• [0]
  • 先哲遺文に學ぶ。

  • 投稿者:備中處士
 
●寒林平泉澄博士『國史學の骨髓』に曰く、「

 古人を泉下に起して、之と肝膽相照すは、古人と同樣の高き深き精神に非ずんば、不可である」と。


●平泉澄博士『傳統』の「序」に曰く、「

 傳統といへば簡單明瞭のやうであつて、實は多くの誤解が之に纏綿する。即ち現状に泥んで革新を忌む者は、現状の維持、即ち傳統を守る事と考へ、反對に現状にあきたらずして革新に急なる者は、みだりに外國の模倣追隨を專らにして、傳統を固陋と貶し去らうとするのである。我等はその外に向けられたる眼を内に轉じ、今にとらはれたる心を古にかへさなければならぬ。換言すれば、父祖の心を喚び起して、その指導の下に、今日の混濁を洗ひ清めなければならぬ。而してそれは形を主とするのではなくして、實に精神の問題である。これこそ最も穩健なる、しかも最も深刻なる革新ではないか。この革新に於いてこそ、全日本人を一つにする力が存するのである」と。


●平泉澄博士『眞の日本人』(『傳統』所收)に曰く、「

 甚だしいかな、天下形勢の急轉、朝に連衡の約あつて、夕に合從の盟となり、こゝに權變の術あれば、かしこに反間の策存し、一方に衆力を集めて、猛虎を攻めようとかる者あれば、他方に兩虎、相搏つて、共に疲弊するを待たうとする者がある。斯くの如く詐謀の祕術をつくして、一上一下、動亂やむ時なき外交の怒濤に棹さす者は、抑も何を頼み、何に依るべきであるか。これ今日、護國報恩の志をいだく士人の、日夜、肝腦をくだく問題でなければならぬ。‥‥

 一億一心、上下一和するならば、何ぞ外敵を恐れんや、むしろ進んで、大に國威を發揚すべし。然るに之に就いては、世に異論があらう。蓋し人心は互に相違する事、まさに其の面貌の異なるが如く、從つて之を一つにするといふが如きは、恐らくは單に修飾の辭であつて、實際に於いては、到底不能の事に屬すると考へられ易いからである。しかしながら事實それは、決して不可能ではない。人々にして若し其の私心を去り、深く祖國の傳統に復歸するならば、こゝに祖國傳統の力は、上下貧富の差、老若男女の別を越えて、よく一億を一心ならしめるのである。天下の人心を一にするの説は、國民のすべてを、國家の正しき傳統に復歸せしむるといふに歸着するのである。國體の大義を明かにし、日本の道義に一命を捧ぐる、これ即ち私を去つて傳統に歸順するものに外ならず、よくかくの如くであるならば、之をこそ眞の日本人と呼ぶべきであるが、國民のすべてが、眞の日本人となる時に於いては、一億こゝに一心となつて、外國の權變、恐るゝに足らず、合從連衡、多く意に介せずして、一路邁進し得るのである。‥‥

 皇國臣子の道の、その後再び忘却せられ、傳統の光の、近年又も衰微して來た。しからば我等は此の道を再び明かにし、此の光を今日に輝かしめなければならぬ。我等日本人のすべてが、この忠死の心に立ち、この傳統にかへる時、換言すれば眞の日本人となる時、一億をうつて一心とする事は、始めて可能である。一億をうつて一心となし得たる時、海外の怒濤、それ何物であらうか」と。



 愚案、「神典」・「古典」と稱せられるもの、或は「先賢古哲」の言靈は、之を尊重し之を景仰し、之を己のものとして師承繼述しなければならぬ。現代人の評論書籍を讀むのも宜しいが、歴史の審判を經てをらぬ己の創見と稱する一私見なぞは、蓋し何程の力があらうか。先哲との斷絶は、正に歴史との非連續を意味する。此の状勢を放置せむか、皇國の中興の如きは、到底、之を望むべくも無い。

 夫れ皇國の尊嚴なる所以は、開闢以來、幾千年、上下、相信じて、君民和樂し、父子、相親しんで、代々志を傳へ、内に絶えて革命の亂逆を見ず、一朝、外に事あれば、忠勇、無敵なりしに因る。これ固より神威の尊く、聖徳の高きに依ると雖も、抑も亦た先哲、道を弘め、教を布くの深きが致す所であらう。皇國の行手を照らし導くもの、それは古典・古賢の遺文にこそ、之を求めなければならない。祖述繼承こそ、今ま我々に求められてゐる。

 かつて先哲の遺された御文章を、おほけなくも紹介し、各位諸賢の切磋琢磨の資に供したいと思ひ、拜記させて戴いたことがある。更に再掲、或は増補を試みたい。之を朗々と音讀すれば、古人の言靈の雄走る所、必ずや琴線に觸るゝあらむことを信ずる。讀書百遍、意、自ら通ず。「訓み下し」とは、文字通り、訓めば意味が下るのであるから、細かい詮索は之を略す。如何うしても不明な所のみ、辭書を活用されたく、習熟の功、他の文章を拜讀する時の縁(よすが)ともならう。學んで時に之を習ふ、亦た悦ばしからずや。

 昌黎韓退之『同峽冠詩』に曰く、「棺を蓋うて、事、乃ち定る」と。人は死んだ後で無ければ、悲しい哉、容易に評價月旦を下せない。何んとなれば則ち人間てふものは薄弱なるもの、何時、變節轉向するかも知れぬからである。故にこゝに紹介する文章詩歌は、原則として「眞の日本人」として、後世、評價の定まつた歸幽者に限るものとする。

 各位大方の贊同を得て、諸彦諸姫の執筆協力に期待したい。但し轉記拜書は、出典を明かにし、一字もゆるがせにすること無く、其の校正の嚴格的實なるを、切に懇願すると爾か云ふ。謹拜

【先哲遺文に學ぶ】
http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=202213&page=1&genre=giron

投稿者
メール
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
URL
sage

  • [31]
  • 讓位の精神史。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年11月12日(土)18時29分23秒
  • 編集済
  • 返信
 
●柳原前光伯『皇室典範内案』(井上毅子案の前身。葦津珍彦翁『神道的日本民族論』昭和四十四年一月・神社新報政教研究室刊に所引)

第十條。天皇崩じ、皇嫡子孫なく、皇后、遺胤を懷妊する時は、其の誕生を待つこと、應神天皇の例に依る。

第十二條。天皇は、終身、大位に當る。但し精神、又は身體に於て不治の重患ある時は、元老院に諮詢し、皇位繼承の順序に依り、其の位を讓ることを得。

第十五條。讓位の後は、太上天皇と稱すること、文武天皇『大寶令』の制に依る。

第十七條。天皇崩じ、又は讓位の日、皇嗣踐祚して、即ち尊號を襲ひ、祖宗以來の神器を承く。

第十八條。皇后、遺胤を懷妊し、又は正當の皇嗣、本邦に在らざる時は、其の間、空位と定め、前條の限りに在らず。



●葦津珍彦翁『現行皇室法の批判的研究』(昭和六十二年十二月・神社新報社刊。編集委員會編『葦津珍彦選集』第一卷に所收)に曰く、

「憲法は、在位中の天皇が、國體・國家・國民の重大事についての公式の意思表示をなさることを、決定的に至難にする制約を加へてゐる。天皇が、萬世一系の皇位にあらせられて、國家國民のために、日本國の道が、決定的に誤つてゐると思はれる時には、その公的御意思によつて、退位を表明なさる『機能』があるべきではないか。明治典範の終身在位制は、きはめて愼重なる研究と法理の結論として成立したものではあるが、それは、帝國憲法によつて確保された強大な『天皇大權』と深い關聯を前提としてゐた。このことは、決定的に重大な條件であつた。その前提條件が、まつたく異なる場合には、退位の條件も、また變つても然るべきものではあるまいか。‥‥

 法は、あらゆる場合を豫想して、萬全を期さなければならない。國會や内閣が、次々に『日本國と國民との存亡に關する重大事』について、『日本の國體上の重大事』について、天皇の御意思とまつたく相反する決定を下して、それに關聯する國事行爲を、天皇に強制しようとする時に、天皇としては、いかになさるべきであらうか。それは、絶對にありえないことではない。

 鎌倉以來の朝廷對幕府の間にも、そのやうな不祥の歴史が、いくたびかあつた。天皇は『退位』することによつてのみ、忠良の臣民に對して、『幕政』に對する抗議の意を表明された。御退位といふことは、その理由と事とによつては、武門の權力に對しても、少なからざる精神的な畏れででもあつたのである。天皇退位の歴史の中には、幕府權力が、天朝をコントロールしようとして、幕府にとつて好ましい皇位繼承權者を立てたいといふ例も、すこぶる多い。しかしこれと反対對に、天皇の側で、『國家大局のために』、幕府への抗議の意を示すために、自ら退位を最後の切り札とされた例も、少なくない[近い例をあげれば、孝明天皇が、幕府の非を憤らせられて、退位の御意思を示された。それは、深い精神史から言へば、明治維新への大きな源流ともなつた]」と。



 愚案、今上天皇の「切願」を奉ぜざる者は、皇土日域に住す可からず。大内奉仕ないし内奏可能な立場に在る者、五年以上も、大御心を拜し奉らず、宸襟を惱し奉りし罪、斷じて之を許す可からず。

 御讓位の玉音は、敬遠せし政府の不忠に在りと謂ふも、過言に非ざる可し矣。贈正五位・青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽先生の哥を懷ふこと、頻りなり。敬みて聞き給へ。



天皇は 神にしますぞ 天皇の 敕としいはゞ かしこみまつれ

愚かにも まどへるものか 大敕 たゞ一道に いたゞきはせで

敕に そむくそむかず 正し見て 罪の有り無し うたがひはらせ

 

  • [30]
  • 平田盛胤大人『神武天皇御盛徳記』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年11月 5日(土)21時19分7秒
  • 編集済
  • 返信
 
●平田盛胤大人『神武天皇御盛徳記』(神武教院刊。平田篤胤──銕胤──延胤──盛胤──宗胤──米田勝安──晴江)

 掛けまくも畏き、神武天皇は、御名を神倭磐余毘古の尊と申し奉りて、鵜□[茲+烏]草葺不合の尊の皇子(みこ)に在(をは)しましき。御性質(みさが)、素より英明にして勇武(たけゞゝ)しく、御齡ひ若かりし程より、いかで皇祖(みおや)の大業(おほみわざ)を榮(さかや)かさむと思召し立たせ給ひ、御兄のの皇子たちと議りまして、親ら舟師(ふないくさ)を率ゆて、日向の國を立ち出で給ひき。

 まづ道すがらの賊等(あだども)を討ちて、人民の苦しみを除かれ、やがて大和に入りて、長髓彦を誅し給ひて、天下を悉く平穩に歸せしめられき。是に於て都を大和の橿原に奠(さだ)められて、天皇の御位に即かせ給ひ、皇祖の天つ神を祀り、孝教の誠を盡し、職制を定めて、君臣の義を明かにし給ひしかば、國土安寧にして、人民鼓腹の樂しみをなしき。

 抑もこの天皇の御代は、いはゆる草創の時代にして、天下の人心、なほいまだ皇威に服せず、天下一統の後も、動もすれば騒亂の起らむとせしを、天皇は、御身親ら彝倫の標準を示し給ひ、或は御恩(みめぐみ)を施し、或は威を立てられ、天祖天照大御神の「寶祚(あまつひつぎ)の隆んなること、天壤と窮まりなかるべし」と宣り給ひし御詔の如く、永久へに動(ゆる)ぎなき皇基を確立せられしは、天祖神靈の御遺徳に因ることにはあれど、また天皇の偉大なる御功績(みいさを)によることゝ伺ひ奉らるゝなり。

 されば今の大御代となりては、別けて尊崇せさせ給ひ、畝傍の山陵は申すも更なり、橿原神宮・宮崎宮にも、年毎に勅使を立てられ、幣帛を捧げさせ給へり。皇室に於かせられても、かゝる御有樣なれば、吾々臣民たる者は、深く崇敬の實を擧げ、日常祭祀の禮を盡し、誠心誠意、その御偉徳を偲び奉らざるべからず。

 まことに然らば國民は、たゞに天皇の御恩の萬一に報いまつるのみならず、尊皇愛國の美風を普及せしめ、この尊嚴なる國體を、愈々鞏固ならしめ、延いては家門の繁昌、一家の安樂となりて、人々の幸福、この上なかるべし。岩田秀胤ぬしは、はやくこゝに心をつけられ、こたび神武教院と云ふを設けらる。よりてその請ひにまかせて、御盛徳の一端を記しまつるにこそ。

 明治三拾四年三月  平田盛胤、謹識。
 

  • [29]
  • 默宇翁の志、闕下諫死に在り矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年11月10日(火)21時47分9秒
  • 編集済
  • 返信
 
~承前~

●父母に上る書

 御揃ひ成され、御勇健に御渡り、天地神佛に祈り奉り候ふ。私共兄弟三人、恙が無く因州迄は參らじ。實に此の度びの失策は、何とも箇とも言葉に盡し難く、皆々姦人、佐々木(男也一貫。振武隊總督)・諫早(佃作次郎基清。衝撃隊總監。木戸孝允・井上馨の黨。政府の間諜なり)等の謀に陷り、終身の殘念、此の事に御座候ふ。七たび人間に生れて、此の賊を亡し申す可し。

 扨て私共の身の果ては、少しも御氣遣ひ遊ばされ間敷く候ふ。只だ何方樣にも御揃ひ、憂きも樂しきも、御偕々に遊ばし、兄弟三人、不孝の罪は、何卒々々御見免し、偏へに祈り上げ奉り候ふ。古へより忠臣義士の艱難苦勞は、今に始めぬ事故、偏へに不孝の罪を御赦し、三人の者を、忠臣義士と思召し遣はさる可く祈り奉り候ふ。何事も、只だ君の御爲め、國の御爲め、萬民の爲めと、一心に覺悟を極め思ひ立ち候ふ事も、姦人に先を取られ候ふが、萬々不運の至りに御座候ふ。幾囘も殘念至極に御座候ふ。

 開運の日、御座候はゞ、目出度く拜顔仕り候ふまゝ、幾囘も々々ゝ御機嫌克く御暮らし祈り上げ奉り候ふ。
 十一月二日   一誠・頴太郎・一清より
 父上樣・母上樣



●神門郡宇龍浦庄屋・藤村仁之助翁『前原一誠就縛始末』(明治九年十一月二十日。島根縣簸川郡大社町宇龍・福性寺藏。藤村仁之助長男・久藏氏編『宇龍の悲曲』大正十四年刊)

 明治九年十月、前參議・前原一誠、亂を長門の萩に起し、事、敗るゝや、海路、東に遁る。本村は、一小港なるを以て、殊に警戒す。

 十一月三日、風雨強し。午後三時頃、一般の小船入港す。乘客六七名、頗る怪しむべきものなる故、附き船・大國啓三郎、之を組長・安田市郎兵衞方に報ず。折節、用係・木村啓右衞門、組長・阿部忠三郎相會し、時、碁を鬪はし居たるが、此の報を得て、驚き起ち、區會所(福性寺上の間)に到り、戸長・永岡五郎右衞門と議し、「彼等を遇するに、普通の入港船の如くすべし」とて、問屋當番・木村カツ代・甚吉を行かしめ、「何れより入港せしや」を問ひ、且つ上陸を促す。彼等、敢て應ぜず、傲然輕侮の言を發す。已に脱徒したること、顯然たるを以て、副戸長・高木儀助、之を杵築警察署に急報す。

 同夜、警部・岡田透は、三宅・小笠の兩巡査、及び手先の土江富五郎・宮本丈五郎の二名を率ゐて出張し、高木豊之助方を詰所と定め、組長及び村内の強壯なる者と共に、服を漁夫の如く變じて、沿岸各所に配置し警戒す。

 夜は、陰暦九月十八日にして、雨止み月輝き、一片の弧船、權現島岸に繋げり。是れ即ち脱徒一行の乘れる所也。此の日は、恰も天長節なる以て、壯年輩をしてシヤギリ(多人、笛吹き太鼓を打鳴らして歩行するなり)をなし、頗る喧囂せしむ。蓋し彼等の上陸を促す爲め也。午後十一時頃、一般の傳馬船(彼の船に、馬船のある筈なし。他の碇泊船より借りたるものならん)は、彼の船より漕ぎ出せり。近づくに隨ひ、之を諦視するに、二名の水夫なり。水夫は、濱邊を逃廻するものに、水の所在を問ふ。警戒者等、之を欺きて、遠く字・田奧に誘ふ。待ち設けたる巡査、直ちに之を捕縛し糾問す。水夫曰く、「予は、長州須佐の漁夫にして、去る日、恐嚇せられ、濱田迄の約束にて出船せしが、都合ありとて、濱田へ入港せしめず、直ちに鳥取に直航すべしと命ず。然るに風波に沮まれ、遂に當地に入港せり」と。巡査は、其の他一二の訊問をなして、之を拘留す。

 船に在るものは、水夫の歸らざるを以て、再び傳馬船にて帶刀するもの、一名上陸し、問ひて曰く、「水夫二名を上陸せしなるに、歸り來らず。汝等、知らずや」。且つ曰く、「予輩は入港するも、村民を煩はすものに非ず。風波靜まらば、直ちに出帆せんとす。然るに水夫等の歸らざるを如何せん。或は雜沓せる壯年輩の、戲れに隱せるにあらずや。若し不明なるに於ては、當地の役人へ問ふの外なし。浦役人の家は、何處なるや」と。警戒者等曰く、「戸長は、他より通勤者にて、又た用係は、當地の者なるも、今晩、不在也。明日は、出勤するならん」と欺き、面會せしめず。彼、止むを得ず、船に歸る(此の時、宮本正五郎、不意に躍り出て、モヅを打掛けんとせしかば、彼、驚き去れりとの事をあれ共、信僞不詳)。

 此の夜、船を字・立花へ廻す。依つて遁逃を計るならんと、其の地を警戒す。果して一名上陸せんとせしに、警戒すありと認めしか、遂に果さず(此の時、阿部忠三郎、偵察の爲め、立花へ往き歸る際、巡査は、驛徒者と見謬り、物蔭より不意に竹槍を衝き出し、殆んど刺さんとせり、と。次で警戒者等の倉皇の一班を見るべし。後ち又た濱田に於て一名、縛に就きたるものありしに、「宇龍を逃れたる」と言ひし由。此の時に於て、遁走せしものありしならん)。

 四日、船を再び西に廻し、藤村仁之助方の後に繋ぐ。此の日は、水夫の事にて、必ず上陸するならんと豫想せし故、小笠巡査は用係に、三宅巡査は小使に扮裝し、之を捕へんと構へ居たるに、果して横山俊彦、外一名(僕・白井林藏)上陸し、斯かる計略ありとは夢にも知らず、案内に任せて、區會所に到り、用係に面會し、對談の際、用係は時機を見計り、小使に火鉢を合ず(「圖」か)、兼ねて示し合せし事なれば、小使の三宅巡査は、火鉢を持つ。出づるや否や、横山の眉間を見的に打ち掛くる。之と同時に襖の後に隱し居たる手先の者等は、一時に起つ。横山、大聲吃呼して曰く、「予輩は、汝等に對し、暴擧をなす者に非ず。何ぞ、斯かる不法をなすや」と。一同、耳にも掛けず、毆打亂撃す。流血淋漓たるあり。遂に縛して、汗して籃に乘せ、福性寺の後より、字・黒田通りにて、杵築へ押送せり。

 其の後、奧平謙輔(源居正)は、不思議に思ひてか、間もなく拔刀にて上陸し、區内の樣子を見ながら、區會所へ出頭し、福性寺住職に面會す。「戸長并びに用係等は、在勤なるや」と問ひしに、住職は答へて曰く、「本日は、生憎く御一人も御出勤なく」と答へり。遂に退散せんとせしに、玄關に血痕點々と新しきを見て、大いに驚きたる體、尚ほ改めて住職に向ひ、「役人の出勤や否や」を問ふ。「確かに缺席なる」ことを答へたれば、止むを得ず、只だ「甚だ御邪魔」の一言の許に、少々立腹の樣子。奧平は、白手拭の鉢卷き、尚ほ拔刀し、龍虎の勢にて、區内を往復す。「用係は、何處なるや」と問へども、恐れて返答する者なし。終ひに苦敷き體にて、元船に歸りたり。

 水夫、已に捕へられ、横山等縛せらる。彼等、船を出だす事能はずと雖も、上陸して、如何なる暴擧をなすも計られずとて、一同の恐怖、一方ならず。村内の獵師を集め、要所に配置し、若し上陸せば、銃撃する準備をなす。物情恟々、今にも戰爭の起らんとするが如く、家を片附け、奔竄の用意をなすものありしと云ふ。戸長以下、區會所職員等も、非常に恐怖し、離れ家、又は二階の隅に隱れ、竊かに景况を窺ふのみ。是に反して船に乘れるものは、鯨飲放談、詩を吟じ歌を唱へ、聊かも意に介するものなきが如く、一日に七八升の酒を呑み盡くせり。本村漁夫・安田杢之助は、其の船に往來し、彼等の用に便せし度び毎に、拾錢・廿錢宛て投與せり、と。

 五日、午後三時頃、島根縣中屬・清水清太郎(襄吉)、一等警部・室本閑之助、警部・巡査、數十名を率ゐて來着。藤村仁之助方を旅館とし、書を認めて、前原(彦太郎源一誠)に送る。前原は、清水と同藩士にして、舊知なるを以て、返書を認め、奧平に托して、上陸せしむ。其の文に曰く、

「薫香、拜讀仕り候ふ。平生、久要の心を忘れず、深く心肝に銘ず。僕、今日の状態、實に傍觀に忍びざる故に、闕下に諌死の決心に候ふ處、風波に阻まれ、發露、此に至る。萬事、天命に付き、捕縛相就り候ふ處、圖らずも足下の書を得、萬死中に一生を得たるが如き心事、萬端、筆紙に盡すこと能はず。幸ひに御幸臨相成り候得者、區々の心情、鏤述致す可く候ふ間、憚り乍ら船次にて御來臨、祈る。餘は、拜眉の上、萬鏤。
 明治九年十一月五日 一誠、頓首、拜
 清水清太郎殿」

 奧平は、清水に應接し、右の書を渡し、又た清水の意を得て、書を前原に送る。夕刻に及び、前原以下、上陸す。前原の着するや、清水は、之を推して上座に進め、遙かに末座に下りて挨拶す。前原辭し、強ひて進ましむ。清水、漸く次の間より挨拶す。此の夜、各々休浴せしめ、宴を張り、彼等を慰撫す。放談忙語、曉に及ぶ。巡査輩は、漁夫の如く異裝して、家の内外を警護す(此の夜、警護の巡査は、各々飽食飲酒をなす。翌日は、無斷出發し、遂に費用の出所を得ず。爲めに其の家に迷惑に歸せしと、其の當時の事情、或は然らん)。

 宿泊せしもの五名、即ち前原一誠・奧平謙輔・山田頴太郎・佐瀬(佐世)三郎・馬木(來)杢等也。孰れも高雅の人物にして、
殊に前原は、軀幹肥大、容貌魁偉、威ありて猛ならず。一行の首長たるの態度、自ら備はる。面に薄痘痕あり、身に絹縞の袷を着す。博多帶を結び、羽織なし。
奧平は、前原に比すれば、稍々痩せたる方なれども、色淺黒く、容貌峻嚴、言語明辨、一行の次長たるに恥ぢず。木綿縞に、同じ羽織を着し、白兵子結べり。其の服裝より見れば、質實にして眞率あるを知る。
山田は、年齡三十五六歳位と見え、腹部に銃創を負ひ、額面憔悴せり。越後結城の袷衣を着し居たるが、血に浸潤し、實に憐れなる有樣なりぬ(其の袷を着替へし爲め、代り着を、藤村仁之助妻・テツに命じ、直ちに他より絹縞袷衣、并びに羽織を調ひ、是れを給したるに、彼、血液に染まりたる越後結城の袷を、「是れは、乞食になるとも與へ呉れ」との言葉なれば、正しく之を請取し、之れ、藤村宅に紀念として、今に保存せり)。
佐世は、年齡二十七八位、之れは赫顔にして、動作活發、言語明朗、一行中の美少年なり。衣服は、薩摩絣に、白縮緬の兵子帶・絹條の袢天を裝へり。神色自若、明音を發して、詩歌を朗吟す。翌日、出發の際も、淨瑠璃を語りつゝ、悠々駕に乘れり。

 六日、將に出發せんとするや、奧平は、主人・仁之助に面會し、懇々、昨日來の厚意を謝し、且つ鏤々一行の來歴より、今囘の義擧なることを語れば、慷慨悲憤の情、言に溢る。覺えず、感激の情を催さしむ。又た奧平より仁之助に尋問に曰く、「當家は、舊家と見留む樣、如何」。仁之助答へし、「恐れ乍ら、陳述申す。抑々當家先祖は、都より日御碕檢校の保護し來りて、本村、人家一軒もなき節、開墾して住居したる。時に康治四年、源義親、宿泊せし其の紀念として、短刀・雨龍の寶劔一刀を賜り、亦た時を去る源頼朝公、日御碕神社に祈願の際、宿泊せらると傳來あり」と申せしに、奧平は、感神を告げる。「我等は、幸ひに當屋に宿泊せしは、滿足に堪へず」と。「此の由來、前原、其の他に申告せん」と云ふ。依つて仁之助、紀念の爲め、姓名を自記せんことを請ふ。奧平は、快く諾し、姓名を列記し、且つ紙を需めて、和歌及び詩を書す(現品、藤村氏、之を藏す)。

○前原の和歌に、
鹿をさして 馬といふてふ 世の中に わがまこゝろは 神ぞ知るらめ

○又た蘭の畫に、自贊して曰く、
神洲、何ぞ芳根を託する所、戲れに撫鄭す、北南の筆意。
  長門囚徒・源一誠

○奧平の詩、
事、既に斯に至る、爲す可き無し、
天之制也、復た奚をか疑はん。
於今、一死、遺憾無し、
恰かも神洲、未だ滅びざる時に及らん。
  源居正

 已にして巡査等は、正服を着し、庭前に駕を備へて、出づるを待つ。前原以下、丁寧に別れを告げ、謝義として、金五圓を置き、從容、駕に乘じて、杵築へ送らる。

 今、當時の銘事、一二を記さんに、最初、出張せし警部・巡査等は、外面にて男を裝ひ、内心、頗る恐怖心を抱けるものゝ如し。孰れも鋭意、事に當らんとするものなく、可成り、組長、其の他のものを使役せんとせり。

 前原一行の宿泊所を警護する、漁夫扮裝の巡査等は、其の家に就き、思ふ儘に飯を食ひ酒を呑み、出發の際は、少しの價をも拂はず、遂に其の家の損となれり。區會所の職員等は、前原等の浦役人を尋ねたると聞くや、己等の捕へられんとするものゝ如く、離れ家、又は二階の隅に隱れて、竊かに其の景況を窺ふのみ也。當時、藩閥の世を距つる、遠からず。右の如き事は、珍しからぬ事にて、固より得べき事ならん。翌年、副戸長及び用係人、賞典ありたり。戸長へもありたるならん、今は不明也。組長以下は、ありたるは聞かず。


○前原一誠小傳
 前原一誠は、通稱彦太郎。長州の人。戊辰の役、藩命を奉じ、越後國參謀の任を帶び、彈丸雨飛の間に馳駈し、屡々敵を敗る。事、定まり、賞典六百石を賜ひ、越後縣知事と爲り、明治二年七月、參議に任じ、從四位に敘せらる。適々兵部大輔・大村益次郎、凶變に遇ひ、大輔、一時、其の職を缺く。朝廷、一誠の其の器に當るに足るべきを知り、擢んじて、其の後任に充つ。三年九月、諸參議と、議、合はずして、職を罷め、故山に歸る。一誠、初め志を勤王に存し、常に久阪(坂)玄瑞等と交はり、且つ死生相誓ふ。戊辰の役、東征に從ふ。詩あり、曰く、

干戈、未だ定まらず、事、床(「麻」か)の如く、身、艱難に委ねて、家を思はず。
默して姦臣を斬りしより、暦月を數ふれば、十年、長く負く、故山の花。

 

  • [28]
  • 默宇翁遺書──勤王第一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年11月 9日(月)23時33分24秒
  • 編集済
  • 返信
 
~承前~

 默宇翁の遺言を拜抄し、其の志を繼述せんと欲す。其の松柏たる硬骨、誠忠無敵の血書──闕下諫死の悲願は、正に明治の「靖獻遺言」と謂ひつ可し矣。尚ほ遺書は、斷らざる限り、安藤靜宇翁『前原一誠年譜』に因れり。



●東航中、妹婿・重富與三に遣はす書(松本二郎氏『萩の亂』)

 忠謀破れて、賊となり、恨みを呑んで、九泉に歸す。實に畢生の遺憾なり。豐太(豐太郎。與三の長男)の生死、未だ知れず。可憐なり。僕等三人、實に心、忠にして、形、賊なり。たゞ千載の公論を待つのみ。且つ僕等、尚ほ未だ死せず、千辛萬苦、野に臥し山に伏し、北海の波に漂ひ、後擧を圖らんとす。事遂げずして死せば、天命なり。老兄、幸ひに我等が心中、御賢察賜はる可く候ふ也。十一月二日。

天地の 惠でそだつ 人なれば □く事ならぬ 邪(よこしま)の神
かく深く 盡すまごころ とゞかぬは 猶淺かりし たゝりなるらん


●嗣子前原昌一・山田克介(頴太郎の長子)に遣はす書

 尊攘の大義を重んじ、賣國の姦臣を惡み、かしこくも上、天皇陛下の御爲め、下、萬民の爲め、臣子の大義を、天下後世に明かにせんとす。却つて奸人の術中に陷り、志遂げず、中道にて死す。汝、生長の後、我等心中、察せらる可く候ふ。謹言。
 明治九年丙子十一月二日  一誠・(仲弟の山田)頴太郎・(末弟の佐世)一清。


●就縛時、藤村氏に遣はす歌・贊(藤村仁之助翁『前原一誠就縛始末』)
──後に掲げん──


●輿中(清水鶴陰翁『前原一誠傳』)

秋ふかく をちこち山も 紅葉して あかき心の 色をうゑけり


●杵築にて(『萩の亂』)

草も木も 心ありてや かゝるらん 葉にも衣にも みな涙なり
嵐吹く 峯も谷間も もみぢして 赤き心の 色をそへけり


●舊友なる縣吏・清水清太郎讓吉に遣はす書(『椒山集』中に書す。鶴陰翁『前原一誠傳』)

千古の丹心、此の中(『楊椒山文集』・『史可法文集』)に在り。

 『椒山遺嘱』の文、悉く寫し、以て家に遺さんとす。偶々獄中、紙無く、意の如くする能はず、以て遺憾とす。清々(清水清太郎)公、幸ひに官暇の日、謄寫し、以て僕が家の妻兒に贈られ、僕の死後、僕が家の家法となさしめ賜へ。泣血歎願の至に堪へず。

 僕死するの後、老親・妻兒妾等、寒餓、立ちどころに至る。素より當然也。偶々之を憐む者あるも、縣官天吏の睚眦を怖れ、決して意の如くする能はず。先に大津・大西良輔と云ふ者あり。家事を以て之に托せば、彼、稍々義膽あり。幾くは寒餓を免るべし。清々公、願はくは之を家累に教示し賜へ。家郷老雙親、及び家累のこと、日夜、胸に迫り、實に情に堪へず。

 然りと雖も僕等、朝廷の爲め、一死を以て力を盡すも、亦た今日を措いて日無き也。朝廷の大吏、今日に於て、少しく大政に心を注ぎ、人倫名教の學を興し、收斂苛刻の政を廢し、三千萬人をして、實に天子の恩澤に感じ、怨讎の聲、四海の地を掃はゞ、神州、猶ほ維持すべきなり。天日嗣、猶ほ久しかる可き也。當路の大臣、狠戻、非を遂ぐるの心、猶ほ止まず。兵力を以て壓制の政を行はゞ、此の神州の亡滅は、政府と雖も自ら知つて之を行ふのみ耳。神州を亡すは、政府の謀にして、僕等は、眞に神州の爲めに力を盡して、政府に欺き殺さるゝなり。悲しいかな夫。僕等、又た何をか言はん。

 僕等、忠を盡すの赤心、上に達すること、實に覺束か無し。此の心の明かなる、何れの日か、未だ知る可からず。只だ賊名に負き、九泉に入ること、遺憾なきに非ず。然れども事、已に此に至る。千載の公論に付し、一日の死を急ぐのみ耳。其の死を急ぐ所以は、情を斷つ爲め也。憫察を乞ふ。『楊椒山年譜』、亦た寫し、以て僕の兒に贈與し賜へ。


●闕下諫死の同志(萩城戰死の士)を祭る文。

 明治九年十一月十三日、囚奴・源一誠等、謹みて不腆の辭を飾り、以て萩城陣亡の士を祭る。其の文に曰く、

 皇天疾威、降りて下土に臨み、醜人、位に在り、竊みて禍福を弄ぶ。皇帝神武、吏は則ち之に抗ひ、皇帝寛仁、吏は則ち之を抑ふ。夷の笑侮する所、民の呻吟する所、社稷の安危、實に旦夕に在り。凡そ我が諸君、石に匪らざる心、日に貫くの誠、威も屈する能はず、利も誘ふ能はず、天を指し正を爲し、墜つる有つて他無し。路を山陰に取り、直ちに闕下に詣で、微衷を上陳し、以て報いること有らんと欲す。

 足、須佐に及り、急遽有りて云ふ、「賊、萩城に入り、略奪、諱むこと無し」と。衆、怒ること火の如く、曰く、「剪滅して東す、何ぞ遲きこと之れ有らん」と。舟首西指、萩市に合戰す。彈丸、既に盡き、空拳相撃つ。氣勢隆隆、腹を屠すこと列を成す。誠等、敏ならず、客氣、勝たず、以て諸君をして、浪戰に死なしむ。死罪、髮を擢き、以て謝するに足らず。遁走して雲(出雲)に至り、縣吏に自首し、東都に就縛せられ、諸君の志を明かにす。古人、言ふ有り、「死は易く、生は難し」と。誠等、一日長ずと雖も、唯だ難きこと、之れを擇ばん。死者をして生かしめ、生者は愧ぢず。忠信の義、其れ諸れを心に忘れん。尚(こひねが)はくは餐(う)けたまへ。


●囚中の遺吟

一筋に 誠をたねと 咲く花の ひらきもあへず 散りはつるかな

國のため 盡す心は うたかたの 泡と消えぬる 身となりにけり

平素、忠憤の氣、磅磚として、寰區に溢る。
古道、何ぞ我を欺かん。固く執つて、我が愚を守る。

四十年來、五倫を重んず。精忠、卻けられて(却つて)、不忠の臣と爲る。
月明、猶ほ是れ私、有りや否や。檻倉獨坐の人を照らさず。

國に報いる丹心、天地知る。人間の苦節、獨り清夷。
斯くの如き世界、生きて益無し。可法・椒山、是れ我が師。

元惡を掃はんと欲し(報國の丹心)、身を顧みず。生死得失は、風前の塵。
生來、始めて丈夫の涙を灑(注)ぐ。不孝の弟兄は、殉國の人。

九年、海内、事、擾擾。恰も將軍末路の年に似たり。
神州の形勢、累卵より危し。微臣、死を致す、太だ遷延たり。


●辭世の詩(松陰先生の辭世を承くる也)

吾れ今、國の爲めに死す。死すとも、君恩に負かず。
人事、通塞有り。乾坤、吾が魂を弔はん。



●『本間忠麿談』(妻木碧峰翁『前原一誠傳』に所引)

 時は(明治)九年十二月(三日)、骨を削るやうに寒い師走の風が、ピユウヽヽヽ木立を吹き渡つて、梢頭の枯葉、雪の如く散る日、私は、今日が斬首の日かと、窓外をうかゞふに、四顧の景物、何となく物悲しく、つらゝゝ世の無情を嘆じた。首斬りが始まるか、もう前原等が引出されるかと、心も心ならず、連りに動悸がうつ。首斬場といふのは、我等の牢屋の前、一間許りの處に設けられ、板を立て連ねて、我等の目を隔つ。‥‥

 關口(隆吉)縣令も、別れを告げに來た。いよゝゝ時間が迫つたなと考へてゐると、前原・奧平(謙輔居正・弘毅齋)と、呼出しの聲が聞こえる。前原以下、六士(他に、山田頴太郎一昌・佐世三郎一清・横山新之允俊彦・小倉孫一信一・有福半右衞門恂允)、何れも白裝束で、刑場に居竝んだ。許しあつて、七人が交る々ゝ我等の獄前へ、別れを告げに來る。何れも臆した氣色なく、靜かに別れを告げ退く。中にも横山は、大聲に、「只今、斬に就く。諸君、氣をつけられよ」と叫ぶ。前原は、白羽二重の裝束で進みつゝ、莞爾と笑み、靜かに一同を眺め、「只今、冥土に行く。何にしても、勤王が第一だぜ」と、凛呼として言つた。僞りない誠心が見える。私は、此の一言を聞いて、感涙にむせんだ。

 挨拶が終ると、前原等七人の別れの宴が始まる。生玉子を肴にして酒を飲み、酒、既に耳に熟して、朗々たる吟聲が起つた。死に臨んで、死を知らず、何といふ大膽な事であらう。朗々と起る吟聲に耳を傾ければ、『攝河泉州』といふ、楠公父子勤王の詩である。死の間際にも、誠忠勤王の心やまず、楠公の詩に、其の赤心を吐く。一誠の胸中、見上げた男だと、一方ならず感動した。吟聲は、いよゝゝ高くなる。「‥‥臣・正成、一の獅兒有り、名は正行、父子の忠魂、天子を護る。日月竝び、輝く千早城」、忘れもせぬ吟聲は、高く低く、閑寂、聲なき獄中に響き渡つて、勇ましいとも勇ましい。これから首が落ちるとも思はれない。流石、前原ぢや。えらい男ぢや。酒宴終り、吟聲やんで、七人、何れも斬首の席に就く。前原始め、奧平・山田・有福・小倉・佐世の六勇士が、ズラリと居竝ぶ。最期と聞いて、諸方から筆蹟を乞ふ。紙が幾十枚となく、膝の前に置かれる。前原は、一々筆を執つて、スラヽヽと書きつける。餘り悠然と構へてゐるから、掛役人が、「早く々ゝ」と促す。前原は、心に留めず、「任せた命ぢや。騒ぐな」と、平氣で筆を動かす。落着いたものぢや。
 

  • [27]
  • 前原默宇翁異聞。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年11月 5日(木)22時48分19秒
  • 編集済
  • 返信
 
~承前~

皇道凌夷し、式微を歎ず。
公侯、誰か復た無衣を賦せん。
鼎鑊、前に在り、吾れ已まん矣。
輿窓、涙を揮つて、斜暉を拜す。
 長門囚・源一誠、書す。



●鶴陰清水門彌讓吉翁『前原一誠傳』(明治三十年四月・寶文舘刊)に曰く、

 明治紀元春、(一誠、)三田尻海軍局に移り、干城隊の副總督を兼ぬ。此の時に當り、有栖川總督の宮敕を奉じ、北征す。子明(一誠の字)、藩命を以て從軍し、仁和寺兵部卿宮の參謀官に任ず。時に越後地方、紛亂。參謀・官軍、議合はず。配兵、機を誤るを以て、七月、長岡城、遂に賊將・河合繼之助の手に復奪せらる。官軍、勢、幾んど沮む。子明、憤慨、奮つて奇兵を指揮し、血戰、又た城を復す。亂賊、亦た隨つて悉く平らぐ。抑も子明の兵を用ふるや、毎に一にして十に當たらざるは莫し。此の役や、我が長と薩と、兩藩相約し、聯隊進撃す。薩將・村田新八等、子明の軍配に非ざれば、合從することを肯ぜず。子明の人望、是に於て愈々高し。遂に越後在勤の朝命を蒙る。

 二年二月、越後府判事に補し、從五位に敍せられ、治績、頗る擧がる。因つて褒詔を賜ふ。又た木戸孝允(松菊と號す)に、千五百石を賜はる。或る人、曰く、「木戸氏は、吏才に富み、内閣に在りて、勳勞なしと謂ふべからず。然りと雖も、戰場の功烈に至りては、則ち前原氏に企て及ぶべからず。而して恩典、反つて其の上に超越せり。何ぞ顛倒の甚だしきや」と。子明、之を聞きて歎じて曰く、

