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  • 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

  • 投稿者:備中處士
 
 「一兵士」翁ご出顯は、平成十八年八月十六日から十九年十一月十七日。九段塾「塾頭」ご開講は、平成二十年九月十三日にして、本掲示板の設立は、其の前日なり。「一兵士」翁・「九段塾塾頭」・「泉水隆一」監督は、即ち「福井忠」翁、「金城」と號す、其の人なり矣。

 本掲示板およびスレツドは、【?國神社の正統】を、塾頭・一兵士翁より學び、共に語り教へ合つて、志操を固め且つ昂め、?國神社の正統を恢復護持し奉らむことを企劃するものであり、同憂の御方の、ご來駕ご發聲、切磋琢磨を、切に懇祷して已まなかつたのでありますが、悲しいかな哉、吾人の塾頭は、平成二十二年七月十六日、遂に身罷られ畢ぬ矣。然れば茲に、塾頭ご照覽の下、スレツド『九段塾塾頭・金城翁最終講義』を建て、謹みて之を開板するものであります。

 なほ本掲示板は、一に「?國神社の正統」を明かにし、之を恢復護持し奉らんが爲のものであつて、從つて異端邪説への批判は、秋霜烈日、容赦は無いものゝ、全く他意は無きことを申し述べておきたいと存じます。而して掲示板の投稿なれば、竹屋光晶氏ならびに不肖備中處士以外の投稿者の御方は伏字とするも、言論の玄人等は、原文のまゝと致しました。いはゞ書翰の應酬なれば、翁の遺文のみにては、文意の通ぜざる所ありませうが、之を諒されむことを乞ひ奉ります。又た本スレツド「塾頭講義」の表章については、九段塾管理者たる備中處士が、全責任を負ふものであります。

 平成二十三年八月十五日、
 大東亞戰爭終結大詔奉戴の日、眞金吹く吉備の中つ國より、備中處士、謹みて白す。

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  • 承詔必謹、尊王勤皇の風を吹かせよ――最後の断章。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月22日(木)19時16分40秒
  • 編集済
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■平成二十一年十二月二日

塾頭闘病日誌――日本人とは誰のことを言うか。承詔必謹。

 今日は、少し難しいことを話そうかと思う。備中さんが「贅言三題」として、君臣の関係を鋭く描いている。一見、地味な話だが、天皇と臣下・国民の「君臣の関係」こそが、実は日本人の紐帯であり、本管であり、日本人とはどう云う民族のことを云うのか――、その根源を示す最も顕著な「歴史」そのものであろうと考える。‥‥と、こう云う風に書いても、現在の保守連中には、なんのことやらわかるまい。戦争に敗れても、GHQの占領政策があったにしても、戦後の日本が独立した時に、再度「君臣の関係」を、国家の、国民の大中枢、大基本と為しておけば、昨今の「外国人地方参政権」などと云う発想を為す日本人を生み出すことはなかった筈であるし、またそうした発想が出たにしても、たいして騒ぐに値しなかった筈である。日本人とはなんであるかを、戦後、「勝手に放擲」して来た保守陣営が、今更「外国人地方参政権」を渡すな!と、大騒ぎしたところで、後の祭りだろう。

 尊王を国是とする戦前回帰への機会は、戦後いくらでもあった。卑弥呼を駆逐し、神武天皇を日本人の祖先、天照大神を日本人の大祖先と教育し直す機会はいくらでもあった。実証考古学などは、適当に頷いているだけでよかったのだ。だが、『古事記』・『日本書紀』を歴史書とみなさなかった戦後のインテリ日本人社会は、GHQと手を携えて、「日本解体」に向かったのだ。チャンネル桜が「日本解体阻止」として銀座・渋谷で派手なデモをしているようだが、事の本管がまったくわかっていないと言うしかない。馘になった幕僚長を「閣下」などと呼んだり、「たもちゃんに感謝しよう」パーティを開いたり、ノホホンまる出しで日常を生きている連中が、今さら「日本解体阻止」を言い出すのはお笑いだろう。集蛾灯の如きチャンネル桜に集まる一連の保守陣営の顔ぶれからは、何も期待できまい。お祭り騒ぎが好きな連中だ。靖國神社に、昔から這いよって来るおなじみの顔が、今度はチャンネル桜に集まっているだけのことだ。「新幹線に乗り遅れるな」だろう。情けないの一言である。「外国人地方参政権」が通ろうと通るまいと、現在の日本が「日本」で無くなっていることに気がつかないと云うことの方が重篤である。その証左が、備中さんの書いている「天皇と臣民・国民」の君臣の関係だ。この話をポケーと読んでいるなら、「九段塾」の塾生としては超失格になる。最近、不快なことは、「チャンネル桜」が次第に膨れ上がって来たことだ。これこそ日本を再生する団体だと、次第に人が集まり出したことだ。教育の少ない一般人が引き込まれて行くのを見ると、なんとかこの流れを断ち切らなければと、私は考える。チャンネル桜は衆愚である。新興宗教と同じであろう。やはり自分が動かなければだめかと、動かぬ麻痺の身体で考えた。「九段塾」が動かなければ、回天の事業の芽も出まい。

 今――この日本に必要なのは――、終戦直後に戻ることである。アメリカに負けたのは仕方がない。臥薪嘗胆。もう一度「日本」を作り上げることだ。そのためには、「日本人」であることを認識しなければならない。日本人は「サルから生まれたのではなく、神から誕生した民族である」ことを認識することである。その祖先が、天照大神であり、神武天皇であることの教育開始だ。世界でも稀有な優秀なる民族である――ことを自覚することである。貧乏人の発想でしかない仕分け人如きの発言に感嘆する今の日本社会では、回天の偉業は程遠いとは思うが、千里の道も一歩からと考えてやるしかあるまい。

 かつて平泉澄先生が、戦後の荒廃から日本民族の復興を願って渾身を投じた『少年日本史』の名著がある。出版当時、多くの右翼団体が歓喜し、これを教科書として、配下の教育にあたったが、案外と内容は難しい。戦前右翼の大東塾でも、現在、これを正鵠に理解しているものがいるかどうか。そして普及させようと思う者がいるのかどうか。大東塾の神屋二郎さんの葬儀で,後継の長男が出棺の挨拶で、「わが神屋家は、永久に尊王の家であります」と、凛然とした声で高々と発せられた時、思わず私は、はらはらと落涙してしまった。「いまなら、まだ間に合う」と、私は思ったものである。この『少年日本史』を下敷きに、私は日本中に「尊王」の血を漲らせたい。「日本人」を作らない限り、「日本解体」の潮流は、途絶えることはないのだ。外国人地方参政権があろうとなかろうと、日本人の骨格は瓦解し続けている。それを遮る防波堤が、「日本人とはなんだ」、その実体を知ることであり、そして「日本人であるための教育」を進めることなのだ。政権交代があるなら、「時代交代」だ。民主主義から、尊王主義への転換である。平泉先生は書いている。昭和四十五年だ。

皆さんは日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、その言葉。それは皆幾百年前からの先祖より受けついだものだ。それを正しく受けついだ者が、正しい日本人だ。従って、正しい日本人となる為には、日本歴史の真実を知り、之を受けつがねばならぬ。

根幹の言葉であろう。正しい日本人となるためには、日本歴史を知り尽くせ――と云うことだ。即ち日本人の先祖は、遠く神の存在から始まる壮大な叙事詩を知ることから始まるのだ。『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』。これを座右の書として、小学から教育のやりなおしである。君臣の関係を知らなければならない。醜の御楯の精神を知らねばならぬ。国家の基本は君臣の関係であることを、すでに聖徳太子は「憲法十七条」に書いている。

詔を承けては、必ず謹(つつし)め。君をば天とす。

国家における君臣の関係は、天地の関係と同じであり、天は天であり、地は地でしかない。君はあくまでも君であり、臣はどこまでいっても臣である。君のご命令は、必ず謹んで承り、決してそむいてはならぬ、と。

 ‥‥こう書き出してみると、これは大論文になり、左手一本のパソコン操作では厳しくなるので、ひとまずここで終わるが、要は尊王の歴史を、日本国民に知らせることだ。それしかない。まず小さな行動団体を作ろうかと考えている。麻痺した身体は、日を追ってぐんぐん筋肉をつけ、回復に向かっている。いくつかの団体からも、会合への出席を求められている。私が麻痺して入院していることを知らせていないからだ。あと二ケ月で、完全復帰するつもりです。それから再び活動を始める。それまで、諸氏は、この際、平泉澄著『少年日本史』が手に入るのであれば、読まれたし。大君の前に「死に尽くす」日本人の血筋を、深く理解するに違いない。日本回復は「日本人の再生」しかない。



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【參考・備中處士編『さあ、『少年日本史』を讀みませう!』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t34/l50

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■平成二十一年十二月二十一日

塾頭闘病日誌――尊王勤皇の風を吹かせよ。

 私の病室の窓から、ここ数日、霊峰富士の山が、くっきりと見ることが出来る。かぐや姫からもらった手紙を山頂で焼いた帝の想いが、白煙となって天界に昇って行く姿を、脳裏にダブらせる。この不二の峰を、飛鳥人も天平人も、そのもっと昔の神の御世の人々も、共に美しい荘厳として眺めたことであろうと、イマージュを広げる。身体はまだまだ硬直して、外出も許可されないが、来春退院したら、富士の見える高原温泉でしばらく逗留したいと、希望をふくらませている。

 さて、話を少し変える。今、私の仲間が――ことに分身とも言える方が、私に代わって、小さな動きを始めてくれている。尊王勤皇の国に復帰する運動――ほんのさざなみのような微風であるが、とりあえず私と仲間たちの理想――「大和民族の原点に帰れ」、「神武創世に戻れ」――。この運動を百年二百年のスパンを考えて、「神国日本の復元」を目指さす。親から子へ、子から孫へ、孫から子孫へ。日本歴史の勉強、礼節の涵養、勤皇尊王へのはぐくみ、そして「死んで死んで死に尽くす、日本民族の系譜」。これを徹底的に教え、学問させる。その先には、新たな「日本教育者連盟」を作り、小学校教育から始めて行く。質素倹約をムネとする。自存自衛を標榜する。そして最後には、天皇陛下に、再び白馬にまたがって戴く。そこを霊峰不二の峰とする。「九段塾」に身を寄せる人々は、下世話な紛争に巻き込まれず、表層的な怒りに惑わされず、深層に身を沈めて、淵原を探求する姿勢を常に忘れることなく、これが根源的な解決策になるのか――を、じっくりと考えることです。

 昭和殉難者分祀を要求する遺族会があると云うのは、昔からのこと。あの特攻の海軍十四期でさえ、境内で東條英機を罵った。松平永芳宮司が「ならずもの」と、さげすんだことだってある。天皇をののしる軍人もいた。皆、戦って来た自らの体験で、モノを言っている。戦後生まれの口出すことではない。靖國神社の職員の中にも、分祀に賛成者もいる。その事実は、厳然と知っておかなければならない。問題は――、靖國神社の祭神は、天皇の思し召しで祭られている。臣民の口出すことでは無いこと、遺族が口出すことでは無い。昭和天皇も、昭和殉難者として祀ることは許されたのだ。ただ「親の心、子知らず」と云う言葉を洩らされただけで、昭和天皇は、「勅使」を差し遣わされている。今上陛下も変わらず、「御勅使」を差し向けられている。天皇御親拝はされているのだ。

 そう云うことが理解がされてない時代に、問題がある。また遺族・臣民の分際で、祭神を分祀しろなどと、天皇の神社に向かって発言するなど、戦前なら首を落とされても、文句はつけられまい。このことが、現代遺族を教化して来なかった靖國神社にも、責任はある。さまざまな「きしみ」は、すべからく知識不足と「尊王勤皇」が干上がっていることから起きている。中国のなんとか云うのと、天皇が会見されたことを、ぎゃあぎゃあわめいているが、わめけばわめくほど、今上陛下をないがしろにしていることがわかっていない。尊王・勤皇を口にするなら、少し黙っていろ! 今上陛下が、御自身でお会いなされているんだ。臣民は黙って、頭を下げていればいい。陛下は、今も陛下だ。陛下の為すことに臣民が、いちいち口を出すな! 陛下が「お会いになる」と言えば、それは「陛下がお会いになることだ」。ぐだぐだ、国民が口を出すことでは無い。主権在民の上に、悠々腰かけていながら、偉そうなことを言うな、である。そして‥‥いつか‥‥、陛下が「白馬を曳けい」と言われたら、白馬を連れて来ればよい。そのために御料牧場はある。普段から調教しておくことを願うばかりだ。要は、右を見ても左を見ても、アホばかりだ。尊王勤皇を、心して唱えよ。さすれば、やがて風は吹く。

 しばらくぶりに書く。最後は叱咤になったが、あまりに最近の保守連中の底が浅すぎて、話にならん。自分たちで、天皇を貶めていることに気がつかない。それと、何かと靖國会館で会合を主催するのが増えている。金を出せば、誰にでも貸してくれる。靖國神社を利用するなよ――と、主催者にワタシハイイタイネ。

 来春には退院できるだろう。「九段塾」生徒は、軽挙盲動するなよ! それより、尊王勤皇の風を吹かすことに、頭を使って欲しい。備中さんの掲げている数多くの先哲の文章を、何度でも読み、自身の知識を深めよ。そして知恵を出しなさい。期待してますよ。



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 塾頭より、件の送信を戴きました。遺訓とも謂ふべきもの、反覆熟讀されむことを、乞ひ奉る。謹白



■泉水隆一翁『日本女性の会「そよ風」イベント『凛として愛』――泉水隆一監督は、かく語りき』(平成二十一年十二月二十七日。九段会館に於いて――車椅子の泉水翁――)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/5

『凛として愛』臺本
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50

【泉水監督との忘れられない一時間】
  ↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51482874.html#

「‥‥公演の途中、お昼をご一緒させて頂いた、わずか一時間ほどが、この世での監督との共に過ごさせて頂いた時でした。今となっては、この一時間が忘れる事のできない時となりました。監督はもうぜんぜん食欲がないとおっしゃりながら、お食事にも殆ど手をつけられないでお話になっていらっしゃいました。

 この国をなんとかしなければならない、そのためには、まず神話の勉強からやりなおしてほしいと、搾り出すような迫力で、私ごとき者に力説なさいまして、私はその責任の重さに押しつぶされそうな思いにとらわれた事を覚えています。今でも私の心に残るのは、今の日本を憂い、なんとしても愛する日本の未来に、凛とした礎を築いておきたいという精神の塊の武士のような面影です。

 あのような日本人にお会いできた事は、私の宝となりそうです。やや重苦しい会話の中でも、(藤)真知子さん初め、そよ風の若い女性達の話になると、サッと監督のお顔が明るくなったように思いました。監督を講師として、そよ風の(備中處士案、平泉澄博士『少年日本史』の)勉強会をさせて頂くと言う話にもなり、今にして思えば、そよ風の若い世代に、日本再生の希望の道として、さぞ沢山の思いを込めておられたのではないかと思い至り、勉強会を実現できなかった事が残念で堪りません。食事中にも神話の話の一端をお聞かせいただいたのですが、特攻隊で散華された方々の素晴らしさは、神話を学んで形成されたもので、当時の日本人の若い人々は当たり前のように、そういう教養を身につけていた、というお話でした。

 まだまだ沢山の事をお話下さったのですが、緊張と、勉強会でゆっくりお聞きすれば良いと思い、聞き流してしまったこともあり、本当に残念でした。最後のチャンスに、一時間でもお会いできて、監督の、あの凛としたお人柄に触れる事が出来、このように私の心に刻み付けられたということは、様々な意味があるのだろうと、深く受け止めています。‥‥」と。



■泉水隆一翁『一億国民に崩壊の危機』(平成二十二年一月六日・『凛として愛』上映會關係者へ玉翰――「凛」氏紹介)
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/entry-10680081580.html

「日本が日本であるために、大和民族のふるさとへ還れ――神国日本へ――。

 汝臣民は、父母に幸を尽くし、兄弟弟妹仲良く、朋友互いに信義を以って交わり、人々に対し慈愛を及ばすようにし、知識才能を養い、善良有為の人物となれ。そして万一国家に緊急の事態おこらば、大義に勇気を奮い起こして、一身を捧げて、皇室国家のために尽くせ。

 あらたな教育勅語を以って、日本は神の国に還る。尊王の国、勤皇の国として、皇祖皇宗の子孫として、日本国民一億は、遥か悠久の大義の昔に引き返す」と。

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■平成二十二年一月十一日

塾頭闘病日誌――陸軍病院に於ける最後の断章。間質性肺炎。

備中さんをはじめ、多くの「九段塾」愛好者殿へ

 私が今下されている病名は、「間質性肺炎」。これがどのような難病か、疾患の助かる余裕がどの程度あるのかは、ネットで見て下さい。

 すでに元旦を過ぎて、リハビリ病院から急遽転院。国立センターへ入院中なり。但し、ここはかつての陸軍病院なり。実は、これで私は助かると、快哉をさけんでいるのだが――。

 九月から起きた、私の不思議な病気現象。思い当たることがない。次から次へと、病変が著しく変動する。私は、やっと気がついたのだ。九月の段階で、私の寿命は、数ケ月先で終わっていたのだ。それを知っていた英霊が、私を救うために、東條大将命令のままに、私の身体を二転三転、転がし、時と時間を稼ぎ、そして最高の運気とジャストタイミングで、この、かっての陸軍病院へ私を運び、さらに××医師の手で、私の最後の命を扱わせたのだ。

 私は奇跡を信じている。しかし、ここで命を結ぶかも知れない。ならば――、さらば、である。もう、呼吸がきつい。次は、元気になったら、書こう。謝辞。もう、ここまで――。



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 塾頭より、豫想だにしない件の通知を戴きました。

 塾頭、諒解しました。御病平癒、切に御祈り申し上げます。我々は、塾頭・一兵士翁を敬慕し集ひし者、塾頭の嚴烈なる訓導は、骨髓に填つてをります。靖國神社の正統護持の爲め、今後とも、鋭意、辛苦して參る所存であります。

 塾頭より示教を賜はりました御方、また未だ音信を通じてをられぬ御方には、塾頭への「御書」を戴ければ、管理人として幸甚に存じ上げます。決して『最後の斷章』とはなりませぬやうに‥‥。恐懼血涙、謹みて白す。

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■平成二十二年六月十四日

塾頭闘病日誌――三月六日の打聞。最後の言靈。首一丁。

備中さん
会員の皆さんへ

 永劫回帰。一進一退を繰り返して来ました。でも、声帯がやられ、喉に穴を開けて、まさに手足をもがれた人形同然です。でも、人間である以上、ここから立ち直らなければなりません。新しい世界観に則って、前に進むしかないでしょう。まだ十分ではないですが、とりあえずご報告いたします。地獄の底から、首一丁、抜け出したところです。




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 本日、待ちに待つた塾頭よりの御傳言、取るものも取り敢へず、謹んで御報告申し上げます。以上の玉章は、或る御方が、今年の三月六日に、やつと意思疎通して、メモにされたものゝ由。既に三ケ月が經過してをりますが、この間も、まさに一進一退のご樣子、豫斷を許さぬ状況のやうでありますが、御附きの御方から、之を「九段塾」ご閲覽の各位に傳へてほしいとの御由にて、御預かりされた「九段塾讀者」樣からの封書(平成二十二年六月十一日附)の内容であります。

 此の御連絡を拜受して、小生、不安はつのりますものゝ、少し愁眉を披いたる次第であります。塾頭『最後の斷章』以來、一百五十五日、心底、氣が氣ではありませんでした。塾頭のご恢復ご平安を、一途に懇祈しつゝ、こゝに血涙謹書する次第であります。恐惶謹言



ご報告いたゞきましたる「九段塾讀者」樣

 今の度びは、塾頭ご近況の御連絡を賜はり、洵に難有うございました。

 塾頭の不在は、本道に淋しく、たゞ涙で一杯であります。塾頭のご樣子、今後とも些かなりとも御通知たまはれば、嬉しく存じ上げます。只管ら後便を御待ち申し上げる次第であります。





■□■ 謹告――「九段塾」塾頭、歸幽 ■□■

 平成二十二年庚寅七月十六日午前○時三分、遂に幽顯、界を異にし給へり。

 昭和十六年辛巳四月十二日、生を稟けしより、數へて七十歳なりき矣。

 「九段塾」塾頭は、福井氏、と稱す。詩吟大和流第二代宗家にして、金城と號す。別に、泉水隆一・花椿一心・一兵士と號す。靖國神社内堀の人なり。

 夫れ塾頭は、死して滅びず矣。方今、靖國神社正統護持の志操、何れの人か有る。識見卓絶、慨世叱咤、吾人が塾頭に非ずして、誰ぞや也。

 御教を承けし不肖・備中處士、之を讚して曰く、

凛として屹立、燦たる師表、其の志を紹ぐ、吾人の任なり。

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  • 塾頭、倒る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月22日(木)18時52分2秒
  • 返信
 
■平成二十一年九月十九日

塾頭闘病日誌――胸部急性心筋梗塞。

 去る十六日、自宅で、午前中日射の強いところで、ベランダを整理している最中に、胸が圧迫されて倒れました。すぐに救急車を呼ぶように家人に伝えて、五分後に到着。そのまま近くの総合病院へ運ばれました。すぐに胸部急性心筋梗塞を起こしていると診断されて、直ちにカテーテル手術。検査も術前準備もあわただしく、直ちに右足の付け根を切って、カテーテルを進入させて、血管内の障壁を除去して、血流を確保。あと五分遅ければ、致死でした。絶対に今回は助かる――と、頭の中では信じていました。まだまだ神は、私を死なせないはずだと思って。

 六年前に一度やった部位を、再度血塞させました。毎日飲まなければならない薬を、次第に飲まなくなったことが原因のようです。再度ステンを挿入して、血道を確保しました。今は、やっと大部屋に移動して、点滴台車をつけたままですが、起居が出来るようになりました。「九段塾」が気になって、仕方がなかった。退院は、未だ少し先になりますが、内臓疾患でないので、機械が修理されれば、回復はあっと云う間です。事実、回復の早さに、医師が驚いています。「九段塾」の方は、先ほど、やっと見ましたが、○○○○○さんが見えていましたね。

 退院したら、少し簡単に病状のことは発表しておこうかと考えている。どうしますかね、それとも備中さんから、上記のような症状を、事務連絡として発表しておいてもらうかな。あまり塾頭が病弱なのは、塾の将来を考えると、ひ弱な感じを与えてしまうが、しかし塾頭の病変と云う事実は、ある程度知っておいてもらったほうがいいのではないか。突然、訃報では、無責任とも思うし。まだまだ内臓疾患ではないから、当分は死なないと思うが。まあ、仲間が、「この際、少し休養したらいい」と云うので、そのつもりで、病院ベッドで「寝まくって」います。まあ、備中さんから、症状をあまりオーバーでなく、発表しておいたらどうかなと思いまして。あまり長く塾頭の出現がないのは、不安をもたせますので。どうでしょうか?



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 備中處士案、塾頭は、只今、入院中であります。九月十六日、ご自宅で倒れられ、胸部急性心筋梗塞の爲に緊急手術をされましたが、既に大部屋へ移動、今は囘復期にあられます。醫師も、其の囘復の速さに驚いてをる樣子。「九段塾」のことを氣にかけられ、未だ神は死なせないはずとの御確信を堅持されてをられます。今囘は内臓疾患で無かつたことが、せめてもの幸ひでありました。

 ご退院は少し先になりますが、「九段塾」掲示板は、閲覽されたご樣子です。ご縁の各位には、心配されませんやうに、敢取ず御報告申し上げておきたいと存じます。塾頭の一日も早いご快癒を、そしてご靜養を懇祷申し上げます。

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■平成二十一年九月二十日

塾頭闘病日誌――社会復帰。

皆さんに、いろいろ心配かけさせて申し訳ない。

 今朝、栄養剤点滴も外れて、明日から社会復帰へのリハビリ。連休がなければ、数日で退院ですが、休み明けの木曜に再検査して、何の問題もなければ、金曜日には退院の運び。自分でも、まだ院内を歩くと、ふらふらするが、体力は戻りつつある。歴代婦長が従軍経験のある古い病院で、その伝統が、今も生かされていて、実にきびきびした医療スタッフで、感激している。最新医療のマニュアルだけに従わず、刻々変化する患者の病態を見逃さないように気を配っているスタッフの姿勢が素晴しい。患者との接触回数を増やし、親身になって、雑談の相手をしながら業務を進める若い女性看護士が、目を見張るほど素晴しく見える。伝統と云うものが、どれほどいいことか、垣間見た。



■平成二十一年十月一日

塾頭闘病日誌――頚椎損傷。

 機能回復訓練の目標は、たとえ一生、車椅子の生活になっても、パソコンが使へ、本が読めるやうになれば、不満は無いよ。無論、それ以上に回復するにこした事は無いが、いい車椅子でも買つて、机の周りで仕事が出来れば、それでよい。むしろこれからは、そうせねばならない、と云う事かな。だから下手に元の体に戻っても、嬉しいとは思わないね。

 以前より、頭脳が明晰になつたらしい。頭から、何かがとれたやうだ。医学療法士による手足の基本的な回復訓練を、ベッドで始めてゐるが、こういう手足の動きが、人間の基本的な動きなんだなと、よく分った。昨日と今日とでは、痛さが違う。昨日よりもよくなっているから、楽しいと云えば、楽しいね。不良な少年少女の非行を直すのにも、こう云う方法でやったら、いいかもね。姿勢を正す、と云う辺りからでも‥‥(備中處士案、さすがは、塾頭のご發想、このやうな事態でも、凡俗とは違ひますね)。

 顔面から転倒したので、床にはかなり血が流れたらしいが、幸い鼻骨をやられなかった。実は此の鼻骨が重要で、これをやられると、視神経が損傷し、失明してしまうらしい。それで、目の周辺に溜まった血を抜かれたとき、正装した軍人が、次々と眼前に現われて来る。山本五十六も居た。一斉に最敬礼をされた。「ああ、これで自分も死ぬのかな」と思った。するとそこに、靖國神社に祀られている従兄弟も出て來た(塾頭は「甥」と云はれたのですが、從兄弟では無かつたか。以前に「九段塾」にて紹介された御方の事でせう)。彼だけは甲板での作業服のようなものを着ていた。その彼がこっちを見て、「大丈夫だ。頑張れ」と、言ったんだよ。その時、自信を持った、「助かる」、と。うれしかった。「よし、死ぬまでやるか」、と(塾頭は、此處で涙を流された由)。

 倒れた後の処置も、手術の為めの転院も、全てが幸運に恵まれた。これはまだまだ死なないと云う事かも知れないね。余計な事は出来なくていい。机の前に居られればいい。それで、何でも出来ると思った。これは「何かしろ」と、英霊から頼まれたのだと思っているよ。「九段塾」の皆さん、それまでは、よろしく頼むよ‥‥。



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 先般、申し上げました通り、「九段塾」塾頭こと一兵士老翁は、九月十六日、ご自宅で倒れられ、胸部急性心筋梗塞の爲めに緊急手術されましたが、術後の經過もよく、退院の日も間近でありましたところ、退院豫定の前日早朝、病院内廊下にて意識を失はれ昏倒、頚椎損傷といふ事故に遭はれました。幸ひ發見その他の緊急處置もよろしく、直近の專門病院に轉院、頚椎の手術を受けられました。意識囘復の後は、頭腦明晰・言語明瞭ではありますが、四肢に麻痺が出現し、術後の機能の囘復訓練も、早速に始められてをられます。しかしながら現在、未だ囘復室にて、安靜療養中であります。寢たきりの生活の心配は、一先づ去つたものゝ、腕の動作は出來ても、指先が動かないてふ情況、洵に遺憾ながら、向かふ一年くらゐは、此の麻痺を囘復するリハビリの生活を餘儀なくされさうであります。しかし、そこは塾頭、あらたなる境地に身を委ねてをられるかのやうに感ぜられます。

 本日、九月三十日附の速達便にて、突然、封書が到來しました。塾頭のご消息が判明いたしましたので、謹んで御報せ申し上げます。御報せ下さつたのは、塾頭の執事の御方でありませうか、洵に憂慮すべき内容でありました。如何に皆樣へ御報告すべきか、暫く惱みましたが、封書の内容を、執事の御方の御言葉を拜借して、備中處士の言葉にて申し上げる事に致しました。豫めご承知おき下さい。 謹白

 塾頭は至つて元氣ですが、何にせよ、體が思ふやうに任せない。然し此のもどかしさはあるものゝ、いらだたれる風でも無く、醫師や看護婦、その他スタツフの方々と、愉快に、此の難關を乘り切つて行かうとされてゐるかのやうであります。先づはご安心いたゞても宜しいかと存じ上げます。

 何せ、「九段塾」塾頭の事ですから、いづれ指一本でも、パソコンを操作して、病院から「どうだ、黄泉がへつたぞ」と、投稿される日も近いかと存じ上げます。執事の御方も、塾頭の傳言を御報せ下さるとの事でありますから、各位には、塾頭ご復歸まで、暫く御待ち願ひます。「九段塾」掲示板は、何度も申し上げますやうに、塾頭あつてのもの、靖國神社内堀に住まふ塾頭が、大事に々々ゝ育てゝ下さつた掲示板であります。塾頭の暫くの不在は、寂寥感あつて、意氣消沈でありませうが、こゝは一番、塾頭の許へ、聲よ屆けとばかりに、益々のご投稿ご維持の程、何卒よろしく、幾重にも懇祷申し上げる次第であります。何卒、々々‥‥。 備中處士 九拜

 塾頭、此の「九段塾」掲示板、見てやつて下さい。一日も速かなるご恢復ご復歸、血涙もて祷祈し、塾頭に神明の御加護あらむことを、只管ら請ひ奉ると、爾か云ふ。

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■平成二十一年十月七日

塾頭闘病日誌――左手人差指一本で打つ。

 右手右足完全麻痺。左手左足半分麻痺。左手人差指一本で打っている。頭はますます冴える。「九段塾」は、毎朝見ている。

 ○○○○○殿、もっともっといろんなことを書いて。私の人生行路。祭りに賭けた青春の日々。ほかの人も、私を応援するために、青春の日々を好きなように書いてほしい。「九段塾」、私が出るまでは、青春街道まっしぐらを主題として、みなさんの青春時代が聞きたい。もう疲れた。備中さん、よろしく。



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 本日夕刻、件の短信あり。塾頭には、右手右足完全麻痺。左手左足半分麻痺。しかし頭は、ますゝゝ冴えてをられ、「九段塾」は、毎朝見てをられる由。圖らずも落涙に及び申し候ふ。塾頭、左手人差指一本で打たれたもの。

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■平成二十一年十月十八日

塾頭闘病日誌――術後半月が過ぎて‥‥、左手人差指爪で打つ。

 術後半年が過ぎた。頚椎損傷の術後経過は、問題なし。後遺症だけだ。損傷したものは、永遠に戻らない。現在、二足歩行は不可能と判断された。あとは仮死状態にある、残る諸機能を、どこまでリハビリで取り戻せるかである。

 今月中に、リハビリ病院へ転院。三ケ月間訓練。それで、回復できる機能を拾い出す。そこで治療としては終了。退院と云うか、放免。きわめてはっきりしている。私は最大限、自宅で生活できる機能だけは取り戻したい。それが不可能なら、看護免許を持つ介護人を、個人的に雇用するしかない。ともかくこれから三ケ月間、リハビリ訓練に取り組む。身体からはほとんどの筋肉が失せた。くらげ状態だ。でも、へこたれんよ。もともと逆境には強い。身体健全でも、生きて、あと十年。「九段塾」を完成させるまでは死なない。今の日本を元に戻すために運動できるのは、自分しかいないと思っている。

 青春の話、○○○○○・○○○両氏、よかった。○○○○○氏は祭り囃子一本、無法松の一生とも似ている。名前を変えた○○氏。竹屋光晶氏、○○○○氏、○氏、○○氏‥‥、皆さん、今後の投稿を楽しみにしています。「九段塾」直接の投稿はつらいので、備中さんまわりの投稿です。すべ手左の人差し指の爪だけで書く。それでは、また。



■平成二十一年十月二十五日

塾頭闘病日誌――病いの効用。

 病院生活をすると、看護士を心から尊敬し、その献身的な看護に対し、心の中で手を合わせてしまうと、大抵の人は言う。私も同然である。夜半、いつどんなときでも、ナースコールを押せば、「どうしました」と駆けつけてくれる。床ずれをなおし、マッサージを施し、安眠へ誘う。麻痺の強い患者には、ベッド上で尿道からチューブを挿入し、溜まった小便を吸引し、大便は尻の穴からビニール手袋をした指を差込み、腸から糞便を掻き出す。壮絶だ。この看護を受けている私の目からは、この光景は、凄絶にさえ思える。それを平然と推し進める彼女たちの姿に、尊敬と畏敬の念を抱かざるを得ない。みな、二十三から四歳と云う、花満開の世代だ。現在、私はベッドから、彼女たちの介添えを受けながら車椅子に移り、トイレで、自力で小便・大便を排出できるまで機能を回復している。無論、身体は、まだグニャグニャだが、未来に展望は出来る。

 「九段塾」の皆さんを筆頭にして、様々な人が私のために神社に行き、病気平癒を祈願してくれている。これほどうれしいことはない。何故、私がこのような病気状態に陥ったのか、その本当の所の意味は、まだ見えていない。が、そのうち、何かに思い当たる時が、必ず来る。それが楽しみだ。私は負けないし、まだまだやらなければならないことが待っている。以上、中間報告です。



■平成二十一年十一月三日

塾頭闘病日誌――新天地。

 昨日、突然、次の転院先が決まり、五日には都内のリハビリ専用病院へ移ることになった。東洋一の規模を誇る新設備と陣容を誇ると云われているリハビリ病院である。ここへ入院するだけでも難しいらしい。入院希望者が殺到して、何ケ月も待たないと入れない所だと聞いた。入院審査もあり、この病院は、最初から私の入院先候補から外していた。保険の効かない個室が病棟の大半で、最低でも一日五万円の室料がかかる。最高は一日十八万円と云う高額個室もある。到底、我々庶民には縁遠いリハビリ病院であった。それが一瞬の天界の運で、一人だけ、一般大部屋に空きが出た。その瞬間に、私の担当のケースワーカーが先方の事務方に電話をして、この情報をキャッチ。ただちに入所を希望し、入院申し込みを行った。そして家族審査などがあって、なんと、転院が決まった。まさに御祭神が動いて下さったとしか思えない。

 現在、麻痺は毎日のリハビリと看護士たちの努力で、大分改善された。まったく動かなかった、誰の足だがわからなかった右足が、ある日、突然動いたのだ。私の意志が右足に伝達されたのだ。平行棒を両手で握って、ピノキオのような足取りだが、兎も角、二足歩行の真似事が出来たのだ。主治医もびっくり。病棟から何人も看護士がリハビリ室へ来て、「私が歩いている」と云う実態を見学に来て、大きな拍手をもらった。これなら、最終目標を二足歩行に設定できる。年取った身体には新しい筋肉がつきにくいだろうが、根性で、何とか再生してみせたい。志を高く持ち、モチベーションをあげて行く。これが、やはりどのような戦いの中でも忘れてはならないことだろうと思う。つねに自分に言い聞かせている。

 頚椎損傷は、脊髄損傷の中でも、最も重篤な症状をもたらす部位である。単に残存機能をより有効にするリハビリだけが重要なことではないと思っている。鬚の発生が変わったり、毛質がとげのようになったり、血が一気に下がったりすることで、貧血・立ちくらみが多発する。様々な変化を、身体にもたらしている。再生には多くの困難を克服しなければならない。転院先では、日曜・祭日関わりなく、三百六十五日毎日がリハビリ訓練だと云う。なんとか、くいついて行く覚悟である。

 ○○○○○さん、大祭の写真、懐かしく拝見しました。またなにか紹介して下さい。靖國神社も、この十一月で、幹部の大異動があったもようで、全部署のシャッフルは、なにか「大変」の前兆のような気がしないでもない。バサラ大名の血を引く京極宮司――権威・伝統を無視するその血筋が、とてつもない地殻変動をもたらすのか。私には興味津々(しんしん)たるもがある。



■平成二十一年十一月十八日

塾頭闘病日誌――七難八苦。

 しばらく投稿できなかった。わけがあってのこと。それは疲労困憊で、ダウンしたからだった。いやいや、回復への道は甘くはなかった。思わぬ障害が出て来た。拒食症。これほどではないが、食欲をもたない。朝昼晩の病院食に、ほとんど箸がつかない。実際は、指の麻痺で箸は持てず、フォークとスプーンで食事を摂るが、摂取量は、ほんのわずかである。味も調理も、見事な病院食なのだが、食べる気が起きない。そのために身体は、栄養もスタミナもつかず、毎日のリハビリ訓練について行けない。栄養流動食を採用したが、それでも身体訓練にはついて行けない。とんでもない伏兵だった。食欲が損傷を受けていると云う、致命的な打撃だった。十数人のスタッフが、私のために知恵を絞っている。どうしたら、最良のプログラムを作れるか。

 今日のような雨の日(十七日)は、殊に憂鬱がまして、体調は最悪となる。春先までには、何とか退院して、元気な姿で復帰するつもりでいるが‥‥。今日、私のためのチーム会議が開かれて、今後の最終目標を何処に設定して回復訓練を行うかが決められる。家族共々、出席である。退院目標は、二月一杯。食欲増進のために、胃腸薬の投与。右足用の鉄製マイ装具を発注。頑張るしかない。

 最近では院内で、「先生、先生」と、患者仲間に呼ばれている。折に触れ、神話と卑弥呼の違いを説いたり、日本の戦争の話をしたりしているからだ。また戦後の日本の医学界の発展は、戦争に負けて、世界中の医学者から辱めを受けた先人が、必死困苦して、世界に誇る心臓外科手術の粋を明かした榊原教授、麻酔学を構築した世界的権威・東大の山村教授らの奮闘のおかげだ‥‥などなど、看護士やケースワーカー相手に、若き日々に、医学界に身をおいて獲得した知識を駆使して、話をしてあげている。女性看護士の身の上相談まで始めた。七難八苦のリハビリをよそに、個人的には若い院内の女性に囲まれて、結構楽しんではいる。

 靖國神社は、今はまだこれと云った動きは出ていないようです。このまま波風もたたせず、今年は無難に年を越す様子である。「九段塾」も、少々閑古鳥が鳴く雰囲気もあるが、やむを得ないでしょう。まあ、皆さん、気長にお待ち下さい。備中處士さんをはじめ、皆さんも、体の健康には十分気をつけて。それでは、また。
 

  • [42]
  • むすびに至る日々。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月21日(水)18時38分7秒
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■平成二十一年九月七日

大東塾関係者交通事故。

 先ほど『時計の間』にも書いたのだが、この掲示板にも、少し書いておきたいことがあるので。六日の午後、岩手県の東北自動車道で、八甲田山に向かう途中の大東塾関係者――寮生・職員・元寮生など、八人の乗るミニバンが中央分離帯に衝突、三人が亡くなられた。新聞報道の記事を、『時計の間』の方には転載しておきましたが、亡くなったのは相原修さん・足立徳史さん、それに「二十歳代男性」と、新聞記事には出ていた。何故、もう一方だけが「二十歳代男性」と云う表現なのか、不明。多分、現場が混乱して、氏名がわからなかったのだと思うのだが。この二十歳代男性と云うのは、鹿児島から来られている大東塾寮生・山下貞一さんです。今年、二十歳を迎えられる人。大東塾学生寮では、例年、全国の霊山に登拝して、祖国再建祈願祭を行っている。今年は八甲田山であった。六日の早朝六時頃に、青山の大東会館前を出発したようです。詳細は仔細を聞いていますが、私が話すべきことではないので、新聞紙上で、山下貞一さんの氏名が記されていなかったことが気がかりで、もう新聞報道では名前は出ないだろうと思って、私の方から記した方がよいと判断して書きました。

 たまたま手元の大東塾不二歌道曾発行の今月号『不二』(八月号)に、紅顔の山下貞一さんの歌が、「歌壇」に掲載されている。

――今年の八月十五日に際して――
「靖国の斎庭にききぬ君が代のいつにもまして心にしみいる」

また五月二十五日の影山正治大人之命三十年祭で、「献詠代読をした山下貞一君に」と、山田貞蔵と云う会員の方が歌を進呈している。

「薩摩隼人声高らかに献詠を誦(しょう)しまつりき大人にとどけと」

鹿児島薩摩隼人の山下貞一さん。御尊父も神職。惜しい人が亡くなった。切に思う。

 伴に亡くなった足立徳史さんは、福島県の別格官幣社霊山神社神職。御尊父が宮司。ご承知の通り、南朝――吉野朝に従われた北畠顯家・北畠親房・北畠顯信・北畠守親公を祀られている。昨年は、此処へ祖国再建祈願祭に訪れている。その足立先輩も逝かれた。

 もう一方の相原修さんは、戦前からの最後の右翼と言われた大東塾・故神屋二郎さんに私淑、その強烈な活動は、ネットでも知ることが出来ます。行動右翼の典型的な本物の右翼でした。神屋さんが、ずーと面倒を見ていた人です。相原さんは、今後、いざと云う時が至れば、必ず「至誠尽忠」を見せる方でしたので、実に残念で仕方がない。天を仰いで慨嘆。後に続く人がいるのか――。備中さんが、『時計の間』で――、黒木博司少佐が七日午前四時に殉職と書かれていたが、なるほど、大東塾一行が事故にあったのが六日を考えると、私は殉職――と云う気持ちを、心の底に持ちたい。祖国再建を日夜祈願していた若い人たちの死を大切なものとして、今は考えたい。哀悼を捧げるべきかどうか‥‥、逡巡している。



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【參考・相州之民艸ならびに備中處士編『平田篤胤大人顯彰者・相原修神主』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/l50

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■平成二十一年九月九日

むすびの思想は、安寧をもたらす。

 「死ぬ」とは、一つの結びなんですね。この世のことでの結びがあるだけで、あちらの世界でも活躍するんですね。とてもわかるような気持ちです。なんで、あんな善い人達が死んだのか、わからなかった。でも、この御文章を読みまして、納得しました。もしかしたら、あちらでどうしても「来い」と言われて、この世を結ばれて逝かれたのかも知れませんね。「おお、来た、来た、来た。待ってたぞ。こっちでも、すぐにやってもらいたいことがあるんだ」と、言われているのかも知れません。

 大東塾寮生交通事故を知って、御一人から電話を戴いた。備中さんが書き置いてくれた「幽顯一貫の覚悟」。これを読んで「御遺族の方々も、これを読みましてほっとしてくれるといいのですけれども。私はおかげさまで、心の苦しさが解けました。有り難うございます」。そう云う電話であった。この方は「むすび」の話を、こう捉えられた。すべからく「神のまにまに」であろう。

 昨日の八日には、伊達市霊山町で、足立徳史権禰宜の通夜が行われた。明日は秦野で、相原修氏の葬儀が、鹿児島でも、山下貞一氏の葬儀が行われる。思えば、山下貞一氏は、東京海洋大学――かっての海軍兵学校と並び称される英才が集った東京商船学校――に通学していた。何故、海洋に己を求めたのか――、私は聞いていない。ただ、「不二」歌壇に、東京海洋大学帆走実習に際しての歌を披露している。

「海神(わたつみ)の力に畏れをののけどなほ奮ひ立つ海の男子は」

そして、今年の六月には、明治天皇東北御巡幸乗船明治丸を拝して、

「大君の召させ給ひし明治丸真白き姿永久に朽ちぬかも」

 ‥‥しかし、幽顯一貫とは、云いも言いたり。「むすび」の思想は、心の安寧をもたらす。誠に善き掲示板であることを感じたり、「九段塾」は。



■平成二十一年九月十一日

むすびに至る日々。

 昭和十年生まれの、野村秋介と云う右翼がいた。今の人でも、こちら側にいる人なら、たいていは名前ぐらいは聞いているだろうと思う。戦前右翼の大東塾・神屋二郎さんに、この人も私淑していた。神屋さんも野村秋介が大好きだった。遊侠の徒と右翼は紙一重のように見えるが、その一重の間には、大義をもつかどうかで決まる、深い長い隔たりがある。野村秋介氏は、朝日新聞応接室で、応対した役員の前で、拳銃自決する前に檄文を書いている――。

『――前文省略――私(野村秋介)は、寺山修司の、
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国ありや
という詩と、十数年にわたって、心の中で対峙し続けてきた。そして今「ある!」と、腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで、私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は「ない」と言った。私は「ある」と言う。それ故に、細川護熙の発言を、断じて許せないのである。これは、私一人の思いではないと思う。

 ちなみに、神風特攻機は、二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か、必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう。

さだめなき世なりと知るも草莽の 一筋の道かはることなし』

 ‥‥このことを、私は何故か、八甲田山に祖国再建祈願祭に向かう途中で、命を結ばれた出雲大社相模分祠神職の相原修氏のことで、思い出した。昨日、秦野で葬儀が行われた。平成二十二年に、秦野で、第六十一回全国植樹祭が開催される。そのために天皇・皇后両陛下行幸啓の道順にあたる道路の整備工事が、急ピッチで行われている。美麗な道路が続いている場所であった‥‥。多くの朋友知己が参列した。いずれも関係する右翼団体が多いのは当然である。××のない人、××のない人が目立つ。仕方がない。野村秋介氏同様に、相原修氏を可愛がった神屋二郎さん。その神屋二郎さんが、昨年帰幽。「神屋二郎大人追悼集」号が、大東塾から出ている。その中に、相原修氏の追悼文がある。これを全文掲げさせて戴く。神屋二郎さんが、どのような男を愛したか、そして相原修氏とは、どのような右翼であったのか、その一端を知ることができると思って。イザと云う時には、「至誠尽忠」を天下に示せる方だった――と、思っていた。一つの右翼の系譜に、やがては入るだろうと考えていたのだが――。

   × × × × ×

『小生は愛国党員でありますが、影山正治先生の「維新者の信條」を読み身が震える思ひが致しました。就いては塾へ参上致し、ご指導を仰ぎたく存じます。又、現在刊行中の「影山正治全集」購読を希望します。
うむ。わかった。先ずは青山に来なさい。私は神屋だ。まってるぞ!
平成三年秋――当時、まだ私は二十歳。この電話でのやりとりが、神屋先生と私との最初の出会ひであった。

 その後、神屋先生は未見の私に対し、さっそく「全集」の既刊分全部をお送りくださり、そこには、来塾を楽しみにしてゐるとのお手紙まで、わざわざ同封されてあった。しかし、私は塾へ参上することが出来なくなってしまった。その理由は、翌年二月に私がとある事件を起こした為に、当局に身柄を拘束されるはめとなったからだ。

 その拘束中の折、あれは麹町警察の留置場にゐたときであったろうか。神屋先生が面会に訪れてくださったのである。
どうだ。元気か。君の来塾を待ってゐたぞ。
申し訳ありません。こんなぶざまな行為をさらした私の為に‥‥
神のみこころのまにまにだ。一生懸命やったことだ。あとは今後どうするかだ。
影山先生の著書を座右とし、しっかり勉強して参ります。

 その後、私は懲役四年の実刑判決を受け、東京拘置所、川越少年刑務所、奈良少年刑務所と、それぞれの地で独房生活をすることとなった。元来、刑務所に於いては、宗教書、辞典類の他は、特別な申請をしても、さう長くは手元に同じ書籍を所持出来ないことになってゐたが、たまたま私の担当警務官が國學院卒業者であったことが幸ひしたのか、何の障害もなく「影山正治全集」は宗教書と認められ、常に私の座右にあった。したがって、服役期間中に私が手にした書籍はといえば、「影山正治全集」のみであったといってよい。

 平成七年――やがて出所の日を迎えた私は、服役中に帰幽した祖父の墓参をするなどして数日を過ごし、しばし体調を整へたあと、やっと念願の大東塾へ参上することに決したのであった。それに先立ち、私が神屋先生に差し上げた手紙には、次の歌を書きしるした。

武蔵野にくき落ちてあれど今さらにより来し子をも哀れとは見よ

これは鈴屋大人生前の門人となれなかったことを生涯に亘り痛恨事とした平田篤胤翁が、鈴屋大人の歿後、その後継たる太平大人に差し出した歌である。篤胤翁の歌に、私の影山正治先生景仰の情を託したのである。

 初めて参上した塾には、鈴木代表、川田さん、森岡さん、杉田先生などがをられたやうに記憶する。私は神屋先生に感謝の意を表さうと、かつて愛国党書記長・筆保泰禎氏より頂戴した、赤尾敏総裁直筆で「感謝」とある色紙を持参し差し上げたことであった。影山先生の著述に接し、神道国学の道に心ひかれ、何とかして神職となることが出来ないだらうかと、親類の國學院出の教師に相談し、國學院受験を考へたりしたが、國學院某教授より、お前のやうな前科者がなれるわけがないと一蹴され、やはりさうしたものだろうかと、あきらめてもみたが、その思ひの消し去り難く、神屋先生にご相談申し上げたところ、鈴木代表から、何とかなるだらうとのお返事を頂戴した。

 種々の事情により、國學院受験は適わなかったが、大東塾の方々に八方手を尽くして戴き、出雲大社が運営する大社国学館へ入学。二年の研修期間を経て、神職資格を取得。爾来、十数年後の今日に至るまで、何とか神職として神明に奉仕してゐる。現在、私は、微力ながら、気吹舎本の復刻を続けている。これは「昭和の平田篤胤」と評された影山正治先生の思想信条をより深く理解するには、平田学の究明が必要であるとの、私なりの考へによったものだが、神屋先生は、よく激励してくださった。

 今、私の自室には、影山先生の「近詠抄」と題する遺墨が掲げてある。これは神屋先生より、「影山塾長歿後の門人としての大兄へ呈す」と賜ったものである。隣には、篤胤翁の肖像画を掲げてゐる。国学を称するに、世人は本居・平田の学といふ。しかし、私に於ける国学は、平田・影山の学なのである。毎回刷り上った復刻本を、塾にお届けにあがると、「君はよくやるなあ」とおつしやり、神屋先生は、常に暖かく励ましてくださった。

 先達て、富士の裾野にある「渥美勝乃命碑」移転奉告祭を、塾の皆様方のご指導を賜り奉仕する機会に恵まれたが、神屋先生最後の部外に於けるご講演が、渥美先生に関することであつただけに、実に感慨深いものがあつた。顧みれば、高校を中退後、陸上自衛隊に入隊するも任期中途で除隊し、すぐに「右翼」団体に加盟、その日より共産党議員に暴行を加えたり、社会党副委員長を幟竿で殴るなどしたり、逮捕拘留は当たり前で、遂には服役にまで至つた粗暴極まりない私を、かうして神職となるまでにお導きくださった神屋先生のご厚情に対し、私は万一にも報いるところがあつただろうか。今日私があるのは、全く神屋先生のお蔭なのである。先生は最後の最後まで謙遜し、ご自身のことを語らずにをられたといふ。

 されど、先生のご指導を受けた者のひとりとして、私は、先生より賜ったご厚情のひとつひとつを、周囲に対し語らずにはをられない。私にとつて神屋先生は、まさしく現代の「平田鉄胤」であつた。さうした先生のお姿を後輩に言ひ継ぎ語り継いでゆきたい。恩師・神屋二郎先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。』

   × × × × ×

 影山正治大人・神屋二郎大人が、どうしても欲しかった人物だったのだろう。相原修氏は、この世における命をむすばれたに過ぎない(相原修氏は、靖國神社に入りたかったらしいが、適わなかった。助勤で、靖國神社には奉仕している)‥‥。

 大東会館新入生歓迎会の最中に、突然、神屋二郎さんが激怒!
「我が大東塾一統には、後輩に煙草を買ひにやらせる流儀はない! 立てい、歯を食い縛れ!」
と言い、ビシッビシッと、平手打ちが飛んだ、かっての体験談を語る展転社の藤本隆之社長が、盟友相原修の遺影の前で号泣した‥‥。この日、男たちが泣いた。



■平成二十一年九月十二日

相原修氏帰幽を通じて、大夢三上卓翁門を思ふ。

 これは備中さんが――、多分、私の投稿文に遠慮して、『時計の間』に投稿したもの。訪問者が読まぬかも知れないので、こちらの表通りに、私の判断で転載します。

  × × × × ×

 靖國神社月次祭の今日(九月十一日)、表に塾頭の、惰夫をして蹶然起たしむる投稿『むすびに至る日々』を拜し、舊稿を掲げるを赦されたい。

●中村武彦翁『戰後維新運動と五十年目の決意』の曰く、「

 無黨派層と呼ばれる廣汎な國民大衆は、頼むべきもの、新しきものを切實に求めてゐながら、所謂右翼に對しては、何の期待も示さない。

 山口二矢――三島由紀夫・森田必勝――影山正治――野村秋介

頭を冷やしてこの系譜に注目し、沈思したいと思ふ。ほかにもをられるが、これは戰後、自らの鮮血を以つてその精神を表現し、爲政者と國民同胞に訴へた維新者の系譜である。理屈ではない。その生命をかけた聲を聽きとり、眞情を理解する心のない者が、いくら國事を談じ維新を論じても、まことに空しい」と。



 赤魔攘祓、皇國護持、皇政復古、神國顯現、萬有和合、世界皇化を志すに、まつりごと一新の望むべくもあらず、はた己が力のつたなきを如何ともすべからず、某古書目録に、大夢翁の、

大いなる道夏草の丈なせる  三上卓

てふ句ある寫眞を見、いとゞ悲しく、今はゝや、天地の神祇に懇祷し、天關打開、一日もすみやかなるを乞ひ祈(の)み奉らんが爲めに、たゞ懺悔禊祓に生き、神々の恩頼にすがりまつるほか、道は無しと諦め、繼ぎて詠める

大いなる 道夏草の 丈なせる いきどほろしも たゞ祈るなり  備中處士

大夢三上卓翁の句に對して、些か弱うして、響かざるを如何せん。「もつと激しく詠はざるべからず」とは、小生を可愛がつて下さつた○○老翁の埀示なり。

 大夢翁には、佳句おほし。

國を興す 大惡人出でよ 雲は灼け
野火赤く 人渾身の 惱みあり
言の葉は 了りぬ梅花 凛々と
夏草の 一筋の道を 來りけり

[昭和四十六年九月十日付、大悲野村秋介宛書簡・近什五十句の末句(大夢翁遺作)]
只一人 亂世の雄出でよと 海にいのる

 殊に第二句「野火赤く」は秀逸、時より口ずさむ所であります。其の大夢翁の道統を嗣ぐ野村秋介氏に、「千葉刑務所出獄の朝」と詞書する哥があります。

先驅けて 散りにし人の 悲しみを わがものとせむ この道をゆく



●大悲野村秋介烈士の句抄(『銀河蒼茫・野村秋介獄中句集』昭和六十三年七月刊より)

[三島由紀夫・森田必勝自決]
茫然と轟然と秋の夕日墜つ

[三上卓先生死去(愚案、昭和四十六年十月二十五日)の報に接す]
不覺なる泪が菊に散りにけり
白菊の白が溢れてとどまらぬ
傷痕の深き山河の露しぐれ
白露の玉が碎ける頬に手に
轟然と秋の落日宙にあり

[三上卓先生百日祭獻句]
在すごと夜の白梅またゝきぬ
寒梅を見し夜の夢に師の寡默
憤怒とはかくも靜けき夜の梅
寒梅の毅然なりしをわれも祕む

[淺春寒き日、毛呂清輝先生苦心の「三上卓追悼號」差入れさる]
哭くまじと思へど春の雪に濡れ

[三上先生を偲ぶ]
夕顔のもの云ふ白さ亡師と居る
茫然と失語の銀河埀らしゐき
われも行かむ夏草茂る道なるを

[連合赤軍、仲間を大量虐殺する]
唯物思想とはかくも凄じ寒風ぞ
凩の吼えて猛るを如何にせむ
祈りすらなき冬砂塵默するのみ

[昭和五十二年三月三日、經團聯事變前夜、毛呂清輝翁に]
悔ひなしと思へど雪の淡さかな

[八月十五日]
われに憤怒あれども凉し紺朝顔

[夜半に獄窓から天を仰ぐ]
見よやこの銀河蒼茫たる祖國

 ○
昂然とゆくべし冬の銀河の夜
沖天に獄の寒月亂世近し
冬三日月祖國は何處へゆかむとするか
俺に是非を説くな激しき雪が好き
寒月に一殺多生といふ祈り
いまは亡き悲願の人の悲願を繼ぐ
悲願一途いまも雪富士はるかなり
十年を獄にあれども寒椿
しづかなる憂憤としづかなる寒梅と
涙に非ず飛雪に非ず頬が濡れ
わが愛す山河渺々として枯れる
凍てし天地祖國の怒り寂寞と
雪の祖國自刃の如き光りの束
日本何處へゆくのか荒涼たる枯野
祖國滅ぼしてはならじ寒梅咲く
溷濁の世をゆく決意寒椿
大悲といふ道に大悲の春の雪
唯なけてなけてならない櫻の空
誰もしやべるな櫻が散つてゐるから
櫻の空仰ぐと誰もゐなくなる
祖國のなみだのやうに櫻が散る
泣蟲の俺かな花の吹雪くにも
葉櫻の風の言葉は獨り聽く
世の虚妄青葉光るを信ずるのみ
祖國いま切に危ふし風芙蓉
祖國依然こんとんとして雷鳴す
この雷鳴ただごとならぬ國危し
いわし雲祖國の涙誰に告げむ
嗚呼祖國菊の白さを疑はぬ
爲すすべもなき混迷の月下なり
はかなきと知りつつもゆく青葉道



●野村秋介氏『黎明の中で』(『影山正治大人追悼集』昭和五十五年五月二十五日・編纂委員會刊)に曰く、「

 あの時、不思議なことがあつた。影山先生が御自刃の場へ臨まれた同時刻に、私は異常な胸騒ぎを覺え、しつかりと目覺めてゐたのである。信じて頂けないかもしれないが、誓つて事實のことである。大體私は、夜半に目覺めることの少ない質で、一度寢ついたなら、ほとんど小用にもいかない。冷え込みの嚴しい獄中生活で、夜半に小用にゆかない癖をつけるのは、一つの生活の智惠でもあつて、私は長くこの習慣を守つてゐる。その私が、この時、ふつと目を覺ました。何となく胸騒ぎがするのである。獄舍は肅然と鎭まり返つてゐて、鐵窓にはまだ黎明の匂ひもなく、唯々漆黒の闇がみなぎつてゐる。私は「何時頃だらう」と呟いて、珍しく[實に珍しく]小用に起つた。再び床に入ると、何度か寢返りを打つてみた。しかし妙なことに、一向に眠氣がささないのみか、躯中がピーンと張りつめ、頭の芯はしんゝゝと冴えわたるのである。普段かういふことのない私だけに、この時のことは克明に記憶にある。まさかこの時刻に、影山先生が御自刃の場に臨んでゐるなど思ひも及ばぬことであつたが、私は不思議なことに、その眠れぬ悶々の中で、影山先生のことを思つてゐた。何の脈絡もなく、青梅の大東農場は、この府中からは指呼の間ではないだらうかと思つたのである。‥‥

 かなり長い時間を經て、夜が、白々と明けてくると、徐々に、實に徐々に、まるで匂ふやうな紺碧の空が姿を顯はして來た。見るとはなく眼を窓外へ轉じると、青葉のうねりが當然のことながら、しーんと靜まり返つてゐる。唯いつもと違ふのは、その光景が實に莊嚴で、遠くに見える山なみも、獄庭に立つ一本一本の樹木も、否、その一葉一葉の青葉さへもが、まるで光でも放つかの如く、私には神々しく見えるのである。空の色といひ地の色彩といひ、實に目を瞠る、それは莊麗さであつた。私は暫く無心に、その光景を眺めやつてゐたが、いつとはなしに合掌し、深々と頭を埀れたのである。

 この朝の不思議な體驗が、たんなる偶然とは、どうしても思へない。影山先生の御魂が、何らかを私に語り遺されようとした、一つの靈感だつたのではあるまいかと、時間の經過につれ、私は確信するやうになつて來てゐる。影山先生の意識に、私のことが有つたか否かは、私にも分明ではない。しかし、よしんばまつたく意識されてなくとも、いま神去らんとする先生の靈と私の魂が、かなり深いところで響き合つたといふ事實だけは、私はけつして疑はない。いづれにもせよ、私はこの時の生涯忘れ得ぬ感銘を、胸深きところに□[火+奧]火として埋め込み、いつまでも先生が遺されようとした御言葉に耳を澄まして、今後を生きてゆきたいと念じてゐる」と。

  × × × × ×



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 備中處士案、件を以て、塾頭による「九段塾」書込みは、途絶えることになつた。深刻なる病状を誘發しても、なほ年末には、「愛国女性の集い・花時計」主催による『凛として愛』の、軍人會館(九段会館)に於ける上映會を強行してをられるも、遂に塾頭の至願、『靖國神社正統記』述史は叶へられなかつたのである。將に戰鬪であり、必死の諫言の行の眞只中‥‥。塾頭には、顯界に許される時間が無かつたのである。嗚呼、嗚呼、血の涙なりけり。

 今に在つて想見するも、大いなる悲しみの湧き起こる、如何ともする能はず、此の無念、何處へ訴へむか、得て知るべからざるなり。「九段塾」管理の任務、微力不學を耻づと雖も、小生、任じて立つ外あるまいと、覺悟した次第であります。

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  • [41]
  • 死んで、死んで、一族一億国民、皇統を護る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月20日(火)19時13分37秒
  • 編集済
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■平成二十一年八月二十四日

死んで、死んで、一族一億国民、皇統を護る。

 備中さんが、深耕している黒木博司少佐のスレッドにある一文を、私の判断で、「九段塾」掲示板に転載させて戴く。黒木慕楠少佐『急務所見』である。諸士、悉く読んでもらいたいためである。黒木少佐がどのような方であるかは、説明を要しないであろうが、平泉澄博士のお話を冒頭に掲げる。

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■平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學舘大學出版部刊)の第七十一章「黒木少佐」其二に曰く、

「此の『急務所見』のしたためられたるは、昭和十九年の五月八日、黒木博司海軍大尉、かぞへ年二十四歳、原本は幅一尺一寸四分、長さ實に二丈一尺二寸五分、徹頭徹尾、血書であつて、墨で書かれたものは一字もなく、しかも筆勢は雄渾、湧くが如く、迸るが如く、大尉の精神躍動して、鬼神を泣かしめるものであります。

 かやうに云へば、讀者は黒木少佐に就いて、いかなる風貌、いかなる性格を想像せられるでありませうか。實は斯の人、紅顔、花の如き若武者であり、温和、春風に似る、やさいし性質でありました。この人ほど美しく、この人ほどやさしい人は無いとさへ思はれます。父母に對し、兄妹に對する至純の愛情は云ふまでも無く、師友に對し、上司同僚に對しても禮儀正しくして、しかも温情に滿ちてゐました。「下呂の母から送つてくれましたから」と云つて、あの食糧の恐るべき空乏の時に、柿を二三個、栗を十數粒、わざわざ小包で、東京へ送つてくれられた好意を、私は涙ながらに囘想するのであります。

 或はまた讀者の中には、少佐を以て熱情の青年、感激の高い文學青年の如く思はれる人があるかも知れませぬ。實は極めて沈着冷靜であつて、毫も感情に溺れる浮薄の氣風を見なかつた事は、昭和十九年八月、少佐の歎願、遂に海軍首腦部を動かし、「囘天」兵器として採用せられ、いよいよ出動迫つて來て、その練習に專念中、九月六日、海荒れて浪高く、少佐の同乘指導した囘天第一號、不幸にして海底に突入し、離脱浮上不可能となり、遂に殉職の悲運に際會した時の態度によつて明瞭であります。その海底沈座は、六日の十八時十二分、最期は七日の午後二時となつてゐますが、少佐の絶筆は○四○五とあつて、意識のあつたのは、午前四時までと推定されます。つまり絶望の状態に在る事、十時間の長きに及んだのであります。これが短時間であれば兎も角、十時間の長い間、死に直面しつつ、次第に呼吸の困難の加はる時、常人であれば、感情は高まり心緒は亂れるであらうと思はれるのに、黒木少佐は極めて冷靜に、事故の實状、その經過、自分の執つた處置、今後警戒すべき點、用意すべき點、設備すべき點、其の他參考事項を記録に留めたる後、神州、必ず體當り戰法に徹し、明日より速刻實行する事を確信し、『神州不滅を疑はず』、『欣(よろこ)んで茲に豫(かね)て覺悟の殉職を致すものに候ふ。天皇陛下萬歳。大日本帝國萬歳。帝國陸海軍萬歳』と、皇國の將來を祝福すると共に、後事を仁科(關夫)中尉を始め同志の諸士に委嘱し、更に『恩師平泉先生を始め先輩諸友に、生前の御指導を深く謝し奉り候ふ』とまで書き殘されたのでありました。諸葛孔明の出師表や、文天祥また謝枋得の詩は、異國の人であり、數百年乃至千數百年前の事であつても、猶ほ我等をして泣かしめずしては措かないのであります。而して今、黒木少佐の『急務所見』や『日記』及び海底の『遺書』の如きは、その忠愛の至情に於いて、其等とその本質を同じうし、その光彩を競ふものと云ふべきでありませう」と。


■黒木慕楠少佐『急務所見』(昭和十九年五月八日)に曰く、「

紀元二千六百四年五月八日 海軍大尉・黒木博司

  『急務所見』

 大日本は、神國なり。皇國の大義、萬古、神勅に定り、大義の國體、千歳、忠烈を生むと雖も、臣民、茲に感奮して、自ら義烈に力むるになくんば、焉ぞ能く皇國の無窮を保せんや。今日の危急、言ふべからず。明日の變轉、察すべからず。未だ聖慮を安んじ奉ることを得ざる、嗚呼、臣か罪、誅に當る。臣、既に死すべし。囘天護國の道、神明、唯だ此の處に嘉し給はらん。草莽の淺學なりと雖も、至誠盡力の事、他に俟つべからず。便ち微衷靖獻、以て左の四項を記す。

  第一 死の戰法に徹底すべき事

 現下、戰局の歸趨は、皇國存亡の決する處なり。病躯の夫、仇敵刀を擬するに、焉ぞ醫藥を煎ずるの暇あらんや。攘夷撃滅は、正に今日の至大事なり。時に夷狄、膨大の物量を以て臨むに、我、力及ばず、量足らず、遂に滿身創痍、身に寸鐵を帶びざるに至らんとす。呼、神州明日の變、測り知るべからず。我、何を以てか、之を制せん。他なし、『吾が國の外國と異なる所以の大義を明かにし、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確固たらば、何ぞ諸蠻を恐れんや』(備中處士案、吉田松陰先生『講孟箚記』)と。之れ心切忠死を希ひ、臨むに必殺の策を以てして、始めて可なり。夫れ必死必殺の死の戰法に徹せんか、用ふる兵器は易々として、以て量を補ふに足り、用ふる道は、豁然として戰果、測り知るべからず。一度、其の威を振はんか、夷狄、慄然として爲すなけん。是れ神州の武、皇國の義なり。唯だ用ひざりしのみ。或は上官、切々の情ありと雖も、大義に死せしむるは、臣たるの義、子を生かしむるは、將たるの責なり。焉ぞ一己の心責を以て、皇國の安危に換へんや。宜しく速かに皇國の神武たる死の戰法により、皇國を護持し、以て一日も早く聖慮を安んじ奉るべきなり。姑息の弄策、荏苒の一日、以て神州を千歳に誤らんことを懼るなり。

一 航空機に於て、速刻徹底すべきこと
 今日、航空機の偉たる、論を俟たざる處なり。然るに彼の膨大と良材と超巨大機に應ずるに、我れ亦た航空機と彈丸を以てせば、遂に支ふる能はず。唯だ攻守共、死の戰法に依らんのみ。則ち自爆々撃機及び體當り戰鬪機を以て、彼が生産地を覆滅し、又た其の巨大機を必墜して、一の逃走なからしめば、制空の權、必ずや我が掌中に歸せん。唯だ明日の變、測り知るべからず。有志、齊く待機す。要は之が發動の速刻なるに在り。

一 人間魚雷を完成採用すべき事
 主戰力、一に航空機に在りと雖も、然も之を補ふに潛水艦を以て第一となす。然共も帝國が國力を以ては、遙かに其の量を充す能はず。故に急速、人間魚雷を完成し、徹底的連續攻撃を敢行し、以て敵が海上勢力を完封すべきなり。巧妙の技術、可なりと雖も、其の域に限度あり。獨り士魂は然らず。宜しく速かに英斷を下すべき機なり。

一 空輸挺身隊を徹底的に活用すべき事
 搦手攻撃は、戰術の要諦なり。陸戰及び海洋基地に於て、空輸挺身隊を以て之を敢行せば、その戰局を左右する處、極めて大なりと思考す。吁、皇國の興廢、唯だ正に死の戰法に徹すると徹せざるとに在り。然して其の司の士に在り。

  第二 天下の人心を一にすべき事

 天下の事、人心を一にするより大なるはなし。孫子曰く、『兵者、不知人和』。松陰先生、更に曰く、『天下、難あれば、億兆の臣民、皆、當に之に死すべし。億兆の臣民、皆、死すべからざれば、則ち皇統は天壤と共に窮りなけん』と。然るに皇國の大體、神州の聖民にして、猶ほ一ならざるは何ぞや。即ち百説相剋、利徒跋扈し、夷心蠻風、得々として風靡す。或は軍民、漸く相離れんとし、又た陸海、既に相容れざるや甚だし。嗚呼、天皇は聖明たり、國體は優美たり、然して之に背かしむるものは何ぞや。

一 尊皇を純化徹底すべき事
 松陰先生曰く、『天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者あり。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふるものあり。然共も其の孰が本、孰が末なるか、未だ自ら信ずること能はざりき。向に一友に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂ひしは、皆、夷狄に憤りを爲して見を起せしなり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるにはあらざりしなり』(備中處士案、松陰先生『又讀七則』)と。思ふに、吾人に亦た此の錯りあるにあらざるや。之れ有りては、遂に尊皇も徹せず、人心、一なる能はざるなり。況んや要路に、斯かる士の蟠居するに於てをや。義明かなる處、人、必ず赴く。即ち尊皇の純化徹底を計らんとせば、政府は先づ權謀奸策の不徳の士を芟除し、態度敬虔、操志堅確、國體明徴の士を登用すべきなり。政道は教學より大なるはなく、教學は上に其の人を得ざれば、遂に成るなし。他の弄策、復た論ずるに足らざるなり。

一 國家教學に其の人を得べき事
 國家の患、教學、正道を得ざるより大なるはなし。今日の患、一に夷學・雜學に因る。宜しく速かに皇國の正學に據らざるべからず。即ち敬虔、以て先哲を學び、愼重、以て傳統を稽へ、忠死、以て皇國を護持せんとの學ならざる可からず。然るに今日の學は、皆、夷學・雜學、傲然として私見を立て、敢然として傳統を排す。爲に百家百説、民心、一に歸するなし。獨り正學は然らず。皇國の忠臣巖然として、爲に志向する處、更に別途なし。便ち國民、肅然として、民心、分れず。師あり、平泉博士、其の人なり。宜しく速かに先生を登用し、以て天下の教學を改むべきなり。

一 君臣の名分を正し父子の情義を養ふべき事
 皇國の事、君臣の名分を正すより先なるはなし。近年、天皇御親政の實、聊か國の内外に明徴ならざるものあり。之れ舊態の然らしむる處、今日、一擧に改むべからず。唯だ皇族を奉戴して總宰に仰がば、時態拾收、以て御親政の實、國の内外に明かならん。然る後、國民肅然として順ひ、萬邦靡然として仰がん。國難囘天の業、以て始むるを得ん。又た忠臣は、必ず孝子の門より出づ。宜しく家庭を養ひ、孝子は厚く之を賞用し、子、罪あらば、父兄を以てすべし。抑々一夫樂みて百屋生邑なく、權勢の富豪に許して、誠實の貧困を窮せしむることあるべからず。國歩艱難、民心荒蕪なるに於ては、愈々人心を茲に撫育繋止するを要すべし。

一 軍の宜しく自肅すべき事
 我等は、陛下の御股肱なり。『凡そ王土にはらまれ、忠を致し命を捨つるは、人臣の道なり。必ず此を身の高名と思ふべきに非ず』(備中處士案、北畠准后『神皇正統記』)。銃後、猶ほ克く前線に謝すと雖も、亦た極めて困窮の境に在り。或は軍の一斑を見て、軍民、漸く相離れんとす。之れ最も戒むべし。抑々軍は教育徹底し、物慾に亂るゝなしと雖も、庶民は然らず。宜しく軍は、速かに簡衣粗食に卒先すべし。軍、卒先せば、何者か足らずと言はん。之れ軍の國家鎭護の一斑なり。

  第三 陸海軍一致すべき事

 現戰局不振の因、陸海軍の不一致による處、極めて大なり。畏れ多くも陛下御股肱の御信任に對し奉り、皇國將士、何の顔ある。之れ即刻に悔い改むべきなり。抑々之が因て來る所は何ぞや。思ふに、陸軍は陛下の御股肱を以てし、海軍は戰鬪第一を以てす。即ち前者は精神を重んじ、後者は技術を輕んぜず。弊利得害、各偏見より至る。今日、正に大丈夫の襟度を示すべきの秋なり。況んや陛下の御股肱たるに於てをや。然共も之が積年の弊、深く原因する處あるべし。則ち道義の根底に於て結ばれざるべからず。然るに學無くんば義暗く、學同じからざれば、遂に義同じからず。宜しく速かに正學の軍に於て講ぜらるべきなり。之れ陸海軍の根底に於て一致するの要諦なり。

  第四 緊要の策を速刻斷行すべき事

 囘天緊急の策たる、即ち之を遠慮深謀し、速刻斷行すべきなり。緊要の策、今日、左の如きものならんか。

一 玉碎兵器を徹底増産すべきこと
 特に慮るに、左の二點あり。
 イ、戰局の如何に拘らず、終始、死の戰法を徹底すべき事
 ロ、時限的増産を以て、常に決定兵力たらしむる事

一 補給線を確保すべき事
 特に對潛兵器の如何は、今日、國家の命脈に拘るべし。對策を要す。

一 化学戰に一歩先んずべき事
 近き將來に於て、熾烈なる化學戰たるべきは、必至なり。宜しく皇國の無窮を念じ、之が愼重切實の對策に力めざるべからず。而して左の三種、最も心すべきものか。
 イ、殺人光線
 ロ、毒ガス
 ハ、人造肥料

一 食糧を確保すべき事
 民生を厚くするに、食より大なるはなし。食足れば、便ち衣・住足る革命騒亂は、充ち足りて猶ほ起ることなし。[終]」

  × × × × ×

 備中さんの黒木博司少佐スレッドには、黒木少佐作の戯曲『大楠公』も敬書されているが、その中に大東亜戦争終盤における皇軍の戦い熾烈なる精神、銃後の国民の覚悟――、その神髄が示されている。名越二荒之助先生が、よく喫茶店で言うていた「楠公精神」も、このことを指していた。

死んで、死んで、死んで、死に尽くす――。それがあの時代、誰もが思っておったことですな

と。即ち――楠木正成が、湊川の戦に臨み、子息正行を帰す「櫻井の駅の別れ」である。

正成「さればぢや。汝に頼む。父・正成は、既にこの爲に、此の悲しみの爲に、討死して果てるのぢや。されば汝、正行も、又た兄弟も、皆心を一にして、此の悲しみ、此の無念の爲に死んでくれ。叔父も、甥も、一族郎黨、この無念の爲に死んで、死んで、皇統を護り、二心なく、屈せず、一族、死を以て仕ふるならば、彼の惡逆の者と雖も、必ずや感ずる所あり、皇統のみは、天壤と共に窮りなきことを得。何時の日か、復た正しき御代にかへることを得るであらう。然し天下、亂臣賊子の世、御間違ひなく、皇統をお護り奉るさへ、中々難しい事ぢや。」

海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、空行かば雲染む屍――

 「死んで、死んで、死んで、死に尽くす、日本大民族の大東亜戦争の大義が、ここにある」。靖國の宮に鎮まれる祭神のいさおしを伝えなくてはならない。それを私はし遂げたい。そのための映像製作を――、三百億・五百億をもかけて、世界中で上映したい。今をときめく米英仏中の有名俳優を駆り出し、わが国の有望なる俳優をもって作製したい。黒澤監督なくも、誰か手掛けられる監督に頼みたい。「これが大日本帝国の戦争だった――」と云う、世界を相手にした極東の国を紹介したい。これは夢の又夢とは思っていないのだが。



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【參考『嗚呼、慕楠黒木博司少佐』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t20/l50

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■平成二十一年九月四日

産土神社と新たな展開のお知らせ。

 昨夜、備中さんのスレッド『産土大神の御神徳を仰ぎませう!』を読んでいたら、「帝都九段の鎭守の神樣は、何處の神社でありませうか。何方か御示教たまはれば、幸甚に存じ上げます」と書いてあったので、それへの答えです。おそらく大鳥居からすぐ近くの築土神社が、九段周辺の産土神社であろうと思います。無論、靖國神社の祭祀には関係の無いことですが(備中處士案、九段北の産土樣は、永田町の、皇城の鎭「日枝神社」でありました。小生、靖國神社の參拜に方つて、國津神たる産土大神への禮を厚うして、贊助修祓を仰ぎたいが爲の質疑でありました)。

 ところで、昨夜遅く、『時計の間』にも書いたことだが、今、現在、「靖國神社の正統」が、ほとんどまったく世の中に知れ渡っていないので、発作的に『国体の本義』に触れようと、昨日は書いたのだが、やはりまず第一に、「靖國神社の正統とは何か」、これを広範に至らしめないことにはどうにもならないな――と、今朝には思い至った次第。以前の桜の掲示板には、「その正統とはなにか」を書いたが、新しい訪問者は読まない限り、この「九段塾」を訪問しても、「なにが正統なのか」を「まとめて書いてあるところがないので」、知ることが出来ない。ただ「九段塾」に断片的に書いてある小論を読んで、あとは想像を逞しくして理解するしかない。それでは閲覧者も困るし、こちらも困る。やはり「靖國神社の正統とは何かを」、すぐに理解できる「書き物」が必要だ。桜の頃から閲覧している人でも、あるいは掻け落ちている「正統」があるかも知れないので、もう一度「ハナカラ」、靖國神社の正統とは何かを――、この「表通り」で語って行くことに決めた。その大要のほとんどは、桜掲示板で投稿しているので、それを再度検討し直し、最終的には出版することを考えて、今新たに、この「九段塾」に書き直し、掲載して行きたい。それを、順次「靖國神社の正統を伝える」新たなスレッドを、備中さんに作成してもらい、そこへ転載し、いつでも誰でも、スレッドを見れば、「靖國神社の正統がなんであるか」をまとめて閲覧できるようにしたい(まだ、新スレッドは必要ありませんよ。第一項が掲載される時期に、新設してくれれば結構ですから)。そのための作業を、これからする予定です。

 先に私は、「幕末動乱から大東亜戦争までの祭神の戦い」を映像化するための概略――靖國神社忠魂史を基にした「祭神の雄々しき戦い」を構想しましたが、今は『太平記』を先行させたために、一時ストップしています。今度は、「靖國神社の正統を伝えるために」、必死作戦を遂行した皇軍将兵の戦いと、楠公の精神――それに『太平記』を組み合わせた『九段塾版太平記』執筆を心がけしていたが、それも一時中断して、「本論としての――靖國神社の正統とは何か」を最優先することに決めました。本当にくるくると、よく変わることだと思います。更に、昨日の夜中に『時計の間』に書いた『国体の本義』解説も‥‥。今朝は後回しにすることにしました。どうも錨がしかっりしないで、ふわふわ思いつきで、頭脳がめくるめき、混乱が自身に起きているようで、みっともないことは承知しているのだが。とりあえず、「靖國神社の正統を伝える」ことに視点を注ぐことが先だ――と、朝まで起きて結論しました。これも大変な作業で。桜に書いたことが大要下敷きになるので、何を書いたか、もう一度読み返して、順番を構成しなければならず。その量も膨大なもので。まあ、仕方がありません。一度、レールを敷けば、あとはずんずん進むはずです。私が消えても、残した書きものが整理されていれば、「靖國神社の正統がなんであるかは」勉強できると思いますので――。まず、それをやろう、と‥‥。今現在は、そう考えておりますので、よろしく応援を願います。なに、応援と言ってもたいしたことではなく、「頑張って下さい」みたいな言葉だけで、栄養は充分なのです。以上ですが、これは、事務連絡的なことなので、やがて削除いたします。
 

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  • 八月十五日の感懐。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月19日(月)18時26分20秒
  • 返信
 
■平成二十一年八月十九日

感懐。

 昨日の午前中に、休養先から戻って来ました。せっかくの休養も、家に帰って来ると、どっと疲れが出るような気がする。何処にも出かけずに、家でゆっくり休んでいた方がよかったかな、とも思う。さて、八月の十五日、靖國神社。昨夜は、遅くに『時計の間』で一休みして、ぶつぶつ小言を呟いて終わったが、朝になって、思いを駆け巡らせてみれば、涼しげな風が、高窓から部屋に吹きつけて来る。これが神の加護でございましょう。涼風の中で、しばらく靖國神社のことを考えた。八月十五日の靖國神社の九段下光景は、○○○○○が書いていた通りの淫猥を極めたものであり、大手水舎の横で、ピンクのジャンバーを羽織った、チャンネル桜のスタッフが撮影していたのも、出演者も含め、すべてが国民服喪を知らぬ、昨今の者ばかりでは、文句をつけても仕方がない、と思うしか手がない。昔、戦後すぐにガード下で見かけたような、派手なワンピースを着用した女性キャスターがいたのも、服喪がわからなければ仕方がない。しゃべる背中に、神門の半旗があるが、気にもしていないだろう。参道の真ん中に張った邪魔な白テントの中で、真っ赤な花の来賓記章を胸に付けた元幕僚長達が、祭神顕彰を高い壇上から話すと云うのも、既に形骸化した式典であれば致し方なし。己らだけが強い日差しを避けるテントの中で居座り、涼しげに、「英霊に感謝することが大切」と、それしか言えない‥‥。自分の不甲斐なさに腹が立っているのかどうか知らんが、そんな挨拶でも、拍手をして盛り上がると云う不思議な集会だ。これを形骸と云わず、なんと言うのか。おいおい機会があれば、彼らの愚かしさを書いても行くが、今はその馬鹿さを書く気が起こらない。時代が違ってしまった。

 ただ靖國神社の清浄・静謐と云う伝統が、野盗の如き集団に踏み潰されてしまったことだけが、残念だと感じた。伝統・清浄と云うものは、脆いものなんです。宝物のように守ってあげないと、すぐに壊れる。壊れたら、もう二度と、伝統も文化も戻って来ないんです。それがわからなくなった日本人が増えて来たと云うことでしょう。このような惨状が、靖國神社の境内に充満する時代となったのも、一人、彼等だけにあるのではなく、靖國神社の宮司・権宮司以下の幹部職員に、賀茂宮司・鈴木宮司・松平宮司の想いを、遺沢を継承して来れなかった――来なかった――、むしろあえて踏みにじった神職しか現れなかった――と云う現象があると思う。これも祭神の考える思慮遠謀なのか。

 その以前に原因を求めれば、敗戦後の生き残った日本人の処世の生き方にあるのかも知れない。あと数年で、私も終えるかも知れない。国立追悼施設の話が、また出て来ているようだ。作りたければ、作らせればいいことで、それで靖國神社が廃れれば、それはそれで仕方がない。正統を継ぐ者がいれば、靖國神社は、いつかまた中興する。二百年三百年、必要かどうかはわからない。ともかくも今必要なのは、靖國神社の正統がなんであるのか、何を正統と云うのか、それを書き残し、語り、次の世代に繋いでくれる人を探し出すことだ。備中さんを支えて行ける人たちだ。靖國神社の伝統・静謐・清浄が、なんであるのか――。それへの教えが衰弱しているために、衰えているがために、野盗の如き保守団体を跋扈させ、ぺんぺん草をはびこらせてしまった。荒廃の原因は、衰えた尊皇の志操に求められる。餓鬼がグルグル走り回る淫猥なる団体に、多くの日本人が踊らされているのも、志操の衰えだろう。錦旗がたなびかない時代だ。少しでも我々が、松平宮司が、賀茂宮司が、鈴木宮司が語った正統とは何か――を語り、書き綴り、あるいは映像をもって、辻説法をしてでも、志操を広げるしかない。邪悪な保守を押し戻すしかないだろう。水戸光圀の如き尊皇の志操を発掘する者が現れ、靖國神社を中興してくれる志士が出現してくれる時代を待つしかない。楠木は、南にあると云う。その南に、「九段塾」のニワはある。そう考えて、明日を考えて行こうと思った。これが、今年の八月十五日の感懐である。もっと長く書こうと思ったが、ここらで終える。



■平成二十一年八月二十日

返書・靖國刀奉納さる。

 これは、表に書こうか、『時計の間』に書こうか、迷ったんですが、でも、やはり大事なことで、何が靖國神社の正統か――を考える際に、閲覧者が気をつけなければならない‥‥と云うよりも、つい、うっかりして見逃してしまう‥‥、そう云う心の隙間を埋めていただければと思って、○○○○○殿の投稿で、少々苦言を。苦言そのものは、『刀剣美術』に書いた靖國神社遊就館資料課長の大山晋吾。○○○○○殿が、何も投稿文が書かれていない「九段塾」を慮ってか、普通、一般人では目にしない『刀剣美術』と云う専門誌に掲載された、靖國神社への刀剣奉納の記事を転載してくれた。こう云う所に、遊就館の大山氏が記事を書いていることを、私も初めて知った。そう云う意味では、大変ありがたい転載でした。こうした記事は、○○○○○殿でなければ、到底、我々の眼には入らぬ情報。今後とも、鵜の目鷹の目で、情報を教えて下され。では、なにが苦言を呈しなければならないのか。

 この大山晋吾氏は、以前は社報の編集者を任され、「靖濤」の担当者として、毎号書いておられた。その視点のつけどころが、靖國神社神職らしからぬ書き物が多く、幾度か文句を桜の時に書いたと思う。この人本人は、そんなに悪い人間とは思えないのだが、ちょっと「ぽっぽチャン」みたいなところがあって、エサを与えると、すぐ飛びついて、上調子にすべるところがある。ただこの人の話を聞きたいと云うことで、遊就館に訪ねて来る人も、多いことは多い。外部に一種の人気がある人だ。それだけに、今回のような不謹慎な文言を書き連ねた大山氏の執筆態度は、問題視しなければならないし、閲覧者も気をつけて読まなければならない点なのである。一体、塾頭は「何を言おうとしているのか?」 それは、ここだ!
『去る六月二十七日、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司大野俊康氏(靖國神社元宮司)、同神社宮司大野康孝氏、研師藤代興里氏、写真家トム岸田氏以下六名が、靖國神社を訪れ、御創立百四十年を記念して靖國刀「靖繁」一振を奉納された』。
この記事を読んで、何処がおかしいかわかりますか? この刀剣奉納をされた方は、第七代靖國神社宮司大野俊康氏であって、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司と云う方ではない――と云うことです。元靖國神社宮司大野俊康氏は、熊本の――と云うより、天草にある先祖伝来の本渡諏訪神社に戻られて、確かに名誉宮司としておられるのは間違いないが、こう云う紹介を、大山氏は何故したのか? こう云う所が、大山氏の「正統に欠けている資質」なのだ。『去る六月二十七日、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司大野俊康氏‥‥』と云う文章を読者が読めば、読む人の頭の中には「熊本県の本渡諏訪神社の名誉宮司である大野俊康さんと云う方」と言うコメントが、まず最初にインプットされます。それが次に、括弧付で靖國神社元宮司――とあれば、「ふーん。靖國神社の元宮司か。へえー」で、オワリだ。しかし、
『去る六月二十七日、靖國神社第七代宮司大野俊康氏(現在熊本県本渡諏訪神社名誉宮司)が靖國神社を訪問されて‥‥』
云々書けば、「おおう、第七代目の大野宮司さんは、まだお元気でしたか!」と、読者からも感嘆の声も上がろうし、また読んだ瞬間から、「第七代靖國神社宮司――」とあれば、粛然たる想いが、読者の頭の中に浸透する筈だ。括弧の中に書かれた現在職よりも、冒頭の「第七代靖國神社宮司」と云う称号が際立つ、磐石の重みとして読者の胸に響いて来る。即ちそれは言い換えれば、「靖國神社」と云う称号が、読む人の胸に巨きな響きを与えるのです。権威・尊厳・英霊‥‥。それほどの称号なんですよ、靖國神社と云う名称は。これを括弧で括る大山晋吾が、いつまでたっても「ダメな男」の理由なんです。靖國神社宮司職と云うものを貶めていることに気づかない。ひいては「靖國神社」も貶めているんです。正統が理解されていない。靖國神社では、宮司が退職しても「名誉宮司」と云う称号はないので、大野宮司が靖國神社を退職し、故郷の本渡に帰った時、伝来の神社は息子の康孝氏が宮司職を継がれていたので、氏子さんたちが「名誉宮司」と云う称号を奉ったもので、これは神社本庁でも承認していること。だからと言って、大野宮司には頻繁なる教えを受けた大山氏が、靖國神社元宮司を括弧の中に括り(靖國神社元宮司)とは、なんたる蓮っ葉なことをしてくれたか――なのです。大野宮司は、何度か松平宮司に叱責を受けた方だが、それでも松平宮司の教えを直截にうけて、常に短刀を懐に入れて、宮司職を全うされた宮司です。鎮霊社も公開してはならん!と厳命するほど、明治天皇聖旨を大事に護られた、正統を受け継がれた「大野前宮司」を、このような紹介をするとは、とんでもない失態。失態ではない。迂闊でもない。根に正統の魂が臨在していないから、こう云う文章を書くことになるんです(ちなみに大野宮司の息子の大野康孝氏は、知る人ぞ知る、九州でも、一、二を争う大右翼)。『刀剣美術』に掲載された文章を、大野宮司が目にしたら、どう思われるのか――、落胆よりも深い悲愁の溜息をつくのではないだろうか。そのことが気がかりだ。

 それとね、この島根県の「日刀保たたら」は、この当時、靖國神社内でも話題になったことで、大山氏は「自分が御供をしたと」書いているが、うろ覚えだが、大野宮司に随行したのは、大山さん一人だけではなく、何人かがいた筈だよ。少し自信はないが。この記事だと、大山さん一人だけが御供したような印象を与えていて、なんとなく大野宮司の趣味のような感じを受ける。こう云う際には、出来る限り、大野宮司の靖國神社における功績を巧みに紹介し、また靖國神社が、何故、火入れにまで宮司が参列するのか、その有意義を簡明に織り込むと云う心が必要なのだ。もしかしたら、○○○○○殿が中略した箇所にそのことが書かれているのかも知れないが、大事なことは、冒頭で触れなければダメなんです。そうした心の発露が出ないから、最初の文章から、単なる「刀剣」だけの話で、膨らみも情緒性も崇高さも権威も感じられない‥‥、ヤフーニュースみたいな文章になる。要は格調がないんだね。折角の『刀剣美術』が泣きますな。もう少し正鵠な文章を心がけないと、誰が読むかわからないのだから。これを今度、遊就館へ行ったら、○○○○○さんから、厳しく大山氏に言ってあげなさい。ついで刀剣の話をしてくればいい。入り口で、刀剣の話をしたい――と云えば、大山さんは多分、会ってくれると思うので。私が言いたいのは、大山氏への苦言もさることながら、要は、「この文章には、正統らしからぬ書き方をしている」、「この記事には、黙って見過ごせない書き方がある――」と云う、そう云う視点を、閲覧者全員が養っていってくれれば、なお幸甚である――と云う思いで、「小言半兵衛」の塾頭が書いた次第。

 少し昨日より、元気が出て来た。○○○○○殿のおかげです。これからもいろいろなお話を、宜しく願いますね。暑さが少し和らいだ感じがあるので、これからまた『太平記』を調査します。老骨とは、まったく自分では思わないが、体力維持のためにセサミンEと云う薬を勧められて、昨日から飲み出した。「九段塾」のためである。どうでもいい事を書くこと自体、頭が弱って来たかも知れん。



捨石として、御身砕かれて――。

 今、深更に目が覚めて――、夕方から先ほど前まで熟睡しておりました。○○○○○さん――、大山さんの話、○○○○○さんは彼に申し訳なさそうに謝っていましたが、なに、そんなに心配しなくたっていいんですよ。こうやって、たまには世間で批判を受けないと、自分が何をしているかが気がつかない。大山さんもそろそろ五十になるのか?な。世間に顔を晒せば、恥も批判も受けて当たり前です。こう云う○○○○○さんの手を通じて、自分の書いた文章が「九段塾」に掲載されて、私から批判されて、世間もそれを納得する――。これも、いわば英霊の「達し」なんですよ。今後の大山さんの活動にも「自省」を与えることで、○○○○○さんは、むしろ「いいことを」したと思って下さい。福寿を大山さんに与えたんですから。○○○○○さんは、英霊から「選ばれて」、あなたの手で、この「書き物」を「九段塾」に投稿させたんです。このように考えて下さい。大山氏もこの「九段塾」を読んで、反省はしているでしょう。

