たなければならない この戰である。



●湊川神社の頌(『奉公詩集』)

南の大木の下に ひれふして
大君の み夢にまみえ奉り
身も靈も捧げては かりそめならず

天つ日を覆ふ 雲打ちはらひ
國のため 道を正すと ますら男の
ひとすぢ心 たぐひなく たけくたふとく

君がため 散れとをしへて
おのれまづ 嵐に向ふ櫻井の
言(こと)を畏み 族(うから)みな 心ぞあかき

國のため 七たび生きん志
永代(とこよ)に生きて 國びとを
をしへみちびく 神ぞ この神



●八月十五日作(『佐久の草笛』)

──稍遠き家にて ラジオを聞きての後
ありがたさ なみだながれて
仰ぎたる 天つ日まぶし
耳底に あぶら蝉なき
己(し)が影を ふみつつかへる



●哭蓮田善明(昭和二十一年八月作。三十八年七月『果樹園』)

すめぐにの
ふみのはやしに
わけいりて
おくがをきはめ
かぐはしき
心の花も
ひらきしを
おほきみの
まけのまにまに
つるぎはき
すめろぎの
とほのみかどに
さむらひて
たたかひの
かたぬうらみに
八月二十日
じよほうるに
己がこめかみ
ぴすとるの
たまにつらぬき
たまきはる
いのちすぎぬる
みたまいま
みまがつかへし
すめぐにの
いづくにかます

──反歌
まさきくもあれ
  といのりし
ますらをの友は
  あらずも
なりにけるかな



●人間天皇の微笑(昭和二十五年)

──序。十月二十一日 午餐を賜はり 咫尺し奉る事 二時間あまり。退いての後、家の子らに 人間天皇のお姿を語りて、なほ足らぬ昂ぶりのままを、燈下にひとり 心ゆくまで歌ひぬ。長くこの日の記念たれ。

これはこれ 神にはまさず
人間と おのれ告(の)らして
人間と われも思へど
その笑(ゑ)みの あやにたふとき

いかなれば かくは笑まする
おほいなる 國の憂を
おごそかに 負はせたまへど
苦しみを 幸と思(おぼ)すや

世につかへ み國につかへて
あまつさへ 民につかへ
己をば ありとおぼさぬ
み心に 咫尺しまつる

口の端(は)に 笑くぼをぞ見る
なごやかさ しばし耀(かが)よひ
み心に うかべる虹の
ゆかしくも 仰がるるかな

民みなを 頼み親しみ
天地に 愧ぢず驕らず
しづかにも 笑ますを見れば
世の常の 笑まひにも似ず

嬰兒(みどりご)を 甘睡(うまい)のなかに
ほほ笑まし 産土神
訪(とは)すとは 言にこそ聞け
まのあたり 今見るもこれ

この君の かかる笑まひは
千萬の 神の詣でて
この君を あやすなりけり
見つつわが そぞろ愛(かな)しも

二千年 塵の世とほく
九重の 雲ふかくして
神ならぬ 人間の世に
人間の笑(ゑみ)ぞ 妙なる

み民われ 人間天皇(すめらみかど)を
巨いなる 可憐人(めぐしきひと)と
言擧す 友な咎めそ
無禮(なめ)なりと 君はも告らじ

花野なる 搖籃(ゆりかご)にして
無心なる 稚兒が笑まひは
野の犬も 風も侵さず
見とれつつ 過ぎゆくものを

儔(たぐひ)なき 笑まひ守らむ
わが願望(ねがひ) 人に知られよ
心より 心にかよへ
わが歌の 未だ足らねば
 
 

高山彦九郎、こゝに在り。遙かに皇居を拜す──高村光太郎詩抄。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 6月16日(火)18時55分44秒
返信・引用 編集済
   我が塾頭監督の『凛として愛』は、高村光太郎翁の詩、即ち「鮮明な冬」から始まる。此の尊皇の詩人の詩を、些か紹介したく、筆を執る。有志、高らかに「朗誦」せられむことを‥‥。
蕃夷、笑止なり。知らずして、天孫の族と戰つてゐる、此の中今に於いても‥‥。
金滿我利、戰後國民の僭上、御民は、如何ともし難きも、皇神は、斷じて許し給はず‥‥。



●護國神社(昭和十五年二月三日作。『家の光』四月號)

 櫻咲く春のお祭に際して

御國(みくに)のための戰ひに
海ゆかば 水づく屍
山ゆかば 草むす屍と
命ささげた人はみな
護國神社の神となる

人と生れて 神となり
我らの御親 天皇の
御拜をさへも 身にうけて
津々浦々の同胞(はらから)に
父よ 兄よと 親しまれ
仰ぎ見らるる かしこさよ

屋根には高く千木聳え
お前に鳥居 神さびて
庭に常磐の松あをく
おのれを捨てた誠心(まごころ)ぞ
護國神社に生きたまふ



●危急の日に(昭和十六年十二月四日夜作。『讀賣新聞』十二月八日夕刊・詩集『大いなる日に』)

「本日 天氣晴朗なれども 波高し」と
あの小さな三笠艦が かつて報じた。
波大いに高からんとするは いづくぞ。
いま 神明の氣は われらの天と地とに滿ちる。
われは 義と生命とに立ち、
かれは 利に立つ。
われは 義を護るといひ、
かれは 利の侵略といふ。
出る杭を打たんとするは 彼にして、
東亞の大家族を作らんとするは 我なり。
有色の者 何するものぞと
彼の内心は叫ぶ。
有色の者 いまだ悉く目さめず、
憫むべし、彼の頤使に甘んじて
共に我を窮地に追はんとす。
力を用ゐるは われの悲みなり。
悲愴 堪へがたくして、
いま 神明の氣は われらの天と海とに滿ちる。



●大詔渙發(昭和十六年十二月九日作。『朝日新聞』・詩集『記録』)

 昭和十六年十二月八日作。此日の感激は 昭和に生きた日本人たるものの 終生忘れ難いところであらう。此日 恰も第二囘中央協力會議の第一日目にあたり、筆者も各界代表の一人として末席に列り、詔書の捧讀を聽いて 恐懼に堪へず、座席に釘づけとなつたまま、此詩を卓上の紙片に書いた。會議の宣言決議文は 宮城前にて朗讀せられた。

棒立ちになつた議長は 僅に口を動かして
午後一時までの開會延期を宣した。
「それまで靜かに お待ち願ひたい」と
ゆつくりしづかに 議長がのべる。
議場は もうさとつた。
重大な決意が 千餘名をしんとさせた。
歴史的な時間は 分秒に音なく、
午前十一時四十五分、
ラジオは 宣戰布告を報じた。
午後一時、
恭しく捧げられた詔書が 議場に入る。
議長は 少しふるへる手で これを展(ひろ)げる。
大詔を拜して 議場に箇々の人影なく、
ただ肅然たる一團の魂があつた。
開會の式は 順を逐ふ。
宣言決議の案文を待つ時
議場は たちまち熱氣に滿ちて猛然たり。
則ち我は 此記念の席に坐して 此詩を書く。



●十二月八日(昭和十六年十二月十日作。『婦人朝日』十七年一月號・詩集『大いなる日に』)

記憶せよ、十二月八日。
この日 世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの主權、
この日 東亞の陸と海に否定さる。
否定するものは 彼等のジヤパン、
眇たる東海の國にして
また神の國たる日本なり。
そを治しめたまふ明津御神なり。
世界の富を壟斷するもの、
強豪米英一族の力、
われらの國に於て否定さる。
われらの否定は 義による。
東亞を東亞にかへせといふのみ。
彼等の搾取に 隣邦 ことごとく痩せたり。
われら まさに其の爪牙を摧かんとす。
われら 自ら力を養ひて ひとたび起つ。
老若男女 みな兵なり。
大敵 非をさとるに至るまで われらは戰ふ。
世界の歴史を兩斷する
十二月八日を記憶せよ。



●鮮明(あざやか)な冬(昭和十六年十二月十一日作。『改造』十七年一月號・詩集『大いなる日に』)

この世は 一新せられた。
黒船以來の總決算の時が來た。
民族の育ちが それを可能にした。
長い間 こづきまはされながら、
なめられながら、しぼられながら、
假裝舞踏會まで 敢てしながら、
彼等に學び得るかぎりを學び、
彼等の力を 隅から隅まで測量し、
彼等のえげつなさを滿喫したのだ。
今こそ 古しへにかへり、
源にさかのぼり、
一瀉千里の奔流となり得る日が來た。
われら民族の 此世に在るいはれが
はじめて人の目に 形となるのだ。
鵯(ひよどり)が啼いてゐる、冬である。
山茶花が散つてゐる、冬である。
だが 昨日は遠い昔であり、
天然までが 我にかへつた鮮明な冬である。



●彼等を撃つ(昭和十六年十二月十五日作。『改造』十七年一月號・詩集『記録』)

 昭和十六年十二月十五日作。宣戰の布告と共に 軍の敏速なる行動により、ハワイ眞珠灣攻撃、マライ敵前上陸、英國大戰艦撃沈等の大戰果あり。國民は 初めて窒息的雰圍氣から解放せられて 頓に生氣蘇る。此詩は 十二月二十四日 大政翼贊會にて開催された文學者愛國大會の席上、筆者自ら朗讀した。此大會は 日本文學報國會の結成を促した。

大詔(おほみことのり) ひとたび出でて 天つ日のごとし。
見よ、一億の民 おもて輝き こころ躍る。
雲破れて 路ひらけ、
萬里のきはみ 眼前(まなかひ)にあり。
大敵の所在 つひに發(あば)かれ、
わが向ふところ 今や 決然として定まる。
間 髮を容れず、
一撃 すでに敵の心肝を寒くせり。
八十梟帥のとも 遠大の野望に燃え、
その鐵の牙と爪とを 東亞に立てて
われを圍むこと 二世紀に及ぶ。
力は 彼等の自らたのむところにして、
利は 彼等の搾取して飽くところなきもの。
理不盡の言ひがかりに
東亞の國々 ほとんと皆滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亞の民 概ね骨を拔かる。
わづかにわれら 明津御神の御稜威により、
東亞の先端に位して
代々 幾千年の練磨を經たり。
わが力 いま 彼等の力を撃つ。
必勝の軍なり。
必死必殺の劍なり。
大義明かにして 惑ふなく、
近隣の朋 救ふべし。
彼等の鐵の牙と爪とを撃破して
大東亞 本然の生命を示現すること、
これ われらの誓なり。
霜を含んで 夜しづかに更けたり。
わが同胞は 身を捧げて遠く戰ふ。
この時 卓(つくゑ)に倚りて文字をつづり、
こころ 感謝に滿ちて 無限の思 切々たり。



●神これを欲したまふ(昭和十七年十二月二日夜作。『讀賣新聞』・詩集『をぢさんの詩』)

神明の氣 天地にみつる時
神の欲したまふところ 必ず成る。
われら民族 これを信じ、これに據り
力をつくし、身を捧げて 古來行ふ。
一たび其聲をきくや 斷じてかへりみず、
偏に神の欲したまふところを果すは
神の裔なる われらの常だ。
神明の氣 いんうんとして 空と海とを壓し
ほとほと息づまるばかりの時
かの 十二月八日が來たのだ。
天佑を保有したまふ 明津御神
神の裔なる われらをよばせたまふ。
即刻、厖大な一撃二撃は起り
侵略者米英蘭を 大東亞の天地から逐ふ。
かくの如き力ある一年を 歴史は知らず、
算數は知らず、唯物は知らない。
世界の制覇者 アングロ サクソンの理念は
未だ己が地下 磐石の崩れんとするを信ぜず、
ひたすら財を傾けて 消耗の戰に勝たんとする。
此戰が 理念の轉囘たるを知るや知らずや、
彼等盲目の復讐に ただ喘ぐ。
神は 精神の主權を欲したまふ。
神は 物力の制覇を否みたまふ。
神の欲するところ 必ず成る。
われら民族 これを信じて 斷じて行ふ。
世界は 物欲の卑(ひく)きを去つて
精神の高きにつかざるべからず。
神これを欲したまふ。
われら 神意によつて戰ふ。
世界の道 必ずわれらの血によつて樹つ。
たとへば空と海とをわかつ日の如く、
神しろしめしたまふ精神の高さが
今や 世界の理念に 一線を畫するのだ。



●臣ら一億楠氏とならん(昭和十九年二月五日作。『朝日新聞』)

外苑の常磐の松の みどりのかなた
畏怖くも はるかにそれとをろがみまつれば
何かはしらず
滂沱として落つるは
臣が あつき涙なり。
臣らがねがひ
ただ 宸襟を安んじ奉るにあり、
よしや 戰にいかなる曲折ありとも
臣ら一億 こころを合せ力を合せ
今こそ 臣らが絶大の潛力に點火して
かならず 叡慮に添ひ奉らん。
「正成ありとだに きこしめさば」と
そのむかし 聞え上げけん 楠氏のすがた
いまも外苑に 宮居をまもる。
まことに臣ら一億 楠氏とならん。
臣ら一億 今日よりはことごとく
「やつがれありとだに」と
思ひきはまりて 身をささげん、
げに 春風を斬らん。



●品性の美(昭和十九年二月二十二日夜作。『新緑』)

品性の美 日本にありて われらを護る。
櫻花 馥郁たれども 鼻をささず、
珠の如き茶の花は 葉かげにかくる。
鶯來り囀れども 饒舌ならず、
ただ神韻 春を呼びむかふるのみ。
かしこくも 五十鈴川のほとり、
白木のおん宮 いまも上つ代の如く
森々として 美 きはまりなし。
狂躁 飽くなき世界の上に
品性 かくの如きものあるを
神 今にして示したまはんとす。
日本の美 世界をきよめ、
日本の道 世界を救ふにあらざれば
世界 とこしへに我利の巷たらん。
われら恥を知り、われら自らつつしむ。
餓ゑて悲鳴をあげず、傷つきて莞爾たり。
われら 神州清潔の民、
品性の美に護られて 今 醜虜と戰ふ。



●合せ祀らるる靖國の神に(昭和十九年四月二十日夜作。放送)

春四月、水ぬるみ、風 黒潮の香りを帶び、
昔ながらの櫻、野に山に咲きととのふ。
この時、いと畏き おん思召あり、
二萬五柱の 護國のおん魂(たま)、
新たに靖國の神の社に合せ祀られ、
身は もと臣子(おみのこ)にして 今、
たふときかな、
神の社の一座の神とならせたまふ。
さればその夜(よ)、淨闇の齋庭をうづめて
おん魂が うから國々よりまゐのぼり、
下(した)に居り、もろ手つき、涙たれ、
ほの白きお羽車の しづしづと過ぎゆくを
父よ 子よ 兄よ 弟よ わが夫よと 迎へまつる。
いみじきかな、きよらけきかな、
生きては 醜の御楯と、出でてたたかひ、
たふれては 國を鎭むる神となる。
臣子の道 ここにきはまり、
うつくしさ、まことに萬朶の櫻に似たり。
二萬五柱の おん魂、
いづれおとらぬ ますらをなれど、
こたびの畏き おん思召、
船員、技師、郵便夫の軍屬に及び、
わきて七柱の看護婦 これに加はり、
半島 臺灣の同胞(はらから) また來りしづまる。
ああ 限りなきかな、皇恩の至るところ。
そのふかきこと 紫にほふ曙の空の如く、
その大いなること 霞の奧の山の如し。
かつて出陣のあした 誓ひましけむ
ゆきて返らぬ おん志、
げにや まことに果たしたまひし
二萬五柱の おん魂、
いま 陽春のよき日、
大君の うるはしくまします都に還り、
しづかに、しづかに 神しづもりたまふ。
われら一億 老(おい)も若きも、言(こと)には出でね、
ただふかく 頭をたれて をろがみまつり、
心にかたき誓を おん誓ひたてまつる。
ねがはくは 此の誓 かならず成ることをなさしめたまへ。



●われらの祈(昭和十九年四月二十一日作。放送)

わたくしは 聞いた。
「大君は いよようるはしく おはします。」
「自分は死んでも あとにつづく同胞が居る。」
戰場で かう思ふ時ほど
心の安らかになることはないといふ。
今はかうよと見えた時、
聖壽の萬歳をとなへまつり、
あとには無數の同胞が われにつづくといふ
その心強さに 莞爾として斃れたに違ひない
二萬五柱の おん魂が 今、
畏き おん思召によつて
靖國神社に合祀せられた。
臣下の身として 神とまつられ、
尊き おほん幣をさへうけたまふ。
われら 神前に拜跪して 自らの思を忘れ、
ふかく 神慮のある處に身をまかせて
ただ その指さしたまふ われらの道、
その告(の)りたまふ われらの事に猛然たらう。
しりへにつづく者ありと 頼ませたまうた
そのつづく者とは われらがことだ。
われら 老若男女 めいめいの身が
斷じてこれに應へ奉るほか、
日本國に 人ありとも覺えず、
いまは ただ今日(こんにち)のいのりをかけて
われら すなはち神の兵とならう。
幼きを育つる者に 重き責(せめ)あり、
幼きは 神の子なれば 汚すべからず、
神々のみこころを 幼な心に固く知らしめ、
荒ぶる禍(まが)の隙間算(すきまかぞへ)を ゆめ許すまじ。
身に力あるもの ことごとく敵に向はう。
敵の兵、敵の武器、敵の思想、敵の反間、
ことごとくこれを破らう。
國民 一致一體、苟くも神意を紊らず、
和を失はず、利に媚びず、
われら まことに神の裔なる品性にめざめ、
いよいよ戰つて いよいよ美しく
神州の正氣に 八紘(あめのした)をつつまう。
ああ 二萬五柱の新祭神、
いま われらに眼をそそぎたまふ。
われら ただ おん前に 恥少からんことを祈る。



●琉球決戰(昭和二十年四月一日作。『朝日新聞』)

神聖 オモロ草子の國 琉球、
つひに大東亞戰 最大の決戰場となる。
敵は 獅子の一撃を期して 總力を集め、
この珠玉の島 うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
萬座毛(まんざまう)の緑野、梯伍の花の紅に、
あらゆる暴力を 傾け注がんずる。
琉球や まことに日本の頸動脈、
萬事 ここにかかり 萬端 ここに經絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の 全日本人よ、
琉球のために 全力をあげよ。
敵 すでに犠牲を惜しまず、
これ 吾が神機の到來なり。
全日本の 全日本人よ、
起つて 琉球に血液を送れ。
ああ 恩納(おんな)ナビの末孫 熱血の同胞等よ、
蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
彈雨を凌ぎ、兵火を抑へ、
猛然 出でて 賊敵を誅戮し盡せよ。





●一億の號泣(昭和二十年八月十六日午前作。『朝日新聞』・『岩手日報』)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/4

綸言 一たび出でて 一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ 岩手花卷町の鎭守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の疊に 兩手をつきて、
天上 はるかに流れきたる
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに 五體をうたる。
五體 わななきて とどめあへず。
玉音 ひびき終りて 又音なし。
この時 無聲の號泣 國土に起り、
普天の一億 ひとしく
宸極に向つて ひれ伏せるを知る。
微臣 恐惶 ほとんと失語す。
ただ 眼(まなこ)を凝らして この事實に直接し、
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鐵の武器を失へる時
精神の純 おのづから大ならんとす。
眞と美と到らざるなき 我等が未來の文化こそ
必ずこの號泣を母胎として その形相を孕まん。



●犯すべからず(昭和二十年八月十八日作。『週刊少國民』八月號)

神聖 犯すべからず。
われら日本人は 御一人をめぐつて
幾重にも 人間の垣根をつくつてゐる。
この神聖に 指觸れんとする者 萬一あらば
われら日本人 ひとり殘らず 枕を竝べて
死に盡し 仆れ果てるまで これを守り奉る。
われら一億 老弱男女の
死屍累々をふみ越えなくては
この神域は 干(をか)しがたい。
蠻力に勝ちほこれる者よ、心せよ。
心なき汝の一指(いつし)の動きは
古今絶無の悲劇を生まう。
つつしみ立つ者 必ずしも低からず、
傲然たるもの 必ずしも高からず。
どんなことに立ち至らうとも
神國日本の高さ、美しさに變りはない。
やがて皎然と かがやき出でる
神聖 日本文化の力をみよ。



 次、襲ひ來れる今の頭痛、癒れば、佐藤春夫翁の詩を抄せむと欲す。
 
 

名分のテロ──梟首の意義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 5月29日(金)22時41分47秒
返信・引用 編集済
   逆賊足利三代木像梟首事件について、少しく調べたものゝ、阪本是丸博士『角田忠行と明治維新』を偶見しながら、其の紹介も出來ずにゐたが、やうやくこゝに其の一節を拜記し得、拾遺と爲す。小生は、足利三代木像梟首の志を慕うて已まず、今も等持院や鹿苑寺を訪れることさへ忌嫌つてゐる癡人である。何が、世界遺産だ、笑はせるな。行けば、立小便ぐらゐしかねない。小生が如き狂者は、危ふきに近寄らず、だ(大笑)。

 然し憚り乍ら、御仲間はゐた。強齋若林先生だ。曰く、「夜裏ならば、或は(皇土を占領せる大名の城下へ)往かむ。吾れ諸侯の城□[土+世+木。てふ]の堊土を以て塗れる者(白晝、立派なる城)を視れば、則ち頻□[戚+頁。しゆく]して唾罵に堪へず」(『先達遺事』)と。古人に知己を得たり(ニヤリ)。

【逆賊の首――足利三代木像梟首の述志】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1308
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1314

【角田忠行翁の佩刀】足利氏梟首と鈴木重胤氏暗殺と‥‥。
  ↓↓↓↓↓
http://jun-fromkugenuma.blogspot.jp/2006/07/blog-post.html



●阪本是丸博士『角田忠行と明治維新』(『角田忠行翁小傳』抄・平成元年二月・熱田神宮宮廳刊。『明治維新と國學者』平成五年七月・大明堂刊に所收)に曰く、

「文久二年十一月二十七日、(角田)忠行は、平田鐵胤に伴つて江戸を立ち、京都に上つた。

 江戸をたちて都にのぼる時
大皇の われは御民そ むさし野の 葎のなかに くちはてめやは
かも川の きよきなかれを くむ身には すたのかはへを いかてたのまむ

 かう詠んで、『天朝の御民』としての自覺を高めて、京都へ旅立つた(『忠行歌集』)。そのころ京都には、平田派の國學者が續々と集結してをり、勤王の女流國學者として名高く、後に忠行をかくまふことになる信州伊那出身の松尾多勢子をはじめ、三輪田元綱・師岡正胤・宮和田胤影らが、二條衣棚の夷川下る町の寓居を本據として、志士的活動をおこなつてゐた。平田家の當主・鐵胤は、秋田藩の京都の政情探索の必要から、藩士に取り立てられ、御物頭格・本學頭取となつて、忠行・野城廣助・梅村眞守(小林與一郎)らを伴つて、十二月十三日、入京したのである。京都での忠行は、鐵胤の祕書のやうな存在で、鐵胤には、いつも付き添つてゐたといふ。‥‥

(文久三年)平田鐵胤は、錦小路柳の馬場の寓居から、洛西の等持院村に移り住んでゐた。おそらく鐵胤を訪ねての歸りであらう、忠行らは、足利將軍の木像が安置してある等持院を、二月十九日の夕刻訪れ、住職に木像の拜觀を申し出た。住職は拜觀料として錢二百銅を要求したので、忠行は『醜像をみるに、何ぞ賽するを用ひむ』と述べ、憤慨して歸つた後、忠行は、長尾郁三郎と相談して同志を集め、木像を梟首することにしたのである(角田秀男氏『木像事件』)。

 二十二日の夜、忠行・長尾・高松信之・長澤眞事・中村愼吾(建部楯雄)・小室理喜藏(信夫)・師岡正胤・青柳高鞆・大庭恭平の九人が、等持院に浸入し、師岡・青柳が門の見張りをしてゐる間に、忠行らは木像に向つて罪状を宣告し、朝冠をはずして、尊氏(ママ。高氏)・義詮・義滿三代將軍の木首をはねて、門外に持ち出したといふ(實際は、首を拔いたのだといふ。森茂夫「勤皇烈士異種事件木像梟首祕聞」──『週刊朝日』一一一六號・昭和十六年七月)。この時、長澤は、首をひとつ門内に落としたので、再度入つて持つてきたといふ。この後、門外に整列して、長尾が、まづ『エイエイ、オウ』と、凱歌を擧げ、つゞいて一同が、三囘、凱歌を擧げた。そして大雨の中を雨衣なしで、堺町御門外に至り、朝廷を拜して、野呂直貞の家に向つた。途中、會津藩の見廻りに遭つたが、無事であつた。野呂の家には、中島錫胤・岡本太郎・西川吉輔・野城廣助がをり、みんなで祝杯を擧げた後、三條河原に至つて、首を奈良・吉野の方に向けて梟首したのである。このあと、梟首の傍らに、大庭が書いた制札を掲げ、また三條の橋の畔の掲示場には、忠行が作文し、中島が加筆した罪状を、宮和田が立てた。それには、

『今世に至り、此の奸賊(足利氏)に、猶ほ超過する者あり。其の黨、許多(あまた)にして、其の罪惡、足利等の右に出づ。其の黨の輩、直ちに舊惡を悔い、忠勤を抽て、鎌倉以來の惡弊を掃除し、朝廷を補佐し奉り、古昔に復し、積罪を償ふの所置なくんば、滿天下の有志、追々大擧して、其の罪を糺す可きもの也』

とあつた。これはまさに幕府にたいする、公然たる挑戰であつた。そして吉野の方を拜禮して、一同はそれゝゞ解散したといふ。この時のことを、忠行は、

 文久三年二月二十二日よる、足利等木像の首をぬきて、三條橋南鴨川にさらして
しこ首を ぬきてさらして み吉野の 君と臣とに 今日はたむけつ
今し世に ほこるたふれら こゝろせよ 此しこさまを おのが身にして

と、詠んでゐる(『忠行歌集』)。

 事件後の二十四日には、角田忠行・師岡正胤らは、なに喰はぬ顔で、松尾多勢子などと、嵐山で花見をしてゐたり、二十六日には、忠行は、岩崎長世・松尾多勢子らとともに、能狂言を見物したりしてゐる。ところが事態は、次第に深刻になつてきてゐた。守護職は、事件關係者の檢擧に乘り出したのである。事件の首謀者の大多數が、平田家門人の尊攘派による所業であることは、すぐに判明した。といふのも、一味の大庭恭平は會津藩士であり、かれが事件のことを密告したからである。大庭は、松平容保が尊攘派の動向を探索するために放つた密偵であつたといふが、その眞僞は不明である。大庭は、師岡正胤らが横濱の外國人居留地を燒き打ちする計畫に、會津藩も協力するといつて仲間に加はり、そのまゝ行動を共にしてゐたのであつた。

 翌二十七日、守護職の手の者は、衣棚の寓居を襲つた。高松は槍で突かれて重傷を負ひ、連行されて後に死亡した。一緒にゐた仙石佐多雄は奮戰したが、力盡きて自刃した。青柳・師岡は捕縛された。二條新地にゐた三輪田元綱のところにも、捕縛隊が襲ひ、これも槍で突いて捕縛したといふ。さらに祇園の奈良富にゐた長澤・宮和田らも捕縛され、長尾も自宅で捕へられた。また西川・野呂・小室・中島も、後には捕縛された。かうして多くの平田派門人が、事件關係者として捕縛され、事件に直接關係しなかつた平田派門人にも、幕吏の追及の手が及んだ。松尾多勢子・丸山作樂・梅村眞守などは、同門で長州藩の渡邊玄包の計らひで、同藩邸に避難して、ことなきをえた。たゞ關係者の野城廣明だけは、讚岐丸龜に逃れ、後に同地で病沒してゐる。さて角田忠行であるが、二十六日に、松尾多勢子たちと逢つてからは、衣棚の同志たちとは行動を共にしてゐなかつたやうで、おそらく同志の捕縛の情報を得て、すぐさま信州へと逃れたのであらう。

