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  • 平田篤胤大人遺文

  • 投稿者:備中處士
 
 『仙境異聞』に、「寅吉(仙童。高山嘉津間)、余(大壑平田篤胤先生)が面を熟々く見て打笑みつゝ有りけるが、思ひ放てる状にて、『あなたは神樣なり』と、再三いふ」と。

 『印度藏志の序』に、「印度に唯摩居士、支那に東坡居士、東華に大壑居士」と。

 碧川好尚翁『童蒙入學門の跋』(天保二年九月)に、「學師大壑先聖」と。

 贈正四位・利鎌屋生田萬菅原國秀翁『醫宗仲景考の序』に、「(平田)先生の徳、蓋し神祇を羽翼し、仙眞を儔匹する者と謂ひつ可し矣」と。『大壑平先生著撰書自序』(天保五年十一月二十五日)に、「先生の前に、未だ先生有らず、先生の後、豈に先生有らむや哉。‥‥夫れ先生の道は、即ち皇神の道也。先生の教は、即ち神僊の教也。‥‥其れ將た神爲るか乎、抑も亦た僊爲るか乎」と。『大扶桑國考の跋』(天保五年立冬日)に、「伏して惟みるに、大壑平先生、識は無底より潭かく、明は甘淵より徹ほる、固より是れ古今五千載の一人、宇宙一萬里の獨歩也」と。

 清園西川淡路守須賀雄翁『國之眞柱』に、「(平田先生は)古往今來、更に有ることなく、宇宙間の一人」と。

 山田孝雄博士の曰く、「全國神職の一半の支配者たる白川家は、文化五年(七月)より、他の一半の支配者たる吉田家は、文政六年(十二月)より、いずれも篤胤の古學神道を採用せるによりて、こゝにわが神職は、文政六年を以て、一統して古學神道を奉ずることゝはなりしなり。‥‥この文政六年を以て、神道の維新時代のはじめとすると共に、この文政六年を以て、佛教渡來以後、陵夷の運に向ひたりし神道の復活と認むるものなり。實にこの年は、わが神道が一千年以來の積弊より覺醒せし、記憶すべき年なりとす」と。


【參考】

平田篤胤先生『童蒙入學門』訓讀
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/16

スレツド「産土大神の御神徳を仰ぎませう!」
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t21/l50

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  • [30]
  • 固是五千載之一人、宇宙一萬里之獨歩。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 6月13日(土)15時26分8秒
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●大壑平田篤胤大人『天津祝詞考』(一名「大祓太詔刀考」。文化十二年四月三日考。文政五年五月十六日・篤眞=平田銕胤翁の序。弘化三年七月十六日以降の和刻本)

【天津祝詞――天津祝詞乃太祝詞正文】

高天原(たかまのはら)に神留坐す、神魯岐・神魯美の命[註一]以て、皇御祖、神伊邪那岐命、筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原[註二]に、御禊祓ひ給ふ時に、生坐(あれませ)る祓戸の大神等[註三]、諸の枉事・罪穢を、祓賜へ清め賜へと申す事の由を、天津神・國津神、八百萬の神等共に、天之斑馬(ふちごま)の耳振立て、聞食せと、恐み恐み白す。

[註一]高皇産靈・神皇産靈神の大御言。
[註二]豐前國企救郡と長門國豐浦郡との間なる、速鞆の湍門、是れ速吸門なり(『大扶桑國考』・『三五本國考』・『天柱五嶽餘論』)。
[註三]八十枉津日神=瀬織津比□[口+羊]・大直日神=伊吹戸主・伊豆能賣神=速秋津比□[口+羊]・速佐須良比賣神。



 山田孝雄博士の、
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/18
の再論補遺を謹記して、大方(たいはう)の參考に供し、平田大壑先生の復活再生を乞ひ奉る。我が國の教學は、其の源を國體に發すれば、即ち平田大壑先生の學問・精神を闡明すれば、皇國の教學が勃興囘復し、やがて皇國中興に關係す。換言すれば、平田學が起らねば、日本中興は成らぬと謂はねばならぬ。



●山田孝雄博士『平田篤胤』(文部省・秋田縣共同主催──國民精神文化長期講習會の口演。昭和十三年頃か)

 『(平田鐵胤翁の大壑君)御一代略記』に、「(文政六)十二月、吉田三位殿より、御同家附屬の神職等に、古道學の旨を、厚く教導すべき由を頼み玉へり」。‥‥この吉田家から附屬の神官に、古學を教へてくれといふ頼みを受けたことは、どういふことを意味して居るかと申しますと、この前(文化五年)に、白川(神祇伯)家から頼まれた(「七月、神祇伯白川殿より、諸國附屬の神職等へ、專ら古學教授せしむべき旨を頼み玉ふ」)。今又、吉田家から頼まれた。それには、日本の神道そのものゝ歴史を知つてゐないと分らぬ。今の神道學者などは、埀加神道だの何だの、といふことをいつて居りますが、それはその時分にあつたには相違ないが、日本全國の神社といふものは、學問的にいふ神道といふものは幾らあつても、その神社とは關係がない。日本全國の神社といふものは、吉田家の配下でなければ、白川家の配下に屬し、吉田家か白川家か、それ以外の神主は、一人も居らぬ。その吉田家の支配をうけてゐる神主の中で、埀加流をやつて居るものもあれば、或は唯一神道とか何だとか、色々なものをやつて居るといふ譯で、兎に角く日本中の神社は、白川家でなければ吉田家、吉田家でなければ白川家、これ以外の神道は、實際的にはないのです。學問としてはあつたけれども、實際としてはない。ところが‥‥文化五年に白川家が、先づ平田神道になつた。さうしてこの文政六年には吉田家が、亦た平田神道になつた。これで吉田・白川は、互ひに勢力爭ひはして居りますが、日本全國の神官といふものが、兎に角く平田先生によつて統一せられたも同然なんであります。だからこの文政六年といふ年に、平田神道といふものが、日本全國に、白川家も吉田家も風靡してしまつた年で、日本の神道の歴史からいへば、非常に重要な年なんです。

 神道の或る意味からいへば、王政復古といふことに當る年ある。これを神道家も歴史家も、一言もこのことを言はぬのです。この年に、平田神道によつて全國の神道統一の大方針が決まつた。これが實際に平田流になつてしまつたのが、慶應三年で、それは平田流に、白川の學校が出來、吉田家に屬するものが全部、白川家の管轄になつてしまつた。茲に於て明治維新より滿一年前に、神道の實際の王政復古が出來上がつたのでありまして、それが又た政治的王政復古の精神的基礎をなして居る。失禮ながら神道の歴史を説く人も、王政復古の歴史を論ずる人も、この點を言はない。日本の神道からいへば、佛教が入つてから、神道が衰微して約一千年、その間、滅茶々々になつた。これを平田先生が統一したのであります。その事實は、今の神主共は知らない。さうして『天津祝詞』を毎日やつて居つて、平田先生のことを知らぬのであります[『天津祝詞考』といふのは、『大祓』にいふところの「天津祝詞の太祝詞」といふものがありますが、これが文化十二年の四月に考へを立てゝ、後に弘化三年に出版になつて居ります。これは現在の各神社で、所謂「祓詞」と申して、極めて簡單な祝詞を申しますが、これは平田篤胤の校正した「天津祝詞」の文句なんであります。だが失禮だけれども、今の神主さん達は、それが誰がやつたものか、知らんで居る。昔からさうなつて居ると思つてゐる。それを先生は、古代のものを調べて、千年後に學問の結果、斯うあるべきだと決められたんです。それを今の神道家や神官が知らずにやつて居る。それから神道を研究した文學博士といふやうな人も、「そんなこともありますかね」といふやうな調子です。ですから今の人は、先生の恩惠を蒙つてゐながら、有り難がられてゐない。それを挽囘するのは、私共もやりますが‥‥、先生は、この外にも非道い誤解を受けて居る方であります]。‥‥

 次には、篤胤先生の人物といふことを、少し申し上げませう。篤胤先生の著した『古道大意』・『俗神道大意』、或は『西籍慨論』・『出定笑語』とか『氣吹颫』といつた本を讀んでみますといふと、とても荒い言葉で罵倒して居る。反對論をもつて居るものは、坐つて居ることが出來ない程、やつつける。それは口が汚いといふか、何と評したらいゝか、じつとして居られぬ程、非道い事を、先生はいふのです。『古道大意』などはまだいゝのですが、『出定笑語』などや『俗神道大意』などを讀むと、恐ろしくなる位である。それで平田篤胤といふ人は、實に猛烈な、性質、極めて荒々しい猪か山犬かの如く考へられてゐる。果してさうか、と考へてみると、どうもさうではない。こゝはよく平田先生といふものを理解しなければならない。平素の言動をみると、非常に情の細かい、柔和な人であつたのです。それは、服部中庸が祝詞の中にもいつて居るやうに、容貌温良である、態度恭儉である。言葉には、へつらひ飾りがない、その點にも敬服して居る、といつてゐる。それから銕胤さんがいつて居るやうに、常には如何にも平和で、女人と異ならぬやうにみえる。兎に角く人と交際することは、柔らかな人であつた。門人の生田萬が書いたものにも、不斷は春風の吹くやうな、物柔らかいところがあるが、怒り出したら、どんな人間でも、顔を見てゐられない程、怒る。「其の聲を勵ますや、尚ほ迅雷の山を割くが如くなる云々」とあります。又た本居大平が、先生と會つた時のことを、大平が書いた文章について讀んでみると、これは『毀譽相半書』の中にありますが、「篤胤、もとよりいと物和かなる男にて、顔つきも柔和に、うちゑみつゝ物言へば、大平、もとより人と論談、口ぶてうほうなる男なれば、對面には、只だ先方の振合に應じたるなり」、斯う書いて居ります。尚ほ根本通明さんが、斯文會といふ會で講演した時に、篤胤先生のことをお話して居られるが、夫れは根本さんが十五六歳の時の話ですが、斯うあります。「目玉は、頗る鋭かつた。『慧眼、人を射る』とは、書物でみて知つてゐたが、實物は、大人においてこれをみることが出來た。しかし會つて話してみると、その言葉が非常に柔らかく、誰にでも優しかつた」。これが本當でありませう。さういふ人なんです。それから寅吉といふ子供が、天狗にさらはれたといふので、その時の事情を調べるのに、先生はその子供を養つてゐた。この子供は野性が甚だしいもので、先生が本を讀んでゐると、机から肩の上に乘つたり、色々惡戲をする。それでも先生、一向構はない。先生が大事にしてゐた庭を荒しても、少しも叱らない。我々には、一寸そのまねは出來ない。これは有名な話です。だから世間が考へて居るやうな人ではなかつたのです。

 それでは何故、著書の上では、坐つて聞いて居ることも出來ない程、激烈なことを云つたのであつたか。夫れは銕胤さんの話でも分ります。斯ういつて居ります。自分の師匠(父です)が講釋する時の説明をして居られる。「事物の説き方、その外、何によらず、わが大皇國の大道に妨害したるものは、悉く我が學問上の敵なれば、聊かも容赦なく、速かに討ちひしぐべく、烈しき言葉をものせるなり」。自分の仇でない、皇國の敵として、相手にしてゐるのです。又「道の爲め如何樣にしても、討つべき道理なり。先人の著述を論辯しては、先づ身體を嚴正にして威儀を正し、現に仇に對するが如くするにて、斯く僞儒者流の學風とは、甚だ相違あるところなり」。謂はゞ本についても、仇討の態度で講義するのですから、叶はぬ。それだから先生は、邪説と考へたものは、滅茶々々に反駁して、その息の根を止めなくては承知しないといふ方である。しかし一方においては、人情、極めて細やかな人であつた。のみならず宣長先生に對しては、どういふ態度を取つて居るか。本居宣長の恩に感じてゐることは、人一倍のものがある。さうして先生の學問の説に對しては、反對すべきは、堂々と反對して居る。反對しながら、先生を慕つて居るのです。こゝが偉い。有名なのは、『靈能眞柱』の終りにある文章である。篤胤先生を山師だの何なのといふ人があるが、先生の眞面目は、外の人には分らぬのであります。

 只だ一つ、茲に斯ういふことがある。それは、藤田東湖が平田先生を批評した手紙であります。これを讀むと、平田篤胤と藤田東湖が交はつてゐたといふことが分ります。「平田大角なる者は、奇男子に御座候ふ。野生も、近來、往復仕り候ふ處、その怪妄浮誕にはこまり申し候へども、氣慨には感服仕り候ふ。大角に比べ候へば、松のや(高田與清)抔は、書肆のばんたう位の者に御座候ふ。先年、閲み成され候ふ事も、御座候ふ哉。大角の著述、先公へ獻り候ふ分、御預け相成り申し候へども、試みに御覽成され候はゞ、御用に仕り差上げ申す可く候ふ。『三大考』を元に致し、附合の説をまじへて辯するは、あきれ申し候へども、神道を天下に明かにせんと欲し、今以て日夜力學、著述の稿は、千卷に踰へ候ふ氣根、凡人には御座無く候ふ。去り乍ら奇僻の見は、最早や平田、破る可からず、憾む可し」と、兎に角く説には反對してゐるけれども、先生の學問には驚いてゐる。當時、日本第一の大學者といはれた、松のや高田與清なども、篤胤先生に比べると、本屋の番頭位のものだ。斯ういふ風な譯なんです。‥‥

 平田先生と本居先生とは、神樣に對する考へ方が違ふところがあるのです。私は、平田先生の考へ方が、遙かに優れて居ると思ひます。これは平田先生の『古史傳』の九の卷の三十枚目の裏のところに、「すべて(鈴屋)師の、須佐之男命、禍津日神の事を言はれし説どもには、甚く違へる事ぞ多かれ」。こゝが非常に違つて居る。それを簡單に説明致しますならば、禍津日神といふのは、御存じの通り、伊弉諾尊が夜見國にお出でになつて穢れを受けて、檍原で洗身(みそぎ)せられた。その時に、夜見國の穢れが、伊弉諾尊の御身から離れた時に、その穢れが神樣になつたのが、大禍津日神・八十禍津日神である。これは『古事記』も『日本書紀』も、皆な同じである。それを本居先生は、「これは夜見國で受けられた穢れが神となつたのだから、世の中に禍ひをなすところの神樣だ」といふのであります。けれども平田先生の考察は、さうではない。「穢れが神樣になつたには違ひない。けれどもそれは、世の中に禍ひをする神樣ではない、禍ひを憎む神樣だ」といふのです。二人の見解は、非常な違ひであります。これをもつと奧へ突込んで考へてみれば、本居先生の神に對する考へ方は、善惡二神でありまして、詰り二元論になるのであります。平田先生の考へは、一元論になるのであります。日本の神道において一元論になつたのは、平田先生である。本居先生の神樣は、所謂善玉・惡玉式で、昔の黄表紙などによくある。これが本居先生の思想である。

 我々は、穢れでも離れてしまへば、穢れでなくなるといふことを考へる必要がある。汚い話であるが、例へば私の身體に糞が付いてゐるとする。この私の身體に糞が付いて居る間は、穢れです。しかしその糞は穢れかといふと、この汚い糞でも、田や畑の中へもつて行けば、肥料になる。立派な必要品になるではないか。同じ糞でも、人の身體に付いてゐる時は、確かに穢れでありませうが、田や畑へもつて行つて作物の肥料にすれば、最早や穢れではない。穢れどころか、大切な立派な肥料として、人々を養ふことになる。この思想が分らなければ、平田の思想は分らない。だから世の中には、絶對的な惡といふものはないといふ思想がなくては、この理が分らない。平田先生は、この思想なのです。物もあるべきところににあれば、善てある、あるべからざるところにあれば、惡となるのであります。何でも、さうです。飯粒でも、椀の中にあれば善、疊に轉がつて居れば惡である。糞尿でも、肥壺の中にあれば善である、身體や着物にくつ付くから惡である。だから夜見國の穢れも、離れてしまへば神樣である、穢れではない。この思想が、本居先生には缺けて居る。本居先生の思想は、一遍穢れゝば、何時迄も穢れてゐるといふ思想である。

 元來の日本思想は、さうぢやないのです。この點は、平田先生の考へが、非常に進歩してゐると思ふ。それはどういふ譯かといふと、皆さんも近いうちに、伊勢の山田へお出でになりませうが、伊勢神宮の裏の方に、荒靈を祭つて居るのですが、それは昔からの言傳へに、「荒靈は、禍津日神だ」といはれて居るのてす。若しそれが本當だとすれば、本居流に解釋すれば、禍津日神は惡神でありますから、さうすれば、天照大神の荒靈があるといはねばなりませぬ。

 ところが平田先生の考へにすると、惡いことがあつたら承知しない神樣が、禍津日神である。即ち荒靈神である。この神樣は、穢れがあると承知しない神である。穢れがなくなれば、それでいゝ、ある間は許さぬ神樣だといふのです。それが、平田先生の神樣に對する考へ方の根柢をなす。どうしてさういふことを、平田先生が考へたかといふと、『日本書紀』の中に、斯ういふことがあるのであります。伊弉諾の神樣が、「腹が減つた」と仰つた時に、食物の神樣がお生れになつた。これを本居流にすると、腹が減つた時に生れる神は、飢餓の神でなければならないことになる。けれども『日本書紀』にあるのは、飢(ひも)じいと考へた時には、その飢じさを救ふ神樣が生れてゐる。これと同じ理で、平田先生の考へは、穢れを去らうと思つた時に現れたのは、穢れを去らうとする神樣だ。だから腹が減つたと思つた時の神樣は、腹の減つたのを救ふ、即ち食物の神樣が現れたといふのであります。これは偉い事柄であります。だからして、菅原道眞公が、讒言に依つて慘めな最後を遂げられた。その菅原公を祭つた天神樣は、昔からお詣りすると、無實の罪がはれるといはれて居るのです。自分が無實の罪で苦しんだ神は、その無實の罪を救ふ神樣である。だからして穢れから生れる神樣は、禍ひや穢れをしてやらうといふ神樣ぢやない。その禍ひや穢れを祓ひ去る神樣でなくてはならない。こゝが、平田先生と本居先生の神道の根本相違なのです。二元論と一元論の相違であります。私は、平田先生が、日本に本當の神道を樹立したのも、茲にあると思ふのであります。この事柄だけでも、詳しくお話すれば、十時間やそこら掛つてしまふから、只だ斯ういふものだ。平田先生の神道が、非常に立派なものだといふだけを申して置きます。

 それから平田先生の道の思想の中心は、どういふところにあつたかといふことを、要旨だけ申し上げて置きます。道は、只だ一つしかないが、これを分けるといふと、二つにすることが出來る。即ち神道に關する思想と、國家に關する思想であります。けれども元來が神國であるから、日本は神道と國家とは一つであるが、説明の便宜上、これを我々は二つにみることが出來る。そこで平田先生の神に關する考へ方は、この『靈能眞柱』によつて、神道的な宇宙觀といふものが立てられて來て居る。それから心靈・靈魂の存在といふことを確認して居られた。尤もこの靈魂の存在、神の存在といふことを確認しなくては、敬神の思想は起らない譯です。口ばかり神樣のことを喋つて居つては、神を敬ふ譯にいかない。先づ敬神の思想の根柢は、神樣の存在を、口ばかり説いて心の伴はないのは、一番人を害することになるのであります。平田先生は、心靈・靈魂の存在といふことを確認して、さうして幽冥界に關する思想が非常に深くなつて居る。も一つ、平田先生の神道は、本居先生の神道に較べると、道徳思想が非常に強調せられて居る。これは先生が、初めに儒教に深く心を入れて居られた結果(山崎闇齋──淺見絅齋──若林強齋──小野鶴山──中山菁莪──平田篤胤)であらうと思ひます。

 次に國家に關する思想を申しますと、平田先生の思想は、先づ概略を申すと、尊内卑外で、同時に外國の教へを排斥するといふ思想でありまして、これを強調されたことは、前代未聞であります。今迄これだけの人は、出て居りませぬ。これが一般の儒者の僻見を破り、日本主義を振興したことは、殊に著しいのであります。この神道と國家との二つの思想が一緒になつて、これが平田先生の道の根本になる。これをもつてその中心の思想はどうかといふと、これも三つに分けて考へることが出來ると思ふのであります。

○第一は、日本といふ國は、萬國の祖である、親國であると、斯う先生は斷定して居る。それは只だ單に、さう思つてゐるだけではない。世界中の學問を皆やつて、そこから結論を拵へて來て居るのであります。少なくとも先生としては、さう信じて居るのです。

○第二は、我が天皇は、萬國の主である、世界の主であると、斯う斷じて居る。

○第三には、神道は、萬國の道の親である、といふのであります。

分ければ、この三つである。これが、平田先生の思想の眼目になる譯です。それを客觀的に實證的に説明しようといふので、色々な學問をやられた。先生の六十年の生涯といふものは、只だこの三點、

日本が、萬國の親國である、我が天皇は、世界の主である、神道は萬國の道の元である、といふことを證明する爲めに、平田篤胤といふ人が、この世に生れて來た、といふ形であります。外に何も用事がない。これを先生、一口に何といつたかといふと、「皇道」と申して居る。それを明かにした書物が、『古道大意』であります。だから平田先生の學問の道を知りたいと思ふならば、『古道大意』を讀まなければならない。その序文を讀んでみますと、

「抑々わが國の道に於ては、開闢以來、帝位、一とたび立て、君臣の等、萬世、動くことなく、彜倫の敍、はた自然に具れり。これ但し神、これを其の性に賦して、生ましめ給へばなり。是を以て治國・平天下の道、事實の上に昭々たり。此れ我が神國の玄妙にして、彼の戎夷の小徑と、豈に同年の談ならむや。然れば我が御道は、宇宙第一の正道、萬國の君師たれば、六合の内に含養せられしもの、誰かはこれに寄らざるべき。此を知らざるは、不明なり云々」。

斯う言つて居るのであります。これが平田先生の中心思想でありますのみならず、國學の思想的中樞になる。これを一言で、先生は皇道といつて居る。先生の皇道とは、どんなものかといふと、「帝道唯一」といはれたのであります。‥‥

 これから平田先生の學問を研究する場合に、如何なる態度をとるべきかといふことを、一言申し上げませう。露骨に申すと、平田先生の本を、單にそれのみ讀んでは分らぬのであります。平田先生の本だけ讀んで分るといふのは、講義されたものだけです。『古道大意』・『俗神道大意』などは、それだけでも分りますが、後のものは、平田先生の本だけでは分りませぬ。それは何故かと申すと、平田先生は、本居先生を土臺にして、それから發展して居るのであるから、本居先生の本を側に置かなければならぬ。それが、平田先生の學問の研究法の第一の要點であります。だから平田先生の本ばかり讀むと、傍らに本居先生の本を置いて參照しながら讀まないと、何を言つて居るのか、しつかり分らない。何だか面白いと思ふだけで、はつきりしない。平田先生自身、本居先生は斯ういつて居る、本居は斯うだといつて居られる。ですから平田學の研究は、同時に本居先生の研究になる譯です。‥‥その思想のいゝところは、平田先生がそのまゝ繼承して居る。惡いところには、自分で意見を述べてゐる。

 そこで本居の思想はどこにあるかといふと、『直毘靈』にあるが、この『直毘靈』の思想と、平田先生の神樣の思想とは違ふ。これは要するに二元論である。平田先生は一元論でありますから、『直毘靈』だけ讀んではいけない。本居先生の『玉鉾百首』の方が分りよいのです。この『玉鉾百首』の中に、‥‥日本は世界の親國である、我が皇室は世界の主である、我が神道は世界の教の基である、といふ三つの點があるのであります。であるから、この『玉鉾百首』を讀んで、平田先生の本をお讀みになれば、結局、簡單に分るのであります。‥‥少なくとも『玉鉾百首』だけは、讀むがいゝのです。平田先生の思想は、この本を根柢として、それを敷衍して、實證的に説明しようとしたのが、即ち平田學になるのであります。

 この二人は、一身同體の人である、一面からいふとさうなる。それに平田先生は、「自分が死んだら、本居先生の葬つてある山室山へ行くのだ」といふことを言つて居るのであります。その歌が、本居の墓のあるところに、石に刻つて建てゝあります。皆さんが伊勢にお出でになれば、山室山へもお出かけになれませう。そこには、平田先生もお出でになるのだと考へていゝのです。さういふ風に、この二人は離れられない關係にあるのです。ですからこれを別々に考へることは出來ないことになるのであります。
 

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  • 天一根・日女嶋‥‥。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 4月 4日(土)12時45分30秒
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●小串仙助大倉重威翁『日女嶋考』一卷(平田大壑先生『三五本國考』附録)

○大倉重威「序」(天保三年七月)

姫島考

 『古事記』を見るに、伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神のうみませる島々の次第、大嶋の次に「女島(ひめじま)を生み給ふ」とあり。按ずるに、大嶋は、周防國大島郡にして、伊波比洋の東北にあり。女島は、豐後國國東郡にして、伊波比洋の西南にあり。其の間、十四里ばかり有れば、大島の次とあるに、能くかなへり。國々に同名の島もあれど、二神の生みませるは、疑(うつ)なく、この姫島と聞えたり。そは、島人のふるき語り傳へにも、むかし、女神(ひめがみ)の住み給ひしより、姫島とはいふと云へり。女神とは、すなはち比賣語曾の社の神をいふなり。そもゝゝ比賣語曾神のことは、『日本紀』埀仁天皇二年の一書に、

「難波の比賣語曾の社の神、且く豐國國前郡に至りて、復た比賣語曾の社の神と爲り、二た處に祭らる焉」

と見え、『攝津國風土記』に、

「比賣嶋の松原は、昔、輕島の豐阿岐羅宮に御宇しゝ天皇の世、新羅國に、女神有り。其の夫に遁去れ來りて、筑紫國伊波比の比賣嶋に住めり。乃ち曰く、『此の島は、猶ほ是れ遠からじ。若し此の嶋に居らば、男神、尋ね來りなむ』といひて、乃ち更に遷りて此の島に來り停りぬ。故れ本と住める地名を取りて、以て島の號と爲せり」

とあり。二記の傳へ、各々その御世は異なれど、應神天皇の御世に、から文字を始め、其の他の事もおほく渡り來つれば、『風土記』を書きたる頃は、埀仁天皇の御世の事をまぎらして、應神天皇の御世なりと傳へなせるにや。其はとまれ、この二つの文をあはせ考へて、豐後の國東郡なる姫島、やがて二柱神の生み給ひし女嶋なることを知るべし。但し『風土記』の文、伊波比の上に、豐國となく、筑紫國とあるにつきて、豐後ならじかと、疑ふ人も有りぬべけれど、筑前・筑後をのみ、筑紫といひしは、いと上つ代の事にして、『風土記』の頃は、既(はや)く九國の總名となりぬれば、其の心もて記せしにて、筑前・筑後をさしていへるにあらず。豐國なる事しるく、比賣神の住み給ひし本縁(ことのもと)も、『風土記』の文にていちじるし。即ち今も、この豐後と周防の間の海を、すべて伊波比洋といふ。此の洋中に、伊波比嶋といふありて、『萬葉集』の歌も詠めり。

[そは、十五の卷に、周防國玖珂郡まりふの浦にて、田邊秋庭がよめる八首の中なる大嶋、また可太の大嶋につぎて詠める歌どもに、
いへびとは かへりはやこと 伊波比じま 伊波比まつらむ たびゆくわれを
くさまくら たびゆくひとを 伊波比じま いくよふるまで 伊波比きにけむ
とある、是なり]

乃ち此の島より出でたる洋の名なり。今は言便にて、いはふ洋・いはみ洋・いはみ島・いはふ島など云へり。上の關より、海上五里西南、姫島より六七里ばかり東北の方にあり。さて比賣じまを、今は姫島とかき、比賣語曾神を、赤水明神といへり。石の祠にて、むかし、女神の居住み給ふといふ屋形山より、三町ばかり海邊の岩山にあり。例祭三月三日にて、島人つどひ祭るなり。神體は木像にて、婦人の筆を持ち、齒を染むる容(かたち)なり。古老の説に、元の神體は、祠の中に、婦人の形のみ彫り付けありしといふぞ、正しき傳へなるべき。赤水明神とは、其の祠のある岩下より、赤錆の鐵醬水(はぐろみづ)流れ出で、手を拍(う)てば、響きに應じて迸る故に、拍子水となづけ、土人は、「明神の靈水なり」といひ傳へたり(【註一】)。

[然るを俗説に、此の比賣神といふを、眞野の長者といふ者のむすめ、玉世姫の事として、彼の拍子水を、明神の靈水なりと云ふより、古しへを知らぬ者の、猥りに神像を、かねつくる形に造りなして、鐵醬付石・楊枝柳などいふことをも設け出でて、名所の證とし、皆な玉世姫の舊跡と附會せしものなり。然るは齒をそむる事は、我が國、中古よりの風儀なれども、いと上代には、さる事なければ、後人のしわざなること、疑ひなし(【註二】)。

 近頃、岡藩の唐橋世齋といふ人の撰べる『豐後國志』にも、『埀仁天皇紀』と『風土記』とを引きて、「比賣語曾神は、姫嶋にありと記したれど、委しからねば、嶋の名におふ神なる事をしる者なし。古しへは、嶋人も、此の神をむねと祭りけむを、いつの世よりか、八幡宮を産神として崇め祭る事となりぬ。社人あまた有りて、二季の祭典、にぎはしけれど、赤水明神の祭禮は、三月三日のみにて、八幡宮には、こよなく劣れり」とぞ。]

 抑々この比賣島は、かく正しく比賣語曾の神祠もあれば、二神の生みませる女島たること疑なきを、鈴の屋の大人の『古事記傳』に、「二神の生みませるは、筑前の海上、玄海嶋と、肥前の名兒屋との間の嶋なるべし。又た豐後國直入郡の東北の海にも、姫島あれど、此れにはあらじ」と云はれたるは、皆たがへり。筑前の沖、肥前の境までは、此のあたりより七八十里へだてたれば、大嶋の次とあるにかなはず。また豐後國前入郡は山邊にて、海邊にあらず。こは、此の邊りの國像をしられれざる故の考へ違ひなり。『攝津風土記』の同文を、『古事記傳』の中、二た所に引きたるに、明の宮の下なるは正しくして、主(むね)とある女嶋の下(ところ)には、「伊波比乃比賣嶋」を、「伊岐比賣嶋」と誤れり。こは、波の字を岐と誤り、比乃の二字を脱(おと)せる本(まき)なり。是に心付れずして、伊岐比賣嶋は、筑前の島なりと説かれたり。但し分注に、「伊岐とは、彼の女神、新羅より來りて、まづ伊岐の島に著き、直ちに此の嶋に來著ける故か」とあるは、聊かうたがはしとは聞ゆれど、伊岐比賣嶋といへるを解かれたるは、強ひごとならむか。抑々『記傳』は、大人の、いと廣く、何くれの書どもを考へあはせて、生ける涯(かぎ)りの力を盡されたる書にしあれば、負ほ氣なく、おのれらが、かにかくに論ふべき事にあらざれども、遠き國々のことは、彼の大人といへども、かゝる違ひのなきにしもあらざるべし。こゝの姫島は、おのれ、眼の前によく見えて知る所なれば、この地理のたがひたると、『風土記』の文の誤りとを知らせまほしく思へど、今は世におはさぬを、何とせむ。されど神世のやごとなき名所の、世にうづもれて、しる人なきが口惜しくて、かくは記し傳ふるになむ。

大島に つきてなりしは 豐國の みちのしりなる これのひめしま
 又の名を、天のひとつ根といへば、
姫しまの あたりに竝ふ 嶋もなし うへもいひけり 天のひとつ根

文政の八とせといふとしの文月
 豐後 杵築藩 小串仙助大倉重威

○藤原重名「姫島のかう文を見て詠める長歌」



■平田篤胤先生『大枎桑國考』上卷・第五條・黒齒國(少昊國・羲和國)に、大壑先生の曰く、

 抑々是(天一根)の島を、姫島としも謂ふ由は、神典に出でたる昔語りに、新羅國にて、阿具沼ちふ沼の邊りに、一賤女(あるしづのめ)、晝寢しけるに、日の耀り、虹の如く、その侌(ほと)を指したるを、一賤夫、その状を異(あや)しと思ひて、恆に其の女の行ひを伺ふに、此の女、その時より妊みて、赤玉をなむ生みける[『三五本國考』に引きたる諸書に、少昊の母・女節の、大星、虹の如く下れるに、夢接して、少昊を娠み、顓頊の母・女樞の、瑤光、虹の如く、其の宮に入れるに感じて、顓頊を妊みしと有るも、星と云へるは、耀(ひか)れる故の文(ことば)にて、實は此の賤女の侌門を指したる日耀に同じく、是ぞ謂はゆる天根・玄牡の氣勢なりける。‥‥]。彼の賤夫、その玉を乞ひ取りて、恆は裹(つゝ)みて腰に著けるを、後に由ありて、其の國主(こきし)の子に、幣(まひ)と爲しけり。然るに國主の子、その玉を床の邊に置きしかば、即ち美麗(かほよ)き孃子(をとめ)に化(な)りぬ。茲に妻(め)と爲して在りけるに、其の孃子、常に種々の珍物(ためつもの)を設けて、其の夫に進めしかば、夫(ひこぢ)の心奢りて、妻を詈(の)れば、「吾は、汝の妻に爲るべき女に非ず。吾が祖(みおや)の國に行(い)なむ」と云ひて、竊(しぬ)びて小船に乘りて逃げ遁れて、皇國に來れるが、比賣語曾神と爲れるよし見え[この事は、『古事記』應神天皇段と『日本紀』の埀仁天皇紀の一書とに載せられたるが、其の傳の趣、異なる事ども有り。合はせ見て、其の異を知るべし]、『攝津國風土記』と『日本紀』とを併せ考ふるに、其の始めて著きたる處は、豐國の國前郡、伊波比の比賣島なりと有りて、此れ乃ち二柱神の生み給へる女島、亦の名は天一根とある島にて、此を比賣島と謂ふは、是の比賣神の來り住める故なりとふ説にて、誠に然る事とは思ふ物から、此は、人の世と成りて、後の故事(ふること)なるを想ふに、是より古く、羲和の住める由縁によりて、神世よりして、しか號づけ來れるも、亦た知るべからず[其は、羲和と云ふは、彼の國(赤縣)に傳へし漢名にこそ有れ、實は皇國の女神にし有れば、此方にて稱せる名の、別に有りけむ事は云ふも更なり。此の謂れをも思ふべし]。

 小串重威が『姫島考』に、「‥‥(【註一】)」と記せり。此は、國齒國とも謂へる故事に、能くも符へる實蹟なりかし。

[また『姫島考』に、「‥‥(【註二】)」と記せるを、己(大壑先生)も、前には諾(うべな)ひたれど、今思へば、眞野の長者が女の事は非なれど、黒齒國と名づけしは、此の靈水の、固より有りし由縁(いはれ)によりて、羲和、また帝俊の生める子も、齒を染めて在りし故なるか。又た或は彼の黒齒も、帝俊の子なれば、凡常(よのつね)の戎人の種族ならず、實は大國主神の、遠からぬ御裔(みすゑ)なれば、固より神々しく、好みて齒を染めけむ因縁(いはれ)によりて、然る靈水の沸き出でて、今に至れる實迹なるも、知るべからず。]

 さて神典に、此の島の亦の名を、天一根と謂へる名義は、壹岐島の亦の名を、天一柱と有るに、海中に離れて、一つある島なる故の名なれば、天一根と云ふも、然る義の名にやと思へども、此の島、大壑・暘谷の傍に在る島なる故に、やがて此を國名として、大壑は、「少昊の國」とも、人皇氏、また羲和の子等を、「暘谷より出でたり」とも云へるを、亦たこれ「玄牡」・「天地の根」なるに想ひ合はすれば、二柱御祖神の、さる幽契をもて、名づけ給へるも、亦た知るべからず[‥‥](『山海經』の湯谷・甘淵、『呂氏春秋』の日出九津、『黄帝書』の谷神不死・玄牡の門・天地の根、『老子』の百谷の王、『列子』の大壑無底の谷・歸墟)。

 抑々かの比賣語曾神の、「吾が祖の國に行なむ」とて、此の島に來れる事は、師(鈴屋大人)説に、「皇國は、日大御神の御生(みあ)れませる本つ國なるが故なり」と言はれしは、然る説なれど、尚ほ按ふに、天日の御國は、もと此こより判りし物なるに、況(ま)してそを所治看す大御神、この近き間(あたり)なる、橘の小門にて生れ坐せる故に、祖の國とは云へるにて、其は、祖の本國と謂ふが如し[‥‥]。さて速吸門(豐前國企救郡の速鞆の湍門)たる暘谷の上、姫島たる「黒齒の北に在りて、水中に居す」と言へば、枎桑國とは、長門・周防に續ける、大倭豐秋津島を總べ稱ひし名なること著く、また「大木有り」と云へるは、即ち謂はゆる枎桑木なること、言ふも更なり[‥‥]。
 

  • [28]
  • 平田大壑先生『三五本國考』、坤。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月29日(日)12時20分39秒
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   ┌少昊      ┌摯
黄帝┼玄囂─蹻極─帝嚳┼稷(周)
   │        ├契(殷)
   │        └
   └昌意─韓流─顓頊┬窮蝉─敬康─句芒─蹻牛─瞽瞍─
            └鯀──(夏)



【四・少昊・顓頊『山海大荒東經』に云く、
「東海の外、大壑は、少昊の國なり。少昊の孺・帝顓頊、此に于いて其の琴璱を棄つ。甘山といふ者有り。甘水、焉れに出づ。甘淵(我が大壑・咸池・暘谷)を生ず」。
‥‥

 此の大壑を、「少昊の國なり」と謂ふは、大壑の有る域、やがて其の本國なる義なれば、其の生所は、彼の速鞆の湍門に近き所なること著し。少昊氏の生國の、此の域なるを以て、其の父・黄帝の本國も、亦たこの國なること、著明なるを思ふべし。‥‥『黄帝本行記』に、「帝、天毒國に往きて、之に居す。因りて軒轅國と名づく。西のかた窮山女子國に至り、西陵氏を大梁に娶りて、□[女+累]祖と曰ふ。元妃と爲す。二子を生む。玄囂・昌意、竝に帝位に居らず。玄囂は、(『史記』五帝本紀に、「降りて江水に居す」。後に)道を得て、北方水神と爲る(天神也)。昌意は、若水に居す。弟(兄)少昊は、帝妃・女節の生む所なり。名は質(清)、字は青陽。後に帝位に即きて、金天氏と號す。黄帝の小子(子)なり」。‥‥

 『帝王世紀』に、
「少昊帝は、名は質、姫姓也。母を女節と曰ふ。大星有り、虹の如く下りて、華渚に流る。女節、意に感じて、少昊(『竹書紀年統箋』に、「按ふに『易緯河圖』に云く、「女節、白帝朱宣を生ず。宋均の曰く、朱宣は、少昊の字也」)を生ず。窮桑(空桑・穹桑、やがて扶桑)に邑し、以て帝位に登りて、曲阜に都す。在位百年」。‥‥

 但し少昊氏、この國(皇國)の産なるに依りて按へば、上に引きたる『黄帝本行記』に、玄囂)・昌意などの弟にて、「黄帝の小子也」と云へるは、決めて訛説にて、此は、黄帝、なほ皇國(豐前・長門の間なる速鞆の湍門・女嶋──豐後國國東郡。伊波比洋の西南)に居られし間に生める子なるが、此の子を生み遺きて、彼の國に渡り、王位に登りて後に、彼處にて正妃に立てたる□[女+累]祖の腹に、玄囂・昌意の生れしかば、少昊は、却りて小子の如く傳へけむ。‥‥[黄帝は、神典の鹽冶毘古命に當れば、少昊氏は、其の子・大穗毘古命(燒大刀火守大穗日子命)ならむも、知るべからず。然るに顓頊以下は、誰の神に當ると云ふこと、神典に考へ合はすべき便(たづき)なし]。‥‥

 『帝王世紀』に、
「顓頊は、黄帝の孫(曾孫)、昌意の子(孫)、姫姓也。母(祖母)を景僕(また昌濮)と曰ふ。蜀山氏の女なり。昌意の正妃と爲る[『山海經』海内經に、「韓流(『竹書紀年』に、「黄帝七十七年、帝乾荒を産む」)を生む。韓流、擢首謹耳、人面豕啄、麟身渠股豚止。蜀の子を取とる。阿女と曰ふ(乾荒夫婦、一世を落せしならむ)]。之を女樞と謂ふ。金天氏の末。瑤光の星、月を貫くこと、虹の如し。女樞幽房の宮に感じて、顓頊を若水に生めり。首に干戈を戴く。聖徳有り。生れて十年にして、少昊を佐け、十二にして冠し、二十にして帝位に登り、水を以て金を承け、始めて窮桑に都す。後に商丘に徙る。在位七十八年」。‥‥

 さて顓頊は、然る西羌の女の腹に、卑しき域には生れ給へれど、其の父祖、固より神胤を出でて遠からず、殊に然る天瑞をも錫(たま)はりて生れし故に、十才の孺子にして、既(はや)く聖徳の顯はれしかば、少昊氏、(黄帝の)世の末に養ひ取りて、榑桑・暘谷の神邦に遣はして、大人君子の風情を習はしめ給ひし故に、本文に、「少昊の孺・帝顓頊」とは謂へるなり。‥‥

 『帝王世紀』に、
「舜は、姚姓なり。其の先、顓頊より出づ。顓頊、窮蝉を生じ、窮蝉、敬康を生じ、敬康、句芒を生じ、句芒、橋牛を生じ、橋牛、瞽瞍を生む。瞽瞍の妻を、握登と曰ふ。大虹を見て、意に感じて、舜を姚墟に生む。故に姚氏を姓とす」。‥‥

 『帝王世紀』に、
「禹は、娰(實は□[女+衣])姓也。其の先、顓頊より出づ。顓頊、鯀を生む。堯、封じて崇伯と爲す。有莘氏の女・志(『呉越春秋』に、「名を女嬉と曰ふ」)と曰ふを納る。是を脩已と爲す。流星、昴を貫くを見、又た神珠を呑み、意に感じて、禹を石紐に生む。文命と名づく。字は高密。西羌に長ず。西夷の人なり(實は皇國域内、即ち『海外東經』の毛民國、『路史』引『十道記』の「碣石の東」、やがて勃海の東、我が蝦夷の産れなるが、父と共に西蜀の地に移り住む)。鯀に繼ぎて、水を治め、十三年にして、洪水平ぐ。堯、其の績を美として、乃ち姓娰氏を賜ひ、封じて夏伯と爲す。故に之を伯禹と謂ふ」。



【五・帝嚳『同(山海經)大荒東經』に云く、
「黒齒の(生)國有り。帝俊(帝嚳・高辛氏)、(姜水の邊に)黒齒を生ず。姜姓なり。麥食して、四鳥を使ふ。中容の國有り。帝俊、中容を生ず。中容の人、獸・木實を食ひ、四鳥・豹虎・熊羆を使ふ。司幽の國(八丈嶋などには非ざるか)有り。帝俊、晏龍を生じ、晏龍、司幽を生じ、司幽、思士を生ず。思士は妻あらず、思女は夫あらず」
(思士、妻あらずして感じ、思女、夫あらずして孕む)。‥‥

 『帝王世紀』に、
「帝嚳は、姫姓也[『史記』五帝本紀(『大戴禮』五帝徳の孔語を取れり)に、「帝嚳高辛は、黄帝の曾孫也。高辛の父を蹻極と曰ふ。蹻極の父を玄囂と曰ふ。玄囂の父を黄帝と曰ふ。玄囂と蹻極とより、皆な位に在ることを得ず。高辛に至りて、帝位に即く。高辛の顓頊に於ける、族子爲り。高辛生れて、神靈、自ら其の名を言ふ」と]。其の母、覺らず。生れて神異、自ら其の名を言ひて、夋(俊・逡)と曰ふ。□[齒+并]齒、聖徳有り。年十五にして、顓頊を佐け、三十にして、帝位に登る。毫に都す。木を以て水に承け、在位七十年」。‥‥

 玄囂、やがて此の禺疆にて、固より天神の禺疆あるが上に、玄囂また其の海の水神と爲りし故に、禺疆と稱し、その玄囂といふ名も、禺疆の字を玄冥といふ玄に同じく、北方水の縁みをもて負ひたる名なること疑なし[此の玄の字は、多く北方の事物に用ふる字にて、西羌に始終居たらむ人には、負(つ)くまじき字なり‥‥]。‥‥

 さて帝俊も、顓頊と同じく、黄帝の曾孫にて、神胤に近く、かつ生れながらに、然る神々しき聖徳有りし故に、顓頊、早く其の孺子に養ひ取りつれど、仍ほ本域に留めて成人ならしめ、我がせし如く、神國の風儀を習熟せしめし、其の逗留の間に、諸子を生めりと聞えたり。



【六】『同大荒南經』に云く、
「東南海(我が筑紫國)の外、甘水の間に、羲和の(生)國有り。女子有り。名づけて羲和と曰ふ。帝俊の妻と爲りて、十日を生む。常に日を甘淵に浴す」
(『海外東經』に、「黒齒の下に、湯谷有り。十日(十干を以て、其の生める十子の名とす)の浴する所なり」)。‥‥

 『帝王世紀』に、
「帝嚳に、四妃有り。其の子を卜するに、『皆な天下を有つ』と。元妃は、有邰氏の女・姜嫄と曰ふ。后稷を生む。次妃は有□[女+戎]氏の女・簡狄と曰ふ。契を生む。次妃は陳豐氏の女・慶都と曰ふ。帝堯を生む。次妃は□[女+取]訾氏の女・常儀と曰ふ。帝摯を生む(帝摯の母は、四人の中に於て、班、最も下に在り。而して摯、兄弟に於て、最も長ず。帝位に登ることを得。異母弟・放勛(堯)を封じて、唐侯と爲す。位に在ること九年、政、微弱なり。而して唐侯の徳、盛んなり。諸侯、之に歸す。摯、其の義に服し、乃ち群臣を率ゐて、唐に造りて禪を致す。唐侯、乃ち帝の禪を受け、乃ち摯を高辛に封ず)」。‥‥

 さて『大荒西經』に、「西周の國有り。姫姓、穀を食ふ。人有り、方耕、名づけて叔均と曰ふ。帝俊、后稷を生む。稷、降すに百穀を以てす。稷の弟を台璽と曰ふ。叔均(田祖)を生む。叔均、是れ其の父及び稷に代はりて、百穀を播(ほどこ)し、始めて耕を作す」と有る、西周とは、雍州の域内にて、后稷より、かの文王姫昌が祖父・古公と云ひしが時まで居たる地なり[大荒と云へば、必ず其の地を放れし海外を云ふ例なれど、赤縣州は、既にも云ふが如く、南・西・北には海なき國なる故に、眞の大荒外は東方のみにて、南・西・北は、實の大荒外ならず(彼邦の周代までは、今時の如く其の化の及ばざりし故に、南・西・北に海なく、海とし云へば、必ず多くは東海を云へり)。‥‥]。抑々百穀の種は、固より皇國に始めて成り出でし物なり。然るに后稷、その皇國に生れて、神農氏の後、また以ち渡りて、弟姪と共に、耕作の業を興せる由なり。稷は、乃ち禾(あは)なり。百穀といふ中にも、土地の理を相(み)て、此の穀を專(むね)と播せし故に、后稷と稱す。是を以て禾粟は、彼の國、唐宋の世までの常食なりき。‥‥

 『帝王世紀』に、
「堯は、伊祁姓なり。母を慶都(天皇大帝の女、父母なく、石中に生る)と曰ふ。孕みて十四月にして、堯を丹陵に生む。名づけて放勛と曰ふ。鳥庭荷勝、眉に八采有り。豐下鋭上、或は母の伊祁氏に從ふ」。‥‥



【七】『大荒南經』の郭注に云く、
「羲和は、蓋し天地の初生より、日月を主る者也。故に『啓筮』に曰く、「空桑(枎桑)の蒼々たる、八極の既に張るとき、乃ち夫の義和有り。是れ日月を主どり、出入を職として、以て晦明を爲す」と。其の後世、遂に此の國を爲めて、日月の象を作りて、之が沐浴を掌り、之を甘水中に運轉して、以て其の暘谷・虞淵に出入するに効(なら)ふ也」。
‥‥

 『呂氏春秋』、また『黄帝本行記』などに、「黄帝、羲和をして日を占ひ、常儀をして月を占はしむ」と云へる事あり。『大荒西經』に、「帝俊の妻・常儀、月十有二を生みて、之に浴す」と言ひ、前條の本文に、「義和、帝俊の妻と爲りて、十日を生めり云々」と有るを、「啓筮」に、「義和、日月を主る」と云へるに想ひ合はすれば、羲和・常羲は、同じ女眞の、月日を推歩する職を分てる異名の如く聞えたり‥‥。羲和の、微妙(いみ)じき神女にして、我が姫島の産なるが、伏羲氏の後、また彼國へ暦法を傳へし事は、論ひ無し。‥‥[生田圀秀が考へには、「羲は、即ち羲皇の義、和は、其の妻女・媧氏の媧を合はせて、略稱せるにて、此は伏羲・女媧の暦法を受け傳へし故の名なるべし。其は、伏羲氏、即ちわが大國主神に坐すこと、師(大壑先生)説の如くなれば、乃ちその御子なるが、父神の暦法を傳へて持ちて、本國姫島に居つゝも、黄帝の時に、彼所へ渡りて、其の法を傳へ、其の後、また本國に歸り居りしが、帝俊の子を生み、其の子等に暦術を効はしめて、堯の時に、其の子等を渡して、其の道を傳へしならむ」と云へり。然も有るべくこそ。然ては甚く時代の違へる事ぞ、など思はむは、和漢の神世の實事を知らざる癡心なれば、其は論ふにも足らずむなむ]。偖かの「帝俊、黒齒を生ず」とあるは、其の母は羲和なりしか、他所なりしか、詳かならず。



【八】『同』郭注に云く、
「『啓筮』に曰く、彼の上天を瞻れば、一明一晦、夫の羲和の子(十日の子等)有り。陽谷に出づ」と。故に堯、此に因てりて、羲和の官(日月推歩の術)を立て、以て四時を主らしむ。所謂る世々(四時方嶽の)職を失はざるのみ耳」。
‥‥

 抑々歴は、民に時を授くる、政事の大本なる事は、更にも云はず、‥‥我が神眞の傳へしを以て、其の餘、凡て天下を經綸し、民用を網紀して、一日も闕くべからぬ道術の、みな皇國に出でて、彼(赤縣)が君師の國たるに、疑なき事を思ひ定むべし。‥‥

 (孔子は、)帝嚳以上は、謂はゆる五帝・三皇の世々にて、神怪の事ども多く、今の世、我が徒の神代を語るに、凡俗これを異として信(う)けざる如く、當昔の周人、なべて之を信ぜず。然か耳みならず、實に隱微の説ありて、帝嚳以上に遡上りて、深く其の美を論撰すれば、自國の眞聖は、一人だに有ること無く、みな東方君子の國の神眞なるが、彼域の蠢民を含養して、君師と在りし事の發顯し、かの國惡を諱むちふ禮(『禮記』祭統に云く、「夫れ鼎に銘有り。自ら名じて、以て其の先祖の美を揚稱して、明かに之を後世に著す者なり。美を稱して惡を稱せざるは、此れ孝子孝孫の心なり。先祖を顯揚するは、孝を崇する所以なり」と。『史記』禮書に云く、「天地は生の本なり。先祖は類の本なり。君師は地の本なり。天地無くんば、惡ぞ生ぜむ。先祖無くんば、惡ぞ出でむ。君師無くんば、惡ぞ治まらむ。故に上、天に事へ、下、地に事へ、先祖を尊んで、君師を隆んにす。是れ禮の三本なり」と)に違ふ故に、堯・舜以下の近きを取り、帝嚳以上の遠きを斷ち、其の上古の傳説は、弟子にも言ふを憚かりしと聞ゆ。蓋し周公旦が意を、固く守れる所爲にぞ有りける。‥‥

