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  • 日本刀四方山話

  • 投稿者:那須の権太
 
平成二十三年十一月五日建立。

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sage

  • [51]
  • うーむ・・。

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2016年10月22日(土)23時51分29秒
  • 編集済
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大和包友の銘となん。しかも金象嵌と・・。
これは私の範疇を越えますね。申しわけありませぬ。安土桃山となれば刀剣区分としては新刀ですが、私の知る著名な新刀鍛冶の中には見当たりませぬ。かといふて私の知らぬ鍛冶も多々あり。実物を拝見せぬことには何をも申しかねます。御容赦を願ひます。

  • [50]
  • 門外漢の一言、御容赦を。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年10月19日(水)19時06分55秒
  • 編集済
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「大和包友(かねとも)」ですか。小生は不案内。那須さんが見ていらつしやつたら、判るのですが‥‥。

http://meitou.info/index.php/%E6%89%8B%E6%8E%BB%E6%B4%BE
  ↓↓↓↓↓
「包國。包光(包吉の子)の子とし、駿河文殊重國の父とする。駿河府中に移住して駿河文殊を開いたのは、包友とも云ふ」とあれば、「包國」を調べられては如何。

 手元の『刀劍要覽』に依れば、「包國」は、二派あり。

一、紀伊の人。慶長頃。生國は大和。初代南紀重國とは別人。銘に「和州手搔(てがい)住、包國。駿府に於いて之を造る」。刃文、直刃、小亂。

一、初代包國。大和の人。延寶頃。初代大阪丹波守の門。銘に「越中守藤原包國」、「筒井越中守藤原包國」。
一、二代包國。大和の人。延享頃。銘に「越中守包國」。

ぐらゐしか、判りませぬ。御示しの「安土桃山」となん、前者なる可し。

 又た手搔包永の孫に、延文頃の「手搔包友」あるも、吉野時代なれば合はず。

 又た『大日本人名辭書』卷五に、「包友」は、
一、姓は藤原、山城の刀匠。本國は大和。寛永年間の人[古今鍛治銘早見出]。
一、初世包友。大和の刀匠にして、初代包氏の門人。貞和年間の人。美濃初代兼友を見よ。
二世包友。應永年間の人。大和に住す[古今鍛治銘早見出]。
一、大和手搔の刀匠にして、永享年間の人[古今鍛治銘早見出]。

 其の他、備前長船の「包友」、四人あるも、大和國に非ざれば略す。御無禮、御容赦を。
 

  • [49]
  • 大和包友はいつの時代の製作

  • 投稿者:えんちゃんメール
  • 投稿日:2016年10月19日(水)16時18分10秒
  • 返信
 
柄の部分に金銘で「大和包友」とあります。亡父によると「安土桃山時代」の製作
と言っておりました。皆さん教えていただけますか。

  • [48]
  • 大一文字助宗

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2012年 3月 3日(土)18時22分23秒
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   柳生新陰流と竝んで、近世の劍術界を二分する勢威を示した一刀流の開祖、伊藤一刀齋景久の愛刀です。
    一刀齋が、伊豆の三島大明神(現靜岡縣三島市、三島大社)に參籠した折、同社宮司矢田部織部(やたべおりべ)から贈られた刀と謂はれてゐます。

    この刀は後に、忍び込んだ盜賊の一人が大きな甁の陰に隱れこんだのを、一刀齋がその甁ごと眞二つに斷ち割つたことから「甁割刀(かめわりたう)」と號され、寶劍のやうに捧持されて後代へと繼承されました。

    一刀流はその後、二代目繼承者、小野次郞右衞門忠明(御子神典膳)を經て、小野派一刀流中西派一刀流北辰一刀流、他、多くの分派を産んでゐます。

    【助宗】は、備前福岡一文字派の刀匠です。
    福岡一文字は備前國福岡莊(現邑久郡長船町内)に居住した刀工群で、「則宗」を祖としてゐます。則宗は元歴年間(鎌倉初期)の人で、後鳥羽院御番鍛冶の筆頭格でした。助宗はその子で、やはり御番鍛冶となり「大一文字」と呼ばれてゐます。
    「一文字」は銘を「一」とのみ切ることがありますが、これは後鳥羽院から「天下一なり」といふ叡慮を賜つたことによります。

    太刀は腰反りのある品位に富んだ姿
    刄文は、純然たる匂ひ本位で百花繚亂と咲き誇つた八重櫻の やうな重花丁字亂れです。
    山城粟田口派が沸と地肌が絶妙なのに對し、一文字は刄文の華麗さで天下一を誇つてゐます。

    これは父、「則宗」です。
    ↓
   http://www.touken-sato.com/web-gallery/koitimonnji.htm

  • [47]
  • 薩摩示現流その四

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2012年 2月25日(土)17時28分0秒
  • 編集済
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  鹿兒島城下では古くから郷士たちの住む區域を方限(はうぎり)と呼び、それを上方限と下方限に大別し、さらにそれを郷中(ごちゆう)と呼ぶ單位に分けてゐたやうです。これは謂はゞ薩摩藩の教育機關とも謂ふ可きもので、郷中單位で郷士たちを育て上げてゐたといふことであります。

  もとゝゝ薩摩武士は勇猛盛風力(せいふうりき)を理想とする殺伐の氣風を持つてゐました。少年たちは十五歳になると二才(にせ)と呼ばれるやうになり、それゞゝ郷中の二才組に配屬されます。こゝでは鬪ひの爲の肝を練ることを目的としますが、その方法は尋常なものではありませんでした。

  例へば、郷中には二才宿といふ宿舍がありましたが、こゝで酒宴を設けるときは、まづ宿舍の廣間の中央に綱で火繩銃を吊り下げます。銃には玉ぐすりと實彈を籠め、この周りに若者たちが互ひの間隔を出來るだけ開けるやうに輪を描いて坐ります。このとき銃口の位置はそれぞれの胸の高さにあります。

  さうしておいて酒宴が始ります。酒宴が半ばになると一人が立上がり、綱によりをかけて火繩に點火し手を離す。さうすると當然銃はくるゝゝと囘りながら彈丸を發射します。この時、少しでも顏色を變へ彈丸を避けようとするものあるならば即嚴罰に處せられました。

  彈丸に當たるものがゐても疼痛を訴へず、見るものも悲しまず・・。平然と振舞ふ暴勇・・。これが薩摩郷士の戰場での進退に臆しない爲の“肝練り”の一部でありました。

  しかしこの話、何處までが眞實なのか、私と致しましては些か信じ難く、薩摩武士の勇猛さを外部に喧傳する爲の造り話か、あるいは大げさな尾鰭が付いた噂話ではないかと、疑つてをるところです。(眞實だとしたら、物凄い教育であります。)


  • [46]
  • 刀劍展の御案内

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月31日(土)17時22分20秒
  • 返信
 
(刀劍美術十二月號より轉載)

**********************************************

 靖國神社遊就館 企画展示室

 平成二十四年新春特別展
 「奉納 新春刀剣展」

 当展は年の始めに際し、関東地区の刀匠約二十名が各々真心籠めて打ち上げた最新作の刀剣を展示いたします。匠の技を是非ご覧ください。

展示品
 全日本刀匠会関東支部所属の刀匠による新作刀約二十振

新春刀剣関係実技公開
日時  1月2日、午前10時~午後3時
奉仕者 研師 藤代興里、藤代龍哉 鞘師 水野美行 彫刻師 橋本琇巴以下

甲冑着付け実演公開
日時  1月3日、午前10時~午後3時
奉仕者 甲冑師 三浦公法、豊田勝彦、アンドリューマンカベリ、宮川正太郎以下

作刀関連実技公開
日時  1月3日・7日・8日・9日
     各日午前10時~午後4時30分
奉仕者 川崎晶平以下 全日本刀匠会関東支部の刀匠作刀関連実技公開

期  間 1月1日(日)~1月15日(日)
休館日  期間中無休 拝観料 無料
時   間 午前9時~午後5時

   東京都千代田区九段北三-一-一
      電話〇三-三二六一-〇九九八

************************************************************

   今年は本道に大々變の年でありました。當地も少からずの地變を被り、我が家もまた例外とは參りませんでした。未だに餘震に怯える始末。放射能の影響もまだゝゞ續きさうな氣配です。微力ながら本日も大祓詞、修唱させていたゞきました。
   來る年こそは佳き年でありますやう願ひつゝ、皆々樣、本年は洵に有難う御座いました。

  • [45]
  • 薩摩示現流その三

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月29日(木)12時40分0秒
  • 編集済
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藥丸自顯流

   流祖を藥丸刑部左衞門兼陳(かねのぶ)とします。兼陳は十四歳で東郷重位の弟子となつた後、めきめきと劍の才能を伸ばし、ついには重位の五高弟の一人に數へられるまでになります。
   それと謂ふのも、元々藥丸家には長大な野太刀を扱ふ技が代々傳へられてをり、戰場ではこの野太刀の技を驅使して武勳をあげてきた家柄であるからなのでした。兼陳の祖父、藥丸壹岐守は東郷重位十八歳での初陣の際の後見人を務めてをり、東郷家とは親戚同樣であつたさうであります。

   本來なら藥丸家は野太刀の流派を立てることも可能だつたはずですがそれはやりませんでした。
   元来薩摩藩の御流儀は丸目藏人佐(まるめくらんどのすけ)の創始した【タイ捨流】でしたし、重位がかつての師であつたタイ捨流師範東權右衞門の子、東新之亟、當時のタイ捨流師範を、藩主島津家久公の御前立會で一瞬のうちに破り、御家流の地位を確たるものにした後は、示現流を補佐する役目に徹したのでした。

   しかしその間にも傳家の野太刀の技に示現流の技を巧く取り入れ、獨自のものを練り上げていつたと思はれます。兼陳の後代、兼武(かねたけ)が示現流の元々の流派名である“自顯流”を採り、【野太刀自顯流】を創始したと謂はれます。それを藥丸自顯流とも呼ぶやうになつたのであります。

   同流は幕末近い天保年間にやうやく御流儀として認められたやうですが、それまでにも下級藩士である郷士の間ではかなり普及してゐたやうであります。

  • [44]
  • 薩摩示現流その二

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月21日(水)19時13分1秒
  • 返信
 
   重位が善吉と初めて出會つたのは、京都西郊、保津川近くの禪寺、萬松山天寧寺に於いてゞした。豐臣秀吉公から、造營されたばかりの聚樂第の外廓普請を命ぜられた主君島津義久に從つて上洛した際、曹洞宗を宗旨とする島津家と以前から交際のあつたこの寺を初めて訪れたときの事でした。

    善吉の前身は武士と思はれて、理由があつてこの天寧寺に出家として住んでゐました。この寺の和尚は“鈍吉(どんきつ)”と謂ふ人物でしたが、重位の人となりを見込んだ和尚が善吉に紹介したのでした。善吉は自分が會得した“天眞正自顯流”の後繼者を探してゐたのです。

    善吉の稽古ぶりを、鈍吉和尚に案内された部屋の雨戸の間から覗き見た重位は、全身に冷水を浴びたやうな衝撃を覺え、毛穴が立つたと謂ひます。この時の善吉の姿、眼色は鬼神のやうな凄じき殺氣を青びかりに放ち、その氣に壓倒された重位は思はず眼を閉ぢ、二目と開けられず、體を小刻みに震はせ、窓枠に手を突いて體を支へるのがやつとだつたと謂ふことです。

    かうして善吉の弟子となつた東郷重位は、主君が鹿兒島に歸還するまでの殘り少ない日々の中、自顯流の奧義を會得しようと必死の稽古を續けることになるのでした。

    その後鹿兒島に戻つた重位は、自顯流の使ひ手として、數々の立會を悉く勝利し、遂に自顯流は薩摩藩お留流としてその地位を確固たるものにして行きますが、その内に“自顯”の意味を履き違へ、自由に壱派を立てやうとするものが現はれて來ます。そこで重位は流派の名を、觀音經の中の“示現神通力”より採り、“示現流”と改稱することにしたのでした。

  • [43]
  • 薩摩示現流その一

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月20日(火)22時23分31秒
  • 編集済
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薩摩示現流

   流祖、東郷藤兵衞重位(ちうい、しげかた)は島津家第十六代當主島津義久の近習役でした。薩南の太守として強豪ぶりを謳はれた義久も天正十五年(耶蘇暦一五八八)つひに豐臣秀吉公に降伏します。

   當時の薩摩武士は「大男大力勇猛の盛風力(せいふうりき)の輩」を理想としてゐました。子どもの頃から武張つた歩き方をこゝろがけたさうです。兩手で前帶を強く握りしめ、刀を帶びた左の賢をいからせ、右の肘を突つ張り前へ向け、躰を左右にゆらせて歩いたと謂はれます。

   多くはその性格非常に短氣で、やゝもすると喧嘩鬪爭し、果ては刃傷して死に至るものが絶えない有り樣だつたさうな。多少の口論に負けたと云つて、憤然と座を立つなり、廁の中で「チェストー」の掛け聲とゝもに喉をかき切る振舞ひまであつたそうであります。

   そんな激しい氣性の薩摩武士たちの内にあつて、東郷重位は實に物靜かな男であつたさうです。なんと趣味として金細工と蒔繪が得意なのでありました。少年の頃から曹洞宗寺院で坐禪を行なひ、その人となりは沈着で、彫金の外にも歌道をたしなみ、茶の湯にも通じてゐました。しかし、ひ弱なわけでは決してありませんでした。むしろ兵法は【タイ捨流】を學び、拔群の體力にめぐまれてゐました。さらには弓馬鐵砲、槍薙刀、組打およびくさり鎌の奧義にも達してゐたのであります。

   その重位が主君島津義久に從つて京を初めて訪れたのは天正十六年五月初旬のことでした。 この京で重位はある人物と出會ふことになります。此の人物こそが常陸國住人、十瀬與三衞門の創始した【天眞正自顯流】のたゞ一人の相傳者、重位の師匠となる僧善吉(ぜんきつ)その人でありました。

  • [42]
  • 野太刀と陣太刀

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月19日(月)19時03分40秒
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   【野太刀】についてゞすが、謂はゆる「大太刀」を合戰の時に用ゐた場合に野太刀と呼稱したやうです。大太刀は刃の長さだけで三尺~六尺(約90.9センチ~181.8センチ)と謂ひますから尋常な長さではありません。そこへ柄の部分が入りますので總長は2メートルを優に越える物も在つたやうです。

   これは新潟縣彌彦神社藏の大太刀です。刃渡りが七尺二寸八分五厘(220.4センチ)もあります。
http://www.e-yahiko.com/bunkazai/10.htm

   こちらも彌彦神社の物です。
http://www.e-yahiko.com/bunkazai/17.htm

   こちらは我が郷土、栃木縣は日光二荒山神社藏の大太刀。
   備前長船倫光(ともみつ)、國寶。總長五尺八寸七分(176.1センチ)。
http://www.futarasan.jp/cgi-bin/imgsys/image_c.cgi?148

