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  • 平泉澄博士遺文

  • 投稿者:備中處士
 
【寒林平泉澄博士の神道論】

●寒林平泉澄博士遺文私抄(備中處士)
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kanrin.htm

●平泉博士の神道觀は、備中處士「靖國神社考52~60」に紹介させて戴いた。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

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  • 寒林平泉澄博士──神道論、坤。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 2月 5日(木)22時58分55秒
  • 編集済
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~承前~



●平泉澄博士『神道の眼目』(『千家尊宣先生還暦記念・神道論文集』昭和三十三年九月・神道學會刊。『神道論抄』に所收)に曰く、

「行路の難きは、山よりも難く、水よりも險し、行路の難きは、水に在らず、山に在らず、只だ人情反覆の間に在りとは、白樂天が夫婦の關係に借りて、君臣の間の道義、終りを全うせざるもの多きを歎いた「太行路」の詩の一節であるが、國運の消長、あだかも潮の干滿の如くに急であつた此の十年餘りの間に、我等は不幸にして古人の、此の歎息をくりかへさゞるを得なかつた。特に尊朝愛國を以て賞せられたのは、國史の明記せられる所、持統天皇四年、大伴博麻に始まるのであるが、それは「尊朝愛國」の文字の見えるのが珍しいだけで、尊朝愛國の事實は、それ以前に數多くあり、それ以後に數多く存し、一々の事蹟を探るまでも無い。國家の建設及びその存續が、一に尊朝愛國に依るものであつて、それ無くして國家の存立し得ない事は、道理明々白々であると云はねばならない。人と人との結ばれるは、尊敬と愛情とによつてでなければならぬ。まして國家の結成であれば、その尊敬も愛情も、極めて高く強いものでなければならぬ事、理の當然であるのに、そしてそれは十數年前まで、何人も疑はなかつた所であるに拘らず、今日、忠君愛國を説く者少なく、稀に之を説く者あれば、世人は目するに頑迷を以てし、固陋を以てし、到底之に同調し得ざる時代はづれの思想とするのである。

 これ然し更に深くその根柢を洗へば、國家に對する感激のうすらいだ事が、その本源を成してゐるのであらう。大東亞戰爭の初め、勝利の快報、相ついで至るや、人々は歡喜して君が代をうたひ、踊躍して日の丸の旗を振り、君國の尊嚴を仰ぎ見、永遠の隆昌を讚美した。しかるに數年の激戰、遂に利なく、やむを得ずして膝を屈するに及び、浮薄の徒輩は、俄かに幻滅を感じ、やがて此の土に進駐し來り、抗敵すべからざる武力を以て、既に武器を放棄したる民衆に強壓に加ふる事、七八年の長きに及ぶや、人心は動搖し、信念は變化した。今は日の丸の旗を掲げる感激もなければ、君が代をうたふ熱情もない。その最も具體的に現れた一つが、紀元節の反對である。

 凡そ國民として、その國家の建設を喜び、之を追思し、記念して、祝賀の意を表するは、當然の事である。しかるに世には、或はその年代に誤差ありとし、或はその史實に疑惑ありとして、紀元節に反對し、單なる反對でなく、結束して囂々たる非難を弘布しつゝあるのである。その反對のいはれなき事は、既に我等の論じて、ラジオにより、書籍によつて普及したる所であるから、こゝには説かぬ。たゞ一つ、その後、某新聞に出てゐた所であるが、某教授は、國史學の專攻でありながら、紀元節の問題には興味が無いと云つてゐるといふ、この不思議の言について少しく觸れて置かう。凡そ歴史を攻究する者にとつて、國家民族の興亡盛衰こそ、最大の關心事であらねばならぬ。國衰へて、何の藝術であらう。民族亡びて、何の文學であらう。國史を學ぶ者は、我が國の興起について、溯つて國家の建設について、深く考ふる所なければならぬ。しかるに紀元節の問題に興味なしとして、その論評をさしひかへる事は、取りも直さず我が國の盛衰に無關心なる事の表明であり、國家に無頓着になり、國家をかろんずる俗見濁流に溺れたものといはざるを得ないのである。

 國史家の中に、かゝる浮薄の態度が見られるのみでは無い。神道家の中にも、神道は國家との關係を離脱する事がその本旨であり、嘗て國家との關係緊密であつた事は、その本旨にもどるものであり、やむを得ざる強制に出でたものであつて、敗戰によつて初めて本然の姿に復歸したかの如くに説くものがある。我等はこゝに、占領政策の完全なる成功と、臆病なる心の完全なる慴伏とを見るのである。

 無論、中には國家との關係の復活を希望する聲も聞かれる。しかし大切なるは、形式上の復縁、或は國家の保護を受ける事には無くして、根本の問題は、神道が、皇國護持の祈りに生きる事になければならない。苦難は、至深の祈りと懸命の努力とによつて克服せらるべきものであつて、その至誠なく、その勤勞なくして、漫然他にすがる依頼心によつては、解決せらるべくも無い。そしてそれは、苦難の程度が深刻苛烈であればあるだけ、一層重大なのである。嘗て南風競はず、皇國の道義、地に墜ちようとした時に、伊勢の神宮の貢獻した所、否、それ以上に、北畠親房公の奉公された跡をかへりみるがよい。神道の當面する苦難を突破すべき方途は、神道の、當に生くべき所に生き、立つべき所に立ち、行くべき道を行ふ以外には無い。

 親房公の理解し、信仰し、而して宣布せられた所には、その時代の學問思想の影響を受けて、多少の附會もあり、混雜もあるものゝ、その中核をなし、主幹をなすものは、實に神道の本質であつて、その點では後世群小神道家の遠く及ぶ所では無い。親房公と離れる事は、神道の本質から遠ざかる事である。皇國の一大事因縁を忘却する時、神道は單なる原始宗教か、又は低劣なる民俗に墮するであらう。いかにもそれは、本來神道と無縁のものではないであらう。しかも日本の國家建設と共に、神道は向上し、高揚せられた。「日本」なる國家は、神道に於いて、莊嚴淨土に外ならぬ。‥‥

 若林強齋の『神道大意』に、「生きては忠孝の身を立てゝ、どこまでも君父にそむき奉らぬ樣に、死しては八百萬神の下座につらなりて、君上を護り奉り、國土を鎭むる神靈となる樣にと云ふより外、志はないぞ。じやによつて死生の間にとんじやくはない」(谷省吾學士所藏、享保十年、野村正明筆録本)と云ひ、その門下松岡文雄の『神道學則日本魂』に、「たとへ儒生・釋徒・異端・殊道の頑なるも、村甿・野夫・賈販・奴隷の愚なるも、悃々欵々として國祚の永命を祈り、紫極の靖鎭を護る者は、此れ之を日本魂といふ」と云ひ、その『附録問答』に、「異端といへども、此の君を尊んで寶祚長久を祈り奉る者は、反て我が國の一物也。只だ明けても暮れても、君は千世ませ千代ませと祝し奉るより外、我が國に生れし人の魂はなき筈也」と云ふと、相通ずるものである。

 されば名は、神道とは云はないでも、此の根本主要の點に於いて明確に符合するものは、即ち是れ神道であり、同時に此の眼目に於いて相容れないものは、名は神道といひ、形は神道に似ようとも、それは神道の異端に外ならぬ。前者の適例は、根本通明の『讀易私記』である。曰く、「按ずるに、天子一姓の道、もと是れ天道なり。然れども教學に非ざれば、則ち此の道を持すること能はず。教學の國家に於ける、此れより重きはなきなり」(原漢文)。又た曰く、「夫れ君臣の道たるや、百諫きかれざるも、逃れて去るの道なし。しかるを況んや天子一姓、皇統相繼の國に於いてをや。君道の隆なること、天子一姓の國より盛なるはなし。君命一たび之に下れば、則ち難を犯し死を視ること、猶ほ歸るがごとき也。難に臨んでは、則ち之に死する能はざるを以て耻となす。死する能はざる者あれば、則ち父母も子とせず、妻も夫とせず、朋友も齒ひせざる也。曰く、『建國以來の君臣にあらずや。汝ひとり、汝の祖、奕世勤王、忠を盡せしを念はざるか。何ぞその死せざる』と。故に天子一姓、その兵、天下に敵なし」(同前)。

 これ即ちラフカジオ・ハーン小泉八雲の、驚嘆して注目したるところである。彼は日本の社會構造が、すべてその根強き祖先崇拜の上に立つてゐる事、日本の歴史は、實際その宗教の歴史である事に注意して、生者にあらずして、むしろ死者が國民の統治者であり、國民の運命の形成者であつたと喝破してゐる。そしてたまゝゝ際會した日露戰爭に、國民の踊躍して難に赴くさまを見て、「今戰爭に召集されて居る數萬の青年にして、光榮を荷つて本國に歸らうと云ふ希望の言葉を洩らすものは、一人もない、――口に出す希望は、天皇と祖國の爲めに死んだ者の靈が集まる處と信ぜられて居る招魂社――『靈を呼び起こす社』に祀られて、長く世人に記憶されようといふ事のみである。古來の信仰の、此の戰爭の際ほど強い時はない。(中略)愛國の宗教としての神道は、充分にその力を發揮させれば、極東全部の運命に影響を及ぼすのみならず、文明の將來に影響すべき力である。日本人が宗教に無頓着であると説く位、日本人に就いての不合理な斷言はない。宗教は今迄のやうに、今も猶ほ日本人民の眞の生命であり、――彼等のあらゆる行動の動機で、また指導の力である。實行と忍苦の宗教であり、僞信と僞善のない宗教である」(戸川明三氏譯文による)と、驚歎したのであつた。

 小泉八雲の後に於いて、神道を、從つて日本を、その本質に迫つて理解し、禮讚した人は、蓋しポンソンビ博士であらう。博士はその所信を表明するに、驚くべき勇氣を以てした。即ち博士自身は、滔々たる世界の潮流に抗して、確固不動の尊王家であつて、今猶ほ帝王神權説を信奉する者なる事を告白し、君主の稱號は、決して臣下によつて奪はれるものではない事を斷言し、特に日本の天皇は、肉體を具へさせ給ふ所の神、即ち現人神にまします事、そしてそれは、單にその職務のためばかりでなく、その血統のために、さやうにあらせられるのである事、且つまたそれは、天皇御自身の宣言、又は布告によるものでも無ければ、人民一致の贊成によるものでもなく、實に天照太神の直系の後裔に在らせられるが故に外ならぬ事を説いてゐるのである(佐藤芳二郎編『ポンソンビ博士の眞面目』參照。愚案、此の本の副題は、「日本の神を敬ひ、日本の皇を尊び、日本の國を愛し、日本に住み、日本で死んだ、一英人日本學者」昭和三十三年五月・本尊美記念會刊)。

 あゝ斯くの如きは、純眞なる日本人のすべてが先祖代々信じて來た所である。しかるに占領軍の政策が、此の信念をくつがへす事こそ、強き日本の國家組織を弛め、固き日本の國民團結を崩す上に、最も效果ありと看て取つて、こゝに打撃を加へて以來、人々の信念は動搖し、皇國日本と同時に、神道も亦よろめきわたつたのであつた。禍なるかな、心臆したる者よ、信仰は脅迫によつても抂げられない筈ではないか。信仰に對する脅迫は默殺してよろしく、默殺が猶ほ許されないならば、死を以て抵抗してよいではないか。況んや占領は、七八年にして終つたのである。颱風は一過したのである。神道は、その本來の面目に立ちかへるべきである。

 神道は正直をたふとぶ。いかに巧妙なるも、そらゞゝしき詭辯は、神明のうけ給はざるところである。神を祭る者は、神を信ずる者は、神に祈る者は、世の濁流に恐れ、之に媚び、わづかなる戰の勝敗によつて、態度を二三にしてならぬ」と。



●平泉澄博士『皇學指要』(『高原(美忠)先生喜壽記念・皇學論集』昭和四十四年十月・皇學舘大學出版部刊。『神道論抄』に所收)に曰く、

「我が國の先哲は、我が國の道が、實に國體より出づる所であり、その淵源は國初に溯り、その實修練磨、向上開展が、我が國の歴史に外ならぬ事を看取し、道破し、體得し、實證した。彼の吉田松陰が、嘉永四年のくれより五年の正月へかけて、即ち二十二・三歳の若さに於いて水戸に遊び、會澤正志・豐田天功等の碩學をたづねて、其の説を聽き、驚いて、從來學ぶ所の空疎なるを慚愧し、「身、皇國に生れて、皇國の皇國たる所以を知らず、何を以て天地に立たむ」と叫んだのは、此の點の開眼を示すものである(愚案、『復來原良三書』)。

 こゝに我が國を規定して、特に皇國といつたのは、我が國體を一言にして道破したものであつて、その意義、頗る重大である。『弘道館記』に、「恭しく惟るに、上古神聖、極を立て統を埀れたまひ、天地位し萬物育す」とあり、『中朝事實』に、「故に人皇の洪基を建て、即位の大禮を開きたまふ。蓋し即位とは何ぞ。天子、大寶の位に即きたまふなり。人君、天に繼いで極を建て、萬國、以て朝し、元元、以て仰ぎまつり、四海、始めて天子の崇とぶべきを知り、明徳を中州に明かにしたまふの義なり。即位の大禮は、人君、綱紀を其の始に正したまふなり。豈にゆるがせにすべけんや」とある。その立極といふは何ぞといへば、極は極致であり、終點であり、目標であり、理想である。即ち天皇が、全國民團結の中心であり、全國民統合の根原であり、その敬愛の對象であり、その賞罰の規準であり、その運動の目標であり、指揮の主權である事を示すものである。そして斯くの如く立てられたる極、即ち天皇の御位は、埀統の二字に表現せられたる如く、たゞ一系に相續せられて萬世に傳へられ、絶えて革命を許さない。こゝに我が國體の特質が存するのである。