 さて(荻生徂徠)茂卿は、「後世、かしこに聖人興ること有らば、必ず斯に取らむ」と云へれど、豈に知らむや、謂はゆる三代以前、大同なりし世の道は、皆な我が神聖の、馭戎して傳へ給ひし道なりとは。然るに周公・孔子など、右のごと化(しな)め作りて、其の聖人の本國たる如く云へるは、彼の(『禮記』)祭統に、「其の先祖、美無く、而して之を稱するは、之を是れ誣ふる也」と云へるに當れど、此は恕すべき方(みち)の無きに非ず[そは、人の本情の上より云はむにも、己が本國、また先祖などの事は、誣ひても善ざまに云はま欲しかる事、いづこも同じ効(ならひ)なるべく所思ゆればなり]。此方の學者たちの、其の誣言に扇惑せられて、然る由來をば夢にも知らず、彼邦を聖國・師國と稱して、父母の國の如く敬愛し、彼が君師の本國たたる父母の國を、却りて彼が末國の如く、戎狄の如く卑敗するは、彼の祭統に、「其の先祖、善有りて、而して知らざるは、不明也。知りて傳へざるは、不仁也。此れ君子の恥づる所ろ也」と有る、不明・不仁は、更にも云はず、悖禮とも悖徳とも、云はむ方なき無情なりかし[但し此は、學者に取りては、此の上もなき恥なれど、意・必・固・我の四を絶たざる俗學者流は、恥を知らざる物にし有れば、恥づる所なりとも思はでぞ在るべき。淺見安正(絅齋先生)の『靖獻遺言講義』(處士劉因の條「中國辯」)といふ物に、「唐の書物に、日本をも夷狄と云ひおけるを見て、とぼけた學者が、「我は夷狄に生れたり」と歎くが、偖ても淺ましき見識ぞ。わが生れた國ほど、大事の中國が、どこに有らうぞ。「唐人が夷狄と書いておいた程に」とて、最早や、はげぬ事と覺えて居るは、人に唾を懸けられて、得拭はずに泣いて居ると同じ事ぞ。「其れでも聖人も、夷狄と云つた物を」と云ふべけれど、大義を知らぬ者は、そこで迷ふ。人にも親があり、我にも親がある。人の親の頭は擲(はら)るゝとも、我が親の頭は擲れぬ樣にするが、子たる物の義理ぞ。夫れでも「日本は小國ぢや」と云ふ。國が小くと、何が違はふと、我が國は、天地の初めよりして、佗(よそ)の國の蔭にて立ちたる國にては無く、神代以來の正統に、少しも紛れなく續き、萬世君臣の大綱、變ぜざること、是れ三綱の大きなる物にて、他國の及ばざる所なり。其の外、武毅丈夫にて、廉恥正直の風、天性に根ざす。是れ我が國の卓(すぐ)れたる所なり云々」と云へり。こは、講説の鄙語には有れど、然かすがに、刀の鍔に「赤心報國」と銘じて帶せる、英士の言は、愉快にこそ聞ゆれ]。

 篤胤、固より凡陋不敏の質なる事は勿論なれど、辱(かたじけな)く此の萬邦の君師たる、日出仁風の神域に生れ、先師・本居翁の蔭に頼りて、其の神賦の本性を琢出せるより以來、その慷慨、つねに止む時なく、周・孔の旨には相反すれど、彼の邦の隱れたる古説を索めて、我が神州の美を論譔し、この編中の議論、すでに成りて、諸書に粗ぼその端倪は漏らせど、其の精鋭は、群少の怒りを難(はゞ)かり、匱に韞(をさ)めて藏(かく)せること、茲に十有餘年なりしを、今年、殊に憤悱する事ありて、其の兩端を叩き竭し、我が神聖の功徳に揚稱して、明かに後世に著はすこと、右の如し。其は、謂はゆる崇孝の意を含み、君子に恥ぢざらむ事を思ひてなり[‥‥]。

もろ人の 見る目やいかに 篤胤が 見てしひが目か 見る人もあらむ

天保六[乙未]年八月十五日



●友清歡眞大人『天乃手抉(たくじり)』(『靈の世界觀』昭和十六年十月・天行居刊に所收)に曰く、

「大陸方面の文化は、此の日本國土の美しい島々よりも早いのである。これは遠大なる天上神界の神策に出づるもので、遠くはスサノヲノ神の系統によりて、又は少彦名の系統によりて、西方アジアの文化、即ちイラン・波斯のヘレニズム文化の源流なども開拓されて居り、大國主神の系統によつて、黄河流域に、支那文化も胎動したのである。日本國は、或る時期まで神仙の祕區として、おほらかにかくされて居たもので、所謂地上文化の啓開は、よほどおくれたやうである。比較的に近い昔になつてから、支那の文化が、直接日本國に重大影響を與へたことも、當然の成行きでもあり、又た太古以來の神策による必然のムスビカタメでもあつたやうである。‥‥

 輕々しく言擧げすべきでないが、神界の實消息といふものが、大體に於て我國の古傳と符節を合して居るので、其れを假説を以て否定することは出來ないのである。尚ほ古代神眞が、日本國と支那大陸とを來往せられたやうな事情については、今一度、無邪氣な心になつて、平田翁の『弘仁歴運記考』・『春秋命歴序考』・『赤縣太古傳』・『三五本國考』などを讀み直してみて貰ひたいと思ふのである。平田翁の學説にも、考へ誤りも説き誤りもあるやうであり、そのまゝ押しつけるつもりではないが、大體の筋は、現實に神界の實消息とよく合致して居る點があることを、茲に私は斷乎として明言しておくことが出來る。これが支那に傳流した神法道術の中にも、眞傳のものが混入して居る理由でもあり、又た日本に傳はらずして、支那や其他の地方に傳はつたものさへある理由でもあるのである。又た天上の神々や、或る種の靈界の玄胎生活者が、特別の事情によつて、此の地上に降下し、普通の人間の生活に入られる事情については‥‥。交通機關らしきものさへない太古における神眞が、山海萬里の交通に不自由のなかつたことなども‥‥」と。
 

  • [27]
  • 平田大壑先生『三五本國考』、乾。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月28日(土)11時47分7秒
  • 返信
 
○贈從四位・越前參政・雪江中根靱負平師質翁『三五本國攷の序』
○竹内五百部葛城經成翁『三五本國考の序』
○桐蔭馬嶋穀生翁『三五本國考の跋』
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■『三五本國考』二卷(『皇國異稱考後編』)文政十一年稿・天保七年刊

【前文】
 三五とは、赤縣州(もろこし)の、謂はゆる三皇・五帝を云ふ。其れみな彼處(かしこ)の産に非ず。その本國は、皇國なるが、彼の蠢化の民等を、教養せむために渡り給ひし、我が神聖たちに御(お)はする由を、彼の國の古書に徴して、論じ顯はせる書なる故に、かく名づけたり。抑々三皇と云ひ、五帝と云ふこと、彼の國學びする人等の、常稱ふ事なれど、其を能く辯明せる書は有ること無ければ、先づその義を此に論はむに、三皇は、天皇氏・地皇氏・人皇氏、これ古説なるが、五帝とは、伏羲(氏・大昊)・神農(氏・炎帝)・黄帝(軒轅氏)・少昊(金天氏)・顓頊(高陽氏)を謂ふ。

 そは、『禮記』月令に、
「春三月、其の日は甲乙。其の帝は大昊。
夏三月、其の日は丙丁。其の帝は炎帝。
中央は土、其の日は戊己。其の帝は黄帝。
秋三月、其の日は庚辛。其の帝は少昊。
冬三月、其の日は壬癸。其の帝は顓頊」。
と有る、是なり[『逸周書』・『呂氏春秋』・『尚書大傳』・『淮南子』などに載する所も、これに同じ。○銕胤の云く、大□[日+大+|+|]氏・少□[日+大+|+|]氏などの□[日+大+|+|]字を、諸書に、多くは「昊」とかき、又た「暭」とも書きたり。昊は□[日+大+|+|]の詭りと見え、其の餘いづれも、唯に音羲を借り用ひたる迄にて、異なる義(こゝろ)なく、且つは混(まぎ)らはしければ、今は悉く□[日+大+|+|]と書き改めつ。見む人、本書と異なりとも、訝る事勿れ(愚の云く、□[日+大+|+|]字、惜しむらくは入力すること能はざる故に、暫時、「昊」字を用ひたり。赦してよ)]。‥‥

 故れ今その定説を出ださむに、天皇氏・地皇氏・人皇氏・伏羲・神農・黄帝・少昊・顓頊、これ、三皇・五帝の正古説なり。然るを周の世に至(な)りて、天地人の三皇の事蹟は、不經なりと思へるにや、此れを捨てゝ、伏羲・神農・黄帝を三皇と立てゝ、少昊・顓頊に、高辛(帝嚳)・堯・舜を加へて、五帝と立てたり。此は、疑なく周公姫旦が存意にぞ出でけむ。‥‥抑々斯ばかりの少事(いさゝけごと)をし定論せむは、何計りの事にも非ざるを、今まで判然たる説なきは、總べて彼の國の史學家に、英斷の才無かりし故に、此を定論すること能はず。最(いと)も怯(つたな)き事にこそ‥‥

 さて其の赤縣州の古籍どもに、謂はゆる三皇より以前に、上皇太一、及び盤古氏夫妻と聞えしは、我が神典『古事記』の序に、「乾坤、初めて分れて、參神、造化の首めを作し」と有る、參神を申せるなれど、此は、固より「九天の上に在り」と云ひ、「大荒に生ず」と云へる傳へにて、其の國に出でたる由に非ざれば、此はさし措きて、其の國の在世と爲たる、天地人の三皇より辨へむに、先づその天皇・地皇と申せるは、即ち『古事記』の序に、「侌昜、斯に開けて、二靈、群品の祖と爲り」と有る二靈を申し、人皇は、乃ち其の御子なり。然て都べての事實は、既に『赤縣太古傳』に出だせれば、此の編には、唯その出自(もと)をのみ論へり。見む人、まづ其の意を得て[‥‥]、いでや、
さひづるや 戎(から)の昔を 祖國(おやぐに)ゆ 馭(をさ)めし道の 本を見せばや



【二・伏羲】『王子年拾遺記』に云く、
「春皇は、庖犧の別號なり。都する所の國、華胥の洲(華渚洲の神域、即ち皇國)に有り。神母、其の上に遊ぶ。青虹有り、神母を繞る。久しうして方に滅ゆ。即ち娠有るを覺ゆ。十二年を歴て、庖犧を生む。長頭脩目、龜齒龍脣、眉に白毫有り、鬚埀れて地に委す。至徳を天下に布きて、元元の類、尊ばざること莫し焉。木徳を以て、王と稱す。故に春皇と曰ふ。其の明叡、八區に照らす。是に太昊と謂ふ。位、東方に居して、以て蠢化を含養すること、木徳に叶ふ。號して木皇と曰ふ」。
‥‥

 「華」とは、枎桑木の華に因れる、皇國の美稱なること、『大枎桑國考』に論へるが如し。‥‥「神母」を、(皇甫謐が)『帝王世紀』及び諸書に、「母を華渚と曰ふ」とあり。地名を以て名と爲したり。其の上とは、華渚の上(ほとり)なり[生田國秀の云く、「華渚とは、華名にて、實は神典に謂はゆる天之冬衣神の后神・刺國若比賣命なるべし」]。‥‥かの赤縣州の開闢は、我が神眞の、次々に渡りて制馭し給へるが故に、まづ此方(皇國)を號づけし地名を、彼方(赤縣)に擬(うつ)し名づけるが多く、そは十を以ても數ふべし。‥‥

 抑々諸蕃國は、固より榑叒本州の蘖生(ひこばえ)の繁茂せる如き、末派の國々なれば、其の蒼生の生り始め、いと卑しき故に、猥雜加(みだり)なる中に、彼の赤縣州はも、然かすがに間(ほど)近くて、本州の教へを、最と早く承け賜はれる事は、神の此ゆなき恩頼と云ふべし。‥‥

 さて『淮南(子)』の覽冥訓に、かの蒼生を教化し竟へて後に、隱沒せる古傳を載(しる)して、「雲車に乘り、應龍に駕し、鬼神を道き、九天に登り、帝に(上帝の)靈門に朝し、宓穆として太祖(道の大宗)の下に休ふ」と有れば、其の初め、彼の國へ渡りて、蠢化の民を含養すべき法を立て給ひしは、天の太祖、及び上帝の詔命に依れる事なるが、功烈すでに竟へて、かく朝せる事は、復命せる古傳なりけり[然ればこそ、三皇は更なり、次々の六皇・伏羲氏をも、正しき古書には「沒す」と云へれ。沒とは、出に對して、何處にまれ、身を隱せる事にこそ有れ。死の事には非ざるを、『史記』をはじめ、然る古書には據りながら、「沒」とありしを「崩」と改め記せるが多くかるは、皆な古へを知らぬ儒流の小智見にぞ有りける。‥‥]。然して後に、無窮の住所と定めたるは、枎桑本州なり。‥‥

 伏羲氏東王父は、疑なく神典なる大國主神に坐し、女媧氏西王母は、疑なく其の后神・須勢理毘賣命にぞ坐はしける[前には、大國主命和魂・大物主神と、其の后神・三穗津姫命を當たりしかど、後に尚ほまた深く考へて、かくは定めつ](『赤縣太古傳』三皇本紀二に、「女媧氏西王母は、疑なく其の后神須勢理毘賣命にぞ坐しける」と。また生田翁の「天之冬衣神の后神・刺國若比賣命」説は、上に引きたり)。

 さて此の如く攻證せる由來は、師(本居鈴屋大人)の『古事記傳』に、少毘古那命の、常世國に渡り給へる事に、「此の神、初め天上(あめ)より、外國(とつくに)へ降り坐せるを、前に海より依り來坐せるは、外國より渡り來坐せるにて、後に「常世國に渡り坐す」と有るは、また外國に還り坐せるなり。此の趣に據りて按ふに、外國は、皆もと此の神の經營り堅め成し給へる物なるべし[‥‥]。抑々今かく言ふを聞かむ人、いかに思はむ。千年にも餘りて、普ねく外國の説をのみ聞きなれて、心の底に染み著きたる世の人なれば、竝(す)べて信(うべな)ふ人も、をさゝゝ有るまじけれども、然る徒は、何(いか)にも有れ、皇御國の物學びせむ人は、此の事、心得居るべき物ぞ」と言はれたるに驚かされ、また後に大國主神も、外國に往き來ひし給ひ、其の御子神たちをも、四方の外國へ班(あが)ち遣はせる事あるに、年ごろ思ひを潭(ふか)めて、其の御行方や何處ならむと、索隱せる説になも有りける[‥‥]。

 張果が『毉説』に、「『帝王世紀』に、太昊、八卦を畫して、以て萬物の精を類し、六氣六府、五藏五行、侌昜四時、水火升降、以て象有ることを得、百方の理、以て類有ることを得、乃ち九鍼を制す」。『孔叢子』に、「伏羲、始めて草木を嘗めて、一日にして七十二毒に遭ふ」など有り。謂はゆる神僊の方術、及び醫藥鍼灸の道、ともに此の眞神たちの傳へたる事なるが故に、玄學の古書等に、其の法方の傳來を云ふときは、多く枎桑太帝・西王母・小童君と稱へり[なほ八卦は更なり、文字・音律、謂はゆる五倫の道も何も、其の本は、皆この神眞等より出でたること、本編に説くを見て知るべし。中にも方術醫藥の道を傳へし事の、神典によく符へるを思ふべし]。さて『廣黄帝本行記』に、黄帝の從ひて、眞一の道を問へる神僊に、天眞皇人と云ふ有り。此は、枎桑君の所使として、峩嵋山の僊宮を治むる由、云へり。枎桑君とは、枎桑太帝の事にし有れば、此は、大國主神の御子神たちを、四方の國に班ち遣はせりと有るが中の、一神なること知るべし[なほ記かまほしき事は、今ま記せる考證の數十倍あれど、‥‥]。



【三・神農・黄帝『春秋外傳』晉語に云く、
「司空季子の曰く、昔、少典、有蟜氏に取りて、黄帝・炎帝を生む。黄帝は姫水を以て、炎帝は姜水を以て成る。故に黄帝を姫と爲し、炎帝を姜と爲す。二帝、軍を用ひ、以て相濟す也」
(黄帝、炎帝の曾孫・炎帝楡罔を亡ぼす)。

 『黄帝本行記』の本注に、「伏羲、少典を生む。少典、神農及び黄帝を生む」と見え、賈誼が『新書』にも、「黄帝は、炎帝の兄也」と云へり。‥‥

 さて伏羲氏の本部は、東方華渚の州に有りしかば、少典は更なり、黄帝・炎帝ともに、其の州にて生れしこと知るべし。其は、『(春秋)命歴序』に、「神人有り、石年(圀秀翁の云く、「多伎都比古命の御魂の、石神なりしとあるに符合して、いと尊し」)と名づく。蒼色大眉、玉理を戴く。六龍に駕して、地輔より出でたり。皇神農と號す云々」と有るにて、まづ彼の國の産ならぬ事を知るべく、殊に初條の末に云ひし、人皇氏の子孫、六皇の中なる辰放氏を、同書に、「六蜚□[鹿+吝]に駕して、地□[勃の左+郭の右。地名]より出でたり」とある地□、今の地輔と音近ければ、同所と聞え、かつ「龍□[鹿+吝]に駕して」など有るは、悉(みな)東海外より渡り來れる例なるを、思ひ合はせて曉るべし[‥‥]。

 さて『帝王世紀』に、
「神農氏は、姜姓なり。母を姙娰と曰ふ。有喬氏の女なり。女登と名づく。華陽(華渚の陽、即ち扶桑木の南、東華・青華・扶桑域内の暘谷、やがて皇國)に遊ぶ。神龍有り。首め女登に感ず。尚羊(「常羊」ぞ正しかりける。『淮南子』天文訓に、「東南を常羊の維と爲す」。即ち我が筑紫九州の方位)に於て、炎帝を生む。姜水に長ず。火を以て木に承く。故に炎帝と謂ふ。陳(伏羲氏の、彼國に都せし所)に都す。在位百二十年」とあり[漢の王符が『潛夫論』に、「神龍有りて、首出づ。甞て姙娰に感じて、赤帝魁を生む。身づから炎帝と號し、世に神農と號す。伏羲に代はる云々」。『孝經援神契』に、「任巳、龍に感じて、帝魁を生む」。鄭玄が注に、「任巳は、帝魁の母也。魁は、神農の名。巳、或は姙に作る」など見えたり。巳・姙、いにしへ同音なり]。さて『古微書』に出だせる、『春秋元命苞』の文に、「少典の妃・安登、華陽に游ぶ。神龍有り。首め之に感じて、常羊に于いて、神子を生む。人面龍顔、耕を好む。是を神農と謂ふ」とあり。‥‥

 また黄帝は、『世紀』に、
「黄帝は、少典の子、姫姓也。母を附寶と曰ふ。大電光、北斗の樞星を繞りて、野に照らすを見て、附寶に感じて、黄帝を壽丘に生む。國を有熊(庖犠氏・少典氏・黄帝氏、相ひ襲ぎて居ましゝ地)に受けて、軒轅の丘に居す。故に以て名と爲す(『武英殿叢書』に引く『乾坤鑿度』の蒼頡が注に、「亦名は蒼牙」)。土徳を以て王たり。在位百年」と見えたり[『河圖握矩記』に、「黄帝、名は軒轅。北斗黄神の精なり。母は地祇の女。附寶、郊野に之(お)いて、大電、樞斗星を繞りて、耀り附寶に感じて、軒轅を生む。文に黄帝子と曰ふ」と有り。‥‥]。

 さて本文晉語に、「少典、有喬氏に取りて、黄帝・炎帝を生む」と云へるは、同母兄弟の如く聞ゆれども、『世紀』を始め、諸書の説にては、其の母、互ひに異なり。按ふに此は、安登・符寶ともに、有喬氏の女にて姉妹なるが、其の住所を別にせし故に、炎帝・黄帝の生所、及び成長の所も、各々別なり。此は、其の母たちの處に育する、上代の趣に符へり。‥‥また「軒轅の丘に居す」とは、赤縣州の地を遙かに西に放(さか)りて、天竺といふ地方に有り。黄帝、すでに赤縣を平治して、其の中世に、かの天竺を馭めて、久しく居(お)はしゝ所なる故に、軒轅の丘とも國とも稱すること、『山海經』、また『黄帝本行記』などに、所見(みえ)たるが如し[‥‥]。さて『(史記)索隱』に、「本姓は公孫。長じて姫水に居る。因りて姫姓と爲る」と有り。此は、東王公伏羲氏の嫡孫なる故を以て、公孫を姓と爲したりと聞えたり(彼の女島の、羊・臣てふ所の水邊に居せる故に、姜姓・姫姓)。‥‥

 然らば少典・黄帝・炎帝は、神典の、誰(いづれ)の神たちに當ると謂ふに、少典は、疑なく味鋤高彦根神[亦の名を言代主神と白す]、炎帝・黄帝は、其の子・多伎都比古命・鹽冶毘古命ならむと思ふ由あり。‥‥

 少彦名神の古傳の、此方・彼方に聞え高き事を辨ふべし。故れ是を以て先師(鈴屋大人)、また『玉鉾百首』にも、
「さひづるや 常世の戎の 八十國は 少名毘古那ぞ 造らせりけむ」
と詠まれたり。吾が師に非で、誰かは、かゝる玉鉾の、道の眞の歌の出でめや。穴かしこ[‥‥]。
 

  • [26]
  • 平田大壑先生『天柱五嶽餘論』──西王母、赤縣に降臨せり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月22日(日)00時47分46秒
  • 編集済
  • 返信
 
【平田大壑先生『天柱五嶽餘論』所引(第一條より、第七條に至る)──校合本『漢武帝内傳』】

 諸越の古籍どもに、天柱・地軸と云ふ語の聞ゆるが、高天原の事始め給ひし、天皇祖(あまつみおや)・産靈大神の大詔命に依りて、世の初發を成し給へる、皇祖・伊邪那岐大神の見立てませる、天御柱・國御柱の故語(ふること)に似通ひて聞ゆるが、年ごろ心に掛りて在りけるに、今し熟々に思へば、此は、おなじ古説の、此にも彼にも遺り傳はれる説なること、『漢武帝内傳』と云ふ籍を始め、『嶽瀆名山記』に、諸書を參攷してぞ所知れたりける。故れ今しばらく、右の二書を抄略して本文と爲し、探索攷證すること、左の如し[余が藏(も)たる『内傳』は、『漢魏叢書』・『雲笈』七籤・『龍威祕書』・『神仙通紀』などに收(い)りたる本ども、及び諸書に引きたる文をも見るが、まにゝゝ校合せる本なり。‥‥一本をのみ知りたらむ人、いぶかる事なかれ]。‥‥

 此の『内傳』は、武帝の人をして、其の言を受け書さしめ、當昔(そのかみ)より祕(かく)して世に傳へざりしが、遙か後に世に洩れたるを、班固が記と云ひ來れるにも有るべし[また按ふに、此の『内傳』の事實、よく『十洲記』と、本末符合し、文法も似たるは、始めに受書せるは東方朔なるを、後に班固が章を成せる物か。『抱朴子』論仙篇に、董仲舒が撰ぶ所の『李少君家録』など云ふ書も見ゆれば、此の輩の記せる物ならむも、亦た知るべからず。其は、董仲舒・李少君とも、下に云ふごとく、此の事に由ある人なればなり。然るは、班固は當時の人ならねば、此の事をししか精しく知るべき由なく、今ま此の傳を見れば、其の時の趣を親見せる人ならずば、決めて書き得まじき事どもの有るを以て知るべし。然るを『四庫全書提要』に、「‥‥」と云へり。考證の委しきは、然る事なれど、總べての趣は、神仙の道を卑下し、擬聖の訓へを尊崇する徒の説なれば、信(げ)に斯く有るべき事なりしか]。然れど其の記者は、よし誰にまれ、其の事の始末、和漢の正しき故實に符へれば、其の時の實記たるに論なし。其は、眞の識者は、余が辨を俟たず知るべく、俗學の徒は、いかに論ずとも、疑ふべき事なれば、只その大略を論ふのみ[なほ『赤縣太古傳』(此の書の本編なり)・『枎桑國考』・『三五本國考』にも引き出だして注せるをも、合はせて見ば、自づから著明ならむ物ぞ。然る上にて、猶ほ信(う)けざらむ人は、謂はゆる不治の闇昧にて、論の限りに非ずかし]。

 是より古くは、『洛書靈淮聽』・『尚書帝命驗』などに、「、終を受けて、鳳皇儀し、黄龍威す。西王母、『益地圖』を授く」と見え、『竹書紀年』に、「舜、位に即く。九年、西王母來朝」。沈約が注に、「西王母の來朝、白環玉玦を獻ず」。また「周の穆王十七年、西征して、昆侖丘に至る。西王母に見え、其の年、西王母來朝、昭宮に賓す」など云ひ、なほ古く、黄帝の時にも、降臨せる事實あり[そは、『赤縣太古傳』太昊氏の條は更なり、『黄帝傳』に、委しく云へるを見るべし]。‥‥



「一、漢の孝武皇帝は、景帝の子也。即位に及びて、神仙の道を好み、常に名山大川の五嶽に祷祈して、以て神仙を求む。元封元年正月甲子、嵩山(赤縣の謂はゆる小中嶽)を祭りて、神宮を起し、帝、齋すること七日、祠り訖りて、乃ち還る。四月戊辰に至りて、帝、承華殿に間居す。東方朔・董仲舒、側に在り。忽ちにして一女子を見る。青衣を著る。美麗なること、常に非ず。帝、愕然として之に問へば、女の對へに曰く、
『我、庸宮の玉女・王子登也。乃ち王母の所使と爲りて、昆山(西岳龜山)より來れり』
と。

二、帝に語りて曰く、
『聞く、子(汝)、四海の祿をも輕しとし、道を尋ね生を求め、帝王の位を降りて、屡々山嶽に祷ること、勤めたり哉。教ふ可きに似たる者有り也。今より百日清齋して、人事に閑からざれ。七月七日に至りて、王母、暫(にわ)かに來たらむ也』
と。帝、席を下りて跪諾し、言訖りて、玉女、忽然として所在を知らず。帝、東方朔に問ふ、『此れ、何人ぞ』と。朔の曰く、
『是れ西王母、紫蘭宮(此では庸宮の事)の玉女なり。常に使命を傳へて、榑桑(東方枎桑國)に往來し、靈州(一に云く、交關・常陽、即ち蓬莱・瀛洲・方丈)に出入し、命祿を領せしむ。眞の靈官也』
と。

三、帝、是に於て延靈の臺に登り、盛齋して道を存し、其の四方の事、權りに冢宰に委ね焉、七月七日に到りて、乃ち宮掖を修除し、座を大殿に設く。紫羅を以て地に薦き、百和の香を焚き、雲錦の幃を張り、九光の燈を燃し、玉門の棗を列ね、葡萄の酒を酌み、躬づから香果を監し、天宮の饌を爲し、帝、乃ち盛服して階下に立つ。(帝、)端門の内に敕して、妄りに窺ふ者有ることを得ず。内外寂謐にして、以て雲賀の到るを俟つ。夜二唱の後、忽かに西南を見れば、白雲の起るが如く、鬱然として直ちに來る。雲中に簫鼓の聲、人馬の響有り。半食頃にして、王母至る也。群仙數千、庭宇に光輝く。既に至れば、從官、復た所在を知らず。唯だ王母、紫雲の輦に乘り、九色の斑龍に駕するを見る。別に五十の天仙有り。側に鸞輿に近し。皆な長け一丈餘、同じく綵毛の節を執り、天眞の冠を戴き、咸く殿下に住(とゞ)まる。王母、車を下り、唯だ二侍女に扶けられて殿に上る。侍女の年は十六七可り、青綾の袿を服し、容眸流眄、神姿清發、眞の美人也。王母、東向きに坐す。黄錦の袷□[衣+屬](しよく)を著る。文采鮮明、光儀淑穆として、靈飛の大綬を帶び、腰に分頭の劒を佩き、頭上は大華の髻、太眞晨嬰の冠を戴き、玄□[王+橘の右](けい)鳳文の□[寫-ウ](くつ)を履く。之を視るに、年三十許りなる可し。修短中を得たる、天姿掩靄、容顏、世に絶して、眞の靈人也。帝、跪拜して寒温を問ひ、畢りて帝、南に面す。王母、自ら天厨を設く。眞妙なること常に非ず。豐珍の上果、芳華の百味、紫芝萎□[艸+豕+生]、芬芳填□[木+累]、清香の酒、地上の有する所に非ず。香氣殊絶、帝、名づくること能はざる也。

四、畢りて帝、乃ち地に下り、叩頭し自ら陳べて曰く、『徹(武帝の諱)、受質不才、流俗に沈淪し、先業を承禪し、遂に世累に羇し、政事多く闕け、兆民和せず、風雨節を失ひ、五穀實ること無く、徳澤建たず、黔首勞斃、戸口半を減ず。然れども少くして道を好み、靈仙を仰ぎ慕ふ。願はくは哀憐を埀れよ』と。王母の曰く、
『女(汝)、能く榮を賤み卑を樂み、虚に□[身+耽の右]り道を味はゞ、自ら復た佳ならむ耳。然れども女、情恣體慾、淫亂過甚、殺伐非法、奢侈、其の性恣まなれば、則ち身を裂くの車、淫は年を破るの斧爲り。殺は則ち響のごとく對す。奢れば則ち心爛る。慾なれば則ち神隕す。若(汝)、能く神炁を絳府に保ち、淫宮を開悟に閉ぢ、奢侈を寂室に靜め、衆生を不危に愛し、茲道戒を守り、務めて惠和を施し、精氣を練惜し、浮麗を棄て却けよ』
と。帝、跪きて聖戒を受け、『請ふ、斯の語を事とせむ。身を養ふの要、既に之を聞けり矣』と。是に於て王母、乃ち元始天王の説く所の微言を以て、侍笈の玉女・李慶孫に敕して、之を書録せしめ、以て相ひ付す。
『子、善く録し、而して焉れを修めよ』
と。王母が言語、粗ぼ畢り、嘯きて靈官に命じ、龍に駕して車を嚴にせしむ。去らむと欲す。帝、留らむことを請ふこと慇懃なり。王母、乃ち止む。

五、帝、又た王母の巾笈中に、一卷の書、盛るに紫錦の嚢を以てせるもの有るを見て問ふ、『此の書は、是れ仙靈の方か耶。不審、其の目、瞻盻ることを得可きや否や』。王母、出だして以て之を示して曰く、
『此れ五嶽眞形圖也。三天太上、出だす所の文、祕禁極重、豈に汝、穢質の佩ぶ宜き所あらむや乎』
と。帝、地に下りて頭を叩き、固く請うて已まず。

六、王母の曰く、
『昔、上皇の清虚元年、三天太上道君、下りて六合を觀じ、河海の長短を瞻、丘山の高卑を察し、天柱を立て、而して地理を安んじ、五嶽を植ゑて、諸れを鎭輔に擬し(昆陵を貴びて以て舍とし、蓬丘を尊びて以て眞人に館とし、水神を極陰の源に安んじ、太帝を枎桑の墟に棲ましむ。是に於て方丈の阜に、理命の室を爲る。滄海の島は、九老を養ふの堂たり。祖・瀛・玄・炎・長・玄・元・流光・生・鳳麟・聚窟は、各州の名たり。竝な滄流・大海・元津の中に在り。水は則ち碧黒倶に流れ、波は則ち群精を震蕩し、諸仙・玉女、滄溟に聚居す。其の名は測り難きも、其の實、分明なり)、

七、乃ち山源の規矩に因りて、河嶽の盤曲を瞻れば、陵廻り阜轉じ、山高く隴長く、周旋逶蛇、形、書字に似たり。是の故に象に因りて(名を制し、實の號を定め)、形を畫き、玄臺(『玉京山經』に云く、「太上大道君の宮に、七寶の玄臺有り」と)に祕して、而して出だして靈眞の信と爲す。(諸仙、之を佩ぶること、皆な章を傳ふるが如く、道士、)之を執りて山川を經行するに、百神群靈、尊奉親迎す。汝、不正と雖も、然れども數々山澤を訪ひ、叩求の志、道を忘れず、子が心有るを欣ぶ。今ま以て相ひ與へむ。當に深く奉愼すること、君父に事ふる如くせよ。凡夫に泄し示さば、必ず禍の及ぶことを致さむ也』
と。上元夫人、帝に語りて曰く、
『阿母(西王母)、今ま瓊笈の妙蘊を以て、紫臺の文を發し、汝に八會の書・五嶽眞形(王母の語に、「太上八會、飛天の成、眞仙の節信、茲に由りて靈に通ず」と。上元夫人の語に、「太上の靈書、八會の奇文」と)を賜ふ。至珍にして且つ貴く、上帝の玄觀と謂ひつ可し矣。子、受命、神に合するに非ざる自り、此の文を見ざれ矣』
と。王母、因りて授くるに『五嶽眞形圖』を以てす。帝、拜して文を受く(王母の授くる所の『五嶽眞形圖』・『靈光生經』、及び上元夫人の授くる所の『六甲靈飛十二事』)。王母、又た曰く、
『汝、五嶽眞形を授けむと欲せば、董仲舒、其の人に似たり也。六甲靈飛左右の符を行はむと欲せば、李少君に傳ふ可し。此の二人は、得道の者也。而して道を同じくする、之を天親と謂ひ、心を同じくする、之を地愛と謂ふ。道を爲す者、當に相ひ親授すべし。共に榮辱を均しうし、眞一を營み守り、精液を珍惜し、和氣を恭養せば、氣全く神歸す。如し其れ爾らずんば、天、爾(汝)に癘を降さむ。此れ皆な道の科禁、今ま故らに相ひ戒む。愼まずんばある可からず。若し女(汝)、遂に明に尅ち身を正ふし、惡に反し善を修せば、復た三年七月、更に來り、女に要道を告げむ也』
と。明旦に至り、王母、上元夫人と同乘して去る。發するに臨むで、又馬龍虎、道從音樂、初來の時の如し。雲彩鬱勃、盡く香氣を爲す。極めて西南を望むに、良久(暫)くして乃ち絶す」と。



 愚案、大壑先生が著す所の『赤縣太古傳』・『大枎桑國考』・『三神山餘考』・『三五本國考』・『黄帝傳記』・『老子集語』(太上丈人・太上眞人・太上玄一眞人・金闕老君は、老子の内號なり)、及び此の『天柱五嶽餘論』は、我が神典を拜讀する者の讀まざる可からざるの書なるを信ず。而して更に一歩を進め、宮地水位大人の神書等に、相親しまれむことを希望すること、愈々切なり。小生が如き、道骨神縁なき者を後へにして、有志奮勵、僞仙賣法の自稱道士に眩惑さるゝこと無く、其の玄奧に參入して、其の精粹を發揮せられむことを。神仙求道の祕奧とは、抑も何ぞや哉。平時無事には、宇内皇化に翼贊し、一旦緩急あれば、皇城奉護に從事する、即ち是れのみと白すと云爾。懇祷、々々。
 

  • [25]
  • 平田大壑先生『赤縣太古傳』抄、其の五。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月21日(土)00時23分15秒
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【三皇紀・第八條】
天皇、是に於て方丈の阜(方壺・方丈山・方丈州・浮廣山・方諸山)に、理命の室を爲り、滄海の嶋は、九老を養ふの堂、昆崚(西岳麗農山)を貴びて、以て靈僊に舍とし、蓬丘を尊びて、以て眞人に館とし、百川の極深を儲けて、水靈、之に居らしむ。其の陰、到り難し。故に治、常處無く、丘陵の、而かも得て論ず可きが如きに非ず爾。

 『十州記』に、
「方丈州は、東海の中心に在り。西南東北、岸正等。方丈方面、各々五千里。上は專ら是れ群龍の聚まる所なり。金玉瑠璃の宮有り。三天司命、所治の處なり。郡仙、未だ昇天することを欲せざる者、皆な此の州に往きて、太上玄生籙を受く。仙家數十萬、田を耕し芝草を種う。課計頃畝、稻を種うる状の如し。亦た玉石の泉あり。上に九原丈人の宮有り。天下の水神、及び龍蛇・巨鯨・陰精・水獸の輩を主領す」
と有るは、乃ち是なり[‥‥]。

 此の洲を、『列子』に、蓬莱・瀛洲と共に、彼の大壑中の三山と爲したれど、其は誤れる傳へにて、此の洲、疑なく我が淡路嶋なり。其の由は、『史記』の封禪書・始皇本紀・淮南王傳などに、其の三神山の議(さだ)あれど、事實には、蓬莱洲の事のみ有りて、方丈・瀛洲の事は聞えず。然て神典に、二柱神、已に天之御柱を立て廻りて、國の長子(みこのかみ)に、大倭豐秋津嶋を生み給ふ時に、淡路嶋を胞(え)として生み給へるに、此の嶋、皇國の中央に在ること、方丈州を「東海の中心に在り」と云へるに符ひ、かつ下に次々論ふ旨の、よく符へばなり[但し此は多年、かく思ひ定めては在りしかど、天保六年五月二十四日、こを清書する時に當りて、ふと思ひ興し、こは、不當の説には非じかと、『列子』の海底と云へる説(方丈州・蓬莱州・瀛州は、彼の大壑中の三山と爲す)と、今の説(蓬莱州のみ、大壑中に在り)とを、紙籤に封じ、天神地祇及び『五岳眞形圖』に祭禮章詞して、嫡孫の八歳なるに、三度賜はらしむるに、二度まで今の考説をとり得つれば、此は神眞靈仙の許し給へる事となも、思ひ定めたりける]。‥‥

 さて此の嶋の西北隅にひき添ひて、天之御柱と見立て給へる、淤能碁呂嶋あり。是れかの三天太上道君の、東岳を立てたる説に符合し、また本文に、謂はゆる理命の室は、『十州記』に、「金玉瑠璃の宮有り。三天司命、所治の處」と云へる宮なるが、「三天の司命」とは、三天太上道君の命を承けて、此の宮を守護し、かつ其の生籙の事を行ふ眞宮の號と聞えたり[但し其の司命の職たる神眞は、疑なく青眞小童君にて‥‥]。然るに其の太上道君、やがて伊邪那岐大神に坐して、此の嶋にぞ、幽宮あり。其は、神典に、「伊弉諾尊、神功、既に畢り、幽宮を淡路の州に構(つく)り、寂然に長く隱れたまふ矣」と見え、また「伊弉諾尊、是に於て天に登りて報命(かへりごとまを)したまひ、仍(やが)て日之少宮に留宅りたまふ矣」とも有りて、『神名式』に、「淡路國津名郡・伊佐奈伎神社。名神大」(神宅「かうやけ」とも云ふ)と有るは、乃ち其の幽宮の存せるにて、神功畢へて、まづ此の宮を構りまし、其の御靈を長へに隱し留めて、其の本體(もとつみま)は、天上(あめ)に昇り報命して、仍て日之少宮に留宅り給へる傳へなれば、今の謂はゆる「理命の室・金玉瑠璃の宮」と云ふは、是の幽宮なること、疑ひ無し[‥‥]。其は、神典に、伊邪那美神の語に、「當に汝の國の民、日に千頭を縊り殺さむ」と宣りたまへるを、伊邪那岐大神、宣り直して、「吾は則ち當に日に千五百頭を産まむ」と詔たまへるしるし、今にあり。是の謂はれによりて、此の大神の御靈を、活産靈・足産靈・玉積産靈神と稱して、鎭魂祭に祭り給ふ事などの、幽(ほのか)に契(かな)ひて通(きこ)ゆるを思ひ合はせて知られたり[その御靈實(みたましろ)は、乃ち活玉・足玉・死反玉・道反玉に御(ま)すなり。‥‥]。然れば理命と司命は同義の言にて、人の生命を司理せしめ給ふ幽宮の義なること著し。また「群仙の、未だ昇天を欲せざる者」とは、謂はゆる地仙なり。其は、赤縣州、なた皇國の仙のみに非ず、何國の仙にまれ、此の神府に詣(もの)して、長生久視の生籙を賜はる、神眞界の定めなると聞えたり[‥‥]。

 さて『十州記』の文に、「亦た玉石の泉有り。上に九原丈人の宮有り云々」と有るも、淡路島に符合する事ども有り。其は、此の九原丈人と云ふ神眞は、其の主領する物ども、「天下の水神、及び龍蛇・巨鯨・陰精・水獸の輩なり」と有るを思ふに、海神なること、疑ひなし。然らば淡路島に謂はゆる九原丈人宮に思ひ合はせる、海神社ありやと云はむか。此は、『神名式』に、然る正しき社名は無けれども、津名郡に、石屋神社と出でたる社、其の宮の遺趾ならじか[‥‥]。然るは此の社、その郡の石屋浦と云ふに在りて、淤能碁呂島と近く相對ひ、今これを、天地大神宮とも、繪島明神とも、石屋明神とも言ふ由なるが、其の舊地は、今の國主里邸の地なりしを、是の地に移せるにて、其の祭神、實は詳かならず聞えたり[‥‥]。但し石屋神社と申す事は、同じ浦の繪島を去ること五十歩計り、今の天地明神の北の海邊、古城山の岸下に、石窟あり。舊は甚と廣かりしを、城を築ける時に、窟を切りたてゝ、今殘る所の岩屋、いと狹くなりぬ。惜しき事なり。中に小祠あり。土人は、石楠尊といふ。訝しは、『常磐草』に見えたり[‥‥]。今ま是れに依りて考ふるに、『十州記』に「玉石泉」と有るは、其の石屋の、もと大なりし時に、然る泉の有りけむを言ひ、「其の上に、九原丈人の宮有り」とは、石屋神社の古く、今の國主の里邸の地に在りしを云へる如き聞え、また然る海邊の石屋なれば、必ず海神の所治なるべく所思ゆるに、況して其の邊りより東浦にをり廻して、松尾崎と云ふより、育波郷机浦と云ふに至りて、富島・野島など言ふ、舊き名所あり[‥‥]。野島の海人の、古く名高く聞えて、淡路島を、御食津國と歌に詠みしも、是の故なる事、また阿曇連が、海神の裔にして、此こなる海人どもを司(をさ)むる職なる事をも思ふに、神世に、早く是の郷に、海神のさる由よし、絶えて無かるべしとは言ぶからず。‥‥

 さて本書、なほ王母の言に、東方朔が事を、
「此の子の性、滑稽多し。昔、太上の仙官爲り。太上、方丈山に到り、三天の司命を助けて、仙家を收録せしむ。朔、方丈に到り、但だ山水の游戲を務め、擅まに雷電を動かし、波を激し風を揚げ、風雨、時を失ひ、陰陽錯迕し、蛟鯨陸行、山崩れ境壞れしむることを致し、玉酒を沈湎して、奉命の科を虧く。是に於て九原丈人、乃ち之を太上に言す。太上、遂に謫斥して、人間に在らしむ。近ごろ金華の二仙、及び九嶷君、陳りに之を原ねんと乞ふ」
と語れる事もあり」と。



【三皇紀・第九條】
──○大國主大神、即ち幽冥主宰大神・大名牟遲神・國造大己貴神・葦原醜男神・八千矛神・宇都志國玉神・大地主神・大名持神の亦名は、東王父・伏羲氏・太昊伏羲氏・太皐伏羲東王父・伏羲東王父・枎(扶)桑大帝・東王公・大東東大父・木皇・大帝君・泰帝・燧人氏・煎人氏・庖羲・壯牙・蒼牙・君明・倪・東陽公・青皇・蒼帝・玉皇君。
須勢理姫大神、即ち道主貴・若須勢理毘賣命の亦名は、西王母・太眞西王母・龜台九靈太眞元君・九靈龜山金母・女嬌氏・金母・龜山金母・九靈金母太素元君・太虚・君思・眞九靈龜山金女・九光龜臺金母・金母元君・九天玄女・九光玄女・太一元君。──

天地、位を設けて、物、之が宜しきに象る。乃ち玄風を西極に處して、王母を坤郷に坐せしめ(西岳)、扶桑を碧津に植ゑて、王父を乾墟に棲ましめ(東岳)、火精を炎野に合し(南岳)、坎は衆陰を海島に總ふ(北岳)。風鼓を群龍に高くし、靈符を瑕丘に暢ぶ(方丈)。至玅玄深、幽神、測り難し。眞人の隱宅、靈陵の所在、六合の内、豈に唯だ數處のみ而已ならむや哉。此れ蓋し其の標末を擧ぐるのみ爾。‥‥

 『王母傳』に、
「(在昔、道氣凝寂、湛體無爲、將に玄功を啓廸し、萬物を生化せむとして、先づ東華至眞の氣を以て、化して木公を生ず焉。)木公は、碧海に生れ、(陽和の氣に主たるを以て、)東方を理む。亦た號して東王父と曰ふ焉。(又た西華至妙の氣を以て、化して金母を生ず焉。)金母は、神州に生れ、(陰靈の氣に主たるを以て、)西方を理む。亦た號して西王母と曰ふ焉。(大道醇精の氣を分ちて、氣を結び形を成し、)木公と共に二氣を理め、而して天地を育養し、萬物を陶均す矣。(元始天王、授くるに龜山九天の録を以てし、萬靈を制召し、眞聖を統括し、征信を鑒明せしむ。上聖の眞經・三洞の玉書、凡そ授度する所、咸く關與する也。天上天下の女子の登仙し、道を得る者は、咸な焉に隷する所なり。‥‥仙に、凡そ九品有り。其の昇天の時は、先づ木公を拜し、後に金母に謁し、受事既に訖(畢)りて、方に九天に昇ることを得。三天(或は三清)に入りて、太上(道君)を拜し、元始天尊(皇)に覲奉す耳)」。‥‥

 世俗行尸の凡情を以ては、眞人の隱宅・靈陵の所在など、其の説を聞きては、唯だ荒唐不經の妄談とのみ聞き成すめれど、誠に『十州記』に出だせる數處の州島どもは、其の標末を擧げたるにて、尚ほ幾千萬の靈陵が有るらむ。我等凡俗の、測り知るべき際(きは)には非ずかし」と。



【三皇紀・第十條】
──○少彦名大神、即ち小名牟遲神・少日子神・少御神・手間天神・久斯神の亦名は、青眞小童君・太乙小子・泰乙元君・少童君・東華方諸青童君・青君・泰一小子・東華大神・青眞小童・上相大司命・東海小童・扁鵲・東華大神方諸宮青童君・青眞小童大君・東海大神仙王・太清仙伯・太清小童・東海青華小童君・大方諸宮青君・東華大神大方諸葛青童君・太庭君。天竺の梵天子・童子天・鳩摩羅天・輪阿天・小阿天・加童天。──

青眞小童君は、太上大道君の司直(御手代)、元始天王が入室の弟子也。形、嬰孩の貌有り。故に仙宮に、小童を以て號と爲す。其の器爲るや也、環朗洞照にして、聖周萬變、玄鏡幽鑒にして、才、眞俊爲り。扶廣(浮廣)に館して(東華方諸宮)、始運を權り、玄圃(西岳)に游びて、僊職を治む。亦た號づけて金闕上相大司命東海王青華小童君と曰ふ。亦た東華大神方諸宮青童道君と曰ふ。亦た泰一小子と曰ふ。‥‥

 此は、我が神典に、皇産靈神の御子・少彦名命と有る神なり。‥‥少彦名命は、神典に、皇産靈神の長子(みこのかみ)と有れど、其の生子とは少(やゝ)異にして、實は天地の判るゝ初めに、彼の葦牙の如く、萌え騰れる物に因りて成り坐せる宇麻志葦牙彦舅神に坐すを、産靈神の御教へに順はず、其の御手股より漏放れて、天降り給へる神なるを、其の御形の、いと異(け)に少く稚く御すが故に、神典には少彦名神と申し傳へ、彼處(赤縣)の書には泰一小子とも、小童君とも傳へ來し物なり。‥‥

 石屋神社の在る同じ浦に、大和島とも、大繪島とも稱する嶋あり。彼の東岳たる淤能碁呂島の南にて、石屋神社の社前に當る。此の島を、古昔へより、神靈の棲息する所と云ひ傳へて、島上に登る人なしと、彼の『常磐草』に記せり。謂はゆる扶廣山、かならず是の島ならむと所思ゆるなり[‥‥]。是の島山をしも、古昔より、神の靈の棲息する所とも、魔所とも云ひ傳へしは、然る靈異の事ども、往々有りし故なること知るべし。また大繪島とも云ふは、自凝島を繪島といふを、其れに比べて、稍や大きなる故の名と聞え、仙籍に「扶廣」と云へる義は、詳かならず」と。



【三皇紀・第十一條】
「‥‥天皇・地皇沒して、人皇氏、之に次ぐ」と。



【三皇紀・第十二條】
人皇氏、九頭(分形)九男、相ひ像る。其の身、九章。故に九皇と曰ふ。雲祗車に乘り、六提羽に駕して(天石船・天浮橋の類)、谷口(大壑暘谷)より出でたり。九河を分ち、山川・土地の勢に依りて、裁度して、九州を爲せり。之を九囿と謂ふ。是に因りて區別あり。各々其の一に居す。故に居方氏と曰ふ。人皇、乃ち中州に居て、以て八輔を制す。此れ州と名づくるの始め也。‥‥

 天皇氏は、伊邪那岐命に坐し、地皇氏は、伊邪那美命に坐し、かつ其の二皇を、前篇に引きたる『枕中書』に、「元始天王と太元聖母との間に生せり」と言ひ、人皇氏を、「地皇氏の子」と有れば、此は疑なく、健速須佐之男命に坐しけり。其は、神典に、此の神、その御父・伊邪那岐命の敕に、「青海原潮の八百重を治看(しろしめ)せ」と、御言依さしを受け給へれど[「青海原潮の八百重」とは、此の大地を都べ云ふ神語なり。‥‥]、殊に御母・伊邪那美命の坐す根國へ往き止まり給ふべき幽契ありて、彼處へ往で坐さむと欲(おもほ)す物から、然すがに父神の敕を畏み坐して、天翔りつゝ、蕃(とつ)國々潮の八百重を見巡りて還り坐せり[‥‥]。然れば是の時なも、彼の國に御坐して、國界成立の事に勤しみ給ひけむ。‥‥國土の初めは、潮に砂土の混淆して、謂はゆる泥の海と云ふ趣なりしを、天皇氏の、天柱五嶽を立てしより、締まり堅まり、漸々に山川海陸の形成れりしを、人皇氏の、裁度して九囿に區別し、九州と爲したる由なり。‥‥

 さて大九州・小九州と云ふ言は、『河圖括地象』に、「天に九部有り、地に九州・八柱有り」と有る古注に、「九州・八柱と云ふは、即ち大九州なり。禹貢赤縣の小九州に非ず也」と云へる、是なり。抑々是の大九州の所在・名號、早く『括地象』に傳はれど、周の世には、謂はゆる世法學を專として、天地の大體・方外の事説などは、頗る迂遠として、其の名聞えず成りにけるを、其の末世、謂はゆる戰國の時に、燕・齊の間に、騶衍と云ふ人ありしが、其の古説を唱へて、其の國々の王等に、甚く尊重せられしを、『史記』に、騶子が新説の如く記せれど、皆な本據ある説等なるをや。‥‥然るを俗學者の、荒唐として信ぜざるは、其の量を知らざる者にて、元より論ふに足らず」と。



【三皇紀・第十三條】
崑崙の墟下、洞含(眞崑崙の南の平邪山)の右は、赤縣州なり。是(赤縣の冀州)を中と爲せば、則ち
東南は、神州(我が筑紫國)なり、震(辰・農)土と曰ふ。
正南は、迎(次)州なり、沃土と曰ふ。
西南は、戎州(南アメリカ)なり、滔土と曰ふ。
正西は、□[合+艸]州(ペルシヤ・アラビヤ・アフリカ)なり、并土と曰ふ。
正中は、冀州(人皇氏の都)なり、中土と曰ふ。
西北は、柱(台)州(エウロハ)なり、肥土と曰ふ。
正北は、玄(濟)州(韃靼・蒙古・匈奴・グルラムド)なり、成土と曰ふ。
東北は、咸(薄)州(滿州・カムサツカ・北アメリカ)なり、隱土と曰ふ。
正東は、揚(昜)州(扶桑神州)なり、申(神)土と曰ふ。
‥‥

 赤縣州とは、乃ち諸越全國の古號にて、洞含の右と云ふも、方位より叶へり。斯くて是の赤縣州といふ號を始め、諸州の名は、此の時、人皇氏の命じたる名なること、言ふも更なり。赤縣は赤地と云ふに同じく、當昔(そのかみ)かしこの空國(むなぐに)なりし故の名なるべし。‥‥

 抑も彼の國冀州(赤縣)の正東大荒外には、我が扶桑神州より外に、州(くに)は有ること無ければ、易州・申土と謂ふは、是の國(皇國)を指すこと、疑なし。其は、『淮南子』に、此の文より下に、「扶木は、昜州、日の□[日+費。てら]す所に在り」と云ひ、高誘が注に、「扶木は、扶桑也。暘谷の南に在り。□[日+費]は、猶ほ照の如し也。是れ昜州は、東方也」と有るにて知るべし[‥‥]。さて此の大九州は、人皇氏の區別せるなれば、其の名等も、此の皇の命じけむ事、いふも更なり。然るに其の時、已に筑紫を神州と名づけ、大日本の地を、申土としも名づけたるは、神國と云ふに同じく、皇國を、神眞の本國と爲したる名にて、甚と古き嘉稱にぞ有りける[此の嘉稱ありし以來、今日に至りて、九千八百有餘年にや成りぬらむ]」と。



【三皇紀・第十四條】
人皇氏、歳、甲寅に起りて、各々三千三百歳、今に於いて傳ふる所の三皇の天文、是れ三皇の宣る所なり。故に能く天上の大聖、及び地下の神靈を召請し、制せざる所ろ無し也。人皇氏沒して、□[狂の左+巨]神氏、之に次ぐ。‥‥」と。