 中略した部分でも、新しい京極宮司に対して、「時を得て早期に御参列のことであろう」なんて、上からの「モノ言い」で書いているでしょう。こう云う処が、だめなんだよね。自分を少し高みに、さりげなく置きたいんだろうが、もっとへりくだって書かないと、京極宮司が馬鹿みたい、常識に欠ける人物みたいな印象を与えてしまう。土台ですね、外部に「遊就館資料課長」の肩書きを付けて書くんだったら、「である」調をもって文章を書くこと自体が問題なんです。「です」調で書かないと、見識すら疑われてしまう。『京極宮司も、時を得て早期に御参列のことになると思われます――』と云う平坦な文調で、何等問題なく、むしろ格調の高さを紙面に現すものなんです。私が「上から」言うのとは「違う」ことを、理解しないといけないんです。もともと大山さんは、そんなに文章が上手くないんだが、「自分では上手いと思っている」。そこに問題があるんだけどね。要はね、「プロ」だと自分を勘違いしている所が、「上達を」阻害しているんですよ。

 ○○○○○さんは、もしかしたら大山氏とか、トム岸田氏などと、「刀剣」を通じて、既に知り合っている仲なんですか? ふと、感じましたが。ま、いずれにしても、そんなに大山氏に申し訳なく思う必要はありませんよ。私に言わせれば、まだまだ大山さんは「ぼんぼん」なんだ。世間の風にさらされて、批判されないと、自分の欠点がわからない。大野宮司が在職中は、自分に不都合・不似合いあれば、腹を切る覚悟を持って奉職していた、至誠尽忠を見習って欲しい。靖國神社の神職は、世間の厳しい目に常に晒されている事を自覚し、だからこそ、内にあっては間違いのない「言動」を自覚し、外にあっても間違いのない「言動」に気をつける――、そう云う覚悟が本人の精進につながるし、靖國神社の格式・尊厳を伝えて行くんです。‥‥と云うことが今回のことで、大山氏はわかっただろうと思う。

 それより○○○○○さん、これに懲りずに、またいろいろな情報があれば披露して下さい。こう云う叱咤を、靖國神社の神職は「外部」から受けることも、大きく言えば「正統のため」、「靖國神社のため」なんですから。○○○○○さんも「心を鬼にして――」、靖國神社正統を伝えるための捨石として、御身を砕いて下されば、塾頭として嬉しい次第です。なお以上をもって、この「刀剣」の話は、この「九段塾」本通りではオワリとします。なにかあれば、後は『時計の間』でお話しましょう。閲覧者の皆さんも、「靖國神社正統を今日に、また後世に伝えるための捨石となって」、御身を砕いて下されば、塾頭として嬉しい次第です。



■平成二十一年八月二十三日

血圧が上がる話はダメ。

 さて、しばらく様子を見ていたが、不浄の桜の映像が、来る日も来る日も冒頭にあるので、これに触れて、掲示板を清浄にする。○○○○○が、どのような意趣でこれを持って来たのか、よくわからないが、まあ、桜を見ていない人には、水島なり、桜の面々が、どのように底流で蠢いているのかを知らしめるにはよいのかも知れんが、まあ不愉快な映像である。不愉快なのは、勿論、田母神に質問した外国人ではなく、この水島総・田母神俊雄に続く桜の面々である。異様だ。この騒動は、ピエールとか云う外国人が起こしたものでないことは、常識人が見れば明らかだろう。水島とその取巻きが、かってに騒動して、謝罪文まで書かせて喜んでいる。みっともない話だ。箱根の山道で、山賊に遭遇したようなものである。身ぐるみはがさして喜んでいる。幼児そのものだ。このビデオが海外に出されたら、靖國神社が迷惑だし、正統保守が迷惑だ。ここで由々しき問題は、いつの間にか、水島が英霊にこたえる会に入り込み、中央集会に入り込み、靖國神社にも入り込み、用心棒を始めたことである。この男は、八月十五日の終戦の詔勅を、「敗戦の詔勅」と宣伝しまくった、国賊に近い男である。なのに、群れる保守が後も切らない。何故なのか? 現今の保守を名乗る人間に「学問」がない。これが最大の原因だろう。

 そして、昔から言う「左では食えないが、右では食える」。靖國神社を参拝する代議士連中は、がやがや笑いながら、大体が拝殿に向かう。いつも遅れて、一人で参拝する議員もいる。女性に多い。姑息であることを、祭神は見通しでしょう。こんなものでもバッヂをつけているから、宮司は議員バッヂに対して出迎える。そうすると、この連中は、エライサンになったことを実感する。それまでは神社に来ても、宮司はいちいち会わんからね。こう云う代議士は、今度の選挙で落選してくれることを、私は願っている。現今「おれは保守だ!」を名乗る著名人は、大半がヘンテコだよ。それを言うと、「冗談じゃねえ」と、すぐに怒るが、じゃ、どの程度「靖國神社」を知っているかと云えば、コンビ二知識のようなものしかない。靖國神社に集る学者・ジャーナリスト、なんとか、なんとかは、要は有名になりたい、名士になりたいと云う、名誉・権力・有名。これが欲しい。水島が桜でデビューした頃は、鼻も引っ掛けなかったが、その内、力を付けてきて、総理まで出演して来た。テレビと云う媒体を持っている。それ行け――と、「集って来る」。皆んな、世間から忘れられるのが怖いんです。それと、原稿の依頼がマスコミから減って、生活が潤滑でなくなるから。それで寄り付く。水島が正統でないことは、多分わかっている筈だ。利用するだけ利用する腹だろう。

 今、世間では民主が強いと云う。これも結構だ。それならそれで、いったん民主党が国を奪って、俄か保守連中を一掃してくれれば、それも天の助けだ。またどう云う人間が寝返るか、その「寝技や弁論も」見聞したい。民主党が政権を取ったら、国立追悼施設を作ると云う。これはやりそうだ。それも結構なことだ。どのような論理で施設を作り、どのような展開をなして行くのか――、死ぬまでに、どうやら見ることが出来そうだ。それで、国民が動き、靖國神社が寂れても、別にどうと云うことはない。寂れているのは、今も一緒だ。靖國神社は変わらないよ。いつか、話したが――、一旦、靖國神社が寂れてくれるも、悪くはないね。神門は、昼も夜も閉じてしまう。こう云うのも悪くない。負の論理ではあるが、現在の魑魅魍魎が巣食う社頭風景であるならば、八月十五日の意味も知らず、国民服喪を失念した日本国民であるならば、祭神もまた私と同様の感慨にあるのではないかと推察する。いや、祭神は、とっくに今の参拝者を見限って、日本国民を見限って、伊勢神宮・明治神宮・皇城の上空のみを旋回し、お守りしているかも知れない。靖國神社創建の聖旨を考えれば、それで充分でしょう‥‥と云う感慨は成立する。

 以下は、一旦書いたが、考え合って削除した私の気持ちだが、一応、載せておく(じゃあ、削除したことにはならんがね。姑息な作戦)。水島には、柄の悪い用心棒の如き風体を見せて、靖國神社の参道で、「でかい面」を晒すなと言いたい。靖國神社は、どなたでも参拝していい神社だ。また見学に来ても、文句はつけない。右翼・サヨク、どちらも来る。土台、奉納芸能でエレキギターをかきならし、キリストを讃えるような歌さえ歌う奴もいる。参道で「ちょこっと」質問したぐらいの外国人で、大騒ぎを起こしたいのなら、遊就館の歴史解説をサヨク化させた、靖國神社の幹部に文句をつけろ、付き合いの多い広報課長に、文句をつけたらどうだ。宮司室に怒鳴り込んだって、悪くない。八月十五日に、遊就館の前で、旗ざしモノを出して、缶コーラなどの販売を、何故、許可したか、文句を言え。みたま祭の延長か!とね。社報にくだらない記事を書く広報課課長に、何故、文句をつけないんじゃ。この国民服喪の日に、ピンクの胸の徽章を付けて、靖國神社参道で演説する「田母神閣下」を、何故、ひきづり降ろさない。この日は祝賀会か? たかが一人の外国人が、話し終えた田母神に「質問」したぐらいで、半島人のように「怒鳴る必要」が、どこにあるか! 貴様達が出て行けばいいのだ。靖國神社は、用心棒を必要としない神社だ。ああ、少し血圧が上がってきた! 大体、靖國神社に祭られる祭神が通る「参道」に、テントなんか広げやがって、涼しい顔で「来賓面」するのは、どう云う了見だ! この、ばか者! 靖國神社に「来賓」と云うのはないんだよ! 知ってんのか! お前達は! 総理でも「特別参拝者」と呼ぶ。祭神より偉い「来賓」なんか、いないんだよ。靖國神社を、なんだと思っているんだ! 「来賓ズラ」して、演説などするな! 主催者が――黛さんが生きていたら、ピンクの徽章なんか、激怒するよ!――例え主催者に渡されたとしても、そんなものを付けるな! いいかね。祭神の前に、「来賓」と云う存在はないんだよ。戦後生まれだから仕方ないが、少しは自分が軍人であるなどと考えたけりゃ、胸にピンクの花など付けるな! 八月十五日は、祝日ではない。頭を冷やして出直して来い! 「どうも同じことを何度も叫ぶ癖が、最近は顕著になった」。この私のコメントを読んだ者で、田母神と親しいなら教えてやれ! ちゃらちゃらした格好で、靖國神社を闊歩するな!と。ついでに水島にも言っとけ! 言わなくても本人が読んでいるから、言うに及ばずだった。「私の言う通り、黒服を着て来たのはいいが、この黒服はヤクザの黒服とは違う。葬式の黒服でもない。身を慎むと云う意味の黒服だ。英霊の葬式に参列しているわけでもないし、親分の葬式に顔出しているわけでもない。少しは身を慎め。手下にも、派手な小汚い格好で、マイクなどでしゃべらせるな! どうしてもしゃべりたけりゃ、飯田橋の駅前でやってこい! 用心棒の真似事などやめときぃ」とな。ええと‥‥、あと――何か言いたいことあったっけ? ああ、大高とか、レロレロの解説者とか、派手な姉ちゃんの格好したり、身体を曲げて、「靖国」、「靖国」と言うな! あとは何だっけ。そうだ、高森明勅が「靖國神社を国家に返す」などど演説しておったが、国に帰してどうするんだ! こいつも本当にダメな男代表だ。

 以上が、塾頭らしい荒れ言葉なので、本性がばれるとまずいので、削除しました。ともかく○○○○○も、こう云うくだらん映像をわざわざ持って来るな。親切心でしてくれたのかも知れんが、血圧が上がって仕方がない。私を殺す気か!! ともかくも――今日は暑い。もうこのくらいでいいだろう。○○○○○は、悪い奴ではない。私は嫌いではない。が、案外とオッチョコチョイだ。だから「九段塾」でも可愛がられるのだが、もう少し精進して欲しい。以上、終わり。この映像に関する話がしたければ、『時計の間』でどうぞ。この本通りでは不要。委細、承知して下さい。
 

  • [39]
  • 日本の男子の誓い。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月18日(日)22時51分44秒
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■平成二十一年八月十日

NHKスペシャル。

 昨日の夜九時から始まった、NHKスペシャル「海軍四○○時間の証言」。「何で戦争になったのか、その責任はどこにあるのか。国民を悲惨に追い込んだのは誰か」。こう云う視点のスタンスからは、抜けられないのは自明だとしても、それを無視しても、見る価値はあった――と、仲間から連絡がありました。私は、これを昨日の段階で、何故か「今日の放送」だと勘違いして、見損なった。今夜は夜の十時から始まる「NHKスペシャル」、是非、見てくれ――と言って来た。新聞を見ると、今夜は特攻作戦が主軸のようだ。「日本海軍四○○時間の証言・第二回特攻・やましき沈黙」と云う。題名からして、嫌な感じを受けるが、仲間によれば、昨日のデキはさすがはNHK、「侮れない、力はある――」と言って来ました。呉の大和ミュージアムが関係しているので、なかなかしっかりしていたそうだ。ジャパンデビュー何とかとは、一線を画していると。海軍軍令部の実像を、わりあいよく描いていると云う。貴重な番組ではないか――とまで云っていた。あの戦争への皇族とのかかわり、参謀たちの動静――、そして連合艦隊と軍令部との確執。更には第一線の将星が、かっての後方の参謀たちへの怨嗟は、聞くに値するものとか。私は残念だが、見ていない。しかし仲間は、私を越す皇軍史観。その仲間が言うのだから、見るに値するようだ。但し今日のは、どうかはわからない。主題によって、うまくいく時もあれば失敗することもあるのを、よくテレビで見ていますから。

 「特攻作戦が、どのような経緯で生まれたか――。大西中将は、独断で特攻作戦をしたわけではない」。その背景には、既に「桜花作戦」に、天皇の承諾があったことなど‥‥。そう云った組織的な軍令部の話が語られるのではないか‥‥。無論、単なる予測。問題は、将官たちの証言でしょう。誰が、どのようなことを「証言」しているのか。四百時間の膨大さは、それだけのものがあろうと思う。是非、みなさんも見て下さい。「NHKの視点は、従前と変わりはないだろうが」、それは無視して、中味を見てみましょう。私も見ますので。



『NHKの本当の意図は知らず、ただこのような反省会の記録を見つけ出し、大きな番組に作り上げた彼等の力量には、やはり敬意を表すべきだと思います。番組は見る者が解釈をすればよし、非常に左翼的な偏向の多い昨今のテレビ局やマスコミですが、私はこのような番組を提供してくれたNHKがあればこそ、いや、そうでは無いだろうと、逆作用の思考も生み出す利点もあるようにも思います。』

 ○さんと云う方が投稿された。この通りである。しかしこれはこれは、大変な名前の人が訪問されて来ました。○とは、常人ではつけがたいお名前。その名前の通り、まことに昨今、目にし難い確かな文面。こう云う方が、世の中にはいるんだ‥‥と、驚いております。今後も、是非、投稿願いたく思います。管理人の備中さんが、大感激されると思います。仲間の話だと、どうも水交会の事務所で反省会を開いたようだと云っていた。まあ、戦後三十五年経過して、戦後の空気も吸っている中での談話。「私の聞いた話では‥‥」と云う、証言内容の確かさは確認しようもないが、しかしご本人がどのように考えていたかは、知る手がかりとなる。そして「証言」にあるような内容が取り沙汰されていたんだ――と、「当時」を知ることは貴重です。NHKの語り口などに、「ギャーギャー、気を向けたり」、「上っ面な」部分だけしか見ないような鑑賞眼は棄てて、しっかりと閲覧者は、貴重な史料を見る心算で、今夜の番組を見るべきだろう。四百時間の証言は、伊達ではないだろうと思う。誰がどのような証言をするのか――、普通では絶対に聞けない証言だろうと思う。桜のように、「NHKはやっぱりダメだ」みたいな見方ではなく、史料を見る心算だよ。元軍人たちが、非常に興味を抱いて、今夜も見るんではないか。改めて○さん、今後も投稿を期待しますよ。



 今夜のはたいしたことがなかった。昨夜のは見ていないので、判断できない。要はNHKスタッフの取材不足・資料不足であろう。ただ私が見たことがなかったのは、「天皇の裁可法令で、『特攻術』が制式化された」書面だった。まあ、これだけは、相当の人でも知らないんでは? これぐらいですね、NHKの取材力を感じたのは。佐官クラスが、しきりに「命」を語っていたが、これは少しおかしいなと思う。あの時代、「命」にそんなにこだわっていたかな?と思った。ここら辺りが、五十五年代まで生き残った責任官であった人たちの感覚かな? 全体的に薄っぺらい。資料・人物を探し出す能力の問題ではないか。結局、NHKの現況スタッフの力では、これ以上の特攻作戦への突っ込みは出来ないだろうと思った。細かいことは、あとで書いてもよいが、気分が乗れば書く。番組後半で登場して来た長束元少佐は、桜花の試作機開発に携わった人で、まあ、この方は海軍航空工廠にあった時から、「必死兵器」には反対だったが、下からの熱意に負けたことを、戦後も随分しゃべっている。私の見た感じでは、取材がまだまだだと感じた。特攻が、スタッフにわかっていないと思った。番組プロジューサーみたいな人が、最後に落ち着いた口調で想いをしゃべっていたが、なるほど「少しいままでのNHKタッチ」とは、少し違うなと感じた。ただこの人も、まだ本当の歴史を掴んでいないので、駐在武官の言葉を引用して、「やましき沈黙」と云う所に落とし込んでいたが、これはだめでしょう。「やましき沈黙」は、何処の世界でも「あるし」、また「時に、それも必要」なこと。多少の矛盾は承知しても、遂行しなければならない「本義」と云うものがある。殊に戦争にはある。まあ、全体としては、「たいしたこと」ではない。そうねえ。やはり「九段塾」で、「特攻」と云うもののドキュメントか、劇ドラマとか云うのもを、企画・原案してもよいかなと思った次第。またまた仕事が増えてしまった。

 追加。見たら、私の後で、すぐに備中さんが書いていた。その通り。『神武たる死の戰法は、神州の武、皇國の義なり』。これでいいでしょうね。靖國神社に、もう少し、NHKは資料を見せてもらうか、人物を紹介してもらうかしないと、この程度で「スペシャル」となってしまう。見せられる国民が可哀想だなと思った。多分、昨日の方が、デキはよかったのではないか。明日のは、まあ、あまり期待が出来ないな。やはり題材によって、質が異なる。ついでだが、先ほど桜の掲示板を見ようとしたら、広島でのあのチャラオ幕僚長の講演の一部が公開されていたので見たが、笑ってしまった。いい商売をしている――。靖國神社の御神楽に、制服着用で出席して来る「大バカモノ」の資質は変わっておらん。大体、胸に勲章代わりに花を付けていたが、こんなものを付けて、軍議をしゃべる感覚が理解できん。道路工事完成の祝賀会じゃないんだから、こう云う点一つ取っても、オタクの素質なんだね。名士になって、どうするんだね。少しは先人の汗でも、ナメテ来いと言いたいよ。彼がしゃべっている間は、「日本は平和だ」と思ったね。こんなものに大騒ぎする「保守」だから、オタクだと言われるんです。三島が防衛庁に乗りつけた時、一体、この人は、何処で何をしていたのか――、聞いてみたいよ。今頃、ノコノコ出て来て、気楽なもんだ。○○○○○が言っていたが、「こんなのが保守だと思わされたら」、日本の将来は「お笑い国」になってしまう。日本の保守は‥‥、もう幼稚すぎて話しにならんよ。その原因は、「頭がバカ」だからだ。もっと学問をしろと言いたい。国民一人ひとりの志操から変えて行かなきゃ、戦争なんて出来んし、穴掘り一つ、命令に従わない兵隊ばっかりになってしまうよ。



■平成二十一年八月十一日

仲間からの話。

 昨夜のNHK。仲間からのメールが来ていた。やはり彼も、「第一回に比して、ずいぶん違った印象」とあった。「毎回、違うスタッフが作るんだろうか。とも思ったくらい、やはりテーマから来る印象の違いだろうか」。デキはよくなかった、と云う評価。仲間が気にしていたのは、番組最後の言葉のようだ。「反省会の記録から学ぶことが出来る唯一のことは、人の個々の命にかかわる問題については、やましき沈黙は許されない、と云うことだ」みたいな、まとめ方。つまりもはや、あの戦争の歴史観にかかわるような問題は、NHKも避けて来たか――と感じたと云う。と同時に、「はたして、反省会四百時間の中味には、どんなものが詰まっているのか」、その内訳を全部知りたいと思ったと云う。これは、私も同様だ。全部、聞きたいものだ。どんなテーマに何時間費やしたのか。四百時間のテーマが一貫して、人の命の問題だったのか――とは思えない。そしてやはり仲間も、「人の命」の連発に、???を持ったようだ。「いやしくも、兵学校出の海軍将校たちが使う言葉か?」と。この反省会が始まったのは、確か昭和五十六年頃。ダッカのハイジャック事件で、福田赳夫が、「人の命は地球より重い」と言ったのが、昭和五十二年。「人の命は、当時の流行語」だ。テロリストの脅迫に屈したと、国際的な批判を浴びて、存分に世界に恥をさらした時期に、老兵となった彼等は、「人の命」を語っている。どう云う状況なのか、もっと知りたいと思った‥‥と、書いて来ている。つまりエリート士官だった当時の佐官級が、四百時間しゃべった内容を知りたい。もしかしたら、戦後生まれの若いスタッフでは、重要度の判断が出来ない、重要な証言が分別できず、埋もれたままになっているのでは、と思う。証言テープの中で、「おい、鳥巣さんよ、あんたがそんな席に座っていいのかよう!」みたいな、席順の位置に怒りをぶつけていた階級下の聲があったが、こう云うのは、戦友会ではよく見かける風景だ。でも、今現在では、もう見かけなくなった風景だ。「やましき沈黙」を、もうみんな「善し」と判断するようになったからでしょう。波風は、もう立てても仕方ない。もうみんな死んで行くんだから――、と云う考えがあるからだろうと思う。「もう」と云う感慨ですね。

 生き残った者は、これから、ただ死んで行くだけだ。家族の思いでの中で、何ケ月間か、何年か生きていくだけ。その内、全ての人間に忘れられてしまう。だが、靖國神社に祭られる祭神は、永遠不滅であり、常に多くの見知らぬ人たちから手を合せられ、尊崇を受ける。魂を忘れられることはない。至誠は語り継がれる。参拝する国民から、忠義・忠魂の抽(ぬき)んでることを自噴することを願っている。ただ勘違いしては困るのは、英霊は、国民そのものを守っているわけではない。天皇御座所である、皇城をお守りしているのであること。伊勢神宮・明治神宮、そして宮城を巡回飛翔している――、そう考えて戴きたい。「そう。もう、みんな、死んで行きますからねえ」。この気持ちは、よくわかります。ただし、わかると云うだけです。



**********

【參考・削除文】

 これは○さんへの返信。あなたに何か書いてあげたいのだが、午後はこれから、私は勉強をしなけりゃならない。たいしたことをあなたに書くわけではないが、それでも書くとなると、やはり時間が取られるので、後にさせて戴きましょう。しかし、あなたはすごいね。この堅苦しい筆致は、何処で覚えたのかわからないが、もしかしたら、何処かの塾で勉強されたのか。引き締まった様相を髣髴させる。結構な思考です。「九段塾」には、○氏のもっと更に上を行く、備中處士さんがいます。この人の投稿をよく勉強して下さい。本物を掴めますよ。でも、あなたには、若き「九段塾」の感じがある。その息巻くとこがいいねえ。それでは、また後で(次回書いた段階で、削除する)。
そうそう、こんな所で申し訳ないが、兵庫県佐用・岡山県美作は、大変な豪雨だったようで。備中さんのところは、少し場所が違うようだが、豪雨被害はどうだったのか、心配をしておりました。でも、わざわざ返信には及びませんから。何か言葉があるなら、『時計の間』にでも書いて置いて下さい。あれば、後で行きますから。



 あなたの投稿に対して「なにか書きたかったんですけど、時間が立ちすぎて」、何を書こうとしたのかわからなくなってしまい、又の機会にします。今日のNHKスペシャルは、私は見なかった――と云うより、忘れてしまった。一眠りしてしまった。あなたが見たなら、明日にでも、感想記を残して置いて下さい。別に無理なら、構いませんが。またの機会に。失礼しました(しばらくして削除します)。

**********



■平成二十一年八月十二日

 今年は、ずーと、東京にいる心算でしたが、やはり誘われて、今日から十八日まで、少し出かけてきます。十五日の靖國神社参拝は致しますが、書き物はお休みします。閲覧者の投稿は、どうぞ続けて下さい。また初めての訪問者の方々には、本掲示板の最初から、じっくりお読み下さい。それと、備中さんの作られているスレッドが沢山ありますので、先人・先哲の言葉を、よく知識して勉学に励んで下さい。また『時計の間』の方へもお顔をお見せ下さい。それでは、一週間失敬します。暑さに気をつけて下さいな。



日本の男子の誓い。

 まったく書くつもりがなかったが、知りあいから数本の電話を貰って、書く気になった。台湾デモの騒動だ。少し閲覧者に注意を与えておこうと思って。それと、産経新聞や他の保守系掲示板に、だ。この程度の「揉み合い」を、いちいち報道するな!と云うことだ。それこそ、握り潰せ! これから、八月十五日が来る。六十四年前、前線の軍人・銃後の国民一億が、慟哭した日です。この日は、現在の日本国民が喪に服する日だ。このことを今のバカ保守連中は、誰もわかっておらん! 神門には、半旗が出る。天皇・皇后両陛下も、この日は御慎みされる。参拝者は鎮魂の気持ちを持って、参道を歩くことが決められている。これを誰が、現在、守っているのか! バカばっかしだ。わけのワカラン旗を立てて、参道をがやがやと行進して来るオッチョコチョイこそ、叩き出さねばならないのだ。見ていて御覧なさい。政治家の団体に多い。靖國神社を、単に利用している連中だよ。

 昭和天皇がポツダム宣言を受諾。国民に「将来の道をお示しをするため」の詔。あの八月十五日の詔勅。一億国民の誓いの日だ! その日がまもなく来ると云うのに、なんと云うバカが多いことか。台湾の反日デモが、なんだってんだ。こんなことぐらいで騒ぐな! 靖國神社には、この程度の騒ぎはしょっちゅうある。だから、私も書いていない。握りつぶしたからだ。それを新聞各社が書く。騒動を盛り上げるためだ。産経は――、知らん顔してりゃいいんだよ。ユーチューブだの、掲示板で大騒ぎする。保守系が騒ぐ。馬鹿か。騒いで、一体、何の得がある。興奮するんじゃない! 頭を冷やせ!と、怒鳴りたい! もう怒鳴っているがね。これで十五日は、いつもより街宣右翼は張り切るに決まっている。左翼も乗り込んで来るだろう。騒ぎを相乗させる。そう云う日では無いんですよ、十五日は。右も左も、靖國神社のことなんか、何も考えちゃいない。「反日台湾を境内からたたき出せ!」、「靖國は日本人にとって聖地だ!」、「俺達が守る!」だの、ガキドモが騒いでいるが、こう云う連中がガムを噛んだり、ジーパンを履いて来たり、ピンクの背広なんかでインタビューに来る、民間テレビ局も出て来るんだ! バカモノ共! お前達が、靖國神社をゴミだらけにしているんだ。ビラを配ったり、チラシを撒いたり、それで、一丁前のゴタクを並べるなと言いたいんだよ!

 いいかね。台湾のデモ隊は――、突然、来たわけじゃない。前以て神社に通知している。このグループの抗議は、恒例だよ。ただ今回は、少し違った。訪問時間が。昨日は、午前十時から月次祭だ。ほとんどの神職は、本殿でお祭り中。朝の境内は、参拝者もいない。それに第一、右翼団体は、午前中は来ていない。右翼団体は午後から出勤して来るのを、確かめたようだ。彼らがいては、デモ抗議は難しい。大体、これまではあからさまのデモ抗議は、境内で騒ぐ前に、街宣右翼が門前で完璧にシャットする。だから浸入できない。今回は、そのいない留守を狙って来た。ほとんどの神職は、月次祭で本殿に集っている。誰もいない、参拝者もいない、右翼団体もいない――。この日、この時間をわざわざ狙って来たのだろう。それでなければ、プラカード持って拝殿前まで行き着けない。なんとか、拝殿前で抗議をしたかったのだろう。それが、衛士が集り、社務所から残っていた神職が駆けつけ、プラカードを取り上げた。そこから、あの台湾人らは、血が頭に昇った。女が金切り声で叫ぶ。神職が「誰か日本語を話せる人はいるか!」と叫んだが、日本語のわかるやつはいない。それで、益々混乱。もともと躾の足りない台湾人だ。拝殿の柵を乗り越えようとした。そこで、若い神職たちが、手を広げて阻止しようとした。「絶対に手を出すな!」と云う達しが出ている以上、衛士も手を出すことは出来ない。ユーチューブの画像を見たが、これは彼らのパフォーマンスだろう。初めてプラカードを持って拝殿前まで浸入で来た喜びが、彼らを興奮させ、つい、勢いあまって、拝殿の柵を乗り越えようとした。それを神職や衛士、駆けつけた警官が阻止する。押し戻す。若い神職の袖は、びりびりである。もし彼らが柵を乗り越えたら、拝殿に泥足をかけたら、どうなるかーーーー。アッと云う間に投げ飛ばされて、台湾グループは、大怪我をするに違いない。「拝殿に足をかけたら――」、オワリだ。「斬り捨ててもいい」と、私は内心では思っている。それは、彼らもわかっているよ。だから、突入はしていない。現在の衛士は、大半が元自衛官。大柄だ。いつでも、どんなことでも対応できるよ。しかし境内にいる間は、手を出さない。神職にも、「剣道・空手・棒術」何段も持っている猛者がいる。素人の参拝者が出る幕ではない。だから、大騒ぎするな!と言いたい。この程度の騒ぎでも新聞沙汰、ユーチューブなどに出ると、素人は血が上る。ま、神社側も、これほど五十人も来るとは思っていなかったんではないか? 四~五人の代表が、社務所に抗議に来ると考えていたようだ。それが甘かったと云えば、甘かったか。いいかね、靖國神社に突入するなら、最初から鉄パイプ・木刀を用意して来る。この台湾グループは、そんな腹はない。五十人と云う仲間で、意気が上がっただけ。だから警察官には、誰も殴りかかっていない。それをやれば、簡単に出国出来ない。デモツアーに来ただけの連中だ。‥‥女が警察官の指を噛み切ったらしいが、台湾の女は、猿みたいにキーキー騒ぐからね。これはお国柄で、仕方がない。いいかね、これだけ「騒いだよう」に見えるが、本殿で「御祭り」をしていた神職は、誰一人、この拝殿前の騒動には気づいていない。誰も知らないんだよ。いいですか。これが靖國神社なんですよ。これしきのことで、「ぎゃあぎゃあ」騒ぐなと云うこと。現代、手を出したら、神職でも衛士でも「引っ張られる」。棒切れ・プラカード・木刀で殴りかかり、相手を大怪我させたら、刑務所だって放り込まれるよ。私の知人には、そう云うのもいる。警察に一晩泊まるだけなんて思ってたら、とんでもないことになるから、あなたがたはこう云う騒動があっても、「すぐに飛び込んで行ってはダメですよ!」 これが言いたかった。それと、ささやかな騒動は握りつぶせ! 本当に靖國神社を思うなら、だよ。

 最後に、しつこいが、「十五日は、国民服喪の日だ」。この日を騒がしくしてはいけない。「英霊は、俺達で守る」みたいな書き込みを見たが――、こう云うのが多いから、世話が焼けるんだ。いいかね、十五日は、決して騒ぐんじゃないよ。靖國神社に参拝するんだったら、暑くても黒服で来なさいよ。汗を流して、記憶に留めなさい。それが嫌だったら、半袖でもいいから、地味な服装で、黙って、祭神にお声をかけなさい。「いざとなれば、私も武器を取り、国を守ります」と。それが後に生まれた、日本の男子の誓いだ。もう、今夜からは書きませんよ。夕方に出発する予定が延びてしまった。それでは十八日まで。もう、出て来ませんよ。
 

  • [38]
  • 興廃継絶。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月18日(日)11時47分19秒
  • 返信
 
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【削除文】
■平成二十一年七月三十一日

事務的連絡、楠木中将佩刀。

 『久しぶりに竹屋さんが見えられた。さりげなく警蹕役をなされて、「九段塾」も祓われたようで、めでたし、めでたし‥‥』と、仲間からのメールが入りました。

 今日は、突然ですが、刀剣に詳しい○○○○○太さんに質問です。楠木中将佩刀の件についてお尋ねしたい。私はあまり刀剣に詳しくないので。調べるより、あなたに聞いたほうが早いかと思いまして。「小竜景光」についてです。その一部始終を出来れば。俗説・真説問わず、○○○○○殿の見立てで、よろしく投稿して戴くと嬉しいのですが。もしこの投稿ご覧になられていたら、お願いいたします。ところで、お元気なのですか? 時々お声が聞こえますが。挨拶・用件、総てが順逆で、申し訳ないですね。もしも体調悪ければ、返信には及びません。決してご無理をされんように。これは本当ですよ。一週間ほどお待ちします。これは事務的連絡(○○○○○殿には、失礼な話だが)として扱わしてもらいますので、後日、削除いたします(竹屋さんにも失礼だった。そろそろこちらも危なくなって来たような気がする)。それでは。


■平成二十一年八月一日

返信、大楠公の佩刀。

○○○○○殿
 これはしたり。楠木中将ではありません。間違いですよ。大楠公です。少し前に、楠木中将の話が仲間から来ていたもので、それで、つい書いてしまいました。大楠公の佩刀です。宜しくお願いしますね。いま、考案中の『九段塾版太平記』。実は構想としては、先の大戦――沖縄特別攻撃から、維新動乱、そして南北朝の兵乱へと、話が遡行して行く。木野花家と云う、架空の尊皇の一党を創作設定。この一市井の民の血潮の中に、尊皇の血が延々と流れ続けている。その間に、明治天皇・水戸光圀・回天詩――などが絡んで来ます。そして動乱の赤坂の戦いの真っ只中へ、主人公の一族は、南朝として戦いつづける。その中で、正成公の佩刀から、話の基点がおこせるものかどうか。それで、詳しく知りたいと思った次第です。よろしくお願いします。あ~~助かった。

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まだ夢想中だが――。

仮題『帰れ一億の民よ 戦士 いま再びの戦いへ』

 『九段塾版太平記』をアニメ作品(実写と合成する新基軸? ともかく話題づくりをする)として、今、現在思案中。題名は少し俗っぽいが、これは自分の気持ちの高揚を表わしているだけです。本当は、こんなこと書いて大丈夫か、と云う心配がある。しかし書けば、途中でやめることが出来なくなる。それを自分への「ムチ」とするために、あえて何もまだ具体的話が何一つないが、「書け」と啓示があったように記している。

 幕末、藤田東湖の「回天詩」の一節に、

苟明大義正人心、皇道奚患不興起

と云う詩句がある。「苟(いやしく)も大義を明らかにして、人心を正せば、皇道、奚(なん)ぞ興起せざるを患(うれ)へん」。かりそめにも君臣における大義と云うもの、即ち人の踏み行こなうべき道義を明らかにして、人心――即ち世の中の人々、民の考えと云うものを正していけば、天子によって敷かれる聖徳の教えである皇道――即ちわが国の本来の道と云うものが、なんで興起しないと憂う必要があるだろうか。何も心配することはない。必ず興起するに違いないのだ。これが、私の思考の根底にある。そして――、水戸光圀公は、

興廃継絶(こうはいけいぜつ)』

と云う言葉を挙げている。即ち廃(すた)れたるを興(おこ)し、絶(た)えたるを継(つ)ぐ。この言葉が、やがて百八十年後、明治維新を起こす起爆剤となった。あの桜田門で、大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士は、この「興廃継絶」を頭蓋の内にめぐらせ、必至回天の時代を目指し、雪を蹴散らし、大老の駕籠に殺到したのである! 絶えたるを継ぐ――と云う字句が、少し気なるが‥‥。いま、南北朝動乱時代に、作者不詳、誰ともわからずに書かれた『太平記』を基にして、新たなる構想をもって描く

日本の壮大なる尊皇の歴史大作アニメーション
彼は生きて生きて死なず

を、巖頭の志操として書きたい。‥‥ま、そう云うことでして。血圧が上がるので、このくらいでやめておきます。そのうち、閲覧者の方々に、いろいろお願いすることがあるでしょう。これを作品として発表し、一般企業・映画プロダクションなどに募集をかけて、映画製作をしてもらおうと思っています。あるいはまず劇画として出版社に持ち込んでもよいかな、と。素人考えだから、夢のような思考ですが、「風を吹かす」には、動くしかない。

 スペイン無敵艦隊を迎えて、イギリスは到底勝ち目はない。逃げるか降参するしかないと思っていた時、ただ一人エリザベス女王は、「私でも嵐が呼べるんだ」と叫んで(もしかすると――、私でも風を吹かすことが出来る――と云ったかも知れない)、叱咤、臣下に戦いを決意させた。この映画を見た時、私は思ったのだ。そうだ、我が国の天皇も、また激しく叱咤激励して兵を動かし、賊徒撃滅に立ち上がったのである。元寇の乱で、神風を吹かせた亀山上皇、そして鎌倉幕府を討たんとした後鳥羽上皇、そして後醍醐天皇。忠臣楠木正成・新田義貞を引き連れての、南朝のあくなき戦い。更には、明治天皇・大正天皇・昭和天皇と、「戦いの賦」を、日本の歴史に刻み込んでいる。私は、天皇の戦う姿をも描きたい。御簾を撥ね退けて、「いざ、出陣だ! 兵よ、迷う事無く従え!」と、戦いの指揮を執られた――。それを国民に知らせたい。残したい。平和を望むその奥の心には、常に「戦いの祈り」を有している。それが、この国の歴史であることも伝えたい。少し言葉足らずだが。またその時は、皆さんにアイデアを募集します。では、○○○○○殿、お願いします。



大感謝なり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/438

 ○○○○○さん。どうもありがとう。助かりました。
『表裏に棒樋(ぼうひ)を掻き、ハバキ元の表に、「眞(しん)の倶利加羅龍(くりからりゆう)」を上手に彫る。この倶利加羅龍が號の由來である。』

 私の興味関心を惹き付けたのは、「倶利伽羅龍」の彫りです。不動明王黒龍の、怒髪、天を衝く憤怒が刀身に絡みつき、呑まんとする構図。景光は、どのような思いで、これを彫ったのか。誰かの依頼があって彫ったのか‥‥。『太平記』では、お馴染みの中納言萬里小路藤房卿が、大楠公に贈つた――とありますが、公達は、この刀を何処から揃え、河内の住人楠木正成公に贈ったのか――。そう云う経緯が知りたいが、そう云うものは、現在は残っていないんでしょうね。『太平記』に書いてあったかどうか、記憶が定かでない。しかし賊徒を退治する楠木正成公には、誠にふさわしい名刀。この刀の――と云うか、倶利伽羅龍を彫った景光の話を小説にして書いた人がいるのかどうか、あるいは「小龍景光」を小説にした話があるのかどうか、○○○○○殿はご存知ですか? いえいえ、これ以上ご足労をかけるわけには行きませんので、あとは、少し調べてみます。調べてわかるものなのかどうか、それすらもわかりませんが。もし○○○○○殿の方に、なにかご存知の件があれば、お伝え願います。もしもそう云う話を調べたいとしたら、○○○○○殿以外に、あとは、どう云う処へ調べに行ったらわかるものなのか、それとも「なにもわからないものなのか」。

『さして行く笠置の山を出でしより 雨が下には隱れ家もなし

 帝が、思はず、その心細さを吐露されたとき、

いかんにせん頼む陰とて立ちよれば なを袖ぬらす松の下露

と、歌で答へられたのが、この中納言藤房卿であつたと云はれる。』

 悲愁、胸を痛むシーンです。ふと、顔をあげた藤房卿、

「‥‥(呟く)あの小龍景光。渡したは河内の住人楠木の者。いかで、この天下を変えてくれるものか。頼むぞ、楠木‥‥」。

帝が振り向く、

「楠木は自害しぬと聞きやるが。」

「いえいえ。楠木の右手には、倶利伽羅龍の御刀がありましょう。死を軽んずることはあるまいと思いまする。きっときっと兵を起こし、再び、主上をお迎えに参らん、と。」

「おお、それはたのもしき武士。朕がために、なお事を謀ると云う忠臣楠木‥‥正成か。」

  × × × × ×

 激しい雨中を、馬腹を蹴って走り去る楠木正成の、高く上げた右手の血刀に「倶利伽羅龍」が、憤怒と化して火炎の如く火を放ち、悪陀を呑み込んで行く姿が、雲龍に巻き上がって――。

楠木「正成一人、いまだ生きてありと聞こしめしあれば、御聖運尽き申さず。天誅、必ずやこの剣を持って成し遂げると思し召し候へ。」

「いざ」と一鞭あてて、崖を駆け下って行く楠木一党。激しい風雨に吹かれて、空中に舞いあがった菊水の旗が幾重にも重なって、怒涛の連なりとなって、雲海に消えて行く。

‥‥と、まあ、こんな風に、佩刀の物語を作ることが出来るので。まことに○○○○○殿。お疲れ様でした。有り難う御座いました。



■平成二十一年八月三日

興廃継絶なり。

 ○○○○○殿、まさにあなたの、おっしゃる通り、

『大忠臣楠木正成公の死と共に、忽然と地上から姿を消した小龍景光は、正に明治の御代の直前、あたかもこの時を待つてゐたかのやうに、また忽然と世に現はれ、聖上のお側に侍ることとなつたことは、いかにも楠公景光の名にふさはしい物語ではないかと考へてをります。』

これでよろしいでしょう。これが光圀の言う「興廃継絶」の顕現とも一致。重ねて御礼申し上げます。また次に何かあれば、お尋ねいたしますので、その節には、またよろしく。

 暑さはこれからが本番。暑気あたりは危険。自分も、冷え冷えタオルを贈られて、朝から首に巻いて、危険を回避しております。それでは失礼します。



『皇軍招魂抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t18/l50

 「スレツド欄に、『皇軍招魂抄』のスレツド建て致しました」。これはいい。殊に山川弘至少尉の話は、喜ぶ人が多いと思いますよ。岐阜の郡上市にある山川弘至記念館は、今年増設して、更に訪れる人に、国風の守護を歌い広げておるそうな。機会があれば、是非、閲覧の方々も、一度訪問されることをお勧めします。今後、尊皇の思想を語る上で、なくてはならない人として名を出して来るのではないかと思う。島崎藤村・土井晩翠・佐藤春夫・川端康成・斎藤茂吉・太宰治・柳田国男氏など、戦前文壇、詩壇の人々と交誼を深めた様子。生きておられれば、戦後保守の旗頭として、衰える国風を詠い続けて、戦前精神の高さを、日本人の至誠を語り続けたであろうと思う。今も、京子夫人は、ご健在の御様子です。『皇軍招魂抄』――更に充溢させて下さい。

 そして竹屋さん、またまた「深いい話」。光晶と云うお名前が似合う投稿です。

 そうそう、今夜は、これから十時にBS4で、いつかお話した「日本・こころの歌」で、またも軍歌を少しやるそうなので、ちょっと見て、それからまた勉強です。



■平成二十一年八月四日

『時計の間』の設置思想。

○○○○○殿。
 結構ですよ。喫茶室・酒場は困りますが、皆さんが、塾の講義を聞いているだけでは疲れるでしょう。私も以前から、気楽にみなさんがお話を出来る「休憩室」みたいなものを作ったら、案外、いろいろなことをおしゃべりできていいかな、とは思っています。酒の「話だけ」なら構わないが、持ち込みは厳禁です。お茶とお菓子ぐらいで、あとは手弁当を食べるぐらいはいいでしょう。あくまでも「九段塾の休憩室」ですから。居酒屋ではありませんよ(笑)。そこで『時計の間』と云う部屋を、スレッドの中に、備中さんにつくってもらいましょう。『時計の間』の意味は、休憩室ではあるが、常に柱には「時計」が架っていますので、いつまでもグダグダ、この休息の場でだべってばかり、寝そべっていては困ると云う話です。事務連絡は、『事務連絡』で、従来どおり。焼酎の話でも、孫の話でも、世間話でも、それは一向に構わないと思いますが、それでもこれから天下に名を馳せようと考えている「九段塾」ですから、あまり品位の無い話はまずいでしょう。政治の話・神社の話・時世の話・日常の話・旅の話・よもやま話――「九段塾」の掲示板では、少し不似合いな話。それは、なんでも自由でいいでしょう。あくまでも皆さんの休憩室。講義の間の休憩室です。そこらへんは皆さんなんですから、善く飲み込んで理解して下さい。「九段塾」の常識の範囲で。喧嘩は、絶対ダメですよ。つい、激論・激昂に走りそうなメンバーもいそうなので、塾生同士の喧嘩は、絶対にご法度。「時計」がありますから、あくまでも時計を眺めて、お話を適度にされて‥‥。

 それと、これは私の気持ちだが、あまり食い物と飲み物の話ばかりと云うのは、私は好きではない。歳をとると(若ければなおさらだが)、必ず「どこそこの酒はいいとか、名物はいいとか」話し出す。昔、大先輩より云われた言葉があって、

人間、食い物・酒の話の自慢話をやるようになったら、おしまいだ

と云うのがあります。それはプチ人間になるからです。やはり食い物が無くて困った生活をしている人たちが、世間には沢山いるし、自分もそう云う経験をして来ている。みなさんは、それなりの生活を作って来ているのでしょうけれど、自分たちだけが幸せな話をされるのは、私は好まない。「たまには、少しはいいでしょうが、あまり食い物・酒の話をするのは困ります」。これは私の性格で、もともと酒宴が嫌いなもので、申し訳ない。食い物にも、あまり興味が無い。なんでも、あれば食べるので。どれがおいしい、まずいを云うと、怒られる。今でも。「なんでもおいしい、おいしい」と食べるのが、普通ですからね。それと‥‥、結構うるさいですが、「今日は俺がおごるとか、ご馳走するとか」の会話。これも好きではない。申し訳ないね。なんだかんだ、うるさくて。「じゃ、ちっとも自由にしゃべれないじゃないか。そんなら休憩室はいらねえよ」とは言わないで下さいよ。「九段塾」ですからね。そこらここらに、あるもんじゃない。××社を始め、多くの正統保守が見ている掲示板ですから。そこはそれ。お願いします。私が死んだら、後は備中さんが受け継いでくれるでしょうから(正統は、基本的には誰にでも継承することが出来る)、そしたら、じゃんじゃんやってもいいですよ。あ、こんなことを云ったら、備中さんに叱られるかな。それだけです。それでよければ、『時計の間』を、備中さんにスレッドの中に作ってもらいましょう。備中さんも、ああ見えていて、「九段塾」では謹厳実直を絵に描いていますが、結構、くだけた話が好きなようですので、備中さんも喜ぶと思います。

 ○○○○○殿。お茶とお菓子と弁当で。なんとか間を持たせて、休憩して下さい。焼酎の話だけなら、いくらでも結構。焼酎の造り方とか、杜氏の話とか‥‥。でも○○○○○殿には、酒の話より剣術・刀剣のよもやま話が聞きたいね。それじゃ、備中さんに、早速作ってもらいましょう。備中處士さん、宜しくお願いしますよ。「さ、あんたも一杯、飲みねえ、呑みねえ」は、ご法度ですよ。と云うことで、しつこいのが、塾頭の性格です。○○○○○殿は、この休憩室で、こっそり焼酎を飲みたそうなのでね。
 

  • [37]
  • 「九段塾法規」の一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月17日(土)17時24分14秒
  • 返信
 
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【削除文】
■平成二十一年七月二十六日

 事務的連絡、まずは○○○○○さんへ。これは連絡事項なので、しばらくしたら削除します。先ほど、いささか興奮状態の投稿を読みましたが、あなたも、なにか書かないと、身体に悪素が溜まって、どうにもならないのだろうと思う。そう云うことなら、ここで書けばいいのだが、生憎ここは、塾の形を取り、また靖國神社の正統論を書き下ろす所なので、あれこれのテーマを好き勝手に書くのは勘弁してもらっている。ただあなたが他の掲示板なりで、書く場所がないのであれば、管理人の備中處士さんにお願いして、あなた専用のスレッドを作ってもらい、そこに書いたらどうかね。以前に管理人から、そのような話もあったような気がしている。「○○○○○の部屋」でも、「百万人の若者に告ぐ」でもいいから、そこで思いっきり悪態をつくもよし、主張を述べたらどうかね。ただ悪態は、ほどほどに。品位をおとさないように気をつけて下さい。まあ、私もあまり言えたもんじゃないかなとも思いますが。そこらへんは管理人さんと話してもらって。但し「九段塾」の方向とあるいは志操とかが、あまりにも乖離して行くようになるならば、管理人権限で削除ないし退去と云うこともあろうが、そう云うことでもよいなら、私はそう云う一部屋を、あなたに用意してあげてもよいが。別段、そんなものはいらないと言うなら、それでもよろしい。どちらでもいい。あなたの好きなようにすればよい。ただこの「九段塾」の表通りで、あまりいろいろな商品は扱いたくないので。此処は、やはり靖國神社の正統を伝えることが第一。でも、あなたの言い分には弾力がある。今が旬と云うか、これから鮭のように川を上がって行き、飛龍となって大空に飛んで行くのかどうか、楽しみもある。そのややこしい談論も、次第に道筋がつくようになったので、幾分、読みやすくなった。一種の魅力が、あることにはある。但しスレッドだと、なかなか閲覧者が気がつかず、読まれることがないのでは仕方がないので、掲示板の表通りに事務連絡として、「新論をアップしました――」と、一週間だけ出しておけば、興味のある閲覧者は読むでしょう。あるいは管理人の方で、「なんのスレッドに、今、××の投稿がありました――」と、一目でわかる、それこそ告知だけの連絡掲示板みたいなのが脇に出来ると、訪問者は、「九段塾」の投稿が更新されていなくても、そちらの方を読むことが出来ると思います。備中さんのスレッドでも、どこに新しい話が投稿されたか、閲覧者にはわからないので(実は私もよくわからないので、読み落としてしまう)。是非、そうした告知掲示板みたいなものが作成できるのかどうか考えてみて下さい。その管理をまた備中さんがすると云うのは大変なのですが、そうですね、その告知板には、投稿者が自分で書き込んで告知できるもんだと、わずらわしさが少しなくなると思います。まあ、めんどうくさければ、この「九段塾」メインストリートに、何処何処のスレッドに××を投稿しました、更新しましたと云う告知を、一週間だけ閲覧者の為に事務連絡として出してもいいのではないかと思う。チャンネル桜への検証・監視的なことは、今後、ある意味、重要だと思うので、チャンネル桜への疑問あるいは問題点などと云うスレッドを管理人に作ってもらい、そちらにまとめてみたらどうかと思う次第です。これがいいことかどうかわからないが、今後、再びチャンネル桜が靖國神社に侵入して来ることも考えられるので、しっかりと見張っていたいと云うのが私の考えです。いかがですか、備中さん。私の考えについて、どうぞ遠慮なくお話し下さい。事務連絡として書いて下さい。これは「九段塾」内部の論議ですが、閲覧者の方でも、なにか意見があるならば、あくまでも事務連絡の枠の中だけでお話し下さい。お話が尽きた段階で、削除してもらいますが。以上です。

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■平成二十一年七月二十七日

批判は塾頭に集中させること。これが「九段塾法規」一。

 只今、○○さんがご自身の投稿を削除されたので、感謝する次第です。しかし今現在、訪問して来られた閲覧者は、何のことだか、さっぱり仔細がわからぬだろうと思います。本来ならば、私の投稿も削除してもいいのだろうが、○○さんは大事なことを投稿していたので、このまま、私の投稿は続行します。要は、○○さんは「九段塾」の将来、今後のことを心配して、投稿者に直接、ご自身の考えを批判としてぶつけられたが、内容は「是」とするものの、そうした直接的な批判は、「九段塾」の雲気を乱気に変えるものとして、塾頭からの遮りが入りました。○○さんが何をしゃべったかを何も知らない閲覧者は知りたいでしょうが、それは無しとして、私が何を語っているか、そちらを重要視して、これも塾頭の教えだと思って、読んで下さい。○○さんは、いわば「九段塾」のお目付け役みたいな方です。大久保彦左のような所があって、言われる所は正論ですが、岩根のままぶつけて来られるので、普通人には慣れていないので、堪えます。それを遮る私が正しいか、最初に言うか――、どちらが正しいかはわからない。これは、「戦を仕掛けるより、今は一旦退くべき」とするか、「いや、今、出陣してこそ効果はある」とするか――、それを取捨選択する総帥の運気が決める。勝敗は時のウンではなく、総帥を包む天気・運気が決定するもの――と、いつも私は考えている。ですから、○○さんの批判を投稿者が目にしたかどうか――、それも、投稿者の運気・天気が決めてくれます、と、私は考えている。しかし○○さんのように、「石を投げつけてくれる人がいて、初めて塾頭も冷静に判断できる」。つまり○○さんのような批判は重要であり、今後もまた自由に、どしどし遠慮なく、悩む必要もなく、どなたでも塾頭を通して批判をして下さいな。それが「九段塾」のためでもあるのですから。以上、○○さんを賞賛することを忘れていたので。

 うーん。困りましたね、○○さん。でも、いい機会だから、「九段塾」塾頭としての意見ではなく、今後の方針をお伝えしときたいと思います。この「九段塾」では、この掲示板に投稿して来る方への直接的なる批判、あるいは塾生同士の掲示板上での喧騒はやめていただきたい。これを法規化します。投稿して来る人に対して、私が無言であると云うことは、私が許していると云うことなんです。これをまず○○さんにも、皆さんにも承知して下さい。目に余ることがあれば、私が言いますので、塾生――と云う言葉はあっても、一体、誰が塾生であるかわからないので、だから暗黙の諒解の下で、塾頭と塾生と云う関係を、私は無想の中で成立させています。そう云う意味で、塾生同士の言い争いの種となる雲気が湧いて来そうになれば、私はすぐに「小さいうちから摘み取ります」。これが、一つの集団を纏めて行くための最適の手段であることを、私の長い間の経験から培った自論です。ただそうは云っても、人には、どうしても「気に入らない人への意見」と云うものを、口に出さないと気が済みません。ですから、雲気が乱れる。○○さんは「九段塾」のことを考え、また将来、今後のことも考え、「矛盾は小さい内から摘め」と言われる。それは、恐らくあなたの人生における何らかの修行が、そのような先鋭的な硬骨を求めていることから来る考えだろうと思う。無論、それは厳しさそのものが、修行なのだうと思います。ですから少しの矛盾も、○○さんも許しがたく思われるのでしょうが、それは決して悪いものではありません。ただモノの言いようもあるので、普通人は「頭ごなしに言われれば」、「なんだこいつ」と云うことになり、喧乱に至るだけです。私の場合は、少し違っていて、矛盾は大きくなったら切ればよい――と云う考え方です。ですから、目に余れば叱責するし、少しの矛盾ならば、じっくりと自分で気づかせ、排除して行くようにもって行く――、そう云う教育をして来ている。つまり早い話が、この「九段塾」では、「批判は、まず塾頭である私個人に言って欲しい」。すぐに、直接該当者に、塾生が問詰しないで欲しいと云うことです。乱気が生じることは、極力、早いうちから摘み取るが、「矛盾」は小さい内なら、自分で取り除かせるように教育して行く――と云うのが、私の方針ですので、今後、どのくらい塾生が増えるかはわからないが、集団の秩序が崩壊するのは、会員同士の批判が主原因であるので、これを私は何としても排除します。力ずくでも黙らせる。

 ○○○○○さんが、実際はどのような人だか、私は知らないし、備中さんも知らないでしょう。この方が破目を外せば、私は怒鳴るし、注意もするが、それは塾頭だから、投稿者も「よしとしてくれる」。従って塾頭以外の人が投稿者を批難する事は許可しないと云う法規を、この「九段塾」では、今より実施いたします。○○さんの気持ちはよくわかる。ただそれを投稿者に直接向けるのでなく、批判ならまず、私に伝えて欲しい。直接投稿者に言われると、言われた方も、「お前なんかに言われたくない」と云う気持ちが派生して、喧騒を招くだけです。この「九段塾」における批判は、「塾頭批判」・「塾頭の思考」批判だけが許される塾だと云うことを、今後、決めておきたい。どうしても投稿者の意見が気なるのであれば、「投稿者はこのように話しているが、塾頭はどうお考えですか云々‥‥」と、まずは私のところへ持って来て下さい。○○さんも、これを飲み込んで下さい。従って○○さんの投稿を読んで不快になられた方も、一旦、その乱気は納めて下さい。○○さんを、今、私がたしなめたことを持って、緊迫した心を解放して下さい。○○さんの意見は、大変厳しい。それと「○御前」、確かに「御前」と云うのはどうかと思いますが、○○さんのようにいきなりでは、対手がかわいそうだ。どうも初めての女性の投稿者のようです。私はこの女性の投稿者を逃したくない。真剣に、そう思っています。甘い言葉を使ってでも引き止めたい。少々の矛盾は、自分で気づくようになるまで、こちらが清輝を吹き込み、清浄を教え、やがては常識・正統を教え、もういいだろうと云う段階に達して、「初めて意見をする」。そこで、相手も納得して気づく。そう云う形にしたい。まあ、同じ事をくどくど説明するのが私の癖だが、もうこれでわかったでしょう。ともかく○○さん、あなたの意見はわかりましたので、後で消去して下さい。お願いします。こうした忌み的なるものは、掲示板に残しておきたくないのです。乱気の芽は摘むのが、私の方針です。塾生同士、あるいは「塾頭」を越えての直接の批判喧論は、今後一切厳禁です。乱気を生むだけです。承服して下さいね、○○さん。あなたの波乱に眠気も飛んで、慌てて書いています。○○さんの投稿を読んだ方が、これに「反論」することは許可しませんので、それも承服して下さい。

 それと、○○○様。あなたももう、今朝は読んだのかも知れませんが、○○さんの言っていることは間違いはないので、まあ、私に怒られたと思って我慢して下さい。どうか、○だけのほうが、これは「よい」・「ふさわしい」と思いますので、今後の投稿あれば、○だけでお願いします。どうしてその方がいいのかは、そのうちあなたが熟成してくればわかると思いますので、とりあえずあなたも承服して下さい。お願いします。

 それともう一つ、「神武戦史研究会」と云う貼り付けも、私は許可している。これは「九段塾」の宣伝のためである。ここの会員が、もしかすると、「九段塾」を知るきっかけとなるかも知れない。そう思っています。私は、この「九段塾」の宣伝を全国に広げたい。チャンネル桜に代わる存在として広げたい。チャンネル桜を死滅させるためには、それに代わる「正統」を打ち出して行くほかない。楠公の精神でしょう。尊皇の意識、戦前回帰の志操を広げる。そのための映像製作もよろしいかなと思っている。そのためのものなので、これも「塾頭の考え」。ですから、批判は、すべて「この塾頭」に向けて下さい。私は、長い間、ある種の集団を締めて来た。様々な人間を一つの目的に集約させるには、「会員同士の批判は、小さい内から詰め」と云うのが正論として、私の自論になっている。ですから、批判は投稿者ではなく、「まずそれを許可した塾頭」にして下さい。以上です。

 この結果、○○さんは「九段塾」のことを考え、ご自身の投稿を、気持ちよく削除されました。改めて感謝する次第です。



己自身との戦いをしなさい。

 ○○○○○さん、もうそんなに、私を困らせるな。たいした話ではない。あなたの若気の気性が、「言葉の実体こそは消滅したにせよ、一度具象化された観念は、未だ残っている訳です。私の推察(○○氏の投稿内容)が事実だとしたなら、その内容を確認せずして、このまま黙って見過ごすという訳には参りません」。こう言わせるのだろうが、それは、即ち「こだわり」と云う「若気の至り」だよ。十年経ったら、見せてあげるよ――と、言っても、私の手許にあるわけじゃないがね。私が書いたでしょう。「勝敗は時のウンではなく、総帥を包む天気・運気が決定するもの――と、いつも私は考えている。ですから、○○さんの批判を投稿者が目にしたかどうか――、それも、投稿者の運気・天気が決めてくれます」と。これは「深い~~~~~~」話なんです。即ちあなたの運気・天気を司る神が、「まだ読むに至らぬことがよい」と判断されたので、読まさなかったのだろう。そのあなたの運気・天気を重要視しなさい。「このまま黙って見過ごす」と云う精神に耐えろ!と云う、天の神よりの指令だと思って、堪えなさい。こらえなさい。「その内容を確認せずして、このまま黙って見過ごすという訳には参りません」と云う血圧の高まりは――、○○○○○さんの「心に棲まう邪気」が、あなたを試すために活動しているに過ぎん。邪悪な神気に負けてはだめだよ。「いまが、こらえ時だ」。これで、納めなさい。これが塾頭としての答えです。あなたは、こう云うことで絡まっていると、折角の大樹が伸びないよ。あなたの内面の試練だよ。武蔵も百万巻の書を読んで、若気を脱したと、吉川英治は描いている。あなたには、これから幾度も幾度も試練が襲う。己自身が、己自身の邪気と戦わねばならない。常人では乗り越えられない。皆が捕まってしまう。俗人と化す。「乗り越える」ことを、あなたに期待したい。このまま黙って引き下がるわけにはいかない――と云う啖呵を、自分自身に向けて精進しなさい。十年経ったら、備中さんは生きているだろうから、見せてもらいなさい。だが、私の黒い目の間は見せん。それで、納得しなさい。ここが、「男・○○○○○の男気の見せ所だ」。あんたの分岐点だよ。ちっちゃな分岐点だけどね。
 

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  • 破邪顕正を旗印に。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月12日(月)18時47分47秒
  • 返信
 
■平成二十一年七月二十二日

破邪顕正を旗印に。

 さて‥‥今日は、少し、気分の悪くなる話であるが、あまりにも眼に余る行為が目障りになって来たので、例の団体の話を、少し書くことにした。相当長いものになったようだ。エンターティメントの団体だから、ふざけるのは仕方がないとしても、そこに日の丸が翻ったり、草莽崛起の文字が連なるのは、あまりに傷ましく、苦々しいばかりだ。日教組・労組・麻原彰晃のオウム真理教信者が舞い戻って来たかと見間違うばかりの、「NHK捏造替え歌合唱」とか、山手線の「グルグル祭り」だの、銀座ホコテンでの夢遊病者の如き黒シャツを着た男女が、行ったり来たりしている姿は、それが普通人・一般人だけに不気味である。私は本当にオウム真理教の選挙活動を、彼らの得体の知れない行動を見るにつけ、思い出した。日本が、何処か狂い出したとしか思えない。この団体は、旧来の秩序を破壊する団体である。「日本が足りていない」どころではない。「日本がない」不逞の輩である。

 ‥‥本当は、この団体のことを――、今、「九段塾」に書くことには、抵抗がある。私が、この団体名である「×××××桜」と云う名前を書かないように、今しているのは、この団体名を書いただけで、穢れを感じてならないからだ。これは本当だ。この団体のいい加減さ、毒々しさ、馬鹿馬鹿しさは、際限が無く、それをあげつらっていると、いつのまにか私の周辺に、悪の権化の如き気流が渦巻き、魑魅魍魎が跋扈するが如き醜穢な臭気が、めらめらと立ち昇り、そのために気分が悪くなり、胸が塞がれて来るのだ。祓えども祓えども、襲って来る。それが耐えられないので、書くことを忌み嫌う。だが、今度は一度だけ書いておこうと思った。知人がどうしても書いてくれ――と連絡して来る。大切な知人だし、彼によって何度も助けられている。恩義に報いたいと思った。無論、それだけではない。先日もお話したように‥‥、これはまた別の知人から私の所に持ち込まれた、一枚の『南京の真実』CD版。知人のお父さんが、生きている時に、南京映画支援の為に金を振り込み、亡くなった後に、故人宛に届けられた『南京の真実――第一部・七人の「死刑囚」』。そのCD版を家族は見たくないと言って、よりによって私の所に、「いりませんか?」と、届けて来られた。これが、なにか私に「書け」と命じていると思ったこともある。

 話を戻そう。あの不気味な団体の活動だ。NHKの大罪騒動だ。NHKの体質が問題あるのは、今に始まったことではない。だからと言って、公共放送をなくしてしまっていいなどとは、欠片も思っていない。それは別にして、彼らの闘争姿勢だ。私は、彼らに煽動されて引き出された大衆の姿を見て‥‥、NHKの大罪と書かれた黒シャツを着込んだ集団が、うねうねと列を動かし、その一団が替え歌を合唱し、渋谷の繁華街を歩き、山手線に乗り込む姿を見て‥‥、あの忘れられていたぺんぺん草が、今、この日本の大地に、次第に勢いを得て芽を出し、ジワジワと全国に広がって行く、おぞましさのようなものを見ている感覚を覚えた。醜悪な動物が、地上から這い出て来たような思いもする。やがてこのぺんぺん草にも似た節操を忘失し、秩序を破壊する群衆が、なお勢いを増して行けば、荒廃しかもたらさないだろう‥‥。身震いする思いで、彼らの流す映像を見つめていた。彼らの眼には、光があるようでない。操られている者の姿があるだけに思える。贋物の替え歌を、一生懸命に唄う婦人の姿が、あのオウム真理教の信徒を思い出さした。真夏に近い太陽がじりじりと注ぐ渋谷の焼け爛れた町に、おぞましい光景が出現したと、私の目には映った。彼らこそ、「伝統と文化」に対する破壊者だ。国家の敵である。保守と云う隠れ蓑を利用して、大衆を利する新たな集団である。保守が失っては行けない毅然さ・清浄を逸脱した――、「大義」を持たぬ集団である。

 ‥‥突然だが、私は同じ保守でも、主権回復を目指す会の西村修平さんの行動を、「いさぎよし」と見る。相楽総三とは比較できないが、西村さんの行動には、「悪党」呼ばわりされても構わぬ覚悟が見受けられる。西村一家の行動を非難する声があるが、それも当然だろうと思う。だが、それよりも、「祖国のため」と誓った悪党相楽総三は、生きている時は断罪された。が、しかし、後にその尊皇の行動は理解されて、叙勲をもって名誉回復している。それは、何故か。相楽総三には、「大義」があったからだ。自らが悪になって、火付け盗賊ともなった。それに西村さんが近いと云うんではないが、似たような感触を、私は好意的に持つ。つまり主権を目指す会は、西村一家でもある。これがいい。名誉・営利栄達を目的としている風情が見えない。乱暴は仕方ない。右翼とは、そう云うもんだ。常に大衆とはかけ離れた所で、戦う。人気取りはしない。仕込み杖一本で、どこへでも乗り込んで行く。だが、サヨクは、大衆を煽動する。大衆を利する。これが、×××××桜の主導者に感じる。彼らの破壊行為は、既に「南京大虐殺」を否定すると言う、「映画製作」と云う名目で、全国から金を集め出した所から始まる。草莽崛起と云う維新大業の旗印を、彼等は看板にした。「草莽崛起」とは、衰えた皇威の挽回を期して、はびこる賊徒を切り結び、山を動かす尊皇のことである。刺殺である。暗殺である。野に寝て、山に伏して、敵の首領の首を掻くことだ。裁判所に訴えたり、インターナショナルの歌の如き、合唱をしたりするのが好きなら、それはカッテだが、草莽崛起の志操とは、まったく乖離したものだ。その名を利用する特攻服姿のあんちゃんと、なんら変わりはない。草莽崛起とはソリが合わぬ、「エンターティメント」なる映画会社を作り、マスコミを招いて派手にぶち上げた『南京の真実』なる、大仰な映画製作。その宣伝ビラを、彼等は躊躇する事無く、靖國神社境内地でばら撒き出した。道路使用許可を取っている――と云う、日教組的発言を繰り返し、金集めのビラを、参拝者の懐目当てに、来る日も来る日も手渡した。靖國神社の百三十年余の静謐・清浄を踏みにじることに、何のためらいも無く、彼らの金の集金場化とさせた。無残である。無頼の徒に勝てる術はない。大衆の中には、熱狂的に支援する者もいるだろう。そうさせる文言が、宣伝ビラには巧妙に書かれているからだ。大衆は、不逞を、無頼の徒を、見分けられることが出来ない。ただ信じただけだ。保守を支援する高齢者の、この純真さを、彼等は利用したと、私は、今ではそう思っている。

 更に彼らの不逞なる神経は、なんと、その映画題名にも現れた。敵国裁判で、無法にも戦勝国に「戦争犯罪人」と刻印されて、断頭台に立った七人の主導的立場にあった人たちが、靖國神社では、「昭和殉難者」として御祭りされている。それを、彼等は知っていた筈だ。安政の大獄を始め、幕末の内戦などで、一命を捧げた尊皇の人々を、靖國神社では、「幕末殉難者」或は「維新殉難者」と呼稱していることから、時の松平宮司が、大東亜戦争終結後の戦犯刑死者・引責自決者等を、「昭和殉難者」と呼稱することを宮司通達した。このことは、昭和天皇にもご報告され、天皇も諒解されていることだ。即ち祭神を、「×級×犯」の如き、敵国の呼稱を一切使わせない。自虐史観など踏みつける、大局の『宮司通達』である。これに違反する者は、国賊と見なす。それが、靖國神社の『宮司通達』である。それを‥‥この男‥‥、水島総と云う男は、なんと祭神を呼んだか! 「七人の死刑囚」だ。国賊以上のものであろう。この男の腹の底に、靖國神社への畏み心など、一片たりともあるまい。あれば、靖國神社大鳥居付近で、宣伝ビラはカッテに配るまい。畏れ多くて、そう云う発想は出来ない筈。更に昭和殉難者を「死刑囚」などと呼ぶことに至ることは、まず考えられない。それが容易に出来るのは、彼の腹の中が‥‥、つまり地が、「アカだから」出来ることだ。この男は、映画のためだとか言って、七人の死刑囚と云う題名を固執した。そして「昭和殉難者」などと、いかにもそれらしく言葉を使って、反論をして来た。お笑いである。彼らが口にしても、似つかわないのだ。それが証拠に、彼は彼のエッセイで、ちゃんと普段言い慣れていることが予測できる「×級×犯」と云う言葉を使っている。いかにいい加減かを、それこそ喝破できるのだ。正に『太平記』で、後に賊徒となる足利尊氏が、時勢の動きを見て、恩顧の北条家を寝返ったあとで、後醍醐天皇にお味方する。そして京の篠村にある新八幡宮で挙兵の祈願をするが、その時――、この賊徒高氏は、何を願ったか。神前に誓ったのは、後醍醐天皇による中興ではなく、皇威森厳に興ることではなく、足利一党だけの好運であった。我が家の繁栄だけを願って、それだけを挙兵に臨んで祈願したのだ。自らの利益、営利の為に、後醍醐天皇にお味方然とした足利尊氏が、やがて賊徒となるは明々白々のことであろう。これと似たことを、私は、この水島と云う男の挙動に、言動に感じてならない。かの「南京映画」は、靖國神社に不敬を積み重ねていた時の南部宮司が、なんと、祭神の遺徳をしのばせる遊就館内で、多くの反対者があるのを押し切り、強行上映させた。松平宮司が、魂魄の願いをこめてお祭りした昭和殉難者を、たかだか一介のチリ芥にも等しい民間団体の映画を、それも昭和殉難者を貶める「七人の死刑囚」なる、新たなる雑言の題名をつけた映画を上映すると云う愚挙を致した。これを、泉下の松平宮司が怒らぬわけはない。とうとう、南部宮司は、昭和天皇陵参拝に出かける直前に、宮司室で手折られた。帰幽に至る。夢のお告げでは、松平宮司に呼ばれたと、南部宮司ご自身が語られている。

 話を続けよう。この団体は、一時経営難があったようだ。これは至福のことなりと思えば、二千人委員会と云うものを新たに立ち上げて、息を吹き返した。まさに楠木正成・新田義貞が、幾度、賊徒足利尊氏を京から追放しても、悪運強く、何度たりとも息を吹き返し、遂には忠臣楠木を、新田を死滅させ、後醍醐天皇を壁外においやった。世は常に悪が栄え、正義は衰える。これを今、この忌まわしき団体に見る。以上が、私が何も考えなく、前後の脈絡もなく、まず一気呵成に、現在の腹にある臓物をさらけだした言葉である。これからじっくり、この団体のことを書いて行く。先日書いた、『南京の真実』映画製作の胡散臭さを指摘した件りの部分が、主権回復を目指す会の掲示板に、誰かが転載した。すると、それを受けてのことか、先方の団体掲示板の「南京映画支援スレッド」に、『一体、いつ第二部を製作するんだ! まさか、製作はもうありませんよ――ということにはならないでしょうね』と、少し嫌味を含めて投稿してくれている人がいた。それを仲間が、先週知らせて来た。大いに結構なことである。この質問に対して、例の管理人が出張って来て、言うことには、「この秋には、第二部を発表する予定だ」と、威張り腐って放言していた。まず投稿者に、映画完成が大幅に遅延していることを謝罪し、それから遅延理由を述べるべきだが、「日本が足りていない」から、そう云う挨拶は出来ない。罵声に近いものを投げつけて来る。投稿者が、我慢するしかない。ともかくもこの投稿者のおかげで、「今年の秋には、第二部を発表する」ことを管理人に答えさせた。これでいい。団体のテレビでは発表していたようなことを言っていたが、そう云うことなら、産経新聞を使って、全国の支援者に告知しろと言いたい。それぐらいの誠意は、金集めした側の配慮だ。三億までの金を集めると言いながら、だらだらと、まだ集金している。こう云うやり方に、私は胡乱を感じるし、多くの正統保守人に共通する感覚ではないか。「いさぎよさ」とは無縁の団体だ。第一部を作って以来、音沙汰無いのは、やる気が無い証拠か、資金を使ってしまって無いかのどちらかだろう――と、疑われても仕方あるまい。第二部の発表が、今年の秋では、本当は「遅すぎる」筈だ。では、最後の三部は、いつ完成するのか――。それくらい、管理者は言うべきだが、これも無い。次はどなたかが、あちらの掲示板に「第三部は、いつ発表するんですか。金はとっくに約束の三億円が集っているのですから、もっとさっさと作れないもんか」ぐらいは、聞いて戴けたら幸甚なり。それと、集めた金の使途明細ですね。これも一本製作するたびに、一円まで発表して戴きたいものです。もう精算は出来ているはずですから。そのまま発表してくれればいいんです。その金の使い方で、この主導者方の腹にあるモノを探りたい。この精算の件も、返事も聞いて欲しかったですね‥‥。集めた支援金は、概略、第一部でどのくらい使い、あと、どのくらい残っているのかぐらい、彼等は発表するべきでしょう。全国の善意のお年寄りから集めた金だ。みんな、この団体の代表者の言葉を信じて、金を出している。金を集めた人間としての誠意でしょう。一円まで収支は発表すると言ってたんだから、それを実行しないのは、不正を隠していると思われる。今まで、第三部が完成するまで、支援者にはCDは配布しないと断言していたものを、何かの事情で、突然、配布し出した。こう云うことも、私は何か胡散臭いものを感じてならない。

 ようく調べたら、第二部は実証篇で、第三部はまたしても劇映画で、「アメリカ篇?」らしい。なんでアメリカ篇が出て来るのかわからんが、これで、中国の言う「南京大虐殺」を否定する三部作になるのだろうか。第一部が出来た段階で、支援していた著名な保守が、一斉に頭を抱えた話は、私の所にも伝わっている。それでも多くの支援者が誉めているのだ。けなすことは出来まい。個人的な趣味のような第一部の映画で、世界の誰が、南京大虐殺を否定する気になるだろうか? それはともかく、何故、すぐに第二部・第三部を作らないのか? 国内での映画試写会などに、監督がイチイチ挨拶などする必要はない。映画を黙って見てもらえばいいことだ。口で説明するなら、映画など作る必要もなかろう。演説して廻ればよかったのだ。そんな暇があるなら、第二部・第三部の完成に、全力を尽くすべきを、しないで、今日まで放置していることは、何を言われても仕方あるまい。少なくともエグゼクティブプロジューサーも兼ねる監督なら、舞台挨拶などに跳び回るのは、無駄な経費を消耗させているとしか思えない。こうした監督の契約費用は、どうなっているのか、拘束料も派生しているだろう。金の扱いは、全部水島社長が独自決裁で決めているのか、どうなのか。映画監督費・プロジューサー費・脚本費。これを全て水島氏が担当しているが、いくら給料以外に、水島社長には支払われているのか。最近では、この団体を信用しない私は、こう云う金の使い方にも聞きただしたいと云う気持ちになっている。舞台挨拶で飛び回る費用は、社長としての業務上の必要経費なのか、それとも監督としての個人に支払われるギャランティの中に含まれていることなのか――、専門家ではないのでわからないが、こうした細部の話まで、彼らは一応支援者に、早い段階で話すべきである。「一円まで報告する」と言っていた以上、それを実行すべきである。NHK大罪など、後回しである。台湾の人や永山さんに任せいておけばいい。人の金で映画を作った以上、道義的には、「きれいな所」を見せてほしいものだ。水島本人だって、それを意識して、「きれいな金で、きれいな映画製作をする」みたいなことを、何度も言っていた筈だ。掲示板の管理者は、「水島が忙しくて、今はNHKの捏造報道の件で、身体が取られているので‥‥」と弁解していたが、支援者に失礼な話である。つまりこう云う所に、本性が見え隠れして来るのだ。日本が近い将来、なくなるようなことを、水島は言っているが、本気でそう思っているのかも知れない。そうすれば、後の第二部・第三部など、作る必要がない。まあ、これは「からかい」だが、あれほど騒いで、約束の映画を完成させなければ、何を言われても仕方あるまい。

 それと、ついでだから、これも話しておこう。最も、これは聞いた話だ。この南京映画の刑場の撮影の時、スタジオに若い神職を招いて、「スタジオ祓いと警蹕」をお願いしたようだ。だが、なんと、この水島なる男は、日本の国旗を、神職に祓わせたそうだ。国旗を祓わせるとは、この男、生粋の日本人なのか――と思った。更に警蹕(けいひつ・けいひち)の声を‥‥、警蹕とは、祭神出御の際、本殿御扉を開く前に、「オオオオオオオ‥‥」と云う声を警蹕役が発声する。これは尊貴の方の出御の前に、辺りを畏みさせるための先駆の声で、大名行列で「下に、下に」と云う先駆と似たものであるが、それをこの水島は、なにを勘違いしたのか、「悲しそうに、哀切をこめて呼んでほしい」と、神職に依頼したのだ。だが、神職は「警蹕はそのようなものではありません」と言い、何度もお願いする水島の願いを、断固断ったそうだ。当たり前である。水島は、多分、御霊を呼ぶのに、哀切なる声で呼ぶ――、つまり神事の厳粛なる先駆の声を、なにか、「おーーーーーい、おーーーーーい」と、遺骨収集で戦友を探す声ぐらいに理解していたようだ。だから、「哀しそうに、もっと悲痛に声を出して呼んでほしい」などと依願したのだろうが、神職はそうしなかった。水島は、確かに「警蹕」がなんであるか、知らなかったのだ。これは、私も断言できる。私の所に回ってきた南京映画の台本にも、プロローグの所に、「哀しそうに、悲痛に、オオオオオオオ‥‥と呼ぶ」(警蹕)などと、「ト書き」と云うのか、説明書きがなされていたのを目にして、私は噴出したことがある。それも、どこかの宮司に依頼するなどと書いてあったか、しゃべっていたか、忘れたが、まるで神事のことを知らなさ過ぎる男だと思ったもんだ。それにしても国旗を祓ったり、警蹕を愚弄したり、天罰が降りても、不思議ではない。映画を見たら、「オオオオオ‥‥」と云う声が、小さく入っていたが、無論――、何の効果にもなっていない。無様である。靖國神社の幹部から、「見ろ、見ろ」と無理やり言われて、若手の神職・女子職員の幾人かが映画を見たが、「ひどいー」と、思わず息を詰めたシーンや映像があまりに多く、神社内では、さんざんの評判である。と云うより、実際に見た人は少ないだろう。「どう?」と聞いても、「え? ああ」と、あいまいな返事で、苦笑いして去ってしまう。

 水島総なる男の巻頭エッセイと云うのを、知人が読んでみろと言うので、この団体の表紙にある「水島総のページ」と云う所から進入し、「暗き道にぞ入りぬべき」とか云う題名のものを読んだ。皆さんも、一度読んでみるといい。この男が、生粋の保守ではないことが理解できる筈だ。私も仲間も、このエッセイを読んで、吐き気がした。気分が最高に悪くなった。読むに耐えない、くされ話だ。天皇を「月」のような存在とか、得意げに話しておった。また「天皇と皇族が、万葉の昔から詩人であったことは象徴的である。芸術家は『月』であるからだ」などと、天皇が詩人で、芸術家などと、膿み爛れた痴れたような脳で弄んでいる。水島は――、もうこの男を、私は今回、呼び捨てにしている。敬称をつけるに値しない、サヨクであると断定したからだ。保守を隠れ蓑にした、サヨクだと判断している。天皇を「月」だと表現し、太陽を否定した男だ! 天皇を「月」と言った後で、末尾でこう云うことを、この男は書いている。「男は、他の時はともかく、酒を飲むときだけは、女が『月』になってくれることを望んでいる。多分、それは『文化』と言っていいものだろう」。これで、怒り心頭に達しない右翼はいないだろう。天皇を「月」だと言ったあとで、女が「月」になってくれることを望んでいる――と書いている。それも「酒を飲むときだけは」と、注釈つきだ。何をこの男はイワンとしているのか! 不敬を通り越している。更に何かといえば、外国人の名をあげて、その男を尊敬するみたいなことを書く。「私は最も尊敬するドイツ文学の大家トーマス・マンが、芸術家の存在とはと自問した小説を書いたことを思い出した。『トニオ・クレーゲル』という小説である」。日本の伝統や文化が、どうだああだ云う人間が、いつも外国人の名をあげて、得意然としている姿が不思議でならない。トーマス・マンが、なんだって? 最後は「画家パウル・ゴーギャンの手紙から、日本人は自覚せよ」みたいなことを書いている。これでは、松陰先生も可哀想だね。柱にかかった草莽崛起の看板が、ほれ、床に落ちたぞ。

 ともかくもこう云う男を、現代保守陣営は生み出した。神輿を担ぐものがいる。かっては総理大臣を務めたものでさえ、朋輩の如く近くに寄って来る。そう云う「日本が足りない」時代になってしまったことを、痛切に私は感じる。だが、これは一面、致し方ないであろう。誰も戦前回帰を願う者がいないからだ。菊水の旗がはためいていない。「非理法権天」の旗も、何処にも見えない。あるのは俗物ばかりの活躍が目に付く。この水島なる男は、日本が足りない‥‥、日本が足りない‥‥、と、年中口にしているようだ。団体と掲示板全体が、「日本が足りない病」に罹っているのは、おそらく彼らが「日本が足りない」からだろう。自らが発散させている悪臭に、彼らが気がつかず、絡め取られているに過ぎない。もうこのくらいにしておきましょう。ともかくこの団体からは今後、眼を話さないように見張っていたいと、私は思うようになった。

 次に、先日終わった靖國神社みたま祭の惨状についても話そうと思ったが、もう書きつかれてしまった。あの、○○○○氏くらいの体力があればいいのだが、そうはいかないので。そうそう、○○○○氏で思い出したが、彼の思想を語るあちらのスレッドで、私のことや備中さんのことを、好意的に一行だけ書いてあったのを読んで(ああ、こんなことをしてくれなくてもいいのに。私の名前は天敵だろうから、きっと襲撃されるだろう)と思っていたら、案の定、少し足りない門番小僧に突かれていた(笑い)。本人も、はははと笑っているだろうが、彼も掲示板を去ったら、もう此処も荒廃であろう。○○○○氏は、彼らの掲示板では乗りに乗って、筆が何故か走っている。書き続けることで、一つ、山を越えたような感じがした。それでは、また。
 

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  • 竿灯の一つとなれ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月11日(日)17時00分27秒
  • 編集済
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■平成二十一年七月十四日

竿灯の一つとなれ――「ていたらく」第二部。

 昨日の続きに入る前に、書き落としたことがある。備中さんが紹介していた、三重県川俟神社々掌・鈴木武一翁の言葉を、スレッドで参照して欲しいとあったが、大切な言葉なので、表に出した方が、眼に入る。幾度と無く、備中さんが紹介引用していた話ですが、繰り返し読んで、頭の中に忍ばせておくことが大事です。どんなに優秀な頭脳でも、情報過多で、奥へ奥へ押し込まれて、忘れてしまうもの。誠に鈴木武一翁の言葉は、私の心中を平易に著したる、秀逸な教えです。

交通機關の發達は、可成り遠隔の地に住居せる者でも、一夜にして伊勢神宮へ、或は出雲大社へ、といふやうな具合に、全國各地の名社大社へ、隨時御參拜の出來る事は、神州民族の一員として、何とも感激に堪へない次 第であります。

 併し乍らいつの時代にも弊害は伴ふものでありまして、あまりに容易に參拜の出來るところから、動(やゝ)もすれば狎れくづれて、參拜と遊覽とを混同し、尊き神域に入りながら、何等敬虔の念もなく、まるで遊山氣分でぶらりぶらりと歩いてゐる人々を、往々に見受けるのは、誠に歎かはしい次第であります。

 交通の不便なりし時代の我等の祖先が、參宮といふことを、如何に感激を以てせられたかを思ふべきであります。昔は困苦缺乏の中をも厭はず、殆んど一生に一度の大誓願を以て、伊勢參宮をされし人が無數にあつたのでありまして、此の心意氣こそは、今人にも是非共あらねばならないのであります。

 之れは一面、旅行季節を捉へて汽車や電車の乘客を増さんが爲の政策から、參宮と物見遊山とを混同され易いやうな宣傳をして、旅心をそゝる當局者にも罪があるのであります。神々の御神徳をいたゞくには、その參拜者の心掛けによりて大きな差ひのあるものであります。

 參宮の序でに他を見物させていたゞくといふのならば結構でありますが、見物がてら參宮をするといふのでは、行爲は同じやうであつても、心掛けに雲泥の差があるのでありまして、隨つて其の人に授かる御神徳にも、雲泥の差があるのであります。‥‥


いかがですか。読んでウーン参ったと思う教えではありませんか。靖國神社の「みたま祭」は、最早、参宮の敬虔なき愚集に果てている。プログラムを見れば、今夜の内苑能舞台で行われる奉納歌謡ショー・グランドフィナーレは、水前寺清子の三百六十五歩のマーチを、日本歌手協会参加者全員で合唱――と云うていたらく。これを新宮司は、どんな眼で見るか――、それが試金石。私は鈴木武一翁の言葉を借りて、本当は全国津々浦々で、辻説法をやりたい。だが、現実的には、もう無理。だから、「神道の時間」・「靖國の誉門」などのテレビ講座を作りたい。既設のテレビ局から、全国ネットでやりたい。あるいはドキュメントとして、ある四国のタコ漁師の物語――など、適当な材料を取り上げて、その中で鈴木翁の話を盛り込んで見せて行く――。前回紹介した会津の四世代家族の話なんかは、最高の素材だ。‥‥そうではなく、もっと直接的に、『太平記』を始めとして、皇軍将兵戦いの譜を、堂々映像で描き出してもらい、テレビで放送出来るような仕様を考案して、誰かにやってもらう‥‥。それが出来ないのであれば、自分でやりたい‥‥。まず全国児童父兄への教育から興し始めることだ。いいんですよ。実現不可能でも、まず理想を樹立させる。キリマンジャロの氷河の頂に一頭の豹が死んでいたのは、誰にも見えない豹だけが見えた理想・思想の実現を求めて、峯を攀じ登り、そこに辿り着いた。だから満足して、そこで死に絶えた。それはそれでいい。彼の役割を終えた。問題は、次の世代だ。神風連の神道人は刀槍だけで、近代兵器の官軍に突入し、微塵に粉砕された。昭和維新を旗印に官邸に突入、帷幕の臣を問答無用で斬り捨てた青年将校の瀝々たる熱血は、青泥に堕ちたままで果てた。頑悪を斬除して、車駕を還すことが出来なかった。それは致し方なし。ただ常にその幾重なる峯も雲も、我が志操で踏破する強靭な構え・心根が大事。虎視眈々と間隙を縫って、いつか回天の時世を現出する――。これが、私が未だに死なぬ理由であり、魂魄の思想でもある。それがなければ、延々万里の波濤を越えて、あるいは北寒の蛮地に賊旗を追い、叱咤して御稜威の剣を奮った皇軍将兵に、なんとお詫びできるか――。「九段塾」関頭の誓いでもある――と思っている。

 もう少し、鈴木武一翁の言葉を読んでみよう。

近時、寫眞術の發達、就中テレブイジヨンの出現以來、今夕の出來事も、居ながらにして翌朝の新聞紙上に於て、直ちにその實景が見られるなど、蒙る文化の恩惠は多大なるものがあり、殊に草莽の身として伺ふだに許されざる、高貴の御方々の御動勢が、事ある毎にお寫眞を以て拜し得らるゝ事は、誠に昭和聖代に生れあひし身の一大光榮にして、感激措く能はざる次第であります。

 然るに之等のお寫眞があまりにも廣く普及されるところから、動もすれば不敬のお取扱ひをなし、敢へて意に介せざる者を見受けられますのは、誠に恐れ多い次第であります。昔の人は、高貴なる御方々のお寫眞は容易に手に入らないどころか、拜することすらも稀なほどでありまして、隨つてお寫眞に對し奉りては、假初めにも疎かにはしなかつたものであります。

 昔も今も、この精神に變りがあつてはならないことは申す迄もないことであります。

 筆者の知る某老人は、一年二年と讀み貯めた新聞紙を屑屋へ賣却する時、必ず高貴の御方々のお寫眞の掲載の有無を、克明に調べて擇(よ)り分け、掲載されてある新聞紙は、決して賣る事をなさず、然るべく炎上申し上げることを、十年一日の如く實行して居られました。誠に奇特な方と申すべきであります。

 右のやうな譯で、陛下の御尊影、皇族・神社・皇居等の御寫眞が掲載されてある新聞雜誌等は、必ず之を切拔きて、假初めにも不敬のなきやう御保存申し上げ、あまりに山積したる場合には、然るべく炎上申し上げることもよろしからんと、拜察する次第であります。

 又た店頭のウインドに飾る速報寫眞の如きも、上下の區別を知つて、假りにも高貴の御方々のお寫眞の上に、俳優の寫眞を掲げたり、御同列申し上ぐるが如きことのなきやう、注意すべきであります


と。このことを参照して、私は靖國神社社報『靖國』も同様に、丁寧な扱いをして戴き、埃をかぶらないように、日に焼けぬように、保存していただくようにしてもらえればよろしいかと思います。以上が、昨日書き落としたこと。

 さて、ここからが昨日の続きです。社報の第一面にある「靖濤」に書かれた、不埒なコメントの数々を紹介しましょう。この駄文の筆者も、ひそかにこの「九段塾」を読むでしょうから、ご自分で自分の文章を見て、いたく反省していただければ幸だ。

『二月上旬のある朝、参道で一人の女性に、こう尋ねられた。「ここでお百度参りをしたいのですが、迷惑にならないでしょうか?」 ――おそらくお子さんの受験があったのだろう。もとより参拝の用に供された境内地ゆえのこと、「決して迷惑なことはありませんよ」とお答えした。その女性は、それから三時時間半ばかりかけて、神門との間で熱心に「お百度」を踏んで、帰って行かれた。
 親子関係について考えさせられる出来事が多い昨今、この光景に心温められもし、また靖國の英霊には、この女性の祈りが、直截に伝わったようにも感じられた。国家危急の秋に臨み戦地に赴いて行った我が子を案じ、縁の神社に幾度もお百度参りして祈った「母の心」を熟知しているのは、他ならぬ靖國の英霊であろうことは疑うべくもないからである。
 「昭憲皇太后」は、明治三十九年、靖國神社に行啓されて、「神がきに 涙たむけて をがむらし かへるをまちし 親も妻子も」と詠ぜられた。思えば戦後、「神道の弁護士」と評されたある神道人が、日露戦役後の「生還」を待ちし親と妻子の情の痛切さをお詠みになった、この御歌を引きつつ、「これがありのままなる靖國神社の祭りの心である」と喝破してから久しい。
 「みたままつり」が近い。七月十三日から十六日までの間、靖國神社の境内には、三万灯を超える提灯が掲げられるが、それら「みあかし」の一つひとつに灯される明かりは淡く優しい。夏祭りの風情を味わいながら、親子の情と「ありのままなる靖國神社の祭りの心」を感得できる四日間である。』

 ‥‥どうですか? ひどいものである。靖國神社の神職が、昭憲皇太后を、英霊を、みたま祭を、はたまた参拝者を腕組みして、平然と観察者風情に成り下がっている話だ。鼻毛だって抜いているかも知れぬ、不敬極まりない執筆姿勢である。いっぱしのコラムニスト気取りが、「チャラ男」と呼ばれる由縁である。本人は知らないだろう。学問が有る無しではなく、教養が有る無しでもなく‥‥、常識がある無しでもなく‥‥、池の蛙と同じである――。ポッチャン~~~~~~と云う比喩が、一番的を得ていると言えるのではないか。今度の新宮司に直訴して、この「靖濤」書き手を追放していただくように、国民運動を起こしたいものだ。まず、この話が本当かな?と云う疑問が湧く。適当に話を作っているのではないかと云う疑問を、オボユルノダ。靖國神社の神門から拝殿前までは、往復で約百五十メートルある。お百度を踏むには、かなり長い距離だ。お百度を踏むと云うことは、百回の往復である。即ち計算すれば、このご婦人は十五キロメートルを歩いたことになる。普通に考えて、一回の往復に二分前後はかかるだろう。拝殿前の手を合わせてのお祈りは、吾が子の受験合格とならば、普通の参拝者以上に熱心に祈念したに違いない。そうなると、到底、往復二分では収まらない。三分を越すかも知れない。まずもって、到底、三時間半では収まりきれないと、私は思うのだが。しかし筆者は、時計を見ていたのだろう。三時間半と言っているから、それが間違いないとならば、かなりの早足だ。このご婦人が三時間半で十五キロを速足した、と云うのは驚愕である。まさに難行苦行であったに違いない‥‥。最後はおそらくへとへとで、倒れそうではなかったろうか。

