• [0]
  • 平田篤胤大人顯彰者・相原修神主

  • 投稿者:相州之民艸ならびに備中處士
 
 小生が、相原修神主を知つたのは、塾頭・一兵士樣による相原神主歸幽の告知であり、同血社・河原博史氏の相原神主遺稿の惠贈による。吉備國の田舍者とて、相原神主のご活躍の御事は知る由も無かつたが、平田篤胤大人を顯彰されてをられる由を仄聞し、大人を慕ふ者として、其の遺稿玉章を拜讀し、感激の餘り、其の任に非ざることは承知の上で、相原修神主顯彰のスレツドを立てさせて戴くことにした。

 神主を相見ず、相知らざる者なれば、當然、誤謬も多からむことを恐れます。然しながら相原修神主の志は、平田大人の繼承恢弘に在り。小生も、其の志を同じうして憚らず、遂に意を決して、相原神主顯彰を企劃させて戴き度く存じます。誤謬は、鋭意、ご批正を賜はれば幸甚と存じます。

 相原修神主の逝ける、嗚呼、哀しいかな哉。獨り望拜し、情を陳べ、以て祭る。神主の魂魄、知ること有らば、尚はくは饗けたまはむことを。恐懼、謹しみて白す。

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  • [30]
  • 三柱之命五年祭

  • 投稿者:相州之民艸メール
  • 投稿日:2014年 9月 6日(土)23時16分37秒
  • 返信
 
 本日、皇都青梅市 大東神社の齋庭に於て、
 足立徳史之命
 相原修之命
 山下貞一之命
 の五年祭が厳かに執り行はれた。


  • [29]
  • 伊勢の翁より授かりし、若かりしころの神主

  • 投稿者:相州之民艸メール
  • 投稿日:2014年 8月 6日(水)21時05分45秒
  • 返信
 
 先日、はからずも神主を識る、伊勢國住人、平田安幸翁より神主の若かりし御寫眞一葉を賜はつた。
 平田翁は神主が辻に立ち説法をしてをる時分、その師であつた筆保泰禎翁と同志の關係である。

 翁より拜戴せる一葉をつゝしみて爰に奉上す。
 前列向かつて右が筆保泰禎翁、筆保翁の直ぐ左が相原神主。


  • [28]
  • 神主の、大社國學館時代を追ふ 三

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2014年 7月 6日(日)16時09分51秒
  • 返信
 
相原神主と、同窓の士。



  • [27]
  • 神主の、大社國學館時代を追ふ 二

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2014年 7月 6日(日)16時00分4秒
  • 返信
 
迂闊にも更新が停滯、己れの怠慢を亡き神主に謝しつゝ、私かに神主の遺影を掲げる。あな、かしこ。



  • [26]
  • 神主の、大社國學館時代を追ふ 一

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2011年 2月 5日(土)11時13分31秒
  • 返信
 
相原神主の、學友と過ごした日々。

  • [25]
  • 運動家から神職へ。相原修神主の春。

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2011年 1月20日(木)04時25分55秒
  • 編集済
  • 返信
 
 『平成八年度 大社國學館第50期 入學記念』とある。
 神主の、正に青春時代と云ひつ可し。

 いつかの備中處士樣の御發言にもあつたとほり、大東塾の御誘掖を得られ、相原神主は神主としての道へ、ひたすら進むことを迷はなかつた。

 愚考の末、已むなく、ほかのひとの目線に手をくはえさせていたゞく。

  • [24]
  • 在りし日の、神主を追ふ、悲しくも樂しくある哉  

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)08時12分18秒
  • 編集済
  • 返信
 
 相原修神主の、拙稿『少壯の健兒、矢の如く』の外傳を記し、以て一旦の擱筆とする豫定であつた。

 されど遺憾ながら、手許の資料不足により更新の遲滯甚しくあり。
 神主をはじめ、神主を慕ふ道兄、御清覽あらせます諸賢、管理を任務する備中處士樣に、つゝしんで御許しを希ふ。
 小生は必ずや資料の入手せる、その日に再び小稿を奉じ、微力ながら神主の足跡を記して遺すであらう。

 尚ほ、神主と神主の志望を識る道兄のあらば、何卒、玉稿を獻げ奉り、本板の充實に寄與せられむことを。


 さゝやかながらも今茲に小生の出來得ること有りとせば、つゝしみて、神主の、僞りなきその姿を掲げ、命を慕ふの諸賢と倶に俤を拜せむことにあり。


 神主よ、我が鄙衷を忖度し給ひて、これを諒とせよ。




 寫眞は神主の、第二の人生に導ける、出雲大社。

 ※撮影は平成八年、神主自身による。


  • [23]
  • 三柱の命よ 安らかなれ

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 9月 7日(火)00時12分9秒
  • 返信
 
 本日(六日)、青梅の齋庭にて、おごそかに、相原修之命、足立徳史之命、山下貞一之命 三柱の命達の一年祭が行はれた。(大東神社清靈殿)

  • [21]
  • その面影、今も猶ほ懍として。

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 9月 6日(月)03時03分34秒
  • 編集済
  • 返信
 
 我らの目前より神主のゆく、二ヵ月のまへ。平成廿一年七月五日である。

  • [20]
  • 一年も萬年も、その志と共に生き拔かん

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 9月 6日(月)02時37分23秒
  • 編集済
  • 返信
 
 管理者である備中處士樣の仰る、本日は相原修之命瞑目してより一年である。
 殊更に行動右翼、民族派に對し一層の神ながらの道を説き巡りては東奔西走し、その成績は默視すべからざるものがある。相原神主をしるべとして看做す赤誠の士尠くなきことを小生が語るまでもない。
 相原神主を失ひし一年を一顧せば、神罰を恐れぬ國政は罪多くして功と認むる一のあるはなし。
 それに從ひけるは國民の人心にあり。亂脈にその身を沒しつゝ、悲鳴と悲哀と、不安と不信と、他力本願と、無根據より出でたる希望と。しかうして、無氣力とに甘んじる者必ずしも尠きと云ふ可からず。
 本日、十一時より大東神社清靈殿にて、相原修之命、足立徳史之命、山下貞一之命一年祭がおごそかに齋行される。
 今はしづかに神主の志に近付かむと務むるある而已。

 さても毎日氣に病むは、拙稿が中斷されてゐること也。
 はからずも昨日、書庫の奧底より相原神主の玉稿と再會した。
 これも奇縁と謹承し。今日は神主に手前の遲筆を座して謝しつゝ、つゝしんでこれを拜寫致し度い。



「天地無邊」創刊號(平成十六年十月五日・同血社發行)二、三面、所收。

『神風連』  相原修
 先づはその名の由來から記さう。これは明治七年熊本での話。この頃の神社の神主は今日とは異なり、みな公務員待遇であつた。したがつてその採用には、しかるべき試驗があつたのだが、その際、答案用紙にまるで申し合はせでもしたかのごとく、「人心が正しくなり、皇道が恢復すれば、文永弘安の役のときのやうに、たちまち神風吹きおこり、敵をうちはらふこと間違ひなし」と書いた人びとがあつた。これに肝を潰した試驗官は、思はずかう評したといふ。「彼らは神風連だ!」と。ちなみにそれまで一團は「敬神黨」と呼ばれてゐたやうだ。

〔神の聲〕
 幕末明治の國學者に林櫻園といふ人があつた。生涯獨身で通した。たゞ嚴密にいふと、婚儀はいちどあげたらしい。親類がどうしてもとすゝめるので式にだけ顏を出し、それで義理は果したとして、あとは放り投げて破談にしたと傳へられる。所謂奇人だ。また少年期にもかうした逸話がある。熊本の藩校・時習館でのこと。ある教官が櫻園(その頃は藤次といつた)にむかひ、「お前は利發だから將來立派なお役人になれるぞ」とかういつた。それに對し藤次は「學問とは役人になるためにするのですか?若しさうならば、もう時習館には用はありません」と言ひ放ち、さつさと退學してしまつたといふ。しかし父親の懸命な訓導により、本居系の國學者・長瀬眞幸の門に入り學問は續けた。明治三年齡七十四で沒するまでに、いくつか著述をなしたが、やはり主著は『宇氣比考』とならうか。書中櫻園は説く、「神武天皇しかり、崇神天皇しかり、上古の天皇樣はみな宇氣比をおやりになつた。宇氣比とは、神との交流に際しおこなはれる神事のことだ。事の正否を神に問ひ、神の聲をお聽きになり、それをそのとほりご實行なされた。さうすれば刃を血でぬらさずとも敵は降伏し、また、死んだ者でも生き返る。『古事記』にその方法がいくつか示されてゐる。皇室第一のおつとめは神事であり、宇氣比はその極意である。おそれながら今日、皇室が衰微したのは、佛教思想などの混入により、神事が純粹性をかき、この宇氣比を廢止してしまつたからに相違ない。迂遠と思ふ人もあらうが、この宇氣比の再興こそがまことの王政復古なのだ。五百年千年かゝつてもよい。それをなしとげやうぞ」と。かうした思想の持ち主が神風連の産みの親だつたのである。
 櫻園歿後にその門生の首領となつたのは太田黒伴雄だ。熊本新開大神宮の宮司である。もとゝゝは神主ではなかつたが、周圍に乞はれてさうなつた。それ以前は熊本勤皇黨の筆頭株として國事にあたり、獄にくだつたこともある。生前櫻園はかう周圍に語つたといふ。「我亡きあとは太田黒をたのめ」と。明治三年までは新政府も國學者・神道家の言をおほいに用ゐた。なにしろ政府高官にはずらりとその方面の大家が顏をそろへ、待望の神祇官が復活し、國學の大學校までも設置された。櫻園が沒したのはこのあたりであつた。ところが翌年になると政府の方針がかはりはじめた。神祇官は縮小され大學校もふるはなくなつた。政府首腦が變節したためである。ありもしない嫌疑により、昨日まで高官であつた國學者たちが次々と逮捕された。歐化の邪魔と排除されたのである。「裏切られた!」と誰もが思つた。「神武天皇を一切の手本とする」と言つたその口で、今度は何も彼も西歐にならふと言ひ出したのである。そんなときかうした事件が起こつた。同じ櫻園門の河上彦齋が無實の罪で突如處刑されてしまつたのである。「邪魔者は消せ!」これが政府のやり方であつた。處刑前、とある役人は河上にかういつたといふ。「貴君、政府に協力してくれないか。もう攘夷のときではない。貴君が妥協してくれゝばいのちは助かるのだぞ」と。河上は攘夷派の急先鋒として名を馳せた人物だ。そんな河上が歐化政府に協力するとなれば、不滿分子の攘夷派の多くが、それに追從するとにらんでのことだ。しかし河上にそれは通じなかつた。「わが攘夷のこころざしは神と今は亡き同志たちとに誓つたこと。それを破ることなどできない」かう返答し節を曲げなかつたのである。熊本の櫻園門・神風連はこれに激怒した。太田黒のもとに次から次へと同志たちがかけつけた。「河上のかたきをとらう!」とみな氣勢をあげた。だが太田黒は動かなかつた。「同志諸君、耐へ忍んで欲しい。かうしたつらいときに耐へてこそ本物なのだ。敵のさそひにのつてはならない」かう自重を説く太田黒もまこと胸中はつらかつたに違ひない。太田黒は詠じてゐる。「おきて祈り 伏してぞ思ふ一筋は 神ぞ知るらむ我國のため」。
 明治九年まで、とにかく神風連一統はよく耐へ忍んでゐた。冒頭に書いたやうに、太田黒にならひ神官となり、櫻園の遺訓を遵守し、神事に專念する者、また神官とはならずとも家庭内で神事にいそしみ、志操の堅持につとめる者、みなおのゝゝ懸命であつた。しかし、世のさまは日々益々さうした彼らの理想とはかけ離れたものとなつていつた。歐化政策の勢ひを示すかのやうに、次々と電柱がたちならび、紙幣が發行され、さらには斷髮令までもが出された。電線をくゞるときは扇をかざした。紙幣は箸ではさんで手で觸れなかつた。髮は結へずとも、總髮にしてそれをこらへた。だが、これだけは我慢できなかつた。「廢刀令」だ。政府はかういふのであつた。「治安は確立された。だから軍人警官以外の者は、刀を腰にさげる必要がなくなつたのである」と。それは大きな僞りである神風連は思つた。「外國といつ戰爭となつてもおかしくないこのとき、どうしてわれらから刀を奪ふのであるか。むしろ國民全員が帶刀し、敵國の襲撃にそなへるといふのが本來あるべき姿ではないか。政府の敵はもはや夷狄ではなくなつてしまつたのだ。あやつらの銃口は我等の方を向いてゐるのだ。かゝる露骨な彈壓に屈してなるものか。もう容赦できない」。

〔神意は擧兵〕
 つひにこのときがきた。「世の中はたゞ何事もうちすてゝ神をいのるぞまことなりけり」かう櫻園は詠をのこしてゐる。かゝるときにこそ神事に徹せねばならない。一統は潔齋に潔齋を重ね、新開大神宮の神前において、太田黒が齋主となり、宇氣比をおこなふことになつたのだ。殘念ながら神事の式次第の詳細は不明だが、祝詞座にはみくじが用意された。そこには、擧兵、暗殺、諫死、不可の四種が記されてゐたといふ。神意は「擧兵」と出た。この日このときを、どれほど待ち望んできたことか。感涙にむせばない者は誰もなかつた。
 同年十月二十四日、この日が擧兵の日と定まつた。太田黒伴雄を首領とする神風連一統百七十餘名は、當日深夜、櫻園が崇敬してやまなかつた藤崎八幡宮の社頭に集結した。
 みな甲冑姿、武具は刀劍のみである。首領・太田黒は、その宮の神體を背負つてゐる。そしてかう宣した。
「我々はこゝにかしこくも神意を奉じ、天下に率先して羲兵をあげるものである。先づは鎭臺縣廳を打ち破り、檄を全國に飛ばし、諸國により義勇兵を募り、さらに兵をすゝめ、君側の奸をはうむり、陛下のおほみこゝろを安んじ奉り、萬民の憂ひをのぞいて、皇國を富岳のやすきに奠かうとするのである。君國のため、一身を捧げて努力せられたい」。
 みな「オウ!」とそれに應じた。さて先づ狙はれたのは熊本鎭臺司令長官陸軍少將・種田政明だつた。
「國賊出てこい、この神劍を受けてみよ」さう口にして神風連は種田をさがした。女中が立ち塞がり命乞ひをするのを「えゝい、穢らはしい」とふりはらひ、たうたう種田の首をとつた。
 これは高津運記の手柄であつた。
 そんな中、鎭臺兵から軍旗を奪つた者があつた。だがそこは神風連のこと、どこからかそんな洋式ものは捨てゝしまへとの聲があがつたといふ。とにかく切りに切りまくつた。
 はじめから大將の首をとられてしまつた鎭臺側は、態勢を整へるまでに、しばし時間を要した。襲撃當初は勢ひさかんであつた神風連も、さすがに機關銃の連射による應酬にはこらへかねた。同志が撃たれた。そしてたうたうその彈丸は、太田黒の胸をつらぬいた。太田黒は自身の重傷を知ると側近にかういつた。
「我が體を天子樣のおはす方へむけよ。あゝ、生きてお役に立つことができなかつた。死して神となり、必ずや聖恩に報いやうぞ」と。そしてさらに、「同志はみな討ち死にするがよい。我が宇氣比は敗れ志業は成就しない。さあ、我が首をうて!」といつた。介錯したのは太田黒の親類の昇雄であつた。太田黒伴雄、時に四十三歳であつた。
 鎭臺兵側總勢二千三百名中、死亡者數は計六十七名。負傷者は二百三十六名。縣廳關係の死亡者計十三名。負傷者は二十五名出てゐる。これに對し神風連總勢百七十餘名中、死亡者數は百二十三名で、しかもそのほとんどが自刃であつたといふ。神風連の參謀で戰後生き延びた緒方小太郎といふ人はかう書き殘してゐる。
「神意を奉じて擧兵した我々がどうしてあのやうな結果におはつたのかと疑問に思ふ人びとがあるだらう。しかしあのとき擧兵してゐなければ、必ずや同志たちはおのゝゝで行動をおこしたに違ひない。なかにはむなしく憤死する者もあつたかも知れない。だから神は我々を幽冥の大事にはやく從事させやうと、一旦はあのやうに我々のこころざしを憐れんで、お認めになつたのである。かしこけれどさう拜察するよりほかない。あゝ、亡き同志たちに對する世の誹謗中傷には耐へがたいが、ひそかに傳へ聞くに、天子樣は〈實にけなげな者どもよ〉と仰せになり、御頬をなみだで濡らし給ふたとか。亡き同志たちのみたまも救はれたことだらう・・・」と。
 神風連をふくむ我等の先輩たちは、みな「諸事神武の昔にかへれ!」と叫んだ。しかも、いのちをかけて本氣で三千年前にもどれといつたのである。
 それを思へば現代の我々が、たかゞゝ百數十年前の神風連の精神に立ち返れといつたところで、さしてあやしまれることはあるまい。人心が正しくなり、皇道が恢復すれば、そのとき必ずや神風は吹くのである。同志たちよ如何。