【六皇紀──第一條より第六條──『赤縣太古傳成文』に依れり】
「第一條、□[狂の左+巨]神氏は、‥‥歳甲寅に起りて、政三百歳。□[狂の左+巨]神沒して、黄神、之に次ぐ。五葉、千五百歳。
第二條、黄神氏は、號して黄袜と曰ふ。‥‥歳甲寅に起りて、政三百四十歳。‥‥
第三條、次民氏は、是を次是氏と爲す。歳甲午に起りて、政三百四歳。‥‥穴處の世終る矣。
第四條、辰放氏は、是を皇次屈と爲す。‥‥之を命じて、衣皮の人と曰ふ。歳戊戌に起りて、政三百五十歳。‥‥
第五條、離光氏は、是を號して皇談と曰ふ。‥‥歳戊子に起りて、治二百六十歳。‥‥
第六條、柏皇氏は、是を皇伯と爲す。‥‥歳戊申に起りて、化三百歳。柏皇氏沒して、伏羲氏、之に次ぐ」と。



【五帝紀上──太昊氏──第一條より第十五條──『赤縣太古傳成文』に依れり】
「第一條、太昊伏羲氏、都する所の國は、華胥の州有り。神母を華胥と曰ふ。‥‥
第十五條、‥‥九天に登り、帝に靈門に朝し、宓穆として、太祖の下に休ふ。然れども其の功を彰はさず、其の聲を揚げず、眞人の道を隱して、以て天地の固然に從ふ」と。

──○言代主大神、即ち味鋤高彦根神・積羽八重言代主神・天事代主神・都波八重事代主神・於天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代主神の亦名は、少典・金天子・暘谷神仙王・景林眞人・谷希子・太元眞人・紫府先生。
多伎都比古命の亦名は、神農・炎帝・藥仙・火意。
鹽冶毘古命の亦名は、黄帝・軒轅氏・太一・太一中黄・太一元君・中黄子・太一小子・中黄丈人・中黄通人・太一子・黄袜。──



【附録・第五條】
「五行の五帝‥‥我が神典なる、風・火・金・水・土の神等なること、‥‥[神典の正説をもて云ふときは、五行は、風・火・金・水・土なり。然るに彼の國にて、五行の中に、木を入るゝ事は、東方枎桑の神木を尊めるが故なり。然れど其の理を説くに至りては、風木とて、風の理をこめて説くこと、常なり。然れば彼の五帝の中に、木神蒼帝と云ふをば、風神と心得むに、子細なき事なり。‥‥]」と。

【附録・第六條】
「彼の國に、‥‥法を立て世を治めたる神聖は、伏羲氏以前に出でざること、灼然かなり[‥‥]。故れ考ふるに、泰一の稱はゆる神聖・上聖・有道・聖人は、皇國の神聖を申せるにて、是また邇々藝命の御事にぞ有りける。‥‥斯くの如く、正しき天位を承繼したる、神聖の眞天子は、我が邇々藝命を除(お)きて、漢土は更なり、萬國には有ること無きを以て、此れを知れり。‥‥[然れど予が此の説はも、和漢に學問の事ありし以來、誰も得心づかぬ新説にし有れば、忽ちは得信(う)けずて、論ふ徒も多かるべし。若しか論ひ破らむと欲りする人あらば、まづ太昊・泰一の、皇國より出たる眞神なりと云ふ説を破り、然して後に、我が天皇命の御大祖を除きて、外に天子と稱すべき神聖を索め出し、其の後に、今ま論ふ説を論破してよ。然かせぬ限りは、しぶゝゞながらに、予が此の説を信ずる外なし]」と。
 

  • [24]
  • 平田大壑先生『赤縣太古傳』抄、其の四。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月16日(月)18時12分11秒
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【三皇紀・第五條】
天地の間は、其れ猶ほ橐籥のごときか乎。虚にして屈せず、動きて愈々出づ。谷神は不死なり。是を玄牝(谷口)と謂ふ。玄牝の門、是を天地の根と謂ふ。緜緜として存する若く、之を用ゐて勤めず。‥‥

 さて宋の李石が『續博物志』に、「子(孔丘)の曰く、『乾は、動けば直、靜なれば專。坤は、動けば開、靜なれば翕。其の根や也、天根なり。毎日兩度、尾閭・巨壑に蹴入するときは、則ち海、沸して潮を出だす』」と云へる語あり[‥‥]。‥‥「其の根や也、天根」とは、乾天より降る玄牝の氣勢を謂ふ。其の本文に、「玄牝の門、是を天地の根と謂ふ」と有るは、天地の成れる根といふ義は勿論にて、此の語を分くれば、天根・地根にて、天根は、即ち玄牝陽根なり。地根は、乃ち玄牝陰根にて、尾閭・巨壑とは、即ち是なり。「毎日兩度云々」とは、天根・玄牝の氣勢、その巨壑・玄牝に、毎日兩度づつ蹴入する故に、潮汐のさし引きある由なり[‥‥]。抑々此の「玄牝・巨壑に、かの天根の蹴入す」と云ふ事は、凡人の目に見る所に非ざれば、世の曲士らは、例の狂妄なる説と爲て大笑すれど、此は絶えて後の凡人等の、想ひ寄るべき事に非ず。天陽・地陰の構□[米+構の右]、信(まこと)に必ずしか有るべき事なり。然かは有れど、是の故に潮汐ありと云ふ事に於きては、心得べき事あり。其は、潮汐の出づる本來こそ、然は有れ、其の進退は、空行く月の出入りに相ひ應ずる事になむ有りける」と。



【三皇紀・第六條】
天は西北に傾く。故に日月星辰、焉れに就く。地は東南に缺く。故に百川水潦、焉れに歸す。渤海(滄海)の東、幾億萬里なることを知らず。大壑(巨壑・沃焦)有り焉。實に惟れ無底の谷、其の下、底無し。名づけて歸墟と曰ふ。八紘(八極)九野(天の八方・中央)の水、天漢の流、之に注がざること莫し。而して増無く減無し焉。其の中に、三神山有り焉。‥‥

 故れ彼國(かしこ)の中央とする豫州の東邊、徐州の東海より、眞直ぐに海上三百里ばかり推し渉れば、我が豐前國と長門國との間なる、速鞆の湍門に到る。此は、『大枎桑國考』に委しく説きたる、暘谷・咸池・甘淵なり。然れば大壑・尾閭・谷神・玄牝・天池・朝夕池・百谷王など、種々異名は稱すれど、即ち是の速鞆の湍門を云ふぞ有りける[‥‥]。此を神典に考ふるに、『神代紀』に、「伊弉諾尊、泉國を見たまふ。故れ其の穢惡を濯ひ除むと欲して、乃ち粟門(あはのと)及び速吸名門を往き見たまふ。然るに此の二門は、潮、既に太く急(はや)し。故れ還た橘の小門に向ひ、拂ひ濯ぎたまふ也云々」と有る粟門は、謂はゆる阿波の鳴門の事なるが[そは、此の鳴門は、阿波と淡路との間に在りて、伊弉諾尊の大宮は、その淡路の傍なる淤能碁呂島に在りしかば、先づ近き粟門を見給ひけむ]、其の潮、急きに過ぎたる故に、此れより西して、速吸名門を見給ふに、是れまた潮の太急(いとはや)き由にて、是れ乃ち謂はゆる早鞆の迫門なり。

 其は、國人・西田直養が『速吸門考』といふ物に、「『古事記』神武天皇の段に、「吉備國より上り幸す時に、龜の甲に乘つて釣りしつゝ、打羽擧(うちはふ)り來る人、速吸門に遇へり云々」と有る所の傳に、或る人の「速吸門は、豐前の早鞆の事ならむと言へる説を出だして、實に潮の速きこと、名に負へれど、地理違へり」と言はれし誤りを正して、此は據ある説なり。其は、『神代紀』に、「伊弉諾尊、乃ち粟の門及び速吸名門を往き見たまふ。然るに此の二門は、潮、既に太く急し云々」と有るを思ふに、早鞆の浦に、今ま速戸社と云ふ社あり。長門を、古へは穴門と云へれど、粟門は、穴門なるべし[土俗の傳へに、古へは、今の壇浦と速戸との間、道つゞきにて、其の所に大きなる穴ありて、其の内を、舟往來せり。故れ穴門と云ふ。然るに其の地ながれて、赤間關の前に到りぬ。今は巖流島と云ふとぞ。○篤胤の云く、「粟門は、穴門なるべし」と云へる説は、違へり。予が説、上に云へり]。「潮、既に太く急し」と有るも、今の潮の早きに叶へり。速吸と云へる詞も、すふとは、多く下に吸ひ込むを云ふ詞なれば、速戸(はやとも)瀬門の、瀬早く逆まく間に、渦、夥しく卷きて、水底に吸ひ込むなども、都べて當れり。そは、打羽擧き來し人の名を、『書紀』に「珍彦」と有るも、渦の假字あへり。然れば速吸門といふは、我が豐前の企救郡なる、速戸の事なること明けし」と言へり[‥‥]。

 是の説、まことに然る事なるに就いて按ふに、此所を速鞆としも言ふは、速は字の如く、鞆は借字にて、巴の義なり。其は、巴とは、都べて海河の渦卷く處を云ふ詞にて、『出雲風土記』に、「國形、繪鞆(ゑとも)如(な)せり」と有るも、‥‥さて長門を、古く穴門と云ひし事は、師(鈴屋大人)説に、「穴戸は、長門國と豐前國との間の海門(うなど)にて、筑前國の北面の海より、山陽道の南面の海に入る門なり。‥‥」と云はれたり。篤胤、按ふに、長門は、大倭國の、漸々(やゝゝゝ)に大きになり以て行ける西の端なり。豐前は、筑紫國の、漸々に大きに成り來し東北の端なり。抑々大倭島根と筑紫島とは、二柱神の國生みませる時に、西と東に遙かに遠く生み放け給へる國なり。斯くて後に少彦名命、八十國々の國端に、葦菅菰を殖ゑ生ふしつゝ、須を成して、漸々に大きに造り化し給へれば、彼の須より、此の須に接續(つゞ)きて、二た國の、一國に爲れる所も無きには非ず[‥‥]。然れども鞆浦と段浦との如く、下は大船の數往來(かよ)ふべく海路をなし、上は一と島とも成るべき程の、岩山をおきて接續けし事は、尋常の事に非ず。實に皇國中央の自然の關とも稱すべく、且つかの八紘九野の大水を、この謂はゆる無底たる速巴の水戸(みなと)に通ぜむ料(た)めの門窟なりし故に、谷口とも號づけしにやと想はれて、畏しなど申すも更なり[‥‥]。

 さて上に出だせる『神代紀』に、伊弉諾尊、かの粟門及び此の速吸門を、「潮、太く急しとて、橘の小門にて拂濯ひし給ふ」と有る、その所は、乃ち筑前國の北面なる、糟屋郡の海と聞えたり。其は國人・貝原篤信の説に、「此の郡に立花と云ふ處あり。橘の小門、是の邊りならむ」と云へり。信に此の御禊の時に成り坐せる海神たちの鎭り座す本社、みな此の邊りに在り。かつ本文に、謂はゆる三神山、やがて其の海郷にて、此所の海底に有ること、次條に論ふ如くなれば、此の説に從ふべし[‥‥]。抑々大神の御禊し給ふに、前にまづ粟門を見給ひ、次に是の速吸門を見給ひし事は、もと泉國にて受け給ひし穢惡なるが故に、そを禊祓ひ竟へて、然る無底の谷より、本つ根國へ泄し失ひ給はむための御事(みわざ)なるが、直ちにその大門に祓除ひ給はむは、潮、急きに過ぎたる故に、其の近き水上なる、立花の小戸にて祓ひ給へれど、實はその穢惡を、是の大門に注ぎ失ひ給ふ御事にて、『大祓詞』に、「荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の鹽の八百會」と有るは、疑なく此の玄牝・大壑・速吸門の事なり。其は是の淤禊の時に、生し坐せる神等の中に、謂はゆる祓戸神四柱、こゝに在して、祓除ひの功徳をなし給へばなり[‥‥]。

 偖て本文に、「其の中に、三神山有り焉」と記せる文は、もと「其の中に、五山有り焉。一に曰く岱輿、二に曰く員□[山+喬]、三に曰く方壺、四に曰く瀛州、五に曰く蓬莱」と有りて、岱輿・員□[山+喬]の二山は流れて、三神山の存せる由にて、侘書にも、東海に、岱輿・員□[山+喬]と云ふ二山の有るよし、所見なき故に、かく文を成せり」と。



【三皇紀・第七條】
其の山の高下、周旋三萬里、其の頂、平處九千里。其の上の臺觀、皆な金玉。其の上の禽獸、皆な純縞。珠玕の樹、皆な叢生。華實、皆な滋味有り。之を食へば、皆な不老不死。所居の人、皆な仙種。日に相ひ往來する者、數ふ可からず焉。‥‥

 斯くて此の山の本所を、『列子』に、大壑中に有る由、言へれど、此は、大凡その説にて、實は其の邊りにぞ在りける。其は『十州記』に、
蓬丘は、蓬莱山、是れ也。東大海の東北岸に對す。周廻五千里(我が六百里)、外別に、圓海有り。山を繞りて圓なり。海水正黒にして、之を溟海と謂ふ也。冥海の中、濤波、風無くして天を衝く。(洪波百丈、)往來することを得可からず。上に九氣丈人(九老丈人とあるを、葛洪『枕中書』に據り訂正)の九天眞王宮有り。蓋し太上の眞人の居る所なり。則ち固より海の中に在り也。唯だ飛仙のみ、能く其の處に到ること有る耳み」
と見え[余(大壑先生)が引き用ふる『十州記』は、『漢魏叢書』・『龍威祕書』・『列仙通紀』・『雲笈』七籤などに收りたる本など、また諸書に引きたる文をも校合せる本なり。‥‥]、『史記』の淮南王傳に、秦の始皇が、徐福を遣はして、東海の靈藥を求めし時に、徐福、歸り來て、始皇に白せる辭を載せて、
「臣、海中の大神を見る。言てひ曰く、『汝は西皇の使ひか邪』と。臣答へて曰く、『然り』と。神の曰く、『汝、何を求むる』と。曰く、『願はくは延壽の藥を請はむ』と。神の曰く、『汝が秦王の禮、薄し。觀ることを得て、取ることを得ず』と。即ち臣を從へて東南して、蓬莱山に到つて、芝を見せしむ。宮闕を成せり[‥‥]。使者有り。銅色にして龍形なり。光り上りて天を照らす。是に於て臣、再拜して問うて曰く、『宜しく何を資として、以て獻ずべき』と。海神の曰く、『令名の男子、若しくは振(童)女と、百工の事とを以てせば、即ち之を得む矣』と[‥‥]。秦の皇帝、大いに説び、振男女三千人を遣はして、之に五穀・種々の百工を資し、行かしむ云々」
と有るを、相ひ合はせて知るべき由あり[‥‥]。然るは『十州記』に、「東大海の東北岸に對す」とある東大海は、かの東表の立ちたる徐州の東海を廣く云ひ、その東北岸は、即ち青州の東南に向へる岸に當る。斯くて『史記』の徐福が言に、「東南して、蓬莱山に至る」と有るに依りて、其の青州の東南岸より、直徑(たゞさし)に東南の相ひ對せる、大荒外に推し渉れば、即ち我が筑前國の北面、志賀島・玄海洋の處に至る[‥‥]。然れば蓬莱山、この海底に在ること、疑なし。

 茲にこを神典に考ふるに、此の海、やがて伊邪那岐神の禊祓ひし給へる橘の小戸にて、是の時、吹き生し給ひし神の多かる中に、三柱の海神、及び三柱の筒男命と申す神おはし坐して、この海底に、是の神たちの幽郷あり[こは、『仲哀天皇紀』に、此の神たちの神憑(かむがかり)まして、韓を伐たしめ給ふ時の御誨(みさと)し言に、「橘の小門の水底に居る神」と宣へるに依りて、先づかくは謂ふなり]。斯在れば謂はゆる三神山は、此の大神たちの幽都なること、疑なし。

 故れ茲にかの『十州記』を稽ふるに、「九氣丈人の九天眞王宮」とは、神典に、謂はゆる海宮を申せり。其は、伊邪那岐大神の、海神等を生しませるより遙かのち、彦火々出見命の時に、鹽土老翁といふ神、奇異(くしび)に計らひて、火々出見命を海宮へ御幸なし奉れる事あり[‥‥]。其の文に、
「老翁、即ち嚢中の玄櫛を取つて地に投げれば、則ち五百箇竹林と化成りき。因れ其の竹を取つて大目麁籠を作り、火々出見尊を籠の中に内れて、之を沈む。時に海底に、自ら可怜し小汀有り。乃ち汀を尋ねて進みたまへば、忽ちにむ海神豐玉彦の宮に到りたまふ。其の宮や也、城闕崇華、樓臺壯麗、門の外に井有り。井の傍に、杜の樹有り。乃ち樹下に就いて立ちたまふ云々」
と有り[‥‥]。此を上に引きたる『十州記』蓬丘の文、及び徐福が辭に想ひ合はせて、「九氣丈人」と稱し、「海中の大神」と有るは、我が海神・豐玉彦命に坐すこと、諦かに知らるゝを、尚ほ言はむには、此の御幸の時の、鹽土老翁の言に、
「海神の乘る所の駿(よき)馬は、八尋鰐也。是れ其の鰭背を竪てゝ、橘の小戸に在り。『吾れ當に彼らと共に策らむ』と。乃ち火折尊(火々出見尊)を將て、共に往きて之を見る。是の時、鰐魚、策り曰らく云々」
と有り[‥‥]。こを上の徐福が言に、「使者有り。銅色にして龍形」と云ひ、『始皇本紀』に、此の事を載せるには、其の使者を「大鮫魚」とも、「大魚鮫龍」とも有るに符合し、かつ次卷に引く『方丈州の文』に、「九原丈人」と有るも、同じ海神に坐すを、「天下の水神及び龍蛇・巨鯨・陰精・水獸の輩を主領す」と有るにて、更に疑ひ有るまじき者なり[大海神の本體、また其の使者も鰐神なること、神典にて、いと著明かに知らる。凡て漢國にては、鮫鰐の類の長々ときをば、皆な龍の類として、龍と稱すること、本草の書等を見ても知らる。また印度にても、古く鮫鰐の類を龍と稱せり。此れ等の事ども、都べて『三神山餘考』に云ふを見よ]。

 さて右、徐福が還りて云へる語を、『史記』の作者が文に、「僞辭を爲つて曰く」とも、「費へ多く譴を恐れ、乃ち詐きて曰く」とも記せるは、神眞の幽郷を知らざる、例の儒見の狡意(さかしら)にて、いとも愚昧の語等なり。此は、大海都美神の神異を示して、其の蓬丘をも視しめ給へる。其の時の神語を、徐福が有りのまゝに、始皇に言へる眞辭なり。然るは、其の云へる語ども、能くも我が神典の趣に符ひて、却りて彼の國史の語には遠く、似ざるを以ても知るべし[‥‥]。

 さて九氣丈人の宮を、九天眞王宮と稱する由は、『金母傳』に、「世の昇天の仙に、凡そ九品有り。第一の上仙を、九天眞王と號し、第二の仙を、三天眞王と號し、第三の仙を、太上眞人と號す云々」と有り。然れば九天眞王・三天眞王など稱ふは、仙眞の位號にて、九氣丈人は、九天眞王の品位なる故に、その宮名を、然は稱せるなり[‥‥]。また蓋し「太上眞人の所居」と有るは、其の本宮の事には非ず。蓬丘の郷は、都べて太上の眞人たる人の所居なる由なり。然るは、太上眞人と稱ふも、位號なる故に、『葛仙翁傳』などには、老子を始め、太上眞人と稱(なの)れるが三人、一時に降りし事も見えたり。然れば次卷の本文に、「蓬丘を尊びて、以て眞人に館とし」と有るは、是の山、固より九氣丈人の神都なる物から、眞人と稱ふ中にも、太上の品たる眞人の館する山と、定めたる義なり[そは、眞人と云ふにも、品々あること、彼の『金母傳』に、「第四を飛天眞人と號し、第五を靈仙と號し、第六を眞人と號し、第七を靈人と號し、第八を飛仙と號し、第九を仙人と號す。凡そ此の品次、差越す可からず云々」と有るを以て知るべし]。

 さて『十州記』に、
瀛州(嬴土の國)は、東海中に在り。地方四千里。大抵、是れ會稽に對す。西岸に去ること七十萬里。上に神芝仙草を生ず。又た玉石有り。高さ且つ千丈。泉を出だすこと、酒の如し。味、甘し。之を名づけて玉醴泉と爲す。之を飲むこと數升にして、輒ち醉ふ。人をして長生せしむ。州上に、仙家多し。風俗、呉人に似たり也」
とあり。彼の東海と言へば、我が西海たること、論を俟たず。然るに「大抵、是れ會稽に對す」と有る六字は、衍なり。其は、會稽は、彼國の東南隅なれば、其の地より東は、我が西南海に當ればなり[然れば「西岸に去ること七十萬里」と云へれど、彼の國の東海邊りに、西岸と云ふべき岸のなきを思ふに、此は、我が筑紫の西岸に去れる由なり]。‥‥

 また同記に、
生州は、東海丑寅の間に在り。蓬莱に接す。地方二千五百里。西岸に去ること二十三萬里。上に仙家數萬有り。天氣安和、芝草、常に生ず。地に寒暑無く、萬物を安養す。亦た山川多く、仙草衆芝あり。一州の水、味、飴酪の如し也」
とあり。此は、彼の「東海丑寅の間に在りて、蓬莱に接す」と云へる方位を思ふに、我が長門國の西北面の海底なる事と聞えたり[‥‥]。

 さて『十州記』に、こゝの西海、かしこの東海なる神山は、此の三州より外に有ること無し。然れば『列子』を始め、東海の三神山と云ふに、此の生州なくて、方丈の入りたるは、早く訛(あやま)れる傳説にぞ有りける」と。
 

  • [23]
  • 平田大壑先生『赤縣太古傳』抄、其の三。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月15日(日)19時02分14秒
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【三皇紀・第四條】
東嶽・廣桑山は、東海中に在り、青帝の都する所。
南嶽・長離山は、南海中に在り、赤帝の都する所。
西嶽・麗農山は、西海中に在り、白帝の都する所。
北嶽・廣野山は、北海中に在り、黒帝の都する所。
中嶽・崑崙山は、九海中に在り、天地の心ろ爲り、黄帝の都する所。
四嶽、皆な昆侖の四方、巨海の中に在り。此の五嶽諸山は、皆な神僊の居る所、五帝の理むる所、世人の到る所に非ず也。


 此の條は、宋の杜光庭が集記せし『岳瀆名山記』に取れり[此の記を、精しくは『洞天福地岳瀆名山記』といふ。『列仙通記』に出でたり。『百川學海』に入れたる『洞天福地記』とは異なり。此の外に『名山記』と題せる物も、彼此あり。思ひ錯(まが)ふべからず]。‥‥

 天柱五岳の中に、紫微宮直下の昆侖山は、天の最中に應じて地首なる故に、中岳と稱するは、理(いはれ)たれど、大地は圓體にして旋轉あれば、元より東西なきに似たるを、東西南北の名を定めしは、何處を方の起る處と爲て定めけむと考ふるに、天地開闢の初め、かの溟幸と始めて芽ぐみ、鴻濛と萌え滋げり、かつ斗柄、始めて建して、立春の元氣を發動せる處を、方の本と爲して、東と號づけたるより始まりしこと、疑なし[‥‥]。偖(さて)しか一方を定むれば、自然らにそれに反對する處の出で來しを、萬物の替り遷らふ處なるを以て、西と號づけ、かく二た方の出で來ては、また其の東西に左右する處の定まる故に、南と名づけ北と號づけて、四の方名は出で來しにこそ[‥‥]。是を以て其の四方に立てたる柱岳(天柱五岳)を、其の處に從ひて、南岳・北岳なども號づけたるが、其の中岳・昆侖虚に高く居在して、六合を瞻望(みはる)かし給ふ神の上より、北岳と立てしは、決めて我等が北極と稱する處を越して、其の背ろに在るべき道理なり。‥‥

○「東嶽・廣桑山は、東海中に在り、青帝の都する所」と有る東岳は、即ち我が皇國に在るを、此は、其(『關令尹喜傳』)の『老子東遊文』に、
「東遊して、日窟常暘の山に至り、榑桑の丹椹(赤き桑の如き實)を綴ひ、若木(榑桑と同木、枎桑・椹樹・櫻木・□木。九千歳に一度び實を生ず。王母の仙桃の如し)の朱華(葉、桐の葉に似るも赤し)を散じ、碧海を觀、東井を悒(汲)み、欝池宮に過ぐれば、暘谷神王・東海青童君・衆仙、丹椹の朱實・金津の碧醴を陳ぬ。次に祖山に登り、芝田を觀て、養神艸を採り、蓬莱宮に息ひ、復た風山に遊び、青丘に登り、紫府に過れば、太元眞人紫府先生(谷希子・景林眞人、即ち黄帝・東方朔などの師、實は我が事代主大神に坐す)、九光の甘液・白文の玉英・青林の白子を陳ぬ」
と有る地理を、次々に解し得て知るべし[‥‥]。

 其は、まづ「日窟常暘の山」と謂ふは、下の第六條に考へ定むる、大壑・暘谷の上(ほとり)に在る山の名と聞ゆ。然るは其の名の似通ふ耳みならず、其の暘谷は、實に日窟とも稱すべき靈所なり。然るに此の域にて、榑桑の椹を掇りたる由なるが、此の樹は、皇國にのみ有りて、他域には無き木なるに、況(ま)して碧海と云ふも、我が邊海の名なるを、先づ思ふべし[‥‥]。さて東井と謂ふは、詳(さだ)かならねど、其の幽宮の名を欝池と云ふは、暘谷を咸池とも謂ふに想ひ合はされ、殊にその幽宮に主治たる靈眞の名を、暘谷神王と有るは、諦(まさ)に此の域に由ある名なり。‥‥斯くて其の大壑・暘谷は、下に委しく云ふ如く、豐前國企救郡と長門國豐浦郡との間(あはひ)なる早鞆の湍門(せど)なれば、其の謂はゆる鬱池宮、また疑なく、此の兩﨑(ふたさき)の邊りに在るべし[‥‥]。

 さて「次に祖山に登り、芝田を觀て、養神艸を採り」と云へる祖山、乃ち本文の東岳・廣桑山なり。其の由は、此の山を、また祖州とも謂ふ。‥‥然て神典の古傳に、
「天つ神、諸々の命以ちて、伊邪那岐・伊邪那美二柱の神に詔したまひ、是の漂在國を修り固め成せと詔したまひ、天の瓊戈を賜ひて、言依さし給ひき矣。故れ二柱の神、天の浮柱に立たして、其の瓊戈を指し下して、青海原を畫き給ひて、引上げたまふ時に、其の戈の末(さき)より埀落る潮、自然に凝り積りて島と成る。是れ淤能碁呂島也。二柱の神、其の天の瓊戈を以ちて、其の島に衝き立てゝ、國中の御柱と爲し、天の御柱と見立て、八尋殿を化作(みた)て、共に住み給ひき矣。故れ其の瓊戈、後には小山と化(な)りき矣」
と有り[‥‥]。斯くて是の淤能碁呂嶋はも、乃ち南海道なる淡路國の屬嶋にて、今の現に、其の國の西北の浦に在りて、世にこれを繪嶋と言へど、また淤能碁呂嶋といふ古名をも稱せり[當(その)國人・仲野安雄が『淡路の常磐草』といふ物に、「津名郡志筑郷岩屋浦なる、岩屋神社の海畔の、礒廻(いそわ)につゞきて、繪嶋あり。一塊の丹石にて、赤珠の凝り聚まれるが如し。石紋、自づからに人物花鳥の象ありて、彫(ゑ)るが如く繪がくが如く、玲瓏として、愛すべし。緑樹、數株あり。直硝にして、攀ぢ登りがたく、島の根磐は平にして、蓆(むしろ)を設きたる如く、海潮に臨みて潔し。雪月の時は、殊に賞遊すべし」と云ひ、日向人・大神貫道が『磤馭盧島日記』に、「我が邦の蔕(ほぞ)の所は、磤馭盧島なり。此の島は、淡路州の西北の隅に在る繪島、是なり。俗、常には繪島と呼び、また磤馭盧島の名を存す。此の島の岩に、圓く玉の如く涌出したる石、幾千といふ數を知らず。其の形、表は金氣を以て包み、裏(うち)には土砂を含む。島の風景、樹木の葉色、岩の滑澤(なめら)かなる事、いづれ畫にも書にも著はし難し」と云ひ、末に漢文の記を出だして、「島中の奇石磊落、多くは男根・女陰の状を現はす。奇形恠状、勝げて數ふ可からず云々」」とも言へり]。

 然れば謂はゆる東嶽・廣桑山・祖州はじめ、此の嶋なること、疑なし。然るは神典に、「天つ神、諸々」と有るは、天之御中主神と皇産靈神にて、彼の國籍に謂はゆる上皇太一・元始天王に當り、二柱神は、天地二皇に當れり。斯くて其の賜へる「瓊戈」は、『古史傳』に説きたる如く、天根・玄牝の象物なるを、蒼海原の玄牝たる所に指し下して、引き上げませる御戈の末より埀落る潮の、自然らに凝り積りて嶋と成れるに、其の御戈を衝き立てゝ、天柱・國柱となし給へるが、山と化れり[かくて此の山の眞形を視れば、諦(まさ)に玄牝の形をなして、其の下に有る石の、自然らに男根・女陰の状を成すことも、何(いか)に奇靈なる事に非ずや]。さて當今に現存する所は、淡路嶋に引添ひて、即ち皇國の中央なるが、北極の出地三十五度の所に當りて、日經・日緯を知らしむる、自然の土圭に幽契せるを以て、此の嶋、やがて東岳にて、地下の四柱は、まづ是の柱より立て始めて、次々に南・西・北に立て及ぼし給へる事と知られたり[但し神典には、五岳の中に、東岳の傳へのみ有ることは、事足らぬ心地すめれど、此は是の國の事のみ、專(むね)と傳へし神典の、すべての例にて、是の一柱・岳に准(なず)らへて、餘りの三方にも、柱・岳ある義を知らしめたる傳へにも有るべし。そは、造化の首を爲し給へる三神を始め、萬國に神たる神等をも、みな我が國かぎりの神なる如く書き載せたれど、實は諸々の外國にもわたる傳へなるに、准らへて知るべし。然るに却りて赤縣州に、五岳の傳の悉(みな)有る事は、中國(皇國)、これを失ひて、戎狄(赤縣)、これを持ちたりとぞ云ふべかりける]。然れば其の東岳を廣桑山と謂ふは、枎桑州の域内に在る山なる故の名なること著く、祖山・祖州など謂ふは、地下に四岳を陳列し給へる、其の初發なりし故の名なること、疑なし[‥‥]。

 斯くて老子・尹子、彼の速鞆のあたり、謂はゆる「日窟常暘の山」より發ちて、長門・周防・安藝・吉備・播磨などの碧海を觀つゝ、東して、此の東岳・祖山・自凝嶋に至り、芝田を觀て、養神草を採れるが、「蓬莱山に息ふ」と有るは、また西に還りて、其の山に息へる由なり[蓬莱山は、彼の大壑・暘谷の近き西海に在り。‥‥]。さて「復た風山に遊び、青丘に登り云々」は、『十州記』に、
「長州は、一に青丘と名づく。南海辰巳の地に在り。上は山川を饒し、又た大樹多し。樹、乃ち二千圍なる者有り。一州の上、專ら是れ林木。故に一に青丘と名づく。又た仙草靈藥有り。甘液・玉英、有らざる所ろ靡し。又た風山有り。山、恆に震聲あり。紫府宮有り。天眞の女仙、此に遊ぶ也」
と見え、『山海經』海外東經に、「青邱國」と有る、是にて、即ちまた皇國の地なること、下に謂ふが如し[そは、此の青丘を、かしこの辰巳と云へるは、我が筑紫國を、『括地象』に「神州」と稱し、東南と云へる古き例に合(かな)へばなり]。斯くて本文の「青帝」、また『老子東遊文』なる、「紫府先生」、また『十州記』なる「紫府宮」の事は、『黄帝本行記』に、「東して青丘に到つて、紫府先生に見え、風山に登て、三皇内文の天文大字を受けて、以て萬神を劾召し、群靈を役使す」と見え、『清靈眞人傳』に、「乃ち天下に遊行して、東して青丘に到り、谷希子に遇す。青帝君、授くるに青精・日水・青華の芝を以てす」とあり[‥‥]。抑々青帝は、風・木の主宰たる神にて、其の治の本所は、東岳・廣桑山なるに、青丘にて、此の帝君に遇して、受けたる物の有る由なれば、其の謂はゆる風山・青丘は、自凝島に遠からで、青帝の居所なること知るべし。斯くて太元眞人とは、谷希子の位號と聞ゆ。こは、青帝君の前に立ちて、紫府宮を治むる職なる故に、紫府先生とも稱ふと聞えたり[因みに云ふ、是の紫府先生谷希子は、黄帝などの師たる耳みに非ず、(唐の)東方朔にも師たりき。‥‥]。

 然れば其の風山・青丘など稱せる所々は、何處なると言ふに、疑なく我が筑紫の北面、火國・豐國を本にて、四國・木國邊りまでを云へると聞えたり。其は、木國の木を名に負ひて、其の國に天つ木種を殖生(うゑお)ふし給へる、有功(いさを)の神の、鎭まり坐す事は、更にも云はず、もと大樹の多かりし國なる事は、打見るに、木化山の多かるにて著く、また四國と云ふ中にも、伊豫國に大樹ありて、今に其の埋木の名高きは、是れ謂はゆる青丘にて、『十州記』に、「二千圍の大樹あり」と言ひ、また「風山有り」と云へるが、此の國に、風早郡ありて、風烈しき所なるに思ひ合はさる。然れば老子・尹子、かの蓬莱山に息へるが、其れより再た東南して、此の青丘に到り、是れより皇國の域内を放れ、遙か遠く南方に遊べると聞えたり[‥‥]。

 斯くて本文に、「四嶽、皆な昆侖の四方・巨海の中に在り」と云へば、四岳の位、かならず正整に經・緯の度を差(たが)はず、西岳は東岳に相對し、北岳は南岳に相對し立つべき道理なり。故れ考ふるに、皇國は中嶽・昆侖の出地、三十度・四十度の間に在り。是と正對する同じ度數の處は、謂はゆる大西洋に、惠須登琉といふ數小島あり。西岳は、決(きは)めて是の邊りに在るべく、其れと同じ度數にて南方は、謂はゆる地中海の登留許と云ふ邊り、よく合へば、南岳、この邊りに在るべく、此こと正對する北方は、謂はゆる北太平海の迦理富留邇夜と云ふ邊り、よく合へば、北岳、必ずこの邊りに在るべし[‥‥]。故れ今は、その心定をもて、南・西・北の三柱岳の在所を求むること、左の如し。

○「南嶽・長離山は、南海中に在り、赤帝の都する所」は、まづ『老子南遊之文』に、
「南遊して、長離山に登る。此の山、亦た蕭丘と名づく。九光の英・火浣の布を出だす。赤津を越えて、大丹宮に入れば、南極夫人(南極王夫人、王母の第四女。一に南極紫元夫人・南極元君)、瓊花の玉酒・赤靈の火棗を設く。絳山に至り、流火の郷を觀て、朱陵の闕に息へば、大和の玉眞華蓋上公(赤帝に仕ふる職)、炎岡の朱體・飛丹の紫桃を列ぬ」
と有る長離山(南嶽・炎州・火林山)、是なり[‥‥]。斯くて其の山は、『十州記』に、
「炎州は、南海中に在り。火林の山有り。山中に、火光獸有り。其の獸の毛を取りて、以て緝て布と爲す。火浣布、是れ也。亦た仙家多し」
と有れば、南岳の所在は、即ち是の炎州にて、謂はゆる火林山、やがて長離山と聞えたり。‥‥

○「西嶽・麗農山は、西海中に在り、白帝の都する所」は、『老子西遊之文』に、
「乃ち西して、龜臺に遊び、七寶の園に入り、飛玄の紫文を觀、流精の闕に過ぐれば、九靈金母太素元君、玉文の棗を進む。其の實、瓶の如し(侍女に命じて、反魂の靈香・玄光の碧桃・金紫の交梨を陳ぬ。次に弱水に汎て、鳳山に登り、玉池に入り、昆吾山に息へば、白帝天君、七明の石芝・流精の玉膏・金光の丹醴を採つて、焉れを進む)」
と有る龜臺、乃ち麗農山(西岳・龜山・珉城・不周山)にて、九靈金母太素元君とは、王母の號なり[‥‥]。其は、『西王母傳』に、「金母元君は、九靈龜山金母也。一に九光龜臺金母と號す。一に西王母と曰ふ。神州に生れて、東王木公華(東王父。實は我が大國主大神に坐す)と共に、二氣を理めて、而して天地を育養し、萬物を陶均す矣。居る所の宮闕は、龜山の舂山・昆侖・玄圃・閬風の苑(中岳の峰號を擬(うつ)せる稱)に在り。金城千重、玉樓十二・瓊華の闕有り。元始天王、授くるに龜山九天の籙を以てし、萬靈を制召し、眞聖を統括(し、證信を鑒盟)せしむ。位、西方の母に配して、女子の仙に登り道を得る者、咸く隷する所なり焉(上清の眞經・三洞の玉書、凡そ授度する所、咸く關與する所なり矣)」
と有るにて知るべし。‥‥其は、『十州記』に、
「昆侖を、一に崑崚と曰ふ。西海の戌地・北海の亥地に在り。地方一萬里、弱水有り。周廻繞帀、此の四角の大山は、寔に昆侖の支輔也。其の一角は正北、名づけて閬風巓と曰ふ。其の一角は正西、名づけて玄圃堂と曰ふ。其の一角は正東、名づけて昆侖宮と曰ふ。其の一角は正南、名づけて天墉城と曰ふ。面方千里、城上に、金臺五所・玉樓十二所を安んず。九光西王母の所治也」
と有るも、即ち同じ山なり。‥‥

○「北嶽・廣野山は、北海中に在り、黒帝の都する所」は、『老子北遊之文』に、
「北して、空洞山に遊び、洞陰宮を過ぐれば、北極眞公、十結の神草・玄雲の李・空洞の瓜を進む。玄丘に登りて、朔陰八錬の池を觀て、廣寒墟に息ふ。太玄の僊伯、絳樹の丹實・三玄の紫禁を進む」
と有る廣寒墟、やがて廣野山(北嶽)と聞えたり。其は、玄丘とは、『十州記』に、
「玄州は、北海の中に在り。地方七千二百里、上に大玄都有り。仙伯眞公の所治なり。丘山多し。又た風山有り。聲響、雷の如し。天の西北門に對す。上に太玄仙官多し。宮室、各々異なり。金芝玉草を饒す」
と有るを云ふこと、文の符合にて炳焉(あきら)かなればなり[‥‥]。さて『雲笈』の『清虚眞人王褒傳』に、「東行して滄海を渡り、廣桑山に登り、始暉の庭に入りて、太庭君に詣づ云々。南行して丹海を渡り、長離山に登り、南極元君に詣づ云々。西行して巨海を渡り、麗農山に登り、景眞三皇道君に詣づ云々。北行して玄海を渡り、廣野山に登り、高上虚皇大道君に詣づ云々」とも見ゆ[‥‥]。

○「中嶽・崑崙山は、九海中に在り、天地の心ろ爲り、黄帝の都する所」は、かの『老子中遊之文』に、
「復た中嶽・昆侖山(北極紫微宮直下の大崑崙・鐘山)に登り、玄圃瑶臺に遊びて、七寶の瓊林を觀、九苞の鳴鳳を聽く。其の上に、金臺玉樓・七寶の宮殿有り。下、四天下を覽ること、掌を指すが如し。晝夜光明ありて、天帝神王の下り遊ぶ處也。大玄九宮の仙人、焉れに居る。皆な自然の天厨にして、出入、意に在り。天伎雅絶、樂、勝ぐ可きこと難し。實に寓内の清都、神眞の盛觀也」
と有り。‥‥

○「此の五嶽諸山は、皆な神仙の居する所、五帝の理むる所、世人の到る所に非が也」は、右、五岳に、神仙の幽宮あること、上に引きたる『老子周遊の文』、また『十州記』の説にて知るべし[‥‥]。

 さて上に出だせる『括地象』・『天文訓』・『漢武内傳』・『十州記』・『王母傳』などに載せる趣は、神眞の、直ちにうち瞻る隨まに傳へし神境の眞形なるが、世に現見する所は、凡山に然(さ)しも異ならず。然れば玄籍の説によりて、其の山を現に索むるは、顯幽の差別を知らざる愚昧なり[其の例を云はゞ、神典に、高天原・海宮・夜見國などの有状、いと詳(さだ)かに記し傳へたれど、其を今ま現に索めむと欲するに、見ること能はざるが如し]。是を以て彼の『内傳』なる王母の眞誥に、謂はゆる十州三島の事を説きて、「滄流大海玄津(海津の玄冥)の中に在りて、其の實、分明なれども、其の名、測り難し」と見えたり。五岳の事も準らへて曉るべし[‥‥]。然も有らば、凡人の見えては、凡山と見ゆる四岳は、何れの山ならむと言ふに、我が東岳は、我ら正にその墟下に居るが上に、古傳、昭々たれば、直ちに見て知らるれども、餘りの三岳は、みな遙けき戎狄の遠洋に在れば、其の所在、詳かには知るべからず[後の漢人ら、是の由を辨へず、古仙眞の傳へし西北の、不周・昆侖の説相によりて、其の趣なる山を、其の國の近き西北邊りに求めて得ず。己が向々、一凡山を、しひて名づけて、「是ぞ不周なる、是ぞ昆侖なる」と云ひ喧(さや)ぐは、いとも可笑(をかし)き事にこそ]。また其の眞形も、幽と顯とは異なる故に、三天太上天皇氏、その神界なる眞形の、委蛇たる状を摸(うつ)し傳へて、靈仙の璽信とは爲し給へり。然れば其の『眞形圖』、また古仙籍に傳へし有状の山を、其の方位に得ざらむも、疑ふべき事には非ず。然るは其の山の顯・幽、その趣の異なる事は、人を以て譬ふるに、形と神との如き物にて、凡人は、其の現形を見るを、僊眞は、その靈容を視て、其の神妙を語れる如き道理なればなり。我等凡人、いかで容易に其の眞容を視ることを得むやも[‥‥]」と。
 

  • [22]
  • 平田大壑先生『赤縣太古傳』抄、其の二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月15日(日)12時28分55秒
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【三皇紀上・第一條】
──○伊邪那岐大神の亦名は、天皇氏・天皇大帝・三天司命・玄元皇帝・昊天上帝・天皇子・皇天上帝太上道君・皇天上帝・無極太上大道君・太上眞人・大聖天帝・三天太上天皇子・太上道君・三天太上道君・三天金闕太上大道君・三天太上君・太上玄一眞人・天帝君・太上老君。天學家の天皇太帝・天皇太帝星主神。天竺の帝釋天・イザナ天・第六天宮主たる大自在天王・摩醯(醋)首婆羅天・シヴア神。
伊邪那美大神の亦名は、地皇氏・太上玄眞女・太上眞女王・地府眞女・地皇眞女。天竺のイザナ后。
健速須佐之男大神、即ち月夜見命・神速須佐之男命・神須佐之男命・勝速日命・熊野加武呂命・熊野加夫呂岐櫛御氣野命・八束髮速佐須良命の亦名は、人皇氏・人開王・靈人王。──

天地、初めて立ち、溟□[三水+幸]と始めて芽ぐみ(神典の葦牙)、鴻濛と滋り萌え(東方日出の野、即ち皇國の域)、歳、甲寅に起りて、元氣、肇めて啓くとき、天皇氏有り。十二頭(十二人の分形)、昆侖の東南、無外の山より出でたり。號づけて天靈と曰ふ。木徳を以て王たり。萬八千歳。所謂ゆる天皇太帝・皇天上帝・三天太上大道君、是れ也。‥‥

 昆侖山(中岳)は、既に前紀に説きたる如く、天の最中に應じて地首たれば、紫微宮の直下なるが、此の山、やがて大地の中央にて、其の大地の方維は、必ずその頂上より指し定むる法なれば、是より東南と指したる山は、木徳を以て王たりと有るに合はせて考ふるに、疑なく我が筑紫の邦内に在る山なり[‥‥]。然れど其の山は、孰れの山を云ふか詳(さだ)かならず。或(もし)は高千穗之二上峯を言ふならむか。此は、皇美麻命の天降りませる山なるを思ふに、素より然る由緒ありけむと思ゆればなり‥‥。

「木徳を以て王たり」とは、我が皇國の太古に、彼の國より遙望せし大樹ありき。此を彼所にて、「榑叒(ふじやく)」とも「若木」とも號(い)ひしを、天皇氏、その榑叒州より出でたる故に、後世に至(な)りて、「木徳を以て王たり」とは稱せしなり。‥‥

 但し此は、世界を草創し給ふ神業(かむこと)畢はりて、後の安處(ましどころ)を云へる説等なるが、其の初めは、枎桑神域なる、無外の山より出興して昇天し、上皇太一、及び元始天王の命を承け賜はりて、降り坐せると聞えたり。斯くて此の天皇太帝と申すは、我が神典なる伊邪那岐大神に坐すなり」と。



【三皇紀・第二條】
地皇氏、十二頭、皆な女面にして、相ひ類る。熊耳(地の門)龍門(空巖洞穴)等の山より興れり。號づけて地靈と曰ふ。各々萬八千歳。(子の)皇伯・皇仲・皇叔・皇季・皇少、兄弟同期、倶に龍に駕して上下せり。故に五龍と曰ふ。乃ち所謂ゆる五帝、五行の神也。‥‥

 さて地皇氏の面貌を女なりと有るに依り、天皇氏の伊邪那岐神なるに就いて思へば、地皇は、疑なく伊邪那美神に坐しけり。‥‥かつ地皇氏、然る空巖の山より出興せりと云ふも、神典に、伊邪那美命、その隱沒し給ふ時は、出雲國なる伊賦夜坂ちふ空巖より、夜見國へ往で坐せるに符へば、彼の謂はゆる地門と云ふも、同じ類の窟(いはや)にて、大地内の徑(みち)を通りて在るが故に、其こに出興し給ひしか。‥‥

 「皇伯・皇仲・皇叔・皇季・皇少、兄弟、期を同じくし云々」、この五皇を、皇としも謂ふはね天地二皇の子なる由と聞えたり。『水經注』に、「『遁甲開山圖』に曰く、「五龍、教を見し、天皇、迹を被らしむ」と。榮氏注に云く、「五龍の治は、五方に有り。五行の神爲り」と」と見え[‥‥]、『五行大義』五帝論に、「皇伯・皇仲・皇叔・皇季・皇少。此の五帝は、竝に天上の神なり。下りて世を治め、次第に相ひ接して、大微宮を治め、其の精、五帝の座と爲る。五星、王に隨ひて氣を受く。即ち明堂に祭る所の者也」と有るを思ひ合せて、五帝、同期に世に出でて、二皇の教を受けて、共に世間成立の神業を助け、其の造化の功を成したる趣(さま)を曉(さと)るべし[‥‥]。即ち我が神典に見えたる風・火・金・水・土の五神にて、其の御名も、いと諦(さだ)かに傳はれり。然るに彼方にも、亦た別(こと)に稱する漢名あり。其は『五行大義』に、「『河圖』に云く、
「東方は、青帝、靈威仰、木帝也。
南方は、赤帝、赤熛怒、火帝也。
中央は、黄帝、含樞紐、土帝也。
西方は、白帝、白招拒、金帝也。
北方は、黒帝、叶光紀、水帝也」
と有る、是れなり。‥‥

 斯くて天に在りては、太一の庭たる太微宮を治めて、五帝の座をなし、各々別れて五星を爲(をさ)め、また地に在りては、五方に分れて五岳に鎭まり、互ひに相ひ拘絞し、遞ひに相ひ負載して、休王相生する間にまに、萬物を生成して、運行しばしも休息ある事なし。是ぞ五帝の化行の大略なる」と。



【三皇紀・第三條】
「(上皇太一の清虚元年、)天皇、是に于いて元を斟み樞を陣ね、以て易威を立て、以て六合を觀れば、河海の長短を瞻、岳山の高卑を察し、天柱を立て、地理を安んじ、五嶽を植ゑて、鎭輔に擬し(大荒外四方の眞五岳)、乃ち山源の規矩に因つて、河嶽の盤曲を睹れば、陵回り阜轉じ、山高く隴長く、周旋委蛇、形、書字に似たり。是の故に象に因つて形を畫き、(七寶の)玄臺に祕して、出だして靈眞の信と爲す。之を執つて山川を經行するに、百神群靈、尊奉親迎す。此れ八會の書・五嶽眞形圖也。‥‥

 清虚元年とは、太一の元氣發動して、天神たち、世間成立の事を行へる初年の義なり。乃ち前條に、「歳、甲寅に起る」と云へる年を謂ふ。此の餘にも、神眞界の年號、多く所見(みえ)たり[そは、『路史』に、「『三皇經』に云く、「天皇、平初元年を以て出治。地皇、太始元年を以て出治」と。按ずるに、道書に、「元景・延和・赤明・延康・康泰・龍漢・開皇・無極等の號有り」と云へり。なほ此の外に、己(大壑先生)が見覺えたるも、上皇・中皇・天漢・天景・上靈・元始・開光・清濁・清漢などあり]。抑々かゝる年號はも、盤古・三皇などの當昔(そのかみ)に、實に有りし事には非ず。後に神眞たちの、上古の事を語る時に、假に紀號と爲したる物と見えて、諸書を參考するに、多く其の例なり」と。
 

  • [21]
  • 平田大壑先生『赤縣太古傳』抄、其の一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 3月 5日(木)23時48分3秒
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 「掛卷くは畏けれども、天勝國勝奇靈千憑毘古命(山田の曾冨謄・久延毘古神)の分靈」(『神拜詞』)なりとの確信を持した、神靈眞柱大人平田大壑先生は、其の名に耻ぢず、皇國と赤縣・天竺等の關係を、天下後世に宣明せられた。以下、『赤縣太古傳』を抄して、其の學勳を仰ぎたい。



●谷省吾翁『平田篤胤の著述目録──研究と覆刻』(昭和五十一年八月・皇學館大學出版部刊)

「大壑平先生著撰書目。赤縣太古傳。

 此の書は、唐土の古籍を普ねく探り、彼の國に傳はれる古傳を正し稽へて、「太一傳」・「盤古傳」・「三皇傳」・「六皇傳」・「太昊傳」・「神農傳」・「黄帝傳」をたて、少昊・顓頊・帝嚳・堯・舜・禹の世までの事を論註して、彼の國も、我が皇神たちの開闢し坐せる事實を明かし、彼の國の古史籍を讀む者の、木鐸と爲られし書にて、此の書前に、『西蕃太古傳』と號づけられしを、後にかく改められたり」と。
──愚案、大壑平田先生『三五本國考』前文に曰く、「三皇は、天皇氏・地皇氏・人皇氏、これ古説なるが、五帝とは、伏羲(氏・大昊)・神農(氏・炎帝)・黄帝(軒轅氏)・少昊(金天氏)・顓頊(高陽氏)を謂ふ」と。──



○六郷政鑑翁『赤縣太古傳の序』
○矢野玄道翁『赤縣太古傳の序』
  ↓↓↓↓↓
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■平田大壑先生『赤縣太古傳』十二卷(西蕃太古傳。上木は三卷・附録。文政三年初稿、十年稿本成)

【上皇太一紀・第一條】
──○天之御中主大神の亦名は、上皇太一・上々太一・天一・皇天上々帝・太一道君・北極大和元神・太一眞君・天帝・大元靈・天一始神・天道・太乙神。──

太古の時、物有りて混成す。天地に先だちて生ず。‥‥故に道大、天大、地大、人も亦た大なり。人は地に法(のつ)とり、地は天に法とり、天は道に法とり、道は自然に法とる。‥‥
 是の物、固より無名にして、陰ならず、陽ならず、其の形質、また知るべからず。是の故に姑く假に物と稱し、混成とは言へり。‥‥
 斯くて是の混成の物、その天地の先に在り。天地も是れに因りて出でたれば、此の物の始めは、誰か知らむ。然るに生ずとしも云へるは、大朴(おほらか)に語り來し古傳の趣(さま)にて、實には無始無終の物たるに、論ひ無し。然れば此の「生」字は、「在」字の意にて見て在るべし[‥‥]。然も有らば、是の物の在處は何所にて、此は何物なると云ふに、其の在所は、北極の上空、謂はゆる紫微垣の中宮なるが、是れやがて今ま現に見放くる北辰星にぞ有りける‥‥
 我が先師(鈴屋大人)の、古今に比類なき大活眼なるすら、世儒と同じ樣に、老・莊を混視して、老子を甚(いた)く難(とが)められし説も有れば、況(まし)て先師に及かざる倫(たぐひ)の、喧々たる議論は言ふにも足らず[‥‥]、實には、老子の傳へし玄道の本は、我が皇神たちの、早く彼處に授與けたまひし道にて、其の謂はゆる自然はしも、我が神典に、「惟神とは、神の道に隨ひて、亦た自ら神の道有るを謂ふ也」と有るに異(かは)ること無く、謂はゆる道の精眞は無爲なれど、自(その)惟神なる徳に爲さゞる事なきを、天地人は、其の神眞より出づる惟神の道に隨ふ義(よし)なれど、此は彼方の古書を讀まぬ古學者、わが神典を知らぬ戎學者などの、得知る所に非ざる可し[‥‥]」と。