   實際の合戰ではなどの長物が主流でしたので、それに對抗して太刀の長さも段々に長くなつていつたやうです。しかし、これらを扱ふのは相當な腕力を必要とします。斬るといふより遠心力で振り囘して叩き附けるといふ使ひ方です。これでやられると鎧の上からでも骨が碎けたやうです。

   しかしながら、いつもそんな使ひ方では體力が持ちませんから、次第に工夫されて太刀の刃の根元から中ほどにかけて布などを捲いて刃を握れるようにしたものが登場して來ます。これを中卷野太刀(なかまきのだち)と謂ひます。これだと叩き斬ることのほか槍のやうに持つことが出來、より使ひ勝手が良くなりました。
   ここから發達したのが「長卷(ながまき)」です。薙刀に似てゐますが長卷の方が豪壯な造りです。一般には大太刀から發達したのが長卷で、槍から變形したものが薙刀と謂はれてゐますが、このサイトの解説はちと違ひますね。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/pole_nagamaki.htm


   【陣太刀
   實戰に用ゐられた太刀のことを特に「陣太刀」と稱したやうです。しかし實際の合戰では太刀はあくまで豫備でした。主な武器は槍や長卷でしたし、相手の首を取るときには「馬手差(めてざし)」などの短刀が用ゐられました。
   室町後期、戰國の世になりますと華麗な裝飾などを施した謂はゆる「陣太刀拵」となり、大將の“象徴”としての存在になつたやうです。

   「陣太刀拵」
http://www.pcfuji.com/index/ka_image/pf_ka002.jpg

  • [41]
  • 野太刀とは。

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月15日(木)22時52分9秒
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   先にも書きましたが、佐々木小次郎の愛刀は大太刀でした。大太刀(野太刀)のことを“背負太刀”とも謂ひます。文字通り背中に背負ふからです。たゞ、大太刀と云つても彌彦神社にあるやうなものは、背中にさへ背負ふことは叶ひませんから、小次郎ののものは當然もっと短いものでした。

   短いと謂うても腰に差すには長過ぎますので背中に背負ふ譯ですね。では背中に背負ふ場合、どちらの肩に背負つたのでせう。

   普通の映畫や劇畫、小説などでは右肩に背負つてゐるのではないでせうか。
  これは佐々木小次郎の銅像ですが右肩に背負つてますね。
  http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/lrg/10/03/97/lrg_10039709.jpg?20051025080149

   實はこれ等は皆、間違ひなのです。銅像まで建立してをられるところについてはお氣の毒と云ふ以外ないのですが、これは逆なのです。背負太刀は左肩に背負ふのであります。

   謂ふまでもないことですが野太刀は“長い”のです。右肩に背負つて右手でスムーズに拔けるでせうか。想像してみて下さい。まあ、拔けないことはないと思ひますがかなり苦勞すると思ひます。そして肝腎なのは鞘に納めるときです。刀を持つた右腕を精一杯伸ばしても、切先を鞘にうまく差込めるでせうか。かなり難しい作業ではないでせうか。

   これが左肩だったらどうでせう。左右の開きが餘裕を持たせ、拔くも納めるも各段にやり易いでせう。瞬間の拔き打ちも可能です。拔くときには左手で鯉口近くの鞘を掴み、太刀を左肩に擔ぐやうに水平にして、柄頭を相手方に向け、右手で柄を持ち拔き放ちます。納める場合も逆の順序で樂に餘裕で納められます。

   これが正しい背負ひ型です。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AA%E5%88%80

  • [40]
  • 佐々木小次郎の佩刀

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月14日(水)19時31分15秒
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佐々木小次郞・・備前長船長光(びぜんをさふねながみつ)・・(古刀)

   謂はずと知れた武藏の好敵手、佐々木巖流小次郞ですが、その愛刀は「二天記」によれば長さ三尺餘りの大太刀だつたとされてゐるさうです。三尺を超えるものは「野太刀」とも稱されますが、小次郞の愛刀は"物干竿"の異名で呼ばれたやうで、作刀は【備前長船長光】だつたと同書には記されてゐるやうであります。

   小次郞の號「巖流」は實は彼が創始した流派の名です。小次郞は、中条流の流れを汲む富田流の祖、富田盛源(とだせいげん)の門人だつたと謂はれてゐます。中条流は小太刀の流派で、小太刀でいかに長刀と渡り合ふかを研鑽しました。
   小次郞は、小太刀の相手方として野太刀の打太刀役を長年務めたゝめ、逆に大太刀の術に精通するに至つたとされてゐます。
   しかしながら、佐々木小次郞が實在の人物だつたかどうかは、素性が諸説あり、實のところ確定されてゐません。

   【長光】は備前國長船村(現岡山縣邑久郡長船町)に居住した長船派の刀匠です。長船派は、鎌倉中期に衰退した一文字派に代はり、室町末期まで繁榮した鍛冶集團でした。「備前長船」と謂へば名刀の代名詞とまでなりました。

   長船には、代々、古備前「正恆」と謂ふ巨匠の一門が居ましたが、一文字の名聲に押され一時衰退してゐました。歴仁年間(鎌倉中期)に「光忠」と謂ふ名匠が出て長船鍛冶中興の祖となります。【長光(初代)】はその子で、左衞門尉と稱し父と竝ぶ名匠です。

   太刀姿は、後に「長光姿」とよばれる姿格好の最も良い、しかも氣品に滿ちたものです。刄文は純然たる匂ひ本位大丁字亂れで、刄中に見事な匂ひの働きがみられます。

   切銘は、「長光」「長船長光」「備前國長船住長光」「備前國長船住人長光造」。


   ●名物「大般若長光(だいはんにやながみつ)」、國寶、東京國立博物館藏。
   號の由來は、その代附(値段)が室町時代では破格の六百貫であつたところから、大般若經六百卷にちなんで名付けられたものです。

   ●名物「津田遠江長光(つだとほたふみながみつ)、國寶、德川美術館藏。
   織田信長の愛刀です。
     http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18714

   ●銘「熊野三所權現長光(くまのさんしよごんげんながみつ)」、國寶、個人。
   三所權現は長光の信仰した御神といはれてゐます。


    これは倉敷刀劍美術館藏の長光です。
    http://www.touken-sato.com/web-gallery/nagamitu.htm

  • [39]
  • 武藏の佩刀(その二)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月12日(月)20時14分22秒
  • 編集済
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   以前にも書きましたが、名物の刀劍を記載した文獻に「享保名物帳(きやうほうめいぶつちやう)」なるものがあります。
   これは徳川八代將軍吉宗の命により、刀劍の鑑定などを司つてゐた本阿彌家が享保四年當時有名であつた名刀類を調査し、公儀に提出したものであります。「名物」と謂ふ言葉はこの文獻に記載されてゐる刀劍の總稱です。

   この名物帳の中には「正宗」が三十九口記載されてゐます。その中の一口に「武藏正宗」なるものがありますが、この正宗が武藏の差料であつたと謂はれてゐるものであります。

『武藏正宗、磨上、二尺四寸四分半、代附弐百五拾枚、御物』とあります。

   こゝで謂ふ「御物」とは徳川將軍家所有といふ意味です。また「代附(だいつけ)」とは刀劍の價格のことで、一枚とは大判一枚のことです。小判十兩に相當しますので、二百五十枚とは「二千五百兩」になります。

   さて、當時の一兩とは現代價格で如何ほどになるのでせうか。
   江戸時代三百年のいつの時期かや、何を換算の基準とするかで色々差がありますが、大工などの職人の手間で換算すると一兩は三十五萬圓ほどに、又、食料に換算すると四萬(米)二〇萬(蕎麥)ほどになると云ふ試算があります。(日本銀行金融研究所貨幣博物館)
   職人の手間は現在よりも相當安かつたことになりますが、平均すると金一兩は二十萬圓ほどになるのでせうか。時代劇等で賄賂に「切餠」を渡す場面がありますが、切餠一包二十五兩ですから、現代のお金で五百萬圓にもなる計算ですね。

   刀一口に對して代附二百五十枚(二千五百兩)が如何に莫大な金額かお判りになるでせう。當時名物の刀はそれほどの價値があつたのであります。ちなみに、二百五十枚といふのはまだ安い方で、「籠手切(こてきり)」の異名をとる正宗は七千貫の代附があります。大判にして三百五十枚。七億圓であります。
(當初、一貫がそのまゝ一兩としましたが、それは永樂錢勘定の場合でありました。十二月十四日訂正)

  • [38]
  • 武藏の佩刀(その一)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月11日(日)20時28分39秒
  • 返信
 
宮本武藏・・大原眞守(おほはらさねもり)・・(古刀)

   かの有名な劍豪、宮本武藏玄信は「二天一流」といふ獨創的な二刀流の兵法を創始しましたが、使はれた刀がどのやうなものだつたのかは、ほとんど傳はつてゐません。

   武藏は晩年の五年間、肥後(熊本縣)の細川家に客分として仕へました。この時の門人に、熊本藩家老、澤村宇右衞門友好がゐましたが、この澤村友好から賜つたのが「眞守」だつたと謂はれてゐます。

   【眞守】は、嘉祥年間(平安後期)の人で、大原眞守伯耆眞守などと呼ばれました。名劍「童子切り」で有名な伯耆國、橫瀨三郞太夫安綱の子です。作刀に、平淸盛の父、刑部卿平忠盛の佩刀で著名な「木枯(こがらし)」「拔丸(ぬけまる)」があります。

   「拔丸」には、六波羅池殿で晝寢をしてゐた忠盛に、池から出てきた大蛇が襲ひかゝらうとした際、枕元に置いておいたこの太刀が、自然に鞘から拔け出した爲、大蛇は恐れて池に逃げ歸つたので、以後この太刀を「拔丸」と名付けたといふ故事があります。

   【眞守】の作柄は、安綱に似てゐますが姿が優しく古備前のやうに見えて沸が荒く杢目肌に柾目が混じります。刄文は、直刄ほつれ小亂れ小丁字亂れ等です。

   切銘は、「眞守」「大原眞守」「伯耆國大原眞守造」。

   香川縣立ミュージアム藏、重要文化財
   http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/5782.html

  • [37]
  • 新刀・長曾禰虎徹と新撰組近藤勇

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月10日(土)23時16分21秒
  • 編集済
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長曾禰虎徹(ながそねこてつ)】

    天然理心流四代目新撰組局長近藤勇昌宜の佩刀が虎徹だつたと謂はれ、池田屋討ち入りの時にも使はれたと謂ひます。 長曾禰虎徹は五郞入道正宗とともに日本鍛刀史を飾る秀逸な刀匠です。

    勇の虎徹は僞物だつたとの説が根強いのですが、明治維新後まで現存 してゐた現物を確認した人物の、「本物である」との證言があるやうです。

    【虎徹】は近江國長曾根村(現滋賀縣彦根市長曾根町)に生まれました。家はこの村の刀鍛冶でしたが、關ヶ原の役後に越前に流れて甲冑鍛冶となり、虎徹も長じてこの生業に就いてゐました。

    三代將軍家光公の治世の寬文年間、虎徹五十歳前後の時期に江戸に出て、それまで副業だつた鍛刀を本業とし、延寶六年に沒するまでの十五年間に二百數十振りを鍛造しました。

    當初「興里(おきさと)」を名のり、次に「古鉄」、そして「虎徹」となり、さらに「乕徹」と改めてゐます。

    「興」の字を「奧」と切る「奧里」時代、「虎徹」の「虎」の中の「ル」を撥ね上げて切る「ハネ虎」時代、「虎」を「乕」と切る「ハコ虎」時代に分けられます。このほか「徹」の字を省略して切るものを「虎入道」と呼びます。

    作柄は、謂はゆる虎徹の棒反りと謂はれるほど反りが淺く、刄文は沸本位の覇氣に滿ちた大灣れ亂れか、大互の目亂れに丁字風の亂れが交じります。

    燒刄はみごとな沸が一面に付き、亂れの谷から匂ひ足が刄中に盛んに入る非常な働きがあります。

    地肌は實によく詰み美しく手癖として鐔元十センチ程の所に大杢目肌が現れます。 最上大業物

    切銘は、住東叡山忍岡辺長曾祢虎徹入道。長曾祢虎徹入道興里。長曾祢興里入道虎徹。長曾祢虎徹入道。長曾祢興里。金象嵌裁斷銘、三ツ胴裁斷山野加右衞門永久(花押)など有り。

    これは摸造ですが雰圍氣は判ると思ひます。
    http://kyokusho.com/mikawaya/touken/F-038.htm

  • [36]
  • 新刀の鍛冶

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月 9日(金)22時31分18秒
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   新刀とは嚴密には慶長以後に作られた刀を謂ふのが普通です。なぜ「新刀」と謂ふのかといふと、その作刀法がそれまでとはまつたく異なるからなのです。

   古刀は各傳法に則つて忠實に作られてゐます。ある傳法の刀匠が、別の傳法で作刀するといふことは絶對にありません。しかし新刀にはさういつた忠實さが無く、良く言へば「各傳の良いところを取り入れる」作刀法なのであります。

   古刀鍛冶も古刀末期になると、戰國の需要に追はれて、古刀の鍛刀法では註文に應じきれず、その上技術も低下し、實用一點張りの作柄と變はり、古來の傳法が失はれて仕舞ひました。

   この樣な時に現れたのが新興の實力者、豐臣秀吉公でした。秀吉公は大變な愛刀家で、新作を大いに獎勵しました。そして製鐵法が進歩し、鍛刀技術の改良等が行はれ、特に從來の傳系とは關係の薄い新しい刀匠が續々と現れ始めたのであります。

   しかしながら、やはり古刀期の最上物と比べると見劣りがするのは事實で、現在國寶とされてゐるものは全て古刀であり、新刀以降のものは殘念ながらありません。

   たゞさうは謂うても、新刀の上作物になると相當の出來榮えであり、決して駄物などではありません。

   例へば、長曾禰虎徹入道興里、堀川國弘、などは愛刀家垂涎の的となつてをり、時價で評價すると、兩者とも一千八百萬圓程であります。

[新刀鍛冶]

京都

埋忠(うめたゞ)」系
埋忠明寿、重義、吉信、東山美平

堀川」系
堀川国広、国安、出羽大掾国路、大隈掾正弘

三品」系
伊賀守金道、丹波守吉道

新々刀
南海太郎朝尊、千種有功

大阪

堀川」系
和泉守国貞、井上真改、ソボロ助広、津田越前守助広

一竿子(いつかんし)」系
一竿子近江守忠綱、陸奥守包保

三品」系
丹波守吉道、大和守吉道

新々刀
月山貞吉貞一、貞勝、尾崎助隆

江戸

「下坂」系
御紋康継、大和守安定

長曽祢(ながそね)」系
長曽祢虎徹興里(こてつおきさと)、興正、上総介兼重

石堂」系
石堂武蔵大掾是一、対馬守常光、日置(へき)光平

新々刀
水心子(すいしんし)正秀、大慶直胤(たいけいなおたね)、
源清麿(みなもとのきよまろ)、栗原信秀、源正雄

【その他】

「新刀」
南紀国重、仙台国包、肥後大掾貞国

「新々刀」
左行秀、浜部寿格、筑前信国

  • [35]
  • 古刀五箇傳・纏め

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月 7日(水)22時46分50秒
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[五箇傳の刀匠たち]

