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  • 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――

  • 投稿者:はゆまつかひ
 
平成二十二年五月二十五日、建立。

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  • [35]
  • 紀元節を復活せよ

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2016年 2月10日(水)22時31分42秒
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金谷 眞 「神武開國」みそぎ會星坐聯盟 昭和四十年二月一日發行

「紀元節を復活せよ」より抄出

☆中心分派の統一體

 天皇とは國の大中心であつて、國民は其の分派である。中心分派の統合したものが天皇である。國民の横の代表が議會であり、縱の代表が内閣政府であり、表が領土財産であり、裏が國民精神と成る。

 此の經緯表裏の四つを代表した全體が天皇である。さうして天皇は全體の中心にあたり、然も天壤無窮に立體的に一貫してゐられる。日本古來からの 信仰からいへば、天皇は神にして、人民もまた神である。ゆゑに中心の天皇を宇宙根本大本體たる天御中主太神の延長神としてうやまひ分派の人民は此れまた神 として立體的大中心の天御中主太神の延長神である。

 ゆゑに立體的大中心たる肇國の天皇さまの御即位を祝ふといふことは、中心分派不二一體としての國民のよろこびであらねばならない。世界に國は多 いけれども日本の如く立派な神話(愚案 正しき古傳)をもち、一系連綿の國はない。日本國民は、此の歴史と、此の國體をかんがへて、祖國を復興し世界の平 和幸福に寄與しなければならない。其の大目標のためには、舉國一致して、此の祭日を復興しなければならない。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/26

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/27

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/28

  • [34]
  • 天皇の靈徳と權威

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2016年 2月 6日(土)19時16分24秒
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朱晃鳳山敕使河原大鳳  「國魂神の冥護」 山雅房 平成九年十二月二十三日刊 に曰く

天皇の權威靈徳は皇祖皇宗に對する絶對的な義務と責任であり、天皇以外の誰人も此れを負託する事は出來ません。然も此の皇祖皇宗は單に日本の皇室 の先祖と云ふ狹義なものではなく、全人類の祖神であり、正眞根本神界の神なのです。其処に天皇の靈徳と權威があるのであつて、此れは極めて演繹的なもので す。ですから、歴史的段階論を含めた歸納論的、人文科學的思考法では、其の本質は永久にわからずぢまひの「八幡のヤブ知らず」と云ふ迷路に落ち込み、六道 輪廻とやらのグルグル囘りに陷るのです。

  • [33]
  • 天皇大御身(おほみま)の祓詞

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2015年12月22日(火)20時47分9秒
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山蔭基央「己貴祕傳」霞ケ關書房 昭和四拾六年五月參拾日刊より

 言卷も綾に畏き天皇命(すめらみこと)の彌榮を壽ぎ奉るとして日毎、夜毎に犯し奉りけむ、國民等が諸々の罪科を、此れ即ち己が罪科なりと負ひ奉りてあるを恐れ奉りて、天皇命の御壽、健やかに、日々の御聖務(おんつとめ)恙なく、ましませと、今此處に檜の甘膚もて謹製(つくりまつれ)る是の大身型代(おほみかたしろ)に諸々の災事(まがごと)をば遷し取り奉りて大御身の祓仕へ奉らくを聞召せと白す。

  • [32]
  • 國體鎭祭祝詞

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2015年11月16日(月)20時53分12秒
  • 返信
 
山蔭基央「己貴祕傳」霞ケ關書房 昭和四拾六年五月参拾日刊より


 言卷くも綾に尊き皇御國は天照皇大神の降し給へる詔のまにまに歴代(よゝ)、靈繼に日繼ぎ奉れる 皇孫命の治しめし坐す大御國にして、國の民をば 元元(おほみたから)と宣らせ給ひ、國土(くにちつ)を己が顯魂(あらみたま)となし國の生命(いのち)を己が奇魂(くしみたま)と鎭め給へる國體(くにがら)にし て。故れ大倭大國魂大神(おほやまとおほくにたまのおほかみ)と坐す大己貴大神、幽世に在り給ひて 皇孫命を守護(まもり)給ひて、日本大國御魂(やまとの おほくにみたま)と鎭り坐せるを畏み奉り、我等、天地の無窮(むたきはみなき)皇祚(あまつひつぎ)の彌榮を祈り奉り、今日仕へ奉る祭儀(みまつり)に皇御國の彌榮、稱へ拜み奉らくを聞召せと白す。

  • [31]
  • 「聖戰」はまだ續いて居る。

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2015年 8月15日(土)20時57分27秒
  • 返信
 
大東亞戰爭終結ニ關スル詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナ
ル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通 告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カ
サル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國 ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出
テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵ス カ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ
朕カ陸海將 兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス
戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカ ラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ
我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以
テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應
セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表 セサルヲ得ス帝國
臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂
ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ 失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フ
ニ今後帝國 ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ
朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民 ト共ニ在リ若シ夫
レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界
ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシ
テ道遠キヲ 念ヒ總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚
シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

  御名御璽

  昭和二十年八月十四日

●「聖戰」はまだ續いて居る。地上に高天が原が建設させられるまで、世界に萬世の太平が
 樹立されるまで續く。明治維新の攘夷戰も、日清戰爭も、日露戰爭も、大東亞戰爭も、す
 べて其の全體の一環にすぎない。まだ決定的詰論を下し時機ではないのだ。

●「終戰の大詔」は「再建の大詔」であり、「第二の建國の大詔」だ。

影山正治翁述 「求道語録」より

  • [30]
  • 元始祭祝詞

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2015年 1月 2日(金)16時09分49秒
  • 返信
 
此の神牀に坐します掛けまくも畏き天照大御神・産土大神等の大前を拜み奉りて恐み恐みも白さく、
遠皇祖の大御代より、天皇命の御代御代受傳へ坐して、知食し來る天つ日嗣の高御坐の大元始を、歳の首に仰ぎ奉り言壽き奉ると爲て今日の御祭仕へ奉る状を、平らけく安らけく聞し食して、
天皇命の知食す天つ日嗣の大御隆は、天地の共窮なく、動く事無く變る事無く、齋奉り幸奉り給ひ、天の下平らけく國内安けく、皇大朝廷の大御稜威を天輝し國輝し に輝かしめ給ひ、皇大御國の
大御榮を、天足らし國たらしに足らはしめ給へと、禮代の御食御酒、種種の物を獻奉りて恐み恐みも言壽ぎ奉らくと白す 。


  • [29]
  • 椿の局の記

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2014年10月29日(水)20時29分49秒
  • 返信
 
ご存じの方も多いかと思ひますが、近代文藝社「椿の局の記」をお勸めします。

大正天皇 貞明皇后の最側近として仕へた元高等女官・椿の局へのインタビューを纏めた貴重な記録です。

↓↓↓↓
http://www.kindaibungeisha.com/show_image.php?file=index.php&screen=0&keyword=%92%D6%82%CC%8B%C7%82%CC%8BL&search_mode=2&search_condition=title1&image=book978-4-7733-5623-6.jpg&kakudai=0


  • [28]
  • 神武天皇以後の開國祭

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2014年 2月11日(火)14時29分19秒
  • 返信
 
神武天皇以後の開國祭

金谷 眞 「神武開國」みそぎ會星坐聯盟 昭和四十年二月一日發行 より

 神武天皇以前が悠遠なるハツクンマツリ(始國祭)であるが、開國はひとり神武天皇さまのときまでではない。神武天皇以後の御一代々々々がみな開國である。開國と云ふと明治維新の開國のやうにおもふ人もあるであらうが、神代の開國から神武天皇の御開國も維新の開國もみな同じことである。維新の志士 はみなさうおもつてゐたのである。

 皇國の歴史はいつまでも國をひらきつつ進みゆくのが其れである。修理固成の神敕によつて、どこまでも、國開きが進展せなければならない。此れは ひとり日本のみでなく、ひろく世界に向かつても擴大して、あくまで世界の平和幸福をはかりつつ、世界と合一し本末一貫したる世界的開國と成らねばならない。皇國の歴史にもとづいてゆけば建國祭でなく開國祭である。

☆ 神武天皇さまからが人皇の御代で、其れ以前は神代と云ふが、神代も今であり、今も神代である

  • [27]
  • 開國祭

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2014年 2月11日(火)01時43分56秒
  • 返信
 
金谷 眞 「神武開國」みそぎ會星坐聯盟 昭和四十年二月一日發行 より

日本の國は建國したのではない  開國したのである

 壯年の日本人ならば、誰でも學校で紀元節の祭日に參列したよろこびと、「雲にそびゆる高千穗の」の唱歌を思ひ出し、言ひしれぬなつかしさを覺えるであらう。紀元節はほんとうに、日本人のほこりであつた。大正十五年に永田東京市長が、建國祭として國民の總意によるお祭を此の日に併せて舉行したが、其れでもまだ祝ひ足らぬと云ふのが國民の眞情であつた。然し此の建國祭と云ふ名前に就いては大いに異存がある。嚴格に云ふと、日本の紀元節は、人爲で國を建てた祝日ではないので、此れは開國祭といふべきである。建國と云ふのは支那の如く、漢とか唐とか云ふ國のことであつて、此れは力ある者が武力によつて國を 建てたので、日本にはあてはまらぬ言葉である。漢の國は、漢の高祖を第一世として興つたが其れは人爲でできたのであつて、十二代にして亡びた。日本はそんな歴史でできた國ではない。祖國は天然自然と開けた國なので、建國ではない。開國である。ゆゑに紀元節は建國祭ではなく、開國祭と云ふのがほんとうである。

  • [26]
  • 紀元節

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2014年 2月11日(火)01時16分33秒
  • 返信
 
 今日は如何なる吉日ぞ。神武天皇即位紀元の大節なり。

 明治天皇憲法發布紀元の大節なり。神武紀元は遡りて天照大神に達し、原人始祖たる諾册二神に達し、流れては皇宗歴皇より今上天皇に及び、更に子々孫々天壤無窮にかむながれたまふ天壤無窮の紀元節なり。

 憲法發布の紀元は、明治天皇より遡りて神武鳥畤の御祭儀に、天照大神の天壤無窮の神敕に、高皇産靈神の神籬磐境に、始祖二神の修理固成に淵源し、流れては今上天皇より、いや永久にかむながれ給ふ天壤無窮の祝日なり。

 彼は血痕の憲法なり、後世なほ血を見むとす。吾は平和の憲法なり。後世いや常盤に、平和の光あり。彼は興亡無常の主權者にして、我は一系連綿の天津日嗣なり。彼は下より要求し、我は上より天錫す。是れ實に平和と血痕との分岐するところなり。

 今日は是れ如何なる吉日ぞ。此の如き天壤無窮の紀元節。平和無窮の祝日を有するの國、世界列國中、其れ將た何くにかある。

 天壤無窮の紀元節。萬歳、萬歳、萬萬無窮歳。


 大正八年紀元節 川面凡兒翁記

  • [25]
  • 元始祭

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2013年 1月 2日(水)17時08分19秒
  • 返信
 
謹みて聖壽の萬歳を祝ひ奉り、閲覽者各位の御清祥を祷上候。

1月3日は、歳のはぢめにあたり、宮中三殿におひて 天皇陛下が天津日嗣の元始を祝ひ奉るお祭り(元始祭)を執り行はせられるにつき、御民われらも天孫降臨に始まる國の大元 を壽ぎ、皇位の無窮をお祷り致しませう。

小學唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/s2_gansi_sai.htm

祝祭日唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/m_gansi_sai.htm

  • [24]
  • 四方節

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年12月31日(月)16時07分31秒
  • 編集済
  • 返信
 
「美し國」より轉載させていただきました。 はゆまつかひ拜

↓↓↓↓↓↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44184527.html


本ブログにご來訪の皆樣は、元旦の早朝(愚案 午前五時半)より、畏くも今上陛下が出御あそばされ、四方拜を行はれた(る)事はご存知だと思ひます。

數ある宮中祭祀の中でも、尤も重要な祭祀の一つで、畏くも天皇陛下が御自ら行はれる事に成つてゐます。其のため、御代拜(ごだいはい)が認められません。

御代拜が認められないと云ふことは、御不例(ごふれい)(畏くも天皇陛下の體調が優れない事)などの場合、四方拜は中止と成ります。

ほかに、畏くも天皇陛下が元服(げんぷく)を迎へる前は、御坐だけ作られて四方拜は行はれず、また日蝕(につしよく)や、諒闇(りようあん)(畏くも天皇陛下が喪に服してゐる期間)は行はれない事が慣例と成つてゐます。

四方拜の起源は明確には分かつてゐませんが、文獻に見える初例は、『日本書紀』に記された、皇極天皇(かうぎよく・てんのう)が雨乞ひのために四方拜を行つたのが最初とされてゐます。千四百年前のことです。
元旦四方拜は、平安初期の嵯峨天皇の御代に始まつたとみられ、中世、近世にも京都御所の清涼殿東庭で續けられてきた。

