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皇猷翼贊。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月14日(月)19時24分9秒
返信・引用 編集済
   映畫『凛として愛』は、靖國神社に於いて放逐されたが、「日本青年社」・東條由布子刀自・「愛國女性のつどひ・花時計」のご努力により、今や、何人も制止する能はざる勢ひを以て、本來の靖國神社が、此の映畫制作の目的とせる通りに、遊就館改修の目的とせる通りに、俗流保守の思惑を遙かに超えて、國中に擴散しつゝある。洵に皇國の幸福と謂はねばならぬ。蓋し靖國護國の英靈、必ずや嘉納し給ふ所であらう。小生が兄事する御方は、次の如き言靈を寄せて下さつた。知らず、涙、頬を下れり。曰く、


泉水隆一監督は、此の映畫を創作せしものに非ず。正に『英靈の言の葉』を、脚本に寫し取られしものにして、美しくも力強い詩吟の調べに乘せて、朗々と歌ひ上げしもの、即ち『凛として愛』なりと思考する。

 此の映畫は、一篇の詩、民族慟哭の敍事詩なり。監督の意圖する所、靖國神社の、遊就館の入館者増加を乞ひ願ふなどの小事に非ずして、究極する所、皇室の翼贊に外ならざるものと恐察す。

 此の映畫は、今日の皇室に、奉贊の誠を捧げるものなり。その爲めにこそ作られし映畫にして、靖國神社が、如何あるべきか、如何に護持するか、の次元を超えた、神武創業の正史を、正當に理解する爲めの映畫なりき
」と。


 諸彦諸姫よ、願はくば、『凛として愛』の感想を述べ語られむことを。而して之を更に擴散喧傳して、皇猷翼贊に資されむことを、只管ら乞ひ奉ると云爾。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
 
 

壁立萬仭、攀ぢ難し。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月14日(月)00時36分42秒
返信・引用
  実存主義者樣

 おゝ、手嚴しい。小生も、貴兄には負けます‥‥(笑)。然し當然の論、有り難うございました。
  ↓↓↓↓↓
http://6131.teacup.com/dartford/bbs/3048
 
 

是非お声を

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年 2月14日(月)00時22分12秒
返信・引用
  「南京の真実」がたかだか一握りの現代人による理性で人工的に作られたものとするなら、「凛として愛」は、過去における無数の死者たちとその死者たちの思いを引き継いだ泉水監督=塾頭との「共有された感情」によって有機的に醸成されたものであった、と言っていいでしょうね。死者と生者とのコラボレーション、それが映画「凛として愛」でしょう。チャンネル桜という左翼団体が人為的に作った映画に負けるわけがありません。

備中處士さん

>墓參のご提案がありましたが、やはり靖國神社へ御報告・遺志繼承の誓ひに參りたいと、獨り小生は考へてをりました。七月中旬は、靖國神社みたま祭りの日なれば、それ以前の五六月頃が宜しかるべく、ご一緒して戴ける御方がをられるやうでしたら、其の節は、御聲がけ申し上げたいと存じます。

私は塾頭のユーモアと優しさ溢れる人間性が好きでした。軍歴詐称ばかりを論う者が居ましたがそれが真か偽かなどといった実証主義的なものは二義的な問題であって、重要なのは直感的に好きか嫌いか、ということでしょう。

靖国神社への「遺志継承の誓い」。何ら異存はありません。その際は是非私にもお声をおかけ下さい。

それにしましても、故泉水隆一監督のご遺影ですが、塾頭一兵士さんのイメージと余りにもピッタリです。

http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/
 

泉水隆一翁『凛として愛』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月14日(月)00時18分24秒
返信・引用 編集済
   泉水隆一翁『凛として愛』に關して、ネツト情報、竝びに或る御方から貴重な教示を受けましたので、ご紹介いたします。



平成十二年七月二十三日、金城福井忠(泉水隆一)翁、靖國神社へ、初めて映画製作の趣意書を持參す。

平成十四年七月十三・十四日、靖國神社、『凛として愛』を上映。
七月十五日、靖國神社首腦部、『凛として愛』をして中止せしむ。

平成二十一年十二月二十七日。九段會館にて、『凛として愛』を上映。

平成二十二年七月十六日、歸幽。
七月二十三日、杉竝區なるコムウエルホール高圓寺に於いて告別式。



 或る人の曰く、「泉水監督は、平成二十二年七月十五日、『凛として愛』受難の日を確認して、翌十六日の午前○時三分、静かに逝かれたのです。ご葬儀は、七月二十三日。その日付の符合には、驚き戦いた次第です」と。



 愚案、寔に數靈の神祕と謂ふべく、此の七月の十五日と二十三日とは、此の九段塾にとつても、重要なる日として記憶されるでありませう。



 亦た塾頭は、「‥‥『詩吟大和流』をおこし、かつて山崎保代大佐にも稽古なされたという、父上・福井銀城師の下で朗詠を学び、宗家を継承し、金城と号された監督の声は、大和心の正統を発するお声にほかならなかったのです。思えば、「城」を号とされた泉水監督は、その後、道場を閉ざされましたが、映画製作・脚本の世界で、城たる所以を発揮されました。その監督が自らの肉声で製作されたが、映画『凛として愛』だったのです。「プロのナレーターをつかわずに、自分で吹き込んだのは製作費を浮かせたいからだ」と、愚か者が言いました。しかし監督は、いくら声のサンプルを聞いても、納得がいかない、『自分の志操は、自分で語るしかない』というのが結論でした。思えば、泉水監督の公然たる戦いは、一昨年の十二月二十七日、九段会館での『凛として愛』の上映だったのではないでしょうか。ここで、肉声を以て、かの映画製作と上映中止の真相を語られました。

 もっとも、泉水監督は、この映画製作を以て、御自身のお仕事が完成したとは思われておらず、皇国の復興、尊皇精神の恢弘を目指しておられました。正統なる右翼集団の形成をめざしておられました。世論に便乗した靖國神社崇敬奉賛会などではなく、かりにネット上であっても、「正統靖國神社崇敬奉賛会」の形成をもくろみ、それが将来の神社運営に多大の影響を及ぼし、さらには皇室の彌栄を翼賛しまつるものと信じておられました。それが徐々に実現し、映画上映を計画する人々も現れたことに、大いに喜びを語っておられました。一兵士翁は、いまも健在であられましょう。御投稿はかなわなくても、お声は万人が聞いておられる。‥‥」と。



詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁、
泉水隆一監督、即ち、
我が塾頭・一兵士翁の御聲・語りは、『凛として愛』の外、次でも拜聽できます。
  ↓↓↓↓↓
■ユーチユーブ――英靈にこたへる會制作『君にめぐりあひたい』――監督・ナレーシヨン=金城福井忠翁・平成十二年・五十三分――

一、
https://il.youtube.com/watch?v=bWrCYiJqcpg&feature=related

二、
https://il.youtube.com/watch?v=1hhpvctVJ0I&feature=related


■ニコニコ動畫――日本女性の會「そよ風」イベント『凛として愛――泉水隆一監督は、かく語りき』――肉聲=泉水隆一翁・平成二十一年十二月二十七日・於九段會館――
  ↓↓↓↓↓
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223


*****


竹屋光晶樣

 御叱責、難有く拜受いたしました。九拜
 
 

塾頭!

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 2月13日(日)23時00分0秒
返信・引用
  矢張り、矢張り・・。
塾頭!あの映畫は凄いですよ。餘計なことはまるで云はない。
單刀直入だ。それが胸を打つ。全日本人に觀ていたゞきたい。
慟哭の叫びだ。靜謐なる靖國神社を・・。英靈の思ひを・・。
 

うろたえるな、さうおほせられるであろう

 投稿者:竹屋光晶  投稿日:2011年 2月12日(土)23時45分15秒
返信・引用
  備中處士 様

「九段塾」の大看板は重たうして、七月になりましたら、「九段塾・繼承篇」とでも改めたき所存、と。

なんとおほせられるか。重き看板を背負う者なくして、この国の行く末があるやいかん。

靖國神社へ御報告・遺志繼承の誓ひもよろしかろう。しかし、尊皇・勤皇は当然のこととして受け継いできたこと。これまで通りでよろしかろうと、さう思ひます。
 

嗚呼、哀しいかな哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月12日(土)20時38分29秒
返信・引用 編集済
  ご閲覽の皆樣 硯北

 今の度びは大變出來、覺悟はしてはをりましたものゝ、九段塾管理の任に在る者としては、こゝに謹みて、塾頭一兵士翁、即ち泉水隆一監督なり矣、と申し上げねばならぬやうであります。

 一読者樣の投稿に據つて、彼の泉水監督の文の調べ・言ひ廻しは、我が塾頭ならではのものにして、一兵士翁に非ざれば、果たして誰ぞや、と。暫し呆然‥‥。所用に紛れつゝも、獨り悲しみに堪へ、然し如何としても之を轉載せずんばあるべからずと愚考するに至り、「招魂――泉水隆一監督」三篇を書かせて戴きました次第です。

 然し昨晩、泉水監督とメールの遣り取りをされてゐたてふ別の御方のメールによりますと‥‥、泉水隆一監督と塾頭一兵士翁とのメールアドレスが、遂に一致してしまひました‥‥。塾頭、逝いて凡そ二百十日、是れ、塾頭の御導きと恐察いたします。

 塾頭とは、掲示板以外にて、小生、實は四百通を超えるメール交換をさせて戴いてをりました。掲示板には書けないことも、それはゝゝゝ‥‥。たゞ小生も、塾頭の御素性・御齡ひらしきことは、敢へて聞かないやうにしてをりました。かつて櫻掲示板にて、殊更に此の問題を提起する輩が續出したもので‥‥。よつぽど、水島総はじめ、一兵士翁の追放を圖りたかつたんでせうね。自稱保守の掲示板は、もう、呆れ果てたと申さうか、席を同じうするを耻ぢます。

 また塾頭歸幽の節は、必ず連絡する手筈となつてゐる、と。或は小生、メール・書翰の到來を、迂闊にも見落としたかも知れませぬ。これも運命と受け止めてをります。塾頭は峻嶮にして優しく、且つ樂しき御方でございました。一兵士翁の、彼の御聲を聞きたかつた‥‥。涙も枯れ果てゝございます。彌益の靈格冥福の向上を、只管ら懇祷申し上げます。

 塾頭不在なれば、靖國神社の現状は知るべからず、「九段塾」の大看板は重たうして、七月になりましたら、「九段塾・繼承篇」とでも改めたき所存、引續いて、我が塾頭・一兵士翁、即ち泉水隆一監督の遺志、即ち尊皇・勤皇の御志を紹繼して參りたいと考へてをりました。

 墓參のご提案がありましたが、やはり靖國神社へ御報告・遺志繼承の誓ひに參りたいと、獨り小生は考へてをりました。七月中旬は、靖國神社みたま祭りの日なれば、それ以前の五六月頃が宜しかるべく、ご一緒して戴ける御方がをられるやうでしたら、其の節は、御聲がけ申し上げたいと存じます。

 九段塾塾頭・一兵士翁、何ぞ遽かに吾人を捐てゝ逝ける。嗚呼、哀しいかな哉。久しく歔欷して、實に堪ふる能はざる也。情を陳べ、以て祭る。魂魄、知ること有らば、庶幾はくば、饗け給へ。

 塾頭有縁の皆樣には、今後とも、何卒、御引き廻しの程、切に御願ひ申し上げます。恐懼九拜

     眞金吹く吉備の中つ國、黍房書屋にて、備中處士、謹みて白す。
 
 

(無題)

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年 2月12日(土)17時22分15秒
返信・引用
  備中處士さん、皆さん

間質性肺炎という病名といい、倒れた時期(一昨年9月)といい、何もかもが一致しています。

認め難いという皆さんのお気持ちはよく解かりますが、私は塾頭=泉水隆一監督であった、という確信に至りつつありますね。

ここには泉水監督のファンも来られているようですが、機会を作って皆で墓参しようではありませんか。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2011年 2月12日(土)15時10分25秒
返信・引用
  管理人様

何か書けるような者でもないので、いつもROMさせて頂いております。
泉水隆一監督につきまして御息女と思しき方のブログがあります。
http://pearl.x0.com/pg_blog/diary.cgi?no=142

遅ればせながら泉水隆一監督のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
 

推論すべからず

 投稿者:竹屋光晶  投稿日:2011年 2月12日(土)07時13分21秒
返信・引用
  我々が考えるべきは、塾頭様から出された問いに対する答えを考えることである。「私は誰でしょう」と問われたことは一度たりとも無かった。むしろ、「私が誰であるかは問題ではない」と仰せられたのは、問題の本質をすり替えられないように細心の注意を払っておられたからであろう。
 

おや?また別の情報?

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 2月12日(土)01時00分8秒
返信・引用
  早とちりかなあ・・。
別人であつて欲しいです。
そしたら目茶苦茶怒られるなあ・・。はは・・。
 

Re: 有り難き御便り拜戴。

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 2月12日(土)00時49分25秒
返信・引用
  > No.1079[元記事へ]

嗚呼、なんとやはりさうですか。嗚呼・・・・。
「懍として愛」、凄い映畫だ。塾頭はかつて仰つた。「英靈が俺の背中を押してゐる」と・・。
さうだつたのだらう。それは慟哭の思ひだ。本當の日本を取り戻せと・・。神代へ歸れと・・。
 

或るご常連からの御手紙。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月12日(土)00時45分18秒
返信・引用
  又た別の御方から、メールを戴きました。謹んで一部轉載させて戴きます。謹白


*****


‥‥

 掲示板は、毎日拝見しておりますが、浅学菲才の身にて、ROMでございます。

 一読者様の御投稿を拝見して、すぐ思いましたのは、年齢が違うのでは?ということと、遺骨収集についてのお考えが違うということでした。

 一読者様は、実際にお会いして、同一人物のご印象を持たれたのでしょうから、その可能性は大きいのかも知れませんが…

 泉水監督と一兵士様は、同じ魂の仲間ではありますが、此岸では別の肉体であるように思っていました。監督の残された「凛として愛」は、私ももっと広めて行きたいと考えています。

 塾頭なら、何か以前のように連絡がありそうなものですが…、病院も同じなのでしょうか?

‥‥
 
 

有り難き御便り拜戴。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月11日(金)21時53分11秒
返信・引用 編集済
   或る御方より、次のメールを頂戴した。ご本人の承諾を得て、一部轉載させて戴きます。本道に有り難うございました。九拜


*****


 時々、九段塾の掲示板を拝見していました。

 泉水隆一監督とは、一昨年に、九段会館で「凛として愛」の上映会を企画した時に、監督に連絡をとり、上映会の許可を頂いてから、その後、親しくさせて頂いてました。

 泉水監督は「ネットはやっていない」と言っていたのですが、九段塾の掲示板を見た時に、塾頭は監督ではないかと思っていましたが、監督はネットの事を言わなかったので、私も知らないフリをしていました。しかし、お見舞いに行くと、時々パソコンを片手で、一生懸命打っている時がありました。きっと九段塾に書き込みをしていたのかもしれないですね。

 二月には、映画作製の計画を話したりして、すごく元気で、四月には『少年日本史』の本を元にして、歴史勉強会も計画していましたが、病状が良くならずに、勉強会も延期になってしまいました。

 六月に危篤状態だと、家族の方から連絡が入り、病院は私の家から五分ぐらいの場所でしたので、急いで行ったのですが、そこで「凛として愛」についての感想を送ってくれた方々のメールを読んだら、翌日、翌々日と元気になって、お医者さんも、「奇跡だ」と言われました。

 監督が残してくれた「凛として愛」を、少しでも日本の本当の歴史を知ってもらえるように、多くの人に拡散していこうと思います。本当に素晴らしい映画を残してくれて、監督には感謝しています。

 
 

驚愕未だ醒めやらず

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 2月11日(金)20時22分59秒
返信・引用
  「懍として愛」の泉水監督が塾頭ですつて?!!!
そして昨年7月にすでに歸幽されてゐたとなん!
本當なのでせうか。信じられませぬが・・。しかしさうとしか思へぬか・・・。
嗚呼、何といふことだ。亦いつか、あの御叱責のお聲が聽けると思うたに・・。
つゝしんで御冥福を熱祷し奉る。
 

招魂――泉水隆一監督、其の三。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月11日(金)18時43分40秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 靖國神社遊就館の映像ホールは、映畫『凛として愛』を、理想的な條件で上映させるため、プロジエクターや客席など、徹底的にこだはつて設計された由。其の映畫が完成して、靖國神社に於いて、平成十四年七月十三日・十四日と上映され、其の素晴らしき映像と共に、泉水隆一翁のナレーシヨンは鳴り響く。何と云ふ、清澄なる、澁い聲であらうか。

 然し遂に十五日、上映中止に追ひ込まれ、放逐された‥‥。小田村四郎靖國神社總代等の策謀と云ふ‥‥。悔恨憤怒は、如何とも爲し難く、癒されることは無い。悲歌慷慨‥‥。然し此の映畫を復活恢弘することは出來る。それこそ、泉水隆一翁を鎭魂復活することに他ならない。