  • [19]
  • 相原修神主の御魂、天翔けるらむ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 9月 2日(木)23時51分58秒
  • 返信
 
 來る九月の六日は、相原の修の神主、逝きて一年なるべし。そのみまかりましぬるは、伊吹廼屋の大人を景慕する者にとりて、かなしび、いやまさりにまさりぬことどもなりき。

 然れどもつらゝゝ思へば、いにしへからの神定め、幽冥の神事につかへまつらしめたまはんとの、出雲の大神の、奇しく妙なる大御はからひにこそと、かしこけれど、獨りひそかに思ひまつることゝはなしつ。

 けふよりしまらくは、河原の博史主より賜ひし、神主が遺しぶみを繙きて、其のいさをしを偲びまつらむものぞ。

 相原修神主之命、天翔けり國翔けりて、吾等まなびの子らを、彌遠に彌長にみちびきまもらせたまへと、眞金吹く吉備の中つ國の處士、泣きてひたぶるに乞ひ祈み奉る。

  • [18]
  • 少壯の健兒、矢の如く 完

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 6月 2日(水)18時55分19秒
  • 編集済
  • 返信
 
 緊迫の午前十時。
 自由民主會館の□□□□總務部長、警察當局の二名が新たに總裁室に入室す。
 相原青年は變はらず銃口をドアに向けたまゝの姿勢を崩さない。

 相原青年は檄を發す。
『ロツキード、リクルート、共和、佐川等で腐敗しきつた自民黨は解散せよ!』
『宮澤總理は辭職せよ!』
『神武天皇建國の精神に還れ!』
 相原青年は□□□□氏に對し、自身の意志を總理に傳へんことを申出た。
□□□□氏は諒承した。


 午前十一時卅分。
 民放テレビでは、事件を傳へるニユースが報道された。
 渦中の人物たる相原青年は總裁室で、これを見る。


 午後十二時。
 NHKのニユース番組も報道を始めた。
 相原青年曰く、
『これでは事實しか報道してゐない。私の意志が傳はつてゐない。本當に記者會見で私の意志を發表したの乎』。彼の蹶起の目的はこゝに明瞭だ。彼は捨身の啓蒙者であるのだ。そは、立志以來、瑞穗塾、赤尾敏先生遺訓繼承大日本愛國黨の門人として過ごした青春時代の總決算とも云ふ可きにある。

 苛立ちを隱さぬ招かざる訪問者に對して××××氏は、再び外を取り圍む警部等に要望を急いだ。
 戻つた××××氏は、總裁室の床にガソリンを撒き散らした相原氏を見て狼狽を一層とした。


 午後一時。
 民放のニユース番組で彼の眞意は發表された。
 彼の熱誠は件の推移を注目する全國の人らに傳へられたのである。
 思へば嘗て横濱市内を獨歩し、擦れ違ふ人々に對し説法して廻つた少年は、時を經て昇龍の如くと化し、全國へと其の咆哮を轟かせてゐるのである。盡忠報國の志、天晴れなり也、痛快なり也。


 午後三時卅六分。
 相原青年は□□□□總務部長に自民黨旗を手渡し、
『此の自民黨旗は、私が出て來るまで預けておきます。これは自民黨に對する警告です』と。
 黨旗には相原青年の憂憤乎、刀の刺し傷が無數に刻み込まれてゐた。
 □□□□氏は怯える兩手でこれを受取ると迯れるやうに足早で退室した。氏の心中察して餘りある可し。併せて吾人は絶大なる拍手もて讚へむ、青年の敢鬪を。


 午後三時四十分。
 相原青年曰く、
『大變御迷惑を御掛け致しました。手錠はかけないで下さい』と。
 そして彼は聲高らかに紀元節奉祝歌を熱唱。
 最後に、
『第百二十五代 天皇陛下萬歳』と奉唱した。
 彼の七時間にも及ぶ孤軍健鬪はこれにて幕を閉ぢた。
 同時に、行動右翼としての彼の青春時代もこれにて終はりをみた。

 嗚呼、うら若き憂國の戰士よ。君の退出を待つは鐵格子か歟。

  • [17]
  • 少壯の健兒、矢の如く 六

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 5月12日(水)02時28分2秒
  • 編集済
  • 返信
 
 午前九時丁度。かくて相原青年は總裁室の占據に成功した。

 彼の只今居る處は、戰後日本を金權全能・黄金萬能社會へと導いた司令塔とも呼ぶ可き部屋である。尠くとも、戰後の腐敗によつて築かれた樓閣の本丸であると云ふことが出來る。

 相原青年は入室し、案内役を務めた警備員を十分ほどで解放した。同時に三人の警察官の退去を指示した。三人は彼の要求に從つた。
 この部屋に殘る者は相原修、警視廳公安部公安第三課の××××氏、警備部警備一課○○○○氏の三人而已となつた。二人の刑事は、幸か不幸か相原青年と面識があつた爲めに殘る運命となつた。彼らは必然的にこの時點から交渉人の役目を負ふことゝなつた。

 青年相原は先づ、占據した部屋の鍵を掛け、脇棚をドアに移動し阻塞を築いた。當然武裝は解除してゐない。

 ××××氏問ふに、
『相原君の要求は何か。君の話しを聞くから、先づ銃と刀はしまつてくれ』
 彼は答ふる、
『私の云ひたいことは××さんは知つてゐるでせう。今の自民黨は腐敗してゐます。私は、神武天皇の精神を報しめる爲めに此處に來ました。要望書はテーブルの上にあります』と。
 テーブルの上には「解散勸告文」と題した茶封筒が置かれてあつた。

 青年相原の指示に從ひ椅子に座つた交渉人の兩名は「解散勸告文」を讀み始めた。
 彼の曰く、
『讀みながら聽いて下さい。私の要求は、自民黨の人とマスコミの人を、此處へ呼んで貰ひたいといふことです。出來れば、中曾根、金丸、竹下がよいが、それは無理でせうから、誰れでもいゝから自民黨の人とマスコミに私の意志を傳へたい』と。
 ××××氏問ふに、
『如何して、今日といふ日を選んだのか』
 彼答ふるに、
『昔、赤尾先生が、維新ののろしを上げるのは二月十一日だ と云はれた。私の要求を聞いてくれゝば、人に危害を加へたくない』と。


 九時卅分。

 青年相原は總裁の机の左に掲げられた堂々たるの自民黨々旗を阻塞の前まで持つて來た。
 曰く、
『こんな穢れた物は必要ない』と。
 云ひ終へるやいなや彼は腰に携帶してある水筒を取り出し、中身を黨旗に打ちまけた。
 不審と不安にをのゝく交渉人の鼻を付いたそれはガソリンによる揮發であつた。
 二人の交渉人は一瞬にして狼狽人となつた。××××氏は迅速に室外を包圍する警察官へ、事態のマスコミ發表を催促した。

 彼の卓拔なる勇氣と覺悟に相當せられる可き實價は、國家權力をも叩首せしめる金甌無缺の主導權であつた。




※寫眞上は此の日の相原修氏の格好描寫圖。
  寫眞下は此の日の現場畧圖。

  • [16]
  • 少壯の健兒、矢の如く 五

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 5月10日(月)23時03分17秒
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 平成四年ー。

 前年は、ソビエト聯邦が遂に崩壞。自らをして社會主義の破産を世界に示した。國内は自民黨を代表するハト派・宮澤喜一が第七十八代内閣總理大臣に就任。
 この年は、日韓關係の紛糾する眞つ只中、宮澤内閣が就任早々の訪韓を行ふ。彼の國に澎湃したる反日集會を目の當たりにした宮澤首相は歸國。何ら我が國に國益を齎すものではなかつた。

 右翼陣營は烈火の如くその怒りを露はとした。同時に宮澤内閣は與論の顰蹙と反撥を招くことゝなつた。
 果して彼ら右翼の忿怒慷慨は杞憂であつた乎。
 彼らが、凡そ半年後の七月六日に、加藤紘一内閣官房長官による發表を歴て、翌年の八月四日「河野談話」の誕生に行き着くことまでを看破してゐたか否か知る由もない。だが、望まれずして産聲を擧げた河野談話が、今日なほ日本を哀運の方角に導く主犯とまでは云はずとも幇助してゐる現實を直視したとき、我らは今、彼らの觀察眼があながち醉眼ではなかつたと認めなくてはなるまい。

 亦た、この年は日中國交廿年でもあることから、内閣による 天皇陛下訪中計畫がなされ、右翼の動向は媚中政策を續ける政府に對し活溌となつた。尤も自民黨内でも愼重論はあつた。だが、田中角榮亡き後、自民黨の實權を握つた金丸信が後押しして、それは實現されることゝなる。
 都内の街頭には至るところに『宮澤内閣による 天皇陛下訪中計畫反對!』(防共新聞社)など、右翼によるビラが散見された。
 まさしく右翼の攻撃の照準が、それまで重點を置かれてゐた街頭左翼から、中央政府に移行されつゝあるころであつた。
 それは、『自民黨“肅正”』てふ幟旗が『自民黨“打倒”』へと書き換へられる過渡期であつた。

 平成四年とはさういふ年であつた。


  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  ◇ ◇


 この年の二月十一日、水曜日。紀元節である此の日は「建國紀念日」の名で親しまれてゐる祝日である。
 千代田區永田町一丁目十一番地二號に在る「財團法人自由民主會館」(以下、自民黨本部)は休日で、いつもと同じ朝を迎へてゐた。空は晴れてゐた。

 當時の警備は四人一班で編成され、會館の正面玄關扉脇に立哨する。警備の當番勤務は午前九時から翌朝の九時迄である。
 此の日を擔當した班長を含む四人の警備員は、いつもの如く精勤し、いつもの如く定時を迎へんとしつゝあつた。生憎、女子事務員が休みであることから、朝になると四人は分擔して、立哨と受付とを行なつた。
 それが彼らにとつて、思はぬ刺客の侵入を許す結果を招いた。

 彼らは一見して、玄關ドアから入つて來た單身の訪問者が招かざる客であることを見拔いた。午前八時五十分。

 男は戰鬪服姿で日の丸鉢卷をしてゐた。加之。右手に拔き身の日本刀、左手には拳銃を握つてゐた。
 そは正に武裝した青年・相原修その人であつた。

 蛇は一寸にして其の氣を得る、と云ふ。然らば、一瞬にして言葉を失ひ、呆然と立ち竦むしか知らない警備員らを即座に無能と斷ずるは少々酷な見解である。

 相原青年は受付にて硬直した三人の警備員らに近付いた。三、四米突に達するや否や、そつと左手を擧げ、持つた拳銃を水平に無言のまゝ發射した。
 撃鐵の音が鳴り響くと、直後にホール正面の硝子が割れる音を三人は確認した。
 彼らの“模造拳銃の可能性”てふ僅かな期待ははかなく失せた。
 反射的に屈んだ警備員が恐る々ゝ顏を上に向けると、既に相原青年は目の前にゐた。
 彼は『俺は元愛國黨の相原だ。何も危害は加へないから俺を總裁室に案内しろ』と云つた。
 後を追つて入つて來た二人の機動隊員らは拳銃にて相原青年を威嚇し、檢擧を試みたが、時既に遲し。
 警備員の班長は二人を殘し、招かざる客の案内役を引き受けるよりほかはなかつた。

 警備員による先導と、後方の機動隊に挾まれ武裝した相原青年は、階段を四階まで上ると、三つの自動ドアを通り拔け、自民黨本部の心臟部とも云ふ可き總裁室への侵入に見事成功した。


 弱冠廿三。戰後の腐敗政治を象徴する自民黨本部總裁室に、單身で籠城した瞬間である。これより彼の、援軍の許されぬ戰鬪は七時間に及ぶことゝなる。
 行動右翼の後世にまで語られるであらうこの大事。これを快擧と呼ばずして何と呼ぶ。これを義擧と呼ばずして何と呼ぶ。




※寫眞は此の日、相原修氏が所持し押收された品々。

  • [15]
  • 少壯の健兒、矢の如く 四

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 5月10日(月)04時10分50秒
  • 編集済
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『愛國黨黨員になつてからの相原君は、筆保書記長から赤尾敏先生の教へを傳授されながら運動に邁進することが出來、生々としてゐた。外出を拒否され、偶に横濱に戻る時など、筆保書記長の運動に對する情熱や信念などまるで自分のことの樣に嬉しさうに話してゐた』
とは、瑞穗塾々長・伊藤滿氏の囘想(『思ひ出のデンキブラン -相原修追悼記-』)である。

 相原神主が赤尾敏先生遺訓繼承大日本愛國黨に移籍してからといふもの、それまで在籍してゐた孤高の一團・瑞穗塾は筆保泰禎書記長と共鬪を重ねるやうになつた(奉祝大嘗祭運動、ゴルバチヨフ大統領謝罪要求國民大會、金日成生誕八拾年訪朝團糾彈運動等々)。

 既記したる通り、元來瑞穗塾側は彼の移籍には好意的であつたが爲め、誰れに對して確執を齎すものでもなかつた。
 求道熱心なる瑞穗塾諸賢にとつては、より筆保書記長との親近を得ること叶ひ、何よりも當人・相原にとつては、兩者の恩寵に賜はること幸ひにして、所謂(街頭での啓蒙にとゞまる運動期としては)此の時期が最も充實したる時期だつたのではあるまいか。上記の伊藤氏による囘想から、それを察して餘りある。
 そして彼もまた、『或は愛國黨の先輩などは、相原はビラ貼りが嫌ひでね、ビラ貼つたと見せ掛けては新橋の屋臺でおでん喰つてゐたんだよ―、てふ樣な事をね、思ふ方もをられるかも知れない』(平成十六年五月廿三日「第三囘草莽崛起の集ひ ー葬祭と墳墓の奪還ー」本人の講演による」)と、その樂しかつた日々を告白してゐる。


 しかし、彼の青春の絶頂期とは云はぬまでも、その思ひ出深き期間は餘りにも短いものであつた。
 一年が經つか經たぬかの平成四年一月廿日。彼は突然、筆保書記長の膝下を離れ、その門を出づることゝなつた。
 所謂“街宣右翼”としての彼の青春期は、かくしてこゝに終はりを迎へた。

 相原青年、師・筆保書記長に曰く『運動がいやになりました。もう燃え盡きたので、やめさせてください』と。
 嗚呼。うら若きこの憂國青年の胸中量り難し。之を筆舌に盡くせんとするならば、果たして人は如何なる言葉を用ゐる可き。

  • [14]
  • 護國神道。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 5月 3日(月)00時36分11秒
  • 編集済
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 相州之民艸樣による、熱の籠つた相原修神主の紹介が續いてゐる。本道に難有い。小生も、書架に在る、
○別册寶島編集部編『平成元年の右翼』平成元年五月・JICC出版局刊
○山平重樹氏『果てなき夢――ドキユメント新右翼』平成元年十一月・二十一世紀書院刊
等を取出して繙き、往時を振返りつゝある。小生は、相原神主と因縁あさからぬ「大東塾」について、門外漢ながら、今後、相原神主に關して觸れられるであらう導入線として、少し紹介しておきたく、匆々筆を執つた次第である。