 してみると、皇學といふのは、たゞ皇室に關するのみであつて、ひろく他には及ばないのでは無いか、といふ疑問が起るに違ひない。然しさうでは無くて、一切の學問が、此の國體から出て來るのである。國體の中から出て來、國體の線にそうて發展してゆくを正しとし、國體外から出て、國體に矛盾し背反するを正しからずとするのである。

 但し特に注意しなければならないのは、かやうにいふは、外國に出でたる教學をすべて排除するといふ意味では、決して無い事である。それは我が國の國體が一種特異なもの、例外的なものであるかの如く誤解せられる事と關聯がある。世界に民族は多く、國家も多い。その國家の歴史を考へるに、その初めに於いては、我が國の古代と相類するものが少くなかつたやうに見える。しかるに大抵の國は、不幸にして後に革命もしくは滅亡の悲運に見舞はれ、我が國の如く萬世一系の國體を保持し得た國は、殆んど無い。即ちその立極は相似て、その埀統は大いに異なるのである。換言すれば、我が國の萬國に異なる所以は、本來それが異例特質であるからで無くして、我が國がその最初の性格を素直に守り通して來たのに反し、他國に於いては中道にして不幸なる變質變容を見た點に存するのである。從つて外國に於いても我が國の教學を參考し採用してよいと同樣に、我が國としても外國の教學の中に參考し採用してよいものがあるのである。

 外國が中道にしてその性格を變改したのは何故であるかといふに、つきつめていへば、上下の不徳によるといふの外は無い。我が國が、悠久の年月の間に、不幸もあり、爭亂もあり、衰微もあり、混迷もありはしたものゝ、よく其の本質を守り通して來たのは、その立極の聖徳によると共に、爾後、君臣相共にその遺訓を奉じて忘れなかつた爲であらう。天皇に權力が集中せられるのは當然の事ながら、天皇は權力者として下民に臨まれるのでは無く、たゞ謹んで神教を奉じ、祖訓に違ふまいと努められるのである。國民の中に英偉卓拔の才能の現れるのは、是れ亦た當然の事ながら、彼等は個人の自恣によつて動かないで、天皇の教命に隨つて、其の力を發揮するのである。たとへば支那から渡つて來た『孟子』の如き、之を讀んで、其の雄辯宏辭、よく異端を挫くに感嘆しながら、革命是認の説に至つては、國體護持の上に害ありとして、天皇の教命無き以上、正式に教材として採用しがたいとした如き、それである。

 されば皇學とは、先皇の遺訓を奉じ、先哲の指導を受けて、國體の護持をその本分とする所の、敬虔なる學問である。それは歴史學であると共に、國家學であり、政治學であり、また經濟學である。それは國語學・國文學であると共に、また倫理學であり、哲學である。それは古い學問であると同時に、今日、或は明日の新しい學問である。それはひとり我が國に限局せらるべき偏狹なるものにあらずして、ひろく世界に貢獻し得るものである。『教育勅語』に、「斯の悖道は、實に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所、之を古今に通じて謬らず、之を中外に施してらず」とあるもの、是れである。

 されば皇學は、曾ては『記』・『紀』・『萬葉』・『令義解』・『延喜式』等を、主として其の研究の對象としたが、それは擴げて國史の成迹全般に及び、御歴代の宸記、諸家の日記、數多き勅撰和歌集より、更に承久・建武の遺文を捜り、『禁祕抄』についで『神皇正統記』、下つて水戸の『大日本史』、更に山崎闇齋及び其の門下の著述、山鹿素行の『中朝事實』、そして橋本景岳・吉田松陰・眞木和泉守、更に佐久良東雄・橘曙覽等を經て、明治・大正の諸家を吟味しなければならぬ。その點、從前國學と呼ばれたる範圍よりは、いちじるしく其の區域をひろくするであらうが、しかも其の程度に止まらずして、和漢歐米の歴史・思想・學問一切が、積極消極、もしくは加減贊否の何等かの意味に於いて關係をもつであらう。皇學の内容深遠であり、その範圍は宏大であるといはなければならぬ」と。



●平泉澄博士『神道の本質』(神社本廳主催指導神職研修會・昭和五十一年七月二三兩日集中講義・於伊勢の神宮道場。『先哲を仰ぐ・三訂版』平成十年九月・錦正社刊。『神道論抄』に所收)に曰く、

「和氣清麻呂公が大きな陰謀を打碎いて、本當の神慮をうかゞひ知ることができたといふことは、既に命がけの行であるといふことを痛感するのであります。これが神道である。なまやさしいものでない。‥‥

 源實朝公は、神道の行者であつて、日本の神道及び日本の道義の殉教者といふべきであります。‥‥

 法規といふものは守らなければならぬ。しかしもつと大切なものは、道義であります。道義を根本にして、法規といふものを運用してゆかなければならぬ。神社行政は、(非常な忠君の)家の子孫が、何かの缺陷が有るにせよ、それを何とか世話をしてゆくといふことを考へるべきである。國家は、その最も悲運のときにおいて、國家の根本を培つてきた人々を無視してはならぬ、と云ふ事を私は思ひます。‥‥

 和氣清麻呂公・菅原道眞公・源實朝公・明惠上人・北畠親房公・山崎闇齋先生・澁川春海先生・谷秦山先生・橘曙覽先生・眞木和泉守、全部誰一人として、安穩な生活を送つた人がない。‥‥これといふ國家の保護を受けた人はない。神道は、國家の保護をうけて伸びたのではない。國家をお守り申し上げる。この考へに、神道は立たなくてちやならん。われゝゝは、國の保護を要求すべきものではない。國をお守り申し上げることを考へなくちやならぬ。そしてこれによつて、はじめて神道も神道として生き、日本の國も日本の國として生きる。‥‥神道は、何らの保護をうけてをらない。むしろ國を荷つてきました。このことを私共は銘記しなければならないと思ひます。この氣魄あつて、はじめて神道は發揮されると思ひます。‥‥

 國家の重大事は、心を澄ましてをるといふと、分つてくる。神道は、巫女さん、いろんなことを豫言したり豫想したりする人がありますが、あゝいふくだらんことに陷つてはならぬが、しかし國家の重大事においては、神道は、神々の力を借りて、進路を誤たぬやうにしなくてはならぬ。つまりはわれゝゝが神を信じ、神に祈る、そのまことが、どこまで徹底してをるかといふことにあると思ひます。‥‥

 今後の日本の前途を思ふと、重大な苦難、苦難と云ふ以上の恐るべき事態が、さしせまつてゐることを思ふのであります。その間において、皇國をお守り申し上げ、日本の永遠の重みといふものは、神道の雙肩にかゝるものだと思ひます」と。



●平泉澄博士『ふるさと』(小生珍藏の複寫版)に曰く、

「今日の情勢、鐵筋コンクリートの建物、アスフアルトの道路、それを拒否する事は出來ますまい。それは東海道五十三次を、昔のやうに草鞋で旅する事の不可能であると同じ事でありませう。文明は、人の生み出したものでありますが、一たん生み出された文明は、今度は人を支配し、人を拘束し、人を苦しめるに至るのであります。‥‥

 ところが幸ひにして我が國には、神社があり、寺院があつて、そして其の多くが、いはゆる文明の影響を受けること尠なく、山に據り、森に圍まれ、老樹大木を目じるしとして、人々を昔の想出に誘ふのであります。ブラジル歸りの人々が、白山の老杉、千年の杉竝木をくゞつて來て、「此處には、まだ日本が殘つてゐた」と云つたのは、その爲でありませう。

 山の美が、單に美といふに止まらずして、崇高美に滿ち、莊嚴美に輝いてゐるのは、大神神社を第一とするでありませう。泰澄大師は、本姓三神氏とあつて、蓋し大神神社と關係が深い家の生れでありませうが、その泰澄大師によつて開かれた白山では、神託として、「森々たる瑞木、離々たる異草、悉く是れ吾が王子眷屬の所居なり」との教訓が傳承せられて來た事、天徳年間の『(泰澄和尚)傳記』によつて知られます。即ち樹木を、經濟的對象として見ずして、神の御一族の據りたまふ所と見、之を尊ぶのであります。‥‥

 道路や建築の樣子が如何に變貌しても、神社や寺院が昔のまゝに儼存して居れば、その山、その森は、ふるさとのなつかしい想出を保持して失はないでありませう。時勢の大いなる變轉は、此處に、唯一の不退轉のもの、人々の心の支へを求める外はありますまい。然るに更に重大なる問題が殘つてゐます。それは、ブラジル歸りの人の言葉の最末に出て來た、「人情も變り果てました」點であります。人情が變り果てゝは、たとへ山河の形容、昔のまゝであらうとも、故郷の風物、すべて落莫たり荒涼たりで、何のなつかしさ、うれしさがありませう。どこへ行つても、見知らぬ子供が、道で遭へば必ず挨拶をして、「今日は」といひ、「左樣なら」と云つてくれたのは、戰後も十年は續いたでせう。それが今は、全く見られなくなり、子供が知らぬ顔してゐるどころでは無い、大人の顔にも、人なつかしむ感情、人をいたはり人をねぎらふ心持が見えず、むしろ白眼を以て對するかと思はれやすくなつた。私は曾てギリシヤの奧地を旅して、寂しい野原を通つた時、たまゝゝ畠で鍬を打つてゐた農家の夫婦、孤影、旅行く私を見かけて鍬を休め、手を振つて「カリーメーラー」と、聲掛けてくれたのを、五十年近く經つた今でも、忘れる事が出來ないのであります。若し人をなつかしみ、人をいたはる心が無く、ひたすら己一個の利益をむさぼり、己を主張しては、傲然として他に對するのであれば、たとへ經濟大國を以て誇るとしても、精神的には荒涼たる砂漠にひとしいではありませんか。

 此の點に就いて思ひます事は、神社の本義であります。若し神社が、觀光とか、或は見學とか、今時流行の淺薄なる意味の接觸より脱皮して、眞に畏敬の念を以て拜跪する本義に戻りますならば、あの傲岸不遜の人生觀を是正する上に、大いなる貢獻をなし得るでありませう。神道に於て要求せられるのは、「かしこみ」であり、「うやまひ」であり、「つゝしみ」であり、それは祝詞に、くりかへしゝゝゝゝゝ述べられる言葉であります。それを言葉に止まらず、心魂に徹し、態度に具現して、徹底するところに、砂漠脱却の道が開けるのではありますまいか。若し神社敬虔の美しい空氣が、參詣の人々の胸に沁み、人々は跪いて神徳を仰ぎ、神の御前に己の無知無能無力を顧みて、己本來の分に想到しますならば、あの傲然として主權者ででもあるかの如き妄想より解脱して、恭々しく謙虚に歸り、從つて他に對しては、あたゝかく、ねんごろに之を遇する樣になり、日本國中、いたる所、樂しいふるさとになるのではありますまいか。‥‥是れは私の悲願として、述べさせて貰ひました」と。
 

  • [8]
  • 寒林平泉澄博士──神道論、乾。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 2月 5日(木)22時50分4秒
  • 返信
 
 平泉先生三十年祭記念として、日本學協會編『平泉澄博士神道論抄』(平成二十六年五月・錦正社刊)が出版された。平泉先生の神道論は、かつて拙稿『靖國神社考』・『寒林平泉澄博士遺文私抄』、竝びに此の掲示板に拜寫させて戴いた。其の大半は、今度び收録されてをり、洵に欣快に堪へない。舊稿を増補して、其の極く一部ながら、こゝに再掲させて戴く。殊に最後の『ふるさと』は、『蘇峰先生の想出』(上・下。蘇峰會『民友』昭和五十一年四・五月號)と共に、かつて紹宇近藤啓吾先生が、「平泉先生現在の御氣持が、最もよく表はれてゐる」として、小生に惠與されたものである。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/296



●寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』(『研究評論・歴史教育』二の四・昭和二年七月。『神道論抄』に所收)に曰く、

「近時世間に現れたる論説の傾向を見るに、一部の間に於いては、神佛關係の歴史に對して明察を缺き、近世三百年の努力を無視して、再び中世の混沌雜駁に復歸しようとする傾向を見る。いはれなき逆轉と斷ぜざるを得ない。‥‥近時この問題について世に現れる論説は、多く明治維新の當時の處置のみについて論難し、その歴史的背景に言及する事なく、而して或は明瞭に之を以て足れりと斷言してゐる。‥‥この近世三百年の間の思潮が、やがて明治維新を機會として神佛分離を徹底せしめたのであつて、之は決して一朝一夕の事ではなかつたのである。‥‥