 逮捕された師岡正胤・大庭恭平は上田藩、三輪田元綱は豐岡藩、青柳高鞆・中村愼吾は伊勢久居藩、宮和田胤影は菰野藩、野呂直貞は越前勝山藩、長澤眞事は遠江横須賀藩、小室信夫・中島錫胤は徳島藩に、それゝゞ預けられた。また西川吉輔は近江八幡で親類預けとなつた。かれらは、慶應三年の王政復古の大赦により自由の身となり、それゝゞの明治維新を迎へる。そして角田忠行は、慶應二年九月まで、信州伊那谷に潛伏、ついで京都へ上り、公家の澤(爲量)家の家令となつて、再び志士としての活動をはじめる」と。
 
 

『闢邪』第二號。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 5月25日(月)19時16分42秒
返信・引用 編集済
   同血新聞社編集長・下山陽太主より、『闢邪』第二號到來。「平成の廢佛毀釋」は、下山主の代名詞である。感想を求めらるゝも、一讀、容易ならざる力篇に、躊躇逡巡する、蓋し已むを得ざるものあり。『闢邪』は、國體觀念の明徴なる者に非ざれば、共に語るを憚るもの、一般には、誤解を招くものと謂はねばならぬ。誌面四頁は、下山主の論文によつて占められて、

一、神兵隊再建及再武裝宣言──神代派の運動方針を天下に示さんとす

一、神代派は創價學會に宣戰布告をす

から成る。

 前者は、「長州藩と念佛宗の關係こそ、不十分な廢佛毀釋・大教宣布[本教國教化]が頓挫した根本的原因である。神祇官が神祇省に格下げされ、教部省に改組されたのも、島地默雷等、念佛宗の壓力であつた」として、

「平田篤胤大人[復古]及び(平田篤胤大人沒後の門人たる)西郷南洲翁[維新]こそ、「維新」及び「復古」の象徴にして、右翼及び維新運動の祖である。其の爲め、右翼の原點囘歸とは、平田國學を學び、維新運動に挺身し、復古を志向する事に他ならない。其の爲め、愚生(下山主)は、平田篤胤大人・西郷南洲翁を、右翼の祖として崇拜し、維新運動に挺身したい」

と、其の志操を宣言し、而して自ら名乘る所の「神代派」は、政治運動・思想運動・宗教運動を三位一體として、平成の「神兵隊」再建を訴へ、昭和神兵隊の敗走の理由を、「潔癖無垢な思想及び信仰を持ち合はせて居なかつたからであり、純正日本主義勢力[平田學を奉じる本教原理主義]では無かつたから」であるとし、又た從來の右翼運動の失敗は、「具體的破壞及び建設計畫を持つてこそ、蹶起すべき價値が生ずる」のであって、「右翼及び軍部を煽るやうな扇動者では無く、先づ自身が實踐者にならなければならない」と自ら戒め、「私利私欲が丸見えの直接行動は、斷罪すべき」であつて、「草莽志士、即ち在野主義を貫徹」し、「時局に終始するのでは無く、如何なる皇國を目指すのか考へ、其れを成就する爲めの維新運動を展開する必要がある」として、政治[統治大權]・軍事[統帥大權]・經濟[産業大權]の大權奉還の爲めに行動し、天皇親政を期さんことを目指して、「神代復古」、即ち「高天原を地上に建設する事を、天下に誓願」してをられる。

 後者は、大日本愛國團體聯合・時局對策協議會の「邪教創價學會撲滅鬪爭」を繼承するもの、殊に中村武彦翁の言が目を引く。曰く、

どんなテロでも肯定する、といふやうなことは、私は思はないが、『こいつさへ倒せば、日本が救はれる、こいつだけは許されない』といふ憤怒でもつて實踐するテロは、あつていゝのです。正確にその效果があれば。君側の奸を斬るといふテロリズムには、積極的な意味があるわけです。しかしたゞ腹がたつたからといふ私憤では、駄目だ」(一水會『レコンキスタ』百六十七號「中村武彦先生激白──平成の世の維新運動・その位相と課題」)

と。正に「右翼」たる所以の、重く且つ深い言靈である。下山主は、「維新を阻害してゐるのは、現代で云へば、正しく創價學會であり、其の首魁○○○○である。彼等の討滅無くして、維新への活路を開く事は出來ない」と云ふが、小生は、其の首魁に憑依せる邪靈こそ、其の本體であつて、首魁百年後、其の邪靈惡鬼は、復た他の一の人に見つけ、之に憑依潛伏するのであらうから、結局、彼の邪靈滅魂の問題こそ、大方(たいはう)神道人の、深く切に懊惱する一大事であらうと愚考するものである。「禊祓で、創價學會が地上から抹殺されるのならば、苦勞しない」とあるが、邪靈惡鬼に對する戰鬪者であればこそ、「禊祓」を彌益に必要不可缺と爲し、自らに嚴修を課さねばならぬ(亦た首魁の思想を廣布する所の、創價大學に對する解散廢學も、當然、喫緊、視野に入れなくてはなるまい)。

 又た前者に、下山主は、「直接行動は、法を超越するものである」とあるが、此の言は、愼重の上にも、愼重を期さねばならぬ。かつて平泉澄博士『忠と義』に、「分は守らなければならないが、併しそれも非常な時に臨んでは、これを越えなければならない、君國の大事に臨んでは、人は分を越えなければならない、法は守らなければならぬ、しかし時には、之を破らなければならぬ場合がある」とは、石川縣警察部の官吏に對する講演であつたが、平泉博士は、一般の誤解を慮つて、私家版に附せられた。而して此の『闢邪』は、有志の切磋琢磨、思索求道の資ならばよいが、若し一般讀者をも對象とするならば、劈頭に「語るを憚る」と云はざるを得ず、また前に敢へて「○○」と伏字とするは、テロ扇動者との誤解を防止せんと力むる所以である。相共に戒めとしたい。



●平泉澄博士『忠と義』(昭和九年六月二十三日講演録。九年九月・十年十月増補。非賣品)に曰く、

「あの義士の擧が、所謂小さな忠義であつて、大きな忠義でないといふ非難につきましては、小さな忠義と大きな忠義が離反する場合には、大きな忠義を取るといふことが、即ち小さな忠にもなるのでありますが、今の場合(赤穗義士)には、皇室に對する忠義を損なつてゐないといふことを考へなければならない。それは(山鹿素行先生の精神を承け繼いだ)吉田松陰先生や乃木大將が、義士を敬慕されてゐる點からも明かになりますが、それを今一層明白にしますためには、明治元年に、明治天皇が、初めて東京へ行幸遊ばされまして、四五日目に、直ちに勅使を大石の墓へ遣はされ、幣帛を賜つてをります事を憶起せばよろしいのであります。その時、賜はりました勅書には、恐れ多い事でありますが、「汝、良雄等、固く主從の義を執り、仇を復し、法に死す。百世の下、人をして感奮興起せしむ。朕、深くこれを嘉賞す」と、かう仰せられてをります。即ちその行爲は大忠において少しも損ふ所なく、而してその精神は、全く義により起つたことでありまして、これに對する非難は、少しも當らないと思ひます。法がこれを處斷したことは、それはそれで別のことでありまして、これ等の人を非難するは當らないと思ひます。

 法に背いてはならない、法はどこまでも守らなければなりませんが、しかも實は、法よりもさらに重いものがあるといふことを、又た考へなければなりません。さきに分といふことを述べましたが、分は守らなければならないが、併しそれも非常な時に臨んでは、これを越えなければならない、君國の大事に臨んでは、人は分を越えなければならない、法は守らなければならぬ、しかし時には、之を破らなければならぬ場合がある、これはよく考へなければならぬことであります。若しさういふことが全くなくして、どんなことがあらうとも、國家こゝに轉覆しようとも、皇室こゝに一大事に際會し給はうとも、自分の與へられた分を守つて行き、定められた法律に從つて、知らぬ顔をしてゐるといふが如きことでありましては、これこそ實に恐るべきだと思ひます。こゝにおいて吾々は、根本において深き所のものを掴んでゐなければ、一朝、大變に際して、到底、君國を護持するといふことは出來ないと思ふのであります」と。
 
 

花田忠正・元靖國神社權宮司。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 5月 4日(月)21時34分32秒
返信・引用 編集済
   今日は、惠方參りを兼ねて、安藝國仁方の總鎭守・八岩華神社へ參拜。元靖國神社權宮司・花田忠正八岩華神社宮司に御挨拶申し上げた。
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http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/hirosima/kuresi/Yaiwabana/yaiwa.html

 花田忠正宮司の父上・惟忠翁は、平泉澄博士の門下でいらつしやる(志方政和翁等と共に、昭和十九年九月、東京帝國大學國史研究室卒)。花田宮司は、また平泉隆房博士と同期にして、些か懇話を賜りました。且つ泉水隆一監督、即ち我が九段塾頭・金城福井忠翁の事を懷しがつてをられました。靖國神社權宮司となられ(平成十二年一月十九日より、十五年十月三十一日に至る)、御苦勞された御由。曰く、「努力足らず、申し訣ない」との仰せには、涙が出さうになつた。花田宮司は、現在、既に相應の老翁と、勝手に想像してゐた小生は、其の若き御姿に、あらためて驚愕したる次第、感慨、洵に新たでありました。



 謹みて、塾頭に申し上げます。

 花田忠正權宮司は、御元氣でいらつしやいました。どうか、御安心ください。既に『靖国神社の真実』(平成二十三年十二月八日・洛風書房刊・非賣品)は手にされ、讀んで戴いてをられました。今日、其の第二版も、納めさせて戴きました。「松平永芳宮司は、戰後の靖國神社の基礎を築かれた御方である」との仰せ、小生、何だか嬉しく思ふと共に、現状を鑑みるに、悲しさも彌や益して來た次第であります。
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一、所功博士編集構成・花田忠正權宮司編集協力『別册「歴史研究」神社シリーズ・靖國神社――創立百二十年記念特集』平成元年十月・新人物往來社刊
一、花田忠正權宮司他(靖國神社やすくにの祈り編集委員會)編『御創立百三十年記念──やすくにの祈り──目で見る明治・大正・昭和・平成』平成十年十月・産經新聞ニユースサービス刊(「あとがき」は花田權宮司)
一、『靖国神社の真実』九十七頁、一五八頁の「H権宮司」
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/21
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/35
一、『金城翁最終講義』(『靖国神社の真実』六頁にも併載)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/4
 
 

國家有功の神を祭るは、神代の遺風、神國の正道なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 4月20日(月)22時47分36秒
返信・引用 編集済
  ●旭香美甘與一郎源政和大人『天地組織之原理』(明治二十四年七月・神典研究會事務所刊)卷之第五・附記
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1913

○或る人、又た曰く、‥‥方今、今の世人の喋々する所の諸神社、祭神の義に付き、御意見のある所を伺ひ置きたし。そは如何となれば、凡そ吾が皇國に於て、奉祭尊信する所の神社、官・國幣社を始め、府・縣・郷・村社、攝社・末社に至る迄、其の數、枚擧に遑あらず。且つ其の祭神に於ても、天津神・國津神を始めて、或は人皇以後、國家有功の人靈等に至る迄、實に多神なりと云ふべし。而して其の祭りの等位に於ても、天津神にして、村社以下、攝・末社に奉祭するあり、或は又た人靈にして、官幣社に列するありて、其の祭祀の精神に於ても、國家的より祭るものあり、信仰的より祭る等ありて、其の規律定まらざるものゝ如きは、聊か惑ふ所あり。故に參考の爲め、御説明を仰ぐ。

○答ふ。御質問の通り、各神社の中には、天津神にして、攝・末社あり、人靈にして、官社等もありて、一通り考ふる時は、順序を失ふたるものゝ如くなれ共、更に神位・神徳の高下に關係あるに非ず、其の祭事に大小の等あるものにて、其の神位・神徳に於ては、攝・末社と雖も、天津神は、天神の神位に坐し、官社と雖も、人靈は、人靈の神位に坐すは申す迄も無く、攝・末社なるものは、本社に對する臣位の如きものには非ざるなり。只だ天神・地祇・人靈、何れにもあれ、官祭本社の外に、これを祭りたるものは、多くは其の御分靈を祭れるものなり。故に天神・地祇共に、御高徳の神は、皆な其の御本祭の御本社ありて、天照大御神には、伊勢神宮あり、大國主大神には、出雲大社あるが如し。其の他に同じ大神等を祭る社は、皆な御分靈奉祭の神社たるものなれば、更に大小の論無きことなるべし。又た人靈にして官社云々に至りては、方今、世論の喋々する所なれ共、國家有功の靈を祭るは、吾が國、神世の遺風にして、天神・地祇を祭るも、同じ精神なり。天神・地祇は、天地組織の有功神に坐すが故に、國家は、これを祭るべき報本反始の義務あるものにして、人靈も、又た國家維持の有功神なるが故に、同じく國家は、これを祭りて、報本反始の至誠を表すべき神社無かるべからざるなり。吾が神世相承の神國に於て、人靈を神と祭るは勿論のことにて、神代の神と人皇以後の人靈とは、其の新古はありと雖も、神たるに於て、何の別かあらん。皆な造化大元靈の御分靈ならざるの靈無し。たとひ神代の天神と雖も、天若日子の如きは、人皇以後の神靈たる護王神社・湊川神社等の祭神の前に立ちて、何の面目かある。再び慙死するの外無かるべし。これを以て國家有功の人靈、其の徳の尊むべきを知るべし。

 方今の學生等、多くは彼の洋人の「所謂る衆神教は、野巒の國に行はるゝ教法、一神教は、文明の國に行はるゝ教法」と云ふが如き説に惑ひ、彼が所謂る衆神たるものは、如何なるものと云ふことをも辨へず、吾が神道の衆神を論ぜんとするは、洋醉も亦た甚だしきことにて、彼が所謂る衆神なるものは、申さば昔日、巒民共が獸骨の類などを祭りたるを云ふものにて、更に國家有功の靈を祭りたるものに非ず。これに反して吾が衆神なるものは、國家に大關係ある造化分擔の神祇を始め、國家有功の靈を祭るものにて、報本反始の至誠に出づる所、其の祭りの精神に於て、彼が衆神と云ふものと、天壤の相違あるものなり。國家有功の神を祭るは、國人の義務にして、神國の正道なり。故に諸神社は、國家的の精神より祭るべきものなれ共、又た敬神の至誠を表する神社なるを以て、自ら信仰的の精神も、これに加はるは勿論のことなり。既に余は、電氣・蒸氣等の發明有功者は、たとひ外邦人と雖も、其の靈を祭りて、其の功に報ゆるの道を開かんと欲し、外邦に先立ち、先づ其の禮を吾より行ひ、これを萬國に學ばしめんと企望しつゝあるものなり。聊か意見を吐露して、御質問に答ふ。

○或る人、又た問ふ。御辨明によりて、「神代の神と、人皇以後の人靈を祭る云々」、了解する所あり。就ては今一疑、御説明を乞ひ置きたし。そは如何となれば、方今、各神社なるものは、其の土地に在住する人に於て、これを産土神と唱へ、氏神と唱ふるものなるに、或は祭神の不分明なるものあり、又た諸神社祭神取調べ際、始めて何の神なりと、神官・氏子等の協議によりて定めたるの類も少なからず。如此の類は、全く國家的の精神より祭りたるものに非ず。申さば信仰的の精神に出でたるものにて、方今の諸神社祭神等のこと、甚だ不規律のものなるは、神祭の大典に於て、大いに惑ふ所あり。故にこれが御説明を仰ぐ。

○答ふ。御質問、了承せり。御意見の通り、方今、産土神・氏神等、神社の祭神に於ては、近世に至りて、其の祭神を定めたるものも、間々之れ有り。是等は國家的に祭るべきものか、信仰的に祭るべきものかとの疑點は、必ず免れざる所にして、又た産土神と云ひ、氏神と唱ふるは、如何なる理由なりやと云ふに至りても、頒然たらざるものなれ共、何れも神代の遺風に基くものにて、先づ産土神・氏神と云ふ名稱は、何れの時代より唱へ始めたることかと考ふるに、是も慥かなる傳書も見當らね共、上古の時代には、此の名稱は共に無きことにて、中古以來の名稱の如く思はるゝことなるが、何等の理由より、如此く名付けたるものかと云はゞ、先づ産土神と云ふは、始めて其の土地を開くの時に當り、其の土地守護の爲めに祭り始めたるにより、これを産土神と唱へ始めたることゝすれば、粗々其の當を得たるもの存ず。然れば何れの神を祭りたりと云ふに至りては、今日、舊記も失ひたるものは、知るべき限りに非ず。又た氏神と唱ふるは、上古の時代より、其の地に住する人の姓氏に付きて、其の祖先の神を祭り來りたるより起りたる名稱なることは、疑ひ無きことにて、たとへば中臣家の人々は、天兒屋根命を祭りて、これを氏神と唱へ、齋部家の人々は、太玉命を祭りて、これを氏神と唱ふるの類にて、後には其の人々のみならず、他姓の人も、其の地に來りて住することゝなり、後世にては、諸神の子孫が雜居することゝなりしも、一旦、其の地に祭り來りたる神は、何氏の祖たる神にもせよ、其の地に永く奉祭し來りたる神にて、自ら其の土地の守護神となりしものなれば、他姓のものは、これをも其の土地の神として尊信するより、自ら産土神と唱ふることに至りたるものも知るべからず。

 然るに諸社祭神、不分明の社多きは、舊記等を失ふたるによるものにて、即今、何神と知るべき由無きことなれ共、只だ舊式に隨ひ奉祭すれば、神は幽中に坐して、其の饗を受け玉ふことなれば、後世に至り、新たに祭神を定むる等は、好ましからざることなれ共、一旦、何神なりと神號を定めて、これを祭るの禮を始むれば、其の唱ふる所の神も、又た來感あるべきことなれば、是等の類は、古來より祭り來りの神の外、更に神靈を加ふる譯にて、從來の神と共に、幽中の神政に關り玉ふ理りなれば、當時の神社たるものは、多くは産土神・氏神の外に、更に鎭守の神を加へ、一社、數神の社にて、其の名稱も、産土神・氏神・鎭守神の三唱を相兼ねたるものなり。最も式内神社にして、大座の分等は、素より一姓の氏神として祭りたるものに非ず、國家的の精神より祭り來りたるものにて、國家の守護神たるは、『式』の祝詞文にても明かなることなれば、是等は永遠、國家的の精神にて、國家よりこれを祭るべきは勿論、人皇以後の人靈と雖も、國家有功の靈は、又た國家的の精神を以て、國家よりこれを祭るべきは、吾が神國の正道なり。且つ郷・村社等に至りては、信仰的の精神より祭れるもの多ければ、これを信仰的より祭るも、又た自然の然らしむる所なるべし。

 如此の理由なるが故に、方今の諸神社は、其の舊記の證明する所に隨ひ、國家的と信仰的の兩性質を以て祭るべきものと考へらるゝなり。然れ共たとひ信仰的に祭るべき神社と雖も、神祇官再興あるに至れば、これを統轄するは、又た神祇官の宰るべきは、舊式に則とる所なり。如此の道理上より考ふる時は、諸神社祭神、分明ならざるも、産土神・氏神・鎭守神の三唱を混じたるも、頒然たるものにて、不規律中に、自ら規律無きに非ず。顯・幽、界を異にする、後世、幽事にかゝる神事は、只だ道理の許す所に隨ひ、開國以來、傳へ來りたる禮典に傚ひ、無窮に此の大典を傳ふる以て、吾が國體の精華とすべきなり。



 愚案、靖國神社に、攝・末社の無きことは、塾頭の仰せの如し。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/39

 明治天皇の聖旨に基づき、奉齋され給ふ靖國神社は、固より國家有功之神の坐す御社にして、護王神社・北畠神社・湊川神社等と共に、永遠に鎭齋ましませり。美甘政和大人の解義、靈理炳焉、眞に簡にして要を得たりと謂ひつ可し矣。國民、擧りて仰ぎ奉り、神習はざる可からざるなり。神習ふとは、何ぞや乎。祭神の遺志を繼承して、一旦緩急あらば、滅私奉公、即ち家族・親族を措きて、忠死殉皇、是れ有るのみ而已矣。
 
 

語彙「報國」の眞義は、後醍醐天皇の大御心に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 4月11日(土)01時39分17秒
返信・引用 編集済
   日本學協會『日本』では、平泉澄博士の令孫・平泉隆房博士による、『寒林夜話──祖父平泉澄との對話』が連載されてをり、いつも樂しみに拜讀してゐる。



●平泉隆房博士『寒林夜話──祖父平泉澄との對話──二十二』(『日本』平成二十七年四月號)に曰く、

「後醍醐天皇宸筆であることが確實な消息(仁和寺所藏宸翰の御消息)に、「可爲報國之忠候歟」と見えてゐることは重要であり、直ちに連想されることがある。『伯耆卷』に見える、後醍醐天皇が名和長年に賜つた感状に、「以正直報國トシテ」といふ一文が見えることから、これが後醍醐天皇による感状であることを論證した、次の部分である。昭和五十四年の崎門祭の折にも言及してゐる(愚云、小生も參加を許されて、拜聽せり)が、こゝには、『名和世家』によつて示さう。

「ところがこゝに、どうしても[『伯耆卷』が]後世のものではあり得ない、強い證據がある。それは終の方にある、「以正直報國トシテ」といふ文である‥‥その「正直を以て、報國として」とつゞけてあるが、これは、後世では絶對に云へないところである。「報國」といふ語は、第二次世界大戰中、隨所に用ゐられた語で、産業報國會、商業報國會を始め、何々報國會といふもの、天下に林立し、充滿してゐたが、それは大戰の以前にも無かつたし、以後にも無い、特殊の流行であつた。それを考へるならば、一つの言葉によつて時代をとらへる事の可能を、理解し得るであらう。私は大戰中の、あの「報國」の流行が、誰人の發意にもとづくものであるかを知らない。しかし此の「報國」といふ語が、最も嚴肅に唱道せられたのは、建武の中興の際であつた事を學び得てゐるのである。

 たとへば北畠親房の『神皇正統記』に、村上源氏について、「それより此方、和漢の稽古を宗とし、報國の忠節を前とする誠あるに依りてや、此の一流のみ絶えずして、十餘代に及べり」とある如き、その一例である。そしてこの語は、北畠親房等、後醍醐天皇の重臣の用ふるところであつたばかりでなく、實に天皇御みづから用ゐさせ給ふところであつた。即ち仁和寺所藏宸翰の御消息に、「兩事不闕如之樣、計沙汰候者、可爲報國之忠候歟」と見えてゐるのである。而して私の寡聞なる、此の語が、室町時代に於いて用ゐられた例を、一向に知らない。若し私の寡聞を以て論斷する事を許されるならば、私は、此の「正直を以て、報國として」といふ文によつて、彼の御感状が、正しく後醍醐天皇の宸筆にかゝるものであつて、斷じて後世の僞作でない事を強調したいと思ふ。」

 ‥‥『仁和寺文書』と『伯耆卷』から、「報國」・「報國之忠」といふ語が浮かび上がつてき、後醍醐天皇周邊で用ゐられてゐたことが明らかになつてくるのである。今日では、『鎌倉遺文』を檢索にかけて、「報國」といふ語が、鎌倉期にどのやうに使用されてゐたかを、容易に知ることができ、鎌倉期にも若干の例があることも判明する。後醍醐天皇や、その周邊だけに限定することは無理としても、天皇が好んでこの語を用ゐられたことは、以上の諸點からも確實であらう。

 さて、大楠公の湊川における最期は、『太平記』に記され、後世に大きな影響を與へた。足利氏の大軍を前にして、衆寡敵せず、いよゝゝ刺し違へるに際して、大楠公と舍弟・正季公との間で、次のやうな會話がなされたと、『太平記』は記してゐる。

大楠公「そもゝゝ最後の一念に依つて、善惡の生を引く、といへり。九界の間に、何か御邊[ごへん]の願なる」
正季公「七生まで、只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ、存じ候へ」
大楠公「罪業深き惡念なれ共、我も加樣に思ふ也。いざさらば、同じく生を替へて、此の本懷を達せん」

 これは、戰前・戰中までの教育の中では、「七生報國」といふ言葉でもつて、日本人の鑑、日本精神の神髓とされてきた。幕末の志士達は、大楠公を篤く崇敬し、この精神でもつて、討幕運動に挺身し、遂に明治維新を成就したのであつた。しかしその一方で、早くも明治初年には、福澤諭吉のやうに、楠公の行動を批判的にとらへる人もあつたし、戰後はことさらに無視したり、この『太平記』の記事についても、大楠公は、「七生報國」など唱へてをらず、「七生滅賊」と言つたのである、といつた研究も、また少なくないのである。

 果してさあであらうか。既に見てきたやうに、後醍醐天皇周邊で、「報國」といふ語が用ゐられてゐたことは明らかで、『太平記』作者の何人であるかは、依然不明であるとしても[周知のやうに、「宮方深重の者」であることは言へるが、『太平記』全體にわたつて、足利氏による改竄がなされてゐる]、大楠公の行爲を、「七生報國」の語で表現して、何ら問題ないものと思ふ。平泉澄「歴史に於ける實と眞」を持ち出すまでもなく、『太平記』の記事をもとに、討死に際しての、大楠公の心情を表現するのに、「七生報國」といふ語を使用することは、當時の用例に即して、極めて適切であつて、むしろ「七生滅賊」の方が、『太平記』の字句に、餘りにも拘泥し過ぎた議論なのではなからうか」と。



 愚案、「大楠公は、「七生報國」など唱へてをらず、「七生滅賊」と言つたのである、といつた研究も、また少なくない」由、其の「研究」とやらの趣旨が判らぬが、若し「滅賊」が「報國」に非ずと云ふのなら、世の中、閑人も存在するのであらう。建武の「中興」、即ち天皇「親政」を喜ばず、事もあらうに「新政」なぞど誤魔化して(たとひ畏き邊りの文字であるとしても)、得意になつてをるさうだから、今時の學者も、出世の爲めに大變なのであらう。想起するは、赤縣(支那)を「中國」と呼ばねば、此の學界から追放される由、これまた御苦勞なことであります。

 後醍醐天皇宸筆の特色は、其の文末に、「‥‥であるぞ」の「矣」と書かせ給ふに在り。當時一般の用例と大きく異なり、國民に對して、嚴訓を埀らせ給ふなり。建武の中興こそは、當に國史の樞軸と謂はねばならぬ。また「報國」の御字は、「報國之忠」、即ち天子樣への忠節を申し上げ、一般抽象的觀念の、單なる國に報いる底の謂ひでは無い。天皇陛下の詔敕であつても、私見を以て、皇祖皇宗の大御心に非ざれば、之を奉戴せぬてふ自稱保守が跋扈する始末を見るたびに、國體の明徴を叫ばねば、吾人の腹悶、允に醫し難いのである。若し諫め奉るなら、必死を以て申し上ぐるを當然と爲す。然らずして敢へて喧傳するは、論者の私欲のみ而已矣。愼しまざる可からず。

 而して其の諫死も、御嘉納あそばし給ふや否やは、大御心次第であります。昨今も、御採用ならずば、吉野の山中に隱れると言ひ放つた東大名譽教授も居たが、屹度、探し出して討伐せねば、皇民の道、全からず、決して許す可からざるなり。