 諸彦諸姫よ、此の紀元節の日にこそ、「日本の新しい時代」を始まらせようではないか。あらためて復古の「志」を堅く持たうではないか。泉水隆一監督と共に‥‥。



■『凛として愛』――脚本・監督・ナレーシヨン、共に泉水隆一翁――

一、
http://www.youtube.com/watch?v=Hpz5rFqI7jA

二、
http://www.youtube.com/watch?v=shv750vHcIU&feature=related

三、
http://www.youtube.com/watch?v=vQOQm52iAnk&feature=related

四、
http://www.youtube.com/watch?v=MjhR4NvXiEs&feature=related

五、
http://www.youtube.com/watch?v=kTP3t4cdL3Q&feature=related

六、
http://www.youtube.com/watch?v=mWMcs7Cv9f4&feature=related

七、
http://www.youtube.com/watch?v=Cx5Wyl8C8YI&feature=related



○オープンニングナレーシヨン

 國家によつて、安全と平和、生命と財産を護りきれなかつた國民の悲慘さを、私たちは知らない。この一篇を、明治開國から大東亞戰爭に至るまで、祖國のために、力の限り戰つた幾千萬の將兵と、銃後の守りに盡くされた總ての先人に、感謝と畏敬の念をこめて捧げます。

 昭和二十年八月――廣島・長崎に、原子爆彈が投下される。八月十五日、日本は、三年八ケ月に及ぶ大東亞戰爭に終止符を打つた、建國以來、初めての敗戰であつた。この日から、日本の近代史が、ひび割れた鏡のやうに歪んで傳へられていく、汚辱の日となつた。

 戰爭に負けたのは、仕方がない。だが、日本人は、戰ひに敗れても、誠實さが必要だつた。日本といふ國に、祖國に盡くした、幾百萬の英靈に、幾千萬の先人に、愛をこめて、感謝を捧げるべきだつた。

 ‥‥が、果たせなかつた。多くの日本人が裏切つた。戰後の荒廢した日本に、赤旗がなびき、社會主義思想が廣まり、戰勝國による一方的な東京裁判が開かれる中で、日本の近代史は、僞りに滿ちた惡意のもとに書き替へられていつた。

 私たちの國には、明治維新以來、幾たびかの困難に、敢然と立ち向かつた日本民族の、不屈の歴史があります。たつた一つしかない命を、國家に同胞に捧げた、凛とした眞實の歴史があります。その扉を、今、開け放さう。

凛として愛

 六十數年前、日本は、アメリカを始め、世界百十數國を相手に大戰爭をした。しかしその戰爭は、國家國民の安全と平和を守るため、亞細亞の安定を築くため、世界の平和を乞ひ願つたものである事に間違ひなかつた。戰場に出て行つた將兵は、皆な同じ考へであり、力の限り、彼等は戰つた。だが、事、志と違ひ、戰ひに敗れたことで、日本の掲げた理想は實ることはなかつた。

 日本は、敗れたままでゐる。平和を享受する現代日本から遠く離れた異國には、未だ收集されない將兵の遺骨が、山野に埋もれてゐる。いつになつたら、日本は、戰ひに散つた將兵を暖かく迎へてくれるのだらうか。全國民が祈りを捧げてくれるのだらうか。

 靖國神社に祀られる二百四十六萬六千餘柱の英靈は、未だ侵略戰爭の汚名をきせられたままでゐる。かつて南方の島々で戰つた日本軍に、援軍は來なかつた。ならば、今から援軍を送る。日本を變へる援軍を送る。あなた方の眞實を、痛みを、私達は傳へていきます。

‥‥‥‥

○エンデイングナレーシヨン

 日本よ、陽はまた昇る。

 祖國日本を防衞するために、陸に海に空に散華された方々に、私たちは誇りと叡知を、此の胸に抱き、凛として愛を捧げる。それがあつて、初めて、日本の新しい時代が始まる。



*****

 高畫質DVD『凛として愛』は、下記の「愛国女性のつどい花時計・『凛として愛』拡散プロジェクト」にて、頒布して戴けるやうであります。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
 
 

招魂――泉水隆一監督、其の二。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月 9日(水)19時48分54秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

http://ameblo.jp/sakurara-f/entry-10593755283.html
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
  ↓↓↓↓↓
【日本女性の会「そよ風」イベント『凛として愛』――泉水隆一監督は、かく語りき】(平成二十一年十二月二十七日。九段会館にて――車椅子の泉水翁――上部サイトの映像を下に、一部改變させて戴いた)

「泉水隆一でございます。一寸身体が今の所、不自由しているんですけれども、やがてまた元気になると思いますんで。

 今日、こゝに私が参りましたのは、この映画が出来たと云うか、制作を始めたのは、平成十二年の暮から、十三年、十四年、靖国神社百三十周年を記念して作ると云う事で、三年間に及んでですね、この映画を制作しました。

 たゞ皆さん、ご覧になってお分りの通り、今までの、こう云う映画の中には無い、言い回しと云いますか、一寸違った趣向が全編に出ていると思うんですね。それは「日本は戦って来たんだ」と、戦後六十余年たって、今「日本解体」と云う言葉が出ていますけれどもね、もう終戦直後から、「日本解体」と云うのは、始まっているわけですよね。それからずっと、自虐史観と云うんですか、「日本が悪かった」と、あの映画の中でも、名越先生も仰しゃっていましたけれども、「日本は悪い国だった」と云う話があった、と。

 それを靖國神社は、それまで黙っていたんですけれども、「一つ打って出ようと、本当の話を言おうじゃないか」と云う事で、その映画を制作する最高責任者TOPが、それを考えましてね。打って出ようと云う事で、「日本と云う国は、神武東征以来ね、大和民族として、天皇の為めに戦って来たんだ」、そう云う国であると、そう云う事を最初から言おうじゃないかと云う事で、この映画の制作はスタートしたんですけど、ただ余りに長いスパンがありすぎるんで、大東亜戦争と云うか、明治以来の近代戦争と云う事で、そこの部分を取り上げて、「常に日本は武器を取り、戦い続けて来た」と、そう云う事実を、若い人に知って貰おう。この映画はね、これを見た人が、日本民族の、大和民族のね、魂に触れて、勇気を持って映画館から出て行って貰いたかったと、そう云う思いを籠めて作ったのです。

 ところがこの映画は、靖國神社で二日間しか上映されなかった。

 ネットを見ますと、中国・韓国からの抗議によって、この映画は上映禁止になったと云う事が、なんか出回っていますけれども、あれは全くの嘘です。何方がそれを言い触らしたのか、私には判りませんが、中国・韓国からは、抗議も一遍たりともありません。この映画を中止させたのは、保守陣営です。靖国神社と云う所には、様々な利益集団・権威集団、主導争い・主権争い・利権争い、これも同じなんですね、その中で、この映画は上映禁止にしようと云う事で、そう云う措置が取られた。だから、これは「泉水隆一監督の個人の映画である」と云う事で、二日間だけ上映されて、それで現在、靖國神社、私は何も靖國神社と喧嘩しようと云うんじゃないんですけれども、これは「関係ない」と云う事で、放逐されたのですね。

 それが死な無いで、これを最初に取り上げたのは、日本青年社と云う日本最大手の右翼団体が、この映画を数万枚コピーして、配布したんですね。その後、会場にも御見えになっていらっしゃると思いますが、東條由布子先生が、ご自身の講演会で、常にこの映画を上映されて、それを見た方々が、またそこからコピーしたりして、全国に行き亘って行った、と。で、最後にね、日本女性の会・そよ風と云う所から、私の所に電話がかゝって来て、「どうしても、この映画を上映したい」と云う事で、「どうぞ」と云う事になったんですけれども、この軍人会館で、たった三百メーター前には靖國神社がありますけれども、そこでこの映画が上映されたと云う事は、非常に画期的な事じゃないかなと、私は喜んでおります。そよ風の皆さんには、本当に感謝に堪えないです。

 この映画の中で、本当に言いたかったのは、「皇国史観」です。今あまり出ていない「皇国史観」に則ったものでやって行こうと云う話が、最初はあったんですけれどもね。やはりいきなりそこから入ると、若い人にはよく分らないと云うのと、戦前が悪く言わされてるんで、迷いも出るだろうと云うので、所々ソフトになっています。

 でもその中でね、あの特攻で出て行った人達が最初に出ていましたけれども、私がこの映画で言いたかったのはね、日本人と云うのは、天皇の下に身を投げ出してね、死んで行ったんだと。高天原から、瓊々杵尊と云う神様が、九州の高千穂に降り立って、その時に二人の部下をつれて来た。この国を平定しろ、自分を服はぬ者共を平定して、日本と云う国を作ると、そう云う神話があったんですけれども、その神話がもう過去になってしまっている、埋没してしまったと。これを掘り起こしてね、もう一度、大和民族の原点を作り直そうと云うのが、この映画の大元にあるんですね。

 そこで、その祖先の中に、大伴家持、皆さん知っているでしょうけど、

海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)、山行かば草生(む)す屍

これは七百年代の聖武天皇の時に、聖武天皇が、たまゝゝその時の大伴家持、その時代では、大伴家は少し落ちぶれてましたけど、「お前の家は、お前の一族は、よく天皇の為めに尽くしてくれた」と。その御礼として、大伴家持が、『海行かば水浸く屍、山行かば草生す屍』、大君の為めに、何時でも私達は死んでみせると、『のどには死なじ』、普通の死に方はしませんよと、そう云う事を言っている。その歌が、ずっと明治の時に戻って来て、靖國神社に祀られる英霊の人々に捧げられている。

 この精神をね、つまり日本人と云うのは、今、最近、日本と云う国が、もう殆んど無くなって来ている。こないだ、天皇陛下、今上陛下ご在位二十年と云う事で、御祝いされているけれども、根拠が無いですよね。あの今上陛下が、我々日本人の祖先であると云う事を、果たしてどれくらいの国民が知っていたか。それを知ればね、今、外国人参政権とか、色々問題が起きてね、デモしたりして、何とか食い止めようとしてますけれども、こう云う日本解体と云うのは、もう六十年前から始まっているわけですから、それを取り戻すにはね、もう一度日本人が、日本人としての原点に戻らないと無理じゃないかと、私は思っていますね。

 だからあの映画で、大和の司令官が三千の兵を連れて、「沖縄に特攻するのは嫌だ」と、「無駄死には嫌だ」と言った。「有意義な死に方をしたい」と言った。それを参謀が、「そうじゃないんだ」と、「一億総特攻の先駆けとなって欲しい」と言ったら、「それなら分った」と。何が分ったかと云うと、「天皇の為めに死んでくれ」と、そう云う事を言ったわけね。「それなら分った」と。だから三千の兵も、皆な死んで行ったわけですね。

 これは防人の『万葉集』に一杯出ていますけれども、「防人の歌」、皆さんご存知かどうか、一寸判りませんが‥‥。飛鳥・天平の、遙かな時代からね、日本人の祖先は、自分は九州の防人に防備に行かなきゃいけない、と。自分は、美しい妻がいる、可愛い妻がいる、子供達もいる、この家族と別れる事は出来ない。でも「今、天皇の命令が下った」と、益荒男として行かねばならないと言って、出て行ってますね。

 つまりこれは、自分は醜いかもわかんないけど、天皇の前に立ち塞がって、『醜の御楯』(しこのみたて)となる、と。この精神が、日本人の原型だったわけですね。だから、天皇が海を行くならば、自分も海の屍となろう、藻屑ともなります、と。天皇が鞭を揮って叱咤激励して山を行くならば、自分達も草生す草莽と成り果てましょう、と。そう云う気持ちを、あの時代からずっと持ってきて、それが大東亜戦争まで来てるわけですね。それが甦ったのが、あの雪の、幕末に雪を蹴散らして桜田門に殺到した維新の獅子達がね、大老井伊直弼の首をあげてから、激動のように、また古き時代の日本人の血が沸騰して近代になって来たんですけど、それが終着点が、大東亜戦争で終ってしまったんですね。

 だから今の日本人は、父親を殺す、母親を殺す。また子供を殺しても、何んとも思わない。娘を殺す、娘同士でも殺す。そこには何の、かつての日本人としての、美しさも節操も無くなってしまった。これはやっぱり、タガが外れたと云う事だろうと思うんですね。自分達の祖先が何処にいるのかも判らない。猿から生まれたわけじゃないですね、日本人は。神から生まれて来た。だから尊かった。だから自分達の祖先である天皇の為めならば、身を挺してね、矢弾を受けませうと云う事で、戦って来たわけです。

 靖國神社に祀られる英霊って云うのは、年輩者の方なら、もうお分りだと思いますけれども、天皇の為めに戦った人達が祀られているわけですね。皇軍兵士が祀られているわけですね。日本の為めに戦った人達が祀られているわけでは無いんです。明治天皇は、「よくやった、可哀想だから祀ってあげよう」と言って、祀ったわけでは無いんです。生きている国民に、「お前達の忠義の心、その魂を受け継がせろ」と。その為めに、皇軍兵士を祀ったわけです。追悼施設なんて、誰も言って無いです。「感謝もしてくれなくていい」と。要は靖國神社に祀られる祭神、英霊は、「後を頼む」と、「後に続いてくれ」と云う事で、言ったわけです。

 だから靖國神社と云うのは、追悼施設でも何んでも無いし、あそこは誓いを、生きている国民が、まず前に行って、「分りました」と。「いざ、国難があれば、私も、あなた方の後を追って、この国を守ります」。我々にとっては、この国ですけど、天皇陛下が御製を作られた時に、この国を守る為めに、「我が国の為めに尽くせる人々」と。天皇の言う「我が国」と云うのは、「私の国だ」と云う事を言ってるわけですね。我々が、私達の国・日本と言っているのと違うわけです。天皇が「我が国の為め」と言ったらば、畏れ多い事ですが、平たく云えば、「俺の国だ」と、天皇は、そう云う事を言っている。それを戦前は理解していたが、戦後は理解されてないわけですね。

 だからそう云った問題を、本当はあの映画で、『凛として愛』でね、最後の最後まで、そう云う日本人の原型を描きたかったんだけれども、中々時間も無いんで、戦いの中で、それを見せて行った。だから特攻の人達も、「何処か死に場所があるだろうと、祖国のた為めに自分がやろう」と、そう云う事を、皆さん仰しゃってるわけです。最初に出て来た小母さんは、今の若い人は、「国の為めに死のう」なんて言わないだろう。ま、最近、よくね、「恋人のために戦った」とか、「お母さんのために戦った」と云うように、確かにそう云う事を言う人も、戦後ね、いますけれども、日本の軍隊は、そう云う風になってないわけですよ。

 天皇に忠誠を尽くす、軍人徴用、誇称して、誓紙を出しているわけですね。天皇に命を差し出すと云う、この精神をね、もう一度、僕は呼び戻して来ないと、日本の大和民族、日本民族と云うのは、蘇生出来ないだろう、と。

 ま、話は一寸色々飛んでいますけれどもね、この『凛として愛』と云う映画は、そう云う想いが背景にあってね、作られたんだ。そう云う想いを持って、もう一度、また家へ帰って見て戴ければ有り難いなぁと思います。話がまだ山のようにありますが、短い中で、自分の言いたい事を言いましたんで、これで終りたいと思います。どうも本日は、暮にも関わらず、この映画のためにお越し戴いて有り難うございました」と。


http://ameblo.jp/rintositeai/entry-10680081580.html
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【一億国民に崩壊の危機】(平成二十二年一月六日)

「日本が日本であるために、

大和民族のふるさとへ還れ――神国日本へ――。

汝臣民は、父母に幸を尽くし、兄弟弟妹仲良く、朋友互いに信義を以って交わり、
人々に対し慈愛を及ばすようにし、知識才能を養い、善良有為の人物となれ。
そして万一国家に緊急の事態おこらば、大義に勇気を奮い起こして、一身を捧げて、
皇室国家のために尽くせ。

あらたな教育勅語を以って、日本は神の国に還る。

尊王の国、勤皇の国として、皇祖皇宗の子孫として、日本国民一億は、遥か悠久の大義の昔に引き返す」と。
 
 

招魂――泉水隆一監督、其の一。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月 9日(水)19時46分12秒
返信・引用 編集済
   迂闊にも迂闊、寔に迂闊なるかな、――たゞ涙、流れて止まず――。如何に悔むも、逝きし歳月は歸るべからず。何方か、「泉水隆一」監督を知る御方、其の志操、其の行藏を、是非とも御紹介せられむことを。

 彼の幻の映畫『凛として愛』を謹作(脚本・監督・ナレーシヨン)し、江湖に多大な感銘を與へた、泉水隆一監督がみまかられしことを、「一読者」樣の示教から知つた。謹んでこゝに、追悼の意を表します。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/77
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/673
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/674


■泉水隆一、本名・福井忠翁

平成二十二年七月十六日午前○時三分、間質性肺炎に因り歸幽、享年六十九。法謚・忠賢凛徳。
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http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/


 嗚呼、泉水隆一監督‥‥。其の御志は、『九段塾』にて繼承せむことを、微力を耻づと雖も、こゝに御誓ひ申し上げます。願はくば、來り坐して、ご照覽あらむことを。

 監督を顯彰されし關係各位の御文、謹んで轉載する事を、何卒、御許し下さい。



■泉水隆一翁の曰く、

http://ameblo.jp/rintositeai/entry-10680084559.html
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【靖國神社製作『凛として愛』撮影ご協力頂いた皆様方へ】(平成十四年九月十八日)

「前略、突然ながら、お手紙差し上げます。

 皆様に撮影ご協力頂いた映画、『凛として愛』に関してのことです。もう、既に皆様方の中には、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、『凛として愛』は、去る七月上旬には完成をし、七月十三日から始まる靖國神社恒例のみたま祭りに、「こけら落とし」された新・遊就館映像ホールで上映されましたが、上映は二日間のみで、神社側の一方的な判断で、それ以降は、上映中止の措置がとられました。