【上皇太一紀・第四條】
上皇大一は、道の父也。天地の先也。一に上上大一と曰ふ。其の神、人首鳥身、状、鳳凰の如し。五色の珠衣なり。乃ち九天の上、太清の中(九天の中央、即ち北極紫微垣内)、太冥の外(上)、微細の内に在り。吾、其の名を知らず也。元氣(造化の母、元氣大一の神、實體の神に坐す)、是のみ耳。

【上皇太一紀・第五條】
「『中山玉櫃經』に、「夫れ太一眞君は、是れ北極大和の元神(元氣の神)也。神通變化、北極紫微宮より、天地の間を經過し、萬物を滋育す。天に在りては、則ち五象明かなり焉。地に在りては、則ち艸木生ず焉。人に在りては、則ち神識靈なり焉。鑒に在りては、則ち五行察かなり焉。化に在りては、則ち四運變ず。之を聽けども聞えず、之を視れども見えず、之を搏ふれども得られず(無形無状にして、萬物と状を作す)。故に之を玄と謂ひ、之を象と謂ふ(感ずる所ろ應ぜざる無く、眞にする所ろ證せざる無く、專らにする所ろ用ひざる無く、精にする所ろ動ぜざる無し)。是に知る、道は眞正を以て玄關と爲し、專精を以て要路と爲す。此に倚る者は、則ち通ぜざる所ろ無きなり也」と」と。


【上皇太一紀・第七條】
「(老子の曰く、)「道、一を生じ、一、二を生じ、二、三を生じ、三、萬物を生ず」とある條の、一とは、既に注(い)ふ如く、彼の上皇大一の、元氣に成れる一物なるが故に、其の未分の間を、大一とも稱せるが、其の謂はゆる上皇大一神はしも、疑なく神典なる天之御中主神になも在りける[‥‥]。然れば是の大神、無始より高虚の上(かみ)に御はし座せるが、固より陰陽混成の神體にて、其の無爲の神徳より、皇産靈神、男女二ばしらを生し給へるが、「一、二を生ず」と云へる符(かな)ひ、其二神の神徳より、天地を創造し、人種の始祖たる、伊邪那岐・伊邪那美の二神を生し給へるが、「二、三を生ず」と云へるに符ひ、また此の二神にて、國土を修り堅め、諸神及び萬物を生成し給へるが、「三、萬物を生ず」と云へるに符へばなり[‥‥]。然れば「一、二を生ず」と有る、二氣の主宰と聞ゆる盤古氏夫妻は、疑なく皇産靈二神に坐しまし、「二、三を生ず」と有る、三才の主宰と聞ゆる三皇の傳へは、必ず伊邪那岐・伊邪那美の御傳へなると所思えたり[‥‥]。抑も天地世界は、萬國一枚にして、我が戴く日月星辰は、諸蕃國にも之を戴き、開闢の古説、また各國に存(のこ)り傳はり、互ひに精粗は有るなれど、天地を創造し萬物を化生せる、神祇の古説などは、必ず彼れ此れの隔てなく、我が古傳は、諸蕃國の古傳、諸蕃國の古説は、我が國にも古説なること、我が戴く日月の、彼れが戴く日月なると同じ道理(ことわり)なれば、我が古傳説の眞正を以て、彼れが古説の訛(あやまり)を訂し、彼れが古傳の精を選びて、我が古傳の闕を補はむに、何でふ事なき謂(ことわり)なれば、此の全篇、もはら右の心定(こゝろおきて)を以て、次々に考へ記せり。見む人、その意を得て、訝る事勿れ」と。



【盤古眞王紀・第八條】
──○高皇産靈大神、即ち高木神・薦枕高皇産靈神の亦名は、元始天王・玄都大眞人・混沌氏・玄都大眞王・磐古眞王・磐古眞人・磐固眞神・上極・元始天皇。天竺の摩醯首羅天・商羯羅天・伊邪那天・大梵自在天・世主天・魯達羅天。
神皇産靈大神、即ち神産巣日御祖命・神魂大刀自神の亦名は、大元聖母・太元玉女・玄都眞女・大聖母。天竺の昆摩羅天。──

古昔(いにしへ)、天地、未だ分れず、混沌として、鷄子の如し。盤古氏、其の中に生ず。萬八千歳にして、天地開闢せり。日は甲子、歳は甲寅。清輕の者は、上りて天と爲り、濁重の者は、下りて地と爲り、盤古、其の中に在り。一日に九變して、天に神に、地に聖なり。‥‥
 さて赤縣州に、盤古氏と傳へ、天竺國に梵天王と傳へしは、異名同神にて、此は既に粗ぼ辨へし如く、神典なる皇産靈神の事を傳へ奉れる古説なり。斯くて神典の正説は、天日國土の未だ生らざりし以前に、かの天の御中主神の神靈(みたま)に因りて、此の男女二ばしら成り坐し[‥‥]、其の産靈(むすび)の神徳(みいつ)に資(よ)りて、大空中に混沌たる一物の、その状、言ひ難きが生り出でて、天日と國土とに分れ、其の間に、伊邪那岐・伊邪那美二神、生り出で坐せり。然るに皇産靈神に當る、盤古氏・梵天王を、其の物の中間に生れる趣(さま)に云へるは、異傳なり」と。

【盤古眞王紀・第九條】
盤古氏夫妻は、陰陽の始め也。大荒に生じて、其の始めを知ること莫し。蓋し陶鎔造化の主、天地萬物の祖、乃ち元始天王・大元聖母、是れ也。盤古氏の後、乃ち三皇有り。此れ天・地・人の始め也。‥‥

 葛洪『枕中書』なる眞記(『漢魏叢書』・『龍威祕書』所引の抱朴子葛洪稚川の所撰)に、「昔し二儀(即ち天地)、未だ分れず、溟滓鴻濛、未だ成形有らず、混沌玄黄、已に盤古眞人有り。天地の精なり。自ら元始天王と號す。其の中に遊ぶ(即ち胚胎せられて在り)。玄玄たる大空、響無く聲無く、元氣浩浩として、二儀、始めて分り、相ひ去ること三萬六千里、崖石、血を出して水と成る(血の如き赤き汁の水と成れる、其の陰濁なる中に生ず)。元始天王、天の中心の上に在り。名づけて玉京山と曰ふ。山中の宮殿、竝びに金玉、之を飾る。復た忽ちに大元玉女を生ず。石澗積血の中に在り。號づけて大元聖母と曰ふ。元始君、下り遊びて之を見る。乃ち與に氣を通じ精を結びて、招きて上宮に還る[‥‥]。大元聖母、天皇を生ず。後に地皇を生ず。地皇、人皇を生ず。今に於いて傳ふる所の三皇の天文、是れ此の所宣、故に能く天上の大聖、及び地下の神靈を召請し、制せざる所ろ無し也[‥‥]」と」と。

【盤古眞王紀・第十一條】
「『枕中書』の眞記に、「玄都玉京は、七寶の山也。周廻九萬里、大羅の上に在り。城上に七寶の宮あり。宮内に七寶の臺あり。上中下の三宮有り、一宮城の如し。上宮は、是れ元始天王・大元聖母の所治なり。中宮は、太上道君・金闕帝君の所治なり。下宮は、九天眞王・三天眞王の所治なり[‥‥]。玉京に、八十一萬の天路有り。八十一萬の山岳洞室に通ず。得道の大聖衆には、竝に其の宮第を賜ふ。七寶の宮闕、或は名山の山岳に在り。群眞の居る所、都べて八十一萬處有り。上仙の天任を受くる者、一日に三たび、玄都大眞人(亦た玄都大眞王、即ち元始天王)に朝する也。億萬里有りと雖も、往還すること一歩の如し耳。世人、安んぞ此れを知らむ哉」と。‥‥
 さて天竺の國の梵志等に傳はる古説は、世界の中央に、蘇迷盧山と稱ふ山有りて、其の四面に、四埵あり。此は、謂はゆる四天王の住所にて、其の中央の頂上に、忉利天城あり。此は、天帝釋の所居なり。都べてこの蘇迷盧山は、諸大神妙天の居止する域なれど、此は尚ほ地居の天なり[‥‥]。然るに是の頂上を放れて、遙かに高き所に、大梵天とも、大自在天とも稱する天界有りて、其の主宰の神を、大梵王とも、自在天王とも申す。此は、天地世界を創造し、人種萬物を生成せる祖父の神なり。人たる者、熟く其の本を知りて、禪定を修し、十善を行ひ、十惡を禁じて、其の天に到らむ事を希ふ。これを天乘の脩行と謂ふと云へり[‥‥]。故れ是の梵志説を、上の件り、赤縣州の古説に惟ひ合はすれば、謂はゆる蘇迷盧山、やがて昆侖山にて、謂はゆる帝釋天は、即ち天皇太帝にまし、大梵自在天は、即ち謂はゆる上天北極星にて、梵天王と申すは、乃ち元始天王に坐すこと、言下にぞ知らるめる。然れば此は、其の本、同じ天説の、天竺と赤縣とに傳はりし物なること、復た更に議論を俟つまじき事にこそ[‥‥]」と。
 

  • [20]
  • 近代神仙道の祖・大壑先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 2月26日(木)22時46分7秒
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●平田大壑先生『三神山餘考』(文政十二年)に曰く、

三神山とは、謂はゆる方丈・瀛州・蓬莱なり。此の三山の名はしも、周・秦以前の古書どもに往々(をりゝゝ)見え、我が皇國にも早く聞えて、『日本紀』には、謂はゆる常世國に、蓬莱を當てられたり。今し此を諸越籍(もろこしぶみ)に據りて熟々考ふるに、三山共に、彼の國の東海中に在る由にて[‥‥]、即ち我が神典なる大和多都美神の神境を稱(い)へる傳説になも有りける(平田先生の斷案は、三神山とは、一、筑前國の北面志賀島・玄界洋の海底なる蓬莱、一、筑紫國西岸の海底なる瀛洲、一、長門國の西北面の海底なる生洲、を謂へり)。‥‥

 さて蓬莱より以下(しも)、すべて五山(地球の幽體。『列子』湯問篇に、「一を岱輿と曰ひ、二を員□[山+喬](一名、環丘)と曰ひ、三を方壺(一名、方丈)と曰ひ、四を瀛州と曰ひ、五を蓬莱と曰ふ」)の中に、方丈洲のみ、現國(うつしくに)にて[‥‥]、餘の四山は、蓬莱を始め、みな海神の幽界にて、『列子』に、「無底大壑の中に在り」と云へるが如く、海底に在りつゝも、或る時は海上に處を定めず出現すれば、世人の見ることも有れど、實には隱顯定まり無く、常に見ること能はず、また凡俗の到り得べき域に非ず。‥‥、

 其の方丈洲と云ふは、決めて淡路の國にて、(『漢武帝内傳』に、)「理命之室」と稱せる金玉宮は、彼の國なる伊佐奈伎神社を云ふと所思(おぼえ)たり。其は、此の社は、『神代紀』に、「伊弉諾尊、神功、既に至り、幽宮を淡路之洲に構へて、寂然に長く隱れたまふ矣」とある宮にて、本體(もとつみま)は、神功畢へて後に、天上に昇りて、皇産靈大神に復報命(かへりごとまを)して、天に留り坐しつゝも、此の宮を御親ら造り置かして、天より御靈を通はし、治め給ふ處なればなり[‥‥]。其は、方丈洲は、東海の中心に在りて、「西南東北、岸正等、方丈方面、各々五千里」と云ふも、淡路洲の大體に合(かな)ひ、かつ此の洲の西北の隅に、少し放(さか)りて、天の柱と見立て給へる於能碁呂嶋あり。是れ、かの「三天太上君の、天柱を立てたり」と云ふ、西王母の語に符合し[‥‥]、また其の語中に、「水神を極陰之源に安んじ、滄海之嶋は、九老を養ふの堂」とあるが、伊邪那岐神、筑紫國にて御禊し給へる時に、海つ神を生(な)し坐せるに符合すれば、『十洲記』に、「九氣丈人・九原丈人・九老仙都」と云へる三神(『底禁集』を始め、道書どもに、「三山九候先生」と稱せるは、此の三神の一神と爲れる時の名──滄海大神と聞えたり)は、和多都美神なること、炳焉(あきら)かなり。其は、方丈洲の文に、「上に九原丈人の宮有り、天下の水神及び龍蛇・巨鯨・陰精・水獸の輩を主領す」と有るを思ひ合せて決むべし。‥‥

 抑々その蓬莱等の海(わたつ)嶋々を領はき坐す大神の生り始めはしも、伊邪那岐大神の、日向の小戸にて禊祓ひ爲(し)たまふ時に、三柱の海神成り坐せるが、御身を合はせる一神(ひとばしら)とおはし坐すを、大綿津見神と申して、元より海宮に坐しませり[其の海宮の有る海底の島々を、漢土の神仙たちは、蓬莱・瀛洲など號づけ傳へしなり]。然るに天照大御神の御曾孫・穗々出見命、その海宮に御幸まして、海神の御女・豐玉毘賣命を嫡后(みむかひめ)と爲し給ひて、鵜草葺不合命を生ましめ給へるが、豐玉毘賣命、ゆゑ有りて、海宮に還り給ふ時に、『今より後は、現國と海郷(わたつさと)との往來(かよひ)を止(や)めむ』と、海坂を塞(せ)き給へりき[‥‥]。

 斯在(かゝ)りし後は、現世(うつしよ)人の往來(ゆきかひ)は止みたれど、神仙の道を修し得ては、此處を其の集遊處として、往來せしめ給ふ事は更にも云はず、凡人(たゞびと)と云へども、神仙に伴はれては、往來せる例も、また多かり。其は、黄帝、いまだ仙道を得ざる程に、神仙と通接して蓬莱に至り、徐福が、初め海神に從ひて到れるも、未だ仙を得ざりし以前也[‥‥]。また我が皇國の神世に、穗々出見命の御幸ませるは、掛け卷くも畏き天皇の御祖にし坐せば、申すも更なり、凡人にも、然る例あり。其は『本朝神仙傳』(大江匡房卿の撰。『釋日本紀』・『日本後紀』に所引)に、「浦嶋子は‥‥」と有るを以て知るべし[‥‥]。

 この浦嶋子が海郷に入りたる事を、『日本紀』に、雄略天皇の二十二年七月の事とし、其の還れる年を、『扶桑略記』を始め、淳和天皇の天長二年の事と爲したり。此の間、三百四十餘年なり[‥‥]。さて浦嶋子が往きたりし海郷を、諸書に蓬莱山と云へるは、神女の語に、「君、宜しく棹を廻らして、蓬山に赴くべし」と云へるよし、『風土記』に見えたる如くにて、然も有るべけれど、海神の本宮に至れるには非ず。神中の仙境、何處にまれ、數萬の列仙家あるが中の、一仙民の家に到れるなり。其は事の状を以て、思ひ辨ふべし[然れば浦嶋子は、眞仙には非ず。仙中に入りて、其の仙風に索かれて長命せるのみにて、元より修し得たる道骨なき故に、生□[艸+録]をも受けず、僅かに仙女の玉匣を得て返りつれど、自然づからにその期をさへに忘れて匣を開き、仙縁をも失へりしなり]。抑々皇國の屬海中に、仙境多きことは、『列子』に謂はゆる五山、みな我が屬海なること、『十洲記』と相發して知らるゝが、猶ほ仙説に傳へざるも多しと聞ゆ。‥‥

○或人問ふ、「海神の本體は、和邇に坐しますと聞く、また浦嶋子が傳を見れば、釣り得たるは龜なるに、化して仙女と成りて、其の住所へ伴ひたるを思ふに、方丈・蓬莱の仙境に住むてふ、謂はゆる神仙なる者は、みな人の、然る海物に生を轉じたる物のごと思はるゝは、如何に」。

 答ふ、誠に和多都美神は、その本體、和邇に坐しませども、總て海中なる物の首領に坐しまして、其の神威もとも類なく、常は人容の大神に坐すなり。然れども事とある時は、其の本體をも顯はし給ふ事なり[‥‥]。

 さて人の、神仙道を修して、其の道を得たるは、元より其の本體の人容を改めず。然れども神術、また自在を得るが故に、萬里の遠きも一瞬の間に往來し、水上を行くこと地を行くが如く、地に入ること水に入るが如く、巖石に入ること物なきが如く、水も溺らすこと能はず、火も燒くこと能はず、形を變ずること、また自在なり。故に或は鳥とも魚とも獸とも化(な)る事なり[そは、神典にて云はゞ、伊邪那岐命の御鬘を蒲萄(ゑびかづら)と化(な)し給へる、須佐之男命の櫛名田比賣を櫛に化し給へる、武甕槌命の健御名方命と戰ひて、其の神の手を立氷に取成し給へる、大物主神のしばし小蛇と化り給へる、事代主命のしばし鰐と化りて水に入り給へる、健角身命の大鳥と化り給へる類、今ま計ふるに暇あらず。また水上を行き地に入り、其の餘も自在なること、『仁明天皇紀』に、伊豆國上津島に坐す阿波神の、其の島に神宮を造り給へる事を記せる文に、十二人の神童ありて、「炬を取り海に下りて火を附け、諸童子、潮を履むこと地の如く、地に入ること水の如く、大石を震ひ上げ、火を以て燒き摧き云々]と有りて、然して金銀珠玉の五采を爲せる、美麗なる神宮四院を造り給へるなどを思ふべし。然る神態は、國史に、なほ數多見えたり。但し此は、我が神祇の御態なるが、もろこしの神仙の術も、よく其の道を得たるは、即ちこれに似たるあり。其は、もと我が神祇より傳へたまへる道なればなり。其の由は、予が著書どもに、委しく云へるが如し。‥‥]。

 故れ是を以て海郷なる仙女の、しばし龜と化りて、浦嶋子が釣りせるに縁みより、然して其の本體の仙女に復へりて契れるなり[また案ふに、『風土記』に、其の名を龜比賣と云へるよし見えたれば、其の本體は龜なるが、常は人容を成し居る、海神の類なる神仙ならむも、また知るべからず]。さて本體は、人と物との異(かは)り有れど、其の體の物なるも、神の位を得たるは、常も人形にて在るが故に、互ひに相接するに至りては、言語は更なり、形容・動作も替はること無し[其は、穗々出見命の、海宮におはし坐して、其の大神と應接し給へる御有状を思ふべし。其の御女に御合ひまして、御子をさへに生(な)したまひ、また彼の浦嶋子が、彼處に至りて應接せる趣をも思ふべし。人と物との隔りなき趣なり]。此は、皇國の神仙のみ然るに非ず、萬國の人物ともに、神仙の域に入りては、其の言語も一にして、違ふこと無し。然れば萬國、言語を異にするは、凡俗の間のみと見えたり[其は、海つ大神の語(こと)の、徐福と譯を用ふる事なくして通ぜるを思ふべし。然るは鳥獸などは、神界に屬する物なる故にや、其の鳴聲の、萬國かはり無きをも思ひ合はすべし]。

○また問ふ、浦嶋子、その仙界に三百四十餘年居たるに、其を唯々三歳ばかりの間に思へる由なれば、仙界の一年は、現世の百十餘年に當り、彼の一日は、此の數月に當れり。長き年月を、長き年月と思ひてこそ、長生せる詮は有れ、三百四十餘年の間を、三歳ばかりと思ひては、長生したる詮なし[其は、浦嶋子のみならず、彼の王質と云ひし戎人が、思ほえず仙境に入りて、仙人の圍碁するを見ること、半日ばかり、持ちたる斧の柄の腐ちて折れたるに驚きて、郷里に歸れば、七世の孫に逢へりと云ふも同じ]。浦嶋子、仙境に入らずば、僅かに五六十歳の壽なりとも、五六十年間なる事を覺えて、長生せると思はむを、中々に仙境に入れる故に、其の往きたる年を二十歳と見むにも、仙境の三年を加へては、僅かに二十二三歳にて若死せるに同じ。然れば神仙境は、好みて益なき域(ところ)に非ずや[‥‥]。

 答ふ、神仙の壽は、天地と共なり。然れば凡人百年の壽を、神仙の一日(ひとひ)に當てむも、なほ相應せざれば、然も有るべしと思はるれど、年月日時の運びに於いては、神仙界も人間界も、替はること無し。其は、大名牟遲・少彦名神の御世にも、年數・日數を云ふこと、今に替はりなきを以て辨ふべし[‥‥]。然も有らば、浦嶋子が三百四十餘歳を、三歳ばかりに思へるは如何にと云ふに、此は、元より道骨なき凡俗にして、偶に仙界に入れる故に、仙風に迷惑して、然は思へるにこそ有れ、仙境の年時の、實に然るには非ず[そは、今時も、をりゝゝ異境に伴はるゝ者あるを見るに、十人に九人は、大かた癡人(あはう)の如く成りて、往きたる所をも知らず、又た年月日時などをも、詳かには覺えず。そは、皆な異境の氣に厭れて、迷惑せるにて、甚だしきに至りては、癡死(しれじに)に死ぬるも多かるに思ひ合はせて辨ふべし]。然れば浦嶋子の如き、凡俗ながらも、彼の界に居通し在(た)らむには、天地と共に畢はるべきを、其の界を出でたる故に、出でては、前に入りたるが不幸の如く、俗人は思ふなり。然る不幸の者の有りしを以て、眞の神仙の、永久なる幸を希(ねが)はずと云ふは、豈に達者の論ならむや[‥‥]。また彼のもろこしの王質が如き、仙境に入りて、仙境たる事を知らず、斧の柄の腐ちたるに、數百歳を經たりとしも悟らず、仙に對して、仙とも知らざる如き癡人は、元より論ずるに足らず。郷に歸りて、泣き哭(わめ)きけむは、然も有るべき事ぞかし[‥‥]。

 都べて三神山の事は、本編『太古傳』及び『古史傳』に、其の本源は述べたれど、末派枝流の説に至りては、上の件りに引洩らせる、赤縣の籍どもにも多く見えたれば、採り都べて、此の『(三神山)餘考』に論ふべきを、漏らせる事のあまた有れば、如何にぞや思ふ人も有るべけれど、かにかくに他(あだ)し著書どもの急がれて、校へ綴るに暇無ければ、事足らぬ心地すれど、暫く毫をさし措くになむ[なほ『印度藏志』・『三五本國考』・『大扶桑國考』・『天柱五嶽餘論』にも、此の考へに關係(あづか)る事ども許多あれば、合はせ見て、其の趣を悟り辨ふべし]」と。



●平田大壑先生『赤縣太古傳』三皇紀七・八(文政十年以降)に曰く、

「青州の東南の岸より、直徑(たゞさし)に東南の相ひ對せる大荒外に推し渉れば、即ち我が筑前の國の北面志賀の島、玄界が洋の處に至る[‥‥]。然れば蓬莱山、この海底に在ること、疑(うつ)なし。茲にこを神典に考ふるに、此の海、やがて伊邪那岐神の禊祓ひし給へる橘の小戸にて、是の時、吹き生し給ひし神の多かる中に、三柱の海つ神、及び三柱の筒男命と申す神おはし坐して、この海底に、是の神たちの幽郷あり[こは、『仲哀天皇紀』に、此の神たちの神憑(かむがかり)まして、韓を伐しめ給ふ時の御誨(みさと)し言に、「橘の小門の水底に居る神」と宣へるに依りて、先づかくは謂ふなり]。斯在れば謂はゆる三神山は、此の大神たちの幽都なること、疑なし。‥‥『十洲記』蓬丘の文、及び徐福が辭に想ひ合はせて、九氣丈人と稱し、海中の大神と有るは、我が海つ神・豐玉彦命に坐すこと、諦かに知らる。‥‥

 方丈洲を、『列子』に、蓬莱・瀛洲と共に、彼の大壑中の三山と爲したれど、其は誤れる傳へにて、此の洲、疑なく我が淡路嶋なり。其の由は、『史記』の封禪書・始皇本紀・淮南王傳などに、其の三神山の議(さだ)あれど、事實には、蓬莱洲の事のみ有りて、方丈・瀛洲の事は聞えず。然て神典に、二柱神、已に天之御柱を立ち廻りて、國の長子(みこのかみ)に、大倭豐秋津嶋を生み給ふ時に、淡路嶋を胞(え)として生み給へるに、此の嶋、皇國の中央に在ること、方丈州を東海の中心に在りと云へるに符ひ、かつ下に次々論ふ旨の、よく符へばなり[但し此は多年、かく思ひ定めては在りしかど、天保六年五月二十四日、こを清書する時に當りて、ふと思ひ興し、こは、不當の説には非じかと、『列子』の海底と云へる説(方丈州・蓬莱州・瀛州は、彼の大壑中の三山と爲す)と、今の説(蓬莱州のみ、大壑中に在り)とを、紙籤に封じ、天神地祇及び五岳眞形圖に祭禮章詞して、嫡孫の八歳なるに、三度賜はらしむるに、二度まで今の考説をとり得つれば、此は神眞靈仙の許し給へる事となも、思ひ定めたりける]」と。



●平田大壑先生『黄帝傳記』中卷(文政七年以降)に曰く、

「蓬莱とは、漢土より東方、我が皇國の海中なる、大和多都美神の神境を稱へる名なるが、此の山、或る時は水底に在り、或る時は水上に見えて、隱顯定り無く、常に見ること能はず。また凡俗の到り得べき域に非ず。‥‥方丈洲と云ふは、海神の本境なるが、蓬莱山・滄海島などは、宮府を立ち置きて、攝(か)ね治むる處と見え」と。



 小生、大壑先生の編み給へる、『赤縣太古傳』・『天柱五嶽餘論』・『三五本國考』・『大扶桑國考』、また此の『三神山餘考』を拜讀するを、甚(いた)く好むものなり。小生、固より彼の道骨仙風なく、其の入口にて徘徊逡巡すと雖も、神仙道(古神道)の一端を拜記し、我が鬱屈を晴らして、有志が入仙の階梯と爲すと云ふ。



【壽早之舍神仙道士樣『神典玄學解』】
 間歇的に更新されてをられるやうで、拜讀するのを樂しみとしてをります。蓋し現代の中今、自ら道士と稱する御方は、恐ろしい御方が衆いので、些か苦手なのですが、壽早之舍樣は、穩健中正、敬服してをります。

 曰く、「八咫鏡・草薙剣は、皇室から離れますが、一方で、両御神宝は、『写し』が作られて、皇室で齋き祀られました。『写し』と書きましたが、よく言われるような『レプリカ』では、決してありません。『レプリカ』は、姿・形のみをうつした物で、そこに宿る神威・神霊などは存在しないからです。(畏き御寫しを、複製なぞと申し上げるのは、)不敬と言わざるを得ません」と。
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  • [19]
  • 不埒千萬なる國、赤縣の學を慨(心痛)む。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年12月19日(金)19時07分55秒
  • 編集済
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 大壑平田篤胤先生の力説せられたる、「支那は、赤縣(せつけん・から・しな・もろこし)と曰ふが本稱なり。是れ我が大神眞・神建速須佐之男大神の命ずる所なり矣」てふ高説を、現代に再び流行せしめたい。共に流行らせる人は、果して無きか乎。我より古を作さむと欲す。有志、諸共に古を作せ。

 大壑先生『赤縣太古傳』三皇紀十三に曰く、「此の大九州は、人皇氏の區別せるなれば、其の名等も、此の皇の命じけむ事、いふも更なり。然るに其の時、已に筑紫を神州(晨土・農土)と名け、大日本の地を申土としも名けたるは、神國と云ふに同じく、皇國を眞神の本國と爲したる名にて、甚と古き嘉稱にぞ有りける。此の嘉號ありし以來、今日に至りて、九千八百有餘年にや成りぬらむ 」と。

 『河圖括地象』(『古微書』所引)に曰く、「崑崙の墟下、洞含の右は、赤縣之州(『赤縣太古傳』三皇紀十三に云ふ、諸越全國の古號にて、洞含の右と云ふも、方位よく叶へり。斯くて是の赤縣州といふ號を始め、諸州の名は、此の時、人皇氏の命じたる名なること言ふも更なり。赤縣は赤地と云ふに同じく、當昔かしこの空國なりし故の名なるべし)なり。是を中と爲せば、則ち東南は神州、晨土と曰ふ(東南と云ふには少しく東に倚りたれど、此は疑なく我が筑紫の國を言へり)。‥‥正東は揚州、申土と曰ふ(申は神の古字にて、神土と云ふに同じ)」と。



●渡邊重石丸翁『西籍慨論の序』(平田大壑先生『西籍慨論・講本』上之卷に所收)

 字を知らむと欲するか乎、道を知らむと欲するか乎。字を知らむと欲すれば、字書の在る有り也。道を知らむと欲すれば、神典の在る有り也。進退、據る所ろ無く、唯々毛漢人を、之れ信ず。甚だしいかな矣哉、盲俗の聵聵、習ひを成すことや也。

 夫れ西土の書の載する所、果して何事ぞ。亦た知仁・勇義・禮讓・孝弟・忠信の名有るのみ而已矣。而して父を弑し君を弑するの實、累累、紙表に相望むときは、則ち謂ふ所の知仁・勇義・禮讓・孝弟・忠信の實は、即ち皇國固有の道にして、西土が空言虚名の道に非ざる也。世の空論虚學を講ずる者は、其の實を問はず、唯々名を、之れ信ず。遂に彝綸を履む者を認めて、以て聖人の化と爲す也。

 予、嘗て謂ふ、道とは、神魯企・神魯美命の道也。人の秉彝有るは、猶ほ飢食・渇飲のこどし。聖人、何ぞ與らむ。且つ夫れ士大夫の詩・書を誦する者は、幾何ぞや哉。農工商賈、其の聖を仰ぎ賢を欽ずるを知る者は、幾何ぞや哉。皇國の人員、大凡そ二千五百餘萬に下らずして、煕煕暭暭、兩儀の間に視息して、以て百年の壽を樂しむ者は、即ち神魯企・神魯美命の道、神代より今に至つて、萬古變らざる所以の者にして、決して儒教の效しには非ざる也。若し夫の權臣黠賊、迹を當世に接し、神胤を輕蔑し、華夷を顛倒する者は、皆な俗儒曲學、戎臭胡穢の浸染薫蒸する所なり。馬子の大逆、入鹿の激覬覦、藤原諸氏の專恣、及び源平・北條・足利の跋扈を見て、覩つ可し焉。降つて徳川氏の政柄を握るに及んで、藩に學有り、郷に校有り、郡に痒有り、村に序有り、市井巷曲、往くとして漢學者有らざるは無し。其の夥しきこと、啻だ犬屎猫糞、馬□[尸+矢]牛溲のみににあらざる也。然り而して天下の士、各藩の民、幕府有ることを知れども、而も天朝有るを知らず、將軍を視ること、天子の如く、天子を視ること、寓公の如し。而して漢學者の見も、亦た固より此に出づ。朝習夕講、堯・舜に非ざれば則ち湯・武、禪讓・放伐の迹を引き、嘖嘖として之を教へ、或は之を書に筆す。斯道の湮晦否塞、徳川氏に到つて、極まれり矣。

 予、故に曰く、風俗の薄惡に趨る者は、皇道の世に孚あらざるに非ざる也。儒毒東漸の效し也。學者は皆な曰く、「我が國、應神帝に到つて、文教、始めて闢く」と。是れ昧者の言のみ耳。應神帝は、惟神の道を執つて、惟神の化を行ひたまひき。未だ其の政の、夷に變ずることを聞かず。漢學の世に盛んなるは、天智帝に創まる也。應神帝には非ざる也。猶ほ佛の來貢、欽明帝の世に在れども、而して其の法の盛んなることは、聖武・孝謙二帝の世に在るがごとし也。其の阿直支・王仁を、百濟より召す、豈に後世儒者の言ふ所の如くならむや乎。且つ夫れ菟道皇子の遜讓を行ひたまひしは、一に天資より出づ。『論語』を讀むの效しに非ざる也。加藤清正の大節を立つるも、亦た其の至性にして、『論語』を讀むの效しに非ざる也。然らざれば則ち後の儒籍を治むる者は、數計斗量、指、屈するに遑あらず。而して何ぞ其れ悉く化して、菟道皇子と加藤清正とに爲らざるや也。此に由て之を觀れば、儒籍の世に行はると曰ふは、可也。儒教の世に益ありと曰ふは、不可也。

 我が師、氣吹舍の先生(平田大壑大人)は、蓋し此に慨すること有り。不世出の才を抱き、而も千古の卓見を持し、一旦奮然、咄嗟叱咤、以て雲霧を蕩掃し、天地の間、始めて晴明と謂ひつ可し矣。然り而して人は、先生の聖人を罵るを見て、膽破魄死、茫然として自失し、反つて先生を罵りて、以て天人・鬼神と爲す。嗚呼、先生も、亦た人のみ耳。苟くも恃む所ろ有るに非ざれば、焉んぞ能く此の如くならむや乎。然れば則ち何を恃めるや也。曰く、神典のみ耳。井蛙、海を訝り、夏蟲、冰を疑ふ。神典の大道を載せるは、固より腐儒末學の知る所に非ず。丘陵は踰ゆ可し也。日月は踰ゆ可からず也。昧者の先生を毀るは、多く其の量を知らざるを見る也。

 夫れ橿原の神代を去る、幾萬歳なり。而して今の橿原を去る、僅僅二千五百餘歳のみ耳。嗚呼、天地の無窮なる、後世を以て今代を視るときは、則ち今ま猶ほ古に近しと爲す。士は、固より知己を千歳に待つ。豈に凡俗の好惡に因つて、其の志操を變ず容(べ)けむや乎。古人の云ふ、「我れ自り、古を作す」と。蓋し先生の志也。天道循環、榮落、數有り。佛滅・儒□[火+潛の右]、豈に其の時無からむや。今や也、皇道復古の運、已に冥冥の中に萌すときは、則ち今日、是れ學術變革の秋也矣。學者、其れ勉めざる可けむや乎哉。

 明治三年庚午正月三日。京都大學教官・渡邊重石丸、拜撰。



■平田大壑先生『西籍慨論・講本』(上・中・下。明治三年五月頃刊。亦名は『西籍慨言』・『漢學大意』・『儒道大意』、或は『赤縣學慨論』)

[卷之上]漢學の弊(つひへ)を心づいて辨ぜられ、儒者ながらも、大倭心を失せなんだる人々には、山崎闇齋の門人・淺見重次郎安正、號を絅齋と云ひたる人、また水戸中納言光圀卿の御家臣・栗山愿助、號を潛鋒といふ人、また土佐の谷丹三郎重遠(號は秦山)、また讚岐の丸龜の人・佐久間立僊、號を大華と云へる人、また武學者では、松宮主鈴俊仍、號を觀山と云へる人などは、各々書を著はして、これを辨じたれども、猶ほいまだ彼の國籍(くにぶみ)に醉ひまどひ、うはべを作りたる擬聖人どもにしめを張られて居つたる所が有つて、清く美はしくは辨じかねたもので厶(ござる)。‥‥

 もろゝゝ西にある國々を、カラと云ふことは、「この始めて渡り來る國が、大加羅といふ國で有りたる故に、その後渡り來れるをも、その方角にあたる國々をば、ひろく加羅國と言ひ習はしたものだ」と、舊き説に有りますが、此れはさうらしい事で厶。井澤長秀が『俗説辨』に、山崎埀加の説とて、「外國をカラと唱ふる事は、嘉稱にあらず。日本を褒めて實とし、モロコシを貶して虚とするの謂なり。『日本紀』に、「膂之空國(そじのむなくに)」とあり。空國は、むなしき國、すなはちカラクニと云ふに同じ。殻・蛻(もぬけ)などの類ひ。中に實なきにたとへたり」と有りますが、これは大倭心めかして、おもしろいやうだが、どうであらう。此の外にもくさゞゝ説はあるけれども、何れも宜しくないで厶。‥‥

[卷之中]「(備前處士平賀源内源元義『風流(深井)志道軒傳の後語』に曰く、)‥‥唐の風俗は、日本と違ふて、天子が渡り者も同然にて、氣に入らねば取替へて、「天下は、一人の天下に非ず、天下の人の天下也」と、へらず口を云ひちらして、主の天下をひつたくる、不埒千萬なる國故、聖人出て、をしへたまふなり。日本は、自然に仁義を守る國ゆゑ、聖人出ずしても、太平をなす。唐は、文化にとらかされて、國を韃靼にせしめられ、四百餘州が、けし坊主に成つても、みづから大清の人と覺えて、鼻をねぶつて居るやうな、大ごし拔けの、べらぼ(「ば」歟)う共なり。日本にも、昔より清盛・高時が如き惡人有つても、天子にならうとは思はず、日本で天子を疎略にすると、慮外ながら三尺の童子も、だまつて居らぬ氣になると云ふは、忠義正しき國故なり。夫の故にこそ、天子の天子たる事は、世界中にならぶ國なし。‥‥聖人の教へでさへ、其の道にとらかされし、屁ぴり儒者の手にわたれば、人を迷はす事多く、なづむ時は、大きに害あり」など云ひたる事あり。大抵、尤もなる論で厶。‥‥

 (蜀の諸葛孔明の)骨とある事實を撰び、よく評したるは、淺見絅齋安正の『靖獻遺言』といふ書に因つて見るが宜しいで厶。其のかける『出師の表』といふ文を讀んで見まするに、これは諸越の人も、「孔明が『出師の表』を讀んで、涙を落とさゞる人は、その人、必ず不忠の人ならん」と云ひたる如く、おぼえず身もふるはれ、實に々ゝ涙のこぼれるほど、實意のよく見える文で、此の人生涯の行ひは、カラ人ながら、篤胤、實に間然する事能はず、孔子の後、たつた一人の人と思はるゝ。‥‥

[卷之下]『漢書』などに、(玉璽を)大切さうに云つてあるけれども、何の事もなく、たゞの人作で、「實は蛸藥師で彫つた印判とかはることはない」と、谷重遠がいはれた通りに、違ひはないで厶。これを御國の皇統の御璽(みしるし)たる三種の神寶に比して申す儒者などもあれど、甚(い)と畏く勿體なき事で、夫はこの方の學風の始めを御開きなされたる水戸中納言光圀卿の御内につかへたる栗山潛鋒が、すなはち光圀卿の御心を心として論じおいたる『保建大記』に、具さに辨が有つて、『古道の大意』に申したる通りの事で、實に以て同じ年にも云ふべきものでは无いで厶。‥‥

 儒者の中でも、御國魂の有りたる人は、淺見安正だの、水戸の栗山潛鋒や、土佐の谷重遠など、其の外にも、かやうの心ばへも思ひ辨へて、猥りに言はず。彼の國を中國と云ふなどをば、好からぬ事と云つて置いた人も、希れには有つたなれども、其の王を、御國人の天子と云ふまでを、非説(ひがこと)と思ふ人は更になく、專ら皇國の學問ばかりをして、戎(カラ)國をば卑しいと知りたる輩さへ、是には猶ほ心つかずに居る事で厶。彼の國を中國と云ふが非言なるうへは、其の王をも、天子とは決して云ふまじき事で厶。殊に右、申す通り、カラ國の王などの、天子と名告(なの)るべき謂れは、曾て无き事なれば、元よりの事、返す々ゝよつく此の意味をたどり、こゝらの訣を心得、本を立ておかぬと、道を蹈みちがへる、萬の過りが、此れから作(おこ)る。‥‥

[參考
○本居鈴屋大人『内宮權禰宜蓬莱尚賢宛書翰』(東京國文學資料館藏)に曰く、「仰せの如く、埀加流にて殘心に存じ奉り候。併し乍ら道を大切に存ぜ被れ、氣慨甚だ敷く候へば、眞の學者と存じ候ふ。今時古學の徒は、道を憂ふる心はなく、たゞ己が見解をのみ高くして、輕薄に御座候ふ。是れ古學の弊と存じ奉り候ふ」と。
○平田大壑大人『悟道辨・講本』卷上の尾に曰く、「山崎闇齋などは、神道の杜撰を爲たのは惡けれども、然すがに御國の事に心をよせた程あつて、頼もしい所が有る。夫れ故この闇齋が取立ての學者だち、また其の流れを汲む輩、何れも御國忠の一義に於ては蹈みたがへず。中にも淺見絅齋なんどは、『靖獻遺言』と云ふもの、また『稱呼辨正』などと云ふ善き書物を著はしたで厶。此の人は、大分ん武人で、假にも柔弱なる事なく、太刀の鍔(つば)にも、「赤心報國」と云ふ四字を彫付け、諸侯に仕へず、「御國家に御大事あらば、義兵を擧げて、御國忠を盡さん」と云ふて居たと云ふ事で厶。どうぞゞゝゞ、天下擧つて、御國忠に心を盡すやうに致したい事で厶」と。]



●平田銕胤翁『西籍慨論』の追書(『西籍慨論・講本』上之卷の尾に所收)

 此の書、もとは先人(平田大壑先生)の、『漢學大意』と名づけて、唯だ少(いさゝ)か講説の覺書にて、後に好(よ)く文章をかき整へて、『西籍慨論』と爲すべき下構へにせられたる物なりしを、其の事の成らざる内に、いつとなく今の如くは成りたるなり。

 さて西籍と云ふは、すなはち漢籍(カラぶみ)の事なるが、諸々外國は、大凡そ我より西に當れば、押しなべて西戎と云ひつべく、其の中に、彼の國は、國がらも少しは宜しく、古くより音信ありし事にて、西の字、然るべく、今より六十年前の事なれば、紛らはしき事も无かりしに、近頃は、西洋人も多く來たり、舶來の書籍も夥しき事なれば、西の字、紛はしく聞こゆるなり。

 抑々彼の國は、古く迦羅とも云ひ、諸越と云ひ、また印度・西洋等にて、支那と云ふなども、據(よりどころ)なきには非ねども、其の國の本稱には非ず。はた彼らも、夏・殷・周と云ふは更なり、次々に漢と云ひ、唐といひ、今は清とも云ふが如く、數多の名號ありといへども、何れも自撰にて、いとゝゝ紛らはしく、公然たる名稱に非ざる事は、既に先師たちの説きおかれたるが如し。然れば其の本稱はいかにと云ふに、其は國土開闢の砌に、人皇氏(愚案、實は素戔鳴尊に坐す)と云ふ神眞の、初めて地球中を九州に分けて、彼の地をば赤縣州と名付けられたる事なるが、これ古く正しく、後の世にも紛れ无き本稱にぞ有りける。然るを儒者らは、彼の國をば、上もなく尊びては在りながら、其の本稱をも知らずや有るらむ。中國と云ひ、中華と稱し、聖人の國など云ふは、甚だ猥りなる事、叛逆にも等しく、いとゝゝ固陋にて、鈴屋大人の、「世に儒者ばかり、文盲なる者は无し」と云はれたる、實に爾(しか)り。かくて其の本稱と云ふも、風土に因つて名付けられたる物なるが、本より大御國の如き、上國に非ざる故に、赤縣とは云へるにて、稱美(ほめ)たる名とは聞こえず。其は、今より四十年ばかり以前(さき)、文政の末・天保のはじめ頃に、先人の、彼の國の事跡を探索し給へる時に、まづ其の國名より考へ起して、すなはち其の由、『(赤縣)太古傳』に云はれ、亦た由ありて、『赤縣制度考』の卷首(はじめ)に委しく説き記されたるが如し。然れば其の混(まぎ)らはしき號(な)どもはおきて、動き无き其の本名を稱すべき事にこそ。然るを此の書に赤縣と云はれざるは、六十年前の覺書の儘なればなり。見む人、此の旨を心得てよ。斯く云ふは、明治三年庚午の春、この書、上木の時にぞ有りける。平銕胤。

 序でに云ふ。此の書、たゞに『西籍慨論』と云ふべき物には非ず、講説の覺書にて、實は『漢學大意』と名付けられたる物なる事、上に云へるが如し。かくて『志都廼石室』は、『毉道大意』なり。『出定笑語』は、『佛道大意』と稱せられたる物なる事、此の書の趣(さま)に同じと知るべし。扨てまた『俗神道大意』と云ふは、是も後に文章をかき改めて、『巫學談弊』と稱すべき物の下構へなる事、云ふも更なり。同門の士は、此の旨をも心得おくべし。
 

  • [18]
  • 山田孝雄博士の見る、平田神道の神髓。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年10月31日(木)00時31分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
 山田孝雄博士は、『平田篤胤』(畝傍書房版)の末部に、至重至要の御事を述べてをられます。山田博士の遺言とも謂ふべきもの、謹みて少し節要し、之を紹介させて戴きたう存じます。



●山田孝雄博士『平田篤胤』(昭和十三年秋、日本大學内神道獎學會の講演録。昭和十七年八月・畝傍書房刊)

 平田先生の學問のことは、無論申すまでもないのであるが、神道を研究するその前に、一つの條件がある。何だといふと、神道を研究するといつても、解剖學者が人を解剖するやうな譯に行かぬのである。解剖學者が解剖して居るのは、死んだものを解剖して居る。死んだものは、本當の人間ではない。死んだものを解剖して、人間を解剖したといつて居る。どういふ風に血が流れて行くのだ、といふやうなことになるとわからない。死んでしまへば、血はかたまつて居るから、本當の血の流れといふものは分るものではない。況んや生きた神經などは、解剖で分るものでは無い。本當に研究するなら、足の裏に針を一本刺すと、頭がどういふ風に痛いとかいふ研究が、生きた人の研究である。同じやうに神道も、神道として研究するのには、神樣のおいでになるといふことを自分が確信した上でなければ、本當の神道は分らぬのである。佛樣を拜んだり、耶蘇教をやつて居るものに、本當の敬神崇祖が分るものですか。

 恐らく私(山田孝雄博士)は、國學者の中で、平田先生程、神樣の實在といふことを信じておいでになつた方はないと思ふ。私は親父に聞いた話であるが、「近所に火事があつた。『先生、火事があるから、お逃げなさい』といつた。先生は、神樣の前で、一生懸命に祝詞を上げておいでになる。『危ない』といふと、『いや、神樣がおいでになる。わしのうちは燒けぬ』といつて、一生懸命に祝詞を上げて居る。それで到頭、先生のうちは燒けなかつた」といふ話を聞いて居る。それはいひ傳へであつて、事實かどうか分らないが、平田先生は、神樣の實在といふことを、固く信じておいでになる。

 書物の上で申せば、『靈の眞柱』である。先生が幽冥界といふものを、明瞭に信じておいでになるといふことを、はつきり物語つて居る。これは『靈の眞柱』にも書いてあるが、私が親父から聞いた話である。「『吾々が見ても、吾々の目には神樣は見えないが、どうして神樣が我々を御覽になるか』と、先生に門人が問うた。すると、先生は、『お前達は、それだから駄目だ。うちの中に、一の部屋にあかりをつけて、次の部屋から見てみろ。暗い所から明るい所は見えるが、明るい所から暗い所が見えるか。この世から隱り世は見えないが、暗い隱り世から、この世はまる見えなのだ』と、平田先生に教へられた」といふことを聞いて居る。それを聞いた時には、身震ひをしました。成程、さうである。私の親父は、別に平田先生の直弟子ではないが、さういふ教を聞いて居る。

 平田先生は、神樣の實在といふものを確信しておいでになつて、色々のことが出て來るものだから、藤田東湖などは、『どうも奇怪千萬なことをいふ男で、これはどうしても治らぬ。しかし學問の廣いこと、精力の旺盛なことは、天下に稀なる男だ。惜しいかな、どうも怪しいことばかりいふやつだ』(愚案、東湖先生は、平田先生の主張を聞いて、「甚だ僻見怪説も少なからず候へども、厚く古學存入り候ふ段は、格別のものに之れ有り。史館御出入、仰せ付けられ、當人相當の御用、仰せ付けられ、御取捨御座候はゞ、私共取懸り居り候ふ神書取調べに付き候うても、足り合にも相成る可し」と、烈公に推擧の由──水戸市教育會編輯『東湖書簡集』所收)。成程、或る意味からいへば、吾々から見ると、實に怪しいことが澤山ある。平田先生の書かれたものゝ中には、どうも吾々から見ると、如何にも、かういふことまで、先生は信じて居られたかと、怪しまれることがあるけれども、それは、こつちが至らないのだらうと思ふから、其の方の批評はしない。

 この間も、(平田)盛胤先生から聞いた。平田先生の長女の千枝子といふ方──後の銕胤先生の奧さんであるが、盛胤さんが養子に行かれた時分においでになつたさうである。この奧さんが、「神樣を平田先生と同じやうに拜んでおいでになつたのださうであるが、どうも傍から見て居ると、神樣がそこにおいでになるに相違ないやうに見える」といふのである。「あゝいふ風に拜む人は、滅多に見たことがない」といつて居られた。これは、先生のやつて居られたのを受繼がれたのであらうと思ふ。

 平田先生が神道の上にせられたことで、私共が忘れてならないことの一つは、『天津祝詞考』である。『大祓』の言葉の中の「天津祝詞の太祝詞言」を、先生が研究して、その研究の結果を纏められた。結局、今日、吾々が唱へる祓の言葉であるといふことを考證せられたのである。祓の言葉を調べ、その後世の言葉が混つてあるやうなものを除かれて、これが祝詞の中にある所の「天津祝詞」そのものであるといふことを校定せられたのである。

掛まくも畏き、伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓ひ給ひし時に、生(あ)れ坐せる祓戸大神等、今日仕へ奉る神職等(かむつかさら)が過ち犯せる罪穢れ有らむをば、祓へ給ひ清め給へと申す事を聞し食せと、恐み恐みも白す。

これが、平田先生が『祓詞』を研究して、「一番古い姿は、これだ」といふことを校定せられたのである。これが、今日の『祓詞』といふものゝ起源を説いたものである。これで、日本の神道の『祓詞』といふものが一定してしまふ。大抵の神道家は知らぬ。平田先生が、「天津祝詞言」を決めたのである。

 平田先生の神道の上には、本居先生とは大變に違ふ點が、一つあるのである。『古史傳』の九の卷の三十枚の裏に、平田先生が、「總べて師(本居先生)の素戔鳴尊・禍津日神のことをいはれたる説共には、違へることぞ多かる」。これは神道の歴史から申すと、非常に大きな事件なのである。本居先生の『直毘靈』・『古事記傳』をお讀みになつても、本居先生の神道に考へ方は、要するに善惡二元論である。禍津日神となほびの神とが、兩立しておいでになる。善が惡の基になり、惡が善の基になるといふやうにして、禍福は糾へる繩の如し。さうしてその惡は、伊弉諾尊が、その穢れをお受けになつた。それが、この世の惡いことを起す原因をなすのである。それ故に禍津日神といふのは、非常に惡い神樣だ、かういふ説明をして居る。又た素戔鳴尊に對しても、かういふやうな惡い神樣がお生れになつたといふのは、その穢れが、その源をなすのである。これを今の哲學上の言葉で簡單に片付ければ、善惡二元論である。

 若し善惡二元論の善と惡と二元であるならば、この日本の國に於いての善といふものは、どうして成立つのであるか。善が惡に勝ち、惡が善に勝つ。それは結局、鬪爭であらう。善惡二元論といふものを、若し立てゝ行けば、結局、マルクス主義みたいなものが起る餘地がある。人世は戰だ、といふ論である。そんな神道は、あるものではない。この意味に於いて、本居先生の教に基いて、本居先生を攻撃する。本居先生の神道は、まだ純正の神道になつてゐない。これは、明白に申し上げることが出來ると思ふ。本居説だけ知つて、他を知らない人々は、善惡二元論であるから、これを救濟しようと思ふ爲に、この頃の日本主義としては、何を借りて來るか。御存じの通り、辯證法といふものを抱いて居る。惡を土臺にすれば、惡に對しての反は、善である。それを綜合した時に、一段上るが、元の惡に戻る。正・反・綜合、それで惡を初めにすれば、惡になる。こんなことが、あるべきでは無い。ヘーゲル論を以て、頻りに論じてゐる或る日本主義者に、私はいうたことがある。「吾々日本人は、ヘーゲルのお蔭を蒙らんでも宜しいのである。ヘーゲルのお蔭を蒙らなければ、日本思想が救濟せられない、そんなものではない」と云うた。どうして私にさういふことがいひ得るかといふと、それは、平田先生がおいでになるからである。平田先生の論は、非常に簡單である。

 『古史傳』の六の卷の第二十四であるが、それは、禍津日神のお生れ遊ばされる所の説明である。本文は『古史成文』であるから、『古事記傳』とも『日本書紀』とも違ふ。『古事記』・『日本書紀』を綜合して書いてあるのであります。

「是に伊邪那岐大神、興言曰(ことあげ)したまひ、『上つ瀬は、瀬急(はや)し。下つ瀬は、瀬弱し』とて、初めて中つ瀬に墮(お)り、かづきて滌(みそぎ)したまふ時に、大禍津日神[亦た八十枉津日神と云ふ。亦た天之麻我都比神と云ふ]を吹き生(な)したまふ。」