 まあ、それはそれでいいとして‥‥、筆者は、このご婦人の百度参りは、「お子さんの受験のため」と書いている。実際にそう判断できる会話が、二人の間であったに違いない。即ちこのご婦人は、吾が子の受験合格のためのお百度を、靖國神社で踏もうとしたのだ。本当は、このこと自体が問題だ。「ここでお百度参りをしたいのですが、迷惑にならないでしょうか?」と、ご婦人が聞いて来た段階で、本来なら、「ここは受験合格を祈願する所ではありません。こちらには皇国の御為に、戦場に一命を捧げられた多くの神霊がお祭りされています。参拝するなら、国が危機を迎えた節には、祭神の御意志の後を継いで、必ず自分も武器を取り、御奉公する心算です――ですから、今はご安心してお休み下さりませと祈念する所です‥‥」と、話してもらいたい所だ。それが靖國神社における、正統な参拝仕儀であろう。即ち参拝者を教化する絶好の機会だったが、彼は違った。『‥‥もとより参拝の用に供された境内地ゆえのこと、「決して(お百度踏みは)迷惑なことはありませんよ」』と答えている。「大うつけ」と云うしかない。まさに以前、例の掲示板で、お抱えの撮影スタッフが、靖國神社取材の合間に煙草を吸っていたことを批判したら、「靖國神社の境内は、公共の場所だ。煙草を何処で吸おうが、カッテだ」とか云う意見があったり、「神社が用意した灰皿で吸って、何が悪い――」とか、反省なき連中と同類に近い頭の中である。ただ、ようく考えれば、現在の靖國神社は、「国家安泰」も、「家内安全」祈願も、イッショクタにして扱う神社に成り下がっている。その祈願案内のポスターが、飯田橋の駅構内には貼ってある。これを見れば、靖國神社だろうがなんだろうが、祈願なら、何でもありの神社だ。普通の神社だと思われても止むを得まい。ご婦人を責めるわけにも行かない。では、現状ではどうしたらいいか。そこで、靖國神社の神道人としての常識を働かすのだ!――。即ち「この内苑でお子さんの受験合格のお百度を踏むと云うのは、国家鎮護の参拝者には迷惑なことですから、お辞め下さい」と、はっきりと言わなければならないのだ。それでも、どうしてもと云うなら、「誰も来ない夜に、大鳥居から神門まで五百メートルを歩かれて、お百度を踏みなさい」ぐらいは話してもよいだろうと思うが‥‥しかし、こうして考えてみると、やはり靖國神社は、軍人を祭る神社として本来の姿を取り戻さねばならない。賀茂宮司が、鈴木宮司が、松平宮司が参拝者を教化したように、「いつでも、ご祭神の後に続く覚悟があることを祈念する」。それが靖國神社たる由縁なのであることを標榜しなければ、国民は教化できない。家内安全・社運隆盛・交通安全祈願などは、よその神社に任せるべきだろう。神社経営が、先ずあるのではなく、創建趣旨を遵守することが、第一義の筋である。

 神社経営を全うするためには、宣徳課員を先頭にして、全職員が奮迅して、全国崇敬者を掘り出し、奉納金を集める努力をすればいいことである。それを今度の宴会は何処でやるか、職員旅行の行く先は何処にするか、野球の試合のための練習とか、ゴルフ練習に熱を上げ過ぎだけが目立つ。笛・太鼓・舞の修練さえ怠る、昨今の職員風聞。日本の中興には欠かせないのが、やはり靖國神社の正統の復興であろう。もう少し、この「靖濤」の筆者を責めたい。澱んだ根性を、叩きのめしたいからだ。『国家危急の秋に臨み、戦地に赴いて行った我が子を案じ、縁の神社に幾度もお百度参りして祈った「母の心」を熟知しているのは、他ならぬ靖國の英霊であろうことは、疑うべくもないからである』。‥‥なにを、この筆者は、与太話を書いているのだろうか。まさにサヨクの言い分であろう。戦場に赴いた吾が子の無事だけを、いかにもすべての母が願ってお百度を踏んだかのようなことを示唆し、その母の心をダシにして、それと、国家危急とはまるで無関係の、ただの合格祈願とを同一視すると云うていたらく、第二部である。祭神への敬虔の無さは隠しようもない。

 更に昭憲皇太后を御引き合いに使われると云う不敬。その上、なんだかわからぬ戦後の神道人を引っ張り込んで(多分、葦津珍彦氏)、『「これがありのままなる靖國神社の祭りの心である」と喝破してから久しい』などと、ひとり悦に入っている。それにしても、この筆者の眼は、三つも四つもついているからか、話の筋が破綻しているし、言葉遣いもおかしい。「靖國の英霊には、この女性の祈りが、直截に伝わった」とか、「母の心」を熟知しているのは、「他ならぬ靖國の英霊であろうことは疑うべくもない」とか、「喝破してから久しい」などなど。「直截」・「疑うべくも無い」・「喝破」が、それぞれ使うべきところでない処に使われている。その場の雰囲気と合わぬ漢字使い・言葉遣いである。神聖・格調が、何一つ伝わって来ない。ご本人は、いたく満足げで、『「みあかし」の一つひとつに灯される明かりは淡く優しい。夏祭りの風情を味わいながら、親子の情と「ありのままなる靖國神社の祭りの心」を感得できる四日間である』
と、終わっている。つまりこう云うのを、昔は「ナンジャラホイ文」と呼んだのである。昭憲皇太后も、お百度踏んだ方も、下卑たコラムニストもどきのネタにされてしまった。神社・社頭・英霊・みあかし・お百度と、畏む字句は並んでいても、少しも祭神の威徳が示されず、筆者本位のつれづれ草にしかなっていない駄文。これを読んだ私の知り合いが、

『ひどいねえ。いつから、靖國神社のコラムニストは、英霊の観察者になったのかね』

と、憤慨しきりである。

 そろそろ話は変えよう。あと、もう一つ。京極宮司のことである。京極宮司は、もう、伊勢神宮・熱田神宮には、挨拶には出向かれたことでしょう。挨拶を重ねるたびごとに――、靖國神社宮司の重職さが、ひしひしと感じられたことだと思うが、正念場は、これからが先です。事は、明治天皇御創建による靖國神社。「格物致知」と云う言葉を、挨拶に用いられた新宮司です。靖國神社正統を学問されて、その深潭を極めて頂き、且つ、そのことを実践されれば、「格物致知」を用いた宮司ご自身が、正統の継承者となる。十代目にして、もしかしたら松平宮司以来の正統の灯火が入るかも知れない。そう云う期待を、私は、今現在、抱いている。南朝の時代をバサラに生き抜いて来た京極家の、既存の権力に抗う血筋が、あるいは靖國神社の正統を復興させるかどうか――、少しは期待を持ちたい。

 ついつい、長々と書いてしまった。『太平記』も大方読み終えたので、では、『九段塾版太平記』の構想に入りたい。またしばらくは投稿が控えるかも知れませんが、訪問してなにも投稿なければ、備中さんのスレッドを、よく御覧になって下さい。別段、塾生と云う者はないが、閲覧者が尊皇のシャワーを浴びていただければ、それが竿灯の一つとなります。



**********

 備中處士案、以前に古書肆にて、御大典の折の新聞を購入したことがありましたが、御寫眞の全ての御上に、丁寧に白き和紙もて、御簾の如く貼付けてありました。子孫が賣却したのでせうが、かつて珍藏した御方の取扱ひ、何とも云へぬ古人の床しさを感じたことでありました。

 又た現代の出版事情を見ましても、雲上の大御寫眞を表紙に飾つたり、御製を卷末に挿入したりと、どうも首を傾げる事が多いやうであります。編輯者の意識は、救ひ難きものがあります。立派な事を仰せらても、信用できませぬ。悲しい哉。



【削除文】
■平成二十一年七月二十一日

 「今夜遅くか、明日には投稿します」は、変更。今夜中に投稿したかったが、少し雑用が入って、今日は投稿は無理なので、明日の午後には書いておくようにしたい。

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  • [34]
  • 神霊の思惑。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月10日(土)19時53分6秒
  • 返信
 
■平成二十一年七月十二日

神霊の思惑。

 またしばらく、投稿が隔たってしまった。暑い季節になると、やはり身体がこたえる。靖國神社は、明日から「みたま祭」が始まる。今回は、休日が入らない日程になってしまった。どの程度、人が集るか。参拝者は、どの程度か。担当者は、ヤキモキすることでしょう。これも、神霊のお考えかな。

 二年前だったか、『南京の真実』とか云う映画製作の宣伝ビラを、靖國神社大鳥居付近を占拠して、この映画支援を名乗る連中に、大量にばら撒かれた頃のことを思い出した。主催団体の掲示板を先ほど見たら、まだ映画製作の資金調達のための支援募集が続いているようだ。第一部の発表があっても、その後が全く続いていないような気配。もう、彼らの掲示板を覗いていないので、詳細を知らないが、あとの続編はどうなったのだろうか? もう既に発表されてしまったのか? なんで、突然、こんな話を持って来たのか‥‥。いつぞやの南部宮司の夢を見たご婦人の話をした時と似たような話が、また私の所にもたらされたので、書く気になった。私の知人のお父さんが、一年前に亡くなられて、先月が一周忌。都合があって、私は出席できなかったのだが、数日前、その知人に呼び出されて会った。
「これ、いりますか?」
――と渡されたのが、映画製作団体から送付されて来た、『南京の真実』のCDパッケージだった。
「ええっ? なに? どうしたんですか、これは。」
「送って来たらしんですよ、父のところへ。何ケ月か、前ですかね。」
「え? お金、払ってたんですか?」
「私は払っていないですよ。その、父が、どうも家族に内緒で、お金を送っていたらしいんですよね。」
「あ~あ」
――私は溜息をついた。
「父は、この映画を見ていません。その前に逝ってしまったんでね。」
「そうですか‥‥。亡くなった後に届いたCD作品か。なにか象徴的ですねえ。」
――少し、沈黙が二人にあった。
「‥‥私も母も、知らなかったんですよ。お金を払っているなんて。CDが送られて来て、初めて知ったんですよ。」
「そうなの。それで、なんで、これを私に?」
「うちでは、これ、誰も見ないので。もうあなたが観たのは知っていますが、もしかしたらいるかなと思いまして。一応、お聞きしようかと。」
「ははは。いらないよ。折角だから、観ればいいのに。なんで、家では見ないの?」
「母が――、気持ちが悪いって言うんですよ。この表紙の絵が。」
――パッケージの表紙を指差した。なるほど、気味の悪い図案の表紙だ。能面が不気味である。知人の母は、まるまる右翼である。毎年、参賀には、日の丸の小旗を持参して宮城へ行く。その母上が、「気味が悪い」と云う表紙。この映画が、何故、ダメかが――、表象されている図案だ。私はまともに表紙も見たことがなく、映画だけは、しぶしぶ観た。ともかく私は心を閉じて、しげしげとパッケージを見た。南京の真実。第一部『七人の「死刑囚」』と表題が書かれている。本当に嫌な題名だ。怖気がする。こんなものを遊就館で上映した南部宮司が、泉下の松平宮司に呼ばれたのは、当然のことだろう。キャッチコピーみたいなのが、小さな字で書かれていた。「七人の殉国者が、私達を振り返らせる。あれは‥‥日本の夜明け? それとも‥‥黄昏?」 瞬間、血が沸騰した! ふざけやがって! よくもまあ、殉国者だなんて発想ができるもんだっ!と、思わず口に出た! 知人がびくっとしたのがわかる。
「ああ、ついね。」
――水島総氏のネタにされてしまった、昭和殉難者‥‥。神霊が、どう思うかだな。今後の話だ。知人の父上は、確か内地で終戦を迎えた筈だった。完成した映画を観ずに、歿された。観覧して、どう思うか? 得心が行くとは思わない。何処にも、「南京大虐殺の反論」など、ありやしない。この作品は、「本当は三部目の作品だった」らしいが、困り果てた末の突貫工事みたいに、一ケ月で作り上げた作品のように私には見えたが、もう内容は、ほとんど覚えていない。

 それより、この後の二部・三部はどうなったのか? 知人の父上は、もしかしたら三部作を楽しみに待っているのかも知れない。今、書いている最中に仲間に問い合わせたら、「二部・三部を、まだ作っていない筈だ」と云う答え。この『南京の真実』と云う映像製作に関わる、非道不敬問題――靖國神社境内ビラ播き・題名――を、私は追及したことで、結局、彼の掲示板を、私は放擲することになった。それが事で、この「九段塾」も立ち上がっている。水島氏は、「映画製作の収支は、一円も洩らさず、発表する――」と宣言していた筈だが、第一部の映画製作費用の収支は、未だに発表されていないらしい(おぼろげな情報だがね。もしかしたら、発表したのかも知れないが)。それに、肝心の中国側の「南京大虐殺」を否定する「第二部」・「第三部」も、未だに公開は無い。あそこの掲示板管理者に、私は、こう言明されている。(確か)「文句がいいたければ、映画が出来てから言え――!」と。三部が全部出来たら、文句を言うつもりだが、昨年辺りには、全部出揃っているのかと思ったが、まだまだのようだ。こちらは三部が出来るのを待っているのだが、一体、いつ完成するのだろうか。あそこの掲示板には、私のスレッドがまだ残っているので、書き込んでもいいのだが、謝罪しない限りは、一言半句の投稿もシャットアウトする――とか、激昂、青筋立てた管理者が立ちはだかっているので、投稿したくても出来ない。それで「九段塾」に、こうして書くことになる。早く二部・三部を製作してくれないと、私もいつ逝ってしまうかも知れない。彼等は、聞くところによれば、「NHKの大罪」とかで、またもや柳の下のドジョウを狙っているようだが、その前に、靖國神社境内でばら撒いた「ビラ」で、高齢者から集めた多額の金の使途明細(もし未公開ならば)と、『南京の真実』第二部・第三部を製作発表しなければ、その運動の真意が疑われる。本当は何に幾ら使っただの、私にはどうでもいいことだが、水島さんが何度も「そうする」と言ってたようだからね。約束は護らんと、詐欺ではないか――と、私は疑ってしまう。あの時、三部作が完成するまでは、「何年もかかりますから――」と、最初に宣言していたかどうかがあやふやなので。それとも「いつかまでは、必ず作る――」と言っていたのかどうか? 私に明確な記憶が無いので、トンチンカンな話になってしまうのかも知れないが、一応、疑問を書いておく。どうも私は、今では、この団体が胡散臭いもののようにしか見えていないので、うるさく言うが、NHK大罪を騒ぐ前に、自分達は「大罪」を冒していないか――、主導者は机の中をよく掃除して、あの時、何をしゃべったか、何を約束したか、よく精査してもらいたいものだ。‥‥なにも今更「南京の真実」の話題でもないだろうと、閲覧者は思うかも知れないが、知人の手から私の手に入って来た「映画のCD版」。何かの巡り合わせ――と云うよりも、神霊からの何かの伝達であろうと思ったので、話題にしたまで。‥‥と、云うことで、南京の話は終わり。

 次は靖國神社「社報」の件。備中さんが、七月号の社報に掲載されていた京極宮司の履歴紹介と、社報一頁の御製、裏表紙の遺書掲載に疑問を示されている。本当は、それよりも「靖濤」の中味が、とんでもない話を、またまた例の筆者が書いているので、これを弾劾しなけりゃいけないのだが、なかなか批判はしにくでしょう。それで、私がこのあと書くつもりだが、所定の約束があって、これから出かけますので。また明日には、必ず続きを書きますので、よろしく願います。



■平成二十一年七月十三日

「ていたらく」第一部。

 昨日は、しっかり調べもしないで、「南京映画」のことを書いたが、今朝は、じっくり主催団体の掲示板を見た。が、今年三月の段階で、出演者訃報告知の中で、「製作中の第二部・検証篇云々‥‥」と云う話が書いてあったのを見つけた。どうやら、映画製作を忘れているわけではないようだ。ただいつまで完成させるとかは、明記されていなかった。第一部では、事詳細に記者発表、ダイジェスト版公開、本編公開と、びっしり予定を組んでいた話が、第二部以降は、その気配がほとんどない。予定の組まれない映画製作と云うものがあるのだろうか。嫌味で云えば、製作資金はたっぷり余っている筈。まだ一億、二億は残っているでしょに。何故、すぐに続編を作らないのか? 掲示板にあった南京映画を支援するスレッドも見たが、目ぼしい記事は書いてなく、誰も立ち寄っていない雰囲気で、何と無しに、空き家の感じ。どうしたのだろうか? 早い話――、映画製作は、ほったらかしの模様。こんなんで、映画支援に寄付した人たちは、なんとも思っていないのだろうか? 私が、まだあそこの掲示板にいたら、バシバシ追及してあげるのだが、先を見越して、私をシャットアウトしてしまった。しかし、なんであれほど高まった映画製作なのに、誰も触れないのだろうか? まあ、考えてみれば、こうなったのも、靖國神社大鳥居への不忠非道が、はね返っているのだろうと思う。この団体の主導者、及び集って来る保守連の根っこに――、土台、伝統とか、神意に対して畏みの志操もなければ、眼に見える尊皇もないから、人心を耕す方策が発想できない。ほぼ思いつきで、騒動のタネを搾り出すだけのように、私には見える。こう云う形になると、ブームを作り続けるしか、生き残る道はないだろうと思う。これは、つらいだろうと思う。演技をし続けて行くしかない。ブームは、すぐに熱が冷める。次の動乱のネタを捜し求めなければ、団体の生命は成り立たない。‥‥当初、「情報戦には情報戦」と、花火を打ち上げて、この南京映画支援にズラリと横並びした高名なる保守連中・代議士連中は、今は、まだ映画が三部完成していないと云う不始末に対して、どう思っているのか。もう、知らん振りなのか? 産経新聞も、みんな沈黙したままだ。しかし、まだ映画製作支援金を募集していると云う現状を見ると、やる気が少しはあるのか‥‥、よくわからん。

 中国人監督が作った「靖国」を、サヨク映画だなんて騒ぎ立てる唐変木連中ばかりだから、仕方がないと云えば、仕方がないか。あっちウロウロ、こっちウロウロする最近の保守動向。まさに『太平記』に蠢く、明日は勤皇、今日は賊徒の、「わが父祖」のていたらくと同様だ。ついでだから、もう少し言うと、キャスターとして就職したような高森明勅氏を始め、この団体の映像に登場する若い者が、「天皇」、「天皇」と言葉を発し、将棋の駒みたいに扱っているのを見て、あきれ返えりもし、不愉快、この上ない。ならば、「見なけりゃいいだろう」と云う問題でもないだろう。これをもって保守でも右翼でも無しと、断言するしかない。家に神棚はあるまい。あっても‥‥、あると云うだけだろう。堕ちたもんだと思う。土台、高森さんは、まだまだ修行時代の人なのに、「今や、風は俺に吹いている」風情でしゃべっているのを見ると、哀れを感じる。まさに我流が横溢した談論ばかり。どこまで、本物がついて来るか?

 横道ついでに、もう一つ。掲示板にも、「天皇」を主題にした話が飛び交っていた。もうネタ切れで、話が発展仕様がないので、スレッドは休眠状態だったが、まさに××××の跋扈する所だった。私がいれば、たちどころに叱り付けるスレッドが多かった。もうこの掲示板は、終焉を迎えていると感じた。私がいた頃の掲示板とは違い、知っている名前は、ほとんど無かった。あっちこっちめくって、やっと、○○○○氏が一人、気を吐いていたのが目立つぐらいで、みんな何処かへ行ってしまったようだ。それにしても、○○○○氏は、よく書き続ける。これはたいしたことだ。並みの体力ではない。書くと云うのは、オーバーに言えば、志操を吐露することだ。腹をねじり、ねじり切って書く。その精力・底力は、相当のものだ。こう云う唯我独尊は、悪くない。そのうち何年もすると、悪質がやがて個性になる。そうなればいい。私は○○○○と云う人が、今でも頭の中に残っている。一度しか、私のスレッドに来たことがなかったが、話す言葉に、あの掲示板には似つかない「知性――インテリジェンス」を感じた。そのハンドルネームから、直ちに吉野か白河ノ関の桜をイメージした人だ。四十歳前後だと推量したが、何処を探しても見つからなかった。もうあそこには来ていないようだ。この人も、確か「南京ビラ」を配っていた人らしいが。尊皇に浸れる人だと思った。科学者的な感性も見えた。惜しい人だ。

 さて――、靖國神社のことだ。備中さんが、社報の第一面の表示に、毎号「御製(拜殿掲示)」が書かれ、裏面には、「祭神遺書(社頭掲示)」が書かれていることが、
『畏きものを掲げるのは、小生なんぞには、些か抵抗がある。畏れ多いと云ふこともあるが、埃を被り日に燒け、又た汚れるかも知れない兩面に、畏きものを掲げると云ふのは、何とも申し訣なく思ふのである』
と。なるほど、なるほど。備中さんの憂いは、とても大切な事である。一理も二理もある話だと言えるでしょう。こうした感性が閲覧者全員に、日本中に備わって来ることが、日本中興の第一歩だと思います。まずは人間精神の耕しから入ることが肝要です。靖國神社は、戦後の昭和二十二年十月に、『昭和二十三年・靖國暦』を発行し、遺族・崇敬者に頒布し、以降、毎年発行、現在まで続けている。そして昭和二十六年の四月一日に、社報『靖國』が発行された。遺族・崇敬者と神社との緊密を促進するための発刊で、当初は年四回の季刊だったものが、昭和三十四年からは、毎月一回の発行となり、今日に至っている。初期の紙面がどうであったか‥‥、今にはっきりと覚えがない。大きさも、現在のようなB五判でなく、B四判のような大きい紙面であったと思う。今、手元に当時のものがないので判然としないが、それでも御製は記されておったと思う。それが第一面だったかどうか、自信がない。備中さんの指摘、憂慮はよくわかるものの、社報の第一面は、表紙ではなく、新聞同様の第一面なので、備中さんの言うように、畏きものを記すとしたら、第一面に御製を示すしかないのでは?‥‥と、私は思うのですが‥‥。では、埃の被りにくい二面はどうかと云うと、今度はめくっての次の頁に、御製があれば、「格下げ」と云う雰囲気、よろしからなぬ位置になってしまう畏れもある。最近、小林よしのりが、『天皇論』と云うものを出したが、その「帯」に、天皇陛下の肖像が、小林のマンガで載せられている。こう云うのを、本当は少し××さないと、世の中から、どんどん尊崇が消えてしまう。右を向いても左を向いても、稼ぎの為にネタにしている連中ばかりである。なんとか、「九段塾」を表舞台に登場させて、注目を浴びせてから、中興の志士を募りたいと、私は最近思うようになって来ているが、その話は、また次の機会に。

 この社報『靖國』は、かつて「神道文化会」から、「神道文化賞」と云う賞を受賞したこともある、神社界屈指の格調高いものだった。それが、今では、かしこき御製の真下にある「靖濤」は、下賎な――時には、下卑たコラムと成り果てている。書き手のせいである。更に裏面の祭神遺稿の下には、商品やらイベントやら、会員募集やらが掲載されて、編集者が祭神や遺稿に、なんら敬虔も畏れもなくなったことを暗示するかのような、惨憺たる有様となっている。最悪なのは、昨年の八月号に、『南京の真実――七人の死刑囚――』の宣伝広告を掲載したことだ。この醜悪な映像宣伝を、祭神遺書の真下に掲載することを許可した当時の南部宮司は、これで神霊の怒りを蒙った。決定的だろうと、私は思った。やがて松平宮司のお呼びがかかって、南部宮司は霊界に逝かれたのは、閲覧者は既にご承知だろうと思う。そして今も、くだらない話を「靖濤」に書き続ける編集者がいる。毎月八万部、―年間で百万部も社報は発行されているが、くだらない記事が遺族や崇敬者の手元に垂れ流され、膨大な紙の無駄遣いになっている。それが、現在の靖國神社「社報」の現実だ。大体、この社報が私達の手に届くのは、月が改まって四、五日目だ。ところが巻頭にある今月の祭事紹介に、「一日(水)月次祭(午前十時)」と書いてあっても、もう既に終わっていると云う、お粗末な話だ。発送の手抜かりか、神社の怠惰だろう。そして今月号の「靖濤」に、またまた不謹慎な話を、筆者は――おそらくいつもの書き手が、性懲りもなく書いている。話は、こうだ――。今日は複写が疲れるが、全文掲載しよう。いかに駄文を書き連ねているかを、諸氏にも知って戴こう。しかし今夜は長くなりそうだ。どうするか。ここらで一応終わりとして、残りは明日に回すか‥‥。そんなにいい話ではないので、読み手が不快になることばかり。穢れの話は読むのも疲れる。‥‥そうだ。明日にしましょう。原稿は出来ているので、明日のお昼過ぎには載っけておきましょう‥‥と云う予定にしてもらって。それでは。
 

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  • 中興こそ、「九段塾」の狙い。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 9日(金)18時43分22秒
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■平成二十一年六月二十二日

維新政府が、厳然とある。

 しばらくぶりに書きます。もう、ご存知の方は知っておられるでしょうが、英霊にこたえる会の倉林和男氏が亡くなられた。聞くところによれば、癌のようだ。もうずいぶん昔になるのか、草地貞吾氏や『パール判事無罪論』を書いた田中正明氏などと、それぞれ机を囲んで、談論したことが思い出される。倉林氏も大きな声だが、それに輪をかけて大声だったのが、草地氏や田中氏であった。草地さんだったか、田中さんだったか、どちらかの方が熱論に興奮されて、机を叩いているうちに、血が凝集して倒れたことがあった。その時の倉林さんの対応が素早かったのを思い出す。小泉総理参拝があるまでは、総理大臣靖國神社公式参拝運動に、それこそ、総てを燃焼させていた。熱血漢であった。ただ、晩年は‥‥、いろいろなしがらみに身動きがとれなくなり、散々な眼にもあったようだ。最近は、私とも疎遠になってしまったが、晩年は健康にすぐれなかった。昨年も街で会った時は、まだまだ行けると思ったが。九段会館から、英霊にこたえる会の事務所を靖國神社の遊就館に移すのを、私は随分反対したものだったが。今夜が通夜で、明日の朝、早い時間に告別式だそうだ。倉林さんも思い残したことが、多々あるだろうと思うが、もう、よかったんじゃないかなとも考える。「私は‥‥、まだ死ねないよ。やることがあるのでね」。冥福をお祈りします。お元気で逝って下さいね。

 さて、靖國神社十代宮司に就任された京極高晴氏。今は、あちらこちらに挨拶周りで、お忙しい毎日を過ごしているだろうと思いますが、先だって神社職員への挨拶があったようです。今後、新宮司も、この「九段塾」はおそらく見ることになると思うので、少し早めのうちに、幾つか心に感じたことを書いておきたい。京極宮司の職員への挨拶は、ほぼご自身の出自である京極家の歴史を、延々と語られたようです。要約すれば、京極家の遠祖は、平安時代の第五十九代宇多天皇を祖とする宇多源氏に始まる。臣籍降下による皇胤の家系で、武家としては近江国に、佐々木を称する一族を形成した。近江源氏・佐々木源氏として称され繁栄し、各地に一族の流派を広げた。この佐々木一族から、京極家が派出して来る。近江の守護人佐々木氏が、大きく台頭して来るのは、鎌倉時代である。承久三年――、倒幕の旗を掲げた後鳥羽上皇の討手として、鎌倉幕府側の武将佐々木信綱が登場して来る。この信綱は、宇治川で後鳥羽上皇軍を破る功績をあげ、そのおかげを以って近江の地頭職を得て、更に所領を拡大し、権勢を広げて行く。そして仁治三年、佐々木信綱は六十一歳で歿するが、その際に四人の子供達に、近江の所領地を分けて継がせるのであるが、四男の氏信――この方が、京極氏の家祖となる。氏信は、江北六郡と京の京極高辻にあった館を譲られた。それが京極家の始まりである。しかし京極氏信は、新宮司京極高晴氏の直接の祖先ではない。その系譜の祖は、戦国時代まで待たなければならないのだが、この京極家の歴史を調べてみると、先にも書いたように後鳥羽上皇の朝敵となっているのを始め、彼の南北朝戦乱の真っ只中には、京極高氏(佐々木導誉)と云う、稀代のバサラ大名の代名詞ともなる人物を登場させている。京極高氏は、足利尊氏と密約を交わし、時に鎌倉幕府方につき、時に寝返り、後醍醐天皇方へ。そしてまた朝敵として楠木正成と戦うなど、有為転変、術数権謀、乱世を生き抜いた男として、はたまた社会の秩序を破壊しまくった新興の武士として、多くの作家が小説化しているのは、よく知られた所だ。私は――、この京極高晴氏が新宮司として、靖國神社に配されたのは、やはり神霊の何かの因縁・因果・縁起ではないか――、そのように私流に感じたことである。つまりこの京極家の歴史を知ることは、鎌倉幕府から、南北朝の時代――即ち後醍醐天皇・北畠親房・児島高徳・大塔宮護良親王・菊池武光、そして我が史編に尊皇の熱血を染みらせ、その姓名誠忠を万古に記す楠木正成・正行の大楠公・小楠公など、勤皇の歴史を知ることになるからだ。これぞ、神霊の賜物か――とも、私は思った。まさにこれは、私に書けとも――言われているのかとも、カッテに感じたものである。

 靖國神社の正統とは何かを語る時、勤皇の志士を語る時、その背後に流れるのは、皇室尊崇の思想であり、皇国史観であろう。この時代を著した軍記と云えば、『太平記』である。後醍醐天皇の御世から足利幕府成立後までの五十年間、文字通り治乱興亡の歴史が、鯨波のごとく散りばめられている。幾十、幾百もの忠臣義士が登場し、忠烈無比、誠忠を奉じて、天皇を守護奉らんとする臣下の戦いが描かれている。この際、此処で、よく話しに聞く楠正成や北畠親房・児島高徳・菊池武光など、尽忠の武将達がどのような人だったのか、またこの南北朝の争乱とは、どのようなものだったのか――。私は一度、整理して書き残したいと思った。忠義忠孝とは、なんなのだ――。櫻井の別れとは、なんだ――。切れ切れに覚えている話を、「九段塾」で、一度じっくりと、『九段塾版太平記』を連載して、閲覧者に通して読んでいただき、頭の中に熱誠を組み込んでもらおうと思った次第。こう云う発想は、新宮司に京極高晴氏が就任しなければ、出て来なかった考えである。勿論、既に閲覧者の多くが『太平記』を、一度は読んでいるだろうが、しかしまだ読んでいない人も、当然多いと思っている。断片は知っていても、通した話は経験していないのではないか、と。『太平記』を下敷きとして、『九段塾版太平記』を連載してみるのもいいことだろうと考えた。この際、きちっと歴史人物を把握しておくことは肝要と判断したからだ。私自身が、少々あいまいな所がある。皇室尊崇の思想が全篇を一貫して流れる『太平記』には諸本あり、それぞれ中味も違うが、要は『九段塾版太平記』である。まだ全編を構想したわけではないが、とりあえず京極家の流れを踏まえながら、「書き起こしてみたい」と思った。あくまでも靖國神社の正統を知るための知識の一つとして――、京極家と歴史の関わり合い、南北朝の戦乱――である。上手く行くかどうかはわからないが、挑戦してみます。そこで、備中さんには、この時代に関わる多くの先賢の書き物・評論・教えがあると思いますので、随時、再掲でもかまわないので、どしどし洪水のように流して下さい。いわば尊皇のシャワーを浴びせてもらいたいと願っています。

 ‥‥どうも話が、新宮司の話から膨らんでしまったが、もう一度、新宮司に話を戻すと、京極高晴氏が職員挨拶で、京極家の出自を話されたのは、もしかしたら、賀茂宮司・筑波宮司・松平宮司・南部宮司と云う、歴代宮司の出自・名前などから、この靖國神社には由緒ある大名や名家が、代々宮司になる慣習があるものと、勘違いしておられるのかも知れない。それで、最初の就任挨拶に、長々と京極家の家系・出自を話されたのだろうと思う。その京極家の話だけで、ほとんど挨拶は終えてしまったらしい。肝心要の「精一杯、靖國神社の神霊に、精魂こめて御奉仕させていただきます」と云う挨拶は、忘れてしまったようだ‥‥。前途、多難を思わせます。靖國神社には、大名・名家はまったく関係ない。靖國神社は――、大政奉還・王政復古の大号令により、御位につかれた明治天皇により、創建された神社。その創立史に、徳川も南部も京極も、何の関係もないものである。あるのは、維新政府の精魂が、連綿と続くのみ。――だから、今もって西郷も、二二六将校も、祭られていない。維新政府が、今も厳然と続いているからだ。京極新宮司には、明確に理解して欲しいところです。それでは、また。



■平成二十一年六月二十四日

中興こそ、「九段塾」の狙い。

 昨夜――、たまたまであったが、TBSで放送された(東京では‥‥だが、地方ではどうなのか不明)三代か四代の家族十一人が一緒に暮らす農家を、一年間取材した様子を、二時間ほど流していたのを前半だけ見た。『キミハ・ブレイク――日本の原風景――里山で暮らす四世代十一人家族』。用事がなければ全部見たかったが、なかなかのものだった。登場人物が、である。福島県二本松の山奥。数軒が寄り集まった集落がある。山の斜面に建てられた家々までは、新聞配達人は上がって来てくれない。そのため街道のバス停の所に合同ポストを用意して、そこに入れてもらう。そう云う山地に住む、大家族の話である。例によって、小うるさいきゃんきゃん泣くガキドモが、乱雑な部屋の中を暴れまわる中で奮闘する、肝っ玉母さんの話かと思っていた。見た瞬間――五秒で、違うと判断した。咄嗟のインスピレーションで、私のイメージした理想の具現化があると察した。野の淵で、水の神様にお祈りする子供達の姿が写った瞬間である――。わずか二、三秒である。フラッシュ映像と云うのだろうか、話が始まる最初の段階で、これから紹介する映像の断片が短く紹介される――、そう云う場面だったが、一瞬に瞼に焼きついた子供達の「祈りの姿」は、「本物」だった。「これは本物だ」。たった一つの映像――生活の断片を切り取った画面だろうが、それで、この一家の総てが理解できた。祈りの姿に、この一家――と云うより、一族の生き様・長い慣習・染みとおる教え・家風に教化された伝統のふるまい‥‥。さーっと、清流の飛沫を全身に浴びるような心地よさに、私は見舞われた。用事で訊ねて来ていた婦人に、私は声を発した。「これは凄いぞ。本物だ」。井戸の水の神様に感謝する子供達の姿に、この家の、いや、大仰に言えば、日本の正統をかいま見た思いである。やはり、まだ「いたかー」と、思った瞬間である。

 尊崇・敬虔・崇敬・敬神。この十一人家族の一年は、この言葉で仕切られている。普通の感覚で、普通の家族であるが、自然を受けれ、自然の猛威を日常で感じ、実に礼儀正しく、秩序正しく、生活している。ちょっと言葉で表しにくい。あまり褒めると、嘘になりそうで。この番組を、TBSは何度も再放送してもらいたい。一番上のおばあちゃんが九十三歳。この一代目を中心にして、一家の一年の日々の生活を、されげなく紹介した番組。そんなにドラマチックではない。が、内容は劇的だ。この一家の出勤・登校・洗濯・掃除・談話、あらゆる生活の隅々まで、尊崇・敬虔・謙譲・敬神が染み通っているのだ。見ていて感動の連続である。ここに、戦前の生活があった。ごく普通に、山の神・土地の神・農の神に感謝し、水の神・畑の神に感謝する姿が、さりげなく日常の生活の中に溶け込んでいる。三女が高校受験の勉強を、家族が集る居間で、深夜まで一人勉強するが、頭の上には、誠に見事な、今迄、見たこともないような大きな神棚があり、天照大神・大国主命・産土神が祭られている。この女学生は合格するだろうと云うことが、すぐにわかる。子供達は、親の働きを助け、農作業を輔け、一番下のヤンチャ坊主でさえ、上の者を見て、自分も真似る。これならいつの間にか、人格者に成長して行く理屈になる。日々の神が微笑んでいるのが、よくわかる。朝、登校する時は、必ず九十三歳の一代目のおばあちゃんに挨拶してから出かける。ごく自然に、「行って来るでー」と、言葉は気楽だが、わざわざおばあちゃんの所へ寄って、足を向けて、「声かけて」出かけるシーンは圧巻だった。この番組を作ったディレクターもプロジューサーも、このシーンをわざわざ中盤に持って来たのは、おそらく現場で感動したからだろう。私にはそう見えた。雪が道の両側に残る山道を駆け下りて行く。その姿が、不精を感じさせない。映像では出なかったが、学校でも素晴らしい立ち居振る舞いを、自然に行っていることを思わせる。きちっとした生活が、娘達を美しくさせている。二本松少年隊の歴史が、本物だと思わせるに充分であった。春夏秋冬に感謝する姿が、父母に感謝する姿が、朗々と描かれて行く。決してその姿を描いているわけでなく、笹の葉で作った煤払いや米の収穫では、子供たちが泥水に漬かり、両親を助ける。漬物のつけかたを、二代目のお婆ちゃんから教わる母親の姿を、まじまじと見ている子供達。家族全員が集る居間の周辺の整頓・清潔さが、この一家の本物さを表現している。民家の伝統文化の継承が、当たり前のように行われている。その飾らない日々の映像を、単に見せているだけだが、語りかけて来るものは、日々の尊崇・敬神の充溢した生活であった。

 正月三ケ日が明けて――、父親が畑の神様に榊と供物を捧げ、頭を下げる姿は、慄然とするものがある。これほど敬虔な祈りを見たのは久しぶりだ。高台から遠景で父親の拝跪する姿は、光り輝いていたように見えた。此処に――なにか、「九段塾」が求めている――、いや、塾頭としての私の求めている、日常の理想があると感じた。解説は無かったが、仏壇には海軍将校姿の遺影がちらりと写っただけだったが、あって当然だろうと思った。冬は寒気物凄く、零下の気温では、農作業は不可で無収入となるので、一家の大黒柱である三代目のご主人は、建設仕事のアルバイトをしなければならない。子供達が四人も五人もいるので、国から補助が少しは出ていると思うが、こう云う家族を、もっと国は楽にさせてやりたい――と思ったものである。昔の日本が戻って来るきっかけになる。子供達は、親を敬い、祖母を敬い、家を敬い、神を敬い‥‥、言うこと無しである。戦前の家族、そのままだった。それで、かたぐるしさはなく、子供達はいきいきと、新鮮な童として、少年少女期を過ごして行く。撮影スタッフの声が、画面外から聞こえて来るが、このスタッフすら、いつのまにか感化教化されて、年下の子供達を尊敬していることが、言葉のハシハシに感じられた。スタッフが礼儀正しくなっている。浄化されて行く。

 この形――此処に還るのが、私の願いだ。なんとか、此処へ戻る手段は無いものだろうか。この家族が、日本の核だ。この家庭、この家族、この恩師、恩愛・恩顧・敬神・崇敬――、此処が一つの理想だ。私は、一つの理想を見た。具現化する手がかりを得た思いである。この地盤が無くては、尊皇勤皇は流れ出ない。戦争は出来ない。日本の正統は伝承できない。まず人づくりだ。そのために、学問が必要だ。この一家には、家風に尊崇と謙譲が備わっている。生活の中に、怠惰・ふしだらを排する教えがある。なんとか、日本中をここへ戻したい。娘達も学校を卒業すれば、街へ都会へ働きに行くのだろう。そこで身についた躾・習慣も、次第に流出して、やがては流浪する現代人になってしまうのだろう‥‥と思うと、やり切れない。ところが、既に十七歳で働きに出ていた長男が、正月に帰って来た。十九歳である。電力会社勤務で、電線架設の作業員だ。帰省したその姿は、ほとんど変化していなかったように感じた。父親と夜遅くまでしゃべっている。家族としゃべっている。十九歳だと云う。この青年が、いつまでもこの家族で、家風で、身につけた習慣・恩愛の精神を、現代社会でも流出しないで生きて行けるには、同じ躾を受けた人々が、社会にいればいいのだ。泥水に一滴の清流を落としても、泥水は綺麗にならないが、その一滴が次第に多くなっていけば、悪貨を駆逐して、やがては泥水が後退して、清水になる――。エントロピーの法則か。やがて均一化する。熱湯を冷水に流し込み続ければ、熱が伝播し、冷水温度が変わる。「日本を元に戻す」具体的な方法の、一つの手がかりになると思った。明治維新では、上から入った。今は、上からまだ入れない。下から入るしかない。浸透である。変化ではなく、中興である。そのために、学問である。学問が人を育てる。「ちゃらお」・「おたく」がいくら集っても、「中興」は不可能である。NHKをいくら叩いても、自然は戻らない。正統は作れない。尊崇は生まれない。「ちゃらお・おたく王国」には似合いのオモチャなのだろうが、やるべきことが違っている。昨日のTBSの、この番組を遊就館で一日中流せば、相当感化する人間は増えるはずだ。南朝の天子を語る時、この一家なら、黙って最後まで聞いていることだろう。そう云う家族を、家庭を日本中に増やすことである。枯れた根を、再度立ち上げる――中興が必要だ。そうすれば、靖國神社の正統は、黙っていても、国民が理解する。そのために、今回の南朝の天子の物語は、必要の一つだと思っている。



■平成二十一年六月二十九日

血の慟哭が始まっているのではないか。

 ここのところ、あらためて『太平記』全巻を、時間があれば、一頁一頁読み進めている。次々と朝敵も御身方も、戦いの利なければ、何十人、何百人の将士が一同に座して、腹を刺し、切り開き、死んで行く。忠臣楠木正成も、こらえることなく命を絶って逝く。そう云う場面の連続である。壮絶と云うよりも、今の時代とは違う死に所に、ついつい感慨に耽る時間が長くなり、重く深い溜息をつくこと、しばしばである。今夜は、もう休もうと、机の上をそのままにして、疲れた部屋の空気をほぐすため、テレビのスイッチを入れ、洗面所で顔を洗っていると、突然、歌声が流れてきた。水道の蛇口を止めて、耳を澄ますと――、
「干戈交ゆる幾星霜 いさおの陰に涙あり‥‥」
軍歌だ。テレビで流しているのか? 私は慌てて居間に戻って来て、テレビ画像を見た。六人の男性コーラスが、シンプルな背景だけで、姿勢を正し歌っている。私は、顔を拭くのも忘れて、テレビを凝視し続けた。
「花も蕾も若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは‥‥」
今度は『ああ紅の血は燃ゆる』を、彼等は歌い出した。なにか、突然、涙が吹きこぼれそうになって来た。昭和三十年・四十年代ではなく、今の時代に、「国の大事に殉ずるは――」と云う言葉が、テレビから流れ出すとは思いもしていなかった。金縛りにあったように、私は六人の男性コーラスの歌う軍歌に聞き入っている。歌は二番目に入った。
「後に続けと兄の声‥‥勇みたちたるつわものぞ‥‥なにをすさぶか小夜嵐 神州男児ここにあり‥‥」
慌てて、傍にいた者に、「なんだ、このテレビは!? なんと云う番組なんだ、これは」と、私は叫んでいた! 次から次へと、軍歌が流れ出した。同期の桜・暁に祈る・露営の歌・月月火水木金金・りんごの歌・朝は何処から、と、戦中戦後の軍歌・歌謡曲が一時間、切れ目無く歌い流れた。今夜の十時からの一時間番組。BS日本テレビの『こころの歌』と云う番組だった。

 BSならいいのかー? こう云う軍歌を流すことが出来るのか? 皇軍・御国・国の使命。こう云う言葉が、次々とテロップで歌にあわせて流れる。その漢字をみれば、今の時代の人でも、ある程度は意味がわかるはずだ。番組スポンサーの社長は、著名な保守陣営の人だ。はっきり言って、右翼である。そうか、こう云う作りなら、今の時代でも、軍歌は流せるのだ――、それもBSなら可能なのだ――、と思った。一つの燭光を見たような気がする。本当に出来るのかどうかは、無論、私にはわからないが、しかし現実に一時間、軍歌が流された。それも皇国史観に染まった、軍歌ばかりである。私は、いつのまにか、直立して聞いていた。心のもやもやが、どんどん溶けて行く。代わってどくどくと、赤い血が流れ出していることを意識し出した。なんの解説も無いままに、黙って軍歌と歌詞が流れるだけだったが、この大型ハイビジョンの画像で、茶の間に軍歌が流れるのは迫力もあり、美しく、そしてなにより気持ちがよかった。歌詞の内容がである。軍歌だけでも、特定の視聴者はいる筈だった。この歌の合間合間に、私自身がテレビに出て解説をしたい気持ちに、ついつい駆られてしまった。『暁に祈る』では、唄う男性コーラスの六人が、「輸送船」がどう云うものだか、よくわかっていない唄い方だった。南方に戦いに行く兵士を、ツワモノを載せた輸送船だ。大東亜の夜明けのために波濤を越えて征く、聖戦を支える将兵だ。もっと力強く、勇壮に。叱咤激励したかった。

 つまり私が発想したのは、こう云うことが出来るのであれば、皇国史観に溢れた中で、『太平記』を語りだけでもっていけないか――、映像的には実写の笠置山とか赤坂の城跡とか、あるいは図像などを駆使して‥‥・。まあ、細かい所は専門家に任せるとして、ともかく尊皇思想を映像で描くことも可能だし、それを茶の間に、「歴史絵巻」として紹介して行くことも出来る。軍歌を基にしても、「戦前」を描くことは可能だろうし、現代人に「戦前の思想」を伝えることも出来る。軍歌と歴史物語をセットにしたものでもいいし。ともかくもテレビを通じて、戦前の教育・家庭・社会・しつけ・思想などを、しっかりと真正面から語り、それを伝播させることは可能なのではないか――。そう思った次第。つまり既存のマス媒体を使って、放送する道も一つあると考えた。あとはスポンサーの説得である。至純・至誠。これが全編に溢れた映像なり、解説なりで作り、全国にオンエアして行く――。ともかく清潔でなければならない。不純な雰囲気は、一切排除した画像。ある団体のテレビ画像を見ると、話すキャスターの姿勢が大体悪く、猫背で、着ている服もだらしがなく、普段着のままと云う感じ。風体からして、普段の生活を想像できるだらしなさだ。場末の人間を感じてならない。使う言葉も悪いし、しゃべり方も汚い。烈風・清風を感じさせない。日本の右翼がこんな程度だと、誤解されるのが迷惑だ。こう云う人間が、いくら日本文化だの、我々父祖のなんたらどうかだの、しゃべっているのを見たら、二度と見たくない――と、普通の視聴者なら思うのではないか。忠義・誠忠とは、かけ離れた所にいる存在だ。皇国史観の根底は、姿勢である。姿勢を高めること。それを国民に伝えたい。‥‥そう云うことが、発想として思いついたので、とりあえず書いておこうと思った次第。無論、なにもわからぬ者の思いつきだが、この発想で行けば、靖國神社の正統とはなにか――も、テレビで放送することも出来るのではないか‥‥。先日のTBSの放送した『日本の原風景。四世代の家庭』に見るように、本当は、今、国の底辺で、「規律・至誠・至純」を求める日本人の血の慟哭が始まっているのではないか‥‥と思った。試行錯誤して行きたい。
 

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  • 「九段塾」の畢竟の命題は、「常識」を鍛えよ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 8日(木)19時08分12秒
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■平成二十一年五月二十一日

うるさい。

 ○○○○○さん、うるさいな。わずらわしい。もう帰りなさい。三島が好きなら好きでかまわんが、此処は議論するために立ち上げた塾ではない。特攻隊の霊が浮かぶ浮かばないと云う、世俗の話は、よそでして来なさい。靖國神社に祭られる祭神には、関わりのない話だよ。こう云う世俗の話は迷惑だ。○○○○氏が、折角、いい話をして来ているのに、あなた一人が浮いた話をしている。此処では、そう云う立場だ。空気を読んだらどうかね。

 はっきり言って、私は、三島が嫌いだ。あの胸毛も、人工的な肉体も、大っきらいだ。生理的に拒絶する。吐く息さえ嫌だった。彼とは、緑ケ丘時代に、三度、彼の家で会っている。奥さんがいたから、結婚した当初だ。傲慢で、生意気な男だった。子供っぽい男だ――と、その時思った。文学の天才性は認めるが、私は、人間が好きではない。常に蔑視を、腹の底に備えている。どうしたら上に立てるか――、そればかりを考えていた男に思えた。生まれつきのものだろう。どうだね、もう、帰りなさいな。私の安眠が邪魔される。この「九段塾」で、「天皇」と云う言葉を弄ぶ、小手先の上で遊ぶことが不快だ。あなたの今が、そうだ。云うことを聞いて欲しい。しばらく閲覧に徹しなさい。進行の邪魔になる。



常識を鍛えよ。

 日露戦争が始まる頃になっても、小学校の就学率・出席率は、まだ七十、八十%だった。が、しかし、学校で、日清戦争の武勇伝を教わる子供達は、その十年後、日夜、筋骨逞しく身体を鍛え、朝鮮半島に突出して来たロシア軍に、銃剣を構えて吶喊して征く、若き兵士に成長していた。天皇への忠義忠節の思想は、日本全土を覆うっていた。これは、学校教育によることは否定できない。無論、当時の新聞・文壇界の影響も大であろう。しかしこの時代でも、無学文盲者はいた。江戸時代に生まれ育った古老、老人達である。この老人達は、「天皇陛下」とは云わなかった。「お天子さま」と呼び、神に等しい尊崇の念を抱いていたと、『明治大正見聞史』を書いた生方敏郎が書いていたのを記憶している。この老人達の天皇陛下への尊崇の念は、明治以降の教育によるものでなく、江戸時代からのものだろうとも言っている。即ちそれは、庶民の常識としての尊崇であろう――と、私は考えている。この常識が、現代、多分、無くなって来ている。

 ○○○○氏が、宮様への敬称・不敬について、妙な質問を仕掛けて来た。この忙しい時に、迷惑な質問だとも思うが、答えてやらにゃなるまい。ちょっとばかりの縁故者であれば、仕方がない――と思うから、答える。備中さんが、公儀についてだけは答えてくれている。その通りであろう。俗世のどうでもよい話には触れていなかった。そこだけ、私が答える。フィクションの世界での敬称の話だ。かぐや姫や桐壺の帝のことを、どう呼んだらいいのか――と云う話。これはねえ、常識なんですよ。普通の常識があれば、「桐壺のやつはさあ」、「かぐや姫なんかはよう」、こう云う言葉は使わずに、普通に「桐壺の帝は、大層お優しい方」とか、「かぐや姫を一目みたくて、帝はわざわざさぬきのみやつこの家近くまで行ったそうだが」。こう云う言葉で、話せばいいことだ。これが「常識の世界」の話だ。桜の掲示板でなにを読んで、はて?と思ったのか知らんが、○○○○氏とあろう者が、首を傾げることはあるまい。また、私を試しているのかね。門衛を通過する時に、どちらが先に敬礼するのかとか、調練とは何かとか?

 臣籍降下した方は、宮様ではないにしても、「××様」をつけてもよし、「××氏」でもよろしいでしょう。なにも「じゃ、××さん」でもいいか――、と云うのは、常識をわきまえれば、それは不遜でしょう。ただ臣籍降下した方を、あまり崇め奉ると、また「有栖川宮殿下」事件みたいなことが起こってしまうよ。竹田と云う若様は、そのすれすれのところで、今は、御活躍のようだが‥‥。それよりも――、私の仲間が言っていたが、
『最近、臣籍降下された黒田清子様などは、今上天皇の第一皇女・紀宮清子内親王であられた方であるにも拘わらず、いきなり「さん付け」で呼ぶ、当代の風潮が問題ですよ』
と言う。常識が消えた――と云う世の中に問題がある。では、これで。しばらく日清戦争に没頭したい。この大戦に、あまり最近は触れるものがいないが、この大戦争が、一番重要だろう。日本の近現代史では――、と思う。○○○○さん、しばらく質問は無しです。常識を鍛えて下さいな。そうそう、田中静壱陸軍大将の話はよかった。



■平成二十一年六月十日

「九段塾」畢竟の命題は、「常識を鍛えよ」。

 しばらく日清戦争の祭神について、いろいろ調べておりました。まだその最中であるが、改めて祭神の業績一つ一つを辿って行くと、思わずペンを置いて、心を放擲してしまう‥‥。しばし眼を閉じて、想いに耽ること多々とある。日清戦争は、厳寒の朝鮮・満州、そして渤海を主戦場として、日清の兵士が戦った。凍結した大地に、清国兵の逆襲に次ぐ逆襲は、皇軍を凌ぐものがある。陸軍大臣官房監修の戦史を辿れば、両国将兵の壮絶さが、ひしひしと伝わる。とりわけ今現在、心に置かれているのが、維新の時に賊軍となった東北雄藩の旧藩士出身者の活躍だった。とりわけ目立つと云うのではなく、心に残る――と云う感じか。祭神にはなられていないが、元白虎隊で、ただ一人生き残った人が、日清戦争の時には、戦場に電線を架ける業務に携わり、「自分の命は飯盛山で、既に消えている」。そう言って、人が止めるのも聞かず、弾丸飛び交う戦場の中へ、電線を担いで突撃して行く姿や、想像を越す厳寒の威海衛では、魚雷発射管を氷結させてしまい、戦闘不能にさせたことは自分の責任であると、元会津藩士子息の上等兵曹は、汚名を蒙る不名誉を愧じて、海戦勝利の後に、水雷艇内で自刃した。その忠義忠魂は、鬼哭神泣として、靖國神社祭神となった話などは、調べる途中で、いつしかノートを置いてしまう。忠魂の歴史は、まさに日本国民のうねりだとも言えよう。あの靖國神社本殿内陣には、幾百万、幾千万の国民の血潮、忠義忠魂がこめられて、今も日々凛然として、靖國神社参拝に来る人々を見つめているのだ‥‥。

 しばし「九段塾」の投稿を見れば、「常識を鍛えよ」と教えた○○○○氏が――、よくぞ、私の言ったことを理解して、返信めいたものを書いていた。よく出来ていると思った。本殿階下に置かれた奉納真榊。
『もしも私が、その場にいると想像した時に感じたのは、その現場に私が居合わせたとしても、私には不敬である事が、その場の自己判断ではまったく判らないだろうことです。今まで散々、塾頭先生や備中處士様らの教えを受けてきた私ですが、日常生活においては役立たない、死に学問でしかなかったと言うしかありません。こういう場面において、本殿階下に設置している真榊を見た瞬間に、不敬であることが即座に判るのが、常識というものだと私は思います。』
たいしたもんだ。よくぞ、理解したと思う。事は「瞬間に、それが不敬であるかどうか、それが即座にわかるのが、常識――」。まさに「九段塾」は、これを究極の問題として、立ち上げている。「瞬間に――、これが正統なんだ。それが正統であると考える」正鵠の修得を目指しているのです。その常識が、まったく理解できていない――、気が狂ったとしか思えない、得体の知れない人間が、今、靖國神社の神職として住み着き、靖國神社の正統を解体しようと躍起になっている。そう云う人間がいる。

 今月の社報「靖濤」に、とんでもない、キチガイか発狂者か――、オオバカ者が書いている。本殿にある大神鏡。明治十年十一月十四日、西南戦争戦没者の合祀臨時大祭に行幸された、明治天皇よりの幣帛料をもって謹製、神前に奉安された大神鏡について触れている。なんと、書いてあるか――。「この神鏡は、参拝者の視線から、御神座を遮る役割を果たしている――」と書いてあるのだ。参拝者の視線から、神座を遮る為に置いた、だと――!!! 首を出せ! まさに打ち首同然の大不敬を書いているのだ。社報の「靖濤」欄は広報課長が、従来書く慣習がある。してみれば、この文章を書いた者は、社報編集人と明記されている宮澤佳廣氏である。彼が広報課課長であるからだ。文体からも彼の書いたものと、およその推測が成り立つ。その判断の上での追及である。数年前に、神社本庁から来た者だ。とんでもない男である。始末書とか、懲戒とかのレベルではない。靖國神社からの追放である――。それほどの事を書いたのだ。また彼一人だけの問題ではない。靖國神社統率者の責任にも波及する問題ではないか。一体、いつ、参拝者からの視線を遮るために、神鏡は置かれたのか――。何故、参拝者の視線を遮る必要があるか――。この文章を書いた者は、当然の如く戦後生まれである。靖國神社の本殿における参拝者は、「国民だと」思っている。このオオバカ者メ!! 大神鏡は、明治十一年に、神前に奉安されたものだ。そして、この本殿で参拝者となれば、天皇御一人である。神宝であるべき神鏡――、それも明治天皇奉納の大神鏡を、「参拝者の視線を遮る」などと、衝立のような道具に、「靖濤」の書き手は見立てたのである。これを大不敬と云わずして、なんと云う言葉が他にあるか――。あの本殿にある大神鏡は、御簾や壁代などの屏障の用具では無い。靖國神社の常識とはなにか――。天皇臨在、神霊在住、これしか無いと云うことだ。神がいる如し――、では無い。「如し」では無い。「実在」しているのだ、天皇も、神々も、この靖國の斎庭には。この常識がわかっていないから、玄関先で南京のビラを撒くヤツも現れれば、昭和殉難者を「死刑囚」なぞと、忌まわしき題名映画を、遊就館で強行上映する宮司も出て来る。南部宮司は、昭和天皇御陵参拝を許されなかった。その出発の前に、急逝された。皆、祭神の罰を受けている。いい気になって急坂を駆け上がって、絶頂に昇っている気になっている者は、突然、堕ちる――、罰の法則である。それが今度は、明治天皇奉納の「本殿大床」に置かれている大神鏡を、「遮蔽物」の一つにする幹部神職が躍り出て来た‥‥。

 今夜は書き始めが遅かったので、もうこれ以上は疲れで書けないので、明日か明後日までに、「靖國神社の常識とはなにか」。それと、一体、奉仕者とは何か――。先の南部宮司が躓いたことの繰り返しを、次の新宮司が踏襲しないように、少し話を広げて書いておくつもりです。とりあえず「いかに『常識を鍛えるか』、それが、九段塾の畢竟の主題」である。この常識さえ取り戻せば、復興の道は開ける――。これを諸氏は、念頭において下さい。それでは、おやすみなさい。



■平成二十一年六月十二日

実在に心を落とせ。

 一昨日の続きです。が、一旦間隙を空けると、どうも空気が抜けて、後が続かない。要は、靖國神社の常識と云うものは、常に「天皇が臨在」し、「神霊が実在」している――と云うことを心得ているかどうかで、奉仕の程度が量れると云うことです。今、この文章を書いている時に、やっと、靖國神社の新宮司が、正式に外部に公開発表されたようだ。京極高晴氏。一般的にはさほど知られた方ではない。七十一歳。定年までに、あと四年しかない。新宮司選定にあたられた方々の心根が、よくわかるような選定である。一体、どうするのか? 新宮司は四年で交代です。次に誰かを予定しているのか? それとも誰もいなかったので、とりあえず決められたのか? 新聞に掲載された情報だけを読むと、神道人としての経験は、まったくない。靖國神社に対する御意識が、どのようなものであるかもわからない。ただ前宮司のように鳴り物入りでないことが、少し安堵する。これから二十九日には、御創立記念日祭が控えている。新宮司としての、初御目見えとなる。宮司作法を、さぞかし日夜猛練習だろうと推察するが、ともかく振り仮名をふってでもよいから、祝詞だけはしっかりと読めるようにして戴きたい。御付の方に、くれぐれも申し伝えたい。無理に暗記させる必要はない。しどろもどろだけは、神霊に不敬となる。新人であることは、いささかも構わない。祭式は、しっかりと覚えればいい。行事作法は、お付が指導すれば充分に出来よう。新宮司に必要なことは――、神祇に対し、御存生同様に奉仕する――ことでは無く、「実在」することを、明確に伝達、徹底して覚えさせることです。深夜、回廊に伏して、神霊にお願いすることです。神威を戴き、神霊よりの達しを、身に受けることです。俗に言えば、霊感を身に戴くことです。さすれば、祭式・秩序・次第・厳修は必然ですから、それを以ってすれば、立派に宮司職が果たせるでしょう。天皇が常に臨在し、神霊が実在する所。このことを、新宮司には伝えたい。もう少し昨日の続きを書くつもりでしたが、予測よりも早く新宮司を発表してしまったので、いささか慌てた次第。いろいろ次期宮司問題にかけて話すことがあったのだが、もう時期を逸したのでやめた。定年までの四年間、京極新宮司が、これまでの荒れ果てた靖國神社社稷に気づき、以って賀茂百樹宮司・松平永芳宮司の遺訓を受け継ぐ英姿を見せていただければ、定年は何年でも延ばせばいいこと。ながらく靖國神社復興の礎となっていただく。

 つい先だって、四十六年間務めた祭務部長が退職されて、今、靖國神社に残る「古き人」は、もう尽きた。筑波宮司時代・松平宮司時代を身体一杯に受けて、靖國神社一筋で来た方だ。あの時代の空気を吸って来た、「最後の」お一人だった。これで、今の靖國神社は、完全に戦後世代であろう。まもなく三井権宮司も、定年で退かれる筈だ。もう、誰も止める者がいない。若い神職のカッテ振舞いが横行しないことを祈るしかない。京極高晴氏、新宮司として、深奥に至って欲しいものである。どうも要領を得ない残りの話となってしまったが、とりあえず、これで終わります。昨夜の話で、大局、私の言いたいことは理解できていると思うので。また祭神の奮闘武勲の調べに入ります。時折、顔は出しますから。
 

  • [31]
  • 脳味噌を入れ替えて欲しい。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 7日(水)18時15分3秒
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■平成二十一年五月十三日

脳味噌を入れ替えて欲しい。

 しばらくぶりに書きます。例の「真榊奉納」の話です。先週は、北の方へ小旅行に行って来ました。帰って来て、すぐに約束していた「真榊奉納」の話を書こうとしたのですが、これが案外、難しい。最初に「これは長くなる」と、咄嗟に感じたことを書き残したが、いざ、書き出してみると、やはりいろいろダンドリを取って書かないと、わかりにくい部分がある。普段なら、腰を落ち着けて書けるんだが、今は、頭が日本近現代史の準備でメ一杯になっていて、うまく書けそうもない。もう済んでしまったことだが、要は、麻生太郎総理の参拝を要請する総理公式参拝待望論派も、それを批判する派も、それぞれの言い分があり、主張もある――と云う所で、キリがない。「九段塾」で、是々非々論争する話ではない。そう云うことよりも、いまや形骸化した真榊奉納と云う在り方を、靖國神社はどのように考えているのか、それで天皇の祭祀に非礼を為していると思わないのか――。神社本庁統理やら、奉賛会・扇千景やら、英霊にこたえる会など名札のぶら下がった真榊と、総理の真榊もイッショクタに、本殿階下に、ふんぞり返って設置しているのはおかしくないのか。勅使を高い壇上から見下ろすと云うことは、不敬に値するのではないか――。それに、一体、神社本庁統理などの真榊を、何故、陸海軍大臣が居並ぶべき位置の本殿階下に置くのだ! 本庁統理とは何者だ。国家権力を代表する人間か。そうではあるまい。言葉は悪いが、単なる隣近所の同業者にしか過ぎん。奉賛会・扇千景に至っては、言語道断。身内の人間が、何故、陸海軍大臣祭典委員長が立つ位置に、名札を貼り付けた真榊を設置し、勅使を奉迎するのだ! この本殿階下を、なんだと思っているのか‥‥。どうせなら、こう云う話題を提供してもらい、非難批判を書き連ねて戴きたいことだ。この非礼に対して、神社はどのように考えているのか――。

 戦前、いよいよ勅使が参向する際は、本殿にいる神職は、全員、殿外に下がって、地べたに整列して奉迎した。創建当時は、位の低い神主は、さらに門の外に出て、勅使を迎えたのだ。それを本殿真下の階下両脇に、これ見よがしに名札をぶらさげた奉納真榊を押し立てて、勅使を奉迎するとは何事だ――! 一体全体、例大祭を、何と心得ているのか――。戦前の『祭祀令』では、「天皇、官僚を率いて祭祀を行う」とあるではないか。靖國神社は、天皇からお預かりした神社。あくまで天皇が祭祀を行っている。それは戦前・戦後、全く変りないことである。高い所から、勅使を迎える――、それも本庁統理とか、奉賛会・扇千景とか、英霊にこたえる会とか――、地べたに下がって奉迎せよ!と、私は言いたいのだ。‥‥つまり現在、靖國神社の執行部は、この真榊奉納がなんであるのか――、なんであったのか――、まったく忘失しているから、こうした、どこぞの開店祝いみたいに、総理も扇千景も本庁統理も、真榊奉納を、ただただ出しているに過ぎない。形骸化なのです。その所期の意義は、なんであったか、誰も知らない。ましてやマスコミなんぞ、保守陣営なぞ、誰一人知らないはずだ。この真榊奉納は、後で詳しく書くが、一旦寂れて、最近、また復活したものだ。総理だけでなく、衆参両院議長・厚生大臣の真榊奉納も復活して、大体、出している。マスコミが知らないだけ。去年だったか、一昨年だったか、衆院議長の、あの河野洋平氏の真榊も出ていたと記憶している。本人が承知しているかどうか知らないが、この真榊奉納は、恒例化だ。大体、衆院議長は、出すのが恒例だ。今年も出ていたのではないか――。今年の例大祭には、私は出席していないのでわからないが、多分、出ていたのでは。その恒例に、河野洋平氏もノッカテいるに過ぎないのだろうと推察する。管直人厚生大臣とか、村山富一総理とか、また中国に媚びする総理や厚生大臣は出してないと思ったが、公開された記録があるわけではないので、しかとは言いかねる。‥‥最近の神社職員も、この真榊奉納に関しては、私的奉納みたいな感じで見ているだけだろう。松平宮司時代を知る職員もまだまだいるが、どんどん消えて行く。ますます真榊奉納などに、誰も関心は寄せて行かなくなるだろう。祭祀の減退――非礼につながって行く。総理の参拝を騒ぐ前に、こうした祭祀の非礼・伝統の形骸化を憂い、むしろ先鋭化するなら、こう云うことで雄叫びをあげてもらいたい。しかし、それだけの知識がないから、総理参拝あたりのことで騒ぐことになる。だから、「雲の下の話」と言った。今、諸氏に求められるのは、一度、頭の中の脳味噌を洗いざらいぶちまけて、正統なものと入れ替えてもらうことだ。そうすれば、靖國神社の深くに進める。コンビニ知識ではダメです。

 かっては陸海軍大臣が、勅命により例大祭を執行した。合祀臨時大祭では、臨時大祭祭典委員長が、これを仕切った。国務の専権事項として、軍部大臣が勅命された。戦前、軍人奉齋の例大祭に、文官の総理大臣が座る席は無かった。だが、支那事変が激化する中で、現役兵だけでなく、どしどし国民を召集して、戦場に送り出さねばならなくなった時、国民総出の様相を示し出した時、首相が例大祭に出席しないのはおかしいと――、帝国議会で、堤康次郎(実業家・西部鉄道グループの創始者)が意見を述べた。「靖國神社の例大祭には、皇室の殊遇と陸海軍人の参列あるのみで、未だかつて首相が参拝して敬意を表したることを聞かず。これはおかしいではないか。首相も詣でることで、国民をして謝恩の念を厚からしめ、義勇奉公の精神を振作することになる――例大祭には、首相も参拝できるようしてもらいたい」と、強固なる意見請願があり、首相の大祭参拝が可能となった。また賀茂宮司も関係しての、仏教諸宗派管長やキリスト教会代表者の参拝、またローマ法王庁はじめ、外国使臣の参拝と多彩な崇敬奉賛・参拝が、盛んに行われるようになった。ここら辺りのことは、『やすくにの祈り』にも掲載されている。こうして戦前最後の期間には、大祭の首相参拝も定着し始めた。そして、戦後となる。戦後、総理大臣の地位が変った。戦前とは、その認識・格と云うものが、大きく違った。大日本帝国憲法なきあと、新憲法下にあっては、天皇の統治なく、陸海軍大臣なく、日本国総理大臣は、まさに名実ともに国政の頂点にある存在となった。この総理大臣が、仮にどのような思想を持とうが、人格者であろうが、大東亜戦争に殉じた多くの英霊が祭られている靖國神社の例大祭に参列し、敬虔にあるいは敬神をもって参拝することは大切なことであろうと思う。それは日本国の世界へのアピールとなり、旧敵国に対しては、重要な国家としての姿勢を伝達することになる。英霊の立場に関わる重要なこととなる。そう云う意味では、靖國神社への総理大臣参拝は重要事であろうと思う。戦後、すぐの時は、日本はこれだった。時の総理大臣は、戦い敗れても、例え連合国に侵略国家と宣言されようと、それは敵国の言い分でしかない――。

 天皇は開戦の大詔にも、終戦の詔書にも、繰り返し宣せられている。
米英二国に宣戦せる所以も、亦た実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。
――更に、天皇は宣われた。
帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想いを致せば、五内、為めに裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。惟うに、今後、帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕、善く之を知る。然れども朕は、時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び、以て万世の為めに太平を開かむと欲す。
――国民は、この言葉を深く心の底に留めていた。更に終戦の翌々日――八月十七日には、陸海軍人にも、勅語を賜つた。
朕が親愛なる陸海軍人は、瘴癘不毛の野に、或は炎熱狂濤の海に、身命を挺して、勇戦奮闘せり。朕、深く之を嘉す。
帝国陸海軍の闘魂、尚お烈々たるものあるに拘らず、光栄ある我が国体護持の為め、朕は、爰に米・英・蘇、並びに重慶と、和を媾ぜんとす。
若し夫れ鉾鏑に斃れ、疫癘に死したる幾多忠勇なる将兵に対しては、衷心より之を悼むと共に、汝等軍人の誠忠遺烈は、万古、国民の精髄たるを信ず。
汝等軍人、克く朕が意を体し、鞏固なる団結を堅持し、出処進止を厳明にし、千辛万苦に克ち、忍び難きを忍びて、国家永年の礎を遺さむことを期せよ。

――此処に、一糸乱れぬ皇軍将兵は、矛を置いた。敗戦の責任は、我の力及ばざるにありと、天皇陛下に申し訳がなく、多くの軍人・臣民が自決を図った。そして戦いが終わってみれば、日本中が遺族であった。連合国は、占領政策を推し進めた。陸海軍は消滅し、靖國神社も、国家の管掌を離れ、一宗教法人として出発した。茫然自失の国民であるが、然し天皇は、新たな年の初めにおっしゃられた。
常に爾等国民と共にあり、常に利害を同じうし――、朕と爾等國民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。
――多くの日本人は、戦前同様に、天皇を心の糧としてよりどころとした。その視線の集る所が、靖國神社だった。行幸・勅使参向は、GHQの意向で取り止めとなっていたが、しかし例大祭・合祀祭は、戦前同様、神社限りにおいて執行し続けていた。高松宮・三笠宮が、昭和二十一年の春季例大祭から参拝されている。翌二十二年には、靖國神社の祭典用神饌を奉納することで、神社経営を支援する民間の献饌組織が生まれる。そして「みたま祭」が始まる。また昭和二十四年には、陛下の詔勅にもあった、「大東亜戦争で戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れた人々」で、靖國神社に奉斎されないみたまの慰霊祭が始まる。いつか桜の掲示板で語った「諸霊祭」である。東京には、道路整備の前に、まず街路樹が復興した。並行したのが、電線の架設だった。次第に復興して行く都市環境と靖國神社であったが、だが、例大祭に参列するのは総代や遺族・崇敬者のみで、寂しい限りであった。新憲法の政教分離により、総理・閣僚などの参列参拝が出来なかったからである。

 だが、昭和二十六年九月の『文部次官・引揚掩護庁次長通達』で、公務員の公葬への列席が緩和された。即ち戦歿者の葬祭などに参列することが可能となったために、この年の秋季例大祭では、吉田茂総理大臣をはじめ、天野貞祐文部大臣他、多くの閣僚に加え、衆参両院の正・副議長などが、六年ぶりに特別参拝をしている。また安井誠一郎東京都知事の参拝も記録されている。十月十八日・十九日の二日間で、参拝者は、なんと、戦後最高の三十五万人を記録した。現在でも越せない記録である。一日で百万の参拝者がある戦前には及びようもないが、講和条約調印後の例大祭は、GHQに押さえ込まれていた日本国民の熱き思いが、一斉に蜂起、爆発したのである。総理・閣僚が率先して、靖國神社に足を運んだのである。いかに多くの国民が、国政に携わる者達の参列参拝を待ち望んでいたか――、二日間で三十五万人の参拝者と云う数字が、それを示していた。即ち独立を果たした日本は、陸海軍大臣なきあとを、日本国総理大臣が、先頭に立ち国民を引っ張り、大臣・閣僚以下、国民総奉賛の体制を作り上げて行った。国を挙げての靖國神社護持であった。全国民が戦没者遺族である。一致団結の国家国民であった。そして講和発効となった昭和二十七年十月十六日午前九時十五分――、天皇陛下、靖國神社に行幸あり。続いて午前九時二十八分、皇后陛下が行啓された。戦後初めて靖國神社に、天皇陛下・皇后陛下をお迎えするに至る。‥‥長い長い戦後であった。‥‥ただの七年ではなかった。‥‥待って待って、待ち望んだ、天皇行幸であった。御親拝であった。前宮司鈴木孝雄・前権宮司横井時常・各府県遺族会長、約千四百名の遺族が整列。滂沱と涙を流す者多し。万歳三唱が、境内に響き渡った‥‥。復活なった靖國神社である。既に靖國神社は、国家の手を離れて一宗教法人となってはいるが、陸海軍大臣はいなくとも、国家が合祀をすることは出来なくなっても、祭神合祀は、我らがせねばならない――と、国民全体の誠意によって完遂されなければならない――として、昭和二十八年には、靖國神社奉賛会が結成された。靖國神社には、「祭神合祀」・「参拝遺族の接遇」・「社頭の整備と復興」があり、総額六億円を越す莫大な経費を必要とし、到底神社一個の力で担うことは不可能であった。それを支援するために、国民が立ち上がったのだ。崇敬者総代・北白川祥子氏を会長に、副会長には有田八郎元外相・石坂泰三東芝電気社長・館哲二参議院議員・藤山愛一郎日本商工会議所会頭・安井誠一郎都知事・杉道助大阪商工会議所会頭が揃った。そして顧問に、吉田茂内閣総理大臣、経済界から電気事業の総帥松永安左衛門、更に戦前に商工・軍需大臣を歴任、慶応大学工学部を私費で創設した藤原銀次郎氏が就任。例え東京裁判で連合国にどう裁かれ、言い放たれようが、委細構わず、当時の国政、国民指導者は、世界に向けて、堂々と靖國神社護持を宣言したのである。大東亜戦争二百万合祀は、日本国民の総意の宿願であった。日本が独立し、靖國神社奉賛会が発足し、天皇行幸・勅使差遣が再開され、祭儀が次第に復興して行く中で、例大祭の仕儀も、戦前に準じて確立して行った。

 そう云う国家国民のうねりの中でも、左派の攻撃は執拗であった。内閣総理大臣の参拝は、違憲ではないかの論議が起こった。昭和三十年十一月 政府は、「内閣総理大臣その他の閣僚が、国務大臣としての資格で、靖國神社に参拝することに対して、差し控えることを一貫とした方針としている」との、政府統一見解を発表した。それでも衆参両院議長や法務大臣・厚生大臣の参列がしばらくの間続いたが、次第に参列があったりなかったり、やがて国務大臣の参列は影をひそめて行く。そして昭和五十年の三木総理の私的参拝騒動となるが、真榊奉納は、総理の参列が難しくなった昭和三十年頃から始まったと思われる。総理をはじめ三権の長が、大祭に出席できなくとも、真榊奉納で、この例大祭の意義を強めた。それを国民に示すことが出来た。総理大臣・衆参両院議長・厚生大臣・全国知事会会長・日本遺族会会長の六基が、本来はあった。まさに本人の参列なくも、総理の名札を掲げた真榊奉納は、戦前戦後を通じて、怠る事無く、勅祭を行っていることへの証でもあり、首相の勅祭参加は不可能でも、真榊の存在が、その意義を誇示した。国民への檄でもあったし、旧敵国に示す日本国の気概でもあり、国を挙げての神社護持の時代の中で、法律上例大祭に参列できない総理の心の、痛切な強固な意志の表れでもあった。そのことのために、戦前には無かった総理の真榊奉納を、当時の靖國神社は受け入れた。そして衆目の目に付く、本殿階下に設置した。そこへ奉納者の真榊を立たせることを――、戦前なら、陸海軍大臣・祭典委員長が、勅使を奉迎する場所であるそこに、総理の名札をつけた真榊を設置することを許したのだ。まさしく国家権力の代表者が、天皇の輔弼者として、勅祭に参列し、勅使を奉迎する――、それが、陸海軍なき後の日本国臣民を代表しての、言葉には言い出せない、総理の忠義忠節の表れでもあったのだろうと思う。そう云う気概のあふれた、当時の真榊奉納であった。筑波宮司も、松平宮司も、そのことを理解していた筈である。

 だが、年月が移り歳月が過ぎて、私的か公的か参拝のごたごたが起こると、例大祭への参列から国務大臣の姿は消えて行き、真榊奉納から首相の名が消えた。衆参両院議長も消えた。知事会も訴訟沙汰で、出さなくなった。都知事も消えた。最後は、遺族会だけになった。そこから、頽廃が始まる。時には、名札なしの真榊が並んだ時もあった。歯抜けだらけの真榊奉納は、みっともないと、神社が思うようになった。「総理が出さないなら、英霊にこたえる会に頼もう。本庁にも頼もう。奉賛会からも出してもらおう」と云うことになって行く。天皇祭祀への不敬が始まる。所期の意義が失われて、形だけが残滓となる。神社だけではない。国民側にも、退廃が忍び寄る。靖國神社を支えた戦友さんが亡くなり、戦友会が消え、直接の遺族さんが消えて行く。境内が寂れて行く。遊就館を訪ねる人も少なくなる。日に百人を下る時もある。大祭出席者が少なくなって行く。代わって登場したのが、新人類に近い人々である。保守陣営に顔を売っておきたいジャーナリストや評論家・代議士などが、境内に現れた。どの程度のことを知って、心に知識を蓄えて参列していることか。靖國神社への参拝、大祭への参列は、ただ心の赴くまま、心さえ敬神があればいいでは、どうにもならない。それだから不敬を冒し、非礼を重ねることになる。要は、靖國神社を甘く見ている。神道を、英霊を、祭神を、祭祀を甘く見ている。それに尽きる。誰も靖國神社の正統がなんであるかを熟知していない。感謝するだけである。バカの一つ覚えだ。成田不動みたいに手を合わせていれば、なんとかごまかせると思っている。むしろ総理参拝は違憲だとして、裁判に訴える左派の方が、靖國神社の性格・性質を、誠によく研究理解している。せめて『赤旗』程度ぐらい、靖國神社を理解してくれる保守がいればいいのだが、あいかわらず著名な保守は、軒並みオタク連合ばかりである。だから真榊奉納の件がマスコミで騒がれても、誰も言えない。テンデ、知識ゼロだからだ。真榊奉納自体、なんだか知らない。知り合いに聞いても知らない。靖國神社に顔を出して、「オレのニワだ」なんて思っている五十・六十才程度の教授なんかじゃ、知ってる筈はない。大体、参拝者の奉納は、元来、神饌である。榊では無い。勅使も御弊物を持って来られるが、神饌料の奉納もされる。神には神饌をお供えすることが大事だが、そんなことは言われるまで、大抵の者は知らない。知らなくても、恥と感じていない。「靖国に祭られる英霊に、感謝を捧げたい。彼らの戦いがあって、現在がある――」などと演説するヤツに、ろくなものはいない。いつか書いたと思うが、「靖国」と呼びつける者に、本物はいない――と云う定理は壊されていない。真贋を判断するのに簡単なのは、「靖国」と呼びつけている人間の意見は、コンビニで仕入れてきた知識だから、聞く必要は無いと云うことだ。

 どうも話が逸れてしまったが、要は、真榊奉納でも、知識が少ないと、靖國神社の歴史も正統もなにも、理解できないと云うことだ。本来、例大祭における当日祭では、遺族のみならず、各界代表者が特別招待者として参列することが、長い間の慣わしであったが、昨今では、各界代表者などは見えなくなった。それに変わって姿を多く現したのが、神社界の参列である。靖國神社が、とうとう本庁を始めとして、同業者を特別扱いせざるを得なくなった。真榊奉納どころの問題ではない。「国民総意の靖國神社護持」が、おかしくなって来ているのだ。総理の参拝や真榊奉納騒ぎどころではない。例大祭自体がおかしくなって来ているのだ。天皇の祭祀だと云うことを――、それを国民に訴える保守連中が、何処かにいるか? 総理参拝だとか、NHKの報道がどうとか、雲の下の話ばかりに熱中する陣営では心もとない。誰かが言っていたが、保守のつもりでいたら、いつの間にか左派になっていた――、そう云うことになって行く。それが、この真榊奉納だ。本庁だの、英霊にこたえる会だの、奉賛会などが、本殿階下に名札をつけて、勅使を迎える時代となった。これで、天皇が行幸できるかってんだ! 真榊を出すことで、大祭に参列していることを示したいだけなら、別に国家権力を代表する者でないならば、拝殿の脇にでも置いとけばいい。

 どうかね。そろそろ疲れて来た。同じことの繰り返しになる。これで、大体のことがわかったかね。あっちこっち書いたので、わけがわからなくなっちまったかも知れないが、勘弁を。簡単に書くことが、つい、長くなった。いつものことだ。ついでに、もう一つ書く。「九段塾」の宣伝だ。私の頭の中には、今、靖國神社を軸として、祭神を中心として、天孫降臨から神武東征を含めながら、皇軍視点による、ペリー来航から大東亜戦争終結までの、いや、戦後の靖國神社の歩みをも網羅した、日本近現代史を、この「九段塾」掲示板で描こうとしている。それに熱中している。勅語・告諭、更には閣議決定された歴史事象認識――、これらを元に、陸海軍省発表の達し、あるいは公文書などを基にした、「日本の近現代史」を記したいと考えている。戦後、様々な者が様々な視点で、近現代史を書いているが、それは、そう云う考えもあるだろう、言い分もあるだろうと云う範疇程度のものでしかないと、私は考えている。あの時代、「諸事神武創業以来のはじめにもとづき、公議を尽くすこと」を宣した、天皇親政の、明治国家から始まる怒涛の近現代史。皇国・皇軍・皇民は、どのように事象を認識し、傑出した人材を次々と地上に溢れさせ、国内の紊乱をまとめ、そして東洋の淵から、燭光を亜細亜へ世界へ広げて行ったか――、どのような教育があり、どのような家族制度があり、進取の精神を闊達な動力で、大和民族は、地球の隅々まで足跡をどのように印して行ったか――、未踏の蕃地での戦いを受け入れて行ったか――。戦争の世紀。白亜の戦記。欧米列強の牙城に迫る、紺碧の青史。靖國神社に祭られる忠義忠節、勤皇の志、忠魂を御楯として綴る、「これが真実の近現代史」と云うものを描いて行きたい。通俗化した現代人の頭の中の脳味噌を、そっくり入れ替える大望をもって取り組みたいと、思っている処。

――征きて再び還ることなき、靖國の神々――
「汝等軍人の誠忠遺烈は、万古国民の精髄たるを信ず」
――神、ここに生れたまへり――

事実、あの時代――、ペリー来航から大東亜戦争まで、日本の大動脈は、そのような血脈の中で生きて、死に、また生まれて――、国民が国家の命を繋いで来た歴史を包含している。
『海行かば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、長閑には死なじ――』
『大君の辺にこそ死なめ――』
これが、勤皇の熱中であり、至誠であった時代がある――。大君の御楯として、滅私奉公を、出陣に鏃で門扉に刻み込んだ時代がある――。それが、大和民族の大本である――。この精神を軸にした、壮大極まる映像を駆使し、何時間かかろうと、幾十億かかろうと、日本国民は、この歴史を描かねばならない。
これを踏まえずに、日本の近現代史はない‥‥。

 このように今は、自分自身の精神に取り憑かれている状況。総理参拝、天皇陛下行幸に関しては――、備中さんが書いている。
『靖國神社は別格官幣社にして、天皇陛下から御預りしてゐる神社、春秋二囘、畏くも勅使を賜はり、天子樣には、行幸を仰ぎ奉つてゐると同然であります。親しく行幸を賜はるとなるは、九重雲上の御事、國民が云々すべき事ではありませぬ。百年でも、二百年でも、何時までも御待ち申し上げればよい事であります』
と。これでよろしい。それでは、よく読まれたし。
 

  • [30]
  • 天皇祭祀に、真榊奉納は不敬。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 6日(火)20時39分21秒
  • 返信
 
■平成二十一年四月二十九日

天皇祭祀に、真榊奉納は不敬。

 お早う皆さん。早速ながら、○○○○○さんが投稿したことに対して、夜明け前から、○○○○○さんが、なにやら過激な言葉を書かれている。先鋭化しすぎかな。○○○○○さんに関しては、以前、書いたと思うが、この人には、一種「治外法権」みたいな特別な枠を私は渡しているので、相当な悪文でなければ、自由にしてもらっているので、○○○○○さんの至純も理解するが、まあ、ここは○○○○○さんに関しては、ゆるやかに見てあげて下さい。それと、丁度いい機会だから、この「真榊」奉納と云う「戦後の慣習」について、じっくり話してあげたいが、今日は忙しいので、あとで書きます。この話は‥‥、少々長くなる。

 軍人でもない首相の参列は、戦前では許可されなかった――。それが例大祭に出席できるようになったこと、あるいはキリスト教徒でも、参拝はよかったし、ローマ法王庁代表も参拝した話もある。靖國神社は、天皇の神社を強調するあまり、誤解が多いのかも知れない。また大祭は、天皇の祭祀だからこそ、首相とか扇千景の真榊などを本殿階下に設置するなどは、不埒この上もなく、天皇の祭祀であることが理解されていないことから起きている。宮中で、天皇が祭祀される時、天皇を見下ろす「総理大臣の奉納真榊」などが、あると思いますか? 天皇が宮中で祭祀する時に、「私の真榊も奉納させて下さい」と、「しゃしゃり出て来る」国務大臣がいると思いますか、諸君!