上記(愚案 添附)の畫像は其の當時を描いたものです。

左上の柱の陰に顏が隱れてゐるのが天皇陛下で、「黄櫨染御袍(かうろぜんのごほう)」と云ふ天皇陛下だけの束帶裝束が見えます。其のすぐ前にゐるのが藏人頭(くろうどのとう)で、「御草鞋(さうがい)」と云ふ履き物を差し出してをり、其の次には近衞中將(此のえのちゆうじやう)が御劍を捧げ持つてゐます。寅の刻と云へば圖とは違つて實際にはまだ暗いので、四方拜の坐まで敷かれた「筵道(えんどう)」を殿上人(てんじやうびと)が紙燭(しそく)と云ふ燈りで照らしてゐます。庭には、漢竹(かわたけ圖の・左側)と呉竹(くれたけ)の間に唐人打毬(とうじんだきゆう)の圖を描いた大宋(度いさう)屏風がめぐらされ、中に兩面の短疉で三つの坐が設けられてゐます。

圖の上の方に見える青い疉は實際には北西側に置かれてゐる事に成りますが、まづ此處で北斗七星を拜します。次に圖の右側、實際には北東側の紫の褥(にく=しとね)の坐で天地四方を拜します。更に圖の下側、實際には南東側の青疉の坐で山陵を拜するのです。此のほか、張りめぐらされた屏風の中には、北向きに燈臺と机を置き、机にはお香と花が供されてあるのが見えます。

『公事根源(くじこんげん)』と云ふ書物には「昔は殿上の侍臣なども四方拜はしけるにや、近頃は内裏・仙洞・攝政・大臣等の外は、さる事もなきなり」とありますので、はじめは臣下の人々も其れぞれ自宅で行つてゐたやうです。 (愚案 天地四方拜で拜天乾方 拜地坤方は庶人儀 (江家次第)、上御一人では 北向稱所屬之星名字 次いで北向再拜天 西北向再拜地 以字拜四方 )

四方拜は、明治四十一年に制定された皇室祭祀令(かうしつ・さいしれい)で規定され、戰前までは國家行事として行はれてゐました。
現在も明治時代の作法に準據して行はれてゐます。
現在、四方拜で畏くも天皇陛下が拜される諸神は次の通りです。

神宮(じんぐう)(伊勢神宮)
天神地祇(てんじんちぎ)
神武天皇陵(じんむ・てんのうりよう)
先帝三代の陵(みささぎ)(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
武藏國一宮(むさしのくに・いちのみや)・氷川神社(ひかわ・じんぢや)
山城國一宮(やましろのくに・いちのみや)・賀茂神社(かも・じんぢや)
石清水八幡宮(云はしみず・はちまんぐう)
熱田神宮(あつた・じんぐう)
鹿島神宮(かしま・じんぐう)
香取神宮(かとり・じんぐう)


四方拜は、畏くも天皇陛下お一人がされる特別の祭祀で、其の詳細は一般人は凡そ知る必要もないものですが、『内裏儀式(だいり・ぎしき)』や『江家次第(ごうけ・しだい』など、平安時代の儀式書には、四方拜の樣子が記されてゐます。

江家次第は、平安時代後期の有職故實(ゆふそくこじつ)書。著者は大江匡房で全21卷(現存19卷)からなつてゐます。有職故實とは、古來の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・裝束などのこと。また、其れらを研究する事を云ひます。當時は、智識に通じた者を有識者(ゆふそくしや)と呼んだ名殘から、現在も深い學識・見識を持つ人を「有識者(ゆふしきしや)」と呼ぶのです。

畏くも天皇陛下は大晦日の夜、御湯(みゆ)で玉體(ぎよく度い)(畏くも天皇陛下の身體)を清められ、黄櫨染御袍で出御され、御坐に着坐された天皇陛下は、御笏(みしやく)(「笏」とは、よく神主が手に持つ白木の板)をおとりに成り、北に向かひ、新しい年の屬星の名字を七囘唱へられます。

①貪狼星(どんろうせい)(子年)
②巨門星(こもんせい)(丑年、亥年)
③祿存星(ろくそんせい)(寅年、戌年)
④文曲星(ぶんきよく)(卯年、酉年)
⑤廉貞星(れんていせい)(辰年、申年)
⑥武曲星(ぶきよくせい)(巳年、未年)
⑦破軍星(はぐんせい)(午年)

再拜(さいはい)(深く拜む動作を二囘繰り返すこと)に續けて、呪文が唱へられます。『江家次第』によると、其の呪文は次のやうなものです。

賊冦之中過度我身(賊冦の中、我が身を過し度せよ)
毒魔之中過度我身(毒魔の中、我が身を過し度せよ)
毒氣之中過度我身(毒氣の中、我が身を過し度せよ)
毀厄之中過度我身(毀厄の中、我が身を過し度せよ)
五急六害之中過度我身(五急六害の中、我が身を過し度せよ)
五兵六舌之中過度我身(五兵六舌の中、我が身を過し度せよ)
厭魅之中過度我身(厭魅の中、我が身を過し度せよ)
萬病除癒、所欲隨心、急急如律令。

此處で注意し度いのは、原文中の「過度」と云ふ言葉です。
學術研究に於ては、一般に道教の常套句的文言として「守りたまへ」の意味として解釋されてきました。支那語の古代辭書『説文解字』や『經籍餐詁』によると、
「過」とは
・すぎる、わたる、よぎる、あまねく
「度」には
・此處では、悟らせるを意味します。

すなはち、罪障は我が身を通して悟りへ至らしめん、「罪障から私を守つてください」と云ふことではないのです。

此の世に起こる罪障をすべて引受けられる事を意味します。
陛下の民(臣民)を陛下が身を挺して護つてくださつてをられるのです。
臣民は、難事が起こると、安易に限りを盡くして「魔除け」を望みます。然し、陛下は引受け遊ばされてをられるのです。
臣民は安易なはうへ流されます。然し、陛下は困難をすべて受入れられるのです。

罪あらば我を咎めよ天津神民は我が身の生みし子なれば

大逆を侵さうとして捕らえられた、社會主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製です。
御身を害しようとするものでさへ、自分の子であると庇ふ心をお持ちなのが、天皇陛下と云ふ存在なのです。

先帝陛下もマッカーサーに對して「我が身はどうなつてもかまはぬ。國民を救つてほしい。」と覺悟を示しあそばされました。
臣民が始めた戰爭でしたが、最後は臣民を護るため、ご聖斷あそばされ、食糧難にあへぐ臣民を救はれた。

我國には現在、内閣總理大臣はじめ大臣が存在します。かつては國政を預けられた氏族を大臣(おおおみ)と呼びました。

政(まつりごと)は、祭事(まつりごと)と同じ讀み方をします。語源は同じ意味に成ります。すなはち、政と祭事は一體なのです。政は祭事なのですから、政治は祭事、神事であり、ご神示に則つて執り行はれるのが、本來の姿であり、『祭政一致は』は日本の傳統でした。

然し乍ら、現在の政(まつりごと)は神意に則つたものとは程遠い状況です。
また、政(まつりごと)の昏迷を現した世相も亂れてゐます。

然し、陛下は一億三千萬人の「罪障」を引受けてをられるのです。
まつろわぬ民も同じ「赤子」として・・・

愚案 然るによつて
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t25/10
神國日本の天皇陛下は毎年の恆例として、夏冬の季節變動に際し、宮中の神殿に於かせられて、顯幽の神人萬有を禊祓淨化し、祝福安泰し給ふの大神事を舉行あらせられます。 即ちお禊に依る御鎭魂で、天神・天祖・神祖・皇祖・皇宗と御一體の大靈體(オホミタマ)と成らせられ、以て皇族・百官・有司を始め、國家・民族・世界人類・天地萬物・宇宙の表裏を「大祓(オホハラヒ) 」し給ふやに拜し上げてをります。



  • [23]
  • 皇紀と帝國議會 明治天皇と『五』の數靈

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 9月12日(水)23時36分25秒
  • 編集済
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                     皇紀と帝國議會
                     明治天皇と『五』の數靈

                                            枢密顧問官 伯爵
                                             金子堅太郎(述)

 帝國議會は申すまでもなく、明治二十三年に開設されたのであるが、之に就いて是非とも國民が銘記して置いて戴き度い明治大帝の御逸話がある。實は自分も、最近田中光顯伯から此の事を聞いて、永年抱いてゐた謎が率然氷解し、いま更乍ら聖旨の高遠なるに恐懼感激してゐる次第である。

 明治十四年十月十二日、東北御巡幸から御歸還遊ばされた大帝は、當時物議騒然たりし北海道開拓使官有地拂下の取消、大隈參議の免官を御裁可あらせられると共に、實に青天の霹靂と申すか、かの有名な國會開設の敕諭を渙發されたのである。

其の敕諭には、

 將に明治二十三年ヲ期シ議員ヲ召シ國會ヲ開キ以テ朕カ初志ヲ成サントス

と仰せられてゐる。

當時自分は元老院書記官として奔走してゐたが、此の敕諭を拜して寔に畏れ多い事乍内々不審に堪へぬことが一つあつた。其れはどんな理由で特に明治二十三年を御選び遊ばされたかといふ點であつた。

  何故かと申すに、明治大帝は由來「五」といふ數字を非常に尊重遊ばされ、皇室の諸儀、重要國事の期日を定め給ふ際は必ず「五」を基準とした數字を御使用遊ばされるのが御慣例であつた。五年、十年、十五年、五月、十月、五日、十日といふ如きである。然るに國會開設といふ曠古の大業に「二十三」といふ「五」とは縁故のない數字を定め給うたのである。

  此れは自分許りでなく、他の吏僚一同が不審を懐いた事は尤もな話で、相寄る毎に色々と御推測申上げて見るが解釋がつかない。さればと申して、大帝に御伺ひを立てるのも餘りに畏れ多い事であるので、其の壗永遠の謎となつてゐたのである。されば先程申した通り、田中伯のお話により、明快な解答が與へられたのである。

即ち、自分達と同じ不審を懐いて居られた時の太政大臣三條實美公は或る日たうとう  陛下に其の理由を御尋ね申し上げたのである。所が驚く勿れ、 陛下は即坐に

 明治二十三年は、我が皇紀二千五百五十年に當たるではないか

と仰せられた。

 承はつた三條公は平伏低頭言葉もなかつたと云ふ。田中伯から聞いた自分もたゞ恐懼申上げるのみ。讀者もまた御同樣であらふと思ふ。

 立憲政治は國家運營上の重大事である。されば肇國以來の年數即ち皇紀と、議會創設の年を密接に聯關せしむべしとの御信念_恐察し奉るだに頭が下がるではないか。

 扨て明年(愚案 昭和十五年)は皇紀二千六百年に當たり、諸種の催し、記念事業などが企てられてゐる樣であるが、其れが恰も國會開設五十年に相當する事を想起する人は尠いであらふ。自分は日比谷の舊議場跡六千坪の始末に就て色色の案があるやに聞いてをるが寧ろ其処を小公園として、憲政の記念館と云ふ如きものを建て、明年の皇紀二千六百年の祭典と同時に憲政五十年の式典を擧げることが明治大帝の御叡旨に副ひ奉る所以であると信ずる次第である。

  • [22]
  • 賢所遥拜詞

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 7月31日(火)23時39分3秒
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禊教本院 賢所遥拜詞

二拜二拍手

掛け卷くも賢き 皇大朝廷すめらがおほみかど齋い奉らす 賢所かしこどころの大前おほまへ) 御歴代みよみよの天皇命すめらみ こと の大御靈おほみたまの御前みまへを 畏 み畏みも遙かに拜み奉る 

二拍手一拜


  • [21]
  • 敬神尊皇崇祖孝親ハ千古萬代一貫ノ眞道ナリ

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 5月25日(金)22時42分5秒
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荒深道斎「祖宗遺訓 平和の誓」 昭和十二年 より

『一致之精神』

吾等ノ生命(イノチ)ハ天地(アメツチ)ノ生氣(イキ)ヲ種トシ、親ヲ基(キ)トシ、祖(カミ)ヲ幹(ミ)トシテ出ヅ、其ノ祖ハ曾テ皇室ヲ大基幹(オホキミ)トシテ千枝萬葉ニ分レ、各氏族ノ始祖ヲ立テタルナリ。故ニ敬神尊皇崇祖孝親ハ千古萬代一貫ノ眞道ナリ、天道ナリ 、ユメ忘ルヽ勿レ。


  • [20]
  • 皇國の天則

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 5月24日(木)22時32分34秒
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荒深道斎「祖宗遺訓 平和の誓」 昭和十二年 より

