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  • 崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。

  • 投稿者:備中處士
 
一、贈從三位・埀加靈社・闇齋山崎嘉右衞門敬義先生
一、贈從三位・幡萩穗別五之魂命・雨亭羽倉齋宮荷田宿禰東麿大人
一、贈從三位・美豆穗足大縣居靈神・縣居岡部衞士賀茂縣主眞淵大人
一、贈從三位・秋津彦美豆櫻根大人・鈴屋本居中衞平朝臣宣長大人
一、贈從三位・神靈能眞柱大人・氣吹舍平田大壑平朝臣篤胤大人

 草莽の學者にて、從三位に至つたのは、所謂「國學の四大人」以外では、我が山崎闇齋先生あるのみ而已矣。闇齋先生を復活し、其の梗概、其の御志(雲深き邊りに御奉公する者を、特に「御志」と云ふなり。即ち『神皇正統記』の筆法、是なり)を江湖に知らしめ、有志をして覺醒奮起せしむるが、我が至願であります。

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  • [45]
  • 日本學者の識見。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 1月23日(土)18時43分16秒
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~承前~

 正名の學、嗚呼、嚴なるかな哉。平成の大御代に弘めむとして、弘む可からず、獨り之を歎くのみ而已。秦山谷先生は、「日本學」の提唱者にして、松陰吉田先生に比肩する、海南の哲人なり(平泉澄博士『萬物流轉』)。今ま少しく『俗説贅辨』を抄して、平成の中今に、其の識見を顯在したい。



●谷秦山先生『俗説贅辨』

一、「我が國を夷といふ説」。俗間の儒、我が日本を、東夷といふ。

 今ま按ずるに、非なり。孔子の『春秋』に、もろこし(諸越・唐・支那)を中國とし、もろこしの政(まつりごと)のとゞかぬ國を、夷狄とあしらひたまへり。是れ、萬世の教へ也。我が國を内とし、人の國を外とすること、天理の自然なり。然るに俗儒、是をあしく心得、唐は中國、其の外の國は、皆な夷狄と覺えたり。よく『春秋』をよむ人は、かくのごとくならず、我が本國を中國とし、我が國の政化のとゞかぬくにを夷と心得べき也。

 是によりて『日本紀』には、我が日本を「中國」とし、三韓をば「夷」とも「西戎」とも「西羌」とも筆し、外國の人に對して、我が使ひを「皇華(みやこ)の使ひ」といひ、我が人を「王人(わうひと)」と書けり。惣じて外國の事をば、「諸蕃(しよはん・となりのくに)」といひ、別してもろこしの事をいふには、「西土の君・周の成王」とかきたまひ、書通の時は、「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す」となされたり。是れ、よく『春秋』の旨をしりたまへりといふべし。もし世儒のごとく、我が國を東夷、もろこしを中國と覺え、もろこしへしたがふを「歸明投化」などとこゝろえば、異日、不幸に、文永・弘安の變あらば、大義をとり失ひ、我が國の弱みをしいだすべきも、はかりがたし。危い哉。我が國の人、あつく『日本書紀』を信じ、他人の爲めにあざむかるゝ事なかれ。

 又た(山崎闇齋先生)『埀加草』に載す、「宋の雍熈元年、日本國の僧・奝然、其の徒五六人と、海に浮かべて至る。太宗、奝然を召見し、之を存撫すること、甚だ厚し。上、其の國王、一姓傳へ繼ぎ、臣下、皆な官を世々にするを聞きて、因つて歎息して、宰相に謂ひて曰く、『此れ、島夷のみ耳、乃ち世祚遐久、其の臣も、亦た繼襲して絶えず。此れ、蓋し古の道也。中國、唐季の亂より、□[ウ+禹]縣分裂し、梁・周・五代、歴を享くること、尤も促まり、大臣世冑、能く嗣續すること鮮し。朕、徳、往聖に慙づと雖も、常に夙夜寅畏し、治本を講求し、敢へて暇逸せず、無窮の業を建て、可久の範を埀れ、亦た以て子孫の計を爲さん。大臣の後、世々祿位を襲がしめん。此れ、朕の心なり焉』[以上、『宋史』]と。

 嘉(山崎闇齋先生)謂ふ、太宗、中國、唐季の亂と謂ふ。豈に惟だ唐季のみならんや哉。秦・漢已下、皆な然り也。推し上りて極めて之を言へば、則ち包犧氏沒して、神農氏作り、神農氏沒して、黄帝・堯・舜氏作り、湯・武、命を革めり。我が國、寶祚、天壤無窮の神敕、萬萬歴歴たるが若きは、則ち六合の間、載籍の傳ふる、譯説の通ずる、未だ曾て見聞せざる所ろ也。且つ中國の名、各國、自ら言へば、則ち我は、是れ中にして、四外は夷也。是の故に我、『豐葦原の中つ國』と曰ふも、亦た我が之れ私することを得ること有るに非ざる也。程子、天地を論じて、『地形に、高下有り。適くとして中爲らざること無し』と。實に至極の言也」と。この説、明かなりといふべし。



一、「もろこしを中華といふ説」。俗間の儒、もろこしを、中華といふ。

 今ま按ずるに、非也。説、上に同じ。「中華」とは、中國禮義の華(さかし)なるをほめていふ、諸夷に對する名也。我が日本、諸夷に對して、「中國」といひ「華夏」といふ。『日本紀』及び『(日本律)令』に見えたり。漢土をさして「中華」といふは、我を夷とするの誤りなり。

 西山(水戸義公)、『(大)日本史』を筆し給ひしに、漢・唐・宋・元・明・清と、國號を稱じたまひ、決して俗儒のあやまりをふみたまはずとかや。誠に高き大筆と申すべきかな。



一、異國の書を引きて、神書をとく説。俗間の神書の注解、多く外國の書を引きて發明す。

 今ま按ずるに、非也。「異國の道を以て、混説す可からず」。是れ、埀加翁(山崎闇齋先生)、弟子に示す隨一の箇條、大いにいましめたまふ所なり。近時、神道、大いに開け、卜部兼倶などは、もとよりさたに及ばず、『(日本書紀)纂疏』・『(神代卷)口訣』などの如く、佛書を引きて神書をとくは習合也とて、人々これをよしとせず。只だ智・仁・勇を以て三種神寶をとき、中庸を以て中つ瀬を談じ、中極の道にて天御中主を釋し、土用を以て蛭兒を注する類、道理親切にして、語意明白なり。故に讀む者、其の非を知らず。

 夫れ我が神道は、開闢最初の道にして、一點も他國の道をまじへず、學者、只だ其のうみのまゝの正意を求むべし。もし儒書を以てこれを釋せば、たとひ道理に害なくとも、儒教の氣象・意味にひかれて、わがうみのまゝなる本意に至る事、かたかるべし。是れ大いになげくべき所なり。其の上、堯・舜の父子、湯・武の君臣、儒教の主意とする所、我が國の、大いに忌み畏るゝ所なり。道の根本、同じならざる事、かくのごとし。尤も習合しがたきものなり。埀加翁、儒書を語るや、一言も神道のうはさなし。神道をかたれるや、半句も儒書のさたなし。別席に在つて、別人の話を聞くが如し。尤も法とすべきものなり。



●谷秦山先生『俗説贅辨・續編』

一、「本朝の辨」。世俗、日本を稱じて、本朝といふ。

 今ま按ずるに、非なり。(絅齋)淺見氏の曰く、「日本朝とは、朝廷、たびゝゞ變り、他人の朝廷多き故の名也。漢・唐・宋・元などと、他人の天下多き故、それにてはなく、眞の朝廷ぞと尊んで、明朝の人、明朝を、本朝とも我が朝とも云ふ也。世々、本朝といふ意、かくのごとし。日本は、開闢より、一天皇、一統したまひて、終ひに他人の朝廷ある事なし。まがふこともなきに、本朝と名のるは、因襲の誤りなり」と。絅齋の此の説、誠に然るべし。

 或ひとの曰く、「日本を偏へに申す時は、本朝といはずとも、事缺くまじ。外國に對して申す時は、本朝と申さずしては、如何。萬の紙などに、異國、本朝と申すもあるべきにや」と。

 予、答へて曰く、『玄蕃寮式』に曰く、「國司、宣じて云く、日本に明神と御宇天皇朝廷と某の蕃王の申し上る隨に、參ゐ上り來れる客等、參り近づきぬと、攝津國守等、聞き著けて、水脉(みなち)も教導き賜へと、宣たまふ隨に、迎へ賜はくと宣ふ。客等、再拜兩段して謝す」と。是れ此方(こなた)を、「日本の天皇」と申し奉り、彼方(あなた)を、「某の蕃王」と申すなり。

 『文粹』九・菅三品「尚齒會の詩の序」に、「源(もと)、唐室に起り、塵(あと)、皇朝に及ぶ」と。菅相公「同詩の序」に、「唐家、此の會を愛憐して圖寫す。人有り、傳へ送りて我が聖朝に呈す」と。紀在昌「北客、郷に歸るを餞する序」に、「朝家、彼の遠節を憐みて、賜ふに優寵を以てす。既にして覲天、儀畢りて歸蕃す」と。期至十二卷「渤海國の中臺省の牒」に偁く、「遠書一封、常に踵を下國に企つ。思緒萬戀、久しく心を中朝に馳す」と。是れ、渤海、自ら「下國」と稱じ、日本を「中朝」と稱じ奉るなり。

 此の數篇にて、外國に對し稱ずるの法、知るべし。何ぞ必ずしも忌はしく本朝の字を用ひんや。



【參照・淺見絅齋先生『稱呼辨』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/25
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/35
 

  • [44]
  • 俗説を辨ずるは、人心を正す所以ん也。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 1月18日(月)22時37分28秒
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○谷秦山先生『俗説贅辨の序』(『秦山集』四十二・第五卷・信。明治四十三年十二月・谷干城子刊)

 (物部)守屋を以て逆臣と爲し、八耳(太子)を聖徳と爲し、伊尹を割烹と爲し、孔子を癰寺を主とすと爲す。俗説の人心を害する、懼る可きかな哉。俗説を辨ずるは、人心を正す所以ん也。世に『俗説辨』正・續・新の三編(蟠龍井澤十郎左衞門源長秀翁『本朝俗説辨』)有り。昏愚に貶すること、深し矣。今ま又た顰に效ひ、是の三卷を成し、敢へて其の尾に贅す。家に書籍乏しく、援引、或は暗記に出づ。恐らくは謬誤を免れず。讀む者、幸ひに諸れを訂せ。正徳(四年)甲午大寒の日、谷重遠、序す。


●谷秦山先生『俗説贅辨』(井澤蟠龍子長秀『俗説辨』への加論。正徳六年一月刊)

一、「日本を倭といふ説」。世俗、日本を稱じて倭といふ。

 今ま按ずるに、非なり。「日本、倭と稱するの辨」に曰く、耶麻騰(やまと)の、國號と爲すや也、神代に昉(はじ)まり、皇朝に盛んなり。山迹・山戸・山止の三義有りて、猶ほ祕訓有り。之に填むるに、日本の二字を以てする者は、舊俗・比濃茂騰(ひのもと)の名に原づいて、亦た大日孁貴の訓傳有り。其の義、精し矣。若し夫れ倭の字は、西土(もろこし)の號づくる所、和の字は、後世の轉ずる所、皆な我が稱に非ずして、之を訓じて耶麻騰と爲るも、亦た特に流俗の馴習する所に隨ふのみ爾。嘉みして之に從ふに非ざる也。舍人親王、『日本書紀』を筆せる、神代卷に於て、倭の字を用ひず、人皇紀に至りて、假り用ひて、太和一國の號しと爲して、以て之を全國に別つのみ耳。未だ嘗て天下の號と爲さゞる也」と。其の辨、嚴なり矣[『應神紀』の「大倭木滿致」は、蓋し百濟の稱する所に從ふ也。以下、外國の稱する所は、此れに倣へ。『孝徳紀』の「我が大倭」、及び『天武紀』の「銀、倭國に在り」は、偶々改削に洩るゝのみ耳。孝徳二年、「日本倭根子天皇」、是と合(まさ)に倭の字を削るべくして、誤りて之を存する者なり。其の改正の手段、此に於て見る可し]。其の他、外國の我を稱する者、尚ほ多し。文人・詞客、奇として之を用ひ、其の實を考ふること莫し焉。鄙しいかな哉。

 或るひと問ふ、「西土、何を以て、我が國に名づくるに、倭の字を以てするや也」と。日本朝の舊説に云ふ、「吾が邦の人、始めて西土に至る。彼の人の曰く、『汝が國の名稱、如何』と。自ら東方を指し、答へて曰く、『吾が國』を謂ふや哉、漢人、即ち吾の字の初訓を取り、之を命じて、倭と曰ふ」と。近世、武江の人・人見友元(竹洞)の曰く、「倭は、矮と通ず。短人也。異邦、我を慢どるの號なり」と。二説、未だ孰れか是を知らず。但だ後漢に、倭奴・倭面の號、及び『唐書』に、「倭國、自ら其の名、雅ならざるを惡む」の言を以て之を攷ふれば、後説、恐らくは是と爲す。蓋し前説に據れば、則ち俯して漢人の訛りに就く。後説に據れば、則ち甘んじて漢人の慢りを受く。此を以て我が國の號と爲すこと、豈に理あらんや也哉。中葉以降、倭歌と曰ひ、倭訓と曰ひ、倭琴と曰ひ、因循流傳、改む可からざるに至る。是れ歎く可き也。

 曰く、「耶麻騰の名は、神武天皇に創まる。蓋し天皇、天下を定め、太和國に到つて、王業、始めて成る。仍つて王業を定むるの地を以て、國號と爲す。猶ほ周の武王、岐周に王業を定む、故に國を周と號するがごとし」と。此の説、諸家、相承くること、已に久しくして、貝原損軒(亦た益軒と號す)も、亦た言へること有り。「神武帝の東征したまふや也、浪速より河内に過ぎ、將に膽駒山に逾えて、太和に入らんとす。其の六軍を膽駒山の西に駐むるに方つてや也、其の地、淀河の内に在るを以て、故に其の國を號して、河内と曰ふ。其の地、膽駒山の外に在るを以て、故に山外と曰ふ。蓋し河内に對して、言を爲る也。恐らくは山迹・山止の謂ひに非ず。且つ膽駒山の北に在るを以て、其の國を號して、山背(やましろ)と爲す」と。此の説、人情に近く、地界に切にして、耶麻騰の、神武以來の名に爲る、益々分明なり矣。吾子、未だ之を聞かざるや乎。曰く、耶麻騰の、天下の號爲る、尚し矣。二はしらの神の、國を生みたまふや也、大日本の名有りて、伊弉諾尊、目くるに日本浦安國を以てし、饒速日命、呼びて虚空見日本國と爲す。此れ皆な橿原御宇以前の稱なり。豈に悉く指して後世の追號と爲すことを得んや乎。

 損軒の説、誠に子が稱する所の如し。但だ『舊事』・『古事』・『日本紀』に、山背の號有りて、山外の字無し。且つ日神、天安河に都したまふこと、舊たり矣。故に『神武紀』に、稱して中州(なかつくに)と爲す。豈に一膽駒の東に在るを以て、斥して山外と爲さんや哉。蓋し嘗て反覆、之を考ふるに、山外の説、恐らくは亦た傅會のみ耳。譬へば釋徒、大日孁貴を稱して、大日如來と爲すが如し。極めて切近と雖も、事實に非ざる也。蓋し古昔、國の墺區(もなか)を稱する、往往、同名を以てす。和泉國に、和泉郡有り。河内國に、河内郡有り。其の類、寔に繁し。何ぞ先に大日本國有りて、然して後に其の墺區、一の小日本國有るに害せんや耶。故に『神代卷』に曰く、「日本國の三諸山」と。此れ正名と爲す可し矣。何ぞ煩はしく岐周を假りて、以て説を爲さんや哉。且つ山背國も、亦た山を背にするを以て名づくるのみ耳。猶ほ河内國、淀河の内に在り、日向國の日に向ふがごとし。蓋し各國の形勢に據つて名づくる也。何ぞ必ずしも遙かに膽駒山を主とせんや乎。

 夫れ神聖の、業を創め政を立つる、當に緩急・本末有るべし。神武當時、六軍を膽駒に駐めたまふや也、會戰神策、日、暇給せず。其れ豈に遽爾として、玉趾、未だ加へざる三國の名を制して、以て虚勢を張らんや哉。帝王の擧措、恐らくは此の如くならざる也。損軒、膽駒に拘拘とし、執して之を用ひ、其の物情に乖くの甚だしきを察せず。豈に其れ千慮の一失ならんか歟。

 此の説にて見れば、日本と申すべし。倭といふべからず。


[以下、其の目のみ。皆な非也]

【一・二】
一、我が國を夷といふ説。俗間の儒、我が日本を、東夷といふ。‥‥
一、もろこしを中華といふ説。俗間の儒、もろこしを、中華といふ。‥‥
一、平安城を洛陽といふ説。世俗、京を洛陽といひ、京へ上るを上洛といふ。又た京を長安といひ、山城國を雍州といふものあり。‥‥
一、諸國に州の字を付くる説。世俗、日本の國々に、州の字を付く。山城國を山州といひ、和泉國を泉州といふ類也。‥‥
一、諸國に陽の字を付くる説。世俗、國々に、陽の字を付く。攝津國を攝陽、播磨國を播陽といふ。‥‥
一、官位に唐名(からな)を用ふる説。世俗、官位に唐名を用ふ。中納言を黄門といひ、諸大夫を朝散大夫といふ類也。‥‥
一、天子の問に答を奉るを敕答といふ説。世俗、天子の問に、答を奉るを敕答といふ。‥‥
一、江戸を武陵といふ説。俗儒、江戸を武陵と書する事あり。‥‥
一、儒者、剃髮する説。世俗、儒者、多く剃髮す。‥‥
一、學者、深衣(しんえ)・幅巾(ふくきん)をする説。俗間の學者、朱子の『家禮』を用ふるとて、私に深衣・幅巾を着するものあり。‥‥
一、儒者、姓名を節約して、西土の人に似する説。俗間の學者、多く姓名を節約して、西土の人に似す。‥‥
一、朱印を用ふる説。世俗の學者、詩文を作り、朱印を押す。‥‥
一、靈社號・命號の説。世俗の人、何の靈社・某の靈社と、社號を名乘る。自から號する人もあり。又た神道しりたる人より許すとかや。又た何の命・某の命と名づくるもあり。‥‥
一、千木・堅魚(かつを)木の説。世俗の社に、千木・堅魚木を上ることあり。‥‥
一、熊野の牛王、血判の説。世俗の誓紙に、熊野の牛王に血判を加ふ。‥‥
一、墓の上に、社を建つる説。世俗、墓の上に、社を建つる事あり。‥‥
一、忌日を祭日に用ふる説。世俗、先祖の祭に、忌日を用ふる人あり。‥‥
一、諸神、禁裏に番を勤めたまふ説。俗間、傳へいふ、六十六箇國の諸神、毎日、禁裏に番を勤めたまふとし、火災・厄難あれば、其の日の當番の神、禁籠せられ、宮社に垣をゆひ、人を參詣せしめず。‥‥
一、朱(あけ)の玉墻(がき)の説。世俗、朱の玉がきとて、神社の垣を丹くぬる事あり。‥‥
一、猿田彦命、神體の説。世俗、猿田彦の神體とて、三猿を作りて、拜する人あり。‥‥

【三】
一、日本、うらなひの説。俗説に、いたく日本の占卜(うらなひ)は、皆な西土の傳來也。‥‥
一、たかばかりの説。俗間の書に、たかばかりとは、竹にて作れる曲尺(ものさし)也、とあり。‥‥
一、神主(しんしゆ)を作る説。俗間の學者、先祖の神を祭るに、伊川先生の定めたまひし神主を用ふ。‥‥
一、西土の藥の説。世俗の醫師、日本産の藥は、性(しやう)あしゝとて、專ら西土よりわたりたる藥を用ふ。‥‥
一、補陀落の説。俗説、補陀落を補陀落世界とて、極樂なりといふ。‥‥
一、外國より來朝する僧の説。俗間、外國より來朝する僧を、妄りに信じ敬ふて、名僧とす。‥‥
一、秀吉公の父の説。俗説に、秀吉公は、尾張國愛智郡・筑阿彌といふ、小民の子也。又た一説に、同類中村の人・木下彌右衞門の子也。又た『大系圖』に、中村彌助が子也。‥‥
一、土佐國・長宗我部氏系圖の説。俗間の軍記に、土佐の國主・長宗我部元親の父を、元國といふ。元國の父を、元秀といふ、と記したり。‥‥
一、阿倍仲麿の説。世俗、阿倍仲麿、名臣にて、名を西土まで揚げられしといふ。‥‥
一、年忌の説。世俗、年忌とて、僧を請じ、法事を行ふ事あり。‥‥
一、戒名・院號の説。世俗、よし位勢ある人、死すれば、僧より戒名を付するに、某の院殿と號す。‥‥
一、先祖を祭るに、珍膳を用ふる説。世俗、先祖を祭るに、美味珍膳を用ふ。‥‥
一、肩衣・袴の説。世俗の曰く、肩衣・袴は、將軍義滿公の時、内野合戰、正月元日に起りたる間、殿中賀會の衣裝束の袖と裳(もすそ)とをきりて、事に從ふ。是より吉例となる。細川頼之の所爲なり。‥‥
一、諸士の武具、金(こがね)作りを用ふる説。世俗、刀・わきざしの飾りに、上下、皆な金を用ふ。‥‥
一、保侶(ほろ)の説。世俗の曰く、ほろは、漢の樊噲が母の衣をかたどれり。又た源・平・藤・橘の四家について、文字、各々かきやう有りといふ。‥‥
一、異國の書を引きて、神書をとく説。俗間の神書の注解、多く外國の書を引きて發明す。‥‥



○谷秦山先生『俗説贅辨續編の引』(『秦山集』四十二・第五卷・信)

 科野國、婦、夫に殉ひ、筑波山、嬥歌(かゞひ)の會、□[女+微]惡、同じからずと雖も、共に風俗の弊と爲す。道開け教正しく、近世、之れ有ることを聞かず。俗習の譌(あやま)りを辨ずる、亦た世教の一助ならずや乎。今ま又た其の帝皇・人倫・爲學の談に關はる者、數十條を辨著し、之を『贅辨』の後に續く。識者、其れ或は此に一慨せんと云ふ。享保(三年)戊戌首夏上旬、谷重遠、識す。


●谷秦山先生『俗説贅辨・續編』(享保三年六月刊)

【上】
一、本朝の辨。‥‥
一、帝皇の辨。‥‥
一、檀林皇后、野葬の辨。‥‥
一、後深草・龜山、皇統の辨。‥‥
一、後醍醐天皇、諱日の辨。‥‥
一、長慶院の辨。‥‥
一、陽祿門院の辨。‥‥
一、忌日を引上るの辨。‥‥
一、神職者、服忌を受けざるの辨。‥‥
一、鹿肉觸穢の辨。‥‥
一、長田忠致、弑逆の辨。‥‥
一、新田義貞の辨。‥‥

【下】
一、五部の書の辨。‥‥
一、内外宮祭日の辨。‥‥
一、風土記の辨、一。‥‥
一、風土記の辨、二。‥‥
一、朱雀・白鳳、年號の辨。‥‥
一、延長改元の辨。‥‥
一、伊勢物語の辨。‥‥
一、雙生(ふたご)・三生(みつご)の辨。‥‥
一、厄年の子の辨。‥‥
一、胎内の兒、男・女の辨。‥‥
一、蘭奢待の辨。‥‥
一、兒島高徳、姓氏の辨。‥‥
一、人の實名を喚ぶの辨。‥‥
一、實名、歸納(かまし)の辨。‥‥
一、南廷の辨。‥‥
一、知行百貫の辨。‥‥
  ↓↓↓↓↓
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-065001 



●松本豐多翁『秦山先生小傳』(『秦山集』第五卷・信の末)

 先生、名は重遠、小字は小三次、丹三郎と稱す。谷氏。秦山は、其の號なり。土佐長岡郡豐岡村の人。其の始祖を、左近と曰ふ。長宗我部氏に仕へ、顯名有り。左近五世の孫・重元、三子を生む。伯を重正と曰ひ、仲を重次と曰ふ。季は即ち先生なり。先生、寛文三年癸卯三月十一日を以て生る。性、學を好み、強記絶倫、幼にして『小學』・『四書』を舅・島崎氏に受く。眼を過ぐれば忘れず。又た常通寺に入り、守信法印を師とし、法華經を讀む。未だ兩月に滿たずして誦を成す。

 延寶七年六月、年、甫めて十七、上京して淺見絅齋に謁し、十月、山崎闇齋に謁す。二儒の學、洛閩を主とし、大義名分を説くこと、極めて嚴正と稱す。先生、既に二儒の教へを受け、而して歸る。後ち屡々書を修めて、益を請ふ。間斷、有ること無し。國守・山内豐房公、其の篤學を嘉みし、賜ふに廩俸を以てせんと欲す。辭して拜せず。天和三年、先生、謂へらく、讀書勤業は、郊居に如かず、と。移つて泰山に住す。元祿元年、父・重元卒す。家貧にして、葬むること能はず。二兄、職を奉じて外に在り。先生、代つて几筵を奉ず。孝友の情、想ふ可き也。七年、書を澁川春海に寄せて、天文・暦算を學ぶ。春海は、闇齋の弟子、夙に出藍の稱有り。初め先生、星暦を闇齋に問ふも、闇齋卒するに及び、春海の門に游ばんと欲す。府司、允さず。故に書を寄せて、之を學ぶ也。八年、新たに渾天儀を鑄す。衡・璣、各々三尺、尤も簡明と稱す。十年夏、春海、暦術の印可を授く。十三年、先生、學術、已に優れ、門人、又た多し。而して益々之を研かんと欲し、香美郡山田野に移る。

 十五年、豐房公、終ひに廩俸を賜ひ、移つて城下に居らしむ。府員、延聘して講を聽く者、常に六十人に下らず。而して公私の應接、日夕、遑あらず。先生、其の志業を癈することを恐れ、十六年、請うて山田野に復る。寶永元年、東遊して、春海を駿河臺に訪ふ。此の行や也、過ぐる所の山川宿驛、皆な之を詠歌す。畿内の社寺、遊觀せざる莫し焉。『東遊紀行』二卷を著す。三年、是より先き先生、國内を巡行し、式内二十一社の湮沒せる者を考定し、案を具して之を上る。此に至つて命を受け、案を齎して京師に至り、諸れを占(卜)部兼敬卿に訂す。卿、之を可とす。豐房公、二十一社を造替せんと欲し、有司に先生と之を議せしむ。幾ばくも無くして公、館を捐て、議、遂に罷む。

 四年、命有り、先生を禁錮す。其の罪名を審かにせず。竊かに謂ふ、當時、幕府、林信篤(鳳岡)に命じて、聖廟を建て、文學を興し、絃歌の聲、所在に起る。而して儒臣・學士、大義名分を曲解し、甚焉だしきは冠覆倒置の言を爲して、以て天朝を侮蔑するに至る。世人察せず、以て當然と爲す。蓋し時勢、爾かる也。而して先生の學、已に闇齋・絅齋の上に駕し、其の大義名分を説くこと、毛絲、紊れず。以て一國人士の心を感孚するもの有り焉。當路の人、蓋し之を説ばず。公の館を捐つるを機とし、之を排陷する也。先生、既に禁錮せられ、毫毛も怨尤の色無し。晝は則ち書を抄し、文を改め、夜は則ち天象を觀、星宿を認め、十有二年、一日の如し。享保三年六月晦を以て終はる。年五十六。

 嗚呼、先生、既に時に遭はず。命、又た長からず。滿腹の經綸、施爲する所ろ無くして歿す。豈に慨歎に勝ふ可けんや哉。然りと雖も一國感孚の效、世を累ねて、益々驗あり。遂に勤王の唱首を以て、大いに顯はるゝに至る。蓋し先生の志業は、當時に屈して、後世に伸ぶ。偉なりと謂ひつ可し矣。著す所の書、某某、皆な子爵・干城(谷隈山中將)君の家に藏む。子爵の『秦山集』を刻するに當り、豐多に囑して之を謄寫し、之を校正し、且つ先生の小傳を爲つて、其の後に繋げしむ。豐多、不敏不文、其の傳を爲らんこと、素より其の人に非ず。然れども豐多、子爵の眷顧を蒙ること、此に三十餘年、義、辭す可からざる者有り。謹みて其の梗概を敘して上ると云ふ。

 明治四十三年十二月十五日、安房・松本豐多、謹みて誌す。
 

  • [43]
  • 尊王は本なり、攘夷は末なり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月29日(土)14時54分57秒
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 「道は書に因つて傳はり、學は人に因つて興る。安んぞ知らん、百歳の後、之(道書)を讀みて奮然として起ち、以て道學の傳に任ずる者有らざらんことを也耶」(『守待室記』)と叱呼した、肥前平戸の大儒・楠本謙三郎橘孚嘉先生は、崎門の碩學大徳にして、遠湖内田周平・彪邨岡次郎直養兩先生(紹宇近藤啓吾先生の師)の師なり。三宅尚齋の門派に出づと雖も、大橋訥菴先生の塾に於て、淺見絅齋先生平生の志を學び、幕末・明治に於ける崎門の宿老なりき。

 碩水先生の常の志は、學者の出處進退に在り、如何に該博なる學識があらうとも、出處に缺くる所の學者の著書は、之を讀むを好まれなかつたと傳へらる。故に小生も之に倣ひ、善し惡しは別にして、之を習ひ性として來た。小生、碩水先生を知るは、學生時代に、藤村禪翁『楠本碩水傳』(昭和五十三年十月・藝文堂刊)を拜讀したことに因る。曰く、「國家改造の目標を、端的に郡縣制の復活、即ち封建制の撤廢におき、それを名分論の上から、堂々と唱へた人物が、果して慶應元年の段階で、幾人あつたであらうか」と。其の大識見を、次に掲げたい。



●楠本碩水先生『三條藤公(實美)に上る書』(慶應元年十月一日。『碩水文草』卷上・明治三十六年九月刊に所收)に曰く、

「佐々孚嘉(碩水先生)、謹み再拜して、書を三條藤公閣下に上る。嚮者(さき)には大宰府に於て、五公卿に謁し、閣下は、特に別室を延べて、從容として坐を賜はり、諭すに尊王の大義と攘夷の急務を以てしたまふ。且つ孚嘉をして、其の所見を陳べしめたまへり。孚嘉、駑なりと雖も、敢へて感激せざらんや。爾來、閣下に報いる所以の者を思ふて、夜も安く寢ざる者、數々なり矣。而して藩士の誼、嫌疑の際、又た頗る言ひ難き者有り。然りと雖も士、志し無ければ、則ち已まん。苟くも志し有れば焉、則ち默々として止む可からざる也。請ふ、閣下の爲めに、一たび之に言ふを試みん。

 孚嘉、嘗て之を聞く、昔者、桓武天皇、宅を山背に相し、其の山河襟帶なるを以て、自然と城と成し、鼎を此に定め、以て萬世不遷の都と爲したまへり。内、大極・八省の殿院を建て、以て天下の朝覲を待ち、外、鴻臚・玄蕃の館寮を設け、以て外夷の來貢に備ふ。是の時に當りや也、海内、煕々雍々、華夏蠻貊、率俾せざるは罔(な)し矣。降りて源頼朝、鎌倉に據るに迨び、天下の政權、咸な武門に歸す。禍亂相踵ぎ、殆んど數百年なり。徳川氏起るに至り、撥亂反治、其の功、尠しと爲さず。而るに朝廷の衰ふること、則ち未だ是より甚だしきこと有らざる也。所謂る大名なる者、又た各々其の攻取劫奪せし所の者を以て、己が國と爲し己が民と爲し、而して其の實は、亂臣賊子爲ることを知らざる也。是に於て天下、遂に封建の勢を成す。歎ずるに勝ふ可けんや哉。

 恭しく惟みるに、今上皇帝、聰明神武、夙に王綱振はず、蠻夷夏を猾すを憂ひたまひ、詔を幕府に下し、以て之を攘除せしめたまふ。而るに幕府、因循にして果さず。衆叛親離、其の勢、窮まれり矣。且つ大名なる者も、亦た逡巡遲疑、其の間に於て、一の爲す所ろ無し。此れ則ち朝廷の興る、名義の立つ、其の大機會は、實に今日に在り。加之(しかのみならず)水府・長藩、先後して唱和し、而して慷慨義烈の士、奮然として四もに起り、天日を中天に囘らさんと欲す。此の時に及び、專ら力を内治に用ゐ、大内裏を修創し、百官を朝せしめ、群下に令し、更に名義を正し、賜ふに爵土を以てし、大なるは則ち之を損し、小なるは則ち之を増し、儼然として封建の制を改定し、名と實と協ひ、彼此各々其の所を得しめ、然る後に攘夷の詔を發したまひ、固く拒んで入れず、其の服せざるに至つては、責むるに大義を以てし、兵を擧げて之を討つ。是に於て名正しく言順に、蠢爾たる外夷は、以て患と爲すに足らず。其れ此の如くすれば、則ち天下治まらざらんことを欲すと雖も、而も得可からざる也。

 孚嘉、故に曰く、尊皇は本也、攘夷は末也。苟も之を此に考へず、先後を誤り緩急を失へば、則ち夷狄、得て攘ふ可からず也、朝政、得て復す可からず也、武家、得て制す可からざる也。往古の聖王、土俗を考へ時勢を察し、以て郡縣の制を立つ焉。則ち彼の武家なる者は、固より周の世の諸侯と、名義も事體も、自ら相ひ同じからず。而して武家の跋扈、既に已に此の如し。則ち有志の士は、郡縣復古の説を倡へざるを得ざる也。然り而して孚嘉、此の説有る所以の者は、他無し、亦た理勢の已むを得ざるに出づるのみ焉耳。且つ夫れ郡縣と封建と、一得一失、各々其の弊へ無き能はず。而して古聖賢、既に是の二者を用ゐ、以て治平を致す。則ち固より此を是として彼を非とす可からざる也。孔子の曰く、『其の人の存すれば、則ち其の政擧り、其の人の亡ければ、則ち其の政息む』と。之を要するに、其の人、如何に在るのみ而已。

 閣下、尊攘の大義に於て、已に天下に先んじ、身を以て之に殉じたまへり。固より賤陋の言を待たざる也。然れども愚者も、未だ必ずしも一得の見無きにあらず。幸ひに採擇せられんことを焉。千涜尊嚴、惶恐、已む無し。慶應元年十月朔日」と。



●楠本正翼翁『碩水先生傳』(楠門會編『碩水先生遺書』卷一・大正七年十二月刊に所收)に曰く、

「(明治二年)己巳の春に至り、本姓(楠本氏)に復し、併せて家祿、之に還さんことを請ふ。先生、武門の權を專にし、王室の振はざるを憤慨し、毎に曰く、『異姓を冒さゞるは、是れ孝の第一義、武門に仕へざるは、是れ忠の第一義なり』と。明治天皇登極、天下一新するに迨びて、乃ち曰く、『吾が願ひ、畢んぬ矣』と」と。



●楠本碩水先生『過庭餘聞』(昭和八年一月・文成社刊)に曰く、

「(兄の楠本)端山も、名分と言ふことは、餘り説かれなんだぞ。予(碩水先生)は、名分説ぞ。天下國家の上も、名分で立つぞ。一家一身の上も、名分で立つぞ。名分でなければ、何事も立たぬものぞ、をかしいことになるものぞ。『學者も、あんなものか』と、人が笑ふぞ。それを知らずに、よい氣になつて居るぞ。‥‥

 出處は、淺見絅齋に限るぞ。佐藤直方などは、論ずるに足らぬぞ」と。



●楠本碩水先生『竝木栗水に與ふる書』(明治二十一年七月二十二日)に曰く、

「『闇齋、晩に、神道に墮落せしは、虚高の弊と言はざるべからず』と。闇齋の神道、世儒、往々これを議す。崎門の學者と雖も、これを議するもの、少なからず。然るに其の書をも見ずして、その是非を議するは、實に笑ふ可き也。其の『神籬磐坂(境)之傳』などに至りては、君臣の大義、實に此に在り。凡そ我が日本人爲る者は、知らざる可からざる也」と。



●楠本碩水先生『竝木栗水に與ふる書』(明治二十五年八月八日)に曰く、

「『(神皇)正統記』は、正統の二字、作者の意の在る所、尤も着眼す可し矣と存じ候ふ。弟(碩水先生)、嘗て之を讀みて曰く、天日の嗣、萬古無窮、諸れを泰山の安きに置く者は、惟だ『神皇正統記』ならんか乎。讀みて卷末に至り、流涕大息せざる者は、決して忠臣孝子に非ざる也。但し其の書に、佛説を取るは、遺憾、甚だし矣、と。

 聞くならく、藤田東湖、以て本朝第一の書と爲す、と。亦た宜しからずや乎」と。



●楠本碩水先生『隨得録餘』(楠門會編『碩水先生遺書』卷十二・大正七年十二月刊に所收)に曰く、

「南朝(吉野なる朝廷)を以て正統と爲し、北朝を以て正統と爲さず。『神皇正統記』以來、『大日本史』・『保建大記』等、歴歴として見る可し。神器入洛し、南・北合一するに及びては、則ち正・不正の迹、泯焉として亡し。而して天統は、則ち自若たり也。所謂る神器の在・否を以て、人臣の向背を決する者、復た奚ぞ疑はんや哉。蓋し神器は、則ち器也、而して器に非ざる也。即ち天統の在る所ろ也。後世、因循沿襲にして、統を北に係く。其の大義名分を知らざるや、甚だし矣」と。



【岡彪邨先生と内田遠湖先生】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/oka.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/uchida.htm
  

  • [42]
  • 脊梁骨を堅立せよ。── 佐藤直方『道學標的』・『冬至文』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月 3日(月)23時45分8秒
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○平泉澄先生の哥

青々の子等 皆緋縅(ひをどし)の 鎧着て 今日のいくさに 馳せ向ふらむ 御印澄(帝都青々第一塾に懸ける色紙)

單騎なほ 千里行くべし しかあるを 友あり同じ 斯の道を行く



 布布木屋寒林平泉澄博士の、主宰講義し給ふ所、之を「青々塾」と曰ふ。塾中に、平泉先生の御講義にかゝる、先哲遺文の標題を載す所の『青々塾御講義目録』一卷を存す。而して其の中、佐藤直方の『冬至文』の御講義(昭和十年一月三日・十二月六日。昭和四十四年十月二十六日)あるを知る。蓋し直方の邪説に陷りしことは明白なれど、其の道學に志す氣概、是を之れ尊び給ふなる可し。今、平泉先生の識語ある、青々塾藏版『道學標的』と共に、掲ぐること左の如し。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/21

 吾人有志は、日夜、心を潛めて、道義の至當を究め、難に當つて、毫も恐るゝ所なく、進んで自ら任じて立つて、天下の綱常を扶植せむ事を期さねばならぬ。是れ皇國御民の責務にして、道學の復興を志す所以なり。孔朱道學の精粹を資りて、以て皇國道義の問學の輔翼に贊せむ、即ち「聖人と爲らむ」を、「内侍所の石の苔になりともなりて、禁闕守護の神の末座に加はらむ」に置き換へる、亦た可からずや乎。明治佳節に、備中處士、敬みて白す。



●佐藤直方「道學標的の序」

 孔・曾・思・孟(孔丘・曾參・孔伋子思・孟軻)の後、其の道統を接ぐ者は、周・程・張・朱(濂溪周敦頤・明道程顥・伊川程頤・横渠張載・晦庵朱憙)也。吾人の學ぶ所は、豈に此れを外にして他に求めんや乎。俗學者流、道を求むるを知らざる者は、固より置いて論ずる無し焉。或は實に聖賢を學ぶと稱する者有りと雖も、而れども道に於て向かふ所を知らざれば、則ち徒らに謹厚拘滯の域に局するのみ耳。亦た何ぞ與に道學を議するに足らんや哉。今ま實に聖賢を學びて、其の道に造(いた)らんと欲せば、則ち又た以て聖學の要歸を識らざる可からず矣。因つて竊かに聖賢の言、此に關はる者を略舉し、以て諸れを講學用力の標的に備ふと云ふ。

 正徳(二年)壬辰季夏日 佐藤直方、謹みて識す。



『道學標的』

○『論語』に曰く、十室の邑、必ず忠信、丘が如き者有らん焉。丘が學を好むに如かざる也[十室は、小邑也。忠信、聖人の如きは、氣質の美なる者也。夫子、生知にして、未だ嘗て學を好まずんばあらず。故に此を言ひて、以て人を勉めしむ。言ふこゝろは、美質は得易く、至道は聞き難し。學の至りは、則ち以て聖人と爲る可し。學ばざれば、則ち鄕人爲るを免れざるのみ而已。勉めざる可けんや哉]。

○又た曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり矣[道は、事物當然の理。苟くも之を聞くを得ば、則ち生きるに順ひ死するに安し、復た遺恨無し矣。朝・夕は、其の時の近きを甚だしく言ふ所以なり。○程子の曰く、「言ふこゝろは、人、以て道を知らざる可からず。苟くも道を聞くを得ば、死すと雖も可也」と。又た曰く、「皆な實理也。人知って、信ずる者(こと)を難しと爲す。死生も、亦た大なり。誠に得る所ろ有るに非ざれば、豈に夕に死するを以て可と爲さんや乎]。

○『大學』に曰く、大學の道は、明徳を明かにするに在り、民を親(新)たにするに在り、至善に止まるに在り[大學は、大人の學也。明とは、之を明かにする也。明徳は、人の天に得る所にして、虚靈不昧、以て衆理を具へて萬事に應ずる者也。但だ氣禀に拘ずる所、人欲に蔽はるゝ所を爲すは、則ち時として昏む有り。然るに其の本體の明は、則ち未だ嘗て息まざる者有り。故に學者は、當に其の發する所に因りて、遂に之を明かにし、以て其の初に復すべし也。新とは、其の舊を革むるの謂ふ也。言ふこゝろは、既に自ら其の明徳を明かにし、又た當に推して以て人に及し、之をして亦た以て其の舊染の汙を去るを有らしむるべし也。止とは、必ず是れに至りて遷らざるの意。至善とは、則ち事理當然の極也。言ふこゝろは、明徳を明かにし、民を新たにするは、皆な當に至善の地に止まつて遷らざるべし。蓋し必ず其の以て夫の天理の極を盡くすこと有りて、一毫の人欲の私無き也。此の三つの者は、大學の綱領也]。

○『中庸』に曰く、大なるかな哉、聖人の道[下文兩節を包みて言ふ]、
洋洋乎とし萬物を發育し、峻く天に極まる[峻は、高大也。此れ道の、至大に極つて、外無きを言ふ也]。
優優とし大なるかな哉、禮儀三百、威儀三千[優優は、充足餘り有りの意。禮儀は、經の『禮』也。威儀は、『曲禮』也。此れ道の、至小に入りて、間無きを言ふ也]、
其の人を待つて、後ち行はる[上兩節を總結す]。
故に曰く、苟くも至徳にあらざれば、至道凝(な)らず焉[至徳は、其の人を謂ふ。至道は、上兩節を指して言ふ也。凝は、聚也、成也]。
故に君子は、徳性を尊びて、問學に道(よ)る。廣大を致して、精微を盡す。高明を極めて、中庸に道る。故きを温ねて、新しきを知る。厚を敦くし、以て禮を崇くす[尊は、恭敬奉持の意。徳性は、吾れ天に受くる所の正理。道は、由る也。温は、猶ほ燖温の温のごとし。故と之を學び矣、復た時に之を習ふを謂ふ也。敦は、厚きを加ふる也。徳性を尊ぶは、心を存して、道體の大を極むる所以ん也。問學に道るは、知を致して、道體の細を盡す所以ん也。二つの者、徳を脩め道を凝すの大端也。一毫の私意を以て、自ら蔽はず、一毫の私欲を以て、自ら累はさず、其の已に知る所を涵泳し、其の已に能くする所を敦篤す。此れ皆な心を存するの屬也。理を析けば、則ち毫釐の差を有らしめず、事を處せば、則ち過不及の謬を有らしめず。理義は、則ち日に其の未だ知らざる所を知り、節文は、則ち日に其の未だ謹まざる所を謹しむ。此れ皆な致知の屬也。蓋し心を存するに非ざれば、以て知を致すこと無くして、心を存する者は、又た以て知を致さゞる可からず。故に此の五句は、大小相資、首尾相應す。聖賢、徳に入るの方を示す所、此より詳かなるは莫し。學者、宜しく心を盡くすべし焉]。

○『孟子』に曰く、滕の文公、世子爲り。將に楚に之かんとし、宋を過ぎて、孟子を見る[世子は、太子なり]。
孟子、性善を道ひ、言へば必ず堯舜を稱す[道は、言ふ也。性は、人の天に禀け、以て生ずる所の理也。渾然たる至善、未だ嘗て惡有らず、人は堯舜と、初めより少異無し。但だ衆人は、私欲に汨みて之を失し、堯舜は、則ち私欲の蔽無くして、能く其の性を充たすのみ爾。故に孟子の世子に與へし言は、毎に性善を道ひて、必ず堯舜を稱し、以て之を實にす。其れ仁義は外に求むるを假りず、聖人は學んで至る可きを知りて、力を用ゐるに懈らざるを欲す也。程子の曰く、「性は即ち理也」と。天下の理は、其の自る所を原ぬるに、未だ不善有らず。喜怒哀樂の未だ發せざる、何ぞ嘗て不善ならん。發して節に中る、即ち往くとして善ならざる無し。發して節に中らずして、然して後ち善ならずと爲す。故に凡そ善惡を言へば、皆な善を先にして惡を後にす。吉凶を言へば、皆な吉を先にして凶を後にす。是非を言へば、皆な是を先にして非を後にす]。
世子、楚より反りて、復た孟子を見る。孟子の曰く、「世子、吾が言を疑ふか乎。夫れ道は、一のみ而已矣」と[時の人は、性の本善なるを知らずして、聖賢を以て企及す可からずと爲す。故に世子は、孟子の言に於て疑ひ無きこと能はずして、復た來りて見るを求む。蓋し恐らくは別に卑近、行き易きの説有らん也。孟子、之を知る。故に但だ之を告ぐるに、此の如し。以て古今聖愚、本より同一の性、前言、已に盡き、復た他説有る無きを明かにす也]。
成□[間+見]、齊の景公に謂ひて曰く、「彼も丈夫也、我も丈夫也。吾れ何ぞ彼を畏れんや哉」と。顔淵の曰く、「舜、何人ぞや也。予、何人ぞや也。爲す有る者は、亦た是の若し」と。公明儀の曰く、「文王は、我が師也。周公、豈に我を欺かんや哉」と[成□[間+見]は、人の姓名。彼は、聖賢を謂ふ也。爲す有る者、亦た是の若しは、言ふこゝろは、人、能く爲す有るは、則ち皆な舜の如き也。公明は姓、儀は名。魯の賢人也。文王は、我が師也は、蓋し周公の言。公明儀も、亦た文王を以て、必ず師とす可きと爲す。故に周公の言を誦じて、其の我を欺かざるを歎ず也。孟子、既に世子に告ぐるに、道は二致無きを以てして、復た此の三言を引いて、以て之を明かにす。世子、篤信し力行して、以て聖賢を師とし、當に復た他説を求めるべからざるを欲する也]。

○『近思録』に曰く、聖は天を希ひ、賢は聖を希ひ、士は賢を希ふ。伊尹・顔淵は、大賢也。伊尹は、其の君の堯舜と爲らず、一夫も其の所を得ざるを恥づること、市に撻つが若し。顔淵は、怒りを遷さず、過ちを貳びせず、三月、仁に違はず。伊尹の志せし所を志し、顔子の學びし所を學ぶ、過ぐれば則ち聖、及ばゞ則ち賢、及ばざるも則ち亦た令名を失はず。

○又た曰く、第一等を將(もつ)て、別人に讓與し、且く第二等を做(な)さんと説道する莫かれ。才(わづ)かに此の如く説く、便ち是れ自棄なり。仁に居り義に由ること能はざる者と、差等、同じからずと雖も、其の自ら小にするは、一也。學を言へば、便ち道を以て志と爲し、人を言へば、便ち聖を以て志と爲す。

○又た曰く、聖人と爲るを求むる志有つて、然して後に與に共に學ぶ可し。學びて善く思ひて、然して後に與に道に適く可し。思ひて得る所ろ有れば、則ち與に立つ可し。立ちて之に化すれば、則ち與に權る可し。

○又た曰く、天地の爲めに心を立て、生民の爲めに道を立て、去聖の爲めに絶學を繼ぎ、萬世の爲めに太平を開く。

○又た曰く、二程(程兄弟)は、十四五の時より、便ち脱然として聖人を學ばんと欲す。

○『朱子文集』に曰く、熹、之を聞く。君子の學に於ける、特に今の學者と竝びて、一旦の功を爭ふに非ざる也。固より將に古人の至る所の者に至るを求めて、而る後に已まんとして、然して後ち與に學を語る可し矣。夫れ將に古人の至る所の者に至るを求めて、後に已まんとするは、則ち規撫綴緝の能く就す所に非ず。其れ必ず以て世俗庸常の見に度越して、直ちに古人の事を以て、自ら期する有りて、然して後ち得て至る可き也。夫れ古人の學、何を爲るかな哉。知を致し、以て之を明かにし、志を立て、以て之を守り、之を造るに、精深を以てし、之を充つるに、光大を以てす。聖人に至ると雖も、可也。此に出でずして、末流に營營馳騁し、精を竭し思を憊し、惟だ夫れ蓄藏の富まず、誦説の工みならざるを懼るゝは、之を能くすと曰ふと雖も、吾の謂ふ所の學に非ざる也。蓋し古人の事に循ふは、上は之れ以て聖賢の域に至る可く、下は之れ以て性命を安んじて、貧窮を固くし、時を得て行く可し。亦た何の利せざる所ならんや哉。今の爲す所に由るは、其の效を極む。以て今の士爲る者と竝びて、一旦の功を爭ふに足る。其の得と失と、又た未だ知る可からざる也。

○又た曰く、大抵、今の學者の病は、最も是れ先づ文を作つて祿を干むるを學び、心は寧靜ならず、深く義理を究むるに暇あらざらしむ。故に古今の學、義利の間に於て、復た其の界限分別の際を察する能はずして、以て其の輕重取捨の宜しき所を知る無し。誦數博しと雖も、文詞工みなりと雖も、而れども秖(まさ)に以て重く此の心の害を爲す所以なり。此を反するを要須し、然して後ち以て學を爲すの方を議す可きのみ耳。向かふ者、蓋し亦た屡々嘗て相爲めに此を道ふ。然るに賢者の意中、未だ甚だ明了ならず、終ひに未だ文字言語を以て、功夫と爲し、聲名利祿を歸趣と爲すを免がれざるを覺る。今ま述ぶる所の事状を以て之を觀れば、亦た其の誣ひざるを驗す可し矣。若し諸賢者、果して愚言を以て繆まらずと爲さば、則ち願はくば且く定省應接の餘功を以て、思慮を收拾し、精神を完養し、暫く其の已に學ぶ所の者を置き、淘湧鼓發狂閙ならしむ勿れ。却つて此の處に於て、前に謂ふ所の古今の學、義利の間を深察し、粒剖銖分、交互にせしむ勿くば、則ち其の輕重取舍の極、自ずから當に胸中に判然とし、矯拂を待たずして、趣操、自ずから分かれ、聖學の門庭、始めて漸を以てして、推尋す可し矣。此は是れ學者、心を立つる第一義なり。此の志、先づ定まりて、然して後ち己を脩め人を治むるの方、乃ち决擇して、脩持す可きのみ耳。

○又た曰く、人の是の身有れば、則ち必ず是の心有り。是の心有れば、則ち必ず是の理有り。仁義禮智の體を爲し、惻隱羞惡、恭敬是非の用を爲すが若し。是は則ち人、皆な之れ有りて、外に由りて我を鑠にせざる也。然るに聖人の敎ふる所以は、學者をして收視反聽、一に諸れを心に反求するを以て、事と爲さしめずして、必ず「詩に興り、禮に立ち、樂に成る」と曰ひ、又た「博學審問、謹思明辨して、之を力行す」と曰ふは、何ぞや哉。蓋し理、我に在りと雖も、而れども或は氣禀物欲の私に蔽はるれば、則ち以て自ら見ること能はず。學、外に在りと雖も、然れども皆な此の理の實を講ずる所以なり。其の浹洽貫通して、自ら之を得るに及べば、則ち又た初めより内外精粗の間無し也。世變俗衰の士は、學を知らず。册を挾み書を讀む者は、既に多きを誇り靡を鬭じ、以て利祿の計を爲すに過ぎず。其の己に意有る者は、又た直ちに以て、以て足を心に取りて、外に求むるを事とする無きを可と爲す也。是れを以て佛老空虚の邪見に墮ちて、義理の正、法度の詳に於て、察せざる有り焉。其れ幸ひにして或は理の我に在り、夫の學の以て講ぜざる可からざるとを知る者は、則ち又た序に循ひ詳を致し、心を虚くし意を一にし、從容として以て我に在るの本然を會するを知らず。是を以て急遽淺迫、終ひに已に浹洽して貫通すること能はず也。鳴呼、是れ豈に學の果して爲す可からず、書の果して讀む可からずして、古先聖賢の、以て世に埀れ教を立つ所の者、果して益無からん也哉。道の明かならざる、其れ嘆ず可きのみ已。

○又た曰く、熹、衰苦の餘、他の外誘無く、日用の間、痛く自ら歛飭し、乃ち敬の字の功、親切要妙、乃ち此の如くして、前日、此に於て力を用ゐるを知らず、徒らに口耳を以て、浪に光陰を費し、人欲横流、天理、幾んど滅するを知る。今にして之を思へば、怚然震悚、蓋し其の躬を措く所以を知らざる也。

○『朱子語類』に曰く、子上の問ふ、「操れば則ち存し、舍つれば則ち亡ぶ」と。曰く、「若し先づ性善を明かにし、興起、必ず爲すの志有らざれば、恐らくは其の謂ふ所の操存の時は、乃ち舍亡の時也」と 。

『道學標的』終



●平泉澄博士「道學標的の跋」

 佐藤直方先生(【註】)、曾て『講學鞭策録』を輯め、學徒を警勵し、後ち更に『道學標的』を編み、後生の指針と爲す。先哲爲學の道、是に於て炳然として、日の如く明かなり矣。曩日、塾中講學の際、偶々之に言及す。諸生、聽きて深く喜ぶ焉。乃ち『道學標的』を取り、古版に依りて之を複製し、以て同志に頒つ。

 顧みるに方今の士、浮薄に習ひ、唯だ功利の勢、道學の如きは、棄てゝ顧みず。思想惑亂、國家傾危、職より是れ之に由る。嗚呼、頽瀾を挽囘し、綱常を維持するの任、之に當る者、其れ誰ぞや乎。諸生、更に猛く精彩を著け、須く一死悔いず、七生報國の決意を要すべし。聊か所感を書し、卷尾に附すと云ふ。

 昭和(八年)癸酉夏日、後學・平泉澄、謹みて識す。

【註】愚案、佐藤直方の、道學を以て自ら任ずること、大いに學ぶ可し。然れども崎門の研究が深まるにつれて、之を「先生」と呼ぶこと、頗る忸怩たるものあり。是れ、日本學を奉ずる者のみ知る所、敢へて人に向つて言ふに非ず。平泉先生、必ずや之を諒とせられむ。── 鳥巣通明翁『崎門三傑論に關する一考察』(『史學雜誌』五十三の五・六。昭和十七年五・六月)參看。
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●佐藤直方『冬至文』

 道の廢れて行はれざるは、猶ほ擔物の地上に捨て置くがごとき也。若し其の人、其の時に出づること有れば、則ち之を任じて、永く地に墜ちざらしむ矣。今、聖學を務むる者は、乃ち擔夫也。俗學の徒は、則ち路中の游手のみ耳。何ぞ道の任を望むに足らんや乎。朝鮮が李退溪の後、此の道を負荷せんと欲する者は、吾れ未だ其の人を聞かず焉。『中庸の序』に謂ふ所の、「吾が道の寄る所、言語文字の間に越えず」とは、正に此れを謂ふ也。我が□(闕字)邦、古より今に至るまで、此の道を任ぜんと欲する者、幾人ぞや也耶。二三子、聖學に志すこと有るか矣乎、無きか乎。若し果たして其の志有らば、則ち脊梁骨を堅立し、以て孔・孟を學ぶことを願ふ可し矣。曾子の云はずや乎、「士は、以て弘毅ならずんばある可からず。任重くして、道遠し。仁以て己が任と爲す、亦た重からずや乎。死して後ち已む、亦た遠からずや乎」と。豈に悠悠徘徊、歳月を終へ、夫の游手浮浪の徒と、伯仲を爲さんや哉。

 享保(元年)丙申冬至の日、直方、之を書し、鈴木正義(稻葉迂齋)・野田徳勝(剛齋)・永井行達(淳庵)に與へて、以て其の志を勵ますと云ふ。
 

  • [41]
  • 下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』坤。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月 2日(日)15時40分32秒
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~承前~

  第二章 闇齋以後の闇齋学の道統について

   第一節 玉木葦齋の学風

 玉木葦齋の学風に就いて、『闇齋学統の國體思想』では、

「尚橘家神軍傳を中心とする兵家神道をとり入れて、獨自の神道を樹立し、深く楠公を崇拝し、神道の極致は、邦家の埋章となるにありとし、文武兼備を理想とし、兵法をも教へた。蓋し楠公崇拝の精神を絅齋に受け、これに神道的情熱を加へて、これを「邦家の埋章」の精神に發展させたところに特色がある」(十七)

と書かれてある。葦齋の偉業は、闇齋の神籬磐境傳を、天皇奉護の臣民道とする絶対随順の臣民道に深化させたことである。その思想の一端たるものは、『橘家神軍傳中大星之傳』に、

「天子は、日嗣の大君にして、今日の天照大神にて在坐也。臣下萬民の目當大星とする所は、天皇也。天君に逆ひ、矛先を向け弓を引き矢と放ちては、天の道逆ふ故、負ふ事、必然也。勅命のまにまに敵を討事、此則隨影壓躡の道理也。天照大神と天皇と、御同殿御共牀に在坐して、神皇御一体なれば、假令天日を背に負といへども、天皇に叛き奉りては、急に天罰を蒙る事、炳然たり。太陽天日の御人體に生れ出させ給へるは、天子也」(十八)

と述べられてゐるやうに、葦齋は放伐思想を否定し、また承詔必謹を説いたことからも、闇齋学に於ける絶対随順的臣民道と垂加神道を整理し、大成させ、更に天皇が、地上に於ける天照大神であると断言するに至つた。そして『神学大意』では、

「神籬と云ふことは、皇天二祖の靈を、きつとまつり留められて、皇孫を始め奉り、萬々世のすめみまを守護することの名ぞ。日と云ふは、禁中様のこと、日つぎの御子で、御代々日ぞ、其の日様を覆ひ守らせらるゝ道の名ぞ。さるによつて代々御日様の御座る處は、どこぞと云へば、禁裏の皇居が、代々日様の御座所ぞ。神籬とあらゆへ、今日の神社のことばかりと思ふは、そでない。直に禁裏様が、神様ぞ」(十九)

と、主張してゐる。神籬(日守木)は、天皇守護の道であり、更に「天子様へ忠盡すと云ふことで、日本人の極所ぞ」と述べることからも、それは天皇絶対思想であると云へる。更に、

「日本国中にあらゆる大小の神社は、皇統守護の為にいつき祭る外のことではないぞ。それからいへば、神社、皆神籬ひもろぎぞ。ひもろぎならぬ社は、淫社ぞ」(二十)

と云ひ、神社の本旨を「皇統守護の神籬」とし、皇統守護を鑑みない神社を淫祠であるとしてゐる。また葦齋は、闇齋の神籬磐境傳を深化させてゐることが、左記の一文をみても明瞭である。

「宇宙の本體は、禁中ぞ。故に中は、君臣ともに守る道で、其の實體は、禁中様ぞ。とかく日本に生れたからは、善悪の別なしに、朝家を守護し、おほひ守ると云ふことを立ちかびやり、以て朝家の埋章ともなり、神になつたならば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座加はるやうにと云ふことが、この伝の至極なり」(二一)

 天皇守護をし、「内侍所の岩の苔」となることが、日本民族の義務、即ち絶対随順的臣民道であり、葦齋の学風を継承したのが、若林強齋である。

   第二節 若林強齋の学風

 皇化朱子学と垂加神道と橘諸兄以来の橘家神道を整理・集大成した若林強齋の神儒兼学の学風こそ、廃幕皇政復古の原動力となつたのである。強齋は、闇齋・絅齋の朱子学を徹底的に皇化させ、神道を宗教的な信仰として結び付け、大義名分主義を更に闡明にした功を以てしても、闇齋学派中興の祖であることは、誰もが疑はない事実であらう。

 強齋は、皇国体について、『強齋先生遺艸』に、「道は神道、君は神孫、国は神国」と云ひ、更に、

「吾が国、君は則ち天孫、位は則ち天位、高天原に神づまりましましてより、天人一統、神皇一体たり。而して天下を知しめす者は、聡明聞知の徳在り」(二二)

と云ふやうに、皇国が神国であり、また天皇の神聖性を闡明にし、皇国が神国日本である所以を高らかに述べたのである。強齋と云へば、葦齋の橘家神道から影響を受けてゐることは、『橘家三種傳口訣』に、

「橘家三種傳之内、上に道あれば、三種の靈徳、玉體に在り。上に道無ければ、三種の靈徳、神器に在り。故に無道の君たりと雖も、神器を掌握すれば、則ち是れ有徳の君なり。神器と玉體とは、一にして別無きなり」(二三)