追補。

●平泉隆房博士『祖父平泉澄の家風と神道思想』(日本學協會『藝林』平成二十七年四月・藝林會刊)に曰く、

「この「正直を以て、報國として」とは、譯すと、「生まれた時の清い心そのまゝに、國のために盡くし」といつた意味である。正直とは、のちには「素直で正しいこと、嘘をつかないこと」といふ、今日でも廣く用ゐられてゐる意味合ひとなつたが、當時は「持つて生まれた清い心を、僞り損なふことなかれ」といふ、八幡信仰や伊勢神道で重視された徳目の意味であつて、北畠親房を通して、後醍醐天皇周邊でも、そのやうに用ゐられてゐたと見なして良い。日本人が持つべき心や誠をもつて、國のために盡くす、この點こそは、祖父が生涯をかけて追ひ求めてきた神道精神の核心部分であらう。

 そして「正直を以て、報國として」といふ、建武中興時の精神は、その後忘れられていつたが、幕末には一氣に高揚したことを、「報國」の精神氣概を詠み込んだ和歌をもつて論證することにつとめた。橘曙覽と佐久良東雄のものを、祖父が拔き書きしてをり、‥‥祖父が何に注目したかは明瞭である。

「橘曙覽
皇國の みためをはかる 外に何 する事ありて 世の中に立つ
[「皇國」が生活原理であり、生き甲斐である事、以て知るべし]
潔き 神の國風 けかさしと 心碎くが 神國の人
天皇に 身もたな知らず 眞心を つくしまつるか 吾が國の道

 佐久良東雄
大王に まつろふこゝろ なき人は なにをたのしと 生きてあるらむ
天皇に つかへまつれと われを生みし 吾がたらちねぞ たふとかりける
日の本の やまとの國の 主におはす わがおほきみの 都はこゝか
いのちだに をしからなくに をしむべき ものあらめやは きみがためには
一筋に 君に仕へて 永き世の 人の鑑と 人はなるべし
あなこしこ たふとき國に あれいでて うきよとなげく 人のこゝろは」

 祖父の好んだ先人の和歌が數十首あつて、なかでも好んだものゝ一つが、こゝにも見える橘曙覽の、「皇國の‥‥」であつたやうに思はれる。このやうに、最晩年まで、「報國」・「皇國」といふものを問題とし、國家護持の精神を堅持して、その意味を問ひ續けた」と。
 
 

日本國總理大臣のあるべき姿への第一歩‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 3月30日(月)23時51分39秒
返信・引用
  ■荒魂之會『あらたま』第七十六號(平成二十五年十二月刊)の「討論・皇室の和歌、武家の和歌」(平成二十五年四月七日)より

加藤征司 天皇陛下の御田植と皇后陛下の御養蠶とは、私は田舍の出ですから、特に感慨が深いのですけれども、小石丸も、御蠶さんは氣難しくて、繭にする迄が、大變らしいんですね。もう止めてしまはうかといふ聲が出た時に、皇后陛下が、今迄苦勞して來たのだから、もう少し遣つてみようと勵まされて、やつと巧く行つた所に、正倉院から小石丸の絲がないと、直せない物があつて、實は困つてゐるといふ御話が屆いて、正倉院の絹の修理が巧く行つたといふ、洵に目出たい話があるのですね。千三百年、敕封で護られて來た正倉院の貴重な品が蘇つたといふ、非常に感動的な話ですね。

駒井鐵平 正倉院の敕封によつて護られて來た品々、それと同じやうに、‥‥和歌の歴史が、其の儘、我々の目と耳とで、直接千年二千年の傳統、今此處に在りといふ體驗をさせて貰へるといふ、絶好の機會を逸してゐる事に就て、凡そ頭を使ふ事が無いのが、歴代の總理です。歌會始の御儀に出席した總理といふのは、近年、誰も居ない。今年も居ない。我々だけが騒ぐけれども、總理大臣が歌會始の御儀に出ないで、外國に行つて居たり、何處ぞの御茶會の席には出てゐたりとか、それを誰も、をかしいとは思はない中で、兩陛下が一所懸命に御歌を作つていらつしやる、といふ風に思はざるを得ないのは、悲しい事ではないかと思ひます。歌は‥‥先づ耳で聞いて、同じものを自分の口に乘せて、初めて體驗出來る。萬葉集以來の傳統中の傳統を、直に體驗出來る絶好の機會を失つてゐる事に就て、誰もをかしいとは思はない、といふ事ですね。御製・御歌は、正月の元旦の新聞には、先づ出ます。‥‥首都圏六紙のどの新聞にも、歌會始の御儀を報ずる記事で、今年も、總理大臣の出席が見られない、と記したものはない。をかしい、といふのは、我々だけです。

土田龍太郎 さうしますと、話は、國民教育はどうあるべきか、といふ事になりますね。といふ事は、皇室の尊嚴に關する色んな事柄、歌會始に就ての事柄を、小學校・中學校の教育の、どの授業で纏めて教へて行くべきか、といふ話になる譯です。其の根幹が、今は無い。其處を何とかすれば、多少は違つて來るだらうと思ひますね。

駒井 其の枠組以前に、和歌の姿、其のものが教へられてゐない。正月になると、日本中の學校で、必ず百人一首を遣ると言へば、自ら手に取る者が出て來るけれども、そんな話は聞いた事がないでせう。

小澤泰裕 小學校に、百人一首を復活させたいですね。和歌を覺えさせるのに。

加藤・御製や御歌を、何らかの形で教へれば、先程觸れた宮中祭祀に就ての理解も深まるといふ事ですね。一番大切な事ですね。

小澤 古い言葉も使つてゐますから、これは何だらうなんて、調べたりしますね。

駒井 子供は調べるのが好きなんだからね。一寸、ヒントを與へれば、何でもかんでも遣りますよ。

土田 天智天皇の御製から始まり、順徳院の御製で終る所に、深い意味があるといふ事はね、夙に契沖が言つてゐる事ですね。隨つて百人一首に親しめば、御製にも親しむ事になる。

小澤 古い言葉と言へば、平成十九年の「大雪」の御製に、「事故多きを憂ふ」とありますが、一寸、宇野精一先生の事を思ひ出しました。宇野先生に、正假名遣では、「憂ふ」と書いて、「うりよう」と讀むと、論語講座で習つた記憶があるんですよ。現代假名遣で「憂う」と書いて、「うりよう」なんて讀む者は居ないだらう、昔の發音が、現代假名遣で失はれたのではないでせうか。
‥‥
小澤 小學校の教科書を、戰前のに戻したら、どうでせうかね。質が良くなるんぢやないかと思ひます。

駒井 それが簡單に行かない。それに持つて行く爲には、兎に角、騒ぐだけは騒ぐしかないでせうねえ。
‥‥
駒井 結論は、唯一つなんですよ。突破口はね。それは、新年の歌會始御儀に總理大臣が出席をして、次の日に記者會見をして、如何に感激をしたかを披露する。そしてそれが、世の話題になるかどうか。それが無い限り、幾等學校で遣つても、駄目なんです。總理大臣が考へるのは、經濟の事だけでせう。儲かるか、儲からないか、そんな事ばかり言つてゐる。總理大臣は、アメリカの大統領とは違ふ、イギリスの首相とも違ふ。御儀に出席して、傳統を體驗してゐる姿を、自らの口を以て、國民に感激を與へる、それが無い限り、駄目ですね。

土田 全く其の通りだと思ひますね。何を遣るにも、勉強が必要です。良い和歌を詠まうと思つたら、それなりの勉強をしないといけないし、さういふ教育を、何とか子供にしないといけない。



 いつもの如く、岡山縣愛國者協議會主宰の岡田則夫翁の、三月第一土曜日の勉強會に於いて御紹介された文章から‥‥。平成の御代の宮中歌會始御儀は、平成三年に始まり、本年平成二十七年で二十五囘である。平成三年の海部俊樹に始まり、本年平成二十七年の安倍晉三に至る十五名の首相の中で、歌會始御儀の陪聽の席に列つた者は、一人もゐない。

 蓋し安倍首相も、御儀出席よりも、自らスポーツジムに通ふ(平成二十六年)を優先するもの、日本中興を期待する方が、土臺、無理である。一葉の落つるを見て、天下の秋を察するに足り、一斑を見て全豹を卜するに足れり。期待する者は、洋魂夷腹の自稱保守のみ而已矣。件の駒井鐵平翁の痛切なる歎き、之に共鳴し、之を憤慨するものである。荒魂之會と共に、蟷螂の斧と知りながら、大いに騒ぎたい。
 
 

同血新聞社機關紙『闢邪』創刊さる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 3月10日(火)18時26分56秒
返信・引用 編集済
   平成二十七年三月一日、同血新聞社の下山陽太氏が、自ら編輯長となつて、機關紙『闢邪』を創刊(奇數月發行・同血新聞社「闢邪」編集部刊)した。祝着至極、同憂の士と共に、先づは道福を慶びたい。

 神代派首唱者・下山陽太編輯長の曰く、

「宮崎八郎翁が、熊本協同隊を率ゐて、『西郷に據らざれば、政府を打倒するの道なく、まづ、西郷の力をかつて、政府を崩壞し、しかる上、第二に、西郷と主義の戰爭をなすの外なし』と述べ、更に『西郷に天下とらせて、また謀叛する』と云ふ、此の永久維新の精神こそ、吾等に必要な精神である。一度の維新では、復古は成し得ない。永久維新に依つて、戰後體制及び俗惡邪教と云つた、不純物が削ぎ落とされる」

と。福田邦宏翁は、「下山氏は『下俗』に居ない」と云ひ、眞橘道義神主は、「機關誌發行の重責が、今後、彼の上にのしかゝつてくる」と云ふ。然し「顯幽兩界に亙つて、神代復古の成就を、一人であつても、徹底的に追及」せむとする下山編輯長の志操に、小生は落涙すると共に、其の熱祷の極まる所、皇神の幽助を、只管ら乞ひ奉ると云爾。



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闢邪創刊號目次[題字は、瑞穗塾長・伊藤滿]

一、吾等は神代復古の前衞部隊である──創刊の辭──下山陽太
一、混濁なき國體の明徴を期す──福田邦宏
一、若き戰鬪者の誠心に捧ぐ──闢邪創刊に寄せて──眞橘道義
一、吾が神典 大いに講究すべし──有安弘吉
一、神代復古は神軍で以て成就されたし──下山陽太

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【皇道日報「機関紙『闢邪』創刊のお知らせ」】
  ↓↓↓↓↓
http://koudoupress.net/%e6%a9%9f%e9%96%a2%e7%b4%99%e3%80%8c%e9%97%a2%e9%82%aa%e3%80%8d%e5%89%b5%e5%88%8a%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b/
●申込み・問合せは、以下のメールより
douketsushinbunsha.hekija@gmail.com
 
 

『凜として愛』の感想文コンクール

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 3月 9日(月)22時54分21秒
返信・引用
   藤真知子樣から、拡散希望、以下の如し。


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『凜として愛』感想文コンクール詳細チラシ
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/pdf/20150305.pdf

 3月5日より4月30日まで、『凜として愛』感想文コンクール実行委員会主催(後援:一般財団法人アパ日本再興財団/協力:愛国女性のつどい花時計)で、
『凜として愛』の感想文コンクールが行われています。

 400字~1600字程度で、Wordファイルでの応募になります。子供から大人まで、誰でも参加できます。

最優秀賞(1名):賞金3万円+バリ島旅行
優 秀 賞(2名):賞金2万円
佳  作(20名):5千円分のアパホテルご利用券

 皆さんも、是非ご参加頂ければと思います。
  ↓↓↓↓↓
https://www.facebook.com/lovepridenet

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戀闕の體認は、臣子當然の務めなり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 2月20日(金)18時58分6秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 「叡慮、改まり候へば、其の宣り直させ給ひし叡慮に隨ひ候ふ事、皇國の道義に於いて、何の不可あらんや哉」と。蓋し、承詔必謹、山海致死は、皇國當然當爲の臣道なり。日頃から「只今、天子樣の御身上は、如何あらせ給へるやと、各々皇民は、須く體認して見る可し」と。吉田松陰先生の嚴訓は、至貴剴切、血忱淋漓、實に先生の大精神・眞本領を觀るに足るのみならず、我等、草莽有志の道標である。

 此の『要路役人に與ふ』は、『戊午幽室文稿』所收の、夙に有名なる、
『大義を議す』(七月十三日。此の『要路役人に與ふ』と同日なり)
『時義略論』(七月十六日)
『時勢論』(九月二十七日)
等と同じ頃の、同趣の玉章にして、「今日の務めは、大義を明かにするに在り」(『大義を議す』)、朗誦味讀を、切に乞ひ奉る。



●吉田松陰先生『要路役人に與ふ』(安政五年七月十三日夜。全集第四卷に所收)に曰く、

「(幕府)違敕の事は、六月二十一日(十九日の日米通商條約)の調印にて、一も二もなく御座なく候ふ。此の段、着眼、之れ無きものは、誠に痛痒を解せざるの至りと存じ奉り候ふ。‥‥何分、神速に幕府へ忠告、天朝へ密奏、御一同に御發し成さる可く候ふ。「叡慮、改まり候はゞ」抔申す事、誠に々ゝ愚昧の見に御座候ふ。能く々ゝ事理、御辨別、然る可く存じ奉り候ふ。天朝の御憤懣は、いつよりの事と思召され候ふや哉。

 私、承り候ふは、(嘉永六年)癸丑の十月朔日、上京仕り、柳川(星巖)翁に承り候ふ話に、墨夷來航已來は、毎晨寅刻(午前四時。神事の開始時刻)より齋戒ましゝゝ、敵國懾伏、萬民安穩、御祈願遊ばされ、且つ供御も、兩度の外、召上がられず候ふ由、朝な夕なの御詠は、又た是れより先の事に御座候ふ。其の後、梵鐘(鑄砲)の詔・(安政)改元の詔書などの事ありて六年目、今(安政五年)戊午に至り、明々敕旨に顯はれ候ふ事、中々一朝一夕、慷慨なんど申す沙汰には之れ無く候ふ。六年の精誠、何とて一朝に改まり申す可くや哉。餘り勿體なき申し分には御座なくや哉。且つ改まり候ふ共(叡慮、若し攘夷から開國に改まり候へば、其の開國の)叡慮に隨ひ候はゞ、道義において、何の不可あらんや哉。

 一體、人と申すものは、體認と申す事を知らず候はゞ、人と申すものには之れ無く、只今、主上の御身上は、いかゞあるや哉、銘々體認して見る可し。一旦、敕答出で候ふからは、迚も跡へは御引遊ばされず候ふ。御引遊ばされず候はゞ、後鳥羽天皇・後醍醐天皇の御厄難は、目前に之れ有り候へ共、少しも聖體御厭ひ遊ばされず候ふ事なるを、臣子として體認もせず、餘所目に見て安坐して居り、「若しや萬一、叡慮改まり候はゞ、如何」などと、改まりもせぬ叡慮を下げすみ仕り候ふは、實(げ)に々ゝ惡逆無道、不仁に與みするの大なるものに付き、若し御役人中に、かゝる人物も之れ有り候はゞ、早々差替へられ、不忠のものゝ見懲しに成さる可く候ふ。

 全體、大事を擧げ候ふには、義・不義のみに目を附け候ふ事にて、成敗へ心を附け候ふ事、皆々臆病の至りに御座候ふ(諸葛亮孔明『後出師表』に曰く、「臣、鞠躬して力を盡し、死して後ち已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明、能く逆め覩る所に非ざる也」と)。新田(義貞公)・楠(楠木正成公)、又は洞春公(毛利元就)、陶御制伐等の往蹟を、能々御覽成さる可く候ふ。いづれも力を以ては、敵せらるゝに非ず。但だ機を見るの明決と、誠の貫徹とにて、事は出來候ふ。機を知らず、誠のなきものは、さつぱり大事の引當てにはなり申さず、此の見切り出來ず候はゞ、切腹して、世の臆病ものを勵ますも、一手段に御座候ふ。何分に一兩日の内、御決議なくては、迚も事にはなり申さず候ふ。御當家(毛利家)の御弓矢、關ケ原にて汚れ候ふより已來、今に至るまで、未だ直り申さず候ふ。今ま兩三日の機を失ひ候はゞ、又た百年位は、腰はのり申さず、腰ののらぬのみに之れ無く、國家(防長國毛利家)の滅亡、疑ひ無く候ふ。且つ腰ののるのらぬと申すも、一國一家の私事に之れ無く、かゝる皇家の御大事に、手に逢ひ申さずして、江(大江氏、毛利)家の家名、何を以て立行き申す可くや哉。

 何分、機會を御失ひ成されず候ふ樣、江家の爲め、天朝の爲め、祈り奉り候ふ事。天朝の御論、大盤石たる證は、八々の卿の上書(三月十一日、堂上公卿八十八人連署。十二日には、九十三人に至る)にても知る可し。名を募りたりとて、八々の人數が驅り集めらるゝものに之れ無く、是れ皆な聖上の至誠、貫徹仕り候ふ故の事に御座候ふ」と。



●平泉澄博士『孝明天皇の聖徳』(『神道史研究』昭和四十一年十一月。『平泉澄博士神道論抄』平成二十六年五月・錦正社刊に所收)に曰く、

「曾て韓退之は、『拘幽操』を作つて、文王の心を解明し、臣道の極致を宣揚した。それは正に臣道の極致であつて、その場合、君徳は問題の外に在る。いはゞそれは、一方的であり、片務的である。臣道としては、それを極致とし、規準とするのであるが、然しそれは痛ましき人生の悲劇たるをまぬがれない。

 しかるに今、孝明天皇の御代に於いては、天下、英傑大才、ことごとく天皇の聖徳を仰ぎ見、一身一家を棄てゝ、天朝に奉仕しようとしたのである。こゝには、國體の護持と國民の安寧幸福との爲には、敢へて御身をかへりみ給はざる孝明天皇の聖徳と、その聖徳を仰ぎ、聖徳に感激して、すべてを捧げて奉仕しようとする臣民の至誠との、世にも美はしき諧調を見るのである。

 孝明天皇の御代に起る幾多の事件、安政の大獄といひ、櫻田門の變といひ、坂下門の變といひ、やがて禁門の變といひ、つゞいて長州征伐といひ、悉く此の君徳・臣道より發し來り、而して一途に維新囘天の大事を目指して進むのである。君臣の關係、水魚の如しといひ、天地覆載の如しといはれるが、その最も美しき發露を、孝明天皇の御代に見る事が出來るのは、まことに國史の壯觀であり、國史をかへりみる者の、大いなる喜である」と。
 
 

天壤無窮の神敕は、即ち今上天皇の敕命なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 2月11日(水)23時49分8秒
返信・引用 編集済
  奉祝、第二千六百七十五年紀元節。

 吉田松陰先生『對策一道・附論』(『戊午幽室文稿』安政五年四月中旬)に曰く、

天日の照らす所、皆な皇神の御(をさ)めたまふ所なり。天子の敕は、乃ち皇神の旨なり。其れ奉揚せざる可からざること、論ずること無くして可也。敕を奉じて死すれば、死は猶ほ生のごとし也、敕に背きて生くれば、生は猶ほ死に如かざる也」と。



 又た『坐獄日録』(安政六年春)に曰く、

「吾れ幼にして、漢籍にのみ浸淫して、尊き皇國の事には、甚だ疎ければ、事々に恥ぢ思ふも多けれど、試みに思ふ所と見聞する所を擧げて、自ら省み、且つは同志の人々へも示すなり。

 抑も皇統綿々、千萬世に傳はりて變易なきこと、偶然に非ずして、即ち皇道の基本、亦た爰にあるなり。蓋し天照皇大神の神器を、天孫瓊々杵尊に傳へ玉へるや、『寶祚の隆えまさんこと、天壤と窮り無かるべし』の御誓あり。されば漢土・天竺の臣道は、吾れ知らず。皇國に於ては、寶祚、素より無窮なれば、臣道も、亦た無窮なること、深く思を留むべし。更に又た『祈年祭の祝詞』に謂へる、「狹國は廣く、峻國は平けく、島の八十島、墜つる事無く」、また「遠國は八十綱打掛けて引寄する事の如く」などいふこと、徒らに考ふべからず。臣道、いかにぞと問はゞ、天押日命のことだてに、「海行かば水つく屍、山行かば草むす屍、大君のへにこそ死なめ、のどには死なじ」、是れなん、臣道ならん」と。



 かつて乃木希典大將『士規七則講話』一卷を拜記させて戴いたが、吉田松陰先生の、芽出度くも尊き嚴訓あり。承詔必謹、絶對畏命の臣從にして、私見從我、躊躇を聽さず、懊惱腹悶、逡巡を要せず、我が皇國道義の精粹と謂ひつ可し矣。此の佳節に方り、次に之を御紹介し、皇民としての道福を、有志各位と共に祝祷申し上げたい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/3



●廣瀬豐海軍大佐講述『松陰先生士規七則』(昭和十年四月・日本放送協會講話。七月・日本放送協會刊。平成二十五年五月・國書刊行會増補改版)に曰く、

「この國體の淵源をなしますものは、實に、

『寶祚(天皇の御位)の盛えまさんこと、天壤とともに窮まりなかるべし』

と仰せられました。天照大神のご意志、すなはち御神敕でありまして、この神のご意志が、日本の日本たる所以であります。御代々の天皇樣は、この御神敕を、そのまゝにお傳へあそばさるゝのでありまして、われゝゝは如何なることがありましても、その天皇樣の御命令、すなはち敕命に反(そむ)いてはなりません。なぜならば、たゞ今の天皇樣の敕命に背くことは、天照大神の御神敕に背くことでありまして、日本の日本たる所以の第一條を破壞し、日本を根本から亡ぼすものであるからであります。

 またこれに反しまして、たとへ天皇樣のご命令に從つたために、萬一、形の上では、日本國が亡びることがありましても、形は亡びてもやむを得ないのであります。なぜならば、敕命に從ふといふことが、日本なのであります。敕命に從ひ奉らずに、日本國が形の上だけで榮えたとしましても、それは、もはや日本國ではありません。日本と違つた國が、別にできたのであります、と、松陰先生は考へてをられました。

 されば先生は、後年、幕府が敕命に從はずに、米國と通商條約を結びましたときに、長州藩の役人どもが、『今にも天皇樣の思し召しがお變はりになるかも知れないから、しばらく天下の形勢を見てゐたらどうだ』といふ意見がありましたときに、先生は、

たゞ今は、たゞ今の敕命を奉じてをればよい。もし後で思し召しがお變はり遊ばされたならば、またその通りに行へばよい。これが日本人の第一義である。なにも躊躇する必要はない。』(愚案、『要路役人に與ふ』──安政五年七月十三日。全集第四卷に所收──に曰く、「(叡慮)改まり候ふ共、叡慮に隨ひ候はゞ、道義において、何の不可あらんや哉」と

と、意見を上申されてをります」と。



【吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』】
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【畏命卒伍の臣從】
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【先哲遺文を承けて】
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●勅使河原大鳳翁『大祓入門』(平成四年七月・山雅房刊)に曰く、

「人間世界の據て立つべき玄理玄則が、天壤無窮の神勅であり、其の玄理玄則を保有するのが、祭祀の道である天津神籬・天津磐境の神勅であり、其の道に依て繁榮すべき百姓蒼人草等の生きる道が、齋庭の穗の神勅である。

 七八萬年前から、高天原神界よりこの地上に、先驅的に地球の諸地方に各々使命を承けて、神人・眞人・高級靈人が、かなり長期に亙り降下してゐた。そして玄道の上から確言出來ることは、天孫降臨(神武天皇肇國の八九千年前)こそは、其の最終段階に於る、總本部の移轉であつたのだ。天皇の實在の眞義を覺知するとは、正眞神界の氣線に格合する唯一の道である。天孫降臨の時に、次元の靈霧を祓ひ清め、亦た地上界に立ちこめる靈霧を祓ひ清める爲に、打撒きの法を、天上界の米粒を以て行つた。是が地上に於る稻穗の起源である。米は神器であり、神祕なる物實である。外宮に豐受姫神を奉齋してあるのは、齋庭の穗の神勅に、其の淵源が在るものと拜察される。

 神勅は絶對である。然し其の内容は、蒼人草を咒縛するものでは無い。神道は、宗教的規範や戒律を以て、咒縛するものでは無いのである。神道とは、神社を中心としたものであり、其の本源は、宮中祭祀に繋がるものであつて、天皇を中心として、仰戴する事が基本であり、天皇の神祇奉仕に神習うて、是れ勤める所に在り、其の裏面である古神道は、正眞神仙之大道であつて、玄學玄道に基づく、所謂祕密の部分があり、神界之玄臺龍窟に祕藏せられてゐる種々の神傳玄法を基本として、正眞の神體驗を軸として、生命活動を囘歸上昇して行く所に、其の本旨が在る。三大神勅は、教訓でも教義でも無い、そのものずばりであつて、何の曖昧さも無く、而も其の簡明なる宣言の奧には、神界に於る重祕玄法が、上御一人たる天皇に附託相承されてゐる。知る事は大事であるが、知つてはならぬ事は、知らぬ法が宜しい。さうした認識方法を知る事も、知ると云ふ事に他ならぬ。物事には、節度があり禮節がある」と。



【天皇爲本の大道】
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大内山尊崇の道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 2月 9日(月)19時10分42秒
返信・引用 編集済
  ●本居宣長大人『玉勝間・大神宮の茅葺(かやぶき)なる説』に曰く、

「伊勢の大御神の宮殿(みあらか)の茅葺なるを、後世に質素を示す戒めなりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也。質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし。御殿(みあらか)のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ。みあらか又た獻り物などを質素にするは、禮(ゐや)なく心ざし淺きしわざ也。

 そもゝゝ伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重みし守りて變へ給はざる物也。然して茅葺ながらに、その莊麗(いかめし)きことの世にたぐひなきは、皇御孫命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故ゑ也。さるを御(み)みづからの宮殿をば、美麗(うるはし)く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは。すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古への意にそむけりと知るべし」と。



 或る神主樣のブログに曰く、

「天皇陛下、皇太子殿下、その他の皇族のお方は、個人的財産ではなく、借地借家で住まわれているわけです。これは戦後、GHQ(連合国の占領軍)が、自活されていた皇室の経済を、財閥と同じように解体を図りました。皇室財産には、それまで課されていなかった財産税が課され、皇室財産のほぼ9割を物納の形で、国有財産に移管させました。そのことが、日本国憲法88条をご覧なれば分かります。これは、GHQの日本弱体化政策を受け継いだものです。

 ところで内廷外皇族には、家族構成に応じて、毎年定額が歳費として支給されています。その金額は、たとえば秋篠宮家は年間5000万円程度です。多いと思われますが、その歳費の約半分は人件費に当てられ、御子息の学費なども、その中(愚案、殘りの半分)からお支払いになられています。私たち国民は、皆保険です。それぞれの健保に入っていますので、診療費は2割・3割負担ですが、御皇族(ママ)には、医療保険がありません。例えばインフルエンザに罹られても、10割負担です。しかも歳費から支払わなければなりません。大手術の際には、大変な高額医療費となられます。

 上記のことから、御皇族のお方は、決して絢爛豪華な暮らしをされておられません。30年前に師匠のお供をして、御皇族の御用邸に行ったことがありました。師匠は、デパートで2名分の弁当を買ってくるように言われました。2名分の弁当は、師匠と私の分です。御用邸に入りますと、師匠と御皇族は応接室で、私は控え室でおりました。昼時になりますと、控え室に師匠がやって来られて、そこでお茶を頂き、弁当を二人で食べました。