『生命尊重を意味する日本國名』

神武天皇記に内木綿之眞迮國と書いて「ウチツユウノマサキクニ」と訓してありますが、其當字に囚はれずに言葉の意味にて考へれば、ウチツは生命力。ユウは盛んなる。マサキは正しく開き發する事であります。

此外に種々なる國名がありますが、凡て生命の安全と云ふ意味を含んで居ります。

一、 日本國ヒノモトノクニ)は生命力の靈(ヒ)即ち神靈の力を心の本とする國である。

二、 秀眞國ホツマノクニ)は眞の生命が強く秀でゝ居る國である。天孫を正勝吾勝勝速日天津日子穂之邇々基命と云ふ。甚だ長い御名でありますが、此の正勝とは正しくまさる、吾勝は明らかにあらはるゝ原力。勝速日は勝れたる生命と云ふ意味であります。即ち在來の生命よりも遥かに勝れた意味の名です。天津日子穂は天照大御神より固成した日の御子の現はれと云ふ事。邇々基は瓊々杵とも書きますが、和々の平和心の基と云ふ意味の言葉であります。之が即ちホツマであります。

三、 皇國スメラノクニ)皇をスメラと訓むのは統一の意であります。天照皇大御神(アマテラススメオホミカミ)のスメは光線の統一であります。人類の統一を天津日嗣天皇(アマツヒツギスメロギ)と申すのも生命の根源と云ふ事であります。即ち生命の統一力であるのです。太古世界統一の事實があつたのであります。

四、 浦安國ウラヤスノクニ)は原始高祖ニニギノ命の大御心のまゝに、互譲共榮にたのしみて絶對平和を保ち、津々浦々悉く安住し得る國であります。

五、 住吉國スミヨシノクニ)ニニギの互譲精神で爭闘が無く、浦安國であるから安心して住み心地が良いので國名となつた。

六、 大和國オホニギノクニ)之れも浦安住吉と共に平和の國である。

七、 神國カミノクニ)之れも神國と書くに至つたのは後世で、太古には祖國と書いたのであつた。シンコクと云ふのは儒佛教に對して吾古道を神道と稱するに至つてから、カミノクニを神國と書くに至つたのである。

八、 蜻蛉國アキツクニ)生命の發現の國を明津國と稱したのを、吾國の地形がトンボに似てゐるより此の書方になしたのである。書紀に「猶蜻蛉の臀吐せる如し」とあるより此字を當てたのである。即ち九州はトンボの頭で、山陰、三陽、四國、機内迄は胸であり、中部が腹であり、東北が尻であり、北海道が尾で、太平洋の水上に飛んでゐる形をなした日本國である。太古に世界的大文化があつて、吾地形の測量が出來て居つた事はこの國名から見ても、又太古蹟を見ても推察せられる處であります。

九、 言舉げせぬ國コトアゲセヌクニ)は言葉を盡して人道を説かずも敬神、尊皇、崇祖、忠孝の道は祖傳へに國民の腦裏に染みて(祖神垂示 親譲りの道 http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t27/l50ご参照)、本能的に眞の道に則する國である。故に浦安住吉國である。

十、 言靈の幸合ふ國コトタマノサチアフクニ)は一言發した事には決して違反せぬといふ意。言葉は自己の心の動き、即ち精神其儘の現はれである以上決して虚言はない國である。後世武士に二言なしとは此精神から來たのであります。

十一、 豊葦原の中津國トヨアシハラノナカツクニ)豊葦原は人類の住まぬ草木のみの國で、其中心地に生命を發して中津國となつた事。支那の中國と云ふ意味ではない。

十二、 豊葦原の瑞穂國トヨアシハラノミズホノクニ)も無人境の世界に瑞々しき尊い生命が發生した國と云ふので、即ち日本と同異議である。

此外に彌眞止國と云ふ總稱がある。大和でも日本でも浦安でも其他如何なる文字に書いてもヤマトである。之は彌々益々眞を發する本と云ふのである、マは生命の事であります。

此の如く何れの國名も凡て生命の尊重と、其基本地といふ意味のみになつて居るのでありますよつて古來吾皇國より事を發して、海外を脅かした事は一回も無いのでありますが、一朝海外より侮日的の魔手を以つて、吾國の浦安生活を脅かすものがある時は、敢然立つて其不法逆賊を打懲らすのが、吾皇國の天則であります。

  • [19]
  • 宮城遥拜詞と宮城参拜詞

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 2月17日(金)21時02分19秒
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 拜禮作法を追加。

●宮城遥拜詞

 宮城遥拜の際は、宮城の方位に向かひ、嚴粛に「最敬禮」を行ふこと二回
.
 祝詞

 掛けまくも畏き 天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹み敬ひ遥かに拜(をろ
 が)み奉らくと白(まを)す

 二柏手、一拜


宮城の方位

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/231


●宮城参拜詞

 宮城前にて直立、禮、三歩進み、最敬禮二回

  祝詞

 掛けまくも畏き 天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹み敬ひ拜(をろが)み
 奉らむと白(まを)す

 二柏手、一拜、三歩逆退、「禮」 右に廻りて歸途につく

  • [18]
  • 聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 2月16日(木)12時13分56秒
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大正十二年八月二十八日 日光二荒山神社 宮司 稻村眞理

聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞

掛けまくも畏き皇神達(注1)の大前に、 恐み恐みも白さく、

掛けまくも畏き天皇命、天つ日嗣の大御位知ろしめしてより、萬機(よろづ)の
大御政 殊に事繁くして、大御體(おほみま)この年頃疲らし不平(やくさ)みま
せれば、國民(おほみたから)諸ゝ 恐み慨(うれ)たみ歎かひ居り。

故、齋まはり清まはりて、今日の生日の足日に、大神達(注2)の大前に、御饌・
御酒・種々の物を捧げて拜み仕へまつらくを、平けく安らけく諾ひ聞こしめして、
天皇命の大御體速(すむ)やけく癒えまさしめたまひ、堅磐に常盤に清々(す
がすが)しく齋ひまつり幸はへまつりたまひ、大御門の大御榮え、天地の共(
むた)無窮(とこしへ)に大坐(おほま)しまさしめたまへと 恐み恐みも白す。

(注1)原文では二荒大神      (注2)原文では大神

  • [17]
  • 萬古天皇を仰ぐ

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2012年 2月 5日(日)21時34分14秒
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五台山だより  「神仙道誌」第二十四号 昭和二十七年六月三十日刊 掲載

今更ら申す迄もなく、我々奉道の士の背骨は、幽顯を通じて『萬古天皇を仰ぐ』の一線を貫くもので、毎朝の神拜後皇居に向つて心から頭の下げられぬお方は如何に靈の研究とか神法道術の修錬とかに精出されても所詮は正眞の神仙道とは凡そ無縁の末行でありますから、此の極めて分明簡易な自己審神法を日々懈怠なく試みて彌が上にも背骨の脱臼なからんことを期すべきであります。


宮城遥拜詞

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/23

  • [16]
  • 聖上,今上の語義

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2011年 2月21日(月)22時06分7秒
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                           聖上の語義

                                                 文學博士 加藤玄智(談)
「神祇」第十二巻 第八號 昭和八年八月十五日發行 掲載

今日新聞などで普通に用ひられる聖上陛下といふ語も漢字にとらはれて自覺しないが、之を味つて見ると聖は日知 である。

天照大神様は日を知らしめ給ふ神様である。其神の血統(愚案、及び靈統)を受け給ふ聖の神(愚案 即ち 天津日継)が天皇であらせられる。又 聖上の上であるが、日本では古くから神は上なり、上にあるものと解釋してゐる。之は確かに一つの眞理である。故に聖上とは聖神即ちヒジリの神であります。あまり度々新聞などに出て耳目になれて終つてはゐるが、意味の深い言葉である。

また今上と申す言葉がある。天照大御神は太古この天の下を知らしめた神であるが、こういふ意味がこの今上といふ文字の中に含まれて、それでこそかく今上と申し奉るのである

私は明治天皇の御生祠について大分しらべて見たが、御生前より聖の神にあらせられる天皇に對し奉り、日本人の意識が如何に現はれて居つたかを生祠の上ではつきりと見ることが出來た。

また、今上陛下の北海道行幸の際には本別村の如き僻遠の地方民は、かゝる土地には又と無い雲上人の行幸を畏み義經山といふ山の頂上に、義經神社を建てゝ陛下を奉祀した。

遠く故國を離れた人々に取つては更にその心持は深い。上海、香港などに住む人々は痛切に故國日本の、そしてスメラミコトの有り難さを感ずるといふことである。

かくの如く古今を一貫して現つ神として天皇を拜することが日本國體の根本的な中心點をなしてゐる

  • [15]
  • 勤王と勤皇・王政と皇政

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2011年 2月21日(月)21時44分53秒
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                    勤王と勤皇・王政と皇政

                                                富山春三

昭和九年八月十一日発行「皇國時報」第五三六號

 幕末當時は盛んに「勤王 又は王政」といふ言葉が使はれた。即ち「王政復古、王政維新」、「勤王佐幕、勤王攘夷」などといふやうに。

 今日も之に倣つて「勤王」「王政」といふ言葉が矢張り使はれてゐる様に思はれるが、之は如何なものであらう。

 王という言葉は支那の王道から出たもので、左傳に「求二諸侯一莫レ如レ勤レ王」などあり、要するに支那の諸侯が時の君王に忠を致すといふ事であるが、此の支那の君王が「王道の政治」を行ふといふ、其「王道」と我が聖上の「皇道」と同一視するといふことは大義名分の上からも考ふべき事だと思ふ。

 我に有つては須らく「勤皇」であるべきだと思ふ。「王政」も同じで「皇政」であらねばならぬと思ふ。

 尤も黒板勝美博士は嘗て教化團體の講義習會の時「皇政復古の精神」といふ題を掲げられ正しく「皇政」を用ゐられてゐた。

 明治の初年に神職僧侶を教導職(僧侶も烏帽子、直垂を着して)として三條の教憲を布教した頃「十七兼題」といふ中に「萬國交際皇政一新」といふ言葉があつた等に考へて博士の用語は正しいと思ふ。

  • [14]
  • 禊祓浄化・祝福安泰

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年12月30日(木)12時15分28秒
  • 編集済
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 神国日本の天皇陛下は毎年の恒例として、夏冬の季節変動に際し、宮中の神殿に於かせられて、顕幽の神人万有を禊祓浄化し、祝福安泰し給う大神事を挙行あらせられます。

 
即ちお禊に依る御鎮魂で、天神・天祖・神祖・皇祖・皇宗と御一体の大霊体(オホミタマ)とならせられ、以て皇族・百官・有司を始め、国家・民族・世界人類・天地万物・宇宙の表裏を「大祓(オホハラヒ) 」し給うやに拝し上げております。

- 文山中村三郎 「おゝ靖国の大神」


 器伝とは、器物や型などに依って、大自然の真理、真律、真道を後世に教え伝える方法であります。わが国の神殿や住宅等の形式、折り紙や水引の結び方、神籬磐境の製法、年中行事のお正月や桃の節句や端午の節句などは、悉く器伝を主とする親譲之道の伝法でありまして、洵に重大なる意義があり、之れに依って斯道を永遠の子々子孫々に相続せんとする祖宗の伝道法であります。

 お正月の御飾りは総て子々孫々に禊-祓-鎮魂の一連の実修を督励し、之を代々に伝統すべしとの警告であります。併しこの重要な真義を知るものは尠い。従って初月を正月と呼び、若くは睦月と称すると称する所以も判って居りませぬ。それ故に正月はただその年の始めで、飲食して遊戯し、観劇や映画等に徒食し、甚だしきは賭博と荒楽とを能事とするのを当然とする今日になりました。

 併しながら、古来からの形式が伝統しているだけでも、尚、之を全廃するよちは可としなければなりませぬ。何となればこれも「告朔の餼養」で、他日必ず役立つ因縁となるからであります。さもあらばあれ、人間がこの世に生存する間には、絶えず心身の内外から受ける「ケガレ」や毒、若くは「ツミ」や「トガ」が触れかかって邪魔になりますから、人間の本性本能は昧み、「マコト」は蔽われて、遂に小人、凡夫、罪ノ子と化して仕舞います。それ故にこれを防ぎこれを除く為め、人間は絶えず禊祓鎮魂して心身の清・明・正・直を保全し、常に健康を持続しなければなりません。

されば我等も宮中の御公儀に倣うて、毎年夏冬の二回ぐらいは「ミソギ」「ハラヒ」をなし、鎮魂反省して真人間となり、日に、月に、年に新たなる人生を創造せねばなりませぬ。