   各時代、各傳の有名鍛冶について纏めてみました。

平安朝時代

   《山城傳
   「山城」・・・三条宗近(名物三日月宗近)、五条國永
   「河内」・・・三条有成
   「豐前」・・・長圓
   「豐後」・・・僧定秀

   《大和傳
   「大和」・・・古千手院
   「薩摩」・・・古波平(大和傳の流)

   《備前傳
   「備前」・・・古備前友成、正恒
   「備中」・・・古靑江安次、恒次(名物數珠丸恒次)

   《相州傳
   なし

   《美濃傳
   なし

   《脇物》(五箇傳には分類されない鍛冶)
   「伯耆(はうき)」・・・安綱(名物童子切り)、眞守
   「陸奧」・・・・・・・・舞草(もぐさ)、寶壽、月山

鎌倉時代

   《山城傳
   「山城」・・・粟田口一門、來(らい)一門(名物有樂來國光(うらくらいくにみつ))、了戒  (れう かい)一門
   「相摸」・・・粟田口國綱(名物鬼丸國綱)、新藤五國光
   「筑後」・・・三池典太光世(名物大典太)
   「肥後」・・・延壽國村

   《大和傳
  「大和」・・・大和五派 〔千手院(せんじゆいん)、當麻(たいま)、尻懸(しつかけ)、手搔(てがい)、保昌(ほうしやう)〕名物多數
  「周防」・・・二王(にわう)淸綱
  「薩摩」・・・波平(なみのひら)行安

  《備前傳
  「備前」・・・福岡一文字、吉岡一文字、正中一文字、(名物多數)
       長船系(光忠、長光(名物大般若長光)、景光(巨匠・楠公景光))
  「備中」・・・中靑江、片山一文字
  「相摸」・・・鎌倉一文字助眞(號・日光助眞=家康の愛刀)

  《相州傳
  「相摸」・・・相州行光(正宗の父)、大進坊祐慶(行光の兄)
       五郞入道正宗(言はずと知れた大正宗)、貞宗(巨匠)、(名物多數)
  「諸國」・・・正宗十哲(兼光、鄕(がう))(名物多數)

  《美濃傳
  「美濃」・・・志津三郞兼氏、金重

  《脇物
  「陸奧」・・・寶壽、月山
  「三河」・・・中原國宗

吉野朝時代

  《山城傳
   「攝津」・・・中島來國長
  「近江」・・・甘露俊長
  「遠江」・・・粟田口友安
  「越前」・・・千代鶴國長
  「筑後」・・・三池光世

  《大和傳
   「大和」・・・千手院定重、當麻友行、尻懸則弘、手掻包吉、保昌貞行
   「山城」・・・達磨正宗
   「備後」・・・三原正家
   「周防」・・・二王淸忠
   「薩摩」・・・中波平
   「土佐」・・・土佐吉光

   《備前傳
   「備前」・・・長船後代長光一門、相傳備前兼光一門、長義一門、元重一門
   「備中」・・・中靑江
   「但馬」・・・法城寺國光

   《相州傳
   「相摸」・・・相州秋廣、廣光、廣正
   「山城」・・・長谷部國信
   「筑前」・・・左(さ)一門(江雪左文字(かうせつさもんじ)(國寶))
   「肥前」・・・平戸左

   《美濃傳
   「美濃」・・・直江志津、金行

   《脇物
   「陸奧」・・・寶壽、月山
   「越後」・・・桃川長吉

室町時代

   《山城伝
   「山城」・・・応永信国、三条吉則、平安城長吉
   「若狭」・・・小浜家長
   「肥後」・・・末延壽

   《大和伝
   「大和」・・・尻懸則長、手掻包次
   「越中」・・・宇多国宗
   「薩摩」・・・末波平

   《備前伝
   「備前」・・・応永備前、末備前、大宮一門、吉井一門
   「備中」・・・末青江、古水田一門
   「三河」・・・薬王寺一門

   《相州伝
   「相模」・・・相州正広、綱広一門
   「駿河」・・・島田善助
   「摂津」・・・三代長谷部国重
   「筑後」・・・大石左

  《美濃伝
  「美濃」・・・関兼吉一門、関兼定一門、関兼元一門、関兼房一門、蜂屋関
  「伊勢」・・・千子(せんじ)村正一門
  「遠江」・・・高天神兼明

  《脇物
  「陸奥」・・・宝寿、月山
  「加賀」・・・橋詰国次
  「肥後」・・・同田貫正国
  「阿波」・・・海部氏房

  • [34]
  • 九州の鍛冶(その二)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月 4日(日)19時47分4秒
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豪刀肥後同田貫(どうたぬき)】

   明治十九年十一月十一日、東京は麹町區紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸の庭前で、明治大帝陛下御臨席の下、武術の竸技會が催されました。

   竸技會の參加者は、警視廳の撃劍師範を務めてゐた逸見宗助上田馬之助を初めとする錚々たる劍士達でした。逸見、上田は共に、幕末江戸三大道場の一、鏡心明智流桃井春藏門下の名人です。

   そんな劍士達に混じつて、小柄ながら筋骨逞しい一人の老劍士の姿がありました。きちんと髷を結つた頭には白いものが混じり、顏にも深い皺が刻まれてゐましたが、その身體は全く衰へを感じさせぬものでした。此の男こそが「最後の劍豪」と畏敬された榊原鍵吉友善その人であります。

   鍵吉は、直心影流の達人として「幕末の劍聖」と謳はれた男谷精一郎信友の門人で、將軍家茂に仕へ、幕府講武所劍術師範役にも任じられた人物でした。

   その日の竸技會では樣々な劍技が披露されましたが、一番の呼び物は「鉢だめし」、謂はゆる「兜割り」でした。明珍といふ甲冑作りの名人の鍛へになる南蠻鐵の桃形兜を試すのです。

   まづ臨んだのが逸見宗助でしたが、氣合とともに振り下ろした刀はカーンといふ甲高い金屬音を鳴らしたゞけで、あへなく彈き反されて仕舞ひます。次に挑んだのが同門の兄弟子、上田馬之助でしたが、これも兜に傷を付けることすら出來ませんでした。

   「次、誰かこの兜を割る者はゐないか!」

   竝の劍士ではない逸見、上田ですら割れぬものをいつたい誰に割れようか。誰も名乘り出るものゝゐない中、二度に渡る呼び掛けに応じ、すつと靜かに立上がつた男がゐました。その男こそが其の手に【同田貫業次(なりつぐ)】を携へた榊原鍵吉でした。

   手慣れた仕種で手襁を懸け、見守られる明治帝に一拜した鍵吉は靜かに兜に向ひ合ひます。兜をみつめる目に氣負は全く無く清く澄んでゐました。

   靜かに拔はなつた同田貫を上段に構へます。そして・・・、

   「うおりゃあああ!!!」

   裂帛の氣合、一閃。

   ごきつ、めりめりめり・・。鈍い金屬音が鳴り響きます。

   鍵吉の振り下ろした同田貫は兜にめり込み、そして見事眞つ二つに斷ち割つてゐたのでした。この時は三寸五分切込まれたと謂ひます。榊原鍵吉友善、時に五十七歳でありました。

   【同田貫派】は、吉野朝時代に肥後の菊池郡(熊本市の北方)に山城から移住した刀工集團である來國村一門の分派、延壽一門の末裔です。住み着いた「同田貫」と謂ふ地名からの呼び名と謂はれます。

   この一門を代表する刀工を【上野介正國】と謂ひ、同一門を庇護した加藤清正の朝鮮出兵時には夥しい量の軍用刀を供給してゐます。

   しかしながら今日的日本刀の価値観では、一般に同田貫は實用刀であり美術的價値は低いと謂はれますが、ことこの【正國】に關しては中々の逸品を殘してゐます。

   餘談ですが、劇畫「子連狼」で拜一刀の差料″胴太貫″として有名になつてからは人氣が高まり、著名な映畫俳優である某氏も、その豪壯な太刀姿に惚れ込み、同田貫ばかりを蒐集しまくつてゐると聞いてゐます。 實は私も是非とも一振り手許に置きたいと思うてをるのですが、正國などはお値段的にとても無理。せめて一派の駄物でよいから、掘り出し物が出ないかと願つてゐるところであります。(笑)

   【同田貫正國】
    http://www.city.tamana.lg.jp/kokoropia/deta/kako/kougei/doudanuki.html?print=1&temptype=1&laytype=1&itemtype=1

  • [33]
  • 九州の鍛冶

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月 3日(土)19時49分26秒
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【九州鍛冶】

   九州は古くから大陸との交通の據點であり、國防の要所でもありました。
   天平寶字五年(耶蘇暦七六一)、九州諸國に一定數の甲、刀、弓箭を造り備へさせ、毎年その樣式を大宰府に報告させたと『續日本紀』にあります。しかし、天平といふと奈良朝期ですから名のある刀工は未だ出ませんでした。

   名工が出始めるのは平安末期から鎌倉初期にかけてのことでした。
   豐前(福岡縣東部・大分縣北部)の神息(しんそく)、長圓(ちやうゑん)、豐後(大分縣)の定秀行平(ゆきひら)、筑前(福岡縣)の三池光世(名物大典太)、薩摩波平行安(なみのひらゆきやす)が有名です。

   筑前刀工は三池が室町まで續きましたが、鎌倉時代に別系良西(りやうさい)が出て一派をなし、室町まで續きました。
   この一派は、良西→西蓮(さいれん)→實阿(じつあ)→(さ)と續き、特に左は一般に左文字(さもんじ)と呼ばれ著名であり、一門に行弘、吉貞、吉弘、國弘、國安などがゐます。


【九州物の特徴】

   初期の九州物は、鍛へ肌は板目が流れて柾がゝり、刄文は直刄で匂ひ口が弱くうるんでゐます。ところが、""になつてからは、鍛へは板目肌がよくつみ美しく、刄文は小のたれで沸がよくつき匂ひ口深く極めて明るく冱え鋩子突き上げて強く返る、といふ特徴を備へるやうになりました。

   "左"は左衞門三郞安吉の略であり、正宗十哲の一人です。銘は"左"と切るものと、"筑州住左"と切るものがあります。

國寶に"江雪左文字"があります。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=180695

  • [32]
  • 日本刀の祕密

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年12月 2日(金)21時00分20秒
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折れず曲がらずよく切れる

   「折れにくい」と「曲がりにくい」は相反する性質であります。ある限度以上の力が加はつた際、「折れない」といふことは、軟らかいといふことであり、折れずに曲がつてしまふといふことであります。また、「曲がらない」といふことは硬いといふことであり、曲がらずに折れてしまふといふことです。この相反する性質を見事に調和させてゐるのが日本刀なのであります。

   日本刀は、一種類の鋼だけから作られてゐるのではありません。「芯鐵(しんがね)」と「皮鐵(かはがね)」といふ二種類から作られます。
   芯鐵とはその名のとほり刀の芯になるもので、鋼と庖丁鐵を混ぜ合はせた比較的軟らかいものを用ゐ、鍛へも十囘程度に留めます。皮鐵とは、その芯鐵を包むもので、硬くする必要があるため限度ぎりぎりまで鍛へあげられますが、多くて二十數囘までゞす。それ以上は返つて鋼を壞してしまひます。

   皮鐵の包み方には何種類かありますが、代表的なのが次の三つです。

   《甲伏せ(かふゞせ)》
   皮鐵で、柏餅のやうに芯鐵を包み込む方法。

   《本三枚(ほんさんまい)》
   まづ、芯鐵に、刄の部分となる「刄鐵」を付け、次いで兩面(表裏)に皮鐵を付ける方法。

   《四方詰(しはうづめ)》
   本三枚の造り込みに、棟の部分に當たる「棟鐵」を重ねる方法。

   一番技術がゐるのが四方詰です。
   かうして軟らかい芯鐵と硬い皮鐵を組み合はせることによつて、芯が軟らかく周りは硬いといふ、相反する性質が見事に調和された折れず曲がらずの「日本刀」が出來上がるのであります。


沸と匂

   刀を燒入れした際出來る、鋼の組織の變化したもの。刄文を描いてゐる粒のことで、科學的には「マルテンサイト(martensite)」と言ひます。
   高い温度で燒ゐた刀身を冷水で冷す際の時間の長短が關係するのですが、冷す時間が早ければ早いほど、肉眼で確認出來るツブツブが大きく現れます。これが「(にえ)」です。
 ゆつくり冷すと粒が細かくなり、霞のやうに見えます。これが「(にほひ)」です。

   各傳法によつて特徴があり、「沸本位」「匂本位」などゝ表現します。
   沸本位は山城傳大和傳相州傳で、匂本位が備前傳美濃傳です。

  • [31]
  • 相州五郎入道正宗

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月30日(水)22時31分38秒
  • 返信
 
   先に書いたものと一部重複します。

   「相州」とは「相模國」のことで、現在の神奈川縣です。この國に刀鍛冶が出現したのは、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからの事ですから、刀劍の産地としては新興の地と謂うてよいかもしれません。

   まづ、刀鍛冶の先進國である備前國から「備前三郎國宗」と「一文字助眞(いちもんじすけざね)」がそれぞれの一門と共に來り、続いて山城國から「粟田口國綱(あわたぐちくにつな)」が來往しました。

   この三者とも錚々たる刀匠たちで、國宗は四口が現在國寶指定となつてをり、助眞は「日光助眞(國寶)」、國綱は「名物鬼丸國綱」などが現存してゐます。
   ちなみに、國寶「銘國宗」の内の一口と「日光助眞」は日光東照宮に収蔵されてゐます。

   この三者が鎌倉鍛冶の基礎を築き、その後「新藤五國光(しんとうごくにみつ)」、國光の弟子で正宗の父となる「藤三郎行光」、行光の兄「大進坊祐慶(だいしんばういうけい)、などを経て【五郎入道正宗】の時代を迎へるのであります。
   新藤五國光にも藤三郎行光にも國宝があります。特に新藤五國光は短刀の名人で國宝が三口あり、中でも「名物会津新藤五」は著名です。

   正宗と謂ふ人がいつごろの人なのか明確には判つてゐないのですが、正和年間(鎌倉後期)の人と謂はれてゐます。

   明治二十九年、新聞紙上を賑はした説に、“正宗と云ふ刀工は実在の人物ではない”と謂ふ、謂はゆる「正宗抹殺論」なるものが在りましたが、これは、その当時は正宗についての研究も不充分で、文献的な裏付も充分でなかつたからで、現在ではその存在を疑ふ研究家はゐません

