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  • さあ、『少年日本史』を讀みませう!

  • 投稿者:備中處士
 
■寒林平泉澄先生『少年日本史』
一、昭和四十五年十一月・時事通信社刊。
一、昭和四十九年一月・皇學館大學出版部復刊。
一、講談社學術文庫『物語日本史』と改題して、上・中・下の三卷、昭和五十四年二月・講談社刊。
一、『英譯本――少年日本史――THE STORY OF JAPAN』三分册・平成九年六月・青々企劃刊。



 昔、顔淵、深く孔子の盛徳に服し、喟然として歎じて、之を仰げば彌々高く、之を鑽れば彌々堅しと曰へり。此の贊嘆の語は、今ま之を其の儘ま移して、我が平泉先生に捧げて可なり。小生は十三歳の砌、皇いなる天の寵靈に藉りて『少年日本史』一卷を手にし、反覆、之を玩索す。爾來、今に至つて殆んど四十年に埀んとす。而も齡ひを經るに隨ひ研究を重ねるにつれて、先生に對し奉る畏敬戀慕の情は、益々深まるのみにして、書を拜して泪すること數々なり。

 我が國史の成跡を照鑑すれば、先生の如きは、遠くは護王・菅公、中くは梅尾・承陽・准后・楠公、近くは義公・埀加・素行・櫻花、東湖・松陰・景岳・紫灘と光を爭ふと雖も可と謂ふべく、集めて大成し、復た餘蘊なしと謂ふ可きか。先生を學んで謬らば、先生と共に謬るなり、何の遺憾か之れ有らん矣。

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  • 歴史家の見識と使命。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 5月24日(土)23時48分35秒
  • 編集済
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■寒林平泉澄博士の哥(『寒林子詠草』平成十六年二月・日本學協會刊)

  大正六年十一月六日夜
我が心 寫[うつ]しいだして 故里[ふるさと]の 人に見すべき 鏡しあらね
身も滅び 家も頽[廢]れよ ひたすらに みくに(國)のために 我つくさなむ

  昭和二十一年
忘れめや 斷頭臺上 義を述ぶる 益良武夫の 猛き雄心

  昭和二十七年四月二十八日、占領解除の日に
鍬執りて 七年八年 荒れし手に 今ぞかか[掲]げむ 日の丸の旗

  昭和四十五年、七十六歳を迎へ
白山の 神のしるしの 杉の木の 直ぐなる道を 行けや人々[行かむとぞ思ふ]

  昭和五十七年三月十一日、予のよみし歌「逸子(奧室)、之をよしとして肯定し、居間の襖に張付けたり」
梅薫る 清き一代を 送りけり 白山の神の 御導きに

  昭和五十八年十二月、目ざめてひとり詠み出したる歌
御教の まにまに道を 選び來て 悔いこそなけれ 長き旅路[一代]に

  (拙家寶藏)
千里行かむ 只一筋に 千里行かむ 世は樣々に 移り變れど  白山 平泉澄



●田中卓博士『葦津珍彦大人の御發言』より、葦津珍彦翁『歴史教育を再建する』(『週刊時事』昭和四十五年十月三十一日號。四十五年九月二十八日、時事通信社主催の座談會。『葦津珍彦先生追悼録』平成五年十二月・編集委員會刊に所收)

【歴史家の節操の問題】

「人間だれでも、節操が大切ですが、とくに人の心に深い影響を及ぼす歴史家にとつて、節操を守ることは、社會的義務だと思ひます。歴史家は、過去の時代の國の歩み、人間の行動から心情・精神に至るまでを明らかにするのですから、多くの人々の思想に、決定的な影響を與へます。人々は、その人生觀なり、國家觀なりを、歴史を通じて學ぶ。その點では、抽象論理で人生を論ずる哲學者より歴史家のはうが、思想的な感動を與へることが多い。したがつて他人の思想に決定的な影響を與へておいて、自分はあつさりとその精神的な姿勢を變へてしまふ無節操は許されないと思ひます。

 占領時代から、日本の歴史家の精神的姿勢がまつたく變はつてきて、日本の歴史を東京裁判の戰勝國檢事の立場と同じやうな思想的立場で論ずる者が多くなりました。これは、日本の歴史家から敵國の歴史家に急轉したわけで、このやうな歴史家の思想的無節操などは論外でせう。しかしすべての歴史家が、さうなつたわけではない。なかには、歴史に思想は無用として、たゞ客觀的に資料を積み上げさへすれば、それで任務が果たせると思つてゐる歴史學者も少なくない。かういふ人は、いはゞ第三國人的歴史家で、日本人の歴史家とはいへないと思ひます。

 平泉(澄)先生が、今度お書きになつた『少年日本史』は、終始一貫、日本人としての精神的姿勢をくづさず、思想的節操を堅持されてきた學者の著書です。それは單なる資料の羅列ではなく、精神が生きてをり、その點が貴重だと思ひます。歴史家にとつて、嚴正な資料の研究が大切なことはもちろんですが、その資料をどのやうな精神思想で讀みとるかが、最も大切です。歴史家は、圖書館のカード整理者とはちがふのです」と。

【『少年日本史』の讀後感】

「私には、吉野朝五十七年の、忠烈の歴史を説かれてゐる點が、最も印象的です。資料知識については、最も博學な平泉先生が、とくにペダンテックな連中が敬遠する『太平記』を多く引用されてゐる。これは必ずしも少年向きだからではない。無名の『太平記』の筆者を偉大な歴史家と評されるのは、平泉先生みづからの歴史家としての精神的姿勢が暗示されてゐるやうです。

 それに『少年日本史』と題してあるし、多くの少年に讀ませたいのはもちろんですが、私は兩親にも讀ませたいし、とくに歴史學者に讀ませたい。歴史學者なら、こゝに書いてある史實は知つてゐるでせう。讀んでもらひたいのは、何を選び、何を捨てられたかを考へ、その見識と精神を考察してもらひたいからです。

 學者には、當然、專門家として學説の異同はあります。それはそれでいゝのです。問題は見識で、前にあげた敵國人的な歴史家は論外ですが、さうでない歴史家に、資料價値の大小・輕重について考へてもらひたいからです。『少年日本史』は、少年に平易に國史の知識を與へるだけでなく、歴史學者にたいして、歴史家の使命の何たるかを教へてゐると思ふのです」と。


 田中卓博士の曰く、「座談會が終つて、時事通信社の建物の前で、葦津大人とお別れしたが、その際、『くれゞゝも平泉先生に、よろしく御傳へ下さい』と言つて、頭をさげられた。私も、禮は人後に落ちない方なので、丁寧に御辭儀をして頭をあげたところ、葦津大人は、まだ深々と禮をされてゐる。私は慌てゝまた頭をさげ直したことであるが、これは、葦津大人が、私に對してといふより、私を通じて背後の平泉先生に、最大の敬意を表されたものと思はれ、この想ひ出は膽に銘じて、今に忘れられない」と。



【葦津珍彦翁『「少年日本史」の眞價』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t34/3
 

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  • 師恩に報い奉らむ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 1月 7日(金)22時45分39秒
  • 返信
 
 愚案、白山神社名譽宮司・寒林先生は、平泉氏、澄と稱す。白山隱士・寒林子は、其の號なり。越前國大野郡平泉寺村の人。明治二十八年乙未二月十六日、生を稟け給ひぬ。嚴父は、白山神社祠官第二十三世・清泉翁恰合大人。

 先生は、文學博士にして、東京帝國大學教授・滿洲建國大學名譽教授たり。天皇陛下、及び秩父宮・高松宮の兩殿下へ御進講するの榮あり。亦た滿洲國皇帝へ進講せり。正四位・勳三等に敍せらる。

