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  • 神道に學ぶ。

  • 投稿者:備中處士
 
 神道人の遺文を聚めむと欲す。

 有志の士に乞ひ奉る所は、共に珠玉の文章の拜記を賜ひて、吾人勉學の資に供されむことを。

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  • [54]
  • 人にして神なる、出雲國造の説く出雲の精神。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 7月 7日(木)22時07分11秒
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■祭神の敕裁(明治十四年二十二日『可』御印)を拜承して、三條實美太政大臣の指令「別紙」(二十三日)

 宮中に齋き祭る所の神靈
天神地祇
賢所
歴代皇靈

(宮中の神殿に關しては、一切祕密にせられてゐたが、此の時に至つて、始めて拜承することが出來たる御由。國民は、之を標準として、神祇を崇敬することゝなれり矣)



●出雲大社教第四世管長・桐廼舍千家尊宣翁『神道出雲百話――皇室をめぐる日本の心――』(昭和四十三年九月・日本教文社刊)に曰く、

「政界では、(明治十四年の政變にて)火花を散らして爭つてをつた頃、神道事務局[明治八年、大教院解散後の神道關係の統一機關]では、伊勢派と出雲派との二つに岐れ、大論爭を始めてゐました。伊勢派は、『事務局の祭神は、造化の三神と天照大神、これに八百萬の神でよい』といふに對し、出雲派では、『それでは不充分だ。古典を見ればハツキリとわかるやうに、顯幽分任は、天照大神の御意ではないか。それである以上は、祭神として、天照大神の次に、大國主神を表明しなければならぬ。さうでないと、わが古典の精神が生きてこないではないか』と主張するものでして、この出雲派の主張には、同調者・支援者が澤山あつて、大きな勢力となりました。

 伊勢派の指導者は田中頼庸で、『校訂古事記』を編纂した人です。この『校訂古事記』は、本居宣長の『古訓古事記』に對し、新機軸を出さうとつとめたあとはよくわかるのですが、それだけに古典に對しては、恣意(わがまゝ)な扱ひ方が目立ちます。かういふところにも、頼庸の人となりが窺へるといふものです。頼庸は、鹿兒島神宮、昔は大隅正八幡といつたお宮の宮司でして、薩摩中の寺院といふ寺院を燒き、廢佛を極端におし進めた張本人です。このことは、鹿兒島神宮の宮司や神宮少宮司を勤務した古川左京さんが、よく私に言はれることですが、『田中頼庸といふ人は、西郷隆盛の詩友だ。アレは、さも學者のやうな顔をしてゐるが、學者でも何でもない。あの人が、ヤハリ伊勢を間違へたのだ』と申されてゐます。この田中頼庸が、伊勢の神宮の大宮司となつて、伊勢派を牛耳つてゐたのです。

 一方の出雲派は、私の祖父・千家尊福を中心に結束してゐました。『論語に、「本立ちて、道生ず」とある。幽冥主宰の大國主神をたてねば、日本思想の根本が立たぬではないか』と、かう主張したのです。かういふ考へ方は、平田篤胤の學問を承けた者のすべてが言ふことです。したがつて當時の國學界・神道界の中では、尊福の説に贊成し、同調する者の多かつたことも、また當然です。かうして日本の思想界は、祭神論をめぐつて、眞二つに分裂し、抗爭をしたのです。我が田に水をひくつもりは、さらゝゝありませんけれども、冷靜に考へれば、古典の記述ならびにその精神から言つて、この論爭は、出雲派に軍配があがると思ひます。

 伊勢派は、そこで『千家の意見は暴論だ。天照大神に對して、不逞な心持をもつてゐる、尊福は殺せ』といひ、尊福は、『自分を殺せば、ヨケイに出雲の精神がわかる』と、一歩も讓りません。竹槍で圍まれ脅迫されたが、たぢろかず、平然としてその中を歩いてゐたといふことを、聞いたことがあります。それが尊福の、一つの信念でした。ですから出雲大社の宮司を辭したあと、大社教管長として、日本中を駈け廻り、『日本といふ國の成り立ちはかうだ。出雲の精神とはかういふものだ』と、説いて歩いたのです。その言はんとする所は、『天照大神が表であり、その裏をなしてお助けしてゐるのが、大國主神だ』といふことにあります。尊福は、かう言つてゐます。『紙にも、表があり裏がある。裏がない表があるか。天照大神の裏のはたらきをなすものは、これが大國主神だ』と。‥‥

 潮惠之助といふお方があります。後に内務大臣や文部大臣、戰後の二十一年には、樞密院の副議長をした人です。この人は津和野藩の人で、したがつて出雲のことがよくワカつてゐる人でして、私は大へんに懇意にしてもらひました。この人が、『伊藤博文公から、先輩が聞いた話だ』といつての話です。『伊藤公は、いつもかういふことを言つてゐた』といふのです。

『千家尊福さんを、自分がたうとう政界へひつぱり出して、今、東京府知事をさせてゐるけれども、あの人を政界に出さずに、そのまゝ神主をさせておいたら、あの人は、日本の西の方から、天下の神主に號令する人だらうに。東京府知事にさせてしまつて、氣の毒なことをした』

と、岩倉さんに言つてゐた、といふのです(後に尊福は、司法大臣となる)。これと同じ話を、私は元の宮内大臣・岩倉具定さんの未亡人から、直接聞きました。この人は、澤さんといふ公卿の家の出で、澤宣嘉といへば、例の七卿落ちの一人です。この宣嘉さんのお孃さんです。岩倉家の祭事は、出雲大社教で扱つてゐましたが、このお婆さんが、私を大切にして下さつた。しかもこの御婆さんを、岩倉具定さんのところへ、お輿入れをするのにお世話したのが、私の叔父の藤波言忠です。藤波の叔父と宮内大臣の具定さんとは、同年齡ださうで、子供の時から、いつも明治天皇樣のお側に、二人一緒だつたといひます」と。



●出雲大社教教學文化研究室編『御生誕百五十年記念・千家尊福公』(平成六年八月・出雲大社教教務本廳刊)明治四十五年七月十一日講演「神道に就て」に曰く、

「日本が神國なるは、論ずるまでもなけれど、久しく思はざれば、兎角く忘るゝものなれば、復習すべし。天地開くるの始め、初めて事業を立てなされしは、伊弉諾・伊弉册尊にして、之を繼承し給ひしは、素盞鳴尊なり。當時、天照大神は、高天原を治め給ひ、素盞鳴尊は、青海原を治め給ひたるが、青海原は、未だ固まらぬ國土なりし。尊は、これが經營の任に當り、樹木の種子を播かせられ、其の後を承けて、其の事業を完成せられたるは、出雲の大社・大國主神なり。然るに天照大神は、皇孫を降して、此の國を治めしめ給ふことゝなりたれば、大國主命は、此の國土を潔く讓渡し遊ばされ、幽冥に於て、皇基を守り給ふ。我が國民は、此の大國主命の御神徳を仰ぎ、之を範則として、一系萬世の皇基を擁護し奉るべし。‥‥

 大國父子命は、幸御魂・奇御魂を祭り給ひぬ。幸御魂のさきは、物の先、角のさきにして、進取的の御魂、奇御魂のくすは、串なり、櫛なり、貫徹的精神なり。國民たるもの、上は天皇陛下の御爲め、下は國家・國民の爲め、幸御魂・奇御魂を鮮明にし、忠誠を以て、皇基を擁護すると同時に、和衷共同、以て事に當られんことを希望す。‥‥

 大國主命が、國土經營を完成したる後ち、之を皇祖・瓊々杵尊に對し、潔く讓り給ひしは、我が國、建國の本源を語るものにして、所謂大義名分は、之に依つて萬世に明示されたるものなり。日本人にして、此の精神無くんば、日本に籍を置くも、必ずしも日本人とはいふ可からず」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t10/9



●司法大臣正二位勳一等・大教正・教部省教導職西部管長・神道大社教管長・出雲大社大宮司・男爵・出雲國造第八十代・千家杖代彦出雲宿禰尊福大人『出雲大神』(大正二年十二月・大社教本院刊)に曰く、

「天夷鳥命は、建御雷神と共に降り來て、出雲國五十田狭の小濱に到りける時、建御雷神、突然に(大國主)大神に問ふに、『此の國を、大神に奉らむや否や』と申しければ、大神は聞き怪みて、『汝二神は、我が許に來坐せるに非じ。諾はじ』と答へたまへり。かく怪みたまひしは謂れあることにて、曩に穗日命に申し告げたまひし事もあれば、其の事にかゝる次第を語らざるに依れるなるべし。然らざれば勇武を以て任じませる建御雷神の、唯だ一言を聞きて、天上に還り上ることは非ずと窺はる。其は此の國作りには、須佐之男神より大任を受け、又た神皇産靈神の御言さへ蒙りて、幾百年の間、御心を碎き御力を盡したまひて、雨風を侵し艱苦を嘗めて、漸くに大造の績を建てませるに、此の大業に參與ませる御子神は百八十一柱坐し、部下にも亦た八十萬神あれば、故なく避け奉らむには擾亂なきことを保し難く、若し思ひ惑へる者出來むには、皇孫命の御爲に善からじと、遠く深く思ひはたせたまふ至誠の神慮ましませばなり。‥‥

 石見國人・高子常石の説に、

『世に傳ふる所にては、建御名方神は、天使に反抗せられし如くなれども、全く然らじ。是は建御名方神の武勇は、天下に知られて比類なきが故に、先づ自ら反抗の態度を示して、後ち終ひに建御雷神には及ばざることを國神に知らしめんと、殊更に謀りたまひしものにて、所謂誠忠の極、此の苦忠に出でたるなるべし。然らざれば反逆の神にして、朝廷の尊崇、此の如くあるべき由なきことをも思ふべし。古史に傳ふる所、往々半面の事實のみに止まれることあるを思ひさとりなば、此の神の苦忠の、世に知られざることも思ひ得べし』

と。此の神は、信濃國諏訪神社に鎭り坐して、今は國幣中社に齋きまつれり」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/918



 愚案、藤井貞文博士『明治國學発生史の研究』(昭和五十二年三月・吉川弘文館刊)は、祭神論爭に焦點をあてた大册、必讀の書です。明治前期の神道家が、如何に活躍し努力したか、現代に比べて懷しく羨ましく思ひます。中今の神道人、頑張れ。

 殊に同書には、宮地水位先生・宮地嚴夫掌典・美甘政和大人等の記事も散見。例へば同書三七三頁に、「豫ねて官幣大社熱田神宮々司角田忠行は、田中頼庸等の態度を遺憾としてゐたが、既にして上京し、具さに其の非議すべき事を知つた。是に於て彼は、中講義宮地益井・少講義宮地堅磐と共に上京、同志の總代として、從來の經過を印刷に附し、九月十八日附で、全國の教導職に報告した云々」。

 亦た『御生誕百五十年記念・千家尊福公』には、旭香美甘政和大人の經歴あり。曰く、「天保六年~大正七年。明治四年、中山神社權禰宜。同十二年に、出雲大社教會に所屬。祭神論では、出雲派の論陣を張り活躍し、同十四年の出雲大社の正遷宮にも奉仕する。同十五年の美作分院の開設とともに、初代分院長となる。同十六年頃か、一時、本院詰めにて、杵築に居住したといふ。また各地の巡教にも從事した。同三十年、中山神社宮司となるにより、大社教大參教・美作分院總理となる。尊福公との知遇は、同七年、該地への御巡教時代。主著は『天地組織の原理』」と。大參教とは、大社教管長・副管長に次ぐ、大社教一級・教導職大教正と竝ぶ地位たる協贊員の職名。
 

  • [53]
  • 再拜二拍手一拜。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 7月 4日(月)21時56分40秒
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●鈴屋大人『鈴屋答問録』

 又た問ふ。柏手(かしはで)と云ふは、食事を「かしはで」と云ふ故に、そのとき、手を拍つゆゑにいふか。

 答。「手を拍つ」と書く拍の字を、柏に思ひまがへたるにや。そは、膳夫(かしはで)と云ふことのある故に、その言を誤へて、手を拍つの字へあてたるにはあらじか。柏手と云ふ名目、古るき書には見あたらぬやうに覺ゆ。されどこは、いまだよく考へず。



●鈴屋大人『玉勝間』卷七「手拍つ數の事」

 『大神宮儀式帳』に、
「八度拜し奉りて」。
同書に、
「四段拜し奉りて、短手二段拍つ。一段拜。又た更に四段拜し奉り、短手二段拍ちて、一段拜し奉り畢ぬ[此の内に、二ツの一段拜は、たゞ數のあまりに、屈伏するにて、拜の數にはあらず。拜の數は、四段と四段と也]」。
同書に、
「四度拜し奉り、手四段拍つ。又た後に四度拜し奉り、手四段拍ち畢りて、退く[手の數、これは、四ツ拍ツを一段として、四段は、十六うつなり]」。
同書に、
「四段拜し奉り、八開手(やひらて)拍ちて、短手一段拍つ。拜し奉り、又た更に四段拜し奉り、八開手拍ちて、短手一段拍ち、即ち一段拜し奉る[八開手と云ふは、八ツうつ也]」。

 『大神宮式』に、
「再拜兩段、短く手を拍つ兩段。膝退。再拜兩段、短く手を拍つ兩段。一拜訖りて、退出」。
また同書に、
「再拜、八開手を拍つ。次に短手を拍つ。再拜。此の如きこと兩遍云々」。

 『大嘗會式』に、
「拍手四段、度び別(ごと)に八遍。神語に、所謂る『八開手』、是れ也[合せて三十二うつなり]」。

 『中右記』に、
「拜八度。先に四度。次に拍手。次に四度。又た手打つ。是を兩段再拜と名づく[これは、他説とことなり]」。

 『江次第抄』に、
「兩段再拜は、兩段の間、小揖有り」。
同抄・祈年祭の條に、
「上卿、手を拍つ作法、聲有らしめず」。手のさきを合せ、やをらゝゝゝ打合す也。
同抄・大原野祭の條に、
「朝使以下、皆な六拜」ともあれば、六度拜もあることにや。

 『正應六年七月十六日・公卿敕使記』に、
「敕使、宸筆宣命、笏に取り副へて、御拜四箇度、拍手兩段。又た御拜四箇度、拍手兩端。但し後の兩端の手、之を略せらる」。

 『嘉暦三年九月十日・公卿敕使記』にも、
「敕使、宸筆宣命、笏に取り副へて、御拜四箇度、拍手兩端。又た御拜四箇度、拍手兩段」と見ゆ。

 『元文三年・大嘗會便蒙』に、
「大忌の公卿、庭中の版位に着き、拍手。常のかしは手は、二ツづゝうつばかり也。此の時の柏手は、四度づゝ八度、一人の拍手の數、三十二也。やひらでと云ふ」といへり。

 當宮にて、今の世の拜は、『大神宮年中行事』によりて行ふ也。其の拜のさま、「拜八度、手兩端」とあり[此の兩端は、四ツを一段とし、それを二度にて、合せて八ツ也。その八ツを、四度拜の後毎に拍ちて、合せて十六也。今も、四度拜し、手八ツ打ちて、膝退して、又た四度拜し、手八ツ打ち、後手拍つ也]。「四ツを一段とすると、八ツを一段とするとの異あり」と、荒木田經雅神主の『儀式帳の解』にいへり。末の細書に、數のたがひあるは、聞きてよくたゞして、又しるすべし。



【田頭寛權禰宜・西野神社社務日誌】
  ↓↓↓↓↓
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070308
 

  • [52]
  • 神祇一致、君臣一體の明證。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 7月 3日(日)23時05分19秒
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■出雲國造第八十代・千家杖代彦出雲宿禰尊福大人『御救補御恩貸の歎願書』(明治十六年七月。三十九歳。出雲大社教教學文化研究室編『御生誕百五十年記念・千家尊福公』平成六年八月・出雲大社教教務本廳刊に所收)

 私儀祖先・天穗日命、皇祖天神の敕を奉じ、出雲大社に奉仕せし以來、内は祭祀を主りて、寶祚の永昌を祈り、外は本教を講明して、人心を匡正し、家道を齊へて、祖業を相續すること、此に八十代に及べり。而して中古、武門政權を掌りし以來、家領減削し、資産僅少に至れりと雖も、尚ほ幸に子弟族人をして、飢渇の患を免れしめ、祖業を保持するは、一として天神の靈と、皇家の澤とにあらざるは無し。

 然るに大政維新の際、神社改正の令を發せられ、不肖尊福を以て、更に出雲大社宮司に任ぜられ、兼ぬるに教導職を以てせらる。尊福、竊かに思へらく、維新日淺く、人心未定、此の時に當りて、我が本教を擴張して、以て人心を固結するにあらざれば、何を以てか、朝命の辱に答へ、祖先忠誠の志を繼承するの實あらんやと、遂に私産を抛ちて、東奔西走し、外は國體を講明して、人心を匡正せんとするに急にして、内は家産傾き、一家の保持に苦しむに至れり。是れ尊福不肖にして、自から資力を計らず、漫りに事を企圖せしが爲めなるべしと雖も、如此く困迫に陷りたる所以の者は、誠に勢の止むを得ざる者あり。

 抑々維新以來、人智、日は一日より進むと雖も、徳義は、益々衰退し、動もすれば歐米日新の藝術に偏重し、理論刻薄の風習に傾向し、遂に國體を顧みざる者を生ずるが如き、實に國家の爲め、默視すべからざるの徴候あるを以て、奮然自任し、子弟族人を率ゐて、祖業を擴張し、風教を維持せんとするに、如何にせん、之に充つべきの資金を求むる所なしと雖も、方全の時勢の如此くなれば、一日も躊躇するに忍びず。因つて私産を抛ち、數萬金を消費すること、此に二十餘年、現に其の費の著明なるは、東京出張所を建成せし一事を以て知らるれば、其の餘、各地に設立するの費額も、亦た推知すべし。而して其の事業の擧ぐる所、未だ實效の見るべき者無しと雖も、大社教本院を出雲に置き、今年、又た東京出張所を建成し、其の餘、各府縣下に教會所を設立する、既に八十餘所、然れども今日に僅かに其の端緒を開きたる者にして、將來に爲すべき事の尚ほ多く、資金を要するもの、亦た少からず。然らば進んでは、益々本教を擴張せんか、私財、復た餘す所無く、信徒の納むる所も、亦た限りあり。強ひて之を信徒に求めんか、從令ひ信徒は、辭せずして義捐せんも、創業、日淺くして、信徒に求むるは、尊福の忍びざる所、況んや若し信徒の中、未だ尊福の心事を詳かにせず、布教を口實として、勸財するが如く誤視する者あるときは、布教上、信用を失ふの害、大なるのみならず、家名も、亦た汚すに至るをや。然らば退いて手を縮めて、止まんか、多年、淬勵刻苦する所、皆な徒勞となり、産を傾け消糜する所、悉く徒費となりて、獨り本教を維持する能はざるのみならず、一家も、亦た保續すること能はず。實に進退維谷の秋と云ふべし。

 是を以て顧みれば、不幸にして志業、全く成らざるに、家産傾くに至るは、慨嘆に堪へずと雖も、上は皇室に對し奉り、下は祖業を擴張するの義務は、幾許か盡したる實跡なきにあらず。況んや其の費す所は、一個の奢侈に消糜せしにあらずして、偏に本教を講明して、皇室の御爲めに、將來の計を爲す者なれば、目前の得失のみを以て論ずべからざるをや。然るに家産傾くと雖も、猶ほ今日は、三萬金を得れば、困難を救補して、一家を保續するを得、併せて出雲本院を始め、東京出張所、其の餘、各府縣教會所も、亦た維持するを得べきなり。若し今にして御救補を請ふを憚り、荏苒經過するときは、數倍の金額を得るも、保持する能はずして、一家・教導の、二つながら救ふべからざるに至るは、火を觀るより明かなり。其の救ふべからざるに陷りては、志業頽廢し、一家破産するが如きは、暫く措きて顧みざるも、祖先・天穗日命以來、連綿相續し、尊福に至りて、家産傾け家名を汚すときは、朝恩の至渥に答ふること能はざるの罪、萬死に當り、恐懼に堪へざるなり。

 思ふて此に至れば、慨歎極なく、今、其の御救補を仰ぐは、益々恐懼を重ぬると雖も、幸ひに家名を汚さず、志業も、亦たなすを得るときは、多年、皇室の御爲めに計畫する所の功を奏し、朝恩の至渥に答ふることを得べきなり。是れ尊福、御恩貸を懇請するの急にして、益々一家困迫、且つ既成の事業の衰頽するを、束手、待つに堪へざる所以なり。因つて遠く祖先以來の由緒を思召され、近く尊福の微忱苦衷を御照覽成され、十五年賦を以て、三萬金を御貸下仰付けられ候ふ樣、特別の御詮議を歎願の趣、御聽許の程、只管ら願ひ奉り候ふ。誠惶頓首。

 明治十六年七月、從四位・千家尊福
宮内卿・徳大寺實則殿



●出雲大社教第四世管長・桐廼舍千家尊宣翁『神道出雲百話――皇室をめぐる日本の心――』(昭和四十三年九月・日本教文社刊)に曰く、

「明治十六七年の頃に、尊福が、明治天皇樣に借金を申し込みました。相手もあらうに、天皇樣に借金したいといふのでありまして、それも自分の家は、先祖が、天照大神さまの御命令を承けて、この出雲に來て、御奉公を積み、自分は明治になつてから、大教正に任ぜられ、神道西部管長に補せられて、東奔西走し續けてきたために、内々は家産が傾きかけてきました。しかしこれは、皇室の御爲め、日本の爲めにと思つてやつて來た仕事であるからといふので、『四千兩の大金を、二十ケ年賦でお貸し下さい』と願ひ出たのであります。誰かの先日の話に、明治十何年かのお金は、今の金をもとにしますと、五千倍になるといふのでありますから、今のお金にすると、二千萬圓にもなりませうが、『國家のために働く資金として、拜借したい』と願ひ出てゐる草稿が、私の家に遺つてゐるのであります。

 又もつとゝゝゝ面白い話は、我が田に水をひくつもりは、毛頭ありませんが、ちやうどその頃、日本中を驅け歩いて、前に申した通り、千家の家の資産が、少し傾きかけて來たものですから、家の子・郎黨が、皆な集まりまして、尊福に向つて、『アナタは、こゝにタヾジツトしてゐれば、人は皆な神さま扱ひをしてくれるのにもかゝはらず、日本中を驅け廻り歩いて、人にもバカにされ、天子樣には、借金を申し込んだりして、家の財産を倒すのは、イケないではないか。も少し愼んで、家にゐてもらひたい』と、尊福に諫言したのであります。さうしますと、尊福は、

『お前らの言ふことは、よくわかる。しかし自分が、かうして奔走してゐるのは、自分の榮譽名達の爲めではない。このまゝにおいておくと、世は鹿鳴館時代の思想、歐化萬能の思想から、皇室がお倒れになるおそれがある。皇室がお倒れになるならば、その前に、千家の家は亡びるべきだ。とめてくれるな』

と、申したさうであります。私は、このことを故老から聞いてゐるのであります。讓るといふのではなくして、皇室を皇室たらしめるために、終始、働いてきてゐるのでありまして、私の家の記録にも、祖父尊福の事業や、そのいろゝゝ書いたものに、ハツキリと見えてゐるのであります」と。
 

  • [51]
  • 神器ある所、必ず正統の天子あり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 5月30日(月)21時26分51秒
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●稻葉稔翁『現代に生きる武士道──葦津珍彦の戰鬪精神』(平成八年六月未定稿。頭山滿翁生誕百五十年祭實行委員會編『近現代戰鬪精神の繼承──西郷隆盛・頭山滿・葦津珍彦の思想と行動』平成十七年二月刊に所收)に曰く、

「戰後、葦津は、日本の皇室や國家にとつて、最も暗い危機の時代の歴史──壬申の亂の時代と南北朝の時代(ママ。「吉野時代」と謂ひつ可し矣)を讀んで考へたといふ。その中で、伴信友の『殘櫻記』の史論にふれて、次のやうに述べてゐる。

 『著者(伴信友)は、人間的な情感においては、限りのない同情をもつて、一門一族ことごとく亡びて行く後南朝(所謂「自天王」等の血脈)の武士の行動を考證して行く。しかし著者の知性的判斷によれば、後南朝の武士の情は美しいが、理義においては誤つてゐる。神器の繼承といふ大法は、「正統なる天子が、萬世一系の神器を繼承なさる」といふことなのであつても、「武力や暴力によつてでも、神器を有する者が、正統なる天子になる」との逆の論理は、決して成立しないと論定してゐる』

と、信友のシヤープさと明快さを指摘しつつ、その結論として、次のやうな史觀を論じてゐる。

 『世の歴史にせよ、人の歴史にせよ、悲しいことは避けえない。人知の限りをつくしても、人の情けの美しさをもとめても、避けることのできない悲史は生じて來る。人知では測り知ることのできない神々の御心によつて、人の世の歴史は形成され、流れて行く。人間は、人知・人力の及ばざる神々の御心を敬ひ、神々の授けられる倖せを喜び、神々の授けられる悲しみは、悲しみとして耐へて行く外はないといふことになる

と。ここに、神ながらの道の特色が語られてゐるやうに思ふ。ただ、この時、葦津は、古典を學んだのは、歴史の中から、今後の活動指針のヒントを得たくて讀んだので、『ここには、何のヒントもない、私は、これから活動をせねばならない、これは見棄てると決めた』と明言しながら、『しかし奇妙に、一度通讀しただけで、氣にかかる一論文ではあつた』と述べてゐる。此の邊は、測ることが難しい心底であるが──。私は、次のやうに解してゐる。

 高山昇が悄然として、『神ながらの道を生きて行くのも、悲しいなあ』(葦津珍彦翁の遺著『一神道人の生涯──高山昇先生を囘想して』平成四年七月・東伏見稻荷神社社務所刊)と言つたのは、この悲しみも、神々の授けられる悲しみであつて、耐へて行くしかないといふことで、これが大方の神道人の感情であつたと思ふ。『なにもかも、さかさまになると、大狼狽してゐる』のが、其の時の日本人であつたのだ。だからこそ、この時の葦津は、この『悲しみ』の感情を見棄てると決意した。それは、悲しみの感情がないのではない、是から活動して行くのだ、だからこそ、この誰もが感じて悄然としてしまふ『悲しみ』の情をのり超えようと決斷し、『見棄てる』との心境になつたと、私には思はれる。かうした悲しみを内に祕めて、表に出さずしてこそ、情感のみに流されない、武士道的知性の決斷があるのだらう。神ながらの道の悲しみをのり超えて、人知をつくさうといふのが、葦津の心境であつたといへるのではないか」と。



●葦津珍彦翁『劍璽御動座の朝儀復活請願に關する政府彈劾聲明』(『神社新報』昭和四十六年六月七日)

「劍璽に對する政府宮内廳の見解表明は、まつたく許しがたいものと思ふ。

 皇祖親授の神鏡は伊勢にあり、御劍は熱田にある。皇居の劍璽は、陛下のご進退とともに捧持さるべきものとして、歴朝確信されて來たのが、萬世一系の御信條なのである。その御信條に對して、いかに歴朝が御誠意を盡されたかは、吉野朝史などで、國民の良識として深められてゐる。御供の侍臣の、殆どない危機にさいしても、皇位は、一日たりとも、劍璽と御離れにならなかつた。近くは孝明天皇・明治天皇・大正天皇から、戰時中の今上陛下にいたるまで、いかにこの朝儀を大切になさつたか。ここに皇祖いらいの皇位神聖の御信條が生きてゐて、臣民感激の根底となつた。ところが、この神聖感に對する感激を好まない神道指令下に、皇朝史上、かつて前例なき朝儀御中絶を見たのである。

 それを御復古いただきたいとの臣民の悲願に對し、佐藤首相は、これを拒否して、將來とも復古の意思なしと言明した。

 孝明・明治・大正天皇の御信條に反して、一俗物政治家たる佐藤榮作が、淺薄な俗流新解釋を立てて、新しい方式で皇居においた方が、歴朝を經て、明治・大正天皇にいたるまでの御信條による方式よりも、より適當だと斷定した。このやうな不遜僭上の判斷をすることを、佐藤榮作は、どこに根據をもとめるつもりか。このやうな輕薄俗物者の佐藤首相なり、宇佐美宮内廳長官らが、皇室への神聖感を傷つけてゐるのは、遺憾千萬だ。

 昨秋、自刃した故三島由紀夫君は、政府や宮内當局が、戰後民主化の名において、皇位の神聖感を亡ぼしつつあることを痛憤し激怒した、多くの記録を殘した。實は私は、三島君の痛憤に道理をみとめながらも、當局者には、現憲法下では、やむをえない諸事情もあるのではないかとも思ひ、その言論は、多少過激ではないかと考へたりした。しかしこれは、私の考へがあまかつた。

 政府や宮内當局は、憲法に制約されてゐるのではない。現憲法下で、當然になし得ること、なすべきことであつても、傳統的な朝儀の復古には反對なので、將來とも復古への意思はないと言明したのである。かれらは、神道指令による皇位の神聖否定の思想を固執し、定着化させるつもりなのである。神聖否定の路線をすすめて、陛下を、ただの人間・世俗人にしてしまつて、萬世一系の意味が、どこにあるか。臣民への直接的な御親愛は大切だが、それと神聖否定とは、まつたく意味がちがふ。

 佐藤答辯【註】は、言葉を飾つてはゐるが、その思想は、神聖否定の合理化をねらつたもので、皇位の神聖復古をねがつてやまない、われわれの信條とは、まつたく相對決し、その思想は、斷絶してゐる。私見を端的に云へば、こんな政府や宮内當局に、陳情したり懇請しても、復古の悲願は達せられない。それを今度の問答は、明示したものである。

 問題は、いかにして萬世一系の神聖復古の信條にもとづく「かくれたる民の聲」を、聖上に、直接に、しつかりと通ずる道を切り開くかにある。それ以外に、道はない」と(昭和四十八年十月、神宮御遷宮に際し、天皇陛下には、皇居に於いて、神宮に遙拜あそばされた御時、「劍璽が捧持された」御由。いともゝゝゝ畏し矣)。



【註】曰く、「行幸に際し、劍璽を捧持することをとりやめた理由は、
一、戰後、行幸の機會が著しく多くなり、かつ、時勢の推移との關係もあつて、常に劍璽を捧持されることは、必ずしも適當でなくなつた。
二、終戰後の各般の情勢にかんがみ、事故を避けるためにも、常に皇居におとどめになつてゐた方が、劍璽を大切にされるゆゑんでもある。
 從つて今囘の御渡毆の機會に、劍璽の捧持を復活することは考へられてゐない。また今後においても、その事情に根本的な變化があるとは認め難いので、劍璽の捧持を復活することは、今のところ考へられてゐない」と。



【神器の在る所は、必ず正統にして、正統の在る所は、必ず神器あるなり。神器と正統と、別に見るべからず。】
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  • [50]
  • 日拜式。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 2月23日(火)19時30分9秒
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■日拜式

   出雲大社宮司兼大教正・從五位・千家尊福撰

 先づ、手洗ひ嗽ぎて、身を清め心を鎭めて、『祓詞』を白すべし。

 『祓詞』

掛け卷くも恐こき、伊邪那伎大神、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に、御禊ぎ祓ひ給ひし時に、生り坐せる祓戸大神等、惟神らなる大道の中に生れて在りながら、其の御蔭をし、深く思はずて、皇神等の御惠みを、大ろかに思ひたりし時に、過ち犯せるは、更ら也、今も罪・穢れ有らむをば、祓ひ給ひ清め給へと申す事を、八百萬の神等、共に聞こし食せと、恐こみ恐こみも申す。

 次、麻串を執りて、祓ふべし。

祓ふ状(さま)は、左り、右り、左と、三度び祓ふべし。度び毎とに、「祓ひ給ひ、清め給へ」と、唱ふべし。

 次、二拜・拍手

拜む状は、二度び頭らを埀れて、四度び手を拍つべし。

 次、神饌を奉るべし。

 次、神號をとなへて、拜むべし。

掛け卷くも恐こき、天之御中主大神・高皇産靈大神・神皇産靈大神・天照大御神・大國主大神・産土大神の大前を、謹しみ敬(ゐや)まひ拜み奉る。

 次、『謝恩詞』を奏すべし。

掛け卷くも恐こき、大神の大前に、恐こみ恐こみも白さく。大神の廣き厚き恩頼(みたまのふゆ)に因りて、食物(をしもの)・衣服(きもの)・住所(すみか)を始め、萬の事等(ら)、求むる任(ま)に得さしめ給ひ、勤むる任に成らしめ給ひ、親族・家族、和(にぎ)び睦び、日に殊(け)に心(うら)安く樂しく、撫で給ひ守り給ひて、現世(うつしよ)を去りぬる後の魂も、永久へに治め給ひ惠み給ひ、幽冥(かくりよ)の制度(みのり)の任に、神の列(つら)に入らしめ給ひ、裔(はつこ)の彌や次々をも、守り幸はへぬべく、穴なひ給ひ助け給ひて、現世も幽世も、樂しみ歡びの、變はる事なく盡くる事なく、惠み給ひ愛(うるは)しみ給はむ事を、嬉しみ忝なみ、稱へ言、竟へ奉らくを、御心も平和(なごやか)に聞こし食せと、恐こみ恐こみも申す。

 次、『神語』を、三度び唱ふべし。

幸魂・奇魂、守り給ひ幸はへ給へ。

 次、二拜・拍手。

拜む状は、上に同じ。

 次、祈る事あらば、其の由を白して拜むべし。

明治十二年二月十日、出版御屆
同年三月刻成

   撰者兼出版人 千家尊福 島根縣出雲國神門郡杵築村住 定價六錢


**********


■出雲大社教神拜詞集『謝恩詞』(平成三年十月一日・出雲大社教教務本廳刊)

掛卷も恐き、大神の大前に、恐み恐みも白さく。大神の廣き厚き恩頼に依りて、食物・衣服・住居を始め、萬の事等、求むる任に得しめ給ひ、勤むる任に成らしめ給ひ、親族・家族、和び睦び、日に異に心安く樂しく、撫で給ひ守り給ひて、顯世を去りぬる後の魂も、永久に治め給ひ惠み給ひ、幽世の制の任に、神の列に入らしめ給ひ、裔の彌次々をも、守り幸ひぬべく、穴なひ給ひ助け給ひて、顯世も幽世も、樂・喜の、變る事なく盡る事なく、惠み給ひ愛み給はむ事を、嬉しみ忝けなみ、稱言、竟奉らくを、御心も平和に聞食せと、恐み恐みも白す。

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  • [49]
  • 白晝昇天の生神──『本朝神仙記傳』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年10月22日(木)19時13分27秒
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●『本朝神仙記傳』上之卷「度會常昌神主」に曰く、

【本傳】度會常昌神主は、姓は度會、氏は檜垣、本の名は常良と云へり。伊勢國度會郡山田の人なり。豐受大神宮に仕へ奉りて、一禰宜に進み、從三位に昇る、即ち長官たり[皆『外宮禰宜補任續録』に依る]。常昌、博學洽聞にして、神道の根源を究め、聖賢の道徳を兼ねたり。其の性、正直にして、心神明徹なりし故にや、靈驗あらはれし人なり。其の學力の程は、『舊事紀玄義の序』(愚案、『續々群書類從』第一神祇部に、常良「神道書紀縁起の序」として見ゆ)及び『文保法目の廳宣』を見ても、大略を知るに足る。又た文保二年に、參宮の禁忌服假の令條を結ばれしより、禁忌・服忌の事、著明にして、錯雜の惑ひなく、元徳元年に、度會姓の族系を質して、祭主・隆實卿へ注進せられしより、宗盟正しく、支流明かにして、紛紜の紊れなし。此の二事は、神宮の綱領にして、萬世不刊の典故と云ふべし。中比、同僚と相挑めることありて、神官等、嗷訴して、奏聞を經、常昌を流罪せむとはかりし時、神前の木葉に蛙(むしば)みたる奇瑞あり。此れを讀みて見るに、即ち歌なり。

常昌を つねに見るだに 戀しきに 何かへだてむ 神籬(かみがき)のうち

とあり。斯やうのふしぎを見れども、神官等、更に用ゐず、遂に奏聞に及びけるに、主上の御前にも、亦た同じく木葉、蛙みの奇瑞ありければ、聖主、奇(くす)しく思召され、嗷訴を退けさせ給ひ、流罪には處し給はざりしと云ひ傳へて、今も猶ほ兒童に至るまで、此の歌を口ずさみにするとかや。

 常昌、老後に至り、一日、衣冠を正して參宮しけるが、高宮の坂の中にして、忽ち飛びあがりて、登天したりと云ひ傳へたるなり。高宮の石磴(いしばし)に、袖摺石・袖曳石と云ふ、二つの石あり。即ち其の登天の時に、由緒ある石なりと云ひ傳ふるなり[多く『蟄居紀談』と『北畠物語』とを參考して記す]。又た岩戸山の西北の平岡に、飛社と云ふ小祠あり。此は、常昌天上へ飛び上る時、其の沓を脱ぎ棄てありしを、其の從僕、形見の處を作らむと持ち歸れるに、又た常昌の着たりし冠の纓、空中より飛び來りければ、其の地に纓も沓も、共に納めて祭壇となし、之を飛社・冠塚と云ひしとぞ。此の飛社、近比まで、小祠の有りけるを、今は小祠もなく、社地をも畑になして、松二三株に、少し許りの石積みあるのみなり[『檜垣貞次聞書』を採りたり]。元來、度會姓の輩は、此の小祠を保存して、常に參拜をもなすべきに、飛社の名をだに知る人なくなりしは、時勢の然らしむる所なるべけれど、實に歎かはしきことにこそ。常昌は、和歌にも長じたる人にて、よめる歌、四首まで敕撰に入りたり。常昌登天のこと、「神宮の記録に見えず」とて、彼れ是れ云ふものも無きにあらざれども、右左(とにか)くに『雜々拾遺』と云へる印行の書にも載せて、婦人・童子までも云ひ傳へ、語り傳ふるは、實に尊き事實なるべし。



○嚴夫云く、本傳は、『北畠物語』・『蟄居紀談』・『檜垣貞次聞書』・『外宮禰宜補任續録』等の諸書を參輯して擧げたり。

 但し『(檜垣貞次)聞書』には、「常昌は、奇特神通ある人にて、生神(いきがみ)なり。七十七歳の時、參宮の砌、高宮の坂にて、白雲、下り來りて、其の儘、登天せり。從僕に、空中より、『其方(そち)も來ぬか』と、妙なる聲にて云へり。忽ち一陣の奇しき風、吹き起りて、雲も形も見えずなりしとぞ。其處に脱ぎ棄てし沓の有りしを抱へて、形見の所を作らむと持ち歸りしに、常昌が着たりし冠の纓、空より飛び來りしに依り、其の地に沓と共に葬りて祭壇とせり。飛社・冠塚と云ふ地、是れなり。又た高宮の坂を上り下りする時、左右の袖にて、其の身を掩ふは、登天の事を形どりたりときく也」と記せり。此の『聞書』の説、尤も事實なるべく思はる。
又た此の『聞書』に、「高宮の坂を上り下りする時、左右の袖にて、其の身を掩ふは云々」と云へるは、『外宮神拜式』に、「次に高宮に參る時、土の宮の風の宮の方位に當り、拜を行ふ。石磴を登り、中坂を歴る時、左袖を揚げて、其の身を掩ひ、拜み畢り、中坂を降る時、右袖を揚げて、亦た其の身を掩ふ」とあるを指せるものにて、外宮の神拜に、高宮の中坂にて、斯くの如くする事の有るは、即ち常昌神主、登天の時の状を形どれる遺法と見えたり。
又た袖曳石・袖摺石の事は、『宮川夜話草』に、「袖曳石は、上より算へ第十二段、西より二つ目、凸(なかたか)の石にして大なり。色青黒し。袖摺石は、右の如く第十七段、西より四つ目、凹(なかひく)の石にして小なり。色赤黒し。此の名義所傳、詳かならず。或る曰く、『常昌長官、此所にて昇天せられし故事に因れり』と云々」と云ひ、
『度會延貞筆乘』にも、粗々此れと同じ状に記し、又た『神境紀談』には、殊に委しく此の二石の事を説かれたれども、餘り煩はしければ、爰には省けり。
此の外、『伊勢參宮名所圖繪』高宮下部坂(をりべさか)の條下にも、「或る説には、常昌長官、此所にて昇天せし等の口傳あり」と云ひ、
又た『兩皇太神宮案内記』にも、「次に高宮參勤すべし云々。又た坂中に、天上石と云ふ石もあり。常昌長官、高宮へ參詣の時、此の石より天上まします。故に天上石と云ふとぞ」と載せたり。

 斯くの如くにして、常昌神主の昇天は、更に疑ひ無きものゝ如し。

 然るに之に反對して、此の事なしとし、種々の異説を試みたるも、亦た少なからず。其は、『伊勢大神宮神異記』(度會延佳神主の所著)には、「此の常昌長官までは、上階の禰宜、一人も無かりしを、元徳二年四月十七日に、從三位に敍せられたる故、上階をへたる事を天上したると、代々を經て云ふまゝに、後には常昌は登天したり、有りがたき事と云ふなり。始めて上階に敍して參内をもしたるは、天上したるにてはあれど、高宮の坂より、忽ち登天などは、道書に云ふ白日昇天に似たり。まどふ事なかれ」と云ひ、
『勢陽五鈴遺響』には、「常昌登天の事蹟は、方俗、語り傳ふと雖も、神宮記録には、曾て見えざるなり。此は、洛東山階・天智天皇廟陵の、珠履を遺し登天の訛傳を傚(なら)ひて稱するなるべし。詳かならず」と書き、
『神都名勝誌』にも、「常昌神主は、或は云ふ、宮域内・下部坂より昇天したり、と。是れ高貴の人の死するを、天に歸るといふ。古傳ありしより、其の人を神聖にせむとて、取り添へたる強ひ言なるべし。されど其の徳望ありしを、思ひやるに足りぬべし」と記し、
『圍爐間談』にも、「常昌長官、高宮の阪中より、中風を患ひて、家に於て薨ず。後人の傳説に、常昌、此の坂中より昇天すと云ふ」など載せて、各自思ひ々ゝの事を云へり。

 畢竟、此の異説を試みたる諸書の著者は、度會(出口)延佳神主を始め、孰れも神仙の事などは、夢にも知らざる人どもなれば、更に奇しむに足らず。中にも可笑しきは、『神異記』には、上階したるを以て、天上したりと云ふとし、『名勝誌』には、貴人の死ぬるを歸天と云ふより起りて、昇天とは云ひ出したるものなりとし、『勢陽五鈴遺響』には、天智天皇登天の訛傳に傚ひて稱するものなりとし、『圍爐間談』には、高宮の坂中にて中風の起りたるを、此の坂中より昇天すと云ふとす。其の確實なる證據のなくして、孰れも己が昇天と云ふことのあるを知らざる凡俗心より起る、只の妄想の浮ぶに任せて、思ひ々ゝの事を云ひしに過ぎざるを知る。實に抱腹に堪へざることゝ云ふべし。
 

  • [48]
  • 神仙の御存在について、坤──宮地嚴夫掌典。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年10月 9日(金)23時49分41秒
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~承前~

○嚴夫云く、本傳は、至道壽人の自著に係る『眞誥』、及び其の義兄なる木村知義の『至道物語』、且つ予が親しく至道壽人より聞きたる所とを參考して之を記し、以て爰に載せたり。中にも全文の多くは、『至道物語』に散見せるを、次第を立て文を成したるが、後に河合清丸氏の『無病長生法』を得て、傍ら此れをも參考に供したり。其の中に、本傳にては、至道が照道壽眞に伴はれて、始めて吉野山に至れる時、第一に、途中にて口に哺められたる藥のことを問ひしに、「桂枝の下には、草生ぜず、麻黄の□[艸+亥。根]は雪積らず。其の他、此れに准へて知るべし云々」と答へて、此れより多くの問答を爲し、修眞の要訣を授かりたる由を擧げたるは、全く至道の眞話と『眞誥』とに因りて記したるが、『至道物語』には、昨年八月、御住居へ御供して走り、氣絶せし時、「藥を口へ入れられしは、如何なる御藥にや」と伺ひければ、「草木を見よ云々」と答へられし由に擧げたり。然れども能く其の文に意を用ひて見れば、此は、至道が翌年、問ひたるにはあらで、問ひしは其の時にて有りしかど、知義が聞きて、此の『(至道)物語』に筆記したるは、翌九年にて有りしを以て、昨年八月とは書きしものなり。思ひ誤るべからず。

 また本傳に、照道壽眞が昇天の神敕を受けられし由を、至道に告げられしは、明治九年二月、寒水行の爲め、葛城山に登りし時、同山にての事を記したるは、『至道物語』に、明治九年四月七日、河野氏來阪し曰く、「兼ねて咄(はな)せし通り、當二月、寒水行に葛城山に登り、神仙へ拜謁の處、折から山は大雪積りたれど、神仙は泰然として御咄しあり。我は冷へて云々御叱りを蒙りしこと、前に記すが如し。さて仰せらるゝには、『我は、當年七月七日に、昇天の詔命(みことのり)を蒙りたり。昇天の節、汝、登山せよ。種々の相傳物を授くべし』と命ぜられたる趣き」云へり。暫く滯阪して、同月十八日、歸貝せりとあるに因りて記したり。然るに『無病長生法』には、此の事を、至道が五十日の謹愼を畢りたる後、壽眞が貝塚なる至道の寓居に立ち寄られし時に告げられしことに書かれたれど、本傳の據り所も確實なるを以て、今、之を改めず。

 猶ほ此の『至道物語』には、去る六月にも、此の八月にも、至道仙人來阪の時、『物語』に、大壽眞の仰せに、「我、前々より富士山に、天皇祖神(あまつみおやがみ)・三柱皇大御神・大名持命・少彦名命の宮を建營爲さまほしき念願なりしかど、得果たさゞりけり。汝、我が思願を繼げよ。然し強ひたる事を爲さば、却つて障りあるものなり。能々時節を考へ、我が念願を果たせよ。此の議は、大山の常照大壽眞も、思願なり。此の宮、成就なす時は、天神地祇、諸神降臨の地、天壽・地壽・衆仙集會の場となり、皇國の御稜威、益々光り輝き給ふに至るべきぞ、との遺命(みことのり)ありたりとぞ」とも、
また大壽眞の御咄に、「我、三年前、御用有つて、北天へ昇り、都に入らむとする時、其の門に恐ろしき神座しまして、嚴しく尋問せられし故、御用の次第を申しければ、御符(通用切手なるものゝ由)を渡され、夫れより都の中へ往來自由にて、入りて見しに、神眞の宮殿、古昔より年々に増加して、今は其の數、無數に成り居るとの仰せにてありしとぞ」とも、
また山にて天滿宮の御事を伺ひしに、「此は、北天に御住みなり。三年前、北天へ昇りし時、御宮殿へ參りしに、實に美しく大にして、廣きこと計られず。夫々の間に、各司神まして、拜謁等のことは、中々容易に叶はざるなり。昔は十六萬八千餘の神々を司り給ひしとあれど、今は數千萬の神々を領(あづか)り給ふとぞ」とも、
また「大神貫道・備前黒住宗忠は、死解(しか)仙と成つて昇天せられ、大山常照仙人も、昇天せられたる趣き、大壽眞と常照仙人とは、毎度御出會ひ有りたる趣き、御咄ありしとぞ」とも、
また「霧島山の雲居官藏と云ふ仙人は、また新しき地壽にて、今は少壽眞と成られしが、壽眞の稱號を得る時は、北天の御使ひを勤むることの成るものなりと申されしとぞ」とも、見えたるを始め、至道が、壽眞の常に帶びられたる刀劔の目利きを爲したる事、また世界は三千世界に止まらず、數萬の世界の有ることを云はれたるの類、凡そ四五十箇條も有れど、本傳に擧げ盡すべくもあらねば、皆な省きて、此れを載せず。

 但し今ま擧げたる『至道物語』の中に就て、壽眞が北天と云はれたるは、或は神集嶽と云へる神仙界のことには非ざるか。其は我が道友・水位靈壽眞(宮地堅磐大人)は、名師に伴はれて、屡々神仙の幽境に入り、彼界(あのよ)のことには精通したる人なり。其の著に係る『異境備忘録』に、「幽界は八通りに別れたれども、其の八通りより數百千の界に別れたり。然れども宇内の幽府は、第一に神集嶽、第二に萬靈神嶽なり」と云ひ、また其の神集嶽は、大國主神・少彦名神等の主(つかさど)り給ふ所にして、「其の入口に見麗門と云ふ門あり。其の門を入りて行くこと數里にして、また六元門と云ふあり。此の門に數多の警官ありて、判鑑符を驗査し、符無き者は通行を許さず」と云ひ、また此の界に莊嚴なる宮殿の夥しきこと、また特に菅公、即ち天滿宮の廣大なる宮殿の有ること等、明細に之を記し、且つ水位(壽)眞が由ありて、幽許を蒙り、其の神集嶽の眞形を寫し來れる圖もありて、余も之を拜見したるに、照道壽眞が至道に語れる所、實に能く符合するもの有るに似たり。然れば其の北天と云へるは、或は神集嶽には非ざるかと、余が考ふるも、理無きに非ざるを知るべし。

 また本傳に、至道が、照道壽眞の昇天間際まで平服にて有りしが、昇天の時には、忽ち立派なる裝束に改まりてをりしこと、及び其の昇天の後、直ちに靈窟に至りて見しに、塵一つだに殘りたるものゝ無かりしこと等を、甚く驚きて、奇異に堪へざりし樣に云ひし如く傳へたれど、此は普通の人間の上にては、甚く奇異に堪へざることならむと云ふの意に過ぎずして、至道自らは、さまで奇異とは思はざりしなるべし。其の故は、余が本書の中に載せたる、岩田刀自の傳にも引きたる『漢武内傳』の語中にも、『大仙眞經』を引いて、「謂はゆる益易(えきゝゝ)の道を行ふ。益とは精を益すなり。易とは形を易ふるなり。能く益し能く易ふれば、名仙籍に上る」と云ひて、其の道の行ひ方を精しく説きたる末に、「九年にして、形を易ふ。形を易ふれば、則ち變化す。變化すれば、則ち道成る。道成れば、則ち仙人と爲る」とあるは、即ち修練、效積りて、玄胎を得たることを云へるものなれば、昇天する程の照道壽眞にして、變化の道を得て居らざること無きは、固より云ふを待たざる所ならむ。既に變化の道を得たりとせんか、今まで常服にて居りしが、忽ち莊嚴なる裝束に變化せる、何の奇しむこと有らむ。至道は『眞誥』に、此の『漢武内傳』なる益易の道の事を引いて、壽眞に質問し、壽眞より、「必ずしも九年に拘らず、修錬の精粗によりて、五六年にて形の易はる者も有れば、四五十年・百年に至りても、形の易はり難ねる者も有り」との、答を受けたることを書きたり。其の變化の道、有るを知りたること、云はずして明白なり。然れば至道が奇異なりと云へるは、己れ自らが奇異なりとしたるに非ずして、普通の人の奇異なりとする意を云へるに過ぎざるを知るべし。此の外、本傳には、猶ほ云はまほしきこと多かれども、迚(とて)も盡すべきにあらねば、大概ね之を略しぬ。

 然れども爰に今ま一つ説き明かし置かざるを得ざることあり。其は他に非ず、至道壽人が、今も吉野山に居ると云へること、此れなり。抑々至道壽人が、仙道に志を立てたるは、本傳に記したるが如く、明治七年十月のことなるが、同人の直話、及び『眞誥』等に依るに、其の前年、即ち明治六年仲秋より、余等、教部省の命を奉じ、浪華に於て神道の講義を爲したることあり。其の時、同人は聽衆の中に在りて之を聽き、神の儼存を確信するに至りしが起因となり、翌七年十月、靈夢を感じ、遂に本傳に擧げたる如く、捨身決定して、大行を始め、其の目的を達したる由。余は聽衆の中に、然る人の在るを知らざりしも、明治九年中と覺ゆ、至道、長澤左仲と云へる人の紹介に因り、山女(あけび)の實二つを持ち、同地平野町なる、余が寓居を訪ひし時、親ら之を云へるに因つて、始めて聞きたり。此の後は折々來れるが、或る時は三日二夜も、余が寓に留めて、物語れることも有りしが、一日に、葛湯をコツプに二三服するの外、何も飲食せざれば、極めて心易き客にてありしなり。また或る時、至道、我は飲食はせざれど、我が丹田は斯くの如しと云ひて、其の腹を出だしたるに、全く球(まり)の如く張り滿ちたるを、自ら我が手に力を入れて、強く打つて見せたるに、宛ら太鼓にても敲く如くにて、少しも瘁(ひる)む状なかりき。また或る時は、義兄・木村義知と共に來れることも有りて、余は木村とも親しくなりたり。是を以て唯だ其の直話を聞きたるのみならず、其の後、至道は、照道壽眞より修眞の道を授かりたる顛末を自記して、『眞誥』と題し、之を余に送り、また知義も、其の往復の書、及び直話等を筆記し、『至道物語』と名づけ、此れも亦た余に贈れるを以て、此の二書、共に今ま猶ほ存して我が手に在り。斯くて余は、明治十年に至りて、職務の爲め郷里の土佐に歸り、至道は、本傳に在る如く、東京に出でしを以て、共に會するの期を得ざりしなり。

 而して明治二十年に至りて、突然、至道の死を聞きたる時、人は頗る意外に感じたるに反し、余は、其の尸解たるを知りしも、當時、之が證に擧ぐべき跡無かりしを以て、多くは人にも語らざりき。然るに明治三十四年五月に至りて、果たして其の尸解たりし證を得たるを以て、本傳には、即ち此れを載せたり。因て今、其の大要を述ぶべし。

 其は、當時は皇典講究所にて、神職講習會の開會中なりしが、其の會員に、備前國國幣中社安仁神社禰宜・太美萬彦(たみ・よしひこ)氏あり。同氏、今ま一人の同縣人を伴ひて、余が許に來れり。折しも余は、本書の編輯中なりしが、氏、余が傍にある草稿を見て、問ひけらく、「先生には、眞實、神仙の有ることを信じて、之を編輯せらるゝか、また信ぜらるゝには非ざるも、古今の書に見えたるを以て、撰録し置かるゝと云ふに過ぎざるか、如何に」と。余、之に答へて、「余は、最も之を信ずるなり。若し信ぜざらむには、爭(いかで)か數年に亙りて、斯くの如き編纂を爲し得べき」と云ひしかば、氏は默して歸りぬ。斯くて翌日に至り、氏は更に一人にて來り、改めて「先生は、彌々神仙の有ることを信ぜらるゝか、今ま一應承りたし」と云ふにぞ。此れは、極めて念の入りたることなり。余が「昨日の答、毫(すこ)しも違ひ有ること無し」と云ひければ、「然らば御話し致し度きことあり。昨日は同席の人ありしを以て、差控へて申さゞりしなり。實は我が岡山縣備前國赤磐郡太田村字萬富小字梅と云ふ地に、山形嶟(たかし)と云ひて、本年三十歳になる盲人あり。此の嶟、弱年の節、音曲を學ばしめられたれど、生來、記憶力に乏しく、如何に教へらるゝも覺ゆること能はざるを歎き居たる折しも、或る人より安藝國の辨財天(嚴島大神なるべし)に、火の物を絶ちて祈願を爲さば、覺えの能くなる由を聞き、十二三歳の時、七日間、火の物を絶ちて祈願しかども、少しも其の驗なかりしに、失望して死を決し、遂に同國和氣郡大字板根と云へる所の橋の上より、身を投げたるに、圖らずも或る神仙に助けられて、同郡熊山の幽境に伴はれ、種々の教へを受くることゝなりしが、其の事を十年間、他言することを禁ぜられしと云ふ。嶟は、十年を過ぎての後も、猶ほ四五年間は、更に他言を爲さゞりしに、明治二十八年に至り、同國御野郡金山の人・某に、神の告げありて、其の者ども三人連れにて、嶟を尋ね來れるに、嶟にも、亦た神の御許しありて物語れるより、始めて世にも漏れ、人にも知らるゝ事となれり。嶟は、其の數年の間に、神仙より、白銀にて造れる、長さ三寸許りなるトツコンと稱する樂器一つ、また水晶にて造れる、大きさ一寸五分許りなる、龜甲の形せるもの一つ、鐵扇一つ、劍一振の四種を賜り、今にも祕藏し有りと云ふ。且つ種々の禁厭・祕法等も授かり居るを以て、之を信ずるもの少からず、中には其の門人となれるも多くして、時々熊山にも連れ行かるゝに、火の物を絶ちて行く時は、正しく神仙の音樂を、極めて接近したる所にて聞くことを得る」とぞ。萬彦氏も、其の門人の一人にて、「屡々熊山に連れ行かれて、其の音樂を聽きしことは、數囘あり」と云ふ。