 國學の四大人を繼ぐ「大人」として名があるのは、大國隆正翁・矢野玄道翁・宮地堅磐翁・栗田寛翁等があるが、影山正治翁を擧ぐる一門もある。之を述べてゐる福田景門翁の、下記の論考を紹介しよう。


【論考紹介】

●福田景門(篤二)翁『護國神道のひとつのタイプ』(『眞清水――明治神道論考』昭和四十七年九月刊に所收)

 小林健三翁は、『生ける靖國の大神――護國神道の方向』(小林健三・照沼好文兩翁『招魂社成立史の研究』國學研究叢書第一編・昭和四十四年七月・錦正社刊に所收)に於て、「護國神道」の最も純粹な一例として、大東塾十四烈士の思想的究明に挑み、其の核心を「天朝護持」に見出してをられるが、福田翁は、「戰前・戰中・戰後を通じての誇り高き純正右翼のひとつである大東塾の塾生たちが、終戰の詔敕を拜して集團自決した事件をさすのであるが、國家危急の秋にあたつて、戰陣に臨んで斃れた靖國の英靈と、戰敗れて魂魄とこしへに皇基を守らんとした十四人の自決者の清靈と、その形態こそことなれ、ともに靖國神道・護國神道のあらはれとして」、影山正治翁の神道を「大東神道」(或は影山宗・影山學派)と名づけ、こゝに至るまでの思想系譜として四つの源流・路線があるとしてをられる。

 福田翁の曰く、「大東塾は、戰前・戰時に、おびただしい數にのぼつてゐたいはゆる愛國團體・右翼團體のひとつであるが、その特色は、神道的・國學的・日本的なものを指導理念として、在野・草莽の立場から發言してゐたところにあると思はれる。乙酉の大難にあたつて、在塾中の十四人の同志は、死を以て陛下におわびし、魂魄は『日の若宮』にとどまつて、極天、皇基を守らんとし、純神式にいやはての祭典をとり行ひ、古武士の作法によつて割腹自刃したのである。『清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂、誓つて無窮に皇城を守らむ』といふ共同遺書をのこし、明治神宮にほど遠からぬ代々木練兵場の一角にひもろぎを立てて、一絲亂れず、從容として腹を切つてゐる。昭和二十年八月二十五日の未明であつた。‥‥大東塾の教育方針は、あたかも松下村塾のそれのごとく、塾長の全人格に負ひ、塾長の信念なり世界觀なりは、そのまま全塾生に滲透して、批判がましいことはほとんど見られない。塾長と起居寢食をともにして、生きるも死ぬも、塾とともに塾長とともに、といつた信念に貫かれてゐる」と。

一、近世國學の流れ――「國學四大人相傳の大道」の繼承、特に平田神道・平田學を承けた「新國學協會」の設立。
 影山正治翁『忠靈公葬に關する請願』に曰く、「臣等血泣、伏して闕下に奏聞し奉る。仰ぎ願はくは、速かに聖斷を埀れさせ給ひて、神ながらなる聖戰御眞義のまにまに、戰死者忠靈、一切の公葬を、神葬一元に御敕定あらせられむことを。右、謹み恐みて請願し奉る。‥‥」と(下註★)。福田翁の曰く、「靖國神社に神として祀られる英靈をして佛陀のほとりに眠らしめるに忍びない、神ながらなる國風に從つて、戰沒者の公葬を神式に統一せられんことを請願したものであるが、幕末の國學派による神葬祭の運動を、さらに一歩前進させたものとして注目される。これは、明らかに明治初年における平田學派の廢佛毀釋の流れを汲むものであらう。そして大東塾の志向する究局のものは、忠靈神葬にとどまることなく、儒佛二教渡來以前の神代の姿を、今の世に顯現することにあつたといへるであらう」と。

一、神道修成派の流れ――新田邦光翁「修理固成・光華明彩」~~影山庄平翁「隨神大孝道」の繼述。
 「大東塾は、神道修成派・隨神大孝道(「わが父にしてわが師」と呼ぶ庄平翁が組織したもの)の性格を、その祭祀面において特に強くうけついでゐる。塾は、すべてを祭祀に發し祭祀に歸するといつた、神祭中心主義をとつてゐる」と。

一、 大アジア主義の流れ――頭山滿「玄洋社」・内田良平「黒龍會」兩翁の遺鉢を承述。
 「學生時代から影山氏が、無條件ですきであり支持し崇拜してゐた人物は、西郷隆盛であり、頭山滿であつた。‥‥その中核をなす思想は、日本の皇政維新による大アジア維新であつた。『大東』の名は、『大統世界』であり『大亞細亞』であり『大東國日本』である。アジア維新から世界維新へ、その前提としての日本の維新、これが戰前・戰中を通じての、大東塾のかわらぬ信念であつた」と。

一、松永材國學院大學教授「日本主義の哲學」の影響。

 「四つの流れが融合して、影山正治といふ一人格を中心に統一され、大東塾の精神が形成されたものと、私は考へるのである。これは、塾生や塾外生にとつての、ひとつの宗教であるといつても過言ではあるまい。‥‥その結束のかたさは、ひとつの教團のそれにまさるとも劣らぬものであらう。これが、敗戰にあたつて、臣子の祈り足らずと反省せしめ、限りある命を絶つて神として祖國を守らうといふ一致した結論に導き、死を以て崇高な祭典として、日本再建の人柱となつた所以であると、私は考へるのである」と。而して大東神道の特徴として、

一、純粹な古神道・國學神道の繼承であるが、本居學の幕府容認・佛教尊崇等の現状是認の傾向は、常に批判の對象であり、神代に歸るを目的と爲す。

一、國史を貫流する尊皇の道統を、生命の中核と爲す。即ち國史を神話の顯現と見、幕府的存在は、神劍の發動に俟ち、全てを天皇に歸一し奉る。

一、戰鬪的・浪人的・志士的・在野的であつて、現状に媚びず、妥協を許さず。

一、眞の益荒男は、みやびを愛し歌を解し、涙をもつ武人でなければならぬ。劍魂歌心――劍武荒魂と歌文和魂の一體を目指す。

 結論として福田翁の曰く、「大東塾は、靖國の英靈とは、形態は異なつてゐるが、護國神道の特異なひとつのタイプとして、現代神道の方向に、大きな暗示を與へるもののやうに思はれる。熱烈な國體信仰者、熱烈な敬神家の集まりであるこの塾は、神社界にも多くの支持者を有し、今後の神道の上に輕視することのできない存在となつてゐる。いやはての祭典を、血をもつてくりひろげて昇天し、永久に日の若宮に留まらうとするその幽冥觀、儒佛をはじめ外來思想を斥けて、『本、是れ神州清潔の民』といつた信仰生活に終始するその人生觀、いづれも俗にいふ右翼思想といつたものではなく、國體神道の一學派といつてよからう。

 今後の問題點として、これがいかにして大衆の中にとけこんでゆくか。たとへば民衆は、いはゆる右翼に對して疑惑と警戒心をもつ。かつて實力行動に出ることも辭さなかつた大東塾が、現時點における哲學的・瞑想的・觀念的な傾向、そしてまた將來の日本を背負つて立つ有爲の人材を錬成するといふねらひのもとに實行してゐる松下村塾的教育、これらをもつてしても、どの程度人心を把握し得るのであらうか、といふ點である。戰後三十年に近い時の動きは、國民の思想を大きく變貌せしめた。高踏的で内向的で孤高の誇りをいだく大東塾が、どの程度人心にマツチするであらうか。現代との對決、戰後との對決、これが大東神道に課せられた、今後の大きな問題點であり、同時にまた神社神道教學の上のひとつの問題點でもある」と。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/874



 愚案、件の★「請願」は、下記に據つたものであらうか。影山翁から受ける印象は、其の外に、精緻な理論より情を重んずる傾向、或は擧門殉皇の深謀遠慮の計劃等の特徴を掲げることが出來るやうに思ふ。小生が、影山正治翁の謦咳に接し得たことは、最晩年の明治神宮に於る講演の一度だけであるが、非常な貴重な時間を戴いたと、今も思つてゐる(他に、淺野晃翁・長谷川幸男翁・佐佐木奎文氏の講演も拜聽した。殊に淺野翁は、小生、其の著書により憧憬の人であつた)。

 皇國日本の再興が圖られむとするの秋、必ずや大東塾の尊名は存するであらうし、其の指導影響の下、これからも多くの憂國有爲の志士が輩出するであらうことは疑ふべくも無い。勤王黨は各地に嚴存し、何時の日か、其の蹶起統合を待つてゐる。全國に根を張る大東塾の、これからの動向に注視し、其の訓導を仰ぎたい。


■『大日本帝國憲法』に於ける、天皇に奉呈する請願書

○大正六年四月、勅令第三十七號・請願令
 人民は請願令により、政府または議會に希望を陳述する外、同令により、内大臣府を經て、國務に關する事項(皇室典範および帝國憲法の變更に關する事項、ならびに裁判に干與する事項以外)について、天皇に請願書を奉呈する事が出來る[請願令第十條・第十一條・第十六條]。

○請願の規程
 請願は、すべて文書を以てすべき事を規程される。天皇に奉呈する請願書は、封皮に「請願」の二字を朱書し、請願書には請願の要旨・理由・年月日・請願者の族稱・職業・住所・年齢を記載し、署名・捺印(未成年者および禁治産者は、法定代理人、署名し得ない者は、其の事由を附記し、他人が代署)して、内大臣府に郵便で提出すれば、内大臣、これを奏聞(奏上)し、處理するのである。但し指令は與へない[勅令第三十七號・請願令]。

  • [13]
  • 少壯の健兒、矢の如く 三

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 5月 2日(日)23時55分28秒
  • 返信
 
 瑞穗塾塾長・伊藤滿氏。當時を囘想す。

 曰く、『瑞穗塾のやうな數名で形成された小さな運動體は、カンパや獻金に頼らず自ら正業を持ち運動を進めて行かうと考へてゐた。私は書記長の瀬野壽夫同志と平成元年三月に會社を設立した。運動と仕事を兩立させることは思つてゐたよりも難しく、必然的に仕事を優先しなければならない状況や、亦、その逆に運動を中心に行動しなければならない場面も屡々あり、當初の二、三年の間會社を安定させるまでは四苦八苦であつた。相原君は親元の實家に居ることから、毎日でも運動がしたいが願ひが叶はない。これだけのやる氣の有る青年の情熱を摘んではならないと考へた私は、最も尊敬してゐる大日本愛國黨の筆保泰禎書記長に御願ひして、彼を預けることが出來ないだらうか考へはじめてゐた。(中畧)
~筆保書記長を横濱に招いて瑞穗塾・寺澤次夫會長、瀬野壽夫書記長、相原君と私が集まり御願ひを申出たところ、筆保書記長は快く入黨を引き受けて下さつた。これで彼も愛國黨で運動に專念することが出來ると思ひ、筆保書記長に心から感謝した』。(平成廿一年十二月十八日、同血社發行「草莽崛起の集い 相原修大人命追悼號」所收『思ひ出のデンキブラン -相原修追悼記-』)


 かくて相原修神主は、故筆保泰禎翁を師と仰ぎ、赤尾敏先生遺訓繼承大日本愛國黨に入黨した。
 入黨した後の彼は、自らの意思で筆保家の邸宅に寄寓し、夫妻と起居を共にした。

 筆保家での生活は、寢ても覺めても敬神尊皇・滅私奉皇の日々であつた。
 當然、彼に與へられた自由時間は至極稀であつた。否、正確には、彼に與へられた運動と無縁の時間は至極稀であつたと云ふ可きである。
 斯くなる生活は彼にとつて充實せられたるものであつた乎、苦痛なるものであつた乎。
 彼は同世代の若者が經驗す可き世俗的青春を返上し、驀地暗に己の信ずる道を進んだ。
 辻説法、抗議亦たは歡迎運動、ビラ貼り(寫眞)、凡そ日の丸世直し運動に關することは、自ら進んで經驗しそして學んだ。
 その憂國の熱情も極めて激しく、時には社會黨幹部を鐵拳制裁し、逮捕されたこともあつた。
 彼が神奈川縣警察而已ならず忽ち警視廳公安部からも要注意人物に目されたことの説明を要しまい。

 彼は固より豪放にして磊落。好ましく云へば世俗的でなく、疎ましく云へば常識の通じぬ要素があつた。
 世間から見れば自由奔放なる少年・相原は、瑞穗塾時代に先輩・後輩の關係から、道に學ぶ姿勢を教はつた。
 そして、大日本愛國黨筆保門下として、運動に關する嚴しさを教はつたのである。
 運動に關する嚴しさとは即ち、維新の道程に對する険難である。
 嚴しき現實を理會した彼の所志は果して何處に辿り着く可き。

  • [12]
  • 少壯の健兒、矢の如く 二

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 5月 2日(日)01時58分35秒
  • 返信
 
 瑞穗塾時代、神主は故・寺澤次夫會長は固より、殊に伊藤滿塾長、故・瀬野壽夫書記長の嚴しき指導と恩寵を受け、みるゝゝ裡に其の志と熱情を逞しうものとした。

 當時、行動右翼は專ら啓蒙、抗議に街宣車を用ゐてゐたが、相原神主はひとり幟旗を掲げ、日の丸鉢卷に襷掛けてふ出で立ちで、徒歩で横濱市内を遊説した。彼は近所を始め世間の嘲笑や罵倒に臆することなく辻説法に時間を費やし、自宅から横濱驛を往復することを日課とした。
 彼の存在はやがて、「少年右翼」として行動右翼陣營は固より、人々の關心を得るところとなつた。

 そしてその勇姿は、テレビ番組「地球發19時」(TBS系列)『密着!少年右翼』をして報道され、全國に識られることゝなる。

 今我々は、あどけなくも荒ぶる魂を宿した弱冠・相原修、その好漢の輪郭を知ることが出來る。

http://www.youtube.com/watch?v=6fRcWuBbPAI&feature=related    七分六秒より。

http://www.youtube.com/watch?v=jBOtkumlUoE&feature=related     二秒より。 亦た、六分十三秒より。


 小生も伊藤、故瀬野兩兄を識るひとりであるが、兩兄は縣内でも頑迷、固陋の持ち主で知られてゐる。少年相原の至誠を裏切ることなく、瑞穗塾は彼を育てた。
 彼は餘すところなく其の才を發揮した。瑞穗塾は、彼にとつて申分なき環境であつたと思ふ。



 だが、その環境を彼は放棄し、寺澤・伊藤・瀬野といつた最高幹部の諒解のもと、瑞穗塾を去ることゝなる。
 相原神主は、初志を貫く可く大日本愛國黨に入黨するのである。
 その思ひは如何にあらむ。既記したる彼の追想に分明である。

  • [11]
  • 少壯の健兒、矢の如く 一

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 5月 2日(日)00時18分11秒
  • 編集済
  • 返信
 
 相原修神主の畧歴については備中處士樣の記述に既に詳しい。
 よつて重複する感は否めぬも、識り得る限りを補足する積りで書き進め度く存じます。


 神主は少年期より憂國の熱情高らかにして、高校中退後、國防の任務に從事す可く陸上自衞隊に入隊。
 そこで神主は期せずして、救國の預言者・赤尾敏先生の演説に邂逅する。