 先生は、又た景岳會を再興し、東大朱光會・崎門會・建武義會・日本學協會を創立し、青々塾・存道館に開講し、楠公囘天社を創祀し、神祇院參與・皇學舘大學學事顧問たり。亦た神道史學會・藝林會・水戸史學會の世話人等を務む。正月には白山の雪中に講義し、五月には大楠公を祭り、七月には河内の存道館に講じ、九月には闇齋先生を祭り給ふこと、一日の如し矣。

 嗚呼、然れども、先生、昭和五十九年甲子二月十八日六時三十三分、簀を易へ、幽明、境を異にし給へり。御歳九十。御在世、凡そ參萬貳阡伍百壹拾日なり矣。

 小生、彼の『少年日本史』に因りて、寒林先生を知れり。先生、坐しまさずんば、小生は、一介の醉生夢死の徒にして、親房公・楠公を知らず、闇齋・松陰兩先生を解せず、神國の尊嚴、皇國の道義を仰ぐに至ること能はざるなり。先生を知るに至れば、涓滴の微力を耻づと雖も、道義の至當を究め、難に當つて毫も恐るゝ所なく、進んで天下の綱常を扶植せむ事を期さずんばあるべからざるは、其の運命なり矣。是れ、皇いなる恩寵なるか、はた險難辛苦の道なるか。嗚呼、悲しいかな哉、尊きかな哉。



●谷省吾翁『葬祭詞』(田中卓博士「平泉澄先生の神葬祭に參列して」――『神道史研究』昭和五十九年四月號に所收より)

 言はまくも齋々(ゆゝ)しきかも、仰げば彌々高く、思へば益々慕はしき、白山神社名譽宮司・文學博士・平泉澄先生の御柩の御前に、齋主・門弟・皇學館大學教授・谷省吾、謹み敬ひ、別れの誄詞奉らくを、平らけく聞召せと白さく。

 一昨年の九月二十四日、妻・逸子(はやこ)の刀自の隱り給ひて、其の御悲みの深きを畏みつゝ、人々胸を痛めけるに、年は再びも改りて、九十歳の齢を重ね給ひ、御心新たに、御身も健かに、筆執り給ふ日も、一日と爲て絶ゆる事の無かりしかば、決(さだ)めて百年に餘る齢ひを保た令め給はむ物と、洸(令息・あきら)主を始め、家族・親族の人々、又た御姿慕ひ仰ぐ數限りも無き人々、共々に思ひ安らひ、喜び祈り合ひけるに、思ひも掛けず、俄かに床に臥せ給ひ、如何なる神の御計らひならむかも、人々の心の限りを盡せし甲斐も有らで、二月十八日の午後六時三十三分に、遂に刀自の坐せる、幽世に遷らせ給へる、阿波禮、胸潰れ心惑ひて、此の悲しみこそは、言の葉の言ひ表す可くも有らね、再びも復り來坐せと、乞ひ祈み奉るに、最早や術も有らねば、心鎭めて、今し御食・御酒・海山の味物、種々捧げて、別れの御祭り、嚴かに仕へ奉らむとするに、此の俄かなる悲しみの事聞召せる、秩父宮家、又た高松宮家より、厚き御心の御供の物賜りて、御前に其の由を御前に告げ參らするこそ、最(いと)も々ゝ畏しとも畏けれ。

 先生はしも、明治二十八年二月十六日に、掛けまくも畏き、白山妙理大權現に、世々仕へ奉り來れる、平泉の家に生れ、平泉の清き眞清水に洗はれ育まれ給ひて、百年に一人だも無き才を抱きて、歴史の學びに入らせ給ひ、廣く探り考へ、細やかに究め明かし、目は隈ま無く晴れたる大空の高きに遊ばしめ、心は海の底の深きに置き給ひて、批判は嚴しく、理解は温かに、擧ぐるに遑も無き、著書・論文・講義の數々を以ちて、前にも後にも比ひ無かる可き、新しき境地を拓き、東京帝國大學文學部國史學科の主任教授と爲て、學界を導き給ひしが、革命思想の蔓り浸み透り行く、皇國の今、將來(ゆくすゑ)の危き状に、早くより深き憂へを懸け給ひ、歐羅巴・米利堅の國々をさへに廻り學びつゝ、世界の歴史の限りを、廣く深く見通し給ひけるに、淀みに浮ぶ泡沫(うたかた)の、且つ消え且つ結びて、留まる事無きが如く移らふ中に、磐石如(な)す、掛けて動く事無く易る事無き、皇國の道を見出で給ひ、其の道を生命を懸けて繼ぎ守らしゝ、諸々の先哲達の學問(まなびのさま)を、心を盡して究め給ひ、説き示し給ひて、尊き邊りを始めて、政事の重き司と在る人々、軍人・學者・教育者・實業家より、遍ねく市井の人々に至る迄に、日本人たる自覺を喚び起し、生活の支へを與へ給ひたればこそ、昭和の御代の、嶮しき悲しき御代に、猶ほ皇國の光有る、命脈の絶ゆる事の無かりしか。此の事共の、殊に重き極みに至りては、固く祕めて語り給はず。年々に人々を率(あとも)ひて、夏には大楠公を祭り、秋には山崎闇齋先生を祭り、唯だ其の冥助を乞ひ、鐵槌を下し給へと耳み祈り坐しゝ、其の敬しみ深く穢れ無き、只管らなる誠の御心ぞ、高く貴く仰がるゝ事なりける。

 御教へ蒙りたる人は、數限りも有らざるに、黒木博司少佐を始め、大東亞戰爭に生命を獻げたる人も、亦た少しと爲ず、然かは有れども、戰敗れたる後も、猶ほ青々塾有り、千早の存道館有り、日本學協會有り、「友有り同じ此の道を行く」と、努め勵む人々、力を協せて、囘天の働き有らむと爲れども、力足らぬにや、皇國の現状、年を追ひて淺ましき状に成りもて行くを、痛く憂へ歎かせ給ひつゝ、細く瘠せ給へる御身を、更に消耗(すりへ)らして、國の果て迄、隈ま無く足を運び、懇ろに人々を倦まず導き教へ給ひ、殊に近き年頃、力の悉と傾け盡して著し坐しゝ、『少年日本史』・『日本の悲劇と理想』、竝びに『悲劇從走』こそは、僞を正し、正しきを明らめ、人々の眼の霧・心の霧を、吹く風の如と打掃ひやり給ひて、誠實と勇氣とに由りて、皇御國の再び興らむ導きの光ならめと仰がれ給ひ、又た今ま此の御國に、此の人有りて、猶ほ御國は安けかりとさへ、思はれ給ひしに、人々の思ひも掛けず、忽ち隱り給ひ、銀(しろがね)の御鈴如す、清く透れる御聲を、現に承らむ由は、最早や無くなりにたるぞ、口惜しき事の極みなりける。

 今し神上り上り坐せる、先生の御靈、其の類ひ無く、奇しき御靈の御徳を以ちて、天皇を永久に護り奉る神と成らせ給ひて、大御代を、千代に八千代に、細石の巖と成りて、苔の生す迄、護り幸はへ奉らせ給へ。

 次に、誇り高き平泉の家の、家族・親族の人々、洸主・汪(ひろし)主・渉(わたる)主てふ、甚(い)と優れたる御子達に導かれて、睦び和らぎ、力を合せて、彌や益々に榮え坐さむを、平らけく見所行(そなは)して、子孫の八十繼々に至る迄、夜の守り・日の守りに、守り惠み幸はへ給へ。

 次に、現世に取り遺されし人々の、其の心と力とを振ひ起して、天皇の大御代を、清く明く直く正しき大御代に囘し奉らむと、今ま改めて誓ひ奉るに就きて、彌々嚴しき指南を埀れ給ひて、導き給へ。