 中止理由は、中国・韓国からの反論、抗議を恐れるためでした。神社の中でも、若手職員の中からは、「映画は中・韓を恐れず、堂々と上映すべき」という声も、陰にはありましたが、首脳部は「トラブルに巻き込まれたくない」という、もっともらしい理由を楯に、上映中止を断行したのです。英霊の汚辱を晴らす、本作品の上映よりも、「トラブル」を嫌ったのです。神社側の言い分は、日本外務省同様に、「国際的な配慮が必要」というものでした。

 神社に祀られる英霊は、身命を投げうって、国家のため、同胞のために地に伏しました。その英霊のおかげで、靖國神社は、今も現存しています。英霊のおかげで、靖國神社に勤める神職・職員の豊かな生活は成り立っています。どんなに世の中が不況に陥っても、彼らの生活に影響を及ぼすことはなく、多くの参拝者の奉納金で、豪華なマンションを彼らは建設し、毎日のように酒席を設け、何の経済的不安もなく、楽しい生活をしています。それはいいでしょう。神社の神職・職員が、全てを英霊のために投げうっているならば、私は彼らの生活にまで斟酌する必要はありません。

 しかし、現実は違う。私は二年間、靖國神社に勤務して、映画を制作してきました。普通の人が垣間見られない、裏の姿も見ることが出来ました。これも英霊のおかげでしょう。英霊が、私に真実を覗かせているのだと思っています。私は、なにも靖國神社の本当の姿を暴露するつもりは、今日の所はありません。いいたいことは、彼らが保身に走ったことです。トラブルを防ぐというのは、詭弁であり、要は韓国・中国からの、あるいは左翼系からの抗議・攻撃に身を曝すことを嫌がった、という、ただそれだけの理由です。安穏とした生活をしていたいだけなのです。訪れる遺族には、いかにも英霊への崇敬を果たしているような言葉をいい、尊敬を抱かれることが好きなだけなのです。彼らは、神社がぼろぼろになっても、正しい歴史のために、英霊のために闘うという思いは、まったくありません。政治的に全てを計ろうとしているだけなのです。戦後の日本がだめになった縮図が、現在の靖國神社運営首脳部に見ることが出来るのです。

 考えてみれば、戦後の靖國神社は、戦前の靖國神社と名称が同一なので、ついつい、私たちも靖國神社という名前に騙されて、神社の職員は、全て英霊一筋だと考えてしまいがちですが、かれら神職は、たまたま、神学大学を卒業後、一般人と同様な感覚で、靖國神社という所に勤めただけのことで、英霊がどうのこうので就職したわけではないということが、二年間、彼らと共にしたことで、そのことがよくわかりました。またまた、靖國神社の悪口になりましたが、今日は、それは極力押さえるつもりなのです。真実は、別の機会でしたく考えています。

 本日、私が言いたいのは、普段は≪中国・韓国に屈するな≫、≪正しい日本近代史を≫等、口にしながらも、いざとなれば、保身に走った現在の靖國神社首脳部は許しがたいという思いを、皆様に伝えたいということなのです。欺瞞という衣をまとった通常人が結束し、神社を牛耳っております。英霊の汚辱を晴らすために闘うという姿勢は、何度も言うように、まったくありません。あるのは「闘っているぞ」というポーズと、参拝者が減ることと奉納金は減じることだけが、日常の心配の種というだけの、靖國神社にいるべきでない人々が参集していると、私は考えています。決して、私の思い過しでも、偏向ではありません。二年間、私は、彼らの日常会話を耳にし、言葉を交わしてきました。裏も表も見てきた、私の靖國観です。

 今まで、皆様には何のご連絡もせず、このような突然の手紙を見て、さぞかしお驚きのことでしょうが、話を進めます。実は、上映中止の後、神社側から他の団体に映画を譲渡して、その団体名で映画を上映したいという意向が伝えられました。その話が決まった段階で、皆様にはご連絡しようと考えていたために、ご通知が遅れました。申し訳ございません。私は神社側が、≪トラブルに巻き込まれたくない。しかし、どうしても映画は上映したい≫という言葉を信じて、「譲渡という行為そのものが卑劣・卑怯」と、心に思いながらも、それでも、映画が上映できるならと考え、譲渡することに承諾をしました。

 しかし、神社と譲渡先の団体とのやりとりで、やはり、中国・韓国から抗議がくるような内容は削除、一部修正して上映したいという話が、私の方に伝わってきましたので、私は、即座に譲渡の話は断りました。何の修正もなしに譲渡することを条件として、譲渡を承諾したにも関わらず、彼らは、再度、姑息にも、今度は譲渡先で修正してから、靖國神社で上映するという密約をしていたようです。

 英霊をないがしろにし、保身のみに汲々とする神社に、現在は、未練も魅力も、私は持っていません。従い、戦後、歪められた日本近代史を破棄し、正しい英霊の歩みを国民に知らしめようと企図した本作品は、靖國神社では上映できなくなりました。出来なくなったというより、私の方で、こんな神社で上映してほしくないという気持ちが強く、断ったというほうが適切でしょう。

 「なんとか上映するために譲渡したい」という神社側の言葉に、またしても騙されたという思いが強くあります。本来は、この映画は「日本を変える」、「日本の正しい近代史を描き、英霊の汚辱を晴らしたい」という意向を強く主張された花田権宮司の意向に従って、制作がスタートしています。しかし、どういう悪霊が動き回ったのか、花田権宮司は、制作途中で担当を外され、新たな人事異動で、現在の首脳陣が形成されました。それから英霊の真実を伝えようとする『凛として愛』に、徐々に圧力がかかりだしました。色々な噂が私の耳に飛び込んできます。
「宴会シーンに神社の人間を使い、出演料を浮かせようとしている」、
「監督は左翼思想があるのではないか」、
「どうせ、金で雇われてやってるんだから、次は共産党のものもやるんじゃないの」、
などなど、個人的中傷の噂です。本作品は私が中心になっているので、私を腐らせて、作品から降りてくれれば、作品が完成せず、彼らにとって最都合なのでしょう。スタッフ一同とも嘲笑しながら、私たちは構わずに、初期の目的どおり、映画制作を続行しました。

 そして、今年の六月下旬には、一応の完成を見たのですが、神社側と神社の上部組織である総代会からの意見として、中国・韓国を≪悪く言うことは避けたい≫ということが伝えられました。日本近代史を描く映画で、≪悪く言うことは避けたい≫という、驚くべき稚拙な歴史認識に、私は驚愕しました。悪く言っているのではなく、事実を描いているだけです。それは皆様にお送りしたプリントをご覧になって頂ければ分かることです。そして、幾分かの修正が出ました。私は忍の一字を心に呑んで、映画上映のために主張に影響がない限り、修正できることは、神社の意向に沿った修正を致しました。

 そして、いよいよ、明日が本番上映という時に、総代の一人である阿南総代と小田村四郎総代から中止命令が出たということで、わずか、この二人のために、映画上映は中止となりました。所が、本作品をなんとか上映したいという神社の人々が裏で動き回り、神社としては社報やポスターで『凛として愛』を大々的に宣伝し、そのための招待客を大勢呼んでいる手前、なんとかみたま祭り期間だけは上映したいと、小田村氏と交渉し、当日、「本作品は神社の意向に沿ったものではなく、泉水隆一監督個人の歴史観による作品であるので、このような作品を上映することに至ったことをお詫びします」という、トンデモナイ挨拶文の紙が招待者に配布される中で、本作品は二日間だけ上映されたのです。

 なんという常識のない、公式挨拶であろうか。これが現在の神社執行部の志向なのです。それでも、映画は上映されたので、満員の観客は至る所で泣いていました。山口県から来たというお年寄りの団体が、「いい映画を見させてもらった。冥途の土産になります」と、私の隣で話をしていたのを聞いて、さすがに私も涙を流しました。映画を上映してよかったと思いました。

 少し、横道に逸れてしまいましたが、現在、私は靖國神社に祀られる英霊そのものは、大切にしたいと考えておりますが、現在の靖國神社執行部である、湯澤宮司・三井権宮司・山口総務部長の三人を信じてはおりません。又、神社に上映中止を迫ったと言われる阿南総代(阿南大将の遺児)・小田村四郎総代(柘植大学総長)、他に小堀桂一郎氏などの一連の著名な学者・研究者も、私は信じていません。彼らが、今後、英霊に対してどのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。

 取り敢えずは、今日はここまでのこととして、皆様にご連絡が遅れたことをお詫びすると同時に、完成した映画『凛として愛』のプリントをお送り致しますので、どうぞ、ご鑑賞ください。 また、本作品の完成後、同時進行していた真珠湾攻撃の真実を描いたアニメ併用の『太陽に向かって翔べ』や『大東亜戦争の真実』の二作品も、編集を中止しました。『太陽に向かって翔べ』の作品では、スタジオに、真珠湾攻撃に出撃した三十隻の縮小艦船模型に、潜水艦部隊三十数隻(縮小模型は龍角散社長よりお借りする)、また、航空部隊の三機種の模型を準備し、三日がかりで、その威容を撮影。そして、真珠湾攻撃に参加した空母加賀の雷撃隊のお一人のインタビューや、ハワイまでロケ、真珠湾攻撃を直接目撃した日系二世の元米軍将校のインタビューなどで構成、真珠湾攻撃の真実の姿を描く予定でしたが、これも中断せざるを得なくなったこと、誠に残念です。ご協力頂いた方々には申し訳ないの一言です。『大東亜戦争の真実』では、戦後、初めてカメラの前に立たれたアッツ島生き残りの元兵士の貴重な証言、山崎大佐の遺児・山崎保之さんのインタビュー。また、日赤の従軍看護婦の方、島根県の山村で戦後の日本の歩みを批判する人々の話、あるいは玉砕の島ペリリューに十日間ロケ、彼らは、どのように執拗に闘ったか――その雄渾の姿を描くつもりでしたが、これも中止という運命になりました。

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません。ただ、ただ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が「靖國神社で逢おう」といった言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということをどうか、よくお考えになってください。その上で、改めて、靖國神社というものを考えてください。決して、彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています。

 大変、激高した言葉になってしまいましたが、皆様の中にはご不快になられる方もいると思いますが、英霊の力を借りて、二年間、『凛として愛』に、自分の才能を注いだ監督の言葉としてお許しください。なお、プリントと共に、『凛として愛』の鑑賞記を掲載した『不二』(下記●)という雑誌が同封されていますので、お読みください。但し、部数に限りがありましたので、一部の方にはコピーとなりましたこと、重ね重ねお詫び申し上げます。書いているうちに怒りがこみあげ、支離滅裂な箇所も多分あるかと思いますが、これもお許しください」と。



●大東塾・不二歌道會『不二』平成十四年八月號――映畫『凛として愛』鑑賞記――
一、「凛として愛」を拜觀して――松下眞啓氏
一、普及に協力したい――福永武氏
一、東京裁判史觀からの脱却――石田愼氏
一、靖國神社遊就館新館開館の記念行事――平田隆太郎氏
 
 

(無題)

 投稿者:一読者  投稿日:2011年 2月 6日(日)00時53分49秒
返信・引用 編集済
  備中處士様
ずっとロムしてきたのですが、一兵士様って「凛として愛」の泉水隆一監督じゃなかったのですか?
http://ameblo.jp/sakurara-f/entry-10593755283.html
http://ameblo.jp/rintositeai/entry-10680084559.html
なんだか、そんな気がします。
 

禁忌復興を願ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 2月 1日(火)23時56分34秒
返信・引用 編集済
  ●保田與重郎翁『述史新論』(『日本史新論』昭和五十九年十月・新潮社刊。『全集』第三十七卷に所收)に曰く、「

 わが神祇に於て、神饌とされる生物は、主として神々の愛玩用に供進したものであつたが、その例外が諏訪神社の祭典に見られた。この神は、出雲の神の中で最後まで國讓りを諾なはれなかつた神で、諏訪まで逃げて、こゝでつひに力競べに破れて承諾されてゐる。この神に奉る三月酉日の祭りの神饌の古例に、「鹿頭七十五、俎上にして進(たてまつ)り、肉も添ふ」とあるのは、驚くべきことである。往時の出雲の神たちの生活の反映と考へる他ない(愚案、異国の肉食の起原と謂ひつべし)。

 わが俗に、宍(しゝ)を食ふことを忌む風は、皇大神宮にも見られ、その發端は、御歳神の怒りによるとされてゐる。御歳神は、米を司る神である。宍を食はぬといふ生活の態度は、わが祭祀の一基幹であるが、これを禁制化するといふことは、佛教の政治に及ぼした影響の結果である。中世になると、宗派神道風の思想から、神道でも、この種の禁制を好んで立てるのであるが、宍食ふことを忌むといふ限度が、わが古俗である。後世、諏訪神社が發行した鹿食許状は、いかゞはしい商法であつた。それは藥食ひに宍食ひを許すものだが、この神社が、それを發行するについては、忘れられたやうな遠い因縁があつたのである。その因縁は、出雲の神たちの日常の一端を證するものでもあつた」と。



 愚案、神社の祭禮等に、境内に於いて出店あり、中に飲食物を扱ふ店もあつて、參拜後の氏子の樂しみとする光景であるが、最近、遂に牛串や豚串まで扱ひ出したことは、大いに問題であり、深く憂ふべき大事である。吾人の好物とは云へ、神社境内に在るべきものとは、古俗禁忌からして、到底考へられぬ。神職の注意喚起、店の主人の出店遠慮を、強く乞ふ次第である。

 かつて猫見海宝樣が指摘されたことであるが、靖國神社の遊就館に在る食堂に、「海軍カレー」てふ肉入りのメニユーがあるが、いくら生前の海軍將兵の好む所と雖も、已に英靈として祀られし神に坐しませば、宍(忌詞「くさびら」)を嫌ひ給ふや必定、極めて此の提供販賣は、之を愼しむべきであらう。せめて大祭の節は、神職潔齋を犯す虞れ之れ有り、是非とも販賣遠慮と致すべく、關係各位に對して、切に留意熟考を御願ひ申し上げる次第である。



●松陰吉田先生『講孟箚記』公孫丑上・首章に曰く、「

故家・遺俗・流風・善政

 故家は、註に云ふ、舊臣の家也。遺俗は、殘りたる風俗なり。流風は、上より下々へ流れ下る風なり。善政は、よき仕置き也。‥‥

 抑も國の治安長久なるは、地廣きにもあらず、民衆きにも在らず、惟だ頼みとすべき者は、此の四者(故家・遺俗・流風・善政)にしくはなし。然れば政を爲す者、茲に心を用ひずんば有るべからず。是を知らずして、妄りに祖宗の成法を變じ、國家の美俗を易ふる者は、國賊と云ふべし。今ま吾輩、至賤と雖も、苟くも國の爲めにせんことを思はゞ、亦た茲に心を用ふべし。我が家、先代の事を考へ、又た吾が家、祖宗の業を稽へ、次は大臣其の他、勳舊の家の傳記を尋ね、古來の制度・風俗等に至る迄、悉く考究して、湮沒を著はし、晦昧を顯はし、務めて古を存する如く心掛くべし。

 心を用ふるの深く、功を積むの久しくして、遂に一大撰述を成し、遍く世に傳へ、故家・遺俗・流風・善政、益々盛んに、益々明かならしめば、是れ亦た國の爲めなり。是れ學者、最も務むべきことなり。余、常に茲に志あり。而して未だ及ぶこと能はず。今ま此の章を讀みて、益々奮發す。願はくは徐ろに諸君と、之を謀らん」と。
 
 

鈴木重胤翁の曰く、延喜式祝詞は、日本の國の憲法なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月31日(月)23時33分52秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 本日の講演主題は、保田與重郎翁『年の始め』であつた。東夷の襲來とマスコミの報道に因りて、年の概念は混迷を深めてゐる。NHKで見る「百歳萬歳」てふ、めでたき番組があるが、本道は、番組に云ふ齢に、一歳乃至二歳も超えた方々であることを知るべきである。



●保田與重郎翁『年の始め』(『全集』第二十七卷に所收)に曰く、「

 年の始めといふ、「とし」といふ言葉は、米のことである。人の齡ひを「とし」といふのも、米がもとである。米がもとといふことは、食つた米を意味し、人が社會において共同生活をしてゐるといふことをもととしたうへで、米作の年度をかぞへるのである。かぞへ年は、だから簡單にいふと、一年に一度とれる米を一とし、それをいくつ食べたかといふ勘定である。この點、滿年齡とは、考へ方として、まつたく異なるものである。かぞへ年は、共同生活をもとにして考へられたものだが、滿年齡は、個人の生きた日數といふものに立脚する。つまり個人主義の考へ方である。米にもとづき、米作りといふ共同生活にもとづく年の考へ方からして、共同生活の一年を無事おくり、また新しい出發が、よみがへりとして始まる、この永遠の泰平といふ觀念に、年の始めの「めでたさ」がある。