   また、俗説に“村正は正宗の弟子であつた”と謂ふものがあります。
   そのエピソードの一つに、「ある時、村正が小川の流れの中に村正の鍛へた太刀と、師匠の正宗の太刀とを並べて立てゝおいたところ、上流から流れてきた木葉が、正宗の太刀に触れようとする直前に、その木葉は太刀の刃をよけて流れて行つてしまつたが、村正の太刀に近づいてきた木葉はそのまゝ引き寄せられるやうに刃に当り、真二つに切られて流れて行つた。それを観た村正は、“これで自分は師を越えた”と言ひ放つた。しかしその言葉を聞いた正宗は、“太刀とはたゞ切れゝばよいと謂ふものではない。その太刀を見た者が戦はずに逃出すやうな、相手を傷つけずに戦ひに勝てるやうなものが本道の名刀なのだ”と言うて村正をたしなめた。」と謂ふものがあります。

   正宗と村正の格の違ひを物語るエピソードとしては中々面白い話ですが、これは全くの作り話で、村正は延徳年間(室町中期)の人ですから、正宗とは時代が合ひません。百五十年以上の開きがあります。

   確かに村正は大業物(おほわざもの)の作者として有名ですが、正宗とは比べ物になりません。

   正宗は現在國寶指定のものが八口ありますが、村正に國寶はありません。一つ下の“重要文化財”に「妙法村正」と謂ふ號の刀が一口だけあります。

  • [30]
  • 聖徳太子の佩劍

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月29日(火)22時58分36秒
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   先にも少し觸れましたが・・。

丙子椒林劍(へいしせうりんけん)】

   國寶四天王寺(大阪市)蔵。聖徳太子御愛用の劍と謂はれてゐます。
   飛鳥白鳳時代(七世紀)の作と伝へられる切刃造(きりはづくり)の直刀です。鍔元付近の佩裏に金象嵌で“丙子椒林”の銘があるため、この名で呼ばれてゐます。しかし、この銘の意味が現在でもはつきりしてゐません。江戸時代の碩学、新井白石によると“丙子”は干支の一つ、“ひのえね”であり、“椒林”は作者の名だといふ事ですが、事實關係は確認されてをりません

七星劍(しちせいけん)】

   これも國寶四天王寺蔵。同じく太子の愛劍でした。
   やはり切刃造直刀で、こちらには表裏にある二筋樋にかけて、雲形文三星文、さらには金象嵌の七星文が施されてゐます。七星とは“北斗七星”のことです。“斗”とは支那においては液体を入れる量器のことで、柄杓に例へられます。南にある“南斗六星”に対するもので、常に正しい季節を示す事から古来より信仰の対象とされて来たものです。

   第三十一代用明帝が崩御なさると、皇位継承を廻つて崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との政争が激化します。このとき用明帝の皇子である厩戸皇子(うまやどのみこ)、後の聖徳太子蘇我氏側についてゐました。この戦ひの勝利を祈願するため皇子は、白膠木(ぬるで)、別名勝軍木(かちのき)で四天王、すなはち持国天増長天、広目天多聞天を彫上げ、「戦ひに勝たしめたまへば必ずや寺塔を創建し、四天王を祀ります。」と請願します。戦ひに勝利した皇子は四天王寺を創建し、御愛用の二剣を奉納したのでした。

   叔母上である額田部皇女、即ち第三十三代推古帝の補佐役として、十七条憲法冠位十二階を制定し、仏法を尊崇して国力の隆盛に多大な貢献を果した聖徳太子でしたが、太子の歸幽後、後ろ盾であつた蘇我氏の専横が激しくなり、中大兄皇子方による大化改新で蘇我氏が滅ぼされたのは皮肉な事でした。
   馬子、入鹿の歸幽後の環境は洵に悲慘なるものと聞き及びます。宜なるかな。

   畫像を貼ります。
   上、丙子椒林劍
   下、七星劍

  • [29]
  • 寶器【大刀契(だいとけい)】

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月28日(月)20時50分55秒
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   第三十八代天智帝(中大兄皇子)の御代、日本と友好関係にあつた百済の都、扶餘(ふよ)が唐・新羅の連合軍に攻められ陥落します。援軍を求められた朝廷は天智天皇二年(耶蘇暦六六三)、上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)、阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)を将軍とする大軍を派遣し新羅を伐ちますが、朝鮮半島西南部を流れる白村江の海戦に於いて奮戰及ばず、百済は滅亡します。(白村江の戦

   朝廷軍は百済の遺臣を伴つて帰還しましたが、このとき亡命百済王家から天智帝へ献上されたのが、この寶器【大刀契】であつたと謂はれてゐます。

   この劍が天皇践祚すなはち即位の儀に於て、草薙劍と共に先帝から新帝に伝授されるやうになつたのは、第五十一代平城帝からでした。

   先帝第五十代桓武帝の御母上は“高野新笠(たかのゝにひがさ)”樣と申し上げ、この方は百済系渡来氏族出身の“和乙継(やまとのおとつぐ)”樣と、やはり渡来系の“土師(はじ)氏”出身の“真妹(まいも)”樣との御子であられたので、桓武帝は殊の外百済王家への思ひ入れがお強く、新帝践祚にこの百済王家伝来の寶器を伝授なさることにされたのでした。

   【大刀契】は吉野の御事の過程や諸々の出來事でその所在が失はれたらしく、室町時代以降、公卿の日記にもその名が登場しないやうですから、現存はしてゐないと思はれます。

   しかしこの大刀契、文獻の中には一振りの劍のやうに書かれてゐる物が見受けられ、當初私もさう思ひ込んでをりましたが、實はさうではありませんでした。

小笠原信夫『日本刀  日本の技と美と魂』(文春新書)から拔粹します。

「皇室には節刀をも含めた大刀契というものがあった。皇位継承の際に前帝から新帝に授けられる三種神器以外の宝物であり、行幸の際にも携行された。これは大刀と契であり、大刀は百済から献上された二宝剣と節刀になる数十振のこと、契とは割符のことである。割符は東国の兵を動員するときの関契、東国以外の兵を動員するときの駅鈴、身辺警護にあたる髄兵へ与えられる随身符、身分証明に用いる木契などであり、これらは魚形をしていたという。節刀や符契は唐櫃に納められていたが、天徳四(九六〇)年、寛弘二(一〇〇五)年、寛治八(一〇九四)年の内裏焼亡で焼損し、嘉禄三(一二二七)年には盗難にあったという。室町時代以降、文献にその名をみないとのことである。」

  • [28]
  • 神寶草薙劍(くさなぎのつるぎ)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月27日(日)13時02分26秒
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   素戔嗚尊が八俣大蛇退治の際、十握剣で大蛇の尾を斬りつけられたところ、剣が何か固いものに当つて少し刃毀れをしてしまひます。不信に思はれて尾を割かれたところ、驚いた事に一振りの劍が現はれました。

   古事記はこの時のことをかう述べてゐます。

   『故(かれ)此の太刀を取らして、異しき物ぞと思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。是(こ)は草那藝之大刀(くさなぎのたち)也』

   さらに日本書紀一書にはかうあります。

   『本(もと)の名は天叢雲劍(あめのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇居る上に、常に雲気(くも)あり。故以(ゆゑもつ)て名(なづ)くるか日本武尊(やまとたけるのみこと)に至りて、名を改めて草薙劍と曰ふといふ』

   八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかゞみ)と共に三種の神器として皇位継承の証とされてきた寶劍中の寶劍であります。

   第十二代景行帝の第二皇子小碓尊(をうすのみこと)は、父の謂ふ事を聞かれない兄、大碓尊(おほうすのみこと)を諭さうとなされて、その手足をもぎ取り、薦に包んで捨てゝ仕舞はれた、といふ程御気性が激しく、それを恐れた父君から、当時反乱を起こしてゐた危険な熊襲(くまそ)の首魁、川上梟帥(かはかみのたける)討伐を命ぜられます。

   計略により川上梟帥をお討ちになられた小碓尊は、尊の勇気に感心した絶命寸前の川上梟帥から、今後は【日本武(やまとたける)】と名乗られたしと薦められ、以後日本武尊とお呼びするやうになります。

   熊襲征伐から帰還なされた日本武尊は、お休みになられる間もなく、次に治安の乱れ始めた東国平定を命ぜられます。東征の途中、伊勢の神宮に、叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)をお訪ねになられ、「父は自分に死を求めてゐなさるのか」と、その苛酷な任務を叔母へ訴へてお泣きになられます。そんな日本武尊に、倭姫命は【天叢雲劍】と火打ち石を納めた袋をお授けになられ、「油断せぬやうに」と注意を与へ励まされます。

   ところが尊が駿河国まで来られた時、賊の計略に嵌まつて仕舞はれ、鹿狩をするべく野の中にお入りになられたところを、賊によつて野に火をかけられてしまひます。襲ひくる猛火に周りを取り囲まれ、絶体絶命の危機に陥つて仕舞はれたかに見えた日本武尊でしたが、咄嗟の機転で御佩用の天叢雲剣をお使ひになられて周りの草を薙ぎ払はれ、さらに倭姫命から授けられた火打ち石で火をお点けになられて迎へ火となされ、危機一髪で窮地を脱する事ができました。

   この時の事を一説には、『王(みこ)の所佩(はか)せる劍、叢雲、自ら抽(ぬ)けて、王の傍の草を薙ぎ攘(はら)ふ。是に因りて免るることを得たまふ。故、其の劍を号(なづ)けて草薙と曰ふといふ。』とあり、よつてその地を“焼津(やきつ)”(現靜岡縣燒津市)と謂ふとあります。

   その後、日本武尊は相模の馳水(はしりみづ)(走水、東京湾口の浦賀水道)から上総(かづさ、千葉縣)に渡らうとなされて途中暴風雨に遭はれ、舟を進める事が出来なくなつて仕舞はれます。その時、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを鎮めるため、自ら海に身を投げうつて危機をお救ひになられました。

   さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の
                火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

   (かつて相模の野で火攻めに遭つた時、炎の中に立つて名を呼んで下さつた君よ)

   夫に感謝して一命を捧げられた弟橘媛の御歌です。

   その後北上を続けられた日本武尊は、陸奥の竹水門(たかみなと)まで至り、蝦夷を平定され賜うたと傳へられます。現在の宮城縣多賀城市付近と思はれます。

   その後帰路につかれた尊は、武蔵、上野(かうづけ)を経て碓日坂(うすひのさか)(現在の群馬縣碓氷峠)にお登りになられた折、関東平野をかへりみられて、妻であつた弟橘媛を思はれ、「吾妻(あづま)はや!」とお叫びになられたと傳へられます。それでこれ以後は関東を“あづまの国”と呼ぶやうになつたといふ事です。

   それから甲斐、信濃をお通りになられて尾張まで辿り着かれ、しばらく尾張氏の姫、宮簀姫(みやづひめ)の元に御滞在になられます。
   しかしその後、近江と美濃の境にある伊吹山に暴れ者の神々が居るとお聞きになられ、それを討伐せむと再び旅立たれますが、その時【草薙劍】を宮簀姫に預けたまゝにして仕舞はれます。これは、叔母である倭姫命の忠告をお忘れになられた御油断でありました。

   伊吹山の暴神は大蛇に化けて道を塞いでゐましたが、尊はこれが悪神だとお気付きにならずに気楽に跨いで仕舞はれます。そして悪神の毒気の為に気を失つて仕舞はれ、病ひにかゝり歩けなくなつて仕舞はれます。やうやくの思ひで三重の能褒野(のぼの)(現鈴鹿市)まで辿り着かれますが、ここで御病状が悪化し、つひにお命虚しくなられるのでした。

   この能褒野の地で、故郷大和を偲ばれお詠みになられたとされる有名な歌があります。

   倭は 国のまほろば たゝなづく 青垣 山こもれる 倭しうるはし
                        ・・・・・ はしけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ちくも

   (大和は国のいちばんよいところだ。重なりあつた青垣のやうな山々。その山に囲まれた大和は、本当に美しい。・・・・・あゝ懐かしい。わが家の方から雲が湧いてくるよ。)

   そして愛剣【草薙劍】への思ひを辞世として残してをられます。

   嬢子(おとめ)の床の辺に我が置きし
                 劍の大刀(たち) その大刀はや

   その後、御父、景行帝は尊の死を深く嘆かれ、能褒野に陵(みさゝぎ)をお造りになり厚く葬られましたが、尊の御魂は白鳥となつて陵を飛び出され、大和を目指して飛立たれたさうであります。

  • [27]
  • 日本刀の傳法(其の五)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月26日(土)20時06分46秒
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美濃鍛冶

    五箇傳中最も新しい流派です。元來は大和傳系に屬し、初期には相州傳の影響も受けましたが、次第に獨自の樣式を確立して行きました。鍛冶の多くがに居住し作刀した爲、關物と呼ばれました。今でも岐阜縣關市は刃物の産地として有名です。

    刀匠名を「兼某」と名告ることが多く、志津三郎兼氏和泉守兼定關の孫六兼元などが著名です。

    美濃は、三郎兼氏や金重により美濃鍛冶發展の道が開かれましたが、戰國の世を迎へて、群雄割據の中心地として刀劍の需要を一手に引き受けることゝなり、軍需工業地帶として急速に發展して行きました。


大和傳系美濃物

    大和傳らしく適度の反りがあり、姿格好の佳い作柄です。
    善定(ぜんぢやう)系、壽命(じゆめい)系、大和千手院重廣が當國赤坂に移住した赤坂千手院、大和手掻兼常系などがあります。


相州傳系美濃物

    「志津三郎兼氏(しづさぶらうかねうじ)」
  正宗十哲の一人で、美濃傳確立の道を開きました。元は大和の人ですが、美濃志津村に居住したのでかう名告りました。相州傳の豪壯な覇氣に滿ちた作柄です。ちなみに、昭和帝御佩用の軍刀が兼氏であつたさうです。 それから、あの“木枯し紋次郎”の愛刀も三郎兼氏といふ設定でした。(笑)

    個人所有の志津三郎兼氏
    http://www.geocities.jp/mm14923/sizu.html

    「直江志津(なほえしづ」
  兼氏の門人が美濃直江村に移住してから吉野朝期に繁榮した一門の總稱です。

    「金重系
  金重を正宗十哲に含める説もあります。法名を道阿と謂ひ、兼氏に似た作柄です。


關物

  美濃傳と謂へば關物です。今の關市の邊りに居住し作刀した、數百人に及ぶ鍛冶の作品を總稱した呼稱です。

    「和泉守兼定(いづみのかみかねさだ)」
  關物中で最も覇氣に富んで、直江志津や相州物に似てゐます。古刀鍛冶には珍しく官位を受領してゐます。大業物の作者として名高く、豐臣の忠臣木村長門守重成の佩刀に『笹の露』と號する刀があります。これは、“觸れゝば(命が)すぐ落ちる”、と謂ふ意味で名付けられました。

  身幅の廣い切先の延びた相州傳風の姿に、大亂れ箱亂れ矢筈亂れ等の活氣に滿ちた刃文を燒き、これに荒い沸えがつきます。燒刃に廣狹があり、表裏の刃文がよく揃ひます。

  和泉守は二代目兼定で、「定」の冠の中を「」と切る爲、俗に「之定(ゆきさだ)」と呼びます。これに對して、三代目兼定は「」と楷書で切るので、「疋定(ひきさだ)」と呼ばれます。
    http://kako.nipponto.co.jp/swords/KT111010.htm