 ともかく、あとで書く。○○○○○さんが「塾頭は、どう考えているんだ」と脅されたので。あとで、あとで。



■平成二十一年四月三十日

叱責する。

 いい加減にしたらどうかね、お二人とも。ある程度、しゃべり合ったら、お二人の会話は、すべて削除するよう、備中さんにお願いします。此処は、相当の学者も閲覧している所。勉学してもらうために、開講している。質も実もない会話は、削除する。こう云う雲の下の話を、いつまでもやり合うなら、他の掲示板でやってもらいたい。堀の外でやりなさい。備中處士さんの勧告を訊きなさい。



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【參考・削除文】
■平成二十一年五月二日

事務的連絡。

 波立ちが収まって、元に落着きが戻ったようです。戦前にはなかった「真榊奉納」。戦後はどのような思いで、憲法上参列できない歴代総理が、真榊を代理として出席させたか。両陛下の行幸啓・勅使差遣。戦前と同様の仕儀が復活する中で、痛切な思いを、例大祭に示した国民の意志。総理大臣を先頭にした、国民総意の靖國神社護持。それが旧敵国に、あるいは世界に示した、堂々たる日本国民の姿だった。その象徴が真榊奉納でもあった。その戦後の痛切な思いが、いまや形骸化した姿となって、勅使を不敬にも迎える位置に突っ立っている真榊奉納――。その戦後の形骸化した靖國神社大祭風景をからめて、心変わり、人代わり、を知らせたいが、なにぶんにも予定が入っていて、書く時間が取れない。連休明けてからになりますので、それまで私の話はありません。ご承知下さい。

 備中さん、誠にご苦労様でした。雲の上の話、あればどしどし紹介して下さい。お休みになるなら、ご遠慮なくどうぞ。それでは、皆さん、一週間失礼します。この投稿は、次に投稿する際には削除いたします。

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  • [29]
  • 皇軍・皇民の戦い。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 5日(月)20時48分0秒
  • 編集済
  • 返信
 
■平成二十一年四月十六日

皇軍・皇民の戦い。

 久しぶりに、備中さんが書いている。どうやら元気な様子。安心しました。さて、前回書いた遊就館の特別展示なんですが、どうも少し聞いてみると、私の勘違いで、今回の展示には、外部業者は使っていないようでした。ほとんどを、遊就館部職員でやったようだ。半月前から若い神職が、夜遅くまでやっていたそうで、時には泊まり込みまでしたそうだ‥‥。監修も、外部には頼んでいないようだ。それはそれでよいのだが‥‥。一生懸命やったのはいいとして、中味が、そう云うことなら、一層お粗末だと云うしかないと、あらためて思う次第。私の知人・友人が、みな、特別展示を見に行ってくれたようだが、「展示ものが少なすぎる」、「上映映画がぴんと来ない」、「意味がよくわからない」と、まあ、私と同様の、大体、似たり寄ったりの意見だった。

 ともかく、この「矢弾丸尽きるとも――我レ生還ヲ期セズ――」の特別展示。折角、「一身を捧げて祖国を守ろうとされた英霊の御姿・御心」を描きたいと思うのであれば、もっと峻烈な、壮絶な戦いを描き出し、祭神がどのような苦闘を展開したのか――、震洋なら震洋、学徒なら学徒、あるいはサイパンでもグアムでも、中国・満州でも、祖国防衛のために、避難する邦人を助けるために、どのような戦いをしたのか――、それを知らせるべき題名ではなかったのか。死を賭して肉弾攻撃を敢行した皇軍将兵の戦いを、あるいは民間人の戦いを、あるいは従軍看護婦など、準軍属の戦いとか――、矢弾丸尽きるとも――、日本民族はどう戦ったのか――。全滅・自決もある。あるいは侵攻して来るソ連軍に、男たちが全員殺害され――、残された開拓団の婦人たちも、これまでと、最後は日本刀を握り、斬り込みをかけると云う、壮絶な大和撫子の姿もある――。その日本民族の雄渾・熾烈・頑強、断固たる大和魂の炸裂を、特別展示で描いてこそ、創立百四十周年記念事業としての精華を放てるのだ。英霊には感謝しています――と、通例化したような最近の参拝者の言葉を、蒼白にさせるような、真実の戦いを語り継ぐべきではないか。今こそ、全参拝者を震撼させる祭神の戦い・いさおしを伝えるべきなのだ。そう云う時代が来ていると、私は感じている。

 六十四年前、それこそ八戦地どころではない。四方八方から、皇国は包囲された。それでも、皇威挽回、劣勢を跳ね返さんと、学業半ばにして若者が出陣して行ったのだ。銃後の戦いだって、あった。日赤看護隊の、至誠烈々の白衣の天使もいた――。ソ連の卑劣極まる侵攻に、最早、手に握る銃なし、剣なし、爆弾抱えて、肉弾で突撃した学徒隊だっている。あと一歩、あと半歩、劣勢装備を補ってやまない沸騰する闘魂、殉義忠義の思想を以って、天皇陛下万歳の雄叫びをあげた忠勇の兵隊もいる。矢弾尽きるとも――、皇軍・皇民の凄愴な戦いを描くべきだった。それがあればこそ、「一億総玉砕」のスローガンが理解できるし、戦争終結の大詔に、八月十五日、一億国民が、天を仰いで号泣、慟哭に伏した想いが伝達できる――。靖國神社がやらなければ、「九段塾」でやるしかない。私は、そう決心している。

 時は、どんどん流れ去って行く。あの人もこの人も、どんどん亡くなって行く。それで語り継ぐ者がいなくなる。誰が、賀茂宮司の想いを語り継ぐか、誰が、松平宮司の想いを語り継ぐか――。誰が、明治天皇の、大正天皇の、昭和天皇の戦いの譜を語り継げるのか――。炎熱地獄で、零下北満の地で命捧げた乙女たち、満蒙開拓団の侵攻ソ連戦車群に、襲撃する無数の匪賊に、日本刀で突撃した男たち――。その悲劇の中で示した、秋霜烈日の大和魂を語り継がなくてよいのか――。眼をそむけるような惨劇、耳を覆いたくなる悲劇も、現代人は聞かなくてはならない、見なくてはならない。靖國の忠霊には、無念の自決で、天皇に、国民に謝罪するもの多し。暴虐の嵐に見舞われた敵国の復讐裁判。敗戦の悲報で知らされた蹂躙の裁判劇。大東亜戦争だけでも、百万の時間があっても語り尽きることのない、神々の戦い。それを描きたい――。

 更に遡って、靖國神社創建の歴史。維新動乱、日清・日露戦役。話の筋は、厖大である。明治天皇が、京都から東京へ下る途中、伊勢を過ぎて、初めて海と云うものを目の当たりに見た。太平洋だ。いつになく穏やかな渺渺たる海原に、やがて逆巻く怒涛のように、次々と訪れた国難の数々――激動の近現代史――。およそ九十年間に、国民はどう戦ったのか――。天皇の赤子として、いかに武器を握り、戦いに参じたか――。慟哭の歴史がある。

――汝等軍人ノ誠忠遺烈ハ、万古国民ノ精髄タルヲ信ず――

映像化すれば、八十時間か‥‥、そのぐらいの大作と云う自負だけで、今は自分を支えていられる。これを何とか為し遂げたい。現在、満州開拓団の悲劇を調査中です。卑劣にも、日ソ中立条約を一方的に破棄、北満に侵攻して来たソ連戦車群に、肉弾特攻をかけた学徒隊がいた。精強関東軍の精髄を背負った皇軍の矢弾丸尽きても、なお肉弾を以って、イナゴのようにソ連戦車に飛びついて行く学徒の戦いは、壮絶だった。ほとんどが二十歳と云う年齢であった。これを少し書いておきたいが、少し時間がかかるので、明日か明後日あたりに、一度投稿します。とりあえず此処までの話として、投稿しておきます。来週からは、維新動乱期の調査を、あらためて始めます。



■平成二十一年四月十九日

話の延期。

 ○○○○○さんが、私の書いた文章で、「身震いする――」と書いてくれている。少し嬉しい気もする。身震いしながら書いているわけだから、伝わらないわけはないとも思っているが、面と向かって言ってくれると、やはり手ごたえを感じて、やる気に拍車がかかる。先日、つい、気が昂ぶって、満州曠野における学徒の戦いをお知らせしたいなどと書いてしまい、それも一両日のうちに投稿するなどと書いてしまいましたが、なかなかすぐには書けず、この話は、少し先に延期させて頂こう――と、その謝罪です。どのような文体と云うか、どのような形で、「――汝等軍人ノ誠忠遺烈ハ、万古国民ノ精髄タルヲ信ず――」を、書いて行こうか、まだ逡巡する所があり、それで、少し練習の意味も含めて、折々、本編(『九段塾・近現代史』)に組み込まれる文章を、見せて行こうかとも考えていたのだが‥‥。一つ調べると、派生した問題が生まれ、それをまた調査すると、更に新たに生まれて来る問題があり‥‥。いろいろ仲間に手伝ってもらったりして、あの人なら抑留経験もあるので、質問をしてみたいと思っても、既に亡くなられていたり。それで、時間を突然とられて、一両日では書けなくなりました。また近く‥‥、今度は日にちを決めず‥‥。順次、昔のノートを探し出したり、書物を開いたり、ともかく厖大な史料なので、最終的には、自分の頭の中で構築するしかないので――。

 ペリーが上海で、沖縄の那覇で、日本をどうしたら、自分達が考える開国を、日本に押し付けることができるるか――。黒船での訪問前に、その悪辣な工作を、一日中考えていることを知ったなら、ぺリーの来航記念館など、建てる気は起きなかったろうとも考える。米国の対日工作、あるいは対日基本姿勢は、ペリー以来、現代にあっても、まったく変わることがない。「教え諭す」、これが、アメリカ国家の心髄だ。今も昔も。米国が戦後、DDTを撒いたのも、粉ミルクを提供したのも、ペリーが沖縄民を手なずけたのと同様であり、メキシコの土地で独立運動を起こし、アラモの砦を他国領土に築いたのと、同じ考えであろう。「メキシコ人よりも、アメリカ人の方が多く住んでいる。だからメキシコより独立するのは、当然である。その正義を教え諭す」。それがアラモの砦の戦いだ。アラモから、日本侵略の波は、太平洋を越えて浦賀水道に渡って来たとも言える。「それがアメリカの正義」である。だが、黒船来航は、尊皇運動に火をつけた。鎌倉時代以降、凝り固まっていた日本の舞台が、やっとゴトッと回転した。天運であろう。眠っていた大和島根の御霊が、噴火を始めたのだ‥‥。

 靖國神社は、今週は春季例大祭が、新宮司も決まらず、権宮司三井勝生宮司代理の下に斎行されます。少し前に、どなたかが、新宮司は××さんらしいと、元神宮宮司の名を挙げておられたが、今もって新宮司の発表はない。どうしたのだろうか? ××さんは、いろいろ周辺から苦情がでて、とりやめたのだろうか? すぐには決められないのであれば、大病患って恢復後、以前とは大きく様変わりをされた様子の三井権宮司を、新宮司にするのもいいと、最近、私は考えている。神が背中に入ってきた感じが、この方にはある。もしや大回転で、靖國神社が復古するかも知れない。ただ神社本庁から来た人だけに、俗塵をまだまだ多く身につけているが、少しやらせて見たい気もする。それでは、また。次は、もう少し、しっかりしたことを書きます。あとは、備中さんに、少し励んでいただいて。「――汝等軍人ノ誠忠遺烈ハ、万古国民ノ精髄タルヲ信ず――」 これに関わるようなお話があれば、紹介してくれると、私も勉強が出来ます。



■平成二十一年四月二十二日

投稿の援軍を。

 備中さん、『二等卒の妻』、いいですねえ。もっともっと深蔵している話を、どんどん披露して下さい。

『「我々は、皆な家族の爲に戰つた」、「天皇の爲めと云ふ人は、あまり周圍にはゐなかつた」と、戰後に在つて、平然と言ひ放つ者は、皇國の軍人であつたのか、萬世一系の天子を奉戴する御民であつたのか、『教育勅語』を奉唱し、『軍人勅諭』を奉讀する所の、皇御軍であつたのか。

 戰に負けると云ふことは、斯やうな言の葉を、戰を鬪つた人から聞かねばならぬと云ふことであるのか。戰後と云ふ時代は、何と云ふ、たるんだ、おぞましき時代であるのか、中今の識者は、よく記録しておくがよい。』

こう云う怒りは、どしどし吐露して下さい。今や、「九段塾」でなければ、靖國神社の正統史を語れる所はない。大東亜戦争前後は、私の守備範囲なのですが、備中さんや他の閲覧者の方々には、維新前後から征蕃の役・佐賀・熊本・萩・西南の役、更には朝鮮事変・日清・北清事変・日露戦役辺りまで、知られざる話・逸話があれば、どしどし投稿して下さい。無論、満州事変・支那事変・大東亜戦争にあっても、真相の話、詔勅、隠れたる話あれば、どしどし投稿下さい。但し備中さんの如く、出典を添えておいて下さい。明治天皇、大正天皇、昭和天皇、宸襟に沿うあれば、更に幸いかな。平泉澄博士、保守重鎮の言動良し。備中さんの大車輪を待つ。ちなみに『九段塾・近現代史』の端緒は、嘉永六年、ペリー来航を、その発端とする。靖國神社祭神は、嘉永六年以降、国事に殉じた忠魂英霊の合祀に始まる。黒船来航こそ、幕政瓦解の方途を定め、尊皇攘夷論を勃興させた激震の第一歩であった‥‥。

 遠く、九州筑後の久留米藩家老・稲次因幡正訓は、藩校「修道館」出身で、水戸学の後継者とも呼ばれた勤皇家・真木和泉などと志を共にし、その地位から押されて、尊皇攘夷派の首領になり、藩政改革を画策、労したが、久留米藩は、もとも徳川恩顧の意識が強い所。稲次の動きは、藩主流の佐幕派家老・吉田監物の目に余るものとなり、嘉永五年には、遂に「父祖以来の恩顧を忘れ、異論を抱いて藩政を擾乱するものである」との無期刑の咎を受け、嘉永六年、有馬右近の邸に幽閉された。若くして家老脇となり、尊皇攘夷を唱う稲次は、ペリー来航から起こり得る先々国事の多難を憂い、時運に合わぬ我が身を憤怒するあまり、その沸騰する己の感情をもって、遂に自刃して相果てた。これぞ、まさに憂国勤皇の「我が国士」の始まりであった。靖國神社に祀られる祭神の死亡年次より合祀せらるる、まず第一番、最初の人である。
久留米藩     嘉永六年十二月三日
有馬右近邸 家老 稲次因幡正訓 二十五歳
嘉永六年の祭神は、稲次正訓命、ただ一柱なり。今までにない、日本の近現代史を、靖國神社祭神の視点から見た、壮大な戦いの歴史を描いて残したい。皇国に国民の命を繋ぎ継ぎ足し、綿々と押し進めて来た、大和島根の国民尽忠の大歴史。

――征きて再び還ることなき、靖國の神々――
「汝等軍人の誠忠遺烈は、万古国民の精髓たるを信ず」
――神、こゝに生れたまへり――

しばらくしたら、全体の構想を披露しますが、まだまだ先のことか、と。五月・六月・七月――この頃かなとも思うが、その間、随時、小節を投稿しますので、気長に閲覧して下さい。靖國神社は、春の大祭が終われば、次は六月の創立記念日祭。これまでに至っても、新宮司を選出しないことは、祭祀への尊厳を忌みすることにも成り果てる。現執行部・総代の怠惰、極まれり。尽忠の気構え喪失、職責放置なり。



■平成二十一年四月二十二日

烈忠の魂。

 備中さんが先に投稿した、『乃木大將の復命書』に思う所があるので、少し書きます。乃木希典第三軍司令官は、陣営にあって、多くの漢詩を詠んでいる。その中に、『凱旋』がある。

王師百萬、強虜(きょうりょ)を征す。
野戰攻城、屍(かばね)、山を作(な)す。
愧(は)づ、我れ何の顔(かんばせ)あつて、父老(ふろう)に看(まみ)えん。
凱歌今日、幾人か還る。

【塾頭訳】
皇軍百万は、いばりたかぶる我が敵――露西亜を征するために満州に渡った。
原野に戦い、敵の要塞を攻めに攻め、屍は山を為した。
自分は多くの部下を死なせ、失い、故国の両親にどんな顔で会えると云うのだろうか。
凱旋する今日、無事に故国に還れるものは、一体どれほどの人か‥‥幾人が還るのか。

 旅順攻防における乃木大将の辛苦慟哭を伝えている。山河を染めた忠血は川となり、凍てついた大地を流れた。傷つき斃れた将兵、六万余を数える。死闘百五十五日間。肉弾重ねて全滅した我が隊を、数えるに堪えず。勝利を為した時、爾霊山に轟く万歳斉唱の聲は、大地を震わせ、悲壮な雄叫びの如くであった、と――桜井忠温の『肉弾』に記される。そして凱旋の時、乃木の面上には、沈痛の色がみなぎり、髪は乱れ、髭は伸び、名誉に輝く勲章もさえなく、埃と垢にまみれた戦場さながらのものであったとも云う。更に、陛下に軍状を復命奏上した――その時、乃木の激情は、堰を切って迸る――。その時の『復命書』が、先の備中さんの投稿『我が軍の將卒、深く聖旨を奉體し、誓つて速かに軍の任務を達せんことを期す』の中にある。

――乃木は、陛下の前で、静謐に響く声を以って、復命書を読み進めた。そして次第に、心揺れ、声調乱れ始めた‥‥。『復命書』半ばに至った時‥‥その時‥‥、
『本軍の作戦目的を達するを得たるは、陛下の御稜威と、上級統帥の指導、並びに友軍の協力とに頼る。而して作戦十六箇月間、我が将卒の、常に勁敵と健闘し、忠勇義烈、死を視ること帰するが如く、弾に斃れ、剣に殪るるもの、皆な陛下の万歳を喚呼し、欣然として瞑目したるは――』
――乃木は絶句した。乃木の頬には、涙が流れ出している。
『臣、これを伏奏せざらんと欲するも能はず。然るに斯の如き忠勇の将卒を以てして、旅順の攻城には、半歳の長月日を要し‥‥、多大の犠牲を供し、奉天附近の会戦には、攻撃力の欠乏に因り、退路遮断の任務を全くするに至らず‥‥、臣が終生の遺憾にして‥‥、恐懼‥‥』
――復命書を捧げる乃木大将の両手は、わなわなと震え、
『‥‥措く能はざる所なり‥‥。』
――遂に、陛下の前に崩れ折れるようにひれ伏し、号泣したと云う。その乃木大将の姿を、明治天皇は見つめ続けた。

ますらをも涙をのみて國のため たふれし人のうへをかたりつ

――明治天皇は、乃木希典 の心を思いやった御歌を詠まれたのである‥‥。

 靖國神社に祀られる日露戦争祭神烈忠の魂は、やがて魂魄を籠めて語られることになるでしょう。
 

  • [28]
  • 怒髪、天を衝いて進め。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 4日(日)16時06分12秒
  • 編集済
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■平成二十一年四月七日

怒髪、天を衝いて進め。

 しばらく、調べものをしていたので、投稿できずにいる。先週の土曜日、遊就館は、花見客で満杯の盛況を見せていた。この時期の境内の賑わいは、全部が全部参拝客ではなく、半分は花見客・観光客だ。境内は、カメラを首から吊るし、手にも一眼レフのニコンを持ったセミプロ的なカメラ愛好家で、ごった返している。それも六十、七十歳近い様子の年配者が目立つ。男性ばかりでなく、カメラを持った年配婦人の姿も多い。こう云っては悪いが、参拝姿ではない。あちこちのベンチに強い日差しを避けるのか、帽子を被っているご婦人方が腰掛けている。ごそごそと袋から何か取り出して、口に運んでいるようだ。この帽子、拝殿前でも取る人が少ない。かぶったままだ。周辺の学校の入学式や卒業式がある時は、晴れ着姿の親子で、境内は一層賑やかになる。満開の桜が、人々に花吹雪の饗宴を提供し、境内は明るく、桃色に包まれる。例年のことだ。何の緊張感もない。ただの桜の名所であろう。入学式の帰りに立ち寄った親子に訊ねても、ここがどんな神社だか、正確に答えられないのは、以前と変わりない。○○○○氏が紹介してくれてたサイトでの、二十年後の靖國神社が消滅していると云う話が、ちらりと頭の中をよぎって行く。消滅と云うより、より公園化であろう。こちらの方が現実味がある。

 知り合いの親戚筋が、靖國神社に初めて行くので、案内してくれないかと頼まれて、同行することにした。すごい人出に、親戚筋の男性(四十歳)はびっくりしていた。社頭参拝して、さあ、これから遊就館へ入ろうと云う段になって、親戚筋の彼のポケットで携帯が鳴る。実際は鳴っていないが、振動でわかったのでしょう。なにか、少し話していた様子で、電話を切ると、知人に、「××さんから、今日、これからすぐに柏へ行ってくれと言うんですよ」とかなんとか話して‥‥、要は、急用が出来て、此処で失礼させて下さいと、丁寧に謝罪されてしまい、知人と一緒に帰ってしまった。仕方がないので、遊就館に入る。一人で、久しぶりに、常設展示を見る。やっぱり、昔の方が、断然よい。祭神が、眼に見えない。感じない。単なる歴史館だった。専門業者が作ったハコだった。サイパン玉砕にしろ、硫黄島玉砕にしろ、赤・黄・青・緑、グラデーションのカラフルな掲示板・解説パネルが林立――。妙に広く確保した空間――象徴的に配列されたショーケース。そしてどの部屋でも、解説パネル・歴史パネルがハバをきかせ、肝心のご遺品が、昔より少ないような気がする。それと模造品が多くなった。これは特別展示を見た後のためか。靖國神社は、「わからせるために」模造品を展示してはならぬ――、そう思った。どれが本物で、どれが贋物か――、なにかいつの間にか祭神顕彰から離れ、どんどん「解説」に向かっていると感じる。確か十年前、この新遊就館は、若い人に日本の近現代史を知らせるために、従来の遊就館にはなかった「歴史解説」を中心にして、「展示構成」を図ったと聞いている。それは、もういいのでは。百四十周年が来たことで、終わりにしたらどうでしょう。

 また最近は、昔と違い、近現代史が大流行で、元幕僚長も日本中でしゃべりまくっているようだし、もうここいらで、この「近現代史」とはおさらばして――、即ち新遊就館を全て破棄・一掃して、もう一度、昔の通り、祭神を慰霊顕彰する――荘厳厳粛な霊気漂う、神秘的な気配の流れる、「遊就館」に戻すべきだ。強くそう思う。今のままでは、博物館設計業者のワンパターン化した展示が、どんどん深更するだけで、入館者は、祭神に感謝も崇敬も、さほど感じないのではないか。全体的に、東京都の主催で、「近現代史の歴史館」を見せられたような気がした。昔の遊就館は、神職・職員が、自ら企画して、自らがショーケースを作り、手書きで説明文を書いたりしたこともあった。簡素であった。飾りがなかった。その代わり、遺品が大事に大事に扱われていた。今は、硝子ケースの中に、激戦地で収拾されたモノが、ゴチャゴチャに集められて展示されている。開館当時は、こんな風ではなかったように感じていたが、遺品がガ×ク×扱いになっているような印象を覚えた。祭神に申し訳がなかった。現在の遊就館部の職員は、こう云う展示で、なにも感じないのだろうか。どんな人が担当しているのだろうか。益々、二十年後の消滅話が本物じみて来る。英霊の部屋では、以前はもっと大きいサイズだった遺影が、今は、小さいサイズになり、なんだか知らないが、所狭しと、壁に「貼ってある」感じだ。所期の目的とは、違うような気がする。なにか災害の時に、行方不明の人の連絡版みたいな錯角を覚える。

 今の若い人は、多分、昔の遊就館を知らないでしょう。昨年に騒がれた『靖国』の中で、最後の方でちらりと館内が描写されていたが。静まり返った館内は、深夜、英霊が歩いていると云う話は、幾度となく聞かされた。実際に霊気が常に漂う石造りの廊下で、祭神を見たと云う神職もいたと聞く。それを聞いても、参観者のほとんどは信じた筈である。だが、現在の遊就館を入館者の少ない時に入っても、なにも感じない。英霊を背後に感じないし、遺品からも感じない。なにか、みな、作り物めいているのだ。博物館専門業者に委託したのが間違っていた――と思うしかない。これでは、いくら祭神への感謝・顕彰を語っても、拝観者からは、「はあ」と云う返事を貰うだけだろう、感知できないのだ。作り物の床が、第一の原因だと思った。この高そうな床の板をひっぺがえして、もとの遊就館の「石」を引き出すべきだ。

 そして帰りに、特別展をもう一度見回る。やはり、ひどい展示だ。「矢弾尽きるとも――我レ生還ヲ期セズ――」。入口に何の説明もなく、ただ祭神の遺影が集合で貼られている。何の意味があるのか。やはり破棄すべき、特別展示だ。財政の放漫化に直結する。あのくだらない『みたまを継ぐもの』の映画化と、同様である。知人の親戚筋が帰ってくれたのを感謝したいと思った。こんな展示を見せたくはなかった。あらためて「投げやりな特別企画展示」である。この展示で、何を入館者に伝えたいのか、靖國神社のメッセージがまったくない! あるのは、カッコつけただけの「矢弾尽きるとも――我レ生還ヲ期セズ――」の題名だけだ。絶対国防圏を破られた後、皇軍はどうしたのか――、どう戦ったのか――。草を食み泥水を啜っても戦ったのか――、どうも、そう云うことではないらしい。題名とはあまり関係ないような手紙類が置かれている。進級した通知を知らせたり、元気で第一線で活躍しているとか――、軍事郵便が羅列展示されているだけだ。主催の靖國神社がなにを考えているのか、さっぱり意図がわからない。遊就館部長の交代を勧めたい。祭神に申し訳がないでしょう、こんなていたらくな展示状況では。まさに財政の放漫化と云う文字が反芻される。二十年後には消滅してもおかしくはないだろう――と思ってしまう。東京にいる方は、都合をつけて遊就館へ行って、特別展示を見たらいい。私の言っている意味がわかるはずだ。実際、入館者の様子を見ていても、ざーっと見て行くだけだ。感動も感慨も、なにも感じないようだ。作り手の情熱がゼロの展示では、感動するわけがない。ひどく言えば、やっつけ仕事でしょう。

 特攻――と云う解説パネルがある。読むと、こう書いてある。
「通常の戦い方では、愛する者が住むこの国を守ることが出来ないと考えた将兵は、いかにしたか。何十倍の敵を前にして、一歩も引かず散った者、敵戦車を阻止するために、爆弾を抱えて突っ込んだ者、何日も穴にこもり、攻撃の機を待った者。都心に向かうB29に体当たりした者、帰還できないことを覚悟で、敵陣深く入り込んだ特殊潜航艇・特攻機・回天・桜花・震洋・マルレ・海龍・空挺特攻・戦車特攻・蛟龍・伏龍‥‥」
最後は「‥‥」だ。こちらも読んで「‥‥」だ。こんな解説があるだろうか。「通常の戦い方では、愛する者が住むこの国を守ることが出来ないと――」。これではマンガ・アニメの世界でしょう。宇宙戦艦ヤマトだ。「将兵はいかにしたか――」。まるで、兵士一人一人が、カッテに編み出した特攻技みたいだ。特攻は、天皇の許諾も得た上で実行されているが、そう云う解説は、まったくない。「何十倍もの敵を前にして、一歩も引かず散った者――」。‥‥こう云う書き方はないでしょう。一歩も引かず散ったら、なんの意味もない。文章表現が幼稚過ぎるのだ。正鵠を捉えていない。「何日も穴にこもり、攻撃の機を待った者――」? むかでか、皇軍は? 意味が不明だ。何のために穴に籠ったのか、聞きたいぞ! 「都心に向かうB29-」。こんな言い方があるかね。都心に向かうB29だ、と。「帝都」ぐらい使って欲しい。それに体当たりした者――と云うが、格闘家じゃないんだから、B29に体当たり出来る人はいないでしょう‥‥。つまり、ことごとくいい加減な解説だ。茶化したくなるシロモノ。大体、B29って、なあに? この遊就館に来る人はオタクばかりじゃないんだよ。B29がなんだか知らない人も、大勢来るんだ。祭神がかわいそうだ。その最後の文章は、「帰還できないことを覚悟で、敵陣深く入り込んだ特殊潜航艇・特攻機・回天・桜花・震洋・マルレ・海龍・空挺特攻・戦車特攻・蛟龍・伏龍‥‥」で、尻切れトンボで終わっている。文章、解説パネルになっていない。もう、執筆者は、なにがなんだかわからなくて投げ出した文章だ。帰還できないことを覚悟して――特攻と云う文章も、おかしいなあ。そう云う話じゃないでしょう。もう、これは、ゼッタイに「あさなぎ」の連中が書いた解説としか思えない。想像を絶する悪文、幼稚と云うのもばかばかしく、チャチ。いくら経費をかけたのか? 財政の放漫化、英霊顕彰の侮辱化、チャチ化?だね。こう云うことを営々とやっているから、二十年後には倒産と言われるんだ。

 たまたま「あさなぎ」の会報があったので、手にしたが、相変わらず、わが靖國神社奉賛会青年部「あさなぎ」は、「更に輪をかけたばかっぷり」を邁進中だ。表紙には、支那事変の陣中で、頭部を敵弾に貫通された少尉が、息も絶え絶えの中で、自身の血で、通信紙一枚一枚に書いた、天皇陛下万歳の血書の大写し。解説には、「この瞬間をできるだけ忠実に再現するため、変色してしまった血の色を、あえて加工した」とある。つまり贋物である。毒々しい赤――赤誠を表わす印象など、まったくない。まがまがしい悪魔のような色彩で描いている。そして、天皇陛下万歳と云う字体も、瀕死の状況で書いているわけだから、ひん曲がった、くねくねとした字体だ。これを見せる必要はない。怖気がする。天皇の冒涜を感じる。不敬。サヨク雑誌、そのものだ。こう云う連中のアタマで、あと二十年経過すると、彼らが靖國神社の神職となっている可能性は充分にある。その時は、祭神もマンガとアニメで、どぎつく描かれ、敵弾が命中した瞬間の擬似体験カプセルかなんかを設置しそうだ。その時には、私はもういないが、今のうちに、こいつらを潰しておきたい衝動に駆られた。戦争終盤、東京湾に米軍上陸を予測して、その防衛はどうだったのか――を知るために、彼等は、館山海軍航空隊の防空壕「赤山地下壕」に見学に行ったようだが、その見学は、まったくの高校生レベルの物見遊山。「そもそも自衛隊の基地や駐屯地に行ったことがないので、今回の見学は楽しみだ――」と云う感想文が、堂々と見学記として掲載されている。こんな奉賛会青年部はいらないはずだが、「財政の放漫化」は、「英霊の慰霊奉賛にも影響を与え、怠惰化・慢性化」しつつある。倒産はあるかも。

 話がだらだらしたが、○○○○さんの紹介したこのサイトの執筆者は、面白い見方をしているとは思った。但し戦前の靖國神社が、国の丸抱えと云うのは誤解で、実は戦前であっても、靖國神社は、初期から独立採算制が命じられていて、それで賀茂百樹宮司は、神社経営で四苦八苦、頭を悩ませていたのだが、そう云うことも、一般の人は知らないだろうし、そう云う意味でも、靖國神社の正統を知らしめる必要はあると確信した次第。またITシステム化で、経費が抜群にかかるのは事実だ。またホームページなどへの外部からの浸入――サーバー攻撃と云うのか、靖國神社は、何度も外部からの侵入で被害を受けている。そのたび毎に×××をする。セキュリティ費用は、莫大なものといえるだろう。この問題については触れられない。セキュリティに関わることなので。それと、これは話してもいいだろうと思うのは、竹屋さんが言っていた、祭神の記録のことだが、原簿は紙に、しっかりと残されております。○○○○さんの紹介したサイトの話は、ある面、将来予測できることだが、しかし靖國神社神職の名誉のために申せば、おそらく多くの職員が、例え神社が倒産するような破目になっても、参拝者が来なくても、祭祀だけはしかっりと続けたい――、給与は少なくなっても、生活が苦しくなっても、自分は靖國神社から去ることはない、祭祀だけは守り続ける――、そう言う人が、大勢いるだろうと思う。これで、一応、話は終わります。

 だが、もう少しお付き合いを。「矢弾尽きるとも――皇軍はどう戦ったのか!」 昭和二十年二月十九日に、米国海兵隊が、太平洋上の一つの島に上陸した。上陸部隊司令官ホーランド・スミス海兵隊中将は、「攻略予定は五日間。死傷者は一万五千を覚悟している」と、作戦開始前に記者会見で語っている。だが、皇軍との戦闘は、一ケ月に及び、米軍死傷者は二万八千人を越えた。太平洋戦場、米軍最大の犠牲を出した。硫黄島の戦いである。上陸軍は未曾有の死闘に遭遇した。それは硫黄島を守備する激烈な兵団長のためである。栗林忠道中将。最後の一兵となっても、敵全滅を期して戦え――と、壮絶な戦いを、二万三千の硫黄島守備兵に命じたからである。喰わず飲まず、敵を撃滅せよ。負傷しても、捕虜となるな。最後は、敵と刺し違えよ! 激闘一ケ月。栗林兵団長は、三月十七日。最後の総突撃を決意、大本営に訣別電報を打った。

戦局、遂に最後の関頭に直面せり。十七日夜半を期し、小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰を祈念しつつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行する。

 敵来攻以来、想像に余る物量的優勢を以て、空海陸よりする敵の攻撃に対し、克く健闘を続けたるは、小職の聊か自ら悦びとする所にして、部下将兵は、真に鬼神をも哭かしむるものあり。然れども執拗なる敵の猛攻に、将兵相次いで斃れ、為に御期待に反し、此の要地を敵手に委ぬるの已むなきに至れるは、誠に恐懼に耐へず、幾重にも御詫び申し上ぐ。

 特に本島を奪還せざる限り、皇土、永遠に安からざるを思ひ、たとへ魂魄となるも、誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。

 今や、弾丸尽き、水涸れ、戦ひ残れる者全員、愈々最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々(つらつら)皇恩の忝さを思ひ、粉骨砕身、亦た悔ゆる所あらず。茲に申し上ぐ。(中略)

 終はりに、左記、駄作、御笑覧に供す。何卒、玉斧を乞ふ。

国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度び生れて矛を執らむぞ
醜草(しこぐさ)の島に蔓(はびこ)るその時の 皇国の行く手一途に思ふ


 訣別電報を発信させたその夜、栗林中将は、「たとへ草を喰み、土を齧り、野に伏すとも、断じて戦ふところ、死中、自ずから活あるを信ず。事、ここに至つては、一人百殺、これ以外にない。本職は、諸君の忠誠を信じてゐる。私の後に続いて下さい」と、激励したと云う。二十五日の総反撃の前進中、栗林中将は、右大腿部に重傷を負った。「兵団長の屍は、敵に渡してはならない」と命令し、拳銃で自決。残された者が、大阪山北方の大木の根元に深く埋めたと云う。組織的抵抗は終わったが、残りし将兵は、あくなき戦闘を続け、時に斬り込み隊となり、敵戦車の爆破、敵露営地を襲撃、斃れても斃れても、鬼神の如く、将兵は死闘を続けた。軍人は「矢弾尽きるとも」、敵全滅を期せと命じ、兵は「命令に従い、矢弾尽きても」、満身創痍となっても、戦闘をし続けた。「ワレ生還ヲ期セズ」と云う状態ではない。靖國神社は、もっと祭神の戦いの中に入って、現代の参拝者に、祭神の畏怖を伝えなければいけない。それがあって、初めて祭神への感謝が生まれ、顕彰の心が派出する。そのあくなき闘魂を授かるれるよう、参拝者を教化しなければならない。そしてイザと云う時には、祭神の武勲を頂き、国難に立ち上がる勇気を引き出すことに、勤めを果たさなければならない。それが、靖國神社の正統である。

 「勝って来るぞと、勇ましく」誓って、国を出た。絶対的多数の敵が来ようと来まいと、皇軍には関係のないことだ。ただ、至尊の命に服して戦うだけだ。それが皇軍である。私なら、題名はこう付ける。

矢弾尽きるとも――怒髪、天を衝いて進むに進むなり――

これが、あの時代の終盤、皇国を覆った国民の意思であろう。旋盤工に駆り出された女高生が、戦闘機を、一機でも多く戦場に届けようと、血を吐く思いで夜を徹して作業に従事。斃れる女学生も出る。見回る担当官に、一人の女高生が泣いてむしゃぶりついた。「なんで、まだ日本は勝てないんですか! なんで勝てないんですか。これだけ飛行機を作っても、まだ勝てないんですか!」と叫んだ! それが、銃後だった。

 回天特攻で、何度も出撃した天武隊・柿崎実中尉は、二十二歳。遺書を残している。
後を頼む。必勝の要は、全員、己を無にして、大元帥陛下に帰一し奉るにあり。肉弾もつて国を守らば、洋夷、何するものぞ。余は帝国の勝利を確信し征く。
特攻隊に――、生還は期し難しの思いはない。死んで神州護持の礎石となる覚悟しかない。第十四期飛行予備学生爆戦特攻の千原達郎少尉は、
興廃の岐路に立ち、今や(皇国は)、怒髪、天を衝いて進むに進むなり
と書いた。これぞ、矢弾尽きても、闘魂、闘魂、闘魂――、それが皇軍であり、銃後であり、後に続く軍国少年たちであった。
懐かしの町、懐かしの人。今、吾れ、すべてを捨てて、国家の安危に赴かんとす。悠久の大義に生きんとし、今、吾れ、ここに突撃を開始す。魂魄、国に帰り、身は桜花のごとく散らんも、悠久に護国の鬼と化さん。
第十三期飛行予備学生神雷部隊桜花隊の緒方襄海軍中尉である。兄は、既にミンドロ島攻撃で戦死していた。緒方中尉は、平泉澄先生に師事した赤誠の人であった。
兄も行け 我も果てなむ 君の邊に 悉々(ことごと)果てむ 我が家の風

 靖國神社に、今、参拝しに来る人に伝えることは、勇気である。戦いの心である。参拝してよかった――、そう云う展示を、幾度も幾度も行うことだ。私はそれを、まず本で表わしたい――。そして映像化してもらいたい。備中さんが現れない。なにか身体を悪くしたのだろうか。いささか心配である。
 

  • [27]
  • 召されるは、家門の誉れ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 3日(土)17時02分13秒
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■平成二十一年三月二十九日

天罰は下るのか。

 東京にいる人は、靖國神社へ行く気になれば行けるからいいが、地方の人は、そうそう行けない。だから、今、靖國神社でなにが行われているかもわからない。それで、この「九段塾」では出来る限り、催しなどは知らせてあげようと思っている。それも、当然、他の人では話すことの出来ない内堀の話もからめてだ。昨日も今日も(二十八・二十九日)、靖國神社は大騒ぎである。外苑・内苑、ドンチャカ騒ぎの坩堝(るつぼ)と化している。「靖国通り」を歩けば、街宣右翼のスピーカーのがなり声よりも、なおデカイ音量で、太鼓の響きや民謡が「うるさい!」と思うほど流れて来る。まさに通俗化の巨頭のようだ。殷賑を極める靖國神社――。今年も、また「英霊もお喜びになる」と云う勝手な謳い文句を旗印に、靖國神社の境内を騒がす千代田区主催の「さくらまつり」が、三月二十七日から四月五日の予定で始まった。又、千代田区連合会主催の「さくらフェスティバル」が、大村銅像の真下に舞台をしつらえて、踊りや歌謡ショーで、騒ぎを増幅させる。物産販売店で、参道を埋める。それに加えておなじみの露天商が約二百店、所狭しと屋台を並べる。参道のど真ん中――正中と呼ばれるところには、ズラリとゴミ箱が並んでいて、群集の――桜見物、花見見物の客が食べ終わった発泡スチロールの皿やコップ、使い終わった割り箸や食いかけのソーセージ・残飯が棄てられている。その周囲には、新聞紙や客が持ち込んだビニールだとか、シート・ビールの空箱・ハンバーガーを包んであった袋などが散らばっている。ゴミ捨て場と化した、靖國神社参道。こんな神社が、他にあるのだろうか。大鳥居の参道入口には、どう云うわけか、刺青を腕に入れた中近東あたりから来たと思える大柄な外国人が、ワンカップの酒やらビールを飲みながらタムロし、唾をしきりと参道に吐きかけている。無論、意味不明の外国語だ。不逞の輩とは、こう云うことを言うのか。こう云う連中を排除する人間はいないのか。頼りになる街宣右翼は、さくら祭り期間中は、靖國神社に誰も来ないことになっている。神社からの通達を受け賜わっているからだ。

 更に今年は、靖國神社創立百四十年記念と銘打った、「ふるさと祭りin靖国」と云う、特別参加のイベントが加わっている。これの主催は、「ふるさと祭りin靖国実行委員会」と、プログラムには書かれているが、ばらしてしまえば、実は靖國神社なのである。それも亡くなった南部宮司の主催だ――と言ってもいいだろう。生前に南部宮司が、このふるさと祭りを企画したのだった。岩手の郷土芸能である盛岡さんさ踊りとか、谷地鬼剣舞・佐渡おけさや山形の花笠踊り、それに北九州や沖縄からも大型トラックを飛ばして参加して来た人たちもいる。みな、南部宮司のお声がかりだったようだ。宮司が亡くなっても、このイベントは中止にはならなかったようだ。一旦声をかけた関係で、中止は無理だったのでしょう。参道には、岩手を中心に、青森・山形・宮城・福岡・沖縄の観光物産販売店が並ぶ。更に酒好きの宮司が招いた岩手中心の地酒の販売が、盛大に開かれた。南部宮司一族の「あさびらき」を筆頭に、岩手県内酒造メーカ十四社の地酒に、北海道一社・青森県一社・山形県一社・宮城県一社・福島県一社の地酒が参加。まさに南部藩独占の地酒祭りである。今まで無かったイベントだ。南部宮司は、このふるさと祭りを楽しみにしていたそうだ。以前から言っていることだが、みたま祭にしても、このさくら祭りにしても、正月元旦の振舞い酒にしても、プロレス興行でも、歌謡ショーにしても、すぐに「英霊も喜ばれている」とか、「参拝者が喜んでいる」とか言い出すのが、靖國神社・主催者・後援者・参拝者、ほとんどである。恒例化してしまった。今の靖國神社周辺の現実だ。

 そう云うだけで、誰も祭神のことなど考えていやしない。参道正中に並んだ掃き溜めの如きゴミ箱の列を見れば、天皇行幸を願うなどは、お笑いだ。あの敗戦の後、敗北の責任を取って、社頭で自決した憲兵もいる。その無垢の純潔を吸った参道に、なんの感慨も無く、群集が夜の参道を埋め尽くして、彼らだけが、ジャラジャラ騒いで楽しんでいる。内苑も、レジャーランドの再現だ。それで何か言えば、「英霊も喜んでいるのだ」と云う言葉が、必ず帰って来る。こう云う破目をはずしたランチキ騒ぎを重ねるごとに、無作法な参拝者を増やして行くことにつながっている。賑わいの後に、靖國神社に荒廃が襲って来るのだ。イベントに集まってきた群衆は、普段の靖國神社に、この時の気持ちそのままで、雰囲気のままで、内苑に入り、遊就館に踏み込んで来る。赤シャツを着たり、ジーンズ姿で、ウオーキングスタイルで、ガムをくちゃくちゃさせながら、境内をざわざわ歩き回る。尻を半分見せた、だらしない格好で境内を歩く。ボトルを飲みながら、菓子を頬ばりながら、べちゃくちゃ話したり、大笑いしたり、自由に入って来る。何の教養も、知的さも有せず、こう云う人間をのさばらせ、無作法を増幅させるだけの祭りが、「さくら祭り」であり、「みたま祭」だろう。今日の参道正中に並んだゴミ箱の列を見て、私は――、最早、不快さを通り越した。身体は衰える一方だが、‥‥なんとか死ぬ前に‥‥一矢報いたいと思った‥‥。しかし南部宮司は、よくも「ふるさと祭りin靖国」などと云う名称を付けたものである。現在の靖國神社も、それを許可した。「in靖国」と云う名称。その左肩には、「創立百四十年記念」と銘打たれている。「in靖国」とは。学生が主催したのではない。靖國神社が、「in靖国」と云う名称で、お祭を始め出したのだ。これの天罰と云うか、神罰と云うか、それがどのような形で、いつ出現するのか――。

 今、映画化構想は進んでいる。日清・日露を調査中。これからは、維新前後の祭神調査だ。本当は、全祭神の話をしたいのだが、時間が無さ過ぎて、間に合わない。しかし誰も書かなかった、描けなかった構想を書くつもりだ。自負すれば、現在、皇軍・天皇中心の皇国史観で歴史を描こうとするのは、私ぐらいしかいないだろうし、また書ける人もいないだろうと思っている。それだけは、現在の私を支えている力だ。



■平成二十一年三月三十一日

召されるは、家門の誉れ。

 今日も九段の坂を下りて、飯田橋に出た。それから神楽坂を越えて、裏道を廻って、夕間暮れの商店街を歩いて行く。買い物姿の多くの主婦や学生らと、すれ違う。私の頭の中には、支那事変下に戦陣にいる息子宛に書いた一通の母親の文面が、何度も幾度も反芻して、思い返されていた‥‥。果たして、今のこの平和な日本で、自由気ままに、ほとんど他から拘束されることなく生きている――この主婦たちに、理解が及ぶであろうか‥‥。一笑に付されるのであろうか。それとも、同じ日本女性として、切れ切れではあっても、感慨を同じゅうする部分はあるのだろうか‥‥。私は、どちらなのかわからなかった。しかしわからなくても、こう云う母が、あの時代、あの戦争の戦前、多く存在していたことを知らせなくてはならないと思っている。

――征きて再び還ることなき、靖國の神々――
「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精髄たるを信ず」
――神、ここに生まれたまへり――

「九段塾」が構想する映画構想だ。その中の一片に登場する筈だ。その話――母親の手紙とは‥‥。

 北支派遣軍岩切部隊にあった、陸軍伍長・青山正三命。昭和十二年に召集されて、支那大陸山西省中條山周辺で、残敵掃討戦を戦っていた。一年前に召集されて、支那大陸山西省にいる吾が子へ宛てた、母親の手紙である。天皇御一人に差出した吾が子への、叱咤激励である。だが、死ぬことへの叱咤激励だった。戦死の飛報あるを、今か今かと、待ちわびている母親であった‥‥。連綿と書かれた文面は、赤子としての活躍を切望する、雄々しき訓えであった。

その許(もと)、昨年×月、應召征途に上りてより、早一ケ年を迎へんとします。その間、その許は、未だ後世に残る様な武功は、母、未だ聞き及びをりませぬが、如何なされしや。母は、その許出征の砌(みぎり)、二度と再び故郷に帰らざる身命捧げて御奉公申せと、確かに聞き取らせたはず。そなたは、未だ武運に廻り合ふ機会を得ないのですか。

 あれから以来、母は、そなたの戦死の飛報あるを、今か今かと待ち居り、亡き父上に報告の日の来るを、一日千秋の思ひを、決して無駄にはなさいますな。さりながら功を急ぎて無駄死にするは、たとひ戦場に死すとも、決して名誉には候はず、よくよく気をつけられ、一旦、死所を得候はば、他人におくれず、必ずともに母に笑顔の万歳を声、高らかに叫ばしめられよ。

 どうぞ、弾丸に死すとも、病にたふれず、一死奉公、生還を期せず、上、陛下のお馬前に、萬分の一の功にむくいられよ。故郷の母より――


と書かれてあった。昭和十三年四月二十五日付けである。青山伍長は、三人兄弟の末っ子で、長兄は病弱で、軍務に服せず、次兄は在営中に病死。青山伍長は、一家の名誉を背負っての御奉公だった。この青山伍長には、一人の幼子があり、出征中に病死していたが、母はそのことを知らせなかった。そうとは知らず、青山伍長は母に、幼子の様子を手紙で聞いて来た。それへの返信に、母は書いた。

‥‥今日までこちらの方での出来事は、何事も秘密にしてありましたが、子供芳雄は、昨年十月二日、死亡して居ります。ちやうどお前が出陣の六ケ月目に‥‥。命をかけての戦のそなたに、かやうな悲しみごとを知らせて、万一、御奉公の誠にくるひが出来てはと‥‥、今まで母が意中での思案、察してください。芳雄は、短い寿命で生まれました。運命です。そなたが戦場で、今は不思議なくらゐ達者でゐられるのも、或いは幼い芳雄が、そなたの身代わりとなつて、先立つて行つたのかも知れません。

 この手紙を読むそなたの気持ち、何たる悲しい事やら‥‥。でも、正三よ。悲しみは一時にして、御奉公がにぶくなつては一大事、上御一人に捧げた身です。公私の二字はけぢめをつけて、より一層御奉公、母が重ねて祈ります。


 青山伍長は、その後、激しい掃討戦で奮迅に働き――、後に名誉の戦死を遂げられた。戦い終わり、伍長の亡骸を収容した時、血まみれの軍服の胸に、この二通の手紙が発見された。その手紙を読み、伍長の部下達は号泣したと云う。京都にいる母親に、青山伍長の戦死公報は届けられた。母は、その時、どう対応されたのか‥‥。そのことの記録は、靖國神社にはない‥‥。

 召されるは家門の誉れ、君国の為。あの時代、男は、誰しもが、いざと云う時には、身を捨てて国に捧げる。上御一人に捧げることを、三歳の頃から教えられていた。我が家でも、同様であった。こう云う話を、私は、靖國神社正統の映画化構想の中で描こうとしている。参道をごみためにする参拝者に、靖國神社に、戦前の国民の姿、祭神の捨身の敢闘を教えたいからだが、商店街を行き交う三十代の主婦にも、知ってもらいたいのだ。日本の戦争とは、どう云うものか。今、ニュースで、北朝鮮が、まもなく発射する「人工衛星」と称する長距離弾道ミサイルを、日本が迎撃したならば、「最も強力な軍事的手段によって、すべての迎撃手段とその牙城を、無慈悲に粉砕する」と警告した。そして、「日本を踏み潰す」とも。久々に聞く、戦争の跫音である。宣戦布告じみたメッセージを、北朝鮮が発したことをアナウンサーが報じていた。丁度、居合わせた知人の女性が、「ひゃほー、いいねえ、いいねえ!」と、心の底から嬉しそうに甲高い声を発する。右翼団体に所属している婦人だ。やはり私がいつも言っているように、日本はいつか再び戦争をする。せざるを得ない状況が、必ず来ると信じている。起こるべくして起こる。さあて、日本はどうするのか? 本当にミサイルが飛来するのか、核弾頭が、東京に向かって来るのか。どうするのか。

 かって極東の小国であった日本を攻め来る清国・ロシア・国民党・中国共産党、そして欧米列強――、その戦いの陣頭指揮に立ったのは、天皇であった。戦後、宮内庁やその周辺関係者は、天皇を平和の象徴として全面に押し出して、統帥の面影を消し去ろうとしているが、靖國神社に残る史料から見れば、明治天皇も、大正天皇も、昭和天皇も、戦中は、常に戦況報告を最優先させ、大本営に御座されて、戦いの趨勢に気を配られ、前線の炎熱寒雨をものともせず、皇軍のいさおしを押し出し敢闘する将兵を御軫念あそばされた。そして時に鞭を揮うが如く、叱咤激励された。神武天皇以来、日本の歴代天皇は、内外を問わず、国難襲い来る時は、常に陣頭に立たれて指揮を執られたのだ。私は、明治以降の近代史の中で、誰も描かなかった天皇の戦う姿を捉えたいのだ。日本の戦争は、天皇が戦うことによって、国民尽忠の精神が燃え広がったのだ。名将勇将が輩出した主因でもあろう。だから敗戦後、粉々になった国民の前を歩く天皇の全国巡幸に、声限りの「天皇陛下万歳」の歓呼の声が発生されたのだった。その真実を描かなくては、日本の近代史は理解できない。靖國神社に祀られる祭神のいさおしは、そのために尊く気高い――。そして――、大元帥陛下の統帥の下に、皇軍は動いたのである。亜細亜独立の風を吹かせたのだ。南方諸民族をバカにはしたが、軽蔑しなかった日本人の性根を描きたい。そこが違うのだ。共に同じメシを喰い、笑い、肩を叩きあった仲だった。気温零下の寒中に、歩兵を渡すために、敵弾飛来する中でも、水中で架橋を支える工兵の敢闘は、天聴に達することを思えば、なんのそのである。飢餓の戦場で、悪戦苦闘する小隊全員の飲み水を水筒に入れて運ぶ水筒兵の果敢な戦死も――、家門の誉れだ。靖國神社に祀られれる。誰にも負けぬ御奉公叶ったと、笑って死ねるのだ。維新前夜、名も無き百姓妻女の賊軍相手の敢闘死や、匪賊相手に機関銃を乱射し続けた警察官の妻女の壮烈死。靖國の神々は、様々である。祭神の数だけ、戦いの譜がある。そう云う構想を、立てている。

――征きて再び還ることなき、靖國の神々――
「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精髄たるを信ず」
――神、ここに生まれたまへり――

執筆に入るには、まだまだ時間がかかるが、靖國神社正統の集大成を出したい。第一部・第二部・第三部‥‥映画化したならば、何時間を要するのだろうか。なんだか、どこかの団体みたいになって来たが、こちらは本物だ。
 

  • [26]
  • 尽忠の精神。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 2日(金)18時22分45秒
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■平成二十一年三月十七日

映画化の歴史物語。

 こんばんわ。しばらく留守をしていて、済みませんでした。知人の頼みで、××県の方で、『竹取物語』に関する講習会みたいなものがあり、そこで、かぐや姫は実在の人物だった――と云う話をしたいので、その原稿を書いてくれと頼まれて、それで身体を取られていました。妙な具合で、要は『古事記』の垂仁天皇記に出て来る、迦具夜比売の話とを絡ませたオハナシで、歴史に興味を持つような趣向の話で結構です――と云う依頼に応えたのだが、調べてみると、この『竹取物語』は面白かった。かぐや姫に求婚する五人の貴族がいるが、これが全員実在の人物で、彼の「壬申の乱」の功績者。全てが藤原一族と深い深い関係にある者達だ。この五人の実在者が、『竹取物語』の中では、「鼻持ちならぬ」「計略家」、「二枚舌」の男たちとして、徹底的にコケにされている。作者の藤原一族に対する復讐が、この「かぐや姫物語の伝承」と云う主題である。ちなみに『竹取物語』の作者は不詳とされているが、藤原一族に排除された紀貫之ではないかと、研究者の間では言われているようだ。藤原不比等以来の、天朝における権勢を極めた藤原貴族達の横行の姿を、持統天皇から聖武天皇までの期間ぐらいまでを区切りとして書いてあげた。それで、その時、聖武天皇が、天平二十一年四月一日(此の日、天平感宝の年号に変わる)、東大寺へ行幸、参列する群臣に賜った宣命の中に、大伴氏佐伯氏の朝廷守護に対する尽力を褒め称える、「海行かば、みずく屍」の話まで書いたら、「少し『竹取物語』とは離れすぎていないか」と言われた。それは、そうだ。

 そして知人と、少し戦争の話をする。あなたの話は面白いから、映画化してみたらどうか?と言われた。映画化と云われても、どうしたらいいかわからない。ともかく、なにか書いたらどうですか、と言われた。そこで、考えた。靖國神社を通した戦争史、近現代史を映画化を目的として、書いてみようかと思った。台本などは書いたことがないので、ストーリーと云うか、筋書きみたいなものを書いて、これを、あの元幕僚長が懸賞論文を投稿した会社の社長などに見せて、「どうですか、ひとつ、日本の為に映画化してくれませんか?」と、頼んでみようか――と。まあ、これは冗談だが、考えた次第。幸いなことに、私の知人の一人に、マスコミに強い人がいるので、そう云う方の協力を得れば、少しは行けるかなと思った。それで、靖國神社の正統史を「映画化」することを目的として、ともかくも筋書きを書こうと思った。筋書きと言っても、今まで投稿したスタイルで書くだけだが、あとは、専門家がなんとかしてくれる。要は、「モノ」がなければ、交渉も何も始まらないので、まずは書かなければ仕方がない。そこで、これから書きます――とは言っても、書き溜めたものがあるわけでないので、これから少しずつ書いていくつもりです。そう考えたら、やはり映画の影響力はすごいと思う。出来るかどうかは、皆目不明だが、「九段塾」企画の映画も面白いかな、と。理屈っぽくて、どうにもならないかも知れないが。それで、これから書いて行きます。そのお知らせです。本当に描けるかどうか、わからないが。

 そうそう、○○さんが、元幕僚長の論文を批判しつつ、少し買っている向きもあるが、こう云うものを買ってはダメです。「アメリカ合衆国軍隊は、日米安全保障条約により、日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とはいわない――」と、冒頭に書いている。こう云う認識の男のレキシ話を狂喜する、保守陣営の気が知れない。何かと言えば、大東亜戦争がどうとか書いているのが、どうにも気に喰わない。一度、何かのテレビで彼がしゃべっているのを見たら、ニヤニヤしながら戦争の話をしていた。ペテン師メ!と思ったね。それは八月十五日、旗ざしモノをなびかせて、境内を大勢の取巻きと、これ見よがしに、ざわざわとやって来る弁護士あがりの代議士と同類としか思えない。こう云うものを評価するも、しないもない。以上です。それでは、少し次の投稿には、時間がかかるかも知れませんが。



■平成二十一年三月二十五日

尽忠の精神。

 今、靖國神社正統史を映画化することで、多くの人々に、靖國神社のなんたるかを示そうとした時、どのようなスタイルが一番いいのか、構想を考えている最中(さなか)――。靖國神社遊就館では、三月二十日から十二月八日の長期に亘る、特別企画展が始まった。その内容を見ると、まったく靖國神社の正統とはかみ合わぬ、通俗的な読み物的発想のものとなっていることに、悲しみを持つ。
「矢弾丸尽きるとも――我レ生還ヲ期セズ――」
キャッチフレーズは、
「愛するものが住む、この国を守るため、命をかけた英霊の思いを伝えたい」
これが、靖國神社御創立百四十年遊就館特別展と銘打ったものであることに、落胆するしかない。安物の映画を遊就館で見過ぎたのか、通俗極まりない「宣伝文句」で解説されている企画展である。まるで特攻隊の好きなオタク連中か、奉賛会青年部「あさなぎ」の連中に、一切任せてやらしたものなのか、到底、天皇の神社である靖國神社が、御創立百四十周年を記念するものとはなっていない。此処の所、靖國神社に参拝する現代人の認識や祭神への意識がどんなものであるかは、遊就館ノートを見ると、手に取るようにわかる。「ここに眠られている英霊には、ゆっくりお休み下さいと言いたい」。「戦争は、絶対にあってはなりません」。「死んだ人たちが可哀想です」。「遺書を読むと、涙、涙です」。「国の為、国を守ることへの思いは、到底、私たち現代人には理解できないでしょう」。「靖國神社に来て、学んだことを生かしたい。チームの為に、自分はスポーツと言う形で、恩返しをしたい」。「家族愛・親子愛は素晴らしい」。‥‥多様な考えはあってもいいが‥‥、なんてことを言う気にはなれない。英霊と云う言葉が溢れ返り、英霊が眠る墓地の如く、靖國神社を参拝し、手を合わせているようだ。靖國神社がどのような神社であるか、祭神は、どのような覚悟を持って出陣したか――。戦前の軍隊は、どのような組織になっていたか、戦前の日本は、どのような国家体制になっていたか――。松平宮司・大野宮司が去られた後、靖國神社の正統史が、尊皇の歴史が、祭神の偉績が、神社神職によって語られて来なかった‥‥。まったく参拝者に、何も教化されて来なかった怠りが、このような悲惨な認識となっている。

 現在の参拝者の意識には、「祭神」と云う認識は、ほとんど無いように思える。祭神と云う言葉を使う参拝者を、最近は見かけることが少なくなった。尊皇の話も聞かない。「皇軍」と云う言葉は、ほぼ死語と化している。たまに「国軍」などと云う造語をもって語るオタクもいるようだ。天皇の臣として、祭神を語る人などは、皆無に近いのではないだろうか。自分らと同じ年齢の若者が、戦争に行って死んだと思っている。勤王志士の話などで盛り上がる光景を見たことがない。若者と云わず、四十代、五十代、六十代のおじさんと呼ばれる世代の多くが、ジーパンを履いて境内を散策しているのを、最近はよく見かける。公園と化している。身だしなみより「心が大切だ」と、生半可な知識に溺れている世代の特徴だ。形より「心」が大事と云う、もっともらしい人間教育を浴びた残滓だろう。相変らずスーパーの袋をぶら下げ、ボトルを手にして、ぶらぶら来るのもいる。参道から玉砂利が排除されて久しい。車椅子で参拝者が来れないと云う理由で、排除された玉砂利。その玉砂利がなくなったために、足元に眼が行かない。踏みしめて、一歩一歩、神様に近づく気持ちが薄れた。すいすいと、公道だか散策道だかわからぬままに、コンクリートの道を歩いて来ると、神門があり、そこをくぐりぬけて内苑に入って来る。誰かが、びしっつと教えないとわからぬ参拝者が、どんどん増えている。次は何を排除するのかと思っていたら、「天皇」と「祭神」と云う言葉のようだ。

「愛するものが住む、この国を守るため、命をかけた英霊の思いを伝えたい」
百四十年も経過すると、軍人の忠義忠節も捨て去られ、参拝者はお客様になり、神官が媚を振りまく始末となる。軍隊なき国家における、これが惨状だ。とうとう、この神社も、現代の大衆の意識と同化してしまった。「愛するものが住む、この国を守るため」とは、自衛隊が隊員募集によく使うような言葉だ。最近は、生き残りの元特攻隊と云う――人たちが、「我々は、みな家族の為に戦った」とか、「天皇のためと言う人は、あまり周囲にはいなかった」などと講演する人が増えていると聞く。別に左翼ではない。家族のため、国のために戦った――と、曖昧な話をし出す。恣意的な話を、真実であるかのように話す。天皇の為に戦った――醜の御楯として、君国を守護奉る――と語った節義忠臣の人たちは、任務を全うし、みな、祭神になられてしまった。生き残った人で、忠義忠節を語り、我々は天皇の為に全力を尽くしたと云う将官・将兵は、ほとんどの人が亡くなってしまった。残っているのは、「家族の為に戦った」と云う、恣意的な気持ちを語る人ばかりのようだ。困ったことだ。今、天皇を語る人は、ほとんどいなくなった。だから、靖國神社に祀られる祭神の歴史が、あまり語られず、本当かどうかわかりもしない自分達の気持ちの「大東亜戦争体験談」が平易に語られて、聴衆は、どんどん正統から離れたところで、戦争を理解し、近代史を理解し、靖國神社の英霊を、やみくもに尊敬したり、感謝したりして行くことになって行く。それに、更に拍車をかけるのが、
「愛するものが住む、この国を守るため、命をかけた英霊の思いを伝えたい」
「矢弾丸尽きるとも――我レ生還ヲ期セズ――」
と云う企画展示だ。俗化を感じてならない。

 南部宮司が亡くなって、早や二ケ月を過ぎるが、いまだ新宮司の発表はない。あと一ケ月後には、春の大祭だ。それまでに決まるはずだが。三井権宮司が宮司代行をされているが、この方は、まもなく定年退職だ。誕生日を以って終わりとする。今月の末までには、新宮司を発表するのだろうか。皇軍は、「愛するものが住む、この国を守るために命をかけた」わけではない。何故、現在の靖國神社は、もっと硬直した精神を発揮しないのか。靖國神社を正統に戻そうと考える幹部神職は、いないのだろうか。このまま、靖國神社は、「祭神」と云う言葉を消し、「天皇」と云う言葉を隠し、「皇軍」を秘事とし、ひらひらした言葉だけで、参拝者をだまし続けて行くのだろうか。たがのはずれた靖國神社。社頭に掲げた祭神の遺書に、「愛するものが住む、この国を守るために出陣する」と書いた遺書があったかどうか。皇国の為に死す。醜の御楯として出陣する。天皇の赤子としての覚悟をしたためた遺書が多い。何故、それを繰り返して言わないのか。「古い」と考える執行部がいるからだろう。皇国史観は古臭くて、現代の若者に受けないから、現代の若者でも理解しやすいように、「愛するものが住む、この国を守るために」などと、センチメンタルな感傷的な言葉で表現するのか。私の落胆はひどい。

 この特別展のパンフを開くと、すぐにとんでもない文面が眼に飛び込んで来る。
「矢弾丸尽きるとも‥‥8戦地の英霊」
と、赤字で大書してある。8戦地とは、意味がわからん。どうも八箇所の戦域と云う意味らしいが、この洋数字を使った「8戦地」と云う表現は、今までにないシロモノであろう。こう云う文字感覚と云うか、得体の知れない表現で、祭神の敢闘精神を描くと云う。まさに「英霊ちゃん」と、祭神を呼んで楽しむ奉賛会青年部「あさなぎ」レベルの企画としか思えない。もう、あまり最近の靖國神社の堕落は、いちいち批判するのが疲れて来た。サブの説明文に、こうある。
「昭和19年7月、絶対国防圏が破られ、絶対的多数の敵が本土間近に迫ってきた時を時間軸とし、マリアナ諸島・ビルマ・ニューギニア・比島以下、8戦域を主な戦地として、英霊の御心を描いていきます」
とある。まさに御創立百四十周年記念としての特別展示に、こんな文面を書くのは、オタク人種しかいないのでは。諸氏は、どう思うかね。絶対的多数?の敵とは、どう云う意味か? 圧倒的な物量で押し寄せる敵と云う語句はよく見かけるが、絶対的多数の敵と云う表現は、見たことがない。兵員数のことを云っているのだろうか? 物量のことを言っているのだろうか。また最近の流行なのか、時間軸などと云う、新たな言葉も使われている。靖國神社が使うような言葉ではない。この一連の文面から、日夜奉仕する祭神の偉績を紹介する敬虔な気持ちや敬神などの感情を読み取ることが出来ない。稚拙以外なにものでもない。

 冒頭には、「靖國神社」挨拶と云うのがある。
「‥‥本特別展『矢弾丸尽きるとも』は、昭和十九年後半、圧倒的物量を誇る敵が本土間近に迫って来た、その時に、些かも怯むことなく、一身を捧げて祖国を護ろうとされた英霊の御姿・御心を、サイパン島・グアム島以下、八戦域を舞台にして描いたものである。今更ながら英霊の御心の至純至高に感嘆し、その僅かしか表現できなかったことを省みつつ、ご挨拶とさせていただく」
とある。殉義忠節の祭神に奉仕する靖國神社の神職が使う言葉らしさが、全く感じられない。「今更ながら英霊の御心の至純至高に感嘆し」とは、情けない。欣然とした靖國神社神職の荘厳さが、まるでない。祭神に奉仕する真摯な気持ちも感じ取れない。

 私は、この靖國神社は、一旦、神門を閉めて、改めて出直さねば、日本国民がかわいそうである。現代人が哀れだ。誰も本当のことを教えてもらってない。話を聞かされてない。心地よい演歌のような歌を聴かされているに過ぎない。この神社には、天皇の軍隊――皇軍の将兵が祀られている神社であることを、明確に話さなければならない時期が来ていると、私は思う。いつまでも「家族のために戦った。恋人のために戦った。日本のために戦った」などと云う、ふやけた話は排除しなければならない時期に来ていると思う。『軍人勅諭』をもって語るもよし。『戰陣訓』をもって語るもよし。まずは、それを真正面に出さなければ、皇軍将兵の行動は、現代人に伝達できない。
○軍は、天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し、皇運の扶翼に任ず。
○皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る、絶対随順の崇高なる精神に存す。
○凡そ戦闘は、勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。攻撃に方りては、果断積極、機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。
○勝敗は、皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば、断じて已むべからず。
――「勝敗は戦いの常」などと、呑気なことを言うことを許さなかった。百戦百勝を責務とさせた。勝たずば、断じて已む。
○死生困苦の間に処し、命令一下、欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。
○屍を戦野に曝すは、固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様、予て家人に含め置くべし。
○万死に一生を得て、帰還の大命に浴することあらば、具に思ひを護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。
――この精神があって、初めて生還の可能性のない、絶対死の特別攻撃隊の編成が、志願により始まった。「体当たり攻撃」とか、「多くの特攻兵器で戦い散華された」とか、通俗的な言葉で、靖國神社が祭神の戦闘を語るべきではない。
「愛するものが住む、この国を守るため、命をかけた英霊の思いを伝えたい」
と云うキャッチは、無責任でもある。英霊の思いを伝えたい――と云うのは、あまりにも幼稚な字句であろう。
「矢弾丸尽きるとも――我レ生還ヲ期セズ――」
もそうだ。敢闘精神を描きたいのだろうが、どうも敗北思想が背景にある。自ずと染まっている風を感じる。

 今、たまたま手元に、昔、松平宮司が遺族に語られた言葉が、社報『靖國』に掲載されている巻があり、これを紹介して、いかに松平宮司時代の言葉が、真摯な恩愛と敬虔さに満ちた自然な言葉であるのか、お知らせしたい。昭和六十年九月に、靖國神社は、「日露戦役八十年慰霊顕彰祭」を斎行したが、その節に、日露戦役のご遺族ご縁故の参列者を前にして、松平永芳宮司が挨拶された言葉である。

国運を賭して露国と戦って勝ち、その結果、我が国を世界の檜舞台に登らせ、全世界の注目を集め、東洋・中近東諸国に多大の独立心と勇気を与えて終結した日露戦役は、幸いにしてアメリカの仲介によって、八十年前の今日、この日に、同国北東部ニュー・ハンプシャー州のポーツマス軍港に於いて、日露両国が講話条約に調印して、幕を閉じたのであります。

 本日は、彼の戦役に於いて、父君を御国に捧げて遺児となられた方々、並びに御縁故の方々が、遥々全国各地から御上京になり、只今「日露戦役八十年慰霊顕彰祭」を、厳粛、且つ盛大に滞りなく済ませることの出来ましたことは、洵に有り難く、且つ芽出度く、御同慶に堪えぬ所であります。同戦役で貴い生命を国家に捧げられました、八万八千余柱の御祭神方は、本日の祭典斎行を、等しく御喜び、御嘉納下されたことと存じます。

 先に日露戦争の遺児の御方と表現いたしましたが、皆々様、既に八十歳を越され、遺児と申し上げるには、適当ではないかも知れません。然し皆様方は、殆んど父君の御顔を御記憶なき御方のみで、過去八十年余を、各位様々の道を歩んで今日を迎えられたことと存じ上げますが、御若くして戦没されました父君の齢の残りの齢を受け継がれて、今日の御長寿を保たれ、本日の祭典に御参列になられましたことは、遺児として、亡き父君に直接撫育される機会をもたれなかったとは申せ、その父君に対する最大の御孝養であったと考えます。同時に計り知れない御苦労と共に、遺児となられた皆様方を、女手一つで御育てになられた母上に対しても、今日まで健康を保たれ、母上の亡き御主人であられた皆様方の父君の神霊を、今日この靖國の宮居で御慰めになられましたことは、これまたその亡き母上に対しても、最大の御孝養であったと、信じて疑いません
』。

‥‥せめて松平宮司の半分でもいいから、真摯な気持ちで祭神と向き合い、参拝者に英霊の戦いぶりを話してくれることを切望するしかない。

 今、私は、靖國神社の正統史の構想を練っている。

――征きて再び還ることなき、靖國の神々――

「汝等軍人の誠忠遺烈は、萬古国民の精髄たるを信ず」

――神、ここに生まれたまへり――


これが主題である。尊皇攘夷の夜明け前から、日清・日露・支那事変・大東亜戦争と、幾多の国難に立ち向かって来た、皇軍将兵の誠忠遺烈を語り、至尊の命に従い、萬古国民の精髄を草に寝て、海に渡り貫き通して来た、日本国民の歴史を描きたいと思っている。聖武天皇の大伴連を褒め称えた、神武東征以来の尽忠の精神。「海ゆかば、みづく屍、山行かば、草むす屍、王の辺(へ)にこそ死なめ、のどには死なじ」。その尖端に、皇軍はあり、靖國神社がある――。‥‥まだこれは、単に構想だけです。もう少し、時間をかけます。
 

  • [25]
  • 祭祀と関係ない、パール判事の顕彰碑。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 9月 1日(木)18時44分14秒
  • 返信
 
■平成二十一年三月五日

祭祀と無関係なのが、パール碑。

 ‥‥さて。突然、○○○○○なるお方が入って来られた。何か投稿してくれることに関しては、まったく異存はないが、此処は、門戸を何人に対しても開放しているわけではない。備中さんは、どなたでも書いて下さい――と言われているが、書いていただいた上で、似合うかどうか判定させていただきましょう――と云う、少々詐欺的な考えが裏にはある。いや、備中さんには無いが、塾頭の腹にはある。どうもハナカラ、○○○○○さんの投稿に、いちゃもんつけているようで、気がひけるが、そう云うわけではないので。閲覧者に対して話している部分が多い。丁度、いい機会だと思って。○○○○○さんも、あまり緊張しないで、ゆったりと聞いておいて下さい。あなたには、いいことずくめの話だから。公開の掲示板だから、誰が入って来てもよさそうなもんだが、それを、あいつはいいが、こいつはダメだでは、掲示板が成り立たない‥‥と云う考えもあるにはあるが、此の「九段塾」は、特殊である。結構、門戸が厳しい。それも「ウリ」の一つにしたい。燃料の薪や飲料水の補給程度ならしてあげるが、上陸はダメだ――と云う感性がある。靖國神社に斎庭を保つために神門があるように、「九段塾」にも門がある。普段は開いているし、誰でもがくぐれる門である。しかし教えの庭に夾雑物を持ち込む者には、二度目の訪問には、門が開かない。なんだか、頑なな、いやんなっちゃうような掲示板かも知れない。

 そこで‥‥今度は、○○○○○さんへの話です。はっきり申し上げると、今、投稿された二編は、あまり靖國神社の正統を語る上では、関係あるようで、ないような話――とは思います。ただ、この方の本領は、今、投稿した文章の如きものだけではないでしょう。時にシャープな感性を見せた話も、その内、出て来る期待もある。今は若さが充実して、抑える者もいなく、突進している野牛の如き勢い。それは悪くない。抑制しろと言っても、大動脈が波打っている年代でしょうから、無理な注文。しかし折角、私の言い分も、少しは認めておられるようなので、今後の大成を期待して、大いに投稿して頂きたいとは思うものです。但し備中さんが言っているように、スレッド「○○○○○の斎庭」と云うのは、少し上げ過ぎなので、「○○○○○氏の庭」ぐらいで、「これと云った優秀な弁論者」には、特別にスレッドを別に作ってもいいだろうと思う。ただ、どうもハンドルネームが、「九段塾」に合わないような気がしないでもないが。確か、昭和三十年代後半あたりに、シュールリアリズム、ヌーベルバーグなどと共に、日本ではサルトルとか、カミユの実存主義思想が、一気に学生たちの間に広まったことを記憶しているが‥‥。こんな世の中に、実存主義を名乗る人がいることに、面食らった感じもある。できれば、もう少し風雅な、日本的なハンドルネームだといいと思うのだが。ただこれは、私がそう思うだけなので。この「九段塾」の閲覧者は、やはり右翼傾向を持つ資質人が多いので、実存主義と云う言葉がぴったりしないので、少々イメージ的に損するような気がする。○○○○○さんには、言いたいことを、一旦、掲示板に投稿して戴き、あとは私や管理人の判断で、あまり「九段塾」と関係なければ、スレッドに移し、よければそのまま掲載。無論、スレッドにも、同時に複写しておけばいいのでは。三島が好きなようなので、言葉を構築・結晶化させる語り口が好きなようだ。読むのに疲れるが、仕方がない。もう少し個性が溶けて平たくなれば、「ファン」も増える。あるいは、このまま突っ走って、その内「それが個性」になれば、儲けものです。あと二十年はかかるかな? あと、ひと言。‥‥○○○○○さんに一つだけ言いたいのは、思想も大事だけど、これだけで進んでいると、いつか、独自の考えではなく、「我流」になる。我流はダメです。そうは云っても、よくわからないかも知れませんがね。そこんところを補うのが、「志操」なのですが。‥‥このように、「九段塾」とは、少し遠い話でも、国士として、右翼として、主張したいこと、独自な雰囲気を持つ方がいるならば、○○○○○さんのように、スレッドで枠を作って、広がりを持たせるのもいいのではないかと、私は思っています。

 さてと‥‥、○○○○○さんが、靖國神社境内における顕彰碑について論を書かれているので、少し書きましょう。その前に、○○○○○さんにお願いがある。あなたの投稿文の中に「8・15の敗戦もさることながら」と云う一文があるが、「8・15」はまずい。八月十五日と修整して下さい。此の日は、記号ではないからによる。折角、○○○○○さんが、「パール判事の顕彰碑」を否定する話を書かれているが、少し違うんですね。いえ、あなたの論が――ではなく、私の反対する話が。つまりですね、事は簡単なんです。「靖國神社とは関係の無いことには、神社は境内地や浄財を消費するな!」と云うことなのです。桜の掲示板では、少々ハッタリをかけたが、要は、著名な判事だろうが、崇敬者だろうが、祭祀と関係のない人物の顕彰碑など、出すな!と云うことなのです。靖國神社の境内は、神社と関係のある人だけが関与する所なのです。ヤクザだろうが、テキヤだろうが、靖國神社の祭礼には露店を出す。それで、彼等は関係があるんです。日本の戦争を裁いた連合国側の一判事を顕彰しなければならない関係は、まったく無い。境内は、公園では無い、斎庭です。これが、靖國神社執行部にわかっていない。パール判事が「日本側を無罪」と主張したから、顕彰しようなんぞ、理屈が合わない。何か企みがあるに違いない――と考えるのが普通でしょう。実は‥‥、もう少し話してもいいでしょう。

 あの顕彰碑は、形の上では南部宮司の采配となっていますが、実際はNPO法人「理想を考える会」と云う所が費用を出したようだ。ネットにも、既に公開されているから見たらいい。会長は、伊勢神宮の警備担当をしていた元陸軍少尉・羽山昇氏と云う方。私は知らない。財界人で、同台経済懇話会と云う所が、接触を図った様子。詳しい経緯は知らない。ここの会長が、当時、瀬島龍三氏だった。その関係もあったろうと考える。表向きはパール判事顕彰で、遊就館の前に建てた。この場所に、彼等はこだわった。何か理由がなければならない。それで、私は裏を読んだのだ。もしかしたら、本殿に祀られる昭和殉難者が、再び「悪さ」をしないように、連合国軍側判事として見張っているぞ――と言わんばかりに建立したのでは? あの地点でなければ、本殿を見据える位置は無いのです。おかしいでしょう? 靖國神社内苑。それも戦艦や軍犬・特攻隊員・インパール作戦遺品・母子像などがある遊就館前に、皇軍として「なにもしていない」パール判事の顕彰碑が、何故あるんですか? 祭祀と関係ないでしょう? 靖国公園ではありませんよ! つまり、こう云うことを、南部宮司はしてしまったのです。経済界との繋がりがもとで、誤った神社経営をしてしまった。言わば、筑波宮司が奥さんの個人的理由で作った私的祠を、鎮霊社として祭り出したのと、同じ過ちを冒したのです。言い換えれば、わけのワカラン鎮霊社ごときのものを、南部宮司は建立してしまったと云うことなんです。それがパール博士の顕彰碑の評価です。だから、私は早く裏に隠すか、どこかに移転させるか――をしなさいと言っている。その碑石に、南部宮司は英文の判決文を刻んだ‥‥。「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には――」とか云う、決まり文句の文面だったと思うが。神社に行っても、無視しているのでよくわからないが‥‥。

 待てよ、もしかしたら、此の判決文を、例のご婦人の夢の中で、南部宮司はしゃべったのではないか――。この連合国判事の判決文の一文を、南部宮司は、誰かに「大切な言葉だから、暗誦できるようにして下さい」とか言われて、真面目は真面目な人だから、一生懸命覚えたのではないか――。それが床に倒れた南部宮司の口から出た英語ではなかったのか‥‥。今頃、霊界では、松平宮司に詰問されて、しどろもどろで言い訳をしているのでは‥‥。パールが日本無罪と言ったのは、いくら調べてみても、「日本は無罪だから」、単に無罪だと言ったまでで、○○○○○さんが言う通り、泣いて喜ぶことではない。開戦の詔書を読めば、日本が無罪であることぐらいは、赤児でもわかる――、そう云う気合が、戦後の保守にはないからダメだ。だから元幕僚長のような、日本歴史も伝統もない、文化の匂いすらない論文に歓喜する羽目になる。パールを喜ぶ連中と変わりない構造だ。まあ、此の手の人間は、烏合の衆だ。その内、熱狂が冷める。本物になったら、最悪だ。パール博士が、後年、日本贔屓になった感も見受けられるが、これはパール博士の「話」に感激した日本人が大勢いたから、日本が気に入った程度のことでしょう。大体、パールを顕彰していいんだと云うなら、それよりは日本の弁護に、知力・体力・死力を尽した清瀬一郎弁護人等、弁護側を顕彰するべきで、敵方の判事を有り難がると云うのが、どうもだらしがなく、情けない。こう云う戦後人だから、とても戦争など出来ない。誇るなら、敢然と悪の法廷に臨んだ、日本側弁護人でしょう。外人でもいいと云うなら、アメリカの犯罪を堂々と告発した、米国人ブレークニーでしょうが。パールよりも数段上と評価する者は多い。皆さん、しっかり、眼を見開いて下さいな。以上です。まあ、あまり言うことがないので。

 新しく入って来られた○○○○○さん、特異な感じはある。少々キチキチの感じはあるが。今後も嫌がらず、どうぞ、新しい知識をもとに、志操を語って下さい。それでは、「8・15」の修整はお願いします。



■平成二十一年三月六日

文章表現とモノの見方。

 ○○さんが(○○○○○さんでは、申し訳ないが長く、書きにくいので、少し省略させてもらいます。愛称だと思って下さい)書き出した。結構なことです――が、何度か読み返して、ちと添削したいと思った。本当は、一日、掲示板に乗せて皆さんに読んでおいて貰ってから投稿しようと思ったのですが、明日に用事が出来てしまい、そのあと数日は、少し無理なので、今夜に書いておきます。こう云うことは、めったにしないことなのですが、この○○さんは、つい、何かを話しておいてあげたくなる方なので、私には不思議な思いがある。どうも、○○さんの書いている話を読むと、猛烈に、この方はフラストレーションが溜まっているような気がしてならない。相当なストレスを抱えているような感じがする。腹にたまった贓物を吐き出すのに、「九段塾」が丁度いいなら、出しても構わないが、吐き散らしたら、その後は本物をどんどん吸収して行かないと、進歩がなくなる。桜の掲示板では、私はおちょくるのが楽しく、人の書いた文章など、添削しなかったが、実に私は添削魔なのである。相手の原文がなくなるほど、メチャクチャに赤線を引っ張り、直してしまう。あの、例の桜掲示板管理者から最後に言われた、長い長い追悼文と云うか、差別用語ラッシュの文章は、最高に腹を抱えて、仲間と笑い転げてしまった。あれほど傑作な文章はなかった。普通の人では書けないし、あれほどの破天荒な文面は、近代著述でも見受けられないのではないか。本当に外を歩いていても、思い出すたびに笑って、車に轢かれそうになった。あれは添削のしようがない。主語を変えるだけで、相手に返せる話だった。こりゃ、ダメだ。これは、保守じゃないワイ、右翼じゃないワイ。それで華を持たせて、黙って桜を投げ出した。その私が、この○○さんには、何か手を出したい想いが走ったんです。○○さんが、相手がなくて困っているのかどうかわからないが、「九段塾」に来たのも、「えにしの糸」であろうか。それで、少し添削する気になった。

 まず、何を言いたいのか――、もう少し論旨を絞り込まないと、折角の才覚が生かされない。そして肝心要の言いたい所は――、つまり太字で書きたいところは、なるべく直裁に、簡単な言葉で書いた方が、読み手に伝わる。修辞の問題ではなく、文章としてです。ですから、まったく文書作法の話です。志操の添削ではありません。自分の趣旨を相手に伝えることは重大事で、街頭で演説する時にも必要な心がけです。私は――、岡田中将に関して、さほど詳しくはない。映画もテレビで、少し途中を見たぐらいで、詳細は知らない。だから、○○さんの書いてくれた概要で知るだけです。あなたは、岡田中将の話を皮切りにし、昨今の保守のていたらくをなじり、「自由主義の自称保守派」のダメさを語り、そして最後にもう一度、岡田中将の話に戻って、「一体、保守とは、何を守るのか」と云う――、なにか別の話を持ち出す気配で、結論として、『それはやはり岡田中将が死を以て保守しようとした、日本的精神の美であり、精神価値としての伝統といった、不可視的な価値観ではないのかということです』と書いている。‥‥正直に書くが‥‥、どうも言いたいことがよくわからない。前のパールの話は、ごもっともだとは思うが、今度は難しい。悪く言うと、チンプンカンプンの観も無きにしもあらずだ。勿体無い。折角の着想が生きていない。解説の仕方が悪いのではないか。これは章節文法の作法を教えないといかんと思い、筆を取った次第。チンプンカンプンと云うのは、ひどい言い方だが、他に思いつく適切な言葉がなかったので、気を悪くしないで。あなたのためと思っている。まず岡田中将の話は話として、結論を出してしまう。つまりあなたの言い方をすれば、中将は、『岡田中将は主張を曲げず、実体としての生命を犠牲にし、敢えて死を選択することによって、精神価値としての「伝統」を保ち守ったのです』。‥‥だが、この言い方では、凡人にはわかりにくいので、「即ち岡田中将は、右顧左眄スルコトナク、軍人として××××××××することで、ヨシとしたのです!とかなんとか、極めてわかりやすい言葉で、びしっつと結論を解説しないと――、閲覧者にはわかりにくい。「精神価値としての伝統」って、なんだろうと考えてしまう。読み手が考え出したら、もう終わりだ。そこのところの表現を、大いに勉強して欲しい――と思った。実戦的に、だ。そして「このような先人をみるにつけ、現在の保守界はなんだ!」と、怒りをぶつけて行く。そのいい加減な保守界をぶった切る! 岡田中将の身の処し方との関連を云うならば、もう少し解明的に。なにかわかりにくい。何を言いたいのか、「雰囲気」は、なんとなくわかるのだがね。そして最後に、もう一度、岡田中将を出して、この方の××××は素晴らしいものである、と、もう一度ダメだしと云うか、ダメ押し(主張したかったこと)を記して終わりとする――。問題は、この××××××の部分なんです。ここがヘソだ。此処のところが、あるようでない。‥‥ないようで「ある」と、あなたは言いたいのだろうが、私には思えない。客観的には「ない」と思える。だから、わかりにくい。各所各所で、結論を出して行く。読者が理解したことを充分に図り、間合いを持つ。そして一気に大結論まで持って行く――、そう云う構成が欲しい。まあ、そう云う構成を絶対とる必要はないが、少なくとも読者に主張が流れるように伝達させるには、ちゃんとレールを敷いてあげて、その上を走らないと、相手に伝わらない。そこの所から、まず勉強されたらどうですか? 大事なことなんです、言上げには。「ざけんじゃんねえ!」と思えば、思ってもいいんだが、言論の構成は重要です。

 それと、もう一つ、次は内容のことですが、あなたの文章が一つ、心に聞きにくいのは、肝心な玉と云うか、心臓が欠けているからではないかと思う。私には遠くでしか、聞こえない。ぐいと、来ないのだ。つまりモノの見方だろうと思う。これは戦後生まれの方だと難しいかも知れないが、軍人への見方です。例えば、岡田中将のことです。あなたは岡田中将を「人」として、先ず見ている。ここが違う。出発点が違うと、その先は、どんどん離れて行く。この方は自衛隊元幕僚長とは違い、「皇軍の将官」だと云うこと。即ち「軍人」であること。この一言なんです。皇軍の将官と言えば、一種類、一色しかない。廣大無邊なる御稜威の下にひれ伏すのが、皇軍将官兵。萬古不易の國體を護らんがために、昭和天皇は「聖戦」を決議された。『東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事、既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて、一切の障礙を破砕するの外なきなり』。開戦の大詔である。『朕が陸海将兵は、全力を奮て交戦に従事し、本分を尽せ!』と、天皇は宣せられた。膝下の皇軍将官兵は、一木一草全てが「承詔必謹」、三百万が雪崩となって打って出たのだ。東亜全域に、陣を張った。‥‥悉くが、大詔に身を殉じた。事、志と違い、敗れて敵国裁判に連れ出された皇軍将官兵は多い。だが、軍人の意思は、疲れを知らない。岡田中将は、「皇軍将官」として、「軍人」として、敵国裁判においても、天皇の大詔に承順し、必謹した精神を、そのまま完遂した――。それに過ぎるのではないか。即ち敢闘精神をもって、岡田中将は裁判を闘った。それだけである。それをもって「法廷闘争」の末に、「戦死」された。為に、岡田中将は、靖國神社に合祀された。そう云う見方が、「九段塾」の言う「正統」であり、「正論」なのです。多くの将官兵が、敵国裁判で敢闘精神を発揮し、その末に「戦死」した。だから、松平宮司は「昭和殉難者」として、裁判で「戦死」した軍人を祀られた。「×級」も「戦×」もあるか! これが、戦後生まれには、何度しゃべってもわからん。敵国裁判を認めていることがわからんのだ。それだけでも、自虐だ。己自身が、自虐でしか歴史を見ていない証拠――と云うことがわからない。日本が侵略国であるのかどうか――なんぞ、わざわざ全国行脚してしゃべる呑気なバカも出て来た世の中だ。それに群れるのが、戦後人だ。皇軍も天皇も関与しない戦争などを、日本はしていない。言わば仮想の話をばら撒いているに過ぎない。青年館なぞでしゃべるのは、おこがましい。縁日の小屋がけで話すのが、一番似合っているような話だ。

 ○○さん――。あなたの云う「岡田中将が死を以て保守しようとした」のが、「日本的精神の美であり、精神価値としての伝統といった、不可視的な価値観ではないのか」と云う修辞技法は、ある意味、「あやふや」のものを指し示すことになる。そう思いになりませんか。「日本的精神の美」と云う、なんだかはっきりわからないものでなく、もっと具体的なものに、軍人は生命を投げ出した。そう云う現実があるんです。事、軍人に関しては、あまりオブラートに包んだ表現はよくない。実質と合わない。軍人は「即物的」だ。戦争が「美学」でないからだ。「目の前の現実に」、皇軍将官兵は「身を投げ出した」のです。日清も、日露も。だから戦争が出来たんです。武士道なんかで、「皇軍」は戦争を戦っているわけではないのだ。そんなことは、あなたも百も承知でしょうが、それをあなたは私とは違う口調で、文体で、別の修辞法で、表現しようとしているのだが、それが上手く行っていないような気がする。あなたが意味したいことが、読者に理解しやすいように、字句が組まれていない。専門的に言えば、「文章になっていない」とも言えるのです。私にはそう見える。あなたの表現法に、まだまだ多くの欠損があるように‥‥、私には思えるのだ。わかりにくいのと、それが障壁となり、ややもすると、「実存」・「実態」を感じにくく、抽象的になりかねない。おそらく他の人も、多少そう感じているのでは? 私は、あなたのレトリックが嫌いなわけではない。こう云う修辞法を、外国作家は好んで使う。だから、悪くはないが、そのかわり、分厚いエネルギーと物凄い文章力が要求される。それと、直接、核心をわしづかみにしていないと、書き切れない。あなたの文章は書き切れていない。だから、もう少し考えたほうがよい。強固な竜骨が備われば、独特のものになると思うが。‥‥個性は、曲げる必要がないが。少し、悩まれた方がよい。だからと言って、投稿をやめることはないんです。歩きながら考える。歩いてはまた考える。それが進歩ですから。言上げは大事だ。言上げで大老が襲われ、維新は動いた。菊水の旗もなびいた。巨嶽はよじのぼってでないと、上がれない。すいすいとは行かない。まだ六十までに、二十年ぐらいはあるのではないか。余裕は、まだたっぷりある。頑張って竿頭を照らす国士になってもらえれば幸である。

 以上は、無論、私一人の考えだから、あなたが聞く聞かないは勝手です。でも、少し聞いたほうがよいと思う。あなたの話はユニークな所もある。そこをもっとよりよく展ばせたいからです。それから、これは閲覧者に向けての言葉だが、靖國神社の正統も、「伝統」なり、「文化」なりの語句で解説するものではなく、もっと現実的なものなのです。「忠義忠魂」、「イザと云う時に、武勇を戴くために」、「偉績を顕彰」する。国民の生命で、「継ぎ足し継ぎ足し」、「承詔必謹」で、来たのです。「国民の忠義を抽するために」、明治天皇が創建された神社です。この聖旨を絶やしてはいけない――。これが靖國神社の正統なんです。煎じ詰めれば。
 

  • [24]
  • 靖國神社は、今や、残された日本国粋主義の総本山。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月31日(水)18時23分45秒
  • 返信
 
■平成二十一年二月二十二日

不確定情報は、掲載ならぬ。

 ○○氏と云う方が、不確定情報を、突如出されている。親切で投稿されたのか、それとも話題提供として出されたのか、わからぬが、これは塾長として、○○氏へのお願いである。まずこの投稿を、不確定情報ならば、削除して戴きたい。「九段塾」では、不確定情報をもって論議をするところではないので、早々に削除して下さい。もし削除されなければ、管理者にお願いして、明朝までに削除させてもらうので、そのように承知して下さい。靖國神社宮司職は、国民尽忠の精神を魂魄に留めて祭神となられし忠魂を、祭祀する奉仕者の長となる者、宮を司る者なり。決してあだおろそかにするものでは無き職。従って明らかなる発表あるまでは、決して論議しない。付和雷同するものではない。そのために、靖國神社からの発表あるまでは、控えたい。ちなみに○○氏の方で、確実なる情報あってのもの――例えば、先日の総代会で、すでに次期宮司の氏名が挙がり、それを霞会館側から洩らした情報なのか、あるいは総代のどなたからの漏れた情報なのか、それを受けて、情報元を出せぬために、「敢えて」不確定情報と言われて、我らに教えようとされているのか――、それもわからぬ。つまり「不確定情報」と云う「情報」を、此の「九段塾」では貼り付けることを許さない――。これは私の信念である。‥‥これが原則である。だがである。ここからが、私の一筋縄ではいけぬ部分がある。もしこの情報が「本当ならば」、まずもってとんでもないことを、靖國神社執行部ならびに総代会は、「またもや」、やろうとしていることを「批判」しなければならない。この「最悪な情報」を、もしかしたら私に教えるために、祭神が、この○○なる方の心に吹きかけ、先導し、この「九段塾」に書き込みさせたのかも知れない――とも、私は考える。

 ならば、それでは、この北白川道久氏なる方を靖國神社宮司にすることが、なんたる無作法なことであるか、お話をしておきたい。靖國神社幹部職・総代も閲覧しているものと考え、簡単に書きたい。簡単と云うのは、「不確定情報」であるからだ。それを以って北白川道久氏を貶めることを、敢えて書かなければならないからだ。もし間違った情報であれば、私はとんでもない間違いをしでかすことにもなるからだ。ただ先にも話した通り、これが真実の情報となるならば、前以ての牽制――と云う意味で、書いてもいいかなと云う思いもあって、投稿する。

 北白川道久氏は、靖國神社総代として、昭和五十九年から務めておられた方だ。その後、伊勢神宮大宮司を務められ、平成十九年に退任された。一言で申すなら、天照大神に奉仕された宮司が、今度は靖國神社の祭神に奉仕すると云う。平たく申せば、公私混同も甚だしいことなり。それは天照大神を、なんと心得ておられたのか、ご見識にも関わる一大事。伊勢神宮の宮司職をされた方は、それを最後とされなければならない。真に畏れながら申し上げれば、渡り宮司職の如きことをなしては、皇神の大柱が揺らぎます。靖國神社宮司に、名誉職はいりませぬ。南部宮司も、また一つの名誉職として就任された観もあり、それで、神職が堕落した面もある。今度もまた名誉職として就任されては、いかがなものか――と云う段階の話ではなくなる。ことは伊勢神宮祭祀に関わる大大事と云うことを、総代はわかっておるのかと云うことになる。靖國神社は、人臣の神である。国民尽忠の精神が結晶されし、忠節を抽でよと、明治天皇叡慮により創建されし所。忠義忠魂を祀る靖國神社宮司職は、髄の神職が必死務めるべき所。いざとなれば、国家危機に遭遇すれば、国民は参って、武運頂戴しなければならない、勇猛敢闘長久を祈願し、御力を戴かなければならない。そのために仏教で無く、神道で、皇軍将兵を祭神としてお祀りされている所。義勇公に奉じ、天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、生きては不滅の勲業を建てて、国家を泰山の安きに置き、死しては不朽の感化を垂れて、極天、皇基を守護し給えるが如き所。万世に祭祀される特別なる神社である。その真意、以って覚悟せしめる方でなければ、再び不祥事続発となることは必定なり。

 北白川道久氏は、靖國神社の遺児であることは承知しておるものです。明治二十八年、近衛師団長陸軍大将・北白川宮能久親王は、日清戦争で新領土となった台湾に、領土領収のため御出征され、各地で反乱を鎮定されたが、南進の途上風土病に罹られ、台南において薨去された。当時、戦死された皇族は、一般将兵と共に合祀されることはなく、明治三十三年には、台湾神社を創建し、御祭神として奉齋。しかし終戦で、内地の仮殿に、やむなく御遷座。そして戦後の昭和三十四年に、靖國神社に合祀された。また能久親王の孫に当たる、陸軍歩兵少佐・北白川宮永久王殿下は、昭和十五年、駐蒙軍参謀として張家口戦線を視察中、重傷を負われ、同日薨去。縁の深い蒙彊に、蒙彊神社を創建、御祭神として奉齋。終戦により、御祖父宮同様に内地に、やむなく御遷座。同じく昭和三十四年、御祖父宮能久宮親王共々、靖國神社に合祀された。今、噂に挙がられている北白川道久氏は、父宮永久王殿下の戦死により、三歳で北白川宮家を継承されている。現在、靖國神社総代の島津肇子氏の兄にも当たる方だ。以上の如く、靖國神社とは縁遠い方ではないので、総代会が、この方を次期宮司に推薦したい気持ちはわからぬでもないが、道理は正統を遵守することが肝要であることを申し上げて、ひとまず筆を置く。

 ○○氏の投稿を目にしたのが遅い時間で、私の投稿時間も深夜を過ぎるため、この投稿を、○○氏は目にしていないことでしょうから、明日一日の間に、もし眼を留められたら、申し上げたように、「不確定情報としての情報ならば」、削除をお願いいたします。反論されたいこともありましょうが、「九段塾」の至誠をご理解していただくことを、最優先して下さることをお願いします。また情報、確実になった折には、私のほうでも申し上げるし、あなたのほうからでも、投稿して下されば幸甚なり。それでは失敬します。管理者の備中さんには、明日の夕方まで待って、まだ投稿あれば、「不確定情報」と云うことで、「掲載ならぬと云う塾長達し」で、削除願います。物言い、少々上段ながら、此の投稿の「不確定」なる言葉に、怒り達するため。理解されたし。



■平成二十一年二月二十八日

随筆的に感じるまま。

 月日の経つのは早いものだ。明日には三月弥生の声を聞く。もう、みなさんは忘れているかも知れないが、今上陛下は、今年の年頭に御言葉を述べられた。今も胸の底に残っている。

多くの人々が困難な状況におかれていることに、心が痛みます。国民の英知を結集し、人々の絆を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています――

と述べられた。新聞に記載されていた御言葉を、長い間、私は見つめていたら、幾星霜のことが、様々に思い出されて、ボロボロと涙が流れてならなかった。年齢を重ねると、どうして涙もろくなるのか。おそらく実社会の中での活動から離れて、自分の好む道に勤しむことが多くなり、心から不純物が抜けて、次第に澄んだ純粋な資質になって行くからではないか――と、自分では分析している。そんな気がする。今も、テレビで、青森のリンゴ農家の若い男女のカップルが、家業のリンゴ作りを継承するために、独自な販売ルートを探し、顧客作りを進めている姿を描いているのを見て、胸に響いて来るものがある。それは、地方で頑張っている若い人たちの存在だ。不細工な感じの若者が、とつとつと、青森のリンゴの美味しさを、全国に伝えようとしている。それを一緒に支える恋人の存在。やっと、一人の顧客が獲得できた。若い二人は、嬉しそうだ。「親から引き継いだリンゴ作りは、絶対にやめません!」と、宣言する段になると、もう、涙が湧いて来てしまう。戦争で、突撃して行くのと同じ感慨になってしまうのだ。今、世相は惨々たるものだ。モラルの喪失。鎌倉時代に、餓鬼が暴れ狂う時代があった。あの時も、このような世相だったのか、これよりももっとひどい時代だったのか。挙国一致になれる雰囲気は無い。そう云う国柄では、既に無くなっている。自由は嬉しいし、楽しい。しかし、此の自由が失敗した。そう思う。

 明治の時代、為政者は西欧の思想を導入したのは失敗だと思い、急ぎ、体制を立て直した。天皇親政に、国民の眼を意識を集めた。それが成功している。劣等国から世界一等国へ。厳しい体操訓練。健全な身体には、健全な精神が宿る。昭和四十年ごろまでには、此の考え方が、日本社会にはあったような気がするが、今は、もう誰も言わなくなった。どうしたら、戦前と同じ社会に持って行けるか――。それしか、最近は考えていない。普通には、不可能なことだ。反対者が多い筈。もう一度、日本が本当に本土を蹂躙され、国民が惨殺され、ムシケラのように殺されて行くことを経験しないと、捲土重来の精神は目覚めないのかも知れない。このまま進み、日本が日本でなくなっても、国民が平和で楽しければ、それでよしとする――。挙国一致はもうないだろうと、私は悲観的である。あるとすれば、本土が敵国に蹂躙されたらと云うマイナス志向でしか、浮かんで来ない。やはりテレビで知ったのだが、何処かの地方の小学校では、全児童が下駄を履いて登校するよう言われているらしい。走るのも、山に登るのも、下駄を履いたまま。下駄のままで、よじ登る。本当に、下駄で崖をすいすいと、男の子も女の子も猿のように、獣のように、面白いほどスムースによじ登って行く。私は驚嘆の聲をあげた。私の少年時代と、瓜二つである。どうしたわけか、その小学校の児童の顔は、まるで昔の自分達と同じ表情をしていて、坊主ではないんだが、坊主頭のような印象がある。女の子はおかっぱではないんだが、全員がおかっぱ頭のような錯覚を感じた。なんでだろうか――、考えた。その小学校の校長先生が、下駄を履くと、足元の筋肉がしっかりして、血流もよくなり、風邪を引かなくなると云うので、全校生徒に履行させたらしいのだが、私は、下駄で一年中を過ごさせると、素足が鍛えられ、風邪を引かなくなることは勿論だが、野生美を取り戻したからではないか――、そう思った。人間の持つ野生――、それが人間を輝かせる。髪の形や服装ではなく、児童たちの顔が輝き、肌が輝き、自然の猛威にも負けない強さを、その全身の体躯から感じ取ったからだではないか――、そう思った。上手く表現できないのだが、つまり健全な身体には、健全な精神が宿っている――。それをこの小学校の生徒達は、全員が保有していると思ったのだ。私は、このままこの小学校で「道徳教育」をしたら、『古事記』・『日本書紀』を教えたら、神話を教えたら、百人の私の考える「理想的な日本人」が育って行けるのではないか――、そう思った。その百人が指導者として、次の世代を教える。ネズミ算みたいな考えである。今の若者・成人層は全て無視して、小学生からの徹底教育である。しかし両親がいるから、皇国史観は駄目です――となるかも知れん。ウーム。上手い方法はないものか? 教師を私がしたら、勧善懲悪の意識を育て、国防と云うものについても教え、立身出世を目指し、世のため人の為に尽せ――と教えることも出来る。少なくとも、コアが欲しい。一つのコアが出来れば、日本全体を包む理論を組み立てることも可能となる。何億、何十億と云う金があれば、戦前の理想とした日本人を生み出して行くことが出来るのではないか。そんな考えも突き刺すように、脳裏に浮かんで来る。

 夢想だが、考えている。靖國神社の奉賛会青年部「あさなぎ」。本当は、靖國神社執行部がもっとしっかりしていれば、優れたイマージュを持ち合わせていれば、この「あさなぎ」で、皇国史観を身につけた立派な国士を育成することが出来るのに――と、いつも思うことだ。靖國神社は、今や、残された日本国粋主義の総本山とならなければならないところだ。昨年だったか、『靖国』と云う、中国人が監督した映画で騒然となったようだが、あれに描かれていた「靖国」は、恐ろしい所として語られていた。その通りだ。それでいい。縁日だとか、骨董市の場所ではない。靖國神社は、ある意味、「ある種の人間にとっては、恐ろしい所」でいい。そう云うイメージ付けは大切だ。今度の宮司が、それをやればいい。そう云うことならば、あの元幕僚長を宮司に据えて、がらりと境内を変えることは可能だ。あとは、こちらが操縦して、靖國神社を元に戻すことも出来るか‥‥。しかし元幕僚長には、今やわんさと憑いている保守陣営がいる。此の連中が利権を漁って出て来るだろうから、靖國神社は、もっと最悪になる‥‥。やはり、貧乏人ではダメだ。五摂家五門でもダメだ。やはり、神職だ。皇国史観をしっかり身につけ、祭文を読めて、祝詞を間違いなく読める。そう云う神職が、新宮司となり、祭祀を厳粛に執行する。祭祀を厳粛に執行すると云うことは、境内から不浄なものを一切取り外し、境内興業もやめさせることにつながる。遊就館も、いい加減な歴史解説なら外して、松平宮司時代の展示に戻す。日露戦争の解説から、「武士道」などと云う、変な言葉は外す。どうも最近、武士道が流行り過ぎだ。新渡戸稲造さんは、日本と云う国を紹介するために、武士道を外人にわかりやすく解説本を出したに過ぎん。それを買いかぶる若い者が多い。武士道は、ヒューマニズムではないぞなもし。祭り縁日の見世物小屋のような、現在の遊就館を解体し、元の遊就館に戻す。厳粛な祭神への顕彰、偉績紹介に徹する。一階ロビーの売店などは不用だ。保守陣営の売文稼業に拍車をかけているだけのショーウインドウはいらない。事業課は撤収である。どうしてもやりたい職員は、スーパーへ再就職して、腕を披露すればよい。みたま祭も、通俗が過ぎて敬神が失われるようならば、祭神への汚毒につながようであるならば、廃止してもいい。通俗は、最早、限界点に来ている。みたま祭の所期の目的は、既に達せられているので、廃止しても、祭神は了承するはずである。鎮霊社を廃祀するのは勿論だし、旧招魂斎庭から、鳥居は撤去である。神道を知らない神職が、体裁だけで取り付けた鳥居は外して正解なのだ。靖國神社は、霊廟ではない。いつでも戦える魂魄を貰う所だ。武運長久を切願する所だ。オリンピックで勝たせてくれなんて、祈る所ではない。最近は、俗性が多くなっている。家内安全・交通安全・企業繁栄などのご利益祈願は、一切中止である。そう云う願掛け・祈願は、周辺の小さな神社に渡してやらねばならない。庶民の生活の祈願を、熊手でかき集めるような真似を、靖國神社はしてはならない。歳入が少なくなるから、職員は企業を廻って、金を集める努力をすればよい。そのための教化であろう。みすぼらしくなってもいいと、私は言っているわけではない。松平宮司は、そこを悩んだ。戦友さんがいなくなって、国民に顕彰の想いが薄くなれば、靖國神社は立ち行かなくなる。そのために、どうしたら社稷を保ち、祭祀を厳しくしつつ、境内を静謐に保ちながら、生きて行けるかを考えた。無駄をなくすことが第一。そして自活できる道を開拓した。それに習えばいい。企業を廻り、教化をして歩く。その他、生きる道を探す。靖國神社は、国家の大本である。その意識に立ち返る。何故、戦後も、敢えて宗教法人になりながらも、戦前と同じ社憲で存続させたか――、その内、靖國神社が必要となるからだ。いついかなる時代だかわからぬが、靖國神社の祭神に力を貰わねばならぬ時が、必ず来る。だから、靖國の大神は――、残すよう、人々の意識に働きかけたのだ。廃祀廃止してもよかったのだ。連合軍が燃やしても、抵抗は出来なかった。でも、そう云う展開にはならなかった。靖國神社は、そのまま戦前を引き継いで残った。一歩の所で、靖國神社は踏み留まった。これが「かむながら」、神慮である。‥‥だから、その時に備えよと、私は言うのだ。今、多くの戦友会が解散し、僅かな戦友さんたちだけが、時たま境内を訪れているが、戦争は、まだ終わったわけじゃない。永久に、此の国が戦争をしないわけではない。必ず始める。地政学上、いつだって、嵐の中に巻き込まれることになっている。この極東の国・日本と云う国の宿命であろう。あの大東亜戦争が終わって、まだ六十年少ししか経過していない。あと五十年経過したら、日本はどうなっているかは、私にはわからない。二十年後も知ることはないだろう。しかし気がかりなのは、現在の国民気質では、戦争が出来ない。挙国一致で、戦えない。自衛隊は、軍隊では無い。外国では軍隊として扱っているが、私の目では、軍隊では無い。復員した旧軍兵士が入隊した頃の予備隊・自衛隊とは違う。どのようなミサイルを使用しようが、最後は地上戦になる。その時、勝てる気がしない。

 戦後、ほんの少しの間だったが、特攻帰りや戦車隊の若者が教職に復帰した時期があり、小学校からスパルタ教育が行われていた。平手でバシバシ殴っていた。問題には、まったくならない。言うことをきかなけりゃ、殴るのは当たり前の風は、日本中に残っていた。騎馬戦・棒倒しが、小学生に与えられた運動だ。相撲が、どこの小学校でも採られた。夏は水泳・遠泳。学習院は、今でも褌だが、出来る奴は褌で、校内プールを泳いだ。あのまま行けば、日本は昭和三十年代でも、もう一回、戦争が出来る人間は、沢山いた。だから、新橋辺りの飲み屋では、「あまり中国が、がたがた言うなら、又行くぞー!」と、脅しの話で盛り上がった――と云う逸話も残った。「好戦国ニッポン」、悪くはない。このイメージは、大切にしておかなければならない。牙の抜かれたインディアンでいいわけはない。いつか、あの不屈な日本人の魂が、精神が甦ることのないように、世界の国に、我が国を日本人を慎重に扱わせるようにしなければならなかったのだ。だが、気がついたら、日本はいつの間にか、戦争の出来ない国民になってしまった。暴力反対が、父兄から出たのが衝撃だった。オリンピック前後の時と記憶している。そして現在は、最早、大東亜戦争の様々な戦闘は、出撃兵士の話は、遠い遠い、戦国時代の話のようになってしまった。「到底、現在の僕には出来そうもない。こわくて逃げてしまいそうです」。遊就館ノートに記されていることが多くなった。昨日の話とは、誰も思っていない。大昔の話のようにしゃべっている。それは、現在の遊就館が、あまりに平和的光景にあるからだろう。それも一因だと思う。親子でスタンプリレーなど、遊戯はやめないと、祭神は、その内鉄槌を降ろすのではないか。それが心配だ。緊迫した感情が、漂っていない、館内に。昔の遊就館には、背後に英霊を感じた。祭神を感じた。おしゃべりは出来なかった。心が見透かされる。今の遊就館ロビーには、尻を出したズボンを履いた若者がのし歩いている。此の間―――と云っても、昨年の春先に、私がケツを蹴っ飛ばした。「デテイケー!」 それが私だ。その時、私を覚えているものがいれば、それが一兵士だ。誰も注意しない。参拝者は、お客様では無い。お客様扱いをするな!