 神主は當時を振り返り、かう云ふ。
『あれは十九才のときであつた。當時のわたしは陸上自衞隊員で、東京の練馬駐屯地(第一普通科聯隊第三中隊)に配屬されてゐた。平成元年の話である。
  練馬駐屯地には師團司令部があるので、防衞廳長官の視察が定期的に實施された。その度に全隊員が整列、着劍捧げ銃の最敬禮で長官を出迎へるのであつた。
  あるときの長官視察の折、部隊は騷然としてゐた。その理由は、部隊正門正面に、大日本愛國黨の街宣車が停止し、そこで赤尾敏總裁が演説を開始したといふのである。
  もともと練馬の部隊は日頃から「愛國團體」には友好的であり、毎週の精神教育の中でも、老齡の隊長あたりは、
「俺が自衞隊をやめたら赤尾敏のやうに愛國の熱意を社會に示してやらうと思ふ」
  などと説くほどであつた。
  そこに本物の赤尾敏總裁がやつて來たのだ。
「自衞官の諸君!自民黨の腐敗墮落は目に餘る。もうこれ以上容赦できないところまで來てゐる。君達は今、誰に對して最敬禮しようとするのであるか!國民を愚弄する私利私慾の政治屋に忠誠を誓ふなんて愚の骨頂である!自衞隊は目を覺ませ!」
  山崎拓防衞廳長官が部隊に到着したころには、もう既に赤尾總裁の演説は終了してゐたが、我々隊員の耳には赤尾總裁の大演説の一部始終がはつきりと屆いてゐた。
  そこは限られた駐屯地の敷地内であつたとはいへども、師團長以下、聯隊長、中隊長・・・、そしてレンジャー隊員、一般隊員の我々に至るまで、全員が一時間以上の長きにわたり、赤尾總裁の「大獅子吼」を拜聽したのだ。
  あの感激は今でも忘れ得ない。
  次いでこの痛恨の念もまた忘れがたい思ひ出だ。
  わたしは自衞隊在籍中より、愛國黨入黨を希望してやまなかつたが、諸事情により、つひに赤尾總裁生前の門人の列に加はる事ができなかつた。殘念だ』と。(平成廿年七月十五日、同血社發行「草莽崛起の集い 第三輯」所收『現代維新の原點』)


 相原神主は矢も楯もたまらず除隊した。神主は自身を育てた横濱市保土ヶ谷區へ歸郷。日を置かずして、横濱市神奈川區を據點とし、いづれの派にも屬さず孤軍奮鬪を貫く「瑞穗塾」(寺澤次夫會長・伊藤滿塾長)に押掛け入門した。


 後年、神主は、自らを指して「戰ふ神主」と説明した。
 神主の、火の玉の如き鬪爭の日々はこゝから始まることゝなる。

  • [10]
  • さねさし相模の燃ゆる火の心ともがな。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 4月28日(水)01時01分15秒
  • 編集済
  • 返信
 
相州之民艸 志兄

尊皇の 旗を掲ぐる 人は來ぬ
相原の ぬしの命の 友は來ぬ
益荒健男は 降り立ちて
友の遺影を うつすてふ
畏こき業は 尊とかりける
嬉しきかも 言の葉もなし
いざ 見ばや 其の顔(かんばせ)を
いざ 拜まむ 其の面影を

     備中處士 九拜

  • [9]
  • 嗚呼。相原修兄

  • 投稿者:相州之民艸
  • 投稿日:2010年 4月27日(火)23時55分18秒
  • 返信
 
 はじめまして。

 某は相州に住む一小人にて御座います。
いつも貴掲示板を眺めてはしづかに學ばせていたゞいてをる次第です。

 貴塾掲示板にて、斯くの如く相原修兄の熱誠を詳らかに記録、公表なされ、兄も嘸ぞ感謝してをることでありませう。
 某も友人の一人として感激に堪へませぬ。

 併せて、恥ぢを承知で駄文の筆をとり、本スレツドを更に充實致し度く思ひましたが、管理人樣の御盡力により兄の志と起草したる玉稿はものゝ見事に開示せられ、亦た、兄の志そは崇高にして某では議り難く、最早役目無きものと存じます。
 然れども、兄を偲び、某の寶藏せる遺影などを飾らせていたゞけましたらば嬉しく存じます。

 何卒、今後とも、宜しく御願ひ申上げます。

  • [8]
  • 道に志すとは。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 2月 1日(月)21時26分14秒
  • 編集済
  • 返信
 
 本日、『道の友』が送られて來た。直ちに拜讀、雷に撃たれたかの如き衝撃を受けたので、耻づかしながら書かせて戴きたい。


●不二歌道會代表・福永武氏『倭姫命の神語を心の杖として』(大東會館『道の友』平成二十二年一月號)に曰く、「

 昨年の初夏、相原(修)氏が、『影山(正治)塾長の書が、インターネツトで賣られてゐるのを見つけたが、爲書きのあるものであつたので、これが市場に出てゐるのは宜しくないと思ひ、すぐに購入した。これは大東塾へ寄贈します』と、態々これを持參され、寄贈して下さつたことがある。相原氏の誠心に、本當に頭の下がる思ひであつた」と。


 此の文に、何故ゑ衝撃をうけたのか、いぶかる人もあらうが、小生には苦い思ひ出がある。我が師・紹宇近藤啓吾先生が取られた行動を、或る先輩から聞いてゐたからである。かつて平泉澄先生の書簡が、或る百貨店の古書目録に出てゐると聞き、近藤先生は、青々塾の塾生を動員して、價を問はず、購入せしめたことがあつた、と。一門にしか分らぬことであらうが、平泉先生の書は天下の至寶、好事家の玩ぶ所としてはならぬとの謂ひであつたらうと恐察する。無論、先生から書を贈られた人が賣りに出したとも考へられるし、其の遺族が破棄したとも考へられる。近藤先生は、之を憂へられたに相違ない。

 而して小生と云へば、同樣にヤフーの落札にて、平泉先生の書簡が賣りに出されてゐるのを見、いざ、落札に挑戰はしたものの、器械音癡の哀しさ、參加も能はなかつた。「あゝ、殘念。小生が買へなくとも、先生の書だから、納まる所に納まるであらう」と、樂觀視して終つた始末でありました。相原修神主の爲した功徳を、今、現に拜して、小生は穴を掘つてでも入りたい氣分である。

 又た近藤先生は、足を以て崎門の先哲の研究を行はれてゐる。崎門先哲の子孫がゐると聞けば、之を探索し之を訪ひ、其の遺書類があれば、遺族に永遠に保管するやう歎願し、其の保存状態が惡るければ、之を修繕して目録を作り、或は其の保管の道を講じ、また不幸にして遺族が無く、其の奧都城が荒れてをれば、之を清め掃苔して、祭祀を缺かされない。

 相原神主も、平田篤胤大人の歌碑が撤去されたと聞けば、其の恢復に全力を盡し、あるべき縣護國神社が無ければ、率先、之を復興しようとされた。眞に道に志し、先人の志を繼ぐと云ふことはどういふことであるか、更めて深く考へねばならぬ。


 更に福永武氏は、相原神主の部屋に、常日頃掲げてをられた、影山塾長揮毫の書を紹介されてゐる。

愼みて怠ることなかれ
 倭姫命の傳へたまへる神語を録す


「この御言葉は、まことに見えざる杖であつたと、私は考へたいのであります。『常にこの見えざる杖を、心に杖つきて大事に當れかし。呉々も自力のみに頼つて、事を爲さうと考へることなかれ。神威を畏み、皇威を仰ぎ、神明の御力に依りすがりつゝ、自力の限りを盡し盡して、大命を全うして、復奏せよかし』との意味の言葉であつて、まことに尊い見えざる心の杖として賜つたものと考へたいのであります。‥‥」(影山正治翁『旅と杖』)

  • [7]
  • 幽界からの靈導。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月15日(金)22時25分9秒
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●相原修神主『謹告「伊吹廼舍先生及門人著述集一」發行にあたつて』(防共新聞社『防共新聞』平成二十年一月號)に曰く、「

 平田國學の復興こそが救國の策であると信じる私は、現下社會の醜惡ぶりを座視するに忍びず、素より無資産の身ではありますが、今囘から、斯うして『伊吹廼舍先生及門人著述集』と題する本を、毎年編んで世に出し、平田學、即ち平田神道の更なる普及に努力することを思ひ定めました。

 しかし平田先生とその門人たちの板本の數は、きはめて膨大であり、その印刷費用は、今囘のやうな解説や注釋を付さない、單なる復刻本であつても、額はかなりのものとなります。また今日では、板本そのものの入手も困難となり、たまゝゝ古書市場に出囘つてゐるのが確認できたとしても、復刻印刷の原本となり得るやうな保存状態が良いものに出會ふのは、至つて稀であります。

 かゝる理由からも、今囘の刊行のことは、さう容易に貫徹できるものとは考へて居りませんが、平田先生とその門人たちの學恩を蒙る者のひとりとして、先學の多難に滿ちた足跡に思ひを致すと、さすがにこれしきのことでは後込みするわけにもゆかず、ともかく今日只今の力をふり絞つて、まづは最初のこの一編を、何とか同志にわかつまでにこぎつけました。

 私は一生涯を賭して、この刊行のことにあたらうと思ひます。道友のご理解とご支援とを乞ふ次第であります。

  後學 相原 修 しるす
 平成二十年正月」と。

○時局對策協議會副議長・同血社會長・河原博史氏の曰く、「相原修兄は、平田先生の門人たらむと、懸命でした。‥‥修兄の未發表のまゝとなつてしまつた『古史傳』。修兄『やうやく、これからが本番だ。これから河原氏、僕は忙しくなるのだ』と申して、そのまゝとなつて仕舞ひました」と。



●相原修神主『大日本は神國なり――佛ごころを排除せよ!』(同血社『天地無邊』第六號・平成十八年一月號)に曰く、「

 我々日本人は、みな神の子孫である。だのに敢へておのれを卑しめ、蠻族と同一視する人がある。佛教徒が、先づそれだ。支那を祖國とする儒者、しかり。はたまた猿を祖先とする白人どもにあこがれる西歐崇拜者、しかりだ。

 神國日本の右翼とは、正しい思想信仰の持ち主のことを指す。言はずもがな、神國の正しい思想とは、神道である。神道人こそ、健全な日本人の姿なのだ。では、神國日本で左翼とは、いかなる人びとのことを指すのであるか。それは佛教徒などの、神を否定する輩すべてを指すのである。神國にて共産黨が左翼とみなされるのは、反資本主義であるとか、革新であるとか、反核・反戰であるからなどではない。彼等が神を否定するからに他ならない。いくら維新のことや國體のことを口にしたとて、そのひとの信仰が佛教であつたならば、私はそのやうなひとを、未だ明治維新をむかへざる夜明け前のひとと評し、なほかつ明治天皇の大御心に背き奉る左翼とみなさざるを得ない。

 平成維新は成就するのであらうか?。私はかう斷言して憚らない。昭和維新が挫折したのは、その指導者が、みな佛教者であつたからだ。大東亞戰爭で神風が吹かなかつたのは、その當時の人らのこころが、みな佛ごころであつたからだ。國體明徴を口にしながら、そのこころは外國傳來の佛教を信奉してゐたのである。これでは、神風が吹かなくて當然ではないか。私は靖國神社に參詣するに、數珠を持參するがごとき不屆きものが、民族派内よりゐなくなつただけで、維新運動は、さうたうなところまで勢ひを得るものと信ず。さうしてさらにそれぞれの人らが、先祖の墓に詣でるにあたり、線香を焚いたり、塔婆をたてたりするなどの非禮をあらため、榊を立てて聖地となして、神式により拜禮をなすに至つたならば、先祖の神靈は、幽界より力をそのひとに與へてくれるのである。一億の國民が、かうして敬神生活を實踐するやうになつたそのとき、必ずや神風は吹くのである。神武天皇の大御代のごとく、蒙古襲來時のこどくである。‥‥

 神を崇めよ!。汚らはしき佛ごころを排除すべし。これが尊攘維新の第一歩なのだ」と。



●相原修神主『神風は必ず吹く』(防共新聞社攘夷戰鬪紙『防共新聞』平成二十年一月號)に曰く、「

 惡魔は、善人のふりをしたがる‥‥。かうした言葉が異國にはあると聽くが、たしかに世の中には、見せかけとはまるで中身が違ふといつたことが、少なからずあるものだ。

 かの終戰時の、わが國の思想状況に思ひを致して欲しい。國は神國であるといひ、民は神民であるといひ、軍は神軍であるとまでいつてゐた。ところがその實は、徳川氏執政下とまるでかはらず、國は依然佛國であり、民はまた佛徒であり、軍はどこまでも佛軍であつた。しかもこのさまは、主義思想の純潔を旗印とした「右翼」にあつても同樣にて、指導的立場にあつたのは、日蓮主義を主とする北輝次郎・石原莞爾など、佛教者であつた。神は佛臭をばきらひ給ふ。このさまでは、神風が吹くわけない。

 しかして現代社會の腐敗墮落ぶりは、深刻である。もはや人力でこれをくひとめ、一新しようとしても、とても企ておよぶところではあるまい。されば待望されるのは、かの蒙古迎撃を上囘る、平成の神風である。昭和の時代に吹かなかつた神風を、どのやうにして今日只今に吹かせ得るか。過去に吹いた神風が、現代に吹かないわけがない。さうならないのは、過去と今日只今との、どこかに異なるところがあるからだ。それは、なぜであるか。わたしは、それは一に現代人の敬神の念の無さのせゐだと考へる。

 ちかごろの右翼人の言動を見聞きするに、やたらと「神國」であるとか、「神民」であるとかの語を口に連發し、神宮神社の境内を集會の場となして、耳目を集めようとしてゐるかのやうにみうけられる。これでは大東亞戰を開戰へと導いたダラカン共と、大差ないではないか。が、眞の國士たる者は、ここでもう一度謙虚に、過去を反省し、思想信條の純正化につとめる必要があるものと思ふ。神威發動を妨害する、似て非なる存在は、淘汰されねばならぬ。昭和維新挫折の轍を踏んではなるまい。

 神はひとの眞摯な祈りによつて、その威を増すといふ。わが皇神たちよ、神風を吹かせ給へ!」と。



●磐山友清歡眞翁『靈の世界觀』(昭和十六年十月刊)に曰く、「

 人間の普通の意味における「死」といふものはないのである。私は「死は神變なり」と言うて居るが、つまり生活の環境に對する「むすび」(産靈・結靈)の變化に過ぎないのである。だから死を怖れるとか、死を悲しむとかいふのは意味をなさぬのである。もつともこれは本來のありさまについていふのであつて、人情としては死は悼み、悲しむのが當然である。人情を無視した神道なるものはない。親しきものに對する所謂死別の悲痛な感情は、尤も千萬のことで、それを嘲る理由は毛頭ない。まことにこれほど同情すべき事件はない。どんな修養のできた人でも、親しきものに對して、所謂死別の悲嘆を感じないものあらば、其れは神姦であり妖怪である。けれども、本來のありさまから申せば、死とは只だ神變のみであり、冬から春になつて綿入をぬぐ位ゐのことである。それにつけても、「善きむすび」こそ望ましいことである。「善きむすび」によつて、より良き環境へと進みたいものであり、それが幽顯一貫の生活の眞意義である。「善きむすび」には、内的なものと外的なものがある。内的なものとは、つまり善い心がけや善い行ひである。外的なものとは、種々の因縁である。

 わたくしは茲においてか、いつも思ふのであるが、靖國神社に合祀せられた御方の遺族の方々の認識や信念についてである。それが無上の光榮であることは、國民一統、みなよく拜感して居るところであるが、これは單に光榮の儀禮に浴せられたといふだけのことではないのであつて、天照大御神の人間世界における顯現であらせられる天皇陛下の大御心にもとづいて、神と齋ひまつられるといふことは、死後の實際生活の上に、これほど幸福なむすびはないのであつて、單に光榮の儀禮に浴せられたと申す位ゐのことでなのである。‥‥

 善惡と禍福との關係についても‥‥、平田篤胤翁が『古史傳』で力説した居られるところから、私の考へは一歩も進んで居らぬ。要するに正しい立派な道徳的な家庭でも、いろゝゝの災害のやうなものがつゞいたり、あまり感心いたしかねる人が、順境で萬事好調といふやうな例は極めて多いが、それは此の人間世界だけを眺めての話で、お互ひの生命は、誰でも無量壽であり、天神地祇の攝理に寸分の狂ひも記帳洩れもないことを斷言しておく。神界の實相と死後の生活の模樣を知り、その萬古不動の信念で、本當の徹底した御奉公も一層の輝きを生じてくるのである」と。



●硬石内田良平翁『憂國志士』(『黒龍澗人歌集』所收)
生きては官に養はれ 死しては神と祭らるゝ
幸ある人の多き世に こは何事ぞ 憂國の
志士てふものは 國の爲め 盡しつくして 草莽の
伏屋の軒と朽ち果つる 弔ふものは泣く蟲の
聲より外に亡き後も 不滅の精神 皇國守る