 神佛分離あるは、神佛習合にあるによる。習合を究めずして、分離を説く事は出來ないからである。‥‥しからば神佛習合とは、何であるか。神佛習合は、神と佛との調和である。然り、名は調和である。しかし實は神を佛に隷屬せしめる事であつた。即ち神佛習合の基調をなすものは、本地埀迹の思想であつた。これは佛を本地とし、神を埀迹とするものである。‥‥神を佛の埀迹と見、權現と考へ、その本地が佛なるによつて、初めて神の權威を認めたのであつた。即ち本地埀迹の思想にあつては、神は單に佛の影であるにすぎない。いはゞ神は、こゝに佛に從屬してゐるのである。神を以て佛に從屬せしめ、從屬の關係に於いて、初めて神の權威を認めようとするが如き思想は、いかにして可能であるか。その爲には、先づ佛教が壓倒的勢力を有たなければならない。しからずんば神道をそのうちに包含し、その下に蹂躙する事は出來ないのである。第二は神道が、その力を失つて居なければならない。しからずんば神道は、佛教の下に屈服し隷屬する筈はない。而して神道がその力を失ふ時は、いかなる時であるか。即ちこれは國民が歴史を忘却した時である。‥‥

 延喜・天暦の前後よりして、本地埀迹の思想は起つて來たのである。それよりして後、急激にこれが發展し、非常な勢ひを以て氾濫していつたのである。しかるにこの延喜・天暦の前後は、一體いかなる時であつたか。この時代は、我が國の歴史に於いて、最も重大なる變轉期の一つである。即ち從來支那大陸との間に、前に隋、後に唐との間に、國使の往來があつたのが、この時代に至つて止められた。これは外國關係の上に非常に重大な變化であつて、いはゞ一種の鎖國状態に入つたものであるが、それと共に國民の間に、外國に對する注意がうすらぎ、從つて國家觀念が薄弱になり、弛緩して來たのである。それと共に深く考へなければならないのは、歴史編纂の事業が、この時より止んだ事である。從來『日本書紀』より『續日本紀』・『日本後紀』と、つぎゝゞに作られて來た國史が、醍醐天皇の延喜六年に、『三代實録』を作られたのを最後として、以後全く止んでゐる。これは外國關係の斷絶と深い關係があるものと考へられる。即ち外國がなくなつたので、國家觀念が弛緩し、國家としての自覺がうすらいだ爲に、國史を編輯する氣力を失ひ去つたのである。恰もこの時である。恰もこの時に、本地埀迹の思想が起り、神佛の習合が成熟して來たといふのは、何を語るか。まさにこれ、國民が歴史を忘却し、我れ自らを放下し、神道その力を失つた時、佛來つて、神にとつて代るといふ、前述の論理を如實に示すものではないか。而して又た恰もこの頃よりして、國家の統制力のうすらいだのに乘じて、私寺の建立が甚だ盛んとなり、佛寺、所在に遍滿して、佛教の勢力が甚だ盛んとなり、而してそれらの寺院が、又た國家の規定の亂れに乘じて、多くの莊園を私有して、その俗的勢力を愈々盛んならしめたのであつた。‥‥

 佛教の勢力の衰微は、中世の末、近世の始めに起つた。上代の末より非常の權威を有し、朝廷すら之を奈何ともする事の出來なかつた比叡山延暦寺が、織田信長の爲に一朝にして燒き拂はれ、全山灰燼となつて了つた事は、佛法衰微の時節到來をつぐる鐘聲ではなかつたか。信長、一度び出でゝ延暦寺は燒かれ、興福寺は慴伏し、本願寺は討たれ、高野山は圍まれた。これは上代・中世を通じて、未だ曾て見ざる大變革であつて、世運の推移を明瞭に物語るものである。而して思想界には、佛教攻撃の論が相ついであらはれた。‥‥

 もとより勢ひの激する所、或は破壞にすぎ、或は壓迫を事とした所もあらう。寶塔忽ち摧破に遇ひ、靈佛一朝にして灰燼となり、斷礎の間、徒らに草の離々たるを見る時、誰か心を傷ましめないものがあらう。しかも己を虚しうして歴史の大局を達觀すれば、神佛分離は、國民的自覺當然の歸結であつて、其の間、些かの疑惑を容れない。しかもこの理は年と共に忘却せられ、今や囂々非難の聲をきく。神佛の關係は、一部の間に於いては、殆んど逆轉せんとしつゝある。而してこれは、歴史の正しき認識の缺如より起るものであり、今や歴史の光によつて是正せられなければならないものである」と。



●平泉澄博士『神道の自主性』(昭和二十七年冬筆。『神道史研究』二十八年一月。『寒林史筆』同三十九年七月・立花書房刊。『神道論抄』に所收)に曰く、

「周の武王は、世に稱して聖王と讚へられてゐます。その起つて殷を伐つに當つては、天下の賢士、ことごとく之に從つたのであり、未だ一人として、之に反對した者は無かつたのであります。しかるに伯夷兄弟は、斷然、之に反對し、その非を鳴らしたのであります。殷の紂王、いかに惡逆なればとて、君主はどこまでも君主であり、周の武王、いかに聰明なればとて、臣下はどこまでも臣下である、その臣下にして君主を伐つといふ事は、何としても承服しがたき無道であると、この一點を固く執つて讓らないのであります。しかも其の固執の極は、遂にこゝに生命をかけたのであります。「擧世、之を非とするに、力行して惑はざる者に至つては、即ち千百年に乃ち一人あるのみ」と、韓退之が感歎したのは、實に之が爲であります。

 凡そ道を考へるには、是等の所に於いて、反覆熟考し沈思するを必要とします。勝利者にこびへつらはず、武力の前に慴伏せずして、敢然としてその無道不徳を責むる者、曾て之を伯夷に見、今また之をビーアド博士に見るのでありますが、この氣象なくして道を考へる事は、絶對に不可能であります。若しこの氣象なく、この勇氣が無いといふのであれば、常に利害得失に留意し、時代の大勢にひきづられ、大衆の叫びに同調し、昨非今是、毎日々々、目標は變つてゆくの外ありませぬ。

 こゝにひるがへつて神道界の現状を見るに、是等の點に於いて、果して如何でありませうか。もとより不幸なる敗戰の後、占領下の七八年が忍從苦難の時である事は、まことにやむを得なかつた所であります。忍び難きを忍べと仰せられたのは、實にその爲であつたのであります。しかしながらそれは、どこまでも忍從であるべきであります。忍從であつて、決して屈伏であつてはならないのであります。屈伏であつてはならず、阿諛であつてはならないのであります。忍從であれば、發揚は出來ますまいが、少なくともその本質は、之をそこなふ事なく、或は却つて苦難のうちに、其の根柢を固める事さへ出來るのであります。しかし若し慴伏し、屈從し、阿諛し、從屬するといふ事であれば、それは必ずや自らの本質を毀損し、道を歪曲するに至るのであります。日本國敗れたりとして、俄かに國體を疑ひ、神道非難せられたりとして、あわてゝ佛教やキリスト教に媚び、古道を抂げ、舊恩を忘れるといふやうな事がありましては、それは神道の自滅に外ならないのであります。‥‥

 道を信じて疑はず、道を奉じて進むところ、いかなる危難に遭遇しても、毫もたじろがない毅然たる態度は、孔子に於いても見る事が出來ます。たとへば匡に於いて危險に陷つた時、弟子共はおそれおのゝいたが、孔子は少しも動搖せず、泰然として「天の、未だ斯文をほろぼさゞるや、匡人それ予れを如何せん」と云つたのでありました(『論語』子罕第九・『史記』孔子世家)。かやうであつてこそ、初めて道といふに價するのであります。勝敗によつて動搖し、利害をかへりみて二の足をふむといふ、卑怯未練の心に於いては、道は、未だ理解せられず、體得せられず、信奉せられてゐないのであります。

 道を信ずるが故に危難を恐れず、利害損得によつて動搖する事の無かつためざましい例は、十字架を負ふキリストや、匡になやむ孔子など、遠くに之を求めるまでもありませぬ、間近く我が國に、外ならぬ神道のうちに、いくらも之を見る事が出來るのであります。而して其の最も顯著なるものは、北畠親房公の如き、實にその人でありませう。北畠准后は、延元・興國の間、大勢、悉く非でありまして、官軍の諸將、相ついで倒れ、足利の逆威、天をひたす有樣であつたに拘らず、あくまで道を信じて少しも疑はず、毫も無道に屈せず、曾て不義におもねらず、敢然として邪惡を排斥し、逆賊を討伐してやまれなかつたのであります。而して其の大著、『神皇正統記』を始めとし、『東家祕傳』・『元元集』・『二十一社記』等、神道に於いて最も貴ぶべき數々の述作は、實にかゝる苦難の間に執筆せられたのであります。神道に生きる者の崇高なる精神は、こゝに光を發したのであり、神道の正しい傳統は、正にこゝに存するのであります。

 今や神道は、數年に亙る忍從の後に、再びその自主性を取戻すべき時節を迎へました。而してその自主性を取戻さむが爲には、戰勝に傲る不遜の心をしりぞけると共に、敗戰におびゆる卑屈の態度を脱却しなければなりませぬ。道は權勢武力によつて、右に抂げられ、左に捩ぢられるものであつてはなりませぬ。得意の朝にも敬虔に、失意の夕にも泰然として、ひたすらに神を仰ぎ、神に仕へ、神の教を承け、神の道を行くところの、公明正大なる態度こそ、正しく傳統を繼承する所以でありませう」と。



●平泉澄博士『受難の神道』(昭和三十年冬筆。『神道史研究』三十一年一月。『寒林史筆』。『神道論抄』に所收)に曰く、

「七百年の昔、承久の歎きは、七百年の後、昭和の歎きとなつた。ミツドウエー、ガダルカナルに始まる敗退は、サイパン・グワム・テニアンの失陷、相つぐに至つて、戰局の前途を暗澹たらしめ、玉碎の悲報、到來するごとに、恰も木曾川撤收の昔の如く、人々を震駭せしめた。やがて戰の終るや、米軍は鎌倉勢の如く進駐し來り、ほしひまゝに其の占領政策を實施した。承久の昔にも、「霜刑の法、朝議拘らず」、官軍の將士は、十分の審理と、合法の處分によらずして、數多く梟首せられたが、昭和の今も、表に裁判の公正を裝ひつゝ、その實は勝者の威力による無理非法の斷罪が行はれた。その占領は、今より十年前に始まり、而して今より三年前に終つたが、しかしながら、「あさましかりし秋の名殘」(愚案、宮内卿家隆の歌)は、今以て拭ひ去らるゝに至らず、暴戻を憤り、屈辱を恨んでは、木々の葉も風に騒いで靜まらぬのである。

 占領政策は、もとより多岐にわかれ、多端にわたる。從つて、その被害の及ぶところ、また多方面にわたる事、いふまでも無いが、其の被害の最も甚大なるものゝ一つとして、神道を擧げるに、何人も異論は無いであらう。神道が受けたる打撃を象徴するものは、諸社の境内入口に立てられたる標柱である。それらの標柱には、上は官幣大社より、下は村社に至るまで、それぞれ社格が表示せられてゐた。占領政策は、極めて冷嚴に、且つ極めて執拗に、社格の抹殺を命令し、之に從はざる者は、嚴科に處すべしと威嚇した。今見る諸社の標柱の、上部塗抹の汚點は、此の「あさましかりし秋の名殘」に外ならない。木々の葉、風に騒いで、憤懣の氣、今以て消えないのは、當然では無いか。

 強制せられたるものは、標柱に於ける社格の表記の廢止のみでは、無論なかつた。それは社格そのものゝ廢止の、當然の歸結であつた。社格の廢止は、特に官國幣社に對しては、その財源を斷ち、水道を涸らすの祕策であつた。事實、一時は諸社の經營は大打撃をうけ、中にはよろめくかと思はれたものも、少なくなかつた。府縣社以下に於いては、もとより事情を異にするが、それにしても、府縣や町村との、直接の連繋を絶たれて、種々の不都合を生じ、不都合とまでゆかないにしても、少なくとも神社の權威をゆすぶられた感があつた。

 神社の寶藏もまた、此の屈辱の間に、荒らされた。就中、刀劔類は、往々にして、掠奪の厄にあつた。大分の柞原八幡宮の、寶藏するところの刀劔二百振、悉く奪取し去られたといふ如き、その一例である。

 研究と教育も、亦た大なる打撃を受けた。大正年間、上田萬年・三上參次・芳賀矢一、三博士の提唱斡旋によつて其の端緒を開き、その後十數年を經て、漸く獨立充實の氣運を迎へた東京帝國大學文學部の神道講座は、敗戰と共に廢止を餘儀なくせられた。また多年に亙り數多くの神道人を教育し來り、やがて大學として、その研究機關を充實せしめつゝあつた伊勢の神宮皇學館も、解散の強制にあひ、涙を呑んで四散するの止むなきに至つた。之に加ふるに、斯界有力者の追放と、言論の苛察なる抑壓とを以てして、神道の公正なる指導は、著しき阻害に遭うたのである。

 即ち今次米軍の占領政策によつて、神道の受けたる打撃は、神道史上空前の、深刻にして廣大なるものであつた。神社の中に、之によつて著しく衰微したものがあり、神道人の中に、之によつて甚だ動搖したものゝあつたのは、無理ならぬ事情と云はねばならないであらう。‥‥

 凡そ佛教が、幾多の迫害を越えて、その教義を守り、その教線を伸ばし來つた事、またキリスト教が、その象徴とする十字架の示すが如く、火あぶりの凄絶なる處刑をくゞつて發展し來つた事は、‥‥。しからば今や神道が、敗戰と共に苦難に陷り、占領政策の爲に抑壓を受けても、敢へて怪しむに足らず、驚くを要しないのである。寧ろかくの如き苦難、かくの如き抑壓こそ、神道の根本を深く掘り下げ、その根柢に厚く培ひ、強烈の魔風にも動搖せざる眞實の力を養ふべき好箇の機會では無いか。