 これから桜が咲けば、また喧騒が始まる。「九段塾」が、文句を垂れる季節がやって来る。それだけでは仕方がない、「九段塾」も。次期宮司の名が、なかなか職員の間に出て来ない。先日、「九段塾」に少し漏れたような話が出ていたので、慎重になっているのか。もう決まっている筈だが、まだタイミングを見ているのだろうか。それとも、まだ確定はしていないのか? いつもと違う感じだ。御創立祭が近づく。新宮司で始める筈だが。やっと、体調が戻って来たようなので、少し書きました。なんのためにもならない随筆みたいなものだが、少し投稿しておかないと、誰も訪問者がいなくなったら、まずいと思って。
 

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  • 神々の因縁。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)18時52分48秒
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■平成二十一年二月十六日

神社葬と九段塾。

 少し体調を崩し、身体を休めておりました。しばらくぶりに書きます。‥‥と思ったが、投稿してみて、シマッタと思いました。備中さんが新しい投稿を終えたばかり。折角の話を塞いでしまいそうで申し訳ないが、私の話も季節的なもの。今ぐらいしか投稿できないので、掲載いたしますが、閲覧者は、私の後に、備中さんが、明日の祈年祭に関する話を書いていますので、絶対に読んで下さい。お願いします。今夜は、靖國神社神職も参籠です。それでは、私の話を始めます。

 もう先週の話になってしまったが、去る二月十日、九段会館大ホールで、午後一時より、三井権宮司斎主による南部利昭大人命の靖國神社葬が執行されました。およそ千三百人ほどの会葬者が、当日、九段会館に足を運びましたが、基本的には、神社から神社葬案内が発送され、それを受けた方々が集り行われた葬儀でした。会葬者の半数以上は、全国の神社関係者で、その他に、靖國神社と関わる業者・企業関係・千代田区関係・英霊にこたえる会や軍恩連盟などの懇意な諸団体・國學院・皇學館関係・日本遺族会など。それに親族及び南部利昭氏と関わる人々。そして当日、案内書を持参しない、ごく一般の会葬者。祭壇が設けられた舞台に対して、会葬者は三階まで席を埋める。一階の最前列には、小泉純一郎元総理大臣や安倍晋三元総理大臣の顔も見受けられた。最初の予定では、小泉元総理や安倍元総理の会葬は耳にしていなかったので、来賓者はびっくりしたのではないか。どうも当日の朝、小泉元総理側から、急遽、会葬の連絡があった模様で、神社側は、急ぎ席を用意したようだ。別段、特別な挨拶や紹介はなく、一連の葬儀式次第が終了し、最後の告別式での会葬者玉串拝礼に、元総理のお二方は、順々と従っておられた。静謐だった靖國神社境内を、突然の雷雨の如く煮沸させて、境内光景を一変させた小泉元総理が、特別な扱いを受けることもなく、ごく普通の会葬者として玉串拝礼をし、全会葬者が壇上で玉串拝礼を行う。‥‥これで、四年の歳月で逝去された南部宮司の神社葬は‥‥終わった。告別式終了後は、近くのグランドパレスでお清めがあり、夕方には神社に残っていた職員も集合し、飲食し‥‥終了。冷たい言い方になるが、靖國神社としては、南部宮司時代は終わりである。南部宮司の突然死に涙を流し、思い出に泣き濡れていた女性職員も、明日からは、次の宮司の時代に入る準備をしなければならない。

 少し余談がある。こう云うことを書いていいかどうか、迷った話がある。私の知人の話だ。松平宮司時代をよく知る婦人の方だ。数日前に、お会いした時に話してくれた。神社葬が終わった次の日の朝方、この婦人は、南部宮司の夢を見たと云うのだ。

「宮司さんが、どこか廊下だか、板の間だが、よくわからないんですが、ともかく板の上に倒れているんです。」
「板の上? ふーん。では、宮司室かな。」
「いえ、わかりません。宮司室へ入らせて戴いた事がないので。何か古い板の間だったみたいなのですが、よくわかりません。」
「そう。それで、どうなったんですか。」
「ええ。それで私が覗き込むと、宮司さんがはっきりとしゃべったんです。」
「しゃべった? 言葉を?」
「はい。」
「それはすごい。なんて、しゃべったんですか。」
「それが――どうしましょう。」
「言いなさいよ。ここまで話したんだから。」
「じゃいいますね。宮司さんは、こう云ったんですよ。」
私は婦人の口元を多少緊張気味に見つめた。南部宮司と、さほど親密とは思えない婦人に、南部宮司が、なんと話したのか――、引き込まれるような強い関心が湧いていた。
「あのね、南部宮司さんは――、『松平さんに呼ばれた――』って、おっしゃったんです。」
「松平?」
「ええ松平。松平さんて、松平宮司さんのことだと思うんです。」
「そうでしょう。多分。本当に、そんなことを。」
「本当です。嘘じゃありませんよ。宮司さんは――、『松平さんに呼ばれた』とおっしゃたんですよ。これは‥‥つまり、私が思うには、松平宮司が、南部宮司さんをお連れしたんじゃないかなと思ったんです。」
「ふーん。それは大変な夢を見ましたね。わかった。」
私は思わず、少し聲を張り上げた。
「ああ、びっくり。なんでしょう。」
「その板の間と云うの‥‥、もしかしたら本殿の板の間ではないですか?」
「さあ、よくわかりません。」
「まあ、いいです。そうですね、その夢が本当なら、多分、と云うより、その松平さんと云うのは、松平宮司に間違いないでしょうね。しかし、なんで、あなたが、そんな夢を見たのか‥‥、だな。」
「だから不思議で仕方ないんですよ。ご存知のように、私は松平宮司様に本当に親しくさせていただいておりましたけど、南部宮司様とは、そう云う間柄ではございませんでしたのに、なんで、こんな夢を見たのか‥‥。」
「そうですねえ。」
「でも夢を見た後、此の話を、すぐにあなたに話さなくちゃと思ったのね。だから、よくはわからないけど、南部宮司さんの死んだ真相を、あなたに知らせるために、あなたと親しい私に夢を見させたのではないかしら。そう思ったの。違う?」
「なるほど。私に真相を伝えるためにですか。」
私は、それはありうるかなとも思った。松平宮司が、南部宮司を召されたわけだ。それはあるだろうと確信した。
「うん。松平宮司が、あなたにその夢を見させたのではなく、祭神が、靖國の大神が、あなたに夢を見させたのかも知れない。多分それだね。そうか‥‥南部さんは、松平宮司が呼んでいると言ったのか‥‥。」
「ええそうですよ。それとですね、もう一言あるんですよ。」
「なに? まだ言葉があるんだ。」
「はい。言葉と云うか‥‥、今度は英語なんです。」
「英語?」
「はい。英語でペラペラと、何か言ったんですが、それがなんていったか、まったく覚えていないんです。南部宮司さんは電通に勤めていらしたので、英語がご堪能だったんではないですか。」
「いやあ、英語がペラペラかどうか、聞いていないなあ。」
「そうですか。ともかく、英語でなにか、はっきり言ったんですが、それはまったくわかりません。英語なんかわかりませんもの。英語だと云うのはわかりましたけどね。」

 話はそこで終わりだが、南部宮司は、昭和天皇慰霊祭の後に宮司室で絶命されたので、私は昭和天皇がお召しになられたと考えていたが、この夢が真実を伝えるものだとするならば、それは松平宮司が、南部宮司を呼んだことになる。「なるほど。そちらの方が納得できる話だな」と、私は思った。真実、私は、それが死の真因だろうと思った。

 南部宮司、四年の足跡を顧みれば、平成十七年には、連合国側の判事でしかないパール博士の顕彰碑を、事もあろうに、祭神の偉績を顕彰する遊就館の前に建立し、十七年には、北関大捷碑を、国交もない北朝鮮国に返してしまったり、十八年には、中門鳥居を建て替えて、その旧材で既に役目を終えた旧招魂斎庭に鳥居を建立してしまうなど、私に言わせれば、不始末が多かった。能楽堂・大手水舎の大改装、更には数億円を投じての靖國教場なるものの新築事業を計画遂行と、甚だしき不徳の数々。この間に、主権回復を目指す会の西村さんの運動なければ、神門横の神木伐採と便所・休憩所が新築される所だった。これ以外にも、奉賛会青年部「あさなぎ」のバカモノ連中の野放しや鎮霊社の公開など、松平宮司が激怒する事柄ばかり。思えば、松平宮司の意に沿わぬことばかりの四年間であったと、私は思う。もともと、靖國神社の歴史を知らぬ方だけに、就任当初は、幹部職員の言いなりで過ごしたことはやむを得ないとしても、その後の奉職姿勢は、私の目からは靖國神社宮司として、相成らぬことばかりであった。誰が、南部利昭氏を連れて来たかは知らないが、終局、この社には、東北征伐で、南部藩を、天皇にまつろわぬ賊軍として戦った戊辰戦役の勇者が多く祀られている――。そのことを甘んじたことが、南部利昭氏の不幸を招いている主因ではないか――と、私は考えている。これぞ、「かむながら」ではないか。ともかくもこれで、南部宮司に関することは、すべて終わった。次は新宮司である。果たして誰に指名が行くのか。靖國神社の運命は、その方一人にかかっている。これで神社葬の話は終わり。

 余録ではないが、○○○○○さんと○○さんが、「九段塾」の掲示板に関わる論議をされていて、未消化のままで終わっているようなので、これについて少し触れておきます。一度だけのぶり返しです。この「九段塾」は、いわば靖國神社の正統がどのようなものであるのか、松平宮司が深夜まで赤筆を揮い、一字一句も疎かにせず、精魂をこめて、靖國神社社報を編纂した如く、備中さんの深い尊王の思想と先哲の学識への造詣に援けを受けながら、衰えた現在の靖國神社正統を正し、その伝統の言わんとするところ、生命の根源を解説、顕わし、もって靖國神社の正統を復刻し、正しき認識を神社職員並びに閲覧者国民総てに広く浸透させ、明治天皇の聖旨護持を堅持する、靖國神社存続を願うことから立ち上げされた掲示板です。少々どころか、相当堅物な考えを、私も備中さんも持っています。従って当掲示板――と云う感覚は、私にはなく、文字通り学業を修得する塾の資質をもって、運営・投稿しておるものです。以前、管理人の備中處士さんが、「此処はサロンではない」と、「九段塾」の姿勢を書いておったと思うが、それを何処に書いてあるか探したが、わからなかった。備中さんの方で、その部分だけ再掲して置いて下さい。わかりやすく塾の性格が書いてあったと記憶しています。従って○○さんが話していた、「女子高生のスカートの丈」がどうのこうのの話は、此の「九段塾」にはふさわしくない――と云う意見はもっともなことであり、そのことに関する是非などの論議は邪魔だと、私も思う次第です。ただ、○○○○○さんと云うお方には、私には、恩義があります。それはチャンネル桜の掲示板で、総理大臣の靖國神社参拝を支援するスレを立てられていた○○○○○さんの所で、私はかなりカッテに書かさせてもらい、大騒動を起こしましたが、それでも○○○○○さんは文句を言わなかったことに、少なからず感謝し、それを返すこともなく、桜を棄てて来ました。○○○○○さんは、備中さんと懇意なのでしょうか。この「九段塾」にも、早くからお越しいただいております。が、その投稿する筆調は、少々「九段塾」との波長とは違う趣であり、書かれる内容も、多少違うかなとも感じてはおりました。ただ、なにせ、この方には恩義がありますので、この方に限っては、申し訳ない言い方で済まないが、ヘンナ話でなければ、ある程度は自由に投稿してもらっても構わないと、私なりに思っておりました。そのあたりのことは、備中さんも心得ていてくれたような気がします。ところがスカートの話で、「九段塾」の志向が変わってしまうことを憂うた○○さんが、少し強い口調でお話をされたので、○○○○○さんが、又反論されて、広げなくてもいい論議が進んでしまったので、こう云う話は、今後も起きる可能性があろうかと考えて、それならば、きちっとしておこうと思い、筆を走らせることにしました。

 私の見るところ、○○○○○さんは、その名前のように、愛国党首の如く、目に触るもの、脚に触るもの、倫理道徳に欠けるものあらば、憤激をもって、保守界に広く主張を広めるお方です。それは昨日今日の特徴ではなく、○○○○○さんの個性とまでになっているもの。現在の日本の現状に激昂する気持ちはよくわかるし、私も今日の力を失った日本国民の湿爛した道義を憂うものであるが、ただ○○さんの言うが通り、この掲示板では、国民の道義心低下の現象を、ただ捉えるだけを云々するところではないので、どうしてもそこだけで話が終わりとなる投稿には、違和感を覚えるのは事実です。「最強の天皇」の動画も、私に言わせると、多くの人にとっては面白いのかも知れないが、私には聖上への尊厳が製作者に感じられない。不快さは、どうしても出て来る。天皇を最強と見る視点も気に入らないし、こう云う映像編集でもって、天皇の最強なるものを描く必要がない――と、思うわけです。天皇の映像を弄んでいるとしか、私には見えない。間違った尊皇思想だとも言えるのです。一言で言えば、一般国民が――民衆が――臣下が――、天皇の御真影に、みだりに触れるな――と云うことなんです。戦前ならば、製作者は、たちどころに厳罰となるでしょう。見方がいろいろあると云う発想ではなく、見方は一つしかないと云うのが、塾頭である私の考え方です。それが「九段塾」なのです。多くの閲覧者がいるから「よし」とする志操は、「九段塾」には、もともとありません。現在の靖國神社のあり方や執行部を批判する右翼は、そうそういないでしょう。私一人ぐらいかも知れません。それだけに凡庸な方には真意が汲み取れず、サヨク扱いされるのは仕方がないこと。正しいことを主張するためであっても、いじってはいけない存在があることを、此の製作者には言ってあげたい。それは例の元自衛隊幕僚長も同様であるし、チャンネル桜の水島総氏にもあるのと同じことなのです。否、靖國神社に擦り寄って来る、多くの保守陣営にも言えることなのです。ただ誤解されては困るのは、○○○○○さんを嫌っているわけではまったくなく、私が不得手な分野での様々な情報が書き込まれることで、助かっている部分も大いにあるのです。天皇の動画にしても、スカートの話にしても、「一つの情報」として教えてもらうことに関しては、大変感謝しておる次第ですから、取り違えないようにお願いします。ただそのことを受けて、此の「九段塾」で論議する必要はなく、そう云う意味では変った、偏向した塾であるかも知れません。○○○○○さんに関しては、特別と云うしかありません。スカートの話でも、天皇の動画でも、そのことと、靖國神社の正統さと、どのような関係があるかまで論説をしていただければ、○○○○○さんの投稿も、異質さは感じないと思いますが、○○○○○さんはそのような筆法ではないので、そこらあたりは、○○○○○さんの方でよろしくご理解されて頂き、投稿をお願いするしかありません。○○○○○さんには、反論もおありかとは思いますが、ここでは、靖國神社正統論を語って聞かせる勉学の場だとご理解されていただくことで、此の話は終わりにしたいと思います。本当に、○○○○○さんには気を悪くされないことを、切に期待しております。今後も、どうぞ、良き情報があれば、投稿して下さい。さすれば○○○○○殿がお話していたように、現役女学生の投稿があるかも知れないし、それはそれで面白いと感じる私ですので、排除するほどのことではあるまいと思っています。ただ長く、そのことのみで論議することは、「九段塾」の姿勢ではないので、それで○○さんは、私や管理人に忠告されておるのだと思います。まあ、いくら話してもきりのないことなので、ここらで終わります。○○○○○さんには、宜しく収めて下されば幸甚です。

 話を元に戻しますが、今、少しずつこの「九段塾」が、神社関係者にも読まれています。ですから、私は、この掲示板は、「靖國神社正統奉賛会」としての思考をもって、靖國神社「社報」としての役目を果たして行きたいと考えております。靖國神社で、今、なにが起こっているか――、それは此の「九段塾」を閲覧すれば、たいていのことが把握できる掲示板と云う評判もとりたい。無論、社外秘に属すること、あるいはそれに類することは書けないし、一般者が知る必要のない知識も書きません。ただ執行部が為す、逸脱した行為に関しては、鋭く批判を延ばします。正統を剥奪する行為には言及する。此の「九段塾」で書かれる正統の話で、少しずつ考えを染めて行く靖國神社神職が増えて行けば、これほど役に立つ掲示板はないと自負したい。それだけに、夾雑物は、掲示板からは排除したい。基本は、○○さんが云う方向。○○○○○さんは特別――と云う私の考えで、ご両人の論議は、これで終わりにしましょう。これに対する返信はいりませんので、ご諒解して下さい。「九段塾」は、あくまで正統靖國神社、尊皇を修学する掲示板であることをご承知していただくことで。‥‥大変疲れて、そろそろ朦朧となって来ましたので、これで失敬します。それでは、また。



■平成二十一年二月二十一日

神々の因縁。

 南部宮司の夢の「英語話」については、幾つかの意見が、知り合いから私の所に来ている。「南部さんが、岩手のロータリークラブのトップを勤めていたことを象徴している現われではないか」と云う人もいた。「日本国粋主義の総長とも言うべき靖國神社宮司が、国際ロータリーのクラブに関与していること自体が、土台、問題だったのだ!」と。そして今朝も、また電話があった。仲間の一人からだ。

「南部宮司が英語をしゃべったと云う、あれね、もしかしたら東京裁判のことではないか」と言って来た。
なるほど、東京裁判か――、それは考えもしなかった。
「それでね、あの例の水島の映画――『七人の死刑囚』なんか、遊就館で上映させたことに対する、松平さんの怒りを現しているんではないかね。」
「うんうん。なるほど。なんとなくわかるが、南部さんがしゃべった英語と云うのは、なんだろう?」
「それはわかんないねえ。オレがみたわけじゃないからね。この夢をみたご婦人と云うのは、○○さんだろう。」
「いや、違うよ。」
「え? 違うの? 俺は、てっきりあの人が見たんだろうと思って。誰なの?」
「ま、いいよ。それは言わん約束だ。」
「ああ、そうか。まあいいや。しかし、やはり東京裁判のことだろう。南部さんがあの世でしゃべっている英語と云うのは。なんて言ったのかな――、全然覚えていないのかね、そのご婦人は。」
「覚えていないと云うより、英語を全く知らん人だから、例え、ジャジメントと話したとしても、わからんよ。」
「そうか。オレはあんたの投稿を読んで、南部宮司が英語でしゃべったと云うので、すぐに東京裁判だと思ったよ。これは間違いないと思うが。言うなれば、あの『七人の死刑囚』そのものの象徴が、英語だ。東京裁判だ。昭和殉難者として祀った松平宮司の想いを踏みにじる題名の映画を上映させた南部さんの通俗性を、松平宮司は怒ったんだと思ったがな。」
「なるほど。一理ある解釈だね。」
「それと、この夢の話は恐ろしい話だな。オレもこれを読んで、すぐに松平宮司が南部さんを呼んだのは間違いないと思ったよ。あんたは書いていなかったが、今の社務所は、松平宮司が建てたもんだよ。」
その瞬間、私は叫んだ。
「そうか、そうだ。松平宮司が精魂こめて作った社務所だ。深夜まで、靖國神社の将来を苦悩されていた松平宮司の苦闘が染み込んだ建屋だ。宮司室は指揮官室だった。そこでゴルフ談義や酒談義をされたんでは、松平宮司の怒りは収まらんな。」
「ああ。松平宮司のことだ。霊界から呼び寄せることぐらいやる人だよ。」
「それはそうだな。」

 しばらく、あれこれ話をして電話を切ったが‥‥。考えてみると、この話は‥‥、まだ終わらないことに気づいたのだ。つまり南部宮司と云うより、官軍と賊軍と云う因縁だ。言霊‥‥通牒‥‥眼に見えないところでの水脈のつながりの如き因縁‥‥。明日――と云うより、暦の上では今日となるが‥‥二月二十二日は、少し因縁めいたことが起こる‥‥。一般の人では、だれもわかるまい。

 二十二日、午前十一時時から、九段会館では、南部宮司の五十日祭が執り行われる。その同時刻に、靖國神社では、「靖國神社の恒例特殊祭」が行われる。それは、官軍と賊軍がせめぎあった――「熊本籠城記念日霊祭」である。偶然の一致である。明治十年二月十五日、陸軍大将西郷隆盛は、政府に尋問の筋ありと称し、一万五千の薩摩軍を率いて、鹿児島を進発した。二十二日には、熊本城に迫り、これを包囲する。鎮台司令官陸軍少将谷干城は、参謀長樺山資紀と企り、徹底抗戦を通達、三千五百の鎮台兵と共に、頑強に抵抗、薩摩軍の北上を阻止した。この籠城によって、薩摩軍は応援に駆けつけた官軍に追われ、やがて城山で露と消える。この戦いの後、熊本籠城戦に参加した将兵の間に、籠城初日の二月二十二日を記念日として、戦病歿者千余名の霊祭を執行する議が起こり、明治二十三年二月二十二日、靖國神社に集合し、籠城記念祭を執行した。それ以降、毎年執行されているもので、戦後になっても、会の基金が靖國神社に寄付され、恒例の私祭として、現在まで毎年祭典は行われている。十年ぐらい前までは、関係者ご遺族が四~五人参加されていたが、現在はどうなのか、まだご遺族が参列されているのかはわからない。いずれにしても賊軍薩摩軍との戦いで、戦病歿された官軍将兵の霊祭である。それも同時刻に、九段会館では、かっての南部藩殿様で、かつ靖國神社宮司であった南部利昭氏の五十日祭が、同じ靖國神社神職により執行される。何か運命的なものを感じる。官軍と‥‥賊軍。深くは言及しないが‥‥、やはり言霊は生きているし、神は存在していることを、あらためて心に感応する次第だ。祭神を軽んじる者は、やがて罰を受けよう。それは参拝者も同様であり、日本国民全ても同様であろうと思う。否――、靖國神社神職であったにしても、だ‥‥。
 

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  • 靖國神社正統を踏みにじる者たち。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)18時57分13秒
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■平成二十一年一月二十三日

靖國神社正統を踏みにじる者たち。

 「靖國神社宮司職は、身命を覚悟して」の後段を、すぐに書くつもりが、日にちが経過してしまった。続きと云うわけではないが、ともかくもう少し、神社のことを書きましょう。

 今年――元旦をあけた二日目に、靖國神社職員に対しての宮司挨拶式があった。それへの返しとして、職員代表による宮司への年頭挨拶がある。例年行われていることだが、どちらの挨拶にしても、到底、勅祭社靖國神社の宮司挨拶・職員代表挨拶として、世間に発表できる高尚・高潔、品格溢れる格調高いものではない。年々ひどくなる。松平宮司・大野宮司の時代とは、大きくかけ離れている。身を引き締められる挨拶ではない。社報の「靖濤」が、もう何年も前から、偉そうな、ろくでもない文士が書くような、猥雑な三文雑誌並みになったのと同じように、此の年頭の挨拶も、町工場の社長・専務がするような下世話な話ばかりになってしまった。本来なら、天下の靖國神社の宮司年頭挨拶・職員代表挨拶です。一年の巖頭に立って、飛沫を浴びる如き挨拶をして当然の話だが、それがまるで違う。

 明治天皇聖旨の護持、尊皇の志の増幅敷衍、参拝者への教化、あるいは俗塵を祓う斎戒の反省、厳修申合わせ‥‥、過ぐる一年、靖國神社神職として、祭神に尽し得たかどうか‥‥。その感懐。‥‥そう云う話は、まったく、かけらも、一字でさえも出て来ない。こう云う神社が、今日、此の国にあっていいものかどうか、私は落胆せざるを得ない。護国王道を、天上の神々に照覧すべき靖國神社の年頭挨拶は、児戯にも等しい。「本年は、御即位二十年と天皇・皇后両陛下御成婚五十年の、大変おめでたい年でもあり、国民挙ってお祝い申し上げたいと存じます」。こう云う挨拶すら、気に食わない。「大変おめでたい年」とか、「国民挙ってお祝い申し上げたい」とか、これは一般人の言い方ではないのか。「おめでたい」・「お祝い申し上げたい」と云う発想が、呑気なものであるとしか。私には思えないし、なんにも響いて来ない。この御社は、天皇の神社であることを――、宮司も神職も忘れ去っているのではないだろか? 宮司挨拶も職員代表挨拶も、祭祀厳修、斎戒厳修をもって、なお一層祭神への奉仕を務め、世間の思惑に囚われる事無く、御社においては厳粛を保ち、俗風には耳も貸さず、ただひたすらに大神に奉仕する。そう云う覚悟を、まずは述べて欲しいものである。そう云う言葉は、恥ずかしくて口に出来ないとでも思っているのだろうか。尊皇の意思、白山連峰の如く、旭日にたなびく暁雲の如き、忠節忠臣の胸中を明かすような格調高いものであれば、「公開ならぬ!」と言われても、私は罰せられても、公開してしまうだろう。「どうだ、これが靖國神社宮司挨拶だ」。「よく聞け、参拝者、これが靖國神社神職を代表する方の年頭挨拶だ」と。初詣客数のランキングは、新聞に発表されるほどではなく、例え十万人にも届かなくても、靖國神社の宮司・神職の気宇高く、厳粛な精神を保ち、身には寸鉄は帯びずとも、尊皇の剣は心の鞘にしっかりと収まっている。明治天皇の聖旨を護持、戦前歴代宮司の遺沢を引継ぎ、戦後の松平・大野宮司の想いを継承し、日々、祭神奉仕を命尽きるまで尽くし奉る覚悟を示して当然である。見事、神道界の高峰として、偉績を示す。これが天下の靖國神社。日本国の磐石、柱石である――。そう云う在り方、存在になって欲しい‥‥。そうならなければ駄目だと云う想いが、私にはあるのだが、現実はあまりに違う。お粗末きわまりない靖國神社の現況だ。年頭挨拶文は、みっともなくて紹介することも出来ない。世間が落胆する。がっかりする。

 かって桜田門前の大駕籠を急襲した水戸浪士の熱血は、何処へ行ったか、箱館五稜郭に飛び込んで行った維新の血は、何処に消えたか。艱難辛苦、臥薪嘗胆、幾多の海戦を戦い、山岳戰を勝ち抜き、不抜の精神で、国民一致団結、此の国を叱咤勉励し、百五十年を生き抜いてきた国民の血は、何処に消えたのか。命の先に御座されていた天皇陛下への熱誠は、最早、沸き立つことはないのか。連綿とした忠義忠節の歴史の大波がある。それを紐解く気はないのだろうか。国民の命を繋いで、尊皇の血を守り抜いてきた歴史に、なんら見向きもしない靖國神社神職がいる時代となった。嘆かわしい。

 靖國神社の思想、主張を内外に示す社報『靖國』がある。この第一頁にある「靖濤」には、松平宮司時代は厳粛にならざるを得ない文面多く、声涙とめどもなき言葉があった。それは、今は無い。三流雑誌か、コンビニで仕入れたような、はんぴら知識の氾濫で、とても人には見せられない。そして次の頁に、今年新年の年頭挨拶が出ている。最悪としか言いようがない。いな、犯罪に近いことが書かれている。崇敬者総代・森田次夫氏の挨拶である。この人は、例の日本遺族会会長の古賀誠さんに代わって送り込まれて来た方だ。靖國神社総代十人を代表しての年頭挨拶。それにはなんとあるか――。これも例の如く「×級戦犯」の言葉を使い、ずべての遺族は、「二度と戦争をしてはいけない。二度と悲惨な遺族を出してはいけない」と考えている――と挨拶する始末だ。社報に出ているから、誰でも読める。公開された、正式な総代挨拶である。いや、現靖國神社執行部の主張でもあろう。巻頭の挨拶だ。南部宮司と並んでの主張である。遺族の名を借りて、天皇を貶めようとしている。批判している奸物と、私は見ている。こう云うのが、堂々と靖國神社総代として居座っているのだ。物陰でしゃべっているのではない。靖國神社総代を代表して、年頭の挨拶として、「二度と戦争をしてはいけない。二度と悲惨な遺族を出してはいけない」と云うことを主張しているのだ。こう云う平和主義者が、どうのこうのではない。まさに獅子身中の虫である。賊軍の如き発言である。

 この総代の挨拶を、靖國神社総代の代表挨拶として印刷許可した責任者は、南部宮司であり、それになんの反対もしなかった権宮司以下の幹部職員。そして残る九人の総代たちであろう。彼等はこう云う言葉を聞いても、なんとも思わないのだ。一体、この言葉がどれほど、明治天皇を無視し、歴代天皇を無視した言行であるか! よろしいですか。靖國神社は、明治天皇が「賊軍」を追い払うために、軍を興したことから始まっている。慶応三年十二月九日の王政復古大号令にて、「諸事神武創業のはじめにもとづき、これから政治を行う」と宣された。更に五箇条の御誓文を、天神地祇御誓祭の儀式の中で示され、「我が国の新しい理想を掲げた朕に従うか、どうかを」、臣下に問うた。朕の誓いに従わぬものは罰を受けるとも、明治天皇は言われた。参列した諸侯は、全員が奉答書に従うことを署名した。だが、従わぬものがいた。叛旗をひるがえす、徳川家所縁の諸藩である。天皇は、粛然として宣された。「天皇の御稜威」にまつろわぬ、幕軍をこらしめる親征のご発進を命ぜられたのだ。「水穂の國の天孫降臨を呼び寄せる」天皇の「軍神祭」を執行、天皇は――、平定の軍を興されたのだ。これが戊辰の戦いである。森田総代は、「こう云う戦いは、二度として欲しくない」と述べているのと同じである。そして四十年後、明治天皇は、朝鮮半島に迫り来るロシアの怒涛の如き進軍に対し、敢然と戦いを挑んだ。宰相桂太郎は、宣戦布告を進言。思えば、明治二十七年、明治国民が血を流して勝ち取った日清戦争後の遼東半島を、三国干渉でロシアに奪われた。国民は激昂したが、明治天皇は「我慢しろ」と、国民に強いた。大国ロシアに対抗できる余力は、日本になかった。力の前に屈するしかないのだ。国民は、三歳の子供までが赤い血の涙を流し、臥薪嘗胆を誓った。此の恨みは、いつか晴らす――。そして十年後、恨みのロシアが力任せに、日本を圧倒して来る。日本隅々まで戦いの意気は、炎となって広がった。正規軍では足りず、義勇軍に、国民は次々と名乗りを挙げた。流血、山河を染めて屍を累々と晒し、なんとか日露戦争に、日本は勝った。そして明治国民の念願であった一等国へ、日本を押し上げたのだ。此の戦争も、森田総代は、「二度と、こう云う戦争をしてはいけない。遺族が悲しむだけだ」と言っているに等しい。サヨクそのものの発言であろう。そして、未曾有の戦争が始まった。満州事変・支那事変、東洋の防波堤となる大日本帝国に、欧米列強は嵩にかかって攻めて来る。支那から撤退せよ、満州を返せと、主張し出す。嫌なら、石油を売らない、鉄も売らない、ゴムも売らないと、欧米連合は一つとなって、日本を包囲する。それに、支那が便乗して来る。最早、欧米列強に屈して、明治維新時代に戻るか、それとも百敗を覚悟しても、皇紀二千六百年の皇国を護って戦うか――、どちらかを選択しなければならない。天皇は話し合いを求めた。だが、米国は拒否した。戦うか、属国となるかを求めて来た。国民は戦うことを選んだ。東條首相は、開戦を決意。天皇は、臣民の意見を入れた。宣戦布告である。

 開戦の大詔が発せられた。天皇は言われた。此の戦争は、「やむにやまれぬ戦いである。自存自衛の戦いだ」と仰せられた。開戦の詔勅に言う。「――帝国は、今や自存自衛の為、蹶然起つて、一切の障礙を破砕するの外なきなり」と。天皇は、こうも告げられた。「朕が陸海将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は、励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ」と。昭和天皇は、「これは国家総動員、国民総出の戦いだ」と云うことを宣せられている。森田総代は、「此の戦争の敗戦、悲惨な戦争の原因を、暗に昭和天皇になすりつけようとしている」、それに等しい。まさに賊徒の子孫と呼ぶに相応しき人物なり。大東亜戦争は、確かに二百万を越す軍人が死んだ。名誉の戦死である。森田総代は、「二度と戦争をしてはいけない。二度と悲惨な遺族を出してはいけない」と、年頭に靖國神社総代として挨拶している。日本遺族会としてではない。靖國神社総代。それも、総代を代表しての宣言である。靖國神社宮司は、総代の下に位置する。総代が駄目だ!と言われたら、宮司は何も出来ない。南部宮司は、この森田総代に押し切られたのか――。「靖國神社総代」が、天皇の戦争を非難している! 二度と悲惨な遺族を出すなと! こう云う総代が、靖國神社の内部で力をつけているのだよ、諸君。わかるかね。

 今や、靖國神社は、左翼化傾向にあることは、明白ではないか。これほどはっきり戦争非難をしたことは無かった。最早、天皇の玉垣は壊された。土足で本殿に、森田総代は踏み込んで来ている。本殿で森田総代は、祭神に日々、「悲惨な戦争をするな! 遺族を泣かすな!」と叫んでいるのだろう。天罰は、彼には届かないのか! これで、次の宮司が神社本庁あたりから出れば、あるいは霞会館からでれば、当然、徳川家縁故のものとなる公算は大である。靖國神社は、創立百四十年を境として、抹消の道を辿ることも予測される。昭和殉難者を「×級戦犯」・「死刑囚」と呼ぶ輩が、すでに神社境内には輩出している。遊就館の前では、「やはり悪いことをしたから、死刑は仕方がない」と云う会話まで聞こえて来るご時勢だ。誰も止めようがない。遊就館で、昭和殉難者を貶める『七人の死刑囚』と云う映画を上映しているのだ。幹部職員がいくら反対しても、南部宮司は上映を許可したからだ。どうすることも出来ない。責任者は、もう歿されてしまった。祭神の前で、歴史論争をする者が増えて来た光景を、どう思うのか。

 最後に、もう一度、以前書いた靖國神社正統を再掲して、今回の投稿を終える。幾度となく、私から聞いた話だろうが、幾度も読んで欲しい。これが靖國神社の根幹だからだ。

再掲――靖國神社の正統とは何か――

 国家の生命を守護奉らんとするために、国民は生命を差し出し、此の国を護持し続けて来た。その生命の継承が靖國神社そのものであり、日本人の精神以外のなにものでもあるまい。もしこの継承の途切れる時が来れば、おそらく此の日本と云う国は消滅するか、片々たる国として余命を数えるに至るかであろう。

 生命が途切れる時とは――。国民が、「いざと云う時に、戦いを倦み、拒否、忌避――生命を差し出すことを辞めた時である」。その時、靖國神社に祀られる二百四十六万六千余柱の祭神――靖國の大神は、此の國を加護することを止めざるを得まいと思うのだ。靖國の生命は、怠惰な国民によって絶たれ、大和民族の血は終焉し、お社に祀られる神霊の務めも終えられる。戦いの譜を書かざる國が消滅することは、世界の歴史が証明している。

 あらためて言わさせてもらえば――、今、目の前にある――東京九段にある靖國神社には、臣民である国民の一人一人が生命を差し出し、皇基を守護し奉らんとした、忠義忠魂が祀られる。いわば国民尽忠の精神がお祀りされている――とも言えるのだ。このことを、先ずに知らしめなければならない。海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、戦いの庭に出で、奮闘し末に、あるいは痛手負いつつ命を果てた、我らが先人が祀られている。この殉義死節の精神を涵養せしめ、拡充して、国民に振作し、教化する。国民は、頭を垂れることで、神前に誓うことで、祭神の神威に触れ、臣民の忠節を興し、進んで國を守護する生命を引き出す。そのことが、国家の安泰を磐石とする。そのことのために、靖國神社は、護国の祭祠として、天皇の大命により創立された。即ち天皇の神社といわれる由縁である。戦時事変に忠死せる皇軍――陸海軍軍人・軍属。それ以外にも維新動乱期の志士や町民・農民・神職・僧侶・烈女・子供も祀られる。近代以降には、地方官・外交官・警察官・看護婦・水夫・従僕・職工――自己の生命を国防に捧げた、多くの国民が祀られている。靖國神社は、帝国臣民全般を氏子とするが、その氏子総代・崇敬者代表として、祭神と最も密接なる関係を有する軍人を以ってすることが至当とされた。そのために、明治天皇は、軍人奉仕を命じられた。勅使祭文に、「武官ニ命シテ齋ニ奉ラセ給フ」とある由縁でもある。軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する――と、常々私が言う所の真意は、ここにある。これを、三代目賀茂百樹宮司は、下記の如く顕わしている。

『義勇、公に奉じ、天壤無窮の皇運を扶翼し奉り、生きては不滅の勳業を建てゝ、国家を泰山の安きに置き、死しては不朽の感化を埀れて、極天、皇基を守護し給へるが如き、わが大和民族の標識として、千木高く雲際に仰がれ、国家元氣の神藪として、宮柱動きなく、万世に齋はれ給ふ。斯かる特別神社なれば、自ら一般の神社法規を以て律すべからざるものあり。』

と。即ち靖國神社は、軍人教化・国民教化・社会教化――を旨ともするのだ。国民崇祀の神社なのである。かって賀茂宮司の後を継がれた、陸軍大将鈴木孝雄宮司は、斯くのように国民の拝神、参拝の心得を説いている。要約する。

『靖國神社に参拝するにしても、国民は、心得として、靖國神社の神様に対して誓わなければならないと云う、一つの責任を持っています。それは、この神社に祀られる祭神は、いずれも自分の身を犠牲にし、一念、国家よりほかの事はなく、此の国を守護されてきた方達ばかりです。言い換えてみれば、靖國神社の神霊は、国家そのものに、終始、加護を與えているということになるわけです。国の安泰を、終始、見守っているわけです。ならば、我々国民としては、この神様に酬いるための考えが出なければならない。つまり此の神様に対して、誓いを立てて、自分の身を処していくという覚悟が起きてこなければならない。此の神様は、いづれも責任観念の深い神様なのです。この神様に誓いをしていただかねばならない。各人の自覚と責任です。それは、即ち今日の国家にご奉公していくという考えが必要であり、これが靖國の祭神に対するところの我々の務めであるましょう。』

と。深い言葉である。かみ締めて幾度も反芻し、心の内に浸透させて欲しい。これが、いわば今後展開する、当「九段塾」の精神でもあり、指し示す道でもある――。戦後に、松平永芳宮司が、

『靖國御社頭での祈りとは、誓ひだ。御霊と同じように、いざという時は、国に命を投げ出します、といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御満足は得られない。』

と、常々口にされてた、その言葉に繋がる。受け継がれた血脈が、此処にある。国民の生命と国家の生命の継承の継手が、ここに在る。そして鈴木孝雄宮司は、なおも言う。

『いざという時には、一命を捧げます――という立派にその誓いができれば、ここに初めて神明の加護――神徳というものを考えることが出来る。』

と云う。即ちただ神明の加護をお頼みしますでは、神徳は授けられない。

『神明の加護というものは、参拝者自身が、自らその加護を受けるようにしなければ、加護は参拝者には現われない。神頼みをするには、神様がお授け下さるように、自分自身もそうしなければならないのです。国に奉公された祭神同様、いざという時には、此の国にご奉公するという誓い』、それがあれば、御加護――御神徳を受けられると云う。

 靖國神社は、帝国の祭祠である。そして明治天皇の聖旨を享け、それを戦後にも受け継いで行くために、昭和二十一年、官國幣社の社格を失うも、国家機関たる実も失うが、廃社することなく、新たに宗教法人として発進した。日本が連合国の占領下から解かれて独立した、昭和二十七年にあっても、靖國神社は、社憲に、戦前の靖國神社の精神を受け継いだことを標している。

――靖國神社社憲――昭和二十七年九月三十日達
『本社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、国事に殉ぜられたる人々を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治二年六月二十九日、創立せられた社である。
いやしくも本社に職を奉じる者は、その任の軽重、職域の如何を問わず、深く本社を信奉し、祭神の御徳を体し、清明を以ってその任に當り、祭祀を厳修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、以って万世にゆるぎなき太平の基を開き、本社御創立のよって立つ理想の実現に、一意、邁進しなければならない。』

見事なる軍務継承。戦前と寸分も劣らぬ社憲であろう。今日、靖國神社に奉職する宮司以下、職員全てが、この社憲を日に一度反芻し、職務を遂行して戴きたい。さすれば、現下、靖國神社境内外における惨憺たる有様は減少しつつ、清明の日々が訪れる可能性もある。「いやしくも本社に職を奉じる者は、その任の軽重、職域の如何を問わず、深く本社を信奉し、祭神の御徳を体し、清明を以ってその任に當り、祭祀を厳修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り――」。これぞ、賀茂宮司が、鈴木宮司が、松平宮司が祈ってやまない、靖國の真の姿――正統継承であろう。

 

  • [21]
  • 靖國祠中、祭祀、厳にす。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月28日(日)20時56分3秒
  • 編集済
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■平成二十一年一月四日

新春挨拶。

 皆様、新年、明けましておめでとう御座います。久々に○○○さん、竹屋さんもお見えのようで、備中さんも喜ばれていることでしょう。○○○○○さんも、○○○さんも、それぞれの初詣をされ、新春、すこぶる晴れやかな気持ちで、年の初めを過ごされたことと存じます。私も元旦・二日・三日と、靖國神社に三ケ日を過ごして来ましたが、靖國神社はますます俗化が酷くなって行くのを感じました。靖國神社に初詣に行かれてた方ならお分かりでしょうが、社頭にはなにやらベターと貼り付けてある高札がありました。札を良く見れば、全国銘酒のラベル。こう云う発想は、今迄に無かったこと。普通の神社の賑わい・楽しさを、参拝者に味わってもらおうと云う趣旨なのか? 靖國神社の社頭は――明治大帝の思召しによる国民の忠義忠節を祭る神社に相応しい――冷然たる尊厳・清涼なる風前にしようと云う発想は無いものか。今年は、どうも靖國神社は、世の中の趨勢に関わる事無く、聖旨を護持し、神職の尊厳を持ち、厳粛なる祭事執行を心がけるよりも、「ますます参拝者の目線で、視線で、境内を賑やかに盛り立てる心算」だと云うことが充分に察せられて、暗然たる思いです。

 初詣客は、元旦の夜は、少なかったようで、朝になっても、さほど増えず、とうとうブームは去ったかと思いきや、午後になって、どうしたことか、どっと初詣客が押し寄せた。神門辺りまで、行列が出来ました。二日目・三日目も、どうしたことか、案外の人出。これは多かった。昨年より初詣数は多いだろうと思いました。社入金も、昨年を越えただろうと思いました。嬉しさ半分、悲しみ半分と云う所か。悲しみ半分の意味は、またその内お話しするときもあるでしょう。今日はこのままで。

 参集殿の処には、「本年は、天皇陛下ご即位二十年の年です」と、でかでかと書かれていましたが、これはなんなのでしょうか? だから、どうした!――と、思わず反撥したくなる。誰が誰に、何を言いたいのか。こう云う時は、「奉祝」と一言書けば、それで全てがピシッツと決まるのだが、そう云う「決め」が失せている。参拝者にも、執行部にも。日本全体かも知れない。一年最初から文句を言うのも気が引けますが、致し方ない。どうして、伝統が護れないのか? 何かをする時に、伝統が頭に浮かんで来ないから、私的な発想で物事を進めてしまう。する方も見る方も、私的だらけの世の中だから、なんにも感じない。世俗の波の怖さです。本当は、もっともっと神社境内の様子を書きたいが、今日ぐらいは穏やかに致そうと思い、これで止めにします。

 皆様、今年の「九段塾」の主題は、唯一つ、尊皇です。尊皇を、終始、周囲の人々に話して行くことが、波の起こし始めとなります。日本の復興は、それ一つにかかっております。靖國神社の正統とは、即ち尊皇なのです。竹屋さんが少し触れていた武士道みたいな話で、日本の戦争を語る俗物・俗誌・俗紙を非難排除しないと、日本の歴史・戦争が、全て俗人の金儲けのタネとなって使われてしまう。今年は、少し世間に主張を張り出して行くことを考えようかなと思っています。皆様の新春、かけがいない命の息吹を騒がせて、是非とも尊皇の一事を周囲の人々に話し、語り、波の起こし始めをお願いする次第です。今年の初めには、昨年出来なかった靖國神社正統史を、改めて稿を起こしたいと考えています。どうも、新年挨拶にならない言葉ばかりで申し訳ないが、これを塾頭新年挨拶に替えさせていただきます。本年もよろしくお付き合いの程をお願い申し上げます。



■平成二十一年一月七日

俗化に、大神はどう応えるか。

 やっと○○○○さんが見えられたようだ。この人は、いの一番にやって来るかなと思っていたが、一番最後になってしまった。本当は、あと一人、来てもらいたい人がいるんだが。ただ、なにやら○○○○さんは、少々荒れているような気配も感じられて、触らぬ神に祟りなしの感あり。でも、この人の言葉は、額面通り受け取れぬものがある。相当ひねって考えないと、見当違いとなる。そうは云っても、やはり少々剣呑な言葉つきに、備中さんが叱っている様子。ここは、備中さんが正論でしょうか。

 今日は、宮中では、昭和天皇祭。靖國神社では、昭和天皇武蔵野陵遥拝式。備中さんが書いている。
『我々、固より「谷底に轉がつた、ちつぽけな石ころ一つに過ぎない、我が身の矮小」(○○○○氏の言)の者、ならばこそ、天子樣におすがりし、尊皇の誠を捧げ奉り、一向に「靖國大神の御開運」を熱祷し、日本中興を祈念したいと存じます』。
まさにその通り。今、明治天皇の聖旨を踏み砕き、境内を俗化させ、松平宮司が、昭和天皇にお許しを戴いた昭和殉難者を祭る靖國神社の軍神が集る遊就館で、不浄なる『七人の死刑囚』なる、胡乱なる題名の映画作品を上映させ、更に鎮霊社を公開する現執行部に、靖國の大神は、なんと見ているのだろう。尊皇をないがしろにするも、甚だしき事柄多し。明治天皇・大正天皇・昭和天皇をないがしろにする輩は、誰ぞ。国家安泰・厄除け・家内安全・社業繁栄を、イッショクタに本殿で奉告・祈願するデタラメに、靖國大神は、なんとお応えするか。茶髪の若者・肌露なる女性、なんら規制することなく、昇殿させる執行部の見識を、靖國大神は、なんと見ているか。海賊だの、英霊来世だの、わけのわからん者たちに遊就館を駆けずりまわさせて、靖國大神は、どう見ているのだろうか。松平宮司時代には全く無かった俗事俗化・俗事祈願・俗人大衆。俗化を喜ばれる靖國大神は、おられんでしょう。いつか、鉄槌は下るか! 今年は尊皇を押し通すこと。それが、「靖國大神の御開運」なり。

 久々に○○○○氏が来たので、つい、書きました。さて、来週あたりから、少し精力的に書いて行くことにしましょう。最近は、約束を果たせないことが多くなりましたが、それでも、約束をしたい。投稿したら、なんと、備中さんと○○○○○さんが書いていた。少々ダブりますこと、ご了承願います。



■平成二十一年一月九日

祭祀、厳にす。

 南部宮司が急逝された。図らずも備中さんが紹介されている。南部宮司は、大正天皇の御製を解釈されている。

武夫重義不辭危。 武夫、義を重んじて、危きを辭せず。
想汝從戎殞命時。 想ふ、汝、戎(たゝかひ)に從ひて、命を殞すの時。
靖國祠中嚴祭祀。 靖國祠中、祭祀を嚴にす。
忠魂萬古護皇基。 忠魂、萬古、皇基を護る。


義により難に殉じ、永く皇基を護る忠魂に對し、祭祀をおごそかに行はんとの御意である、と。

 身を宮司室にて歿されて、まだ葬儀も始まらぬ時に、畏れ多くも憚れる話でもあるが、靖國神社傾倒の堕落を憂い、長く非を鳴らし慷慨してきた私として、立ち位置だけは、諸士に知らせて置きたい。昭和天皇遥拝式後に、南部宮司は武蔵野陵へ拝礼に行く予定をしていた。が、その準備も出来ぬ前に、宮司室で絶命された‥‥。武蔵野陵拝礼を許されなかったのである。南部宮司は‥‥、靖國神社に祭られる「義により難に殉じ、永く皇基を護る忠魂に對し」、祭祀をおごそかに致されなかった――。不届きに付き、靖國大神は召された。恐れおののきも、私は、そう思っている。南部藩主家は、靖國神社宮司になるべきではなかった。このこと、現在、残れる靖國神社全神職に、深くこれまでの日々を想起し、心中を思い返し、反芻して戴きたいことである。昭和天皇に率いられし二百有余万の祭神がおられること、思い出されよ。大神の存在を、深く心に留められよ。大前に額ずくことなければ、天命は、なおもやむことはないと思う次第。

「靖國祠中、祭祀を嚴にす。」

大正天皇の御言葉を、全神職身を削って深潭に濯ぎ、厳に戒めて戴きたい。

 今宵、心に無念のまま、思いをお知らせしたく記した次第。 九段塾・塾頭



■平成二十一年一月二十日

靖國神社宮司職は、身命を覚悟して。

 しばらく「九段塾」から遠ざかっている間に、幾人かの人々が訪問されていた。○○○○さんと云う人には、覚えがあるような気もするが、記憶がはっきりしない。「一兵士様、大変ご無沙汰しております。『あと一人、来てもらいたい人』でなくて申し訳ありません。その方には、連絡しておきます‥‥」と書かれていたが、こちらこそ申し訳ない思いだ。勉強されると云うから、篤と学ばれるがよろしいと云うしかない。○○○○○殿は、あまり身体よくないご様子。よくはわからぬが、養生くれぐれもとお伝えするだけしかない。○○○○さんは、「九段塾」立ち上げのきっかけを作られた方。静粛な感じが素敵かなと思う。○○○○○さんは御馴染になって来たようですね。この方には、桜でお世話になったので。

 さて少し粗雑であるのを承知で、書いておこうと思った。「靖國神社宮司職」と云うもの。南部利昭宮司の葬儀も終わり、十日ほどが立つ。次の宮司に誰がなるかは、未だ判明せず。しかしおそらくは次の総代会にて、ある程度の人物候補者名があがることでしょう。現在は三井勝生権宮司が宮司代行を致しておりますが、そうそう長く宮司不在とはいかず、私の予測では三月、遅くとも四月には、十代目宮司を決めた新体制で、靖國神社は進発する筈です。戦前にあっても戦後にあっても、靖國神社創建は、天皇の御聖慮によるものとはいえ、神社境内神域の清浄静謐、祭祀厳修の有り様は、宮司一人の高潔白眉、尊皇一途がいかようなものであるかで、おおよそが決まってしまう。それほど、靖國神社宮司の資質は、重要事である。南部利昭宮司は、もう既に世間に知れ渡っているように、皇族・華族が参集する霞会館から、宮司として入って来られた方だ。今上陛下ご承認の九代靖國神社宮司職に就かれた方であるが、私は先にはチャンネル桜掲示板にて、又当「九段塾」においても、幾度となく、南部宮司の怠りを非難、時には強く謗りも致しました。それは靖國神社宮司職としての、冒してはならない愚挙・冒涜を認めたがためでありました。鎮霊社の公開、参籠時に於ける怠惰や岩手競馬への出張、遊就館館内の歴史解説の改竄許可、祭神である昭和殉難者を「死刑囚」と呼ぶ、一民間企業の私的映画の遊就館上映、九軍神顕彰碑への勝手揮毫等、数え上げれば切りがないほど、不始末・不届き多く、歿された現在を考えると、それを一つ一つ指摘することはためらいが生じて、筆先が鈍る。しかし言わねばならない使命を、私は感じている。靖國神社宮司職は「名誉・光栄なこと」と、簡単に言える部類のものではないことを御承知して戴きたいことだ。命がけであることを、次期宮司になられる方、あるいは新宮司候補を探しまわる方々にも伝えたいからである。

 今、あらためて南部宮司を顧みれば、この方は――、おそらく或る場面においては、南部武士の矜持を常に持たれて勤めをされていたのだろうとは推察する。大祭などにおける衣冠浅沓での参進も、難解な文字の連なる祝詞奏上も、少しは経験もあったろうが、本職としては大変であったろうと推察する。靖國神社宮司として恥ずかしくない動作を心がけただろうとは思う。しかし宮司を陰になり日向になり助ける、賢者がいなかった。擦り寄る者ばかりだったのだろう。なにが靖國神社の正統で、なにをしてはいけないかを教える者がいなかった。それを知る知識者、尊皇の士がお傍にいなかった。つまり良き家老がいなかった、陪臣にもいなかった、小姓にもいなかった、殿を名君にする家臣が、傍にいなかったと――、私は考えている。そうだからと云って、靖國神社宮司職として冒してはならないことは、やはり理由如何によらず、致してはならなかったことなのである。一言で云えば、南部家殿様なのか、靖國神社宮司なのかを明確にすべきだった。進言すれば、靖國神社宮司職である間は、南部家歴代の名誉をかけて、一身を靖國神社に捧げるべきであったろう。尊皇第一を考えれば、天皇の聖旨を裏切る鎮霊社公開も閉ざすことは、宮司なら出来た筈。ゴルフ場を経営しているからと云って、神社幹部にゴルフ熱を沸騰させる必要はなかった。昭和天皇は、戦前ゴルフを好まれた。宮城内にもゴルフ場を作られた。だが、支那事変勃発で、国民総出、国家総動員の非常時に至った時に、ゴルフを捨てられた。戦後も、昭和天皇はゴルフをすることはなかった。六代松平永芳宮司は、神社からゴルフを追放した。禁止させた。それがいつのまにか復活し、南部宮司に至って、更に賑わいを増した。岩手にある南部宮司経営のゴルフ場に、わざわざ行くと云う幹部神職を輩出するようになった。酒好きの宮司であるから、酒席に呼ばれる機会も多くなる。靖國神社宮司職心得を、何故、周囲の者は教えなかったか。松平宮司は、一切、外部との飲食接待を受けなかった。ご自身を厳修された。鎮霊社は、先の宮司妻女の私的な祠であり、聖旨とは相反するものとして非公開とした。次の大野宮司も、『宮司通達』で秘匿を命じた。それを八代宮司が、愚かにも公開し、継いで南部宮司も、公開し続けた。敵も味方も祭る靖國神社と云う主張をし始めた。賊徒の意見にも等しい主張と看做される。祭られる皇軍兵士への、明治天皇聖旨への叛逆でもあろう。

 今後の宮司職に座る者は、心して靖國神社の正統を知り、厳しく服務に従事、自身をも厳修し勤めて頂きたいと願うばかりだ。備中さんが、しきりと書いていることがある。斎戒の厳守である。『神明に仕へる者は、淨明正直を旨とし、恭敬の誠を致すことを常道とし、祭祀を行ふに當つては、特に齋戒を重んじ、其の精神の徹底をはかり、禁忌を愼み、過失遺漏のないやうにつとめなければならない』と。凡そ齋戒は、私第(居宅)に於て、居室・飲食・衣服等、之を平常の所用と異にし、猥りに他出及び雜人の面會を禁じ、誠心潔清を要す。――現在の靖國神社に、これに違反することないか、元旦より今日まで、全神職が一日一日を思い返すことだ。斎戒を小馬鹿にし、信心が崩れれば、天罰は、忽ち喰らうことを考えねばならない。不穏な事故はなかったか、不測な出来事はなかったか‥‥。もしあれば、それは禁忌を慎まなかったこと――、酒・食・住・服‥‥。ありとあらゆる所に、少しでも緩みがあれば、事は本人ばかりでなく、家族にも及ぶことを改めて考えて欲しい。禊をないがしろにしていないか――、それが大事とつながっていないか――、考えて戴きたい事である。一寸の緩みなら直しも出来ようが、慢性化・常道となれば、それは靖國神社神道の瓦解となる。靖國の大神は、皆さんを、日々見詰めておられる。直毘の神が匙を投げられたら、終焉となることを思い知らされることがないように、互いに批判すべき所は、上司・下士を問わず、語り、伝え、反省して戴きたい。斎戒を厳修している筈の靖國神社神職に対して、少子たる私が講釈を垂れなければならない始末を憂うのである。

 去る一月十日、信濃町の斎場にて行われた南部利昭氏の通夜には、宮中から勅使が出られている。大変畏れ多いことだ。南部利昭氏が、皇族・元皇族あるいは旧華族の集まりである霞会館関係者と縁故関係にあることもさりながら、天皇の神社である勅祭社靖國神社・現職宮司死去によるためであろうと思う。いかに勅祭社靖國神社宮司職がすごいところなのか、改めて思わずにはいられない。今にして思えば、残念なることは、南部利昭宮司は――、就任中、祭神を語ることがなかった‥‥のではないかと云うことである。いろいろなことで、南部宮司の話を耳にするが、祭神について語り尽したと云うことを、耳にした事はなかった。祭神を語ることが出来なかった‥‥と云うことも言えるのかも知れない。だが、靖國神社宮司職にある者は、祭神を知り尽くし、参拝者に語り続けなければならない。宮司は祭神に奉仕する者である。参拝者にではない。祭神に尽し奉る。尽くし尽くす事が身命であることを知らなかったと、私は考えている。靖國神社宮司職は、「光栄」ではない。必死であろう。必死の覚悟が必要だった。

 三代目賀茂百樹宮司は、明治四十二年、靖國神社宮司任官に際し、「今日よりはいやとこしへに仕へ奉らむ」と、身命を捧げる覚悟を奉じた。だが、その三十年後、昭和十三年、賀茂宮司は病を得た。そして天皇行幸お沙汰が出るや、粗相があってはならじと、自身に言い聞かせ、辞任を申し出た。そして諒解を得る。
大神にささげしものを病にて尸(しかばね)賜ふ身となりにけり
靖國大神に捧げた筈の自分の一身、肉体を、なんと再び賜ってしまった‥‥と云う、慙愧を通哭されている。病の為に尽くし切れなかった無念である。

 四代鈴木孝雄宮司は、尊皇一途を参拝者に話し、教化された。常に「明治元年五月の布告にて、忠魂を慰むる為に神社を建てて永く祭祀せむ。益々忠節を抽でよ」と云う、明治天皇の聖旨を賜って創建されたと云う、靖國神社の由緒を得々語られた。昭和天皇行幸では、陛下が本殿御拝の時は、本殿の中で、宮司一人にて御奉仕。御拝の後に、陛下は、玉串を侍従長に手渡され、侍従長は、その玉串を宮司に手渡される。鈴木宮司はそれを頂戴し、階段を上がって神前に捧げる。鈴木宮司は、「この時、階段を上がる脚が震え慄いてならなかった」と、後に述懐されている。昭和天皇は、苦戦苦闘する支那事変を御宸念遊ばされた。そしてひたぶるに臣民の為に御拝をされる陛下に、まさに臣下として恐懼に堪えない感動を、鈴木宮司は心魂に得て、脚が震えてならなかったそうだ。為に、鈴木宮司は、遺族にも厳しく接した。遺族が昇殿参拝するは、「自分達は神様の加護によって、一家の繁栄をはかり、どこまでも神様の生まれたる所の家、それを栄えさせて、末代までも国家に忠節を尽すところの人をだんだん出すんだと云う決心を新たにし、自己の日常が、靖國の神の前に愧じざることなきかどうかを常に顧みるようになって欲しい」と、説きに説いた。自分の一族が神になっていると云う思いから、不謹慎になる者が多くいることを憂いたのだ。参拝者が、神様に心安くなることを諌めた。一旦、此処に祀られた以上、これは国の神様であると云うことに気をつけることを、懇切に教えられた。

 どんな時代でも、参拝者は、神職の話は黙って聞くものである。だからこそ、参拝者の教化が神職に求められるのだ。今の時代、靖國神社参拝者は、勝手やり放題。俗塵にまみれた参拝者であるが、一つ一つ神職が語りかけて行けば、参拝者の無知・無頼は、修整できるのだ。それを、鈴木宮司は実行された。「例え一族が、この御社に祀られていても、決して心安くなるな。神社参拝の折は、常に心から神様に対するんだと云う、最も厳粛緊張したる心持を持って、敬虔な態度で詣でて戴きたい――」と、言い続けて来た。それはまさにあの『九段の母』で歌っている真実である。不肖の息子が、天子様の御楯となって命を召された。そして、靖國神社に祀られる名誉を得た。「神と祀られもったいなさよ、母は泣けますうれしさに」、そして「両手あわせて ひざまづき おがむはずみの お念仏 はっと気づいて うろたえました せがれゆるせよ 田舎もの」と云う歌詞に続く。母は――お念仏を唱えたから、うろたえたのではない。しまった! 愛しい吾が子は、最早、不肖の吾が子ではなく、國の神様になっている。それを吾が子だけを思い浮かべて、手を合わせて、念仏まで唱えてしまった。ああ、なんと云う世間知らずのイナカモノであったか。吾が子よ、許せ。あなたは、最早、吾が子ではなく、国神でござさった。せがれよ、申し訳なかった。あなたに恥をかかせてしもうた‥‥と云う母の嘆きとして、解釈をして戴きたい。そして鈴木宮司は、「靖國神社に祀られる神霊は、国家そのものに、終始、加護を与えているものです。そうすると、我々国民はこの神様に酬いる考えを出さなければならない。即ち今日の国家に御奉公して行くと云う考えが必要であり、それが靖國の祭神に対する所の我々の務めである」と。

 この鈴木宮司の精神を、更に昇華させたのが、戦後の松平永芳宮司でした。「靖國の大神に対し、一命を差し出す約束」をする参拝こそ、国民の務めであることを説いた。イザと云う時には、「国家に一命を差し出す」ことを、祭神に誓う参拝を説いた。松平宮司は、死力を尽して、宮司職をし尽した。一身を歿されたのは、退職後に於いてのことだった。そのために葬儀に於いては、宮中からの恩賜の祭粢料は、遺言で辞退申し上げている。賀茂百樹宮司と同じ魂魄を感じる。大野宮司は、宮司職である間は、秘かに懐に短刀を忍ばせておられた。いつでも宮司として相成らぬ事、不届きあれば、不始末・遺漏あれば、自裁する心算であったと聞く。いつも覚悟の短刀を懐に意識することで、言動の緩み無きを、ご自身に言い聞かせつつ、勤めをされたのである。いずれの宮司も、覚悟信念は、尋常ではなかった。それが、靖國神社の正統を継承し続けて来た。それが、今は絶えようとしている。俗化したからである。覚悟を秘めた宮司、いなきためである。松平・大野宮司退任以降、俗塵が舞い上がる一方である。神社が俗なら、集うものも俗人ばかりとなる。次の宮司は、誰か――。まさか南部家に継いで、徳川家にゆかりの者でないことを願うばかりである。神聖神域にほど遠くなりつつある現在の靖國神社を、厳粛正統に復帰させる――。明治天皇の聖旨に従うべき道筋に戻すには、尊皇一筋の者でなくてはならないが、果たしてそのような者が、現今いるものかどうか。気がつけば、深夜に達する刻に気づく。ひとまず後段は、明朝書くことにして。
 

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  • 天皇の戦争とは、正義だ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)20時09分39秒
  • 返信
 
■平成二十年十二月十九日

これが覚醒の第一歩

 雑事追われて、しばらく「九段塾」から離れておりました。今、○○○○○さんが、この方には、常日頃とは変わって、珍しく平易な言葉で、今日の世相を憂いておりました。蓋しこの憂いをどうしたらよいか――、それを「九段塾」では考えて行きたいと考えているところ。

 私は、今、此の国を戦前に回帰させようと、その留意する処を述べて来ています。善いも悪いも、そっくり回帰です。その詳細を書こう書こうと宣伝しながら、未だに一筆も降ろしてない状況。申し訳なく思っていたら、備中さんが、素晴らしい「詔勅欽鈔」・「先哲遺文」を紹介してくれています。薄暗い部屋の中で、ぱっと明るい電球が点きました。そんな感じの言葉を見つけました。私が、ハタと膝を打ったのは、葦津耕次郎殿の話で、最後尾に書かれてある一節です。「世界萬邦、その大道を仰いで、皇國の風を學ぶにいたる」と云う言葉である。これぞ、覚醒の言葉です。八紘一宇の大理想でしょう。日本が侵略国かどうかなど――、最近のニワカ歴史論文騒ぎなどの俗事に囚われず、皆さんは此の言葉を、何度も反芻してみて下さい。戦前回帰の道標です。他人を説得するための、主張の集約です。全世界が、天皇陛下の御宇に吸い込まれるように身を浸し、全人類の幸福を考えれば、世界万邦、その大道を仰いで、皇国の風を学ぶに至る――と云う極致に到達する――。この理想論を掲げなくてはならない。今日、金カンジョウばかりが人生になっている世相だが、理想を目指す走りが必要だろうと、思わずにはいられない。

 まだ雑事が終わらないので、なんとも言えないが、「九段塾」は、私にとって戦いの砦。静かに静かに、烽火を挙げて行きますので。もう一度、「世界萬邦、その大道を仰いで、皇國の風を學ぶにいたる」。此の言葉から、どのようなイマージュが発想できるか、想念を描くことが出来るか、みなさんも――、戦前回帰を一つの指標として、どのような国づくりがいいのか、考えてみて下さい。現在――、日本がふやければふやけるほど、好機到来なのです。日本を変えるのではなく、戻るのです。億兆が、高天原に戻るのです。古事記の標榜する世界観に戻るのです。そこからもう一度、歩み直しです。備中處士さん、やはりあなたが、いろいろ先哲の言葉を、適宜蔵出ししてもらった方がよろしいです。ハタと膝を打つことが多い。お願いします。スレッドは、スレで完成させたにしても、あぶり出して戴いた方が、愚人には助かりますので。○○○○○さん、いつもご苦労様です。言葉途中みたいですが、これにて本日は失敬します。



■平成二十年十二月二十五日

天皇の戦争とは、正義だ。

 これは驚いた。昨夜のTBS『激動の昭和――あの戦争はなんだったのか』。これほど、正史に近い形で、TBSが描くとは予想もしなかった。悪の権化のように思われている東條英機が、実は昭和天皇の戦争を望まぬ「御上」の忠実な臣として、忠義を尽くす臣下として、いかに戦争を忌避できるか――、苦渋する姿を良く描いていた。前半のドキュメンタリー部分でも、東條英機の実相にかなり近い姿を描いている。保守陣営が飲んだ暮れている間に、サヨクが実相をどんどん開陳している。ここが左翼の緻密さだろう。また真珠湾攻撃は、日本のテロ攻撃ではなく、ハルやスチムソン日記、あるいはルーズベルト発言などを使いながら、ヨーロッパ戦線に参戦する米国の野望の格好の口実として日本を利用したことを、暗に主張している。驚いた。宣戦布告なき非道の真珠湾攻撃と思われているあの奇襲攻撃は、実は「まんまとルーズベルトの術策にはまった日本」が、戦争を始めてしまったことを、再三にわたり描いている。細かいことを、多分知らないだろう、ナレータに起用された女優の松嶋菜々子の冷静な語りも、僅かに怒りをこめた響きで、米国の謀略を追及して行く。こんなドラマ展開を、私は予想もしなかった。東條英機を悪者にし、暴発した軍部を描く――これまでの一連の日本が悪い式のドラマだろうと思っていたが、完全に引っ叩かれた。日本が負けるとわかっていた戦争を、何故やったか――三百十万人の日本人が死んだこの戦争の責任者は、誰にあるのか――、それは東條英機そのもではないことを言わしめている。米国との戦争を望んだ軍部でもない――ことを暗示している。一応の主因は、新聞・マスコミであり、戦争を望んだ当時の日本国民そのもではないか――、とまで匂わしている。サブキャスターで登場した鳥飼氏は、「国民が望まなければ、いくら軍部が戦争だと叫んでも、戦争は出来ないですよ。当時の国民が賛成したから、あの戦争は出来た」と、戦争責任を日本国民にするような話をする。だが、ドラマでは、明確に指摘しない。誰に戦争責任があるのかを――。

 一体、TBSは何が言いたかったのか。何か策略がある筈だ――。それは‥‥、おそらく天皇ではなかったのか。はっきりとは言わない。天皇は、あくまでも戦争を望んでいない。いないが、此の戦争を止められたのは、ただ一人、昭和天皇ではなかったのか――。そのことを大圏外に含んだ、相当な構成力で描いている‥‥と、私は理解した。戦争を止められたように、開戦も止められたのは、統帥権をもつ天皇である。現人神であらせられる天皇、ただ御一人。そう、視聴者に思わせさせようとしているのではないか。それが巧妙に仕組まれていると思った。だが、果たして巧妙すぎて、視聴者がそこまで理解に及んだかどうかだ。東京裁判で処刑された戦犯者達の責任ではない。あの戦争を始めたのは日本国民。それを止められたのは、天皇ではなかったのか――。それが言いたかったのだろうと、推察した。これだけの大構想を、左翼は立てて来る。そのためにハルノートの押し付け、ルーズベルトの陰謀も利用する。そしてこの戦争の責任を、天皇まで持って行く――、こうした壮大な知略に、現在の単細胞のような頭の保守陣営で太刀打ち出来る者がいるか――。学生が書いたような田母神論文あたりで盛り上がる連中では、足元にも及ばないだろう。天皇を貶めるために、このドラマでは、徳富蘇峰が利用された。開戦の詔書に筆を入れたのが徳富であることを明かし、彼自身、自分があの戦争を起こしたとも言わせている。天皇の存在が消え失せた。詔書が貶められている。大衆化させた。これが狙いであろう。そのために、緻密に保守陣営から反論が出ないように、保守が喜びそうな餌が至る所に撒かれている。徳富蘇峰が日本を戦争に走らせ、三百十万人の死者を出させた――とも、ドラマ中間では描いている。演出・鴨下信一とは、私が若い頃、大塚の三業地で何度か飲んだことがある。東大出の男だった。いつの間にか、テレビのディレクターとして有名になっていたのを後で知った。脚本の池端俊策もベテランのようだ。TBSが相当の力を入れているのが知れる。このドラマが生半可のものではないな――と云うものを、実は前から感じていた。実際のテロップにも名前が出ていたので、構わないかも知れないが、このドラマの軍事監修として、靖國神社に長年勤務していた優秀な軍事家が協力していることを知ったからだ。何故、あの人が‥‥と、しばし考えたが、「あの人が協力したと云うことは、相当史実に近いことを描いているに違いない」と思っていた。細かいことはあるが、TBSドラマとしては、異色の戦争ドラマだ。ある程度、正史に近いものが散見できた。無論、突っ込んで描いているわけではない。折角、戦争反対者の山本五十六大将の手紙を見せながら、――この手紙には――、自分は戦争に反対であるが、もし戦争をするとなるならば、なにをか言わん。自分は天皇の忠実な臣として、醜の御楯として、戦場に命をさらす覚悟を山本大将は記しているが、そこまで紹介してくれていない。カットされている。開戦の詔勅も紹介されていたが、何故、戦争を起こしたかの理由が述べられているのに、当然か、そこまでは解説しない。巧妙である。しかしドラマの中では、「此の戦争は、正義の戦いだ」と云う台詞も出て来る。また特攻機の発信を傍受した退役米軍の通信係に、「天皇陛下のために死んで行く」ことを耳に聞き、敵ながら心が揺り動かされた感動した気持ちを描いてもいる。たいしたものである。靖國神社が作るべきドラマだ、と思ったほどである。このように保守が喜びそうな知識・エピソードを並べて、TBSが言いたかったことは、「あの戦争は、天皇が止められた。統帥権を持つ天皇は、戦争を止められた筈だ‥‥」と云うメッセージを言いたかったのではないかと、私は思った。深読みではないだろう。まさにTBSの真骨頂だろう。昨今の保守が田母神論文でバカ騒ぎしている間に、深く深く国民を味方につけようと画策している。それでも、ここまで、様々な正史を、ある程度TBSが描いたことで、一般視聴者は、「東條英機って、あんがい涙もろい男だったのか」、「そんなに悪い男ではないみたい」、「彼は昭和天皇の意を知り、忠実な臣として、日本をなんとか戦争させないように努力したんだ。むしろ非戦論者ではないか」と云うことを理解するかも知れない。だが、私はそう云うことより、何度も見た東條首相の演説で、「一億国民が、今こそ立ち上がれ」と云う檄に、血沸き肉踊る気持ちになる。いつも鳥肌が全身に立つ。殉国の志操を演説する東條首相の聲に、姿に、父も兄も弟も、国民は大歓声を浴びせた。

 天子様の戦いだ。遅れて非国民の汚名を着るな! 大東亜の曙だ! 東亜の解放だ! 米英なにものぞ、恐れる必要はない。我には三千年の歴史に鍛えられた精神力がある――、大和魂がある――、これで戦える――。そう思った日本国民は、正しい選択をしたのだ! だから、大東亜戦争だ! 血が沸騰する。「戦後生まれにわかるもんか。構いやしない。俺たちの戦争だ――」。こう云う仲間もいる。テレビを見ながら、いつもながら興奮する。最近の保守を名乗るオタク連中が、「東條閣下は――」などと、知ったような口を聞く中で、まさかTBSから、東條英機の実相を知らされるとは思っても見なかった。

 もう一つ、此のドラマの中で感心したのは、正しい用語が使われていたことだ。「南方軍」である。戦後、元軍人の手記でも、どこかで聞いた「南方総軍」と云う言葉をしきりに使っているが、これは間違いだ。南方総軍と云う正式呼稱はない――と、昔、英霊にこたえる会に参集した元佐官クラスの軍人たち二十数人が集まり、調査した結果、「南方軍」と発表したことがある。今年の初夏に九十五歳で亡くなられた元大本営参謀で、実際に南方軍参謀も務めた高橋正二さんは、常に自分の書き物では、「南方軍」と記している。だが、出版社の方で、「南方総軍」と書き直したりするので、よく怒っておられた。この方が、あの「特攻隊を棄てて逃げた富永中将」を、戦後も、その名誉を守り続けて来られた。「冨永中将は、立派な方です」と。

 いつか、桜掲示板でも書いたと思うが、戦後生まれでは、実相はわからない。実際に戦って来た人間が、実感で戦争を語った。その場所が、靖國神社だった。天皇を大声で批判する人もいた。特攻を批判する学徒兵もいた。あの戦争は、日本国民が戦った。天皇の命令に従い、一億の国民が戦った。天皇が皇城にいる間は疎開しない――と云う、東京市民が大勢いた。大空襲を知っても、東京市民が逃げ出さなかったのは、天皇が逃げていない――、帝都は、我々が守る――、そのために疎開しなかった。戦後空襲の悲劇として取り上げるが、帝都空襲を守るために、東京市民は焼けることを覚悟して居残ったことを、誰も書かない。

 昭和天皇は――、あの戦争を止めなかった。それは事実であろう。負けるとわかった戦争でも、天皇は止めなかった。二千六百年の皇基を、赤子と共に護らんとされた。御聖断である。開戦の詔書に曰う。

天佑を保有し、萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕、茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は、励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ』と。

「億兆一心国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ――」と。天皇が言う、その征戦の目的とはなにか!――。

剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は、政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間、却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立、亦正に危殆に瀕せり。事、既に此に至る。帝国は、今や自存自衛の為、蹶然起つて、一切の障礙を破砕するの外なきなり』。

これがその征戦の目的だ。「東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事、既に此に至る。帝国は、今や自存自衛の為、蹶然起つて、一切の障礙を破砕するの外なきなり」。これが「あの戦争の目的だ。大日本帝国が、億兆一心、国家の総力を挙げて、例え勝算なくも、遺算なきよう、志を尽せ――」と、大命が下ったのだ。我が大和島根を覆う黒雲を祓わんと、天皇は戦いを宣せられた。天皇の国を護るためにである。それに天皇の赤子、一億の民が立ち上がった。喚声を上げて、だ。此処が奉公のしどころと、滅私尽忠、北方アリューシャンの淵から、遠く南冥の果てまで、東亜の戦域に、トキの聲を上げたのである。

 わかるかね。ハワイ真珠湾攻撃の報に、全国で万歳が轟いた。天皇の為に死ぬ。それが忠孝の道であった。至福であろう。天皇の醜の御楯となる。戦争責任が、どこにあるか――、そう云う国柄ではなかった。戦争に負けた責任は、国民にある――。だから、多くの国民が、天皇に土下座して謝り、腹を切った。力至らず、臣として申し訳が立たなかった。戦前を知らぬ現代人に、このことをわかるまで語ることが必要だ。米国人に、支那人に、韓国人に、西欧人にわからしめる必要はない。現代の日本人に、あくことなく語り続ける必要がある。天皇の叱咤に、三軍の将兵が応えた。一億国民が戦った戦争だ。それが「あの戦争の実相だ」。田母神さんは軍服を着て、何のために靖國神社に来ていたか――、天皇の臣下としてではないのか。「国軍として――」などと発言していたが、なにが、国軍かね、漫画の読み過ぎだろう。日本が侵略国かどうかを、俗論などを借りて語るなかれ。天皇の詔勅に、日本がどう云う思いで矛を持ったか――、国民が醜の御楯となったか――。もっと真剣に戦前を学問してから語らなければならない。小僧っこみたいな、はんぴら論文は破棄である。

 近代史における戦争は、天皇の戦争である。戦前の将軍たちの論文を読みなさい。学生論文かと見間違うような話を、自衛隊幕僚長が公開するものではない。これで、全世界の軍事関係者に、現在の自衛隊の底が知れてしまった。おそらく嗤っていることだろう。この元幕僚長の論文で、大騒ぎする保守陣営の軽薄さ・軽便さ、まさに箱根鉄道と同じようなものである。嘆かわしいと、私は慨嘆している。到底、戦前右翼の学識とは雲泥。戦後、「軍事」がすっぽり抜け落ちた庶民・大衆の感覚での、地べたでの大騒ぎだろう。

 何を書いていたか忘れてしまった。ともかく、言いたいことがあったので書いた。暮れになると、慌ただしい。みなさんも落ち着かない日々が続くことでしょう。来年はなんとか、勢いをつけて、靖國神社正統論を書き続けて行く。近代史を含めて。形骸化した靖國神社の建て直しを言上げして行く。最後に、これは私個人の思いであるが、対馬での韓国人排除などを始めとする、様々な活動をする主権回復を目指す会の西村修平氏は、国士として相貌を顕わして来られたようだ。注目に値する活動だ。くれぐれも身辺に注意を怠らず、頑張ってもらいたいと思っている。まだ、今年に書くかどうかはわかりませんが、とりあえず、今日はここまで。



■平成二十年十二月三十一日

歴史の勃興。

 産経新聞に掲載されている、靖國神社初詣の宣伝広告を見ると、諸祈願参拝に、国家安泰・家内安全・厄除・社業繁栄等受付中と出ている。国家安泰祈願が、家内安全・厄除・社業繁栄と同格―一列横隊の表示。これを見て、どれだけの人が、「これをおかしい」と読むか。その数は、日本の俊英・気鋭が姿を消し、何処もかしこも俗通一色に染まる没落と、歩を同じにしているだろうと思う。今年の一年、漢字一字で表せば、まさに「俗」であろうと思う。保守陣営がどれも平坦で、凡庸すぎることを感じた一年だ。つまらない時代になったものだと思う。名越二荒之助先生や大東塾神屋二郎さんが、もう少し生きていてくれれば、少しはあの時代の風を絶やす事無く吹かせていてくれた筈だが。もう、誰もいなくなった。九十歳を過ぎた軍医も大尉も、まだいるにはいるが、世の中に出て来ていない。影響力はない。今や、俗塵が誤った歴史観を振り撒く、黄巾の乱の如し。だが、「九段塾」が健在ならば、まだ、大丈夫と考える。来年は、頑固なる思想を貫く姿勢を堅持し、末広がりに滲む努力を致したいと思う。「尊皇を言い続けるしか、恢復の道はない――」と、仲間の一人がメールを寄越しました。それでは、皆さん、今年はこれで終わります。

 備中處士さん、管理人としての手間仕事、本当に大変だったでしょう。ご苦労様でした。報われることがあるように、来年もまた頑張りましょう。火が消えなければいいのです。火を消さなければいい。種があって、歴史が勃興する。勃興が、「九段塾」に与えられた使命です。今年は、北に帰らず、靖國神社に初詣いたします。皆様、よいお年を迎えて下さい。
 