とあるのをみても、理解できる。強齋は、苦学の末、橘家神道の玉体神器一體の考へを更に飛躍させたのである。

「不徳の君と雖も、三種を授かり給へば、有徳の君と仰ぐぞ。これ橘家の傳ぞ。どこまでも君を天日と仰ぐこと、知るべし」(二四)

 右の筆述からも、強齋が葦齋の橘家神道から影響を受けてゐることは明白である。また強齋は、臣民道について、『神道大意』に曰く、

「志をたつるというても、此の五尺のからだのつゞく間のみではない。形氣は衰へようが斃れようが、あの天の神より下し賜はる御賜を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復命して、八百萬神の下座に列り、君上を護り奉り、國家を鎭むる靈神となるに至るまで、ずんとたてとほす事なり。さるによりて、死生存亡のとんちやくなき事なり。若しも此の大事の御賜ものをもり崩して、不孝不忠となさば、生きても死にても、天地無窮の間、其罪、不レ可レ逃也」(二五)

と、神の末座に加はることで、天皇奉護・皇国護持に繋がると考へてゐたことからも、闇齋及び葦齋の神籬磐境傳のを発展させたことが分かる。また強齋の絶対的天皇信仰の情念を裏付けるものとして、湯武放伐を徹底的に否定してゐることが、稲葉黙齋の『先達遺事』に、

「松岡多助、彦根より還り、若林に謁して、今日、二客と辯難す。一人謂ふ、吾が邦、若し湯武の聖と桀紂の暴と有らば、則ち亦自ら應に放伐すべしと言ふ者有らば、卿、何ぞ其の人を戮せずして還れる」(二六)

と述べられてゐるが、これは放伐しようとする者は、殊更、殺害しても良いと云ふ、強齋の尊皇賤覇の立場を闡明に打ち出してゐる。橘家神道で崇敬されてゐる臣道実践者としての楠木正成に対する考へを、『靖獻遺言講義』には、

「一たび天皇の命を受けて、城を守り賊を討つと云ふ大義なりを、いつ迄もかへず、そこが、大義の明かな處ぞ」(二七)

 強齋は、皇国に於ける大義名分主義を熱烈に説き、天皇第一主義を明確にしたのである。その学統は、強齋が主宰する「望楠軒」に連綿と継承され、廃幕の原動力を担つたといふ一面は認めねばなるまい。強齋が望楠軒に於いて講義した内容たるものは、儒師たる絅齋の『靖献遺言』及び栗山潜鋒の『保建大記』を用ひ、門弟に対し、「復興」や「再興」と云ふ言葉を多く用ひて講義したことからも、闇齋学に於いて、「廃幕」と云ふ立場を確立するに至つたのは、強齋であつたと考へるのが妥当であらう。

 望楠軒の学風たるものは、幕府及び大名に仕へることなく、生涯、朱子学者たる本分(朱子の大義名分主義)を忘却することなく、皇国の大義名分たる皇政を待望するために、日々学問探求に明け暮れ、一旦緩急あれば、「今にてもあれ、何事にてもあるならば、禁中に馳參ずる佐野源左衛門が合點ぞ。それ故に一つの武具をとゝのへたぞ」(二八)と、強齋の云ふが如く、出処進退の立場を闡明にしてゐると云ふ特徴がある。闇齋学派に止まらず、皇学・天朝正学の三学派に於いて、望楠軒が、廃幕と云ふ立場の最右翼であり、更に思想的激情性を帯びてゐることは、
 一、武家奉公忌避
 二、養子絶対否認
 三、京都(朝廷)中心主義
以上、三点に断定すると共に、天皇の臣であることを、彼等は第一義と考へ、それに基き、行動しようと考へたことからも明らかである。

   第三節 竹内敬持の思想

 敬持と云ふ名は、闇齋学派の教義の中核たる「中を守り、敬を持して、君臣合体す」から採つたものであり、敬持が、闇齋学で塗り固められたことを、容易に察せられる。敬持の思想的背景は、『竹内式部君事績考』に、

「さて式部君の学問は、山崎闇齋の神学を奉じ、経学は、四書・五経・小学・近思録を本とし、傍ら靖献遺言・保建大記を講述す。又軍学は、講義せざる旨、町奉行所に於いて陳述するも、橘家神軍伝等、其家に蔵置する趣、糺問次第に載すれば、垂加流の軍学は、一通り研究せしならん。垂加流の軍学は、橘家神軍と称し、其術を記するもの、太子流神秘巻・橘家神体勧請巻・橘家蟇目口伝・興名草前後編等、若干部あり。文事ある者は必ず武備ありとあり、文武兼学は儒者の本分なれば、式部君も儒学研究の余暇に、師伝の軍学も修めたるべし」(二九)

と云ふが如く、闇齋学派の学是たる神儒兼学の徒であることが分かる。その背景として、敬持は、神道を葦齋、儒学を強齋門下の松岡仲良から教はつてゐることを見逃すべきではない。ここで敬持の儒師たる松岡仲良の思想を、簡単に述べたいと思ふ。仲良は、強齋の大義名分主義及び臣道実践の二点を継承、更に先鋭化さたのである。仲良の大義名分主義及び臣道実践の一端を垣間見ることが出来るのは、『神道学則日本魂』である。仲良が云はんとすることは、日本魂・湯武放伐不可・臣民道の三点に尽きる。『神道学則日本魂』に曰く、日本魂について、

「第令儒生釋徒異端殊道の頑、村甿野夫賈販奴隷の愚も、悃々欵々として、國祚の永命を祈り、紫極の靖鎭を護る者、此を之れ日本魂と云ふ」(三十)

と。日本魂の根底にある本朝の道については、「從頭亂賊と云て、竹鋸をあつるが、日本の道也」(三一)と述べ、更に天皇を奉戴し、護持することこそが、「比莽呂岐の道」であり、それを実践しない者は、「從頭亂賊」として討ち倒すことが本朝の道であると、仲良は考へてゐたのである。

 仲良から教はつた敬持は、明白な廃幕主義であつたのだが、敬持は、暴力で以て廃幕にすると云ふ立場を否定し、朝廷内に闇齋学を宣布し、天皇自身が闇齋学を帝王学として身に付け、勅諚を以て、皇政復古を断行すると云ふものである。このことは、敬持が公通の思想的事業を継承したと云ひ得られ、かうした敬持の態度は、兼胤公記宝永八年七月十五日の条に、

「日本の帝王は日神より
當今に至り、御一姓御相續の事、異国に無之義、天下萬民、不奉仰者はなきこと也。然るに當時、將軍ある事を知て、天子ある事を知らさる者多し。是甚可歎事也。是何故なれは、君臣不學不徳より事起れり。然れは天子より諸臣に到り、修學積徳へき事、専一也。左あらは不用兵、不下手而をのつから、如昔、公家一統の御世にも成へき事、天地自然の道理なり。左申せはとて、只今學道たりと云ともかくはならす、徳成就の上のこと也。凡用兵は、覇術也。たとへ一旦天下治りても、又如今になる也。徳を以てすへし。唯一統学術を勵へき也」(三二)

と述べられてゐるのをみても、わかるであらう。敬持は、用兵で以て廃幕することを覇道とし、それよりも天皇公家が一体となつて、学問に励み、徳を積むことによつて、自然に朝廷にまつりごとが奉還されると云ふのが、敬持の考へる皇権回復の手段である。

 敬持は、唯一『奉公心得書』を著してゐるが、その内容たるものは、皇国に於ける拘幽操であり、皇国体・皇国の大義、君臣の主従を闡明に説いたものである。そこで敬持の思想が闡明に打ち出されてゐる所を、二点挙げたいと思ふ。『奉公心得書』に曰く、「此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則ち之を誅して、君に歸すること、吾國の大義なり」(三三)と、暗に幕府による皇権専横を批判し、尊皇斥覇を説いてゐる。更に「其身は勿論、紙一枚紙一筋、みな大君のたまものなり。(中略)いよいよ君を敬ひかしづき奉る心、しばらくも忘れ給ふべからず」(三四)と、天皇への忠誠を説ゐていることからも、『奉公心得書』は、皇国に於ける拘幽操であることは前述したが、敬持が、皇国の大義名分主義及び『拘幽操』の根本精神である君臣の主従について述べてゐることからも、敬持の思想なくして、廃幕の機運が高まることはなかつたと考へる。

 そして「宝暦事件」とは、敬持と闇齋学派の公家が、幕府始まつて以来、廃幕皇政復古を断行しようとした、初めての思想的事件である。さて、ここで注目すべきことがある。宝暦事件同様、皇権回復運動の嚆矢たる明和事件の首謀者山県大弐が、闇齋学で忌避されてゐる放伐を肯定したことである。大弐の『柳子新論』の一文を、左に引用する。

「苟も害を天下になす者は、国君といへども、必ずこれを罰し、克たざれば、則ち兵を挙げてこれを討つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つ、また皆その大なる者なり。ただその天子より出づれば、則ち道ありとなし、諸侯より出づれば、則ち道なしとす。(中略)則ち放伐も、また且つ以て仁となすべし。他なし、民と志を同じうすればなり」(三五)

 闇齋学にとつて、放伐は否定すべきものであることは、葦齋・強齋・仲良の思想を通して前述した。しかし大弐は、支那の放伐思想を皇国的に解釈したことで、万世一系の天皇を対象にせず、皇権専横をしてゐる幕府を、放伐の対象としたのである。

 大弐の放伐思想は、幕末に於いて、勤皇僧たる宇都宮黙霖が、吉田松陰及び松下村塾社中に伝播したことによつて、廃幕を成し遂げたことからも、廃幕の原動力は闇齋学であり、皇学は皇政復古の原動力となつたと、私は考へてゐる。
「安政の大獄」で、橋本景岳・頼三樹三郎・梅田雲浜・梁川星巌・池内大学などが弾圧されたことは、世に知られてゐる。彼等は、闇齋学の影響を色濃く受けてゐることから、幕府が宝暦事件以降、闇齋学を目の敵にしてゐることは明らかであり、それは闇齋学の教義たるものが、幕府の存在を揺るがしかねないと云ふ危惧があつたのである。それは、帝国海軍中尉の三上卓が指摘してゐる通り、高山彦九郎が薩摩藩と同盟し、幕府打倒を企図しようとしてゐたことからも明白である。そして望楠軒の道統を汲む中沼了三の門弟に、薩摩藩の西郷従道・川村純義・桐野利秋・鈴木武五郎、土佐藩の中岡慎太郎、肥前藩の松田重助等が薫陶を受け、闇齋学の学是たる大義名分主義を学び、彼等が廃幕に貢献した事実は、何疑ふ余地はない。また了三は、戊辰戦争の折、官軍の参謀として、絅齋以来、望楠軒に伝はる「赤心報国の刀」を抱持し、陣中に於いては、靖献遺言を仁和寺宮嘉彰親王に講義し、大義名分を熱烈に説き、官軍の士気が振るつたことを鑑みても、闇齋学の果たした役割は、非常に大きいと云へる。

 また神祇官再興及び祭政一致を主張し、皇政復古に貢献した皇学者の矢野玄道は、辞世の一首である「天地のよりあひのきはみ我が魂は天つひつぎの御守りにもが」と詠つてゐるやうに、垂加神道(橘家神道)の教義の中枢たる神籬磐境極秘傳に反映されてゐることは、疑ふ余地はないであらう。闇齋学が廃幕皇政復古に於ける役割は、非常に大きいと云へる。


  をはりに

 闇齋学の学風が大義名分に基き、行動することからも、かの気風が廃幕に至るのは、当然の結果であらう。闇齋学の教義が研究されつつあることからも、今後は、全国に弘がつた闇齋学が、諸藩に於いて、どのやうに展開し、廃幕に至つたのか、研究していきたいと思ふ。




(一)平泉澄 昭和七年『闇齋先生と日本精神』所収 至文堂
(二)日本国粋全書刊行会編 大正五年『保建大記打聞・玉鉾物語』
(三)井上哲次郎 大正十五年『日本朱子学派之哲学』 冨山房
(四)山崎闇齋著 日本古典学会編 『山崎闇齋全集』 昭和五十三年 ぺりかん社
(五)同上
(六)同上
(七)『垂加神道の研究』所収「弁林道春本朝綱目」小林健三 昭和十五年 至文堂
(八)同上
(九)近藤啓吾 昭和六二年 『靖献遺言講義』 国書刊行会
(十)法本義弘 昭和十一年『定本靖獻遺言精義』 定本靖献遺言精義刊行会
(十一)若林強齋 岡直養校 昭和十一年『強斎先生遺艸』 虎文齋
(十二)原念齋著 大町桂月校訂 大正二年『新訳先哲叢談』 至誠堂書店
(十三)近藤啓吾 『靖献遺言講義』
(十四)後藤三郎 昭和十六年『闇齊学統の國體思想』金港堂書籍
(十五)同上
(十六)同上
(十七)同上
(十八)同上
(十九)同上
(二十)同上
(二一)同上
(二二)『強齋先生遺艸』
(二三)後藤三郎
(二四)同上
(二五)同上
(二六)岩橋遵成他編『日本思想家史傳全集 第十八巻』昭和三年 東方書院
(二七)近藤啓吾 同上
(二八)後藤三郎 同上
(二九)星野恒 明治四二年『竹内式部君事蹟考』冨山房
(三十)『近世神道論』 平重道校注 昭和四七年 岩波書店
(三一)同上
(三二)後藤三郎 同上
(三三)長坂金雄 昭和十四年『奉公心得書・柳子新論』 雄山閣
(三四)同上
(三五)同上



 下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』一卷、拜寫すること、件の如し。
 

  • [40]
  • 下山陽太主『闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について』乾。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月 2日(日)15時35分43秒
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 「下山陽太」主に論稿を懇望した所、次の論文を惠投して戴いた。本道に感謝に勝へない。聞くに、皇學館大學時代の論文の由、御容認の下、謹みて掲げさせて戴かうと思ふ。小生とは、些か學んだ所の筋が違ふ所もあるものゝ、尊皇・勤皇道に、鋭意邁進する主のこと、終始一貫した精神で、確實に論旨を進めてをられる。掲示板用に、讀み易くさせて戴いた所もあるが、御容赦たまはりたい。備中處士、敬白。



闇齋学に於ける廃幕の思想的背景について   下山 陽太


  はじめに

 闇齋学の国史的使命について、内田周平は、『崎門尊王論の発達』に曰く、

「皇政復古の大業は、水戸藩の大日本史並にその学風、国学の三大家加茂眞淵・本居宣長・平田篤胤、及び高山彦九郎・蒲生君平・頼山陽等、諸氏の唱道鼓吹したものが相合し相集り、以て之を馴致醸成したやうに見えます。けれども其の間に在つて、京都を根拠となし、一脈相伝へて、尊王の始めをなし、勤王の終りをなしたるものは、実に朱子学の硬派たる山崎闇齎先生の学脈、即ち崎門学者であつたと、私は断言するものであります」(一)

と。闇齋学派が、廃幕皇政復古に貢献したと云ふ事実は、疑ひを容れるまでもない。闇齋祖述の皇化朱子学が、浅見絅齋、若林強齋の望楠軒に継承され、また谷秦山が、闇齋・絅齋・渋川春海から神儒両学を学び、土佐で廃絶してゐた南学復興、土佐勤王党の思想的淵源を担ふ事になり、垂加神道が、正親町公通・出雲路信直・梨木祐之・大山葦水ら、多くの門人育成によつて全国津々浦々に弘がり、それが真木保臣・平野国臣・橋本景岳・有馬正義等に伝播し、廃幕皇政復古、その全てと云はざるも、原動力の大なる一であつた。また闇齋学の学是である神儒兼学、即ち神道を大本とし、儒教を以て羽翼する学風であることは、闇齋晩年の門弟である谷秦山が、『保建大記打聞』の序に、

「吾も人も、日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし、其の上に器量氣根もあらば、西土の聖賢の書を讀んで、羽翼にするぞならば、上もないよき學なるべし」(二)

とあることから、闇齋学の特徴として注目すべきは、神儒兼学の態度であつて、決して教条的に儒教を採り入れるといふ性格のものではない。そして闇齋学が、天朝正学(水戸学)にも少なからず流入してゐることは、『大日本史』編纂の中枢に、三宅観瀾・栗山潜鋒・鵜飼錬齋など、闇齋学の俊才が大に関はつてゐたことからも、十分これを窺ふことが出来、当然の成り行きとして、闇齋学と天朝正学は、思想的にも緊密な干繋を深めていつたのである。その天朝正学は、第九代藩主であつた斉昭の永蟄居を前後して、藩政も動揺を醸し、政策上の齟齬は、遂に思想的確執に発展し、来たるべき皇政復古の時流に参画するまでには至らなかつた。一方、皇学と呼ばれる学問を専らとする学者達は、概して反幕どころか、幕府専政の世を謳歌し、文弱に流れた感があり、それは彼等の著述や和歌を見るまでもない。斯くの如く観察しても、廃幕皇政復古の道彦的役割を果たし、原動力となつたのは、紛れもなく闇齋学が第一である。しかもそれはペリー来航を機として、突如思想的に過激性が加はつたものでなく、また度重なる幕府の失政に対する不満と比例したものでもなく、闇齋学が一学派として認められるやうになつた当初から、既にこの思想的性格は存してゐたのである。それは竹内敬持の宝暦事件、山県大弐の明和事件、尊号一件の高山彦九郎及び唐崎士愛などの活動を見ても明らかである。廃幕皇政復古といふ国家的大事件は、ペリー来航・将軍継嗣問題・安政の大獄等に触発されたことは紛れもない事実であるが、しかしながらこれらは触発しただけに過ぎず、因ではないことは明らかである。前記した通り、因たる諸事件は、既に発生してをり、更に精確に云へば、闇齋学の誕生時に、既に因と言ひ得られるものが存在してゐたと見做すべきであらう。

 そこで、闇齋と闇齋学統が、如何に廃幕皇政復古に傾斜し、原動力となつたのか、探りたいと思ふ。


  第一章 闇齋の思想的概略

   第一節 闇齋の学風

 井上哲次郎は、『日本朱子学派之哲学』に闇齋学を評し、「彼れの開始せる一派は、知的探求を主とする学派を異にして、寧ろ教条を厳守する宗教の一派に似たり」(三)と述べた。闇齋学派は朱子学尊信集団であり、その首魁たる闇齋が朱の色を好み、朱色の手拭を腰に下げ、夏も朱色の羽織を着、書物の表紙は全て朱色を用ひる程の朱子尊敬の情念があり、それは単に生活面に於いてのみならず、「信朱子而述而不作」(四)とあるやうに、朱子学を篤く信仰し、また闇齋の学問の特徴たる朱子学厳密理解の学風を意味するものであり、生活及び学問の両面に亘つて、朱子と朱子学を尊崇してゐることがわかる。闇齋の朱子学尊崇の情念を、『文会筆録』に、

「我が学、朱子を宗とす。孔子を尊ぶ所以なり。孔子を尊ぶは、其の天地と準ずるを以てなり。中庸に曰く、仲尼、堯舜を祖述し、文武を憲章す。吾れ孔子・朱子に於て、亦竊に比す。而して朱子を宗とするも、亦苟も之を尊信するに非ず。吾れ意ふに、朱子の学、居敬窮理なり。即ち孔子を祖述して差はざる者、故に朱子を学びて謬らば、朱子と共に謬るなり。何の遺憾か之れ有らん。是れ吾が朱子を信じて、亦述べて作らざる所以なり。汝が輩、堅く此の意を守つて、失ふこと勿れ」(五)

『闢異』(宋儒の仏教批判)及び『大家商量集』(朱子の陸象山批判)に現れてゐる異端徹底排撃の精神を明かにし、朱子学の本義に回帰しようと訴へたのが、闇齋の朱子学理解であり、会津藩主保科正之、その儒臣服部安休と、思想的交渉し、神道傾斜する晩年に経るに連れ、朱子学の本旨を護持しつつ、皇化させたと云ふのが、妥当な立場であらう。そのため、闇齋が朱子学を宗教の如く信仰してゐるため、学術的に研究し、独自の学説を打ち立てるといふことより、忠実に祖述すると云ふ立場からも、朱子学を曲解した学者へ戦闘的に筆誅を揮つてゐた。この当時、儒学の主流を占めてゐた藤原惺窩、林羅山・鵞峰に対し、

「惺窩、自ラ之ヲ尊ブト謂イテ、亦陸ヲ信ズ。陸ノ学タル、陽儒陰仏、儒正ニシテ仏邪、ソノ懸隔、タダ雲泥タルノミナラズ、スデニ此レヲ尊ビ、彼ヲ信ズルハ、背庵草廬ノ亜流ノミ。豈ニ実ニ尊信スト曰ワンヤ」(六)
「林氏、何ゾヤ。其ノ不孝、世ヲ挙ゲテ知ル所、カツ四君ニ歴事シテ、堯舜ノ道ヲ、君前ニ伸ベズ。是レ君ヲ敬セザルモノナリ。(中略)王制ハ学非ニシテ博キ者ハ誅スト。林氏ヲシテ春秋ノ時ニ生レシメバ、豈マヌカレンヤ。然レドモ恬トシテ懼レズ、其ノ法ヲ僣弄ス。故ニ予、論ゼザルヲ得ズ」(七)
「近年聞ク、性理ヲ高談シ、以テ程朱ノ再出トナシ、而シテ文学ヲ擲ツテ、博識ヲ以テ妨アリト称シ、余輩ヲ指シテ俗儒トナス者、之レアリト。彼ハ彼タリ、我ハ我タリ。道同ジカラザレバ、相為ニ謀ラズ。余ハ、唯ダ家業ヲ守ルノミ」(八)

と、容赦なき斧鉞を加へてゐる。闇齋の朱子学を忠実に継承した浅見絅齋は、『靖献遺言講義』巻八に、「夫れ学は、朱子を以て宗とす。朱子を学ぶ者は、大義を知るを以て要とす」(九)と述べてをり、朱子学は大義名分主義に他ならず、それを皇国的に置き換へれば、幕府が皇室を蔑ろにし、皇権簒奪をさせないといふことに他ならない。林羅山の江戸学(林家学)は、幕府正当化のために、朱子学を敢へて曲解させたものであり、抑々、江戸学自体、藤原惺窩の流れを汲むため、皇国体と云ふ存在を忘却してゐることは、門人である羅山に対し、「嗚呼、中国に生れず、又此邦、上邦に生れずして、当世に生る。時に遭はずといふべきなり」と語つてゐる。また惺窩の門弟たる林羅山が、『本朝通鑑』に於いて、天皇の祖先が呉の太伯であると云ふ説を唱へてゐること自体、皇国の大義名分主義を自覚してゐないと云ふ何よりの証拠であり、惺窩及び羅山の思想的国籍が支那であると断定出来よう。

 また闇齋と羅山の朱子学の学問探求の相違は、「博学」・「審問」・「慎思」・「明弁」・「篤行」の取捨の相違であり、羅山は「博学」・「審問」・「慎思」・「明弁」を重視したのに対し、闇齋は「篤行」を重視した。これは闇齋自身が行動重視の土佐南学から影響を受けてゐることからも、相応な態度であると考へる。行動重視の闇齋学と書斎的学問である江戸学、及びその流れを汲む木門学・徂徠学との大きな相違点であると云へる。行動重視と云ふ闇齋学の立場を、法本義弘の『定本靖獻精義』には、

「崎門に於いて紹述されたる儒教の指導原理は、幕府擁護理論であり得る筈なく、当然幕府打倒の指導原理であり、章句の如何よりも、実践実行を眼目となせる崎門の学なる限り、その教理は、単なる机上の学説たるに止まり得る筈なく、此の徒によつて紹述せられたる幕府打倒の原理は、やがて幕府倒壊への実行運動となり、自刃と鮮血とを以てする果敢なる尊王倒幕運動となつたこと、勿論である」(十)

と述べてゐる。法本が云ふ「儒教の指導原理」は、紛れもなく朱子学であり、朱子学は、孔子の『春秋』、司馬光の『資治通鑑』、そして朱子が『資治通鑑綱目』を以て、儒教の大義名分主義を再構築・集大成したものであることから、朱子学とは、即ち大義名分主義であり、闇齋は、これを皇国的に解釈(皇化)させた主唱者であると評価して良いであらう。若林強齋の『強齋先生遺艸』に、

「垂加翁の聖賢の道の事は、朱子以後の一人と見ゆる。其の事業を云へば、孔孟程朱の道を、日本にかやうに闡明にせられたは、全く垂加翁の功なり」(十一)

と述べてゐるが、闇齋は、朱子学の本旨に基き、皇国的に運用するために、朱子学を皇化させ、導き出された答へが、皇権専横の幕府廃止・皇政復古であり、闇齋以後の道統によつて、愈々発展し、やがて実行に移されたのである。

   第二節 闇齋の皇国体信仰

 闇齋の皇国体信仰が、如何に徹底し、如何に強烈なるものであつたかは、『先哲叢談』に、

「嘗て羣弟子に問うて曰く、方今、彼の邦、孔子を以て大将と為し、孟子を以て副将と為し、騎数万を率ゐ来りて、我が邦を攻めば、則ち吾党、孔孟の道を学ぶ者、之を如何と為す、と。弟子、咸答ふる能はずして、曰く、小子、為す所を知らず、願くは其の説を聞かん、と。曰く、不幸にして若し此の厄に逢はゞ、則ち吾党、身に堅を被り手に鋭を執り、之と一戦して孔孟を摛にし、以て国恩に報ぜん。此れ則ち孔孟の道なり」(十二)

とあり、また絅齋の『靖獻遺言』巻七に、

「山崎先生、嘗て物語に、唐より日本を従へんとせば、軍ならば、堯舜文武が大将にて来るとも、石火矢にて打潰すが大義なり。礼儀徳化を以て従へんとするとも、臣下とならざるがよし。是れ春秋の道なり、吾が天下の道なり、と云へり」(十三)

とある。また正親町公通門弟の玉木葦齋の『潮翁講習口授』には、

「垂加翁曰く、倭漢共に、大成至聖ぞと崇め申す孔子でもあれ、をれが学だ、道を弘め、日本へ渡て、我風の教にしなさうとて、長崎へ渡られふぞなら、大筒を立並べ、只一打に打殺ひてのけふぞ。是が日本の大根、道の立つ大義ぢや。又孔子春秋の意が、直ぐに是ぞ」(十四)

と、闇齋の皇国体信仰について、以上のやうに述べてゐるが、これは闇齋が、孔孟朱子の学問を教条的に受容するのではなく、学恩のある孔孟が攻め寄せて来ても、皇国の面目に基いて行動するのが孔孟の道であると、闇齋は考へたのである。孔孟朱子の学問を、皇国的解釈に即した立場に変革させたことについて、後藤三郎氏は、

「支那崇拝の強い中に、断然この強い説をいひ放つた闇齋の強烈なる愛国的信念、剛健なる日本的精神こそ、闇齋並に闇齋学の特質であり、本領であつたのである。強烈なる日本的精神の保持者・主張者・実践者が、実に闇齋の闇齋たる、又闇齋学の闇齋学たる所以であつたのである」(十五)

と云ふことからも、闇齋学の本領たるものが、天皇奉護・皇国護持の学問であり、皇権専横の幕府に対し、闇齋学派が好戦的だつたのは無理もない話であらう。

 闇齋の会津藩仕官に於ける思想は、会津藩家訓第一条に見られるやうに、幕府体制に対して肯定的な見解を持してゐたと思はれるが、それは即ち大政委任論であつたと云へる。会津藩での闇齋は、藩主保科正之・儒臣服部安休・吉川神道提唱者吉川惟足と云つた思想家と交流を持つてゐたことからも、闇齋が具体的な神道思想に興味を持ち、また諸神道思想説を学び、取捨選択し大成させた「垂加神道」の教義の中枢が、「三種神器極秘伝」及び「神籬磐境極秘伝」である。これらに象徴されるやうに、彼が熱烈なる尊皇思想の持主であることは疑ふ余地はない。その後の闇齋は、『遠遊紀行』・『再遊紀行』等の会津藩仕官に著述された文章を、『垂加草』から削除したことから、益々皇国の自覚を深めてゆくのである。加へて闇齋の門弟には公家が居たことからも、朝廷の実情や置かれてゐる現状に疎からう筈も無く、やがてその思想は、廃幕には至らないにしても、反幕的気風を帯びてゆくことは、当然といへば当然の成り行きかも知れない。闇齋は、自らの後継者を公卿の正親町公通を任命したことからも、闇齋の意中には、闇齋学を朝廷に宣布するといふ構想があつたと考へられる。朝廷は、幕府の制限下に置かれつつも、皇権回復のために、公通及び八条宮尚仁親王を中心に、朝廷内に闇齋学の宣布を主導してゐる。更に尚仁親王は、皇権が武家に簒奪されて以降の国史を具体的に学ばれてゐることからも、親王には皇権回復の御意志があることは明白であり、それは尚仁親王に始まつたことではなく、後水尾天皇の紫衣事件、後光明天皇の対幕強硬姿勢、親王以降の桃園天皇に至つては、闇齋学を受容し、天皇御自ら皇権回復の先頭に立ち、行動してゐることからも、歴代天皇は、果敢に皇権回復の志があつたと云へる。

 正親町公通の『公通卿口訣』に曰く、

「天下の事は、中臣祓に約まる。中臣祓を人にして見るときは、天子なり。何程衰へたりとも、此れあれば、天下は治むべし。天子中臣祓を体認ましませば、天下は治まらんとありしかば、翁の賞めたまふて、名言なりとせり」(十六)

と。神代以来の中臣祓を重視してゐる闇齋にとつて、「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」等、作為的法令より、朝廷のもつ機能を制限してしまつたことは、憾むべき一として考へられた。その闇齋学の気風は、宝暦・明和・尊号一件から徐々に高まると共に、闇齋学も御世を経るに連れ、思想的に研ぎ澄まされ、刃の如き存在になるのである。そこで、進歩的文化人の丸山真男、それに触発された尾藤正英及び平重道は、闇齋学を体制迎合的学問として捉へてゐるが、もし、さうであるなら、宝暦・明和・尊号一件等の皇権回復の旗手を、闇齋学が主導した筈はなく、林家学及び徂徠学のやうに、御用学の役割を果たしていなければならないと云へるため、見当違ひであると断言する。
 

  • [39]
  • 三種神器の在る所、即ち天朝の正統なり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 7月22日(火)20時41分10秒
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●強齋若林先生『強齋先生雜話筆記』に曰く、

○彦根の惕庵は、久しき學者なれど、未だ三種神寶の合點をせられぬか。此の度び高宮にて、正統を吟味するに、何とも三種神寶のある所を正統と云はゞ、「亂賊が神器を奪ふも、正統と云はうか」と云ふ。不審ぞ。其の樣なことは、言ふに足らぬ、知れたこと。神器の在る所を正統とすると云ふことは、雙方共に日の神の御末孫、後醍醐(天皇)の芳野に都なされてござらるゝ時、持明院殿をば、(足利)高氏が取立てゝ、北朝を立てた僞主ながらも、日の神の御末なれば、こゝで、神器あるを正統とすると云ふ吟味あり。其の餘のことは、云ふに足らぬことぞ。予(門人・藤井敏時)云ふ、「南朝の神器を、北朝より奪はんとしたりしことあり。萬一、神器を奪つて、北朝に入れたならば、それはどうしたものぞ」。

 (強齋)先生云ふ、奪ふは、皆な亂賊のすることで、あたまから云ふに及ばぬこと。さて何たることにも、三種神寶を、亂賊が奪ふことならぬことぞ。是は奇妙不測と云ふものにて、あそこに天神・地祇・人心の三才を貫いて、三種神寶を奪ふことのならぬことがある。天地も位をかへ、日月も地に落つると云ふやうな時ならば知らぬこと。さもなくて、天照大神の始生子・匍匐子に至るまで、あがめ奉るうちは、何たることにもならぬこと。こゝが、どうも云はれぬ、難有いことぞ。三種の寶には、天照大神の御心をうつされて、此の國は、永く我が子の王たるべき國ぢや。鏡は、ぢきにあなた(天照大神)を見る如くに思せとて、傳へ讓られたる寶なれば、中々亂賊の奪ふことはならぬ御寶で、三才を貫いてゆるさぬ所があるぞ。天長に、内裏の炎上に、内侍所の櫻の木に掛けられ、また新羅の僧・道行が、熱田の寶劍を奪つて國に歸らんとするに、何たることにも、善(え)歸らなんだこともあり。これが、たゞ奇妙不測と云ふことでない。天神・地祇・人心のゆるさぬ所があるからぞ。斯樣に、三種の神寶を合點せねばならぬことぞ。

○「三種神器のある所を正統と云はうならば、(平)將門に三種をもたせても、正統と云はんか」と云ふ。三宅九十郎(觀瀾。『中興鑑言』の著あり)はじめ、みな不審するぞ。やくたいもないことぞ。何たることにも、どの樣な惡人でも、三種を窺ふことはならぬことぞ。三種を窺ふとすると、忽ち眼もくらむ樣にあることぞ。そこをみぬかぬゆゑに、色々と云ふことぞ。

○「火の瓊瓊杵尊」と申し奉れば、形の如くの御徳とみゆるぞ。火は鏡也、瓊瓊は玉也、杵は矛也。三種(神器)を、すぐに備へられた御徳ゆゑぞ。

○三種は、ぢ(直)き道のことで、「あれで、道を表はしたものぢや」などと云ふ樣に思つてゐるは、とろいことぞ。あれが、ぢき道ぢやと云ふことをしらぬぞ。これを知つたは、兼實公ぞ。『玉海』(九條兼實公『玉葉』)に、「三神」と云つてある。三器と云つてありさうなものぢやに、三神とある。神は、すぐに道のことぞ。

○埀加の傳は、百二十ケ條ほどあり。あまり大分で、がてん(合點)ゆかず。後にかやうにあることは、何もその樣に傳と云ふことはないことぞ。たゞ帝王のことにあづかることは、庶人として勿體なきことなれば、傳あるべし。その餘のことは、道にその樣に祕傳はないことぞ。上代はないことぞ。

○強齋先生の曰く、「神道の大事は、吾が心を吾が心と思はず、天神の賜(たまもの)ぢやと思ふが、爰が大事ぞ。さう思ひなすではない、眞實にそれ、かう云ふことを、寢ても覺めても大事にするよりない。是程の寶物、頂戴して居ながら、井戸茶碗程にも思はぬは、うろたへぞ。三種の、瓊矛の、大事のと、(神道の奧祕相傳を)聞きたがらうより、爰を合點するよりない。爰にさへ合點あらば、相傳の筋も窺はれうこと。あの神樣さへ大事になされ、生き世に三諸山に封ぜられた面々は、何とせうぞ。是を忘れて神扣きするは、皆な利害。實に神の尊いと云ふことならば、爰が忘れられう樣がない」。



 愚案、祕傳を渉漁する者は、蓋し本末前後を知らざる癡者にして、畢竟、玩物喪志に過ぎざる可し矣。夫れ唯だ「寤寐尊皇」、即ち是れ神道の最奧極祕の傳なり。疑ふこと勿れ。



○『萬葉集』を讀んでみれば、天子の御事を、「高照らす日の御子」と云つてあるぞ。是で見れば、あなた(天子樣)を日の神と、直きに崇ぶこと。たゞ理で云ふことばかりでもない。古へは天下の風俗と共に、日とあがめ奉つたことなり。上古は神の物・皇の物、別けて無くて、宗廟を祭るも、諸臣の天子に朝するも、同じことで、天子もそのなり、此の如くに有ると云ふは、上、日の神・天下の神の御影で、かやうにこそあれと思召す敬の心より外なうて、齋戒沐浴し篤恭して、天下に臨ませらるゝなりに、國家も治まり、寶祚も榮えたものぞ。

○常闇(とこやみ)と云ふことを、日神の政をしろしめさなんだに依つて、法度もなうて、闇のやうに天下がなつたと云ふことに、世間一統に思うてゐることぞ。さうでない。實は天日がくらませられたぞ。天日と等しき日の神の御怒りなされたによりて、天日もくらむ筈のことぞ。くらんだやうな、と云ふ事ではないぞ。

 文天祥の死なれて、日もくらかつたと云ふこと、元の丞相の位を以て祭りたれば、神主も何も吹き倒して、疾風が襲うたことぞ。そこで宋の丞相の位を以て祭りたれば、何事もなかつたと云ふことぞ。忠義の一事の上でさへ、かうしたことぞ。況んや天下の主とならせられた日神ぢやもの、天日がくらまいで、何とせうぞ(卷九)。

○手前(強齋先生)は、何たる事にも、仕ふると云ふことはせぬと、思ひ詰めてゐる。よくゝゝと思へ。在所に行くに、彦根に行くと云ふことはせぬ、かう立てゝ居る(「夜裏ならば、或は(大名の城下へ)往かむ。吾れ諸侯の城□[土+世+木。てふ]の堊土を以て塗れる者を視れば、則ち頻□[戚+頁。しゆく]して唾罵に堪へず」──『先達遺事』の謂ひなり)。いかう是が自慢ぞ。至尊より一粒も賜は受けねども、至尊に對する忠義に於いては、誰に劣らうとも思はぬぞ。今にてもあれ、何事にてもあるならば、禁中に馳參ずる佐野源左衞門が合點ぞ。それ故に一つの武具をとゝのへたぞ。皆さう思うてゐるぞ。

○(享保十年)三月十日の夜、誠之(犬飼訥齋)曰く、「當正月、江州に於て、神道御相傳遊ばされ候ふ由承り、殘念、此の事に候ふ。其の中、『大星』之儀、兼ねて一通り、大筋を仰せ聞かされ候ふに付き、只今にて、平生、工夫にも仕る樣には合點仕り居り、其の趣、申し上げ度く存じ奉り候ふ」。

 (強齋)先生曰く、成る程、よかるべし。(訥齋)曰く、「神武天皇東征の時、官軍、毎度、利を失ひ候ふ。其の時、天皇曰はく、『我れ日に向つて、弓を引き矢を發し攻め戰へばこそ、かく利を失ひしなれ』とのたまひて、日を負うて合戰ありしかば、一戰に利を得給ふと。是れ、『大星』の義にて、日に向うて軍をすれば、軍、必ず利なし。かりそめにもあなた(日)に向うて勝負を決することあるべからずと、仰せ聞けられ候ふ。それより推して合點仕り候へば、今日、工夫の受用に仕れば、假りにも道ならぬ事をせんとすることあらば、あゝ、さてかうあるまいことは、怠ることなく運轉なさるゝものを、斯樣に道ならぬ事をすると云ふことがあるものかと思ひ、一存の處にても、ちと氣味わるい事であらば、やれ、人こそ知らね、あなたの御照覽ぢやものをと、心に念に忘るゝことなき味が、『大學』の「□[言+是]天之明命を顧みる」とある、あの顧の字と存じ候ふ。さてすぐに其の日輪の御子孫が、只今の至尊にてましませば、かりにもあなたに對して、一點もかげぐらい心をさゝぐることなく、あなたに身命をなげうつて、あすが日、朝敵起ることあらば、一陣に走らせ付けて、只だ一人にても、百萬の敵の中に駈け込んで、一番に討死するやうなる合點が、『大星』かと存じ候ふ」。

 先生曰く、如何にもさうぢや、その通りの事ぢや。かりにもあなたに對して、竹刀でもつかふの、どうのと云ふことなく、あなたの方に向うて小便などすると云ふやうなることも、かたくせぬことぞ。近代にては、山本勘介がしたことぞ。なるほど、そちが云ふ通りぞ(卷十)。

○淺見重次郎(絅齋先生)が門人に、若林新七(強齋先生。卷九に、山本主馬憲蔭翁の曰く、「守中翁と云ふ、埀加以來の人有るぞ」)なるものあり。能く淺見の統を繼いで、旗を一方に建つ。或る時、濃州北縣に往いて、書を講ず。北縣に、野狐あり、元正と云ふ。數百年を歴て、能く妖術をなし、又た頗る醫方を知る。草野の民、疾あれば、彼の狐に啓す。やがて主方を書いて與ふ。不治の症なれば、固く請へども、主方を與ふることなし。

 彼の野狐、一人の老翁と變じ、來つて日々講筵に侍る。面部に黒子多し。人の、吾が顔色を見ることを欲せざる樣子なり。新七は、講後、これに座を與へて、一再物語りき。或は鼠を油煎して食はせたりとなむ。守鶴といへる狸のこと、人口に膾炙し、寫字も今に傳はれり。元正も、その類なり(卷十二・拾遺。『間散餘録』に見ゆ)。

 

  • [38]
  • 絶對の臣從──皇國聖賢・楠公奉敕の道。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 7月20日(日)23時39分14秒
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●強齋若林先生『強齋先生雜話筆記』卷十(望楠所聞)に曰く、

○菅丞相は、あの時分、藤原氏が繁昌の權を取りて、上を蔑ろにする體あつたに依りて、格別に他姓の人(菅原道眞公)の人を取立てられて、三公に登らせたことぞ。其の故ゑ形の如く力を用ひて、政務の事などに心を盡されたぞ。『類聚國史』などが、然樣に見ゆるぞ。

 さて(菅公)左遷の罪に坐せられたれども、微塵も上を怨むるの心はない。爰は至極見事也。是れ迄の事なり。其の外、事代主(命)の、楠木正成のと云ふ樣な忠義と云ふ事も見えず、武甕槌(命)の、經津主(命)のなどと云ふ樣な功も見えず。あの樣な衆のやうには言はれぬぞ。何も外に法とすることはないぞ。又た佛に惑はせらるなど云へども、是も吟味あることで、其の時、命に依りて、佛の事なども取扱ひなされしと見える。

 日本では、敕命に違ふを、きつう大事、『法曹至要抄』にも、「違敕の罪」と云ふことが出てゐる。何程、惡きことも、敕命と云へば、違ふことならぬ。日本正統、相續いで、君臣の義の正しき處ぞ。清盛の無道人も、太政大臣より上ることもならぬ。秀吉でも關白までにはなれども、上を奪ふの心なし。人民・天下の免さぬ所がある。爰が面白いこと。兎角く天子を、天照大神と崇めて、善惡共、あなたの命に違ふことならぬと云ふ處に、どうも言はれぬことぞ。舍人親王の、般若心經書寫などとあるも、皆な敕命に依つてのこと。是は菅公と一つには言はれねども、皆な違敕を恐れて書かれたものなり。予(筆記の門人・某氏)曰く、「何處迄も、文王の天王聖明(『拘幽操』)の旨なりや」。成る程、さうしたことぞ。

○楠木の出處の正しきを知るべし。慇懃に萬里小路藤房卿を以て、「頼み思召す」と云ふ敕定で出でられた。あれ程になうては、大義を引受くることならぬ。輕々しき事では、大義の任に當ること成り難し。唯だ勿體を付けて言ふことでない。賢者の出處を見るべし。

 扨て參内して、段々申し上げらるゝ旨も、見たがよい。慥かな言ひ分、「何時でも私の身が存命で居るとさへ聞召さば、終ひには聖運開けんと思召せ」と。あの慥かに任じ切つた言ひ分、其れより赤坂城に籠らるゝ樣子、其の後、千破(早)の城に籠りて居る内に、主上は隱岐に流され給うたぞ。あそこで大體な者ならば、胡亂(うろた)へるぞ。何を頼みとする軍と云ふことぢややら、あてどがない。其の上、加勢する者があらばなれども、誰も加勢する者もない。楠木、唯だ一人、天下殘らず皆な鎌倉方なるに、あの樣に天下の兵を引受けて合戰をすると云ふは、たゞでない。主上は流され給ふとも、縱ひ崩御なされうとも、一旦、君に頼まれて朝敵を征すると云ふが、己が任に當りて、どこ迄も死して後ち止まんと云ふ樣にあるからぞ。主上は流されたまふと云うても、其の時は、社稷を重しとするの合點で、あの樣にありたものぞ。『太平記』に、「楠木が所存の程こそ、不適なれ」と云うたは、能く書いたぞ。誠に纔かの小城に、僅かの小勢を以て、天下を引受けて戰ふと云ふは、右の所存でなくてはならぬぞ。唯だ軍者ぢやの、謀計がよいのと云ふことでないぞ。

○「楠木正成が、湊川の討死は當らぬ。どこ迄も性命を全うしてこそなれ、討死しては當らぬ。正成だけぢや」と言ひたがる。其れ程な事を合點せぬ正成ではないぞ。定めてあそこに死なでならぬ、其の時の事體なるべし。どうも後から論ぜられぬ。假令ひあそこの死は、當るにもせよ、當らぬにもせよ、先づあれ程の忠義を立て、あれ程にして見たがよいぞ。どうした事體で死んだことやら知れもせず、事を色々と言うて、正成に疵付くるはないことぞ。總體、書を見るには、斯樣な事が大事ぞ。纔かな事を擧げて色々と云はんよりは、其の人の總體を推して見る樣にしたがよいぞ。

 孔子の三都を討たせらるゝも、聖人に間然せうことはない筈ぞ。然るに三都を討つとて、負けて歸らるゝ不調法に見ゆる。「之を圍んで克たず」と云うてある。何ともどうも、濟まぬことぞ。聖人の軍に、輕々しき事もない筈。負けて歸るなど云ふやうな事は、ありそもないものなるに、あの樣な事體、どうした事やら知れぬことぞ。楠木も、出處から見ても、何かに見ても、殘る所ない、間然ない楠木ぞ。其れにあの樣にあることは、定めてあのやうになうてはならぬ事體ありと見えるぞ。書を見るに、此の心得、第一ぞ。

楠木正成は、實に聖賢ぞ。上古の事代主(命)など云ふ樣なる人と見ゆる。神代の事なれば、其の大矩(かね)ばかり書に殘つて、細かに事實が知れぬ故に、法としにくいこともあるぞ。楠木は、直ぐに今の事實も殘りてゐるに依りて、面々の法とすべきことぞ。

○「仁と義と 勇にやさしき 士(ものゝふ)は 火にこがされず 水に溺れず」と云ふは、楠木の歌とか。慥かに『神代、無戸室(うつむろ)の御誓(うけひ)の傳』を得て、詠まれた歌ぞ。
 

  • [37]
  • 皇位の本源を仰ぎ奉る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 7月19日(土)19時32分15秒
  • 編集済
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●北畠親房公『神皇正統記』天忍穗耳尊條に曰く、

「吾勝尊、降り給ふべかりし時は、天照大神、三種の神器を傳へ給ふ。又た後に瓊々杵尊にも授けましゝゝに、饒速日尊は、是を得給はず。然れば日嗣の神にはましまさぬなるべし。天照大神・吾勝尊は、天上に留り給へど、『地神』の第一・二に數へ奉る。其の始めは、『天下の主たるべし』とて、生れ給ひし故にや」と。
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●強齋若林先生『強齋先生雜話筆記』卷十(望楠所聞續・享保十年三月二十二日、訥齋犬養新五郎誠之(木堂翁の祖)所録)に曰く、

「又(訥齋)問ふ、『日本は、神武天皇よりは、何千年と申すほどになり申すと存じ候ふ。夫れより以前は、地神の内と存じ候ふ。然るにあの方(支那)は、その時よりも、唐・虞・三代の世に、文も十分開け、「文學彬々」たることに候ふが、これは如何に之れ有り候ふ哉』。

 (強齋)先生の曰く、『善(え)てはさう云ふことを云ふぢやが、先づ神代・人代と云うて、きはだてゝ云ふことは、何もないぞ。今日が神代、神代が今日と云うて、神代のなりが、今日のなり、今日のなりが、置きもなほさず、神代のなりで、こゝにちつとも違ひはあらうやうもないぞ。是も一つの傳になつてあることぢや。然るに神武天皇より人代の始と云ふ樣に云ふは、あなたよりかつきりと知れた故のこと。あれよりさきは、何萬年ありたことやら、何千年ありたことやら知れぬぞ。神代と云ふも、天地開けて、うひゝゝしい時ゆゑ、丁度、人の子供の時に、父母一體でゐるやうに天地一體で、自ら今日のやうに私意私欲もさかんになくて、神明自然のなりで行はれたゆゑに、神代と云ふことぞ。開けても開けいでも、こゝが僅かにと、どこまでもたがはねば置かぬぞ。二葉の松の雲を凌ぐ程、ちがひはないが、二葉の時にたがふと、雲を凌ぐ迄がたがふぞ。こゝがたがふと、異端と云ふことぞ。

 さて天神・地神・人王とわけるは、あちの天皇・地皇・人皇氏と云ふから、あのやうに云うたもの。あゝした事ではないぞ。神代七代と云ふことはあり。是は造化で語る、人ではない、陰陽五行のことを云うたものぞ。地神と云ふことは、ね(根)から無いことぞ。天照大神が、すぐに王代の始、あなたより一代と數へる筈で、神武天皇は六代ぞ。それともそれ以前は、とくと知れぬ故に、明かに知れたは、神武(天皇)故に、あなたより數へたもの。なにも天・地・人に分けることはないぞ』」と。



 愚案、強齋若林先生を學ばざれば、闇齋山崎先生の蘊奧を窺ふ能はず。而して闇齋先生の道統學脈を繼ぐは、絅齋淺見先生なるも、亦た知る能はず。偉なるかな哉矣、強齋先生の學勳。然るに誰か曰ふ、「崎門三傑」と。是れ、山崎先生を誤らしめ、且つ貶むる俗稱。即今、棄却して可なり。

 夫れ守中靈社若林強齋先生を表彰せられしは、遠湖内田先生にして、之を刊行せられしは、彪邨岡先生、又た之を天下に知らしめられたるは、寒林平泉先生にして、之を深く究められたるは、其の門下、紹宇近藤先生・谷省吾先生、即ち是れ也。前の三先生を繼ぎたる後の五先生の玉文、崎門埀加の門に在つては、天下の至寶と謂ひつ可し矣。
 

  • [36]
  • 大義を明かにして、出處を誤らざらしむ ──『神皇正統記』・『忠孝類説』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 4月29日(火)16時28分10秒
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●紹宇近藤啓吾先生『「忠孝類説」の梗概と解説』(神道史學會『神道史研究』平成十六年十一月號所收)に曰く、

「人が人として存在することができるのは、人に禽獸と異なる人間獨自のものを有してゐるからである。もし寢る・食ふといふことのみを取り上げるならば、人と禽獸と異なるところはない。然らば人獨自のものとは、何か。それは、人は、君に對すれば臣、親に對すれば子、子に對すれば親、妻に對すれば夫等といふ、人間關係の自覺を有してゐることである。犬の世界に君臣の自覺があるか、猫の世界に親子の自覺があるかと考へる時、このことは明白であらう。この、人の人たるの關係のうちから、その主なるものを取り上げて、五倫といつた。人を、單に人として抽象的に考へるのでなく、それゞゝの人と對人關係を有する具體的存在として考へるのが、東洋の根本思想であり、山崎闇齋は、これを『人の一身には、五倫備はる』[『敬齋箴序』]と、端的に道破した。

 しかし子であり、親であり、夫であり、兄である等といふ具體的存在なる故に、父子と君臣、母と妻、父母と友人といふごとき、對人關係の間に生じた對立矛盾に苦しまざるを得ないのも、人故であり、人は、故にこれをいかに正しく解決すべきかといふ問題が生じて來るが、この解決には、苦惱を伴なふを常とする。そしてこの苦惱は、君臣と父子との關係に於いて對立を生じた時、最も深刻であり、これ正しく判斷し對處する爲めには、平生に於けるこのことについての深き考究をなしてゐることを必要とする。淺見絅齋は『靖獻遺言』を著して、人の人たるの根本に對する學者の、深刻なる考究の道を示したのであるが、何分、同書は全文漢文にて難解であるため、問題を父子と君臣との間に絞り、和漢の、この間に處して苦しみし先人の例を擧げ、もつて學者の平生に於いて、このことを考へる資たらしめたものが、この『忠孝類説』である」と。
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●紹宇先生『淺見絅齋の研究』(昭和四十五年六月・神道史學會刊)に曰く、

「『忠孝類説』は、松田左馬助・唐の李璀・石堂右馬頭・漢の王陵・漢の趙苞・蜀漢の徐庶・毛受兄弟・源義朝の、八人の例を擧げて、君臣の間の板ばさみ、即ち忠孝兩立し難き窮地に陷つた時、臣子たる者、いかに處すべきものであるかの道を講究しようとしたものである。‥‥本書も、亦たその淵源が(師・山崎)闇齋に出づるもので、‥‥道を行ふといふことが、いかに困難なるものであるかを、最も具體的な諸例を擧げて明らかにしたるものであり、而して絅齋は、古人に論評を下すに當つては、或はその行爲・志節の觀るべきものであるが爲めに、敢へて責備の嚴を極め、或はその行動の背景となつてゐる諸事情を考へて、その人物の心事に同情してをり、小册ながら本書は、その學問の本質を知る上に重要なる著書である。而して本書の諸論評の中、最も痛切なるものは、源義朝に下したるそれであり、その論、遙かに北畠親房の『神皇正統記』に接するものであつて、『(絅齋先生)箚録』の中に見える、

親房の『神皇正統記』、南方を正統にして、高氏が罪を正されたることこそ、卓絶の見、萬世の則と云ふべし

云々の論と并せて見れば、絅齋の學問が、常にわが國の歴史を一貫する道義の根本の上に立つものであつたことを知ることができる」と。



**********


■淺見絅齋先生『忠孝類説』源義朝條(明治三年五月。湖南・三書堂梓)

○保元の軍、敗れて後、爲義法師(源義朝の父)が頸を刎ぬる可き由、左馬頭(義朝)に宣下せられければ、「宥め置かる可き」旨、やうゝゝに兩度まで奏聞せられければ、主上、逆鱗有りて、

「清盛、伯父を誅す、何ぞ緩急せしめん。「甥は、なほ子の如し」と云へり。伯父、豈に父に異ならんや。速かに誅戮す可し。若し猶ほ違背せしめば、清盛以下の武士に仰せ付けらる可き」

よし。敕定重かりしかば、(義朝)力無く、涙を押さへて、鎌田次郎(正清)に宣(の)玉ひけるは、「綸言、此の如し。之に依りて、判官(爲義)殿を討ち奉らば、五逆罪の其の一つ(弑父)を犯すべし。罪に恐れて、宣旨に背かば、忽ち違敕の者と成りぬべし。如何にすべき」と有りしかば、正清、畏りて申す。「恐れ候へども、愚かなる事を御諚候ふものかな哉。私しの合戰に討ち奉らせ玉はん事こそ、其の罪も候はんずれ。是れは朝敵と成り玉へば、終ひには遁るまじき御身なり。縱ひ御承にて候はずとも、時日を廻らすべき御命ならぬにとりては、御(味)方に侍らせ玉ひながら、人手に掛けて御覽候はんより、同じくは御手に懸け進(まゐ)らせさせ玉ひて、後の御孝養をこそ、能く々ゝせさせ玉はんずれ、何か苦しく候ふべき」と申せば、(義朝)「然らば汝、計らへ」とて、泣く々ゝ内へ入り玉ふ。

 即ち鎌田、入道(爲義)の方へ參り、「當時、都には、平氏の輩ら權勢を執り、守(義朝)殿は石の中の蛛とやらんのやうにて御座せば、東國へ下られ玉ひ候ふなり。判官殿は、先き立て奉らんとて、御迎へに進らせられ候ふ」とて、車差寄せたれば、「然らば今一度、八幡へ參りて、御暇乞ひ申すべかりしものを」とて、南を伏し拜みて、やがて車に乘り玉ふ。七條朱雀に白木の輿を舁き居たり。是れは輿より乘り移り玉はん處を、討ち奉らん支度なり。其の時、秦野治郎延景、鎌田に向ひて申しけるは、「御邊の計らひ、誤れり。人の身には、一期の終りを以て一大事とせり。それを暗々(やみゝゝ)と殺し奉らん事、情け無く侍り、たゞ有りのまゝにしらせ奉らん、仰せ置かる可き事も、などなかるべき」と云へば、正清、「尤も然るべし。物を思はせ進らせじと存じて、かやうに計らひたれども、誠に我があやまりなり」と申しければ、延景、まゐりて「誠には關東御下向にては候はず。守殿、宣旨を奉りて、正清、太刀にて失なひまゐらすべきにて候ふ。再三、歎き御申し候ひしかども、敕定重く候ふ間、力なく申し附けられ候ふ」と申したりしかば、「口惜しき事かな。爲義ほどの者を、たばからずと、討たせよかし。縱ひ綸言重くして、助かる事こそ叶はずとも、など有りの儘には知らせぬぞ。又た誠に助けんとおもはゞ、我が身にかへても、などか申し宥めざる可き。義朝が入道を憑みて來たらんには、爲義が命に替へても助けん。親のやうに子は思はぬ習ひなれば、義朝一人が罪にあらず。只だ恨めしきは、此の事を、始めより、など知らせぬぞ」とて、念佛百返、計り唱へつゝ、更に命惜しむ氣色もなく、「程へば定めて爲義が頸斬り見んとて、雜人なども立てこむべし。とくゝゝきれ」と宣玉へば、鎌田次郎、太刀を拔いて、後ろへ廻りけるが、相傳の主の頸きらんこと、心憂くて、涙に暗んで、太刀の當て所もおぼへねば、持ちたる太刀を人に與へて、終ひにきられ玉ひけり。頸實檢の後、義朝に賜ひて、「孝養す可き」由、仰せ下されければ、正清、是れを受け取りて、墓を建て壇をつき、卒都婆などを造り立てられて、やうゝゝの孝養をぞ致されける。

 抑も義朝に父を斬らせられし事、前代未聞の義にあらずや。且つ朝家の御誤り、且つは其の身の不覺なり。敕命に背きがたきに依りて、是を誅せば、忠とやせん、信とや爲ん。若し忠也と云はゞ、「忠臣は、孝子の門に求む」と云へり。もしまた信と云はゞ、「信にせば、義に近く爲よ」と云へり。義に背ひて、忠信に從はんや。然れば孝を父にとり、忠を君にとる、もし忠を面てして父を殺さんは、不孝の大逆、不義の至極なり。されば「百行の中ちには、孝行を以て先とす」と云ひ、また「三千の刑は、不孝より大いなるはなし」と云へり。その上、大賢の孟子に、喩へを以て問ひて曰く、

「虞舜の天子たりし時、其の父瞽瞍、人を殺害する事あらんに、時の大理なれば、皐陶、是れを捕へて罪を奏せんとき、舜、如何にし玉ふべき。孝行無雙なるを以て、天下を保てり。政道正直なるを、舜の徳と云ふ。然るに正しく大犯を致せる者をば、父とて助けば、政道をけがさん。天下は、是れ一人の天下にあらず。若し政道を糺して刑を行はゞ、又た忽ち孝行の道に背かん。明王は孝を以て天下を治む。然らば只だ父を負ひて、位を捨て去らまし」

とぞ判せる。況んや義朝の身に於てをや。誠に助けんと思はんに、など救はざらん(★註)。他人に仰せ附けられんには、力なきしだいなり。誠に義にそむける故にや。無雙の大忠なりしか共、異なる勸賞もなく、詰句、幾程なくして身を亡しけるこそ、淺猿(あさま)しけれ[『保元物語』]。


○(北畠親房公の曰く)義朝、重代の兵なりしうへ、保元の勳功すてられがたく侍しぞ。父の首を切らせたりし事、大いなる咎なり。古今も聞かず、和漢にも例しなし。勳功に申し替ふるとも、みづから退(そ)くとも、などか父を申したすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでか終ひに其の身を全くすべき。滅びぬることは、天の理なり。凡そかゝる事は、其の身の咎は然る事にて、朝家のあやまりなり。よく案あるべかりけるぞ。其の頃、名臣も數多た有しにや。また通憲法師、よろづ申し行ひしぞ、などか諌め申さゞりける。「大義には、親を滅す」といふことあるは、石□[石+昔]といふ人、其の子を殺したる事なり。(父として)不忠の子を殺すは、理りなり。父不忠なりとも、子として殺すといふこと、道理なし。孟子に、たとへをとりていへるぞ、「舜の天子たりし時、其の父瞽叟、ひとを殺す事のあらむを、時の大理なりし皐陶、とらへたらば、舜はいかに爲玉ふべきといふに、舜は位を捨てゝ、父を負ひてぞ去らまし」とあり。大賢の教へなれば、忠孝の道あらはれて、おもしろく侍り。保元・平治よりこのかた、天下みだれて、武用さかりに、王位輕くなりぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行の破れによれる事とぞ見え侍る[『神皇正統記』(二條天皇の御條)]。


○(淺見絅齋先生の曰く)嗚呼、親房の論、甚だ當れり矣。余、毎に讀みて、爲義の、義朝が、「若し我に託して來らば、吾れ必ず當に吾が命に換へて、以て之を救ふべき」を言ふに至つて、未だ嘗て卷を廢して歎ぜずんばあらざる也。義朝、是に於いてか乎、人心を喪ふの至れる、而して罪、實に天に通ずと謂ひつ可し矣。鎌田正清、意に阿ねり非を飾り、主・臣、淪胥して、以て君父を弑すの大惡に陷る。吁、亦た醜む可し矣。今井兼平、木曾の暴逆に從ひ、強諫する能はず、相與に亂賊の黨と爲る。事、同じからずと雖も、然れども其の罪は、一也。野間(美濃國。義朝の平忠致に謀殺された地)の變、粟津(義仲の戰死した地)の亡、其れ亦た遲し矣。親房の論、最期の一節、「太平の世に復らざるは、名行の壞れに由る」に至つては、則ち卓絶の見、至當の言、識者、感有りと云ふ。


**********


(★註)紹宇先生の曰く、「(『保元物語』に)『大賢の孟子‥‥救はざらん』といふ、親房の説と、殆んど同旨の言を載せてゐる。しかし右の言は、果して『保元物語』の祖本に、既に存してゐたものであらうか。その祖本の成立は、鎌倉時代の初めであらうと思はれるが、その後、次第に増多せられて、通行本の姿に作り上げられたのは、室町時代に入つてからのことと考へられる。けだし右の言は、その増多の過程に於いて、親房の論を取つて加へられたものであり、本書の祖本が成つた鎌倉時代の初めに於いては、未だ『孟子』は流行してゐなかつたのである。絅齋も、この點に不審を持つたかと思はれることは、その贊辭に、『親房の論、甚だ當たれり』とし、先出のはずの『保元物語』の名を擧げてゐないことによつて推察される」と。