これが本文でありまして、註に、この神の御名の意義とその御名の出所とを説き、

「さて此の神は、伊邪那岐大神の、其のふれ坐せる夜見國の汚穢を、疾く祓ひ去らむと、太(いみ)じく所念(おもほ)し入り坐しゝ御靈に依りて、彼の穢れの大御體(おほみま)を、はらひ出る驗とて、最初に此の神の生れ坐せるなり。」

と、かやうに説いて、更にその下に再度の註の處は、文章は簡單だが、神道の上から見れば、甚だ重大なことで、平先生の神道のうちでも、最も重大な部分と認めらるゝのである。その文は、

さるは、二柱の大神の、神たちを生し坐せる事實を、つらゝゝに察(み)奉るに、凡そその大御靈を、一偏(ひとへ)に所念し凝らし給ふ時に、神たちは生れ坐して、其の生れ坐せる神々の、其の事に靈幸ひ坐すなり。其を一つ二ついはゞ、國の狹霧を撥はむと、御心を凝らし結べば、風神を生れ坐し、火神の荒びを靜めむとては、水の神・土の神を生れまし、夜見國より荒びくる物を止めむと、塞へ給へる御杖、また千引磐に、塞の神たちの成り坐せるなどを以て、此の理を曉るべし。此等一偏に御靈を凝らし給へるに就いて、其の生し坐せる神たちの、其方に功ある跡の、炳焉きものぞ。

 簡單に平田先生の考へを、私が御紹介をして見ると、總べて伊邪那岐・伊邪那美二柱の神樣が、神をお生み遊ばす姿を見ると、只管らそこに大御心を集中せられる。さうすると、その御心が凝りて、神樣がお生れにおなりになる。その神樣は、たとへば風のことに就いてお考へになり、御心を凝らされると、風の神樣がお生れにおなりになる。即ち霧を拂ひたい。國のさ霧を、この儘にして置いてはいかん。何とかしてこれを拂つてしまはなければならぬといつて、御心をその一點に集中あそばす。さうすると、伊邪那岐の神樣の御心から生れたまふその神樣が、風の神樣におなりになる。かういふ意味である。かういふ考へ方が、平田先生の考へ方である。隨つてお受けになつた穢れといふものをば、伊弉諾神が、拂ひ去らうと思召した。その思召しを集中したものが、外に離れ出た時に、それが禍津日の神となつたといふのである。さうすると、これはどうなるか。霧を拂はうといふ、この霧を拂ひたいと思召した時に、その風の神樣の働きに依つて、霧がなくなるのである。この體についた穢れを除いてしまはなければならぬと思召した結果、その御身から穢れが離れる。その離れた穢れに依つてお生れになつた神樣は、どういふ神樣であるか。霧を拂ひたいと思つた時に、風の神が出た。それと同じやうに、その禍津日神は、よろづの禍をば、除かなければ承知しない神樣だ。穢れたことがあつたならば、それを除く神樣だ。だから禍津日神は、世の中に禍を下す神樣ではない。穢れを去らしめる神樣だ。穢れたことがあつたならば、承知出來ない。そこで、その穢れたものに對して、禍を下される。かういふ神樣だ、といふ考へ方である。さうなつて參ると、二元論ではない。一元論になつてしまふ。これが、平田先生の神道の神髓である。

 平田先生の神道のことを書いたものを見ても、これを論じた人は、一人もない。今まで善惡二元論であつたものが、平田先生に依つて、一元になつてしまつた。古い神書には、「天照大神の荒御魂は、八十禍津日神だ」といふいひ傳へがある。若しこの八十禍津日神が禍をなす惡神であるならば、天照大神は惡神であるといふ事になる。これは、非常に大きな問題である。かういふ點は、本居先生は顧みられなかつたのであらうか、少しも問題にして居らない。平田先生のやうに、有らゆる神典を綜合して參ると、到頭こゝまで來る。禍津日神は、天照大神の荒御魂だ、となつて參る。さうして天照大神の荒御魂といふことの意味も、十分に徹底して來なければならぬ。それを本居流に解釋すれば、天照大神は、この世の惡いことのありつたけをなさる神樣だといふことになる。善神だか惡神だか、分らなくなる。これは斷じて贊成出來ない。平田先生のやうに、日本の神典を綜合して來ると、こゝに本當の神道が分つて來るのである。

 私は、平田先生の神道は、本居先生の神道から見ると、段違ひだと思ふのである。平田先生に至つて、初めて神道が、神道になつたのである。それはどういふ譯かと云ふと、本居先生も神道は信じて居られたかも知れぬが、併し神樣の實在を、どこまで信じて居られたか、私はまだ知り得ない。平田先生は、徹頭徹尾、神樣の實在といふことを確信しておいでになつたから、こゝまで來る。かういふ風になつて參ると、まるで神道の考へが變つて來る。

 そこで、平田神道といふものは、私にいはせれば、もう一歩進めなければならぬものだと思ふのである。『靈の眞柱』、その前の『鬼神新論』に、既に平田神道に、この考へはある。併しこの『鬼神新論』の出來た時分には、この考へは十分に熟して居ない。『靈の眞柱』に至ると、大分進んで參るけれども、『古史傳』よりは、まだ少し足らない所がある。『古史傳』に至ると、明白に示されて居るのである。唯だ先生が、この神道の一番大事な根本原理を、もう少し長生きをして、これを十分に組織して置いて下さつたならば、大變よかつたと思ふけれども、この神道の一番大事な點を、實はこの儘で發展せしめずに濟んでしまふのである。日本の神道の歴史を、吾々が研究し、平田の學問を、吾々が繼承して行くといふ場合に於いて、この神道の神髓といふものを、しつかりつかんで行かなければならぬと思ふ。

 併しこれは、平田先生一人で終つたのではなく、敷田年治といふ國學者が居るが、その人の著した『古事記標註』を讀んで見ても、その説を基礎にして、神樣に就いて、もう一歩進んだ考へ方をして居るのである。『日本書紀』の中に、「伊弉諾の神樣が、腹がへつてたまらぬと思はれた時に、お生れになつたのが、稻倉魂神である」いふことをいつて居る。それを考へて見ると、腹がへつてたまらないといふ一點に、その神樣の大みたまが集中した時に、それが客觀化して神樣になつたのが、稻倉魂の神、食べ物の神である。腹がへつてたまらぬといふならば、それを困らせる神樣になるかといふと、さうではない。腹のへるのをなほす神樣におなりになる。禍津日神が、天照大神の荒御魂だといふ古傳説は、そこから考へて見ればわかるのである。荒御魂の御荒びといふのは、一面から見れば、如何にも禍津日と見えるもので、誰かまづいことをするものがあれば、それをなほさなければ承知しない。これが禍津日神の心であり、これが荒御魂の姿である。丁度、親が子供を叱る時が、それである。親が子供に對して荒い事をしても、禍を下すのが目的ではない。しかしながら子供からいへば、一時は禍かも知れないが、そこで子供が素直になれば、荒魂はどこかにかくれてしまふ。これが、禍津日神の御心である。私はこの考へ方を擴充して進んだならば、神道の根本原理が、必ず説けなければならないと思ふ。

 今ま神道を論ずる人は、色々西洋の宗教學だとか何だとか、どんゞゝ南洋のものなどをもつて來て居るが、あんなものは、神道でも何でもない。神道には、世界中にない、祓といふことがある。こゝに祓といふものは、如何にして可能なのであるか、といふ問題がある。これを哲學的に解釋し得たものは、一人もない。併し今ま申した平田先生の神樣の考へ方から考へてくれば、この祓の可能なる原則が、こゝに宿つて居る。詰りこれは、荒御魂の發動の一つの姿である。吾々の體から穢れが祓はれる原理は、こゝにある。それを本居先生流に解釋したらば、何時まで經つても、祓の可能といふことは起つて參らない。平田の神道に至つて、初めて祓の可能といふことの説明がつくのである。

 これをもう少し擴充致しますと、日本人の宗教心そのものゝ説明が、實はつくと思ふのである。甚だ通俗の説であるけれども、例へていふと、讒言を受けて死んだ人が神樣になると、その神樣は、自分は讒言を受けて死んだから、世界中の人を讒言で困らせてやるかといふと、さうではない。かへつて讒言を受けて居る人を救つてやる神樣になる。それの著しいのは、天滿宮である。菅原道眞公は讒言を受けて、非常に殘念な氣持でなくなつてしまふ。それで、讒言で困る人は、皆こゝにお參りすると、その讒言から救はれるといふ。まださういふ風な話は、鎌倉時代の色々な物語にも出て居る。即ち讒言を受けて殘念だと思つて居た方が神樣になると、讒言を救ふ神樣になる。この樣な(似た)ことは、下等社會の迷信にも少なからずある。それらは、いはゞ迷信である。併しながら日本人の宗教心の根源から考へれば、それらは甚だ下等な話の樣であるけれども、やはり脈絡相通じて居る。即ちこれは、日本人の宗教心から生ずることであつて、實に偉大な話である。

 『日本書紀』の中の、腹がへつてたまらぬといふ御心が凝つて、客觀化して食物の神樣になる。禍津日神も、穢れを憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神樣でない。穢れを承知しない神樣である。穢れがなくなれば、それでいゝといふ神樣である。こゝに穢れを祓ふことが可能になるべき道理がある。從來、何處から祓の可能が起つて來るかといふことを、未だ説明をした人がないと、私は思ふ。それは、唯だ「祓へ給へ、清め給へ」といへばよい。それに相違ないのであるが、併しそれには可能の原理がなければならぬ。その祓の可能の原理が、この荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての、平田先生の神道の神髓である。今の神道の方々は、それを御存じあらうが、なからうが、神道は、平田先生の考へられた通りのものなのである。この神道を一元的のものにして、平田神道の神髓を突きとめて行かなければならぬ。あらゆる日本人の神樣の説明が、皆これで出來る。それが根本に遡れば、神樣の本質は、人を救はうといふ、眞の御心まで到達しなければならぬ。

 平田先生が、惜しいかな、外のことに主力を注いでやられた爲に、この重大な點が、それつきりになつて居るやうであるが、それを私が御紹介したゞけのことである。どうか、さういふ點までお考へを願ひたいと思ふ。これは、本居先生の惡口をいふ意味で申し上げて居るのではない。神道の神髓といふものを突きとめたいといふのが、私の念願である。唯だ私はやる仕事が色々あつて、そこに沒頭することが出來ない。皆さん方は、そこに沒頭なさる十分な餘地を持つておいでになる方であるから、お願ひを申し上げるのであります。



 愚案、山田孝雄博士は、平田篤胤先生の神道の神髓を『古史傳』に發見して、平田先生の志を繼ぎ、神道の神髓を闡明にせられむことを懇祷されてをられる。然し神職・神道學者は、之を無視するが如くである‥‥。幸ひに此の掲示板のスレツドには、南雄樣が『古史成文』を開板されてをられ、殊に天孫降臨の御段の前後は、拜誦して感動、措く能はざるものがある。一人でも多くの御方には、之に親しみ、之を音誦、其の言靈・音靈を、己が骨髓に埋め、殊に若い志ある神道家には、更に進んで『古史傳』の研鑽に、專心精勵されむことを、切に御祈り申し上げたい。



【平田篤胤大人『古史成文』】
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【古學の正統・道統傳】
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【栗里栗田寛博士『古史』全六卷】
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  • [17]
  • 曾孫の語る、家傳・平田篤胤大人。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年10月 6日(日)11時13分32秒
  • 返信
 
●東京府社・神田神社社司・平田盛胤翁『始祖篤胤を語る』(昭和十八年九月、郷友錬成會に於ける講演大要。『秋田縣人雜誌──平田大人記念號』昭和十八年十一月・秋田縣人社刊に所收)

◆篤胤は、佐竹藩の貧祿にたつきする一士分の四子として生れたが、家乏しいため、十一の年、叔父・大和田柳元に預けられた。漢法醫であつた叔父の許で、專ら醫者になる修業を積んだが、生來、一を聞いて十を知るといふ賢明さであつたから、三人の兄は、恐ろしい程の天稟をもつ篤胤に、何時もひけ目を感じた。『論語』を習つても、一度で覺えて終ふ篤胤とくらべられて、よく父から叱言を喰ふ兄達は、「あれが居るために、ひどい目に遭ふ」と、そねみ憎んだが、一人の妹とは、反對に仲睦まじく勵まし合つた。この妹は、「男であれば、篤胤も遠く及ばず」といはれた程の、敏い才を持つてゐたさうである。

◆世間に「正月八日に家出した者は、再び歸らず」といふ俚諺があるが、正吉[翁の俗稱(幼名)]は、二十歳のこの日[寛政七年]、一兩二分の金子を持つて家出した。途中、何處の川であるか、調べても判らぬのだが、さすらふ旅の先なきが思ひやられる心配から、或る渡場で、船頭に「船賃をまけてくれ」と頼んだけれど、勿論きいてくれる筈もなく、言下に斷られた。すると、「よつし、頼まぬ」と大喝して、即座に裸體となり、着物はまとめて頭に載せ、どんゞゝ川の中へ入つて行つて、泳いで渡らうとした。年の若い者の、此の姿を見て氣の毒になつた船頭が、「まけて上げるから、上つて來い」と叫んだけれど、正吉は、もう船頭など相手にせず、「一たん男子が決心したら、どんな事でもやり拔くのだ。お前達のやうな、仁心の無い者は、人間の數に入らぬ」と罵倒した、といふ有名な逸話がある。

◆昨年(昭和十七年)十一月、埼玉縣越ケ谷町の久伊豆神社境内に、篤胤の記念碑が建立されたが、五年位、この邊りに寓居を構へて居つたといふことになつてゐる。こゝの永平寺の高僧に風變りなのがゐて、佛教をこつぴどく罵倒した篤胤の墓所[秋田市手形山]の後に、自分の分骨を埋めて眠つてゐるが、この僧の遺言が、なかゝゝ味はふべきものである。即ち、
「佛教を罵るのは、大抵、所謂る喰はず嫌ひだが、一生、佛の道をたゝきつけた篤胤は、斯道の奧義を極めて、然るのち之を粉碎してゐる。ともに佛教を語るのは、古今を通じて、篤胤只一人だ。鬼界に入つて、篤胤と心ゆくまで談じ合ひたいから、俺の分骨は、篤胤の傍らに埋めてくれ」
といふのであつた。

◆篤胤は、二十六歳の時、街頭で『古事記傳』を瞥見したのが、國學に志す動機となつた。執筆三十五年、活版刷三十餘年、『記傳』刊行に七十年を要した此の本を見て、深い感銘に打たれたらしい。

◆「醫者ほど、尊い職はない。生命あつての財産で、その生命を司る醫者こそは、立派な仕事」と教へられ考へてゐたのが、「世に坊主が、斯くも蔓つてゐては、國體は危い。國益を測るには、師・宣長大人の素志を繼いで國學をきはめ、神の道を明かにせねばならぬ」と發意して、研學にいそしむことゝなつたのである。

◆篤胤──鐵胤──正胤──以志子、とつゞいてゐて、以志は、私(盛胤翁)の妻、鐵胤は、篤胤の長女・織瀬の夫にあたる譯だが、祖母の織瀬は、明治二十一年まで長命した。この祖母から聞いた話だが、篤胤の師・宣長を敬ふことは非常なもので、毎朝、伊勢大神宮を遙拜の後、約三十分、宣長の謚を唱へて拜んださうだ。

◆『古事記』の研究書『古史成文』三卷は、時の上皇樣に奉つたのだが、『古事記傳』をものにして、ブツヾヽになつた宣長の遺筆を二三本、特に頼んで貰ひ受け、その禿筆で清書したもので、篤胤の人格を窺ひ知るに足る資料として、心に刻んでゐる。

◆この感化が子供に傳はり、祖母は、どんな熱病の時でも、醫者の咎めもきかずに、一時間餘も、神前で祝詞を奏す日課を止めなかつた。生活ぶりも、亦た至つて簡素で、極寒の日でも薄着で通し、シヤツ・股引・足袋などを身につけなかつた。八十四歳のお婆さんが眼鏡をかけず、髮に艶があつて一本も拔けず、また齒は全部揃つてゐるといつた健康體であつた。私も祖母の教育で、年中薄着で押し通し、八十を越して、尚ほ公私の職を不束ながら勤めてゐる。

◆博學な篤胤は、殊に天文・暦學を好んで研究したが、或る時、天文臺長と論爭し、篤胤の質問に、臺長が返答に窮した末、敕任官といふ官階を楯に、「默れ」と大喝して、遂に讒訴したといふ話がある。その暦本『天朝無窮暦』三百卷は興味のある本で、今年の月食は何分缺けるか、ちやんと判る。この本の刊行されないのは、一頁に十干・十二支が何百とあるから、到底、活字が間に合はないからである。

◆私は、毎夏、千卷餘の遺稿を、土用干しをするのが愉しみなんだが、國學に志して不遇な一生を閉ぢるまで、四十年間に綴つた現存の遺稿を、文字は拙いが、人に比べて速筆である私が、若し書寫するとしても、二百四五年以上かゝらねば出來ない。五十人力、百人力などと、腕力を誇る例は昔からあるが、篤胤は、何百人力の筆力を殘してゐる。人間の能力に限りがあるといふが、磨けば、知能はいくらでも進むものらしい。

◆語りおくれたが、篤胤は、月に六晩より寢なかつた。床を敷いて着物を更めて寢むが六晩で、あとは机に向つたまゝ夜を徹した。祖母など、夜が明けたので、父の部屋の雨戸を開けに行くと、それとも知らずに、一心不亂に筆を走らせてゐたといふ話をよくきかされたものだが、不屈不撓の魂が、とにかく斯ういふ驚くべき筆量を成したものであらう。



 愚案、平田大人の血脈は、盛胤翁──宗胤翁──盛胤翁曾孫の第六代宗家・米田勝安翁、と續く。而して勝安翁の令室・晴江刀自は、帝都代々木・平田神社の宮司たり。荒俣宏氏・米田勝安翁の對談『よみがえるカリスマ・平田篤胤』(平成十二年十二月・論創社刊)には、現代の平田宗家による大人像を聞くことが出來る。是非とも繙いて戴きたい。荒俣氏の曰く、「平田神社には、八疊ほどの、篤胤關係だけの書庫があつて、タイトル數にして百四十餘、册數にして、悠に千册をこえる草稿が所蔵されてゐるといふ。これが研究の對象として公開されゝば、幕末史は變はるかもしれないと思へる程の貴重資料である」と。

【參考/現存する平田家遺稿】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/251

○下記サイトの上部の「検索」にて、「平田」と入力してみて下さい。
  ↓↓↓↓↓
http://www.rekihaku.ac.jp/index.html

 平成十九年七月十三日早朝、小生、平田神社參拜。舊稿に、「十三日は、午前五時から地下鐵が動く由、朝靄の中、明治神宮に參拜。神職に「平田神社」の場所を御聞きしたが、神社そのものを知らざる由。些か呆れて、事前調査もしてゐない田舍者なれば、四苦八苦、人に聞き歩き、代々木驛より徒歩數分の所を小一時間もかけて、漸く辿り着く。然し未だ七時にて、留守居の社人あるのみ。正式參拜は九時からの由、幸に宮司樣に連絡して戴き、備中國よりの參拜ならばとて、無理を聞いて下さり、遂に昇殿の念願を果たし、神靈能眞柱大人平田大壑先生を拜し奉る。平田家は備中松山藩の家柄、米田晴江宮司には、大層、懷しがつて戴けました」と。天保十一年、幕府から佐竹藩主宛に、「篤胤を國許へ差遣さるべく、これ迄、著述書、數多ある由以來は、差留め申さるべき事」。先生の秋田への追放退去は、當時、佐竹藩士の格であつた故の歸郷北行なるべく、若し備中國松山藩・板倉侯から暇を取らず、養家の松山藩士のまゝであつたなら、平田の戸籍ある備中西行となつたに相違ない。



【オロモルフ博士『平田神社參拜記録』】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hirata.htm
  

  • [16]
  • 景慕と靈應──幽顯一貫の靈導。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 8月 7日(水)22時40分15秒
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●竹内五百部葛城經成翁『三五本國考の序』(かつて讀み得たるも、今は讀み得ず。あはれ、久方振りの變態假名讀みなれば、讀み違ひ、まゝ有りぬべし。原文に、些か假名を補ひたり。手許に「くずし字典」を探すも、如何なることにか、見當らず、あらた、■は留保せし字なり。和刻本・全集を有てる同學の、批正示教を乞ひ奉らむ)

 掛け卷くも綾に畏き、高光る日の大御神の、御子の繼々、萬千秋の長秋に、現御神と、神ながらしろしめす天皇の、大御食す國と敷き坐せる皇大御國はしも、天の下に、在らゆる千萬の國の本つ大御國になも有りけるを、潮沫の凝りて成りぬる異國學びの倫は、其方に心向はりて、國の差別にも、本末の相違有りとは思ひたらずて、我が古傳をさへに蔑如するは、忌々しとも畏しとも、云はむ方なき禍事になも有りける。

 こゝに我が氣吹廼舍の神靈(能)眞柱大人(大壑平田先生)はも、八意思兼の神智り坐しまして、天雲の向伏す極み、見霽かし明らめまして、著はし給へる書共の多(さは)なる中に、此の書はしも、赤縣州に稱ふ所の三皇・五帝と聞こゆるも、正しく我が扶桑の神域より、渡り往き坐せる神聖たちに御在する由を、眞澄の鏡、眞清明かに解き曉されたるなも。孔丘が「後世は畏る可し」と云ひけるも、此の大人をや、さ(指)しつらむと所思ゆるばかりなり。皇國・蕃國、本末の理、著(しる)くあらはれて、最も尊き此の説はしも、白雲の墜居る限り、潮沫の留まる極み、八十綱打延て、徐々に引寄する事の如く、彼の酋長共の、臣と稱して、仰ぎ參ゐ來む導きとなる道のしをり(栞)にて、いとも太じき御有功の、天地に貫き徹ほる説なりけり。

 おのれ(己)、此の大人に就いて、かゝる古へごとを伺ふ事はしも、去にし天保の九年といふに、此の御許にて、御教子の列にかずまへられ奉りたりしよりの事なるが、起とは寢とは忘るゝま(間)なく、其の恩頼を歡びつゝなも有りけるを、同じ十四年の閏九月二十日の夜の曉のことなりけるが、夢とはなく現ともなしに、大人の旅裝し給ひて、日向國まで來着き給ひ、近きほどには、我が郷にもとぶらひ給はむと、人して案内せさせ給へば、取るものもとりあへず、只いそぎに急ぎたちて、十四五里あまりもゆきて、我が殿の所知めす諸縣郡高城といふ所に至れば、追及びて、和田秋郷(喜兵衞。息長姓)も來れり。大人は■りに着かせ給へるに、御供と有る人二三人、御席の側に侍りき。健かなる御面ざしは、常よりも丹の穗に咲榮え在して、

『能くもこゝまでは出來れりけるよ。予は神代の御陵に參詣で、且つは高千穗峯や大宮の舊き跡所をも拜み見ばやと、年頃の思ひにて有りつるを、今ま思ひ立ちぬ。案内を』

と宣ふに、「あれに見ゆるが高千穂峯、西なるを韓國嶽、また薦(すゞ)の嶽ともいひ、此の二峯の際の北なるを、雛守(ひなもり)嶽となむまを(申)す。昨日、御供にて」ときこゆれば、

『いな(否)、まづ火々出見命・葺不合命の御陵にまうで、返して其所かしこ見囘り、汝が里、また鹿兒島にも出でゝ、瓊々杵命のと、きこゆる新田宮を拜み奉り、肥の葦北より、筑紫・豐國に至り、速吸名門にて身滌をなし、出雲の杵築に參詣でむと思ふなり。其れまでは、汝等をも伴ひてよ』

と宣ふに、うれ(嬉)しとも忝しともまをさむは、中々なる思ひにて、吾平山・高千穗峯など、御先立ちまをして、即(やが)て我が家に入り御在せると思ひしが、其は夢にして、はかなくさ(覺)めたりけり。されどさばかりなるは、現よりもたし(確)かなるやうに思ひなされて、奇しみつゝ有りける時しも、鹿兒島に物する事ありて、和田秋郷・兒玉利國などにも、其のこと語れりければ、「そは其の大人を、尊みしたふ眞心にや。靈合ひ來つらむ。近く出でおはしますこともや有りなまし。然らむには、早く告げおこせよ」と、其の言のさまも、夢を語る答にはあらざりけり。其は同月の末になむ有りける。猶ほ有りやうあるべし。便りこそは待ちましかば、と思ふ間に、

 翌くる二月、江戸に物したる池田武純の許より、銕胤の翁、秋田より告げおこせられしとて、去年の閏九月十一日といふに、彼所にて、岩がくれ(歸幽)給へるよしの消息なりき。先づ驚き、且つ歎くは、世の常なり。世の長人と恩頼奉りて、今まで何となく怠りしが、其の事を兼ねて悔ゆとも返らぬぞ、いきどほろしきや。いかで御靈屋をだにとは思ふ物から、遙けきほどのたやすからで、はや七とせ(年)もへ(經)しつるが、忍びかねて、此の八月の末の九日の日より、草の枕は結び初めて、四百餘里の海濤を凌ぎつゝ、東洛さして急ぎにければ、十月二日といふに、大江戸には着きたりけり。氣吹廼舍にては、ありしごと睦しくきこえさせ給ふに、年頃結ぼれつる心の緒ろも、やゝ解きて、大人の御前を拜み奉るにつけても、怠れりし罪も、少しはあがなはるゝこゝちして、速吸名門のみそぎの、もし現にあらましかば、かばかりの清々しさならましと、在りし夢の趣を、翁に語りきこゆるに、

『あなとよ、其は父の深きねぎごと(願事)にて、豫ねてより聞きもしたることなるが、終ひに事竟へられざりしかば、世をかへて參詣られし者ならむか』

と云はるゝにぞ。さてはさきの夢の夢ごゝちもせざりけるは、拙き己れをも、其の國人のよしみにて、入り來坐せるなりけりと、ふりたる夢合も、此むしろに、又更に物する事なりけるに、『此の書のはし(端)書がてら、遙々來ぬる事の由をも書き記してよ』と、翁の言はるゝに、彼の馭戎の神眞の、御船だちせる日女島は、我が夢に■りきこえたる、速吸名門のわたりなるに打合せて、おのが國あたりの事までをも、委曲に考へ著はし給へる、其の説の正身(むさね)こそ、(大壑先生は、)人にはいませ、現世にも、眞に神にて坐しけりと、いよゝ尊く、おむかしさの彌や増さりて、其の歡び、云はではえしもあらざりければ、嘉永二年といふとしのしもつき(霜月)八日の日、薩摩殿人・竹内經成、此をしるす。



●桐蔭馬嶋穀生翁『三五本國考の跋』(白文を試訓す、批正を冀ふものなり)

 
□[之繞+貌]たり矣、三皇の事。仲尼、嘗て諸れを墳典に斷じたり。遼たり矣、五帝の蹟。史遷、才かに諸れを私史に載せたり。其の諸氏を誌し、百家に記す者、所謂る存するが若く亡するが若く、覺めるが若く夢むが若し。道家、増すに浮誕を以てし、儒氏、斥けて異端と爲せり。蛇足狗尾、風を追ひ影を捕へて、周末漢初に、已に定説無し。況んや李唐以降の曲學に於いてをや乎。

 
然るに吾が師・大壑先生、天眼朗監、蚤く我が邦の眞神、彼の下つ國に來往し、彼の蠢化を教養したまふを知り、之を皇典に考へ、之を漢籍に徴し、其の眞を採り、其の僞を辨し、紛々を削棄し、彰々を選述す。先に『赤縣太古傳』を著はし、繼ぎて『三五本國考』を著はして、殆んど三千年來の狹霧、霏飛分散、先生の一氣に於いて息みたり矣。豈に愉快ならずや哉。

 
或は曰く、先生、嘗て古易を索め、古歴を踐み、三才の分を諦め、五倫の敍を明かにし、河洛の始源を溯り、蘭臺の玄奧を究む。山川艸木、耕稼戎丘、霏として講逮せず矣。而して賢子令孫、彬々たり焉、之を祖とし、之を述ぶ。門生流徒、駸々たり乎、之を憲とし、之を章とす。然れば則ち三五、再び吾が木悳の神州に出づと謂ふも、亦た可からずや乎。嗚呼、斯の言、□[ウ+眞]めて以て誣せざるなり矣。

 
茲歳、師家、斯の書を壽梓して、跋を弟子に命ず。固辭するも允されず。努力勉焉、切に庸駑の毫を慙揮し、強ひて駿驥の尾を叩黷すと爾か云ふ。

應丙寅春正月、門人・馬嶋穀生、謹みて誌す。
 


  • [15]
  • 天孫降臨以來之一人・大壑先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 8月 3日(土)23時55分1秒
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 平田大壑先生の道書は、「神仙の古説にて、神州の神世の有状を傳へし説なれば、古學の古眼をもて見るべし。俗學の今眼を以て見ること勿れ」。



●贈正四位・利鎌屋生田萬菅原國秀『大扶桑國考の跋』(扶、原刻は□[木+夫]なるも、以下、「扶」字を代用す)

 竊かに嘗て之を聞けり矣。我が神代の古へ、日出づるの域、自ら神木の奇靈なる者有り。其の名を扶桑と爲す。扶桑の多き、森蔚として林を成し、□[木+召。愚案、「松」歟]檐として天に聳ゆ。故に遂に此の國を名づけて、扶桑と曰ふ。若し夫れ三皇の三才を御し、五帝の五運を紹ぐも、亦た咸な我が大扶桑之國より出づ矣。而して扶桑の名は、『山海經』に創見し、『楚辭』に賦せられ、『鴻烈』に書され、或は詞人藻士の筆に散出する者、固より枚擧に遑あらざる也。『十洲之記』は、見て之を志るし、『通典』の誤りは、聞きて之を録す。然りと雖も未だ嘗て□[三水+經の右]渭を浩洋の間に辯へ、玉石を磊□[石+可。ら]の中に剖つ有ることを聞かず矣。

 伏して惟みるに、大壑平先生は、識、無底より□[三水+覃。ふか]く、明、甘淵より徹る。固より是れ古今五千載之一人・宇宙一萬里之獨歩也。是に於てか乎、『大扶桑國考』有り矣。其の考證の密なる也、絲毫を分析して、神を感ぜしめ、鬼を哭せしむるの□[玄+少]有り。議論の高き也、崑崙を睥睨して、天を飜へし地を覆へすの力有り。是を以て我が大扶桑の、以て大扶桑爲る所の者は、猶ほ其の枝に拂し、其の谷に浴し、日、其の上に在り、華、其の梢に光るがごとき也。豈に千載の愉快、萬世の□[日+韋]□[日+華]ならざらむ哉。其れ然して後ち我が道、益々尊く、國、愈々貴し矣。萬が不敏、安ぞ敢へて多言を贅し、一辭を贊せむ乎。蓋し其の木爲る也、即ち桑(古訓じやく。桑、原刻は□[又+双]なるも、以下、「桑」字を代用す)爲り、桑の化して山と爲るは、即ち不二爲る也。是れ其の尤も大人君子の國に扶蔬し、昜州申土(陽州神土)の上に挺拔する者也。

 然して先生、乃ち之を引きて發(はな)たず、之を指さして未だ言はず。蓋し其れ心有るか乎。萬、誠に後進爲り。而して先生、先づ萬をして、此の『考』を校訂せしむ。故に之を吟味し、之を枕藉(ちんしや)して、方に始めて髣髴恍惚として、桑華の、以て桑華爲る所、不二の、以て不二爲る所の者を考索することを得たり矣。諸れを射を學ぶに譬ふ也、既に之をして引かしめば、則ち發たざることを得ず。諸れを路を問ふに譬ふ也、其の指さす所に向はゞ、孰れか大澤に陷らむ。龍を畫きて隻鱗を缺き、虎を刻みて一斑を遺さゞ、庸手拙工と雖も、以て其の巧を繼ぎ、其の手を助く可し矣。萬、豈に敢へて遺墨を補ひ、餘材を斲(き)ると曰はむ哉。先生、其れ亦た心有るか乎。乃ち萬が考索する所を以て、諸れを本『考』に收む。是れ猶ほ溝□[三水+會]の赴くを嫌はずして、以て昜谷の廣きを成し、荊棘の生ずるを厭はずして、以て青邱の茂きを致し、蚊虻、驥尾に附して千里を行き、蚤蝨、鶴翼を借りて九天を翔るがごとき也。

 夫れ華は、桑華より艶なる者無きに非ずして、素葩電のごとく光り、□[文+闌]□[文+扁]馥□[香+必]、軟葉、丹の如く、滿樹、雪の如し。白雲を戴き、玉屑を□[足+日+羽。ふ]む。之を畫けば筆を擲ち、之を賦すれば舌を閉づ。未だ嘗て桑華より美なる者を見ず焉。山は不二より高き者無きに非ずして、四面同形、凹凸有ること無く、日月も影を潛め、鴻鵠も頡(あが)らず、三萬丈の上、巓平かに氣冽なり。四時、雪を積み、一莖も□[艸+出]ること無し。未だ嘗て不二より奇なる者を見ず焉。詞人藻士、其の美を愛し、其の奇を賞して、以て華王・山君と爲るも、亦た宜べなり矣。然りと雖も亦た未だ嘗て其の、以て然る所を考索する有ることを聞かず焉。本『考』、一たび出でて後、此の華、益々美に、此の山、愈々奇なり矣。萬、請ふ、之を天下第一の華・宇内不二の山と謂はむ。是に於てか乎、溥天の下、率土の濱、牡丹有りと雖も、亦た此の王に臣たり。泰山有りと雖も、亦た此の君に奴たる也。亦た猶ほ大扶桑の、以て大扶桑爲る所のごときか乎。

時に、天保五年歳在甲午立冬日丁酉、門人・生田萬國秀、謹み撰して拜書す。



●贈從四位・越前參政・雪江中根靱負平師質翁『三五本國攷の序』(白文の愚訓、正を期し難ければ、批正を乞ひ奉る)

 質(雪江翁)、嘗て本居先生の『古事記傳』を讀み、古道を崇信す。其の後ち『靈の眞柱』を讀み、始めて世に平田先生有るを知り、心に竊かに之に嚮往す。天保戊戌の夏、江府に祗役し、遂に贄を執り、先生を氣吹舍に謁す。先生、欣然として□[言+念。つ]ぐるに、古道の原始を以てす。其の學的を與へて曰く、

「荒鴻の時、參神、造化の首めを作し、二靈、群品の祖と爲りたまふ。是れより以來、神聖、迭ひに興り、天地を經緯し、四方を綱紀したまへり。神皇之道は、自ら其の中に存す。彼の赤縣の、聖に擬し、所謂る聖人之道を擬造するが如きに非ず。故に古道を學ばんと欲すれば、其の古始を知らざる可からず。而して皇朝の神典は、幽深玄遠、窺測し易からず。是を以て世儒俗士、目するに荒唐不經と爲し、之を高閣に束ね、力を其の間に用ゐる者無し。余、自ら斯道に志して、心を神典に潛め、先哲、未だ發せざる所を發す。故に立論の間、世を駭かし詆りを取る者、少なからず。而して及門の士と雖も、余が説を聽き、余が書を讀み、暗通默契、説(よろこ)ばざる者無きに非ざれば、則ち與に共に語る可からざる也。吾子、其れ勉旃(つと)めよ」と。

質、唯々として退く。因りて天地無二、日月同照なるを思へば、則ち宇内の人類は、悉く參神の妙用に出づ。而して飛潛動植も、亦た其の命を賦するに非ざるは無し。乃ち赤縣に在りて、其の剖判の始めを論じ、神異の迹を述ぶるは、皆な我が神聖の事を訛傳する者也。然るに質、見聞單淺、未だ其の證す可きを得ず。是の編(『三五本國考』)を受け之を讀むに、彼の經傳に據りて、以て三皇・五帝の出づる所を辨し、我が三本を證して、五姓の由る所を明かにし、旁々□[山+而+頁]□[王+頁]諸氏に及べり。考證精博、論説確的、實に神典の傳ふる所、以て千載の惑を破するに足れり。然して後ち三皇・五帝は、乃ち我が神聖、彼の土に往きて、其の民を教養せし者なるを知る也。而して彼の論ずる所の者は、即ち我が神聖の傳ふる所にして、其の述ぶる所の者も、亦た我が神聖の迹也。是に於て神州の、以て萬國に祖たる所の者、斷然明白、復た議す可き者無き也。

 嗚呼、先生が高才卓識に非ざれば、古今を博渉すること、焉んぞ能く此の如からむや哉。此に由り之を觀れば、方今の海外諸藩は、皆な我が神聖の養ふ所の苗裔にして、首丘祭魚の性を具す。故に中世以還、四夷來王する者、蓋し其の有徳を彼に以てするに非ずして、我に來報せんと欲するならむ哉。茲に天祖、八十綱を以て遠國を牽引し、四方を懷柔するの意也。今ま先生の著論に因りて、亦た益々彰然著明と謂ひつ可し矣。

 先生、嘗て質に、之れが序を爲らむことを屬せり。質、末學□[言+剪]才を以て、謹謝して敢へてせず。既にして先生、歿(みまか)りぬ矣。今ま茲に質、又た江府に役す。令嗣・(平田)銕胤君、先生の遺意を奉じ、是の編を出だし、又た以て請を爲す。質、辭するを獲ざる也。因りて僭越を忘れ、其の始めて聞く所の先生の言を次し、是の編を讀み、感發する所の者を與へ、卷首に辯す。

文久二年六月、越前・中根師質、謹みて撰す。



【參考・橋本景嶽先生『參政中根靱負(雪江)に送りたる照會書』(安政三年四月二十六日)
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/10
 

  • [14]
  • 知己を千載に待ち、惟々我が宗とする所を宗とす。豈に信を不信の人に求めむや哉。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 7月30日(火)00時31分23秒
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 所謂る國學の基盤には、神道が嚴在し、其の神道の奧處には、現代常識の域外、顯世の吾人では、殆んど窺ひ知ること能はざる奧傳祕域が存する。殊に平田篤胤大人の玄學の書を拜讀する度びに、痛切に之を感ずる。然るに現代神道家は敬遠して述べざる所、一方、小生は、平田先聖を信じ、『仙境異聞』・『靈能眞柱』(岩波文庫刊)竝びに『赤縣太古傳』・『大扶桑國考』・『三神山餘考』・『三五本國考』(『全集』第七卷・第八卷・内外書籍刊にも、既に收むる所)等の和刻本を繙くことを喜ぶ者であるが、掲示板上では、其の漢字の變換も然ることながら、容易に之を紹介することが出來ぬ。

 大壑先生の曰く、「苟くも其の門を得て入らざる者は、之を示さず矣。苟くも之を示さば、必ず天老を輕んじ、天機を漏らし、天藻を慢するの罪を逃がる所ろ無けむ矣。豈にたゞに其の□[門+困]域を窺ふこと能はざるのみならむや也已哉」と。下記は、撥草參玄の求道者たらむと欲する者の導きの一端、有縁の士は、平田先生の、此の雄渾壯大なる道書に親しみ、小生が如き横着劣根、固より道骨なき者を置去りにして、深く沈潛參入、皇國中興を期せんが爲めに、更に歩武を進めて、參玄見神、靈的奉公に志されむことを庶幾す。

 最近、我が掲示板上に、平田先聖の『古史成文』を掲ぐる人あり、亦た道友の日乘にて、氣吹舍先生の處女著作『呵妄書』を紹介する人あり、又た神靈能眞柱大人の『古道大意』を現代譯にて紹介する人あり。小生、嬉しさの餘り、畜懷を開陳して、大壑先生を尊崇敬慕、措く能はざるの至情を表すと云爾。



●六郷政鑑翁『赤縣太古傳の序』

「太上は徳を立て、其の次は功を立て、其の次は言を立つ」と。言を立つるは、功を立つる所以、功を立つるは、徳を立つる所以ん也。我が大壑翁(平田篤胤先生)、古典を正し、古義を明らめ、學者を適從する所を知らしめて、其の言の波及する所、異端の道と雖も、亦た皆な其の情を遁るゝこと能はず。

 蓋し上皇太一(天之御中主大神)は、混成の神、無窮の先より、天極紫微宮に居し、無爲の玄徳を以て、盤古眞王夫妻(皇産靈大神)を生ず。即ち大元の神氣、化して混沌たる一物を生ず。而して萬八千歳甲子冬至、天地開闢す。是に於て天皇太帝(伊邪那岐大神)出で、元を斟み樞を陳ね、四維を張りて、之を運すに斗を以てす。是れより神眞相繼ぎ、□[獸偏+巨]神氏の百四十一年に至りて、月始めて分判運行し、日月五星、倶に牽牛初度に起る。而して大昊伏羲氏(大國主大神)の作れるや也、仰觀俯察、以て神明の徳に通じ、蠢化蠕動の民をして、倫理教養有らしむ焉。唐・虞の際に及びて、五帝の徳、稍々陵遲す。夏后氏、獨り其の徳に恥ぢず、民も亦た素朴なり。而して猶ほ能く此の道に率ひ、此の教へに由る。夏后氏亡びて、斯道、遂に衰へ、譎詐放伐の風、大いに行はる。秦・漢以來、諸氏百家の説、紛紜、一ならず。上古の言に至りては、則ち以て荒唐と爲して、一りも講究する者有ること無し。是に於て異端の教へ、益々隆んなり。莊生が所謂る「道術、天下の爲めに裂くる」者に非ずや邪。

 夫れ我が天孫降臨、顯幽分界、爾來四千九百年、皇統緜緜、天地と共に窮り無き者は、他無し、惟神、三才を御し、幽には則ち顯を護り、顯には則ち幽に事へ、祭政、二つ無き所以ん也。然るに中葉以降、紀綱、漸く弛み、操觚の士、名義を誤る者も、亦た鮮からず焉。方今、海内、鼎に新たに、車書、軌を同じうす。夫の蠢爾、菽麥を辨へざる者の若きも、猶ほ赫赫たる天統、三本爲る所以を知らざる者無し。我が大壑翁の出づるに及びて、諸學を研究して、各々其の淵源に原き、先哲未發、萬古、易ふ可からざるの言を立つ。裁成輔相の才と謂ひつ可し。老子の所謂る「能く古始を知り、道紀を以て、自ら任と爲し、而して言を立て功を立て徳を立つる」者也。遂に書して、以て序と爲す。

明治三年庚午仲春、從五位・藤原朝臣の六郷政鑑、謹みて識す。



●矢野玄道翁『赤縣太古傳の序』

 菅公の謂く、「國學の要は、倭魂漢才に非ざれば、其の□[門+困]奧を窺ふこと能はず矣」と。大なるかな哉、言(こと)。蓋し倭魂なる者有り、漢才なる者有り。我に在る者有り、彼に在る者有り。夫れ人、我に在るや也、彼に亡し、彼に在るや也、我に亡し。我に在る者は、以爲はく、彼れ取るに取らざる也、と。彼に在る者は、以爲はく、我れ言ふに足らざる也、と。苟くも倭魂有りて、漢才无きときは、則ち以て言ふ可く也、以て道に適す可く也、以て爲すこと有るに足らざる也。苟くも漢才有りて、倭魂无きときは、則ち以て取る可く也、以て見る可く也、以て道に適す可からざる也。故に以て見る可く、以て取る可く、以て道に適す可く、以て爲すこと有る可き者は、夫れ惟だ斯の二の者を兼ね有ちて、後に之を能くせむ。是を以て之を兼ね有つこと、難し矣。之を兼ね有つこと易くして、其の□[門+困]奧を窺ふこと、難し矣。其の□[門+困]奧を窺ふこと易くして、其の奧室を極めて、之に安處悦樂すること、難し矣。

 嗚乎、公の聖の、徳の大なるに非ざるよりは、其れ孰れか能く此れを發せむ。有徳の者は、必ず言へること有り。果して信なり矣。而して吾が大壑先生の學は、焉れを取れり。而して其の所謂る學とは、常學に非ず也。神習を言ふ也、道を學ぶ也。道とは、常道に非ず也。惟神の道を言ふ也。其の道爲る、泰初の時、皇祖天神、高天に在り。親躬ら之を以て、諸れを我が天孫に傳へ、以て葦原の中つ國に照臨せしめたまふ矣。是に於て天孫、襲の嶺に天墮したまひ、宸極を高千穗の宮に正しうし、恭しく天の休命に順ひ、天地の大道を裁成したまふよりの後、神子・神孫・列聖相承け、加ふるに皇子・諸王・臣・連・伴の造の良弼輔相を以てし、世々天職に供し、以て其の上に奉ず。歴世、墜つること无く、无爲にして治り、无言にして化し、言つて方无く、令せずして行はれ、行ひて迹无し。皆な未だ斯の道に由らざること莫き也。

 豐明の宮に御□[ウ+禹。あめのしたしろしめ]し天皇の朝に至る迄で、皇祖天神、詔有りて、諸藩に錫ひて、我に臣屬せしめたまひ、然して后ち四夷歸嚮し、八荒朝貢す。是に於て異教の來る、因りて漸きこと有り矣。是の故に先聖、之を漢に竺に執ること有り。亦た未だ蒭□[艸+堯]に詢ひ、異聞を廣め、九州を統馭し、萬國を覆□[巾+壽]し、以て我が神風の微意を扇動せむと欲するに過ぎざるのみ焉爾。而して獨り禍と福と相倚り、善と惡と相踵くことを奈むせむ。皆な天理の寓する所にして、斯れ其の末弊、勝げて言ふ可からざる者有るに至る。是れ、豈に先聖の情ならむ也哉。夫れ惟みれば、裁成輔相、一に先聖の道に循襲せる者、未だ菅公より盛んなるは有らざる也。故に其の眞誥に之れ有り。曰く、「國を治むる者は、神國の玄妙を以て、之を治めむと欲す。神國の玄妙、豈に他有らむや哉」と。而して吾が大壑先生の學は、焉れを宗とす。夫れ國家の盛衰は、必ず道に期つこと有り。而して道の汚隆は、必ず人に期つこと有り。道は人に因りて行はれ、政は道に因りて擧がる。政擧がりて後、无爲の教・无爲の化、以て成ること有る可し。此れ勢の自然なる所にして、菅公の聖を以て、延喜の際に容らるゝこと能はず。則ち道の汚隆興廢と、國家の成敗盛衰と、實に焉れに係れり。未だ必ずしも知士を待ちて、後に知らざる也。蓋し公の陟するより、而して后ち千餘年所に庶幾し矣。漢・竺の學は、臠卷□[人+倉]嚢、天下に盈溢す。天下の人、佛に歸せざれば、則ち儒に歸す。儒に歸せざれば、則ち道に歸す。道に歸せざれば、則ち神に歸す焉。其の神と云ひ道と云ふ、皆な儒佛の糟粕に沈湎せざるは无し。而して神、神ならず、道、道ならざるときは、則ち神州の人、殆んど其れ戎狄ならざらむ乎。之を皇祖天神、磐窟を□[門+必]ち、而して□[日+昏]昧、長夜の若く、暴賊姦鬼、猖獗、自ら恣なるに譬ふ。大哀と謂はざる可けむや哉。

 輓近に至りて、荷田・賀茂の二翁有り。首めて國風を唱へ、古道復興す。本居翁の作るに及び、盛りに惟神の道を閑り、□[示+夭]氛を歐り、獰鬼を屠り、異端を闡き、邪説を迸らす。是に於て天下の人、始めて盛昜の光を望むことを得たり矣。而して夫れ五石を煉り、鼇足を斷ち、天柱の缺を補ひ、地維の傾くを正すの功の如きに至りては、則ち獨り我が大壑先生を待つこと有り焉。先生、克く翁の志を繼ぎ、玄鏡幽鑑、環朗洞照、倭魂の□□[糸+因。糸+温の右]たる、□[艸+宛]として五嶽の崔嶷の若く、漢才の□[三水+弘]邃なる、混として尾閭の底无きに似たり。故に能く九霄に逍遙し、八隅に籠□[買の上+卓]し、窈冥汗漫の原に出入す。爰に深く天朝の金匱玉版、神典の錯亂を憂ふること有り。神聖を祖述し、眞誥を憲章し、始めて神史を整齊し、古史の傳を脩む。又た赤縣の史籍、久しく其の眞を失ふこと有ることを憾みて、『赤縣太古傳』十又二卷を作る。上は天地剖判より昉めて、下は夏禹氏の世に終はる。其の志は、蓋し謂ふ、今の天地は、猶ほ古への天地のごとし也。古への日月星辰は、猶ほ今の日月星辰のごとし也。而して我が神州の戴く所の日月星辰と、彼の諸藩の戴く所の日月星辰とは、未だ始めより二つ有らずして、一爲るときは、則ち彼と我とは、上古の載(こと)、齊しく一に出づるや也、亦た論无し。是の故に我が正を以て、彼が訛を辨し、彼が醇を擇びて、我が逸を補はむこと、其れ將た庸(も)て何ぞ傷まむ乎。是を以て赤縣の子・史・遺逸・舊聞を罔羅折衷し、取る可きは則ち取り、刪る可きは則ち刪り、推して之を討し、引きて之を衍し、紊るゝ者は之を貫き、離るゝ者は之を屬し、疏して之を□[淪+口三]し、燭して之を明かにし、悉く諸れを我が神典に徴し、一たび成して純なり。豈に諸れを天地に建てゝ悖らず、千載、以て聖神を待ちて疑はざる者に非ずや邪。

 不敏、玄道の如き、幼くして父の訓へを奉じ、篤く古道を信ず。先生の書に於て、悦ばざる所ろ靡し。而して志を赤縣の史に惑はすこと有ること、久し矣。此の書を受けて、之を讀むに及びて、然して后ち、昔日の曖昧なる乎、恍の如く夢の如き者、渙然として冰のごとく釋け、殆んど手の之を舞ひ、足の之を蹈むことを知らざる也。欣然として髀を拊て曰く、圖らざりき、玄鑑洞照の、斯の極に至らむとは也。倭魂漢才の士、苟くも能く此れに就いて學ばゞ、則ち其の宗を失はず、固・我・□[言+剪]陋の弊有ること无くして、其の□[門+困]奧を極むること、何の難きことか之れ有らむ。然も亦た徒に我と彼とに在る者の、得て知る所に非ざる也。嗚乎、大いに先聖の鴻徳を著はし、遙かに菅公の烈績を承く所の者は、先生に非ずして、其れ誰ぞ。我、庸□[言+巨](なん)ぞ皇祖天神の、篤く先生を生じ、大道を裁成し、皇極を輔相し、以て道紀を、將に墜ちむとするに建つるに非ざるを知らむや哉。嗟々、斯の書爲る、皆な宗有り、君有り、片語も苟かもする所ろ有ること无し。而して庸人をして、之を見せしめば、則ち□[口+去+皿]然として、之を笑はずんば、□[厥+足]然として惑うて、逢□[人+吾]□[馬+戒]世と謂はざる者、幾んど希なり。之を井に坐して、蒼天を見、螢を抱きて、昜光を疑ふに譬ふ。何ぞ其の見の小なる也。老子の曰く、「下士は、道を聞きて、大いに之を笑ふ。笑はざれば、以て道と爲るに足らず」と。先生も、亦た固より曰く、「大丈夫、知己を千載に期つ。豈に信を不信の人に求めむや」と。此れ、道の貴き所以のみ而已矣。又た我に亡き者と、彼に亡き者と、得て知る所に非ざる也。

 嗚乎、碩膚を遜りて、西に遷る。菅公と雖も、尚ほ未だ或は之を免るゝこと能はず。而して百世の下、聖徳洋溢し、昭□[日+折]□[虞の上+乎]として、日月と光を爭ひ、天朝、之を饗し、公孫、之を享し、上は公・侯・士・大夫より、下は庶人・孺子に至るまで、尚ほ尊崇思慕することを知らざること无し。玉帛、是れ奉じ、□□[艸+頻。艸+繁]、是れ羞むるが若きに至りては、公と先生と、其れ猶ほ或は相似たるがごとし。而して道の汚隆廢興は、我が徒の、敢へて知る所に非ずと雖も、然れども萬世の後をして、蓋し聖神有りて、下土に照臨し、天地を裁成し、萬國を朝宗し、九州を統御し、上古の治に復せしめば、則ち道紀を先生に執るに非ずして、何ぞ。先生輔相の志、是に於て大成すること有り矣。其れ諸れ旦暮、之に遇せむ也。且つ夫れ道徳の貴き、未だ必ずしも貴賤高下に在らずして、之を然りとすること莫くして、自ら然り。天使、屡々公の祠に事ふること有るが如き、以て知る可し。則ち是の時に當りてか乎、天朝の、先生の大勳勞に答ふる所の者は、果して公の若き者有りや耶。公・侯・士・大夫の、尊崇思慕して置かざる所は、果して公の如き者有りや耶。列國宗廟、及び子孫の奉饗する所、庶民・孺子の、奔趨稽□[桑+頁]する所、果して公の如き者有りや耶。吾れ又た未だ之を前知すること能はざる也。然れども玄道、業、已に先生の頼に憑り、先生の賚ものを拜すること有りて、其の□[門+困]奧を窺ひ、以て私淑するを樂しむ。又た倭魂漢才の士を友として、之を言ふを樂しむ。又た天下後昆、爲す有るの徒と、以て道に適するを樂しむ焉。故に罷めむと欲して能はず、敢へて我が志を書し、諸れを卷端に辯し、以て□[木+賣]底に□[門+必]す。苟くも其の門を得て入らざる者は、之を□[目+示]さず矣。苟くも之を□[目+示]さば、必ず天老を輕んじ、天機を漏らし、天藻を慢するの罪を逃がる所ろ无けむ矣。豈に翅に其の□[門+困]域を窺ふこと能はざるのみならむや也已哉。