 
げにお正月の床飾及び行事は、わが祖先の親切な道統の器伝であり、重要な禊祓の御垂示であります。

- 文山中村三郎 「親譲之道」

 明治四年六月、明治天皇の聖慮を以て、大祓舊儀御復興を仰出され「大祓ノ儀従前六月祓或ハ夏越神事と稱シ執行シ來リ候處全ク後世一社ノ神事ト相心得本儀ヲ失ヒ候ニ付舊儀御再興被仰出候事」ろ太政官布告あり、翌年式部省は命を奉じて式次第を公定し、府縣官員より庶民に至るまで社参して祓すべしと布達したのは、大祓の對象とするところが極めて明瞭に示されて居るのである。

 職場々々の大祓は、時局頗る有意義であり、奨勵されるべきであるが、人は悉く家に歸れば氏神(愚案 産土神)の氏子である。職場の祓終了後と雖も、暇あらば更に社頭大祓に参集する心掛けが欲しいものである。當事者に於ても職場の大祓を社頭に於ける大祓に堅く結び付け、本源を神社に置くべき用意は、決して等閑に附せられてはならないのである。茲に貴き大御心に應へまつる道があり、茲に雄心潑刺たる興國精神が、肇國の根基に立ち還つて生動し來たる道があるのである。

-千種 宣夫「大祓に對する一考察

愚案 聖上の大綾威を仰ぎ、大祓の儀を遥かに拜みて、大祓詞を奉唱致しませう。




  • [13]
  • 神州正気の根源

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年12月28日(火)21時52分44秒
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                      雨下する敵弾下の神異

                    ― 終戦前の神宮大空襲 ―

                               当時神宮官房主事 杉谷房雄氏手記

新日本春秋第二六二号記載

 あの不法非人道な無差別爆撃にも奈良、京都の古文化都市を温存した米軍が、どうして(皇居と)伊勢神宮を襲ったのか。このことは意味深長である。それは日本精神の具象的根源を破壊することによって、民族の道徳的降伏を狙ったものであり、のちの神道指令、占領憲法の発端でもある。しかし神宮空襲は暴戻執拗をきわめながら、ついに尊厳なる神威を犯すことはできなかった。

 次は当時の神宮官房主事(終戦後会計課長、少宮司を歴任して退職)杉谷房雄氏が大爆撃当夜の実情を手記して寄せられたものであるが、筆者も末尾に感想を語られているように、敵機はついに犯す能わなかった神威も、心なき人心の荒廃と政治の怯惰は、国 祖神宮を占領政策の汚辱と歪曲のまゝに、終戦の今もなお放置され ているのである。

 これはいわゆる「反米」のためでなく、日本人自身の第一義の問題として、当時の惨烈なる体験を想起しつゝ、神宮護持の意義を改めて考えねばならない重要な示唆なのである。

 神宮が爆撃を受けたのは二回である。第一回は昭和二十年一月十四日で、外宮宮域に六発の爆弾が投下され、五丈殿、九丈殿、斎館に若干の被害があったが、数十間を隔てただけの御正宮には何の御異状もなかった。

   第二回は即ち同年七月二十八日の大空襲である。この外にも六月二十六日度会郡滝原村に鎮座される別宮瀧原宮山林中に百キロ爆弾八発が投下され名木太郎杉を失ったが、御正宮は御安泰であった。このうち一月の外宮被災と瀧原宮投弾は日本機の追撃に逃走する敵機が機を軽くするための暴投であったらしく、計画的な神宮空襲は最後の一回だけであった。

●四十数機二時間の空襲

    七月二十八日といっても、神宮に投弾したのは深夜の午前一時から三時までで、正確には二十九日というべきである。この日午前六時、午前十一時二十五分、午後一時三十五分、午後十一時二十五分の四回、空襲警報が発令されるので、職員は終日防空服を解く暇もなく、夜は毎日のように両宮の警備につくので時を移さず両宮宮域の持場に集合した。

   高倉大宮司、私(杉谷氏)、慶光院禰宜等は内宮御宮階下に候し、外宮には野上儀式課長以下付近在住職員が部署についていた。 この外、思召により御差遣になった近衛一個大隊(伊勢警備隊)及び神宮特設消防隊(民間人)が両宮に詰めていた。

  十二時頃には名古屋方面が頻りに襲撃され、花火のような焼夷弾が神苑から手にとるように望見された。一時頃、敵機B29数十機(四十機内外)が宇治山田市に飛来、外宮御鎮座の山田地区に反復焼夷弾を投下した。続いて内宮を三回襲撃し、実に一時間五十分に亘る大空襲であった。

   外宮御正殿階下に候して防衛の指揮をとっていた野上祢宜の話によると、焼夷弾が投下された瞬間は全宮域がまるで火の海で白昼のようであったとのことで、これが三回繰り返されたのである。

   外宮方面の爆撃が終ると、約一里を隔てた内宮上空に敵機は殺到し、やはり三回反復投弾した。雨霰のように落下する焼夷弾は赤い尾を曳いて頭上に迫り、いくら死を決した職員でも首をすくめずにはおられなかった。然し、誰一人として持場を離れる者はいなかった。一回は一回毎に投弾は正確になって来る。これでもか、これでもかと執拗に襲撃する敵機には全く怒り心頭に発した。爆弾の模様を見ると、第一回は目標のアウトラインを定め、漸次中心に正確に投弾するようであった。三回目の焼夷弾の如きは正に頭上真上に襲いかかって来た。

●集中投弾全部、正宮真上から外れる 一弾も神苑犯す能わず

 然し神威はあった。この莫大な量の敵弾が御正宮上空百メートルの辺まで落下すると、みな吸い込まれるように五十鈴川対岸に落ちるのである。遂に臭弾の一個だに五十鈴川以内の神域を汚すことのなかったのは単なる偶然で解釈されるであろうか。

 この空襲による神宮の施設の被害は大きかった。また宇治山田市の六割を焼失した民間の災害も言語に絶するものがあった。神宮の被害の主なものは、域外別宮月夜見宮宿衛殿、同倭姫宮宿衛屋、衛士見張所、徴古館、同倉庫、皇学館大学の大部分、造神宮宇治工作所大半を焼失した。月夜見宮では宿直の長岡嘱託が死亡し、森本宮掌が両足に大火傷を負うといういたましい犠牲があった。

●神異の数々

 此処にも神異はあった。外宮宮域から搬出された焼夷弾のカラはトラック三台に及んだのであるが、翌日調査してみると、御正宮始め主要建造物にほとんど御被害のあとが見えないのである。野上祢宜の報告によると宮域内の正宮西方及び北方、行在所前、神楽殿前の各林内に火災が発生したが、神宮警備部員、伊勢警備隊、特設消防隊の努力で消し止めた。最も多数の焼夷弾が落下した別宮多賀宮では瑞垣の一部と御階に油脂が飛び散り、火が燃え移ったが、警備隊員が身体をこすりつけて消し止めた。この焼け跡のある御階は唯一の空襲記念物として現在徴古館に保存してある。

 多賀宮は外宮第一別宮で豊受大神の荒魂を奉斎する御宮であるが、一月の爆弾投下でも六弾のうち四弾までがこの多賀宮前の谷に落下、今回また最も多数の焼夷弾のカラがこの谷から発見された。私は多賀宮が空襲の正面に当たられ被害を最小限度に食い止められた如何にも荒魂らしい御神威を感ぜすにはおられなかった。

   域外別宮月夜見宮は足の踏み場もない焼夷弾のカラであった。千年の古楠も一本残らず焼けたゞれ、宿衛屋、雑屋、祓所みな焼失した中に御正宮たゞ一棟だけが厳然と何の御変りもなく拝される。一坪に数個という被弾の海の中に此処だけ一弾も落ちなかったということはあり得ぬことである。辛うじて裏に廻って拝見すると何と御屋根裏流れに大型焼夷弾が一つ突きささっている。しかもこれ一発だけが不発なのである。拝する者涙せぬものは無かった。

 以上が空襲の体験記の大要であるが、内宮には終戦まで一切の敵弾による汚れはなかった。これ全く御神威に基づくのであって他の何物でもない。

 終戦後占領軍によって全国各地の有名神社が汚されたとの報を聞き、神宮も如何なる事態が生ずるかも知れぬと私たちはひそかに決するところがあった。然し皇太神宮には 最後まで瑞垣内に一人の外夷も立入ら しめなかった ことは私たちのせめてもの慰めとするところである。これは決死の覚悟でなければ不可能であったことは察してくれる人もあるであろう。神宮は唯一にしてかけ替えのない、やり直しのきかない絶対の聖地であってこれを奉護することは至上命令である。神宮を毒するものは何者であれ断乎排除せねばならぬのである。(中略)

 占領が解除されてヤレヤレと思ったのも束の間で、占領政策を鵜のみにしたいわゆる進歩派グループは日本をもとの姿に還すことを逆コースと称した。地元の宇治山田市からは市会議長の名で神宮宮域の杉の巨木を伐採して戦災復興材に交付せよとの要望書が提出された。外宮工作所は中学校運動場敷地に供出せよ、麻奉製所は小学校に使用したいから空け渡せといってきた。これらが今まで神宮崇敬者の代表のような顔をしていた人達からの申出なので面喰った。進駐軍ははっきり神宮圧迫を打ち出していたので覚悟もあったが、味方とばかり思っていた昨日までの崇敬者からの弓矢には正直なところ散々悩まされた。

 現在もこのような事態が皆無とはいえず、神宮の真姿は見失われかけているように感ぜられる。東湖先生の正気の歌にあるように「神州の正気も時に汚隆なくんばあらず」であるが、その根源である皇室と神宮が健在でなければ「汚」のみであって「隆」はあり得ない。 汚の極まるところ必ず反省があって隆が来る。為政者の指針の正しきを期待するや切である。                                                                                                                                             以上

  • [12]
  • 大御心まことにありがたく拝さるる

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年12月23日(木)22時08分30秒
  • 返信
 
本日の参賀、例のまにまに、御竜顔を遥かに拝みつつ、玉体守護、日嗣無窮、国家静謐の懇祈を果たし得た。天長節を奉祝し、ここに、謹んで御親拝の神秘を披露し奉る。

                                                                        御聖徳余話
                                               -明治神宮発行 「代々木」七八号所載-
                                                                                                                                   副島広之

   明治二年三月十二日、東京御再幸の途次、明治天皇は伊勢の神宮に御親拝あそばされた。神宮は崇神天皇の昔から、内親王や女王が天皇の大御手代となってお仕えした故か、これまで天皇お自らの御参拝はなく、この度の神宮親謁のことは、実に画期的な事がらであったのである。

   この日、黄櫨染の御袍を召された天皇は、午前中外宮の御参拝を終えさせられ、文殿で御斎浴ののち午後二時すぎ内宮に御参拝、太玉串を献って、うやうやしく維新の大業を皇祖の大前に御報告あそばされた。

   明治天皇の伊勢御参拝は御一代を通じ四回にわたる。最後は明治三十八年十一月十七日、日露戦争が終って平和克復の御奉告であった。この時の御製であろうか、三十八年 をりにふれてとして

 久方のあめにものぼるここちして いすゞの宮にまゐるけふかな

 さくすずの五十鈴の宮の広前に けふおほ幣をささげつるかな

とあるが、大御心まことにありがたく拝するのである。

 さて、明治の皇后、昭憲さまの伊勢御参拝は明治四十四年五月二十一日のことである
が、この時の御逸話を伊勢神宮小宮司英田茂丸翁は次のように語っている。

 -皇后が御出発前、明治陛下の御前にお暇乞いに出られると、天皇は

 自分が伊勢神宮にお参りすると参拝前に雨が降る。また参拝の時に天楽が聞こえた・・・。

と仰せられた。皇后は伊勢に行啓され、いよいよ明日は御参拝という前日、御心中“どうか雨が降ってほしい”という御念願であった。それは、

 陛下の御参拝の時は毎時も雨である。明日もし雨が降らなければ、それは全く自分の心に慎みが足りないためである・・・・。

 ひたすら当日の快晴を祈念していた供奉の人たちにとっては想像もつかない尊い御心境であった。皇后は前夜から斎戒沐浴して居られたが、奇しくも夜半から静かな雨となった。

  一夜明けて、皇后はお目覚めから一さい近侍の者と御談話もなさらず、やがて御神前に進まれて三十分ばかりも御拝礼御黙祷なさったのであるが、その時皇后は、神苑の老杉の梢高く、神嵐の如き鳴動が一しきりとどろき渡るのをお聞きになった。供奉の人たちの中でこの天楽をきいたのは、香川皇宮太夫や柳の内侍ぐらいだったというが、ともあれ誠心のこもった人にだけ聞えたものといわれている。

 このことを語って英田少宮司は、至誠日月を貫くと申しますが、真に清浄純真ただ尊崇の御心をもって神霊にむかわせられる場合、常人の不可解とする御感應 がある ものではありますまいか・・・・・と述べている。