 普通の家ならば、お客様にお寿司や手作りの食事を出すのでしょうが、師匠から『宮様の負担になられるといけないので、いつも弁当を持参してくるのだ』という説明を受けました。質素に生活されておられていることが、実感できました」と。
  ↓↓↓↓↓
http://turumi-jinjya.blog.so-net.ne.jp/2015-02-09



 愚案、全て神の御上に、質素を良きにすること、更に無し。御殿のみならず、獻物なども何も、力の勝へたらん限り、美麗しく莊麗しく目出度くするこそ、天子・神明を敬ひ奉るにはあれ。宮殿また獻物などを質素にするは、禮なく志し淺きし業ざ也。鈴屋大人の憤怒、沈潛復誦、已む能はず。

 皇室御質素の御樣子は、申すだに畏し矣。三十年前の御事の由、現在、是れ如何、改善されたことを聞かぬ。政府・與黨の大罪、幾何ぞや。或る御方は、安倍晉三首相の、御歌會始の御儀に拜趨せざるを以て、松陰先生を尊敬する長州人と雖も、全く信を措く能はざる旨、仰せられたり。洵に宜べなり。況んや西暦を奉じて、恬として耻ぢざるをや。

 皇御孫尊、即ち天上より降臨坐しまし、宇内唯一、文字通りの「天子」樣を、厚く尊み敬ひ奉らざる政府・與黨に、占領政策の完全なる成功と、臆病なる心の完全なる慴伏とを見る。已むを得ざる忍從に非ずして、歐米に完全に屈服して疑ふことを知らぬのである。

 又た或る呟きに曰く、「七十代の爺さんが、『戦争は悲惨だよ。二度とやってはいけない』って言ったら、横から『何、言ってやがんだ! お前、戦ってねぇだろ! いゝか、次、アメリカとやるときは、もっとうまくやるぞ。絶対に負けないぞ、次こそは』と、参戦意思を表明してくれた九十の爺さんが、強烈過ぎた」と。

 此の九十老翁の氣概に、我が塾頭を見る思ひあり。大詔に因つて、劍を措きし皇軍兵士は、再びの御召を待つてゐる。然し老翁の言靈の如き、報道されること決して之れ無く、漸く顯界から退場しつゝある。皇室尊崇、絶對臣從の道は、我等、草莽有志に託されてゐると謂はねばならぬ。

 樋口一葉氏の、歳二十三にして、赤貧洗ふが如き女性の身を以てすら、其の『塵之中日記』(明治二十七年三月二十六日)に曰く、

「道徳すたれて、人情、かみの如くうすく、朝野の人士、私利を、これ事として、國是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子の、何事を思ひ立ちたりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂ひを念とせざるものならず。かすか成りといへども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を殘りなく、これになげ入れて、死生いとはず、天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ。わが心は、すでに天地とひとつに成りぬ。わがこゝろざしは、國家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられ、やせ犬のゑじきに成らんを期す

と。志操堅固、氣宇壯大、一葉女史は、明治の人か乎、明治の人なり。明治は遠くなる可からず、復古中興には、須く明治の大御代を想起せざらむと欲して得べからず矣。
 
 

『凛として愛』無料配信。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 2月 3日(火)21時10分27秒
返信・引用 編集済
  ──花時計通信より──

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 花時計が拡散活動を行っている映画『凛として愛』が、保守系企業で有名なアパホテルの客室で配信されることになりました。対象となるのは98ホテルで、宿泊者が無料で視聴できるメニューに加えていただくことができました。

http://www.apahotel.com/news/campaign/detail/417.html

 平成14年、上映開始後たった2日で封印されてしまった幻の映画『凛として愛』は、インターネット上で、細々と広められていました。その後、現在、花時計の副代表をつとめる藤真知子が、この映画と出会い、故泉水隆一監督に直接交渉をして、上映会の開催を実現させたのが、平成21年でした。上映会開催を大変喜んだ泉水監督は、藤個人に対して、拡散のためにDVDを頒布する許可を出されました。その後、藤が花時計設立に加わったため、現在、花時計が、『凛として愛』の拡散活動を担うこととなったのです。

 DVD資料の頒布により、地方での上映会や個人病院やお店での上映などが、少しずつ実現してきましたが、ケーブルテレビなど、より多くの人に見てもらう手段で広めたいというのは、私ども花時計の悲願でした。

 今回、ホテルチェーンの客室での配信という、かつてない規模での拡散が実現したことは、非常に嬉しいことです。また『凛として愛』を風化させまいという一心で、拡散活動に力を注いできた藤真知子の働きを、一緒に活動する仲間として誇りに思います。

 『凛として愛』の制作に渾身の力を注がれた泉水隆一監督、講演会の際に、必ず『凛として愛』を上映された東條由布子さん、ブログ上で、『凛として愛』を紹介し続け、花時計による拡散活動を全面的に応援してくださった花うさぎさん‥‥

 『凛として愛』を支えてきた方々は故人となってしまいましたが、映画のチラシを作ってくれた方、英語字幕版を作ってくれた方、海外の図書館に寄贈できるよう手配をしてくれている方、そして自分の身近な人たちに伝えようと頑張っている方‥‥たくさんの方と力を合わせて、今後も拡散活動を続けていきたいと思います。

 長くなりましたが、今後とも『凛として愛』の拡散活動に、ご協力をよろしくお願いいたします。

■凛として愛ホームページ
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
■花うさぎさんのブログより
凛として愛、真実の歴史
http://hanausagifan.web.fc2.com/20090806.pdf
『凛として愛』上映会、花時計一周年記念イベント
http://hanausagifan.web.fc2.com/20110719.pdf

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【類似品に御注意】
映画『凛として愛』には著作権があり、生前、泉水隆一監督といくつか約束をし、「愛国女性のつどい花時計」の藤真知子が、映画の拡散、DVDの頒布について許可を頂きました」と云ふ、天下唯一の頒布元
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/entry-11591046032.html
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
 
 

泉水隆一監督映畫『凜として愛』擴散。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 1月31日(土)22時43分43秒
返信・引用
   泉水隆一監督映畫『凜として愛』を、一人でも多くの方に觀て戴けるやうに頑張つてをられる、或る御方から、嬉しい御便りがございました。

塾頭、觀て下さつてをられますか。

 塾頭を慕ふ方々の、地道な努力の賜です。同慶至極、本道に有り難いことであります。滿腔の敬意を表し、謹みてこゝに拜寫させて戴きます。



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 泉水隆一監督の映画『凜として愛』が、一部のAPAホテルで視聴可能になりました。一月三十日、APAホテルのサイトに掲載されました!
  ↓↓↓↓↓
http://www.apahotel.com/

APAホテル、平成二十七年二月一日から、 客室VOD無料配信スタート──アパホテル対象九十八ホテル──】
  ↓↓↓↓↓
http://www.apahotel.com/news/campaign/detail/417.html

 また日本とオーストラリアの図書館への拡散も、二月から始まります。図書館に置くことは難しいと思っていたのですが、館内のみ視聴ということで、日本とオーストラリアの図書館に置くことが出来るようです。

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「臥薪嘗膽」の本義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 1月27日(火)22時42分32秒
返信・引用 編集済
  ■明治天皇『在廷の臣僚、及び貴衆兩院議員に告げ給へる敕語』(明治二十六年二月十日)

國家軍防の事に至りては、苟くも一日を緩くするときは、或は百年の悔を遺さむ。朕、茲に内廷の費を省き、六年の間、毎歳三十萬圓を下付し、又た文武の官僚に命じ、特別の情状ある者を除く外、同年月間、其の俸給十分の一を納れ、以て製艦費の補足に充てしむ。



■明治天皇『大孝に就きて土方宮内大臣に下し給へる敕語』(明治二十六年二月)

朕、さきに内廷の費を省き、製艦の費を補はんことを命じぬ。されば力の堪へ、心の及ばん限りは、節約を重ぬべし。されど朕、特に汝に告ぐることあり。朕が祖宗列聖の祭事、及び山陵の費と、皇太后陛下の供御の費とは、少しも動かすこと勿れ。



■明治天皇『第九囘帝國議會の開院式に賜へる敕語』(明治二十八年十二月二十八日)

國防は、曾て漸を以て完實を期せり。今、交戰の爲め缺損せるものを補充し、并びに自衞に必要なる設備をなさむとし、朕が臣僚をして贊畫の任に當らしめ、必要の支出に付いて、議會の協贊を待たしむ。而して其の止むを得ざる國費の増加は、朕が忠良なる臣民の、進んで之を負擔するに躊躇せざるを信ず。



●一般會計決算に於ける軍事費(陸海軍省費)と歳出總額に占める割合(大岡弘氏『明治天皇の靖國神社招魂式の御製に想ふ──軍事費大幅増額への轉換』──『國民同胞』平成二十六年十一月刊に所引。岡田則夫翁の紹介朗讀せられたる文章より)

明治二十三年度・ 二五六九萬圓[三一%]
明治二十四年度・ 二三六八萬圓[二八%]
明治二十五年度・ 二三七七萬圓[三一%]
明治二十六年度・ 二二八二萬圓[二七%]
‥‥
明治二十九年度・ 七三二五萬圓[四三%]
明治三十 年度・一一○五四萬圓[四九%]
明治三十一年度・一一二四三萬圓[五一%
明治三十二年度・一一四二一萬圓[四五%]
明治三十三年度・一三三一一萬圓[四五%]
明治三十四年度・一○二三六萬圓[三八%]
明治三十五年度・ 八五七七萬圓[三○%]
‥‥
平成二十五年度・約 五  兆圓[ 五%
  ↓↓↓↓↓
http://www.kokubunken.or.jp/kokumindouhou/637.html#02
http://www.kokubunken.or.jp/kokumindouhou/638.html#04



 愚案、軍艦製造費を巡つて、吏黨・民黨の相克あつて、明治初期の帝國議會は、混亂を極めた。然し明治天皇の敕語を賜はるや、兩黨は一致協力、臨時軍事費の支出を全院一致で可決した。復た日清戰爭・三國干渉に際しては、反省の機運が一氣に生じ、提携協力、擧國一致、「臥薪嘗膽」、軍事費の大幅増額に因る嚴しい國家財政の運營や、之によつて齎される増税等の國民生活への直接負擔にも、能く凌ぎ得た。此の「臥薪嘗膽」の四文字、現代の國民の、容易に使ふこと能はざる金文字である。此の擧國辛苦の血涙こそ、當に「臥薪嘗膽」の本義、新たなる出典と謂ひつ可きものであらう。

 果して現代、吾好しの功利を貪り、既に飽食暖衣の老若男女、吾人の父祖たる明治の皇民に、些かでも倣ふることあらば、平成の御民として、四方の跳梁、萬里の怒涛、抑も何するものぞ。茲に想起するは、平泉澄先生の玉章である。



●寒林平泉澄博士『明治の光輝』(昭和五十五年五月・日本學協會刊)の「はしがき」に曰く、

「明治の大御代は、氣宇雄大、朝野奮勵、精神充實して、光彩陸離たる時代であつた。曾て延喜・天暦の御代がさうであり、また歐洲に於いてギリシヤ・ローマの盛時がさうであつたやうに、それは黄金時代として、讚美愛惜を以て追憶せられるであらう。無論、衣食の樣式も貧弱であれば、學校その他の設備も低級であり、人々の收入も少なければ、娯樂も云ふに足らなかつたであらうが、それにも拘らず、人々は希望に燃え、努力を樂んだ。維新の變革は、一方に幸運者を生じたと同時に、他方に多くの不運者を出だしたが、しかも雙方それにこだはる事なく、ひとしく上御一人の聖徳を仰ぎ、聖謨を翼贊するところに生甲斐を感じた。あだかも長き眠りよりさめたるが如く、俄然奮起して三千萬國民の總行進が始まり、ひとり自國の興隆を計るのみならず、近隣諸國をも援護して、東洋の平和を目指したのであつた。その國が光り輝いたのに、不思議は無い。私は明治に生れ、明治に育ちたる者として、當時を囘想するごとに、骨髓のうづき、胸の高鳴るを禁ずる事が出來ない」と。
 
 

「鎮霊社」廢祀の天機、正に來れり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2015年 1月 9日(金)20時01分1秒
返信・引用
  ●大野俊康宮司『宮司通達』(平成五年六月一日附)に曰く、

鎮霊社は、靖國神社の本旨とも言へる、明治天皇の聖旨(──我國の爲をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉垣──)とは異なる御社であることを、先づ以つて認識せねばならない。

 又、『靖國神社社憲』の前文に、「本神社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、國事に殉ぜられたる人々を奉齋し、永くその祭祀を齋行して、その『みたま』を奉慰し、その御名を萬代に顯彰するため、明治二年六月二十九日、創立せられた神社である」とあり、次に、『宗教法人靖國神社規則』の第一章總則の第三條には、「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた『安國』の聖旨に基き、國事に殉ぜられた人々を奉齋し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族、その他の崇敬者を教化育成し、社會の福祉に寄與し、その他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふことを目的とする」とある。

 我々奉職者一同は、この『靖國神社社憲』及び『宗教法人靖國神社規則』に則り、職務を遂行せねばならぬことは、言ふまでもない。

 又、鎮霊社を現在の場所より移築したり、圍りの鐵柵を取りはずす等、鎭座當時と同樣に、參詣者が自由に參拜出來るやうにすることは、千鳥ケ淵戰歿者墓苑に見られる通り、一部の政黨や所謂博愛主義者によつて、英靈祭祀二分化に繋がると、大いに懸念されるところである。

 よつて、小職は、昭和四十年、鎮霊社鎭座以來、今日まで嚴肅に奉仕されてきた祭祀に鑑み、鎮霊社を、今後共、現状のまま、密かに奉齋し續けることを見解とする。以上
」と。



●九段塾頭の曰く、

「『靖國神社・社務日誌』(昭和四十年七月十三日、「鎮霊社鎭座祭」條)の參列者の項に、

參列者。筑波宮司・筑波貞子(宮司夫人)・姫野公明(修驗道尼僧・山嶽信仰の行者)・曾根朝起・横濱市西櫻會員二十五名

とだけ、記載されてゐる。靖國神社と無縁の私人による「私祭」である。靖國神社は、鎮霊社建立以降、毎年七月十三日の夜、「鎮霊社例祭」として恆例とした。靖國神社神職も、「ひそかに」奉齋を、平成十八年十月十二日の一般參拜再開まで續けて來てゐた。

 當時の權宮司を始め、幹部神職は、この「鎮霊社」は、「極めて私的な社」であることと、「靖國神社」にふさはしからぬ「社」、即ち聖旨に叛し、社憲に反するものであると云ふ、「正確な、正しい認識」があり、世間に公開するやうな不見識さはなかつた。それでも、祭祀は續けて來たのである。それは、個人的・恣意的とは云へ、神社境内地に、元「宮司の建てた社」に、神職がそれを無視することは出來ず、恐らく「やむを得ず」、奉齋を續けて來たのだらうと思はれる。それが證據に、湯澤貞前宮司が就任するまで、「鎮霊社」は、ひそかに神社内部だけで、祭祀が行はれ、公表されることはなかつた。

 筑波宮司のあとを受けた松平永芳元宮司は、この「鎮霊社は、胡亂なもの」と云ふ認識を有してをり、「鎮霊社を、絶對に外に出しては駄目だ」と、強く言明、『宮司願ひ』として、大野俊康宮司に手渡した。大野宮司はこれを承けて、就任後直ちに「鎮霊社に關する調査小委員會」を設置、徹底的に、其の經緯・趣旨を内部で研究調査させた。その結果においても「小委員會は、鎮霊社の公表を否」としたのである。鎮霊社が總代會なりの正式な機關決定で建てられたものであれば、改めて「會議檢討し、新たな機關決定」を發令して、「廢祀」することも可能だつたが、前任宮司と夫人による、「極めて恣意的に建てられた、私的臭の強い鎮霊社」であるために、逆に後任の宮司が、「勝手に廢祀」することは出來なかつた。

 鎮霊社は元宮と共に、「境内攝社」では無い。境内攝社とは、一般的には、「その神社の祭神と深いつながりがあり、その由縁の神を祭つた神社」を、攝社と謂ふ。本社の境内にある場合に、境内攝社と謂ふ。よろしいか。鎮霊社は、神社ではない。また靖國神社祭神とは縁もゆかりもない、祕かに「誰だかわからぬ敵・味方」、外國のテロリストなどが、七月十三日に、私的に招魂されるだけのもので、神樣ではない。また國内にしても、諸靈・集合靈であり、誰だかわからない人々である。正に神靈不在である。

 鎮霊社は、祭神名が不明なので、神社にならないし、鳥居も作らない。誰がお通りになるかわからないので、鳥居は作れない」と。



 愚案、舊稿再掲、ご容赦を。此の大野宮司の通達に背きて、實に「胡亂なるもの」(松平永芳宮司の認識)、明治天皇の聖旨に叛し、社憲に反する、「鎮霊社」と云ふ、神靈不在の私的「施設」に過ぎない。之を公開せし者は、抑も誰ぞや。罪は重かつ大と謂はねばならぬ。

 平成二十六年の大晦日、靖國神社にて放火あり。「鎮霊社を燃やして燒身自殺すれば、靖國神社に葬つてもらへると思つた。御免なさい」と供述の由。一知半解の徒が出現する始末、是れ亦た困つたものなり。「鎮霊社」の本旨を明かにして、速かに廢祀するを可しとする。

 「鎮霊社」は、「私的臭の強い」私祀にして、固より上奏・敕裁を得ざるもの。此の度の火の手は、大いなる神意を感得す。實に畏し。此の祝融の天機に際し、正式なる手續きを蹈んで、斷然、之を廢祀すべきもの、南洲公他が祀られてゐるなぞとは、報道機關による俗問に窮したる、神職の戲言虚辯に過ぎない。

 抑も「鎮霊社」とは、

一、「嘉永六年以降、幾多の戰爭・事變に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命斷ちにし命等にして、靖國神社に祀られざる諸命の御靈」一座

一、「西暦一八五三年以降、幾多の戰爭・事變に關係して、死歿した諸外國人の御靈」一座

とを併せ祀る。共に無名不特定の集合靈であつて、本殿なる天皇祭祀の「靖國大神」(鈴木孝雄大將宮司の奉られた辭)とは、全く異なる。「鎮霊社」の存在は、招魂する所、非命に斃れしヒツトラーやフセイン、或は政治テロリスト、或は怨念の凝固せる邪靈「も」、歡んで憑依する施設であることを、神道崇敬者は知つておかねばなるまい。

 「鎮霊社」の起原・由來を問はざる論評は、所詮、空理空論にして、今まで其の意義を深めようとした先例はあるものゝ、其の由來の爲めに、悉く頓挫してゐる。而して「鎮霊社」は、知つてか知らずか、我が首相の參拜によつて、政爭の玩具とされたことは記憶に新しい。嗚呼、已んぬるかな哉。

 靖國神社は、天皇陛下から御預りしたる神社なり矣。敕裁あらずんば、「創祀」も「公開」もしてはならぬ。已むを得ず、「一宗教法人」となつたとは申せ、舊「別格官幣社」の矜持・自覺を堅持する所の、「敕使」春秋御差遣の尊き御宮なれば、恣意的なる祭祀は、嚴に愼まねばならぬ。

「鎮霊社」廢祀決斷の時節、正に來れり矣。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/2
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/36
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/38
 
 

大和魂の本義、續。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年11月11日(火)22時44分7秒
返信・引用 編集済
  ●橘曙覽翁の哥

山ざくら にほはぬ國の あればこそ 大和心と ことわりもすれ



【生きては、忠義の大和魂を、骨髓に填め、死しては、忠義の鬼と爲り、極天、皇基を護らむ。】
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 前に「大和魂」の本義を探らむと欲して、幾つかを掲げたるも、今、小谷惠造翁『「源氏物語」に見える「大和魂」の眞義』を見るに及んで、屋上、屋を架さうと思ふ。大和魂の具體的な意味は、多くの學者が述べるやうに、『源氏物語』の文章だけでは明かにし難く、『大鏡』の記事を參考しなければならぬ。



■河内本『源氏物語』少女卷──源氏が子息夕霧の爲めに學問の必要性を、懇々と大宮に語る件り──

 高き家の子として、官爵、心にかなひ、世の中の榮えに驕りならひぬれば、學問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむ、覺ゆべかめる。戲れ遊びを好みて、心のまゝなる官爵にのぼりぬれば、時に從ふ世の人の、下には鼻まじろきをしつゝ追從し、氣色にとりつゝ從ふほどは、おのづから人と覺えて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末の際に、人に輕め侮らるゝも、かゝりどころなきためしになむ、覺え侍りける。なほをもととしてこそ、大和魂の、世に用ひらるゝ方も、誠に頼もしき方は侍らめ。さし當りて心もとなきやうなりとも、遂に世のおもしとなるべきおきてを習ひなば、侍らずなりなむ後の世も、うしろやすかりなむ。



■『大鏡』左大臣時平の項──前半は菅原道眞傳、後半は藤原時平一族の末路を總括する件り──

 あさましき惡事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御末は、おはせぬなり。さるは、やまとだましひなどは、いみじくおはしましたるものを。



●小谷惠造翁『「源氏物語」に見える「大和魂」の眞義』(藝林會『藝林』平成二十六年十月)

 (『大鏡』の)「あさましき惡事」が、時平のことを述べたものであることは言ふまでもないことであるが、續く「この大臣の御末は、おはせぬなり」以下の主語は、右大臣顯忠のことなのであつて、「この大臣」を時平と讀むのは誤讀なのであり、この誤讀が「大和魂」の意味を混亂させてゐるのである。‥‥

 『大鏡』の本文の記述を、丹念に精讀すれば明らかなやうに、「この大臣」は、立派だつた(時平の子の)顯忠や敦忠のことを指してゐると讀まねばならないのである。もしも「この大臣」が時平のことであれば、「この大臣」は不要の句であつて、書き入れる必要はないのである。またこの「あさましき惡事」云々の總括的な文章の前に記述されてゐることは、顯忠や敦忠のことが中心であつて、時平に關することは、何一つ書かれてゐないのであるから、「この」といふ指示語の指すものがないことになる。假りに百歩讓つて、「この大臣」が時平であるとしても、「さるは、やまとだましひなどは、いみじくおはしましたるものを」といふ哀惜の言葉が、「あさましき惡事」をしただけの時平に捧げられたものとするのは、どう考へても誤讀曲解なのである。

 このやうに『大鏡』の記述を精確に讀むことをして來れば、「いみじくおはしましたる」「やまとだましひ」は、顯忠と、そして敦忠とのことであることが明らかとなる。そしてその「大和魂」の具體的な内容は、恭謙の徳に厚く、「和歌の上手」・「管弦の道」にすぐれてゐる(文雅の情趣、豐かなり)ことなどであることが知られるのである。‥‥用例を見れば分るやうに、「才」は、習得して得られる知識や技能を廣く言ふのであり、從つてこれと對稱される「魂」や「心」は、生得のものであることを、特に意識してゐることが知られるのである。‥‥

 「世に用ひらるる」といふのは、政界で有能であることを言つたものであるのに、源氏學者のすべてが、この「世」を「世間」のことと誤讀してゐる。これも「大和魂」の意味を讀み誤つてゐることの一因でもある。

 以上のやうに讀み解いて來れば、『源氏物語』の「大和魂」といふ言葉の意味は、諸書が解してゐる「實務的・常識的な思慮分別」といつたやうな意味ではないことが明白であらう。確かに源氏の言つた言葉には、政治家としての「實務の力量」といふやうな意味も含まれてはゐる。だがそれは、生得の「大和魂」に、「漢才」が加はつた時のことであつて、「大和魂」といふ言葉自體に、その意味があるのでない。然もそれは朝廷で重用されるべき、すぐれた「實務の力量」であつて、「常識的」な範圍を超えるものを意味してゐるのである。

 このやうに考察し檢證して來て、また改めて『大鏡』の「左大臣時平」の項で記されてゐたことを併せ考へれば、「大和魂」に關する記述が、よく符合することが理解されるであらう。顯忠の恭謙の人柄や敦忠の雅び心は、夕霧のそれに通ふもので、彼らこそ、「大和魂」の持ち主に他ならないのである。



 愚案、小谷翁の斷案に從ふときは、大和魂の本義は、上田萬年博士『大日本國語辭典』に在るやうに、「日本的識見」の謂に復らざるを得ないのである。黒川眞頼博士『大和魂説』以來の説、即ち現在流行する所の、平安時代に於ける「大和魂」は、「世才、實務的・常識的な思慮分別」てふ俗説は、『大鏡』誤讀に因る解釋であつて、斷然、破棄せられてよい。而してこゝに想起すべきは、『菅家遺誡』卷一に曰ふ所の、

「一、凡そ神國一世無窮の玄妙なる者は、敢へて窺ひ知る可からず。漢土三代周孔の聖經を學ぶと雖も、革命の國風は、深く思慮を加ふ可き也。

一、凡そ國學の要する所は、論、古今に渉り、天人を究めんと欲すと雖も、其の和魂漢才に非ざるよりは、其の閫奧を闞(うかゞ)ふこと能はず矣。

[右、二則は、『遺誡』中の眼目也。既に北野神社東の碑に記す焉。漢籍を學ぶ者は、心を用ふ可きの第一也]。」

の遺訓である。『源氏物語』の「才をもととしてこそ、大和魂の、世に用ひらるゝ方も、誠に頼もしき」は、其の文字の表面から謂へば、漢才を「本」としてゐるやうであるが、小谷翁が云はれるやうに、「生得の大和魂に、漢才が加は」るべきものと解釋すべく、本末論から申せば、生得の「大和魂が本」で、習得する「異國才は末」であることは、固より明かと謂はねばならぬ。是は、磐山友清歡眞翁の、夙に道破せし所、前に引いた──「今から五百年前、一條禪閤兼良は、大和魂に定義を與へて、『わが國の目あかしになる心なり』といつた。近ごろの言葉に直せば、我が國の指導精神‥‥やまと心は、才[ざえ]の本になるもので、藝術も科學も産業も、要するに才であるが、その本は、必ず『やまと心』でなければならぬ」の言を味はふべきである。平時に於いては雅びなる心、非常時に於いては重忠奉公の精神、是れ即ち「大和魂」の本義と謂はねばならぬ。



●徳富蘇峰翁『大正の青年と帝國の前途』(大正五年十一月・民友社刊)に曰く、

「何物を失ふも、失ふ可からざるは、我が日本魂也。何物よりも大切なるは、我が日本魂也。日本帝國の隆替消長は、實に日本魂の隆替消長也。‥‥日本魂なき學問は、所謂る佛作りて、魂を入れざる偶像也。日本魂なき才能は、猿智・牛力の類たるに過ぎざる也。

 日本魂とは、何ぞや。一言にして云へば、忠君愛國の精神也。君國の爲めには、我が生命・財産、其の他のあらゆるものを獻ぐるの精神也。如何なる場合にも、君國を第一にし、我を第二にするの精神也。國家の緩急に際しては、他の催告を待たず、自から率先して、此れに奉ずるの精神也。古人の所謂る『海行かば水づく屍、山行かば草むす屍、大王の邊にこそ死なめ、長閑(のど)には死なじ』とは、此の事也。個人主義とか、國家主義とか、彼是、其の得失を論議するが如きは、畢竟、我が大日本帝國の國體を知らざる輩の譫語のみ。我が帝國には、個人主義もなく、國家主義もなし。祖先以來、帝國の臣民は、君國の爲めに其の身を竭し、其の力を致すは、先天的の約束也。吾人は如何なる學説を信ずることを得可し。如何なる宗教を奉ずることを得可し。されど、如何なる學説にせよ、如何なる宗教にせよ、其の以前に日本魂の持主たることを忘却す可からざる也」と。
 
 