 此の悲しき御祭りに、慕ひ集ひ參來し人々、諸共に、堪へ難き別れの寂しき心を、噛み締め々ゝ々ゝ、更にも斯かる祷(ね)ぎ事種々、謹み畏みて乞ひ祈み奉らくを、平らけく聞召せと、愼み敬ひも白す。



●名越時正翁『弔詞』(同上)

 百代の國師と仰ぐべき、我が恩師・平泉澄先生の御靈前に、門人一同に代り、謹みて申し上げ奉る。

 顧へば去る二月十六日、先生九十歳の御誕辰を、いとも御健やかに御迎へ遊ばされしを、皇國の御爲に、又た至らざる私共門人のため、衷心より慶賀し奉り、益々御身をいたはり給ひて、末永く御導きを賜はらむことを願ひ奉りぬ。時に氷點下九度、積雪一間に達する中で、清澄なる御聲ありて、陽春を待ちて、御講義を賜はらんことを許し給ひき。その後ち僅かに二日、天地、遽かに崩れ、日月、光を失ふが如き悲しみに遇はむとは。生等、茫然自失、叫び咽びて、爲す處を知らず。さはあれ、生等、夢寐にも忘る能はざるは、幾歳か鍛へ磨ける御教へ、純正日本人の道なり。生等の今日、禽獸に墮せざりしは、先生の御恩なり。

 先生は、明治四十四年、大逆事件の起るを見て、大志を皇國の國體護持に立て給ひ、爾來七十餘年、先哲の教へに從ひ、一身の危難を恐れず、世の褒貶を顧みず、破邪顯正の劔を振ひつゝ、慈教を千萬に埀れ給ひぬ。生等、その高教を仰ぎ、共に險難の一路を進まんことを期したる者、何ぞ悲歎痛哭に耽りて、先生の大志・慈教を忘るべき。ましてや今日、皇國の危きこと、史上に類ひなし。先生は千古の憂ひを殘して、今や無窮の國史の中に、魂魄を留め給ひぬ。生等、愈々堅固不拔、千辛萬苦を甘しとしつゝ、互ひに切磋琢磨、一致協力して、御令息を中心として、御教への實現に邁進し、以て無窮の師恩に報い奉らむことを誓ひ奉る。希はくば、先生の神靈、常へに生等に嚴しき切磋教戒を埀れ給はむことを。

 昭和五十九年二月二十日、門人・名越時正、謹白。



■宋人・疊山謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』

雪中の松柏、愈々青青、
綱常を扶植するは、此の行に在り。
天下、久しう無し、□[龍+共。きよう]勝が潔、
人間、何ぞ獨り伯夷のみ清からむ。
義、高うして、便(すなは)ち覺る、生の捨つるに堪ふるを、
禮、重うして、方(まさ)に知る、死の甚だ輕きを。
南八男兒、終ひに屈せず、
皇天上帝、眼(まなこ)、分明(ぶんめい)。
 

  • [5]
  • 日本の正氣復活の爲に。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年 1月 6日(木)18時44分17秒
  • 編集済
  • 返信
 
●田中卓博士『「少年日本史」と「平泉博士史論抄」』(『日本』平成十年十月號。『平泉史學と皇國史觀』平成十二年十二月・青々企劃刊に所收)に曰く、「

 『少年日本史』が、時事通信社から出版されたのは、昭和四十五年十一月一日のことで、奧付には「初版二萬部」と記されてゐる。著者平泉澄博士は、戰前の東京帝國大學國史學科の主任教授で、敗戰後も一貫して純正史學の立場を堅持する、稀代の碩學であつたから、本書が發刊されるや、戰後の精神的退廢を嘆いてゐたひとびとにとつては、まことに旱天の慈雨、熱狂的な歡迎を受けた。一般書店での購讀者以外にも、有志は地元の學校に寄贈する運動を始め、その波紋は全國的に廣がつていつた。

 これに恐れをなしたのが、日教組とそれを支援する日本社會黨で、同黨の楢崎彌之助氏は、翌四十六年二月二十二日の衆議院第一分科會で、「かういふ事實に反する本は、むしろ差しとめなければいけないと思ふ」と抗議してゐる。何を根據に、獨斷で“事實に反する”と、きめつけたのかわからないが、それにもまして驚いたのは、同氏の思想が、“檢閲支持”ではないかと疑はれることである。公教育として使用されてゐる學校教科書にたいしてさへ、“檢定”を憲法違反として騒ぎたてる左翼陣營の代表者が、一方で自由販賣の書物について、教師が生徒に讀ませることを“差しとめよ”と、文部大臣に要求したのである。

 さすがに文部省は、その翌日“統一見解”を發表、「『少年日本史』は、他の一般圖書と同樣に、教師が自由に參考圖書として讀んだり、兒童生徒が自發的に讀んだりするのは妨げない」とし、地元の有志から學校への寄贈も、從來通りそれぞれの教育委員會の獨自の判斷に委ねて差しつかへない――と答へてゐる。あきれた話であるが、『少年日本史』の發刊が、當時、どのやうな反響を與へたかを物語るエピソードとして、この事實は長く記録にとどめておく必要があらう。

 平泉澄博士が東大において、「國史概説」の授業を初めて擔當されたのは、昭和十一年であつたが、その後も三囘[昭和十三年・十五年・十七年]、隔年に講義されてゐるから、博士には日本通史全體を對象とする詳しい國史概説を、何時の日にかまとめあげたい意圖を持たれてゐたと思はれる。しかし、戰前は時局の急迫のため、また戰後は學界・出版界の變節のため、遂にその機會を得ずして終つた。これは實に惜しいことである[東大講義の『國史概説』・『日本思想史』のノートは、平泉家に保存されてゐる](愚案、下記★參看)。



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★ 其の後の講義録の發表
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十三年度講義ノート」(藝林會『藝林』平成十四年四月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十四年度講義ノート」(『藝林』平成十四年十月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十五年度講義ノート」(『藝林』平成十五年四月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十六年度前期講義ノート」(『藝林』平成十五年十月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十六年度後期講義ノート」(『藝林』平成十六年四月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十七年度前期講義ノート」(『藝林』平成十六年十月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十七年度後期講義ノート(その一)」(『藝林』平成十七年四月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十七年度後期講義ノート(その二)」(『藝林』平成十七年十月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十八年度後期講義ノート」(『藝林』平成十八年四月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十九年度(前期)講義ノート」(『藝林』平成十八年十月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和十九年度(後期)講義ノート」(『藝林』平成十九年四月號)
一、「平泉澄教授『日本思想史』昭和二十年度講義ノート」(『藝林』平成十九年十月號)
一、「平泉澄博士『正學大綱』昭和二十九年七月三十一日~八月二日講義ノート(上)」(『藝林』平成二十年四月號)
一、「平泉澄博士『正學大綱』(下)」(『藝林』平成二十年十月號)
一、「平泉澄教授『中世史』講義・昭和十年度・学生聽講ノート」(『藝林』平成二十一年十月號)
一、「平泉澄助教授『中世史』昭和四年度講義ノート(その一)」(『藝林』平成二十二年四月號)
一、「平泉澄助教授『中世史』昭和四年度講義ノート(その二)」(『藝林』平成二十二年十月號)
――現在、續刊中――

 なほ平泉澄博士講述『昭和十七年度版・東京帝國大學文學部講義・改訂國史概説』(昭和十八年一月・啓明社刊)等あるも、當時の所謂る海賊版の由。

**********



 尤も私共は、戰前・戰後にわたる博士の數多くの著書を通じて、日本の古代から上代・中世・近世、さらには現代にいたる各時代の歴史を、可成り詳細に學ぶことが出來る。それ故、國史全體を俯瞰した“平泉史學”の概要と特色は、專門家の間では周知のことで、將來、博士の著作集や全集が編纂刊行されれば、おのづからにして、通史としての“國史概説”の全容が、一般の人々の眼にも明らかになるであらう。