●硬石内田良平翁の哥
○荒御魂 かゞみに留めて とことはに 皇御國を まもりませ君
○五十年 國を憂ひて 草莽の 野にさまよひて 泣きに泣きたり
○我が國を 我身とぞ思ふ 心より 我身ありとは 思はざりけり


●影山正治翁『歸還、感有り』
神意、深甚、測る可からず、
默默、只だ期す、再建の業。
山河、語らず、人言(ものい)はず、
薫風、萬里、青(せい)一色。

●影山正治翁『偶成』
笑殺す、顯官要職の徒、
國歩、艱難、大計無し、
君見ずや、古來、囘天の業、
多くは是れ、草莽無名の力。
恥ぢず、浪浪一介の臣、
求めず、嘖嘖身後の名、
挺身、難に赴いて、生死無く、
一貫す、尊皇大義の道。

●影山正治翁『草莽の志』(昭和十九年五月『ひむがし』所載)
人こぞりて 之を奇狂と云ひ
世をあげて これを神憑(かみがゞり)と嗤ふ
然り
我らまさに敢て その
奇狂神憑の徒たるべし

こころみにおもへ
かの彦九郎は堵腹
ただただ狂へりとなし
かの頼三樹三郎は斷頭
自ら敢て古狂に任じ
かの高杉は憤死
常に一狂生を自稱したりしにあらずや

まこと古人多く奇狂頑愚の評下
大君の邊に
ただに
祈り死したるなり

さればげに
わが國史の正流は
おほむねかの奇狂神憑の徒の
血祷悲願 よくこれを支へ
遂にかのさかしき常人才子の
手腕力量
よく支ふるところにあらざりしを

狂賊の名 これを甘受すべく
頑愚の譏(そしり) これを信受すべし
若し道に狂し義に狂ひ
神 これに憑ることなくんば
如何ぞ
神州非常の際
非常絶對の勤皇行に
全我を沒してよく
烈々不拔たり得むや

さもあらばあれ
世評人言の如何
滅却す
功名手柄の道
我等ただ心魂を潔淨ならしめ
神明照覽のみ前に 畏み立たむかも

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/434
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/8



 愚案、小生にとつて、見知らぬ國士にして神職である相原修神主(特に「神主」と云ふ敬稱を用ゐたい)を傳べするは、平田大壑大人の顯彰者と云ふことは勿論であるが、塾頭の言葉、即ち「相原修氏は、靖國神社に入りたかつたらしいが、適はなかつた。助勤で、靖國神社には奉仕してゐる」と聞いた事に始まる。然し田舍者ゆゑに、相原神主に關する資料・情報は、殆んど無いに等しい。不圖したことから、神主の同志・河原博史主の眷顧を辱うし、神主の遺稿を、數多く頂戴し得た。未知未見の青年神主を顯彰するに方つて、小生の管見は出來るだけ控へ、神主をして神主を語らしめるやうに努めたものゝ、誤謬脱漏あるは寛恕たまはりたい。

 河原博史氏とは如何なる御方ぞと、『右翼という(ふ)生き方』(平成十九年八月・大洋圖書刊)に其の名を見て、「勤皇家」なるを確認し、頂戴する神主遺稿に附してある河原氏の添書きを拜して、河原主が眞の維新者なるを確信し、溯つて親友たる相原神主が眞の國士なるを確信し得た次第である。それにしても河原主なかりせば、此のスレツドは成立し得なかつた。河原主の、相原神主に對する友情に泪すると共に、かやうな無私の親友を得た神主に、祕かに嫉視の情を禁じ得ない。河原主には、是非とも『相原神主年譜』を作成して戴き、神主の眞精神を永遠に傳へ、其の志操の恢弘を御願ひしたい。

  • [6]
  • 相原修神主遺芳。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月 7日(木)00時36分30秒
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●天照御祖神社宮司・秋田大學助教授・佐々木奎文翁『毎朝神拜詞記の跋』(平田篤胤翁原著・平田銕胤翁改刻・相原修神主校訂覆刻『毎朝神拜詞記』明治六年版。平成十四年二月・平田篤胤翁顯彰會刊に所收)に曰く、「

 今、これらの冥々のゆかり(佐々木翁が、先師・影山正治翁に長く師事してゐたこと、『大壑平田篤胤傳』の著者で生涯を平田翁研究顯彰に捧げた、秋田の伊藤裕翁に親しく接してゐたこと、秋田に移住して五十年、平田篤胤翁の墓守を以て任じてゐること、中學生の頃より影山・平田の令名に憧れ敬慕すること、恐らくは相原神主に匹敵するものがあつたといふ幽契)を以て、『毎朝神拜詞記』に一文を添ふるの機を與へて下さるのならば、何よりも相原氏の、平田學をこそ、祖國再建の道しるべと信じて疑はぬ必死懸命の祈行に應へぬのは、道にかなふことではないと思ひ定めた。

 平成の御代となつて十四年、昭和の御代で數へて七十七年、明治維新より百三十四年の今年、しみじみ明治維新・昭和維新、いまだ成らざるを痛感する。

 平田神道は、明治維新のかなしき言動力であつた。それは去年初めて木曾路の馬籠に、島崎藤村の『夜明け前』・『東方の門』の舞臺を訪ひ、狂とされて牢死した藤村の父・島崎正樹翁の悲しみに接し、改めて骨身に沁みて確信したことであつた。

 平田神道は、同じ木曾路の赤報隊、大和の天忠組、水戸の天狗黨、更には維新後の神風連、西南の役・西郷黨等々、志を得ず非業の死を遂げた幾百の草莽崛起諸隊の志の言動力であつた。かなしき言動力といふのは、その意味をこめてのことである。

 影山神道は、まさしく平田神道を受け繼ぎ、そして昭和維新のかなしき言動力であると信ずる。その影山先師は、『國學の眞髓は、うけつぎにあり、徳川光圀の大楠公之墓建立と契沖への古道研究委嘱に端を發し、荷田春滿・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤とうけつがれて來た、その志こそが、國學の眞精神である』と道破された。『本居宣長先生を、この國學のうけつぎから切り離して、個人宣長だけを考へるといふことでは、宣長先生は死んでしまふ』のだ。

 宣長・篤胤兩大人を祀る本居神社を、本居宣長一人を祀る意味合ひに解されかねない「本居宣長ノ宮」に改名したり、本居宣長大人の奧都城を改修して、側近く寄り添つてゐた平田篤胤大人の歌碑(「なきがらは 何處の土に 成りぬとも 魂は翁の もとに往かなむ」)を、離れた道端に移轉したりするといふやうな行爲は、まさしくこの道統相承の歴史を無視切斷しようとするものと言はざるを得ない。

 相原氏は、私にとつて未見の友である。しかし志に於て百年の知己であり、平田篤胤大人・影山正治大人の同門の相弟子である。氏の捨身懸命の相承の志・尊皇討幕の志に、私も枯骨に鞭打つて追從しようと思ふ。氏の熱い思ひに對し、深い感謝の念を捧げる」と。



●柿之舍中澤伸弘氏の歌(不二歌道會『不二』平成二十一年十二月歳末號。柿之舍氏の追悼文に、「相原修君こそは、今後の神社界を導き、國學を世に弘めていくに相應しい人材」と)

○長月悲傷歌、併反歌
うつし世にうべなひがたき こと多くあるとは言へど いまだ吾れうべなひがたし 道の奧(く)の遠きさかひに 大御國ささふる若き 若草の剛(たけ)き瑞枝(みずえ)の 三つはしも散りにけるとか いくそたび耳にはすれどうべなひがたし
八甲田へ行くと語りし前の晩あと半日の命とは我も汝も知らざりしなり
友の夢に顯(た)ち現れて哮(たけ)びしは君の逝きたるその夜と知りぬ

○長月二十二日、相原修君、來訪の約束あり
今日一日訪ひ來む君を待ちわびて一人暮れの部屋に泣き崩(く)ゆ
ひねもすを家に待てども來ざりけりうけいれがたき友の死を知る
秋の一日本を返しにうかがふと言ひしことのは耳になほあり
あるじ亡く燈火消えし部屋に殘る我のかしたる書(ふみ)のいくさつ
天の下師にまさる師はあらざると 拙き我れにをりをりに もの問ふ汝(なれ)の目は澄みて 心正しき益良雄 修(をさむ)よ



●『相原修之命への獻歌』(平成二十一年十二月十三日、東京都青梅・大東農場内武道場に於る三柱合同慰靈祭。四十四名七十七首のうち。大東會館『道の友』平成二十一年十二月號)

○中澤伸弘氏
放つ矢の早くも暮るる年の瀬にああ偲ぶかな長月六日
汝(な)の問ひに答ふるすべなきかなしさを我はかこちて顯世(うつしよ)にあり

○福永武氏
朝けまで飲み語らひて契りたるかの日の結び我は忘れず

○細見祐介氏
幕末の志士にも勝る日の本のますらたけをと慕ひてやまず



●桃の會副代表・小田内陽太氏『悼、相原修兄』(河原博史氏『草莽崛起の集ひ叢書――草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』平成二十一年十二月・同血社刊に所收)

汝が住みし相模野のはて雲立ちて田面をよぎる翳の暗しも
丹澤の山も緑に默し居り遺族慰む言の葉もなし
いかならむ神の御旨かみちのくの神風激しく友は逝きたり
亡友送る祭の庭に遭ひし君を一年ののちまた送るとは
神酒酌みて御國學びの道統を語り明かしぬ裾野の一夜
明々とすがしき眼輝かせ道を究めむ夢を語りき
先覺の御靈を祀る笛の音のさやけさ遺し君は隱れぬ
幽界をうしはき坐す大神の日隅の宮に着きますか君



●時局對策協議會副議長・同血社主・河原博史氏『さらば友よ、また會ふ日まで』(『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』に所收)に曰く、「

 相原君の死が、我が陣營にとつて如何に大きな損失であつたか、今更ら某(それがし)が列記する必要は無いと思ふ。‥‥彼と某は歳を同じくして、神奈川の民族派同士であることからも、出會ひから今日まで、實に交流は重ねられた。‥‥

 神道に關して、某の質問責めに、彼はよく答へて呉れた。彼にとつては欠伸の出るやうな内容であつたかも知れぬが、いつも叮嚀に話して呉れた。彼は、大日本愛國黨と大東塾についても、よく語つた。何囘、同じ話を聽かされたことか。目を輝かせて話す彼に對して、恰も初めて聽く話のやうに、頷かざるを得なかつたことは、まるで昨日のやうである。‥‥

 當然の事乍ら彼とは、喧嘩も一度や二度ではない。電話で某が怒りを露はにすると、「後で掛け直す」と云つて切つて仕舞ひ、其の限り掛け返さない。ならばと、メールを送ると、「短氣は損氣ですぞ」と返信かあり、其の後の應答は、一切無い。某は其の都度、遣り場の無い怒りを、福田邦宏兄に打附けて聽いて貰つた。二三週もして、腹立たしさも忘れた頃、彼はひよつこり事務所に現はれ、「どう?最近は」と、何事も無かつたやうに酒を呑んで、醉ひの覺める朝になると、秦野へ歸つて行く。かう云ふ次第であつた。

 某の方こそ、「困つた男だ」と云つて然る可き相原君であるが、彼は或る時、某の苦難を察して、支拂ひを溜めてゐる印刷所へひとり赴き、某に内證で肩代りしてくれようとしてゐたことを、某は識つてゐる。亦、某の門下生や知人にも、目立たぬやう、常に應援してくれてゐたことも、某は識つてゐる。何度喧嘩しても、また直ぐ仲直り出來ることも、御互ひで良く識つてゐた。彼とは將來も、そのやうな關係を續けて、同じやうに歳を取つていくのだと思つてゐた。

 彼とは旅行にも行く筈だつた。來春、小田原で行はれる植樹祭には、某も末席で働けると思つてゐた。彼と共に縣内で護國神社を建立する計劃も、漸く現實の一歩を踏出しつゝあつた。何よりも我らの世代が、頑張らねばならぬ時代が、既にそこまで來てゐるではないか。

 九月十日、告別式齋場でのこと。大東塾の福永武兄が、某を見て傍に來られた。福永兄は、相原君と事故に遇ひ、まだ怪我も瘉えぬまゝ右腕を固定し、痛々しき姿であつた。某が勵ましと御悔みの言葉を掛けやうとするや否や、「洵に申譯ありませんでした」と、深々と御辭儀をした。某は其の言葉を聽いた瞬間、相原君と某は親友であり、掛け替へ無き友であつたことに、初めて氣が付いた。そして皮肉にも某は、友が既に此の世にゐない現實を識らされた。あらためて盟友・相原修を想ふとき、某、實は彼を尊敬してゐたことに氣付かされた。彼は志が高かつた。理想も大であつた。彼は、常、殉教者たらむと心掛けてゐた。

 さう云へば、彼との會話で印象深い話がある。『人は死んで、初めて正常な批評が下されるもの。今生で要領を使へば、批判は最小限度に留めることが出來る。けれど御互ひ、死んで後に評價されるやうでありたいね。』

 今、僞り無き感想として、盟友を亡くして氣付いた事が多くあつた。だが、某、今となつては遲過ぎた、などと思つてゐない。屹度、相原君とは再び會へる、さう確信してゐるからだ」と。

  • [5]
  • 敬神から來る平成維新の道。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月 3日(日)22時38分51秒
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●相原修神主『神奈川縣護國神社再建を祈る――わが縣民の「靖國」問題』(同血社中央本部・河原博史氏編集發行・平成二十年四月十日『天地無邊』第十五號。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』に所收)に曰く、「

 神奈川縣護國神社は、米軍の空襲により燒失したまま、未だ再建されず、今日に至つてゐる。この問題で米國を批難するのは當然のことであるが、しかしそれよりも先づ、戰後かくまで年月を經たにもかかはらず、再建できずにゐるといふこと、これを神奈川縣民は恥ぢとせねばなるまい。

 ところで、靖國神社に問ひ合はせると、神奈川縣出身で靖國神社に合祀されてゐる英靈は、その數、約四萬六千柱であるといふ。ちなみに廣島縣護國神社の場合は、核爆彈投下によりあとかたも無く燒失したにもかかはらず、戰後縣民の努力により再建に成功し、みごと、天皇皇后兩陛下の御神拜を實現してゐる。ただ、まだなぐさめとなるのは、右翼民族派の中に、皇憂楠心塾のごとく、既にこの護國神社問題に實際に着手しようとしてゐるひとらがあるといふことだ。この紙面をかりて、未見の同志・皇憂楠心塾の方々に、敬意を表したい。

 さて、近時、支那人が作製した「靖國」といふ映畫についての取り組みや、はたまた從來の八月十五日に、首相が靖國神社に參拜するか否かをとりあげて、それを運動とすること、そのことにあれこれ異を唱へるつもりは毛頭ない。斷固としてわが縣民も、靖國の神聖護持に努力すべきである。だが、他縣にはすべて郷土出身の英靈たちを自らの手で祭祀する護國神社が鎭座するのに、この神奈川縣のみが護國神社をもたないといふ事實に向き合ふそのとき、わたしは例へやうの無い空しさに襲はれる。他府縣に英靈祭祀をゆだねたままで、みづからの郷土では、それをおこなはずにゐるといふ現實があるのだ。

 かつて戰後六十年を記念し、全國護國神社は、天皇陛下より幣帛を賜つたと聽く。大御心は、かくあつたのだ。 では、はたして護國神社をもたない神奈川縣に對し、その際の幣帛は下賜されたのであらうか。わたしは、殘念ながらそれを知らない。

 なるほど、神奈川縣内にはおよそ千三百の神社がある。それらの神主に事をはかれば、再建實現も不可能であるまいと期待するひとも、あるやも知れぬ。そこで敢へていふ。期待するだけ、無駄であらう。神宮の分祠(伊勢山皇大神宮)を營利目的に利用し、ホテル経営・チヤペル建設と、ムチヤな商賈を續けたあげく、つひには破産させるやうな神主連中に、今更何を求めても、無駄である。

 もつとも、他を批判するのに急であつて、みづからを顧みない愚かさを、わたしとて知らないわけではない。天皇陛下と神奈川縣出身の四萬六千柱の英靈たちとに對し奉り、神奈川縣神職のひとりとして、まこと慙愧に耐へない。わたしの力は、あまりにも微力、非力すぎる。さりとて、默視すべき問題ではないのだ。だからこそ、恥を忍んで、右翼民族派諸君に訴へたい。

 昭和十七年七月、横濱市三ツ澤西町に、護國神社創建の計劃が、内務省より許可された。社殿の新築がすすめられ、工事は順調に行なはれた。翌年十一月には、上棟祭を無事執行、あとは鎭座祭をむかへるのみといふ段階まできた。ところが、昭和二十年の大空襲によつて、新築社殿は燒失、完成に至らず、八月十五日をむかへたのである。その後、土地は横濱市に讓渡され、今のごとき公園・競技場となつたのだ。現在、跡地には、慰靈塔二基と安置堂とが建立され、縣ゆかりの戰沒者慰靈行事が營まれてはゐるが、それは妥協の産物であり、とても有志・具眼の士らが納得ゆくものでないことは、自明である。

 なぜ、廣島縣民にできたことが、わが縣民にはできないのであらうか? となりの東京に靖國神社があり、そこで祭典が奉仕されてゐるから、神奈川には必要ないとでもいふのであるか? では、埼玉・千葉・靜岡・山梨等には、護國神社は存在しないのであるか? どの縣にも、立派な護國神社がある! 沖繩にだつてある! 北海道には三社もある! 二社あるところも少なくない。神奈川だけに無いのだ!