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  • 尽忠の国家づくりを――。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)19時12分56秒
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■平成二十年十二月九日

尽忠の国家づくりを――。

 どうもいけません。書きたいことは山のようにあるのですが、この暮になると、雑事がどっと押し寄せて、パソコンに向かえるのは、日中のほんの僅かな時間しかありません。なかなか腰を落ち着けて、近代史を書くことが出来ません。申し訳なく思っています。それで、とりあえず何度か訪問されている人も大勢いると思いますので、少しだけ書いておきます。たいした話じゃありませんが。

 一昨日の日曜と次の月曜二日間、靖國神社に用があり、出かけて行きました。師走のこの月は、例年参拝者の少ないのが当たり前だったが、日曜はいろいろ問題はあるが、混雑と云う意味では、一応混雑していた。と云うのは、日本ウォーキング協会の主催で、東京神社めぐりのスタンプラリーと云うのが行われ、その参加者が殺到し、参集殿のまわりや拝殿前は混雑していたのだ。いずれもウォーキングスタイルだ。単なる通過点でしかないが、こう云う外の催しにも、神社は協力している。人に親しんでもらえればよいと云う発想だ。彼らにとって靖國神社は、なんなのだろうか。引き止めて議論をぶっかけてやるか――、とは思わなかった。諦めである。昨日の月曜も、陽はあっても空気が冷たいにも関わらず、案外の人手だった。少し驚いた。やはり十年前とは違って、年間の参拝者が増えているようだ。勿論、小泉総理参拝時の過激な増殖を除けば、平成十年頃とは違っている。ただ奉納金が、相変わらず減じている様子。靖國神社に参拝者が増えることは喜ばしいことなのだが、なにか印象として、境内が小汚い印象を持つ。ゴミが落ちている、紙くずが散乱していると云うのではない。境内に、敬虔が満ちていないことだ。静謐・清浄・敬神・畏れが定まっていずに、どんよりとした重い澱のようなものが漂っている。何故だろうか。参拝者が不規則に境内を動き、うろついているような人もいる。右に行ったり左に行ったり。一礼もせずに神門をまたぎ、さっさと参道を外れて、桜木を廻って、最短距離で遊就館の方へ向かう人もいる。拝殿には行かない。思い思いの動きをしている。おそらく空中からみれば、脈絡もなく、動く人の動きが見て取れるだろう。美しくないもの、それが境内にあるのが嫌だと、私の心が思う。

 先日話に出た、明治神宮。全国から少年少女が集まる原宿の喧騒から数百メートルしか離れていないのに、何故、明治神宮の参道は、荘厳さが満ち満ちているのだろうか。歩く人の表情にも、不思議と弛緩が見えない。何故か、緊張している。森か? あの長い参道を両側から包む深い森林から発せられる言霊が、人間を厳粛にさせるのか。玉砂利を踏みしめながら、最初は話し合っていた参拝者も、次第に言葉を発しなくなる。森閑とした森の精霊の中を、無言で歩いて行くことになる。頭の中には、明治天皇の尊顔が浮かんで来る。知人の描いた明治天皇像が浮かぶ。日清戦争画・日露戦争画が浮かんで来る。お参りを済ませた見知らぬ人が、返り道を使わずに、同じ参道の反対側の端を歩いて来る。そのまま行き交うのではなく、自然と黙礼が出る。すると相手も、黙礼を返して来る。靖國神社に欠けているもの――、それは敬神だった。人臣を祭る靖國神社への懼れ・恐れ・畏れ・おそれ‥‥が、参拝者の心身を支配するようになるまで、今後、どのような教化が、参拝者に必要なのか――、測り知れない。それを真剣に為す神社執行部の出現を待つしかないだろう。とりあえずは――、スーパーの紙袋をブラブラ提げて参拝するな!と云う一喝は、やはり必要だ。

 そう云えば、日曜には、チャンネル桜の水島総さんの顔を見かけた。総代の小田村四郎さんも、参集殿にいた。昨日も小田村氏は来ていたようだが、なにか李登輝関係の会合があったようだ。こう云う人たちが、積極的に靖國神社参拝の仕儀を、うるさく事あるごとに喋ってくれれば、少しは境内に清浄さが、敬神が、戻って来ると思うのだが。南京映画のその後は、どうなっているのだろう? 映画はあちこちで上映しているらしいが、反応があまり聞こえて来ないような気もするが。それより、外国で十数本作られると云う「南京映画」が、少しも映画評論にもマスコミにも出て来ないが、あの話は本当だったのか? それともあちらでも評判倒れで、消滅してしまったのか? どうもわからん。桜の経営も危ないらしく、二千人委員会と云うのも出来ている様子。でも、まあ、好きなことをやっているんだから、苦しくても楽しいことだろうと思う。苦しいことだけでは、人は長く続かない。楽しいこともあるから、続けられる。

 それはそうと、あの元空幕長の歴史論文騒動はどうなったのだろうか。鎮まったのか? それとも私の知らない所で、盛り上がっているのだろうか。ネットを少し見たら、「自衛隊を軍隊にしろ」とか、「核武装は抑止力になる」などと叫んでいるのが多いようだ。こう云うのが、最近多いようだ。軍隊が出来るほどの下地が、今の日本にはないのが、どうもわからないらしい。日本に再度軍隊を出すためには、天皇にもう一度白馬に跨っていただくしかない。それしか、最強の軍隊は出来ない。軍隊は戦争をする部隊だ。軍隊が出来た段階で、日本は戦争可能国となる。日米同盟はどうなっているかわからんが、軍隊を作った以上、戦争を常に意識する緊張を、国民に課すことになる。その負託に堪えられるような国民になっていないと、軍隊は出来ない。昔日の如き、強い軍隊を再出するならば、戦前同様の皇軍を作るしかない。ネットで騒ぐ、「自衛隊を軍隊にしろ」と云うことが、戦前同様の軍隊――、即ち皇軍を目標としているならば、私は賛成する。それが最も此の国に相応しいことなので、それならば、大いに私は賛成する。天皇の軍隊の再編である。しかも天皇に統帥権が在る軍隊を作るのなら、大賛成だ。日本がビシっとする。アメリカとの同盟をどうするかなど、考えなくてもいい。大事なのは、現在の国民が、日本を元に戻すかどうかの意思だ。その意思があるかどうかだ。なければ、その意思が次第に国中に、国民に浸透するほど、復古の風を吹かせることだ。アジア諸国が現在の日本を攻撃するかのような言動を繰り返すならば、「それなら、今から日本も再軍備を始める。いつでも国民皆兵は可能だ]と言い切れれば、それが抑止力になる。そのために、核装備などの前に、此の国を元に戻さねばならない。現在の日本を根底からひっくり返して、一から作り直せば、軍隊は出来る。尊皇攘夷。これを国民の総意として、一つに纏め上げる。維新を成し遂げれば、日本は元に戻る。三百年続いた幕藩体制を勤皇志士は倒し、天皇親政を実現させた。悪いことは、ほとんどない。大東亜戦争に降参してしまっただけだ。だが、今すぐには元に戻れない。五十年ぐらいはかかるかも知れない。でも、今から準備すればよい。

 先ず尊皇攘夷の思想の徹底。それから学校教育をガラッと変える。総て戦前に戻す。そっくり戻す。その指導本は残っている。少し手直しすればよい。邪馬台国は引っ込めて、古事記・日本書紀から教え始める。戦後、神話と呼ばれてしまった部分は、戦前同様に、記紀の歴史として、小学校から当然のように国史として教える。無論、○○○○○さんが何度も叫んでいた、反対「国籍法」によって、日本人となった外国血の入った子供にも、徹底教育する。尊皇攘夷を教え、天皇万歳三唱を、体の隅々まで浸透させる。日本人としての棍棒を心中に通す。それが嫌なら、国籍は取り上げる。尊皇攘夷教育が大事だ。こうした社会実現こそに、日本人の源流がある。古事記・日本書紀を読めば、日本人は、南方やら北方やら大陸やらから流れ着いた人種が結合して出来上がったものでないことがよくわかる。確か今年の春先、アイヌ人が日本列島の先住民族である――と、国会で認定したようだが、バカか。大和民族はどうするんだ。天孫降臨。高天原から大八嶋に降り立った神々の赤子が大和民族だ、と云うことを忘れてしまっている。それで、天皇を日本国の象徴としているのはおかしいではないか。象徴になっていない。天皇を日本国の象徴とするなら、いまこそ大和民族として復帰しなければならない。津々浦々から泡立つ波の狭間を打ち破って、国民は赤誠を示さなければならない。天皇に今一度、白馬に跨っていただく。これが日本回帰の動軸だ。戦後――、此の国の教えになった思考を全廃する。殊に東南アジアや支那大陸北方の諸民族が、海を渡って、あるいは陸地を伝わって、日本に集り、現在の日本民族をかたちどった――などと云う迷説を棄てなければならない。

 日本民族の祖は、天孫降臨である。日本に集って来たのではなく、極東あるいは陸地を伝って、支那に、東アジア海域へ、あるいはモンゴルへ、中央アジアへ――、宣撫に出かけたのである。だから八紘一宇の思想が生まれている。アジアの盟主となったのも、必然である。東アジアの解放を旗印にしたのも、祖先の血が命令したものだろう。天孫降臨の神々の息吹が吹いたのだ。二十世紀(備中處士案、ママ)に。大東亜戦争の、もう一つの解釈だ。東アジア地域に今も残っている神話――「なにか、此の国に困ったことが在れば、黄色い色をした、おそろしい顔をした神様が東からやって来て、此の国を平定、平和に治めてくれる――と云う言い伝えがある」と云う話は、古代大和民族の西進を証拠だてることだ。また西南諸島に数多くある霊的建築物と似たものが、日本にあることをもって、「大昔、現地人が海流に乗って、日本に辿り着いた証拠だ」と云う識者がいるが、逆だよ。大昔、神々の使者となった大和民族の精鋭が、海流に乗って、西南諸島に辿り着き、そこに大和民族の霊的建築物を作ったのだ。話は全部、逆です。今も中央アジアの小国が、「自分達の祖先は、日本から来た」と云う話も真実を伝えている。世界が日本に集ったのではなく、大和民族が世界を宣撫しに行ったのだ。歴史は――、後ろから見るのではなく、興りから見て行くものだ。それが正統だ。そのために記紀が日本にある‥‥と、私は考えている。まず、この古事記・日本書紀を、全国民が携帯するか、一家族に一冊づつ、國が配布する。‥‥まあ、奇想に思うかも知れないが、私は本気で考えている。日本回生の一大ポイントは、大和民族の認識と、記紀の表舞台への再登場であろう。精神鍛錬、強壮への鍛錬が、国民の習性となり、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌を国民志操とし、尊皇攘夷を旨とする国づくりが出来れば、軍隊は出来る。天皇の赤子として、大和民族の祖家に対して、「一命を差し出す」ことが当たり前のように語られ、国民が尽忠に徹すれば、靖國神社へのスタンプラリーは無くなり、南京戦がどうのこうのに、振り回されることがない、世界最強の軍隊が出来る。平和を尊ぶ天皇と日本国民の力で、世界を戦争のない国家に作り直すことも可能だろう。それが天孫降臨の神々の祈りである。

 これだけ書いて、少しは元気が出てきた。来週には、もう少し書けると思いますので。



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 備中處士案、塾頭の曰く、「日本民族の祖は、天孫降臨である。日本に集って来たのではなく、極東あるいは陸地を伝って、支那に、東アジア海域へ、あるいはモンゴルへ、中央アジアへ――、宣撫に出かけたのである。だから八紘一宇の思想が生まれている。アジアの盟主となったのも、必然である。東アジアの解放を旗印にしたのも、祖先の血が命令したものだろう。天孫降臨の神々の息吹が吹いたのだ」と。此の一事、此の重大事、即ち小生が、塾頭をして「神道國學の人」と斷ずる所以である。是れ通俗の平面史觀を超えて、神異の立體史觀に據つて立つ者の確信である。

 抑も吾人皇民は、天より降つたのである矣。

 現代の唯物的合理的思潮は、人間をして細菌類の進化せしものと觀る者を生ぜしめた結果、遂に記紀を信ずる能はず、否、顧みることすら無き人種が大半となつてしまつた。これでは、「尊皇」と云ひ、「日本」と稱へても、眞實の言靈とはならぬ。現代人は、今一度、祝詞・古事記・書紀を拜讀し、悠久の肇國を想ひ出さねばならぬ。

 想ひ出せ矣、――大元靈・天之御中主大神の命じたまふ所、伊邪那岐大神・伊邪那美大神の經綸が始まり、至上至貴・天照坐皇大御神の神敕に因り、地上の大君は、「吾が皇孫尊」、即ち日本國天皇御一人に坐します事が決定した事實を――。八紘一宇・世界皇化は、吾人皇民の至願であり、天命であり、已む能はざる至誠を存す。天神地祇の子孫たる皇民は、此の顯界に在つても、又た幽界に在つても、一に是れ皇猷翼贊に努める、絶對無上の大使命があるのだ。
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■平成二十年十二月十一日

天皇の民でなくなった日本国民の罪。

 まだ少し舌足らずだが、今、一応書き下ろしたので、そのまま投稿します。今夜は遅いので、明日、また読み返し――、修整するかも知れない。先に書いた「尽忠の国家づくりを――」を読んで、知人が連絡して来た。結局、

『今の靖國神社の正統性を、あなたが何度話しても、現在の保守と云うか、戦後生まれで占められている国民には、なかなか通じないでしょう。何故かと云えば、現在の人たちは――、日本国民がですね。聞こえますか? 現在の日本国民は、天皇陛下の臣下ではなくなったこと――、これが最大の事なんです。戦前までは、日本国民は、天皇の臣下でした。天皇の赤子でした。一億国民が、天皇の「赤子」です。昔、賀茂宮司が仰られていますね。明治神宮は、臣民が皇室を敬う姿そのものであり、靖國神社は、天皇が民をいつくしむ姿だ、と。ですから、醜の御楯として、皇軍として出陣し、戦陣に斃れた臣下を、歴代の天皇は、何変わる事無くいつくしまれ、帝国の神祇としてお祀り下された。その有難さに、国民は頭を垂れました。涙を流して、天皇様を拝みました。あなたが書いて下さっているように、深夜に招魂された御霊が、神門をくぐり、祭殿に向かう時、遺族の子供が、「お父ちゃん!」と叫ぶ姿は、それが家族との最後の別れであって、その子供の命を落とした父親は――、晴れて天子様の慈しみを受けて、帝國の神祇となり、神となって、本殿にお祭りされる。その有り難さに、国民は感涙したんです。名もなき貧しい我が家のますらおが、天皇の醜の御楯となることで、神々の列席に連なる栄誉に号泣したんですよ。もう、お父ちゃんではない。自分達だけのお父ちゃんではない。日本を護る神様になったんです。ですから、心の底から、靖國神社を大切にする心が、国民には生まれる。祭られる祭神への敬神が、沸々として興る。天皇陛下への久遠の尽忠精神が生まれる――。これが、日本古代から連綿と続いた天皇と民の関係、国民との関係だったんです。国民が、天皇陛下の民だったからです‥‥。でも、戦後は違ってしまいました。いくら、靖國神社が天皇の神社だ、天皇陛下がお祀りされている――と言っても、今の人は耳を傾けない。頭でしか聞いていない。普段から、その思いがない。信じていないんですよ、そう云うことは。だから行幸がしばらくないと云うだけで、天皇は何故、行幸されないのか、ご親拝されないか、などと騒ぎ出すていたらくです。世も末でしょう。天皇を、どなただと思っているのか。こんな世の中ですよ。靖國神社のことなんか、今の人たちにはわからんのですよ。』

‥‥なるほど、その通りでしょう。その通りだと思う。知人は、なおも言われた。

『今や、遺族の中にでさえ、天皇がお祀りされて、祭神となられている東條大将など、昭和殉難者を降ろせなどと、言い出す始末。みんな、この神社にお祭されている人は、天皇さまがお祭された――と云うことを忘失しているか、知らないから、不敬なことを、平気で言う。天皇の祭祀に文句をつけていることがわかっていないんです。何故ですか? 天皇の民を辞めたからです。臣下でなくなったからですよ。自分達のほうが偉いと思っている国民ばかりが増えている。不敬罪がなくなったからです。天皇の臣民・臣下でなければ、神としてお祭りしてくれた有り難さなどはわからんですよ。戦後、天皇は民をいつくしまれなくなった。そうでしょう? 国民を臣下とされなくなったことが、賀茂宮司の話された、「靖國神社は、天皇が民をいつくしむ姿」と云う話を骨抜きにしてしまった。靖國神社は戦後も、なんとか存続したが、しかし、その精神は抜け落ちてしまった。今や、靖國神社自体も、国民も、創建の聖旨など忘れ去り、喪失してしまっている。昭和天皇が在世中は、昭和天皇がただお独り――昭和天皇お一人のみが、靖國神社を護持されていたんです――。私は、そう思っていますよ。』

そう言って、知人の話は終わった。しばらく、私は考えた。つーんと頭の奥で、何かが泣いているのを感じた。知人が泣いているのを感じた。

 数日前に届いた神社新報に、丁度、山谷えり子さんが、陵墓の静謐と云う話を書いていたが、そこに仁徳天皇の「高き屋に登りて見れば煙立つ 民のかまどはにぎはひにけり」の御製に触れていた。天皇と民のつながり。民と天皇の結び‥‥。古事記・日本書紀にいくたりと書かれている、紐帯の話。これが、戦後に消えた。知人の言っていた、「昭和天皇が、ただお一人で、靖國神社を護持されていた――」。この一言が、心に喰い込む。今の参拝者には、「天皇がお祀りしておられる神社」だと、いくら話したって通じないと云う知人の言葉が反芻して、頭の中を駆け巡る。

『そうでしょう。あんただって、わかってるじゃないか。みんな、自分の家族が、父親とか、おじいちゃんが祭られている風にしか、思っていないでしょう。言葉のハシハシに、そう云う理解だと云うことをしゃべっている人ばかりです。天皇の臣下、あるいは祭神として、キチッと話す人が、学者でも殆んどいない。みんな、英霊に感謝だけで終わっています。天皇陛下に感謝、などと云う話は聞いたことがない。昭和と云う時代が終わると共に、靖國神社の聖旨も終わってしまったんですよ。』

『天皇が祀りたもう、臣民を祭る神社と云う、賀茂宮司の話された靖國神社を、この先、顕現することは不可能でしょう。』

とも言った。敵も味方も祀ると言い出している、昨今の靖國神社を見れば、最早、執行部には、創建の聖旨などは頭になく、跡形もなく喪失している証拠だろうと思う。尊皇を失った靖國神社は、形骸化しつつある。

 最近、私も知ったのであるが、どうも、今の靖國神社の慰霊祭の祝詞では、「大君の醜の御楯」と云う所を、「大君の」を省略しておるそうだ。慰霊祭に出席した仲間から聞いた。ただの「醜の御楯」では、祭神が何の楯になって死んだのか、奉仕者も参拝者にもわからぬようになって来ているようだ。単なる国の犠牲者になったことを奏上している様子。天皇の為に死んだことが奏上されていない――、これを大罪と言わずに、なんと言うか! 今に、なにかが音を立てて、大きく崩壊するに違いない――。気がつけば、やがて戦後六十四年になる。そのうち、軍恩関係者もいなくなる。恩給受給者が消える日が来る。国の復員業務は、それで終わる。遺族年金も同様であろう。先に大元帥陛下が逝き給い、その遺沢も完遂されれば、最早、国家の責務は全うされたも同じであろう。その時、主を失った靖國神社は――、神社奉仕者は、一体、何に従い、勤めようとするのだろうか。既に尊皇はなく、聖旨を喪失した靖國神社の行き先は、暗黒しかない。眼に見えている。また天皇の臣下をやめた国民に、尊皇なく、敬神なく、いたずらに情緒性だけに溺れた、「泣ける神社」だけが残される。不幸が国民に覆うのも、眼に見えている。靖國神社を形骸化させた罪は、現執行部と国民にある。その様を、祭神はじっと見ている。天皇の臣下として、名乗り出る者がいるのかどうか‥‥、そこに、かかっている。日本国民の真価が、安寧が。
 

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  • 天皇陛下からお預かりした神社。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月25日(木)18時42分9秒
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■平成二十年十一月三十日

天皇陛下からお預かりした神社。

 ほうほう。久し振りに――、「九段塾」を覗いてみた。まだまだ身体は元気なもんで、若い女性に興味は深々である。とは思えど、やはり一旦、疲労すると、回復に手間取る。なに、走り出したら、まだまだ十年、二十年、三十年ぐらいは、やりたいことはやってみたい。青年時代に、池袋の学生街(昔はあった)――を歩いていたら、高島象山先生に呼び止められて、「あなたの手相を拝見させてもらいたい」と云うので、言うがままに両手を見せたら、本部まで連れて行かれて、写真を撮られた。「あなたは、百二十六歳ぐらいまで生きられる」と言われたことがある。それが本当なら、まだ五十年は生きられる。しんどいと云えばしんどいが、私の父は八十七歳で死んだが、父の姉さんは百二歳まで生きた。妹は百歳近くまで、確か生きていた筈だ。長寿は遺伝かも知れない。但し清廉潔白である必要はないが、絶対にストレスを抱えず、規則正しい生活と清浄な空気を毎日吸えば、百二十六歳まで生きられるかも知れませんよ――とは、戦後、日本の外科手術領域に麻酔科医のポジションを設定した麻酔学の最高権威で、東大病院の故山村教授が、若き日の私に話してくれた話だった。

 ○○○氏が訪問されていた。これは、あの桜の時に時折、庭に降り立った人か。何故か、とても懐かしい気がする。信州、信濃真田の忍者とは知らなかった。昔、何の仕事だったか忘れたが、真田の空堀と云うのを見に行ったことがあります。何処だったか、全く覚えが無いが。○○○さん、備中さんも喜んでおられる。一年でも二年でも、好きなだけ逗留して下さい。さて、少し書いておきましょう。備中さんが、何か聞いて来ていました。戦前の靖國会と、今の靖國会の関係を。さあ、どうなんでしょうか? 何人かの人に聞いてみたが、現在の靖國会を詳しく知る人が、周囲にいない。おそらく戦前の靖國会とは、ほとんど無縁だと思いますが。

 戦前の靖國会は、満州事変を契機として、頭山満を始めとして葦津耕次郎など、右翼の大御所が団結しての活動は、単に崇敬奉賛会的なものではなく、靖國神社はどのようなものであるのか、どのようでなければならないのか、その崇敬のあり方を改めて思考し、根本に立ち返って、感慨を構築しようとしたものだった。しかし支那事変が勃発し、国民精神総動員運動が開始され、国家総動員体制が敷かれ、愛国婦人会・国防婦人会・大日本神祇会・全国神職会などの諸団体が、靖國神社に参集し、結束した時代になっては、彼らがいくら頑張っても、思想指導は難しくなっただろうとも推察できる。また靖國会に協力した賀茂宮司も、やがては歿し、高齢となった大御所の葦津さんらも、活動を停止せざるを得なくなり、その後はどうなったのか――。靖國会の最後がどうだったか、私には残念ながらわかりません。聞こえて来ていない。ただこの運動の重要性は、靖國神社の正統とは何かを――模索したことだった。賀茂宮司は、靖國神社は「軍人奉仕」の神社であることは説いた。皇国を安国とするため、親子の恩愛を捨て、世襲の禄を離れ、墳墓の地を去り、骨を山野に晒すとも、皇運挽回に死力を尽したその志操を天下に顕わし、帝國の神祇としてお祭りする。その聖旨を戴き、ますます国民に忠節の精神が沸き出でることを、賀茂宮司は強く求めた。鈴木宮司は、賀茂宮司とは違う言葉で、その聖旨の精神を、より具体的に顕わした。「靖國神社に参拝する際には、一命をいざという時には差し出すことを、神前に誓約」をすることを求めたのです。このことで、国民は親子の恩愛を棄て、世襲の禄を離れて、皇国を安国とすべく、海行かば山行かば、従軍――、遺骨を収集できぬこともあることを理解した。それが靖國神社祭神への崇敬顕彰の意味である、と。戦後になって、平和運動盛んなる時の最中に、松平宮司も、また鈴木宮司の精神を継承している。神前にて「イザと云う時には、一命を捧げる」誓約こそが、靖國神社と云う天皇創建の神社に参拝する人の為すべき行為であり、祭神への約束である、と。それが出来てこその、国家護持なき時代の「国民総氏子論」があったと、私は思っている。

 現在、靖國神社周辺にある多くの諸団体は、単なる「奉賛」を主軸とするものばかりであろう。「英霊に感謝する」。「よくぞ戦ってくれました。ありがとう」。最近は、英霊のおかげで、「現在の日本がある」みたいな話が蔓延して、「私は忘れません」と云う段階で済ましている。だから、なんの崇敬にもなっていない。遊就館ノートには、今も「皆様の御遺書を拝見すれば、涙なくして到底読めません」。「あなた方のことを、私は決して忘れません」。「皆様に感謝の気持ちで一杯です」。これだけか――、それだけか――、他に、もっと祭神に一歩近づく言葉は出ないのか――。「涙が流れてなりません」。「なんと自分は、いい加減に世の中をわたってきたことか反省します」。こうした言葉が溢れている。これでよしと思っている。崇敬・顕彰だと思っている。九割が、「英霊」と云う言葉を使う。「祭神」――と云う語句を使う書き込みは少ない。参拝者の意識が、どのようなものであるのかがわかる。まさに「廟」に近い感じだ。これだから、祭神の精神が、参拝者に浸透しない。祭神は「泣いてくれる事など」、期待してはいない。「イザと云う時には、後を頼むぞ」、「後に続いてくれる」事を願っているのだ。尊皇攘夷の思想を継承してくれることを願っているのだ。このことを、現在の「九段塾」――が、為そうとしていることです。

 戦前の靖國会と同様の――靖國神社の正統とは何か――。その崇敬奉賛顕彰とはなにか――。このことを世に知らしめることであろうと、私は思っている。そのための「まずは言上げ」である。備中さんの紹介した南方熊楠の『神社合祀に関する意見』で、最後に書いた熊楠の言葉が、私の胸に共感を呼ぶ。「小生は、かかる永たらしき請願書など出すつもりなし。何とぞ愛国篤志の人士が、一人たりともこれを読んで、その要を摘み、効目(ききめ)のあるよう演説されんことを望む」。まさにこれである。私に代わる活動力のある人の登場を期待するのだ。

 それと、備中さんが参考紹介していた湯澤さんの、明治神宮外山宮司への内情暴露・素行暴露記事だが、こう云うことを、湯澤さんはするべきじゃなかった。みっともない。このことは以前、桜の掲示板でも書いたと思うが、卑俗の話に、退職したとは云え、靖國神社元宮司が飛び込んでは行けない。天皇からお預かりした靖國神社「元宮司」が為すべきことではない。私が靖國神社執行部を批判するのは、現在の執行部が正統を逸脱し、聖旨を反古にするような事柄が多く、為に、正統を引き継ぐべきことを諭し、教える「ことあげ」をしている。湯澤元宮司とは、そこの品格が違う――と、敢えて申し上げたい。靖國神社宮司退職は、そこらの会社の社長職を退職したのとは違う。その見識が無さ過ぎる。備中さんの言っている、「天皇からお預かりした靖國神社」への認識が欠落していることが残念だった。国民にとってだ。今も、南部宮司は似たような勤めをされている。国民にとって無念の極みである。靖國神社の正統は、黒雲に覆われたままだ。靖國神社に、賀茂・松平に継ぐ名宮司は、何時出て来るか――。備中さんが、明治神宮の神社本庁離脱に関して、詳細を知りたがっているようだが、明治神宮側としては「わけ」あっての話。ここで私が話すには、差し障りがある。だが、世間の風聞にあるように、「金儲け」だけの腐った理由ではあるまい。最近の明治神宮のホームページを見ればわかる。明治天皇を祭神とする神社として、まっすぐに神道を見つめているのがわかる。執行部に見識があるからだ。明治神宮にも通俗的なところもあることはあるが、それは仕方ない。

 戦後の大晦日、都民の楽しみは、明治神宮への初詣だった。新年明けてからでは遅すぎる。深夜の初詣に意味があった。ジャズに踊って麻雀を囲んで、それから「さあ、行くぞ明治神宮だ!」 わーっと盛り上がる。あの昭和二十九年、三十年、三十一年代の、深夜の明治神宮初詣に訪れた何百万の群集の熱気は、「やるぞー!」の聲ばかりだった。火の粉を勢いよく夜空にあげる大篝火の参道は、数時間待ちだ。参道は凝縮した熱気が固まり、圧縮したエネルギーが詰まっていた。灰色か茶色の分厚なオーバーを着込んだ家族総勢が繰り出していた。どれもこれも興奮している。躍動だった。明治神宮は――、都民の新年の出発の象徴だった。明治神宮へ深夜に行かなければ、新年が来なかった。松明で明るい夜空は、数百万の参拝者が吸う煙草の煙で乳白色に覆われていた。しばらくして禁煙になったと思うが、最初は大勢が煙草を吸っていた。今に思い出せば、肺ガンもへったくれもない。そんな知識など、誰ももっちゃいない。スピロヘーターには気をつけたが、肺ガンなど、誰も気にしてない。元気旺盛な日本があった。明日が楽しみだった。六大学野球についで、アイスホッケーと云う珍しいスポーツが盛り上がった時代だ。法政大学のイエロー(はて、オレンジだったか?)がはためいた神宮外苑だった。外苑と云う、厖大な価値ある土地を保有する明治神宮が、神社本庁に属していては、発展できないこともある。それが離脱原因としか――、その程度しか申し上げられない。

 先ほど、明治神宮のホームページを見させてもらった。随所に気概の高い字句が使われている。摘記すれば――、『心ある人々によって、日本古来の神を敬い祖先に感謝するという美風を基本に、健全な国民精神を呼び起こし、敬神崇祖の実践運動、日本の伝統や文化を大切にする運動、青少年に対する善導教化運動――』とある。感心する。また武道場至誠館では――、

『「魂をみがく武道」は、幕末維新の英才横井小楠の「魂を練る武」を参考に、畏れ多いことだが、御製「國といふくにのかがみとなるばかり みがけますらを大和だましひ」からいただいた題名である。その内容は、現代の指標を失った日本の混迷と、無気力が反映されたもので、武道修練に、一つの突破口を見出している。その状況は、明治維新前夜にも似ていて、伝統的な武道の復活が求められている。しかしそれらは、性急に求められるものではない。 まず維新回天の尊皇攘夷の精神気概にとぼしい現状を、どう打破するか。「今こそ変革維新のとき」との時局認識が必要だ。その上で、「日本武道の伝統精神を見つめ直す」。それは何も新しい創作を求めているのではない。日常惰性に陥っている「武道」を、心あらたに再生して行く――』

とある。真に見事なものである。「まず維新回天の尊皇攘夷の精神気概にとぼしい現状を、どう打破するか」。こう云う言葉を、堂々と書いている。靖國神社が「英霊ちゃん」とか、「テンチュウです」などと、呆けたことを書く青年部を抱えているのとは、大違いだ。毅然さが違う。率然と絶つ気概が、文章に溢れている。更に武道の意味として――、

『時代をさかのぼれば、もののふの道・つはものの道・弓矢の道など、いわば民族国家の非常事態に発揮された日本精神(大和魂)の具現者としての武人の生き方の歴史が、指標となって来る。だから日本の武人の精神と事跡を学び修めることが、日本人としての自らの本心・本性と云う深層心理を探求する時に、最も重い意味をもつことになる。そしてその道を実践するに際しては、事によっては戦い死することも辞さないと覚悟するのが、武道の精神気概であろう。この生死を超越する気概を、いかに養うか。ここに武術鍛錬の特色がある。しかし武術のみが、その気概を養うと云うのではない。運動スポーツであっても、そのほかのものごとであっても、その人間の精神探求によって、そうした気概を鍛錬することが出来ることは言うまでもない――』。

靖國神社が言わなければならない武人の構え・面魂を、正面から説いている。決して卑俗な道を歩こうとはしていない、執行部の見識が知れる――と、私は考えている。無論、通俗的な部分もあるが、それを越えて、耀くものを有している。靖國神社には無いことだ。

 どうもなにか、備中さんの質問に、なにも答えていないみたいになってしまったが、図らずも備中さんが書いていた、靖國神社の本管は――、靖國神社は、「国家から預かっている神社」では無く、「天皇陛下から御預りしてゐる靖國神社」と云うのが正論であり、「正統」も、またそこから生じるものだ、と云うことです。すべからく靖國神社を考える時、指標となるものは、「天皇からお預かりしている神社」と云う一言に戻れば、総てが氷解するでしょう。なにか、どうも的を絞れない話になってしまったが、ご容赦。十二時を過ぎた頃に、一度投稿したのだが、操作ミスで、全部消えてしまった。元原稿がないので、再度書いたが、一度書いた後に再度書くのはつらいものがあるが、なんとか、備中さんに返信したいのと、折角訪問した○○○氏にも挨拶したくて、投稿がこんな時間になってしまった。熱中すると、身体によくないのだが、性分で仕方がない。最後の方は、気持ちが萎えて、端折った感じ。申し訳ないが、あとで、又少し書き足すかも知れない。でも、まあ、これでもよしとして投稿。

 今日の大テーマは、「靖國神社は、天皇陛下からお預かりした神社」であること。何か思考で問題が出たら、このことを、皆さんは頭の中で反芻して下さい。ここまで書いて、ふと、メール欄を見たら、仲間が削除した文章を瞬時に保存してくれていたようだ。感謝。だが、もう新たに書いてしまったので。ともかくも――なにか、靖國神社に関しての混乱があれば――、靖國神社は、「天皇陛下からお預かりした神社」である――、と。これを思い出せば、総てが氷解するのではないだろうか。以上です。お休みなさい。
 

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  • 涙流るる、有り難き哉。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)18時35分8秒
  • 返信
 
■平成二十年十一月十七日

涙流るる、有り難き哉。

 昨日の日曜日――早い時間に、親戚の不幸先から東京に戻って来ました。行って来た所は、中仙道沿いの、今は小さな宿場町で、江戸の昔は千軒を数えたほどに栄えた所だそうで、私は初めての訪問でした。葬儀の帰りに、明治天皇の全国巡幸で行在所となった旧家の家を見てきました。朝の光に映える山里の紅葉が、まだ散りもせず、燃えるように赤い。こんな紅葉は、最近、東京では、ついぞ見た記憶が無い。深い山里ならではの清浄な空気がもたらした光景でしょう。森閑とした庭の向こうに、微かに鳥居の先っぽを見かけたので、行ってみようと、咄嗟に思う。庭の垣根を廻って、裏道沿いに勾配の小路を上って行くと、少しの窪地のような原っぱに出ました。鳥居が一つ、ぽつんと立っていました。奥に、木格子の崩れかけた建屋が見受けられた。社殿である。赤茶けたトタン板が、社殿に上がる苔むす瓦礫のような数段の石段の脇に、ほったらかすように置いてあった。どなたが祭られているのか、案内板も見当たらない。なんと云う神社か、名前もわからない。何処が参道で、どこからが道なのか――、山肌にくっつくように、神社はあった。しばらくは、無言で立ち尽くす。賽銭箱はあった。お金を入れて拝礼。昔は鎮守の森だったのだろう。黄ばんだ葉を付けた――、名を知らぬ立ち木が数本、辺りに立っているだけだった。氏子は、みんな何処かへ居宅を移してしまったのだろうか。不思議なことに、神社は朽ちたような落剥した表情であったが、しばらくそこに佇んでいるだけで、心の中は清浄感に満ちてきて、頬をさすって行くわずかな風の中にも、清々しい空気の匂いを嗅ぐ。改めて社殿を振り返り、真下にまで歩み寄り、じっと見上げた‥‥。神社は生きている‥‥。私は、そう思いたかった。どんな時期に栄えたのか、私にはわからなかったが、人通りの少ない町の通りを歩く人に、若い人を見かけない。洋品店と美容院だけが開いていた。それと、パン屋さんらしい店。見かけるのは、年寄りばかりである。みんな、若者は都会に出て行ったのだろう。出て行くしかないだろう。ここには働く場所がない。限られた人数しか、生きて行けないだろう。

 日曜の朝、小さな駅から特急の停車する塩尻まで出る。ホームを変えて、スーパー「あずさ号」に乗車する。広い車窓の外を眺めながら、昨日の見た――、寂れ果てた神社の光景を思い出していた。枯葉が散らばった原っぱの中の鳥居。屋根が傾いていたような気がする社殿。赤茶けたトタン板――、確かに私には清浄な空気を感じた場所だったが、朽ちたような感じがした神社だった。以前、下北半島を廻っていた時、このように寂れた神社があったのを思い出した。これほど、落剥した感じはなかったが、それでも、地元から切り離されてしまったような神社の印象を受けた。だが、翌朝、起きてみると、宿の前の通りが、なんとなく賑やかだ。硝子戸を開けて見下ろすと、町中が活気に溢れていた。車が次々と道路を走って行く。階下では、なにやら元気のいい、若者の声が響いている。何があったのだろう? 私は驚きに包まれた。年に一回の町の祭礼に、都会に出ていた若者達が戻って来たのだ。近海に出漁していた漁船も、次々と港に帰って来ていると、宿の内儀が言う。その町には、駅があった。二両編成の電車が着くと、若者達がぞろぞろ降りて来た。一目で、都会帰りがわかる格好をしていた。改札口にはおばちゃんたちが、数人迎えに出ている。駅舎内は、はじけるような会話が大声で跳ね返る。信じられないことだった。何処から湧いたのか、町は若者で溢れていた。「いつ、帰ったんだ!」 昨日の夜中にレンタカーで帰って来たのか? 町が活気を取り戻していた。寂れていたように見えた神社に行って見ると、大勢の人々が集まり、かたずけ・清掃をしている。明日から祭礼が始まる。

 次の日、町中に繰り出した神輿の行列に、腰を抜かした。空は快晴である。祭り日和だ。秋空に笛太鼓が響き渡る。一体、いつ、何処から、この神輿は出て来た! 私は興奮して、同行の者に叫んだものだった。町の通りは、本当にびっしり、人で埋め尽くされた。わー、こんなに人がいたのか。イカ漁が下火になったと云う不景気話が嘘のようだった。夜の神社は、まさに岩戸の前の賑やかさ。浅草の縁日同然だった。ごった返している。派手な晴れ着に、渋谷から飛んで来たような、けばけばしたメイク、化粧の女の子もいる。なんだか、すごく嬉しくなった。もっと騒げ、もっと騒げ――と、思ったものである。社殿の前には、老若男女が並んで拝礼していた。社殿の鈴ががらんがらんと、元気な音をあげていた。

 ――そうか、もしかしたら、あの漠々たる原っぱの、誰がお祀りされているのか、よそ者にはわからない中仙道沿いの神社だったが、町の祭礼には、もしかしたら、もしかしたら、大勢の人が戻って来て、残った者と出て行った者たちが一つになって、さんざめく祭りの夜を創るのかも知れない。子供の頃から育った鎮守の森に変身するのかも知れない。あの神社は、廃屋ではない。取り潰されてもいない。鳥居はあった。社殿はあった。目黒の護国神社とは違う。崇敬者は、まだいるのかも知れない――。そう思うと、元気が出て来た。私の思いは、単なる幻想かも知れない。実際はどうなのか、まだ現地に問い合わせをしていない。でも、まだ神社はある――。在るなら、まだ希望がある。

 備中さんが、目黒護国神社取り潰しで、靖國神社を叱っていた。靖國神社は「この件を知っていたのか、いなかったのか」、厳しく神職の在り方が問われている。靖國神社の神職が、これを読んでいれば、内心忸怩たる思いを持つ神職もいることでしょう。だが、問われれば、靖國神社は「知っていた」のは間違いない。知っていて、なにも相談には乗らなかった‥‥のでしょう。靖國神社は「関与」することを嫌ったのでしょう。無視する方策をとったのでは? その心根は、私にはわからない。

 戦前の賀茂宮司は、「合祀のご沙汰が出る以前でも、すでに戦死した英霊の祭祀は、靖國神社神職の務めだ」と言って、本殿合祀までの間、神社限りにおいて、仮殿に祭祀するほど、英霊祭祀に誠忠を傾け尽くした。だが、護国神社制度が出来る前に、賀茂宮司は亡くなられた。従って賀茂宮司は、護国神社のことは知らない。賀茂宮司なら、「どのように、護国神社のことを考えるか、また此の度の目黒護国神社の取り潰しの相談があれば、どのように図っただろうか」、思わざるを得ない。一心不乱に駆け巡って、なんとかするでしょう。なんとかする――に違いないと、私は考えれるが。現在の執行部の方々の日々を遠くに、時には近くに見ていれば、こうした相談に応えようと云う、熱い心の持ち主は見当たらない。ほとんどが、有り余る時間を趣味に潰すか、私事につぶすか、外の人間と飲食するか――、神社祭事、宗社としての勤め、靖國神社存立の未来を真剣に考える者はいないと云うのが、私の判断です。

 私は、早いうちに、現在の執行部――宮司以下、順に送り出して、新しい執行部を作らないと、靖國神社は葉を食べ盡す虫のように、白蟻のように、彼らに神社財産を食べつくされてしまう――、そう云う気がしてならない。そして或る日、気がついたら、彼等は何処かへ転勤してしてしまう。後に残った者達が、神社の米櫃の蓋を開けたら、何も残っていなかった――。そうなるのではないか。そうなってしまうのではないか――、と。それじゃ仕方がないと、誰か総代の一人が言い出す。単立神社ではやっていけないなら、神社本庁に入りましょう‥‥と言う。これは、一つ穴のものではないのか? こう云う筋書きが書かれているかも知れない‥‥と、以前から、私は思っているのだ。そのために、今、靖國神社執行部は、急いでやることもない――、あれもこれもの大修理・大改築・大新築をなしているのではないか――。神社財産を消費するためだ。今の靖國神社境内は、建設現場と化している。外から来た宮司・両権宮司。靖國神社に、縁は薄い。昨日今日、来たに等しいとは言わないが、それに近い。靖國神社生え抜きではない。扇千景あたりが、崇敬奉賛会会長にすんなり座ってしまう。彼女の三代目会長話を聞いていると、単なるどこかの支援団体の会長就任挨拶のような、決まり文句の羅列で、靖國神社に対して、祭神に対しての想いなど、何一つ伝わって来ない。曰く、「靖國神社定例総会に於きまして、はからずも第三代の会長にご推挙を賜り、身に余る光栄と、心より恐縮いたしております」。これが靖國神社崇敬奉賛会会長就任の第一声だった。まさにナンジャラホイだよ。政治家の、単なるゴタク並べの挨拶同然だった。彼女の黒子は、政治家時代の黒子をそのまま使っているようだ。靖國神社のことは、何一つわかっていない。奉賛会会長就任が、「身に余る光栄」と感じているようだ。

 靖國神社に祀られる祭神は、手足をもがれ、頭を吹き飛ばされ者、腸をはみだしながらも、敵兵の喉に喰らいついた者。それだけではない。敵側の婦女子・子供の首を斬った者も祀られている。助けを請う敵兵を串刺しにした者も祀られているだろう。容赦なく手榴弾を投げ、銃剣で刺し殺し、敵の死体を踏み潰して山岳戦を戦った将兵も、祭神として祀られている。悉く天皇の命令に従い、一命を差し出し、敵兵を一人でもより多く殺すことを決心した勇者が祭られている。そのことを承知しているのだろうか。女の身で出来るのか、祭神の顕彰を。わかっているのか。靖國神社を攻撃して来る左翼は多い。大手を広げて、祭神を守り切る覚悟は出来ているのか。おろおろすることなく、たじろがずに崇敬できるのか――。鎮霊社を表に公開し、靖國神社は平和を祈願する神社だと言い、境内の大樹を何本も切倒し、参集殿を作り、神門前の神林を伐採して、トイレを作ろうとした輩たちだ。祭事の時でさえ、社務所で酒盛りをすると云う話が、既に四方八方に漏れているのも構わず、反省も無い様子。南部宮司は、岩手までお国の競馬場に出かけるのも、例大祭で勅使を迎えるのも、同じ行事の如く見なしての勤めのようだ。その上、「いつか、この靖國神社は、国へお返ししなければならない」と、平然と話す。国へ返せば、「靖国廟」となり、昭和殉難者は降ろされ、祭祀は禁止され、目黒護国神社同様の取り潰しとなって行く――。敬神一つない国になれば、これは白昼夢ではあるまい。

 備中さんが紹介してくれている、南方熊楠の主張した明治三十九年の『神社合祀に関する意見』を改めて読み返し、現在の日本、靖國神社、国民の神社に対する意識などを考え合わせると、恐ろしく一致する事柄だらけだ。昔も今も、ほとんど変わらないと云う姿に驚く(南方熊楠の言葉では、今ではわかりにくい表現もあるので、現代語に私が訳したものを記載する)。

一、『(社殿に)群生せる老大樹林こそ、古え、聖帝・名相・忠臣・勇士・貴嬪(きひん)・歌仙が、心を澄まして、その下に敬神の実を挙げられた旧蹟、これぞ伊勢・八幡の諸廟と並んで、わが国の誇りともすべき物であるにも関わらず、一昨夏、神主の社宅を造るからと、めぼしい老樹をことごとく伐り倒したので、私は、これはさしわりがあることだと、苦情を申し入れたところ、氏子総代は、神主と一つ穴同然で、得意げに――、昔からこのような英断をした神官はいない。老樹を伐り倒し、跡地を桑畑とすればおびただしい利益を出すことが出来る――と言って、伐採を見て泣いた村民を嘲けること、限りが無かった。だが、その神主は、他国の何処のものだがわからぬ馬の骨同様で、土地に何の関係もないので、惜し気もなく濫伐を遂げ、神威を損じた上、なんと、たちまちどこへか転任してしまった。いまさら、今日、誰が何の小言を吐いたとて、相手がいないのではどうすることも出来ぬ。全く狐につままれたようなものである』と。

 まさに現在の靖國神社、そのものであろう。松平・大野宮司が公開を禁止した「鎮霊社」を、敵も味方も祀る博愛の心だとばかりに公開した似非。神林を伐採して参集殿を造り、神門前にトイレを作ろうとする。今また大手水舎を大改装し、能楽堂を古くなったと大改装し、相撲場を整備し、あらたに「靖国教場」を作り、崇敬奉賛会のアホダレ青年部「あさなぎ」のための勉強場を提供すると云う――。その工事を、彼らの古巣である神社本庁出入りの建築業者に総てを発注する――と云う算段は、既に出来ているはずだ。神社財産が、湯水のように地面に吸い取られて行く。くだらぬ『みたまを継ぐもの』の映画製作。製作業者とは、昔からの付き合いがあると聞く。俗物が神社の尊厳を潰して行く。教場を建てるには、相撲場の神木を伐採しなければ、場所が無い。神林が濫伐される。そして宮司は、期限がくれば引退して、知らぬ顔で岩手に帰って行く。幹部職員も何処かへ転勤してしまうかも知れない。気がついたら、神社基金は底をついていたことになりかねない。南方熊楠の指し示す通りである。

二、『皇祖神武天皇を古く奉祀する渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地である名高き滝を、神官の私宅に取り込んで、藪中の竹の子を売って、その収入を自分のものとすると聞く』と。

 靖國神社の幹部神職が、なにかと外部から呼ばれて講演をする――。宮司・権宮司も、その例に漏れない。以前は、職員の外部での活動で得た収入は、総て神社基金に入れられたと記憶していたが、現在の執行部は、この規則を変えたと漏れ聞いている。英霊に奉仕する話をして得た講演料などの半分は、個人収入にしてもよい――と云うことになっているらしい。これはどう云うことなのか? 敬神の喪失ではないのか。そのために権宮司の講演が最近多くなったと漏れ聞いたが、実際はどうなのか。

三、『これらは、いずれも神社合祀の励行により、人民また神威を畏れず、一郡吏一村役人の了見次第で、古神社神領はどうでもなるぞ――とばかりになる。神を畏れるのは野暮の骨頂で、われも人なり、郡村吏も人なり、いっそのこと、それぞれで悪事のありったけを尽そうではないかと云う根性が大いに起こって、起きた諸々の事件だ』と。

 トップがいい加減ならば、下の神職・職員もいい加減になる。携帯をかけながら境内を横切り、参道を礼拝もせず、突っ切って行く神職が輩出する。身籠もりでも、上が酒宴するなら、こちらも飲もうぜ、となる。懐手で歩いていいならば、我も懐手で、参拝者と応対しよう。忘年会には、エレキギターでやんやの喝采。神社神職がそうなら、こちらも好き勝手にやろうと云うわけで、英霊来世だの、七生報国俊介・桜花爛漫沙織・八紘一宇剛史などと云う、イカレタ名前を面白半分につけた、わっかい作詞家・作曲家が神社境内を闊歩し、遊就館を遊び場とする惨状を呈す。現執行部は、「若者に受けるから」と云うことで、なんでも許可する。高齢参拝者の眉をひそめる抗議など、ヘのカッパだ。この英霊来世を、高森明勅あたりの大東塾崩れが、悪乗りして褒め讃える。八月十五日は、「本当は、終戦記念日じゃないんです」みたいなことを言い出す。当時の空気を吸っていない戦後生まれがのさばりだす。靖國神社からは、敬神は失せて、早や何年になるか。昨年だったか、一昨年だったか、大祭で靖國の大神に差し上げた魚を狙って、野良猫までが、神社を小ばかにして、本殿に忍び寄る始末だ。かってないことだ。緩みきった靖國神社を、野良猫もお見通しなのだろう。嘘と思うなら、靖國神社へ出かけてみよ。そして、辺りの神職の顔を見よ。どれをとっても、腑ぬけた顔しか出会わぬではないか。敬神の心を感じるか――慎ましやかな、清浄な心を感じとれる神職がいたか――。清純な顔に、もし出会うとしたら、白袴の実習学生達だけであろう。この学生たちとて、しばらくいれば、靖國神社が、自分達の思うところと大いに違うことはすぐにわかる。それがわかれば、不逞を働くものも出て来る。「我も人なり」が、大手を振って罷り通るのだ。

 もう、長くなるので止めるが――、南方熊楠は、こう言っている。

『学者や富豪にずるがしこい人物が多いのに引きかえ、下民は常に命運の薄いのを嘆くより、信心によって諦めをひらこうとする念が深く、何の道義論哲学説も知らないが、「姦通すれば、魚が捕れなくなる」とか、「嘘をつけば、罰が立ちどころにあたる」と云うことを知っている。そのために道にそむくことは、絶対にしない。あたかも百二十一代の天皇の御名を暗誦せずとも、誰も彼も、皇室を敬うことを忘れず、皇族を直接見たりすれば、眼が潰れると思い、それは五歳の子供でさえも、不敬を行なわないのと同じである』と。

 そして、神道とは――、『すなわち言語で言い顕わすことの出来ない――、心の感ずるままに、わが国万古不変の国体を、一時に頭の頂上より足指の先まで、感激して忘れられないようにするものであり――、皇室より下は一般の国民に至るまで、誰でもが、日本国の天神地祇の子孫であると云う有り難さを、言わず説かずに悟らさせる道である――』と説いている。

疲れた。靖國神社の現状を書くと疲れる。俗臭がたちどころに舞い立ち、気分不愉快になる。「涙流るる、有り難き哉――」と言われた日本の神社は、何処へ行ったか。



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【參考。削除文】
■平成二十年十一月二十五日

 皆さん、こんばんわ。先週、身内の不幸で、急に長野へ行って来ましたが、どうも強行軍だったせいか、突然体調不良になり、先ほど、やっと床から抜けました。明日から、またパソコンに向かい、歴史記述を始めたいと思います。気にかかって仕方がないので。しばらく投稿していないので、備中さんが気にしているかなと思い、連絡代わりに掲示板を使いました。次に書く時は削除いたします。無理はしないで書く心算です。今週中には、最初の投稿ぐらい出来ると思うのですが。それでは、また。

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  • [16]
  • 英霊祭祀が消える国。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)19時13分4秒
  • 返信
 
■平成二十年十一月十日

英霊祭祀が消える国。

 ○○さんが、しきりと目黒護国神社のことを書かれている。知り合いの方からの話なので、身が入るのでしょう。私も、東京大学神道研究会の掲示板で、詳細を知りましたが、此の話は以前から、随分昔から、靖國神社も関わっておったようです。この目黒護国神社は、東急東横線祐天寺駅を降りた住宅街の中に在る――、在ったと云うべきか。終戦後、偶然ですが、しばらく私はこの近くに住んでいたことがありまして、周辺の地理には、まだ記憶が大分残っております。渋谷からそれほど離れていないのだが、この祐天寺から、碑文谷・自由が丘・奥沢・多摩川など辺り一帯は、何故か、さほど空襲には見舞われず、無傷の家が沢山残っていました。東京大空襲と云うと、帝都総てが焼け野原となったように思われがちですが、それは下町と山手線の内側だけで、いわゆる山の手の外は、さほど焼けていないのです。ですから、この学芸大学・都立大学・祐天寺界隈は、古い家も随分と残っていましたし、今でもある学芸大学の池――当時、なんと呼んでいたか記憶がないが(ひょうたん池だったか?)、戦後すぐにボートが浮かべられ、オールを漕ぐ男女の若い姿で賑わいを見せていた光景が思い出される。

 さて、この目黒護国神社。私も少し、調べてみました。岡山県笠岡市で生まれた守屋善兵衛氏――明治三十一年に、台湾日日新報を経営。その後は、満州日日新聞・満州の教育貯蓄銀行・東京動産火災保険などの重役を務めた履歴をもつ篤志家。この方が亡くなられて、遺志に従い、その屋敷跡を、昭和十五年に、「忠霊を祀る神社を建立すること」を条件として、目黒区に土地の寄付申し込みを行ったようで、目黒区会でも寄付受領の議決をして、昭和十六年六月、区費により、目黒護国神社が建立されたと、郷土史に記載されているようです。同誌によれば、「祭神の第一位は、日清戦争戦没者の目黒村出身の佐野藤次郎で、日露戦役二十五柱(日清・日露両役の英霊の階級は不明)・第二次世界大戦二千二百八柱、合計二千三百三十四柱の祭神が祀られている」と云う。大東亜戦争だけでも、二千二百八柱。これを書いている最中に、備中さんが、現在の目黒護国神社跡地の工事風景を掲載されていた。この写真を見れば、まさに祭神の祀られていた護国神社が、今は跡形もなく壊され、その跡地の上に、新たに教育会館が建築されると云う事態を呼んでいる。庚申塔群は、昔はもっと道の傍にあったような気がする。こんなに整然としていなかったと思う。大きな樹木が道の上にかぶさっていた。その樹木が見えないので、切られたのかも知れない。私の知っている通りの面影が、少し感じられた。

 この目黒護国神社。聞けば、当地では「遷座祭」も行われなかったようです。行われないままに、「解体」が始まったようだ。御霊は、何処にいるのか――。目黒区包括外部監査人からは、此の神社には、「御魂がないことも確認されており、神社としての実質を有していない」と言われている。まさに無残である。なにが? この日本が、だ。目黒護国神社は、廃社ではなく、踏み潰されて、取り壊された。二千三百三十四柱の神霊が、踏みつけられた。工事現場の人間に、「ここは、護国神社だったのを知っているかね」、と聞いてみたい気がする。おそらく「神社だったことは聞いていない」と、作業員は云うのではないか。大抵、こう云う場合は、作業員には細かなことは言わない。真相を知れば、怖がるからだ。遷座祭もしないで、あんたがたは、英霊を踏みつけているのを――、知ったなら、どうするだろか? この事件は――、「英霊祭祀」が、今日の国民の中から消滅していることを如実に表している――と、私は感じた。「御霊がいない」と断じた行政側も、周辺の神職会も、周辺住人も、黙って、この神社の解体を、「時代の趨勢」と判じたのでしょう。周辺の神職会にしても、多分「英霊祭祀」は、累代のお宮とは関係ないので、ある一定以上は踏み込まなかったのでしょう。やむを得ないと云えば言える。しかし、なにか割り切れない。

 少し護国神社のことを考えてみましょう。昭和十四年三月十五日、内務省令第十二号を以って、これまでの招魂社を、護国神社と改称する旨を告示した。これは従来の招魂社制度が、明治初期以降における諸規定の集束で、制度的に不備があり、国民総出動の性格を帯びて来た満州事変・支那事変が勃発し、招魂社崇敬の念がいよいよ高まるにつれ、制度の不備を改善する要望が高まった来たことにあった。だが、護国神社になっても、社格が付与されないのは、招魂社と称した当時と変わりないが、新たに内務大臣の指定する護国神社と指定外の護国神社とに分けられたのが大きな改革。指定護国神社とは、祭神・社殿・境内、すべて道府県管内の代表社たる体裁を備えたもので、原則として一道府県に一社が指定されることになった。指定外の護国神社は、祭神が道府県管内の一地域に限られ、それらは村社相当の取扱いを受けた。昭和二十年までに指定護国神社は、四十九社を数えた。この指定護国神社制度により、実は靖國神社の祭祀が全国に広がり、それまでは陸海軍省が管轄する神社と云う、頑なな神社概念であったものを突き破り、名実ともに全国民の崇敬する神社として普遍的になったのです。そしてこの指定護国神社に指定されない――、無数の護国神社が、日本中に在ったのです。

 この目黒護国神社も、その指定外の護国神社でした。地元篤志家が「忠霊を祀る神社を建立すること」を条件として寄付した土地を、昭和十五年に、区議会で決議し、受け、更に区費(公費)で、翌年の昭和十六年六月に、社殿を建立した。祭典は、地元神職会の奉仕によった模様である。その後、境内の一角に、土地寄贈者の名を付けた「守屋記念館」(図書館)が出来た。戦前は、それなりに賑わいを見せたお社だったでしょう。そして戦後――、神社の環境は、戦前とはうって変った。政教分離の新憲法である。目黒護国神社は、図書館と云う公共の敷地内に、違法な神社があると云う視点に変った。そのように認識された。此の認識が、時代を重ねるに従って色濃く放出し、遂には目黒護国神社を潰す大きな要因の一つとなった。

 昭和二十一年二月二日に、勅令第七十号宗教法人令改正が公布された。靖國神社は宗教法人として新発足したが、目黒護国神社は宮司もおらず、多分、内務省(東京都)の神社明細帳にも記載されていなかったのでしょう、宗教法人と見なされることはなかった。そして社殿は区費で建てたものだから、区の所有物になるはずだったが、どうも新憲法の手前、区の財産として、登録はしなかったようだ。神社は、遺族が管理することになった。そして土地の方は、寄贈者が「神社建立」と云う用途指定での寄贈であったものが、すっかり忘れられて、土地だけは区の所有物となった。その土地に、公共の守屋図書館の改築・新建築がされるたびに、社殿は邪魔扱いとなり、移動され、最後は九坪ばかりの隅に追いやられた。それでも昭和三十三年、「目黒護国神社崇敬会」が出来た。こうした中でも、目黒護国神社は、ある時期まで、実際に英霊祭祀を続けて来た。地元神職会が奉仕したからである。それもやがては困難となったのか、地元郷友連盟や遺族会が、靖國神社に例祭の奉仕を依頼して来ている。霊璽簿は遺族会会長が保管、祭典の際には、それを神前に奉安した様子である。なかなか盛んな例祭で、自衛隊音楽隊が派遣されたと云う話も聞いた。だが、時代が更に進むと、現地斎行は経費がかかり、遺族会だけでは支え切れず、現地での例祭をやめて、靖國神社参拝をもって、目黒護国神社例祭参列に代える――と云う処置がとられた。この間、遺族会は、区と賃貸契約を結び、社殿の維持を図って来た模様。だが、その契約も次第に継続が困難となった。自然に満期解除となり、祭典も行われなくなった。

 戦後、全国の護国神社が、神社本庁に頼りきれずに、靖國神社を「宗社」と慕って、一致団結して「全国護国神社会」を結成し、今も存在するが、これに参加し得ない無数の町村単位の護国神社がある。護国神社会も、靖國神社も、この小さな町村護国神社の存廃にまで力を貸すことはなかった。誰にも助けてもらえずに、困り果てた目黒護国神社の遺族会会長は、憔悴したままに、困り果てたままに‥‥、世を去ったのではないか。この目黒区遺族会は、現在でも靖國神社には毎年参拝している。この人たちは、目黒護国神社の解体をどのように見ているのだろうか。いや、それを聞いても、詮ないことか。

 平成十八年度には、監査人からは「御神体もない」と言われる羽目になった。そして「地方自治体として区が外観上、祠・鳥居等工作物を有している神社の土地を、普通財産として管理しているのは適当ではない」。「神社としての活動も、近年全くなく、以前は貸付料収入が区に納付されていたが、現在は氏子等も高齢化・転居等により、構成員も不明であり、また御魂がないことも確認されており、神社としての実質を有していない」。「工作物も老朽化していることから、安全面も考慮し問題を放置することなく、早い機会に工作物を撤去するなどして、敷地の一体管理をされたい」との、神社撤去意見が付けられた。そして備中さんの写真にあるように、総てが更地となって、新たな教育会館が建設される。

 だが、目黒護国神社の脇にある「庚申塔群」は、そのまま区の歴史資料として残されている。政教分離の話がおかしくなっている。要は、「誰も来ない神社は不要だ――英霊祭祀は関係ない!」 此の土地は区のものだ!と云う強弁が勝ったのだろう。考える得るに、少しでも今日、英霊祭祀を大切に思う國であるならば、国民であるならば、ただ踏み潰す、ぼろくずのように解体するのではなく、小さな祠でもいい。それを残し、近くの住民が路傍のお地蔵さんのように、蜜柑の一つでも、毎日欠かさずお供えしていれば、「御霊もない」などとは言わせぬことが出来た筈だ。誰か崇敬する者が継続していれば、「無主物」ではない――と、行政側に認識させることが出来た筈だ。そうすれば、もう少し、方法があったと思われる‥‥。

 英霊祭祀が、此の國から次第に消えて行く証拠であろう。人々の心の中から消えて行く時代だ。いつか、後悔しなければよいが。○○さんが紹介してくれた新聞記事には、「‥‥管理する人もいなくなったことなどから、戦後六十年余を経て、ひっそりと姿を消した」とある。致し方ないのか、致し方があったのか。遺族会がなくなれば、それで祭祀が終わってしまうと云う――、典型的な例になってしまった。「解体される前に、誰か――昇神祭をしなければならない――」、そのことを訴えた人はいなかったのか‥‥。誰かが気がつかなければならなかった。『神社新報』でも取り上げられた。神社界は動かなかった。他人のことなどに構っている余裕がなかったのか‥‥。靖國神社・全国護国神社会・地元神職会・遺族会・地元住民‥‥、そして目黒区行政側。人々の心から英霊祭祀が消えた‥‥。帝国の神祇が消滅した、大きな出来事ではないだろうか。英霊祭祀を消滅させ、それを踏み台として新築される教育会館が、どのような運命になるのか――、いずれ判明するのではないか。今、戦前回帰を考える中で、執筆の中で、とりとめもなく書いてみた。



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【參考。削除文】
■平成二十年十一月十二日

備中さん他、皆さん、こんばんわ。

 今夕、身内に不幸がありまして、今週一杯、家を空けますので、書き物は中断いたします。帰京次第、此の連絡事項は削除しますが、それまで、どなたか投稿されるか、備中さんが渾身こめて充溢させているスレッドを熟読、勉強していて下さい。先哲遺文に接するだけで、正統の奥を知ることが出来ます。それでは、失礼を。

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  • [15]
  • 自壊と自戒。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月22日(月)18時21分33秒
  • 返信
 
■平成二十年十一月一日

幕僚長の話。

 航空幕僚長の話が出ているので、あまり関係ない話だが、こっちの話を少し書いて、皆さんに注意を呼びかけたい。一言で表せば、懸賞論文も、受賞も、何か胡散臭い話だな――と云うのが、私の感想。大騒ぎすればするほど、「片棒を担がせられる」のではないかと、私は思ったがね。つまり胡散臭い話だ。備中さんの紹介で、航空幕僚長の論文を読んだが、正直に言えば、なんと言うことのない話だよ。別にこの方を悪く言う気はさらさらないが、此の程度の論文に、三百万円の懸賞を渡すと云う、そのことに、先ず私の頭が「?」となった。もしこれが最優秀論文と云うのであれば、これを受賞作とした審査員のオツムの程度が知れる――。むしろこちらのほうが気になった。懸賞論文を主催したグループのホームページを読むと、この方以外に、二人の優秀賞と十人の佳作者がいるようだ。全員の論文を出版するらしいので、他の投稿者のものを読んでみないと、程度がわからないが、本当にこれが最優秀なのか? 今更、目新しい話は何一つなく、引用した文献も、秦氏とか審査員の渡辺昇一氏とか黄文雄とか櫻井よしこ嬢とか‥‥、どうも通俗的な読み物を読んでの歴史解釈でしかないような‥‥。

 更迭されたことに対して、憤激する方が多いし、論文を読んで、「正論だ。その通り」と答える人が多い――、このことを、私は心配する。この程度の話を読んで「感激」しているから、「駄目なんですよ」とも云いたいね。この方の論文は、正しい歴史でもなんでもない。現代保守の標準的レベルの通俗論でしかないでしょう。備中さんが言うように、西暦で日本歴史の文章を書いて、「正しい日本の歴史」もへったくれもないでしょう。西暦では、私の頭では、いちいち年表に照らし合わせないと、元号がわからない。時代背景が、ぱっと脳裏に閃かない。昭和七年と書いてくれれば――、ああ、上海事変が勃発した年だ。リットンが訪日した。満州国建設――と、すぐにいろいろが浮かぶが、一九三二年では、さっぱり浮かばない。調べたら、昭和七年だった。元号の重要性などは、この幕僚長に話したとこで、「それはそうですが、やはり西暦で書いたほうが、万国共通だし、若い人にはわかりいい」ぐらいのことを言われるのが、セキノヤマでしょう。この方は、西暦が頭の中に日常習慣として滲み込んでいるから、多分、日本の歴史を書いているんだけれど、なんの違和感も感じていないと思います。神武東征などの話は、無理だろうと思う。下手をすれば、BCとか、ADとか使用するかも知れない。元号を使わない歴史記述は、誰のものでも同じです。「もどき」でしかない。到底、日本の正しい歴史記述・歴史観などは持てるわけがない――と、私は思うが。

 その証拠が、「日本の植民地」として台湾・朝鮮を扱っているし、最大の欠陥はなにかと云うと、「日本政府」・「日本軍」が出て来る。どうも私には、頭の中に言葉が滲み込まない。「日本政府」と云うと、麻生総理や中曽根総理の顔が浮かんでしまう。「日本軍」と云うと、野球を浮かべてしまう。この人の論文は、さらーと上っ面を撫でただけの話で、別に戦前の「真実の歴史」とは、まるで違う。今の人が「戦前の歴史」を書くと、こんなものかな?と云う程度の話でしょう。天皇を書かない歴史記述は、「日本歴史」にならないと思います。日本政府が動いて、歴史が作られたわけではないしね。誤解を生むだけです。大日本帝国だから、歴史が動いた。「帝国」が正しい国名ですし、重要なんです。日本政府ではない。天皇が統治する國が動いたのです。台湾・朝鮮は、植民地ではなく、領土となった所です。どうも、おたく連中の懸賞募集にしか見えない。十二月八日に、明治記念館で出版パーティーをやるらしいが、こう云う所がオタク以外何物でもない。十二月八日は、戦闘開始日だ。既に此の日に、戦没者が出ている。それを承知しないで、かってに開戦日を利用し、「出版パーティ」で浮かれる似非保守の面々――と、蔑んで問題はなかろう。こう云う連中が続々出て来て、靖國神社に入り込んで来るから、私は「九段塾」を立ち上げたのだ(いや、実際に掲示板を作られたのは、備中さんですがね)。

 仲間から、花岡信昭とか云う男のメールマガジンを教えてもらって、覗いたら驚くべきことが書かれていた。先ずこの懸賞論文の審査員の一人に、花岡氏も列していたようだ。此の男は、生来が軽い男なのか。「審査委員長は、渡部昇一氏。実は小生も、審査委員の一人であった」。こんなことをバラしてもいいことなのかね? 更に「総額五百万円を投じて実施された懸賞募集であること、二百本を超える論文の中から、最優秀賞に選ばれた」ことを披露している。更に更に主催者さえ話していない、審査内容まで披露している。「執筆者の氏名が入っていない論文のコピーがCDで届けられて、それぞれが読み込んだうえで、二回、審査委員会を開いて、絞り込んでいった。審査委員の合計得点で最高だったのが、田母神氏の論文だ。だれが書いたものか分からないまま、内容だけで判断した結果である」と。どうして花岡氏は、こんなことまで書くのだろうか? 私は、瞬間、薄暗い陰険な、なにか策略を感じた。「もしかしたら、この受賞は最初から決まっていた――出来レースではないのか」と。勿論、これは私のカッテな妄想の産物、推測でしかないが――、どうも胡散臭い。この幕僚長の論文は、「大東亜戦争の真実」あたりの本を二、三冊読めば書いてあること。それも、論文はページにして、僅か九枚。小論である。こんな「軽い」論文に、三百万円はおかしいな?と思った。最初の募集要項がどうなっていたのか知らないが、原稿用紙十五枚程度の話を募集したのだろうか? 最初から、この幕僚長で、話は決まっていたのではないか? 現役航空幕僚長の肩書きがなければ、「二束三文の論文」とまで、私は断言する。つまり此の論文は、現役の幕僚長の肩書きだから、「価値ある論文」となっている。うがった考えは百も承知ですが‥‥。商売になるのです。これで、幕僚長は保守界に名を売り、顔も売った。花岡さんは、こう書いている。これが気になった。「論文の末尾だけ紹介する。『日本というのは、古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として、我が国の歴史について誇りを持たなければならない』、『「私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は、衰退の一途をたどるのみである』。一気に読み込んで行って、最後の文章にうなった。ここまで書いて更迭されるのであれば、それでいいではないか。こころある人の多くは、ひそかに拍手を送っているはずだ」。ほんまかいな‥‥、である。何が最後の文章に唸ったのか? 大抵の保守が、道端でも口にする程度の見識ではないかね? 卓見ではないよ。褒め言葉がオーバー過ぎる。まあ、この人は、なんでも表現がオーバーすぎる癖があるそうだが。変だよ。

 これは、なにかおかしい。ますますおかしい。閲覧者に、「航空幕僚長の論文が、どれだけ素晴らしいか」を、まだ公開したばかりだと云うのに、審査方法を解説したり、審査員の最高得点だったとか、「正当な審査」を強調している。主催者が言うならともかく、一審査員の花岡氏がバラスことではない。おかしな話だらけだ。まあ、ともかくの結果として、この幕僚長は更迭されたが、これもご本人は、当然視野に入っていたと、私は「推察」するがね。一兵士なら、何を書いてもいいだろうが、幕僚長が(私に言わせれば、たいした話ではないが)、「これだけのことを書いて」、問題にならないと判断するようでは、幕僚長は勤まらない筈。問題になると「わかっていた」と、思いますよ。更迭も予測していたのでは? それでも、書くことにメリットがあったのだと思う。正義感ではないでしょう。そう云う類の理由ではないでしょうな。それがなんであるか――、ま、わかる人はピンと来るはずですが。昔から――階級の低い時から、この方は「こう云う話」を年中していたのかどうか‥‥。これも、調べる気になれば、簡単にわかるが、そんなことをする気は起こらん。まあ、長くこっちの世界におると、いろんな似たような話が、過去に沢山あるのでね。皆さんに、少し「熱く」なりなさんな、と。幕僚長も、やがては退官する時が来ますんでね――。

 こう云うことを書くのは、私一人だけだと思うが、保守は、すぐにちょっと「日本の歴史を硬派に書いた人が登場すると」、瞬間、感激人間になる。これが癌だね。靖國神社にわんさと入って来る胡乱な学者・漫画家(最近は畠某とか云う、新手のおにゃんこみたいな人)・弁護士は、後を絶たない。最近は高級自衛官が、制服で顔を出し始めている。なんの用で、わざわざ制服で、靖國神社に姿を見せるのか――。軍人は天皇の許しもなく、カッテに靖國神社に来てはいかん。来るなら、私服で来なさい。勘違いが多すぎる。と云うことで、今日はオシマイです。



■平成二十年十一月五日

自壊と自戒。

 今更、書くことでないのかも知れないが、話の締めをつけるために、少し書きます。靖國神社で結婚式を挙げた、フジモリ元大統領も小室哲哉氏も、神の加護を受けられなかった。今、話題の元航空幕僚長田母神俊雄氏も、春の靖國神社大祭には、個人として、確か制服姿で出席していたように記憶している。昨日、気づいたのだが、少し前に郵送されてきた九月号の航空自衛隊機関紙である『翼』に、彼の話が出ていたのを思い出して、頁を開いて見た。去る五月の東京大学学園祭の時に、安田講堂で、勲章をつけた正式の制服で講演を行っている。その紙上採録が掲載されている。今回の論文に発表したような内容のことが、最後のほうで、ちょこちょことしゃべっている。意味不明の「高い志」を連発しているが、航空自衛隊の幕僚長が、こう云う一般の所で、自衛隊内部の話や、日本は侵略国家でない話などを、スラーと制服姿で語ること自体に、どうも私は違和感を持つ。自衛官が制服姿である時は、それは「天皇の軍人」であることを自覚しなければならない。それでなくて、のこのこ制服姿で、靖國神社の境内に、一歩として「入るな」、である。

昭和四十年には、陸上自衛隊第一師団約六百人が、自衛隊創立後、初の部隊参拝を行っているが、これは戦前の部隊参拝を髣髴とさせるものであった。此の当時の自衛隊の指揮をとる師団長は、陸士四十六期・四十七期と、皇軍出身の将官であった。靖國神社の社頭に還って来た、戦友の晴れの姿であった。靖國神社には、似合う光景そのものである。この陸士四十六期・四十七期の将官は、戦後の自衛隊であっても、皇軍の伝統を注ぐ国軍を目指していたはずだ。当時、まだご健在であった昭和天皇――大元帥陛下の御為に、「いつでも死ねる」覚悟を、神霊に誓約した筈である。その先輩自衛官のことを、彼は心得ていたのだろうか。この社には、天皇陛下の赤子として赤誠を誓った皇軍兵士、それに準ずる人が神として祀られている所だ。防衛大出身の自衛官が、制服姿で、うろちょろする所ではない。天皇の醜の御楯として、出征し、戦陣に伏した国民盡忠の柱が祀られている。腹の中に、頭ん中に、この志操がきっちりと収まっておらんのだ。自分が軍人としての気持ちを持つなら、厳正なる規範を示さねばならない。個人の信条などと云うものは、仮にあっても、自衛官が公の席上に出すべきではない。どうしても言いたいことがあるなら、正式な手続きに即して、レポートを上層に提出すべきで、一般人社会での発言は慎まねばならない。それか、制服を脱いでのあとの活動であろう。

 「私は、天皇の為に戦ったのではない。家族のため、恋人のために戦った」、それが私の偽らざる気持ちだ――此の気持ちは変わらない――と、言うようなものである。そう云うことを、戦後に話した元兵士は多い。だが、いつも話すが、そう云う戦いを、「戦前は」していない。軍隊は、「そう云う制度には」なっていない。個人の信条で、「成立」していない。自衛官であっても、「恣意的な個人の信条」は封殺しなければならない。それが『軍人勅諭』であり、皇軍の生き残った将官・佐官が後を作り上げた、陸海空三軍の『自衛隊信条』であろう。この方が、靖國神社の大祭に制服姿で列席することが、どうも似合わない。異例な風景なのだ。大祭に外国の駐日武官が参列するのは、戦前からのしきたりである。その駐日武官よりも前に、防衛大出身の制服自衛官がいる風景が異例だ。かっての士官学校を卒業した自衛官なら、当然の光景だが‥‥。従来の大祭では、首相以下閣僚が参列していないために、陸海空幕僚長は、代理を参列させていた。それを、この方は個人として参列したようだっだ。一種のパフォーマンスなのではないか――と、私にはどうしても見える。靖國神社を、己の目的の為に利用するな――、である。いざとなれば一命を捧げることを、神前に誓ったことなのか。誓ったとするなら、軍人としての規律を貫け。「自分はこう思う歴史観」などを、安易に懸賞募集などで、肩書きを付けたまま言うな、である。‥‥ま、私としては、退職したこの方を、また利用する保守の出ないことを期待したいがね。

 思い返せば、幕僚長だけでない。フジモリ元大統領にしても小室哲哉氏にしても、靖國神社を利用するようなことをすれば、加護は受けられない。まだまだ加護を受けれない人物は数多くいる。靖國神社を利用する者の行末は、自滅自壊しかない。この社に奉職する南部宮司以下、全職員も、改めて自戒を厳修されねば、やがては自壊し、滅する道を歩いて行くことになる。さて、幕僚長の雑事が終わったので、本義に取り掛かりましょう。なかなか取り掛かれないので、苦労しています。
 

  • [14]
  • 第二章・尊皇・尊皇攘夷。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)22時10分38秒
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第一章・信仰の卑俗化――五。

 一体、どうなのか――。これで、靖國神社は正統を継承して行けるのか――。行けるわけはない! 戦前の如き、査察官なき時、それに代わる機構として、総代会がある。各界から選ばれた、錚々たる人々。一体、彼等は、何をしているのか? 神社正統を継承するのに、この総代会は、まったく機能していない状況にある。その証拠は、数々の不敬・不逞が、自在に罷り通っている事実が幾多もある。

 今や、靖國神社そのものが、祭祀そのものでさえ、俗化・卑俗化し、天皇に叛旗をひるがえし、堂々と創建趣旨を変え、社憲を塗りつぶし、卑しき神社に仕上げんとしているかのようである。慨嘆すべき状況だ。これまでに、幾度となく桜の掲示板に投稿して来たことだが、一口で言えば、「靖國神社の創建趣旨の捏造」である。「御創立百四十年記念事業」の冊子の中にも、その文面は掲載されている。「靖國神社崇敬奉賛会設立趣旨」、冒頭に書かれている。要旨としては、「明治二年の御創建以来、靖國神社は、悠久の平和を祈願する神社として、国民の厚い崇敬を受けてきた」と云うことが書かれている。明治天皇の創建趣旨とは、まったく異なる神社の性格が知らされている。いつから靖國神社は、「悠久の平和を祈願する神社として、国民の厚い崇敬を受けてきた」のか? 国家の生命に国民の命を継ぎ足し、継ぎ足し、皇国を守り抜いて来たのではないか。その臣民の忠節よ、連綿と抽でよと、明治天皇は創建を命じたのではないのか。靖國神社は、敗戦後も、この聖旨を、戦後に至っても継承するために宗教法人となり、戦前の軍務を継承し続けて来たのだ。賀茂宮司が、鈴木宮司が、松平宮司が、再三にわたって語られているではないか。靖國神社を、遺族のための神社としか考えていない、現執行部の軽薄さが滲み出ている卑猥な文章である。この新たな靖國神社のイメージ作りに、抗議の声を挙げる人は少ない。国民が、参拝者が、無関心だからだ。しかし、いることはいる。

 以前、神宮外苑にある日本青年館で、大正十一年生まれの元皇軍兵士の作家郡順史氏は、この「悠久の平和を祈願する神社と云うのは、欺瞞を感じる」と云う講演を行い、会場に詰めかけた多くの元皇軍兵士の拍手を受けていた。靖國神社の創建趣旨を捏造して、現代の国民に新たなイメージでアピールしようとする執行部の思惑とは何か? 又、誰が祭られているかわからぬ鎮霊社を、一般公開した罪は大きいと言わねばならない。誰だかわからぬ世界中の戦死者の霊を集めたに過ぎない神霊不在の鎮霊社を、靖國神社の分社の如く扱ったことは、ただの懲罰ではすまないような気がする。戦前ならば、腹を切らねばならないだろう。靖國神社に関しては、総て戦前と同様と思って奉仕してもらわなければ困るのだ。戦後、宗教法人になっても、中味は何一つ変わっていないのだ。この鎮霊社は、単に筑波宮司夫人が信奉する山岳信仰の中で、世界平和を祈るために、個人的に、極めて恣意的に境内の隅に祭った、私的信仰の祠でしかなかった。昭和四十年に作られたものだ。従って松平宮司も、大野宮司も、明治天皇の聖旨に対し、「相そぐわぬもの」として、これを公開してはならぬと、『宮司通達』まで出している。それを、現執行部は一般公開、大切な神域の天皇の玉垣を壊してまで、参道まで作ったのである。このことは、天皇に報告されているのだろうか? 宮内庁は、此の事実を知っているのだろうか? もし知らせもせずに、彼等だけの一存で、天皇の神社において、新たなる怪異なる霊を奉り、祭祀を行わしめ、一般参拝者に頭を下げさせていることは、犯罪ではないのか? 此の問題は、多くの崇敬者に諮る必要があるのではないか――。何故、皇軍兵士を祀ることを命じた、明治天皇の聖旨に違反する――、世界中の亡霊を祭らなくてはならないのか――、叛逆であると、私は断言したい。果てには、なんとこのヒットラーやフセイン、米国の超高層ビルに突っ込んだテロ集団の人間さえ祀っている奇怪なる鎮霊社を、「靖國神社摂社」とまで、前崇敬奉賛会会長に言わしめた罪を、どうしたらよいのか‥‥。この大愚を、なんとかしなければならない。これを公開することで、「靖國神社は、敵も味方も祀っている神社」だと言い出す、愚かなること、無間地獄者の現執行部。これが靖國神社を預けている者達の実態です。このような世迷言を言い出した靖國神社執行部に、明治天皇の聖旨が護れるものかどうか――。常識で考えれば、誰しもがわかることではないか。まさに執行部の、天皇への叛旗に等しい言動であると、私は思っている。

 更に神社のことはわからぬ南部宮司を矢面に差し出し、次から次へと靖國神社境内外の模様替えを、執行部は連綿と行っている。従来になかった神社本庁関係の建設会社への発注が、何故か目立つのも気になる。湯水の如く靖國神社財産・浄財が投入され、消えて行く。彼ら、外から来た南部宮司、神社本庁から来た二人の権宮司の指揮であるのか。何故に、このような事態が続くのか。参集殿のキンキラの新築に加え、神門付近の神木伐採をなし、便所・休憩所新築工事の公告(これは主権回復を目指す会の西村修平代表の壮烈なる反対運動で、幸にも「一時中断」に追い込む。西村代表は、靖國神社の歴史に名を残す国士でありましょう)。更にそれが妥当なことかどうか、判断しかねる、大手水舎・能楽堂の大掛かりな改修工事、更に相撲場の全面的整備、靖國教場(仮称)とか――。今後、次々と改修・新築計画が、どしどし進んで行く。一体、此の一連の工事で、誰が儲けるのか――、得をするのか――、不明である。加えて先日紹介した、製作意図不明の、一体、何のために作られたのか、「クズ映画」である『みたまを継ぐもの』の映像製作‥‥。靖國神社正統を継承せず、それに反する言動だけが目立つ、現在の靖國神社執行部。私は、現在の執行部がある以上は、この濫祀に陥った靖國神社の体質は変わらないと考えます。清浄馥郁たる靖國神社が、私たちの前に帰って来させるには、どうしたらよいか――、正統を考える――真正保守の人々の奮起を願うものだ。

 しつこいようだが、もう一度言う。この変わり果てたる靖國神社の姿を、またなんとも思わない多くの参拝者がいる。何故、何も言わないのか、何も気づかないのか――。それは、靖國神社の正統がなんであるか、しっかりと把握されていない――、知識をしらない――。そのことに、原因はあるのだろうと思う。従って私は、靖國神社の正統を知らせることで、多くの参拝者を教化し、「正気」に目覚めさせたいのである。これが、何度でも言う、「九段塾」立ち上げの趣旨である。次回からは一気に、靖國神社創建の話から入ります。近代史の著述です。



■平成二十年十月二十九日

第二章・尊皇・尊皇攘夷。

 ○○○さんが、「靖國神社は尊皇だ、ということは覚えました」と書いていたと思ったが、それだけ頭に入れておけば、靖國神社を理解して行くのは早い。つぼを得ている。真実の明治維新も理解できるでしょう。閲覧者が、明治近代史を心底理解したいのであれば、「尊皇」・「尊皇攘夷」を外しては、俗論の近代史、明治維新しか覚えられない。それでは、矛盾が、あっちこっちから噴出すに違いない。何故、日本の明治維新が成功したのか――、アジアの国々が、いくら日本の明治維新を研究しても真似することが出来なかった最大の理由は――。「尊皇」・「尊皇攘夷」と云う志操が、魂が、この大和島根の國にはあったが、アジアの国々にはなかった――。それが主因であることに、果たして気づいたかどうか。一言で言えば、明治維新は、尊皇・尊皇攘夷が嵐のように、此の國に吹き荒れたから成就した。近代国家建設の途に就く事が出来た。明治天皇が「五箇条の御誓文」を国是としたのも、大日本帝国憲法を発布したのも、電信電話を導入したのも、鹿鳴館時代を招聘したのも、鉄道を走らせたのも、大学を創らせたのも、すべからく尊皇の魂・尊皇攘夷の力の賜物であろう。

 明治天皇は、天地神明に誓った。これから天孫降臨の祖神の如く、その例をなぞらえながら、「天下の大政治(あめがしたのおおきまつりごと)を行い、皇基を振るわし、皇威を、国内に、万国に、しろしめす」。そう、決心された。そのための明治天皇の理想の国づくりに、勤王の臣下、勤王攘夷の臣下が智恵を出し合い、万機公論に決す構想を、堂々と描いた。それが様々な新技術を開発、導入。新制度を次々と打ち出す。わずか二十二年で、大日本帝国憲法発布、議会制度開始と云う、欧米先進諸国がドギモを抜く独特の近代化を成し遂げた。単に開国して、文明開化を呼び込むなら、徳川でも出来た。なにも井伊直弼の首を切り落とす必要もなかった。だが、直弼ではだめだ、慶喜ではだめだ、徳川の開国では、この瑞穂の國大和島根では出来なかった。駄目だった。既に不平等条約を締結させられてしまっていた。だから、尊皇攘夷のカミカゼが吹き荒れたのだ。尊皇・尊皇攘夷がなければ、明治維新は成就しなかった。近代国家建設は不可能だった。

 その近代国家の前に、攘夷の血しぶきが荒れ狂った。荒振る寇等(あだども)を刑罰(こらし)め、不服(まつろはぬ)者どもに 家を忘れ身を擲ちて、東奔西走、赤き真心で奮戦、地に伏したその高き勲功があった――。日本人には、その攘夷の嵐の記憶が、脳髄の奥に埋められている。いつでも吹き出る事は可能だ。今でも、噴き出ることはあるのだ。そして攘夷を決行し、剣を振るった者のみが、血しぶきに倒れた者の恨みを知り、仇を味方の血で雪いだ――。それが「英霊祭祀」だ。血涙を流したものだけが、返り血を浴びたもののみが、真の「英霊祭祀」を為せた。それが東京招魂社であり、靖國神社だ。しこうしてこの尊皇攘夷があればこそ、日本の明治維新は大成功し、国是の五箇条の御誓文は誕生し、大日本帝国憲法が発布できたのだ。外国勢力は、一歩も中に踏み込めなかった。尊皇の壁が、蹂躙を許可しなかったからだ。

 その――正しい、通俗ではない、俗説ではない、明治近代史を、維新とはなんであったか――。その発端は、「海行かば水付く屍、山行かば草生す屍」であった‥‥。それを、これから書いて行きます。が、少し時間がかかるかも知れない。時々、訪問してみて下さい。



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 備中處士案、此の「第二章・尊皇・尊皇攘夷」以降、塾頭による「體系的靖國神社史」は、書かれることはなかつた。病状にも因らうが、未だ機が熟してゐないと、判斷されたのであらうか。惜しみても餘りある事と謂はねばならぬ。



【參考・靖國神社誌】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t2/l50

【參考・靖國神社祀職】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t4/l50

【參考・賀茂百樹大人遺文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t8/l50

【參考・松平永芳大人遺文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50

【參考・靖國の祈り】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t5/l50

【參考・靖國神社考】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm

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  • [13]
  • 第一章・信仰の卑俗化――四。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)11時37分14秒
  • 返信
 
■平成二十年十月二十四日

第一章・信仰の卑俗化――四。

 今、私は信仰の卑俗化――即ち靖國神社における内外の卑俗化・俗化について、論を起こそうとしているのだが、なかなか上手く事が運ばない。原因は、先ず第一に、書き手である私の頭がうまく操作してくれないのと、以前に「桜の掲示板」で投稿した大量の情報が既に目の前にあり、これが思考の壁となって、同じ事を書くことが、無意識的に執筆にストップをかけると云う状況にある。なにか、流れがよくない。そこで少し話を元に戻して、先ず最初に、靖國神社創建あたりからの話を書いて行ったら、少しは風通しがよくなり、筆が走るのではないかと考え、今までの話は話として据え置き、改めて書き直しをしていこうかと考え、それをこれから示して行こうと考えた次第。悪戦苦闘。

 私のこの九段塾における本旨は、あくまでも靖國神社の正統とは何かを、広く、多くの方に知っていただき、靖國神社を支える正しき知識を持つ真の崇敬者として、これからの靖國神社を支える中核となってもらいたい――、ただ、そのことだけであります。またその正統さを熟知していれば、靖國神社執行部の日々の行いに間違いはないか、疑問を投じることも可能となり、靖國神社を時に叱咤勉励、職務遂行の真実を説くことさえも叶い、それを私に代わってお願いしたいのであります。無論、本来ならば、靖國神社が創建以来の正統を守護奉っておられるなら、卑賤の我らが口出すことではないと思っておりますが、現在の靖國神社執行部の在り方を見れば、到底、お勤め正しきものならず。言上げをもって、諫言せねばならないと思う次第です。また今日、靖國神社を参拝する方々に、正しき知識なく、参拝の仕儀が乱れている現状は、正さねば、靖國神社創建の聖旨も行方知れずとなり、此の國の将来をも憂うものであり、その意味でも、より多くの正統を知る崇敬者を育て、振作を奮って、皇国の復帰を願うものなのです。

 「日本は神国なり」。これこそが、日本人の還るべき所。国家の戻る所ではないか。今日、混迷する日本社会、国際社会の争乱を止め立てする、唯一の安寧を祈る魂処となるものではないか、真の人類社会安寧の棲家をしろしめす国家ではないか、と思うからです。新たなる「王政復古」こそが、紊乱たる我が国、国民を、そして世界の紊乱を留め立て出来る力となるのではないか、と。極東の端に位置する大和大八州国が、世界にしろしめす安寧の力を、今こそ全世界の国々・国民、地の果てまで滲み通すべきと考える。決して錯誤ではありません。これが、私の行き着いた道の奥所なのです。その発達が、まずは靖國神社の正統をお知らせすることなのです。今、靖國神社にあるもの、目にするものが、すべて正統ではないのです。戦前は、陸海軍省が常に眼を光らせていました。行過ぎた行い・間違いがあれば、直ちに是正の処置が命令一つで行え、正すことが可能でした。神社には賑わいがあってもよい、祭神も喜ばれることだろうと、少しの余興めいたことは許したが、行過ぎて濫祀・卑俗が進めば、境内から、サーカス・見世物小屋・飲み食いの露天商を一掃する処置も、断固として大鉈を打ち振って来たのです。それで靖國神社の正統は保持され、継承されて来ました。戦後も、靖國神社は廃社することなく、進んで宗教法人となり、中味は替える事なく、戦前のままに正統を受け継ぎ、ある月日の時までは維持し続けて来ました。靖國神社中興の祖と言われた六代松平永芳宮司、引き続く七代大野俊康宮司は、いずれも皇軍出身者。率先、卑しき振舞い・行為の禁止を、職員・参拝者を問わず、厳しく通達、背く人には、厳罰をもって臨みました。また自らの日々奉仕に怠り・緩みがあったことを恥じた大野宮司は、ご自身の給与の減額を自ら申し入れ、職員に範を垂れるなど、天皇の神社に渾身奉仕――間違いなきよう努めてきていらっしゃいます。だが、その祈りにも似た遺訓・遺風は、その後に継承されることなく、今日を迎えております。