 ところが、將來を待たずとも、幸ひなことに平泉博士には、『少年日本史』といふ書物がある。これが博士にとつて、公刊された唯一の日本通史である。勿論、少年[少女も含む]を相手に語りかける調子で書かれてゐるので、内容を知らない人は、これを輕く評價するかも知れない。しかし、實は歴史家にとつて、最も力をこめて書きたい通史は、少年向きなのである。

 少年は、國家の將來を擔ふ。その少年に、自ら學びえた祖國の歴史について、蘊蓄を傾けて書き殘しておきたい、これが史家に共通する最大の理想である。いや、悲願であるといつてもよい。
例へば北畠親房の『神皇正統記』が、さうである。親房が自ら書いた奧書に、「或る童蒙に示さんが爲に、老筆を馳する所なり」とある。この「童蒙」は、當時、御幼少の後村上天皇を指すの(愚補つて云く、「を憚つて申し上げたの」)であるが、文字通り一般的に解すると、「少年日本史」の意味に他ならない。昭和の初め、日本兒童文庫から、少年向けの『日本歴史物語』上・中・下三卷が刊行された(アルス刊)ことがある。上卷は喜田貞吉博士、中卷は平泉博士、下卷は中村孝也博士の執筆で、當時、天覽を賜はつた名著である。‥‥

 目次に關連して、注意しておきたいことがある。その一つは、表題に示された個人の名前から、その章に關しては、單にその人物の事蹟だけが書かれてゐるものと、誤解してはならないといふことである。たしかに本書は、主として人物中心の敍述ではあるが、標題の人物を主題としながら、實はその前後左右の時代に視野を廣げて、政治・社會・思想・宗教・人物等、およそ歴史の上で注目すべき要素が、ほとんど漏れなく言及されてゐることである。

 例へば「二一、和氣清麻呂」の章をみると、そこには勿論、道鏡の無道と清麻呂の忠誠が中心に書かれてゐるけれども、その前段階を説明する形で、奈良時代の佛教のこと、特に道登・行基・良辨・鑑眞等の事蹟等が、詳細に記されてゐる。その他の史實についても、著者の該博な知識と精緻な考證が、縱横に繰りひろげられてゐて、僅か一章の中に、奈良時代の思想史が、すつかり網羅されてゐる感じである。

 いま一つ指摘しておきたいことは、本書では「吉野五十七年」と題して、(一)・(二)・(三)・(四)章、四○頁を宛ててゐる。それに對して「室町時代」は、ただ一章だけ、一一頁にすぎない。それを以て、アンバランスだと非難する向きもあるが、これは「歴史」、特に「通史」の本質を知らぬ者の淺見短慮である。平泉博士の室町時代に關する研究は、恩師の田中義成博士の傳授をうけて、精緻を極めてゐる。それにも拘らず、著者が室町時代を、本書『少年日本史』において輕く扱つたのは、何故か。それは日本の歴史傳統を考へる上では、價値の乏しい、「つまらぬ時代」であつたからである。本書には、次の如く書かれてゐる。

吉野時代の五十七年にくらべて、室町時代の百八十二年は、三倍以上の長さです。しかし三倍以上といふのは、只だ時間が長かつたといふだけの事で、その長い時間は、實は空費せられ、浪費せられたに過ぎなかつたのです。吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。然しその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本國の道義は、その苦難のうちに發揮せられ、やがて後代の感激を呼び起すのでありました。之に反して室町の百八十二年は、紛亂の連續であり、その紛亂は、私利私欲より發したものであつて、理想も無ければ、道義も忘れ去られてゐたのでした。

 ここに平泉史學の神髓、『少年日本史』の特色がある。尤も戰後民主主義の平等觀に慣らされた人々には、なほ理解しにくい點があらうから、一言、蛇足を加へておくと、個人の日記を考へてみられるがよい。一日一頁として、毎日、同じ分量の記事が書けますか。例へば風邪で一週間體調をこはしたとすれば、その期間は、毎日ただ「病床に臥す」の一行で足りる。逆に健康で、千客萬來の繁忙な一日であれば、記事は一頁に收まらず、何頁分かを必要とするであらう。要するに、室町時代の如きは、日本本來の道義の規準に照らせば、“病氣の時代”といふことである。健康か病氣か、この判斷を下しうるのが名醫であり、歴史家の見識である。

 『少年日本史』は、發刊以來、一兩年の間に、九萬三千部が賣り切れた。ところが不運にも、時事通信社の内部事情によつて、刊行が中絶する。それを遺憾とした私(田中卓博士)は、忠地うた子女史と共に白山に參上し、平泉博士の許可をいただいて、原型のままの再版を企劃した。それが現行の、昭和四十九年一月十五日、皇學館大學出版部發行の『少年日本史』である。‥‥本書が、國の内外に流布して好評を博しつつあることは、日本の正氣復活の豫兆として期待されよう」と。

http://members.jcom.home.ne.jp/nihongakukyokai/tosyomokuroku.html
http://websv2.hakushin.ne.jp/~seisei/index.html
 

  • [4]
  • 皇國の道義に學ぶ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年12月19日(日)22時32分58秒
  • 編集済
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●田中卓博士『少年日本史――英譯本――の序』(『英譯本――少年日本史――THE STORY OF JAPAN』第一分册・平成九年六月・青々企劃刊。田中卓博士『平泉史學と皇國史觀』平成十二年十二月・青々企劃刊に所收)に曰く、「

 一九四五年[昭和二十年]以降の日本は、歴史の上で、未だ經驗したことのない深刻な敗戰を迎へて、國民の精神が大きく動搖した。開戰の理由の是非は別として、戰爭に敗れた場合、勝者によつて敗者が裁かれるのは、古今東西の歴史の示すところであり、これは已むを得ない運命といはなければならない。しかし、勝者の強制とは無關係に、敗戰後の日本の教育界・歴史學界では、故意に自國の歴史を忘れ、いや、歴史を曲げて、父祖より傳へられた精神をゆがめ、踏みにじるやうな風潮が盛んとなり、遂にはそれが一世を風靡するに至る。歴史に關心をもつ人々も、自らを歴史から引き離す理由を探し求めんがためのみに歴史を學ぶやうになつた。學校の歴史教科書にも、その傾向が濃厚に現れた。そのため祖國の歴史から誇りと自信が失はれ、歴史教科書を讀む少年達の眼から、希望の輝きが消えた。これでは祖國の前途は暗く、危いといはなければならない。この現状を深く嘆いた平泉教授は、一九七○年[昭和四十五年]、七十五歳の高齡であるにも拘らず、日本の少年に對する遺言のつもりで、蘊蓄を傾けて一氣に書き上げた大著、それが『少年日本史』である。

 この一卷には、二千年にわたる日本の歴史の“いのち”が脈うつてゐる。登場するのは、誠實・勇氣・風流・革新をめざす代表的な日本人の活躍であり、多彩な敍述の中にも、國史の眼目、文化の精髓があざやかに浮き彫りにされてゐる。本書こそ、現在の我々が手にし得る家庭向の最高の日本史といつてよいであらう。そのため本書は、日本で既に十數萬部が愛讀され、一九七九年[昭和五十四年]以降は、學術文庫の一册としても好評を得てゐる。

 そこで私共は、この素晴らしい『少年日本史』を、外國の方々への贈り物にしようと計劃した。私共は、世界の皆さんにも、正確で本物の日本の歴史を承知して貰ひ、國際交流の一助にしたいといふ期待をこめて、本書の英譯本を出版することにしたのである。