 これでよいのか! わが同志の諸君! この問題は他縣のひとらが抱へてはをらぬ、わが縣民のみの、いはば「靖國」問題なのである! 反米愛國を口にするのもよいだらう。尊皇攘夷を叫ぶのも、またそれもよし。されど、郷土の神聖を、かくも冒涜蹂躙されたままで、それを放置、まるで見向きもしないといふありさまでは、その熱烈至純なスローガンも、ただのパフオーマンスにしかすぎなくなるのではあるまいか?

 敬神の念無き攘夷思想なぞ、わが皇國に存在しないのである。敬神無き攘夷・反米思想なぞ、左翼がやることであり、憂國の士、尊皇愛國のひとが着手すべきことではないのだ! これはやつて、できぬことではない。他縣にできて、わが縣にできぬことはない。

 同志諸君! 護國神社再建は、必ず爲されねばならぬ。この祈りこそが、郷土の維新につながるのだ! まづ神事、後に他事。これが、わがくにびとの正しい在り方である。英靈をないがしろにして、何の愛郷、愛國だらうか! 眞に維新をこころざす者は、この問題を看過できないはずだ!」と。



●相原修神主『現代の平田篤胤』(不二歌道會『不二』神屋二郎大人命追悼集・平成二十年八月號。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』に所收)に曰く、「

 小生は愛國黨員でありますが、影山正治先生の『維新者の信條』を讀み、身が震へる思ひが致しました。就いては塾へ參上致し、ご指導を仰ぎたく存じます。又、現在刊行中の『影山正治全集』購讀を希望します。

「うむ。わかつた。先づは青山に來なさい。私は神屋だ。待つてるぞ!」

 平成三年秋――當時、まだ私は二十歳。この電話でのやりとりが、神屋先生と私との、最初の出會ひであつた。その後、神屋先生は未見の私に對し、さつそく『全集』の既刊分全部をお送りくださり、そこには、「來塾を樂しみにしてゐる」とのお手紙まで、わざわざ同封されてあつた。

 しかし、私は塾へ参上することが出來なくなつてしまつた。その理由は、翌年二月に、私がとある事件を起こした爲に、當局に身柄を拘束されるはめとなつたからだ。その拘束中の折、あれは麹町警察の留置場にゐたときであつたらうか、神屋先生が面會に訪れてくださつたのである。

「どうだ。元氣か。君の來塾を待つてゐたぞ。」

「申し譯ありません。こんなぶざまな行爲をさらした私の爲に‥‥。」

「神のみこころのまにまにだ。一生懸命、やつたことだ。あとは、今後どうするかだ。」

「影山先生の著書を座右とし、しつかり勉強して參ります。」

 その後、私は懲役四年の實刑判決を受け、東京拘置所・川越少年刑務所・奈良少年刑務所と、それぞれの地で獨房生活をすることとなつた。元來、刑務所に於いては、宗教書・辭典類の他は、特別な申請をしても、さう長くは手元に同じ書籍を所持出來ないことになつてゐたが、たまたま私の擔當警務官が國學院卒業者であつたことが幸ひしたのか、何の障碍もなく、『影山正治全集』は宗教書と認められ、常に私の座右にあつた。したがつて、服役期間中に、私が手にした書籍はといへば、『影山正治全集』のみであつたといつてよい。

 平成七年――やがて出所の日を迎へた私は、服役中に歸幽した祖父の墓參をするなどして數日を過ごし、しばし體調を整へたあと、やつと念願の大東塾へ參上することに決したのであつた。それに先立ち、私が神屋先生に差し上げた手紙には、次の歌を書きしるした。

武藏野に くき落ちてあれど 今さらに より來し子をも 哀れとは見よ

 これは鈴屋大人生前の門人となれなかつたことを、生涯に亙り痛恨事とした平田篤胤翁が、鈴屋大人の歿後、その後繼たる太平大人に差し出した歌である。篤胤翁の歌に、私の影山正治先生景仰の情を託したのであつた。初めて參上した塾には、鈴木代表・川田さん・森岡さん・杉田先生などがをられたやうに記憶する。私は神屋先生に感謝の意を表さうと、かつて愛國黨書記長・筆保泰禎氏より頂戴した、赤尾敏總裁直筆で「感謝」とある色紙を持參し、差し上げたことであつた。

 影山先生の著述に接し、神道國學の道に心ひかれ、何とかして神職となることが出來ないだらうかと、親類の國學院出の教師に相談し、國學院受驗を考へたりしたが、國學院某教授より、「お前のやうな前科者がなれるわけがない」と一蹴され、やはりさうしたものだらうかと、あきらめてもみたが、その思ひの消し去り難く、神屋先生にご相談申し上げたところ、鈴木代表から、「何とかなるだらう」とのお返事を頂戴した。

 種々の事情により、國學院受驗は適はなかつたが、大東塾の方々に八方手を盡くして戴き、出雲大社が運營する大社國學館へ入學。二年の研修期間を經て、神職資格を取得。爾來、十數年後の今日に至るまで、何とか神職として神明に奉仕してゐる。

 現在、私は、微力ながら氣吹舍本の復刻を續けてゐる。これは「昭和の平田篤胤」と評された影山正治先生の思想信條をより深く理解するには、平田學の究明が必要であるとの、私なりの考へによつたものだが、神屋先生は、よく激勵してくださつた。今、私の自室には、影山先生の「近詠抄」と題する遺墨が掲げてある。これは神屋先生より、「影山塾長歿後の門人としての大兄へ呈す」と、賜つたものである。隣には、篤胤翁の肖像畫を掲げてゐる。

 國學を稱するに、世人は、本居・平田の學といふ。しかし、私に於ける國學は、平田・影山の學なのである。毎囘刷り上つた復刻本を、塾にお屆けにあがると、「君はよくやるなあ」とおつしやり、神屋先生は、常に暖かく勵ましてくださつた。先達て、富士の裾野にある「渥美勝乃命碑」移轉奉告祭を、塾の皆様方のご指導を賜り奉仕する機會に惠まれたが、神屋先生最後の部外に於けるご講演が、渥美先生に關することであつただけに、實に感慨深いものがあつた――。

 顧みれば、高校を中退後、陸上自衞隊に入隊するも、任期中途で除隊し、すぐに「右翼」團体に加盟、その日より共産黨議員に暴行を加へたり、社會黨副委員長を幟竿で毆るなどしたり、逮捕拘留は當たり前で、遂には服役にまで至つた粗暴極まりない私を、かうして神職となるまでにお導きくださつた神屋先生のご厚情に對し、私は萬一にも報いるところがあつただらうか。今日、私があるのは、全く神屋先生のお蔭なのである。先生は最後の最後まで謙遜し、ご自身のことを語らずにをられたといふ。されど、先生のご指導を受けた者のひとりとして、私は、先生より賜つたご厚情のひとつひとつを、周圍に對し語らずにはをられない。

 私にとつて神屋先生は、まさしく現代の「平田銕胤」であつた。さうした先生のお姿を、後輩に言ひ繼ぎ語り繼いでゆきたい。恩師・神屋二郎先生のご冥福を、心よりお祈り申し上げます」と。



●相原修神主『死の國學』(防共新聞社『防共新聞』平成二十年十一月號。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』に所收)

 (生田萬先生は、)幕末の上野に生れ、若き日は藩校で儒學に專心するも、長じるにしたがつて、國學を好むにいたり、つひに江戸へ出て、篤胤翁の主宰する氣吹廼屋塾に入門。その頃より、儒學(支那學)を激烈に排し、また藩政批判をなしたため、藩を追放となり、身を江戸の平田家によせる。生田先生の、その非凡なる學才をめでた篤胤翁は、生田先生を養子となし、世人に對し、『をのが學問の後繼者は、萬である』と公言した。

 ところが、、いかゞしたことか、四年の歳月を經て、生田先生は平田家を去つてしまふのである。その眞相は、種々今日まであげつらはれてきたが、いまだ事實はあきらかになつてゐない。たゞ、生田先生の最期が、かの大鹽平八郎の變に呼應したかたちでの蹶起および自決であつただけに、さうした過激さに一因があつたのではないかと推測される。徳川氏執政下で、國學者が筆をとるといふことは、さうたうな注意が必要であつたのだ。外來思想に對しては、容赦なく論駁した篤胤翁が、幕府批判なぞは微塵もしなかつたのには、その當時の言論統制がいかに嚴しかつたかを物語つてゐるし、それだけ注意深く論述をなしてみても、篤胤翁のやうに、やがては筆ををられ追放の憂き目にあつてしまふのである。現代人の中に、國學者はみな佐幕派であつたと評論する輩が少なくないが、それはまつたく見當違ひである。篤胤翁と生田先生との例に、思ひを致すべきだ。

 さて、生田先生の著述と言へば、『古學千字文』などのやうに、世に流布したものもあるが、筆者は、こゝに生田先生『大學階梯』の著述に、次の文言あることを示したい。それは、

國學に從事する者は、死を嫌ふべきでない。この體を持つたまゝでは、果たす事ができないことでも、死して靈魂のみの存在となつてからは、その制限を解かれ、思ふがまゝに行動することができ、神と天皇と世の人々に對し、もろゝゝの幸ひを與へることも可能になるのだ。

 されば國學者たる者は、むしろ死を悦ばねばなるまい


との、これである。『死をよろこべ』。この一言を、こゝにあげたいがために、筆者は今囘、筆をとつたのである。

國のため 神州男兒 晴れやかに ほゝ笑みゆかん 死出の旅路へ

 嗚呼、山口二矢烈士に、かく辭世あり。國學は、水戸光圀の大楠公墓碑建立の精神を源流となし、荷田東丸・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤・生田萬‥‥の登場を見、數々の試煉を克服し、現代までこゝろある人々に、氣概を與へ續けてきた。楠木正成公の『七生報國』精神の不滅を願つて、世に生まれ出た大日本國學の目的は、大楠公のごとき忠臣義士の育成に寄與すること、それである。されば獄中の壁に、

七生報國
天皇陛下萬歳


と書き殘し、みごと自決した山口烈士の姿こそが、國學に從事する者等の師表とされねばならぬ。

 人間死後の靈魂は不滅である。それを學問的に究明せんとしたのが、國學なのだ。筆者は山口烈士に、その究極の理想像をみる。そして、かう表現するよりない。『山口二矢烈士は、大楠公の生まれ變はりであり、また神である』と。

 死を受け入れよ。そして恐れるな。否、それだけではない。むしろ死を悦ばねばならぬ。それが維新者の道なのである」と。

○贈正四位・東華生田萬國秀翁の、彼のめでたき言靈は、『大學階梯外篇』卷二「武道の本」(芳賀登博士監修『新修・生田萬全集』第一卷・昭和六十一年五月・教育出版センター刊に所收)に在り矣。
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/719

  • [4]
  • 國魂の繼承。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月 3日(日)18時56分15秒
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●福永武氏『祭詞』(大東會館『道の友』平成二十一年十二月號)に曰く、「

 相原修之命はしも、昭和四十五年五月八日、神奈川縣横濱市保土ケ谷區に、父・相原明、母・靖江の眞名子と生れ給ひ、すくすくと生立ち坐して人となり給ひしが、天稟の隨意に、自づから國の状態(さま)學びゆき、祖國(みくに)を憂ふる心、彌や益々に募りて、自衞隊(さきもり)の任(まけ)に一年が程を勤しみ給ひたるが、なほ憂國の思ひ止み難く、平成元年、瑞穗塾に入塾、社會黨委員長刺殺を計りしが、未然に逮捕拘束、未遂に終はり、大日本愛國黨筆保派に移籍したるのちには、共産黨黨員への鐵拳制裁事件により逮捕、更に翌年、社會黨書記長への鐵拳制裁事件により逮捕、平成四年には、自民黨本部襲撃事件をおこし、懲役四年の實刑判決を受け、服役とふ、當に祖國を思ふ彌猛心は、荒びに荒びて留まるところなかりしが、囚獄(ひとや)を出でし平成七年、先師・影山正治大人を敬ひ慕ふ心の儘に、大東塾夏期講習會に參加し給ひたり。

 故大東塾同人・神屋二郎大人の導きにより、神司の道、志すこととなりて、大社國學館本科を修め了へたる後は、神職となり、神明奉仕の道、神隨の道を極めむと、日々努め給ひたり。又た皇國學びの道を事とし給ひて、平田篤胤翁顯彰會を主宰、關係資料・遺跡の保存に盡し給ひて、『平田翁講演集』・『毎朝神拜詞記』・『毀譽相半書・兒の手かしハ』等の發行頒布に努め勵み給ひたり。かつて大東塾夏期講習會參加の折に詠み給ひし御歌、

ひたすらに すめらみことの いやさかを 祈り祈りて 我はゆかなむ、

とは、當に汝命の一世を貫く悲願なり。我ら拙かれども、汝命の悲願繼承を、茲に固く誓約ひ奉るものなり」と。



●相原修神主『毀譽相半書のあとがき』(平田銕胤翁編・中澤伸弘氏校註『毀譽相半書・兒の手かしハ』平成十六年七月・平田篤胤翁顯彰會刊に所收)に曰く、「

 平成十三年は、鈴屋大人の歿後二百年の年であつた。この事から、大人の故地・三重縣松阪市は、その記念行事として、山室山の大人奧墓の改修整備工事を行なつたのだつた。ここに、その資料をひいておく。

――改修整備趣旨――
 現在の本居宣長墓は、明治三十四年の宣長歿後百年祭の事業として、山室山奧墓保存會により、周圍に石柵・石柱・花筒が建てられてゐるが、近年、その現状と「遺言書」などの、かつての姿の相違が指摘されてゐる。このため松阪市としては、平成十三年が、本居宣長歿後二百年に當たるため、これを記念して、墓所をできる限り、本居宣長の「遺言書」及び「改正墳墓圖」に基づく當初の姿に戻し、史跡の價値を高めたい。

 この樣に、書面上の字句は穩當だが、事實は石柵等と同樣に、奧墓傍に建つ篤胤翁の歌碑までも撤去するといふ、とんでもない行爲だつた。

 歌碑は、慶應三年に、篤胤翁歿後門人の田丸藩士・加藤成次先生が、そこに建てたもので、銕胤翁の筆で、篤胤翁の、

なきがらは 何處の土に なりぬとも 魂は翁の もとに往かなむ

の詠を刻したものだ。

 歌の出典は、篤胤翁の出世作『靈能眞柱』であり、書中、翁は人間死後のたましひは、地獄や極樂や天上や黄泉の國などにゆくのではなく、この地上の幽なるところにとどまつて、そこから生あるものの行く末を、いつまでも見守つてゐるのだと説き、さうして尚ほ且つ歌碑の通り、翁自身のたましひは、鈴屋大人のもと、即ち大人のたましひが鎭まる山室山の奧墓邊にゆくのだと詠んでゐる。ちなみに秋田市手形山に埋葬されてゐる篤胤翁のなきがらは、衣冠束帶姿で正座し、山室山鈴屋大人奧墓の方角を向いてゐるといふ。