  明治天皇の伊勢神宮御参拝の不思議な御体験をそのまま、皇后さまも御体験あそばされたわけで、誠に尊いことと思われるのである。

 明治天皇御製
  はるかにも仰がぬ日なしわが国のしづめと立てる伊勢の神垣

 昭和天皇御製
  八束穂を内外の宮にささげもてはるかに祈る朝すがすがし

  • [11]
  • 尊皇攘夷は皇國の大道

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 8月25日(水)21時43分28秒
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                                                                  宗教攘夷の道
                                          三重縣縣社桑名 中臣神社社掌 不破 義幹

                                  昭和十七年十二月十一日発行「皇國時報」第八三六號 掲載

    尊皇攘夷は幕末志士の悲願であつたばかりでなく肇國以來の皇國の大道であり、現大東亞戰の本義もこれに外ならぬ。

   天壌無窮の皇運を扶翼し奉る國體防護の本能であつて單に武力による外國の侵害を撃攘するのみならず對外的には八紘一宇の大理想を以てまつろはぬものを言むけ和しまつろはしむるにある。國内的には皇道に反する外國思想を掃蕩し臣民各個人の心中に巣食ふ外夷を克服するにある。

    攘夷は尊皇の道であり、攘夷あつて初めて眞の開化がある。攘夷なき開化は屈従であり敗亡であり被征服である。これ無くんば國體の存立する能はざる道である。

    大東亞戰以來赫々たる攘夷の大戰果に促され國内の思想攘夷の叫びが大であるが特に國内宗教に於ける攘夷の徹底は喫緊の急務である。

    攘夷は同時に倒幕である。皇道を害する宗教は勿論皇道と並立對立し國民信仰を二元化する如き幕府的宗教に對しても攘夷の鉾は向けられるべきである。摩擦回避に籍口して現状維持を計るは公武合對論に過ぎぬ。

    今までの俗流の考へでは攘夷は頑迷の代名詞であつた。一例を舉ぐれば神風連に對する認識はここ數年の間に一變したが我々の學生時代の教科書には「開化を喜ばざる頑迷守舊の不平士族」と教へられた。

    明治四年八月神祇官を癈して神祇省と改め翌五年には更に神祇省をも改めて教部省とし次には之を癈して社寺局にまで轉落した。攘夷精神は地をはらつて文明開化歐化心酔の時代であつた。

    橿原の古の御代に立返ると喜んだのはあらぬ夢であつたと慟哭した國學者の歎きはやがて「よは寒くなりまさるなり唐衣うつに心の急かるるかな」とまで急迫して遂に神風連の蹶起となつた。實に攘夷は皇國の大道である。

    維新は祭政の維新でなければならぬ。政治機構の維新は思想の維新の裏付けなくしては完しとはせぬ。明治維新の神佛分離の御聖業、大教宣布の御詔勅、下つて日獨伊三國同盟、ニ千六百年に賜りし御詔勅を拜し奉れば一貫せる御聖旨を明らかに拜し得る。特に大教宣布の御詔勅は宗教攘夷の道を明示されしものである。

   當時、今や天運循環百度維れ新なりと仰せになつたが蕩々たる開化の風に我等先輩の力及ばずこれを奉行するに徹底を缺き今日に至つた。今次の大戰は興廃の岐るる所であり、新しき肇國である。文字通り天運循環百度維れ新なる時である。この詔を徹底的に奉行し、儒、佛、基竝に新興宗教の撥亂反正をなすは正に今である。

    具對的方策として左の五條を舉ぐ。

一、 各宗教の信仰對象たる権威を天照大神、現御神天皇に皈一翼賛し奉らしむ。キリスト
        教のゴッド、佛教の佛、儒教の孔孟等は總て天照大神、天皇の大御光により各そ
       の所を得しめられ各の教により皇道の羽翼として翼賛の位置にあるべき點を明らか
       にす

二、 佛教、キリスト教による祖靈祭祀は日本本來の人世観に戻り祖靈を冒涜するものを以
        て皇室祭祀に神習ひ奉りて神道を以て行ふ事。

三、 英靈公葬は前條により當然神式たるべし

四、 家庭祭祀の徹底により神道を日常生活に實践せしむ

五、 神祇官復興、地方神社行政権確立

    神祇院の設立は神祇官復興の段階の如き感を與へたが最近行政簡素化による地方神社行政機關の縮小(むしろ消滅に近し)はむしろ逆行で、明治五年社寺局への轉落を思はしむるものあり。(完)

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  • 攘夷の御祈願

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 8月24日(火)21時58分26秒
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                        幕末に於ける攘夷の御祈願

                                                          維新史料編纂官 藤井貞文

               昭和十八年九月二十一日発行「皇國時報」第八六四號 掲載

 昨年十二月十二日(愚案 昭和十七年)、神宮に行幸あらせられた事は、深遠なる叡慮に出づるもので、大東亞戦争一箇年の大戰果を皇祖の神前に御奉告遊ばされ、速に聖戰の目的を達せん事を御祈念あらせられた由に洩れ承る。誠に史上空前の嚴儀であつて、國民は今戰ひつゝある大戰争の意義を、改めて確認し、義氣を奮興せしめた事であつた。當時、本誌を初、諸新聞紙等は、孰れも亀山天皇の御殉國の御祈願を想起し、筆を揃へて行幸の意義を説き、孝明天皇の攘夷の御祈願を追想し、國民の覺悟を披瀝したのであつた。爾来半歳の餘、今や戰局は益々熾烈を極めている。今茲に、再び既往の偉績を思ひ、國家の興隆を祈念する次第である。

    明治維新の歴史は、明かに國體擁護の歴史であつた。それは歐米列強の重壓から、神州の國體を護る、國民惣蹶起の歴史たる事を意味し、攘夷は其積極運動の一であり、倒幕運動は征夷の府たる責任を徳川氏に問うものである。而して王政復古の運動は、國の本然の姿に復した神州を擁護するに在る。而かも此運動は成功して、今日の盛運を開いた。此間に、我々が特に銘記しなければならぬ事は、畏くも孝明天皇が御殉國の叡慮を示し給ひ敬神崇祖の神助を祈らせ給うた 事である。此事こそ、實に維新變革の成功の要因であつた。

   孝明天皇は、厚く神明を御崇敬遊ばされた事とて、御治世の初より、事あらば綸旨を七社、二十二社、十社其他の社に賜って國家の安寧を禱らしめ給うたのである。弘化三年以降の事實に就て見るに七社に二十回、二十二社・十社及伊雑宮に七回、三社に一回を數へる事ができる。更に之を年代に依つて言へば、安政元年が七回、嘉永六年・安政二年・同五年が各三回、其他が各一回であり、其中、外患の祈攘は、七社八回と其他の惣べてゞあつた。猶、其外に英彦山・秋葉山等の御祈願の事も拜する。

   其内容に就て少し説明を試みると、外患に就て初め綸旨を賜つたのは、嘉永三年四月のことであつが、本年は暦の上に災異ありと考へられ、又、近年、外國船が屡々我が沿岸に出没するので、七社に御祈願を仰付けられたのである。~中略~ 幕府の防備施設に就て、猶御懸念を抱かせ給うた事は恐欋に堪へない。斯かれば、同年十一月二十二日再度の海防勅諭を下して、幕府を御鞭撻あらせられたのである。

  次に、嘉永六年六月、米國使節が來航して、開國を要求したので其報が天聴に達するや、殊の外御軫念あらせられ、直に七社に御祈願を仰付けられた。實に同月十五日の事である。~中略~

    尋で、幕府が米國々書を進奏するや、益々叡慮を悩ませられ、同年十一月先ず綸旨を十社に、翌十二月更に二十二社及伊雑宮に賜うて國安を祈らせ給うた。翌安政元年正月、米使が再渡するや、再び七社に敵國降伏、國家安寧を祈らせられ、尋で二十二社・十社及伊雑宮に禱らせ給ひ、同年九月突如露艦が大阪灣に侵入して、京畿の人心が動揺するや、天皇には不測の變を慮つて常の御膳を減らし給ひ、七社に御祈願あらせられたのである。而して二十二社・十社及伊雑宮に對する御祈願は本年以降、毎歳正月・五月・九月の三回執行せしめ給ふ事となつた。然るに其後、幕府が中止を奏請したので、同四年より中止となつたが翌年日米通商條約問題が起るに及び再び執行、翌六年に及んだ。以て如何に攘夷の成功に就て御軫念あらせられ、神明に御恭敬を盡させ給うたかを拜し奉る。

    諸社に對する御祈願は、以上に止まらない。更に勅使を遣して奉幣、御祈願の事も屡々であつた。當代の奉幣は、恒例としては神宮の神嘗祭、石清水社の放生會及臨時祭、鴨茂社の恒祭及臨時祭、日光東照宮の恒祭に行はせられるが其場合、事あらば辭別を以て御祈願あらせられる。併、重事に際しては、以上の諸社及其他の社に、臨時の勅使を發遣して奉幣、祈願せしめ給ふのである。

   今、各社に就て奉幣の度数を見るに、神宮には恒例辭別六回。臨時七回、石清水社は恒例十三回・臨時四回、賀茂社は恒例九回・臨時三回、春日社は臨時二回、日光東照宮は恒例臨時各一回、貴布禰社・松尾社・平野社・稲荷社・宇佐宮・香椎宮は各臨時一回であつた。諸社を併せて時代別にすると弘化四年一回、嘉永元年・同二年各一回、同四年・同六年各二回、安政元年三回、同二年二回、同三年・同四年各一回、同五年七回、同六年二回、文久元年一回、同二年二回、同三年七回、元治元年十五回、慶應元年一回、同二年三回であつた。

  此度數は略々其時代を説明してゐる。即七回の安政五年は日米通商條約と将軍繼嗣との問題が紛糾して政局が混亂し幕府が未曾有の大獄を起した歳であつた。同じく文久三年は攘夷運動の極盛期で、賀茂社・石清水社行幸の盛儀を拜し、早くも長州・薩州等では攘夷を決行し、更に大和行幸・堺町門の變が勃發してゐる。十五回の元治元年は、前年以來の紛糾した政局は依然として安定せず、而かも歳次甲子に當るのみならず、禁門事變さへ勃發して天下の亂階を思はしめる歳であつた。

  而して此等の奉幣は、遷宮・歳次・彗星・風雨の難等に依る國安の御祈祷もあるが、特に外患に因て勅使を御差遣、或は外患の事を併せ祈らせ給うた場合は、實に三十七回の多きに及んでゐる。其初は弘化四年で、石清水臨時祭に辭別を以て祈らせ給うたのである。之は前年、御踐祚の直後米國使節が浦賀に來航、更に佛國使節が長崎に渡來した事を御軫念になつた爲で、實に外患を以て御祈願あらせられた最初である。特に安政五年、文久元年、同三年の三回に及んで公卿勅使を神宮に遣はし給うた。

    普通、勅使は五位以上の殿上人を命ぜられるが、國家の大事に際しては、特旨を以て参議或は三位以上の公卿を命ぜられる。之を公卿勅使と言ひ、多くの場合、宸筆の宣命を授け給ひ、勅使の歸京迄毎夜東庭に下御、御拜あらせられるが、以て其重儀なる事が知られる。而して文久元年は辛酉の公卿勅使であるが、猶外患を祈攘し給ひ、他の両度は、全く外寇を攘ふ爲に遣はされたもので、安政五年の如きは、元寇の時の先蹤に基かせ給うたものと拜する。

  又、特記すべきは山陵の奉幣である。往古では國家の大事に際して、勅使を以て山陵に奉幣せしめ給うたが、後、何時しか癈絶した。然るに、考明天皇は山陵の復古と共に、奉幣の盛儀も復興あらせられた。殊に文久三年は攘夷決行の年とて、蒙古の役の吉例に依り、勅使を神武天皇並に神功皇后の山陵に遣し給ひ、又、泉涌寺にも遣して、四條天皇以降の御陵に祈念せしめ給うた。同年末には神武天皇陵の修補が完成し、勅使を發遣あらせられたが、同時に醜夷の退散をも祈らせ給ひ、元治元年以降は毎歳定期に同陵に勅使を差遣あらせられる事になつた。斯く攘夷の成功を祈らせ給ふ爲に、奮儀を復興遊ばされた事は、眞に畏き極みである。

    以上の如く、孝明天皇の諸社御祈願、幣使發遣は、多く外交の事より國體の瑕瑾を招かん事を御軫憂あらせられ、ひたすら神明の加護を祈らせ給ふ叡慮に出たもので、文久三年には親しく賀茂・石清水兩社に行幸、攘夷の成功を御祈願遊ばされ、更に神宮行幸の盛儀をさへ拜せんとするに至った。至尊には、常に斯くの如く國事に御軫念あらせられる。明治維新の大業が大成果を修めた理由を此處に仰ぎ、國民は畏き聖慮を拜戴すべきである。

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  • 盡忠赤心の發露

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 8月18日(水)23時16分12秒
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                          御一新と神官