 原文は、少年向に書かれてゐるが、歴史の眞實を正確に證明するために、可成り難しい古典を史料として引用してをり、學術的な水準は、むしろ大學生クラスの讀物といつてよい。さらに加へて原書の日本文は、流麗で格調高い名文であるから、これをそのまま英語に飜譯することは容易でない。しかし幸ひに英語に堪能な專門家の協力を得て、出來るだけ原文に忠實な飜譯を心がけ、先づここに第一分册[全三册]を刊行する運びとなつた。

 但し本書は、もともと日本の少年を對象として、彼等に國民的自覺を促し、希望と誇りを囘復する意圖をもつて書かれてをり、恐らく著者は、外國人によつて本書が讀まれることを豫想はしてゐなかつたと思はれる。從つて本書の敍述が、日本本位で、外國人の立場から見れば、若干の違和感があるかも知れないが、この點は、どうか寛大な氣持ちをもつて理解していただきたい。

 敗戰國の日本が、急激な思想的混亂の渦中にあつて、眞に世界に信頼される平和な獨立國として再建されるためには、このやうな祖國の歴史への囘歸を通じて、精神的な奮起が必要なのである。そして現在の世界にあつては、先進國にも發展途上國にも、それぞれが自らの國家の再編成、ないし新しい國家建設のために、幾多の困難が待ちうけてゐる。その困難を雙肩に擔つて、祖國の發展に努力してゐる世界の指導者と識者にとつて、本書は、必ずや“他山の石”となることであらう」と。



 愚案、『少年日本史』の紹介は、多種多樣の御方がしてをられる。其の文を拜見するごとに、小生は歡喜して已まないのであるが、九段塾有縁の御方に限つて見ても、


【九段塾塾頭一兵士翁『少年日本史』の紹介文】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/668


 最近では、同血社『天地無辺』(平成二十二年十月秋季號)にて、圖らずも『少年日本史』が紹介された。小生にとつては、頗る嬉しいことであり、此の執筆者であらう、河原博史主に感謝すると共に、全國の志士に對し、廣く之を讀まれむことを願ひ、又た深く之を研鑽されむことを希ふ。
  ↓↓↓↓↓
http://douketusya.exblog.jp/i6/


 小生に於いても、かつて闇齋山崎埀加靈社の學問を紹介せむと欲し、『少年日本史』の「山崎闇齋」の玉文を經として、其の典據を求め、其の訓下し原文を緯として、其の梗概を披露することがあつた。以下、當該スレツド【二~八】如し。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50

 又た『少年日本史』の最終章は、「大東亞戰爭」であり、下記に、其の卷尾を拜書させて戴いた。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t20/l50


 次は、田中卓博士による『少年日本史』紹介の精説を紹介したいが、暫く時間を戴きたい。


  • [3]
  • 國體護持の書。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年12月19日(日)11時59分7秒
  • 返信
 
●久保田收博士『國體護持の學問――『少年日本史』に思ふ』(『日本』昭和四十六年一月號)に曰く、「

 待望の『少年日本史』が出版された。美しい挿繪もある、七百頁にわたる大册である。平泉先生が、多年にわたつて研鑽せられた成果を、ここに集約せられたものであると同時に、またわが國の將來をになふ若いひとびとの心の糧として、心血を注いで書かれた贈物でもある。それは、まさに北畠親房公の『神皇正統記』にも比すべき、重要な史書といはねばならない。

 昭和七年に刊行された、平泉先生の『國史學の骨髓』の中の、卷頭にある同名の論文の中に、二つのことが述べられてゐる。その一は、歴史における變化發展に對する留意である。個人においても、また國家においても、それがどのやうに推移し、發展し、變化したかといふことを理解することが、きはめて重要である、と指摘されてゐるのである。それは、それぞれの時期の特質を明確にすることであるからである。さらにいま一つは、歴史における復活といふことである。歴史に變化發展がある半面、絶えず本源への復活が考へられてゐるとして、これに注目しなければならない、とされるのである。これは換言すれば、歴史における一貫性である。それは、一の精神の展開であり、歴史を歴史たらしめるものは、實にこの一貫性であり、その中に生をうけたものが、その精神を繼承することによつてのみ、これを實證することができる、とされるのである。

 右に擧げられた第一の點、すなはち變化發展の問題は、時代區分に關係するのであつて、『國史學の骨髓』に收める「日本精神發展の段階」は、わが國の歴史の時代區分を、古代・上代・中世・近世・現代とに分ける所以を、それぞれの時代の基礎理念の相違によつて示されたのである。同書に收める「中世文化の基調」も、同樣の立場で、とくに中世に關して述べられたものである。これより前のものであるが、その當時において、きはめて斬新であつて、學界の注目を集めた『中世に於ける精神生活』や『中世に於ける社寺と社會との關係』でも、このやうな考へのもとに時代を區分し、その論を展開されたものであつた。

 しかし、先生が主眼をおき、とくに深く研究を進められたものは、第二の點、すなはちわが國の歴史の一貫性であり、復活であつたと考へられる。そのやうな時代區分の中にあつて、それらの時代を超えて、その根底に貫かれたものが存し、これがわが國の歴史を支へ進展せしめたとされるものと思はれる。花見團子の串にたとへるのは適當でないかも知れないが、團子の一個一個が、その串があつてはじめて、全體が一つになり統括せられるのである。『國史學の骨髓』の中に、「歴史を貫く冥々の力」といふ一文があるが、その「冥々の力」こそ、わが國の歴史を、純なる形で統括したものとすべきである。それは、「歴史の囘顧と革新の力」のなかでも説かれることであつて、復古と革新とは相反するが如くみえて、實はわが國では、これらが融和して、その生命のよみがへりをみせた、とされるのである。

 國史を貫く精神とは、何か。これを「日本精神」と呼んでよいであらう。そして、それは、國史の中に現はれた、すぐれた人桀によつて發現されて、後代に傳へられた。先生は、そのやうな人桀を、幾多、國史の中に見出し、あるいは忘却の淵から復活せられた。『國史學の骨髓』の中では、「日本精神」と題して、橋本景岳や吉田松陰を紹介された。昭和八年出版の『武士道の復活』の中でも、橋本景岳を説き、北畠親房の『神皇正統記』を擧げられた。また昭和七年に、山崎闇齋を顯彰されたことは、注意しなくてはならぬ。この年、闇齋の二百五十年祭がおこなはれた。東京と京都で祭典と展觀がなされ、幸ひに私も末端のお手傳ひをなし、祭典にも列席することができたが、この際、『闇齋先生と日本精神』が發刊された。明治維新を導き出した源流の一として、そして道義を重しとし、師嗣一貫する學統として、これを顯彰されたことは、崎門學を再認識する機會となつたのである。

 昭和九年に、建武中興六百年祭が、全國的におこなはれた。この機に出版された、平泉先生の『建武中興の本義』は、大學の中世史の講義で講ぜられたものであるが、建武中興ないし吉野の朝廷に對する從來の心情的な囘顧と感激とにとどまらず、もつと深い歴史的意義を明らかにされたものであり、それは、わが國における歴史の復活の眞義を、もつとも具體的な姿で示されたのである。明治維新を導き出した所以も、これによつて理解せられることとなつた。そして楠木氏・北畠氏・菊池氏・新田氏など、この時代の忠臣について、その眞實を明らかにしようとせられたのは、これと密接な關係をもつものであつた。

 崎門學が道義を重しとしたことは、その重要な特色であるが、これに關連して想起されるのは、『武士道の復活』卷頭の同名の論文である。これは、道義實踐の力としての義烈の氣象を説かれたのであつて、これなくして、眞の日本精神の發現は存在しない、とせられたのであつた。これは、歴史を客觀的に傍觀することではなく、その中に生をうけ、その中に育まれてゐる國史を、繼承し護持する決意を確立することでもある。ところが、今日の學界に、また社會一般に、このやうな勇猛敢爲の氣象、道義のさしまねくところ、一死をも輕しとする義烈の氣象が、もつとも缺如してをり、これがきはめて重大な缺點であるとして、これを強調されたのであつた。