 工事終了後、現地に赴き、その光景を目の當たりにした私は愕然とした。建碑以來、凡そ百三十五年の永きにわたり、鈴屋大人奧墓と共に、子弟愛讃美の象徴とまで謳はれた篤胤翁の歌碑が、皮肉な事に、鈴屋大人の遺言を楯にとつて、奧墓から遠ざけられてしまひ、無造作に道端に放置され、しかも雨に打たれ泥まみれになつてゐたのだ。

 松阪市當局は、斯う語つた。事前に識者に相談したが、ひとりの反對者もなかつたと――。他人の認識不足を責めるのは容易だ。むしろそれより私は、氣吹舍の學恩を受ける者のひとりとして、自己の力の不徹底さを、翁たちに對し、先づ恥ぢた。

 當局との交渉は、途中、紆余曲折ががあつたものの、最終的には、こちらの要望が認められ、歌碑は一年のときを經て現状に復歸したが、私の腦裏には、かつて藤村が『夜明け前』主人公の青山半藏に詠ませた、

蟹の穴 ふせぎとめずは 高堤 やがてくゆくべき 時なからめや

の歌が、つくづく想ひ起された事であつた。まさに小事は、大事だ。

 新修版の篤胤翁全集が復刊となつたり、或は新資料の發見などに伴ひ、色々な研究書が巷にあらはれる樣になつたりと、平田の學統への關心度は、日増しに高まつてゆくかの樣にみえる。しかしそれは學問の對象にすぎず、凡そ篤胤翁の示された皇國學び(本教)を實踐する營みとは、遠くかけ離れたものであり、翁のこころを顧みる事など、皆無である。それゆゑに歌碑撤去の樣な、鈴屋大人からの篤胤翁の切離しが、公然と行なはれてしまつてゐるのだ。

 荷田春滿・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤翁、「この四代はも、國忠の志あひつらぬける事、一連一貫の玉の如きものになん」(大國隆正)。何れかを切離さうとすれば、それのみか、全體の生命までもが失はれてしまふ――。

 篤胤翁を、國學の本流から逸脱した學者であると誹謗する人びともあるが、本書所收の『毀譽相半書』は、別名を「本教道統傳」といひ、内容は、篤胤翁が鈴屋大人の正統な繼承者である事を示したもので、また『兒の手かしハ』も、さうした道統護持の爲に世に出されたものだから、本書を一讀したならば、その事が誤りであるといふ事を、たちまち了解できるはずだ。この上梓の目的は、そこにあるといつてよい。‥‥

 本書を、我が宇氣比のしるしとして、銕胤翁の靈前に獻じようと思ふ」と。



●中澤伸弘氏『平田篤胤翁顯彰會編「毀譽相半書・兒の手かしハ」に寄す』(『不二』平成十七年四月號)に曰く、「

 (平田篤胤翁)顯彰會などと言ふものの、實は相原兄が一人、個人で行なつてゐるものであり、‥‥相原兄は、この事(『毀譽相半書』は、新修全集に影印の形で收めらるゝのみで、其の流布せざる)を憂ひ、私(中澤氏)に、何とか本書の飜刻を依頼し、廣く世に弘めたいと言つて來られた。私は翁を追慕する兄の熱意に打たれたのである。‥‥飜刻を依頼された一昨年の春以來は、全く寸暇を惜しんで、その作業に當つた。出版の費用は相原兄が負擔するものの、私は全くの無報酬に甘んじた。その樣な事よりも、飜刻の作業を進めてゆく中で、そこに表れる人物の面影が、影法師の如く浮ぶことが、何度かあつた。全く毀譽相半なのである。人間として、本人は正直に眞面目に生きてゐても、その傍らの人には、迷惑や不滿等に映る事がある。生きると言ふ事は、實は辛く悲しい事なのだが、それゆゑに一度しかない人生の面白さや生の實感が味はへるものだと言ふ事を、私はこゝより謙虚に學んだのであつた。篤胤の、それを取り卷く人々の、また重胤の、同じくその周圍の人々の評價と喰ひ違ひ、その損得勘定‥‥。‥‥書簡は、その人の姿を赤裸々に示すものであり、一級史料には違ひないのだが、公開を前提にはしてゐない事もふまへねばならないだらう。

 本書は廣く多くの人に、手にして讀んでいただきたい。その事が、相原兄の思ひにつながるものであり、二年近くに亙つて、只管この作業に從つた私の眞意でもある。實は本書が成つたあとすぐに、神屋(二郎)氏より、本書の紹介を『不二』に載せたいが、お願ひ出來ないかと、仰せを受けた事があつた。自畫自贊は、何としても心憎い事ゆゑ、その折は丁重にお斷りしたが、『神社新報』にも一文を書いて呉れると言つた後輩が、半年を經ても猶ほ動かぬし、諸方の先生方に贈呈したものの、その半分が禮状も屆かぬと言つた冷やかな扱ひに、失禮乍ら些か痺れを切らしてゐたのも事實である。

 相原兄は、この、世を擧げての沈默に、「いづれは顧みられる事がありませう」と、私信に冷靜に綴つてはゐるが、それは昨冬、ご尊父が重篤な病ひに倒れられ、その介護の爲に、神明奉仕を斷念、職を辭して實家に戻つたのである。日々傍らに仕へると言つた状況は、察しても餘りある。「常に親不孝を重ねて來た自分ゆゑ」と述懷する兄の悲情や、またあはれである。その心配、またいくばくぞ。

 なほ本書、後記にもある如く、電腦機器の故障により、丁重に見た筈の誤植等が、そのままとなつたり、やゝ見苦しい所もあるが、素人版ゆゑ、そこは御見逃し願ひたい。ただ『毀譽相半書』の註61の『答問抄』は、『擧睫』と同じく、雛田義方の著である事に思ひ至らなかつた點を補ひたい。

 相原兄は、「篤胤翁の思ひを世に弘める爲に」と言ふものの、今の彼の状況を思へば、一册でも多くの人の手に渡つてほしいと思ふや、切なるものがある。一册三千圓程度で頒かつとの事だが、ここは父上の彼の思ひを和はし、彼の心を慰める爲にも、志ある方は‥‥一本を求められ、芳情を寄せられたい。厚かましい自畫自贊は醜聞とは言へ、今は時間がないと思はれた次第」と。



●相原修神主『葬祭と墳墓の奪還――平田篤胤の神道論』(第三囘「草莽崛起の集ひ」講演・平成十六年五月二十三日・於神奈川縣民センター。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』平成二十一年十二月・同血社刊に所收)に曰く、「

 本居宣長先生の御墓が、何處に在るか、て云へば、伊勢松阪に山室山てふ處があります。‥‥ですから今日、我々が本居先生に御會ひしたいな、と思つたら、この山室山に行けば良い。そして是れ(御墓の寫眞)見て貰ふと、こゝね、此處にはね、小さい石が建つてゐる。これは歌碑なのですけれども。是れは、誰の歌碑が建つてゐるか。是れ(歌碑の寫眞)ですね、平田篤胤先生の歌を刻んだ碑が建つてゐる、宣長先生の隣に。其の碑にはね、かう書いてあります。

なきがらは 何處の土に 成りぬとも 魂(たま)は翁の もとへ往かなむ

 これは如何云ふ事か。私・篤胤は、何處で死ぬ事があつても、其の靈魂は、必ず本居宣長先生の許へ往くのだ、と。さう歌つてゐるんですね、篤胤先生は。だから篤胤先生の死後、門人達は、其の意を汲んで、宣長先生の墓の横に、篤胤先生の歌碑を建てた。では、亡骸は何處に祀られてゐるのか。篤胤先生(御墓の寫眞)、秋田縣手形山、秋田市から直ぐ近い。是れが篤胤先生の御墓、自然石で出來てゐる。‥‥其れで是れ正面、何處を向いてゐるか。先の歌が示すやうに、伊勢松阪、本居宣長先生の御墓の方を向いてゐるんです。此の正面、碑は、墓碑はね。そして何と、埋葬されてゐる亡骸は、今も正裝。神主がこれ、冠を被る。そして裝束を着ける。其れを着て、正座して、宣長先生の方を向いてゐる譯です、今も。當時、土葬ですからね。其れ位ゐ、篤胤先生てふ者は、死んでも師匠の許へ往きたいんだ、と。ですから、私から云はせると、篤胤先生の魂は、本居宣長先生の御墓の横に居るんだ。山室山てふ場所は、さう云つた聖地である。其の樣に考へる譯で、實際に明治天皇樣も、或は大正天皇樣も、或は昭和天皇樣も、伊勢に行幸される時は、山室山に御供へを持つて行つたんです、ずーつと。其れ位ゐ日本人として、聖地として崇められてゐる。

 ところが平成十三年のこと、本居宣長先生歿後二百年祭記念行事に於て、伊勢の馬鹿役人共が、「本居宣長先生の御墓は、客寄せの爲に皆來るけど、其の隣に、平田篤胤の歌碑なんて云ふのが在つたら、一寸思想的に良く無いなあ。就ては其の歌碑を、何處へか退かしてしまへ」と云つて、これを退かしてしまつたんですよ。今、寫眞では竝んで、ね、ありましたけれども、昔は『子弟愛讃美の象徴』とまで云はれた。師匠と弟子の、死んで後の魂の在り方として、皆がね、讃美した。其の御墓が他に離れちやつた。私、現地に行つて見て來ましたけれども、參道の道端に轉がされてゐる、歌碑が。それで私は、此のまゝぢやいけない、てふ事で、神社本廳、或は民族派團體、或は神主の先輩達に尋ねてみた。其の時、返つてきた答へは、「良いぢやないか。御墓はちやんと在るんだらう?」と。「歌碑は轉がつてゝも、腐る物ぢや無いし、良いぢやないか」。かう云ふのが、神社本廳の考へ。或は民族派と云はれる人でも、識者と云はれる人達の考へです。これでは埓が開かない、てふ譯で、何囘も伊勢に足を運んで、松阪市役人の前で、この『靈能眞柱』てふのをね、十何囘位ゐ講義しましたよ。そして或は伊勢に皇學舘大學てふ大學が在るから、皇學舘出身の同志に依頼して、何とか其れが戻るやうにしてくれないか?てふ要請をして、其の後一年位ゐ掛かつて、今何とか歌碑は戻つたけれども、うかゝゝしてゐると、さう云ふ事を平氣で遣られてしまふのが、現在の日本です。

 國體の闡明、國體の護持と、口で云ふのは簡單だけれども、自分自身は如何なんだ?と。「天皇樣に御祀りだけしなさい。皇太子殿下・妃殿下に、外交なんかやらないで、宮中祭祀に徹せれば良い」と、御意見を抱く――申し上げるんだつたら、家の御祀りを神式で行ひなさい。其れもせずして、宮中に御意見申し上げるてふことは、不遜不忠の極み。よく明治時代、明治天皇樣が相撲を良かれとしてゐるのはいけないてふ事で、當時の豪桀な明治天皇樣を投げ飛ばした、さう云ふ事を例に喩へる(愚案、意見者は之に喩へて、忠義面してゐる心算との謂ひならむ)。或は頭山滿先生や内田良平先生やが、宮中に於て何かあつたら、宮内廳達に對して、「それはいかん」と云つてやる。しかしね、其れは全て白裝束を着てゐるんですよ、皆が。平民である我々が、宮中に對して、何事か申し上げる時は、死ななければならない。これは三島由紀夫も云つてをります。行動は一度限り。さう云ふ意味では、野村(秋介)先生が云ふのも、さう云ふ事ではないかと拜察致します。其れ位ゐ、嚴しい問題です」と。

  • [3]
  • 少年・相原修氏

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月 1日(金)23時11分22秒
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●相原修氏『蹶起趣意書』(平成四二月十一日。自民黨解散勸告書)に曰く、「

 ロツキード・リクルート疑獄事件の元凶であり、三島由紀夫・森田必勝兩烈士、靖國神社の英靈を冒涜した國賊・中曾根康弘を最高顧問とする、神武天皇道義建國の精神に反する容共金權、腐敗の自民黨は解散せよ!
 いくら法律や組織をいぢくり廻しても、それを運營するのは人である。その人の心が腐つてゐては、萬事、おしまひである!
 リクルート議員であり、『大東亞戰爭は、侵略戰爭だつた』とぬかすやうな宮澤が、國會で『政治倫理の確立が急務である』と言つてゐるが、宮澤のやうな腰拔けが總理大臣になり、『倫理』を唱へるだけでも、自民黨は絶望的であり、中曾根や金丸などは、既に倫理・道徳を無視して、「倫理・リンリと、鈴蟲の泣くやうな聲を出して騒いでも、どうにもならぬ。倫理は金だ! 數だ! 力だ! 勝てば官軍だ!」と拔かして、私利私欲のカイライとなり、政界を毒し續けてゐる。
 日本は、今、自民黨のインチキ・ゴマカシの金權政治で目茶苦茶となり、このまま放任しておけば、天皇國日本は滅亡してしまふ!
 今こそ、國民は、日本的民主主義の精神である維新の五箇條の御誓文、そして神武天皇道義建國の精神をあらはした、教育勅語を復活して、日本人は、天皇陛下を中心に團結せよ!
 日本國民精神統一の指導原理は、明治天皇と言つてゐるし、マホメツトに至つては、劍とコーランの教義を説いたのだ!
 キリスト者も日蓮主義者も、眞の求道者は、宗教道徳を輕視した亡國醜團自民黨打倒のために、革新的宗教運動をまきおこせ!
 アジア解放の同志であり、友である韓國人たちよ! 憎むべきは、天皇陛下ではなく、北朝鮮の金日成に媚びる自由と民主主義の敵である自民黨であり、日本國民ではない! 日本人も韓國人も、合邦運動にいのちをかけた、李容九をはじめとする志士のねがひにこたへ、日韓共同で北朝鮮を解放し、金日成獨裁下に苦しむ朝鮮人を救へ!
 今こそ、眞の日本人は、天皇・キリスト・釋迦・孔子・マホメツト等の教へは一つなる事を信じ、人道主義の理念により、社會の改革を斷行せよ!
 明治天皇陛下の聖勅である教育勅語を、國民精神統一の指導原理とせよ!
 宗教道徳の精神に反する共産主義に反對し、資本主義の是正を斷行せよ!
 神武天皇道義建國の大義を明らかにし、君民一體の日本的民主主義を大成して、愛國維新の烽火を上げ、亡國自民黨體制を打倒せよ!

 紀元節萬歳! 建國祭萬歳!
天皇陛下萬々歳!