 此の後、萬彦氏は、時々余が許に來れる中に、一日(あるひ)、氏の話に、「熊山の仙境と吉野山の仙境、及び伯耆國の大山の仙境等は、孰れも大いに關係を有する中にも、吉野山の神仙と熊野の神仙とは、常に來往して相通ひ給ふ」と云ふ。然るに爰に一奇談あり。其は「神仙の音樂、孰れも絶妙なるべきに、或る夜、山形に連れられ、熊山に行きて聞きし音樂の中に、例(いつも)に變りて拙く思はるゝ音の交りて聞えければ、山形に其の由を云ひて、此の音を如何に聞かるゝやと問ひしに、山形も不審なることなり。師の神仙に伺ひみるべしとて、直ちに伺ひしかば、神仙、之に答へて、其は尤ものことなり。此の音樂の中に、拙く聞ゆる音の有るは、近頃、人間より入り來れる新仙ありて、未だ樂に熟せざるが加はり居るを以てなりと云はるゝにぞ。嶟、然らば其の新仙は、何と申す方にて、いつ頃、幽界には入られたるにやと問ひしかば、其の名は河野久と云ふ人にて、此の十四五年前に、仙境に入りたるものなりと答へられしとぞ。然れば世の人こそ、之を知らね、今にも正しく人間より仙境に入るもの有ると見えたり」とて、甚く奇みて話しゝかど、氏が若し余の至道と親しかりしを知り居て、斯く云へるにはあらざるかとの疑ひ起りしを以て、其の儘に聞き流し置きたり。然るに其の後も屡々來りて、常に語るさまを見るに、少(いさゝ)かも然る模樣の無ければ、今度は余より問ひて、「氏が先日の話の中に、此の十四五年前に仙境に入りたりと云ふ、河野久と云へる人の由を語れり。然るに氏は、此の河野の出所を知れるか」と云ひしかば、萬彦氏は全く此れを知らざる樣にて、「只だ此の新仙人は、吉野山に住みて、時々熊山に來らるゝ由は聞きたれど、其の他は何も知らず」と云ふ。余、「然らば山形は、之を知りたる模樣は無きか」と問ひしに、「山形も、多分知らざるべし。若し知りたらむには、我には必ず語るべきに、更に云ひしこと無きは、山形も知らざるべし」と云ふ状、全く知らざるものゝ如し。

 是に於て、然らば余、此れを云ふべし。河野は、通稱は久、道號は至道。元と豐後國杵築の人にして、大阪に住み、明治七年より、仙學修眞の道に志し、翌八年八月、葛城山にて、吉野山に住む照道仙人に謁し、道の妙要祕訣を授かりし事より、即ち本傳に載せたる至道の傳の大要を語り、且つ彼の至道の『眞誥』、及び木村知義の『至道物語』をも出だして示しければ、萬彦氏の驚き、一方ならず、直ちに山形嶟に云ひ遣りたるに、嶟も甚く驚きたりとぞ。斯くて間もなく太美氏は、『眞誥』及び『至道物語』の二書をも寫して持ち歸り、山形にも示し、猶ほ能く山形より、神仙等にも更に伺ひしに、「至道は、今にも吉野山の仙境に在りて、時々熊山の仙境に往來(ゆきかよ)ひ居ること、事實に違ひ無し」と云ふ。

 然れば明治二十年七八月の交、大阪に於て死去せしと云ひしも、其の實、死去に非ずして、全く尸解なりしこと、明白となれり。是を以て本傳の結文は、即ち此れに因つて記せり。至道が仙去、疑ひ無きものと云ふべし。



 愚案、東嶽先生の講演に、『神仙の存在に就て』(明治四十三年、華族會館に於る筆記録。『皇典講究雜誌』・『全國神職會會報』等に掲載)てふものあり。『本朝神仙記傳』より詳細なる記事もあれば、些か遺漏を拾つてみたい。曰く、

「然るに其の百日(の斷食)に滿ずる兩三日前、寓所の主人を呼び、氷水を取つて呉れよと頼みます故、主人が氷水をコツプに二つ取つて盆に載せ、側に持つて行きました。すると至道は、机に凭(よ)つて俯(うつむ)き居りしが、稍や面を擧げ、「私も今、兩三日にて滿行に成りますが、急に行かねばならぬことになりました」と云ふを、主人は早合點をして、また何時もの通り、滿行前にも、例の貝塚へ行くならむと思つて、「先生、長々の御行で御座いましたから、後の御養ひが大事であります」と申したれば、「有り難う」と云つて、また机の上に俯したと申すことであります。そこで主人は、氷水をそこへ置いて退き、他の用を爲し、再び行つてみた。ところがコツプの一つの氷水は飲みつくし、次のコツプの氷水は少し飲んで、元の盆に載せ、至道は始めの如く机に俯して居る故、能く眠つて居るものと思ひ、聲もかけずに退出いたしまして、それから何度行つて見ましても同じ状で、眼を醒まさぬ樣子でありますから、主人も少し不審に思ひ、「先生、々々」と聲をかけて呼び起してみましたが、更に答へもなければ、起き上りも致しませぬ。そこで愈々不審に堪へざるより、傍に進み搖り起してみましたが、一切答へがありませぬ。俄かに大騒ぎとなつて、醫師を迎へて診斷を受けましたけれど、既に臨終となつて居て、もはや治療を施すの餘地もないとの事なので、前に至道が主人に向ひ、「急に行かねばならぬことになつた」と申したのは、貝塚へではなく、此の世を去つて、幽境に往かねばならぬやうになつたと申すの意であつたらうと、茲に始めて知つたと申すことであります。これは至道が世を去つた日より二十日目に當る日、私が圖らずも大阪に行き、北區中の島某方に於て、不思議にもその至道の寓居の主人に出會ひて、親しく聞きし確實な話であります。

 然るに此の至道の最後の模樣が、普通の人の死に方と違つて居ますので、定めて尸解したもので有らうと思ひました。因みに申します。人が修眞の道を行ひて、道を得、仙人となつて、此の世を去るに、三通りの別があります。それは第一を、飛昇とも昇天とも上昇とも登天とも申しまして、正しく身を擧げて天に昇るのであります。漢土にては、許遯・紫庭・彭杭・陰長生の如き、我が國にても、倭姫命は伊勢尾上山にて上昇せられ、武内宿禰も因幡國龜金山にて雙の履を遺して飛昇し、度會常昌神主の高宮の坂中より登天しました。その外にも猶ほ昇天した人は多くあります。第二を、名山に入ると申します。これも漢土にては、鬼谷子の雲夢山に入り、茅蒙の華山に入り、史通平の峨嵋山に入れるの類ひ、また我が國にては、在原業平朝臣は芳野山に隱れ、都良香は金峰山に隱れ、白幽は城州の白河の奧に隱れ、近く薩摩の平瀬勘兵衞は霧島山に隱れたるの類、これは數へも盡されぬほど多くあります。第三には、即ち尸解であります。尸解とは尸を解くと訓む文字の通りでありまして、これは仙去することを世間に知らせず、普通の人と同じやうに死んで、世間竝に表面は葬儀なども行ひますが、その實は仙去して居まして、時としては世間の人にも面會することなどあるを、尸解仙とは申すのであります。この尸解仙も、なかゝゝ澤山ありまして、漢土にては、李少君の如き、病死して葬りし後、武帝、その棺を發き、これを見るに、唯だ衣冠のみ殘りて、其の屍は無かつたと申すこと、また王方平の如きは、死後三日を經て衣帶を解かず、蛇の脱(ぬけがら)の如くして、其の所在を失ひしと申し、また張拍端の如きは、死して火葬にしたるに、七年の後、王屋山にて劉奉眞に遇つて、物語りもし詩も作つたとのことであります。これ皆な尸解せるもので有ります。

 然るに此の尸解にも異同がありまして、水に入つて形を隱すを水解と申し、火に入つて身を化するを火解と申し、兵難に罹りて世を去るを兵解と申し、唯だ病んで死を示すを尸解と申します。これは得道して仙人にはなつて居ますけれど、その仙去の相を奇異に現はさず、尋常の状に見せて去るの法と見えます。此れらの尸解仙は、他よりは只の病死の如く、溺死の如く、焚死の如く、戮死の如く思ひますけれど、實は死んでは居りませぬ。所謂仙去して居りますので、前にも後にも擧げる如く、時あつては世間にも出て來て、人にも遇ふのであります。我が國にては、先づ日本武尊が尸解せられたと申すことであります。この尊は崩御になりまして、伊勢の能褒野と申す處に御葬りになりました。然るに其の墓より白鳥となつて飛び去られました故、御墓を掘つて拜見しましたれば、御棺の中には、只だ御衣のみ遺つて、御屍は無かつたと申すことであります。また菅公も筑紫にて薨去になりましたが、その後、比叡山の尊意僧正の許に御出になり、御應答せられ、また日藏行者が頓死して、十三日目に蘇生して、幽界にて菅公に謁し、また菅公の幽宮を拜見して來たことのあるを始め、菅公の神仙界に在らせらるゝ證は、澤山にあります。また彼の白箸翁なども、京都で死んで葬られたに違ひないのに、後ち或る僧と大峰山の巖窟で面會したことがあります。この外なほ數へ盡されぬほどありますが、此れらは皆な尸解して、幽界に入つた人々であります。‥‥

 實は私は『本朝神仙記傳』に載せました事跡の中には、此の傳よりも、餘ほど面白き奇談もありますけれど、此の河野は、第一、私の直接面會した人でありまして、また此れを證明いたしました太美萬彦も、今日にては、安仁神社の宮司に進みて、現職の人でも有ります故、最も確かなる話ですから、特に此の河野の事を御話いたしたのであります」と。
 

  • [47]
  • 神仙の御存在について、乾──『本朝神仙記傳』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年10月 9日(金)23時41分3秒
  • 編集済
  • 返信
 
 かつて或る掲示板に載せし舊稿を、茲に更めて紹介し、神仙の實在の證明としたい。もう十年前か、那須兄にせかされた懷しき想出ありき。



 神仙の御存在の實證を、宮内省式部職掌典であつた玉之屋東嶽宮地嚴夫大人(豐受神宮禰宜兼大講義・大教正・宮内省式部官從四位勳四等)の『本朝神仙記傳』の一節から、ご紹介したく存じます。『本朝神仙記傳』は、東嶽先生が、前後三十餘年の間、全精力を傾注し、殆ど寢食を忘れて、最善の努力と凡ゆる犠牲とを以て編纂されしもの、全九十五章から成る心血結晶の稿本であつて、先生僊去後十一年の、昭和四年七月に漸く發刊されました。謹んで拜記させて戴きますので、神縁ある御方には、是非とも御一讀たまはれば、望外の道福であります。

天降五千六年
紀元二千六百六十六年
平成十八年丙戌三月二十七日 備中處士 謹拜



【乃木將軍と宮地東嶽先生】

●大久保青素翁『本朝神仙記傳』附録「逸話」に曰く、

「(宮地東嶽)先生は、宮内省に奉職して以來、乃木大將との間に交友厚かりし事は、餘り世間には知れ亙つてゐない次第であるが、實は先生と乃木大將との間には水魚の交りがあり、殊に晩年、先生が『(本朝)神仙記傳』を物せられてからは、大將閣下は、屡々先生の宅に御出でなされて、仙道の説を聽取せられ、又た先生は、乃木邸に伺つては、御夫婦の前にて神道の説を説かれてゐたのである。乃木大將は、生來、大敬神家であつて、更に大忠勇の士であつた事は申す迄もないが、大將が特に神の道に對して造詣の深かりしは、蓋し先生の指導に待つ所、大であつたのである。

 さて大將が學習院長時代に、天照大神を奉齋して、以て學生に敬神の道を奬勵するといふ方針の下に、大將は、先生の宅に見えられて、其の神殿の造り方や其の他につきて、いろゝゝ協議せられた後、先生は學習院に參つて、親しく其の建築に斡旋せられたので、後日、神殿の造營が竣功すると同時に、其の寫眞を先生の許に送り來りて、勞を謝せられたといふ事である。斯樣にして幾年を過ぎて、先生と大將との間には、屡々邂逅せられて、斯道發展の事を熟議せられてゐたが、先生が『神仙記傳』を物するに及んで、大將は、特に一・二卷を邸内に取寄せられて、熟讀默考せられた次第は、大將の書翰(『本朝神仙記傳』卷頭に寫眞あり)に依つても明かであるが、其の後、三・四・五・六卷、共に全部讀まれたのは、丁度、明治四十五年の七月の下旬であつたさうである。其の歳の七月三十日は、明治天皇崩御遊ばされて、世の中は諒闇となつた時しも、大將は、其の八月の中頃、『中朝事實』の二册本を持ち來られて、「先生、特に之を讀んで下さい」と申しつゝ、やがて四方山の話をなして歸られたといふ事である。後の日、先生は、「大將が『中朝事實』の書を持ち來られて、特に讀んで貰ひたいと申した言葉の中には、何んだか意味があり氣に、如何にも悲しいやうの感にて、耳に響き亙つたが、あの時は、即ち此の『中朝事實』を私に片身として渡されたといふ事は、九月十三日の夜に、殉死の報を得た其の瞬間に於て、大將の誠心を全身に沁み亙つて感激した次第である云々」と申された事である。乃ち大將は、先生の指教に依つて、所謂る安心立命の道を求められて、從容、死に就かれたと云ふべきで、誠に之に依つて大將の神靈は、永遠無窮に國を守る事が出來るのである。又た大將の奧方も、泰然として死出の旅に趣きし事は、大將の感化によるものにて、女傑として最後の美を粧ひし次第は、今更に筆を運ばすの要はないのである。

 最後に申し度きは、乃木大將が先生に御渡しになつたといふ、其の『中朝事實』の書物を見るに、表紙の隅に、「子爵乃木藏書」と刻せる印を捺されてあり、中には幾度びか繙見せられたものにか、大分穢なくなつてゐる所に、此の書物の價値があり、尊ぶべき本である。現に宮地家は、此の書物を家の寶として祕藏し、又た大將が先生に宛てられた書翰は、之を卷物として保存してゐるのは、誠に其の當を得たる所置である。實際、先生と大將との間が交友厚かりし證據が、永く久しく證明せらるゝ事は、返す々ゝも嬉ばしき次第である」と。



【宮地東嶽先生と相曾誠治翁】

●相曾誠治翁『言靈と太陽信仰の神髓』に曰く、

「昭和五十四年頃、衣冠束帶姿なる宮地嚴夫先生(幽體)の御招きにて、幽體のまゝ、宮中賢所に導かれ、定期的に神事奉仕せり」と。



●『本朝神仙記傳』下之卷・最終章「河野至道壽人」に曰く、

【本傳】河野至道壽人は、名は久、通稱は虎五郎、後に俊八と改む。豐後國杵築の舊藩士なり。天保七年三月を以て、同國國東郡安岐浦の豪家・松永四郎左衞門の三男に生れ、十四歳にして河野氏に養はる。同家は大阪中之島越中橋藏屋敷の定詰にして、中小姓勘定役を勤む。明治維新の後、藩の史生となり、廢藩置縣の時、之を止む。同六年四月、大阪府の貫屬となり、江戸堀に住す。是れより先、安政四年、大阪府士族・木村知義の妹・菅子を娶りて、一女を擧ぐ。名を米(よね)と呼べり。久、撃劔の術を善くし、免許を受け、刀劔の目利(めきゝ)に熟し、且つ俳句を好めり。明治七年四月、泉州貝塚に移り、大岡某が家に寓す。大岡は、知義が親戚なり。

 同年十月、久、靈夢を感じて、仙道修練に志し、先づ三年を期し、酒肉を斷たむことを誓ひ、踵(つい)で絶穀の決心を爲したりと云ふ。翌明治八年三月一日より、久、泉州犬鳴山の靈場に籠り、瀧に打たれて、荒行を爲すこと一周日、種々の靈異に遇ひしも、素志を全うし、夫れより中津川・粉川を經て、高野山に登り、十二日に貝塚に歸れり。

 斯くて同年八月六日、更に進みて、大和國葛城山に登り、頂上を修練の地と定めて、山籠りを爲しぬ。此の夜、深更に及びて、何處よりとも無く、五匹の鹿、鳴き來りて、眼の邊りに近づき、敢へて驚く模樣も無く、追々に居馴染みて有りしが、曉方に至りて、何れへか歸り去りぬ。明くれば七日の朝、神拜を畢りて書見などを爲し、時刻を移しける程に、早や黄昏とならむとするにぞ、水を汲み求めむとて、山上より二三丁許(ばか)り下り行きしに、豈に圖らむや、年三十二三許りに見ゆる一人の士、身は小男なれども、中肉にて色白く、鼻柱通りて眼中尖きが、長き黒髮を紐にて絞(くゝ)りて後に下げ、紋付の衣服に打紐にて袖叢(そでぐち)を緘(と)ぢたる羽織を著し、太袴を裾(すそ)高く穿(は)き、二尺許りの太刀を帶び、品位高く風采好く見えて、向ふより來るに遭へり。久、思へらく、「此は、此の邊りの里に住む醫師か、若しくは村役人にても有らむ」と。然るに其の人、聲を掛けて、河野に問ひて、「汝、此の深山を唯だ一人にて、何れへ行くか」と云ふ。河野、此れに答へて、「吾は何處を指すにも非ず、唯だ少し量(ばか)りの水を得たしと、歩み出でたる折しも、遭ひ參らせたるなり」と答へしかば、「水ならば、遠く行くに及ばず。近き所にて能き冷水を得さすべし。然るにても水を汲む間には、夜に入るべし。此の深山にて、闇夜に唯だ一人、如何にするぞ」と云ふ。河野、「吾は、昨日より此の山上に籠りて居る者なれば、明けるも暮るゝも、更に顧慮する所に非ず」と答へしかば、「然らば此れより、清泉に導くべし」とて、斷崖を攀ぢ絶壁を跋(ふ)みて、西北方に下り行くこと、凡そ五六丁にして、岩間に氷の如き冷水あり。厚く其の好意を謝し、一筒の水を汲みて、其の人に隨ひ、亦た元の路より頂上に歸れば、日は既に暮れたり。是に於て何くれと物語り、携へ持ちたりし平田篤胤翁の撰ばれし『神拜詞記』を取り出だして問ひ試みるに、道力徳量の廣大にして、迚(とて)も及ぶべからざるを知り、深く敬慕の念を興したる折しも、「昨夜、此の頂上に徹夜したるに、何も異なることは無かりしや」と問はるゝにぞ。「別に變りしことも無かりしが、深更に及びて、五六疋の鹿、何處よりとも無く鳴き來りて、傍ら近く遊び戲れて去らず、曉に至りて行方知らずなりたり」と云ひしかば、彼の人、之を聞いて、莞爾(につこ)と笑みを含み、「其の鹿は六疋にはあらで、五疋にて、然も二疋は親鹿、三疋は子鹿にて有りしならむ」と云ふ。河野、甚(いた)く奇異の感に打たれ、此の人、昨夜の鹿の事を知れるは、必ず凡人に非ざるべしと思ひて、更に其の面を見るに、威儀嚴然として、神光、人を射、其の相、忽ち變じて、全く神仙なることを信ぜしめられたり。

 是に於て謹んで今まで禮を缺きたるを謝し、只管らに示教を乞ひしかば、彼の人、之に答へて、「此の山上に籠りて、敬神の道を盡さむとの志、誠に感ずべし。然るに予は、今夜の内に、予が棲處に歸るべし。汝も亦た仙道を修めんと欲せば、予が許(もと)に行かずや」と云はるゝにぞ。河野の喜び、一方ならず、「何地なりとも隨從すべし。希はくは具し給へ」と申せば、「然らば用意せよ」とて、此れより方位を定め、山谷と云はず田野と云はず、眞直線に行かるゝに、其の早きこと飛ぶが如く、畢生の勇を鼓して走り隨ふこと、凡そ二十四五里も來つらむと思ふ處にて、身體疲勞し、心神恍惚として、夢中の如く、人事を省せざるに至りし折しも、口中に何か氷にても含められたる心地して、忽ち正氣つきて見れば、彼の人、藥を與へて介抱し居らるゝなり。然るに其の藥力、總身に泌み透ると覺えて、心身、忽ち爽快を感じ、手足の疲れも忘れて、全く蘇生したるが如し。此の時、「最早や程遠からねば、今ま暫く急ぐべし」とて、先に立ちて案内せらるゝに隨ひ、また五六里も來つらむと思ふ所にて、夜も稍や明方近くなりたる頃、「是れこそ、予が棲處なれ。いざ、是へ」と云はるゝを見れば、老樹森々と生ひ茂りたる所に在る巖窟にして、清淨、比類なく、實に幽邃絶妙なる眞の仙境なり。河野、益々感激に堪へず、直ちに跪きて、「抑々此所は何處にして、尊君は如何なる御方に坐(おは)しますや。御示教を仰ぎ奉り度し」と申しければ、彼の人、之に答へて、「爰は、吉野の山奧、古來、人跡、未だ曾て至らざる所にして、仙道を修むるには、最も適當の靈窟なり。また予は元と當國某の神社の神主・山中氏にて、應永の初年を以て生れたるものなるが、予が若かりし時は、佛法、極めて盛んにして、更に敬神の者無く、殊に足利義滿、剃髮して、堂塔を建立し、專ら佛法に力を入れしより、佞佛の徒、彌々勢ひを得て、神國の體面を瀆すもの少なからず、遂に慷慨悲憤に堪へず、此の世も詮無く思ふ餘り、年四十餘にして、初めて山に入り、當時は富士山に棲む神仙に就て道を學び、爾來數百年の星霜を經て、今は功滿ち行ひ足り、名を照道大壽眞と呼ばれ、地仙の籍を脱(のが)れて、天仙の列に加はらむこと、近きに在り。即ち此の靈窟は、予が上昇(昇天)するまでの假の棲處なり。今、汝が精神に感でて、暫く此こに伴ひたり。介意なく休息すべし」と、いと懇切(ねんごろ)に答へられぬ。斯かる間に夜は、ほのゞゝと明け渡りて、八日の朝となり、雲消え空晴れわたりて見れば、此の窟は、目の及ぶ限り、山また山と連なりたる中に、特に聳えし高山の七八合目に在りて、風致、例ふるに物なく、常に見馴れぬ鳥獸の、樹の間に居るをも見受けたるとぞ。斯くて河野は、年來の本願を成就し、渇望せる名師に遭遇したれば、其の嬉しきこと限りなく、何より問はんかと心惑ひしが、先づ今、途中にて氣絶せし時、哺(ふく)められたる藥の事をこそ、聞かまほしけれと思ひて、「彼の藥は、如何なる藥にて有りしか」と問ひしかば、照道壽眞、之に答へて、「草木を見よ」と云はれたれども、「其の意を解しかぬる」旨を申しければ、「桂枝の下には、草生ぜず、麻黄の根は、雪積らず。其の他、此れに准へて知るべし。依つて草木を心懸けて山を廻らば、自然に藥を知る。また雨中に、松樹の下を見よ。何と無く光を放ちて、氣の立つもの有らむ。是を掘れば、茯苓なり。此の中に有るは、茯神なり。之を分かてば、神と精となり。此は草木のみにあらず。第一、知るべきは、己が身中にも、神あり精あり。神は靈なり心火なり。また心とも仁とも魂とも云ふなり。精は寶なり腎水なり。また腎とも氣とも魄とも云ふなり。神は大陽の如くして、精は大陰の如し。元精は陰なりと雖も、神を纏ふ故に、陽氣あり。此の陽氣より、また陰陽生ず。人間のみにあらず。萬物、之に均し」と云ふを始めとして、此れより多くの問答を重ぬる間に、鎭魂の祕訣・修眞の妙要を授かり、半日餘りは側に侍して、道の誨へを承はりけるが、未だ修行も足らぬ身にして、圖らずも斯かる靈域に伴はれたる事とて、何となく恐れ多き心地せられて、今夕、此處に留まらむことは勿體なく思ふより、午後四時頃、子弟の約を結び、行末を契りて、暇を乞ひければ、壽眞も、此れを諾して、後日を約し、深切に方角を示し、道筋を教へて送られぬ。

 斯くて其の夜は、途中、何處とも知らぬ山にて露宿し、翌くれば九日、吉野路を過ぎ、五條橋本等の各部落を經、其の夜は、龍の鳥と云ふ山の辻堂に一泊し、翌十日、紀州路より、泉州牛瀧へ越え、葛城山に立ち歸り、爰にて猶ほ二日間修行し、同十二日午後三時に、泉州貝塚の寓所に歸りぬ。然るに行きし時には、子の刻に葛城を發して、未だ夜も明けやらぬまに、吉野の仙窟に至りしに、歸るさには、正しく二日間を要したるを以て計るに、里程は三十餘里もあるならむ。中にも最も奇しむべきは、行きし時には、小川だに無かりしに、歸りには大なる川の渡しもありしより、或は空を飛び行きしにやとの疑ひも起したるが、さにはあらで、地を踏み行きたるに違ひ無きは、穿きたりし木履の齒の、いたく減りてありしにて明かなり。今ま是れ等の事を追懷するに、宛(さなが)ら夢の心地せらるゝと云ひけるとぞ。

 斯くて河野は、昨年、吉野山にて壽眞と契り置きしことあればとて、翌明治九年二月一日、更に葛城山に入り、同山の瀑布(たき)にて、大寒の水行を修めける。然るに此の頃は、滿山積雪の外無く、水行の所に至れば、往き通ふ鳥獸だに見えず、唯だ巖岩にそゝぐ瀧の響きと吹き荐(しき)る吹雪の音ならでは、耳にもふるゝもの無ければ、扨ては照道壽眞は、如何が御座すらむと、思ひつゞくる折しも、何地よりとも知らず、忽然と來臨し給ひしかば、其の嬉しさ、喩ふるもの無く、覺えず伏し拜みけるとぞ。此の時、壽眞は泰然として、少しも冷えさせ給ふ氣色無く、威儀を正して宣ひけるは、「汝は仙家の禁戒を守らず、曾て傳へたりし胎息の術を、猥りに人に泄(もら)したるは、以ての外の事なり。此の咎によりて、五十日の謹愼を申し付くる」と有りければ、河野は恐懼、措く所を知らず、流涕叩頭して、哀を請ひ罪を謝するの外無かりしとぞ。此の時、壽眞は、河野が大阪其の他へ往復したりし日時まで、逐一に指的して詰責せられたるに、寸毫も違はざりしかば、河野は辨解すべき一言も無く、戰き慄れて、只管に罪を謝したるに、良(やゝ)ありて、壽眞も、心や和みけむ、修行の事ども物語られ、且つ申さるゝには、「我は當年七月七日、昇天の神敕を蒙りたり。仍りて汝は、其の前に登山すべし。種々の祕訣ども傳授し置くべし」と有りて、立ち去り給ひけるとぞ。此の後は、河野が寓居なる貝塚の、大岡某が楼上には、壽眞、數々訪はれし事のありしも、同家の者は、更に之を知らざりしとぞ。

 其の内、或る夜深更に入り來りし時、傍らに卷置きありし唐紙一枚を席上に展べさせ、壽眞、其の上に立ちて、河野をして之を引き取らしめられしに、聊かも障り無く、其の紙取れたり。壽眞、「修行の效積りて、茲に至れば、空中の飛行も自在に出來るものなり」と云はれけるとぞ。また或る夕方、河野、貝塚の濱邊に出でて、枸杞を摘みゐたるに、圖らずも壽眞に遇ひまゐらせ、直ちに我が寓居に請ぜしに、「此の度びは、北國へ行く路次なれば、歸路、また立ち寄るべし」との事なりしが、其れより三日目の夜、「今ま歸り懸けなり」とて、更に立ち寄られしを以て、物語の中、果物など供せしかども、何も召されず、唯だ少し許りの水を喫せられしのみにて有りけるとぞ。また此の北國へ行かれしとあるは、實は出雲大社へ參られしにて、神敕の御請ひに行かれし由、後に山にて承はりけるとぞ。猶ほ此の時、「汝、五十日の謹愼を能く守りたり」とて、氣色、殊に美はしく、「是より前にも、汝の謹愼、また修行を鑒みむ爲め、時々來れり」と申されしかど、河野は夢にも之を知らざりしかば、其の由を聞きて、甚く驚きたりとぞ。また河野、或る時、壽眞に謁しけるに、「汝、今より至道壽人と稱すべし」とて、名を賜りしと云ふ。

 斯くて至道は、曾て承はりし壽眞昇天の期も近くなりければ、同年七月二日、貝塚を發して、翌三日の夜、吉野の仙窟に詣り、之より晝夜、膝下に侍して、四日五夜の間、神仙の祕旨妙訣を授かり、或る時は壽眞の供(とも)して、山中を歩行き、窟より六七町隔りたる所の瀧に行きて、其の水に打たれ、また藥草を採りなどしたりと云ふ。斯くて種々の御傳授ありし末に、壽眞の申さるゝは、「予が昇天の後に、聞き泄したること有りとて、決めて遺憾に思ふべからず。修行の進むに隨ひ、自然に自得すること有るべし。唯だ人は、君を敬ふこと、神に仕ふる如くせよ。また人は、常に敬ひと憐みとを、能々勉むべし。仙人は、山に入つては敬ひを爲し、郷に出でては憐みを爲す」と諭され、尚ほ又た最後の別れに臨みて、暇の辭を申し上げしに、壽眞よりは、「敬ふべし、憐むべし。見えぬものも見ずに知り、聞えぬことも聞えずに知り、薫るものは嗅ずに薫ると知れ。是を予が置き土産の教とせよ」と云はれけるとぞ。

 然るに山に入りし七月二日より、雨降りつゞけて、七日の暮まで降り止まざりしが、初夜の頃より、雲晴れそめて、子の刻限に至り、全く晴天とはなりぬ。此の時、大空より奇しき光のさし來りければ、壽眞、之を見て、仰せに、「此は、正しく御迎への降臨なるべし。汝は、早く退下すべし。しかし餘り遠く隔りては、其の行裝の見えざるべければ、傍(あた)り近き樹蔭などに控へ居るこそ、よかるべけれ」と有りければ、名殘り惜しくも暇を告げて、仙窟より四五十間下りたる樹蔭に所を占めて伺ひ居たるに、程無く空中より光明と共に、無數の神仙たち、殆んど地上間近きまで降臨ありければ、壽眞、間も無く空に立て昇り出でさせ給ふ。其の御顔色は、宛ら雪に薄紅をさしたるが如く、黒髮、漆の如く光澤ありて長きを、腰のあたりで押し埀らし、髭は耳下より帶の邊りまで長く埀れ、常よりも特(こと)に美しく若やぎて、恰も二十三四歳位に見え給へり。また其の裝飾は、是れまでとは、悉く改まりて、白の指貫きに、黄金地に赤萌黄交りの紋織錦の裝束を召し、金色の冠を高く戴き、織模樣のある白絹を、冠の下より肩を經て手まで左右に長く埀らし、總金作りの太刀を佩き、白き異獸に御(め)され、數多の神仙等に迎へられて、光明の中に進み、北天さして、徐々(しづゝゞ)と昇らせ給ふ。御冠の金の飾り、動くにつけて、きらゝゝと輝き、金作りの御太刀、震ぐにつけて、ぴかゝゝと光り、其の容儀の勝れさせ給へること、稱へ申さむ詞も無し。また御迎への神仙等も、各種々に異樣なる冠・裝束を召し、手に々ゝ矛・刃、又は木の枝等を持ち、是も異種異樣なる獸類に召しつゝ、壽眞を圍繞(とりかこ)みて護衞し、漸々に大空高く昇り給ひ、後には光明ばかりとなり、終ひには光明も見えずなりけるとぞ。此れより先、何地よりとも知らず、顔色の、或は赤く或は白く或は青く或は黄にして、容貌おそろしき地仙等、十三人來給ひて、壽眞の昇天し給ふ路傍に、位次を正して竝立し、上昇の節には近く進まれ、一列に頭を下げ、左右の手を揃へ掌を上にし、戴く如く頭、上に掲げられ、幾たびも少し頭を下げては拜をなしつゝ、恭しく仰ぎ見て、影の見ゆる限り見送らるゝ状、孰れもいと羨ましげに見えけるとぞ。此の時、第一位に立ち居たる、顔赤くて年七十許りに見ゆる地仙、至道が松の樹陰に蹲り居るを見て、恚れる眼にて睨みつけ、大聲を發げて、「汝、凡人にして、斯かる靈場に來り居るは、何事ぞ」と、詰責せらるゝ其の顔色の猛威(こはき)に怖れて、唯だ平身低頭して居たるに、第十位に立ちたりし、歳二十四五許りに見ゆる、色白く顔美しき地仙、其の中に入り、「此は、攝津國の住人・河野久と申して、日頃、照道壽眞の弟子となり、既に名をも至道と賜はりたる人なれば、今夜も見送りの爲めに登山し居るなり。更に訝しき者に非ず」と申されしかば、前の地仙は、此れを聞きて默せられぬ。斯くて御見送りの事畢りて、孰れも退き去らるゝ時、至道、其の若き地仙に挨拶を述べけるに、叮嚀なる答辭ありて、立ち去られける跡にて、此の方の名をば聞き置くべきにと思ひ、追ひ行きて問ひければ、「今は名のり難し。我は近國に住む者なれば、いづれ再會の節あらむ。其の節、名のるべし」とて、行方知らずなりけるとぞ。然るに壽眞の靈窟に居られし時までは、尋常の羽織・袴の平服にて、別に調度やうのものは無かりしに、昇天の時には、須臾の間に、忽ち前に見えたる如き、立派なる裝束に改め居られしは、實に奇異なりと謂ふべし。然れば常の衣服・太刀等は、定めて窟に殘れるならむ。戴き歸りて紀念(かたみ)と爲さばやと思ひ、直ちに至りて見しに、窟は清淨にして、塵一つだに遺れるもの無ければ、益々奇異の感に堪へざりしとぞ。

 斯くて至道は、翌八日は仙窟に泊りて、師の跡を慕ひ、九日に出發して、十日に貝塚に歸りけるが、此れより百日の行を勤めしと云ふ。此の前後の事、至道の『眞誥』、及び木村知義の『至道物語』に載せて、詳かなり。斯くて其の後、至道は東京に上り、或る省の土木課に奉職し、給料十三圓を得、其の内より毎月拾圓餘の貯蓄をなし、數年にして相應の資を得て、再び大阪に歸り、其の欲する所を行ひたりと云ふ。而して至道の其の資を求めしは、蓋し故ゑあり。其は明治九年七月、照道壽眞昇天の當時、至道は四十一歳にして、十一歳三ケ月の一女子あり。是を以て奉職し、資を求めたるは、此の女子終身の安堵を計らむが爲めにてありけるとぞ。此れを至道が、壽眞の昇天に隨ひ行くことを得ざりし所以とす。また至道の東京に在るや、密かに其の道を慕ひ、就きて之に學び、法を受け訣を授かり、其の行を修めたるもの、數十人の多きに至りしと云ふ。彼の樹下茂國・湯川潔の如き、則ち是なり。また大阪に歸りては、西區紀伊國橋西北詰・粕谷治助方に寓し、相續ぎて修練怠り無かりしに、終ひに明治二十年七八月の交、同地に於て、其の前より百日間の苦行中、九十七八日目に至りて、死去したりと云ふ。然れども其の死たるや、尋常の死に非ず。則ち大暑中、百日間斷食を爲したるが、常には水のみは用ひしに、此の時の斷食は、水をも用ひず、空氣の外は更に口に入れずして、九十七八日目に至り、少量の氷水を用ひしのみにて、終ひに絶息したりとぞ。之を聞くもの、大いに其の死を奇しみ、或は尸解(しか)したるにも有らむと、孰れも疑ひを懷きてありしに、明治三十五年に至りて、傳ふる所に因れば、備前國熊山にても仙境ありて、同山の神仙と吉野の神仙とは、常に來往する中に、至道は正しく吉野山に在りて、今も猶ほ時々熊山に往來(ゆきかひ)し居れりと云ふ。然れば前に死せりと聞こえしも、實は死にあらずして、所謂る尸解せるものと知るべし。
 

  • [46]
  • 天降(中興)紀元五千零十五年は、平成二十七年なり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月30日(水)20時05分39秒
  • 編集済
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 舊稿にて、天津彦火瓊々杵尊の天孫降臨の年代を恐察し、謹みて、平成二十七年は、天降(あもり)紀元(或は中興紀元)五千零十五年に當ると云ふを紹介せり。此は、平田大壑先生を承けし、角田忠行翁・友清歡眞大人・田中洗顯翁の説を拜承しての言擧げなり。
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【世界の暦法】
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 これに屋上、屋を架ねて、暦法の研究の一端として、こゝに書き置きたい。



●氣吹舍塾藏版『古史年歴編略』御歴代(慶應三年)──平成二十七年=天降五千七十五年説

一、天之御中主神
二、高皇産靈神・神皇産靈神
 此の三神、漢土に、上皇太一・盤古眞王・太元聖母と稱す。元年甲寅。天地開闢前、萬八千歳。開闢後、萬八千歳。按ふに、印度に、大梵自在天王と稱す。蓋し皇産靈神也。

三、伊邪那岐神・伊邪那美神
 此の二神、漢土に、天皇氏・地皇氏と稱す。元年甲寅。歴年、一萬八千歳。

四、天照大御神[須佐之男神]
五、天忍穗耳命[大國主神]
 天照大御神の御弟須佐之男命、漢名、人皇氏。元年甲寅歳より、邇々杵命、天降元年、大國主神、漢名、太昦氏、馭戎元年庚申前年に至る、凡そ五千百五十四年。

六、彦穗邇々杵命
 庚申歳、天降。御宇千五百三十二年、筑紫日向高千穗宮に崩ず。[大國主神、馭戎元(年)庚申。大物主神、幽政を知らす。皇祖の詔に依り、大國主神、中國を皇孫に讓り、自ら幽政を知らす。是に於て顯幽分れたり矣。]

七、彦火々出見命
 元年壬辰。御宇五百八十年、日向高千穗宮に崩ず。

八、鵜草葺不合命
 元年壬申。御宇二百八十二年、高千穗宮に崩ず。崩後、空位七年。此の御子・神武天皇、初めて大和國に都す。



●宮地堅磐大人『神典圖説或問』に曰く、

 皇孫邇邇藝命の、此の地球一星に主神たるは、治定したること久し。されども其の地球に降り玉ひしことは、五千餘年以前の事也と聞けり。



●東嶽宮地嚴夫大人『君子不死之國考』に曰く、

 本邦の傳へにては、此の間の事を、『神武天皇紀』には、「天祖降臨より、以て今に逮んで、一百七十九萬二千四百七十餘歳」と記し、又た『弘仁暦運記』にも、「昔者、天津彦火瓊々杵尊、初め降りしより、西土に王たり。次に彦火火出見尊、次に鸕□[茲+烏]草葺不合尊、摠て三代、一百七十九萬二千四百七十餘歳を經て、竝に時世邈遠、事迹神異にして、舊記に具さなり。更に煩しく述べず」と記し、又た『倭姫命世記』及び『神代卷口訣』等には、邇々藝命、三十一萬八千五百四十年、穗々手見命、六十三萬七千八百九十二年、葺不合命、八十三萬六千四十二年と記したる中に、『口訣』には、邇々藝命の三十一萬の一を脱し、又た葺不合命の四十二年を、四十三年と記して、少かの差あれど、此は孰れか誤寫にて、其の元は、必ず同一なりしなるべし。此の外、『神皇正統記』・『倭漢合運圖』等を始めとして、編年類の諸書、大同小異有りと雖も、凡そ此の類に記さゞるものなし。然れども餘りの大數にして、今、之を明かにすることは、兎に角く難事なるべし。是を以て大壑翁は、『弘仁暦運記』の萬の大數を棄て、二千四百七十餘歳の小數を取りて説を成し、宇田甘□[ワ+貝]は、『神武天皇紀』の年數を、日數なりとして、三百六十五日を以て一年とする時は、四千九百○七年餘となるとし、猶ほ此の外、種々の説あれども、孰れも其の説長ければ、今、之を擧げず。

 然るに其の信ずべき『古事記』には、「日子穗々出見命は、高千穗宮に坐すこと、伍佰八十歳」と有りて、此の御三代の内、中御一代の御年歴は、斯く記されたれど、前後御二代の事は、何とも載せられざるを以て、之を知るに由なき如くなれど、此の次の葺不合尊の御世も、穗々出見尊に次ぎて、久しかりしならむと見る時は、凡そ千有餘年は、此の御二代の御世にてありしなるべし。然れば是れより以前、降臨以後は、總べて皇孫・邇々藝尊の御世に係るは、元より論なき所なり。

 是に於て其の古代の年數を擧ぐれば、漢土の事は、(平田大壑先生)『春秋命歴序考』に、宋の張君房が、天聖中に著はせる『元氣論』を引きて、「太無の太古より是の世に至りて、備さに紀須可からかず。爰に伏羲より今日に迄(いた)りて、凡そ四千餘載なり。其の中の生死變化、裁成人倫、君と爲り臣と爲り、父と爲り子と爲る。興亡損益、進退成敗、前儒、之を志し、後儒、之を承く。結々紛々として、一時に殫論す可からず也」と有る、此の四千餘載は、伏羲より宋の天聖中に至るまでの實年數なりとして、説を立てたり。其の由は、天聖は、宋の仁宗の年號にして、九年續きたるに、其の九年は辛未の歳に當れるを、歳數を起す根基と爲し、『路史』を始め諸書に、伏羲の元年を甲寅の歳と有るに據りて、先づ四千年を遡上り算へて、其の餘載の甲寅の歳を求むるに、夫れより三十八年の上に有りて、天聖九年よりは、凡そ四千三十八年に當れば、『元氣論』に、凡そ四千餘載と有る餘載は、即ち是の三十八年と云へるものとし、又た『路史』に、『三墳』を引いて、「伏羲立ちて、三十二たび草木を易へて、而して河圖出づ。又た二十二たび草木を易へて、而して天書を造り、後ち一たび草木を易へて、甲暦を作り、歳を甲寅に起す。是れ伏羲、庚申即位なり」と有る、草木を易へてと云ふは、伏羲の、未だ暦法を立てざる以前は、只だ草木の一たび生長凋枯するを見て、一年と成したるものにて、是れは本邦にても之と同じく、年とは、稻の一たび發生して成熟するの間を云へる事は、五穀の豐熟を祈る祭りを「祈年祭」と書きて、之をトシゴヒマツリと訓むにても知られたる如くなれば、此の三十二たび草木を易へてと有るは、暦法立ちたる後より云へば、伏羲立ちて三十二年を經てと云へるに異なること無し。

 然れば伏羲が甲暦を作りて、始めて暦法を立て、歳を甲寅に起すと云ひて、其の元年を甲寅の歳となしたるは、伏羲が位に即きてより、草木を三十二たびと二十二たびと一たびと合はせて、五十五たび易へたる後なれば、其の五十五年後なることを知るべし。然れば諸書に、伏羲の元年を甲寅と云へるは、即位の元年に非ずして、甲暦を作れる元年にして、其の即位元年は、尚ほ是れより五十五年の前なること、此の甲暦を作れる甲寅元年より五十五年を遡上れば、即ち庚申の歳に當りて、此の『三墳』に、「伏羲、庚申即位なり」と有るに符合するを以て明かなり。然れば上の四千三十八年に、此の五十五年を加ふれば、四千九十二年となる。是れ即ち伏羲の即位元年なり。斯くて宋の仁宗の天聖九年は、本邦の後一條院天皇の長元四年に當れば、此の年より一千六百九十一年を遡上り算ふる時は、我が神武天皇の紀元初年にて、漢土にては、即ち東周の惠王の十七年となる。

 是に於て上の四千九十二年の内にて、此の一千六百九十一年を引き去る時は、殘りの年數二千四百一年となる。之を伏羲の元年より、東周の惠王の十七年までの年數なりとし、又た本邦の事は、(平田大壑先生)『弘仁暦運記考』に、『(弘仁)暦運記』の萬の大數を棄て、二千四百七十餘歳の小數を取り、之を皇孫・邇々藝尊より、神武天皇をこめたる歴代の年數なりとし、其の内にて、神武天皇の御在位七十六年を、彼の七十餘歳と有るに當て、之を引き去る時は、殘りの年數、二千四百歳となるを、葺不合尊の御末年より、邇々藝尊の降臨元年までの年數なりとし、之を上の漢土古代の年數と對照する時は、我が邇々藝尊は、漢土の伏羲即位の元年庚申の翌年、即ち辛酉の歳を以て降臨し給ひしものと成るなり、と云へり。

 而して其の實、漢土の伏羲は、我が大國主神にして、此の國土を皇孫尊に奉りし後、去りて漢土に出興せしを、彼の國にては、之を伏羲氏と稱し、其の出興元年は、即ち東周の惠王の十七年より、二千四百二年前の庚申の歳にして、我が皇孫尊は、其の翌年辛酉の歳、即ち我が神武天皇紀元元年より二千四百一年前を以て、其の去りたる跡へ降臨し給ひしものなり、との説なり。其の年契の符合するに至りては、實に妙と云ふべし。然れども此は、只だ其の一端を擧げたるに過ぎざれば、猶ほ其の委しきことは、本書(『弘仁暦運記考』)に就て見るべし。

 今、此の説によりて、皇孫尊の降臨元年より、葺不合尊の御末年までを、二千四百年とし、其の内にて、上に云へる、穗々出見尊・葺不合尊、御二代の御世、凡そ一千有餘年を引き去る時は、殘りの年數一千三百餘年となる。是れ即ち邇々藝尊の御治世なり。然れば夏禹、及び益等が、洪水を治め異物を記して、『山海經』を作りたる(神武天皇紀元より、凡そ一千七百四五十年前に成る)は、兎に角く邇々藝尊の御世に當るは、今更ら云ふまでも無きことなるべし。
 

  • [45]
  • 天神の遺術・鎭魂の法。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月26日(土)22時05分41秒
  • 編集済
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●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』上之卷・饒速日命條

【本傳】饒速日命は、天忍穗耳尊の皇子なり。御母は、高皇産靈尊の御女・栲幡千々姫命にして、皇孫・瓊々杵尊、同母の御兄に坐します。皇孫・瓊々杵尊、天上(あまつくに)に於て、天位に即かせ給ひ、日向國なる襲の高千穗峯に天降り、天下に君臨し給ひし後[多く『紀』・『記』二典に採る]、饒速日命も、また皇祖天神の敕命に依り、天磐船に乘りて、河内國なる河上の哮峯に天降り、又た大倭國なる鳥見の白山に遷り住み給ふ。此の時、饒速日命、天磐船に乘りて、大虚空を翔行りつゝ、此の郷(くに)を巡り睨(み)て、天降り坐しゝに依りて、「虚空見つ日本國」と云へる國名は起りしとかや。

 斯くて其の天降り給ふ始め、皇祖天神より、饒速日命に、天つ璽(しるし)十種の瑞寶を授け、鎭魂の法を傳へ給ふ。其の十種の瑞寶は、即ち瀛都鏡・邊都鏡・八握劔・生玉・死反玉・足玉・道反玉・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮の十種なり。また此の十種の瑞寶を用ひて、鎭魂を行はむ法は、苦しみ痛む處あらば、此の十種の瑞寶を合はせて、

ひとふたみよ いつむよなゝや こゝのたり    ふるべ ゆらゝゝと ふるべ
「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十と謂ひて、布瑠部、由良由良止、布瑠部」

此くなさば、死れる人も、返りて生きなむものぞ
」と、教へ給ひけるとぞ。此れ鎭魂の法なり。

 是に於て饒速日命、此の國に降り給ひし後、常に此の法を修め[專ら『舊事本紀』の天孫本紀と天神本紀とを參考して、之を載す]、即ち離遊の運魂を招きて、身體の中府に鎭め、謂ゆる長生久視の道を得て、永く此の世に留まり給ひ[全く『令』の職員令の義解に採る]、長髓彦等を服從はしめて、大倭國を治め、遂に長髓彦が妹・三(御)炊屋媛を娶りて、可美眞手命を生ましめ給ふ[『舊事本紀』をも參考して記す]。然るに日向國に天降らせ給へる、皇孫・瓊々杵尊は、其の皇子・火々出見尊、其の皇子・鸕草葺不合尊、其の皇子・神日本磐余彦尊、即ち神武天皇まで、凡そ御四代を歴(へ)させ給ひ、帝都を日向國に定めて、天下を統御し給ひしが、神武天皇の御代に至りて、中洲(なかつくに)を平定し給ひ、大いに皇謨を擴充し給ふ[『紀』・『記』二典に依りて書く]。

 爰に神武天皇、御東征の皇軍、大倭國に逼りし時、長髓彦、人を遣はして、天皇に申し奉らしめけるは、「天神の御子(饒速日命)、天磐船に乘りて天降り給ひ、吾が方に留まり御座しまします。御號を櫛玉饒速日命と曰す。此の命、吾が妹・御炊屋媛を娶りて、兒息(みこ)・可美眞手命あり。吾は、此の饒速日命を君とし事へ奉る。思ふに、天神の御子、兩種(ふたはしら)在るべき謂れ無し。奈何にぞ、更に天神の御子と稱(なの)り來りて、吾が國を奪はむとはし給へるぞ」と申さしめければ、天皇、之に答へて、「天神の御子、亦た多くあり。汝が君とする所、實に天神の御子ならむには、必ず表(しるし)物あるべし。若しあらば、其れを示(み)せよ」と云はしめ給ふ。長髓彦、直ちに饒速日命の、天羽羽矢一隻と歩靱(かちゆぎ)とを取りて、天皇に示せ奉る。天皇、之を御覽はして、「此は、眞の物なり」と宣はせ給ひ、天皇も、また御親ら佩かせ給へる、天羽羽矢一隻と歩靱とを出して、長髓彦に示せ給ひしに、長髓彦、其の天つ表の物を見奉りて、益々踧踖(おぢかしこ)まりしかど、勢ひ今更に止まることを得ずて、猶ほ心を改めざりけり。然れども饒速日命は、天下は、本より皇祖天神の皇孫尊に與へ給ひし所なるを、能く知り給へるのみならず、長髓彦の稟性(うまれつき)、大義を説き名分を諭すも、其の效無きを認め、畢ひに長髓彦を誅戮し、其の兵、衆を帥ゐて、皈順し奉られぬ。天皇は、固より饒速日命は、天より降れる神なることを知し食し給ひしに、果して忠效を立てられしかば、則ち褒めて寵(いつく)しみ給ひしとぞ[專ら『神武天皇紀』に因りて記す]。

 此の饒速日命は、則ち物部氏の祖神なり。中洲、平ぐの後、其の子・可美眞手命に、皇祖天神より授かり給ひし、天璽の十種の瑞寶を授け、鎭魂の法をも傳へて、永く天皇に事へ奉らしめ、自らは此の世を去りて、遂に其の終る所を知らずなりしとかや。



○嚴夫云く、本傳は、『日本書紀』・『古事記』・『古語拾遺』・『舊事本紀』を始め、諸書を參輯して、爰に擧げたり。

 斯くて饒速日命を以て、此の『(本朝)神仙記傳』の卷首に擧げたるは、本傳に載せたる如く、此の命は、皇孫・瓊々杵尊の御兄に坐(おは)しまして、皇孫尊の、天下に君臨し給ひし後、更に天降り給ひしかど、彼の皇祖天神より授かり給へる鎭魂の法を修めて、長生し給ひ、皇孫尊の御皇統は、御四代を歴させられて、神武天皇の御世に至らせ給ふまでも生き存(ながら)へて御はし座しゝは、謂ゆる神仙に非ずして、何ぞ。且つ其の終る所の詳かならざるも、亦た神仙たるを證するに足るべし。然るに『天孫本紀』に、「饒速日命、既に神捐去(かみさ)り坐して、天に復り上らざる時、高皇産靈尊、哀しみ泣き給ひて、即ち速飄命に命(おほ)せて、其の屍體を天上に上さむとして、七日七夜の間、遊樂(あそ)び哀しみ泣きて、天上に斂め竟へぬ」と云へること見えたれど、此は、『神代卷』に載せられたる、天稚彦が死したる時、其の父及び妻子等が、天より降り來りて、其の柩を持つて、天上に上り去りたる事蹟を混ひ記したること、疑ひ無ければ、此れを採らず。また同書には、饒速日命は、神武天皇御東征の前に、世を去り給ひて、當昔(そのかみ)は、既に可美眞手命の代と成り居りしものゝ如く記して、長髓彦を誅して歸順ありし事蹟も、皆な可美眞手命のせられし事の如く記したれど、此は、『日本書紀』・『古事記』・『古語拾遺』を始め、其の他、正しき書には、孰れも饒速日命の成し給ひし事蹟に擧げざるは無くして、此れに合はざれば、此れ亦た採らず。思ふに、饒速日命は、神武天皇、中洲を御平定の後、猶ほ暫く顯世に留まり給ひて、可美眞手命に、十種の瑞寶、及び此の十種の瑞寶を用ひて、鎭魂を行ふ法をも授け給ひ、其れより徐々に去り給へるものなるべし。

 因みに云ふ、皇孫尊の降臨の時、天位の天璽として、皇祖天神の授け給ひしは、神鏡・神劔・神璽の三種にして、此の三種の器に含め給へる意味の深長なることは、今更に云ふを待たざる所なるが、饒速日命に授け給ひしは、十種なれども、要するに前の三種を細かに別けて授け給ひしに外ならず。其は先づ瀛都鏡・邊都鏡は、二種ともに鏡に外ならず、又た生玉・死反玉・足玉・道反玉の四種は、皆な玉に歸すべきものなり。八握劔・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮の四種も、亦た劔の一種に歸す。然れば鏡を二種に別かち、玉と劔とは、各々四種に別かちて、十種とは爲し給ひしものなり。而して此の三種と十種とは、即ち鎭魂の祕旨を含め給へるものなり。長生の道を修むるの要妙たるものなり。道家の修眞祕訣と、相一致するものなり。然れども其の説長ければ、爰に盡し難し。其は、猶ほ次々の因みある所に述ぶべし。