 『萬物流轉』は、昭和十一年の出版である。この中では、流行と不易の問題を中心として、わが國の歴史を考へ、その中に不易なるものは、剛利なる道義であり、悠久なる國體であるとして、これをすぐれた先人の所説業績を通じて明らかにされた。國體を護持するものは、道義的精神であるが、それは單なる口頭彈によつて護持されるものでなく、高い理想と固い道義心とが結び合つて、はじめてなされるものと説かれ、讀者に深い反省を要望されたのである。

 國體の護持といふ點で、現實に對決せねばならないのは、革命思想である。これは、早く『武士道の復活』の中でも、「革命とバーグ」や「皇室と國民道徳」において、革命を批判され、それに代る日本の國家改革の方向を、「維新の原理」において示された。それをさらに詳しく説かれたのは、昭和十五年の『傳統』である。後半の「フランスの傳統主義」は、革命批判の文であり、前半の諸論は、維新の原理の具體的解明であるといへよう。大東亞戰爭がはじまると、國家護持、國體の護持の問題は、いよいよ切實となるのであつた。

 しかし、その切實さは、戰後においては、さらに深刻とならざるを得ない。敗戰までは、ひろく國民の共通の基盤とされたものが、根こそぎ外されてしまつたのである。柱を立てようにも、壁を塗らうにも、土臺がすつかり取拂はれては、どうにもならない。のみならず、柱を立て、壁を塗ることすら無用とされて、國民は國際的寒風の中に吹きさらされて、精神的に骨も身も削り取られる有樣となつた。しかも、國家の自立を考へ、國民精神の確立をはからうとすることが、反動の徒とされ、軍國主義とされて、極端に抑壓された中では、暫らく北園をひらいて、桃李を植ゑ、それが生長する日を待たねばならなかつたのである。

 『桃李』は、このために、昭和二十六年に發刊された。占領下である。これは、やがて『日本』と改題された。その卷頭に、毎號、平泉先生が執筆され、二十年後の今日まで、一囘も缺けることなく續けられてゐる。それは、われわれに對する激勵であり、教示であり、叱咤であつて、道義心の確立と國體護持への願ひにほかならなかつたであらう。これについては、ここで多くのことを述べるまでもあるまい。

 『少年日本史』は、日本の道義をふまへた、國體護持の書である。それが、眞の意味での歴史である。したがつて、本書の焦點は明確であり、不純なるものは、すべて洗ひ流されてゐる。すぐれた畫家は、筆を省略する。一本の線に、深い内容を語らせる。わが國の歴史に缺くことのできない重要な線を、洗練された文と筆致で書かれたものが、本書である。その重要な線とは、何か。國體護持に力を致した、すぐれた先人である。これらのひとびとこそ、「歴史を支へたひとびと」といふべきであるが、そのひとびとの精神と功業、歴史の中に貫かれた道義、それを多彩に、あざやかに、そして平易な表現で述べられたものである。わが國の命脉を繼承し支へて、今日に至つた姿を明確に知ることは、將來へ向つての決意と勇氣と、そして不易なる方向を得ることとなるであらう」と。



●葦津珍彦翁『「少年日本史」の眞價』(『日本』昭和四十六年一月號)に曰く、「

 平泉澄博士著『少年日本史』は、日本國の歴史を、日本人の精神をもつて、日本人に語り傳へる名著である。近ごろの歴史家の書く日本史には、祖國の歴史を、あたかも敵國人が書いたものであるかのやうに、憎みさげすむ著書が多い。憎みさげすむものでないにしても、たゞ黒白さまざまの史料を、雜然と展示するに止まつてゐて、無精神・無思想と評するよりほかないものも少なくない。そこには、歴史事實に對する知識欲はあるにしても、國史に對する、なんらの感動もなく、たゞ冷淡を感じさせるのみである。『少年日本史』は、それらの史書とは、まつたく異つて、神代から大東亞戰爭にいたるまでの國史を、終始して烈々たる日本の學者としての精神をもつて、書き綴られてゐる。悠久な國史の中には、光り輝く明るい時代もあれば、悲しい暗い時代もあつた。だが、そのいづれの時代も、日本人としての感動をもつて書かれてゐる。これは、日本の學者でなければ、決して書けない史書である。‥‥

おごそかに保たざらめや神代より
 うけつぎ來たる浦安の國

 これは、明治天皇が、神代いらいの國史を、囘想せられての御感を詠ぜられた御製であらう。明治の大御代は、國史の上で、もつとも輝かしい進歩發展の時代であつた。外國人には、その名も知られなかつた極東の一小嶋國から、世界列強の中の第一級國にまで、國運の伸びた時代として銘記される。だが、この時代に、日本が急速な發展をして行くためには、文明開化の名のもとに、史上かつてないやうな外來文化の洪水のやうな移入を必要とした。それは、當然に社會の一側面に、新奇を好み浮華に流れる風潮をさけがたいものにした。しかも明治の日本帝國が、精神的植民地に轉落することなく、獨立の光榮を確保することを得たのは、上御一人より、下は萬民にいたるまで、前掲の御製に拜するがごとき國史觀が生きてゐたからである、といつていい。それこそが、日本帝國の、もつとも大切な精神的支柱であつた。

 しかるに大東亞戰爭敗北いらい、この精神的支柱をゆがめ、傷つけようとすることが、占領政策の一大目標となつた。この目標は、大きな政治的・社會的權勢を背景にして進められ、今日見るがごとき日本國民の精神的荒廢と空白とをまねいた。この慘状を慨し、憂國の情禁じがたく、將來育ち行く次代の後繼者(少年)に對して、切々として神代よりうけつぎ來たる祖國の歴史を語り傳へ、皇國護持の精神を、自らにして燃え立たせねばやまぬとの精神こそが、『少年日本史』を生み出したのであらう。

 平泉博士の著書は、すこぶる多く、正直に告白すれば、不學なる私は、その中のわづか五六册を讀んだにすぎない。だが、私は、この『少年日本史』を、先生の著書の中では、ある意味では、例外的な異色のものであり、ある意味では、もつとも代表的な著作ではないかと思ふ。先生の多くの著書では、專門歴史學者としての精緻な研究成果がしめされてをり、その文章は、獨自の精彩ある名文である[だが、近年の國語教育の結果、今の學生生徒では、難解の感なしとせぬ]。『少年日本史』の文章は、今の少年にも理解しやすいやうに、平明を旨として書かれてゐるが、この文章には、先生としては、非常な苦勞をされたのではないかと察せられる。しかもそこに書かれた史實は、專門史家の新しい研究ではなく、著者が、「これだけは、日本國民として、だれにでも知らせておかねばならない」と思つた、周知の事が書いてある。私が例外の書と思ふ所以である。だが、そのやうな性格の著書の中で、著者がなにを選び、なにを棄てられたかを想ひ、神代から太平洋(ママ、大東亞)戰爭にいたるまでの悠久の通史を、いかなる姿勢で書かれたかを見るときに、そこに日本の歴史學者としての、平泉博士の見識の全貌を想察し得るやうな思ひがする。ある意味では、代表的な著作ではないかと稱する所以である。

 もつとも先生直門の歴史學者の中には、このやうな即斷的な評をするのに異存のある方もあるだらうと思ふ。不學で素人の私の感想なのだから、斷定し固執するほどの積りはないが、私がそのやうな感想をいだくにいたつたわけを、も少しく語つてみたい。