「今、六百石を辱ふす。我に於て、猶ほ過分とす。妄りに祿の多寡を議するは、志士の屑しとせざる所、臣子たる者の大いに耻づる所、唯だ朝廷の賜ふ所の儘のみ。況んや又た天鑑、斯の不明あらんや

と。子明、痛く其の非言を誡むと云ふ。

 翌月、參議に任じ、從四位に敍せられ、其の冬、兵部大輔に累進す。甞て烝官・某、子明に請ひて曰く、「小官等、軍制の令案を稟する毎に、執事、輒ち謂ふ、『謹んで熟閲熟慮すべし』と。案を留むる、數日に渉る者あり、此の如くんば、恐らくは實施、其の機を失はん。苟くも小官等の議定する所の者、固より遺漏ある事なし。願はくは爾後、即日に認可し、之を署せよ」と。子明、曰く、

「否、一誠、誤つて此の大任を汚すも、居常兢々、未だ曾て一日も、身、陪臣たるを忘れず。夫れ朝令は、萬民の休戚向背の繋る所なり。是を以て之を議する者、宜しく百思千慮すべし。汝も、亦た陪臣たり。其の智、未だ必ず俄かに舊に十倍すと謂ふべからず。汝、其れ少しく猛省せよ」

と。是より省中、子明を忌憚する者あるに至ると云ふ。‥‥

 翌(四)年二月、藩主(毛利敬親。忠正公)、一誠の勞苦を謝し、親から禮服、及び其の曾て詠ずる所の和歌を扇に書し、之を賜ふ。其の歌に曰く、

世の人は といへかくいへ 君がため 盡す誠は 神ぞ知るべき

と。時に井上某(馨。世外と號す)、東京に歸り、山口藩主の命と稱し、子明に謂ひて曰く、「西陲に、天下を盗む賊あり。藩主、憂慮、措かず。子、速かに國に還り、藩政の改革を爲すべし」と。是に於て子明、遽かに兵部大輔を固辭す。廣澤兵助(眞臣。障嶽と號す)、之を聞き、大いに憤怒し、木戸某を詈つて曰く、「我が藩主、決して前原を召さず。汝、井上をして之を欺かしむ」と。聲色、共に勵し、坐に在る者、之を聞き、各々危懼し、手に汗を握らざるは莫し。然るに「功名の下、久しく居るべからず」と、子明、東京を去り、大阪に下り、天保山に到るの途中、突然、刺客ありて、害を加へんとす。又た萩に歸るの後、夜に乘じ、砲六丸を、其の室内に放つ者あり。皆な幸ひに免がる。時に廣澤兵助、東京九段坂に暗殺せらる。子明、曰く、

「異なるかな。廣澤の刺さるゝと、余が室に發砲する者あると、井上某が馬關に着船すると、同夜・同刻なり」

と。子明、常に歎じて曰く、「廣澤は、國家の大臣たり。之を殺すの隱賊を探知せず。國家の典刑、何に由つて立たん」と。木戸某は、子明の叔父・栗原良藏(盛功)の妹を娶る。初め子明、木戸某と友情、最も厚し。然るに廣澤遭難以來、疎隔、互ひに相仇視するに至れりと云ふ。

 六年、西郷隆盛、職を辭して、薩摩に在るや、子明、之を憂ひ、書を三條右府に上る。其の略に曰く、

「大久保利通(甲東と號す)の寛大、副島種臣(蒼海と號す)の學識、廣澤兵助の吏務、和衷調羹、以て大政を翼贊す。則ち廟堂、其の人に乏しからずと爲す。然りと雖も隆盛の名望、遙かに三氏の右に出づ。若し速かに之を復せざれば、則ち隆盛勇退の譽れ、天下に高く、而して朝廷、賢を失ふの毀り、起らん。果して之を採用せば、薩長相共に調和し、草莽間の紛議も、亦た隨つて解けん」

と。書、上るに及び、右府、乃ち之を納れ、直ちに使節を遣はすに至る。而して子明、屡々召さるも、終ひに起たず。謂(おも)ふに其の持論、毎に廟議に相諧はざるを以てなり。子明、陶然、常に漁舟に棹さし、以て娯しむ。人、或は言ふ、「英雄、首を囘らせば、即ち神仙とは、子明の謂ひなり」と。然れども子明、憂國の志、未だ甞て少しも忘れず。子明、沈黜寡言、故に其の參議に在るや、人、稱して「無言參議」とす。一日、大義、下る。子明、乃ち進んで曰く、「宜しく大いに海軍を張大にすべし。宜しく北海道を開拓し、北門の鎖鑰を嚴重にすべし。宜しく姦臣某氏を免默すべし」と。人、皆な謂ふ、「無言、反つて能く謂ふ、猶ほ丙吉の、牛喘を問ふが如し」と。
  ↓↓↓↓↓
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/shimizuseitaro.htm



 愚案、『松菊木戸公傳』を編みし碧峰妻木忠太翁に、『前原一誠傳』(昭和九年十月・積文館刊)あるも、前原家は、妻木傳は木戸寄りとして不快と爲し、妻木に傳記を依頼せしを悔いたりと傳へたり(始め靜宇安藤紀一翁に依頼するも、高齡にて斷念すと云ふ)。

 明治初年の政亂に、刺客あり、密偵あり。是れ、聖明を覆ふ、一大痛恨事と云ふ可し矣。其の虚實、分明ならずと雖も、南白(江藤新平)・默宇・南洲の三參議、相尋いで之に斃る。亦た一大悲劇と謂はざる可からざる也而已。嗚呼、三參議、自ら賊名を甘んずと雖も、國家の爲めに隱沒して、猶ほ悔いざる者と謂ふべきか。而して之を隱祕に顯して、其の千古の丹心を、滿天下に表はさんと欲する者、果して誰ぞや。有志に期して、之を俟つと云ふ爾。
 

  • [26]
  • 日本は、天皇の國なり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年10月28日(水)20時14分4秒
  • 編集済
  • 返信
 
●靜宇安藤紀一翁『前原一誠年譜』(昭和四年三月述。田村貞雄氏校注・平成十五年四月・マツノ書店刊──清水鶴陰翁『前原一誠傳』明治三十年四月・寶文舘刊、他の覆刻を附す)の抄

天保五甲午年三月二十日。長門國萩土原馬場丁の家に生る。

安政四丁巳年・二十四歳。‥‥始めて吉田矩方(松陰先生)の門に入る。‥‥
 時に松下村塾に、高杉春風[晉作]・久坂通武[玄瑞、後に義助と改稱す]あり。一誠、之と共に高弟たり。塾中、三人を評して、「久坂は防長第一の逸材、高杉は膽略絶世の士、佐世(前原)は隱然たる南郡の一敵國なり」と稱せりと云ふ。

安政六已未年・二十六歳。藩命によりて、西洋學研究の爲に、長崎に赴く。

元治元甲子年・三十一歳。‥‥八月四日より六日まで、長藩兵、英佛米蘭の軍艦と、下關に戰ふ。‥‥一誠、この戰爭に感ずる所ありて後、兵學を村田藏六(大村益次郎永敏)に質す。
 時に村田は、兵學教授を命ぜられて、山口に在り。一誠のために、祕訣を盡して之を授く。他日、一誠の戰績、こゝに根ざすと云ふ。

明治元戊辰年・三十五歳。‥‥六月、一誠、北越征討總督府參謀に任ずるの朝命を受く。‥‥
○一誠の友人・清水門彌(清太郎讓吉、鶴陰と號す)の著『前原一誠(傳)』に、明治元年、北越の役を記して云く、「(七月、長岡城、遂に賊將・河合繼之助の手に復奪せらる。官軍、勢、幾んど沮む。子明(一誠の字)、憤慨、奮つて奇兵を指揮し、血戰、又た城を復す。亂賊、亦た隨つて悉く平らぐ。抑も)子明の兵を用ゐるや、毎に一にして十に當たらざるは莫し。此の役や、我が長と薩と兩藩相約し、聯隊進撃す。薩將・村田新八等、子明の軍配に非ざれば、合從することを肯ぜず。子明の人望、是に於て愈々高し云々」。
 蓋し一誠の、此の役に於ける功績は、其の一生中、最大の功績にして、假令ひ其の晩節を以て全からずとすとも、それによりて此の功を沒することを得ざるものなり。

明治二已巳年・三十六歳。二月十八日、從五位に敍せられ、越後府判事に任ぜらる。當時、判事といへるは、なほ知事といふが如し。‥‥七月八日、四位に敍せられ、參議に任ぜらる。‥‥十二月二日、兵部大輔に任ぜらる。大村益次郎の後を繼ぎて、任ぜられたるなり。大村の兇刃に殪るゝや、兵部大輔の職、重任たるを以て、閣臣等、一時、之が人選に苦しめり。一人あり、大山綱良を薦む。綱良は、薩摩の人なり。西郷隆盛、之を斥けて、獨り前原一誠を推せりといふ。

明治三庚午年・三十七歳。‥‥九月一日、辭職の請願、許さる。

明治八乙亥年・四十二歳。二月八日、杉民治(修道、學圃と號す。松陰先生の令兄)、訪ね來る。置酒、疎闊の情を話す。予(一誠)、終ひに醉ふ。吏に怒り、世を罵る。民治も亦た興に乘り、胸中の祕を發せり。

明治九丙子年・四十三歳。‥‥十月二十八日、一誠、書を裁して、縣令に贈り、事を擧ぐることを告げ、又た山口の兵營・徳山の有志者にも、書を發す。是の時、路を山陰に取りて、上京することに決議す。

十一月五日、‥‥
 始め余(一誠)が、政府と方針を異にするは、第一、地租改定の事なり。曩に品川彌二郎、余に『國法汎論』を示す。之を讀むに、政事の基本、國土・國民の二つに別る。余、之を抛ちて曰く、政府、もし之に倣はゞ、吾、二十年來の[ママ]、王土・王民の基礎を變更せざるべからず。抑々大本を改むるは、聖主、自ら之を行ひ給ふも、猶ほ諫奏すべし。況んや姦才無恥の俗吏の、敢て爲すべきことに非ざるをや。王土を破りて、國土と爲す。此れを尊王と謂ふべけんや。余は斷じて之を賊となさんのみ。初め余をして、此の如き世界に化するを知らしめば、豈に天下に先だち維新を首唱し、汗馬の勞に服せんや。假令ひ世は氣運に從ひ千變萬化するも、已に聖撰を辱ふし、廟謨に參ずるもの、勉めて人事を盡し、我が大基本を保守せざるべからず。藤田彪(東湖先生)、言へるあり、「我が朝制、古へより唐に倣ふも、放伐と禪讓とは取らざるなり」と。今や、百度、歐米の文明に倣ふも、宜しく我が短を捨て、彼の長を取るべし。然るに我が寶祚の尊き、國體の重き、彼輩の夢にも見ざる所、之を奈何ぞ彼に代へんや。是れ、一誠が諫死を期する一なり。‥‥
 第三、要路肉食の者、各々私黨を樹て、甲乙意見を異にす。是を以て廟議、矛盾するもの多し。毎に宸襟を惱ませり。甚だしきは動もすれば、聖天子をして彌縫の勞を執らしむ。君臣の分、安くに在るや。是れ一誠が諫死を期する三なり。‥‥
 第六、昔、神功皇后の三韓を征し給ひ、豐太閤の又た之を繼ぐや、共に皆な其の不逞を責むるに在り。此れを無名の師と謂ふは、彼、自ら唱ふるのみ。孰れか復た之を許さんや。江藤新平の斃るゝ所以、西郷隆盛の退く所以、みな茲に在り。然るを朝廷恩貸、若し彼をして獨立國たらしめば、則ち清國、之を鯨呑せんと欲するなり。魯、之を鷲攫せんと欲すむるなり。其の勢、將に戰を開かんとす。乃ち兩國來りて、道を我が對馬・壹岐に假ることを強請せば、則ち我は齊に事へんか、楚に事へんか、其の處置の困難、言ふべからず。然らずんば魯、之を護らんか、清、之を援けんか、朝鮮羽翼、已に成る。飜覆、常なき國情、固より舊恩を忘れ、我を仇敵視するや、必せり。是れ則ち一屬國を失ひて、三敵國を得るなり。王師、當に問罪一討して、彼を我が版圖に復せしめ、然る後に徐ろに萬國公法を正すべし。是れ一誠が諫死を期する六なり。‥‥

十二月三日、‥‥
 一誠、『家庭に遺囑する書』中、左の條々あり。
「病ひに死するも、刃に死するも、死は同じ事なり。我は、忠義に死すると思ひつめ候ふ。人も奸吏も、我等を賊となりとも、盗となりとも、云はゞいへ。心は、誠に清く潔く候ふまゝ、天地神明へ對し、天皇樣へ對し、聊かはづかしき心これなく候ふ。我等、死に候ふとも、少しも御悔みなきやう、偏へに祈り候ふ。‥‥」

 一誠の事を擧ぐるや、木戸孝允・伊藤博文・井上馨、三人の罪ありとして、之を數(せ)め、之を斬らんことを乞ふの疏を草し、出京して之を闕下に上らんとせしが、一敗、地に塗れて、上疏文は、之を上るに及ばざりきと云ふ。

 一誠、『遺書』中、「思ひのまゝ」と題して、書けるものあり。左の如し。
  「思ひのまゝ」
一、‥‥
一、國體を明かにし、君職を審かにし、士を養ひ民を愛し、内、近代の賢主の政跡を繹ね、外、妖賊動靜の状情を索むるのみ而已。
一、西のかた交を朝鮮・支那に絶ち、北のかた樺太を魯夷に失ふ。
一、大臣、上に和せず、萬民、下に怨む。
一、賢才有能の人に非ずと雖も、善く上に媚び、及び下を損し上を益する者は、登用するを得ざる無し。
一、普天率土は、王土・王民なり。之を撫育すれば、何ぞ外夷の教を待たん。
一、日本者、天皇國也。外夷、我が皇國を以て、或は帝國とし、或は王國に置くこと、何ぞ其れ無禮の甚だしきや。我が皇國、小と雖も、天地の中央に位し、天子、萬世一統、君臣の大義、萬國に超絶し、秋毫も亦た外國の輕侮を受くるの理なし。官吏の彼に心醉し、彼に落膽する所以のものは、唯だ器械・功利の末のみ耳。
一、神州、今日の勢、眞に貧弱といふべし。而して彼と華美奢侈の風を爭ひ、以て文明開化とす。必竟、官吏、憂國の心なき故なり。
一、文明開化は、眞に公平無事の道となすといはゞ、彼、何故に萬里の波濤を凌ぎ、其の國の自然を非として、己の國の作爲を是とし、且つ軍備を嚴にし、功利を爭ひ、奇器浮功を製作し、以て之を眩惑し、親子、遠方に離別して、日夜、孜々勉強、息まざるや也乎。要するに文明開化、公平無事の謂ひにあらざるなり。
一、先づ朝鮮を取り、根據の地と爲し、臺灣を以て出城となし、支那を奪ひ、以て歐州各國を鎭壓し、亞細亞全州を統轄するの長策を立て、以て皇國の國是と定むべき事。
一、外夷と交るは、只だ使節の往來を以て本とし、物品交易に至りては、有無相通ずるも、只だ缺缼を補足するのみ耳。
一、各國、皆な國體有り。外國交の道に與るは、國體を重んずるより、大なるものなし。國體を忘れ、只だ便を取る、是れ眞に夷狄の道なり。
一、君主專制は、眞に帝王の道也。君民同治(英國流の立憲君主制か)、共和政治(佛蘭西の革命民主制か)に至りては、則ち是れ夷狄の道なり。
一、‥‥

  後記

明治二十二己丑年二月十一日、帝國憲法發布せられたるに由り、大赦令出で、一誠、生前の罪を追赦せられて、賊名を除かる。其の六月二十四日、東京に於て、一誠の知友の顯官に在るもの、相謀りて、一誠の靈を祭る。‥‥

大正五丙辰年三月十一日、特旨を以て、一誠に、從四位を贈らる。



 愚案、嗚呼、松陰吉田先生の遺志、全く默宇前原彦太郎源一誠翁に存すと謂ふ可し。先生、翁を評して、直勇大智、誠實、人に過ぐと云へり。信なる哉。松門の駿傑、多士濟々なりと雖も、座を同じうして觀る可からず。玉木韓峰(文之進正韞)大人、默宇翁の出雲に囚はるを聞き、大息して曰く、「萩の正氣、既に殲きたり」(『西南記傳』)と、自ら先塋に到り、徐ろに腹を剖きて終る(十一月六日)を以て、其の微意、知る可きなり。又た清水鶴陰翁『前原一誠傳』を披けば、松陰・秋湖・東行三先生を紹ぐ者、實は默宇翁なるを知る可し矣。

 默宇翁、松陰先生の骨髓を傳へたり。「日本は、天皇の國なり」と。夫れ天下は、上御一人の天下なるは、天壤無窮の神敕に因りて、炳焉として定まりたるもの、人間の破られざる定理なり。此の一大事、自ら保守と稱する者、外道蟹這文字の説に惑はされて分明ならず、遂に國體を紊亂するに至る。嗚呼、悲しいかな哉。

【吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1665

 誰か云ふ、承久の亂、と。天子の御計劃に、「亂」とは、抑々何たる謂ひなるぞ。大義名分の古學、一字も忽せにすべからず。

 下りて、又た云はざる可からず。先般、肥後の鈴木田舜護主、拔群の運動ありて、熊本市をして、呼稱「神風連の亂」を、遂に「神風連の變」と改めしめたり(「敬神黨の變」なら、更に宜しかる可し)。然らば、「萩の亂」も、亦た「萩の變」と改む可きは、理の當然當行なり矣。期して俟つと云爾。默宇翁蹶起の日、備中處士、謹みて書す。
 

  • [25]
  • 皇都を慕ひ奉る熱誠。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月31日(金)23時12分47秒
  • 編集済
  • 返信
 
~承前~

●有馬正義先生『再び平安城を過ぐるの記』(安政三年十一月二十四日。久保田收博士『有馬正義先生遺文』所收。日本學叢書第十卷『志士遺文集』昭和十四年五月・雄山閣刊を參照)

 夫れ險を設け城郭を修むるは、國を守る所以の具にして、王者の忽せにせざる所ろ也。故に古今の帝王、皆な險要の守り、城郭の固め有り。神武天皇の大和橿原に城きたまひ、崇神天皇の大和瑞城に城きたまひ、天智天皇の近江滋賀に城きたまふの類、、是れ也。然れども我が先王、之を有ちて、恃みて存を爲す(險に頼る)所以には非ざる也。故に曰く、「徳に在りて、險に非ず」(『史記』呉起傳)と。蓋し君臣、情義(我が君臣の關係は、義は君臣、情は父子)有り、上下、名分を正しうし、賢を任じ能を使ひ、有功を賞し、有罪を討ち、祭祀を尊崇し(神意を奉戴隨順する、即ち祭であり政である)、以て民に敬(崎門學・埀加神道の本領は、敬の一字に在り)を教へ、武を尚び、以て朝威を振ふは、守國(國家存立)の根本爲る所以ん也。夫れ先生、徳光照明、威靈、宇宙を覆ひたまふ。而して名賢英雄、(大伴)道臣・(將軍)大彦・(藤原)鎌足の如きは、徳、其の君に協ひ、王事に勤勞し(『左傳』僖公二十五年條に、「勤王」の文字あり)、以て赫々の業を成し、不庭を攘ひ(王命を以て、王庭に來朝せざるを討つ也)、國家を安んずる所以ん也。

 平安城の地爲るや也、陰(北)に負(そむ)きて、陽に面す。土肥え水冽(きよ)く、山河襟帶(『日本紀略』延暦十三年十一月八日の詔)、實に皇城の地爲り。是を以て桓武天皇、都を遷したまひてより以來(このかた)、未だ嘗て移易有らず矣。然りと雖も其の本を修めずして、徒らに險要を之れ恃まば、則ち亦た以て國を守る能はざる也。故に保元・和承より以遷(このかた)、亂賊、寇亂を爲す。元弘・建武に至りては、則ち車駕、屡々叡山に幸しまたひ、皇業、遂に吉野に偏安せり。嗚呼、國家を有つ者は、其れ焉れを念はざる可けんや乎。

 弘化(元年)甲辰の冬、武麻呂(有馬先生)、平安城に至り、鴨川の東・櫻木街に寓舍す。明年乙巳の春、竊かに宸極の餘光を仰拜す(龍顔を拜し奉る)。其の翌年丙午の春正月、天皇、崩じたまふ[仁孝天皇と稱し奉る]。涕泣悲哭、豈に言ふに勝へんや乎。其の後ち郷に歸るや、今上天皇、即位しまたふ。武麻呂、草野遠僻に有りと雖も、竊かに朝廷を仰奉し、君父を忠敬し、名教を維持するの志、未だ嘗て一日として忘懷する能はざる者、既に二十餘年なり焉(有馬正義先生『自敍傳』に曰く、「弘化二年乙巳の春二月、京に參ゐ上り、梅田源二郎(望楠軒講主・雲濱先生、是れ也)と、殊に交り深し。此の年の冬、新甞祭に行て、竊かに仁孝天皇を奉拜りき。涕泗、交々至りて禁ずるあたはず。其が後ち藩國に歸り、平常に大義を明かにし、名分を正すを以て志とす」と)。

 今年、安政(三年)丙辰の冬十一月、再び平安城を過ぐ。東山の秀景、鴨川の清流、其の他山色雲物、固より昔日に異ならず。而も人情世態、日に移り月に換る。慨然として鄙懷を動かして、宮城の前に至り、謹みて姓名を述べ、伏服敬拜(「今高山」と稱せられし有馬正義先生の本領、觀る可き也)し、仰いで宮殿を望みまつれば、則ち其の制造は、昔日と殊異なり矣[昔日、宮殿、皆な小板を以て、之を葺く。安政(元年)甲寅十一月、宮殿炎上す。是を以て幕府、之を修造するに、瓦を以て之を葺く也]。大息憂歎、何ぞ言ふに堪へんや乎。涙を埀れて、伏見に歸る(宮殿に瓦を用ふるは、不敬の極なり矣。前囘の寛政二年の御修營は、白河樂翁、自ら任に當り、寛平の舊には復さゞるも、故實を調べ、入札も一番高價のものに落し、上京して監督指揮するや、床几に腰を掛けず、往古の盛に復し奉つた。然し今は‥‥。伊勢に於いて佛寺を瓦葺と稱し、寺院の文字さへも忌嫌うて用ゐざるに、今囘、瓦にて葺くが如き御待遇をうけさせたまふとは、痛憤の至極なる可し。固より皇都は、天子の座します、皇國の根本樞要の大御地なり。今日、東京に對する人々の思ひは、單なる大都會として、文明の利器・享樂の機關としか考へぬやうだが、此の變化は、即ち國民人心の變化を示して餘す所が無い)。

 嗚呼、祖宗、忠孝を以て皇基を建て、文武を以て士民を振興したまふ。威靈、衆宇を照らし、徳澤、天下に周ねし。寶祚無窮の神敕、凛々乎として萬古に照徹し、皇統一種、綿々として天壤とともに易らず矣。不幸にして異端妖教、之を前に擾亂し、陋儒曲學、之を後に昏塞す。尋いで歌學、柔惰婬弱の習ひ竝び起りて、忠孝の道、明かならず、揆文尚武の俗、振はず、廟謨、遠略の慮り無く、群卿百僚、勢位に狃れ、偸惰に安んじ、奮ひて特に挺起し、以て天下、義烈勇武の氣を激昂せしむる無し。是を以て皇道、日に陵遲し、風俗、墜敗す。保元・治承より以遷、名分淆亂して、亂賊、武を接し、覇者竝び起りて、政權、遂に武臣に移れり矣。能く名分大義の嚴、得て犯す可からざるも、亦た得て易ふ可からざるの實を辨明して、力を皇室に竭し、思義、偉然として千古に卓越せる者、楠公正成、一人のみ而已。然るより以還、衆宇(天下)、永く武人の有と爲り、永く厥(そ)の初めに復らず、四維(禮義廉恥)、既に張らず、三綱(君臣・父子・夫婦)、遂に横流す。悲慨憂憤、長太息に勝へざる可けんや也耶。

 然れども竊かに嘗て聞く、今上天皇[諱は統仁]、英邁聰敏、雄略を好み、深く皇室の衰墜を憂ひ、慨然、祖宗の舊業を振興したまふの志有り。此れ實に千載の一遇、人臣、節を致すの時也。且に方今、醜虜、邊隙を窺□[穴+兪]せんとして、尤も以て臣子の分を盡さゞる可からざる也。故に草野僻遠の士と雖も、苟くも能く至誠以て、朝廷を奉仰し、名分を明かにし、人心を正しうし、天下の義氣を鼓舞し、上、朝廷の威靈に頼り、下、人心固有の實然に因らば、則ち皇道、奚んぞ振起せざる可けんや乎。

 夫れ朝廷を警衞して、國土を鎭め、亂を撥(をさ)めて正に反しまつるは、則ち武臣の節、我が忠敬の誠を盡す所以ん也。丈夫、皇業を振起し、舊昔に還すこと能はずんば、則ち寧ろ天孫の頑民(『書經』に「逋播の民」)爲らんのみ而已矣。然りと雖も惟だ斯の一念、忠義の赤心、炳然として丹の如きの、死して已まざる者、耿々として息滅す可からず矣。感激の餘、聊か之を記し、以て其の志を述ぶと爾か云ふ。(安政三年)冬十一月二十四日、平阿曾牟武麻呂、謹みて記す。



●有馬正義先生『楠公正成手跡の後に書す』(安政四年二月。『有馬正義先生遺文』所收)

 楠公正成、忠誠、日月を貫く。勳、皇室に存し、澤、生民に在り。威、四海に震ひ、名、永世に埀る。天下、家に傳へて、人、之を稱す。其の字畫の世に傳はる者の若きは、多く刻本に見る。而して其の眞蹟、蓋し有ること鮮し矣。一日、我が藩士某、和田仲太夫の家に藏する所の「公、和田左衞門尉に與ふる書」を携へ、來りて予に示す。蓋し仲太夫は、則ち和田正遠の支屬と云ふ。

 嗟乎、予や也、髫(てう。幼年)にして『太平記』を讀み、竊かに公の人と爲りを欽望して、今に至るまで、殆んど二十餘年なり焉。始め其の手澤の、公、節に死し、五百有餘年の後に遺れるを見るを獲たり。豈に平生の一大快事に非ざらんや哉。抑も當時、朝廷、公に委任するに、相將の職を以てし、君臣道合、則ち豈に數々車駕、叡山に幸したまひ、皇業、吉野に偏安して、尚ほ何ぞ異日、武臣の國柄を竊み、威權を擅にし、名教振はず、皇道淪墜の禍を貽さんや哉。此れ實に千載、言ふ可からざるの遺憾也。今ま此の手帖を讀み、往事を慨想し、凄然として感有り、潛然として涙下る。因つて其の後に書すること、此の如し。

 昔、人の、名家の法帖を得る有る者、尚ほ之を寶重珍藏せり。矧んや忠臣義士の英烈の餘澤をや哉。則ち其の寶藏して之を崇敬する所以の者は、宜しく何如すべき也。後の觀る者、其れ亦た之を念へ。丁巳春二月。



●有馬正義先生『淫祠を除くの説』(安政五年五月。同上)

 夫れ人の生るは、氣を天地に受け、體を父母に承くなり。固より天地・父母と、同氣一體にして、間隔有ること無し矣。故に敬天崇祖は、則ち人道の當然にして、天質自然の實、得て已む容からざる者也。古昔、神聖、其の已む容からざるの實に因つて、政教を設け、祭祀を崇尊し、以て人事を盡し、綱常を明かにし、以て天心を奉じ、祭政唯一、而して人の、本に報じ始めに反りて、忠孝の誠を致さしむ所以の者は、實に親切著明と謂ひつ可し矣。世降りて、道明かならず、胡佛西來して、妄誕妖説、日に一日より甚だし矣。天を誣ひ神を慢り、遂に本地の説を作り、我が國神の名を假り、冒すに佛名を以てして、民を導き淫祠を奉じ、以て俗を惑はす。是を以て神佛溷雜して、天下の諸社、往々佛寺有らざる無く、亦た佛事有らざる無し。

 夫れ赫々たる神明、胡佛臭腐の名を蒙り、其の神靈、憤罵排毀して容さゞざる也、必なり矣。故に天下の神社は、正さゞる可からざる也。而して淫祠の愚民を惑はすは、徒らに福を祈り幸を徼(もと)むるのみ而已ならず、國用を縻(すりへら)し、人心を傷つけ、遂に斯民をして、不忠不義の域に陷らしむるに至れり矣。欽明天皇の英斷は、乃ち佛像經論を以て、難波の堀江に投げ、伽藍を燒きたまふ。實に千古の一大快事と謂ふ可し。其の後、天智天皇・平城天皇は、巫覡妖言の、愚民を惑はし、淫祀を増すを嚴禁(斷)し、秦造河勝の常世神を禁じ、藤原高房の妖巫を捕へ、之を誅したまふ。其れ祖宗の正道を維持し、綱常を掲明する者も、亦た天地に功有りと謂ひつ可し矣。然るに深患、未だ除かずして、妖説、再び熾んに、餘焔、天下に偏ねし。後白河天皇の至尊を以て、鴨川の水と山法師と、制す可からざるの歎を發せたまふに至れり。其の國家の害爲る、實に洪水・夷狄・猛獸の禍より酷なり矣。

 嗚呼、浮屠は、固より天地の罪人にして、王法の必ず誅したまふ所にして、淫祠の民心を蠱惑するは、嚴しく之が禁を爲して、速かに除く可からざらんや也。千有餘年にして、織田公起りて、深く胡佛の猖獗を惡み、寺院を燒き佛黨を誅す。不幸にして其の志、未だ遂げず、身、先に弑さる。此れ、誠に惜しむ可き也。然らば則ち方今、將に之を如何せんとす。亦た政教を正し、祖宗の道を推明し、民をして神を尊び祖を重んずるの義を知らしめ、徳澤、上下に浴して、後ち號を廢し令を施し、民の浮屠に入るを禁じ、寺院を破壞して、悉く其の書を燒き、天下の神社を正し、其の神靈を安んじ奉らんのみ而已。若し或は竊かに淫祠を奉じ、妖説を造る者有らば、則ち以て造言亂民の刑に處すれば、則ち異教の禍は、得て絶つ可し矣。苟くも然らば、則ち天下、忠孝の心、係屬する所ろ有りて、國本、完く固うして、正道、天下に行はれ、國家、振起するに庶幾からん矣。嗚呼、國家を憂ふる者は、其れ焉れを念ぜざる可けんや乎。因つて之が説を爲(つく)ると云ふ。

 戊午五月、林家文會席上、正義、拜。
 

  • [24]
  • 海南に、有馬正義先生あり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月27日(月)22時45分34秒
  • 編集済
  • 返信
 
~承前~

●傳記作製委員會編『甕江川田剛』(昭和四十四年十二月・遺徳顯彰會刊)に曰く、

「川田甕江と三島中洲に相違するところは、中洲に『中洲詩稿』第一・第二、『中洲文稿』第一・第二・第三・第四集があるのに、甕江には出版された詩稿・文稿は皆無である。甕江歿後、詩稿の出版豫定であつたが、長女琴の希望によつて木版上梓を計劃し、清書は出來たが、費用その他の事情により實現しなかつた。宮内廳圖書寮に、現在保管中とのことである。中洲は九十歳の長壽に惠まれ、中洲會といふやうな顯彰團體を持つ幸運に惠まれたが、甕江にはさういふ死後の榮がない。甕江を顯彰する團體はなく、遺稿の出版も、今日まで行はれぬ。中洲銅像は、現在二松學舍校庭にあるが、甕江にはさういふ記念の像の建立されたものはない。駒込吉祥寺庭前に、甕江の碑がある。三島中洲撰文、明治三十一年の建立に成るものである」と。



●川田甕江博士『薩摩九烈士遺跡表』(京都伏見・寺田屋邸前)

 大丈夫、事を擧ぐる、必ずしも身に其の功を收めず、後人をして繼ぎ起り、以て吾が志を成さしむれば、則ち元(かしら)を喪ひ□[月+豆。くび]を斷つとも、亦た憾むところなし。何ぞや。志、天下國家に在りて、一身のために計るに非ざるが故なり。往時、幕府、政を失ひ、内訌外侮、衆心乖離す。識者、皆な師を起し罪を問ひ、以て王權を復するの急務たるを知る。然るに之を士大夫に告ぐれば、則ち曰く、「時機、未だ至らず」と。之を侯伯に告ぐれば、則ち曰く、「時機、未だ至らず」と。乃ち之を公卿縉紳にに告ぐれば、亦た曰く、「時機、未だ至らず」と。嗚呼、坐して時機を待つこと、日、復た一日、孰れか能く身を挺して難を發かん。

 是に於て薩摩九烈士、同志を糾合し、奮つて兵を擧げんとす。有司、請止すとも聽かず。格鬪して、命を伏見・逆旅寺田屋に殞す。世、或は其の徒らに死して殊功なきを惜みて、一死、以て海内士氣を鼓動せしを知らず。是れ、其の素志たるや、他日、五條に、生野に、天王山に、豪傑、踵いで起り、百折不撓、薩長の諸藩、亦た師を出し、王に勤み、中興の大業を成し、果して其の豫期するところに違はず。死する者に知ること有らば、應に地下に笑を含むべきなり。烈士とは、誰をか爲す。曰く有馬新七、曰く田中謂助、曰く橋口傳藏、曰く柴山愛次郎、曰く弟子丸龍助、曰く橋口壯介、曰く西田直五郎、曰く森山五左衞門、曰く山本四郎なり、と。其の死は、實に文久(二年)壬戌四月二十三日なり。

 今ま茲に(明治二十七年)甲午、三十三囘忌辰、伏見の人、追慕して祭を修め、銅表を、寺田屋遺趾に建てんとし、文を余に請ふ。余、甞て宇治平等院を過ぎ、源三位が故跡、所謂る扇芝なる者を弔ひ、低徊して去ること能はず。蓋し壽永中、平氏專横にして、頼朝・義仲等、兵を擧げ討伐して、以て之を亡す。然れども三位、首偶し、難を發くに非ずんば、安んぞ能く遽かに偉勳を奏することを得んや。此の地、宇治を距たること咫尺にして、九烈士の事、又た相類す。故に余、筆を揮つて大書し、其の功烈を表す。後人、此を過ぎ、亦た必ず低徊して、去ること能はざらん。

 正四位勳四等文學博士・川田剛、撰す。




贈從四位・有馬新七(武麿)平正義先生の哥

──(安政四年)丁巳正月元日、早に起きいでて禮服を着し、平安城、并びに故國の方を拜して
東路に 年は迎へつ しかあれど 都の春に かへしてしがも

──東郷ぬしが、平安城を拜(をろがめ)るといへるを
大君の すくなる御代と いく度も 仰ぎ々ゞて 忘れめや君

東人 いかにやいかに 大君の しらせますべき 御代としらずや
梓弓 いるや武士 大君の 御代にはなどか かへらざらめや
箱根山 さかしき路も 大君の 御心思へば 安くぞ有りける
此身こそ 露と散るとも なき魂は 永く朝廷邊(みかどべ) 守り奉らむ
掛て仰く 神の幸(さきく)に 大君の 御代を八千代と 常磐堅磐に
荒びなす 醜の醜臣 打拂ひ 肇國しらす 御代に復へさむ
露のまも 忘れがたなき 大君の 御代の榮えを 祈りつ我れは
大君の 憂き御心は よそにのみ かくて見つつも 忍ぶ可きかは

──都にてよめる
よしや身は いづこの土に なりぬとも 魂は都に とゞめ置かまし
都地に 千代のすみかの やどしめむ よしやいづこに 身は捨つるとも

君臣の 道を亂りて 大君を しまにはぶりし たぶれ北條

──花の盛になりしこと、主上御心惱し給ひぬと聞く物から
ことめでし 花の盛も 雲の上の 御こゝろ思へば たぬしくもなし

──有馬十次郎に與ふ
あづさゆみ はる立つ風に 大君の みよひきかへす 時は來にけり

鳴神の 持てる斧我れ 得てしがも 醜の醜臣 うちてし止まむ
外國も 承服(まつろ)ひ奉れ 大君の 御稜威の光り 徹るかぎりは



■有馬正義先生『神風解』(安政四年五月十五日。久保田收博士『有馬正義先生遺文』昭和四十五年三月・藝林會刊に所收)

 人と天地と、同一氣・同一體なること、猶ほ魚の水中に有るがごとし。相流通して間隔無し矣。是を以て吾が心、正しければ、則ち天地の心も、亦た正し矣。吾が氣、順なれば、則ち天地の心も、亦た順なり矣。其の天地の化育を贊成輔相する所以の者は、正、此れを以て也。故に精誠の至る、以て天地を動かす可く、以て鬼神を感ぜしむ可し。

 神武天皇、鵝瑞を得たまひ、崇神天皇、夢祥に依つて大物主を祭りたまひ、息長足姫尊、夢祥に依つて三韓を征ちたまふの類の如きは、殊に其の著はれる者也。弘安年中、胡元、嘗て無禮を我に加ふ。北條時宗、斷然として其の使を戮し、諸將をして兵を發し之を討たしむ。龜山天皇、萬乘の尊を以て、身を國難に代らむことを祈りたまへり。其の精誠、神明を貫き人心に徹す。是を以て將士、敢死奮戰して、億兆が精誠の萃まる所、能く大風を起し、虜を海上に殲す。世、傳へて以て神風と爲す。豈に其れ偶然ならんや乎。

 夫れ神明也る者は、天地の精靈、往きて在らざる所ろ無し焉。而して人も亦た天地の正氣の凝聚して成る所の者也。苟くも精祷孚誠なれば、豈に其の感應無かるべけんや乎。愚夫愚婦の精誠も、猶ほ天地鬼神を感ぜしむる者有り。況んや億兆一心、精誠の萃まる所に於いてをや乎。然るに或は弘安の事を以て、妄傳と爲し、風、偶々起れるのみ耳と謂ふ。豈に以て感應の理を知るに足らんや乎。其の之を信ずる者は、徒らに神風を以て依頼と爲して、人事を盡さず。是も亦た惑ひの甚だしき者也。曰く、「然らば則ち醜虜の邊隙を窺□[穴+兪]すれば、將に神風の起らんとするか乎」と。曰く、「人事を脩めずして、專ら神明に依頼しまつりて、其の感應を期すこと、豈に是の理有らんや乎」と。

 曰く、「然らば則ち將に如何して可ならんか乎」と。亦た曰く、「人事を盡し、祖宗を敬祭しまつる、是れ也。何をか、『人事を盡す』と謂ふ。敵情を審かにし、敵勢を料り、天下の利害を觀て、進取の緩急を識り、彼れ以て先とす可く、此れ以て後とす可く、次第に之を收めて、一として其の機に適せざる無くして、後に人事を盡すと言ふ可し。故に其の術を得れば、則ち事變日異と雖も、沛然として之に應じて、天下、指揮して定まる可し矣。苟くも其の術を失へば、則ち紛々たる戰爭と雖も、進退、據る無く、卒ひに敗亡の禍を免れざる也。抑も醜虜、我を朶頤せんと欲す。其の志、固より小ならず矣。而して其の機を隱し、乃ち請ふに、通市和親を以てす。其の譎詐機術、變恠百出、而して我れ譎詐機術を以て、之に應ぜんと欲するは、此れ所謂る智を以て智を攻め、詐を以て詐を攻むる也。豈に其の萬全を保せんや乎。孰れか正を以て智を攻め、義を以て詐を撃つに若かん。故に大義を明かにし、人心を正しうするは、當今の尤も當に先とすべき所ろ也。苟くも大義明かなれば、則ち名分正し。上、幕府・天下・國主・城主より、以下、士・庶人に至るまで、億兆一心、同に朝廷を奉じ、力を竭し忠を盡し、士氣確然として振起して、朝野、常に凛々として、虜陣に有るが如き也。所謂る之を死地に置くものにして、后ち生るゝ者は、而して後ち義を倡へ罪を聲にし、機に臨み變に應じ、彼を征伐すれば、則ち彼の譎詐機術、施す所ろ無く、之に當れば則ち破り、之に觸るれば則ち靡き、鋒刃、未だ交へずして、彼の術、已に乖けり矣。亦た奚ぞ苟且因循、徒らに通市好親を、之れ請はんや乎」と。