 米をつくり、それによつて生きてゆく生活といふものが、人生において「永遠のもの」と考へたとしても、今だつて反對できないと思ふ。米を玄米のまゝ食ふときは、パンの生活とちがつて、ほゞ完全食に近いといふことも、今日の榮養學で、實驗の結果として出てゐる。麥、すなはちパンの生活では、必ず家畜と牧場が必要だつた。牧場が必要だから、廣大な土地を支配するといふ繩張りの必要と、侵略排他の考へ方が、生活の必要からして起つてくる。人一人がまともに暮らして、耕作できる水田は、五段[五十アール]で十分、欲ばつても、一人で五町[五百アール]は作れない。この米作りを基本とするとき、民族の生命に無常といふものはない。個人の諸行は無常でも、ふるくからの神話的生活は永遠である。この永遠の生活を守るものが、神を祭る主體であり、國體の實體といふべきものとして、永遠につゞくと信じたのが、日本のふるくからの考へ方だつた。明治以來、よくいはれた「國體の精華」は、つまり「米作り」に、その基礎があつたのである。‥‥

 日本の神話では、いはゆる天孫降臨といふ、高天原から皇孫命が天降(あも)りされるとき、神聖な稻穗を、天上の神から「こと寄さされた」。そのとき神敕があつて、この米を作つてくらしのもととするなら、地上においても、また、天上の神々と同じくらしの風儀ができる。地上の國も、みな、天上の神々の國と等しい神國となるだらう、と教へられた。この責任を神に負ひ給ふのが、皇孫である。すなはち、天皇陛下である。‥‥

 高天原で米の種をいたゞいて地上に降り、これを地上でつくるなら、地上でも神々の生活、天上の生活ができるといふのが、日本の神話の根本だつた。これが實現されたのが、神武天皇の肇國である。その肇國の實體は、土地を拓いて米を旨とした農耕を成就し、その成果を、神の大前に上つて、大孝を申されたことにある。この大和櫻井の鳥見山で行はれた祭りが、肇國の大嘗祭だといふことは、封建末期の國學者も、大よそは知つてゐた。わが國の歴史時代を通じて、天皇の御位は、大嘗祭を行ふことによつて、名實具はるとしたのは、この神武天皇肇國の故事にならふからである。このとき「大孝を申す」と、『日本書紀』にしるされてゐる點に注意せねばならない。この語義は、ふるいむかしから、御祖の教へに從つた由を奏上されたとよんできた。天降りの時の神敕を、つひに實行しましたといふ證を立てられたわけである。

 このことから、わが國の天皇は、つねに一つであり、つねに皇孫であるといふことが理解される。つまり天皇は、天降りのときの神敕を實現する中心であつて、代々をへても、つねにこの意味で一つなのである。このつねに一といふことが、永遠の證である。神話の生活の實現の中心として、その存在は唯一である。このことが、いはゆる「萬世一系」といふことばの意味であり、同時に「天壤無窮」の意味でもある(愚案、上御一人の、人格を建てない、絶對唯一の皇孫。また、件の草地宇山翁『天皇私觀』參看)。くだいていふと、米作りを生活の根本とし、その生活から生れる道徳によつて生きてゆくといふことが、萬世一系・天壤無窮の實證的な意味である。いつさいの權力も榮華も欲望も無常だつたが、「米作り」は、萬世一系の永遠のものであるといふ考へ方である。米作りの生活は、牧畜の生活と異なつて、本質的に爭鬪や侵略や殺生を伴はない、平和の原理生活である。つまりこの世の中で、平和の根柢となる觀念は無數にあつて、平和だけが實現しないが、平和の根柢となる生活は、たゞ一つしかない、日本の神話の米作りといふ、天上生活を地上に實現することである。これが國體の觀念であることは、皇大神宮の祭祀を見てもわかるし、天皇陛下の最も根源的な年中行事を拜してもわかることである。天皇は、天降り神話を、この世に實現しつゝ、現實に米作りをなされることが、その御本質なのである。米作りは、祭りの生活なのである。

 かういふ意味で、天皇は「働く」ことを實行遊ばされるが、「所有」といふことは、絶對無關係なのである。天皇は財産をもたれないといふことは、國史上の眞實であり、天皇の御本質を申す時の第一項だつた。天皇は所有權と無縁で、神話を地上に實現される中心の御存在である。これが祭りの主宰といふ意味だつた。しかも神話の實現といふのは、米作りといふ素朴な生活を意味してゐる。これがわが神話であり、わが國で「道」といはれるのは、この生活である。このやうな平和な神話をもつ民族は、日本以外、どこも存在してゐまい」と。
 
 

宮中歌會始御儀。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月30日(日)23時24分1秒
返信・引用 編集済
  http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai.html


 岡山縣愛國者協議會一月例會にて、荒魂之會『あらたま』を戴いた。其の會主・駒井鐵平翁は、例會講師・岡田則夫翁との縁故ある由。講師は、『あらたま』の記事の内、次の記事を讀み上げられた。


●荒魂之會『あらたま』第七十號(平成二十二年十二月刊)「風信帖」に曰く、「

 平成の御代の、新年の宮中歌會始御儀は、平成三年に始まり、本年平成二十二年で二十囘である。この間に、歌會始御儀の日に、首相の任に在つた者は、‥‥十二名である。平成三年の海部俊樹に始まり、本年平成二十二年の鳩山由紀夫に至る十二名の首相の中で、歌會始御儀の陪聽の席に列つた者は、一人もゐない。が、これを以て、首相の條件を論ずる條は、福田氏の記事(福田和也氏「徹底採點――平成『總理の値打ち』――『週刊文春』七月一日號」)の何處にも見られない」と。



 愚案、こゝに於いても、松平永芳宮司の「保守の敵は保守」の、悲しき實證を見る。口先の尊皇は、今時の總理大臣でも申すが、固より侍殿防護の精神は、一片も無い。

 先に小生は、中島一光翁の、宇山草地貞吾翁『大東亞戰爭大觀論――大東亞戰爭は世界歴史上の最高峰』を紹介させて戴いたが、
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1015

今は、相州大庭の四阿主人による、宇山翁『天皇私觀』(平成八年八月・日本民族覺醒の會刊)の紹介を見た。
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http://sousiu.exblog.jp/15413862/
http://sousiu.exblog.jp/15417419/

主人の曰く、「先日、保守派と自稱する、某市民團體の副會長と對話した。彼は、彼らの運動の支柱が、尊皇から發せられるものではない、と告白した」と。而して其の極まるや、「皇孫は、天照大御神の血統に非ず」とうそぶく、最近の保守の出現を見るに至る。嗚呼、已んぬるかな哉、流行保守こそ、皇道否定、國體紊亂の元兇と謂はねばならぬ。抑も不敬罪は、何も皇化に浴せぬ蝦夷の爲めだけに存するものでは無いのである。


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 本日は、孝明天皇崩御の日(太陽暦換算)にして、「日本心の集ひ」に參加、講師・岡田則夫翁より、

孝明天皇『御述懷一帖』(文久二年五月十一日附敕書。近臣に閲覽を許すも、拜寫を嚴禁すと云ふ)

の講義あり。御文は、『孝明天皇紀』・『岩倉公實記』・徳富蘇峰翁『近世日本國民史』等に所收。「明治維新の原動力は、長州に非ず、薩摩に非ず、公家・大名・志士に非ず、一に孝明天皇の大御心に在り」との、蘇峰翁の言葉に學び、恐懼に堪ふる能はず。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t13/2


 又た國語問題協議會編『皇室敬語』(平成二十一年八月刊)を頒けて戴く。此の書は、野尻一郎翁『皇室の儀制と敬語』(昭和十七年・新光閣刊)のうちの、「第六章・敬稱」と「第七章・敬語」を覆刻せしもの、其の後書に曰く、「經緯は不明だが、同年に冨山房より刊行された『増補・皇室事典』[井原頼明著](昭和十三年六月初版。十七年四月増補版。五十四年五月再版)に、そのままが採用されてゐる」と。然しながら一覽した所、重大なる相違も存する。例へば、

『皇室敬語』
 御聖徳に關する敬用語
  御稜威――みいづ。天皇の御威光。稜威(みいづ)、大御稜威としてもよい。
 誤り易き用語例
  稜威――御稜威としても可。

『皇室事典』
 誤り易き用語例
  稜威(みいつ)――近來、御稜威と記すものが多い。
  (愚案、前後の文から、明かに「御稜威」を誤り易き用語例の一として擧げてゐる)

は、從來、疑念としてゐた所、明らかに兩者の相違が讀み取れる。何れが先か後か、或は其の正否は、研究課題とすべく、博雅の士の御示教を乞ひまつる。



 『皇室敬語』は、定價五百圓。ご希望の御方は、「〒二四六―○○○八 横濱市瀬谷區五貫目町十番地一三五 C四○二 横濱五十番館」に問合せられたい。



【參照・皇室に對する敬稱を學ぶ】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/l50
 
 

神社參拜のこゝろ

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月23日(日)19時00分36秒
返信・引用 編集済
  ●八坂神社名譽宮司・皇學館大學々長・高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、「

 潔齋は、普通、湯に浴することゝしてゐるが、古は裸になつて水にかゝつたものである。川に入つて禊をすることもある。潔齋に齋戒を守ることは勿論で、後に參宮の心得のうちに記したことは、そのまゝ、こゝに守らなければならぬ。特に食物について、色々の禁忌を守つてゐる家が多い。祇園樣の氏子だから、胡瓜は食べぬ。金刀比羅宮信仰のため、蟹を食べぬと云ふ類も、食にあたつて、神威を忍ぶよすがとなり、敬神の念を深めることが出來る。天神樣の氏子だからとて、牛肉を食べず、鷄を飼はず、夜、碓を用ひて米を搗かず、梅木を他所より買求めて焚かず、等と云ふ家もある。

 昔の人が、懇ろに伊勢參宮の心得を記したものが色々ある。それらを見ると、先づ齋戒には、散齋と致齋とある。昔、神宮に參拜する人は、前三日の「散齋」をして、參拜の當日は「致齋」をする。前三日と云ふのは、七十二時間を云ふと教へてゐる。『大寶令』の「六色の禁忌」、

喪を問はず、病を問はず、肉を食はず、刑殺を判せず、罪人を決罰せず、音樂をせず、

を守る。其の他、穢惡の事に預らず、「忌詞」をも守る。忌詞は、「内七言

佛を中子と云ひ、經を染紙と云ひ、塔をあららぎ、寺を瓦葺、僧を髮長、尼を女髮長、齋を片膳、

と云ひ、「外七言」、

死をなほる、病をやすみ、哭を鹽埀、血をあせ、打を撫、肉を□[艸+因。くさびら]、墓を壞(つちくれ)、

と云ふ。かく言語の末々も、心を用ひる。猶ほ五辛を食はず、遊戲の處に立ちよらず、前一日、宮川・二見などで禊をする。前日夕暮の沐浴から致齋に入り、當日鷄鳴、潔齋行水をする。當日は、爪を裁り、髮を剃る等のことをせぬ。

 神域に入りては、道の正中を避けて歩く、痰・唾を吐き散らさぬ。唾は疊紙にとる。一鳥居を入る時には、豐葦原に入り、二鳥居を入る時には、瑞穗國に入り、三鳥居に入る時には、大倭國に入る思ひとなり、一鳥居では、念を起さず、言を發せず、心身恭敬、忽せにするなく、入りては元源に立ち歸り、出でゝは和光の塵に同じうすと、古老は觀念を、かく傳へてゐる。或は鳥居に入りては、念慮をやめねばならぬ。信を以て祓除すべきである。これを「心の注連」といふ。祓は清淨を要とする。清淨なれば、精明を致し、精明なれば、元を元とし、元神に入り、神を神とし、本心にまかせて、一に歸すると教へてゐる。

 神前に出でゝは、息も立てぬほど謹み、退いて始めてホツとする。弘安の昔、通海は『太神宮參詣記』に、「内宮にまゐり侍れば、神路山の風の聲、有爲の妄雲も、忽ちにはれ、御裳衣河の浪の音、無始の罪障、もはやすゝがれぬる心地して、承り及びしにも過ぎて、身の毛もよだち、忝く覺えて」と云ひ、坂士佛の『伊勢大神宮參詣記』には、「就中、當宮參詣の深き習ひは、念珠をもとらず、幣帛をもさゝげずして、心に祈る所なきを、内清淨といふ。瀬をかき水をあびて、身にけがれたる所なきを、外清淨と云へり。内外清淨になりぬれば、神の心と我が心と隔てなし。すでに神明に同じなば、何を望んでか、祈請の心あるべきや。是れ眞實の參宮也と承りし程に、渇仰の涙、とゞめ難し」とあるが、「何事のおはしますかは知らねども 忝さに涙こぼるゝ」もの、一西行のみでない。

 これは神宮のことであるが、一般神社に參拜の心でもあり、家庭祭祀に當つての心持ちも、かくあるべきである。

 神饌を調理するには、清く調理することに心がける。神社などでは、神饌所と云ふ建物が別にあつて、人の飲食とは異にして調理する。大祭などには、神饌所とか、御炊屋とか云ふ所に、一週間籠つて調理することもある。京都伏見の下村氏などは、邸内祖靈を祭る祠堂の傍らに、一棟の神饌所があつて、主人がこゝで調理する。押入れには、神饌用の器を納め、片隅には水道を引いて流れが作つてあり、又た鍋・釜をおいて煮炊きも出來る。中央に調理臺がある。汁を温め神饌を盛ること、終つて椀を洗ひ拭ひして、紙に包み箱に入れて納める迄、皆な主人がする。資力の關係で、それまでには、一般人は出來ぬが、布巾を異にし、又た調理用の器具を異にし、別の棚に納めて、清く扱つてゐる家は多い。精神は、こゝに學ばねばならぬ」と。



 愚案、見られるがよい、戰前の家庭祭祀の御本である。神社參拜の正統を學ぶことが出來る。神社崇敬者たる者、否、俗流保守は暫く措く、神社崇敬の正統を護持せんと勇む者は、せめて其の「參拜の心」、「精神は、こゝに學ばねばならぬ」。然るに昨今の靖國神社に於いては、果して如何。此の掲示板を見て戴いてをる御方には周知の事であるが、靖國神社を「靖國」と呼捨てにすること、昭和殉難者を「○級戰○」と申すこと、固より嚴禁であり、忌み憚る詞であることは申し上げるまでも無い。申せば際限が無い‥‥。

 塾頭・一兵士翁の曰く、「

 彼らは、靖國神社にビラ撒きの申請に行つて、「斷られた」事を明言してゐる。それを「境内外なら、問題はない」と解釋して、大鳥居の前の路上で、參拜者にビラを渡してゐる。これがダメだと云つてゐるのに、「警察の許可をとつた」と云ふ。似非保守・右翼ゴロ同然だから、ビラを撒いてゐるが、これまでの保守・右翼陣營は、正統を守つて、ビラを撒かなかつた。募金活動はしなかつた。一企業の宣傳はしなかつた。

 だから、靖國神社の大鳥居周邊は、いつも靜かで、靜謐で、參拜者は九段下から、肅々とした氣持ちのまゝで、大鳥居前に至り、靜かに頭を下げ、うつむき加減に身を抑へて、參道に入つていくことが出來る。その參拜者に、突然、横からビラが渡される。ビラ配りの者が配置されてゐる。背廣は着てゐても、胡亂であることにかはりはない。參拜者の心の中を亂し、神社周邊の景觀を汚す‥‥ビラ配りは、あつちやいけない風景なんです。

 一度二度ならいい。まつたく、他の繁華街での活動はしない。參拜者の懷だけを狙つてゐるとしか考へられない。いくら云つてもわからない。一兵士の惡口雜言で、正當化してゐる。無念だ。右翼ゴロ・似非右翼に勝つ手段はない。こゝまでだ。何かと云へば、「實力で排除しろ」と、ヤクザみたいに脅してくる。天下の公道で、警察の許可をとつてゐるビラ撒きを、實力排除できないでせう。こちらは、暴力團右翼ではないのですよ。あきれたイカレポンチとして、諦めるしかないか‥‥殘念です。しかし、一兵士の衝撃は、大きい」と。
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【一兵士翁・最終勸告より】
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1164&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=810
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【一兵士翁・信仰の卑俗化】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/126
  
 

蠻風書法にも、亦た一理あり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月17日(月)23時16分46秒
返信・引用 編集済
   我が國語は、縱書きし、右より左に書すを正と爲す。大方の傳統は、之に傚ひて疑はざるべし。然るに泰西蠻風の文字の流れ來り、且つ最近に至りては、電腦機器の流行や、遂に我が國語を以て横書きし、左より右に書すを習ひと爲し、些かも疑はざるに至れり。

 我が大御國振りを固守する人、また古典に親しみ愛する人は、大いに之を憂ひて、電腦文書を讀むを嫌ひ、遂に之を廢するに至ると聞くこと、まゝあり。小生も縱書きを欲すと雖も、此の掲示版に文字を打つ以上、其の樣式に從はざるを得ず。然れども先日、國語を愛する人より、甚く注意を受けたり。本末顛倒、言行一致せず、と。

 小生は、我が國文を横書き・左より右に打つこと、躊躇逡巡、こゝに惱むこと久しと雖も、年來、唯一の言ひ訣を用意しをる(苦笑)が故に、こゝに披露して、大方の理解と海容を乞ひまつると爾か云ふ。