●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』上之卷・可美眞手命條

【本傳】可美眞手命は、饒速日命の子なり。母は、長髓彦の妹・御炊屋媛なり[『紀』・『記』・『舊事本紀』・『古語拾遺』・『物部神社々傳』の諸書、同一なれば、今更に説明を要せず]。大倭國鳥見の白庭の邑に生る。始め其の母、妊胎(はら)て未だ産まざる時、饒速日命、其の妻・御炊屋媛に、「汝が妊胎める子、若し男子ならば、間味見命と號づけよ。若し亦た女子ならむには、色麻彌命と號づけよ」と云ひけるに、其の生れし子、男子なりしかば、即ち間味見命とは名づけゝるとぞ[專ら『天孫本紀』を取りて記せり。但し間味見命の間味見とは、マアヂミと訓む。マアのアは、省かりてマとなり、ヂミは約まりてデと成れば、其の上に可美と云へる美稱を加へて、可美眞手命とは稱し奉れるなれば、間味見命、即ち可美眞手命の事なるを知るべし。又た其の以下も、多く『天神本紀』・『天孫本紀』・『古語拾遺』等を參輯して、之を書く]。

 斯くて可美眞手命も、亦た父命の皇祖天神より授かり給へる、天璽十種の瑞寶を授かり、又た鎭魂の法をも、其の傳へを受け、自ら修めて之を成就し、饒速日命の後を續ぎて、神武天皇に事へ奉り、極めて忠誠なりしかば、天皇、特に之を褒めて、神劔を授け給ひ、其の勳功を表はし、股肱の職に任じて、子々孫々、永く其の職を傳へしめ給ふ。是に於て可美眞手命、天の物部を率ゐて、猶ほ皇化に服從はざる夷國を征し、海内を平定して、其の由を奏上し、且つ父命より授かりたる、天璽十種の瑞寶を獻りて、殿内に納めしかば、天皇、特に詔して、近く殿内に宿(とのゐ)せしめて、深く寵遇(いつく)しみ給ふ。

 斯くて可美眞手命は、又た其の瑞寶を用ひて、天皇・皇后の御爲めに、御魂を鎭め祭り、聖壽の長久を祈り奉る。此れ即ち此の御代に、鎭魂祭を行はれ給へる始めにして、爾の後、毎歳の十一月中の寅の日、即ち新嘗祭の前日を以て、此の祭を行はせらるゝ恆例とはなれり[「毎歳の」より以下、『天武天皇紀』を始め、諸書同一なれば、即ち其の諸書に據りて載す]。

 斯くて可美眞手命は、鶴に乘りて、石見國に至り、所々を見巡りて、鶴降山に降り、夫れより更に降居田と云へる所に降り著きて、此の地を領し、久しく爰に住み給ひしが、終ひに此所の八百山に、其の神靈を留めて、永く此の世を去り給ひしと云ふ。其の神靈を留め給へる八百山は、即ち今、安濃郡川合村なる、物部神社、此れなりと云へり。又た鶴降山は、今、本社を去ること、凡そ壹里許りにして、鶴府山と稱する山、此れにて、鶴府は、即ち鶴降りの約まりたるものならむと云ふ。又た降居田は、今、本社の前に在りて、折居田と書く地名に存すと云へり[專ら『物部神社々傳』に採り、『神名帳』を以て、之を補ひたり]。

 斯くの如くにして、可美眞手命は、父命より鎭魂の法を得て、自ら之を修め、且つ天皇・皇后の御爲めに、御魂を鎭め祭り、終ひに鶴に乘りて、石見國に至り、其の跡を八百山に留めて去り給ふ。其の神仙の道を得たまへること、明かなりと云ふべし[前文を集めて、余が補ひたる文と知るべし]。



○嚴夫云く、本傳は、『紀』・『記』二典を始め、『舊事本紀』・『古語拾遺』・『物部神社々傳』、其の他の諸書をも參考して、之を擧げたり。

 然るに今一つ、説明し置かざるを得ざることあり。其は、本傳の中に、「鎭魂の法をも、其の傳へを受け、自ら修めて、之を成就したり」と云へることは、何に依つて之を記したるか、法を授かりたる事は、『舊事本紀』にも見えたれど、其の法を自ら修めて、成就したりと云へることは、同書にも見えざるは、如何との疑ひを懷く者も、無きに有らざらむか。然れども此は、實に見易きことなり。其の故ゑ、如何とならば、可美眞手命、自ら修めて成就したればこそ、天皇・皇后の御魂をも鎭め祭ることをなし得奉りたるなれ。若し自ら成就せざらむには、爭でか其の御魂を鎭め奉ることを得べき。此の一事を以ても、自ら修めて成就したるを證するに足るべし。況んや『(物部神社)社傳』に據れば、鶴に乘りて、石見國なる鶴降山に降りたるとの傳へ有るをや。其の道を成就せざるもの、如何にぞ鶴に乘ることを得む。故に斷じて「成就したり」とは書きたり。

 因みに云ふ、可美眞手命より、代々物部を率ゐて、皇家の武職に任ず。是を以て其の子孫、永く物部の姓を賜ふ。後世に至り、「武士」を訓みて、モノヽフと稱するに至れるも、亦た之に依れりと云ふ。



 愚案、鎭魂の本義は、「我が精神と宇宙の大精神と、元と一體なる事を感得する」に在り。溯りては、天鈿目命を主宰神とする傳も、亦た之れ有り。即ち天上由來の神法にして、其の根本は、神皇産靈大神・天照大御神の御教なり。之を修むれば、自ら無病長生、不老不死の道を得て、神僊の位に陞ると傳へたり。蓋し神道修行の奧傳と謂ひつ可し矣。

 然れども明師を得ざれば、妖魅の嗤ふ所になりて、遂に邪道に墮つと仄聞すれば、陰徳積善、獨りを愼しみ、神祇に祈りて、其の縁故を俟つ可く、神縁、或は無し雖も、皇政復古の近からむことを確信熱祷して、尊皇報國に、只管ら生き徹して已まざる可く、然り而して此の中今に於ては、之を教ふる皇學校の絶えて無かりせば、動もすれば驕慢無禮、此の上へ無き、自稱神仙道士の口舌に、妄りに惑はさるゝこと勿く、天神地祇、或は神人先哲と、直接、自ら道交感應せざるを得ず、其の審神の正否如何を、神典に求むるのみなるを、獨り悲しまざるを得ざるなりと、爾か云ふ。



【小林健三翁『東嶽宮地嚴夫の玄學研究──主著「本朝神仙記傳」を中心として──前篇』/『神道研究紀要』第四輯・昭和五十四年八月】
  ↓↓↓↓↓
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/s4-3.pdf
 

  • [44]
  • 浦島太郎、孝心、已み難くして、神仙境より歸り來れり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月19日(土)23時51分10秒
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●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』上之卷・水江浦島子條

【本傳】水江浦島子(みずのえのうらのしまこ)は、亦た筒川島子とも云ふ。日下部首等の祖にして、丹後國與謝郡日量里筒川村の人なり。其の姿容、秀美にして、風流、類ひ無し。

 雄略天皇の二十二年、島子、獨り小舟に乘り、海上に出でて釣を埀る。一魚をだも得ず。乃ち靈龜(あやしきかめ)を得たり。心に奇異の思ひを爲し、舟中に留め置けるに、島子、頻りに眠りを催ほす間に、彼の靈龜、忽ち化して女娘となりぬ。其の容貌、美麗にして、更に比すべきものなし。島子、問ひけるやう、「爰は海上にして、人の居るべき所にあらず。且つ人家に隔たること、遙かに遠し。然も乘り來れる舟も見えざるに、女娘は何處に住みて、如何にしてか、忽ちに我が舟に來れる」[註一]。女娘、答へけらく、「妾(わらは)は、是れ蓬莱山の女にして、金闕の主なり。不死の金庭、長生の玉殿は、妾が居る所なり。父母兄弟も、亦た彼の仙房に在り。妾、在世の時、子(し)と夫婦の儀を結べり。然るに我は、天仙と成りて、蓬莱宮に樂しみ、子は、地仙と作りて、澄の江の浪の上に遊ぶ。今、宿昔の因みに感じ、俗境の縁に隨ひ、子を蓬莱に迎へて、曩時(さき)の志願を遂げ、羽客の上仙と爲らしめんとす」と。島子、仙女の語に隨ふ。

 仙女、島子に教へて、暫く目を眠らしむ。須臾くにして蓬莱山に到る[註二]。其の地、玉を敷けるが如し。臺閣、晻映として、樓堂、玲瓏たり。是に於て仙女、島子と相携へて仙宮に至る。島子を門外に立たしめ、仙女、先づ金闕に入り、父母に告げて後、共に入る。仙女の父母、共に相迎へて、殿中、座定まり、人間・仙都の別を説き、人神、偶會の嘉(よろこ)びを祝し、乃ち百品の芳味を列ね、兄弟姉妹等、杯を擧げて獻酬をなし、仙樂、寥亮として、神舞、逶迤たり。其の歡樂を極むること、人間に萬陪し、日の暮るゝを知らず。興、最も酣(たけなは)なりしが、黄昏に及びて、群仙、漸次に退散して、即ち仙女、獨り留まる。是に於て島子、仙女と玉房に入り、眉を雙(なら)べ袖を接(まじ)へて、始めて夫婦の理りをなす。薫風、寶衣を飜へして、□[四+組。ち]帳、香を添へ、紅嵐、翡翠を卷いて、容惟、玉を鳴らし、金窓、斜めに見えて、素月、幌(とばり)を射る。珠簾、微(すこ)しく動きて、松風、琴を調ぶ。朝には金丹、石髓を服し、夕には玉醴、瓊奬を飲む。何の歡樂か、之に如かむ。時に島子、郷里を遺れ、仙境に遊ぶこと、既に三歳になりぬ。

 然れども猶ほ俗情や、盡きざりけむ、忽ち舊土を懷(おも)ふの心を發し、二親を慕ふの情、禁ずべからざるに至りしかども、遉(さす)がに口には出しかねしが、吟哀(かなしみ)、繁く發り、嗟歎(なげき)、日に益して、眼色、容貌を呈(あらは)しければ、仙女、島子に問ひけるは、「比來(このごろ)、夫(せ)の君の容貌を觀るに、昔日に異なり。願はくば、其の故ゑを示し給へ」と。島子、答ふるやう、「古人の言に、『少人は土(くに)を懷ひ、死狐は丘を首にす』と云へることのあるを、信(まこと)とも思はざりしが、今に至りて思ひ知りぬ」と云ひければ、仙女、「然らば君には、故國に歸らんと思ひ給ふか」と云ふ。島子、答へて、「我、故郷を離れて、遠く神仙の堺に入りたり。何の幸ひか、之に過ぎん。進退、左右に在りて、素より旨に逆(さから)ふの心なし。然れども夢、常に結ばず、魂、故郷に浮かぶ。願はくば、吾、暫く舊里に歸り、今一たび二親を拜して後、又た仙室に來らんと思ふ」と云へば、仙女、深く別れを惜しみて、「仙境のならひ、一たび去つて、再び來り難く、縱令(たと)へ故郷に歸り給ふとも、定めし往日(まへ)の如くには非ざるべし。寧ろ爰に留り給ふに如かず」と、懇ろに留むると雖も、島子、「強ひて歸らん」と云ふにぞ、今は其の留むべからざるを知り、玉匣(たまてばこ)を取り出だして、島子に授けて云ひけるやう、「君、若し妾を忘れず、再び逢ふの期を見んと思はゞ、必ず此の玉匣の緘(ふう)を開き給ふな」と誡め、遂に相分れて辭し去りける。

 島子、船に乘れば、自ら眠るが如くにして、忽ち故郷・澄江の浦に至り、筒川郷に歸りぬ。是に於て熟々村邑の光景を瞻るに、人物共に遷り易はりて、更に昔の跡形も無し。餘りに不思儀に思ひ、郷人に向ひ、「水江の浦の島子が家人は、今、何處に住めるや」と問へば、郷人、呆然(あきれ)たる體にて、「君は、如何なる人ぞ。遠き昔の跡を問ひ給ふものかな。古老等、傳へて云ふ、『先の世に、水江の浦の島子と云ふ人あり。獨り小舟に乘り釣に出でて、還り來らず』と。今は早や三百餘歳を經たり。何ぞ新しく其の人の家族を問ひ給へる」と云ふにぞ。島子、「彼所に居りしは、僅かに三歳に過ぎざるに、然る謂れの有るべきやうなし」と疑ひ、更に解らず。數日、郷里を廻り見れども、一人の知りたる者にだに過はざるより、始めて郷人の我を欺かざるを知り、且つ仙女の、「歸りても、往日の如くには非ざるべし」と云へりしを思ひ出でて、忽ち後悔の心を起し、急に仙女の所に歸らむと思ひて、海に向へども、何れの許に在りと云ふことを知らず。島子、惘然として憂ひ、措く所を知らず、遂に仙女の誡めをも打ち忘れて、少しく玉匣を開きしかば、中より紫色の雲の如きもの出でて、海の方に靉(たなび)きければ、島子、大いに悔ゆれども及ばず、其の□[白+八。かたち]、俄かに衰へ、忽ち老翁となりて、遂に空しく死にけるとぞ。時に淳和天皇の天長二年にして、雄略天皇の二十二年よりは、凡そ三百四十八年を經たりと云へり。



○嚴夫云く、本傳は、『雄略天皇紀』・『淳和天皇紀』を始め、『丹後風土記』及び『浦の島子傳』を主とし、『本朝神社考』・『神社考啓蒙』・『編年紀略』・『本朝列仙傳』等を以て、其の缺を補ひ、參輯して、爰に載せたり。

[註一]多く『神社考啓蒙』に因みて記したるが、同書には、『丹後風土記』を引いて、「五色の龜を得たり」とあれど、他書に、多く「大龜」とか、「靈龜」とか書きたるを以て、本傳には、「靈龜」と載せたり。

[註二]『浦の島子傳』の煩文を省きて取り、其の以下も、要と『浦の島子傳』と『神社考啓蒙』とを交々取り、前に擧げたる諸書に因みて、其の缺を補ひ、以て文を成したり。

 然るに此の傳中、浦の島子が、仙境に居たる間は、僅か三年間と思ひしに、顯界(うつしよ)に歸りて見れば、早くも三百四十八年を經て居たりとあるにつき、一言すべきことあり。其は此の浦の島子に限らず、本書(『本朝神仙記傳』)の中に載せたる、大口山の女仙の許に誘はれたる壯士も、彼界に居りしは、僅かに霄(よひ)より深更に及べる、數時間に過ぎざりしと思ひの外に、一周間を經て居たりと見え、また同傳の下に引きたる、天臺山の二女仙の許に行きたる漢の劉郎・阮郎の二人も、彼界に居りしは、僅かに半年ばかりの間と思ひしに、顯界に還りて見れば、七世の後と成りて居て、其の間に二百三十二年を經てありしと見え、また晉の王質が、石室山の石室(いはや)にて、童子の棋を圍むを見て居る内に、斧の柯(え)の朽ちたるに驚き、家に歸りて見れば、數百年を經て居りしとあるの類ひ、猶ほ多し。此は全く仙境の一日は、顯界の一日より、大いに永くして、其の實、顯界の數十日を以て、彼界の一日となすものゝ如し。其は前に云へる、大口山に入れる壯士や、浦の島子の如き、即ち此れなり。また之に反對(ひきか)へて、魔界の一日は、此の顯界の一日より、甚だ短くして、顯界の一日を以て、魔界の數十日と爲すものゝ如く思ふ由あり。

 其は、(平田)大壑翁の『古今妖魅考』に引かれたる、『比叡山天狗之沙汰』と云ふ書に、櫻町天皇の元文五年、比叡山の西の塔・釋迦堂修理の時、其の奉行を勤めし、大津の代官・石原清左衞門といふ人の、家頼・木内兵左衞門と云ふ、三十餘歳の人が、其の年の三月七日の申の時に、ふと行方知れず成りしが、方々を尋ねれども居らざるより、天狗の業と心得て、山内の寺々にて祈りを始めけるに、其の夜丑刻前に、釋迦堂の箱棟の所まで皈(かへ)り來れるを、四郎兵衞と云ふ働き人、迎へに上りて、棟より兵左衞門を背負ひて下りける。始めは夢中になりて、能く寢ねたりしが、三日ありて本性に皈りて、天狗に連れ行かれたる時、彼界にて有りしことゞもを委しく語れる中に、「叡山より秋葉山へ行き、また妙義山・彦山・鹿島などへ行き、其の外、何國ともなく諸方見物して、既に十日餘も經ぬらむと思ひ、『何卒、暇給はれかし』と云ひければ、『然らば一生安樂に暮すやうなる、祕密の藥法・行法を傳授すべし』とて、其の藥法の書付け等を給はり、高山の峯におろさるゝ如く覺えしが、本堂の棟にてありしを、働き人の四郎兵衞が、棟に上り來りて、某(それがし)を捕へんとまでは覺えしが、其の後は夢中に成りぬ」と語れり、とあり。然れば此の兵左衞門が、「妖魔に誘はれて、彼界に入りてありし間は、申の時より丑の刻前までにてありき」と云へば、僅かに六時間なり。然るに其の間を、十日餘の如く思ひしとあるに因れば、顯界の一日を以て、魔界にては數十日と爲すものなるを知るべし。但し此は、爰に要無き文は、皆な省きて引きたり。委しくは『妖魅考』に就て見るべし。

 然るに大壑翁は、此れに説を加へられて、「大かた顯界に伴はれたるは、多くの日數をも、暫しの間なりと思ふ事なるに、兵左衞門は、申より丑までの六時の間を、十日餘りを經たりと思へるは、甚(い)といぶかしき事なり。仍りて思ふに、神仙の幽界に入りたるは、久しき年月をも短しとし、妖魅の界へ伴なはれたるは、暫時の間をも長しと思へるにや。此は、猶ほ考ふべし」と云はれたり。嚴夫云く、此の事たる、極めて見易き道理にて、顯界の上に準(なぞら)へても、能く知らるゝことなり。其の人、若し自己が意に適へる歡樂を極むることに遭はむには、日の暮るゝも知らず、夜の明けるも覺えずして、十日や二十日は云ふも更なり、一月や二月を過ごさむも、瞬く間の如く思ひて、其の長きを覺えざるものなり。此れ、神仙界に入りたるものゝ、暫時しと思ふ間に、多數の歳月を經るに思ひ合はすべく、また此れに反對へて、人、若し我が意に反ける苦痛を極むるに、災厄困難に陷りし時には、何時かは、此の苦痛を脱がるゝことを得むと、暫時しの間をも、數日の如く長く思ひて、實に堪へかぬるものなり。此れ、魔界に行きたるものゝ、暫くの間を、數十日の如く長く覺ゆるに思ひ合はすべし。然れば顯界に在りても、極めて歡樂を感じたる時は、神仙の境界に入りたるに均しく、また甚としく苦痛を感じたる時は、魔界に墜ちいりたるに異ならざれば、人、若し過ちて魔界に墜ちむには、未來永劫、一日を數十日の如く感ずる、苦界を脱がるゝの期あるべからず。また仙境に入らむには、之れに反對へて永世無窮に、數十日をも一日の如く感ずる樂境を失はざるべし。此れ則ち神仙の求むべく、妖魅の避くべくして、善を修めざるべからず、惡の爲すべからざる所以とす。然れば此れ等の事實に徴する時は、仙境の年月の長き、魔界の歳月の短き譯も、極めて平易く了解することを得べし。

 さてまた本傳中に、今、一の云ふべきことあり。其は、浦の島子が仙境より皈る時、女仙より授かり來る、玉匣のことなり。島子、若し女仙の誡めを守りて、此の玉匣を開かざりせば、元の仙境に皈りて、女仙に再び逢ふべかりしならむを、恍惚(うつ)けて開きしかば、「中より紫の雲の如きもの出でて、海の方に靉き、忽ち老いて死にけり」とあり。然れば此の玉匣の中には、島子の壽命を保つものを封じ籠めてありしこと、固より云ふを待たざるべし[‥‥]。さて其の壽命を保つものは、如何なるものなるか、固より之を知るよし無けれど、或は太玄生符とも、太上玄生籙とも稱するものあり、其れにては無かりしかと、思ふよしあり。仍りて左に、此れを述ぶべし。

 先づ此の太玄生符のことは、彼の『關令・伊喜が傳』に、「老君、即ち老子が、徐甲と云へるものに、太玄生符を與へて、之を使傭せること、二百餘年に及びけるに、老君が關に至るに及びて、徐甲、吉祥草と云ふものゝ化したる美人に惑ひ、前約に負(そむ)きて、關令に老君を訟へて、傭ひ錢を索めしかば、老君、甲を責めて、『吾、汝に太玄生符を與へたればこそ、生きて今日にまで至ることを得たれ。然るに汝、何ぞ此れを念はずして、吾を訟へたるや』と言ひ訖りければ、生符、忽ち甲が口中より飛び出でたるに、丹篆、宛(さなが)ら新たなるが如くなりしが、甲は即ち一聚の白骨と成りけるとぞ。伊喜、乃ち甲が爲めに、頭を叩きて之を謝し、其の罪を赦して更生(よみがへ)らしめんことを請ひければ、老君、復た太玄生符を以て甲に投じたるに、甲、立ち處に蘇生りたるを以て、喜、乃ち錢を甲に償ひ、禮して之を遣りたり」とあり。此れ則ち太玄生符は、人の壽命を保つ不老不死の靈符たるを證するものと云ふべし。然るに此の靈符のことに就ては、東方朔の『十洲記』に、「方丈州は、東海の中心に在り。西南東北、岸正等、方丈方面、各九千里、上は專ら是れ群龍の聚る所なり。金玉瑠璃の宮有り。三天司命所治の處なり。群仙の、未だ昇天することを欲せざるものは、皆な此の州に往きて、太上玄生籙を受く」とあり。此れに因るときは、此の符は、元と彼の『史記』の「封禪書」、または「始皇本紀」・「淮南王傳」などに見えて、三神山と稱する、蓬莱・瀛州・方丈と云ふ三州の内なる、方丈州の瑠璃の宮に於て、三天司命の職に在る神眞の司どる所と見えたり。

 因みに云ふ、此の方丈州は、我が神典に在る、淡路島のことにて、仙家にて、三天太上大道君と稱し奉るは、即ち我が神典なる、伊弉諾尊に坐しまし、其の三天太上大道君の命を承けて、三天司命の職に在る神眞は、青眞小童君と稱して、此れ亦た我が神典なる、少彦名神にて坐しまし、一には泰一小子とも稱し奉り、早く太上天皇太帝、即ち三天太上大道君の上相司直の職を賜はり、扶廣山の東華方諸宮に常住して、太玄生籙を掌り、方丈州の太上幽宮を預り姑(をさ)め、天皇太帝の御手に代はりて、後聖の眞人と爲るべき者に、彼の玄生籙を賜ふ御職なること、及び特(ひと)り方丈州が、我が淡路島なるのみならず、蓬莱・瀛州の二洲も、亦た皆な本邦域内の海中にある仙境なること等、大壑翁の『赤縣太古傳』の三皇紀、及び『三神山餘考』等に委しく考證せられたれば、必ず見るべし。

 然れば太玄生符は、青眞小童君、即ち我が少彦名命の、方丈州、即ち我が淡路島の幽宮に於て、後々の神仙に成るべき者に授け給ふ所なるが、此の靈符にも、上中下の三品ありと云ふ。即ち『雲笈七籤』の左乙東蒙録と云へる條に、東海青華小童君の曰く、

「余、曩に恭しく太上の嘉命を承けて、青華宮を守り、衆仙・玉女・妙行の眞人、左右に侍衞して、學生の人を統攝す。東殿の金房に、寶經の玉訣あり、此の内の要は、左乙を端とす。太上、余に敕して、導誘、休むこと勿からしむ。茲れを念ひて、心に在り。天寶、禁重し。輕々しく傳ふることを得ず。之を傳ふれば、必ず先づ太上に啓告して、乃ち施し行ふことを得る。學者多しと雖も、眞を會する者少し。之を出ださば、懼らくは寶を泄(も)らすの災ひを招かむ。之を閉づれば、道を絶つの咎めを慮る。積感、時を淹(ひさし)うし、齊思、年を累ぬ」

とある、東華小童は、青眞小童君のこと、太上は、三天太上大道君のこと、左乙東蒙録は、太玄生籙の別名と見えたり。斯くて此の文に續き、

「上相青童君の寶經の題目は、左乙東蒙録と云ふ。又た三天不死の章と名づけ、長生の妙訣と名づけ、又た上聖接生寶篇と名づく中に、三品あり。總べてを簿録と名づく。其の上品を「不死の録」と名づく。一に紫字青文と名づけ、一に青録紫章と名づけ、一に紫書録文と名づく。一に玉簡青符と名づく。次に中品あり。「長生の録」と名づく。一に黄録白簡と名づけ、一に玉牒金篇と名づけ、一に玉書金字と名づけ、一に金文玉符と名づく。次に下品あり。「死籍の録」と名づく。一に丹章玄牒と名づけ、一に黒簡朱文と名づけ、一に赤目石記と名づけ、一に勒退幽符と名づく。下品録の名を知れば、中品に進み入ることを得。中品録の名を知れば、即ち上品に昇る名題を知識するすら、尚ほ能く品を進む。況んや乃ち解了して、修行する者をや」

とあり。此れ、謂ゆる太玄生籙の品例にして、此の勒退幽符と云ひ、金文玉符と云ひ、玉簡青符と云ふもの、即ち太玄生符の三品なるべし。

 而して老君の、此の符を徐甲に授けたるに就き、大壑翁の説あり。其は、『赤縣太古傳』の三皇紀に、『葛洪枕中書』を引いて、同書に、「方丈は、群仙の未だ昇天せざる者、此こに在り。會稽の岸を去ること六萬里。大清仙伯と、太上丈人との治むる所なり」と有るに、『伊喜の傳』を參考に供し、大清仙伯は、青童君のこと、又た太上丈人は、老子の内號なることを説き明かされ、老子も、亦た此の方丈州に往來して、青童君の行ふ、司命生籙の事を補助する仙職に有るを以て、徐甲にも、此の符を與へて、二百年が間、使ひしものなる由を謂はれたり。延きて考ふるに、浦の島子が、女仙に誘はれて行きたるも、蓬莱にて有りきと聞ゆれば、固より方丈州とも相通ふこと、云ふまでも無ければ、女仙は、島子の爲めに、此の太玄生符を受け得て、此の符の靈徳に因りて、三百四十餘年も、彼界に留め置きたるを、島子が塵縁の盡きざる所ありて、「是非とも、一たび皈らむ」と云ふを留めかねしより、其の太玄生符を、彼の玉匣に緘じ籠めて、之を開かず持ちたらむには、壽命は、いつまでも保つべきを以て、「其の中には、再び仙境に還り來るの期もやあらむ」と、「必ず緘を開き給ふな」と、誡め置いたりけむを、島子が仙縁、深からずして、終ひに其の誡めを忘れ、玉匣を開きしに、「其の中より紫色の雲の如きもの出でて、海の方に靉き去りたり」とあるは、此の時、彼の生符は取り返されしものなるべし。さてこそ「島子は、忽ち老翁となりて、死にたり」とある状の、彼の老君が徐甲を譴めし時、「太玄生符、甲が口中より飛び出でたれば、甲は即ち一聚の白骨と成りし」とあるに、最と能く似たるを思ふべし。然れば彼の玉匣には、太玄生符を緘じ籠めて有りしには非ざるかとの考へも、其の理、無きに非ざるを知るべし。

 畢竟、浦の島子は、『三神山(餘)考』にも云はれたる如く、元より自ら修し得たる道骨なく、唯だ仙風に牽かれて、彼界に長生したるに過ぎずして、忽ち仙縁を失ひたるは、實に惜しむべきことにこそ。また大壑翁は、「浦の島子が海中の蓬莱山に到りたるは、正しく『(丹後)風土記』に見えたる傳への如くなるべきも、此は、彼の州なる神仙の本宮に至れるにはあらで、海中の仙境、何處にまれ、數萬の列仙家あれば、其の中の一仙民の家に到れるならむ。其は事の状を以て、思ひ辨ふべし」と云はれしも、實(げ)に然ることなるべし。
 

  • [43]
  • 平田大壑先生『仙境異聞』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月11日(金)18時30分19秒
  • 編集済
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 平田大壑先生『仙境異聞』全五卷は、『仙境異聞』三卷と『仙童寅吉物語』二卷とからなるが、小生は、幾度も拜讀し、また間を措いて拜讀して、倦むことを知らぬ。『仙境異聞』は、三澤明翁『幽界物語』・宮負定雄翁『奇談雜史』・宮地堅磐大人『異境備忘録』・宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』等の靈著を拜讀する上の基礎となるものにして、これが精讀・研究は、はつと膝を叩くこともあつて、何より樂しく、讀み直す度びに、新しい發見がある。干からびた紙上の神觀念では無い、活き躍動し給ふ神人が、其處には在る。

 殊に山人界の神人・杉山雙岳組正(さうしやう。別持命。實は高位の神僊に坐す矣)の所見は、神道の教へが凝縮されて、僊童の聞違ひや舌たらず、訛傳、或は存すとしても、問ふは氣吹塾の皇學に志ある者たち、殊に大壑先生も義を質してをられ、大いに勉強になる。若し然らずてふ御方があるならば、今は、神道に縁なき人と諦めざるを得ない。茲に『仙童寅吉物語』卷二の掉尾を謹記して、結縁道福を共にしたい。



○また此の後に、彼れ此れより頼まれたる呪禁・祈祷などの多かるに、其れを行はむとはせず、徒らに遊ひ戲れ居るを、余(平田大壑先生)、傍らより、「とく行ひてよ」と云へど、「唯」のみして、「密柑よ、椎實よ」とねだり、頼みの事どもは、「明日にせむ、明後日にせむ」など云ふにぞ。其の由、いかにと問へば。

●寅吉云く、加持・呪禁など、世の人は甚だ好む事なれど、我は然しも心にすゝまざる故に、遊びたくなるなり。

○と、云ふ故に、また其の由を問へば。

●寅吉、進みよりて云く、加持・呪禁など、隨分に驗ある事も、多くは兩部の法にて、正しく思はるゝが少き故に、我が心に應はず。然れども是れまでは、人の頼み故に、是非なく行ひしなり。よし人が頼むとも、自分の心に應はざる事を行ふは、心、宜からず。病には藥を用ふるほど宜しき事はなきに、加持・呪禁などを先とするは、愚かなる事なり。良醫者にかゝり、藥を飲むことを第一にして、其の藥の驗ある樣にと、神々に祈るべき事なり。加持・呪禁に、をりゝゝ驗ある事は、行ふ人の一念と受くる人の信仰とによる事のごとく思はるれど、此れも世に多かる鬼物の與ふる驗か、と思はるゝなり。其の故は、或る田舍人の、胸やくるとて苦しみけるに、我、戲れに加持する眞似をなし、胸に「龍吐水」とかき、其の傍らに知れざる樣に、「十人火けし」と書きたれば、即座に癒えたる事ありしなり。

○此のとき、余、云ひけらく、加持・呪禁の法ども、多くは兩部めける故に、心に應はずと云ふこと、藥を飲みて、其の驗のある樣にと、神に祈るべき事と云へるなどは、實然る説なれど、病には藥を第一にしてと云ふこと、甘心せず。其の故は、其方も知らむ、神代の卷にも、大己貴命・少彦名命と二神にて、呪禁と藥の事とを始め給へる由見えて、上代には、呪禁が第一にて有りしなり。然れば今、傳はる呪禁どもには、佛法のわざも交はりたれど、其は擇び捨て、上代の正しき呪禁を探ねて、其は第一とし、藥を次にするぞ、眞の道なると云へば、甘心しけるに、後にまた屋代(弘賢)翁も、此の説に及びて、「我は、たとへ兩部の法なりとも、呪禁を第一にして、藥を次にせまほしく思ふなり。其の故は、呪禁は兩部にても、用ひて身に害をなさず。藥は用ひ過ちて、人に害を爲すこと多ければ、古人も、「藥せざれば、中醫にあたる」とは言へるなり」と云はれしかば、寅吉、ますゝゝ感伏したりき。

○或る人、戲れて寅吉に謂ひけらく、我は、此の世に住み侘びたれば、山人に成りたくと思ふを、山に歸るとき、いかで我をも伴ひ給へ、と云へば。

●寅吉、信と思ひ、居直りて云く、それは、以ての外なる事なり。神を置きては、世に人ほど貴き物はなきに、山人・天狗などの境界をきゝて羨しく思ふは、心得の宜からぬなり。人は、此の世に住みて、此の世の人の、あたり前の事を務めて終るが、眞の道なり。山人・天狗などは自由自在がなると云ふばかり、山人には、日々に種々の行ありて苦しく、天狗にも、種々の苦しみあり。それ故に彼境にても、人間といふ物は樂な物ぞと、常に羨み居るなり。此方にては彼方を羨み、彼方にては此方を羨む。これ、皆その道に入りて見ざる故の事なれど、人と生れたからには、人の道を守りて、外を願ふまじき事なり。

 我が師(杉山雙岳組正)を始め、山人となり、天狗と成れる人々は、何か因縁ありて成れる物なるべく、我とても、小兒にてありし時よりの事を思ひつゞけ、また願ひもせずして、彼境に伴はれたるなどを思へば、何か定まれる因縁ありげに思はれ、我が身で、我が身の事すら知られず、今日にも明日にも(幽界・山人界から)迎ひが來るやら、此の儘こち(顯界・大壑先生の塾)に居る事やら、其れも知れず。夫れ故に、時にこゝらの事を思ひつゞけては、かく成れるも、善事が惡事か分らぬから、身の毛の立つやうに、恐ろしく思ふ事もあり。夢のやうにも有るが、とてもかく成れる上は、天道樣の御さしづ次第、また師匠の心次第と打ち任せて居るなり。然るに好みて成りたがるは、入らざる事なり。夫れよりは、人間相應の勤めを第一に、身の行ひを正しくして、死後には神になる樣に、心を堅むるが肝要なり。

 此の事に限らず、一體、外を願ふといふは、宜からぬ事なり。序でなる故ゑ申すが、世に佛法を信仰して、其の身の貴き事を思はず、卑しき佛に成りたがるも、外を願ふなり。此の國は、佛國に非ず、神國にて、我も人も、貴き神の末なれば、何でも神に成らむと、心掛くべき事なり。それは社々に祭りて在る神々にも、本は人なりしも多く、神は尊く、佛は卑しきことは、今の世にも、貴き人、また卓れたる人をば、「某大明神」とかいふて、神に祭る事は有れど、某佛といふて祭ると云ふことはなきを以ても知るべし。然るに佛に成りたがる人のあるは、山人・天狗になりたがると同じ事にて、心得わろし。坊主が戒名付けたればとて、天笠の佛の末でないから、佛には成らず、神の末なる故に、善くも惡しくも、神となるなり。其は、桃實より桃木が生え、梅實より梅木が生ずる理に同じ。

 然れば人は、生涯の善念を立てとほして、善神となるが道なり。但し世に最期の一念によりて、善惡の生を引くと云ふなれども、生涯の一念を通さねば、生を引くといふ程に、最期の一念も通らぬ物なり。「生涯の一念のかために依りて、神にも何にも成らるゝ物ぞ」と、師に聞きたり。「事は何でも、成就せまい」と云ふことを思ふべからず。「何でも成就する」と心得て、ものすべし。何でも自分で思ひつめてすれば、出來ぬことなしとぞ。

○また或る人、そこの師・杉山々人は、誠に神通自在にして、道徳も又た類ひなく聞ゆれば、其の宮を構へて祭らむと思ふを、いかで靈代の幣を切りて得させ給へ、と云へば。

●寅吉云く、それは、必ず無用に致さるべし。其の故は、我が師は、思ふ旨ありと見えて、深く其の徳を包み、身を隱して山人となり、人に拜まれ祭らるゝ事は、かつて好まれず。下山の時に、「尋常の人には、岩間山にて稱する名のみ云ひて、志の切なる人なりとも、雙岳古呂明といふ號までは云ふとも、實名はいふ事勿れ」と、堅く誡められたり。其の故にや、不測にも山に在りし時は、正に知りたりし師の實名を、今、いかに考へるも、思ひ出でられず、たゞ「某王(なにのみこ)」とかいひて、兄弟ともに三千歳餘りの人と云ふことばかりを、慥かに覺えたり。かく古き人ゆゑに、軍のありし時分の事、頼光・義經などの事をも、此の頃のことの樣に、をりをり言ひ出でらるゝ事あり。

 さて此れは、我が了簡なるが、師の祭を好まれざる事は、常に世人の、佛を尊み、天狗を祈り、または鳥獸木石など、何ぞ、聊か不思議なる事あれば祭る事を歎きて、かゝる物を崇むる故に、それに心移りて、神を麁略にするなり。「もし崇むべき事ありとも、其の時々祭り、また祟らぬ樣に和めもして、祭り過ぎぬやう、祠なども、數々作らせぬ樣にしたき物ぞ」と言はれしを思へば、我を拜み祭りたらむも、神を麁略にする端となるべき事を思ひてにや。

 又た天狗を信仰するも、宜からず。況して鳥獸木石などを祭ると、直に邪天狗・妖魔、種々の鬼物がよりて、驗を見はす。縁切榎・首絞榎など云ふが、みな物のよりて、驗を見するなり。「鰯の頭も、信心から」といふ如く、藁人形を祈りても、忽ちに鬼物がより來る。實にいやな事なるが、人は知らず、惡魔は、然る事あれかしと、常に伺ひ居るなり。驗を得さへすれば、善き事と人は思へど、正しき神のおはし坐すに、其れをさし置き、惡魔を尊み拜むことは、やがて魔縁となる事を辨へざる、淺猿しき事なり(師の云く、「陀祗尼天・飯綱・聖天などの法は、天狗・狐・妖魔の類を祭りて役ふ法ゆゑに、實は行ふべき事に非ず」と)。

○また或る人、神は尊く、佛は卑しき謂れは、いかに、と問へば。

●寅吉云く、神は尊く、佛は卑しき物なる事は、人に問はずとも、各々心を考へて知られさうな事なり。この世間の有り状を、つらゝゝ觀れば、此の天地が、まづ不測な物なるを始め、四季行きかはり、雨降り風吹き、人を始め、木草鳥獸、種々の物ありて、木草に春は花吹き、秋は實がなり、其の外、色々樣々の事のあるは、皆な神の御わざなり。然れば此の天地も、神の造り給へる物なる事、明かなり。

 「佛は、釋迦が始めにて、神よりは、大きに後の人なり」と、師に聞きたり。然れば釋迦も、神の御徳にて生れたるには違ひなし。神が本にて、佛は末なる證據を、近く言はゞ、旱がつゞき、霖がつゞきても、神に祈りて雨を乞ひ、晴を願ふに祥あるは、雨風早霖ともに、神の掌ること灼く、雨風早霖など、みな神の御所爲なる上は、此の天地を始め、人も鳥獸も何もかも、神の御徳によりて成りたる物には違ひなし。坊主・山伏が佛經讀みて、雨や旱を祈りもすれど、佛前にて經を讀みたる計りにては、雨、一粒も降すことなし。是非、神降しをして祈る事なり。是を以て神の尊く、佛の卑しき事を知るべし。殊に佛道で宜からぬ事は、男女の道を絶ちたるが、わるし。魚蟲鳥獸に至るまで、此の道なきはなし。然るに世の人が、みな佛道のとほりに成りては、人が絶えて仕舞ふから、神々の、人をふやさむと成さるゝ御心に違ふなり。佛道は、かく無理なる邪さの道ゆゑに、坊主たち、立派な顔つきをして居るけれども、内々を見れば、男色・女犯をもせず、肴も食はずに居るは、百人に一人もなきなり。佛道を邪さの道と云ふては、腹を立つ人も有るべけれど、神國の道の立ちて居るに、傍から横に這入れる道ゆゑに、やつぱり邪道・魔道なり。いかで我は、十四五度ばかりも、高き人に生れ來て、佛道みな亡びて、神道ばかりになるを見たきと思ふ心願なり。十四五度、生れ來たらむには、千年立つべし。其の内に、亡びさうな事なり。

○こゝに己(大壑先生)、難じて云く、神は尊く、佛の卑しき由も、然る説に聞え、佛道で男女の道を絶ちたるが、道に非ず、といふも聞えたり。然るに其方の師も、山人とはいへど、同じ人間にて、男女の交はりなきは、いかに。此は、佛道を用ふるに似たり。また十四五度も生れ來る内には、佛法亡びさうな物といふ事も、心得がたし。然樣に自由に生れ替らるゝ物には非じ。

●寅吉云く、我が師を始め、山人の男女の交はり無き事は、山人の仕來りの法にて、此の道あるときは、自在の術を得ず、長命もならぬ故に、絶ちたる物と云ふ人もあれば、其の故なるか。人にして人の道を絶ちたるは、かの因縁による事と見えたり。然れども日々に、「土地がふえ、人がふえるやうに」と、神前にて鈴をふり祈るを思へば、佛法に依りたる事には非ず。外に深き謂れある事と覺ゆるなり。さて十四五度、生れ替はる事は、その生涯の一念を立てとほして、生を引くによる事なり。佛法の今の有り状にては、決して亡ぶる時節あるべからずと見ゆれど、「天地自然の道ならで、人の作れる道は、終ひには亡ぶる時節の來るものぞ」と聞きたり。

○問ふて云く、瘧神・疫病神・貧乏神・庖瘡神・首絞神・火車など云ふ、種々の物ありて、世人に禍ひを蒙らしむ。此れ等は、いかにして出で來たる物ぞと云ふことを、師に聞きたる事はなきか。

●寅吉云く、此れ等は、みな人靈の成りたるにて、世に在りし時より、心のをさめ方、宜からぬが、其の群々に入ると云ふことなり。凡て妖魔は、云ふに及ばす、然る鬼物ども、世の人を一人も多く、我が群々に引き入れて、同類をふやさむと、各々透間もなく伺ふなり。其れに就ても、人は、いさゝかも曲れる心を思ふまじき物なり。たとへ徳行の善人なりとも、邪に曲れる心を、しばしも思へば、日比の徳行も、水の泡と消えて、其の惡念、消える事なく、やがて妖魔に引き込まるゝ縁となる物ぞ、と云ふことなり。此れを思ふにも氣の毒なるは、「極樂へ行かう々ゝゝ」と思ひ居る人々なり。死んで見ると、極樂はなき故に、狼狽へて居る。其の内に惡魔や其の外の妖物に、目を闇まされて、心ならずも其の部々に引き入れらるゝ、誠に哀れなる事なり。

○また或る人、謂ひけらく、そこは神道を尊み、佛道を卑しく邪なる事にいへども、神は、然しも佛を惡(きら)ひ給はぬと見えて、かく世に弘まり、神社には、大かた僧の仕へぬがなく、あまつさへ神の本地は佛なり、といふ説等出で來て、神前にて佛經を誦み上け、護摩など燒くをも、其の儘に捨て置き給ふなり。此の辨は、いかに。

●寅吉云く、誠に御説の如く、今の有り状を見れば、神たちは、佛道を然しも惡ひ給はぬ樣に見え、餘りに御心の善すぎるやうにて、技懩く思はれ、何とてしたゝかに荒びて、佛の状の汚れを退け給はぬ事かと、腹立たしけれど、熟々思へば、神は大朴に坐まして、然しも御構ひなく、唯々御持ち前の功のみを成して、鎭り給ふと見えたり。

○或る日、人々、己が許に集りて、四方八方の物語しける序でに、或る博識ぶりする人(愚案、山崎美成の類か)の噂になりて、彼の人の言に、「神道は、いと少さき道ぞ」といひて、「然しもなき學事を、いと猛き事に云ひ誇れるは、慢心なる人ぞ」など語り相ひけるに。

●寅吉云く、すべて學問といふものは、魔道に引き込まるゝ事にて、まづは宜からぬ事なり。其の故は、學問するほど善き事は無けれども、眞の道理を至極まで學び至る人はなく、大概は生學問をして、書物を澤山に知りて居る事を鼻にかけて、書物を知らぬ人を見下し、「神はなき物ぢやの、仙人・天狗はなき物ぢやの、怪しき事はないの、然やうの道理はない事ぢや」など云ひて、我意を張るが、これみな生學問の高慢にて、心狹き故なり。書物に記して有る事にも、直に見ては、違ひて居る事はいくらもあり。一體、高慢なる人は、心狹くて、遂には惡魔天狗に引き込まれて、責めさへなまるゝ人なり。彼方にて聞きたる咄なるが、何とか云ふ大鳥が、己ほど大きなる物は有るまじと思ひて出かけ、飛び草臥たる故に、下に見ゆる穴に入りて羽を休めたれば、其の穴がくしやみを爲て、「何奴なれば、我が鼻に入りて休むぞ」と云はれて、膽を潰したと云ふことなり。

 人ほど貴き物は無けれど、我より下の物を見れば、段々卑しく劣れるが有りて、幾百段あるか知れず。顯微鏡にて見ても知るべし。蠅は少さき物ぞと思ふに、蠅に、羽蟲がたかりて有り。然れば其の羽蟲に、また羽蟲のたかりあるかも知らず。其の如く、上にもまた段々に幾百段か、尊き勝れたる物の有るべく、此の天地も何も、何とか申す神の腹内なるかも知れず。其の故は、人の腹内にも、色々な蟲のあるを以ても知るべし。然れば高慢と云ふものは、大空が何處に止まると云ふ事までを知りて、自由にする程の器量が無くては、云へぬ事なり。凡て慢心・高ぶりほど、宜からぬ事はなし。魔道に引き入れらるゝ縁なればなり。それ故に顔の美しき人、また諸藝の達人・金もち長者なども、慢心・おごりの心ある故に、多くは魔道に入る。坊主は、大かた賤しき者より出でて、位高くなり、人に敬はるゝ故に、みな高ぶりの心ありて、大抵は魔道に入るなり。

 殊に金持ちのあるが上にも、慾を深く金を集めて、世の爲めに遣ふ事をせざるは、神の惡み給ふ事と聞きたり。金持ちが一所に金を集むる故に、貧乏人が多くなる。世人が、各々某々に、暑からず寒からず、食ひて着て住まるゝ程に用意して、欲を深くせぬと、世が平らかに行くなり。金持ちが金をしたゝかに集めて、「此は、我が物ぞ」と心得て居れども、能く思へば、自分の物とては何もなく、悉く天下樣の物なり。金銀も、天下樣より通用なさるゝ世の寶、その外、食物も着物も、天下樣の地に出で來たる物なり。家も、天下樣の地にあり。其の身さへに、天下樣の地に生れて、天下樣の御人なれば、我が身とは云はれず、金銀や何かを澤山に持ちても、死ぬときに持ちては行かれず。然るに此の事の辨へなく、めつたに欲を深くして、物持ち・金持ちとなりたがる人は、死しても、其の心うせず、人の物を集めて欲しがる鬼物となるとぞ。此れ、やがて魔道に入りたるなり。



追記。

 愚案、先般、Twitterにて、たまゝゝ保田與重郎翁の玉章を拜した。曰く、

伊勢の遷宮のために用意された御材料の一部を、金堂補修に流用したといふ噂があつた。太子御自身は申訣ないと思召され、金堂燒亡は、この太子の御意志に發したのだ、大和の人々は、かういふ解釋を口から口へ傳へた」(『日本の美術史』大倭朝廷時代)と。

 これにつき、興味深き答問が、同卷(『仙童寅吉物語』卷二)にある。天變地異は、神祇の大御心より出づるもの、火災も、其の撰に漏るゝことは無からう。明日は、我が身なり。人間は、我が身上を顧みて、大いに愼しむ所あらねばならぬ。穴、恐しや。穴、畏こ。

○問ふて云く、‥‥また近ごろ、江戸神田三河町なる、幸慶といふ佛師、神がくしになりて、十日ばかりに、西國三十三所の觀音を始め、名所・古跡をめぐりて歸れり。然るに或る夜、火の見櫓の鐘をうつ音をきくと等しく、「此は、小日向音羽の、安養山還國寺の火災なり」と云ふ。人々、その由を問へば、今、かの西國を伴ひ巡りし異人來りて、「今夜は、面白き事、見すべし」といふ故に、「何事を爲給ふ」と問ひしかば、「還國寺の僧、身持ち善からぬ故に、燒くなり」と云ひて、今、出でられたりと云ひけるとぞ。其方の師も、火災を行ふ事ありしや。

●寅吉云く、「實に然る事あり。師と共に、大空の寒き所を通る時に、寒ければ、「此の先に火にあつべき所あり」とて、其所に至り、纔かに烟管の火皿の火ほど、空より落せば、家一軒、または二三軒十軒、或は一村も、火災あり。其の時、空にて、「いざあたれ」とて、あたる事なり。師の心の如くなる山人計りはなき故に、あちを燒けば、又こちをも燒くなり。其の燒く家所は、みな心善からぬ人の家、または汚れたる家所など、何ぞ、心に應はざる所を燒くなり。况して神は、社木を切ることを惡み給ふ故に、社木にて建てたるは、いつか一度は燒かるゝなり」と。
 

  • [42]
  • 『本朝神仙記傳』上之卷・武内宿禰大臣傳。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月 8日(火)20時51分56秒
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●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』上之卷・武内宿禰條

【本傳】武内宿禰は、孝元天皇五世の孫なり。父は、武緒心命にして、母は、紀伊國造等が祖・菟道彦の女、山下の影媛なり[註一]。景行天皇の三年に生る[註二]。

 此の御代の二十五年、宿禰、北陸及び東方の諸國を監察せられしこと、國史に見えたる[註三]を思ふに、其の年、二十三歳の時に當り、斯くて又た其の御代の五十一年、宿禰、棟梁の臣と爲りしより[註四]、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・應神天皇・仁徳天皇の御六代の御代々々に事へ奉りて、其の間、專ら「棟梁の臣」として、朝政を取られ、中にも神功皇后の三韓御征服を扶け奉りしを始め、數へも盡くされぬ程の大功有りしことの如きは、今更に云ふを待たざる所なり[註五]。

 斯くて應神天皇の九年、紀の姓を賜はりて、是より紀大臣と稱せり[註六]。又た此の宿禰には、六人の男子と二人の女子あり。其の男子の姓は、紀朝臣と云ひ、巨勢朝臣と云ひ、蘇我朝臣と云ひ、八多朝臣と云ひ、八木朝臣と云ひ、葛城朝臣と云ふ。又た其の女子の姓は、田中朝臣と云ひ、林朝臣と云へり[註七]。

 宿禰、此の世に在ること、凡そ三百十八年[註八]。仁徳天皇の七十八年、東夷を平らげて歸るの後、遂に因幡國法美郡龜金山に至り、雙つの履(くつ)のみ遺しおきて、其の身を隱し、行方知らずに成りたれば、即ち其の日を薨去の日となし、遺し置かれたる沓(くつ)を納めて、墓所と崇めたりとぞ。即ち同郡宇倍山の麓に、神社あり。宇倍神社と稱へ奉る。武内宿禰命を祭る、當國の一宮なり[註九]。

 然るに一説には、宿禰、東夷を撃ち平らげて還る時、「我が身、若ゆ」と云ひて、甲斐國に入りて、死(まか)る所を知らずとも、又た美濃國不破山に入りて、死る所を知らずとも傳へしは[註十]、兎にも角くにも此の宿禰の終る所の定かならざるより、甲斐と云ひ、美濃と云ひ、熟れも宿禰が、東夷を撃ち平らげて還られし道にして、經歴したる跡有るより、其の跡に因みて、斯くは傳へしものなるべし[註十一]。



○嚴夫云く、諸書を參輯して、爰に載せたり。

[註一]『公卿補任』に、「或本に云ふ、武内宿禰は、孝元天皇の玄孫・彦大忍信命の曾孫・屋主忍命の孫・武緒心命の子なり。母は、紀伊國造等の祖・菟道彦の女・山下影媛なり」とあるに採りて記す。

[註二]『紀氏系譜』に、「武内宿禰は、景行天皇三年、紀伊國に於て誕生」とも、「紀伊國名草郡宇治郷に誕生」ともあるに採りて、かく記せり。

[註三]全く『景行天皇紀』に依りて記す。

[註四]『公卿補任』に、「五十一年八月、稚足彦尊を立てゝ、皇太子と爲す。是を以て武内宿禰命を、棟梁の臣と爲す。臣と稱する名、初めて此の時より起る」とあるに依りて記す。

[註五]普ねく世人の知る所なれば、今更に擧げるを要せず。

[註六]『紀氏傳』に、「應神天皇の九年、紀姓を賜ひて、紀大臣と號づく」と有るを取る。

[註七](矢野玄道翁)『皇國神仙記』に引かれたる、「一書に云く、勒して東夷を討ち、還り來り、大和國葛下郡にて薨ず。室破賀の墓、是れ也。大臣の子、男六人・女二人、是れを大臣の八腹と謂ふ。男子の姓は、紀朝臣・巨勢朝臣・蘇我朝臣・八多朝臣・八木朝臣(・葛城朝臣)。女子の姓は、田中朝臣・林朝臣等也。今、八幡武内明神、是れ大臣也」とある中より、本傳に要とある所を摘み出でて記す。

[註八]宿禰の在世を、凡そ三百十八年としたるは、此の年數には、異説、頗る多くして、先づ『公卿補任』の別本には、「壽三百十二歳」とし、『宇佐託宣集』には、「三百六十」とし、『帝王編年記』の一説には、「三百十二歳」とし、『水鏡』と『王代記』とには、「二百八十」とし、『神皇正統録』と『(本朝)神社考』と『帳比保古』との三書には、「壽三百十餘年」とし、『皇年代略記』には、「春秋二百八十二歳」とし、『八幡愚童訓』と『大臣傳』に引ける『因幡風土記』とには、共に「三百六十餘歳」とし、『紀氏傳』には、「三百八十歳」とも、「三百三十歳」とも記し、『十訓抄』と『仁壽鏡』とは、「二百八十二」とし、『歴代皇記』には、「春秋二百九十五年」とし、『東寺王代記』には、「年二百九十」とし、漢土の書にても、『宋史』の日本傳、及び『宛委餘篇』・『五雜俎』等には、皆「紀武三百七歳」と記したるを始め、猶ほ此の外にも、異説多かるべし。斯くの如くにして、其の年數は定め難きが如くなれど、本傳に擧げたる如く、『景行天皇紀』に、「二十五年七月、武内宿禰を遣はして、北陸及び東方諸國の地形、且つ百姓の消息を察せしむ也」と有るに依るに、宿禰の誕生の年にも、亦た種々の異説有りて、或は「景行天皇の三年」と書き、又は「九年」とし、中には「二十九年」と記したるの類、猶ほ多けれど、二十五年に監察に出でられし宿禰の、二十九年に生れらるべき謂れなく、又た九年の生れとすれば、二十五年には十七歳なれば、或は其の命を奉ぜられしかも計られざれど、猶ほ若きに過ぐるの疑ひなきこと能はず。然らば三年の生れと見るときは、前にも云へる如く、二十三歳の時に當れば、稍や其の實に適するに似たり。故に『紀氏系譜』に、「三年」と有るを採りて斷定せり。斯くて其の誕生の日を、景行天皇の三年と定めて、扨て其の世を去られしと云ふ年を求むるに、是れ亦た異説紛々たれば、何れとも定め難けれど、其の中に就て、『帳比保古』に引かる『因幡風土記』に、「其の壽、殆んど三百十餘歳、仁徳天皇の七十八年薨ず」と云ひ、『神社考』にも、「其の壽、殆んど三百十餘年云々。仁徳天皇の七十八年薨ず」と載せ、『神皇正統録』にも、「仁徳天皇七十八年庚寅薨ず。景行天皇十六年丙戌歳誕生して以來、是に至り三百餘歳」と有るを合はせ考ふるに、景行天皇の十六年誕生と有るは誤りなれども、仁徳天皇の七十八年と云へるは、三書ともに同一なれば、先づ之れを宿禰の世を去られたる年と定め、其の誕生の年と定めたる、景行天皇の三年より、仁徳天皇の七十八年までは、全く三百十八年となるなり。然れば三百十餘年と有る餘年とは、此の八年を指したるものと云ふべし。此れにて粗ぼ吻合する所ろ有るに似たり。故に斷定して、凡そ三百十八年とは載せたり。