 占領中、私は、平泉先生の『武士道の復活』の書を讀んだ。その中で、私は、とくに先生としては異色の研究ではないかと思ふが、「革命とバーク」の一章を熟讀した。當時は、東京裁判が始まつたころで、「天○制打倒」の俗論が、怒濤のやうに燃えひろがつてゐた。私は、神道ジヤーナリストとして、新しい局面に對應して、國體護持の理論構成に熱中し、沒頭してゐた。「革命とバーク」の一章は、フランス革命の思想が、急流のやうに英王國におしよせて來た時に、エドモンドバークが、毅然として俗論に抗して戰つた歴史が書いてある。私は、この一章に、異常なはげましを感じた。私は、それから英國憲政史を讀み直し、バーク前後の思想書を讀み、いろいろの參考知識を得ることができた。この時の感銘は、私にとつて忘れがたい。

 私は、先生のバーク論に敬意を感じた。しかし、世間の皮肉家の中には、‥‥云ふ者があるかもしれない。「平泉博士のバーク對ペインの思想史は、詳細正確な英文史料にもとづいてはゐるが、その讀み方が日本流であつて、その史論の構成は、必ずしも英國人のセンスでない」と。私は、それはそれで、少しも差支へないと思ふ。それは博士の學者的名譽を、いささかも傷つけるものではない。平泉博士は、日本の歴史學者なのである。日本精神の學者である。

 その後、數年して、測らずも大分縣神社廳の講演會があつて、私と先生と、別府の宿で三日間、同宿するの好機にめぐまれた。占領解除間もないころだつたが、先生は諸外國敗戰の歴史を語り、敗戰後の日本國民の奮起をうながす、烈々たる講演をなさつた。私は、憲法・典範の話をした。先生が聽衆の中で聞いてをられたので、汗が出た。

 宿では、あまり來客にも妨げられなかつたので、三日の間、朝夕、親しくお話を聞き、いろいろと質問した。先生は、時と勞を惜しむことなく、食事・入浴のさいまでも懇ろに、いろいろと話して下さつた。歴史學の使命について、史料の讀み方[價値の大小・高下・輕重等について]の話から、近代史上著名な人人と、先生との間の人事往來の消息などについて、そのお話は、いづれも印象深いものだつた。いかにも歴史家らしく、理義情感と具體的事實とが結びついたお話だつた。すでに十五六年も前のことであるが、私には、この三日間の數多くの問答が、一つ一つ鮮やかに記憶されてゐる。

 そして今、先生の『少年日本史』を讀み、古代から現代にいたるまでの歴史について、豐富な史料知識の中から、先生が、なにを力説し、なにを省略されたかを考へてみると、實に感深いものがある。この書に明記力説されてゐることと、この程度の通史では、敢へて論ずるにも及ばぬとして省略されたことの意味も、私にはよく分るやうな感じがする。そこには、史料知識豐富な博學の歴史家が、明快な見識をもつて國史を要約し解明した、苦心の跡がしのばれる。私がこの書を讀んで、これを博士の著書の中での、例外的な異色の著であるとともに、歴史家としての博士の代表的な著作でもあるとの感想をもつた所以である」と。

  • [2]
  • 國史の精髓。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年12月19日(日)09時16分56秒
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■目次

 一、國家建設
 二、神武天皇
 三、皇紀(上)
 四、皇紀(下)
 五、神代(上)
 六、神代(下)
 七、日本武尊
 八、神功皇后
 九、應神天皇
一○、繼體天皇
十一、聖徳太子(上)
十二、聖徳太子(下)
十三、大化改新
十四、天智天皇
十五、藤原宮
十六、平城京
十七、記紀・風土記
十八、萬葉集(上)
十九、萬葉集(下)
二○、大佛
二一、和氣清麻呂
二二、坂上田村麻呂
二三、最澄と空海
二四、平假名
二五、片假名
二六、古今集
二七、竹取物語
二八、源氏物語
二九、延喜式
三○、菅原道眞
三一、延喜・天暦
三二、藤原氏の全盛
三三、八幡太郎義家
三四、後三條天皇
三五、院政
三六、保元の亂(上)
三七、保元の亂(下)
三八、平知の亂
三九、平家の全盛
四○、源三位頼政
四一、平家の都落
四二、源義經(上)
四三、源義經(下)
四四、源頼朝(上)
四五、源頼朝(下)
四六、承久の御計劃(上)
四七、承久の御計劃(下)
四八、北條時宗
四九、後醍醐天皇
五○、楠木正成
五一、建武の中興
五二、吉野五十七年(一)
五三、吉野五十七年(二)
五四、吉野五十七年(三)
五五、吉野五十七年(四)
五六、室町時代
五七、織田信長
五八、豐臣秀吉
五九、徳川家康
六○、徳川家光
六一、山鹿素行
六二、山崎闇齋(上)
六三、山崎闇齋(下)
六四、本居宣長
六五、水戸光圀
六六、井伊直弼
六七、橋本景岳
六八、吉田松陰
六九、孝明天皇
七○、明治維新
七一、西郷隆盛
七二、明治天皇
七三、二大戰役
七四、大東亞戰爭

  • [1]
  • 誠實と勇氣との結晶たる國史。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年12月19日(日)08時54分16秒
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■平泉澄博士『少年日本史のはしがき』(昭和四十五年十一月・時事通信社刊)に曰く、「

 日本の少年よ! 我が愛する皆さんよ! 私は今、皆さんに、大切な贈物をしようとしてゐるのだ。それは、何か? 即ち此の少年日本史だ。之を贈らうとする考へを、私は前々からいだいてゐた。それは二十年近く前に、ある中學校で、急に講演をした時に始まる。私は云つた。

「皆さん! 皆さんはお氣の毒に、長く敵の占領下に在つて、事實を事實として教へられる事が許されてゐなかつた。今や、占領は終つた。重要な史實は、正しく之を知らねばならぬ」。

かう云つて、二、三の重要な歴史事實を説いた。生徒一千人。その千人の目、二千の瞳は、私が壇上にある間は、壇上の私に集中し、壇を下りた時には、壇下の私に集中した。歸らうとして外へ出た時、生徒は一齊に外へ出て、私を取卷いた。彼等は、何も云はぬ。只だ穴のあくほど、私を見つめるのみだ。私は自動車に乘つた。車は生徒に取卷かれた。四、五人の生徒は、自動車の屋根の上へ這ひ上つて來た。車は、しばらく動きがとれなかつた。此の感動以來、私は眞實の歴史を、ひろく日本の少年、皆さんに語りたいと思ひつづけて來た。機會は、遂に到來した。今や私は、皆さんに語りたいと思ふ事を、『少年日本史』一册にまとめ、之を皆さんに贈る事が出來た。皆さん、どうか之を受け、之を通讀して下さい。

 皆さんは、日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、その言葉、それは皆な幾百年前からの先祖より受けついだものだ。それを正しく受けついだ者が、正しい日本人だ。從つて、正しい日本人となる爲には、日本歴史の眞實を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戰ひ敗れた後の我が國は、占領軍の干渉の爲に、正しい歴史を教へる事が許されなかつた。占領は、足掛け八年にして解除せられた。然し歴史の學問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至つてゐる。從つて皆さんが、此の『少年日本史』を讀まれる時、それが一般に行なはれてゐる書物と、大きく相違してゐるのに驚くであらう。

 皆さんよ、人の貴いのは、それが誠實であるからだ。誠實は、一切の徳の根本だ。その誠實を守る爲には、非常な勇氣を必要とするのだ。世の中には、自分の慾の爲に、事實を正しく視る事の出來ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事實を述べる勇氣のない人も多い。今後の日本を擔ふべき少年の皆さん、敗戰の汚辱を拭ひ去つて、光に充ちた日本の再興に當るべき皆さんは、何よりも先づ誠實でなければならぬ。そしてその誠實を一生守り通す勇氣を持たなければならぬ。日本の歴史は、さやうな誠實と勇氣との結晶だ。凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成(くみたて)に與かる事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體でいへば病菌だ。病菌を自分自身であるかのやうな錯覺をいだいてはならぬ。