嘉永二年己酉冬十二月念五日、伊豫國小民、平の矢野玄道、敬みて撰す。



【參考『帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t23/2
 



  • [13]
  • ご丁寧な返書を拝読いたしました

  • 投稿者:T生
  • 投稿日:2010年 7月18日(日)15時31分7秒
  • 返信
 
 気紛れな投稿をさせていただいたあと、連綿と続いている高邁深遠なる平田篤胤大人への思慕と、その光がとぼしいものとなっていく時代に向けての御一身をお懸けになっての啓発あるいは時代への警告のような尊い御原稿の集積に、なんと浅はかな思い付きで書き込みをしてしまい、折角のページを汚してしまったと後悔しておりました。
 にも拘らず、斯様なお言葉を下さり、感謝に耐えません。

 あらためてお示し下さったリンクで、やはり「平篤胤」とある墨蹟を多く拝見し、同じ墨蹟を父から伝えられたことの喜びと、その意味に心を新たにしています。

 「床に入つて就眠するのは、月の中、六齋日だけで、他の日は、大抵袴をつけて机によつてをり、時々机にすがつて假睡するにとゞまつたといふ…」

 まだ遣り残したことも多く、それでいて、大人のように努めることもせず、隠棲まがいの生き方をしている小生に、貴台は覚醒のチャンスをお与えくださいました。
 残された命のある内に、何事か成さねばと思います。
 有難うございました。

 ご縁を頂いたかのような書(墨蹟)は、確か半紙ほどのものに書かれた書を表装したものだったと思いますが、倉庫(湿度温度コントロールがある程度のできるレンタル美術倉庫)仕舞い込んだままでいます。
 少々障害を持つ身となって、いっそう動きが鈍くなっていますが、いずれ取り出せましたらご指示に従います。

  • [12]
  • 平田篤胤大人は、殆んど神人ならむ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 7月14日(水)20時28分11秒
  • 編集済
  • 返信
 
T生樣

 過分の御感想、洵に難有うございます。尊父樣の御高話、本道に慕はしく、平田篤胤大人の御書、御出座の折は、ご紹介たまはり度く、宜しく御願ひ申し上げます。小生は、平田大人を敬慕すること、尋常ならず、殆んど神人の如く拜してをります。今の度びは、ご丁寧なる御聲がけ、幾重にも御禮申し上げます。謹拜



●藤田徳太郎翁『平田篤胤の國學』(昭和十七年三月・道統社刊)に曰く、「

(篤胤は)一度思ひ立つと、滿身の精力をこめて、その仕事に熱中する。著述のごときも、一度執筆にとりかゝつたら、二十日でも三十日でも、殆んど睡眠することなく、勿論人にも面會せず、ひたすらその事に從つて、渾身の情熱を傾ける。睡くなれば、机によりかゝつて睡眠し、食事も机の上において、書見しながら執るといふ風で、少しも他の事を考へない。さうして疲れて寢るときは、又た二日でも三日でも、食事もせずにぐつすりと寢るのである。篤胤は、まことに異常な精力家であつた。それで後年にいたるまで、篤胤が床に入つて就眠するのは、月の中、六齋日だけで、他の日は、大抵袴をつけて机によつてをり、時々机にすがつて假睡するにとゞまつたといふ。このやうな比倫を絶した勉強努力から、篤胤の大著と事業が生れて來たのである。そのため、左腕の机にあたるところは、肉が削げて爛れたので、その机の左腕のあたるところを削りとつて、軟らかい革を縫ひつけ、その苦痛を輕減するやうに工夫したとも傳へられる。尤もこれは、篤胤が神經痛のやうな病氣で、手の痛みわ覺えたために、さう取り計つたのであらう。左腕痛と痔とが、篤胤の持病で、篤胤使用の机が、このやうに左腕の當るところは、半月形に繰り拔かれ、そこに麻絲の網を釣り、それに肘突を入れて、左肘が柔らかく机に當るやうにしてあつた事は確かである(『文學遺跡巡禮』)。とにかく晝夜、机によつて離れることのない刻苦勉勵が、篤胤の一生を貫いてゐた習慣であつた。

 恰度、著述に專心してゐた頃の事であらうか、「この頃、夜なか・あか時と云はず、勤しみつゝ、學びの業のいとまなき折なれば」と註された歌に、書齋の窓かきの梅に來て鳴く鶯の聲にさへ、わが心から忙がしげに聞きなされたからとて、

我が庭に 來鳴く鶯 汝(なれ)さへに など其の聲の いそがしげなる

と詠んだものがある。常に學問と道のために、心せわしい生活をしてゐたのである。その書齋に掲げられてゐたといふ口上の貼札の文章は有名なものであるが、

   口 演
 此の節、別して著述取急ぎに付き、學用窮理談の外、世俗無用の長談、御用捨下さる可く候ふ。塾生と雖も學事疑問の外、呼ぶことなくば、來べからず。道義辨論の事に於ては、終日終夜の長談なりとも、少か厭ひ之れ無く候ふ事。
 未五月  篤胤

と記してあつた。この文面にも、ひたすら學問と道に殉じようとした篤胤の氣魄が明かに認められる。かくした努力から、あの厖大な著述がつくられ、又た神代に關する典籍の文章なら、すべてを暗誦して、少しも遺漏なく、浩瀚なる一切經を三度も通讀して、よくその内容に精通したといふ學識が蓄へられたのである。‥‥

 このやうに一圖に勉學を勵精した篤胤であつたから、酒のごときも、亦た嗜まなかつた。それゆゑ酒を好む人からは、篤胤を飽き足らぬ者に云はれたこともあるらしい。併し篤胤は性得の下戸で、まだ若く秋田にゐた時分などは、酒の粕漬のやうなものをたべても、顔は眞赤になり頭が痛むほどであつたといふ。ところがその後、次第に交際の席において、酒を飲む習慣もついて、人竝みに酒宴の仲間にも入れるやうになつたが、篤胤は酒に醉ふと、非常に癖が惡かつたらしい。殊にその一徹な氣質からして、醉へば人と爭ひ、喧嘩口論をした。ある時、醉つたまぎれに、手もとに使つてゐた下男に氣にくはぬことがあつたので、手足も折れるほどに擲り、方輪同樣にしてしまつたのを、醉ひが覺めて後、父母にも叱責せられ、みづからも非常に後悔して、遂に禁酒したのである。醉へば陶然たる人もあるが、篤胤のごとき性質の人は、酒をやめた方が、確かによかつたに違ひない。とにかく篤胤自身が、二十八歳の時に記した、かう云ふ話の中にも、人を容謝しない篤胤の一徹な氣質がうかゞはれる。後年の篤胤の歌の中には、酒徒を詈る歌もある一方、菓子は好んで食したのである。篤胤は、生れつき大の下戸であつた。

 伴信友は、若狹の生んだ一世の碩學であるが、篤胤はこの人と、始め水魚のごとく、後には犬猿のやうな間がらになつてしまつた話は有名である。それは信友が穩厚な人物であるからか、むしろ表面おとなしくて、内面はどこか陰險なところのある人でもあつたやうに思はれるが、とにかく我武者羅な篤胤の野人的な性質とは、相容れないものがあつたやうで、さういふところから二人の間に間隙が出來、次第に溝が深くなつて、遂には兩端に立つて敵對するやうな態度にも立ちいたつたのであらう。さういふ二人の傾向は、かつて伴信友が、短册二枚に手紙を附け添へて、篤胤に、知友の歌を集めて枕屏風に貼りつめ、行く末の樂しみとしたいからと染筆を頼み、更にそれに書き添へて、例の道々しき歌ではなく、世の歌人風の、みやびやかな歌を願ひたいと云つてよこしたので、篤胤は、

思ひきや 我がふみ習ふ 道ならで うき世の歌を 乞はるべしとは

と書いてやつたといふ話にも、その性質の相違がはつきりとわかるであらう」と。



【平田篤胤大人の文机】

●オロモルフ博士『平田神社參拜記録』
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hirata.htm

●彌高神社『平田篤胤大人圖集』
http://www.iyataka-jinja.jp/kenkyuu/img/zu/hirata_zu.pdf

  • [11]
  • 書のあることを・・・

  • 投稿者:T生
  • 投稿日:2010年 7月14日(水)16時02分10秒
  • 返信
 
インターネットを渉猟致している間に、どこからか迷い込みまして、「平田篤胤」とありましたので、謹んで拝読致しました。
知らないことばかりで、平田篤胤大人へのご造詣の深さに感服致しました。

それで俄かに、父から伝えられた物の中に、平田篤胤の書があったことを思い出しました。
なんて書いてあったか、仕舞い込んでいますので、今は出すことが難儀で確かめられませんが、子供心にある記憶では、
「平 篤胤」との署名(落款?)があり、
「これは誰?」と父に聞きましたら、
「平田篤胤だよ」と、本居宣長との関係など話してくれたことを思い出しています。

父は松阪在で、和歌をやったり高校の教師をしていたりした者で、もう亡くなって30年ほどになります。
もっといろいろ聞いておけばよかったと、貴ページを拝見しながら思ったことでした。

  • [10]
  • 顯幽一貫の護皇靖國の誓願。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月30日(土)00時12分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
●平田篤胤大人『靈能眞柱』(刻本・卷上一表および卷下二十四裏。宮地直一博士『校註・靈能眞柱』昭和十九年九月・明世堂書店刊)に曰く、「

 この築き立つる柱はも、古へ學びする徒(とも)の大倭心の鎭りなり。然るはこの柱の固めは、底つ磐根に築き立て、千引きの石の堅固めずては、その言ひと言ひ爲しと爲す、言にさへ事(わざ)にさへ柱なくて、桁・梁・戸・窓の錯(きかひ)鳴り動き、引き結べる葛目の緩び、取り葺ける草(かや)の噪(そゝ)ぎつゝ、夜目のいすゝき、いつゝしき事なも、これに因りて出で來める。然のみならず、その靈の行方をだに鎭め得ずて、潮沫の成れる國々、いな醜目、穢き底の國方(べ)の國より、荒び疎び來し説に、相率(まじこ)り相口會へむとするも多かるを、見るに得堪へねば、いかでその心の柱を、太く高く磐根の極み築き立てさせ、鎭めてまし率らせじと、思ふまにゝゝ、屋船神の幸ひ坐して、築き立てさせし此の柱よ。はたその因(ちなみ)に彼處や此處へ遊(うか)れ行く靈の行方も、尋(と)めおきて鎭めに立てし、これの柱ぞも。

 眞木柱 太き心を 幸へむと 進(そゞ)ろ心は 鎭め兼ねつも

 古へ學びする徒は、まづ主と大倭心を堅むべく、この固めの堅在らでは、眞の道の知りがたき由は、吾が師の翁(本居宣長大人)の、山菅の根の丁寧ろに教へ悟しおかれつる。此は磐根の極み突き立つる嚴し柱の、動くまじき教へなりけり。斯くてその大倭心を、太く高く固めまく欲りするには、その靈の行方の安定(しづまり)を知ることなも、先なりける[‥‥]。さて其の靈の行方の安定を知りまくするには、まづ天(あめ。太陽)・地(つち。地球)・泉(よみ。月球)の三つ(是を三大と謂ふ)の成り初め、またその有り象(かたち)を、委曲(つばら)に考へ察(み)て、またその天地泉を、天地泉たらしめ幸はひ賜ふ、神の功徳(いさを)を熟(よ)く知(さと)り、また我が皇大御國は、萬國の本つ御柱たる御國にして、萬の物・萬の事の、萬の國に卓越(すぐ)れたる元の因(いは)れ、また掛けまくも畏き、我が天皇命は、萬の國の大君に坐すことの、眞の理を熟(うまら)に知り得て、後に魂の行方は知るべきものになむ有りける[‥‥]。‥‥

 さて天・地・泉のあるやう、また幽冥の妙なる有り状を、なほ委曲に考ふるに、抑々天は、‥‥善き事のかぎりある御國なり。また泉の國は、‥‥師翁のいはれし如く、萬の禍事・惡しき事の行き留まる國なり。‥‥[‥‥西戎(もろこし)の古説に、世の初めは、天地混成(むらかりな)りて、鷄の子の如くなりしが、其の清める物は上りて天となり、濁れる物は下に凝りて地となれると云ふは、古傳の殘れるなり。此を一向に、漢國人のさかしら説(『淮南子』・『三五暦記』)と云ひくだすは、甚(い)とあぢきなく、片落とし(依怙贔屓)とやいはまし]。‥‥[‥‥古學とは、熟く古の眞を尋ね明らめ、そを規則(のり)として、後を糺すをこそいふべけれ。‥‥]。‥‥[‥‥すべて古學する徒は、何事も神代の事實より及ぼして、今を考へ、人の上をも知ることなるに、神代の神の一柱だに、その御魂の泉國に往き坐せる例しのなければ、其の據と爲すべきことのなきを、いかにかはせむ。‥‥]。なほいはゞ、人魂の、すべては夜見に歸(ゆ)くまじき理は、神代の事實によりて知るのみならず、人の生れ出る所(ゆゑ)由、また死にて後の事實を察ても曉(さと)るべきは、まづ人の生れ出ることは、父母の賜物なれども、その成り出る元因は、神の産靈の、奇しく妙なる御靈によりて、風と火と水と土、四種の物をむすび成し賜ひ、それに心魂(たましひ)を幸はひ賦(くま)りて、生れしめ賜ふことなるを[‥‥]、死にては、水と土とは骸(なきがら)となりて、顯はに存り在るを見れば、神魂(たま)は、風と火とに供(たぐ)ひて、放(さか)り去るごとく見えたり[‥‥]。此は、風と火とは天に屬(つ)き、土と水とは地に屬くべき理の有るによりてなるべし[篤胤が、かく論へるにつけて、或人の、此は異國の説に似たりといひて、あざみ云ふ由をさして、云へらく、よし似たらむも、同じからむも、事實に徴して、正しくその理の見えたることならむには、などかいはざらむ。然るは人活きて居るときの、呼吸(つくいき・ひくいき)は、これ風に非ずして何ぞ。伊邪那岐命の御氣(みいぶき)に、風神は生り坐せるを思ふべし。また人體の、かく温暖かなるは、火に非ずして何ぞ。また體の滋潤ひは、これ水に非ずして何ぞ。骸を埋みて、何物にかはなる。土に化るに非ずや。すべて言痛く理をいふは惡しかれども、現に見えたる理をば、などかいはざらむ。此は師翁も、しか云ひおかれたりき。篤胤は、何事も神代の傳と事實とに徴考(あかしむか)へて、理の灼然(しる)きことは、えしも默止(もだ)さず、考への及ばむかぎりは、いはむとするなり。然るをそれ惡しとて、いはじとのみするは、道に厚からぬ人か、然らぬは理を尋ねていふべき智力なき人なるべし。此の風・火・水・土を以て、人體の理をいふを、異國の説に似たりと云ふも、其は彼が吾に似たるにて、吾が説の彼に似たるには非ざることを辨へず、實は熟(うま)く神代の事實を明らめ知らざる故の非言なり。‥‥]‥‥。

 但し師翁の説(『鈴屋答問録』第二十五「荒魂・和魂の義は如何」條)に、靈を此處彼處に祭りて、各々驗(しるし)あることを、一箇の火を、こゝかしこに移し燈せど、本の火も滅(き)ゆることなく減ることなく、有りしまゝにて、その移し取りたる火も、おのゝゝ其の光の熾りなるにたとへられたる、實に然ること(愚案、是れ現に靖國神社に於るマスコミの所謂「分祀」不可論とて、櫻井勝之進博士『靖國』に述べる所の、彼の比喩の溯源なるべし。殊更に別きて、一先づこゝに掲示せり矣)‥‥。

 然在れば亡靈(なきたま)の、黄泉國へ歸くてふ古説は、かにかくに立ちがたくなむ。さもあれば、此の國土の人の死にて、その魂の行方は何處ぞと云ふに、常磐にこの國土に居ること、古傳の趣と今の現の事實とを考へわたして、明かに知らるれども[‥‥]、‥‥此の顯明(あらはに)の世に居る人の、たやすくはさし定め云ひがたきことになむ[‥‥]。そはいかにと云ふに、遠き神代に、天つ神祖命の御定めましゝ大詔命のまにゝゝ、その八十隈手に隱り坐す、大國主神の治らする冥府(かみのみかど)に歸命(まつろ)ひまつればなり[‥‥]。抑々その冥府と云ふは、此の顯國(うつしくに)をおきて、別に一處あるにもあらず。直ちにこの顯國の内、いづこにも有なれども、幽冥(ほのか)にして、現世とは隔り見えず、故れもろこし人も、幽冥また冥府とは云へるなり。さてその冥府よりは、人のしわざのよく見ゆるめるを[‥‥]、顯世よりは、その幽冥を見ることあたはず。そを譬へば、燈火の籠を白きと黒きとの紙もて中間よりはり分ち、そを一間におきたらむが如く、その闇き方よりは明き方のよく見ゆれど、明き方よりは闇き方の見えぬを以て、此の差別(けじめ)を曉り、はた幽冥の畏きことをも曉りねかし[但し此は、たゞに顯明と幽冥(かみごと)の別をたとへたるのみぞ。その冥府は闇く、顯世のみ明きとのことにえあらず。な思ひ混へそよ。實は幽冥も、各々某々に、衣食住の道もそなはりて、この顯世の状ぞかし。そは古くは、海宮の故事をおもふべく、‥‥]。‥‥

 あはれ、然る人々よ。大船の、ゆたに徐然(しづか)におもひ憑みて、黄泉國の穢き國に往かむかの、心しらびは止みねかし。さるは上にいへる如く、人の靈魂の、すべて彼の國へ往くてふ傳へも例も見えざればなり。師翁も、ふと誤りてこそ、魂の行方は彼處ぞといはれつれど、老翁の御魂も、黄泉國には往で坐さず。その坐す處は、篤胤、たしかにとめおきつ。しづけく泰然(ゆたか)に坐しまして、先だてる學びの兄たちを、御前に侍(さも)らはせ、歌を詠み文など作(か)きて、前に考へもらし解き誤れることもあるを、新たに考へ出でつ。こは何某が、道にこゝろの篤かれば、渠に幸ひて悟らせてむなど、神議り々ゝまして座すること、現に見るが如く、更に疑ふべくもあらぬをや[然るは、すべて親魂あへる徒どち、またおなじ道ゆく人どちは、死(まか)りて後も、その魂は一處に群れ集ひ、互(かた)みに助け成すことにて、‥‥]。然在らば、老翁の御魂の座する處は、何處ぞと云ふに、山室山に鎭り坐すなり。さるは、人の靈魂の黄泉に歸くてふ混れ説をば、いそしみ坐せる事の多なりし故に、ふと正しあへたまはざりしかど、然かすがに上古より、墓處は魂を鎭め留むる料(ため)にかまふ物なることを思はれしかば、その墓所をかねて造りおかして、詠ませる歌に、「山室に ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」、また「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千世のすみかを もとめ得つれば」と詠まれたる。此はすべて神靈は、こゝぞ住處と、まだき定めたる處に鎭り居るものなることを悟らしゝ趣なるを、ましてかの山は、老翁の世に坐しほど、此處ぞと、吾が常磐に鎭り坐るべきうまし山と、定め置き給へれば、彼處に坐すこと、何か疑はむ。その御心の清々しきことは、「師木嶋の 大倭心を 人とはゞ 朝日ににほふ 山さくら花」、その花なす御心の翁なるを、いかでかも、かの穢き黄泉國には往でますべき[‥‥]。

 さてまた斯く云ふ篤胤も、思ふがまゝに書を著はし、その名をば、千名の五百名に負ひ持ちて、世にもいみじと感でらるゝばかりの功績をなし[‥‥]、さて此の身、死りたらむ後に、わが魂の行方は、疾く定めおけり。そは何處にといふに、「なきがらは 何處の土に なりぬとも 魂は翁の もとに往かなむ」。今年、先だてる妻をも供(いざな)ひ[‥‥]、直ちに翔けりものして、翁の御前に侍らひ居り、世に居るほどは、おこたらむ歌のをしへを承け賜はり、春は翁の植ゑおかしゝ花をともゞゝ見たのしみ、夏は青山、秋は黄葉も月も見む、冬は雪見て、徐然(のどやか)に、いや常磐に侍らなむ。かくて後の古學する徒に、翁の靈を幸へ坐さば、篤胤、すゑのをしへ子なれば、兄等をばわずらはさず、翁の御言をうけて申しつぎ、漢説(からさへづり)に醜法師、その餘あらゆる邪(よこさ)の道を説き弘めむと、五月蠅なす穢き徒、かたはしより磐根木根をも蹈みさくみ、さくむが如く言向けしめ、またたまゝゝも大御國へ射向ひ奉る夷のありて、翁の御心いためまさば、この篤胤がまかり向ひ、見て參り候はむと、しばしの暇をこひ請し、山室山の日蔭のかつらを襷にかけ、比々羅木の八尋の矛を右手(めて)に持ち、眞弓の弓を左手(ゆむで)に執り、千箭入(ちのり)の靭(ゆぎ)をそびらに負ひ、八握の太刀を取り佩きて、虚空かけり、神軍(かむいくさ)に集ひ入り、元より尊き神々の、「いかに汝はいやしきを、など集へぬに、つどひたる」など宣ふとも、おのれ更にうけひき奉らず、「この平篤胤も、神の御末胤にさむらふを、など然しも卑しめたまふぞ」と、曾丹がさま(樣。曾禰好忠――通稱・曾丹の如く、圓融院の子日の御遊に推參し、身分低きが故に、席を逐はれし故事)には追ひ離(さ)けられず、強(お)して神軍の中に加はり、その御先鉾(みさき)を仕へ奉りて、風日祈神宮より、かの神風をいぶき吹きなびけたまはむ圖(をり)をうかゞひ、「やをれ、夷の頑(くな)たぶれ、辛き目見せむ」と雄建びつゝ、賊の軍の中に翔け入りて、蟻の集へる奴原を、八尋の矛をふりかざし、かの燒鎌と敏鎌を以ちて打掃ふことの如く、追ひしき追ひ伏せ、犬と家猪とのものつか(物憑)せ、或はしや頭ひき拔きすて蹴散(くえはらゝ)かし、うち罰め、山室山にかへり來て、老翁の命に復命(かへりごと)まをしてなまし。あな、愉快きかも。此は、篤胤が常の志なり。あはれ、この予が言擧げよ。然こそや人の、ことゞゝしとや見るらむかし。然かはあれど、すべて人は心の安定をば、太くいかめしく、底つ磐根に突きかため、雄々しく潔くとのみ、力むべきものぞ[‥‥すべて人の魂よ、その元は、神の賦けたまへるものなるけにや、堅むれば固く、大きにすれば大きもなる物にて、その心の定(おきて)のまにゝゝなるものぞ。‥‥]。

 然るは、其の心の女々しく怯くては、何事にわたりても、怯くのみ成り行きて、その靈の行方も、儒者の云ふごとく、散り失するかとさへ想ひなされ、はた上にもいへる如く、其の靈の猛きは、猛き徒どち寄り集ひ、邪(ひが)めるは、邪める徒どち群れ集ふものぞ。そは世に疫病の神、また疱瘡の神、また首絞の神など云ふたぐひの、古へに聞き知らぬ禍々しきものゝ多在るを、人はいかに思ふらむ。此は元は禍神の御心によりて、然る病のおこり、さて其れに依りて死にけるものゝ心邪める、また家もなくて吟行(ちまよ)ふばかりなるものどもの、然ることにて死り、魂の歸り處さへなきが、その死れることの、口惜しくなど有りて、己が見し目を他にも見せむとて、斯在る鬼とはなると見えたり[‥‥]。此はみな其の心の安定よろしからずて、かゝる鬼とはなるにこそ。楠正成ぬしの、湊川にて討死にせらるゝ時、その弟・正季にむかひて、『最期(いまは)の一念に因りては、善惡の生を引くと云ふを、そこの心はいかに』といはれしに、正季、打笑ひて、『いつまでも同じ人と生れて、朝廷(みかど)に射向ひ奉るものを滅ぼさばやとこそ思ひ侍れ』と云ひしかば、正成、世にうれしげなる面もちにて、『吾も然こそは思ふなれ。いざさらば、生を替へて、この本懷を遂げむ』と、二人さし違へて終(は)てられたる。武士とあらむものは、別に斯くこそ有りたけれ[この楠ぬしのいはれし言を、儒者など、小智をふるひて何くれと論ひ、或は佛書の意ぞなど云へるも有れど、假令(よし)佛書に見えたる意ならむからに、楠ぬしの、然ることに思ひ定められしなれば、やがて楠の心なるをや]。‥‥」と。



 愚案、平田大壑先生の志を、眞に身を以て知るが故に、己れ我が事として、神風の國山室山なる本居鈴屋先生の奧津城の傍に坐す、大壑先生の歌碑を死守したるは、天下に唯だひとり、相原修神主でありました。大壑先生を繼がむと欲する者、全國に幾人も在ると雖も、相原神主の如きは、實に稀有でありませう。更めて滿腔の感謝を捧げる次第であります。
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  • [9]
  • 鐵鏡の再興。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月28日(木)00時14分12秒
  • 返信
 
●平田篤胤大人『近淡海國の國友村なる國友能當が造れる鐵(まがね)の鏡に添ふるふみ』に曰く、「

 神世に鏡を作れる起原(おこり)は、天照大御神の、天石屋に幽居(さしこも)り座せる時に、八百萬の神たち謀りて、天の香山の金(かね)を取りて、石凝姥命に造らしめつとは、誰も知れるものから、其の神鏡(みかゞみ)つくれる事をし、『神代紀』の一書には、「石凝姥を以て冶工と爲し、天香山の金を採りて云々」と見え、『古語拾遺』には、「石凝姥神をして天香山の銅を採りて、以て鑄せしむ云々」と記し、『古事記』には、「天の安の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵を取りて、鍛人・天津麻羅を求めて、伊斯許理度賣命に科(おほ)せて、鏡を作らしむ云々」とあり。金といひ、銅と云ひ、鐵と云ひて、其の説の區々なる中に、何れ正説ならむと云ふに、『古事記』に鐵とあるぞ、正説なる。其はまづ『神代紀』に金とあるは、加禰といふに廣く用(つか)へるにて、黄金(きかね)のよしに非ざれば、何の金なりしと云ふこと、此の紀にては知るべからず。然るに後世の人は、後世に銅もて鑄造りて、水銀すりつけて光らしたる鏡に、常に目なれてあるからに、『古語拾遺』に銅とあると、此の神鏡の事ならねど、『神代紀』に白銅鏡(ますみのかゞみ)といふ事もあるによりて、此の神鏡をも、銅もて鎔造れる物なりと思ひ定めて、古くも今も別なる論ひはあることなく、吾が師・本居翁はしも、古今にまたなき古へ學びの博士なれど、其の著はされたる『古事記傳』に、「天金山の鐵を取り」とある文を解きて、「此は矛を作る料なる故に、鐵字をかけり。鐵ならば、鏡とは書かじ」と云はれたり。然れども己、早く思ひけらく、神世の初めに、白銅など云ふ合せがねの有るべくもあらず。また直の銅はしも、何(いか)に磨くとも、水銀すり付けずては、底ぬけたる如く光る物にしあらず。然りとて其の水銀もて光らす態はも、神世の初めにありけむ事とも覺えねば、劒・刀など、よく研ぎたるは、物の形の眞澄にすみて映るを思ふに、彼の神鏡は、かならず鐵なりけむ。直によくとぎて、鏡のごとく□[火+玄。かゞや]く金は、鐵をおきて何かあらむ。是ぞ、神世の有る趣なる。

 然れば『古事記』に鐵とあるが正説ならむと、吾ひとり思ひ定めて、なほ次々に考ふるに、天津麻羅とは、天目一箇命の亦の名にて、こは倭鍛冶の遠祖なるが、此の神と伊斯許理度賣命と二神にて、かの神鏡をば鍛ひ造れる由なり。「天堅石を取り」とあるは、即ちその質石(あていし)の料なり。質石とは、謂はゆる金床の古名なり。されば『古語拾遺』に鑄とあるに、泥むべきに非ず。ことに鑄の字は、「兵を鑄る」などやうに、古くは鍛ふる事にも用ひたり。斯くてこの神鏡をもて、天照大御神を天石屋より謀り出だし奉れる時の事を、『神代紀』に、「是の時、鏡を以て其の石窟に入る者、戸に觸れて小瑕あり。其の瑕は、今に於ても猶ほ存す」と見ゆ。然して後に、大御神の御孫・邇々藝命の天降り坐す時しも、大御神、その神鏡を大御手に執り坐して、「此の寶鏡を視まさむこと、當に猶ほ吾を視るがこどくすべし。同床同殿(おなじあらか)にます可し」と勅へる御由緒によりて、邇々藝命より千萬歳の神世の御代々を、同殿に御坐しけるに、人代となりて、神武天皇より十代に當り給ふ崇神天皇の御世に、御同殿に御坐す事を恐(かしこ)しとて、彼の神世に神鏡を造れる神たちの御末の人々に科せて、代りの御鏡を擬(うつ)し造らしめて、禁中に齋かせ給ひ、かの神鏡をば、天照大御神の御神體(みかたしろ)として、次の御世、埀仁天皇の二十六年といふ年に、今の内宮には齋かせ給へり。かくて禁中に齋き給へる代りの御鏡と申すは、謂はゆる三種の神寶の一たる、内侍所の神鏡なり。然るに是より九百四年のち、村上天皇の天徳四年と云ひける年の九月二十三日の夜に、内裡燒亡ありけるに、内侍所の神鏡も、火に逢ひ給ひき。此の燒亡の事を、『釋日本紀』に引きたる『天徳の御記』に、「瓦上に、鏡一面在す。其の徑(わたり)八寸許り、頭に小瑕在りと雖も、專ら圓規竝びに蔕(ほぞ)等を損すること無く、甚(い)と分明なり。見る者、驚感せざる無し云々」と記し給ひ、其の御世の正しき書等にも、「件の御鏡、猛火の中に在りと雖も、涌損したまはず」とも、「大灰燼の中に在りと雖も、曾て燒損したまはず」とも見えたり。抑々この内侍所の神鏡は、崇神天皇の御世に、かの神鏡を擬造しめ給へる御(もの)なるに、其の神異、かくの如し。此をもて、伊勢の大宮に坐す御神體の御鏡の神威(みいづ)を想ひ像(や)り奉るべし。

 偖て右の『天徳御記』の御文に、「頭に小瑕在りと雖も」とある小瑕を、火に逢ひ給へる故に付きたる瑕のごと思ふもありなむか。然にはあらず。こは其の本つ神鏡を、上に引きたる『神代紀』に、大御神を引出し奉れる後に、その石窟に入りしかば、石戸に觸れて小瑕つきて、其の瑕、今に猶ほ在ると見えたる其の瑕までを、ありのまにゝゝ、崇神天皇の御世に擬し給へるなり。其は、「もはら圓規・蔕さへに損ふこと無く、甚と分明なり」とあるをもて、其の燒損ねたる瑕ならぬ事を辨ふべし。扨て掛けまくは畏けれども、伊勢の大宮に坐す本つ神鏡には、その缺けたる一片をも付けて納め給へりしと聞えて、景行天皇の御世に、日本武尊の、吾嬬の國を平む治めに降り給ふ時に、伊勢の大宮に御暇まをしに詣で給ひしかば、其の時の齋宮の姫御子・倭比賣命、すなはち日本武尊の御叔母に坐して、火打嚢を賜へる事を、『日本紀』には、「是に於て倭姫命、草薙劒を取りて、日本武尊に授けて曰く、之を愼め、怠る莫れ也、と」と見え、後にそを用ふる所には、「燧を以て火を出し、向燒、而して免るを得たり」とのみあれど、『古事記』には、「倭比賣命、草那藝劒を賜ひ、亦た御嚢を賜ひて、若し急事有らば、茲の嚢口を解きたまへと詔ひき」とあれば、其の劒に火打嚢を着けて賜へるにて、後にそを用ふる所には、「嚢口を解き開きて見たまへば、火打、其の裏(なか)に有り」とあり。然るに此の火打は、かの神鏡の缺けたる一片にぞある。そは何を以て知るなれば、後の物ながら、『源平盛衰記』三種寶劒の事と云ふ條に、倭姫命、天叢雲劒を取りて、日本武尊に授け奉りて、危からむ時に此の劒を以て防ぐべし。錦袋を披きて異賊を平げよとて、錦袋を付けられたり、とありて、其を用ふる所に、凶徒ら、枯野に火を放ち、四方より燃え來て遁れ難かりければ、佩び給へる叢雲劒を拔きて打振り給へば、刃に向ふ草一里までこそ切りたりけれ。爰に野火は止りぬ。其の後に劒を付きたる錦袋を披き見るに、燧あり。尊、みづから石の角を取りて、火を打ち出だし、野に付けたれば、風、忽ちに起りて、猛火、夷賊に吹覆ひて、凶徒、悉く燒亡びぬ。此より叢雲劒をば、草薙劒と名づけたり。彼の燧と申すは、天照大神、我が御貌を、末の帝迄で見せ奉らむとて、御鏡に移させ給ひけるに、取弛して打落して、三つに破れたるを、燧に爲し給へり。彼の燧を錦袋に入れ、燧に付けられたるなり。今世まで人の腰刀に錦の赤皮を下げて、劒袋といふ事は、この故なり、と有り。御鏡の損はれたる由を云へる説こそ訛なれ。其の劒をしも、御鏡の缺なりと云へるは、正しき古傳の遺れるにぞありける。是をもて掛けまくも畏き神鏡の、鐵にて御坐す事を辨へ、また腰刀につくる火打は、鏡の缺を象どりて作るべき故事をも辨ふべし。然れどこは、己が始めて思ふ事にこそあれ。さる故實を記せる書は見當らず。さて倭姫命の、その缺けたる一片を、劒にそへて賜へる事は、やがて大御神の、神靈をわけて御守となし給へる御心なることは申すもさらなり。斯くの如く考へ定めて後に思へば、延暦の『内宮儀式帳』(『皇大神宮儀式帳』一卷・内宮條)に、正殿心柱造奉條に、「鐵人形四十口・鐵鏡四十面・鐵鉾四十柄」とありて、餘の所々に、「鐵人形四十口・鐵鏡四十面・鐵鉾四十柄」とあるは、一所にしか記して、餘をも准へ知らしめたるものなり。同じ延暦のふみながら、『外宮儀式帳』には、「金人形二十口・金鏡二十面・金鉾二十柄」と、數所に記せり。此はうち任せて加禰といふは、鐵のことなる故に、語のまゝに金人形など書きたるにて、是また黄金もて造るには非ずかし。其は延喜の『大神宮式』にも、此を「鐵人形・鏡・鉾、各四枚」と、數所にあるにて知るべし。後の世まで、かく神寶に奉らるゝは、鐵鏡なりしは、神世の舊き例を傳へ來れる御式なるべし。

 偖てまた上に引く『天徳御記』の御文に、「其の徑、八寸許り、頭に小瑕在りと雖も、專ら圓規竝びに蔕等を損すること無し」とあるに就いて、わが友・伴信友が、かの神鏡の御形を想像し奉れる説に、今も尋常にあるが如き、圓規(まろく)して柄ある御鏡にて、蔕とあるは、即ち柄なるべし。字書に、「蔕は、瓜の當也。當は、底也。華の當也」など見えて、草木の實のほぞと云ふ物なるが、實を摘みとりては、蔕ながら、やゝ着きたる枝をもかけて云ふめれば、即ち鏡の柄のこゝろに假借して、此の字を書かせ給へるにて、頭とある所は、かの神鏡の柄の下として、其の上の方を詔へる文なるべし。今も鏡作などの詞に、頭とも上とも云ひ傚へり。また鏡の柄を、古くは下とも云へりと思はる。そは『禮儀類典』(五百十卷。水戸義公編)に引かれたる『大成録』の樂人裝束のうち、鉾の製(つく)りざまを圖せる下に、「柄の長け七尺三寸許り、黒漆の徑り一寸三分許り、下に石突有り、長さ二寸許り、鏡の柄の如し」と云ふが如し。思ひ合せて、神鏡の御形の、今ある尋常の鏡のごとく、圓規して柄ある事を辨ふべし。かくて此の神鏡を、神典に「八咫鏡」とある八咫は、『古事記』に、咫を阿多と訓むべき由の註あるに、八咫と云ふは、八に阿の韻(ひゞき)あるが故に、自づからにヤタと云はるゝ言の格なり。偖てその八咫とは、上に引く『御記』に、「徑り八寸許り」とあるに依りて考ふるに、阿多と間(あひだ)と同義の言にて、手の啓きたるまゝに、指(および)の開きたる間もて、物のたけを量る古の名目にて、今もいく尋(ひろ)・いく束(つか)など云ひて物する定めの如く、小さき物を量るに、いく咫(あた)と云へりけむ。『神代紀』に、「猿田彦神の鼻長七咫」とあり。いく咫と數へたる證と爲すべし。咫の字を『説文』に、「八寸を咫と曰ふ」とあれど、此方にては、往昔へ物を度る稱の[銕胤の云く、この八咫の説、後には廢られたり。其の定説は、『皇國制度考』に委しく記されたるを見るべし]、阿多と云ふに借り用ひたるに疑なし。然るを『御鎭座傳記』(一卷。皇大神宮彦和志理命の所著)などに、「八咫は、古語、八頭也。八頭花崎は、八葉の形也。中臺圓形の座也」と云へるに依りて、彼の神鏡の御形を、八花崎の鏡なりと云ふは、非説(ひがごと)なりとて、彼の八葉にして紐付きたる鏡は、もと漢土の製をうつせる物なる由をも、委曲にわきまへ記せる書あり。然れば古の鏡は鐵にて、圓規くうち鍛へたる柄付の鏡にて、形は今ま用ふる尋常の鏡にかはる事なし。然れども鐵を鍛ひて鏡となす態はしも、難しとも難きわざなる故に、便よき銅鏡をのみ世に用ひて、鐵鏡の事は、たえて人知らず成りにしを、己、いにし文政二年に、かの水心子正秀とて、今世の良匠と聞ゆる刀鍛人に、八咫の五分が一なる鐵鏡を、二鍛はしめて、其の三月に、鹿島宮と香取宮とに詣でける時に、祈(ねぎ)事の祝詞にそへて、思ふがまゝに、我が古ごとの學び、世に行はれなば、其の鏡を八咫鏡に替へて奉らむと白せる後に、また屋代弘賢ぬしなど、其の餘の人々にも語りて、身守の鏡をも、三つ四つ面は造らしめたり。是ぞ、絶えて久しき鐵の鏡を造る事をし、再興(またおこ)したる始めなりける。

 抑々世の片ゆきなる事識人はも、あらゆる事物を、みな漢土より傳へ得たるごと、言ひも思ひもする事なれど、我が皇大御國はしも、萬國の祖國なれば、實には萬國にあらゆる事物ども、其の本は皇國より傳へたるに、工夫をそへたるが多かり。中にも鏡を造るわざ、漢土にては、黄帝、かの西王母といふ神仙に會ひて、十二面の大鏡を造れるぞ、始めなる。そは、『黄帝内傳』・『軒轅本記』・『廣黄帝記』など云ふ書を合せ考へて知るべし。然るにその王母と云ふは、實は我が皇國の神にしあるを、彼の國人の、かゝる漢名をば稱せるなり。此は己、くはしき考ありて、『志豆能岩屋』ちふ書を撰びて、數多の漢ぶみを引き、證せるを見るべし。斯くて黄帝の始めて造れる鏡は、決(さだ)めて鐵なりけむと思ふ由あれど、其の説、ことに長ければ、此に記さず。彼の國にも、古く鐵鏡を用ひし事は、漢の劉□[音+欠]が遺文を、晉の葛稚川翁(抱朴子葛洪)の撰次せる『西京雜記』といふものに、「哀王‥‥」とあるにて知るべし。又た『天寶遺事』に、「葉法‥‥」とあり。また『格致鏡原』に引きたる『九國志』に、「宗壽‥‥」といふ事も見えたり。其の小兒は、眞青小童君といふ神にはあらざりしか。仙籍に、眞青小童君は、嬰孩の貌なる故に、仙宮には、號けて小童君といふよし見えたるに、物色(ありさま)いと能く似たればなり。此の事も、『志豆能岩屋』にくはしく記せり。鐵鏡の靈異ありし事、なほ諸書に數見ゆれど、今は一二を擧げつるなり。

 爰に近つ淡海の國の國友能當はも、其の遠祖は大和鍛人(かぬち)にて、長包と云へるが、其の子・兼氏と云ひしもの、後醍醐天皇の御世に、美濃國多藝郡にうつり住みて、相模國鎌倉に在る(岡崎)正宗が弟子となりて、志津三郎と稱へりし、名高き刀鍛人なり(正宗門十哲の一)。代々その業を傳へ、其の子孫、近江にうつり住みけるに、天文十二年に、異國より鐵炮といふ物わたり來しかば、此の家にて始めて此をうつし造れるに、其の當り能かりしとて、足利家より能當(よしまさ)と云ふ名を賜へるなり。代々その名を稱ふるよし云ひ傳へて、今に公儀に、その職もて仕へ奉る人なるが、近きほど、西洋なる國より、風炮とて、火力を假らず、風吹きこめて放ち出る鐵炮の、いさゝか其の形ばかり造れる物の渡れるを見て、固よりこよなき考工者にしあれば、なほ種々に考へ造り試みて、遂にいと奇異(あやし)きまでなる風炮をなも造り出でける。其の工みの巨細なる事どもは、『氣炮圖説』(一卷。文政二年刊)とて、身づから記せる物あるに就きて見るべし。猶この外に、形は常の鏡ながら、日向に照らせば、裡なる繪やうの影うつる鏡を始め、人の目を驚かす奇しき物など、數しらず造り出でたり。中々に世の工夫者など、生青き徒の、かけても及ぶべき翁にあらず。斯くて此の翁、往にし年ごろ、四年ばかり大江戸に來て在りけるほど、己とは方外の人なる物から、互ひに物の道理を記窮むる事をし好み合ふ睦魂あひて、此(こ)よなく親しく交れるに、此のをぢ、書こそ讀まね、神の道を尊みて、其の事をば、余が教へを善しとして問ひあかすにぞ、上のくだり記せる鐵の鏡の考へを、委曲に語りて、此を鍛ふる態は、いとゝゝ難し。そは少けきは、然しも骨をるゝ事にも非ねど、大なるは、鐵をり反すとては、謂はゆる地あれの出來て、美しくは成りがたきを、「子(そこ)、よく考へて、大なるを難からず造り出づる事をし、工夫してよ」と云ひしは、去んぬる文政七年四月に、翁が國に歸り行く時になむありける。其の後しも、國友よりは、をりゝゝは消息して、いと親(むつ)やかに訪るゝを、己は例の事おほく、消息かく事の物うき性にしあれば、常に心にたえぬ物から、返事さへに其の度びごとには贈らで過せしを、此の八月の廿日と云ふ日に、七月の二十五日と云ふ日に書きて、早馬使(はゆまづかひ)に出だせる消息の來れるを見れば、鐵鏡を造るわざを考へ得て、いと麗しく造りいで、また鐵の弩をも造れる由しるして、彼の神世の起原を、疾くかき記し賜ひねと云ひ遣せたり。

 爰におのれ、常はさもあらばあれ、こは速かにせむと、やがて如此なも記しいでつ。但し鐵弓(まがねのゆみ)の、神世よりありける由は、前に記し洩らせれば、今こゝに記し繼ぎてむ。そは、『出雲風土記』に、島根郡加賀郷、また加賀神崎の所などに、佐太大神の、「金弓箭」もて窟を射通しませる事あり。この金とあるは、即ち鐵のこと、鐵鏡を金鏡とかけるに准へて知るべく、また『常陸風土記』に、香島郡香島宮の條に、崇神天皇の御世に奉られし幣物の中に、「鐵弓二張・鐵弓二具」とも見えたり。是を以て神世より鐵弓をも用ひたること明かなり。然るに中むかしの軍ぶみ等にも、鐵弓を射たりと云ふことの見ゆるに付きて、伊勢貞丈ぬしの、そを妄誕なりとて云ひ破れる説あるは、神世に鐵弓ありし事、知らざる故なり。己、いにし年、少けき鐵弓を作らしめて、引き試みたる事ありけるに、丸木弓の引ごころに似て、底つよく力だにあらば、通し物には、此に越えたる弓の有るまじく覺えたりき。然れば國友翁が造れる鐵弩も、神世に本縁なしと云ふべからず。但し其の弩はしも、前に考へて造れるもあれど、其は尋常の竹弓に造れりしを、今度なほ更に考へ更めて、鐵弓に造れるが、其の當り、竹弓に遙かに勝れるよし言ひ遣せたり。いかで其の弩、見まほしと思へども、今はかく國放れるを、いかにせむ。

  國友能當翁の需めに應じて
 文政九[丙戌]年八月二十七日
  平田大角平篤胤、記判」と。



 愚案、贈從五位・一貫齋國友第九代藤兵衞能當翁は、美濃關の刀鍛冶・志津三郎兼氏の血統にして、能當流鍛冶術を創始し、斯界に一新紀元を劃せり。平田篤胤大人と國友一貫齋翁の科學技術への興味關心は、當時、奇人變人の所業として、殆んど顧みられここと無く、また一貫齋翁の科學精神、數々の發明考案は、西洋を含めた「異界」研究に由る所が多かりしと云ふ。伯樂なく、後援者もなく、はた後繼者も無く、洵に無念の生涯でありました。然しながら其の技術力は、極限にまで昇華してをり、此の江戸時代の科學技術の底流が無い限り、明治以降の近代化は招來しなかつたでありませう。

 一貫齋翁は、天保十一年十二月三日、氏神日吉神社へ參拜、次いで菩提寺因乘寺へ參り、歸宅後、佛壇の前で「阿曇」と、一聲を放ち、絶命歸幽。壽六十三(市立長濱城歴史博物館編『江戸時代の科學技術――國友一貫齋から廣がる世界』平成十五年十月・サンライズ刊)。

【國友一貫齋翁略年譜】
文政元年、鑄作町間見積遠目鏡(距離測定器)考案。
文政二年、早打氣砲(空氣銃・蘭製よりも數段威力あり)完成。
文政三年十月十一日、平田篤胤に入門。仙童寅吉十四歳と同日入塾なり。
文政七年、神鏡(所謂魔鏡)を考案し、國友日吉神社等へ奉納。
文政九年、鋼製弩弓(現のアーチエリーの如し)完成。
文政十一年、懷中筆(毛筆ペン)・玉燈(からくり儀右衞門こと田中久重型無盡燈の父型)考案。
文政十三年、飛行機・飛行船の構想を、幕府に上申。
天保四年、テレスコツフ遠鏡(反射望遠鏡國産第一號・蘭英製よりも高性能の由)を完成し、天體觀測を始む。
天保六年、太陽黒點の連續觀測を行ふ。
天保七年、月・太陽・金星・木星・土星の觀測圖を殘す(專門家の域を超えた第一流の觀測家であつたと、現代天文學者は云へり)。

 また國友一貫齋翁は、「仙界武器の圖」を殘してをり、仙童寅吉への重要な質問者の一人でもある。其の一部、下記のサイトに於ける、資料43・109「平田篤胤『仙境異聞』」にて、「国友」にて檢索されたし。
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http://www.geocities.jp/sybrma/index.html


●平田篤胤大人『國友一貫齋宛書状』(文政九年九月五日附)に曰く、「

 相替らず御もがきの由、誠に同病に御座候ふ事、御察しの如くに候ふ。誠に千里を行く馬はあれども、其を乘る伯樂なき事を、古人も憤り候ふは、尤もなる事にて、‥‥世の眞の目明たる伯樂だに候へば、御互にもがきは相止み候ふ事なれど、是非なき物と、嘆息仕り候ふ事に御座候ふ。アヽアヽ」と。


【參考・國立歴史民俗博物館】
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/sub_hirata.html
http://www.rekihaku.ac.jp/about/hitoiki/break5/break5.html
http://www.rekihaku.ac.jp/press/hirata.html
http://www.rekihaku.ac.jp/prom/prm4/index.html
【オロモルフ樣・平田神社參拜記録】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hirata.htm
【備中處士・靜舍島崎正樹平重寛翁】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/smzk.htm
【備中處士・神習舍佐久良東雄大人】
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sakura.htm

  • [8]
  • 枉禍の宗源は、火の穢れに在り。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月22日(金)23時45分7秒
  • 返信
 
●平田篤胤大人『春の紅葉のはしがき』(川崎重恭翁の所著三卷の序。佐佐木信綱博士校註『平田篤胤歌文集』昭和十六年四月・冨山房刊に所收)に曰く、「

 わが師・本居の宇斯(=大人)の『玉鉾百首』に、「家も身も國もけがすな穢れはし神のいみますゆゝしき罪を」、また「竈(かま)の火のけがれ忌々(ゆゝ)しも家ぬちは火し汚るれば禍(まが)おこるもの」と詠まれし二首はも、玉幸はふ神世のまさ道、まつぶさに見し明らめて、火の汚るれば、伊都速き火牟須比神、いち速びて、災のおこる道理(ことわり)をし、世に諭されし歌どもなり。

 然るにこの神はし、掛けまくも畏き皇祖二柱の大神の麻奈弟子に生みませる神にて、火のもとつ神にしませば、其の生ましの時しも、御母の神の御保登やかえて、岩屋をさして幽りませりき。其は後のさはりを治めむとの御わざにしあれば、是ぞ對屋(たや)のはじめ、汚れ火の始めにはありける。さるを御父の大神、いと異(け)しかる事におもほし坐して、其の戸をおしあけ御覽(みそな)はせれば、女神、いたく恥ぢ恨まして、つひに醜(しこ)めき豫美都國に神さかり往で坐しけり。こゝに男神、いといたく歎かひまし、此の御子の生れまさずば、然ることのあるまじものをと、かつ御怒りまして、十握の劒もて、火神を斬り給へれば、その御靈の火、ちりほびこりて、木・草・砂(いさご)は更なり、あらゆる物に火をふゝむ事とはなりぬ。世の諺に、「火神は、ことに産屋・對屋・宍(しゝ)むらの汚れを惡(きら)ひ、刃物を竈所におくことを忌まひ、火の穢るれば、荒び給ふ」と云ふなるは、この由緒(いはれ)による事なり。そは神の御典の傳へをし見れば、穢れはすべて宍くしろ豫美につくといふ道理しるく、御母の神は、その國に往きまし、おのれ命は、その事ゆゑに斬られ給へれば、かの國につける事物をし、いたく惡ひ給ふ故に、荒び給ふになもありける。かれ是をもて、御母の大神、その豫美道より歸りまして、また更に水神・土神・ひさご・川菜をうみ給ひて、「此の荒ぶる御子の荒びせば、水の神はひさご、土の神は川菜をもちて、鎭めまつれ」と教へ給ひき。是ぞ、火しづめ祭りの事の本なる。かくて此の神の御社、こゝら有るが中に、山城國愛宕郡なる御社をしも、阿多古神社とまをす事は、古き人の言に、「御母の神の燒けそこなはれ給へる故に、仇子のこゝろぞ」と言へるは、然ることにて、此の御社を、火守の神と、世にもて齋くことは、火鎭めまつりの旨にもかなひて、げにも宜なるならひにこそ。然はあれど、さるに取りては、亦いとあかず、口をしき事にぞあんなる。