 「其の『祖宗を敬祭す』とは、何ぞや也」と。曰く、「我が祖宗の靈也。夫れ「出入、必ず告げ、事有らば、必ず告ぐ」者は、人子の常也。況んや我が祖宗の精靈に於いてをや乎。古より國家に事有らば、天社・國社に奉幣するは、固より朝廷の典禮と爲したまへり。豈に敬祭せざる可けんや乎。夫れ人事を盡し、天下億兆と共に、天祖・天神に奉事し、其の誠を致し其の誠を盡し、國家の安康を祈り、億兆、異物と見ずして、同に天祖・天孫を崇敬しまつる。向ふ所ろ一定、皆な誠精を國家に竭すは、固より天地當然の道にして、民彜自然の實、容(まさ)に已むべからざる者也。此れ名分の明かに、上下の心志、定まりて移らざる所以の本也。然れば神明の冥護は、獨り神風のみ而已ならざる也。或は雷霓も、或は刀劒・弓矢も、亦た神明の精靈の寓する所ろ也。然らば之を要するに、亦た人事當然の實を盡すのみ耳。人事盡して後ち、神明の感應、得て頼む可き也」と。因つて『神風解』を作る。

 五月十五日[右、糾合方會(江戸藩邸糾合方の文會に提出)]、平正義、拜稿」と。



●寒林平泉澄博士『有馬正義先生遺文の序』(昭和四十四年十月。同上に所收)

「幕末維新の際、薩藩を代表する英傑としては、西郷・大久保の兩雄を推し、兩雄竝び立たずして、共に倒れたを無限の憾とするが、それ以前に兩雄の先輩として、有馬正義先生あつて、その學問純正、志操確固、理想高邁、氣魄雄渾、ひろく天下の志士の推尊信頼する所となり、しかも藩内の異論の爲に、わづか三十八歳にして殉難し、維新の大業に直接貢獻し得なかつた事は、一層の痛恨事としなければならぬ。‥‥

 薩摩勤王の源流が何處に在り、先駆が誰人であつたか、それは如何なる學問によつて養はれたか、是等の問題は、本書によつて一段と明快なる囘答を得るのみならず、今日、憂國の志をいだく人々にとつて、指針となり、標的となり、激勵となるに違ひない」と。



■有馬正義先生『楠公社に祈る』(文久元年九月四日)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/9
 



  • [23]
  • 天下の傑儒、江戸に藤森弘庵、京都に梅田雲濱。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月23日(木)23時59分38秒
  • 編集済
  • 返信
 
■贈從四位・天山藤森恭助藤原大雅先生の詩

――高山彦九郎の肖像に題す
悲歌慷慨、世、奇に驚く。
報國赤心、人、知らず。
一死、猶ほ能く返顧無し。
嗚呼、彦九、是れ男兒。

──櫻を詠ず
牡丹の濃艶は、明皇(唐の玄宗)に寵せらるゝも、
早く胡塵に、國香を汚されたり。
萬古、依然たり、天上の種、
我が櫻は、眞個に是れ花王なり。


──屬□の作(天山先生、病ひ革まるの時、戎夷の群行を聞き、口占する所なり。或は絶筆と云ふ)
叱々々、又た叱々々、
汝は、西洋之犬羊なり。
胡ぞ爲めに我が内地を横行す、
叱々。



 梅田雲濱先生と竝び稱せられし傑儒に、藤森天山先生あり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/22

 此の天山先生の遺命に依りて、其の墓表を書きしは、我が備中國の川田甕江翁なりき。而して此の甕江翁こそ、即ち『高山仲繩祀堂記』を筆して、高山赤城先生の本志を、滿天下に顯し得たる、明治御宇の碩儒なるべし矣。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/14



●宮中顧問官從三位・甕江川田城之助藤原剛博士『天山藤森先生墓表』(天山翁の遺命に依りて作る也。傳記作製委員會編『甕江川田剛』昭和四十四年十二月・遺徳顯彰會刊に所收。蓋し誤植も有らんか。愚が試讀、誤り無きを保證せざる也)

 安政(五年)戊午、黨人の獄興り、公卿大夫より以て士庶人に迄るまで、株連蔓延、罪を獲る者、數十百人なり。而して吾が天山先生、焉れに與かれり。是の時に當つて、權臣、政を專らにし、正義の者を忌むこと、寇讐、啻ならず。先生一代の名儒を以て、言論文章、人心を鼓動せしむるに足れば、其の惡む所の爲ること、尤も甚だし。酷吏、風を承け、鍛錬羅織、處するに重刑を以てせんと欲す。而るに事、絲毫の實無ければ、乃ち言語を指摘して、時文を誹謗せりと爲し、以て之を逐ふ。居ること數年、權臣斃れ、黨禁弛む。先生、特に赦されて歸り、家に病臥す。人、皆な謂ふ、「進用せらるに、日有り」と。而るに遂に起たず。悲しいかな夫。

 先生、諱は大雅、字は淳風、姓は藤森氏、通稱は恭助、弘菴と號し、晩に天山と更む。江戸の人なり。其の先、信州諏訪神祠・大祝より出づ。五世の祖、諱・岑興は、撃劍を善くするを以て、笠間城主井上侯に仕へ、曾祖、諱・良整は、公子に傅たり。公子、出でて酒井氏を嗣ぐに及び、家を長子に傳へ、以て隨ふ。子孫、分れて仕へ、各々其の祿を襲へり。祖は諱・良武。父・諱・義正は、酒井氏を去り、更に小野邑主・一柳侯に仕ふ。母は堀越氏なり。先生、少くして學を好み、志操を磨勵す。下位に在りと雖も、天下の憂ひを忘れず。甫め弱冠、父の後を承け、右筆と爲り、世子の侍讀を兼ぬ。世子、嗣ぎて立つ。事を論じて權貴を件(わか)ち、致仕して去る。會々年、穀、登らず、物價騰踊す。先生、孥累數口、家に擔石の儲へ無し。而して舌耕筆芸、講讀、懈らず、意、晏如たり也。

 天保(五年)甲午、土浦侯、延いて賓師と爲し、委ぬるに學政を以てし、旋(ま)た兼ねて郡務を治め、文教を興し、吏弊を革む。功效、漸く見はる。然るに先生、寄寓、事を用ゐるを以て、俗士、喜ばず。流言沸起、乃ち病を謝して去る。侯、其の舊勞を思ひ、廩三人を給せり。弘化(四年)丁未、家を江戸に移し、結を聚め教授す。弟子、益々進む。侯伯、贄を執つて道を問ひ、諸藩の執政、往々就いて國事を詢る者有り。嘉永(六年)癸丑、墨夷、軍艦を遣はし、來りて互市を乞ふ。有司、疑懼し、頗る其の凌壓する所と爲る。先生、憤激して、『海防備論』二卷を著はす。既にして水府の烈公、旨有り。時務を建白す。先生、『芻言』六卷を著はし、之を上る。議論明快、當時の弊に切なり。公、焉れを嘉獎す。是の時に當り、先生の名、海内に播(あが)れり。大國、或は祿を厚うして之を招く者有るも、固辭して就かず。人、其の故を問ふ。曰く、「吾、二君に事ふることを欲せず」と。公、聞いて益々之を賢とし、乃ち廩十人を給す。疑ふ所ろ有れば、人をして就いて問はしむ焉。世、以て優遇と爲せり。

 寛政(十一年)己未三月十一日を以て生れ、文久(二年)壬戌十月八日を以て歿す。享年六十有四。是の月十三日、淺布曹溪寺の先塋の次に葬る。

 先生、博覽洽聞、書に於いて窺はざる所ろ無し。然れども訓詁に屑屑たらず、特に以て氣節文章を以て、自ら許す。嘗て曰く、「士は、不平、志を當時に得ざれば、則ち宜しく言を立て、不朽に傳ふべし。若し夫れ一身の存歿、世に輕重せらる所ろ無きも、取るに足らざる也」と。初め寛政三博士、古文壤滅の日に起り、韓・柳・歐・蘇を推尚し、以て□[言+爰。けん]園の餘習(荻生徂徠學派)を嬌む。而して碧海柴氏(柴野栗山先生の男)・豐山長野氏、實に其の傳を承く。先生、豐山氏に師事し、碧海・穀堂・□[人+同]庵が諸賢の間に周旋し、益々講求して精を加へり焉。故を以て其の文、法度に嚴にして、語言流暢、氣格淵雅、蓋し唐宋大家の旨を得、詩も亦た唐宋に參酌し、其の長を兼取せり。寄託深遠、欝として古色有り。尤も五言の古風に妙なり。又た筆札を善くし、晩に田野に隱居す。聲價、益々重く、四方の士、識ると識らざると、風を聞き欽慕し、爭ひて其の門に趨く。先生、坦夷して之を待ち、文を論ひ筆を吮し、言笑唖々、終日、倦まず。人、其の雅量に服せり。然り而して中心、確乎として拔く可からざるの節有り。

 是より先、先生、獄に下り、物議淘々、禍、不測に在り。先生、泰然として動かずして曰く、「吾れ范滂と、偕に地下に游ぶを得んも、亦た一快ならん矣。且つ死生、命有り。吾れ將に命に委ね、以て天定の日を待たん」と。嗚呼、先生の言、耳に在ること、猶ほ昨日のごとし。而して今は則ち世局一變、黨人、赦されて歸り、嚮に事を用ふるの者、封を削られ秩を奪はれ、貶黜、殆んど盡く。豈に所謂る天定なる者に非ざらんや耶。然れば則ち先生の遭際、一浮一沈、以て世運の隆替を徴するに足る者有らん。其の跡、固より宜しく太史氏に録せしむべし。況んや文章、世に傳はり朽ちざる者在るをや焉。尚ほ何ぞ剛(翁の名)が輩の表章を待たん。但だ世の先生を稱ふる者、或は訛傳、實を失へり。故に剛、遺命に從ひ、略ぼ其の行實を撮し、以て墓上に掲ぐと云ふ。

 先生、先に池田氏を娶り、後に三阪氏を娶る。三男・一女あり。長を遜と曰ひ、後を承く。次を連と曰ひ、出でて尾江川氏を嗣ぐ。竝に幕府に仕ふ。次を健と曰ひ、早く亡す。女は前園氏に適く。著はす所、『弘菴文集』・『春雨樓詩集』及び『雜録』若干卷有り。吉備・川田剛、拜撰。



 愚案、甕江翁には、『贈正一位・楠木公銅像記を造る』てふ、「岳武穆の曰く、「文臣は錢を愛まず、武臣は死を惜しまざれば、天下、平かなり矣」と。邦俗の忠勇、武臣は死を惜しむこと、萬に此の事無し。文臣の錢を愛しむか與、否かは、則ち得て知る可からず。況んや市人をや乎」から始まる名文あり。今日、宮城外苑(皇居前廣場)に聳立する楠公銅像の記文、即ち是である。

 其の郷國の師は、方谷山田老翁であつて、其の主、幕府老中首座・備中松山藩主・松叟板倉伊賀守源勝靜侯(實は白河樂翁侯の孫なり。晩年、上野東照宮祠官)をして、謹愼待罪、出處進退を誤らざらしめたる、此の老翁にも、亦た楠公論あり。師弟ともに「名を正し義を明かにする、是れ男子」(方谷翁の詩)の本懷と爲し、殊に甕江翁は、後年、此の烈々たる志を基本とし、大史家として立ち、頼山陽外史に對して、大論陣を張るに至るのである(『復古記』・『殉難録稿』の編纂。『日本外史辨誤』の著作)。甕江翁は、明治の文宗として、重野成齋・三島中洲(兩者ともに功利に陷り、疑問の人物たるを疑はざるを得ぬ)と共に、文章家として天下に雷名を轟かす(藻洲牧野謙次郎翁『日本漢學史』)も、其の本領は、考證精確、氣節奇古の博士であつた。
  ↓↓↓↓↓
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/455.html?cat=34



●贈正五位・山田方谷翁『楠中將論』・『楠公七生傳の序』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/14



●川田順翁『吉野紀行』(『枯草録』所收。歌人の順翁は、甕江翁の遺子なり)

「先考・甕江の遺著の中に、『楠氏考』と題した一卷がある。明治十六年、吉川半七刊で、「楠」と「楠木」と、いづれが正しきか、單姓・複姓の兩説を批判し、複姓が正しと結論したものである。が、以後の版に、「楠木」と書くことに決まつたらしい。青年の僕は、先考藏書の蟲干を手傳ひながら、此の一卷を讀み、吉野時代への關心を、漸く深めるに至つた。主として和歌の上から研究に入つたこと勿論で、兩鬢に霜をまじえた頃から執筆し、支那事變最中に、『吉野朝の悲歌』として完成した」と。
  ↓↓↓↓↓
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780505
 

  • [22]
  • 天下の木鐸――望楠軒講主・梅田雲濱先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月 1日(水)22時06分21秒
  • 編集済
  • 返信
 
 贈正四位・望楠軒講主・雲濱梅田源二郎源定明先生の曰く、『歌書には、『新葉集』をば、常に繰返して見よ。此の書に入りたるは、皆な南朝の方々の御歌なれば、忘れても疊に下(おろ)すな』(山田登美子刀自『一夕話』。安政大獄の受難同志中、最も早く逮捕せられたが、時に雲濱先生は病床に在り、豫期してゐたものゝ如く從容として床を拂ひ、髮を梳り衣服を更めて縛に就かれた。先生の家には、『新葉和歌集』一册と『春秋左氏傳』五六册の外には無かつたと傳はる)と。

 遠湖内田周平先生の曰く、「雲濱先生は、學者にして又た志士であります。君子にして豪傑を兼ねて居られます。吉田松陰・橋本左内(景岳)も志士であり豪傑でありますが、學者たり君子たる點に於ては、とても先生に及ぶことは出來ませぬ。私は、斯く論定致します」と。
  ↓↓↓↓↓
一、http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1638
○雲濱先生『詩』二首・『歌』一首・『三寺君の鎭西に之(ゆ)くを送る序』・『三宅高幸に贈る』・『兒島高徳の墨蹟の後に題す』・『久坂玄瑞を送る序』
○遠湖先生『梅田雲濱手札の後序』・『雲濱先生遺稿竝傳の序』・『雲濱先生勤王の大勳』
○諸家(三上是庵・吉田松陰・森田節齋・有馬正義・西郷隆盛)

 寒林平泉澄先生の曰く、「雲濱に於いて問題となるのは、その學問であつて、私行ではない。井伊が嫌惡し、恐怖するのは、雲濱の學問が、山崎闇齋の思想を、その最も純粹精鋭なる中核に於いて保持し、繼承し來つた點に在つた」(闇齋――絅齋――強齋‥‥雲濱)と。
  ↓↓↓↓↓
二、http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1639
○高瀬惺軒博士『梅田雲濱』
○山田登美子刀自『一夕話』
○平泉寒林博士『首丘の人――大西郷』
○久坂秋湖先生『古人を追懷す』詩并びに引
○福羽美靜翁の哥『雲濱翁を追悼して』
○富岡鐵齋翁の詩『明治三十年十一月、雲濱梅田先生頌徳碑を建つと聞き、賦して奠に代ふ』

三、http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/33
○遠湖先生『崎門の學風』

 紹宇近藤啓吾先生の曰く、「夫れ學とは、人爲るの道を學ぶのみ耳。人爲るの道を學ぶとは、道を敬はざる可からず。道を敬ふとは、古人を尚ばざる可からず。古人を尚ぶとは、古人の心を以て心と爲し、古人の辛苦を以て自ら期さゞる可からず。是れ、我れ常に(雲濱)先生に學ぶ所ろ也」と。
  ↓↓↓↓↓
四、http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/22
○紹宇先生『山田孺人の書す所の梅田雲濱先生夫妻の和歌に跋す』・『「梅田雲濱遺稿竝びに傳」の後に書す』

五、下記の如し。



●雲濱先生の哥(田中卓博士編『維新の歌――幕末維新志士の絶唱』昭和四十九年五月・日本教文社刊から)

――故郷にかへりて
かへりきて 草のみ我を 知りがほに こぼれるかゝれる 露のふるさと

おもひきや 風のたよりに まつ山を こえてあだ波 たちぬべしとは
あらし山 花のさかりは 知らねども はなのこゝろは 忘れざりけり
櫻さく 花の浮世を したに見て 心高くも なくひばりかな

――大神宮、天くだり給ふをよみて
五十鈴川 たえぬ流を 汲みてしる ふかくもねがふ 天照す神

――青蓮院宮に謁し奉りし時、よめる
天の戸を おしあけがたの 雲間より てらす日影の くもらずもがな

――述懷
あし田鶴の 蘆間(あしま)がくれに 身をかくし 雲におもひの 音(ね)をのみぞなく

たとへ身は いづくの里に くらすとも 赤き心は いかでおとらむ
仇しのゝ 醜(しこ)の草原 わけかねて 露と消え行く 身を如何にせん

――下野の那須の原をすぐるとて
世の中に 我はなにをか なす原の なすとはなしに 年やへぬべき

――士
大君の 御召しありなば 武士(ものゝふ)よ 疾(とく)馳せまゐり 奉るべし

――民
數ならぬ 寶は寶 ならずして 國の寶は 萬民草



●雲濱先生『藤森弘庵(恭助・別號天山)に與ふ』(安政元年二月二日)

「先日、御拜借の書籍、讀みおはり候ふに付き、御返納申し上げ候ふ。次に兼ねて希望致し居り候ふ『英國國法理論』、今明日丈け御貸與相成り度く、此の遣はしの者に御渡し下され度く、願ひ上げ候ふ。頓首。

 二月二日。美土代丁・柳田方、梅田源次郎、拜。
 新■丁、藤森弘庵先生、机下。

 兼ねて御教示の歌道、朝夕、心懸け居り候得共、愚昧淺智の迂生、頃日は一首も出ず。唯だ昨夜半、夢の裡に、

君か代を 思ふ心の 一すちに 吾身ありとも 思はさりけり

の睡言にて、夢をやぶり候ふ。御笑ひを乞ふ」と。

(山田登美子刀自『一夕話』に曰く、「一年、藤森恭助といふ人、江戸より上り來つて、叔父君(雲濱先生)とともに、西本願寺に詣で、門跡に見ゆ。‥‥この時、赤根武人などいふ書生ども、次の間にて語りけるは、『只今ま天下の豪傑には、江戸に藤森弘庵、京都に梅田雲濱なり』と。其の聲の耳に入りしこそ、己れも嬉しかりしか」と。)



●雲濱先生『伊知地季靖・西郷隆盛に與ふ』(安政五年某月二十九日)

「伊知地樣・西郷樣
 晴雨、一ならず候ふ。愈々御清適、賀し奉り候ふ。陳れば、日々御周旋と察し奉り候ふ。

 陽明(近衞)家へ御手を廻され候ふや。彼の御家中、大夫始め、皆な愚物のよし。老女に、村岡(贈從四位・津崎矩子刀自)と申す婆々、之れ有り。此の人物、欲は甚だ深く候得共、理非の能く分り候ふ器量者にて、女丈夫也。陽明家の清少納言と申し候ふ。此の者の申す事をば、左府(近衞左大臣忠煕)公、能く御聞き遊ばされ候うて、御從ひのよし。是れへ何にとか御手を廻され候へば、貴意、能く通り申す可く候ふ。粟田(青蓮院宮)家より承り候ふ間、此の段、御通じ申し上げ候ふ。

 下拙も、今に平臥罷り在り候ふ。御序でに御入來下され候へば、大慶。外にも御内話申し度き事、之れ有り。申し候ふ。頓首不一。

 二十九日
 二白。本文、極々密事に候ふ」と。



●雲濱先生『三宅定太郎(高幸、號瓦全・樂哉)に與ふ』

「日を追うて凌ぎ能く相成り申し候ふ。愈々御清適、幸甚、々々。

 偖ては十七日、尊(兒島高徳公の裔・西浦三宅辰藏高哲)大人、御出發の節、一書を呈し候ふ。書中に申し上げ候ふ『高徳君畫像』、寫しを爲り候ふ間、差出し候ふ。花房嚴雄、貴兄の節義に感じ、自寫し申し上げ候ふ。同人の所藏は、原圖、之れ有り。備前・河本の由。其の子孫と申す事にて、深く祕し、他見を許さゞる趣き也。足下、御愛藏成さる可く候ふ。先づは是のみ。不乙。

 七月十七日、梅田源二郎
 三宅定太郎樣

 尊大人、只今は御恙が無く御歸郷と存じ候ふ。宣布。以上」と。



●椿水福本義亮翁『久坂玄瑞全集』(平成四年二月訂正版・マツノ書刊)の「逸事逸話」に曰く、

○「若州小濱の志士・梅田源次郎(雲濱先生)なる者あり。長州志士と往來して、時事を談ず[久坂・赤川・中村、既に京師にあり。續いて山縣・伊藤等六人、京状偵察のため派遣せらる。時に安政五年夏なりき]。梅田が、或は幕府の間諜たらんかと疑ひ(愚案、雲濱先生の主筋は、小濱藩酒井家なるに因りしか歟)、久坂は祇園町に出入して、遊治郎を氣取つて、更に士氣なきを粧ひ、以て梅田の態度、如何を試みたる事あり。久坂の名は遊里に高く、其の俗歌を誦する事、極めて妙なり。由來、久坂は、漢詩の吟聲を以て名あり。一夜、久坂・山縣・伊藤・梅田等と相携へて、祇園を過ぐ。放吟の調音、絶妙なるため、四方に囂びすかりし祇園青樓管弦の音は、一時に靜まり、長州の久坂が通行すとて、校書紅裙、皆な出でて之を聞く。梅田は久坂の袖を控へて、大聲罵つて曰く、

『懦夫の墮落、何ぞ此に至る。天下の氣運、今ま急にして、國家の安危、知るべからず。長藩の名を涜すの賊子は、爾ならずや』

と。久坂、更に答へず、聞かざる爲態して、高聲放吟して行く。他の同士、梅田に諭すに、久坂の共に語るに足らざるを以てす。後ち數旬を經て、某所に長州の志士會す。時に梅田源次郎、亦た到る。山縣は、試みに時勢に對する梅田の意見を叩けば、梅田は、袴をくろげ襟を正し刀を擁して、慨然、語つて曰く、

『言ふも畏れ多き事乍ら、余は京師の附近に在るが故に、皇邊の状態を審かにす。陛下直隷の公卿は、其の貢米輕くして、衣食の料に乏しきため、極めて賤卑なる業を營んで、其の状、頗る憐れむに堪へたり。此の如くして、胡すれぞ、皇室の尊嚴を保たんや。以て知るべし、皇室をして此の乏しきものあるを、之を彼の驕侈横暴、幕府の全盛に比すれば、抑も如何の感かある。幕府をして此の全盛を極めしめ、皇室をして此の乏しきに泣かしむる、是れ、天が我等をして起たしむるの氣運にあらざるなきか。外夷の皇國に迫るは、彼れの禍にあらず。禍は、是れ内にあり。氛妖を拂はんと欲す、快刀、今ま志士の腰にあらずや』

と。論鋒激烈にして、口舌、極めて爽快、一座、覺えず手を打つて、天下の志士を得たりとなす。是れより久坂は言を正して、始めて梅田と、慷慨、談を語る。彼我親密にして、來往日々、論議、日を新たにして、大いに活氣を添へ來れるを見る」(『防長遺芳』)と。

○「久坂玄瑞と雲濱とは、意氣投合、肝膽相許して居た。久坂が如何に雲濱の人物に傾倒し、其の議論に共鳴したる乎は、彼の遺吟「平安雜詩」を讀めば、之が首肯出來る。

曾て雲濱に陪し、涼棚に醉ふ。
膝を撃ち、詩を□[口+金]じ、金石鳴く。
今夜、遊人、凄惻に苦しむ。
一川、寒水、月明生ず。

と、山縣公が、久坂の紹介に由りて始めて雲濱に會し、同志と共に、鴨涯の涼棚に坐して、酒を酌み詩を賦し、慷慨悲歌、時事を痛論したるは、此の時であつたが、久坂が還藩の時に、雲濱が「送序」を出來して居る。

『久坂玄瑞を送る序』
 安政五年七月、蠻夷、江戸に至り、盟を請ふ。朝廷、可したまはず。幕府の大吏、之を許す。朝廷、使を遣はし之を責め、且つ之を諸侯に質したまふ。雲濱子の曰く、我れ今の諸侯、其の必ず能無きを知る也。今の諸侯は、大率ね童心無知、財竭き武弛む。一旦、天下に事有れば、只だ其の自國の立たざるを恐る。又た奚ぞ天朝を奉じ、外寇を憂ふるに暇あらんや哉。[中略]久坂玄瑞は、長州の人也。京師に來り予を訪ふ。予、之を拉して、酒林の間に酌む。酒酣にして、玄瑞、詩を唱ふ。其の聲、□[金+將]然、金石の如く、樹木、皆な振ふ。玄瑞、京師に在り、意を失ひ留まるを得ず焉。予、其の志を憐れみ、其の去るに當つて也、姑らく、皇威の必ず古に復りて、終ひに地に墮ちざるを言ひ、以て其の氣を壯んにす。

と。山縣公等、歸藩の後ち未だ幾らもならず、幕府の黨獄を起すや、雲濱は尊攘黨の領袖たるを以て、首として其の逮捕する所となり、江戸の獄中に病歿した。是れ實に安政六年己未九月十四日であつたが、當時、久坂が雲濱を弔したる詩に、左の一篇がある。

要港(大坂灣)、上國(京都)を控(ひ)く、豈に黠虜(露奴)の窺ふを容(ゆる)さんや。
夷舶の闖入するに方りて、妻(夫人・信子刀自)は病み、兒(繁太郎)は飢ゑに叫ぶ。
大劍、起つて募に應ず、國難、安ぞ遲疑せん。
賊遁れ、志、乃ち躓き、詞賦、鬼神悲しむ。
嗟(あゝ)、公(雲濱先生)は囹圄に斃れ、頽厦、孰(たれ)か能く支へん。
則ち囹圄に斃ると雖も、忠魂、皇基を護る」(『公爵山縣有朋傳』)と。
 

  • [21]
  • 平泉澄先生の先哲遺文講義。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 3月28日(木)22時34分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
○寒林子・平泉澄先生『遺詠』

白山の 神乃志るしの 杉の木能 直ぐ奈る道を 行かむとぞ思ふ

  白山 平泉澄 九十才



■□■ 平泉澄先生『青々塾御講義目録』――青々塾藏版 ■□■

●花園天皇『宸記』
●後醍醐天皇『敕制軍法』
●明治天皇『宸翰』
●北畠親房公 『被贈結城』・『神皇正統記』
●山崎闇齋先生『責沈文』・『拘幽操』・『敬齋箴序』・『有賀氏字序』
●淺見絅齋先生『劔術筆記』・『靖獻遺言竝講義』・『忠孝類説――免受兄弟』
●遊佐木齋先生『神儒問答』
●谷秦山先生『炳丹録序』・『又答宮地介直之抄』・『與中村恒亨書』・『與宮地介直――辛卯』・『與中村恒亨――辛巳』・『私講□[片+旁]諭――癸酉』・『與美代重本』・『書元亨釋書王臣傳論後』・『上澁川先生――甲戌』・『與野中繼善――丁卯』・『又答宮地介直――壬辰』・『跋私本靖獻遺言』・『保建大記打聞』・『跋拘幽操』・『書西山遺事後』・『與井澤長秀――甲午代松下長敬』
●佐藤直方『冬至文』
●栗山潛鋒先生『保建大記』
●若林強齋先生『祭廣木忠信文』・『答梅津某問目』
●谷川士清先生『神道學則日本魂』
●野々宮定基卿『記』
●竹内羞齋先生『奉公心得書』
●山縣柳莊『柳子新論――正名第一』・『同――得一第二』・『同――人文第三』・『同――大體第四』・『同――守業第十』・『同――利害第二』・『同――富疆第十三』
●橋本景岳先生『贈太田良策序』・『啓發録』・『送參政中根靱負照會書』
●有馬正義先生『與本田某書』・『對藩主建白書』・『送長谷川義卿歸故郷』・『贈□懶兮行平安京序』・『再過平安城記』
●水戸義公『建白書』
●藤田幽谷先生『正名論』
●水戸烈公『贊天堂記』・『弘道舘記』
●會澤憩齋先生『新論』・『及門遺範』・『名和氏紀事序』
●豐田松岡先生『楊椒山全集序』
●藤田東湖先生『古堂記』・『送桑原毅卿之京師序』・『贈楊子長序』・『廸彜篇序』・『與憇齋會先生書』・『與青山雲龍先生序』・『心術不正者不宜預舘職』・『代笠亭記』・『孟軻論』・『楊椒山全集序』・『小梅水哉舍記』・『環翠堂記』・『弘道舘記述義』・『弔菅公文』・『囘天詩史』・『同――邦家隆替非偶然』
●眞木紫灘先生『呈大原左衛門督書』・『道辨』・『大江匡房論』・『楠子論』・『清原頼業論』・『上孝明天皇封事』・『經緯愚説』・『登良山詩』・『信長論』・『片桐且元論』・『山梔窩塾記』・『甲成歌』・『偶成二首』・『何傷録』・『日記――天保甲辰』・『同――弘化丁未』
●平野國臣先生『征寇説』
●山鹿素行先生『武經七書諺義自序』・『中朝事實――皇統章』・『武教本論』・『武教小學』
●吉田松陰先生『松下村塾記』・『與無逸書』・『復浮屠默霖書』・『送赤川淡水遊學常陸序』・『與宮部鼎藏書』・『讀鹽谷文』・『森芳洲先生國王稱號論跋』・『照顔録』・『與赤川淡水書』・『議大義』・『村塾記事』・『贈讀書人』・『評齋藤生文――天下非一人天下説』・『跋足代權太夫書』・『讀莊子』・『示人』・『送小田村士毅役相模序』・『東北遊日記』・『題幽室壁』・『不食河豚説』・『讀白樂天詩』・『與桂小五郎書』・『與來原良三書』・『獄舍問答』・『跋秩祭論』・『讀經濟要録』・『偶記』・『與象山先生書』・『士規七則』・『松下村塾規則』・『武教全書講録』・『講孟箚記――序説』
●高杉東行先生『送田中子復序』・『奉彈正益田君書』・『幽室記』
●西郷南洲先生『獄中有感』
●柴野栗山先生『詩』
●大橋訥菴先生『送肝付毅卿序』・『陳龍川文鈔序』・『讀赤穗義人録』・『闢邪小言序』・『元寇紀略序』・『地球圖序』・『送向井子保歸長崎序』・『書元寇紀略後』・『赤穗義人纂書跋』・『繼述舍記』
●松林飯山先生『伴林光平傳』
●根本羽嶽先生『讀易私記』
●大鹽中齋『答弟子問學名學則』
●安井息軒『與某生論共和政事書』
●平山行藏『實用館讀例』
●松平越中守『願文』
○『禮記――曲禮』
○『論語』
○『中庸』
○『孟子――人有貴於己者弗思耳』
○『史記――公孫列傳』
●韓愈『伯夷頌』
○『祈年祭祝詞』
○『新撰姓氏録序』

(愚・追記)
●荷田東麿先生『創學校啓』
●賀茂眞淵先生『歌意考』
●本居宣長先生『直毘靈』
●平田篤胤先生『講本氣吹□[風+夫]』
●櫻東雄先生『遺書』
●橘曙覽先生『吾欲守節如杉之直』
●二宮尊徳先生『報徳外記』
●虎關師錬『元亨釋書王臣傳』
●菊池家『家憲』
●菊池乙阿迦丸『起請文』
●大智禪師『詩』
○『相見文書』
○『伯耆卷』
●明惠上人『遺訓』
○『梅尾明惠上人傳記』
○『正法眼藏隨聞記――第四』
○『吾妻鏡――文治元年六月十六日』
○『須多因氏講義――フイルモア氏』



 件は、小生が學生徒時代、或る先輩より貸與されて謹寫した所の、戰前に於ける『青々塾御講義目録』(和本・全一卷)である。先哲名の下に記す、「先生」の有無に注目されたい。亦た田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』に、平泉澄先生が、昭和九年より五十五年まで講ぜられた「先哲遺文講義の一覽」が收められてゐる。先生が、何に感動され、何を尊重されたか、眞に貴重な記録であり、後進の標的であらうと信ずる。最近、田中卓博士『平泉史學の神髓』が上梓された。兩書における目次を、こゝに紹介させて戴く。



■田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』(田中卓評論集第二卷。平成十二年十二月・青々企劃刊)

自序

第一部
一、平泉澄博士小傳
二、皇國史觀、何が惡い
三、平泉史學の特色
四、戰時中、皇國美化史觀の國定教科書――曇らされた和氣清麻呂の忠義
五、其事を直書し、誤解を糾さう――荒唐無稽な丸谷發言、その他
六、平泉博士の虚像と實像
七、學徒出陣と平泉澄教授
八、平泉史學における「豚」と「百姓」

第二部
九、終戰前夜の平泉博士――所謂「宮城事件」に關聯して
十、敗戰直後の平泉先生――「八月十九日夜」の記録
十一、黒木博司少佐を弔ふ
十二、『戰爭論』に甦る緒方家の純忠
十三、私の體驗した戰後の記録――近衞公・東條夫人・「一億の號泣」
十四、『少年日本史』と『平泉博士史論抄』
十五、平泉澄先生の神葬祭に參列して

第三部
Ⅰ.平泉澄博士著述・講演目録(稿)
Ⅱ.東京帝國大學における講義題目の一覽
Ⅲ.先哲遺文講義の一覽



■田中卓博士『平泉史學の神髓』(續田中卓著作集第五卷。平成二十四年十二月・國書刊行會刊)

自序

一、平泉澄博士と丙子の亂(二・二六事件)
二、祕録『孔雀記』について
三、平泉博士の「大赦」についての近衞首相への獻言
四、『正學大綱』解説――平泉博士の「戰後復活宣言」
五、大東亞戰爭開戰前の平泉澄博士
六、平泉博士の近衞公への「意見十條」
七、明治天皇の御誓文と宸翰を仰いで――天皇親政の本質を考へる
八、吉田松陰「國體觀」の再評價――川口雅昭氏の「天皇觀」に對する批判を媒介として
九、子弟の契に學ぶ――平泉先生の面影を傳へる名越時正先輩の遺文
 

  • [20]
  • 先皇の餘光を仰ぎ、先哲の遺文を講じ、以て國脈の護持を期さむ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 3月 8日(金)21時46分26秒
  • 編集済
  • 返信
 
 『奉公心得書』に曰く、「大君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則ち之を誅して君に歸すること、吾が國の大義なり。況んや官祿いたゞく人々は、世に云ふ三代相傳の主人などといふ類ひにあらず、神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むる人なれば、其の身は勿論、紙一枚・絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/5
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832



□■□ 相州樣の『先哲遺文に學ぶ』抄 □■□


●竹内羞齋(式部)先生に學ぶ

一、http://sousiu.exblog.jp/17442513/
二、http://sousiu.exblog.jp/17442628/
三、http://sousiu.exblog.jp/17447821/
四、http://sousiu.exblog.jp/17457925/
五、http://sousiu.exblog.jp/17461475/



●山縣栁莊(大貳)先生に學ぶ

一、http://sousiu.exblog.jp/17469127/
二、http://sousiu.exblog.jp/17475657/
三、http://sousiu.exblog.jp/17480074/
四、http://sousiu.exblog.jp/17484809/
五、http://sousiu.exblog.jp/17492855/
六、http://sousiu.exblog.jp/17497588/
七、http://sousiu.exblog.jp/17499454/
八、http://sousiu.exblog.jp/17509033/
九、http://sousiu.exblog.jp/17513768/
十、http://sousiu.exblog.jp/17516600/
十一、http://sousiu.exblog.jp/17519634/
十二、http://sousiu.exblog.jp/17522738/
十三、http://sousiu.exblog.jp/17529010/
十四、http://sousiu.exblog.jp/17529016/
十五、http://sousiu.exblog.jp/17534561/



●大橋訥菴先生に學ぶ

一、http://sousiu.exblog.jp/16722972/
二、http://sousiu.exblog.jp/18560331/
三、http://sousiu.exblog.jp/18566166/
四、http://sousiu.exblog.jp/18581811/
五、http://sousiu.exblog.jp/18591933/
六、http://sousiu.exblog.jp/18596524/
七、http://sousiu.exblog.jp/18601501/
八、http://sousiu.exblog.jp/18608316/
九、http://sousiu.exblog.jp/18673116/
十、http://sousiu.exblog.jp/18687258/
十一、http://sousiu.exblog.jp/18703406/
 

  • [19]
  • 維新の正氣を激發せしめたる、大いなる火。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 7月30日(金)00時42分9秒
  • 編集済
  • 返信
 
●贈正四位・奇兵隊開闢總督・東行高杉晉作源春風先生『田中子復を送る序』(『東行遺稿』卷下。東行先生五十年祭記念會編『東行先生遺文』大正五年五月・民友社刊に所收。白文の試訓なれば、蓋し錯誤あらむ。ご寛恕を乞ふ)に曰く、「

 余の性、疎狂なり。豪邁の士を見れば、則ち喜ぶこと自ら勝へず、肝膽を吐露し、天下の務めを談じ、輕薄の士を見れば、則ち一日も之と坐を同じうするを耻づ。是に於て人、皆な余を以て疎狂生と爲す。或は余を戒めて曰く、「子、疎狂を以て自ら是とす。何ぞ過てること甚だしきや耶」と。余の曰く、「是れ性也。何ぞ求めて之を爲さん。余、常に以爲らく、人と交るに、我が胸中、一毫の耻づ可きもの無ければ、則ち可也、と。故に怒る可くして怒り、默す可くして默す。天地の間、唯だ直なれば、是れ行ふ。何ぞ畏るゝ所ろ之れ有らん」と。其の人、怒りて去る。是に於て人、愈々余を以て疎狂生と爲す。而して余も亦た叨りに人と交ることを欲せざるなり矣。

 既にして茗黌(昌平坂學問所)に入り、二三の良友と交るを得たり矣。田中子復は、久留米藩士也。人と爲り沈豪、書を讀み古を好み、常に天下を患ふ。予の交り最も親し。一日、來りて余に告げて曰く、「吾れ將に天下を跋渉し、後ち遂に郷に歸らんとす。子に一言を頼み、我が行を壯んにせん」と。余、對へて曰く、『吾は輕薄の士の、天下を跋渉するを笑ふ。然れども大いに志し有りて跋渉を爲す者は、則ち余の願ふ所ろ也。今ま夫れ輕薄の士の、天下を跋渉するや也、名山大川を跋み、詩人文士を訪ひ、詩酒に耽り、奇觀を誇るも、唯だ他日の談柄に供するのみ而已。余、固より子復の志、此に在らざるを知れり矣。子復の爲めに、天下の務めを談ぜんことを請ふ。

 夫れ醜虜の、神州を寇するや也、西のかた崎港に入り、東のかた蝦夷島を襲ひ、薪水を需め、人畜を掠め、遂に互市を横濱に闢くに至る。其の猖獗蹂躙、我が國を視ること、猶ほ人無き國のごとし。是れ我れ將に明清の覆轍を踐まんとす。此の時に當り、人臣なる者は、一策を建て、以て國に報いざる可からざる也。余を以て之を觀るに、攘夷の第一策は、則ち天下の人心を一にするに在り。天下の人心、一なれば、則ち百萬の醜虜と雖も、懼るゝに足らず矣。人心、一ならざれば、則ち數十の軍も、懼るゝこと、亦た懼る可し。子、夫の兵法を知るか乎。「強者は進む能はず、弱者は退く能はず、百萬の兵卒、進退、皆な一なり。故に攻むれば則ち勝ち、守れば則ち堅し」と。戰は皆な然り。而して今日の神州は、最も甚だしと爲す矣。今、天下の諸侯をして心を一にせしむれば、則ち魯英墨の諸戎を東海に鏖(みなごろ)しにすること、必せり矣。若し諸侯をして心を異にせしむれば、則ち禍ひ内外に起り、神州も亦た明人の臺彎・舟山を失ひ、清人の毒烟を受くるが如きこと有らん矣。

 嗚呼、子復、天下を跋渉し、各國の豪傑を訪ひ、之に説くに、此の議論を以てし、國に歸らば、則ち此の議論を以てし、上は以て人君に奏し、下は以て士氣を振へば、則ち豈に其の功、一國に及ぶのみ而已ならんや哉。子復、行け矣。此の行、實に國恩に報いるの第一機會也』と。子復、悦びて曰く、「愉快なり矣」と。臂を振つて去る」と。