 愚案、『絅齋先生靖獻遺言講義』に曰く、

大義に於て見る處無ければ、惑ひて且つ乖(そむ)かざらんと欲すとも、而も得可からず。‥‥殊(わき)て知らず、學ばざれば、則ち大義を辨ふこと能はず。夫の英氣志義も、用ふる所を知らず。‥‥特に士爲る者、大義端的を知り、而して之を切磨して、學に非ざれば、一歩も其の身を動かす可からず、以て君に事へ己を處す、皆な幸ひに非ざれば、則ち妄なることを識りて、疑ひ無からしむ焉」と。

 嗚呼、深切なるかな哉、熟々味はふ可し矣。『忠孝類説』は、眞に皇民の講究せずんば能はざるの書、件の紹宇先生『梗概と解説』に參じて、疾く々ゝ看る可し。只管ら熱祷す、輕率、短兵急なるを省みて耻ぢ、學に非ざれば、一歩も其の身を動かす可からず、大義の何たるかを知つて、己が出處を誤らざらしめん矣。
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  • [35]
  • 淺見絅齋先生『稱呼辨』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 4月13日(日)00時47分19秒
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●絅齋淺見安正先生『稱呼辨』(家藏『忠孝類説』の附録。明治三年五月刊)

 名分の學、明かならざれば、則ち事、體制無く、綱紀、隨つて壞る。凡そ國を理め家を正し、行を制し辭を修むる所以は、皆な苟焉するのみ而已矣。

 且に近世の諸々の稱呼の若き、訛謬、尤も多し。我が國都の如きは、桓武天皇、南都より今の山城の愛宕郡に遷したまひ、號を命じて平安城と曰ふ。以後、歴朝、之に因つて未だ嘗て革むること有らず。則ち是れ今日、通行不易の定稱也。然して世の詞章を作り簡牘を裁ふる者、率ね稱して洛陽と曰ひ、長安と曰ふ。承襲の久しきと雖も、全く意義無し。周の成王、河南洛水の北に都す。因つて號して洛陽と曰ふ。猶ほ汾陽・河陽の類のごとし。特に異國一處の地名にして、歴代、之に仍るのみ耳。長安に至らば、則ち宜しく通稱す可きが如し也。然して是れ亦た關西の都號、本と郷名にして、漢の高祖、取つて以て咸陽に名づけ、洛陽と相對す。實に方地の指す可き有り。豈に此れを以て、別都に稱す可けんや耶。況んや我が國をや乎。其の他、桃花銅駝を以て、條路に稱するの類の如き、皆な假託、實を失ふ。殊に名分の正に非ざる也。

 近來、又た鴨川の東西に居て、稱して河東・河西、及び江東・江西と爲す者有り。堀川の東西に居る者も、亦た然り。大抵、其の郷里宅舍の邊、才(わづ)かに一水有れば、便ち要して江河を以て之を表す。異國の地名に比擬すなり。甚だ鄙しむ可し矣。尤も笑ふ可き者は、凡そ諸國の號を書すに、必ず陽の字を以て之を帶す。攝津を攝陽と爲し、播磨を播陽と爲し、筑紫を筑陽と爲し、大坂を坂陽と爲すが如き、其の餘、皆な然り。其の意、以爲らく、是れ則ち美稱也、と。殊に陽は、本と陰に對す。乃ち山南水北の謂にして、華陽・岳陽、及び前に云ふ所の洛陽・汾陽の類の如きを知らず。而して山水の指標す可き無きの者は、則ち大都・通津と雖も、亦た陽を以て呼ぶ可からざる也。山北水南、之を陰と謂ふも、亦た同じ。其の他の疎妄、唐名を以て官名を稱し、國守を稱して諸侯と爲し、假名を以て諱と爲し、實名を以て字と爲し、學者を以て秀才と爲すの屬の如き、勝げて數ふ可からず。而して相稱して君と爲し公と爲すに至つては、則ち又た忌憚無しと謂ふ可し矣。又た姓名を約省して異國人に模倣し、或は直ちに伯某・仲某を以てし、自ら字を命ずる者有り。彼の深衣を被、幅巾を蒙り、以て祭祀に奉ずるの類と、同一流と爲す。而して其の名實を亂り、文軌を異にするは、孰れか是より甚だしからん。此れ皆な陋儒俗學に始まりて、其の無稽無識、奇を衒ひ俗を驚かすの爲す所にして、卒ひに擧世の人をして、訛を承け誤を踵ぎて、自ら名教を犯すの罪を知らざらしむ焉。悲しむ可きかな夫。淺見安正、謹みて識す。
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 愚案、平泉澄先生の人に接するに、「○○さん」と云ひ、「○○君」と云はれず。「相稱して君と爲し公と爲すに至」るは、忌憚、甚だ多しと謂ふ可し。我が皇國に於て「君」と申し上ぐ可きは、唯だ上御一人坐しますのみ而已矣。是れ即ち平泉先生、亦た絅齋先生の稱呼法に據られしか、或は前賢後賢、揆を同じうして發明せられしか。蓋し感慨、之を久しうして已まざるものあり。名分の辨、嗚呼、嚴なるかな夫。
 

  • [34]
  • 草莽の士・唐崎赤齋先生。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 5月12日(日)22時53分53秒
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●贈正四位・安藝國竹原磯宮八幡宮祠官・赤齋唐崎常陸介(八百道)藤原士愛先生『赤齋先生の眞蹟』(靖獻堂金本正孝翁『唐崎赤齋先生碑の建立と吉井五章翁』――『藝林』平成十二年二月號に所收の吉井家文書)

覆載、地を易ふると雖も、
豈に我が忠肝を損せんや。

 安寸 八百道
鎌倉右府の歌
 山は裂け 海はあせなむ 代なりとも 君に二心 我もためやも

(赤齋先生、固より右府實朝公の心を知る矣。平泉澄博士『三續・父祖の足跡』昭和四十二年七月・時事通信社刊を參看せられたい)



●蘇峰徳富猪一郎菅原正敬翁『赤齋唐崎先生碑銘』(安藝國竹原磯宮八幡宮に在り。金本正孝翁『同上』に據る所の、『民友』昭和四十七年六月號・紹宇近藤啓吾先生の訓に據れり)

(篆額――赤齋先生眞蹟の中より採れり)
首向宮闕(首、宮闕に向ふ)

(碑表)
 藝陽竹原の郷に、赤齋唐崎先生あり。嗚呼、此れ何を以て稱する。先生、覇府鼎盛の世に當り、尊皇の大義を首倡し、仲繩高山正之等と、東西呼應、終ひに身を以て節に殉ず。海内の志士、風を聞いて興り、皇政維新の端を闢きしは、豈に偶然ならんや。

 先生、諱は信徳、一名士愛[ことちか]、通稱は常陸介、號は瓊山。赤齋は、其の別號なり。曾祖定信、學を山崎闇齋に受く。考、諱は信通、磯宮の祠官と爲る。先生、幼にして父を喪ふ。年、甫[はじめ]て十五、伊勢に遊び、谷川淡齋に學び、尤も國典に精熟す。業成り子弟に教授す。門に及ぶ者、數百人。汎[ひろ]く天下の奇偉□[人+周。てき]儻の士に交はり、皇室を恢興するを以て、自ら任ず。

 嘗て京師に遊び、朝紳公卿の門に出入す。一日、聖護院法親王に詣る。坐に一士あり。状貌魁偉、先生、一見して問うて曰く、「公は、高山子に非ざるか」と。其の人、曰く、「君は、是れ唐崎先生か」と。手を握りて、倶に皇室の式微を慨し、歔欷、これを久しうす。寛政中、正之、西遊して筑後に抵[いた]り、屠腹して以て死に就く。

 先生も、亦た姓名を變じて、柄崎八百道[やほぢ]と曰ひ、籍を亡して、其の跡を晦まさんと欲す。而も果すこと能はず。悉く其の文册を焚きて、不老山の瑩側に自刃す。是れ、八年丙辰十一月十八日たり。年六十。正之の死に距たること、實に三年なり。蓋し先生の、正之と其の旦暮、意氣、相感應する所のもの、ありて然りしか、非なるか。

 先生、平居、文天祥の人となりを慕ひ、其の眞蹟を觀、「忠孝」二大字を臨□[莫+手]し、而してこれを磯宮の巖壁に□[金+隹+凹]み、以て子弟を激勵す。行餘、既にかくの如し。因りて以て其の平生を攷[かんが]ふ可し。

 明治三十一年、聖上、其の塚を追褒し、正四位を贈りたまふ。死して餘榮ありと謂ふ可し。このごろ郷人、あひ謀り、碑を竹原に建てんとし、予に屬して、これが文を爲[つく]らしむ。

 嗚呼、先生、既に不朽、何ぞ貞□[王+民]を待ちて、これを傳へんや。然れども先生、逝きて百餘年、郷人、□[言+爰。わす]るゝことなし。是れ亦たこれを傳へざる可からず。仍りて銘を作る。銘に曰く、

 斥覇尊皇、草莽、義を唱ふ。
 その道、孤ならず、身を殺して志に殉[したが]ふ。
 竹原の陽[みなみ]、水明かに、山媚なり。
 千載の下、以て風誼を維[つな]ぐ。
 あゝ、伊[こ]の人、何ぞ勒誌を待たん。
 正氣、凛然として、天地に充塞す。

昭和二十年十一月十八日
 火國・菅原正敬(徳富蘇峰)、撰。
 播州・上田容熈(上田桑鳩)、書。

(碑陰)
昭和二十八年十月
 建設者。元大藏大臣・池田隼人、馬場四郎、西谷松二、吉井章五、竹井喜一、久保谷唯三、佐々木厚男。



●賀茂別雷神社祠官・賀茂下野介保角(やすふる)翁『柄寶愛の藝州に歸るを送るの序』(金本正孝翁『世に知られざる唐崎士愛の生涯――特に山崎闇齋百年祭の實行について』――『藝林』平成八年五月號に所收。保角翁『松岡先生傳』の印に、「小忠を行ふは、大忠の賊」と。愚案、徒ならぬ言靈、深く膽に銘ず可きかな哉)

 安藝の寶愛(赤齋唐崎士愛先生の字)、余と倶に業を(松岡)渾成翁に受く。蓋し寶愛は、先進の士也。學ぶ所、盡く其の蘊を究む也。曩に既に神岡に一見し、相驩(よろこ)び、舊、相識の如し。今夏、復た再見し、乃ち余に謂ひて云く、

『神道の講ぜざる、世、已に久し矣。保(元)・平(治)の間、中原に喋血せしより、而る後ち幾んど五百年、兵革相踵ぎ、民、寧歳無し。王室、馭を失ひたまひ、爪牙、權を弄す。是に於て禮樂征伐、悉く覇府に出づ。民に臨むに、專ら刑名を以てし、其の文物を憲章するが如きは、則ち儒佛に鎔範して、國典に仍らず、遂に儒雅を□[手+晉]紳に置き、浮屠を宗室に擇(と)りて、吾が先王の顧命訓謨、之を高閣に束ぬ。而れども知る者、鮮し矣。況んや其の禮典舊章をや乎。是に由つて世の不學者、妄りに之を祈祷卜祝の術に託し、復た之を廟堂の上に論ふを知らざるなり焉。神道の明かならざる、職(つね)に是之れ由れり矣。

 元和・寛永の間、神君、亂を揆め正に反し、捷を王室に獻り、命を輦轂の下に承く。升平百年、四海、至治を稱ふ也。是に於て吾が埀加翁なる者出で、思ひを國籍に鋭(つよ)め、博求旁捜、以て先王の教を祖述し、終ひに海内をして赫々たる先王の道、天地と極まり罔く、日月と墜ちざる者を知らしむ。其の功、豈に偉ならざらんや乎。翁の如きは、國家の務を以て、己が任と爲す者と謂ふ可し。蓋し翁、已に沒して、今ま方に百年なるも、記傳、未だ備はらず。吾れ乃ち其の功を金石に勒し、之を不朽に埀れ、以て後世をして、邦典、墜ちず、翁の力、是れ頼るを知らしめんと欲す。豈に吾が黨の美擧ならざらんや乎。子、其れ如何せん』と。

 其の辭氣慷慨、凛烈として眉宇に發せり。余、其の言を壯とし、其の志に感じて、其の成る有らんことを希へり焉。今ま將に其の親に歸省せんとす。因つて其の概を記し、以て之に贈ると云ふ。

 (天明元年)辛丑の秋、從四位下・賀茂保角、拜具。



【參照・西の唐崎赤齋、東の高山赤城】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t42/21



五月十三日・追伸。參考
◎唐崎常陸介士愛顯彰會編『古文書は語る――草莽の士・唐崎常陸介資料集』上下二卷・平成二十二年十月・竹原市立竹原書院圖書館刊を、古書屋より取寄せ、本日落掌。非常なる勞作であるが、漢文の讀み下しが拙く、洵に遺憾である。然し「略年表」が附されてをり、以降の研究の基礎とならう。赤齋先生の身邊整理は、周到を盡し極めて湮滅寸前の所、此の集成は貴重である。
 



  • [33]
  • 内田遠湖先生『崎門の學風』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 3月 7日(木)19時32分57秒
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●遠湖内田周平先生『崎門の學風』(思想叢書第十九編。昭和十二年十二月・大阪府思想問題研究會刊。愚案、雷名、天下に轟きし老儒の小册、朱子學の入門書としても、甚だ重寶なる可し)に曰く、

「(山崎闇齋)先生の學問は甚だ深く、先生の氣節は甚だ高くありました。其の深き學問と高き氣節とが、日本全國に非常なる感化力を有して居ります。竪の見方、即ち年代で言へば、二百五十年の久しきに亙り、門人より門人に傳へ、傳統的に續いて居ります。其の間、前の百年は尊王の議論となり、後の百年は勤王の事業となつて、歴史に現はれて居ります。横の見方、即ち場所で言へば、東西南北、至らざる所なしであります。‥‥

 私が學問上に於て、闇齋・絅齋・強齋の三先生、及び梅田雲濱等と深き關係があり縁故があることを、少しく述べさせて頂きたい。私は既に八十一歳になりまするが、凡そ五十年間、闇齋派の學を研究いたし、啻に之を信ずるのみならず、及ばずながら之を實行して居ります。嘗て南北正統論を提げて、小松原文部大臣を彈劾し、文部省編纂の小學歴史を改正させました。又た乃木將軍の遺志を重んじて、毛利元智の襲爵を論難し、時の總理大臣・大隈伯、竝びに宮内大臣・波多野男に、辭職勸告書を呈しました。此等は、皆な闇齋學の信念より出で、闇齋先生の主義を實行したものであります。

[――遠湖先生の曰く、「己が修めし學術を實際に履み行ひ、國家教育の爲に政府に反對せしこと、三囘なり矣」と。
 其の第一は、明治三十四年、文部省、中學の教科から漢文を削除せむとするや、全國に檄文を飛ばして同志を奮起せしめ、遂に止めしむ。
 其の第二は、四十四年一月、南北朝正閏問題の起るや、藻洲牧野謙次郎・天行松平康國と共に、大日本國體擁護團を結成、輿論を喚起して、鞠躬盡力、生命を賭して之に當れり。國史學の虚心黒板勝美、哲學の姉崎正治、法學の穗積八束・副島義一、政治家の木堂犬養毅(谷干城將軍は病臥)等、之に與力せり。友聲會編『正閏斷案・國體之擁護』に、「南朝正統論發達史」竝びに「義公を頌するの詞」を投稿。
 其の第三は、大正四年九月十三日、乃木家世襲再興あり、三宅雄二郎・副島義一等と共に、筆舌を以て其の非を彈じ、且つ同志を代表して大隈首相・波多野宮相を訪うて、其の辭職を勸め、養子乃木元智氏に書を贈り、其の襲爵を辭せむことを勸む(昭和九年、自ら爵位返上に至れり矣)――]

‥‥闇齋先生に至つては、實に一世に卓絶したる才學識見を以て、一大事業を擔任せられ、是れより前の俗儒の陋習を一洗して、程朱學説の神髓を、始めて世の中に闡明せられる樣になつたのであります。元來、學者といふは、大抵、頭を書册の中に埋めて居つて、氣魄の有るものが鮮い。氣魄の最も強きものは、道義的觀念より養成せられたものである。闇齋先生の如きは、實に道學上の豪傑であつて、その學問といひ、氣魄といひ、決して尋常儒者の及ぶ所でない。殊に幕府全盛の時に於て、大義名分を大聲疾呼して、少しも怖るゝ所がない。其の學派の人、遊佐木齋・稻葉默齋などは、先生を以て、「朱子以來の一人なり」と言つて居ります。實に英雄の姿を抱いて、さうして道義を研究した人であります。當時、幕府の大老保科公の賓師となり、京都の公家正親町卿の師ともなり、其の他數千の弟子は、先生に事ふること、宛かも臣下の者が君主に事ふるが如くであつた。先生は宋儒、即ち程子・朱子の義理心法といふものを研究致して、之を日本的に應用して、且つ又た我が邦の古典を研究致して、一派の神道を起し、内外尊卑の分義を明かに致して居りまする。抑々外國の文明が輸入すると同時に、外國崇拜といふことが起るもので、我が邦古代に於ても、さう云ふ事がありました。近世、明治の始めより日清戰爭や日露戰爭前までは、矢張り外國崇拜でありました。日本人でありながら、日本といふ事を自覺して居らぬ。漢學の行はれた時に、支那を中國と言ひ、中華と言ひ、向ふを貴んで、甚だしきは、古き書類には、彼の國の年號を用ふるものもあつたといふことを聞いて居ります(愚案、現代日本の姿、是れ也)。‥‥其の時に、山崎闇齋先生が出られたのであります。そこで漢土崇拜の弊風を打破して、内外尊卑の別を明かにし、君臣上下の分を正すといふ事を務めたのであります。且つ一般の士人に向つては、義理の實行といふことを勸め、即ち士道を礪礪する氣風を傳へました。今で、武士道、武士道と言ひますが、私は武の字が、甚だ當らぬと思ふのであります。武士に限らぬのである。事理を辨へて居る者は、皆な士と言うて宜しい。

[――荻生徂徠は、自ら「日本國夷人」と申して居りまする。日本をば、「夷狄」といふやうな言葉で言うて居りまする。それは内外の別を失つたのであります(是に就いて辯護する者がありますが、當つて居りませぬ)。上下の別を失つた方では、幕府の將軍を、「皇上」と言うたことがありまする。それから豐臣氏の事を、「勝國」と書いたのがあります。勝國といふは妙な言葉で、既に亡びた國を勝國と言ひますが、之を幕府と相對して用ゐるのは、甚だ穩かでありませぬ。それから徂徠の門人太宰春臺、是れも亦た上下の分も内外の別も知らなかつた。日本の風俗を論じて、「夷狄の風習、惡むべし」抔、屡々言うてありまする。又た「山城天皇」と稱して、天皇の事を山城一箇國の天皇のやうに書いてあります。次に新井白石、是は中外の別に就いては、大いに間違つたことは書いてないやうでありますが、上下君臣の分に於ては失つて居る。幕府將軍の事を、「日本國王」と書いた。是は一二箇所ではありませぬ。其の他同じく朱子學者でも、誤つた人がある。木下順庵の如きも、其の詩中に、自ら「東夷小子」と言うて居りまする。室鳩巣・藤井懶齋、此の二人には、天子を廢しても宜しいといふやうな説も出て居る。是は遊佐木齋の書牘(『神儒問答』、是れ也)中に見えて居ります。熊澤蕃山、是も亦た自ら卑下して、日本を「東夷」としてある。是は其の著『孝經小解』に出て居ると記憶します。伊藤仁齋、是は中外の別に於ては、大いに誤つた話もない樣でありますが、自分の名は源吉でありまして、其の吉の字が、將軍の名と同じであるといふ所から、源藏と改めましたが、號の仁齋といふ仁の字は、天皇の御諱でありまするを憚る所なく用ひて居りまする。――]

‥‥闇齋先生は、伊勢の太神宮へ參拜すること、前後六囘であります。當時の儒者及び後世の儒者に、此の如き人がありませうか。一度や二度は參拜した人もありませうが、五度も六度も參拜したものは、外には聞きませぬ。王政復古の大事業は、實に闇齋先生が太神宮を肅拜し、水戸義公が『大日本史』の筆を執る時に、端緒を發したのであります。

 闇齋先生には、尊王の論と云うて、別に書物となつて居るものはありませぬ。唯だ『埀加文集』の中に、「伊勢太神宮儀式序」といふ一篇があつて、敬神愛國の意を述べてあります。是れが埀加神道の大主意でありませう。‥‥又た「東鑑暦算改補序」に、「神道衰へ、王風降りたまふ。素盞鳴尊、天下を治むるの權、武家に歸するは、平清盛に始まりて、源頼朝に成れり矣。『東鑑』は、猶ほ魯の『春秋』のごとし。但だ未だ筆削の手有らざるのみ耳。嘉(闇齋先生の名)、竊かに『倭鑑』を修めんと欲す。(六)國史の外、博く雜史を檢し云々」とあります。此の簡單なる文章の中にも、王政の衰へたことを慨かれた樣子が見えます。‥‥

 會津の保科正之公の亡くなつた後に、先生は「土津(はにつ)靈神碑」といふ文を書きました。其の中に、「夷齊の怨み無きの仁を得んと欲し、湯武革命の義を聞くを厭ふ」といふ二句がある。此れが忠君の意を現はした、大切の語であります。又た正之公の臣下に、友松氏興といふ人がありまするが、甚だ勝れた人で、先生は朋友の樣に取扱つて居ります。「當時、學者にして力量の有る者は、西に野中兼山、東に友松氏興」と申しました。其の友松氏は、儒學に神學を兼ねた人でありますが、闇齋先生は、其の肖像に「贊」を書きました。此の贊は、『埀加文集の拾遺』の中に出て居つて、五言律であります。所が板本には、二句、即ち十字は闕句であつて、缺けて居ります。如何なる譯で、出版の時に、其の二句を削つたものであるか、私は初めには判りませんでした。しかるに京都下御靈の社で、其の眞蹟を見ました所、其の眞蹟には、チヤンと書いてある。如何なる句であるかといふと、他の句は省きまして、其の二句を申すと、

曾て周禮を貴ぶを記し、楚權を撓ますを稱することを羞づ

とあります。「周禮を貴ぶ」といふは、どう云ふ意味でありませうか。周の王室の禮儀制度を貴ぶといふ事ではありますまいか。「楚權を撓ます」といふ事は、楚は當時の強國であつた。周の王室に貢をしなかつたといふことがあります。さうして後には、覇者の地に立ちます。其の「楚權を撓ます」といふのは、覇府、即ち幕府の勢力を抑へるといふやうな意味ではありますまいか。それすら「稱することを羞づ」と言へば、其の意味は、猶ほ深長であります。若し此の二句が、別に忌み憚る所がないならば、『埀加文集』の中に出して置きさうなものだが、出板の時に、誰か削つて闕句にしたのであります。又た此の下の二句に、「君に事へて忠潔の志、伯夷の賢を學ばんと欲す」とあります。此の贊は、門人從一位藤原公通卿が書いて、京都下御靈の社に納めてあります‥‥

 『先哲叢談』といふ書に、先生、一日、門人に對して、「方今、若し漢土より、孔子を大將とし、孟子を副將とし、數十萬の兵を率ゐて、我が邦を攻撃せば、我輩は堅甲を被り、利兵を執りて、之れと合戰し、孔子・孟子を擒にし、以て國恩に報ぜん。是れ即ち孔孟の道なり」と語られたといふ事が出て居りますが、此れは『先哲叢談』の記者が柔かに書いたもので、文章を飾つてあります。安藝の唐崎常陸介の家は、曾祖父定信以來、崎門の學で、其の家に傳つて居るものは、是れと違つて、詞が短く且つ強くあります。

孔子・孟子が大將となつて、我が邦を攻めに來たならば、彼の兵の上陸するを待たず、石火矢を以て、彼の軍艦を撃ち沈めてしまふ

とあります。此方が、先生の語氣に合ひます。先生は事物を處置するに、必ず義理の判斷を爲て、而してその判斷が、極めて明敏でありました。

 會津侯の亡くなられた時、先生は、その葬式萬端の監督を致しました。會津の役人は、大小となく、先生に伺つて取行ひました。その時、先生の言附けた一ツの道具が、甚だ大きくあつて、城門を出すことがむつかしく、之を先生に伺つた。先生は、直ぐに答へて、「城門を打壞して、出してしまへ」といひました。義理に於て爲すべきことは、爲さねばならぬ。城の門はこわしても、又た出來る。義理は、城門に換へられぬ。此れが、闇齋先生の道學であります。又その葬式の際は、禮服着用で、威儀を整へ、且つ多くの人を使ひましたが、葬式がすむと、直ぐに脚絆を着け草鞋をはいて、一個の浪人儒者として出立しました。我が爲すべき事を爲して、その後に何にも求むる所がない。是れが、崎門學者の出處進退の道であります。

 闇齋先生が、門人に向つて講義せらるゝとき、一本の棒を握り、講座を叩いて教授せられた。殊に大義名分に關係した場合には、肩を張り眉を揚げ、高聲で激勵叱咤するといふ風でありましたゆゑ、當時、京都に居る學者共は、先生を目して、「あれは氣違ひだ」と曰ひました。而るに先生は、此等の學者共を罵つて、「腰拔け」と曰はれました。腰拔には、胴骨がない。フラヽヽして、幽靈同樣である。私は現代に於ても、氣魄のない、精彩のない、腰拔學者・幽靈學者が、隨分多いやうに見うけます。どうか、闇齋先生を地下より呼び起して、此等の學者に、大喝一聲、痛棒を食はしてもらひたいと思ひます。‥‥

 若し先生をして今日に在らしめ、外務大臣に任じたならば、決して引けを取らぬでありませう。諸君、今日は國事多端、思想混亂、即ち非常時であります。此の際に於て、闇齋先生の如き偉人を追慕すること、益々切であります。想ふに、世間の學者達、先生の事蹟を批判するもの、先生の學徳を賞讚するもの、愈々多く出づるでありませう。然しながら私の深く望む所は、徒らに批判せず、徒らに賞讚せずして、能く先生の主義精神を體得し、之を實行に現はして、日本國民の本分を盡され、日本國民の精神を發揮せられんことであります」と。



●贈正四位・竹原磯宮八幡宮祠官・赤齋唐崎常陸介藤原士愛先生の辭

首は、宮闕に向ふ。
 

  • [32]
  • 谷塊齋翁『楠正成筆記』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 2月28日(木)20時15分43秒
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●塊齋谷丹四郎大神垣守翁『出師の表の筆記』(尊父は、贈正五位・秦山谷丹三郎大神重遠先生なり矣。紹宇近藤啓吾先生『紹宇文稿』平成十七年五月・私家版に所引)

 諸葛孔明の『出師の表』、高文大筆、日・漢先輩の評、枚擧に遑あらずして、肝要は、其の忠貞の實を看得して、人臣の表則とするにあり。故に明の安子順と云ふ人、
「諸葛孔明の『出師表』を讀みて、涙を墮さゞる者は、其の人、必ず不忠ならん。李令伯の『陳情の表』を讀みて、涙を墮さゞる者は、其の人、必ず不孝ならん。韓文公の『十二郎を祭る文』を讀みて、涙を墮さゞる者は、其の人、必ず不友ならん」
と評せり。此の評、實に熟讀玩味して自得すと云ふべし。『陳情の表』は、『古文眞寶』に載せ、『十二郎を祭る文』は、『韓文』に見えたり。共に墮涙の感、不肖の身にも、理義の心を起すに足れり。我が國にても、『吉野拾遺』に載る所の、兒島三郎高徳の『北越より吉野へ贈りし書翰』、『關城書』の源准后『結城氏に與ふる牒状』、近代にても、澤庵和尚の『家弟に授くる教訓書』、中江藤樹の『書置』などは、文飾風雅をはなれて、深切の眞情、感服するに餘りあり。僕、竊かに安子順の評を以て、是等の文の讀法として、勸懲の益を覺ゆ。因つてこゝに并せ録して、同志と共に講究すと云ふ。


●谷塊齋翁『楠正成の筆記』

 季漢の諸葛亮、處士を以て仕を求めず、躬耕して里村に隱る。蜀の先主、其の賢を聞いて、自ら其の家に詣(いた)り、禮を盡して興復の事を委託せり。君臣の遭遇、古今に比類少し。國に遠近の異あり、世に古今の不同あれども、後醍醐天皇、笠置に幸きして、楠正成を召し、東國征伐の事を敕任し玉ふと、事理相似たり。故に兩件、共に希世の美談とす。

 近年、室清直、『駿臺雜話』を著し、正成を論じて、其の忠貞を稱し、其の中に、正成の出處、孔明と同じからず、功名に急にして、威重を失するの意を寓せり。此の論、恐らくは非也。正成は、世々河内の國に在つて、武臣也。孔明は、邊土の處士也。蜀の先主は、天位を踐まざるの時也。後醍醐天皇は、當時(そのかみ)の天子也。事實懸隔、時宜格別の事と云ふべし。抑々我が國の天子は、日種を嗣がせ玉ふて、古今變革なければ、假令ひ處士の身と云ふとも、日月を戴くの人、孰れか敕命を固辭すること能はんや。君は日輪・臣は星辰の理、上下四方に遍滿する故に、一國一郷の主と云へども、其の域中の臣庶の所天なれば、出て仕ふると、處して仕へずとは、惟だ君の命のまゝにして、私に去就を決するの義、我が國の道にはなき事也。直清、才徳老成の人なりと云へども、終身、西土の道に從事して、我が道を聞かず。國體の異、名分の辨に通曉せずして、猥りに獨見を以て、公武を評論す。柱に膠し舟を刻むの卑陋を免れず、惜しい哉(紹宇先生の云ふ、「直清『駿臺雜話』の正成論は、國家の命脈の護持に深く思ひを致せし先哲の、いたく憤られた所、享保十七年完功にして、十四年後の寛延三年に刊行す。然らば塊齋翁の見られし元文元年は、未だ流布廣からざるの寫本なるを知るべく、蓋し直清が正成論批判の嚆矢と謂ふ可し。此の元文元年は、高山彦九郎の誕生より十一年前、有馬正義(『楠公論廼辨』に、逐一駁非す)の誕生より八十年前なり」と)。

 或は問ふ、吾子、西土と我が國の道を併せ論じて、去就を自己に決斷するを非とせり。然らば『近思録』の出處の篇をも、無用の贅言と思へるや、否や。

 答へて曰く、出處去就は、日・漢とも講究すること、丈夫の當然なり。予が論は、君命の至るに臨んで、退避する者を非とす。平常、聞達を求めずして、下に臥龍の才徳を蘊畜し、一雷、上に聲を發するの時を得て、振立の功を成すは、我が國の大事にして、志士の庶幾する所ろ也。此の事や、官祿に覬望して節操を失ふの徒、株(くいぜ)を守つて時勢に昧き人と論辨しがたし。更に宜しく之を思ふべし。

 或は問ふ、『駿臺雜話』に、楠正成、湊川にて忠死の時、弟・正季と共に、七生まで生をかふるとも、朝敵を亡さんと約せしことを、陋き事と評せり。佛道に迷へるを非とせるの意ならん歟。吾子が考へ、如何。

 答へて曰く、直清の説、輪廻因果の迷ひを辨破するなるべし。慶長・元和の後、太平、日久しく、神道・儒學開明の今を以て、上世の人を論じ、備はらんことを求むるは、恐らくは偏見の失を免れがたし。百年以前までは、書籍に通じ文字を書するは、浮屠者流の外には、希れにも聞ゆることなく、公武ともに、釋門を師範として學習を常とすれば、佛説に惑はざる人は、十に一二も鮮し。正成の死に臨んで、此の言を發するや、義膽忠肝、李唐の張巡が、「癘鬼となつて、賊を殺さん」との語と、同日の談と云ふべし。其の精忠の實を見ずして言語を辨ずるは、穩當ならざるの評也。忠臣孝子の實を得ば、學才なくとも、何ぞ遺憾とせんや。吾子、能く之を思へ、之を愼しめ。


 右、兩條、『靖獻遺言』講談の時、聊か此の事に及べり。邦君、臣をして卑意を筆記せしめ玉ふ。謹みて命を奉じ、録して以て上る焉。元文元年丙辰九月上澣、谷丹四郎垣守、頓首再拜(紹宇先生の云ふ、「垣守の講説、單に『靖獻遺言』を以て、漢土先賢の史實として解するので無く、之を國史に照らして考察し、更に亦た自己當爲の道として究明せむとされし事を知る也。蓋し此の態度は、父・秦山先生に受くる所と考へられ、此の筆記、倶に極めて短篇に過ぎぬものながら、谷氏の學を考ふる上に、重大なる意義を有すと謂ふ可し」と)。



【淺見絅齋先生『靖獻遺言』筌蹄】
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【北畠親房公『關城書』――獲麟書・結城親朝に與ふる書――興國三年二月十五日】
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【谷秦山先生の學風】
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●縣居岡部衞士賀茂眞淵大人の哥「大神垣守が土佐の國にかへるにわかるとて」

むさし野の 夏野のしげく おもふ事 いふべき人に けふや別れむ
 

  • [31]
  • 天下に不是底の父母無し矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 2月24日(日)16時22分39秒
  • 編集済
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■山崎闇齋先生『三子傳心録』中册の「豫章先生羅子」卷(『豫章集』附録下より採録)に曰く、

 舜の、能く□□[鼓+目。目+叟。舜の父]をして、豫(よろこ)びを底(いた)さしむる所以の者は、親に事ふるの道を盡し、子爲るの職を共(つゝし)み、父母の非を見ざるのみ而已。

 昔、羅先生(豫章羅從彦、字は仲素。師承道統は、程子――楊龜山――羅豫章――李延平――朱子)、此れを語りて云ふ、「只だ天下に、不是底の父母無きが爲めなり」と。了翁(魏氏、字は華父。朱子の高弟)、聞きて之を善みして曰く、「唯々此くの如くにして後に、天下の父子爲る者定まる。彼の臣の其の君を弑し、子の其の父を弑する者は、常に其の不是の處有るを見るに始まるのみ耳」と。



●紹宇近藤啓吾先生『天下に不是底の父母無し』(『紹宇文稿』平成十七年五月・私家版に所收)に曰く、

「「不是底の父母無し」は、不是は是ならず、よくない。底は的に同じ、名詞の下につけ、~のやうなの意を表はす語。「不是底の父母無し」といふ語は、卒然として讀むならば、理解しがたいことであらうが、靜かに自分自身の「いのち」に思ひを寄せるならば、自分がいまこゝにかうしてあるのは、父母からいのちを與へられたからであると氣付くであらう。我がいのちは、父母のいのちと別個のものでなく、父母のいのちの延長なのである。そしてこのいのちは、更に父母より祖父母、祖父母より曾祖父母、曾祖父母より高祖父母と遡る、限りなき祖先のいのちそのものに外ならぬのである。人はそれゞゝ一個の人格であるといつて、親子・兄弟・妻子の連帶を破壞してしまつたのが、近代個人主義である。個人主義は、親と子・兄と弟・夫と妻、それゞゝ獨立の人格であり、同等の人權を有して相對峙してゐるとする。現行の日本國憲法の據りて立つ理念は、是れである。これに對し東洋の古來の人間觀は、人を父母祖先のいのちの延長と見る。そこには一對一の對立の意識はなく、永遠の繼續のいのちに、我がいのちが融けて、我がうちに父母がいますが、又た我が子孫も、我がうちにゐると觀ずる。「無不是底父母」、不是底の父母無しとは、決して父母は聖人だ、缺點がない、といふことではなく、子としてこの我がいのちをいとをしむならば、このいのちの根源である父母のいのちも、いとをしくて堪へられぬといふ心情をいつたものである。父母を惡いと思ふことができぬことが、子たる者の至情である。人は誰れでも過ちなきことを得ぬ。父母のいのちが、我がいのちであると知るならば、父母祖先の過ちも、我が過ちであり、父母祖先が、それを改め得なかつたならば、自分がそれを改めればよい。

 昔、舜といふ青年が、愚かな父□□[鼓+目。目+叟。以下■■と代用]に苦しめられた。■■は、後妻が、自分の生んだ子たる象に、その家を嗣がせたいと望んでゐたので、その言に惑ひ、舜を殺さんとしたのである。しかるに舜は、父を恨むことなく、却つて我が力が足らずして、父をしてこの擧に陷らしめしことを悔み、大空に叫ぶのみであつた。そしてこの■■も、つひに舜の、その孝心に服し、善人となつたといふ。是れ、「舜の、能く■■をして、豫びを底さしむ」の意である。「天下に不是底の父母無し」。語は、極めて簡であるが、意味するところは、極めて深い。東洋の道徳の根源は、こゝにある。西洋人の思想と異なるところである。

 君臣の道徳も、この一點に於いて立つてゐる。昔、周の文王、しばゝゞ殷の紂王を諫め、却つてその怒りに觸れて、獄舍に投ぜられた。しかも文王は、紂王を恨むことなく、非常な困苦のうちにありながら、紂王を本來の君主にもどすことができぬ、己の菲才を責めるのみであつた。唐の韓退之が、この文王の思ひを詩に詠じたるが、『拘幽操』である。‥‥この『操』を、韓退之の『文集』より摘出表彰し、程子・朱子の、この『操』に關する語を附して一册の書物として公刊したるは、山崎闇齋である。闇齋は、異國の古人の詩に、倫理の極、我が神道の極を見たのである。‥‥

 私は、何の爲めに崎門學を學ぶのであるかとか、崎門學はどのやうにして學んだらよいか、といふ質問を受けることがある。崎門學とは、求道者であつた山崎闇齋の生涯の生き方より生れたものであるから、みづからが闇齋の生涯を追蹤して自認する外には、その眞の理解の道はない。しかしその追蹤に當つて、最も眼目を爲すものは、「無不是底父母」といふことを、みづからに體認體現することであると思つてゐる。

 いふまでもなく、この語は、宋の學者羅豫章のいつたものであるが、この語の意味を眞に自認することができるのは、萬世無窮の皇室を頂く我が國に於いてのみであつて、易姓革命の國に於いては、それを「ことば」として理解することはできるであらうが、事實に於いて體現することは、不可能である。とはいふものゝ、今日の我が國の姿、既に「家」がなく、「家」がなきところ、「國」も存在し得ない。名稱としては、日本といふ國家も存するであらう。しかしそれは、法によつて構成された國といふ幻想的存在であつて、吾等の祖先が營々として辛苦し、その血と汗の結晶である、生きた「祖國」といふものではない。そもゝゝ「人」は、永續の生命體なる「家」に吸收せられ、「家」は、その團結體なる「國」に吸收せられる。個人の無不是底父母の體現が、「家」の永續の道であるならば、國民として無不是底君といふ體現こそ、「國家」永續の道であらう。

 しかるに今日の我が國の姿、無不是底父母・無不是底君との思ひ、いづくに見出されるであらうか。上下滔々と主張するものは、自己の權利である。家に在りて無不是底父母、國に在りて無不是底君とする意の缺落こそ、今日すべての亂暴混迷の原因であつて、これを致さしめしものは、現行の日本國憲法の理念であり、この憲法を根幹とする諸法の施行である。即ち今日のこの混迷を打破するは、その九條をどうするの、かうするの、といふがごとき妥協にて成るものではない。

 噫、東洋をして、眞の東洋たらしめよ。我が國をして、眞の我が國たらしめよ。しかしその實現は、先づ我等みづからが、無不是底父母の語を身をもつて具現する外には、道はない。そして是れこそ、何の爲めに崎門の學を學ぶのであるかといふ問ひに對する、唯一の答語である」と。



【山崎闇齋先生『拘幽操』の表章】
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1260
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1261



 愚案、昭和天皇には、「何か物事を御決定になるときには、それぞれ擔當者の意見を徴し、その結論を聞いた上で、自分の責任に於て、これを決定されるが、それは侍臣のすすめによつたのでもなく、また古への聖人・明哲の傳記等の讀書の結果でもない。これは、わが家の傳統である」(元從侍次長・木下道雄翁『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』平成十年一月・日本教文社刊)と宣らせ給うた御由、仄聞し奉る。

 然るに下記に在る雜誌記事こそ、蓋し西尾某を始めとする、流行保守の爲せる結末である。一億分の一たる主權者、即ち「家に在りて無不是底父母、國に在りて無不是底君とする意の缺落」せる現代國民は、敕定たる皇位繼承にまで、遂に容喙するに至つた。嗚呼、其の傲慢不遜、眞に恐るべき事と謂はねばならぬ。かゝる國賊を誅伐して、皇國の意志・神界の經綸に、翼贊、之れ力めねばならぬ。かつて左翼の跳梁の爲めに、「皇室の尊嚴を守る法律」の公布を懇祈したが、今日では保守の跋扈の爲めに、之が制定を懇祷するものである。
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http://sousiu.exblog.jp/18684033/

 同血社主人の曰く、「或る御方の曰く、『皇國は、昭和三十五年に、既に戰後史觀を脱却してをりますよ』と。皇太子徳仁親王殿下には、如何なる神意のまにゝゝ、この日を選ばれて御生誕あそばれたか。米國をはじめとした東京裁判の役者達の驚ろきと云つたら、それは言語を絶するものがあつたに違ひない。恨めしくも戰勝國の謀略によつて、 今上天皇御生誕日と所謂るA級戰■の處刑日を重ねられたことゝ、山下奉文大將の命日に 皇太子殿下の御生誕日が重なつたことゝは、その本質に於て、まるで違ふのである。むしろ正反對である。詳らかに云へば、曩の執行日は、遺憾乍ら戰勝國の意志だ。後の皇太子殿下御降誕日は、皇國の意志だ。戰勝國の連中は、これを偶然と解して氣にも留めなかつたか、或は寒心を覺えたか、野生は知らぬ。されど野生は、否、神州の民たる日本人は、少なくともこれを偶然とは見做さないのである」と。神さびたりとも、神さびたり。あなゝゝ畏こ。
 

  • [30]
  • 内田遠湖先生「清河樂水小傳」

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年 2月23日(土)01時37分11秒
  • 返信
 
 聞くならく、同血社主人は、贈正四位・樂水清河八郎正明先生を敬慕す、と。小生、内田遠湖先生の『東北遊録』を拜見し、偶々樂水先生を論ずる一文に接するを得たり。容易に人を許さゞる、碩儒遠湖先生、亦た樂水先生の心事を顯彰して、之を推重せり。此の「樂水小傳」とも稱すべき雅文を紹介せずんば、友情に背くと謂ひつ可し矣。有志の清覽を乞ひまつると云爾。
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http://sousiu.exblog.jp/17287982/



●遠湖内田周平先生『東北遊録』(大正十四年六月・谷門精舍刊)前篇の「佐伯仲藏に與ふ・其の三」(小生の試訓なり。小生の藏本は、徳富蘇峰翁が大森山王修史室成簀堂の居た田中幸二郎氏に贈呈せしもの。田中氏、後に池上氏の養子と爲る。父は、崎門の宿老・蛇湖田中謙藏翁なり)を抄して曰く、

 關址を過ぎ、囘りて『清河正明碑文』を觀る。明治十九年、山岡鐵舟の撰ぶ所なり。鐵舟は、正明の密友爲り。但だ文辭簡約、未だ其の行事を盡さゞるなり。正明、八郎と稱す。本と齋藤氏、自ら清河と改む。家、世々著姓爲り。父は豪壽、雷山と號す。文學を好み、俳歌を善くす。其の碑は、正明が碑の右に立てり。今ま其の家を守る者は、正義と曰ふ。正明の姪爲り。門墻宏壯、一見、右族なるを知れり。正義は主人(羽前國東田川郡宮曾根の佐藤信古翁。陸奧信夫莊司藤原基治より三十一世なり。基治の子は、源判官義經四天王に數へらるゝ佐藤嗣信、是れ也。血統連綿、羽州の世家と爲せり)と姻戚也。余等を邀へて酒食を薦む。因つて請ひ、□[彳+扁。あまね]く正明が遺著・遺牘・遺物を覽る。

 遺著十四部。曰く『蒭□[艸+堯]論』十册、曰く『兵鑑』六册、曰く『詩集』一册、曰く『文集』一册、曰く『旦起私乘』四册、曰く『耕雲録』三册、曰く『西遊草』八册、曰く『漫遊歌行』一册、曰く『龍池文集』一册、曰く『書牘稿』一册、曰く『潛中始末』二册、曰く『潛中紀事』二册、曰く『囘天封事』一册、曰く『囘天遺事』一册、以上、皆な自筆なり。就中く『蒭□[艸+堯]論』十册、分ちて論語篇・學庸篇・文道篇・武道篇と爲す。共に二十歳左右、東條一堂が塾に在りて草する所なり。『書牘稿』も、亦た皆な漢文を用ひ、父師朋友に寄する所の者にして、「土佐・間崎士發に與ふる書」、最も多し。『囘天封事』は、即ち孝明天皇に上る者、文、甚だ長し。因つて特に一册と爲す。『囘天遺事』の中、「再び天皇に上る封事」・「粟田王に上る書」・「毛利氏儲君に上る書」・「薩州太傅・島津和泉君に與ふる書」等有り。

 『遺牘』八卷。錦籤牙軸、各々名公の題簽有り。曰く「萬世義魁」、曰く「尊攘大義」、曰く「天地感應」、曰く「囘天首倡」、曰く「濟世安民」、曰く「遺芳傳千載」、曰く「鬼神泣壯烈」、曰く「遺芳萬年」、以上の俗牘、都て數十通なり。文久中、父母に寄せ時事を報ずる者なり。忠孝の情、紙表に□[央+皿。あふ]れ、尤も讀者をして感激せしむ焉。

 遺物、甚だ多し。刀劍印章を論ずる毋く、今ま其の要を擧ぐ。「古鏡」一、薩藩祝史・山田大路親彦の贈る所に係る。正明、自ら殉難を期し、之を母に貽り、以て追念と爲す。蓋し其の死する年三十四、父母、倶に存す。「絹幟」一、竪六尺・横一尺、自ら「赤心報國・囘天倡始」の八字を書す。此れ豫ねて製り、以て兵を擧ぐるの時の用に供ふる也。

 卷を爲す者、三つ。曰く『名家墨蹟』は、收むる所、小竹・旭莊・東畦・海屋・星巖・一齋・艮齋・簡堂・一堂・綾瀬等、二十四人なり。此れ安政中に漫遊の時、諸家に揮毫を請ひ、歸りて其の父に遺す者也。曰く『同學送言』は、收むる所、周防の本城斐・土佐の岩崎惟慊・肥前の松原哲が送序、豐後の□[小里+是]正勝・肥後の園田安・土佐の間崎哲・陸奧の安積貞が送詩等、二十餘首なり。此れ見山樓及び昌平黌を去り、郷に歸る時、諸友の贈る所の者也。曰く『藤本鐵石手簡』は、弘化中に、鐵石、羽州に遊び、清川村の齋藤氏に主たり。正明、時に年十七、之と語り、感憤する所ろ有り、力を國事に致すに及び、屡々京攝の間に相見す。此の簡は、鐵石の、其の父雷山に寄する所の者なり。「賢息、大義を首倡し、敬服」の語有り。

 簿を爲す者、二つ。一は『浪人組西上名簿』と爲す。先番二人、曰く池田徳太郎・曰く佐佐木如水。道中監察三人、曰く石阪宗順・曰く村上俊五郎・曰く大館謙三郎。皆な隊長を兼ぬ。別に狼藉者取押役有り。凶暴を控御するの職を謂ふ。此れ正明、浪士魁首と爲るの時、自ら記す所ろ也。一は『交友同志名簿』と爲す。列書する所の者は、水府の武田耕雲齋・大場一心齋・岡田信濃守・山岡喜一郎・田丸稻右衞門、熊本の宮部鼎藏・永鳥三平・川上彦齋・轟武兵衞・松村大成、長門の久坂玄瑞・周布政之助・赤根武人・大樂源太郎・明良敦之助・桂小五郎、薩摩の有村武治・芝山良助・伊集院直右衞門・西郷吉兵衞・有馬新七・伊牟田尚平、其の他京都の森寺肥前守、仙臺の櫻田良佐、肥前の枝吉杢之助、筑後の眞木和泉、土佐の坂本龍馬等、無慮數百人なり。此れ正明の手録して、常に携ふる所ろ也。

 帖を爲す者、一つ。『英烈遺墨』と題す。收むる所は、平野國臣・藤本眞金・吉村重郷・田中綏猷・小河一敏等、二十餘人、大抵、和歌を書す。此れ同志と國事を會議するの時、自ら短册を齎し、諸士の筆を乞ひ、以て其の父に貽る者也。

 掛軸を爲す者、八つ。其の六は、自ら書す詩歌と爲す。就中く「平野國臣に贈る五絶」は、字、亦た龍驤虎躍の勢ひ有り(寫眞の挿入あり。小生が試讀するに、「既作囘天勢、風雲共相苦、忽會還忽散、遂施萬里雨。正明」と見ゆ)。其の一は、「藤本鐵石の寫す所の眞像」と爲す。正明が自贊の中に、「心は皇朝に存し、氣、夷虜を呑む。財を輕んじ、士を愛し、慷慨、自ら苦しむ」の句有り。蓋し實録也。其の一は、江戸に在る時、同志相會し、筆を走らせ、一大箋に雜書する者なり。幕府の士高橋泥舟・山岡鐵舟・石阪宗順も、亦た其の中に厠(まじ)る。

 扁額を爲す者、五つ。其の一は、自書「樂山樓記」と爲す。樓は、其の讀書の處、最上河を臨み、河を隔て蘭山と相對す。聞く、明治三十六年、火に逢ひて燼く、と。其の四は、藤本・田中・安積・櫻田の四友の書す所と爲す。志士の題語、直ちに肺肝を見る矣。

 屏風を爲す者、一副六雙。一副は、則ち勤王の士、正明と交遊する者、二十四人、各々尺絹に書して之を合裝する者なり。一雙は、則ち「書法十二詩」、正明が手筆に係る。餘り五雙は、則ち谷文晁の畫「□[幽の中は豕]風七月の圖」・菊池容齋の畫「赤穗義士復讐の圖」・池大雅の書「飲中八仙の歌」・皆川淇園の書「十二絶句」・龜田鵬齋の大字楷書「呉季重・蘇東坡の語」なり。此れ皆な江戸・京都に獲、以て郷里に致す者也。

 又た帖を爲す者、三つ。『星鳳樓帖』十二册・『顔魯公家廟碑』四册は、竝に正明が手澤の存する所なり。而して『大雅堂三體千字文』九册は、則ち其の最も珍愛する所、仙氣縹緲、人をして恍惚せしむ。蓋し天下に一有りて二無き者なり矣。是の日、渉覽、實に意外に出で、目飽き以て還る。僕の眼福も、亦た多きかな矣哉。

 顧みるに正明が言行、慷慨激烈、終ひに刺客の手に斃る。世、因つて其の心術を疑ひ、以て詭激、禍を買へりと爲す。而して其の學有り、文有り、忠□[艸+盡]の心に出づるを知らず。今ま諸れを遺著・遺牘・遺物に徴して、益々瞭然たり矣。足下(篁溪佐伯仲藏翁)、忠臣烈士の事蹟を聽くを喜ぶこと、食色より甚だし。故に煩を厭はずして記し、以て報ず焉。九月十八日。
 

  • [29]
  • 正名の逆襲。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 5月18日(火)22時38分56秒
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~承前~

●犬養木堂翁『字と雅號』談(木堂先生傳記刊行會・温軒鷲尾義直翁編『犬養木堂傳』下卷・昭和十四年・東洋經濟新報社刊。四十三年九月・明治百年史叢書・原書房覆刻に所收)に曰く、「

 日本人は雅號の好きな國民で、矢鱈に之を使ひたがるが、元來、字(あざな)や雅號は、他人から尊敬して稱へるもので、自分から書くべきものではない。門人後輩に對してとか、或は親しい友人間なら用ひても構はないが、近頃の人々は、少し書畫でも書くといふものになると、先輩に對する手紙にまで、平氣で雅號を用ひて居るものが多い。尤も御製を謹書するにさへ、雅號を用ひた宮内大臣があつた位だから、其の他は推して知るべしである。

 ソコへゆくと、支那人は流石にそんなことはしない。日本人でも心得のある人は、矢鱈に雅號など用ひない。伊藤仁齋・東涯、物徂徠時代の人々は、必ず姓名を書いて居る。中村敬宇先生なども、大概、中村正直と、姓名を書いて居られる。重野(愚案、成齋)先生も、姓名を書かれたものが多い。

 學校の講堂などに掲げる扁額は、最も謹嚴なものでなければならぬ筈なのに、文部大臣などが、それにまで雅號を書いて居るのがあるから、呆れてしまふ。これは啻に學校に對する失禮のみではない、古人の格言や經書などを書きし場合には、古聖賢に對して失禮である。然るにそれをまた有り難がつて掲げて居る者もあるのだから、矢釜しく言ふ丈け無理かも知れない。

 元來、日本人には、通稱と名との外は無い筈なれど、漢文に何左衞門・何兵衞では面白からぬ處から、名の外に、字や號が生じたのであるが、同じ漢學者でも、佐藤直方先生は面白い。字も號も用ひず、佐藤直方、字は直方、直方と號すで、通した人である」と。



 愚案、書、或は著書を見るに、諸賢も注意して見られるがよい。一概には申せないが、古人の用意、斯くあるを想見して、其の書、或は著書の作者が識見を窺ふに足る。

 松陰吉田寅二郎藤原矩方義卿先生ならば、
松陰は號、吉田は苗字、寅二郎は通稱、藤原は氏、矩方は實名(諱)、義卿は字。

 吉田松陰と云ふやうに、號にて書けば、それだけで敬稱となる。崇拜やむない時は、吉田松陰先生と書いてもよろしい。亦は大人・翁・主とか用ゐてもよい。號が無い御方には、逝去の後では、實名を申し上げるのがよい。尤も生前は、諱(忌名)の字義の通り、當方からは實名を呼稱するを遠慮するのが、言靈の道である。通稱は、上位から下位へ、或は朋輩に對する時に用ゐる。橋本左内なぞ、後世の人は、偉さうに書くべきでは無く、橋本景岳と御呼びすべきであらう。奉贊會も、景岳會と云ふ。それでは一般に分らぬではないかと云ふならば、最初の記載にて、橋本景岳(左内)と書けばよいではないか。ただし眞木和泉守の如き任官の御方には、官名を書して敬意を表したい。なほ傳世の氏を有つ人は、天朝に申し上げる砌に在つては、藤原矩方と書し、賜姓(藤原朝臣)の由來を表すが筋であらうが、氏(うぢ)は兎も角く、姓(かばね)の朝臣は、散位の人は遠慮すべきであらう。或は靜堂乃木將軍の如き、苗字(俗稱では姓セイとも云ふ)はあくまで私稱にして、源希典と自書し、天朝を重んじて、正名を嚴にされる御方もをられる。件は古學の書法にして、固より人に強制はしない。然し誤用しては、廣き世の中、木堂翁の如く、嗤ふ人も在る事を知らねばならない。

 岡山縣郷土文化財團・犬養木堂記念館があり、こゝにて『木堂逸話』を求めたり。在りましたよ、凡例に曰く、「適切でない表現が一部にあるが、今日において、このやうな表現を肯定するものでなく、當時の姿を殘すため、そのまま使用した」と。自主規制と云ふ奴であらう、笑ひが止まらない。素直にとれば、蓋しこれは、支那を「中國」と呼んだ木堂翁に對する、痛烈なる批判皮肉であらう。然りと雖も是れ、正名道義の學を奉じ、一字一句を忽せにせざる木堂翁に對して、全く失禮至極なる言辭と謂ふべく、木堂翁を顯彰せむと欲して、却つて顯彰になつてゐないではないか。

 木堂翁は、「ただ口は非常にわるく、何か腦に觸れると、辛辣な毒言が、ただちに口を衝いて出る。『あんな蟲のやうな奴が』とか、何とか罵る。それがなかなか手づよいんだから、堪らない。また人を攻撃すること、何分手きびしい。少しの容赦もない。一度敵となれば、城を拔き、濠を埋め、人を鏖(みなごろし)にせねば承知せぬといふ風だ。丁度、織田右府の兵を用ゐるに似てをる。秀吉は降つたものは總て許したが、信長は許さなかつた。犬養も許さない。何でも止めを刺してしまはねば止めない」(大隈重信侯『犬養毅と大石正己』――『犬養木堂傳』下卷。亦た『木堂逸話』平成十六年三月刊にも所收)と。木堂記念館よ、主人たる木堂翁を敵に廻して、如何とする。

  • [28]
  • 傳家の道義。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 5月17日(月)23時26分13秒
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●木堂犬養毅(「犬飼」「犬養」混用→上京後「犬養」に定む。訓「つよし」、亦た「しのぶ」→栗里栗田寛博士の説に從ひ「つよき」→「き」)翁の詩稿(『木堂先生韵語』昭和九年十月・東京木堂會刊に所收)

補世、新效無し、
傳家、舊書有り。
田、二傾に如かず、
耕讀、吾が廬に臥す。

 吾が五世の祖・訥齋先生、闇齋派の經學を以て帷を埀れたり。爾來、家學を繼ぐこと四世(訥齋――近齋――松塢――水莊――木堂)なり。予に至つて、斯學、荒みぬ矣。



 木堂翁、身を政に委ぬと雖も、傳家の學の荒廢を憂ひ、如何に其の復興を念とされたかは、崎門の重鎭・遠湖内田周平翁との交りを以て知る所なり。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm

 木堂翁、秦山谷先生以來の「日本之學」を承統せる、猥山谷干城將軍の知遇を享けしは、或は此の縁に由りしか、得て知る可からず。かつて熊本鎭臺の陣營に在りし若き犬養木堂翁は、從軍記者として、大西郷の最期を見屆けたり。當時の從軍記者は、東京日日の櫻癡福地源一郎・報知の龍溪矢野文雄・朝野の柳北成島弘と云ふ、錚々たる顔ぶれなるも、平素贅澤なる生活に慣れてゐた爲め、いざ戰地に行くやばてゝしまひ、其の用を爲さぬ。二十三歳の木堂翁「戰地直報」が『郵便報知新聞』に掲載さるゝや否や、新聞の賣れること、飛ぶが如し。其の最終囘(明治十年十月五日發行)に曰く、「

 天、既に明け、戰ひ、全くやむ。諸軍、喧呼していふ、『我、西郷を獲たり、我、西郷を獲たり』と。しかして西郷の首は、果たして誰が手に落ちるを知らざるなり。午前九時、偉身便腹の一屍を獲て來り。これを檢すれば、果たして西郷なり。ついでその首級を獲たり。首は屍の傍らに埋め、やうやく頭髮を露す。よつてこれを掘り出し、遂に桐野等の屍を併せて、淨光明寺に集め、兩參軍以下、諸將校、これを檢し、同所に埋む。實に明治十年九月二十四日午前十一時なり。兵を起して以來、八閲月の久しきに彌(わた)り、地を略すること、五州の廣きに渡る。武も、また多しといふべし。英雄の末路、遂に方向を錯まり、屍を野に曝すといへども、戊辰の偉功、國民、誰か之を記せざらんや。ああ、吾輩は、官軍凱旋の日に歌ひ、國家の舊臣が死せる日に悲しまざるべからず。九月二十五日、犬養毅、記」と。

 當時、報知の主筆・鋤雲栗本安藝守老は、「犬飼子、豪膽不屈、常に人をして冷然、汗を下ら使む」と、青年木堂を稱へたり。因みに鋤雲老は、木堂翁が生涯の中で、最も敬慕せし人物にして、木堂てふ雅號も、鋤雲老の授けし所と云へり。木堂翁の大西郷研究は後年に始まれりと云ふも、其の臨終の心地風光、共に人間修練の極地を表すに至れるは、周知の事ならむ。古一念古島一雄翁『犬養先生を憶ふ』(『木堂雜誌』第十卷六月號)に曰く、「

 私共が、常に犬養先生に對して敬服したのは、道義に基づく信念の強固なことであります。先生の行動の基準は、一にこの信念を尺度として決せられたので、如何なる出來事、如何なる問題に對しても、即決せられる、所謂裁決、流るるが如しで、少しも惑ふ所がない。‥‥先生は、大西郷を以て、近代日本の人傑と推賞されましたが、それについてかういふ話があります。初め犬養先生は、薩摩の人々が西郷さんを偉い偉いと言はれるのを聽かれて、お國自慢は何處にもあることだと、大分割引して聽いてをられた。ところが松隈内閣の時に、弟の西郷從道さんと知り合ひになつた。ある時、從道さんが先生に對して、『もはや官僚はダメですよ。これから先は政黨政治で行くほかありません』と語られたことがあつた。ソコで先生は考へた。薩摩の人々の評によれば、從道さんは、兄とは比較にならないと言ふ。その從道さんでさへ、これ位だ。兄の隆盛は、弟に較べると、學問も修養も遙かに上である。これは一つ研究して見なければならぬ、と。それ以來、大西郷の研究にかかつたが、先生のことだから、あらゆる方面からいろいろ研究した。そして西郷も、僧月照と抱いて薩摩潟に身を投じたまでは、偉いには偉いが、まだ非凡といふ域には達してゐない。まだ死に急ぎをしてをる。が、その後、蘇生してからの西郷は、まことに立派なものである。殊に賊軍となつて落ち延びて行く途中、駕籠から下りて官軍の砲壘を眺め、『日本の陸軍も、ここまで進歩したか』と、感に堪へて佇んでをる。敵もなければ味方もなく、生もなければ死もない。流彈に當たつて倒れると、頸を差し伸べて、『モウ、ここらでよからう』と言つて、部下の者に介錯させた。この絶大無邊の心境に、大西郷の及び難い處があると言はれたが、犬養先生が今囘の兇變に會はれながら、靜かに煙草を取つて、『火を點けよ』と言はれ、『今の若い者を呼んで來い。話をしてやるから』と言はれた、その心境は、正にその域に入られたものであつて、畢竟、多年修練の結果にほかならないのであります」と。