 現代、九代南部利昭宮司の時代を迎えて、いよいよ靖國神社は、まったき明治天皇の聖旨からも、戦後の社憲からも逸脱した行為・祭祀が横行する状況となっています――。戦後、靖國神社を物心両面から支えていた戦友さんが、次々と物故あるいは高齢化し――、境内からその姿を消して行く代わりに、突如、イナゴの大群が如きに境内を埋め尽くしたのが、「靖国ファン」と呼ばれる人たちです。小泉総理の十六年ぶりの総理大臣参拝騒動に端を発した、平成十三年からの五年間。中国・韓国・国内左翼を巻き込んでの、参拝違憲訴訟などの大騒動。それまでは、八月十五日の参拝者は、実質三万から五万程度だったものが、最盛期は十二万人(神社発表は二十五万人だが、実質十二万前後)の参拝者を迎えた。現在は、大体が五万から六万人前後に落ち着いているが、参拝者の行儀は悪くなる一方で、勝手振舞いは、まさに野放し状態になりつつあります。参道を幅一杯に広がって、わいわいやって来る十七、八歳ぐらいの若者の姿が、夏の間は目立った。ズボンを腰の辺りまでずらした者、両耳にイヤホーンをかぶしている者もいる。内苑で、同じ年頃の若い少女を、嬌声をあげて追いかけ回すのもいる。拝殿前で、十数人の若者が、肩を組みながら記念撮影するものもいる。相当に騒いでいても、衛士は何も言わない。気づかぬフリをしているのだろうか。高校生ぐらいの若者が、この夏に増えたのは、おそらく七月のみたま祭で靖國神社を知り、面白そうな神社だと云うことを知って、何度か友達を誘って来た――と、私は想像したが、声をかけた少年からは、同様な答えを聞いた。この少年達に、靖國神社の神職は、なにか声をかけているのだろうか。宮司は、両権宮司は、参拝者を教化しているのだろうか? 全くしていないに違いない。少年達は、何も知らないのだ。知らないから、勝手な振舞いをする。それがしてはいけないことだとは、気づいていない。彼らを教化するのが、靖國神社に奉職する宮司・権宮司以下の仕事なのだ。そのことに靖國神社神職が、全員亡失しているのではないのか。これだけではない。卑俗化は、至る所にある。

 昨年、チャンネル桜の掲示板でも、神域を汚す勝手振舞いを問題視した所、騒ぎになった。相手は少年たちでなく、いい年をした大人たちである。三十代・四十代・五十代・六十代もいたのか――。いずれにしても、戦後生まれの人たちだ。チャンネル桜の「日本の伝統文化の復興と保持を目指す」と云う旗印の下に集った者が、「自ら伝統文化を踏み潰し」、なんとも思わない勝手振舞いの現実を、目の当たりにした。靖國神社大鳥居付近でのビラ配り騒動だった。彼等は、靖國神社大鳥居付近において、「南京の真実」と云う、一企業の映画製作の宣伝ビラを、参拝者目当てに配り、寄付金募りのちらしを渡すと云う愚挙を為したのである。これを、私は掲示板上で咎めた。神社境内で、ビラなど配るものではない。その行為を、神社は禁止している――と話したが、彼等は聴く耳を持っていなかった。靖國神社の静謐をそこない、祭祀の尊厳を冒涜するもの――と云う趣旨で、手を変え品を変えて説得したが、遂に彼らの蹂躙に押しのけられてしまった。論理と倫理では、常に倫理が勝つ。「うるせーてんだよ」の一言で、論戦はカタがついてしまうのだ。彼等の言い分は、まさに戦後教育の実証であった。人の迷惑を顧みない自己中心の思考そのものであり、夏の間、神社境内を我が物顔に走り回った少年達と同様であった。参道を歩く高齢の参拝者は、走る少年たちとぶつかる危険を避けるために、道をあけたり、立ち止まったりしていた。誰でもそうだが、自分がラチガイに身を置いていれば、他人の非はすぐにわかるが、自分が当該者になれば、総ては自分の正義が最優先する。簡単に言えば、自分が急用なく、ルールを守ろうと心が思う時は、赤信号で止まり、違反する者がいれば、「なんといいかげんな奴だ」と憎々しく思うが、自分が急いでいる時は、左右に危険を察知しなければ、赤信号でも走って渡ってしまう。急いでいると云う己の正義が最優先し、それで「何が悪い」と云う論理が成立する。当然じゃないかとさえ思えて来る。これが戦後教育だ。己の信じた道を歩けである。

 昔、誰もいない平原で、舗装道路が十文字に交差している所に、信号機が設定されていた。遥か山並まで続いた四方の道からは車の影、インディアンの影一つとしてない。その交差点で、信号が変わるまで、エンエンと待ち続ける旅人がいた。外国CMだ。規則を守るとは、この旅人の如しだ。伝統を守る、正統を守ると云うことは、こう云うことだ。この信号の変わるのを待ち続ける旅人に対して、現代人は、どのような考えを持っているか――。何処かの銀行が、アンケート調査したことがある。「馬鹿じゃないか。判断力がないんだよ。臨機応変ってものを知らない愚か者」、「現状分析能力が欠損している証拠」、「タイム・イズ・マネーをわかっていない」、「信号機が故障しているかも知れない。あるいはどうして、こんな所に信号機が設置されているか、一体何のためにあるのか――、思考能力が弱い」。いろいろ意見が出たが、結局は、車は全く来ないのだから、赤信号を無視して、渡れ――と云う意見が、圧倒的だった。このCMには、まだ続きがある。一年も二年も信号は変わらず、何年も信号機の色は赤がついたままだった。その間、車は一台も通らず、旅人は、遂にその場所で餓死してしまう。ゆっくりと地面に倒れた時、やっと信号機が青色になった‥‥、と云う結末を作った大学CMサークルの学生がいたそうだ。キリマンジャロの頂で死んだ、豹の話しに似た寓話である。ふと、思い出した。

 ビラ配りの人たちは、「我々は警察の道路使用許可を取ったから、違法行為をしていない」と言った。靖國神社の静謐を乱す意味が、彼らにはわからなかった。目の前に、靖國神社の大鳥居がある。神社によくある見慣れた風景の一つとしか、彼等は理解していなかった。参拝者は、九段下から神社に向かいながら、心の中は、既に参拝する心の準備にかかっている。気持ちを整え、神様の前では、今日はなんとお話をしたらよいか、いろいろ考えたりもしながら歩いている。或いは沈思黙考の方もいるだろう。それは、まだ参道には差し掛かっていなくても、既に参拝中と同様なのだと云う教えを、彼等は受けていなかった。まさにその時に、「南京の真実の映画製作に、ご支援をお願いします」などと云う声が、突然、降りかかって来るのだ。静謐が破られるのだ。神社の静謐の意味を、彼等は知らなかったのだ。「参拝」とは、私的行為ではない。神社においては、神職でなくても、一般者が参拝すると云う行為は、それ自体が祭祀なのである。このことに彼等は及んでいなかった。殊に、此処は天皇の神社。いつ、天皇陛下が行幸されるかも知れない場所である。保守を名乗る人間が、自分達の都合で、境内の静謐を汚してはならないのだ。そう云う教化を、私は、これからして行きたいのです。靖國神社大鳥居付近を、決してビラ配りのメッカにしてはならない。こう云う神をも畏れぬ行為をし、またそれを知っていながら、ビラ配りを激励した水島総監督と云う人間を、私は、保守とは看做さないし、国士とは、到底思うことは出来ない。神の加護を受けれない者達の行末は知れている。自滅しかない。神は非礼を受けず。

 このように、今、靖國神社境内は、卑俗化・俗化が、黒雲のように覆っているのだ。それは、なんとしても祓わなければならないのです。天皇の神社であるからです。以前――とは言っても、平成十年頃の話がある。初夏の季節、靖國神社の境内のベンチで、涼を取る人の姿が多くあった。中には、ベンチで身体を横たえて、寝ている若者もいる。こう云う人には、神職が声をかけていた。「此処は神社ですので、行儀はよくして下さい」。この一言で、若者でも、「あ、済みません」と言って、すぐに起きてくれた。注意をすれば、自分が神社ではしてはいけないことをしていることを、すぐに理解してくれた。だが、今のビラ配りの人たちは、まったく意見を聞こうとしなかった。年寄りは引っ込め!とばかりに、大鳥居前の舗道に、毎週集合し、陣取り、九段下から参道に入る参拝者に聲を掛ける不逞は、已むことがなかった。あまつさえ「俺たちは、英霊のためにやっているんだ。英霊も喜んでくれる」などと云う言葉さえ吐いた。カッテな解釈が、まかり通った。大手を振るって境内を、まさに闊歩したのである。その映画が完成し、今は遊就館の中にまで入り込んで上映をすると云う始末になっている。最早、何をか曰わん。靖國神社も参拝者も、それで正しい、正当だと思っている。その映画の題名は、「七人の死刑囚」。昭和殉難者を称して、死刑囚と呼んだ映画題名である。此の映画をどのようなきっかけで見たのか知らないが、南部宮司が「感激したので、遊就館で上映したい」と、反対する神職の声を押し切って上映させたようだ。昭和殉難者のことも、南部宮司は知るまい。誰も教えてはいないだろう。松平宮司なら、到底許可しないことでも、この宮司なら、何が愚挙であるかわからぬので、平然と行ってやまない。その行為は、枚挙にいとまがない。だが、この方を、本当は責めても致し方ない。この方は、なるべくしてなった宮司ではない。要は神社のことは、まったくわからぬ人だ。問題は、この南部の殿様を靖國神社の宮司として担いだ、表に顕われない影の人間に問題がある。一体、その真の理由は何か? 南部の殿様を、靖國神社宮司に座らせた、真の狙いだ。参拝者の卑俗化・俗化は、即ち靖國神社執行部の問題でもある。トップの見識が、総て眼に見える所、目に見えない所に反映する。今や、靖國神社執行部の在り方・存在は、至る所で、靖國神社の正統を足蹴りにし、すき放題・やり放題の始末を為している――と、私は思っている。かって有り得ないことだらけである。その主だったことだけでも挙げてみよう。

 岩手南部藩の殿様と云う鳴り物入りで、湯澤貞宮司の後を継いだ、九代南部利昭宮司。この方は、その出自あるいはこれまでの履歴を見れば、更にお顔を見ればお解かりのように、やはり風流人としての風貌を備え、その格式も一級でありましょう。だが、厳しい言い方をさせて戴くが、靖國神社の宮司としては、あまりにも似つかわないお方である――と、断言せざるを得ない。何度も申したが、何故に、この方を宮司に推薦したのか、誰が推薦したのか、真にその人を知りたいと思う。何が狙いなのかだ。これからは、南部宮司の個人としての批判ではなく、「靖國神社宮司としての居ずまい」に関しての批判をしたい。ことは、明治天皇の聖旨に関わる重大事だからである。公開されている資料からの一般論として、まず南部宮司は、ご自身の会社を運営されている企業人であること。このことが、私には気に喰わない。松平宮司・大野宮司の例をあげなくても、私は、全霊全身をもって、靖國神社のためだけに、日々を尽してもらいたい――、そのように思っております。会社経営は、就任中は一切関わることを辞めていただきたいのです。南部宮司は、ゴルフ場も経営しておられる。その弊害は、数多く噴出している。神社幹部が、宮司の経営する岩手のゴルフ場まで出張して、プレーをしたりする話が漏れ聞こえて来ると、私は不愉快にならざるを得ない。神社幹部が、何故、わざわざ宮司の経営する岩手まで出張して、宮司のゴルフ場でプレーするのか? 此処への遊びは、純然たる遊びなのか? まさか出張手当などに、浄財が使われてはいまいな?とまで、疑心暗鬼を泳がせて仕舞うのです。職員全員の慰安旅行に、南部宮司のお膝元である盛岡が選ばれて、職員一同が、岩手詣で・南部詣でをするのが、どうも宮司のご機嫌取り・おもねる風潮がはびこっているようで、眉をひそめるのだ。南部宮司が来てから、神社に不必要なゴルフ熱が広がっているような気配も感じる。嫌な空気を、私は感じてならないのだ。

 昔、松平宮司が就任した際、職員の昼休みの楽しみであったバレーボールは禁止になった。ゴルフも、当然禁止。御笛や書道の趣味まで嫌った。神楽に使われる楽器を、「趣味として習う」ことを嫌ったのだ。趣味で笛を習うな――と云う厳修を説いた。それまで、皇族の筑波宮司は、ほとんど神社に来なかったし、職員間のことなどには興味を示さなかったので、職員は自由な空気を満喫していた。夕方になれば、幹部は机の下から一升瓶を取り出し、若い神職にコップを並べさせた。特別に奉納金が多くあると、職員に「お配り」があった。そのどんぶり風景を、松平宮司は一掃した。まさに戦前、満州事変・支那事変と、事変が続いて行く。戦死者がどんどん出ている中で、見世物小屋も、賑やかさもないと云うことで、陸海軍省は、境内から露天商を一掃した。それと同様であった。野球もボーリングも中止したかったが、これは明治神宮など「五社会」と云う神社の交流会があり、そこで野球大会・ボーリング大会などがあったために、しぶしぶ認めたのである。靖國神社に奉職する者は、悉く英霊に奉仕、日夜、間違いなきよう勤めることを通達した。その厳しさに反論する幹部もいたが、次第に松平宮司の厳修が、神社の風となり、靖國神社には正統が甦ったのだ。そのために、松平宮司は、靖國神社中興の祖とも呼ばれている。今、その松平遺風は、何処にも残っていない。私が、一番嫌うのは、南部杯だ。公営の盛岡競馬で行われる、重賞の南部杯競争。これには南部宮司は、毎年出かけている。南部杯を、競馬競争に勝利した騎手に手渡すためである。今も合祀を続ける靖國神社は、戦場の中にある神社だ。天皇から、戦前の靖國神社の総てを預かっている靖國神社宮司が、例え岩手の殿様としても、岩手に戻り、盛岡競馬の南部杯レースに出かけ、競馬レースの優勝カップを優勝騎手に手渡すと云う行為が、取るべき行為なのか? 私には納得が出来ないのだ。公営ギャンブルそのものは違法ではないとは云え、靖國神社宮司が、ギャンブル場へ出かけ、賞金を稼いだ騎手の栄誉を讃えると云う行為が、正統なことなのか――。それで今度は、東京に舞い戻り、例大祭当日祭に、天皇の勅使参向を迎えると云う橋渡り行為が、どうしても納得できない。天皇に対して、祭神に対して、なんら不敬でないと言い切れるものかどうか――。今年も岩手競馬南部杯は、十月十三日に開催されている。南部宮司は、例年通り当然の如く、盛岡競馬場に出かけた。そして五日後の十八日には、靖國神社で勅使参向を迎えると云う、このスケジュールに、誰も何も言わないのか? 総代会は、なんとも思わないのか? 南部宮司は、自分にとっての南部の祭事・会社経営を認めるなら、宮司になっても良いと云う条件で、靖國神社宮司に就任したのかどうか、それは私にも不明だ。が、そのような話がなければ、今の南部宮司の靖國神社宮司としてあるまじき行為に、誰も非を問わないのは、その経緯があるからだろうと思わざるを得ない。
 

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  • 第一章・信仰の卑俗化――三。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月20日(土)18時24分3秒
  • 返信
 
■平成二十年十月十八日

第一章・信仰の卑俗化――三。

 本日から、靖國神社は秋季例大祭です。靖國神社本殿に鎮まる祭神二百四十六万六千余柱の神霊、悉くお出ましになられます。この日、護国の英霊となられた祭神の御霊を慰めるために、祭祀が行われるわけではありません。国家の命に国民の命を継ぎ足して、国家の柱石となられた国魂を、天皇がお祭りされるのです。国魂とは、即ち国家そのものです。単なる祖先祭祀の慣習の基くものではありません。国魂を祭り、今ある国家の魂を、強靭に強固にふるわせる、いきいきとさせる、生者の魂ふり。それが靖國神社の祭祀であり、英霊祭祀であり、天皇の祭祀なのです。民間に於ける葬儀のように、悲しみを嘆くものではありません。

 繰り返し言葉を重ねれば――、賀茂宮司の『靖國神社忠魂史』序文にある、「靖國神社は、明治天皇の深き叡慮に依て創建せられた神社であります。畏くも忠魂を慰むる爲に神社を建てゝ、永く祭祀せしむ、益々忠節を抽んでよ、との御趣旨を體して、當時、田安臺と稱した九段坂上に、東京招魂社を建てられ、軍務官知官事仁和寺宮嘉彰親王を祭主として、鳥羽伏見役以來の戰死者三千五百八十八人の英靈を鎭祭せしめられたのが、その起源であります」とある。靖國神社の創建趣旨です。即ち倒幕の親征を興してみれば、死人が沢山でたので、慌てて之を祀ろうと云うのではありません。「畏くも忠魂を慰むる爲に神社を建てゝ、永く祭祀せしむ、益々忠節を抽んでよ、との御趣旨――」によるものなのです。「苟くも帝國臣民にして、聖慮を奉體し、國家非常の秋に際して、二つなき一身の生命を國家の生命に繼ぎ足した者は、貴賤上下・老幼男女の別なく、靖國神社に祭祀せられてゐるのであります」。

 即ち「國家非常の秋に際して、二つなき一身の生命を國家の生命に繼ぎ足した」盡忠の人々が、今、帝国の神祇として、靖國神社に祀られている。殉国の精華を示され、国魂となられた二百四十六万六千余柱の神々。「されば、靖國神社の祭祀が衰へる時は、國民の元氣が衰へる時であり、靖國神社の祭祀が盛んなる時は、國民の元氣も、亦た盛んなる時であります」と、賀茂宮司は示される。言い換えてみれば、靖國神社の祭祀が衰えれば、此の国は衰退することを教えられている。祭神は、家族の為に戦ったのではなく、国家の生命に己の生命を継ぎ足して、此の国の生命の永遠を守護奉ったのです。更に言わしめれば、英霊の後ろには、遺族が、家族が、いるのではなく、国家があるのです。『みたまを継ぐもの』を製作した者、監修した者、監督した者、出演した者、英霊の言葉を御聞き下さい。


■上田正守命。北海道和寒町出身。陸軍歩兵大尉。

『妻フジエに告ぐ

 余は負傷も癒えて、再度中支の敵を攻撃して、之を殲滅すべく、急遽、第一線に赴かんとす。生還、元より期し難し。只死は鴻毛よりも軽く、己が武職に邁進し、天壌無窮の皇運を扶翼し奉る覚悟あるのみ。其の光栄、何物にか之に過ぎん。御身と契りしより、茲に八年余、誠心誠意、克く貞節に余に仕へ、今日あるを得たり。この間、何等報ゆること無かりしを、甚だ遺憾とす。余なき後のことに関しては、別に言を要せず、御身に一任す。願はくば長寿を保ち、良き武人の妻として、子供の母として、昌雄・邦和を教え導き、天晴れ国家の干城たる大和男子に育てられん事を祈る。余は七度、此の世に生まれ来て、天皇陛下の為に忠義を盡さん。

 昭和十三年八月十八日、上田正守』。

――昭和十三年九月二十九日、支那江西省にて戦死。三十八歳――


■小島幸美命。青森県西津軽郡大戸瀬村出身。海軍上等主計兵曹。

『心のゆくまゝに、ペンを走らす。人生の変転の、急激なるのに驚かざるを得ない。先日出した手紙、君の許へつくまで、幾日かゝるだろう。或る日、此の手紙も君の許へつき、君が優しき手に抱かれて読むとき、自分は潔く御旗の下に散つてゐるかもしれない。戦場に臨み、終日、戦線に従事するとき、女々しいとは思へど、君が写し絵を眺め、ともに励ましゝこと、幾度か。然しその君も、いま札幌に居ないのだ。忘れることの出来ない、あのポプラの並木路も、森厳な札幌神社も無い街に、君は今居るのだ。然し何も自分は、東京に出て来たのをとがめない。信じあつた二人だ。あの夜の綺麗な月が、清き二人を保証してくれるんだもの。純情の涙が、忽然として今湧いてくるを禁じることが出来ない。若しこれが経理学校に在学中だつたら。いや、よそう。自分は戦つてゐるのだ。女々しい考へを捨てゝ、目を世界地図の上に移せ。心の何処かで叫ぶ。然し矢張り書く。死に直面してゐる自分が、今迄長い間、君に励まされ、そして君に教へられて、今迄すごしてきたことを、深く感謝す。併せて君が幸福あらんことを祈る。

 今日、お便り有難う。唯一つの君の願ひ。一生、此の身は白骨となりても、待つてくれるとは有難い。真暗な海上。進みゆくとき、忽然として大空に聳ゆる靖國の鳥居が目前に浮かぶ。華と散つたら、君は喜んでくれることゝ思ふ、「よくやつてくれた」と、喜んでくれることゝ思ふ。流す涙は、悲しみの涙でなくて、喜びの心の奥より出る嬉し涙であつてほしい。

 「我は海の子白波の」 海に育ちて海に散り、九段の杜にかへり咲く日本男子の大理想。現在の戦は、古と異なり、総員が戦ふのです。戦ふ以上は、皆同じ。決して御奉公に軽量はありません。貴女は、死ねと書きました。然しまだその機無く、生存して居ります。決して犬死はしない覚悟です。元より聖戦に参加し得る身、男子として、これ以上の名誉なく、貴女の心配してゐる様なものではありません。故郷も、皆元気との事。では、御両親様にもよろしく。では、乱筆にて御免。幸美』。

――昭和十八年六月八日、本邦西方海面に於いて公務死亡。二十六歳――


■仲西貞夫命。三重県海山町出身。陸軍軍曹。

『召集! 日本男子と生まれ、軍籍にある身であり、この情勢下、何時かはお召しがあることと覚悟はしてゐたが、こちらで受けるとは思つてゐなかつたので、一寸驚いた。入隊は、明後日の十日。殆ど全部に来た。二校の方は、校長にも来た。殆ど全部だ。柳澤視学にも来た。とにかく病気のものを退けて、全部だよ。此の召集は、パラオを守るためであつて、情況がよくなれば、すぐ解除になる。しかしサイパンの様なことになれば、パラオの在住民全部が戦はねばならん。そこで、お前にも覚悟してもらわねばならん。友達の殆どはお召しに応じて、中には護国の神として散華された方もいる。いや、全国の殆どは、この皇國の非常時、敵米英撃滅の為、勇ましく立つてゐるのだ。中には、子供の四人も五人もある、相当の手配の人も――、この戦争に勝抜くために出てをられる。情勢如何によつては、或いは戦死するかも知れない。いや、一たん大君の為 祖国の為、民族の為にお召しにあづかつたからには、生きて帰れるとは、俺も思つてゐない。

 どうせ人間だ。生あるものだ。一度は死ななければならない。大君のお召しにあづかることは、人間として最大最善最高の死場所を得ることなのだ。お前も、いやしくも教育者の妻、そして今は帝国軍人の妻。みぐるしい振舞ひはしてくれるな。何事もぐつと胸にをさめてゐてくれい。頼むぞ!(以下略)

 親愛なる妻へ、午前十一時。貞夫』。

――そして仲西貞夫命は、親愛なる奥様に、自分が帰るまで開けないで保管しておいてくれと、もう一通の茶色の封筒を同封していた。この封筒を、仲西貞夫命が開ける機会はなかった。その封筒には、何が書かれていたのか――。

『情勢次第に悪化し、パラオ島防護の為、昭和十九年七月七日、名誉の召集令状を受く。男子の本懐、之に過ぐるものなし。又家門の誉なり。勇躍入隊、大君の醜の御楯として、米英軍を撃滅せん。戦死の報ありても、決して取乱さゞること。魂は靖國の神として、永久に皇國を守る。会ひ度くば、靖國神社へ来たれ。お前の身のことについては、父とよく相談せよ。軍人の妻としての体面を保て。父母に孝養を頼む。身体に気をつけて、朗かにくらせ。ながらくのお世話、ありがたう。深謝す。

 昭和十九年七月八日、大詔奉戴日、貞夫』。

――昭和二十年七月十九日、パラオ島にて戦病死。三十二歳――

‥‥醜の御楯として、敵米英撃滅の滅私奉公が書かれていたのである。死ねば靖國神社に祀られる。死してなお護国の鬼として、永久に皇國を守る――、と。


 最後に、盡忠の帝国軍人の鑑と謳われた方の書簡を紹介しましょう。少し長いが、覚醒される心胆です。

■田村和美命。和歌山県喜志川町出身。海軍中尉。

『神皇正統記に曰く、「大日本は神国なり。我国のみ此事あり云々」と。乱世にありて、親房卿、よく我が日本帝国の国柄を闡明し、又その部下の将士、よく神皇正統を熟読、身に体したる者なり。全国を挙げて、殆ど総てが、皇室に背き奉り、皇室の御存在、恐れ多き事ながら、天皇陛下のおはします事を忘れ、逆賊になびきゐたる時、親房卿及び其の部下将卒、よく一城に籠もり、十有余年、城外との交通絶たれ、しかも全員、大君の御為に、一卒に至る迄、城を死守し、遂に枕を揃へ並べて討死したのである。

 之「関」・「大宝」の城に於ける玉砕なり。彼等、玉砕勇士の念頭を、瞬時も離れ得なかつたものは何であらうか。勿論、親房卿の功績、論を俟たず、部下将卒に、かく迄殉忠の誠の徹底したる、誰の功ぞや。かくて勇士は、大君の御為に命を捧ぐるを、無上の光栄名誉と致したのである。

 真に皇道に徹したる程、強く固きはない。大君の御為には、生もなく死もない。ましてや私利私慾が如き、何の影も止めず。かくて関・大宝の勇士は、六○○年の往昔、既に殉忠の誠を致したのである。(中略)

 本年六月、我学校の帰途、友人川端光作君と共に、間、会心なるがまゝに、時局を論じ、熱血に燃えて、海軍飛行科予備学生を志願せん事を語り合ひ、別れて下宿に向かはんとするの途上、心斎橋の町角にて、黒山の人むらがりて見るは、何ぞ。アツツ島山崎大佐以下、二○○○名、玉砕の報あり。

 あゝ、その時、我が感奮興起、何を以て比せん。我が体内の血潮、燃えたぎり、必ず海軍飛行学生として、此のアツツ島玉砕勇士の仇に報いんと誓ひたるなり。二○○○勇士は、大君の御為に、喜んで死地に就いたのである。二○○○の勇士、一日と力盡き刀折れて、拾数日にして百二十七名に至る。その間、部隊長山崎大佐の心中や、如何に。

 しかしてアツツ勇士は、笑みて護国の鬼と化したのであつた。アッツ島勇士の最後、百二十七名。尚陣地を構築すれば、尚数日維持し得るも、之を問はず。

一次電報
一、兵器機密図書の処分
二、戦病戦傷者の処置
 身体の自由を得る者は、自決せしむ。身体の自由を得ざる者は、軍医をして処置せしむ。某参謀を残して、後の通信に充つ。更に突撃の際、若干名を残して、清掃隊とす。最後の突撃準備完了。暗号室は一冊を残して、全部焼却す。

第二次電報
 一四七暗号室、全部焼却せり。只今より電信機を破壊す。

 これを最後として、アツツ島は呼べども答へなかつた。

 かくして二千勇士、残れる百二十七名の勇士は、大君の御為に、笑みて散つたのである。大君の御為に、大君に帰一し奉る。此の外には、何物も勇士の眼中にはない。「陣地を構築すれば、尚数日維持し得るも、之を問はず」。あゝ、何たる深さぞ。

 歴史をひもといて見ても、又今時、大東亜戦、或は支那事変に於いても、天皇陛下万歳を叫んで散つた大和男子の心も、大君に帰一し奉る一念に外ならない。ガダルカナルに散つた勇士、又さかのぼつてハワイ真珠湾頭に散つた我が航空隊の先輩、又九軍神四勇士、総て信ずる所は、一つに過ぎない。彼等先輩は、大君に帰一し奉るを無上の喜びとして、散つて行つたのである。かくして我が国は強いのであり、神の国である。

 私は海軍予備学生として、幸にも入隊を許可せられ、感激に燃えて、九月十三日、入隊して以来、我が父母は、何時の便りにも、「大君の御為に、立派に御奉公出来る様に」との言葉が、常に書かれてゐる。自分も、大君の御為に散る事を、無上の誉とすると共に、又此上なき孝であると考える』。

――そしてご自身の決心覚悟を、ご両親様に報告する。更に数ケ月に於いて、訓練情況を知らせて来る――

『やがて大空の決戦場に臨むの時は‥‥その日にそなへての、毎日の猛訓練です。皆、大東亜決戦の為に、猛訓練をしてゐるのです。此の間、英子さんから葉書を下さいまして、田舎でも秋の取入れに、皆勝ぬく為に、必死の努力を重ねてゐると書いてありました。娑婆でも軍隊でも、國を挙げて勝抜く為に、精進を続けて居る時、自分も国防の第一線に活躍出来る幸福を感謝して、外の者に負けず、猛訓練を喜んで受けます。家の方も秋の取入れに随分御忙しい御様子、之から麦撒とか蜜柑取りとか、益々御忙しくなる事でせう。御両親二人きりにして、誠に辛労な事と存じますが、何とぞ御身体に充分留意されます様、祈りあげます』。

――更に戦況逼迫した、昭和十九年十二月の手紙。此の時期、海軍では、既に航空機による敵艦船への必死体当たり攻撃である特攻作戦が、天皇にも上奏され、正式な攻撃作戦として決定されていた。十月一日には、「第七二一海軍航空隊」の看板が、茨城の百里ケ原基地に掲げられている。全国の練習航空隊から、必死攻撃の操縦士を募集、我も我もと言う志願の中から厳選、此の基地で、人間爆弾桜花の特攻訓練が始まっていた。全員が「死んでお役にたちたい」と志願した、特別攻撃隊通称神雷部隊。第一陣である。翌二十年初頭には、九州鹿屋に進出、やがては爆装零戦で、五百キロ爆弾を抱えて体当たりする爆戦攻撃を併せ、沖縄周辺の敵機動部隊に襲い掛かって行く。米軍兵士を、恐怖のどん底に叩き込んだ「カミカゼ」である。米軍の優れたレーダー網で、早くから刻々と接近する特攻隊の様子が艦内に知らされることで、艦船乗員は、逆にパニックに包まれて行く。航空特攻により蒙った米軍の被害は、甚大なものであった。その後、陸海軍総特攻作戦が敷かれ、「その神風のさやぐのをもつともよく聞き、その風の吹き行く彼方を見定めた者から、身を挺していつた」先に吹く風を、後からの風がおいゆき、さらにそのあとからの風が先の風と競うようにして、神風は沖縄の海に旋風となり、渦巻きとなり、吹き荒れたのです‥‥。田村和美命も、既に予科練卒業生の練成にあたっている――

『私達は予備士官として、果たして或る苦しみと申しますか、悩みと申しますか、面白く無い所があります。しかしそれも、大君といふ絶対的なものに立脚すれば、何時とはなく消滅する様です。と申しますのは、私の弟と申しますか、子分と申しますか、私の最も可愛い弟子達と訓練に熱中した時が、それであります。

 私の弟と申しますのは、私と一緒に死んでくれる部下の事です。私の後について、水火も辞せぬ兵隊達のことです。彼等は十八才、乃至二十才、紅顔の美少年。予科練出身の闘志烈々たる少年達です。彼等は未だ世の中の汚れた部面を知らぬ、純真そのものゝ態度で、一層なついて来るのです。そして「君に忠」、此の一語の外、彼等の心の中には何もないのです。やがて私達も行くであらう、特別攻撃隊に選抜されん事を熱望して、私を泣かせた者が、彼等の全員です。大君の為には、生も死も無いのです。

 彼等は、死出の旅路にでも、親身の兄の後に続く様な、やすらかな気持ちで、喜んで私の後から突込んでくれる事と、私は確信して居ります‥‥。下らぬことを、長々書き並べまして申し訳ありません。何卆、御判読下さい。時節柄、皆様益々御自愛下さる様、御願ひ申上げます。

 昭和十九年十二月二十七日、和美』。

――昭和二十年三月十五日、台南方面にて戦死。二十四歳――


 壮烈なる神々の殉義忠節を、靖國神社は描いてこそ、参拝者の魂を響かせるのではありませんか。それが、現執行部・監修者の仕事ではないのですか。ニートの若者を主役にして、若者に上辺の理解を示すふりをするが如きは、偽りの心を宿しているからではないのか(上文は、時に、省略させて戴いておりますこと、伏してお許しを請い願います。次は数日後に)。



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 備中處士案、祭神の遺文と、塾頭の地文と、判別する能はざる所あり。其の出典を探して正確を期さむと欲すと雖も、固より珍藏する所、洵に尠なければ、已む無く今『云々』として、祭神遺文を書しまつる。庶幾くば、有志の高批を俟つと、爾か云ふ。

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  • 第一章・信仰の卑俗化――二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月19日(金)21時38分42秒
  • 返信
 
■平成二十年十月十七日

第一章・信仰の卑俗化――二。

 それでは、遊就館上映『みたまを継ぐもの』と云う映画が、どれほど罪悪的な映画であるかをお話します。現在の靖國神社の運営をする者、それを取り巻く人々が、いかに靖國神社の歴史と伝統・正統を反古にし、昨今の参拝者に、新たなる靖國神社のイメージ、捏造に近いものを作り出そうとしているか。そうとしか考えられない、左翼的傾向に嵌りつつあることを、私は強く指弾したいのです。

 これまでにも、現在の執行部は、明治天皇聖旨の何処にも、社憲の何処にも存在しない、「悠久の平和を祈願する神社」と云う、靖國神社の新たなる性格づけを図って来ています。又ヒットラーやフセインでさえ祀られているかも知れない、神霊不在の忌まわしき「鎮霊社」――これは筑波宮司夫人の私的な信仰であった、世界平和と云う願いを叶えるための祠。世界中の戦乱で死んだ人たちを祀りたいと云う意向に、筑波宮司が境内の一角にそっと置いた、極めて恣意的な祠であったのです。その存在は、靖國神社創建の趣意にも反し、明治天皇の聖旨にもそぐわぬものとして、長い間、公開を憚って来たものです。松平宮司も大野宮司も、「触れるな」と、内部には通達していた。それを、現在の執行部が、勝手に世界平和を唱えるために利用、堂々と神社の玉垣を一部破壊までして、鎮霊社への参拝口を作ってしまった。先の奉賛会会長は、これを「靖國神社の末社」などと妄言を吐いている。畏くも靖國神社を、なんと心得ておったものか。あきれ果てる始末。これでは、全英霊は、やがては靖國神社を出て、伊勢と代々木と宮中だけを飛翔するのではなかろうか。

 更に歴史学者でもない一介の市井人岡崎某(備中處士案、久彦)なるものを呼び込み、遊就館に記載されていた歴史記述を大幅に変更――あたかも英霊が、世界侵略を起こしたかのような歴史記述に、巧妙に書き換えさせた。その罪は大きいと言わなければならない。こうした一連の策動を重ねていながらも、目の前にその破廉恥なる行為が、事歴があるにも関わらず、保守陣営は、誰一人非難・批判をしないどころか、へつらい、擦り寄るものばかり。学者・知識人・有識者は数知れず、密に群がる蟻の如しである。彼らの「靖国論」を見れば、いかに「靖国ファン」でしかないことが一目瞭然。まことに頼りなき人たちばかりである。これもあれも、皆がみな、学者と称する人も参拝者も、殆んど正鵠に靖國神社を理解していないことに原因があるのだろう‥‥と考えるしかない。

 手近かな所で言えば、靖國神社崇敬奉賛会が、今年で設立十年になります。それを記念した『十年のあゆみ』と云う冊子がある。この中に、各界から寄せられた声と云う頁があり、保守界に名を知られた――この業界だけに著名な名士が、ぞろぞろ名を連ねています。その数、三十七名。大半は戦後生まれ。ほとんどの著名者とは言わないが、大かたが「愛すべき民衆のために、自らの命を捧げた英霊」と云うような、架空の観点での祝詞を述べているものが目立つ。かと思えば、「自分の漫画で、靖國神社に参拝者が増えた」ようなことを自慢げに話す者もいるし、相変わらず念仏のように、×級戦犯がどうだこうだと宣伝する、まだGHQの亡霊に取り付かれた若手の教授も、後を絶たない。また「英霊追悼は心の問題」だと云う、フォークソング世代の大学教授が、適当な解釈をはべらしている。この三十七名の中で、「靖國神社に祀られる祭神・神霊は、天皇陛下の忠烈な臣民として、国民盡忠の証として、出征――戦死した賞嘆すべき人々である」のような趣旨のことを書いた人は、誰一人としていない。みたま祭の賑わいが嬉しいとか、なにかと「英霊、英霊」と口にする。祭神・神霊などの字句は、ほとんど見えない「靖国ファン」だらけ。つまり冒頭に書いたように、今の時代、「天皇」と云う言葉が禁句になったような価値観の人間しか、集まって来ていないと云う、終末的な情況を呈しているのです。

 去る夏の盛りに、戦前からの国粋団体である大東塾の神屋二郎さんが亡くなられた。その告別式で、長男の方が、「我が家は、これからも勤王の家であることを継いで行きます」と挨拶をされ、会葬者が感激したと云う話が、私のところまで廻って来ていますが、その勤王・尊皇の精神を語るのにふさわしい神域が、靖國神社なのです。だと云うのに、誰一人皇国を語らず、天皇を語らず、尊皇・勤王を語らない。もう、末期と嘆かざるを得ない。ヘボ学者・ヘボ知識人ばかりが、なぜにこうも靖國神社に集って来るのか――、類がいるからだろうと、最近は思わざるを得なくなっています。

 この『崇敬奉賛会十周年』と云う大事な冊子の中にさえも、靖國神社の正統、ないしは「間違いない歴史事実」を書かない時代になって来たと云うことです。崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」を一様に褒め称えているが、その中味は、「英霊ちゃん」と云う言葉が溢れ返っている、とんでもない「オタク連合会」。その実態を、どれだけの人が理解しているのか。少しは頭のまとな人は、どんどん辞めて行くと聞くと、思わずホッとする。このいいかげんさの充満した現在の靖國神社環境を、そっくり取り込んだのが、今回の『みたまを継ぐもの』と云う映画です。南部宮司以下、両権宮司は、浄財を使って、靖國神社がどのような神社であるかを、参拝者に話しかけている。参拝者を洗脳させようとしている、安直な神社であることを。では、内容を紹介しましょう。

 此の映画の主人公は、ニートの若者と身体障害者を励ますサークル活動に忙しい若者の恋人?の二人が主役です。この設定自体が、どうも首を傾げます。ニートとか身障者サークル‥‥。そしてニート若者のおばあちゃんが、大昔、大映の役者だった?と思う弓惠子が演じている。元従軍看護婦?らしき人物。このおばあちゃんが、どうも靖國神社側のメッセンジャーとしての役割を果たしているようだ。話の中味はかったるいので、詳細は省きますが、ともかくニートの若者が、おばあちゃんの代わりに、靖國神社へお参りしてくれと頼まれる。が、本人は行きたくない。それを一流大会社の役職にいる父親が一万円を渡し、「行って来てくれ」と頼む。それで、しぶしぶと恋人と一緒に靖國神社に行くのだが、この恋人は完全な「靖国ファン」で、彼女の部屋の書棚には、靖国関係の書物がズラーと並べてある。笑える。この彼女と二人で境内を歩くシーンは、不思議な演出だ。境内には、誰もいないのだ。真っ昼間だと云うのに、人っ子一人いない。だあれもいない。不気味なほど人がいない靖國神社を見たのは、初めてだ(参拝者を長時間排除して撮影したのでしょう)。寂れ果てた靖國神社の姿である‥‥。どうしてこう云う映像を作るのか――、私の心には批判の芽がぐじゃぐじゃと、鑑賞中に這い登って来る。そして拝殿前で、二人は二礼二拍手するのだが、なんと、女性はただの「はくしゅ」ではなく、普通の「ファン」では絶対に知らない、指先を最後にそろえる「かしはで」を打った。誰がこんな指導をしたのか。ところが「はくしゅ」ではなく、「かしはで」を打った女性であるにも関わらず、大きなバッグを肩にかけたまま拝礼したり、拝殿前で唾を飛ばして、長々とバカっ話しをすると云う、チグハグな演出。一体、この女性は、崇敬奉賛会会員なのか、ただの「ファン」なのか、性格設定がまったくわからない。そして遊就館に入る二人だが、ここでの会話がふるっている。女性は「むしゃくしゃする時には、いつも遊就館に来るの」と云う台詞を吐く。別に英霊がどうとか祭神がどうのではなく、「むしゃくしゃした時に来る」だけらしいことが、観客には伝達される。何故に「英霊の声を聴きたくて来るんです」と、まともにしゃべれないのか。参拝者の教化をしないのか? 疑問は、どんどん膨らむ。そして、な、なんと、驚くべきことが、このニートの若者に起こる。入口の戦闘機や機関車、あるいは陳列した武器や遺品などを見ても、なんとも感じなかったダラダラアンチャンが、英霊のずらりと並んだ写真・遺影を見た瞬間、顔つきが変わってしまうのだ。きりっとした表情の祭神の顔、顔、顔――。これを見た瞬間、若者は、瞬時に変革してしまう。忽ち覚醒。崇敬奉賛会員の如くに、変身。翌日からダラダラシャツを脱ぎ捨て、ワイシャツにネクタイ紺スーツで、町中を胸を張って歩くと云う素晴らしさ。これはコメディーなのかと、一瞬思った程だ。一体、何が起こったのか観客にはわからない。ともかく若者は、遺影にしびれたようだ。遺影でニートが変革すると云う設定も悪くは無いだろうが、あまりに安直、ご都合主義ではないか。その幼稚な設定に、溜息が出る。こんな映画を作るのに一年掛けたと聞いたから、驚きは重なる一方だ。

 父親は自分の勤める一流会社に入社できるようダンドリするが、彼は憤然、蹴っ飛ばして、「オレは、自分の力で生きて行く」。それを英霊に教わった風なことを言って、対立する。そして恋人の父親が経営する町の喫茶店の従業員として働き出すのだが、月給はわずか十万円。これで生活して行くのは大変だなと思ったら、彼は父親の豪邸に住みながら通勤する(なんだ。じゃあ、給料十万円と云うのは小遣いになるだけで、寝る喰うは、豪邸の我が家で済ますと云う、とんでもない若者)。つまり彼は、相変わらずニート状態と変わりはないのだが、そのことは自覚していない様子。製作者・監督も、皆、彼が英霊によって覚醒したと云う設定で、話を進めて行く。こちらも主人公同様、呑気なもんだ。彼は、その後、恋人の身障者サークルにも出入りし、人気者となる。ここら辺は、退屈極まりない。そして、ついに父親と大喧嘩する。この時、若者は父親に向かって、「靖國神社の英霊に対して、恥ずかしくないか!」みたいなことを叫ぶ。つまり父親の金、金、金の人生哲学に対して、英霊を引き出し、そのまっとうでないことを罵る! ここが山場だ。この映画の主題がなんであるか――、製作者が主張する場面である。父親は叫ぶ、「何が英霊だ、靖国に何があるんだ!」と言い返す。若者は、「靖国に祀られる全英霊は、家族のため、友達の為に戦い、皆、そうやって死んでいったんだ!」と、下手な芝居を始める。私は、鑑賞の途中からメモを取り出して書いたが、一字一句正確ではない。大意です。とにかくこう云う台詞をしゃべっている。今でも耳に残っている。「靖国の英霊は、みんな家族のため、友人の為に戦い、死んでいった」と。これは何処かのプロダクションが、勝手な解釈で作った映画ではなく、靖國神社が浄財をつぎ込んで製作した映画です。その映画の中で、「天皇」と云う言葉は一回も出て来ていない。天皇の為に、お召しを戴き出征した――、なんて話も、ゼロだ。「英霊は、家族のため、友達の為に戦った!」 靖國神社を初めて参拝した人が、この映画を見れば、この映画は、靖國神社が企画・製作したのを知っているわけだから、正統な――メッセージが描かれていると思うに違いないのです。観客は、「そうか。靖國神社に祀られている英霊は、家族のため、友達の為に戦ったのか」、なんと素晴らしい先人ではないか。オレだって、家族のため、友人のためなら、恋人のためなら戦ってもいい‥‥、と、思うかどうかは知らんけど、まったく創建の趣旨でもなく、明治天皇の聖旨でもなく、社憲にも書かれていない、「家族のため、友達の為に」死んだ英霊が祭られている――ことを、この映画は主張している。更に最悪なことは、激怒した父親が叫ぶ、「英霊は、皆、犬死したんじゃないか! 戦争なんかで、みんな死にたくなかったんだ」と、痛烈に叫ぶ。父親にしては、迫真の演技だ。此処だけ大根役者が、新劇人並みの演技を見せる。「英霊は、皆、犬死じゃないか!」と。どうしてこんな台詞を、監督は、監修者は、製作者は、靖國神社は言わせたのか‥‥。これに対して、「違うよ、犬死ではないぞ!」と反撃してくれるのかと思いきや、元内地勤務の看護婦経験のおばあちゃんが出て来て、「そんなこと言うもんではありませんよ」の一言で、オシマイだ。それは無いだろう――と、憤然たる思いで、私は忍耐強く鑑賞を続ける。若者は言う、「(確か‥‥)戦争なんかなくて、笑って助け合って行けるなら、その絆を守るためなら、なんだって出来たんだ。命をかけられたんだ。日本人は、皆、そうだったんだ」と、若者が叫ぶのだが、もう一つ、要領の得ない台詞だった。どうも家族の絆を守るために、みんな戦争に行った‥‥ようなことを言いたかったらしい。すると、おばあちゃんは、何と言ったか。「それが、靖国のこころよ」と言ったのだ。唖然である。

 天皇は、何処へ行った。皇軍は、何処へ行った。東條英機よ、出て来て、なんとか言ってくれ――である。これでは、英霊が哀れである。私は、悄然とした。最早、救いの手は無い。靖國神社さえも、最早「天皇」を言わなくなった。明治二年、東京招魂社創立の際の祝詞には、なんと書かれていたのか。

天皇が大御詔に因りて、軍務(官)知官事宮・嘉彰、白さく。去年の伏見の役より始めて、今年、筥館の役に至るまで、國々所々の戰場に立ちて、海行かば水付く屍、山行かば草生す屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てずと、言立てゝ、身も棚知らず、仕へ奉りし將士の中に、命過ぎぬるも多なりと所聞し食して、其の人等の健く雄しく、丹心持ちて仕へ奉りしに依りてこそ、如此く速かに賊等を服へ果て、世も平けく治りぬれ、專ら其れが功ぞと、哀れみ偲び、此の清所に、宮柱太敷立て――。

 同年、右大臣・三條實美参拝の際の奉読祝詞には、なんとあったか、

皇軍に死(まか)れる輩の靈の前に白さく。汝等は、靈幸ふ神の御代より、樛木の彌や繼ぎ々ゞに、天下知し食しぬる我が天皇の大御代と共に、久しく言繼ぎて、臣たる人の鑑となす、押日命の言立ての、海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大王の上にこそ死なめの、其の事業を、今の現に取り行ひて、所は變れども、心は一に、皇軍に役立てして、賊徒等を討むる、其の戰に、痛手負うて命果てぬる輩なれば、上も下も、憐きの靈よ、尊きの靈と、言ひ慕ひ思ひ哀れみ畏み祭る、此の祭を受け辱なみ、千世・萬世、天翔りて、動かず變らず、大御世の御爲めとすらむ靈とぞ、思ひ慕ふになむ。

 大東亜戦争終戦の八月十五日、陸軍大臣・阿南惟幾命は、「一死、以テ大罪ヲ謝シ奉ル、神州不滅ヲ確信シツツ」の遺書を残しての割腹自決。阿南さんは、何のために腹を召されたか――。女房・子供・友人のために、腹を切ったのか――。

 この『みたまを継ぐもの』を作ったものは、靖國神社を食い物にする蛆虫だと、私は明言したい。この映画は、「靖国の英霊は、皆、犬死じゃないか!」と、父親が叫んだ一言が残ったまま終了する。とんでもない映画だ。また恋人の女性が、英霊の遺影から覚醒した若者に、最初に渡した教科書が、なんと『雲流れる果てに』である。反戦思想そのものの本を渡して、恋人は言う、「これを読みなよ。靖国の英霊がよくわかるよ」と、意味深げに言う。渡すべき本なら、『英霊の言の葉』もあるし、『やすくにの祈り』もあるし、『いざさらば我はみくにの山桜』もある。よりによって、反戦本『雲流れる果てに』を渡すとは、絶句である。しかも本の大写しだ。これぞ、靖國神社の英霊を理解する入門書だとばかり。冷静に見て‥‥、この映画は何処から見ても、共産党の作った映画でしょう。サヨク映画でしょう。憶測すれば、山口権宮司は、昔から『雲流れる果てに』が大好きで、同名の鶴田浩二主演の映画『雲流れる果てに』を、遊就館で上映したくて仕方がなかったそうだ。若い神職が、何度も「それは駄目です」と諫言したと云う風聞を、あちこちで耳にしている。もしかしたら、この『雲流れる果てに』の本を英霊入門書として、若者に渡すシーンのアイデアは、山口権宮司が言い出したのか‥‥。ふと、思ったりもした。

 山口権宮司と云えば、例の神門横の樹林を伐採して、一億円かけて便所と休憩所を作る計画を立て、公告までした担当権宮司です。幸にも主権回復を目指す会の西村修平代表の、壮烈な反対運動の実行により、公告を取り下げ、便所工事は一時中断と云う形になったが――。その騒動がまだ耳新しい中で、いつのまにか、今は、大手水舎・能楽堂が老朽化したとかの理由で、大掛かりな改修工事が進行中だ。これ以外にも、相撲場全体の整備とか、更には崇敬奉賛会のためらしい「靖國教場」(仮称)の新築も予定されいる。松平宮司が、将来の靖國神社経営のために貯蓄し続けた浄財が、惜しげもなく、現執行部――南部宮司になり変ったとたんに、湯水の如く消費続けられている風に見えてならないのだが‥‥。

 もう一度、『みたまを継ぐもの』に話を戻します。この映画の監修である國學院大學教授大原康男氏は、一体全体、なにを監修していたのでしょうか? 靖國神社の、なんらの正統な話も表現されていない。――むしろ遺影で、瞬時に覚醒した若者の架空話しを映像化した、真の理由は何か? 私は、この映画製作で、一体、誰と誰が得をしたのか、ふと考えたくなるような八十分だった。映画の最後の方で、遺書めいたものが紹介されるが、時に兵隊さんたちが、ざれ言葉で詠んだような歌が画面に書き出される。誤解を呼ぶような字句ばかり。「出撃の時間来るまでへぼ将棋」、「諸共と思えばいとしこのしらみ」、「きんたまはたれているぞと友笑い」‥‥こう云うことを、わざわざ大文字で画面に大書して紹介する、このクソバカ製作者の神経が、私にはわからない。そしてニューギニアに撮影に行ったスタッフや出演者の記念写真が、どう云うわけか、エンディングに延々と映し出される。映画の中では、ニューギニアの映像は出て来ない。この映画製作で金が余ったので、遊びに行ったのか? 観客にサービスで見せているのか、意味が不明だが、みんな「くたばりやがれ!」と云う台詞しか、出て来なかった。

――神は非礼を受けず――

ここでも、やがて罰当たりが出現するだろう‥‥と、思わざるを得ない。土台、『みたまを継ぐもの』の意味が不明だ。「みたま」とは、神霊のこと。靖國神社では、国家に捧げた忠魂を、これまで「みたま」と呼んでいます。そしてその「みたま」の尊い「みこころ」を次世代に継いでもらうことを目的として、神職は、奉賛会は、参拝者の教化をするよう督促されています。その「みこころ」とは‥‥、一言で言えば、「後に続け」であり、賀茂宮司が、鈴木宮司が、松平宮司が、言い続けてきた「一旦、事あれば、一命を差し出す」と云うことなのです。この心を国民から抽出するために、明治天皇は、皇軍兵士の「いさおし」を祭り、神霊を奉慰顕彰することを命じたのです。このことは再三お話したし、これからも幾度も話す心算です。靖國神社に参拝する人は、英霊に感謝を捧げるだけでは足りないのです。奉慰顕彰するだけでは、祭神の満足を得ることは出来ないのです。英霊の武勲を褒め称え、英霊の功績をつまびらかにしているのは、参拝者、国民総てに、盡忠の精神を抽するためなのです。天皇に、この國のために、「いざと云う時は、一命を差し出す」、その誓いが必要なのです。それが、明治天皇の聖旨であり、歴代天皇の靖國神社行幸でもあるのです。この原点、根幹を誰も把握していないから、「靖國の心は、日本の心」とか、「英霊の御心を大切に」とか、「明治天皇の思いを伝えましょう」、「ご英霊の気持ちを大切に伝えましょう」など、本人がまったく掌握していないことを暴露するような、曖昧模糊とした、抽象的な言葉しか出て来ないのです。先ほど紹介した『崇敬奉賛会十年の歩み』に寄稿した三十七人の有識者、元軍人も含め、誰一人、このことを理解・把握していない。つまりは「なっちょらん」連中だと言えるのであります。

 さて矛先を、もう一度、靖國神社執行部に向けましょう。神社の宣伝広告費は、従来から宣徳費が受け持つものと決まっています。宣とは、天子や神の言葉。みことのり。詔。宣命と云えば、天皇の命令を宣(の)べ聞かせる意味です。そして徳とは、人を感化する力。めぐみ・神仏の加護を言います。即ち靖國神社が、靖國神社を大切に思う国民からの浄財によって、靖國神社に祀られる祭神の言葉、あるいは徳・神の加護・めぐみ、それらを通して人を感化させるための宣伝をする――、それが宣徳費なわけです。「英霊は、皆、家族のため、友人の為に戦った」と捏造した映画、「英霊は、皆、犬死だ!」と云う台詞を放置したままの映画、「むしゃくしゃした時に遊就館に来るの」と言わせた台詞、誰もいない寂れた神社境内の描写――。これだけ英霊不在の映画を、靖國神社が企画・製作し、國學院大學教授が監修した「クサレ映画」に、何故、貴重な私たちの浄財が使われなければならないのか――。告訴に値する映画――。これを崇敬者は許しておいていいものか、それを問いたい。明日から例大祭が始まります。全祭神が、お見えになられる。今上陛下の勅使が参向される。祭神が、どのような判断をされるのか‥‥。靖國神社を覆う雲を、私は大いに感じるのであります。

 崇敬者の教化育成費がドブに捨てられ、飲み食いにしか使われていない――、私はそう判断した。破廉恥極まる台詞まわしと、主人公達の言動。製作者は、何を画策しているのだろうか? 南部宮司、三井・山口両権宮司、そして総代会は、その役割を果たしているのか? 私は、今後、この九段塾を、『靖國神社正統崇敬奉賛会』としての位置を明確にし、全国の神職を始めとする憂国者の集まりの場所として発展させて行きたい。参拝者を一向に教化しない靖國神社に代わり、九段塾が、靖國神社の正統とは何かを広めて行きます。靖國神社は、浅草寺とは違う、観音様とは違う、金比羅山とは違うことを、徹底して語って行き、実際にあらゆる宣伝媒体を使って、国中に知らしめて行きたい。愚弄な人間からの罵倒はあるだろうが、相手にはしない。正統を知るものは少ない今日、九段塾がやるしかない。そのうち、理解者が次第に集って来ることを願うだけである(まだ、このあとがありますが、明日になるでしょう)。
 

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  • 第一章・信仰の卑俗化―― 一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)19時20分32秒
  • 返信
 
■平成二十年十月十四日

 それでは、これから、靖國神社に関わる記述を始めようと思います。

第一章「信仰の卑俗化」

 戦後六十年を過ぎた現在、靖國神社の正統が、見えなくなりつつあります。靖國神社創建の大きな柱を一言で顕わせば、それは、尊皇であり、勤王であろうと言えます。尊皇・勤皇の思想が、精微に結晶した崇祀の現われが、靖國神社である、と云っても過言ではないでしょう。即ち靖國神社は何か――と問われれば、それは尊皇であり、勤王である、と。早くに申せば、天皇である、とも。これをまず脳髄の底の底まで染み込ませれば、順次、靖國神社がなんであるか、その正統とはなんであるか、常人であれば、容易に理解へ達せられるであろうと考える次第です。逆に言うと、今日、このことが、まったく語られていないが為に、国民一般に、靖國神社への理解が届かず、また参拝者に通じていないが為に、昨今の靖國神社境内外が、神なき域と化して、傍若無人の闊歩を許し、敬憚(けいたん。うやまいはばかる意)なき衆人を集め、清楚・清涼は見えず、静謐なき公園と化する現状を披露していると考えられます。

 更に肝心の靖國神社に奉職する宮司・権宮司以下、神職・職員一同にも、またこのことを理解する人材少なく、徹底浸透が果たせず、その為に、祭祀厳修が守られず、参籠時に於ける不逞不遜の始末をはびこらせている。また参拝者への教化が、全くと言っていいほど為されていないがために、自由なカッテな解釈がまかり通り、靖國神社の境内外を畏れ多くも猥雑化し、卑俗化への進行を甚だしいものとしている。私は、そう考えております。「神は非礼を享けたもうず」。このことの意味が、まったく理解されていません。その現象面は、散々、桜の掲示板で書いてきましたが、また詳細は追って印すとして、いま重要なのは、戦後、靖國神社は宗教法人となったが、その根底にある姿・形は、一向に変化していない――と云うことへの理解にほかなりません。

 日本が戦後、連合国の占領下から解かれて独立した際に、あらためて靖國神社の進路を策定した社憲を、皆さんに読んでいただきたい。そこに何が書かれているか。

『靖國神社社憲』昭和二十七年九月三十日達
本社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、国事に殉ぜられたる人々を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治二年六月二十九日創立せられた社である。いやしくも本社に職を奉じる者は、その任の軽重、職域の如何を問わず、深く本社を信奉し、祭神の御徳を体し、清明を以って、その任に当り、祭祀を厳修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、以って万世にゆるぎなき太平の基を開き、本社御創立のよって立つ理想の実現に、一意邁進しなければならない。

誠に立派な御文章である。これを書いた人が誰であるかは、最早、現在ではわからぬことになっている。だが、間違いなく、連合国の占領下に一時身を置いても、靖國神社の姿、中味は全く変わらずに、戦後に歩みを続けている、その証左を示した社憲ではないでしょうか。だが、この社憲に謳われた誓詞の実行は、ある時期まで‥‥であった、と。松平永芳宮司・大野俊康宮司の代で終わりを告げた、と――諸人は言う。現在、社憲に反する悉くのことだらけである。

 戦後、日本国の象徴となった天皇ではあるが、その全てに奪われた天皇大権の中で、唯一、継承されているものがある。ほとんどの人が気づいていないだろうと思います。実は天皇が、靖國神社に行幸(親拝)すると云う事実――、このことが天皇の大権にあること。即ち靖國神社の祭祀は、天皇に帰一すると云うこと。天皇御一人の祭祀。それが天皇の皇軍将兵を祀る靖國神社の本質であるとも云えるのです。天皇の臣民である忠烈無比の皇国軍人・盡忠の国民を祀る靖國神社への参拝(行幸)とは何か――。それはまさに大元帥陛下としての機能を果たすためでもあり、天皇の治める國――即ち食国(おすくに)の政事を自ら執り行う歴代天皇と変わらず、現在もなお此の国が安国であることをしろ示す為であり、また神々に御自らの赤誠を示すためでもあるのです。

 戦後、生きて戦陣から還って来た戦友さんたちが、靖國神社への天皇陛下の行幸――親拝を、心からお待ち申し上げたのは、それは大元帥陛下としての御姿を、此の目で、しかと見たかったからです。戦前に賀茂宮司が、鎮座五十年祭時に、天皇行幸をお願いし、それがお認めになられ、大正天皇行幸が叶った時、賀茂宮司を多くの軍人たちが胴上げして、喜びを顕わしたエピソードが残されています。ひところ、総理大臣の参拝が騒がれたが、天皇が靖國神社に参拝(行幸)するのは、国民の一人である総理大臣が参拝するのとは、わけが違うのです。勅使に御幣帛を持たせ差遣わすのも、天皇自らが行幸するのも、この九段の杜に祀られる二百四十六万六千余柱の神霊が、皆、皇基を支え奉った国民――臣民の忠義忠魂であることをお認めになり、そのいさおし(武勲)を照覧し、現在も、君の為、国の御為に、仕え奉っていることを確認することで、皇祖皇宗・天神神祇に、此の国が安国としろしめすことに他ならないのです。これが天皇の祭祀の意味です。靖國の祭祀を正統に継続・継承することで、天皇はただただひたすらに此の国が安国であることをしろしめすことが出来るのです。英霊が、此の国を守護奉っているのです。

 先にも述べたように、「靖國に祀られる神霊は、国家の生命に、己の生命を継ぎ足(た)して来た」脈々の事歴が存するのです。再掲すれば、海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、戦いの庭に出で、奮闘し末に、あるいは痛手負いつ命を果てた、我らが先人が祀られています。この、殉義死節の精神を涵養せしめ、拡充して、国民に振作し、教化する。国民は、頭を垂れることで、神前に誓うことで、祭神の神威に触れ、臣民の忠節を興し、進んで國を守護する生命を引き出す。そのことが、国家の安泰を磐石とする。このことのために、靖國神社は護国の祭祠として、天皇の大命により創建せられた。即ち天皇の神社といわれる由縁であるのです。

 何度でも言いましょう。戦時事変に忠死せる皇軍――陸海軍軍人・軍属。それ以外にも、維新動乱期の志士や町民・農民・神職・僧侶・烈女・子供も祀られる。近代以降には、地方官・外交官・警察官・看護婦・水夫・従僕・職工――自己の生命を国防に捧げた、多くの国民が祀られています。靖國神社は、帝国臣民全般を氏子とするが、その氏子総代=崇敬者代表として、祭神と最も密接なる関係を有する軍人を以ってすることが至当とされた。そのために、明治天皇は軍人奉仕を命じられた。勅使祭文に、「武官ニ命シテ齋ニ奉ラセ給フ」とあります。軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する――と。これを、三代目賀茂百樹宮司は、下記の如く顕わしている。

義勇、公に奉じ、天壤無窮の皇運を扶翼し奉り、生きては不滅の勳業を建てゝ、國家を泰山の安きに置き、死しては不朽の感化を埀れて、極天、皇基を守護し給へるが如き、わが大和民族の標識として、千木高く雲際に仰がれ、國家元氣の神藪として、宮柱動きなく、萬世に齋はれ給ふ。斯かる特別神社なれば、自ら一般の神社法規を以て律すべからざるものあり。

即ち靖國神社は、軍人教化・国民教化・社会教化――を旨ともするのです。賀茂宮司の後を継がれた陸軍大将鈴木孝雄宮司は、斯くのように国民の拝神、参拝の心得を説いている。要約する。

靖國神社に参拝するにしても、国民は、心得として靖國神社の神様に対して誓わなければならないという、一つの責任を持っています。それは、この神社に祀られる祭神は、いずれも自分の身を犠牲にし、一念、国家よりほかの事はなく、此の国を守護されてきた方達ばかりです。言い換えてみれば、靖國神社の神霊は、国家そのものに、終始、加護を与えているということになるわけです。国の安泰を、終始見守っているわけです。ならば、我々国民としては、この神様に酬いるための考えが出なければならない。つまり此の神様に対して誓いを立てて、自分の身を処していくという覚悟が起きてこなければならない。此の神様は、いずれも責任観念の深い神様なのです。この神様に誓いをしていただかねばならない。各人の自覚と責任です。それは、即ち今日の国家にご奉公していくという考えが必要であり、これが靖國の祭神に対するところの、我々の務めでありましょう。

と。そしてまた戦後に於いても、松平永芳宮司が、「靖國御社頭での祈りとは、誓ひだ。御霊と同じやうに、いざといふ時は、国に命を投げ出します、といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御満足は得られない」と、常々口にされてた、その言葉に繋がる。受け継がれた血脈が、此処にある。国民の生命と国家の生命の継承の継手が、ここに在るのです。そして鈴木孝雄宮司は、なおも言う。「いざという時には、一命を捧げます――という、立派にその誓いができれば、ここに初めて神明の加護――神徳というものを考えることが出来る」と。即ちただ神明の加護をお頼みしますでは、神徳は授けられない。「神明の加護というものは、参拝者自身が、自らその加護を受けるようにしなければ、加護は参拝者には現われない。神頼みをするには、神様がお授け下さるように、自分自身も、そうしなければならないのです。国に奉公された祭神同様、いざという時には此の国にご奉公するという誓い」、それがあれば、御加護――御神徳を受けられると云う。以上の如く、事歴に刻印されている、靖國神社の精神。これが、靖國神社を参拝すると云う意味なのです。ただ英霊に感謝する言葉を述べるだけでは、参拝の意義はありません。英霊の心に届かないのです。遊就館を見学し、祭神の遺書を読み、涙を流すだけでは足りないのです。「誰が泣いてくれと言ったか」、祭神に叱り付けらることでしょう。「後に続く者を信ず」、これだけを参拝者に、全祭神は願っているのです。靖國神社は、一般の神社とは違うのです。参拝者なりの解釈ではなく、天皇の創建の意味、歴代宮司の参拝心得を、よく拝命実行することが、平和時の現代にあっても、日本国民の一人として為さねば、靖國の大神の心は、ご満足なさらないのです。

 それを正確に、今、現在の靖國神社宮司・権宮司・神職・職員一同が、胸に刻み込んでいるのかどうかですが、また国民一般が理解しているかどうかなのです。答えは、否であろう。その証しは、今、現在、靖國神社遊就館で上映されている靖國神社企画・製作の『みたまを継ぐもの』と云う映画内容を見れば、歴然でありましょう。かって靖國神社中興の祖と、若き神職に敬われた六代目松平永芳宮司は、

伊勢と代々木と九段のお祭りは、絶対に守らねばならない

と言われた。伊勢は神宮、代々木は明治神宮のこと。それほどの九段の靖國神社である。護国の柱を祀るがためである。此の『みたまを継ぐもの』なる映画は‥‥、一体、何のために作られた映画であるのか――。靖國神社が何千万円を此の映画の製作費として費やしたかは知らねども、どの会社が、どの人物が、どれほどの金額に預かったかは知らねども、参拝者浄財をもって製作されたものに間違いはない筈。にも拘らず、作品内容は、敬神はうわべのみであり、実在の英霊の事跡は、ほとんど語られず、架空の世界の若者が、年寄りが、カッテな解釈を垂れると言う、最悪の映画に仕上がっています。此の映画に語られていることは、まさに靖國神社の創建以来百三十余年の歴史が埋没し、奉職する神職が、悉く濁世に染まる実態を表しめたものであろうと推察できる、愚弄作品と云うしかない。本質は、何一つ語られていない。そればかりか、誠に歪められ、卑しき言葉の俎上に載せられたまま終了すると云う、極悪粗末な作品でしかない。後で詳しくお知らせしますが。今日の参拝者の教化を怠り、自由気楽な参拝者を現出させた靖國神社執行部の責任の所在を、如実に反映させた映画内容でもある。また神社有職故実を置き忘れてきたかのような靖國神社奉職者の反映が、此の映画のストーリーともなっている、私はそのように受け取っている。即ち靖國神社の境内外に溢れんばかりの信仰の俗化・卑俗が、そのまま此の映画の全編にはびこっていると云う、忌まわしき映像である。――まさに有り得るべき言葉ではないが、告訴に値するべき映画内容である。國學院大學の大原康男氏が監修となっている。靖國神社が企画・製作する映画に、何故、一大学教授でしかない大原康男氏が、監修と云う大役に名を出しているのか、その起用にも大いに疑問符がつくことであるが、靖國神社は、此の映画を、いつまで、英霊之館である遊就館で晒し続けるのか――。参拝者は、ようくこの映画を見ればよいでしょう。いかに現在の靖國神社執行部が、その本質を忘却し、祭神をないがしろにしているか――、その俗塵にまみれた精神であるのかを、容易に指摘できるものであろうと考えます。到底、聞くに堪えない台詞の横行、表現が、至る所に現出している。私は、これが靖國神社が、真に企画・製作したものであるならば、南部利昭宮司・三井勝生権宮司・山口建史権宮司、このお三方を順に上から‥‥、心ならずも、早々にご退任いただく事を、切に希望するものです。

 今、ことあるごとに南部宮司は、「いずれ、靖國神社を国にお返しする」ことを言明されています。一体、その狙いは何か? 靖國神社は、皇軍兵士・軍属、及び皇軍に協力せしと認められた一般人・女性・子供まで祀られている、別格官幣社です。社格は、戦後に削り取られてはいるものの、中味はなにも変わっていません。天皇に忠魂を捧げた「いさおし」に対し、帝国の神祇として、天皇が祀られ、祭祀している神社です。その国民盡忠の精神の祭祀が、明治二年創建以来、面々と継承されています。天皇御一人の神社である。軍隊なき現在の日本国が、軍神を祭る靖國神社を、果たして護持でき得るものかどうか――。否、平たく申せば、理屈に合わない話ではないでしょうか。天皇の大権に基いて祭祀が行われている靖國神社を、国に帰せば――「靖國の名は留め置くも、祭祀はしない」と云うのが、カッテの靖國神社国家護持の中味でした。それだからこそ、松平宮司は、国家護持に猛反対の声を挙げ、盲目に国家護持に賛成する幾多の戦友会とも、ひるむことなく正統を論じ、戦ったのです。また最近、めっきりと言われて来た「自衛隊員を祀れ」と云う声が勢いを増し、濁酒混迷するように、次第に高き波として集って来ています。これも、靖國神社の正統をないがしろにする者共の話でありましょう。こうした現今の靖國神社を取巻く環境は、正統を維持する志操を、黒雲のように覆い出しているのです。そのことを祓わんが為に、この「九段塾」が作られたことは、再三にわたり語っていることは、もう閲覧者は承知のことかと思います。そのための第一章「信仰の卑俗化」です。では、まず少し解説しましょう。

 この『みたまを継ぐもの』と云う映画について。まもなく秋季例大祭があります。全祭神がお見えになります。どのような不見識な映画なのか、これに関わった者どもがどのようなものであるか、それを含めて、これから物語を略記しながら、正統な祭神神話の幾つかをお話いたすとしましょう(とりあえず、ここまで)。

 追記。なおいまだ筆法、定まらず。いかようにするか、思案中。また書き下ろしのために、読後、文章の改訂・追加などが、頻繁にあると思います。そのために、書き出しの前に、文章更新日時を書きます。何処が更新した箇所かを説明するのが最良なのでしょうが、煩雑になる恐れがあるので、それは無しにしました。更新日時が新しくなっていたら、また頭から眼を通して下さい。それを繰り返すことで、一層、よく理解されると思いますので。



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【參考・明治神宮と靖國神社との御關係
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■賀茂百樹宮司『明治神宮と靖國神社との御關係』昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm

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  • [9]
  • 九段塾、正統の行き着く峰は――。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月17日(水)18時39分29秒
  • 返信
 
■平成二十年十月十日

九段塾、正統の行き着く峰は――。

 さあ、皆さん、それではこれからいろいろお話をして行きましょう。この『九段塾』と銘打った掲示板を、備中處士さんが、私のために立ち上げて下さった。此の掲示板で、好きなことをおしゃべり下さい――と、この方は立ち上げたわけではなく、チャンネル桜掲示板で語っていた「靖國神社の正統論」が、スレッドとは関係のない者達が勝手に飛び込んで来て、ドンチャン騒ぎをしたために、正統論が途中で立ち消えてしまった。それで、ここでゆっくりお話し下さい――と、作ってくれた掲示板であろうと考えている。だが、今はゆっくりお話しする気はない。戦いの心算で書いて行く。

 桜では本当に、まったく看板に偽りのエライドヤ街に踏み込んでしまったと思った。「答えよ」、「胡乱な奴め」、「文は人なり」、「お前は妄想教祖だ!」と、まあ、あっちこっちから絡み付かれました。閲覧者なら、誰でも承知のことでしょう。わーわーと、ワルガキが群がって来る中を自転車で走り抜けたかったが、後ろからズボンを掴む者、弁当の残りをぶつけて来る者、待て――と、とうせんぼする者もいて、面白いと云えば面白かったが、ただその間、正統論を最後まで書くことが出来なかった。だが、私が書く中で、この掲示板を立ち上げた管理者殿の備中處士さんや、弁説豊かな○○さんと云う稀有な方も現れて、高論を書いて戴いた。備中さんは、私の話をもっと聞きたかったと云うが、私の方こそ、お二人の披露する先哲の文を読みたかったし、竹屋・○○○○・○○・○○○○さんなど、各氏、面白い論点からの話を聞いていたかった。だが、桜掲示板に集う面々が主催した「靖國神社境内を闊歩する」話や、水島総監督が製作する「南京映画のビラを、大鳥居周辺でばらまくチラシ作戦を非難・注意・批判」をしたり、「境内で取材中に、桜のスタッフは喫煙などするな」――と書いたりもしたために、どっと悪たれ連合会に囲まれてしまった。伝統――正統を守護せよ!と、何度も幾度も、手を変え品を変え話したが、聴く耳を持たなかった。なにかと、草莽、草莽と叫ぶが、「草莽」とは、勤王を表す言葉と云うことも、どうも承知していなかったようだ。御大の水島監督も、とうとう靖國神社に祭られる昭和殉難者を、「七人の死刑囚」と呼ぶ題名の映画を作ってしまった。此の映画を南部宮司も、また、祭神の館である遊就館で、四月と八月の一ケ月間、入館者に上映をさせた。この人は、今は防衛省に入りびたりだ。自衛隊員を今後、祭る気なのか? おだてに乗らなければいいと思うが(今後、九段塾でも深く追及する心算だ)。

 私が、桜の掲示板を見限った原因となった此の映画について、少し触れておきましょう。此の映画は、「何の影響力も人に与えない」と確信している。彼等の掲示板を見ると、全国津々浦々で上映会が開催されているようだが、それだけのことであろう。祭神の加護を享けないものは、自滅しかない。もともと映画を作ったぐらいで、南京問題が解決するなら、誰も苦労しなかった。それでも、あえて映像を情報戦略として使うなら、啓蒙か宣伝かどちらかを、明確に、強烈に、打ち出さなければ、効果はないだろう。何の影響力も与えない。第一次大戦後、ポスターなどの印刷物に加え、映像を自国の宣伝工作として、欧米各国が戦意高揚のため、国民の正義を抽出させるために、大いに利用し使い出した。我が国でも、雑誌・宣伝ポスター・映像を使い、国民の精神を集中・結束させる、様々な方策が採られている。それは、みな成功している。観客に影響を与えたくば、「衒いなく、威風堂々と描く」、それが根幹だ。ポスターでも映像でも、「戦い」が描かれていないものは、影響力をほとんどもたない。昭和殉難者を理解していない。何故、松平宮司が、祭神として靖國神社に昭和殉難者を祀られたかを。破邪顕正の剣が振るわれていない。映画の途中で見せられた、実際の東京裁判での米国人弁護士の演説に感動したと云う声が、ずいぶんあったようだが、あれは本物だ。別に此の映画がなくても、米国人弁護団の演説は、役割を充分に果たしている。本物だから、感動するだけのこと。製作者が、嬉しがることではない。靖國神社は受難者を、一切祀ることはない。祭神の加護を享けていない映像になっている。そのダークな思考が題名となり、観客の心に重くのしかかる。勇気と感動と誇りを与えない映画は、僅かに沈下した情操に絡みつくだけで、情緒に泣きつくだけのものとなる。奮い立つものが、影響力を持つ。それがなければ、振作しない。演出者に「理解が及んでいない」ことが、原因だろうと思う。

 靖國神社の境内外で宣伝チラシを配布し、募金支援活動を行い、はたまた大鳥居の参道を死刑囚の身なりをさせたまま歩かせるなどの演出で、観客が発動するわけがない。陸軍大将の軍服を着て、威風堂々、凱旋させる映像を見せるなら、観客は、東京裁判が間違った裁判――、あらぬ復讐劇であったことを理解するだろう。昭和殉難者は、連合国の裁判官により極刑の審判を下されても、それは敵国の裁判であり、致し方なし。されど、天皇の忠烈無辜な臣民として、大東亜の戦域で戦った幾多多くの皇軍将官将兵――極刑七人の殉難者を含め、昭和殉難者は、威風堂々、軍人は軍人の身なりをして、文官は文官の身なりをして、大菊花を刻印した靖國神社――深夜、天皇の神門を通り抜け、天皇のニワに凱旋する光景を描くなら、ゴチャゴチャ言わなくても、映像で、東京裁判も南京大虐殺の話も、日本人は今も、そんな話には耳を傾けていないことを、全世界に発信できる。為に、昭和殉難者は、国民盡忠の精神を永代に祀る靖國神社に祭祀されたことも、併せて全世界に発信できる。南京三十万人の大虐殺否定の科学的な根拠は、次の第二部で描けばよい。肝心な一部が何を言いたいのか、伝わって来ない。能だとか、白い面妖な子供だとかは、思いつきでしかない。これでは、なんとか弁護じみた賛意の感想を書いた著名な保守も、裏では頭を抱えているだろうことは、容易に想像できる。映像美だとか、芸術性などは必要ない。人臣の戦い――心の中を描きたいのであれば、その戦いを描き切れば、それが映像美であり、芸術性となる。邪心が入り込んでいると、私は見たが。此の程度の映画では、募金は頭打ちとなろう。無論、賛成者もいるだろうが。三部作だと云うが、まあ、頑張りなさいと言うしかない。

 少し南京映画に振りすぎたが、これもあれも、みな、靖國神社の正統がなんであるのか明確に理解していないために、境内を闊歩するだの、英霊に説教するだの、境内の外でビラを配って何が悪いか、英霊の汚名をそそぐ活動だなどと、わめきだす。また「みたま祭」を神社のイベントだと思うのもいるし、境内の賑やかさは庶民のためとか、神社はカタグルシイ所ではないなどと、勝手な解釈をする。時流に神社も合わせないと、廃れてしまうなどとも言い出す。こうした大衆の暗愚が、伝統を、正統を破滅し、継承されずに、今日を迎えている。こうした参拝者を教化したい。そのための九段塾だ。桜では、私を含めた数人が叫んだだけだから、教化は実らなかった。今度は、九段塾で、全国の憂国者を集める。そのために充実した高論の塾にしたい。大勢の人間で、「正統」を叫ぶ。靖國神社の祭神は、国家の命に己の生命を継ぎ足して来た。額に矢じりは刺せども、後ろには刺せじ――と、祭神の勇猛苛烈、奮闘の姿を書いた時に、「それは嘘だ。自分の父親は分の悪い時は逃げまくって、そして何度も戦った。後ろ傷などないと云うのは嘘だ。こいつは嘘ばかり語っている!」みたいな罵声も浴びせられた。大分興奮しているようなので、返事はしなかった。‥‥だから、この方の父上は死なずに生き残ったので、靖國神社には祀られていないと云うだけのことで、祭神に後ろ傷はないのです。それが、この方にはわからなかった(後記。これは大変な間違いをしました。今、当時の投稿文を確認したが、間違いが二箇所。この方の父親ではなく、伯父上だったこと。そしてその伯父上は、戦死されて靖國神社祭神になられています。勘違いとは云え、誰と云うお名前を書いたわけではないが、大変申し訳ないことを書いた。慙愧に堪えない。逃げて逃げて逃げまくって生き残った方は、別の方でした。この方の伯父上は、果敢な戦闘中に戦死されている。誠に申し訳ないことを書いた。深く陳謝いたします。自身の蒙昧を晒す意味で、文はこのままにしておきます)。この社の祀られる祭神は、後ろ傷は持たず、吶喊して、死地に身を投げ出して、忠烈無比、皇軍将兵の精華を敵軍に知らしめた臣民を祭っているのです。そのことは、創建時代からの祭文・祝詞を読めば、理解されるはず。

海行かば水付く屍、山行かば草生す屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てずと、言立てゝ、身も棚知らず、仕へ奉りし將士の中に、命過ぎぬるも多なりと所聞し食して、其の人等の健く雄しく、丹心持ちて仕へ奉りしに依りてこそ、此の如く専ら其れが功ぞと、哀れみ偲び、此の清所に、宮柱太敷立て――

 明治天皇は、東京招魂社の創建を命じられた。やがて明治十二年には、靖國神社と改称される。戦争で死んだから、靖國神社に祀っているわけでもなく、また日本の為に戦って死んだ人を祀っているわけでもない。天皇の臣民として、忠義を盡し切った方々を祭祀している。皇軍兵士を祀る、天皇の神社。だから天皇の勅祭を、靖國神社は、今も行う。毎年、全祭神のお祭りである春秋二回の大祭には、勅使が参向される。天皇がご親拝されているのです。それで、天皇の軍隊――皇軍ではない自衛隊員は、現在の状況では祀ることが出来ない。陸海空三軍の大権が、天皇に復古しない限り、自衛隊員は、国立追悼場でしか慰霊顕彰できない。そのために仮に靖國神社が寂れようが栄えようがは、これは別の話しだ。寂れれば、此の國の加護は失われる。国民の苦慮は、一層深く混迷を帯びよう。正統に栄えれば、国民の生活は、緩やかに平安に満ちたものとなり得よう。事、一旦何かあれば、国民は此の国の為に命を投げ出し、戦場に出て征く。この葦原の水穂の國を護らんとする皇国の臣民として、出陣の形が取れれば、靖國神社に戦没者を新たに合祀することも可能か、と。別に気が違ったわけではない。終戦後、僅かに六十三年、王政復古の大号令が、再び此の大地に響くことは、歴史の変遷を見渡せば、有り得ることでもあろう。

 私が此の九段塾で、これから始めたいことは、嘉永六年、ぺリー来航以来の日本の正鵠な近代史と、何故、明治維新が起きたか――、天皇親征が出現したか――、明治以降に出現した別格官幣社の意味、天皇の平定神話、それが全て、靖國神社創建に収束されている。

 靖國神社の正統を広め、以って現在の猥雑化した靖國神社の殷賑極める境内模様、参拝者の仕儀、悉く復古に戻し、天皇の神社に相応しき神域に戻すことを目指したい。また遊就館の歴史記述を変更し、明治天皇の聖旨に相応しき祭神顕彰、祭神の雄渾剛毅な様子を、克明に映し出す「軍事館」に戻すべきと考える。麗しき身なりで、静かに参拝。ゆかしき巫女舞。「失われつつある日本の善さが、この境内、社にはある」――と言われた、松平宮司の言葉を再興する――。惑わしき鎮霊社の公開は閉めて、廃社するか、秘匿。パール判事の顕彰碑は、排除もしくは移設。それがしかるべき御処置。それを得心させる崇敬者を育てたい。靖國神社正統崇敬奉賛会、その創出まで思考の峯に置いて、今後の言上げ。実際の活動は選りすぐった憂国者により、実践活動。国民一人一人が正統を理解し、天皇の神社であることを理解し、敬神を、心底、清真に収めて下さるよう、教化して行きたい。陸海軍管掌を継承するが如く。靖國神社執行部が、聖旨にもとる運営顕著ならば、致し方なし。全国各地の神社宮司にも、現在の靖國神社の行いに、疑念を抱く人多し。靖國神社を「国に帰す」のではなく、国民が正鵠にお支えする。比翼となる。そのための正統を語り、教え広める――、それが目的です。

 慶応三年十二月九日の王政復古の大号令は、「諸事、神武創業のはじめにもとづき、これから政治を行う」と宣されている。更に五箇条の御誓文は、天神地祇御誓祭の儀式の中で示された。天皇は、「我が国の新しい理想を掲げた朕に従うこと」を宣せられ、此の誓いに従わぬものは、罰を受けると言われた。参列した諸侯は、全員が奉答書に署名した。そして「天皇の御稜威」にまつろわぬ幕軍をこらしめる親征に、ご発進される。この一連事歴の巻頭に、「水穂の國の天孫降臨を呼び寄せる」天皇の「軍神祭」がある。この祭文を読むことで、明治維新がなんであったか、戊辰戦役はなんであったかが、一目瞭然にわかる筈である。これまでの学者が書いて来なかった、日本近代史を書く。この時代の祭文・祝詞に、何が書かれてあったのか、御宸翰にはなにが――沙汰書には何が籠められていたか、太政官は何を命じたか――文書から明治と云う時代を描き、天皇親政を描き、東京招魂社。靖國神社の創建の趣旨を描きたいと思う。それが、靖國神社の正統史である。更に奥殿深くにある祭神一柱一柱の戦いの模様を、可能な限り描いて行きたい。おそらく初めて聞く話になるだろう。

 更に私の命が続けば、大東亜戦争の雄渾な戦い――、玉砕命令を受けても、なお敢闘の精神を捧持して、誠忠を継ぎ足し奉った皇軍将兵の戦いぶりを表したい。その一方で、また靖國神社運営に、明治天皇聖旨、創建趣旨に沿わない、叛逆するが如き動きあれば、直ちに紙上をもって、最初に忠告・非難・批判を表します。又この九段塾投稿が、ある程度充溢した頃に、全国神社宮司・神職に向けて、九段塾の存在を知らしめ、積極参加を呼ぶ活動を開始。幾数、幾百、幾千の憂国者を結集させたい。また全国行政機関の首長に向けてのメッセージを送付。九段塾の主張を理解させる。全政党に、また全マスコミに、全出版社に、積極的に九段塾の存在を伝達、書かれている文言を読ませる。驚天動地の衝撃を与えたい。大衆の愚は相手にしない。これらは、大勢が決まれば、黙っててもついて来る。優れた憂国者を発掘。後を託したい。私の仕事は、そこまでだ。これから、全体の構想を練ります。桜に投稿した文を再編集して、利用しながら、ともかくも一通りの「靖國神社正統史」を筆記して行こうか、と。

 追記。昨日、天皇・皇后両陛下は、宮中「春秋の間」に、北京五輪のメダリストや入賞者を招かれて、親しく歓談された由。その節、柔道の石井慧選手は、なんと、「天皇陛下のために戦いました」と答えたそうだ。この安逸の時代に、平成の御代に、今上陛下の御前で、「自分は日本人として、大和魂を持って、天皇陛下のために戦いました」と発言したそうだ。一瞬、耳を疑った。大騒ぎで新聞を探し、テレビチャンネルをあっちこっち回した。確かに石井選手は、そう答えている。万歳だ。よくぞしゃべってくれた! 偉いぞ! 私は涙が滲んで来た。よくぞ、「天皇陛下のために戦った!」と言ってくれた。この言葉がテレビで全国に流れた。石井選手が叫んだのではない! マスコミが全国に流したのだ! 快挙であろう。逆転の倫理が始まる感応を享けた。復古の精神が始まるぞ。

 憂国の諸人よ、九段塾に集れや。
 

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  • 紫宸殿に於ける軍神祭。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月17日(水)18時36分33秒
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■平成二十年九月二十九日

紫宸殿に於ける軍神祭。

 今、天皇の祭祀を書き出したのだが、また迷いが生じた。ムヅカシイ。一般の人たちへの教化を考えると、いきなり明治元年三月二十一日、徳川軍追討の親征に御発進する前日――、明治天皇は、京都紫宸殿に神籬を立て出御、軍神を祭られる。その話から、天平の世における聖武天皇から賜った宣命のなかに、初めて「海ゆかばみづく屍 山行かば草むす屍‥‥」の語句を見る。

 あの春うらら、のどけし天平の御代にも、天皇軍――スメラミイクサ。皇御軍の闘いがあり、海の藻屑となり、草に寝て奮闘盡きる屍――累々たる歴史の波がうねり、此の國を覆うている‥‥辺りから筆を始めたが、わかる人にはわかるだろうが、極力、ごく普通の人から教えを広げて行くとなると‥‥、何を言っているのかわからないのではないか。心配になった。チンプンカンプンと云うのは、困るわけです。私の筆力にもよるのだが、少々入口が難しすぎる。そう思い、執筆を中断する。

 この掲示板の最初に、「明治天皇は、明治元年――、京都から東京へ行幸。その途中で、初めて太平洋を見た。この瞬間、近代日本の心臓が動き出した――」と、私は書いた。近代払暁の歴史を知らないと、靖國神社の正統もわからない‥‥とも書いた。そうなのだ。まず明治維新前夜の話――将軍慶喜が慶応三年、およそ二百六十年間続いた徳川家の政権を返上する大政奉還上表を提出、征夷大将軍の冠を返上。直ちに朝議の末、天皇は、王政復古の大号令を諸藩に布告――「諸事、神武創業以来のはじめにもとづき、公議を盡すこと」が宣言された。その精神が、次に五箇条の御誓文となり、天皇自らこれを国是とし、「朕に協力せよ」と、命令が発せられる。そして五榜の掲示となり、民衆への教化浸透、維新を支える力を造成。天皇親政が、日本全国民衆に熟知徹底させられる。天皇の國――が意識され始める。そして旧弊の象徴として、徳川残党軍との戦い――鳥羽伏見役――戊辰戦争は、既に始まっている。五箇条のご誓文に奉答署名した、日本中の大名・公家・旧徳川の上級旗本。新しい国づくりに叛旗を翻す魑魅魍魎を祓うべく、天皇旗が立てられた。天皇が兵を率いる親征――皇軍を、この時代の民衆は、初めて目の当たりにする。そして――戦いが終わり、「海行かばみずく屍、山行かば草生す屍――」の祝詞が、戦死したあまたの皇軍兵士に捧げられる。江戸城内での霊祭。京都東山祠宇での霊祭。そして、東京招魂社創立の大命が下る。靖國神社の創立、明治二年六月二十九日。東京九段坂上で――、此の日、一体、何があったのか。

 明治近代国家は、天皇自らが政治を司る親政であり、靖國神社祭祀は、新生国家が遂行するのではなく、天皇御一人によるものであることが、明々白々となって行く。初期を除けば、文官である総理大臣は、大東亜戦争開始直前まで、靖國神社の例祭日に参列することはなかった。軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する靖國神社――天皇御一人の祭祀。それが、戦前も今日も変りはない。これを詳細に、書いていこうと思う。脳髄が二つ三つないと書けない。数多の学者を傍に置かないと書けないが、なんとかやってみましょう。さすれば、靖國神社の正統が理解できるのではないか――。そうすると、現在の靖國神社が、単なる個人の崇める霊社でしかなかった鎮霊社を公開したり、奉賛会会長に「末社」などと、痴呆じみたことを言わせた謀臣の存在も明るみに出せましょう。また自衛官を合祀しよう――、昭和殉難者を分祀しよう――などと、天に唾かける不忠不義者を天下に晒し、足蹴りにはしなくも、諄々と説いて、教え諭し、九段塾に従わせるか、その嚆矢としたい。自衛官を合祀するなら、天皇に大権を譲るしかない。皇軍の復活を実現すれば、自衛官は名称を変える。皇軍となる。昭和天皇は、天皇の人間宣言として知られる「新日本建設に関する詔書」で、五箇条のご誓文を引用されている。明治維新国家の精神は継承されている。根絶えてはいない。皇軍が、あと百年で生まれ出れば、自衛官も合祀することも出来るだろう。天皇御一人の祭祀、それが、靖國神社なり。

 まもなく靖國神社は、秋季例大祭を迎える。以前、春季例大祭を「春の催し」などど、ふざけたポスターを作製したことを桜の掲示板に書いて、わんわん非礼を書いたことが効いたのか、今度は「秋の催し」ではなく、「秋季例大祭」と大書したポスターを作成した。だが、このボンクラ共――例大祭の幕は紫であるにも関わらず、白幕を張った拝殿の写真を使っている。なんと云うバカモノどもか。誰でも、一目でわかる写真だ。靖國神社が監修した『ようこそ靖國神社へ』の案内本にも、「勅使参向」の写真を使い、「祭典がある時には、拝殿の幕が、通常の白から紫色に替えられる」と、注意書きがされていると云うのに‥‥。その上、例大祭には、天皇のお使いである勅使参向があると云うのに、天皇旗――錦の御旗も設置されていない写真だ。誰もチェックしてない筈はない。みんな宴会ボケ――飲み会ボケで、例大祭も縁日もプロレス興行も同じと思っているんだろう。だから一番大事な例祭日の告知ポスターに、普段の拝殿前の「写真でもいいんじゃねえの」と使ったのか。これで、天皇の神社の神主が勤まる‥‥世の中になっちまったんだよ。これが今の靖國神社の現状だ。皆さん、秋季例大祭のポスターが修整もされず、今のままなら、「拝殿に張る幕が紫でない――、錦の御旗が出ていない! 不敬ではないか!」と、文句を言って笑ってあげなさい。彼らに厳修を課すのは、これからの参拝者です。ま、ともかくなんだかんだ書いたが、とりあえずそう云うことで、これから書き物に入りますので。これは次に投稿する時は、削除します(備中處士案、此の文は、削除されなかつた)。



**********

 備中處士案、慶應四年二月三日、有栖川熾仁親王を東征大總督とされ、三月二十日の御沙汰に曰く、
『隨從ふ大丈夫武雄は、恆に利心振り起して、山行かば草生す屍、海行かば水附す屍、君の御爲め、國の御爲めに、顧み无く、天津雄々敷き言立ての隨に、今も仕へしめ給ひて、天之波志弓引末賀那ひ、天の眞鹿兒矢千尋射渡し、悉に伐ち罸め、言向しめ給ひて、大八島國中、悉、石根木根立草の片葉も言止の安國と平けく、八絃の琴の調べとゝのふ言の如く、鎭撫めしめ治めしめ給へ』(鎌田純一博士『神道史概説』平成二十二年十月・神社新報社刊に所引――『明治天皇紀』)と。