[註九]『大臣傳』に引ける『因幡風土記』に、「武内宿(禰)、御歳三百六十餘歳、當國御下向、龜金に於て雙つの履を殘され、陰るゝ所を知らず。蓋し聞く、因幡法美郡宇倍山の麓に、神社有る也。宇倍神社と曰ふ。是れ、武内宿禰の靈也。昔、武内宿禰、東夷を平らげ、遂に宇倍に入る」と云ひ、又『八幡宮愚童訓』にも、「御年三百六十餘歳を經て、因幡國上穴の山中に、衣冠を正して入り給ふ。御沓計(あと)を留め置き殘し云々と有りし日を、薨じ給へる日と名づけて、御沓を墓所と崇め奉る」と有るを參輯して載せたり。但し二書共に、御年三百六十餘歳と有れども、在世の年數は、前に説明せる如くなれば、取らず。

[註十]『紀朝臣氏文』の一書に、「東夷を撃ち平らげて還る時、身、若ゆと稱して、甲斐國に入りて、其の死る所を知らず」と云ひ、又の一書にも、「東夷の賊を討ち滅ぼして返り給ふ時、身、若ゆと稱して、美濃國不破山に入りて、其の死る所を知らず」と有るを、此の二説は、『宇佐託宣集』にも、同じく記したれば、即ち取りて、如斯くは載せたり。

[註十一]全く余が補ひたる文なり。

 爰に聊か辨じ置くべきことあり。其は、『日本書紀』・『古事記』共に、此の大臣の終りたることは記さゞれど、『水鏡』・『十訓抄』・『皇年代略記』・『歴代皇記』・『仁壽鏡』・『神皇正統録』・『帳比保古』を始め、猶ほ諸書に、武内宿禰の薨去の事を載せたるのみならず、『紀朝臣氏文』の一書には、「大和國葛下郡に薨ず。室破賀の墓、是れ也」と云ひ、又『異本公卿補任』の書入れの中にも、「又た曰く、東夷の賊を征ち平らげて、還りて薨ず。大和國葛下郡に葬(はふ)る。今の室墓、是れ也」と有りて、薨去の傳へ有るのみならず、墓さへ有るを、爭(いか)でか仙去せられしと云ふべきとの疑ひを起すものも無きに非ざるべけれども、其は幽理を知らざる人の常なれば、奇しむに足らず。元來、生きたる人の死ぬると云ふは普通のことにて、仙去するとか、尸解(しか)するとか云ふ者は、古今數千歳の間に於て、然も幾千億萬人中、僅かに數ふる程も無きばかりの少數にて、所謂る希有の者なれば、之を目撃せざる者に在りては、然る者無しと信ずるも、謂れ無きに非ず。かくて筆を執る者も、亦た多くは普通の識者に過ぎざれば、其の自己の信ずる所を以て、人の世を去ると云ふことは、即ち死ぬる事の外には無きものなりと思ひて、「去りし」と云ふべきを、薨ずと書きしものなるべし。さては此の大臣を薨ずと書きし諸書の著者の如き、皆な此の類ひの人にやありけむ。然れども此の宿禰の如きは、實に其の幾千億萬人の中なる希有の一人にして、本傳に載せたる如く、因幡國の宇倍の山にて、其の沓ばかりを遺して、形を幽冥の中に隱し、所謂る仙去したるを以て、疇昔(そのかみ)より其の事實を世に傳へたるものなり。

 扨てこそ前に擧げたる外にも、『紀朝臣氏文』には、「六代の帝の大臣爲り也。遂に其の死る所を知らず」と云ひ、『異本公卿補任』には、「終る所を知らず」とも、「不破山に入りて見えず」とも云ひ、『歴代皇記』には、「薨ず」と書きながら、其の末に至りて、「薨ずる次第、人、之を知らず」と云ひ、『遊方名所略』には、「法美郡龜金山、武内大臣、倏爾(たちまち)化し去りし所ろ也」と云ひ、『神明帳』頭註には、「宇倍一宮。『風土記』に云ふ、御陰り所、知らず云々。當國宇倍山・大和國葛城堺・美濃國不破關、是れ三箇國、同日同時、顯はれ座せり」など云ひて、其の仙去の趣を傳へたり。此の諸書に、薨去のことを載せたるも、其の書に拘はらず、本書に擧げたる所以なり。かくの如くなれば、假令ひ大和國葛下郡の室墓を、大臣の墓と傳へたるも、此の墓を以て、必ずしも薨去ありし證とは見る可からず。如何とならば、前に擧げたる『八幡宮愚童訓』にも、「因幡國の宇倍山にては、遺し置かれし沓を、墓所と崇めたり」と有るを思へば、大和國の室墓も、亦た此の類ひにて、大臣の高徳を慕ふ餘り、何か大臣の遺物を納めて、墓と崇めたるかも知る可からず。斯くの如くなれば、墓も、薨去の證とするに足らざるを知るべし。



 愚案、仄聞す、相曾誠治翁、昭和時代に、宮中三殿に於て奉仕の折柄、宮地嚴夫賞典(大正七年六月十五日巳刻歸幽、壽七十三)に遭遇す、と。然れば宮地嚴夫大人も、亦た尸解せられて、雲上奧深き所、中今に奉仕せられつゝあること、疑ひ無かる可し矣。神さびたりとも、神さびたり。畏し。
 

  • [41]
  • 『本朝神仙記傳』倭姫命御傳。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月 6日(日)22時29分53秒
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●宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』上之卷・倭姫命條

【本傳】倭姫命は、埀仁天皇の皇女なり。御母は、丹波道主王の女・日葉酸媛命なり。同天皇の二十五年三月、倭姫命を以て、豐耜入姫命に代はりて、天照大御神を齋き奉らしめ給ふ。

 是より先、天照大御神の神鏡を始め奉り、天叢雲神劔・八坂瓊曲玉の三種は、皇祖大神の神敕に依りて、宮中の御同殿・御同牀の御鎭座なりしを、崇神天皇の六年、「皇祖の神靈と御同殿に御座すこと、御心安く思召さず」と宣たまはせ給ひて、神鏡・神劔の二種は、御模形(みうつし)を造らしめ、其の御模形を宮中の温明殿に鎭め奉り、元の神鏡・神劔は、倭國笠縫邑に、特に磯城の神籬を建て、皇女・豐耜入姫命を御杖代となし、遷し齋き祭らしめ給ひぬ。然るに埀仁天皇の御世に至り、豐耜入姫命、大いに老いさせ給ひしに依り、倭姫命の代はらせ給ふことゝはなりぬ。

 是に於て倭姫命、天照大御神を御鎭座なし奉るべき處を求めむとて、大御神の神鏡を戴き奉りて、菟田の篠幡に詣(いた)らせ給ひ、更に還りて、近江國に入り、東の方、美濃國を廻りて、伊勢國に到り給ふ時に、天照大御神、倭姫命に誨へて宣りたまはく、「是れ、神風の伊勢の國は、則ち常世の波重(し)き波歸(よ)る國なり。傍(かた)國の可怜(うまし)國なり。是の國に居らまく思ほす」と宣たまはせ給ひしに依り、此の大御神の御教へに隨ひ、伊勢國五十鈴川上に、齋宮を興し立て給ひ、是れを磯宮と稱へ奉り、御鎭座なし奉り給ふ。此れ、伊勢神宮の始めなり[以上、要(むね)と『崇神天皇紀』・『埀仁天皇紀』・『古事記』等を參考して之れを撰ぶ]。

 斯くて大御神を、五十鈴川上に遷し鎭め奉れる後、清麗き膏地(よきところ)を覔(ま)ぎて、和妙の機殿を、同じ五十鈴川上の側に興して、倭姫命を居らしめ、天棚機姫神に、大御神の和妙の御衣(みそ)を織らしめ給へり。此の後、景行天皇の御代に至り、日本武尊、比比羅木の八尋桙根を、皇大神宮に獻り給ふ。即ち倭姫命、其の桙根を緋の嚢に納れて、皇大神の貴財(うづたから)として、八尋機殿に隱して、皇大神の御靈として、崇め祭り給ひ、天棚機姫神の裔・八千々姫命をして、毎年の夏四月・秋九月、神服を織り、神明に供へ奉る。故に之れを神衣祭と云ふ。總べて此の御世に、神地・神戸を定めて、天神地祇を崇め祭る、年中の神態、蓋し此の時より始まる。又た同天皇の二十年庚寅の歳、倭姫命、既に老いさせ給ひ、「吾れ足りぬ」と宣たまひて、齋内親王(いつきのひめみこ)に仕へ奉るべき、物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば、五百野皇女・久須姫命に移し奉り、即ち春二月、五百皇女を御杖代として、多氣宮を造り奉りて、齋き慣(つゝ)しみ侍らしめ給ひき。是れ、伊勢の齋宮群行の始めなり[以上、『倭姫命世紀』・『神名祕書』・『御鎭座次第記』等に因りて記す]。

 是より數多の年所(とし)を繼(へ)て、雄略天皇の二十一年丁巳歳冬十月、天照大御神、倭姫命の御夢に教へ覺し給はく、「皇大神、吾れ一所にのみお坐しませば、御饌も御心安く聞食さず。丹波國與佐の小見、比治の魚井原に坐す、道主の子・八少女の齋き奉る、御饌都神・止由氣大神を、我が坐す國に遷さまほし」と、誨へ覺し給ふ。時に倭姫命、大若子命を差し使はし、朝廷に參ゐ上らしめて、御夢の状を申さしめ給ひしかば、天皇、大若子に敕して、「汝、使ひに罷り往きて、布き理め奉れ」と宣り給ふ。是を以て大若子命、手置帆負命・彦狹知命二柱の裔を率ゐて、齋斧・齋鋤などを以て、始めて山の材を採り、寶殿を造り立て、明くる戊午歳の秋七月七日、大佐々命を以て、丹波國余佐郡眞井原より、止由氣皇大神を迎へ奉りて、「度會山田原の下津岩根に、宮柱廣しき立て、高天原に千木高知りて、鎭まり定まり坐せ」と、稱へ辭竟へ奉り給ふ。此れを豐受大神の、伊勢に鎭りませる始めとす。

 斯くの如くして倭姫命は、倭姫命は、埀仁天皇の御世に、天照大御神を、五十鈴宮に御鎭座なし奉れるのみならず、雄略天皇の御世に至りて、豐受大神をも、山田原宮に御鎭座なし奉らる。其の御功績の大なること、今更ら申すも愚かなり。斯くて其の後二年を經て、雄略天皇の二十三年己未歳二月、倭姫命、宮人及び物部の八十氏等を召し集へて、懇ろなる遺訓を示させ給ひ、自ら尾上山の峯に登り給ひて、石隱れ坐しぬとも[以上、多く『倭姫命世紀』・『豐受大神宮御鎭座本紀』等に因り書く]、御行方なく陰(かく)り給ふとも申し傳ふ。是に因みて尾上山を「隱り山」と名づけしと云ふ。又た小田橋の巽の方に當る尾部山の中の一の峰に、倭姫命の御舊跡とて、巖の上に石つみの室ありて、其の邊りの木は、山の領主も之れを伐らず、鳥居など立て、昔より敬ひけるとぞ[以上、全く『勢陽群談』に依る]。然れば天照大御神の、五十鈴宮に御鎭座在らせられし、崇神天皇の二十五年より、豐受大神の、山田原宮に御鎭座在らせられし、雄略天皇の二十二年までは、凡そ四百八十三年なるを、倭姫命は、其の間、生き存(を)へて坐しましけるを、猶ほ大御神の御杖代と成らせ給ひし時を、假りに二十歳許りの御年にて在らせられしとするも、五百歳を超えて御座しまし、且つ其の終りに臨ませ給ひても、尾上山の峰に登りまして、御行方なく陰れ給ふとしも傳ふるを思へば、所謂る神仙の道を得て御座しまして、全く上昇(昇天)したまへること、また何ぞ疑ひ奉らむ[以上、余が前後の傳を集めて、結びたる文なり]。

○嚴夫云く、本傳は、『日本書紀』・『古事記』・『倭姫命世紀』・『御鎭座次第記』・『神名祕書』・『勢陽群談』等の諸書を纂輯して、此こに載せたり。斯くて此の倭姫命は、生きましながらにして神仙に御はし座しゝか、修めて道を得給ひしか、今より窺ひ知る由無けれど、矢張り生きましながらに、道を得て御はし座しゝものなるべし。其は、次に擧げたる日本武尊も、全く生きましながらに、道を得て御座しゝ御方なるをも思ひ合はすべし。但し當昔は、儒佛の二教も、未だ渡來せざる以前なれば、若しも修めて道を得給ひしものとすれば、全く我が古傳の「鎭魂(みたましづめ)の法」を修め給ひしものなるべし。‥‥
 

  • [40]
  • 日本武尊の、月水の穢れに因りし薨去は、實は尸解の道を得給へるなり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 9月 4日(金)19時11分21秒
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●平田大壑先生『玉襷』五之卷

 さて倭建命は、尾張國に還り來まして、先に期り給ひし如く、宮簀比賣の許に入り坐せれば、其の宮簀比賣はも、御食を獻り御盞を捧げて獻る時に、その着たる襲(おすひ)の裙(すそ)に、月水(さはりもの)著きたり。王(みこ。倭建命)、そを見行(みそなは)して、御合ひ坐さむとは思ほす物から、汝(いまし)が著きたる襲の裙に、月立ちたれば、御合ひまし難く思ほす由を、御歌に遊ばしけるに、宮簀比賣、その御歌に答へて、「新玉の年久しく待ち奉りて在りし故に、君待ちかねて、月立ち侍り」と白しかば、王、その歌に感(め)でまして、御合ひ坐したり[‥‥穴、悲しきかも、歎かはしきかも、此の經行(さはり)の比賣に御合ひませるぞ、此の王の枉に逢ひたまへる縁(ことのもと)には有りける]。‥‥

 さて後に宮簀比賣命に、「我れ京華に歸らば、必ず汝を迎へむ」と詔(のたま)ひて、即ちかの御劒(天之叢雲の神劒・草薙の神劒)を解きて授けて、「此の劒を、我が床(とこ)の守りとせよ」と詔ふ時に、大伴建日臣、諫めて、「御劒は、此所に、勿留め給ひそ。然るは前程(ゆくさき)なる氣吹山に、暴惡(あらぶる)神ありと聞きたり。御劒の氣(いきほひ)に非ずは、何(いか)で其の毒害(まがこと)を除け侍らむ」と白すに、王、高言(ことあげ)して、「縱(よし)その暴神ありとも、足を擧げて蹴(くゑ)殺してむ」と詔ひて、遂に御劒を留めて上り給ひぬ[此の傳へは、『尾張國風土記』と『熱田縁起』とに見えて、『古事記』・『日本紀』ともに、此の事を記し洩らせり。此の時なぞ、實に遂に神劒は、王の御身を放れ給ひける。何に悲しき事ならずや]。

 爰に氣吹山に至りまして、「茲の山の神は、空手にて取りてむ」と詔ひて、其の山に上り坐すときに、山の神、大蛇(をろち)に化りて道を塞へたり。倭建命、そを主神(かむざね)の化れる大蛇なりとは知り給はず。「此は、荒ぶる山神の使者ならむ。既に主神を取りてば、其の使者は、なにか求(と)はむ」と詔ひて、其の大蛇を跨えて登り坐す時に、山神、大氷雨を零(ふら)し霧こめて、跋渉(ふみゆ)き給ふこと能はず。強ひて行(いでま)せば、神の毒氣(いぶき)に中りて、病瘁(やみをゑ)ましき。

[此は、「主神」と有れば、上に説きたりし、多々美比古命、またの名は夷服岳神なること、論ひ無し。此の神の名を、竹生島の古縁起には、「氣吹雄命」と書きたり。抑々この氣吹山は、近江と美濃との堺に在りて、西は近江の坂田郡、東は美濃の不破郡なるが、兩郡ともに、伊吹村と云ふ有りて、『神名式』に、坂田郡にも不破郡にも、伊布伎神社あり。即ちこの山神の社なり。此を、かの天照大御神に、須佐之男命より神劒を獻り給ひしかば、大御神の御覽はして、「こは、我が伊吹山に落としゝ劒なり」と詔ひし事に思ひ合はせて、彼の八俣大蛇、やがて此の伊吹山の主神・多々美比古の化れるにて、神世に須佐之男命に斬り殺されしかど、神の神靈(たましひ)、かつて盡くること無く、處に歸り居て、今、また倭建命に毒をなし奉れるなり。是に依りて思へば、『源平盛衰記』など、中つ世の書等に、「膽吹神は、八俣大蛇の所變なり」と云へれど、事迹の本末を思へば、實には膽吹神の、大蛇に化れるなりし事を知り辨ふべし]。

 爰に倭建命、大蛇の毒氣に中りて、還り下りまして、山下なる清水を飲みて、御心やゝ醒め坐しつれど、御惱み坐せるを、稍や起たして尾張に還らむと爲て、伊勢に移り能褒野に到り坐して、甚く病み疲れ給ひて、吉備武彦命を遣はして、天皇に東國を言向け和はしぬる状を奏さしめ給ひ、その御病の甚急(にはか)なる時に、

をとめの とこのべに わがおきし つるぎのたち そのたちはや

と御歌ひ坐して、即て崩り坐しぬ。御年は三十歳とも、三十二歳とも見えたり[‥‥]。此の御歌に、「をとめ」と詔へるは、彼の宮簀比賣を指して詔へり。「とこのべ」は、床の邊なり。一首の意は、宮簀比賣の許に、我が床守りにせよと置きたりし、劒の太刀、その太刀はやと、彼の草薙の御劒の事を、甚く深く所念し入りたる御歌なり。師(鈴屋大人)の語に、「御病、今々となり坐せる際にも、なほ此の太刀の事をしも忘れ給はず、如此くまで深く所念し入りたる御心、勇める御氣のたゆみ坐さゞるほど、また此の御子の御心の永き世までに、此の太刀に留まり坐すほど知られて、最(いと)も々ゝあはれに難有き御歌なりかし」[武士と有らむ人などは、殊に恆に此の御心を憶ひて、臨終の際(きは)に至るとも、要なくあぢきなき儒・佛の意を思はず、深く此の御哥を憶ひて、亡(な)からむ世まで、天翔けりても、子孫の勇みを助け、護らむ事をぞ思ふべかりける。また此の御子の御靈は、とこしへに此の御太刀に留まり坐すことを思ひて、熱田社を、なほざりに、勿思ひまつりそ]と言はれたるは、信(まこと)に然る言ながら、然かこの御劒の事を所念し入りたるは、御勇みのたゆみ坐さゞる耳みならず、武日臣の諫め白されし如く、「彼の御劒を佩きて幸で坐したらましかば、荒ぶる山神の毒氣に、かくは中らざらまし物を」と、後ち悔いませる御心も、「我が置きし劒の太刀、その太刀はや」と詔へる、「はや」てふ御辭にこもりて、哀れとも悲しとも申す言の便(すべ)を知らず、身も戰慄(ふるは)るゝばかりに想像(おもひや)り奉らるゝ御語なりかし。

[然れば此は、御哥とは有れど、直(たゞ)に御悔みの御言にて、其れやがて眞の哥なり。然るは此の御言はしも、御語の調べによりて、殊に御哥といひ傳へたれど、彼のなやみ坐しつゝ往で坐せるほどに、「吾が足、得歩まず、柂(たぎし)の形成せり」と詔ひ、「吾が足、三重の勾り成せり」と詔へる御語、また先に橘比賣命の事を思ほして、「吾が妻哉(はや)」とのたまへる御語などゝゞ、其の詔へる御子の御心は替りなきを、後に其の御語の調べに因りて、御哥といひ御語とは云へるにて、實には「吾が妻哉」と詔へる御語の類も、云ひもと行けば、皆な眞の御哥にぞ有りける。然る意ばへなる眞の哥は、今の人も、往々(をりゝゝ)に哥ひ出づるを、其を哥としも心つかず、世の哥作りらの、嘘言かまへて作り出づる哥をのみ、哥と心得たる故に、古への眞を探ぬること、甚だうすし。古學せむ徒は、能く此の旨を思ふべきなり]。

 さて御子の御供なりし人々より、驛使(はゆまづかひ)を立て奉りて、天皇に奏しけるに、甚く御歎きまして、「東國に往で坐せるより、朝夕と還らむ日を待ちつゝ在るに、こは、何の罪ぞも、何の禍ぞも」と詔ひて、百寮人たちを遣はして、其の能褒野に葬(かく)し奉り給ふ時に、京に坐しゝ后たち・御子等も下り到(き)まして、御陵を作り、哭き泣(しぬ)び給ふに、倭建命、八尋の白鳥に化りて、御墓より出でまし、大和國を指して飛び行でましぬ。因(か)れその棺(みき)を開き視るに、明衣(みそ)のみ留まりて、御骸(みかばね)は無かりき。‥‥

 さて此の王の、世に御在しませる間の事迹(ことのさま)を、つらゝゝ考ふるに、其の勇み猛く、かつ御性質(みこゝろね)の直く美しく御坐(おはしま)せる趣など、能くも健速須佐之男神の神性に似まし。殊に彼の伊布伎山の大蛇の毒氣に中り給へるも、須佐之男神の、彼の御劒を得給ひし事迹に符合するを、大御父(景行)天皇の御語に、

「朕れ、汝(日本武尊)が爲人を察るに、形は則ち我が子にして、實は則ち神也

と詔へる御言の、小縁(おぼろげ)ならず聞ゆるに憶ひ合はすれば、信に此の王の身實(むざね)は神にて、須佐之男神の御靈の分かりて生れ坐せる現身(うつしみ)ならむとぞ所思ゆる。然ればこそ、彼の夷服岳神、亦しも大蛇に化りて、往昔の恨みをば報ひ奉りけめ[‥‥]。

 また是に依りて思へば、彼の夷服岳神の、須佐之男神に斬られし恨みを、是の王に報い奉らむと、其の間(ひま)を伺へるは、一朝一夕の事に非ざりけむを、御身の穢れ給はざる間は、皇神たちの御守りあり。殊に東征し給へる間は、天照大御神の御靈の添はれる御劒を帶し給ふが故に、災妖を爲すこと能はず、月水(つきのさはり)に御身を汚し坐して、皇神たちの御守りなく、御劒の御身を離れ給へるを待ち伺ひて、災妖を爲し奉れるなり[總べて邪神・妖鬼の、世にも人にも災妖をなす道理、みな此こに准へて知るべし。なほ委しく其の趣を知らまほしく思はむ人は、別に著はせる『古今妖魅考』と云ふ書に就て見よとぞ]。然れば『熱田縁起』にも、

「倭武尊、氣吹山に於て病を受くるは、神劒を身より放てる所以の故ゑ也

とは記せり。然るに古今の學者たち、都べて此の道理を説き示せる人なく、中つ世ごろも、月水の汚れをば、然しも甚くは忌まざりしと聞ゆれど、今より後の古學せむ人は、こゝの故實をよく思ひて、經行の婦人に合はむことは更にも云はず、其の穢れをし、隨分に忌み避くべき事にこそ。

[石原正明が『辛酉隨筆』といふ物に、「月水は、『倭名抄』に、「俗にさはりと云ふ」とあり、和泉式部が哥にも、「月のさはりとなるぞ悲しき」と詠みたり。「さはり」と云ふばかりにては、重き穢れには非ざるやとて、『古事記』の宮簀比賣に御合ひませる段をひきて、重き穢れならば、御酒盞など參り給はむや。況してや御合ひますべきや。月水の女房、常に内裡に祗候して憚らず。『禁祕抄』劒璽條に、「月障の内侍は、闕如の時、或は之を持つ、然る可からざる事也」とあり。宜しき事には非ずとも、かりそめにも神器の役に從ふ事あるを以て、重き穢れには非ざる事を知るべし。また『延喜式』に、「凡そ官女、懷妊の者は、散齋の日、已前に退出せよ。月事有る者は、祭日の前に、宿盧に退下せよ。上殿するを得ざれ」とあり。祭日のみ、局へおるゝにては、深き穢れにあらぬ趣なり。然るに當時(いま)、社によりては、禰宜・祝部の家、さらでも神堺の内など、此の禁忌、いみじく嚴にて、「タヤ」とか云へる下屋におろして、其のほど七日、跡の忌七日、火を改めて一日、十五日は、同宿・同火せぬ所もありと聞く。さては半ば過ぎたる旅ねにて、いと辛き事なるべし。物清むるは好き事ながら、是は餘りの事にや有らむ」と云へれど、中古の風(さま)によりて、上古の大義を等閑りに思ふべきに非ず。また「さはり」と云ふを以て、輕き穢れと思へるも、非なり。其は「さはり」といふ語、重く取るときは、最と重き事にも取られ、殊に此は、經水の時には、「さはり」て、男に逢ひがたき由の言と聞ゆるをや。また『古事記』の此の事を引きたるも、其の故實をよく知らざる説なれば、辨ふるにも足らず]。

 さて倭建命の御靈の、白鳥と化りて、天に昇り坐せりと有るは、暫くさる御形を現示し給へるにて、穴かしこ、眞にさる物に生を轉じ給へるに非ず。かの大名牟遲・小名牟遲神の、赤縣州(もろこし)に傳へませる玄道の、謂はゆる尸解の道を得給へるなり【註】。其は御棺(みき)を聞き見るに、御屍は無かりしと有るにて知るべし。西土には、彼の黄帝・玉子(帝嚳)を始め、此の道をもて僊去せる人、數ふるに遑あらず。其はみな靈劒を身代はりとして、永く世を渉る神術なるを、此の王の昇去(かむさり)はし、自然からに其の道に符へり。最とも奇靈に、畏き御事なりかし。

[然れど此を尸解なりとは、人の知らざる事をし、己が始めて言ふ説なれば、今ま忽ちに信(うべな)ふ人も有るまじく覺ゆれど、神典の學を精究せる上にて、彼の玄道の奧義を探り、彼の道の、我が古道に出でたる由を明めたらむに、少かも己が今云ふ説に、疑ひ無かるべくぞ覺ゆる。哀れ、其の域までに悟り至らむ人もがな。なほ尸解と云ふ事の大要は、『赤縣太古傳』及び『志都能石屋』に説きたるを見るべし](宮地嚴夫大人『本朝神仙記傳』日本武尊條に、之を引き、亦た矢野玄道大人『皇國神仙記』を引きて、「師説」として大壑先生の論を紹介せり。有志には參看せられたし)。

 偖てかの宮簀比賣命は、王の御言のまにゝゝ、草薙の御劒を御床の守りと安置し奉るに、光り彩はしく、靈驗いち著るく坐して、祷請(いのりまを)す人ごとに感應あること、響きの音(こゑ)に應ずる如く、年久しく在りけるに、宮簀比賣命、年老いて、人々を集めて社を建て、神劒を遷し奉らむと議りて、其の社地を定むる時に、楓の木一株あり。自然に炎燒して、水田に倒れて、其の田、久しく熱(あつ)かりし故に、そを熱田社とぞ號づける[これ即ち愛智郡なり。‥‥]。


【註】玄胎轉結、瞬時に肉體を跡形も無く消散させ、玄胎に移り、神仙境に入る神術を謂ふ。尸解、唐音シカイ、呉音シゲ。宮地嚴夫大人の曰く、「尸解の訓は、シカなり。神仙界の正しき訓法に從ふのが道である」と。亦た曰く、「尸解とは、尸を解くと訓む文字の通りでありまして、これは仙去することを、世間に知らせず、普通の人と同じやうに死んで、世間竝みに表面は葬儀なども行ひますが、その實は仙去して居りまして、時としては世間の人にも面會することなどあるを、尸解仙とは申すのであります」と。清水宗徳翁の云く、「胎生の終焉と同時に、其の玄[亦た眞・天・聖・靈・大・仙]胎を以て、神仙界に僊るなり。形の化、本眞の錬蛻なり」と。抑々腐臭袋たる我々凡俗の、容易に知る所に非ざるなり。

 宮地堅磐大人は、明治三十七年三月二日、壽五十三を以て尸解、道山に歸したり矣。常磐井鈴女刀自(大人が幼馴染の老女・代々神官の家柄)の曰く、「其の柩より、一大音響と倶に、閃々たる電光を發す。一時は春雷かと、驚きあきれたり」(夫と共に通夜に參集せし折の目撃談)と。北村正眞翁(大人令夫人の弟)の曰く、「其の柩、空の如く、餘りに輕し。奇瑞なり」と。



 愚案、現津御神の御子・日本武尊の御身の上に起りし、伊吹山の大枉事は、神代以來の縁故に因るとは申せ、直接の原因は、固より月經の穢れに觸るゝに在り矣。且つ諫臣を排し、神劒を佩帶し給はざずして、出で立ち給ふ驕慢の御心に在りしことも、亦た論ふまでも無いことであるが、それにしても是等の枉事を惹起せしめたる穢れ、實に恐る可く、神道人たる者は、深く之を考察する所あらねばならぬ。嗚呼、悲しからずや。穴、恐しこ。穴、畏しや。

【三島由紀夫氏『日本文學小史』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1446
 

  • [39]
  • 宮地嚴夫大人『玉能屋隨筆』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 8月20日(木)19時57分37秒
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 下記は、宮地東嶽大人『玉の屋隨筆』靈魂の部、卷頭の一條なり。就中、小生が景慕して已まざる谷秦山先生にまつはる奇談靈話なれば、こゝに御紹介せむとして拜記するものなり。但し「世に幽靈など云へるはなき物にて、己れが憶病なる心より、一つは變怪を見はし、一つは狐狸の所爲の外にはあるまじき事なり」との俗見は、神道に深く沈潛せる秦山先生の言として、些か信ずる能はざるものあり。傳へし者の、圖らざる作爲ならむか、得て知る可からず。後考に俟つと云ふ。



●東嶽宮地嚴夫大人編纂『玉能屋隨筆』靈魂の部(河野文庫)

○小田原平兵衞の靈、谷秦山先生に碑の銘を依頼せし事。

 『再來・病中雜記』卷の八十二(「再來」(よりき)は、水位宮地堅磐大人が晩年の名なり)に曰く、

 明治三十五年十一月八日午後二時、土居熊夫氏來る。小田原平兵衞の奇談を、長[二]男等に告ぐ。午後二時三十分、筆山の内・字旭山の考(ちゝ)の墓所に參詣せむとす。長[二]男・一誠、隨行す。土居熊夫氏も、亦た同行す。不肖は疼痛を忍耐し、杖に倚りて、筆山に躋り、道の羊腸を蹈み、少焉して墓地に達し、祖父母及び考妣、且つ長男・清明の碑前に、蘋繁を薦め、拜禮畢りて、下路を斜めに取りて、東南に下り、小田原平兵衞氏の墓所[鄭玄の曰く、「墓は冢塋の地、孝子の心慕する所の地なり」とありて、慕の字の水を省き、土に代へたる物なるべし]」に出づ。豫ねて雪華墨及び紙を用意しけるを幸ひに出だし、碑文を摺り寫し取りて、往還道に出でて、北方に向ひ、S字状道を下りて歸宅すれば、午後五時にして、寒暖計六十四度に上る。疼痛あり。小林氏を迎し、茲に於て寫し歸る所の碑銘を、更に謄寫し置く。

[小田原平兵衞吉之墓碑]
小田原平兵衞吉之墓。元祿元年十月九日・年六十三。[圖略]
 高さ凡そ三尺五寸。南方に向ふ。自然石、但し川石なり。裏は凹みて、元祿元年十月九日・年六十三と刻したり。
 此の間(夫と妻との間)に石ぐろあり。
[小田原氏墓所碑碣之圖]
 此の碑の後にも、碑及び石ぐろ連なりあり。
小田原平兵衞吉之妻墓。[圖略]

 小田原平兵衞吉の墓は、潮江村筆山[字旭山と云ふ。古名・花坂]の東腰にあり。去し元祿元年十月九日、病に罹り、江戸に於て死去す。當時の國儒・谷丹三郎重遠(秦山と號す)と、常に交際を篤うす。元祿元年十月十一日、重遠、祖先の靈祭を營み[毎年十月十一日を以て定式日として、祖神祭を執行せり]畢りて、庭前を詠め居たる折柄、玄關に奏請者あり。因つて重遠、坐を立ちて出で向ひけるに、小田原平兵衞が麻上下を着し、面色青ざめたる體にて、其の體より後の物が透け通り、髣髮と見えたり。重遠、不審に思ひながらも、「久し振りの對面かな。先づ々ゞ表に通らるべし」と云ふに、平兵衞は、「然らば仰せに隨はむ。いざ、御免あれ」とて、表に打通り、寒暄の挨拶など終りて、平兵衞申しけるは、

「我、去月六日の夕より、不圖、病に罹り、百方療養を盡せども、終ひに其の驗にく、病勢、日に加はり、一昨日の夕に至りて病死したり。日頃、足下とは入魂に致したる中なれば、現と幽との別ありて、萬の事隔り、此の世に體を現はし、人目に觸るゝ事は、曾てならざりしと雖も、埋葬せざる間には、故ありて、如此く形を見はして、朋友の好(よし)みに、一度は見(まみ)ゆるなり。只今、足下を訪ひしは、我が碑銘の記録を請はむが爲なり。何卒、筆記を煩はし申さむ。但し片地村[高知城下より、凡そ四里半に在る香美郡片地村なり]なる石工・市右衞門と云へる者に、碑料を渡し托しあれば、一兩日の間には、必ず碑銘を受取りに、貴家に參るべし。其の時は、萬事、宜敷く御取扱ひを願はむ」

と、常よりも鄭重に頼まれければ、重遠は愕然として、さては狐狸の化け來り、我を誑惑(たぶら)かす物ならむ。世に幽靈など云へるはなき物にて、己れが憶病なる心より、一つは變怪を見はし、一つは狐狸の所爲の外にはあるまじき事なりと思へるより、一刀にて一刺にせむと、身構へしければ、平兵衞云ふ、

「我れは狐にも狸にもあらず。世に所謂る幽靈なり。不日、此の事、明細に分り來らむ其の時こそは、平兵衞が參りし事の、狐狸ならざるを覺悟し、我が當夜、參りし意を達せらるべし。さらば」

と云ふ聲と共に、煙りと化りて消え失せたり。

 偖て夜も更ければ、重遠も、世には不可思議なる事もある物かなと思ひつゝ、眠りに着きぬ。翌て十二日となりければ、重遠は、昨日の事を其の儘に打捨て置かむも心惡しく思ひ、小田原氏に行きて、家主・平兵衞の事を尋ねけるに、平兵衞は、御存知の如く大江戸にありて、左樣なる事はあらじ、不吉なる御尋ねに遭ひたりとて、不平の色を家内の者の見はしけるにぞ。重遠は、容易ならざる事を云ひし者かなと思へども、今は取りかへすべき術もなかりければ、懇々失言の罪を謝して歸る。

 然る所、其の日より二十日を經たるに、江戸より小田原平兵衞の病死の趣、聞えけり。續いて遺髮及び平兵衞の持ちたる物品など、當家に送り來りければ、平兵衞の家族は更にて、谷重遠も之を聞きて、再び驚き、是れ谷氏に、過日來りしは、平兵衞の幽靈の、正しく參りしに相違なしと、小田原氏も谷氏にも、互ひに思ひけり。かくて重遠も、幽靈の正にある事を信じければ、彼の平兵衞の依頼を、空しく打捨て置くべきにあらじとて、第一、片地村なる石工・市右衞門と云へる者が、眞にありや、またなしや、當地に就て詮議致さばやと心に定め、十一月十四日[元祿元年]、香美郡なる片地村を志して出發したり。大埇村住吉野なる住吉神社に立寄り參詣し、暫し休息せしが、年の頃、五十四五歳と見ゆる男一人、當社に來り拜禮し畢りて、此れまた其の傍らに休息せり。重遠、其の者に向ひ、「片地に參るには、此の道を除きて、他に近道はなきや」と問ふに、「私は片地の産れにて、常に此の道を往來致して、他の道は通り申さず。御士樣は、何所へ御通ひなされ候ふや」と問ふ。重遠云ふ、「我は片地村の市右衞門と云ふ者の方に過る者なり」と云へば、男、是れを聞きて、「其の市右衞門と申す者は、私にて候ふ」と云ふ。重遠、また「其方は何所に、今、參り候ふや」と問ふに、彼の者の云ふ、「私は、聊か用事ありて、高知の方に參る者にて候ふが、御士樣に御尋ね申し度き事御座候ふ。高知の御侍樣の中に、谷丹三郎樣と申さるゝ御方御座候ふや」と尋ぬるにぞ。重遠の曰く、「丹三郎と云ふは、則ち拙者の事なり」と云ひて、石工も重遠も、共に大いに驚き、神社の縁に腰打掛けて、石工は、平兵衞より石碑彫刻の依頼に預り、代金まで受け取りたる事を談じ、重遠は、碑銘の筆記を頼まれたる事を話し、互ひに奇異の思ひをなしたり。石工云ふ、「私、平兵衞樣と申す御方に、彫刻を御請け合ひ申し候ふ時に、高知に谷丹三郎とて友人ありて、碑銘を頼みあれば、取りに參れよとて、其の入費まで頂戴致したり。其の時、二三日經れば、谷氏まで碑文を受け取りに參れよと申し聞けられしが、痼疾の疝氣に苦しめられ、本日まで延引仕り候ふ。此所にて本日只今、御面會致したるも、亦た不可思議の事に候ふ」と云ふに、谷氏も、ますゝゝ幽靈の正しくある事を信じ、此の社より石工を伴なひ連れ歸り、念を籠め、力の限り筆記し、石工を一夜滯泊せしめ、翌日、石工は、重遠の認めし碑銘紙を受け取り、郷里に歸り、翌元祿二己巳年四月十一日、彫刻成就して、筆山の旭山[字也]の遺髮を葬めし上に[遺髮を埋葬せしは、元祿元年十一月十三日と云ふ]、建設せしと云へり。右の碑文は、重遠生涯の良筆なりと云ふ。

 偖て右の事蹟は、國主の求めに應じ、正徳三癸巳年六月、谷重遠翁、筆記して奉りし一小册の書、竝びに享保十五年二月、谷垣守翁、訂正したる『小田原平兵衞歿後の奇談』と題したる書もあれど、今、座右になきを以て、南部傳四郎の、小田原氏より聞書きしたる物を取捨して誌したりき。



○西山氏の幽靈、生前の約束を實行せし事。──『再來・病中雜記』卷の八十三‥‥
○老嫗の妖怪の事。──『同書』卷の八十二‥‥
○森近江守及び妖火の事。──『同書』‥‥
○成田治左衞門が亡妻の幽靈の事。──『同書』‥‥
○美濃屋長兵衞が後妻の幽靈、祟を爲したる事。──『同書』‥‥



 此は、余が諸書より拔萃して、『玉廼屋隨筆』と題せむとする書の一部なるが、岡部讓(御楯)主の希望せらるゝまにゝゝ謄寫せしめて、贈呈し參らするなむ。大正六年六月十日、斯く云ふ者は、宮地嚴夫。



●平田大壑先生『七生舞の記』

 (平田)篤胤の云く、寅吉を、山にて、師の山人のよぶには、「高山嘉津間」と云ふとぞ。山人とは、仙の和語にて、古き神樂歌、『萬葉集』などによめり。寅吉か師など、みづから山人と稱するとぞ。古言の存れるなり。抑も仙は、諸越にのみ有りて、此の國には無き物と思ふは、見聞せまき人の心なり。皇國にも、舊より仙多き事は、古書に數知らず見えたる中に、神仙あり、佛仙あり、又た其の中に、現身なると、尸解なるとあり。其の差別は、こゝに盡しがたし[唐土の書どもに、仙に、天仙と、地仙と、尸解仙と、三品ありよし云へり。皇國の仙にも、此の差別あり]。

 世に天狗の態と稱する事に、右の山人たちの態なる事多し。こゝかしこの海・山などにて、目に見えず、聞きしらぬ音樂のあるを、世人は「天狗ばやし」と云ひ、中昔にも、しかいへりと聞えて、『空穗物語』俊蔭の卷に、「遙かなる山に、誰にか物のしらべ遊び居たらむ、天狗のするにこそあらめ云々」とあり。此れは作り物語なれど、其の頃すでに然る事の有りし故に、かく文たるなり。

 また神社に、音樂の聞えしは、『日本紀略』に、「天延二年五月七日、近江國の解に云、兵主三上の神社、三月より、太鼓併びに鉦を打つの聲、日を經て絶えず云々」と見え、長明が『發心集』に、「奈良の松室といふ所の僧の許に在りける兒の、仙になりて去りたるが、師に語りて、三月十八日に、竹生島にて、仙人集りて樂をする事侍り。琵琵を彈くべき事の侍るが、貸したまへといひて、借り去れり。師の僧、三月十七日に、竹生島へ詣でたりけるに、十八日曉のねざめに、遙かにえも云はれぬ樂の聲聞え、雲に響き風に隨ひて、尋常の樂にも似ず、覺えて目出度かりければ、涙をこぼれつゝ聞き居たるに、漸く近くなりて、樂の聲とまりぬとばかり有りて、椽に物をおく音のしければ、夜明けて見るに、ありし琵琵なり。不思議の思ひをなして、竹生島に奉る香しき匂ひ、深くしみて、日頃ふれど失せざりける。此の琵琶、今にかの島にあり。浮きたる事にあらずと見ゆ[本書の文字を、いたく切(つゞ)めて擧げたれば、委しくは本書を見るべし。この事、また『三國傳記』にも記し傳へたり]。

 また近頃の物なれど、『諸國里人談』といふ書に、享保のはじめ、武州相州のさかひ信濃坂に、夜ごとに囃物の音あり。笛・皷など、四五人の聲にして、中に一人は、老人の聲なり。近在は、江戸などより、此れをきゝに行く人多し。方十町に響きて、始めは其の所ろ知れざりしが、次第に近く聞きつけ、其の村の産土の神の森の中なり。折として篝を焚く事あり。翌日見れば、青松葉の枝、燃えさして境内にあり。或はまた青竹の大きなるが、長さ一尺あまり、節をこめて切りたるが、森の中に捨て有りける。これは彼の皷にて有るべしと、里人いひあへり。只だ囃の音のみにして、何の禍ひもなし。月を經て止まず、夏の頃より秋・冬かけて、此の事あり。次第々々に間遠くになり、三日・五日の間、それより七月十日の間を隔てたり。始めのほどは聞く人も多く有りて、何の心もなかりけるが、後々には自然と怖ろしく成りて、翌年の春の頃、囃のある夜は、里人も門戸を閉ぢて戸出をせず、物音も高くせざりしなり。春の末かた、いつとなく止めけりと有り。

 また駿河國府中の人・新庄仁右衞門道雄が語れるは、阿部郡なる瀧爪山といふ山に、龍爪權現と云ふ神の祠有り。此の山奧にて、時々囃を聞く者あり。樂器は、鈴・大皷・笛などなりといふ。また時として、三味線の音の如き樂器を交ゆる時もあり。又た同郡三輪の郷・下村の山に、福生大明神と云ふ神あり。此の森にて、をりゝゝ音樂を奏する事あり。或る男、其の音樂を聞き果てし後に、其處にて、革一と重張りたる、大皷の如き物を拾ひし事有りといへり。

 此れ等を合はせて思ふに、仙境には、現世に絶えたる種々の樂事も傳はり、また彼の界にて作れる樂事はさらなり、今ま在る種々の樂事をも物すると知られたり。猶ほ七生舞の事につきては、種々思ひ得たる事も有れど、其は、ことに委しく記せれば、爰には漏しつ。

 文政五年二月朔日 名

 また追ひつぎて、しるす。

 去年の八月二十八日の事なりき。土佐國の殿人・谷丹作正兄(秦山先生──垣守──好井──正兄)といふ人來れり。さるは、寅吉が師の山人は、常陸國なる岩間の山にも住む事有りといふを聞きて、其の事を問はむとてなりけり。

 さて語りけるは、「我が父は、好井といひけり。己はことし三十五歳なるが、二十歳ばかりの時に、父は身退られたり。催馬樂の其の駒・伊勢の海・田中井戸・席田などの祕曲を知りたりしが、吾にも人にも語られしは、此の祕曲どもは、若き時、鞍馬山に、米叟上人とて、道徳卓れたる僧の有りけるに、遇々會ひて習ひたり。さて後に心づきて、「此の態は、雲上の祕事なるを、かく習ひたりとも、其の家々より尤むる事有るまじきか」と云ひしかば、上人ききて、「もし難(とが)むる人あらば、吾に習へりと答へらるべし。我に問ふ人あらば、吾は常陸國岩間山にて、異人に出で會ひし時、習へるなれば、有りの儘に、然か答ふべし」とて、岩間山の異人の事を、種々語れる中に、飯を供ふるに、形の見えざる時にも、供へたる飯の失る事も有りしと語れり。然れば岩間山には、仙人の住みて、上代の樂事をも傳ふる事と見ゆと、父の物語りなりき。此の事、年頃、不審に思へるに、寅吉と云ふ童子の仕へたる山人は、岩間山にも住む事有りと聞けば、委しく聞かまほし」と云ふにぞ。

 己、代はりて、彼の山の事ども語りきかせ、さて寅吉を呼び出して、「催馬樂と云ふ音曲を聞きたる事ありや」と尋ぬるに、「さる音曲の名はしらず」といふ故に、其の駒・席田の文句をいひ聞かせて、「かゝる文句の音曲を聞きたる事無かりしか」といへば、「其の文句の音曲をも聞きたる事有りと覺ゆ」と云ふにぞ。谷氏きゝて、「扨ては米叟が説、實なりけり」と、喜びて歸りぬ。

 是よりさき、去年の三月十三日に、今日は、山にては例年、師の誕辰を祝ふ日なりとて、其の祭りをなしけるが、山の神樂を見覺えたるを舞はむとて、七八番舞ひたり。其の日、集へる人々、二十人ばかり有りけるが中に、亂舞の音曲をよく知りたる人々も、四五人ありしが、何れも驚き異(あや)しみて、中には、「此の舞の古雅なるを見れば、三番叟の舞などは、事にも非ず」といふ人もありき。此の時の事も、山人の神樂の事も、猶ほ委しく記すべけれど、其の説長ければ、こゝには洩しつ。彼れ此れ思ひ合はせて、仙境に、種々の樂事ある事を辯ふべし。

 二月十五日
 

  • [38]
  • 美甘政和大人『魂神氣之辨』下。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 6月 8日(月)22時30分0秒
  • 返信
 
~承前~

○さて又た氣は、息(いき)・活(いき)等の「き」にて、氣吹の「き」と同じく、又た正氣なり、活氣なり。此の辨は、專ら人の氣を辨ずるにあり。然れども天地の氣と、人の氣と、相通ずるを以て、これを合はせ辨ず。先づ人に有りては、此の氣なるものは、魂の活發の勢ひより起り、魂・心と相離れず。たとへば魂は、燈火の如く、氣は、光輝の如し。心、其の間に位し、人心樂しまざる時は、魂の發氣を閉塞し、人心樂しむ時は、魂の發氣も、又た晴る。恰も日月に雲霧あるが如し。『孟子』養浩の説も、一言以てこれを云へば、心中の雲霧を撥ふて、魂の發氣を天外に放ち、天地の正氣と合せしめ、神魂を養ふの外ならず。然れば則ち氣なるものは、思考覺察の外に有りて、魂の活潑の勢ひより出づるなり。故に氣は、常に晴爽旭日の如くならしめ、能く神魂を養ふべし。前にも辨ずる如く、心は、魂に代はりて、智・情を統御し、氣は、又た魂の發氣にして、意を動かし、これが進退を主(つかさ)どるものゝ如し。人に勇ある如きは、專ら此の氣に屬す。勇氣と云ひ、壯氣と云ひ、活氣と云ひ、皆な此の氣に隨ひて往来す。故に人をして勇氣なからしめば、魂の威徳あらはれず。然れども勇氣、壯に過ぐる時は、思考覺察の活きを止め、思慮を失ふが故に、生命を失ふに至るも、これを看るに遑あらず。これを以て見る時は、氣は、進むを主どるものなるを知るべし。彼の思想の力をも、素より魂の作用にして、心、これを統御し、氣、これが進退を主どるが故に、千萬里の遠きも、思ひを起すに隨ひて、冥々の中、迅速の間に達すること、電氣より速かなり。これ又た天地の神氣と相通ずるが故に、此の神通の思想力も備はりあるなり。此の氣は、天地生々の氣より起り、有形・無形にわたるの大活物にして、人身の動作をも主どり、思想の進退をも主どり、魂徳をも發せしむるものにて、恰も幽顯兩界にわたる人身の電信機の如し。

 扨て如此く辨じ來りて、尚ほ考ふるに、實に此の氣なるものは、神經にかゝる電氣なるに感ずる所あり。先づ神經に感ずるは、五官を旨とす。此の五官の力を、皆な氣に因りて神經に感ず。これによりて氣は、外界より身體を經て、魂・心にかゝる電氣なること明かなり。此の外、心・意・智・情の活き、皆な氣の加はらざるなし。此の氣、人魂に屬すれば、意志あるものゝ如くなれ共、これ、氣に意志あるに非ずして、魂に屬するが故なり。如何となれば、氣をして靈物と分ち、艸木の如きものに屬せしめば、生々の活きはあるも、志考を備ふることなし。これを以て氣、其の物は意志なきを知るべし。支那人の所謂る「天地正々の氣、結んで神となる」などの論は、此の分析を成さゞるによる。神は、氣に非ず、靈なり。靈と氣とは、素より二物、然れ共も密着すれば、一物となる。凡そ天地の造化は、靈・氣・質の三者より成れるものにて、人體も、又々此の如し。此の辨、專ら魂・心に屬する氣を辨ずるを旨とするの問題なれ共、天地の氣と相通ずるが故に、勢ひ此の説に及ぶ。諸子、これを恕せよ。

 さて魂・心・氣の關係は、粗々前述の如きものなれ共、近時の心理哲學は、心以下を講じて、魂を論ぜず。人心の本源たる魂を措きて、智・情・意の活用のみを論ずるは、心理の一半を缺くものゝ如し。然れ共も魂の講究は、自ら神府に徹す。人智推究すべき限りに非ず。只だ神典に、其のよる所あるを以て、講究の爲め、試みにこれを辨ずるのみ。

○こゝに疑問者あり。『魂心氣の辨』、粗々これを聞けり。然るに神賦の魂にして、惡行の爲めに死し、或は怨を結で、死後、迷魂となりて、人の爲めに災を爲す等あるは如何と云はゞ、予、これに答へて云はん。

 凡そ天地の間、造化の眞理なるものは、幽・顯と界を異にし、動・植と其の種を別つと雖も、其の理は一にして、神界冥々の中も、眼前事物の上に知らるゝ所あり。前にも辨じたる如く、再び艸木を以てこれをたとへん。こゝに一つの大木あり。根・幹・枝葉、最も繁茂せり。然るに大風の爲めに、枝葉の動くこと甚だしからんに、根は土中にありて、直ちに其の風を受けずと雖も、連日、大風の枝葉を動かすこと甚だしき時は、其の動搖、幹に及び、根も又た枝葉の爲めに、土中に安んずること能はず、終ひに斃れて土を離れ、根・幹・枝葉と共に、其のよる所なきに至る。人魂も、又々如此く理りにして、情欲は心の統御にして、心、專らこれを主どると雖も、其の情欲をして、情欲たらしむるの本源は、魂にあり。而して魂は、神則に法とり、これが活用を計ると雖も、一つの分魂を受く人體を備ふる以上は、四魂、受くる所の因と、父母の氣より傳ふる所の因とによりて、自ら性を成し、心以下、智・情・意、こゝに備はるが故に、身體を愛せんが爲めには、智・情の活きに變を生ずること多く、暗に入りて道を失ひ、神則に背きて、動搖甚だしきに至れば、魂と雖も、これを如何ともする能はず。枝葉たる情欲の爲めに、魂・心共に相卒られて、終ひに怨を結んで解けず、死に至る如きは、魂徳を汚すが故に、神界より放逐せらるゝに至り、其の歸する所を失ひ、惡神の伍中に入り、人の爲めに災を爲すなり。これ、艸木の根の枝葉の動搖にひかれて、土を離るゝに異ならざるなり。

 こゝを以てか、神明に向ひて、謝罪の道あり。宜しく神道を修め、此の迷魂をして、本然の神府に歸せしめずんばあるべからず。是れ則ち吾が神典に於て、幽冥神府に神政ある所以にして、皇産靈大神、深く神量り給ひて、大國主大神をして、幽冥主宰の神とし、治幽の神權を授け玉ひて、天神賦與の神魂を守らしめ玉ふのみらず、此の迷魂の如きに至るまで、神府の永樂を得せしめ玉はんと、神量り置き玉へる神恩を、深く感謝し奉るべきなり。

○前に辨じたる、『魂心氣の辨』に就ては、種々の質問もありし中にも、度々同じ質疑に就て答へたる説あれば、序でながらこゝに擧げて、參考に供し置くべし。

○或る人の問ひに曰く、御説『魂心氣の辨』、一通り讀了せり。此の説たる、實に高尚玄妙の幽理にして、神典傳ふる所に隨ひ研究すれば、魂は、必ず大元靈・天之御中主大神の分靈にして、皇産靈神のむすびの御徳によりて、一つの小分靈たるは然るべきことなるに、或る説によれば、「人の靈魂は、天照大御神と同根同體、則ち大御神の御分靈にして、所謂る神人不二なるものなり」との説あり。此の説の如きは、如何に解すべきものなりや。

○答ふ。御質問の通り、人魂は、天照大御神の御分靈にして、神人不二なりと云ふも、因る所ろ無きに非ず。神典の道理を推す時は、天照大御神の御分靈と云ふも、誣ひ事に非ざるなり。如何となれば、天照大御神は、大元靈・天之御中主大神の大和魂の出顯にして、大陽系の中心、日球の大主宰に坐せば、我が大陽系中の御中主神とも申すべき大神に坐すが故に、御父・伊邪那岐大神も、「貴子」と詔ひ、高皇産靈大神も、天照大御神を高天原無上至尊の大君として、其の御神政を補翼し玉ふ程の大靈に坐して、申さば大陽系の中心靈に坐せば、大陽系中の神人たる諸分靈は、皇産靈の御神徳により、むすび玉ふと雖も、又た必ず中心靈たる天照大御神に、其の神靈・神氣、相通ぜざるは無き理りなり。

 凡そ天地の間、神靈・神氣の感通するは、日光の通ずるが如く、電氣の通ずるが如く、到る所として相通ぜざるは無き理りにて、申さば大陽は、大陽系中の電信本局にして、地球各星とも、これが分局の如きものなり。然れば大陽系中、悉く中心靈たる天照大御神の御神徳の、相感通せざる所かあらん。特に靈の住する所は、必ず陽氣の中に安住するものにて、身體冷結すれば、靈、已に去る。身體に陽氣復すれば、靈、則ち歸するは、目前、氣絶したる身體に就て研究するも、能く知られたることにて、靈魂は、必ず陽氣と共に往来すること明かなり。