 大夢三上卓翁の『昭和三十二年五月十五日・五一五事件招魂祭々文』に曰く、「時の宰相は、犬養木堂翁、老骨をさゝげて、何物にも屈せず、救國濟民の一念に生きる、憲政護持の尊い先驅者でありました。この尊き老宰相に對して、いさゝかの憎しみも憤りもなく、その故にこそ、たゞやむにやまれぬ昭和維新の尊き人柱たれかしと、乞ひ求めたのは私共でした」と。
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 大夢翁は、木堂翁を併せて祭られたり矣。先般、五月十五日は、木堂祭にして、小生も、備中國川入なる木堂生家に參ず。此の木堂塾にて、其の研究家の講演を拜聽せり。講師、木堂翁の文中、支那を「中國」と讀み換へて、恬として恥ぢず。木堂翁の爲めに悲しまずんばあらざるなり、是れ如何と問ふに、「我々歴史家は、支那を中國と謂はねばならぬ決まり有り」との應へを以てす。實に笑殺に勝へたり。初めて知りぬ、所謂歴史家は、即ち改竄家なるを。備中國川入の犬養家には、犬飼訥齋先生自筆の典籍、即ち強齋若林先生の講義録、頗る傳世し、今は岡山文化會館に保存せらるゝを發見して、小生、紹宇近藤啓吾先生に「目録」を作成して、之を報ず。先生、之を喜びて曰く、「努めよ」と。凡そ三十年前の事なり。而して小生は、以前のまゝ、三十年前、舊態依然の小生なり。其の愚や、亦た笑ふ可きなり。



●太田垣蓮月尼『大西郷に示す』

討つ人も 討たれる人も 心せよ 同じ皇國の 民と思へば



●立雲頭山滿翁『犬養木堂翁の人情味』(吉田鞆明氏編『巨人頭山滿翁は語る』昭和十四年・感山莊刊。『木堂雜誌』第十六卷十二月號)に曰く、「

 私が、『私の平素世話になつてゐる人々に頒けたいから、色紙五十枚・半折五十枚、都合百枚書いて下さい』と、今から考へれば、實に亂暴な依頼をしました。犬養さんから、折返し手紙が來て、『一口百枚などは、生まれて初めてだ。また百枚など、到底書けぬ。半折はリユウマチで、なるべく書かぬやうにしてをるから、色紙五十枚だけ書いて送る』といふ返事でした。私は恐縮して、色紙だけで結構だと返事しました。ところが、私の手紙が東京へ汽車で運ばれる東海道線で、すれちがひにまた犬養翁から手紙が來ました。封を切つて見ると、

『敬啓 前便に色紙だけは引き受け、その餘りは辭しおきたれど、兄が、もし與ふべき人に約束でもあれば、信用に關すべしと思ひ、大奮發を以て、早朝と深夜と客の來らぬ時を割きて、色紙五十枚・半折四十九枚[一枚は書き損ひ]、全紙二枚を認めたり。別便小包に付し、發送すべし。右の中に良墨の磨したるもの盡きて、更に磨せしむる暇なく、坊間の墨汁を用ゐたる、三分の一はあり。今後はかくの如き多數の求め、これ無き樣願ひたし。實際一口に百枚も執筆したるは、生まれて始めてなり』。

といふのでした。私は全く感激しました。『兄が與ふべき人に約束でもあらば、信用に關すべしと思ひ‥‥』、何といふ人情味のあることかと、深く感佩すると同時に、自分の無謀を恥ぢました」と。



【備中國・犬飼(犬養)氏系圖抄】

∴ 犬養健命。吉備津彦命の隨身四神の一たり。

 ‥‥ 神領守護職。‥‥

一、訥齋犬飼幸左衞門當謙。望楠軒主強齋若林先生の門人。彪邨岡次郎直養翁『強齋先生雜話筆記』に散見する「犬飼新五郎」、或は筆録者「犬養誠之」とは、訥齋先生その人なり矣。

二、近齋犬飼仙右衞門當則。大庄屋。庭瀬藩郡奉行。近代の人傑なり。

三、犬飼彦四郎當直。神道無念流の達人。宗家を繼ぐも、流寓して暗殺さる。
  二男・松塢犬飼健藏當吉。出仕せし家の嗣子。

四、水莊犬飼源左衞門當濟。當吉の子。大庄屋。中小姓格待遇。
『讀史五絶』
  ○
天朝、南北に隔り、驍勇、駆馳に任す。
嘆息、當年の事、幾人か、是れ男兒なるぞ。
  ○
朝に勤王の列に入り、晩に賊徒の門に降る。
忠邪、百年の後、史編、定論有らむ。

五、犬養豐太郎當弘。
  二男・木堂犬養仙次郎當毅。

  • [27]
  • 天壤無窮の實證。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月21日(土)12時03分51秒
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【天壤無窮の神勅・日本書紀一書】

 天照大神、皇孫に勅して曰はく、『葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地なり。宜しく爾皇孫、就きて治せ。行きくませ矣。寶祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮り無かるべし矣』と。


【幽冥奉助の神勅・日本書紀一書】

 天照大神、三女神を以て筑紫洲に降りまさしめ、因りて教へて曰はく、『汝三神(道主貴)、宜しく道の中に降り居して、天孫を助け奉り、天孫の爲に所祭(いつか)れよ』と。


【續日本書紀・神護景雲三年九月廿五日。日本後紀・延暦十八年二月廿一日】

 宇佐神宮大神、託宣して曰はく、『我が國家、開闢より以來、君臣(分)定りぬ矣。臣を以て君と爲すこと、未だ之れ有らざる也。天之日嗣は、必ず皇緒を立てよ。(悖逆)無道(輙く神器を望む)の人は(神靈震怒)、宜しく早く掃ひ除くべし』と。


**********


●若林強齋先生『乙巳録』(享保十年・知非齋坂守口筆記。金本正孝氏『強齋先生語録』に所收)に曰く、「

 三女神[日の神が御女體ゆゑ、三女神と云ふ]出生の次第は[心の語りやうは、三つなり]、田心姫は、玉こると云ふことで、全體から云ふ。瀧津姫は、行はるゝわざの上から云ふ。市杵島姫は、しづけい(愚案、靜な□「行の左。たゝずまひ」か)から云ふ。皆な日の神の心化の神也。何故に三女神御出生なれば、素戔鳴尊の金徳大武勇で參内なさるゝ故、たまるものでないによつて、日の神のいかい御氣づかひで、武備を御待ちうけなされ、參内のわけは問はせられたれば、一點も黒き心ないとあることで、劍玉の御盟が有つたぞ。十握の劍と云ふは、天下を平げられ、天位を守る寶劒で、天下の守りと云ふに、此の樣な守りはない。萬世、武將たる者は、天位を守り、朝敵を退治するまでが守り也。素戔鳴尊は、武將の元祖故、一點も天位を寇するものは、切りすてる。萬世、帝位の守りなる樣に、十握劒の如く、朝敵を退治する。あそこに感じめでて、三女、出生ある。其の根はと云へば、素尊の天位を大事と思召す金徳、其の本體は、天位大事の天照大神の日の徳に出生ある三女神、これを宗像社に祭つて、萬世、帝王の守り神とすることなり。一書の中に、『三女神、天孫を守り、天孫の爲にいつかれ給ふ』ともあり、『道中の貴(むち)』ともある。上み人君も、下も萬民も、この道中、君も臣も、この道中を大事と思召す故ゑ也。

 伊勢・三女神を、二所宗廟と申すぞ。八幡を入れるは、後世のこと也。伊勢は天照大神、宇佐は三女神を祭つて、後世に八幡を勸請したものなり[あとから勸請した八幡が、もとになつたぞ]。だたい八幡は、姫大神が本主で、宇佐の通りをうつしたもので、應神天皇は配はせ祭りたもの也。後世に至つて、となへ違ひて、本を失うたもの也。帝王大事と思召さるゝ荒御魂を、三女神と崇め奉りて、宇佐に祭り奉るぞ。さうなければ、八幡を合はせて、二所宗廟とは申し奉らぬぞ。八幡は、今ま云ふとほり、姫大神。さて伊勢と二所宗廟也。

 八幡を源家の守り神と申すわけも、醍醐天皇・延喜十四年に、宇多天皇の皇子・清氏に、始めて源の姓を賜はり、宗像[朝臣]の戸を賜はり、筑前守に任ぜられ、宗像の大宮司になる。源の姓をたまはると云ふは、三女神、皆な水徳の神で、それからわき出たもの故、源と云ふを賜はりて、武臣の源とするぞ。大事と云ふは、三女神を守り、三女神にはぢぬ樣に、帝王の守護となる處ろ也。源家の守り神と云ふは、八幡を云ふでない。帝王の守りとならせらるゝ三女神を、どこまでも崇め敬ひて、三女神にはぢず、冥罰を蒙らぬ樣に云ふが、源の姓を賜はりたる所以で、旨の深いこと也。古は宇佐使と云つて、必ず宇佐の社へ、年々伊勢と同じく、天子より奉幣使を參らせられたることあり。恐れながら王室衰へさせられたなりにも、今まで綿々として天位の變らせられぬと申すは、上は天日の徳、又た三女神の守りとなつて御座なさるゝ故ゑ也。『三女神の傳』と云つて、極めて重いと云ふが、此の事也。かう云ふ正念がすわらねば、日本人で無い。どこまでも三女神に惡まれぬ樣にと云ふで、君臣の位がすわり、それから五倫も立つぞ。こゝ一つが、性根の立ち樣の大事で、これ以上は色々ひゞくことがあるぞ。三種神寶の立つ處が、こゝにあるぞ。甲(かぶと)の天邊の八幡坐と、冠の巾子(こじ)の日影、皆これを戴いたもの、どこまでもかう云ふこと也。

 伊勢は帝王の御先祖、帝王大事と思召さるゝ御寶が三女神故ゑ、三所宗廟と云ふぞ。

 宇佐・宗像・嚴島、この三所は、三女神也。皆な隔たりて三所にあるぞ。

 古代から『道中の貴』と云つて、神代卷の如く、三女神の社、三所にある。道中と云ふが道體でもあり、上、天子より、下、地下まで、これを奉ずると云ふことで味へば、味のほど、極めて有り難い、わけあること也。

 田心姫は全體故ゑ、中津宮と云ふ。さうしており口(くち)と云つて、體・用すむぞ。

 宗像と云ふは、あなた(愚案、天皇)の心をすぐにうつしたもの、あなたのむねなりと云ふことで、宗像と云ふは、それをすぐにあなたに事へ、祭官の氏にしたもの也。

 上は桀・紂ぢや有らうが、それは下からながめて、微塵もとかく云ふ樣はないぞ。それは上の不徳で、三女神ににらまれ給ひて亂るゝか、早世なさるゝか、位を失はるゝかのこと、是非も無いこと、微塵も目をかけう樣はない。日の神の御子孫で、あなたにそむいては、三女神の御にらみなさるゝ、何としてそむかるゝものぢやと云ふ、こゝが忠義の源、かう云ふが道體の實事、こゝを離れて外に語るは、道でもない。

 君と云ふは、上、天子御一人。それよりわり出して、關白殿より下は皆な臣。こゝがぬければ、一人扶持取つても、こはいもの也。文王の『天王聖明』と仰せられ、『至徳』と仰がれ、萬世、道の則と云ふも、これ也。儒學しても、春秋の旨知らねば、役にたゝぬ。神道を學んでも、この樣な骨目を知らねば、役にたゝぬ」と。


●玉木葦齋翁『玉籤集』卷五に曰く、「

○『五男之傳』
 此の國は、國常立尊より立ちて、伊弉諾尊・伊弉冉尊、天柱を以て授けさせ玉ふ、天壤无窮の天位、天照皇大神、敬み守り給ふ皇統也。故に親ら迎へて防禦ぎ玉ひ、素盞鳴尊、誓つて清き心を顯し玉ふ。元來、國を奪ひ玉ふ黒き心なし。唯だ日神の日種の皇統无窮を願ひ玉ふ、姉尊と相見て後ち永く退かんと欲する本意、是れ也[逐降ひの後、上り來玉ふ段にて、此の意、明白也]。日神も、日種の男子御出生あれと、共に御誓ひ坐す也[『共』の字に、力を入れて見るべし]。劒・玉を取りて誓はせ玉ふは、事理、一に見るべし。勅に曰ふ、『其の物根を原ぬれば、八坂瓊の五百箇御統は、吾が物也。故に彼の五男は、悉く是れ吾が兒』云々。此の御誓ひに感じて、素盞鳴尊の御妻、日種を懷妊し玉ふ[『忌部色布知・神代七ケ條』に曰ふ、「誓約して生める子、素盞鳴尊、(大山祇の女・大市姫を)娶る所ありて之を生む。天照大神の生める所に非ず」]。劒・玉、共に日神の御心の靈、感通して、男子やどらせ給ふ也。例せば白銅鏡に感じて、日神を生ませ玉へる如し。故に五男は、素盞鳴尊の御種に非ず、日神の御種なる事、炳然たり。

○『三女神傳』
 眞名井は一元眞水清心の源、三處は心の體、田心姫は玉凝也[本心]。湍津姫は水の動く貌[動]。市杵島姫は嚴しの義[靜]。日神の、天位皇統を守護し玉ふ御心、凝せ玉ふ御神靈也。日神、御女體なる故、心化の神、姫神也。无形の神也[心化口傳有り]。勅して曰く、『其の十握劒は、是れ素盞鳴尊の物也。故に此の三女神は、悉く爾の兒』とは、素盞鳴尊、天位を尊み、皇統の无窮を祈り玉ふ故、誓つて男子を生みて、日神に獻り玉はんとなり。日神の誓ひを感じ玉ひて、皇統守護の三女神を心化し玉ふ。故に物根、素盞鳴尊の、天位を防護り玉ふに在り[十握劒口傳有り]。『授け玉ふ』とは、神籬の道を御相傳の義也。極祕有り。胸肩は、胸の形也。此れ亦た心化の證、後世、以て祭官の姓となる也。

○『道主貴之傳』
 道主貴を、『道中主貴』と、『舊事紀』にあり。三女神は、君臣・父子の道を守り給ふ神也。仍つて道中主貴と號し奉る。天上に祭り玉ふは、天照大神。内侍所・伊勢、是れ也。地下に祭り玉ふは、胸肩・嚴島等、是れ也。御同體なれども、天上・地下を別ち祭り玉ふに、深意有り。故に内侍所・伊勢より外に、日神を祭り奉るは、皆、三女神也[姫大神と稱へ奉る]。君臣の道を守り玉ふ。『天孫を助け奉りて、天孫の爲に祭れよ』とは、神皇一體の心傳、神籬の大事、茲に在り矣。凡そ日本國中、大小神祇の本體、皆な此の神也[口傳有り]。」と。


●玉木葦齋翁『神代卷藻鹽草』に曰く、「

 五男の御形體は、實に素尊、妃と交合して成せる所なれども、夫の感じて舍る所の物根は、日神の八坂瓊也。種子を施す者は父、生み出す者は母なれば、日神は父の如く、素尊は母の如し。故に五男は日種にして、素種に非ず」と。


●贈從四位・振々靈社淡齋谷川士清翁『日本書紀通證』卷四・瑞珠盟約章に曰く、「

 (秦山谷)重遠の曰く、『素戔鳴尊、厚く大神仁惠の徳を蒙り、誠心、之を體し、深思篤信、因つて五男兒を感生し、以て其の誓約を實にしたまふ。國祚、頼つて以て永るに、皇族、頼つて以て繁し。是れ素戔鳴尊、赤心の至りなり矣』と。

[玉木翁の曰く、「此の誓約は、固より隱密の事に非ず。天下の臣民に、日胤にして素種に非ざるを知らしむるの者也。猶ほ天孫の、疑ふ者有らんを慮り、故らに嘲辭と爲し、鹿葦津姫に、無戸室の誓ひを爲さしむるが如く、然るのみ耳」と。今ま按ずるに、吾が國家は、日胤に非ざれば、則ち踐祚の例し無し。兄弟と雖も、凌犯の罪を假さず。是れ誓約の本旨、萬世の法を立つ者なり矣]。

 又た曰く、『蓋し各々其の物根(ものたね)を原ねて、以て之に歸す。此れ我が道の微旨也。

[『(神代卷)直指』に曰く、「人の先祖・子孫を識るも、亦た其の物根を原ぬれば也。生む所を母と爲すと雖も、其の種は父に在り。故に同姓の族は、皆な父祖の胤種也。夫れ禽獸は、則ち母を知りて父を知らず。人にして父を知らざる者は、己が物根を原ねざる也。祖先を知らざる者は、遠き物根を原ねざれば也」と。今ま按ずるに、施す者は天也、成す者は地也。資りて始むる者は、乾の道也、資りて生む者は、坤の道也。夫れ根系統脉は、父に在りて母に在らず。五男の如き、則ち日神は、猶ほ父のごとき也、素尊は、猶ほ母のごとき也。物根は、固より日神に出づ。日種に非ずして何ぞや耶。『漢書』の註に、「師古の曰く、原は、其の本を尋ぬるを謂ふ也」と]。

 五男神、素戔鳴尊の生む所と雖も、本と大神仁惠の被及ぶ所なり。故に大神、取りて以て之を子養(ひた)し、天忍穗耳尊、遂に天位を嗣ぎたまへり矣』と。

[今ま按ずるに、此れ『(忌部正通翁・神代卷)口訣』に本づく。而して瓊は、五男の化生する所以なり。乃ち日神の心、傳國の璽也。但だ仁惠と謂ふとは、未だ瑩かならず]。

 『私記』に曰く、『子養は日足と訓む。幼子を長養し、漸く日數を足る也』と。

[今ま按ずるに、生む所は素尊に在り。故に取りて子養と曰ふ。後世の養子の謂ひに非ざる也。日足の字は、『舊事記』に見ゆ。韓愈の文に、「億兆を子養す」と]。」と。


**********


【天皇陛下ご即位二十年に際しての勅語】(平成二十一年十一月六日。於宮殿・石橋の間)に曰く、「

 皇位繼承の制度にかかはることについては,國會の論議にゆだねるべきであると思ひますが、將來の皇室の在り方については、皇太子と、それを支へる秋篠宮の考へが尊重されることが重要と思ひます。二人は長年、私と共に過ごしてをり、私を支へてくれました。天皇の在り方についても、十分考へを深めてきてゐることと期待してゐます」と。



 愚案、畏れ多くも天皇陛下には、皇位繼承の御大事に就いて、既に斷を下し給うたのである。賢き極みと謂はねばならぬ。皇太子殿下には、將來、三種の神器を奉じて御位に即き給ひ、其の大御心に對して、吾人は只管ら從ひ奉るのみ而已矣。其の形式は國會の論議に委ね給ふと雖も、天皇陛下の大御心は、即ち天照大御神の大御心、神界の御經綸である。叡慮のまにゝゝ、全國民は、承詔必謹、靜かに其の承運の御次第を拜すればよいのである。地下の草莽の如きが、喋々云々すべきことでは無い。斯やうな事態に至つたのも、全て是れ神界の御經綸‥‥。皇位繼承の斷は、一に、上、御一人の大御心に在り矣。

 何處の誰だ――、「男系」だの、「女系」だの、皇國を二分して、輿論を扇動して憚らざる者は。「Y染色體」だと、何ぢやそれ。或は「皇統斷絶」だの、「皇室消滅」だの、「易姓革命」だのと云ふ、不敬の癡れ者は。況んや示威行爲にまで及ぶ、不敬不愼の極まつた、神を信ぜぬ奴輩をや。こゝは支那では無いぞよ。こゝは皇國、上御一人の皇大御國、天地の正嫡にして宇内の本つ國なるぞ。異國の歴史・家系が如何であらうと、我が國の皇位繼承の御次第との關係なぞ、更々無い。雲近き邊りの洪恩容認にて、總理大臣までも決める事が出來るをよいこととして、何でも己が思想哲學で決定されると、思ひ上がるなよ。人間の正論と思ふは、必ずしも神界の正論たり得ざるなり。一億分の一の主權者ども、聞いてをるのか。己が分を知つて、身の程を辨へるがよい。

 最近では、「我が天子樣は、天照大御神の、血統上の子孫に非ず」てふ、天壤無窮の神勅を否定する自稱保守家も出現した。小生の如き素人にも、これは恐ろしき魔説なりと審神できる。斯やうな者が、世を煽動してゐるのである。悲しいかな、皇神を信ぜぬ者の淺はかなる心底を垣間見、些か戰慄を覺えた。こゝまで國體觀念が動搖してゐようとは‥‥。更めて埀加神道の骨髓を引き、之を味ひて、謹愼敬肅の道あるを喚起したい。


●五鰭靈社葦齋玉木兵庫橘正英翁『神代卷藻鹽草』四神出生章に曰く、「

 天君は、直に天神也。人間に非ず。天皇の爲し給ふ御事は、天上の事也、人事に非ず。‥‥

 近く諭さば、異國には、大君の上に、天帝あり。勅命の上に、上天の命あり。吾が國の大君は、所謂天帝也。勅命は、所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水、或は時疫流行して、人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者は無く、下民、罪ある故に、天、此の災ひを降せりとして、反つて身を省みる。是れ常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故ゑ也」と。

  • [26]
  • 破邪顯正の學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月16日(月)00時10分0秒
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 先般、小堀桂一郎氏『共感と違和感と――話題の書「平成皇室論」・「天皇論」を讀む』(産經新聞社『正論』平成二十一年十二月號)を讀み、小生は、此の人を穩健中正の博士と思つてをつたが、豈に圖らんや、非常に扇情的、且つ輕佻浮薄なる俗學者であるを確認した。殊に此の文章は、餘りに非道く、小生の心を亂すこと頗る甚大、卷を蓋うて歎息せざるを得ない代物であつた。こゝに告白するのも不愉快千萬であるが、一二、何うしても云はねばならぬ事がある。小堀氏の曰く、「

一、『(日本書)紀』の本文に即してみれば、天孫が、天照大神の血統上の孫でないことは明かである。では、この皇統の繋りを、何と呼ぶのか。靈統と謂つても、道統としてもよい。ただ人間の世界の血統概念を當てはめて、皇統は女系に始まる、とするのは、實に素朴な誤謬である。

一、向後、萬世一系の皇統について思索し、立論しようと思ふ時、田中卓・所功氏等の學説に依據してはいけない。この人達の學説の裏には、暗く怪しい政治的黨利黨略性がひそんでゐる。それに引摺られては、自分を謬まる。‥‥學説が據つて立つ基盤は、斷じて政治的計算や處世術ではなく、國體と皇統に對する、神代以來の「道」に對する「信仰」だからである。この「信仰」を缺いた國家學・皇學は、所詮は腐儒の曲説でしかない」と。

 後者については、最近流行の俄か保守の戲言として、之を無視してもよいが、「かう書いてゐる筆者自身も、曾ては田中博士の説だから信じてよい、の確率を奉じてゐた」と云ふ以上、田中卓・所功兩博士の、「暗く怪しい政治的黨利黨略性」を實證出來るものなら、滿天下に具體的に行つて戴きたいものである。出來なければ、かやうな口汚い言辭を弄するのであるから、自らの責任を取つて戴かねばならぬ。皇國神語りを神異史實と見る小生には、比較神話説を採る荻野貞樹氏に左袒するらしい小堀氏は、正に近代合理主義者と謂ふべく、殊更に信仰を云々するとは、前後撞着も甚だしい。田中博士が「墜ちた偶像・腐儒」ならば、小堀氏は何者なのか。

 前者は、神宮を拜し奉り、種々の『皇統譜』を拜してをる普通の者にとつて見れば、「天皇は、天照大神の血統上の子孫に非ず、人間界の見方をとれば、養子なり」と云ふは、驚くべき發言、不用意なる言ひ草であらう。學説としては色々あり、吉田家奧祕の傳と云ふ邪説もあるが、皇國中興の曉には、定めて不敬罪が適用されて然るべし。こゝでは、「天照大神より御血脈、今に絶せず、統々嗣がせられ候へば、實に人間の種にて之れ無く候ふ」てふ、若林強齋先生、最晩年の神代卷講義を、松本丘氏『若林強齋の神代卷講義』(『神道史研究』昭和十九年四月號。『埀加神道の人々と日本書紀』平成二十年七月・弘文堂刊に所收)が初めて紹介されてゐるので、摘記させて戴かうと思ふ。



●若林強齋先生『神代卷講義』(享保十年頃・諸江敬直筆記)に曰く、「

 口傳・相傳の祕説なれども、埀加翁のおきてゞ、祕説々々と云うてかくすゆゑ、(天照大神と素戔鳴大神が)御夫婦にならせられたの、御養子のと云ふ邪説がある。吾が國、大切の事ゆゑ、講習の節にもあらはによんで、人に感(愚案、惑か)をとくはず。これが却つて神忠とある事で、最初より講ずる事ゆゑ、大切にすべし。‥‥

 神籬道は、君臣位を易へず、大切な處の道、父子でもそれ、名分定まつては、どう云ふことがあつても、動かすことはならぬ不易の道の本原を傳へらるゝこと、たとへば無道の君あつても、忠臣の、君の氣に入らず、かたはしから手引き、首ひきぬかれても、かうなされてわけあらうと、恨むことなく心に徹底してゆくこと、さう云ふ場までゆきつまらねばならぬ、論のつまりてある道ぞ」と。


●若林強齋先生『守中潮翁・神代卷講義』(享保十五六年頃・野村淡齋筆記)に曰く、「

 惣じて『日本紀』は、帝王の御代々をしるしたもので、其の大根本を傳へられたが、此の一・二卷ゆゑ、神武紀と格別に、神代卷と云ふことでは無し。第一卷より第三十卷まで、皆な帝王の御代々を記した書ぞ。けれども神武以來は、次第々々に天地のひらくるなりに、事實も、神代二卷の樣にはない。‥‥神代卷は、格別の事の樣に思ふと違ふ。皆な代々の御系圖を書付けたもので、其のつんと根本が、此の上下卷ぞ。‥‥

[講後に問ふ、「此の度の御講習の全體を以てみれば、根本からの立ち樣、大元の御元祖樣から、今日の今上樣までにつゞかせられた處が、吾が國のうごき無き所が、ひとりみえると云ふものならんか」。曰く、『然り。あの樣な味が、きつう大事のことがつたはつたと云ふもの。えうは、かやうに傳つたこと。別して大事のことがつたはつたぞ。面々にやまと魂と云ふものゝ立ち所が、こゝにある』。]

 そこで天地の中に、天地の主(あるじ)と云ふがある。そこが『神聖、其の中にあれます』と云ふもの。これが今日の帝王の御系圖を承にひたものに、其の源を尋ね々ゝしてみたとき、天についで御柱立たせらるゝが、其の御元祖樣ぢやが、これですぐに御出生なされて、天地の主とならせられてござらるゝことで、其の天と帝王とのちがひが、かうぞ。こゝがきつう大事のこと。今日の上樣の御元祖の御元祖の天子樣と云ふが、これぞ。只だ天地の神明ぢや、と云ふことではない。直に御元祖のこれが、天子樣ぞ。それで文字の填め樣も『神聖』とある。聖の字、付いてあるは、只だ神と云ふことではないぞ。直に上樣のことぢやぞ、と云ふことを知らさうと云ふことで、神聖と填めたもの。‥‥こゝが直に天地の神明でもあり、天子樣でもあり、こゝが神皇一體の根本が、こゝのこと。天地唯一と云ふの根本も、こゝにあることぞ。もとより此の神と云ふが、形のない天地の神明のことぢや、と云うてもよいけれども、きつとこれが御元祖のことぢやと、かうしるが、こゝの大事。天地から貫いた、吾が君の國ぢやと云ふことが、うごきないこと。‥‥

 (天孫降臨章に)これは『日神』とあると云うて、造化の日と云ふことではない。直に御人體、御徳が日の樣なことでは無し。直に造化の日でござらるゝゆゑ、日神と云ふ。直に其の日が、目・鼻そなはれてござるゆゑ、日神と直に申すことぞ。直に御人體と云ふことを、よう合點せよ。こゝの日神と云ふは、まあ、造化で云ふことぢやの、御人體ではあれども、御徳が日徳と同じことゆゑのと、色々のこと、云ふことはない。直に造化の日が、目・口備はらせられたゆゑ、直に御人體と合點すること。あまり造化の日の樣に云うてあるゆゑ、造化の日の樣に思ふは、あやまり。『天下の君たるものを』とあれば、御人體は知れたこと。天日と、何もかはることはない。日の樣なと云ふ段ではない。かう云ふことが、後まで大事に成つてゐること。‥‥

 (寶鏡開始章に)『ほそめにあけてみそなはす』と云ふ處が、『しのゝめ』ではあるぞや。『萬葉』に、「しのゝめ」と云ふに、細目と填めてある。面白いことぞ。これから思うてみれば、今日も日神樣の、まざゝゞと御座なさるゝと云ふことが、よくみえるぞ。‥‥

 こゝらが大事のこと、物だねと云ふが大事、たねのぎんみが大事ぞ。五男は素尊から御出生なれども、直にたねは、日神のやどらせられたもの。すれば、日神の御子ぞ。三女は素尊の、皇統大事と思召す劔からの心化なり。五男は日神の玉からぞ。御養子と云ふことではない。ぢきに日神の御玉がやどらせられて、うみては素尊なれども、たねは日神樣のたねぞ。日神樣は御女體ゆゑ、御子はない。其の御子と云ふが、直にあなたの玉體が、素尊をからせられて御出生。それで、此のたねと云ふが大事ぞ。‥‥

 日神の皇統大事と思召す御心が、あそこへ御いきにあらはれさせられたもの。これを三女神と申して、これが皇統の守神。惣じて天下萬民のあがまへ奉る世間に、八幡と云ふが、此の三女神のこと。武士の守神ぢやと云ふも、皇統を守るものを、武士と云ふ。其の皇統の守神を首にいたゞいて、皇統を守り奉ること。源氏の氏神と云ふも、源氏ばかりでは無し。一人扶持とる者でも、皇統を守ると云ふより、志は無いことぞ。二所宗廟と云ふも、伊勢は御本體を祭つた所。これは日神の心化の神、あらみたまでましますゆゑのこと。すれば、武士はもとよりのこと、天下萬民、皆これをいたゞいて、皇統を守り奉るよりない。‥‥

 (誓約の段)こゝが至極大事の所ぞ。わづかに和歌を詠じてさへ、天地を動かし鬼神を感ぜしむると云ふこと。況んやこゝらは、天地神明も、これがために感動あるはず。諸臣・天下の萬民までも、やれ、皇統が御定まりなさるゝことぢやはと云つて、さゞめきわたり、扨ても御目出度しと云うて、どんどと云ふはずのことぞ。こゝには樣々のこともあるはずのことなれども、神代卷は、其の要領ばかり、ちよつゝゝゝと上げておいたまでのことゆゑ、かうあることぢやが、此の間には、いろゝゝのことがなうて叶はぬこと、至極大事と云ふが、こゝらのことぞ。

[淡(淡齋)云ふ、此の段、文義はしれた通りのことで、先生、これを講ずる語意氣象にて、皇統はえぬきの動かぬ所あり。熟々思ひしるべし。]」と。

  • [25]
  • 正名の學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月13日(金)23時06分28秒
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●淺見絅齋先生『稱呼辨』(『忠孝類説の附録』)に曰く、「

 名分の學の明かならざれば、則ち事に體制無く、綱紀も隨つて壞る。凡そ國を理め家を正し行ひを制し辭を修むる所以は、皆な苟するのみ焉而已矣。且つ近世の諸々の稱呼の若き、訛謬、尤も多し。

 我が國都の如きは、桓武天皇、南都より今の山城の愛宕の郡に遷し、號を命じて平安城と曰ふ。以後の歴朝、之に因つて、未だ嘗て革むること有らざれば、則ち是れ今日通行、不易の定稱也。然して世の詞章を作り簡牘を裁ふる者、率(おほむ)ね稱して洛陽と曰ひ、長安と曰ふ。承襲の久きと雖も、全く意義無し。周の成王、河南洛水の北に都す。因つて號して洛陽と曰ふ。猶ほ汾陽・河陽の類のごとし。特に異國の一處の地名にして、歴代、之に仍るのみ耳。長安に至つては、則ち宜しく通稱す可きが如し也。然して是れ亦た關西の都號、本と郷名にして、漢の高祖、取つて以て咸陽に名づけ、洛陽と相對す。實に方地の指す可き有り。豈に此を以て別都に稱す可へけんや耶。況んや我が國をや乎。其の他、桃華・銅駝を以て、條理に稱するが如きの類、皆な假託にして實を失ふ。殊に名分の正しきに非ざる也。

 近來、又た鴨川の東西に居り、稱して河東・河西及び江東・江西と爲す者有り。堀川の東西に居る者も、亦た然り。大抵、其の郷里宅舍の邊り、才(わづ)かに一水有れば、便ち江河を以て之を表し、異國の地名を比擬せんことを要むること、甚だ鄙しむ可し矣。尤も笑ふ可き者は、凡そ諸國の號を書するに、必ず陽の字を以て之に帶ぶること、攝津を攝陽と爲し、播磨を播陽と爲し、筑紫を紫陽と爲し、大坂を坂陽と爲すが如き、其の餘、皆な然り。其の意以爲(おもへら)く、則ち美稱也、と。殊に知らず、陽は本と陰に對す。乃ち山の南・水の北の謂ひにして、華陽・岳陽及び前に云ふ所の洛陽・汾陽の類の如きを。而して山水の指標す可き無き者は、則ち大都通津と雖も、亦た陽を以て呼ぶ可からざる也。山北・水南、之を陰と謂ふも、亦た同じ。

 其の他の疎妄、唐名を以て官名を稱し、國守を稱して諸侯と爲し、假名を以て諱と爲し、實名を以て字と爲し、學者を呼びて秀才と爲すが如きの屬ひ、勝げて數ふ可からず。而して相稱して君と爲し公と爲すに至つては、則ち又た忌憚無しと謂ひつ可し矣。又た姓名を約省して、異國人に模倣し、或は直ちに伯某・仲某を以てして、自ら字を命ずる者有り。彼の深衣を被り、幅巾を蒙り、祭祀に奉ずるの類(愚案、林羅山が一黨を云ふならむ)と、同一流と爲す。而して名實を亂し、文軌を異にするは、孰れか是より甚だしからん。此れ皆な陋儒俗學に始まり、其の無稽無識、奇を衒ひ俗を駭かすの爲す所にして、卒(つひ)に擧世の人をして訛を承け誤を踵ぎて、自ら名教を犯すの罪を知らざらしむ焉。悲しむ可きかな也夫。安正、謹みて識す」と。


●若林強齋先生『絅齋先生常話雜記』に曰く、「

 唐に對して日本のことを云へば、「本邦」などとはつかふ。『我が國』とつかふが、一よいぞ」と。


●遠湖内田周平翁『崎門尊王論の發達』(平泉澄博士編纂『闇齋先生と日本精神』・昭和七年十月・至文堂刊に所收)に曰く、「

 留守希齋の著『稱呼辨正』は、絅齋先生の稱呼論に本づいたもので、稱呼の論は、實に正名の學に屬するものであります。人物及び場所を名稱するには、其の文字の用ゐ方があります。天子は天子、將軍は將軍、日本は日本、外國は外國、各々それに適當する詞を選用せねばなりませぬ。絅齋先生の説に、我邦を本朝などゝいふのは、抑も間違ひであるというて居りますが、多くの儒者ばかりでなく、國學者なども、一向氣が附かずに、本朝といふ字を用ゐて居る。甚だ間違つたことである。本朝といふは、支那では革命の歴史になつて居つて、明の朝を本位とすれば、前の元と後の清といふに對して區別するために、本朝と言ふのである。彼の國の學者が本朝といふ時には、前後の朝廷に區別する爲めに書くのである。我邦には、元來、革命といふものがない。他に區別する必要はない。萬世一系の朝廷である。それを本朝などゝ書くのは、大なる間違ひである。斯ういふ事を論じてあります。而して希齋の『稱呼辨正』は、色々稱呼の使ひ方に就いて、世間の儒者の誤りを正して居ります。當時文壇の老將たる梁田蛻巖が八十三歳で書いた序文は、此の書に非常なる尊敬を表して、自分が徂徠學派の稱呼濫用に氣が附かずして、之を眞似たことを後悔してある。

 稱呼の濫用は、寛政三博士の頃に至つて、次第に改正せられた。殊に三博士中の一人にして、最も性理學に通じて居つた尾藤二洲には、『稱謂私言』といふ一卷の著書があります。此れは天朝・幕府・諸侯等の稱呼に就いて論じたもので、留守友信の『稱呼辨正』と同一の旨意から作つたものである。頼山陽は、父春水の遺命に因つて、二洲の逸事を書いて居るが、其の終りに、「和漢名稱の當否を辨じて、甚だ詳晰なり。著に『稱謂私言』あり。東儒、名分を淆亂するの弊、今日に至つて大いに革ること、先生の功、多きに居る」とあり、且つ『日本外史』等、用ふる所の稱呼は、大概、二洲の説に從つて居ります」と。


●寒林平泉澄先生『愛國の哲人』(『天兵に敵なし』昭和十八年九月・至文堂刊に所收)に曰く、「

 『靖獻遺言』の中に出て參ります人物を見ますと、御承知のやうに、屈平・諸葛亮、或は陶潛といふ風に書いてあります。これは御承知のやうに、世間普通に知られて居りますのは、屈平は屈原を以て知られて居る。諸葛亮に致しましても、諸葛亮よりは諸葛孔明を以て知られて居る。或は陶潛に致しましても、陶潛では世間の人は、普通には合點が行きませんで、陶淵明を以て知られて居る。これを『靖獻遺言』に於きましては、屈原を屈平と書き、諸葛孔明とせず諸葛亮と呼び、陶淵明と書くことを敢へてせずして陶潛と書かれて居ります。之に就きましては、故人親切に説明を加へて居られますが、此所に重大なる意味があるのである。

 何故かと言へば、屈原といひ、諸葛孔明といひ、陶淵明といふのは、何れも字であつて、之を字で呼べば、尊敬した意味が此所に籠つて居る。然るに日本人として外國人を呼ぶのに、特に之を尊敬して呼ぶべき理由はない、日本人として之に對する時には、其の名前を率直に打ち付けに呼べば宜しい。斯ういふ考へからして、之を屈平と言ひ、諸葛亮といひ、陶潛と書かれたのであつて、是は即ち支那人に對して日本人の執るべき態度といふものを、茲に明確に示されたのである。隨つて此の中には、有名な司馬温公にしましても、温公とは呼ばずして、「司馬光曰く」といふ風に、何の遠慮もなく、之を呼捨てにして居られるのであります。斯ういふことを、昔の學者は、親切に註釋を加へて居りますが、正に其の通りであらうと思ひます。

 さうして見ますと、此の呼び方の中に、既に日本人としての自覺、日本國に生れて外國人に對する態度は、斯くの如くなければならない。決して外國に對して卑屈なる態度を執り、濫りに外人の前に膝を屈するが如き態度を執つてはならないといふ氣魄が、既に此の題名の中に、明瞭に現れて居ると言はなければならないのであります。支那の歴史の中に於いて、八人の勝れたる人物を取つて、其の忠烈の事蹟に對しては、非常の感激を以て、實に言葉を盡して、其の行爲を賞め、其の精神を明かにして居られるに拘らず、尚ほ日本人が之に對する時の態度といふものは、斯くの如く嚴正なる態度を以て、是等の人物を總て呼捨てにして居られるといふことは、こゝに日本人としての強き自覺が存したことを語るものでありまして、此の一點から考へまして、既に淺見絅齋先生が尋常一樣の學者でなく、日本の國を愛し、日本の國を尊んで居られましたこと、明瞭であります」と。



 愚案、是れ孔朱の學の生命とも謂ふべき名分の學の一端である。後に水戸に幽谷藤田先生『正名論』の出づるあつて、水戸義公の學が復活し、東湖先生に因つて闡明された所以である。一字一句を忽せにしないといふ事は、其の精神を籠めると云ふこと以外に、牢乎として拔くべからざる氣魄決意を示すものである。懼るべきかな、正名の學は。

 スレツド「先哲遺文に學ぶ」第十『正名論』參照。

  • [24]
  • 至剛、懼るゝこと無き、決死必死の精神を、平日より涵養すべし。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月12日(木)21時34分18秒
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●淺見絅齋先生『劍術筆記』に曰く、「

 吾が國の武術は、其の方、一ならず矣。而して急務の最は、腰劍に踰(こ)ゆる莫し。余、蚤(つと)に劍術を嗜み、深く探り遍く求め、日累ね歳稔(かさ)ね、久しくして始めて其の要を得たり焉。夫れ天下の事、未だ嘗て本無くして能く達する者有らず。是れ不易の理也。吾が術は、誠に一言の能く述ぶる所に非ずと雖も、然れども至剛、懼るゝこと無き者は、其れ劍學の本か歟。若し此に達するを得ざれば、則ち縱ひ其の技の精法を竭すも、一も得て施し用ふ可からざるなり焉。

 辟(たと)へば兩陣相敵し、甲戟(鎧・矛)共に利に、戰鬨(せんこう。勝ちどき)共に勵むが如し。填鼓(鼓の聲)相攻むるや也、百萬の師を率ゐ、奔潰狼狽する者有り、數萬の卒を提げ、北(に)ぐるを追ひ、魁を擒にする者有り。是れ則ち主將一人の勇怯に係る。而して勝敗の形、相霄壤する者は、其の理、豈に灼かならざらんや也哉。苟くも此に察せずして、徒らに技術の優劣を用て、以て輸瀛(ゆえい。勝ち負け)の分を判たんと欲するは、其れ亦た末のみ而已矣。況んや己と敵の、相鬪ひ、兩刃、方(まさ)に接し、我れ死せずんば則ち彼れ死し、彼れ死せずんば則ち我れ死するに於いて、猶ほ己が躯命を捨てずして、自ら長勝を取らんと欲する者は、安んぞ眞勇と爲すに足らんや。士爲る者の、當に大いに耻づべき所ろ也。是を以て能く劍を用ふる者は、先づ我が死に向ふの志をして、進無く退無く、平日即ち敵に對し、敵に對するも亦た平日、生や也、死や也、貫いて一日の如くならしむ。此れ乃ち吾が學の根本、至剛、懼るゝこと無きの極功、而して技術の精、是に於いてか乎、施す可し。

 但だ或は己の心、情慾に溺れ易し。身、□[人+黨。も]し無道に陷らば、則ち是れ自ら弊(やぶ)れ自ら亡ぶ。安んぞ能く其の懼るゝこと無きの剛を養ひて、敵の測度する所と爲らざらんや耶。必ずや也、清心寡慾、身を謹み精を□[勵の左。はげ]まし、毎(つね)に忠孝節義を以て念と爲さば、則ち夫の死に向ふの志、剛決の氣、表裏内外、通徹確固、敵、孰か得て之を間(へだ)てん。故に至要の術訣は、全く己を實にし、一毫も敵の虚に乘ずる無きに在り。

 而して其の足を作す(踏み方)や也、影の如く響の如く、環の如く珠の如く、敵に逆(さから)つて先んぜず、敵に就いて後れず、當に己と敵と、相機の間に脱して、直ちに手と應ずべし矣。是れ正に術外不言の妙にして、之に熟して又た熟し、心や也、身や也、劍や也、一體にして貳無くば、則ち前後左右、活轉自在、適(ゆ)くとして其の原(げん。源)に逢はざる莫く、而して一心の眼、果して未だ盲まざる也。巖壁、前に頽れ、雷霆、項(うなじ)に墮つと雖も、敵をして何ぞ脱せしめんや乎哉。後を是れ劍學の眞的と謂ひ、前を是れ至剛の極旨と謂ふ。

 抑も此の學や也、一朝一夕の、得て傳ふ可きものに非ざる也。□[人+免]強錬究、尤も平日に熟さゞる可からず。而して其の到る所の淺深は、則ち其の力を務むの厚薄に在るのみ也爾。安正(絅齋先生の諱)書す」と。



●紹宇近藤啓吾先生の注釋(『崎門三先生の學問』から)を節要して曰く、「

 『劍術筆記』は短文に過ぎないが、その内容に於いては、かの『靖獻遺言』・『忠孝類説』と肩を竝べ得るものであつて、淺見絅齋先生の數多い著述のうちにあつて、最も注意すべきものの一つである。劍道に於いては、己れ先づ命を捨てるの覺悟を持つことが、先決の問題である。こゝに武道の、他のスポーツと全く異なる點が存する。己は安全地帶に立つてゐて、巧妙に敵に勝たんとするは、眞勇とは言へない。眞の勇者は、必ず自ら死を決して進むのである。これは劍術ばかりでなく、一切の問題に於いて考へられることである。國家の命脈を護持せんとする者の、先づ考ふべきは、こゝである。我々は平日に於いても、敵に對してゐる心構へを持つてをらねばならぬ。敵を見て、俄かに騒ぐといふのは、耻づべきである。また敵に對してゐる時も、なほ平日の餘裕が無かるべからず。生死、こゝに於いて一日の如くなるのである。

 至剛、懼るゝこと無き精神が確立せねば、大事に臨んで、如何にすぐれた技があつたとしても、何の役にも立たぬ。然らばどうすればよいか。先づ一切の欲望と野心とを棄て、自己の精神を純粹にして情慾に動かされぬやうにし、常に忠孝節義に觸れ、忠孝節義を行はうと志してゐることであれば、一劍の下に生を捨てるといふ精神、剛快果決の氣魄が、内に滿ち外に現はれ、確乎として徹底し、何人もかくの如き人物の精神を動搖させることは出來ないのである。故に劍術の極意は、自分の魂を充實させることにあつて、敵の隙を伺つて之に付け込まんとすることでは無い。問題は、敵の隙を有無をねらふことでは無く、自己を確立することである。念々、たゞ道義に在り、節操に在るならば、何物をも恐れぬ博大の精神、剛強の氣魄、自から養ひ得るのである。絅齋先生は、劍術の極意に於いて、道徳の根本に立ち返られる。

 世に絅齋先生が、「はゞき」に『赤心報國』と漆書せる太刀を横たへて道を講じたことや、毎朝、東に向つて大長刀を打ちふるひ、事しあらば逢坂山は、吾が死所であると云はれたといふことが傳へられてゐるが、實に先生の劍術は、之を内にしては、克く自己必死の覺悟を確立する爲めのものであり、之を外にしては、君國の生命を護り奉るの道であつたのである」と。



 愚案、寒林平泉澄先生に、『劍術筆記講義打聞』あり。かつて高名な國學者が、此の打聞を貸與せられて、其の返納に來塾された事を記憶してゐる。今は見ること能はず。こゝでは、平泉先生の『天兵に敵なし』(昭和十八年九月・至文堂刊)から引いておきたい。曰く、「

 かゝる剛操の志、雷電、前に落ちてたじろかず、山岳、後に倒れてひるむ事なき大丈夫の心、これは一切の武技・武術・武器・武備の本である。彼の淺見絅齋が、曾て劍術の至要を説いて、『吾が術は、誠に一言の能く述ぶる所にあらずといへども、然れども至剛懼るゝ無きは、それ劍學の本か』と述べたのは、これが爲である。今、決戰の年を迎へて、我等の爲すべきは、この至剛おそるゝ無き精神、即ち剛操の志の堅持である。怒涛、太平洋に逆卷くといへども、雷電、空にはためくといへども、少しもたじろく事なく、一途に押し進み、必ず彼を倒さずんばやまざる精神を、愈々固くする事である。‥‥一言にして申しますならば、忠死、之を大切也とされたのであります。茲に於て先生は、愛國の哲人より更に進んで、尊王の哲人として、これを仰ぎ見なければならないのであります」と。

 絅齋先生の嚴訓は、忠臣義士と讚へられる方々の存養し錬磨せし所のものであり、近くは即ち是れ特攻の精神に外ならない。「至剛、懼るゝこと無き」決死必死の精神を、平日より涵養すればこそ、鬼人を恐れさせ、神明の愛で給へる、義勇、公に奉ずる働きが、始めて可能となるのである。「必ずや清心寡慾、身を謹み精を勵まし、常に忠孝節義を以て念と爲さば、則ち彼の死に向ふの志、剛決の氣、表裏内外、通徹確固」として、安心立命、國家無窮の恩に報ずることを得たのである。

 吾人の先輩は、此の精神を得て、聖壽萬歳を高唱し、神となり給うた。誰か云ふ、お母さん、我が妻よ、我が子よと叫んで、其の愛する者の爲めに出撃せり、と。かく喧傳する者は、生き殘つた者の妄言、戰後に媚びる戲言にして、實は決死必死の方の、眞の心を傳へてはをらぬ。いはゆる家族愛なる者は、宇内何處にも在るものにして、之を喧傳する者は、「滅私奉公」を死語と爲さしめたる張本と謂ふべきであらう。妻は病み兒は飢うるも顧みざるは、古來、皇御軍人の平常心である。楠公と權助とを、一緒にしてはならない。

 本日は、天皇陛下御即位二十年奉祝の日にして、恰も帝國陸軍特別攻撃隊萬朶隊・田中逸夫少尉等、レイテ灣に初出撃して散華されし日であつた。小生も、岡山縣の祝典・提燈行列に參加させて戴き、又た帝都奉祝の生中繼を、大畫面にて拜し奉つた。謹みて、聖壽萬歳を唱へ奉る。

  • [23]
  • 中國辨。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月10日(火)21時25分45秒
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●紹宇近藤啓吾先生『崎門三先生の學問』(平成十八年五月・皇學舘大學出版部刊)に曰く、「

 主觀的にいふならば、三先生の學問思想は一體にして、闇齋先生を、絅齋・強齋先生はよく繼いで發揮したといつてよい。しかし仔細に觀察すると、闇齋先生の學問は、嚴密であつて壯大雄偉であり、絅齋先生の學問は、嚴格であつて剛毅であり、強齋先生の學問は、纎細であつて情趣豐かである。そしてこのことは、闇齋先生の書風が、美しいが大きく――但だ先生の書と傳へるもののうちには、往々門下の代筆が眞蹟として傳へられてゐるものがあり、それは、姿はよく似てゐるが、硬さが見られて區別せられる。絅齋先生の書風は、造形、聊か不器用であつて美しいとはいへぬが、武術の氣合をそのままに、第一劃の打込み、強く鋭く、太くたくましく、恰も劍術に於いて、この一太刀に全靈を込めて打込むかに似てをり、また上より左下に引かれた線の收筆に特色があつて、一旦、筆を強く抑へておいて、筆の穗先きを折り、その反動を利用して次の字を起すべく、左下に向つて強く返つてをり、これまさしく第二の敵を待つ殘心と相通ずるものがある。先生は、學者として世に立つたのであるが、その本質は劍客であらう。これに對し強齋先生の書風は、細く鋭く、しかも抑揚があり、清雅にして豐かな詩情を覺える。

 三先生の書風の違ひは、そのまま三先生の學風の違ひといつてよい。しかも絅齋先生は、晩年『何ぞ大切な吟味になると、始終、山崎先生のことを引いて云はれた』(當舍修齋筆録『強齋先生雜記』)とは、強齋先生の言であり、そしてその強齋先生が門人山口春水より、「埀加翁の發揚された神道も、このままでは絶えるであらうと、心細く思はれます」と、玉木葦齋に、それを聞くことを勸められたるに對し、『さればのこと、何とぞ埀加翁の思召し、傳來の説を承りたきこと、相傳を得る樣に致したく、こゝに私意も無けれども、手前(強齋先生)素志が、絅齋先生の外に、先生と立てゝ人に事ふることはせまじきものと、前方よりの志趣ゆゑ、これまで其の沙汰に及ばず』(『強齋先生雜話續録』三)と、それを斷つてをり、そして絅齋先生の講義の筆録を、他派のごとく「講義」とか、「筆記」と題することなく、『師説』と稱して、門流講學の依據として尊崇してゐることは、三先生の學問を考へる上に於いて、極めて重要な留意點である。即ち師弟三代、末端枝葉に於ける出入はともかく、その學問の根本は、傳承變更することがなかつた」と。



●北畠親房公『神皇正統記』孝靈天皇條に曰く、「

 異國には、此の國をば東夷とす。此の國よりは、又た彼の國をも西蕃と云へるが如し」と。



●淺見絅齋先生『中國辯』(『靖獻遺言講義――處士劉因の條』所收)に曰く、「

 扨て中國・夷狄と云ふ事あるに付き、唐の書に、日本をも夷狄と云ひ置くを見て、とぼけた學者が、「あら口惜しや、耻かしや。我は夷狄に生れたげな」とて、我と作り病をして嘆くが、扨ても淺間敷き見識ぞ。我が生れた國程、大事の中國が、どこにあらうぞ。國は小さくと、何が違はうと、同じ月日を、唐の指圖を受けもせずに戴いて居る國に、「唐人が夷狄と書いて置いた程に」とて、最早やはげぬ樣に覺えて居るは、人に唾をかけられて、得拭はずに泣いてゐると同じ事ぞ。「それでも聖人も、夷狄と云つたもの」と云はふけれども、それは唐の聖人は、唐からはそう云ふ筈。日本の聖人は、又た此の方を中國にして、あちを夷狄と云ふ筈ぞ。「それでは、すれあふが」と云はゞ、それが義理と云ふものぞ。大義を知らぬ者は、そこで迷ふ。やすいこと、人にも親があり、我にも親がある。人の親の頭ははらるゝとも、我が親の頭ははられぬ樣にするが、子たる者の義理ぞ。すぐに其のあちの親といふ親の子も、又た面々に我が親の頭をば、はらせぬ樣にとぞ思ふ。是がすれあふ樣なれども、それで義理は立つた者ぞ。それでも「日本は小國ぢや」と云ふ。それならば、身代のよい者の親を見て、手前のそれより輕き身代の親ならば、役に立たぬ親父よとて、どこへぞ捨てふか。是れ一つで、合點のいつた事ぞ。‥‥

 或る人の曰く、「唐より堯・舜・文・武の樣なる人來りて、唐へしたがへといへば、從はざるが然るべきか」。(絅齋先生の)曰く、『是れ云ふに及ばざること也。山崎先生、嘗て物語りに、「唐より日本を從へんとせば、軍(いくさ)ならば、堯・舜・文・武が大將にて來るとも、石火矢にても打潰すが大義なり。禮儀徳化を以て從へんとするとも、臣下とならぬがよし。是れ則ち春秋の道也、吾が天下の道なり」といへり。‥‥

 大凡そ儒書を學んで、却つて害をまねくこと、湯・武の君の、伐つこと苦しからずといひ、柔弱の風を温和と云ふ樣なること、いくつもあり。みな儒書の罪に非ず、儒書を學ぶものゝ讀みそこなひ、義理の究めそこなひ也。聖賢、天地の道をひらき萬世に示せば、儒書の樣なる、けつこうなる義理は云ふに及ばざれども、學びぞこなへば、加樣な弊あり。よくゝゝかへりみ、究むべきことならずや。‥‥

 我が國は、天地開闢以來、餘所の國の蔭にて立ちたる國にてなし。神代以來、正統に少しも紛れなし。唐の書を讀んでなじめば、どこともなく唐人形氣(かたぎ)に成つて、日本は旅屋の樣に覺えて居る。古今第一の僻者也。書物故ゑ、義理を破るとは、加樣のこと也。それ故ゑ、日本の者は、此の劉因の合點を、すぐに我が身の上へもてきて、是をすぐに中國とふまへるが、大義ぞ。何時でも唐へ執れて行くか、使ひに往つて、得歸らぬか、吹き流さるゝかしたらば、何とぞして此の方へ歸るがよし。得歸らずば、乞食しても仕へぬが、義理ぞ。是れ最も大事の場、能く審かにすべし。‥‥(元禄二年閏正月十八日)

 中國・夷狄の名、儒書に在り來ること久し。‥‥中國・夷狄の名、其れ、共に唐より付けたる名也。其の名を以て吾が國に稱すれば、其れ、ともに唐の眞似也。但だ吾が國を内とし、異國を外にし、内外賓主の辨、明かなれば、吾が國と呼び、異國と云へば、何方にても、皆な筋目違はず。‥‥予、前、日本を中國とし、異國を夷狄とすることを述ぶと云へども、中國・夷狄の字に付いて、紛々の論多ければ、今ま又た名分をつめて論ずること、此の如し。‥‥(元禄十四年十二月二十一日、改めしるす)



 愚案、支那人が、我は中國・中華なり(裏に、日本人は東夷なりの意を寓す)と云はゞ、當方は、我こそが中國なり。中國とは、自己の屬する國家に對する稱呼であつて、これは自己が自國の歴史にうちに生きてゐることの自覺を示す語、決して或る特別の國を指して謂ふ固有名詞に非ず、てふを穩健としようが、絅齋先生は、更に沈潛反覆、義理名分を詰めて云はゞ、是れ、我が國は中國なり、支那は西戎なりと云ふは、是れ亦た支那人の眞似なり、我が國・異國てふを至當中正と爲せり。「とぼけた學者」、即ち前には佛教を奉ずる所の僧侶なる者、近くは藤原惺窩・林羅山・木下順菴・新井白石・荻生徂徠・太宰春臺等、下つては吉川幸次郎の如き、赤面懺慚すべき嚴訓であらう。否、彼等ご一統は、面は日本人にして、肚は支那人なれば、何人も如何とも爲す能はざるか。

  • [22]
  • 生命を賭するの學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月 8日(日)15時16分11秒
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●紹宇近藤啓吾先生『平泉博士と崎門學』(『神道史研究』昭和六十年一月。『山崎闇齋の研究』に所收)から、寒林先生打聞抄・近藤啓吾筆記(全て寒林平泉澄先生の直話なり)

一、それまで、この書(若林強齋『雜話筆記』。大學を卒業した直後)について、何も知ることがなかつたが、一たび繙いて驚喜し、深く強齋の人物學問にうたれ、これより闇齋先生に注目するやうになつた。

一、闇齋先生は、佛教でいふならば、教祖に當る人物である。各宗の最初の人物は偉大な方が多いが、それは偉大な求道者であつたからであり、二代・三代になると固定してしまふ。闇齋先生は、一生絶えず道を求められたお方である。しかし門流も後になると、死んでしまふところがある(昭和五十六年四月二日)。

一、闇齋先生は、自分も浮世の人間で、道にあらざる夾雜物があることを自覺されてをり、純粹の自分をこれと峻別しておかねばならぬとされて、その純粹の自分を封ぜられたのが、埀加靈社であらう。事實、先生の晩年には、をかしいところがある。ご自身でそれを知つてをられた。人を見るには、夾雜物を除き本質を見るべきである。このことは、是非書いておかれたい(昭和五十六年七月四日)。

一、徳川家が用ひたのは林家と木門のみで、崎門を排除しようとしたのに、徳川の一門でありながら、それを生命を堵けて迎へられたのが、義公である。義公・烈公はにくまれ役で、徳川の主流からいへば、けしからんものと、憤慨やまなかつた。水戸藩内の問題が、始終そこから起つてゐる。幕末の天狗黨・書生黨の爭ひも、さうである。書生黨は幕府が後押ししてゐるので、藩ではこれを始末できない。大獄の時、グズヾヾいふならば、春嶽(松平慶永)と同じことにし、藩主を高松から持つてくるぞとおどした。高松は伊井の婿である。春嶽公が三十一で、あれだけの働きができたのは、下に人物がゐたとしても、自身が痩せても三十二萬石を持つてゐたからで、隱居させられたら、何もできなきなつてしまつた。そのやり方で、水戸をおどした。義公は、ともかくも生命を堵して、崎門を迎へられた。そのご恩を考へねばならない。徳川は林家と木門のみを近づけ、革命を斷行したかつた。それに反對するものは、その間でウロヽヽしてゐた。
 會津が先生の生涯に果した役割り――先生が先生になられるのは、晩年十年のことで、それまでは苦心して(道を)求められたのである。完成した先生をもつて、それ以前の先生を解釋すべきではない。‥‥(昭和五十七年二月二十一日)

一、闇齋先生は、初め會津藩を教化しようと努力されたが、どうにもならぬと離れられた。そこで會津藩は、獨自の動きをするやうになる。新撰組・京都守護職が、それである。さう見なければならない。それをボカしてゐるから、わからなくなる。水戸も初めから黄門だと思ふから、わからぬ。義公はえらい人なのでなく、悲慘なお方である。水戸にも、そのことを知つてをられた人がある。東湖先生である。『大日本史』で、北朝を認めないのは、高氏主權を認めないことであり、それは徳川を認めぬことに外ならない。荻生徂徠・室鳩巣は、慶長十八年を、建國元年とする。義公は、それを否定された。南朝正統を唱へる人は、みなその身を捨ててゐる(昭和五十七年四月十四日)。


●寒林平泉澄先生『近藤啓吾に與ふる書――闇齋先生と吉川惟足との異同』(昭和五十七年四月四日付)に曰く、「

 『君臣御合體の御契約を述べ玉へり。君臣御合體の道を御契約坐しませり』。右、御契約は、漢語漢字、それを國語國字に直せば、御誓ひであつて、それは君臣の關係が、武力又は利害によつて決定されたものではなく、道徳的に立てられたものであつて、君臣は一體であり、君道を失へば臣も苦しみ、臣道を失へば君も苦しみ、相互一體一心であつて、對立分裂はあり得ないことを、御誓ひ遊ばされた意味だと思ひます。

 次の『不徳の君を退けて、徳をえらびて君とす云々』は、孟子の思想によつての議論であつて、本來の神道ではありますまい。吉川神道には、不純な點があります。それを除かれたのが、山崎先生の埀加神道でせう」と。