 赤尾敏先生の提唱された建國祭の日に。
 皇紀二千六百五十二年
 平成四年二月十一日
  相原 修」と。



●相原修神主『「平田翁講演集・復刻版」刊行に就いて』(『不二』平成十三年十二月號)に曰く、「

 平成四年二月・紀元節の日、國體破壞の元凶は、左翼勢力などではなく、戰後長期に亙り政界を牛耳つてきた、自由民主黨であるとの考へに基づき、單身、拳銃を携行して、糾彈行爲に出たのであつた」と。



■神屋二郎翁「編輯後記」の相原修神主に關する證言(大東塾・不二歌道會『不二』平成四年四月號)に曰く、「

(平成四年)二月十一日、元大日本愛國黨黨員・相原修君が、自民黨本部に突入、總裁室を占據し、『自民黨解散勸告書』を當局に手交、縛についた。相原君より、(大東)塾本部に電話があつたのは、昨年十月の候であつた。

眞の日本人として生きたく、影山(正治)先生の『維新者の信條』などを購讀し、勉強してゐる者ですが、更に大東塾をお訪ねして、直接の御教導をお願ひしたい』

といふことで、『何時でも結構、お會ひしませう』と答へ、『影山正治全集』及び『不二』の購讀申込みを受けた。

 三月八日、起訴が濟み、接見禁止が解けたことを知り、麹町警察署に拘留中の相原君に面會を求め、十五分間面會、今後豫想される拘置所、引續き刑務所で送る、少なからざる期間、充分健康に留意し、こころを練り、眞の日本人たるべき活學を學ぶやう希望し、別れた。相原君は、思ひがけない面會人の編輯子(神屋二郎翁)をみて、滿面喜びに輝やかせながら、今後の努力を誓ひ、事件についていろいろ語るところがあつた。相原君の言葉のなかで、特に印象に殘つたのは、次のごときものであつた。

『『影山正治全集』第十五卷の、荒木貞夫大將と影山塾長との對談の中の、相澤中佐が永田鐵山事務局長を斬殺する前に、「もし間違つてゐましたら失敗せしめ給へ、間違つてゐなかつたら成功せしめたまへといふので、上京する前に伊勢の大神宮に參拜し、上京してからは明治神宮に、一心に參拜して居るのです」といふ一節を讀んで、深く感動、明治神宮に祈願を籠め、紀元の嘉節にあたり、腐敗墮落の極にあり、且つは日本の前途を危殆に陷しいれんとする政府竝びに自民黨に一撃を與へ、引いては平和ムードに浸る國民を覺醒せしむべく、一路、自民黨本部に向ひました云々』」と。

  • [2]
  • 相原修神主の功績。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年12月22日(火)23時16分20秒
  • 編集済
  • 返信
 
■草莽崛起の集ひ叢書『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』(平成二十一年十二月・同血社刊)
http://green.ap.teacup.com/soumou/

一、相原修神主肖像・寫眞

一、河原博史氏「集ひの目的」

第一章 講演録
 第三囘「草莽崛起の集ひ」講演(平成十六年五月二十三日・於かながは縣民センター)
 相原修神主『葬祭と墳墓の奪還――平田篤胤の神道論』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/692

第二章 資料
 相原修氏『蹶起趣意書』(平成四年二月十一日)
 平田篤胤翁顯彰會刊行一覽【註】

第三章 遺稿輯
 相原修神主『死の國學』(防共新聞社『防共新聞』平成二十年十一月號)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/693
 相原修神主『現代の平田篤胤』(不二歌道會『不二』平成二十年八月號)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/573
 相原修神主『神奈川縣護國神社再建を祈る――わが縣民の「靖國」問題』(同血社『天地無邊』平成二十年四月號)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/598

第四章 追悼文
 市村 悟氏「嗚呼、相原修大人命」
 伊藤 滿氏「思ひ出のデンキブラン――相原修追悼記」
 小田内陽太氏「笛の音のさやけさ遺し」
 近藤勝博氏「つゝしみて相原修大人命の神靈に捧ぐ」
 平澤次郎氏「棺を覆ひて」
 福田邦宏氏「幽顯一致、死は神變なり」
 藤本隆之氏「相原修大兄を偲ぶ」
 眞橘道義氏「幽顯一致――相原修大人之命の神靈に捧ぐ」
 丸川 仁氏「靈界物語――相原修論」
 三澤浩一氏「相原修大兄に誓ふ」
 河原博史氏「さらば友よ、また會ふ日まで」

一、河原博史氏「あとがき」


【註】

■井上頼國博士監修・平田學會藏版『平田翁講演集』(大正二年六月・法文館書店刊。平成十三年六月・平田篤胤翁顯彰會・代表相原修神主覆刻。顧問福田進氏監修。名著出版刊。天金。不鮮明・不良文字等は可能の限り修正、明かな誤字は之を改めたり)
『古道大意』
『俗神道大意』(巫學談弊)
『歌道大意』
『醫道大意』(志都能石屋)
『儒道大意』(西籍慨論)
『佛道大意』(出定笑語)

■平田篤胤翁原著・平田銕胤翁改刻・相原修神主校訂『毎朝神拜詞記』(明治六年版。平成十四年二月・平田篤胤翁顯彰會刊・相原修神主覆刻)
一、平田篤胤翁尊影
一、平田銕胤翁尊影
一、平田延胤翁尊影
一、平田盛胤翁尊影
一、千家達彦出雲大社教管長「『神向・心向』の心の樂しさ――篤胤翁の『毎朝神拜詞記』公刊に寄せて」
一、森田康之助博士「解題の記」
一、『毎朝神拜詞記』
 * 神祇伯資敬王「毎朝神拜詞記の序」
 * 神拜詞目録
 * 自「一・皇居を拜む事」
   至「二十八・先祖の靈屋を拜む詞」
 * 平田篤胤翁「跋」(文化八年正月)
 * 平田銕胤翁「跋」(嘉永三年六月・明治六年十二月)
 * 附載『大祓詞正訓』(明治十二年版『大祓詞正訓』)
 * 附載『天津祝詞』(同上)
 * 平田銕胤翁「追記」(天保二年十一月)
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/5
一、不二歌道會會友・佐々木奎文翁「跋」
一、大社常陸教會勤務・相原修神主「をはりに」
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/687

■『篤胤學と靈魂の往くへ』(未見)

■平田銕胤翁編・中澤伸弘氏校註『毀譽相半書・兒の手かしハ』(平成十六年七月・平田篤胤翁顯彰會刊)
一、平田銕胤翁尊影
一、毀譽相半書板本・兒の手かしハ寫本の寫眞
一、山室山平田篤胤翁歌碑の寫眞
一、柿之舍・中澤伸弘氏「解説」
一、『毀譽相半書』(本教道統論)上卷・下卷餘論(柿之舍文庫・中澤伸弘氏藏本)および中澤伸弘氏「註」
[註61の訂正――『答問抄』は、『擧睫』と同じく、雛田義方の著]
一、『兒の手かしハ』正・追加(豐橋市立中央圖書館・羽田野敬雄翁書寫舊藏本)および中澤伸弘氏「註」
一、中澤伸弘氏「氣吹舍二世・平田銕胤翁小傳」
一、附録・平田銕胤翁建白書「出雲大社意見」(明治二年二月。無窮會神習文庫・井上頼國博士『玉□[竹+鹿]』百八十七卷所收)
一、相原修神主「あとがき」・附、本居宣長大人奧墓及び平田篤胤翁歌碑・平田銕胤翁奧墓の寫眞

■相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』第一集
一、荷田大人啓‥‥‥‥荷田東麻呂「荷田大人創學校啓」・平田銕胤版・平成十九年八月
一、古道訓蒙頌‥‥‥‥久保季茲・平成十九年十月
一、赤縣太古傳成文‥‥平田篤胤・平成十九年十月
一、千字文‥‥‥‥‥‥渡邊重石丸・平成十九年九月
一、古史略‥‥‥‥‥‥角田忠行・平成十九年十月

■相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』第二集
一、新刻・古語拾遺‥‥齋部廣成「古語拾遺」渡邊重石丸版・平成二十年正月
一、古學二千文‥‥‥‥生田國秀・平成二十年五月
一、説文解字序‥‥‥‥許愼・平田銕胤版・平成二十年六月(柿之舍文庫・中澤伸弘氏藏本)
一、玉鉾百首‥‥‥‥‥本居宣長「讀本・玉鉾百首・附本末歌」・平成二十年六月
一、入學問答‥‥‥‥‥平田篤胤・平成二十年七月

■相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』第三集――奉祝天皇陛下御即位二十年
一、靈能眞柱・上‥‥‥平田篤胤・平成二十一年正月
一、靈能眞柱・下‥‥‥平田篤胤・平成二十一年正月
一、天御中主神考‥‥‥渡邊重石丸・平成二十一年正月
一、神徳略述頌‥‥‥‥久保季茲・平成二十一年正月
一、童蒙入學門‥‥‥‥學則・平成二十一年正月
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/16
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/657

【參考・平田大壑先生の著述】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/7


【遺稿拾遺、他】

一、神屋二郎翁「編輯後記」の相原神主に關する證言(大東塾・不二歌道會『不二』平成四年四月號)
一、『歌三首』(第四十三囘大東塾夏期講習會歌會。大東會館『道の友』平成七年九月號)
一、『圖書紹介・荒川久壽男「維新の群像――志士とやまと魂」』(『不二』平成十二年三月號)
一、『わが愛誦する一首』(『不二』平成十二年九月號)
一、『圖書紹介・森田康之助「日本の史眼――顯と幽との相關相即」』(『不二』平成十三年八月號)
一、『「平田翁講演集・復刻版」刊行に就いて』(『不二』平成十三年十二月號)
一、中澤伸弘氏『平田篤胤翁顯彰會編「毀譽相半書・兒の手かしハ」に寄す』(『不二』平成十七年四月號)
一、『大日本は神國なり――佛ごころを排除せよ!』(同血社『天地無邊』第六號・平成十八年一月號)
一、『玉松操――國學の書・その一(續)』(防共新聞社『防共新聞』平成十九年七月號)
一、『神風は必ず吹く』、竝びに『謹告「伊吹廼舍先生及門人著述集一」發行にあたつて』(『防共新聞』平成二十年一月號)
一、「質疑應答」神屋二郎翁に對する質問、竝びに『特別寄稿・現代維新の原點』(同血社『草莽崛起の集ひ』第三輯第二版・平成二十一年十一月刊)

  • [1]
  • 相原修神主事歴稿。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年12月22日(火)23時06分36秒
  • 編集済
  • 返信
 
○昭和四十五年庚戌・當歳、五月八日、神奈川縣横濱市保土ケ谷區に生る。尊父は相原明、母堂は靖江。即ち相模國の御民なり。

○昭和六十三年・數へ十九歳、■月、高校中退後、陸上自衞隊に入隊。

○平成元年・二十歳、練馬駐屯地(當時、第一普通科聯隊第三中隊配屬)部隊正門正面に於る、「大日本愛國黨」總裁・赤尾敏翁の大獅子吼を拜聽して、感激措く能はず。
十月、任期中途(一年程)にて除隊。
十一月、「瑞穗塾」(寺澤次夫會長・伊藤滿氏・瀬野壽夫書記長)に入塾。所謂る少年右翼として活躍す(平成二年放送「地球發19時=密着!少年右翼」)。
■月、社會黨委員長刺殺未遂にて逮捕拘束。

○平成二年・二十一歳、二月六日、赤尾敏翁歸幽。
■月、「赤尾敏先生遺訓繼承大日本愛國黨」に入黨(筆保泰禎書記長の門下)。
■月、共産黨黨員への鐵拳制裁にて逮捕。

○平成三年・二十二歳、■月、社會黨書記長への鐵拳制裁にて逮捕。
十月、影山正治『維新者の信條』に感動し、『影山正治全集』・『不二』の購讀を希望す。大東塾同人・神屋二郎翁との縁あり。

○平成四年・二十三歳、一月二十日、愛國黨筆保派を離黨。期する所あるべし。
二月十一日、單身、自民黨本部を襲撃糾彈、總裁室を占據すること、凡そ七時間、『自民黨解散勸告書』を當局に手交、「紀元節奉祝歌」を歌ひ、「第百二十五代天皇陛下萬歳」と奉唱して、遂に縛に就きたり矣。
三月十五日、拘束中の麹町警察署留置場にて、神屋翁と面會。
懲役四年の實刑にて服役。東京拘置所・川越少年刑務所・奈良少年刑務所にて獨房生活。ひたすら『影山正治全集』を讀む。

○平成七年・二十六歳、■月、出所。
七月、大東塾夏期講習會に參加。

○平成八年・二十七歳、■月、神屋翁の周旋により、大社國學館(於出雲)に入學を許さる。

○平成九年・二十八歳、六月、第十九囘神職養成機關普通課程生徒合同實習(於神都神社本廳研修所)に參加。

○平成十年・二十九歳、三月、大社國學館本科卒業(第五十期)、神職資格を取得。出雲大社教教導職(教師)と爲る。
■月、大田區大森の某神社に奉職。
■月、堀光夫氏の知遇を得、「月曜研究會」(幹事=高森明勅・大山晉吾・木田孝朋・藤本隆之氏)に參加。中澤伸弘・西岡和彦・松本丘氏等と親交を温む。

○平成十三年・三十二歳、六月、契沖翁歿後三百年・本居宣長大人歿後二百年に當り、國學先學の志を繼承せむことを誓ひ、平田篤胤翁顯彰會代表として、『平田翁講演集』を覆刻出版し、平田篤胤大人竝びに影山正治翁の墓前に、之を捧げたり。時に大社常陸教會勤務。

○平成十四年・三十三歳、二月、『毎朝神拜詞記』を復刻出版。千家達彦出雲大社教管長は「『神向・心向』の心の樂しさ――篤胤翁の『毎朝神拜詞記』公刊に寄せて」を、森田康之助博士は「解題の記」を、不二歌道會會友・佐々木奎文翁は「跋」を寄せたり。

○平成十六年・三十五歳、五月二十三日、神奈川縣民センターに於る、第三囘「草莽崛起の集ひ」にて講演。演題『葬祭と墳墓の奪還――平田篤胤の神道論』。出雲大社千家國造親筆「神靈眞柱大人」の掛軸を掲ぐ。
七月、柿之舍中澤伸弘氏の協力を得て、『毀譽相半書・兒の手かしハ』を復刻出版。
冬■月、尊父介護の爲めに、神明奉仕を斷念、職を辭して實家に戻る。

■年■月、八幡神社權禰宜。
■年■月、出雲大社相模分祠神職。

○平成十九年・三十八歳、十月、『伊吹廼舍先生及門人著述集』第一集五部五卷を復刻出版。

○平成二十年・三十九歳、六月二十七日、大東塾同人・不二歌道會代表・神屋二郎翁歸幽。
七月、『伊吹廼舍先生及門人著述集』第二集五部五卷を復刻出版。
八月、「新嘗を祝ふ集ひ」を通して、桃の會副代表・小田内陽太氏の懇請により、靜岡縣裾野に於る渥美勝翁(千家尊建翁の同志、赤尾敏翁は晩年の直門、影山正治翁は歿後の門人)奧津城遷座祭の齋主として奉仕。以降、九月の水戸に於る地鎭祭、十月の「渥美勝命之碑」(頭山滿翁揮毫)移轉奉告祭、十一月の鎭座奉告祭、日本青年館に於る渥美勝大人八十年追悼顯彰祭の齋主を勤む。

○平成二十一年・四十歳、正月、天皇陛下御即位二十年を奉祝し、『伊吹廼舍先生及門人著述集』第三集四部五卷を復刻出版。
九月六日、八甲田神社參拜・八甲田山頂に於ける祖國再建祈願祭・弘前竝龍飛崎に於ける松陰先生足跡巡囘・十和田神社參拜・平田篤胤先生墓所參拜へ、將に行かむとするの途次、岩手縣八幡平市中ノ平に於て、不慮の輪禍により、同志二名(靈山神社禰宜・足立徳史氏、竝びに、大東會館學生寮寮長・山下貞一氏)と共に歸幽。享年四十。
九月七日、岩手縣一關市にて通夜祭。
九月八日、岩手縣岩手郡雫石町にて火葬。
九月十日、神奈川縣秦野市にて葬場祭。
十一月八日、神奈川有志の會(呼掛人代表・伊藤滿氏)による「相原修君を偲ぶ會」が、横濱市に於て行はる。集ひし者、凡そ八十人なり。
十二月四日、大東靈園にて納骨祭竝びに納骨之儀。
十二月十三日、東京都青梅・大東農場内武道場にて、三柱合同慰靈祭(大東會館『道の友』七百七號=十二月號に「合同慰靈祭齋行の報告」・「獻詠――四十四名七十七首」あり)。祭主・影山正彦理事長、齋主・福永武氏。參列者、凡そ百五十。
十二月十八日、同血社・河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』發行。



【相原修神主の歌】

  平成七年七月二十九日、大東塾夏期講習會(於愛知縣東加茂郡足助町「一の谷」)にて
○あなうれし 足助の神の 御前にて はじめてとなふ 大祓詞
○ひたすらに すめらみことの いやさかを 祈り祈りて 我はゆかなむ
○民族の もとついのちを かいまみる 今日の學びを 我は忘れじ


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