    「孫六兼元
  俗に“關の孫六”と呼ばれる大業物の作者です。和泉守兼定とは親族で、室町中期、永正年間の二代目兼元を指します。二代目以後代々「孫六」を繼承します。

  刀姿は長寸で反り淺く、身幅廣く、切先やゝ延び、刃文は匂ひ本位の三本杉を得意とします。初代孫六の三本杉は先が不揃ひの覇氣に富んだものですが、代が下るに從ひ先が揃ひ大人しくなります。
    http://www.v-road.jp/SHOP/kanemoto-usuba.html
    (これはレプリカの居合刀ですが、雰圍氣が出てゐます。下の方に刃文の擴大寫眞があります。)

  ちなみに、薩摩浪士有村次左衞門が、櫻田門外で井伊直弼の首を落した時の差料が孫六だつたと謂はれてゐます。

  • [26]
  • 閑話休題

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月24日(木)19時22分35秒
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刀作りの正念場「燒入れ」

   芯鐵皮鐵を組み合はせて造り込みを終へたのち、「素延(すのべ)」「火づくり」「荒仕上げ」の各工程を經て、刀の原型が出來上がります。

   そして愈々「燒入れ」を行ひます。燒入れとは、高温に熱した鋼を水などにつけ、急速に冷すことを謂ひます。鋼には、かうすることによりさらに硬度を増す性質があるのであります。


土取り
   先づ、荒仕上げした刀身に「燒刄土(やきばつち)」を塗ります。これを「土取り」と謂ひます。
   土といつても、基本的に「粘土」「木炭の粉」「荒砥(あらと)の細かい粉」を水で適度に練つたもので、土と謂ふより泥状のものですが、この材料にも祕傳があります。

   土取りには二種類の技法があります。その一つは、この燒刄土を刀身全體に塗り、その後、刄文になる部分の土を薄く削ぎ落す方法です。もう一つが、先づへらで薄く土を引き、その後厚いへらで土を重ね置く方法です。
   前者を「陽の土取り」、後者を「陰の土取り」と呼びます。どちらにしろこの土取りで刄文の摸樣が決つてきます。


土取りの重要性
   土取りは燒入れの效果を十分に上げるために缺かせない工程です。
   燒刄土を塗らずに燒入れをすると、高温に燒かれた刀身によつて水が沸騰する際生じる氣泡が刀の表面に付着し、空氣冷卻を妨げるため、その部分だけ燒が入らなくなります。この氣泡の付着を土取りで防ぐことが出來るのです。


燒入れ
   さて、ここが刀匠の正念場となります。
   先づ、刀を火にいれ刀身全體を赤らめるのですが、細長い刀をむら無く燒くのは頗る難しい作業となるため、刀匠はここで全精神の統一を圖つてから作業に取り掛かります。

   また、燒入れ作業は基本的に夜間に行はれます。やむなく晝に行ふときは雨戸を全部閉めます。これは、燒色を誤らないためです。陽の光の元では、晴れの日と曇りや雨の日とで燒色が違つて見え、正確な色が判斷できないからです。

   燒色は各傳法により樣々で、備前傳では「小豆色」「蘇芳(すはう)色」、相州傳では「行燈の火を紙に透かして見た色」とか「夏の夜の山の端から出る月の色」などとされてゐるやうです。

   そしてその後、水に入れ冷すのですが、この水の温度も祕傳とされ、「人肌」とか「夏の川水の温度」など、樣々に謂はれてゐます。
   傳説では、正宗の子が水の温度知りたさに、父の許可を得ずに、その水に手を入れたゝめ、父に腕を切り落とされた、などといふ話が傳はつてゐます。いづれにしましても、全ては感と經驗だけが賴りの作業なのでありました。


燒戻し
   燒入れただけでは硬くはなりますが、そのままではすぐボロボロになるため、またゆつくりと時間をかけて火であぶり、刀の「腰」を強くする燒戻しの工程が必要で、これを「合ひを取る」と稱します。

   その後、反りを整へる「反り直し」をして、刀匠自ら「鍛冶押(かぢおし)」と呼ばれる荒砥ぎを行ひ、莖に銘を切り、研師へ委ねて、一振りの完成となるのであります。

  • [25]
  • 日本刀の傳法(其の四)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月23日(水)19時33分7秒
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相州鍛冶

   相摸國には古くから鎌倉を中心に刀工が存在してゐましたが、執權北條氏の命によつて山城より粟田口國綱が鎌倉に下向し、また備前から三郞國宗が、そして一文字吉房とは兄弟である一文字助眞(すけざね)が來たとも謂はれ、鎌倉鍛冶の強化が行はれました。
   助眞の作に家康の愛刀「名物日光助眞」(銘助眞、國寶、日光東照宮藏)があります。

   鎌倉後期、永仁年間頃になつて短刀の名手新藤五國光(しんとうごくにみつ)が現れると、一門に名工が輩出し、全國にその名を轟かせました。

   國光の子に、國重、國廣、國泰がをり、弟子に藤三郞行光五郞入道正宗の親子、さらに正宗の養子に彦四郞貞宗が出ました。

   新藤五國光(短刀、銘國光、國寶、個人藏)
   「名物會津新藤五」、會津若松城主蒲生氏鄕の愛刀
   http://www004.upp.so-net.ne.jp/a-takai/katana.htm

   新藤五國光(短刀、銘國光、附(つけたり)本阿彌光常折紙
   http://www.touken-sato.com/web-gallery/kunimitu-1.htm


   早くから相州物は特に有名で、吉野朝時代の「新札往來(しんさつわうらい)」と謂ふ書物に、『近來。來國俊國行新藤五(國光)。藤三郞(行光)。五郞入道(正宗)。其の子彦四郞(貞宗)。一代之名人候』と記されてゐます。

   相州鍛冶の作風は、鍛へ肌が強く肌摸樣がはつきりと現れ地景(ちけい)がよく出ます。小板目肌から大板目肌までそれぞれに特色が見られます。
   刄文は新藤五は直刄正宗、貞宗は灣れ(のたれ)、廣光、廣秋は皆燒(ひたつら)を得意としてゐます。
   いづれも沸が強く輝き、刄中は金筋稻妻砂流などの變化に富んで、全體に力強く覇氣に溢れた作風を示してゐます。

   特に正宗は「雪の叢消え(ゆきのむらきえ)」と例へられるやうな、沸匂ひのふくよかな灣れを基調とした刄文に神髓がみられます。現存するものは國寶級のものばかりです。
http://www.pref.toyama.jp/branches/3044/exh_0106.htm

   五郞入道正宗(短刀、無銘、國寶、徳川黎明會徳川美術館藏)「名物庖丁正宗
   庖丁正宗と呼ばれるものは三口あり、いづれも國寶です。
   これは其の内の一口。
   http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=90560

   彦四郞貞宗(短刀、無銘、國寶)「名物寺澤貞宗
   やゝ大振りで淺く反りがあり、鍛へは板目が詰んで地沸がつき、細かに地景が入つて美しく、刄文は淺い灣れに互の目を交へて沸美しく金筋かゝり總體に穩やかで、貞宗の典型作です。
   肥前唐津城主寺澤志摩守廣高が所持してゐたのでこの名があります。
   http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=197410

   鄕義弘(がうのよしひろ)、「鄕」は「江」とも書く。
   正宗十哲の筆頭。「名物稻葉江」(無銘、天正十三 十二月 日 江 本阿弥磨上之(花押)所持稲葉勘右衛門尉金象嵌銘、國寶、個人藏)
   http://aokiin.seesaa.net/article/125117883.html


正宗十哲(まさむねじつてつ)】
   正宗門人と傳へられる著名な十人を謂ひます。
   郷義弘越中則重志津三郎兼氏相州廣光長谷部國重長船兼光來國次筑州左長船長義石州貞綱の十工。 (異説有り)

  • [24]
  • 日本刀の傳法(其の三)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月22日(火)21時07分59秒
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大和鍛冶

   平安時代中期頃から發達した莊園制のおかげで經濟基盤を強めた奈良の寺院は、寺領内に專屬の刀工を持つやうになりました。
   奈良の東大寺手搔(てがい)、千手院、吉野の當麻(たいま)などの諸流派は寺院の名を一派の通稱としてゐます。

   大和鍛冶に共通する特色は、太刀は鎬(しのぎ)が高く、鍛へは柾目板目が流れて柾がゝり、刄文は直刄が多く、沸が強く砂流(すながし)があることが多いことです。また、鋩子(ぼうし=切先の刄文)は燒詰(やきつめ)が多い。このやうな作風を大和傳と呼びます。

大和五派

千手院派
   奈良の若草山西麓千手谷に在つた、東大寺の子院千手院(信貴山眞言宗大本山千手院とは別物)の周邊に居住した一群で、平安末期行信重弘鎌倉期重吉康重力王などがあり、特に吉野郡龍門に在住した延吉は、後に後水尾帝の御料となつた太刀を製作してゐます。

   千手院龍門延吉(太刀、銘延吉、國寶、日本美術刀劍保存協會藏)
   http://www.touken.or.jp/museum/shozohin.html (一番上)

   絲卷太刀拵(いとまきたちこしらへ)
   藍地菊紋金襴袋(あゐぢきくもんきんらんぶくろ)
   http://www.touken.or.jp/index.html (拵へと袋は江戸初期の作


手搔派
   東大寺轉害(てがい=手搔)門のあたりに居住した刀工達です。
   鎌倉末期の包永(かねなが)に始まり、包重包俊包吉など室町時代まで續きました。いづれも銘に「包」の字を冠するのを通例としてゐます。現在も包永町の名が殘つてゐるやうです。

   手搔包永(太刀、銘包永、國寶)
   http://blog-imgs-17.fc2.com/s/i/o/sio2nh2o/060620-7.jpg


當麻派
   河内國(大阪府)に近い吉野の當麻寺に所屬し、現葛城市當麻町のあたりに居住してゐました。代表工に鎌倉末期國行有俊吉野朝時代友長友行友淸などがあります。
   いづれも直刄の作が多く、沸強く匂深く、刄中に砂流ほつれが入ります。

   當麻國行(太刀、銘國行、國寶)
   http://www.touken.or.jp/museum/shozohin.html (一番下)


尻懸(しつかけ)派
   居住地については樣々な説があるやうですが、談山神社法隆寺などに尻懸則長の作刀が殘されてゐるところから、大和國山邊郡岸田村が有力です。
   鎌倉末期則弘に始まり、則成則長など「則」の字を通字としてをり、室町末期までの作があります。
   直刄を主體として互の目を連續して交へた刄文に特色があります。

   大和尻懸派(刀、大磨上無銘、特別保存鑑定)
   http://www.samurai-nippon.net/604/


保昌(ほうしやう)派
   大和高市郡に住んだ一派で、鎌倉中期に始まり、貞繼貞宗貞興貞淸などで、吉野朝期に及んでゐます。作風は、直刄で鋩子は燒詰の顯著な特徴を持つてゐます。
   國寶に、「銘高市△住金吾籐貞吉(名物桑山保昌)」があります。

   大和保昌派(短刀、無銘、傳保昌貞宗)
   http://www.city.matsusaka.mie.jp/bunka/S05/shigai/sh028.htm

   保昌貞宗(太刀)
   http://ameblo.jp/isaom/entry-11056244634.html

  • [23]
  • 閑話休題

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月21日(月)20時07分33秒
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【日本刀の“地肌” とは】

   日本刀が鍛練される際に生ずる地鐵(ぢがね)の鍛へ目のことで、鍛練の仕方によつて出來る刀の素地の肌目のことです。

   刀の鍛へ方には各流派ごとに奧傳や祕傳がありますが、基本的には、縱方向にのみ折り返す「短册鍛へ」式と、縱橫交互に折り返す「十字鍛へ」式に大別されます。

   その方式の違ひにより、「梨子地肌(なしぢはだ)」「杢目肌(もくめはだ)」「柾目肌(まさめはだ)」「板目肌」「杢目に柾目交り」「綾杉肌(あやすぎはだ)」などの種類が生じます。

   鍛へは、表層部分の皮鐵(かはがね)の場合で、十五囘から二十數囘の折り返しをします。折り返すたびに鐵(鋼)の層が倍々で增えてゆきますから、十五囘の場合では約三萬層にもなります。つまり、同じ枚數だけ鋼を重ね合はせるのと同じ效果が得られるわけです。これが日本刀の硬さの祕密の一つです。

   現代の美術刀劍的價値觀からすると、刀の恰好はしてゐても、この地肌の無いものや和鋼を材料としてゐないものは日本刀とは看做されません。洋刀や庖丁、なた、の類です。

   例へば、優秀な軍刀である滿鐵刀(興亞一心)などは、武器としての性能が從來の日本刀を凌ぐほどであつても、材料と製造法が從來のものではない爲、“美術刀劍”としての日本刀とは看做されません。爲に銃刀法では、研究の爲など特別な物以外は所持が認められず廢棄される運命にあります。

   大東亞戰後、日本刀は亞米利加の方針により全て沒收、廢棄される筈でした。それを命をすり減らすやうな働きで防いだのが、佐藤寒山先生と本間薫山先生でした。
   あくまで傳統美術工藝品だとすることにより廢棄から守ることが出來たのでした。それを踏へた上での銃刀法ですから、痛し痒しと謂ふところなのかもしれません。

  • [22]
  • 日本刀の傳法(其の二)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月20日(日)20時17分20秒
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山城鍛冶

   平安時代末期に三条宗近(むねちか)が現れて以來、京都には多くの刀工が排出しました。平安末期には三条派鎌倉初期には粟田口派、中期來派綾小路派末期以後了戒(れうかい)、 信國(のぶくに)、長谷部平安城などの各派が出て隆盛を極めました。

「三条派」
   京都三条の地に、三条の小鍛治と呼ばれる名高い宗近を祖として始まり、一派に、吉家(よしいへ)、兼永國永有近近村などがをり、兼永、國永は五条に在住したため、五条兼永國永と呼ばれます。
   三条派の作風は、細身で腰反りが強く、小切先の優美な姿です。
   鍛へは板目肌がよく詰んで精美であり、刄文は小亂(こみだれ)で匂ひ深く小沸えがよくついてをり、全體に優美な趣向を備へてゐます。
   宗近の代表作に名物三日月宗近(太刀、銘三条、國寶、東京國立博物館藏)と御物の太刀があります。

「綾小路派」
   鎌倉中期、文永年間の定利を祖とします。京綾小路に居住し、三条に似た優美な反りの強い太刀姿で、三条よりさらに身幅狹く、他流に比べ重ねが厚い特徴があります。
   刃文は小沸え本位の小亂れ。所々に太い互の目風の丸い亂れが入ります。地肌は三条に比べ、白け肌立ち氣味となります。

「粟田口派」
   鎌倉時代初期から末期に渡つて京の粟田口に在住した刀工群です。
   鎌倉初頭、後鳥羽院は御番鍛冶を置き、名工を御所に召して作刀を命じ、自らも燒入れしたと謂はれます。院の御作を「菊御作」と申し上げ、莖に菊花紋が刻まれてゐます。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=42268