●紹宇近藤啓吾先生『山田孺人の書す所の梅田雲濱先生夫妻の和歌に跋す』(『講學五十年』平成二年六月・先生古稀記念出版會發行に所收。もと漢文、私かに訓下すこと、次の如し。誤訓あるを懼る。なほ山田氏は、雲濱先生の兄の子、名は登美子刀自)に曰く、「

 諸葛孔明、政を爲して私無し。馬□[言+稷の右]、素より孔明の知る所と爲り、□[言+稷の右]、其の節度に違ひて敗るゝに及んで、流涕して之を斬る。方正學(愚案、明の建文帝の師)、正色□[勵の左]言、敢て燕□[木+隷の右](帝の叔父燕王――後の永樂帝)に屈せず、而ち親舊、皆な戮に就くを目して、覺えず涙下る。是を以て乃ち知る、義、愈々高うして、涙、益々多きを矣。

 雲濱先生、大義を首唱し、妻は病み兒は飢うるも、而れども顧みず。幽死するに及びて、其の常に携へる所の一小筐を開けば、亡き妻の神位を藏すと云ふ。嗚呼、大節に臨んで涙無きが如きは、涕涙の最も多き所以なるか歟。是の書、元と先師遠湖内田先生の祕藏に係る。癸未(昭和十八年)の冬、啓吾の戎に赴くに臨んで、□[貝+盡。はなむ]けして曰く、『行け矣。義を取り仁を爲すの秋なり』と。相ひ與に悽然、涙を呑んで、遂に永訣と爲す矣。噫。

○岡彪邨先生の曰く、『是れ、豈に文人の文ならんや哉』と」と。


●紹宇近藤啓吾先生『「梅田雲濱遺稿竝びに傳」の後に書す』(『講學五十年』に所收。もと漢文、私かに訓下すこと、次の如し。誤訓あるを懼る。なほ此の『遺稿竝傳』は、青木晦藏・佐伯仲藏同輯・昭和四年十月・有朋堂書店刊なり)に曰く、「

 人とは、人倫也。臣爲るの義を窮め、子爲るの分を審かにし、以て知り以て行ひ、自ら靖んじ自ら獻ず、是れのみ而已矣。雲濱梅田先生は、彝倫滅び戎夷逼るの秋に當つて、帷を下し義を唱へ、東奔西走、妻は病み兒は飢うるも、而れども顧みず、遂に命を囹圄に殞す。其の心は、唯だ至尊有るを知つて、我が躬有るを知らざる也。眞に人爲るの道を知る者と謂ひつ可し矣。

 蓋し先生の忠義は、天性に出づと雖も、講學、素有るに非ざるよりは、焉んぞ能く此に至らむ。絅齋淺見子の曰く、『學ばずんば、大義を辨ずること能はず、英氣志義、用ふる所を知らざる也』と。先生は、實に其の學を傳へて、其の道に殉ずる也。

 夫れ學とは、人爲るの道を學ぶのみ耳。人爲るの道を學ぶとは、道を敬はざる可からず。道を敬ふとは、古人を尚ばざる可からず。古人を尚ぶとは、古人の心を以て心と爲し、古人の辛苦を以て自ら期さゞる可からず。是れ我れ常に先生に學ぶ所ろ也。

 癸未(昭和十八年)の冬、先師遠湖内田先生、賜ふに是の書を以てす。先生も亦た淺見子の學を繼ぎ、特に雲濱先生に私淑せらる者、其の啓吾に期する所、以て知る可し矣。爾來、三周年、世變り俗移り、君を無みし父を無みするの説、日に起り、人、將に相率ゐて禽獸に陷らんとす。講學明倫、今日より急なるは莫し。先生、世を即(おは)りて一期なり。噫、吾れ誰にか適歸せん。丙戊(昭和二十一年)二月、近藤啓吾、謹んで識す。

○岡彪邨先生の曰く、『國の衰ふる、憂ふ可し。講學の衰ふる、尤も憂ふ可し。是の文、克く此の意を言ふ』と」と。


●紹宇近藤啓吾先生『悶を遣る』(昭和二十年九月)

國破れて、山河、空しく秋色、
泉聲、嗚咽、餘惻を帶ぶ、
憂來、高唱す、正氣の歌、
遊子の衣上、涙、拭ひ難し、
憶ふ、昨、□[足+勇]躍、筆を投ずるの時、
一劍、直ちに九夷を掃はんと欲す、
芙蓉峯下、旌旆を仰ぎ、
鈴鹿河畔、驅馳を習ふ、
炎日、箒を運らして、峻險を攀ぢ、
霜夜、戈を枕にして、酸慘を凌ぐ、
晨昏、切磋、戰友有り、
生死、相許して、肝膽を披く、
海風、猟々として、宗谷寒し、
壯士の一去、豈に還るを期せんや、
特攻、決死、氣、軒昂、
慷慨、淋漓、關山を呑む、
忽ち驚く、大詔の、天より降るを、
音玉の哀痛、神、猶ほ悸す、
能く耐へ難きに耐へ、忍び難きを忍べ、
朕は爾(なんぢ)と在り、爾、意を體せよ、
我が生、廿五、何事を成す、
東海に赴かんと欲するも、亦た不忠、
嗚呼、東海に赴かんと欲するも、赴き得ず、
生死、孰れか是なる、吾が道、窮す、
心折す、晦庵(朱子)□[言+黨]議の序、
口誦す、疊山(謝枋得)却聘の語、
利達、功名、誰か復た論ぜん、
丈夫、重んずる所は、出處に在り、
君見ずや、春秋一編、凛其の筆、
今に至るまで、亂賊、膽、摧□[足+卒]す、
又た見ずや、趙宋の社稷、二百年、
胡公の一封に、奸檜、慄る、
便ち知る、爲政は、正名を先にするを、
誓つて斯の道を振つて、聖明に答へん。

  • [21]
  • 講學とは、自からに磨くこと也。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月 7日(土)20時36分50秒
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●紹宇近藤啓吾先生『講學五十年』(平成二年六月・先生古稀記念出版會發行)に曰く、「

 自題・序に代へて

學といふ この一筋に 身を碎き 骨を削りて 五十年(いほとせ)を經し
なせること かつかつにして 老いの身は さきの旅路の いそがるゝかな

○「講學」とは、學問を人に講義するとではない。みづからに磨くことである。講の字義は、習ふであり、明らかにするであつて、人に説くといふは、その一面に過ぎない。『禮記』禮運篇に、「學を講じて、以て之を□[誄の右+辰+寸。くさぎ]る」とあり、鄭玄これに註して、「是を存し、非類を去る」といつてゐる。これが本義である。講學五十年、私はさらにこれを續ける決意である」と。


●紹宇近藤啓吾先生『紹宇存稿の序』に曰く、「

○擱筆述懷

六十年(むそとせ)の 學びの跡の かずかずが 胸に去(ゆ)き來す 筆を終ふれば
もし生きて 還る日あらば 我が學を 繼ぎてくれよと 師はいひたまふ

○昭和十八年に入り、戰局いよいよ激しく、國運、極めて迫り、同年十二月、遂に筆を投じて軍に入る。越えて翌十九年十月、北邊の戍に赴かんとし、途次、内田遠湖翁を訪ひて奉別す。翁、嘱するに右を以てせらる。「我が學」といふは、山崎闇齋・淺見絅齋・若林強齋と繼承せられ、翁に至りし、崎門程朱の學なり。

生きてまた まゐる日あらじと 振りかへり 振りかへりつつ 門を離れぬ
師の大人の みまかりにきと 聞きし夜の 營舍の外は 雪深かりき

○昭和十九年十二月二十三日、翁、易簀せらる。時に我れ、札幌の隊にあり。

み戰さゆ 敗れて還り かなしみの うちに我がゆく 道を定めき
風よ吹け 嵐よ來たれ 獨り往く 我れが決意(こころ)に 迷ひはあらず

○敗戰後、崎門埀加の學は、軍國主義の源泉、超國家主義思想なりとして危險視され、嘗てこれを高唱して得々たりしものも、その口をつぐみて知らざるの貌をなし、なかには却つて罵詈、已まざるあるに至れり。我れ昂然としてそのうちを獨歩し、迷ふことなく恐るることを知らざるなり。

山も越え、谿も渉りぬ 一筋の 學びの道は 峻(さが)しかりしが
目指しゆく 旅のはたては なほ遠く いつしか我れも 年老いにけり
六十年の 重きに耐へて やうやくに 大人のさとしの かなしきを知る
守り來し 學の光を いや遠に 受け繼ぐ若き まなび夫もがな

 平成十年八月十日」と。


【漢詩抄】

○闇齋先生祭典に、初めて内田遠湖先生に謁す(昭和十七年)。
紅楓、黄菊、皇城に滿つ、
今夕、拜芝して、無限の情、
白首、未だ抛たず、憂國の念、
丹心、猶ほ見る、向葵の誠、
敢へて論ぜんや、窮困と榮達を、
懇ろに説く、知言と力行と、
吾れ亦た崎門學徒の末、
誓つて大義を興して、蒼生を濟はん。

○感懷(昭和十七年)。
道學、沈淪して、已に幾年、
世儒、徒らに誦す、鄭・何の篇、
誰れか倫理を興して、前聖を承くる、
獨り西銘に對して、意、慨然。
[遠湖翁、書して曰く、紹宇と號す、何如。紹字、前聖を承くの意を含む、と]

○遠湖先生を悼す。啓、從軍して札幌に在り(昭和十九年)。
人生、知己、少(まれ)なり、
今夕、又た誰れにか憑らん、
經術、千秋の志、
文章、一代の姿、
立言、道義を明らかにし、
極力、皇基を護る、
悲悼、豈に敢へて哭せんや、
心中に、我が師を存す。

○詠史(昭和二十一年)。
綸言、征西を宣す、
是非、復た説かじ、
□[糸+遣]□[糸+卷]として、鳳城を辭し、
心に誓ふ、臣節に殉ずるを、
典刑、千古に傳へ、
楠種、遂に滅びず、
乃ち崎門の學と爲り、
靖獻、口舌を爛す、
乃ち水府の史と爲り、
直筆、霜雪より□[勵の左。はげ]し、
或は講孟の記と爲り、
□[口の中+環の右]牆に忠烈を吐く、
或は天誅の魁と爲り、
南山、盡く碧血、
尚友、古今を思ひ、
坐ろに覺ゆ、肝肺の熱するを、
哲人、何ぞ辛酸、
皇綱、補綴を得たり、
正誼と推誠と、
豈に成敗を以て決せんや、
請ふ看よ、朝暉の裏(うち)、
櫻花、自から高潔。

○八月十五日、感有り(昭和四十二年)。
夜雨、蕭條として、燈影、微なり、
寸心、頻りに歎く、世情の非、
苟くも大節に臨んでは、何ぞ疑懼せん、
直ちに長刀を把りて、禁□[門+偉の右。宮城]に馳せん。

○偶感(昭和四十二年)
江湖に漂泊すること二十年、
山川、到る處、意、悽然、
謝安の偉業、空しく相逐ふ、
却つて慰む、陸游の詩一編。


【歌抄】

○事にふれての思ひ(昭和五十三年)。
山かひの ひるのしじまの ただなかに ひとり佇む 心地こそして


○『山崎闇齋の研究』に題す(昭和六十一年)。
八重むぐら 茂り茂りて 埀加(しでます)の 大人の正道 知る人もなし
樹繁くば 伐りて拂はむ 岩あらば うちて碎かむ 道ありてこそ

○天皇崩御したまう(昭和六十三年)。
たまきはる いのちのかぎり 叫ばむと あがる思ひを かつかつ鎭む
地(つち)に伏し 天に祈りて この君の ために死なむと いくたびかせし
天地の 開けしままの 大いなる 國の光を 守らせたまへ
海萬里 ふか夜に浮ぶ 捨舟の 行方知られぬ 我が思ひかな
戰ひに 敗れしのちの 苦しみに 堪へし心を 忘れじと思ふ

○『續々山崎闇齋の研究』の序に代へて(平成六年三月)。
三百年(みももとせ) 遠きにませど 師の大人の くつの御音は さやかにきこゆ
面影は うつつにませど 御あとを 追はんとすれば 足のゆかなくに
もものこと みな抛ちて つとめ來し この一筋の 吾が思ひかな
筆とりし ままに死なむも さだめとぞ 思ひてけさの 机に向ふ
書き直し 書き加へつつ やうやくに 筆ををふれば 涙流るる
續々の 卷かきをへぬ わがいのち 七十あまり 四歳の春

○『小野鶴山の研究』の序に代へて(平成十三年六月)。
この人を 書き殘しては 我が目指す 望楠軒史の 筆は終らず
六十年の おこたりを恥ぢ ひといきに この人のゆきし あとをたづねき
この稿(ふみ)を 成せば久しく 重かりし 心のかせを 解き放ち得む
わがいのち つづくかぎりは つとめむと ただひたすらに 筆を進めき
書き上げし そのやすらぎに ひととせを ついそのままに 放ちてありき
校正は みづから遂げよ 然らずば 筆執りしものの 責めは果せじ
妻のいふ その一言に 勵まされ この公刊を こころにきめぬ
師の大人の 教へたがへじと 老いを忘れ 力の限り 書(ふみ)を説かれき
近思録 中庸・孟子 また書經 その講説に 何をかいへる
その言(こと)は 古へをよく 説きながら 眼は強く 今を見据ゑぬ
今の世に 深き憂ひを 抱きつつ あすのみくにに 光を思ふ
埋もれて 久しくなりぬ この人も この人の説きし この書のことも
富士の嶺に 積りし雪は いくそ年(とせ) かくれて後に 地に湧くといふ

○『「春秋胡氏傳」を讀む』の序(平成十五年二月)。
若き日に 讀みし左氏傳は たのしかりき 老いて讀む胡氏傳は 條々胸に苦し

  • [20]
  • 紹述の學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月 6日(金)21時13分25秒
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●山口春水翁『強齋先生雜話筆記』(岡彪邨翁『強齋先生雜話筆記』卷二に所收)に曰く、「

 (強齋先生の曰く、)扨て表向きで云はれたことではなく、心安い此の方などに打ちよりた時のはなしに、『自分(絅齋先生)が學問と云へば、嘉右衞門殿(闇齋先生)の落穗をひろうて、其の説を取失はぬ樣にするより上のことはなし。徳行とては、皆が知られた通り、如斯からとうした者なり。何一つ取る所はないが、只だ出處の一事に於ては、生涯、毫末も恥かしい事はない』とあることにて候ふ。是はかるいことではない。一生の守りとすべきこと。其の時から、うかとはきかなんだことにて候ふが、そこは立ておほせられたと云ふは、絅齋を論ずる言には不相應なことにて候ふが、性質も得所なり、學術も至らるゝからこそ、一事はみがけ切つたことにて候ふ。

 扨て總體の氣象が、只だ豪邁な、至つて氣象が強い生れ付きで、氣類で云へば、(程)明道の『春風』に座了するかゝりでなく、伊川の『堂前、雪數尺』と云ふ樣な、嚴勵な氣象にて候ふ。されば自分などが、年久しく就いてゐて、隨分自慢に思つて、味やつたと思ふことでも、つひにほつこりと許可せられたり、褒美せられたことは、一度も之れ無く候ふ。つんと黒星へいつたときが、一通りきこえたの、さうも有らうのと、ある位のことにて候ふ。徳のほどは、此の方がはからるゝことではなし。何は兎もあれ、學術に於ては、天地に建てゝたがはず、鬼神に質して疑ひなく候ふ。それで學の旨味を覺えた者の分は、どうもはなれらるゝことでは之れ無く候ふ」と。



●紹宇近藤啓吾先生『拾穗書屋の記』(『紹宇存稿』平成十二年六月・國書刊行會刊の「あとがき」に所收)に曰く、「

「紹宇」と號する所以

 余(紹宇先生)、弱冠たりし日、國運、日々に非なるによりて、決死、殉國を覺悟し、淺見絅齋先生、靖獻の教へを慕ひて、崎門程朱の學を修むることに志し、遠湖内田先生の門に入る。先生、その志を嘉みせられ、『紹前啓後』の語を書して賜はり、かつ「紹宇」の號を授けらる。いはく、『汝、程朱を紹ぎ、闇齋先生を紹ぎ、この内田周平を紹ぐべし』と。その言、悲壯、今に耳に在りて忘れず。後、先生のこの言に本づきて、茅齋を「拾穗書屋」と命じ、その記を作る。その文、稚拙、見るに足るなしと雖も、その意は、曾て變ることなし。故に同記を左に掲げて、號「紹宇」の由來を敍し、併せて本書にその名を冠したる所以を明らかにすと云ふ。

拾穗書屋の記(もと漢文、私かに訓下すこと、次の如し。誤訓あるを懼る)

 淺見絅齋先生、自ら信ずること最も篤し。漫りに人を許可せず。然して嘗て曰く、『予の此の學に於ける、□[艸+巛+田]□[余+田]耕獲の功有るに非ず、只だ埀加(山崎闇齋先生)の遺穗を拾ふのみ而已』と。啓吾、其の語を誦する毎とに、未だ嘗て先生講學の深く且つ切なるを嗟嘆欽仰せずんばあらざる也。

 夫れ人の人爲るは、道を知るを以てのみ而已。君臣の義有る、華夷の辨有る、父子・夫婦・長幼・朋友の間も、亦た自ら親・別・序・信有り。是れ當然の道にして、人の共に由る所ろ也。苟くも此の道を聞かば、則ち富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず、嚴然として天地の間に立つを得可し矣。若し夫れ聞かざれば焉、則ち絲を衣ひ梁を食むと雖も、草木蟲魚と等しきのみ耳。

 一身、何に由りて修め、一家、何に由りて齊へ、一國、何に由りて治め、天下、何に由りて平かならんや耶。『(禮記の)學記』に曰く、『凡そ學の道は、師を嚴にすることを難しと爲す。師、嚴にして、然る後に道、尊し。道、尊くして、然る後に民、學を敬するを知る』と。夫れ師とは、道を傳ふる所以ん也。道を講ぜんと欲する者は、師を嚴にするを以て本と爲す。師を嚴にする者は、師の志す所を以て、吾が志と爲し、決して私見を立つ可からざる也。故に古人の師に事ふるや也、唯だ其の在る所、則ち死を致す。或は心喪すること三年、亦た君父に事ふるが如し矣。是れ夫の自由と曰ひ、平等と曰ひ、尊大、自ら居り、師を侮り道を蔑り、遂に人倫を無みするに至る者と、豈に絲毫の相似たること有らんや乎。

 遠湖先生は、我が師也。一日、戒めを埀れて曰く、『汝、當に程朱を紹ぎ、山崎闇齋先生を紹ぎ、此の内田周平を紹ぐべし矣』と。因て號「紹宇」を賜はり、且つ「紹前啓後」の四字を書して惠せらる。啓吾不敏、奚ぞ前哲を紹述し、後俊を啓迪するに足らんや乎。然れども古人の書を讀み、古人の道を尚ぶ。故に古人の志を紹ぐは、則ち竊かに自ら期する所ろ也。嗚呼、先生、逝いて已に三歳、復た道を問ふ可からず。乃ち絅齋先生「拾穗」の語を采り、我が廬に名づけ、以て我が志を勵ます也。是が記を爲る。

 昭和(二十二年)丁亥一月十日、近藤啓吾、識す。

○岡彪邨先生の曰く、『論旨、太だ好し。請ふ、更に之に勉めよ』と。

○佐伯篁溪翁の曰く、『紹述啓迪、先師の期する所に負むくこと勿れ。切望、切望』と。

○川田雪山翁の曰く、『立意、正大、措辭、謹言。事の人と吻合して離れず、人の文と亦た能く一致す。佳構と謂ふ可し』と」と。



 愚案、紹宇近藤先生、遠湖内田先生より、「紹宇」の號を授けらる。始め「齋」とせんとせられしも、現代の大御代、「宇」の方が宜しからんとの由、紹宇先生よりの直話なり。

 紹宇先生は、闇齋先生を慕つて已まず、之を叩かんと欲して能はず。故に絅齋先生を究め、強齋先生を明かにして、遂に闇齋先生に迫らんと努力せられたり。講學六十年、其の學風は、嚴にして温、泣いて後學を導きたまへり。

 『崎門三先生の學問』は、最近の出版にして、專門家に非ざる人々に、三先生の學問思想を知つていたゞきたいとの意に出づ。恐らくは、最後の日本の儒者とも謂ふべき紹宇先生の書、有縁の御方には、是非とも繙いて戴きたい。

  • [19]
  • 寒林平泉澄先生遺事拾遺二題。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月 5日(木)23時12分7秒
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●山口春水翁『強齋先生雜話續録』一(『強齋先生雜話筆記』卷三に所收)に曰く、「

 一日、先生仰せらるゝは、『全體、手前(強齋先生)、學問、とても人の世話をやくほどの力なく、淺間敷き事なり。徳行の儀は、猶更ら看らるゝ通り、不埒なる事也。然るに若き者、「先生」、「先生」と云つて、崇敬にあづかる事、手前に在つて不相應なる事なり。其の崇敬せらるゝに就いては、心術・氣象、ともに惡くなり、手前の爲め、甚だ宜しからぬ事と存ずるにつき、此の間も、總々へ斷りを云ふ。向後「先生」と稱せらるゝこと、止めて給はれと、斷りを申したる事也。夫れに付き、懺悔の歌を詠みたる也。
日々にひゞわれ音の聞ゆるは 我と我が手にわるゝ茶碗ぞ
是非もなき事也。』
と仰せらるゝ。此の趣は、熊河に遣はされ候ふ御書中にも、仰せ下さる。學者、省察す可き事也」と。



●紹宇近藤啓吾先生『紹宇存稿――埀加者の思ひ』(平成十二年六月・國書刊行會刊)の『若林強齋先生「自首」文を拜讀して』に曰く、「

 この文(若林強齋先生『自首』文--敢て省略。原文は『紹宇存稿』に在り)は、「若林強齋先生『自首』文――解説」と題して、昭和五十年一月二十二日に執筆したものであり、それは二百字詰原稿用紙にて二十一枚であつた旨が、當日の日記に記されてゐる。私は折しも『若林強齋先生の研究』執筆中であり、右はその一章とすべく書いたものであつた。越えて二十七日、私は熱海ホテルに避寒のため御滯在中であつた平泉澄先生に、『自首』文の原本とこの解説とを持參したことであつたが、先生は熟視せられた後、
『原本もこの文も、公表することは、強齋先生の人となりについて誤解を與へる恐れがあるので、取扱ひに愼重が必要です。妄りに世に示すことがないことを頼みます。』
との御注意かあつた。因つて直接に『自首』文に觸れずに、その精神を踏まへて書き直したものが、『若林強齋先生の研究』の「易簀」・「神道への沈潛」兩章であつた。

 そして二月十日、また先生を御たづねした際には、先生は強齋先生の晩年のことを話題にされて、
『闇齋先生の晩年が、丁度同じでせう。強齋先生の晩年も、隨分お寂しかつたと思ひます。誰れでも、さういふものだと思ひます。』
と、感慨を洩らされ、
『この文のこと、家族にも話しました。人は先生と呼ばれると、つひ、自分が偉いもののやうな錯覺に陷つてしまふもので、深い教へをいただきました。
とも語られた。


●紹宇近藤啓吾先生『崎門三先生の學問』(平成十八年五月・皇學舘大學出版部刊)の『山崎闇齋先生「自贊」』に曰く、「

 (平泉)先生は、御尊父恰合翁(越前白山神社宮司)の思ひ出として、「父のごとき、眞劍に至誠をもつて祝詞を奏上した人を見たことがありません」といはれたことであつたが、また明治四十五年七月(この年、先生十八歳)、郡長杏(きよう)百太郎翁が、白山神社の神前に於いて、明治天皇の御病氣御平癒を祈願せられる姿を見、その姿の嚴肅なる、至誠、天地を動かさんとするとの深い感動を覺えたと語られたことでもあつた。「祈祷を以て先と爲し、正直を以て本と爲す」の事實を、先生は、その少青年の日に實見せられたことであつて、この感動は、更に『神皇正統記』を繙くに及んで一段と深くなり、後、『雜話筆記』により、強齋先生の御姿を知られるに及んで、それが具體的な思ひとなられたのである。

 これ、平泉先生が、後の平泉先生に成長される淵源である。先生の人格思想は、この事實によつて目覺められ、その後のみづからの祈りと祓ひの明け暮れによつて大成されたのである。平泉先生を傳するに、この國事に奔走された壯絶の姿のみに注目し、その奥底に存するこの祈りと自己との鬪ひ(即ち祓除)の苦しさをいはざるものは、眞の先生を畫くものとすることができない。

 私は、嘗て先生より親しく、
私の性格は弱いことですが、先哲の教へを仰ぐことによつて勇氣を與へられ、事に臨んで恐れずに進むことができるのです。
と、平常の御努力についてうかがつたことであるが、また、
神樣は、必ずおいでになるもので、命がけで祈願するならば、必ずそれを照覽下さることである。
ともうかがつたことでありまし」たと。

  • [18]
  • 學術は、素戔鳴尊に始る、全く『辛苦』の二字にあり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年11月 1日(日)16時41分20秒
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┌─────────────────────┐

│【『日本書紀』寳鏡開始章・一書第三】

│是を以て風雨甚だしと雖も、留り休むことを得ず、

辛苦みつゝ降りき矣。

└─────────────────────┘



●玉木葦齋翁『神代卷藻鹽草』に曰く、「

 『風雨甚だし』は、天地神明の汚穢不淨を拂ひ清め給ふの嚴なる、以て見るべし。『辛苦』は、凡て心を用ゐることを「たしなむ」と云ふ。其の事に辛苦する故ゑ也。蓋し「足嘗」の義、一説に「手足惱む」の略語と云へり。此の如く艱辛勞苦し給ひながら、根の國へ流離(さすら)へ降り給ふに懲らせ給ひ、荒金の暴惡の氣象も變化し、終ひに土金練熟して、敬(つゝしみ)の神徳に歸し給へる者は、是れ則ち祓への徳たる所也。素尊、莫大の功業は、皆、此の辛苦よりして成し出だし給へり。志あらん人は、辛苦の字を深く味はひ、備(つぶ)さに嘗め給ふべし」と。


●振々靈社谷川淡齋(士清)翁『日本書紀通證』寳鏡開始章「是を以て風雨甚だしと雖も、留り休むことを得ず、辛苦みつゝ降りき矣の條」に曰く、「

 玉木(葦齋)翁曰く、「『辛苦』は、蓋し日足嘗の義。凡そ心を用ふる、之をたしなむと謂ふ。其の事に因りて辛苦するの故ゑ也。素尊、根の國に逐ひ降され、流離顛沛の間、此の艱辛勞苦に遭ひ、荒金の質、變化功熟して、終ひに聖敬の域に歸する者、豈に是れ祓除の功效に非ずや耶。道に志す者、宜しく深味すべし」と。

 今ま按ずるに、學術の要は、唯だ此の二字(辛苦)を貴しと爲す矣。其れ神聖の教へは、土金の功に在り。而して其の躬に行ひ心に得る所以の者は、實に辛苦の二字に在り。又た祓除の功と相ひ發す。故に『中臣祓』は、素尊の故事を擧げて、遂に功を速佐須良姫に歸す。則ち吾道の歸宿、神聖の心法、亦た以て默識す可し矣。蓋し素尊荒金の性、日に鍛へ月に錬り、終に莫大の功徳を成し得る者は、皆な此によりて出づ。夫れ辛苦困難、備さに之を嘗めずんば、則ち清清の地、豈に其れ期す可けんや哉。徳性を養ひ氣質を變ずる、是に於てか乎、以て法と爲す可し矣。故に曰く、學術の要は、唯だ此の二字を貴しと爲す矣、と。學者、尤も宜しく服膺すべし」と。


●渾成靈社松岡雄淵翁『松岡渾成翁・神代卷講義』(『強齋先生雜話筆記』卷十二に所收)に曰く、「

 強齋先生の説に、此の辛苦の二字が、學術第一の文字、人は艱難辛苦せねば、道に至ること難し。神代に學問の事は見えねども、素尊が學術の始めぢやと示された。難有い示しぞ」と。



 愚案、『朱子行状』に曰く、「(朱)先生、疾みて且に革まらんとす。‥‥翌旦、門人の疾に侍する者、教へを請ふ。先生の曰く、『堅苦せよ』と。『温公喪禮』を問ふ。『粗略なり』と。『儀禮』を問ふ。之に頷く。已にして正座し、冠衣を整へ、枕に就いて逝く」と。

 強齋先生が辛苦せよと云はるゝ時は、先生の腦裏には、かつて朱子が堅苦せよとの遺言が去來したことであらう。こゝにも神儒の妙契一致を見ることが出來る。「堅苦」・「辛苦」の學問の果て、其の目的地には、「清々し」の境地に至ること、神素戔鳴大神の明示し給へる所である。大神の實證せらるゝ所に神習うて、何時、如何なる時代に在つても、當然當爲の學を奉ずるてふ事は、艱難の道を蹈むと云ふ事を覺悟しなければならぬ。懦弱であつては、祓ひは能はず矣、學も學たらず矣、畢竟、魑魅の玩ぶ所に終ること、火を覩るよりも炳かなり。



●若林強齋先生『中臣祓講義』(享保十五年十二月。一齋澤田重淵翁筆記。『強齋先生雜話筆記』卷七に所收)に曰く、「

 天地神明の御靈をうけて、潔白清淨に生れて居る人の身が、汚れて天地の間にはさまり、日月の光を戴いてをると云ふことは、どうも安んぜぬこと、面々省りみる可きことなり。人の御靈をそこなはず、天下の法令に背かず、神明の冥慮に愧ぢざるやうにする法は、頼む所、唯だ此の祓にあり。こゝに力を用ひて、功夫とも受用とも云ふぞ。‥‥一身の神靈、清明になりて、造化と共に流行し、天人一體の極致に至るは、全く此の祓にあり。頼もしきことにあらずや。‥‥

 『高天の原』は、天子の御座所を申し奉る。『神代卷』に、「高天原に生れませる神、名づけて天御中主尊と曰ふ」とあるは、蒼天を指す。上樣は、すぐに天地の主宰、神明の御血脈にてましますゆゑ、すぐに高天原と、御座所を申し奉るぞ。此の時の都は、大倭の高市郡を指して云ふ。神皇一體と申し奉りて、上樣は、よのつねの人種でない。天地ひらくるなりに天地の主宰、國常立尊より御血脈一貫なさせられて、上樣が神樣なり、神樣が上樣にて、まします處は高天原にきつと留まらせられて、上古も今も同じこと。神道は、只この上に、屹度神樣の留まらせられ、天下に臨御ましますと云ふことを忘れぬことなり。天地も、あなた(上樣、即ち天皇陛下)のござなさるればこそ、天の行度もかはらず、地も常磐堅磐に動かず、萬物も生々して、其の性も變ぜず、面々も、寒いめもひだるいめもせず、斯樣に埴生の小屋までもかまへてをる、皆、あなた(上樣)の屹と留まらせられて御座成さる御蔭の下にたつゆゑぞ。第一番にかく名乘るが深き旨あることで、始終にかうむるぞ。猶ほ口訣(口傳密訣)ある御事となり。‥‥

 『種種』は、いろゝゝさまゞゝの罪、即ち下の段々なり。其の罪を其のぶんにさしおいては、帝王の政は行はれず、天地神明はにくゝゝしうおぼしめす故ゑ、おのづから氣運も順になし、風雨も時を失ひ、五穀も熟さず、種々の災患があるはず。さるによりて、是をさつぱりと、どこにのこる所なく、政に病むこともなければ、神明にはづることもない樣に、根から葉から祓ひ清めねば、政の根本は立たぬ。天下の人民も、罪科あるを蔽ひ隱して、罪ない顔をしてからが、實に罪があらば、なんとせう。天下のしおきにそむき、神明の冥慮にみかぎられては、一旦、陳じてよしなにしてゐてからが、なんの詮ないこと。刑罰をまぬがれても、實に天地神明の冥罰を蒙れば、天地無窮の間、其の罪のがるべからずして、禍を子孫に□[貝+台。のこ]す。實に畏る可き事也。しかれば自ら犯過罪科を、一點毛頭、蔽ひ隱すことなく、明白に申し出づるでなうては、どこまでも迯れられぬにきはまりたることぞ。自ら罪を申して出づるを、天下の法令にも自首と云つて、其の罪を輕くし給ふ御事なれば、天地神明の御心も、やはらがせらるゝはず。今までの犯し過つたこそ憎くけれ、悔いて首刎ねられようが、磔にあがらうが、自首する所は不便千萬なること、首刎ねられても、明白に自首して死すれば、冥慮にはづることなければ、天下の法を欺くことがないゆゑ、吾にありても心よいことぞ。祓の用は、全くこゝにあることで、祭政一理の實事也。‥‥

 『天津祝詞の太諄辭』を以て宣るなり、すつぺりぽんと皮剥いで、贖物(あがなひもの)を出し、罪をあらはし、今までの罪咎をゆるさせ給へと、餘事餘念なう、純一無雜に、天神地祇に申し上ぐるが、天津祝詞の太諄辭ぞ。神皇一體ゆゑ、皇にさへ自首すればすむでない。君にも神にも申し上ぐること。‥‥天津祝詞の太諄辭には、祕訣あり。底心つくして、安排布置なく、赤子の樣な心になりて申さねば、御聞き屆けはないことぞ。こゝがきはめて大事。今まで犯し過つた罪咎は、せうことがない。自首して蔽ひ隱さず、贖物を出し、つんと吾が誠の至り、底心から、神皇に御斷り申し上げ、御聞き屆けあらう、あるまいは、あなた次第、そこは此方の思慮にないこと、唯だ一心不亂になげき切つて申し上ぐるより外はないぞ。一旦祓つて、再犯する樣なことでは、却つて神を涜し慢ると云ふもの。とんと祓ひ清めて、格別な人間に生れかはるが、祓の徳ぞ。政の上でも、これなり。下、面々の上でも、これぞ。‥‥

 たゞ祓は、「佐久那太理に落ち瀧津速川の」と云ふ氣象でなうてはならぬ。祓ふ場處も、祓ふ氣象も、此の意を得るやうにせよ。うぢついたことでは、拂はれぬ。急湍・飛流・白瀧のやうな氣象で打ち拂ひて、瀬織津姫の感應ましゝゝて、□[木+意]原を流して下さるゝぞ。諾尊の□[木+意]原の祓除(はらへ)も、無念無想に水に飛び込ませられ、縱横十文字、身心一致に祓清めさせられた處で、八十曲津日・神直日・大直日、心化し給ひ、天日と一致にならせられたるを、總じて祓は、日を目當てにして、天日の如き心になるまでゞなうては、祓にならぬ。それまで祓ふ氣象が、ぬらりとしたことでは、祓つても、なんでもないぞ。白瀧のやうな氣象で、天日と一致の心になるに至るも、庶幾せられたものぞ。‥‥拂へ申し清め申すと、くりかへしゝゝゝゝゝ祓ひ清むるが、もうよいと云はぬ合點。かう拂うたからは、もう罪咎はないと安んじては、再犯になる。

 面々御蔭の露にうるほうて、日月を戴き、五穀を食つて居るからは、心に覺えあるきたなき所をさしおいては、須臾も身のおき處はない。身心、潔白清淨に祓ひ清め、四神感應まします樣にあれば格別、此の身を生み直したやうなもの。これでこそ本法の吾が國の人間で、かうなれとの冥慮なり、御しおきなり。故にめんゝゝかへりみるべき所、力を用ふべき所ぞ。いつまで學んでも、此の合點ないは、却つて神明を涜し慢ると云ふもの、冥罰、恐る可きこと也」と。


●若林強齋先生『祓除』(享保八年癸卯七月二十九日。『強齋先生遺艸』卷一)に曰く、「

私欲に黒づむ無く、私意に窄まる無し。
神明之舍、此の二を拂ふことを要す。


●山口春水翁『強齋先生雜話續録』三(『強齋先生雜話筆記』卷五に所收)に曰く、「

 (強齋)先生、御晩年、自脩克己の御工夫、殊の外、精神を勵まされ、數々瀧津亭に御越し、御逗留も之れ有り。黒煙を立てゝの御工夫、誠に感じ奉る御事也。瀧津亭に御越しのこと、聊か燕息山水を玩ばるゝ爲にて之れ無く、專一に御工夫、之れ有り度き爲の事也」と。


●若林強齋先生『瀧津亭記』(『強齋先生遺艸』卷四)に曰く、「

 瀧津亭は、さざ波の志賀錦織といふ所にあり。東は湖水にのぞみ、西は宇佐山[翠微に八幡の社あり。いづれの代、いづれの人の勸請といふ事を、つまびらかにせず。ところの人は、源の頼義の勸請なりといへり]をおひ、柳川の水上ほそくわかれ來りて、亭のほとりを帶のごとくながれめぐれり。もとは三尾某といふ人のすめる所にて、住老いたるいほりの柱も朽ち、軒もかたぶき侍れど、月花に心をよせしおもむき、猶のこりて、いとどおかしく侍る。やつがれ、やまひをうれひ、閑居を湖山の間にもとむる久し。去年の冬、はじめてこれをかり得て、ひそかに瀧津と名づけ侍る。こころは、かたじけなくも、つねに瀧津の御號をいただき、櫻谷瀬織津姫を遙かに拜みたてまつりて、もはらに祓を修せむ事を欲りしてなり。

 そもそも心身の罪咎をはらひきよめて、かの『清々之』(すがゝゞし)のさかひにいたらむ事、まことにおのれが心の八十曲りにまがれるをさとりなげきて、ただちにさくなだりに落ち瀧津のはげしき心ざしをふるひたてて、祓ひ清むるにあらざれば、その根をぬき、その源をさらへる事をえがたうして、たやすく再犯なりやすし。ここをもて、かく名づけて侍りて、つねづねこの名にかへり見て、このちからをえむことも、まだ冥加をいのりたてまつらむがためなり。或は瀧もなうして瀧津といふは、名のみにして實なしといぶかる人も侍れど、伊勢祓の歌に、『はらひつる ここも高天の 原なれば はらひすつるも あら磯の波』とよめるによりて、考へ侍れば、はらひきよむるこころのはげしきこと、まことに瀧津瀬のごとくならば、かならず外をからずとも、いづれの所にても瀧津となることわりあり。況んや柳川のかわせぜ落ち來りて、きよきひびきのたえざるあるをや。

 こゝもまた いかで瀧津と ならざらむ
 はらふこころの さくなだりならば

享保(十六年)辛亥正月十五日、守中謹記」と。

  • [17]
  • 道の興廢、實に人に在り。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月30日(金)00時32分46秒
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●五鰭靈社・葦齋玉木兵庫橘正英翁『玉籤集』(極祕の三傳「劍玉誓約之傳」・「三種神寶之傳」・「神籬磐境之傳」は、之を闕く也。此の三傳は、蓋し『自從抄』なるべしとは、谷省吾翁の考證)の「神籬磐境極祕中之口訣」(埀加靈社傳)に曰く、「

 扨て神籬の大事とは、高皇産靈尊、皇子孫を守護し給ふ事、御生世の御時と少しも易り給はず、皇居朝廷を起樹て、高皇産靈尊の御神靈を、皇子孫の御同殿に永く留めて、皇統守護の爲に齋ひ祭り給ふ也。‥‥

 神籬・磐境の、畢竟、約る處は、神籬は日守(義は天御蔭・日御蔭に隱り坐す)也。磐境は日守の心の、磐石の如く、凝り固りたるなり。凡そ日本國に生を受る者、氣化の最初より、二尊及び皇天二祖の臣民にして、御恩頼を蒙り、今日に其の血脈を相續し、身體髮膚、皆な大君の物なれば、皇天二祖の勅りを守り、(内侍所の石の苔になりともなりて)日嗣の君を覆ひ守り奉り、天下太平ならしめんと、大願力の金氣を立て、生きても死んでも、千人所引磐石凝固まりて、此の國の神となりて鎭り定むると云ふ外、一言半句を添ふる事なし」と。


●守中靈社・若林強齋先生『原根録・玉籤集の篋に記す』に曰く、「

 玉木翁、一日(享保十二年十二月三日)、門人數輩を召し、嘗て編述する所の『原根録』・『玉籤集』并びに『切紙』(愚案、祕奧口傳を文書と爲したるもの。其の定本と謂ふべきは、玉籤集全八卷・一百二十九祕傳、享保十年五月前後に成立、是れ也。原根録全三卷と共に、闇齋先生『風水草』より、傳目により拔粹分解し再編纂せしもの)數卷を取出して曰く、『道の寄するや也、此に在るが若きも、道の廢るや也、實に此に在り。予れ之を思ふこと久し矣。今ま將に此等の書を焚き、諸賢をして此の事の某年某月某日に在るを證せ令めんとす。故に召して以て視(しめ)す焉』と。遂に攜へ往き、悉く諸れを森蔭社の前に焚き、其の灰燼を篋中に收め、以て指示して曰く、『是れ乃ち眞の原根・玉籤也』と。門人・憲蔭(祇園社奉仕・山本主馬翁)、慨然として歌ひて曰く、『焚き棄てゝ 言の葉草も 荒金の 土に遺しゝ 道の賢こさ』と。

 時に余、亦た來會し、竊かに歎じて謂く、嗚呼、今の神道を學ぶ者、蓋し尠しと爲ず。而るに往々内に蓄ふることに務めずして、徒らに口耳に資し、道に明かなるを求めずして、傳授に利するに急に、條を尋ね目を數へ、許可を乞ひ、社號を請ふのみ。既に之を得れば、則ち安然として翁を以て自ら居り、驕然として傳を以て人に加へ、高談虚論、光陰を間度す。實に神州の罪人にして、自ら知らざるなり矣。是を以て、言、愈々繁くして、徳、愈々荒れ、傳、愈々廣くして、道、愈々衰ふ。豈に痛哀せざらんや哉。翁の此の擧、始め之を聞かば、太だ過ぐる者の若きも、退きて之を思へば、道を憂ふることの深しと謂ふ可し矣。太凡そ學ぶ者、翁の憂ふる所を以て之を體し、反求自責、一味に神代(紀)・中臣(祓)の間に反復研究し、平生の齋戒・祈祷・祓除の功、少しも間斷すること無く、漸く五十鈴の流れに遡り、深く神路の奧に入り、終ひに清清の地に造(いた)れば、則ち所謂る眞の『原根』・『玉籤』なる者、實に我を欺かざることを知りて、彼の歌の『荒金の土に遺す』と云ひし者、是に於てか驗あり矣。因りて誌して、以て後感に備ふと云ふ。

 享保十二年丁未冬十二月三日、若林進居、謹みて記す」と。


●山口春水翁『強齋先生雜話續録』三(『強齋先生雜話筆記』卷五に所收)に曰く、「

 先生より大阪の僑居に仰せ下さるゝは、
『(玉木)葦齋編集の『源根録』・『玉籤集』を焚捨てられたり。是は手前(強齋先生)達で勸めたる事なり。是にて世上に何程の『源根録』・『玉籤集』有つても、苦しからず。葦齋も神道上達にて、悦ばしく思ふ』
と仰せ越さる。即ち右、始末を書かされたる文章を示さる。予(春水)、其の頃、右、兩書を未だ拜見せず。すべて神道相傳の事など不案内なる時節故、先生に申し上ぐるは、
「私、邊地に生れ、仕宦の身なれば、上京仕る事も心に任せず、時節を以て、右、兩書など拜見仕つたらば、又た合點の手懸りにも相成るべきかと、是を樂しみに存じ居り候ふ處、最早や右の望みも絶え、力を落とし候ふ」
旨を申し上ぐれば、先生より仰せ越さるゝは、
『わるき合點なり。右、兩書を焚きたることを聞きては、大いに力を得たりとこそ、申し越さるべきなれ。埀加翁のなされ置かれたる書を焚いたではなし。少しも力を落とさるべき事ならず』
とて、甚だ御呵りの御状なり。されども其の時は信服せず。夫れは『源根録』も『玉籤集』も、神道相傳の事も聞き盡し熟讀して、其の上に葦齋にも討論も有つての上の事也。予など、何を以て神道相傳の説を承らんやと、殘念に思はれたり。

 然る處、不思議に『玉籤集』も『源根録』も求め得て熟讀す。又た『日蔭草』・『風水草』・『風葉集』なども、不思議の傳手にて之を得て熟讀す。さてふりかへりて見れば、誠に『源根』・『玉籤』を焚捨てられたるは、御尤も至極なり。其の編集者の葦齋が焚捨てられたりと云ふ事にて、世間に何程の『源根』・『玉籤』が徘徊しても、大根の所で消えてゐると云ふものなり。さて『玉籤集』は如何の事も多きなりに、先づ其の通りでもあるが、『源根録』を聞き見れば、淺ましく涙の落つる樣な氣の毒なる書也。何れも葦齋の作文と云ふ事にても無く、皆な諸書に記してある事を標出して編集せられたではあれども、諸書に散在してあるは、散在なりで目にも立たず、散在してあるを、志有るものは心を著けて見るで、事も缺けず。それをあの樣に諸書の中より選出して見せては、寶鏡の始末にても、神道の衰へ、王室の衰への次第も隱れなく見ゆ。あまりに勿體なきことなれば、委しくも言はれず。

 或る時、先生は、『葦齋、神道の事、彼れ此れ骨を折つて諸書を考へ、編集せらるゝは善き事の樣にはあれども、どこやら氣の輕き所ありて、此の道、疏末にもなり、神祕大切な事もあらはに相成る可きかと、甚だ氣遣ひに思はるゝ事なり』と、御物語あり。右、兩書、焚捨てられたる事と思ひ合はさるゝ事也。‥‥

 (強齋先生の曰く、)神道の傳、誰々も皆な箱傳授にして置いて、傳の意を推す事が無い故、落著は傳意を失ふに至る。手前(強齋先生)、傳の旨を一つ々ゝ推して見れば、ちよくゝゝゝと傳へ違ひもあり、聽き違ひもありと、端々見ゆ。埀加翁、愛みて未だ發せられずに置かれし事も、徒らに埋れてある事、多く見ゆ。玉木(葦齋)氏なども、右の通り也。其れ故ゑ逢ふ度びに、今ま言はうか々ゝゝゝと思へども、兎角く憤悱を待ちて言ふでなくてはと、堪へて居る。不審のかゝるやうに言つても、頓と氣が付かぬ、氣の毒なこと也」と。


●山口春水翁『強齋先生雜話續録』一(『強齋先生雜話筆記』卷三に所收)に曰く、「

 (強齋先生の曰く、)神道の傳授、切紙を許さるれば、最早や其れですんだことのやうに、誰々も思つて居る。それは筥傳授と云つて、何のやくにも立たぬ事なり。埀加翁の書記し置かれし事は古傳によりて、誠に初學の爲に、わづかに其の端をひらいて置かれたまでのことなり。然れば其の詞に就き、其の端に因つて反復熟思、推窮演繹せねば、蘊奧は窺はれぬ。埀加翁の詳かに仰せ置かれぬも、學者、思うて之を得る樣にとの思召しに見ゆ。然るを最早や「磐境神籬の傳」も承りた、「三種の傳」も承りた、最早や蘊奧に殘りた事は無しと覺えて居るは、たわいもなき事也」と。



●谷省吾翁『埀加神道の成立と展開』(平成十三年五月・國書刊行會刊)に曰く、「

 (『源根録』・『玉籤集』を)燒くとは、ずゐぶん思ひ切つた處置と言はねばならぬ。葦齋としては、その決意を固め、そして實行するには、よほどの熟慮が必要であつたにちがひない。強齋は、その葦齋の配慮が、「道之寄也、若在乎此、而道之廢也、實在乎此」といふ點にあつたと述べてゐる。文字に書いておけば確實だ、まちがひなく遺るといふのは、一應の道理である。「道之寄也、若在乎此」といふのは、それである。だが、道を傳へるのは、文字でも紙でもなくて、人である。人が、いのちをかけて、その道を生き、その道を荷ふことによつて、道は傳はるのである。

 祕傳においては、それを受くべき人が、それにふさはしい境地に達してゐることが大事なのであつて、必要なのは、文字を整へることではない。もし道が文字にあるといふ意識を持ち、切紙に寄りかゝるなら、道はそこからくづれてゆくのだと言つてもよいだらう。「道之廢也、實在乎此」といふのは、それである。強齋は、葦齋のこの決意と實行とを稱讚した。しかし實は、この擧は、強齋のすゝめによるものであつた。‥‥

 道は、萬人のものである。本來、祕すべきものではない。闇齋の道統をうけた正親町公通も、
『畢竟、道は祕するは愼みの至りなれば、唯だ其の人の信實を以て、大祕至極といふとも、何ぞ隱すべけんや』(『神書問答雜記』)
と言つてゐる。しかし道の寄するところ、文字ではなくて、人そのものであるとするならば、人から人への道の傳承・繼述に、魂の感應といふことの介在を否定することはできなぬであらう。祕傳が發生しなければならなかつた理由は、もとより世俗的・物質的なものでは決してない。闇齋の神道學は、さうした祕傳の世界においてあつたものである。闇齋は、祕傳の世界の中で、その本來の意義や長所を生かすべく、その弱點や危險性を克服すべく、見識を立て、努力した人と言ふべきであらう。

 その見識とは、第一に、萬人が祕傳にあづかりうる可能性を持つてゐること、すなはちすべての人において、心は神明の舍であるといふ、中世以來の神道學の傳統的理解を徹底したこと、さらに言ひかへれば、神道學をきはめて特殊な世界から開放したことである。第二には、誰でもが同じやうに理解するものではない、不徹底のまゝに傳を受ければ、誤解もあり危險もあるといふことを嚴肅に認めつゝ、形式を越えて柔軟に對應したことである。そして第三には、道は文字によつてではなく、いのちをかけて、全人格によつてうけ傳へるものだといふ立場を堅持したことであつた。

 そしてそのやうな見識を立て通すことが、傳にまつはる弊害をおのづから克服することになるはずであつた。皇統守護を核心とした埀加神道は、闇齋において必ずしも整然たる體系的構成よりも大切なものを祕傳に生かしつゝ、その神道を多くの人々のものにしようとしたのである」と。



 愚案、直ちに想起するは、「人、能く道を弘む」(『論語』衞靈公篇)の警句である。抑も皇道は天上將來の道であり、此の皇道を宣布するは人の道である。即ち道義を天下に推し弘めて、之を行はしむるは、實に之を負荷する人の力に因る。洵に嚴しき教へである。此の嚴しき故に、崎門學は流行らず、人から敬遠される。強齋先生の詠ふらく、「

私欲は險なり、幾萬壑、私意は阻む、幾千關。
此の難行路を打透して、始めて知る、心廣く體胖かなるを」(『遺艸』卷一)と。



●埀加翁闇齋先生『(神代卷)風葉集』(白玉翁正親町公通公の依命編纂・強齋先生校訂)首卷に曰く、「

 唯授一人の法は、異端曲藝の輩、往々これを言ふ。而るに吾が神道にも、亦た此の説ありと謂ふ者は、笑ふ可きの甚だしきなり。高皇産靈尊、天兒屋命・太玉命の二神をして、同じく天津神籬を持ちて、皇孫の爲に齋ひ奉らしむ。是れ豈に唯授一人ならんや。惟だ知る者の多からず、傳ふる者の廣からざるを憂ふるのみ」と。

  • [16]
  • 學ぶべき書。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月25日(日)22時35分39秒
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●『神道夜話』(享保十八年十一月二十二日夜。『強齋先生雜話筆記』卷八に所收)に曰く、「

 孰れも學問の致し樣、肝要の心得有り。『小學』・『四書』・『六經』・『近思録』は、誠に道學の規矩準繩たれば、尤も講習研究すべきことなり。其の外は、周・程・張・邵・朱子の書、是なり。史傳の書は、『通鑑綱目』備はれり。此等の書に骨を折つて、其の餘の雜書は、見ても見いでものことなり。

 第一に學ぶべきことは、吾が國の書なり。吾が國の書にては、『(日本紀)神代卷』・『中臣祓』は、上古神聖、道要の書なり。其の餘、『伊勢五部書』を參考す。此の書は、疏物色々これあり。皆な竝べ考ふべし。其の外、『口訣傳授』推究むべし。さて『六國史』と云ふべし右は、日本紀・續日本紀・□(脱か、或は未見か。日本後紀)・續日本後紀・三代實録・文徳實録(日本文徳天皇實録・日本三代實録)、是なり。是に續いては、准后親房の『(神皇)正統記』なり。是等を熟玩すべし。其の外、『律令』・『格式』等の書、吟味を詳かにすべし。近年、『保建大紀(ママ。記)』これあり。正統記以來の書にて、極めて心ある珍重なる編集なり。孰れも熟讀して、其の意を究むべし。保建大紀は、栗原源助(ママ。潛鋒栗山源介愿)の作なり。源助は、桑名松雲(愚案、闇齋先生の直門。八條宮尚仁親王の顧問を辱うす)の門人なりしが、何故にや、後には松雲と中たがひせり。定めて神道も、松雲よりの傳授なるべし。隨分よき學問なり。

 右、云ふ通りの書どもに骨折らずに、儒者は唐の故事來歴に精しいばかりにて、一向に吾が國の道を知らず。甚だしきは、異端などゝ云ふ妄言を吐出すもの之れ有り。又た和學する者は、職原故實などに骨を折つたり、和歌などに精を出したりするのみにて、神聖の道を知らず、文盲なることなり。兩つながら、皆そでなきことなり。山崎先生埀示せらるゝ所の旨、絅齋先生晩年の思召入、皆な此の如くなり。面々に心得べきことなり。

 『神皇正統記』は、准后親房の著述にて、親房は天下第一の忠臣、舍人親王以來の學者なり。此の書の著述は深き旨あり。つまる處、神皇正統の四字を明せるより外なし。神代に始まりて後村上(愚案、後村上天皇と申し上げ、書し奉るべきなり。強齋先生、愚が諫言、容らるゝや必せり)まで、歴代の事實を述べて、神皇正統の大義を明せり。總じて道を學ぶ者は、其の門に入るの初めより盛徳の地位に至るまで、此の四字を明めて身に得るより外これなし。竊かに謂ふに、萬國多しと雖も、天地より見れば、只だ一つの天地にて、盡く神明の妙用にて立たざることなうして、その神明のとこしなへにまします處は、吾が國にあり。是を人の一身にたとふるに、一身全體、氣脈貫かざる所なければ、心の妙用にあらざることなうして、其の心の舍(ありか)は、□[月+亶。たん]中方寸の間にある如し。然れば天に二つの日なくして萬國を照せば、國に二人の王無くして萬國に臨む、實に吾が國にありと謂ふべし。是に由りてこれを觀れば、萬國君臣の位變ずるも、天地自然の理なり。吾が國、神皇正統の天壤と共に窮りなきも、亦た天地自然の理なり。仰がざる可けんや乎、欽まざる可けんや乎。

 一己の君臣は、則ち父子也。一統の父子は、則ち君臣也。此れを君臣・父子、一體と謂ふなり矣」と。


●山口春水翁『強齋先生雜話續録』二(『強齋先生雜話筆記』卷四に所收)に曰く、「

 (強齋)先生の曰く、釋契沖は近來の者なれども、あれほど假名に熟したる者なし。別して萬葉に熟せるものなり。堂上、さしもの衆中と雖も、一人も衡(くびき)を爭ふこと能はず。何故浮圖にてありしやらんと思はるゝことなり。吟味の精しきこと、言語に絶えたり」と。



 愚案、件は鈴屋大人『うひやまふみ』を想起させる一文にして、我々の拜讀すべき寶典の提示である。瞠目して見るべし。

 次は、強齋先生の契沖評である。別の雜話にて學者としての契沖翁を、「誠に萬葉の朱子」とまで謂うてをられる(藤井敏時筆記『望楠所聞』――『強齋先生雜話筆記』卷九に所收)。強齋先生にとつて、此の評は、啻ならざる讚嘆の言葉、水戸義公の懇顧、鈴屋本居大人の契沖翁發見と、前後、揆を一にすと申すべきであらう。然し贈正四位・契沖法師(兩部大阿闍梨・律師・圓珠菴空心契沖、實は下川氏なり)の所謂國學の大人に入ること能はざる所以は、一に髮長たるに由る。「何故ゑ浮圖にてありしやらん」、洵に惜しむべし。皇神に比べ奉れば、佛陀は遙かに下等なる所以を知らざる、傲然たる浮圖中子を、殊更に憎めばなり。


【下川氏契沖翁の哥文】

○久方の 天の御柱 神代より たてるやいづこ 不二の柴山

○『百人一首改觀抄』(順徳上皇御製――百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり)に曰く、「
 ふるき軒端とは、當時、帝徳(みいきほひ)おとろへたる事をよませたまへり。武臣あたらしく威をふるひて、ふるき王道を用ひぬ世なれば、かくはたとへさせたまふなり。‥‥いにしへの太平なりし時に、今をかへさばやとおぼせど、かへらぬ故なり」と。


~後續~

  • [15]
  • 變の至るや、知る可からず。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月23日(金)00時19分1秒
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●山口春水翁『強齋先生雜話筆記』(享保四年己亥正月八日。岡彪邨翁『強齋先生雜話筆記』卷一に所收)に曰く、「

 予(春水)曰く、「昨日は、白馬の節會を拜見仕り候ふ。幸ひにて忝くも天顔を親しく拜し奉り候ふ次第、如々にて候ふ」。

 (強齋)先生の曰く、『扨々冥加叶はれたることに候ふ。數十年在京申し候へども、彼れ此れ取紛れ、未だ御節會をも拜さず候ふ。よき家づとゝ云ひ、殊には天顔を拜せらるゝこと、難有きことに候ふ。天照大神より御血脈、今に絶せず、統々嗣がせられ候へば、實に人間の種にて之れ無く候ふ。神明を拜せらるゝ如く思はるゝ由、左こそ有る可きことにて候ふ。我が國の萬國に勝れて自讚するに堪へたるは、只だ此のことにて候ふ。あまり難有き物語りを承るにさへ、感慨を催し、返す々ゝも貴く覺え候ふ』。

 曰く、「昨日は、近衞樣、内辨を御勤めにて候ふ。束帶威儀の正しきと申すことは、この上有る可しとも存ぜず。誠に敬の至り、斯くこそ之れ有る可きことゝ、是れ亦た感心仕り候ふ」。

 曰く、『なるほど、ゝゝゝゝ。左こそ之れ有る可きことにて候ふ。扨それについて、可笑しき話、之れ有り候ふ。あまりに天孫綿々として絶えざること言はうとして、今の神道者など云ふ者が、「我が國は神國ぢやによりての筈ぢや」と云ふが、これは愚かなことにて候ふ。丁度、愛宕の札を張つて、我が家は燒けぬはずぢやと云ふに同じく候ふ。焉ぞ湯・武あらざることを知らんや。其の上、神國がそれほどあらたなことならば、何とて今日の如く、王室季微にはなり下らせられ候ふや。これも山崎氏の門人にて候ふが、谷丹三郎(愚案、秦山先生、是れ也)と云ふ男、神道をば主張して説くとて、「日本は、北極紫微宮の帝座にあたりたゆゑ、王統絶えぬ道理ぢや」と申し候ふ。此等の説、皆な「うつけ」たることにて候ふ。前にも云ふ通り、我が國の自慢と云ふは、衰へたりと雖も、幸ひに御血脈が絶えいで、唐の堯・舜の授禪、湯・武の放伐の如くなることないと云ふ迄でこそあれ、今日では本願寺の勢ほどにもなき王室をいかめしく言ふも、片腹痛く候ふ。‥‥』」と。



 愚案、強齋若林先生、「本願寺の勢ほども無き」我が皇室を憂ひ痛む心より、此の大論を發す。其の深意は、次の再言にて知るべし。蓋し所謂見人説法てふものにして、初學の爲め、要心の深切に出づるならむ。秦山谷先生の説、固より疑ふ可くも非ざるなり。秦山先生は體より説き、強齋先生は用より論ず。體用一致にして、我が國體は、金甌無缺、萬邦無比なる可し矣。

 必無の論なるが、若し我が皇室の絶えることあるとせば、是れ即ち天照大神の御經綸にして、此の地球の滅亡の秋なり。人類萬物、悉く消滅すれば、凡俗の云々するに及ばざるなり。嗚呼、畏る可き哉。然れども是れ、吾人が看做す所の顯界が無くなるに過ぎずして、神界・幽界は、嚴然として存して變らざるものゝ如し。然らば知りぬ、此の顯界は、幽界の極く一部に過ぎざるを。天神血脈の正統、此の日本に在り矣。敬みて護持奉公せむと戒愼懸命し、當然當爲の道を、唯だ默々と盡し行ふが、眞の日本人の使命自覺である。



●『強齋先生雜話續録』三(『強齋先生雜話筆記』卷五に所收)に曰く、「

 神道相傳の義ども、段々承り、難有く感心の餘りに、或る時、先生へ申し上ぐるは、「王室と云へども、氣運によりては、御盛衰は有る筈也。但し御元祖國常立尊と稱し奉るを初めとして、日神樣の御神勅、『行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣』と仰せられたる事などを以て思ひめぐらし候へば、誠に常磐堅磐に萬世無窮なるべきと、疑なく存じ奉る」旨を申し上ぐれば、先生仰せらるゝは、

『それは麁相なる料簡なり。今、王室々々と言へども、本願寺の繁昌程もなし。伊勢の祓を屋の棟に建てたれば、此の家、類燒すまじと云ふ樣なもの也。目の當り平清盛は都を福原に移し、足利義滿は法皇の眞似を爲たり、此の後とても、何時、清盛・義滿に超過したる犯上の者、出來らんも計り難し。扨々危き事、氣遣ひなる事、言語に述べ難し。此の處を、御上にも下にも忘れず、怠らず、大事大切にあらば、庶はくは王室の憂ひ無からんか歟。それを其許の樣に、恃みありて、慥かなることゝ思ひ安んずるは、以ての外の事也。纔かに安しと思はるれば、最早や寶劔の旨を忘れたると云ふものなり。是等の處、よくゝゝ合點せらるべし』とて、甚だ御警戒あり。‥‥