●高杉東行先生『幽室記』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/301



●從五位・鹿門岡啓輔千仭翁『尊攘紀事』卷七(明治十五年八月。甘泉堂・博聞社・鳳文館共刊)に曰く、「

 余、高杉晉作と、學を昌平黌に同じうす。晉作、氣宇開闊、苟くも言笑せず。余、其の偉器爲るを知る。癸亥(文久三年)の冬、余、藩邸の教授となる。客を携へて横濱を觀、神奈川の海亭に飲む。一人有り、余が聲を聞いて、出でて見る。即ち晉作也。手を握りて大に笑ひ、歡飲して闊を序す。談、時事に及ぶや、晉作、腕を扼して曰く、「余、近ごろ上海に遊び、髮賊(長髮賊)の、洋人と戰ふを觀る(文久二年夏)に、髮賊は古銃鈍刀を以てし、洋人は旋條銃を以てす。而かも一勝一敗、甚だ相讓らず。今や也、邦人、大艦巨砲に落膽し、歐米、敵す可からずと爲す者は、兵の何物爲るかを知らざる也」と。余、因りて策の出づる所を問ふ。晉作、笑つて言はず。

 後數日、余、家嚴(父)疾むと聞き、急ぎ江戸を發す。途に烈焔の天を□[火+共。こが]すを見る。市人狂走して曰く、「殿山の洋館(文久二年十二月十二日、品川御殿山の英國公使館)火(や)く」と。翌春、松本奎堂を京師に見、始めて知る、「晉作、是の時、神奈川に在りて、横濱を火かんと謀りて成らず、遂に殿山の洋館を火く」と。

 晉作、藩人の三宰を戮して、罪を軍門に請ひ、鋭氣沮喪し、手を束(つか)ねて制を受くるの時に當り、隣彊に奔竄して、僅かに一生を保ち、僅々八十人の兵を以て、義を草木皆兵の餘に唱へ、一たび檄を移して、全國皆兵、遂に藩主を奉じて、國論を定め、□[艸+最]爾たる防長二國を以て、天下の大岳に抗し、戰へば必ず克ち、攻むれば必ず敗り、天下、復た之と強を爭ふ者無し。嗟乎(あゝ)、何ぞ其の雄なるや也。抑も維新の大業は、薩長に成る。而して長人の、義旗を、百城、風を望むの日に飜へすは、實に晉作の、此の擧に由る。其の功、果して如何と爲す。惜しいかな乎、維新の盛を目(み)るに及ばずして、天、之が命を奪へること也」と。

  • [18]
  • 忘れられたる大橋訥菴先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 7月26日(月)21時51分23秒
  • 編集済
  • 返信
 
【訥菴大橋先生遺文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/8



●平泉澄博士『大橋訥菴先生傳の序』(東京帝國大學神道研究室・寺田剛學士『大橋訥菴先生傳』昭和十一年十一月・至文堂刊。再編集改訂版・平成十八年十二月・慧文社刊に所收)に曰く、「

 大橋訥菴先生は、實に悲運なる先哲の一人であつた。幕末波瀾の□[三水+凶]湧、その英圖を沈め、獄裏瘴癘の毒氣、その豪腸を害ひ、志を得ずして寂しく歿せられた事は、今更いふまでもないが、歿後、今に至つて七十餘年、その一代の事蹟、未だ十分に闡明せられず、その超群の學識、尚ほ多く世人の知るところとなつてゐないのは、實に慨歎に堪へない所である。

 予は、夙に先生卓礫の風彩を慕ひ、縷々之について講ずる所あつたが、その傳記の詳細は、之を究めんとして未だ果すを得なかつたのである。しかるに幸にして、この度び寺田學士は、苦心調査して、先生の詳傳を著された。予はその調査研究の始終顛末を熟知してゐるのであるが、資料の存するところ、百里を遠しとせずして必ず究め、書名の傳はるもの、百方捜索して大抵之を求め、その勞苦は尋常でなかつただけに、その成果は、また實に見事なものとなつた。我等は、こゝに初めて先生の詳細正確なる傳記を見るを得るに至つたのである。

 而してかやうに先生の傳の闡明された事は、やがて明治維新の歴史の明かにされる所以であり、明治維新の歴史の明かになる事は、實にまた日本精神の明かになる所以であるから、我等は、今、本書を手にして、深き喜を禁ずる事が出來ないのである。

 昭和十一年十月三十日夜  平泉澄」と。



●平泉澄博士『大橋訥菴先生全集の序』(平泉澄博士・寺田剛學士共編『大橋訥菴先生全集』上卷・菊池家藏版・昭和十三年六月・至文堂刊に所收)に曰く、「

 幕末、國歩艱難の際に現れて、慨然として大義を天下に唱導した幾多の志士の間にあつて、水戸の藤田東湖、越前の橋本景岳、長門の吉田松陰、江戸の大橋訥菴、及び久留米の眞木和泉守の諸先生こそは、その人物識見、一世に卓絶し、予がまさに天下第一等の志士として、推服措く能はざる人物である。

 就中、大橋訥菴先生に於ては、その名、未だ必ずしも世のひろく知る所となつてゐないが、今、予の服する所以の一端を擧ぐるに、先生は甚だしき辛苦窮阨の中に人となり、夜學ぶに油なく、同塾生の好意により、蛤貝に一すくひづゝの贈與を得て、書を照したことさへあると云ふ。その學は、初め精を訓疏辭章に致し、次で陽明學を宗とし、更に朱子學に歸し、遂に純乎たる日本の道を體得されたのであるが、かくの如き永き思想的遍歴は、これを數々道を求むるに切なる先哲に見る所であり、その辛苦困學と併せ考へ、先生の熱烈なる求道遷善の精神を知ることが出來る。予の先生に服する點は、まづこゝに存する。

 而して先生は、多年に亙つて研鑽された道義の學の蘊蓄を傾けて、鋭く時勢を批判し、早くも幕府の存在が、皇國の國體と相容るゝべからざるを看破したが、單にそれのみに止まらず、安政の大獄・櫻田門の變、相繼起してより、流血の慘に脅えて、滔々として公武合體の俗論を誦し、志士一時に逼塞せる時に當り、堂々と王政復古を標榜し、敢然倒幕の義旗を將軍の膝元たる江戸に掲げ、一族門弟を盡してこれに奔走し、遂に躬自ら死して大義を護られた事は、予が推して幕末の志士中第一等に列する所以である。懷ふにこれは、文經武緯の文字をその印章に愛用し、夙に文武一致を唱導し、終生野にあつて清節を全うした、實父・清水赤城の薫陶、甚だ大なりと云ふべきであらう。

 されば予は、かねて先生の英風を慕ひ、數々その遺文について講じ來つたが、先年、寺田學士によつて、その詳細なる傳が著された折、蒐められた先生の遺著・遺文の、何れも極めて珍重すべく、且つ夥しきを見て、ともにこれを編み世に送らんことを企圖してゐた所、幸にも血縁、殊に深き菊池次郎氏の後援を得て、こゝに全集の發刊を見るに到つた事は、限りなき喜である。時、偶々病んで仰臥し、親しく筆を執つて意を盡す能はず、即ち先生を景慕する所以の一端を口授して筆記せしめ、以て序にかへた次第である。

 昭和十三年六月八日夜  平泉澄」と。



 愚案、田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』(平成十二年十二月・青々企劃刊)に、平泉澄先生が、昭和九年より五十五年まで講ぜられた「先哲遺文講義の一覽」が收められてゐる。先生が、何に感動され、何を尊重されたか、眞に貴重な記録であり、後進の標的である。
 其の最期の御講義は、昭和五十五年十月十九日、越前白山神社に於ける崎門祭での、吉田松陰先生『松下村塾規則』竝びに谷秦山先生『私本靖獻遺言に跋す』であつた。而して其の遺文講義は、其の門弟により、青々塾に於いて續けられ、今も拜聽することが出來る。

【青々企劃】
http://websv2.hakushin.ne.jp/~seisei/index.html

  • [17]
  • 渡邊重名翁『馭戎慨言』はしがき。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 6月24日(木)21時21分15秒
  • 返信
 
●豐前國古表八幡神社大宮司・從五位下・樂山渡邊上野介重名翁『(鈴屋大人)馭戎慨言の序』に曰く、「

 天地の中に、八百國・千國と、國はおほけど、吾が皇御國ぞ、よろづの國のおや國・本つ國にして、あだし國々は、皆な末つ國のいやし國になもありける。さるは此の皇御國はしも、ひさかたの、天津神代のいにしへより、玉だすき、掛けまくもあやにかしこき、天照大御神の、御孫命の食す國と、事依さし定め給へる、天津日嗣の、天地のむた、いおとほ長に傳り坐して、神ながら安國と、たひらけくしろしめす、うまこりの、あやに尊き御國にして、もろゝゝの戎夷(から・えみし)の國々の、ひとしたぐひにあらず、はるかすぐれてあればぞかし。

 然あるに三つ栗の中つ代より、言(こと)さへぐ、から國學びの、世にひろごりて、こも枕、高きみじかき、そのからぶみの言よきに、まどはぬ人なく、しづたまき、いやしき戎國(からくに)をしも、眞玉なす、たふとき物に、あがまへ思ふは、いでや、いかなる禍津日の、まがことぞもや。もろゝゝのから國の中に、ほうしがとも、天竺とふ國をしも、あが佛の御國とし、尊みあへれど、そは、さかひはるかにへなりて、古へより、丹生の川、こと通ひし跡もなく、その國籍(くにぶみ)、はた黒髮の、すぢことなれば、殊に世の人の、國の位を思ひあやまる、つひえはしも、聞えざめるを、もろこしの國は、こまの國にならびたる、あしがきの、まぢかき戎にて、古へより、皇國に用ふるもじも、其のもろこしの國もじ、學ぶ書も、其のもろこしの國ぶみにし有りければ、おのづからに、其の國人の心詞(こゝろ・ことば)にしみならひて、皇國人の思ふ、まじき心を思ひて、よしなきそのから國を、みだりにたふとく思ひ、皇國人の、つかふまじき詞をつかひて、よしなきその戎國の事を、みだりにあがまへいふ、ならひとなもなれりける。

 そもゝゝかの國ぶみの言詞にならふとならば、皇國人は、もろこしの事をば、かの國人の、他(あだし)國の事をいへるごとくにいはむこそ、よくならへるには有るべけれ。もろこしの書に、もろこしの事いへる詞は、その國人の詞ぞといふことを、えわきまへずて、皇國人しも、その詞にあしくならひて、昔より、むつびの間の書詞は、さらにもいはず、何となくうちいふ詞にも、かのいやし國を、「大明」よ、「中華」よなど、いひはやし、其の賤しき王をしも、「天子」よ、「皇帝」よなど、いひのぼすなるは、をこなりとも、つたなしとも、いはむかたぞなかりける。さるひがことをのみ、聞きなれ思ひなれたるから、天地のあひだに、てりかゞやくべき、おや國・本つ御國の光は、かへりていやしき末つから國におほはれて、世にあらはれずなも有りける。されどかゝることの心をも、わきまへ知らぬかぎりの者は、いかゞはせむ。儒者(ずさ)などは、さる内外の詞のわきためなどをば、知らずしもあらざめるを、この光をかゝげむ物とは思ひもかけずて、ことさらにみづからおもひ消たむとさへする心は、かへすゞゝゝも、いかなるまがつびの、まが心ぞもや。たとひひとしなみの國ならむにも、己が國をおきて、あだし國をたふとまむは、己が君にはまめならずて、よその君にへつらひつかへ、おのが親をすてゝ、人の親をいつかむが如し。さることわり、あるべき物かは。

 かれ、わが本居大人、としごろ、此のまがことの、さかさまごとを、いたくいきどほりなげかして、雲ゐなす、はるけきいにしへの御代よりはじめて、ちかの嶋、近き文祿・慶長のころ、豐臣大臣の、いみじき御稜威を、かゞやかし給へりしほどまで、こゝとかしことの間に、有りと有りし事ども、かきと書きしふみども、いひといひし詞共の、よさあしさ、又かのもろこしぶみどもの、みだりごと・そらごとの多かるなど、あさぢはら、つばらゝゞゝにあげつらひ、山菅の根の、ねもころゞゝに、わきため定めて、『戎馭(からをさ)めのうれたみ言』と名づけ給へる、此の書よ。まづ『馭戎』とある、うはぶみを見るより、これぞ、この神直日・大直日の神の光と、てりあからびて、雄々しくたけく、たふとくめでたきほどは、あふがるゝを、世の中のひが心えしたるともがら、はた此の二もじを見ても、たちまちに驚き、さとらざらめやは。おのれ、此の大人をば、學びの道のおやとなも、たのみてあれば、親のいさをは、子のさきはひと、よろぎの磯の、よろこぼひ思ふあまりに、子のをぢなきは、親のはぢと、面つゝみ、つゝましき物から、はふつたの、つたなき言の葉をつゞりて、おふけなくはしがきとなもなせる。

 かくいふ時は、寛政二とせといふ年の、夏のはじめころ、豐國の道の口なる、吹出(せきで)の高濱八幡古表社の神主、從五位下・上野介・藤原朝臣重名」と。



【豐前の渡邊神主家】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/255

  • [16]
  • 平田大壑先生學則『童蒙入學門』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月29日(日)00時15分25秒
  • 返信
 
 大壑平田篤胤先生の家塾「氣吹廼舍」は、幕府の爲に秋田へ國替へを命ぜられ後も、佐竹藩邸内に四五人は、絶えず塾生として起居し、食事は必ず一緒であつた。塵一つ、玄關に散らかつてゐたことは無かつたと云ふ。御一新後、嗣子・平田銕胤先生が再興し、可美眞千知大人權田直助翁の名越廼舍も吸收した。其の折に出來たのが、『氣吹舍塾則』であり、從前から入門の素讀に用ゐられたのが、此の『童蒙入學門』である。これは平田家學の定則――「平田先生學則」にして、朱子『童蒙須知』を換骨奪胎したるもの、長く同門必讀の入門書として尊重された。相原修神主の遺編(『伊吹廼舍先生及門人著述集』第三集・奉祝天皇陛下御即位二十年。平成二十一年一月復刻)にも在り、之を喜ぶこと頗る大、こゝに訓讀して、大方の參考に供したい。



●平田銕胤翁『童蒙入學門の序』に曰く、「

 人の學を尚ぶ所の者は、道を明かにするを以て也。學の道を尚ぶ所の者は、變らざるを以て也。道にして變るは、以て道と爲すに足らず。學にして道に明かならざるは、以て學と爲すに足らず。

 夫れ日沒の諸州は、人智、夙く開け、百科の藝、諸般の術、□[行の左+扁。あまね]く講ぜざること莫しと雖も、其の所謂る道は、皆な人作に出づ。故に其の之を學ぶ者は、變轉流移、統紀無し。猶ほ藝術の、奇を探り新を競ひ、以て時好に適するがごとし也。嗚呼、道學の、本を失ふこと、此の如し矣。其の他、又た何をか説かむ。我が日出の國は、人文、晩く成り、藝術、未だ精しからずと雖も、道は天定に出づ。而して其の之を學ぶ者は、道を爲むる所以ん也。

 故れ開闢より以降(このかた)、幾數萬歳の久しき、道は其の常を變ぜず、學は其の本を失はず。然り而して中世、學衰へ道微かに、邪説□[言+皮]行し、天下に盈つ。其の世を惑はし民を誣ふる者、殆んど數百年なり矣。我が先考(大壑平田篤胤大人)、此に憂ふること有り。先聖に因りて以て邪説を闢き、本教に據りて□[言+皮]行を距ぎ、道の將に絶えむとするを繼ぎ、學の既に廢れたるを興し、以て後生に誥ぐ。是に於いて道學の傳、復た世に明かなることを得たり矣。

 此の篇は、乃ち嘗て以て我が家塾に標示する所、而して先聖の道と本教の學との要を記す也。之を小にすれば則ち眠食起居・進退應對の節、之を大にすれば則ち尊皇愛國・敬神崇祖の道、具はらざること莫し焉。其の後ち増訂修補し、以て幼童讀書の階梯と爲す者も、亦た年有り矣。天保辛卯の秋、碧川好尚、同門の士と相議り、又た頗る添削を加へて、家學の定則と爲す。是に於いてか乎、文理正格、言旨謹嚴、簡にして要を得たりと謂ひつ可し矣。乃ち刻して以て天下同志の士に頒つ焉。

 爾れ來り、我が門に入る者は、必ず先づ授くるに此の篇を以てし、之をして道の本づく所、學の據る所を知らしむ。明治戊辰の冬、皇學所、開筵の日、先考の著書成刻の者、五十部八百餘卷を獻ず。而して汎ねく天下に傳播せむことの命を辱うす。此の篇も、亦た其の中に在り焉。而れども未だ其の成る所以を言はざる也。故に今ま之が序を爲りて、以て我が後葉に傳ふと云ふのみ爾。

 明治十二年八月九日  大教正・平田銕胤、謹みて誌し併せて書す。時に年八十一なり」と。



●平田大壑大人校閲・碧川好尚翁等『童蒙入學門』に曰く、「


○敬神の章第一

 凡そ世に生るゝ者は、恆に當に神を尊敬すべし。其の故は何ぞや也。太古より在る所の者は、唯だ神のみ。神有りて、而して物有り。則ち是れ日月・星辰・國土・人類・萬物、悉く神の生ずる所に非ざるは無し。是の故に須らく毎旦拜禮し、而して其の恩頼に酬ひまつらむことを思ふべし也。


○國體の章第二

 夫れ皇國は、神眞の本域、大陽の初出する所、國土の始立する所、固より大地の元首にして、萬法の根據する所ろ爲り也。皇孫、世を嗣ぎて、終古易らず、萬世、一世の如くにして、君臣の大義備はる也。君臣の大義備りて、人倫の道立ち、人倫立ちて、天下安らかなり矣。


○祭祖の章第三

 凡そ祖先の靈神は、善く之に敬事す可し。春秋の祭祀は、怠る可からず也。是れ固より毎旦、必ず拜す可し。神拜の後、之に繼ぐ。況むや考妣に於いてをや乎。養育の恩は、恆に忘る可からず。縱ひ汚穢に觸るゝこと有りと雖も、其の拜禮祭祀は、闕く可からず也。


○淨潔の章第四

 夫れ毎朝起きては、以て盥漱し[楊枝を以て、口内の宿臭を去り盡し、次に巾□[巾+兌]を以て、衣領及び兩袖を遮護し、面上手肱、宜しく仔細に洗ふべし也]、□[髮の上+兵]髮を修め、而して父母長上の安否を問ひ、室堂及び庭内を灑掃し、畢りて神供を備ふ。然して後ち神拜、此に於いて爲す可し也。

 凡そ垢穢を厭ひ、淨潔を欣び、端身嚴莊なる者は、神代の遺風也。今に到りて存すること有りと雖も、神靈を拜するに當りては、則ち殊に須らく謹愼を加ふべし也。


○子弟の章第五

 凡そ君長に事へ、賓客に接し、朋友に對し、及び獨居連進、當に嚴肅整齊にすべし。

 凡そ子弟は、夙に興きて寢具を斂め、身體を整へ、自己の事畢りて、而して後ち盥漱の具、以て長上の使用に備ふ可し也[○凡そ行歩端正にして、疾く走る可からず。君長師父、召すこと有らば、走り前みて其の使用に辨ず可し。緩怠にす可からず也。○凡そ行路、長者に遇はゞ、疾く趨りて禮せよ。○凡そ長者の側に侍るには、必ず身を斂め言を正せよ。問ふ所ろ有らば、則ち必ず誠實に對へよ。言、妄にす可からず。○凡そ危險の地は、臨む可からず。喧爭の家は、近づく可からず。無益の事は、爲す可からず。○夫れ容儀端正なる者は、人の貴ぶ所ろ也。若し寛慢放肆なれば、則ち人の輕賤する所と爲る矣]。

 凡そ出入の者は、必ず神祇及び祖先の靈と、君長父母とに告す。若し遠く行くこと有らば、則ち殊に産土神の靈徳を仰ぐ可し也。

 凡そ子弟謹節の樣、和睦の色、恆に之を看むと欲す。故に余、嘗て宮風の神の令徳を祈る。汝等、之に從はむか歟。温良恭儉讓の風、亦た之を樂しむ可し也。

 凡そ人の不善なる、下、婢僕の違過に至るまで、宜しく且らく包藏すべし也。應に便ち爾く聲らし言ふべからず。當に相告げ語りて、其れをして改過祓除することを知らしむべし也。若し己れ之れ有らば、其の見ゆる所の者は、乃ち洗ひ乃ち補ひ乃ち贖なへ。其の見えざる所の者は、神に向ひ、或は人に對し、其の事宜に依りて、當に謝除すべし。是れ神世の遺範也。

 凡そ寢時到らば、則ち世に居りて、日夜、寢食を安んずることを、神祇及び祖先の靈前に謝し告げて、長上師父の寢を顧み、而して諸般を點檢し[殊に意を火盗に用ひ、兼ねて不虞の備へを爲し、事畢りて、日中の衣を更へよ。是れ乃ち敞皺陋汚せざるが爲め也]、而して後ち敷具を舒めて、枕に著く可し也[寢衣を以て、首を覆ふこと勿れ。手足を散放すること勿れ。將に眠らむとするの間、神を安んじ氣を定め、而して他の妄思を棄て、當に攝生の術を修すべし。若し眠り到らざれば、日中の事を暗復照鑑するも、亦た可也。儻し剛強の弟子有り、寢を用ひず、夜、以て日に繼ぐ者、是れ最も善し矣]。


○食飲の章第六

 夫れ食は、性命を有つの要也。何ぞ妄りに食す可き乎。凡そ膳に向ふ者は、先づ須らく端身正意にして、保食神の功徳を念ひ、而して其の來處來意を察して、功業、必ず之に應ぜむと思ふべし。

 凡そ□[將+酉]水の吸飲、菜肉の咀嚼、食器の放收は、須らく肅然と舒舒すべし。飯羹を散慢す可からず。

 凡そ菜羹は、美惡多少を言ふこと勿れ。有れば則ち食し、無くば則ち止めよ。思索請求す可からず也。

 凡そ飲酒は、亂に及ばざる以て度と爲す。古人、酒過の備へ有り。性、酒を嗜む人は、必ず以て焉れを省みよ。泥醉の醜き、自ら之を戒むるに足らむ矣[凡そ飲食、事了らば、當に洗手漱口すべし]。


○讀書の章第七

 凡そ書を讀む者は、几案を拂拭して、書册を開き、身體を整正にして、氣息を調へ、分明に字を看て之を誦め。音韻の輕重、篇章の斷續、句讀訓點、一も誤ること無く、字字響きの亮なるを要とし、句句意の見るゝを要とす。又た多誦遍數を力めよ。遍數多ければ、則ち口に上りて忘れず也[朱熹の曰く、讀書に三到有り。曰く、心到・眼到・口到、と。心、此に在らざれば、眼、子細を看ず。心・眼、既に專一ならざれば、却つて只々漫浪に誦讀すれば、決して記すること能はず。記すれども、久しきこと能はず也。三到の中、心到、最も急なり。心、既に到矣らば、眼・口、豈に到らざらむ乎。○凡そ人の文字を借りては、皆な簿を置き、諸名を鈔録し、時に及びて取り還せ。窓壁・几案・文字の間、字を書す可からず]。

 凡そ文字を寫さば、須らく子細に原書を看て、字字端楷にして、一點一畫、嚴正分明を要すべし。切りに老草す可からず。

 凡そ書册は、輕忽にす可からず。當に眞神師哺の思ひを爲すべし。古人の曰く、文は貫道の器、と。信に爾り矣。凡そ書籍の撰者は、多くは王公賢哲、浮語戲談の作と雖も、人を教へ俗を化するの意に於いては、則ち未だ必ずしも小補無くはあらず。況むや書中、神祇聖仙の玄懷尊號有り。且つ講讀して以て世を經る者をや乎。蠻夷の書と雖も、既に王廷公府に貢獻する所は、則ち亦た以て國家、世を御し民を導き、神皇の道を徴するの一助に庶からむかも矣哉。抑々梵漢遠西の國字は、各々體を異にすと雖も、吾が神字と古傳籍とに據りて之を按ふれば、則ち吾が眞神の、彼に教へ授けたる所ろ也。故に一切の文字も、亦た輕慢す可からず也。然りと雖も其の書册の如きは、活眼、以て焉れを擇ぶに非ざれば、則ち亦た以て行ふ可からず矣。

 夫れ大道は、神典に存す矣。心を神典に潛めて、道の蘊奧を貫く可し也。古人、言へること有り。天地を以て書籍と爲し、日月を以て證明と爲し(吉田兼倶『唯一神道名法要集』大職冠公の語)、古道を順考して(『日本書紀』皇極天皇紀)、神習す可き(『古事記』應神天皇條)也、と。是に因りて按ふに、外蕃の者と雖も、亦た此の道に據らざること無かる可し也。先づ神典を讀むと欲する者は、漢意を捨て、心を正直にし、吾が古言を明かにして、之を讀誦せよ。讀誦數遍、義理、必ず見ゆ可し也。

 凡そ古道學を□[冒+力。つと]むるの人は、恆に報國の志を懷く矣。昇平の世、干戈を用ゐること無しと雖も、弓馬槍劔の術も、亦た怠る可からず也。是れ則ち皇國の風儀、武備を闕く可からざるを以て也。

 上の件は、人の必ず勤め行ふ可き所の者也。然りと雖も生民、各々其の業を爲す者に至りては、頗る小異無きに非ずと爾か云ふ。


 右、凡て七章。童蒙、當に口誦して、之を身行にすべし。學師大壑先聖は、著書多しと雖も、顯幽の際、人をして能く神習して、其の至處に到らしめむと欲するの外、他無し也。況むや其の切近を書して、以て幼童の學則と爲す者をや乎。此の書、本教の外と雖も、吾が黨の子弟に授けて、以て入學の門戸と爲す也。篤志の君子、夫れ之を了解せよ哉。

   門人・碧川好尚等、謹みて誌す。
 天保二年辛卯九月」と。



●井上頼國博士『氣吹舍塾則』(明治初年。無窮會神習文庫本に據る。小林健三翁『童蒙入學門の研究』――『神道史研究』昭和四十六年に所收。「一、」は愚補に係る)に曰く、「

一、童蒙入學門は學則たり。各々其の旨を守り、勉強あるべき事。

一、御國體を辨へ、祭政一致、萬民御愛撫の御恩頼を考ふべき事。

一、本末内外の分を誤るべからざる事。

一、神慮の廣大なるに習ひ、固我偏僻の私論に渉るまじき事。

一、博く天下の事情に通じ、萬物萬事の大概を知るべき事。

一、日夜、所定の課業を確守し、博く梵漢洋の諸書をも研究して、學才を育ふべき事。

一、學術は勿論、雜事に至るまで、塾長・局長に依頼すべき事。

一、毎朝卯刻に起き、灑掃・盥嗽・神拜・禮節等、終りて机に憑るべく、夜は亥刻を俟ち、諸般を點檢し、火盗に心を用ひ、然して後ち枕につくべき事。

一、塾中、勵精して、學問の成熟を主とし、互ひに兄弟の意を存し、相助け相戒め、和親を失はざるを要し、又た好みて人の非を訐き、相謗るべからず。もし心得ちがひの人あらば、面前に諫むべき事。

一、常に嚴肅整齊を要とし、假初にも寛慢放肆にして、禮義を亂すなど、總て怠惰の所爲あるべからざる事。

一、要用の外、他局に往來し、雜談する事を禁ず。もと他所より來客あらば、別席にて面談あるべし。尤も塾長・塾監の往來は、格別たるべき事。

一、席次は、客席・塾席の差別なく、毎日、所定の階級に順ふべし。但しいまだ試業を經ざるは等外として、末席たるべき事。

一、會席の作法、嚴整なるべし。刻限の析を聞かば、遲刻なく、速かに着座あるべき事。

一、切磋討論は、生徒の常なりといへども、謹身の道を忘れて、高聲劇論すべからざる事。

一、食事は析に應じ、同時にして嚴整なるべき事。

一、衣服・器械等、自他の別を正しくすべき事。

一、塾中、飲酒を禁ずる事。

一、外出は、休業三日の外、嚴禁す。もし其の他、止む事を得ざる要用ある時は、外出苦しからずといへども、一ケ月三度を限りとす。其の節は、委曲、塾監へ屆け、塾長の許可を受けて、出門あるべし。決して遲刻あるべからず。尤も入湯は、隔日、申刻より酉刻まで、勝手次第の事。

一、書籍借覽は、十日を限りとす。尤も出納ともに、塾籍預りの人に談ずべし。但し塾外へ持出し及び轉借すべからざる事。

一、毎日申刻後、武術練磨は、勝手たるべし。尤も粗暴の擧動、決してあるまじき事。

一、塾中の不行跡は、大に學風に障る事なれば、もし右やうの人あらば、嚴に諫むべし。諫めて猶ほきかざる時は、速かに退塾たるべし。傍らにおいて斟酌あるべからず。且つ遊蕩家の類に、假令ひ規則には觸れずとも、不相當の所爲あらば、同樣の取扱ひたるべき事。

 右の條々委細は、演義(愚案、平田延胤翁『氣吹舍塾則演義』)に述ぶるもの也」と。



●平田篤胤先生『玉襷』卷九に曰く、「

 子ら孫らを始め、己れに隨ひて物學ばむ輩に、第一に讀ましめむ、と。先に長だちたる弟子らに書かしめて、『童蒙入學門』と名付けたる、漢文の一卷あり[漢籍にて便り宜しきは、朱子の『童蒙須知』なり。己が入學門も、此れに依りて書しめたり。然れども渠(かれ)らは、神の御國の人ならねば、少かも敬神の道を知らず。故れその儘には用ひ難し]。まづ始めに敬神の道を教へ、次に幼童の必ず行ひ知るべき事等を述べ、終りに文學の大意を辨ふべく記せる物なり。

 扨て少かも書き讀む事を辨へたる上にては、『古事記の序』を始め、世々の『御紀』及び『令式格等の序表』など取集め、次々に讀み習はせて、帝道の大意を知らしめ、學問の眞柱を立て、大倭魂の鎭めと爲し、さて後には、漢籍『四書』・『五經』・『諸子』・『百家』、印度・西洋の書といへども、心の儘に讀ましむる事と爲り[校者ら云く、我が同門の幼童ら、先づ素讀の始めに讀むべきは、『童蒙入學門』、次に『皇典文彙』、さては『赤縣太古傳』・『太□[日+天]古易傳』・『同古暦傳』等の成文を讀みて、赤縣州の古傳説及び易暦の大旨を知り、また『説文解字の序』を讀みて、文學の起源を辨へ、『孫子正文』を讀みて、兵學の大意を心得べし。また『葛仙翁文粹』・『古學二千文』、必ず讀むべし。また西田氏(直養翁)の『神代略記』など、よき物なり。右ら、次々に板本として、同門の人々に頒つべし]。」と。

  • [15]
  • 王政復古の指南・水戸義公。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 4月19日(日)10時15分31秒
  • 編集済
  • 返信
 
●贈位追陞の勅語(明治三十三年十一月十六日)

 贈從一位・徳川光圀、夙に皇道の隱晦を慨(うれ)ひ、深く武門の驕盈を恐れ、名分を明かにして、志を筆削に託し、正邪を辨じて、意を勸懲に致せり。洵に是れ勤王の倡首にして、實に復古の指南たり。

 朕、適々常陸に幸し、追念、轉々(うたゝ)切なり。更に正一位を贈り、以て朕が意を昭かにす。



 愚案、顔子は孔夫子を、之を仰げば彌々高く、之を鑽れば彌々堅し、之を瞻るに前に在り、忽焉として後へに在りと歎じたが、我が水戸義公に在つても、其の觀を深くする。若し義公の微(な)かりせば、楠公の復活は遲れたであらうし、明治維新の樣相は、些か異なる展開があつたかも知れない。義公は、洵に勤王の倡首にして、尊王の大義を唱へ、君臣の名分を正し、心を修史に盡して、千古の廢典を興されしこと、吾人の、幾ら感謝しても、贊辭を盡すこと能はぬのである。義公の風を聞いて興りし者、幾人ぞや。正に繼往開來、備武兼文、絶代の名士と謂はねばならぬ。

 義公の曰く、「我が主君は、天子也。今、將軍は、我が宗室[宗室とは親類頭の事]なり。あしく料簡取りちがへ申すまじ」(『桃源遺事』)と。烈公齊昭は、父の武公治紀より、懇々と義公の遺訓を注意されてゐる。曰く、「我等は、將軍家、いかほど御尤もの事にても、天子に御向ひ弓を引かせられなば、少しも將軍家には從ひ奉ることはせぬ心得なり。何程、將軍家、理のある事なりとも、天子を敵と遊ばされ候うては、不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはあるまじ」(『武公遺事』)となん、是れ即ち慶喜公の大政奉還、王政復古の成る所以である。慶喜公曰く、「義公以來の教、子供の時より懇々説き聞かされて居りますので、維新の際にも、たゞ其の教に從つただけの事で、自分の知惠才覺は用ゐなかつたのであります」(伊藤博文公對談の逸話)と。蘇峯徳富先生『義公頌徳碑』は、テーマスレ「楠公傳」第十二參看。



●水戸義公『梅里先生碑陰、竝びに銘』(壽藏――生前建立墓――碑文)に曰く、「

 先生は、常(つね)州水戸の産也。其の伯(讚岐國高松藩主・初代頼重)は疾み、其の仲(龜丸)は夭す。先生、夙夜、膝下(尊父の水戸藩主初代の威公頼房公)に陪して、戰戰兢兢たり。其の人爲りや、物に滯らず、事に著せず、神儒を尊んで、神儒を駁し、佛老を崇めて、佛老を排す。常に賓客を喜び、殆んど門に市す。暇ま有る毎に書を讀み、必ずしも解することを求めず。歡びて歡びを歡びとせず、憂ひて憂ひを憂ひとせず、月の夕、花の朝、酒を斟み、意に適すれば、詩を吟じ、情を放(ほしいまゝ)にす。聲色飲食(し)、其の美を好まず(拘らず)、第(てい)宅器物、其の奇を要せず。有れば則ち有るに隨ひて樂胥し、無ければ則ち無きに任せて晏如たり。蚤(はや)く自り史を編むに志し有り(十八歳、『史記』伯夷傳を讀み、平生好古、興廢繼絶の志あり)。然れども書の徴とすべきもの、罕(まれ。極少)なり。爰に捜り爰に購ひ、之を求め之を得たり(『大日本史』序に曰く、「上は實録に根據し、下は私史を採□[手+庶。せき]し、旁ねく名山の逸典を捜り、博く百家の祕記を索む」と)。微□[隣の右+之繞。りん。=撰]するに稗官の小説を以てし、實を□[手+庶。ひろ]ひ疑ひを闕(か。=除)き、皇統を正閏し、人臣を是非し、輯めて一家の言を成せり(孔子『春秋』・司馬温公『資治通鑑』の精神にして、皇國護持の誓ひ、大義闡明の祈り、即ち興廢繼絶の志を、吾人に示すなり)。

 元禄庚午の冬、累(しき)りに骸骨を乞うて致仕(官職拜辭)す。初め兄の子(靖伯綱方・肅公綱條)を養うて嗣と爲し、遂に之を立てゝ、以て封を襲がしむ(義公が實子は、第二代高松藩主頼常)。先生の宿志、是に於てか足りぬ矣。既にして郷に還り、即日、攸(ところ)を瑞龍(りゆう)山先塋の側に相(さう)し、歴任の衣冠魚帶を□[病埀+夾+土。うづ]め、載(すなは)ち封じ載ち碑し、自ら題して「梅里先生の墓」と曰ふ。先生の靈、永く此に在り矣。嗚呼、骨肉は天命終る所の處に委せ、水には則ち魚鼈に施し、山には則ち禽獸に飽かしめん。何ぞ劉伶(竹林七賢の一)の□[金+插の右。すき。墓穴を掘る具]を用ゐんや。

 其の銘に曰く、
月は、瑞龍の雲に隱ると雖も、
光は、暫く西山の峯に留まる。

 碑を建て、銘を勒する者は、誰ぞ。源光圀、字は子龍(りよう)」と。


●水戸義公『梅里先生墓誌銘』に曰く、「

 先生の姓は源、諱は光圀、字は子龍。梅里先生と號し、又た常山と號す。威公の第三子也。母は谷氏(谷左馬介重則の女・側室高瀬局久子)。寛永五年戊辰六月十日、常州水戸に産る。六歳、立ちて世子と爲る。稍や長じて、直ちに從五位上に敍し、從四位下・左衞門督、從三位・右近衞權中將を歴(ふ)。年三十四、封を襲ぎ、二十八萬石を食む。參議に拜し、中將は故の如し。元禄三年庚午冬、致仕す。翌日、權中納言に拜す。郷に歸り、兆域を瑞龍山の側に營む。歴任の衣冠魚帶を□[病埀+夾+土]め、碑を建て、自ら書して梅里先生の墓と曰ふ。其の陰に銘を勒し、以て其の志を見はし、暫く西山に考□[般+木]して、終焉の期を俟つと云ふ」と。



●秦山谷重遠先生『西山遺事の後に書す』(谷氏藏版『秦山集』信・卷四十三の五丁。明治四十三年十二月・谷干城子爵刊)に曰く、「

 『西山遺事』は、水戸の臣等、其の主・西山(義公)の行實を紀す也。西山、剛方正大の氣、孝友忠純の誠、固より至性に出でて、其の國(水戸藩主)を讓り、以て彝倫の敍を全うし、嫡を正し、以て邦家の本を立つる(兄弟の序を正す)と、夫の皇統を正閏して、春秋の權を寓せ、禮儀を辨裁して、蠻夷の衝を折する(大義名分を明かにす)が若きに至つては、事、皆な天理民彜の源に關かり、經綸建立の奧に根ざす矣。學問の功、大なるかな哉と謂ふ可し。之を古人に遡るに、弓兵政所(崇道敬盡皇帝、即ち太政大臣一品・舍人親王)の後、蓋し鮮(すくな)し矣。

 抑も後水尾帝、高天原(帝都)に在し、東照宮、區夏を再造せし以來、昇平百年、教化薫洽、上には則ち土津靈社(保科正之)の若くなる有り、西山の若くなる有り、下には則ち埀加翁(山崎闇齋先生)の若くなる有り、相與に正學厚徳を以て、始めて斯の道を千載の後に挽囘し、發揮引重、餘力を遺さず、眞に我が朝の中興と謂ひつ可し矣。後世、治を願ふの君、學に志すの士、安んぞ其の風を聞いて興らざることを知らんや乎。是れ予、此の編を三歎する所以ん也。重遠、學術迂僻、識、徳を知るに非ず、何ぞ以て此に與かるに足らん。顧みるに、前脩の遠き、慨然に堪へず。竊かに平生の考ふる所を併せ識し、敢へて其の後に附し、以て百年、論定まるの日を竢ちて、焉れを訂さん。

 寶永七年庚寅十二月六日、土佐國鏡郡・大神重遠、拜書す」と。


●佐久良東雄大人『西山に作る』(天保末年の交)

山見れば 山し見がほし 河見れば 川しさやけし
川をよみ 君や住まひし 山をよみ 君や住まひし
何方(いかさま)に おもほしめして 住ましたる これの御庵(みいほ)と
むらぎもの こゝろ思へば 數ならぬ 賤(しず)の男(お)吾も
泪し流る


●西田幾多郎博士の曰く、「

 明治以來、我が國の歴史學は、西洋史學の影響を受けて、長足の進歩を遂げたとは、しばしば耳にする所であるが、自分の見る所を以てすれば、明治・大正の間、歴史の名に價するほどの著述は、一つも無い。むしろ我々の考へてゐる歴史と云ふものから見て、眞に歴史と云つてよいものは、水戸の『大日本史』があるだけである」(昭和三年秋の發言にして、平泉澄博士の親しく聞く所なり)と。


●寒林平泉澄先生『六藏寺再建之碑』(昭和五年。本堂前の刻石)に曰く、「

 水戸の東に古刹あり。名づけて六藏寺と云ふ。地、僻せりと雖も、古來、上下の尊崇盛なりしこと、文籍存して歴々徴すべし。戰國の世、惠範上人、こゝに住せり。上人、好學の志篤く、紛亂の日、博く赤軸を繙き、求道の念強く、土室の中、深く哲理を講じ、著す所、積んで等身、蒐むる所、藏して充棟、鬱然として一壯觀をなすに至れり。義公、曾てこゝに遊び、之を見て、愛惜の餘、數部の副本を製して、蠧魚の害に備へ、一棟の書庫を建てゝ、祝融の憂を絶たれしのみならず、密に黄金若干を庫内に埋めて、後世修理の費に宛てしめられしは、慮の遠き、志の懇なる、實に感激に堪へざる所、其の後、明治維新に際し、寺運、殆んど廢絶に瀕せしが、興範、木食して之を支へ、刻苦して之を維持するを得たり。