 思へば神道は、從來あまりに安易平穩の道を辿つて來た。恩寵に狃れ、安逸に育つ者は、自然剛操の氣魄を缺き、難に臨んで動搖せざるを得ない。百難不屈、金剛不壞の精神は、風雨にさらされ、怒濤と戰ひ、鍛錬に鍛錬を加へて、初めて養はれるのである。さればこそ、大西郷も、「貧居傑士を生じ、勳業多難に顯はる。雪に耐へて梅花麗しく、霜を經て楓葉丹し」と歌つたのである。然らば今日、神道が多難に陷り、社頭霜白く、神山雪深きを見るは、即ち是れ百錬の鐵槌を與へられ、千磨の精礪を惠まれたるものと云つてよい。神道にして不朽の生命ありとするならば、必ずや奮起一番、禍を轉じて福となし、鐵槌によつて錬へられ、精礪によつて研がれて、陸離たる光彩を放つに至るであらう。

 しかも斯くの如きは、古來神道の教訓し來つたところである。即ち『日本書紀』神代卷に、素戔鳴尊が、その爲し給うたところの樣々の惡事によつて、天上より追放せられ、葦原中國に居るを許されず、根の國に向つて放逐せられ給うた時に、雨降りによつて宿りを衆神に乞はれたが、斷られたので、「こゝをもて風雨甚だしといへども、留まり休む事を得ず、たしなみつゝ降りき」とあつて、その「たしなみつゝ」に、辛苦の二字が宛てゝある。之に就いて、『日本書記通證』は、先づ玉木葦齋の説をかゝげて、素戔鳴尊、根の國に下り給ふ時、「流離顛沛の間、此の艱辛勞苦に遭ひ、荒金の質、變化功熟し、終に聖敬の域に歸せしもの、豈に是れ祓除の功效に非ずや、道に志す者、宜しく深く味ふべし」といひ、次に著者谷川士清、自ら『辛苦』の二字を解説して、「今ま按ずるに、學術の要、唯だ此の二字を貴しと爲す。其れ神聖の教、土金の功に在りて、而して其の躬に行ひ、心に得る所以の者は、實に辛苦の二字に在り。又た祓除の功と相發す。故に中臣祓、素尊の故事を擧げて、遂に功を速佐須良姫に歸す。則ち吾道の歸宿、神聖の心法、亦た以て默識すべし。蓋し素尊荒金の性、日に鍛へ月に錬り、終ひに莫大の功徳を成得たるもの、皆な此より出づ。夫れ辛苦困難、つぶさに之を嘗めずんば、則ち清々の地、豈に其れ期すべけむや。徳性を養ひ、氣質を變ずる、是に於いてか、以て法と爲すべし。故に曰く、學術の要、唯だ此の二字を貴しと爲すと。學者、尤もよろしく服膺すべし」と述べてゐる。然らば即ち千辛萬苦のうちに錬磨して、やがて清清の境地に到達するは、神道に於いて、既に先賢の明示するところである。

 災厄の日に、周章狼狽するは、勇士の耻づるところ、苦難の時に、變説改論するは、君子の爲さざるところである。神道が、此の災厄に畏怖せず、この苦難に退轉せず、むしろ轉禍爲福の妙用を發揮すべき時、先賢の教は、炳として後學の行手を照らすのである」と。



●平泉澄博士『神道と國家との關係』(昭和三十一年冬筆。『寒林史筆』所收)に曰く、

「我が國は、古來神國と稱せられ、神道と國家との關係は、明々白々、一點の疑を容れないところである。しかるにそれが問題となつたのは、大東亞戰爭、一敗、地にまみれて、一國の政治、占領軍の力制頤使にゆだねざるを得なかつた時、その占領政策の一つ、しかも、極めて重要なる一つとして、神道と國家との分離が、強制強要せられてより以來の事である。而して其の占領は、足掛八年にして終つたけれども、一たび設定せられたる枠は、容易に之を除去する事が出來ず、一たび掘られたる溝は、今も猶ほ之を埋め得ずして、今日、神道と國家との關係は、頗る困難な状態に在り、困惑と動搖とが、隨所に現れてゐるのである。されば此の重大なる問題、國家より之を見れば、國家の命脈に關する問題、神道より之を見れば、神道の死活に關する問題、之を明確にする事は、我等の最も重大なる任務である。‥‥

 即ちそれぞれの國家が、その國の功勞者を祀るは、當然の事であつて、イギリスかくの如く、フランスかくの如く、イタリヤかくの如くであるに拘らず、何故に日本國は、その國家の大事を雙肩に擔ひ、國家を危難より救つた功臣を祀る事を、遠慮し、忌避しなければならないのであるか。占領政策は不當に苛酷であり、獨立後の踏襲は、無自覺な屈從であるといはなければならぬ。

 神道と國家との關係は、是に於いて極めて明瞭である。神道は國家と不可分の關係にある。それは制度の上に於いてよりは、その信仰、つまりその本質の上に於いて、さうである。神道は國家の特別の保護を受くべきものとして云ふのではない。國家の安泰を祈り、大難に臨んで、君國を守護すべきものとして云ふのである。同時に、日本の國家は、神道の信仰、神道の精神を、その基盤として、建立せられ、存立してゐるのである。日本國にして、この精神、この信仰を失ふ時は、それは實に存立の基盤を失ふ時であり、動搖の危機に直面するものといはなければならぬ。我が國は神國なりといふは、既に千年も前より云ひふるされたる言葉である。しかしながら今日の悲運に際會し、日本國と、神道と、二つながら逆境に在り、艱難の極に在る時に於いては、神國日本といふ言葉は、從前に百倍し千倍する深刻と崇高神嚴とを以て、我等の胸を打つのである」と。
 

  • [7]
  • 平泉澄博士『御答へ申し上げる道』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 3月 8日(金)20時53分48秒
  • 編集済
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■米國及び英國に對する宣戰の詔書
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●平泉澄博士『大詔を拜して――御答へ申し上げる道』(『宣戰大詔謹解』昭和十七年三月・朝日新聞社刊に所收)に曰く、

「かしこくも『宣戰の大詔』の下されましたのは、昭和十六年十二月八日でありましたが、私共は、いつも深き感激のうちに、再び當日を囘想いたしまして、大詔の御さとしに御答へ申し上げる道を、御一緒に深く考へたいと思ひます。

 かへりみれば過去數箇月、日米交渉の續けられました間は、米國の暴慢無禮の爲に、空は曇り氣は鬱屈したのでありました。一體、アメリカといふ國は、御承知の通り、極めて新しい國であります。その土地、コロンブスに知られてより、今に四百五十年に過ぎず、その十三州、結束してイギリスに叛き、獨立を宣言しましてより、僅かに百六十餘年、世界萬國の中に於いて、最も新しい國の一つであります。之を我が國の如く悠久なる歴史の國、神武天皇の御即位より數へてさへ、既に二千六百餘年の長きに亙り、綿々として榮えて來た國から見ますならば、歴史に於いて、殆んど比較にもならない新しい國であります。しかるにかゝる新參後進の國でありながら、新大陸廣大の地を占め、巨大の富を擁するが故に、傲然として世界の審判者の如く振舞ひ、否、更にその富をいやが上にも増大せんが爲に、世界の制覇を志し、實に暴慢無禮なる態度を以て、我が國にのぞんだのでありました。從つて之に對する憤激が、期せずして上下に漲りましたのは、當然の事といはなければなりません。

かゝる時 心のどかに ある民は 木にも 草にも 劣りてあるべき

これは幕末に國事を憂へた古人の歌でありますが、神國日本に對するアメリカの侮辱、正義を抑壓せんとする不正の跋扈に對しまして、私共すべては、いふべからざる憤激を覺えたのでありまして、此の上は、只だ一日も早く御裁斷の下らむ事を、ひたすら祈願いたして居つたのであります。

 然るに『宣戰の大詔』は、遂に渙發せられました。雷電の落ちかゝるが如き、痛烈なる一撃は、彼に加へられました。幾千年の長きに亙り、忠義の至誠によつて鍛へられたる皇軍の前に、百年、百數十年、利を以て結び、富を以て傲りましたものが、一たまりもなく粉碎せられましたのは、もとより當然の事といはねばなりませぬ。

 曾てアヘン戰爭の際に、貪婪飽くなきイギリスの東洋侵略が、その手を遠く伸ばし來つたのに驚いた我等の先覺は、彼等の不當なる壓迫を排除して、正義を世界にのべんとし、

「たれか[歐]羅巴に向つて、大義を宣べ、高く大旆を掲げて、皇威を耀かさん」

と歌つたのでありましたが、その大義を宣べ、大旆をあぐる昔の夢は、今こそ、眞に實現の機會を得たのであります。かやうに感激にひたつて居りますうちに、皇軍大勝利の快報は、刻々に傳へられました。ハワイ・シンガポール、またフイリツピン、その外ひろく各地に亙つての戰、その輝かしき勝利は、報ぜられました。此の勝利の報道に、私共が非常な喜びを感じた事は、いふまでもありませぬ。しかしながら私共は、勝利の報の刻々に傳へられるにつれて、次第に重き責任の私共の雙肩にかゝる事を、深刻に感ぜざるを得なかつたのであります。

 曾て佐野の城主・天徳寺了伯は、琵琶法師の語る宇治川の先陣と、屋島の扇の的の物語を聞いて涙を流し、後に部下の者が、「あのやうな面白い話に涙を流されたのは、何故でありますか」と尋ねたのに答へて、「あゝ、お前達は、役に立たない者だ。宇治川の先陣の佐々木高綱にしても、また屋島の扇の的を射た那須與一にしても、死を決し命を棄てゝやつた事ではないか。その悲壯なる心事を思へば、どうして涙なしに居る事が出來よう」といつたと傳へられて居ります。それと同樣に、今、皇軍の輝かしき勝利は、皇軍將士が、深く陛下の大恩を感じ、何とかして其の萬一に報い奉らうとする熱烈なる念願、その爲には、潔く一命を捧げ奉らうとする悲壯なる決意に基づくのであります。之を思ひます時には、私共は、大いなる喜びと同時に、重大なる責任が、銃後の我等の雙肩にかゝり來る事を感ぜずには居られないのであります。即ち私共一般國民は、たとへ國にとゞまり銃後に在るにいたしましても、第一線に出て花々しく活躍し、或は雄々しく花と散られた將士と同樣に、陛下の御爲につくし奉らんとする、純粹にして熱烈なる念願、その爲には、如何なる困難をも意に介せず、まつすぐに邁進する決意を固めなければならないのであります。

 「天子一姓、其の兵、天下に敵なし」とは、根本通明先生の言でありますが、まことに皇軍の花々しき戰功は、一に國體の尊嚴に基づくのであります。しからば國體の本義に徹しまして、一意、大君を仰ぎまつり、專念、御奉公を期します事、これこそ、此の度びの聖戰を完遂して、有終の美をなします上に、最も大切な所である事は明瞭であります。曾て吉田松陰先生は、如何にして西洋諸國強大の勢力に對抗し得るかといふ問題に答へて、

「我が國體の、外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲めに死し、闔藩の人は闔藩の爲めに死し、臣は君の爲めに死し、子は父の爲めに死するの志、確乎たらば、何ぞ諸蠻を畏れんや。願はくは諸君と、茲に從事せん」

と述べられましたが、この精神、即ち陛下の御爲には、喜んで一命を捧げ奉るといふ精神、これを私共は、今日、殊に固くしなければならないのであります。

 實際、今日は、銃後の御奉公にいたしましても、それは命がけでなければならないのであります。私共は、既に世界に富強を誇る國、二つを對手として居るのであります。淺見絅齋先生の『劒術筆記』に、

「己と敵と相鬪ひ、兩刃、方(まさ)に接(まじ)り、我れ死せずんば、則ち彼れ死し、彼れ死せずんば、則ち我れ死するに於いて、猶ほ己が躯命を捨てずして、自(おのづか)ら長勝を取らんと欲する者は、安んぞ眞勇と爲すに足らん。士たる者、まさに大いに恥づべき所ろ也」

と述べ、戰に臨んで命掛けの決意なく、安全を第一とするが如きは、恥づべき事であるとし、必ずや、

「我をして死に向ふの志、進なく退なく、平日、即ち對敵、對敵、亦た平日、生や死や、貫いて一日の如くならしむ」

べきを説いてありますが、この心掛けを、私共はもちたいと思ふのであります。戰爭は、今や眞に全世界に擴大し、これより何年續くか分らないのであります。そして其の長い間には、必ずしもカラリと晴れた日ばかりではありますまい。風の吹く日もありませうし、雨の降る日もありませう。しかしながら私共は、風吹いて驚かず、雨降つて恐れず、いかなる困難の時にも快活に、またいかなる愉快の日にも嚴肅に、それゞゝ其の本分を盡して、御奉公申し上げたいと思ふのであります。而して此の「平日即對敵、對敵亦平日」といふもの、殊に注意すべき點でありませう。無事の日に於いても、敵機襲來の時の心構へをもち、敵機襲來の日も、平素の沈着を失はず、嚴肅に、しかも快活に、その爲すべき事をなさうではありませんか。