『皇統を仰ぎ崇ぶは、勿論なり。但し何時、何樣の變が有らうかと、常々恐怖するが、今日の當務也。日神の詔勅に違ひの有らうやうはなけれども、清盛もあり、頼朝もあり、何時、將門・純友が出ようも知れず。神代に、既に天稚彦あり、何時迄も動きは無い事とおちつくは惰り也。甚だ危き事也』」と。

~後續~

  • [14]
  • 皇國の道義を、崎門に學ぶ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月22日(木)21時24分34秒
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●森井左京翁・玉木葦齋翁『神代卷藻鹽草』に曰く、「

 近く諭さば、異國には、大君の上に、天帝あり。勅命の上に、上天の命あり。吾が國の大君は、所謂天帝也。勅命は、所謂天命と心得べし。假令ひ天災ありて、大風洪水、或は時疫流行して、人民多く死亡に到ると雖も、一人も天を怨むる者はなく、下民、罪ある故に、天、此の災ひを降せりとして、反つて身を省みる。是れ常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり」と。



●寒林平泉澄博士『崎門祭の祭文』(於越前國平泉寺白山神社講堂)に曰く、「

 維れ昭和五十五年十月十九日、白山の聖域に、清淨の祭壇を設け、山崎闇齋先生の神靈を勸請し、謹んで祭典を修し奉る。

 抑も終戰以來三十五年、經濟の復興は目ざましく、荒廢せる焦土は商工業殷賑の都市と化して、世界の驚異と云はんよりは、寧ろ嫉視する所となれり。然れども所謂經濟大國の稱呼の示すが如く、豐かなるは、物にして心にあらず。精神面に於ては、頗る荒廢を極めたるを悲しまざるべからず。或はデモクラシーを叫んで、君臣の大義を忘れ、或は人權にとらはれて、上下の秩序を顧りみず、自由の名を恣にして、分を辨へず、忠孝貞順、質實剛健、謙抑にして勤勉の美風は影をひそめ、國の大本立たず、威嚴失はるゝに至れり。目を轉じて世界の情勢を大觀すれば、東歐にポーランドの不安あり、中東にイラン・イラクの戰あり、東亞に朝鮮南北の對立あり。いづれも風雲を孕み、前途逆賭すべからず、安閑として傍觀すべきに非ざる也。

 是に於て想起するは、闇齋先生の教へ也。先生の教へは、敬の一字に始まる。この一字、倫理の基盤にして、道徳の關門也。人を道義に導き、國に秩序あらしめ、國の大本を立つるの要諦、實にこゝに存す。先生、願はくはきびしき教導を賜ひ、我等をして護國の本意を達せしめ給へ。頓首再拜、敬つて白す」と。



●遠湖内田周平翁『強齋先生遺艸の序』(彪邨岡次郎直養翁『強齋先生遺艸』所收。此の序、白文なり。幸ひに圏點あり。私訓、之を恕せ)に曰く、「

 徳川氏、政權を攬り、殆んど三百載、其の間、名を儒林に列する者、甚だ衆し。而して江戸に在る者は、大抵、覇政を謳歌し、聲氣、最も盛んなり。京都に居る者も、亦た翔翔たる藝苑に多きも、未だ必ずしも式微を歎かず。此の時に當つて、屹然として特立し、以て尊王・正名を倡ふる學者は、實に我が闇齋山崎先生と爲す焉。

 先生の學は、一傳して絅齋淺見先生と爲り、再傳して強齋若林先生と爲る。而して強齋先生に□[之繞+台。およ]びて、望楠軒を京都に起て、以て迪を多士に訓ふ。是に於て崎門一派の學は、終ひに天下を風化して、皇政興復を馴致せり矣。請ふ、試みに之を言はむ。

 夫れ先に尊王の論有り、而して後に勤王の業有り。尊王は思に出で、勤王は動に見(あらは)る。論と業とは、相離る容(べ)からず矣。闇齋先生は、豪傑の資を以て、神儒二道を兼治し、國體を尊び、名分を嚴にす。其の言や、峻□[勵の左]、聽く者、悚服せざる莫し。絅齋先生、之を繼承し、君臣の分、華夷の別に於て、焉れを論じて最も精しく、焉れを辨じて最も明かなり。而して強齋先生に□[之繞+台]びて、益々以て之を恢張し、尊王□[黒+出。ちゆつ=貶]覇の説、遂に四方に播し、後世に傳ふ。人を以て言へば、則ち竹内(贈正四位・羞齋竹内式部)・唐崎(贈正四位・赤齋唐崎常陸介)の二子の若き有り。地を以て言へば、則ち土佐・秋田の二藩の若き有り。尤も其の遺響を振ひ、奮發勇往、力を王事に盡す。其の他の志士、同聲呼應、咸(み)な京都を指して歸趨と爲す。此れ乃ち尊王の論有り、而して後に勤王の業有る者、望楠軒が繼往開來の功、顧みて甚大ならざらんか歟。

 且(ま)た三先生は、皆な身、京都に居て、京都に沒し、未だ嘗て幕府及び諸侯に仕へず。闇齋先生は、再四、江戸に至ると雖も、長く留まらず。絅齋・強齋二先生は、則ち未だ曾て一歩も關東の地を蹈まず。以て其の志の存する所を觀る可きなり矣。語に云はずや乎、「天下の本は、國に在り。國の本は、家に在り。家の本は、身に在り」と。三先生の學の、天下を風化して、皇政興復を馴致する所以の者は、皆な諸れを身に本づけり。則ち之を稱して、三先生、一身の特立、以て皇國全土の統一を致すと曰ふも、亦た豈に可ならずや哉。

 闇齋・絅齋二先生の著作は、既に刊行する者有り。強齋先生に至つては、則ち殆んど有ること無し。誠に文獻の一闕たり。彪村岡君は、吾が同學の友也。先生を景慕して措かず。其の遺著を蒐輯し、片言隻句も、捃摭して遺す靡し。命じて『強齋先生遺艸』と曰ひ、以て世に公にす。其の志、至篤にして、身、甚だ勤めたり矣。嗟乎、茲の書を讀む者、其れ亦た學問の本有るを知り、以て奮勵、自ら立たん乎。是れ余の、尤も今世の士に望む所ろ也夫。

 昭和十一年十月、後學・内田周平、拜撰」と。



●彪邨岡次郎直養翁『強齋先生雜話筆記の序』に曰く、「

 強齋先生は、淺見絅齋先生の高足門人にして、其の學問氣象、頗る絅齋先生に似たり。天道性命の見は、既に已に透徹し、存養省察の功夫も、亦た敢て絅齋先生の門人たるを辱めず。而して夙に尊皇の志を懷き、啻に膝を大名の前に屈せざるのみならず、畢生、一歩も足を、其の城下にだに入れず。高風卓節、凛乎として霜雪を陵ぎ、後生をして感奮興起せしむ。是れ亦た絅齋先生の出處と相似たり。然れども又た相似て、相似ざるものあり。絅齋先生は神道を排せざるも、亦た必ずしも之を深信せず。而して強齋先生は、之を崇奉し、之を研究したり。

 余、謂ふ、若し強齋先生をして闇齋先生の門に學ばしめば、埀加神道の發達は、必ず更に盛大なるものありしならむ、と。然れども幸ひにして其の系統を受けて、之を精研闡明し、以て世上の雲霧を排除し、神道をして益々光輝あらしめたり。其の功、決して闇齋門下諸士の下に在らざるなり。余や不敏、未だ神道の門牆をも窺はざりしが、先生の書を讀みてより、始めて其の崇敬すべきを感知したり。

 山口春水は、多年、先生に從學し、能く先生の談話を筆記し、脩正治平より、應事接物の末に至るまで、一も洩らす所なく、讀者をして先生に親炙し、其の謦□[亥+欠]に接するの想ひあらしむ。當舍修齋、及び望楠所聞の筆記等に至つても、亦た春水と伯仲の間に在り。是れ尤も珍重すべし。皆な其の努力を多とせざるべからず。

 夫れ自ら嗜む所を分ち、人と共に之を味ふは、尤も人生の樂事にあらずや。故に余、之を出版して四方に頒ち、以て讀者と共に、強齋先生を景仰し、因つて以て絅齋先生に遡り、闇齋先生の源に達せむと欲す。

 嗚呼、國家の根本は、教育に在り。教育の淵源は、學術に在り。學術、一たび誤らば、教育を盛んにすと雖も、所謂寇に兵を藉(か)し、盗に糧を齎らすものにして、其の教育は、教育せざるよりも害あり。我が強齋先生の主張する所は、學術の根本を神道に置き、其の他を以て之を輔翼するに在り。我が國民、若し此の精神を誤らば、其の教育は、益々民衆を危險に導き、堅甲利兵は、愈々國家を顛覆するの用に供せられむ。豈に深く懼れて、大いに戒めざるべけむや。余が本書を校正して、世に公にするの微意、亦た實に茲に在りと云ふ爾。

 昭和十二年丁丑四月二十九日、肥前後學・岡直養、謹みて序す」と。



●山口春水翁『強齋先生雜話續録』二(岡彪邨翁『強齋先生雜話筆記』卷四に所收)に曰く、「

 (強齋)先生の曰く、『なんと、理と云ふものは、からりちんと靜かなものと思はるゝか』と、仰せらるゝに付き、(春水)「且(まあ)然樣な物に存ぜらるゝ」由を申し上ぐれば、(強齋先生の曰く、)『さうでないぞや。理と云ふものは、活きに活きて居る物の、ほこゝゝ温かな樣なる物の、なまぐさき樣なる物也。こゝの合點がなくば、理のつらを見知らぬと云ふ者也』と仰せらる」と。


●『強齋先生雜話續録』三(『強齋先生雜話筆記』卷五に所收)に曰く、「

 或人、手前(強齋先生)を訪ひて、酒抔の際、談笑、神明の事に及ぶ故に、手前言ふ、『埀加翁は、禮服をなされねば、日神の事をば仰せられなんだ』と也。手前も、かゝり湯をせねば、神書の講習をば勤めず。然るに今、『魚肉を喫したる口にて、神明の事を談ぜらるゝこと、甚だ勿體なし』と、諫めたること也。此の人、拙者が先輩なり。此の如き仕合せ、是非に及ばず」と。



 今暫く『強齋先生雜話筆記』等を抄して、崎門の風姿骨髓を想起せしめんと欲す。亦た好からずや。

~後續~

  • [13]
  • 義理の至當を究む。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月12日(月)13時37分40秒
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 正二位・萬里小路中納言藤原藤房公、屡ば後醍醐天皇に上言すれども、聽かれず。公、謂(おも)へらく、「臣たるの道、我に於いて盡せり」と。建武元年冬の夜、天皇に侍して諷し奉るに、比干・夷齊の事を以てし、曉に至りて退き、即ち車徒をしりぞけ還し、北山の岩藏村に入りて僧と爲る。天皇、大いに驚き、宣房に命じて之を索めしめ、將に再び仕用せむとし給ふ。宣房、人を馳せて之を召す。藤房公、應ふるに和歌を以てす。宣房、即ち親ら馳せて岩藏に到れば、則ち藤房公、僧と爲り、既に去りて之(ゆ)く所を知らず、と。



■谷秦山先生『秦山集』卷二十七に曰く、「

 楠正成、湊川に死す。蓋し獻策行はれず。而れども義、去る可からざれば也。

 山崎(闇齋)先生曰く、『正成は、諸葛孔明の亞と謂ふ可き也。藤房、官を辭するは可也るも、僧と爲るは何ぞや耶』と」と。


■若林強齋先生『藤房卿の遺址に題す』(『強齋先生遺艸』卷一)に曰く、「

西狩南幸、離騷の秋、
周旋、心を盡して、大猷を扶く、
惜む可し、曾て廣く信に講ぜざるを、
終ひに淪む、黄蘗が棄恩の流」と。


○愚案ずるに、崎門の諸子は、闇齋先生が説を承くるなり。即ち内外出處を知らざるを惜しめばなり。


●楠本碩水翁『隨得餘録』に曰く、「
 藤房、屡々諌めて聽かれず。官を棄てゝ而ち去れり。儒者の風、有り。及ぶ可からざる也」と。
○蓋し、『隨得録・卷二』に謂ふ所の「高尚して仕へざるも、亦た是れ義なるのみ焉耳」の謂ひならむ。


●三島中洲氏『萬里小路藤房公遺迹碑』(『中洲文稿・霞浦游藻』)に曰く、「
 南朝諸名臣、人品を以て勝る者は、獨り萬里小路藤房公と爲す」と。
○蓋し、是れ其の超脱を稱するなり。


●阪谷朗廬氏『萬里小路藤房卿』に曰く、「
誰か中興をして亂麻爲ら使む、
雲林、豈に肯て天家を忘れむ、
君王、若し臣が踪跡を問ひたまはゞ、
爲めに奏せよ、松陰、露華に泣くと」と。
○蓋し、即ち其の獨忠を稱するなり。


○愚案、各々識見を異にすること有りと雖も、宜しく義理の至當を究め、出處行藏を覆審すべきなり。而して常陸の學者の、藤房を親房公と竝べ稱する(藤田東湖先生『桑原毅卿の京師に之くを送るの序』・『弘道館記述義』等)こと有るは、恐らくは褒稱に過ぎたらむ。蓋し闇齋・秦山・強齋三先生の論を以て、確論正説と爲すと謂ひつべし矣。且つ義理の至當を究明めての論たるの嚆矢、亦た仰ぐべきかな。嗚呼‥‥。


●眞木和泉守『楠子論』に曰く、「

 孔子曰く、『殷に三仁あり焉』と。箕子曰く、『自ら靖んじて、人、自ら先王に獻ず』と。楠子と藤房・義貞と、亦た皆な各々自ら其の志を行ふ。箕子は身を屈して、道を周に傳へ、楠子は親を滅して、皇統を繼ぎ、以て萬世の道を存す。其の箕子に優れること、蓋し倍□[サ+徙。し]す焉。嗚呼、楠子の忠義、亦た天壤と與に窮り无き者か哉」と。


●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』(『丙辰幽室文稿』卷三)に曰く、「

評。天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。支那は則ち然り。神州に在りては、斷々、然らざる者有り。

 謹みて按ずるに、我が大八洲は、皇祖の肇めたまふ所にして、萬世、子孫に傳へたまひ、天壤と與に窮り無き者、他人の覬覦す可きに非ざるなり焉。其の一人の天下たるや、亦た明かなり矣。

 請ふ、必無の事を設けて、以て其の眞に然らざるを明かにせん。本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらば、億兆の民、唯だ當に首領を竝列し、闕に伏して號哭し、仰いで天子の感悟を祈りまつるべきのみ而已。不幸にして天子、震怒しまたひ、盡く億兆を誅したまはゞ、四海の餘民、復た孑遺あること無けん。而して後、神州亡びん。若し尚ほ一民の存する有らば、又た闕に詣りて死す、是れ神州の民也。或は闕に詣り死せずんば、則ち神州の民に非ざる也。

 是の時に當りて、湯武の如き者、放伐の擧に出でば、其の心仁なりと雖も、其の爲すこと義なりと雖も、支那人に非ざれば、則ち天竺、歐羅人に非ざれば、則ち利漢、決して神州の人に非ざる也。而して神州の民、尚ほ何ぞ之に與せん哉。

 下、邦國に至りても、亦た然り。今、防長兩國は、一人の兩國也。一人にして在らば、則ち兩國在り焉。一人にして亡びなば、則ち兩國亡びん。不幸にして一人、其の人に非ずんば、則ち兩國の民、當に皆な諌死すべし。若し或は死せず、去りて他國に往かば、兩國の民に非ざる也。山中に隱耕するは、兩國の民に非ざる也。萬一、支那の所謂る君を誅し民を弔ふ若き者あらば、虎狼豺犀、決して人類に非ざる也。

 故に曰く、天下は一人の天下なり、と。而して其の一人の天下に非ずと云ふ者は、特だ支那人の語のみ耳。

 然りと雖も普天率土の民、皆な天下を以て己が任と爲し、死を盡して以て天子に事へまつり、貴賤尊卑を以て、之れが隔限を爲さず。是れ則ち神州の道也。是れ或は以て一人の天下に非ずと爲るや耶。

 又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」と。


●根本羽嶽博士『讀易私記』(門人九鬼盛隆翁編纂『根本通明先生・周易講義』大正十年五月・荻原星文舘刊に所收)に曰く、「

 易の書たるや也、天地を以て君臣の象と爲す矣。天外の地有る無ければ、則ち臣、豈に君を離れて逃るゝの道有らんや哉。『尚書・皐陶謨』に、「帝曰く、臣は朕が股肱耳目たり。皐陶曰く、元首明かなる哉。股肱良いかな哉」と。君臣を以て一身と爲せば、則ち股肱耳目、豈に其の元首を離るゝを得ん乎。湯武革命(愚案、殷の湯王による夏の放・周の武王による殷の伐)有るより以來、君道陵夷、復た君を視る、天の若くすること能はず。『禮記・曲禮』に曰く、「人臣たるの禮は、顯諫せず。三たび諫めて聽かざれば、則ち之を逃る」と。此れ湯武革命の後、周の未だ衰世ならざるの言也。大に君臣の道に悖り、『周易』・『尚書』の義を失ふ也。

 夫れ君臣の道たる也、百たび諫めて聽かれざるも、逃れて去るの道無し矣。而(しか)るを況や天子一姓、皇統相繼ぐの國に於てをや乎。君道の隆んなること、天子一姓の國より盛んなるは莫し矣。君命、一たび之に下れば、則ち難を犯し死を視ること、猶ほ歸るがごとき也。難に臨んでは、則ち之に死する能はざるを以て耻と爲す矣。之に死する能はざる者有れば、則ち父母も子と爲さず、妻も夫と爲ず、朋友も齒ひを爲ざる也。曰く、建國以來の君臣に非ずや耶。汝、獨り汝が祖、奕世勤王、忠を盡くせるを念はざるか乎。何ぞ其れ死せざる焉、と。故に天子一姓、其の兵、天下に敵無し。『(周易)蹇の卦・六二』に、「王臣蹇蹇、躬の故に匪ず」と。蹇とは難也。君の蹇難を以て、我が身の蹇難と爲し、而して躬を以て之に當る也。匪躬とは、我が躬を以て我の有と爲さゞる也。則ち身を殺して、以て忠を成す者也」と。


●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』に曰く、「

 抑も藤房卿は、小松重盛公・楠正成公と共に、本朝の三忠臣とまでも、稱せられし程の大忠臣‥‥、世には、藤房卿が、楠公の如く、國事に死せずして、世を遁れたるを非難するもの無きにあらざれども、其は人々の境遇に因ることにて、當時、楠公は武臣、藤房卿は文官にして、其の盡す所の異なるより、自然に斯くの如き差異あるを見るに至り、水戸老公をして、「一死、一隱、建延の二仁」と云へる語有らしむの事蹟を遺したるものなり。然れば楠公は、死して臣たるの道を盡し、藤房卿は隱れて臣たるの道を盡したるものにして、共に忠臣たることを、全うしたるものと云ふべし」と。


●鳥巣通明翁『戀闕』(昭和十九年九月・朝倉書店刊。平成九年四月・青々企劃覆刻)に曰く、「

 わたくしは、こゝに、承久・建武・寶暦・明治等、皇國史上の復古維新の時期をとりあげ、あのはげしい振盪の時代に、われゝゝの先人達が、ひたすら叡慮を奉じ、國體護持のために挺身し、大御心にこたへまつらんと努力したあとを明らかにしようと試みた。あるいは忠臣と呼ばれ、あるいは先哲志士と仰がれる、それらの人々の思想的立場を繼述することによつてのみ、はじめて、われゝゝも、亦すめらみたみの道をゆきゝゝてゆきつくすことができる、と云ふのがわたくしのかねての信條である。

 山崎闇齋先生にはじまる埀加神道の流をくむ人々は、これら先人の歩いた純正日本人の道を「ひもろぎの道」と稱し、それは「皇孫を始め奉り、萬々世のすめみまを守護することの名」であり、「日本に生れたからには、何のかのと言ふ論なしに、天子樣へ忠を盡し」、生命のあらんかぎり、「朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はる」べしと説いたが、明治維新の志士達は、そのやうな立場を端的に明示するものとして、『戀闕』なることばを、しばゝゞ用ゐたのであつた。

 わたくしが、畏友吉峰徳之助兄によつて、このことばを知り、よろこび口にしはじめたのは、昭和三四年の交、まだ熊本の高等學校生徒の頃であつた。九州帝國大學を遂に卒へずして、あたら夭死した吉峰兄の事歴に就いては、今日に於いてもなほ公表をはゞかるものがあるが、昭和の初期、所謂「思想國難」の時代に、はやく皇民の道に目覺め、皇統を守護しまゐらせんと、蹶然として起つた彼が、その郷里鹿兒島縣萬世町に、楠公社を創祀したこと、高熱にて、意識、殆んど不明の臨終に、あの實朝の歌、
山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも
を、高らかに誦しつゝ逝去したことは、彼の人となりを偲ばせるに十分であらう。

 吉峰兄逝いて七年、當時にあつては、同憂の士の間に於いてすら、説明を加へぬかぎり、その意味が通じなかつたこのことばも、最近になつて、臣道の極致を言ひあらはすにふさはしい表現として、やゝひろく、しかも心ある人々によつて用ゐられるやうになつた」と。


●中島一光翁『紀元二千六百五十年を目前にして』(平成元年一月『さきもり』第二十四號)に曰く、「

 去る二月二十一日に、日本防衞研究會主催で、湊川神社の酒井利行先生を御招きして、大嘗祭に關しての講演會が行はれた。‥‥

 日本の眞の姿を極める命題として、假に横暴非道な天皇樣が立たれた場合、臣下として日本人として如何に爲すべきか、といふものがある。大多數の人は、「日本にはシナのやうな放伐といふ思想は無い」といふ點で一致してゐると思ふが、それ以上問ひ詰められると、言葉が詰まつてしまふのでは無からうか(かく申す私も、その一人であつたが)。

 この命題に對して、酒井先生が明解な答へを出して下さつたので、感激の思ひを込めつつ、御紹介させて戴く。それは「そのやうな場合、日本人總てが近くの神社に集り、そして祈り、祈つて祈つて祈り拔き、最後の一人も祈り死にするまで、祈り拔くことである」と言ふ主旨の御話しであつた。「何だ、唯だ祈り拔くだけの話ではないか」と言はれる方もをられると思ふが、この命題について考へに考へ拔いてきた私にとつては、これだけで十分である。この上、どんな言葉をも付け加へる必要が無い程、十分に解らせて戴いた」と。



○愚案、然るに次の論、果して如何。義理の究明を缺くと謂ひつべきなり。洵に惜しむべし。「戀闕」の心を缺き、「神州の民」に非ざることだけは、確かのやうである。所詮、これらの方々とは、袂を訣つしかあるまい。


●小堀桂一郎博士『皇位の正統性について――「萬世一系の皇祚」理解のために』(平成十八年九月・明成社刊)に曰く、「

 國體崩壞の曉には、私共、まさか首陽山に隱れて、釆薇歌を低誦しつつ餓死するより他ない、などといふのも大袈裟ですが、少なくとも吉野の山の奧に身をひそめて、沈默の餘生を送つた南朝の遺臣に近い心境で、暗い日々を過すことになるのは、確かであります」と。

  • [12]
  • 崎門文獻。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月10日(土)16時04分4秒
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【參考文獻】其の主なものを掲げたり。太字は活字原文なり。

一、谷干城子爵編『谷重遠遺著・秦山集』明治四十三年十二月刊
一、遠湖内田周平氏校・雪窓沼田宇源太氏編『中山菁莪・落合東堤遺著・靖獻遺言講義』明治四十四年九月・昭文堂刊
一、遠湖内田周平氏『強齋先生の性行・望楠軒諸子の學風』大正二年七月・滋賀縣教育會刊
一、遠湖内田周平氏編『拘幽操合纂』正・昭和十年十月・續・十三年三月・谷門精舍刊
一、遠湖内田周平氏『正親町公通公編・無窮紀』一卷・昭和十一年十月・谷門精舍刊
一、彪邨岡次郎直養氏編『味池修居・南狩録』上・下及び附録・昭和六年四月・虎文齋刊
一、彪邨岡次郎直養氏編『楠本碩水原輯・朱王合編』四卷及び附録・昭和七年九月・虎文齋刊
一、彪邨岡次郎直養氏訂『買劍今田主税正虎編・靖獻遺言摘註』昭和十年三月・虎文齋刊
一、彪邨岡次郎直養氏編『強齋先生・遺艸』乾・坤・昭和十一年十二月・虎文齋刊
一、彪邨岡次郎直養氏編『強齋先生・中臣祓』二卷・昭和十二年・虎文齋刊
一、彪邨岡次郎直養氏編『強齋先生・雜話筆記』全十二卷・附品林録・山口春水『餘慶編』一卷・昭和十一年~十八年・虎文齋刊
一、虚受庵佐藤豐吉氏『淺見絅齋先生と其の主張』昭和八年十月・山本文華堂刊
一、岳邨池上幸次郎氏編『闇齋先生易簀訃状』昭和十四年四月・晴心堂刊
一、巽軒井上哲次郎博士・上田萬年博士監修・佐伯有義博士校訂『埀加神道』上・昭和十年三月・下・十二年一月・大日本文庫神道篇・春陽堂刊
一、前田恆治氏『會津藩に於ける山崎闇齋』昭和十年十月・西澤書店刊
一、蘇峰徳富猪一郎正敬氏『近世日本國民史・寶暦明和篇』第二十二卷・昭和十一年七月・明治書院刊
一、加藤竹男氏編『谷川士清・日本書紀通證』昭和十二年十月・國民精神文化文獻十五・國民精神文化研究所刊
一、大久保千涛氏編『谷秦山先生・澁川春海先生・神代温義』昭和十五年十一月・高知縣神職會刊
一、傳記學會編『増補・山崎闇齋と其門流』昭和十八年五月・明治書房刊
一、湖南内藤虎次郎博士『先哲の學問』昭和二十一年・弘文堂書房刊。六十二年九月・筑摩叢書・筑摩書房復刊
一、平泉澄博士編著『闇齋先生と日本精神』昭和七年十月・至文堂刊
一、平泉澄博士『萬物流轉』昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學舘大學出版部復刊
一、平泉澄博士編『日本學叢書』全十三卷・全卷に平泉博士の解説・雄山閣刊
○第二卷・第十二卷・栗山潛鋒『保建大記』・谷秦山『保建大記打聞』關敦氏校訂註釋・昭和十三年十二月・十五年二月
○第三卷・第九卷・第十三卷・淺見絅齋『靖獻遺言竝講義』佐々木望氏校訂註釋・昭和十四年三月・十五年七月・十五年九月
○第五卷・遊佐木齋『神儒問答』小野壽人氏校訂註釋・昭和十四年十二月
○第六卷・竹内式部『奉公心得書』・山縣大貳『柳子新論』鳥巣通明氏校訂註釋・昭和十四年七月
○第十卷・『志士遺文集』(橋本景岳『參政中根靱負に送りたる照會書』・有馬正義『再び平安城を過ぐるの記』)寺田剛氏校訂註釋・昭和十四年五月
一、平泉澄博士『續々・山河あり』昭和三十六年六月・立花書房刊。平成十七年三月・錦正社復刊
一、小林健三氏『埀加神道の研究』昭和十五年十二月・至文堂刊
一、井畔秋芳氏「望楠軒の創設に關する研究」昭和十六年九月『史學雜誌』五十二卷九號
一、鳥巣通明氏「崎門三傑論に關する一考察」昭和十七年五・六月『史學雜誌』五十三卷五・六號
一、鳥巣通明氏『戀闕』昭和十九年九月・朝倉書店刊。平成九年四月・青々企劃復刊)
一、近藤啓吾氏『崎門三先生の學問――埀加神道のこころ』平成十八年五月・皇學舘大學出版部刊
一、近藤啓吾氏編『埀加神道』上・昭和五十三年十二月・下・五十九年三月・神道大系編纂會刊
一、近藤啓吾氏『山崎闇齋の研究』神道史學會叢書十三・昭和六十一年七月・神道史學會刊
一、近藤啓吾氏『續・山崎闇齋の研究』神道史學會叢書十五・平成三年二月・神道史學會刊
一、近藤啓吾氏『續々・山崎闇齋の研究』神道史學會叢書十六・平成七年四月・神道史學會刊
一、近藤啓吾氏『淺見絅齋の研究』神道史學會叢書七・昭和四十五年六月・神道史學會刊。増訂版・平成二年六月刊
一、近藤啓吾氏・金本正孝氏『淺見絅齋集』平成元年七月・國書刊行會刊
一、近藤啓吾氏『靖獻遺言講義』昭和六十二年九月・國書刊行會刊
一、近藤啓吾氏『吉田松陰と靖獻遺言』平成二十年四月・錦正社刊
一、近藤啓吾氏『若林強齋の研究』神道史學會叢書十・昭和五十四年三月・神道史學會刊
一、近藤啓吾氏『續・若林強齋の研究』平成九年五月・臨川書店刊
一、近藤啓吾氏『小野鶴山の研究』神道史學會叢書十九・平成十四年四月・神道史學會刊
一、近藤啓吾氏『古書先賢』昭和五十七年六月・私家版
一、近藤啓吾氏『儒葬と神葬』平成二年八月・國書刊行會刊
一、近藤啓吾氏『紹宇存稿――埀加者の思ひ』平成十二年六月・國書刊行會刊
一、谷省吾氏『神道原論』昭和四十六年六月・皇學舘大學出版部刊
一、谷省吾氏『祭祀と思想――神道の祈り』昭和六十年五月・國書刊行會刊
一、谷省吾氏『門松に祈る』平成元年四月・古川書店刊
一、谷省吾氏『神道――その探究への歩み』平成九年六月・國書刊行會刊
一、谷省吾氏『埀加神道の成立と展開』平成十三年五月・國書刊行會刊
一、久保田收博士『近世史學史論考』昭和四十三年十二月・皇學舘大學出版部刊
一、森銑三氏『森銑三著作集』第八卷・人物篇・儒學者研究・昭和四十六年七月・中央公論社刊
一、藤村禪氏『楠本碩水傳』昭和五十三年十月・藝文堂刊
一、名越時正氏『水戸光圀とその餘光』水戸史學選書・昭和六十年五月・錦正社刊
一、金本正孝氏『強齋先生語録』平成十三年二月・溪水社刊
一、松本丘氏『尚仁親王と栗山潛鋒』神道史研究叢書二十・平成十六年六月・勉誠出版刊
一、松本丘氏『埀加神道の人々と日本書紀』平成二十年七月・弘文堂刊
一、杉崎仁氏『保建大記打聞編注』平成二十一年六月・勉誠出版刊
一、默齋を語る會--稻葉默齋と上總道學を語る
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  • [11]
  • 當然當爲の學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 9日(金)23時57分59秒
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 本居・平田兩大人の所謂國學神道は、幕末に弘まり、遂に全國に席卷しましたが、それまでは埀加神道が、其の主役でありました。我が吉備地方に於いても、藤井高尚翁以前、吉備津神社の社家は、埀加流であつたと聞き及びます(社家出身の藤井駿博士よりの打聞)。「山崎闇齋が、印度より支那へ、支那より日本へと、思想的大轉囘を遂げて、はやく日本學の標識をかかげ、幕府に媚びず、諸侯に仕へず、專ら後進學者の指導に當つた結果は、百年二百年の長きにわたり、數多くの俊秀の士を錬成しました。その缺點を云へば、第一に國語の知識の缺乏でありませう。その缺點を補ふものは、國學でありました」(『少年日本史』)。然し其の大義に根ざした思想情操は、現代に於いても學ぶべきものが頗る多く、其の哲學情熱に至つては、國學に勝るとも劣ることはありますまい。明治に入り、西洋思想が席卷した砌、遠湖内田周平翁は、之を憂ひ、西洋哲學に太刀打ち出來るものは、朱子學の他に求むべきものが無いと覺り、古來、義理を究めたる者は、山崎闇齋先生に若くものは非ずと、崎門道義の學を、天下に唱道されました。遠湖翁は、獨逸の思想哲學の紹介者として、名を馳せられた御方でもあります。曰く、

「ゾルレンは、カントが説く所で、日本では“當爲”と譯してゐる。當爲とは、本來、朱子が用ひた語で、朱子は『當然・當爲・當行』といつてゐる。當然は識の面からいひ、當爲・當行は行の面からいふので、その間に少しく意義が異なる。ゾルレンは“當然”の語が適譯であるが、この語が一般に使ひ慣れてゐるので、“當爲”と譯することにきめたのである」(近藤啓吾先生『古書先賢』所收「内田遠湖先生を偲ぶ」に所引)と。



●守中靈社若林強齋先生『大學序文講義』に曰く、「

 學には、自然・當然と云ふが大事ぞ。自然は生みのままなりの、目は見よとせねども見わける。だたい、いとほしい親なり、大切な君なりと云ふ、生みのままなりの生えぬきは、自然と云ふも、これには手がつかぬぞ。これに學問はいらぬ。力を用ゐねども、火はろくに燃える、水はろくに流るるに、手はつかぬ。これを自然といふ。そのなりにいかぬ、見える目がろくになし、いとほしい親がそのやうにないと云ふに、學がいるぞ。これを當然といふこと」と。


●若林強齋先生『□[石+殷]馭廬嶋筆記』に曰く、「

 天地に在りては、則ち土之味(つゝしみ)と訓む。蓋し自然の道也。人に在りては、土之務(つゝしむ)と訓む。蓋し當然の學也」と。


●贈從四位・振々靈社淡齋谷川士清翁『日本書紀通證』卷第一・彙言に曰く「

 若林(強齋)翁の曰く、『土地之味(つゝしみ)は、自然の道。土地之務(つゝしむ)は、當然の學也』と。


●贈正四位・羞齋竹内式部敬持翁『神代卷講義』に曰く、「

 今の世に行はれぬこととて、すてておかば、いづれの時か、天運のよき時を得て、道を行ふことあらんや。たとひ道の行はれざるはしれて有つても、人たる者の、すべきことをせねばならぬ。これが義理の當然と云ふもの、手をつかねて、世の衰ふるを見るに忍びんや」と。



 崎門學統以外の御方、例へば「支那の學者は馬鹿だから」と、よく仰つたと傳へられる内藤湖南博士は、山崎闇齋先生に敬服した一人であります。博士の『先哲の學問』は、名著の譽れが高く、之を讀んで、闇齋先生を研究する人も居る由を仄聞しましたが、小生も大いに感動したものであります。博士は、眞の讀書人、實の支那學者であられました。


●湖南内藤虎次郎博士『先哲の學問』(昭和七年十二月二十七日、京都府教育會主催・日本教育講座特別講義。昭和二十一年・弘文堂書房刊。六十二年九月・筑摩叢書・筑摩書房復刊)に曰く、「

 闇齋先生は、儒學に於ては、堅い朱子學の信者と云つてよい程の人であります。私は、闇齋先生といふ人は、其の當時に於て、非常に頭の鋭敏であつた人と考へて居ります。ところで、闇齋先生の如く鋭敏なる頭で、朱子學を考へても、――それは單に故なく朱子に盲從するといふことはないのですけれども、先生は不思議に、朱子には非常に敬服して、殆んど朱子の説ばかりを書いて居られまして、後の人が、朱子のことについて、色々手を入れる人があるけれども、朱子くらゐ偉い人は出るものでない、他の偉い人といふものは、色々後から補ひをし、訂してもよからうけれども、朱子ばかりは非常に偉い、間然する所がないと考へて居られます。これは、私は、當時では、或は今日でも、相當もつともだと思つて居ります。日本の學者にも、いろゝゝ朱子學のあらを見つけて、之に反對する人が出來ました。さういふ、つまり反對派の學問が出ました。反對派の書いたものばかり見て、その反對派を通じて朱子學を知ることゝなりましたが、しかし朱子の學問がよく分りますれば、今日に於ても、朱子といふ人は、支那の學者中に於て偉大なることが十分わかる筈でして、闇齋先生が、何もかも擲つて朱子に感心して居ることは、私は無理でないことだと思ひます。‥‥

 『小學』について、いろゝゝ其の後、手を入れて直したり、それに注を作つたり、増補したりしたものがありますが、先生は、「朱子の原本を讀まなければいかん」といふことを云はれて居ります。‥‥『近思録』に對しても、其の後色々いぢくりまはした人があつた。注を書いた人があり、分類した人があり、色々といぢくりまはした人があるけれども、結局、朱子の原本を讀まなければならぬと云つて居ります。しかしそれを定めるには、闇齋先生は、そのあらゆる『小學』竝びに『近思録』に關する本を、みんな讀みました。それを比較研究した上、つまり朱子の原本がいゝんだといふことに定めて居ります。‥‥私は王應麟に敬服して居るのであります。けれども王應麟の本を讀んで、溯つて朱子の本を讀んで見ますと、王應麟の氣の付いたことは、みな朱子が氣が付いて居ります。さうして王應麟よりもつと學者風に拘束されずに、いろゝゝ自由な立場で、古の本を批判して居ります。つまりそれ以後、元・明時代の學者が色んなことを考へても、朱子に及ぶべくもありません。それで、闇齋先生が朱子をむやみに敬服したのは、故なく敬服したのではなしに、やはり闇齋先生が非常に頭がいゝから、それだけ朱子のことが分つて敬服したのだと思ひます。‥‥

 段々又た偉人の後へ、それに相應して、門派に偉人があれば、その爲に學問が發展して行くのでありますけれども、とにかくこの神道の方に於ては、吉見幸和の如き、特殊な發展をした偉い人を出しました。其の他には、遊佐木齋などの如き、國體論に於て一種の考へを出しましたが、其の他では、哲學でも儒學の方でも、それほど闇齋先生の説を發展さした人は、私は十分には知らぬのであります。或はありませうけれども、私の見聞が狭くて、そこまで至らぬ。ともかくも闇齋先生の考へなどといふものは、神道の中では、みな先生の考へを發展させて、いろゝゝ新しいことを考へさせて居るので、この學派の發展といふことは、餘程意味があるのであります。この闇齋先生一派だけの發展でも、日本國民思想の發展を十分に見ることが出來ると思ひます。

 私が最後に申し上げたいのは、日本の學問、儒學に於て、神道に於て、國體論に於ても、色々の點に、闇齋先生の思想といふものが、日本の文化に大きな關係をもつて居るものでありますから、今日に於て山崎闇齋先生を研究するといふことは、餘程必要なことであらうと思ひます」と。

  • [10]
  • 述べて作らず、下。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時56分0秒
  • 編集済
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┌───┐
│ 轉  │
└───┘

 埀加靈社山崎闇齋に於る、斯の如き神儒兼學・祖述墨守の態度は、其の門人弟子に間に於ても承け繼がれて往つた。即ち闇齋をして「吾れ成章(因齋)を得、神儒の道を學ばしむ。吾れ沒するの後、諸子、若し私見を以て吾が教に背く者あらば、則ち正を成章に取れ」(注二十一)と云はしめた植田因齋は、先師面命の長老として矜持高く、先師を知る者、我に若く無しとて、「吾が埀加靈社の全書」(注二十二)たる『埀加草』三十卷・『埀加草附録』三卷を編纂し、一部から「篤く闇齋を信ず。嘗て云ふ、師説、若し差謬あらば、則ち吾れ同謬を辭せず。其の師に純なること、多く此に類す」、「闇齋の正統」(注二十三)と評せられた。

 或は「自分が學問と云へば、嘉右衞門殿の落穗をひろうて、其の説を取失はぬ樣にするより上のことはなし」(注二十四)と云ふ確信に造つた淺見絅齋は、所謂崎門三傑たるに恥ぢず、能く師説を繼承し得て(注二十五)、足、關東の地を蹈まず、終生處士として諸侯の招聘を拒み、輦轂の下に在つて赤心報國の大刀を横へ、衆くの俊傑の眼を開き、其の魂の所據となつた彼の『靖獻遺言』八卷を、慷慨以て著作講義し、歴史を大きく動かす原動力となつた。而して其の門下に二人の高足を得た。一は「絅齋の門人多しと雖も、‥‥其の内つまる處は、源藏一人ぞ」(注二十六)と云はれた守境靈社山本復齋であり、一は「守中翁と云ふ、埀加以來の人」(注二十七)、「淺見子門・強齋若林先生、壁立萬仭、道を以て自ら任じ、屹然として師傳、全く斯の人に在り矣」(注二十八)と讚へられ、自らも「手前素意が、絅齋先生の外に、先生と立てゝ、人に事ふることはすまじと、前方よりの志趣」(注二十九)と語つて、師道の嚴なるを吐露し、更に遡つて斯道を埀加に復するを以て、埀加神道の渾純なる復活を叫び、楠公を景慕して己が書齋を「望楠軒」と命じ、所謂望楠軒神道を鼓吹した守中靈社若林強齋である。

 或は木門の俊才として文名一世に高く、新井白石の薦に依て幕府の儒員に擧げられ、三代の將軍に重用あり、後世に至るまで鴻儒の名を擅にしたる室鳩巣の、萬物流轉して熄まざるを宇宙の定則とし、從つて天子の位も亦た萬古一定のものに非ずとして、畢竟する所、革命を承認するに至るや、其の變遷推移の世を認めつゝも、確乎たる道徳の依據を之に求め、自然界に於て天地、人生に於て君臣の、定位ありて易ふべからず、「天地の常經、古今の通誼」(注三十)瞭然たるを見出し、此に倫理の根本を確立して、神道の本旨を闡明し、革命の邪説を教誨筆誅したる所の濯直靈社遊佐木齋は、先生を行状して、「其の志を言へば、則ち藩國に仕へず、王侯に屈せず、後學を誘引し、此の學を將來に傳へむと欲するのみ而已矣。實に本邦の一人のみ而已。其の書篇に功あるは、則ち異邦に於ては、蓋し亦た朱子の後、一人のみ而已」(注三十一)と云ひ、朱子を繼ぎ來學を開くものである事を明かにして、百年、論定まるを俟つた。

 或は豪邁木強、自ら信ずること最も厚く、師・闇齋すら從ふこと能はざりし淺見絅齋をして、晩年、遂に神道に志あらしむる契機を作り、闇齋の學問の神髓を傳へて、遙か海南の地に「日本の學」(注三十二)の大旆を掲げた谷秦山は、闇齋を讚するに、「天下の書に於て讀まざる書なく、天下の理に於て窮めざることなく、終て我が朝二千四百年の一人、此れ以後、萬年の儒宗となれり。今の世、天下に儒書と云ことあることをしり、佛道よりさとると云ことをわきまへたるは、皆、先生のかげなり」(注三十三)と云ふ辭を以てし、師翁の所説と云へば、「埀加の斷に收むる者」(注三十四)とて、金科玉條の如く尊重し、「師を更めるの命は、事、非常に出づ。『小學』に言ふ、「君父と師と一に死を致すを以て之に事ふ」と。君父は天也、臣子は地也。君父は改む可からざる也、師も其れ改む可けんや乎」(注三十五)と、君臣父子と相竝ぶ師道の絶對性を高唱した。

 或は埀加遠行の後、「天兒屋命五十五傳埀加靈社正傳」の地位を嗣いだ白玉靈社正親町前大納言從一位公通は、直門の中心となつて、師翁の遺業である『神代卷風葉集』九卷の編輯を完成すると共に、埀加神道史上、特筆大書すべき極祕之傳書『持受抄』を謹撰して、斯道の眼目が三種神籬の道に在る事を明確にし、國史學に於ては、闇齋の所謂南朝正統の遺旨を承けて、『無窮紀』二十卷を著し、且つ「予、搢紳の家に生れ、三度び其の機を得、以て之を奏」(注三十六)したるのみならず、栗山潛鋒『保建大記』・三宅觀瀾『中興鑒言』・跡部光海『南山編年録』及び味地修居『南狩録』の崎門史書と相接して、恰も羣蕾一時に開いて萬朶の花と燃ゆるが如き壯觀を呈したのである。

 闇齋は自ら祖述を以て其の學を建て、祖述を以て之を講じ、門弟子、斯の如く其の期待に能く應へたのであるが、闇齋の神儒兼學の志に於て、師の程朱祖述の態度を遵奉するが故に、其の神道を信ずること能はず、否、獨り信ずる能はざるのみならず、進んで之を排したのは、佐藤直方その人であつた。直方は「だゝい神道と云ふこと、呑込み難き事なり」(注三十七)と云ひ、闇齋の神學研究の慫慂にも、「神道には『克己』がなき故、學ばぬ。素箋鳴尊の『すがゝゞし』と云はれても、孔子ほどにはあるまい。孔子につぐ顔子さへ、克己あり。況んや其れ以下が、克己せずにゆかうか」(注三十八)と拒絶した許りで無く、剩へ夫れのみに飽き足らず、「山崎先生、神道が盛になり、神道の弟子は上座に置て、神道傳授得ぬは末座にをれり。直方先生の曰く、今日もあほうな者が大分ん上座してゐた、と。山崎先生、御祓がくると、屹と尊んで戴て納められた。直方先生、可笑いことをさつしやる、と」(注三十九)と、闇齋の講席に不滿を懷き、其の神に對する敬虔な態度を、沈潛理解しようともせず、且つ其の甚しきに至つては、遊佐木齋を讒間して師弟を裂かしめむとする擧に出で、更に淺見絅齋・跡部光海・三宅訂齋等をして、己が信念に強く誘込ましめむとするに到る。是等は一に師・闇齋の神道尊信を肯ず能はざる結果と謂ふべく、亦た直方と云ふ人格を究明する端緒と謂ふべきであらうが、其の學問、程朱を以て絶對無比と爲すこと、何如に深く猛しかつたかと云ふ傍證となり得るであらう。然し其の精神の來る所、闇齋教授埀示の賜物であり、偏狹固滯、執拗好勝の窩窟に陷ると雖も、其の祖述の態度は歴然なりと謂はねばならぬ。而して直方は純儒として自ら立ち、「嘉ほどのものも、神道にかゝつてくらくなつた」(注四十)とし、「朝鮮李退溪の後、此の道を負荷せんと欲する者、吾れ未だ其の人を聞かず焉」(注四十一)として、自ら退溪李氏の後なるを任じ、遂に先師・闇齋を無視するが如き態度を執るに至つた。所謂仁に當りては師に讓らず、直方は師の程朱祖述の態度を崇奉するが故に、師の神儒兼學を許すこと能はず、己が立場こそ、眞の程朱祖述者たるものであるとしたのである。而して此の立場は、闇齋が儒學の骨髓を其の基底に於て把へ、日本の道と妙契するとして之を確立したのに比べ、「唐を中國と云ふは、宜しき也と存じ候ふ」(注四十二)として、支那中華論を採り、「嘉先生の湯武論は、決して程朱の意に非ず」(注四十三)と云ひ、「天下は天下の天下なれば、必ず骨肉同姓で繼ぐと云ふことに非ず」(注四十四)として、湯武是認論を承けて、崎門學派と稱する事すら不可能とも謂ふべき論陣を張つた(注四十五)。然るに絅齋が埀加捐館して後、其の唱道する神道を奉じなかつた事を悔ひ、香を□[火+主。た]いて罪を神靈に謝したと云ふを聞き、「予の心、先生、明かに之を知れり矣。何ぞ更に香を□[火+主]いて罪を謝すること之れ爲さんや」(注四十六)と曰つたと云ふ事は、己が師承した所を以て崎門學として絶對化せむとするもの、祖述の態度は、此に嚴守されてゐるのである(注四十七)。

(注二十一)『動山先生行状』。
(注二十二)『埀加草』跋。
(注二十三)『先達遺事』。
(注二十四)『強齋先生雜話筆記』卷二。

(注二十五)『同右』卷六「雜記」に、「何ぞ大切な吟味になると、始終、山崎先生のことを引いて云はれた」とある絅齋は、『同上』卷二に、「皆、實意には、とかく先生の血脈をついだ者は絅齋と、心には服してゐた」とされ、高田蒙齋は、「只だ先生の奧旨は、すべて絅齋に於て開けた」と語つたと云ふ。

(注二十六)『同右』卷九「望楠所聞」。
(注二十七)「同右」に見える山本憲蔭の言。
(注二十八)『孤松全稿』卷五「讀訂齋燈下謾話」。
(注二十九)『強齋先生雜話筆記』卷五「雜話續録」三。
(注 三十)前掲の木齋「第三書」。
(注三十一)前掲の木齋「第一書」。
(注三十二)『秦山集』卷十四「私講□[片+旁]諭」。
(注三十三)『朱學傳來記』。此の「さとる」内容は、蓋し絶對忠君に依る生死の大事、是であらう。
(注三十四)『秦山集』卷九「井澤長秀に與ふ」。
(注三十五)『同右』卷十「宮地介直に與ふ」。
(注三十六)『東皐隨筆』卷二に云ふ公通の遺言。
(注三十七)『強齋先生雜話筆記』卷三「雜話續録」一。
(注三十八)『迂齋先生學話』卷七。
(注三十九)『迂齋先生學話附録』卷二。
(注 四十)『韞藏録拾遺』卷三。
(注四十一)『韞藏録』卷二「冬至文」。
(注四十二)『韞藏録拾遺』卷七。
(注四十三)『韞藏録』卷十六「湯武論」。
(注四十四)『同右』卷十四「中國論集」。

(注四十五)此の意味するものは、「佛教より轉じて朱子學に入り、漸次、日本精神に覺醒して、遂に神道を大本とし、儒教を以て其の羽翼とする」(『闇齋先生と日本精神』所收・寒林平泉澄博士「闇齋先生と日本精神」)に到り、此に革命思想を絶對に排撃し、大義名分の精神を確立した闇齋に於る道の歴史的具象的展開は、飽くまで純儒を以て自任し、儒教の道の哲學的抽象的探究を以て終始した直方の與り知らぬ所であつた、と云ふ事である。『埀加草』卷十「近思録序」に、「夫れ學の道は、致知力行の二に在り。而して存養は、則ち其の二を貫く也」とあるが如く、「凡そ學問に取捨する所あり、專ら大義名分を主とするのみならず、身を以て之を驗せんとするは、これ崎門の特色である」(平泉博士「同上」)が、直方ないし(絅齋なき後に直方の傘下に這入つた)尚齋、相ひ共に闇齋を理會すること能はず、兩門下に身を以て斯學を驗せむとする所謂志士的學者が少ないのは、蓋し兩者の姿勢の依つて來る所ろ大なりと謂はねばならぬ。

(注四十六)『日本道學淵源録』卷三「絅齋先生・遺事」に見える千手旭山の割註。

(注四十七)例へば『同右』卷二「佐藤先生・小傳附録」に見える稻葉默齋の言に、「闇齋の門、醇乎として醇なる者、獨り佐藤・三宅のみ而已」とあり、儒學一尊主義を以て正統と爲し、公通の神道派や絅齋の神儒兼學派を一蹴してゐる。亦た『韞藏録』卷二「討論筆記」參看。

┌───┐
│ 結  │
└───┘

 斯くて將に知る、埀加靈社山崎闇齋の祖述墨守の態度は、其の門人弟子に依つて、或は高遠かつ深刻にもあれ、或は偏狹かつ獨善にもあれ、崇奉護持、反復咀嚼せられたのであつた。而して刮目すべき事には、此の祖述の態度は門下相承して長く後世に傳はり、脈々として百年を越え二百年に亙り、少しも變らなかつた事である。那波魯堂は之を、「敬義の説に從ふ人は、十人は十人、百人は百人、いくたりに聞いても、印し出せる書畫の如く一樣なり」(注四十八)と評したが、門下幾千人に及び、流轉二百年に亙ると雖も、甲乙相等しく、前後趣を同じうする、他餘の學脈に見る事の出來ぬ一種獨特な學風を形成したのであつた。其處にあるものは、獨自な演繹よりは寧ろ祖述、奔放な發展よりは寧ろ墨守である(注四十九)。

 而して此の精神が躬行と結びついた時、時勢の緊迫横溢に應じて、門下、身を以て斯道を驗せむとするに至る。崎門埀加の道學は、明治維新の聖業を翼贊し奉つた殉國の士の根本精神を養ふ所、頗る大であつたが、斯かる偉大なる力を發揮した學問は、前に述べた如き直方の見識、竝びに(絅齋易簀するの後、直方に依て完全に説伏せられた)尚齋の學問を嗣承するに非ずして、絅齋・強齋の道統、更に遡つて學祖闇齋の神道および名分の學を、正しく紹述せる數多の門人私淑に負ふ所が大きい。

 嘗て楠本碩水は、いみじくも「植田艮背は、則ち闇齋の忠臣、直方・絅齋・尚齋は、則ち闇齋の功臣」(注五十)と道破したが、是は遠く荻生徂徠が、「思孟は、聖門の禦侮也、荀子は、思孟の忠臣也」(注五十一)と辨じた辭と共に、恰好一對を成すべきものと思ふ。其の「功臣」と謂ふは、闇齋の儒學を演繹發展せしめた所の學術業績を云ふのであるが、明治維新を喚び醒ました日本の道としての道學の見地から之を云へば、直方および尚齋の學識は、何ら見るべきものは無い。若しあるとすれば、絅齋派の識見が、直方および尚齋の門派に流入し、歸正せしめた場合に限られるやうである。「日本の孟子」たる佐藤直方(注五十二)、「靖獻の大義」を奉じた絅齋、「集成の鴻業」を爲した三宅尚齋(注五十三)と、後世から崎門三傑と稱せられたが、虚名にして實を得てゐないのである。

 飜つて熟考するに、偉大なる學者(夫は衆くの門人、或は多大の感化影響を後世に埀れるが故に、偉大なる教育者でもあらう)と雖も、更に其の學祖の學問の沈潛深化に着いて行けぬ、否、拒否までするに至る弟子、或は其の表相のみを仰ぎ就き從ふ門人も、少なからず存在することは否定出來ない。例へば先師の言行と雖も、己の識見道理から見て從へぬと爲す時は、敢て其の非を鳴らすとも、之を訂正發展しなければならぬ、と云ふ直方・尚齋等が、夫れである。然し道學者としての闇齋の場合には、幸ひに先師の言行を一字もゆるがせにする事なく、其の片言隻句と雖も、之を祖述墨守しなければならぬ、其の議に合はざる所は、己が學淺く識低きに因る、と云ふ因齋・秦山および晩年の絅齋等を得た。而して闇齋は、祖述家として、「將に其の志を繼がんとす」る植田因齋(注五十四)の如き、乃至は「只だ埀加の遺穗を拾得するのみ」を以て念とするに造(いた)つた淺見絅齋(注五十五)の如き人格を育て上げ、殊に埀加神道の極祕傳承の如き、自由奔放なる演繹を絶えて許さず、後世に其の道統血脈を傳へ得て、大いに皇運を扶翼し奉つた。之を生出したる先師・山崎闇齋、また崎門道義の學、洵に玄奧薀妙と謂はねばならぬ。

(注四十八)『學問源流』。亦た云ふ、「其の師説に至つては、講義講録とて、其の辭を一一國字を以て之を記し、互ひに寫し取て祕本の如く之を藏す」と。
 田中蛇湖氏「佐藤直方先生」に曰く、「先生が埀加翁に侍してよりは、講説以外に、よく翁の談話をきかれた。此れは李初平の故智(某云『伊洛淵源録』に在り)もあつたかも知れぬが、全體、師の談話ほど、學問の眞諦を呑みこみ得るものはない。不知不識の間に師の學問が自分の頭に溶くるものは談話である。先生がこゝへ意を集中されたのは、實に單刀直入の戰法だ。‥‥そして其の談話は丁寧に筆録し、夜となく晝となく、彽囘し往反し執着し肉迫してゐたと聞く。さればこそ先生の門流の人々は、其の師の談話は、代々言文一致で筆録し、累々山の如く燦として、今に銀光を放つてゐる。一度び此れを繙くと、其の師、其の人、皆な生けるが如く、此れは嘗て他に比類を見ぬ門流の誇りである」(『山崎闇齋と其門流』所收)とあるが、直方門に限らず、崎門全體に云ひ得る事である。

(注四十九)此に於て想起されるのは、承陽大師道元禪師「嗣法授受」の態度である。曰く、
「只だ世情を捨つれば、佛道に入るなり。佛道に入るには、善惡を分ち、よしと思ひあししと思ふことを捨てて、我が身よからん、我が心、何と有らんと思ふ心をわすれ、よくもあれあしくもあれ、佛祖の言語行履に順行也。‥‥佛祖の行履の外は、皆な無用なりと知るべし」(侍者懷奘『正法眼藏隨聞記』第二)。
「世間の人、何とも謗すとも、佛祖の行履、聖教の道理にてだにもあらば依行すべし」(『同上』第三)。「學人の第一の用心は、先づ我見を離るべし」(『同上』第四)と。
是れ道元禪師の最奧最深の指標となり「嫡嫡相承」へ至るの道である。即ち古佛祖師の無上菩提を、増減なく過不足なく繼承せむと欲する祖述墨守の姿勢である。
 田中忠雄氏の『正法眼藏の世界』所收「古佛道元」に云ふ、
「佛祖道は、佛祖竝びに佛祖の祖によつて擧揚された正法眼藏涅槃妙心であるが、更にそれは諸佛によつて繼承される。正法眼藏をまさしく繼承せる諸佛もまた、我等にとつて佛祖である。それ故に佛祖道は、これらの佛祖達によつて相承され相傳されて現在に及ぶところの正法眼藏を意味する。『面授』の卷(某云『正法眼藏』)には、『爾の時、釋迦牟尼佛、西天竺國靈山會上、百萬衆中、優曇華を拈じて瞬目す。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑。釋迦牟尼佛の言く、吾に正法眼藏涅槃妙心あり。摩訶迦葉に附屬す』とある。かくて佛祖道は、迦葉に正傳された。正傳といふのは、單に師の精神を受け繼ぐといふことのみではない。佛祖道にいはゆる正傳は、必ず面授でなければならない。佛祖の暖かな皮肉に觸れ、佛祖の正法眼藏をいささかの増減なく繼承せりと、佛祖自らによつて許されるのでなければならない。嫡々相承せる佛々祖々の面授・嗣法なくしては、佛々祖々たることは出來ない。面授嗣法は、佛祖道の法統を正す唯一の標識である。‥‥道元のやうに嫡々相承を重くかつしばしば説いた者は、古今の佛教界を通じて恐らくないであらう。嫡々相承は、實に學道の骨髓である。いはゆる理性は、この意義を夢にも見ることが出來ない。たとへ歴史の非合理なるゆゑんはこれを明らかにしても、歴史とは先人と後人との法の相承であるといふことは、夢にも見ることが出來ない。歴史は發展であるとのみ知つて、歴史の根幹は一毫の増減も許さぬ志の相承にあるといふことを知らない知性は、道元の學道を理解することは出來ない。いはんや身心を擧して學道に參ずるといふ決意の發するはずはない」と。
 這箇の道理は、創見を見出さむと欲する者にとつて、壁立萬仭、容易に近寄る事を許さぬ精神である。發展なくして何の學問ぞ、創見なくして何の學者ぞとする底の近代人にとつて、堂奧玄妙、瞬時も垣間見る事の出來ぬ道理である。安易な儒佛比較は嚴に愼むべきであらうが、蓋し其の道の精神に至つては、軌を一にするもの、道元が嫡嫡相承の佛道と闇齋が祖述謹持の道學とは、四百年を中にして相感應、相庶幾きものと云つてよからう。

(注五十)『碩水先生語略』。
(注五十一)『辨道』。
(注五十二)『日本道學淵源録』卷二「佐藤先生・遺事」に見える千手旭山の言。
(注五十三)『正學小傳』序。

(注五十四)『埀加草』跋。亦た『孤松全稿』卷二に曰く、「植田玄節が埀加翁がわるくば、ともゞゝわるいにならうと云うた。この樣に師を信ずると云ふが、見識のあると云ふもの也。今はなにぞといつて、聞合せることばかりを師と思ふ。きくことがなくなるか、己か師よりよい説を云ふと、はや、師を輕んずる、ういたこと也」と。

(注五十五)『日本道學淵源録』卷三「絅齋先生・遺事」。

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│ 跋  │
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 本論の功を終へるは、殊に、
平泉澄博士『萬物流轉』
鳥巣通明氏「崎門三傑論に關する一考察」(『史學雜誌』五十三卷五・六號)
近藤啓吾氏『淺見絅齋の研究』・『若林強齋の研究』
藤村 禪氏『楠本碩水傳』
の識見に負ふ所が多い。尚ほ「道」の學問に就て、某に大きい光を投じてくれたものは、田中忠雄居士『正法眼藏の世界』であり、之に志すに至つた消息に就ては、幼き日よりむさぼり讀んだ平泉先生の『少年日本史』一卷との邂逅、竝びに親しく其の謦咳に接し得た事に因る。記して深甚の謝意を表し、こゝに筆を擱くこと如何と云ふのみ。

昭和五十四年己未六月 二十日脱稿
同 五十五年庚申一月二十一日訂畢
於帝都玄月書屋 後學「備中處士」跋之



 乞、ご高批――その他、崎門學に關する文

【遠湖内田周平翁に關する論考】
一、崎門の道統繼承者・内田遠湖翁
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/uchida.htm
一、吉野時代と所謂南北朝正閏問題
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm
一、神習舍佐久良東雄大人
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sakura.htm

【彪邨岡次郎直養翁に關する論考】
一、道學者・岡彪邨翁
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/oka.htm

【寒林平泉澄博士に面謁する記】
一、望白之記
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hakusan.htm

  • [9]
  • 述べて作らず、上。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時50分34秒
  • 返信
 