鏡としての歴史。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年11月 4日(火)22時58分52秒
返信・引用 編集済
  ■寒林平泉澄先生『國史學の骨髓』に曰く、

古人を泉下に起して、之と肝膽相照すは、古人と同樣の高き深き精神に非ずんば、不可である」と。


■寒林先生『谷省吾氏・神道原論序』に曰く、

「明治維新以後八十年、神道は保護を受けて興隆し、昭和乙酉以來二十餘年、神道は暴力によつて損傷した。今や神道は、國家「日本」と共に、その本質を明かにし、その本領を發揮し、その本據に立たねばならぬ。それは神道にとつて、國家「日本」に於いてと同樣、正に死活の道である。然るに不幸、斯の道に探玄の士は多からず、參究の書は少ない。神社史はあるが、外形の觀察に止まるものが多く、祭儀の調査はあるが、比較民俗の立場を離れないであらう。若し眞に神道の本質を究めようとするならば、必ずや神々の靈感、冥應(歴史を貫く冥々の力・冥々の導き)にまで參入しなければならぬ。それなくしては、模擬であり、戲談であるに過ぎない。素朴は、恥づる必要が無い。むしろ眞摯を貴ぶべきである。淺薄なる文明進化の思ひあがりを棄てゝ、傳統に隨順し、祖先の深い心を仰ぐ敬虔を必要とするのである。歐米各國に於いては、民族本來の信仰は、大抵キリスト教によつて征服せられ、根絶した。民族原始の信仰が、異教によつて亡ぼされず、むしろそれによつて切磋せられつゝ、生々存續して、高度の文明と竝存し、否、その基調をなせる唯一無二の貴重なる例は、日本の神道であつて、是れこそ、正に萬古を洞視し、當世を愍惻するものである。その究明、その理解は、ひとり神道そのものゝ、また國家「日本」の、復活再生の爲のみならず、第二次大戰後、全世界に露呈し來つた、恐るべき人間破壞の危機を救ふべく、重大なる活路となるであらう」と。



 十一月の第一土曜日の岡山縣愛國者協議會の月例會にて、講師・岡田則夫翁は、小林秀雄翁『學生との對話』を朗讀紹介され、聽者への注意を拂はれた。小生は、小林秀雄翁の本は、難しくて苦手だが、かつて讀んだことのあるやうな‥‥。小林翁は、學生に嚴しい。「自分で考へろ」と。岡田翁の朗讀された所、其の中、極く少なくて恐縮だが、二件ほど披露して、各位の參考に供したい。



●小林秀雄翁『學生との對話』(國民文化研究會・新潮社編。平成二十六年三月・新潮社刊。全集・單行本に未收録)

 君は、天皇といふものについて、關心がある? 天皇制がどうだとか、民衆意識がどうだとか、さういふことに、僕は答へる興味がないんだよ。といふのはね、君は心の底から、さういふことに關心があるわけではないからなのだ。‥‥僕は、陛下に對するアンテイミテ[親近感]つてものが、わかつた氣がした。もちろん普段の僕には、天皇へのアンテイミテといふものはありません。それは僕の性格だし、現代人は、みんなさうでせう。しかし、その話(賢所に於ける新嘗祭に、鴨のお雜炊が振舞はれる話)を聞いた時に、ああ、アンテイミテとは、かういふものだなとわかつた。このアンテイミテを、昔の日本人は持つてゐた。ついこのあいだまで持つてゐた。これも歴史です。僕が、その人から聞いたのは、一つの證言、歴史の資料ですよ。かういふ話を聞いた時、僕たちは歴史家にならなくてはいけない。日本といふ國、あるいは天皇といふものについて、かういふ卑俗なところから經驗するのです。

 だから、天皇制なんて言葉から、いつては駄目だね。あるいは昔の勤王、いはゆる志士のことなどからいつても、よほど資料に對して、眼光紙背に徹する目がなければ駄目だ。さういふふうに、僕は答へるよ。天皇制といふやうな言葉、今の政治問題としての天皇の解釋、今のインテリ風の天皇の解釋、そんなものに、僕は何の興味も持たない。陛下は、かういふことをなさつてきた、いまだになさつてゐるのだなどとは、教育で教はらないだろ。殘念だね。陛下は、われわれの先祖に對して、ちやんとした信仰を持つていらつしやいますよ。‥‥(昭和四十五年八月九日)

 たしかに今、歴史は流行つてゐます。みんなが歴史、歴史と言つてゐる。この風潮で、惡い點が二つあります。一つは、いはゆる何でもロマンテイクにしてしまふ歴史觀。要するに大衆小説的歴史觀だよ。これはいけない。テレビで、何とかといふ役者が、太閤秀吉を演じてゐたが、よく史料を讀めば、秀吉といふ人は、現代の俳優なんかが演じられるやうな男ではないよ。テレビに映るやうな歴史は、信じてはいけない。

 もう一つ、考古學的歴史觀もよくない。これも歴史と稱しながら、歴史にちつとも觸れてゐないのです。たとへば本當は、神武天皇なんかゐなかつた、あれは嘘だといふ歴史觀。それが、何ですか、嘘だつていいぢやないか。嘘だといふのは、今の人の歴史だ。新井白石が、このごろ評判がいいのは、「本當は、かうだつた」といふ歴史をやつたからです。しかし歴史とは、みんなが信じたものです。昔の人が信じたとほりに信じることができなければ、昔の人が經驗とたとほりに經驗することができなければ、歴史なんて讀まないはうがいい。これは本居宣長の説です。宣長さんは、『古事記』の神話を、すべてあのとほりだと信じた。あれが神話時代の歴史であつたのです。それが信じられなかつたら、神話なんか讀む必要がない。

 現代の歴史家で、この一點を一番徹底させてゐるのは、クローチエです。クローチエは、「どんな歴史でも、現代史なのだ」と言つてゐる。現代の人が、ある史料を通じて過去に生きることができるなら、その人は歴史家と呼べるのです。それに較べて、考古學的歴史といふのは、實にみんな空虚なものだ。まあ、みんな空虚とは言はないまでも、一種の學問に過ぎない。

 昔は、『増鏡』とか、『今鏡』とか、歴史のことを鏡と言つたのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を讀んで、自己を發見できないやうな歴史では駄目です。どんな歴史でも、みんな現代史である、といふことは、現代のわれわれが、歴史をもう一度生きてみるといふ、そんな經驗を指してゐるのです。それができなければ、歴史は、諸君の鏡にはならない。しかし歴史の中に、君の顔を見ることができたら、歴史は、君のためになるぢやないか。『古事記』のどこが本當で、どこは嘘だなどと研究しても、それは一種の學問ではあるけれども、僕の言ふ歴史、鏡としての歴史ではない。

 歴史といふ言葉が、非常に流行つてゐるくせに、一番忘れられてゐるのは、この鏡としての歴史です。現代は歴史について、發達した、進歩した考へを持つてゐると自惚れてゐるが、それはまるで違ひます。‥‥(昭和四十九年八月五日)
 
 

下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年11月 2日(日)15時48分14秒
返信・引用
   下山陽太樣より、『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』てふ論稿を賜はりました。ご高覽たまはれば幸甚です。
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八幡宮姫大神は、道中主貴大神に坐せり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年10月29日(水)21時40分30秒
返信・引用 編集済
  ■若林強齋先生『雜話筆記』卷十四(昭和十八年十二月・虎文齋刊。『乙巳録』享保十年・知非齋坂守口筆記。また金本正孝翁『強齋先生語録』平成十三年二月・溪水社刊に所收)
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 愚案、「天皇尊大事と思召さるゝ素戔鳴尊の荒御魂を、宗像三女神と崇め奉りて、宇佐に祭り奉る八幡宮」、其の御縁故に當らせ給ふであらう周防國熊毛郡の四代正八幡宮の危機は、近代民主主義・功利主義から來るもの、正に神道人の懊惱する所であらねばならぬ。頼りとする神社本廳が、産子を二分することに加擔するとは‥‥、塾頭の靖國神社に於ける本廳批判が、再び頭をよぎる。仲介を試みんとする、一の神道人も居ないのか。情けないのにも、程があらう。本件については、關與する所の具體的神職名もネツトに見られるが、出所確かならず、敢へて申さぬ。神社本廳・縣神社廳は、戰後、神道人の所據ではなかつたのか‥‥。出でよ、平成の熊楠、珍彦。
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天皇陛下萬歳──正學正心。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年10月 3日(金)19時40分32秒
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  ~承前~

●平泉澄博士『魂の復活』(昭和四十五年九月六日。第七囘楠公囘天祭に於ける講話。『日本』四十五年十一月號。奉贊會編『楠公囘天祭──五十年誌』平成二十六年九月刊に所收)

「私は、今日の日本を嘆くと同時に、何とかして、もとの日本にかへしたい。これが我々の願ひであり、祈りである。我々のいのちの限りは、この私も餘生いくばくもないと思ひますが、いのちの限りは、このために盡さなければならぬと云ふことを思ふのであります。その場合に、日本の、若き日本の目標となるものは、私は、回天の勇士、特に黒木少佐である。黒木少佐を思ふことによつて、最も純粹なる日本の道義道徳が考へられ、日本の眞の勇氣、それは大勇とん眞勇とか云ふべきものだと思ひますが、さう云ふ勇氣が湧いて來ると思ふのであります。

 黒木少佐の日記──これは、十八年から十九年の春まで、丁度一年間書かれた日記、御承知の如く、全部血で書かれた日記であります。その日記の一枚を持つて參りました。この半枚が、九月五日の日記であります。うしろが九月六日の日記、丁度、今(今日の楠公囘天祭當日)であります。最初に『天皇陛下萬歳』と書いてあります。次の行に『死の戰法』。月日を書いて、『九月五日、書判』であります。天皇陛下の萬歳を祈る。黒木少佐の願ひとする所は、陛下の萬歳以外にないのであります。それ以外、一切考へてをらぬ。これがかつてビルマのオツタマの驚嘆した所(★註一)であり、印度のヴイヴエーカナンダの讚美した所(★註二)である。日本の明治の興隆は、この一點によつてのみ伸びたのであります。明治の日本に、陛下の萬歳を祈る以外に、何の願ひがあつたでありませう。

 次に死の戰法。忠君愛國の極致は、自分の生命を捨てる以外にはない。死と云ふことを、人は非常に嫌がります。今の日本ほど、死を嫌ふものはありますまい。しかしながら私共の學び得た限りにおきましては、たとへば劍道にしましても、船越(正道)師範がをられますので、その前でまことに恐縮でありますが、私共のかつて聞いた直心影流の劍道の極意と云ふものは、最後に於いては、長短一味と云ふ所に重きを置いてをる。長短一味と云ふのは、いのちは長くても短くても同じものだ。吉田松陰先生の品川彌二郎に與へられた手紙の中に詳しく論じてありまして、何とも言ひやうのない偉いことだと思つて、私は年來、この手紙を愛讀してをりますが、『十七八で死ぬのが惜しいと云ふのならば、八十九十で死ぬのも惜しいんだ。何時まで經つても、惜しいんだ。一體、何時まで生きてをつたら、氣が濟むんだ』。これは實に名言と謂はなければならぬ。劍道に於いては、如何なる勝れたる人と雖も、自分が無傷で殘ると云ふことは考へてをらぬと、私は思ひます。必勝の方法は、必死になる。戰爭に於いて勝たうと云ふものは、必死以外にはない。自ら期する所は、いのちを捨てゝ敵を討つ。まさに大東亞戰爭は、最初より、この死の戰法に據るべくして、本來さうあるべきであつて、或る人には、さうであつた。そして最後に、その最も戰爭の酷烈なるに及んで、黒木少佐によつて、この事はいよゝゝ確認せられ、そして自らこの戰法を推進されたのでありました。

 『九月六日、天皇陛下萬歳、正學正心』。正しい學問をして、心を正しくすると書いてありますが、これであります。これは戰爭の終りました時に──憚るべき事があらうかと思ひますが、私ももう段々餘命あぶなくなりましたんで、皆さんには聞いて置いてほしいと思ひます──、いよゝゝマツカーサーが乘込んで來ると云ふ時に、『今後の國體を維持する力は、何處にありませうか』と云ふことを尋ねられました。『それは特攻隊の生殘りの人々に依頼すべきでありませうか』と云ふことでありました。私は、『不幸にして、さうではありますまい。さうでないと思ひますのは、一時の感激では、隨分お國のために盡されるであらうと思ひます。問題は學問にあつて、正しい學問によつて、日夜、その心を鍛へた者にあらざれば、永久にその力を君國に捧げると云ふことは出來るものではありません。歴史の上に明瞭に現れてをりますが、日夜、正しい學問による鍛錬のみが、人の魂を永久に光あらしめる、力あらしめるものであつて、それを怠るとなれば、それは一時の線香花火に過ぎないでありませう』と云ふことを言ひました。今、黒木少佐は、やはりそれを考へてをられるでありませう。正學正心、それ以外に、自分の一生を通じて、皇國に貢獻すると云ふことは考へられないのであります。

 今度十一月に出ます『少年日本史』の中では、大東亞戰爭の章には、黒木少佐を、特に掲げました。章の分け方を、明治維新からその前で言ひますと、井伊直弼で一章を立てゝ、これは井伊直弼を痛烈に批判したのであります。その次に橋本景岳・吉田松陰・眞木和泉守、やがて明治維新、西郷隆盛。この人に對しては、痛惜の餘りに、特に一章を立てました。いはゆる明治の三傑の中で、特に私は、西郷さんと云ふ人を重大視するのであります。そしてこの人物を、逆賊の名に於いて斃したと云ふことは、明治の聖代の瑕瑾であると信ずるのであります。そして西郷さんが亡くなり、同時に木戸孝允・大久保利通、皆な倒されたあとで、誰が日本を指導したとするか。誰でもない。世間では、伊藤博文と云ふ、山縣有朋と云ふ。さうではない。彼らに全日本を指導するだけの力はない。明治維新、明治日本の興隆は、西郷死後に於いて、全國民の心をつなぎとめたものは、明治天皇以外にない。明治天皇によつてのみ、日本は興隆したのだと云ふことを説いて、それから大正・昭和の日本、これを説くのでありますが、その中で章としましては、日清・日露の役、次に大東亞戰爭、その大東亞戰爭に於いては、前の日露戰爭に於いて東郷元帥、或は乃木大將を仰ぎ見た如くに、黒木少佐を、特に掲げたのであります。眞實、私は、黒木少佐は偉い、これほどの純粹性、これほどの光輝ある魂と云ふものは、古今にまれに見る所だと思ひます」と。


★註一。ビルマの高僧オツタマの曰く、「日本はもう、これで駄目だ。日本の前途は、暗澹たるものだ。何故かと云へば、明治の末に日本に來た時には、日本全國民、何處へ行き、誰を叩いても、天皇陛下を敬こと、神の如くであつた。今日は、さう云ふ、陛下を敬ふ忠誠心と云ふものは、非常に薄らいで、場合によつては、全然持つてをらん者が多い。日本はもう、これで駄目だ」(昭和初め來日。名古屋松阪屋社長・伊藤氏『日本の履歴書』)と。

★註二。哲人ヴイヴエーカナンダの曰く、「印度の國が、日本の進歩について行き得るやうな見込みは、全然ありません。三億の印度人が一つになつて、一つの國民を形成するまでは、その見込みは、全然ありません。日本人ほどに愛國心があるかと言へば、印度には、日本人の如き愛國心はありません。また日本人ほど藝術的な民族は、世界中にをりません。日本の特徴は、全國民が一つになつてをると云ふこと、愛國心が熱烈であると云ふこと、又た非常な優れた藝術的な民族であると云ふこと、これらの點に於いては、世界に最も優れた國は、日本であります。日本の特徴は、實にこのことにあります。歐洲でも他の所でも、藝術は一般に穢れを持つてゐます。然るに日本の藝術は、絶對に清淨潔白であります。日本の佛教は、セイロン島の佛教とは違つて、積極的な、又た有神論的な佛教であります。日本が急速に偉大となつた祕訣は、日本人は、自分を信じ、自分の國を愛したからです。日本人の社會道徳と政治道徳を體得し得るならば、印度も亦た偉大となるでありませう。然し印度では、自分の家族と所有物のために、すべてを犠牲にしてゐるのです」(明治二十五年來日。三十年の印度の新聞記事)と。



【泉水隆一監督『遊就館上映──みたまを継ぐもの』批評】
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 愚案、「印度では、自分の家族と所有物のために、すべてを犠牲にしてゐるから、日本には及ばない」と。今日、是れ如何。現代の日本は、それすら覺束ないと云ふのか。「家族のため、愛する人のため」と、特別に説教しなければならぬ時代となつて、それを描くドラマや映畫が花盛り。小生の道徳觀念では、之を利己主義と謂はざるを得ない。正に西洋物だ。殊更らに唱道しなければならぬものでもあるまいに‥‥、道義道徳の名に價ひしない。而して現代はグローバルの時代とか、それも泰西流だ。元軍人も神職も、現代人に媚びたか、或は舊敵國に倣はんと欲するか、「家族・愛人の爲めに戰つた」と、之を吹聽して已まぬ。道理で、「アメリカと價値觀を同じうする」と申して、恬として耻ぢざる首相も出現する始末、民主主義・個人主義が基盤となつてゐる。松陰先生に、叱られるがよい。

 皇國の道義──古道の復興、未だ緒に就かざるなり。あと二三百年、時を經ねば、皇國の再興、日本の復活はならぬのか。嗚呼、已んぬるかな哉。



【矢嶋立軒先生『啓發録の敍』── 一時の感憤激昂、意氣の恃む可からざるを悟る可し】
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●『緒方竹虎』(修猷館創立七十周年記念講演の祕話。昭和三十一年五月・修猷通信刊)に曰く、

「(緒方竹虎氏の曰く、)終戰の直後でありましたが、私が非常に懇意にしてをりました米内光政といふ海軍大將、永い間、海軍大臣をつとめてゐた、この米内君が、天皇陛下に拜謁(昭和二十年十二月一日參内)いたしまして、
『かういふ敗戰の結果と致しまして、今後、度々參内拜謁をする機會も、恐らくはないことと思ひます。隨つて今日は、ゆつくり陛下のお顔を拜みたいと思つて參りました。このたびの敗戰には、われわれ、大きな責任を感ずるのでありまするが、敗戰の結果、日本の復興といふものは、恐らく五十年はかかりませう。何とも申し譯ないことでありますが、何卒、御諒承をお願ひ致します』といふことを申し上げた。

 ところが陛下は、

五十年で日本再建といふことは、私は困難であると思ふ。恐らく三百年はかかるであらう

といふことを仰せられたといふことで、米内は、そのお言葉に胸を打たれて、暫くは頭が上らなかつた。その敗戰の責任の一端を背負つてゐる米内と致しましては、何とも恐縮に堪へなかつたといふことを、歸つて私(緒方氏)に、直接話してをつたのであります」と。



●田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』(平成十二年十二月・青々企劃刊)の「敗戰直後の平泉先生」に曰く、

「『昭和二十年八月十九日夜、平泉先生御講話打聞』に、「‥‥日本が本物にかへつてゆくのは、先づ三百年位かと思ひますが、しかし天下の風雲は勝手に動きますから、二三十年たてば、相當の事はやれるでせう。‥‥私は見られないでせうが、天翔つて見ることにしませう‥‥」。

 恐らく先生の念頭には、逆に三百年以前の歴史が思ひ起されてゐたのではあるまいか。昭和二十年より三百年遡ると、後光明天皇の正保二年であるが、もとよりこれは概數と考へてよい。幕府でいへば、三代將軍徳川家光の時代であつたが、その頃より、次第に日本の自覺がはじまり、大日本史の編纂を中心とする水戸學、山崎闇齋を祖とする崎門學、或いは國學等の發達を經て、明治維新へと進展する。そして昭和の時代に至るのであるが、先生はこの三百年を囘想して、本物の日本が囘復するには、これ位の年月を必要とすると直觀されてゐたのであらう。‥‥この(現在の)惨状の矯正は、一朝一夕に出來ることではない。純正日本再興のためには、やはり先生が言はれたやうに、三百年前の大日本史の編纂から、新しく始めなければならないであらう」と。
 
 

天皇陛下萬歳の六文字。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月30日(火)23時44分1秒
返信・引用 編集済
  ●平泉澄博士『囘天の感銘』(昭和四十六年九月十二日。第八囘楠公囘天祭に於ける講話。『日本』六十二年九月號。奉贊會編『楠公囘天祭──五十年誌』平成二十六年九月刊に所收)
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└→『楠公囘天祭──五十年誌』、是非とも協贊たまはらむことを。平泉先生はじめ、松平永芳宮司他の論文・講話、多數あります。

「我々の思ひますことは、大東亞戰爭に華と散りました陸海軍の勇士に對する私共の感銘は、まことに言語に絶するものがあります。何とも喩へやうのない感動を以て、これ等の勇士を想ふのであります。就中、囘天の勇士、その志は、幸ひにしてその創案者であり、最初の犠牲者となられました黒木(博司)少佐の書かれましたものに、明瞭一點の疑ひのない證據を殘してをるのであります。黒木少佐の一年間の日記が、全部血を以て書かれてをり、血を以てのみ書かれてをる。そしてどの日記にも、「天皇陛下萬歳」、この文字が大きく書いてありますことは、私共の心魂を搖振るものがございます。この言葉、恐らく今日は、全國民に共通の感動を呼起すものでなくなつてをると思ひます。天皇陛下に對する感動は、今日薄らぎました。先だつての參議院議員選擧に於て、共産黨は天皇制の○○を、公然と口に致しました。これに對する一般の反應の極めて少なかつたことを、私は遺憾に思ふのであります。「自分等が政權を取れば、天皇制を○○するのだ」とまで言切る共産黨に對して、國民がこれを聞き流してをるといふことは、殘念至極といふ他はございません。

 これはアメリカの占領政策以來、所謂自由主義・民主主義といふものが一般に廣まり、精神的に日本を占領して來た證據でありませう。私共の信ずるところは、デモクラシーといふ言葉、意味は色々に分れてをります。然しこれ程の深き害毒を日本人に與へたものはないと思ふのであります。人々は、自分が國の主權者であるかの如くに思ひ上がり、己の劣等劣才、不徳不敏を顧みずして、自分より以上の者は天下に無いが如くに振舞ふに至りました。何とも言ひやうのない状態であります。これはデモクラシーといふものゝ害毒を、昔より秀れたる哲人が、常に指摘してをりますが、この考へを以てします時には、人は、その莊嚴なる精神を、全く損はれるのであります。恐らくアメリカの世界政策の中に、色々よいところがあるかも知れませんが、デモクラシーを以て世界を風靡して行かうとする、この行き方の中には、非常な害毒が流れたと思ひます。天皇陛下に歸一し奉る精神、日本の永き歴史を顧み、その歴史の前に跪く心、無私無慾、たゞ道をのみ守つて行かれます天皇を、ひたむきに仰ぎまつる心に、こゝに日本の特性があり、強みがある。如何なる愚かなる者と雖も、私共、愚かにして無力ではありますものゝ、この大いなる力を仰ぐことによつてのみ、自分も亦た生甲斐を覺える。それが日本人の、從來正しく進んで來た道であつたでありませう。これが損はれましたことは、まことに慨歎に堪へぬことでありますが、黒木少佐が、毎日血を以て、天皇陛下の萬歳を大きく書かれましたことは、その意味は極めて重大であると信ずるのであります。何でもないことのやうに思はれます。然しこれが持つ意味は、極めて重大である。日本の國の歴史を貫くもの、將來の日本が立つか立たないか、それを決定するもの、實にこの一點にかゝると確信するものであります」と。


【天皇陛下萬歳】
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【嗚呼、慕楠黒木博司少佐】
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我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月23日(火)18時24分20秒
返信・引用 編集済
  ■北畠親房公『神皇正統記』に曰く、

 大日本者、神國他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我が國のみ此の事あり。異朝には、其たぐひなし。此の故に、神國と云ふ也。



■濯直靈社・遊佐木齋先生『神儒問答』(『室新助(號・鳩巣)に答ふる書』第二・元祿九年十月十五日。第三・元祿十年六月十八日。『日本學叢書』卷五・昭和十四年十二月・雄山閣刊に所收)に曰く、

「唯だ「(鳩巣の)若し王者起ること有らば」の一語、未だ疑ひ有ることを免れず。其の「王者起る」と曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮り無かるべき者、諱む可きの甚だし焉。‥‥

 夫れ人や也、生るれば必ず死し、王や也、興れば必ず亡ぶ。必然の理也。然れども我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか之れ有らん。天地と共に主爲り、開闢と共に君爲り。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず。‥‥天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼也。此れ乃ち我が神教の大意也。‥‥

 明徳・新民(『大學』綱領)有りて、本・末を差(たが)へざるは、則ち王道也。明徳・新民有りと雖も、少しく本・末を差ふれば、則ち覇道也。明徳・新民を知りて、能く本・末を知る者は、道學也。明徳・新民を知ると雖も、本・末を知らざる者は、功利の學也」と。



 木門の俊才として文名一世に高く、新井白石の薦に依て幕府の儒員に擧げられ、三代の將軍に重用あり、後世に至るまで鴻儒の名を擅にしたる室鳩巣の、萬物流轉して熄まざるを宇宙の定則とし、從つて天子の位も亦た萬古一定のものに非ずとして、畢竟する所、「革命」を承認するに至るや、其の變遷推移の世を認めつゝも、確乎たる道徳の依據を之に求め、自然界に於いて天地、人生に於いて君臣の、定位ありて易ふべからず、「天地の常經、古今の通誼」瞭然たるを見出し、此に倫理の根本を確立して、神道の本旨を闡明し、革命の邪説を教誨筆誅したる遊佐木齋先生は、かつて寒林平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)に顯彰されし所、小生の、長年、仰いで已まざる先哲である。
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【平泉先生『少年日本史』から】
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 殊に件の「我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか之れ有らん。天地と共に主たり、開闢と共に君たり。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず」の寶語は、此の宇宙間、稀に見る祕言にして、我が國體の淵源、神皇之道の祕奧を、數言以て説いたるもの、天皇爲本の皇道は、固より之に籠つて餘蘊なく、更に天之御中主大神・伊邪那岐大神より太陽神界を御委任され給ふ天照大御神、やがて天照大御神即天皇尊の骨髓哲理を傳へ得て、北畠親房公『神皇正統記』卷頭、また本居宣長大人『直毘靈』の、漸くにして之に比すべき一大祕章と謂ふ可きである。我が神道人の注目、未だ十全ならざるを遺憾とすると共に、此の寶語を誦する度びに、木齋先生を埀教誘引した所の、山崎闇齋先生の學勳を仰ぎ、之を慕つて已まないのである。嗚呼、闇齋先生、崇高偉大なるかな哉矣。
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【天皇爲本の大道】
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【先哲遺文を承けて】
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民主主義を否定して、大義を天下に宣明せよ──天皇親政に復し奉るべし。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月18日(木)22時45分55秒
返信・引用 編集済
   我が皇國の大政は、政黨の弊害を去つて、無黨を期し、全て國體に則り、大御心を仰ぎ奉つて、一億一心、大政翼贊、滅私奉公に徹するを理想とす。是を之れ、天皇親政と曰ふ。吾々日本人は、利己主義・自由主義・民主主義の時代に浸つて長く在り、此の理想を忘却してゐるのではないか。

 下記に紹介するは、頭腦明晰、判斷適確、憂國・尊皇の念厚く、且つ之を心底に祕めて誇示する所のなき秀逸の人物と評される近衞文麿公の、「たとへ殺されても本懷」なりとして、斷然として自ら任じて立たれた玉文である。