                         保田與重郎

             「昭和十八年八月二十一日発行『皇國時報』第八六一號」掲載

 御一新の以前の時に、國難に關する祈願を、全國の社寺に下命せられた。この事件は大いに全國民を驚愕させたのである。それまでは國防は當時の幕府で行ひ、神州盤石の如しと全國民は感じてゐた。ところが、東西南北で外寇あるや、幕府はすでに手の下しやうなく、朝廷より親しく、攘夷祈願の御沙汰があつた。

   ここに於て、社寺よりそれが民衆に傳り、その時國内幕府の驚愕のさまは想像しうる。かくて祭典を行ひ、勅旨によつて改鑄すべく命ぜられた鐘を叩く音が、津々浦々にひゞくころには、全國民が自ら尊攘の精神にめざめたのは當然であつた。この事件は、御一新の上に最も大きく影響したもので、こゝに於て全國民の運動たる御一新の地磐が確立したのである。これに應じて、全國で農兵を訓練したり、漁民に石合戦の訓練をするやうなことが行はれた。これらの指導者は、勿論幕府の役人でなく主として民間の志ある學士たちであつた。

   漁民の石合戦で、外國船を沈め得ぬことはわかつてゐるが、そのことと、それが外寇を退ける力となつたといふことは勢ひ別である。二三年前以前、瀬戸内海の小島に旅して、そのころの石合戦演習のあとを見てきたが、村民は、今般の國難に於て、俄にこのことを思ひ出したさうである。彼らは志摩の歴史として、古い漠然とした朝廷との關係を傳へてゐるが、近代に入ると、この石合戦から、日清日露の村民の出征談となり、その話だけを、冬も夏も語つてきたさうである。もちろん、歴史といふものが、さういふものなのである。これだけでよいのである。ところでその島の漁師たちの中で、私の會つた人物が、事變以來先祖傳來の太刀をとり出し、つねに自分の發動船の船長室に飾つてゐるのに感心した。さうして、敵を斬ることは、この年でどうかとも思ふが萬一の時には自分を殺せるでせうと云うてゐた。

   かういふ田舎には、御一新の話も殘つてゐるにちがひないが、御一新頃の地方民が、もう幕府の兵力には頼れないので、朝廷から社寺に祈願を御沙汰になつたといふことを知つたことは、大事なことであつた。討幕の理論の一つに、幕府の目下の兵制では諸蠻に對抗できぬから、兵制一變のためにも兵権を朝廷に収むべきだとしたものも相當にあるが、それはそれとして國民一般が幕府に失望し又これを侮るに到つたことは、御一新史の上で大切なことである。

   文久三年の御親征の大詔も、さういふ雰圍氣の中からあらはれたから、近畿の草莽は殊に激しく感じたのである。もう幕府では駄目だといふことから、幕府の兵力を侮り、それと共に、国難を自身らで支へねばならぬといふ感動を味つた中へ、文久三年八月には、この十三日を期して、聖上御自ら神武天皇山陵を親拜せられ、春日社を親祭せられて、伊勢の大神宮を御拜になるとの御沙汰があつた。

    この文久三年攘夷祈祷の御親拜の御沙汰が、御一新史上の最高調をなしたのである。後に見れば王政復古はこの時にほゞ決定的となつた。この御親拜は中止になつたけれど、御一新史に對する影響は何より大きく現れ、我々はこれを王政復古の第一高峰と考へる。

    この天皇御親拜の御沙汰を拜して、全國の民庶の驚きと恐欋は、さらに激しかつたと思ふ。政治や情勢にうとかつたやうに思へる神官僧侶たちが、大いに憤激し、憂國の志を立てたことは、忽ち倍加して民庶に影響したのである。さういふことには、さらに古い地磐があつたが、文久三年八月、御親征を迎へ奉ると稱して、天忠組が五條に起つた時、これを支持する至情は民間草莽よりわき起つた。天忠組の一舉は、當時の民庶が、如何に大御心を拜して畏み奉つたかを示す行爲であつた。

 この天忠組の中には、丹生川上社の神官橋本若狭の率ゐた土民の一隊も加り、八月十八日の政變の結果として、天忠組が叛軍とされたのちも、彼らは神意を拜戴して大御心を恢弘し奉らんと念じたのである。

 
國史上にも例のない、御親拜であるから、當時の人が驚動して思つたのが當然である。しかも當時の民の心は大いに醇眞だつたので深くことの眞相をとらへ、御親拜にあらはれる叡慮を畏怖して慟哭したのである。これは天忠組の中心の烈士に於ては申すまでもないが、その周圍にあつた草莽の至情に、よくその間の事情を知りうる。天忠組が政變後の逆境に立つて、勤皇討幕の檄を發した時、諸侯の一人として應ずるものなく、集つた千數百の兵は、十津川郷兵を初め、みな草莽の志士ばかりであつた。しかも彼らは一應失敗した如くではあるが、善戰善謀、何らの封建的地磐のない中で、一月を孤守したことは、石數にして百萬石の兵數一萬數千を敵として戰つたのだから、合戦史上にも特筆すべきものである。しかもその善戰善謀は、兵法によるものでなく、盡忠の赤心の發露である。けだし大楠公が、元弘元年に赤坂城に擧兵してより、これの陥る迄の期間も亦ほゞ一月餘だつたことを思ふべきである。

 
御一新史上で、社寺の者が、志を立てたことの因は、さきに云う通りだが、僧侶の如きさへ還俗して國學を學び、武を習ふ。このことは忽ちに民俗に影響し、頼む甲斐ない武蔵野の幕府に憤ると共に討幕の精神を立て、合せてその自信までもつに到つた。

 今日では、宗派神道も佛教も、神社も、昔日の思想兵に於けるやうな威容をもたないから、彼ら蹶起を考へても迫力ないやうにも考へられるが、風慣はともあれ、國民の一片耿々の心底には、神視不朽の神ながらのいのちの思想があり、これは今も國家を支へる最も強烈の力をなしてゐる。

 
往年の神官が、國學の思想に深く透徹して、信仰と自覺を明らかにした如く、今日もその必要があると私は國内思想の現状より見て考へるのである。今日では、一般の好學の若い學人の間にも、國學を研究する氣運は勃然と起つてゐるが、その多數の中には、なほ知らずして舊來の學問や論理によつて國學を研究しつゝ厭倒的な時局情勢のために、やゝこれに合せて語つてゐるといふ風が少くない。これは國學の眞精神を傳へ難いことゝならう。

 ともかく今日とは國情異ると云ふことは、人の云ふにまかせて、自分は、往年の神官僧侶が、八月十三日御親征祈願の行幸の御沙汰を拜して、恐欋した心情と精神を回想したいのである。さうしてこの志が、天忠組に發露した歴史を考へたいのである。これ一つの道である。

 去る年師走、聖上陛下には御自皇太神宮に御拜せられたのである。御發幸の御事は満都の民はみな知らず、御還幸の御後に初めて拜聞して、恐欋畏怖し奉つた。追つて諸國の神社に奉幣の資を増し給はつたやうに拜聞してゐる。この行幸が、國史上未曾有のことなるは、今さら申すまでもないのである。ここに御製

 峰つゞき おほふむら雲 ふく風の 早くはらへ たゞ祈るなり

と拜誦し奉る。

 安政文久の頃の神官が、御祈願下命の御沙汰を拜して恐欋蹶起し御親拜の詔を承つて慟哭して難に赴かんとした心情は、必ず今日の神社奉仕者の心底にあるものと私は信じてゐる。今上陛下御親拜の大御心は必ずこの人々を通じて、全國民庶を激憤せしめたことと信じ、それの必ず發する日を思ひ、後世史家が、昭和維新史上にこの草莽の情の現れを描くことのあるのを、私は今より信じてをるのである。

   今日世上には、古き神の道が大いに行はれる如く見えるが、職を神社に奉じる人々が、この情態に甘んじる心をあくまで抑へ、常より多く畏みつゝしんで、草莽の至誠を發揮することを祈りたい。世上の風向きによって、たゞに安んじることは、大いに警しむべき點であらう。先人のあとにくらべるなら、今日の思想上の事情は、維新の第一歩さへなし終へてゐないやうにも思へる。すべての任務は今後にあるのである。

                            了

  • [8]
  • 大祓

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 8月 9日(月)22時00分52秒
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                         大祓に對する一考察
                          千種 宣夫


(太陰太陽暦水無月晦日に因み皇國時報昭和十七年六月十一日撥行第八一八號より拜写)

 凡そ事の大小となく、神事に關しての斎戒を御嚴修あらせられる大御心の畏さは恐懼至極の御事で明治二年九月四日皇大神宮正遷宮同七日豐受大神宮正遷宮に際し、八月二十九日の晩刻より九月十二日朝まで、御神事潔斎の旨仰せ出された御一事を拜しても、聖慮の程が恐察されつのである。

 由來、神事に重んずるところは齋戒である。祭祀の前提としての心身の澄明を期する齋戒が如何に重視されたかは、皇室に於かせられて、齋戒の爲めの新殿-斎宮・假宮-の建立を行はせられた事實の史上に散見する一事を以てして推量られるのであるが、斯く畏きあたりの御有様を拜するにつけても、祭祀に向つて蕭敬至純の奉仕に徹せねば、吾人の責任は立たないのである。

 水無月祓を前にして聊か管見を述べて垂教を仰がうとするのも微衷の茲に存するが故である。

 従前、祓は兎角消極的な解釋に低徊してゐたが、近頃其の積極面が昂揚されるに至った事は、道の爲め慶賀に堪へぬ次第であるが、本來神社に行はれる祓は、「過犯せる罪穢を祓給ひ清給へ」といふ罪穢拂淨の消極面に極限せらるべきものでなくして、實は「御祭美しく仕奉らしめ給へ」といふ勤務追進の積極性をより多分に含んで居たと考へられるのであるが、嚴かにその事實を示して居るものは、神宮の大祭に臨んで行はれる大祓なのである。

 今主として神宮最古の文献であり、神宮祭祀の根本規範である延暦の皇大神宮儀式帳によつて考察するのに、神嘗祭等の所謂三節祭の行はるべき月の前日晦日に於ける「晦(つごもり)の大祓」と、祭儀當日に於ける「清(きよめ)の大祓」と呼ばれる二つの祓の執行によつて、首尾一般せる大祓が成立して居たといふ事は、流石は伊勢の祭祀の本道の尊さが窺はれる事なのである。これに較べると、現在一般に行はれてゐる修祓式は、「晦の大祓」の過程を經ずして、直ちに「清の大祓」が行はれるかの如き観を呈してゐるのではなからうかと考へられるのである。

 大祭前月の晦日に至ると、禰宜内人等悉く太神宮司に参集し、大宮司以下相共に度會川に臨んで祓除を修し、畢つて御厨の大饗を給ふ例となつて居た。これを晦大祓と呼ぶのである。齋王様の禊が別に行はれる事は勿論である。

 茲に祭月を迎へる禁忌が堅く約束づけられるのであるが、之れは或は散齋に入る爲めの祓淨を意味するものであらうか。かくて解齋に行るまで念慮行蔵の悉くは「神事供奉」の一點に集中されて、清明純一他意を存しなかつたであらう事は想像に難くない。

 連々齋戒を續けて、祭儀前日に至れば、海濱に出て潮を浴み、御贄を採り奉る濱出神事が行はれる。斯くて齋忌の果てに、夕日の降ちに至り、嚴かに待てるものがある。何ぞ。曰く「御卜(みうら)」である。

 玉串御門前に於て、御巫内人に御琴を賜ひ、神々を下ろし奉つて禰宜以下職掌供奉人の、祭祀奉仕の適否を神占に占へ奉る神秘崇嚴の神事である。御琴の音、口嘯の澄み手』高きを正とし、然らざるを否とするのであるが、「丙合の輩は悦び、不(レ)合輩成(レ)恐」と古記に記えて居る。何たる秋霜列日峻嚴無比の審判が、神の御前に行はれるのである。

 祟り出づる罪事によつて、不合輩の宿館へは、御巫内人は夜の明けるを待つて、館祓に向ふのであるが、此の審きの故にも、齋忌はいかに嚴守された事であらうか。

 嚴かな最後の慎みの一夜は明けて祭祀當日となるや、茲に「清の大祓」が行はれるのである。即ち禰宜以下川原祓所に参集し、祓の麻を執って、祟り出た罪穢を申し明かさしめて解除し、清めの大祓を修し、直會の御饗を給ふて茲に全く祭祀に臨むに足る心身の澄清が顯れるので「清の大祓」の名が、げにもと頷かれるのである。斯くて、内院に参入して神拜を行ひ、或は殿舎の清掃に、神供品の奉下料理に従事し、徐ろに祭祀定刻の至るを待ち、夜に入つて至高至貴の祭祀が執行はれるのである。