 小生の爲に注意を喚起せる御方、下記を讀み給ふべし。‥‥でも、苦しいなあ(洪笑)。許させ給へ。



●平田篤胤大人『古史徴開題記』一之卷春に曰く、「

 神世の字は、‥‥梵字といふ字に似て、横行の字體なりしと聞こゆ‥‥。其は彼の梵音の、皇國の音(こゑ)に、やゝ似て、その書く字の横に右行(みぎりがき)なるが、神隨(かむながら)なる道に符(かな)ひて、然る事に所思ゆればなり[但し竪行(たてくだり)に書くこともあれど、横行(よこがき)を正しとし、横行に、右行と左行とあれど、右行を正しとすると、或人いへり。誠に然るにや]。

 其は大地の旋りは、伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神の、固め給はむとして、畫き成したまへる御手の運びのまにゝゝ、右行なり[此の事、『古史傳』第五段に、委しく註せるを見るべし]。その右行なる、大地の旋りにならふ謂れなると見えて、草の蔓(つる)の右廻りに纏ひ著き[但し稀れには、左廻りにまとひ著く草もあるは、變とも云ひつべくや]、人の立ち廻りも、左より右に爲るが便りよく、また試みに右と左と下とに、瞳子(ひとみ)を活動(はたらか)し見るに、左より右に見やるかた、便りよく、右より左に見やる事は、便りあしく、下に見おろす事は、兩眼ともに活かさず。見開きたるまゝに見る故に、こよなく苦しきを思ふに、眼の横に裂けて、右に見るに便りよきことは、大地の横に右に旋る理に符へれば、字も其の如く書くべき物なる故に、梵字を横に右行に書くこと、神隨なる道に符へりと云ふなり[此は梵字のみならず、音の印の字を、横に右行に書くは、みな神隨の理に符へり。然れば横行に記す國々の字の起めは、天つ神の傳へ坐せるならむも知るべからず。國々に、其の傳へは無きか。ひろく異國の事知れる人に問ひて明らむべし]。

 漢土も、文句(ふみことば)は竪下りに書きならひたれど、原(もと)は決(きは)めて横に右行に書きけむと所思ゆ。そは彼の國の字も、體(かたち)こそ異なれども、「一」の字を書くさまにても知るべし。左より右に物するは、神隨の道に遁るゝ事の能はざるなるをや[此を案ふに、漢字を始めて製れる人をも、誰ぞ彼ぞと云ひて、其の説の詳かならざるを思ふに、本は神の傳へ坐せるに、彼の國人の伏羲にまれ、蒼頡にまれ、次々に造り加へたるならむも知るべからず。但しかく辨へたらむも、漢土に邊(へ)つらふさかしら人は、なほ信(う)けざるも有るべけれど、此は熟く眞の道の趣きを悟り得て後は、おのづからに思ひ得て、疑ひの晴るゝべきものぞ]。斯在れば、神世の字の梵字に似たる状なりけむは、信(まこと)に然も有るべき事にて、彼よりは、殊になだらかに優美しく、横に右行にかけりけむと所思ゆ[但し梵字に似たりと云ふを、惡(きら)ふ人も有るべけれど、上に云へる如く、梵字の體、すなはち神隨なる道に符へれば、然しも惡ふべき事にあらずかし]」と。
 
 

承詔必謹、天皇歸一。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月14日(金)18時38分43秒
返信・引用 編集済
  ●葦津珍彦翁述『創刊十周年紀念出版・神社新報編集室記録』(昭和三十一年五月・神社新報社刊)に曰く、「

 終戰後に至つて、私は始めて吉田(茂)先生の敬神愛國の至情に打たれて、心から先生を敬愛し、先生の教示を仰ぐことができるやうになつた。終戰後、間もないころ、私は、目白に先生を訪問した。

『(吉田茂翁の曰く、)僕は、最後まで敗戰を信じなかつた。終戰の詔書を拜して、地底につきおとされたやうに感じた。これからどうするかと、君(葦津珍彦翁)は云ふが、僕としては、亡國の危機に瀕した祖國に、神ながらの大道が生きつゞけるやうに、そのために、全心全靈を捧げたい。

 この測らざる悲運に際會して、僕は、思ひ餘つては、眼を閉ぢて考へこむ。今は亡き先輩の顔が浮かび、僕は心の中で語りつゞける。君の親父(葦津耕次郎翁)は、最も力強く、僕の魂を勇氣づけてくれる。僕は、これ以外に道はないと信ずるに至つた。』

 この日の先生の話は、初めて私の心を打つた。縱横の機略、豐富なる智識を有つた先生が、それらの一切を棄てゝ、一途に敬神護國の至情に生きようと決意された話は、私を感動させずにはおかなかつた。

 神道指令の發せられる前から、先生が政府やGHQの間を往來し、あるいは神社本廳の創立について、大きな努力をされたことは、餘人によつて記録に止められるであらう。日本の神社は、明治以降の國家管理時代に、内務省の所管に屬してをり、先生も神社局長をされたことがある。内務省で神社に關係した高官の數は、極めて多い。しかし終戰直後の神社神道危機の際に、終始して神社神道のために盡力されたのは、それらの人々の中にあつて、吉田先生を以て第一人者とすることには、何人も異存はないところである。

 神社本廳が創立された後には顧問となり、後には自ら總長として、神社新報に對しては、絶えず助言を惜しまれなかつた。特に直會の御神酒の後で、得意のべらんめえ口調で論じ立てる時の先生は、まことに痛快でもあり、好ましかつた。それらの議論の中の‥‥、私の最も印象に殘つてゐる先生の、詔書に關する教説について述べておきたい。これは、(神社新報)社で、“詔書研究”をした際に聞いた話である。先生は語られた。

『私が閣議に列して、詔書の起草に奉仕した經驗から云ふと、詔書の起草の時ほどに、“皇位”の神聖を痛感することはない。形の上で云ふと、詔書は、内閣書記官長が起案して、閣議に提出する。各國務大臣が、それぞれに意見を述べて、修正・加筆・削除がされる。最後に決定案ができて、内閣から、陛下の御裁可を仰ぐ。御裁可を仰いだ後に修正されたと云ふやうな事は、私の知る限り、帝國憲法實施以來、かつてない事と思つてゐる。これを外側から形ばかり見てゐると、閣議の議決書と同じではないかと云ふやうな、淺薄な感想を有つ人もあらうが、これは精神的には、全く別のものである。

 書記官長も、詔書の起案には、二三の助言者を求めて執筆するが、その時の心境は、全く平常とは異るものとなる。自分と云ふものを考へない。陛下の御心境・御立場を拜察しての、歴史的文章であることを考へてゐるので、平素には思ひも及ばぬやうな高い心境に到達する。

 閣議で審議される時も、同樣である。何時もの閣議では、閣僚は各省長官として、又は一政派の代表としての意識に支配されてをり、策略的な駈引の空氣が、議場を支配する。だが、詔書の審議の時には、それらが一切消え去つて終つて、すべての閣僚が、いかにして崇高な大御心を傳へるかと云ふ一點に眞劍になる。あの大臣が、この大臣が、こんな崇高な精神に思ひ及ぶのであらうかと、驚嘆するやうな發言をする。詔書起草の時の閣議は、平常の閣議の際とは、全く別人の會議のやうな空氣に支配される。僕は、詔書審議の閣議には、皇祖皇宗の神靈が臨ませられ、閣僚が全く大御心に歸一して動いてゐるのを、決して疑はない。詔書は、正しく大御心の表現であると信ずべきである。固より國務大臣の副署は、その輔弼を證するものであるが、詔書を以て内閣の決議書のやうに考へるのは、斷じて誤りである。詔書起草の閣議を經驗した人は、皇位の精神的威徳の、いかに偉大なるものであるかを、決して疑ひ得ないであらう、云々。』

 この吉田先生の言葉を、戰後派の若い人々が、どの程度に理解し得るかを、私は知らない。吉田先生は、鈴木終戰内閣の政策に對しては、極めて批判的であつたやうである。だが、それは終戰の大詔を拜する吉田さんの心理には、何の影響もなかつた。終戰の大詔を捧讀する吉田總長は、詔書の中に、たゞ一途に大御心を拜して、感涙にむせぶのみであつた。慶應病院に歸らざる入院をされる直前に、明治神宮で、詔書を捧讀された時の吉田總長の姿は、終生、私の印象から消え去ることはないであらう」と。



 愚案、詔書とは、かくも神祕儼在、偉大崇高なるものであり、國民たるもの、必ず謹みて承るものである。然るに最近の者共は、感激が實に薄うして、事務文書くにゐにしか思はない。甚だしきに至つては、「皇祖皇宗の大御心に反する」なぞと、喧傳して憚らぬ癡れ者保守も蟠居してゐる有樣、申す者は、何樣か知らないが、寔に魑魅魍魎、若しくは熊襲か、はた土蜘蛛の殘黨の如し。



●『吾妻鏡』文治元年六月十六日條に曰く、「

(右大將源頼朝の曰く、)綸命に違背するの上は、日域に住す可からず。關東を忽緒せ令むるに依ては、鎌倉に參る可からず。早く逐電す可し」と。



然れども朕は、時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び、以て萬世の爲に、太平を開かむと欲す。朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾ぢ臣民の赤誠に信倚し、常に爾ぢ臣民と共に在り。若し夫れ情の激する所、濫りに事端を滋くし、或は同胞排擠、互に時局を亂り、爲に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕、最も之を戒む。宜しく擧國一家、子孫相傳へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして、道遠きを念ひ、總力を將來の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(つよ)くし、誓つて國體の精華を發揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾ぢ臣民、其れ克く朕が意を體せよ。



 此の「時運の趨く所」の字句は、『春秋左氏傳』成公八年條に曰ふ、「信、以て義を行ひ、義、以て命を成す」から、「義命の存する所」と謂はねば、日本の正義を失ふなぞと、息卷いて演説し、詔書を私物化した老陽明學者もゐた。これも、何樣の心算か存ぜぬが、遂に女狐にたぶらかされて死んだやうである。
 
 

松平永芳宮司の先憂。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月 5日(水)00時54分44秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 愚案、植村和秀氏『昭和の思想』第二章「思想史からの靖國神社問題――松平永芳・平泉澄」に引用する、永江太郎翁の一文に於いて、殊に重要な指摘がある(實は小生、不覺にも見落としてゐた)。永江翁の原文に當つて、之を擴大し、こゝに引用させて戴き、松平永芳宮司の覺悟と憂慮とを、謹みて御傳へし、有志の注意を喚起したい。



●永江太郎翁『所謂○級戰○合祀(愚案、「昭和殉難者」と書す可し矣)と首相の靖國(愚案、「靖國神社」と書す可し矣)參拜をめぐつて』(日本學協會『日本』平成十八年七月號)に曰く、「

 昭和六十年八月十五日の公式參拜を公約した中曾根首相は、この參拜問題を審議するため、林敬三氏を座長とする官房長官の諮問機關を作つた。そして「宗教色を薄めれば、違憲ではない」といふ結論に從つて、神式の拜禮はしないといふ方針を出した。

 中曾根首相の公式參拜實現を最優先した「英靈に答へる會」と「遺族會」は、この方針を受諾し、八月十二日、グランドパレスホテルに、松平宮司を招いて、政府の方針を傳へて受諾を求めた。松平宮司は、『手水や拜禮の仕方などは、個人の問題であるから干渉しないが、[本殿に入る人を清める]祓はやる。これは、神社側がやるべきものである』と囘答した。これに異論があり、一時紛糾したが、次囘からの修正を約束したので、松平宮司は即答を保留して、一旦歸社し、翌十三日十時、遺族會の代表に、『受諾はするが、蔭祓はする』と囘答して、今後修正すること、竝びに遺族會は所詮部外者なので、官邸サイドから正式に要請すること、といふ二つの條件を付けた。しばらくして藤波官房長官から、明十四日に行くとの電話があり、約束どほり、藤波官房長官が、的場内閣審議室長を同道して、神社を訪れた。そこで、『政府の方針を受諾するが、蔭祓はする』と囘答し、天皇陛下の御親拜の御作法と敬虔なお參りを説明し、靖國神社を政治に卷き込まないことなどの要望を、中曾根首相に傳へるやう依頼した。

 十五日當日は、武道館の慰靈祭の後、中曾根首相は武道館で晝食を取り、その間に遺族を參道に竝ばせて參拜したが、御本殿の中には入らず、階段を上がつた所で參拜した。この時、松平宮司が最も心配したのは、中曾根首相の參拜のやり方が、地方の護國神社における知事の參拜に影響することであつた。

 首相の公式參拜推進の中心となつたのは、遺族會であつた。遺族會の村上會長は、靖國神社の總代で、宮司推薦委員でもあつたので、松平宮司は、『小職、この度び政治壓力に屈し、靖國神社祭式についてのみならず、我が國の傳統祭式に對する許すべからざる惡例を容認致し、自責の念に耐へず。よつてその職を辭したく、お願ひ申し上げます』との辭表を、村上總代に提出した。驚愕した村上總代の報告で、直ちに宮司推薦委員會が開かれた。審議の經過は議事録にあるが、「辭表を受理せず」と決定して、宮司留任となつた。

 松平宮司が、この問題を深刻に考へたのは、政教分離は前哨戰で、最終目標は、宮中祭祀であり、皇室潰しにある、と認識したからである。神道は、皇室と一體で、建國以來、いや、建國以前から、日本民族の中に根ざした傳統習俗であり、日本人の精神や道徳心、物の見方・考へ方に、深く關はつてゐる。潔癖な程の清潔感や、靈魂を信じて來世での再會を誓ふ宗教心などは、日本人特有のものである」と。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50
 
 

平泉澄博士の神主としての遺訓。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月 2日(日)02時10分31秒
返信・引用
  ●平泉隆房博士『寒林夜話――祖父平泉澄との對話――十一』(日本學協會『日本』平成二十三年二月號)に曰く、「

(平泉澄博士の曰く、)戰前も戰後も、神職界を見ると、大體、二通りの神主がをる。一方は、神樣に對して尻を向けて、自分が神樣になつたくらゐの氣分で、氏子や庶民に神道やご祭神の徳を吹聽し、説教する神主だ。意氣込みは良いとしても、お前(平泉隆房博士)は、決してこのやうな神主になつてはならぬ。もう一方は、氏子と共にあつて、氏子と一緒に、ひたすら神樣を拜する神主、お父樣[祖父の尊父・平泉恰合翁]がさうだつた。お父樣を見習つて、立派な神主になるんだ。‥‥

 戰前の神道行政、これは評價して良いが、肝心の神職に、その人が少なく、實態は殘念なことが、實に多かつた。住吉大社の高松[忠清]宮司や、彌彦(神社)の庄本[光政]宮司(『神道教化概説』神社新報社刊あり)は、大陸で非常にご苦勞され、そして引き上げて歸つて來られた。いづれも立派な神職さんだつた。このやうな見識ある方々も居られた。‥‥

 内務大臣官邸で、會議があつた(昭和十六年、平泉澄博士は、神祇院參與を拜任。同年七月十七日、神祇院參與會議)。神祇院より[飯沼]副總裁・石井總務局長・宮村教務局長、參與として山田孝雄博士・吉田茂氏・今泉定助氏・高山氏・桑原氏・宮地直一博士、宮内省から岡本參事官が來てをられた。この日の議題で重大だつたのは、明治の末に、神社合併によつて廢止せられた神社のなかで、復活すべきものを調査した結果の概要が、總務局長より報告せられたことだつた。わし(平泉澄博士)は、非常に嬉しくなつた。ところが意外なことに、高山・桑原兩翁が、依然、神社合併策を良しとされて、復活に反對された。そこで、わしは反對意見を述べた。

『神道がずつと不振であつた原因は、當局が神社の形式のみを整備しようとして、神社の廣さ・氏子の數・資産等に、種々の制約を設けて、不適格なものを、表面上は合併の名のもとに、事實上廢止し、少しも由緒や信仰として顧みないことにあるのであります。かゝる形式的なものとして取り扱ふ以上、世間の人々の信仰は薄らぎ、神社のさびれゆくは當然のことでありまして、延喜式内社の古いお社が、由緒もない新興の村社に併合され、村人が畏敬してきた神の森は伐採開墾され、傳統は破壞され、信仰は蹂躙されてきたのです。私は年來、これを遺憾としてきたのでありますが、今日、當局が、昨日までのそれを非として、方針を一變されたことは、誠に感謝に堪へないところであります』と。

幸ひにも山田・今泉・吉田の三氏も、わしの意見に贊成、かくして明治四十年代の合併は、これを否定することに決し、しかし「先輩に對して、公然と間違ひであつたと言ふのもどうか」といふことで、「氏子の熱望に應じて復活するのを默認する」ことに落ち着いたんだ」と。



【參考・南方熊楠翁『神社合祀に關する意見』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/161
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/170



 愚案、植村和秀氏『昭和の思想』(講談社選書メチエ・平成二十二年十一月刊)全七章に、二章を割いて、

一、思想史からの靖國神社問題――松平永芳・平泉澄

一、思想史からの終戰と昭和天皇――阿南惟幾・平泉澄

あり。若い研究者が、平泉澄博士を論じたもの、興味あられる御方は、ご一讀ください。
 

第四年目に突入せる九段塾、何事をか爲さむ乎。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 1月 1日(土)09時21分18秒
返信・引用
  平成二十三年
紀元二千六百七十一年
天降五千十一年
天皇正月、歳、辛卯に次る新春を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せて塾頭・一兵士翁はじめ、ご閲覽各位の道福を祝祷申し上げます。

 大祓詞を奏上しては、何時も「辛苦」の二字を想起して、「清清之(すがゝゞし)」の境に至らんと努力するも、遂に近づく可からず。然れども元旦の清々しさは、神明の稜威恩頼、殊更に深くして、吾が心に助力あるを覺ゆるのであります。神國に生れて、懇祷し奉る幸福、洵に難有いことゝ謂はなければなりません。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/18

 塾頭・一兵士翁の主宰する、此の『九段塾』も、數へて四年目に入りました。各位のご勇筆ご靈健を、幾重にも乞ひ奉ること、愈々切なるものがあります。塾頭には、ご病氣ご療養中ではございますが、各位の述志熱祷、文章奉皇の言靈を、必ずや照覽したまふものと確信いたします。

 當塾は、塾頭ご高覽の下、靖國神社の正統護持を期し奉るもの、延いては皇國の復古中興を請ひ祈み奉り、其の翼贊期成を誓ひ奉る齋庭にしたき至願、固より變ること有る可からずと雖も、各位のご協贊ご參加なくんば、其の存在意義を、嚴しく問はれるものと恐察いたします。

 本年も、何卒、倍舊のご交誼ご誘掖、ご指導ご叱咤を、只管ら懇祈して、至誠の通ずる所、必ず狂瀾を囘し、聊か皇國無窮の恩に報い奉るを得むと、爾か云ふ。敬つて白す。

   眞金吹く吉備の中つ國、黍房書屋に於て、掲示板管理者・備中處士、謹拜
 
 

謹賀新年

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2011年 1月 1日(土)00時05分16秒
返信・引用
  備中處士様、常連の皆様
昨年は大変お世話になり、誠に有難うございます。

改めまして、本年もよろしくお願い致します。
謹んで新春の御祝詞を申し上げます。

皇室の弥榮と國運の隆昌、皆様の御健康と御多幸を御祈り申し上げます。

 皇紀二六七一年 平成二十三年 元旦
 天皇陛下萬歳!!!大日本帝國萬歳 !!!
 