 然るに大正十二年夏、不幸、災厄に罹り、本堂・庫裡、鳥有に歸し、境内荒凉、人の目を痛ましむるに至れり。時の兼住職・島津照賢師、深く之を慨き、檀徒と共に、鋭意再興を計り、大正十四年、本堂を再建し、現住職・栗原隆興師、更に其の志を繼ぎ、昭和五年、庫裡を再建し、規模ほゞ舊に復するを得たり。是に於て堂香新にして、三寶の信心、愈々盛に、庫は色古りて、先哲の敬慕、益々深く、傳へて以て長く後世に至らんとす。人々再建の喜に堪へず、碑を建てゝ之を表せんとす。乃ち筆を執りて、ほゞ概略を述ぶ。往古、古書整理の縁(平泉博士、所謂六藏寺本『神皇正統記』の探索の縁)あり。辭すべからざるによるなり。

 東京帝國大學教授・從五位・文學博士・平泉澄、撰す」と。

  • [14]
  • 皇統正閏論

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 4月 2日(木)23時15分35秒
  • 編集済
  • 返信
 
 『大日本史』の三大特筆とは、

一、大友皇子を帝紀に立つ。
 一に『日本書紀』の成文「近江朝廷」に徴し、立てゝ本紀としたものであつて、私意を以て之を斷じたものでは無い。

一、神功皇后を后妃傳に收む。
 『古事記』が仲哀天皇より、直ちに應神天皇に移つて、其の間に神功皇后を數へてをらず、『日本書紀』に至つては、皇后「攝政元年」と明記してゐるからであり、一に客觀的考證の結果である。

一、吉野朝廷を以て正統と爲す。
 神器(三種の神器、即ち八咫鏡・天叢雲劍・八坂瓊曲玉、是なり)の所在を主とし、しかも神器は、必ず名分の正しき所に在りと云ふ信念を前提とするものであつて、神器を物質的に視るのでは無いためである。『大日本史』は、勢力の強弱、成敗の結果を以てせず、國體の大義より之を斷じて、吉野四代の天皇に本紀を立て、而して所謂北朝の五主は、初め之を列傳に收め、後に改めて後小松天皇本紀に附記し奉つた。


●安藤年山翁『年山記聞』に曰く、「

 (水戸光圀公の曰く、)これ計(ばかり。三大特筆)は、某(それがし。義公)に許してよ。當時・後世、われを罪する事をしるといへども、大義のかゝるところ、いかんともしがたし」と。


●松陰吉田先生『講孟箚記』附尾「『保建大記』を讀む一條」に曰く、「

 [神器と正統と、善く見ざれば、二本になるなり。此の事、先輩、栗山潛鋒(『保建大記』)・三宅觀瀾(『中興鑑言』)の論あり]。(八條宮尚仁親王侍講・水戸彰考舘總裁・栗山潛鋒先生『保建大記』に曰く、)『(崇徳)院、兄たりと雖も、位を去ること、久し矣。(後白河)帝、弟たりと雖も、當今の天子にませり。□[ウ+禹。天下]を馭めたまひ年を踰(こ)えて、未だ失徳有しまさず。院の兵を構へらるゝは、其れ何ぞ名あらんや耶。是の時に當りて、宜しく躬に三器を擁したまふを以て、正と爲すべし』と。此の論、甚だ正し、甚だ明なり。而して三宅の序(『保建大記の序』)に、『其の所謂る神器の在否を以て、人臣の向背を卜する者は、議、竟(つ)ひに合はず』(義の在る所を以て正統と爲す)と云ふは、深く此の論に達せざるに似たり。

 栗山の意は、崇徳上皇と後白河天皇と、何れか正、何れか僞との論なり。此の時に至つては、三宅と雖も、恐らくは上皇に從ふべとしは、云ふまじきなり。何となれば、上皇、已に位を去り璽を傳へて、近衞天皇、之を繼ぐ。近衞(天皇)崩御なされて、後白河天皇登祚まします上は、上皇の御憤りは已むことなきにはあれど、畢竟、私心也。故に天皇・上皇の正僞は、神器の有無までも待たずして明かなることなり。況んや天皇は、神器の在る所なるをや。上皇の爲めに是を云ふに、若し位を眷戀するの念、已むなくんば、永治傳璽の時に方りて、今少し熟議あるべきことなり。議、遂に諧(かな)はずんば、□[尸+徙。草履]を脱する如くこそあるべし。若し斯くの如きこと能はずんば、死を以て神器を守り給はゞ、天下、誰か敢へて是を奪はんや。果して然らば、鳥羽上皇ありと雖も、其の正、固より崇徳(天皇)にあるなり。崇徳(天皇)、已に是を行ふこと能はず、一旦、位を去り璽を傳へ、尚ほ眷戀の念あるは、勿體なき御了簡違ひと云ふべし。

 其の後、壽永の時に至り、安徳天皇、西に奔ると雖も、其の正統たること、固より論なし。後鳥羽天皇、位に即き給へども、事ふべきに非ず。況んや神器、西にあり。安(いづくん)ぞ神器なきの天子に事ふべけんや。若し安徳(天皇)、僅かに二歳にして、平氏に倚つて立つを以て、體を失ふとせば、宜しく其の即位の初めに當りて、切諌極論して、是に繼ぐに死を以てする、亦た忠臣の事なり。若し然らずして、登祚の後に是を正に非ずとするは、大に非なり。又た元弘の時、後醍醐天皇の穩岐に遷幸し給ひしも、璽の箱を御身に付けられければ、亦た安徳(天皇)の西に幸せられしと同事也。而して光嚴帝の北條が爲めに立てられたるは、亦た後鳥羽(天皇)の即位と同事なり。是を以て之を觀れば、神器の在る所は、必ず正統にして、正統の在る所は、必ず神器あるなり。神器と正統と、別に見るべからず。三宅は、恐らくは神器と正統とを、別に見たるなるべし。

 或は曰く、「然らば崇徳(天皇)より後白河(天皇)の璽を奪取り、後鳥羽(天皇)より安徳(天皇)の璽を奪ひ、光嚴(院天皇)より後醍醐(天皇)の璽を奪ひたらば、神器へ附くべきか、正統へ附くべきか」。曰く、是れ固より正統に附くなり。前に云ふ神器・正統一體と云ふは、禪受の正しきを言ふなり。奪取りたることに非ず。神器、豈に奪ひて得べき者ならんや。後白河(天皇)・安徳(天皇)・後醍醐(天皇)、萬々一も人に奪ひ取らるゝ樣の事ありては、誠に大過なる故に、死を以て取返して止むべきのみ。

 或は云く、「神器、奪ひて得べからざる、固より然り。然るに天武天皇の、天皇大友(弘文天皇)を弑して、璽を奪ふは如何」。曰く、是れ古今絶無の事にて、言ふに忍びざることなり。然れども(天皇)大友、已に崩ず。天位、一日も空しくすべからざれば、天武(天皇)の位に即く、亦た理勢の極まる所なり。但だ此の時に、(天皇)大友に事へたる者は、悉く(天皇)大友に殉じて節を致すべし。決して生を偸んで、天武(天皇)に事ふべからず。是れ其の大義なり。嗚呼、神器は正統の天子の禪受する所なれば、君臣上下、死を以て固守すべきこと、其の義、昭々なり。善く此の義を明かにして後、神器・正統一致なること、益々昭々なり。故に是を即位の初めに正しうし、是を在位の間に守り、是を讓位の終りに愼しむ。是れ萬世、帝皇の大法なり」と(テーマスレ「參考聚英」第十一參看)。


http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm

  • [13]
  • 天下は一人の天下なり矣。孟軻の書、宜しく取捨あるべし。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 4月 1日(水)22時36分6秒
  • 編集済
  • 返信
 
●本居宣長大人『玉かつま』十四の卷に曰く、「

 (『孟子』)盡心篇に、孟子曰く、「不仁なるかな哉、梁の惠王云々」。かばかり不仁を行ふ人に、王道をすゝめたるは、いとをかし。また「民を貴しと爲し、社稷、之に次ぎ、君を輕しと爲す」といへり。甚だしき云ひ過しの惡言なり。かくて『孟子』終篇、たゞ親に孝なるべき事のみをしばゝゞいひて、君に忠なるべき事をいへること、一つもなし。

 又た「孟子、齋の宣王に告げて曰く、君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること國人の如し。君の臣を視ること土芥の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し云々。此を之れ寇讎と謂ふ。云々には、何の服か之れ有らん」などいへり。此の一章をもて、孟軻が大惡をさとるべし。これは君たる人に教へたる語とはいひながら、あまり口にまかせたる惡言なり。此の書、人の臣たらむものゝ、見るべき書にあらず。臣たる人に不忠不義を教へたるものなり。其の國を去つて、その君かへり見ずとて、これを寇讎とは、いかでかせむ、いはんかたもなき惡言なり。おそるべし、おそるべし」と。


●吉田松陰先生『講孟□[答+立刀。已むを得ず「箚」にて代用。さつ]記』に曰く、「

[孟子序説]

 經書を讀むの第一義は、聖賢に阿(おも)ねらぬこと要なり。若し少しにても阿ねる所あれば、道、明かならず。學ぶとも、益なくして害あり。孔孟、生國を離れて他國に事へ給ふこと、濟まぬことなり。凡そ君と父とは、其の義、一なり。我が君を愚なり昏なりとして、生國を去つて他に往き、君を求むるは、我が父を玩愚として家を出て、隣家の翁を父とするに齊(ひと)し。孔孟、此の義を失ひたまふこと、如何にも辨ずべき樣なし。

 或は曰く、「孔孟の道、大なり。兼ねて天下を善くせんと欲す。何ぞ自國を必すとせん。且つ名君賢主を得、我が道を行ふ時は、天下、共に其の澤を蒙るべければ、我が生國も、固より其の外にあらず」。曰く、天下を善くせんと欲して我が國を去るは、國を治めんと欲して身を修めざると同じ。修身・齊家・治國・平天下は、大學の序、決して亂るべきに非ず。若し身・家を捨て、國・天下を治平すとも、管・晏(齊の管仲と晏嬰)のする所にして、「詭遇して禽を獲る」と云ふ者なり。

 世の君に事ふることを論ずる者、謂(おも)へらく、「功業立たざれば、國家に益なし」と。是れ大に誤り也。『道を明かにして功を計らず、義を正して利を計らず』(漢の董仲舒『賢良策』)とこそ云へ、君に事へて遇はざる時は、諌死するも可なり、幽囚するも可なり、饑餓するも可なり。是等の事に遇へば、其の身は、功業も名譽も無き如くなれども、人臣の道を失はず、永く後世の模範となり、必ず其の風を觀感して興起する者あり。遂には其の國風一定して、賢愚貴賤、なべて節義を崇尚する如くなるなり。然れば其の身に於て、功業・名譽なき如くなれども、千百歳へかけて其の忠たる、豈に擧げて數ふべけんや。是を大忠と云ふなり。

 然れども此の論、これ國體上より出來る所なり(テーマスレ「參考聚英」第十參看)。漢土に在つては、君道、自ら別なり。大□[抵の手なし]、聰明睿智、億兆の上に傑出する者、其の君長となるを道とす。故に堯・舜は其の位を他人に讓り、湯・武は其の主を放伐すれども、聖人に害なしとす。我が邦は、上、天朝より、下、列藩に至るまで、千萬世に(世)襲して絶えざること、中々漢土などの比すべきに非ず。故に漢土の臣は、譬へば半季渡りの奴婢の如し。其の主の善惡を擇んで、轉移すること、固より其の所なり。我が邦臣は、譜代の臣なれば、主人と死生休戚を同じうし、死に至ると雖も、主を棄て去るべきの道、絶えてなし。嗚呼、我が父母は、何國の人ぞ。我が衣食は、何國の物ぞ。書を讀み、道を知る、亦た誰が恩ぞ。今、少しく主に遇はざるを以て、忽然として是を去る、人心に於て如何ぞや。我れ孔孟を起こして、與に此の義を論ぜんと欲す。

 聞く、近世海外の諸蠻、各々其の賢智を推擧し、其の政治を革新し、駸々然として、上國(皇國)を凌侮するの勢あり。我れ何を以てか、是を制せん。他なし、前に論ずる所の我が國體の外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲めに死し、闔藩の人は闔藩の爲めに死し、臣は君の爲めに死し、子は父の爲めに死するの志、確乎たらば、何ぞ諸蠻を畏れんや。願くは諸君と、茲に從事せん。

[梁の惠王下篇・第八章]

 湯・武放伐の事は、前賢の論、具はれり。然れども試みに見る所を陳ぜん。凡そ漢土の流は、皇天、下民を降して、是が君師なければ治まらず。故に必ず億兆の中に擇んで、是を命ず。堯・舜・湯・武の如き、其の人なり。故に其の人、職に稱(かな)はず、億兆を治むること能はざれば、天、亦た必ず是を廢す。桀・紂・幽・の如き、其の人なり。故に天の命ずる所を以て、天の廢する所を討つ。何ぞ放伐に疑はんや。本邦は、則ち然らず。天日の嗣、永く天壤と無窮なる者にて、この大八洲は、天日の開きたまへる所にして、日嗣の永く守りたまへる者なり。故に億兆の人、宜しく日嗣と休戚を同じうして、復た他念あるべからず。若し夫れ征夷大將軍の類は、天朝の命ずる所にして、其の職に稱ふ者のみ、是に居ることを得。故に征夷をして足利氏の曠職の如くならしめば、直ちに是を廢するも可なり。是れ漢土君師の義と、甚だ相類す。然れども湯・武の如きは、義に依り賊を討ず。命を天に承くと稱す。本邦に在つては、然らず。赫々たる天朝、天日の嗣、宇内に照臨ましますに、天朝の命を奉ぜずして、擅(ほしいまゝ)に征夷の曠職を問はんとならば、所謂「燕を以て燕を伐つ」者なり、所謂「春秋に義戰無き」者なり[天子の命を奉ぜずして、敵國相征するは、何程の正義に依ると云ふとも、義戰にあらず]。故に此の章を讀む者、審かに辨を致さゞれば、適(たゞ)に以て奸賊の心を啓くに足るのみ。

[盡心下篇・第十四章・民を貴しと爲し、社稷、之に次ぎ、君を輕しと爲す]

 此の義、人君、自ら戒むる所なり。蓋し人君の天職は、天民を治むることなり。民の爲めの君なれば、民なければ君にも及ばず。故に民を貴しとし、君を輕しとす。是等の處は、篤と味ふべし。異國の事は姑らく置く。吾が國は、辱なくも國常立尊より、代々の神々を經て、伊弉諾尊・伊弉册尊に至り、大八洲國及び山川草木・人民を生み給ひ、又た天下の主なる皇祖天照皇大神を生み玉へり。夫より以來、列聖相承け、寶祚の隆、天壤と動きなく、萬々代の後に傳はることなれば、國土・山川草木・人民、皆な皇祖以來、保守護持し玉ふ者なり。故に天下より視れば、人君程、尊き者はなし、人君より視れば、人民程、貴き者はなし。此の君民は、開闢以來、一日も相離れ得る者に非ず。故に君あれば民あり、君なければ民なし。又た民あれば君あり、民なければ君なし。此の義を辨ぜずして、此の章を讀まば、毛唐人の口眞似して、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり」(テーマスレ「參考聚英」第十四參看)などゝ罵り、國體を忘却するに至る。惧るべきの甚だしき也。

 近く聞く、明倫舘の文題に、「天下非一人天下説」と云ふを出されし由。余、因つて考ふるに、天下非一人天下と云ふは、『六韜』(太公望呂尚「武韜篇」發啓章)に出る語にて、必ずしも聖經に出るに非ず。漢土にても通論とするに非ず。思ふに、禪讓・放伐の事に因つて云ふなるべし。「普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し」(『詩經』小雅北山篇)と云へば、明かに天下は一人の天下とする也。又た漢人の云く、「五帝は天下を官とし、三王は天下を家とす。家は以て子に傳へ、官は以て賢に傳ふ」(韓氏『易傳』)と。官天下は一人の天下に非ざるの説也。家天下は一人の天下とするの説也。又た漢土歴代の人、多く云ふ、「天下は祖宗の天下也」(『文章軌範』・『靖獻遺言』所收の宋人胡□[金+全。せん]『上高宗封事』等)と。亦た皆な一人の天下とする也」と。


●松陰先生『講孟箚記』評語(藩儒山縣太華)の反評に曰く、「

 論ずれば、則ち可ならず。疑ふは、尤も可ならず。皇國の道は、悉く神代に原(もとづ)く。則ち此の卷、臣子の宜しく信奉すべき所ろ也。其の疑はしきに至つては、闕如して論ぜず、愼むの至り也」と。



●寒林平泉澄先生『校註・講孟箚記・序』(昭和四十四年二月序。日本學協會藏版)に曰く、「

 『講孟箚記』は、天下の奇書である。その執筆は書齋に於いてせられずして、獄中に於いてせられ、その完成は研究室に於いてせられずして、幽囚の中にせられた。それは『神皇正統記』が小田籠城中に著され、『中朝事實』が赤穗流謫間に作られたのと共に、著述成立の事情、大いに尋常普通と異なるものであつて、千苦萬艱のうちに生れたる魂の叫びと云つてよい。『講孟箚記』は、歴史の原動力であつた。維新の志士は薩長を主力とするが、その長州の主流は松下村塾の出身者であつて、それらの人々は『講孟箚記』によつて鍛へられ導かれて、その精神の發揮につとめた。明治維新を考へる上に、本書を度外視する事は許されない。『講孟箚記』は、日本國の至寳である。それは明治維新に貢獻して、其の使命を終つたものでなく、現在も今後も、永久に古典として崇め、經典として依るべき至重の教本である。日本の道を照らす光明として、我等に方向を示す指針として、第一級の古典に列せらるべきである。

 著者松陰先生は、本書成立の直後、箚記の文字を重視して、「よく精義を發し文藻をかゞやかすに非ざれば、箚記の名に價せず」として、謙遜のあまり一時名を「講孟餘話」と改めようとせられたが、間もなく土屋松如、之を批評して、「箚の字義、録と同じであつて深意あるわけでは無く、從つて題名改正の必要無し」といふのを聞いて、元のまゝに箚記とせられ、門下、皆、之に從つた。こゝに餘話の名を採らずして、箚記といふのはその爲である。但し我等より之を見れば、本書は孟子を基本として、松陰先生がその精義を發せられたものであり、更に之を機縁として、日本の道義の神髓を強調せられたものであつて、もとより餘話などいふべき輕いものでは無く、箚記の名すら猶ほ平凡であつて、此の崇高にして深遠なる内容にそぐはないのを思ふ」と。



 愚案、『講孟箚記』、洵に嘉言、林の如く、躍々として人に迫り、或は秋霜烈日、或は識高剴切、皆な以て連璧、之を擲たば當に金石の聲を做すべし。其の參考書は、紹宇近藤啓吾先生の譯註が最も宜しく、各位の御研鑽を煩はせたい。
一、財團法人日本學協會藏版『校註・講孟箚記』昭和四十四年四月一日刊。
一、講談社學術文庫『講孟箚記』上=昭和五十四年十一月十日刊・下=昭和五十五年十月十日刊。

 小生、尤も親切深刻なる嚴訓を受けしは、次の一章であつた。此の章、意義甚大、拜讀する度びに冷汗三斗、自ら顧みるに戰慄を覺ゆるなり。



●松陰先生『講孟箚記』梁惠王上・第六章に曰く、「

[孟子、梁の襄王を見る。卒然として問ひて曰く、『天下、惡(いづ)くにか乎、定まらん』と]

 梁の襄王の暗愚、固より論を待たず。但だ其れ尤も暗愚を見るべき者、果して何れにありや。曰く、『天下、惡くにか、定まらん』の一句にあり。‥‥此の時、梁國、四方に難多し。然るに襄王、一も憂勤□[立心+易。てき]□[勵の左。れい]の色、あることなし。其の『天下、惡くにか、定まらん』と云ふは、世上話なり。かゝる田別(たわけ)者、安(いづ)くんぞ與に語るに足らん。蓋し此の章を擧げて、孟子、梁を去る所以を示すなり。

 抑も有志の人、言語、自ら別なり。心・身・家・國、切實の事務を以て世上話となす者、取るに足る者、有ることなし。是れ人を知るの眞訣なり。然れども是を以て人を知るの眞訣とするも、亦た世上話の類のみ。宜しく親切反省すべし。辭を修め誠を立つる(『易經』文言傳)、是れ君子の學なり」と。

  • [12]
  • 孟軻の道、國家を重んじ、君王を輕しと爲す、決して神州に用ふ可からず矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月27日(金)00時11分9秒
  • 編集済
  • 返信
 
●東湖先生『孟軻論』に曰く、「

 吾れ孟軻(孟氏、名は軻。西土に在つては、孟子と崇めらる)の書(『孟子』)を讀み、其の王道を説くを觀る毎に、深く孔子の志の孤なるを痛む也。遂に以て其の道の、決して神州に用ふ可からざるを知る有り矣。夫れ聖人の教は、彜倫(いりん。三綱五常)より重きは莫し。彜倫、敍(つい)づれば、則ち三綱尊嚴、上下乂安(がいあん)す。彜倫、□[澤の右+枚の右。壞。やぶ]るれば、則ち弑逆相踵(つ)ぎ、天下昏亂す。是れ理の昭然著明、萬世に亙りて易ふ可からざる者也。

 孔子、衰世に生れ、常に周道の振はざるを歎く。其の君臣の義に於ける、蓋し尤も意を致せり焉。嘗(こゝろ)みに竊かに其の言論の跡を瞻(み)るに、泰伯に於けるや也、稱するに『至徳』(『論語』泰伯)を以てし、武王に於けるや也、『未だ善を盡さず』(『論語』八□[人+八と月])と曰ふ也。其の言、微なりと雖も、而(すなは)ち其の旨、深し矣。夷・齊(殷逸民の伯夷・叔齊)に於けるや、則ち『仁を求めて仁を得たり、又た何をか怨みん』(『論語』述而)と曰ふ。由(仲由)と求(冉求)とに於けるや、則ち『父と君とを弑せり、亦た從はざる也』(『論語』先進)と曰ふ。其の言、顯然、其の旨、直見、其の彜倫を重んじ、訓誡を埀るゝ所以、何ぞ其れ切切たる也。公山不□[狩の左+丑]の召すや也、籍(か)りて以て周道を起さんと欲し(『論語』陽貨)、陳恆の君を弑するや也、之を討ち、以て大義を伸べんと欲す(『論語』憲問)。身、其の位に在らずと雖も、其の名分を嚴にし、周室を尊ぶ所以の者、亦た何ぞ汲汲たる也。道の行はれざるや、終身□□[二字、皇+之繞。=惶]たり。遂に其の志を『春秋』に發す(『孟子』□[藤の艸なし]文公下)。蓋し其の意、未だ嘗て後來に俟つ莫からずんばあらざる也。

 孔子、既に沒し、周室、益々微なり。威烈・愼□[青+見。せい](戰國時代の周王)の間に至りて、衰弱極れり矣。父を弑し君を弑する者、所在、之れ有り。諸子百家、異端邪説(楊氏爲我、墨氏兼愛。徹底せる利己主義と平等主義にして、君父を無みす。佛革命の旗印と、全く軌を一にせり)、又た紛然として其の間に雜出す。是の時に當り、孟軻、獨り聖人の道を學び、先王の徳を述ぶ。其の宏才雄辯、亦た固より以て一世を風靡するに足る。所謂る孔子の後來を俟つ者、軻にして任ぜざれば、則ち孰れか復た之を能くせんや。軻たる者は、誠に宜しく孔子の遺意を奉じ、『春秋』の大義を明かにし、苟くも以て彜倫を扶け、周室を尊ぶ可き者、汲汲として之を爲し、餘力を遺さゞる可し。今や也、然らず。口を開けば、則ち王道を談じ、其の説の歸す所を要(もと)むれば、齊・梁の君(齊宣王・梁惠王)をして、天下に王たらしむるに過ぎざるのみ而已。嗚呼、周室、衰へたりと雖も、尚ほ正統の在る有り焉。軻、周の世に生れ、周の粟を食(は)む、何の心ありてか、能く忍びて、其の説を發するや耶。

 抑も軻、文・武(周西伯――諡文王と武王)を稱道す。則ち其れ將に齊・梁の君をして、天下を三分して其の二を有ち、以て周に服事せしめん(周文の謹愼尊王)とするか歟。抑も亦た將に其れ牧野の戰(周武の殷紂を伐つ)を爲し、天下を一擧に定めしめんとするか耶。當時、周王、未だ殷紂の暴有るを聞かず、而して宣・惠の、文・武たる可からざるは、必ず智者を俟たずして知る也。而も軻、宣・惠をして、文・武の業を成さしめ、周王を殷紂の地に處(を)らしめんと欲す。周王、亦た文・武の胤に非ずや邪。軻、何ぞ文・武を信ずること厚くして、文・武に報ずることの薄き。宣・惠を輔くるの至り、宣・惠を知らざるの甚だしき也。

 且つ夫れ齊桓(桓公)・晉文(文公)の事、必ずしも議す可き者莫きにはあらず(尊王攘夷を掲ぐるも、實は覇を稱するに在り。其の心術、必ずしも純忠に非ず)。然れども桓・文、猶ほ能く王室を尊び、諸侯を糾合す。今ま田氏(宣王の祖)・魏氏(亦た梁とも。惠王の祖)は、嘗て桓・文に事へし者也。子孫強僭、其の國を簒ひて之を有す。實に名教の容(ゆる)さゞる所なり。軻、平生、仁義を貴び、覇術を賤しめ、而して一語も名分に及ぶ無く、廼(すなは)ち反つて隱然として周室の鼎を、田・魏の強僭の國に移さんと欲す。其の仁と爲し義と爲す、果して何物ぞ。假に桓・文をして在らしめば、則ち罪を鳴らして之を討ち、將に踵を旋らさゞらしめんとす。軻、豈に覇術を賤しむに暇あらんや乎哉。是に由て之を言へば、孔子の與かる所に非ざるや也、亦た明かなり矣。蓋し孔子の遺意は、軻、優に之を知る。而も軻、繼がざる也。軻死して、春秋の義、復た伸ぶ可からず、昏亂の極み、胡秦、天下を呑むに至つて止む。豈に大いに痛む可からざらんや哉。吾れ故に曰く、『軻、王道を説く、而れども孔子の志は孤なり矣』と。

 王□[虫+蜀](戰國齊の賢人)、言へる有りて曰く、『忠臣は二君に事へず、烈女は二夫を更(か)へず』(『史記』田單列傳)と。確乎たり、其の言、啻に臣の君に於ける、婦の夫に於けるのみならず、奴僕婢妾の、其の主に事ふるの道と雖も、亦た宜しく是の若くなるべし。然りと雖も□[虫+蜀]の言を以て、之を臣と婦とに責むるは、則ち善し矣。悉く之を奴僕婢妾に責めんと欲するは、則ち能はず。其の勢、然る也。西土の邦たる、能く彜倫を言ひ、而も彜倫、常に明かならず。尤も君臣の義に疏し。夫の禪讓(堯は舜に、舜は夏禹に讓れり)・放伐(殷湯は夏桀を、周武は殷紂を討てり)は、姑らく置きて論ぜず(東湖先生『弘道館述義』に曰く、「決して用ふ可からざる者、二有り。曰く、禪讓也、曰く、放伐也」と)。周・秦以降、姓を易へ命を革むる、指、屈するに勝へず。人臣、其の君を視ること、猶ほ奴僕婢妾の、其の主に於けるがごとし。朝向夕背、恬として恥づるを知らず。其の風土、然る也。

 軻、其の邦に生れ、其の俗に習ひ、社稷を重しと爲し、君を輕しと爲し(『孟子』盡心下に曰く、「民を貴しと爲す」と。西戎民主主義と、何等撰ぶ所ろ無かるべし)、坐して生民の塗炭に苦しむを視るに忍びず、乃ち慨然として其の王道を興起し、以て□□[二字共、白+皐]の治を致さんと欲す。西土に在つて之を言はゞ、則ち其の志、蓋し深く咎むるに足らず。而して後世、其の書を奉じ、以て孔子の書と竝び行ふ者(『孟子』を以て、學庸論孟、即ち四書と竝び稱するに至れり)、亦た其れ奴僕婢妾の習俗の致す所、固より怪しむに足る者無し。

 獨り赫赫たる神州、天地以來、神皇相承けたまひ、寶祚の盛んなる、既に天壤と與に窮り無し。則ち臣民の天皇に於ける、固より宜しく一意崇奉し、亦た天壤と與に窮り無かるべし。而るに腐儒曲學、、國體を辨へず、徒らに異邦の説に眩み、亦た軻の書を以て、孔子の書と竝び行ひ、奴僕婢妾を以て、自ら處らんと欲す。抑も亦た惑へるなり矣。

 夫れ舟の水に於ける、車の陸に於けるは、自然の道也。若し之に反すれば、則ち或は苦しみ或は溺る。取捨、所を失ふを以て也。伊尹(殷太甲の賢相。簒奪の意なしと傳へるも、非常の權なり。決して正しからず)の志有れば、則ち以て其の君を放つ可く、殷紂の暴有れば、則ち其の臣、視るに以て一夫と爲す(『孟子』梁惠王下)者は、之を易姓革命の邦に言ふは、則ち或は可ならん也。苟くも之を萬古一姓の域に言ふは、則ち身は大戮に遭ひ、名は反逆を免れず。其の禍は、豈に啻に舟を陸に□[湯+皿。ゆるが]し、車を水に行(や)る者の比ならんや哉。昔者(むかし)、姦僧道鏡、罪惡貫裔、敢へて神器を□[豈+見]□[兪+見]しまつる。時に明神、人に憑りて曰く、『國家、君臣の分、定まれり矣。臣を以て君と爲すは、未だ之れ有らざる也。天日の嗣は、必ず皇緒を立つ。無道の人は、宜しく剪除すべし』(『續日本紀』神護景雲三年九月己酉條)と。是に於てか乎、姦僧竄死し、復た遺類無し矣。今ま軻の説を推せば、則ち臣を以て君と爲すの道也。神明の與かりたまはざる所ろ也。天誅の宜しく加はるべき所ろ也。吾れ故に曰く、『其の道、決して神州に用ふ可からず矣』と。

 然れば則ち軻の書、悉く廢す可きか乎。曰く、奚(いづく)んぞ其れ然らん也。凡そ物、利、甚だ大にして、害、亦た大なる者有り。水・火、是れ也。人、皆な其の□□[二字共、陷の右+炎]滔滔の患を虞る。而れども烹炊灌漑の用を廢せざる者は、其の害を惡みて、其の利を愛すれば也。軻の王道、決して神州に用ふ可からず。然れども其の心を存し氣を養ふの論、國を治め民を安んずるの説と、彼の異端を辨じ邪説を熄め、以て先聖の道を閑(ふせ)ぐ者とは、則ち孔子の復た生ずと雖も、必ず其の言を易へず矣。人に取りて善と爲す者は、神皇の道なり。則ち軻の書、豈に亦た悉く廢す可けんや耶。取捨、如何を顧みるのみ耳。孟軻論を爲(つく)る」と。



 愚案、藤田東湖先生は、實に水戸學の最高峰にして、義公の學問精神は、全く此の哲人に在り。橋本景岳先生・大西郷等の仰いで已まざる所にして、「水戸は、義公以來、養ひ來つた所の力を凝成結晶せしめて、東湖先生を打出し、この豪俊英邁の人格を通じて、天下の日本魂を覺醒せしめた」(平泉澄博士)と謂ひつ可く、東湖先生には、『弘道館記述義』・『囘天詩史』を始めとして、『弔菅公文』・『弔楠公文』・『古堂記』・『代笠亭記』・『小梅水哉舍記』・『環翠堂記』・『與憇齋會先生書』・『與青山雲龍先生書』・『與原仲寧書』・『贈楊子長序』・『楊椒山全集序』等あり。謹んで拜讀すれば、得ること、亦た重且つ大なるべし矣。



●『大日本史の敍』に曰く、「

 史とは、事を記す所以ん也。事に據りて直書すれば、勸懲、自ら見(あらは)る焉」と。


●紫灘眞木和泉守『木村三郎に與ふ』(文久三年十月二十日附)に曰く、「

 必死の地に陷り、却つて綽々仕り候ふ樣、相覺え申し候ふ。『大日本史』恐ろ敷く候ふ間、此の節は、見事、戰死の積りに御座候ふ。尊兄には、方今、暫時御忍び、國家の御爲に御盡力、之れ有る可く候ふ」と。


●松陰吉田先生『來原良三(良藏盛功)に復する書』(嘉永五年)に曰く、「

 水府(水戸)に遊び、首めて會澤(正志齋)・豐田(天功)の諸子に踵(いた)り、其の語る所を聽く。輙ち嘆じて曰く、『身、皇國に生れて、皇國の皇國たる所以を知らざれば、何を以て天地に立たんや』。歸るや也、急ぎ『六國史』を取りて、之を讀む」と。

  • [11]
  • 正學の規準は、國體を辨へ、名分を愼しむに在り。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月27日(金)00時00分35秒
  • 返信
 
●水戸烈公『弘道館記』に曰く、「

 弘道とは、何ぞや。人、能く道を弘むる也。道とは、何ぞや。天地の大經にして、生民の須臾も離る可からざる者也。弘道の館は、何が爲めに設くるや也。

 恭しく惟みるに、上古、神聖、極を立て、統を埀れたまひ、天地、位し焉、萬物、育す焉。其の六合に照臨し、宇内を統御したまふ所以の者は、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざる也。寳祚、之を以て窮り無く、國體、之を以て尊嚴に、蒼生、之を以て安寧に、蠻夷戎狄、之を以て率服す。而るに聖子・神孫、尚ほ自ら足れりとしまたまず、人に取つて、以て善を爲すを樂しみたまふ。乃ち西土唐虞三代の治教の若きは、資(と)りて以て皇猷を贊(たす)けたまふ。是に於て斯の道、愈々大に愈々明かにして、復た尚(くは)ふる無し焉。中世以降、異端邪説、民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲學、此を舍(す)て彼に從ひ、皇化陵夷し、禍亂相踵(つ)ぎ、大道の世に明かならざるや也、蓋し亦た久しかりき矣。

 我が東照宮(徳川家康)、撥亂反正し、尊王攘夷、充(まこと)に武、充に文、以て太平の基を開く。吾が祖・威公(水戸頼房公)、實に封を東土に受け、夙に日本武尊の人爲りを慕ひ、神道を尊び、武備を繕(をさ)む。義公(常磐神社祭神・高讓味道根命・贈權大納言贈正一位・義公西山隱士常山梅里源光圀公)、繼述し、嘗て感を夷齊に發し、更に儒教を崇び、倫を明かにして名を正し、以て國家に藩屏たりき。爾來百數十年、世々遺緒を承け、恩澤に沐浴し、以て今日に至れり。則ち苟くも臣子爲る者、豈に斯の道を推弘し、先徳を發揚する所以を思は弗る可けんや乎。此れ則ち館の爲めに設けられし所以ん也。

 抑も夫れ建御雷神を祀る者は、何ぞや。其の天功を創昧に亮(たす)け、威靈を茲の土に留むるを以て、其の始を原(たづ)ね、其の本に報い、民をして斯の道の□[搖の右+系。よ]りて來る所を知ら使めんと欲すれば也。其の孔子の廟を營む者は、何ぞや。唐虞三代の道、此に折衷するを以て、其の徳を欽し、其の教を資り、人をして斯の道の、益々大に且つ明かになりし所以の、偶然ならざるを知ら使めんと欲すれば也。

 嗚呼、我が國中の士民、夙夜、懈らず、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教を資り、忠孝、二无く、文武、岐れず、學問事業、其の效を殊にせず、神を敬ひ、儒を崇び、偏黨、有ること無く、衆思を集め、群力を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、則ち豈に徒に祖宗の志、墜ち弗るのみならんや、神皇在天の靈も、亦た將に降り鑒(みそなは)せむとす焉。

 斯の館を建て、以て其の治教を統ぶる者は、誰ぞ。權中納言從三位・源某(常磐神社祭神・押武男國御楯命・贈權大納言贈正一位・烈公潛龍閣景山源齊昭公)也」と。


●東湖藤田先生『心術の正しからざる者は、宜しく(彰考)館職に預かるべからず』に曰く、「

 蓋し史臣の職は、將に忠姦を褒貶し、邪正を分別するを以て、勸懲を、將來に埀れむとする也。其の心術、猶ほ且つ正しからずば、則ち何ぞ能く其の任に勝へむや」と。



 愚案、彰往考來、國史の編纂事業は、何よりも第一に、「心術の正」しき者に非ずんば不可である。出典を明記して、舞文曲筆を許さず、「事に據りて直書」して、私意私見をはしはさむ餘地を與へなかつた『大日本史』は、理の趨く所、明治維新の大業を導き出し、且つ之を完成する上に、甚大なる貢獻を爲した。飜つて現代の歴史家、罵詈雜言、賣文内紛に忙しく、果たして先づ「心術の正」しき者であるか、否か、嚴しく問はれなければならぬ。



●東湖先生『桑原毅卿(照顔桑原信毅)の京師に之(ゆ)くを送る序』に曰く、「

 宇宙の大、萬國の星布、其れ多し矣。而れども國體の重き、未だ神州に若くものは有らざる也。神州の廣き、國郡縣邑、勝(あ)げて數ふ可からず。而れども至尊至嚴、未だ京師(帝都)に若くものは有らざる也。京師は、天皇の都したまふ所、神器の在します所、億兆の仰ぎまつる所、蠻夷戎狄の望みて服しまつる所なり。京師の宇宙に在るは、譬へば猶ほ北辰の天に在るがごとき也。昔者、大道の行はるゝや也、徳化、内に洽く、稜威、外に宣ぶ。聖皇明弼、相ひ踵いで起り、既に上古神聖の跡に遵ひ、以て天常民彜を植ゑ、更に西土周孔の教を資り、以て我が固有の道を培ふ。上下の分、内外の辨、嚴乎として其れ越ゆ可からざる也。

 世を歴るの久しき、風俗□[三水+堯]漓(浮薄)し、異端の説、民を誣ひ世を惑はし、神聖の道、先づ荒(すさ)めり矣。輓近、至治の澤、上下、學に向ひ、家ごとに詩・書を誦し、戸ごとに周・孔を談ず。而れども大體、已に乖(そむ)ける也。虚文、質を滅し、浮華、實を掩ひ、弊の極まる所、國體名分の重きを擧げて、諸れを度外に措くに至る。悲しむ可きかな也夫。而れども神聖威靈の遠き、天常民彜の泯滅せず、亦た未だ嘗て志士仁人の其の間に出て、慨然奮勵、以て大道を保護する者無くんばあらず焉。二百年來、鴻儒碩學、指、屈するに勝へず。嘗て竊かに其の書を讀みて、其の學を察するに、其の博覽洽聞なるものは論ずる亡し。其の能く國體を辨へ、名分を愼しむ者は、猶ほ什一を千百に存する有るがごとき也。欽慕の餘り、其の人を尚論し、其の出處本末を究むれば、大抵、其の學の淵源は、京畿(崎門學望楠流)に出でざれば、則ち我が常陸(水戸學)に出づ矣。

 夫れ神州は、萬國の首に居り、京師は神州の中に居る。則ち苟くも畿内に生れ、輦轂の下に長ぜる者、牧兒樵童と雖も、尚ほ能く其の尊嚴を知る。況んや讀書講學する者の、國體名分に於いて、敢へて苟くもせざるは、固より怪しむに足らず。乃ち常陸の若きは、則ち東陬(隅)に僻在し、京師を去ること千里も啻(たゞ)ならず。而して往往卓識の士を生ずるは、抑も亦た以(ゆ)ゑ有る也。蓋し日出の郷は、陽氣の發する所、南に筑山有り、東に大海有り、所在の名神の呵護、武甕槌神(鹿嶋神宮)の若き有り、大己貴命(大洗磯前藥師神社)の若き有り、手力雄(靜神社)の若き、日本武尊(吉田神社)の若き、其の勇武猛烈、嘗て大難を□[艸+役の右。せん]夷し、天業を輔翼し、列して祀典に在り。千載の遠き、精靈在ますが如し焉。南北搶攘(紛亂)の際に方(あた)り、忠臣仁人、藤黄門(前中納言・萬里小路藤房公)・源准后(准三宮・北畠親房公)の徒、間(艱)關流寓し、陳迹(小田・關・大寶)存す焉。