 三十年前の舊稿で恐縮であり、些かの進歩も無きを恥づること萬々なるも、之を掲載して高批を仰ぐ次第である。



●備中處士『崎門道義の學に於る祖述主義について』

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│ 序  │
└───┘

 此に述べむとするのは、一に贈從三位・埀加靈社闇齋山崎嘉右衞門敬義に於る神儒兩域に亙る學問の、祖述の態度何如、更に門下受容の態度何如の管見であつて、舊稿を温めて遺忘に備へむと欲するもの、紙幅の都合もあり、極く大まかな素描に止つた事は、蓋し已むを得ないとしよう。崎門學を研究するには、少なくとも支那の儒學、殊に朱子學、及び日本の神道、主に中世神道に關する正確な知識が、是非とも必要であるし、又た高邁なる識見なくしては、之を理解する事は、到底出來ないであらう。況んや研鑽日淺くして未熟の身、罪を先賢に受くるを懼れるのであるが、敢て初學の努力、奈邊に在るかを示して、切に大方諸氏の示教を乞ふ次第である。

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│ 起  │
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 日本朱子學の系譜には、概括的に云ふと、藤原惺窩を祖とする林羅山(林家)・木下順庵(木門)の京學と、南村梅軒の流れを汲む山崎闇齋(崎門)の南學との二大潮流があるとされる。兩派に就て、其の特色を陳ぶれば、前者は世に從つて主義主張を應用して行き、後者は主義主張を以て世に適應せしめて行くと云ふ事が出來る。即ち一方は流れに掉さして舟を遣る學問、一方は流れを導いて適(ゆ)く學問である。就中、羅山は元來博覽に努めた學者で、朱子學を研究するにも、廣く諸家の説を採入れて、之を獨自に演繹發展せしめ、其の點、動もすると雜駁に流れた。夫に對して闇齋は飽くまで考亭朱熹の著書に就て、直接そのものを深く究める事を主とし、專ら純粹祖述を尚んだ。而も斯う云ふ闇齋の祖述の態度は極めて峻嚴で、朱子の著述でも、何か夾雜物があるとか、後世の學者の手を加へたものであるとかは、極力之を辨別排斥し、且つ朱子自身の諸説でも、其の早晩、其の定未定に依て、前後撞著がある時は、其の定論を基底に於て把へ、之を取捨撰擇し、少しも假借する所が無かつた(注一)。

「朱子の學、また述而不作、信而好古にして、居敬窮理と學の道を立られしも、皆、孔子を祖にしてたがはぬは、朱子なり。故に朱子を學んで、たとひ誤るとも、朱子とともにあやまれば、何の遺恨あらんや。故に余、一に朱子を信じて述而不作。汝輩、この述而不作の意を守て、失ふこと勿れ」(注二)。

と云ふは、祖述の極致を表すもの、一瞥、見眞大師親鸞の圓光大師法然に對する崇奉を彷彿せしめる(注三)。從つて闇齋は、晩年の讀書箚記『文會筆録』二十卷を始め、多くの著述を刊行したが、其の著は孰れも主題に關する程朱および其の正統派門流(注四)の見解を、嚴密に精覈縷斥して集大成し、其の中から朱子學の本義を體認憲章し、朱子學の提要を明確に斥し示したものである(注五)。是れ崎門儒學に於る「述而不作」てふ、一以て貫く祖述主義の表現に他ならぬ。然れば佐藤直方は、師・闇齋を「我が邦、儒學正派の首倡也」と云ひ、朱子が「道學の正義を發明」し、朱子學が「萬世不易の定準」たるを識るは、實に山崎敬義先生である(注六)とし、或は「日本の朱子」(注七)と世に喧傳された。

 然し一方に於て山崎闇齋は、所謂埀加神道と云ふ「大日□[靈の巫なし+女]貴の道・猿田彦神の教」(注八)を確立唱道した。此に於ても亦た「述而不作」る祖述の態度は貫徹され、我が國古來の神道の本質を、吉田・齋部・度會・北畠等諸家の神書・諸抄・祕傳を通して、私見を混同せずに闡明せむとした。「埀加、偏私なく、諸家の奧祕を扣き、集めて大成す」(注九)とは、門人・土守靈社澁川春海の云ふ所、而して其の據る所は、崇道盡敬皇帝舍人親王の「日本紀」を撰修し給ふ御態度であつた。即ち、

「古來の説、詳あり略あり、同あり異あり。天皇、博く之を聚め、具さに之を紀し、敢て之を取捨したまはず。敬の至り也」(注十)。

とて、之を讃へ奉り、亦た闇齋自身も神道の本義を祖述し、『中臣祓風水草』三卷等を著して、埀加神道を樹立した事から、後學・光海靈社跡部良顯に依て、「誠に神道の明光を著し、我國に功あるは、舍人親王以來一人」(注十一)と稱された。

(注一)紹宇近藤啓吾氏云、「朱子の理論は複雑であり、時としてそのうちに錯誤矛盾さへも含んでゐるが、これは一つの思想を生み出すもの、創生の苦惱を示すものに外ならぬ。しかるに元・明時代の朱子學者は、その錯誤矛盾をそのままに正當化せんとして、いよいよその論を複雑に、かつ抽象化してしまつたのであるが、これに對し、元・明の學説を否定して朱子に歸ることを念願とし、同時に朱子の説のうちに存してゐる矛盾や、その思想の進歩の上から來る前後の相違を發見して、これを嚴密に比較し、つひに朱子の定説結論とすべきものを抽出して後に示したのは、わが山崎闇齋であつた。この態度を更に推進したものが絅齋であり、かくしてここにわが國の朱子學が樹立せられた」(『若林強齋の研究』)と。
 又た朱子の定未定論の考證に就ては、友枝龍太郎博士『朱子の思想形成』に詳しいが、崎門の所見との比較異同を試みれば、面白い結果が得られよう。

(注二)『艮背先生語録』に云ふ闇齋の言。『埀加草』卷十「題朱書抄略」に、「述べて作らずとは、嘉の學ぶを願ふ所ろ也」とあり、『絅齋先生語録』に、「加右衞門、一生仰らるゝにも、一代なんの發明もないが、聖賢の定規て、私了簡を用ゐぬは恥ぢぬ、と云はれた」とあるも、祖述の態度を示して餘薀なしと云へる。

(注三)『歎異抄』の親鸞の言に、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とあるが、其の師に對する戀慕ぶりが想ひやられて床しい。

(注四)日本學叢書卷六『神儒問答』の遊佐木齋「(鳩巣室新助に答ふる)第一書」・「第三書」に據ると、闇齋は、朱門では蔡節齋・九峰父子および黄勉齋を、南宋の眞西山・王魯齋、明の薛敬軒・丘瓊山、朝鮮の李退溪を目してゐる。又た曰く、「其の他は閲せずと雖も、蓋し憾み無し焉」と。

(注五)闇齋の朱子學研究の方法論に就ては、例へば『埀加草』卷十三「文會筆録」三の「自朱註定云々」條等に見ゆ。又た前掲の木齋「第一書」に、「引證考據、的實にして臆説無し。必ずや也、朱子に因る。其の學者をして『語類』・『文集』を見せしめ、必ず元・明が諸儒の末書を見るを許さず」とあり、『絅齋先生常話雜記』に、「山崎先生、仰せらるゝは、をれが筆録などに引いた書に、本書をみずに引く書はない。若し古書なければ、「なにゝなにを引いて曰く」と書いておいた。他日、吟味してみよ。一字のちがひはあるまい。朱子の『集註』に、此義未詳と、『楚辭』の註などにもあるが、これが朱子の博識の證據とあること。なにが天下のひろいことゆゑ、何とやうな博識なもありてさばくまいものでないが、それを未詳と仰られて、明儒の左樣なことをいろゝゝ云ふものどもが、終ひに動かすことならぬぞ」とあり、闇齋の學問に對する、平常の嚴密的確なる態度が窺へる。

(注六)『韞藏録』卷二「討論筆記」。荻生徂徠の高足、服部南郭に於てさへも、「宋儒が窮理の説は、豈に其の宗旨を極め易からんや乎。今人の『四書集註』は、猶ほ且つ之を精す能はざるがごとし。亢顔、自ら朱學と稱す、一笑を發す可し。此の邦、朱子の意を得る者は、其れ唯だ山崎闇齋なるか乎」(『先哲叢談』)の言あり。亦た『日本道學淵源録』卷一「闇齋先生」參看。近藤氏云、「朱子の思想を究極まで發展させる時は、當然崎門といふ姿になるのである。‥‥朱子が認めてゐる聖人の權といふ思想を否定して、『拘幽操』に置代へる。これこそ朱子を最もよく理解する者の態度である」(『若林強齋の研究』はしがき)と。

(注七)『日本道學淵源録』卷四「留守希齋・製述官朴學士に與ふる書」。
(注八)『神代卷風葉集』首卷。
(注九)『秦山集』卷十五「甲乙録」一。

(注十)『埀加草』卷六「藤森弓兵政所記」。闇齋は『同上』卷十一「御靈八所記録に跋す」に於て、「夫れ我が神道の大成は、親王に在り」と云ふが如く、舍人親王を神道の大成者と把へてゐる。『埀加文集』に、八重垣靈社伴部安崇が序して、「舍人親王、親書大成の薀を明かにし、朱子の千載不傳の緒を接ぐの實を識る者は、獨り吾が埀加先生也」と云つたが、闇齋の標的とする所、支那に在つては朱子であり、而して我が國に於ては實に舍人親王であつたのである。

(注十一)『埀加翁神説』序。又『強齋先生遺草』卷四「埀加靈社招祷祝詞」に、「幸ひに翁へる有て、舍人親王の正統を千載の後に接續して、邪祕習合種々の雲霧を伊吹拂ひて、吾大日□[靈の巫なしに女]貴の道・猿田彦神の教を、復再た世に明かに成し給へり」とあり、『強齋先生雜話筆記』卷一に、「日本にも、日神の道を教へたるは、右、申す通り、猿田彦の神が祖で、其の道を傳へたる人は、舍人親王の以後は、山崎先生より外には之れ無く候ふ」とある。
 然るに『同上』卷六「雜記」には、「菅丞相と云ふ人は、舍人親王以來の學者ぞ」とあり、菅原道眞を云ひ、『同上』卷八「神道夜話」には、「親房は天下第一の忠臣、舍人親王以來の學者なり」とあり、北畠親房を云ひ、『埀加草』卷十「會津神社志序」には、「會城太守中將源正之、我が神道に達し、舍人親王以後の一人也」とあり、土津靈神保科正之を加へ、『秦山集』卷四十三「西山遺事の後に書す」には、學問の功大なるは、「弓兵政所の後、蓋し鮮し矣」と云ひ、所謂元和堰武以降、「上は則ち土津靈社の若き有り、西山の若き有り、下は則ち埀加翁の若き有り、相ひ與に正學厚徳を以て、始めて斯道を千載の後に挽囘し、發揮引重、餘力を遺さず、眞に我が朝の中興と謂ひつ可し矣」とあつて、徳川光圀を數へてゐる。
 尚ほ「○○以來一人」と謂ふ表記は、蓋し朱子學者傳來の書法に出づるのであらうか。『埀加草附録』卷中「魯齋考」下に引用する薛敬軒『讀書録』に據ると、許魯齋を「朱子の後、一人のみ而已」と讚する言が見え、又た前掲の木齋「第三書」に據れば、朱子を「孔子の後、一人のみ而已と爲す者は、林興祖に始り、楊廉に成るか歟」とあり、我が闇齋を「朱子の後、一人のみ而已」と斷ずる書法が見える。

┌───┐
│ 承  │
└───┘

 猶ほ此に注目しなければならぬ事は、崎門儒學と埀加神道に於る、此の「述而不作・集而大成」する祖述の態度、夫れは儒學は儒學の、神道は神道の祖述であつて、兩者は全く別體なるもの、其の關聯沒交渉、相往來せざるものであると云ふ事である。即ち儒學に於る朱子學の祖述は、朱子の本質を異にせぬ限りに於て、或は其の所説の語つて審かならざるものに於てのみ、演繹發明するを認めたが、神道に於ては、斷然、之を拒否したのである。是は望楠軒神道の組織者、守中靈社若林強齋の傳聞する所として、次の如き闇齋の言に端的に示されてゐる。

「先生の曰く、神道の事、あまりに道理を發起して説かぬ事なり。埀加翁は、吾が才を以て神道の事を演繹して説かば、諸人感服して、なびき從ふべし。此の事、甚だ易し。然るに然樣に説くは、神書をあいしらふ體でない。やはり古説を立て、「おぼこ」なりに云つて置くが、神書を讀むの法なり。「言、嬰兒に借る」と云ふが大事の旨ぢや、と仰せられたる由也」(注十二)。

亦た曰く、

「扨て埀加翁の御相傳の趣を、とくと味うて見れば、古傳の通りを、こちから加減をせずに、其の通りを傳ふると云ふことを、いかう大事にかけられた。何であらうと、此の通りが古傳の通りぢや、と云ふことがある。あなたの高明で潤色して、尤らしうなされうならば、殘る所ない筈ぢやに、それを其の通りで傳へられた。嘗て云はるゝは、拙者が力であやなして、人の心服する樣に云ふならば、どうなりとならうが、微塵もさう云ふことせぬ、と仰せられた」(注十三)。

朱子學の力説する「居敬窮理」の方法、夫は往々にして演繹發展へと繋がる傾向を有つのであるが、其の完全なる否定、即ち古傳の完璧なる祖述墨守である。闇齋は「古語大道は、而ち辭は嬰兒に假り、心は神聖を求む」(注十四)る氣象にて、神道の傳承を其のまゝ集成し、其處に祕められてゐる意味を理會しようとしたのである。是は崎門儒學に於て、程朱を祖述しながらも、其の矛盾があれば、易の本指に非ずとして、「各の自ら詳を致して可也」(注十五)と、歸正の餘地を殘した敬義内外説の斷案、或は其の徹底せざる議論があれば、之を究極推本した常時昏昧説の主張、或は聖賢の現行と雖も、至正ならざる所あれば、之に孤證を求めて鐵槌を下した『拘幽操』の表章等の祖述の在り方より、一層徹底したものであると謂はねばならぬ。

 然らば闇齋に於る神儒兼學の志、問學の態度は何如に。神道の門人白玉靈社正親町公通より奉らしめた『誓文』に、「異國の道、習合附會仕り間敷き事」(注十六)の一條があり、之を奉持謹守せしめ、又た埀加神道所依の教典『中臣祓』・『神代紀』を論じて、「神道の事、『中臣祓』とは、兒屋命に始りて、種子命に成る。『神代卷』とは、舍人親王の紀する所なり。此の二書は、則ち我が國、唯一の傳にして、他の三教の言を雜へず」(注十七)とあり、闇齋の神道に對する根本的姿勢を知る事が出來る。又た谷秦山の説く所に依ると、

「俗間の神書の注解、多く外國の書を引いて發明す。今ま按するに、非也。是れ埀加翁、弟子に示す隨一の箇條、大にいましめ給ふ所なり。近時神道大に開け、卜部兼倶などは、もとよりさたに及ばず、『纂疏口訣』などの如く、佛書を引て神書をとくは習合也、とて人々これをよしとせず。只だ智仁勇を以て三種神器をとき、中庸を以て中瀬を談じ、中極の道にて天御中主を釋し、土用を以て蛭兒を注する類、道理親切にして語意明白なり。故に讀者、其の非を知らず。夫れ神道は開闢最初の道にして、一點も他國の道をまじへず、學者、只だ其のうみのまゝの正意を述べし。もし儒書を以てこれを釋せば、たとひ道理に害なくとも、儒教の氣象意味にひかれて、わがうみのまゝなる本意に至る事、かたかるべし。是れ大になげくべき所なり。其の上、堯・舜の父子、湯・武の君臣、儒教の主意とする所、我が國の大に忌畏なる所なり。道の根本、不同事、かくの如し。尤も習合しがたきものなり。埀加翁、儒書を語るや、一言も神道のうはさなし。神道をかたれるや、半句も儒書の沙汰なし。別席にあつて、別人の話を聞くが如し。尤も法とすべきものなり」(注十八)。

とあり、闇齋が神儒の混淆を排斥した事は炳かである。混淆は排斥したが、生涯を賭して兼學した事は、根本に於て兩者が一致する事を信じてゐたからで、日域日神の道たる神道と漢土聖人の教たる儒教とは、其の教の立て方、教の傳へ方は異つてゐたが、表現してゐる深奧の道理は一致してゐると考へたからである。其の言に曰く、

「我が倭、開國の古へ、伊弉諾尊・伊弉冉尊、天神卜合の教を奉じ、陰陽の理に順じ、彜倫の始を正したまふ。蓋し宇宙唯一の理なれば、則ち神聖の生るゝ、日出處・日沒處の異なると雖も、然も其の道、自ら妙契する者ありて存す焉。是れ我人、當に敬以て思ひを致すべき所ろ也」(注十九)。

と。神道の修得は、儒教倫理に依る混淆習合では無く、「(天人)唯一」を基軸と爲す神儒に於る冥々の一致、即ち「妙契」する所の統一體認に在つた。跡部光海は這般の消息を、

「蓋し神道とは、異邦三教の一滴を嘗めずと雖も、儒道に於ては則ち妙契す。故に神道を以て本と爲し、儒道を以て潤色と爲す。然れども妄りに習合して説く可からず。良に以(ゆ)ゑ有るかな矣乎。‥‥去歳の孟夏に熟思するに、埀加翁の學は、則ち偏癈す可からず。唯だ儒を信じて神を排し、又た神を信じて儒を癈するは、埀加翁の教に非ずして、別の一派の學也。‥‥予れ沉痾眼昏、短才小知の一凡人と雖も、而ち此の道を守り、忠孝の大義を抱き、日本の人と成り、日本の地に死なむと欲するのみ而已」(注二十)。

と道破したが、寔に埀加崎門の學道に徹したる至言と謂ふべきである。而して神儒妙契の確信にも拘らず、妄りに習合すべからざるを云ふは、却つて祖述純粹主義本來の面目を明確に認識してゐた證據と云ひ得るであらう。

(注十二)『強齋先生雜話筆記』卷五「雜話續録」三。
(注十三)『同右』卷九「望楠所聞」。
(注十四)『埀加草』卷一「埀加社語」等に引く忌部正通『神代口訣』凡例の言。
(注十五)『同右』卷十七「文會筆録」七之三。

(注十六)出雲路敬直氏所藏。此の誓約は三箇條より成り、「右、三箇條の旨、相ひ背くに於ては、伊勢・八幡・愛宕・白山・牛頭天王、殊には伊豆・箱根兩所權現、惣じて日本國中大小神祇の御罰、相ひ蒙る可き者也」とある。

(注十七)『續埀加文集』卷上「土津靈神行状」。猶ほ此の「唯一」の謂ひは、「道は天人を貫く、是を唯一と謂ふ矣。儒佛を混へざるを唯一と爲すと謂ふ者は、甚だ非也。雜へて外國の説を以てす、是を習合と爲す。唯だ佛説を混へるを謂ふのみに非ざる也」(『神代卷風葉集』首卷)。

(注十八)『俗説贅辨』卷下「異國の書を引いて神書をとく説」。
(注十九)『埀加草』卷十「洪範全書序」。

(注二十)『埀加翁神説』跋。又た前掲「神道夜話」には、「神道に習合を戒むるは、傳教・弘法以來、佛道を以て附會せる故なり。固より戒むべきこと也。儒書と雖も、牽合附會せるは、是も亦た戒むべきことなり。其の理の自然に相契ふ所は、習合と云ふまでもなく、妙契なり。それともに習合なりと云つて、よけていはぬ樣にするは、いな意地と云ふものなり」とあり、天人唯一の理論的根據を有たず、文獻學に依て埀加神道を否定した所謂國學神道への反評ともなり得るであらう。
 而して國學者一流の信仰・情操に至つては、確固拔くべからざる先蹤を、埀加神道に見出す事が出來る。埀加直門の大山葦水から影響を受けたと思はれる荷田春滿(『神道辨草』)、絅齋門・村田全次を近親に有ち、五鰭靈神玉木葦齋直傳、振々靈社谷川淡齋と交友厚き本居宣長(『學統圖』)、絅齋に師事して以來、父祖三代に亙つて崎門學を奉じ來つた平田篤胤(『古史徴』卷一)、何れも有形無形の感化を蒙つたこと、疑ひを容れぬ。
 然れば宣長の曰く、「仰せの如く埀加流にて殘心に存じ奉り候。併し乍ら道を大切に存ぜ被れ、氣慨甚だ敷く候へば、眞の學者と存じ候ふ。今時古學の徒は、道を憂ふる心はなく、たゞ己が見解をのみ高くして、輕薄に御座候ふ。是れ古學の弊と存じ奉り候ふ」(東京國文學資料館藏『内宮權禰宜蓬莱尚賢宛書翰』)と。
 又た篤胤の曰く、「山崎闇齋などは、神道の杜撰を爲たのは惡けれども、然すがに御國の事に心をよせた程あつて、頼もしい所がある。夫れ故この闇齋が取立ての學者だち、また其の流れを汲む輩、何れも御國忠の一義に於ては蹈みたがへず」(『悟道辨講本』卷上)と。

  • [8]
  • 皇國護持の學問、其の七。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時46分56秒
  • 編集済
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■谷秦山先生『中村恆亨に與ふ・辛巳』(元禄十四年。『秦山集・義』卷第十一)に曰く、「

 天照大神、天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八坂瓊曲玉及び八咫鏡・草薙劒の三種の寶物を賜ひ、又た天兒屋命・太玉命・天鈿女命・石凝姥命・玉屋命、凡そ五部の神たちを以て、配侍焉せしめて、因つて皇孫に勅りして曰はく、『葦原瑞穗の國は、是れ我が子孫の王たる可きの地也。宜しく爾ぢ皇孫、就きて治らしむべし焉。行けや矣。寶祚の隆へんこと、當に天壤と窮り無かるべき者なり矣』と。是れ乃ち吾が道の本原にして、天地の位する所以、君臣の敍づる所以、正に此に在り。千秋に更へて萬歳、二道無き者也。

 西土の國を立つるや也、本を二にす焉。謂ふ、泰伯の去る、夷齊の饑うる、君に事へて貳ふ無き、是也。成湯の放つ、武王の伐つ、天に順じ人に應ず、亦た是也。天下、豈に兩是有らんや哉。二本に非ずして、何ぞ。夫れ子と爲て孝に死し、臣と爲て忠に死し、婦と爲て貞に死す、此の三者は、則ち天地の大經、古に亙り今に亙りて、□[手+眞+頁。てん]撲、破れざる者也。然り而して西土、獨り臣の君を殺すの道有るは、何ぞや耶。其の國を立つるの本原、此の如し。宜なるか乎、末流の弊、簒弑相踵ぎ、歳ごとに主を易ふるに至る也。西土の國たる、湯武の大聖有つて、既に放伐の始めを爲す。孟子の大賢、復た爲めに之を祖述すれば、則ち儒者紛紛、已むを得ざるの論有るも、亦た必到の勢也。獨り恠む、聖朝の人、君は君とし臣は臣として、忠厚誠篤、數萬載の邦に生れ、何ぞ苦んで、乃ち外國二本の説を信ぜん。天歩、少しく古への若くならざれば、輒ち名づくるに衰周を以てし、臂を攘ちて抗論し、諸國を擬するに齊梁を以てせんと欲し、悍然として天誅神罰の何物たるを顧みざる也。悲しいかな夫。莊子が言ふ所、詩禮を以て□[塚の右]を發く者、此に於いてか乎、驗あり矣。

 抑も日本は、神國也。天の安河の古より平安城の今に距るまで、天照大神、鎭常へに高天原に在しまして、明明赫赫、我が斯の人に臨みたまふ。天下の事、萬起萬滅すと雖も、然れども天上の日輪、未だ地に墜ちず、人間の皇統、搖がし移す可からず。此れ皆な一人相將ゐ、相與に保守祕護し、敢へて失墜せざる者、其れ豈に艸野刻薄の儒、得て窺ふ所ならんや也哉。儒者の學、富めりと謂ひつ可し矣。其の所謂る居敬窮理の訓へ、菽栗布帛の身に切なるが如し。顧ふに今の學者、是れを之れ學ばずして、彼の二本の已むを得ざるの説を以て、焉れに先んず。肉を食はずして馬の肝を喫ふ、亦た笑ふ可き也。前日、喩す所、傲言不祥、大いに駭く可き者有り。

 夫れ皇朝は、神明の統也、一本の國也。異邦の、今日、履を賣り、明日、祚を踐む者と、年を同じうして語る可からず。是を以て豪釐も上を忽がせにする者は、必ず罰せられ、芥蔕も君を慢る者は、必ず殃ひす。敬まざる可けんや乎。戲言も思ひに出づ。願はくは高明、之を戒めよ。‥‥此の外、世間の譽毀、斗升の沈浮は、何ぞ道ふに足らんや耶、何ぞ道ふに足らんや耶」と。


■谷秦山先生『私講□[片に旁]諭』】(元祿六年癸酉)に曰く、「

 頃ろ二三子の稱説するを觀るに、其の堯・舜・湯・武の事に於けるは、或は詳ならずと雖も、猶ほ聞く可し焉。其の日本神聖祖宗の事に於けるは、特(ひと)り傳授の次第を知らざるのみに非ず、或は名號男女の分を辨ぜざるに至る。嗟乎、人の父を知つて、己の父を知らず、人の君を認めて、以て己の君と爲す。此の莫大の罪、二三子疎學の過ちと雖も、抑も又た近時風俗の弊、志し有る者、痛く懲して、猛く之を革めざる可けん也哉。

 今方に二三子と、孔朱の書に從事す。固より應に夙夜鑽研、日、給するに暇あらざるべし。然るに此れは是れ學者終身の事業、休歇を期す可きに非ず。而して向(さき)に所謂日本之學なる者、即ち我が神聖相傳の道、君臣父子の大倫、中國夷狄の嚴辨に關繋す。豈に第二義の看を作さん哉。只だ宜しく神儒竝び進み、博詳兼擧するのみ而已。當に復た疑難すべからざる也」と。


■谷秦山先生『西山遺事の後に書す』に曰く、「

 『西山遺事』は、水戸の臣等、其の主・西山(義公)の行實を紀す也。西山、剛方正大の氣、孝友忠純の誠、固より至性に出でて、其の國(水戸藩主)を讓り、以て彝倫の敍を全うし、嫡を正し、以て邦家の本を立つる(兄弟の序を正す)と、夫の皇統を正閏して、春秋の權を寓せ、禮儀を辨裁して、蠻夷の衝を折する(大義名分を明かにす)が若きに至つては、事、皆な天理民彜の源に關かり、經綸建立の奧に根ざす矣。學問の功、大なるかな哉と謂ふ可し。之を古人に遡るに、弓兵政所(崇道敬盡皇帝、即ち太政大臣一品・舍人親王)の後、蓋し鮮(すくな)し矣。

 抑も後水尾帝、高天原(帝都)に在し、東照宮、區夏を再造せし以來、昇平百年、教化薫洽、上には則ち土津靈社(保科正之)の若くなる有り、西山の若くなる有り、下には則ち埀加翁(山崎闇齋先生)の若くなる有り、相與に正學厚徳を以て、始めて斯の道を千載の後に挽囘し、發揮引重、餘力を遺さず、眞に我が朝の中興と謂ひつ可し矣。後世、治を願ふの君、學に志すの士、安んぞ其の風を聞いて興らざることを知らんや乎。是れ予、此の編を三歎する所以ん也。重遠、學術迂僻、識、徳を知るに非ず、何ぞ以て此に與かるに足らん。

 顧みるに、前脩の遠き、慨然に堪へず。竊かに平生の考ふる所を併せ識し、敢へて其の後に附し、以て百年、論定まるの日を竢ちて、焉れを訂さん。

 寶永七年庚寅十二月六日、土佐國鏡郡・大神重遠、拜書す」と。


■谷秦山先生『保建大記打聞』に曰く、「

 師(秦山先生)曰く、吾も人も日本の人にて、道に志あるからは、日本の神道を主にすべし。其の上に器量氣根もあらば、西土の聖賢の書を讀みて羽翼にするぞならば、上もないよき學なるべし。是れ舍人親王の御本意、恐れながら吾等内内の志也。然るに今の神道者は、西土の書にうとくて文盲なり。儒者は人の國をひいきし、吾が國の道を異端のやうに心得てそしり、各々異をたてゝ湊合根著せず、學風が薄く猥りにして、見るに足らぬぞ。吾これを憂ひ、内内同志と講習して、天下の學風の助けにもなる樣にしたいと思へども、山崎先生は過去り玉ひて久しく、淺見安正は、晩年、神道に志は出來たれども、やうやう一兩年の内、卒去めされて、うしろだてにすべい先輩なく、其の外、名ある學者たち、多くは齊國・魯國のせんさくを第一にして、吾が國に懇切なる志なく、又は神道を尊敬はせらるれども、未傳授なり。其の外は詩文の浮華にめで、どれこそ取るに足らぬぞ。

 平生、是をきのどくに思ひをりたに、このごろ不慮に、此の書(栗山潛鋒先生『保建大記』)が出たぞ。是ほど珍重なことはない。古今めづらしき書ぞ。是こそ神道を大根にして孔孟の書を羽翼にしたと云ふものぞ。さるによつて、吾れ、事の外、信仰する。過去つた人なれども、甚だ味方に思ふて、此の講席を開くぞ。別して本望千萬ぞ。栗山氏の師授淵源はしらねども(愚案、秦山先生、豈に圖らんや、闇斎――桑名松雲――潛鋒先生にして、同門同學なるを)、兩卷とも論に間然することはないと見えた。先賢にも愧ぢぬ見識、後學のよき矜式なり。日本の學者は、只この樣に學問をしなすべいものぞ。千萬祈祝の至り也。‥‥

 天神も、天子にたよりて尊く、人命も、天子にすがりて立つものなり」と。


■谷秦山先生『美代重本に與ふる書』(元禄四年辛未)に曰く、「

 重遠啓す。某(秦山先生)、去年乏絶中、時に或は斷粮す。某は則ち男兒、何を以てか顰蹙せん。惟だ一僕困頓、見るに忍びす、毎に之を苦む。今年は則ち乏絶中の乏絶、故を以て月初、一僕を遣歸し、兀然として獨坐す」と。


■谷秦山先生『三宅尚齋に答ふる書』(『秦山手簡』所收)に曰く、「

 御諷諫までもなし、君を弑し申し候ふも、事によりくるしからずと、もろこし第一の易に出で候得共、此方に用ゐず候ふ。合はざる事を用ゐず候ふからは、合ひ候ふ事を用ゐ申すも、自然の理にて候ふ。是れ人の本心にて候ふ。むせぶにこりて食をすて候ふは、愚昧の人のする事、法るに足らず候ふ」と。


■谷秦山先生『(靜軒)宮地介直に答ふる書』(正徳元年辛卯)に曰く、「

 抑も我が邦は、開闢以來、亡びざるの國也。神代の古風、猶尚ほ考ふ可し。以て普天に軌則して、愧づる無かる可し。而るに我が國の人、質朴餘り有りて、考究精しからず、反りて外國敗亂、百起百滅の遺塵を信じ、彼の風を移して、以て我が人を化せんと欲す。何ぞ其の思はざるの甚だしき也。


■谷秦山先生『宮地介直に答ふる書』(正徳二年壬辰)に曰く、「

 日本、開闢以來億萬載、帝皇一統、聨聨綿綿、一日の如し矣。中古而降、武家權を執り、政を天下に施し、閑に王室を衞る。而るに君臣上下の大分、天地と位を同じうし、未だ曾て搖ぐこと有らず焉。是れ本末曲折、顯著明白、舟車の通ずる所、孰か之を知らざらん。‥‥

 夫れ國の強久は、土地甲兵の盛んに在らずして、名分の嚴に在り。‥‥我が朝、終古、外國の侵侮を受けざる者は、豈に大小強弱の勢を以てせん哉。唯だ其の名分の正、萬國に冠絶すれば也」と。


■谷秦山先生『宮地介直に與ふる書』(享保元年五月二十五日。『秦山手簡』所收)に曰く、「

 惣じて日本の學、萬事有ていに正直、少しにても己をほこり、物をあなどり申す心、有るまじき也」と。


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 『少年日本史』第六十二章・第六十三章「山崎闇齋」、敬書し増補すること、件の如し。 百拜

  • [7]
  • 皇國護持の學問、其の六。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時44分41秒
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【本文・谷秦山】

 闇齋の門下に、すぐれた人物多い中に、忘れてならない一人は、谷秦山であります。土佐に生れ、延寶七年十七歳にして上京、先づ淺見絅齋にあひ、ついで闇齋の指導を受ける事、半年ばかり、一たん歸國して又た上京し、再び半年ばかりの間、指導を受けました。つまり十七歳から十九歳へかけての三年間に、正味一年ほどの間、闇齋の教へを受けて、土佐に歸つたのでしたが、その翌年には、闇齋亡くなつたと聞いて、すぐに上京してお祭りしました。從つて闇齋の門下、幾百人の中で、最も年少であり、末輩でありました。然しその純眞と熱誠と、そして勉學とは、此の最も若く、最も後輩である谷秦山をして、最も正しく闇齋の學問思想を理解させ、繼承させました。闇齋の門下として、世間でもてはやされる人に、佐藤直方があり、三宅尚齋があります。然し闇齋門下の最も純正なる人物は、此の谷秦山でありませう。前に望楠軒の清貧苦學の有り樣を述べましたが、秦山の生活も、亦た同樣でした。その家は、關ケ原の戰で亡ぼされた長曾我部氏の家來であつた爲に、山内藩では郷士の待遇を與へられましたが、實際は農耕を勵まなければ、生活はしてゆけなかつたのです。元禄元年に、父が亡くなつた時には、家が貧しいので、葬式が出せなかつたとあります。後に先祖の墓參りをするに當り、友人に頼んで、木綿の袷せ一枚を借用した事がありました。それ程の貧困にも屈せず、學問に精を出しましたが、その學問の態度は、世間の人々が博識を喜ぶのとは違つて、學問の筋を吟味して、正邪を批判する事、頗るきびしいものでありました。

 闇齋の門人・桑名松雲に教へを受けた人に、栗山潛鋒と云ふ學者があります。才氣の鋭い人で、十八歳の時に、『保建大記』を作りました。保は保元、建は建久で、我が國の衰へたのは、保元の大亂より起り、建久年間に至つて、全く覇道に落ちたのであるとし、その原因を探り、事情を分析し、功罪を批判した書物であります。その後、潛鋒は、徳川光圀に招かれて水戸へ行き、『大日本史』の編修に當りましたが、寶永三年、三十六歳で亡くなりました。その亡くなつた後で、谷秦山は、門人の爲に『保建大記』の講義をしましたが、その開講の辭は、まことに目ざましいものでありました。今、その要領を取つて略述しますと、次の通りです。
「お互ひに日本人であつて、道を究めようとするのであれば、當然日本の神道を主にするべきである。その上に力量があれば、進んで外國の書物を讀み、それによつて日本の道を輔佐してゆくがよく、もしそれが出來れば、これにます學問は無いであらう。是れ即ち『日本書紀』編修總裁・舍人親王の御本意であり、同時に恐れながら我等内々の志も、之を目標としてゐるのである。然るに今日、神道者は外國の學問に暗く、儒學者は外國をひいきし、我が國の道を邪道のやうに考へて非難し、内外の學問を統一する力量が無い。自分は之を憂ひて、何とかして學界の氣風を一新したいと思ふけれども、山崎先生は亡くなつて年久しく、淺見絅齋は晩年になつて、神道に志は出來たものの、間も無く病歿せられ、今は我等がうしろ楯として頼むべき先輩は無い。世間で有名な學者はあるが、多くは外國の事に沒頭して、我が國には不親切であり、また派手な詩文を作る事にのみ熱中して、どれも取るに足らぬ者ばかりである。平生、之を遺憾に思つてゐたところ、はからずも此の『保建大記』が現れた。是れ程珍重な事は無い、古今珍しい書物である。是れこそ神道を根本主幹とし、儒學をその羽翼としたものと云つてよい。それ故に自分は格別之を信仰するのである。日本の學者は、只この樣に學問をするべきものであるぞ。」
是れは秦山の風格と見識とを考へる事が出來ると同時に、闇齋の門下主流の學風も分る重要な議論です。秦山は三宅尚齋との論戰の中で、更に之を簡單明瞭にして、「日本の人は、天照大神を本にすべきなり。唐の人は、孔子を本にすべきなり。是が道理の至極なり。貴樣も日本人なり。然るに天照大神をすてよ、孔子を本にせよとは、あやまり甚だしきにあらずや」と論じてゐます。

 秦山の家が貧しかつた事は、前に述べましたが、苦難は只だ貧困のみに止まらず、寶永四年には、藩當局の爲に禁錮の刑に處せられました。禁錮といひましても、實際は自宅謹愼のやうですが、四十五歳で自由の活動を拘束せられて、享保三年六月、五十六歳で亡くなるまでの十二年間、外へ出る事が許されなかつたのでしたが、少しもそれを怨む樣子もなく、晝は書を讀み、文を作り、夜となると空を仰いで、天文學の研究に耽つてゐました。秦山は天文學を、澁川春海に學んだのです。春海は闇齋の門人ですが、天文學に於いては、頗る傑出した人であり、いはば日本の天文學を開いたと云つて良い人でした。

 秦山は土佐に住し、殊にその晩年は旅行を禁ぜられましたから、その學問がすぐに天下を動かすには至りませんでしたが、不運の一生にも拘らず、よき子孫にめぐまれ、その學問は長く此の家に傳はりました。そして秦山の歿後百數十年後に、此の家から、此の教へを承けて出て來たのが、谷干城であります。

 谷干城が、明治十年、西南の役に、熊本鎭臺司令長官として、薩軍の前途を遮り、寡兵を以て孤城を死守した武勳は、誰れ知らぬ者もありませんが、この人が少年時代に、その父祖より教へられた所は、次の通りでした。
萬一、國の大動亂が起つたならば、何を措いても、京都に上れ。上つて天子樣をお護り申し上げよ。もし旅費が無い時は、乞食をして上れ。御所をお護り申し上げて、力盡きたらば、御所の塀によりかかつて死ね。死んでも、御所をお護り申し上げるのだ。
是れ即ち秦山が、その家に殘した所の教へであります。

 谷秦山の教へを受けた人の中に、宮地介直があります。その介直の子を、春樹といひました。寶暦十二年(西暦一七六二年)、桃園天皇御崩れになりました時、幕府は五日間の音樂停止を發令しました。徳川幕府の性格は、實は此の點に於いて明瞭になるのです。大抵の將軍の病歿した場合、四代家綱・五代綱吉・八代吉宗など、いづれも五十日間の音樂停止でした。三代家光は、それが七十日でした。後に十一代家齊に至つては、百日間の長い禁止令でした。御三家といへば、尾張・紀伊・水戸でせう。その御三家の當主が病死すれば、七日間音樂を禁止しました。次に老中が病死すれば、その爲には三日の音樂禁止でした。此の通例を見て置いて、さて天皇崩御の時は、どうかと見ると、三日、又は五日の音樂禁止であります。つまり幕府は、表面は朝廷を重んじ、皇室を尊んでゐるやうであつて、實は老中なみの待遇を申し上げて、平然と構へてゐ、誰もそれを怪しまなかつたのです。闇齋の門流は、當然之を批判しなければならぬ。果して今、桃園天皇崩御あらせられ、幕府五日間の音樂停止を發令するや、宮地春樹は、慨然として意見書を土佐藩の大目付に提出し、「將軍の威勢は益々盛んになり、天子の御威光は益々微弱になつた爲に、知らず知らずのうちに、將軍を君主と心得、天子をば唯だ生きたる神樣とのみ思ふやうになつたのは、げにあさましき世の中の風俗なり。今日、幕府の命令にそむく事の出來ないのは云ふまでも無いが、土佐藩内、またそれぞれの家に於いては、特別の心得あるべきであらう。又た伊勢神宮へ、藩主の代參に低い身分の侍を立てられるとの事であるが、そのやうな『なれなれしき』態度は、不謹愼であらう」と、痛論したのでありました。

 闇齋の門流、多くは身分の低い、世俗的には無力な人でした。しかも其の學問は、深く日本の本質を究明し、一轉して現實を批判し、明日を開く力を内藏してゐました。



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■谷秦山先生『炳丹録序』に曰く、「

 世の所謂眞儒、徒に中庸・時中の語を執り、深く造(いた)ること能ず。妄りに解するに時に諧ふを以てし、己の諛悦側媚の謀に便す。擧俗相ひ慣ひ、靡然として風を成す。余、竊かに懼るゝこと有り焉。因て繙閲有る毎とに、其の忠憤激烈、磊磊落落なる者を勾索し、且つ考へ且つ謄し、頃(このご)ろ積んで册を成す。題して『炳丹録』と曰ふ。蓋し諸れを朱子、「唯だ此の一念、炳然として丹の如し」の言に摘む也。

 夫れ子と爲て孝に死し、臣と爲て忠に死するは、乃ち天倫の常分、人道の大節、天地の間に逃るゝ所ろ無し矣。是を以て紀綱紊亂、風俗頽弊の朝に立てば、則ち謇謇諤諤、以て上、主聽を悟し、下、民生を保たずんばある可からざる也。流竄放謫、較べざる所に在り。國家顛覆、宗社、墟と爲るの秋に屬(あ)はゞ、則ち節に仗り義に死して、以て外、平日温飽の恩に酬ひ、内、人心本然の安きに就かずんばある可からざる也。刀鋸鼎□[金+獲の右]、辭せざる所に在り。是れ皆な臣子、當然の實務、貴賤、問ふ所に非ず、班列、顧みる所に非ざる也。

 古昔、箕子・比干といふ者有り、天子の貴戚也。又た伯夷・叔齊といふ者有り、海濱の褐夫也。倶に青史に鎭埀し、凛乎として萬世人道の大義を振ふ。其の功、特に此に在り。而して凡そ策書の傳ふる所、忠臣と曰ひ、義士と曰ひ、賢人と曰ひ、君子と曰ふ者も、亦た皆な是れのみ已。其れ然り也、正に當に天地と竝べ稱して人と曰ふべし。而して其の他は、同じく髮を戴き齒を含むと雖も、只だ是れ糞壤草木なるのみ也已。

 然りと雖も生死、事、大なり。苟くも義、以て其の私を制し、氣、以て其の決を致すに非ざるよりんば、未だ必ずしも變を歴、險を蹈んで、而して移らざる者有らざる也。蓋し義は精す可き也。其の方、知を致すに在り。氣は大にす可き也。其の術、志を持するに在り。其の傳、孟子の書に出で、其の説、朱子の言に詳かなり。諸れを窮むるを儒學と曰ひ、焉れに達するを眞儒と曰ふ。近世腐儒の云云する所と、其れ豈に絲髮の似たる有らんや也哉。

 今ま斯の一編、漢より明に至り、賢人君子、傾くを支へ躯を捐つる、義膽忠肝、頗る備はれり。方に當世の學者とともに講明するに好き者なり。然りと雖も夫の數君子、或は謫死し、或は餓死し、或は斬死し、或は妻子、□[サ+俎]醢せられ、或は父母、屠肉せられ、絶えて一箇の飽食、安居する者無き也。吁、是れ今日、滔滔の士、聞くことを樂しむ所ならむや耶。遂に繕寫して之を藏す」と。


■平泉澄博士『萬物流轉』(昭和十一年十一月・至文堂刊/五十八年六月・皇學館大學出版部復刊)に曰く、「

 忠孝の道、これ變轉窮りなき世に於いて、確立して曾て動搖せざるもの、我等のよりどころ、道徳の準則、之を措いて外なき事は‥‥。しかるに斯く言はゞ、人は此の二字、少年の日より耳に熟し目に飽くが故に、事、極めて淺近にして解し易く與みし易しとして、また多く意を之に用ひざるに至るであらう。あゝ、談、なんぞ夫れ容易なる。知らずや、忠孝の道は、これ一切の學問の、最後の歸趨なると共に、また一切の學問は、正にこれより出發して、其の最も險難なる道を攀ぢ、攀づること萬里、苦心慘憺、一生を費して、もとより容易に盡くすべからざるを。‥‥

 抑も忠孝の二字が、道徳の眼目として重んぜられ、説かれてゐる事は、一般普通の事であつて、萬人の耳に熱し目に飽いてゐる筈でありながら、實際の問題を吟味し來れば、その實行は甚だ疑はしく、むしろ別個の主義によつて生活を指導し、糊塗して日を送るといふ有樣であり、反逆の思想、天下に横溢した頃の如き、敢然よく之に抗する者少なく、却つて忠孝を餘りに喋々する爲の反動であるとさへ説いて、大義の宣揚を避けようとする風さへ見られたのであつた。しかも實際は、從來、忠孝の唱道が、單に口に唱ふるに止まつて、實踐の工夫綿密を缺いたところより、この弊を生じたのである。しからば實踐の工夫、如何といへば、それは結局、義勇の精神によつて、我等日常の生活を規律し、鍛錬し來るといふの外はない。義勇の精神なきところに於いては、忠孝百遍の唱道、何の役にも立たないのである。義勇を明かにしようとならば、しばらく其の反對を考へて見るがよい。義の反對は、利である。功利主義である。利己主義である。勇の反對は、怯である。臆病である。懦弱である。己一身の安全を欲して危險を恐れ、己一箇の利益を欲して道義をかへりみないといふ事であれば、かくして道徳の根本である忠孝の大節が成しとげられる筈は、斷じてないのである。

 予の不敏、長く此の理をさとらず、數年前、漸く之に想ひ到つて、武士道の復活を、今日の急務なりとしたのであつた。しかるに其の後氣附いた事は、此の理、はやく吉田松陰先生の道破せられた所であるといふ事である。即ち『士規七則』の第三に、「士道は、義より大なるはなし。義は勇によつて行はれ、勇は義によつて長ず」とあるもの、それである。『士規七則』は、人の知るが如く、其の第一條に於いて、人の人たる所以は、忠孝を本となす事を明かにし、次に第二條に於いて、皇國國體の然らしむるところ、我が國に於いては忠孝の一致して、分裂し扞格する所、全くなきを明かにせられたのであるが、今、第三條に入つて、一轉して義と勇とを説かれたのは、第一・第二兩條の間に存する、極めて緊密なる論理的關係より考へて、いかにも突然の轉囘であつて、我等の長く不審とする所であつた。しかしながら一たび此の理、明かになつて見れば、先づ忠孝を説いて、次に義勇に及ぶは、極めて自然であり、否、當然であつて、士規の文、餘りに簡單なるが爲め、この間の連關を説明してゐないとはいへ、松陰先生の胸中には、必ず此の理存して、現れて此の順序をなしたのに相違ない。先生が之を書かれたのは、安政二年正月の事であつて、當時、先生二十六歳に過ぎなかつた事を思へば、これは實に驚歎の外はないのである。しかるに後に至つて、谷秦山先生の『炳丹録の序』に、此の理説かれて、極めて昭々たるを見いでたのであるが、『炳丹録の序』を書かれた貞享三年は、『士規七則』の書かれた安政二年より百七八十年も前の事であり、且また當時、秦山先生の年齢は、僅かに二十四歳、士規を書かれた松陰先生よりも一段と若かつた事を考へれば、海南の哲人、少年にして道に徹せる、眞に驚歎已む能はざる所である。

 それにしても『炳丹録の序』末尾の一句、何ぞその哀痛の調べの切なるや。まことに歴史をかへりみれば、凡そ忠臣といひ、義士といはるゝ人の、慘澹たる苦しみの中に生き、苦みの中に死せざるは、殆んどないといつていゝ。先哲を皮相の名聲に仰ぎ見て、苦心を實地の體驗に思はざるものはいざ知らず、苟しくも實に履み實に思うて、正學に志すほどの者の、誰人か骨身に徹する切實の感慨なくして、容易に忠孝を談じ得よう。

 忠孝は、道の窮極であり、學の發端である。道、忠孝に窮まるといふは、こゝに道徳千古の準則あるを示す。而して學こゝに始まるといふは、これより修練の險難に足一歩を踏み出だすをいふのである。よどみに浮ぶうたかたを、たゞ束の間の命と看破つて、一時の幻影にあざむかれざるすら、竝大抵の事ではない。まして變化改換、曾てやまざる流轉のうちに、永遠不朽の道徳を認むる事は、猶更ら容易の事ではないのに、かくして見出されたる忠孝の道は、これより漸く險難の一歩を踏み出だすといふのである。然らば眞にこの道に志す者の、猛く精彩を著けて、堅固不拔、千辛萬苦を甘しとするの覺悟なかるべからざるは、もとよりいふまでもない」と。

  • [6]
  • 皇國護持の學問、其の五。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時41分3秒
  • 編集済
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【本文・若林強齋】

 山崎闇齋も、楠木正成を尊びました。淺見絅齋も、『靖獻遺言講義』の中で、正成をほめたたへてゐます。しかし絅齋の門人・若林強齋に至つては、最も楠公を尊信して、自分の家塾を望楠軒と名づけました。即ちその目標を楠公に置いて講究したのでした。享保元年に、ある門人が強齋に向つて、「弱肉強食の戰國騒亂の時になつたらば、志ある大名はどうしたら良いか、又、我々は京都へ馳せ上り、皇室をお守り申し上ぐべきであるが、それについて指示してほしい」と尋ねたのに對して、『我が國は君臣の義、上下の分、決定してゐるのであるから、どこまでも皇室をお守り申し上げる爲に、勤王の兵をあげて叛逆の者を討つべきで、それが成功するか、しないか、恩賞があるか、無いかは、一切考へてはならぬ。實際の處置は臨機應變で、今から云ふわけにはゆかぬが、只だ忠誠で之を貫くだけだ』と答へてゐます。

 強齋が、その門人・廣木忠信の死をいたんで、之を祭つた文があります。それを見ると、望楠軒の生活が、よく分ります。『夏も扇いで風を入れる事をせず、冬も火鉢に近づかず、日によつては絶食する事もあるといふ苦しい生活の中で、少しも心屈する事なく勉勵し、雪の朝、月の夕、師弟ともに茶を汲み酒をあたため、經を議し、義を論じ、今を悲しみ、古を慕ひ、慷慨相責むるに死生を以てした』といふのであります。その酒が、いつもあるわけでは無く、時々少しばかり買ひにやられるのですが、外の弟子は、僅かの酒を恥ぢて、袖のかげにかくして買つてくるのに、廣木は平氣なもので、少しの酒をぶらさげて、大脇指を腰にさして、頭を振り振り歸つて來た、とあります。強齋、清貧で紙に不自由し、風邪引いた時には、鼻をかむのに困つてゐると、廣木が紙をくれる。買つて來たのかと尋ねると、いや、私が持つてゐましたので、御遠慮なくおつかひ下さいと答へる。さて天氣のよい時に裏を見ると、強齋が鼻をかんで棄てた紙を拾ひ集め、竹に挟んでほしてある。先生には新しい紙を差上げ、廣木自身は先生のかみすてられたのを乾かしてつかつてゐたのだ、とあります。望楠軒の貧しさ、その貧しさに少しも屈せず、師弟ともに學を樂しみ、學に勵んだ事、しかもその學問が日本の國體を守るに主眼を置き、それに死生をかけた事、是れでよく分りませう。

 廣木忠信は、享保十五年八月に病死し、若林強齋も、二年後の十七年正月に亡くなりましたが、望楠軒の講義は、小野鶴山・西依成齋等によつて繼承せられ、やがて梅田雲濱の代に、幕末の風雲にであふのであります。



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■若林強齋先生『梅津某(共軒)の問目に答ふ』(『強齋先生遺艸』卷三)に曰く、「

[共軒]何時の世に致しても、譬へば甲斐の信玄の時の若くに、諸國の大名、面々になりて、人倫亂れ、君も無き如くに罷り成り候ふ場にて、有志の國主、處し樣、如何致し候ふが、義に合ひ申す可く候ふか乎。
[強齋]此の時、王室衰弱、諸侯強盛にして、天下、君無きが若しと雖も、皇統綿延として絶えざれば、則ち君臣の義、上下の分、初めより強弱盛衰を以て變ず容(べ)からず矣。天下は王の天下也、萬姓は王の臣民也。夫の戰國秦漢の間、南北五代の時、諸國、角立鼎分して統一無き者とは、殊に同じからざる也。是の時に當り、諸侯の或は王室に忠なる者有らば、當に勤王の師を出し、天王の命を奉じ、叛國を征し、亂臣を討ち、以て恢復の功を致すべし。此れ乃ち吾が職分の、當に爲すべき所を盡すが爲めにして、而して其の功の成ると成らざると、賞の得らるゝと得られざるとに至りては、則ち計らざるのみ也已矣。夫れ然る後に其の義に合ふに庶幾(ちか)しと爾か云ふ。然れども忠義確定、講學、素有り、政事を修め、風俗を□[勵の左。はげ]ます者、有るに非ざれば、則ち此の如くなること能は弗ざる也。而して彼の一旦、感激に迫られ、一時、功利を計る者の、得て擬する所ならんや耶。

[共軒]斯樣なる時、兵を以て人の國を奪ひ取る樣なる風俗になり候へば、己が國を守ること無くては、叶ふまじく候ふ。
[強齋]固より是れ之を守る、宜しく措畫有るべし。而して要は、斯の池を鑿つ也、斯の城を築く也、死を效して去ること勿きに在り。僥倖苟免す可からざるのみ也已矣。

[共軒)]かゝる時は、京都に馳上り、王城を守護致す可き事に候へば、處置有る可きことに存じ奉り候ふ。
[強齋]大要、第一條の答に出でざる也。夫の戰守・進退・臨機・應變の宜しきが若きは、則ち豫め謀る可からざる也。只だ忠誠貳らず、理を燭すの明なる者にして、而る後に以て其の時に措くの宜しきを得る可きのみ耳。

 正徳丙申(六年)五月二十二日、若林強齋」と。


■若林強齋先生『廣木(文藏)忠信を祭るの文』(近江國西依家所藏・強齋先生自筆原本)に曰く、「

 維れ享保庚戌(十五年)秋八月晦の夜、若林進居(ゆきやす)、諸友と與に、謹んで酒茶を、廣木忠信の靈に奠(すゝ)め、香を□[火+主。た]き、望拜して曰く、

 賢(忠信)、何ぞ遽かに余(強齋先生)を捐(す)てゝ逝ける。嗚呼、哀しいかな哉。昔者、賢、(淺見)絅齋先生の門に遊ぶ。未だ幾(いくばく)ならざるに、先生、簀を易(か)へ(易簀=學徳者の歸幽、『禮記』檀弓篇に見ゆ。曾子臨終の故事に出づ)たまふ。則ち又た鄙とせずして來り、余に就いて學べり。與に硯席を同じうし、互ひに薪水を執る者(こと)、幾(ほとん)ど九年なり矣。夏も扇(あふ)がず、冬も爐に近づかず、艱難窮乏、日を合はせて食ふ者(こと。=兩三日に一囘の食事)、時に之れ有り。賢、少しも屈せず、益々勉め益々勵む。而して余も亦た依れり矣。雪の朝た月の夕べ、相ひ與に茶を□[三水+鑰の右。に]酒を煖め、經を議し義を論じ、今を悲しみ古を慕ひ(=尊王斥覇)、憤歎慷慨、心肺傾け竭し、相ひ責むるに、死生を以てせり。

 其の後、母の側に人無きを以て、郷に歸り且つ醫を業とし、以て養ひを爲せり。固より其の志に非ずと雖も、而も已焉(や)むを得ざる者有り。然れども江濃(近江高宮・美濃揖斐)、地接して遠からず、是を以て、余、往かざれば、則ち賢、來り、賢、來らざれば、余、往き、相ひ逢ふこと濶(とほ)からず、而して書疏(=手紙)の通間も、亦た曠(ひさ)しからず、則ち相ひ勉め相ひ責むること、昔日に異ならず矣。

 比年來(このごろ)、余、疾ひに罹る。賢、之を憂ひて置かず、書の來る毎とに、必ず此に及ばざる莫し焉。余、竊かに謂(おも)へらく、余、疾ひ輕からず、賢を招いて高宮に居らしめ、余の後事を屬せば、則ち余も亦た遺恨無からん矣と。而るに去秋、往かんと欲して果さず、今春、又た未だ果さず、茲の秋に及んで江北(高宮)に往かば、將に必ず賢を訪ひ、以て素志を達せんとす。而るに萱堂(=母堂)の老心、倚閭(=母が外に在る子の歸りを待ちわびる)の切なる、日久しうして問ひの疎きに忍びず、故に又た復た果さず。而して家に還れば、則ち訃書、來れり。嗚呼、哀しいかな哉。

 賢の人と爲りや也、忠直にして事情に迂に、質朴淳尨、以て外飾を惡む。所謂る「剛毅木訥、仁に近し」(『論語』子路篇)とは、蓋し此の如きか乎。其の學爲るや也、名利を求めず、文辭を事とせず、惟だ義を是れ務む。所謂る「己の爲めにするの學」(『論語』憲問篇)とは、蓋し此の如きか乎。若し夫れ感慨奮激、盃を擧げて悲歌し、死生利害を顧みざるの氣象は、則ち實に古人義烈の風有り矣。嗚呼、已んぬるかな矣。賢に肖似せる者有るか乎。余、未だ之を見ず矣。是れ余の歔欷(きよき、=すゝりなく)して禁(た)ふる能はざる所以ん也。

 北風蕭々、望楠(強齋先生書齋の望楠軒、即ち大楠公を景望思慕せられたり)、夜、寂(しづ)かなり。嗚呼、哀しいかな哉。諸友と望拜し、情を陳べ以て□[酉+將の右。まつ]る。精爽(=魂魄。『左傳』昭公二十五年に見ゆ)知ること有らば、尚(こひねが)はくは饗けたまへ」と。


■若林強齋先生『神道大意』に曰く、「

 おそれある御事なれども、神道のあらましを申し奉らば、水をひとつ汲むといふとも、水には水の神靈がましますゆゑ、あれあそこに水の神・罔象女樣が御座被成れて、あだおろそかにならぬ事とおもひ、火をひとつ燈すといふても、あれあそこに火の神・軻遇突智樣が御座なさるゝゆゑ、大事の事とおもひ、わづかに木一本用ゆるも、句々迺馳樣の御座被成れ、草一本でも草野姫樣が御座なさるゝものと、何に付け角に付け、觸るゝ處、まじはる處、あれあそこに在ますと戴き奉り崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつゝしむが神道にて、かういふなりが、則ち常住の功夫ともなりたるもの也。先づさしあたり面々の身よりいへば、子たるものには、親に孝なれと、天の神より下し賜はる魂を、不孝にならぬやうに、臣たるものには、君に忠なれと、下し賜はる魂を、不忠にならぬやうに、どこからどこまで、けがしあなどらぬやうに、もちそこなはぬやうに、この天の神の賜物をいたゞき切つて、敬しみ守る事也。これを經學でいへば、理といふことなるが、それを神樣の、屹度、上に御座なされて、其の命をうけ、其の御魂を賜はりて、一物々々形をなすゆゑ、内外表裏のヘだてなく、いつはらうやうも、あざむかうやうも、けがしあなどらうやうも、そこなひやぶらうやうもなき事と、屹度、あがめ奉りて、敬み守るが神道の教なり。志を立つるといふても、此の五尺のからだのつゞく間のみでない。形氣は衰へようが、斃れようが、あの天の神より下し賜はる御玉を、どこまでも忠孝の御玉と守り立て、天の神に復り命(ことまを)して、八百萬の神の下座に列り、君上を護り奉り、國家を鎭むる靈神と成るに至る迄と、ずんと立てとほす事也。さるによりて、死生・存亡のとんちやくはなき事也。若しも此の大事の御玉ものをもち崩して、不孝・不忠となせば、生きても死にても、天地無窮の間、其の罪、逃る可からざるなり。孔孟程朱の教も、かう云ふ事なれど、風土、同じからぬゆゑ、通事(つうじ)を中にたてゝ、こまかにいひまはさねば、切に思はれぬ也。

 道は神道、君は神孫、國は神國といふも、抑々天地開闢の初、諾冉(なぎなみの)二尊、天神の詔をうけ、瓊矛を傳へ、此の大八洲に天降り玉ひて、かの瓊矛を、屹度、八洲の眞中にさし立て、天柱となし玉ひ、二尊、その御柱を旋らせられ、共にちぎりて、天下をしろしめす珍の御子を御出生と、屹度、祈念し思召し、誠の御心より、日の神、御出生ならせられ、二尊、かの天柱をもて、日の神を天上に送り擧げ奉りて、御位に即かせ給ふより、天下萬世、無窮の君臣上下の位定まりて、さて日の神の御所作は、但だ父母の命を敬み守らせられ、天神地祇を齋ひ祭りて、寳祚の無窮、天下萬姓の安穩なるやうにと、祈らせ玉ふ外の御心なし。神皇一體といふも是なり。祭政一理といふも是なり。あなたを補佐被成れる諸臣諸將も、上樣のかう思召すみことのりを受けて宣るより外なうして、兒屋・太玉命の宗源を司らせらるゝといふは、その綱領也。神祇官が八省の根本となりて、天下萬事の政、これより出づるといふも是なり。『禁祕御抄』に、「禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無し」とあるは、こゝの大事を記させ玉へり。是より推していへば、諸臣諸將は申すに及ばず、天下の蒼生までも、上の法令を敬み守りて、背きたてまつらぬやうに、天地神明の冥慮をおそれたつとびて、あなどりけがす事なければ、おきもなほさず、面々分上の祭政一理といふものなり。神道・神孫・神國とは、先づかういふ事也。苦々しき事は、上古神祖の教を遵ひ守らせ玉はぬ故と見えて、下一統の風俗、唐の書のみ讀みて、却つて我國の意はしらず、浮屠は信じて、却つて神明はたつとびたてまつらず、かの君上を大切に存じ奉り、冥慮をおそるゝやうなる、しほらしき心は、殆んどむなしくなりたり。まことに哀しむ可き事ならずや。しかれども天地開闢以來、今日に至るまで、君も臣も神の裔かはらせ玉はず、上古の故實も、猶ほのこりて、伊勢神宮を初穗をもて祭らせ玉はぬ内は、上樣、新穀をめしあがらせ玉はぬの、伊勢奉幣・加茂祭の時は、上樣も圓座にましますの、僧尼は神事にいむなどの類あり。