 其の靈の安住すべき陽氣の大元は、何れなりと云はゞ、大陽日球は、則ち陽氣の大元にして、其の他の陽氣は、これが分陽なり。然る時は、吾が地球は素より、凡そ大陽系中にある所の諸々の靈は、大陽日球の中心靈たる天照大御神の御神徳に感通せざる無きは、電氣の本局より、各所に傳ふる所の音信、相通ずると一般の道理なるべし。これ則ち天照大御神の、天神・地祇・八百萬神を統御し玉ふて、造化生々化育の神徳を施し玉ふ所以なり。

 然れども人魂をして、直ちに天照大御神の御分靈なりと説くは、感通すべき道理上より云ふべきことなれば、前に辨じ置きたる、『魂心氣の辨』に合はせて、尚ほ深く研究すべきものと考ふるなり。たとひ人魂は、皇産靈神・天照大御神に相感通する理りありと雖も、分賦を受けたる後、一つの分靈神とある以上は、各自の行爲に隨ひ、明暗の間に來往し、時々變化を生じ、常に神明に感通する人魂は、千萬中、一つを得がたかるべし。如此くなるものは、則ち心以下、智・情・意の活用と感動との間、大いに善惡の差を生じ、益々神に遠ざかる所以なるを、此の分靈をして、各自に其の所を得せしめ玉ふ神政に至りては、余が常に論ずるが如く、造化の神の神敕を以て定め玉へる神事・幽事の大主權を宰り玉ふ、大國主大神の神權にある所なれば、たとひ天神賦與の靈と雖も、大國主大神の神權内たる、大地球上に生ずる所の靈物・靈魂上の神政に於ては、大國主大神の御神護・御神徳に漏るゝものは、一としてあること無きは、造化の神則にして、身後、靈魂の大陽に歸するも、地球に安住するも、皆な大國主大神の宰り玉ふ所なれば、恐れ愼んで、此の神政を奉戴すべきなり。

 「一神の外、神なし」と論ずるは、外邦に天地組織の眞傳なきが故に、止むなく宗教なるものありて、假神を尊信し、これに靈魂の歸着を委ぬるに至りたることなれ共、方今、人造宗教を妄信するの氣運は既に過ぎ、宗教外に新たに眞教の起らんとする氣運なれば、今日は、未だ吾が神道をして、外邦人に尊信せしむるに至らずと雖も、釋迦・耶蘇等、一己人の思想中に造り出だしたる宗教すら、時運と共に萬國に擴張するに至りたるを見れば、必ず他日、吾が造化の眞傳たる、天地固有の神教、彼に通ずるの日、至るの時あるべきは、今日より、余が豫言し置く所なり。

○前辨ずる所は、偶ま質問に隨ひ、參考迄に意見を述べたるものを擧げたるのみにて、到底、魂徳を辨ずるに至りては、筆紙言語の盡す所に非ざれば、各自の自得、性に訴へ、己が心を師として、研究あらむことを望む。



【參考/稜威道別彦命・矢野玄道大人の魂力】

●『矢野翁碑』(伊豫國大洲阿藏の墓側。有栖川宮彰仁親王題額・渡邊重石丸翁稿・副島種臣伯撰・巖谷一六翁書)

 明年(明治二十年)三月、先生、胃を患ひ、自ら不起を知る。弟・幸男を呼んで、嘱するに後事を以てす。又た謂ひて曰く、「我を愛するところの水玉、吾れ死せば、當に我が靈を留むべし。汝、曹(つかさど)りてこれを祭れ」と。五月十九日、復た弟に謂ひて曰く、「今日、吾れ逝かん。請ふ、遷靈式を行へ」と。弟、すなはち書を作りて、族人に報ず。子弟、皆な來り會す。先生、辭氣、平日の如し。衆、甚だこれを異とす。かつ命に從つて式を行ふ。式、將に畢らんとす。拍手の間にして、溘焉として逝く。謂はゆる「至誠、前知なるものに殆(ちか)からん」か。年六十五。


●常磐井精戈翁『日記』明治二十年五月十九日條

 雨降る。五時半より、矢野へ行く。御下りを呈す。看病。
 夜、正服し、師(矢野玄道大人)の靈を遷し止め鎭む[兼ねて余に托すとの、師の乞ひなり]。時に午后九時なり。警蹕の一聲と共に、師、歸幽。あゝ、長大歎息なり。されど御靈を遷し止むや、歸幽。即時なり。あゝ、こは、奇なり、妙なり。あゝ。
 

  • [37]
  • 美甘政和大人『魂神氣之辨』上。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 6月 4日(木)22時51分43秒
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●美甘政和大人『天地組織之原理』卷之第四「魂神氣之辨」

○魂は「たましひ」と訓ず。たましひと云ふは、賜ひし「ひ」と云ふ略語にて、「ひ」の一言、其の主となる。「ひ」の言詞は、産靈神の御名より起りて、本邦、靈の徳を「ひ」と云ふ。たましひとは、神の賜ひし奇靈(くしび)なるものと云ふ義なり。然れば則ち人の魂は、神明の分魂にして、神人不二なるものなること、この「ひ」の一言、以て疑ふ所なし。『倭姫命世記』にも、
神魂尊の精靈、父母の氣に入りて生産るゝ神を、人神と云ふ。吾が黨の、體中に坐す神なり
とあり。たとへ古傳に、其の明文なきも、魂の神なることは、諸學、皆な一に歸すれば、辨を俟たず明かなり。

 扨て魂は、靈魂と熟す。靈も魂も、奇靈なるに名づく。然れども靈と魂とは、自ら別意なきに非ず。靈は「みたま」と訓じて、備はりし上の名と聞え、魂は「たましひ」と訓じて、賜ひし靈と云ふ活きあり。然れども魂を「みたま」とも訓ずれば、靈魂と熟して「みたま」と心得るも、違ふには非ず。此の靈魂なるものは、神賦にして、神なるが故に、身終ると雖も、終らざるものなり。又た神なるが故に、生前にあるも、幽物にして、神府に屬し、眼以て見るべからず、手取るべからざる奇々靈妙なるものにて、一身主宰の眞神なり。こゝに神典に隨ふて考ふるに、魂に、幸魂・奇魂・和魂・荒魂と云ふ、四魂の別あり。一言の盡すべき限りに非ざれ共、講究の爲め、聊かこれを辨ぜん。

○幸魂の「さき」は、さき・さくと活く言詞にして、さきはへ魂なり。其のさきはへをつゞむれば、さかえとなる。榮えは、さきより起る言詞にして、都べて物をさき・さくと云ふは、一つの物を數多に分くることにて、榮えと云ふも、物の繁殖するの云ひにて、其の意同じ。此の幸魂の活きも、如此くにて、己の身をも榮えしめ、人をも幸ゆる魂徳を云ふ。世に仁者・徳者など云ふ人には、自ら此の幸魂の多く備はりたるより、其の徳、自ら言行の上にあらはるゝなり。

○奇魂の「くし」は、幸魂のさき別るゝ徳に比して、「くし」と云ふ言詞は、物を集め束ぬる意ありて、毛髮も集め束ぬるものを櫛と云ひ、又た串と云ふも、物を集めて貫き束ぬるものにて、共に奇に通ふ言詞なれば、其の意をも含める徳あれども、此の奇魂の「くし」は、「くしひ」魂にて、靈妙不可思議の魂徳を云ふを旨とす。世に才士・賢人、又た諸能の功みなる等は、皆な此の奇魂の多く備はりたるより、其の徳、自ら言行の上にあらはるゝなり。

○和魂の「にぎ」は、にぎび・にぎはひ・にぎはふと通ふ言詞にして、にぎはひと云ふは、物の和熟して樂しきを云ふことにて、怒る等のこと無く、たとひ咎むべきことあるも、見直し聞直して和らぐ徳あるを云ふ。世に温和篤實の人は、此の和魂の多く備はりたるより、其の徳、自ら言行の上にあらはるゝなり。

○荒魂の「あら」は、あれ・あると活く言詞にして、云ふ迄も無く、物のあらゝゝしきを云ふ、活潑の勢ひあるの云ひなり。世に勇氣盛んにして、事に臨みて退かず、死をも顧みざる等の勇武の人は、此の荒魂の多く備はりたるより、其の徳、自ら言行の上にあらはるゝなり。

 又た此の四魂に、直日魂を加へて、五魂を論ずるあり、或は術(わざ)魂と云ふを加へて論ずるもあれ共、直日魂は、和魂の徳にて、術魂と云ふは、奇魂の活きと思はるゝ旨もあれば、先づ古傳に隨ひて、四魂を辨ずるなり。然れ共も人の魂は、本と一つにして、四魂、別にありと云ふには非ず。魂の備へたる活用の徳を分つて、四魂と云ふなり。人に種々の性質ある中に、第二の天性たる出生後の習慣より成れる後天の性は、暫く措きて、先天より受くる所の第一の天性に、自ら種々の別あるは、此の四魂の備はりかたと、父母の氣によつて、遺傳の性加はるとの、如何によるものなり。性を「こゝろね」と訓ずるは、心根にして、心の本と云ふ意あり。意は、又た「こゝろはせ」と訓じて、心馳せにして、心の始めて動かんとするの云ひなり。智・情の類は、心の活用・感動を云ふ。魂は、其の本原なり。此の四魂の論は、未だ他學の、深く講ぜざる所なれ共、心理の本源たる四魂の活きを講ぜずんば、魂徳より直ちに成し來る靈妙ありて、人智測るべからざること多からん。實に此の四魂の傳は、先天より受くる所の、人性の異同を講ずべき根據にして、人智の及ばざる所なり。此の一言を以ても、吾が神典の、人爲に出づる書に非ざるを知るに足るべし。こゝに魂徳より直ちに成し來る靈妙の一證を擧げん。

○近世、行はるゝ『心理學』上篇・睡遊の部、一奇例として、佛蘭西の一少女子が、遲鈍にして、畫事の拙なるを愁ひしに、一夜、熟睡の中に、自ら妙畫を畫くことを載せたり。實に奇事なり。委しくは本書に就て見るべし。然るに諸家の論、未だ其の理を究めず。故に試みにこれを辨ぜん。

 予が魂・心關係の講究にては、彼の小女子、畫事に拙なるを、深く歎じたるより、終ひに魂に貫き、睡眠中、意は其の活きを止め、心は智・情錯雜の復寫を卒ひて、他の夢郷に遊び、五官の動作、心に感ぜず。此の間、魂、直ちに小女子が熟眊の身體を役して、この靈妙の畫を成さしむるを以て、小女子が心頭に感ぜざるより、自ら畫けることを知らざるならん、と。果して然りとせば、是等の如きは、幸魂・奇魂の活きなり。これを以て考ふるに、魂・心は一物の如くにして、其の間、境界ありて、魂の靈妙は、心の記せざる所なることを知るに足る。尚ほ以下に辨ずる所の魂・心の關係を本として、自得あらんを乞ふ。只だ試みに辨じて、諸子の參考に備ふるのみ。

○さて右に辨ずる如く、此の魂を本として、性と云ひ心と云ひ意と云ひ智と云ひ情と云ふ如き、活用の名あり。然れども此の辨は、專ら魂・心・氣の三つを題目とす。故に以下、魂・心を合はせ辨ず。扨て心は「こゝろ」と訓ず。又た心のことを、古言に「うら」と云ふ。心をうらと云ふは、裏の義にて、現に見えざるを云ふ。家のうら・衣類のうら等も同じく、表より見えざるに比して、無形の心をもあらはに見えざるより、うらと云ふなり。然れ共こゝろと云ふ名の、古へより貫きて廣く聞ゆれば、こゝろと云ふ訓義を以て考ふるに、こゝろとは、こり・こゞるの義にて、神氣のむすびこれるより名づくるにもあらんか。こゝに魂と心との關係を考ふるに、自ら其の間に境界ありて、一物にして二物、二物にして一物の如きを覺ふ。たとへば一つの種子あり。これを蒔くに、種は土中にありて、始め根を生じ、次に幹を生じ、次に枝葉を生ず。一種子、始めて根・幹・枝葉と別る。然れ共も根・幹・枝葉は、相連なりて一木なり。而して根は土中にありて、幹と界を異にし、幹と枝葉は、同界にあり。一木、必ず兩界にわたる。これを魂・心にたとふれば、魂は根の如く、心は幹の如く、智・情は枝葉の如し。艸木の枝葉、これを統御するものは幹にして、其の枝葉を榮えしむるものは、根の活きなり。人心も、又々如此くにて、智・情たる枝葉を統御するものは、幹たる心なれ共、其の智・情をして、智・情たらしむるものは、根たる魂の活きなり。

 此の理を以て魂と心とは、一物の如くにして二物、魂府と心府とは、其の間に境界ありて、恰も艸木の根の土中にありて、幹と其の界を異にし、兩界相通じて一木たる如きを辨へ、人魂、常に神界に通じ、人心、常に人間交際の上にあるを知るべし。此の理を推す時は、人の心は、神明分與の魂より成れるものにて、人體、顯世に處する魂の代主とも云ふべし。然れども心は、智・情統轄に、其の任重ふして顯事に走り、幽事には通じがたきを以て、物として疑ふ所ろ多く、身體と密着し、常に體を愛するに遑あらず。故に魂と、自ら境界を成す。魂は、素より神なるが故に、常に神府に通じ、未然のことをも知るの靈徳ありて、一として疑ふ所なき理りなるに、其の魂より成れる心にして、如此く事々物々、疑ひある所以のものは如何と云ふに、顯體ある人と神府とは、其の界、異なるが故に、其の間に神明の嚴則ありて、神府靈妙のことは、魂より心に告げしめ玉はざるの神意あるものゝ如し。而して又た魂の方よりは、心以下、智・情に發することは、悉く記するものかと考ふるに、智・情に發する所のものも、亦た魂に貫くは少なくして、心・意以下に止まること多きを覺ゆ。是れ人々、自ら吾が心に問ふて知らるゝならん。これを以て考ふれば、魂・心の間、一物にて益々境界あるに感ずるなり。

 こゝに神典に隨ひて、魂・心の間に境界あるの一證を擧ぐれば、大國主大神の、己れ命の魂の神と御問答ありしことを窺ひ奉るに、幸魂・奇魂神の方よりは、「汝命の魂神ぞ」と、兼ねて知り玉へども、大國主大神の御心には、御名乘り合ひ玉ふ迄は、其の神を己れ命の魂の現はれましたる神とは、知り玉はざる趣なるを思へば、魂の事を心の記するは、神に坐しても、其の間に境界あるものゝ如し。況んや人に於けるをや。

 扨て此の古事を以て考ふるに、魂は、眞の無形物に非ず。幽中、自ら靈體の備はりたるものなること明かなり。人も亦た如此く魂には、自ら幽體備はりありて、身後、神魂をやどして、神府に歸すべき不死の靈體は、生前より既に備はり、顯幽兩體あること、其の證少なからず。こゝに又た今日の事實に就て、魂・心の間に境界あるを考ふるに、世の諺に、未然のことを心頭に感ずるを、「むし」がしらすと云へり。其のむしと云へるは、蟲のことには非ず。むし・むすと活く言詞にて、産靈神の徳より云ひ傳へたるものなり。總べて人心は、事物を未然に知るの徳あるものに非ず。然れ共も人魂は神物にて、常に神府に屬するが故に、未然のことをも知るの靈魂備はりて、人の身上、一大事に及ぶ等のことあらんとする時は、産靈神の徳より魂に傳はり、魂、又た心に告げ來るが故に、其の事ありて後に、能く考ふれば、其の兆しは、必ず未發前に心頭に告げ來りしを覺ふ。これを古より産靈(むすび)が知らせると云ひ傳へしを、むし・むすの言詞の活きより、むしがしらすと云へるなり。彼の支那人の、「豁然として貫通する」と云へるも、物茂卿が、「これを思ひこれを想ふて得ざれば、聖靈に感ずる」と云へるも、皆な神魂の心頭に傳へ來りて感ずるの云ひなり。こゝを以て人魂の、神なることを知るべし。

 故に魂・心の間、其の境界を開き、相通ずるに至れば、人は則ち神明と交はるべき徳の備はるべきものにて、魂・心の間に境界あるは、自ら神界と人界との境界を成せるものなり。こゝに又た人心、善惡の別を考ふるに、人心、身體と密着し、體を愛せんが爲めに、情欲に引かれ、魂の令する所に背くと背かざるとの間にあり。たとへばこゝに一人の盗あらんに、人の物を盗んで、己の有と成さんと欲するは、心、體を愛せんが爲め、情欲に引かるゝなり。然りと雖も、魂は神にして、善惡を辨ずること明かなるが故に、盗も又た自ら其の道に非ざるを知る。これ、魂より令し來るなり。此の時、心、其の令する所に隨へば、たとへ身體は餓死するも、盗をなすことあたはず。然るを身體を愛せんが爲めに、魂の令に背けば、餓は凌ぐと雖も、惡行となりて、魂の靈徳を汚すのみならず、體を愛するの眞道をも失ふに至る。中人以上と雖も、又た此の弊あるを免れず。死を恐れて大節を失ひ、顯榮を好んで奸に與するが如きは、皆な身體を愛せんが爲め、情欲の度を失ひ、心、魂に背きて、體の爲めに奴隷となり、一時の生存顯榮を欲するが故なり。これを以て考ふるに、人心の修業は、常に魂・心をして、密着同一ならしめ、情欲の爲めに、魂の令に背くことなきにあり。然りと雖も魂・心は、共に一身の守護神なれば、道に背かざる以上は、身體を愛すべきは、素より魂・心に備ふる所にして、論ずる迄も非ざれども、道は生命より重きを辨ぜんが爲め、此の説に及ぶ。必ずこれを誤解し、一身の愛護を怠ることなかるべし。

○尚こゝに一言を加へん。前述の如く、魂・心は、共に一身の守護神なれ共、魂は、道を愛するに任重く、心は、身を愛するに任重し。故に心・意は、身を愛せんが爲めには、道に背くことありと雖も、魂は、道を愛するが爲めには、身を顧みざるが故に、死を採ること、歸するが如くす。これを大和魂と云ふ。大和魂なるものは、魂・心密着、大節に臨んで動かざるの云ひなり。彼の精神、一たび到りて、何事か成らざらんと云へる精神は、魂の徳を云ふなり。心・意到りて、何事か成らざらんと云ふに非ず。此の語を以ても、魂・心の差別を知るべし。魂徳到れば、眞に成らざる所なし。先哲の歌に、
「敷島の 大和魂を 人問はゞ 朝日に匂ふ 山櫻花」
と詠まれたるは、日本人種の、日夜、忘るべからざるの明教なり。又た菅公の
「和魂漢才」
の語、深く味はふべし。
 

  • [36]
  • 我が國は、天地往復の要路たりし神國なり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 5月25日(月)18時52分58秒
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~承前~

●美甘政和大人『天地組織之原理』卷之第五

○或る人、又た問ふ。‥‥造化氣運の變遷の如きは、全く一地方に止まるべきに非ず。地球上、同一の變遷を見るべきものなるに、獨り吾が國のみ異なるが如きは、如何。御辨明を仰ぐ。

○答ふ。此の御疑點に於ては、皇孫降臨後の所のみに着眼して、これを自得するを得るは、甚だ難き所なれ共、天地組織の始めより、神典、傳ふる所の實蹟に就て考ふるに、如此く吾が國と他邦と異なる所あるは、最も疑ふべからざる理由あるものにて、‥‥都べて神代、神等の天地組織、造化の大業を成就し玉ふも、此の地球にては、吾が國、則ち穗之狹別島は、神等の大陽高天原より、此の地球に降り玉ふ要路と定まりし程の舊國にて、神氣の特に集まる所なるが故に、他各國は、早く神仙の境域を離れて、人間の世に移りたりと雖も、吾が國は、特に神氣の集まる所なるが故に、長く其の氣運を保ちたるものにて、如此く地球上、造化氣運の變遷、同時ならざるは、たとへば葉實の熟すること、一の葉實にして遲速あるが如く、造化自然の妙用なれば、彼と是と遲速ありて、吾が國の長く神域たりしこそ、神國たるの明證と云ふべきなり。

 支那の歴史と、甚だしき遲速あるが如く思はるゝは、今日に行はるゝ彼の國の歴史は、後世の作にて、大いに上古の正實に異なる所あるが爲めに、特に吾が上古のことと、其の趣を異にする如くなれ共、彼の國、上古の正風を、平田先哲の撰み採られたる『赤縣太古傳』の説によれば、大いに吾が古傳に類似すること多く、他の漢籍に比較するとは異にして、甚だ相近きを覺ゆれ共、尚ほ彼の國の神仙の境域を離れたるは、吾よりは遙かに早きが故に、却つて人間上の百事文物も、早く開けたることなるを、長く神域を離れざりし吾が國は、却つて人間上の百事文物も遲く開けたるが爲めに、神世御三代の間の事蹟は、彼の堯・舜の世、無爲にして治まりし時代より、尚ほ一層無爲なるものにて、其の歴書に存する所のものも、只だ皇孫の正統御世系の傳と、御母方の御神系と、臣位たる諸神の世系を、家々に傳ふるの外は、大事あるに非ざれば、傳はらざる程のことにて、眞に無爲の治、神人雜居の境域なりしこと、疑ふべからざるは、他の各國に比類無き幽顯相通の御婚嫁にても明かなることにて、神武天皇の時に至り、始めて中國(即ち皇國)に事あるも、速かに平定したる以後は、又た十世の間の久しき無爲の化にして、皇孫の御世系を傳ふるの外は、史書、傳ふる所ろ無き程のことなるを以ても、他邦と異なる神域たりしを知るに足るべし。

 然るに吾が古傳中、皇孫降臨前は、却つて傳へ委しくして、降臨後、傳へ少なきものは、如何と云ふに、こは、必ず如此あるべきことにて、吾が古傳は、專ら天地組織、造化上のことを旨として傳へられたるものなるを、皇孫降臨前、既に造化大成に至りたるを以て、降臨後は、大造化に關すること無きが故に、只だ無爲の化なりしに任せて、皇統をのみ旨と傳へられたるものにて、外邦各國の、早くより神域の境界を離れ、人事に移りたる國の、人事を傳へたる古傳に合はせて考ふる時は、彼我、其の趣を異にし、外邦支那などの古歴史は、人事の傳ふる所ろ多きが爲めに、後世、人の意に合する所あるのみならず、吾が古傳に比して見れば、却つて彼が開國は古きことの如くも思ふべけれ共、其の實を考ふれば、‥‥吾が國は、彼より遙かに古きものにて、歴史上、人事の未だ傳ふる所ろ無き程の神域なりしを知るに足るものなれば、深く注意して講究あるべし。

○‥‥彼の支那の歴史中、最も明文なりと世に稱せらるゝ、大史が撰む所の『史記』の五帝本紀の如き、平田先哲の論じられたるも、「彼の記の作者たる大史は、文章に巧なるも、太古の傳を見るの具眼無し」と。余を以てこれを見るも、又た如此ことにて、平田先哲の『赤縣太古傳』に引用せられたる彼の國の古書・仙書等に存したる太古の傳説は、天然の古風を存したるものなるに、『史記』の五帝本紀の如き、更に太古の正風を存したるものと見るの價値無し。如此なるものは、他無し、後世歴史家の作文に成れるものは、勤めて後世人の意に適するを旨とし、知らず々ゝゞ其の古實を失ひ、更に太古・上古の風を存せざるものと變化するは、漢學文章家の免れざる弊にして、既に本邦の山陽頼氏の如き才識兼備の人にして、『(日本)外史』の著作の如きは、後世のことなるを以て、深く事實を失はざるも、『(日本)政記』の著作に至りては、全く上古の正風を失ひたるものにて、『記紀』二典を始め、『六國史』中に存する所の幽事玄妙のことに至りては、悉くこれを除き、顯事のみを撰み採りたるが爲めに、上代の質を一變し、上古の氣運に、幽事の多きを知るに由無く、全く神國たるの遺風に背き、後世のものと變じたるは、正史と合はせてこれを見る時は、誰にても心付くべきなり。是れ己れ、後世の人と生れ、太古・上古のことを疑ふの念より、人も又た如此ものとし、專ら時風に能く適ひたるを旨とする弊にして、其の文章は美なるも、其の實を失ふに至る。

 夫れ歴史の要たる、文章は美を以て賞すべきものに非ず、實蹟を誤らず傳へて、其の世・其の時の正風を存するを以て足れりとすべし。然るに和漢、後世の儒家、多く古歴史の明文を沫殺す。これ、後世人の免れがたき通弊なるを、これを讀人も、又た後世人なるを以て、却つて古質を失ひたるもの、己れの思想に能く適する所あるが爲めに、終ひに太古・上古も、如此ものなりと思ふに至り、これを吾が思想中、先入の主として見る時は、太古の正風を存したるものは、却つて奇談として、これを退くるに至るは、後世人の免れ得ざることなれ共、其の能々造化の氣運・變遷あるを窺ひ、其の事蹟の、後世に異なるものあるこそ、眞に太古・上古の事實なるを知得せば、初めて上代のことを窺ひ得るに至らんか。

 是等のことを以て考ふるに、彼の支那の太古・上古のことは、彼の國の仙書等に存するもの、却つて正傳にして、吾が上古の正風と相類似するもの多し。其の他、西洋各國も、ノア大洪水前の正歴史を、今日に存せば、吾が神代の第四期・大國主大神の御世より、國神等、始めて他國に渡り玉ひ、開拓の業に就き玉ふ等の古傳をも存し、種々幽事に關する遺傳等もありて、大いに吾が太古傳説の照應とも成るべきを、洪水の爲めに、西洋各國とも、前世界たる太古の傳説を失ひ、漸く『舊約全書』等の詩人の手に作爲したるものゝみを存するは、彼の國の遺憾のみか、吾が太古傳説の照應を失ひたるものにて、吾も又た遺憾とする所なり。且つ其の大洪水なるものは、‥‥凡そ吾が皇孫降臨後、第二世・彦火々出見命の御治世中に當れる位のものなれば、其の心して外邦上代の歴史は見るべきなり。實に亞細亞東方の大洪水を遁れたることは、今日、事實上明かなることにて、凡そ六大洲中、人口の多少を以てするも、亞細亞一洲の人口は、他の五大洲合はせたる人口にも、相對する程多き中にも、東方に最も多きは、洪水前より相續したる人民と、洪水後の移住民より起りたるとを知るに足るものなり。此の一つを以ても、東方を以て舊國と云はざるべからず。余、各國の歴史を閲するに、全く信ずべきものと、希臘史以後にして、其の前の歴史は信じがたき所ろ多きは、凡そ外邦の歴史を讀む人に於ては、同一の感あるべし。然れ共も吾が太古の傳説を以て、これを考ふれば、大いに得る所あるなり。

○‥‥こゝに平田先哲の、赤縣太古のことを論じられたるに就て、聊か御參考に供し置くべきことあり。そは如何となれば、後世の支那學派の人は、世に大家と稱せらるゝ儒家と雖も、彼の國太古のことを委しく論じたる人は聞かざる所にして、東洋人が道徳の泰斗とも仰ぐ孔夫子すら、所謂る「仲尼、堯・舜を祖述し、文・武を憲章す」と云ふ如く、堯・舜以前のことは、あまり論ぜざる所なれ共、「本立ちて、道生ず」と云ふ時は、必ず堯・舜以前に遡らざるべからざるものなり。故に平田先哲は、彼の國の古書を撰み、『赤縣太古傳』を撰述せられたるのみならず、これに屬する書數卷を著はし置かれたり。凡そ堯・舜以前、三皇五帝等の太古のことを論ずるに至れば、堯以前の帝王たるものは、一人として彼の國の産れたる人は無く、皆な東方より渡りたる神仙のみにて、或は雲祗車に乘り、或は六提羽に駕し、或は六龍に駕す等、皆な空中を飛行したる神仙なりしが、先哲も云はれたる通り、雲祗車・六提羽の類は、皆な吾が古傳にある天磐船・天浮橋の類にて、神明の空中往復の乘駕にて、吾と彼と其の名を異にするものと聞ゆるを、支那より東方の國とは日本、則ち扶桑・日出所の國にして、彼の國、堯以前の神聖は、皆な吾が國より渡り玉へる神等なりとは、先哲、早く彼の國の古傳書を調べて論じられたる中にも、「孔子は堯以前を知らざるに非ざれ共、堯以前を論ずれば、自國の眞聖は一人も無く、皆な東方君子國の神眞なるが故に、周世に至りて、三皇五帝の名を換へ、堯・舜を五帝の内に加へたる等、周公旦が意を固く守りて、自ら老子より傳へ受けたる帝嚳以上の眞聖等のことは、其の門人にも言を憚りしなり」とは、先哲の委しく論じ置かれたる所なり。孔子の聖にして、周世に生れ、周の祖先が東方の君子國、則ち他國より渡り來りたりと云ふは、實に憚る所ありしならん。如此ものにて、支那にても、堯以前のことを講ずれば、皆な吾が神典と同じく、其の史書は幽事・神事多く、全く神仙境なりしは、彼の國の古傳書の明文が保證する所なり。然れ共も彼の國の國風として、内尊外卑を旨とし、孔子の聖を以て、尚ほ且つ太古の正傳たる三皇五帝の傳を説きて、其の奇事の多きと、其の先の外國より出づるを言ふを憚る。況んや後世の儒者に於てをや。

 既に儒學者には、自ら此の弊ありて、我が日本の儒者にしても、神武天皇以前のことは、必ずこれを度外に置き、其の本を神武天皇に採るもの多し。是れ彼の孔子の、堯・舜を本としたるものと同じく、其の根元を斷つて本を失ひたるものなるを、後世の人心には、却つて其の根元無きものを本據とするを好み、其の本原の幽事・神奇に屬する太古のことは、後世期の人の思想外の事のみ多きが故に、これを疑ひこれを度外視するも、又た故ゑ無きに非ず。如此く理由なるが故に、堯・舜以下と雖も、文・武の世に至る迄は、彼の國にも、必ず神仙の境域に近き所の神奇靈妙も多くありしならんを、後世に至りて作爲したる書籍等には、悉く其の靈妙のことを削りて、大史が『史記』を撰んで、五帝本紀を、眞正の古傳に異なる説を撰み採りたるが如く、山陽頼氏が『政記』を撰んで、悉く上古の神奇靈妙を削りて、上古の正風を失ひたるが如く、和漢とも同一なるものなり。近時の洋學者、又々新たに此の弊を加ふるに至れり。是を以て後世の作爲に出づる漢籍、其の他各邦の書をのみ旨と學び、これを先入としたる眼を以て、吾が古傳と支那の太古を比較すれば、彼は早く人事に合し、吾には人事に合せざること多きが如く思はるべけれ共、支那の三皇五帝等の眞正の古傳を讀みて、彼我を比較すれば、又た符節を合するが如きこと多きなり。只だ彼は早く神奇に遠ざかり、吾は長く神奇を保ちたるの小差あるのみ。然るを近時の書生輩が、其の支那の上古史をも知らず、近時行はるゝ西洋史、ノア大洪水後に、かゝる後世界の書のみ見て、これを先入としたる眼を以て、卒然、吾が太古の傳説の如き神典の本文のみ見る時は、一見、其の奇事の多きに驚くも、又た最もなることなり。然れ共、‥‥吾が國のみ、如此く長く神域の餘風を存したるものは、國土の長子にして、太古神等の天地御往復の要路たりし神國なることは、余が此の傳全篇の講述を聞かれたらんには、必ず自得せらるゝ所あるべし。尚ほ支那太古のことをも、擧げて論ずるは、到底、略解の成し得べき限りに非ざれば、こゝに一言、これを驚かし置くのみなれば、必ず平田先哲の『赤縣太古傳』を旨とし、これに屬する『三五本國考』・『大枎桑國考』を始め、『(天柱)五岳(餘論)』・『三神山(餘考)』の諸論に就て、其の然る所以を研究し、益々斯道をして、其の光輝を四海に發せんことを勤めらるべし。既に前にも申したる如く、孔夫子は、堯・舜を祖述し、文・武を憲章して、能く人道を明かにし、道を外邦に廣布するに至りたり。然るに吾は、造化の原則に隨ひ、高皇産靈大神・天照大御神の神敕を祖述し、八百萬神の御實行遊ばされたる神蹟を憲章し、顯幽兩大權の歸する所を明かにする大道なるを、何ぞ天地間、此の道の行はれざる所かあらん。勤めよや、諸君。勤めよや、諸氏。



【天地組織之原理】
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  • [35]
  • 美甘政和大人『三種神寶考』下。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 5月19日(火)22時26分47秒
  • 編集済
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~承前~

○こゝに又た云ふべきことあり。此の三種の神寶は、崇神天皇の御代までは、天皇命と同じ御殿に齋き祭り玉ひしを、同じ御代より、大御稜威を畏み玉ひて、鏡と劔の二種は、別所(ことゞころ)に齋き玉ふこととなりて、今、天皇命の御許に坐しますは、其の時にうつし玉ふ、御うつしの鏡・劔なり。其の元の御鏡は、云ふ迄もなく、伊勢に齋き祭り玉ふ、大御神の御魂代、御劔は、今、尾張の熱田に齋き祭り玉ひ、同じ三種の神寶の中にて、玉のみ、本のまゝにて、今に天皇命の高御座を離れ玉はぬは、如何なる故ならんと考ふるに、此の勾璁は、天之御中主大神の御魂代にして、天津日嗣の高御座は、國土顯政、大主宰たる天皇命の坐します御座なるが故に、天地の元の大主宰とます神の御徳備はり玉ふ勾璁の、此の御座を動き玉ひては、得あるまじき理りなれば、崇神天皇の御代にも、神の御心として、自ら別所へは動き玉はぬこととはなれるなるべしと、畏きことながらも窺ひ奉らるゝなり。この勾璁も、此の時、鏡・劔と共に、別所にうつし齋き祭り玉ふて、人の近く拜み奉ることとなし玉ひなば、天照大御神の大宮の如く、世の人も、よく其の大御徳を知るべきは、伊勢・熱田の二種の神寶たる御魂代を、人の尊み拜み奉るにても知るべきを、勾玉の一種は、かく神の御心として、天皇命の大宮内に深く隱れ給ふが故に、これを天之御中主大神の大御魂代とも、人の知らでありしを、今、それと窺ひ奉らるゝは、吾が天皇命の御徳の御盛りに向ふ時なるかも。

 己れ、此の三種神寶の深き理りを窺ひ得ざりし先には、朝廷にて天神・地祇を祭り玉ふに、大なる御缺典(みかけ)ありと、ひそかに疑ひ奉りしことあり。そは如何と云ふに、吾が皇國は、天照大御神の御あれましゝ本津御國と云ひ、皇孫命の御代の次々、知食す萬國の宗國たる神域(みさかひ)なるに、外國々にさへも齋き祭れる、天地の大元たる大元靈・天之御中主大神の御社とては、官に祭り玉ふ國々の大中小社の中には、素より神祇官に祭り玉ふ八柱神の中にも坐しまさず。此の神祇官の神殿を始め、外にも天之御中主大神の、さだかなる御社無しとせば、何を以て吾が神道の大元、立つべきやはと思ひ、これを古へに考ふるに、神武天皇の大御代に、皇祖天神を鳥身山に祭り玉ふは、臨時祭にして、無窮への御社あるにもあらず。皇孫命降臨以來、五千年の今に至るまで、天地萬物の大元、吾が神道の大元たる天之御中主大神の、赫々(あきらか)なる御祭殿の、さだかにそれと知られぬは、吾が神國の、大なる御缺典なりと思ひしを、此の三種神寶の深き神量りなることを窺ひ奉りて、後に能く思へば、皇孫命御天降の時に、高皇産靈大神の神籬を立て、御自らの大御魂を齋ひ鎭め玉ひ、天兒屋根命・太玉命に敕りして、「皇孫命の御爲めに齋き祭れ」と敕り玉ひし神の内にも、天之御中主大神を齋ひ玉はざりしは、殊に妙なる深き理りにて、天之御中主大神は、天照大御神・須佐之男大神の御魂と共に、大御神より皇孫命に賜はりし三種神寶の内に、其の御魂代の坐しまして、今にても、天津日嗣の高御座に坐しますが故なり。

 世の同じ學びの人等、此の神祇官にます八柱神の、皇産靈神を始めとして、天之御中主大神の坐しまさぬを如何に思はれけん。外に天之御中主大神坐しまさずとせば、神道の大元立ちがたく、大なる缺典に非ずや。先の大人等も、こゝには疑ひありて、「天之御中主大神は、高天原にて、天照大御神の祭り玉ふ神なれば、此の國にては祭り玉ふ御社の無きなるべし」と云はれしは、此の三種神寶の深き理りを考へのこされたる故にこそ。如此く考へわたして見れば、天之御中主大神の眞の御魂代の坐しましゝ所も著く、天津日嗣の高御座こそ、やがて天之御中主大神の大宮とも云ふべき尊き御座なるに、天神の敕りを以て、皇孫命の御代の次々、其の高御座に坐しまして天下を知食せば、此の御座を尊み畏み仕へ奉らぬ人の、天の下、四方の國にあらめやも。此の御座に敵(あだ)なふものは、天神に敵なふものなれば、必ず天神の罰(きた)め玉はんものぞ。これにて先づ天之御中主大神の大御社も明かに知られて、予が、始め御缺典なりと思ひし疑ひも解け、又た神祇官にます神皇産靈大神を始め、事代主神迄の八柱の中にも、天之御中主大神の坐しまさぬは、深き理りなることも明かに知られたるを、先の大人等も、神祇官に祭り玉ふ八柱神の中に、天神・地祇の中の最始めの大神の、何故ゑ坐しまさぬか。又た皇孫命の御天降の時、高皇産靈大神の神籬を立て齋き玉ふに、何故に天地の大元たる天之御中主大神は齋き玉はざりしぞと云ふことに、深く疑ひを起されざりし故に、此の深き理りあるを説きのこされしならんか。予が、此の玉を、天之御中主大神の御魂代なりと云ふ説を非とせば、吾が神域(かみのくに)にして、神道の大元たる、天之御中主大神を祭る大宮の無きこととなりて、神を祭る道の本立ちがたきを如何にせん。又た『記紀』共に、鏡よりも勾璁の上にある御位置を如何せん。よく思ひ深く考ふべし。

 都べて天地の間の萬物は、天之御中主大神の大御徳より成り出づるものなるが故に、前にも論へる如く、只だ一品の主となるにも、賜ふと云ふ詔りの玉ありて、其の一品の主とはならゝるゝも、やがて天之御中主大神の主宰の御徳を言靈に含むが故なり。わづか一品のものにても、主となるには、如此く深き理りあるを、まして國土顯政の大主宰を定め玉ふには、天地大元の大主宰たる神の大御徳を傳へ玉はずてあるべきかは。吾が天皇命の高御座こそ、萬國に比ひ無き、神定めの大主宰の坐します御座なれば、高天原より傳へ玉ふ、天之御中主大神の眞の御魂代の、こゝに鎭り坐しますは、深き神量りにして、たとひ太子(ひつぎのみこ)に坐しますとも、此の御璽を傳へ給はずては、天の下を知食す大主宰の御徳備はり玉はぬは、此の神量りに因ることになん。

 さて如此く考へわたして見れば、三種の神寶なるものは、大主宰の徳を備へ玉ふべき御祝の御璽と、御祖の大神等の御魂代との二つの御徳を備へて授け玉ふにて、申さば大主宰と坐す徳を尊むべきと、御祖の御徳に報い奉るの誠を示し玉ふ大御教へにして、吾が道の本源(みなもと)になもありける。穴な賢こ。

○副へて誌す。
皇孫命天降の時に、三種の神寶に添へて玉へる、平國の廣矛は、大國主大神國避り玉ふ時に、常に杖(つ)き玉ひし平國の廣矛を、建御雷神・經津主神に授けて、天神に奉り玉ひ、「吾、此の矛を以て治功をなせり。天孫、若し此の矛を用ひて國を治め玉はゞ、平安(まさけく)ましなん」と宣へる御矛を、此の御天降の時に、副へ賜ふなり。この矛は、大國主大神の幸魂・奇魂神の海(わた)を光らして現はれ依り玉へる時に、持ち來ませる天□[艸+豕+生]矛(あまのねほこ)なれば、此の矛は、又た大國主大神の御魂代なること、疑ひなし。其は、『史傳』にも、
「云々、此の廣矛をば、八千矛神と申す御名の神體(かむさね)として、神世より大國魂神の神體と坐す八坂瓊と共に、大殿内に坐せ奉り玉へるを、孝昭天皇の御世に、本つ體(みま)・大己貴神の御教へまして、天照大御神の神體と同じ御床に坐せ奉らしめ玉へるを、崇神天皇の御世の六年と云ひける年の九月に、大和社に祝ひ奉り玉へるなりけり々」
とありて、疑ひなく、大國主大神の亦の御名・八千矛神の御魂代にぞありける。これに因りて考ふれば、天津日嗣の高御座は、天地の開けし以來、大主宰の徳備はり玉ふ、大神等の御魂の集ひ玉ふ御神座(みかみくら)にぞありける。其は先づ、
●別天(ことあめ)に坐し、天地の未生前(いまだあらざるさき)より、全ての世界の大主宰と坐して、隱身(かくりみゝ)に坐します、天之御中主大神の御魂代なる、勾璁。
●高天原の大主宰、天照大御神の御魂代なる、御鏡。
●月泉(つきよみ)の大主宰と坐します、神速須佐之男大神の御魂代なる、御劔。
●及た大地官(おほとこのつかさ)と坐して、幽冥神府(かみのみかど)の審判(おきて)を宰り玉ふ神政(みまつりごと)の大主宰と坐す、大國主大神の御魂代なる、廣矛・八坂瓊。

 如此く天皇命の高御座に大主宰たる、大神等の御魂代の、ありの悉々集ひ玉ふは、此の國土顯政の大主宰と定め置き玉へる、皇孫命の御世の次々、受け傳へます高御座なればなるべし。天地の始めの時より、次々八百萬神坐しませども、造化(みおやの)大神の外には、主宰と定まり玉ふ神等は、天照大御神と、須佐之男大神と、邇々藝命と、大國主大神の四柱なるを、かく天津日嗣の高御座に集ひ玉ふの神量りを窺ひ奉れは、今より行先きの御榮えをも思ひ奉らる。然れば今、外つ國々より、吾が皇國へ集ひ來るも、皇孫命の御天降以來、五千年の運びに當る時なれば、天神の神量りにて、如此く八十綱打掛けて引寄することの如く、引寄せ給ふなれば、今にては、彼に及ばざるが如くなれども、凡そ世の中の眞の勝り・劣りと云ふは、國の大・小にかゝはらず、天地の造化(かみ)の神機(みはたらき)によることなれば、其の機の動かん時の至りなば、必ず天神の定め置き玉へる隨に、遠き外國々迄、一家の如くなりて、太平を樂しむの時あらん。余が、かく論ひ置くを、神の御典を、まこととも思ひ得ぬ人々は、空論(むなごと)とも云ふべけれ共、天神の眞の御傳なる神典に因りて論へる此の理りの動くべきやは。穴な賢こ。



──參考──

【丸山作樂翁と須多因博士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/11
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/780

【壽早之舍樣『神典玄學解』】
  ↓↓↓↓↓
http://sintengengakukai.blog.fc2.com/

【オロモルフ博士『三種の神器の心』】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/3syunojinngi.htm
 

  • [34]
  • 美甘政和大人『三種神寶考』上。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 5月19日(火)22時25分34秒
  • 編集済
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~承前~

●美甘政和大人『天地組織之原理』卷之第五「三種神寶考」

○吾が皇國の臣民して、神器の御徳を知らざるは、本邦人たる資格に關するものなれば、謹みて講究あらんことを。

○謹みて三種神寶考(みくさのかんたから)の御傳へを考ふるに、此の大御寶はしも、皇孫命御天降(みあもり)の時、天照大御神の大御手づから、天津日嗣の御璽(みしるし)として、皇孫命に賜はりし、其の遠岐斯勾璁(をきしまがたま)・鏡・草那藝劔[天□[サ+聚。以下、「叢」字を拜用]雲劔なり]の三種にて、綾に畏こき大御寶なるが、中にも御鏡は、天照大御神の大御口づから、「此の鏡は、專ら吾が御魂として、吾が御前を齋くが如く齋き祭れ」と宣へる大詔の御典に明かなれば、こは、天照大御神の御魂代(みたましろ)なるは論ひなきを、岩屋戸の段(くだり)を始めとして、此の大御神の御魂代なる御鏡よりも、勾璁の方を上つ枝に掛け賜へる傳へなるは、如何なる由(いはれ)ならんと考ふるに、先づ本居大人の『(古事)記傳』によれば、
「此の三種を連ね擧げたる次第(ついで)は、「鏡・劔・玉」とか、「鏡・玉・劔」とかあるべき理りなるに、『記紀』共に、玉を先にし、『紀』には、殊に「玉及(また)鏡」と、鏡の上に「及」の字をさへ置かれたるは如何と云ふに、崇神天皇の御代に至りて、此の御鏡・劔をば他所に齋き祭り玉ふてより、天皇の御許に坐しますは、神代の舊物には坐しまさず、唯だ玉のみぞ、今、大御神の授け賜へる隨の物にて坐します故に、彼の御代よりしては、三種の中に、玉を第一(むね)とぞ爲られけん。然れば其の御代より後は、常に玉を先に申すならひたる其の次第のまゝに、『記紀』共に記せるものにして、神代より然るには非ずなん」
と云はれたるを、平田大人の『(古)史傳』にもとられたり。

 政和、考ふるに、此の論ひによれば、『記紀』ともに、本文の次第を換へ、「上つ枝に鏡、中つ枝に玉」と書き改めざれば、傳への次第、符はず。然ればとて、本文の次第を改めんは、平穩かならず。たとへ後の御世に、玉を第一に貴び玉ふとも、これが爲めに、『記紀』本文の次第を改められたるものとも思はれず。殊に『紀』には、「玉及た鏡」と、鏡の上に「及」の字をさへ置かれたるを思ふに、、こは、玉の、殊に尊き謂れのあるならんと、能く々ゝ考ふれば、こは、『記紀』のまゝぞ、正しき次第にて、神璽の勾璁は、言卷くも畏こき、天之御中主大神の大御魂代と窺ひ奉らるゝなり。これに因りて又た考ふるに、天叢雲劔は、須佐之男大神の御魂代と窺はるゝなり。此の三種の各も々ゝ如此く大御神等の御魂代なることを窺ひ得て後に、先の大人等の論ひを思ふに、鏡のみ、天照大御神の敕りありしが故に、鏡のみは、大御神の御魂代なることを説きあかされたれ共、玉と劔には、「御魂として」と云ふ詔りなかりし故に、考へのこされたるなるべし。此の神寶は、遠つ神代より、三種とも相竝ぶ御徳(みいづ)の坐しますが故に、相竝べて齋き尊び玉ふ御寶なるを、鏡のみ、天照大御神の御魂代として、玉と劔の二種を、器ものとする時は、如何に天より傳へ玉ふ御器にしても、大御神の御魂代と竝べ稱(たゝ)へ奉るべきにもあらず。如此く三種御位(みくら)置きて竝べ玉ふは、必ず何れも大神の御魂代なるべき理りにて、殊に勾玉は、次第さへも、御鏡の上にあるをや。予が考への如く、「玉は、天之御中主大神の御魂代、鏡は、天照大御神の御魂代、劔は、須佐之男大神の御魂代」とする時は、『記紀』共に御位置の次第も正しく、又た三種相竝ぶ御徳坐します御寶なることも明かなり。國土の顯政(あらはごと)の大主宰(つかさ)と坐す天皇命の天津日嗣の御璽なれば、かくあるべき理りなり。

 さて其の御魂代なる由緒を證さんに、此の勾璁は、大御神の岩戸隱れし玉ふ時、八意思兼神の思ひはかりに因りて、玉祖命の作り玉ふ玉なるを、如何にして、天之御中主大神の御魂代なりと云ふとなれば、先づ玉と云ふ言詞(ことば)より辨へ置きて、後に其の御魂代なることを論はんに、玉は、瓊(ぬ)と云ふと、古へ、同じことにて、御中主の「ヌ」、やがて瓊の起りなるが、ヌの一言、又た主(ぬし)と云ふことを含める言靈にて、主は、瓊よりうつり、其の瓊は、やがて玉のことにて、玉は、物の主宰(ぬし)たる理りを備へたるものなり。五十韻中にて、ラリルレロの一行(くだり)は、國韻(やまとことのは)にて、發語(はじめ)にはなき韻(こゑ)なれば、此の一行を除きて見れば、ヌの韻は、中央(もなか)の位置(くらゐ)にある韻なり。是れ最と妙なる理りのあることにて、ヌの一韻、ヌシの意を含むことを思ふべし。尚ほ此のことは、別に論ひあり。今の言靈の上にても、賜はると云ふこと、やがて玉を含める言詞にて、又た主たるべき理りをも含むなり。其は、先づ君より物を賜ふ、其の賜ふものは、何の品にもあれ、賜ふと云ふ言詞を限り、今迄、君のものなりし品も、そを賜はりし人のものとなりて、其の品の主は代はるなり。たとへ君にもあれ、賜ふと云ふ言詞のありし上は、其の品は、君のまゝにはならず、其を賜はりし人のまゝにして、誰もいなと云ふものは無きなり。是れ賜はりし人、其の品の主となればなり。然るを其の主の定まりし品を、其の人の與へざるに、自ら取れば、そは盗むの罪となるなり。これ、主宰の權(ぬしのひれ)を奪ひしが故なり。都べて世の中に、他の主權(ひれ)を奪ふより、甚だしき罪は無きものなるは、たとひ一品の主權と雖も、御中主神の大御徳たる瓊の徳、備はるによることにて、盗み・盗む・盗めるなど云ふは、瓊の徳を、己の身に總ぶると云ふ言詞にして、ぬすぶる・ぬすめると云ふより、種々に通はしたることにて、他の主權を犯すの云ひなり。是等のことを以て考ふるに、世に瓊の徳ばかり、尊きは無く、此の瓊の徳、やがて主宰の徳なれば、世に主權を犯すばかり、大なる罪は無きなり。只だ一品の主權を犯すも、盗むの罪なるを、まして況んや國土の大主權を犯すものに於きてをや。これにて、玉と瓊は同じものにて、玉は主宰のしるしなることを思ひ辨へ、玉に自ら主宰の徳、備はりあることを知るべし。物の主となる徳の備はるは、やがて天之御中主大神の幸ひならでは、得あるまじき理りなるは、神の道をたどり行きなば、自ら知らるゝなり。如此く賜ふと云ふ言靈の幸はふ上にだも、其の品の主となるべき徳の備はりあるを、まして神招ぎし玉ふ、まことの勾璁なれば、主宰の大御徳は備はるべき理りならずや。玉には、かゝる徳あるが故に、皇孫命御天降の時に、玉を授け玉ふは、天之御中主大神の大主宰の大御徳を授け玉ふ御璽にして、やがて天之御中主大神の御魂代にてぞありける。始め伊邪那岐命の、天照大御神に、「高天原を知らせ」と事依さし玉ふ時にも、彼の御頸珠の珠の緒も、由良にとり由良かし、「天照大御神に賜ふ」とあるは、天照大御神に、高天原の大主宰に依さし玉ふ御璽にて、やがて此の御頸珠は、天之御中主大神の御魂代を始め、都べて御祖の神等の御魂として賜ひしことと窺ひ奉らるゝなり。故に天照大御神も、これを御倉棚神と齋き玉ふなり。『史傳』には、「如此く御頸玉を賜ふは云々。是より以後は、世に靈幸ひ坐す御徳を、盡くに此の大御神に禪り玉ふ御璽に賜へりと知られたり」とあり。

○政和、云ふ。此の御倉棚神と申す、御名の「御倉」は、御坐(みくら)にて、大御神の天を知食す高御坐を云ふなるべく、其の高御坐の上に、神の棚を設けて、高く齋き玉ふが故に、此の御頸珠の名を、御倉棚神とは申し奉るなるべし。『記傳』には、「御倉に納め、その棚の上に安置き奉りて、崇め祭り玉ひし故の御名なるべし」と云はれたるは、如何あらん。皇孫命に賜へる三種も、「同じ御殿に齋き祭れ」と詔りありしにても知るべし。

 さて高天原に大主宰と坐す天照大御神の、かくも尊び、齋き奉り玉ふは、本の大御祖神等の御魂代ならで、何とかせん。縣居大人の『祝詞考』にも、
「伊邪那岐命の御頸珠を、天照大御神に給ひて、高天原を知らせと詔へれば、彼の御頸玉は、大御神の天を知食す御璽なり。さて今、皇孫命に賜ふ勾璁は、夫の岩戸前にして招祷(おぎ)せし時、彼の天照大御神の御頸玉に准へて作りしを、今、皇孫命、天降りまして、國の主となりたまふ御しるしに、天照大御神、これを賜はせしなり云々」
と云はれたり。此の『祝詞考』の説、よく云はれたる説にて、都べて物の主宰となるには、必ず天之御中主大神の大主宰の御徳を受け玉ひてこそ、主宰たる徳は備はるべきなり。これぞ、天地の開けし時より備はりたる、まことの理りなるが故に、天照大御神も、玉を齋き祭り玉ひ、皇孫命御天降の時も、國土の顯政の主宰たる御璽に、玉を授け玉ひ、又た今の賜ふと云ふ言靈の幸ふ上にも、玉の徳ありて、其の一品の主宰にはならるゝなり。尚ほ云はゞ、玉には、如此くばかりの徳の備はりあるものなるを、天照大御神と須佐之男大神と、天の安河にて、赤心(まごころ)の御誓ひの時にも、大御神の御身につけ賜へる玉を乞ひわたして、須佐之男大神の吹き成し玉ふに因りて、彌や始めに天忍穗耳命あれまし、邇々藝命は、其の大御子に坐しまして、主宰の徳ある玉を物實(ものさね)として、所生(あれま)せる神の中にも、兄の神と坐します忍穗耳命の御子なるを、天壤の無窮(むた)、此の地球顯事(くにあらはごと)の大主宰と定め玉ひ、御孫繼々、國土の顯政の主宰たる御徳、備はり坐すは、又た妙なることに非ずや。如此く主宰の御徳、自ら備はり玉ふ皇孫命なるを、其の上に、天津日嗣の御璽として賜へる三種の神寶なる玉は、別天の大主宰・天之御中主大神の御魂代、鏡は、高天原の大主宰・天照大御神の御魂代、劔は、月夜見の大主宰・須佐之男大神の御魂代と、三柱の大主宰の御魂代をさへ添へ玉ふは、物に主宰たるは、上なく重き御事なればなり[劔を、須佐之男大神の御魂代なりと云ふよしは、次に云ふべし]。