 我が威公、封を受くるに及び、神を敬ひ民を愛し、廉恥を以て一國を磨勵す。義公、其の緒を脩め、乃ち慨然として發憤し、國體名分を以て自ら任ず。館を開き儒を聘し、一家の言を創立す。常陸の學、是に於て盛んと爲れり。餘澤の在る所、士、廉恥を重んじ、郷黨、自ら好む者も、尚ほ異端を排し、書を讀み學を講ずる者、口を開けば、則ち尊攘の義(朱子『論語集註』一匡天下條に曰く、「匡は正也。周室を尊び、夷狄を攘ふは、皆な天下を正す所以ん也」と)を談ず。斯れ其の學風の由來する所、自ら淵源有り。則ち我が常、東陬に僻在すと雖も、其の能く京師と相頡□[亢+頁]する者、豈に偶然ならんや乎哉。

 今茲(ことし)癸巳(天保四年)十月、余が妹の夫・桑原毅卿、職を轉じて、將に京師に徙らんとし、家累を提携して、常(常陸)より武(武藏)に來り、暫く江戸に寓す。西上、日有り、來りて別れを告ぐ。余、因つて之に謂ひて曰く、神聖の道、明かならざること久し矣。豪傑の士、孰れか經に反し本を務め、綱常を扶植するを欲せざる者あらん。且つや也、丈夫生じて、四方の志有り。亦た孰か遊歴跋渉して、志氣を恢弘せんと欲せざる者あらん。而れども形ち格(きはま)り勢ひ禁じ、遂に其の志を獲ざる者、往往皆な是なり。今、子(毅卿)、千里上途し、名山を攀ぢ、大川を渉り、奇聞、必ず極め、壯觀、必ず盡し、京畿を周旋し、親しく皇都の尊嚴を欽仰し、愈々神州の宇宙に秀出する者、萬萬なるを知り、常陸の學を以て、諸れを京畿の儒に徴し、以て淵源の偶然ならざるを明かにす。豈に偉ならずや哉。

 抑も亦た説有り。凡そ天下の事、長短齊しからず、得失相半す。余の聞く所を以てすれば、京畿の俗、其の外、雍容閑雅、而して其の内、寧靜沈懿、事に敏く業に勤む、是れ其の長とする所なり。而れども財を嗜み利を射、氣力卑弱にして、自ら振ふ能はず、是れ其の短とする所なり。常陸の風、慷慨激烈、進取に鋭にして、敢爲に勇む、是れ其の得とする所なり。而して懶惰□[鹿+鹿+鹿。そ]豪、研精の功を虧(か)き、固陋自ら足り、汎愛の意に乏し、亦た其の失とする所なり。嗚呼、天下の國體を辨へ名分を知る者、寥寥として已に希(まれ)なり。其の幸ひにして僅かに有る者も、亦た二者の弊を免れず。今にして變通の術無くんば、則ち茫茫たる宇宙、孰か神州の重きと京師の尊きとを知らん。憂ふ可きの甚だしきに非ざるか歟。

 今、子、苟くも能く一意切磋し、其の長とする所を推し、以て京畿の人に及ぼし、又た其の短とする所を務め、優柔□[厭+食。えん]飫、久しうして已まず、他日、郷に歸り、幸ひにして其の得る所を以て吾輩に頒たば、則ち豈に啻に京畿と常陸とのみならず、或は子の賜を受け、所謂る志士仁人、慨然奮勵、大道を保護せんとする者、其れ亦た以て庶幾ふ可き也。豈に愉快ならずや哉、豈に愉快ならずや哉。毅卿、之を聞き、謙遜、肯へて當らずとす。而れども其の色、蓋し其の意に適ふ者有り。毅卿、學を嗜み、夙に奇節有り。初め礫川の邸(水戸藩の江戸小石川の上屋敷)に在り。辛卯の秋、水戸に徙り、今ま又た斯の行有り。升平の久しき、安居を常と爲す。千里、居を徙すも、亦た常情の難しとする所なり。毅卿、家、素より貧、不幸にして疾病事故、相屬(つ)ぎ、加之(しか)のみならず三年の間、乍(たちま)ち東し乍ち西するも、亦た勞せずと爲さず。宋人李綱、言へる有りて曰く、『身を謀るの智の周ねき者は、君を愛するの仁薄く、國を圖るの計の至れる者は、身を保つの術に疏し』と。余を以て毅卿を觀れば、其の一身に於ける、何ぞ其の術の疏き。而して其の智の周ねからずや也。蓋し亦た必ず將に厚く且つ至る者有らんとす。別れに臨むの言、長からざるを得ざる所以ん也」と。


●東湖先生『迪彜篇の序』に曰く、「

 寰宇の廣き、仁厚威靈、神州より尚きは莫く、人類の衆き、大義鴻恩、君父より隆んなるは莫し。此れ愚夫愚婦の知り易き所、奚ぞ多言を俟たん。抑も狡謀詭計を逞しうするに至りては、則ち夷蠻の邪氣、或は以て神州の威靈を間(うかゞ)ふに足り、亂賊の詐術、亦た或は以て君父の恩義を奪ふに足る。此れ愚夫愚婦の惑ひ易き所、而して利害得喪、死生禍福の變に臨みては、則ち世の所謂る才臣智士も、亦た或は首鼠兩端を持し、不測の禍、由て以て構ふ焉。豈に深慮せざる可けんや哉。

 我が友・會澤伯民(正志齋)、斯に憂へる有り。嘗て『新論』若干卷を著し、以て天下の大計を述ぶ。斯の篇の若きは、蓋し其の緒餘のみ耳。然れども其の愚夫愚婦の知り易き所を推廣して、禍變を未萠に銷(け)さんと欲する所以の者、深切著明と謂ひつ可し矣。

 恭しく惟ふに、神州は、武を以て基を建つ。夫の文物の盛んなる若きは、則ち西土周孔の教へに資る者、尠からず。今や也、西土、既に胡元に沒せられ、又た滿清に陷れらる。所謂る膺懲の訓へ、尊攘の義、徒爾、諸れを空言に付す。加之(しか)のみならず堅昆丁零(英露)の類ひ、古人の一小夷視せし者、往往傲然として坤輿の半ばに跋扈す。宇内の變、亦た大なり矣。獨り赫々たる神州、寳祚の隆んなる、萬世、自若たり。上下の分、内外の辨、嚴乎として易ふ可からず。則ち彼の諸れを空言に付する者(即ち支那なり)、我れ安ぞ擧げて諸れを實事に施さゞるを得ん。迪彜篇の作、其れ已む可けんや乎哉。

 天保壬寅(十三年)至日、水戸の藤田彪、梅巷東湖書屋に書す」と。

  • [10]
  • 爲政の本は、正名に在り矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月25日(水)23時20分46秒
  • 編集済
  • 返信
 
●『論語』子路篇に曰く、「

 子路曰く、『衞の君、子(孔先生)を待ちて政を爲さば、子、將に奚(なに)をか先にせんとする』。子の曰く、『必ずや也、名を正さんか乎』。子路曰く、『是れ有るかな哉、子之迂なる也。奚ぞ其れ正さん』。

 子の曰く、『野なるかな哉、由(子路)や也。君子は其の知らざる所に於ては、蓋し闕如す也。名正しからざれば、則ち言順はず。言順はざれば、則ち事成らず。事成らざれば、則ち禮樂興らず。禮樂興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば、則ち民、手足を措くに所ろ無し。故に君子の之に名づくるや、必ず言ふ可き也。之を言へば、必ず行ふ可き也。君子は其の言に於ては、苟くもする所ろ無きのみ而已矣』」と。



●幽谷藤田一正先生『正名論』に曰く、「

 甚しいかな矣、名分の天下國家に於て、正且つ嚴ならざる可からざるや也、其れ猶ほ天地の易ふ可からざるがごときか邪。天地有り、然る後に君臣有り。君臣有り、然る後に上下有り。上下有り、然る後に禮義、措く所ろ有り。苟くも君臣の名、正しからずして、而して上下の分、嚴ならざれば、則ち尊卑、位を易へ、貴賤、所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴(そこな)ひ、亡びんこと日無からん矣。故に孔子の曰く、『必ずや也、名を正さんか乎。名正しからざれば、則ち言順ならず。言順ならざれば、則ち事成らず。事成らざれば、則ち禮樂興らず。禮樂興らざれば、則ち刑罰中らず。刑罰中らざれば、則ち民、手足を措くに所ろ無し』と。周の方(まさ)に衰ふるや也、強覇、更(かはるがは)る起り、列國、力爭し、王室、絶えざること□[糸+戔。いと]の如きも、猶ほ天下の共主爲り。而して孔子、『春秋』を作り、以て名分を道(い)ひ、王にして天と稱し、以て二尊無きを示す。呉楚、王を僭すも、貶して子と稱す。王人(王族)微なりと雖も、必ず諸侯の上に序す。其の名を正し、分を嚴にする所以に惓惓たる(懇ろに心を致す)者、一にして足らず。故に曰く、『天に二日無く、土に二王無し』(『禮記』曾子問・坊記・喪服四制および『孟子』萬章上)と。一に統ぶるを言ふ也。

 蓋し嘗て古今治亂の迹を觀るに、天命、常靡(な)く、徳に順ふ者は昌んに、徳に逆ふ者は亡ぶ。傑・紂は至暴也、湯・武は至仁也。仁を以て暴に易へ、天下の爲に殘賊を除くこと、猶ほ一夫を誅するがごとし(『孟子』梁惠王下)。而も湯、徳に慙づること有り(『書經』商書仲□[兀+虫]之語)。武、未だ善を盡さず(『論語』八□[人+八と月])。商書の載する所、魯論の記す所、豈に誣(し)ひんや也。文王、西伯(西方の覇主・大名)と爲り、殷の叛國を帥ゐ、以て紂に事ふ。詩人、之を稱して曰く、『王室、燬(や)くが如し。則ち燬くが如しと雖も、父母、孔(はなは)だ邇(ちか)し』(『詩經』周南)と。又た曰く、『赳赳たる武夫、公侯の干城』と。夫れ紂の惡を播(し)く、火の原に燎(も)えて□[郷+向。むか]ひ邇づく可からざるが如し。文王、徳を樹て、民を視ること、猶ほ赤子のごとし。而して民、之を愛戴す。然れども猶ほ王室と曰ひ、公侯と曰ひ、文王と紂との事に當つ。其の名分の正且つ嚴なるや也、此の如し。孔子の曰く、『天下を三分し、其の二を有ち、以て殷に服事す。周の徳、其れ至徳と謂ひつ可きのみ也已矣』(『論語』泰伯)と。之に由つて之を觀るに、聖人の意、知る可し矣。

 赫赫たる日本、皇祖、國を開きたまひし自り、天を父とし地を母とし、聖子神孫、世々明徳を繼ぎ、以て四海を照臨したまふ。四海の内、之を尊んで天皇と曰ふ。八州の廣き、兆民の衆き、絶倫の力、高世の智有りと雖も、古より今に至るまで、未だ嘗て一日として庶姓、天位を奸す者有らざる也。君臣の名、上下の分、正且つ嚴なる、猶ほ天地の易ふ可からざるがごとき也。是を以て皇統の悠遠、國祚の長久、舟車の至る所、人力の通ずる所、殊庭絶域(=遠隔地)、未だ我が邦の若き有らざる也。豈に偉ならずや哉。

 然りと雖も天下の久しき矣、世に治亂有り、時に盛衰有り、中葉以來、藤氏、權を專らにす。其の幼主を輔くる、號して攝政と曰ふ。然れども特だ其の政を攝するのみ而已。其の位を攝するに非ざる也。政を天子に還したてまつるに及んでは、則ち號して關白と曰ふ。萬機の政、其の人に關(あづか)り白(まう)する也。是れ皆な上の命じたまふ所、敢へて僭號を爲すに非ず。而して天子埀拱の勢、亦た由來有り矣。鎌倉氏の覇、府を關東に開き、而して天下兵馬の權、專ら焉れに歸す。室町氏の覇、輦轂の下に據り、而して驩虞(=歡樂)の政、以て海内に號令し、生殺賞罰の柄、咸(ことゞゝ)く其の手に出づ。威稜の在る所、加ふるに爵命の隆んなるを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、攝政・關白、名有りて實無く、公方の貴、敢へて其の右に出づる者無し。則ち武人、大君爲るに幾し矣。豐臣氏、天歩艱難の日に當り、身、匹夫より起り、覇主の業を致し、天子を挟(さしはさ)み、以て諸侯に令し、長策を振ひ、以て城中に驅使し、遂に藤氏關白の號を奪ひ、而して之を有つ矣。其の強□[武+虎。ばう。猛々し]、既に此の如し。而も猶ほ臣禮を執り、以て皇室に事へまつり、敢へて自ら王と稱せざる者は、名分の存するを以ての故ゑ也。名分の存する所、天下、之を仰ぐ。強覇の主、西滅東起、而も天皇の尊、自若たり也。東照公、戰國の際に生れ、干戈を以て海内を平定し、殘に勝ち殺を去り、皇室を翊戴し、征夷大將軍を以て東海に奠居し、四方を控制し、天下を鎭撫す。文子文孫、世々先烈を光(かゞや)かし、尺地一民、歸往せざる莫し焉。君臣の名、正しくして、上下の分、嚴なり。其の至徳爲る、豈に文王の下に在らんや哉。

 古の聖人、朝覲の禮を制す。天下の人臣爲る者を教ふる所以ん也。而して天子至尊、自ら屈する所ろ無きも、則ち郊祀の禮、以て上天に敬事し、宗廟の禮、以て皇尸に君事す。其の天子と雖も、猶ほ命を受くる所ろ有るを明かにする也。聖人、君臣の道に於て、其の謹むこと此の如し。而るに況や天朝開闢以來、皇統一姓、之を無窮に傳へ、神器を擁し寶圖を握り、禮樂舊章、率由して改めず、天皇の尊き、宇内、二無し。則ち崇奉して之に事へるは、固より夫の上天杳冥、皇尸、戲に近きが若き(件の支那の禮)の比に非ず。而して天下の君臣爲る者をして則を取ら使むれば、焉れより近きは莫し(天皇を仰ぎ奉ること、是れ即ち天照大御神を崇敬することなり)。是の故に幕府、皇室を尊びまつれば、則ち諸侯、幕府を崇め、諸侯、幕府を崇むれば、則ち卿大夫、諸侯を敬ふ。夫れ然る後に上下相ひ保ち、萬邦協和す。甚しいかな矣、名分の正且つ嚴ならざる可からざるや也。

 今ま夫れ幕府の天下國家を治むるや也、上に天子を戴きまつり、下に諸侯を撫づ。覇主の業也。其の天下國家を治むる者は、天子の政を攝する也。天下埀拱、政を聽きたまはざること、久し矣。久しければ、則ち變じ難き也。幕府、天子の政を攝する、亦た其の勢のみ爾。異邦の人、言へる有り、『天皇、國事に與(あづ)かりたまはず、唯だ國王(將軍)の供奉を受けたまふ』と。蓋し其の實を指す也。然りと雖も、天に二日無く、土に二王無し。皇朝、自ら眞天子有り。則ち幕府、宜しく王と稱すべからず。其の天下國家を治むるは、王道に非ざる莫き也。伯にして王たらざるは、文王の至徳爲る所以なり。其の王にして覇術を用ゐると、其の覇にして王道を行ふと、曷若(いづれ)ぞ。日本、古へより君子禮義の邦と稱す。禮は分より大なるは莫く、分は名より大なるは莫し。愼まざる可からざる也。夫れ既に天子の政を攝す。則ち之を攝政と謂ふ。亦た名正しくして、言順ならずや乎。名正しく言順なり、然る後に禮樂興る、禮樂興り、然る後に天下治る。政を爲す者、豈に名を正すを以て迂なりと爲す可けんや也乎哉。

 寛政三年辛亥十月、時に年十八」と。



 愚案、幽谷先生、齡ひ十八、主席老中たる樂翁松平定信侯の求めに應じた所の論文にして、嘗て神童の稱、溢美に非ず。政治は、西洋に於ては主として之を力と觀じ、支配階級が抑壓する權力と考へるのであるが、東洋に於ては、之を世の中の秩序を正す道徳を云ふに他ならず、かくて政治の本義骨髓は、一に名を正すに在り矣。即ち天皇陛下には、如何に實權より遠ざかり給ふとも、天皇至尊に坐しまし、將軍、如何に權勢を誇つてをらうとも、あくまで臣下官僚に過ぎざるが故に、將軍は、國王・大君・公方と稱すべからず(足利義滿・義政・新井白石が朝鮮へ遣す國書等の如き)、或は呼ぶべからず(荻生徂徠・太宰春臺等の如き)、寧ろ正しく攝政と謂ふべきである。『其の勢のみ爾』の「爾(のみ)」の一字深し、能く洞察を要する。此の變態は「勢」であつて、皇國の國體よりすれば、原則としては絶對に許し得ざる所、一般に將軍あるを知つて、天皇おはしますを知らざる當時、其の深意、實に至重至大である。堂々たる所論、眞に國體に徹して、恐るゝ所なく現實を批判し、將來の向ふべき所を明かにせられたものと謂ふべく、こゝに義公の精神を承けた所謂水戸學の本領と、明治維新に對する偉大なる貢獻を見るのである。義公を呼び醒まし、再び日本學を興起せる所の幽谷先生、實に偉なる哉、切に仰ぐべし矣。

  • [9]
  • 夷を攘はんとせば、則ち宜しく尊王より始むべし。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月17日(火)23時31分52秒
  • 編集済
  • 返信
 
●紫灘眞木和泉守保臣先生『道辨』に曰く、「

 天の覆□[巾+壽、たう]し、地の持載するは、道也。人の兩間に立つは、道也。故に道無ければ、則ち天地無き也、人無き也。道、之を言に寓して、天下を治むる者は、堯舜氏、是れ也。道、之を物に寓して、天下を治めたまふ者は、天祖、是れ也。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友、之を物と謂ひ、親・義・別・序・信、之を言と謂ふ。故に言滅すれば、則ち道亡び、物衰ふれば、則ち道替(すた)る。彼の三代の盛んなる、漢唐の衰ふる、未だ嘗て言の得失に因らずんばあらず矣。蓋し道の明かにし難くして、言の煥(あきら)かにし易ければ也。天祖の教へを埀れたまふや也、一人を立て以て君と爲し、之をして三器を執りて天下を治めしめたまひ、天下億兆をして之を仰ぎ、其の爲したまふ所を觀、其の行ひたまふ所に由ら使めたまふ。而して親・義・別・序・信の實、日用の間に行はる焉。天歩の或は艱難有りと雖も、而も未だ嘗て君父を遺(わす)るゝ者有らざる也。

 蓋し道、常に物に寓して離れざれば也。然らば則ち道の益々明かならんことを欲すれば、則ち益々物を尊ぶに在り矣。夫れ戎虜の猖獗、近年、殊に甚し。屡々清國を侵し、今ま其の半を擧げ、而して漸く我を窺ふ。或は辭を卑うし、以て和親を講じ、或は兵を觀(しめ)し、以て交易を要む。而して狡謀、既に人を誑かすに足る。其の耶蘇教も、亦た人を惑はすに足る。故に其の人の國を取らんとするや、先づ其の君臣を破り、盡く之を奴隷とし、其の教化を壞(やぶ)り、皆な之を蕩滌(洗ひ除く、たうでう)し、人の耳目心思をして、利に一なら使む。混々沌々、醉ふて睡るが如く、睡りて夢みるが如く、一概、之を□[區に支。=驅、か]りて其の範圍を納れ、曉然として其の非を覺る者有りと雖も、而も耳目の觸るゝ所、心思の及ぶ所、既に舊世界に非ず、將(は)た焉(いづ)くに歸らんとするや哉。

 語に曰く、「中和を致し、天地位す焉」(『中庸』)と。天地の道も、亦た人を待ちて立つと謂ふ也。今や也、日月、光を喪ひ、彗星、數々見はれ、山崩れ海溢れ、天地の道を失ふや、甚し矣。而して之を致す者は、我也、戎虜に非ざる也。戎虜の其の慾を逞しうするは、猶ほ犬羊の食を爭ふがごとし。天、何ぞ之を責めん。特(た)だ我の華にして之を攘はず、天地をして此の如くなら使む。其の責を避くるを得ざる也。我にして夷を攘はんとせば、則ち宜しく尊王より始むべし。尊王は即ち物を尊び、道を明かにする所以ん也。我が天子は、物の大なるもの也。而して三器を執り以て天下に立つこと、此に萬斯年なり焉。固より大禍を經ると雖も、而も動かす可からざる者也。然りと雖も食と虧と(日蝕・月蝕)は、日月も亦た免る能はず焉。彼の戎虜の暴、大國(支那)、爲に傾き、上國(皇國)、亦た覆(くつがへ)る。我れ獨り彼の累する所と爲らざるを保つを得ざる也。而して今、天地の道を維持するは、宇内、獨り神州あるのみ焉。蓋し天地も、亦た神州に因て、其の道を掲げんと欲する也。而して神州、人民の衆き、兵卒の勇なる、今ま猶ほ古へのごとき也。彼の熾□[火+陷の右](しえん)を撲滅するも、亦た宇内、獨り神州有るのみ焉。然れば則ち上下、心を一にして、必ず當に此に從事すべきなり矣。

 特だ怪しむ、今天皇の聖にして武なる、屡々詔を下して夷を攘はしめたまふ。然るに幕府、之を奉ぜず、諸侯、之に應ぜず。而して幕府の之を奉ぜざるは、彼の誑かす所と爲りて、論ずるに足る無き者、特だ其の諸侯なる者は、或は國富み兵強く、而して其の君、明且つ智なる者有り。然り而して默して言はず、潛して動かず、彼の白日人を殺し、眼前地を掠むを視て、而も之を問はず。曰く、「時、未だ到らざる也、勢、未だ可ならざる也、祖先の國、輕擧す可ならざる也」と。殊に知らず、戎虜の恩惠、漸く敷き、我が民の心思、暗に移り、彼れ一旦機を見て動かば、則ち其の富み且つ強き者、彼の有つ所と爲るは知る可き也。其の所謂る祖先の國なる者、天下、既に擧げて、而して獨り其の全きを得る者、此れ其の理無し。何ぞ思は弗るの甚しきや也。

 昔は周室の衰ふる、其の天子を稱する者、小國の君より微かなり。然れども七國、猶ほ周の諸侯爲り。周滅し而して後、天下、始めて秦と號す。彼の道を言に寓すと雖も、其の物の尊きこと、亦た此の如し。況や道を物に寓するに於てをや乎。嗚呼、物衰ふれば、則ち道替る。道無ければ、則ち人無き也。豈に徒らに山川草木を指し、而して天下と謂はんや哉」と。



 愚案、空理空論・抽象概念(「言」)を、喋々、如何に唱ふると雖も、現實の「道」は明かにすることは出來ぬ。現實の君父を尊び、儼然として存する所の「物」を尊ばねばならぬ。即ち物の至貴至大なる、天皇陛下の稜威の衰へんか、既に倫理道徳なく、道義こゝに廢れて、眞の人なく、たゞ禽獸の跳梁跋扈を見るのみ。所謂る國土・人民・主權・承認の存するのみでは、猶ほ國家たり得ず、異國はいざ知らず、皇國は存し得ない。こゝに日本國の根本第一義が在ると謂ふべきである。皇國日本に於ては、天子坐しまして、初めて國家あり、國家ありて、初めて人ある所以である。絶對尊皇、即ち是れ我が道徳の大本にして、宇内の宗國、神州日本たる礎ゑである。



●紫灘先生『竊かに人を薩に遣はし、西郷吉之助に贈る書』(文久三年十月十一日附)に曰く、「

 全體兩間の勢、三百年已前とも違ひ、西洋夷賊、萬里の涛を渉り候うて、諸國呑噬仕り候ふ世界に相成り候うては、皇國も彌々以て平城已前に復し、朝鮮・滿清は勿論、南海諸島一般に、我の指揮に從はさせ申さず候うては、國威を四方に輝かし候ふ事、相成り申さず。國威、四方に輝かし申す可く候ふとならば、禮樂征伐、天子より出づるに之れ無く候うては、名正しく言順なる、出來申さず。極意、皇化を海外に敷き候ふに及び候うては、夷狄も國内に置き候ふ事、之れ有る可く、左樣、之れ無く候うて、禮樂も興らず、華夷雜糅候うては、天子の尊ぶ可き譯も、自然と消散致す可き道理に御座候ふ。

 儒學者の正敷き者にてさへ、君臣父子の道、古代の純粹、取失ひ候ふ事に御座候ふに、西洋の僻學流行仕り候はゞ、内、自ら夷に相成り、神代已來、屹度由緒、之れ有る帝室も、革命の風に陷り候ふ樣にも相成る可く、是等は過慮にも之れ有る可く候へ共、夷風の懼る可き事は、實は君子の意外に出で候ふ事、一に非ず候ふ」と。


●紫灘先生『大原左衞門督に呈する書』に曰く、「

 (紫灘)語りて曰く、自ら侮り、而して後ち、人、之を侮る。我の自ら侮らざれば、則ち彼れ、我を如何せん。然れば則ち攘夷の術は、惟だ自ら修むるに在り焉」と。


●高杉東行(晉作)先生『田中子復を送る序』に曰く、「

 余を以て之を觀るに、攘夷の第一策は、則ち天下の人心を一にするに在り。天下の人心、一なれば、則ち百萬の醜虜と雖も、懼るゝに足らず矣。人心、一ならざれば、則ち數十の軍も、亦た懼る可し」と。

  • [8]
  • 師道、其れ嚴なる哉。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月17日(火)23時30分12秒
  • 編集済
  • 返信
 
●吉田松陰先生『赤川淡水(思齋佐久間義濟)の、常陸に遊學するを送るの序』に曰く、「

 古昔盛時の學を爲すや、上は治教經藝の大より、下は歌章音樂の小に至るまで、師承する所ろ有らざるは莫し。是を以て能く其の舊を存し、其の故を守りて、失はざる也。鎌倉・室町を歴て、逆亂、相ひ尋ぎ、名教□[三水+斯。し]盡し、授受の義、徒らに之を曲學小數に寓すれども、而も亦た未だ嘗て失墜せざる也。徳川氏興りて、師道、稍(や)や盛んに、學術、日に闢け、英才、輩出す。而るに近日、讀書稽古の士、先輩を輕んじ、師儒を慢ること、天下、皆な是なり。而して吾が藩、特に甚し。是にして止まずんば、吾は恐る、師道、地を掃ひ、名教、由つて存する無からんことを。是れ固より宏才篤學の士の、起つて之を振ふに待つ有る也。

 吾が友、赤川淡水は、齒ひ富み才足り、志高く氣旺んなり。蓋し後進の袖領也。傾(このご)ろ將に東のかた常陸に遊び、師を求めて之に從はんとす。夫れ常陸の學は、天下の推す所にして、其の老輩碩師は、皆な師承する所あり。今ま淡水、遠く往きて之に從ふは、固より以て其の學の蘊を盡さんと欲すれば也。嗚呼、淡水、師道を慢ること勿れ、私見を立つること勿れ。取捨去就、唯だ先生に是れ聽かば、則ち古道、及び難からざる也。吾れ小少より好みて書を讀み文を作ると雖も、未だ師承する所あらずして、自ら焉れを疑ふ。淡水、往きて、師を得て之に事ふれば、亦た幸ひに斯の言を以て之を質せ」と。


●松陰先生『講孟箚記』に曰く、「

 輕重を失ひ、本末を忘るゝ、亦た甚しと云ふべし。其の故は何ぞや。『從我』の二字に過ぎず。從我の心は、何より起ると尋るに、私欲のみ」と。



 愚案、松陰先生が、如何に水戸學に傾倒されたかを知ると共に、正しく所謂日本の學を修めむとする者が、傳統に對し、師範に對して、如何なる態度を執るべきか、師道の峻嚴なるを、我等に説き諭されたものとして、洵に貴ぶべき教訓である。日本學興隆の爲には、先づ此の敬虔無比なる態度に還り、我見これ尊しの私慾を祓ひ、こゝから出直さなければならぬ。況や皇國の大事に於いてをや。「師道を慢ること勿れ、私見を立つること勿れ。取捨去就、唯だ先生に是れ聽け」の言靈、音吐朗々、誦して餘りあるものがある。谷秦山先生『宮地介直に與ふる書』(享保元年五月二十五日附)に曰く、「惣じて日本の學、萬事、有ていに正直、少にても己をほこり、物をあなどり申す心、有るまじき也」と。又た『宮地介直に與ふ』(辛卯)に曰く、「師を更ふるの命、事、非常に出づ。『小學』に、「君・父と師と、一以て死を致して之に事へまつる。君・父は、天也、臣・子は、地也」と言へり。君・父は、改む可からざる也、師も、其れ改む可けんや乎」と。




●訥菴大橋正順先生『繼述舍説』に曰く、「

 學友、大洲の川田履道、其の舍に命じて「繼述」と曰ふ。諸れを『中庸』の語に採る也。余に徴して、其の説を作らしむ。余の曰く、「善いかな哉、履道の名を命ずるや也、期する所も、亦た大なり矣」と。

 夫れ孝は、徳の本也。百行、皆な此に淵源す。豈に忽諸にす可けんや。然り而うして遠近有り焉、小大有り焉。謹愼、以て其の命を奉じ、怡柔、以て其の顔せを承け、寢處は必ず之を安んじ、居動は必ず之を扶く。是れ皆な孝の近小なる者也。繼述に至りては、則ち聲名を不朽に傳へ、父祖を百世に顯揚せ使む。是れ孝の至大にして至遠なる者也。余、嘗て世の孝と稱する者を觀るに、率ね徒らに口體の養を致すに過ぎざるのみ矣耳。履道、獨り此に慊(あきたらざ)る者有り、卓然、繼述を以て自ら期す。則ち吾、豈に喜びて之を道(い)はざらんや哉。

 夫れ武王・周公は、古の聖人也。天縱の資を稟け、絶世の才を躬にす。顧みるに、其の繼述に於る、當に甚だ易かるべき也。乃ち猶ほ憂勤、夜以て日に繼ぎ、久しうして之を成す者は、何ぞや哉。蓋し其の父祖、皆な賢聖なるを以て然る也。今ま履道、殆んど此に類する者有り。乃祖・雄琴先生(履道の曾祖父)、篤學を以て四方に鳴り、爾後、世世、家風を墜さず。闔國、之を仰ぐこと山斗の如し矣。則ち其の之を繼述する、豈に亦た甚だ難からずや乎。而も履道、能く此に期する、其れ必ず見る所ろ有る也。請ふ、吾をして之を忖度せしめよ。其の心、純乎として愛たり矣、其の事、純乎として敬たり矣、而して和氣油然、四體に溢る。是れ繼述の本根に非ずや乎。忠恕、以て人を待ち、謙恭、以て己を處し、確乎として貴勢に就かず、治然として利祿に動く無し。是れ繼述の□[木+貞]幹に非ずや乎。進みて朝に在るや也、献(謀)を獻じ勳を策し、以て生靈を安靖んず、退きて家に居るや也、言を立て道を明かにし、以て後學を啓迪す。是れ繼述の英華に非ずや乎。夫れ然る後、聲名、不朽に傳ふ可く、父祖、百世に顯す可し矣。履道の見る所、其れ此に在るか乎。果して然らば則ち其の精神の到る所、何ぞ翅(たゞ)に善く繼ぎ善く述ぶるの難からざるのみならんや矣哉。光輝を古聖賢の迹に比するも、亦た得て期す可き也るのみ已。噫□[口+喜](あゝ)、其の志、大且つ遠なると謂ふ可し矣。

 抑も又た□[言+念。=深誡。つ]げんと欲する者有り焉。近きを棄てゝ遠きに□[務+馬。は]せ、小を忽せにして大に趨くは、吾人の通弊也。君子は則ち然らず。遠大を期する者は、皆な小勤を近きに愼まざる莫き也。夫れ親に事ふるは、和を以て先と爲す。而るに履道、蓋し肅敬、餘り有り、而して温潤の氣、少なき者か歟。苟くも是を之れ攻めず、而して徒らに繼述の遠大を期すれば、則ち安くんぞ其の繼述の繼述爲らざるを知らんや乎哉。語に曰く、「遠きに行くは、必ず邇き自りし、高きに登るは、必ず卑き自りす」(『中庸』)と。履道、庶幾はくは、其れ之を察せよ哉」と。



 愚案、家を繼ぐと云ふは、財産を相續することのみでは、固より無い。其の本義は、父祖の精神、家風を繼述すること、即ち是である。訥菴先生、件の全篇、是れ孝の眞義を發揮し、繼述こそ、眞の孝なるを道破された。而して其の根本は、和氣油然・謹愼怡柔に在り矣。

 藤田東湖先生、安政二年の大地震の爲に孝死され、橋本景岳・吉田松陰兩先生、相ついで安政五年に、赤鬼の爲に殺された後、天下の志士の中心として、王政復古を指導せられたのは、實に大橋訥菴先生であり、次いで眞木紫灘先生が「『大日本史』、恐ろ敷く候ふ間、此の節は、見事、戰死の積りに御座候ふ」(『木村三郎に與ふ』文久三年十月二十日附)とて起ち、其の後を繼いだのは、松陰先生の門弟ならびに大西郷であつた。擧族殉皇の道を、訥菴先生自ら實踐され、承久の和氣家・水無瀬家、建武の北畠家・楠家・新田家・菊池家・名和家等に倣はれたのである。

 此の一篇は、今日一般に傳統を無視して、徒らに己の獨創を誇り、又た己が魂の修練を忘るゝの弊に對し、反省懺悔の機を與へ、匡救修身の縁となるものである。吾人、亦た先哲の純日本精神を繼承祖述し、以て皇民の家風、即ち忠信禮義の良風美俗を興す可く、存養鍛錬を怠らざる覺悟を新たにし、擧族殉皇の精神を恢弘しなければならぬ。

 次に紹介する「送序」は、東洋政治學の根本を説諭し、それが修身に在ることを明示し、其の方法を論じたものとして、最も切實にして尊重すべきものである。今日、西洋政治學に蹂躙された皇國が、再び眞の日本に復古する爲に深く味はひ、更に皇國政治學の確立に邁進せねばならぬ。人の性が善なることは明かである(性の惡ならば、神聖、決して出現せず。夫れ心は神明の舍、人は本と神なる所以なり)が、教育には、性惡として臨まねばならぬ。氣質は百人百色、こゝに賢凡の別が存する。其の氣質の惡しき所を矯正することが、學問の最も肝要なる所、氣質の變化にこそ、辛苦勉勵しなければならぬ。

 現在の教育は、果して如何。氣質個性を伸ばすことを最重要としてゐるが如くであるが、傳統と相ひ隔たること、萬里である。顧みて吾れ惡しと思はぬ者は、正學から遠き者であり、少しでも惡しと思ふ所あれば、直ちに矯正すべしと爾か云ふ。


●訥菴先生『肝付毅卿(海門肝付兼武。先生が思誠塾の塾頭)を送る序』に曰く、「

 今の學者、四方を歴遊するに、必ず贈言を諸家に募りて、數十篇を累ねざる莫し。之を叩けば、則ち曰く、「吾れ將に益を人に資らんとする也」と。是を以て未だ嘗て之に進むるに、規言を以てせずんばあらず。乃ち其の人を觀るに、終ひに能く服行する者有る無し矣。蓋し余輩、口舌に騰(のぼ)すの致す所に由ると雖も、抑も亦た以て其の人に、眞の志し無きを見るに足る。揄揚(稱揚、譽め上げる)の言を得て、人に示さんと欲するに過ぎざるのみ也耳。

 肝付毅卿は、薩摩の人也。來りて江都に學ぶこと數年、其の人、經濟(經世濟民)に志有り。居常、功名(事業を成す等、形に現るゝもの)を喜び、好みて時務を談ず。歳の三月(嘉永三年)、將に東方諸州に遊ばんとす。自ら云ふ、「吾れ艱苦を經て、以て錬磨せんと欲する也」と。來りて一言を余に屬す。余の曰く、

 噫、毅卿、亦た時流の爲す所を學ぶか乎。無用の擧と謂ふ可し矣。然れども其の請ふ所以を考ふるに、則ち或は實に益を人に資らんと欲する者か歟。夫れ經濟とは何ぞ、國家を裁制する也。國家は必ず身に原づく(修身・齊家・治國・平天下の序)。身は必ず心に原づく。而して心は、則ち之をして靈明洞徹なら使む。是れ其の大本也。苟くも力を此に竭さず、徒らに彼の遠き者、大なる者(治國・平天下)に志すは、猶ほ之れ基礎を棄て、以て崇閣を構ふるがごときのみ耳。安(いづく)んぞ其の萬一を成すを得んや哉。後世、此の義、明かならず、經濟を談ずる者は、措置の末(區々たる政策)に拘々たるのみ而已。聖賢の心法を視ること、贅旒(ぜいりう。旗に埀るゝ房の類=無用の長物)の如し。偶々吾が徒、其の本を論ずるを聞けば、則ち笑ひて曰く、「經生(經書を學ぶ書生)の腐談、寧(いづく)んぞ取るに足らんや」と。是に於てか乎、俊捷なる者は陷りて輕浮と爲り、逢迎諂諛、唯だ其れ售らんことを是れ求め、粗毫なる者は、流れて任侠と爲り、君相を詬罵し、時俗に牴牾し、詭論激行、至らざる所ろ靡し。吁、本を務めざるの弊、亦た甚し矣。

 今ま毅卿も、亦た經濟に志す者也。而して艱苦を經て、以て此の業を錬磨せんと欲す。已に時流に同じからず、則ち其の言を請ふ。亦た必ず時流の意に異ならん矣。豈に之に進むるに規言を以てせざる可けんや哉。夫れ學の要は、氣質を矯むるより先なるは莫し。氣質は、固より一なる能はず。必ずや也、其の偏を矯めて、之を中正に歸す。此れ大本を立つるの道也。毅卿、功名を喜ぶと雖も、而も輕浮に陷らず、時務を談ずと雖も、而も逢迎を爲さず。但し其の人爲り粗豪にして、其の弊、詭激を免れず。宜(むべ)なるかな乎、艱苦を經て、以て錬磨せんと欲するや也。余、請ふ、其の方を陳べん。言語は必ず寡默、動履は必ず鎭靜、人、之を犯して動ぜす、人、之を笑ひて恚(いか)らず、浮躁を去りて醇厚に就く。是の如きなるのみ已。誠に能く此に循矩し、朝たに乾(つと)め夕べに□[立心+易。うれ]へ、厭はず懈らずんば、則ち習ひ性と成り、然るを期せずして然らん。之を行旅に譬ふるに、其の始めや也、峻峰に攀ぢて喘(あへ)ぐ焉、狂瀾を歴て眩(めくりめ)く焉。然り而して勇往、輟(や)まず。其の極や也、氣充ち體壯んに、峻峰狂瀾を視ること、平地の如し。而して天下、復た險阻無き也。毅卿、果して其の質を矯めんと欲せんか乎、跋渉の際、毎(つね)に余の言を以て自らに省みれば、則ち其の大本を立つるに於て、思ひ或は半ばに過ぎん矣。若し夫れ措置の法は、則ち末のみ焉耳。苟くも本立ちて之を攻むれば、刃を迎へて解けん。則ち其の經濟に於る、何の難きか、之れ有らん。嗟乎、力を本に竭さゞる可けんや哉。

 抑も余、又た感ずる者有り。余、毅卿に長ずること數歳、艱苦の境、經ざるに非ず也。聖學の奧、□[門+規。うかゞ]はざるに非ず也。而れども氣質の豪、未だ之を化する能はず。猶ほ且つ曉曉然(心に懼れる貌)として立本の方を論ず。其の毅卿に愧づるや也、多し。然りと雖も古人、言へる有り、「愚者も、一得無き能はず」(『晏氏春秋』)と。毅卿、幸ひに余を以て言を廢せず、能く其の質を矯め、以て其の大本を立つれば、則ち余も亦た相ひ觀て、以て資益せんと欲す。毅卿、往け矣。余、刮目して之を待たん。

 嘉永三年、歳は庚戌に在るの二月下浣(下旬)、江都なる訥菴大橋順、撰す」と。


●訥菴先生『所懷』に曰く、

君辱かしめられて臣死するは、是れ此の時、
狼眼虎額(夷狄)、來りて相ひ窺ふ。
廟堂一日、苟安の計、
八萬陣中(旗本八萬旗、即ち幕府)、男兒、無し。

  • [7]
  • 人間、自ら適用の士有り。天下、何ぞ爲す可き時無からん。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月15日(日)19時40分22秒
  • 返信
 