百拜千拜

 投稿者:相州之民艸  投稿日:2010年12月31日(金)01時21分47秒
返信・引用 編集済
   九段塾皆樣に於かれましてはつゝがなく歳末を御過ごしのことゝ存じます。


 本年は國辱出來、國難襲來陸續したる一年でありました。
 惜しむらくは、この御時節にあつて野生、塾頭・一兵士翁より叱咤苦言の御言葉を直接拜受できなかつたこと、何を扠措きこの一語に盡きるものです。

 されど、九段塾發足の志操と精神が堅固溌剌と、無學なる田舍者の野生でさへ識るに至りたることは、偏へに管理人・備中處士樣はじめ皆樣の御尽瘁によるものと存じ、ひたすら敬服致してをります。

 本年は皆樣の御言葉をしづかに拜聽し、自身の成長の滋養とさせていたゞきました。まこと、感謝の念に堪へません。
 明くる年も、御指導賜はりたく、幾重にも懇願申上げる次第で御座います。


 末尾に、謹みて一兵士翁の御本復を熱祷し、亦た、來年も益々、皆樣が御活躍なされますことを切に願ひまして一年の御挨拶とさせていたゞきます。
 

吉き御歳を、謹白。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月31日(金)00時02分9秒
返信・引用 編集済
   平成の第二十二年の歳庚寅の歳末、大祓式を迎ふるにあたり、塾頭・一兵士翁ご高覽の下、謹みて御挨拶を申し陳べます。

 本年は、塾頭の御病ひにて、ご閲覽の各位には、さぞや、淋しい御事であつたと拜察いたします。塾頭の不在は、此の管理人にとりましても、洵に憂慮困惑に堪へざる出來事でありました。

 幸ひにも、本年、新たに、

「はゆまつかひ」樣
一、おゝ靖國の大神(31)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/l50
一、醜能御楯(13)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t26/l50
一、祖神埀示 親讓之道 拾遺(15)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/l50
一、靈的國防の本義 拾遺(18)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/l50
一、世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(14)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/l50

「相州之民艸」樣
一、平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(23)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/l50
一、皇軍招魂抄(12)http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t18/l50

てふ、スレツドのご建立、ご參加を賜はりました事は、何より嬉しい慶事でありました。幾重にも御禮申し上げる次第であります。皆樣には、じつくり、讀み返して戴ければと存じます。

 はゆまつかひ樣には、此の年の瀬に、「道統の器傳」の紹介(スレツド「世界的天皇信仰」――14・禊祓淨化・祝福安泰)を戴きました。眞に重要なる、神祕の一端であります。各位には、迎春の御準備は、萬全、お濟みでせうか。

 こゝに、塾頭ご快癒を懇祈すると共に、本塾も更に飛躍發展あらむことを期しまして、來たる新しき御歳を迎ふる御挨拶とさせて戴きたう存じます。ご參加くださつた方々、ご閲覽の各位には、本道に難有うございました。吉き御歳を御迎へ下さい。

 平成二十二年庚寅十二月三十一日

   眞金吹く吉備の中つ國より 備中處士 謹白


 

天皇彌榮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月23日(木)20時12分28秒
返信・引用 編集済
  愛国主義者樣

 ご無沙汰してをります。御元氣のやうで、何よりでございます。諸共に、謹みて、

すめらみこといやさか

 を、念誦し奉りませう。



 「死して、汚名を一身に受け、日本と皇室を守った」東條英機大將。殊に戰後の大將は、陛下の股肱たるに耻ぢず、洵に立派でありました。一國の老首相として、介錯不在の割腹は、無理であつたでせうし、蘇生以後の大將は、誰も非難すること能はぬでありませう。戰前の大將は、毀譽褒貶はありませうが、其の忠誠心は、一點の疑ふべくもありませぬ。悲しき運命の、尊き人柱と申してよろしからうと存じます。

 天長節に絞首刑に處せられた御方は、東條英機大將だけではありません。他に、板垣征四郎・土肥原賢二・松井石根・木村兵太郎の各陸軍大將、武藤章陸軍中將・廣田弘穀元首相がをられ、凡て七柱の方々です。此の尊き昭和殉難者を想ふだけでも、心の底から敵愾心が湧いてまゐりますね。



【嗚呼、東條英機大將】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/3

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/195



 「保守層までもそういう考えにいたっているのは、今日の日本が崩れている証拠」となん、否、松平永芳宮司ではありませんが、正に「保守の敵は、保守」であります。此の所謂保守と稱する者共、小生、最近は全く信用出來なくなつてをります。愛国主義者樣は、チヤンネル櫻に於ける掲示板の出來事は、よく御存知でしたね(苦笑)。

 殊に皇統繼承の御事以來、其の據て立つ所の立場は兎角く、益々増長して、驕慢不敬、至る所なき有樣であります。愛国主義者樣には、次の御本は讀まれましたでせうか。いはゆる保守家(男系「主義」者と呼ばれる者)の、あきれた實體を見ることが出來ます。是非とも繙いてみて下さい。



●中島英迪翁『皇位繼承を考へる――男系主義への疑問』(平成十九年一月・イグザミナ刊)

はしがき
目次
推薦のことば‥‥大前繁雄

皇位繼承論議で考へるべきこと

第一部・理論についての疑問と批判
一、側室制度と傍系制度の二本の柱
二、傳統とは何か
三、女系は天皇制○○に通じるか
四、「不文の法」は天皇より上位にあるか
五、Y染色體説は妥當か
六、女帝“中繼ぎ”説について
七、議論は無用か
八、理論の矛盾
九、我田引水と牽強付會

第二部・運動についての疑問と批判
一、排他性
 イ、左翼言論人
 ロ、有識者會議メンバー
 ハ、女系天皇容認派
 ニ、男系天皇維持派
二、「惡玉」作り
三、言論操作
四、個人攻撃
五、諸團體の動き
 イ、平成十七年
 ロ、平成十八年(一月~三月)
 ハ、關西の集會
 ニ、一萬人大會
 ホ、關西での動き
 ヘ、組織の立場
 ト、主要論客批判(渡部昇一氏・小堀桂一郎氏)

第三部・その後の皇位繼承論
一、親王ご誕生までの議論
二、「伊勢神宮で考へる」
三、「私の皇位繼承論」より
四、悠仁親王殿下のご誕生以後の議論より

參考論稿
悠仁親王殿下ご誕生と「皇室典範」改正問題‥‥大前繁雄

あとがき



 小生の所謂る男系「主義」者なる自稱保守への思ひは、下記に些か述べさせて戴きました。御笑覽たまはりたく存じます。彼の徒輩の傍若無人なる、淺ましき言動を垣間見て、小生は保守を稱する事を耻ぢ、之を稱することを辭めました(自嘲)。爾後は、「眞の日本人」たるべく、研鑽涵養に努めたく思ひます。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/26

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/27

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t33/13

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/695

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/373
 

天長節と東條閣下

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2010年12月23日(木)13時37分28秒
返信・引用
  備中處士様、常連の皆様、本日は天長節であります。
陛下77歳の御生誕日にお喜びを申し上げます。
高齢になられた陛下の健康を祈ります。

そして忘れてなら無いのが、皇国のため皇室のために命
をささげた東条英機閣下の命日であります。
愛国派は東條氏の死をいたみましょう。

東條英機閣下は歴史の偉人で例えるなら
石田三成でありましょうか。
石田三成は武士ではあっても官僚肌。
東條閣下も軍人であっても官僚です。

二人とも政権内部の批判に苦心し、常に敵が居りました。
では石田三成と東条英機閣下の決定的な違いは無いか?
それは死して、豊臣家を守れなかった三成と、
死して、汚名を一身に受け、日本と皇室を守った
事であります。

敗戦世代及び戦後の馬鹿と化した日本人は、ただひたすら
日本が悪い、陸軍が悪い、皇室が悪い、東條が悪いと過去を
罵り怨んできました。
GHQの謀略があったとはいえ、保守層までもそういう考えに
いたっているのは、今日の日本が崩れている証拠であります。

親が子を殺し、子が親を殺す。風俗風紀秩序が乱れております。

東条英機閣下の自殺未遂?をあげつらう輩がいる。
日本の軍人らしく切腹をしろとほざいた輩がいる。
実にちんけな要求である。

そういう要求をした輩どもが、先を競って切腹をしたのか?
東條死して日本の道徳秩序を自分達が守ったのか?

答えは否であり、すべてめんどくさい問題を東條閣下に
ただ擦り付けて、自分達は新しい日本人。道徳的に正しい
日本人。平和を愛し戦争をしない日本人。

きれいごとごっこ、良い子ちゃんごっこに勤しんできただけである。

今日の支那・朝鮮・ロシアの行状を見る鑑で、
やはりかっての日本は正義であり、正義のための戦争を
したと断言できよう。
 

御光の、さし出たまひし、吉き日なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月23日(木)00時16分1秒
返信・引用
   本日は、天長の佳節です。

 靖國神社に於いては、午前十時より、天皇御誕辰奉祝祭が齋行される由。勿論、全國各地の神社に於いて、國旗が高く掲げられて、聖壽萬歳、皇國彌榮が懇祷されます。國民、正に時を一にしての熱祷、これこそが、靈的護王に關係すると、拜承恐察いたします。



●平泉澄博士『國家の命脈』(於東京帝國ホテル。日本學協會『日本』昭和四十六年一月號。『時事評論』第三卷第八九合併號・四十六年六月・外交知識普及會刊。『先哲を仰ぐ』平成十年九月・錦正社刊に所收)に曰く、「

 私は幸ひにして時事通信社のおかげにより、『少年日本史』を書く事が出來ました。『少年日本史』、名は少年を冠してをります。しかし、私としては、私の不敏ながら、一生の學問、一代の熱血を、此の一册に注ぎ終つたのであります。原稿としまして一千枚、字數にして四十萬字、不敏なる私の七十六年にわたる研究の全部を、ここに注ぎ込んだ感じがします。一氣に、これを書き、ほとんど一瀉千里に、これを書き終りました」と。



 スレツド欄に、

さあ、『少年日本史』を讀みませう!

てふ、新スレツドを建てさせて戴きました。

 一人でも多くの御方が、平泉澄博士『少年日本史』ないし『物語日本史』を、手にとつて之を繙き、國史の成跡を仰いで戴ければ、小生の道福、之に過ぐるものはございません。
 

嗚呼、平成二十二年‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月20日(月)22時42分13秒
返信・引用
  柿之舍中澤伸弘博士 硯北

拜復

 圖らずも御禮の御言葉を頂戴し、恐縮至極に存じ上げます。

 柿之舍翁ご指摘の「節折大祓の御贖物を、濱離宮から海に流してゐたのを、宮中のお濠に沈めるやうになりました」との仰せ、小生、戰慄、深く々ゝ之を憂ふるものであります。

 小生は、柿之舍翁の論文を見たくて堪らず、四宮正貴翁編集『傳統と革新』創刊號(平成二十二年三月・たちばな出版刊)を取寄せました。

●柿之舍翁『おほみことと西暦』

を拜讀し、覺えず泪が流れて參りました。昨今は邪蘇の跳梁跋扈、目に餘るものがございます。時間・空間を支配する暦法まで、遂に我々から奪ひつゝあります。元號法制化を熱祷し、自決された御方もをられました。然るに「保守」を自稱する者は、恬として自らを顧みようともせず、知つてか知らざるか、「七○年代」とか、「二十一世紀」とか、敢へて用ゐて憚りませぬ。小生、些か力めましたものゝ、所詮、蟷螂の斧、何とも思はぬ方々ばかりで、洵に無念あります。

 柿之舍翁には、此の一大事を啓蒙すべく、大いに椽大の筆を揮つて戴きたく、幾重にも御願ひ申し上げる次第であります。

 本日は、柿之舍の翁を御迎へし、嬉しうございました。本道に難有うございます。今後とも何卒、ご指導ご誘掖の程、只管ら御願ひ申し上げます。九拜

     眞金吹く吉備中つ國より、備中處士、謹白

 
 

御礼

 投稿者:柿之舍中澤伸弘メール  投稿日:2010年12月20日(月)20時50分38秒
返信・引用
  冠省、このたびは拙著ご紹介頂き厚く御礼申し上げます。この本が広く多くの方に読まれて、宮中祭祀の何たるか、天皇陛下の御本質についてお考へいただければとぞんじます。  

御禮

 投稿者:柿之舍中澤伸弘  投稿日:2010年12月20日(月)20時45分38秒
返信・引用
  > No.988[元記事へ]