 之れによつて考ふるに、晦大祓を前提とする清大祓の必然さがあり、清大祓を豫期するところに晦大祓の意義が存するのであつて両日相俟つて茲に初めて完き祓の姿が成立するのである。此の大祓の精神は決して消極的な意圖のもとに成立して居るものではない事は自から明らかで、入齋に臨んでの修祓を、祓式のあるべき姿の一つとして、之れを求めたい希望を有して居るのである。

 更に希望するものがある。それは神職の「後家(しりへ)の罪穢」に對して新しい考案を試みられたいといふ事である。

 神職己れ一人のみ祓ひ清められて、神事供奉に晏如たり得ぬのはいふ迄もない事で、周圍と共に正しさに還り清らかさに直つて、勤務追進するところに齋戒の精神がある。家の穢を切離して考へては本道の神職の齋戒が在り得ないのである。

 大神宮儀式帳によつて見ても、禰宜以下職掌人の補任せられる日「後家之雑罪事祓淨、忌火飯食弖見目聞耳言辭齋敬」とあり、又大祓に當つても「禰宜内人物忌等之後家雑罪事令(ニ)申明解除(一)幷清大祓畢」と記され、齋戒に際して、神官の家庭の占める位置の重要さが明かに示されて居るのである。朝廷にあつても元正天皇の御代「始令(下)(ニ)文武百官(一)、率(ニ)妻女姉妹(一)、會上於ニ六月十二日晦日大祓之處一。」とあり、同じ思想の流れを見るのである。

 然しながら一面に於て、往時の神社奉仕の態様は必ずしも現制と同一でない。往時の神社と社家との關係は現在の遊離性に富む神職の地位と比すべきものでなからう事は一應考へられるのであるが、神職といふ奉務の特異性は、一般職業人の通性とは、全く懸隔したものを持つてゐる筈である。内清浄。外清浄を保つ爲めに、神職の家庭生活は細心の戒慎が加へられねばならない。神事供奉の近づきと共に、其の用意は更に周到であらねばならぬ。而して後家の罪穢は神職と共に、祓浄せられなければならないのである。甘菜辛菜の方葉まで祓ひ清められる祭祀に於て、吾れ一人潔しとする事の許され得ないのが、祭祀の倫理である。

 更に一つ希望を有して居る。それは専ら二季大祓に就てゞあるが、近年當路者の盡力によつて大祓式の普及徹底は目覺ましいものを覺えるが官衞、學校、團體毎に個々に行はれる結果として、夫等の人々の中に、神社に於て行はれる大祓式に對する關心の薄らぎの虞れなきやを杞憂するものである。

 明治四年六月、明治天皇の聖慮を以て、大祓舊儀御復興を仰出され「大祓ノ儀従前六月祓或ハ夏越神事と稱シ執行シ來リ候處全ク後世一社ノ神事ト相心得本儀ヲ失ヒ候ニ付舊儀御再興被仰出候事」ろ太政官布告あり、翌年式部省は命を奉じて式次第を公定し、府縣官員より庶民に至るまで社参して祓すべしと布達したのは、大祓の對象とするところが極めて明瞭に示されて居るのである。

 職場々々の大祓は、時局頗る有意義であり、奨勵されるべきであるが、人は悉く家に歸れば氏神(愚案 産土神)の氏子である。職場の祓終了後と雖も、暇あらば更に社頭大祓に参集する心掛けが欲しいものである。當事者に於ても職場の大祓を社頭に於ける大祓に堅く結び付け、本源を神社に置くべき用意は、決して等閑に附せられてはならないのである。茲に貴き大御心に應へまつる道があり、茲に雄心潑刺たる興國精神が、肇國の根基に立ち還つて生動し來たる道があるのである。

(後撰和歌集) よみ人しらず

 加茂川の みなそこすみて 照月を ゆきて見んとや 夏はらへする

  民族の魂の水底深く澄み照れる月影を、祓ひ清めて、冀くば掬し度いものである。


  • [7]
  • 天皇陛下萬歳

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 8月 6日(金)23時29分30秒
  • 編集済
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                    神道の現世主義と七生の精神
                        小倉鐡爾

                  (筆者は用力社長、國體神祇辭典等の著書あり)


 神道は生々主義の上に立つ。旺盛極まり無き生産力と、激烈限り無き活動力とを、特徴とする。かゝる生々主義の神道は、従つて現世主義である。しかもそれは、尊皇愛國の精神に即したる現世主義である。即ち神道の現世主義は、日本における現世の生活に絶對の價値を認め、日本における現世を至上至高なりとするのである。元來佛教の如きは、現世否定の宗教であつた。現世は夢幻であり、假りの世であるとした。さればこの現世を厭離して、死後の世界即ち極樂浄土へ行くことを以て本願とした。現世は穢土であり、來世は浄土である。現世は火宅であり來世は極樂であるとした。尤もこれは小乗佛教について云つたのであるが、とくかく佛教は、現世よりも來世を尊重することをその基調とした。但だこの佛教が日本化して日本佛教となつて、現世的となつた。日本に於いては現世主義でなければ、存在し得ないのである。基督教の如きも、來世即ち天國を主眼とする。しかるにわが神道は、徹底したる現世主義である。現世尊重主義である。現世たるこの皇國が、最も尊貴であり、最も清淨であり、最も價値ある所であるとする。世界無比の尊皇愛國の精神は、こゝに發生する。

    この現世主義より七生の精神も生ずるのである。即ち最も尊貴であり、最も清淨であり最も價値のある所であるから、これを熱愛し、この現界たる皇國に、永遠に生きてゐて、この皇國を守護しよう。この皇國に忠愛を捧げようといふ精神が生じる。これが七生の精神である。もしこの現世たる皇國が厭ふべき所であるならば、現世主義も生まれず、七生の精神も生まれない。この世、この國を外にして、他の世界に永遠の生命を見出さうとする來世主義が生まれるであらう。七生の精神は、この世、この國に、永遠の生命を開拓せんとする精神である。皇國が天壌無窮に彌榮であると共に、皇國人は天壌無窮にこの皇國に生きんと欲するのである。

   七生の精神を撥揮して、世に有名なるは楠公兄弟であつて『七生滅賊』を唱へた。そのことは「太平記」に詳かである。楠公兄弟が七生滅賊を念願したといふことは、即ち永遠にこの皇國に生きてゐて天皇に忠を盡し奉ることを期したのである。吉田松陰の七生説も世に著るしい。その著「幽室文稿」の最初に「七生説」がある。そして松陰は「留魂録」にも、

  七たびも 生きかへりつゝ 夷をぞ 攘はむこゝろ 吾忘れめや 

 といふ一首を書きとゞめてゐる。軍神廣瀬中佐もまた『七生報國』を叫び、その旅順口閉塞に赴くときに、 七生報國、含笑上船 と詠じ、またその作たる「正氣歌」の最後にも、

  誠なる哉、誠なる哉、斃れて已まず、七たび人間に生まれて國恩に報ぜん

と詠じてゐる。また七生といふ語は用ひてゐないが藤田東湖の「正氣歌」に、

 死しては忠義の鬼と為りて、極天皇基を護らん


といつてゐる。これまた七生の精神の發露である。なほ七生の精神を詠じたる歌に、左の如きものがある。

 七かへり 君が御楯と生まれ來て 力をそへよ 今の御代にも(楠公を賛美したる三條實美公の歌)

 七たびも 生き返り來て 皇國を まもる魂(みたま)と ならむ大丈夫(金子孫二郎)

 七たびも 生きかへりつゝ 天皇の 御楯となりて 守れ人々(品川彌二郎)

 益荒雄の 七世をかけて 誓ひてし 事は違はじ 大君のため(藤堂半助)

 よみがへり 消えかへりても 盡くさばや 七たび八たび 大和だましひ(平野國臣)

 要するに七生の精神は、現世尊重主義即ち皇國に忠愛の至誠を捧ぐるの精神より生まれたるものであつて、皇國人は、この國(この世)を假のもの、無常のもの、厭ふべきものなどゝはせず、この國に絶對の意義と價値とを見出しこの國に永遠に生きんとするのである。

 更に進んで考ふるに、皇國人は生きる喜びのときにも『天皇陛下萬歳』を奉唱し、名譽の戰死のときにも『天皇陛下萬歳』を喚呼絶叫する。これも現世主義、七生の精神の現はれと見られる。蓋し皇國人は、その生きるも、天皇の御爲であり、その死するも、天皇の御爲めである。皇國人の生命は天皇より出でゝ天皇に歸す。これが皇國人の皇國人たる所以である。 神道思想は、徹底したる天皇本位、皇室中心である。個人主義、自由主義の如きは、神道思想からは生まれない。個人主義、自由主義は、自己を第一義とするところから生まれる。自己本位、自己中心から個人主義、自由主義は生まれる。元來、歐米思想の源流は、古代ギリシャ、古代ローマ、猶太基督教、古代ゲルマン人の四つてあつて、これらは本源となつて、今日の歐米思想、歐米文明が生まれ出でゝゐるのである、そしてこの四つの思想源流は、みな個人主義である。但だ今日の獨伊の如きは、個人主義の非を悟つて全體主義となつてゐるのでるが、米英の如きは頑迷その極まるところを知らざる有様である。しかるにわが國にあつては神代の昔より天皇本位、皇室中心の思想を以つて一貫してゐる。自己が本に非ずして天皇(皇室)が御本元であらせられ、皇國人は天皇の大御綾威によつて生き、天皇の大御業を扶翼し奉ることを使命として生まれ出でゝゐるのであるされば大感激大喜悦のあるときには、自らに『天皇陛下萬歳』を奉唱し戰死などのときにも、自らに、『天皇陛下萬歳』を奉唱する。同じ死するにも、戰死の如きは天皇陛下の御爲めに、直接的に働いて死ぬのだ、臣民としてこれほど光榮なことは他にない、全く有り難いことであるといふ思ひが、皇國人の心の奥底にひそんでゐるのであつて、それゆえに死する間際に『天皇陛下萬歳』を奉唱し、欣然として瞑目するのである。

 かくて思ふに、『天皇陛下萬歳』の奉唱こそは、世界に類例を見ざる歓喜の聲であつて、生きる喜びのときの奉唱も、戰死のときの奉唱もともに歓喜の聲であつて生きる喜びのときの奉唱は、彌榮を壽ぎまつる聲である、戰死のときの奉唱は彌榮を壽ぎまつると共に七生の精神を現はしたる聲であるといへる。要するに、皇國人の永遠なる生命の聲であつて、それは來世における自己の幸福などを希求する思念は毛頭なく、たゞ偏にこの現世たる皇國を祝福し奉るものなのである。

                  昭和十八年四月一日発行「皇國時報」第八四七號

  • [6]
  • 國は神國、道は神道、君は神皇、神武は皇武

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 7月29日(木)23時04分26秒
  • 編集済
  • 返信
 
                             神武
                     ―戰爭の倫理としての神道―
                                                 福原 武

 戰爭と人間存在との關係は、古來すぐれた哲学者にたちによつてさまざまと追及されてゐるが、戰爭することそれが人間の群を民族として自覺させると言つたフィヒテに、また一つの國家が眞に國家であるか否かを知らしむる試金石は戰爭であると考えたヘーゲルに、人はそれの一つの根本規定が現じられてゐるのを見ることができるであらう。

    今や戰ふ日本に世界は斉しく驚異の眼を瞠つてゐる。そのありさまは有史以來はじめてのことであらうと思はれる。そこでわれわれはそのやうに世界の話題を占めてゐる日本を、それらの話者の語るところから押へて見ることによつて、みづから日本を知る契機を一つ新しく得ることができるやうになる。

   自分はそれを讀んでゐないのであるが、ヨーロッパの屋根の上で必死に中立を守つてゐるスイスのノイエ・チューリッヒャー・ツャイツスグに『戰爭といふものは各民族の特性を浮彫に現出せしめるものだ。その最適の例は戰へる日本の姿で、そこにはこの國の永い歴史の一本の赤い線として貫かれてゐた自己犠牲の精神と、ヨーロッパ人が自分達のみが獨占的に持つてゐると考へてゐた組織して行く合理的精神との二つの不思議な結合を示し、見事な調和を保つてゐる』と論説されてあつたといふことが日本の新聞の在外特派員から傳へられて來てゐる。彼らは日本を批判し得るほどのものではないが、鋭き一つの観察者ではあり得る。天皇のへにこそ死なめと戰ふ日本の精神が世界歴史に永久に残るべきものであり、占領地帯の住民の心からなる日本軍歓迎は大東亜の盟主たる日本の存在の不抜を早くもあらわすものであつて、この點は特に日本道徳の發揮として研究せねばならぬといふことが、それらの観察者たちの一般にひろく肯はれてゐるところであると、また在外からの消息はこれをそれぞれ明らかにしてゐる。