●景岳先生『笠原良策(白翁)に與ふる書』(安政三年四月十日附)に曰く、「

 洋學開闡を願ひ候ふも、畢竟、實功有益を志し候ふよりの事にて、決して事を好み名を求むるの學には候はず。‥‥實功有益に志し候ふ時は、古人の所謂『己の爲めの學』(『近思録』に曰く、「古の學は己の爲めにす、之を己に得んと欲する也。今の學者は人の爲めにす、人に知られんと欲する也」)と有成り申す可く、好事求名の念、勝ち候ふ時は、人の爲めにする學と相成り、出入順逆の相違、生じ申す可し。凡そ事の成否行塞、皆な爲己・爲人の上に決し申す可く候ふ。此の四字、能々御講究願ひ度く候ふ。殊に經濟有用に心懸け候ふ者は、兎角く人の爲めに働き候ふ樣、心得申し候得共、此は大なる間違ひ也。古へ聖賢の士・豪傑の士は、皆な己の爲めの學よりして、經濟有用を致され候ふ也。呉々も御内省願ひ度く候ふ」と。


●景岳先生『參政・中野靱負(雪江)に送りたる照會書』(安政三年四月二十六日附)に曰く、「

 但だ國是と申す者は、國家祖宗の時、既に成り居り候ふ者にて、後代子孫に在りては、其の弊を救ひ候へば、宜しき義に御座候ふ。子孫の代に在りて、別段、國是を營立すると申す例しもなく、道理もなし。祖宗とても、別に深智巧慮して御編み出し成され候ふにては之れ無く、但だ天地自然、一定の理に御基づき遊ばされ、時勢・人情を御斟酌在らせられ、衆人の心、一同趣向致し候ふ處を御考合せ成され、國是御立て遊ばされ候ふ也。‥‥

 元來、皇國は異邦と違ひ、革命と申す亂習・惡風、之れ無き事故、當今と申し候うても、直ちに神武皇の御孫謀・御遺烈、御恪守・御維持遊ばされ候うて、然る可き義と存じ奉り候ふ。但し右、申上げ候ふ通り、時代の沿革と申す者、之れ有り候得ば、神皇の御意に法り候ふ事、簡要にして、其の作爲制度に至り候うては、些少、換改・潤色、之れ無く候はんでは、叶ひ申さず候ふ。然れば神皇の御孫謀・御遺烈と申し候ふは、即ち人、忠義を重んじ、士、武道を尚び候ふ二ケ條に御座候ふ。此れ即ち我が皇國の國是と申す者に御座候ふ也。此の二ケ條、皇國の皇國たる所にして、支那の華靡浮大、西洋の固滯暗鈍に比し候得ば、雲泥の相違、神皇の御遺烈、必ず尚武重忠の四字に限り申し候ふ。‥‥

 實に尚武の風を、忠實の心にて守り候はゞ、風俗も益々敦重に相成り、士道も益々興起仕り、國勢・國體、萬邦に卓出仕る可く候ふ事、目前に御座候ふ。決して唐樣を慕ふにも及ばす、和蘭陀の眞似をするにも及ばざる可く存じ奉り候ふ。既に東篁(師の崎門學者吉田翁)論中にも之れ有り候ふ通り、忠實の二字は、萬世の龜鑒、百行の根本、此は寢ても醒ても忘却す可からざる義に御座候ふ。幸ひ此の忠實の二字も、我が國の得手物に候得ば、此の得手物を棟となし、彼の尚武と申す得手物を梁に致し候はゞ、如何なる大廈も建營申す可く、隨分、五大洲に武徳を耀し候ふ事も出來申す可き也。況んや彈丸黒子の北地(露西亞)に雄峙致し候ふ位は、論ずるに足らずと存じ奉り候ふ。國是の論は、此の外、一言も申し上ぐ可き事なし。右の趣き、反復御考斷下さる可く候ふ‥‥。大丈夫、憂ふる所は國家の安危、撰ぶ所は義の至當と不當とのみ耳、其の他は論ぜざる所なり」と。


●景岳先生『村田氏壽への書翰』(安政四年十月二十一日附)に曰く、「

 此の上は、何分、吾が神州も、從來、鎖國の法を、公然御改めに相成り、世界萬國と有無相通じ、吾が君臣、相敬相愛の風、國體、尊嚴至重の徳、及び士習、勇敢英勵の習ひを、彼等へも洞知せしめ、仁義の道・忠孝の教は、吾より開き、器技の工・藝術(技術)の精は、彼より取り候ふ樣に仕掛け候はゞ(重野成齋博士の、大西郷より聞く所に曰く、「器械・藝術、彼より取り、仁義・忠孝、我に存す」と)、彼等も、却つて吾に服膺致す可き場合に運ぶ可しとも察せられ候ふ」と。


●景岳先生『村田氏壽への書翰』(安政四年十一月二十八日附)に曰く、「

 方今の勢は、行く々ゝは、五大洲一圖に、同盟國に相成り、盟主相立ち候うて、四方の干戈、相休(や)み申す可く、相運び候はんと、存じ奉り候ふ。右、盟主は、先づ英・魯の内に之れ有るべく候ふ。英は慓悍貪欲、魯は沈鷙嚴整、何れ後には、魯へ人望歸す可く存じ奉り候ふ。

 偖て日本は、迚も獨立相叶ひ難く候ふ。獨立に致し候ふには、山丹(沿海州)・滿洲の邊、朝鮮國を併せ、且つ亞墨利加洲、或は印度地内に領を持たずしては、迚も望みの如くならず候ふ。此は、當今は甚だ六ケ敷く候ふ。其の譯は、印度は西洋に領せられ、山丹邊りは魯國にて手を附掛け居り候ふ。其の上、今は力足らず、迚も西洋諸國の兵に敵對して、比年連戰は覺束か無く候ふ間、却つて今の内に同盟國に相成り然る可く候ふ。然る處、亞國、其の外諸國は交り置き候ふも苦しからず候へ共、英・魯は兩雄竝び立たざる國故、甚だ以て扱ひ兼ね申し候ふ。‥‥

 人間、自ら適用の士有り。天下、何ぞ爲す可き時無からん。‥‥畢竟、日本國中を一家と見候ふ上は、小嫌猜疑には拘はる可からざるは、勿論に御座候ふ。‥‥何分、日本に於て、遠大の處置、之れ無くしては相濟まず」と。


●景岳先生『村田氏壽への書翰』(安政四年十二月二十七日附)に曰く、「

 外夷の一件、‥‥小拙は、大抵、所見、初めより一定致し居り候ふ積り。唯だ今後は亞墨を東藩となし、魯を兄弟と交り、歐巴を吾が互市場と致し候ふ略なくしては、此の□[サ+最]爾たる日本、持ち堪ふること覺束か無く存じ奉り候ふ。嗚呼、此の中の消息、誰と語らん。悲しいかな夫、悲しいかな夫」と。


●景岳先生『吉田松陰に贈る・七絶二首』(安政六年十月初旬)

曾て英籌を聽き、鄙情を慰む、
君に要む、久しく同盟を訂さんと欲す。
碧翁(ペリー)狡弄、何ぞ恨むを限らん、
春帆をして、太平に飄は使めず。
 人有り、嘗て君(松陰)が詩を傳へ云ふ、「昨夜太平の海、快風、布帆を馳す」と。故に轉結し及べり。

磊落軒昂、意氣、豪なり、
聞く、言へり、夫の君、膽、毛を生ず、と。
想ひ看る、痛飲、京城の夕べ、
腕を扼して、頻りに睨む、日本刀。


●吉田松陰先生『留魂録』(安政六年十月二十六日)に曰く、「

一、越前の橋本左内、二十六歳にて誅せらる。實に十月七日なり。左内、(江戸傳馬町獄舍)東奧に坐する、五六日のみ。勝保(勝野保三郎)、同居せり。後、勝保、西奧に來り、予と同居す。予、勝保の談を聞きて、益々左内と半面なきを嘆ず。左内、幽囚邸居中、『資治通鑑』を讀み、註を作り漢紀を終る。又、獄中教學・工作等の事を論ぜし由、勝保、予が爲めに是れを語る。獄の論(愚案、此の獄制論、今日に行はるゝ所なり)、大いに吾が意を得たり。予、益々左内を起して一議を發せんことを思ふ。嗟夫(あゝ)」と。


●寒林平泉澄博士『明治の光輝』(昭和五十五年五月・日本學協會刊)に曰く、「

 橋本左内は、即ち景岳、不世出の英傑であります。洋學に秀でて世界の大勢に明かであるのみならず、將來を洞察する識見は、眞に天才的であり、しかも皇國の國體を確信しては、道義の爲に一命を棄つるを本分とし、進退應接、すべて禮にかなひ、人格としては殆んど完全であつて、この人を非難しようとして缺點を捜すに、誰人が苦心しても、疵一つ見付ける事は出來ないでありませう。しかも幕府は、大老伊井直弼の獨斷によつて、此の天才を、その罪にあらずして斬罪に處しました。安政六年十月七日、年は二十六歳。水野筑後守は幕府の勘定奉行を勤め、當代に傑出した人物でありますが、深く此の刑罰をなげいて、『伊井大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり』と云つたと傳へられてゐます。しかるに明治十一年十月七日、(明治天皇)行幸、福井に御入りになりますと、直ちに橋本の死を悼まれまして、厚く祭粢料を御下賜になりました」と。


●寒林平泉澄博士『首丘の人――大西郷』(昭和五十七年六月・原書房刊)に曰く、「

 西郷を救ふ道があつたであらうか。一つある。西郷は、それを知つてゐた。西郷の不幸を救ふ爲には、西郷の心服し尊敬する人物で、同時に三條や岩倉、木戸や大久保の、誰よりも識見の高邁な指導者一人を必要とする。そのやうな人物があつたか。あつたのだ。橋本景岳が其の人だ。西郷は此の人に心服し、二十年も前に貰つた其の人の手紙を、二十年後の戰亂の間にも、手持ちの鞄に入れて携帶し、可愛嶽突破の際にも、城山最期の悲境にも、之を手離さなかつた(安政四年十二月十四日附・西郷宛景岳先生手蹟)。橋本は安政の昔に於いて、そのすぐれたる洋學の智識と、天才的睿智とを以て、世界の現勢を洞察して、日本國の外交方針を確立し、その實施の前提として、具體的に國内改革、國家總動員の案を立てた。岩倉や木戸・大久保の如く、明治五年・六年、初めて歐米を視て、段々考へるに至つた政治家とは、選を殊にするものと云つてよい。橋本にして明治の盛世にあひ、要地に在つたならば、諸豪を融和せしめて、政府の意見をまとめる事、可能であつたらう。

 若し橋本景岳にして、安政六年の大獄に、伊井の暴壓をのがれて、明治の御代まで生きながらへてゐたとすれば、此の人、年は若い、明治六年には四十歳、十年には四十四歳である。對韓問題による政府重臣の分裂も、西南戰役による雙方合せて三萬數千の戰死も、斯の人によつて救ひ得て、明治聖世の光輝は、更にその輝きを増したであらう。‥‥

 若し景岳にして、井伊の大獄に死せず、明治の大政に參與して居つたならば、當然參議の筆頭として、西郷・大久保兩雄を指導して、無用にして有害なる摩擦を避け、兩雄共に終りを全うせしめ得たであらう。‥‥

 西郷は、それ(明治六年の政變による下野)以後といへども、相手(大久保甲東)を憎み、それを排除しようと畫策し、努力した形跡は、一向に無い。そればかりでなく、相手に魂膽があり、謀略があるとして警戒した樣子も、更に無い。西郷には憎惡もなければ、恐れも無かつたらしい。その冀ふところは、僅かに殘る晩年を、皇威宣揚の爲に捧げたいとする一念のみであつた。私利私慾の片鱗も留めざる純忠の英傑西郷、斯の人にして天壽を保ち、長く君側に奉仕したならば、明治の光輝は、更に大きく、更に美しく、輝きわたつたであらう」と。

  • [6]
  • 先づは、稚心を去れ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月15日(日)19時36分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
 維新當時、一身を以て難局を荷ひし英傑、雲の如き中に於て、其の志操、其の識見、嶄然、群を拔く者、常陸に藤田東湖、越前に橋本景岳(左内)、長州に吉田松陰、筑後に眞木紫灘(和泉守)あり。いづれの御方も、幾百年かに出づる一人にして、明治維新の精神を指導せる先哲、以降百有餘年、之に比肩し得る先哲、即ち我々を正しく導き來り、其の行手を照らす皇國の柱石道標は、未だ出てをられぬやうです(平泉澄博士渾身の見識に依れり。水戸學・崎門學・素行學・國學てふ、所謂日本學の道統に列なる人)。實に彼の動亂の時代、斯くも此の如き賢哲神人が集中して、我が國史上に顯れ出でたるは、壯觀無類、正に天神地祇の經綸と申し上げる他ありますまい。皇國の道義、眞に嚴存光輝、今日、正學を知るを得て、明治復古を想見し、承久・建武を仰ぎ、而して直ちに神皇開闢・神武創業に想到して、平成の中今に於て爲す有らんとすれば、彼の方々の道統を師承景仰し、而して繼述展開する哲人志士に相違ないでありませう。

 景岳先生は、山崎闇齋先生の學問に其の根柢を養ひ、淺見絅齋先生の『靖獻遺言』を懷中から離さず、忠の一字を錬成して傳家の護身刀と做し、宋の岳飛の人爲りを慕つて自ら景岳と號し、殊に藤田東湖先生に心服して水戸學を吸收し、また本居宣長大人を敬つては櫻花晴暉楼と稱す。其の十五歳の時、偉人英傑の傳記を讀み、古人の言行節義を學んで、深く感奮興起され、自己の規範として、又た自らを鞭撻せむが爲に、彼の「稚心を去れ」から始まる『啓發録』を著して、其の所懷を披瀝された。武田耕雲齋の曰く、「東湖死后、又た一東湖を得たる心地なり」(『安政丙辰日記』)。大西郷の曰く、「心服するは、我が先輩に於ては藤田東湖、我が同輩に於ては橋本景岳に服す。才學・器識、吾輩の及ぶ所ならんや」と。下記は、嘉永元年、景岳先生の自筆原本から入力する。古來、十五歳の少年にして、かゝる大文章を艸した者は、殆んど其の類例を見ず、極めて貴重なるもの、轉々して田中光顯伯より、宮内省に獻納されたもの、正に國寶と謂ひつ可きであります。



●景岳橋本綱紀先生『啓發録』(御物。其の敍は、上記・第二に掲げたり。福井市立郷土歴史博物館史料叢書1・昭和五十四年十月増補改訂版)に曰く、「

去稚心

 稚心とは、をさな心と云ふ事にて、俗にいふわらべしきこと也。茶菜の類の、いまだ熟せざるをも稚といふ。稚とはすべて水くさき處ありて、物の熟して旨き味のなきを申す也。何によらず、稚といふことを離れぬ間は、物の成り揚る(完成する)事なきなり。人に在ては竹馬・紙鳶・打毬の遊びを好み、或は石を投げ蟲を捕ふを樂み、或は糖菓・蔬菜・甘旨の食物を貪り、怠惰安佚に耽り、父母の目を竊み、藝業職務を懈り、或は父母によしかゝる心を起し、或は父兄の嚴を憚りて、兎角く母の膝下に近づき隱るゝ事を欲する類ひ、皆な幼童の水くさき心より起ることにして、幼童の間は強て責むるに足らねども、十三四にも成り、學問に志し候ふ上にて、此の心、毛ほどにても殘り是れ有る時は、何事も上達致さず、迚も天下の大豪傑と成る事は叶はぬ物にて候ふ。源平のころ并びに元龜・天正の間までは、隨分十二三歳にて母に訣れ父に暇乞ひして、初陣など致し、手柄功名を顯し候ふ人物も之れ有り候ふ。此等はみな稚心なき故なり。もし稚心あらば、親の臂の下より一寸も離れ候ふ事は、相成り申す間敷く、まして手柄功名の立つべきよしは、これなき義なり。且つ又た稚心の害ある譯は、稚心除かぬ時は、士氣は振はぬものにて、いつまでも腰拔士になり居り候ふものにて候ふ。故に余、稚心を去るをもつて、士の道に入る始めと存じ候ふなり。

振氣

 氣とは、人に負ぬ心立てありて、恥辱のことを無念に思ふ處より起る、意地張の事也。振ふとは、折角く自分と心をとゞめて振立て振起し、心のなまり油斷せぬ樣に致す義なり。此の氣は、生ある者にはみなある者にて、禽獸にさへこれありて、禽獸にても、甚しく氣の立たる時は、人を害し人を苦しむることあり。まして人に於てをや。人の中にても、士は一番、此の氣強く之れ有る故、世俗にこれを士氣と唱へ、いかほど年若な者にても、兩刀を帶したる者に不禮を致さゞるは、此の士氣に畏れ候ふ事にて、其の人の武藝や力量や位職のみに畏れ候ふにてはこれなし。

 然る處、太平久敷く打續き、士風、柔弱佞媚に陷り、武門に生れながら武道を亡却致し、位を望み女色を好み、利に走り勢に附く事のみにふけり候ふ處より、右の人に負けぬ、恥辱のことは堪へぬと申す、雄々しき丈夫の心くだけなまりて、腰にこそ兩刀を帶すれ、太物(反物)包みをかづきたる商人、樽を荷ふたる樽ひろひよりもおとりて、纔かに雷の聲を聞き、犬の吠ゆるを聞ても、卻歩する事とは成りにけり。偖て々ゝ嘆く可きの至りにこそ。しかるに今の世にも、猶ほ未だ士を貴び、町人・百姓抔、於士(おさむらひ)樣と申し唱ふるは、全く士の士たる處を貴び候ふにて之れ無く、我が君の御威光に畏服致し居り候ふ故、據んどころ無く貌(かたち)のみを敬ひ候ふことなり。其の證據は、むかしの士は、平生は鋤鍬持ち土くじり(耕作)致し居り候得共、不斷に恥辱を知り、人の下に屈せぬ心逞しき者ゆゑ、まさか事有るときは、吾が大御帝、或は將軍家抔より、募り召寄せられ候へば、忽ち鋤鍬打擲ちて、物の具を帶して、千百人の長となり、虎の如く狼の如き軍兵ばらを指揮して、臂の指を使ふごとく致し、事成れば芳名を青史に埀れ、事敗るれば屍を原野に暴し、富貴利達、死生患難を以て、其の心をかへ申さぬ大勇猛、大剛強の處、之れ有るゆゑ、人々其の心に感じ、其の義勇に畏れ候へども、今の士は勇はなし、義は薄し、諜略は足らず、迚も千兵萬馬の中に切入り、縱横無碍に駈廻る事はかなふまじ。況んや帷幄の内に在て、籌を運らし勝を決するの大勳は、望むべき所にあらず。さすれば若し腰の兩刀を奪ひ取り候へば、其の心立、其の分別、盡く町人・百姓の上には出で申すまじ。百姓は平生骨折を致し居り、町人は常に職業渡世に心を用ゐ居り候ふゆゑ、今ま若し天下に事あらば、手柄功名は、却て町人・百姓より立て、福島左衞門大夫・片桐助作・井伊直政・本多忠勝等がごとき者は、士よりは出で申さゞるべきかと思はれ、誠に嘆かはしく存ずる。ケ樣に覺えのなきものに、高禄重位を下され、平生安樂に成置かれ候ふは、扨て々ゝ君恩のほど申す限りなきこと、辭には盡しがたし。其の御高恩を蒙りながら、不覺の士のみにて、まさかのときに我が君の恥辱をさせまし候ふては、返す々ゝ恐入り候ふ次第にて、實に寢ても目も合はず、喰うても食の咽に通るべき筈にあらず。

 ことさら我が先祖は國家へ對し奉り、聊かの功も之れ有る可く候得ども、其の後の代々に至りては、皆々手柄なしに恩禄に浴し居り候ふ義に候へば、吾々共、聊かにても學問の筋心掛け、忠義の片端も小耳に挟み候ふ上は、何とぞ一生の中に粉骨碎身して、露滴ほどにても御恩に報い度き事にて候ふ。此の忠義の心を撓まさず引立て、迹還り致さぬ樣に致し候ふは、全く右の士氣を引立て振起し、人の下に安ぜぬと申す事を忘れぬこと肝要に候ふ。去り乍ら只だ此の氣の振立て候ふ而已(のみ)にて、志立ぬ時は、折節、氷の解け醉のさむる如く、迹還り致す事、之れ有る者に候ふ。故に氣、一旦、振り候へば、方に志を立て候ふ事、甚だ大切なり。

立志

 志とは、心のゆく所にして、我こゝろの向ひ趣き候ふ處をいふ。侍に生れて、忠孝の心なき者はなし。忠孝の心、之れ有り候ふて、我が君は御大事にて、我が親は大切なる者と申す事、聊かにても合點ゆき候へば、必ず我が身を愛重して、何とぞ我こそ弓馬文學の道に達し、古代の聖賢君子、英雄豪傑の如く相成り、君の御爲めを働き、天下國家の御利益にも相成り候ふ大業を起し、親の名まで揚て、醉生夢死の者にはなるまじと、直ちに思付き候ふ者にて、此れ即ち志の發する所也。志を立るときは、此の心の向ふ所を急度相定め、一度び右の如く思ひ詰め候へば、彌々切に其の向きを立て、常々其の心持ちを失はぬ樣に持ちこたへ候ふ事にて候ふ。凡そ志と申すは、書物にて大に發明致し候ふか、或は師友の講究に依り候ふか、或は自分患難憂苦に迫り候ふか、或は憤發激勵致し候ふ歟の處より、立ち定り候ふ者にて、平生安樂無事に致し居り、心のたるみ居り候ふ時に立つ事はなし。志なき者は、魂なき蟲に同じ。何時迄で立て候ふても、丈ののぶる事なし。志、一度び相立て候へば、其れ以後は日夜逐々成長致し行き候ふ者にて、萌芽の草に膏壤(肥土)をあたへたるがごとし。古より俊傑の士と申し候ふ人とて、目四ツ、口二ツ之れ有るにてはなし。皆な其の志、大なると逞しきとにより、遂には天下に大名を揚げ候ふ也。世上の人、多く碌々にて相果て候ふは、他に非ず、其の志、太く逞しからぬ故なり。

 志立てたる者は、恰も江戸立ちを定めたる人の如し。今朝一度び御城下に踏み出し候へば、今晩は今莊、明夜は木の本と申す樣に、逐々先へ先へと進み行き申し候ふ者也。譬へば聖賢豪傑の地位は江戸の如し。今日、聖賢豪傑に成らん者をと志し候はゞ、明日明後日と、段々に其の聖賢豪傑に似合はざる處を取去り候へば、如何程、短才劣識にても、遂には聖賢豪傑に至らぬと申す理りはこれなし。丁度足弱な者でも、一度び江戸行き極め候ふ上は、竟には江戸まで到着すると同じき事なり。扨て右樣、志を立て候ふには、物の筋多くなることを嫌ひ候ふ。我が心は一道に取極め置き申さず候半では、戸じまりなき家の番するごとく、盗や犬が方々より忍び入り、迚も我れ一人にては、番は出來ぬなり。まだ家の番人は、隨分傭人も出來候得共、心の番人は、傭人は出來申さず候ふ。さすれば自分の心を一筋に致し、守りよくすべき事にこそ。兎角く少年の中は、人々のなす事、致す事に目がちり、心が迷ひ候ふて、人が詩を作れば詩、文を書けば文、武藝とても、朋友に鎗を精出す者あれば、我れ今日まで習ひ居たる太刀業止めて、鎗と申す樣に成り度きものにて、これは正覺取らぬ、第一の病根なり。故に先づ我が知識、聊かにても開き候はゞ、篤と我が心がに計り、吾が向ふ所、爲す所をさだめ、其の上にて師に就き友に謀り、吾が及ばず足らはぬ處を補ひ、其の極め置きたる處に心を定めて、必ず多端に流れて多岐亡羊の失なからんこと願はしく候ふ。凡て心の迷ふは、心の幾筋にも分れ候ふ處より起り候ふ事にて、心の紛亂致し候ふは、吾が志、未だ一定せぬ故なり。志定まらず、心收まらずしては、聖賢豪傑には成られぬものにて候ふ。何分志を立てる近道は、經書又は歴史の中にて、吾が心に大に感徹致し候ふ處を書拔き、壁に貼じ置き候ふか、又は扇抔に認め置き、日夜朝暮、夫を認め咏め、吾が身を省察して、其の及ばざるを勉め、其の進むを樂み居り候ふ事肝要にして、志、既に立て候ふ時は、學を勉むる事なければ、志、彌々ふとく逞く成らずして、動やもすれば聰明は前時より減じ、道徳は初の心に慚づる樣に成り行くものにて候ふ。

勉學

 學とは、ならふと申す事にて、總てよき、すぐれたる人の、善き行ひ、善き事業を迹付けして、習ひ參るをいふ。故に忠義孝行の事を見ては、直ちに其の人の忠義孝行の爲す所を慕ひ傚ひ、吾も急度、其の人の忠義孝行に負けず劣らず、勉め行き候ふ事、學の第一義なり。然るを後世に至り字義を誤り、詩文や讀書を學ぶと心得候ふは、笑かしき事どもなり。詩文や讀書は、右學文の具と申すものにて、刀□[木に覇、つか]鞘や二階の階梯の如きものなり。詩文讀書を學文と心得候ふは、恰も□[木に覇]鞘を刀と心得、階梯を二階と存じ候ふと同じ、淺鹵粗□[鹿三つ]の至りに候ふ。學と申すは、忠孝の筋と文武の業とより外には之れ無く、君に忠を竭し、親に孝を盡すの眞心を以て、文武の事を骨折り勉強致し、御治世の時には、御側に召使はれ候へば、君の御過ちを補ひ匡し、御徳を彌増しに盛んになし奉り、御役人と成り候ふ時は、其の役所役所の事、首尾能く取修め、依怙贔屓致さず、賄賂請謁を受けず、公平廉直にして、其の一局、何れも其の威に畏れ、其の徳に懷き候ふ程の仕わざをなし申す可き義を、平生に心掛け居り、不幸にして亂世に逢ひ候はゞ、各々我が居場所の任を果して、寇賊を討平げ、禍亂を克ち定め申す可く、或は太刀鎗の功名、組打ちの手柄致し、或は陣屋の中にありて、謀略を贊劃して、敵を鏖にし、或は兵糧小荷駄の奉行となりて、萬兵の飢渇致さず、兵力の減らざる樣に心配致し候ふ事抔、兼々修練致す可き義に侯ふ。此等の事を致し候ふには、胸に古今を包み、腹に形勢機略を諳んじ藏め居らずしては、叶はぬ事共多く候へば、學問を專務として勉め行ふべきは、讀書して吾が知識を明かに致し、吾が心膽を練り候ふ事肝要に候ふ。然る處、年少の間は、兎角く打續き業に就き居り候ふ事を厭ひ、忽ち讀み忽ち廢し、忽ち文を習ひ武を講ずといふ樣に、暫く宛(づゝ)にて倦怠致すものなり。此れ甚だ宜しからず。

 勉と申すは、力を推究め、打續き推遂げ候ふ處の氣味、之れ有る字にて、何分久しきを積み、思ひを詰め申さず候はでは、萬事、功は見え申さず候ふ。まして學問は、物の理りを説き、筋を明かにする義に候へば、右の如く輕忽粗□[鹿三つ]の致し方にて、眞の道義は見え申さず、中々有用實着の學問にはなり申さぬなり。且つ又た世間には愚俗多く候ふ故、學問を致し候ふと、兎角く驕謾の心起り、浮は調子に成つて、或は功名富貴に念動き、或は才氣聰明に伐り度き病ひ、折々出來候ふものにて候ふ。これを自ら愼み申す可きは勿論に候へども、茲には良友の規箴、至て肝要に候ふ間、何分交友を擇み、吾が仁を輔け、吾が徳を足し候ふ工夫、之れ有る可く候ふ。

擇朋友

 交友は、吾が連れ朋友の事にて、擇ぶとは、すぐり出す意なり。吾が同門同里の人、同年輩の人、吾と交りくれ候へば、何れも大切にすべし。去り乍ら其の中に損友・益友あり候へば、則ち擇ぶと申す事肝要なり。損友は吾に得たる道を以て、其の人の不正の事を矯め直し遣す可し。益友は吾より親を求め車を詢り、常に兄弟の如くすべし。世の中に益友ほど、有り難く得難き者はなく候ふ間、一人にても之れ有らば、何分大切にすべし。總て友に交るには、飲食歡娯の上にて附合ひ、遊山・釣魚にて狎合ひ候ふは宜しからず。學問の講究、武事の練習、侍たる志の研究、心合の吟味より、交を納れ申す可き事に候ふ。飲食・遊山にて狎合ひ候ふ朋友は、其の平生は腕を扼り肩を拍ち、互に知己知己と稱し居り候へども、無事の時、吾が徳を補ふに足らず、有事の時、吾が危難を救ひくれ候ふ者にてはなし。これは成り丈け屡々出會ひ致さず、吾が身を嚴重に致し附合ひ候ふて、必ず狎昵(かふぢつ)致し、吾が道を褻(けが)さぬ樣にして、何とか工夫を凝らして、其の者を正道に導き、武道學問の筋に勸め込み候ふ事、友道なり。扨て益友と申すは、兎角く氣遣ひな物にて、折々面白からざる事、之れ有り候ふ。夫れを篤と了簡すべし。益友の吾が身に補ひあるは、全く其の氣遣ひなる處にて候ふ。士に爭友有らば、無道と雖も令名を失はず(孝經)と申すこと、經に之れ有り候ふ。爭友とは、即ち益友也。吾が過ちを告げ知らせ、我を規彈致しくれ候ふてこそ、吾が氣の附ぬ處の落も缺も補ひくれ候ふ事、相叶ひ候ふなり。若し右の益友の異見を嫌ひ候ふ時は、天子諸侯にして、諫臣を御疎みなされ候ふ同樣にて、遂には刑戮にも罹り、不測の禍ひをも招く事あるべきなり。

 扨て益友の見立て方は、其の人、剛正毅直なるか、温良篤實なるか、豪壯英果なるか、逡邁明亮なるか、濶達大度なるかの五つに出ず。此等は何れも氣遣ひ多き人にて、世間の俗人どもは、甚しく厭棄致し居り候ふ者なり。彼の損友は、佞柔善媚、阿諛逢迎を旨として、浮躁辨慧、輕忽粗慢の生質ある者なり。此は何れも心安く成り易き人にて、世間の女子小人ども、其の才智や人品を譽め居り候ふ者なれども、聖賢豪傑たらんと思ふ者は、其の擇ぶ所、自ら在る所あるべし。

 以上五目、少年、學に入るの門戸とこゝろえ、書聯ね申し候ふ者也。

 右、余、嚴父の教を受け、常に書史に渉り候ふ處、性質疎直にして柔慢なる故、遂に進學の期なき樣に存じ、毎夜臥衾中にて涕泗にむせび、何とぞして吾が身を立て、父母の名を顯し、行々君の御用にも相立ち、祖先の遺烈を世に耀し度しと存じ居り候ふ折柄、遂々吾が身に解得致し候ふ事ども之れ有り候ふ樣、覺え申すに付き、聊か書記し、後日の遺亡に備ふ。敢て人に示す處にあらず。嗚呼、如何せん。吾が身、刀圭(醫者)の家に生れ、賤技に局々として、吾が初年の志を遂ぐる事を得ざるを。然れども所業は此に在りても、志す所は彼に在り候へば、後世必ず吾が心を知り、吾が志を憐み、吾が道を信ずる者あらん歟。

 右、啓發録は、今を距つること十許年前、余が手記する所也。其の言、淺近なりと雖も、當時を顧みるに、憤□[立心に兆]の奮ひ且つ□[勵の左。はげ]しき、反つて今日に及ぶ所に非ざる也。近頃偶ま舊□[竹に貢、かん=箱]を□[手に僉]して之を獲たり。因りて一本を淨寫して、愛友子秉(溝口辰五郎)及び弟持卿(橋本綱常)に示し、以て啓發の地と爲す。嗚呼、十年前、既に彼の如し。而して今日此の如し。則ち今ま自り十年の後、其れ將た何如ぞや乎。繙閲の間、覺えず赧然たり。丁巳皐月(安政四年五月)、景岳紀(綱紀)識す、時に年二十又四」と。

  • [5]
  • 『幽囚録』・『士規七則』・『七生説』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年 3月14日(土)18時57分7秒
  • 返信
 
●吉田松陰先生『某宛書簡』(安政六年正月十一日附)に曰く、「

 江戸居の諸友、久坂・中谷・高杉なども、皆な僕と所見違ふなり。其の分れる所は、僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り。去り乍ら人々、各々長ずる所あり。諸友を不可とするには非ず。尤も功業をなす積りの人は、天下、皆な是れ、忠義をなす積りは、唯だ吾が同志、數人のみ」と。


●松陰先生『高杉晉作宛書簡』(安政六年七月中旬)に曰く、「

 貴(東行)問に曰く、『丈夫、死すべき所、如何』。

 僕(松陰先生)、去冬已來、死の一字、大いに發明あり。李氏『焚書』の功多し。其の説、甚だ永く候へども、約して云はゞ、「死は好むべきにも非ず、亦た惡むべきにも非ず。道盡き心安んずる、便(すなは)ち是れ死所」。

 世に身生きて、心死する者あり、身亡びて、魂存する者あり。心死すれば、生くるも益なし、魂存すれば、亡ぶも損なきなり。又た一種大才略ある人、辱(はぢ)を忍びて事をなす、妙。又た一種私欲なく私心なきもの、生を偸むも妨げず。死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。僕が所見にては、生死は度外に措きて、唯だ言ふべきを言ふのみ」と。


●樞密顧問官正二位・野村靖(入江和作)子『吉田松陰先生の神髓』(日本及日本人臨時増刊『松陰號』第四百九十五號・明治四十一年十月・政教社刊に所收)に曰く、「

 先生の神髓を得る樣に語るが如きは、到底出來難い事である。況んや先生の傳記を書いて、其の精神面目を人に知らせようなど云ふ事は、絶對的不可能と云つても宜しい。夫れに就てかう云ふ事がある。先生の死後、間もない事であつたが、鹽谷宕陰の塾頭をして居た土屋蕭海、名は□[木+長]、通稱彌之助と云ふ男、餘程の文章家であつたが、松陰先生の傳を書くと云ふ事で、大分書きかけて居たのを、高杉晉作が見て、「何だ! こんな物を先生の傳記とする事が出來るか」と云つて、引裂き捨てた事があつた。其の後は國事多端の爲めに、先生の傳を作ると云ふ暇もなく打過ぎたが、御維新後に至り、相談の上、長三洲なら宜しからうと云ふ事で、材料等を見せたが、三洲は熟考して見て、之は到底自分の力で、先生の神髓を傳ふべき傳記を書く事は叶はないと辭退した。其の後、先生の傳記を作らうと企つる者もなく、托すべき人も見當らないで、今日に及んだ譯である。

 又、是迄、世の中には、時々松陰先生の傳の如きもの、行状の如きものを、所々方々で出版したのを見たが、是等は皆、何れも先生の精神面目を少しも現せるものなく、寧ろ先生の徳を汚すが如き、揣摩臆測を附記評論したものなどである。是に於て余は思ふに、特に□[木+掾の右。てん]大の筆を振ひ、高尚の議論を立てゝ、先生の傳記を作るの要はない。先生の偉大なる精神は、人力又は筆力を借るに及ばずして、自ら後世不朽に輝くものであるから、傳記とか碑文とかに依つて、人に知られるものとは、全然其の趣を異にして居ると信ずる。

 先生も亦た恐らくは、後人の手に成る傳記其の他に依つて、己れの精神を知られる事は好まれぬであらう。寧ろ自分の手に成りし議論・文章・詩歌・隨筆等の類に依つて、己れの精神面目の彷彿されることを喜ばれるだらうと思はれる。固より之が先生を知る上に於て、つまらぬ傳記等に優ること萬々なればなりである。加之、先生は、苟くも假の思想・無意味の考へを以て、筆を弄された事などは未だ甞てなく、其の文、其の詩、隨分澤山であつて、其の年月に比して、非常の數と云はねばならぬ。併しながら是等の一詩一文と雖も、皆な時に當り、事に處して、止むを得ずして筆を執り、必要に驅られて書かれたものであつて、殊更に之を作る等の事なく、元より之を以て名を賣り事を衒ふなどの考へは、微塵、夢にも思はれなかつた事である。‥‥

 先生の精神面目を知らんと欲するならば、余の話を聞くよりも、先生の、必要上より書かれた、至誠の凝結とも云ふべき先生の著書、『幽囚録』以下を熟讀する事が必要である。久しく先生に親炙せし余と雖も、到底口舌を以て、其の萬一をも説明する事は出來ない。『幽囚録』は、猶ほ左氏の『春秋』に於けるがごとし。何となれば、「余を罪するものも幽囚録、余を賞するものも幽囚録なり」とは、先生の常に自ら云はれた所である。‥‥

 先生は又た極く人情に篤き人であつて、人に接するに至つて温和であつたが、其の有情の極、無情の事を敢へてするを辭せなんだ。即ち大義の爲めには、同志を殺し、其の身を殺すも、平然たるものである。又た人に接する、甚だ温順なりしに拘らず、義理と正道以外は、一歩たりとも枉ぐる事がなかつた。而かも皆な己れより先んじて、實踐躬行せられたから、人、之を如何ともする事が出來なかつたのである。

 熱烈なる憂國の至誠の、致す所であつたらう。先生は朋友を求むる事、飢渇に迫るが如しと云つた風で、子供も大人も皆な同一に交際を結ばれたものである。先生、甞つて云はれるには、「自分は、酒を好まず、色を好まず、此の酒色に換ゆるに、朋友を以てしよう」と、實に其の通りに行はれて居た。

 先生は、先づ其の身を修むるに、『士規七則』(上記「第三・第四」參看)を作り、現に之を躬行された。又『七生説』(テーマスレ「楠公傳・第七」參看)を作つて、精神上の工夫を凝らされて居た。此の二者は、思ふに、先生、眞に心に蓄へ身に行ひ、棺を蓋ふ迄、一貫せられたものである。故に松陰門下の者は、皆な此の二者を經典として所持してをり、余の如きも今日に至る迄、常に座右を離した事はない。

 そこで始めに戻つて云ふが、先生の精神面目を畫き出さんとするには、特に先生の傳記等を作るよりも、此の『士規七則』・『七生説』を以てして、之を讀ましむるに優るものはなく、筆者、亦た此の上に出づる事は、到底出來なからうと思はれる」と。


●樞密顧問官正二位・品川扇洲(彌二郎)子『松下村實況談』(明治二十六年。『松陰號』第四百九十五號・杉浦重剛翁「松陰四十年」に所收)に曰く、「

 (松陰先生の曰く、)『歴史を讀むに、自ら歴史中の人物となるべし。楠氏を讀めば、正成の心持をして、此の事には如何に處するや、如何になせば宜しかりしやと、心を錬り、又た足利氏を讀めば、尊氏の心持をして讀むべし。尤も惡人を學ぶは忌むべきことなれども、其の境遇、其の位置に、己が身を置かざれば、心を錬ること能はず』と戒められたるは、常のことなりし。‥‥恰も(『國史略』)楠公討死の段にて、先生は涙を埀れて居られしが、此の僅か十二三歳の小供に教へらるゝにも、やはり斯くあるは、先生が常に謂はれるゝ如く、自ら其の境に在るの心して讀まるゝを以てなり。又た余が廿一史を授かりたる時、岳飛死し、金人、酒を酌んで喜ぶ段の時にも、先生、涙を埀れて滂沱たりし」と。


●天野御民翁『松下村塾零話』(明治三十年)に曰く、「

一、先生(松陰先生)、門人に書を授けるに當り、忠臣孝子、身を殺し節に殉ずる等の事に至るときは、滿眼涙を含み、聲を□[亶+頁。ふる]はし、甚だしきは熱涙點々、書に滴るに至る。是を以て門人も、亦た自ら感動して、流涕するに至る。又た逆臣、君を窘ますが如きに至れば、目眦裂け、聲大にして、怒髮逆立するものゝ如し。弟子、亦た自ら之を惡むの情を發す」と。


●『大西郷遺訓』(立雲頭山滿先生講評・大正十四年三月・政教社刊)に曰く、「

 思ひ出すのは、長州の白井■介(愚案、■は空白。討幕軍參謀從五位・飯山白井小助素行翁ならむか)といふお爺さんぢや。此のお爺さん、なかゝゝの豪傑で、山縣(含雪)でも三浦(觀樹)でも、小僧のやうに叱り飛ばしたものぢや。山縣なぞが、先輩の高杉東行や久阪玄瑞(江月齋久坂秋湖)のことを、『高杉がどうしたの、久阪がどうの』と、呼び捨てに話しをしてゐると、白井は眞赤になつて怒鳴りつける。