●近衞文麿公『寺内壽一陸相に與ふる書』(平泉澄博士の代筆なり。『似鐵記』所收。田中卓博士『平泉史學の神髓』續田中卓著作集五・平成二十四年十二月・國書刊行會刊に所收)

『意見十條』

一、成敗利鈍を眼中に置かず、千載の目標、萬世に規準を示されん事を要す。
 建武の中興は、二年にして敗れ、明治維新は、數年にして轉囘せり。しかれども三千年の中、此の二年の存し、此の數年のあるありて、皇國の歴史、燦然たる光輝を發し、國體の基礎、永遠に牢固たるなり。たとへ目前の利害を顧慮し、懷柔これ努めて、衆望を得んとするとも、利害を得ては、望蜀の念あり、利を得ずしては、嫉視の目あり。破綻を生ぜん事、年を出でざるべし。寧ろ一意、大理想に邁進して、千古の光と仰がれんに如かざるなり。

二、創業の古に立歸る志氣を以て、百弊を一新せらるべし。
 今日、制度固定、人心萎靡、政治は、脈搏衰弱して元氣沈滯し、殆んど老廢の状を呈す。之をして活溌の熱血、全身に漲らしめんには、百事、草創の意氣を以て、非常の英斷を施さるべし。所謂政界の動きの如き、多く之に心を動かす事なく、大化改新・建武中興・明治維新の鴻業に溯つて、深く思ひを致さるべし。

三、大義を天下に宣明せらるべし。
 今日、政界に勢力として目すべきもの、一は政黨にして、一は軍部なり。兩々相讓らず、相克、止む時なし。これを操縱する、尤も難く、廣田内閣は、遂に瓦解せり。しからば如何にして、此の間に處すべきかと云ふに、他なし、大義を天下に宣明せんのみ。大義を前に政黨なく、大義を前に軍部なし。苟くも大命降下して、内閣を組織するに當り、他の掣肘に屈する事あるべからず。すべて人材を主として簡拔し、他の容喙を許さゞるべし。若し組閣の基礎に妥協あり、屈讓ありては、大義を天下に宣べんこと、思ひもよらず。

四、道徳の確立を眼目とせらるべし。
 今日、革新を説くもの、經濟生活の向上、又は安定を主眼とす。其の必要なるは論をまたずと雖も、更に重大なるは、道徳なり。道徳は、一切の基礎なり。國民道徳荒廢しては、經濟の安定、亦た得べからず。假りに得たりとして、國家の基礎、既に危し。國家長久の大計は、一に道徳の確立に在りとす。

五、一人として其の所を得ざる者なきを期せらるべし。
 功利を思ふ徒輩、萬人の怨嗟は、之を恐るゝに足らず。正理實直の士、一人の失望を恐れざるべからず。明治天皇『五箇條の御誓』の際の敕語に、「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なり」と仰せられし一事、敕を奉じて政をなす者の、須臾も忘るべからざる所なり。

六、所謂政黨政治を破棄せらるべし。
 政黨政治と云ひ、議會政治と云ふ、名は異なれども、實質は一にして、其の根本思想は、フランス革命より出で、結局、政治を國民の自治と見、天皇を國家の機關と考ふるなり。曾て岩倉右大臣が、「下民、上を罔(あみ)するの路を牖(みちび)き、大權、下に移るの漸(ぜん)をなし、實に大祖以降、二千五百三十餘年、確然不易の國體をして、一變、復た囘す可からざらしむるの原因たるの虞あり」との深憂、近時、實現したるものに外ならず。この不逞を破る事なくして、國體を闡明し、大義を宣ぶること能はざるなり。

七、議員任官の非望を絶たるべし。
 議會の禍は、議員の議會に安住せず、任官を希望し、内閣を乘取らんとするにあり。此の非望なきは、府會・縣會なり。よろしく國會をして、府縣會の如くならしむべし。この事、至難中の至難と雖も、若し此の點に妥協苟合ありては、結局、大義明かならず、志士、憂憤蹶起の因となるべし。過去數年、幾度か流血を見しもの、結局、この點に於て革新を要望するものに外ならざるなり。

八、自治に制限を加へらるべし。
 今日、地方自治の勢を見るに、種々の弊害あり。就中、東京・大阪等の大都市に於て然りとなす。是等の都市に、中央の威令、徹せざること、殆んど昔の大名封建の制に類す。よろしく之を改正し、大都市に於ては、國家の直接管理に、町村に於ては、適當なる監督の下に置かるべし。その爲には、郡役所の復活の如き、亦た考慮せらるべき歟。

九、天皇の親政に復し奉らるべし。
 尤も重大なるは、此の點なり。皇國の政治は、國體の本義、必ず天皇の親政ならざるべからず。宮中・府中を峻別するは、外國の風なり。我が國にありては、宜しく閣議を宮城に於て開き、天皇親臨あらせらるべし。況んや今日、非常の英斷を以て、庶政を一新せんとす。聖斷に決せずして、何人か之を決すべし。之をしも臣下に一任せらるゝ時は、これ、大權の降下を誘致せらるゝもの、斷じて非なりとす。

十、君徳の涵養に、尤も意を致さるべし。
 古へ、支那に、太師・太傅・太保、各一員あり、之を三師と云ふ。天子の師法とする所、明治に、侍補あり、常侍規諫、闕失を補益するを掌る。其の後、君徳涵養の大事、殆んど忘却せるにちかし。今、天皇親政の實を擧げんには、進講納諫、その人を選び、その道を開かざるべからず。

 曾て岩倉右大臣は、天下の形勢、日に非なるを見、

「斷乎として、一たび府縣會を中止し、上み陛下より、下も百官僚屬に至るまで、主義を一にして動かず、目的を同じふして變ぜず、更に萬機を一新するの精神を奮勵し、陛下の愛信して股肱とし、且つ以て國家の重きを爲す所の海陸軍及び警視の勢威を左右に提げ、凛然として下に臨み、民心をして戰慄する所あらしむべし。凡そ非常の際は、一豪傑振起し、所謂武斷專制を以て治術を施す、古今、其の例少なからず。故に此の時に當て、半期一歳の間、或は嗷々不平の徒あるも、亦た何ぞ顧慮するに足らんや」(『岩倉公實記』明治十五年十二月「具視、府縣會中止の意見書を、三條實美に示す事」)

と述べられしが、今日、正に其の時なりとす。若し今にして非常の英斷なくんば、土崩瓦解、底止する所を知らざるに至るべし。

 右、『意見十條』
昭和十二年丁丑正月二十四日、早朝、一氣に之を草し、夕刻、之を近衞公に呈し[使者・松本純郎氏持參]、別に一部を、大阪府知事・安井(英二)氏に送れり。予の手許には草案のみにて、清書の暇なかりしが、昨今、兩日を以て、之を清書し得たり。昭和十七年九月七日。平泉澄。

○矢部貞治氏『近衞文麿』に曰く、「近衞は、これ(平泉澄博士草案『意見十條』)を(後藤隆之助に)示して、意見を求めたので、後藤は贊意を表したが、近衞は、『先刻、瀧(正雄)君に見せたら、かういふものを出されたら大變だといつて反對してゐたが、自分は、かういふ問題のためなら、たとへ殺されても本懷だ』と、平素に似合はず氣負つて、凛然たる態度で語つた。後藤は、永年交際してゐたが、あの時ほど、近衞が強い態度を示したことは知らぬと言ひ、この時の態度を見て、公に對し、一層畏敬の念を深めたと語つてゐる」と。



●内閣總理大臣・近衞文麿公『大命を拜して』(昭和十五年七月十九日、平泉澄博士代筆。二十三日午後七時半・ラヂオ放送。『似鐵記』所收。田中卓博士『平泉史學の神髓』續田中卓著作集五・平成二十四年十二月・國書刊行會刊に所收)
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○奧書に曰く、「昭和十五年七月十九日午後、一氣に之を草し畢。内閣の顔觸は、未だ定まらず。近公は、東條[陸](英機)・吉田[海](善吾)・松岡[外](洋祐)の三人と、外交の根本を審議中なり。右、一文、念の爲、起草せしに、七月二十二日夕、近衞内閣親任式あり。二十三日、之を富田(健治)内閣書記官長に渡す。その夕七時半、近衞首相の放送あり。殆んど予の原案のまゝにて、僅に多少の添削ありたり。昭和十七年九月十一日夕、之を清書して、將來に備ふ」と。



●近衞文麿公『英米本位の平和主義を排す』──近公の霞山公に於ける、恰かも慶喜公の烈公に於けるが如し。其の傳來、見る可きなり。
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天下無雙の大厦・國中第一の靈神への敕願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月16日(火)19時06分20秒
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  ■後醍醐天皇『王道再興の綸旨』(元弘三年三月十四日。昭和十年國寶。『異本・伯耆卷』に「宸筆の願書」と)

綸旨を被るに儞(い)はく、
 右、以(おも)んみるに、王道の再興は、專ら神明の加護也。殊に當社の冥助を仰ぎ、四海の太平を致さんと欲す。仍つて逆臣を退け、正理に復せしめんが爲めに、義兵を擧げ、征伐を企てらるゝ所ろ也。速かに官軍、戰勝の利を得て、
朝廷静謐の化に歸す可き旨、精誠を凝らし、祈り申す可し。敕願、成就せしめば、勸賞、請に依る可し。者(てへれ)ば、
天氣に依り、状すること、件の如し。
 元弘三年三月十四日 左中將(千種忠顯の花押──臣下に賜はる御書は、天皇の御名を記させ給はず──『禁祕御抄』御書の事の條)
 杵築社神主舘



■靈元天皇『永(よう)宣旨』(寛文七年五月七日。出雲國造家は、吉田・白川兩家の差配に及ばざる聽許)

 出雲國造は、本と壽詞を奏し、恆に潔敬を異にし(即ち御火所の祕事潔齋)、神の爲めに自ら重んず。乃(よ。仍)つて須く永く厥(そ)の職を掌るべき也。復た兼ねて文天、風調(とゝのほ)り、愼みて撫教の信を布くの有典を徽(よ)くし、武日、道泰(ゆた)かに、彌々仁壽、疆(きはま)り無きの祝延(筵)に符(かな)ひ、政術、善化に順ふ。是れ象を北辰に取り、盤石の盛治を安んずること、猶ほ慶を南極に徴(しる)すがごとし。喜感、遂に通じ、瑞應、斯に表はれん。宜しく誠款を效(いた)し、夙夜、口に祝し心に祷るべきのみ焉耳矣。然れば則ち社中の進退に於ては也、事、巨細と无く、其の制度を規倣す可し。者(てへれ)ば、
天氣、此の如し。仍つて執達、件の如し。
 寛文七年五月七日 左少辨・資廉
 國造舘



●寒林平泉澄博士『新に發見せられたる後醍醐天皇宸筆の御感状』(『名和世家』昭和二十九年一月・日本文化研究所刊。五十年九月・皇學館大學出版部刊に所收)に曰く、「

世治まり民安かれと祈るこそ わが身につきぬ思なりけれ

身にかへて思ふとだにも知らせばや 民の心のをさめがたさを


 國體の大義を確立し、國民の安寧を確保せしめんが爲に、千辛萬苦を顧み給はなかつた後醍醐天皇の叡慮は、是等の御製に現れて、今に至るまで之を拜誦する者は、感激恐懼してやまないのであるが、同時に天皇の雄渾にして莊重、殆んど天空を翔るが如き氣高き御筆蹟は、吉野・室町の間、相つぐ騒亂のうちに多く失はれて、心ある者をして黯然悲傷せしめたのであつた。しかるに近年、建武中興の眞實の意義、愈々明かにせられ、聖徳の讚仰、益々盛んとなるや、宸筆の發見、陸續として相つぎ、今や既に三十數通に上つた事は、まことに喜に堪へざる所である」と。



●身余堂保田與重郎翁『ふるさとなる大和──日本の歴史物語』(平成二十五年月・展轉社刊)に曰く、

「國を讓られた大國主命は、將來、天神のご子孫は大和國へゆかれると、神の知惠で知られましたので、そのご子孫のために、大和國の三輪山に、ご自身御魂をしづめ、また飛鳥と加茂の二つの神奈備の森に、御子の御魂をしづめ、御子の事代主命を、大和盆地の中央に祭られて、天神のご子孫をお待ちしてゐました。特に尊い三輪の神のご子孫の姫神が、建國第一代の神武天皇の皇后となられたといふことは、まことに深い大國主の神のおんはからひのやうです。このご婚禮によつて、日本國の建國は、何もかも見事にをさまつたわけです。

 日向國へ高天原の大神の御孫の神が天降られたころに、大和國へ高天原から降つてこられて、大神の御孫のご子孫をお待ちしてゐた神がみの話は、饒速日命は古典にも出てゐますが、丹生津姫神のことも、千年の昔にしるされた古典に殘つてゐます。この姫神は、吉野河に沿つた大和國から紀伊國にかけて巡幸せられ、水田で米を作り、新嘗の祭りをするわが國の生活の基本を教へられました。吉野河の上流の小村にある丹生神社は、丹生津姫神を祭る大社で、神武天皇が、戰況の最も苦しい時に、嚴肅なお祭りをして、高天原の神にお祈りをされたご遺蹟です。天武天皇も、一時ここに逃避され、後もこの社を特に崇敬されました。神武天皇の古事を、ご念頭に遊ばしてのことだつたでせう。大和の山間には、高天原から神がこの地へ降りてこられたといふ傳へが、あちこちに殘つてゐます」と。



 平成二十六年九月七日、千家國麿出雲大社禰宜、權宮司に就任。九月九日、告期の儀。十月五日、結婚の儀の由。洵に御同慶に堪へません。天上神界の御宏圖、天地翼贊、允に畏き極みなりけり。恐懼謹白。
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千家國造尊澄┬尊福┬尊統──尊祀──尊祐──國麿
       └尊紀┘
 
 

天皇大權──靖國神社行幸。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月10日(水)22時58分27秒
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  ●泉水隆一翁『九段塾塾頭最終講義』に曰く、

「戦後、日本国の象徴となった天皇ではあるが、その全てに奪われた天皇大権の中で、唯一、継承されているものがある。ほとんどの人が気づいていないだろうと思います。実は天皇が、靖國神社に行幸(親拝。愚案、敕使御差遣も、御親拜に同じなる可し)すると云う事実、このことが天皇の大権にあること。即ち靖國神社の祭祀は、天皇に帰一すると云うこと。天皇御一人の祭祀。それが天皇の皇軍将兵を祀る靖國神社の本質であるとも云えるのです(愚案、現状に於いて繼承される天皇大權は、此の祭祀大權に加ふるに、元號大權──瀧川政次郎博士の説──あり)。天皇の臣民である忠烈無比の皇国軍人・盡忠の国民を祀る靖國神社への参拝(行幸)とは何か。それはまさに大元帥陛下としての機能を果たすためでもあり、天皇の治める國、即ち食国(おすくに)の政事を自ら執り行う歴代天皇と変わらず、現在もなお此の国が安国であることをしろしめす為であり、また神々(皇祖皇宗)に、御自らの赤誠を示すためでもあるのです。

 戦後、生きて戦陣から還って来た戦友さんたちが、靖國神社への天皇陛下の行幸――親拝を、心からお待ち申し上げたのは、それは大元帥陛下としての御姿を、此の目で、しかと見たかったからです。戦前に賀茂宮司が、鎮座五十年祭時に、天皇行幸をお願いし、それがお認めになられ、大正天皇行幸が叶った時、賀茂宮司を多くの軍人たちが胴上げして、喜びを顕わしたエピソードが残されています。ひところ、総理大臣の参拝が騒がれたが、天皇が靖國神社に参拝(行幸)するのは、国民の一人である総理大臣が参拝するのとは、わけが違うのです。勅使に御幣帛を持たせ差遣わすのも、天皇自らが行幸するのも、この九段の杜に祀られる二百四十六万六千余柱の神霊が、皆、皇基を支え奉った国民――臣民の忠義忠魂であることをお認めになり、そのいさおし(武勲)を照覧し、現在も、君の為、国の御為に、仕え奉っていることを確認することで、皇祖皇宗・天神神祇に、此の国が安国としろしめすことに他ならないのです。これが天皇の祭祀の意味です。靖國の祭祀を正統に継続・継承することで、天皇はただただひたすらに此の国が安国であることをしろしめすことが出来るのです。英霊が、此の国を守護奉っているのです(昭和天皇は、「勅使」を差し遣わされている。今上陛下も変わらず、「御勅使」を差し向けられている。『天皇御親拝』はされているのだ)。

 靖國に祀られる神霊は、「国家の生命に、己の生命を継ぎ足(た)して来た」脈々の事歴(賀茂百樹宮司『靖國神社忠魂史』の「刊行に際して」──陸海軍大臣官房監修『靖國神社忠魂史』第一卷・昭和十年九月刊)が存するのです。海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、戦いの庭に出で、奮闘し末に、あるいは痛手負いつ命を果てた、我らが先人が祀られています。この、殉義死節の精神を涵養せしめ、拡充して、国民に振作し、教化する。国民は、頭を垂れることで、神前に誓うことで、祭神の神威に触れ、臣民の忠節を興し、進んで國を守護する生命を引き出す。そのことが、国家の安泰を磐石とする。このことのために、靖國神社は護国の祭祠として、天皇の大命により創建せられた、即ち天皇の神社といわれる由縁であるのです(靖國神社の『正統』とは、即ち尊皇。『草莽』とは、勤王を表す言葉)」と。



【靖國神社に於ける第一番・最古の祭神「稻次因幡正訓」大人之命】

 又た曰く、「九州筑後の久留米藩家老・稲次因幡正訓は、藩校「修道館」出身で、水戸学の後継者とも呼ばれた勤皇家・真木和泉などと志を共にし、その地位から押されて、尊皇攘夷派の首領になり、藩政改革を画策、労したが、久留米藩は、もとも徳川恩顧の意識が強い所。稲次の動きは、藩主流の佐幕派家老・吉田監物の目に余るものとなり、嘉永五年には、遂に「父祖以来の恩顧を忘れ、異論を抱いて藩政を擾乱するものである」との無期刑の咎を受け、嘉永六年、有馬右近の邸に幽閉された。若くして家老脇となり、尊皇攘夷を唱う稲次は、ペリー来航から起こり得る先々国事の多難を憂い、時運に合わぬ我が身を憤怒するあまり、その沸騰する己の感情をもって、遂に自刃して相果てた。これぞ、まさに憂国勤皇の「我が国士」の始まりであった。靖國神社に祀られる祭神の死亡年次より合祀せらるる、まず第一番、最初の人である。

久留米藩     嘉永六年十二月三日
有馬右近邸 家老 稲次因幡正訓 二十五歳

 嘉永六年の祭神は、稲次正訓命、ただ一柱なり」と。



 愚案、天皇陛下の、靖國神社行幸(御親拜)を請願し奉る方々が居ることに、長い間、疑念を存して、或は不敬なり、敕使を何だと心得るか、大權干犯に非ざるやと、獨り懊惱してゐたが、塾頭の出現して、其の言靈を聞くや、吾れ孤ならずと、心強く思つた次第であつた。松平永芳宮司は、「私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしない」(『讓ることのできない傳統の一脈』)方針は、其の深意を探求されることなく、完全に無視され續けてゐる。倨傲なる國民は、祭祀大權にも容喙するに至りしか。恐懼、措く可からず。嗚呼、‥‥。

 稻次因幡正訓大人は、『大日本人名辭書』及び補遺・『殉難稿録』に載せざる所、小生の無學なる、塾頭遺文にて初めて知りぬ。稻次正訓大人につき、博雅有志の教示を俟つと云爾。
 
 

敵は本能寺に在り──塾頭の宣戰布告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 9月 8日(月)19時43分17秒
返信・引用 編集済
   泉水隆一翁の曰く、「靖國神社を「靖国」と呼び捨てにする者の意見は、聴く必要がない」(『靖国神社の真実』)と。

── 洛風書房版『靖国神社の真実』上梓に方つて、裏表紙に刻印せむと欲して能はざりし九段塾「塾頭遺文」の、此の精粹骨髓を、今ま漸く掲げ得たり。──



●泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』平成十四年九月十八日)に曰く、

現在の靖國神社執行部である、湯澤貞・三井勝生・山口建史の三人、又た神社に上映中止を迫ったと言われる阿南惟正・小田村四郎、他に小堀桂一郎氏等の一連の著名な学者・研究者も、私は信じておりません。彼らが、今後、英霊に対して、どのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。‥‥

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません。ただゝゞ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が『靖國神社で逢おう』と云った言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということを、どうかよくお考えになって下さい。その上であらためて、靖國神社と云うものを考えて下さい。決して彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺(自稱保守)にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています。

 大変激高した言葉になってしまいましたが、皆様の中にはご不快になられる方もいると思いますが、英霊の力を借りて二年間、『凛として愛』に、自分の才能を注いだ監督の言葉としてお許し下さい」と。



 愚案、『凛として愛』臺本に、「七五、茶室で憂愁に満ちた湯澤宮司」とありますが、今となっては、痛烈なる皮肉となるでありませう。もとゝゝ此の宮司、松平・大野兩宮司に長年仕へたにもかゝはらず、其の精神を悉く踏みにじり、又た『凛として愛』を鑑賞して之に泪せりと仄聞するも、自稱保守派の容喙使嗾により、一轉、之を中止せしめたのでありました。有志には、これらの方々に、ご留意いたゞきたいと存じます。

 「松平永芳宮司・大野俊康宮司、あの皇国史観のかたまり、花田忠正権宮司時代が懐かしい。右翼ゴロだろうが、サヨクだろうが、韓国人だろうが、屁ともしないで、動じもしなかった。刃物をテーブルに突き刺したって、ヒカリモノには慣れっこの元軍人だ。なんてこたあ、なかった」と云ふ御方(泉水隆一翁『靖国神社の真実』)、亦た首相と雖も、護衞を從へる非禮參拜は之を決して許さゞる、權力に屈せざる御人(松平永芳宮司『誰が御靈を汚したのか』)でなければ、抑も靖國神社の宮司は勤まらないのであります。人を見る、其の志操に在りと謂はねばなりません。




 泉水隆一翁の曰く、「参拝者の卑俗化・俗化は、即ち靖國神社執行部の問題でもある。‥‥靖國神社の正統を広め、以て現在の猥雑化した靖國神社の、殷賑極める境内模様、参拝者の仕儀、悉く復古に戻し、天皇の神社に相応しき神域に戻すことを目指したい。また遊就館の歴史記述を変更し、明治天皇の聖旨に相応しき祭神顕彰、祭神の雄渾剛毅な様子を、克明に映し出す『軍事館』に戻すべきと考える。麗しき身なりで、静かに参拝。ゆかしき巫女舞。『失われつゝある日本の善さが、この境内、社にはある』と言われた、松平永芳宮司の言葉を再興する。惑わしき鎮霊社の公開は閉めて、廃社するか秘匿。パール判事の顕彰碑は、排除もしくは移設。それが然るべき御処置。それを得心させる崇敬者を育てたい。靖國神社正統崇敬奉賛会、その創出まで思考の峯に置いて、今後の言上げ。実際の活動は選りすぐった憂国者により、実践活動。国民一人ひとりが正統を理解し、天皇の神社であることを理解し、敬神を心底清真に収めて下さるよう、教化して行きたい。陸海軍管掌を継承するが如く──。靖國神社執行部が、聖旨にもとる運営顕著ならば致し方なし。全国各地の神社宮司にも、現在の靖國神社の行いに、疑念を抱く人多し。靖國神社を『国に帰す』のではなく、国民が正鵠にお支えする、比翼となる。そのための正統を語り、教え広める、それが目的です」(『九段塾塾頭最終講義』)と。
 
 

『凛として愛』から、坤。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月29日(金)20時17分52秒
返信・引用
   昭和六年九月十八日、日本の經營する南滿洲鐵道の線路が、夜半、奉天に近い柳條溝で、何者かによつて爆破された。報告を聞いた關東軍司令官・本庄繁は、隱忍自重はこれまでと、遂に全軍に出動を命じる。これが、滿洲事變の勃發である。戰後、日本が滿洲を侵略するための謀略と喧傳された事變であるが、事實は、共産勢力に便乘した暴虐な排日テロを一掃するために、遂に軍が動いたのである。事變後、滿洲事變を調査した國際調査團のリツトン卿も、『鐵道爆破のみによつて起こした軍の行動は、自衞手段とは認められないが、しかし、兵が自衞のためと信じて行動したことまで排除するものではない』と、報告書に書いてゐる。『その遠因は、中國の秩序なき混亂にあり、内亂によつて受ける損害は、日本が最も痛切なるものがある』とも書いてゐる。日本の侵略行動と云はれた滿洲事變は、まさに戰後に捏造され、今日まで長く續いてゐるものなのだ。

 眞實を隱し、覆ひ隱すものは、誰か。

 中國軍が一掃された此の地に、滿洲人による滿洲國が、日本の支援により建國され、滿洲人・日本人・朝鮮人・漢人・蒙古人の五族が、平和な王道樂土を築かうとしたが、その夢は、はかなくも消えてしまふ。昭和十二年七月七日、北京西方にある盧溝橋で、夜間演習中の日本軍に、中國側から五發の發砲があつた。盧溝橋事件である。日本は事件の擴大を望まなかつたが、通州に住む日本人居留民約二百六十人が、中國軍により虐殺されるに及び、國民の怒りは頂點に達した。次いで上海事變が起こるや、戰火は大陸全土に擴がつて行つた。これが、支那事變である。

 戰後、日本は、此の支那事變で、中國を侵略・掠奪と殺人を重ねたと、強く非難され續けてゐるが、事實は、中國人同士の内亂に引きずり込まれたと云ふのが眞相である。國内を統一した蒋介石は、自らの地盤を搖るがす中國共産黨と熾烈な戰ひをしてゐたが、昭和十一年に、西安で蒋が共産黨に捕まつた以降、兩者は鬪爭の矛先を日本に向けることに合意。その結果が、日本を戰爭に引きずり出さうと、中國側が劃策した盧溝橋での發砲事件となるのである。

 日本はもとゝゝ中國に敵意はなく、むしろ多くの日本人が中國人を勵まし、近代化を援助してゐた。彼らから掠奪するものなどは何もなく、又た日本軍が南京で三十萬人も虐殺をする必要が、一體どこにあると云ふのだらうか。そして日本が戰つた相手は、現在の中華人民共和國ではなく、蒋介石率ゐる國民黨であつた。全てが、戰後に日本を惡とするために捏造されたものである。日本は、此の支那事變は、簡單に片付くものと考へてゐたが、さうはならなかつた。それは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ聯などが、表では中立を宣言しながら、この支那事變に介入、背後で武器彈藥食料を蒋介石軍に輸送してゐたからだ。日本は、何んとか支那事變の早期解決を圖るため、最大の支援ルートがある北部佛印に進駐することを決議する。輸送ルートさへ斷てば、事變は終はると判斷したからだ。だが、アメリカは直ちに屑鐵を始め、精銅・機械類など、重要物資の輸出を禁止すると云ふ經濟的措置を打ち出した。アメリカが、日本の正面に出て來たのである。日本は重要資源の大半をアメリカからの輸入に頼つてゐたが、屈する譯にはいかない。政府は獨自で重要資源を南方から調達しようとしたが、南方を植民地にしてゐるイギリス・オランダは、アメリカと協調し、何一つ日本には賣らうとしなかつた。アメリカ・イギリス・中國・オランダによる、いはゆるABCD包圍網が、日本を斷崖に追ひ詰める。アジアは、永遠に彼らの支配となるのか‥‥。そして昭和十六年八月には、遂にアメリカは石油の全面輸出禁止を通告して來た。石油がなければ、日本は立ち行かない。産業機械は停止し、失業者が街に溢れ出る。第一、航空機・軍艦が動かない。政府の苦惱は、極限に達した。アメリカは、既に兵器産業に拍車をかけてゐた。戰爭準備である。