變の至るや、知るべからず。則ち豈に怠るべけんや

とは、昔の武士の誡めでありますが、今日、私共は、皆この武士の心掛けをもつべきであります。

惡衣惡食を恥ぢて、居の安きを求むるは、即ち志士にあらず

といはれて居りますが、私共は、この志士の精神にかへるべきであります。即ちこれより後、戰爭が何年つゞきませうとも、そしてその間には、衣服に於いて、食物に於いて、色々不自由の事が起つて來ませうとも、またその長い間には、風の吹く日もあり、雨の降る日もありまして、色々の苦難がありませうとも、私共は、少しも恐れず、毎日々々嚴肅に、且つ快活に、それゞゝ其の本分を盡し、謹んで此の度び下されました『宣戰の大詔』の御さとしに答へ奉る事を、御一緒にお誓ひ申し上げようではありませんか」と。



【羽嶽根本通明先生『讀易私記』――平泉澄先生『萬物流轉』に詳し】
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【絅齋淺見安正先生『劒術筆記』】
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●平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十九年九月・皇學館大學出版部刊)に曰く、

「眞珠灣の戰は、鎧袖一觸、米國海軍を粉碎し了つたかの如き錯覺を與へて、私の出鼻を挫きました。「米國太平洋艦隊は、一瞬にして全滅した。戰は始まつたと同時に、勝敗は決定して了つた」。そのやうな印象を、海軍報道部課長平出大佐の講演は、人々に與へました。私自身は、之を十二月二十三日午後三時より、法學部講堂に於いて開かれたる、東大朱光會大講演會に於いて聽きました。その時、開會の辭は速水委員、講演第一席は平出大佐、第二席は私、そして閉會の辭は竹内委員、聽衆は初め約一千名、それが平出大佐の話に滿足し安心して、ついで起つた私の苦言には耳も傾けず、段々と中座退席して、最後には六百名ばかりに減少してゐました。外ならぬ當事者、海軍當局が言はれる言葉を、誰が疑ひませうや。「諸君、安心し給へ。アメリカが日本に來り侵す事は無いであらう。彼等の艦隊は全滅したのである」。蜜の如く甘い言葉は、人々を喜ばすに十分でありました[『日本の悲劇と理想』に曰く、「私は唖然として、其の無智にあきれ、慄然として、其の驕慢、國を誤るを恐れた。海軍當局が、此の樣なのんきな宣傳をしたあとで、私が如何に眞劍に國難を説き、覺悟をうながしても、最早やどうなるものではない」と]。是れはアメリカを知らざる者の言葉だ。否、アメリカとのみ云はぬ、總じて戰爭といふものを知らざる者の言葉だ。我が國古來の名將勇士によつて示されたる戰訓は、全く之に反する。今日、全國民に必要とするは、必死の覺悟だ。私が此の意味で叫んでも、既に弛んだ心を、再び引締める事は出來なかつたのであります[唯だ一人、此の日の講演に引かれて私をたづねて來、そのまゝ同學となり塾生となつた法學部の學生があつて、わづかに私の心を慰めてくれました]」と。



【勝つて兜の緒を締めよ――東郷平八郎元帥『聯合艦隊解散の辭』】
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  • [6]
  • 天皇陛下萬歳

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月27日(火)21時33分6秒
  • 編集済
  • 返信
 
●平泉澄博士『靖國の御神徳を仰いで』(靖國神社創立九十年記念展記念講演。社報『靖國』昭和三十四年十一月~三十五年三月號。花田忠正翁編集協力・所功博士編集構成『別册「歴史研究」神社シリーズ・靖國神社――創立百二十年記念特集』平成元年十月・新人物往來社刊)に曰く、「

 皆さんは、(三越)七階の展覽會場において、明治天皇樣の御宸筆に成る御歌をごらんになつたでありませう。わが國のためを盡せるいさをしを感謝して、ここにお祭りするのだと仰せられてをります。その陛下が、これらの勇士に對して、限りなき感謝をもつて、これを神として祭られてをりますことと、一方におきましては、ここに神と祭られた方々が、ただ陛下の御ために一命を捧げてをる、この二つを對照して、何といふ美しく貴いことであらうと、感嘆せざるを得ませぬ。

 私は先だつて自分の郷里にわづかに生き殘つてをります、日露戰爭の勇士にあひました。五六年前までは、數多くをりました。今わづかに生き殘る者、三人であります。一人は七十八歳、一人は八十歳、一人は八十三歳、いづれも乃木將軍の指揮の下にありまして、旅順の攻撃に向かひましたものであります。その三人の老人を迎へて、一夕飲んだことがあります。しかるに彼らは、終始、一語も發しないのであります。ただニコニコしてをるだけである。終始、一語を發しない。その中の一人、七十八歳の老人は、二龍山の偵察を命ぜられまして、あの激戰の最中に、二龍山をはひ登る、よぢ登るのであります。彼は土嚢の下に身を隱して、土嚢を頭にひつかけて、敵の目をくらましながら山をはひ登る。初めはよかつたが、やがて敵の發見するところとなりまして、夜でありますが、探照燈で發見せられまして、攻撃を受け、つひに右腕をやられ、ついでまた左腕をやられ、左右兩腕とも、骨に到るまで粉碎せられた。乃木將軍の感状に書いてある。左右兩腕とも骨まで粉碎されたが、それに屈せずして、土嚢を頭でひつかけつつ山に登りまして、つひに二龍山頂上の情況を詳しくして歸つて來た。ここにおいて乃木將軍は、二龍山の攻撃を開始せられるのであります。そのときに乃木將軍より個人感状を頂いて、それを持つてをります。その勇士、今日、彼らは何事も言はない。三人とも、なんにも申しませんでした。ただ最後にお別れしようといふので、盃をあげましたときに、初めて彼は、一つの言葉を吐いた。その言葉は、ただ『天皇陛下萬歳』であります。勇士の思ふところは、ただ天皇陛下萬歳である。而して陛下は、これらの勇士に報いられるのに、彼らを神として御親拜あらせられてゐる。なんといふ君臣相互の間の美しい關係でありませうか。

 ここへ持つて參りましたのは、やはり今日、靖國神社に神として祭られてをる、一人の若き海軍士官(愚案、慕楠黒木博司少佐なるべし)の日記であります。この日記は、ここにはわづかしか持つて參りませんでしたが、これは約一年間の日記、全部、御覽の如くに、血で書かれてをります。一字として、墨で書いたものはない。全部、血を以て書かれた日記であります。その日記は、毎日毎日、一ページを充ててをる。四月一日、四月の二日、そのどの日も、指を切つて、まづしたためるものは、『天皇陛下萬歳』であります。なんといふ美しい心でありませうか。私は今度の戰爭について、これを無謀なる戰ひと言ひ、陸海軍の勇士をもつて、いたづらに他國を侵略して、その命、みづからの命を捨てたのみならず、この國にも大きな害毒を與へた如く言ふ人々に對して、これらの事情を明確にしておきたいと思ふのであります。この人物の如きはなくなりましたが、わづかに二十六歳でありました。その二十四・五歳のときに書きましたものを見ると、戰爭の前途を洞察する達見といひ、またこの戰爭をいかにして成功すべきかの戰略・戰術といひ、實に非凡、ほとんどの古今の英雄に比すべきものがあるのであります。しかるにその達見において、またその戰略・戰術において、古今の英雄に肩を竝べるほどの人物が、ただ思ふことは、陛下の萬歳である、毎日、指を切つて書いてをるのは、ただそれだけであります。この君臣相互の關係、國民は、ただ陛下の御安泰を祈念し、陛下はそれに對して深き喜び、感謝を捧げられ、神として御親拜あらせられてゐる。ここにこの國の貴い所以、さうしてまたこの國が、今日まで外國のあなどりを受けずに來ました所以、それがここに存するのであります。

 今度の戰爭は負けたではないかと、いふ人がありませう。いかにも負けました。負けたけれども、この戰爭において日本は、世界の強國四十數ケ國を相手に戰つたのであります。この渺たる東海の小國が、四十數ケ國を相手に戰つて、足かけ五年間の間、本土に敵の一兵をも上陸させなかつたといふことは、實にこれらの勇士の力によるのであります。われわれはそれに對して、限りなき感謝を捧げたいと思ふのであります」と。



●平泉澄博士『わが仰ぎまつる明治天皇御製』(社報『代々木』昭和四十六年一月。鈴木利貞禰宜・所功博士編集構成『別册「歴史研究」神社シリーズ・明治神宮――明治天皇八十年祭・ご生誕百四十年祭記念』平成四年五月・新人物往來社刊)に曰く、「

子等はみな軍のにはにいではてて
翁やひとり山田もるらむ

[明治三十七年御製『田家翁』]

 明治天皇の御製、すべて九萬三千三十二首、どの一つを拜見しましても、感銘の深い、尊い御歌でないものはありませぬ。その中に於きまして、特に胸を打たれますのは、此の御歌であります。

 明治天皇が、世界の平和を強く望ませ給うたことは、有名な『よもの海みなはらからと思ふ世に』の御製によつても明かでありますが、それにも拘らず、外敵の横暴に屈服する事は、これをお許しにならず、

  いかならむ事にあひてもたわまぬは
    わがしきしまの大和だましひ


と詠ませ給ひ、國民にも『一旦緩急あれば義勇公に奉』ぜよと、お諭しになつたのでありました。

 明治の大御代に、その『一旦緩急』の生じましたのは、日清・日露の二つの戰役でありますが、殊に日露戰爭が非常に苦しい試練であつた事は、いふまでもありませぬ。

 日露戰爭の起りました時、私はかぞへ年、十歳でありました。郷里は第九師團の管下でありましたので、村の人々は、乃木將軍にひきゐられて、旅順の攻撃に參加し、非常な苦戰をかさねて、多くの犠牲を拂ひました。私はその英雄を迎へて、お葬式に參つた事を忘れませぬ。それらかずかずの想出と共に、必ず心に浮びますのは、『子等はみな』の御製であります。之を拜誦いたします時、目の前に浮んで來ますのは、片田舍に寂しく留守してゐる老農夫の姿であります。

 私の郷里は、山の谷間に、段々層々、小さな田が作られてゐますが、どちらを見ても、人のゐない山田、稀に聽く小鳥の外は、音一つ無い谷間、そこを一人で耕しつつ、息子の歸りを待つてゐる老農夫、それは私共のしばしば見た光景であります。そのやうな僻地にまで、深い深い御同情を寄せさせ給うたのが、あの御製でありませう。

 かやうな御憐みの思召は、外の御製にも、澤山現れてゐます。たとへば、

  しづがすむわらやのさまを見てぞ思ふ
    雨風あらき時はいかにと


にしましても、

  すなどりは子らにゆづりて蘆の屋に
    網すくおきなあはれ老いたり


にしましても、皆、有り難い御歌でありまして、拜誦しますたびに、深く胸を打たれるのでありますが、私は少年時代の實景實感の上から、特に此の山田の老農夫を詠ませ給うた御製に、深い感動を覺え、涙をさへ催すのであります」と。

  • [5]
  • 嗚呼、皇國傳統の家風

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 3日(金)20時12分38秒
  • 返信
 
●平泉澄博士「『緒方家集』の序」(昭和四十八年五月『緒方家集』風日社刊)に曰く、「

 緒方家の歌集に序文を寄せるやうにとの御依頼、私はうれしくお受けしたが、さて考をまとめようとすると、三四日つづけて、毎晩緒方一家の夢である。晉の昔、羊祜の爲に建てられた墮涙の碑では無いが、想出は只涙であつて、感想を整理する事も甚だむづかしいが、しばらく三つの點を擧げて高風を讚へたいと思ふ。

 第一は、此の家求道の精神である。嚴父は熊本の名門濟々□[學の上に黄]から五高を經て京大を出られた法學士で、大阪で辯護士をして居られたが、惜しくも昭和十二年、五十一歳で亡くなられたので、私はお會ひする機會を得なかつた。その長男徹氏は、七高から京大法學部に進み、次男の襄氏は關西大學に入られたが、二人とも大學だけで滿足しないで、千早の存道館(愚案、平泉博士の開講)にのぼつて嚴烈なる切磋を甘しとし、そこで直接間接に私と接觸せられたばかりでなく、たまたま京都の同學を糾合して青々塾(愚案、同じく平泉博士の開講、後繼は市村眞一博士、之を守る)を建てるや、一家をあげて之に協力せられたのであつた。すでに大戰に突入してゐた時ではあり、東京から遠く離れて何程の世話も出來なかつたに拘らず、寒苦に堪へて道を求められた至誠は、まことに貴い事であつた。

 第二は、此の家忠勇の氣象である。父はすでに亡く、末弟は病弱であつて、世に伍して行く事むつかしいとなれば、大抵は二の足を踏むのが普通であり、世間もそれを許容するであらうに、緒方家は違ふ。戰局苛烈、前途容易ならずと見るや、兄も弟も、自ら進んで海軍に入り、特に最も危險なる航空隊を選び、そして弟は更に特攻を志願したのであつた。昭和二十年の正月、私は陸軍の曉部隊より招かれて廣島へ行き、ついで海軍兵學校の爲に江田島へ渡つた時、突然海軍省から神の池の航空隊へ急行するやうに依頼を受けた。それまで神の池の名を聞いた事も無かつた私は、分らぬながら何か重大な使命が待つてゐるやうに感じて、空襲相ついで不通の箇所も多かつた鐵道を、大阪からは深夜の鈍行に立つたままで乘せて貰つて、漸く二十三日の午後、神の池海軍航空隊へ着いた。司令は岡村基春大佐、豪壯にして精悍なる人物であつた。副長五十嵐中佐、飛行長岩城少佐、海軍館にある彈痕百發の一機は、此の人の操縱したものだといふ。講演は三時半に始まり、五時半に終つた。數百名の聽講者は、階段式の講堂に溢れる程であつたが、その中央、いはば中二階のやうな位置に、岡村司令が儼然として掛けて居られたのは、印象的であつた。その夜は隊内で一泊したが、吹きすさぶ風の寒さに眠りを成さず、何處から風が入るのかと、起つて手さぐりに調べると、窓ガラス一枚われて無くなつてゐた。翌日辭去しようとして司令室で話してゐる時、特攻の一中尉が入つて來て、私に挨拶した。
 「京都の塾でお世話になりました緒方の弟であります。」
 「あゝ緒方さん、此處にゐたのですか。何か私のして良い事がありますか。」
 「何もありませぬ。緒方は先生の御教を奉じて立派にやりますから、どうか御安心下さい。」