 如此く大御神等の御魂を添へ玉ふの神量りを、畏こみ畏こみ窺ひ奉るに、皇孫命の御代の繼々、御守りとなりて、大主宰の御徳を、天壤無窮に守らせ玉ふ、天津御祖神等の深き神量りと窺ひ奉られて、最も尊きことになん。さて此の御劔を、須佐之男命の御魂代なりと云ふは、先づ此の御劔は、天照大御神の岩戸隱れし玉ふ時に、八意思兼神の思はかりにて、玉・鏡・劔の三種を作り給ふ時、天目一箇根命の作り玉へる御劔なるが、此の劔は、始めより須佐之男命の御魂代となるべき、深き云はれのありし劔と窺ひ奉られて、大御神の岩戸隱れし玉ふ時に、此の御劔は、高天原より落とし玉へる劔なるを[此の古事は、『出雲國天淵記』の傳にて、平田大人も、『成文』に採られたり]、八俣の大蛇が尾に含みてありしが、後に須佐之男大神の御手に入り、暫く御許に置き玉ふて、此の大神の根國に入り玉ふ時に、天冬衣神を以て、天照大御神に奉り玉ふ御劔なるを、此の御劔の、高天原より落ちし時は、須佐之男大神も、神等にやらはれて、高天原を一たび退去(まか)り玉ひし時なるを、其の御魂代となるべき理りの備はりある此の御劔も、又た其の時に、自ら高天原より落ちしは、殊に妙なる理りなるが上に、又た其の御劔の、自ら須佐之男大神の御手に入りしを、根の國に至り玉ふ時、高天原に送り上げ玉ひしは、己れ命の御魂を留めて、後に皇孫命の御守りとなり玉はんの神量りなること、疑ふべくもあらず。故に皇孫命、御天降の時に、大御神の、此の御劔を添へ玉ふは、深き神量りにして、皇孫命は、大御神と須佐之男大神の御うけひの御間(みなか)の神孫(みま)に坐しませば、須佐之男大神の御爲めにも、又た御孫に當り玉ふ理りなれば、大御神の御魂代のみ、そへ玉ふべき御謂れに非ず、必ず須佐之男大神の御魂も添へ玉ふべき理りなり。

 さて三種の神寶は、如此くも尊き御寶なるを、能くも窺ひ奉らずて、近き頃の此彼の書の中には、「三種の神寶は、深き謂れの有るには非ず。唯だ大御神の御土産に賜はれるもの」などと云へるは、論ふにも足らざることなれ共、惑へる人もあらんかと、こゝに辨へ置くなり。かゝる説に、ゆめゝゝ惑ひそね。畏くも三種神寶は、天津日嗣の御璽なれば、上無き尊き御寶なれば、尚ほもこを見ん人、能くも考へ正し玉はんことを。
 

  • [33]
  • 天皇陛下には、「天地造化・主權君位の九柱大神」承祖の、宇内一帝の現人神に坐せり矣。草木、言止めて聽け。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 5月18日(月)18時24分55秒
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宇宙君位主權九柱之大神

開闢第一期・天地分判・物質凝固■天之御中主大神・高皇産靈大神・神皇産靈大神
開闢第二期・神祇彰呈・變化玄妙■伊邪那岐大神・伊邪那美大神
開闢第三期・天地定位・種業興基■天照大御神・須佐之男大神
開闢第四期・造化大成・顯幽分政■大國主大神
開闢第五期・皇孫降臨・顯幽通婚■天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝大神



●旭香美甘與一郎源政和大人『天地組織之原理』(明治二十四年七月・神典研究會事務所刊)卷之第四

○‥‥凡そ天地開闢以來、主權の坐す神は九柱にして、其の内、造化三柱大神を除くの外は、皆な神敕によりて定め玉へるものなり。然るに本と主權なるものは、一に歸すべきものなるが故に、如此く主權の神の多く坐すと云ふは、疑點あるべきことなれ共、眞に「大主權、一なり」と云ふは、大元靈・天之御中主大神に坐して、兩皇産靈大神は、此の大主權に添ひ玉ふ靈なるが故に、同じく主權君位の神なるは申す迄も無く、然れば他に主權君位の神は坐すべからざる理りの如くなれ共、既に天地有りて後、大陽・地球・月球と、一物分體したる以上は、其の一物の上に、必ず各自、主權君位の神坐しまさゞるを得ざるは、天地間、幽顯共に自然に備はる理りなるが故に、人間の上に於ても、一家を分ちて二家を立つる以上は、其の分家にも、又た主人無かるべからざるが如し。これ則ち造化の原則にして、分靈たる神の上に於て、自ら備はりたるものなり。

 然れ共も此の主權君位なるものは、大元靈・天之御中主大神の大主權より起るものにして、造化三柱神は、自ら主權君位の神なれ共、分靈たる神に於ては、自立して此の主權君位を持ち玉ふこと無く、必ず正統承祖の神を以て、御祖の神より、此の大權を御依任在らせらるゝに因りて定まる所なり。余、常に神典の明文に隨ひ、此の主權君位の歸する所を窺ひ奉るに、造化三柱大神を除くの外は、六柱のみにして、何れも承祖正統の御神系に出づる神に限るなり。故に吾が古傳中、最も尊むべく、最も重んずべきは、此の主權依任の神敕にて、其の敕、既に六度びなれば、こゝに其の六度びの御神敕を擧げて、主權君位の歸する所を明かにせん。

 先づ其の第一は、造化神と坐す兩皇産靈大神の承祖の神と坐す伊邪那岐・伊邪那美命に、「脩理固成」の御神敕を以て、天沼矛を賜ひ、大地球、造化御創業の大任を御依任あらせられたるにより、地球造化の大主權、擧げて此の二柱大神に歸したるなり。

 其の第二は、則ち伊邪那岐大神の承祖の神系にして、貴子と坐す天照大御神に、「高天原を知らせ矣」と詔り玉ひし御神敕にして、大陽・高天原に主權君位の神を定め玉ひ、大陽系中、大宇宙間の主權、擧げて天照大御神に歸したり。

 其の第三は、同じ御神系にして、地球造化、承祖の神と坐す須佐之男大神に、「海原を知らせ矣」と詔り玉ひし御神敕にして、此れ以後、地球造化の主權は、此の大神に歸したるなり。

 其の第四は、則ち‥‥須佐之男大神、故ゑありて、御母の坐す根國に入り玉ひ、後ち月球の主宰たる月夜見神と成り玉ひしによりて、地球上の主權は、悉く承祖の神孫・大國主大神に讓り玉ふに至りしなり。則ち「大國主神と爲し、亦た宇都志國玉神と爲し」との御神敕、是なり。

 其の第五は、‥‥「幽顯分任」の御神敕にして、高皇産靈大神の詔りに、「夫の汝しが治らせる顯露之事は、是れ吾が孫に治らす宜し。汝しは神事を治らす可し云々」の詔りにして、此の御神敕は、皇孫命と大國主大神の御兩神に、かゝる詔りにて、顯幽共に、これを宰り玉ふ主權の神を分立せしめ玉ふなり。

 其の第六は、則ち天照大御神より御承祖の皇孫・邇々藝命に、三種の神器を授け玉ひ、「寶祚の隆えまさんこと、天壤のむた、無窮へなる當し矣、とのりたまひき」と詔り玉ふ御神敕にして、是れ則ち吾が國、御國體の因りて起る所、皇道の大基礎なり。

 此の六度の御神敕は、神典中の主眼にして、此の御神敕を受け玉ふ大神等は、何れも主權君位の神に坐して、又た天津神・國津神と相分るゝと雖も、何れも造化の承祖の御神系ならざるは無し。同じ大神等の御子と雖も、承祖の神系と支系との別あることを明かにすべし。支系の神は、臣位の神と同じく、主權の大神に臣侍し玉ふなり。是れ皆な其の大原に遡れば、大元靈と坐す天之御中主大神の神量りより出づる所の造化自然の大原則にして、大元靈の大主權を繼承在らせらるゝ所なれば、天地・顯幽共に、此の主權を犯し奉るは、素より此の主權に歸せざるものは、則ち造化大元靈の大主權に背くものにして、神明の大憲法を犯すものと云はざるべからず。實に造化の主權に背く罪、是より大なるもの無し。故に吾が神典中、此の六度の神敕を以て、最も重且つ大なりとす。誰か、此の主權に隨はざるものかあらん。人立の主權は、假權なり。故に其の久しきを得ず。

 嗚呼、吾が國體、嚴として、夫れ尊きかも。如此く理由なるが故に、本講、主權の神には、大字を加へて、他の神とこれを別ち、主權の歸する所を明かにすべきを、古傳、天照大御神の外は、伊邪那岐・伊邪那美命・須佐之男命の、黄泉の段より後のみ、大字を加へたる傳なれば、古傳の儘、造化三柱神にも大字を加へず、講じ來りたれ共、こゝに主權の神の傳を講じ、益々感ずる所あれば、此れ以下、主權の神には、多く大字を加ふるにより、其の文例、一ならざる所あれば、他日、造化三柱大神を始め、主權の神九柱は、全篇とも、何れも大字を加へて、主權の歸する所を明かにせんとす。故にこゝに一言、これを謝す。

○或る人、問ふ。‥‥君位の神と臣位の神の別に付き、聊か疑點ある所を承り置きたし。先づ‥‥主權君位神、九柱なることは明かなるを、八百萬神の内に於て、獨化隱身の神と坐す葦牙彦遲神・天之常立神・國之常立神・豐雲野神の四柱、又た五元神・祓戸神等、及び大山祇神・大海津見神、或は豐受神・少彦名神等は、全く臣位の神とも窺はれず。此の神等は、如何なる神なりや、研究參考の爲め、伺ひ置きたし。

○答ふ。御最もの御質疑なり。御尋ねの通り、此の神等は、八百萬神中、聊か異なる神等にして、多く幽にのみ屬し玉ふ神にて、獨化隱身四柱の神等は、幽中、造化御分擔の神にて、申さば兩皇産靈大神の御連絡の魂とも窺はるゝことなれば、造化神御付屬の魂と窺ひ奉らるゝなり。

 又た五元神と申すは、造化の大元材たる五元其の物を宰り玉ひて、造化上、御分擔の神等にして、常に幽に屬し玉ふ神なれば、他の八百萬神と違ひ、獨化隱身四柱神と同じく、造化付屬の魂の神にして、神體を顯はし玉ふこと無く、神言を發し玉ふ等のこと無き神なり。最も此の中に於て、火神のみは、體生の神に坐して、一度び神體を顯はして生じ玉ひ、御配偶のこともあれ共、更に神言を發し玉ふ傳無く、特に神體は斬られ玉ひて失ひたれば、他の五元神と同じく魂神にて、幽にのみ屬し玉ふなり。

 又た祓戸神も、禍津日神の一柱のみ、五十猛神、或は大屋毘古神と、御別名の上に神體を顯はし玉ひて、須佐之男命の御神業を助け玉ひ、大國主大神の御神業を助け玉へる等のことあるも、御本靈は、幽にのみ屬し玉ひ、四柱とも御連絡の魂にて、天照大御神と須佐之男命の御付屬の神に坐せば、他の八百萬神と異なり、又た大山祇神・大海津見神も、山海其の物を御分擔遊ばさるゝ、一種主權の神にして、二柱とも、分體奇成の神に坐せば、又た體生・八百万神と異なる所あり。大國主大神の御幽政中、山に屬する神仙界と、海に屬する神仙界等は、全く大國主大神の御幽政を、此の二柱神にて御分擔遊ばさるゝものゝ如く窺はれ、何れも神仙府を宰り玉ふ等、一種主權の神にして、皇孫降臨の後、天津日高御子等の御配偶は、此の大山祇神と大海津見神の御神系の比賣神等なれば、吾が國一系正統の皇胤も、御母方は、此の兩大神の御神系なれば、皇統にも深き御由緒ある神なるを知るべきなり。

 是等のことを以て考ふるに、第二期中に、奇成の神等は、天照大御神と須佐之男命二柱の貴子と坐す承祖の神を除くの外は、皆な幽に屬し玉ふを常とする神等にて、顯に神體を顯はし玉ふことは、偶々其の變なりと窺はるゝなり。此の外、第二期中、奇成の神にては、速秋津日子・速秋津比賣神の二柱、河海によりて持別けて生ませる八柱の水分神等、又た大山祇神と野椎神の二柱、山野によりて持別けて生ませる八柱の狹霧神等も、皆な雨露を造化し玉ふて、幽に屬し玉ひ、神體出現のこと無きは、全く何れも造化御付屬の御魂にして、他の八百萬神と異なる所あり。是れ則ち奇成神の、特に奇しく坐して、幽に屬するを本旨と成し玉ふ所以なり。然れ共も幽顯相通の神世には、又た幽顯の間、配偶も相通ずることにて、其の間に御子をも成し玉ふことなるが、其の御子神等に至りては、又た體生の八百萬神と同じく坐すなり。

 且つ‥‥豐受神は、造化の上に大功業坐すのみならず、神體は犠牲に供し玉ひて、全く幽にのみ屬する魂神と坐し、天照大御神も、これを祭り玉ふ程の神に坐し、又た少彦名神は、葦牙彦遲神の御變化の神體にして、素より造化付屬の魂より成り出で玉へるが故に、大國主大神と共に、造化大成の業を助け玉ひ、大國主と坐す主權の神の御義弟にして、出顯出沒、無量の御神術坐し、或る時は顯造化を助け玉ひ、後に常世國に渡り玉ひし程の神にて、八百萬神に異なる所あり。

 如此く理由あるによりて、‥‥獨化隱身神より、少彦名神迄の神等は、多く幽に屬する造化御分擔の神にて、臣位神とは申しがたき神なれ共、天津御祖大神の大主權の上より申す時は、高皇産靈大神に坐しても、天照大御神を、高天原の大君として、これを御補佐遊ばさるゝことなれば、九柱の主權の神等の外は、皆な此の大權の臣位とも申すべきか。これ等を參考として、神明の上に於ても、造化と神政の二つあることを窺ひ奉り、萬神にも、又た造化に屬し玉ふ神と、神政に屬し玉ふ神の別あるを知るべきなり。最も主權君位の神は、素より造化と神政の兩ながら相兼ね玉ふは勿論、其の他の萬神と雖も、又これを兼ね玉ふことあるべけれ共、其の專掌し玉ふ所は別あり。最も造化に、顯造化と幽造化の別ありて、前に擧げたる奇成の神等は、皆な幽造化にして、幽中、造化の神機に參與し玉ふ神等なり。其の中、祓戸神四柱のみ、幽中の神政を助け玉ふ方、專らなる神と窺はる。



●樂天翁美甘政和大人『天地組織之原理』卷之第五

○謹みて考ふるに、綿津見大神は、伊邪那岐大神の御禊の時、祓戸四柱大神の出顯坐したる次に出顯坐したる大神にして、其の次には、無上至尊と坐す貴子・天照大御神と須佐之男大神、出顯坐したることなるが、神とも神の中にも、此の二柱の貴子と坐す大神は、特に尊く、君位大主權の大神なるは申す迄も無きことなるが、都べて其の他、祓戸大神・綿津見大神とも、此の時に奇成し玉ふ神は、特更に大なる御神徳の神に坐して、第二期出顯‥‥祓戸神等は、天照大御神と須佐之男大神に添ひ玉ふ御連絡の御魂に坐すを、此の綿津見大神は、大海を掌り玉ふ大神なるを能く考ふれば、此の地球にても、大海ほど大なるもの無きことにて、伊邪那岐・伊邪那美命の、始めて此の地球に、天沼矛を以て天降り玉ひし時には、第一期‥‥此の地球は、未だ地骨だに無き一面の泥海なりしものにて、其の後、漸々と順化し、伊邪那岐命の御禊の時には、最早、穗之狹別嶋、則ち吾が國は海面に噴起したる時代にして、造化分擔の原則に隨ひ、海には、海の事を宰り玉ふべき神坐さゞるを得ざるの時運なるが故に、造化自然の神量りより、綿津見大神出顯坐すに至りたることと窺ひ奉らるゝことなるを、今日にても此の地球は、大陸三・大海七とも申すべき程なる大海を宰り玉ふ神なるを以ても、其の御神徳の廣且つ大なるを知るに足るものなり。最も此の地球造化の大主權は、第三期に至りては、伊邪那岐・伊邪那美命に代はりて、須佐之男大神に坐すが故に、海陸共に造化の大主權は、須佐之男大神の知食す所なれ共、綿津見大神は、其の内の海部に屬することを御分掌あらせられて、一種主權の大神なるは、‥‥御自ら「吾れ、水を掌り云々」と詔ふにても知られたることにて、又た海宮の神傳に、海中統轄の御神徳は明かなることなるを、其の大神の如此く迄、天津日高の御子・空津日高と坐す太子を御守護あらせらるゝは、全く皇孫命の御代の繼々は、大陽系中、無上至尊たる天照大御神の御承祖の神統を以て繼ぎ玉ふべき幽契によるものにて、此の時、御女・豐玉毘賣命を大后に奉り玉ひしによりては、又た皇統の御母系は、此の前の大山津見大神と同じく、綿津見大神の御神統をも共に受け玉へることなるが、此の山海の兩大神等は、‥‥地球上、一種主權の大神に坐すが故に、皇孫命の、此の地球の顯事を知食すには、必ず此の山海兩大神の御神統も加はり玉はざるを得ざる造化自然の幽契より出づる所なるべく窺ひ奉らるゝことなるを、平田先哲も論じ置かれたる如く、綿津見大神は、特に兵事・軍事に幸ひ玉ふ神に坐すこと、本傳の明文に聞えたる通りにて、此の時にも、火遠理命に誨へ玉ひて、「攻戰者云々」、是れ全く軍事・兵事を授け玉へるにて、神武天皇以後と雖も、彼の息長帶比賣命の新羅國を平らげ玉ふ時にも、此の大神の御誨へありて‥‥、此の時の三柱の筒男神は、則ち住吉大神に坐して、所謂る綿津見大神に坐すなり。是を以ても御代々々天皇命の大御代を守り幸ひ玉ふは素よりにて、天下萬民を幸ひ玉ふ御神徳の大なるを拜謝し奉るべきものなり。尚ほ云はゞ、元寇蒙古の亂にも、敵船、悉く海底に沈沒したることあり。世にこれを神風の致す所となし、風神のみに其の徳を歸するの説多くして、此の時は、神風、波濤を起して、敵船、悉く沈沒したるは疑ひ無きことなれば、龍田大神の御神徳は、素より論ずる迄も無きことなれ共、深く道理を推して考ふれば、此の時のことも、全く風神のみならず、必ず海神の御神徳加はらざれば行はれざることにて、申さば風神と海神の御兩徳、專ら敵船を海中に沈沒せしめ玉ふ理りなるを、そは冥々の中の神量りなるが故に、其のことの、顯よりは窺うひがたきが故に、其の御徳を知らずあるなり。是等を以て考へ奉るも、綿津見大神の軍事に幸ひ玉ふ御神徳の、最も高きを知るべきなり。特に今日は、地球上、各國、互ひに其の雌雄を爭ふ時なるに、吾が國に渡來せんには、皆な綿津見神の知食す海路に由らざるべからず。萬一、國家、事あらんとする時は、必ず綿津見大神は、特更に吾が皇國を守り玉はんこと、此の海宮の段の幽契あるに因りて明かなるものなれば、深く神典を講究し、上下一般、其の神徳の尊く畏るべきを肝銘し、其の御神恩を感謝し奉らざるべからず。徒らに外邦傳來の無神論者が邪説に惑ひ、神國の人と生れながら、神徳の何物たることをも辨へざる小人輩、深く自ら反省する所あるべし。

○さてこゝに一言、申し添へ置くことあり。そは如何となれば、地球上の神事・幽政は、第四期・第五期の間に於て、全く造化大神の神敕を以て、大國主大神の御大權に歸したるものなれば、山海の幽府・神仙境と雖も、又た此の大神の幽府神政の御大權中に歸したるものなれ共、大山津見大神と大綿津見大神は、素より山海其の物を宰り玉ふ、一種主權の神なるが故に、山海其の物は、此の兩大神の御分掌に屬するは勿論のことにて、山海幽府の神政も、又これを御分掌あらせらるゝ理りなりと雖も、地球上全體の幽事・神政は、大國主大神の御大權なるは、造化大元靈・天之御中主大神に添ひ玉ふ、高皇産靈大神の定め玉ふ所なれば、山海幽府の神政を、大山津見大神と大綿津見大神の掌り玉ふは、全く御分掌と窺ひ奉るべきものなり。大國主大神は、山海の兩大神より後に出顯の神に坐せども、造化承祖の御神統なるは、‥‥尚ほ其の大主權は、造化神の定め玉ふ所なれば、何れの神と雖も、其の神敕に隨ひ玉はざるを得ざるは、則ち造化神の主權御依任の神敕、重きが故なり。既に毎年十月の季を以て、上代より出雲浦に、海神の神使として、龍蛇なるもの來ること、今日も尚ほ絶ゆるなし。上古は、其の日に當れば、海面、必ず大浪を起したりとの傳もあり。今、其の事無しと雖も、尚ほ其の式の存すると、小蛇の海上より濱邊に寄り來るの奇事ほ存せり。幽中のこと、爭ふべからざるものに非ずや。尚ほ海宮のことに就ては、申し述べたきこともあれ共、‥‥海宮のことを講究するには、平田先哲の『三神山餘考』、最も意を盡されたるものなれば、就て見らるべし。



【參考】
●越後國小千谷神道流・村山惣作翁『日本精神の本義顯彰は産土神信仰から(タマシヒの安定は鎭守樣から)』(昭和十二年九月・五色屋書房刊。平成元年六月・山雅房覆刻)に曰く、

「顯政を事依されし皇御孫命は、天照大御神・伊邪那岐神・高皇産靈神に歸一し、幽政を事依されし地祇大國主神は、素盞嗚神・伊邪那美神・神皇産靈神に歸一す(同一の神魂)。‥‥

 高皇産靈神の言依しによりて、顯幽は分治せられ、大山祇神の言の葉によりて、皇孫命の御壽命に影響し、石長姫神の言の葉によりて、青人草の命は短くなり、豐玉姫神の言の葉によりて、海陸の交通が杜絶した事は、皆な造化の樞機に參與し給ふ神々の、命々の一部改變である。‥‥

 大物主神が率ゐ給ふ八十萬神の中に、産土神は勿論、諸外國の國魂も含まれ給ひ、國津神は、天津神の命に歸順せられて、活潑々地の活躍をなし給ふ實證も此處にあるので、大國主神は、天神・天祖の大御心を心とせられて、天地のあらん限り、我が御皇室を守護し給ふ、謂はゞ大責任者にましますのである(出雲大社の宮造りの樣式は、正面に天津神を奉祭し、横に大國主神がお住居あらせらる)。古來、我が國に於て、毎年十月十一日より二十六日(大齋)まで、出雲の宮に參集されると傳へられてゐるのは、正しく天津神に奉答し給ふ御爲めである。日本の國魂は、畏くも別天津神高皇産靈神の女・三穗津姫神と合一し給ふから、地津神中の地津神としての御地位が確立せられたのである。「疎(うとぶ)る心」とは、(大國主大神が)國津神を妻とせば、國津神中の首としての地位がきちんと定まらぬ、といふ意味に解すべきである。御國讓りの御儀は、靈的には地津神(國魂)が、天津神の御稜威によりて處を得られたる御事に外ならぬので、是れ宇宙の眞理である」と。
 

  • [32]
  • 蛭子──攘夷のおこり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 2月24日(火)00時32分15秒
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●大國隆正翁『尊皇攘夷神策論』(文久二年冬、藩主・龜井茲監卿への上書)に曰く、

「尊皇攘夷の神策(かむはかり)は、天地造立のはじめより定まれる神理の大本、わが大道の要旨になんありける。まづその攘夷のおこりより、これをとくべし。『古事記』に云く、

伊邪那岐命・伊邪那美命云々、女人の先言(さきこと)、良からず。然りと雖もくみどに興して、子・水蛭子を生み、此の子は、葦船に入れて流し去(す)てつ。次に淡島を生む。是れ亦た子の例(かず)に入れず

とあり。この前後の文を考ふるに、前の文に、「國土(くに)を生み成さんと爲(おも)ふ」とあり。後の文に、「既に國を生み竟へて」とあり。これによりておもへば、蛭子は、神にあらず、國となるべき酵(もと。元種)になんありける。猶ほおもふに、水蛭子と淡島とを竝べあげたるは、水蛭子も、後には島となり、淡島も、はじめは水蛭子にてありけることをしらしめんとする、此の『記』の文法なり。事を迭(たがひ)にして相發せしむる文法は、支那の古文にもあることなり。これによりておもへば、これよりのちにうみたまへる島々も、そのはじめは、ことごとく蛭子にてこそありけらし。

 蛭子は、血をすふものになんある。これよりまへ、泥土邇神・砂土邇神、おはします。その泥土・砂土、この蛭子にすひよせられて、國土となりしものとしるべし。「葦船にのせて」とある、その「あし」は、泥土・砂土をかためて、國土とするものになんある。「あし」といふは、水を涸(あせ)しむるによりていふ名なり。同じ蛭兒ながら、みこゝろにかなひたまへると、みこゝろにかなひたまはぬとありしなり。そは、女人先言と改言とのたがひあるによりてなり。流し去てたまへる蛭兒は、夷ともいひて、朝鮮國よりあなた、支那・天竺・蒙古・韃靼、それより西北南、いま西洋人のいふ六大洲、皆この蛭兒のひろごれるものとしるべし。

 女人先言、そのくにゞゝの國魂となりてあるにより、そのくにゞゝよりおひいでし人は、下として上をおかすこゝろつよく、これにより、そのくにゞゝの王統は、定まらざるものになん。日本國にては用言を後にし、支那人は體言を後にいふたぐひ、これもまた女人先言、その國魂となりてあるによることなり。これらを徴(あかし)として、女人先言の蛭子は、日本より外、六大洲の本とおもひさだむべきなり。

 イザナギノミコト、ながしすてゝ、みこの例にいれたまはざりしをもて、このときを攘夷のはじめとおもひしるべきなり。しかはあれど、クミドニオコシテといへることばに、その蛭兒をもすてたまはぬ神理あり。クミドニオコトシテといふこと、『記』中、たゞ二處あり。これよりのち、須佐之男命、奇稻田姫にみあひまして、八島士奴美神をうみたまへるところに、クミドニオコシテといふことある。クミドは、組處をいひて、男と女と交接(まじはる)ことをいふことばなるが、そのうちに、女人先言の國魂と、改言の國魂と組合ふべきこゝろを含みてあるものなり。八島ジヌミノ神の名と、その子孫の事業とを合せ考ふるに、この神は、女人先言の國にわたり、改言の大八島の事をしぬび、日本國のために後見せんとおもほしける神になんおはしましける。

 まづ攘ひて、のちにひきよせたまへる神策をおもふに、今の時にあたり、五國のものゝ暴虐をにくむは、夷子(えびす)をにくみたまへるイザナギノミコトの改言の國魂をもちてうまるゝ日本國の人心、さもありぬべきことになん。さるをおのれ、『(尊皇攘夷)異説辨』に、異國をうちしたがへ、新日本をさへ、外國へつくらまほしくいひおけるは、八島シヌビノ神の神意を、いたづらにせじとおもふこゝろをのべたるなり。‥‥

 八島ジヌミノ神よりはじめて、スサノヲノミコトの部屬の神、外國にわたりて、外國をひらきたまひ、日本國のために、萬物をつくりおきたまへることは、『古傳通解』にくはしくこれをときおけり。されば外國の物なりとて、事なりとて、きらふべきにあらず。とりて用ゐ、その神功をいたづらにすべからず。わが攘夷は、外國に靡くこゝろを攘ふ攘夷なれば、こゝろを尊皇にかため、外夷を制し得て、わが國威をかゞやかさんとすべきものなり」と。



●大國隆正翁『尊皇攘夷異説辨』(文久二年冬、同上)に曰く、

「攘夷のこゝろを
すみつきし えみしをはらふ 神風は ひとの手よりぞ ふき出にける
‥‥
 わがとく攘夷は、形質皮膚の攘夷にあらず。實理大道よりいふ攘夷にして、西洋夷人に、尊皇のこゝろをおこさしめんとするものなり。わが皇國、皇威を蔑如する夷情をはらひ、又その夷情にしたがふわがくにの奸徒をも、はらはんとする攘夷なり。これにより、つひに大帝爵のまこと、あらはるべきなり。尋常匪學者たちのいふ攘夷の説とは、ひとしからず」と。
 

  • [31]
  • 節分祭、大祓奏上。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2015年 2月 3日(火)21時46分44秒
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 本日は節分。八雲起つ出雲の大社節分祭。また奈良春日大社萬燈籠。來る歳の「惠方」は、「庚」なり。歳徳神、即ち須勢理姫大神(西王母、即ち東王父大國主大神の后。或云、刺國若比賣神、即ち大國主大神の御母)の巡りて、惠ませ給へる方位なり。此の方位の神社への參拜、大吉なるべしと云へり。殊に出雲大社、之を重んじ尊び給へり。亦た天兒屋根命『大祓』を奏上して、除災招福を祈つて可なり。



●平田大壑大人『三五本國考』卷二に曰く「伏羲氏東王父は、疑なく神典なる大國主神に坐し、女□氏西王母は、疑なく其の后神須勢理毘賣命にぞ坐しける。前には大和魂・大物主神と其の后神・三穗津姫命を當たりしかど、後に尚また深く考へて、かくは定めつ」(生田萬菅原國秀云、「神母は、天之冬衣神の后、刺國若比賣命なるべし」と)と。



●物集高見博士『人界の奇異と神界の幽事』(大正十四年十月・嵩山房刊)に曰く、

「神界には、無上の神もおはしまし、また然(さ)らぬ神たちもおはし、死者の靈も、妖魅の類ひも居り、また天狗・仙人などの神通力ある者、或は狐狸なども出入せるが、天狗・仙人などは、時として人を神界に伴ひ、狐狸の類ひは、人に憑り人を誑かして、種々の幻影を示す事あり。抑も神界には、神界の掟ありて、濫りに顯界の人に接し、或は人を誘惑するなどは爲すべきにはあらねど、神の監視を潛りて、あらぬ所爲をもする事あり。神界の掟といふは、例へば國郡には國郡の神、町村には町村の神おはして、國郡の神は、國魂神と申し、町村の神は、地主神とも産土神とも申せり。國郡の國魂神は、町村の地主神・産土神、及び諸家の氏神たちと倶に、其の地の人を鑑視して、神界の大主宰と申す、大國主尊に仕へ給ふなるべし。毎年十月には、天下の諸神、出雲に參り給ふ趣(さま)に、古くより言ひ來れるは、先輩の説の如く、諸神、其の主管せる地の、年中の事を申告し奉るにはあらぬか。

 神には、種々の事を掌り給ふ神、おはします。例へば火神は、火を掌り給ひて、人に其の用を爲さしめ給ひ、水神は、水を掌り給ひて、人に其の用を爲さしめ給ひ、年神は、耕作を守らせ給ひ、保食神は、衣食の事を守らせ給ひ、また大己貴・少彦名神は、醫藥・禁厭の事を教へて、人を惠ませ給ふが如くにて、みな人の爲めに議(はか)らせ給ふ事なるが、其の神たちには、隨從の神もおはす事とて、幾柱ともなくおはせば、自ら高下尊卑の品もありて、其の往來し給ふ空中の道も、幾條(いくすぢ)もありと覺しくて、神人に伴はれて空中を行きし(仙童)寅吉なども、「其の行く道よりも遙かなる上空に、幣帛の如くにて、金色の光ある物の閃くを見て、路傍に跪きて拜みたるが、此は、貴き神の御幸なりき」といふ。また寅吉の言に、「其の行く道よりも下空に、頭巾やうの物を頭に載せたる人の、鶴に駕(の)りたるが、歌をうたひて過ぎたるを見たり」ともいへり。

 神たちは、神界におはしまして、何事を爲(せ)させ給ふかといふ事は、凡夫にして窺ひ知るべきにはあらねど、天孫の降臨に依りて、顯界を置かせ給ひしより、顯界を守らせ給ふべきは、幽契おはして、萬事につきて、人を惠み守らせ給ふなるべし。然るに神界に在る妖魅どもは、神の御目を偸みて、自己の欲望を逞しくせん爲めに、種々の障碍を爲す事あるをもつて、神は、また妖魅の爲めにも、御心を勞はらせ給ふ事ありげなり。然るにまた妖魅どもは、神の穢れを惡ませ給ふを知り、また神は、穢れの在る處は避け給ふをも知りて、穢れをもて、神を遠ざけ奉らんとして、人を誑かして、穢れに觸れしむる事あり。然れば心あらん人は、心身ともに、穢れさせじと用意すべきなり。大凡そ世間の惡事災難は、悉く穢れより來たる。穢れあれば、神の守護なきからに、其の虚に乘じて、妖魅どもの跋扈跳梁する故なり。一度兩度の大祓といふも、實に此の穢れを祓ひて、神の眷顧を蒙らんとするが爲めなり。妖魅は、神界に居て、顯界の人に禍ひする故に、神は顯界を兼ねて、御心を勞づかせ給ふなり。然るに神は、また妖魅どもの外にも、顯界より歸り來たる人の靈どもをも、或は賞し、或は罰し給ふ事もあるべく、或は神界に留め、或は更に顯界に出でしむるなどあるべし。‥‥人の魂は、善にも惡にも凝り固むれば、堅まりて滅(き)ゆる事なけれども、凝る程の事も無きは、衆(おほ)くの魂、相混じて、人にも物にも生れ、或は小さくなりて、漸く減りて行くもあり。鳥獸などは、種々の物に生れ替はり、或は終ひには消失するなり。かゝる事は、みな其の方の神おはして、爲させ給ふ事なれば、神は、人の唯だ汲々として衣食の事にのみ勞づくが如くにはあらで、多事多忙におはする事は察し奉るべき事なり。

 凡そ人世に起る善惡、種々の事は、みな神たちの御心より來たるなれば、人は能く神の御上を思ひ奉りて、其の御惠みを蒙らん事を願ふべき事なり。神の奇びなる御事は、全く人智をもて窺ひ知るべきにはあらず。人智は、事物に就いてのみ知る事なれば、事物を離れたる上に就いては、人智は用ひらるべきにはあらず。例へば神魂の人身中に在るは、知らざる者なけれど、影も捉ふること能はざれば、全く知ること能はざるが如し。猶ほいへば、神は、人の未だ言(ことば)には出さゞるをも、其の念の胸中に生ずる時は、直ちに知ろし食せども、人は言を聞かざれば、知ること能はず。神は、年の豐凶・事の吉凶をも、未然に知ろし食せども、人は、其の事に會はざれば、知ること能はざるが如し。然れば矢野(玄道)翁も言はれたるが如く、深源法印は僧なれども、其の詠める歌の意(こゝろ)は、今ま此にいふこと適(かな)へり。其の歌は、『新拾遺集』に載せられて、人も知れる歌なり。

後(のち)の世も 此の世も神に まかするや
 愚かなる身の たのみなるらん
」と。
 

  • [30]
  • 『誓旨奉體の祈願祭に於ける祈誓詞』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年11月16日(日)22時47分36秒
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【昭和天皇の大詔】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t13/7

 前田孝和氏『研究ノート・地方神社から見た終戰前後の情報傳達──北海道・郷社靜内神社の「終戰直後關係書類」に見る』(『皇學館大學研究開發推進センター神道研究所紀要』第三十輯・創立四十周年記念號・平成二十六年三月刊に所收)から。



●大日本神祇會北海道支部長の會員神職宛通知文書『誓旨奉體の祈願祭執行に關する件』(昭和二十年十月六日付。國體護持の信念を、愈々堅持する爲めに、毎月の一日、又は十五日の月次祭に於いて、宮司・社司・社掌の月次祭祝詞の奏上に次で、參列者總代または參列者全員が、『祈誓詞』を奏上することを求めたる『月次祭別辭案』の例示)

『祈誓詞』[參列者一同にて奏上するもの]

戰爭終結の大詔を奉體し
擧國一家
忍苦 誓つて國體を護持し
總力を 新日本の建設に捧げ奉る
神明照覽
速に皇威を恢復し 國家再建の大業を達成せしめ給へ
神州不滅 皇運隆昌
大御稜威を 永遠に輝かしめ給へ
大御稜威を 永遠に輝かしめ給へ
守り給へ 幸へ給へ
守り給へ 幸へ給へ




 愚案、此の祝詞別辭案文に則り、今も神前にて奏上されてをられるのであらうか。吾人有志も、之を參考にして、現在只今に於いて、畏み謹みて御前にて奏上したい。
 

  • [29]
  • 『神教要旨』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 8月23日(土)13時18分53秒
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●神宮教會飜刻『神教要旨』(明治五年刊・神宮教會藏版。亦名『教會要旨』。白文を試訓すること、左の如し)

敬神
明倫
 右、神教之綱

 天祖は[天神・天祖、其の徳一なり。故に天祖を擧げて、以て之を概す]、天地の主宰、照臨して上に在り、終古易らずして、萬物の由つて生成する所ろ也[國土を經營し、人民を蕃息するが如き、是れ也]。人は、萬物の靈にして、魂は、神の賦與する所、死するときは、則ち其の本に復歸す。死生、貳はず、唯だ神、是れ頼る所以ん也。産土神、又た其の地を分司し、神徳一體、以て崇めずんばある可からざる也。夫れ神に事ふるの道は、至誠を本と爲す。至誠、其の道を盡せば、斯(こゝ)に神、之を歆(う)く。善惡の應、幽明、誣ふるに匪ず。報本反始、豈に忽せにす可けんや乎。
 右、敬神之目

 君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五つの者は、彝倫也。以て正さずんばある可からざる也。忠信、以て其の性を盡し、力行、以て其の職を効(いた)す。此れ、倫を明かにする所以ん也。
 右、明倫之目

 謹按、『日本書紀』に、「天照大神、手に寶鏡を持ちたまひて、天忍穗耳尊に授けて、之を祝ぎて曰はく、『吾が兒、此の寶鏡を視まさむこと、當に猶ほ吾を視るがごとくしたふべし。與に牀を同じくし、殿を共にして、以て齋ひの鏡と爲したまふ可し』と」。又た「皇孫に敕して曰はく、『葦原千五百秋之瑞穗國は、是れ吾が子孫の王たる可き地也。宜しく爾皇孫、就きて治めたまふべし焉。行きたまへ矣。寶祚の隆んなる、當に天壤と窮り無かるべき者なり矣』と」。至れるかな哉、神訓、以て尚(くは)ふること莫し焉。故に今ま『綱目』を掲示し、天下萬姓をして適從して、以て一人(天子)に事へまつり、以て神明の洪徳に報いまつる所を知らしむる也。

 神宮教會藏版
  弘所 安濃津宿屋町・篠田伊十郎
 明治壬申刻成 刻工 津・岡源兵衞



 愚案、蓋し『神教要旨』は、神宮祭主・近衞忠房公の謹撰なる可く、亦た『神教要旨略解』は、千家尊福大人の著す所なる可し。而して下記の神宮古文書に先行するものなるを疑はざる也。
  ↓↓↓↓↓
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815506/1

○神宮古文書合册『神典採要通解』(鈴木重道翁解説。平成二年六月・山雅房刊)
一、『神教綱領』一卷・明治六年七月刊・神宮祭主兼大教正正二位近衞忠房謹撰・神宮教院藏版
 曰く天神に敬事す。曰く國土を愛念す。曰く人倫之道に順ふ。
 曰く祖先を祭祀す。曰く各々其の職を効す。曰く不善を作す莫れ。
一、『神教綱領演義』一卷・明治七年一月刊・豐受大神宮主典兼中講義山口起業演義・神宮教院藏版
一、『神典採要』一卷・明治六年十一月刊・神宮少宮司兼少教正正七位浦田長民謹輯・神宮教院藏版
一、『神典採要通解』四卷・明治七年一月刊・豐受大神宮主典兼中講義山口起業謹撰・神宮教院藏版
一、『人身三要論』二卷(下記◇の神拜詞を收めたり)・明治八年六月刊・皇大神宮主典兼權大講義山口起業撰・神宮教院藏版
一、『皇大神宮大麻奉祀式』一卷(下記■の兩拜詞を收めたり)・明治六年十二月刊・神宮教院藏版



◇神拜詞(若し心に正しからぬ事をおもふやうな事がある時)

天津神・國津神、祓へ給ひ清め給へ
天照大御神




■祭日神拜詞

掛けまくも恐き、天照皇大神の宮の大麻を齋き祭れる、此の神床に、愼み敬ひ仕へ奉りて、畏み畏みも白さく。

過ち犯せるこゝだくの罪を、水の淡の早瀬の浪に消え失する事の如く、淡雪の春日の影に消え失する事の如く、消し失ひ賜ひて、皇大御神の貴(うづ)の御孫と大座します天皇尊の所知し食す政事は、天地の共(むた)、平らかに顯見(うつ)しき蒼生(あをひとくさ)の生ける日の職業(なりはひ)は、彌や益に彌や廣に、退れる後の快樂(たぬしみ)は、永久(ひたぶる)に窮まり無く、守り賜ひ授け賜ふ大御徳(おほみいつくしみ)を尊び喜(うれし)び、供進(たてまつ)る御酒・御供を、平けく安けく所聞し食せと、畏み畏みも白す。



■毎日神拜詞

掛けまくも綾に恐き、天照座皇大御神、過ち犯せる諸々の罪穢を、祓ひ給ひ清め給へと、恐み恐みも白す。
 

  • [28]
  • 千家尊福大人『教旨大要』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 8月20日(水)21時59分47秒
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●司法大臣正二位勳一等・大教正・教部省教導職西部管長・神道大社教管長・出雲大社大宮司・男爵・出雲國造第八十代・千家杖代彦出雲宿禰尊福大人『教旨大要』(明治十七年二月・千家藏版)

  神道大社教管長・大教正・從四位・千家尊福著

【教源】
 造化の神靈は、其の源一にして、宇宙に瀰淪す。故に天地位し、萬物育し、四時來往して、以て生々化々、窮りなきは、一も造化の神徳に非ざるはなし。是れ一本散じて、萬殊となり、萬殊、又た一本に歸する所以なり。是れ則ち惟神大道の教源なり。

【教體】
 萬殊一本、衆理一源に歸すと雖ども、已に天地位を異にし、幽顯界を分つに至つては、各々之が主宰ありて、統御の區域明かなり。其の統御の區域を知り、以て適從する所を定むるは、萬殊一本の眞理を明かにする所以なり。是れ則ち惟神大道の教體なり。

【教用】
 主宰統御の區域、已に明かなれば、信頼すべきの序、亦た正しからざるを得ず。故に造化の大源に達せむことを欲せば、必ず先に幽冥主宰の大神を信頼せざるべからず。而して之に事ふるの道は、君父に忠孝なるに始まり、君父に忠孝なるは、我が身を修むるに基く。是れ本教の實用にして、順序の亂るべからざる所以なり。而して神は、最も忠孝の人を助く。故に此の理を以て、神に事ふるか乎、其の道を誤らず。人に接するか乎、其の方を亂らず。修身誠意の實功、是に於てか乎、行はる。是れ則ち奉教の實用なり。

【國體】
 天壤無窮の神敕は、君臣の大義を教示し給ふ所にして、皇基の由つて以て定まる所、國體の由つて以て起る所なり。故に此の神敕を敬戴して、皇基を萬世に奉護し、國體を無窮に保持するは、臣民の義務にして、神明に敬事するの一大要旨なるを知り、至誠、以て其の道を履行すべし。是れ則ち本教を奉ずるの主眼なり。

【魂神】
 靈魂は神賦にして、祖孫、其の命脈を一貫す。故に人死すれば、靈魂は必ず幽府に復歸す。是を以て生死、神助に洩れざる所以を明かにし、且つ祖孫の親愛は、獨り顯世に止まらず、幽府の靈魂に感通することを辨へて、深く幽冥主宰の大神を信頼し、厚く追祭の誠を盡し、以て靈魂安定の本據を確守すべし。是れ則ち靈魂の終始、唯だ神に頼るべき所以なり。

【行務】
 造化の神意を奉承し、修理固成の神業を擴張するは、人道の要務なり。故に利用厚生の顯行を勉め、萬物をして各々其の用を遂げしめ、以て天工を翼贊するの功を奏すべし。是れ則ち萬物増進の神理に隨ひて、萬物に長たる者の履行すべき本務なり。



 愚案、夫れ世に萬般の宗教・學術あり。各々正義を以て主張す。然れども尊皇崇祖に基づき、之を主唱實踐せざるもの、又た尊皇敬神を以て第二義と爲すものは、畢竟、邪教魔説、玩物遊戲なること、自ら審神(さには)して、明かに知る可きなり。而して記紀を宗とせず、之を貶むるは固より、或は之を他文と相對化せしめむと欲するもの、或は邪蘇暦を用ゐ、或は神宮・皇室に對し奉り、不敬の言辭、些かも見ゆるものも、亦た之に同じ。獨坐反省、大いに自ら審神の妙用を驗するに足る。我が本教、即ち惟神の大道は、天人唯一、幽顯無敵、疑ふこと勿れ焉矣。
 

  • [27]
  • 角田忠行翁『葬事略記』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 8月19日(火)20時03分48秒
  • 編集済
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●熱田神宮大宮司・贈從四位・鎭石室角田由三郎紀忠行翁『葬事略記』(家藏。刊行年なし。明治十七年十二月の刊本に非ず)
  ↓↓↓↓↓
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815734

 人の子たらむ者、父母のよはひ(齡)五六十歳にも至らば、請ひてその肖像を寫し[或は歌にても詩にても、得意のものを書せ]置くべし。さて年老い病ひに罹りて、危篤(あや)ふからんと、人も吾も思はむ時は、親族うち寄り、家につき、身につき、心得とせむ事どもを尋ね問ひ、また遺言等あらば、皆な記し置くべし[病者も、其の家に靈魂を留めて、吾が子孫をして、御國に君に、忠を盡さしむる守神とならむ事を、常に思ひ定めてありぬべし]。

 既に息絶えなば、家の神棚を封ずべし。さて是より棺を作る。其の用材は、柀(まき)[さはらとも云ふ]の木を用ふべし。是れ神代の御掟なり[此の木なくば、松の木など用ふべし。檜・杉の類、用ふべからず]。作りやう、其の人の丈に應じ、臥したるまゝ、衾・蓐(ふすま・しとね)と共に收めらるゝやうにすべし。死者の衣服、收むべからず。唯だ新衣一枚を、そのうへに着すべし。さて棺に移して、面に覆ひをなし、禮服・刀劍等は、そのかたしろをつくり、其の人の手なれの品ども添へ納め、中を動かぬやうに[石灰、或は炭、或は籾糠等を袋に入れ]、堅くつめて蓋(ふた)をなし、釘にて固むべし。なほ四方内外とも、合逢(あはせ)めに松脂(まつやに)をぬるべし。

[座棺は、便利なるを以て、後世、然かすれども、死體の膝・腰を折り屈めなどするは、忍びざる事なれば、なるべく丈は、臥棺にすべし。また死體を素裸にし、沐浴するなどは、其の人を恥かしむる理(わざ)なれば、然る事はすべからず。何(いか)ばかり洗ひても、清淨にはならぬものにて、携はる者は、深く汚るゝ事なればなり。また死者を長く留め置き、息氣などいでむも、亦た其の人の恥なれば、其の心配もあるべし。]

○さて棺に布の覆ひをなし、竪に檐木(にをひぎ)を結(ゆ)ひつけ、新菰(あらごも)をしき、枕の方を拜するやうに居(す)うべし。榊・酒・飯・魚・菓・野菜・海藻を始め、生前に好める品は机にのせ、之を供へ、然して其の前に、親族・朋友うち寄りて、誄(しのびごと)を申す。祭主は嗣子(よつぎのこ)たるべし[嗣子なき家は、近親の者、勤むべし]。誄とは、其の人一世の功業を語り聞ゆるをいふ。その文例。

「秩實(ちゝのみ)の父の命・姓名翁は、某翁の眞名子に座して、何年何月何日に生(あ)れ出でまして、何年より世を續ぎ給ひ、何年には、何の功あり。何年には、何の事にいそしみまし、己等(おのれら)をも惠み育て給へる、其の御勞(みいたづき)の忝さは、更にも申さず、何とかも五百年千歳も顯世(うつしよ)に座して、御教ども受け賜はらまく思ひ給へて在りたるに、今年何月何日の何の時に、幽冥(かくりよ)にいりませるは、神の朝廷(みかど)の御はかりなる物から、然かすがに顯世の理り、爲方(すべ)もすべなく、やさかの嘆きに沈みぬる事は、見そなはし給ふが如し。かくて在るべきにあらねば、奧つき處に葬(をさ。★註)め奉らむとするを、御靈は常しへに此の家に留まり給ひ、隱世より惠み幸へ守り給へと、御子・某、涙おし拭ひつゝ、恐み々ゝも申す。」

 終りて、親族・朋友、共に親しかりし事、美はしく交(まじら)ひたりし事など、語り聞ゆべし。

○墓所をきづく事、なる限り先祖の墓に竝ぶべし。是れ清地を汚さぬ爲なり。止む事を得ずして、清地を墓所とせば、穢れなき者、其の所に至りて、其の由、土(ところ)神に請ひ願ひ奉るべし。

○さて葬地は、なる丈け深く掘らすべし。一丈より淺くすべからず[石棺を構ふる事は、庶人の得がたき事なれば、こゝに記さず]。此の設なりて、出棺すべし。

○葬送は、夜中なるべし。行列は、松明[火の用心あしき時は、提燈に換ふべし。──圖略。二本──松明の向きは外、是れ古實の提燈爲り。之に准へ]・散米・榊・棺[之を舁(か)くに、死者の足の方を以て先とすべし。首の方を先にするは誤りなり]とやうに列(なら)ぶべし。其の人の格式に準(したが)ひ、長柄傘・打物桙、何にても形代(かたしろ)を作りて、行列は現在の時の如くすべし。

 扨て墓所に至り、豫ねて設けたる所に、南枕に埋め、石・銅、或は瓦に、「年號」・「姓名之墓」と刻りたる誌を收め、行列に用ひし不用の物をも埋むべし。さて此の上を堅く築立て、四方に垣を結ひ廻し、獸などの害なからしむべし。然して「姓名之墓」と記したる木標を建つ。榊その外供物をなし、此こに集へる者も、榊、或は花など供へ、祭主、祭文を讀む。文例。

「柞葉(はゝそば)の母の命・姓名戸主(とじ)、うまらに聞しめせ。今ま此の所を御墓所と撰び定めて、葬(をさ)め奉るを、千世常磐(ちよとことは)に御子孫(みすゑ)の者等(ども)に參詣(まゐで)仕へ奉らしめ給へと、恐み々ゝも申す。」

○さて葬(はふり)の事、畢りて、河の頭(ほとり)に至り、身滌(みそぎ)をなしてのち、家に歸るべし。家内も、亦た不淨なる物を、悉く捨て掃除をなし、一と間を清めて、靈魂を祭るべし[祭文、前に准ず]。靈代(みたましろ)は[肖像、或は自筆の物を用ひ]、櫻木を笏(さく)の形に作り、「姓名翁之靈」[謚號あらば、之をも記すべし]と書(し)るすべし。まづ床にあら菰(ごも)をしき、机をすゑ、其の上に靈代を安置すべし。榊・時の花・清水・酒・飯・魚・蔬・藻・菓、また生前に好める品、何にても供ふべし。命日(そのひ)より五十日の間、かく供物をなし、皆々うち寄り、誄を申すべし。又た五十日の間、墓參、缺くべからず。

○さて五十日過ぐる日、家内の大祓をなし、神棚の封を解き、始めて神前を拜す。此の日、右、靈代を先祖の靈屋に合せ祭る。さて年毎に、命日には、親族うちより、靈祭をなすべし。一周期日より、産土神を始めて、諸社を拜し奉るべし。

○さて斯く記せるものゝ、此は
大公儀(おほやけ)の御式にはあらず、世のたゞ人の葬事(はふりわざ)の、吾が聞きもてる中の、愚意に合(かな)へるを、聊か記しいでつるになむ。かくて墓碑を嚴重になすは、吾が
大御國風(ぶり)なる事は、大伴家持卿の、「大伴の 遠つ神祖(かむおや)の おくつきは しるく標(しめ)立て 人の知るべく」と詠みたまへるにても知るべし。然れば葬の後、五十日も過ぎなば、おごそかに墓碑を立つるぞ、人の子たるの道にはありける。

(以下、省略)
一、師岡正胤の跋
一、棺に布の覆ひをなしたる圖[棺中の透間には、紙袋に籾ぬか、或は茶のくづなどを入れたるを以て、つめてよし]
一、靈祭(祭壇)の圖
一、靈璽(笏)の圖



★註。若林強齋先生『強齋先生雜話筆記』卷十三に曰く、「葬の字を「はうむる」と云ふ訓は惡し。「をさむる」とか、「とりおく」とか訓むべし。はうむると云ふは、火をかうむると云ふことで、佛説火化から出た訓ぞ」と。
 

  • [26]
  • 神敵佛魔の拂攘。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 8月10日(日)15時52分27秒
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●平田大壑大人『仙境異聞』に曰く、

「廿五日の申の時より、寅吉は、兄・莊吉に伴はれて、東叡山まへ廣小路なる名主・岡部何某が所へ行く。然るは始め童子の噂、世に高く、事を辨へざるきはゝ、甚(い)と怪しき物にいひ囃せるを聞きし故に、始めは糾し明らめむとて、「莊吉に連れ來たれ」と、度々云ひ遣はせたるが、莊吉は、其の時ごとに我が許へ來たれるを、前に屋代(輪池)翁のいひ置かれたる如く、いつも云ひ遣りしかば、後には名主も呼びあぐみて、莊吉が心をとり、物など取らせて、「いかで伴ひ呉れよ」と、切に頼み遣はせける由いふにぞ、今日は是非なく遣はしたるなり。然れど寅吉、日ごろ名主を、またなく怖きものに恐るゝが上に、名主より莊吉に、「寅吉が來る日を、その前日に告げて」と頼みたる由なれば、決はめて人多く集へて待るべく、そが中にいかなるをこ人か有りて、彼をなじらむも知るべからずと案じられ、其の出で行く程より、己れ(大壑大人)は岩間山の方にむきて、『彼もし人に恥見せられば、我もいと口惜しきを、いかで恥見ざるやう守り給へ』と、しばし祈念してぞ在りける。

 然るに酉の刻すぐる頃に、寅吉、怒れる状(さま)ながら、又た快氣なる面もちにて駈け戻る。後につきて莊吉も來たりぬ。『いかに』と問へば、二人が言に、「侍の袴を著けざる状なる人々、名主たちなど、凡て二十人ばかりも二階に來集ひたる中へ、寅吉を出だし、思ひ々ゝに種々の事ども問ひつれど、例の如く「何を食ひて居る」、「雨降りにはいかにする」ぐらゐの問ひにて、其の煩(うるさ)く思へるが中に、眞言僧と見ゆる僧の、三衣を嚴重に著かざりたるが來たり居て、我を卑しみたる状に物言ひけるが、進み出でて印相の事に及び、「何の印相はいかに結ぶぞ。某の印相はいかに」と問ふ故に、山にて見聞きしたる状に、種々結びて見せけるに、其を元より知りたる状に點頭するが少し可笑しく、摩利支天の印相を問ふ時に、寅吉思ひつき、わざと非ざる印相を結びて見せたるにも、點頭(うなづ)きたる故に、此は元より知らざる印相を、知りたる状に物する僧と悟りぬ。然るは山にて見聞きたる印相は、世の僧・修驗者などのするとは大かた異なるを、此の僧の知りて在るべき由なければなり。然る程に祈祷の事をも問ふを、そこゝゝに答へたるに、其の僧、終ひに寅吉をなじり出て、

「汝の知りたる印相は、みな道家の印相なり。祈祷などの事は、大かた荻野梅雨が教へたる由、かねて聞きたり。偖てまた汝は、佛を嫌ひ神を尊むといふ事をも聞きたれど、佛ばかり尊き物なければ、神を尊ぶ事を止めて、佛者になるべし。吾が元より神を嫌ひなる故に、伊勢大神宮、また金毘羅をさへに、したゝかに惡く云ひしかど、罰あたらず。此をもて神を尊ぶは益なき事を知るべし」