   この御番鍛冶の中に粟田口國友久國國安が居り、彼らの兄弟にはさらに國淸有國國綱の三名工がゐて、粟田口六兄弟として知られてゐます。
   その後も、國友の子則國、則國の子國吉國光、さらに國吉の子に名工藤四郞吉光が出現して、日本刀工史上突出した鍛冶集團として名聲を得てゐます。
  作風は、初期のものは三条風ですが、中期の國吉、吉光になると身幅が廣く力強くなり、切先も猪首切先となります。短刀も幅廣なものが出てきます。
   鍛へは梨子地(なしぢ)肌と呼ばれる小板目がよく詰んだもので、いかにも綺麗です。
   刄文は小亂直刄(すぐは)を得意としてゐます。

粟田口則國(太刀、銘則國、國寶、京都國立博物館)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=43761


「來派」
   鎌倉中期に「(らい)」と稱する一派が現れました。
   『銘盡(めいづくし)』によると、朝鮮半島の高麗から來た鍛冶と謂ひ、「來國○」と銘を入れました。 國吉を祖と傳へ、來國行來國俊來國光來國次をはじめ多くの名工を出した一派です。
   來派の作風は國行に代表されますが、鍛へは板目肌がよく詰み地沸(ぢにえ)がよくつき映りが現れることが多い。
   刄文は沸出來(にえでき)の直刄直刄調の丁子亂(ちやうじみだれ)とがあり、刄文の中に(えふ)などの働きが盛んです。
   しかし、鎌倉末期から吉野朝時代の國光や國次、國長などには相州鍛冶の影響を受けた沸の強い大亂(おほみだれ)の刄文を燒ゐたものもあります。

來國行(刀、大磨上(おほすりあげ)無銘)
http://www.touken-sato.com/web-gallery/raikuniyuki-mumei.htm

來國俊(短刀、銘來國俊、國寶、熱田神宮藏)
http://atsutajingu.or.jp/jingu/bunkaden/possession/19.html

その他國寶多數あり。

<つゞきます>

  • [21]
  • 刀劍展の御案内

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月20日(日)15時08分46秒
  • 編集済
  • 返信
 
  刀劍美術十一月號より轉載。(時期が少々遲くなりました。御容赦)

*********************************************************
  靖國神社遊就館

  名作「刀剣・甲冑展」

  遊就館で所蔵している鎌倉時代から明治時代に至るまでの刀剣・甲冑・変わり兜等約百点を展示し、拝観者に日本の伝統工芸の素晴らしさを伝えます。
主な展示品
①刀  備前長船真長    (鎌倉時代後期)
   昭和十六年十二月大東亜戦争開戦時、近衛文麿公より東條英機首相に贈られたもの。
②色々縅具足            (桃山時代)
   古来、豊臣秀吉の 「七騎武者の鎧」として有名な具足である。
③変わり兜  黒漆塗燕尾形兜 (桃山時代)
   燕の尾を模した兜
④変わり兜  黒漆塗兎耳形兜 (桃山時代)
   兎の耳を模した兜
関連行事
   (期日経過の為、省略。ご容赦。)
期  間  11月12(土)~12月11日(日)
場  所  遊就館一階  企画展示室
休館日  期間中無休
時   間  午前9時~午後4時30分
拝観料  無料

   東京都千代田区九段北三-一-一
      電話 〇三-三二六一-〇九九八

  • [20]
  • Re: 継承

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月20日(日)14時03分10秒
  • 返信
 
竹屋光晶樣

>学ぶところ多く、大変ありがたく存じます。

  との仰せ、洵に有難う御座います。投稿の勵みになります。那須再拜

  • [19]
  • 継承

  • 投稿者:竹屋光晶
  • 投稿日:2011年11月20日(日)00時12分39秒
  • 編集済
  • 返信
 
那須の権太様

刀剣の技術が人から人へと伝承されることの意味には、本当に奥深いものがあると感じました。学ぶところ多く、大変ありがたく存じます。

  • [18]
  • 日本刀の傳法(其の一)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月19日(土)18時27分58秒
  • 編集済
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【五箇傳(ごかでん)】

    日本刀の中でも特に古刀期には、製造された地域によつて、夫々獨自の技術が使はれ、それは「傳法」として代々傳へられ培はれて來ました。その傳法は、太刀姿地鐵(地肌)刃文等に如實に現はれ、決して他の傳法と交じり合ふことはありませんでした。時代が下るにつれ、例へば「相傳備前」のやうに、太刀姿などは他傳を取入れる傾向も出て來ますが、鍛錬法そのものを眞似ることはありませんでした。これが古刀期の特徴であります。

    傳法は大きく五つに別れてゐます。これを「五箇傳」と呼び、刀の見所の重要な要素となつてゐます。

    その五箇傳とは、「山城傳」「大和傳」「備前傳」「相州傳」「美濃傳」のことを謂ひ、夫々がさらに幾つかの流派に分かれて、さらに一部はそこから日本各地へと移住して行き、自分達の傳法を移住先の地で繁榮させてゆきました。

    しかし中には五箇傳には屬さない獨自の鍛錬法を繼承する鍛冶もゐて、「脇物」と稱されます。脇物と謂うても決して五箇傳に劣る譯ではなく、獨立獨歩の鍛冶と謂ふ意味です。

    脇物として、伯耆國「安綱」「眞守」、 陸奧國「舞草」「寶壽」「月山」などが著名です。

<つゞきます>

  • [17]
  • 日本刀の時代区分

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月19日(土)10時35分7秒
  • 編集済
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  日本刀にはその作られた時代により区分けがあります。大きく上古刀古刀新刀現代刀に分かれます。
  さらに現代刀を新々刀と現代刀(狭義)に分けることもあります。またさらに昭和前期、その需要の爲、多量に製造された軍刀のことを特に昭和刀と呼ぶやうです。

【區分】
上古刀・・・奈良時代以前
古刀・・・・平安~室町末期(戦国時代)
新刀・・・・桃山~江戸
新々刀・・・幕末~明治の廢刀令まで
現代刀

  さて、謂はゆる「日本刀」として、反りのある鎬(しのぎ)造りの太刀が完成されたのが平安時代でした。先に書きましたが、平安前期、伯耆(はうき、現在の鳥取県)の国に安綱(やすつな)という刀匠が出ますが、はつきりと莖に銘が残るのはこの人が最初です。

  ちなみに太刀(たち)と謂ふのは、刃を下にして腰から紐で吊り下げるタイプのものを謂ひます。この場合、太刀を佩く(はく)と表現します。古刀時代は全てこれです。
  ただし、新刀期に入り、長い古刀を根元の部分から切り取り、腰に差せるタイプ(刀拵へ)に作り変へられた物も多く、これらを大磨上(おほすりあげ)物 と稱してゐます。

  刀(かたな)とは、刃を上にして直接帯に差すタイプを謂ひます。長さも太刀に比べ短くなります。

  日本刀にも表と裏があり、太刀拵へ(たちこしらへ)と刀拵へでは表裏が逆になります。外側に向く方が表です。佩表(はきおもて)佩裏(はきうら)、差表(さしおもて)差裏(さしうら)と表現します。

http://


  • [16]
  • 神代の名劍

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月18日(金)21時42分25秒
  • 編集済
  • 返信
 
   記紀に記載されてゐる神代の名劍としては、伊邪那岐命の佩刀である「天之尾羽張(あめのおはゞり)」、阿遅鉏高日子根神の武勇に名高い「神戸劍(かむどのつるぎ)」、皇統初代神武帝が大和の賊を平定した際の「布都御魂(ふつみたまのつるぎ)」が有名です。
    また、天目一箇神(あまのまひとつのかみ)が天照皇大神のおんために、天香具山の鐵で鍛へたとされる「天叢雲劍(あめのむらくものつるぎ)」は、後に日本武尊が東征の際佩用され、危機を脱するとき使はれたため「草薙の劍」とも呼ばれ、三種の神器の一つとして皇國最高の神劍とされてゐます。この爲、天目一箇神は刀匠の祖神と仰がれてゐます。

[人皇の御代]

   綏靖帝が大和鍛冶部(やまとかぬちべ)の刀匠、天津眞浦(あまつまうら)に劍を造らせたこと、崇神帝が大和鍛冶部に造らせた劍を十柄(とつか)、弓を二張(ふたはり)を常陸國(ひたちのくに、今の茨城縣)鹿島神宮に獻納されたこと、などが記録に殘つてゐます。

    また、垂仁帝太刀佩部(たちはきべ)を創設し、大和鍛冶部の川上伴(かわかみのとも)に一千振りの劍を造らせ、宮中の警護に當たらせました。これが後に授刀舍人(じゆたうのとねり、宮中警護職)となりました。

    さらに、繼體帝は筑紫國の磐井一族の叛亂を追討するため、物部麁鹿火(ものゝべのあらかび)に敕命を下され、出陣の際、劍を授けられました。これが節刀(せつとう)の始まりです。節刀とは、將軍が出陣の際天皇から賜る刀劍のことです。

   話が重複しますが、かの日露戰役の折、元帥東鄕平八郎帝國海軍大將が海軍司令長官として出征の際に東宮殿下より賜つた「一文字吉房」 の太刀はこの例に倣つたもので、旗艦三笠上での元帥の佩刀として現在、重文指定されてゐます。

【三笠艦橋の圖】
http://www.z-flag.jp/blog/archives/images/mikasa_kankyo.gif

  • [15]
  • 玉鋼

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月17日(木)20時32分14秒
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[玉鋼(たまはがね)]

世界最高純度の鋼

   玉鋼は砂鐵から作られます。砂鐵には、濱砂鐵、川砂鐵、山砂鐵などがありますが、最も純度が高いとされるものが、「鐵穴流し(かんなゝがし)」と呼ばれる方法で採取される山砂鐵です。その中でも最上級のものを「眞砂(まさ)」と謂ひ、これで玉鋼(和鋼)が作られます。和鋼は、世界に名だゝるスウェーデンの鋼より不純物が少ないことが分析されてゐます。


世界で唯一の直接製綱法「たゝら吹き」

   明治以降に導入されたヨーロッパの製綱法は、まづ、鐵鑛石とコークスを溶鑛爐に投入して銑鐵(鑄鐵)を作り、次にこれをベッセマー轉爐と呼ばれる爐で加工して鋼を得る、と謂ふ二段階方式によつてゐます。これを「洋綱」と謂ひます。

   これに對して、和綱すなはち玉鋼は、砂鐵(眞砂)と木炭を一緖に爐に投入して直接に鋼を得るといふ、世界に類を見ない唯一の技法が使はれます。これを「たゝら吹き」と謂ひ、純度の高い玉鋼は、この日本傳統の製綱法によつてのみ得られるもので、ヨーロッパ式製綱法では不可能とされてゐます。

   ちなみにたゝら吹きは、一度始めると三晝夜連續の寢ずの操業となり、この三日間を「一代(ひとよ)」と呼びます。


玉鋼の優秀性

   また、玉鋼には「折り返し鍛へ」で出來る層と層を、癒着させる成分が含まれてゐるため、“鍛へる”ことが可能なのですが、洋鐵にはこの成分がなく、折り返してもすぐボロボロになり、鍛へることが出來ません。玉鋼になぜこの成分が含まれるのかは、現代科學をもつてしても未だ解明されてゐないのです。

   ゾリンゲンの職人が理解できないのも頷ける話です。 笑


「たゝら吹き」

http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0102.htm

  • [14]
  • 日本刀の歴史(其の三)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月16日(水)20時25分36秒
  • 編集済
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   文武帝の御代、大寶元年(耶蘇暦七〇一年)に制定された大寶律令で、刀匠は自分の製作刀の莖(なかご)に銘を刻むことが定められました。これ以後、太刀の作者が特定できるやうになりますが、この頃、大和國宇多郡に「天國(あまくに)」と云ふ刀匠が出現します。此の人は、今日の謂はゆる日本刀と呼ばれる、反りのある鎬造りの太刀樣式を最初に造つた爲、在銘日本刀の元祖と謂はれてゐます。

   天國の作と傳へられるものに【小烏丸(こがらすまる)】と號される太刀があります。平家重代の寶刀と傳へられ、壇の浦での平家滅亡の折、海中に歿したとされてゐましたが、江戸時代になつて、有職故實を司る伊勢家に現存することが判明し、明治維新のときに元津島藩主(そう)家にもたらされて、その後、明治帝に獻上され、現在宮内廳所藏の御物となつてゐます。

     【小烏丸】は、日本刀過渡期の太刀姿で、刀身は反りがつきますが淺く、莖の部分で大きく反つてゐます。そして、刀身の上半分は棟側にも刃のある、謂はゆる兩刃(もろは)で、此の樣式を「切先兩刃造り」と呼び、俗に「小烏造り」とも稱して短刀等にも採用されました。

     【小烏丸】の名の由來は所説あるやうですが、有名なものに、桓武帝が新築された平安京の南殿に御昇りの折、上空から飛來した大きな三本足の烏が運んできた、と謂ふものがあります。

    三本足の烏と謂へば、これはもう伊勢の大御神樣に仕へる神鳥である「八咫鴉(やたがらす)」のことですから、靈驗あらたかな寶劍として大いなる權威附けとなつた由來であります。
     ちなみに「八咫鴉」と謂へば、日本サッカー協會のシンボルマークでもありますね。

    この寶劍が平家重代の寶劍となつたのは、承平の亂における平將門討伐の爲の皇軍の將、平貞盛朱雀帝より下賜されてからの事と謂はれてゐます。

    しかしながら、【小烏丸】が本當に天國の作なのかどうかは實は確認されてゐないのであります。と謂ふのも、永い年月のうちに莖の錆が進み銘が全く讀み取れないからなのであります。つまりあくまで書物による「」天國なのでありました。

    お氣附きの方もをられるでせうが、先の由來からすると【小烏丸】が「出現」したのは平安初期の頃と考へられます。しかし平安遷都は延暦十二年(耶蘇暦七九四年)のことでありますから、天國の時代の大寶年間からは實に一〇〇年近い時間の開きがあることになります。

    ただ、刀匠の名と云ふものは代々襲名されるということも、ごく當然に行はれてゐることですから、小烏丸も何代目かの「天國」作と謂ふことも充分考へられる事であります。

   眞僞に就いてはともかくも、この太刀が先に御紹介した「毛拔形太刀」と竝んで、日本刀完成までの過渡期の樣式を今に傳へる貴重な存在であることは間違ひありません。

   これは小烏丸寫しの摸擬刀です。
    http://www.sikaya.co.jp/product.asp?ano=44

   こちらは「小烏造り」の珍しい軍刀です。贈呈刀です。
    http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/gunto_137.htm