 私はその卒直にして雄々しい態度、簡潔にして凛々しい言葉を忘れる事は出來ない。此の部隊は直ちに鹿屋に移駐し、沖繩に來襲したアメリカの大艦隊を攻撃した。襄中尉は特攻で花と散り、少佐に進級した。時に二十四歳であつた。一方兄の徹大尉は、十九年のくれに、フイリピンのミンドロ島を攻撃して還らなかつた。年は二十五歳であつた。

 第三は、此の家すべて詩人である事だ。十九年の夏、千島の守備に當つてゐた兄の詩は、私を驚倒させた。

 襄とともに
二人を隔つる緯度二十度
兄は北にあり、弟南にあり
その昔
肩を竝べて通ひし
中學生鞄古びて今は家にあり
年を經て
空に眞赫の焰燃え
正義凄壯の戰
日に日に苛烈なり
二人また
肩を竝べて空に向ふ
我家のつたなき兄弟(ふたり)
生命を捨てて空に傳統を創らむとす

此の家の傳統(つたへ)
兄弟(ふたり)の奮鬪如何にかかる
襄、徹
いみじくもつけ給ひし父の魂
名に刻みてともに進まむ
兄は北にあり弟南にあり

 鬼神を泣かしむる壯絶秋霜の意氣は、父を仰ぎ弟を思ふ藹々たる親愛の情に包まれて、渾然たる調和を示してゐるのは、作者の人柄が然らしめたものであり、更にいへば此の家の風格がここに現れてゐるのであらう。それを確認せしむるものは、弟の歌稿「赤子集」(赤子はこの場合、陛下の赤子の意味である)の中の左の一首である。

 兄も行け 我も果てなむ 君の邊に
  悉々(ことごと)果てむ 我が家の風

 あゝ是れが緒方家の家風であつたのである。

 やがて兄弟は相ついで花と散り、そして戰は悲運に終つた。すでに父は亡く、唯一人、生殘る末弟は病身である。一家の苦難は想像を絶するものがあつたらう。しかも如何なる寒苦も、遺族の心を亂す事が出來なかつた。卑劣の俗情、時を得顔にはびこる世の中に在つて、此の家はその志を降さず、その節を抂(ま)げず、その優雅忠愛の心をもちつづけて來た。一言にして云へば是れ敷島のやまと心、香り高き家である。今見る歌集一卷、之を證するであらう。

 昭和四十七年師走朔日」と。

  • [4]
  • 風簷、書を展べて讀めば、古道、顔色を照らす

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 1日(水)00時09分16秒
  • 返信
 
●平泉澄博士『慕楠記』(岐阜縣教育懇話會竝楠公社下呂奉贊會叢書第十集・昭和五十年七月・岐阜縣教育懇話會刊)に引く、慕楠黒木博司海軍少佐『風古・別册の一』の序に曰く、「

 米英撲滅の大詔を謹みて、茲に一歳、此の間、皇師、東西に忠に南溟に烈に、然して靖國の鬼幾千、我に先んじて冥々の聲あり。然り而して最も悲しむや、兄弟を盟ひ志を同うせし者、既に幾人か先んず。哀恨、奚(なん)ぞ堪へん。盟友に涙し盟魂を省み、乃ち思ふ哉、東行先生の詠、

 後れても後れてもまた後れても 誓ひしことをわれ忘れめや
返歌
 忘れめや君斃れなほ我がつぎ われ斃れなば君繼ぎくるゝを

 愚生、本懷を得んとして、未だ叶はず。荏苒たる事四箇月、明る十二月一日、此の日、方(まさ)に勇躍するあらんとし、即ち復た一考あり。將に有志同志の士に報ゆる所あらんと欲し、茲に□□[こうそう。人+空。人+総の右=偬]として一篇を草する也。

 思ふに今日の状、日本存續するか、滅亡するかの竿頭にあり。何を以て神國日本の存亡となす。曰く、是れ皇統繼ぎたまふあらば、則ち瞑するを得ん。大楠公の胸中の悲願を以て察す可きのみ。米英、斷然として悔るべからず。彼等凶惡の意は、正に茲に在るなり。知るや知らずや、一億の民、今や日本最後絶對の問題を提(ひつさ)げて立てるを、即ち日本の嚴存して、日本たらんとするの秋、復た日本人、日本人たらざるべからざるの時なり。吁(あゝ)、今日此の秋、方に我にして夷を攘はんとせば、則ち宜しく尊王より始むべしの言(愚案、眞木紫灘先生『道辨』)、最も切々の秋なり。則ち悲泣大呼す、國民よ、眞の日本人たれ、と。

 然れども愚なる哉、慢なる哉、八紘を皇化せんとせば、日本、先づ眞の皇國たらざるべからず。然り、一億を覺醒せんと欲せば、己れ先づ眞の日本人たらざるべからず。然れども眞なる者は、他に非ず、唯自の魂、尊皇殉皇を省みて、恥づるや、大なる者あり。則ち眞に學ばんと欲するは、己の爲め也。然らば日本人たるの道、如何。先哲を仰ぐに存す。訓へを恩師先輩に受くること、余、未だ精しからず。然れども茲に要ありて、恐懼、以て未熟の草を試むるなり。

 夫れ日本人たるは、尊皇即殉皇なるに在り。先づ尊皇を論ぜん。志の確固たる、誰か今日を以て能く足れりとせんや。古人の義烈に慙愧發奮して養ふに非ざれば、奚ぞ能く富貴も婬する能はず、威武も屈する能はず、刀鋸も猶ほ辭せずして、晩節を全し、大變に動ぜざることを得ん。此れ先哲を仰ぐ第一なり。

 次に殉皇を論ぜん。大丈夫、將に志ありて之に殉じ、或は君國の爲に計らんとするや、道標、方に此處にあり。先哲の偉大なる、謹みて仰ぎ、以て教を受くべきなり。知らずや、汝の知れりと爲す所は、皆な先鑑あるに依り、而して汝の血は一歩と雖も、國史の血を出でざるを、更に求めよ、更に高からん。此れ第二也。

 然りと雖も、或は私見、以て先哲に優るとなすか。則ち答へん。抑も皇國の皇國たる所以、如何。皇統繼ぎたまふありて、萬世一系なるに在り。而して之を成す者は何ぞや。神勅炳乎、大義を決し、忠臣烈士の血泣辛酸、義に殉じて之を輔くるによつて、今日を成す也。其の由つて來る所、察せざるべからず。然らば則ち茲に承傳一系の命あり。之を道統と謂ふ。是ぞ、これ日本人の血に非ずや、大和魂に非ずや。然るに父志を承けずして自由を稱へ、先哲を仰がずして私見を立てば、則ち安ぞ能く道統を存せんや。道統存するなくんば、則ち心的革命なり。之に次いで來る者、怖るべく憂ふべし。誰か遠慮なからん。茲を以て謹んで道統の精を、先哲に承けんと務むるなり。此れ第三にして、最も切要なる者也。

 吁、此の事の照々たる、中興は史學の倡(さかん)なるに興り、維新は楠公を仰ぐより成る、即ち知るべきのみ。茲に先哲の遺文を集録し、聊か戰務多忙の同志に便せんと欲す。然れども余等、不學菲才、克(よ)く之を解する能はず。則ち先哲を承くるの第一等の正師、平泉先生の懇切なる御講義を借れる也。同志、此書に益あらば、則ち幸甚なり」と。


●平泉澄博士『楠公――その忠烈と餘香』(昭和四十八年八月・鹿島研究所出版會刊)に曰く、「

 大東亞戰爭に當つても、‥‥特攻隊に名づけて、金剛隊といひ、菊水隊といひ、或はまた正行隊といひ、櫻井隊といひ、人間魚雷囘天の創案者黒木博司少佐が、自ら慕楠と號した如き、皆その志が楠公を繼ぐに在つた事の現れであります。いや、ひとり特攻隊とのみ云はず、陸・海の全軍が、否、全國民が、楠公忠烈の心を以て、おのが心としたのでありました。全國の小學校、何處へいつても、校庭に見る物は、馬に跨がる楠公の勇姿と、薪を負ひつつ本を讀む二宮金次郎の像でありました。一たび應召して出陣するとなれば、人々の胸に浮ぶものは、櫻井の驛の悲しくも美しい教訓でありました」と。

  • [3]
  • 日本の悲劇と理想

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 1日(水)00時00分19秒
  • 返信
 
●平泉澄博士『日本の悲劇と理想』(昭和五十二年三月・原書房刊。平成六年十一月・錦正社復刊)に曰く、「

 烈しい非難と深い疑問とに充つるもの、大東亞戰爭の如く甚だしきは、他に類例がありますまい。國民のすべてが、最大至重の關係あるに拘らず、三十年の長きにを經て、今猶ほ眞實の解明せられず、疑問は疑問のままに、非難は非難のままに、放置せられてあります事は、眞に遺憾としなければなりませぬ。蓋し敗戰による自信の喪失と、占領による拘束の強制とが久しきに亙つた爲に、習ひは性となつて拔けず、因襲は泥着して離れがたくなつたものでありませうが、命ぜられるままに、大東亞戰爭の名稱を棄てて太平洋戰爭と呼び、云はれるままに開戰の責任は我國の侵略行爲に在りしとして恐縮し、我國の爲政者は世界情勢に盲目にして、みだりに自尊自大、世界の正義をふみにじつたとして非難憎惡し、戰犯として之を葬り去つたのみならず、溯つて我國の歴史を倒置曲解して、あだかも汚れたるものの如く傷つけるにに至りましては、精神の動搖やむ時なく、思想の混迷いよいよ長じて、國家存立の基盤を危くするものと云はねばなりませぬ。

 幸にして眞相は、その間にも段々明かになりました。眞珠灣の攻撃に先だつこと數年、米國政府の一角に、武力によつて日本を打倒しようとする陰謀があつて、着々として準備を整へ、やがて日本を挑發して開戰に導いた事は、米國最高の歴史家ビーアド博士によつて研究發表せられ、之を裏附ける確實なる史料は、次第にその數を加へて參りました。之を敢へて公表せられたるビーアド博士その他の諸賢の、公明正大にして勇氣ある態度に對しましては、我々は深甚なる尊敬と感謝を捧げなければなりませぬ。

 米國の偉大は、ビーアド博士を生んだ事によつて實證せられました。是に於いて問題は、日本に歸ります。當時、日本の爲政當局は、米國政府の一角に於いてめぐらされつゝあつた此の危險なる陰謀に就いて、全く盲目であつたか、どうか。もし之を怪しいと睨んだとするならば、之を看破し、之を探知し得たのは、一體、誰人であつたか。又もし之を探知し得たとするならば、此の恐るべき陰謀は、迫り來る國難に對して、如何なる方策を以て國を護らうとしたのであるか。果して當時、具眼の傑士があり、雄大なる防衞策が立てられたのであるか。更に云へば、大正・昭和の日本に、一體、國策とか、世界政策とか、いふべきものが、あつたのか、無かつたのか。是等の問題は、いふまでも無く、日本人の手によつて解明せられなければならぬ所、更にせばめて云へば、我國の歴史家が、義務として負ふべき責任でありませう。然るに我國の歴史家は、大抵、一世の風潮に從ひ、俗論に媚びるのみであつて、進んで眞實の扉を開かうとはしないのであります。是れ私が、不敏菲才みづから揣(はか)らず、敢へて筆を執つて本書を成すに至つた所以であります。

 さて此の問題を究明しようとする時、その中核に在るは、近衞公及び東條大將である事、いふまでもありませぬ。不思議なる運命は、私を導いて、お兩人と、深き相識の間柄たらしめました。それを私は、執筆に當つて、どれ程、幸福と感じたか分りませぬ。無論、私は東大の教授に終始して、政治に直接の關與は無く、またお兩人の屬僚でも無ければ、側近でもありませぬ。東條大將に會ひましたのは四五囘に過ぎず、近衞公に於いても十囘前後の面談でありました。然し面談の機會こそ少なかつたものの、それはいづれも全人格・全精神を以て相對したるもの、いはゞ白刃相接し、骨髓相觸れたものであつて、お座なりの對話は一つも入つてゐませぬ。僭越を許されるならば、知己といふに近かつたと信ずるのであります。

 中核のお兩人は識つてゐましたが、要人の中には、顔は見た事があつても、話をした事の無い人物があつて、その眞面目を理解するに、頗る苦心しました。松岡洋右・野村吉三郎等の人々が、それでありました。世には多藝多才、有爲有能の人が多く、會つた事も無い人を勇敢に評傳してゐますが、不敏なる私は、一人一人にこだはつて、反覆推究、かうもあらうか、それとも違ふかと考へてゐるうちに、段々年を取りました‥‥。