【參考・削除文】
■平成二十年十月三日

もうちょい、お待ちを。

 うーん。まだ、資料を読んでいる所で、なかなか書き出せないでいます。いろいろな方が、多分、此処へ訪問に来てるんでしょうが、何も書いていないので、すぐに何処かへ行ってしまうんでしょうな。なるほど、掲示板って、大変なんだなと云うことが、少しわかってきた次第。いや、せっかく訪問したのに、まだ留守みたい――では、申し訳ないなと思ってね。初めての人は珍しいので、いいのかなとは思うんだが。神社内の話も随分あるんだが、それも少し気持ちに余裕がでたら書きましょう。今、以前の、桜に投稿した分を、そっくり読み返しています。よく書いたもんだと思う。大体のところは、よく書いてある――と思った。ただ体系的に書いていないから、全部を読んで――、団子虫のように、クソミソ一緒に丸め込んで大きくなった饅頭を食うようにして、初めて腹に靖國神社の正統が何かを――理解して行く――、そう云う感じだ。この九段塾では、私は一から体系的に書こうとしている。ただ体力的には、非常にきついですね。桜で書いた話も書き直して、応用して書こうとしている。話したいことは山のようにあるんだが、桜で、一旦、投稿をやめてしまったので、脳が以前のことを覚えていない。続けて書いていれば、何を書いたか、何を書いていないかが、瞬時に判断できるのだが、高齢になると、一度エンジンを止めると、なかなかヒートアップするのに時間がかかる。それで、何を書いたか、まずこの脳に改めてインプットしないと、新しい話が書けない。それで、今、猛烈に、桜に投稿した厖大な自分の文章を読み直している最中です。やっと、一年分を読んだところ。これから急ピッチで残りを読み、頭ん中を整理して、それから一気に書き出す心算でいるんだが。それまで、今少し時間がかかる。今日の投稿は、「生きています」と云う証しを見せるための投稿です。

 靖國神社の正統がなんであるか――、これまでのところ、近刊としても一冊も無し。死ぬまでのご奉公として、正統史を、やはり書いて、日本中に広めたい。その意欲がある。もうちょい待って下さい。いや、チョイより、もう少し長いかな。どなたも投稿していないので、訪問者に、なんとなく申し訳なくて。これは時間つぶしの投稿なので、あとで削除します。

 追記。いま、外出先から帰宅して読み返したが、中途で、くだらん話を書いていたので、削除しました。桜の投稿をまだ読んでいる最中だが、随分、いろんな事件があったもんだが、全ては台風と同じで、過ぎ去って行く。過ぎ去った後に残るのは、台風の爪跡。誰も片付けない。放置したままだから、無残な惨状を示している。靖國神社にも、参拝者にも、様々な人々に、家族に身内に、痛棒が振るわれているようだ。



【參考・削除文】
■平成二十年十月七日

構想途中。

 今、桜への投稿文を、半ば過ぎまで読了。骨にこたえる。物凄い量なり。現在の時間は、八日の午前一時を廻っている。次第に芯が固まりつつある。靖國神社大鳥居付近での南京映画宣伝ビラ撒き連中との騒動から、新しく加わったお坊ちゃまのような「靖国ファン」の反論、一兵士批判――「心がありぁ、いいんだ」――、伊勢神宮と靖國神社は違うんだとか――、サーカス・縁日が靖國神社の売り物で、エンターティンメントだぁ!みたいな、坊ちゃま投稿あたりを読んでいる。谷干城が「政治集会」を境内でさせたんだぞ――、ビラを配って何が悪いか――、とか。こう云う辺りを読んでいて、ツクヅク考え込んでしまう。これは、やはり此の九段塾でも、まず現在の靖國神社周辺の意識、現今の参拝者の意識紹介から書き出して、徐々に階段を上がって行くやりかたをしないと、読者・一般者への教化にはならないかなと考え出した。いきなり聖武天皇とか、明治天皇の軍神祭を書いても、なかなか理解に及ばないだろう、と。また錯誤思考する。

 桜の掲示板を見た人には、いっとき、似たような話を繰り返されるかも知れないが、しかし大事なことなので、同じことでも、改めて修学されたらいいと思う。無論、桜投稿文以外が大半を占めるが、前半は、少し以前のものも採用しつつ話したほうが、理解が深まるでしょう。殊に初めての人には。材料は、桜掲示板で体験した話が、山のようにある。財産に近い。今から思えば、感謝である。考えてみれば、この九段塾を始めさせるために、桜の掲示板での投稿があり、また私への批判で、いかに昨今の「靖国ファン」と云うものの実態が、どう云うものであるのか、紹介しつつ、正統を展開できる。理想的なスタイルが作れる。桜では、魑魅魍魎に邪魔され、幾度も中断したが、そのおかげで、様々な角度からの正統論が展開できた。これも祭神のご加護であろうか。あと一両日で、桜投稿文は読了します。それから、全体の構想を考える。そして新たな明治維新の話。誰も書いていない、天皇親征・親政の話、靖國神社正統論を展開します。

 それまで、どなたも投稿しないのであれば、備中處士さんが構築されているスレッドを読んでいて下さい。先哲の言葉は勉強になりますので。初めての訪問者は、桜掲示板での一兵士投稿文を読むといいでしょう。それでは、また数日のうちにお目にかかりましょう。



【參考・削除文】
■平成二十年十月九日

読了。

 今、やっと桜の投稿文を読み終わりました。後でもう少し書きますが、とりあえずこれから、九段塾の構想――、その目指すところが何処か、書いて行きたいと思う。考え方としては、壮大なことを考えている。日本国民に「靖國神社の正統とは何か」、それを知らしめる活動をしたい。それによって、現今保守の不勉強・不知識を知らしめ、また現在の靖國神社執行部がどのように迷走、明治天皇聖旨に反する運営を行っているのか、それに気づかせたい。現在、靖國神社は、将来においても栄えるためと云う理由の下に、明治天皇聖旨を無視し、時流に合わせる動きをしつつある。それが、何故、いけないのか――、そのことへの叱責・警鐘、そしてその動きを止めるために、全国憂国者を決起させる。その発動の振作を、この九段塾から発したい。そのために、掲示板を立ち上げた。

 では、実際、具体的にはどのようにするか――、それをこれから書いて行く。本物が登場しなければ駄目だ――と云うことを、わからして行くつもりです。神社界・マスコミ界を総動員させ、国民を正統に目覚めさせたい。「天皇の神社」であることをわからしめる。今も、「天皇勅祭が行われている別格官幣社」であることを認知させるのが主眼である。

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  • [7]
  • 靖國神社の正統とは何か。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月16日(火)18時16分36秒
  • 返信
 
■平成二十年九月二十二日

とりとめないが‥‥。

 ○○と云う方が訪れに来られた。備中さんとは、懇意の方のようだ。その以前に、○○○○○のお侍さんが顔を出してくれた。大変喜ばしく、心嬉しいことです。○○さんと云う方の桜掲示板スレッドには、一度、何かの節に、何かの出典を教示して頂いた際(なんだったか思い出せない)、覗かせて貰った記憶があるだけですが、書かれる文章からは、年輪を重ねられた方のように推察します。和やかな空気を好まれているようで、春夜、笛を聞く風流人のような方のようにも思える。

 ○○○○さんと云う若い方も見えられている。自衛隊・警察関係の方か、あるいは国粋団体の人かな。すぐに人の背景を探るのが、私の悪い習性だ。

 ○○○と云う方も来られた。すぐに「昭和殉難者」と云う呼稱に気がついて下さったことに感謝します。「昭和殉難者十四柱の合祀について」――。おお、なんと素晴らしい表題ではないですか。まさに維新動乱に東奔西走された維新殉難者の如く、大東亜の独立に、共栄圏繁栄の大戦争に、股肱の臣として一命を捧げ、将たらんとされた方々。これぞ、昭和の殉難者。仰ぎ見る方々ですぞ。敵の刃にかかったとは云え、尽忠報国、極まれり。昭和殉難者と呼べぬ方々の論は、国士とは看做さない積りです。私は、今後、この言葉を日本中に広めたいのです。

 此の掲示板には、既に靖國神社神職も、奉賛会青年部「あさなぎ」の方々も、徐々に閲覧を始めていると聞いています。此の掲示板は、『靖國神社正統崇敬奉賛会』と云う性質を持つ高層への望みを懐いて、備中處士さんが熱祷創生された。

 今日(二十三日)は、初代青山清宮司以来の、百三十余年に及ぶ靖國神社「物故職員慰霊祭」。ご遺族・元職員・関係者他、全職員が参列する。「軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰した」星霜の歴史が、靖國の庭に髣髴として湧きあがり、典雅に峻烈に、社稷を包む時――。愧じる事はないか、悖ることはないか――、靖國神社宮司以下、神職は伺候して、先人の遺沢に応えているか否か、善く反芻して戴きたいものです。「靖國御社頭での祈りとは、誓いだ。御霊と同じように、いざという時は、国に命を投げ出します、という誓いのない祈りでは、御祭神の御満足は得られない」と云う、松平永芳宮司の言葉こそ、一時(いっとき)、皇軍の消えた境内における、今日の参拝者に求められる姿に他ならない。全神職が、靖國神社を訪れる参拝者一人一人への教化を振作していただくことを、切に願うものです。一時、皇軍は消えましたが、やがて大命あれば、再び陸海軍は再編成されます。いまだ皇軍は、復員のままにある――、このことを、その内、詳細に語りたいと思っている。此の掲示板の訪問者は、このことを心に刻んでおいて欲しい。皇軍は解体されたわけではない。いまだ復員中にある――、と。

 なお○○と云う方が来てらっしゃる。この方も、備中さんとは交誼を重ねる方の様子。わざわざカウンターのことと、投稿文の節約を書いてくれている。正直、嬉しいですね。こう云う親切には、心に響きます。備中さんの人柄のおかげでしょう。私からもお礼を申し上げます。



■平成二十年九月二十五日

一條の道へ。

 おお、やっと、竹屋さんが見えられた。桜に投稿を始めた頃に、「竹屋は、一兵士様を信じます――」みたいなことを、最初に宣言された方だ。確か黒煙の話の時だと思った。あなたは来なきゃ、駄目ですよ。あと一人が、その内、来られると思うが。我流論議は面白いが、ある所で、「この先行き止まり」の立札で、オワリデス。それがわからない鬱蒼から抜け出せるかどうかが、学問の頭なんですよ。石ころは、いくら呑んで、食って、喋って、磨いても、石ころ。それがわからないから、永遠に石ころ談義になる。僅かな芽も立ち枯れてしまう。もったいないものだ。

 ところで、竹屋さん。あなたの名前が竹屋光晶だと、初めて知った。さすが、千年有余の歴史を持つ家系だ。あなたが来られるのを、多分、備中さんは首を長くして、峠で行ったり来たり、下界から天海、雲海、やがて一條に開ける道作りの方途に出立する、その兄弟として待たれていたんではないかな。まもなく嬉々とした備中さんの声が聞こえて来ますよ。広範囲な知識をお持ちのあなたが、「九段塾――門前の小僧」は無いでしょう。あちこちで見聞きした「疑わしい出来事・催事・祭り」があれば、どしどし紹介して下さい。その名の如く、一節の竹の抜くような、ストレートな感性をもつあなたの清々しさに、更にしなやかな節々を更に設けて、より清浄に青々と伸びていただきたい。竹はご存知のように、祀りで四方に立てられます。忌竹・齋竹(いみだけ)、不浄を防ぎ、魑魅魍魎を教え諭す。尊い家名に従いつ、竹葉の志操をお立てくだされば、一兵士もまた嬉しい。

 さてもう一人、入って来られた。○○○○‥‥さんと云うのかね。どうも妙な名前の方だね。バイクが好きなようです。『自分で、何を言っているかわからなくなった――』と書いておるが、決して悪い頭ではない。モノを書きながら、もう一つの脳では、「なんかおかしいぞ」と判断しているわけです。即ちあなたは、二つのことが同時に出来る能力があると云うこと。携帯でバイクエンジンの話をしながら、魔王伝説漫画などを読んでいるとか。切れる頭を持っている。最近は、しゃべることはペラペラしゃべりますが、自分が何をしゃべっているか、まったくわからん者が、こっちの世界を右往左往しとる。それにくらべりゃ、たいしたもんです。ここで教化されるといい。あなたは一兵士の投稿を読んで、こう話している。「『皇軍兵士の雄渾、武勲の「たましい=魂」をお祀つりしている』と聞いて、なるほど!と、膝を打ちました」。これが、わかったのはたいしたもの。先ずは核心が掴めりゃ、それでいい。核心が、わしづかみ出来るところが出来の善さを感じる。簡単に、あなたに靖國神社のことを書こうと思ったが、備中さんと○○さんが、いきなり高段の「靖國の大神――忠魂の坐す」話を書かれたんで、卑俗な説明はやめました。○○○○‥‥さん。まだよく二人の話はわからないと思うが、読めない漢字があれば、必ず辞書を引いて調べて下さい。とりあえず漢詩の素読と同じで、わからなくてもいいから、高段の話を聞く姿勢で、頑張って勉強して下さい。

 此の九段塾。おそらく現今の著名保守人も、近くその内、勉強に来るはず。それほど質は高い。おそらく天が一でしょう。六十、七十、八十歳の手習いをしていただく。著名者が勉強したことを、保守界で語り広めていただければ、正統が浸透する。そう云えば、○○さんが見えていた。流石に挨拶が違う。感心して読みました。いみじくも「最近は、はやらぬ塾」を立ち上げたことを褒めて下さった。よくわかっていらっしゃる。さすが、○○さん。今後もよろしく、お願いします。俗化・通俗化した陣営を、清浄化する道をつけていきます。短いが、今日は此処までとします。

 本日より、此の掲示板では、「一兵士」を取り下げ、「塾頭」と云うことで、書いて行きます。



■平成二十年九月二十七日

正統とは何か。

 靖國神社の正統とは何か――。それは、いみじくも○○さんが先に書かれたように、国民の生命と国家の生命の継承――に他ならないであろうと思う。国家の生命を守護奉らんとするために、国民は生命を差し出し、此の國を護持し続けて来た。その生命の継承が靖國神社そのものであり、日本人の精神以外のなにものでもあるまい。もしこの継承の途切れる時が来れば、おそらく此の日本と云う国は消滅するか、片々たる国として余命を数えるに至るか、であろう。

 生命が途切れる時とは――、国民が、「いざと云う時に、戦いを倦み、拒否・忌避――生命を差し出すことを辞めた時である」。その時、靖國神社に祀られる二百四十六万六千余柱の祭神――靖國の大神は、此の国を加護することを止めざるを得まいと思うのだ。靖國の生命は、怠惰な国民によって絶たれ、大和民族の血は終焉し、お社に祀られる神霊の務めも終えられる。戦いの譜を書かざる國が消滅することは、世界の歴史が証明している。

 あらためて言わさせてもらえば、今、目の前にある――東京九段にある靖國神社には、臣民である国民の一人一人が生命を差し出し、皇基を守護し奉らんとした忠義忠魂が祀られる。謂わば国民盡忠の精神がお祀りされている――とも言えるのだ。このことを、先ずに知らしめなければならない。海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、戦いの庭に出で奮闘し、末にあるいは痛手負いつ、命を果てた我らが先人が祀られている。この、殉義死節の精神を涵養せしめ、拡充して、国民に振作し、教化する。国民は、頭を垂れることで、神前に誓うことで、祭神の神威に触れ、臣民の忠節を興し、進んで國を守護する生命を引き出す。そのことが、国家の安泰を磐石とする。そのことのために、靖國神社は護国の祭祠として、天皇の大命により創立された。即ち天皇の神社と謂われる由縁である。

 戦時事変に忠死せる皇軍――陸海軍軍人・軍属。それ以外にも維新動乱期の志士や町民・農民・神職・僧侶・烈女・子供も祀られる。近代以降には、地方官・外交官・警察官・看護婦・水夫・従僕・職工――自己の生命を国防に捧げた、多くの国民が祀られている。靖國神社は、帝国臣民全般を氏子とするが、その氏子総代=崇敬者代表として、祭神と最も密接なる関係を有する軍人を以ってすることが至当とされた。そのために、明治天皇は、軍人奉仕を命じられた。勅使祭文に、「武官ニ命シテ齋ニ奉ラセ給フ」とある由縁でもある。軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する――と、常々、私が言う所の真意は、ここにある。これを、三代目賀茂百樹宮司は、下記の如く顕わしている。

義勇、公に奉じ、天壤無窮の皇運を扶翼し奉り、生きては不滅の勳業を建てゝ、國家を泰山の安きに置き、死しては不朽の感化を埀れて、極天、皇基を守護し給へるが如き、わが大和民族の標識として、千木高く雲際に仰がれ、國家元氣の神藪として、宮柱動きなく、萬世に齋はれ給ふ。斯かる特別神社なれば、自ら一般の神社法規を以て律すべからざるものあり。

即ち靖國神社は、軍人教化、国民教化、社会教化――を旨ともするのだ。国民崇祀の神社なのである。かって賀茂宮司の後を継がれた陸軍大将鈴木孝雄宮司は、斯くのように国民の拝神、参拝の心得を説いている。要約する。

靖國神社に参拝するにしても、国民は、心得として靖國神社の神様に対して誓わなければならないと云う、一つの責任を持っています。それは、この神社に祀られる祭神は、いずれも自分の身を犠牲にし、一念、国家よりほかの事はなく、此の国を守護されてきた方達ばかりです。言い換えてみれば、靖國神社の神霊は、国家そのものに、終始、加護を与えていると云うことになるわけです。国の安泰を、終始見守っているわけです。ならば、我々国民としては、この神様に酬いるための考えが出なければならない。つまり此の神様に対して誓いを立てて、自分の身を処して行くと云う覚悟が起きてこなければならない。此の神様は、いずれも責任観念の深い神様なのです。この神様に誓いをしていただかねばならない。各人の自覚と責任です。それは、即ち今日の国家にご奉公して行くと云う考えが必要であり、これが靖國の祭神に対するところの、我々の務めであるましょう」と。

深い言葉である。かみ締めて幾度も反芻し、心の内に浸透させて欲しい。

 これが、謂わば今後、展開する当「九段塾の精神」でもあり、指し示す道でもある――。戦後に松平永芳宮司が、「靖國御社頭での祈りとは、誓いだ。御霊と同じように、いざという時は、国に命を投げ出します、という誓いのない祈りでは、御祭神の御満足は得られない」と、常々口にされてた、その言葉に繋がる。受け継がれた血脈が、此処にある。国民の生命と国家の生命の継承の継手がここに在る。

 そして、鈴木孝雄宮司は、なおも言う。「いざという時には、一命を捧げます――という、立派にその誓いができれば、ここに初めて神明の加護――神徳というものを考えることが出来る」と云う。即ちただ神明の加護をお頼みしますでは、神徳は授けられない。「神明の加護というものは、参拝者自身が、自らその加護を受けるようにしなければ、加護は参拝者には現われない。神頼みをするには、神様がお授けくださるように、自分自身もそうしなければならないのです。国に奉公された祭神同様、いざという時には、此の国にご奉公するという誓い」、それがあれば、御加護――御神徳を受けられると云う。

 靖國神社は、帝国の祭祠である。そして、明治天皇の聖旨を享け、それを戦後にも受け継いで行くために、昭和二十一年、官國幣社の社格を失い、国家機関たる実も失うが、廃社すること無く、新たに宗教法人として発進した。日本が連合国の占領下から解かれて独立した昭和二十七年にあっても、靖國神社は、社憲に戦前の靖國神社の精神を受け継いだことを標している。

『靖國神社社憲』――昭和二十七年九月三十日達
本社は、明治天皇の思召に基き、嘉永六年以降、国事に殉ぜられたる人々を奉斎し、永くその祭祀を斎行して、その「みたま」を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため、明治二年六月二十九日創立せられた社である。いやしくも本社に職を奉じる者は、その任の軽重、職域の如何を問わず、深く本社を信奉し、祭神の御徳を体し、清明を以ってその任に當り、祭祀を厳修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り、以って万世にゆるぎなき太平の基を開き、本社御創立のよって立つ理想の実現に、一意邁進しなければならない。

見事なる軍務継承。戦前と寸分も劣らぬ社憲であろう。今日、靖國神社に奉職する宮司以下職員全てが、この社憲を日に一度反芻し、職務を遂行して戴きたい。さすれば、現下、靖國神社境内外における惨憺たる有様は減少しつつ、清明の日々が訪れる可能性もある。「いやしくも本社に職を奉じる者は、その任の軽重、職域の如何を問わず、深く本社を信奉し、祭神の御徳を体し、清明を以ってその任に當り、祭祀を厳修し、祭神の遺族・崇敬者を教導し、御社運の隆昌を計り――」。これぞ、賀茂宮司が鈴木宮司が、松平宮司が、祈ってやまない靖國の真の姿――正統継承であろう。靖國神社に参拝する国民全てが、至誠烈々たる靖國の大神の御前で誓い、しるすべき道――。それをこれから、各氏、書くものは投稿し、九段塾の道に沿い、広げて、此の國の柱ともしたい。それが私の願いであり、畏れ多くも神舞する「九段」の名称を冠する次第。余命を、国民の振作に尽したい。そのために、映像にて、靖國の大神を描くことも先の視野に入れ、行動するつもりでもある。軍人としての修練なくも、厳修なくも、神威に触れるに従い、正統を知るにつれ、良好なる資質顕われ、身を整然とし、社会に規範を示し、寄与貢献に邁進することも出来る。それが靖國の大神の神徳であろう。参拝する時の誓い――「いざと云う時には一命を差し出す」――このことを責任を持って果たしさえすれば、祭神の満足は得られ、御神徳が叶うのである。心して考えて戴きたいのです。

 最近、自衛官が参拝に姿を見せる。一昨日(二十五日)の仲秋の御神楽にも、大勢の自衛官が姿を見せている。彼等は何しに、靖國神社に姿を見せているのか――。靖國の英霊に感謝を念じるためか――。それだけなら、靖國神社に来る必要はないと、私は考える。これが靖國神社の正統である。自衛官が靖國神社に参る時は、出陣の出立ちをし、「その決心」を報告するためである。国家安泰のために、一命を差し出し、守護奉らん――武運長久を祈願し、戦場に向かう時であろう。その時に来ればよい。さもなくば、戒告承知で、制服姿で参拝。「一命を差し出す誓い」をしていただく時でしかないと、私はそう考えている。これも九段塾の思念であろうと思う。

 以上、まず「九段塾の志操」を書いた。順次、詳細に入るが、しばらくは休みます。



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【參考・削除文】
■平成二十年九月二十八日

天皇の祭祀。

 今、「正統とはなにか」を読み返すと――、少しわかりやすく、ひらたく、現今の国民に説明することを考えたために、護国の英霊の祭祀は、国家がするわけではなく、天皇が祭祀することが抜け落ちているような感触がある。皇軍兵士を祀る帝国臣民の祭祀を行うのは、国家ではなく、天皇御一人の祭祀であること――、これが明確に書いてない。おぼろげである。だから、自衛官などを祀ることは不可能なのだが。

 次回に、天皇の祭祀について。靖國神社の正統論。ただそうなると、靖國神社は何故、明治二年六月二十九日に創立されたか――、その理由も説明していかねばならない。その以前の幕末殉難者の話にも触れないと――、戊辰の役も書かない、と。それがないと、六月二十九日に、一体、九段では何があったのか。花火が華やかに鳴って、創立を祝っただけではない。無論、いずれかは書く話だが‥‥。これを書くと、臣民の盡忠に対する天皇の祭祀を、天平の世から書かねばならなくなってくる。そうなると、大変さは甚大になる。しかし書かねば、九段塾の真正が問われる。やがては祭神の個々の勲功・武勲なども、一柱一柱詳細に紹介したい心算もある。誰もが出来ぬ話だろう。靖國神社魂魄は壮大であり、話の穂口を見つけるのは大苦労。ゆっくり書くしかない。この話は、長く留めて置く質のものではないので、次の投稿が書けた際には削除します。

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  • [6]
  • 九段塾巻頭の挨拶。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)22時01分36秒
  • 編集済
  • 返信
 
■平成二十年九月十三日

嚆矢放たれる。

備中處士さん、一兵士です。

 「靖國神社の正統護持のために」掲示板生誕、見かけは少々固苦しいが、なにはともあれ、汽車は動き出した。おめでとう。大変喜ばしい。この掲示板は、まずは宣伝これ努め、多くの人に訪問してもらうことが肝要。そのうち、どなたか華麗なる靖國神社正統奉賛会的なるホームページにしてくれる技術者も現われることでしょう。

 一兵士も、おいおい投稿いたしますので。桜の掲示板で参集されていた、竹屋氏・○○○○氏・○○氏をはじめ、○○○○さんや○○○○○のお侍さんや、それに○○さんなどにも声をかけて、熱祷論を好きなだけ語っていただくといい。なかなかの自論をお持ちだ。高い精神――高志と云うが、こう云う日本語があることを亡失した今日、凝縮した精神を顕わす日本語を駆使し、より自身も思考も高みへ高みへ押し上げて行くことが、学問への道の始まりです。「ことあげ」こそ、蒸気ポンプ。ちと、例えが古いが。

 靖國神社の正統を理解すると云うことは、嘉永六年、ペリー来航からの日本の近代史を理解して行かないと、実はわからない部分もある。オランダ海軍が日本に「時計」と云う機械を「調練」に持ち込み、規律を導入させた。軍隊に必要な「時間」を持ち込んだことから、維新動乱が始まった。古い体制が崩壊するしかなかった。更に明治天皇が、初めて伊勢から海と云うものを御覧になられた。広々とした太平洋を、目の中に入れられた。この瞬間、近代日本の心臓が動き出した。そして「時間」・「規律」を真っ先に理解したのは、農民・百姓・下層階級の武士だった。陰暦から陽暦の転換。それが天皇統制の軍を誕生させている。

 話が、つい、始まってしまったが、今日は語る積りはないので。とりあえず此の掲示板の宣伝、宣伝、これ努めましょう。



■平成二十年九月十七日

巻頭の挨拶。

 備中さんが、一兵士のための掲示板を作ってくれた。ようく考えたら、そう云う感じだ。私は備中さんの掲示板だと思っていたから、最初に投稿した文章がどうも似合わないので、改めて書こうと思う。これが一兵士のための掲示板とわかったなら、何も遠慮することはない。折角、舞台を用意してくれたんだ。随分と利用して、書きましょう。ここでの話は、『九段塾』と云う。いいねえ、九段塾。何か少年のようなときめきが、胸に甦って来ている。

 思い返せば、昨年の十一月、チャンネル桜の掲示板に、「南京の真実『七人の死刑囚』」と云う映画題名に、クレームをつけた。幾度、「死刑囚」は駄目だ!と怒鳴ったが、水島総監督には届かなかった。その取巻きにも通じなかった。水島さんは、賛同者が靖國神社境内で、映画の宣伝ビラを撒いていても、それを止めるどころか、感謝してますなどと頭を下げていた。これで、よく「伝統の保持がどうのこうの、旗印に出来るもんだ――」と思った。所詮、にわか保守――と云うのか、出来損ないの連中だ――と、此の段階で結論を出した。「神は非礼を享けず」。この一事が理解できないと、国粋・右翼活動は出来ない。なにをやっても成功はおぼつかない。それでもなんとか、桜の固い頭を殴りつけて、少しはまともにしてやろうと思ったが、掲示板の管理者が、「皆様へ長いお知らせ」と題する、本当に長ったらしい管理者の弁明と云うか、腹の中身をそっくり広げる大盤振る舞いの演説が投稿された。その投稿文も、水島監督の意向が含まれていると云うから、最悪だった。今でも、桜の掲示板を開けば、誰でも読める。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1164&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=1380

 この投稿文を読んで行く途中で、正直、馬鹿馬鹿しくなった。これまで、何百、何千と云う若者を見て来た私だが、鞍馬天狗か丹下左膳か国定忠治(若い人は知らないかも知れないが、大昔の日本のヒーロー)ぐらいしか吐かないような文言を書いていたのに、びっくりした。こりゃ、右翼ではない。保守とか云うシロモノでもない。こっちの世界とは違う、全然、別の社会で生きて来た人たちだと云うことが、ばれてしまった。いや、ばれてはいないようだ。だが、私は判断した。こりゃ、無理だと思った。レベルが違う、言葉が違う、躾が違う。にわか保守の看板を見せられてしまった。

 私のスレッドには、備中さんをはじめ、竹屋・○○○○・○○・○○さんなど、なかなかの自説を持つ人が訪問して来ていた。地味な所が、国粋を感じる。一人旅を感じさせる。コンビニでメシは喰っていないのが知れる。離れるのが惜しかったが、仕方なく掲示板を降りた。もう一度、粘り強く説得してやろうと思ったが、管理者がこう云うことを最後に言っていた。『一兵士なる人物が、これ以上、自分の無礼・傲慢生意気な態度と姿勢を、深く反省・謝罪することなく、発言を続けるならば、即座に当掲示板から追放します。同調するものに対しても、厳しく対応させていただきます』。これでは投稿できないし、こうした文言を吐く彼らに、がっくりしたのは否めない。右翼は「深く反省・謝罪する事無く――」などと云う文言は使わない。こう云う文体を使わない。それっきりにした。

 保守と言うのは、こう云うことではないんだ。靖國神社が目の前にあったら、祭神を「死刑囚」だなんて、言っちゃいけないんだよ。そう云う言葉を広めることはないんだよ。一般人でないんだから。親がこうだから、子供まで似て来る。靖國神社境内前で、参拝者相手に、じゃんじゃん宣伝ビラを撒き出した。こうなったら、伝統保持もへったくれもないでしょう。誰も百三十年間して来なかった暴虐非道を始めた。天皇の神社を利用し、土足で踏み荒らしていることも、想像できないだろう。天皇が通る道、勅使が通る道が、頭に無い。土台、何かと言えば英霊、英霊と口にはするが、すぐに浮かれて、靖國神社を闊歩しようぜなんて、得意がってる連中が集って来た団体だ。なにか集会があるたびに、宴席を設ける。悪い習慣を持ち込んで来た。その上、酒と食い物の自慢話が出る。掲示板に書かれている。昔、私がまだ若かった頃、「酒がうまいの、何処そこの食い物がいいの、味がいいの、と云う話が始まったら、もう駄目だと思え。小銭で懐が豊かになっちまった男、いっぱしの紳士気取りを始めた人間に、国士は勤まらない、右翼はできない。そう云う連中とは付き合っても、何も得る所がない――」と言われた。その通りだ。なにかと酒と食い物の自慢話をするようになった人間とは、付き合うなである。これは昔からの言い伝えだ。その人間の云うことは信用できない。これは覚えておいた方がいい。桜の掲示板には、此の手の人間が多く出入りしている。酒と食い物の話の自慢話。その人間が停滞している証拠、でぶっている証拠。最早、右翼・国士にはなれない。即ち通俗・俗化した証拠。覚えていて損はしない。

 ともかくも桜の掲示板を下りて以来、私は書き物はしていない。だから、急に書き出すのはきつい。徐々にピッチをあげて行く。その内、調子がつく。そしたら、ばんばん書く。靖國神社の正統とは何か。そして何を継承して行かなければいけないのか。それを書く、教える。今、靖國神社では、例の大原康男さんが監修したと云う、『みたまを継ぐもの』と云う意味不明の映画題名を製作、遊就館で流し始めている。「みたまを継ぐ」とは、どう云う意味か? それに、パンフを見ると、「英霊来世」とか云うグループが挿入歌を唄っている様子。わかるかね、諸君。英霊来世だよ。ナンジャラホイ、この英霊来世とは。「御前会議」とか云う集会名も厳罰ものだが、英霊来世で、神道・仏教混合でやられると、こりゃ、やっぱり国立追悼施設を作ってもらい、そっちへ皆行ってもらって、御前会議でも、英霊来世でもなんでもいいから、皆やってくれと言いたくなる。最近はこう云う手合いが、みるみる増えている。遊び感覚。ここで放置すると、どうにもならなくなるので、まず言上げする。それから、今度は実際行動か。

 まず、どこまで命が持つか――。とりあえず場所が確保できた。備中さんに後悔させないように、頑張りましょう。そうそう、桜の掲示板で、「一兵士」失踪後、いろんな人が弁護してくれていた。常連は、まあまあ弁護しても不思議ではないが、○○○○○○氏が、えらく褒めてくれていた。この人には感謝だよ。最近は、やっと地肌を見せつけて、走り出している――。なにか考えるところがあるようだ。頑張ってやりなさいよ。彼が読むかも知れないので、一言、お礼を書いておきました。では、諸君、今日はこれまで。しばらく正統論を整理してから、話を始めます。それまで失敬する。深夜に仲間が訪ね来たので、代わりに投稿を頼んで、寝る。



■平成二十年九月十八日

正気を先ず取込むこと。

 ○○○と云う人が投稿して来ている。これからこう云う人も、この掲示板に来ることでしょう。備中さんは管理者だから、不心得者・いたずら・邪魔者でない限り、訪問者は、どんな方でも一応は嬉しいし、大切にしたい。丁寧に間違いを教えている。それは大変結構なことですが、九段塾は――、正気を教える所です。靖國神社の正統を教えると云うことは、その身に正気が張り詰めていることが重要となります。知識ではない。学問ではない。根底に張らなければならないのは、まず『正気』だ。これが第一です。

 九段塾塾頭――として、○○○さんに言うが、先ず此のふざけた名前は変更しなさい。○○○と、自分を指して云う精神が嫌いだ。うす汚れた空気を感じる。掲示板の空気が澱む。これからここで何かを勉強しようと云うのであれば、この名前は変更しなさい。佐藤でも吉田でもいい、変哲のない名前でいい。あとで、「だからお前は○○○だと云うんだ。図体がでかいだけで、何の役にも立ちやしない。ばか、あっちへ行ってろ!」 こう言われるようになれば、あんたもシメタモノダ。将来に見込みが出て来た証拠だ。こう言われるようになるまで、○○○はご法度だ。この意味がわかったら、末席で聞いていればいい。もしかしたら世界チャンピオンになれるかも知れない。どう云う人間が逸材か、なかなかわからないものだ。とりあえず、そう云うことです。

 先ず正気を、心の中に取り込みなさい。ここへ来たと云うことが、あなたに何かが囁いたからだ。正気の風を取り込みなさい。今度の休みに、山か海に行きなさい。そして天地自然の中で、一人端座し、瞑目して、将来の自分を想像することだ。無念無想は、まだ出来ない。また今の段階では、無念無想は意味がない。いま必要なのは、大きく息を吸い込み、ただひたすら天海の精気を吸い込んで来ること。天地自然の声が聞こえて来るでしょう。それが、先ず正気の始まりだ。漢字がわからなかったら、必ず辞書を開くこと。一つ一つ踏みしめて行けば、馬鹿でもナントカなる。わかったかね。



■平成二十年九月二十一日

後に続く者達。

 少し書きます。昨夜、フジテレビの『戦場のなでしこ隊』と云うドラマを見た。九州知覧飛行場から飛び立った、陸軍特別攻撃隊の世話をした挺身隊・知覧高女を主役としたドラマである。またしても感傷的な特攻隊が描かれ、全員が「笑って飛び立つ人はいなかった。皆さん、涙をこぼして飛び立った」などと云う話をさも、真実めいて放送している。今度のドラマは、前田笙子さんと云う、実在の知覧高女のお一人の日記を軸として創作されている。私は随分以前、いろいろな関係から、知覧高女の方たちや富屋旅館三代目の若お内儀とも親しくさせて頂いていた。知覧高女の方たちの特攻隊員に対する思いは、皆さん、ある部分は共通だが、ある部分は微妙に違う。その微妙な違いを追って行くと、随分と格差が生じて来る。致し方ない。前田さんとは違う感想を持つ、知覧高女の方もいる。

 「あの方達は、それこそ、凛々しく、涙一つ流さず、綺麗な身体で、征きました」、「皆さん、本当に、子供のように、明るく、笑顔で、逝かれました」、そう語り続ける方もいる。そして、でも、「戦争ですから、男が出て行くのは当たり前です」と、冷然と言い切る。今は亡き特攻隊員の面影を思い出し、涙しながら、「でも、男ですから、戦ってもらうしかありません」と言う。此の話は、以前、桜掲示板でも、少し書いた記憶がある。航空特攻は、陸海軍とも志願制が建前だったが、戦局が逼迫して来ると、志願だけでは特攻作戦が続行維持できないために、一方的な命令で進められて行ったのは事実だ。殊に陸軍では、その傾向が多かったと聞く。それで知覧には、「いやいや、特攻に行った人が多い」と云うのは、以前から言われていた。しかし、それは一部であろう。同じ特攻でも、海軍の鹿屋基地に入った神雷部隊第一陣は、「全員志願」。十三期予備学生が主軸となっている。「みな、出撃の日を、今か今かと待ち望んでいた」、「明日は俺を出せ!」と、司令に掛け合う者ばかりで、特攻編成をする分隊長泣かせだったと云う手記が、多く残されている。

 平泉澄博士の門下の、緒方襄命。至誠忠烈の臣として、関西大学在学中に、勇躍、学徒として志願、神雷部隊桜花隊として出撃。
「兄も行け我も果てなむ君の辺に 悉く果てなむ我が家の風」
出撃三十分前に、海軍手帳に走り書きした絶筆の辞世には、こうある。
「死するともなほ死するとも我が魂よ 永久にとどまり御国(みくに)まもらせ」

 同じく海軍十三期飛行予備学生・齋藤勇命。家族に宛てた遺書には、
「(二十五年間、育んでくれた両親・兄・姉など、家族への)この御恩は、今こそ尽忠と共に御返し出来る事と、深く深く信じて居ります。今、出撃前に当り、淡々として考ふる事無し。只々如何にせば、敵に突当り得るか、そればかり念頭に有ります。」

 神風特別攻撃隊・若麻績(わかおみ)隆命は、昭和二十年四月六日に、串良海軍基地から飛び立った。
「出撃の命が下りました。‥‥空母の一隻、敵兵の二、三千、小脇にかかへて、地獄の門をくぐります。」

‥‥皆、健気であり、凛々しく、女々しくはない。軍人魂に溢れている。四月十二日、菊水二号作戦発令。此の日、陸海軍の航空戦力五百機、特攻機約百八十機が、九州各基地から沖縄周辺米機動部隊撃滅に出撃した。『なでしこ隊』のドラマでも、此の日、知覧から出撃する光景が描かれているが、情けないことに、「全員涙を流して出撃した」と解説している。知覧出撃の特攻隊員の霊も、これでは浮かばれまい。

 海軍鹿屋基地からも、神雷部隊九機・特攻機零戦十九機が、此の日は出撃。敬虔なクリスチャンだった京都帝国大学出身・第十四期飛行予備学生・林市造命の母マツヘさんは、戦後、手記を表した。
「泰平の世なら、市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに生まれ合わせたのが運命です。日本に生まれた以上、その母国が危うくなった時、腕をこまねいて見ていることはできません。そのときは、やはり出られる者が出て、防がねばなりません」と語っている。

 また「大君の醜の御楯と身をなさば 雲染む屍何か惜しまむ」と、辞世を書き残して鹿屋を出撃した、牛久保博一命。
「小生も、いよいよ御国の御役に立つ時が参りました。誓つて必中、空母撃沈します。全身全霊をあげて、任務必達に邁進するのみです。
天翔(あまかけ)りいむかふきはみ火の玉と 砕け散りなむ敵艦沈めて」

 多くの特攻隊員が、毅然として祖国の危急に一身を顧みず、南冥の果てに出陣している。涙を流して、女々しく出撃しているわけではない。

 陸軍特攻にしても、知覧からすぐの万世基地を出撃した、込茶章命は、
「君が代の只やすかれとひたすらに いざやうちなむ醜が軍(いくさ)を」

 ここに紹介した軍人の名は、特攻関係の書籍には頻繁に紹介されているので、諸氏もよく知っていることだろうと思う。特攻を描くなら、何故、こうした人を主役にして、ドラマとしないのか? こう云う軍人だったからこそ、現代の国民は感謝もし、永遠に顕彰する気にもなるのではないか。それが、フジテレビのドラマでは、出撃前夜、特攻隊員全員が、沈痛で無言。果ては狂ったような叫び声をあげる特攻隊員だけが描かれる。こんな様を描いて、何を主張したいのか、私にはまったく理解できない。このようなドラマを作って、それが、一体、今日の日本にどのような意味があるのか? 特攻隊員としての悩みは、いろいろあったでしょう。既にそれは反戦映画として、『雲流れる果てに』で言い尽くされている。今、必要なのは、反戦映画ではない。殉国の思想だ。このドラマに描かれているような、それほど、劣弱な軍人なら、国民なら、大東亜戦争など、しておらんでしょう。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満州事変・支那事変・大東亜戦争と、戦争をし続けて来た国家国民が、これほど劣弱な若者しかいなければ、とうに滅んでいたのではないか。

 あの戦争に、日本は負けはしたが、果たして皇軍兵士は、女々しく弱かったか! そのような評価を、世界の誰かが下ろしているだろうか? 「日本の軍隊は弱かったよ。すぐに白旗を掲げて、泣いて降参してきおったよ」と評した、米軍兵士がいたか? 私は、どうしても現在の国民に、「皇軍兵士の本当の戦いぶり」を知らせたい。靖國神社の参拝者は、その赫々たる皇軍兵士の戦譜に、祈りを捧げなければならない――と、私は考えている。

 以前読んだ、伊藤桂一氏の書物の中に‥‥、伊予灘に臨む三机港で、秘かに特殊潜航艇の訓練が行われ、海軍士官と町の人たちとのエピソードが紹介されていた。三机港が真珠湾と似ていたために、此処で訓練が行われていたようだ。訓練に明け暮れた海軍の十二名の軍人たちは、皆、二十歳前後で若く、一様に凛々しく、町の娘さん達は、胸をときめかしていた。任務については何も話さなかったが、旅館にくつろぐと、気さくに談笑し、酒を飲み、唄い踊り、果ては高いびきで寝てしまう。だが、決められた時間が来ると、全員――九人の士官と三人の下士官は、正確に眼を覚まし、少しの酔いも見せずに、きちっと挨拶をし、ランチに乗って、沖に停泊中の艦に帰った。町の人たちは若いのに見上げた軍人もいたもんだと、いつも噂をしていた。旅館の若い娘が、それを彼らに伝えると、一人の士官が、こう答えた。
「私たちは軍人だから、いつ死ぬかわからない。だからいつでも、この青い海に溶け込んでしまえるように、身をさわやかに保っていたい。」
このように話したと言う。清涼なる魁の魂ではないか。‥‥何故、こうした話を、映画人はドラマ化しないのか。そしてふいに、彼等は三机港から消えた。そして、それからまもなく彼等のことが、新聞紙上に現された。特殊潜航艇が、真珠湾・シドニー港・マダガスカル港へ突入した、と。それを知った旅館の娘さんをはじめ、三机港の町の人たちは、大声で泣いたと云う。

 大東亜戦争勃発と共に、先陣として壮烈に、その命を国に捧げた若き軍人魂。今必要なのは、日本人に勇気と覇気と誇りと叡智の感動を与えることである。凛々しく、潔く、天皇の大命を戴いて、戦いの庭に出征して行った軍人が幾百万といる。大日本帝国と云う国が、総力を挙げて戦った戦争がある。あの戦争が、五年、十年、続いていたら、戦後に生まれたあなた方も、戦場に出て行ったのです。十五年、三十年、六十年、今も続いていたならば、そこにいるあなたも、こっちのあなたも、戦いの庭に、今日、明日、召されて出陣して征くのです。平成の御代であるが、まだ戦いは続行している――。

 靖國神社は、決して過去の終わった戦争で、死んだ人が祀られているわけではない。「あの方々に戦っていただいた」のではない。今のあなた方が、先人の後を追って、戦場に出て征く身だと思って下さい。遊就館で、特攻隊の遺書を読み、「とても僕には考えられません。戦争は絶対反対」、「今の私には信じられないことです。到底、私は死ねない。コワくて、駄目です」などと思わないことです。あなたが、明日、出撃するのです。あなたが、出陣するのです。そう思って下さい。そう考えて下さい。今も、戦いが続行している――。その覚悟で、靖國神社に参拝されなさい。そうすれば、靖國神社の正統とは何か、靖國神社とはどう云う所かが分かって来ます。それがわかれば、どう云うことをしてはいけないか、何をしてはいけないかが分かって来る。どのような服装で、靖國神社に行かなければいけないのか、参道をどのように歩いて行かなければならないのかが分かって来る。内苑の境内――神苑はどうあらねばならないのか――、みたま祭はどうあらねばならないのか――、八月十五日は、どう云う日であるかを知らねばならないかがわかって来る。そして拝殿前では、何を英霊に願うか――、祭神に、何故、頭を垂れるのか――、自身の心が判明して来る。

 靖國神社は、歴史ではない、過去のものでもない。天皇の神社、皇軍兵士の「いさおし」が祀られている。凛々しく、勇敢な、潔い、軍人・軍属が祀られている。後に続く者達が参拝する所である――、後に続く国民が参る所である――。それが今も靖國神社の正統であり、参拝者が受け継いで行かなければならない正統であろうと思う。連綿として続いている。靖國神社は、[軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰した」、天皇の神社である。今日、一宗教法人となっているが、今も、陸海軍大将から負託された奉慰顕彰と云う軍務を遂行して行かなければならない聖旨を負っている。代々の宮司は、このことをしっかりと受け継いで行かねばならない。それが天皇の神社宮司の為すべきことであろうと考える。
 

  • [5]
  • 『凛として愛』の逆襲。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)00時17分15秒
  • 返信
 
■【註三】泉水隆一翁『日本女性の会「そよ風」イベント『凛として愛』――泉水隆一監督は、かく語りき』(平成二十一年十二月二十七日。九段会館にて――車椅子の泉水翁――サイトの映像を下に、一部改訂させて戴いた)
○ニコニコ動畫=監督肉聲/http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
○某氏/http://ameblo.jp/sakurara-f/entry-10593755283.html

「泉水隆一でございます。一寸、身体が今の所、不自由しているんですけれども、やがてまた元気になると思いますんで。今日、こゝに私が参りましたのは、この映画が出来たと云うか、制作を始めたのは、平成十二年の暮から、十三年、十四年、靖国神社百三十周年を記念して作ると云うことで、三年間に及んでですね、この映画を制作しました。たゞ皆さん、ご覧になってお分りの通り、今までの、こう云う映画の中には無い、言い回しと云いますか、一寸違った趣向が全編に出ていると思うんですね。それは「日本は戦って来たんだ」と、戦後六十余年たって、今「日本解体」と云う言葉が出ていますけれどもね、もう終戦直後から、「日本解体」と云うのは、始まっているわけですよね。それからずっと、自虐史観と云うんですか、「日本が悪かった」と。あの映画の中でも、名越(二荒之助)先生も仰しゃっていましたけれども、「日本は悪い国だった」と云う話があった、と。

 それを靖國神社は、それまで黙っていたんですけれども、「一つ打って出よう」と、「本当の話を言おうじゃないか」と云うことで、その映画を制作する最高責任者トップが、それを考えましてね。打って出ようと云うことで、「日本と云う国は、神武東征以来ね、大和民族として、天皇の為めに戦って来たんだ、そう云う国である」と、そう云うことを最初から言おうじゃないかと云うことで、この映画の制作はスタートしたんですけど、ただ余りに長いスパンがあり過ぎるんで、大東亜戦争と云うか、明治以来の近代戦争と云うことで、そこの部分を取り上げて、「常に日本は武器を取り、戦い続けて来た」と、そう云う事実を、若い人に知って貰おう。この映画はね、これを見た人が、日本民族の、大和民族のね、魂に触れて、勇気を持って映画館から出て行って貰いたかったと、そう云う思いを籠めて作ったのです。

 ところがこの映画は、靖國神社で二日間しか上映されなかった。ネットを見ますと、中国・韓国からの抗議によって、この映画は上映禁止になったと云うことが、なんか出回っていますけれども、あれは全くの嘘です。何方がそれを言い触らしたのか、私には判りませんが、中国・韓国からは、抗議も一遍たりともありません。この映画を中止させたのは、保守陣営です。靖国神社と云う所には、様々な利益集団・権威集団、主導争い・主権争い・利権争い、これも同じなんですね。その中で、この映画は上映禁止にしようと云うことで、そう云う措置が取られた。だから、これは「泉水隆一監督の個人の映画である」と云うことで、二日間だけ上映されて、それで現在、靖國神社、私は何も靖國神社と喧嘩しようと云うんじゃないんですけれども、これは「関係ない」と云うことで、放逐されたのですね。

 それが死なないで、これを最初に取り上げたのは、「日本青年社」と云う日本最大手の右翼団体が、この映画を数万枚コピーして、配布したんですね。その後、会場にも御見えになっていらっしゃると思いますが、東條由布子先生が、ご自身の講演会で、常にこの映画を上映されて、それを見た方々が、またそこからコピーしたりして、全国に行き亘って行った、と。で、最後にね、「日本女性の会・そよ風」と云う所から、私の所に電話がかゝって来て、「どうしても、この映画を上映したい」と云うことで、「どうぞ」と云うことになったんですけれども、この軍人会館(九段会館)で、たった三百メーター前には靖國神社がありますけれども、そこでこの映画が上映されたと云うことは、非常に画期的な事じゃないかなと、私は喜んでおります。そよ風の皆さんには、本当に感謝に堪えないです。

 この映画の中で、本当に言いたかったのは、「皇国史観」です。今あまり出ていない「皇国史観」に則ったものでやって行こうと云う話が、最初はあったんですけれどもね。やはりいきなりそこから入ると、若い人にはよく分らないと云うのと、戦前が悪く言わされてるんで、迷いも出るだろうと云うので、所々ソフトになっています。でもその中でね、あの特攻で出て行った人達が最初に出ていましたけれども、私がこの映画で言いたかったのはね、日本人と云うのは、天皇の下に身を投げ出してね、死んで行ったんだと。高天原から、瓊々杵尊と云う神様が、九州の高千穂に降り立って、その時に二人の部下をつれて来た。この国を平定しろ、自分を服はぬ者共を平定して、日本と云う国を作ると、そう云う神話があったんですけれども、その神話がもう過去になってしまっている、埋没してしまった、と。これを掘り起こしてね、もう一度、大和民族の原点を作り直そうと云うのが、この映画の大元にあるんですね。

 そこで、その祖先の中に、大伴家持、皆さん知っているでしょうけど、
海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍
これは七百年代の聖武天皇の時に、聖武天皇が、たまたまその時の大伴家持、その時代では、大伴家は少し落ちぶれてましたけど、「お前の家は、お前の一族は、よく天皇の為めに尽くしてくれた」と。その御礼として、大伴家持が、「海行かば水浸く屍、山行かば草生す屍」、大君の為めに、何時でも私達は死んでみせると、「のどには死なじ」、普通の死に方はしませんよと、そう云うことを言っている。その歌が、ずっと明治の時に戻って来て、靖國神社に祀られる英霊の人々に捧げられている。

 この精神をね、つまり日本人と云うのは、今、最近、日本と云う国が、もう殆んど無くなって来ている。こないだ、天皇陛下、今上陛下ご在位二十年と云うことで、御祝いされているけれども、根拠が無いですよね。あの今上陛下が、我々日本人の祖先であると云うことを、果たしてどれくらいの国民が知っていたか。それを知ればね、今、外国人参政権とか、色々問題が起きてね、デモしたりして、何とか食い止めようとしてますけれども、こう云う日本解体と云うのは、もう六十年前から始まっているわけですから、それを取り戻すにはね、もう一度日本人が、日本人としての原点に戻らないと無理じゃないかと、私は思っていますね。

 だからあの映画で、大和の司令官が三千の兵を連れて、「沖縄に特攻するのは嫌だ」と、「無駄死には嫌だ」と言った。「有意義な死に方をしたい」と言った。それを参謀が、「そうじゃないんだ」と、「一億総特攻の先駆けとなって欲しい」と言ったら、「それなら分った」と。何が分ったかと云うと、「天皇の為めに死んでくれ」と、そう云うことを言ったわけね。「それなら分った」と。だから三千の兵も、皆な死んで行ったわけですね。

 これは防人の、『万葉集』に一杯出ていますけれども、「防人の歌」、皆さんご存知かどうか、一寸判りませんが‥‥。飛鳥・天平の、遙かな時代からね、日本人の祖先は、自分は九州の防人に、防備に行かなきゃいけない、と。「自分は、美しい妻がいる、可愛い妻がいる、子供達もいる、この家族と別れることは出来ない。でも『今、天皇の命令が下った』と、益荒男として行かねばならない」と言って、出て行ってますね。つまりこれは、「自分は醜いかもわかんないけど、天皇の前に立ち塞がって、『醜の御楯』(しこのみたて)となる」と。この精神が、日本人の原型だったわけですね。だから、天皇が海を行くならば、自分も海の屍となろう、藻屑ともなります、と。天皇が鞭を揮って叱咤激励して、山を行くならば、自分達も草生す草莽と成り果てましょう、と。そう云う気持ちを、あの時代からずっと持って来て、それが大東亜戦争まで来てるわけですね。それが甦ったのが、あの雪の、幕末に雪を蹴散らして桜田門に殺到した維新の獅子達がね、大老井伊直弼の首をあげてから、激動のように、また古き時代の日本人の血が沸騰して、近代になって来たんですけど、それが終着点が、大東亜戦争で終わってしまったんですね。

 だから今の日本人は、父親を殺す、母親を殺す。また子供を殺しても、何んとも思わない。娘を殺す、娘同士でも殺す。そこには何の、かっての日本人としての、美しさも節操も無くなってしまった。これはやっぱり、タガが外れたと云うことだろうと思うんですね。自分達の祖先が、何処にいるのかも判らない。猿から生まれたわけじゃないですね、日本人は。神から生まれて来た。だから尊かった。だから「自分達の祖先である天皇の為めならば、身を挺してね、矢弾を受けませう」と云うことで、戦って来たわけです。

 靖國神社に祀られる英霊って云うのは、年輩者の方なら、もうお分りだと思いますけれども、天皇の為めに戦った人達が祀られているわけですね。皇軍兵士が祀られているわけですね。日本の為めに戦った人達が祀られているわけでは無いんです。明治天皇は、「よくやった、可哀想だから祀ってあげよう」と言って、祀ったわけでは無いんです。生きている国民に、「お前達の忠義の心、その魂を受け継がせろ」と。その為めに、皇軍兵士を祀ったわけです。追悼施設なんて、誰も言って無いです。「感謝もしてくれなくていい」と。要は、靖國神社に祀られる祭神、英霊は、「後を頼む」と、「後に続いてくれ」と云うことで、いったわけです。だから靖國神社と云うのは、追悼施設でも何んでも無いし、あそこは誓いを、生きている国民が、まず前に行って、「分りました」と。「いざ、国難があれば、私も、あなた方の後を追って、この国を守ります」。我々にとっては、この国ですけど、天皇陛下が御製を作られた時に、この国を守る為めに、「我が国の為めに尽くせる人々」と。天皇の言う「我が国」と云うのは、「私の国だ」と云うことを言ってるわけですね。我々が、私達の国・日本と言っているのと違うわけです。天皇が「我が国の為め」と言ったらば、畏れ多いことですが、平たく云えば、「俺の国だ」と、天皇は、そう云うことを言っている。それを、戦前は理解していたが、戦後は理解されてないわけですね。

 だからそう云った問題を、本当はあの映画で、『凛として愛』でね、最後の最後まで、そう云う日本人の原型を描きたかったんだけれども、中々時間も無いんで、戦いの中で、それを見せて行った。だから特攻の人達も、「何処か死に場所があるだろう」と、「祖国のた為めに自分がやろう」と、そう云うことを、皆さん仰しゃってるわけです。最初に出て来た小母さんは、今の若い人は、「国の為めに死のう」なんて言わないだろう。ま、最近、よくね、「恋人のために戦った」とか、「お母さんのために戦った」と云うように、確かにそう云うことを言う人も、戦後ね、いますけれども、日本の軍隊は、そう云う風になってないわけですよ。天皇に忠誠を尽くす、軍人徴用、誇称して、誓紙を出しているわけですね。天皇に命を差し出すと云う、この精神をね、もう一度、僕は呼び戻して来ないと、日本の大和民族、日本民族と云うのは、蘇生出来ないだろう、と。

 ま、話は一寸色々飛んでいますけれどもね、この『凛として愛』と云う映画は、そう云う想いが背景にあってね、作られたんだ。そう云う想いを持って、もう一度、また家へ帰って見て戴ければ、有り難いなぁと思います。話がまだ山のようにありますが、短い中で、自分の言いたいことを言いましたんで、これで終わりたいと思います。どうも本日は、暮にも関わらず、この映画のためにお越し戴いて、有り難うございました」と。



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●某女史の曰く、「泉水隆一監督とは、一昨年に、九段会館で『凛として愛』の上映会を企画した時に、監督に連絡をとり、上映会の許可を頂いてから、その後、親しくさせて頂いてました。泉水監督は、上映に先だち、九段会館へ上がる階段の数と一段の高さと幅とを調べさせ、病院にて、彼の階段に擬して、懸命のリハビリを敢行されました。凄まじき闘病の御姿は、まさに壮絶と謂うべきでありました。

 泉水監督は「ネットはやっていない」と言っていたのですが、九段塾の掲示板を見た時に、塾頭は監督ではないかと思っていましたが、監督はネットの事を言わなかったので、私も知らないフリをしていました。しかし御見舞いに行くと、時々パソコンを片手で、一生懸命打っている時がありました。きっと九段塾に書き込みをしていたのかも知れないですね。

 二月には、映画作製の計画を話したりして、すごく元気で、四月には、『少年日本史』(平泉澄博士の著)の本を元にして、歴史勉強会も計画していましたが、病状が良くならずに、勉強会も延期になってしまいました。六月に危篤状態だと、家族の方から連絡が入り、病院は私の家から五分ぐらいの場所でしたので、急いで行ったのですが、そこで「凛として愛」についての感想を送ってくれた方々のメールを読んだら、翌日・翌々日と、元気になって、お医者さんも、「奇跡だ」と言われました。監督が残してくれた『凛として愛』を、少しでも日本の本当の歴史を知ってもらえるように、多くの人に拡散していこうと思います。本当に素晴らしい映画を残してくれて、監督には感謝しています」と。



 備中處士案、靖國神社遊就館の映像ホールは、映畫『凛として愛』を、理想的な條件で上映させるため、プロジエクターや客席など、徹底的にこだはつて設計された由。其の映畫が完成して、靖國神社に於いて、平成十四年七月十三日・十四日と上映され、其の素晴らしき映像と共に、泉水隆一翁のナレーシヨンは鳴り響く。何と云ふ、張りのある、澁い聲であらうか。

 然し遂に十五日、上映中止に追ひ込まれ、放逐された‥‥。小田村四郎靖國神社總代等の策謀と云ふ‥‥。悔恨憤怒は、如何とも爲し難く、癒されることは無い。悲歌慷慨‥‥。然し此の映畫を復活恢弘することは出來る。それこそ、泉水隆一翁を鎭魂し、且つ復活することに他ならない。

 諸彦諸姫よ、今日、此の中今、「日本の新しい時代」を始まらせようではないか。あらためて復古の「志」を堅く持たうではないか。泉水隆一監督と共に‥‥。



ご披讀ご閲覽の皆樣 硯北

 今の度びは大變出來、覺悟はしてはをりましたものゝ、九段塾管理の任に在る者としては、こゝに謹みて、塾頭一兵士翁、即ち泉水隆一監督なり矣、と申し上げねばならぬやうであります。

 彼の泉水隆一監督の文の調べ・言ひ廻しは、我が塾頭ならではのものにして、一兵士翁に非ざれば、果たして誰ぞや、と。暫し呆然‥‥。所用に紛れつゝも、獨り悲しみに堪へ、然し如何としても之を公表せずんばあるべからずと愚考するに至り、「招魂――泉水隆一監督」を書かせて戴きました次第です。

 然し泉水監督とメールの遣り取りをされてゐたてふ別の御方の教示により、泉水隆一監督と塾頭一兵士翁とのメールアドレスが、遂に一致してしまひました‥‥。塾頭、逝いて凡そ二百十日、是れ、塾頭の御靈導と恐察いたします。

 塾頭とは、掲示板以外にて、小生、實は四百通を超えるメール交換をさせて戴いてをりました。掲示板には書けないことも、それはゝゝゝ‥‥。たゞ小生も、塾頭の御素性・御齡ひらしきことは、敢へて御伺ひしないやうにしてをりました。かつて櫻掲示板にて、殊更に此の問題を提起する輩が續出したものですから‥‥。よつぽど、水島総はじめ、一兵士翁の追放を圖りたかつたんでせうね。自稱保守の掲示板は、もう、呆れ果てたと申さうか、斷々然として、席を同じうするを耻ぢます。

 また塾頭歸幽の節は、必ず連絡する手筈となつてゐる、と。或は小生、メール・書翰の到來を、迂闊にも見落としたかも知れませぬ。これも運命と、受け止めてをります。塾頭は峻嶮にして優しく、且つ樂しき御方でございました。一兵士翁の、彼の御聲を聞きたかつた‥‥。ご遺訓は、「承詔必謹」、「尊王勤皇の風を吹かせよ」でありました‥‥。涙も枯れ果てゝございます。塾頭彌益の靈格冥福の向上を、只管ら懇祷申し上げます。

 九段塾塾頭・福井金城翁、何ぞ遽かに吾人を捐てゝ逝ける。嗚呼、哀しいかな哉。久しく歔欷して、實に堪ふる能はざる也。情を陳べ、以て祭る。魂魄、知ること有らば、庶幾はくば、饗け給へ。

 塾頭有縁の皆樣には、今後とも、何卒、御引き廻しの程、切に御願ひ申し上げます。恐懼九拜

 『九段塾/靖國神社の正統護持のために』掲示板管理者・備中處士、謹白

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――毎日、可能な限り、一枠から二枠程度、拜記して參らうと存じます。――
 

  • [4]
  • 『凛として愛』上映禁止の經緯。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)00時11分35秒
  • 返信
 
■【註二】泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』(平成十四年九月十八日)
○凛氏/http://ameblo.jp/rintositeai/entry-10680084559.html

「前略、突然ながら、お手紙差し上げます。

 皆様に撮影ご協力頂いた映画、『凛として愛』に関してのことです。もう、既に皆様方の中には、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、『凛として愛』は、去る七月上旬には完成をし、七月十三日から始まる靖國神社恒例のみたま祭に、「こけら落とし」された新・遊就館映像ホールで上映されましたが、上映は二日間のみで、神社側の一方的な判断で、それ以降は、上映中止の措置がとられました。

 中止理由は、中国・韓国からの反論・抗議を恐れるためでした。神社の中でも、若手職員の中からは、「映画は中・韓を恐れず、堂々と上映すべき」という声も、陰にはありましたが、首脳部は「トラブルに巻き込まれたくない」という、もっともらしい理由を楯に、上映中止を断行したのです。英霊の汚辱を晴らす、本作品の上映よりも、「トラブル」を嫌ったのです。神社側の言い分は、日本外務省同様に、「国際的な配慮が必要」というものでした。

 神社に祀られる英霊は、身命を擲って、国家のため、同胞のために地に伏しました。その英霊のおかげで、靖國神社は、今も現存しています。英霊のおかげで、靖國神社に勤める神職・職員の豊かな生活は成り立っています。どんなに世の中が不況に陥っても、彼らの生活に影響を及ぼすことはなく、多くの参拝者の奉納金で、豪華なマンションを彼らは建設し、毎日のように酒席を設け、何の経済的不安もなく、楽しい生活をしています。それはいいでしょう。神社の神職・職員が、全てを英霊のために擲っているならば、私は彼らの生活にまで斟酌する必要はありません。

 しかし、現実は違う。私は二年間、靖國神社に勤務して、映画を制作してきました。普通の人が垣間見られない、裏の姿も見ることが出来ました。これも英霊のおかげでしょう。英霊が、私に真実を覗かせているのだと思っています。私は、なにも靖國神社の本当の姿を暴露するつもりは、今日の所はありません。いいたいことは、彼らが保身に走ったことです。トラブルを防ぐというのは、詭弁であり、要は韓国・中国からの、あるいは左翼系からの抗議・攻撃に身を曝すことを嫌がったという、ただそれだけの理由です。安穏とした生活をしていたいだけなのです。訪れる遺族には、いかにも英霊への崇敬を果たしているような言葉をいい、尊敬を抱かれることが好きなだけなのです。彼らは、神社がぼろぼろになっても、正しい歴史のために、英霊のために闘うという思いは、まったくありません。政治的に全てを計ろうとしているだけなのです。戦後の日本がだめになった縮図が、現在の靖國神社運営首脳部に見ることが出来るのです。

 考えてみれば、戦後の靖國神社は、戦前の靖國神社と名称が同一なので、ついつい、私たちも靖國神社という名前に騙されて、神社の職員は、全て英霊一筋だと考えてしまいがちですが、かれら神職は、たまたま、神学大学を卒業後、一般人と同様な感覚で、靖國神社という所に勤めただけのことで、英霊がどうのこうので、就職したわけではないということが、二年間、彼らと共にしたことで、そのことがよくわかりました。またまた靖國神社の悪口になりましたが、今日は、それは極力押さえるつもりなのです。真実は、別の機会でしたく考えています。

 本日、私が言いたいのは、普段は『中国・韓国に屈するな』、『正しい日本近代史を』等、口にしながらも、いざとなれば、保身に走った現在の靖國神社首脳部は許しがたいという思いを、皆様に伝えたいということなのです。欺瞞という衣をまとった通常人が結束し、神社を牛耳っております。英霊の汚辱を晴らすために闘うという姿勢は、何度も言うように、まったくありません。あるのは「闘っているぞ」というポーズと、参拝者が減ることと奉納金は減じることだけが、日常の心配の種というだけの、靖國神社にいるべきでない人々が参集していると、私は考えています。決して私の思い過しでも、偏向ではありません。二年間、私は、彼らの日常会話を耳にし、言葉を交わしてきました。裏も表も見て来た、私の靖國観です。

 今まで、皆様には何のご連絡もせず、このような突然の手紙を見て、さぞかしお驚きのことでしょうが、話を進めます。実は上映中止の後、神社側から他の団体に映画を譲渡して、その団体名で映画を上映したいという意向が伝えられました。その話が決まった段階で、皆様にはご連絡しようと考えていたために、ご通知が遅れました。申し訳ございません。私は神社側が、『トラブルに巻き込まれたくない。しかし、どうしても映画は上映したい』という言葉を信じて、「譲渡という行為そのものが卑劣・卑怯」と、心に思いながらも、それでも映画が上映できるならと考え、譲渡することに承諾をしました。

 しかし神社と譲渡先の団体とのやりとりで、やはり中国・韓国から抗議がくるような内容は削除、一部修正して上映したいという話が、私の方に伝わってきましたので、私は、即座に譲渡の話は断りました。何の修正もなしに譲渡することを条件として、譲渡を承諾したにも関わらず、彼らは、再度、姑息にも、今度は譲渡先で修正してから、靖國神社で上映するという密約をしていたようです。

 英霊をないがしろにし、保身のみに汲々とする神社に、現在は、未練も魅力も、私は持っていません。従い、戦後、歪められた日本近代史を破棄し、正しい英霊の歩みを国民に知らしめようと企図した本作品は、靖國神社では上映できなくなりました。出来なくなったというより、私の方で、こんな神社で上映してほしくないという気持ちが強く、断ったというほうが適切でしょう。

 「なんとか、上映するために譲渡したい」という神社側の言葉に、またしても騙されたという思いが強くあります。本来は、この映画は「日本を変える」、「日本の正しい近代史を描き、英霊の汚辱を晴らしたい」という意向を、強く主張された花田(忠正)権宮司の意向に従って、制作がスタートしています。しかし、どういう悪霊が動き回ったのか、花田権宮司は、制作途中で担当を外され、新たな人事異動で、現在の首脳陣が形成されました。それから英霊の真実を伝えようとする『凛として愛』に、徐々に圧力がかかりだしました。色々な噂が、私の耳に飛び込んで来ます。
「宴会シーンに神社の人間を使い、出演料を浮かせようとしている」、
「監督は、左翼思想があるのではないか」、
「どうせ、金で雇われてやってるんだから、次は共産党のものもやるんじゃないの」、
などなど、個人的中傷の噂です。本作品は私が中心になっているので、私を腐らせて、作品から降りてくれれば、作品が完成せず、彼らにとって最都合なのでしょう。スタッフ一同とも嘲笑しながら、私たちは構わずに、初期の目的どおり、映画制作を続行しました。

 そして今年の六月下旬には、一応の完成を見たのですが、神社側と神社の上部組織である総代会からの意見として、中国・韓国を『悪く言うことは避けたい』ということが伝えられました。日本近代史を描く映画で、『悪く言うことは避けたい』という、驚くべき稚拙な歴史認識に、私は驚愕しました。悪く言っているのではなく、事実を描いているだけです。それは皆様にお送りしたプリントをご覧になって頂ければ分かることです。そして幾分かの修正が出ました。私は忍の一字を心に呑んで、映画上映のために主張に影響がない限り、修正できることは、神社の意向に沿った修正を致しました。

 そしていよいよ明日が本番上映という時に、総代の一人である阿南総代と小田村四郎総代から中止命令が出たということで、わずかこの二人のために、映画上映は中止となりました。ところが、本作品をなんとか上映したいという神社の人々が裏で動き回り、神社としては、社報やポスターで『凛として愛』を大々的に宣伝し、そのための招待客を大勢呼んでいる手前、なんとか「みたま祭」期間だけは上映したいと、小田村氏と交渉し、当日、「本作品は、神社の意向に沿ったものではなく、泉水隆一監督個人の歴史観による作品であるので、このような作品を上映することに至ったことをお詫びします」という、トンデモナイ挨拶文の紙が招待者に配布される中で、本作品は二日間だけ上映されたのです。

 なんという常識のない、公式挨拶であろうか。これが現在の神社執行部の志向なのです。それでも、映画は上映されたので、満員の観客は至る所で泣いていました。山口県から来たというお年寄りの団体が、「いい映画を見させてもらった。冥途の土産になります」と、私の隣で話をしていたのを聞いて、さすがに私も涙を流しました。映画を上映してよかったと思いました。

 少し横道に逸れてしまいましたが、現在、私は靖國神社に祀られる英霊そのものは、大切にしたいと考えておりますが、現在の靖國神社執行部である、湯澤(貞)宮司・三井(勝生)権宮司・山口(建史)総務部長の三人を信じてはおりません。又、神社に上映中止を迫ったと言われる阿南(惟正)総代(阿南惟幾大将の遺児)・小田村四郎総代(拓殖大学総長)、他に小堀桂一郎氏などの一連の著名な学者・研究者も、私は信じていません。彼らが、今後、英霊に対してどのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。

 取り敢えずは、今日はここまでのこととして、皆様にご連絡が遅れたことをお詫びすると同時に、完成した映画『凛として愛』のプリントをお送り致しますので、どうぞ、ご鑑賞ください。 また本作品の完成後、同時進行していた真珠湾攻撃の真実を描いたアニメ併用の『太陽に向かって翔べ』や『大東亜戦争の真実』の二作品も、編集を中止しました。『太陽に向かって翔べ』の作品では、スタジオに、真珠湾攻撃に出撃した三十隻の縮小艦船模型に、潜水艦部隊三十数隻(縮小模型は龍角散社長よりお借りする)、また航空部隊の三機種の模型を準備し、三日がかりで、その威容を撮影。そして真珠湾攻撃に参加した空母加賀の雷撃隊のお一人のインタビューや、ハワイまでロケ、真珠湾攻撃を直接目撃した日系二世の元米軍将校のインタビューなどで構成、真珠湾攻撃の真実の姿を描く予定でしたが、これも中断せざるを得なくなったこと、誠に残念です。ご協力頂いた方々には、申し訳ないの一言です。『大東亜戦争の真実』では、戦後、初めてカメラの前に立たれたアッツ島生き残りの元兵士の貴重な証言、山崎大佐の遺児・山崎保之さんのインタビュー。また日赤の従軍看護婦の方、島根県の山村で戦後の日本の歩みを批判する人々の話、あるいは玉砕の島ペリリューに十日間ロケ、彼らは、どのように執拗に闘ったか――その雄渾の姿を描くつもりでしたが、これも中止という運命になりました。

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません。ただただ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が「靖國神社で逢おう」といった言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということを、どうかよくお考えになって下さい。その上で改めて、靖國神社というものを考えて下さい。決して彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています。

 大変激高した言葉になってしまいましたが、皆様の中にはご不快になられる方もいると思いますが、英霊の力を借りて二年間、『凛として愛』に、自分の才能を注いだ監督の言葉としてお許し下さい。なおプリントと共に、『凛として愛』の鑑賞記を掲載した『不二』(下記★)という雑誌が同封されていますので、お読み下さい。但し部数に限りがありましたので、一部の方にはコピーとなりましたこと、重ね重ねお詫び申し上げます。書いているうちに怒りがこみあげ、支離滅裂な箇所も多分あるかと思いますが、これもお許し下さい」と。



**********

★大東塾・不二歌道會『不二』平成十四年八月號
○神屋二郎翁の哥――映畫『凛として愛』
英靈の憑りしがごとき氣迫もてみ國を覆ふむらくもを斷つ
○『映畫「凛として愛」鑑賞記』
一、「凛として愛」を拜觀して――松下眞啓氏
一、普及に協力したい――福永武氏
一、東京裁判史觀からの脱却――石田愼氏
一、靖國神社遊就館新館開館の記念行事――平田隆太郎氏

**********

 備中處士案、映畫『凛として愛』は、靖國神社に於いて放逐されたが、「日本青年社」・東條由布子刀自・「愛国女性のつどい・花時計」のご努力により、今や、何人も制止する能はざる勢ひを以て、本來の靖國神社が、此の映畫制作の目的とせる通りに、遊就館改修の目的とせる通りに、俗流保守の思惑を遙かに超えて、國中に、世界中に擴散しつゝある。洵に皇國の幸福と謂はねばならぬ。蓋し靖國護國の英靈、必ずや嘉納し給ふ所であらう。或る御方は、次の如き言靈を寄せて下さつた。知らず、涙、頬を下れり。



●某氏の曰く、「塾頭は、‥‥『詩吟大和流』をおこし、かつて山崎保代大佐にも稽古なされたと云う、父上・福井銀城師の下で朗詠を学び、宗家を継承し、金城と号された監督の声は、大和心の正統を発するお声にほかならなかったのです。思えば、「城」を号とされた泉水監督は、その後、道場を閉ざされましたが、映画製作・脚本の世界で、城たる所以を発揮されました。その監督が自らの肉声で製作されたのが、映画『凛として愛』だったのです。「プロのナレーターを使わずに、自分で吹き込んだのは、製作費を浮かせたいからだ」と、愚か者が言いました。しかし監督は、いくら声のサンプルを聞いても、納得がいかない。『自分の志操は、自分で語るしかない』と云うのが結論でした。思えば、泉水監督の公然たる戦いは、一昨年の十二月二十七日、九段会館での『凛として愛』の上映だったのではないでしょうか。ここで、肉声を以て、かの映画製作と上映中止の真相を語られました。

 もっとも泉水監督は、この映画製作を以て、御自身のお仕事が完成したとは思われておらず、皇国の復興、尊皇精神の恢弘を目指しておられました。正統なる右翼集団の形成をめざしておられました。世論に便乗した靖國神社崇敬奉賛会などではなく、かりにネット上であっても、「靖國神社正統崇敬奉賛会」の形成をもくろみ、それが将来の神社運営に多大の影響を及ぼし、さらには皇室の彌栄を翼賛しまつるものと、信じておられました。それが徐々に実現し、映画上映を計画する人々も現れたことに、大いに喜びを語っておられました。一兵士翁は、今も健在であられましょう。御投稿はかなわなくても、お声は万人が聞いておられる」と。



●某氏の曰く、「泉水隆一監督は、此の映画を創作せしものに非ず。正に『英霊の言の葉』を、脚本に写し取られしものにして、美しくも力強い詩吟の調べに乗せて、朗々と歌ひ上げしもの、即ち『凛として愛』なりと思考する。此の映画は、一篇の詩、民族慟哭の叙事詩なり。監督の意図する所、靖國神社の、遊就館の入館者増加を乞い願うなどの小事に非ずして、究極する所、皇室の翼贊に外ならざるものと恐察す。此の映画は、今日の皇室に奉賛の誠を捧げるものなり。その為めにこそ作られし映画にして、靖國神社が、如何あるべきか、如何に護持するか、の次元を超えた、神武創業の正史を、正当に理解する為めの映画なりき」と。



●某氏の曰く、「『凛として愛』に出て来る、回天のことを語る老婆、反日映画にも、しばしば出演している由。泉水監督が、『真実の事を語ろうよ』と、粘り強く言えば、『真実の事を言えば、映画からカットされる』と。ならばとて、彼の『日本刀をぱーと上げて』のシーンとなったのである」と。



 備中處士案、柳條溝事件に端を發した滿州事變は、昭和六年九月二十一日の「閣議決定」に曰く、
「九月十八日夜、支那兵の滿鐵爆破に因り生起したる今囘の事件は、之を事變と看做す」と。

 泉水監督は、先づ東京裁判史觀の根源にある滿州事變の研究を始め、柳條溝の現場へも出向き、「やはり關東軍は、やつて無い」との結論を下す。而して『凛として愛』は、「天皇陛下認證の閣議決定」に據つて、正統に之を承繼してゐる。然るに現在、靖國神社に上映されてゐる、改竄版『私たちは忘れない!――感謝と祈りと誇りを』(ナレーシヨンは浜畑賢吉・上村香子夫妻)には、「關東軍の一部の將校がやつた」と、明確に訴へてゐる。名指しされたに等しい、其の一部の將校とは、勿論、靖國神社の祭神である。にもかゝはらず、英靈を顯彰する筈の『私たちは忘れない!』では、之を貶めて憚らないのである。

援軍を 送ると聞くに 十年すぎ 未だ來らず 髮逆立つを
援軍の 來たるを待つに 横槍を 入れたる奴は たぶれ誰が奴

**********
 

  • [3]
  • 『凛として愛』、靖國神社遊就館上映。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)00時08分52秒
  • 編集済
  • 返信
 
■【註一】『凛として愛』脚本抄――脚本・監督・ナレーション、共に泉水隆一翁――

 国家によって、安全と平和、生命と財産を護りきれなかった国民の悲惨さを、私たちは知らない。この一篇を、明治開国から大東亜戦争に至るまで、祖国のために、力の限り戦った幾千万の将兵と、銃後の守りに尽くされた総ての先人に、感謝と畏敬の念をこめて捧げます。

 昭和二十年八月――広島・長崎に、原子爆弾が投下される。八月十五日、日本は、三年八ケ月に及ぶ大東亜戦争に終止符を打った、建国以来、初めての敗戦であった。この日から、日本の近代史が、ひび割れた鏡のように歪んで伝えられていく、汚辱の日となった。

 戦争に負けたのは、仕方がない。だが、日本人は、戦いに敗れても、誠実さが必要だった。日本という国に、祖国に尽くした、幾百万の英霊に、幾千万の先人に、愛をこめて、感謝を捧げるべきだった。

 ‥‥が、果たせなかった。多くの日本人が裏切った。戦後の荒廃した日本に、赤旗がなびき、社会主義思想が広まり、戦勝国による一方的な東京裁判が開かれる中で、日本の近代史は、偽りに満ちた悪意のもとに書き替えられていった。

‥‥‥‥

 私たちの国には、明治維新以来、幾たびかの困難に、敢然と立ち向かった日本民族の、不屈の歴史があります。たった一つしかない命を、国家に同胞に捧げた、凛とした真実の歴史があります。その扉を、今、開け放そう。

――警蹕――

凛として愛

[以下、肉声]六十数年前、日本は、アメリカを始め、世界百十数国を相手に大戦争をした。しかしその戦争は、国家国民の安全と平和を守るため、亜細亜の安定を築くため、世界の平和を乞い願ったものである事に間違いなかった。戦場に出て行った将兵は、皆な同じ考えであり、力の限り、彼等は戦った。だが、事、志と違い、戦いに敗れたことで、日本の掲げた理想は、実ることはなかった。

 日本は、敗れたままでいる。平和を享受する現代日本から遠く離れた異国には、未だ収集されない将兵の遺骨が、山野に埋もれている。いつになったら、日本は、戦いに散った将兵を暖かく迎えてくれるのだろうか。全国民が祈りを捧げてくれるのだろうか。

 靖國神社に祀られる二百四十六万六千余柱の英霊は、未だ侵略戦争の汚名を着せられたままでいる。かって南方の島々で戦った日本軍に、援軍は来なかった。ならば、今から援軍を送る。日本を変える援軍を送る。あなた方の真実を、痛みを、私達は伝えていきます。

 昭和十六年十二月八日、日本は、西太平洋に浮かぶハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃、米英を相手とした、大東亜戦争を起こした。

 この開戦の意義を、『智恵子抄』で知られる詩人・高村光太郎は、一篇の詩(『鮮明な冬』昭和十六年十二月十日作・『改造』昭和十七年一月所載)に書きつづっている。

「黒船以來の總決算の時が來た。民族の育ちがそれを可能にした。長い間、こづきまはされながら、なめられながら、しぼられながら、假裝舞踏會まで敢てしながら、彼等に學び得るかぎりを學び、彼等の力を隅から隅まで測量し、彼等のえげつなさを滿喫したのだ。今こそ古しへにかへり、源にさかのぼり、一瀉千里の奔流と成り得る日が來た。」

 大東亜戦争は、黒船来航以来、長い間、欧米列強にこづきまわされて来た日本人の、白人社会の強圧に対抗する総決算であることを詩に託している。何が総決算だったのか。その慟哭の声を聞こう。

‥‥‥‥(中略)‥‥

 日本よ、陽は、また昇る。

 祖国日本を防衛するために、陸に海に空に散華された方々に、私たちは誇りと叡知を、此の胸に抱き、凛として愛を捧げる。それがあって、初めて、日本の新しい時代が始まる。



**********

【伏して御願ひ申し上げます】
 『凛として愛』脚本の完本を拜記し、スレツドとして掲げたく、其の借用を乞ひ求めてをります。ご存知の御方は、何卒、ご連絡たまはりますやう、宜しく御願ひ申し上げます。 備中處士、謹白

**********
 

  • [2]
  • 九段塾塾頭・金城翁年譜。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)00時06分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
■九段塾塾頭・福井金城翁事歴抄

昭和十六年辛巳四月十二日、稟生。福井忠、金城と號す。尊父は、詩吟大和流宗家初代・福井銀城翁。
○福井銀城翁/http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1106

【平成十二年】
?月、英霊にこたえる会『君にめぐりあいたい』の監督・ナレーシヨン(五十三分)。
○ユーチューブ動畫『君にめぐりあいたい』
一、http://www.youtube.com/watch?v=tVkZufA_2Do
二、http://www.youtube.com/watch?v=ddxvcdUy1jk
三、http://www.youtube.com/watch?v=5A2KYw-WnX8
四、http://www.youtube.com/watch?v=Jr5jLr3AejA
七月二十三日、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠(泉水隆一 ――いづみりゆういち、亦た花椿一心と號す)翁、靖國神社へ、初めて靖國神社創立百三十年記念事業映畫製作の趣意書を持參。

【平成十四年】
七月十三・十四日、靖國神社、泉水隆一監督作品(六十七分・費用=約一億圓)として、『凛として愛』を上映(七月九日、録音)。‥‥【註一】
○ユーチューブ動畫『凛として愛』
予告篇/http://www.youtube.com/watch?v=nr9LFmOrEds
一、http://www.youtube.com/watch?v=fyYtFLxDk-A&feature=related
二、http://www.youtube.com/watch?v=sclhNwB2QBY&feature=related
三、http://www.youtube.com/watch?v=9sGX2qhid8E&feature=related
四、http://www.youtube.com/watch?v=LED82clglAc&feature=related
五、http://www.youtube.com/watch?v=cmvA5VFDFYU&feature=related
○ユーチューブ動畫『凛として愛/英字幕版』
よーめん氏/http://youmenipip.exblog.jp/15892384/
予告篇/http://www.youtube.com/watch?v=rrvvyguPimA
一、http://www.youtube.com/watch?v=xHXw-3E4UT0&feature=related
二、http://www.youtube.com/watch?v=a1UNWDo5TCA&feature=related
三、http://www.youtube.com/watch?v=us8gG6BmdVs&feature=related
四、http://www.youtube.com/watch?v=KGwjFfD4Uqo&feature=related
五、http://www.youtube.com/watch?v=srY4aot8GIY
六、http://www.youtube.com/watch?v=q3U1uEU_MpM
七、http://www.youtube.com/watch?v=AIPFU9x6L3U&feature=related
○高畫質DVD『凛として愛』――「愛国女性のつどい花時計・拡散プロジェクト」にて頒布中。
藤真知子女史/http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php
七月十五日、靖國神社首腦部、『凛として愛』をして中止せしむ。
九月十八日、泉水隆一翁、『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』‥‥【註二】

【平成十八年】
八月十六日、日本文化チャンネル桜の掲示板に、「一兵士」と名乘り出顯。
 甲、○○○○○氏スレツド『保守派よ!総理大臣の靖国神社参拝を支援せよ!』十六頁~三十五頁。
九月四日、一兵士翁、スレツド『靖国神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか』を建立。
 乙、一兵士翁スレツド『上記』一頁~一百三十八頁。
 甲・乙、あはせ抄記して『靖国神社の真実』に所収。

【平成十九年】
十一月十七日、一兵士翁、『勤皇の志を持て』を以て、チャンネル桜掲示板から退隱。

【平成二十年】
九月十三日、一兵士翁、塾頭として『九段塾/靖國神社の正統護持のために』開講。
 『本スレツド』掲載――『靖国神社の真実』の続篇・未版。

【平成二十一年】
九月十一日・十二日、塾頭『むすびに至る日々』他――九段塾最後の玉稿。
九月十九日、塾頭、九月十六日、胸部急性心筋梗塞にて倒る。
十月一日、塾頭『九月二十九日の訓話』――頸椎損傷にて倒る。
十月七日、塾頭『左手人差指一本の玉翰』
十月十八日、塾頭『左手人差指爪の玉翰』
十月二十五日、塾頭『短信』
十一月三日、塾頭『新天地』
十一月十八日、塾頭『七難八苦』
十二月二日、塾頭『日本人とは誰のことを言うか』――承詔必謹。
‥‥十二月七日、○女史、九段塾に『凛として愛』上映會の告知。
十二月二十一日、塾頭『尊王勤皇の風を吹かせよ』
十二月二十七日、日本女性の会「そよ風」主催し、九段会館にて、『凛として愛』を上映。
 泉水隆一翁、『凛として愛――泉水隆一監督は、かく語りき』――滿天下に對し、公然と戰ひを挑む‥‥【註三】

【平成二十二年】
一月六日、泉水隆一翁『一億国民に崩壊の危機』
一月十一日、塾頭『最後の断章』――病名・間質性肺炎。
六月十四日、塾頭『三月六日の打聞・首一丁』――最後の言靈。
七月十六日午前○時三分、間質性肺炎に因り歸幽。享年七十(滿六十九歳)。法謚・忠賢凛徳。
七月二十三日、帝都杉竝區コムウェルホール高円寺に於いて告別式。喪主は、室・光子刀自。
○花うさぎ氏――金城翁遺影・講演中における車椅子の塾頭の白髭姿――
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/



**********

 九段塾管理者・備中處士、案ずるに、迂闊にも迂闊、寔に迂闊なるかな哉。たゞ涕泗、流れて止まず。如何に悔ゆとも、逝きし歳月は歸るべからず。

 彼の幻の映畫『凛として愛』を謹作(脚本・監督・ナレーシヨン)し、江湖に多大な感銘を與へた、泉水隆一監督がみまかられしことを、平成二十三年二月五日に至つて、初めて知つた。謹んでこゝに、追悼の意を表します。

 嗚呼、泉水隆一監督。其の御志は、『九段塾』にて繼承せむことを、涓滴の微力を耻づと雖も、こゝに御誓ひ申し上げます。願はくば、天翔り國翔り坐し、此の齋庭に來り坐して、ご照覽あらむことを。

 監督を顯彰されし關係各位の御文、謹んで轉載する事を、何卒、御許し下さい。

**********
 

  • [1]
  • 九段塾「塾頭」最終講義の開板。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 8月15日(月)00時03分33秒
  • 編集済
  • 返信
 
謹啓 おほけなくも、こゝに掲示板を開設させて戴きます。管理者の備中處士と申します。頑迷固陋、古色蒼然たりと雖も、新しき沓を履いて、古の道を行かむと欲する者、憂ふる所は皇國の安危、擇ぶ所は義の至當と不當とのみ、其の他は論ぜざる所であります。塾頭・一兵士翁はじめ、其の御一黨の皆樣には、宜しく御引廻し賜はらむことを、切に御願ひ申し上げます。

 チヤンネル櫻掲示板に於る議論は、洵に殘念なる顛末でありました。彼處に於いて、掲示板運營管理者を通じ、其の主宰者の俗物たる心底を垣間見、其の識見低劣、其の發言と裏腹に、洵に不敬無禮なる醜態を確認した以上、一兵士翁の如き、靖國神社の正統を護持せむと欲する者の長居するやうな所ではありませぬ。況や其の取卷きの一部の者たるや、保守ゴロ・狂信者の類ひにして、殆んど尋常に非ざるにおいてをや。一兵士翁の所論警鐘を、下記に御紹介申し上げます。未見の御方には、是非とも御一覽あつて、九段塾塾頭・一兵士翁が血涙の詞、熱誠の御志(雲深き邊りに御奉公する者を、特に「御志」と云ふなり。即ち『神皇正統記』の筆法、是なり)に注視せられむことを。

 靖國神社「正統崇敬奉贊準備會」誠惶誠恐、敬白

――塾頭・一兵士翁ご發言――

【靖國神社正統崇敬奉贊準備會叢書第一】備中處士編『靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために』附「泉水隆一翁年譜」竝びに有志各氏寄稿「塾頭を偲びて、他」――近く洛風書房より自費出版の豫定(下記の甲乙兩篇の中から、塾頭遺文のみを抽出して、些か編輯加註せしもの)。曰く、

「―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社なり ――

 我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、映畫『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、歸幽。享年七十。謹みて此の書を、塾頭に捧げ、ご照覽を乞ひ奉る。

 本書は、一兵士翁が、戰後の人々に、或は靜かに滾々と、或は荒び迸り、或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、「靖國神社の眞實」の記録、そして、「靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか」の覺悟を問ひ、皇猷神算を翼贊し奉らむと欲するものであります。ご閲覽の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聽き取り下さい」と。
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/

または
【甲】チヤンネル櫻→掲示板→地獄の戰場→○○○○○氏スレツド『保守派よ!總理大臣の靖國神社參拜を支援せよ!』十六頁~三十五頁
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=761&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=150
【乙】同上→一兵士翁スレツド『靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか』一頁~一百三十八頁
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1164&forum=1

 我が塾頭・一兵士翁のご發言により、靖國神社の現執行部の憂ふべき現状は、滿天下に明かになりつゝあり、小生も、一兵士翁の如き「内堀」は不案内でありますが、或は色々な「つて」を頼り、或は九段の境内に立ち、或は其の「外堀」から複数の御方に、愼重に確認を取らせて戴きました。小生の確認檢證は、其の一部でありますものゝ、其の仄聞すること、此の田舍者の想像の遙か上を行く、耳を疑ふ椿事醜態ばかり、正に妖雲、天を覆ひて去る所を知らず、一兵士翁の血涙憂憤は、洵に正確かつ眞實にして、否、未だ遠慮韜晦せるご發言なるを、彌益に確信するに至りました。今こそ、崇敬者・參拜者たるもの、靖國神社の正統を明かにせねばならない。その爲には、賀茂百樹・鈴木孝雄・松平永芳元宮司の精神を呼び醒まし、之が承繼祖述、恢弘囘復に、鋭意、力めねばならないと、更めて覺悟を定めた次第であります矣。

【本篇】「九段塾」塾頭・金城翁主宰『九段塾/靖國神社の正統護持のために』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs
 


スレッド一覧

  1. 「九段塾」塾頭・金城翁最終講義(44)(備中處士)
  2. 「九段塾」塾頭・一兵士翁遺文抄(100)(備中處士)
  3. 泉水隆一監督『凛として愛』臺本(8)(備中處士)
  4. 祖神垂示 親譲之道 拾遺(36)(はゆまつかひ)
  5. ★☆★ 時計の間 ★☆★(343)(塾頭)
  6. 賀茂百樹大人遺文(5)(備中處士)
  7. 先哲遺文に學ぶ。(31)(備中處士)
  8. 日本刀四方山話(51)(那須の権太)
  9. 神道に學ぶ。(55)(備中處士)
  10. 平田篤胤大人遺文(31)(備中處士)
  11. 平田篤胤大人『古史成文』(165)(南雄)
  12. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(46)(備中處士)
  13. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(35)(はゆまつかひ)
  14. 參考聚英(15)(備中處士)
  15. 平泉澄博士遺文(9)(備中處士)
  16. おゝ靖国の大神(39)(はゆまつかひ)
  17. 大元靈に坐す天之御中主大神(8)(備中處士)
  18. 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(30)(相州之民艸ならびに備中處士)
  19. 霊的国防の本義 拾遺(34)(はゆまつかひ)
  20. さあ、『少年日本史』を讀みませう!(7)(備中處士)
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