備中處士さんへのお返事です。

> ●柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀――連綿と續く天皇の祈り』(平成二十二年七月・展轉社刊)に曰く、「
>
> 明治節祭――十一月三日【中絶】
>
>  四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)の一つです。‥‥しかるに戰後、この日は國民の祝日「文化の日」といふ名前で殘りましたが、明治節、明治天皇との關連が斷たれたため、宮中での明治節祭は、お取りやめになつて今日に至つてゐます。その理由としては、七月三十日の明治天皇の崩御日に、明治天皇祭を行はれ、御追慕の情を御表しになられてゐるからと拜察いたします。またこの日は、明治神宮の例祭にあたり、敕使をお遣はしになられてゐますので、宮中での祭典は中斷のまゝでも、昭和天皇も、また今上天皇も、明治天皇に對されてのお思ひはお變はりないものと拜します。なほ明治節祭はお取りやめになつてゐますが、この日、昭和天皇は、二月十一日同樣「臨時御拜」に、昭和六十二年までお出ましになられました。
>
>  戰後中斷した御祭儀には、二月十一日の紀元節祭がありますが、なほ臨時の御拜の形で續けられてゐます。さう思ふと、畏れ多いことですが、平成十九年から四月二十九日が、「昭和の日」といふ「國民の祝日」に改められました。法的に、この日は昭和を囘顧する日となつたのでありますから、宮中でも昭和祭を行はれてもよいのではと存じます。神社本廳では、この日の制定を受けて、全國神社に昭和祭の齋行を通達し、全國の神社では、昭和祭を齋行してゐます。しかし宮中では、さう簡單にはおなりにならない樣子です。‥‥
>
>  靖國神社には、春秋の二度の例祭に(敕使が)參向します。天皇陛下の靖國神社、ひいては戰歿英靈にたいする深いお思ひがあることが拜せます。靖國神社には、昭和五十年の昭和天皇の御親拜以來、天皇御自身での御親拜はありませんが、年に二度の敕使が參向することは、天皇陛下が御親拜になられてゐることと變はりありません。御親拜ができないのは、所謂「○○」(愚案、書するに忍びず)といはれる昭和殉難者が合祀されてゐるからだとの議論がありますが、敕使が年に二度差し遣はされてゐる事實を、重く受け止めねばなりません。御親拜の爲めに追悼施設を作るなどとは、この敕使御差遣の重みを無視することになりませう。これは、靖國の英靈にも、また陛下の大御心にも背くことです。敕使が發つ前に、敕使は、天皇陛下に拜謁をします。また祭儀の終了後には、その奉告の拜謁があります。‥‥
>
>  近年、また(天皇陛下の)御高齢化により、宮中祭祀の簡略化が聞こえるやうになりましたが、‥‥をかしなことに、毎朝の侍從の御代拜の淨衣の裝束をモーニングに改め、また節折大祓の御贖物を、濱離宮から海に流してゐたのを、宮中のお濠に沈めるやうになりました。四方拜をモーニングで、御所のお庭でなさいました。また昭和天皇の御葬儀に、こゝまでは宮中の私事、こゝからは國家の行事と、政教を峻別し、儀禮の途中で鳥居を除いた滑稽は、なほまだ腦裏にあります。また今上天皇の即位禮に、神武天皇の東征に關する故事を描いた威儀物の削除、また誰も指摘しませんが、即位禮當日の「賢所大前の儀」における「威儀物」を削除したなどの、これらの一連の行爲は、一體、誰に對する遠慮なのでせうか、私は理解に苦しむのであります。頑なに、しかも當然のこととして護り傳へられてきた古儀が、なんら顧みることなく改變させられるのは、何故なのでせうか。そこにある視點は、現在といつた、長い歴史から見ると、誠に刹那的な「今」の「自分」だけにあつて、先祖や子孫、また祀られる對象の神に對する畏敬や尊崇の念など、ないではありませんか。我が國民は、このやうな民族であつたのでせうか。また我が國は、古來、神國ではなかつたのですか。いや、今も神國であるはずなのです。この事實を隱蔽して、何をどう語るといふのでせうか。天皇と神話は、連續した不離一體のものであるとの認識の上に立つて、その土俵の上で相撲を取るべきでありませう。‥‥
>
>  神道宗教學會の大會で、掌典補の永田忠興氏の宮中祭祀の衝撃的な發表を聞いた時、私は驚きと憤りに襲はれたのであつた。それは昭和五十年代の後半、昭和天皇の御高齢化による宮中祭祀の簡略化に、政教分離の發想が絡み、誰に遠慮してか、祭祀が變則化してゐるとの御指摘であつた。永田氏は、『入江相政(下記★)日記』に、「魔女」と書かれる今城女官とともに、「ウルトラ永田」と書かれてゐる人物で、昭和天皇の祭祀に御熱心なお姿に接し、その御心を體して、宮中祭祀の他からの容喙を許さない立場を守つてゐる方であつた。古儀を護るといふことは、自分の代まで護られてきたものを、後代に傳へることであり、義務であると、永田氏は仰せられた。今の我が國には、この視點が缺けてゐるのではないだらうか。‥‥
>
>  平成の御代になつて、再び舊儀に復した宮中祭祀も、二十年經て、またこゝに簡略化といふ聲が聞こえるやうになつてきた。陛下の玉體の上を思ひまゐらすのは當然であるが、宮中祭祀の本義や、天皇の御本質を拔きにして、玉體の御安泰を隱れ蓑にして、或いは陰に陽に我が國の根幹に當たるところを蝕まうと企劃してゐるやうに思はれてならない。これが私の杞憂であるならよいのだが、さうではないやうだ」と。
>
>
>
>  愚案、明治の佳節に當り、是非、中澤伸弘博士『宮中祭祀』を繙いて戴きたいと思ふや、切である。
>
> 第一章・宮中祭祀とその歴史
> 第二章・宮中三殿と職掌
> 第三章・宮中三殿の諸祭
> 第四章・皇室の臨時祭祀
> 第五章・陵墓と敕祭
> 第六章・皇室祭祀の現状
> 第七章・付圖
>
>  此の中澤博士、近藤紹宇先生と御會ひしたことがある由、小生にとつては、何とも床しく、遙かより勝手に親はしく思つてをつた所、相原修神主とも昵懇であられたと聞く。安心して、此の書を推奬する所以である。
>
> ★參考・備中處士「君側の姦、此の聖明を蓋ふもの」――徳富蘇峰翁『終戰後日記・頑蘇夢物語』から――
>   ↓↓↓↓↓
> http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/bcss_essay.htm
> の、平成十九年一月二十一日稿
>
>
>
> ■元宮内廳掌典・鎌田純一博士『皇室祭祀と建國の心』(『日本の息吹』平成八年二月號に所收)
>   ↓↓↓↓↓
> http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888
 

草地宇山翁『大東亞戰爭大觀論』

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月10日(金)18時28分56秒
返信・引用 編集済
   「時窮りて、節、乃ち見はれ、一一、丹青に埀る、昭和に在りては、草地の節」とも謂ふべき、關東軍參謀大佐にして、戰後の靖國會第六代總代・宇山草地貞吾翁(平成十二年八月四日、彼の「大東亞聖戰大碑」――裏面には「八紘爲宇」、石川縣護國神社參道に在り――の建立者)、其の顯彰に力められてをられる、中島一光翁が、大詔奉戴日を期して、

■宇山草地貞吾翁『大東亞戰爭大觀論――大東亞戰爭は世界歴史上の最高峰』(平成七年八月十五日・日本民族覺醒の會刊)

を紹介して下さいました。宇山翁は、日本の眞姿を求めるため、寒林平泉澄先生に師事し、其の道を極められたと云ふ(中島一光翁「草地貞吾先生を悼む」)。有志には、是非とも御覽いたゞきたく存じます。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Kusaji2.html



■中島一光翁『關東軍作戰參謀・草地貞吾囘想録』(平成十一年・芙蓉書房出版刊)抄
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Fuuka0.htm



○中島一光翁【尊皇・愛國のホームページ『彌榮』】
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/



○備中處士『靖國神社考50・51』に、宇山會代表・濱野晃吉翁「弔辭」を紹介させて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

【宇山會】http://homepage2.nifty.com/uzankai/zimukyoku.htm
 

義公の悲願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月 9日(木)21時54分1秒
返信・引用
  【王政復古の大號令の御沙汰書】慶應三年十二月九日(『三條實美公年譜』十七)

 徳川内府、從前御委任の大政返上・將軍職辭退の兩條、今般、斷然、聞こし食され候ふ。

 抑も癸丑(嘉永六年)以來、未曾有の國難、先帝(孝明天皇)、頻年(としごろ。毎年)、宸襟を惱まされ候ふ御次第、衆庶の知る所に候ふ。之に依り叡慮を決せられ、王政復古・國威挽囘の御基、立て爲せられ候ふ間、自今、攝關・幕府等廢絶、即今、先づ假に總裁・議定・參與の三職を置かれ、萬機(天皇親政)、行は爲らる可く、諸事、神武創業の始めに原(もと)づき、□[手+晉]紳・武辨・堂上・地下の別無く、至當の公議を竭し、天下と休戚(喜び悲しみ)を同く遊ばさる可き叡念に付き、各々勉勵、舊來驕惰の汚習を洗ひ、盡忠報國の誠を以て、奉公致す可く候ふ事。

一、内覽(攝政二條齊敬)・勅問御人數(御相談役)・國事御用掛(文久二年十二月九日、選任の重臣二十九人)・議奏・武家傳奏・守護職(會津藩主松平容保)・所司代(桑名藩主松平定敬)、總て廢絶せられ候ふ事。

一、三職(臨時の政務管理機關)人體(人々。建武中興に傚ふ所の公武一統、擧國一致體制)

總裁
 有栖川帥宮(熾仁親王)

議定
 仁和寺宮(入道純仁親王、後の東伏見宮嘉彰親王)・山階宮(晃親王)・中山前大納言(中山忠能)・正親町三條前大納言(正親町實愛)・中御門中納言(中御門經之)・尾張大納言(徳川慶勝)・越前宰相(松平慶永)・安藝少將(淺野茂勳、後の長勳)・土佐前少將(山内豐信)・薩摩少將(島津茂久)

參與
 大原宰相(大原重徳)・萬里小路右大辨宰相(萬里小路博房)・長谷三位(長谷信篤)・岩倉前中將(岩倉具視)・橋本少將(橋本實梁)・尾藩三人・越藩三人・藝藩三人・土藩三人・薩藩三人

一、太政官始め、追々興こ爲らる可く候ふ間、其の旨、心得居る可く候ふ事。

一、朝廷禮式、追々御改正、在ら爲らる可く候得共、先づ攝□[竹+録]門流(公家世襲の役職)の儀、止められ候ふ事。

一、舊弊御一洗に付き、言語の道、洞開せられ候ふ間、見込み之れ有るの向は、貴賤に拘らず、忌憚無く、獻言致す可く、且つ人材登庸第一の御急務に候ふ故、心當りの仁(人材)、之れ有り候はゞ、早々言上有る可く候ふ事。

一、近年、物價、格別騰貴、如何とも爲す可からざる勢ひ、富者は益々富を累ね、貧者は益々窘急に至り候ふ趣、畢竟、政令正しからざるより致す所、民は王者の大寶、百時御一新の折柄、旁々宸衷を惱まされ候ふ。智謀遠識救弊の策、之れ有り候はゞ、誰れ彼れ無く、申し出づ可く候ふ事。

一、和宮御方(靜寛院宮親子内親王)、先年、關東へ降嫁、有ら爲られ候得共、其の後、將軍(家茂)薨去、且つ先帝攘夷成功の叡願より、許さ爲られ候ふ處、始終、奸吏の詐謀に出で、御詮無き(攘夷實行・公家風堅持・天忌參列の約定に反く)の上は、旁々一日も早く、御還京、促さ爲られ度く、近日、御迎への公卿、差立てられ候ふ間、其の旨、心得居る可く候ふ事。

 右の通り、御確定、一紙を以て仰せ出され候ふ事。



 本日は、雲上より、畏くも「王政復古の大號令」が煥發せられた日であります。徳川慶喜の辭官納地は、大西郷の、彼の一言――「そいは、短刀一本で、用は足りもす」――で決せられました。大西郷、よくぞ申したり。小御所會議に於ける岩倉友山公、よくぞ之に應へ、山内容堂をして沈默せしめたり。

 徳川慶喜公の曰く、「義公以來の教、子供の時より懇々説き聞かされて居りますので、維新の際にも、たゞ其の教に從つただけの事で、自分の知惠才覺は用ゐなかつたのであります」(伊藤博文公對談の逸話)。此の「義公以來の教」とは、『桃源遺事』に、「我が主君は、天子也。今ま將軍は、我が宗室(宗室とは親類頭の事)なり。あしく料簡取りちがへ申すまじ」とある、水戸義公の遺訓でありませう。



●澁澤榮一男編『昔夢會筆記――徳川慶喜公囘想談』(東洋文庫・昭和四十一年十月・平凡社刊)に曰く、「

 烈公、尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先だち、庭上に下り立ちて、遙かに京都の方を拜し給ひしは、今なほ知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん、烈公、一日、予を招きて、

『おほやけに言ひ出すべきことにはあらねども、御身も、もはや二十歳なれば、心得のために、内々申し聞かするなり。我等は、三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは、今さらいふにも及ばざることながら、もし一朝、事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるゝごときことあらんか、我等は、たとへ幕府には反くとも、朝廷に向かひて弓引くことあるべからず。ゆめゝゝ忘るゝことなかれ

と宣へり」と。
 

嗚呼、大詔奉戴の日――み濠べの 寂けき櫻 あふぎつつ 心は遠し わが大君に――

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月 8日(水)21時10分6秒
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  ●平泉澄博士『日本の悲劇と理想』――「大東亞戰爭開戰の責任」(昭和五十二年三月・原書房刊)に曰く、「

 開戰の初めに於いては、用意は周到であり、機密はきびしく守られた。私(平泉博士)は、陸軍にも海軍にも親しい人が多かつたが、凡そ戰に就いては、何一つ耳にする所無かつた。十一月の中旬であつたらう、地方長官會議が行はれた。その會議の終つた直後に、ある縣の知事が私をたづねて來た。彼は云ふ、

「實は今度の會議は、アメリカに對する態度が決定したに就いて、國策の大綱を我々に示して、國民の覺悟を要求せられるものと思つて出て來たのであるが、來て見ると、首相は此の點、何等、明確なる指示を與へられない。一體、戰爭になるのか、ならないのか、皆目見當がつかぬ。私は此の儘では、任地へ歸れないやうな氣がする。一體、これはどうなのです。」

 私は答へた。

「さうでしたか。さもあるべき事です。戰不戰は、いよいよ雷發の時まで、口にすべき事ではありますまい。我々はそれを問ふべき事ではありますまい。我々はそれを問ふべきでなく、責任者はそれを答ふべきで無いでせう。只だ私が、政府または軍とは全然無關係に、いはば歴史家として傍(はた)から觀察してゐると、これは結局戰爭でせう。知事としては、口では決して戰爭と云つてはならないが、同時に戰に備へて、それぞれ處置し、準備をして置く事が大切でせう。」

 事實、此の通りであつて、政府でも軍でも、開戰以前に、機密を漏らした者は、無かつた。そしてそれが迫つて近きに在ると判斷したのは、軍の人々の目であつた。目は、心の窓である。目を見ると、心の状態、その動き、手に取る如く察せられる。「目は口ほどに物を言ひ」は、戀する乙女のみに限らないのである。死を決したる人の目が、尋常普通と異なるは、當然でなければならぬ。

 戰の日の近きは、之を人々の目で察した。私はその日を、勝手に想像して、十二月朔日と推定した。それは昔、豐臣秀吉が大軍をひきゐて雷發するに、多く朔日を以てした縁起のよい日であるからの想像に過ぎなかつた。しかるにビーアド博士の好著(愚案、大鷹正次郎氏『第二次大戰責任論』昭和三十四年・時事通信社刊)出づるに及んで、アメリカの大統領ルーズヴエルトも、亦た十二月朔日を以て日本軍來攻の日と擬定してゐた事や、スチムソンの日記に確證あるを知り、更に近くケンプ・トーリー少將の囘想記によつて、十二月朔日、日本軍來攻せざるや、ルーズヴエルトは周章し心痛して、更に別箇異樣の方法によつて、戰爭を挑發しようとした事を知り得た。

 ルーズヴエルトが十二月朔日と擬定したのは、十一月二十六日にハル・ノートを手交して日本の憤激を挑發すれば、その直後に開戰となるであらう、と判斷したのが一つの理由、十一月二十二日、日本の外務省から野村・來栖兩大使に打つた電報で、外交交渉は十一月二十九日を最終期限とする旨を通告したのを、米國側で盗聽解讀して、二十九日の直後に動くと見たのが第二の理由、そして日本軍は日曜を以て行動を起すと推定したのが第三の理由であつたらう。

 ところが私は、最近はからずも、珍しい話を耳にした。之を私に話して下さつたのは、當時の先遣部隊の司令長官として、濳水艦をひきゐて海底よりハワイを攻撃した清水光美中將である。中將は云はれる。

「外交交渉斷絶となれば、間、髮を容れず、眞珠灣を討ちたい考で、進攻部隊としては、十二月朔日を希望し主張しました。之を知つてゐる者は、聯合艦隊司令長官山本五十六大將、機動部隊司令長官南雲忠一中將、及び私の三人だけでした。ところが陸軍では、十二月十五日を希望せられ、大きな開きがありましたので、中央の統帥部で、その中をとつて、十二月八日ときめられたのでした。」

 これは貴重なる史料である。十二月朔日を延ばして、八日とした事は、偶然であつて、しかも天佑と云つてよい。それは無意識にルーズヴエルトの計劃の裏をかく事になつたからである」と。



●三浦義一翁『悲天』――「草莽」より、「大詔を拜して」昭和十六年十二月八日

○つゆ霜は 枯れたる枝に ひかりつつ 消えてあとなし 天つ日の下(もと)
○たうたうと 天にひびかふ 大御言 わがすめろぎの 神のみこゑを
○天皇の 醜の御楯と けふよりは のどには死なじ われも吾が子も
○病めりとも わが死にがたし けふの日の 大き御告りを ききて苦しゑ
○大君の 遠の御楯と いふべしや われのいのちの かくも悲しき
○あをぐもの 天津日嗣の すめろぎを ひたにおもへば 落ちぬ涙は
○寥々の みたみと言はじ しかれども 大君のへに 死ぬは誰が子ぞ
 

國學に生きる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月 7日(火)20時32分0秒
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  ●影山正治翁『昭和の神風連』(昭和四十六年十月二十六日講演要旨。『不二』平成二十二年歳末號)に曰く、「

 日本の古典に、『幽契』といふことが出てくる。昭和三十五年の十一月の山口事件[自決]と、それから滿十年後の昭和四十五年十一月の三島事件の上に起つて居るのだ。全く人智人力を越えた、不可思議の深い『幽契』を、私はそこに見る。山口二矢君は、昭和の神風連の一人であり、三島・森田兩氏は、これまた顯著な昭和の神風連の二人だ。山口二矢君は、決行前三日間にわたり、明治神宮に日參して、至心に、

私が、今、やらうとしてして居ることは、はたしてお國の爲になりますかどうか。若し爲になるなら、完全に成し遂げさせていたゞきたい

と、祈りに祈つた。そして最後に、『よし、神慮、こゝにあり!』と納得し、決意して、肅として決行に向つたのだ。これは、神風連が常に行動の根本の依りどころとしてゐた、古神道に於ける『うけひ』といふことである。山口君は、神に聽いて、事を斷行した。格別に劍の心得もない山口君の、あの決行の瞬間の構へは、武道の專門家の言では、達人の構へだといふ。人力ならざる神の力が、こゝにかゝつてゐたからである。三島氏が感銘した核心も、この一點であらう。神風連が、こゝにあるのである。‥‥

 その山口君は、絶對に自殺の出來ないはずの獄中で自決した。僕自身、刑務所には三囘ほど入つて居るので、刑務所が如何に自殺の出來ないやうに、あらゆる細心の配慮がされて居るかはよくわかつてゐる。山口君は、自決に當つて、書くものが與へられて居らないので、水に齒みがき粉をとかして、指で獄壁に、『七生報國』・『天皇陛下萬歳』と書き殘した。山口君の唯一の思ひを、こゝに見る。『幽契』は、滿十年後の同じ月の、あの市ケ谷のバルコニーに、顯然と現はれた。即ち三島・森田兩氏の『七生報國』の鉢巻であり、最後の『天皇陛下萬歳』の聲であつた。