    こゝにわれわれは右のフィヒテを超え、ヘーゲルを超えて眞にみづから戰爭を哲学すべき使命を大いに自覺し得なくてはならない。何故ならこゝに戰爭するといふことは、單に人間の群を民族として自覺せしめるだけのことでもなければ、單に一つの國民が眞に國家を形成してゐるかどうかを知らしめる試金石たる意義にとゞまるものでもないからである。こゝに戰爭するといふことは、眞にみづからから人間の道の實現として完成せるものたり得ようとする根源通塞をしてにほかならぬ。特殊に唯一的な仕方で存在する世界史的國民としての日本の國民の自覺存在の仕方たる皇道・神道の激化の現示が、他の人間の群を民族として自覺せしめると共に、他の國家が眞に國家たるか否かを斷ぜしめんとするのである。絶對者がそれに於いて自己をあらはす日本の國家の自身が、正におのれみづからによつて立つものとなり、眞に自己限定的となるに他ならない。この意義の皇軍の根本精神が『神武』(しんぶ・じんむ)である。

    それは元初に於いて絶對者が自己をあらはす通路契機としてのそれをみづから現じた。神倭伊波禮毘古天皇の歴史の世界に肇國の原理として開きたまひしものたるのである。『神武』は人間の絶對的體驗としての武である、眞にみづから人間の道の實現として完成せるものたり得ようとする根源通塞にほかならざる故に、ことさらに威を現じて人を伏せんと欲することはない。おのづから人を服する威たるべきものである。 われわれはこの威の極致を『御綾威』・『皇威』(みいつ)に拜し奉る。

   單に『殺』たるものは武ではないのである。一應はいかにも殺の規定を持つのであるが、それは一切の殺を超える仕方とならねばならぬものである。しかしだからといつて單に『不殺』はわが神武のことではない。殺を生によつて止揚するところの人倫の根本運動の實現が『武』の根本規定となるのである。

   先人もまたかゝる神武を問ふてゐる。『これ經國撥亂の道たり、漢の武は道の輔とす、和の武は道を主とす』と村井昌弘がその『武道心得種』に書き残し、『所謂神道ハ武道ノ根ナリ。武道ノ本ハ神道也。即神武一道也』と近松茂矩がその『神國武道辧』に於いて展開した如きは、好きその一つである。一切の殺を超越する仕方は、絶對者がそれにおいて自己をあらはす日本の國家への奉仕として現實的體的となる。殺を生によつて止揚するとは、つひに死すべき相對の有限的存在を空じて絶對の無限生命に還るに轉じることである。即ち敵を征服することが自己に對する超越者への歸投を意味する。それが武の本質たるのである。そこにより高次なる生への通路を戰ひ取る者の自身が『武人』である。

   『武人』はだから單に所謂軍人に限られない。却つてすべて人間存在の自覺存在が、武人たるのである。たゞこの神武の體驗が日本の體驗として規定され、限定されるところに武人は日本の人間自身の自覺存在としての現實具體的なる性格を現はし來たる。神武一道にいづる文武一途がその性格のはたらく場所である。こゝに日本は、國は神國、道は神道、君は神皇、肇國の原理は神武たる儔ひなき存在の根本構造を自覺する。皇威の發揚がそのまゝ徳の流露となる深き根柢からの自同一に於いて、神武は皇武にほかならぬのである

                                                              皇國時報 昭和十八年二月十一日撥行第八四二號

  • [5]
  • 國民皆尊皇行者

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 5月29日(土)20時09分57秒
  • 返信
 
-承前-

   國民皆尊皇の行者たらんとする信念あつてこそ始めて眞の實力、一億一心も實現し得るものであつて滅私奉公も亦此の尊皇心に徹するに非ずんば絶對不可能である。徒に愛國心を唱へ、愛國行進曲を歌つてゐても、それだけでは翼賛精神の體得は未だしと言はねばならぬ。今日共産主義者自由主義者と雖も尚ほ愛國を唱へるに非ずや。

    ヒットラーは、客観的愛國者は駄目だ、街頭愛國者でなければならぬ、と絶叫して、自ら率先實行して來たが、皇御民(すめらみたみ)として崇高絶對の皇神、天皇を仰ぐ光榮を畏めば「御民われ生けるしるしあり、あめつちの榮ゆる御代にあへらく思へば」の歓喜のもと皇國日本(すめらみくに)にこそ、ヒットラー以上の熱血の士簇出せねばならぬ筈である。

    天皇信仰、尊皇の魂に徹してこそ、宇内皇化、八紘一宇、世界大和建設への翼賛は成る。其處には利己的なる何物もなき、人を愛し家を愛し、國を愛し、宇内萬民を愛する、至高絶對なる神ながら大和心が發露する。

    尊皇、即ち、すめらみこと信仰こそ世界億兆が衷心希求し、一切を舉げて其處に歸入すべき最高の理想である。世の所謂宗教の精神文化の意義も、畢竟、すめらみこと信仰として新たに出直すのでなければ終極の目的に達することが出來ないといふことを自覺すべきである。

     最後に我が國學の大成者大國隆正翁の一首を吟誦して此の稿を終る。

         花咲きぬ 牛となりても 大君の  御幸の車 引かんとぞ思ふ

                                                                                                   了

  • [4]
  • 世界に大義を宣布せん

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 5月28日(金)19時04分7秒
  • 編集済
  • 返信
 
-承前-

  日獨伊三國同盟の詔勅の中に『萬邦各々その處を得しむ』と仰せられ、八紘一宇の精神を具體的に宣示し給うたことは詢に有り難き極みである。されば満州國、支那に對して獨立を認め、領土的野心なく、たゞ共存共榮を盟はしむるだけでは決して事足るものではない。最も肝要なことは皇化に浴せしむるに在る。「大義を世界に宣布せんがために開國の要あり」と横井小楠は叫んだが、詔勅の精神を實にするためには、此の氣魄がなければならぬ。

    然るに今日の我が國の政治家にして、八紘一宇の肇國精神、祭政不二の大政を行はせられる陛下の大御心を服膺實践して居るもの果して幾人あるか。此の大精神を自覺せざる政治家こそ外國の誤解を招き、外交を誤り、英米をして極東に策動せしむる因を造つたのではないか。近時米國一部の政治家が、日本を指してギャングの一味に加擔せりとか、日本は東亜に於て野蠻主義を實行しつゝありなど暴言を吐かしめた所以も亦そこに存するのではないか。彼等の妄斷素より咎むべきも同時に我が國政治家にもその責任の一端がないとは言へない。尊皇思想に徹せざる結果が如何に禍をなは、この一事を以てしても推すことが出來る。

                                                    続く

  • [3]
  • 日本精神の根底は萬邦協和

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 5月27日(木)18時30分29秒
  • 返信
 
-承前-

  日本に於ては政治も、經濟も、藝術も、その他一切の文化は皆 皇業翼賛、純忠精神實践のためにのみ存在意義を有つ。然るに外國の文化は其の成立の事情に於て決して日本のやうな尊皇思想を根據にして居る譯ではない。釈迦、基督、マホメットの宗教にしても、資本主義、共産主義の如き經濟原理にしても、君主主義、民主主義、自由主義、全體主義等の政治原理にしても皆覇道國家に育った思想であるから、そのまゝでは日本の國に適用することは出來ない。獨逸のヒットラーを中心とする全體主義は、利己主義を脱却した進歩した哲理ではあるが、天皇信仰にまで至らねば完全にはならない。

    然るに國内には外國の思想に心酔し、之を以て皇國の傳統たる尊皇思想を貶けやうとする不敬漢が跡を斷たない。共産主義、天皇機関説の如き、或は外來の宗教を盲拜して、惟神の神明を蔽ひかくさんとするものの如き、此等の反國體思想は斷乎絶滅を期せねばならぬ。日本精神の根底をなす萬邦協和の理想は、國内の非國體思想が影を絶つた時に始めて實現するのである。

                                                    続く

  • [2]
  • 天皇陛下の御為

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 5月26日(水)20時33分24秒
  • 返信
 
-承前-

   日本の肇國は諸外國の如く、人民のため、或は國家のために統治者を擁立するものではない。天皇の御為に國も民も在るのである。之を英國皇帝が即位式に際し、ウェストミンスター寺院に於て、人民に對し責任を宣誓し、英國憲法の遵奉を誓約するに比較すれば雲泥の差である。茲に國の成立に於て諸外國とは根本的に違ふものがある。我が國では、國のため、民のため、民族のためといふのが中心なのではない。天皇陛下の御為といふ観念、信仰、事實が絶對である。天皇は神聖にして犯すことが出來ぬ憲法第三條の規定は、西歐流の統治者の権利を尊重することを法規的に決めたものとは全然意義を異にして、神ながら祭政一致の天皇信仰を述べたものに他ならぬ。獨逸が第一次世界大戦に際し、崩壊の憂き目を見たのはKaiser muss leben(カイゼルは生きなければならぬ)の信念でなく、Wir mussen leben(我等は生きなければならなぬ)の思想があつたからではないだらうか。

  宇宙一切の創造原神にあられる天御中主神、其の理想的顯現に在す天照大御神、其の御同一神に在す天皇陛下を戴き奉る我等に於ては一切は天皇のものであり天皇の御為に存在するのである。これが日本人の信仰であり、日本人が神ながら神代より傳へた、日本人の血潮の中に脈々とみなぎる生活信條である。此の日本人特有の信仰は諸他の宗教とは全然成立を異にするものであつて、外國の地盤に育った文化は、之を日本へ移植する場合には嚴密な検討を經なければならぬ。   

                                                                                 続く

  • [1]
  • 愛國か尊皇か

  • 投稿者:はゆまつかひ
  • 投稿日:2010年 5月25日(火)23時42分58秒
  • 返信
 
                     世界的天皇信仰
                     -愛國か尊皇か-

                                         醫學博士 篠田義市

昭和十六年五月十一日発行「皇國時報」第七七九號に掲載
                                 (信仰翼賛叢書第三冊より轉載)

  或る會合に於て予が愛國の士として紹介されたことがあつたが、そのとき一抹合點の行かない淋しさが湧いた。予も日本人として國を思ひ、國を愛する心に於て人後に落ちない心算で居る。然し、愛國心?それだけでいゝのか。その瞬間予の念頭に浮かび出たのは尊皇といふことであつた。我が國體の本質を念じ來れば、我々が國家に對する観は尊皇でなければならぬ。愛國といふ言葉は日本人にふさはしくない

    愛國といふ言葉が歴史上に用ひられ初めたのか何時の頃よりか浅學の予輩之を悉にしないが、近くは明治維新の志士の叫びは愛国ではなく尊皇であつた。然るに今日世上間々愛國のみを口にして、尊皇を説かざる者があることは實に怪訝に堪へない次第であつて、文教の根本は先ず此の點から正されて行かねばならぬと思ふ。

  神國を愛するとは何事か、神を愛するといふ考へが抑も誤つてゐる。今日人が何の不思議も感ぜず使ってゐる愛國とか祖國とかいふ言葉は予の解釋によれば舶來思想であるやうに思ふのである。Vaterland (祖國)Vaterlandiebe(祖國愛)といふ言葉は獨逸などで屡々用ひられる。有爲轉變、治亂興亡定めなき国家盛衰の歴史に於て叫ばれたのが此の愛國といふ思想である。それと萬世一系、寶祚無窮の我が國體に對する國民の信念たる尊皇とは全然別箇の思想であることを明らかにしなければならぬ。

 
愛國心は一歩誤れば國家的利己主義となる。現今世界の各國民にして愛國心のないものは○○人以外にはない筈である。○○人の如き祖國なき民族の信條たる国際主義はしばらく措くとして、世界各國が愛國心のみを以て相對峙するとなればその結果如何なる事態を生ずるか、世界平和の崩壊以外の何ものでもないと思ふ。最近の全體主義にしてもこの観點よりすれば民族利己主義を完全に抜け切ったものとは言へない。

    日本の尊皇思想は、かやうな國家的利己主義の結實たる愛國思想を遥かに超越し、否至高の立脚地に立つものである。日本の國家思想が排外的なものでなく、萬國の民に光被せんとする、世界的なものである所以は、實に肇國の精神に基づいてゐる。此の肇國の精神を實践するものが尊皇思想である。

                    
                              続く


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  12. 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。(46)(備中處士)
  13. 世界的天皇信仰――愛國か尊皇か――(35)(はゆまつかひ)
  14. 參考聚英(15)(備中處士)
  15. 平泉澄博士遺文(9)(備中處士)
  16. おゝ靖国の大神(39)(はゆまつかひ)
  17. 大元靈に坐す天之御中主大神(8)(備中處士)
  18. 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主(30)(相州之民艸ならびに備中處士)
  19. 霊的国防の本義 拾遺(34)(はゆまつかひ)
  20. さあ、『少年日本史』を讀みませう!(7)(備中處士)
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