『貴樣らが、何ばし出來るごと、大ぎような口の利きやうをするな。高杉先生や久阪先生が死んでゐられるからいゝやうなものゝ、若し先生がたが生きて居られたら、末席にも出られたものぢやないぞヨ。貴樣らとは、元來人間の段が違うとるのぢや。先生らのお蔭でからに、少しばかり頭を持ち上げたからといつて、偉らさうに、「高杉が」、「久阪が」などと、呼び捨てにするなどは、怪しからぬ不心得ぢや。以後は氣をつけて、高杉先生、久阪先生と、チヤンと『先生』をつけて話をしろ。小僧の癖をして、失禮な口の利きかたをするなよ。』

と、ひどくきめつけたものぢや。‥‥

 南洲翁も、藤田東湖先生には敬服して居られたやうぢやのウ。維新の元勳とか何とかいふので、御一新の後、西郷が大立物として持て囃されて、一世の尊敬を受けられるやうになつてから、よく人に話されたさうぢや。

『今ま俺れが、少しばかりの手柄があつたからというて、皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るやうな氣がする。若し東湖先生や、久阪玄瑞その他の諸先輩が生きて居られたなら、到底、その末席にも出られた譯のものぢやない。それをあゝいふ先輩方が早く死なれた爲めに、俺のやうなものが、豪らさうにいはれるのは、恥しうてならぬ。』

と、話されたさうぢや」と。


●寒林平泉澄博士『明治の光輝』(昭和五十五年五月・日本學協會刊)に曰く、「

 私は平素、眞木和泉守の事蹟をしらべまして、その純忠至誠と、その雄才大略に、深く感嘆すると共に、世間が一向に此の偉人を知らず、和泉守の功績は、むくいられずに在る事を殘念に思つてをりました。それが久留米へ參りまして、眞木家をたづねました時に、次のやうな話を承りました。明治四十四年秋、明治天皇は陸軍の大演習御統監の爲に、久留米へ行幸になりました。御供の中に、乃木將軍がをられました。乃木將軍は丁寧に挨拶して、座敷へ通られましたが、座布團をおあてになる事なく、正座してをられました。人々はしきりに座布團をおすゝめしました。その時、乃木將軍は、之を斷つて、かう云はれました。

『こゝは、眞木先生の御家であります。乃木などが、座布團をしける所ではありませぬ。』

 何といふ謙虚な、つゝましやかなお心でありませうか。かやうな美しい心を、他の顯官榮爵の、誰に見る事が出來ませう。私は此の一語を、涙の出るほどに、有り難く尊く覺えるのであります。そして此の感動の故に、はからずも眞木家に於いて、乃木將軍にめぐりあつたやうな氣がするのであります」と。

  • [4]
  • 忠孝の道は、險難の一路。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年11月 3日(月)00時07分16秒
  • 返信
 
●谷秦山先生『炳丹録序』に曰く、「

 世の所謂眞儒、徒に中庸・時中の語を執り、深く造(いた)ること能ず。妄りに解するに時に諧ふを以てし、己の諛悦側媚の謀に便す。擧俗相ひ慣ひ、靡然として風を成す。余、竊かに懼るゝこと有り焉。因て繙閲有る毎とに、其の忠憤激烈、磊磊落落なる者を勾索し、且つ考へ且つ謄し、頃(このご)ろ積んで册を成す。題して『炳丹録』と曰ふ。蓋し諸れを朱子、「唯だ此の一念、炳然として丹の如し」の言に摘む也。

 夫れ子と爲て孝に死し、臣と爲て忠に死するは、乃ち天倫の常分、人道の大節、天地の間に逃るゝ所ろ無し矣。是を以て紀綱紊亂、風俗頽弊の朝に立てば、則ち謇謇諤諤、以て上、主聽を悟し、下、民生を保たずんばある可からざる也。流竄放謫、較べざる所に在り。國家顛覆、宗社、墟と爲るの秋に屬(あ)はゞ、則ち節に仗り義に死して、以て外、平日温飽の恩に酬ひ、内、人心本然の安きに就かずんばある可からざる也。刀鋸鼎□[金+獲の右]、辭せざる所に在り。是れ皆な臣子、當然の實務、貴賤、問ふ所に非ず、班列、顧みる所に非ざる也。古昔、箕子・比干といふ者有り、天子の貴戚也。又た伯夷・叔齊といふ者有り、海濱の褐夫也。倶に青史に鎭埀し、凛乎として萬世人道の大義を振ふ。其の功、特に此に在り。而して凡そ策書の傳ふる所、忠臣と曰ひ、義士と曰ひ、賢人と曰ひ、君子と曰ふ者も、亦た皆な是れのみ已。其れ然り也、正に當に天地と竝べ稱して人と曰ふべし。而して其の他は、同じく髮を戴き齒を含むと雖も、只だ是れ糞壤草木なるのみ也已。

 然りと雖も生死、事、大なり。苟くも義、以て其の私を制し、氣、以て其の決を致すに非ざるよりんば、未だ必ずしも變を歴、險を蹈んで、而して移らざる者有らざる也。蓋し義は精す可き也。其の方、知を致すに在り。氣は大にす可き也。其の術、志を持するに在り。其の傳、孟子の書に出で、其の説、朱子の言に詳かなり。諸れを窮むるを儒學と曰ひ、焉れに達するを眞儒と曰ふ。近世腐儒の云云する所と、其れ豈に絲髮の似たる有らんや也哉。

 今ま斯の一編、漢より明に至り、賢人君子、傾くを支へ躯を捐つる、義膽忠肝、頗る備はれり。方に當世の學者とともに講明するに好き者なり。然りと雖も夫の數君子、或は謫死し、或は餓死し、或は斬死し、或は妻子、□[サ+俎]醢せられ、或は父母、屠肉せられ、絶えて一箇の飽食、安居する者無き也。吁、是れ今日、滔滔の士、聞くことを樂しむ所ならむや耶。遂に繕寫して之を藏す」と。


●平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊/五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)に曰く、「

 忠孝の道、これ變轉窮りなき世に於いて、確立して曾て動搖せざるもの、我等のよりどころ、道徳の準則、之を措いて外なき事は‥‥。しかるに斯く言はゞ、人は此の二字、少年の日より耳に熟し目に飽くが故に、事、極めて淺近にして解し易く與みし易しとして、また多く意を之に用ひざるに至るであらう。あゝ、談、なんぞ夫れ容易なる。知らずや、忠孝の道は、これ一切の學問の、最後の歸趨なると共に、また一切の學問は、正にこれより出發して、其の最も險難なる道を攀ぢ、攀づること萬里、苦心慘憺、一生を費して、もとより容易に盡くすべからざるを。‥‥

 抑も忠孝の二字が、道徳の眼目として重んぜられ、説かれてゐる事は、一般普通の事であつて、萬人の耳に熱し目に飽いてゐる筈でありながら、實際の問題を吟味し來れば、その實行は甚だ疑はしく、むしろ別個の主義によつて生活を指導し、糊塗して日を送るといふ有樣であり、反逆の思想、天下に横溢した頃の如き、敢然よく之に抗する者少なく、却つて忠孝を餘りに喋々する爲の反動であるとさへ説いて、大義の宣揚を避けようとする風さへ見られたのであつた。しかも實際は、從來、忠孝の唱道が、單に口に唱ふるに止まつて、實踐の工夫綿密を缺いたところより、この弊を生じたのである。しからば實踐の工夫、如何といへば、それは結局、義勇の精神によつて、我等日常の生活を規律し、鍛錬し來るといふの外はない。義勇の精神なきところに於いては、忠孝百遍の唱道、何の役にも立たないのである。義勇を明かにしようとならば、しばらく其の反對を考へて見るがよい。義の反對は、利である。功利主義である。利己主義である。勇の反對は、怯である。臆病である。懦弱である。己一身の安全を欲して危險を恐れ、己一箇の利益を欲して道義をかへりみないといふ事であれば、かくして道徳の根本である忠孝の大節が成しとげられる筈は、斷じてないのである。

 予の不敏、長く此の理をさとらず、數年前、漸く之に想ひ到つて、武士道の復活を、今日の急務なりとしたのであつた。しかるに其の後氣附いた事は、此の理、はやく吉田松陰先生の道破せられた所であるといふ事である。即ち『士規七則』の第三に、「士道は、義より大なるはなし。義は勇によつて行はれ、勇は義によつて長ず」とあるもの、それである。『士規七則』は、人の知るが如く、其の第一條に於いて、人の人たる所以は、忠孝を本となす事を明かにし、次に第二條に於いて、皇國國體の然らしむるところ、我が國に於いては忠孝の一致して、分裂し扞格する所、全くなきを明かにせられたのであるが、今、第三條に入つて、一轉して義と勇とを説かれたのは、第一・第二兩條の間に存する、極めて緊密なる論理的關係より考へて、いかにも突然の轉囘であつて、我等の長く不審とする所であつた。しかしながら一たび此の理、明かになつて見れば、先づ忠孝を説いて、次に義勇に及ぶは、極めて自然であり、否、當然であつて、士規の文、餘りに簡單なるが爲め、この間の連關を説明してゐないとはいへ、松陰先生の胸中には、必ず此の理存して、現れて此の順序をなしたのに相違ない。先生が之を書かれたのは、安政二年正月の事であつて、當時、先生二十六歳に過ぎなかつた事を思へば、これは實に驚歎の外はないのである。しかるに後に至つて、谷秦山先生の『炳丹録の序』に、此の理説かれて、極めて昭々たるを見いでたのであるが、『炳丹録の序』を書かれた貞享三年は、『士規七則』の書かれた安政二年より百七八十年も前の事であり、且また當時、秦山先生の年齢は、僅かに二十四歳、士規を書かれた松陰先生よりも一段と若かつた事を考へれば、海南の哲人、少年にして道に徹せる、眞に驚歎已む能はざる所である。

 それにしても『炳丹録の序』末尾の一句、何ぞその哀痛の調べの切なるや。まことに歴史をかへりみれば、凡そ忠臣といひ、義士といはるゝ人の、慘澹たる苦しみの中に生き、苦みの中に死せざるは、殆んどないといつていゝ。先哲を皮相の名聲に仰ぎ見て、苦心を實地の體驗に思はざるものはいざ知らず、苟しくも實に履み實に思うて、正學に志すほどの者の、誰人か骨身に徹する切實の感慨なくして、容易に忠孝を談じ得よう。

 忠孝は、道の窮極であり、學の發端である。道、忠孝に窮まるといふは、こゝに道徳千古の準則あるを示す。而して學こゝに始まるといふは、これより修練の險難に足一歩を踏み出だすをいふのである。よどみに浮ぶうたかたを、たゞ束の間の命と看破つて、一時の幻影にあざむかれざるすら、竝大抵の事ではない。まして變化改換、曾てやまざる流轉のうちに、永遠不朽の道徳を認むる事は、猶更ら容易の事ではないのに、かくして見出されたる忠孝の道は、これより漸く險難の一歩を踏み出だすといふのである。然らば眞にこの道に志す者の、猛く精彩を著けて、堅固不拔、千辛萬苦を甘しとするの覺悟なかるべからざるは、もとよりいふまでもない」と。

  • [3]
  • 乃木希典大將『(吉田松陰先生)士規七則講話』一卷。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年11月 3日(月)00時05分24秒
  • 編集済
  • 返信
 
 日本學協會『日本』平成二十年十一月號に、市村眞一博士(岳父は近藤傳八陸軍大佐)「乃木大將の『士規七則講話』解説」が掲載されました。乃木大將の教へを弘く宣布したく、其の原文のみを拜記抄録、同志學道の資に期さんが爲めに、謹んで清覽に供したく存じます。


 紹宇近藤啓吾先生の曰く、「元と大將が、郷里の青年會において講話せられたものの筆記にして、靄然社より印行せらる。靄然社は、中島靖九郎、松下村塾に學ぶ。嘗て啓吾、寒林先生(平泉澄博士)より、この書の名を聽(うけたまは)り、百方これを索め、頃者(さきごろ)載せて、横山健堂著はすところの『大將乃木』中にあることを知れり。因て之を油印に付し、諸子と講道の資となすと爾か云ふ」と。

●乃木大將『士規七則講話』に曰く、「

 『士規七則』は、既に諸君、了知せらるゝ所にして、一々これを説明する要なかるべし。今日にしては、軍人に賜はりたる御勅諭が、我々軍人の奉戴すべきものにして、他に之に代るものを求めることは出來ぬ。然れども此の勅諭を下し賜はりたる以前に於ては、我々當時の青年は、先輩より、今の御勅諭の如く、此の七則に就て訓戒せられたるものなり。而して我が防長、即ち毛利家勤王の功績は、祖先以來、殊に忠正公(愚案、贈正一位・權大納言・大江敬親公)の御忠節によりて發揮せられ、今日、皇室の御繁榮を來たせるも、一には之に因ると云ひ奉るも不可なし。維新建業の際、偉勳を奏せし人々は、吉田先生の薫陶を受けたる者多く、換言すれば吉田先生の功、大なりと云ふを得べきものにして、我々其の後に人と成りし輩は、實に先生の七則を尊信すること、今日の御勅諭の如く、精神鍛錬の準據としたるものである。

 勅諭は、陛下の下し賜りたるものにして、臣民として、皇室に對する勤王の心を養ふものたり。而して之と比較するも、畏れ多きことであるが、士規七則は、我々毛利家の治下にありたる者に對しては、之と同樣に、最も肝要なる教訓であつた。今日に於ても、同樣なるものと思ふ。由來、我が山口縣人は、毛利家數百年來、勤王の精神に依て成立せるものにして、明治維新に際し、毛利家の名物たる吉田松陰ありて、此の勤王の方針を遺憾なく發揮せられたるものなることは、吾人の一日も忘るべからざることである。然り而して其の教をせられたるものは、即ち毛利家代々、勤王の趣旨に反かざるのみならず、後日と雖も、尚も之を發展するの要あるや、勿論なり。今ま茲に七則を述べ、併せて我々軍人が、如何にして之を遵守すべきやを述べむ
」と。


 以下、は、乃木大將の『講話』なり。

●吉田松陰先生『士規七則(毅甫の加冠に贈る)』(實際に松下村塾に於て訓讀されたと傳ふ、廣瀬豐海軍大佐の訓に據る。文中[□]は訓まずと云ふ)に曰く、「

 册子を披繙すれば、嘉言、林の如く、躍々として人に迫る。顧(おもふ)に、人、讀まず。即(も)し讀むとも、行はず。苟(まこと)に讀みて之を行はゞ、則ち千萬世と雖も、得て盡す可からず。噫(あゝ)、復た何をか言はむ。然りと雖も知る所ろ有り矣、言はざる能はざるは、人の至情也。古人は諸(こ)れを古に言ひ、今ま我れ諸れを今に言ふ、亦た□(言に巨、なん)ぞ傷(やぶ)らむ焉。士規七則を作る。

一、凡そ生れて人爲れば、宜しく人の禽獸に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫有り。而して君臣・父子を、最も大(おおい)なりと爲す。故に人の人爲る所以は、忠孝を本と爲す。

人と生れては、禽獸に異なることを知るべし。人には五倫あり。就中、君臣・父子に於ける忠孝を大切とする、之れが分からなければ、人に似た禽獸である。

一、凡そ皇國に生れては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は、萬葉一統にして、邦國の士夫、世々祿位を襲ぐ。人君、民を養ひて、[以て]祖業を續ぎたまひ、臣民、君に忠して、[以て]父志を繼ぐ。君臣一體、忠孝一致なるは、唯だ吾が國を然りと爲す。

國體に就ては、無論、今日の學校にても教へつゝあるも、軍人は獨り戰時に命を惜しまずといふ許りではならぬ。無事の日に於ては、又た宜しく國民の模範たらざるべからず。他を感化して、幸徳秋水の如き者を生ぜざる如く、國民の精神を振起せざるべからず。然らざれば我々は軍人として、將(は)た又た臣民として、萬世一系の皇室を奉戴するも、甲斐なきものである。世態の此の如くなれるは、我々が諸君に對し、百倍の罪を負ふべきものなれども、希くは、諸君も我々に助力し、之が根滅に努められんことを望む。七則中、第一のことは、人の禽獸に異なる所以にして、一般の人について云ふものなるも、第二のことは、封建時代に在りては、大名なり武士なりに就て言ふことにして、今日に在りては、軍人の任務である。華族、即ち祖先以來の優遇を受け、今日の位置にありて、子孫、其の家を繼ぐべき人は、勿論、分相應なることは盡さゞるべからざるも、軍人として、殊に將校として、今日、其の位置に立ち、部下を訓練する者は、所謂武門・武士の心を以て自ら任じ、國體の如何を稽へ、終身の事業として、深く意を用ふるにあらざれば、其の職務を盡す能はず。故に國體といふことに就ては、最も重きを置かねばならぬ。

一、士の道は、義より大なるは莫し。義は、勇に因りて行れ、勇は、義に因りて長ず。

武士道は、我々將校の自ら任として、之に當るべきものなり。義の心薄きは、士たるの値ひなし。士たる者は、義を肝要とす。義は之を守り行ふに、勇氣を要す。人情に外れざらんことを是れ恐れ、交際上にのみ細心注意しある者は、義を行ふことは出來ぬ。多少世間と異なりたる考慮がなければならぬ。然らざれば決して義を保ち得るものにあらず。勇氣も亦た義のために長ずるものにして、所謂廉恥の心は、義の發端である。恥を知るは、勇に近き譯である。

一、士の行は、質實にして[以て]欺かざるを要と爲し、巧詐にして[以て]過ちを文(かざ)るを耻と爲す。光明正大、皆な是由り出づ。

士の行ひに就ては、質實なること、最も大切なり。質素に關しては、勅諭にある通りである。而して此のことを行ふは、甚だ困難なるものなり。質素は、動もすれば他の誹謗を受け易く、吝嗇と同視せらるゝを以て、中庸を得るに、深き研究を要す。即ち義の何たるを解せざれば、質素の如何を知らざるに至る。乃ち人は質素にして、苟くも實用に反することがあつてはならぬ。値ひ低うして實用に堪へざるものを購ふは、不可なり。又た實用に堪ふるものと雖も、力及ばざるものを購ふ如き、又た不可なり。優美に過ぎるは、士の恥なり。文に過ぎる者は、固く戒めねばならず、質實を得ざる者は、公明正大なること能はず。兎角く交際に流るれば、奢侈柔惰に陷り、費用多し。從て金錢を欲するに至る。然るときは、心中に惡意を萌し、物を貪り、他を欺くに至り、不當の借財を爲すに至る。是れ文飾に過ぐるの弊なり。常に公明正大を心掛け、質實を守ることは、諸君が學校を出で、將校と交際するに當り、心掛くべき重要のことである。

一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫のみ耳。書を讀みて尚友するは、君子の事也。

道義を研究し、聖賢の道を守ること、亦た甚だ肝要なり。聖賢の道とさへ言へば、孔子とか、孟子とか、四書・五經を思ひ、支那人に限るが如く考ふ、是れ大なる過ちである。我が國、決して聖明の君主、忠誠賢良の臣子、少なからず。山鹿素行先生の如きは、大に之を論ぜられた書物もある。殊に吉田松陰先生の如きは、最も其の説を尊信さるゝ念、深かりしことは、明かである。

一、徳を成し材(さい)を達するには、師恩友益、多きに居(ゐ)る焉。故に君子は、交游を愼む。

上述の如く、節義道徳を磨き、又た現時、文明社會の學藝を習得して、常に切磋琢磨すること、極めて必要なり。之が爲めには、君子は交友を愼むこと緊要にして、學術徳義の上に就き、其の人の長所を尊信して、交りを結ぶを必要とす。只だ其の缺點のみを見て、之を遂に嫌ふときは、友なきに至るべし。但し己の節義に害ある者は、斷じて之を絶つべく、止むを得ざるも、其の心得を以て交らねばならぬ。而して又た自ら他の缺點を矯正するの力を備へざるべからず。是れ將校たる者は、部下を持つに良き者のみを選定すること、能はざればなり。長上には服從し、若し非理のことあれば、よく自ら研究したる後、其の教へを受くべきものである。同輩、特に氣の合ひたる友達に於ては、不知不識に化せらるゝことあり。我が好む所は、彼れ亦た好み、遂に其の缺點を見出す能はざるに至る。故に深く愼まねばならぬ。人を批難し、又た職務上の妨害をなすが如きは、不心得の甚だしき者である。

一、死して後ち已むの四字は、言、簡にして、義、該(か)ぬ[廣し]。堅忍果決、確乎として拔く可からざるものは、是を舍(お)きて術(じゆつ)無き也。

近頃、死して猶ほ止まずなど、言ふ者あり。抑も生ある内に事を遂げ得ざる者が、死して事を遂ぐる筈なし。意氣は可なるが如きも、空言に過ぎない。死する際まで、恥をかゝざることこそ、望ましけれ。
 右の如く、予が士規七則を尊信する精神の大略を述べたるを以て、諸君は之を以て、今後、將校として社會に立つ上の參考とせらるゝならば、害なくして、多少の益もあらんか。

 右、士規七則、約して三端と爲す。曰く、志を立てゝ萬事の源(もと)と爲し、交を擇びて[以て]仁義の行を輔け、書を讀みて[以て]聖賢の訓(おし)ヘを稽ふ。士、苟に此に得ること有らば、亦た以て成人と爲す可し矣」と。


●平泉澄博士『士規七則講義』(『先哲を仰ぐ』昭和四十三年五月・日本學協會刊の増補三訂版・平成十年九月・錦正社刊に所收)に曰く、「
 腰に劍を佩かずともよい。職業は何であつてもよい。眞に道義に目覺めて、道によつて國を守らうとする者、しかも義勇の精神により、死して後ち已むの覺悟ある者、之を士と謂ふのである」と。

  • [2]
  • 大學一卷――己の爲めにするの學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月10日(金)18時57分23秒
  • 編集済
  • 返信
 
 小生は、元來、山崎闇齋先生を慕ひ、闇齋先生を學ばむには、先づ朱子學を修めねばならぬと、四書の研鑽に努力したことがありました。朱子こそは、孔子を繼ぐ賢聖(亞聖)であるとの確信は、今も變りませぬ。支那の經書の眼目は、正に『大學』一卷、是であります。

 「修身・齊家・治國・平天下は、大學の序、決して亂るべきに非ず」(松陰吉田先生『講孟箚記』序説)。

 小生が師事した紹宇近藤啓吾先生は、崎門・埀加の道統を嗣ぐ御方、最後の儒者とも仰ぐ一代の師表でありますが、其の紹宇先生の言葉が想ひ出されます。曰く、「

 『大學』よりも、朱子の「序」の方が大事。景嶽橋本先生の『啓發録』よりも、矢嶋立軒先生の「序」の方が重大なり」と。

○參考
「崎門の道統繼承者・内田遠湖翁」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/uchida.htm
「道學者・岡彪邨翁」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/oka.htm


 又た『大學或問』に於る下記の一節は、宋代の口語を讀み下したるもので、讀み難いものでありますが、洵に至つて重き言辭と拜察いたします。


●考亭朱熹『大學或問』(倭板四書・山崎嘉點(闇齋先生の訓點)・八丁裏)に曰く、「

 [問者]曰く、國を治め天下を平かにするは、天子・諸侯の事也。卿・大夫以下は、蓋し與かること無し焉。今ま大學の教は、乃ち例して明徳を天下に明かにすることを以て、言を爲す。豈に思ふこと、其の位を出で、其の分に非ざるを犯すと爲ずして、何をか以て己が爲めの學(愚案、『論語』憲問篇)と爲すことを得んや哉、と。

 [朱熹]曰く、天の明命、有生の同じく得る所にして、我が得て私することを有るに非ざる也。是を以て君子の心、『豁然大公』(程明道の言)、其の天下を視ること、一物として吾が心の當に愛すべき所に非ざること無く、一事として吾が職の當に爲すべき所に非ざること無し。或は勢ひ、匹夫の賤しきに在りと雖も、而も其の君を堯舜にし、其の民を堯舜にする所以の者も、亦た未だ嘗て其の分内に在らずんばあらざる也。

 又た況や大學の教は、乃ち天子の元子・衆子と、公・侯・卿・大夫・士の適子と、國の俊選との爲めにして設く。是れ皆な將に天下國家の責め有つて、辭す可からざらんとする者なれば、則ち素より教へて預め之を養ふ所以の者、安んぞ天下國家を以て己が事の當然と爲して、預め以て其の本を正しうし、其の源を清くすること有るを求めざることを得んや哉。

 後世、教學の明かならざるは、人の君父たる者、慮り以て此に及ぶに足らず、而して苟くも目前に徇(したが)へばなり。是を以て天下の治日は常に少く、亂日は常に多し。而して敗國の君・亡家の主は、常に迹を當世に接ぐ。亦た悲しむ可し矣。論者、此れ之を監(かんが)みずして、而して反つて聖法を以て疑ひを爲す。亦た獨り何ぞや哉。大抵、學者を以て、天下の事を視ること、己が事の當然とする所と爲すを以して之を爲せば、則ち甲兵(軍事)・錢穀(財政)・邊豆(祭祀)・有司の事(『論語』泰伯篇)と雖も、皆な己が爲め也。其の以て世に知ることを求む可きを以して之を爲せば、則ち割股・廬墓(孝行の極)、弊車・□[亡口の下に月女凡]馬(清廉潔白)と雖も、亦た人の爲めなるのみ耳。

 善いかな乎、張子敬夫(南軒張栻)の言に曰く、『己れが爲にする者は、爲にする所ろ無くして然る者也』と。此れ其の語意の深切、蓋し前賢の未だ發せざる所の者有り。學者、是れを以て日に自ら省みれば、則ち以て善利の間を察すること有つて、而して毫釐の差ひ無からん矣」と。


 島田虔次博士『大學・中庸』(朝日新聞社文庫・中國(愚案、支那)古典選六)より、譯文を附載させて戴きます(一部變更)。

 或人の曰く、治國・平天下は、天子・諸侯の任務である。卿・大夫以下、士・庶民には無關係である。然るに今ま『大學』は、「明徳を天下に明かにする」ことを、一律に妥當するものとして掲げてゐるが、それは「思ふこと、其の位を出でず」と云ふ教を破るものであり、「分を超える」と云ふ罪を犯すものであつて、到底「己の爲めにするの學」とは言へないのではなからうか。

 朱先生の曰く、生ある者は、等しく天命を受けて生れてゐるのであり、天命は己だけの私有物では無い。それ故ゑ君子の心は「豁然として大公」、其の天下を視ること、一物として吾が心の當に愛すべき所に非ざる無く、一事として吾が職分任務の當に爲すべき所に非ざるは無い。たとへ匹夫庶民の賤しい身分に在る者であつても、君を堯・舜の如き君にまでならせ、民を堯・舜の世の民にまでならせることは、飽くまで其の分の内に屬することであるのである。匹夫庶民に在つても、斯くの如くであるとするならば、況や大學は、天子の皇太子・諸王子ならびに公・侯・卿・大夫・士の嫡子および庶民の俊秀な者を教育する爲に設けられたのであり、彼等は孰れ不可避的に天下國家の責任を擔當するものである。彼等を平生より教育し養成しておく爲の事項が、天下國家を自己の當然の任務と心得、其の源の澄清規正、即ち修身への努力を豫め研究させておく事で無くて、一體よいものであらうか。‥‥大體、學問する者として、天下の事を自己の當然に爲すべきものと見做して爲せば、軍事・財政・祭祀など、所謂る「有司の事」であつても、それは皆な「己が爲めにする」ものであり、世間に知られようとして爲せば、股を割き其の肉で親の病を治療し、親の墓に小屋がけして墓守りすると云ふ孝行の行爲、また襤褸車や瘠せ馬などの清廉潔白な行藏、即ち道徳的行爲であつても、皆な「人の爲めにする」ものに他ならない。張南軒の言葉に、「己れが爲めにするとは、爲めにする所ろ無くして然ること」とあるのは、功利者流を屑しとしない、實に見事な言葉であつて、今日まで如何なる學者も、未だ言つたことがない程、深長かつ切實な意味を含んでゐる。學問する者が、此の言葉に據つて、日々に反省するならば、善と利との區別を一毫も誤たず、見分けるやうになるであらうぞ。


【名利を求めず、文辭を事とせず、惟だ義を是れ務む】

 下記は「己の爲めにするの學」の格好の解説となつてをりますので、掲載させて戴きたく存じます。小生、之を音讀すること、幾年ぞ。此の一文こそは、我が師・紹宇近藤先生の、小生が帝都を辭し歸郷するに當り、特別に御講義を賜りしもの、之を愛でること、洵に久しいものがあります。謹んで謹記させて戴きたく、願はくば同好の士の音讀を賜はらむことを乞ひ奉らむ矣。


●強齋若林進居先生『廣木(文藏)忠信を祭るの文』(近江國西依家所藏・強齋先生自筆原本)に曰く、「

 維れ享保庚戌(十五年)秋八月晦の夜、若林進居(ゆきやす)、諸友と與に、謹んで酒茶を、廣木忠信の靈に奠(すゝ)め、香を□[火に主、た]き、望拜して曰く、

 賢(忠信)、何ぞ遽かに余(強齋先生)を捐(す)てゝ逝ける。嗚呼、哀しいかな哉。昔者、賢、(淺見)絅齋先生の門に遊ぶ。未だ幾(いくばく)ならざるに、先生、簀を易(か)へ(易簀=學徳者の歸幽、『禮記』檀弓篇に見ゆ。曾子臨終の故事に出づ)たまふ。則ち又た鄙とせずして來り、余に就いて學べり。與に硯席を同じうし、互ひに薪水を執る者(こと)、幾(ほとん)ど九年なり矣。夏も扇(あふ)がず、冬も爐に近づかず、艱難窮乏、日を合はせて食ふ者(こと、=兩三日に一囘の食事)、時に之れ有り。賢、少しも屈せず、益々勉め益々勵む。而して余も亦た依れり矣。雪の朝た月の夕べ、相ひ與に茶を□[三水に鑰の右、に]酒を煖め、經を議し義を論じ、今を悲しみ古を慕ひ(=尊王斥覇)、憤歎慷慨、心肺傾け竭し、相ひ責むるに死生を以てせり。

 其の後、母の側に人無きを以て、郷に歸り且つ醫を業とし、以て養ひを爲せり。固より其の志に非ずと雖も、而も已焉(や)むを得ざる者有り。然れども江濃(近江高宮・美濃揖斐)、地接して遠からず、是を以て、余、往かざれば、則ち賢、來り、賢、來らざれば、余、往き、相ひ逢ふこと濶(とほ)からず、而して書疏(=手紙)の通間も、亦た曠(ひさ)しからず、則ち相ひ勉め相ひ責むること、昔日に異ならず矣。

 比年來(このごろ)、余、疾ひに罹る。賢、之を憂ひて置かず、書の來る毎とに、必ず此に及ばざる莫し焉。余、竊かに謂(おも)へらく、余、疾ひ輕からず、賢を招いて高宮に居らしめ、余の後事を屬せば、則ち余も亦た遺恨無からん矣と。而るに去秋、往かんと欲して果さず、今春、又た未だ果さず、茲の秋に及んで江北(高宮)に往かば、將に必ず賢を訪ひ、以て素志を達せんとす。而るに萱堂(=母堂)の老心、倚閭(=母が外に在る子の歸りを待ちわびる)の切なる、日久しうして問ひの疎きに忍びず、故に又た復た果さず。而して家に還れば、則ち訃書、來れり。嗚呼、哀しいかな哉。

 賢の人と爲りや也、忠直にして事情に迂に、質朴淳尨、以て外飾を惡む。所謂る「剛毅木訥、仁に近し」(『論語』子路篇)とは、蓋し此の如きか乎。其の學爲るや也、名利を求めず、文辭を事とせず、惟だ義を是れ務む。所謂る「己の爲めにするの學」(『論語』憲問篇)とは、蓋し此の如きか乎。若し夫れ感慨奮激、盃を擧げて悲歌し、死生利害を顧みざるの氣象は、則ち實に古人義烈の風有り矣。嗚呼、已んぬるかな矣。賢に肖似せる者有るか乎。余、未だ之を見ず矣。是れ余の歔欷(きよき、=すゝりなく)して禁(た)ふる能はざる所以ん也。北風蕭々、望楠(強齋先生書齋の望楠軒、即ち大楠公を景望思慕せられたり)、夜、寂(しづ)かなり。嗚呼、哀しいかな哉。諸友と望拜し、情を陳べ以て□[酉に將の右、まつ]る。精爽(=魂魄、『左傳』昭公二十五年に見ゆ)知ること有らば、尚(こひねが)はくは饗けたまへ」と。


【學問の本は忠孝に在り、固より意氣の恃む可からざるを知る】

 一方、立軒矢嶋先生の序文は、拜讀して大汗三斗、反省涵養、たゞならざるものがあります。


●矢嶋立軒先生『(橋本景岳先生)啓發録の敍』に曰く、「

 十許年前、余、橋伯綱(橋本景岳先生の字)と東篁田(吉田東篁)翁に從ひて遊ぶ焉。翁の門下、雄辯□□[人に周、人に黨、てきたう=志の大きく他の束縛を受けぬ]の士多く、相ひ聚り掌(て)を抵(う)ちて與に當世の事を譚(談)ず。座中、或は感憤激昂し、袂を投じ起ちて舞ふ者有り。蓋し學問事業、其の效を殊にし、而して世務に適せざるを慨する也。伯綱、時に年才(わづ)かに十五六、□[三+|、ぼう]骨珊々(容姿端正)、□[病埀に瞿、く=痩]然たる一書生也。首を俯し膝を斂(おさ)め、含蓄して敢へて一言も發せず。余、竊かに之を怪しむ。

 其の後ち伯綱、西のかた京攝に游び、力學すること數年、故ゑ(父の病)有りて歸る。余、乃ち伯綱を訪ひ、其の學ぶ所を叩くに、正確沈實、其の文と言とを出せば、鑿々乎として皆な來る處(師承)有り。余、既に其の長進せるに驚き、而して自ら顧みれば、依然たる故(もと)の吾なり。又た曩時相ひ譚ずる者を囘視すれば、往々余の如く、或は作し或は輟め、甚だしき者は前日の意氣を求むるも、雲消烟滅、寂として隻影無し。是に於て余、始めて意氣の恃む可からざるを悟り、而して伯綱の本有りて然るを疑ひし也。

 居ること三年、伯綱、又た江都に游び、音問疎濶、第(た)だ其の學殖の彌々進むを聞くのみ也。其の後に余も亦た都に游び、初めて伯綱の僑寓に候す。伯綱兀然として學窓の下に在り、□[石に乞、こつ]々勉勵す。余の來るを見、喜びて其の得る所の者を語る。其の學、丕(おほ)いに變じて觀を改め、一に實用を主とし、而して經物濟世の才、縱横に馳騁し、其の志、將に諸れを事業に措かむとす。名下の士、爭ひて之を譽む。夫れ伯綱は見る毎とに屡々變じ、變ずる毎とに愈々其の有用の學に渉るを見る。然りと雖も余、其の何を以て然るかを知る能はざりき也。

 既にして余が轅、已に北し(歸國)、而して伯綱、都に留まること又た一年。則ち其の學ぶ所の者、海水の湧きて春潮の進むが如く、其の造る所、殆ど涯(かぎ)る可からず矣。今ま擢んでられて學監(藩校明道館幹事)に列し、黌政を釐督す。屬者(このごろ)伯綱、其の少き時、著す所の『啓發録』を出して、敍引を徴せらる。受けて之を讀めば、一語半句も、忠孝節義の言に非ざる莫し。而して感憤激勵の氣、勃々として其の間に流溢し、人をして悚然として興起せ令む。因りて册尾の枝幹(干支)を睹(み)、指を□[人に婁、る=曲]して之を計れば、則ち今を距つること已に十餘年なり。蓋し嚮(さき)に田(吉田東篁翁)門に在りて、各々劇論を逞しうせるの時也。夫れ學問の本は忠孝に在り。伯綱、既に其の本有り。宜(むべ)なるかな乎、其の學の進むや也、徒然ならざりしこと。是に于(おい)て余の疑怪、始めて釋けたり矣。

 嗚呼、余儕(我々)は、徒らに感憤を一時に快くす。伯綱は之を内に蓄へて、言貌に見はさず、歳を積み月を累ねて、然る後に大いに之を學殖に發す。而して今ま又た學監と爲り、諸れを事業に施す。則ち所謂る學問事業、其の效を殊にせざる者、伯綱、默して之を成す。諸れを余儕の一時に快論する者に較ぶれば、孰れか得、孰れか失、言を待たざる者有り。今ま此の録を觀、赧然たる者(赤面)、之を久しうす。因りて愧心を書し、以て敍と爲す。丁巳閏五十二(安政四年閏五月十二日)、矢嶋□[白に皐、あきら]撰す」と。

  • [1]
  • 假令ひ病に臥す共、怠るべからず。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月27日(土)22時29分4秒
  • 編集済
  • 返信
 
●吉田松陰先生『松下村塾規則』に曰く、「

一、兩親の命、必ず背くべからず。
一、兩親へ、必ず出入を告ぐべし。
一、晨起盥梳、先祖を拜し、御城にむかひ拜し、東にむかひ、天朝を拜する事、假令ひ病に臥す共、怠るべからず。
一、兄はもとより、年長又は位高き人には、かならず順ひ敬ひ、無禮なる事なく、弟はいふもさら也、品卑き年すくなき人を愛すべし。
一、塾中において、よろづ應對と進退とを切に、禮儀を正しくすべし。

 右は、第一條より終り五條に至り、違背有るべからず。若し背く者は、第一條の科(とが)は、必ず坐禪たるべし。其の他、四條は、輕重によりて罰あり」と。

○諸彦諸姫各位、日に一囘は、宮城(皇居)を遙拜してをられますか。父母と別居されてをられる方、同居されてをられる方でも遠く遊ぶ場合には、兩親・先祖の坐す方角への遙拜を怠つてはゐませぬか。違背する者、松陰歿後の門人ならば、罰を蒙ることを覺悟しなければならぬ矣。


●吉田松陰先生『松下村塾記』に曰く、「
 抑も人の最も重しとする所は、君臣の義也。國の最も大なりとする所は、華夷の辨也。今ま天下は、何如なる時ぞ也。君臣の義、講ぜざること六百餘年、近時に至り、華夷の辨を合せて、又た之を失ふ。然り而うして天下の人、方且に安然として計を得たりと爲す。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内、君臣の義を失ひ、外、華夷の辨を遺る。學の學爲る所以、人の人爲る所以、其れ安ぞ在らんや哉」と。


●吉田松陰先生『講孟剳記』に曰く、「
 聞く、近世海外の諸蠻、各々其の賢智を推擧し、其の政治を革新し、駸々然として上國(皇國日本)を凌侮するの勢あり。我れ何を以てか、是を制せん。他なし、前に論ずる所の我が國體の外國と異なる所以の大義を明かにし、闔國の人は闔國の爲に死し、闔藩の人は闔藩の爲に死し、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確乎たらば、何ぞ諸蠻を畏れんや。願くは諸君と茲に從事せん」と。


スレッド一覧

  1. 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義(44)(備中處士)
  2. 「九段塾」塾頭・一兵士翁遺文抄(100)(備中處士)
  3. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(8)(備中處士)
  4. 祖神垂示 親譲之道 拾遺(35)(はゆまつかひ)
  5. ★☆★ 時計の間 ★☆★(343)(塾頭)
  6. 賀茂百樹大人遺文(5)(備中處士)
  7. 先哲遺文に學ぶ。(31)(備中處士)
  8. 日本刀四方山話(51)(那須の権太)
  9. 神道に學ぶ。(55)(備中處士)
  10. 平田篤胤大人遺文(31)(備中處士)
  11. 平田篤胤大人『古史成文』(165)(南雄)
  12. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(46)(備中處士)
  13. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(35)(はゆまつかひ)
  14. 參考聚英(15)(備中處士)
  15. 平泉澄博士遺文(9)(備中處士)
  16. おゝ靖国の大神(39)(はゆまつかひ)
  17. 大元靈に坐す天之御中主大神(8)(備中處士)
  18. 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(30)(相州之民艸ならびに備中處士)
  19. 霊的国防の本義 拾遺(34)(はゆまつかひ)
  20. さあ、『少年日本史』を讀みませう!(7)(備中處士)
スレッド一覧(全44)  他のスレッドを探す  掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成