 ところで、三島氏は、昭和三十八年に、『林房雄論』についで、『劍』を書いた。私はこれを三島氏の日本浪漫派への、一應の復歸と見る。昭和三十五六年頃までは、藝術・文學のための文學的な道を歩いてゐた。伏せられてか、忘れられてかは別として、そのあらはれの上で分ることは、自己の文學・思想の原點であつた日本浪漫派に復歸したといへるであらう。この線上に於いて、「武士道」が、「陽明學」が研究され書かれ、更にその線上に、『英靈の聲』が書かれた。これは、國學以前、神風連以前の作品と申してよいであらう。この段階では、まだ「天○をおうらみ申し上げてゐる」のだが、やがて神風連を知るに及んで、一大轉換が起つたのだ。神風連の遺蹟を案内してくれた荒木精之氏に、「神風連に觸れなければ、永久に堂々めぐりであつた」と、感想を率直に述べてゐるのにみても、このことは明白だ。さらに「神風連は、私の精神史に一つの變革をもたらしたやうです」とまでいつてゐる。

 それからの三島氏が、國學派としての晩年であらう。それが彼の『天皇陛下萬歳』であり、『英靈の聲』を完全に卒業し、乘り超えたとしていゝと思ふ。世評としては、「武人として」といふやうな評價もあるが、僕は貴族とか武士とかいふ事を超えた、『國學者』として、『醜の御楯』として、『神風連』として、彼は死んだのだと思ふ。神風連は、國學である。國學のうちの最も純派に屬し、同時にまた最も激派に屬するものだ。三島氏は、さういふ意味の國學に到達しようと、懸命になつてゐたと思ふ。これが今日の話しの結論だが、たゞ彼の神風連・國學は、充分に深められることなくして逝つたので、不充分な點はあると思ふ。しかし、それはそれとしていゝだらう。‥‥

 「憂國忌」といふが、三島氏が最もさげすんだ「櫻桃忌」なみにしてしまつたのでは、三島由紀夫が死んでしまふ。何が三島由紀夫の志であつたか、文學的にも實踐的にも、どうすることが三島由紀夫を眞に生かす事になるか、それを考へてほしい」と。



 愚案、やはり「憂國祭」と呼稱すべきでした。因みに寒林平泉澄先生の御祭り(昭和五十九年甲子二月十八日歸幽)は、毎年嚴修され、先哲遺文の講義がございますが、名づけて「寒林祭」と申し上げます。

 今度び、横濱市鶴見區の鶴見神社境内に、末社「清明宮」が創建された。三島由紀夫・森田必勝兩烈士の御靈を祀る御社(御鎭座祭――平成二十二年十一月二十五日齋行。祭主・須賀清氏。建立者にして齋主・金子元重鶴見神社宮司)の由で、此の社名は、三島氏が嘗て大神神社の神域に三夜參籠した際の感懷を、「清明」と色紙に認めたことに由來すると云ふ(『道の友』第七百十八號)。其の「宮」字が、氣になつて仕方が無い。「清明社」と、何故ゑ呼稱しなかつたのであらうか。我が國振りの正統につながらぬ虞れ無きにしも非ず。或は主祭神たる天津神・皇族を御祀り申し上げて、兩烈士の御靈を配祀したものであらうか。


【式内・村社・武蔵國鶴見神社】
http://www18.ocn.ne.jp/~tsurujin/

【三島森田事務所】
http://morita.iza.ne.jp/blog/entry/1903834/

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101126-00000038-mailo-l14

 

靖國神社の清淨と靜謐を懇祷す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月 2日(木)21時46分32秒
返信・引用 編集済
   國會の會期は延長せず、懲罰動議は採決に至らぬと云ふ。やはり政治劇にて廢案、一件落着。政治家てふ者は、なべて信用は出來ぬ。

 靖國神社に於ける政治家の實體を見るがよい。然し二三十年前は、まだ良い方。今では、靖國神社に來ては、そつくり返つて、宮司を呼びつけてゐるインチキ女代議士もゐれば、靖國神社の大鳥居前にて、ビラ配りをするカンチガヒ代議士もゐると云ふ。靖國神社から、政治家と云ふ人種を一掃せねば、清淨と靜謐は望むべくも無い。



 松平永芳宮司の言葉が、頭から離れない。

御遺族を票田にしてゐる政治家諸氏の參拜は、必ずしも純粹であるとは思へないのです。私が宮司に就任したときの總理は福田さんで、それから中曾根さんまでの總理は、春秋の例大祭に必ず來られてゐたんですが、總理を辭めたら來られない。一度總理をした方で、その後參拜に來た方は、殆んどをられません。そこがをかしい。總理を辭めても、國會議員ではあるんだから、「みんなで靖國神社に參拜する國會議員の會」の先頭に立つて來られゝばいいんですが、「俺はもう元老で、雜魚どもとは一緒には行かない」とばかりに、來なくなる。だから參拜は、心からのものではなく、自分の點數稼ぎのため、御遺族を票田にしてゐるだけなんだと言はれても致し方ないでせう。

 もつと無禮なのは、代議士方の大半が參集所まで來て、參拜しないことです。どこゞゝの遺族會は何時に昇殿參拜をすると、前からの申込みで分かつてゐますから、その豫定を聞きたゞし、地元の代議士がやつて來るんです。北門を通つて遊就舘の前に車を置いて、參集所に集まつてゐる御遺族の前で一席ぶつて、さあ參拜となると、忙しいからと、そのまゝ歸つてしまふ。御遺族の先頭に立つて昇殿參拜をするのが原則だけれども、ご多忙の先生方だから、これはまあ許せますが、せめて參集所を出た時に五十メートルほど歩いて、御社頭でおじぎぐらゐしてから、車に乘つて歸つて頂きたいのですが、そんなことをされる先生なんて、殆んどゐない。御遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました。」
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/8
 

神は見てをる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年12月 1日(水)23時55分19秒
返信・引用 編集済
  舊『刑法』・第二編・第一章(明治四十年・法律第四十五號)

【第一章・皇室に對する罪】

第七十三条、天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子、又は皇太孫に對し、危害を加へ、又は加へんとしたる者は、死刑に處す。

第七十四条、天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子、又は皇太孫に對し、不敬の行爲ありたる者は、三月以上五年以下の懲役に處す。神宮、又は皇陵に對し、不敬の行爲ありたる者、亦た同じ。

第七十五条、皇族に對し、危害を加へたる者は、死刑に處し、危害を加へんとしたる者は、無期懲役に處す。

第七十六条、皇族に對し、不敬の行爲ありたる者は、二月以上四年以下の懲役に處す。



 中井某の言動は、向の西尾某と共に、正に此の「二箇月以上、四箇年以下の懲役」ないし「三箇月以上五箇年以下の懲役」に相當せり。昭和二十二年、此の條文は削除されし由。然しながら如何に平和無爲の御時勢とは申せ、單なる懲罰に留めおくは、國民の正義に反すると謂はねばならぬ。

 此の悲しみは、憤怒を超えたり。

 或は人、衆ければ、天に勝つと云ふと雖も、「人、陽惡を爲せば、人、之を治め、人、陰惡を爲せば、神仙、之を治む。故に天、人を欺かず、之を示すに影を以てす。地、人を欺かず、之を示すに響を以てす。善惡の動息(善を爲すも、惡を爲すも)、天、皆な之を鑑む矣」と申さば、天網恢々、疎にして漏らさず、神は見てをられるが故に、たとひ何と云ひ訣を爲して、此の顯世を欺かうとも、冥罰は、之を畏れなければならぬ。殊に皇室に對し奉るの不忠、尊嚴を犯し奉るの不敬は、神明の、決して赦さゞる所、覺悟しておくがよい。

 更に問題とすべきは、病中忌中はおくが、當然當爲の責務を放棄したる、下記の者共である。
  ↓↓↓↓↓
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20101129-OYT1T00978.htm
 

臣下の道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年11月25日(木)21時14分5秒
返信・引用 編集済
  備へとは 艦や砲との 謂ひならず この敷島の 大和魂



 吉田松陰先生の哥であります。本日は、松陰先生殉節の日(太陽暦換算)にして、亦た憂國忌の齋行されし日でもあります。此の現世は、愈々騒がしい時代に突入して來たやうであります。

 平泉澄博士の學派にして、早稻田大學「日本文化研究會――日文研」組織者・『日本學生新聞』初代編集長・「楯の會」初代學生長であつた持丸博翁の『證言――三島由紀夫・福田恆存――たつた一度の對決』(平成二十二年十月・文藝春秋刊)を讀了いたしました。

 持丸博翁は、いはゆる『論爭ジヤーナル』の一件にて、三島由紀夫氏と袂を別ちましたが、三島氏との決別は、「今、振り返つてみて、この決斷が誤つてゐたとは思ひません」と。而して結論に曰く、「

 三島の天皇論は、論理としては、この上なく堅固で完璧に見えますが、それは天皇を政治論や文化論の中で體系的に位置づけたもので、天皇に對してわれわれ國民は、どう向き合へばよいか、といふ問ひに答へるものではありません。つまり三島の國體論では、最も大切な「臣下の道」といふ視點が拔け落ちてゐるのです。二・二六事件での青年將校、特に磯部淺一の言動は、「臣」としての分限を越えてゐます。このことが、實は三島と私(持丸翁)との、天皇論(國體論)における最大の相違でした。

 最後に、吉田松陰が「諫死論」の中で述べてゐる「臣下の道」を祖述します。

「外國においては、上に立つ者が惡政を行へば、易姓革命が行はれて、統治者が次々に代はることが、常の姿です。しかるに我が國では、開闢以來、萬世一系、皇統が定まり、革命は絶對にあり得ない。たとへ天皇が、どんなに惡政をなさらうとも、革命は許されない。そのやうな場合には、臣下は、ただただ諫言を申し上げて、改心をお願ひするほかはない。これに對して、もし天皇がお怒りになつて、諫臣を成敗されたら、また次の忠臣がでて、お諫めすればよい。臣下として諫言を繰り返し、そのために國民が死に絶えてもよろしい。この覺悟こそ、我が國の臣道であつて、外國と根本的に異なる所以である」。

 吉田松陰は、このやうに教へました。このときどきの臣下の覺悟は、自分こそ最終的な道義の保持者である、といふ誇りがあつてはじめて生まれるものです。

 臣下の道とは、ただただ諫言と戀闕の心あるのみであります。‥‥

 三島と共に一時代を過ごし、苦樂を共にした私が、三島の「國體觀」に對し、臣下の道にもとる云々と論ずることは、この上もなくつらいことです。しかし、三島は、この批判に對して、何も答へないまま逝きました。

 その死は、「臣下の道」としての戀闕であつたのか、それとも「美」的原理からなのか‥‥私はこれからも考へ續けなければなりません」と。



●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/14



 愚案、小生は、三島氏は、最後には神風連に至つて蹶起したものと考へてをりましたが、持丸博翁は、磯部菱海の影響を、最後まで見てをられるやうであります。有志の士には、是非とも繙いて戴きたい一册であります。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/1
 

『靖國の源流――初代宮司・青山清の軌跡』

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年11月22日(月)19時32分38秒
返信・引用
   『神社新報社』のサイトが、一新されてをります。

 所功博士による、青山幹生・青山隆生・堀雅昭氏『靖國の源流――初代宮司・青山清の軌跡』(平成二十二年七月・弦書房刊)の紹介がございます。青山隆生翁は、青々塾ご出身の由。
  ↓↓↓↓↓
http://www.jinja.co.jp/news/news_004740.html


【參考】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/920
 

Re: 楠公さん縁の石刷?

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年11月16日(火)21時33分19秒
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  > No.1001[元記事へ]

細見 均 樣

 こちらこそ、初めまして。此の掲示板の管理を仰せつかつてをります、備中處士と申します。

 「パソコンで擴大すれば、なんとか讀むことは可能」との事、當方、試みましたが、パソコン音癡にして、何とか擴大は出來ましたものゝ、鮮明ならず、遺憾ながら解讀しかねます。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/l50

の中(『楠公傳』)に、ございませんでせうか。「文末の作者」なりとも、御教示くだされば幸甚であります。一部(文首・文尾)の擴大の寫眞でも構ひませんが‥‥。

 神戸市にお住まひの由、それでしたら、湊川神社に參れば、教へて戴けるものと存じます。敬白
 

楠公さん縁の石刷?

 投稿者:細見 均メール  投稿日:2010年11月16日(火)20時37分0秒
返信・引用
  初めまして、神戸市在住の会社員です。出身地は丹波市です。過日、丹波の実家で石刷の
掛軸を見付けました。が、漢文で私には理解不能です。拾い読みすれば、四条畷や楠公の
文字が散見出来ます。これは楠公に関する碑の石刷ではないかと推測し、メールさせて頂
きました。添付の画像はデジカメなので鮮明ではありませんが、パソコンで拡大すればな
んとか読むことは可能だと思います。もし宜しければお教え願えれば幸いです。
またわかれば何処に建碑されているのかも重ねてお願い申し上げます。
 

御法の通り、如何樣の御處置、仰せ付けられ候ふ共、御恨み申し上げず候ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年11月13日(土)19時21分42秒
返信・引用 編集済
   平成二十二年十一月二日、山口二矢顯彰會による「山口二矢烈士五十年祭」が、日比谷公會堂に於て擧行された。一千名を超える有志が集ひし由。

 其の記事が、光文社『FLASH』最新號に出てゐると云ふ。此の手の妖艶なる雜誌を買ふ時には、些か躊躇して苦勞する。今囘は、何も知らぬ愚妻に買はせたのであつた‥‥反省。



●『FLASH』平成二十二年十一月二十三日號に曰く、「

(山口二矢氏は、)淺沼委員長の家族には、『殺害されたことによつて、悲しい想ひで生活をし、迷惑をかけたことは事實でありますので、心から家族の方に申し譯ないと思つてゐます』(『山口二矢供述調書――社會黨委員長淺沼稻次郎刺殺事件』平成二十二年十一月・展轉社刊)と、謝罪してゐる。

 だが、事件後は、山口青年の家族も、苦腦を抱へていくことになる。父は自衞官で、嚴格な家庭だつたといふ。『お父樣は、「淺沼さんのご家族がいらつしやるのに、二矢が死んだことを、私たちが悲しんではいけない」と語つてをられたさうです』とは、山口二矢烈士五十年祭に參列した人物の言葉だ。そしてテロによる言論彈壓が許されないことも事實である。

 右翼團體である同血社の河原博史會長に聞いた。『山口烈士の行動を、私たちは「義擧」と言つてゐます。法的には犯罪ですが、民族の觀點から、救國の想ひで、國の災ひを討つたのです。もとより山口烈士も、世論がそれを認めてくれるとは思はなかつたでせう』。‥‥」と。



★ 海上保安官の出處‥‥詳細は不明であるが、今のところ、漏れ傳はる所の言を聞くに、天晴れである。辯護を斷つた由、かつての楯の會會員と同じである。義擧であることを信じたい。然しかういふ事件は、其の人の、終結後の言動に注目せねばならぬ。誰かさんの如き、失望を禁じ得ないことも多々あるが故に‥‥。
  ↓↓↓↓↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101113-00000013-sph-soci


●『一艸獨語』十一月十二日――日本人よ「愛國無罪」と訴ふる勿れ
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/14964751/
 

Re: 機能の設定を活用してをります。

 投稿者:実存主義者  投稿日:2010年11月 6日(土)23時59分9秒
返信・引用
  > No.990[元記事へ]

備中處士さん

ご指南ありがとうございました。

当方の掲示板は無料タイプにつき広告防止の機能は付いていないようです。

毛穴塞ぎを生業とする(どうせ一台のPCだけを置いたワンルームマンションで商売してるブローカーでしょうが)業者の広告がもう気持ち悪くて気持ち悪くて・・・・・

まあ、teacupさんもその広告料でやってるのでしょうから文句も言えないかな(笑)

備中さん、先の投稿と一緒にこれも削除して頂いて結構です。色々とありがとうございました。
 

機能の設定を活用してをります。

 投稿者:備中處士  投稿日:2010年11月 6日(土)16時03分3秒
返信・引用 編集済
  実存主義者樣

 ご活躍、遙かより拜讀させて戴いてをります。

「気持ち悪い広告が頻繁に出てきて閉口している」と。

 廣告の件、なに、『管理者メニユー』から入り、「機能の設定」の中の「廣告などの迷惑投稿」を「禁止する」にチエツクしてゐるだけですよ。小生のは、月一杯分のコーヒー代程度を支払つて有料掲示板にしてをります。無料掲示板でも、若し同じ機能が有れば、禁止されゝば宜しいでせう。実存主義者樣の爲めに、暫く「特別に許可する」にチエツクしておきませう。私用で變へたら、塾頭に叱られるかな。

 それより妖艶なる奴が問題。「出入り禁止ホスト名一覽」に入れてをるのですが、何處からとも無く入つて來ます。奴さん、少しは文學的に書いては如何と思ひますが、藝が無いもんですな。工夫が足らぬ。見てやる氣もおきないは(洪笑)。

 これから岡田則夫翁の勉強會に參じます。出掛ける前に、掲示板を見ておいてよかつた‥‥。小生でも答へられた(笑)。


●実存主義者樣【櫻粋會/近代保守思想の学術的省察】
  ↓↓↓↓↓
http://6131.teacup.com/dartford/bbs
 

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