 昭和十六年九月六日、大本營政府連絡會議は、天皇御臨席の御前會議で、帝國國策遂行要領を諒承した。それは、本年十月上旬までに外交々渉が成立しなければ、日本は戰爭準備することを決議したものだつた。しかし十月上旬を過ぎても、日米交渉は始まらない。アメリカが求めてゐのは外交々渉ではなく、いかに日本から最初の一發を撃たせ、戰爭を始めるかだつた。日本は、それを知らなかつた。

 陛下は、九月三日の戰爭準備を決議した帝國國策遂行要領を白紙に戻し、日米首腦會談の實現に努力するやう、下知される。戰爭だけは、囘避したい。總理大臣東條英機も、又た同樣に『外交の餘地ある間に戰爭突入は、國民に申し譯がたゝない』として、『止むを得ざる場合は開戰する決意の下に、外交々渉を併行する』と決めた。その期限を、十一月三十日夜十二時迄とする。日本は、戰爭をしたくなかつた。しかしアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に課せられた任務は、いかに日本に最初の一發を撃たせるかであつた。十一月二十七日、ハル國務長官からアメリカ側の意向が、日本側に傳へられた。運命のハルノートである。

 ハルノートには、日本は中國大陸から一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤退させ、大陸における全ての權益を放棄するやう書かれてゐた。政府は絶望した。中國大陸には滿洲を始め、多くの日本の權益地があり、日本人も多數生活してゐる。それを殘して軍隊・警察を撤退することは出來ない。殊に滿洲には、日清・日露の戰ひで多くの同胞が血を流し、勝ち取つた正當な權益がある。それを捨てることは出來ない。國民が許さなかつた。明治開國以來、歐米列強の植民地化を避けるために、必死に刻苦努力して來た。こづきまはされても、じつと我慢を重ねて來た。日本人は多くの天災に襲はれ、幾度とない飢饉にも見舞はれたが、全て耐えぬいて來た。だが、日本民族の息の根を止めようとするアメリカの要求だけは、耐へることが出來ない。戰爭をしない道は殘されてゐた。全ての權益を放棄して、許しを乞ふ道はあつた。しかし、それは戰爭をしなくても、戰爭に敗けたと同樣の悲慘な末路を意味してゐた。國民には、それが出來なかつた。武器を取ることを選擇したのです。

 軍令部總長・永野修身は、『戰ふも、亡國かも知れぬ。だが、戰はずしての亡國は、魂までも喪失する永久の亡國である。たとへ一旦の亡國となるとも、最後の一兵まで戰ひぬけば、我らの子孫は、この精神を受け繼いで、再起三起するであらう』と語つた。大東亞戰爭は、逃げも隱れもしない日本が戰爭を決意した、一億の日本人が武器を取り、決意した戰爭です。恥ぢることも、たぢろくこともない、凛として日本人は、襲ひ來る外敵を撥ね除けるために、日本生存を賭けて戰つた、自存自衞の戰ひです。それが極東の國日本の搖るがすことの出來ない、たゞ一點の戰爭理由です。

 アメリカの望む通り最初の一發を、日本はハワイ眞珠灣に撃ち放つた。アメリカ陸軍・スチムソン長官は、この日のことを日記に書いてゐる。『今やジヤツプは、ハワイで我々を攻撃することで、問題全部を一擧に解決してくれた。日本の攻撃の報を受けた時、これで全米國民を一致團結させるやうな仕方で、危機がやつて來たと云ふ、ほつとした氣持ちであつた』と。このハワイ眞珠灣攻撃で、アメリカはリ「メンバー・パールハーバー」を合ひ言葉に、若者たちは戰場に續々と志願した。日本を最後まで惡者に仕立てたアメリカの謀略に、日本人もアメリカ人自身も、今もだまされ續けてゐる。ピユーリツア賞を受けたアメリカの從軍記者ジヨン・トーランドは、その著書の中で、『アメリカのやうに天然資源と廣い國土に惠まれ 外國に攻撃される恐れもない國が、どうして日本のやうに小さく、ほとんど資源もなく、常にソ聯のやうな假借ない隣國の脅威にさらされてゐる島國の置かれた立場を理解することが出來るだらうか。アメリカが口にする正義は、結局は自己の目標を貫かんがためであり、唱へる道義は、その奧底においては自らの利益のためであつた』と、自らの國家に疑問を投げ掛けてゐる。

 子供を愛し、妻を愛し、兄弟を慈しみ、兩親を尊敬する多くの先人、誰一人、日本が侵略戰爭をしたとは思つてゐません。外國の土地を強奪した事實もありません。禮・義・知・信と云ふ、嚴しい道徳觀の中で育つた日本人は、不正義を憎み、卑怯卑劣を嫌ふ武士道を、軍人魂として教育されて來てゐます。あなたが、もし日本人ならば、そして正義を愛するならば、かつての日本人も、同じ日本人です。あなた方が誇れる、先人の方々です。あなたが自分を信ずるならば、日本を守つた先人を信じて下さい。英靈を、先人の愛を、見つめて下さい。

 今、靖國の宮に祀られる、二四六萬六千餘柱の英靈。英靈を貶めたもの‥‥それは、戰後すぐに始まつた連合國軍による極東國際軍事裁判――いはゆる東京裁判である。この裁判で、一方的に日本の侵略戰爭が押しつけられ、日本軍の殘虐行爲と呼ばれるものが、ほとんど證據もないまゝに確定された。その判決を、今も正しいものとして利用する人々がゐる。だが、この裁判はアメリカが、日本の占領政策を圓滑に行なふために、戰爭に敗けた日本人に、惡いのは軍部であり、政府であつたことを知らしめるために設置されたものだつた。その何よりの證據は、裁判終了後、ウエツプ裁判長も、日本の侵略戰爭を鋭く糾彈したキーナン主席檢事も、この裁判は誤りだつたと述べてゐる。又、この裁判を強行させた連合國軍最高司令官のマツカーサー自身が、昭和二十六年のアメリカ合衆國上院議會での軍事外交合同委員會で、『彼らが戰爭に飛び込んで行つた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつた』と證言。日本の戰爭は、侵略戰爭ではなく、自存自衞の戰ひであつたと、眞實を述べてゐる。インド代表のパル判事は、この裁判は日本が侵略戰爭をしたかどうかを審議するのではなく、最初から侵略戰爭をしたと云ふ前提に基づいての審議をし、大衆の心を支配しようとしたと批判。更に檢察側の云ふ日本の侵略戰爭の歩みを、歴史の僞造とまで斷言したのです。

 獄中で病死した東郷茂徳元外務大臣は、子供たちに、
『いざ兒等よ戰ふ勿れ 戰はゞ勝つべきものぞ夢な忘れそ』
と歌を殘してゐる。子供たちよ、戰爭をするものではない。しかし、もし戰ふならば、絶對に勝たなければ駄目だ。勝たなければ、無法な罪まで押しつけられる悔しさを傳へてゐる。
 戰後、侵略戰爭の張本人のやうに言はれ續けてゐる東條英機は、自分を辯護する證人は、誰一人呼ばず、臆することなく、日本の戰爭は自存自衞の戰ひであり、自分は間違つてゐないと、證言臺で昂然と胸を張つた。但し國民に對しては、敗戰した責任は自分にあると語つてゐる。
 今、この靖國神社には、A級戰犯と云ふ汚名を着せられた東條英機を始め、十四人の方々が、「昭和殉難者」として祀られてゐる。昭和二十七年、日本が獨立した後、當時の日本政府が戰犯で處刑された方々を、戰爭犯罪人(戰犯)とは見做さず、戰爭による公務死と認定したからである。
 日本軍人を裁く裁判は、日本本土以外でも行なはれ、多くの軍人・軍屬が罪もなく、斷頭臺の露と消えた。

 陸軍大尉・星島進の命。ラバウルで法務死、三十五歳。『壽子[かずこ]どの 深愛をもちつづけながら、そのいたはることすくなかりし結婚生活をゆるせ。然し俺の武人としての正しさは、誰かによつて傳へられる。戰犯の名はつらからうが、勿論、俺は日本の罪人ではない。壽子よ、泣くな。子供をひがまさず、正しい人間にしてやつてくれ』と。
 陸軍軍屬・高橋久雄の命は、中國軍の接近を日本軍に通報した爲め、中國軍が殲滅させられたと云ふ、たゞその理由だけで、北京で處刑された。『故國の皆樣、お元氣ですか。御當地は、まだ雪で、畠仕事も出來ないでせう。事實なきことも、良民殺害の罪名のもとに裁かれるのです。今となつては、何をか言はんやです。皆樣、何事も運命と思召しあきらめて下さい』と。高橋久雄の命の兄・久一さんは、取材スタツフが訪れるのを、一日千秋の想ひで待たれてゐたが、訪れた數日前に息を絶たれた。九十四歳の大往生である。生前、「弟には、何の罪もありやせん」と話をしてゐた久一さんは、冥界で今頃は、弟・高橋久雄の命と、悔しさを語つてゐるのだらうか。『後は死して、皆樣のおそばへ參ります。妻・タツの傍に置いてください。はるかに東方を遙拜し、斷腸の思ひを絶つて刑を待つ。かへり見る三十八生、こゝに斃る』と。日本が戰爭に敗けたその一事のために、身に覺えのない罪を被せられ、それでも從容として刑場に赴いた多くの戰犯の方々。雪は深い。全てを覆ひ盡くす。だが、撥ね除ける力を、名もない野の花でも持つてゐる。日本が、現代日本人が目覺めるのを、英靈は待つてゐる。米英を主敵として、不屈の魂で戰つた大東亞戰爭。眞實とは何か。その幕が、切つて落とされる。

 大東亞戰爭は、日本一國で戰つたのではなく、南方の諸民族も一つとなつて、アジアに新しい秩序を確立させるために、米瑛と眞つ向からぶつかつた、一大戰爭である。戰場も銃後も、一億が火の玉となつた。

 池田の曰く、『守る、と。我々の命で日本を守る、と』と。
コロール島人・リキリキの曰く、『やつぱり日本のために、あの、命なくなつても、したかつた氣持ちがありますね』と。
 高砂族・タリ・ワタンの曰く、『私たちは、いつ死んでもかまはない。國のためならば、天皇陛下のためならば、いつ死んでもよろしい。さう云ふこの精神は、非常に覺悟してゐます』と。
 女酋長・リムイ・アベオの曰く、『田を作る。出來ない。それ皆んな日本人が指導してくれた。そして、あの植ゑることも出來ない。種ね。種も出來ない。あれ、みんな日本人の教育。だからね、ようし、日本のために命を投げ出して來ると云ふ決心をして、それから行つたんです』と。
 おほしく、勇敢に、彼らは戰つた。

 當時の朝鮮半島の人々、又た臺灣の人々も、共に戰つてくれた。
靖國神社に祀られる朝鮮籍戰歿者、二萬一千一八一柱英靈。
         臺灣籍戰歿者、二萬七千八六三柱英靈。

 ガダルカナル島上陸を皮切りに、タラワ、マキン、クエゼリンと、日本の占領した島々を奪囘したアメリカ軍は、一氣に日本本土に攻撃をかけ、叩き潰せると考へた。しかしその目論みは、見事に外れた。壓倒的な戰力のアメリカ軍の前に、日本軍が立ちはだかつたからだ。猛烈な鬪爭心、飽くなき抵抗、想像を超えた敢鬪精神。武器彈藥食料が切れても、日本軍將兵は白旗を掲げなかつた。白旗を掲げれば、自分の命は助かる。だが、それは祖國への裏切りとなる。祖國にゐる家族・同胞は、日本の勝利を祈り、日本のために勝つて下さいと送られて來てゐる。何んで、負けて歸れるか。最期の最期、日本軍人としての精華を示すために、將兵は突撃を敢行し、玉碎したのです。

 日本赤十字社元從軍看護婦・蜂須賀つや子の曰く、『鐵砲と銃をよこせ。ね、彈をよこせ。今からでも行くつて言ふの。やつと歩ける、食べもしないで[兵站病院に運ばれて來た重症患者の多くの兵士は、食物もいらない、武器をよこせば、今からでも行くと云ふ]、‥‥食べなくたつて、銃があれば、今からでも行くつて言ふの。何も無いんです。鐵砲も、彈も、もう無いの』と。

  大東亞戰爭最初の玉碎地となつた北のアツツ島では、山崎保代大佐以下、二千五百の將兵が守備していたが、一萬五千のアメリカ軍相手に、十八日間善戰。昭和十八年五月二十九日、敵陣地に突撃、玉碎した。アメリカ軍ハーバート・ロング大尉の手記によれば、『先頭に立つ部隊長は、右手に日本刀、左手に日の丸を持つてゐる。部隊長が倒れた。再び立ち上がり、一フイート、一インチと迫つて來る。擴聲器で降伏せよと叫んだが、耳を貸さうとしなかつた。遂に我が砲火が集中された』と。

 アツツ島守備隊の最期が、天皇陛下に御報告されると、陛下は、
最期まで、よく敢鬪した。そのことを傳へよ
と言はれたが、既に將兵は玉碎し、無線機も破壞されてない。その事を申し上げると、陛下は、嚴しい聲で、
それでもよい。電波を出しなさい
と、御命令されたと云ふ。雪と氷で閉ざされた北のアツツに向けて、陛下の御言葉が打電された。祖國のために散華された二千五百の將兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであらうか。

 元陸軍士官の正規將校・吉武登志夫の曰く、『負けると思つて行つたことはありませんですね。もう我々が行けば、必ず挽囘できるんだ、と云ふ風な氣持ちで行きましたね』と。
 菊池洋の曰く、『やつぱり戰爭をやつてゐる以上は、必ず何處か、死場所があるだらうと。ぢや、一番いゝ死場所は何かと云ふことを考へた時に、私はやつぱりそのねえ、特攻と、これをまあ、決意した譯ですよ』と。
 深川巖の曰く、『本當に純悴ですから、色氣もなにもないしねえ。さあ、國のためにやるんだと。本當にねえ、純悴ですよ。なまじその教育受けた、あるいは年配者が少し色氣あるやうなもんですね。やはりさう云つたものをねえ、一個中隊ちふのは、寢起きを共にした云々』と。
 堀山久生の曰く、『死に遲れたと云ふ感じが、非常に強くてゞすね。その、先に沖繩に突入した同期生に、本當に申し譯なく思ひます。そして、これからは何んとか、日本と云ふ國家を再建してゞすね、もう一度、昔日の如き強力な國にしたいと、あの、思つてゐます』と。

 古城カネ子の曰く、『この人たちが、このまゝ死んで行かにやあ、日本はどうにもならんのぢやらうかと思ふなあ。それこそ思ひましたよ。人間魚雷の上へ特攻隊員が乘つて、日本刀をパーンと、かうしてね、振りかざして、これこそ窓からかう、泣きながら見るのにね、あの日本刀がキラーンと朝日に光つて、あれがいまだ目についてますよ、本當に』と。

 櫻花搭乘員・植木忠治の曰く、『今忘れられてゐる、若い人忘れられてゐるものは何かと言つたら、祖國だと思ふんです。自分一人が死ぬことによつて救はれるならば、自分は死んでもいゝ、と』と。
 野俣正藏の曰く、『櫻花で死ねば、日本は大丈夫と、これだけしか考へてゐませんでしたね』と。
 松林重雄の曰く、『皆んなのために、一丁やらうかと云ふことで、覺悟を決めた譯です』と。
 多くの若者が、身を捨てゝ國を守らうとした。

 豫科練・畠山昭一郎の曰く、『飛行機乘るには、やつぱり豫科練が一番早いといふことで、豫科練希望したと云ふのが、まあ、一つの動機ですね。やはり何んとしても、この國の國土を守ると云ふことですね。國土を守ると云ふことは、親を守ることであり、郷里を守ることなんですから、それが最大の目的だつたでせうね』と。
 千葉昭二の曰く、『早く前線に出て、皆さんのお役に立ちたいと云ふ氣持ちで、一杯でしたね』と。
既に硫黄島は陷ち、沖繩にアメリカ軍が殺到してゐた。

 戰艦大和の死場所として、沖繩が選ばれた。瞑目すれば、大和は日本を守る巨人でなければならなかつた。その主砲は、日本に襲ひ來る邪惡を粉碎する使命を帶びてゐたはずだ。それが航空機の援護もない、特攻攻撃となる。艦隊司令長官・伊藤整一中將には、それが不滿であつた。無駄死が、我慢できなかつた。だが、
『一億總特攻の先驅けとなつて戴きたい。それが本作戰の目的です』
と參謀に言はれ、「それなら、わかつた」と答へたと云ふ。
 大和乘艦者・小林健の曰く、『特攻で突つ込む時には、大和でオレがこれから出て行くんだから、日本の皆さんもう暫く待つといてくれ、さう云ふ意氣込みで進んで行つたものでございましたね』と。

 昭和二十年四月七日、大和は米軍の三百機以上の攻撃を受け、沖繩に着くことなく、九州坊の岬西方九○マイルで沈む。
 大和乘艦者・竹重忠治の曰く、『總員退避の後に、どつからともなく、天皇陛下萬歳が出たんです。それに思はず片手はもう離されん譯ですけど、こんな状態ですからね、兩方で持つてゐた右手をあげて、萬歳を三唱しましたね』と。

『さゝげーつゝー』(捧げ銃)
大東亞戰爭戰歿者、二百一三萬三千七七八柱英靈。

 三年八ケ月。世界を相手に、日本の死に物狂ひの戰ひは終はつた。その勇猛心・鬪魂が、連合國側に恐れを抱かせた。それが、日本を救つた。
 沖繩防衞軍・角田松雄の曰く、『日本人ですからね。降伏と云ふことは知らんから、もうこりや全員、もうこゝで戰死ぢやなと、皆な覺悟決めましたよ。私もその一人ですがね。その時にねえ、何を言うたか。涙が出ますがね。皆んなで、靖國神社で會はうね、言うたもんです。靖國神社で會はうね、と。靖國神社に替はるねえ、國營の戰歿者墓地を作らうなんて言うてましたがねえ、私はねえ、戰友たちが何んと聞いたぢやらうて、涙が出ましたよ。皆んな、靖國神社で會はうつねて、誓ひ合つて死んだんですよね。あの魂がね、靖國神社の中の魂が、日本の國を守つとるんですよ。今でも』と。

 今は亡き戰友のために、大東亞戰爭を共に戰つた國民のために、聲限りに歌つてほしい。
『あゝあの山もあの川も 赤い忠義の血がにじむ 故國まで屆け曉に あげる興亞のこの凱歌』(『曉に祈る』)

 日本よ。陽は、又た昇る。祖國日本を防衞するために、陸に、海に、空に散華された方々に、私たちは誇りと叡知を、此の胸に抱き、凛として愛を捧げる。それがあつて、初めて、日本の、新しい時代が始まる。
 
 

『凛として愛』から、乾。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月29日(金)20時09分56秒
返信・引用 編集済
   九段塾塾頭の監督作品『凛として愛』を、試みに散文化したら如何なるか。玲瓏たる肉聲も、壯嚴たる映像・音聲も無いのであるが、凝縮された玉文からは、一篇の近現代史が抽出される。熟讀、泪が込み上げて來るのは、ひとり小生だけであらうか。



 泉水隆一監督『凛として愛』臺本
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靖國神社遊就館上映作品(平成十四年七月十三日・十四日)
『 凛として愛 』
脚本・監督  泉水 隆一
ナレーター  花椿 一心(即ち泉水隆一)

*********

 國家によつて、安全と平和、生命と財産を護れなかつた國民の悲慘さを、私たちは知らない。

 この一篇を、明治開國から大東亞戰爭に至るまで、祖國のために力の限り戰つた幾千萬の將兵と銃後の守りに盡くされた總ての先人に、感謝と畏敬の念を籠めて捧げます。

 昭和二十年八月――廣島・長崎に、原子爆彈が投下される。八月十五日、日本は三年八ケ月に及ぶ大東亞戰爭に、終止符を打つた。建國以來、初めての敗戰であつた。この日から、日本の近代史がひゞ割れた鏡のやうに、歪んで傳へられて行く汚辱の日となつた。戰爭に負けたのは仕方がない。だが、日本人は戰ひに敗れても、誠實さが必要だつた。日本と云ふ國に、祖國に盡くした幾百萬の英靈に、幾千萬の先人に、愛を籠めた感謝を捧げるべきであつた。‥‥が、果たせなかつた。多くの日本人が、裏切つた。戰後の荒廢した日本に、赤旗がなびき、社會主義思想が廣まり、戰勝國による一方的な東京裁判が開かれる中で、日本の近代史は僞りに滿ちた惡意の下に、大きく書き替へられて行つた。

 女高生の曰く、『私はあの、小學校の時に初めて遊就館に行つたんですけれども、その時に初めて戰爭に行つた方の遺書や思ひが綴つてある資料を見て、涙が出て來たんです。それで、その事について、私は小學校で何も教はつてなかつたなあと、氣が付いたんです。教科書にも、餘りさう云ふことは載つてゐなかつたし。日本の歴史だけぢやないかも知れないんですけれど、世界の歴史を學んでも、やつぱりその時代に生きた人にしか分らない歴史つて云ふのがあると思ふんです。絶對にその状況になんなきや、分らない。何んで、その人が、さう云ふ行動を云々』と。

 私たちの國には、明治維新以來、幾度かの國難に、敢然と立ち向かつた日本民族の不屈の歴史があります。たつた一つしかない命を、國家に同胞に捧げた、凛とした眞實の歴史があります。その扉を、今、開け放さう。

凛として愛

 六十數年前、日本はアメリカを始め、世界百十數國を相手に大戰爭をした。しかしその戰爭は、國家國民の安全と平和を護るため、アジアの安定を築くため、世界の平和を請ひ願つたものであることに間違ひなかつた。戰場に出て行つた將兵は、皆な同じ考へであり、力の限り、彼らは戰つた。だが、事、志と違ひ、戰ひに敗れたことで、日本の掲げた理想は實ることはなかつた。日本は、敗れたまゝでゐる。

 平和を享受する現代日本から遠く離れた異國には、未だ收拾されない將兵の遺骨が、山野に埋もれてゐる。何時になつたら日本は、戰ひに散つた將兵を暖かく迎へてくれるのだらうか‥‥。全國民が祈りを捧げてくれるのだらうか。靖國神社に祀られる二百四十六萬六千餘柱の英靈は、いまだ侵略戰爭の汚名を着せられたまゝでゐる。かつて南方の島々で戰つた日本軍に、援軍は來なかつた。ならば、今から援軍を送る。日本を變へる援軍を送る。あなた方の眞實を、痛みを、私たちは傳へて行きます。

 昭和十六年十二月八日、日本は西太平洋に浮かぶハワイ眞珠灣に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃、米英を相手とした大東亞戰爭を起こした。この開戰の意義を、『智惠子抄』で知られる詩人・高村光太郎は、一篇の詩に書き綴つてゐる。
『黒船以來の總決算の時が來た。民族の育ちが、それを可能にした。長い間こづきまはされながら、なめられながら、しぼられながら、假裝舞踏會まで敢てしながら、彼等に學び得るかぎりを學び、彼等の力を隅から隅まで測量し、彼等のえげつなさを滿喫したのだ。今こそ古へにかへり、源にさかのぼり、一瀉千里の奔流と成り得る日が來た云々』と。
大東亞戰爭は、黒船來航以來、長い間、歐米列強にこづきまはされて來た日本人の、白人社會の強壓に對抗する總決算であることを、詩に託してゐる。何が總決算だつたのか‥‥、その慟哭の聲を聞かう。

 高千穗商科大學前教授・名越二荒之助の曰く、『そこがまあ、日本人の個性と云ふのかねえ。今でもわからんですよ。終戰直後に朝日新聞なんか見ればですね、一億が慟哭して、皇居前でその土下座してゞすね、靖國神社の社殿でも土下座して、その自分の至らなさねえ、そしてその慟哭した譯でせう。それがもう僅かな間に、クルツと引つ繰り返つてしまつた。それで、そこにまあ、日本人の輕薄さと云ひますかねえ、日本がこんなに惡いことをした、こんな惡行をしたと云ふことをですね、ラヂオを通じて、テレビを通じてやり出した。皆んなそれに染まつてしまつたといふ、さう云ふ日本人の便乘癖ですねえ‥‥』と。
 又た曰く、『明治維新に成功する。見事な成功ぶりです。それから國論の一致。富國強兵と云ひですねえ、それで大國ロシアを打ち破る。アジア諸國に大きな感動を與へる。それでアジア諸國はですねえ、それに觸發されてゞすねえ、皆な獨立精神を奮ひ起こさうとし出す。それでその最終結論みたいなものが、大東亞戰爭であつた、と。これはまあ、歐米諸國の植民地勢力に對する日本の抵抗。アジアを代表する日本の抵抗であつた、と。日本が敗れたらですねえ、もうアジアは、永遠に彼らの支配下に陷つてゞすねえ、永遠に植民地にされてしまふ、と。アジア安定の責任は、日本に在る、と。日本人の使命である、と、日本の責任だ、と云ふことですね、常にまあこの口ずさんでをつたし、私なんか小學校以來、さう考へてをつた。日本が負けたら、日本が弱くなつたらですね、まあ負けることはなかつた、負けるとは考へなかつた。日本が弱くなつたら、アジアが駄目になる、と、アジアの責任を感じてをつた、と、アジア安定の。それは一言で云へば、日本の近代史の最大の使命だつたですね』と。

 どんな山奧からも、小さな村からも、國民は一つとなつて、日本の戰ひに出て行つた。
森本文子の曰く、『そのために出たのに、今はもう、ちよつと、世間の常識としたら厄介者扱ひのやうな、あれでせう。本當、身内になつてみりや、情けないですよ。何んのために命まで捨てたんかなあと思うてね。まあ、日本の國はえゝ國えゝ國つて言はれとりますけど、これをわからん國民が多いんかなあと思つてね、いつも思ひます。情けないなあ。私はあんな人間になつちやならんと思うてね。大袈裟いふちや、あれぢやけど、日本の國のためになるんぢやちふ氣が、兄貴にはあつたんだらうと思ひます。とても今の若いものぢやつたら、惡いことはする、人を殺したりなんかはするけど、自分の命を絶つてまで、國のために盡くさうと思ふものは、今は餘りゐないんだらうと思ひますよ』と。

 戰爭は悲慘なもの、惡と云はれ續けてゐる。しかし戰はなければ、國家國民は、それ以上の悲慘な目に遭遇しなければならなかつた。極東の小國日本が生き殘つた理由は、幾度かの國難に、常に武器を取り、立ち向かつたからである。

 嘉永六年、日本がペリー率ゐる黒船艦隊により開國された時、アジアは歐米列強の植民地化の中にあつた。白人こそ、最も優れた人種であると考へた彼らは、アジアを文化果てる未開の地・非文明地と見做し、次々と植民地化して行つた。しかし、日本を植民地にすることは出來なかつた。サムラヒたちが、歐米人の差別と蔑視を跳ね返すために、明治維新を成し遂げ、新しい體制の下に國民を一つにまとめ、近代化に取り組んだからである。その大膽さと決斷力が、日本を護つた。

 この列強の勢力に對抗するため、日本は朝鮮半島にあつた朝鮮國が、長い間服屬してゐた清國より獨立し、共にアジアの安定に關はることを強く願つたのだが、朝鮮は國論が一致せず、清國もそれを許さず、明治二十七年、朝鮮の獨立を巡つて、清國との間に日清戰爭が起きた。