 荻窪會談に於いて、彼の雄大なる國策の立てられた時、その中心であり立役者であつたのは、近衞公であつたのに、後に同公が之より離脱し、東條大將が代つて、其の實行者となつたばかりで無く、此のお兩人の間に溝が出來、感情の疎隔が生じたのは、一體、どういふ事か、といふ疑問であります。私の見る所は、かうであります。近衞公はあまりに聰明で、戰爭の前途が見え透いた爲に、皇室の將來を深く憂慮して、何とかしなければと惱まれた所から、彼の曲折が生じたのであります。極言すれば、それは狼狽に類するでありませうが、そこに私は深き忠愛の至情、補弼の老臣の貴い涙を見るのであります。同樣のうろたへを、私は獄中の橋本景岳に見、また晩年の若林強齋に見ました。前者は主人を思ひ、後者は父を慕ひ、いづれも恩愛の至情より反省して、一時の狼狽を生じたのであります。近衞公と東條大將との間に溝が出來ました時、その溝を埋める爲に、私としては分を越えてまで最善の努力を講じましたが、しかも功を奏するに及ばなかつたのは、是れも運命と云ふの外ありませぬ。

 わが國に於いて、戰後盛んに論ぜられる所は、日米開戰の責任は、突如として眞珠灣を攻撃せる日本海軍に在り、若し彼の奇襲さへ無かつたならば、戰爭は起らなかつたであらうといふ事である。いふまでも無く、是れは米國の主張する所を鵜呑みにして、それを自らの意見の如く吐き出してゐるに過ぎないのであつて、事實の究明も無ければ、批判の見識も備つてゐない。事實は、米國公式の主張に反し、心臆したる敗北主義者の愚癡を裏切る。既に米國に於いてさへ、眞理に從順であり、正義に敏感である學者は、日米の戰が早くより米國政府首腦部の間に企劃せられ、種々の手段によつて日本を憤激せしめ、日本のやむを得ずして火蓋を切るやうに、誘導馴致これつとめた事實を明かにし來つた。而して我が國に於いても、私は過去十餘年の間、主として此の點を明かにして、天下の妄説をしりぞけるべく、執筆と講演にめて來たのであつた。人、或は之を嘲つて、「喧嘩過ぎての棒ちぎり」といふであらう。しかも此の一點の是正なくしては、日本の立場は無いのである。此の點に目を閉ぢる者は、二度と再び道義道徳を云はぬがよい。

 米國政府首腦部が、日本との戰を希望し、戰爭を誘發すべく苦心謀議し來つた事は、ビーアド博士やタンシル教授の著述、よく其の眞相を明かにした(前者は一九四八年版、而して我が國にて是等を要約したものには、大鷹正次郎氏の『第二次大戰責任論』が、昭和三十四年に時事通信社から出版せられてゐる)。而して必ずしもビーアド博士を待つまでも無く、皮肉にも私の手に殘された米軍第一線の勇士、海兵少佐パトナムの日記は、第一線出動の命令が、十一月二十七日、既に發せられ、その三十日には、日本の艦船又は飛行機は、見當り次第、之を撃沈撃墜せよとの戰鬪命令が出てゐた事を證明してゐる(愚案、『米海兵少佐パトナムの大鳥(ウエーキ島)守備中の日記――昭和十六年十一月二十七日~十二月二十二日・全文解説付』昭和五十三年五月・日本學協會關西事務所刊。他に、空母エンタープライズ「戰鬪命令第一號」・海軍少將ケンプ・トーリー氏「ラニカイ號の異樣なる任務」等)。‥‥

 實際は是等の船艦が目的地に至らぬうちに、はやくも眞珠灣の攻撃となつて戰は始められ、ルーズヴエルトの陰險なる此の謀略は未發に終つたが、一事が萬事であり、一葉は天下の秋を卜するに足る。米國政府首腦部が日米の開戰を企劃し、しきりに日本を激發して、戰爭を誘導しつつあつた事は、是に於いていよいよ明瞭となつた。氣の毒なるは日本である。御身は狙はれてゐたのである。御身はいかに恭順であらうとも、いかに謙退であらうとも、その隣人――善隣と信じ、友邦と氣を許してゐた隣人によつて、攻撃を加へらるべき運命に置かれてゐたのである。戰を避けようとして、近衞内閣があらゆる方策をめぐらして、遂に避け得なかつたのは、この爲であつた。外務大臣松岡洋右を、好ましくないと米國は云つた。近衞公は松岡をやめさせ、豐田貞次郎を以て外務大臣とした。日米兩國の關係は、此の更迭の爲に、いささかの好轉も見られなかつた。近衞公は、自ら太平洋に船出して、大統領ルーズヴエルトと會見し、兩國の友好を計らうとした。ルーズヴエルトは、にべも無く之を拒否した。之を拒否して置いて、ルーズヴエルトは英國の宰相チヤーチルと會見し、密議を凝らすのである。狙はれたる國日本に、爲すべき何が殘されてゐるか。如何ともせんすべなしとして、近衞内閣は總辭職した。それは、それでよい。よいといふわけでは無いが、致し方がない。難局打開の道なく、大事擔當の膽力なしといふのであれば、總辭職の外に致し方あるまい。しかるに近衞公をとりまく一團の人々が、しきりに東條内閣を惡口し、開戰の責任者、國家を破滅に導いた罪人として責めるに至つては、眞にいはれなき事といふの外はない。此の點に關する限り、私は東條大將を辯護する。一方は國内の非難に對して辯護し、同時に他方、米國の攻撃に對して、最も強く辯護する。

 私等は少年の日に米國の歴史を讀み、ワシントンの勇姿を想望した。國柄は違ひ、道を異にしてはゐるが、彼れも亦た正義の人、從つてその國も亦た正義の國であらうと思つてゐた。はからざりき、其の米國はあらゆる陰險なる謀略を以て、我が國を戰爭に引き入れたのである。しかもそれを以て足れりとせずして、その開戰の責任を日本になすりつけ、具體的には、特に東條大將を責め、之を死刑に處したのである。勝者の暴力は、一時天下を制壓するに足るであらう。東條大將は默々として死に就くより外に仕方が無い。しかし正義人道は、之を跡形もなく滅却する事は出來ぬ。彼の大仕掛の芝居、いはゆる「極東國際軍事裁判」も、痩躯老骨の一學究の、ただ一管の筆、一本のペンを恐れねばならぬ。勢に乘じては、百萬の大軍も、之を覆滅し得るであらう。天定まつては、一管の筆も、之を折ること能はぬ。‥‥

 大戰五年にわたつて、衆寡敵せず、我が國の遂に敗れた事は、是非も無い。我等はそれを、必ずしも悲しまぬ。勝敗は兵家の常である。人は開戰の日に於いて、最惡の時を豫想し、覺悟をきめなければならぬ。我等は、それを豫想し、その覺悟をきめた。今更、何を驚き、何を歎かう。ルーズヴエルトにより、スチムソンにより、ハルによつて、戰爭は計劃せられ、挑發せられて來たにも拘らず、彼等は平和の使徒であるかの如き地位を占め、而して此の戰爭を囘避すべく、あらゆる努力をした日本は、凶惡なる好戰の國として非難せられ、前の首相近衞公は、投獄の恥辱を潔しとせずして、毒を仰いで自決し、後の首相東條大將は、一切の責任を負うて死刑に就き、その他、數多くの死刑・投獄・追放の犠牲者を出してゐる事である。更にまた私をして、憤激やむ能はざらしめるものは、日本人であり、日本國民でありながら、而して戰爭の初期、戰況有利に進展してゐた時分には、手をたゝいて之を喜び、軍の後塵を拜して得々とした者共が、戰局一轉して不利となるや、掌をかへすが如くに軍を誹謗し、特には東條大將を彈劾して止まず、此の人を非難する事によつて、自らの無罪を立證せんとするかの態度をとる者の、あまりにも多い事である。嗚呼、聰明と、勇氣と、特に侠氣といふものは、昭和の今日、いづこに影をひそめたのであるか。明治は、去つて、遠し、と云はねばならぬ。

 ここに大小二つの者の、激しい對立がある。大なる者は、力爭を欲した。小なる者は、極力、之を囘避しようとした。いかにしても囘避し得ない運命を悟つて、小なる者は、敢然として戰つた。戰は始め小なる者の働き、めざましかつたが、長く續いては、力盡きた。小なる者は、倒された。大なる者は、之を踏みにじつた。動物界に常に見られる弱肉強食の現象であり、人間世界に於いても、古來繰返されて來た悲劇である。我等はその踏みにじられたる者として、泣言は言ふを欲しない。悲劇は、之を堪へ忍ばう。しかるに敗れたる事は之を忍び、踏みにじられたる事は之に耐へようが、その大なる者が、正義人道の旗を立て、我等の額に凶惡の烙印を押さうとするに於いては、之に抗議しなければならぬ。しかるに之に抗議しないばかりでなく、その大なる者、勝てる者の聲言に附和雷同して、同胞でありながら、小なる軍國の責任者を彈劾する(愚案、軍事評論家・伊藤正徳の如き、海軍少將高木惣吉の如き、法學博士美濃部達吉の如き、文學博士和辻哲郎の如き‥‥)といふは、凡そ男兒たる者の爲すべき所ではあるまい。‥‥

 資源少なき島國の、激戰足掛け五年にして補給續かず、戰遂に敗れて了つた事は是非もありませぬ。數々の悲劇は、是に於いてか生じました。その酸恨、その痛苦、三十年を經た今日も酷烈であり、否、幾百年を經ても消える時はありますまい。しかも我が親愛なる同胞よ、深き歎きの中に、猶ほ少しく心を安んじ得るのは、是れが壯絶なる悲劇であつたからであります。即ち日本は、高遠なる理想をいだき、清純なる旗印の下に戰つたのであります。もし此の理想、此の旗印が無かつたならば、敗戰は只だ悲酸であり、あはれであり、みじめであつて、悲劇といふに價せざるもの、永遠に救はれざるものであつたでせう。然るに此の戰、痛手こそ受けたれ、悲しみこそ深けれ、我等は誇りを以て、堂々と世界を闊歩し得るのであります。戰前に世界の國は、其の數六十九箇國、その他の弱小民族は、屬領・植民地の境涯に苦しんでゐました。三十年後の今日、國聯加盟百四十五箇國、未加盟を加へて凡そ百五十箇國に上りませう。眞珠灣に於けるアメリカ太平洋艦隊の全滅、最大最強を誇つたプリンス・オブ・ウエールスの撃沈、難攻不落を謳はれたシンガポールの降伏、それがいはゆる弱小民族を奮起せしめて、世界地圖を書きかへたのであります。身を殺して仁をなすといひますが、日本は自ら痛手を受けつつ、世界の弱小民族を救つたのであります。壯大にして雄渾なる悲劇と云はねばなりませぬ」と。


●平泉博士某氏宛書簡に曰く、「
 その(『日本の悲劇と理想』)擱筆の日の九月廿七日は、小生にとりましては、終戰の日となりました。二十年の夏よりは、一人で戰を背負つて來た感じですが、惡戰三十年、今や漸く重荷をおろして、肩が輕くなり、眠りも安らかになりました(昭和五十一年十月二日附)」と。

●又た曰く、「
 先日[正月二十四日曉]の夢に、老生、伊勢へお參りして、賢兄に迎へられて、五十鈴川を渡るに、川の水青く澄んで美しいのを、ありゝゝと見ましたのは、正夢でありました。‥‥(昨秋後)老衰朦朧の眼を以て、深雪の中、苦心しましたのは、終戰の際の重大問題、阿南陸相の、のこされたる一言、「米内を斬れ!」の解明でありました。是れが分らねば、終戰が分らず、大戰の意味が不明になると思ひ、日夜苦慮して來て、やうやく判明しましたのが、數日前の事であります。九十歳まで長生きして、表面から見れば無駄な長壽、恥さらしのやうですが、こゝに於いて是れこそ、神の思召であり、恩寵であると、深く感動してゐます(昭和五十九年正月三十一日附)」と。


 而して天は、平泉澄博士に與ふるに幾許かの日を許した。『日本の悲劇と理想』の續篇『悲劇縱走』・『首丘の人――大西郷』の成る所以である。博士は、昭和五十九年甲子二月十八日、微笑されて、靜かに、顯幽、境を異にされました。遊就館の記述は、之を措いて外にありませぬ矣。

  • [2]
  • 靖國の御神徳を仰いで

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月25日(木)22時09分35秒
  • 返信
 
●平泉澄博士『靖國の御神徳を仰いで』(昭和三十四年三月十日・靖國神社講社大祭に於る講演。『靖國』三十四年十一月~三十五年三月・『靖國叢書・第五集』所收)に曰く、「

 日本の青年達は榮光に滿ちて、家に歸つてくることを希望してをらぬ。彼らの願ひは、天皇陛下の御爲に命を捨てた者の祭られるところ、つまり靖國神社に祭られるといふこと、これを共通の願ひとして抱いてゐるのである。ここに日本の力の根本がある。これがはつきりしましたときに、初めて日本は本來の姿に立ち戻るであらう」と。