 然るは、この大江戸はしも、四方八方の人ども入り來集ひて、天の下にたぐひ無き眞盛りの里にしあれば、人の家居は、戸窓のきかひ、とり葺く萱も軋らふまでに立ちつゞき、千萬の事ども足らはぬ事なく榮ゆるからに、もろこしの戎(から)學びはさらなり、遠き西なるえみしの國のもの學びさへに起り榮えて、其のさまゞゝをし好む倫ひは、彌や日けにふえ弘ごりつゝ、神の御國の古へぶりを、惟神なる道としも知らず、からの徑(みち)もて、何くれと云ひけちて、血いみの汚れ、宍火の汚れを重くし給ふ神のみかどの御定めをば、いと心せき、此の國ぶりのならひのごと、論ひかすめ、「獸(けだもの)食らふとも、何ちふ汚れかはあらむ。我らが學ぶにし國まなびに、然る窮理は無きものをや」など、言ひ弘むれば、知るも知らぬも、然るえびす心にうつり染みつゝ、その所行にならふ徒がら、日にけに多くなりもて行くとぞ。信(まこと)にさもあらむと覺ゆるよしは、年々に獸の宍うる店の、まちゝゝに建ちまさるにて知らる。此れはしも、己がいと若かりしほどは、冬ひとへを着るばかりの貧しき男の、寒さに堪へぬか、然らぬは、病ひ人のくすりにとて、食らふがまれにありしも、人には恥ぢ、かくしたりけるを、今しは病ひ人ならず、筑紫の綿あたゝかに、美麗しき衣かさね着たる富人さへに、憚らず食らふこととしも成りぬるは、外つ國ぶりに率(まじ)こりれる故ならざらめや。其がうへに、處がらかも、對屋のさはり、産屋の汚れも避けあへずて、中つ世に御おきてありし甲乙丙丁のついでも知らず。謂はゆる目かし口かしは更なり、かしこに行き觸れ、こゝに來ふれて、互(かたみ)に汚れかはしつゝぞあんめる。然れば此をしも、古の道のまにゝゝ種々まぎてば、秋の末より春かけて、獸うる間はさらにも云はず、中より末のもろ人に、甲乙丙丁の汚れにもるゝは、多くもあるまじくぞ所思ゆる。

 然しもあまたの人の身と家の穢れ、こはまた自づからに處をもけがす理にしあれば、火神の御こゝろ、平穩(おだひ)ならず、御まもりなき時をまち得て、かの古くたとびの天つ伎都禰(きつね)と名におへるが、五月蠅なす喧ぎたちて、或はわろ者につきて火を放たせ、或は人に火の過ちなどせしめて、忌々しき災ひを引きおこす趣なること、古き書にも何くれと見ゆるを、此のまが者等はも、皇國にもとよりありこし物にはあらず、立ちすくむ中子(立ちすくみ・中子、共に齋宮の忌詞にて佛を謂ふ)の道の渡れるより出來し物なり。其は近く、林羅山先生(せむじやう)の説きごとに、「我が邦にて、天狗(あまつきつね)としも云ふは、沙門の化(な)れる物にて、或は佛菩薩、相(かたち)を現はして人を惑はし、或は山ぶし狐などにも化りて、人の福(さち)あるを禍となし、世の治まれるを亂さむとかまへ、火災(みづながし)をおこし、鬪諍ひをも起すものぞ」と云はれしを以て知るべし。實にも今、この『春の紅葉』の神異のくだりに、集めしるせる條々を見るにも、「吾妻の遠のみかどに、學びの道をひらかれし先生とて、畏くも思ひ得られたりけり」と、いと珍らしく感(おむ)かしき説となも、思ひ合はさる。然れば古ことの學びせむ徒がらは、能くこの由(ゆゑ)よし辨へて、大祓ひ、また火しづめ祭りの神わざはし解怠(おこた)るまじき事にこそ。たゞに火をおろそかに過てる故に、水ながしとは成りぬとのみ思はむは、凡常(よのつね)のことにこそあれ。古語に、「よく古をいふ者は、今にしるし有り。よく人の道を知るものは、能く天地の道をも知る」と云へり。顯世(ひとのよ)のことを述べむに、幽事(かくりごと)のもとをし尋めずば、物識れる人としも云はめや。

 抑々のふみ書きつめし重恭の子はも、我がふるき教子にて、元より筆とるわざにさとく、常に然る意ばへをも思ひてあれば、現にありし上の御おきては更なり、幽れて知られぬ物わざをも、見聞きし限りかき集へたる、此のふみよ、見るにうち置かれず、或はきも冷え、あるは歎かれ、或は尊き御惠みなど、其のさま詳(さだか)にかき寄せしは、石の上ふる事ならぬと、生々(なまゝゝ)の事知りらが、さえまぐりに書き散らせるかしら書の、とり見るより、まづ眠らるゝ類ひならず。ありの儘なる眞實を傳ふる書にして、實事のうへにて道をしる、我がいにしへ學びのたすけとなり、また後の世人の、この災事(まがごと)をしのがるべき心どめともなりなむと、こよなく悦びおもはれて、斯くなも初めに、いぶき添へつる時は、
文政の十まり三とせと云ふ年のきさらぎ初午の日になもありける。
 氣吹の屋のあろじ・平の篤胤。

 かく書きをへて見れば、一つの考へめきて、端がきとしも見えぬが、我ながら傍らいたく、ひとり笑ひせられて
かきまする春のもみぢの端がきにはしがきとしもあらぬ落葉を」と。



●平田篤胤大人『千島白波の自序』に曰く、「

 此の書は、去にし丙寅の年(文化三年)、蝦夷の島へ游魯西亞人の、ゆくりなく來りて荒びたる故よし、また其の後に、筑紫の長崎へヱゲレスと云ひける戎(から)人の來て、禮(ゐや)なき事のありける其の時の事の状(さま)、はた其の事に就きて、公儀よりの命令は更なり、國郡を領(し)らせる諸侯の、其の家臣等に示されたる言、また此の役(えだち)に趣ける人々の其の家人、また朋友がり、言おこされたる消息ぶみ、都(すべ)て此の事に與かれる事どもを、次々に記し見ばやと、早くより弟子等にも誂(あとら)へて、何くれと書き集(つ)めたるを、屋代輪池翁も同じ心に思ひ起されて、數多しるし持たれるが上に、最(いと)やごとなき御邊りの、常人は絶えて知られぬ祕記をさへに伺ひ得つれば、互(かたみ)に校合(くらべみ)て誤りを正し、彌(いよゝ)いそしむにぞ、慮らずもかく多(さは)にはなりにける。但し見聞くまにゝゝ廣く書き集めたれば、同じ文の重複(かさな)れるもあれど、其の時の事の情(さま)を知るべきものは、省かずして竝べ擧げ、また地理(みちすぢ)の辨へがたきは、別に繪圖をも寫して、其が附録としつ。其は、彼の地に跋渉(わた)れる近藤守重ぬし(正齋・重藏)・最上常矩(鶯谷・徳内)などにも逢ひて、直ちに問ひ糺しもしたるなり。然れども猶ほ誤りもありぬべし。扨て此の事どもを記せる序に、過ぎにし元文の頃(四年六月)、仙臺の海邊へ異國船のよりたるを始め、同じ類の事どもを、一つ二つ記し添へぬ。但し是らは因に擧ぐる事にはあれど、年の古きが故に、此の卷の首に記しぬ。

 かくて篤胤、謹みて考ふるに、あらゆる諸越(もろこし)人の參ゐ來て、大御國に仕へ奉らふ事は、靈幸ふ神世より定まれる制度(みのり)なるを、時として理しらぬ無禮(ゐやなき)首長どもの出でける世には、畏くも大御國を伺ひ奉りて、數(や)千の船を浮べ、數萬の軍を集へて、襲ひ來れる事も、まゝありけるを、固より道ならぬ逆事(さかわざ)なれば、忽ちに官軍(みいくさ)の勇みに破られ、或は神風に吹き碎かれなど、速かに亡び失せしは、必ず然かあるべき道理なれば、此の後しも大き患ひとなるべき事は非むめり。然はあれど又つらゝゝ思ふに、韓招(からをき)し給ふ韓神の御心かも。小治田の大御代(推古天皇十五年七月)に、はじめて唐國へ大御使を遣はして、其の國の事をら學ばしめ給へるより、次々其を慕ひ學べる人多く、往きかふ事も重なりつゝ、彼の立ちすくむ佛の道さへ弘まれるに、古への武き御稜威は、おのづからに薄らぎて、漸く(やゝゝゝ)に文を内にし武を外にし、よろづかざりを好み、武士にも後見る女々しき心もぞ出で來にける。然りしより後は、本來の差別をも辨へず、書替す文辭にも、古への御制に違ひて、彼を敬ふ事多く、殊に近ごろ蘭學ちふ事も始まりて、其のむれの人々は、紅毛人(あかえみし)をも尊むめり。かゝる事の弊えにや、甚(いた)く大御掟に違へる人も、折々ありと聞ゆるは、いとも憤ろしく慨(うれた)き事の極みなりけり。斯有(かゝ)れば今より後に、もし戎狄らが逆事なし奉らむには、常に彼の國々を尊める人々は、己自らに怖ぢ惑ひて、大きなる不覺あらむかと、竊かに危ぶみ思はるゝなり。

 抑々皇國内にて、皇國人どちの軍には、假令ひ怯(きたな)き事あらむも、互ひの勝ち負けなれば、其は事にもあらねど、蕃人との戰ひに、道ならぬ女々しき所爲のありなむには、萬代までの嘲りを受け、畏くも大御國の大御光を傷ふ理にしあれば、其の罪、輕からず。麁略に思ふべきに非ず。若したまゝゝもさる逆事せむ時は、古き例の如く、穢き奴ばら、暫時も留めず鏖(みなごろし)にして、皇大御國の大御稜威を輝かして、怖ぢ畏れしめ、御蕃(みやつこ)と白して、常しへに貢物奉り仕へ奉るべく、物すべき事とぞ思はるゝ。いでや敷島の大倭心を固むべき心掟を論はむに、まづ上つ代に、大皇國より諸蕃國を馭め給へりし趣は、いと嚴重かなる事と聞ゆるに、上の件り云へる如く、中つ世よりこのかた、彼の國を慕ひ羨み、尊卑の別をも知らぬ猾りなる輩の出で來し上は、またおごそかなる御掟なくはあるべからず。然るに時の往ければ、直日神の御心かも、さる御國の弊えをや知ろし看したりけむ、早く寛永の頃に、西に北に、戎狄らが國は更なり、都て諸越へ往きかふ事を嚴しく制(とゞ)め給へる(鎖國令)は、皇神の本つ御國、萬の國の君師たる大御國の本因れを思ほして、往古へに復へし給へるにて、いともゝゝゝ尊く賢き大御掟なりけり。

 故れ下が下まで、此の御掟を畏み奉り、猶ほ蕃國どもに對(むか)ひての心得は、我が師・本居翁の『馭戎慨言』(二卷)に、いと明亮(まさやか)に論ひ諭されたれば、數(あまた)度びよみ見て知るべし。凡そ書てふ書ありしより以來、この書ばかり愉快きふみは有ること無し。亦た彼の戎人どもの、畏くも逆事せる事の、世々の御紀に見えたるを、唯だ一と目に見通すべく書き集めたる、塙保己一檢校が『螢蠅抄』(六卷)は、たより宜き物なり。又た偶々にも此の後に、さる事あらむかの心しらひに記せるは、林友直(六無齋・子平)が『海國兵談』(十六卷)と云ふものあり。また都て萬國の風土(くにぶり)を察るべきは、山村昌永の『増譯・采覽異言』(十四卷。新井白石『采覽異言』の増補版)、いと委しく記せるものなり。猶ほ萬國の事、記せる書ども、また皇國人の、さる國々へ漂ひ流されて親しく見たる記録どもをも見合せて、よく其の風體(ありさま)を考へなば、天の下、國は多けど、我が皇國に比ぶべき美き國は無く、あらゆる戎國々の、いとも陋しく怯弱(つたな)き程をも思ひ辨ふべし。しかして後に事とあらぬ時の心得は、自らに定まりてむ。是なも武き大倭心の固めとは云ふべかりける。

 さて此れ記せる事蹟はも、己政とる身にしあらねば、えう無きに似たれども、心あらむ教子ら、はた我が子孫等の心得にもと、密かに書き集め祕め藏(お)くになむ。かく數卷となりぬれば、書名なくはあらざれば、『千島の白波』(八卷)とは名づけぬ。猶ほ見聞くまにゝゝ記し加へむとは思ふものから、己が本業の急がしさに、先づ是にてさし置きぬ。時は文化の十年といふ年癸酉十二月(一本云、文化八年)」と。

  • [7]
  • 皇神の道、眞僊の教。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月17日(日)13時05分17秒
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●生田國秀翁『大壑平先生著撰書目の序』(谷省吾翁『平田篤胤の著述目録――研究と覆刻』昭和五十一年八月・皇學舘大學出版部刊に所收)に曰く、「

 昆侖の高きに上れば、則ち蟻封の卑きを見、暘谷の深きに臨めば、則ち雨潦の淺きを覺ゆ。是を以て皇神の道を學ぶ者は、仁義を以て小なりと爲し、眞僊の教を奉ずる者は、智慧を以て僞と爲す。我が師・大壑平先生、學は幽明の故に通じ、量は穹壤の外を容れ、窮覽の博きこと、萬古比ひ無く、著述の富めること、千載倫ひを絶す。神典・僊經より以下、諸氏百家の書に至るまで、目に觸れば、則ち是非を毫末に剖ち、口に誦めば、則ち異同を筆端に辯ふ。衆紛冰のごとく釋け、群疑霧のごとく消ゆ。精粹是れ採り、英華是れ□[手+庶。ひろ]ふ。離婁も共に見ること能はず、子野も共に聞くこと能はず、齋諧も共に悟ること能はず、蘇秦も共に言ふこと能はず。其の筆を揮ふこと流るゝが如く、文を屬すること涌くが如し。草稿の本は萬卷に近く、繕寫の卷は百部に埀んとす。是れ咸な深く皇神の典に徴し、弘く眞僊の經に質さゞる者莫し矣。蓋し悠遠に趨きて、切近に忽なる者有り焉、枝葉に滯りて、根本に疎き者有り焉、該博に力めて、□[糸+眞]密に薄き者有り焉、訓詁に明かにして、玄妙に闇き者有り焉。兼ねて之を併せ、卷きて之を懷にする者は、其れ惟だ我が先生か與。先生の前に、未だ先生有らず、先生の後、豈に先生有らむや哉。先生も亦た未だ一頭・四肢、六尺の長け、方寸の思ひに過ぎず。而して其の高きこと蒼穹の上に出て、其の深きこと淵泉の下に入る。是を以て之を觀れば、則ち昆侖猶ほ卑く、暘谷尚ほ淺しと謂ふ可き也。

 夫れ先生の道は、即ち皇神の道也、先生の教は、即ち眞僊の教也。頃日、河内盛征、道滿(生田萬菅原國秀)と共に草稿の本・繕寫の卷を受け、竊かに其の十一を千百の中より拔き、其の分寸を仭丈の間に約して、類編列次して、以て『書目』一卷と爲す。其の鈔録して以て一書と爲し、校正して以て一帙と爲す者に至りては、則ち未だ枚擧するに遑ならざる也。是の擧や也、實に先生の令嗣・銕胤君の、力め多しと爲す矣。蓋し將に桑梓に刻みて、以て之を天下に公にせむとする者、數十部、謹みて之を名づけて外書と曰ふ。其の將に子孫に貽して、以て之を玉函に祕せむとする者、數十種、亦た之を名づけて内書(下記○印)と曰ふ。天下の士、若し善く外書全部を讀めば、則ち當に凡俗に超ゆることを得る者有るべし矣。若し幸ひに内書一篇を受けば、則ち當に金玉より貴しと爲す者有るべし矣。天下、固より一部にして千卷を累する者無きに非ず、一筆にして數種を著す者無きに非ず、一人にして六藝に通ずる者無きに非ず、一書にして萬人を覺す者無きに非ず。然りと雖も精金、或は純ならず、美玉、或は瑕有り。惟だ先生の書、隻字、苟くも下さず、片言、妄りに置かず、譬へば猶ほ麗水、金を布き、昆岡、玉を散すがごとき也。嗚呼、先生の教、其れ大なり矣、先生の教、其れ廣し矣。神典を讀む者、取ること有らば、則ち以て道を立て基を固くす可し矣、僊經ほ奉ずる者、得ること有らば、則ち以て玄を探り幽を尋ぬ可し矣、史傳を誦む者、見ること有らば、則ち以て地を視、亂を察す可し矣、方術を習ふ者、覽ること有らば、則ち以て丹を和し藥を煉る可し矣、醫方を挟む者、學ぶこと有らば、則ち以て骨に肉し尸を起す可し矣、天文を觀る者、訪ふこと有らば、則ち以て度を測り歩を推す可し矣、兵法を稽ふる者、知ること有らば、則ち以て變に應じ勝つを制す可し矣、禮律を好む者、察すること有らば、則ち以て古を引き今を糺す可し矣、邪説を排く者、採ること有らば、則ち以て異を辯へ訛を正す可し矣、奇異を探る者、考ふること有らば、則ち以て魂を銷し心を寒くす可し矣。人人、當に各々其の門を得て、其の學を成すべし。而して先生、既に兼ねて之を併せ、卷きて之を懷にせり矣。其れ將た神爲るか乎、抑々亦た僊爲るか乎。豈に翅に一頭・四肢、六尺の長け、方寸の思ひのみならんや哉。

 銕胤君、道滿をして之に序せしむ。是に於て盛征と相議して、冠するに是の言を以てし、敢て朱批を先生の前に請ふ。先生、之を閲して誡めて曰く、『文辭、遜ならず、余を美むること、分に過ぎ、恰かも東方生の高ぶりて、自ら稱譽するに似たる也。女(なんぢ)、唯だ此れ有ることを知りて、彼れ有ることを知らず、我れ有ることを知りて、他有ることを知らざる也。天下の士、其れ誰か之を偉なりと曰はむや也。女の□[木+賣。とく=櫃]に□[韋+温の右。をさ]めて、敢て以て他に示すこと勿れ焉』と。道滿、對へて曰く、「謹みて命を受く矣」と。退きて之を塾中に藏すと云ふ。

 天保五年歳次甲午十一月二十五日丙戌
  門人・菅原道滿、謹みて撰す」と。



【平田篤胤大人著述――谷省吾翁『平田篤胤の著述目録――研究と覆刻』、他より】
△=幼童讀書本・○=件の内書(※既刊)

『古史成文』十五卷(上木は三卷)・『古史徴(古史或問)』十五卷(上木は四卷十册。卷一は解題記=春夏秋冬・二~四卷は徴=各々上下)・『古史傳』凡百卷(實は三十七卷。上木は三十一卷)・『神代系圖挂軸』一幅・『古史系圖』折本二帖(神代御系圖折本一帖)・『古道太元顯幽分屬圖説』一幅・『參考神名式』三卷・『校正諸神階記』三卷・『天津祝詞考(大祓太詔刀考)』一卷・『大祓詞正訓』折本一帖・『大祓詞再釋』二卷・『校正逸風土記』二卷・『大同本記逸文』二卷・『毎朝神拜詞記』一帖・『玉多須喜』十二卷(上木は十卷附總論追加粟田宮尊靈考一卷)・『年中神祭詞記』一帖・『神字日文傳』二卷・『□[言+爲]字篇(疑字篇)』一卷(神字日文傳附録)・『古史本辭經(五十音義訣)』四卷・『萬聲大統譜』一軸・『皇典語彙』■卷・『靈能眞柱』二卷・『赤縣太古傳(西蕃太古傳)』十二卷(上木は三卷附録一卷)・『孔子聖説考(靈知能品定)』二卷・『天柱五嶽餘論(天柱五嶽考)』二卷・『大扶桑國考(皇國異稱考)』二卷・『三五本國考』二卷・『三神山餘考(三神山考)』一卷・『皇國制度考』三卷・『赤縣制度考』三卷・『春秋命歴序考』二卷・『太昊古暦傳』四卷・『三暦由來記』三卷・○『太昊暦旋式』一軸・○『天象古説圖』一軸・○『古暦日歩式』二十卷・○『古暦月歩式』十二卷・○『終古冬至格』三卷・○『古今交蝕圍範』三十六卷附總論一卷・『前漢歴志辯』一卷・『夏殷周年表』一卷・『春秋暦本術篇』一卷(春秋命暦序考附卷)・『弘仁歴運記考』一卷・『古史年歴編』一卷・『天朝無窮暦前編』六卷・○『天朝無窮暦後編』十二卷・○『古今日契暦』初編二編凡五百卷・『幹支字原考』一卷・『牛頭天王暦神辨』二卷・『太昊古易傳(八卦稽疑傳)』四卷・『三易由來記』二卷・『欽命録(古易大象經傳)』二卷・『彖易編』二卷・『家相九説辨』三卷・『志都能石屋』五卷・『醫宗仲景考』一卷・△『金匱玉函經考文(傷寒雜病論考文)』二卷・『金匱玉函經解』三卷(傷寒雜病論集解五卷)・『醫宗脈言』一卷・○『武學本論』三卷・『鬼神新論(新鬼神論)』二卷・『俗神道大意講釋本(巫學談弊)』四卷・『印度藏志』三十卷・『古今妖魅考』五卷・○※『稻生物怪録』四卷・『三大考辯々』一卷・『天説辯々』二卷・『古學諄辭集』前集二卷・△『皇典文彙』三卷(續編二卷)・△『葛僊翁文粹』四卷・『老子經集解』三卷・『老子集語』三卷・○『玄學得門編』五卷・○『神僊教化編』五卷・○『神僊方術編』五卷・○『神僊方藥編』五卷・○『神僊服餌編』五卷・○『神僊行氣編』三卷・○『神僊導引編』二卷・○『神僊採補編』二卷・○『玄學月令編』五卷・○『家禮徴古編』五卷・○『太一循甲古義』二卷・○『五嶽眞形圖説』二卷・○『名家方函類編』十卷・○※『密法修事部類』十卷・『伊勢物語梓弓』三卷・『赤縣歴代尺圖』一枚・『古道大意講釋本』二卷・○※『歌道大意講釋本』二卷・『醫道大意講釋本』二卷・『西籍慨論講釋本』四卷・『出定笑語講釋本』四卷(三卷附録二卷)・○『蘭學用意』二卷・『六家要指論』三卷・○『師長訓』一卷・『徴古歳時記』二卷・○※『仙境異聞附再生記聞』五卷・『徳行式(五徳説)』一枚・『立言文』一枚・『呵妄書』二卷・『入學問答』二卷・『しもとのまにゝゝ』■卷・『氣吹舍歌文集』五卷・『雜考拾遺前集』二卷・『氣吹舍筆叢前集』二卷・『古今乞盗考』三卷・『五種類考』合本一卷(三五本國考附卷)・『伯家學則演義』一卷・『千嶋白浪附地圖』十卷・『天象實義』三卷・『大道或問』一卷・『悟道辨附尻口物語』二卷・『伊吹於呂志』二卷・『神道玄妙編』一卷・『本教玄妙編』■卷・『本教外編稿(本教自鞭策)』二卷・『ひとりごと(篤胤獨言)』一卷・『吉家系譜傳』一卷・『神拜詞解』■卷・『舊事紀疑問』■卷・△『赤縣太古傳成文』一卷・『黄帝傳記』三卷・△『太古昊暦傳成文』二卷・『葛仙翁傳』■卷・△『説文解字序』一卷・『古史傳外篇』■卷・△『太昊古易傳成文』二卷・『周暦明歩式』三卷・『古今星運考』■卷・『古今交蝕考』■卷・『活機方訣』五卷・『單方要集』三卷・『養生要術』■卷、他


【平田篤胤大人校閲の門人著述】

根岸延貞竝高橋正雄『天滿宮御傳記略』二卷・石川篤記『宮比神御傳記』一卷・△生田國秀『古學二千文』一卷・生田國秀『古易大象經傳』三卷・生田國秀『彖易編』二卷・川崎重恭『春の紅葉』三卷・川崎重恭『鳥おとし』一卷・川崎重恭『靈の小柱』一卷・渡邊之望『八尋矛』一卷・宮内嘉長竝石上鑑通『石笛記』一卷・小串重威『日女嶋考』一卷(三五本國考附録)・佐藤信淵『天柱記』五卷・佐藤信淵『鎔造化育論』五卷・佐藤信淵『實武一家言』■卷・佐藤信淵『農政本論』六卷・小西篤好『農業餘話』二卷・宮負定雄『農業要集』一卷・宮負定雄『民家要術』四卷・田村吉茂『農業自得』一卷・羽田野敬雄『參河國官社私考』一卷・新庄道雄『駿河國新風土記』■卷・生田國秀『三木一鎌』一卷・碧川好尚『鄭子産傳』二卷・碧川好尚『抱樸子集證』十二卷・碧川好尚『竊慰冤魂』二卷・碧川好尚『神武沿革考』二卷(武學本論附録)・△碧川好尚等『童蒙入學門』一卷・△『孫子正文』一卷・△西田直養『神代略記』一卷


【氣吹舍塾の入門素讀本】

碧川好尚等『童蒙入學門』一卷・久保季茲『古道訓蒙頌』一卷・碧川好尚『稽古要略』一卷・『荷田大人啓』一卷・久保季茲『神徳略述頌』一卷・『赤縣太古傳』十二卷・『太昊古易傳成文』二卷・『皇典文彙』五卷・生田國秀『古學二千文』一卷・渡邊重石丸『千字文』一卷・『古語拾遺』一卷・『祝詞式正訓附天神壽詞』一卷
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/16

  • [6]
  • 『古史傳』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月 9日(土)23時13分25秒
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●平田篤胤大人『古史を撰ぶ時に神等に祈願へる詞』(井原正孝・河内盛征兩翁謹輯『古學諄辭集』。稻村眞里翁『評釋近世名家諄辭集』に所收)に曰く、「

 掛けまくも畏き天つ御神千五百萬・國つ御神千五百萬の大神等の大御前を、平篤胤、四方八方に愼み敬まひ拜み奉りて、畏み畏みも白す。

 篤胤い、怯(つたな)く劣在(をぢなか)れども、加茂眞淵・平宣長等が古へ學びに功し在りし導(しるべ)に依りて、神世の御典を讀み窺ひて、天地の初發より世の間の事の有りの悉と、神等の御所爲(みしわざ)に洩るゝ事無く脱つる事無く、恩頼を蒙りて在る縁の由を、たし(=慥)み窺ひ奉り、高天原に事始め給ひし、天つ皇御祖の大神(天照大御神)の御子の命(天皇)の、彌や繼ぎ々ゞに、萬千秋の長秋に、現つ御神と大八島國知ろし看して、安國と平らけく、天の下の公民を惠み賜ひ撫で賜ふ、大道の義理(ことわり)の本根をら、畏み畏みも窺ひ得て、頂(いなだき)に尊み辱なみて在るを、其の御惠みの尊き辱なき條々(をぢゝゞ)を、言擧げせむは、不禮(なみ)し可畏し。然かは在れど、八百萬歳・千萬年と、遠つ神世の古事を、人世までに傳ふる(一云、傳ふ)と爲ては、語り繼ぎ録(か)き繼ぐ間(ほど)に、己がひきゝゝ(我が心の思ひなしより、その都合のよい勝手な方にひきつけ説くが故に)、自然らに訛(あやま)れる事の取り々ゝに出で來傳はりて(各々出來て、其の説が傳はりたれば)、何れ正しき御故事(みふること=歴史)ぞと、不明(おほゝ)しき惑はしき事の、將(は)た少な在(か)らぬを、彼れ此れの傳へ語を、かにかくに考へ別ち撰び集へて(樣々に取捨辨別し、撰び集めて)、百結び々ゞ、八十結び々ゞては(一云、てば)、千尋□[木+考。たく=たへ]繩、唯だ一條(ひとすぢ)に打ち延(は)へて、其の正語(まさごと)は正語と、滯ほり無く窺ひ悟らふべく、いかで撰び結び整へて、書き記るさま欲しく、負ふ氣無くも思ひ隱(こ)めては在れど、たやすからねば、是の年ごろ默だ在りつるに、今度び學びの徒等(ともがら)、其の事いさせと、しひいざなふが、最(い)と異(け)に所聞ゆるに依りてし、熟々に思へば、かくいざなふは、即(やが)て神等の御心なるべし。いさせむと思ひ起ちて、志せるになも。

 故れ十二月の五日と云ふ日を、生く日の足る日と撰び定め、業(こと)始め爲て、今年と云ふ年の内に限りて、夜半・曉時と休息(やすま)ふ事無く、夜・日(よるひる)知らに、一向に志して、其の大概(おほかた)をだに書き記し竟へまくとす。

 故れ辭別きて誓(うけ)ひ訴へ白さく、天つ神千五百萬、國つ神千五百萬の大神等の、幸魂・奇魂、皆な悉とに、此の處に依り賜ひ、相ひうづなひ相ひ扶け賜ひて、篤胤が明き淨き誠の心以ちて、志ざせる所爲に、御靈幸へ(一云、幸ひ)給ひ、相ひまじこり相ひ口會へ賜ひて、漏るゝ事無く過つ事無く、正語を正語と思ひ得しめ賜へ。故れ然か爲むには(篤胤が修史の業を、正しく明かに成し遂げむには)、掛け卷くも畏き大神等の幽事を、凡人(たゞびと)のたやすく顯はし申さむ事の出で來めれば、神等の大御心に、何かにかも所思ほし食さむと、恐み惑ひ棲遑(しゞま)はるれど、然か有らでは、尊き御故事の事の實のおほゝしくて、畏こくも慨(うれ)はしければ、默だもえ在らで、懼(お)づ々ゞに顯はし申す事の有らむを、罪なひ給はで、犯す事無く過つ事無く思ひ得しめ給へ。然て今ま如是(かく)始むる所業(わざ)の、神等の御心に違ひて、罪犯し在るべくは、忽然ちに篤胤が身を、惱ませ(一云、惱まし)臥(こや)し止め令め給へと白す。

 かくうづなひ言白して勤しむ日間(ほど)に、事成させ(一云、成さしめ)給はゞ、畏こ在れど、神等の御心、相うづなひ給へりと思ひ定め、大船のたゆたふ事無く、眞木柱太く心を鎭め固めて、此の學びを供(つか)へ奉りてむ。然か思ひ鎭めてば、ゆく前(さき)にも緩み怠る事無く、日夜忘るゝ事無くして、務めしまり、いさをしく、學びの所業を、己れ等、諸々同じ心に相助け相伴なひ、窺ひ悟り得しめ給ひ、神習はしめ給へと、畏み畏みも祈り祝(ほざ)き、御靈の幸を乞ひ祷み奉る(一云、奉らく)と白す」と。

○稻村眞里翁『評釋近世名家諄辭集』(昭和七年十一月・明治書院刊)に曰く、「古文をつくるに、意を用ゐずしては、たゞ古語をならぶるに止りて、あやを成さぬことあり。かくては「たゞ言」にて、文章とはいひがたかるべし。此の文の如きは、なだらかに雄々しく、おもふところ、遺るくまなく言ひ盡して、意氣凛然として、餘情つきず。波瀾あり、光焔あり。『延喜式』の祝詞以後、かくの如き名文、大人を措きて、誰かは作り出でたる。まことに大人が獨擅の技といふべし」と(件の「一云」は、稻村翁、斯文の爲の批なり)。



●新庄道雄翁『古史徴ののそへこと』(文政二年四月)に曰く、「

 吾が伊夫伎屋の平田大人の、古へ學びに長々しき事は、をぢなき身として、稱へ擧げむは、中々になめしかしこし。左にも右くにも、ひたすらに學びの祖と思ひたのみ奉りてなもある。

 然るは、往にし文化八年の十月、同じ學びの徒(とも)どち相はかりて、柴崎直古が江戸より歸るに、誘ひ奉りて吾が郷へ請ひまをして、此の國わたりの御弟子(みをしへご)ども、夜晝うごなはり侍(さも)らへるに、古へ典どもをつばらに解き聞かしめ給ひ、猶ほ惑はしき道の奧かも、ほどゝゞに辨へ諭し給へりしほどに、早くも十二月になりぬ。こゝに大人ののたまふは、「年の極ての事業しげく、春の始めの營みも爲べければ、汝たち、然るかたに勤しみてよ。余は箱根山の雪霜ふみ別けむがわびしければ、冬とも知らぬ、此の暖國に旅居して、春を迎ふべし。其れにつけては、此のほど、汝たちの請へる事によりて、おのれ早くより思ふ旨あり。何處にまれ、靜かなる家の一間なる處を」とのたまふまにま、直古が奧の一間を見立てゝ、移ろはせ參らす。

 さて「有り合ふ古へ書ども參らせよ」とあるに、鄙びたる郷の初學びのともがら、何をかは持ちはべらむ。有りふりたる書ども五部・六部、取り集へて奉るを受け取らして、「汝達は家の事業、しげかるべし。よく營みて、勿怠りそ。春を迎へて長閑にこそ」とのたまひさして、やがてさし幽(こも)り給へるは、五日の日にてぞ有りける。かくて後は、夜の衾も近づけ給はず、文机に衝き居憑り給ひてより、夜も日もすがら書を讀み、かつ筆とりておはす。朝夕の御食參らする間も、あからめもせで書讀みつゝ、文机の上にてきこしをし給ひき。然てのみおはすほど、十日まり三日四日の比とおもゆ。「かく夜ひるならべて物し給ひなば、御躯や、いたはり給ふべき。今夜よりは夜牀(よどこ)に入り給へ」と、甚く強ひ申しければ、「然らば、しばし睡(まどろ)まむ。覺むるまで、勿おどろかしそ。枕もて來」とて、頓て衾引きかづき、高息引して、うま寐し給ふほど、日一日・夜二夜、同じ御有りさまなり。餘りに長寐し給ふ事の、また心もとなくなりて、そと覺(おどろ)かし參らせければ、「勿さましそと、言ひてしものを」とのたまひて、やがて文机に居憑りて勤しみ給ふこと、前の如くなむ、おはしける。

 當年も、はや大晦日といふになりぬ。元日といふ日のつとめて、直古がり行きて、あろじと共に、おまへに出でて、年の始めの壽詞まをせば、大人は、いと早く清らに身づくろひし、御面しろくほゝゑみて、「去年とやいはむ、今年とやいはむ、今宵の丑の時の鐘打つ頃までに書きをへたる、此の書よ、汝等がねもころに請へるに、うづなひ實(まめ)だちて、さし幽りたる其の日より、年の内に書き竟へさせ給へと、神たちに宇氣比まをしたりしかひ有りげなり」とて、さし出し給ふに、まづ打ち驚きつゝ、もて退きて讀み見るに、既に請ひまをせる古へ書どもに、こゝら記せる神代の事蹟の、まことまがひを撰りわきて、其の正説をまさごとと文成し給へる一部は、すなはち此の『古史成文』。しか撰り取り給へることわりを、徴(あか)し給へる一部は、すなはち二つの卷より次々の『(古史)徴(みあかしぶみ)』なりけり。また『靈の眞柱』といふをさへ著はして、道の奧かを示し給ふ」と。



●大學大博士從五位・侍講・大教正・平田銕胤翁『大壑君御一代略記』に曰く、「

 文化八年十二月初め、密かに駿河國に行きて、府中なる柴崎直古が家の一間に籠りて、『古史成文』を撰み玉ひて、『古史徴』等の草稿成れり。‥‥同九年、『古史傳』の草稿をも初め玉へり。‥‥文政八年、古史神代の傳、大抵草稿成れり。‥‥『古史傳』は、最第一の書なるが、神世三十卷計りの中に、撰述の遲速、考説の精粗も有り。自づから書中、文脉の異なるも有ることなるを‥‥まづ第一段より十段邊りまでは、文化九年頃、初稿成りたるを、文政五六年頃に至り、一と通り書改め玉へる也。同十一段より第六十段邊りまでは、文化十年頃より文政元年頃までに、次々書き玉へる初稿の儘ま也。又た文政三四年頃には、『印度藏志』・『妖魅考』など、專らと書著し玉へりき。斯くて其の時々に考得玉へる説ある時は、其の處々に書入れ改め玉へるも有るに依りて、其の前後、文章の昭應せざるも間あり。豫ねては『赤縣太古傳』・『印度藏志』等、凡て外國の古傳説を詳かに探索考究して、其の成りたる上に、『古史傳』は、悉く考證精撰し玉ふ可きことに定め置れたるを、其の事迄に至らざりしは、甚とも々ゝゝ口惜きことにこそ。然れば後に成たる『天朝無窮暦』・『古史本辭經』は更なり、其の餘、『赤縣太古傳』及び易・暦の著述等は、却りて『古史傳』より考證の委きこと多し。然れば皇國神代の眞古傳の、彼に依りて其の深旨を伺ひ得ることも少からざるなり。此は讀む者、必ず心得居るべきことなる故に、因みに爰に記し出せるなり」と。

○自第一卷、至第一卷は、自第二十九卷、至第三十七卷は、矢野玄道翁續考・平田銕胤翁檢閲(百四十四段の半ば・百四十五段・自第三十二卷百五十段、至第三十七卷百六十五段)。
自第三十二卷は、篤胤大人遺稿、玄道翁謹撰。上木は至第三十一卷[門人井上頼圀翁の云く、「此の卷を櫻木に彫せたるは、信濃國伊那郡なる實行教の會員なり」と]。
至第三十二卷百四十九段は、明治二十年出版。
自第三十二卷第百五十段、至第三十七卷第百六十五段は、大正二年、全集にて刊行。
『古史傳』二十九卷上(神代下卷九上)に、「銕胤の云く、第一段より百四十三段までは、悉く傳あり。百四十四段は半ば有り。百四十五段は闕け、百四十六段より百四十九段までは、又た傳あり。その以下に、凡て缺きたり」と。



●平田篤胤大人『弘仁歴運記考』に曰く、「

 決め難ねつれば、毎もかく苦しき瀬には行ふ如く、久延毘古神(天勝國勝奇靈千憑毘古命)に祈りて寢たるに、夢現の間に、『萬の大數を捨て、千の小數を取れ』と告ぐる聲、しきりに響き聞えたり。此は實に天保二辛卯年の九月朔日の夜の事にて、素より神の照覽はし給ふ所なり。此の事のみに非ず。己が考へには、往々かゝる夢想の事あり。『管子』の内業心術などの篇に、「之を思へ、之を思へ、又た重ねて之を思へ、之を思ふて通ぜざれば、鬼神、將に之を通ぜむとす。鬼神の力に非ず、精氣の極也」と云へるが、かゝる事にや。‥‥本文の小數たる二千四百七十餘歳(『帝王編年記』云、神武天皇御宇七十六年、或は七十九年。『天神祇王代記』云、天祖の天降以來、神武天皇に至り、合せて壹百七十九萬二千四百七十九年)は、天祖降臨辛酉年より、神武天皇の崩御までを數へたる、實數の古説なること疑なし」と。

○愚案、然らば平成二十二年は、即ち天降五○七○年ならむ。

  • [5]
  • 『毎朝神拜詞』改正。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 1月 5日(火)23時18分56秒
  • 編集済
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●神祇伯・資敬王『毎朝神拜詞記の序』に曰く、「

 我が國は、神の生み成し給へる御國、人種(ひとくさ)も神の裔(すゑ)にし有れば、宇宙、擧りて神國とぞ稱(たゝ)へける。然れば御代々々の天皇命の、神祇を祭り給ふは、天の下、治め給ふ御政の本にて、其の儀式の嚴重なる事、古典に見えたるが如し。斯くて庶人も程々に、其の祖たる神たちを齋き祭りけるを、三栗(みつぐり)の中世より、諸蕃の道々弘ごりて、其の本たる神をば神と思ひたらず、世の中も亂れに亂れて、神祇官も古への如くならざれば、況して庶人の神事の祖略に成りたるは、言ふも更なり。然るを今ま二百餘年、天の下、愛でたく治まれるに依りて、よろづ古へに復れる中にも、去にし文化の頃より、平田篤胤と云ふ者出て、其の師・本居宣長の教へを受けて、神祇の學に仕へ奉り、種々の書ども著せる中に、古風の拜式を教へたる『毎朝神拜詞記』と云ふ物あり。又た其れを詳かに講明せるを『玉襷』と名づけたるが、共に最も正しき書にして、實に古風は斯くこそ有るべけれ。然れば我が祖父の君の御代より、此の道の學師に任せ給ひて、神職らにも其の道を説き聞かしめ、庶人も古風の拜式を心得て、次々我が道の明かに成りぬるは、專らこの篤胤らが功にぞ有りける。世々其のつかさ承れる身の、此れを悦び思はざらめや。誰かは此の功を稱へざらめや。故れこの由を、一言かき與ふるになむ。

 嘉永三年三月
  神祇伯・資敬王(花押)
       平 延胤、謹みて臨寫す」と。



●平田篤胤大人『毎朝神拜詞記』抄(明治六年十二月・平田銕胤翁改刻版。相原修氏校訂『毎朝神拜詞記』・平成十四年二月・平田篤胤翁顯彰會刊・相原修氏覆刻)に曰く、「

○朝、早く起きて、貌・手を洗ひ、口を漱ぎ身を清めて、まづ皇都の方に向ひて、愼み敬ひ、平手を二つ拍ち、額突きて、畏み畏み奉るべし。

【第一】皇居(おほみもと)を拜み奉る事[詞は、各々心々に申すべし]。

○次に家に齋き奉る神等の御棚の前に向ひ、平手を二つ拍ち、額突き拜みて。

【第十七】此れの神牀に神籬立てゝ、招請(をき)奉り坐せ奉りて、日に異(け)に稱(たゝ)へ辭竟へ奉る。伊勢兩宮の大神を始め奉り、天つ御神八百萬・國つ御神八百萬の神等、大八嶋之國々・島々・所々之大き小き社々に鎭まり座し坐す千五百萬の神等、其の從へ給ふ百千萬之神等、枝宮・枝社之神等、曾富登神の御前をも、愼み敬ひ、過ち犯す事の有るをば、見直し聞き直し坐して、各も々ゝ掌り分け坐す御功徳の隨まに、惠み賜ひ幸はへ給ひて、神習はしめ、道に功績を立てしめ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

○次に代々の祖等の靈屋に向ひ、常の神拜の如く拜みて。

【第二十八】遠つ御祖の御靈・代々の祖等・親族の御靈、總て此の祭屋に鎭ひ祭る御靈等の御前を、愼み敬ひ、家にも身にも、枉事有らせず、夜の守り・日の守りに、守り幸はへうづなひ給ひ、彌孫の次々、彌や益々に榮えしめ給ひて、息内(いのち)長く、御祭り善(うる)はしく仕へ奉らしめ給へと、祈り白す事の由を、平けく安けく聞こし食し、幸へ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

○かく白し竟へて頭を上げ、また平手を二つ拍ちて、額突き拜む事、上の件り々ゝの如し。但し穢れに觸れたらむ節は、禊事を行ふまで、神拜、凡て遠慮すべし。然れど先祖の拜のみは、闕くべからず。

 此の『折本』(をりまき。『毎朝神拜詞記』)に記せる詞どもは、己れ(平田篤胤先生)に從ひて古への道を學ぶ徒の、「朝ごとに、何れの神々を拜みてば善けむ。また其の御前に白す詞を、古へ風(ざま)には、いかに白して宜からむ」と、先づ問ふ人に傳へむとて、故き鈴の屋の大人の神拜式、また己が常に拜み奉る拜式をも、取り合はせて記せるなり。

 抑々神拜は、人々の心々に爲す態(わざ)なれば、必ずしも斯くの如くせよと言ふには非ず。然れば其の詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、其の人の好みに任すべし。また公務の勵しき人、或は家業の、いと鬧(いそが)しくて、許多(こゝら)の神々を拜み奉るとしては、暇いる事に思はむ人も有りぬべし。さる人は、第一の『皇居を拜み奉』り、第十七なる『家之神棚を拜む詞』と、第二十八なる『先祖の靈屋を拜む詞』とを、其の前々に白して拜むべし。其は第十七の詞に、「伊勢の兩宮の大神を始め奉り」云々と云へるに、有ゆる神等を拜み奉る心はこもり、第二十八の詞に、「遠つ御祖の御靈・代々の祖等」云々と云へるに、家にて祭る有ゆる靈神を拜む心を籠めたればなり。猶ほこれに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし。

 偖てこの上の件り々ゝの詞どもの意(こゝろ)、また其の神々の御傳へ、また神を拜む心ばへ、また神の御道に習はむ人の常の心むけなどの事は、別に『玉太壽喜』といふ書(ふみ)を著はして、此の詞どもを、委しく註(しるべ)せるにて見るべし。

 文化八年辛未正月
  平田篤胤(花押)」と。



●平田銕胤翁『毎朝神拜詞記の跋』(明治六年十二月版。相原修氏覆刻)に曰く、「

 我が父の、此れの『神拜詞記』を始めて撰まれたるは、去にし文化の初め頃なりしが、此を弘く世の同じ學びの徒に傳ふべく成りたるは、同じ文化の十三年と云ひし年に、渡邊之望が勞きて、板に彫(ゑら)しめたるよりの事なるが、次々に數千(やちゞ)の卷を摺り出でたるに、片假字の磨り滅(き)えたる處も出來、はた素より詞の少く、心ゆかぬ事も有るなりとて、父の豫ねて正し補はれたる本(まき)の有りけるを以て、文政十二年と云ひし年に、宮負定雄・金杉常長らが計らひて、彫り改めたり。

 然るに又た年ふる儘に、此のわざ仕へ奉る人の彌や増すにつきて、摺り本の數多く、是れはた磨滅も見えたれば、初ひ學びの輩の、唱へ誤らむ事をし、危ぶみ思ふ時しも、この四月の初めがた、歴世(みよゝゝ)神事の宗源(もと)しろし看す神祇伯王の、此の卷と、『玉襷』の書とを稱め給ひ愛で給ひて、御序文をしも賜はりたるに、此の詞等も、一段(ひときは)光り添はりて、靈幸ふ神々たちも、いよゝあはれと聞こしめし受けたまひ、わが古へ學びも、彌増々(ますゝゝ)に榮え行くべく思ゆれば、嬉しさ辱なさ言はむ方なく、いかで又た能く彫り改めて、詞の紛亂(まぎれ)あらせじと、己れ齋(ゆま)はり愼しみて、筆取りつゝ、板下(ゑりした)書き成し、やがて其の工人・木邨房義に誂(あとら)へて、かく鮮明かに彫らしめつ。

 抑々大皇國の人の、神の御末なる事は云ふも更なり、現身の世に在る、衣食住の道をはじめ、一つも神の賜物にあらざるは無し。されば神拜は、少(いさゝ)かも其の御惠みに報い奉る業なれば、此を勤めざるは、其の御めぐみを思はざるにて、人の道に非ざるぞかし。吾が輩(とも)の人々、よく勤むべし。あなかしこ。

 嘉永三年庚戌六月
  平田銕胤、謹みて白す。

 此の『神拜詞記』は、上に記せる如く、文化の末頃より、次々訂正して、世に弘むる事と成り、徳川氏執政中は、其の儘にて用ひ來れるが、御維新に就ては、改正すべき事なれば、其の詞ども書き取りて、伺ひ出でたるに、然るべき由にて、明治元年戊辰十月廿九日、皇學所に於て、外上木物一同、流布の官許を蒙れり。然れば其の後、自からは改めて唱えへしかども、上木は事多く、思はずも遲延に及びたるを、今ま茲に、かく改刻成りたるなり。時は、
 明治六年癸酉十二月
  平田銕胤、記す」と。

  • [4]
  • 『毎朝神拜詞』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年12月20日(日)23時43分10秒
  • 返信
 
●平田篤胤大人『毎朝神拜詞記』抄(文化十二年頃)に曰く、「

○朝、早く起きて、貌・手を洗ひ、口を漱ぎ身を清めて、まづ家に齋き奉る神等の御棚の前に向ひ、平手を二つ拍ち、額突き拜み奉りて。

【第十四】此れの神牀に神籬立てゝ、招請(をき)奉り坐せ奉りて、日に異(け)に稱(たゝ)へ辭竟へ奉る。伊勢の兩宮の大神を始め奉り(一云、て)、天つ御神八百萬・國つ御神八百萬の神等、大八嶋之國々・島々・所々之大き小き社々に鎭まり座し坐す千五百萬の神等、其の從へ給ふ百千萬之神等、枝宮・枝社之神等、曾富登神の御前をも、愼み敬ひ、過ち犯す事の在るをば、見直し聞き直し坐して、各も々ゝ掌り分け坐す御功徳の隨まに、惠み賜ひ幸はへ給ひて、神習はしめ、道に功績を立てしめ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

○かく白し竟(を)へて拜み、次に代々の祖等の靈屋に向ひ、平手を二つ拍ち、常の神拜の如く拜みて。

【第二十五】遠つ御祖の御靈・代々の祖等・親族の御靈、總て此の祭屋に鎭ひ祭る御靈等の御前を、愼み敬ひ、家にも身にも、枉事有らしめず、夜の守り・日の守りに、守り幸はへうづなひ給ひ、彌孫の次々、彌や益々に榮えしめ賜ひて、息内(いのち)長く、御祭り善(うる)はしく仕へ奉らしめ給へと、祈み白す事の由を、平けく安けく聞こし食し、幸へ給へと、畏み畏みも拜み奉る。

○かく白し竟へて頭を上げ、また平手を二つ拍ちて、額突き拜むこと、上の件の如し。但し穢れに觸れたらむ節は、禊事を行ふまで、神拜、すべて遠慮すべし。然れど先祖の拜のみは、闕くべからず。

 此の『折本』(『毎朝神拜詞記』)に記せる詞どもは、己(平田篤胤先生)に從ひて古への道を學ぶ徒の、「朝ごとに、何れの神々を拜みてば善けむ。また其の御前に白す詞を、古へ風(ざま)には、いかに白して宜からむ」と、先づ問ふ人に傳へむとて、故き鈴の屋の大人の神拜式、また己が常に拜み奉る拜式をも、取り合はせて記せるなり。

 抑々神拜は、人々の心に爲す態(わざ)なれば、必ずしも斯くの如くせよと言ふには非ず。然れば其の詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、其の人の好みに任すべし。また家業の、いと鬧(いそが)しくて、許多の神々を拜み奉るとしては、暇いる事に思はむ人は、第十四なる『家之神棚を拜む詞』と、第二十五なる『先祖の靈屋を拜む詞』とを、其の前々に白して拜むべし。其は第十四の詞に、「伊勢の兩宮の大神を始め奉り」云々と云へるに、有ゆる神等を拜み奉る心はこもり、第二十五の詞に、「遠つ御祖の御靈・代々の祖等」云々と云へるに、家にて祭る有ゆる靈神を拜む心を籠めたればなり。猶ほこれに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし。

 偖てこの上の件々の詞どもの意(こゝろ)、また其の神々の御傳へ、また神を拜む心ばへ、また神の御道に習はむ人の常の心むけなどの事は、別に『玉太壽喜』といふ書(ふみ)を著はして、此の詞どもを、委しく註せるにて見るべし」と。



●平田篤胤大人『毎朝神拜詞』(文政四年改定。明治二年七月・平田銕胤翁追記版『玉襷』附録。井原正孝・河内盛征兩翁謹輯『古學諄辭集』。稻村眞里翁『評釋近世名家諄辭集』に所收)に曰く、「

 是れの神床に神籬立てゝ、招請奉り坐せ奉りて、日に異に稱へ辭竟へ奉る。掛け卷くも畏き、天之御中主大神、高皇産靈・神皇産靈大神を始め奉り(一云、て)、天つ御神八百萬・國つ御神八百萬の神等、大八島之國々・島々・所々之大き小き社々に鎭まり座し坐す千五百萬の神等、其の從へ給ふ百千萬之神等、枝宮・枝社之神等、一柱も漏れ落ち給ふ事なく、辭別きては、幽事(かくりごと)知ろし看す大國主神・大國魂神・大物主神、醫藥(くすし)之術(みち)と咒禁(まじなひ)之術(わざ)とに(一云、を)幸はへ賜ふ少毘古名神、別には眞薦苅る信濃國いつ速き淺間山に鎭まり坐す磐長比賣神に副ひて守らす日々津高根王命を始めて、天翔けり國翔ける諸蕃(から)・倭(やまと)之山人等、總べて世に在りとし在る諸々之御靈等之正しき限り、一柱も漏れ落ち給ふ事無く、有ゆる大神等・御靈等之盡(ことゞゝ)、招き奉るまにゝゝ、奇靈神憑り幸へ給へと坐せ奉りて、天勝國勝奇靈千憑彦命と稱へ名負ほひ奉る曾富登神、亦た名は久延毘古命の御前に、平阿曾美篤胤、齋み清まはり、赤き清き心計りの禮代(ゐやじろ)と、御酒・御饌・御毛(みも)ひ獻りて、鹿(かこ)自物膝折り伏せ、鵜自物項根(うなね)突き拔き、愼み禮まひ拜み奉りて、畏み畏みも白す。

 過ち犯す事の在るをば、見直し聞き直し給ひ、罪・怠り有るをも、宥め給ひ許し給ひて、此の獻る物等(ども)、受け給ひ、今ま祈ひ願み白す事等を、平らけく安らけく聞こし召せと白す。

 篤胤い、怯(つたな)く劣在(をぢなか)れども、賀茂縣主眞淵・平阿曾美宣長等が、古へ學びに功績(いさをし)在りし導(しるべ)に依りて、神世の御典(みふみ)を讀み窺ひ奉りて在るに、天地の初發の時に、高天之神祖(かぶろ)天御中主大神、高皇産靈・神皇産靈大神、高天原に事始め給ひて、神伊邪那岐・伊邪那美命に、「是の漂在へる國を修り固め成せ」と、天瓊矛を(賜ひて)事依さし賜ひ、