靖國神社に祀られる日清戰爭戰歿者、一萬三千六一九柱英靈。

 大國清に勝つて喜ぶ日本に、突然、襲ひかゝつて來たのは、ロシアだつた。下關條約で清國より遼東半島・臺灣を領土として讓渡された日本に、ロシアはフランス・ドイツを誘ひ、遼東半島を清國に返せと要求して來たのである。三國干渉である。日本に、三國と戰ふ力はなかつた。

深く時世の大局に視、邦家の大計を誤まること勿きを期せよ
との、明治天皇の御言葉に、國民は涙を呑んで、ロシアの要求に從つた。しかしロシアは、直ぐにその遼東半島を自國のものとしてしまつた。力が全ての時代だつた。日本人の魂に、怒りの炎がついた。國家が強くならなければ、白人社會の横暴に對抗できない。臥薪嘗膽。將來、恨みを晴らすまで、どんな苦労にも耐へると云ふ此の言葉が、國民の合ひ言葉となつた。

 十年後、東アジア征服を目論むロシアは、遂に牙を剥いた。滿洲を占領し、大兵力を朝鮮半島に進出させて來た。日本に、危機が迫る。

 名越二荒之助の曰く、『朝鮮はロシア領。さうなると匕首を突き付けられたやうなもんですから、遂に日本は立ち上がつた譯ですね』と。

 ロシアは當時、世界最大の陸軍大國であつた。ロシア陸軍三百五十萬に對し、日本は僅か十八萬。海軍戰艦もロシア十一隻に對し、日本は六隻。鐵鋼生産量ロシア百五十萬トンに、日本は數萬トン。日本が勝てるデータは。何處にもない。世界もまた日本の大敗を豫測してゐた。

 天皇は、深い憂慮を示された。だが、若き内閣總理大臣桂太郎は、天皇に心の内を明かす。宣戰布告である。負ければ、日本はロシアに占領される。まなじりを決した七千萬人の國民が、背後にゐる(備中處士案、實は同胞四千萬人と云ふ)。日本は、蹶然と立つた。陸に大山巖・兒玉源太郎・黒木爲禎・奧保鞏・乃木希典。海に連合艦隊司令長官東郷平八郎・天才作戰家秋山眞之がゐた。渾身の力で、ロシアに立ち向かつたのが、明治三十七年の日露戰爭である。この戰爭は、ロシア國家を滅ぼすことが目的ではなく、朝鮮半島・滿洲から、ロシア兵を追ひ返すことにあつた。

 名越二荒之助の曰く、『セオドア・ルーズベルト大統領がですね、もう日本海海戰で勝利した時には、もうその嬉しくて、仕事が手に付かなかつたと云ふことを言つてますし、ネールがですね、自分の青年時代の最大の感激は、日本が大國ロシアを打ち破つたことだと云ふ言葉も引用しとります。そりやもう、バーモンも、さう言つてゐる。チャンドラボースも、さう言つてゐる。皆、感動を與へましたね』と。

 日露戰爭の日本の勝利は、列強の植民地化にあつた全世界の人々に、勇氣と希望を與へた。自分たちでも、白人社會に對抗できる‥‥と、獨立運動の風を捲き起こしたのである。人種差別の激しいアメリカでも、黒人活動家アーチボールド・グリムケの曰く、『小さき褐色の人々よ、征服せよ。汝の恐るべき劍を鞘に收むるなかれ。汝はロシア人を打ち据ゑた。汝はロシア人以外の人々の誇りを、權力を打ち据ゑるやう運命づけられてゐる』と。グリムケは、強大な白人社會を打ち破つた同じ有色人種の日本に、なほも世界の權力者たちを、その誇りを打ち破ることを激勵してゐる。人種差別こそ、二○世紀(備中處士案、ママ)最大の惡であつた。これがなければ、世界は血を流さなかつたかも知れない。

靖國神社に祀られる日露戰爭戰歿者、八萬八千四二九柱英靈。
 日本のために、地に伏した人々である。

 全國津々浦々には、國家に忠義を盡くした英靈を讚へる忠魂碑が、數多く建てられてゐます。あなたがもしも通りかゝつたなら、心の想ひを傳へて下さい。英靈は、きつと喜ばれることでせう。あなたの愛を。國を想ひ、家族を慈しむ日本人は、一度國難があれば、身を挺して戰場に赴いた。後顧の憂ひを斷ち、肅々として征つた將兵の胸にあるのは、今はもう誰も言はなくなつた、忠義と云ふ心であつた。その心があつて、今日、日本は亡國とならずにゐる。現代日本人よ、祖國のために逝つた英靈に、默祷を捧げてほしい。

 日清・日露戰爭を勝つた日本は、アジアに國力を伸ばして行つた。大正三年、日本は第一次世界大戰に參戰後、カロリン諸島など南洋諸島の統治權を、國際聯盟より委託される。又た明治四十三年には、韓國を併合する。

 名越二荒之助の曰く、『國論が一致しない。一つにならなかつた。お互ひに派閥爭ひが絶えない、權力爭ひが絶えない、と云ふことと、外國の勢力に直ぐ便乘すると云ふことですね。そりやもう、あの頃の韓國と、現在の日本は似てますよ。國論が常に二つに割れて、一致しないでせう。靖國(備中處士案、ママ)問題とかね、教科書問題とかね。分裂しとるんですからね。大正八年に、三・一獨立運動いふのがありました。萬歳事件いひまして、獨立だ獨立だ言うて、全國に擴がりましたね。それで、それに對して獨立いふのはですね、デモをやつて獨立できるんぢやないんだと、あらゆる條件そろへないとですね、たゞ萬歳萬歳いふとるだけで獨立できるかと、こんな輕薄な民族はですね、こりやもう履き捨てるべきだと言つてゞすね、あの當時、あの獨立運動批判した韓國人もをる譯ですね。だから、その一概にですね、そのいゝとか惡いとか云々』と。

 しかしアジアをあくまでも支配したい歐米列強にとつて、東洋に突出して來た日本は、邪魔な存在に見えた。大正十年のワシントン軍縮會議では、日本の海軍力は抑へられ、それまで最大の支援國であつたイギリスとの同盟が破棄された。日本を孤立化させようとする、アメリカの意志である。一方、中國(備中處士案、ママ)大陸では、排日の嵐が吹き荒れてゐた。大國清は、既に革命で倒れ、國内は中國人同士の權力爭ひで亂れに亂れ、民衆は西に東に逃げ惑つてゐたが、國内を統一しようと現はれたのが、國民黨を率ゐる蒋介石である。日本の近代化を見習はうと、蒋を始め多くの中國人が日本に留學、共にアジアの安定に協力しようと云ふ氣運が盛り上がつてゐたが、それを遮つたのが、共産勢力であつた。第一世界大戰中に、ロシアは革命によつて倒れ、社會主義國ソビエト聯邦共和國が成立してゐた。この新たに興つた國家の共産主義は、當時、赤の恐怖と呼ばれてゐた。ソ聯は中國を赤化するために、中國人の手により、外國勢力を排除しようとした。その矢面に立たされたのが、中國各地に正當な權益を持つ日本であつた。ソ聯共産黨に扇動された多くの民衆・國民黨が、抗日運動に加はり、各地の日本人居留民が襲撃され、無殘にも殺された。滿洲東北部のニコラエフスクでは、石田領事以下、七百數十名が殺され――、昭和三年には、濟南に住む日本人居留民が――(尼港事件・濟南事件)、イギリスのデイリーテレグラフは、『中國人は掠奪と殺人を、天與の權利であるかの如く、暴行を繰り返してゐる。日本人の忍耐にも限度がある』と書いてゐる。しかし日本は、世界と協調するために、動かうとしなかつた。

 過激な排日の嵐は、滿洲にも及んだ。滿洲には、日露戰爭で勝ち取つた正當な權益があり、多くの日本人・朝鮮人が住んでゐたが、その平和郷も、排日テロの波に曝された。背後には、日本を追ひ出さうとする中國軍の暗躍がある。廣大な滿洲には、關東軍と呼ばれた日本軍が駐留してゐたが、その數は、僅かに一萬。中國軍は二十五萬。滿洲各地で、日本人が無差別に襲はれてゐたが、日本政府は中國側との摩擦を恐れ、關東軍の出動を許さなかつた。「腰の軍刀は竹光か」と、日本人居留民からも涙の抗議を受けるが、關東軍は、命令がなければ動けない。だが、忍耐の緒が切れる時が來た。
 
 

靖國神社の本義・正統に戻れ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月18日(月)22時36分6秒
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  ~承前~

●泉水隆一こと九段塾塾頭・金城福井忠翁『靖國神社の眞實』(昭和二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、『若い世代はピント來んかも知れんが、戰後の靖國神社と云ふのは「遺族」と「戰友」さんが訪れる所で、それ以外の一般者や文化人と云ふ人たちは、靖国懇など保守論壇者であつても、靖國神社に參拜すると云ふことはなかつた。この場所は、「あくまでも遺族さんと戰友さんが」參拜する場所だつたのです。文化人は、一般的に靖國神社護持運動・崇敬奉贊と云ふ姿勢ではなく、保守論壇の地位にあつて、哲學的に、思想的に、靖國神社を捉へてゐた。遺族・戰友でもないのに、特別に「參拜する」と云ふ風潮は無かつた。現在の「靖国フアン」が異色で、特別なんです。これが當たり前ではなかつたんです。‥‥神社參拜と云ふのは、「理由」があつて參拜する。「特別の理由」がなければ、文化人は參拜しなかつた‥‥、昔はデスよ。今は──色々ですなあ。崇敬・敬神・尊崇でないのが多い──と感じてゐますなあ。‥‥英靈を守るために身を捧げた松平永芳宮司も、生前、祕かに口にしてゐたのは、「敵は左翼ではなく、保守だ。これに氣をつけにやいかん」と話されてゐた。‥‥純然たる勤王黨が、境内に欲しい。‥‥「話の合わない人が多くなつた」と、晩年、親しい人には漏らしてゐた名越二荒之助先生。‥‥』と。



●『靖國神社社憲の前文』(昭和二十七年九月三十日)に曰く、『本神社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、國事に殉ぜられたる人々を奉齋し、永くその祭祀を齋行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を萬代に顯彰するため、明治二年六月二十九日、創立せられた神社である。いやしくも本神社に職を奉ずる者は、その任の輕重・職域の如何を問はず、深く本神社を信奉し、祭神の御神徳を體し、清明を以てその任に當り、祭祀を嚴修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、以て萬世にゆるぎなき太平の基を開き、本神社御創立のよつて立つ安國の理想の實現に、一意邁進しなければならない』と。

 終戰の日、即ち畏くも天皇陛下御謹愼の日に、事もあらうに、「天皇の神社」たる靖國神社境内に於いて、「正午のラヂオ中繼では、安倍首相の挨拶には、皆かしこく聞いてゐたのだが、天皇陛下の詔の時には、多くの參拜者はチヨロヽヽヽ動き囘り、中には飲み物を飲んでゐた」者が、どうして存在するのか。『靖國神社を惡くしていゐるのは、實はこの「靖国フアン」‥‥(靖國神社の静謐と清淨を守らうとする者が存在しないのは、)右翼と云ふものが、完全にこの國から消滅したと思はざるを得ない。‥‥今、戰後六十年、靖國神社は、正統を捨てつゝある』(『靖國神社の眞實』)。崇敬者が注意せず、頼りにならぬのなら、何故に、「いやしくも本神社に職を奉ずる者は、その任の輕重・職域の如何を問はず、遺族・崇敬者を教導」、或は叱責しないのか。



●大野俊康宮司『宮司通達』(平成五年六月一日附)に曰く、 『鎮霊社は、靖國神社の本旨とも言へる、明治天皇の聖旨とは異なる御社であることを、先づ以つて認識せねばならない。‥‥鎮霊社を現在の場所より移築したり、圍りの鐵柵を取りはずす等、鎭座當時と同樣に、參詣者が自由に參拜出來るやうにすることは、千鳥ケ淵戰沒者墓苑に見られる通り、一部の政黨や所謂博愛主義者によつて、英靈祭祀二分化に繋がると、大いに懸念されるところである。よつて小職は、昭和四十年、鎮霊社鎭座以來、今日まで嚴肅に奉仕されてきた祭祀に鑑み、鎮霊社を、今後共、現状のまゝ、密かに奉齋續けることを見解とする』と。

 此の大野宮司の通達に、敢へて公然と背き(鎮霊社は「胡亂なるもの」とは、松平永芳宮司の認識)、明治天皇の聖旨に叛し、社憲に反する、「鎮霊社」と云ふ神靈不在の私的施設を公開した者は、抑も誰ぞや。

 『祭神をコンピユータで管理しようなんて發言した奴は、誰だ』と、靖國神社社務所に怒鳴り込んで來た松平永芳前宮司の無念、『神社のたゝずまひを絶對に變へてはならぬ(改修嚴禁)』との言ひ渡しにも拘らず、一層の參集所を、キンキラキンの大佛殿と揶揄される「二層」の參集「殿」に「改修」した不敬と改稱と悲願無視、且つ菊花御紋を社紋に替へた不敬不見識、靖國神社のたゝずまひを崩壞せしめむと圖つた者は、抑も誰ぞや。



●松平永芳宮司の曰く、『靖國神社も、戰前と異質な戰後の國家による國家護持では危險なので、國民護持・國民總氏子でいくんだと、私は繰り返し申し上げた。‥‥靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見「愛國」・「憂國」を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく權力に迎合したらいけない。權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけないと云ふことを、次の宮司への一番の申し送りにいたしました』(『誰が御靈を汚したのか』)と。

 「ボデイガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだ。靖國の御祭神は、手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇樣でもなさらない警備つきとは何事かと、七年經つた今でも無念」(同上)と云ふに、其の形式を踏襲する總理大臣の政治權力に媚び、亦た一日千秋の如く「公人だ、私人だ」と言ひ訣する二重人格の政治家、靖國神社をして政治の渦中に投ぜしむる政治屋、或は「國家護持・首相參拜」請願一邊倒に終始し、靖國神社を「靖国、靖国」と呼捨てにし、昭和殉難者を「○○戰犯」と改稱連呼する自稱保守の輩に阿諛して、畏れ多くも聖旨を蔑ろし奉り、松平永芳・大野俊康兩宮司の「申送り・悲願・通達」を無かつたものとして扱ひ、其の大精神を、悉く踏みにじつた者は、抑も誰ぞや。



●泉水隆一翁の曰く、『靖國神社に祀られる英靈つて云ふのは、年輩者の方なら、もうお分りだと思ひますけれども、天皇の爲めに戰つた人達が祀られてゐるわけですね。皇軍兵士が祀られてゐるわけですね。日本の爲めに戰つた人達が祀られてゐるわけでは無いんです。明治天皇は、「よくやつた、可哀想だから祀つてあげよう」と言つて、祀つたわけでは無いんです。生きてゐる國民に、「お前達の忠義の心、その魂を受け繼がせろ」と。その爲めに、皇軍兵士を祀つたわけです。追悼施設なんて、誰も言つて無いです。「感謝もしてくれなくていゝ」と。要は、靖國神社に祀られる祭神・英靈は、「後を頼む」と、「後に續いてくれ」と云ふことで、い(逝)つたわけです』(『監督はかく語りき』)と。

 靖國神社「正統」護持を唱へた泉水隆一翁血涙の遺訓は、「承詔必謹」、「勤皇の風を吹かせよ」、「神國日本へ還れ」でありました。靖國神社の本義・正統に復さんが爲めには、斷々然として政治家・流行保守を境内より驅逐して、賀茂百樹・鈴木孝雄・松平永芳・大野俊康宮司の「軍務」を繼承し得て、靖國神社の清淨と静謐を死守しなければならぬ。



●映畫『凛として愛』に曰く、『日本軍に、援軍は來なかつた。ならば、今から援軍を送る。日本を變へる援軍を送る。あなた方の眞實を、痛みを、私達は傳へて行きます』と。

  「援軍」── 備中處士、慟哭して詠む ──
援軍の 來たるを待つに 横槍を 入れたる奴は たぶれ誰が奴
援軍を 送ると聞くに 幾年ぞ 未だ來らず 髮逆立つを
 
 

大詔奉戴日──終戰の日に、痛切に想ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 8月16日(土)23時37分49秒
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  ●泉水隆一翁『靖国神社の真実』に曰く、

「十年ほど前から、「日本は無条件降伏したのではない。政府は無条件降伏ではなく、日本軍が無条件降伏しただけだ」と云う、妙な論旨が出回り始めました。自虐史観を粉砕し、日本人に誇りを持たそうとするお気持ちはようくわかるし、味方潰しみたいになるので言いたくないのですが、いつ自分が死ぬかわからないので言います。違います。法律論的にどうなのか知りませんが、皇軍が降伏したことは、日本が降伏したのです。皇軍が降伏すれば、日本は終わりです。日本政府は違うもナニモありません。当時の国民全員が、そう思っています。またもしあの時、「皇軍は一部条件付で降伏した。無条件降伏でないから、国民は落胆するな」など弁明したら、大暴動になるでしょう。「ならば、戦争続行だ!」 皇軍兵士に、条件付き降伏はないと云うのが鉄則です。

 「勝利か、降伏です」。山下将軍が降伏した英国軍人に、「イエスか、ノウか」を迫ったのは、短絡的でなく、イギリス軍将官に敬意を表して言われたのであります。「無条件降伏」だから、血気盛んな小生らも、「涙を呑んだのです」。潔さが、日本人の美徳です。日本の敗戦は、日本人の潔さが禍した、もっと上手く立ち回れ、外交が下手だ、狡猾にやれなどと、戦後、言われ続けていますが、それは戦後の発想。狡猾でなく、潔く戦い、身を挺し、国家に命を捧げ、「無条件降伏」を受け入れ、整然と軍を収めた皇軍兵士の名誉と誇りを貶めてはいけません。無条件降伏だから、兵士は号泣し、天皇陛下に申し訳なく、慟哭したのです。間違っては困ります。

 戦後、日本ではあまり知られていませんが、自衛隊が初めて海外航海に出た時、各国の軍人が最高敬礼したのは、現在の自衛隊員にではなく、かつての大日本帝国の軍人に対する敬礼であると、言われたそうである。自衛隊の方が語っている。またパナマ運河の機雷除去の掃海作業に派遣された海上自衛隊に対し、当時の敵側にあたるゲリラ部隊が戦闘を中止し、アメリカ軍を支援する自衛隊であるにも関わらず、数百人が整然と敬礼で迎え、「貴国の先人が、国のために身を挺し、敢闘されたことに敬意を表する」と、一斉に「捧げ銃」をしたことに感激したことを書いています。末代まで残る戦いを、皇軍兵士は展開しました。そのことは日本でなく、世界の軍人が知っていて、賞賛しているのです。軍人は栄誉を重んじます。潔さを重んじます。国家のために命を差し出します。「日本は無条件降伏していない」と云う論は、皇軍兵士の名誉を貶めるものと思って下さい。小生らは「無条件降伏」なので、大御心に(頭を)垂れ、敵愾心を収めたのです」と。

 又た曰く、「靖國神社は、『戦争を肯定し、殉国の思想を祀る軍国主義そのものであり、英霊の殉義死節を奉斎する神社』ぐらいのことを、びしっと書いてほしい。それが全祭神のお気持ちだろうと、小生は思う。靖國神社は、「善いも悪いもない」、こう云う神社なのである。軍国主義・(英霊)美化・戦争肯定と云う文言に、反撥ないし違和感を覚える人では、靖國神社を理解したり支えたりすることは不可能であろう」と。

 又た曰く、「醜の御楯と云えば、万葉の句に代表される有名な歌がある。

今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つわれは

 これの解釈は、『大君の命令が出た。最早、我が命のことも家族のことも顧みる必要はない。自分はこれから大君の御楯となって、敵の矢を受けるために、刃を受けるために出で立つ』、即ち――死を捧げます、と云う大句である。醜の御楯とは、戦いで勇戦することではなく、文字通り、天皇の楯となり、敵の矢を受け、覆い来る敵の刃を受ける――。即ち自分の命は楯として、「使い捨てて下さい」と、命を差し出す覚悟を云います。その想いを顕わしたのが、「醜の御楯」だと、小生は「聞きに来る者」あるときは、常に答えている。戦場に向かう兵士は、戦うことが重要なのではなく、命を捧げる誓約が大事です。「一応、命令ですから戦場には行きますが、自分の命が無くなったら怨みますよ」では、戦争は出来ない、将官は兵を「駒」のように動かせない。「命はいりません。どうぞ使い捨てて下さい」。これが「醜の御楯」であり、日本の戦争である。だから、精強皇軍と云う。「妻や恋人の為に」、恣意的に戦うのではなく、「天に代わりて不義を討つ」のが、皇軍なのである。

 大東亜戦争も同様である。大東亜戦争とは、「敵が幾萬あろうとも、天に代わりて不義を討つ」戦争であった。日本の戦争が「侵略戦争だった」とか、「人権無視の特攻作戦」とか、戦後人やサヨクがワアワア云うのは、勝手なことではあるし、自由であるが、その時代がわからないから、戦後の米国歴史観で、西洋的史観で、物事を見てしまい、無知蒙昧の徒になってしまう。まあ、仕方がないことだがね。その時代に生きていないから、まったくその時代を知らない。‥‥だが、戦前の日本は、まったく現代とは違う。似た所は、ほとんどない。そう云う解釈である。現代では、「大君」が理解できない。意味はわかるが、国民の心には、まったく投影されていない。刻印されていない。もう、まったく違う国柄である。

 「命を捧げる兵」がいるから、初めて将官は兵士を、後顧を憂うことなく、兵を敵の矢玉にもさらし、戦場に捨てることも、間髪をおかず、非業な命令さえも出来る。戦場で華々しく倒れるのも、船もろとも海底深く沈んだ輸送船の将兵、食料弾丸なくも餓死した将兵も、「醜の御楯」となって死んだのである。同じ忠誠を尽して死んだのである。だから、国家は尊厳をもってお祀りする。一視同仁。大君の思し召しで、靖國神社に御祭する。そう云う志操を理解できないと、日本の戦争は理解できない。「勝って来て下さい」と、同胞から歓呼の声を受けて出征して来た身である。敵の捕虜になることなど、なんで出来ようか。それならば、潔く死んで名誉を残す。瓦となって死んで行くより、玉となって散ることの方が、名誉ではないか。「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」(『北斉書』)。『立派な男であるならば、むしろ玉となって潔く砕けるべきで、取るに足らぬ瓦のようになって命を長らえるべきではない』。為に、大本営は将兵の名誉を重んじて、「潔く死ぬことを」命令した。これが玉砕命令である。「玉砕」は、「名誉」なのである。だから、生き残った者達、新しく命を産み継いだ戦後人は、敬謙に靖國神社に祀られる祭神に畏敬と尊崇をもって、社殿に伺候して、頭を垂れる必要があるのです。良い悪いではない。それを「侵略戦争」だの、「手先」だの云う人は、バチがあたるのです。本人にはバチが当っているかどうかは、なかなか分からないが、確実にバチは当っているのです。死ねば、はっきり分かります。地獄で閻魔が待っています。

 日本の戦争は、勝つことがよいことなのではなく、「大君の醜の御楯」として命を捧げ、「天に代わりて不義を討つ」(皇軍の本義)が重要なのです。それほど高みに立った戦争なのです。だから日本の戦争は、勝とうが負けようが、誇りに思うことです。靖國神社の正統を受け継ぐとは、日本の戦争そのものを誇りとする。そのことを原点に抱えないと、継承にならないのです」と。



 愚案、昨日は、
大詔奉戴七十年の日でありました。松平永芳宮司の曰く、「(政治家は、)遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました」(『讓ることのできない傳統の一脈』)と。松平宮司、凝視血涙の結論である。

 なほ現代の流行は、外國に向けて「不戰の誓ひ」・「恆久平和の誓ひ」を爲すと云ふ。靖國神社境内への政治家の侵入を、遠慮してもらふ秋に至つてゐるのではなからうか。民主主義を奉ずる政治家が來るから、報道機關が押し寄せ、靖國神社を巡る諸問題が惹起する。而して正午には、不敬事件も發生してゐたと云ふ。こゝは、「帝國の神祇」を祀る「一宗教法人」の齋庭でありませう。民主政治家の拘はる所ではありませぬ。遠慮して下さい。遺族を除く政治家は、「來て戴かなくて、もう結構。否、來るな」である。悲しみは彌益して盡きない。

【不敬事件──護國鐵拳隊長のブログから】
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http://gunkentou.exblog.jp/23171571/
  
 

「我が國」考。

 投稿者:備中處士  投稿日:2014年 7月16日(水)00時06分6秒
返信・引用 編集済
  ●強齋若林先生『強齋先生雜話筆記』卷十三(彪邨岡次郎直養先生謹校。昭和十七年十月・虎文齋刊)に曰く、

「本朝と云ふ詞は、畢竟、吟味してゆけば、少しあたらぬぞ。尤もあの方に對して云つたときは、本朝ではあれども、一つ譯がある。あの方では、代がかはりて、宋の晉の齊の唐のと云つて移り代る故、今の朝廷を前に對して、本朝と云つたもの、此の方では、百王一統ぢやによつて、我が朝・我が邦などと云ふがよいはずぞ」と。



 愚案、稱呼「本朝」を嫌うて「我が國」を推重するは、淺見絅齋先生の師説を重んじたもの、蓋し我が國の稱呼は、『魏志倭人傳』を引くまでも無く、「我が國」と申し上げるのが最もよいと思はれます。「皇國」も、二字にて我が國體を表して、全く餘蘊なし矣。なほ宇内の本つ國の謂ひを以て「本朝」と稱ふるは、誤解を虞れなければ、甚だ吉からうと思ひます。たゞ現代流行する所の「この國」なぞと、我が國を稱呼するのは、洵に遺憾千萬であります。我が國は、我が天皇(「天皇」の訓、保田與重郎翁の如く、「すめらみこと」と御訓み申し上げたい)の大御國であります。時に盛衰がありませうとも、天地生拔きの正嫡、興亡の絶えて無き、皇御國であります。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/25



 本日は、塾頭歸幽の日、謹んで申し上げます。曰く、

「英霊」を口にする時、丁寧語のつもりで「ご」をつけて、「ご英霊」と云う風潮がありますが、おかしいからやめなさい。「お社長」と云うようなものです。「英霊」が尊称です。それと「英霊たち」と云う、「たち」と云う言葉は、これもやめなさい。「英霊」は複数形なので、「たち」をつける必要もなく、また「失敬」にあたります。確かに合祀祭の祝詞奏上の一文に、「英霊たち」と云う言葉はありますが、それは「神々に対して」、人間側の卑称として使われています。小生らにしてみれば、「聞き苦しい」。靖國神社の広報でも、ずいぶん注意していますが、やはり若い神官が多いので、つい「たち」をつけてしまいがちです。

 皆さんが正道に戻して下さい。東條由布子さんが、テレビなどで「ご英霊」とよく口にされているので、正しい呼称のように思われていますが、「英霊」と、直裁的に口にするのは、ご婦人には言いにくいので、東條さんは、「ご英霊」と言われているのでしょう。あの方は言葉がきれいなので、耳障りが良く聞こえますが、それでも間違いは、間違いなのです。でも、東條大将のお孫さんですから、私らではナニモ言えません。戦前は、ご婦人方が、英霊のことを口にするのははばかれるきらいがありましたから、なかなか難しいんですね。とりあえず下々の一般人である皆さんが、「英霊たち」・「兵隊たち」・「彼らは」・「ご英霊」・「横文字のシャツ」・「酒席での議論」、これだけは禁止事項にされることが望みです
」(『靖國神社の真実』)と。
 
 

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