  • [13]
  • 日本刀の歴史(其の二)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月15日(火)20時05分53秒
  • 編集済
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    平安朝中期頃までは日本刀の過渡期で、そのほとんどは直刀形態を主としてゐました。
    これらの直刀を刀剣分類上では上古刀と呼びますが、その多くは古墳から出土してゐます。 傳世品(出土品ではないもの)として最古のものに、高知・小村神社の御神體、「金銅荘環頭大刀拵太刀身(こんどうさうくわんとうたちこしらへたちのみ)」があります。これは謂はゆる「環頭大刀」と呼ばれる形態のもので柄頭に大きな環状の飾りが付いてゐます。國寶です。
     小村神社金銅荘環頭大刀拵太刀身
     http://www.kochinet.ed.jp/hidaka-v/sub4_1.html
     http://www.niyodoriver.jp/mokuroku/shiseki/23.jpg

    日本の國力が次第に充實してくるにつれ、刀劍の需要も増大し、輸入だけでは間に合はず、大陸から優秀な刀匠の渡來を招くに致りました。古くは 應神帝の御代、百濟の昭古王の推擧により卓素(たくそ)と云ふ名匠が渡來してゐます。

    また推古天皇十年來目皇子(くめのわうじ)が新羅に進駐する際には、忽海漢人(わしうみのあやと)などを大和國から呼び寄せ武器を造らせてゐますが、彼らは渡來人であり、その鍛刀法も漢のものであり日本固有のものではありませんでした。

    彼ら渡來人の鍛冶を韓鍛冶(からかぬち)と呼び、神代の昔から引き續き皇室に直屬してゐた倭鍛冶(やまとかぬち)と相對して技量を竸ひ合ひながら繁榮して行きました。

    東北や九州の平定が一段落し、皇威四海に輝き、中央政權が確立するにつれて、各地の豪族の元にゐた鍛冶たちは、大和、山城の皇城の地に集中し始めるやうになります。

    東國からは、蝦夷の御用鍛冶であった「舞草(もぐさ)」「月山(がつさん)」「寶壽(ほうじゆ)」が、九州からは、大陸の影響を強く受けた九州鍛冶が、さらには古くから豐かな原料にめぐまれ安住してゐた伯耆(はうき)鍛冶が移動し、それに官府直屬の大和鍛冶が入り亂れて、互に覇を握らむものと短を捨て長を學び、技を竸ひ合ひ、世界無比の日本刀鍛錬法の完成へと發達していつたのであります。

    餘談ですが、お隣りの國では日本刀はウリナラ起源なんぞと謂うてをるやうですが、反りのある鎬造りのその姿と、獨特の折り返し鍛錬法、そして柔い心鐵(しんがね)を硬い皮鐵で包む造り込み技法は、大陸にも、況してや半島にもない皇國獨自の發想による發明品なのであります。

    そして平安後期にはすでに完成してゐた「日本刀」は、前時代とは正反對に大陸や半島に盛んに輸出され、かの地で絶讚を博すやうになつたのであります。宋の有名な文豪、歐陽脩(おうやうしう)の詩に「寶刀近出日本國・・・」とあるのはそれをよく表はしてゐます。

    歐陽脩「日本刀歌
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang08.htm
    (日本を“東北方の未開の異民族”などと謂うてますが、餘程悔しかつたとみえます。笑)

  • [12]
  • 日本刀の歴史(其の一)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月14日(月)21時01分20秒
  • 編集済
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    所謂「日本刀」の形が完成したのは平安時代後期と考へられてゐます。
    原型は東北地方の蕨手刀(わらびてたう)と謂はれてゐます。これは平造(ひらづくり)で刀身そのものには反りがなく、柄の部分で反つてゐます。
   そして刀身と柄が共鐵(ともかね、同じ鐵)で造られてゐます。
    http://www61.tok2.com/home2/adachikg/isawa/P6280003.jpg(蕨手刀を模した文鎭ですが形は此のとほりです。


    それが發達したのが毛拔形(けぬきがた)太刀で、宮中警護の衞府(ゑふ)の武官が所持した為「衞府太刀(ゑふのたち)」と呼ばれるものです。
    刀身に反りと鎬(しのぎ)がつきますが柄はやはり共鐵でしたので、物を切るとかなりの衝撃だつたと思はれます。
http://www.daitouryu.com/japanese/image/photo/kenukigatatachi.jpg(柄の部分に毛拔形の透かしが入つてゐます。)

    この流れとは別に、大陸からも直刀が入つてきてゐます。
    素戔嗚尊が八俣の大蛇を退治したときの十拳劒は「蛇韓鋤之劍(おろちのからさびのつるぎ)」とも名付けられてゐますが、その名が示す通り半島の作ではないかと考へられます。

    また、神功皇后の御代には百濟から皇室に「日月護身劍」「七枝劍(刀)」「丙毛槐林劍」が獻上されてゐます。この時代は「高麗劍 (こまつるぎ)」と呼ばれる舶來物の名劍が數多く名を殘してゐます。

    伊勢の神宮にも「玉纒横刀(たまゝきのたち)」「須賀流太刀(すかるのたち)」と謂ふ有名なものが在りますが、これらも新井白石 によると『外國の劍』だと謂ふことです。

    推古帝の御製に『ますけよ蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば句禮(くれ)の眞鋤(まさゝび)』とあるとほり、當時、馬 は日向産、刀劍は句禮すなわち“句麗”、つまり高句麗の鐵劍が優秀とされてゐたやうです。と謂ふことは、この頃はまだ舶來物のほうが優秀だつたといふことのやうです。

    ところで、この「句禮」ですが、私は當初これは“呉(くれ)”則ち三國志の中の「呉」のことかと思うてをりましたが、さうすると時代が合ひません。推古帝の頃は、支那では隋の文帝の頃ですから、呉は疾うの昔に滅んでゐます。

   四天王寺には聖徳太子の佩刀と傳へる「丙子椒林劍(へいしせうりんけん)」「七星劍(しちせいけん)」が收藏されてゐます。
    二口とも國寶です。
    http://tairyudo.com/tukan03/tukan3865.htm

    これら舶來物の直刀と、上が國從來の太刀とを融合させ、直刀(劍)のやうに根元部分を(なかご)に仕立て、衝撃を少なくする爲の木柄を取り付けることにより、日本刀の形が完成したと考へられます。

<つゞきます>

  • [11]
  • 天下五劍(其の五)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月13日(日)19時34分42秒
  • 編集済
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數珠丸恆次(じゆずまるつねつぐ)】

    備中國古靑江派、恆次の作刀です。

    備中鍛冶の項でも言及しましたが、備中には妹尾(せのお)鍛冶と靑江鍛冶の二系統がありました。 前者は妹尾莊、後者は萬壽莊の靑居鄕にそれぞれ居住する鍛冶集團でした。「靑居」からなぜ「靑江」になつたのかは定かではありませんが、妹尾よりもこちらのはうが名工の作を多く傳へてゐます。

    太刀姿は、長寸で腰反りの角度が特に強く、身幅狹く小切先で、藤原時代を偲ぶやうな優美さがあります。

    恆次は靑江の祖、安次の孫で、土御門帝の御代、承元年間(鎌倉初期)の人です。後鳥羽院御番鍛冶の一人で、右衞門亮と稱し、備中守を受領してゐます。

    【數珠丸】は日蓮が身延山を開くとき信者から贈られたものと謂はれ、日蓮はこの太刀を身から離さず、柄に數珠を掛け、破邪顯正の寶劍としたところからこの號があります。天下五劍の中では一際異彩を放つ由來となつてゐます。

    日蓮宗徒から「袈裟」と「中啓(扇)」とともに、上人の三遺品として尊ばれ、身延山久遠寺の重寶として傳來しました。その後、明治維新後に【數珠丸】のみが一時行方不明となりましたが、大正末期に兵庫縣尼崎にて發見され、現在、當地の日蓮宗本山本興寺の寶刀となつてゐます。

    長さ、二尺七寸七分、 切銘は「恆次」、名物數珠丸靑江恆次、國重要文化財、本興寺藏

    下から二番目が實物の寫眞です。他は摸造ですが太刀姿がよくわかると思ひます。
    http://kyokusho.com/mikawaya/touken/juzumaru.htm

  • [10]
  • 天下五劍(其の四)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月12日(土)18時33分31秒
  • 編集済
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大典太光世(おほでんたみつよ)】

    筑後國の鍛冶で三池典太光世と謂ひます。三池元眞(みいけげんしん)とも謂ひます。元眞初代は承保年間(平安中期)の人と謂はれ、同名が數代續きます。

    この大名物大典太の光世は承久年間(鎌倉中期)の人と謂はれますが諸説あるやうです。傳太、典田、傳多とも書ゝれます。

    三池一門の太刀は反り淺く、身幅廣く、重ね厚く、猪首切先となつた豪壯な姿に沸本位中直刄で、樋は幅が廣く、樋先の上つた正しい形の樋を莖まで掻きとほします。

    切銘は、「光世」「筑後國光世」「筑後國元眞」。

    【大典太】は加賀前田家に傳來し、家寶として神聖視されてゐました。と謂ふのも、この太刀は足利、豐臣を通じて靈力あるものとして有名でありましたが、徳川二代將軍秀忠の時、前田利家の娘が病氣になつた折にその平癒を祈つて利家に貸與され、太刀の靈驗でたちまち快癒したので返卻したところ再發して仕舞つたので、再度貸與されるが返却すると再發し、三度目の再發でつひに利家に與へられたと謂ふ經緯であつたからです。

    この太刀は、昭和三十二年二月、前田育徳會名義で國寶指定されてゐますが、前田家としての神器でありますから、この指定も當初は、國寶指定などとはもつての外、と謂ふ嚴しい態度であつたさうであります。

    前田家では、第一の家寶として【大典太】、【小鍛冶宗近の刀】、【靜の薙刀】の三點を黒塗の唐櫃に納めて外には注連繩を張り、代々の當主以外は觸ることはもとより、見ることも許されなかつたと謂ひ、年に一度日を定めて、當主自らが三種の神器の手入れを行なひ、それは大東亞戰前まで、其のとほり續けられたさうであります。
    これらの家寶は「烏止らずの藏」に納められてゐました。藏の名の由來は、此の三點の寶刀から立ち上る靈気の爲、藏には烏も止まる事がなかつたといふ事にあります。

    また、切れ味の凄さを示す逸話として次の試し斬りの話があります。
    寛政四年八月十九日、江戸千住は小塚原において幕府試し役山田淺右衞門吉睦が斬首された罪人の屍體を用ひ、【大典太】の試し斬りを行ひました。

    まづ1囘目は「一の胴」つまり鳩尾のところ、二囘目は「車先」つまり臍の下、三囘目は「雁金」つまり左右肩胛骨を結んだ線(骨が多く斬り難い)を試したが、何れも屍體の置き臺である土壇に刃先が五寸も食込んだと謂ひます。 さらに四囘目、「三ツ胴」つまり屍體を三體重ねて試したところ、最下の屍體の背骨で止まるという切れ味を示したと謂ふことです。

    しかし、此の話は辻褄が合ひません。寛政と謂へば將軍家齊の頃ですから、前田家が神寶の大典太を試し切りになぞ供するとは考へられません。それとも何か譯があつたのでせうか、定かでありません。

    この太刀は三池一門の中では少し異質で、身幅は廣いが重ね薄く反りの高い作りこみです。
    長さ二尺一寸七分、刄文は細直刄小沸が付いてゐます。鍛へは大きく板目肌が流れ、處々大肌が交じり、地肌白けて、直刃が淺く灣れごゝろとなり、物打邊りは二重ごゝろとなります。

銘「光世作」、名物大典太、國寶、前田育徳會藏、拵へは「鬼丸拵へ
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/daitenta.html

こちらはレプリカの大典太です。
http://www.rakuten.co.jp/shinobiya/1952535/1952536/2009364/

http://


  • [9]
  • 天下五劍(其の三)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月11日(金)22時50分2秒
  • 編集済
  • 返信
 
童子切安綱(どうじぎりやすつな)】

   伯耆國大原鍛冶の祖、橫瀨三郞太夫安綱の作刀です。大原安綱伯耆安綱などと俗稱されます。同名が數代續き、初代は大同年間(平安初期)と されますが、これは信じ難く、永延年間(平安中期)が妥當とされるところです。しかしそれでも在銘太刀を殘す鍛冶の中では最も古い刀匠です。

   作風は、黑みがゝつた地鐵に、板目柾肌が混じり、腰反り、踏張り強く、先細く優美です。刄文は、小沸の深い小亂れでほつれがゝつてゐます 。古備前に似てゐますが、より古風な味はひがあります。

   切銘は、「安綱」。【童子切】は源賴光の佩刀ですが、安綱はこの他にも坂上田村磨の佩刀も手がけてゐます。源賴光が大江山の酒呑童子を討ち取 つた太刀としてこの號がありますが、その後、【髭切】【膝丸】とともに源氏重代の太刀となりました。

   ちなみに【髭切】は、源賴光四天王の筆頭、渡邊綱が「羅生門の鬼」の片腕を切り落とした時の太刀と謂はれてゐます。

   一条帝の御代、永延~寛弘年間(耶蘇暦九八六年~一〇一一年)、藤原道長が内覽宣旨を受けて、右大臣、さらに左大臣と出世をとげ、藤原攝關政治が全盛時代を迎へます。宮廷では“清少納言”、“紫式部”、“和泉式部”、“赤染衞門”など錚々たる才女たちが宮廷サロンを形成してゐま した。

   しかし一方、洛中に於ては美しい娘を狙つての人さらいが續發し、ついに池田中納言の愛娘が標的にされるに及んで、朝廷が陰陽師安倍晴明に判じさせたところ下手人は大江山の酒呑童子だと判明します。

   事態を重く見た帝より酒呑童子討伐の敕令を下された武士團の棟梁【源賴光】は、四天王と稱される“渡邊綱”、“坂田金時”、“平貞道”、“ 平季武”、さらには藤原保昌と一族郎黨を引き連れ、大江山へと向ひます。

   策略により酒呑童子の居館に潛入した頼光一黨は、“神便鬼毒酒(じんべんきどくしゆ)”なる、人には無害だが鬼には猛毒となる酒を飮ませ、酩酊したところを用意した鐵鎖を捲き附け、佩用の【安綱】を一閃、酒呑童子の首を打ち落したのでした。

   能“大江山”にある源賴光鬼退治の顛末は、實際には鬼などではなく、洛外に跋扈する兇賊たちを討伐する、朝廷の守護たる武士團の強さを誇示 する爲の英雄譚でありました。

   そしてその後、この安綱は【童子切】と號され、【髭切(ひげきり)】【膝丸(ひざまる)】と共に源氏重代の寶刀となつたのでした。

   【童子切】は後に德川に引き繼がれ、二代將軍秀忠の娘勝姫結城秀康の子、忠直に嫁ぐ際の引き出物として引き渡されました。その後、紆餘曲折を經て作州津山松平家へと引き繼がれます。


   長さ、二尺六寸六分。國寶。東京國立博物館藏
   腰反り踏張りある姿、刄文は小亂れ、板目肌流れて黑味がゝる。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=80823

  • [8]
  • 天下五劍(其の二)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月10日(木)19時55分38秒
  • 編集済
  • 返信
 