と云ふに、寅吉、甚く怒りを起こして、自然に聲も荒くなりて云ひけらく、

『そこは、僧衣をのみしか嚴重に著飾れども、一向に事を辨へざる賣僧(まいす)にこそは有りけれ。然るは先に我に印相の事を問へる故に、山にて見聞きしたる如く形を結びて見せたるに、悉く元より知りたる状に點頭きたれど、我が結びて見せたる印相は、大かた此の世の僧・修驗者などの結ぶとは異にて、往古の眞の状の傳はりたるを習へるなれば、足下たちの知らざる形なり。然るを道家の印相なりと云へるは舌長し。此の世にて、そこ達の物する印相は、本を知らざる世々の僧らが、次々に傳へ謬れるにて、本の眞の状に物する僧・修驗者を一人も見たる事なく、人々各々結びざま違ひて、何れを眞の印相と決むべき由なきが、元にて習ひたる我が印相を違へりと云ふは、かく人多き中ゆゑに、我をかすめて人に物知りめかさむとの心なるべけれど、今ま我が摩利支天の印とて結びたるは、眞の印に非ず。汝知らざる事を知れる顔にもてなすが憎さに、非ぬ形を結びて試みたるなり。然るを汝うなづきたるは、眞の印を知らざる事は更にも云はず、汝が輩の常に結ぶ誤りの印相をさへに知らずと見えたり。また祈祷などの事を、荻野氏に習へりと聞きたるよし、そは何者かしか云へる。先ごろ平田先生の許に、荻野氏の來て物語らるゝを聞けば、彼の人、我に印相をさへに教へたる由いへり。然れば其の邊より然る説を聞きて云へるにや。山崎美成といふ人に探ね見よ。荻野氏はかへりて我が印相を見て、返す々ゝ問はれたるをや。偖てまた我が神を尊ぶ事を異見がましく云へども、佛は、もと此の國の物に非ず。神は此の國の物にて、我も人も、その御末なる故に、順道をたどりて、其の道を第一とすること、我が師(雙岳山人、即ち杉山組正、即ち眞神★註)の教へにて、これ眞の道なり。汝こそは、其のよる佛道の事も生知りなれば、早く還俗して神の道に歸るべし。また汝は神を嫌ひなりと云へども、汝も佛の子孫には非ず、神國に生れたる人として、神を嫌ひといふは、此の國を嫌ふ理りなれば、此の國に居らぬがよし。僧と云ふ者は、大かた汝が如く、心ひがみて穢らはしき者故に、我は元より僧を嫌ひなり。偖てまた天照大神・金毘羅神などを詈り奉れるに、罰當らざるをもて、神には利益なしと云へるが、神は大らかに座します故に、汝が如き穢れたる者に罰を與へ給はざりしならむ。もし誠に神は、いかに申しても罰の當らぬ物と思はゞ、今ま試みに大神宮・金毘羅宮などを詈りて見よ。我、こゝにて彼の宮に祈り訟へて、忽ちに御罰を蒙らせてむ

と、散々に詈りて歸り來つ」といふ。猶ほその末の事を問ふに、よくも答へざれば、又た兄に問ふに、「我は玄關に居たる故に、委しくは知らざるが、二階にてしたゝか人を詈る聲きこえたるが、暫くして階子(はしご)をかけおり、玄關に出でて、『帰らむ』といふ。後より家あるじと二人三人送り出でて、「また重ねて」といふを聞き入れず、『かく不興なる家に、いかで二度び來たらむ』と、すげなく云ひて、飛ぶが如くに駈けて歸るを、吾は後より「靜かに」といへど、駈ける故に、追ひかけて途なる盛土につまづき、膝をかくすりむきたり。名主の所にて、寅吉が如く荒ぶる者を、遂に見たる事なし。定めて後にて、我に尤(とが)めあらむ」と、舌をまきてぞ語りける。

 後の事は知らねど、まづ恥見ず歸れる事を、己れも悦びて在りけるに、二三日すぎて、佐藤信淵、わざと來たりて云ひけらくは、「去る廿五日の夜に、廣小路名主の宅にて、寅吉が甚く僧を詈りたるよし、其の席に居たる何某といふ者に聞きたり。其の人は、甚く感心して語りしかども、然る事ありては、ますゝゝ人に憎まれ謗らるゝ事なれば、此の後にも然る事なきやう、禁(いまし)め給へ」といふにぞ。其は『いかに聞きつる』と問へば、「始め終りは、兄弟が言の如くにて、彼の僧の神を詈りても、罰は當らずと云へるを尤めて、『今ま我が前にて詈り見よ。大神宮・金毘羅神に告げて、今立ち所に罰をあて給ふやう祈らむ。いざゝゞ』と責めけるに、滿座の者ども興をさまし、甚く恐れて、僧に向かひ、「此の子は、彼の界に使はるゝなれば、いかにも祈らば、忽ちに驗あるべし。出直し給へ」といふに、其の僧、まけ惜しみの苦笑ひしつゝ、「しか仇をせられては迷惑なり。我も神の道を知らざるに非ず。今ま汝に其の道を説き聞かせたく思へども、魔なりと云へること、三衣を着ては、三寶に對し恐れある故に、説くこと能はず」と云ふに、ますゝゝ怒り、『いかにも然る穢らはしき物きて、神の事を申しては恐れあり。但し汝は、その歸依する所の佛道をさへに能くも知らざるを、いかで神の道を知るべき。其はたゞ負けをしみの詞なり。もしそれ負け惜しみならずば、いかに一事も説き見よ。汝が如き賣僧の、いかで誠の事を知るべきや。大勢の中にて、かく云ふを口惜しとは思はざるか。いざ神の道を講釋せよ』と、返す々ゝ責めけるに、彼の僧の顔は火の如くなりて、何やらむ、くだらぬ言をつぶゝゞ云ふを、寅吉、なほ甚く詈りしかば、家あるじと今一人、寅吉が傍らに居たるが、すかし宥めて、「あの御僧は、格式高き人なれば、然な云ひそ」と制するを聞き入れず、『僧の徳といふものは、三衣の嚴重なるや。寺格などによる事に非ず。此の僧あたまを丸めて、三衣は立派に著かざれど、其のよる所の佛道も知らず。況(ま)して神の道を知らずして、神を惡口し、我に恥を與へむと爲たる穢らはしき坊主なれば、いかに云ひたりとも、何てふ事かあらむ。大抵世の出家といふ者、俗家を欺き、物とりて衣服を飾り、寺格などにほこりて、人を見下すが憎きゆゑに、我は元より坊主を惡(きら)ひなり。我が坊主を嫌ひと云ふ事は、兼ねて聞き傳へたらむに、切に我を招きつゝ、何とてかゝる賣僧をよび置きて、我に恥與へむとせられしぞ。我が師は、釋迦よりも遙か前より、世に存(なが)らへ給ふが、常の物語を聞くに、佛道といふ物は、愚人を欺きて、釋迦の妄りに作れる道なりと聞きたり。思ふに、こゝに集へる人々は、大かた佛ずきの人々にて、神の道を知らざる故に、世間の訛(あやま)れる評を聞きて、我を怪しみ試さむ爲に、此の坊主をよび寄せたるならむ』と云ふに、人々、すまひて「然る事には非ず、彼の御僧は、今夜、不意に來たり合ひたるなり、まづ怒りをしづめて」と、菓物など進め、紙筆を出だして書を請ふに、常の小さき筆に半紙をそへたりしかば、『紙も筆も、けちなり』と喃(わめ)きつゝ、硯に嚴しく突きて深くおろしたれど、猶ほ細く、殊に怒りの最中なる故に、能くも書かれざりしと見えて、『吾は何方へ出ても、かゝる惡しき筆もて書きたる事なし。筆の、もそつと大きく宜きを出し給へ』といふに、家内に尋ねて出したるも、なほ小さけれど、其をとりて、めつたに六七枚かき散らして、『紙筆ともにあしく、殊に坊主のをる故に、今夜は不出來なり』など喃く間に、膳を出して、まづ寅吉にすゝむるに、『彼の坊主が居ては、穢らはしくて食(めし)もくへず』といふに、是非なく、主人をはじめ、人々、かの僧に、「此の子は、出家を嫌ふといふ事、かねて聞きたり。貴僧のおはしては、この怒り靜まるまじければ、歸り給へ」といふに、彼の僧はしぶゝゞに立ちて、居(す)ゑたる食をくひもやらず、なほ捨語(すてことば)に負けをしみを云ひつゝ、階子をおりて歸れるに、寅吉は、なほも怒りの顔色とけず、世人の神道を知らず、佛道に淫すること、出家の不行状なる事など喃きつゝ、一椀の食に菜を殘らず食らひて、物付きたる状に、食を九椀かへて食ひたり。人々、「餘りの大食なり。すぎまじきか」と云へば、『食にあたると云ふことは無き事なり』といふ。またあるじ、傍らより「何ぞ心にかなへる菜をかへて」と云ひしかば、鯛の燒物の替りを請へるには、甚く困りて、暫くして密かに調じたる状なり。また柿と蜜柑とを、盆に三四十ばかり盛りて出しけるに、其は彼の僧と問答の間に、謾りにとりて、皆な食ひ盡せる故に、また同樣に盛りて出したるに、其れをも二十ばかりは食しぬ。かくて僧と問答の間は、目はいとゞ大きく光りて別人の如く見えて、座中の人々、冷(さ)ましく覺えしとなり。さて食事をはると、『早歸らむ』と立上がるを、人々、なほ心をとりて、「しばし」と止むれど、止まらず。『かく不興なる家に、長居は好まず』と云ひて、暇も請はず、階子をおりて歸りつ」と、舌をまきて語りしと云ふに、己れも始めて其の時の事を委しく聞きて、其は決はめて雙岳山人の、幽より守護して、然る振舞ひを爲さしめたる物ならむと悟りぬ。

 かくて後に、その僧は何者といふこと聞きまほしくて、此の事、美成に語りしかば、美成が因(えにし)を求めて探りたるに、「下谷金杉町なる眞言宗の修驗者・眞成院といふ者にて、今流行(はや)る江戸風の佛學をものする才僧なり」と言へり。さて同月廿六日、寅吉が兄・莊吉、來たりて云はく、「名主がたにて、昨日、寅吉がものせる時に、機嫌を損なひて歸れる事を快からず思ひて、いかで再び伴ひてと、請ひ遣はせて侍り」と云ふを、寅吉きゝて、「我、決はめて彼の家へは、また行かじ」と云ふを、莊吉わびて、己れに云ひけらく、「弟がかく申す上は、力無けれど、我は名主の支配下に住む者なれば、然は云ひがたし。何卒、こなたの御弟子奉公にして賜はれかし。然もあらば名主より呼びに遣はせたりとも、其の由を云ひて斷り候ふべし。然もなくては、支配下の我ゆゑに、斷りを云ひがたし」と云ふにぞ、實に然る事に覺えて、此の事、屋代翁と議りけるに、「苦しからず。莊吉が願ひの如くし給へ」と云はるゝ故に、兄より例の如く諸色まかなひ、弟子奉公の證文とりて、今まで著たる汚き服物を脱ぎ替へさせ、新しき布子・羽織袴・大小なども與へて、我が家に置く事と成りしかば、侍の形になりしとて、いたく悦びぬ。

 さて此の夕がたに、美成來たりて、「寅吉、わが方に居たりしほど、大關侯の奧方の、七年がほど惱まれし癪を、たゞ一度まじなひの符を奉りつれば、直れる故に、頻りに見たく思ひ給ふ由なり。また水戸家の立原水謙(翠軒)翁も、寅吉が事を聞きて、逢ひたしとて、我が家に尋ねられたれば、今日、伴ひたき」よしいふ故に、遣はしぬ。立原翁、甚く悦び、書をも多く書かしめ、種々の事を尋ねて、其の答へを感ぜられしとぞ。さて大關侯へも伴ひ、夜に入りて連れ歸りぬ。水謙翁、後に屋代翁に語られけるは、

「世の生漢意(なまからごころ)なる輩は、此の童子の事を疑へども、我は幽界に誘はれたる事實を、目のあたり數々見聞きたる故に、一點も疑ふ心なし。また誘はれて彼の境に行きたるには非ねども、神仙に藥方を授かりたる者も、正しく見たり。其は水戸の上町といふ坊に、鈴木壽安といふ町醫の子に、精庵と云ふ者あり。今は三十歳ばかりなるが、十五六歳なりける或る時に、容貌、凡ならぬ異人、忽然と來たりて、某の日に、『下總國神崎社の山に來たるべし。方書を授けむ』といふに、辱しと諾しつれど、覺束なく覺えて、其の日行かざりしかば、また或る日、その異人來たりて、『何とて約を違へて、某日に來たらざりしぞ。某の日には、必ず來たれ』と云ひて歸りぬ。爰に精庵、不思議に思ひつゝ、約せる日の前日、家を出て、神崎社の山に至れば、かの異人、まち居て、一卷の方書を授けて、返す々ゝ『人に示(み)する事勿れ』と、禁(いまし)めて歸しぬ。其は○○病の藥なり。用ふるに從ひて、功を成しゝかば、此の事、遂に侯廳に達(きこ)えて、役人中より、其の一卷を出だし見せよとありけるに、異人の禁めを申したれど、聽き入られず。是非なく、役所へ出だす事となりける。其の前日に、家に紙の燒くるかほりす。此彼(あれこれ)と見れど、知れざれば、近き邊の事ならむと云ひて有りけるに、翌日、役所へ彼の一卷を持出さむと、納めたる所を見れば、彼の方書は、みな燒けて、少しも殘らず。殊に奇(あや)しきは、反故もて包み置きたるに、其の包紙はくすぶりたるのみにて、少しも燒けず有りけり。家内、大きに驚きて、此の由を申さば、僞りと聞こし召さむかと、甚く心を痛めけるが、是非なく、其の焦(こげ)たる包紙の反故をもち出でて、右の由を訟へたる事あり。神仙の不測、かくの如くなれば、寅吉童子が事は、疑ふべきに非ず」

と語られしとぞ。然すがに彰考館の總裁とありし人とて、よくも辨へられたるかな」と。


★註──「(寅吉の曰く、)我が師(雙岳山人杉山組正──さうしやう──別持命。亦た云く、杉山僧正坊。即ち三千餘歳と云はれる杉山清定仙全君の分形に坐せり)の如きも、山に住む故に、「山人」とは稱すれども、眞は生きたる神(御本體は、天之息志留日々津高根火明留魂之王命)にて、佛法なき以前より、現身のまゝ世に存し、神通自在にして、神道を行ひ、其の住する山に崇むる神社を守護して、其の神の功徳を施し、或は其の住する山の神とも崇められて、世人を惠み、數百千萬歳の壽を保ちて、人界の事に鬧(さは)がしく、かつて安閑無事には居らざるものなり」と。



 愚按、仙童寅吉、道に純にして、神敵釋魔を膺懲せり。此の如き逸事は、小生の甚く喜ぶ所にして、世の人の敬遠する所なり。或は若し小生に與する者ありとせば、ひとり相模の下山陽太主のみかは、嗚呼。

 然れども件の賣僧の如き、現代の巷にあふれ、かつて京都西本願寺本堂の髮長の如き、本尊中子を措いて逃走するに至る。嗚呼、天然パーマなる印度の賢哲も、所詮、亦た偶像の明證なる可し。實に憐れむに堪へたり。
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  • [25]
  • 天照大御神の大御名、そのまゝ神靈なり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 7月28日(月)23時39分58秒
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■□■ あーまーてーらーすーおーほーみーかーみー □■□
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●磐山友清歡眞翁『古神道祕説』(古神道夜話。昭和十三年六月・井上出版部刊。五十八年七月・神道天行居復刻。『全集』卷一に所收)に曰く、

「アマテラスオホミカミ」の十言(とこと)の神咒(かじり)とは、要するに至誠をこめて、「アマテラスオホミカミ」といふ御神名を、幾百千萬囘、連續して念誦することで、只それきりのことなのであります。外には何の理窟も議論もないのであります。實は這(こ)の十言は、御神名にして、同時に奇靈(くしび)極まる神咒なので、あまりにも平易なことでありますから、信うすき者が、輕々しく思ひ取りて冥罰を被らんことを懼れ、明らさまに傳へることを躊躇して來たのでありますが‥‥、斷然、茲に意を決して申しますが、この至平至易の修法は、實は神祕とも神祕なる大祕事(おほひめごと)の一つなのであります。私は今、斯から神祕を語らんとするに當り、議論がましきことを避けなければなりません。それは餘りにも畏れ多きことであるのみならず、私自身の小さな體驗より申すも、たゞ信じて之を修することにより、廣大無邊の神徳を戴いて居りますからで、力行して惑はざる篤信の同志に告げさへすれば宜しいからであります。けれども先づ天照大御神樣とは、如何なる御方かといふことについて、一言せざるを得ない立場にあることを遺憾といたします。

 すべての日本人が、富士山とは何んな山かを知つて居るやうに、天照大御神とは如何なる御方かといふことが確知されて居らねばならぬのであるけれども、わかつて居るやうで分つて居らぬのであります。一般國民は兎も角として、寧ろ今日の官僚的神道學者に最も誤解されて居ることを、深く々ゝ遺憾とするのであります。そんならば、天照大御神とは如何なる御方かと申しますと、それは申す迄もなく、伊弉諾神の御子で、我が皇室の宗祖であらせられ、最高神界たる高天原の主であらせられ、天日を治ろしめし給ふ大神であらせられます。このことは服部中庸を煩はすまでもなく、太古よりの神傳へでありますのに、如何なるわけか、さかしらに種々の議論が行はれて居りますのは、甚だ遺憾千萬であります。

 本居宣長翁の如きが、太陽を以て直ちに天照大御神なりと論斷せられた如きは、先づ害の少ない方の誤解でありますが、多くは沼田順義なぞの如く、天照大御神は、我が皇室の御先祖で、仁愛の御方で、その御徳の高大な爲めに、何とはなしに未開時代の太陽崇拜神話と結びつけて考へられるやうになつたのであると云ふ風に説いて居ります。平たく言へば、天照大御神は、昔の未開時代の「えらい」婦人であつたと説いて居るのであります。今日の我が國の神道學者で、多くの著書を有し多くの神職や神道家の教科書ともなるやうなものを書いて居られる某文學博士の如きも同樣の意見で、「世の神道を説くもの、深く思ひを茲に致し、人をして此の大御神を崇拜信仰せしむるに當り、古代に行はれたる太陽の神話的崇拜を、今日に強ふるが如きことなきを注意せざるべからず」と明記して居られます。嗚呼、何といふなさけなきことであらう乎。斯ういふ思想が、今日の日本の神職・神道者等を支配して居るのであります。私共が狂と呼ばれ愚と嘲けらるゝとも意とせず、微力を顧みずして、這の神國の一大危機に臨みて袖手傍觀する能はずして、嘔心吐血して努力せねばならぬ理由は、此處にもあるのであります。普通の人間以外に、一切、神靈を認めぬ今日の官僚的神道學者及び彼等の思想に感染して、新時代の神職なり神道學者なりと自認して居る猿の如き輩が、今日の官國幣社の要職の大部分を占めて居るのでありますから、我が神國日本として、これほど罪けがれはなく、これほど神威冒涜はないのであります。彼等も死後あることを忘るべからず、恐ろしいことであります。中には陰(ひそ)かに胸の内に於ては、何となく超人的威靈の實在を朧げながらも信じながら、これを人に語ることを愧ぢ、講演に出かけても、決して左ういふことを口にせず、謂はゆる迷信的なことは一切申さぬ新知識ある神道學者らしく振舞ふ者もあります。

 ──申すも畏こきことながら、天照大御神樣は、至清、至明、至仁、至愛、至善、至美の生命(いのち)の神樣であらせられまして、大御神の知ろしめさるゝ太陽が、よく此の大御神の神徳を表現して居るやうであります。否な、太陽の靈徳が、直ちに大御神の靈徳であります。平たく申せば、此の地上の一切の生物は、天日の靈徳と大地の靈徳とによつて産靈(むすび)出されたものに外ならぬのでありまして、この大地の靈徳も、天日の靈徳によつて活き作用(はたら)くものでありますから、天津日を知ろしめす大御神が、一切生物の生命の根源であると申して差支へないのであります。もとより我が國の神道は、一神教的に非ずして多神を認め、天神地祇等の各神徳を被(かゝ)ぶれること、今更ら申す迄もありませんが、約して云へば、天照大御神の神徳であります。

 ‥‥兎にも角にも一切の先入主の思想を去つて、素直に清明の一心に住し、一決不疑の地に立つて、「アマテラスオホミカミ」の十言を、繰返し々々ゝ毎日三十分以上唱へて御らんなさい。聲の緩急大小は、其の場合と其の人の體質上の便宜に隨へばよいので、彼れ此れ拘泥を要しません。至誠を以て這の神咒の修行を怠らざるに於ては、早くも一ケ月ばかりにして、必ずや相當の道交神會するところあるもので、あらゆる惱みも悶えも消滅し、種々無量の神徳を授けらるゝもので、念佛で後生を願ふが如き類ひに非ず、神道は幽顯不二の大道でありまして、この十言の神咒の神祕は、筆舌の講釋し得る限りでないのであります。‥‥(阿彌陀佛は、)要するに一つの思想上の神に外ならぬものであります。かくの如き理神を信念し、または其の名號(「南無阿彌陀佛」)を稱へてさへも、古來幾多の神祕的現象を演出して居ります。その靈妙なることは、唯心の淨土己身の彌陀を振り廻す安悟り連の思ひ及ばぬところのものであります。

 然るに天照大御神は、斯かる一つの理神に非ずして、活ける實神であらせられ、神化不測の大神靈(「天照大御神は、女神としての、現實に體臭のある──鼻で感ずる體臭ではなく、人間のアカキコヽロ、即ち直靈で感ずる美麗しき神である。美はしい乳房をもたれた神樣である。わが古傳の神々は、皆な體臭ある神である」)で、言説を以て此の大神の輪郭を髣髴せしむることは出來ないことでありますが、強ひて申せば、氣化の神であると同時に胎化の神で、一面から申せば、吾々の心靈と、常に交通しつゝゝある宇宙意識の最高表現の神靈であらせられます。太陽崇拜の思想は、世界各地の原始民族の間にも、色々の形式に行はれたものでありますが、同日の談ではないのであります。「アマテラスオホミカミ」の十言は、其れが神名であると同時に、神靈であらせられます。日本人民の百分の一が、毎日この神咒を唱へるやうになれば、其れだけでも、天岩戸は開けます。

 理神に由來する念佛の類ひと同一に考へるべきでなく、書籍(反古)信仰の「南無妙法蓮華經」のやうなものでもないのであります。‥‥法華經を專信する人達に於ては、法華經が唯一無二の尊いものと思はれるのでありませうが、それは其の人達だけの信念といふものです。耶蘇教徒の聖書に於ける、囘教徒のコーランに於ける、皆な然りでありまして、少し趣きは異なりますが、眞宗教者の三部經に於ける、亦た然りであります。此の頃の學生こそ、下宿屋の二階に寢ころんで、ヘツケルでもカントでも讀み散らかして居りますが、昔の漢學をやる書生の四書五經に對する尊信も、團扇太鼓が法華經を頂禮するのと同樣であつたのであります。法華經の内容が如何にアリガターイものであるにもせよ、要するに一心の莊嚴を説いたものに過ぎないのであります。‥‥

 この宇宙は、天照大御神の宇宙であり、この地球は、天照大御神の地球でありますが、ことわけて我が神國は、天照大御神の本つ國であり、吾々が神種を以て神國に生れ出でた由來ムスビガタメは、決して偶然でないので、此の報身報土、もとより因果あつて存するので、何を苦しんで祖國の大神を輕しめて、他の外道異端に馳(はし)らんとするか、凡そ此れ位ゐ明かなる錯覺はありますまい。心から「アマテラスオホミカミ」を信念することの出來ない日本人は、魔の眷族であります。穗積八束博士の文句を借りて言へば、「日本民族の血類と謂ふべからず」(佐伯有義掌典『大日本神祇史』序文)であります。兎に角にも先づ一切の先入主の思想を洗ひ去つて、生れたまゝの神心になつて、深夜獨座、冷靜に考へ直してみられなければ、本當のことはわかりません。十字架宗にも達人が居て、嬰兒の心にならねば、天國に入ることは六かしいとか、心の貧しきものは福ひだ、其の人は天國をみることが出來るとか申して居ります。心の貧しきものとは、種々の識見や信念上の癖を擔ぎ廻らぬことでありませう。伊弉諾尊が、天照大御神を御生みになる前には、其の身邊の有らゆるものを投げ棄てられて、みそぎをせられましたが、先づ頭の中や腹の中に溜つて居る一切のものを投げ棄てゝからの御相談であります。親鸞曰く、日蓮曰く、孔子曰く、釋迦曰く、キリスト曰く、そんなものを一たび悉皆吐き出してみて、考へ直して御らんにならねば、神國民としての本當の自覺は覺束ないことであります」と。
 

  • [24]
  • 古へゆ 世界皇化の 神定め どうすることもいらぬ 幸はへ

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 6月 9日(月)21時49分27秒
  • 編集済
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●宮内省式部官從四位勳四等・玉之屋東嶽宮地嚴夫大人の詠(鈴本武一翁『氏神と氏子』大正四年四月・誠之堂書店刊に所收)

 敬神
神は天地の 主宰にて 世は皆神の みこゝろに
任かせ給はぬ ものぞ無き 齋けやいつけ その神を

 尊皇
世界に君は 多けれど 神の定めし 大君は
我が天皇の 外になし 仰げやあふげ すめろぎを

 愛國
國土は神の 人のため 造り給ひし ものなれば
日々に開けて 進むべく つくせや盡せ 國のため

 明倫
人には君臣 父子夫婦 兄弟朋友 明らかに
五つの序(ついで) 定まれり 守れやまもれ 人のみち

 四海兄弟
幾億萬の 人草も 皆那岐那美の 神の裔(すゑ)
其みなかみを 忘れずに むつべや睦べ はらからを



●越後國小千谷神道流・神道修成派大教正・村山惣作大人『國體の歌』(鈴本武一翁『氏神と氏子』昭和十年十一月・五色屋書房刊。平成元年九月・山雅房覆刻。『世界は日ノ本に歸る』平成三年四月・山雅房刊の所收と校合し畢ぬ)

天つ御虚(みそら)に坐し々せる 元つ御祖の御中主 産靈の神の御功績(いさをし)を
承御(うけしろしめ)す撞賢木 嚴の御魂と天津日の 四方に輝く御光を
分ち玉へる八咫鏡 御慈愛(みめぐみ)廣き和御魂 形(かた)どり奉る八尺瓊と
萬の神の雄心を あらはしませる劍太刀 これぞ三種(みくさ)の神寶
天津日嗣の御璽(みしるし)と 天津御祖の皇孫に 授け賜ひてたぐひなき
寶祚(あまつひつぎ)は天壤と ともに無窮(とこしへ)なるべしと 詔(みことの)らしゝ言靈の
御稜威のまゝにあかねさす 朝日に匂ふ山櫻 花と實ともなりぬべき
大和心の礎(いしづゑ)と 下津磐根に宮柱 太敷立てゝ動きなく
千世萬世に一系(ひとすぢ)の 天皇命の天の下 統御(すべしろしめ)す御功徳(みいさを)は
神代ながらの顯津神 天津御祖とかはりなく 月日と共に彌や高く
外つ國までも輝きて 今の現に畏くも 伊勢と熱田と大君の
御許(みもと)離たず祭らるゝ 神こそ神の主宰(つかさ)なれ 斯かる貴き大神に
仕へ奉りし諸神(もろかみ)は 我が國民の祖神ぞ 盡せ國民赤心(まごころ)を
顯津御神の御ん爲めに 忠孝(こゝろごころ)を固めつゝ 盡せ國民盡せ國民



●寒林平泉澄先生の詠(『寒林子詠草』平成十六年二月・日本學協會刊)

 ○(昭和二十六年四月、『桃李』創刊號卷頭に)
あゝ卑屈 僞善 惑溺
荒れたりな 祖國の姿
益良雄の 誰か泣かざる

おぼれては 濁流に入り
こまねきて 傍觀するは
すべて是れ 猿に劣らむ

苦難はた 何かあるべき
尊ぶは その志
深く期す 道義再興

 無畏(昭和四十五年二月、『日本』昭和四十五年二月號卷頭に)
やましきは 詭辯を弄し
弱者こそ スクラムは組め
かへりみて 吾れ直くんば
千萬人 何かおそれむ

 猛虎(昭和四十五年三月、『日本』昭和四十五年三月號卷頭に)
朝まだき 人猶さめず
斯の道に 同行無くば
ひとり行け 大手を振りて
千里ゆけ 猛虎の如く

 ○(昭和四十六年二月、『日本』昭和四十六年二月號卷頭に)
古人いふ 人能く道を弘むと
道は自然に立ち
自然に弘まるに非ざる也
嗚呼 何者の迂愚ぞ
おのれ奮起せずして
いたづらに道の確立を待つは

 ○(昭和四十六年三月、『日本』昭和四十六年三月號卷頭に)
心 國の爲に碎き
涙 國の爲に濺ぎ
命 國の爲に捧ぐ
古人 然(しか)ありき
兒孫 何ぞ忘れむや



 愚案、皇國は盛衰有りて、未だ興亡有らず。興らず、何の亡ぶことか、之れ有らん矣。實に然り。然りと雖も、皇國不亡を謂ふには、當然當爲の道、必ず謂はざるべからず。夫れ體・用、竝び立つ、固より是れ、皇學の本領なる可し矣。
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  • [23]
  • 唯々々々、大楠公の如き忠臣にならうと、一向一心に思うて修行すべし矣──皇國道義の精粹。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 6月 7日(土)00時45分22秒
  • 返信
 
●贈從四位・靖國神社祭神・神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄翁『遺書』に曰く、

 我等、先祖より、
皇恩神恩、何萬年、今日迄で受け候ふや、數へがたし。此の處をよくゝゝ勘ひ明むれば、此の一身、幾く度びすてゝ、御恩報じ候ふとも、報じ難し。實に九牛が一毛にもたらぬ事也。よくゝゝ此の意を勘ひ明め、すはや、御大事と申す時には、一命をすてゝ、報い奉るべし。然らざれば、吾が子孫にあらず。吾が父、然る忠心候はゞ、只々幽冥より助け、大功を成さしむべし。若し然らずして、逆臣に與みせば、我、たちまちに取り殺さん。此の處、よくゝゝ子々孫々に申し傳へよ。此のいやしき身一つすてゝ、無勿體くも、恐れおほくも、うれしくも、忝くも、今の現在(うつゝ)に御照らし遊ばさるゝ、此の
御日樣の御子孫樣の、
天子樣の御爲めに相ひ成り候ふ事、かへすゞゝゝうれしきことにあらずや、難有き事にあらずや。よくゝゝ合點すべし。

 聖人の國といふからくに(唐國)も、いく度びか夷にとられ、終ひに極く惡るい夷に取られ切りに成りたるに、我が
皇國のみ、ひとり
天照大御神樣より、御血統つゞきましゝゝて、今日に至り、天地のあらん限り、此くの如くならん事、全く不思議の
神國故ゑのことゝ、深く難有く、忝く、心得明むべし。かやうな難有き
御國に生れ候ふ事、なんと、なみだの流るゝほど、うれしい事ではないか。そこをよくゝゝ勘考仕り、九牛が一毛、御恩を報じ奉るべし。

 かならずゝゝゝゞ學者にも、詩人にも、歌よみにも、何にも、成らんと思ふ事、狂人の心也。唯々々々、楠正成尊の如き忠臣にならうと、一向一心に思慮(おも)ふべし。思ひて修行すべし。無事なる時には、家業の餘暇には、他人(ひと)の寢る間・遊ぶ間、千萬の御恩奉謝の一端に、著述すべし。
御國に事ある時は、
御爲めに、
天神地祇をいのり奉り、はかりごとをめぐらし、事を成すべし。事ある時、書物をよみ、著述などのみして、默々としてあるは、畜生とも、何とも、名付け難し。誠に學者は無用なものと思はるべし。愚父が自歌に、

人丸や 赤人の如(ごと) いはるとも 詠歌者(うたよみ)の名は とらじとぞおもふ

一筋に 君に仕へて 永世(ながきよ)の 人の鑑と 人は成るべし

其の外、長歌・短歌等によみ置き候ふまゝ、見候ふべし。

 武士といふ稱は、申すも恐れ多きことながら、饒速日命、無比類く、
神武天皇樣へ御精忠、被爲遊れ候ふ、其の饒速日命の御子孫へ、物部の姓を賜ひしにより、みなゝゝ二本ざしの武士を、ものゝふと、後世云ふ也。然れば饒速日命の如くの精忠に習ひ候ふべし。然らざれば、ものゝふとはいはれぬ事也。此等の稱號さへ存ぜぬもの多ければ、逆臣は絶えぬ也。よくゝゝ名を正しうすべし。かへすゞゝゝ、何の爲めに、二本さし候ふやと申せば、
天子を守り奉る爲めにさす也、弓矢も同じ事也。それに無御勿體くも、
天子へ向ひ奉りて、弓をひき、矢をはなち、太刀をぬき候ふ事、何(いか)なるたはけ、畜生ぞや。よくゝゝ勘考あるべし。此等のこと、何でもなく分りさうなことに候へ共、分らぬ奴(やつ)多ければこそ、朝敵・逆臣も、昔より多かりけれ。さてゝゝ淺間敷き事也。元來、弓矢・太刀・鑓共、
天子よりゆるされて、さしてある也。何の爲めにさすと云ふ事をしらず、
天子樣の御町人・御百姓をいぢめ抔するやつは、いかなるものぐるひ、畜生とも名付けがたし。又それに刀(かたな)の前へがすまぬ抔いひて、りきみまはす。むちやとも、くちやとも、辨ひがたし。其の外、第一の治め方、身分に不相應のやうなれども、忠に二つなければ、深考あり、口傳に云ひ置くべし。

 いろゝゝ申し入れ度き事、有之り候へども、先づ右等の事、存じ居り候へば、餘りに當らぬ事は、し出すまじと存じ、書き置き候ふ也。愚父、當年五十歳也。元來、老少不定の命に候ふを、老年に相ひ成り候へば、明日が日にも、わからぬ命也。何(いつ)までも、いきると存じ候ふ事、大愚人の意也。無祿の身、何もゆづるものなし。たゞ此の一言也。此の一言さへ心得候へば、たとひ餓死候ふ共、生れ來り候ふ甲斐、有之り候ふ事に候ふ。よくゝゝ味ふべし、感ずべし。

 安政七申年三月十八日夜、落涙、書き置き候ふ也。
 神祇道學師(神祇伯・白川資則大人より稱號を授けらる)・平健東雄(萬延元年六月二十七日、傳馬町獄に歸幽、五十)。
  愚息・石雄(後に巖と改む。大正十三年六月二日歸幽、七十九。後嗣・斗米雄)へ。



【參考】
一、寒林平泉澄博士『眞の日本人』(昭和十年十一月四日講演。『傳統』昭和十五年一月・至文堂刊に所收)
 平泉先生の曰く、「(『傳統』)卷頭の『眞の日本人』と題する一文は、佐久良東雄先生の思想的經歴を述べ、その日本人としての自覺、それに對する私の感激を記したものでありますが、それは、昭和十年の十一月四日に、大阪の天王寺師範の講堂に於いて講演して、各方面に多大の反響・驚嘆・共鳴を喚起した事でありました。それまでは、佐久良先生の名、一向世に知られず、その短册の價格も安いものでしたが、此の講演以後は、急に高騰しました。或る古本屋が笑つて、『平泉は、講演しては値(ね)を釣りあげて、今度は自分が買へなくなつてゐる』と云つたといふのは、是の事でした」(『悲劇縱走』)と。
一、日本學叢書第十卷『志士遺文集』昭和十四年五月・雄山閣刊
一、梶山孝夫翁『新版・佐久良東雄歌集』平成二年十一月・水戸史學會刊
一、梶山孝夫翁『「佐久良東雄傳」の研究』平成四年三月・私家版
一、拙稿『佐久良東雄大人』
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sakura.htm
 

  • [22]
  • 角田忠行翁『神靈要論』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 5月13日(火)21時33分42秒
  • 編集済
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■贈從四位・勳六等・熱田神宮大宮司・鎭石室角田由三郎紀忠行翁『神靈要論』(明治十四年稿。同二十一年七月刊。昭和十六年八月・神道天行居鳳凰寮覆刻)

  熱田神宮宮司兼權中教正・正七位・角田忠行、講説

 凡そ世の中に、人と生れ出でたるもの、種種に思想の多かる中にも、死後の落著ほど、心にかゝるものはなし。又た死後、即ち幽界に歸するの眞理を知らざれば、神與の儘なる誠心を全うすること難し。眞の誠心ならざれば、人の本分を全うすることも能はざるべし。これ、神魂歸著の説ある所以なり。

 抑も吾人の身躰は、靈(みたま)あり、魂(をたましひ)あり、魄(めたましひ)あり、陽(あめのけ)あり、陰(つちのけ)あり[陰陽は、天氣・地氣なり]。それに五元[神語に、「身躰(むざね)は、五行化生(いつゝのめぐるものゝなれり)也」とあり、是なり]の質物、結固して成れるものにて、父母、之を産むと雖も、本元は、天神の賜物なり。まづ生物に、三種あり。草木は、生物[生産靈(いくむすび)大神の幸へ給ふ所の物なり]とて生れたるのみにて、知覺なく、禽獸蟲魚の類は、足物[足産靈(たるむすび)大神の幸へ給ふ所の物なり。同じく生産靈大神の神徳も加はること、云ふも更なり]とて、知覺あれども、靈なし。人は、神語に、「天下の靈物」と宣ひて、神靈あり。生物・足物を兼ね備ふる故に、實に萬物の長上なり[魂魄の事は、次に云ふ]。その靈は、靈留産靈(たまつめむすび)大神の賜ふ所の物にて、「みたま」とも、「みかげ」とも云ふ。これ、人の頭上に宿り給ふを以て、『萬葉集』に、「頂(いなだき)に來住へる玉」[靈に玉の字を假用するは、珠玉の美しきが、神靈に似たるを以て也]と云ひ[世に恩頼を受くるを、「みたまのふゆ」、又「みかげ」と云ふも、其の本、この大神より出づるを以てなり]、天靈(あたま)、また神知(かしら)と云ふも、この謂ひなり。萬物の中に、人には殊にこの靈を賜はる故に、比登(ひと)と云ふ。比登は、靈止(ひと)の義なり[靈を比と云ふ、奇靈(くしび)の靈のごとし]。然れば皇祖の神語に、「人は天下の靈物」と宣ひ、先皇の大詔にも、「萬物の内、人、最も靈なり」と宣へり。倭姫命の詔に、「神魂精靈(みむすびのみたま)、父母の氣(いき)に入りて生産(あれいづ)るを、人神と云ふ」ともあり。

 さて身躰の中府(なかつくら)に宿るを、魂魄と云ふ[令の『義解』・『集解』なる古傳なり]。魂は、「をたましひ」とも、「あらみたま」とも稱へて、高皇産靈大神、賜ふ所のもの。魄は、「めたましひ」とも、「にぎみたま」とも訓みて、神皇産靈大神、賜ふ所のものなり[(弟・角田)信道(のぶゆき)の云く、高皇産靈尊は、男神の始祖に坐して、男魂を賜ひ、神皇産靈尊は、女神の始祖に坐して、女魂を賜ふなり。斯かる神理の傳は、外國に更になし]。氣は、『神代紀』に、「いきざし」と訓みて、此は臍下、動氣の所を云ふ稱へなるが、また『萬葉集』に、此處を「氣緒(いきのを)」とも云ひて、これ、呼吸の本なり。『難經』に、「生氣の原とは、腎間の動氣也」とある、即ち是にて、此を守り給ふは、生産靈大神・足産靈大神なり。この氣は、二氣ありて、陽氣(あめのけ)は、生産靈大神たる陽神・伊弉諾尊守り給ひ、陰氣(つちのけ)は、足産靈大神たる陰神・伊弉冉尊守り給ふなり。

 偖てこの二氣を父母に賜はり、その氣中に、靈・魂・魄を寓し給ふ。まづ風の神・火の神二柱の彦神に、金の彦神[金山彦命]附着(つき)給ひて魂を補佐し、水の神・土の神二柱の姫神に、金の姫神[金山姫命]附着(つき)給ひて魄を補佐し、さて風・火・金・水・土の五元の神徳合して、その五質を結び[信道の云く、風神は、『古事記』・『書紀』共に、彦神一柱なり。『神名式』に、彦姫二柱とせるは、一神を二神として祀られたるものにて、然る例あり。また土神は、姫神一柱なるを、『古事記』に彦姫二柱とせるは誤りなること、先師(平田大壑先生)の説の如し。斯かれば五元の中に、男神達は男魂に屬して功を成し、女神達は女魂に屬して功をなし給ふなり。金神のみは、男女二神坐して、二方に分りて功を成し給ふこと、本文の如し。此も家兄(角田忠行翁)の説なるを、後に聞けるまゝに、此に加ふ。此れにて五元の神徳、明らかなり]、靈・魂・魄・氣、其の中に處を定めて、人躰とは成れるなり。心は、目に見、耳に聞き、凡て身に受けて、魂魄の感ずるもの、胸中に凝つて心となる。心の氣息に觸れて出づるものを、言と云ふ。心音(こと)の義なり。その心の凝積りて思ひとなり、是非辨別に惑ふ事あらん時は、頭を傾け眼を閉ぢ、耳を塞ぎ氣を靜めて、心思を頭腦に凝らし、天靈の明斷を仰ぐべし。然かせずして心思の趣く方に私慾を擅に爲せば、終ひに魂魄曇り損じて、本世の神界に歸ること能はず。これ、注意すべきの第一なり。

 扨てその人躰、此の世に生れ出づるに及びて、善惡を辨別すべき知覺を賦與し給ふ故に、人として善惡の理の違ふ者なし。なほ此の世に出でたる上にても、黒(きたな)き心无くして、明き心を以て、上下前後左右を違ふまじき御教あり。その御教を守り、顯界の事業竟り、陽氣は魂と共に去り、陰氣は魄と共に去るに及びて[『江次第抄』に、「陰陽二神、萬物を生殺するを掌る」とあり]、先皇の詔に、「人、沒すれば、精魂、天に歸す」と宣へる如く、魂は天に歸し、また魄は地に止まるなり。然れども魂魄、共に幽界に屬するものなれば、その本貫は、幽界なる天神の御許にあり。惡人の魂魄は、所謂る無宿者に等しければ、神籍に載せ給はず、靈は魂魄に附着して、その行状を監視し給へば、須臾も離れ給はず。善事善行ありし魂魄をば、無窮に守護して冥福を與へ給ひ、惡事惡行をなせし魂魄をば、神教に咎ある者は、豫美國に往くとありて、本の神界・常世國に歸ること能はず、魔界に落して、無窮に冥罰を與へ給ひて、其の患苦、盡くる無し。これ、自ら神律に背くの報なり。恐れざるべけんや、愼まざるべけんや。人、祖先の命を以て、眞澄の鏡を授けられ、必ず曇らす可からざる旨を承りながら、いつか其の祖命に背き曇らし、且つ毀損せるを、祖先の過ちと云はんや。其の子の罪なること、言を待たず。魂魄も、亦た然り。その授け給ひし天神の御過ちに非ずして、その魂魄の罪なり。

 扨て人は、幽界なる天神の御許より出でて、顯界の業終れば、また元の幽界に歸るが正道なり。神語に、「咎なき者は、常世國に歸る」とある、是なり。靈留産靈大神[亦の名、靈幸(たまちはふ)神。亦の名、天一(あめのひとり)神。亦の名、神玉(かむたま)神。亦の名、天魂(あめむすび)神。亦の名、高天神王(たかまのかぶろ)神。亦た漢風には、天帝(あめのすめらぎ)とも、皇天上帝とも、天宗(あまつみおや)とも稱す]、亦の御名、天之御中主大神は、始め无く、天中(あめのみなか)なる幽界に坐りしが、終ひにこの顯界を開きて現(あ)れ出で給ひ、天地萬物の本を起して、高皇産靈大神・神皇産靈大神、及び伊弉諾尊・伊弉美尊、其の他、出生(あれいで)坐せる神々に、各々事業を委任し給ひ、御自ら幽界に歸り入りて、神靈賦與の事を旨と掌り給ふ。故に『古事記』に、「隱身(みゝをかくしたまふ)」とは申せり。隱身の時に當りて、殊に伊弉諾尊・伊弉美尊に、大空を漂ひ環るこの大地を、「修り理(をさ)めて固め成せ」との大詔は、國土を開き人類を住ましめ、君臣の大義・父子・夫婦・兄弟・朋友の倫理を行はしめよとの叡慮なること、申すも更なり。吾が神道は、實に天之御中主大神に出でたり。尊きかな哉。されば『延喜格の序』に、「吾が朝家の道、混沌に出づ」と云ひ、『萬葉集』に、「天地の初めの時ゆ、現身の八十伴の男は、大王(おほきみ)にまつろふものと、定めたる官にしあれば」など、詠み出でたり。此は、この大詔を云へるなり。此の大神の庶流と生れ出でたる人の子なれば、此の大神の御教に隨ひて、此の世に修理固成の功を立て、扨て本世に歸るぞ、神理なる。此を、神習ふと云ふなり。

 右の如き御神徳なるに依つて、皇孫邇々藝尊、この大地の大君と定まりて、天下り給ひし時、靈留産靈大神・高皇産靈大神・神皇産靈大神・生産靈大神・足産靈大神等、御自らの御靈を神籬に齋ひ籠めて、皇統の御守りとして、共に天降し給へり。これ、神祇官齋戸神殿の濫觴なり。この齋戸[戸は、所なり]は、專ら皇統守護の御神徳にて、吾が天皇の、天之御中主大神の正統を無窮に繼承し給ふ御事は、この御守りに依つてなり。然れば吾れ人共に、天之御中主大神の庶流を汲む臣民なれば、右の神慮を奉戴して、五柱の皇産靈大神の御惠みを蒙むるべく、日夜、神祇官の方を遙拜すべし。先祖の血統を續かせ給ふは、凡て齋戸の御惠みなればなり。

 また三種の神器は、天之御中主大神の正統と坐して、萬づ世界を照し給ふ、皇祖天津日大神の御靈に坐して、皇位を無窮に傳へさせ給ふ神徳なれば、臣民の家名相續をも守らせ給ふ事、申すも更なり。然れば人たる者は、その神靈の鎭り坐せる伊勢神宮・熱田神宮・畏所をば、朝夕拜禮して、その恩頼に報い奉るべし。世に先祖の血統を絶つ者は、齋戸の御守りなきものにて、家名を失ふ者あるは、伊勢・熱田・畏所等の御守りなきものなり。
[(欄外に)神鏡・神劒・神玉の三種神器は、もと諸神の、天照大神を祀り奉れる時の獻品なるが、是れ、大神の御靈代となりて、皇孫瓊々杵尊の御世より、皇統の御守りとなれり。さて皇國神代よりの風習と云ひ傳へて、年始に諸家、上床を清めて、御餝と齋ける餅飯の、鏡形は神鏡、劒形は神劒に象れるなり。その鏡・劒形の上に、赤き菓實を加ふるは神玉を象り、昆布は和幣の代なり。]

 右に述ぶる如く、魂は天に屬するもの故に、天皇の崩御を「神上り」と稱し、庶人の死をも「あがり」と云ひ、また「天に翔る」とも云へり。その魂魄の御處置は、靈留産靈大神、專(むね)と知らせ給ふ故に、『萬葉集』に、「靈幸ふ、神も吾をば、打棄(うつて)こそ、しゑや壽(いのち)の、をしけくもなし」なども詠めり。斯かる畏き尊き大神の御本靈の鎭り坐す域なれば、聖上、正月元日の四方拜にも、先づ北方に向ひて、天中(あめのみなか)[北辰とも、北極とも云ふ。天のまほらなり]を拜させ給ふなり。古代庶人にも、四方拜あり。また元日ならでも、事ある時に、四方拜は行はせ給へり。

 扨て中古より、この御祀典に、支那風の入り交れる故に、全(もはら)其方風(そなたざま)の事(わざ)と思へるは、非ず。また朝廷に、毎年[三月三日・九月三日]、天中に向ひて、燈火を捧げ拜禮し給ふ御式あり。庶人も、此の式を行へり。神に燈火を捧ぐる事は、天の石屋戸の庭火に起りて、古式なり。また天子、毎宵、北辰を拜せしめ給ふ事、『眞俗交談記』に見えたり。

 偖て靈魂の事に付いては、儒者等の臆測説は取るに足らざれば閣いて、縣居翁の「人は、天地の成しまゝなれば、終ひに天地に歸る」と云はれたるは、魂の天に歸り、魄の地に止まるの理に適ひて、甚だめでたし。本居翁は、自ら「墳墓の地に止まる」由に云はれたり。

 さて善事善行ありし魂魄は、本貫こそ、天神の御許なれ、何所にも祀る所、またその好む所に住ましめて、世界に功を成さしめ給ふなり。序でに云ふ、出生に、古く四化と云ひて、造化・心化・氣化・胎化の説あり。また轉生あり、再生あり。其は殊なる神量(かむはかり)に因れるものにて、その委しき事は、一席の談に盡すべくもあらねば、此等(こゝら)の謂ひは、師(平田大壑先生)説、また矢野(玄道)氏の書等に就いて見るべし。今は尋常なる正理に付いて、思ひ出づるまゝを一言述べて、皇國の古傳を明かすのみ。──明治十四年稿──

○角田宮吉信道翁の曰く、「今年明治十四年、東京に於て、神道擴張の爲め、大會議を開かれ、予、召しに應じて出京せしも、未だ神道の奧儀に通ぜず。歸社の途に就き、東苞(あづまづと。東京土産)に苦しみしを、今日なん、家兄君(忠行翁)の旅宿に到り、請ひ申しかば、四大人及び矢野翁等の所説を本にして、この講説を得たり。さればその儘ま筆記して、東の苞とはなしぬ。敬白
 明治十四年二月二十八日、廣田神社宮司兼權少教正・正七位・角田信道」と。
  ↓↓↓↓↓
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815685?contentNo=3

○無方齋老人磐山友清歡眞大人の曰く、「この角田忠行先生の『神靈要論』は、言簡なれども、意、極めて深遠なり。一度の通讀にとゞめず、折々に神氣を靜めて、敬讀せられたし云々」と。



【角田忠行翁】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1308
 角田忠行翁については、阪本是丸博士『明治維新と國學者』(平成五年七月・大明堂刊)所收の「角田忠行と明治維新」・「近代の熱田神宮と角田忠行」に詳しい。殊に足利將軍木造梟首事件・熱田神宮御待遇向上について、大いに啓發される。乞、參看。
 

  • [21]
  • 赤魔祈攘──世界皇化の階梯。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 4月14日(月)18時54分57秒
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●清雲鴨居正桓翁『赤魔といふこと』(神道天行居『古道』昭和三十二年十月號・平成二十六年四月號再掲。平假名を一部漢字にさせて戴いた。一般に此の頃の文は、漢字を故意に避けたやうである)

「この頃よく、原水爆は用ゐられるかどうか、と云ふ質問を受ける。折伏とか云つて、他宗・他教を強引に押しまくつてゐる創價學會の會長さんは、「日本には、斷じて原子爆彈は落させない」と、大見得を切つた居られるし、石城山の玄關口で躍つて居られる愉快な婆樣は、「神樣が、ホリドールのやうに原子爆彈を使はせて、ウジ蟲共を掃除さつしやる」とのたまふのである。會長さんには、その法力で、ヒロシマや長崎の原爆投下を喰ひ止めてお貰ひ申したかつたし、婆樣には、ウジ蟲も神樣のおつくりになつたものであらうから、お手柔かに御願ひ申し上げてほしいと思ふばかりの私には、原水爆は用ゐられるかどうかと開き直られても、「わからない」とお答へする外はない。大陸間彈道彈などと云ふ物騒千萬なものをこしらへた當事者にも、恐らくはわからないのではあるまいか。アイゼンハウアーでも、フルシチヨフでも、まさかコイツを使つてこまさうなどとは考へまい。

 しかし地球を破壞に導き、人類を滅亡に陷れる、怖るべき核兵器は、現實に完成したのである。この事實を嚴肅に考察するものならば、誰しも心の底から、その使用禁止を祈らずには居られないであらう。問題は、用ゐられるかどうかにあるのではなくして、用ゐさせないやうにせねばならぬ、と云ふ所にある。そもゝゝこの妙なものは、人間が作つたのではあらうが、私共の立場としては、正神界の意志によるものであるか、邪神界の企圖になるものであるかと云ふことが、最大の關心事となるのである。‥‥

 全人類を破滅するやうなものを、正神界が人間に製造せしめられると云ふことは、私は信じることが出來ないのである。從つてこの魔性の兵器は、邪神界の憑依的産物であると、私は斷定するに躊躇しないのである。神に正邪があるなどと云ふことは、土臺、神そのものを否定するヤカラに、これを認識させることは厄介至極ではあるが、私共が「赤魔」と云ふ文字を使つて居るのは、この邪神、及びそれに駆使されて居る眷屬共を云つて居るので、決してソ聯と云ふ國家やその民族を指稱して居るのではないと云ふことだけは、是非わかつて貰はねばならぬのである。勿論、赤色思想、即ち共産主義には、嚴しく對決するのであるが、主義は、國家でも民族でもないと云ふことは、云ふも愚かである。このゆゑ「赤魔」は、米國は無論、日本にも巣喰ひ、否、全世界に充滿しようとする勢ひである。

 天行居同志が、日夜に唱へる、「‥‥きたなきあかこゞめどもを、ほぞちなすふりさけて、はらひあらけて‥‥」と云ふ『ねぎこと(願言)』は、先師(磐山友清歡眞大人)の創定せられたもので、神人萬類の大悲劇と申さねばならぬ。「あかこゞめ」とは、「赤魔」のことである(愚案、磐山大人の説く所に據れば、其の主領は、猶太・邪蘇に淵源する所の、クレムリン宮の胡馬(こば)法王スターリン──マルクス・レーニン一連を操る巨大なる枉津靈──戰鬪的無神論の國際同盟主と現れしデーモン)。これを祈攘することは、祈祷の威力によつて攘ふので、攘ふとは、「やつつけろ」と云つた式の手荒なものではなく、本來の魔の棲處(すみか)と云ふものはあるのであるから、其處へ落ち着いて貰ふだけのことである。所謂る「その處を得せしむる」わけである。「ほぞち」とは、茄子や果物などの「へた(蔕)」のことで、あの「へた」をポロリと引離すやうに、さつぱりと捥(も)いで、さて不要のものであるから、「ごみばこ」と申すものに納めるのである。不要とは申しても、これがまた貴重の肥料にもなることである。正神界は鉛を變じて黄金と化されるほどだから、結局は原水爆もミサイルも、如何やうにも御利用になるであらう」と。



 愚案、赤魔共産主義は、形態・手段を變化させて、現代に生息蟠踞す。是れ即ち「靈的國防」の必要不可缺なる所以なり矣。
 友清磐山大人『昌言集』に曰く、「根本的な人間生活の難局を打開する目標は、私共の立場から云へば、赤魔祈攘といふことに集約されるのであります。むろん表面に動いてゐる共産主義を退散させるといふだけでなく、其の底に流れる靈氣を神祓ひに祓ひ、人天の正しい秩序を囘復せられんとする天意に答へて、微力のかぎりを盡さうとするのであります」と。
  ↓↓↓↓↓
【參考/はゆまつかひ樣『靈的國防の本義──拾遺』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/-100