●毎日新聞『靖國:「戰後」からどこへ12――A級戰○合祀の源流』(平成十八年八月十九日・東京朝刊)に曰く、「

 松平(永芳)氏もまた、平泉(澄)氏を師と仰ぐ一人だつた。敗戰後、長く務めた筑波藤麿元宮司が、78年(愚案、昭和五十三年)3月に急逝。後任を探してゐた靖國神社總代の村上勇・日本遺族會會長(當時、元建設相)は、同年6月4日、福井縣勝山市の生家、白山神社で宮司になつてゐた平泉氏に、松平氏の宮司就任について相談してゐる(『寒林年譜』)。内定したのは同月末だつた。福井藩主の血筋の松平氏は、海軍機關學校受驗前の一年間、平泉氏宅に寄宿し、「他の方々には感ぜられない畏敬の念」を抱いてゐた。戰後、郷里の師を訪ねる時は、いつも驛から神社まで5キロの道を、「神に歩みに行く嚴肅さ」(親類の話)で歩き通した。十五畳敷きの社務所一階應接間には、松平慶民元宮内相(永芳氏の父)の「忠義填骨髓」といふ書が掲げられ、はかま姿の平泉氏とスーツを着た松平氏が机をはさみ、背筋を伸ばして差し向かひに正座したといふ。‥‥

 師の平泉氏も、合祀の10年以上前、その必要性を説いてゐた。田村元・元衆院議長が、父親の舊制高校時代の親友だつた平泉氏を、白山神社に訪ねた時のこと。平泉氏は『戰犯といふものは存在しない。國に盡くした人たちの、戰死に準じる絞首刑だ。靖國神社に合祀すべきだ』と主張。『東京裁判は認められないが、戰犯といはれる人たちは、無謀な戰爭をやつた』と反發する田村氏に、『日本の國體をもつと勉強しなさい』と答へたといふ」と(愚案、此の特集記事は、毎日新聞靖國取材班『靖國戰後祕史――A級戰○を合祀した男』平成十九年八月刊に増補改版して出版されたが、何故か、今こゝに引用する後半部分の、此の逸事は收録されてゐない)。

  • [1]
  • 靖國神社總説

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月25日(木)22時06分29秒
  • 返信
 
 愚案、靖國神社の正統護持の爲めの基礎文獻は、賀茂百樹宮司編輯する所の『靖國神社誌』に在ることは云ふまでも無いが、是れを内典とすれば、小生は、外典として小論文であるが、戰後の平泉澄博士の筆になる『靖國神社總説』を擧げたい。此の『總説』は、松平永芳宮司も、當然に拜讀熟玩してをられるに相違ない。松平宮司の據て立つ所、其の精神の出づる所、此の『總説』に在りと、揚言して憚らないものである矣。こゝに御紹介申し上げたい。

●寒林平泉澄博士『靖國神社總説』(昭和四十二年十一月『神道史研究』第十五卷第五・六合併號)に曰く、「

 靖國神社は、終戰後無理に置かれたる變則の地位より、いまだに原態に復歸するに至らず、その爲に種々の論議が試みられつつある。然るにそれらの論議の中には、現状を悲しむのあまり、一時便宜の策を講ぜむとするものもあるやうである。現状を歎いて、一日もはやく解決を急がうとする心情は、之を諒としなければならないが、問題は極めて重大であり、國家の基本に關する所であるから、一時の彌縫、便宜の妥協によつて、その本質を誤るべきでは無い。

 占領下に於いて、すべてが歪曲せられた事は、今更いふまでもないが、然し眞實をいへば、歪曲せられたるは、ひとり占領下に於いてのみで無くして、占領解除の日に、當然爲すべき修正復原の大事が怠られた爲に、歪曲はそのまま沿襲せられて今に至り、今日に至つては、本末の道理を分らず、是非の感覺も鈍つて來た。我等は、何よりもそれを恐れ、それを歎かねばならぬ。

 第一に、國家の重要性、その崇高性が、考へられて居らぬ。「國の爲」といふ事は、曾ては最高絶對の價値ある所であつたが、占領下に於いて、「帝國主義」または「超國家主義」に對する罵詈讒謗、乃至苛烈なる迫害の爲に、國家に對する觀念または感覺は、いちじるしく變化して、何等かの罪惡感さへ之にまつはり、もはや其の永遠性・絶對性を感得する事が困難になつてゐる。此の場合、尤も重要なる事は、勝手に着色し、我が儘に評價する事をやめて、率直に、ありのままに、事實を觀察する事である。「大日本帝國」は、正に「帝國」と稱し、その大使館は、正に「帝國大使館」と稱したであらう。然しそれは、一體いかなる罪惡を犯したといふのであるか。逆に、「共産主義」は、更にまた「デモクラシー」は、何等の侵略・干渉・隱謀・迫害を行はず、いはゆる「帝國主義」とは、凡そ縁の遠いものであつたといふのか。之を判定するものは、事實である。

 いかにも我が國は、我が陸海軍は、いくたびか血を流したであらう。しかしそれは、その本旨に於いて、國家護持の爲であり、進んでは、東亞の保全の爲であつた。さればこそ將士は、欣然として死地に赴き、悔なくして命を捧げたのである。更にいへば、それは決して明治以後だけの事でなく、またひとり靖國神社のみに止まらぬ。我が國の古代史が、またいはゆる神話と稱せらるるものが、後の虚構であるといふ非難は、以前からもあつたが、戰後は殆んど一般的となつて、それが國家に對する尊敬と愛情とを失はしめる原因の一つとなつた。しかし二三千年も前に、あのやうに神話を整理し得た事は、國家建設の大理想、その熱情、その氣魄の、いかに雄大であり、熾烈であり、その組織力の、いかに強大であつたかを示すものであつて、讚美の對象でこそあれ、非難すべき事柄では無い。‥‥國家の重要性・絶對性・永遠性を確認する所にのみ、國は立ち、榮え、そして永續してゆくのである。そして此の精神がうすらぎ、國の爲に獻身する事を欲しないやうになつた時、國家は衰微し、民族は墮落するの外は無い。

 神道は、國家と共にある。當然、國家建設を輔翼した功臣は、神として尊ばれた、神代の傳に詳なる所である。後世になつても、國家護持の功勞を賞して、その歿後に、或は位を贈り、或は官を贈られた例は多い。醍醐天皇の御代に、延長元年四月二十日、故大宰權帥菅原道眞に、右大臣正二位を贈り、‥‥すでに薨じた人に、官位を贈られるといふ事は、その人、此の世にゐないとすれば、甚だ無意味なる儀禮である。然し當時、その身は歿しても、その魂は殘り、依然として朝廷に仕へ、國家を護持するものと確信されたのである。

 その身歿して後も、その魂魄、此の世に留まつて君國を護るといふ考の、最も良く現れてゐるのは、楠木正成の最期である。‥‥太平記の作者は、正成に對して絶讚を捧げ、「智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、古より今に至るまで、正成程の者は、いまだ無かりつるに」と述べてゐるのである。足利全盛の時にさへ、心ある人は、かやうに正成の言行に感激したのであるから、後世學問の開け、道義の明かなると共に、七生報國の願が、人々の胸を打ち、その指標となつたに、不思議は無い。

 君國の大事に一身を捧げ、一家を顧みなかつた忠烈の人に對して、贈位と祭祀と、當に行はるべきであつたのは、承久と建武と、あの二つの重大事に際してであつた。‥‥心ある人はそれを歎き、或は私に楠子の墓を建て、或はひそかに楠公社を祭つてゐたのであつたが、やがて孝明天皇は、嘉永三年五月、和氣清麿に對して、護王大明神の神號を賜はつた。佐久良東雄は之を聞いて喜びに堪へず、友人を誘つて、直ちに高雄山に登り、感激を數首の歌に託した。‥‥別格官幣社として、國家護持の忠臣を祀られる先蹤は、孝明天皇によつて、かくの如くあざやかに開かれたのである。

 やがて文久元年三月、眞木和泉守は上奏して、古來の忠臣義士に神號を賜ひ、或は贈位増官、或は其の子孫を祿し給はむ事を請ふ。その文に曰く、
『忠義の魂魄を冥々の中に感動し、節烈の心志を目前に奮發せしむるは、此の一擧にあり。さし當り攘夷の事より起りたれば、先づ外征に功烈ある、崇神天皇・應神天皇・神功皇后の山陵に奉幣し、竹内命はじめ、歴代三韓にて功績節義あるは、神號を賜ひて祠を建て、藤原隆家・北條時宗・河野通有・菊池某、序に南北朝時代の忠臣義士、楠氏を始め、足助重範如きに至るまで、盡く官位を贈り、其の墓あるは墓に、勅使を以て事を告げ、此の節の攘夷に、冥々より力を添ふべき宣命など賜ふべし。又當時、其の子孫の列藩に在りて士夫たるは、朝廷に召して、其の事を命ぜらるゝもよろし。庶人など落魄したるは、召して縣士に列せらるゝとも、又遙かに賞物を賜はるも可なるべし』。

 流石は國體に徹したる英傑の獻言だけあつて、國家として當然實行せらるべき重大事を提案したその見識は、まことに時流を拔くものであつた。明治の大御代に入つて、着々實施せられた大改革が、殆んど皆この時この人の建言に據る事は、今一々ここに説く暇は無いが、しかも特に注目したいのは、眞木和泉守の建言以前、すでに孝明天皇の思召によつて、和氣清麿が神として祀られた事である。和泉守の建言は、文久元年三月の事である。しかるに護王大明神の神號は、それより十一年前の嘉永三年五月の事であつた。そして其の宣命に、和氣清麿が、宇佐の神勅を奉じて、「君と臣との道、しるく立て」たる功績を賞し、もし此の人「なかりせば、下として上を凌ぎ、上として下を欺くことの有りつらむに、身の危きを顧みず、雄々しく烈しき誠の心を盡くせるは」、古人のいはゆる危きに臨んで命を致せるもの、其の大功、十分に世にあらはれざるを歎き思召されて、護王大明神とあがめ給ひ、正一位を贈らせ給ふに就いては、今後いよいよ「天皇朝廷を、堅磐に常磐に動くこと無く、夜の守り日の守りに護り幸へ給ひて、天下泰平に、いかし御世の足らし御世に護」り給へと仰せられたのであつたが、その聖旨は、明治天皇によつて繼承せられ、眞木和泉守の門流によつて輔翼せられて、やがて明治元年四月、湊川神社の創立となり、ひきつづいて數多くの別格官幣社の創祀、特に靖國神社の勅祭となつたのである。

 その一例として、明治元年閏四月六日の御沙汰書に、
『有功を顯し有罪を罰す、經國の大綱、況や國家に大勳勞、之れ有り候ふ者、表して顯すこと、之れ無き節は、何を以て天下を勸勵遊ばさるべきや。豐臣太閤、側微に起り、一臂を攘て天下の難を定め、上古列聖の御偉業を繼述し奉り、皇威を海外に宣べ、數百年の後、猶ほ彼をして寒心せしむ。其の國家に大勳勞ある、今古に超越する者と申す可し。抑も武臣、國家に功ある、皆な廟食、其の勞に酬ゆ。當時、朝廷、既に神號を追謚せられ候ふ處、不幸にして天、其の家に祚せず、一朝、傾覆し、(中略)深く歎き思食し候ふ折柄、今般、朝憲復故、萬機一新の際、如此の廢典、擧げざるべからず。加之、宇内各國、相雄飛するの時に當り、豐太閤、其の人の如き英智雄略の人を得させられたく思召さる。之に依りて新たに祠宇を造爲し、其の大勳偉烈を表顯し、萬世不朽に埀れさせられたく仰せ出され候ふ』。
とあるを見れば、推して靖國神社の本質の、いかに嚴烈重大なるものであるかを察するに足るであらう。

 かくの如くにして明治二年六月、東京に招魂社を創立せられ、そして十年後に靖國神社と改稱せられ、別格官幣社に列せられた。從前、國家の爲に一命を捧げたる忠士は、國家によつてここに祀られ、以後君國の爲に一命を捧げようとする人々は、死してここに祀られむことを期待した。即ち國家護持の精神は、明治二年以來、今に至つて百年、この靖國神社に凝集し、國家の柱石となつてゐるのである。それを看破し、最もあざやかに之を表現してゐるものは、ラフカヂオ・ハーン、即ち小泉八雲である。八雲はいふ、

『日本の眞の力は、その庶民の道義性のうちに存する。即ちそれは或は農夫であり、或は漁夫であり、或は職人であり、或は勞働者であつて、或は田畠に、或は町の片隅に、默々として靜かに働いてゐるが、日本民族のみづから意識せざる英傑の氣象は、實に是等庶民のすばらしい勇氣に存するのである。彼等は生死に無關心であるのでは無いが、しかも死者にさへ位を賜はり、位階をのぼせ給ふ天皇陛下の御みことのりのまにまに、獻身せん事を冀ふのである。今や日露戰爭の爲に召出されたる幾千の若者の誰よりも、戰勝の榮譽を帶びて家へ歸りたいといふ願を聞く事は無い。彼等に共通の願は、唯一つ、招魂社にまつられて、天皇陛下及び祖國の爲に生命を捧げた人々のすべてと一所になるといふ事である。日本を敵とする國の恐れなければならないのは、その精鋭の武器よりも、此の古來の忠誠心である』。

 まことに八雲の洞察したる如く、靖國神社は、國家護持の精神のやどる所である。從つて若し此の崇高にして嚴烈なる本質を見誤り、一時便宜の處置によつて之を左右するとならば、それは國家の基礎を動搖せしむるものなる事を覺悟しなければならぬ」と。


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