鬼丸國綱(おにまるくにつな)】

   粟田口左近國綱は山城國粟田口(あはたぐち)派の祖である國家の六男。この六兄弟は全て後鳥羽院御番鍛冶となつてゐます。 國綱の孫に、あの短刀の巨匠、新藤五國光がゐます。

   粟田口派は、優美な品位の高い作柄です。しかし、同じ山城傳でも三条派のやうに長寸で反りの深い造りではなく、長さ、反りともに頃合いで、身幅狹く小切先、重ねは手元が厚く先に行くに從つて薄くなります。

   刄文は燒き幅の狹い小亂れか、手元の燒出しがやゝ廣く上部が狹い直刄です。これに銀粒のやうに美しく冱えた小沸が一面につくといふすばらしい刄中の働きがあります。 地肌は純然たる梨子肌で特に細かく古今獨歩の見事な鍛へです。

   この【鬼丸】は執權北條時賴の佩刀でしたが、以下のやうな傳承がこの號の由來となつてゐます。

   時賴と謂へば、變裝して諸國を巡囘し、地方の實情を觀察して、 人民の病苦を救つたと謂ふ傳承のある人物ですが、その彼が 惡夢に惱まされてゐました。夜毎に夢に小鬼が現れ惡戲をするため、さすがの時賴も無氣味で眠れず疲勞困憊、修驗者や陰陽師に祈祷させても效果が無く困り果てゝゐました。
   ところがある夜まどろんでゐると、いつもの小鬼ではなく白髮の老爺が現れ、「吾は粟田口國綱の刀の化身である。毎夜あなたを惱ます小鬼を追放しようと思ふが、不淨の者の手に觸れられたため、錆が生じて鞘から拔け出せずに居る、小鬼の邪氣を祓ひたくばそれなりの措置を講ぜよ」と謂つて消えました。
   翌朝目覺めた時賴は、直ちに家臣に命じ所藏の「國綱」を淸め、柱に拔き身で立てかけておいたまま、ある夜まどろんでゐたところ、ガッと凄い音がしたので見てみると、彼の國綱が、時賴の日頃愛用してゐる火鉢に倒れかゝり、その足を切り裂いてゐました。良く見てみるとその足には小鬼の彫刻がしてあり、倒れ掛かつた「國綱」はその小鬼の首を見事に切り落としてゐたのでした。それ以來時賴の惱みも消え去りました。以來時賴はその太刀を「鬼丸」となづけ家寶としました。

   この太刀は後に新田義貞を經て、現在【御物】となつてゐます。

  長さ、二尺五寸八分。 刄文は、灣れ(のたれ)に小亂れまじり。 拵へは、後に「鬼丸拵へ」として流行する「黑革包絲卷」です。

御物、銘國綱、名物鬼丸國綱
http://www.sho-shin.com/onimaru.JPG (拓本です)

http://


  • [7]
  • 天下五劍(其の一)

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月 9日(水)19時01分34秒
  • 編集済
  • 返信
 
三日月宗近(みかづきむねちか)】

   山城國三条宗近の作刀です。京三条に居住した刀工なので、「三条小鍛治宗近」と呼ばれました。小鍛冶とは刀鍛冶のことを謂ひ、これに對して「大鍛冶」は材料となる鐵そのものを造る製鐵技術者のことを謂ひました。

   宗近は、從四位下橘仲道の次男で、初め仲宗、後に宗近と改めました。一条帝の御代、永延年間(平安中期)の人と謂はれ、從六位上信濃大掾に任じられてゐます。公務の餘暇での鍛刀でありましたが、その技量は群を拔いてゐました。「小鍛治」といふ謠曲に、伏見稻荷大明神の加護を受け、寶刀【小狐丸】を鍛へ上げる樣が謠われてをり、歌舞伎などにも登場し有名です。

   三条派の作風は、京といふこともあり公家達の太刀として造られた爲、優美さと氣品に滿ちたものです。
   太刀姿は長寸に深い鳥居反り(京反り)で、身幅狹く、先細り小切先となつた優美な姿に、小沸(こにえ)本位の小亂れ(こみだれ)を燒き、刄中には金筋稻妻等の充分な働きがあります。鋩子の多くは亂れ込んで上品に淺く返り、地肌は良質の地鐵を小木目肌に良く鍛へて美しく、地景湯走りなどが現れます。

   【三日月】の號は、刄縁のところどころに弧状をした、「打ちのけ」と呼ばれる三日月型の摸樣が現れるところから名付けられたものですが、その太刀姿そのものが、反りの中心が刀身の眞中にある京反りと呼ばれる、三日月のような姿から來てゐるとも謂はれてゐます。
   この太刀は、豐臣を經て德川に代々傳來しました。

切銘は、「三条」。

長さ、二尺六寸四分、腰反り高く細身で上品な太刀。國寶、東京國立博物館藏。

http://www.n-p-s.net/meitou02.htm

http://www.flickr.com/photos/15600652@N04/2994867174/(差し替へました。11/10)

http://blogs.yahoo.co.jp/kulika_naga/58698259.html

  • [6]
  • 備中鍛冶

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月 8日(火)19時32分14秒
  • 編集済
  • 返信
 
   備中國を縱斷する高梁(たかはし)川の上流域では、古代よりたゝら製鐵が盛んでした。
   特に阿曾(あぞ=現總社市)は國府が置かれ、鑄物師による農具など鐵器生産地として名高く、吉備西部の政治文化の中心地として榮えました。

   備中鍛冶は妹尾(せのお)鍛冶と靑江(あをえ)鍛冶の二系統に分かれます。
   妹尾鍛冶は妹尾莊(現岡山市妹尾)に、靑江鍛冶は妹尾の西隣萬壽莊(まんじゆのしよう=現倉敷市)の内の靑居鄕(あをゐごう)に夫々住む鍛冶集團でした。「靑居」がなぜ「靑江」となつたのかは定かではありません。

   鎌倉初期から中期にかけての靑江は古靑江と呼ばれ珍重されてゐます。鍛へは「備中の澄み肌」と呼ばれ、備前とは異なり鍛へ肌が白く肌立ち、そこに黑い地斑(ぢふ)が現れるものです。

   刄文は、丁字や互の目の足が刄と直角にならずに斜めになります。これを「逆がゝる」と謂ひ、備中の特色の一つです。
   また、一般に銘は佩表(はきおもて)に切りますが、備中は裡に切るといふ特徴を持つてゐます。
   後鳥羽院御番鍛冶として、貞次恆次次家がゐました。


【古靑江派】「太刀、銘爲次、號『狐ヶ崎』、國寶」

   岩國藩(山口縣)藩主吉川家の祖にあたる駿河國(靜岡縣)の豪族、吉香(きつか)小次郞友兼が、同國「狐ヶ崎」において、梶原景時親子の討伐に當たつたときの佩刀として、この號があります。

http://bunkazai.ysn21.jp/general/summary/genmain.asp?mid=70060&cdrom=


片山一文字

    もともとは備前一文字派でしたが、後に備中國片山に移り住んだ爲、かう呼ばれてゐます。(最近では備前説も出てゐるやうです。)

   國寶に「太刀、銘則房」があります。
    ↓
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=225089

  • [5]
  • 備前鍛冶長船派

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月 7日(月)19時39分18秒
  • 編集済
  • 返信
 
    鎌倉中期暦仁年間、備前國長船村に光忠(みつただ)といふ巨匠が出ます。
古備前風から華麗な一文字風を取り入れ、さらに獨自の丁字文を創始して、長船派の創始者として知られてゐます。

    その子にやはり巨匠の長光(ながみつ)が出て、國家存亡の一大危機、蒙古襲來といふ未曾有の國難に對應して、父と共に大規摸な工房を備へて、幾多の弟子を抱へ、多くの名刀を鍛造しました。
   長光の作に號「大般若長光」があります。これは時代下つて戰國の頃、當時破格の錢六百貫の値がついたため、大般若經六百卷にちなんだものです。

   またこの長光の子に景光(かげみつ)といふこれまた名匠が出ます。景光の最高傑作とされるものに號「小龍景光」があります。この號は佩表の腰元にある小振りな倶利加羅龍の刀身彫に由來してゐます。
   また此の太刀は大楠公の佩刀とも謂はれるため、「楠公景光」の別名を持ちます。そしてさらに時をへて明治帝が陸軍のサーベルに軍裝されて御佩用になられるといふ數奇な運命を持ちます。

   「長船物」は名刀の代名詞のごとくもてはやされて、室町末期まで隆盛を極め、福岡一文字派と共に二大流派として、備前鍛冶を著名にしました。

光忠(銘光忠、國寶)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=85743

長光(銘長光、名物津田遠江長光、國寶)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18714

長光(銘長光、重要文化財)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=19577

長光(銘長船、名物大般若長光、國寶)
http://www.n-p-s.net/meitou33.htm

景光(銘備前國長船住景光、號小龍景光、國寶)
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl_img&size=L&colid=F130&t=

  • [4]
  • 備前鍛冶吉岡一文字

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月 6日(日)22時38分38秒
  • 返信
 
  備前國福岡莊より北方に吉岡といふ地があります。この地で、紀助吉(きのすけよし)といふ刀工を祖として作刀した一派を「吉岡一文字」と呼びます。

  鎌倉末期、この一派に助吉の子で助光といふ名匠が出て、一文字派の最後を飾りました。

  國寶に、「銘備前國吉岡住左近將監紀助光」があり、吉岡一文字の最高傑作とされてゐます。長大な太刀で、反りも高く、均衡のとれた見事な作です。

【伝吉岡一文字】
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/kougeihin/oogakisi/katanamei.html

【吉岡一文字脇差】
http://imgp-a.dena.ne.jp/exp1/20110711/47/157516591_1.JPG

  • [3]
  • 備前鍛冶福岡一文字

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月 6日(日)13時17分47秒
  • 編集済
  • 返信
 
   鎌倉初期に、吉井川下流域の山陽道と交差する場所に、御上の莊園である福岡莊がありました。こゝに生まれた新たな刀工集團を「福岡一文字(ふくおかいちもんじ)派」と呼びます。
   一文字派の名稱は太刀の銘を「一」とのみ切ることに由來しますが、これは御上より、日本一なり、との叡慮を賜つたことから來てゐます。
   後鳥羽上皇は承久の御事(耶蘇暦壱弐弐壱)の際には、主にこの福岡一文字派の名工たちを月番として宮中に招き、鍛刀させたりもなされました。これを後鳥羽院御番鍛冶と稱します。また、御上御自らも作刀なされました。これを「菊御作」と申し上げます。

   この一門は鎌倉中期に全盛を迎へ、匂ふやうな美しい地肌と春爛漫の櫻花のやうな刄文を創始しました。 國寶に、上杉謙信藏刀の太刀であつた、無銘一文字「山鳥毛(やまとりげ)」があります。

   匂ひと呼ばれる微細な粒子による丁字(ちゃうじ)文は、備前鍛冶一文字派の獨壇場であり、精美な黑鐵に白くきらびやかな花を咲かせ、燒入れによりその花を永遠のものとする技は、再現不能といはれる妙技であります。

   著名な刀匠に、則宗(のりむね)、助宗(すけむね)、信房(のぶふさ)、吉房(よしふさ)などがゐます。一文字吉房は元帥東郷平八郎海軍大將が東宮殿下より賜つた節刀としても有名です。

【福岡一文字】
http://www.touken-sato.com/web-gallery/hukuokaitimonnji.htm


<備前鍛冶の項さらにつゞく>

  • [2]
  • 古備前【友成】

  • 投稿者:那須の権太
  • 投稿日:2011年11月 5日(土)23時24分5秒
  • 返信
 
「刀劍美術」十月號から轉載いたします。

*************************************************
佐野美術館

名物刀剣
  宝物の日本刀

 本展は、源平の武士が佩いた太刀から、戦国大名が愛蔵した刀剣、徳川家の重宝など、歴史を彩った名刀が一堂に会する空前絶後の展覧会です。国宝10件、重要文化財24件を含む約50件の刀剣に加え、貴重な刀絵図などの資料や文献約10点を展覧します。

 「名物刀剣」とは一般に、刀剣の研磨や鑑定を家業とした本阿弥家が、江戸時代中期に全国の大名家が所蔵する名刀を調査して第八代将軍徳川吉宗に提出したとされる『享保名物長』に記載された刀剣を指します。平安時代から南北朝(ママ)時代に作られた名刀が多く、形の特徴や由緒、持ち主の名前などが愛称として呼び親しまれています。

 本展は名物刀剣の成り立ちを検証し、名物の背負う歴史や伝説について紹介します。

主な展示作品

国宝  太刀  銘  友成作  (厳島神社蔵)

国宝  刀  金象嵌銘  光忠
                 光徳(花押)  (個人蔵)

国宝  短刀  無名  正宗 (名物日向正宗)  (三井記念美術館蔵)

会  期  10月22日(土)~12月18日(日)

時  間  午前10時~午後5時

休館日  木曜日(11月3日は開館)

入場料    一般・大学生   1000円
       小・中・高校生   500円

       静岡県三島市中田町1-43
       電話055-975-7278
*********************************************************

 お近くの方、御足を御運びになられてみては如何でせうか。



 御紹介した刀劍展に嚴島神社藏の【友成】の名がありますので、備前鍛冶について書いてみたいと思ひます。以前某掲示板に投稿したものを加筆訂正しました。 何囘かに分けます。



【備前鍛冶】

  大化改新以前、吉備一族によつて統治されてゐた吉備地方は、『眞鐵(まかね)ふくきびの中山おびにせる』と古今和歌集にあるやうに、「眞鐵ふく」が吉備の枕詞となるほど、鐵に縁の深い地域でした。

 その後、吉備の國は大化改新によつて、備前、美作(みまさか)、備中、備後の四ヶ國に分けられましたが、吉備氏により開かれた鐵器の生産は、室町末期まで一千年餘の間引き繼がれ、この地方の優れた特産として知られました。

 能阿彌が編んだ刀劍鑑定書「能阿彌本銘盡(のうあみぽんめいづくし)によると、平安中期、永延(えいえん)年間(耶蘇暦987~989)の頃に、友成(ともなり)といふ名工が出ました。

 平安中期は、それまでの直刀から彎刀へ移行する端境期であり、友成やその父實成(さねなり)の頃に日本刀の形が完成しました。

 備前友成は、伯耆安綱(やすつな)、山城三條宗近(むねちか)らとともに日本刀最古期の三名匠と 云はれてゐます。

 平安末期に平教經が嚴島神社に奉納した太刀も「友成」でした。この太刀が、今囘御紹介した刀劍展に出展されてゐるもので、現在國寶となつてゐます。

 平安中期から鎌倉初期にかけて備前の吉井川周邊に存在した刀工の一群を「古備前派」と呼びます。友成のほかに、正恆(まさつね)、包平(かねひら)、信房なども優れた刀工として知られてゐます。

【古備前友成】
http://www.touken-sato.com/web-gallery/tomonari-tachi-mumei.htm

<つゞく>
  


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