 私は今、數へ年七十六歳だ。從つて本書は、皆さんへの、最初の贈物であつて、同時に最後の贈物となるであらう。私は戰ひで疲れ切つた心身に、やうやく殘る全力をあげて、一氣に之を書いた。その原稿一千枚。それを私は、歴史的假名遣ひで書いた。それが正しいと信ずるからだ。然し皆さんは學校で、現代假名遣ひしか學んでゐない。よつて時事通信社は、皆さんの讀みやすいやうに、現代假名遣ひに改めたいと希望した。私は他日、日本が正しい日本にかへる時、必ず歴史的假名遣ひにかへるに違ひないと信じつつ、しばらくその申入れを容認した。

 昭和四十五年秋九月  平泉澄」と。



■平泉澄博士『物語日本史の序』(昭和五十四年二月・講談社刊)に曰く、「

 人生は短く、藝術は長しといひ、また豹は死して皮を留め、人は死して名を殘すといひます。しかるにその藝術功業の長く傳はり、名聲榮譽の萬世に不朽なるは、その精神功業の、子孫後世に理解せられ繼承せられるがためであつて、もし子孫にしてこれを理解せず、後世にしてこれを繼承することがないならば、すべてはその人と共に消滅してしまひ、人生はすべて一瞬の泡沫、死と共に雲散霧消するでありませう。古來、家に庭訓を嚴しくし、國に教育を重んずるは、そのためであつて、教育の要諦は、實にここに存するのであります。

 しかるに明治以來、西洋文明の輸入追隨を急務としたために、本義しばらくこれを不問に附するもやむを得ずとしたうへに、昭和二十年以降は、占領政策のために抑壓せられて、父祖の精神を繼承し、その功業を顯彰することは不可能となりました。その痛ましい傷痕を、私は當時の可憐なる小學生に見ました。

 終戰の二三年後でありました。山奧の小さな村の秋祭りのために、私は下駄をはいて山道を登つてゆきました。日の光は燦々として山々を照らし、暑からず寒からず、樂しい眺めでありましたが、足が少々疲れてきて、學校歸りの兒童三四人に追付かれました。兒童はいかにも樂しさうに、歌を歌ひながら登つて來ました。いつしか氣やすく友達になつた私は、ふと尋ねてみました。

「君が代、知つてゐるかい。」
「君が代? そんなもの、聞いたことない。」
「日本といふ國、知つてゐるかい。」
「日本? そんなもの、聞いたこと無いなあ。」
「それではアメリカといふ國、知つてゐるかい。」
「アメリカ? それは聞いたことあるなあ。」

 私は、慄然として恐れました。世界には、征服せられ絶滅せしめられて、その民族の運命も、その文明の樣相も、明らかでないものが、いくつもあるが、それが今は、他人事ではなくなつたのだ、と痛歎しました。

 昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は獨立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられてゐた私も、やうやく追放解除になりました。一年たつて昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ參りましたところ、出て來たついでに、成和中學校で講話を頼まれました。その中學校を私は知らず、中學生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、豫期せざる對面で、いはば遭遇戰でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡單明瞭でありました。

「皆さん! 皆さんはお氣の毒に、長くアメリカの占領下に在つて、事實を事實として教へられる事が許されてゐなかつた。今や、占領は終つた。重要な史實は、正しくこれを知らねばならぬ」。

と説き起こして、二三の重要なる歴史事實を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでせう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば、壇上の私に集中し、話終つて壇を下りれば、壇下の私に集中しました。見るといふやうなものではなく、射るといふ感じでした。歸らうとして外へ出た時、生徒は一齊に外へ出て私を取卷き、私がタクシーに乘れば、タクシーを取卷いて、タクシーの屋根の上へまで這ひ上つて來ました。彼らは默つて何一ついはず、何一つ亂暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするやうでした。やうやくにして別れて歸つた私は、二三日後、その生徒たちから、眞情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、數通貰ひました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。

 成和中學の感動の忘れがたさに、それより十數年後の昭和四十五年、時事通信社より、一貫せる日本歴史を書くよう求められた時、純眞なる少年に呼掛ける形を取りました。當時すでに七十六歳の私は、餘命計り知るべからず、これを兒孫への最後の贈物、つまり遺書として書かうとし、從つて學者らしく事實を羅列して博學を誇るがごとき形式を好まず、ただ歴史の精粹を拔いて、誠實に父祖の辛苦と功業とを子孫に傳へ、子孫もまたこの精神を繼承して進むことを期待しつつ、しみじみと誠實に語らうとして筆を執つたのでありました。題して『少年日本史』。筆を執つては一瀉千里、全速力でこれを書いて、半歳ばかりのうちに一千枚を書上げることが出來ました。

 幸ひにして、私の心情は、有志の士の理解を得て、人々の愛讀するところとなつたのみならず、各界の重鎭、達識の賢者もまた、共感して推賞せられましたが、不幸なる時事通信社の變革によつて、出版は打切りとなりました。後に皇學館大學出版部より、改めて刊行することになりましたのは、そのためであります。

 辛苦多難をおのれに與へられたる分としてゐます私は、その著すところの書物もまた、幾多の苦難に遭遇すること、やむを得ずと考へてゐましたところ、はからずも今囘、講談社より、『少年日本史』の、いはば豪華版は、どこからでも自由に出版するままにして、同じ内容ながら、題名を『物語日本史』と改め、いかにも祖父の遺書、子孫への贈物らしくして、分册文庫本、廉価をもつて、ひろく世の希望者に頒ちたいと、懇切なる申し出がありました。その懇切なる提言に、多難を分とする私は、初めいささか戸惑ひを感じましたが、結局、有り難くこれを受諾してお世話になることにしました。願はくはこの小さき贈物を滿載せる帆船の行手、風穩やかにして、浪靜かなれ。

 昭和五十三年十二月十日朝  白山寒林の中にて 平泉澄」と。



●平泉澄博士『國家の命脈』(於東京帝國ホテル。日本學協會『日本』昭和四十六年一月號。『時事評論』第三卷第八九合併號・四十六年六月・外交知識普及會刊。『先哲を仰ぐ』平成十年九月・錦正社刊に所收)に曰く、「

 このたび出版しました『少年日本史』が、幸ひにして非常にあたたかく迎へられ、知る知らぬ多くの方々に讀まれるに至りました事は、私の感激やむ能はざる所であります。二十五年の久しきにわたつて、いはば山に入り草に埋れてゐた私にも、猶ほかやうに心の通ふ人々――知己といふべき方々が多いのを知つて、驚き且つ喜び、老骨といへども、更に清新の力を得た感じがした事であります。然しながら『少年日本史』は、すでに少年の二字を冠する以上、現在當面する重大問題は、事のあまりにも重大であり、困難である爲に、直ちにそれを指摘する事を控へて置きました。そしてそれを昨年(昭和四十五年)十月二十八日の、内外情勢調査會全國大會に於ける講演『國家の命脈』に讓つたのであります。‥‥

 私は幸ひにして時事通信社のおかげにより、『少年日本史』を書く事が出來ました。『少年日本史』、名は少年を冠してをります。しかし、私としては、私の不敏ながら、一生の學問、一代の熱血を、此の一册に注ぎ終つたのであります。原稿としまして一千枚、字數にして四十萬字、不敏なる私の七十六年にわたる研究の全部を、ここに注ぎ込んだ感じがします。一氣に、これを書き、ほとんど一瀉千里に、これを書き終りました」と。


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