 されば末の世といふて、我と身をいやしむべからず。天地も古の天地なり。日月の照臨も今にあらたなれば、面々の黒心(きたなきこゝろ)を祓ひ清め、常々幽(いう)には、神明を崇め祭り、明(めい)には、君上を敬ひ奉り、人をいつくしび物をそこなはず、萬事すぢめたがふ事なければ、おのれ一個の日本魂は失墜せぬといふもの也。餘所を見て怨み尤(とが)むる事なく、たゞ我が志のつたなき事を責め、我が心身のたゞしからぬ事のみをうれひ、冥加を祷りてあらためなほすべし。惣じて神道をかたるは、ひらたうやすらかにいふがよきなり。忌部正通の、「辭を嬰兒(あかご)にかりて、心を神聖にもとむ」といへるが是なり。あのあさはかに、あどないやうなる中に、きつう面白くうまい意味がある。理屈らしい事を、甚だきらふ事也。經學も本法はかうあるべけれども、儒者のしらぬぞ、きのどくなる。孔孟程朱の書を、とくと熟讀し得るものは、定めて此の旨をしるべし」と。


■若林強齋先生『望楠所聞』に曰く、「

 至尊より一粒も賜は受けねども、至尊に對する忠義に於いては、誰に劣らうとも思はぬぞ。今にてもあれ、何事にてもあるならば、禁中に馳參ずる佐野源左衞門が合點ぞ。それ故に一つの武具をとゝのへたぞ。皆さう思ふてゐるぞ。‥‥

 神道の大事は、吾が心を吾が心と思はず、天神の賜ぢやと思ふが、爰が大事ぞ。さう思ひなすではない、眞實にそれ。かう云ふことを、寢ても覺めても、大事にするよりない。是程の寶物頂戴して居ながら、井戸茶碗程にも思はぬは、うろたへぞ。三種の、瓊矛の大事のと、聞きたがらうより、爰を合點するよりない。爰にさへ合點あらば、相傳の筋も窺はれうこと。あの神樣さへ大事になされ、生き世に三諸山に封ぜられた。面々は何んとせうぞ。是忘れ神扣きするは、皆な利害。實に神の尊いと云ふことなれば、爰が忘れられう樣がない。‥‥

 神職程、大切な事はない。官位かけるは輕い事。神主と云ふが、官でも位でもある。其の職分は天下の政と預かる、隱れのない事と云ふもの。平生、上の寶祚の長久、下の萬民の安穩を祈るよりない、それなりが天下の政とはなり、行はるゝは、天下の御政ぞ。‥‥

 神のござる國を、唐でも神州と云ふ。天地全體の神州はどこと云ふときに、恐らくは吾が國で有らうぞ。天地につぶるゝ天地なければ、此の天子のつぶれさせられう樣がない。つんと天から胞の續いた天子が一人あるからは、唐などは替りの有るなりが、又た自然と云ふもの。替る國も有り、一つ天から血脈ついだ大宗の國が有る筈。すれば吾が國の皇統の替らせられぬも自然、萬國の氏の替つたも、亦た自然と見えるぞ。‥‥

 神道者程、罰を受けそふなものはないぞ。それで此の方は、此の神道者ぢやの、儒者ぢやのと云ふ者の字をぬけたいと思ふぞ。道の似せ金めは、尤者はなけれども、至極いやなこと。神道者もそれ、まざゝゞしい事を知らねばならねども、知らいで、似せをして行く、恐しい事ぞ。冠屋の近江が云ふた、『罰の當るもの、一番神道者、二番神職、三番有職』と云ふた」と。



 愚案、崎門の楠公景仰は、スレツド『楠公傳』第五に掲げたり。乞、ご參看。


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  • [5]
  • 皇國護持の學問、其の四。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時36分31秒
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【本文・淺見絅齋】

 此の遊佐木齋よりは六つ年上で、木齋より二三年前に闇齋の塾へ入門してゐた人に、淺見絅齋があります。この人は闇齋門下の中で、最も有名な人です。もつとも一時は、先生の説を十分理解する事が出來ず、自分の我を張つて離れ去つた事もありましたけれども、段々深く研究が進みますと、日本には開闢よりこのかた、正しい道を明かにした學者は、『山崎嘉右衞門ならでは無いぞ』と云つて、再び闇齋門下に歸つて來たのでした。此の淺見絅齋に、『靖獻遺言』といふ著述があります。これは絅齋の主著であるばかりでなく、凡そ闇齋一門の代表的な著述と云つてよいでせう。その内容は、支那の歴史の中で、忠烈の人物が、國家の不幸に遭遇した際に、生命を捨てて道義を守らうとして、死に直面して、その至誠を述べた言葉を集め、之を熟讀し、之を考究する事によつて、自分の魂をみがかうとしたものです。集められたものは八篇、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔眞卿・文天祥・謝枋得・劉因に方孝儒、是等の人物の最後の言葉が集めてあります。絅齋は、元禄元年に、家塾に於いて之を講義して、何故此の書物を作つたか、その趣旨は何處に在るかを明かにしてゐますが、それは、「君臣の間の道義といふものは、平素からよほど精密に考究して置かなければ、いざといふ時に臨んで處置をあやまりやすいものである。此の書は、人々の心を大義に錬磨しようとするものであつて、之を讀めば、學問といふもの、どれ程大切なものであるか、學問によらないでは、一歩も其の身を動かす事が出來ず、爲すところ、すべて妄動に過ぎない事が分るのである」と云ふのであります。

 かやうに忠義の人々が、國難に遭遇しても態度をかへず、殺されても道を守り通したといふ事は、賞讚すべき事でこそあれ、非難すべき點は少しも無い筈でせう。して見れば、此の『靖獻遺言』は、ひろく天下に推薦せられてよい書物であつて、それに反對すべき理由は無い筈でせう。しかるに寶暦九年(西暦一七五九年)、竹内式部は、此の書物を京都の公卿達に講義したといふ點を罪に問はれ、父子共に追放せられました。式部は新潟に生れて京都に上り、徳大寺大納言に仕へてゐましたが、その學徳によつて重んぜられ、公卿多くその門人となりました。その講ずる所は闇齋の學問であり、殊に『日本書紀』や『靖獻遺言』を讀んでは、公卿達を鼓舞するのでありました。「日本では、天子樣ほど貴いお方は無いのに、世間では將軍の貴きを知つて、天子の貴い事を知らないのは、公卿達の學問が足らないからである」と指摘せられて、公卿達は奮起して學問に精勵し、殊に徳大寺大納言・坊城中納言等は、自ら學ぶのみでなく、當時御年若くいらせられた桃園天皇に、『日本書紀』を御進講申し上げたのでありました。やがてそれが問題になつて、寶暦八年には、正親町三條・徳大寺・烏丸・坊城等の公卿二十人ばかり處分せられ、その翌年に至つて、竹内式部は武藏・山城始め、殆んど日本國の半分以上の地方より追放せられ、その私財は沒收せられたのでありました。式部は時に四十八歳、その子・主計十五歳。その後八年たつて、式部は改めて捕縛せられ、八丈島へ流されて死にました。その式部の罪に問はれましたのは、學問といへば四書五經で事が足りるのに、『靖獻遺言』のやうな激しい書物を講じたのは、けしからぬと云ふ點でありました。して見ると、當時幕府の方針及び天下主流派の學問は、『靖獻遺言』の目ざす所と相容れないものであつた事が分りませう。是れは更に後に説く所で、明瞭になるでせう。



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■淺見絅齋先生『靖獻遺言の後に書す』に曰く、「

 古今、忠臣義士、素定の規、臨絶の音、衰頽危亂の時に見はれ、而して青史遺編の中に表する者、昭昭たり矣。捧誦して之を覆玩する毎とに、其の精確惻怛の心、光明俊偉の氣、人をして當時に際(まじ)はり、其の風采に接(つ)ぐが如く、而して感慨歎息、□[音+欠]慕奮竦、自ら已む能はざる者有らしむ。其れも亦た尚ぶ可きかな矣哉。

 間々竊かに其の特に著しき者を纂めて、八篇(楚の屈平・蜀漢の諸葛亮・晉の陶潛・唐の顔眞卿・宋の文天祥・宋の謝枋得・處士の劉因・明の方孝儒)を得、謹みて謄録すること右の如し。且つ其の事蹟の大略を稽へ、諸を本題の下に紀し、其の聲辭に發するの各々然る所以の者をして、以て并せ考ふること有らしむ焉。其の他、一時同體の士、因りて附見すべき者と、先正の格論、綱常の要に關ること有ると、以て夫の生を□[女+兪。ぬす]み義を忘れ非を飾り售るを求めて、以て天下後世を欺かむと欲する者に及ぶに至りて、又た率ね類推究覈、以て卷後に屬することを得。

 嗚呼、箕子、已に往けり矣。而して其の自ら靖んじ自ら先王に獻ずる所以の者、萬古一心、彼此、間無きこと、此の如し。然らば則ち後の遺言を讀む者、其の心を驗す所以、亦た豈に遠く求めむや也耶」と。


■淺見絅齋先生『淺見先生學談』に曰く、「

 (闇齋先生は)『學問は名分がたゝねば、君臣の大義を失ふ』との玉ふぞ。此の意を世人に知らせんと思ふて、をれが『靖獻遺言』の書をあらはし出したぞ。この書をよくみよ。聖人の大道、嘉右衞門殿の心、この書にあり」と。


■淺見絅齋先生『靖獻遺言講義』に曰く、「

 大抵、吾が國近世、士たる者、率ね學を好まずして、偶々學をする者は、記誦詞章の資とするに過ぎずして、英氣志義ある者は、視て以爲(おも)へり、學問讀書、事に益なしとして、之を笑ひ□[言+山。そし]る。殊(たえ)て知らず、學ばざれば大義を辨ふること能はず、夫の英氣志義も用ふる所を知らず。但し是の學を倡(となふ)る者の誤よりして、此の弊に至らしむるなり。故に此の編、特に士たる者をして、大義の端的を知つて之を切磨し、學にあらざれば、一歩も其の身を動かすべからず、君に事へ己を處する、皆幸にあらざれば妄なることを識つて、疑ひなからしめんとす」と。


■谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「

 凡そ忠義と云へば、主人の善惡にかまはず、我が身の持前の義理をつくすより外ない。義仲(木曾)や相模入道(北條高時)などに仕へて忠をつくせば、忠義は忠義なれども、謀反人ぞ。去るによつて出處と云ふことが大切なことぞ。何程忠義が正しうても、出處がわるければ、なんの役に立たぬ」と。


■若林強齋先生『靖獻遺言講説』に曰く、「

 此の書の全體は、君臣の義を始終反復して、底をつくして義の字の旨を殘らず發明せられた書也。‥‥
義の字のつまる處は、何としても離れられず、君がいとしうて棄るに忍びず、やむにやまれぬ自然の情なりに筋目の立つたが義の字の旨ぞ。君に不忠では名が惜いの、人が笑ふのと云ふ様に、爲にする所有る意氣づくからする分では、何ほど身を委ね命を捨てたとて、それが本法の忠義とは云はれぬ。親に事ふるなりの至親至切の、やむにやまれぬ心の忍びられぬと云ふが仁。その大切な本心の事實にあらはれて十分つくすが義。こゝに昧ければ、忠義が意氣づくの樣になるで、忠と云ふ字が語られぬ。こゝに吟味なうてはあぶないものぞ。‥‥

 天下の三綱の中、別して君臣の義は、天下全體の上下の義を分つて、全體の大義にあづかるゆゑ、こゝが明かになうては、天下の根本が腐繩でつなぎ、池のそばに子を置いた樣なあぶないもので、何どき謀反を起さうやら、いつ亂逆がおこらふやらしれぬゆゑ、これを吟味せでは、極めてあぶないもの。天下の命脈も、これで維(つな)いで居るゆゑ、こゝさへ明かなれば、亂世でも忠義を失はず、天下の三綱が立つて、天下への御奉公にこれほどのことはないぞ。あの方では書有つて以來、孔孟程朱の説、みな仁義忠孝の旨を明かされぬはなけれども、日本では書がないゆゑ、此の書をあらはされて、直に義の字なりに本心を失はず、其の場を歴た筋目ちがはぬ忠義の衆の身の上で明かされた。此の書の樣な忠義の吟味に結構な書はないぞ。わきて此の書の旨が、□[糸+遣]綣惻怛のやむにやまれず、いとほしうて離れられぬと、君を思ふなりが、直に義ぢや。かう云ふからの心でなければ、義でないとある(絅齋)先生の旨で、『靖獻』の二字が、此の書の、一部始終の眼目ぞ」と。


■羞齋竹内式部先生『奉公心得書』に曰く、「

 夫れ大君は、上古、伊弉册尊、天つ日を請ひ受け、天照大神を生み給ひ、此の國の君とし給ひしより、天地海山、よく治まりて、民の衣食住、不足なく、人の人たる道も明かになれり。其の後、代々の帝より今の大君に至るまで、人間(人間界)の種ならず、天照大神の御末なれば、直に神樣と拜し奉り、御位に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふことにて、天津日繼といひ、又た宮つかへし給ふ人を雲のうへ人といひ、都を天(あめ)といひて、四方の國、東國よりも西國よりも、京へは登るといへり。譬へば今ま床の下に物の生ぜざるにて見れば、天つ日の光り及ばぬ處には、一向、草木さへ生ぜぬ。然れば凡そ萬の物、天日の御蔭を蒙らざるものなければ、其の御子孫の大君は君なり、父なり、天なり、地なれば、此の國に生きとしいけるもの、人間は勿論、鳥獸草木に至るまで、みな此の君をうやまひ尊び、各々品物(ひんぶつ)の才能を盡して御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり。

 故に此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則ち之を誅して君に歸すること、吾が國の大義なり。況んや官祿いたゞく人々は、世に云ふ三代相傳の主人などといふ類ひにあらず、神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むる人なれば、其の身は勿論、紙一枚・絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。わけて御側近く奉公し給ふ人々は、天照大神の冥加にかなひ、先祖神靈の御惠みに預り給ふ御身なれば、いよゝゝ敬まひかしづき奉る心、しばらくも忘れ給ふべからず。

 然れども只わざにのみ敬まひて、誠の心うすければ、君に諂らふに近うして、君を欺くにも至るべし。本心より二心なくうやまふを忠といへり。忠は己が心を盡すの名にして、如才なき本心をわざと共に盡す事なり。其の御側近く事ふる身は、始めの程は恐れ愼しむの心專らなれども、慣れては衰ふる物にや。古より、「忠は宦の成るに怠り、病は小愈に加り、禍は懈惰に生じ、孝は妻子に衰ふ」(『韓詩外傳』・『説苑』敬愼篇に在る曾子の語)といひ、又た『禮記』(曲禮上第一)にも、「狎れて之を敬し、畏れて之を愛す」といへり。わけて君の御寵愛に預かる人は、幸ひに天地萬民の爲めに、君を正しき道にいざなひ奉り、御前に進みては、道ある人を進め、善をのべ、邪なる人は勿論、はなしをもふせぎ、只だ善き道に導き奉り、共に天神地祇の冥助を、永く蒙り給はん事をねがひ給ふべし。然らば若き人のあまりいきすぎたるは、憎ましきものなれば、言葉を愼しみ、時をはかり給ふべし。此の道を忘るれば、只だ恩になれ愛をたのみ、いつしか始めの愼みを忘れ、睦まじさのあまりより、口に道ならぬ戲れをいひ、人の善惡をまげて、君をくらまし、身に越えたる奢りを好むより、無禮不敬の事も起り、君をして淫りがはしき御身となし、人に疎ましめ、遂に神明の御罰を蒙る事、恐るべし。

 又た君に疎まるゝ人は、少しも君を怨むる心など出でたらば、勿體なき事と心得、只だ天つ神につかふると心得、猶ほも身持ちを大切にして、奉公を勵み給ふべし。譬へば今ま大風・大雨・飢饉・流行病等ありても、天を怨むる人なし。吾が君は、眞に神といふこと、返すゞゝゝも忘れ給ふべからず。然るを淺はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の亂にも及ぶ事、古今、其の例し多し。愼むべし。楠正成の言葉に、『君を怨むる心起らば、天照大神の御名を唱ふべし』とあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則ち其の御子孫の大君、たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや。まして「至誠、神明に通ずれば、造化と功を同うす」といひ、「人を感ずる能はざるは、誠の未だ至らざる也」ともいへば、誠だに至らば、などか君のかへりみ給ふ事なからんや。其の誠に至るの道は、心に如才なきのみにては至り難し。すべて心を盡すは業にある事なれば、平生、身にする事の道にそむかざる樣に愼しみ、心一ぱいを身と共に盡す故、身心内外、相ひそろひて、誠に至る事なり。さはいへども、餘り恐れをのゝきては、離るゝと云ふ事あり。只だ我が身を顧み、道にそむく事だにあらずんば、云ふ事、すべき事は、すべかりとしたまふべし。

 皇后に奉公し給ふも同じ事なり。皇后は大君と竝び給ふ御方にて、天地・陰陽・日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし。又た女子は嫌をさくると云ふ道あり、風(ふ)と男のうはさしては、不義の名を受くる事あり。故に古人も、「男女五十にならざれば、同じ居間にて物語せず」とも云ひ、又た「既に嫁しては、兄弟たりとも、男たるもの、同じ居間に居らず」(『禮記』曲禮第一)とも見えたり。心は潔くとも、愼まざるより不義の名を蒙りしは免れがたく、故に「女は夜行くに燭を以てす」(『小學』内篇・明倫第二・夫婦之別)とて、くらき所へ行かざるも、嫌をさくる教へなり。兎角く本心の誠を盡して、天命を待ち給ふべし。心の誠を盡すを仁といひ、言行、此の仁義の道にかなふ人を聖人・賢人ともいひ、此の道に背く人を禽獸同然の人と云へり。朝たより夕べまで、喜ぶにつきても、哀しむにつきても、仁義の道にそむかんかと恐れ愼しみ、奉公し給ふべし。

 寶暦七年丁丑六月、竹内敬持、謹述」と。


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  • [4]
  • 皇國護持の學問、其の三。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時33分52秒
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【本文・遊佐木齋】

 山鹿素行に學ばうとする者は、『武教小學』と『中朝事實』とを讀まれるが良い。ところが山崎闇齋には、是れと云つて、皆さんにお勸め出來る著述がありません。只だ幸ひな事には、闇齋は、良い門人を數多く殘してくれました。その門人は、よく師説を繼承して、人は變り、時は移つても、同じ精神が一貫してゐました。十人は十人、百人は百人、誰に聞いても、同じ答が出てくるのが、闇齋門下の特徴だと云はれてゐます。闇齋自身も、一生努力の目標を、門人の養成に置いたのでした。「其の志を言へば、則ち藩國に仕へず、王侯に屈せず、後學を誘引して、此の學を將來に傳へんと欲するのみ」と云はれてゐるので、よく分ります。

 闇齋の學問を理解し、忠實に師説を傳へた一人は、遊佐木齋でありました。その木齋が、室鳩巣と論戰した事があります。鳩巣は、惺窩の門人・松永尺五、尺五の門人・木下順庵、その順庵の門人で、新井白石の推薦によつて、六代將軍・家宣の時に幕府に仕へ、殊に八代將軍・吉宗の信任を受けた人ですから、當時の學界では主流の一人と云ふべきでせう。此の鳩巣と考へのちがふのが、木齋です。鳩巣の考へでは、「道は世界に唯一つあるのみであり、萬國共通のものであり、それは即ち儒教である。それの外に、我が國の道とか、神道とかいふものがある筈は無い。木齋は日本の國體を重んじ、それは天壤とともに無窮だといふが、凡そ世の中に永久不滅といふものは無いのだ。國は興つて必ず亡び、人は生れて必ず死ぬのだ。支那の歴史を見れば、それは能く分る筈だ」といふのでありました。そして鳩巣は、まだ控へ目に述べてゐますが、これと同じ考へをいだき、そしてそれを急速に實現させようとして、幕府に之を勸告しようと希望した者は、京都の藤井懶齋であると、鳩巣は述べてゐます。

 之に對して木齋の答へた所は、極めて親切でありました。即ち「君臣の間の道徳は、どこまで行つても變る筈はなく、君は君であり、臣は臣であつて、君が臣となり、臣が君となる事はあるべきでない。天照大神が、皇孫瓊々杵尊をおくだしになる時、寶祚の隆んならんこと、まさに天壤とともに窮りなかるべしと仰せられたのは、祝福の言葉であらうが、その祝福は、神徳と正教とによつて實現してゐるのである。それ故に外國は、その歴史が革命によつて汚されてゐる事を恥づべきであり、我が國は、その萬世一系の天皇を戴いてゐる事を誇るべきであるのに、鳩巣等が支那を規準として物を考へ、革命を當然の事とし、我が國にも亦その機會が來るであらうと云ふのは、甚だ誤つてゐる。自分はそのやうな不吉な説を、先年、羽黒某から聞いた事があつて、當時は只だ馬鹿な事だと片附けて、深く氣にとめなかつたが、今や鳩巣や懶齋の説を聞いて、邪説の害毒、皇國の前途に暗い影を投げるかも知れないと、憂慮に堪へないのである。若しそのやうな不幸が起れば、我々は一命を捨てて道を守り、國に殉ずるのみであるが、鳩巣もよく反省し、また懶齋にも忠告してほしい」。木齋が鳩巣に答へたところは、大體このやうな趣旨でありました。



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■濯直靈社・遊佐木齋翁『神儒問答』(室鳩巣に答ふる書第二・元祿九年十月十五日)に曰く、「

 唯だ「若し王者起ること有らば」の一語、未だ疑ひ有ることを免れず。其の「王者起る」と曰ふ者は、異姓一王の興起を言ふ也。然らば異域に於いては則ち然り。我が國に在りては、則ち一王の神統、當に天壤と窮り無かるべき者、諱む可きの甚だし焉」と。


■『神儒問答』(第三・元祿十年六月十八日)に曰く、「

 夫れ人也、生るれば必ず死し、王や也、興れば必ず亡ぶ。必然の理也。然れども我が王や也、盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか之れ有らん。天地と共に主爲り、開闢と共に君爲り。天地に主として萬物に君たる者は、其の創業埀統を言ふ可からず。‥‥天、地に下らず、地、天に上らず、君、臣に下らず、臣、君に上らざるは、天地の常經、古今の通誼也。此れ乃ち我が神教の大意也。‥‥

 明徳新民有りて、本末を差(たが)へざるは、則ち王道也。明徳新民有りと雖も、少しく本末を差ふれば、則ち覇道也。明徳新民を知りて、能く本末を知る者は、道學也。明徳新民を知ると雖も、本末を知らざる者は、功利の學也」と。


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  • [3]
  • 皇國護持の學問、其の二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時31分45秒
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■谷秦山先生『拘幽操に跋す』に曰く、「

 父子の親は、瞽□[目+叟。そう]の豫びを底すに驗して、羅が語に定まる矣。君臣の義は、韓の『操』に定まると雖も、然れども未だ其の萬世に行はれて、弊、無きの實を見ること能はず焉。大哀と謂ひつ可き也。

 原るに夫れ本朝は、神皇の正統、君は則ち瓊瓊杵尊の神孫、臣は則ち天兒屋命の公孫、相ひ與に太神宮の神勅を崇守し、左を左とし右を右とし、億萬歳に亙つて、一日の如し矣。豈に匈奴が父を殺し、漢國が君を殺すの俗と、年を同じうして語る可けんや也耶。此れ固より以て、夫の天下、不是底の君無きの實を驗す可きに足る。而して凡そ外國の書、君臣を論じて、其の邦の私言に出づる者、皆な當に辯ぜずして明かなるべし矣。然れば則ち此の『操』の我が豐葦の中つ國に行はるゝ、豈に偶然なるのみならんや而已哉」と。


■淺見絅齋先生『拘幽操附録の後に書す』に曰く、「

 嗚呼、放伐の事、一たび行はれれてより、千萬世無窮の下、凡そ亂臣賊子の君を弑し國を竊む者、未だ嘗て湯・武を以て口實と爲さずんばあらず。而して忠臣義士の義に就き命を致す者、又た未だ嘗て夷・齊を以て自ら處らずんばあらざる也。士、是に於て亦た擇む所を知る可き也。夫れ韓子の此の『操』、文王の心を發明すること、至れり矣」と。


■淺見絅齋先生『拘幽操師説』(若林強齋先生筆録。師説とは、絅齋先生の説なり)に曰く、「

 古から君に事ふる者が、常の場では忠な樣にみゆれども、それは君のあしらひが結構なり、太平無事な時は、皆、さうあるもの。或は何ぞ言ふ場に臨んで、君の爲に身命を捨てもする、けなげな者もないではなけれども、率ね名でするか、利でするか、又は一旦の感激でするか、根をさらひてみた時は、眞實、君がいとしうて忍びられぬと云ふ、至誠惻怛の本心を盡す本法の忠とはいへぬ。‥‥

 隨分、忠義々々と云ふ合點でも、畢竟が愛(いと)しいと云ふ本心より出でねば、すこし君のあしらひがわるうなるか、或は讒に逢ふか、何ぞわが意にちがうたことがあると、はやいつの間にか、御恩が有り難いの、身命を獻らうのと思うた心はどこへかやりて、さりとてはきこえぬことぢや、主には勝たれぬに因つてぢやが、あゝしやるはずではない、主君なればこそ默りて居れと云ふ樣に、君を怨むる心が出來る。‥‥

 何ほど結構な奉公ぶりでも、働が有つても、眞味眞實、君がいとしうてならぬと云ふ至誠惻怛の、つき拔けたでなければ、忠でない。‥‥

 こゝを目あてとせねば、一人扶持とる者も、どうも奉公はならぬ。何時、長田(忠致)にならうやら、明智(光秀)にならうやらしれぬぞ。それ故、常人よりいへば、是を目あてとして、もし一念、君父を怨む心が萌さば、やれ是がすぐに君父を弑する心ぢやはと、痛くこらしいましめて、此の意念の根を拔き源を塞いで、君父が大切でやまれず、眞實、愛しうてならず、いかやうなことにもうつしかへられぬまでの本心を得るまでが、此の『拘幽操』の吟味ぞ」と。


■若林強齋先生『望楠所聞』(『強齋先生雜話筆記』に所收)に曰く、「

 文王の『拘幽操』が、神道の至極ぞ。桀・紂が樣な者、有らう樣はないが、それ君が眞實にいとほしいと云ふでなければ、道は語られぬぞ」と。


■内田遠湖先生『拘幽操合纂の引』に曰く、「

 君臣の道は、五倫の中に在りて最も貴し。而して臣の君に事ふるに、忠を以てす。萬世に亙りて易ふ可からざる者也。吾が闇齋先生、峻節卓見、韓子の『拘幽操』を表章し、以て大義を昭示す。其の徒、相繼ぎ、焉を講述し、焉を詮釋す。而して忠君の道は、天下に明かなり矣。

 顧みるに先生の卒ふるを距つること二百五十餘年、時世變遷し、人、復た此の書有るを知らず、或は焉を知るも、亦た取りて讀まざる也。余、之を慨すること久し矣。因つて先生の原本を出して之を校し、更に其の徒の講述詮釋する所の者、數部を加へ、題して『拘幽操合纂』と曰ひ、以て世に公にす。讀者、熟玩詳味して、大義を知る有らば、則ち忠君の道、復た今世に明かならむことを庶ふ矣。

 昭和十年九月 後學・内田周平、謹識」と。


■山崎闇齋先生『湯武革命論』に曰く、「

 嘉、嘗て論じて曰く、『易』に、「湯・武、命を革め、天に順ひ人に應ぜず」と曰ふ。而して『論語』に、獨り「武、未だ善を盡さず」と謂ふ。而して『集註』に、湯を合せて之を言ふは、何ぞや耶。

 夫れ湯に「放」と曰ひ、武に「伐」と曰ふ。革命の權は同じと雖も、而も放と伐とは、則ち異なれり矣。此れ獨り武を謂へる所以なるか歟。『孟子』に、齊・宣の湯・武の放伐を問ふに答へて、紂を誅するを曰ひて、桀に及ばず。蓋し亦た此の由ならん也。然れども伊尹の太甲を放てるや也、權にして善を盡せる者也。湯の桀を放ちて天下を得たり。則ち放・伐の異ありと雖も、而も遂に武王と同じ矣。此れ湯を合せて之を言へる所以なり。

 夏に后氏と曰ひ、殷周に人と曰ふ。曾て此を謂ふ也。晉の□[禾+尤+山。けい]仲散、湯武の國を得たるを非とす。宋の李易安が詩に、仲散の殷・周を薄んずるを歎ず也。石曼卿、伯夷を詠じて言ふ、「湯・武、干戈の地に居るを恥ぢ、來りて唐虞、揖讓の墟に死す」と。程子、嘗て湯・武の別を謂ひ、而して又た曼卿が詩を稱す。朱子、嘗て湯・武の優劣を論じ、而して又た易安が詩を稱すれば、則ち亦た以て其の抑揚の微意を見る可し矣。

 又た曰く、「周は舊邦なりと雖も、其の命、維れ新なり」。而して殷に服事するは、此れ文王の至徳、天地の大經也。湯武、命を革め、天に順ひ人に應ずるは、是れ古今の大權也。三代の後、漢・唐・宋・明、之を盛世と稱す。然れども「溥天は王土にして、率土は王臣」なれば、則ち漢高は秦の民に非ざるか乎、唐高は隋の臣に非ざるや哉、宋祖・明祖は、周・元の臣民ならずや乎哉。孔子の「武、未だ善を盡さず」と謂へるも、亦た殷の臣なれば也。

 夫れ天吏、猶ほ斯の議を免れざるがごとし。矧んや漢・唐・宋・明が權謀の主をや乎。其の間、漢の光武の起るや也、其の義の最も正しく、而して湯・武の揚るに賢れり矣。予は故に曰く、征伐を以て天下を得て、天地に愧ぢざる者は、獨り光武のみ耳、と」と。


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【本文】

 かやうに闇齋の學問は、人倫を重んじ、その人倫を重んずる當然の歸結として、革命を否定し、そして革命の行なはれた事の無い日本の歴史、日本の國體を讚へたのでありました。山鹿素行が『中朝事實』の中で、「夫れ外朝、姓をかふること、殆んど三十姓、戎狄入りて王たる者數世、春秋二百四十餘年、臣子、その國君を弑する者二十又五、況んやその先後の亂臣賊子、枚擧すべからざるなり」と云つてゐるのと、全く同じ所に目を着けてゐるのであります。それは平凡な事をあたりまへに述べてゐるのかと云ふに、さうではありません。山鹿素行の述べた所も、山崎闇齋の説いた所も、その當時の學界では、驚くべき新説であり、破天荒の主張であつたのであります。何分にも儒學は、もともと支那の學問でありますから、儒學者は萬事支那風に考へるやうになつて居り、孔子・孟子の説を無批判に尊んでゐました。

 ある時、闇齋が弟子達にむかつて、
『今もし支那から孔子や孟子を大將として、我が國へ攻めて來たならば、お前達はどうするか。』
と尋ねたところ、弟子は皆な困つて返事する者が無かつた。そこで闇齋が云ふには、
『その時は、當然孔子や孟子と戰つて、或は斬り、或は生捕りにするのだ。それが即ち孔子の教だ。』
と教へましたので、一同始めて目が開いたといふ逸話があります。無批判に外國の書物を讀んでゐると、此の弟子達のやうに、自主性を失つてくるのです。その自主性を失つてゐたのは、此の弟子達だけでなく、藤原惺窩にしても、林羅山にしても、同樣でした。羅山は、支那に生れないで、日本に生れた事を殘念に思ひ、せめて阿倍仲麻呂のやうに支那へ渡りたいといふ希望をもつてゐたが、「脚下の風波、千萬里」、遂に海を渡り得ない事を悲しんだといひます。それ故に、闇齋や素行の學問が、自主的になり、日本の歴史に驚歎し、日本の國體を讚美するに至りましたのは、破天荒の事であつたのです。



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■淺見絅齋先生『中國辨』に曰く、「

 或る人の曰く、「唐より堯・舜・文・武の樣なる人來りて、唐へしたがへといへば、從はざるが然るべきか」。(絅齋先生の)曰く、『是れ云ふに及ばざること也。山崎先生、嘗て物語りに、
「唐より日本をしたがへんとせば、軍(いくさ)ならば、堯・舜・文・武が大將にて來るとも、石火矢にてもうちつぶすが大義なり。禮儀徳化を以てしたがへんとするも、臣下とならぬがよし。是れ則ち春秋の道也、吾が天下の道なり」
といへり』。‥‥

 (絅齋先生の曰く、)大凡そ儒書を學んで、却つて害をまねくこと、湯・武の君の、う(伐)つことくるしからずといひ、柔弱の風を温和と云ふ樣なること、いくつもあり。みな儒書の罪に非ず、儒書を學ぶもののよみそこなひ、義理のきはめそこなひ也。聖賢、天地の道をひらき萬世に示せば、儒書の樣なる、けつこうなる義理は云ふに及ばざれども、學びぞこなへば、加樣な弊あり。よくゝゝかへりみきはむべきことならずや」と。


■淺見絅齋先生『常話箚記』に曰く、「

(闇齋先生、平生より曰く、)公儀より呼び出されて白洲にゐるは、はづかしきことない。『内證を頼つて玄關へあがりての』と云ふ、これが大に屈したと云ふものなり」と。

  • [2]
  • 皇國護持の學問、其の一。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時25分39秒
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【本文・闇齋傳】

 闇齋は、元和四年に京都に生れました。父は元は武士、後には醫者でした。闇齋は、少年の時、叡山に登つて學問をしましたが、十五六歳の頃、轉じて京の妙心寺へ入り、禪僧となりました。その後、土佐へ行き、吸江寺に住んでゐましたが、二十五歳の時に、朱子の書物を讀むに及んで、佛教が人倫、即ち君臣・父子・夫婦の關係を無視し、その間の道徳を否定してゐるのは誤りであると悟り、佛教界から縁を切つて、專ら儒學、特に朱子學を研究するやうになりました。

 室町時代からの風習で、佛教と儒教とは、これまで長く同居してゐました。詳しくいへば、儒教を學ぶのは、大抵佛教の僧侶で、僧侶とは別に儒教だけを學ぶ儒者といふ者は、殆んど無く、藤原惺窩も相國寺の僧侶であつたし、林羅山も僧侶の外形をして、法印道春と呼ばれて居たのでした。從つて闇齋が、妙心寺の僧侶のままで、儒教を研究してゐても、誰も之を怪しまなかつたでせう。それを闇齋は、儒教の本旨から云へば、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の間の道徳が大切であつて、父子の間には親、君臣の間には義、夫婦の間には別、そして長幼は序、朋友は信を以て重しとし、之を五倫といふのであるが、佛教が是等の關係を離脱して、從つて五倫の道徳を無意義なものであり、無價値なものであると説くのは誤りであつて、人生を破壞するものだとし、之に氣がつき、此の確信を得ますと、自分は寺を出て、僧侶といふ身分から離れて了つたのですが、ここに闇齋が、どれ程深く、つきつめて物の道理を考へたか、また道理を考へては、必ずそれを實行して行つたか、といふ事が分ります。

 闇齋が禪僧として絶藏主と呼ばれてゐたのは、十五の時から十年間でした。そして寛永十九年、二十五歳の時に、今述べたやうな思想の轉囘があつて、二十九歳の時には、還俗して山崎嘉右衞門と名乘るに至りました。儒學の研究に專心する事十數年、明暦元年の春になつて、家塾を開いて講義を始めましたが、その教本は、先づ『小學』、次に『近思録』、次に『四書』、次に『周易程傳』、以上を一通り講義するのに、二年かかつたといひます。此の講義は、非常に評判で、門人の數は頗る多かつたやうです。その後、稀に江戸へ行く事もあり、稀には保科正之の知遇を得て、會津へまで出掛ける事もありましたが、然し本據は終始京都に在り、家塾で門人に道を説くを以て本分とし、そして天和二年(西暦一六八二年)九月十六日、京都二條猪熊の家で亡くなりました。六十五歳でした。

 闇齋は、會津の保科正之の外に、笠間の井上河内守や、大洲の加藤美作守等の知遇を得ましたけれども、大名に仕へるのは、その本意で無く、京都に於いて門人を指導してゐましたので、その一生の經歴は、花やかではありません上に、その著述としても是れと云つてまとまつたものが無く、『文會筆録』や『埀加文集』を見ましても、その學問の體系、本質を理解する事は、非常にむつかしいのであります。その上に、此の人の學問は、年々に深くなつてゆき、すぐれた門人といへども、中々ついて行けなかつたのですから、ここには、いくつかの點をあげて、その特色を考へ、そして正しくその學問を傳へた門人達の著作や事蹟を見てゆく事にしませう。

一、結論だけを見ると、闇齋の學問は、非常に獨斷的なもののやうに誤解されやすいのですが、事實はその前に、博く見、精しく調べて、十分な研究を積んでゐるのでした。それが最も良く分るのは、門人遊佐木齋の告白です。木齋は仙臺の人で、二十一歳の春、初めて闇齋の塾をおとづれました。二三日後に『論語』の泰伯の章について、
「いろいろ説がありますが、どれが正しいのですか。」
と尋ねました。闇齋、之に答へて、
『大切な處だ。『集註』を暗誦してゐるか。』
と、逆に問はれます。
「少しは覺えてゐますが、まだ不十分です。」
と答へると、
『『大全』を見ると、誰それは朱子の解釋に反對であり、誰それは贊成である。それを一々覺えてゐるか。』
と問はれます。
「いや、覺えてゐません。」
『『通鑑前編』に、胡氏の論があるが、覺えて居るか。』
「覺えてゐません。」
『『讀書録』にいくつかの説が載せてある、覺えてゐるか。』
「覺えてゐません。」
『それでは話のしようが無いでは無いか。もし本當に此の處を質問しようとするのであれば、是等の書物を能く調べ、一々それを分析して、何處に問題があるかを明かにして、その上で持つて來い。』
木齋は恐入つて退き、ひろく諸種の書物を調べ、朱子に從ふものを集めて一册とし、朱子に反對するものをまとめて一册とし、くりかへし之を讀んで記憶し、その上で先生をたづねて質問したところ、先生は、
『善し善し、それでこそ學問になるのだ。これは極めて大切な處であるから、輕々しく説明するわけにはゆかぬ。自分は先年、『拘幽操』一册を出版させて置いたから、それを求めて研究せよ。』
と云はれました。よつて『拘幽操』を求めて熟讀した上で、翌日先生をたづねて、自分の考へを申し上げたところ、
『さうだ、よく分つたね。』
と云つて、丁寧に説明して下さつた。自分は、初めは外の學者に就いて學んで居り、闇齋をたづねたのは、とにかく有名な人だから、一度見て置かうと云ふ、ひやかし半分の氣持からであつたが、是れより後は、傍目もふらず、一心に入門して教へを請うた。かやうに木齋は、その自敍傳で告白してゐます。闇齋の學問は、その結論を導き出してくる前に、どれほど博く諸説を檢討し、いかにきびしく之を分析し批判してゐるか、此の告白で明瞭になるでせう。

二、闇齋といへば儒者であり、特に朱子學一點張りであり、それが晩年になつて神道に傾いて來たので、門人の中にも、それを嫌つて、離れ去る者が段々出て來たやうに云はれてゐます。然し其の始めて家塾を開いて講義をした明暦元年(時に三十八歳)には、『伊勢大神宮儀式の序』を作り、『日本書紀』によつて神代を囘想し、天壤無窮の神勅を掲げて、「是れ王道の元(はじめ)なり」といひ、埀加神道と呼ばれる本になつた言葉も引用せられてゐる所を見ると、その佛教を批判した當初から、すでに神道に入つてゐた事、明かであります。そして明暦三年には、『倭鑑』と題する日本史を作らうと思ひ立ち、『日本書紀』編纂の大功を立てられた舍人親王を祀る藤森の社に參つて祈りをささげ、ついで伊勢大神宮へお參りしてゐます。その後、伊勢へお參りする事は、たびたびでした。萬治元年・同二年・寛文三年・同八年・同九年とお參りしてゐます。すでに人倫を重んずるとなれば、父母より遠く先祖に溯り、皇室より遙かに神代を想ひ、ここに伊勢大神宮への參拜となつたのは、當然でありませう。

三、かやうに日本の歴史をしらべ、國體を考へる所から、儒學の中に於いても、諸説を批判する力が出て來たのでありませう。その最も大切な點は、革命を承認するか、しないかの問題です。支那は、不幸にしてたびたび革命が起り、國家は起つては亡び、立つては倒れてゐます。支那の開けたのは、四千年も前の事で、古い文明を誇りとするのでありますけれども、國家としては、いづれも短命でした。即ち夏は十七世、四百年ばかりで亡び、殷は三十世、六百年餘で亡び、周は三十七世、八百七十七年で倒れ、秦は三世、十五年しか續かず、前漢十三世、二百七年、後漢十三世、百九十六年、それから三國・晉・南北朝を經て、唐が二十帝、二百九十年、五代を經て、宋が十八帝、三百二十年、元は強大でしたが、百六十二年、明、二百九十四年、清、二百九十六年でせう。力のある者が、武力で國を倒してゆくといふのでは、五倫も道徳も、あつたものではありますまい。それ故に支那では、隨分すぐれた學者でも、革命の問題になつてくると、勝利を得た方に味方して、之を辯護する説を立てやすいのです。その中で、絶對の忠義を守り、あくまで革命に反對する考への出てゐるのは、韓退之の『拘幽操』です。それを見つけて、之を大きく取上げ、極めて短篇の詩であるに拘らず、之を印刷して一册の書物としたのが、山崎闇齋でありました。前に述べた遊佐木齋も、之を求め、之を讀んで、その學問が極つたのでした。

 その『拘幽操』と同じ精神で、支那歴代の革命を論じたものは、闇齋自身の作つた『湯武革命論』で、それは「漢の高祖は、もと秦の民であり、唐の高祖は、前には隋の臣であつたのであるから、それが天下を取つたのは、臣下が君主に叛逆した事に外ならぬ。それは宋でも明でも、皆な同じ事であり、溯つて殷でも周でも、建國の英主として讚へられてゐるものの、實は道義には反してゐるのであり、道義にかなつてゐるのは、後漢の光武帝一人だけである」と論じてゐるのであります。是れは孟子を批判し、更に孔子や朱子の論の足らない所を補ひ、或はそれを徹底させての議論であつて、ここまで徹底させる事が出來たのは、一つは闇齋の儒學が、只だ博識を誇るといふやうなものでなく、精しく道理を究めてゆく嚴しい態度であつたからでもありませうが、それ以上に重大な理由は、日本の歴史を考へ、殊にたびたび伊勢大神宮の神前にひれ伏して、天壤無窮の神勅を仰ぎ、國體の尊嚴に打たれたからに違ひありません。つまり闇齋が革命否定の論に徹底出來たのは、闇齋が偉かつたからでありますが、そこまで闇齋を導いたのは、實に日本の歴史そのものであつたのです。



**********


 愚案、罪なくして幽囚に陷りながら、一點、君を怨むる心が無かりしと傳へらるゝは、支那に於ては、周の西伯(諡・文王)であり、其の西伯の心持ちを、彼に代つて歌つたのは、唐の韓退之(名は愈)の『拘幽操』であつた。殷の紂王が西伯を拘禁幽閉して置いた時に、西伯は己れ罪ある事なくして、惡逆無道の紂王の爲めに辱めを受けながら、少しも主君を怨む心なく、却つて己をのみ責めてゐた其の心を、山崎闇齋先生は、沈潛默考して感歎歡喜に堪へず、これこそ、臣下たる者の道であり、道義の根本、即ち君臣の大義は、こゝに於て初めて明かにする事が出來るとして、之を表章講義した。傳ふる所に據れば、闇齋先生が『拘幽操』を講義する時は、思はず知らず、刀の下げ緒に手がかゝつたと傳ふ。蓋し刀を案じて之を説くと云ふのは、君臣の大義を推すに、假令ひ君の君たらずとも、臣は飽くまで臣たるの道を守らなければならない。苟くも王臣たる者が、主君を放逐し、若しくは征伐して、取つて代つて王となる事は、到底、之を許すべからざる事として、一律かつ無條件に之を排斥したのである。然るに今、徳川幕府は如何。ほしいまゝに大權を横領して、己ひとり榮華を極めてゐるが如きは、如何なる事情があるにせよ、許さるべきでは無い。大義の上から之を見れば、刀にかけても之を倒さなければならぬ、と云ふ微意に外ならないのである。


■昌黎韓退之『拘幽操』に曰く、「

 文王□[美の大なし+久。いふ]里の作。

目、□□[二字とも穴+目。えう]たり、其れ凝り其れ盲ひぬ。
耳、肅肅たり、聽くに聲を聞かず。
朝に日出でず、夜に月と星とを見ず。
知ること有りや知ること無しや、死せりと爲んや生けりと爲んや。
嗚呼、臣が罪、誅に當りぬ。天王は聖明なり」と。


■山崎闇齋先生『拘幽操の跋』に曰く、「

 『禮』(郊特牲篇)に曰く、「天は地に先だち、君は臣に先だつ、其の義、一也」。(『易』)坤の六二、「敬、以て内を直くす」。『大學』の至善に、「臣は敬に止まる」。誠に旨、有るかな哉。(『書』)泰誓に云ふ、「予れ天に順は弗れば、厥の罪、惟れ鈞し」と。是れ泰伯・文王の深く諱む所、伯夷・叔齊の敢へて諫むる所にして、孔子の「未だ善を盡さゞる」を謂ふ所以ん也。

 吾れ嘗て『拘幽操』を讀み、程子の説に因て、此の好文字、漫りに觀る可からざるを知れり。既にして朱子の「程が説を以て過ぎたりと爲す」を見て、信疑、相ひ半ばす。再び之を考ふるに、朱子の更に轉語して、「文王の心を説き得出せり」と。夫れ然る後に、天下の君臣たる者、定まれり矣」と。

  • [1]
  • 山崎闇齋先生の志。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2009年10月 7日(水)22時22分12秒
  • 返信
 
●拾穗書屋主人・紹宇・近藤啓吾先生『山崎闇齋の研究に志す學徒に贈る辭』(『神道史研究』平成十二年四月號。『小野鶴山の研究』平成十四年四月・神道史學會刊に所收)に曰く、「

 山崎闇齋の學問思想を學ぶに當たり、最も大切な心得は、闇齋の究極の志(目標)は何であつたかといふ問題、そしてその志にどのやうにして到達したかといふ經緯の解明であり、ついでその志が、その門下門流の誰れにどのやうにして繼承せられたかといふ問題を心に込め、これをみづからの問題として、認識しようとすることである。闇齋はその思想を、今日の學問のごとく、分析體系づけて説明しようとする學者ではなかつたので、その厖大な箚記類を渉猟檢討することによつて、學者みづからが、みづからにこれを明らかにする外に、闇齋の本質面目を知る道はない。

 しかも闇齋を知らんとして更に困難を覺ゆるものは、その學問思想に於ける轉囘が、極めて激しかつたことである。闇齋のどの時點に於ける立言が、その思想の表明であつたかを明辨することなく、その立言のすべてを一枚の平盤の上に竝べて、それをそのまますべて闇齋の思想として認めるならば、闇齋は轉囘も反省も苦惱もない、無生命の形骸のみとなつてしまふ[闇齋が朱子の學問思想を平盤に竝べることを退け、その説に、定・未定があり、前後あることを判定し、朱子の語であつても、それを取上げるに、嚴重な取捨選擇を加へた態度こそ、闇齋を學ばんとするものが學ばねばならぬ問題である]。このことに氣づかず、すべての立言を平等に見て闇齋を考へて來たのが、從來の闇齋研究の態度であつた。

 もし以上のことに氣づくならば、從來唱へられて來た、佐藤直方・淺見絅齋・三宅尚齋をもつて崎門の三傑とし、闇齋の學統門流を、この三人のいづれかに結びつけて來たことが、いかに空虚なりしかを知るであらう。闇齋の門下は、自分の入門從學した時點に於ける闇齋を、全闇齋、闇齋そのものと考へた。そしてその故にその後の闇齋の激しい思想の轉囘を理解追隨してゆくことができず、却つてそれを闇齋の墮落とし變心として、否定するにさへも至つた[‥‥]。佐藤直方・三宅尚齋は、その尤である。しかも彼等は、闇齋が餘りにも偉大であつた爲め、その知るところの時點に於ける闇齋像を、一段と巨人化せしめることにより、それに連なるものとして、みづからを權威づけんとした。『靖獻遺言』の著者として知られる淺見絅齋すら、正直にいへば、師の學問思想の究極を十分に理解し得てゐたとはいひがたい。その門下に若林強齋があり、彼れにより師の學問を純化して、闇齋晩年の志に歸せしめようとする努力がなされる。もしこの努力がなされることがなかつたならば、絅齋は剛氣不屈の儒者ではあつたが、その域を越え得なかつたであらう。いはゆる崎門の三傑といふものの實體は、かくのごときものであつたのである。

 しかし闇齋の門流の、江戸にあつて永く中心的な働きをなして來たのは、直方を祖とする派であつた。その結果、その派の働きをもつて、即闇齋のそれと見ることがあつたことも否定できず、從來の崎門學の理解に於ける誤りが、往々これより生じて來た。また闇齋の門下門流を系譜づけ、或はその傳を編集することに努力を惜しまなかつたのは、尚齋を祖とする流れであつて、『日本道學淵源録』・『崎門學脈系譜』は、その努力の成果を示すものである。しかしそれは、崎門の三傑といふ意識に鞏固に拘はれた編纂であるから、數多い同派の學者を、強ひてこの三傑に結びつけんとしてをり、これをもつてしては、各學者の面目を正しく把握することはむつかしい。

 江戸時代以來、世間で一般に考へられて來た、いはゆる崎門學派といふものの實體は、一言でいへば大體右の通りであつた。しかも明治以降に於いても、これに反省檢討を加へんとすることなく、わづかに三傑の學風に存する異同出入を取上げて説くのみにして、そのいづれをも闇齋を祖とするものと、平易に承認されて來たのである。

 しかるに闇齋門流の働きを、事實に即して檢すれば、この三派に屬せぬ闇齋派の學者もあり、その學者こそ、却つて闇齋晩年の思想を受けて活躍してゐることを知るのである。仙臺の遊佐木齋、土佐の谷秦山、水戸に仕へた栗山潛鋒等が是れである。しかもその人々、秦山には幸ひにその子孫に谷干城將軍あつて家學を奉じ、殊にその遺文集『秦山集』を刊行して世に公にしたが、潛鋒は水戸の史官として、その功績は顯著なるも、その學が闇齋に出づるものであることは長く忘れられてをり、木齋に至つては、全く忘却されてゐたといつてよい學者であつた。この三人の學者の學問思想および人物に注目し、その學勳を顯彰するとともに、それによつて明らかにしがたき闇齋晩年の志を、初めて明確にされたるは、平泉(澄)博士である(『萬物流轉』昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學舘大學出版部復刊)。そしてその博士自身に於かれても、また學界全般に於いても、從來の崎門學と總稱されて來た闇齋およびその門流に對する認識のうちに内在してゐた以上のごとき諸問題に、初めて反省檢討を行はんとする機縁となつたものは、昭和七年十月、有馬良橘大將提示せられ、平泉博士その嘱を受けて實現された、東京帝國大學に於ける闇齋二百五十年祭の齋行である。從來、三派それぞれの門流にあつて、その學者が細々と行つて來た調査發表や祭典が、ここに初めて一堂に會して盛大に行はれ、そして各學派の學者や、學者の子孫に守られて來た文書著書の數々が類別展覽せられたことによつて、闇齋の學問および門流の全體を、高所より俯看して考へ得ることとなつたのである。木齋・秦山・潛鋒も、初めてその正當の地位を得、強齋の評價も確立せられた。同時にいはゆる崎門の三傑・三派と稱せられて來たものの實體も露呈せられた(平泉澄博士編著『闇齋先生と日本精神』昭和七年十月・至文堂刊)。

 ここに闇齋學派は、長き三傑といふ束縛から脱して、正しく考へ得るに至つたのである。鳥巣通明氏の崎門三派の成立についての考察(『崎門三傑論に關する一考察』――『史學雜誌』五十三の五・六、昭和十七年五・六月)、井畔秋芳氏の望楠軒創設の經緯と意義に關する研究(『望楠軒の創設に關する研究』――『史學雜誌』五十二の九、昭和十六年九月)も、平泉博士の誘掖のもとに、この祭典の氣運のうちより生れ出で來つたことであつた。祭典の齋行あつて、崎門に對する認識評價判斷は、全くその内容一變した。かつここに明らかになつた崎門先學の、生死を堵しての求道の姿は、明日の運命いかなるや知りがたき若き學徒の心を深くとらへ、彼等によつて、闇齋・絅齋・強齋・秦山・式部(竹内羞齋)等に關する論考が相繼いで公表せられた。彼等は、これ等の先學の問題を、單に先學の事として見ず、みづからの問題と見、やがて筆を投じて銃を執るに至るや、その學問の命ずるところに從ひ、多くの戰場に散つて、また歸り來ることがなかつた。

 されば當時、これ等の若き人々によつて崎門に關する論考が相繼いで發表されたからといつて、これを崎門の學が世間より盛大に評價せられたと速斷してはならない。世間一般に於いて見れば、依然として闇齋に對する理解は低く、その研究も微々たるものであつたのである。但、その氣運に便乘して數多くの崎門に關する著述が刊行されてゐることは否定できないが、それはいはゆる際物であつて、闇齋の魂にみづからの魂を觸れしめんとしたものでなく、多くは解説書・啓蒙書の域を出づるものでなかつた。さればこれ等の書物は、敗戰と同時にその姿を沒して、二度と現はれることがなかつた。嘗てそのうちでは名の通つた解説書を著した某氏が、自著を廢刊した理由を語つて、「これからは、闇齋は、はやりませんからね」といつた事實は、よくこの眞相を示してゐる。

 さきに記した如く、井畔氏を初めとする學徒の多くは、戰場よりまた歸り來ることがなかつたが、生還するを得た學徒のいく人かは、敗戰後、研究も發表もままならぬ悲境のうちにあつて、志を變へることなく、その教へに沈潛を深め、更に今日に對する道を、そのうちより得んとして來たのであるが、その辛苦を知らずして、今日、やうやく一部の間より崎門評價の言が出で、それに關する發表(愚案、日本思想大系『山崎闇齋學派』岩波書店刊に見られるが如き一派)もあるのを見て、これをもつて崎門學研究再興の兆しと説くがごときは、同學繼承の實際を知らざる輕率の言といはねばならない。

 繰返していふが、崎門の學の研究は、その目標、闇齋最晩年の志の解明にしぼらねばならぬ。しかし闇齋の微意(愚案、覇府全盛の秋に在つて、『神皇正統記』・楠公精神の繼承、禁闕奉護・王政復古の志)、その數多い著書を通覽しても、これを明らかにすること、極めてむつかしい。ここに於いて、その志を把握し、その具現に一身を賭したる門人門流は誰々であつたかを究め、その人々の志と行ひを通して、闇齋の志を推察するを、闇齋研究の手順とする。而して究極に於いては、その教へらるるところ、導かるるところに從ひ、今日に於いて我等に遺されたその悲願を具現することを、我等自身の志とせねばならない。この決意がなければ、闇齋およびその正統門流の眞實の姿を、微言のうちより汲み取ることは不可能である。乃ち闇齋を研究せんとするものは、闇齋を紙上に求めんとするのでなく、みづからの身に求めねばならぬのである。この決意なくしての闇齋の研究は、血のかよはぬ赤の他人の外からする評論であり、闇齋の魂の光に觸れることはできない。かつて江戸に於いて直方の學派が勢力を持ち、その説が盛行したることをもつて、即闇齋學が盛行したとした誤りを、今日、再び繰返すことがあつてはならぬのである。

 闇齋を初めとし、その志を正しく繼いだ先學は、世の評價の多寡を問題とすることなく、自己の業績を誇ることもなく、ただ默々と、その學の示すままに道の維持に生命を堵して來た。世人の注目度のいかんのごときは、この學と毫も關係するところなかつたのである。關係論文數をもつて、この學の盛衰を卜せんとするがごときは、迷惑に外ならなぬのである。ただその學人が憂ふるところは、その人々の志を解し、その志を繼がんとする若き學徒が、今日、將來、存するか否かといふことである。

 崎門埀加の學に身を投じて六十年、今年八十歳になつた老書生が、遺言の思ひをもつて、その心情を吐露すること、以上の通りである」と。



 愚案、「左手を劔緒に掛け、肩を聳して説き、風采、人を悚動」(『孤松全稿』)して『拘幽操』を講じ、「我れ(闇齋先生)平生の講明、已に孔朱の學を知れば、死して遺恨なし。慊(あきた)らざる所の者は、營下に向つて、一言を獻ぜざること也」(『山崎先生行實』)と、志をのべたのは、我が贈從三位・埀加靈社・闇齋山崎嘉右衞門敬義先生である。此の「一言を獻ぜざる」事とは、天朝に對し奉つての幕府の不遜不敬を責むる能はざるを謂ふ。

 惟ふに朱子の思想を究極まで發展させる時は、當然、崎門といふ姿にならざるを得ない。朱子が認めてゐる聖人の權といふ思想を否定して、『拘幽操』に置替へる。これこそ、朱子を最もよく理解する者の態度であつた。朱子の亞流を問題としてゐるのでは無い。こゝに朱子の眞髓があり、日本の朱子學が確立した瞬間である。

 其の門流に在つても、或は豪邁木強、自ら信ずること最も厚く、闇齋の學問の神髓を傳へて、遙か海南の地に「日本之學」(『私講□[片+旁]諭』)の大旆を掲げた贈正五位・秦山谷重遠先生は、師説を金科玉條の如く尊重し、「我が神聖相傳の道、君臣父子の大倫、中國夷狄の嚴辨」を高唱し、其の後胤に、谷干城將軍を打出した。

 或は「自分が學問と云へば、嘉右衞門殿(闇齋先生)の落穗をひろうて、其の説を取失はぬ樣にするより上のことはなし」(『強齋先生雜話筆記』)と云ふ贈從四位・絅齋淺見安正先生は、能く師説を繼承し得て、足、關東の地を蹈まず、終生、處士として諸侯の招聘を拒み、輦轂の下に在つて赤心報國の大刀を横へ、「天子に對して謀叛起すものあれば、下知を待たずに、天子にかとうど(味方)する筈。將軍の天子を退く合點なれば、至極諫める筈ぞ」(『絅齋先生常話雜記』)と語り、一朝、事あらば、逢坂山は我が死所であると云ひ、又た衆くの俊傑の眼を開き、其の魂の所據となつた、彼の『靖獻遺言』八卷を、慷慨以て著作講義し、歴史を大きく動かす原動力となつた。

 而して「壁立萬仭、道を以て自ら任じ、屹然として師傳、全く斯の人に在り矣」(『孤松全稿』)、「守中翁と云ふ、埀加以來の人」(『雜話筆記』)と讚へられた守中靈社・強齋若林進居先生は、「夜裏ならば或は(大名の城下へ)往かむ。吾れ諸侯の城□[土+世+木。てふ]の堊土を以て塗れる者を視れば、則ち頻□[戚+頁。しゆく]して唾罵に堪へず」(『先達遺事』)と答へ、更に遡つて斯道を學祖闇齋に復するを以て、埀加神道の渾純なる復活を叫び、楠公を景慕して、己が書齋を「望楠軒」と命じた。曰く、「絅齋先生、大薙刀を一振御所持にて、是は關羽が偃月刀なりとて祕藏ありし事、(強齋)先生、書齋を望楠と號けられたる事、一意也。‥‥(強齋先生の曰く、)至尊より一粒も賜は受けねども、至尊に對する忠義に於いては、誰に劣らうとも思はぬぞ。今にてもあれ、何事にてもあるならば、禁中に馳參ずる佐野源左衞門が合點ぞ。それ故に一つの武具をとゝのへたぞ。皆、さう思うてゐるぞ。‥‥文王の『拘幽操』が、神道の至極ぞ。桀・紂が樣な者、有らう樣はないが、それ君が眞實にいとほしいと云ふでなければ、道は語られぬぞ」(『雜話筆記』)と。

 其の望楠軒主たる成齋西依周行翁は、九十五歳にも拘らず、梁上の長刀を指して、「萬一に事あらば、我れ此の刀を擁して、以て禁□[門+韋。ゐ]を護衞せんと欲す」(『有方録』)と語り、其の望楠軒より出でたる竹内羞齋(式部)先生は、「吾が君は、眞に神といふこと、返すゝゝも忘れ給ふべからず。然るを淺はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の亂にも及ぶ事、古今、其の例多し。愼むべし。楠正成の言葉に、『君を怨むる心起らば、天照大神の御名を唱ふべし』(賀茂氏藏書『楠氏書』)とあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則ち其の御子孫の大君、たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや」(『奉公心得書』)と、雲居の奧深き處へ講じ奉つた。而して幕末に到るや、遂に梅田雲濱・橋本景岳の兩先生を生んだのである。

 こゝに闇齋山崎埀加社の學問を紹介し、諸賢の參考に供しようと思ふ。寒林平泉澄博士『少年日本史』(昭和四十五年十一月・時事通信社刊。四十九年一月・皇學舘大學出版部復刊。五十四年二月・講談社學術文庫『物語日本史』上中下として刊行)の「山崎闇齋」の玉文を經とし、其の訓下し原文を緯として、其の梗概を披露すること、小生の不學末輩なるが故に、冀はくは之を御許し戴きたい。


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