 伊邪那岐・伊邪那美二柱大神、其の瓊矛を指し下し、畫き成し給ひて、淤能碁呂島に、天之御柱・國之御柱と見立て給ひて、八尋殿を化作(みた)て給ひ、妹□[女+夫](いもせ)二柱、所(と)就き給ひて、大八島の國々・島々を生み給ひ、青人草の始祖(おや)神等を生み給ひ、萬の物をも生み給ひ、青人草を惠み給ふと、諸々の神等を生み給ひて、其の御態(みわざ)を別け依さし給ひ、萬之事を始め給ひて、爲しと爲し勤しみ給へる事毎とに、天つ皇祖神等の大御心を御心と爲て、青人草を惠み給ひ愛はしみ給ひ、彌や益々に蕃息(うまは)り榮ゆべく、功竟へ給へるを始め(一云、て)、

 天照大御神、其の御業を受け持ち給ひて、天つ御國知ろし看し、穀つ物の種等(ども)御覽(みそな)はして、「此の物等は、宇都しき青人草の食ひて活くべき物ぞ」と、詔り給ひて、殖ゑ生ふし賜ひ、天之下の荒振る神等(ども)を、神攘ひ々ゝ給ひ、語問ひし岩根・木根立ち・草の片葉をも語止めて、幽冥事は、八百米杵築之大神に、言依さし治らしめ給ひ、皇美麻命を、天つ高御座に坐せ奉り給ひて、「萬千秋の長秋に、大八島を安國と平けく治め給へ」と、天降し任(よさ)し奉り、顯明事(あらはごと)知ろし看さしめ賜へりし時に、神魯伎・神魯美命の御言依さし坐せる、天つ祝詞の太祝詞に依りて、皇美麻命の御世々々、天つ神社・國つ神社を齋ひ、神祭りを專らと爲て、天の下を治め賜ひ、人民(おほみたから)を惠み給ひ撫で給ふ事なも、天つ皇祖之大神の御傳へ坐せる大道の根元にて、

 其の御任さしのまにゝゝ、天つ神・地つ祇等、受け持ち給ひて、世の中の事の有りの悉々、神之御業に、洩るゝ事無く脱つる事無く、廣き厚き恩頼を蒙ふりて在る縁由(ことのもと)を、たし(=確か)に窺ひ得て、頂(いなだき)に尊とみ辱けなみて在るを、

 中御世より、外つ國々の横趣(よこさ)の説等傳はり來て、世人の心、漸くに其の方風(かたざま)に移ろひて、異しき卑しき蕃神(からがみ)をら、專らと齋き、高く尊とき皇神等の御靈に依りて、其の御道の中に生れて、食し物・衣物・住む家等、爲しと爲す事毎とに、大御惠みを蒙ふりつゝも、然かは思ひ奉らず、神の道を□[三鹿]略かに思ひ居る人、多はに出で來て、神事(かむわざ)仕へ奉る事の廢れ以て來て、天つ神社・國つ神社も衰へ坐せるに依りて、皇神等は、彌や放(さか)りに放り坐して、在し坐さぬごと隱ろひ坐し、蕃神は所を得つゝ大神僭(ごろ)ひて、世の人を欺く事の懷悒(いきどほ)ろしく慷慨(うれた)く(一云、て)、身に敢へぬ態には在れど、神の御典を熟く解き明かして、世の人に普ねく、大神の御徳みの辱けなき本の由緒(いはれ)を知らしめ、靈の眞柱立ち固めしめて、猶ほ此の後も、何か樣の異しき説等、蔓り來とも率(まじこ)らせじと思ひ興して、往にし文化八年と云ふ年の十二月より、間無く閑無く、今日の活く日の足る日まで、心は緩み怠る事無く、此の學びを勤しみ仕へ奉らむと、志ざし侍ふになも。

 今ま招き奉り、稱へ辭竟へ奉る、天地之御神等・御靈等、一柱も漏れ落ち給ふ事無く、此の神床に神集ひ々ゝ給ひ、平らけく安らけく御座し坐して、神魯伎・神魯美命の、高天原に始め賜ひし事を、天地の大神等、神隨らも知ろし看して、任(ま)けのまにゝゝ幸はへ坐し、荒振る神等・御靈等は、皆な御心を直し和ごし坐して、善はしき御心、振り起こし給ひ、中つ御世より、人の隨意(まにま)に行はしめ、或は神隨らも宥め給ひて、用ひ給へる蕃國々の事等の、神魯伎・神魯美命の道に、違へる非が事は、糺し改め退け給ひ、

 天地の大神等、神世のもころ(=如く)、大御稜威を振ひ給ひ、各も々ゝ掌り別け給ふ功徳(みいさを)の任(まにま)に、相うづなひ相まじこり相口會へ給ひて、前に神之道を知らざりし程に、過ち犯せる種々の罪・怠り・穢れ、今も仍(な)ほ日々に失ち犯す事の在るをば、見直し聞き直し給ひ、宥め給ひ許し給ひ、拂ひ清めしめ給ひて、古る語等は、漏らす事無く過つ事無く、正語を正語と思ひ得しめ給ひ、説き誤れる事有らば、次々に思ひ得て改めしめ給ひ、足は行(あ)りかねども、天の下の事等、盡とに知らしめ給ひ、外つ國説にまれ、正説は正説と、□[手+庶。ひろ]ひ得しめ給ひ、

 高天之神祖の神之産靈に造り給ひ、其の御靈を分け賦(たま)へる御末奴と爲て、其の道好む性と在らしめ給ふ事は、頓(やが)て神の如此(か)く使ひ給ふ事となも思ひ奉るに、掛け卷くは畏こけれども、吾が魂は、頓て神の分靈(わけみたま)にし在れば、幽事・神事をも、知らるゝ限りは知らしめ給ひて、此の世ながらに、神にも見え奉り、世の爲め道の爲めに、祈りと祷る事等、爲しと爲す術等、神習之術・醫藥之術・咒禁之術を、悉とに神術なす、いづ速き驗し有らしめ給ひて、普ねく人の災難ひを救はしめ給ひ、所有ゆる妖物も、形隱くし敢へず、恐ぢ怖れしめ給ひ、我れ無く、一向きに歸順(まつろ)ひ奉り仕へ奉れば、此の躯(み)、即ち奇靈千憑彦命に等し(一云、等しきが故に)。大神等・御靈等、常に請ひ呑み奉る隨まに、靈幸へ(一云、ひ)坐し、神憑り坐して、其の御徳(みいつ)に似(あ)えしめ給ひ、

 大神等の御靈之幸、請ひ奉ると、御前に捧げて、日毎とに給はる活く藥の驗し炳焉(いちじ)ろく傳へ給ふ隨まに、躯を健然かに病しき事無く煩はしき事無く、彌や若えに若えしめ給ひて、堅石に常石に、世に弘く功成し竟ふるまで、世の長人と在らしめ給ひ、

 學びの業を、彌や奬めに進め給ひ、彌や助けに扶け給ひて、むくさかに榮えしめ給ひ、五百卷・千卷の書等、言美はしく、義理正しく記し得しめ給ひ、爲す事・言ふ事、悉とに愛で敬まはしめ給ひ、外つ國學びの妄(ねぢ)け曲れる徒(ともがら)の邪説(よこさまごと)は、次々に問ひ和はし言向けしめ給ひ、此の正道に赴かしめ給ひて、諸々同じ心に神習はしめ給ひ、仍ほ神之道に歸順はで、四方四隅より荒び疎び來む妖鬼・枉人は、速かに追ひ退(そ)け罰(きた)め給ひて、例しの隨まに、豫美つ國に逐らひ下し給ひ、大神等の御稜威を、世に炳焉るく知らしめ給ひ、書き著はさむ書等を、あぶさはず(=餘さず)形木の板に彫り成して、世に弘めしめ給ひ、治まれる御世の祥(しるし)に、神世の由緒を、普ねく廣く滯ほる事無く、善はしく世に解き明かさしめ給ひ、世人盡とに、正しき直き古へ意に復へらしめ給ひ、仍ほ其の書等を、最(いや)高き雲の上にも、世を爲政(まつりご)ち給ふ公(きみ)の邊にも、伊吹き擧げしめ給ひ、

 廣き厚き御徳みの公心(おほやけごころ)に、庸夫(たゞびと)の思ひをも、徒だには捨てじと、採り用ひ給ひ、神世の由縁を所思ほし坐して、次々に廢れたる神事を興さしめ給ひ、衰へ坐せる社々の千木高く擧げしめ給ひ、古への道に復へし給ひて、無窮(とこしへ)に君と臣との御中、彌や睦びに親び、榮えしめ給ひ、

 此の功績を以ちて、罪・怠り・穢れ・犯しの有るをも、宥め給ひ恕し給ひて、大神等の御恩を報いしめ給ひ、功成し竟へて、現世を罷れる後の魂の行方は、定まりのまにゝゝ、産土神等、事執り給ひて、一向きに幽事知らせる大神の御許に參り仕へ奉らしめ給ひ、大神の御後へに立ちて、天上(あめ)に復命(かへりごと)白さしめ給ひ、彌や益々に正しき直き太心を固めしめ給ひて、動く事無く、天地の有らむ限りの後の世の次々も、現世に立てむ功績の隨まに、神世の學びを世人に幸はへしめ給ひて、邪さの道を、糺し辨へ、伊吹き拂ひ平(む)け退くる態に、仕へ奉る神と成らしめ給へ。

 又た其れに就きては、常も家内(やぬち)の者共、朋友(ともがき)・親屬(うからやから)・教へ子等の、萬の枉事・罪・穢れをも、拂ひ給ひ清め給ひて、病しき事無く煩はしき事無く、睦び親しみ、諸々義理に叶へる願ぎ事共は、幸はへ給ひて、同じ心に、大神等の大道を説き弘むる功勞(いたづき)を、扶けしめ給ひ、御歳豐かに、世の富み世の饒はひをも、足らぬ事無く得しめ給ひて、人多はに養はしめ給ひ、神習はしめ給へと、

 日は異(かは)れど、心・言は違へず、清き赤き心のまにゝゝ、僞はらず飾らず、祈り祝(ほざ)き、請ひ願ぎ奉る事の由を、天御柱・國御柱命、御息の共(むた)、走せ出づる駒の耳、彌や高に、天つ神は、天之磐門を推し披きて聞こし食さしめ、國つ神は、高山の伊穗理・短(ひき)山の伊穗理を掻き別けて聞こし食さしめ、天翔けり國翔ける山人等・諸々之御靈等、天勝國勝奇靈千憑彦命に聞こし食さしめ給へと、畏み畏みも白す」と。

○稻村眞里翁『評釋近世名家諄辭集』に曰く、「姿雄々しく麗しく、議論縱横、祈願の處には、間々くだゝゞしからずやとおぼゆる節もあれど、眞に人の耳目を聳動して、志氣を振興せしむるに足れり。皇國の大道を説きて、百千の論敵を物の數ともせず、天下の人心を鼓舞せられけむ、大人が當時の意氣、想ふべし」と(件の「一云」は、稻村翁、斯文の爲の批なり)。



●平田篤胤大人『仙境異聞』(仙童寅吉物語)に曰く、「

 問ふて云はく、「神拜する仕方は、いかに。拍手を拍つか」。

 寅吉の云はく、「拍手をうつに、『天の御柱』と云ひて大きく一つ拍ち、『國の御柱』といひて小さく一つ拍ちて、『八百萬神たち、これによ(憑)り給へ』と唱へて祈願を爲すなり。祈願をはりて後に、『國の御柱』といひて小きく一つ拍ち、『天の御柱』といひて大きく一つ拍ちて、『八百萬神たち、もとの宮へ歸り給へ』と唱ふ。神拜に、『天の御柱・國の御柱』といへば、神々へ祈願よく屆きて、聞き入れ給ふなり。

 また『日向の御柱』、これは身そゝぎの時、唱ふることあり。これは清めなり。『出雲の御柱』とも唱ふることあり。これは大社大國樣の御事なりとぞ」。」と(愚案、是れ幽界――山人界の中でも高き正しき界にての見聞漏傳にして、現界にて果たして宜しきや否やは、遺憾ながら存じ奉らざるなり)。



●皇學所神殿の諸神合祭の祭神(明治元年十二月十三日遷座式・京都二條家に再興皇學所。玉松操・平田銕胤・矢野玄道等。尾形裕康博士『學制成立史の研究』に所收)

【中央】天御中主大神・皇産靈大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・天照皇大御神・須佐乃雄大神・御代々々天皇(命)及び大后・御子命等

【左】風神・火神・金神・水神・土神・大雷神・大山祇神・高雷龍神・祓戸神・海神・豐受毘賣大神・大汝命・少汝命・言代主神、天神地祇八百萬之神

【右】武御雷神・經津主神・八意思兼神・五伴緒神・大伴佐伯物部八十伴緒神等・大命齋部神・菅原神・大江神等・久延毘古神

  • [3]
  • 山に住む 人ぞかしこき きたなけく 陋しき人の 多かる思へば

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年12月16日(水)23時28分51秒
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●平田篤胤大人『勝五郎再生記聞』に曰く、「

 凡て世に、くさゞゝ聞こゆる奇しき事どもに、信ずまじきあり、信ずべきあり。信ずまじきを信ずるは、尋常の人なり、信ずべきを信ぜざるは、漢國意に化(うつ)れる人にて、共に思慮の至らざるなりけり。然れば此等の事ども、其の人に非ざるには、謾りに語るべからぬ事なれど、然のみは默止しがたくてなむ」と。



●平田篤胤大人『信濃國淺間山』に曰く、「

八隅しゝ わが大君 高光る 日の御子の 天地 日月と共に 限りなく、知し食しける(一云、高知りいます) 細矛、千足國中に 神ろぎの 大山祇の いさをしく 國の鎭めと 神ながら 竝みたて坐せる 山はしも 多には有れど(一云、多かる中に) ちはやぶる 淺間の嶽は 眞薦かる 信濃の國の 國中に 神さび立てり 此の國は 國ちふ國の 其が中に 日高見の國 國中の 山にしあるを 此の山は その山國の 上にしも 立てし有れば 山の上の 山なる故に 此の山を さしも高しと 人知らず また此の山に 神ながら います神をも 尊しと 人は思はず 其の神を 尋ねも問はず 夕月夜 おほに過ぎぬれ 此れをしも あやに慨たみ 師木嶋の 倭の國は 言擧げせぬ 國には有れど 此を思ひ 吾は言擧す 此の山の その石根はも 大地の そきへの極み 蹈み凝らし 其の高根はも 足引きの 山のまほらと 天雲の そらかき分けて 進(そゝ)り立ち 高くたふとく 時じくに 烟たち立つ こゝをしも 阿夜に向しみ 靈幸ふ 神世おもへば 此の山に おはす神はも 人の世を 堅磐常磐に 榮えしめ 惠まひ給ふ 山の神 大山祇の 宇都の御子 石長比□[口+羊](壽神)の 常しへに 在ます御山は(一云、ぞ) 見れどあかぬかも

○反歌――四十ぢまり四つのよはひをもゝかへり
いつ速き 淺間の山は 神柄か 分けてかしこく(一云、長く) 思ほゆる哉



●『日々津高根王御神之神影』贊辭(平田家祕藏・一本近江神宮横井時常翁祕藏。毎年四月八日に奉祭)に曰く、「

 眞薦苅る信濃國、千早振る淺間の岳に常石に坐せど、赤玉の御赤らひまし、白玉の御白髮まさで、青玉の瑞の吉玉の行相ひに、靈幸へます日々津高根王御神の、面足らず、稜威の御かた、阿夜かしこ。

 うらがき(由來記)に曰く、これの像はしも、己いとせちに、うつし傳へまほしくて、寅吉にそのさまを探ぬれど、決めて云ふまじき定めなりとて、假そめにも言はざりしを、なほねもごろに、此の神にも願ぎ白し、種々に心を用ひて、問ひあなぐりしかば、神の許したまへると覺しくて、うづなひ、みづから筆をとり、日あまた勞きて、たゞに見知り奉れるまにゝゝ、大かたを成せりしを、畫師どもに誂へたるに、みな寅吉の言のごと、かき得ざれば、阿野宗道の心つきて、芦澤洞榮老翁を伴ひ來て、かゝしめたるに、速かになも成れりける。寅吉見て、たゞにその面を見つるごと、かき得たりと、歡ぶにぞ。老翁に、然らば例のごと、名印を記してと云ふに、辭みて、今まで人の肖像を圖せること許多あれど、かく速かに成れることなし。殊にこは、我が見知らぬ御顔なれば、童子の心にかなへて、かき得べくも非ず。然るにかく心に應へりとて悦ぶこと、實には我がかけるには非ずて、君の厚き心に、神のめでたまひて、童子に神懸りして、そのさまをさとし、我が手をかりて、かゝしめたまへると思はるれば、あなかしこ、わが圖せるとは云ふべからずとて、記さず。こゝに己もさとることに覺えて、かしこみゝゝゝゝ贊辭を記して、その由をうらがきに記せるなも。なほ委しくは、寅吉がこと記せる物語ぶみを見て知るべし。

 文政四辛巳年四月
  平篤胤(花押)」と。



●平田篤胤大人『仙境異聞』に曰く、「

 仙童寅吉の云く、我が師は、釋迦よりも遙か前より世に存へ給ふが、常の物語を聞くに、佛道といふ物は愚人を欺きて、釋迦の妄りに作れる道なりと聞きたり。‥‥何處ならむ、いと寒き所にて、見事なる筒袖の服物を着たる國に一寸行きたりし時、其處の人々、然る類の本尊を、各々もち齋きて有りき。師は然る物を見るごとに、唾をしかけらるゝ故に、其の由を問ひしかば、此は切支丹と云ふ邪法の本尊なり。日本にては堅く禁制の事故に、唾をしかけたるなりと言はれき。‥‥

 我が師の本山は、信濃國淺間山なれど、常陸國なる筑波山、また岩間山にも住み、或は諸越、その外の國々の山に住める事も有り。すべての山人、此の如し。‥‥師は、彼の山に住して守護せらるれば、彼の神に仕へ奉らるゝ謂れなり。鎭坐まします神の御名は聞かざれど、姫神にて、富士山の神の、御姉神に座せど、御同體とも拜すと云ふ事は聞きたり。‥‥

 我が師の如きも、山に住む故に、山人とは稱すれども、眞は生きたる神にて、佛法なき以前より、現身のまゝ世に存し、神通自在にして、神道を行ひ、其の住する山に崇むる神社を守護して、其の神の功徳を施し、或は其の住する山の神とも崇められて、世人を惠み、數百千萬歳の壽を保ちて、人界の事に鬧(さわ)がしく、かつて安閑無事には居らざる物なり」と。

○寅吉――同書に云く、仙名は高山嘉津間。越中屋與惣次郎の二男、文化三寅年十二月三十寅日朝七ツ寅刻生、車屋と號す。後ち蛭子流神道・筑波六所社人白石丈之進の養子・白石平馬。文政三年三月出山。『氣吹舍日記』に、十月一日、平田先生と對面。

○山人――同書に云く、某王別持命の分身・山人杉山僧正(實は組正。山人は、唐には仙人と云ふ)。「さうじやう」には非ず、「さうしやう」と清みて唱ふ。本山は信濃國淺間山、亦た常陸國筑波山・岩間愛宕山・男體山、大山の杉山に在りては杉山常昭と稱し、或は唐土等の山に住みては雙岳山人と號す。誕辰は三月十三日。三千餘歳、亦た四千歳に近き人、或は四千二百歳(六百歳を一歳と定めて、七歳と記さる。定命は六萬歳と見えたり)とも云へり。

○稻村眞里翁『評釋近世名家諄辭集』(昭和七年十一月・明治書院刊)に曰く、「日々津高根王命、此の神は、(平田篤胤)翁が、常に信愛して幽界の事を聽かれたりといふ、仙童寅吉が師として仕へたりし神にて、幽界の事を知ろしめしたる由なるが、常には此の信濃の淺間の嶽に坐せりとぞ。今ま平田家に祕藏せらるゝ、此の神の畫像は、此の寅吉の物語によりて圖せるものにて、巖の山に坐したまへるその裝ひは、束帶と同じさまにて、御衣の色は黒く、巖の下には、牡鹿の稻をくはへて捧ぐるがありて、いかにも神々しきありさまなりとぞ」と。



●平田篤胤大人『山人へ送れる消息』(文政三年。『仙境異聞』に收む)に曰く、「

 今般、慮はざるに、貴山の侍童(寅吉)に面會いたし、御許の御動靜、略々承り、年來の疑惑を晴らし候ふ事ども之れ有り。實に千載の奇遇と、辱く存じ奉り候ふ。其れに就き、失禮を顧みず、侍童の歸山に付して、一簡呈上いたし候ふ。先づ以て其の御衆中、ますゝゝ御壯盛にて、御勤行のよし、萬々恐悦奉り候ふ。

 抑々神世より顯幽隔別の定まり之れ有る事故、幽境の事は、現世より窺ひ知り難き儀に候へども、現世の儀は、御許にて委曲御承知、之れ有る趣きに候へば、定めて御存じ下され候ふ儀と存じ奉り候ふ。拙子儀は、天神地祇の古道を學び明らめ、普ねく世に説き弘め度き念願にて、不肖ながら先師・本居翁の志をつぎ、多年、その學問に酷苦出精いたし罷り在り候ふ。併しながら現世凡夫の身としては、幽界の窺ひ辨へがたく、疑惑にわたり候ふ事ども、數多これあり、難澁仕り候ふ間、此の以後は、御境へ相願ひ、御教誨を受け候ひて、疑惑を晴らし度く存じ奉り候ふ。此の儀、何分にも御許容成し下され、時々疑問の祈願仕り候ふ節は、御教示下され候ふ儀、相成るまじくや。相成るべくば、侍童下山の砌に、右、御答へ成し下され候ふ樣、偏に願ひ上げ候ふ。此の儀、もし御許容下され候はゞ、賽禮として、生涯毎月に、拙子相應の祭事勤行仕る可く候ふ。

 偖てまた先達つて著述いたし候ふ、『靈の眞柱』と申す書、御覽に入れ候ふ。是は神代の古傳によりて、及ばずながら天地間の眞理、幽界の事をも考へ記し仕り候ふものに候ふ。凡夫の怯き覺悟を以て考へ候ふ事故、貴境の電覽を經候はゞ、相違の考説も多く之れ有る可しと、恐々多々に存じ奉り候ふ。もし御一覽成し下され、相違の事ども御教示も下され候はゞ、現世の大幸、勤學の餘慶と、生涯の本懷、之に過ぎざることと存じ奉り候ふ間、尊師へ宜しく御執り成し下され、御許容之れ有る候ふ樣、偏に頼み奉り候ふ。一向に古道を信じ學び候ふ凡夫の誠心より、貴界の御規定如何と云ふ事をも辨へず、書簡を呈し候ふ不敬の罪犯は、幾重にも御宥恕の程、仰ぎ願ふ所に候ふ。恐惶謹言。

 十月十七日 平田大角平篤胤(花押)
常陸國岩間山幽界
 雙岳山人 御侍者衆中

 猶ほ寅吉こと、私宅へ度々入來にて、深く懇志を通じ候ふに付き、今般、下總國笹川村門人・五十嵐對馬と申す者に、御山の麓まで相送らせ申し候ふこと、實に千載の奇遇と、雀躍限りなく存じ奉り候ふ。之に依り、憚りを顧みず申し上げ候ふ。尚ほ此の上とも修行の功相積り、行道成就いたし候ふ樣、拙子に於いても祈望仕り候ふ事に御座候ふ。以上。

○車屋寅吉が山人の道を修行に、山に入るに詠みておくる。
寅吉が 山にし入らば 幽世(かくりよ)の 知らえぬ道を 誰れにか問はむ
いく度も 千里の山よ ありかよひ 言(こと)をしへてよ 寅吉の子や
神習ふ わが萬齡(よろづよ)を 祈りたべと 山人たちに 言傳をせよ
萬齡を 祈り給はむ 禮代は 我が身のほどに 月ごとにせむ
神の道に 惜しくこそあれ 然もなくば さしも命の をしけくもなし」と。

  • [2]
  • 帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年12月15日(火)18時32分2秒
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●平田篤胤大人『八家論』に曰く、「

 客有り、予に問うて曰く、「夫れ聖は獨り尊からず、理は單く盡し難し。故に武王は法を箕子に咨ひ、仲尼は禮を老□[耳+冉]に問ふ。故に上聖も、亦た必ず師授を待ちて功を成す。上士は、常に己を虚にして、以て人を容る。孝弟忠信の目立ちて、天下の事治む可し。禮樂射御の法備りて、揖讓進退の旨存せり焉。此れ所謂る千載不拔の基ゐ也。而して吾子の言ふ所は、大いに此れに異なれり。其の尤も甚だしき者は、『三皇・太昊は、日本の神爲り』(『大扶桑國考』・『太昊古易傳』・『三五本國考』等)と。外邦を觀ること、附傭の如く、四海を言ふこと、聚粟の如し。天、豈に特に日本に厚くして、四海に薄からむや乎哉。夫れ妖言は、先王の刑有り。道を亂す者は、豈に後王の典無からむや乎哉。吾子、以て如何と爲るか」と。

 予、覺えず大笑して、之に應へて曰く、「客の如き者は、所謂る膚受のみ耳。目、牆東を窺ふこと能はず、耳、窓外を聽くこと能はず。周孔の池に游泳して、未だ□[馬+麗]龍の變化を見ず、程朱の林に倉皇して、未だ崑崙の極を見ず。夫れ其の國を亡すは、則ち其の君を亡す。其の君を亡すは、則ち其の父を亡す。周孔の遺教、未だ尊外の道を聞かず、程朱の餘言、豈に卑内の旨有らむや乎哉。然るに世に苟くも吾子の如き者、固より多し。示すに舊典の明文を以てし、開くに前賢の金言を以てすと雖も、尚ほ□[立心+貴]々として知ること能はず。故に予、已むことを得ず、書數百卷を著し、以て皇國の、萬邦に君師たるを辨じ、且つ萬邦の、皇國に臣弟たるを論ず。今ま夫れ世の學を爲す者、特に捷徑、之れ力め、蹈襲、之れ樂み、牛鬼蛇神、生呑活剥、至らざる所ろ無し。而して其の實は、則ち空々たる者、豈に勝げて言ふ可けむや哉。

 故に予の、世の學を目する、大綱八有り。曰く、『神家、神道を識らず。玄家、玄理を識らず。醫家、醫軌を識らず。易家、易威を識らず。暦家、暦式を識らず。日家、日法を識らず。儒家、儒非を識らず。佛家、佛姦(或云、義)を識らず』と。吾子、必ず此の一に居らむ矣。次第を追(或云、以)て問へ。答ふ可し」と。

 客、口、□[口+去。あ]けて閉ぢず、舌、擧りて下らず。逡巡して去る。

 近頃、公侯の筵に侍す。屡々問ふに、叟が學ぶ所ろ如何といふ。茫洋として對へむ所を知らず。故に此の篇を書して、以て引と爲す。蓋し此れ適に憤る所ろ有りて言ふのみ耳。古人、言ふこと有りて曰く、「憤せずんば、啓せず」(『論語』述而)と。苟くも人有りて、予の此の言を憤らば、則ち亦た將に啓する所ろ有らむとす。然れども予、未だ戎語に熟せず。字句、恐らくは失錯有り。覽る者、之を恕せよ。

 天保三壬辰歳八月」と。



●平田篤胤大人『立言文』に曰く、「

三皇を祖述し、三墳の既に隱れたるを索む。
五帝を憲章し、五典の僅かに存するを探る。
八卦を論定し、八索の遺威を拾ふ。
九州を觀察し、九丘の全備を志す。

 或人、予に赤縣(支那)學の稽式を問ふ。予、答ふるに、斯の言を以てす焉。蓋し三皇とは、天皇氏・地皇氏・人皇氏を謂ふ也。五帝とは、太□[日+皐。以下「昊」字にて代用]・神農・黄帝・小昊・□[瑞の右+頁]帝を謂ふ也。傳に於いて、三墳・五典・八索・九丘は、即ち上世、帝王の遺書を謂ふ也、恐らくは其の書有るのみ焉耳。而して此の八氏(三皇・五帝)、素より赤縣の生ずる所に非ず焉。寔に是れ我が青華(皇國)の神眞、恭しく天祖の命を承けて、而して彼の州に君師として、一に大同の制を執り、而して其の民を教養し、始めて之に道徳を傳へ、且つ之に典要を授くる者也。

 道とは何ぞ。天は地の綱と爲り、神は人の綱と爲り、君は臣の綱と爲り、父は子の綱と爲り、夫は婦の綱と爲る、是れ也。徳とは何ぞ。曰く敬、曰く義、曰く仁、曰く智、曰く勇、是れ也。典要とは何ぞ。政刑・兵陳・律暦・度量・文字・卜筮・醫藥、凡そ天下を經綸し、民用を綱紀する所以の者、是れ也。

 抑々我が惟神の本つ教へは、唯一の帝道、固より此れ其の道の質也。我が先皇、茲に鑑みたまふこと有り。故に其の名を假りて、以て皇猷の贊と爲したまふ焉。學者、或は云ふ有り、「堯・舜を祖述し、文・武を憲章する者也」と。予謂ふ、「其の説や也、彼の土に於いては、則ち或は可ならむか歟。天朝に於いては、則ち皇統、素より侘を以て嗣と爲すの例無く、朝憲、既に臣を以て君に代ふるの道無し。則ち公簡の格、以て察す可きかな哉。是の故に之を三五(三皇・五帝)の古始に執り、以て其の學の道紀と爲す矣」と。

 語に曰く、「太上、徳を立て、其の次は功を立て、其の次は言を立つ」と。吾れ惟だ我が宗とする所を宗とす。而して獨り其の言を立つるのみ耳。亦た豈に敢へて信を不信の人に強ひむや哉。其の詳なること、『赤縣太古傳』を見て、視る可し焉。

 時に天保四年、太陰、癸巳に在る孟冬九日庚子、太一、中宮に在る天禽の日・天禽の時。
  大壑 平篤胤、謹志す」と。

○三皇=天皇氏・地皇氏・人皇氏
 『赤縣太古傳』三皇紀一及二に、「此の天皇太帝と申すは、我が神典なる伊邪那岐大神に坐すなり。‥‥地皇氏の面貌を女なりと有るに依り、天皇氏の伊邪那岐神なるに就て思へば、地皇は疑なく伊邪那美神に坐しけり」。

○五帝=太昊・神農・黄帝・小昊・□[瑞の右+頁]帝
 『大扶桑國考』に、「諸越(支那)の古書どもを閲するに、其の國の古傳説に、東方大荒外に、扶桑國と稱する神眞の靈域、君師の本國ありて、その國初に出興せし三皇・五帝など云ふは、謂ゆる扶桑國より出て、萬づの道を開きたる趣に聞ゆるに、採り集めて熟(つばら)に稽ふるに、其の扶桑國としも謂へるは、畏きや吾が天皇命の、神ながら知し食す皇大御國の事にして、其の三皇・五帝と聞えしは、我が皇神等になも御坐しける」。
 『三五本國考』前文に、「三皇は、天皇氏・地皇氏・人皇氏、これ古説なるが、五帝とは、伏羲(氏・大昊)・神農(氏・炎帝)・黄帝(軒轅氏)・少昊(金天氏)・□□[瑞の右+頁・王+頁](高陽氏)を謂ふ」。
 『三五本國考』二條に、「伏羲氏東王父は、疑なく神典なる大國主神に坐し、女□[女+咼]氏西王母は、疑なく其の后神・須勢理毘賣命にぞ坐しける[前には大國主神の和魂・大物主神と其の后神・三穗津姫命を當たりしかど、後に尚また深く考へて、かくは定めつ](生田國秀云、『實は神典に謂ゆる天之冬衣神の后神・刺國若比賣命なるべし』と)」。
 『春秋命歴序』に、「神人有り、石年と名く(國秀翁云、『多伎都比古命の御魂の石神なりしとあるに符合して、いと尊し』と)。蒼色大眉、玉理を戴く。六龍に駕して、地輔より出たり。皇神農と號す」。
 『三五本國考』三條に、「少典は、疑なく味鋤高彦根神[亦の名を言代主神と白す]。炎帝・黄帝は、其の子・多伎都比古命・鹽冶毘古命ならむと思ふ由あり」。
 『三五本國考』四條に、「黄帝、なほ皇國に居られし間に生める子なるが、此の子を生み遺きて、彼の國に渡り、王位に登りて後に、彼處にて正妃に立てたる□[女+累]祖の腹に、玄囂・昌意の生れしかば、少昊は、却りて小子の如く傳へけむ。‥‥[黄帝は、神典の鹽冶毘古命に當れば、少昊氏は、其の子・大穗毘古命(燒大刀火守大穗日子命)ならむも、知るべからず]。‥‥少昊氏、その(黄帝の)世の末に養ひ取りて、榑桑暘谷の神邦に遣はして、大人君子の風情を習はしめ給ひし故に、少昊の孺、帝□□[瑞の右+頁・王+頁]とは謂へるなり」。




●平田篤胤大人『春秋命歴序考の自敘』に曰く、「

 古人、言へること有り。曰く、「天地は生の本也。先祖は類の本也。君師は治の本也」と。是れ大道の三本にして、皇國は、則ち萬國の三本也。是を以て彼の西戎の蕃・赤縣の州も、亦た我が神眞、之が君と爲り、之が師と爲りて、之を開闢し、之を含養し、蠢化蠕動をして、始めて倫理有り、穴居野處をして、方に教養有らしむるの國也。是の故に政刑・兵陳・律暦・度量・文字・卜筮・醫藥より、凡そ天下を經綸して、百世、刊る可からず、民用を綱紀して、一日、闕く可からざる所以の者も、亦た皆な我が眞神の授くる所の道なれば也。上皇太一の、一と爲るや也、盤古眞王の、二と爲るや也、三皇の、三才を御するや也、五帝の、五運を紹ぐや也、以て見る可し矣。

 唐虞の世・夏后の時、人質に物朴にして、猶ほ能く此の道を道とし、此の教を教とす焉。夏后氏亡びて、大道、斯に廢り、擬聖、乃ち出づ。殷簒ひ、周弑して、六親、和せず、國家昏亂す。是に於いてか乎、始めて儒有り矣。是れ從り以來、儒流の書、日々に出でて、百氏の説、益々盛んなり。大道を視ること、異端の如く、神眞を見まつること、物の怪の如し。以爲へり、「荒唐不經は、我が宗とする所に非ず」と。其の天下を經綸し、民用を綱紀する所以の者は、變じて□□[豈+見][兪+見]の器と爲り、化して虚僞の具と爲る。嗚呼、天下の、未だ斯文を喪ぼさゞる也、神典の傳ふる所、玄經の識す所と、古籍の明文、先聖の至言と、歴代の災亂に遇ひ、一縷の斷えざるに似たりと雖も、而れども尚ほ幸ひに炳焉として日月の如く、確乎として拔く可からざる者有り。造次顛沛、之を思ひ之を思ふ。而して神、我が心を開きて、我をして我が宗とする所を宗とせしめたまふ。夫の儒流・百氏の若きは、猶ほ子孫にして先祖を詈り、枝葉にして本根を惡むがごとし也。豈に復た大道、皇國の三本爲る所以を知るに足らむや哉。然るに其の起伏興廢も、亦た復た一に非ず。而して其の今に存する者は、大抵、八家有り。曰く神、曰く玄、曰く儒、曰く佛、曰く醫、曰く兵、曰く易、曰く暦。然りと雖も其の王公大人に在る者は、吾が輩の能く知る所に非ざる也。唯だ卑賤、余の如き者、自ら一家を成すに至りては、則ち神家、神道を知らず、玄家、玄理を知らず、儒家、儒旨を知らず、佛家、佛意を知らず、醫家、醫範を知らず、兵家、兵機を知らず、易家、易威を知らず、暦家、暦式を知らず。而して各々一潦に游泳して、未だ□[馬+麗]龍の變化を見ず。孤□[土+至]に彷徨して、未だ崑崙の天に極むるを覩ず。夏蟲の氷雪を疑ひ、井蛙の江湖を怪しみ、此の國に生れて、此の國を無みし、此の君に仕へて、此の君を蔑にし、神眞君師の徳、開闢含養の恩を知らざることは、則ち一也。

 故に吾れ之が爲めに恐懼し、著述考徴、既に百部に□[車+失]き、且つ千卷に踰ゆ。又た近ごろ、『太昊古暦傳』(四卷。天保七年成)・『三暦由來記』(三卷。天保四年成)・『古暦日歩式』(二十卷。天保五年成)・『(古暦)月歩式』(十二卷。天保五年成)・『弘仁歴運記考』(一卷。天保二年成。七年再考)・『古史年暦編』(一卷。天保二年成)・『古今日契暦』(初編二編・凡五百卷。天保五年成)・『夏殷周年表』(一卷。天保四年成)・『前漢歴志辨』(一卷。天保四年成)・『春秋暦本術編』(一卷。天保二年成)及び此の書(『春秋命歴序考』)を著して、以て古暦の眞式を明かにす也。夫れ暦は、天常を論じ、長久を志す所以ん也。然るに泰古の世、年暦の數、紛紜として一定せず、孟浪として講明すること無し。其の□[言+爲]り、實に殷の西伯姫昌(文王)より起る矣。蓋し既に流派有らば、奚んぞ原泉に遡らざらむ。苟くも年暦有らば、敢へて泰古を推さゞらむや。且つ余を以て之を觀るに、何れの道か、之を一定することを欲せざらむ。誰れ人か、之を講明することを願はざらむ。而して稍々識る有る者は、輙ち蛇足の過ち有り。其の然らざる者は、徒らに□[彖+虫虫]測の嘆き有り。抑々人長じて、其の年の經歴、我が身の長短を知らずんば、愚ならずと曰ふと雖も、吾は信ぜざる也。吾れ之が爲めに憤□[立心+非]し、獨り『春秋命歴序』を採りて、之を祖述し、之を憲章し、錯簡を訂正し、脱文を補綴し、之を『弘仁歴運記』に參伍し、之を明文と至言とに錯綜して、方に始めて神眞、授けたまふ所の道に明かにし、神典、傳ふる所の説を實にして、乃ち口□[月+勿+口]の結び、符節の合ふに似たり也。吾れ既に大澤を一歩に囘し、將に千仭に墜ちむとするを拯ふ。是に於いてか乎、以て金鈴木舌と爲りて、文教を一振するに足れり矣。然らざれば、其の年の經歴、我が身の長短を知らざる者と、以て異なること莫けむ焉。

 方に今、海内昇平、文物、鼎に新なり。上に撃壤の化有り、下に小腹の樂有り。博覽多通の才、典故考證の家、凡て數十百人なり矣。然れども之を一定し、之を講明する者は、蓋し或は之れ有らむ。我れ未だ之を見ざれば、其の數十百人も、亦た猶ほ一凡庸のごときのみ耳。復た安んぞ天常を論じ、長久を志す者といふことを得むや乎。然りと雖も人人、將に曰はむとす、「其の祖述憲章する所も、亦た惟だ讖緯の書爲り、其の訂正補綴する所も、亦た皆な之を臆斷に取れり」と。余れ雅より謂ふ、「士君子、知己を千載に待つ。豈に善價を今日に求めむや哉」と。苟くも帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ者有らば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとす矣」と。彼の凡庸の徒は、耳を提て之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむこと能はざる也。我れ惟だ々ゞ我が宗とする所を宗とす。亦た豈に信を不信の人に求めむや哉。

 時に太昊、甲暦を作る甲寅の歳よりして來のかた四千八百四十年、
 天保四年、歳、癸巳に在る、孟冬九日庚子、太一、中宮に在る、天禽の日・天禽の時。
  大壑 平篤胤、識す」と。

○『春秋命歴序考』のはじめに、詠みてそへたる歌
百八十の から(唐)言むけて 大君に さゝぐる道の たね(種)を蒔かまし

○同じ書をかきをへて、しりへに
日の本の 神の授けし 戎(から)の道 から人いかで 開き得めやも
日の本の 神の授けし 戎(から)の道 日の本人ぞ ひらき初めける



●平田篤胤大人『古易大象經傳(大中道人生田萬國秀翁の謹傳。二卷。天保四年六月成)の序』に曰く、「

 余の、菅原道滿(國秀)に於けるや也、誇る所以の者は一なり、喜ぶ所以の者は一なり。而して大いに悲しむ所以、大いに懼るゝ所以の者は、亦た各々一有り也。夫れ天下の是とする所、以て我の非とする所を革む可からず、天下の非とする所、以て我の是とする所を替ふる可からず、萬仭に壁立し、一世に獨歩し、立てゝ方を易へず、獨立、懼れざる者、其れ惟だ縣居・鈴屋の二先生か乎。余、既に其の道を篤信し、斯に從事して、自彊、息まざるの教へを奉じ、多識、徳を畜ふるの道を守り、萬卷を窮覽す。百部を著述し、以て二先生の遺を拾ひ、以て大九州の古へを稽へ、之を神典に徴し、之を古傳に符合す。然して後ち□[三水+徑の右]渭、一滴の濁り无く、燕石、十襲の惑ひ无し。若し夫の『太昊古易傳』(四卷。■年成)・『三易由來記』(二卷。天保元年成)・『欽命□[竹+録。以下「録」字にて代用]』(=『古易大象經』。二卷。天保元年成)・『彖易編』(二卷。天保七年成)も、亦た其の一也。

 余に從ひ業を受くるの士も、亦た多し矣。授くるに此の書(『古易大象經』)を以てし、教ふるに余の説を以てす。乃ち能く一を聞き、以て二を知る。小を積みて、以て高大なる者は、其の惟だ菅原氏の子(國秀)か乎。蓋し造父・王良有りて、後に千里の駿足有り。匠石・公輸有りて、後に百尺の棟梁有り。然らずんば則ち奔逸、轡策に應ぜず、屈曲、繩墨ら從はず。今の道滿や也、其れ能く駑に非ず、其の材、相に非ず、復た天下の、之を是非するを顧みざるは、必ず余の一是を須つ焉。二先生の余に有るや、余の道滿に有るや、皆な余の功也。是れ余の以て誇る所以ん也。

 余の易を爲すや也、道滿、側らに在りて、或は默識神會、愚の如く、或は詰難辨論、寇の若し。余、其の以て業を成す可きを視るや、乃ち命じて『大象經』を解せしむ。蓋し此の經や也、太昊以來、神眞相繼ぎ、教へを埀れ誡めを遺し、人をして天命を欽しむ所以の眞誥也。所謂る師保有る无くして、父母に臨む如きは、其れ是れのみ而已矣。然るに道滿、未だ筆を下さず、故ゑ有りて新田山の下に去る。余、乃ち曰く、「吾が易、北なり矣」と。未だ幾ばくならずして、道滿、乃ち『古易大象經傳』を撰し、以て之を閲し、之に序せむことを請ふ。余、披きて之を讀み、閲して之を批す。能く余の既に授ける所を述ぶ。又た余の未だ教へざる所を發せり。余、乃ち端坐して手を拊ちて曰く、「吾が易、亦た南なり矣」と。

 此の傳や也、先づ卦象を詳かにし、能く文意を釋き、前言を祖述し、往行を憲章し、而して日讀日新、愈々味く愈々旨し。人をして天に順ひ命を休んじ、心を安んじ身を修めしむる所以の者は、亦た猶ほ師保に父母に臨むがごとき也。其の總論及び附録も、亦た皆な太昊が眞誥に據りて、文周の妄辭を斥く。神眞の古道に頼りて、擬聖の陰惡を闢き、以て餘書を裁き成し、以て余の説を輔相す。余、初め易を爲して、以爲らく、「天下、若し一ならば、之を是とする者有らば、則ち足る矣」と。今や也、乃ち道滿有り焉。凡そ易の附註末書、車載□[馬+盧]負、未だ其の幾百家有るかを知らざる也。今ま之を此の傳に比するに、譬へば尺錦を千丈の布に鮮かにし、寸劒を一尋の俸に利する如き也。余、嚮(さき)に艸する所の『欽命録』・『彖易編』も、亦た將に自ら編を絶ち□[手+過]を折りて、之を道滿に委せむとす焉。吾が黨の小子、易に於いて與に其れ之を道滿に問へ也。何ぞ必ずしも余を須たむや。是れ余の以て喜ぶ所以ん也。

 道滿、上野國某藩に生れ、□[言+黨]言を徴するに會ふ。乃ち封事を上り、以爲らく「片言隻句、用ふる有れば、則ち死すとも可也。命を致し志を遂ぐるに庶(ちか)からむか乎」と。事を用ふる者、陰に之を沮み、陽に之を放つ。爾來、流離の中、顛沛の間、道滿、親から薪水の勞を給し、句讀を授け、以て耕に代ふ。困窮して溢せず、講習して倦まず、乃ち能く此の傳を撰す。身に反り徳を修むるに庶からむか乎矣。彼や、春秋大いに富み、鞭策懈らざれば、則ち其の著撰、豈に推して此に止まらむや哉。然して今ま世を遯れ悶无きの戒めを守り、更に思ひを位に出でざるの教に欽しむ。是れ天下、果たして道滿を非とし、道滿、自ら是として屑しとせざる也。其れ豈に惟だに道滿の□[戸+乙]ならむや哉。抑々亦た吾の道の□[戸+乙]也。是れ余の大いに悲しむ所以ん也。

 道滿、道を信じて、而して余を信じて、余を美むること分に過ぐ。傳中、往々余の行實を擧ぐる者有り。其の閲を請ふに及ぶや也、乃ち之を刪らしめ、誡めて曰く、「道滿、止めよ。女(なんぢ)、唯だ此れ有るを知りて、彼れ有るを知らず。我れ有るを知りて、他れ有るを知らざる也。天下の士、其れ之を何んと曰はむ」と。道滿、涕を抑へて、肯を從はずして曰く、「道滿、道に於けるや也、唯だ命、是れ從ふ。然りと雖も此く擧ぐるや也、親炙、既に久し。鑚仰、彌々新たなり。道滿、不敏なりと雖も、眞に其の師徳有るを知る矣。然して師は、則ち反りて知らず焉。安んぞ天下の士、道滿を是とし、師を非とする者有らざるを知らむや乎」と。遂に從はずして、繕寫、既に成る。是れ余の、以て大いに懼るゝ所ろ也。嗚呼、此の傳の、此の傳を爲す所以を知る者に非ざれば、豈に能く古易の、古易を爲す所以を知らむや哉。

 時に太昊、八卦を畫する辛卯の歳よりして來(このかた)、四千八百六十四年、
 天保五年、歳、甲午に在る正月元日丁亥」と。

  • [1]
  • 「古今無比の正しき學」への贈位を乞ひ奉る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年12月 4日(金)22時47分0秒
  • 返信
 
 明治十六年二月二十七日、天恩優渥、所謂國學四大人に對し、特に正四位を追贈さる。而して現在は、共に贈從三位に陞り齋かれ給ふ。其の贈位運動の嚆矢は、我が平田大壑先生でありました。


【本教四大人を祀る神社】

一、 贈從三位(大正八年十一月■日)・幡萩穗別五之魂命・雨亭羽倉齋宮荷田宿禰東麿大人
○山城國伏見・府社東丸神社祭神

一、贈從三位(明治三十八年十一月十八日)・美豆穗足大縣居靈神・縣居岡部衞士賀茂縣主眞淵大人
○駿河國濱松・縣社縣居神社(舊稱縣居翁靈社)祭神

一、 贈從三位(明治三十八年十一月十八日)・秋津彦美豆櫻根大人・鈴屋本居中衞平朝臣宣長大人
○伊勢國松阪・本居神社(舊稱山室山神社)祭神

一、 贈從三位(昭和十八年八月十九日)・神靈能眞柱大人・氣吹舍平田大壑平朝臣篤胤大人
○武藏國澁谷・平田神社(舊稱眞柱神社)祭神
○羽後國秋田・縣社彌高神社(舊稱平田神社)祭神
http://www.iyataka-jinja.jp/index.html
○伊勢國松阪・本居神社祭神


○信濃國伊那・本學神社(舊稱本學靈社)
  祭神=春滿・眞淵・宣長・篤胤の四大人
○駿河國靜岡・玉鉾神社祭神(國幣小社淺間神社境内)
  祭神=春滿・眞淵・宣長・篤胤の四大人

○武藏國松井・櫻木神社
  祭神=徳川光圀公・宣長大人
 本根神社(櫻木神社攝社)
  祭神=契沖・春滿・眞淵の三大人
 秀枝神社(櫻木神社攝社)
  祭神=篤胤・服部中庸の兩大人
 宇彌之子神社(櫻木神社攝社)
  祭神=本居大平・春庭・内遠の三柱
 篤志神社(櫻木神社末社)
  祭神=山崎闇齋・栗山濳鋒・多田南嶺の三柱



●平田篤胤大人『或る御方への願書案』に曰く、「

一、家臣と家頼との差別、之れ有り候ふ儀、御承知の如くに御座候ふ。然るに將軍御家臣の大名達、攝家方の御家頼と相成り居り候ふ衆々、數多之れ有り候ふ。私儀、もし御執り持ちに依りて、御家來と相成り候ふ上、三家(尾張・紀伊・水戸)・三卿(田安・一橋・清水)・國守などの家に奉公仕り候ふ共、右の例を以て、其の儘ま御家來と成し下し置かれ候ふ儀、相成り申す間敷く候ふ哉。

一、神社へ位階を御贈り遊ばされ候ふ舊例相考へ候ふ所、最初は其の所々にて、私に祠ひ候ふ社に候ふを、後に其の子孫、又は信仰の者より言上に及び、上にも其の神功を思召され候うて、位階を贈られ、宦社にも遊ばされ候ふが多く御座候ふ。此の例を以て、先師亡靈(鈴屋本居宣長大人)へ位階御執奏の儀、御伺ひ申し上げ奉り候ふ所、在命ならぬ者へ贈り下され候ふ儀、相叶ひがたき旨、御示し成し下され、謹みて承知奉り候ふ。但し此の儀に付き、又いさゝか存念の旨、申し上げ試み候ふ。位官相兼ね下され候ふ義は、存命ならぬ庶士の義に御座候得ば、官職の儀は下し置かれ候ふ儀、相叶ひ申すまじく候ふ共、位階計りを下し置かれ候ふ樣、御執り成し相叶ひ申す間敷く候ふ哉。近例は伊勢國伊達遠江守殿家臣・矢部清兵衞と申す者、無實の罪にて刑せられ候ふ後、嚴しき祟り之れ有り候ふ故、伊達家より申し上げられ候うて、其の亡靈へ位階下され、和靈明神と申す勅額成し下され候ふと申す儀、風聞傳承仕り罷り在り候ふ。

一、もし右の儀、傳承の誤りにも無御座く候はゞ、今般、御所樣より、本居名神社とか、本居靈神社とか、御額成し下され候ふ儀、相叶ひ申す間敷く候ふ哉。但し今時は、親規の社造營など申す儀は、御禁制に御座候ふ事、承知奉り罷り在り候ふ故、決して目立ち候ふ樣なる義、仕り候ふと申すにては無御座く候ふ。只々先師子孫の者の地内か、又は門人共の内には、社家も數(愚案、「多」字の脱か)御座候へば、其の社地などに小祠を造り、近くは下御靈社地・山崎埀加の靈を、埀加靈社と祠り候ふ體に仕り候ふ義に御座候ふ。夢々横行に致し候ふ義には無御座候ふ。

一、右の御縁を以て、御額下し置かれ候ふ御懇命の筋を以て、後年に至り御願ひ申し上げ候はゞ、位階御執奏成し下され候ふ樣の御手續き、相叶ひ申す間敷く候ふ哉。

一、先師儀、存命中に、御所樣へ御縁の儀も之れ無き故、今般の願ひ筋、御聞き濟み遊ばされがたき由、御示し成し下され、謹みて承知奉り候ふ。左樣御座候はゞ、先師門人の内、恐れ乍ら御家頼に成され候ふ上は、取りも直さず、先師やがて御所樣御家來と申す筋にも相成る可く、其の上にては、其の者より御願ひ申し上げ候ふ御縁を以て、御計ひ遊ばされ下され候ふ儀、相成り申す間敷く候ふ哉。

一、若し門人の内にては、御縁薄く御座候はゞ、先師子孫の者の内、御家來に相成り候はゞ、如何に候ら半ん。

 私、本生先祖の儀は、下總國々守・千葉介平常胤末流の者に御座候うて、吉野内裡へ御方申し上げ、親子二代まで皇軍に從ひ、討死に仕り候ふ事、系譜に記し傳へ候ふ事に御座候ふ。先師先祖は、勢州國司・北畠殿へ奉公仕り、皇軍に從ひ、討死に仕り候ふ者も、數人之れ有り候ふ。是れ亦た系譜に相見え申し候ふ。然る所、不測に私儀、先師學風に相從ひ、段段深く相學び候ふ所、實に古今無比の正しき學風にて、皇朝の古道を説明され候ふ事々、心醉仕り候うて、其の志を相繼ぎ、一日も師恩を忘れ候ふ隙なく、丹心に學ぶ事、相勤め候ふ所、今年九月二十九日は、二十三囘忌に相當仕り候ふ故、願はくは此の儀、成就仕り候うて、師恩の萬分の一を報じ申し度き心底の儀、御汲み分け下され、何分宜しく勘考成し下さる可く、相成る可くは、御下紙成し下され候ふ樣、願ひ上げ奉り候ふ。

 文政六年八月」と。


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