 愚案、我が皇國に於ける核武装の可否につきましては、原爆を否定され、核擴散防止條約の批准に、宸襟を惱ませ給ひし、昭和天皇の大御心を仄拜してをります。小生は、戰後の政治家を、遺憾ながら之を信用してをりませぬ。況んや我が國體とは無縁の、歐米もどきの覇道權術を弄する、最近の政治屋・評論賣文屋の言動をや。

 而して更に想ふ、陸奧國の慘劇を。殊に原子力發電の災禍に襲はれし皇土の、一日も速かなる復興再建を熱祷する次第です。何となれば則ち産土復興の成らざれば、皇民としての使命を全うすること能はず、神土の穢れは、何を措いても、即刻に攘はるべきである矣、からであります。
  ↓↓↓↓↓
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDZ040JJ_X00C14A4000000/

 下記の文は、文章家であつた衆議院祕書課長・中島隆氏が、考へに考へて作つた文案を、前尾繁三郎議長が氣に入らず、一字一句を確認し、三日三晩かけて吟味を重ねたものと傳はります。



●衆議院議長・前尾繁三郎氏「天皇陛下御在位五十年の記念式典に於ける祝辭(昭和五十一年十一月十日・於日本武道館)」(平野貞夫氏『昭和天皇の「極祕指令」』平成十六年四月・講談社刊に所收)に曰く、

「本日、こゝに、天皇陛下御在位五十年の記念式典が執り行はれるに當り、一言お祝ひの言葉を申し上げます。天皇陛下におかれましては、御即位以來、本年でめでたく五十年をお迎へになりました。陛下には、愈々寶壽を重ねられ、日々お健やかに過ごしてをられますことは、私どもとして、喜びに堪へないところであります。こゝに、謹んで心からの祝意を表する次第であります。

 顧みますと、昭和の五十年は、日本歴史の上でも、かつてない激變と動亂の時代でありました。陛下の御即位は、國民待望の普通選擧が初めて行はれるなど、新しい時代への動きがみられた頃でありましたが、間もなく經濟恐慌・政黨政治の後退などに續いて、わが國は軍事國家へと急傾斜し、遂に戰爭へと進んでしまひました。暗黒と悲慘な時代を經て、國民は戰後の荒廢の中からよみがへり、平和と民主主義の途を歩み、營々辛苦の末、驚異的な經濟成長を遂げるに至つたのであります。私どもは、この半世紀を囘顧し、その歴史的事實について、常に嚴しい反省を重ねると同時に、將來を展望し、わが國の進路に誤りなきを期さなければなりません。

 陛下には、この多端な五十年を身をもつて御體驗になり、深い御感慨と共に、今日のわが國の姿を御覽になつてをられると存じます。陛下の公平無私な御態度・純粹な御人柄は、國民の敬愛の的でありますが、とくに戰後は、いち早く荒れはてた國土を御巡察になり、疲弊した國民を勵まされましたことは、今なほ私どもの心に感銘深く殘つてをります。また昨今は、御高齢にも拘らず、國事に御精勵のほか、諸外國との親善をはじめ、各般の行事にお勤め頂いてゐる御日常に、國民ひとしく感謝いたしてゐるところであります。

 わが國は、今後、福祉國家として發展を期し、平和國家として國際社會に伍していきたいと望んでゐるのでありますが、この理想への道は、なほ遠く險しいと言はなければなりません。しかし、陛下の御在位と共にある「昭和」といふ言葉には、國民の幸福と國際平和實現への願ひがこめられてゐると思ふのであります。昭和の現代に生きる私どもは、この高い理想に向けて、協力一致、最善の努力を致さなければならないと、こゝに決意を新たにするものであります。この榮(は)えある式典に際し、天皇陛下・皇后陛下の、益々の御健康と、皇室の一層の御繁榮をお祈りし、お祝ひの言葉といたします」と。
 

  • [20]
  • 神方・皇醫道の復興──權田直助翁『神遺方經驗抄』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 2月 1日(土)23時28分54秒
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■右衞門佐兼針・醫博士・丹波宿禰康頼卿『神遺方(神遺衆古祕法方録)の序』(權田直助翁『神遺方經驗抄』──稿本を門人筆寫──平成二十四年十月・八幡書店影印覆刻に所收)

 首めの卷は、武内宿禰の定むるの法、竝びに津守直等の家に傳はるの法を修め撰み、其の次の二卷には、大己貴神・少彦名神、この二柱の神の造りたまふ處の藥の方(のり)、今に諸國(くにゞゝ)の神社、竝びに國造・縣主の家に傳り來り、民家に遺り、祕(かく)せるを聚めて、各々の病に與へて驗(しるし)有るの方を撰み誌す也。

 貞觀十年(永觀二年の誤りならむ)、醫博士・從四位上・丹波宿禰康頼、撰む。



●丹波頼徳卿(錦小路右馬頭。國事寄人、七卿の一)『神遺方抄傳の端文』

 遠祖・康頼朝臣の撰みおかれたる『神遺方』の三卷は、靈幸ふ神の御代より傳へ來し古昔の意詞の隨(まにま)に書き記されたる物にあれば、大凡そ人の、容易く曉(さと)り得べきには在らざりけり。然るを鳥の鳴く東國の、源の直助は、能くこそ神習はむと、年數(としまね)く勤みつゝ、菅根のねもころに學び、淺茅原、委曲らに明めて、皇御國の醫道の眞柱と築立つべき深き謂れを、古説等に徴(あか)して、其の大らかなる意詞を、分たず明かし、隈なく説き辨へたりしは、望月の滿ち足らひたる心地せられて、最も愛でたきことなも在りける。斯くあれば今より後は、此の傳を知便として、我が御國の本つ醫道に入り立ちなば、清きなぎさにあさりして、白玉拾ふ種と、去年、成るべけれ。あなあはれ、此の書の功績は、千尋の海よりも深かるべしと、其の由、いさゝか書きしるしたるになむ。

 醫道長上・丹波朝臣頼徳



●相模國大山阿夫利神社祠官・贈正五位・大學中博士・大教正・可美眞千知大人・名越廼舍權田玄常源直助翁『神遺方の大むね(綱)』

 石の上、舊りし神世ゆ傳へ來し、醫道を記せる書の、今の世に傳はれるは、僅かに『大同類聚方』と『神遺方』の二書なり。然るに『大同類聚方』は、昔時(そのかみ)、其の名高く聞こえて、諸書に其の目(な)見えたれど、『神遺方』は、昔時、たえて聞ゆる事無かりしと見えて、何れの書にも、其の目ある事だも聞えざりけるを、近歳(ちかきころ)、和氣義啓ぬし(主)の一本を板にゑ(彫)りて、世に出せしよりぞ、始めて丹波宿禰の撰にして、かゝる書あることは知られたりける。

 さて其の『神遺方』はしも、其の世なべての書等の體(さま)に異なり、假名書なるに、其の體、『祝詞』・『宣命』に類(に)ず、『萬葉』にかなはず、且(ま)た其の用字(もじつかひ)等も、音訓清濁相混り、「おを・えゑ・いゐ」等の格を誤り、はた意詞、いと稚々しく、また一篇の條理(すぢ)通らず、前後相合はざること多く、又た康頼卿の撰にしては、かの永觀中、上奏(たてまつ)られし『醫心方』(三十卷)の漢風(からざま)なるに應(かな)はず、且た其の孫・雅忠朝臣(丹波朝臣。康頼卿が曾孫なり。典藥頭・施藥院使・丹波守・侍從。日本扁鵲と稱さる)の撰ばれたる『醫略抄』も、亦た漢方なるからは、其の家にても、古く用ひたるさまにあらず。又かゝる古書の、今に至るまで、少(いさゝ)かも聞こえざるも、甚(い)と恠(あや)しき事なる故に、其の書、今世に出すとも、人、皆な僞書として、其の意詞を味ふる者も無かりける。余も始めは大く疑ひて、信用むものとしも思はざりけれど、其の藥方を試みるに、中々奇しき効(しるし)あるを、いと愛(おむか)しく思ほゆるまにゝゝ、終ひに廢(す)つること能はずて、なほ朝夕に考へ試み、年數く勤みつゝ、熟々按ふに、其の書體こそ、甚く亂れたれど、言少く意深く、人の身の生(な)れる始めより、魂魄精液(たまほづ)の玄理(ふかきことわり)・臓腑(なかわた)の官能(いさを)・血氣の妙用(はたらき)・藥能(くすのいさを)の本原(もと)・治め術(わざ)の準則(のり)・寒熱痛痒(ひえ・ぬくみ・いたも・かゆみ)の原因(もとのいはれ)・萬の病の根原(もとね)・病の證(かたち)の古き稱(となひ)、及び藥方まで、他(あだし)邦の、いまだ盡さゞる所、『大同類聚方』に、いまだ論(い)はざる所のもの、悉く備はりて、中々に後の世人の狡意(さかしら)もて、企て及ぶべきものには有らざりけり。其の中には、正しき古傳に有らざるも、後の世人の註文なるも、まゝ混交(いりまじ)りたれど、そは意詞、自ら異なりて、正しき古傳には似てもあらねど、一と目して、いと瞭然(あきら)かにしられたりけり。

 さて如此く考へ得て後ち按ふに、康頼卿は、『醫心方』など、漢風の書を撰びて上奏られしまでなれば、專ら漢法を勤まれしこと、言ふも更なれど、然すがに神代の醫法の廢れなむと爲るを惜しまれたりしか。はた神方に就て、たまゝゝ感(め)で思はるゝ事の有りしかによりて、當時に存(のこ)れる古傳説および藥方どもの、諸國の神社・國造・縣主、其の他、諸家に傳はれるを探索(たづねもと)めて、其の傳の隨に、少かも私を加へず、集め録るされし物から、其の條理も通らず、其の語勢(ことばつき)も同じからずぞありけむを、雅忠朝臣を始め、其の家相續きて、漢風のみ專らとせられければ、其の書有りつゝも、敢へて採用ひることなく、はた世に公にせむとは欲(おも)はざりし物から、世に聞こえずぞ有りけむかし。然して其の用字の如きも、幾百年か經りぬる間に、音により、韻によりて、漸々に寫し誤り、終ひに古の格を失ひたるものなるべし。そは、物を書き寫すは、眞假字(まがな)ほど誤り易きはあらずて、意なき者に寫させるに、「えゑ・おを」等を誤るのみならず、又よく「えへ・ずづ」等をも誤るものなればなり。

 如此くて其の書の、今に傳はるもの、丹波家の本・山脇家の本・金宣徳が本[こは、洛南・向日神社・宮司六人部氏、書寫して藏(も)てり]・和氣氏の印本ども、四本ありて、互ひに文字異同をなせり。又た其の本、いまだ見ざれど、高野山より出たりといへる本ありて、京師西陣の人・眞田平之進といへるもの、一書舗より得て藏せるよし(由)、壺山子が著はせる『醫家古籍考』に見えたり。然して丹波家の本・山脇家の本、ともに序文の終りに、「貞觀十年」の字あり。こは、康頼卿の『醫心方』を奏上れる、永觀の時に先だつこと、大かた百年あまりなるは、いと恠しき事にて、誰も大(いた)く疑ふ事なめれど、是をもて、其の書を廢つべきにあらず。そは、物を僞はり作れるものは、年歴などには殊更に意を用ひて誤るまじきことなれば、書寫の誤りにも有るべきなり。又た二本ともに、「元亨二年壬戌五月、丹波宿禰十一世・昇殿長者・長有二男、典藥頭・正四位下・宮内卿・忠守、再正寫焉」と云ふ奧書あり。此れに依るときは、丹波家に古く傳はれる事知るべく、又た山脇家の本に、題名を『神遺衆古祕法方録』と記したるは、必ず古名なるべし[丹波家の古本も、同じかりしと思はるゝよしあり。そは、(修理大夫正三位・丹波頼理卿)『神遺方講義』に、「題名、或は『神遺衆古祕法方録』に作る。今ま簡に從ひて定む」とあるは、講義の書を撰ぶ時に、『神遺方』とは定められしごと(如)、聞こえたればなり]。此れ等、思ひ合はするに、僞書とのみはいひ難かるべし。然れば其の體裁(さま)に拘はることなく、道の存(あ)るをもて善しとし、正しき古傳を撰り取りなば、こよなき正典(みふみ)にして、また比類(たぐひ)なかるべし。『大同類聚方』の如きは、元より貴き書にしあれど、題名の如く、當時の方集なれば、藥方こそ、有りの盡(ことゞゝ)集めためれど、其を活用(はたらか)すべき道と法とは漏らせるを、『神遺方』は、道と法とを先にして漏らすことなし。『大同類聚方』は、宣命書なる故に、古言には如何に訓みてむと、惑はしきふし(節)多く有るを、『神遺方』は、假字書なるをもて、いと分明(さだか)にして、惑はしき事なければ、是をもて彼を訓み、彼を活用すべきものにぞありける。然れば皇大御國の古醫道をもて、金戸押し張る徒は、まづ此の『神遺方』を眞柱と築立て、『大同類聚方』を梁(うつはり)とし、他の諸々の古書を取りそへて、千尋□[木+考。たく]繩と結び堅めて、靜窟(しづのいはや)の動きなきが如と有りたきことなり。

 さてかく思ひたどらるゝ隨ま、其の註書(しるべぶみ)もがと思ひ起しつるは、はやく文化の間(ほど)に、丹波頼理朝臣の撰ばれたる『神遺方講義』と云ふ書あり。こは朝臣の、世に漢風のみほびこ(滔)りて、神醫道の廢れたるを歎息(なげ)かせられて、神遺方の神遺方たる所以を始め、解(わ)き難き詞をも、よりゝゝに辨き明かし、世の惑ひを解(ひら)かまくと、いと丁寧(ねもころ)に物せられたる書にしあれど、未だ校訂し畢(は)てられずて、朝臣の薨られしものから、盡さゞる所もやと、其の家に深く祕(かく)せる故に、知るもの稀(すくな)けれど、心ある徒は、必ず見るべき書なり。僕(直助翁)、愚弱(をぢな)けれども、こたび此の抄を著はすものは、年ごろ、千萬の病人に對ひて、しばゝゞに試み、つらゝゝに考へつゝ、思ひ得る所のものにして、『講義』の書の尾にすがり、其の説(ときごと)を説きひろめ、古醫道の本つ理(いはれ)を明かし、治術の活機(はたらき)を示し、これを實事に用ひて誤り無からしめむとするの事(わざ)なり。故に本文は、丹波家の本に從ひ、和氣氏の印本(すりまき)、及び山脇家の本を比校(くらべかんが)へ、其の文字異なるものは、其の正しきに從ひ、これを定め、或は共に缺け漏れて、其の意、通(きこ)え難きは、思ひ得る所をもて字を補ひ、其の所以を其の下に註し、はた其の字に小點を施し、又た圏を廓して、これを別ち、古文を混交ることなからしむ。

 然て神典の古説に徴し、漢土の古説を參考へ、はた天地の實理に合(かな)へ、人身の平常の理を辨へ、病の變化(なりかはり)を論ひ、又た「のりわたらえ」の篇の下には、「標本分治(もとすゑわかちをさむる)の規則」を附(そ)へ、「くすのたぐひ」の篇には、「藥能考」を附へ、「やまひのなぐまし」の篇には、「病因考」を附へ、「病門(やまひのまき)」の下には、「經驗藥方」を附へ、專ら實用に便よからしむ。見るもの、此の抄によりて、其の書の僞りならざることを覺り、其の法の、直く正しく、實事に用ひて背(たが)はざることをも辨へて、此の道の眞柱と築立てなば、押し張りし金戸の動き、鳴くことなく、夜目のいすゝき、いつゝしき事なむ、なかるべきものをや。

 嘉永五年壬子のとし、直助、識す。



●權田直助翁の哥──菊池容齋翁所描の權田翁肖像に題す──

劍太刀 さやにをさまる 世にもなほ とぐべきものは こゝろなりけり



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一、神崎四郎氏編『權田直助集』國學大系第二十卷・昭和十九年十一月・地平社刊に、翁の遺著十三篇を收めたるも、主著『神遺方經驗抄』を收めざるは、實に遺憾なり。古神眞の遺法たる『神遺方』、抑も翁が註なくば、讀む能はざるなり。

一、『權田直助翁の生涯』
  ↓↓↓↓↓
http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page14

一、オロモルフ博士『大山參り』──大山阿夫利神社と權田直助翁
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohyama.htm

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  • [19]
  • 渡邊重石丸翁『固本策』

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 1月21日(火)19時32分37秒
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●平田大壑先生『古史徴開題記』一之卷冬に曰く、

「『古語拾遺』は、まこと、古語拾遺にして、『天祝詞』・『古事記』・『日本紀』に遺り漏れたる古語の、これ此の書に記し傳へられずは、神世の故實(ふること)の、いかに解釋くべきと所思ゆる、やごとなき事どもを拾ひ載されたる、廣成宿禰の功の、高く貴きことは更にも言はず。此の書の召し問はれたるに、幸得たりとして、時の勢ひに恐るゝ事なく、年久に蓄へたる憤りを啓き述べ、古道の頽廢れむとするを、持ち直し古へに復さむとする志、全書をつらぬき、故實の源に違へる事どもを數へて、奏されたる十一條は、神に皇に國に忠なる志氣(こゝろざし)の、深切(ねもごろ)に著明く、比類なきこと、千載の後に此を讀む人をして、慷慨(うれたみ)に堪へず、古學の見識を磨き立てしめて、規矩(のり)とせしむる説等になむ有りける。‥‥

[漢人の言に、諸葛亮が『出師表』を見て、涙を落さゞるは、其の人、かならず不忠の人ならむと云へりしとか。余(大壑先生)が常言に、廣成宿禰の『古語拾遺』を見て、泣き慨み、古道を明めむと思ふ志の興起(おこ)らざる人は、道々しげに物言ふとも、信(まこと)には神恩・國恩を思はざる空氣(うつけ)學びの人とや言はまし、といふに似たる言なり]」と。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2031



●氣吹舍塾頭・京都皇學所御用掛・下總國香取神宮少宮司・大講義・道生館主・鶯栖園隱士豐城渡邊重石丸國前直重任翁『固本策』(明治二十二年三月・道生館藏版)

○卷之一「古語拾遺論」

 神皇の道は、禮樂より大なるは莫し焉。何を以てか之を謂ふ。曰く、天尊く地卑しくして、四時行はれ焉、百物生ず焉。之を見るに目を以てし、之を聞くに耳を以てす。天神の化、六合に行はるゝは、禮樂の妙用ならざる者莫き也。是の故に山峙ち川流れ、花紅にして柳緑にして、以て秩序を亂らざる者は、禮也。鶯啼き雷吼え、蟲吟じ風怒りて、以て人の耳を快くする者は、樂也。天地、既に自然の禮樂有り。人間、豈に獨り自然の禮樂無からんや乎。何をか自然の禮樂と謂ふ。曰く、天地の剖判より、君は令し臣は共(拱)し、父は慈に子は孝に、兄は愛に弟は敬に、夫は和に妻は柔、姑は慈に婦は聽に、各々其の宜しきを得る者、是れ之を禮と謂ふ。石屋戸の變、天稚彦の喪の如き、俳優歌舞、啼哭悲歌、或は以て神怒を解き、或は以て喪儀を助く。素戔鳴尊の沼琴を携へ、箏代主神の磐笛を製したまふ、或は以て勇悍の氣を洩らし、或は以て經國の勞を慰めたまふ。而して優游閑雅、各々其の趣きを得る者、是れを之れ樂と謂ふ也。

 蓋し神皇の治、天地の道を奉じて、以て億兆に君臨したまふ。其の意、一に至誠に出でたまふ。是れ報本反始の禮、由つて興る所以ん也。報本反始の禮は、唯だ祭を大なりと爲す。天照大神の尊きを以てすら、猶ほ親ら新嘗を爲し、以て祭祀の道を奉じたまふ。其の旨、深し矣。皇祖瓊瓊杵尊の、下土に降臨したまふや也、神漏伎・神漏美命(皇産靈大神)、授くるに天詞・太詞事を以てし、以て天下を治むるの要訣と爲したまふ。而して其の所謂る祭なる者は、禮樂を以て之を行ふ。中臣・齋部の、倶に祠祀の職を掌り、猿女君氏の神樂の事を供するが如き、以て見るべし矣。祈年・鎭花・風神・鎭火・道饗・大嘗・鎭魂・大祓・生嶋・足嶋・坐摩・御門・御殿・御縣・山口・廣瀬・龍田等の諸祭に至りては、其の源、蓋し盡く神代に□[日+方。はじま]る。而して帝と神とは、其の際、未だ遠からず。神物も官物も、亦た別有ること無し焉。帝にして神、神にして帝、其の重きこと也、至れり矣。嗚呼、朝廷、自ら重んじたまへるや也、是の如し。神を敬ひたまふや也、是の如し。則ち民の各々土に在る者、帝を神に比(なぞら)へまつり、神を帝に比へまつる。瞻仰敬禮、唯だ及ばざらんことを恐る。皆な曰く、「某の神は、忠誠の神也。某の神は、民に功徳有り矣。某の神は、吾の祖也。某氏は、某神の後也。此の神は、風雨を掌りたまひ、彼の神は、疫癘を禳(はら)ひたまふ。此の儀や也、某の神に剏(はじま)り、此の曲や也、某の神に起る」と。目に觸れ耳に熟し、然る後に貴賤老少、口口に相傳へ、以て前言往行を識りて、父は以て子に傳へ、子は以て孫に傳ふ。是に於てか乎、神皇の徳澤、浹洽漸漬して、千載忘れず、以て敦朴の俗を成せり。此に由りて之を觀れば、禮樂の人を染むるや也、豈に言語の能く及ぶ所ならんや哉。

 夫れ天下の味無き者は、風水に若くは無し焉。而して物、能く尚(くは)ふること莫き者は、其の淡きを以て也。禮樂は、風水也。教法は、酒醴(甘酒)也。人の酒醴を甘しとする者は、風水の美を知らざる也。世の教法を談ずる者は、禮樂の化を知らざる也。是に由りて之を言へば、書契(文書)ありて以來、古へを談ずるを好まず、浮華競ひ興りて、還りて舊老を嗤ふ者は、蓋し常人の常にして、勢の必ず至る所、亦た焉れを怪しむに足る無き也。獨り怪しむらくは、天智帝の明と大織冠の識とを以てすら、猶ほ神皇の道を洞見すること能はず、新しきを喜びて故きを忘れ、此を舍てゝ彼を取り、以て百度を改易す。是に於てか乎、神州、敦厚淳朴の俗、變じて異域浮華の風と爲る。其の事を制し法を埀るゝの謬り、何ぞ啻に遺漏と之れ云ふのみ而已ならんや哉。

 廣成、禮樂、未だ明かならざるを以て、之を斥くる者は、蓋し婉言(露骨に直言せず)、以て之を憤りし也。夫れ禮樂の名は、異域に出づと雖も、而も其の實は、神皇の億兆を陶冶し、天下を經緯したまふ所以の大法也。廣成、禮樂を神代に復せんと欲す。卓見確論、實に一代の偉人と謂ひつ可し矣。嗚呼、廣成の志の行はれざりしより、儒佛の迹、日に興り月に熾んにして、禮樂の化、□[火+僭の右。や]みぬ矣。其の極むるや也、帝王を絶海に移しまつる者、之れ有り、天下を股掌に弄ぶ者、之れ有り。皇室陵替したまひ、華冑(名族舊家)も亦た隨ひて凋衰す。其の禍ひ、豈に特(ひと)り忌部氏の不幸のみならむや也。然らば則ち之を如何にせば、而(すなは)ち可ならむ。曰く、鄙俗を往代に易へ、粃政(弊政)を當年に改む者は、廣成の志也。學者今日の務は也、尤も當に廣成の志を以て心と爲し、時に隨ひて制を埀れ、絶えたるを興し廢れたるを繼ぎて、以て千載の闕典を補ふべきのみ耳。若し明治維新の年に當りて、望秩(祭神)の禮を制すること能はずんば、又た何をか學と之れ云はむや哉。

 今ま一人有り焉。曰く齊、曰く魯、曰く文武、曰く周孔、と。叩くに神州の典を以てすれば、則ち茫然たり。之を支那の奴隷と謂はゞ、則ち可ならん。之を大日本人と謂はゞ、則ち否。又た一人有り焉。曰く釋迦、曰く達磨、曰く阿難、曰く迦葉、と。問ふに神聖承統の事を以てすれば、則ち茫然たり。之を印度の奴隷と謂はゞ、則ち可ならん。之を大日本人と謂はゞ、則ち否。又た一人有り焉。曰く英、曰く佛、曰く獨、曰く米、と。諮るに神州開國の源を以てすれば、則ち茫然たり。之を西洋の奴隷と謂はゞ、則ち可ならん。之を大日本人と謂はゞ、則ち否。

 嗚呼、天下の曠き、三千八百萬人の衆き(明治二十年前後の我が國人口)も、擧げて之を大觀すれば、則ち比比として、人、外國の奴隷爲らざる者莫し焉。之れを夷狄を中國(我が皇國日本)に養ふと謂ふ也も、亦た何ぞ不可ならむ。抑も儒者も人也。佛者も人也。洋學者も亦た人也。而して其の徒、皆な覿たる面目(無耻厚顔)有りて、浮華、之れを尚び、舊老、之れを嗤ひ、大日本人爲るを愧づ。甚しきは、則ち降を賣りて後れむことを恐るゝ也。然らば則ち今日、滿天の怪雲愁雨は、安んぞ廣成が大同三年憂國の涙に淵源せざるを知らむや哉。古人の言ふ有りて曰く、「禮樂崩れて、夷狄横(ほしいまゝ)なり」と。豈に信ならずや乎。

 ‥‥

 神皇の道は、終ひに復興す可からざるか歟。曰く、奚爲(なんす)れぞ其れ然らん。上、其の道を失ひ民を散ずるや也、久し矣。道の行はれざるは、上より之を廢すれば也。豈に盡く蠢氓(愚民)の罪ならんや也乎哉。物に本末有り、事に終始有り。根柢傷つく者は、其の木枯れ、言論戻(もと)る者は、其の事躓(つまづ)く。智者にして之を知るを待たざる也。學の人身に關すること、衣食より甚だしき者有り矣。

 神州の正氣、委靡振はざる者は、蓋し異邦の學有りて、以て之を蠧すれば也。何を以てか之を謂ふ。曰く、上古の世、各々承くる所ろ有り。貴賤老少、口口に相ひ傳ふる者は、上古の學也。是の時に當りて、人、各々其の君を君とし、其の祖を祖とし、其の國を國とし、其の家を家とし、其の内を内とし、其の外を外として、天子は此れを以て天下を治めたまひ、國造は此れを以て其の國を治め、蒼生は此れを以て其の家を治む。大小の事、古へを師とするに非ざる者無く、亦た神を師とするに非ざる者無き也。予、意へらく、所謂る貴賤老少とは、朝野に通ずるの名にして、其の人、口口に相ひ傳へて、戒愼勅勵すれば、則ち其の功、或は讀書の功に倍する者有らむ矣。其の風を傳へ俗を成すに及びて、則ち誰か疑ひを前言往行に容るゝ者有らむや哉。皇天傳國の詔・二尊經營の跡・醫藥禁厭の類の如き、朝野に播(ほどこ)し談論を發し、耳に觸れ心に勒し存して忘れざれば、則ち千百世も、猶ほ一日の如し。是れ其の純一の俗を成せし所以ん也。

 漢籍の入貢せしより、頓に耳目を改む。賤丈夫なる者有り。衆に告げて曰く、「彼に聖人なる者有り。吾が邦に諸れ有りや。曰く、無し。彼に詩書なる者有り。吾が邦に諸れ有りや。曰く、無し。彼に禮樂なる者有り。吾が邦に諸れ有りや。曰く、無し。彼に仁義忠孝なる者有り。吾が邦に諸れ有りや。曰く、無し。然らば彼、我を夷と謂ふも、亦た何ぞ不可ならんや也」と。是に於てか乎、人心の彼に向ふ者、沛然として復た禁ずる能はず。内、自ら攻撃して、兄弟の牆に鬩(せめ)ぐ者、始まる。殊に知らず、所謂る詩書なる者は、吾が邦にも之れ有り、禮樂なる者は、吾が邦にも之れ有り、仁義忠孝なる者は、吾が邦にも之れ有るを。而して身、神聖の化に優游涵泳して、猶ほ魚の水に在るがごときを知らざる也。道は邇(ちか)きに在りて、諸れを遠きに求む。事は易きに在りて、諸れを難きに求む。儒爲る者、亦た迂遠ならずや乎。且つ夫れ支那の俗爲る、言は實に浮(す)ぐる者有り、行は言に及ばざる者有り焉。冉求の季氏に黨する(魯が傲臣の宰相と爲る)、仲由の衞輒に死する(不孝の君を助けて、難に死す)、不忠不義なること、孰れか焉れより大ならん。姫旦(周公)の才を以てすら、猶ほ頑民を服すること能はざれば、則ち時事知る可き也。孔丘の賢を以てすら、猶ほ其の婦を去れば、則ち家法も亦た知る可き也。學者、此れを之れ察せずして、其の喋喋、人を教ふる者を見て、瞻仰俯伏、以て聖賢の行も、亦た此くの如しと爲すは、過てり矣。家に呵怒の聲有る者は、蕩子有りて以て之を亂せば也。國に苛酷の法有る者は、賊民有りて以て之を犯せば也。君、君たらず。故に之に教ふるに仁を以てす。臣、臣たらず。故に之に教ふるに義を以てす。父、父たらず。故に之に教ふるに慈を以てす。子、子たらず。故に之に教ふるに孝を以てす。夫、夫たらず。故に之に教ふるに和を以てす。婦、婦たらず。故に之に教ふるに貞を以てす。其の之を教ふる所以の者は、適々其の浮華の俗を證するに足る所以ん也。嗚呼、道、既に亡ぶ矣。故に名教を造作して、以て之を導く。神州の人、其の是くの如きを虞れざる也。其の書の入るや、虚心平氣、以て之を讀み、目眩み耳駭き、氣動き心亂れ、魂飛び魄奪はれ、頑然、化して唐虞三代(堯・舜・夏・殷・周)の人と爲る。嗚呼、是れ何ぞ無病の人、奇藥を服して、奇病を求むるに異らんや也。

 佛法の、神州に入るや也、其の毒、殆んど是より甚だしき者有り。君臣無き也。父子無き也。夫婦無き也。兄弟無き也。朋友無き也。圓首緇衣、本地埀跡の説を作りて、以て其の祖を誣ふ。而して王公大人、身、既に印度の人と爲るを省みず。先を王の流風遺俗の存する者、蓋し幾(いくば)くも無し矣。

 近時に至りては、洋教、駸駸として日に盛んに、其の君を無みし、父を無みするの教、風を亂り俗を敗ること、之を佛に比すれば、則ち其の害、殆んど之に幾百倍するを知らざる也。譬へば敗船、海に入るの勢の如し。苟くも之が所を爲す無ければ、則ち國家の覆沒を免れんと欲すとも、得んや乎。

 嗚呼、此の三害(漢・佛・洋)を神州に聚む。將た何の策か、以て之を救はんや也。曰く、昔、僧高辨(栂尾の明惠上人)、北條泰時に謂ひて曰く、「國を治むるは、猶ほ病を治するがごとし。當に先づ其の病因を知るべき也。病因、既に明かなれば、則ち其の藥を下すも、亦た易易たるのみ耳」と。今日、世を救ふの策も、亦た此に出でせざるを得ず。何をか良藥と謂ふ。曰く、神州の人、穀食せざるや也、久し矣。其の困憊するや也、亦た宜べなり。神典は、神州の穀食也。一日、之を與ふれば、則ち元氣の復すること、斷乎として疑ふ可からざる也。廣成の曰く、「書契ありてより以來、古へを談ずることを好まず」と。其の然る所以の者は、未だ必ずしも異學の、之を亂せるに由らずんばあらざる也。今や也、朝廷、斷然として異學を棄絶し、之に易ふるに上古の學を以てし、貴賤老少をして、口口に先王の法言を誦せしめたまへば、則ち天下の向ふ所を知らむ矣。

 夫れ神州の武を尚ぶや、久し矣。天下、終古も堯・舜・湯・武、無かる可きも也、一日も信長・秀吉、無かる可からざる也。天下、終古も釋迦・達磨、無かる可きも也、一日も加藤清正・本田忠勝、無かる可からざる也。今、天下の華族・士族・神官・教職・人民の徒をして、一旦飜然として業を改め、以て斯學に從事せしめば、蓋し十年を出でずして、貔貅百萬の士(勇猛なる武士)、養ひて致す可し焉。而して文祿・慶長の俗を今日に易ふるや也、必せり矣。果して此くの如くんば、則ち異徒の冥頑なるも、亦た吾が彀中に在らん(漢・佛・洋の徒を活殺自在にす)のみ耳。必ずしも長く甘んじて、外國の奴隷爲らざる也。且つ夫れ君作(た)りたまふこと神武の如く、后作りたまふこと神后の如くんば、以て譏ること無かる可し矣。皇子作りたまふこと倭建の如く、臣作ること武内の如くんば、亦た以て止む可きなり矣。何ぞ必ずしも漢人を祖述し、洋人を憲章して、然る後に學と爲さんや哉。

 蓋し文人の文弱は、武人の武愚に如かず。文士の巧言饒舌は、武士の質直猛悍なるに如かず。神州の俗、古へより然りと爲す也。故に神州の道は、昇平儒者の言に隱れて、亂世武人の跡に見(あらは)るゝ者は、昭乎として誣ふ可からざる也。時に唖然として、座に笑ふ者有り。「今日は、是れ何等の時ぞ。敢へて上古の學を興さんと欲するは、豈に迂腐の極みならずや乎」と。重石丸の曰く、吁、子、譁(かまびす)しうすること無かれ。吾、明かに子に語らん。吾れ聞く、楚宮の餓死多かりしは、其の細腰を好むに因りて也。呉國の□□[病埀+般][病埀+夷]多きは、其の劍を好むに因りて也。上、好む者有れば、下、焉れより甚だしき者有り。草の風に靡く、誰か能く之を禁ぜんや。子、未だ華族・士民の頑鈍にして、利を嗜む者を見ずや乎。其の特(ひと)り操無きこと、今日より甚だしきは莫し焉。苟くも英雄有りて、義を以て之を鼓し、利を以て之を駆り、徳を以て之を誘ひ、刑を以て之を威さば、則ち吾、其の風靡の速かなること、意外に出づるを知る也。復た何ぞ疑はん。

 今や也、令を下して正學の目を天下に揚げんに、其の要、四つ有り焉。一に曰く、浮華を黜く。二に曰く、舊老を尚ぶ。三に曰く、故實を問ふ。四に曰く、根源を識る。擧げて之を總べたまふ者は、天子の學也。天子の學は、之を禮樂を講明すと謂ふ也。入りては則ち其の祖を追考し、出でては則ち一人に事へ、天子の心を以て心と爲す者は、公卿大夫の學也。身を勞して親を養ひ、家を富まして國を益し、天子の心を以て心と爲す者は、士庶人の學也。如(も)し夫れ泰平の化に游泳して、凞凞□□[共に、白+皐]として、民、日に善に遷り、之を爲す者を知らざるは、禮樂の化也。蓋し浮華を黜ければ、則ち實學擧らむ矣。舊老を尚べば、則ち輕躁の風熄まむ矣。故實を問へば、則ち國體立たむ矣。根源を識らば、則ち萬世不易の國是定まらむ矣。嗚呼、果して斯道を興さむと欲すれば、則ち亦た施設の法・陶冶の術、何如を顧みるに在るのみ耳。



○卷之二「古事記論」
○卷之三「神代紀論」
○卷之四「祝詞式論」
○卷之五「萬葉集論」
○ 附録 「讀論語」



○跋

 豐太閤は、髯虜をして我が文を用ひしめんと欲す。秦の呂政は、詩書を燒き儒者を坑(あなに)す。豈に曠世の大快事ならずや乎。北條早雲は、英雄の心を攬るを以て韜略を悟り、晉の石勒は、無學の資を以て漢書を評す。亦た此れ眞に予が遊説を願ふ所ろ也。余、平生、狂を病む。狂すれば則ち咄咄怪事の語を爲す。然れども終ひに自ら以て狂と爲さゞる也。間に時事に感ずること有れば、試みに之を紙に書す。言論奇古、殺氣風生す。意は、武斷に在り。文明世界に用ふる所ろ無し矣。

 嗚呼、太閤・呂政・早雲・石勒が輩、再生するに非ざる自りは、誰か狂と不狂とを判ぜむや哉。然りと雖も天、未だ神州を棄てたまはざれば、則ち未だ屠狗・監門・鍛工・藥商・豪侠・大盗に、其の人無しと謂ふ可からざる也。一念、此に到れば、則ち人をして復た自愛の心を生ぜしめ、蹈海の歎(齊の魯仲連)、未だ發す可からざるのみ也已。

 明治二十年丁亥十二月二十三日夜、寒きこと甚だし。適ま一男子を夢む。自ら王景略(秦王)と稱す。曰く、「寒士、國を憂ふること此くの如くなるも、何ぞ肉食(高位高官の者)の無状なるや也」と。覺むるの後、衾□[衣+周]、鐵の如し。筆を呵して書す。捫虱の手、血痕、猶ほ腥(ちなまぐさ)し。豐城居士・渡邊重石丸(愚案、「居士」の字は、佛者の剽竊する所にして、專用する所に非ず。固より士に居るの謂ひ也。寺・院・軒・庵の字も、亦た同じ)。



【齋部廣成大人】
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【渡邊重石丸翁『天御中主神考』】
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【川合清丸翁『神道を論ずる書牘――渡邊重石丸翁に寄する書』】
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  • [18]
  • 支那の神道、其の二。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 1月16日(木)21時06分1秒
  • 返信
 
~承前~

■文昌帝君『陰隲文

 帝君(文昌帝君は、文昌星の神なり。文昌星は、北斗の左に在る六星にして、此の星の明かなるは、文運の興らんとする兆しなりと云ふ。西晉の張亞は、越に生れて蜀に徙り、梓潼に居り、蜀中の宗師となりて、文教に功あり。弟子、祠を建てゝ之を祭り、題して文昌君と曰ひ、後人、又た文昌帝君と曰ふ。是れ文昌星の化生とせられたるなり)の曰く、

 吾れ、一十七世の間、士大夫の身となりしが、未だ嘗て民を虐げ、吏を酷にせず、人の難を救ひ、人の急を濟ひ、人の孤を憫れみ、人の過ちを容れ、廣く陰隲(陰徳と云ふが如し)を行ひ、上、蒼穹に格(いた)れり。人、能く我の如くに心を存せば、天は、必ず汝に錫(たま)ふに、福を以てせん、と。

 こゝに於て人に訓へて曰く、

 昔、于公は、獄を治めて、大いに駟馬の門を興し(漢の于定國、東海の孝婦の冤罪を憐みて、其の塚を祭りしことあり。其の陰徳によりて、宰相の位に至れり)、竇氏は、人を濟ひて、高く五枝の桂を折り(五代の時、竇禹鈞の五子の、皆な進士及第せるを賀して、馮道が贈りたる詩の句に、「丹桂五枝芳し」とあり)、蟻を救ひては、状元(進士及第の首席)の選に中り(宋の宋郊・宋祁兄弟が進士の試驗を受けたりし時、弟が首席となりしを、更に兄の首席と改められたるは、甞て蟻の溺れんとするを救ひたる陰徳の報いによれりとのことなり)、蛇を埋めては、宰相の榮を享く(周の時代に、楚の孫叔教、兩頭の蛇を見て、殺して之を埋めたり。こは、此の蛇を見る者は、命を失ふべしと言ひ傳ふるによりて、他人の禍とならざらむが爲めなり。此の陰徳によりて、自己の命も恙なくして、後に宰相の位に至れり)。福田を廣めむと欲せば、須く心地を平にすべし。時時の方便を行ひ、種種の陰功を作せ。物を利し、人を利し、善を修め、福を修めよ。正直は、天に代りて化を行ひ、慈祥は、國の爲めに民を救ふ。主に忠にし、親に孝にし、兄を敬ひ、友に信なれ。或は眞君を奉じて、北斗に朝し、或は佛陀を拜して、經文を念ぜよ。四恩に報答して、三教を廣行せよ。急なるを濟ふことは、涸れたる轍の魚を濟ふが如くし、危きを救ふことは、密(こまか)なる羅(あみ)の雀を救ふが如くせよ。孤を矜み寡を恤み、老いたるを敬ひ、貧しきを憐め。衣食を措きて、道路の飢寒に周(あまね)くし、棺槨を施して、尸骸の暴露を免れしむべし。家富みては、親戚を提携し、歳飢ゑては、隣朋を賑はし濟へ。斗秤は、須く公平なるを要すべく、輕く出し重く入るべからず。奴僕は、之を待つこと寛恕なるべく、豈に宜しく備さに責め苛(きび)しく求むべけんや。經文を印造し、寺院を創め修めよ。藥材を捨てゝ以て疾み苦しめるを拯(すく)ひ、茶湯を施して以て渇き煩はしきを解け。或は物を買ひて生を放ち、或は齋を持して殺を戒めよ。歩を擧げては、常に蟲蟻を看、火を禁じては、山林を燒くこと莫れ。夜燈を點じて以て人の行ひを照らし、河船を造りて以て人の渡るを濟へ。山に登りては、禽鳥を網する勿れ。水に臨みては、魚蝦を毒する勿れ。耕牛を料理する勿れ。字紙を棄つる勿れ。人の財産を謀る勿れ。人の技能を妬む勿れ。人の妻女を淫する勿れ。人の爭訟を唆(そゝ)る勿れ。人の名利を壞(やぶ)る勿れ。人の婚姻を破る勿れ。私讐に因りて人の兄弟をして不和ならしむる勿れ。小利に因りて人の父子をして不睦ならしむる勿れ。權勢に倚りて善良を辱しむる勿れ。富家を恃みて窮困を欺く勿れ。善人には之に親近して、徳行を身心に助けよ。惡人をば之を遠避して、災殃を眉睫に杜(と)ぢよ。常に須く惡を隱し、善を揚ぐべく、口には是として、心には非とすべからず。道を礙(さまた)ぐるの荊榛を剪り、途(みち)に當るの瓦石を除け。數百年、崎嶇の路を修め、千萬人、來往の橋を造れ。訓を埀れて以て人の非を格(たゞ)し、資を捐(す)てゝ以て人の美を成せ。事を作しては、須く天理に循(したが)ふべく、言を出しては、人心に順ふを要す。先哲を羹牆に見、獨知を衾影に愼め。

 諸々の惡しきことをば作すことなく、衆々の善きことを奉行せば、永く惡しき曜(ほし)の加臨無く、常に吉き神の擁護あらむ。近き報いは、則ち自己に在り。遠き報いは、則ち兒孫に在り。百福、駢(なら)び臻(いた)り、千祥、雲のごとくに集まるは、豈に陰隲の中より得來る者にあらずや、と。



■關聖帝君『覺世眞經

 帝君(漢の壽帝侯關羽の神なり)の曰く、

 人、生れて世に在りては、忠孝節義等の事を盡すを貴ぶ。方(まさ)に人の道に於て愧づること無くして、天地の間に立つ可きを庶幾ふ。若し忠孝節義等の事を盡さずんば、身は世に在りと雖も、其の心は既に死せるもの、生を偸(ぬす)むと謂ふ可し。

 凡そ人の心は、即ち神にして、神は、即ち心なり。心に愧づること無ければ、神に愧づること無し。若し是れ心を欺くは、便ち是れ神を欺くなり。

 故に君子は、三畏(『論語』に、君子の三畏として、「天を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る」とあり)し、四知(漢の楊震は、「天知る、地知る、汝知る、我知る」といひて、賄賂を拒絶せしことあり)し、必ず其の獨を愼む。暗室、欺く可しと謂ふこと勿れ。屋漏(屋根の西南に在りて、明を取る處)にも愧づ可し。一動一靜も、神明は鑑察したまふ。十目十手(『大學』に、「十目の視る所、十手の指さす所、其れ嚴なるかな」とあり)は、理の必ず至る所なり。況んや報應昭昭として、毫髮をだも爽(たが)へざるをや。

 淫は、諸惡の首め爲り。孝は、百行の原(もと)爲り。たゞ理に逆ふこと有れば、心に於て愧づる有りと者(いへり)。利有るがために、之を行ふと謂ふこと勿れ。凡そ理に合すること有れば、心に於て愧づる無き者なり。利無きがために、行はずと謂ふこと勿れ。若し吾(帝)が教へに負かば、請ふ、吾が刀を試みむ。

 天地を敬ひ、神明に禮し、祖先を奉じ、雙親に孝にし、王法を守り、師尊を重んじ、兄弟を愛し、朋友に信あり、宗族に睦しくし、郷鄰に和し、夫婦に別あり、子孫を教へ、時に方便を行ひ、廣く陰功を積み、難を救ひ急を濟ひ、孤を恤み貧を憐み、廟宇を創修し、經文を印造し、藥を捨し茶を施し、殺を戒め生を放ち、橋を造り路を修め、寡を衿(あはれ)み困を拔き、粟を重んじ福を惜み、難を排し紛を解き、資を捐てゝ美を成し、訓を埀れて人に教へ、冤讎をば解釋し、斗秤をば公平にし、有徳の人に親しみ近づき、兇(あ)しき人には遠ざかり避け、惡を隱し善を揚げ、物を利し民を救ひ、心を囘(めぐ)らして道に向ひ、禍を改めて自ら新たにし、滿腔仁慈にして、惡念存せず、一切の善事は、信心に奉行せば、人は見ずと雖も、神は已に早く聞き、福を加へ壽を増し、子を添へ孫を益し、災は消え病は減じて、禍患者は侵さず、人も物も咸(み)な寧くして、吉き星は照臨せむ。

 若し惡心を存して、善事を行はず、人の妻女に淫し、人の婚姻を破り、人の名節を壞り、人の技能を妬み、人の財産を謀り、人の爭訟を唆(そゝのか)し、人を損じて己を利し、家を肥し身を潤し、天を恨み地を怨み、雨を罵り風を呵(しか)り、聖を謗り賢を毀り、像を滅ぼし神を欺き、牛犬を宰(き)り殺し、字紙を穢溺し、勢を恃みて善を辱め、富に倚りて貧を壓し、人の骨肉を離し、人の兄弟を間し、正道を信ぜず、奸盗邪淫し、好みて奢詐を尚び、儉勤を重んぜず、五穀を輕んじ棄て、恩有るに報ぜず、心を瞞し己を昧(くら)くし、斗(ます)を大にし秤を小くし、邪教を假立して、愚人を引誘し、昇天を詭(いつは)り説きて、物を斂(をさ)め淫を行ひ、明(めい)には瞞し、暗には騙し、横言し曲語し、白日に呪詛し、地に背きて害を謀り、天理を存せず、人心に順はず、報應を信ぜず、人を引きて惡を作さしめ、片善をも修せずして、諸々の惡事を行ふときは、官詞・口舌(くぜつ)・水火・盗賊・惡毒・瘟疫(うんえき)ありて、敗を生じ蠢を産し、身を殺し家を亡ぼし、男は盗み女は淫し、近きは身に在るに報い、遠きは子孫に報ゆべし。

 神明の鑑察は、毫髮も紊れず。善惡の兩途は、禍福の分るゝ攸(ところ)なり。善を行へば福ひ報い、惡を作せば禍ひ臨む。我(帝)、斯の語を作す。願はくは人々、奉行せよ。言は淺近なりと雖も、大に心身に益あらむ。吾(帝)が言を戲悔せば、首を斬られ形を分たれむ。能く持誦する有らば、凶は消え慶を聚めむ。子を求むれば子を得べく、壽を求むれば壽を得べく、富貴功名、皆な能く成すこと有らむ。凡そ祈る所ろ有らば、意の如(まゝ)にして獲られ、萬禍は雪のごとく消えて、千祥は雲のごとく集まらむ。諸々の此くの如き福は、惟だ善によりてのみ致す可し。吾は、本と私し無く、惟だ善人を佑くるのみ。衆善奉行して、厥の志を怠らしむる毋(なか)れ。

 世に勸むる箴に曰く、「好き人と做(な)り、好き事を行ひ、好き書を讀み、好き話を説け」と、と。
  ↓↓↓↓↓
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964223



■『佛説父母恩重經』
  ↓↓↓↓↓
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  • [17]
  • 支那の神道 ──『太上感應篇』は、修身治國の要なり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2014年 1月12日(日)23時00分56秒
  • 編集済
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●『日本後紀』嵯峨天皇の弘仁三年七月朔敕

 但だ神明之道は、禍を轉じ福と爲す。庶はくば祐助を憑まむ。此の災禍を除くに、宜しく幣を天下の名神に走(奉)るべし。



●東齋一條關白藤原兼良公『神代紀纂疏』

 顯事之事は人道也。幽事之事は神道也。二道は、猶ほ晝夜陰陽のごとし。二にして一たり。人、惡を顯明之地に爲せば、則ち帝皇、之を誅し、人、惡を幽冥之中に爲せば、則ち鬼神、之を罰す。善を爲して福を獲るも、亦た之に同じ。神事とは、則ち冥府之事にして、祭祀牲幣之禮に非ず。祭祀牲幣は、猶ほ顯露事に屬するがごとし。



■□■太上老君『神仙感應經』(太上感應篇)■□■

──二三の本を以て校合するも、勅使原大鳳翁『幽眞界研究』平成十四年十月・山雅房刊より、多く採れり。

 大鳳翁の曰く、「太上感應篇は、むすび、即ち因果應報を説けり。件の仙經に、『天皇の存在を第一とし』と云ふ中心核を付け加ふれば、完全無闕に至る。正に畫龍、點睛を缺く支那神仙道は、日本に來りて、初めて所を得る可し矣。神道の修行とは、産土司命神の冥護に感謝し、當り前の生活を、日々正確に積上げ、天皇爲本之大道を守り、皇祖皇宗の神と自らの祖神を崇拜し、萬靈を供養し、一日一善を心懸くる人生の中にのみ在る。それが心の穢れを洗ひ、魂を淨む(洗心淨魂)。此の地道な努力こそ、神仙界に通ずる、唯一の道なり。本來、正眞神仙之大道、即ち神道とは、俗世の縁で就いた職業を天職として、經濟生活を營み、人間として當り前の義務を果すべき道なり。常に天皇爲本之大道を基本とし、日々神拜と積善陰徳の言動を累積し、併せて天之岩戸事件を解決した彌咲(いやゑら)ぎに咲ぐと云ふ、笑ひの幸ひの精神を、日常生活に於て實踐するのが本分なり」と。

 葛仙翁『抱朴子』に曰く、「遲速、皆な殃罰を受く。天網、疎なりと雖も、終ひに漏れざるなり」と。神は見てをるを謂ふなり。『神仙感應經』は、中昔に唐戎の道士ありて、名を隱し僊家の教説を集めて撰べるものにて、曾て僞書に非ざれば、『大祓詞』と共に奉唱すべし。

 太上眞人の曰く、「太上の『埀訓感應之篇』、日に誦すること一囘にて、罪、消滅す。之を受持すること一日にして、福祿いたる。堅く之を行ふこと一年にして、七代前の祖先も、其の餘徳によりて天に昇る。久しく行うて怠らざれば、壽命延び、天神、之を敬つて、其の名を諸仙に列す」と──



 仙經に[太上(太上老君、即ち伊邪那岐大神)の]曰く、

 禍福は門無し。惟だ人、自ら召(まね)く。善惡の報いは、影の形に隨ふが如し。是を以て天地には、司禍神(司命神)有りて、人の犯す所の輕重に依りて、以て人の算(三日を一算とす)を奪ふ。算、減ずるときは、則ち貧耗にして、多く憂患に逢ひ、人は皆な之を惡み、刑禍は之に隨ひ、吉慶は之を避け、惡星は之に災ひし、算、盡くるときは、則ち死す。又た三台(星の名、北斗の附近に在り。上台は司命、中台は司中、下台は司録にして、之を三公に配當す。即ち造化參神)・北斗神君(北極星の附近にある星座にして、七星の神)有りて、人の頭上に在り、人の罪惡を録(しる)して、其の紀(三百日を一紀とす)と算とを奪ふ。又た三尸神(『太上三尸經』に曰く、「人身の中に各々三尸有り。上尸は彭倨と名づけて人の頭中に在り、二尸は彭質と名づけて人の腹中に在り、下尸は彭矯と名づけて人の足中に在り」と。即ち人體に巣くふ靈蟲、是なり)有りて、人身の中に在り。庚申の日に到る毎とに、輒ち上りて天曹(萬靈司籍府宮)に詣(いた)りて、人の罪過を言ふ。月晦りの日には、竈神(即ち奧津彦・奧津姫神)も亦た然かす。凡そ人に過ち有るときは、大には則ち紀を奪ひ、小には則ち算を奪ふ。其の過ちには、大小數百の事有り。長生(神仙)を求めんと欲する者は、須く先づ之を避くべし。

 是なる道には則ち進み、非なる道には則ち退け、邪なる徑(こみち)を履まざれ、暗室(隱微)にも欺かざれ。徳を積み、功しを累ねよ。物に對して、慈みの心あれ。忠孝なれ、友悌なれ。己を正しうして、人を化せよ。孤(みなしご)を矜(あはれ)み、寡(やもめ)を恤(めぐ)め。老いたるを敬ひ、幼きを懷(なつ)けよ。昆蟲草木だも、猶ほ傷つくべからず。宜しく人の凶を憫むべく、人の善を樂しむべく、人の急を濟(すく)ふべく、人の危きを救ふべし。人の得たるを見ることは、己の得たるが如くせよ。人の失へるを見ることは、己の失へるが如くせよ。人の短なるを彰さゞれ、己の長なるを衒はざれ。惡を遏(とゞ)め、善を揚げよ。多きをば推し讓りて、少きをば取れ。辱めを受くも怨まざれ、寵を受くも驚くが如くせよ。恩を施して報いを求めざれ、人に與へて追悔せざれ。

 謂ゆる善人をば、人は皆な之を敬ひ、天道は之を佑け、福祿は之に隨ひ、衆邪は之に遠ざかり、神靈は之を衞り、作す所は必ず成り、神仙をも冀ふ可し。天仙たらむことを求めんと欲する者は、當に一千二百の善きことを立つべく、地仙たらむことを求めんと欲する者は、當に三百の善きことを立つべし。

 苟も或は義に非ずして動き、理に背きて行ひ、惡を以て能と爲し、忍(かく)れて殘害を作(な)し、陰かに良善を賊(そこな)ひ、暗に君と親とを侮り、其の先生を慢り、其の事ふる所に叛き、諸々の無識なるものを誑かし、諸々の同學を謗り、虚誣詐僞し、宗親を攻め訐(あば)き、剛強にして仁ならず、很戻(もと)りて自ら用ひ、是非すること當らず、向背すること宜しきに乖(そむ)き、下を虐げて功を取り、上に諂ひて旨を希ひ、恩を受くも感ぜず、怨みを念ひて休まず、天民(賢者)を輕蔑し、國政を擾亂し、賞すること非義のものに及び、刑すること辜(つみ)無きものに及び、人を殺して財(たから)を取り、人を傾けて位を取り、降れるものを誅し、服へるものを戮し、正しきを貶し、賢きを排(おしの)け、孤を陵(しの)ぎ寡に逼り、法を棄てゝ賂を受け、直きを以て曲れりと爲し、曲れるを以て直しと爲し、罪の輕きものを入れて重しと爲し、誅殺せらるゝものを見ては怒を加へ、過ちを知りても改めず、善を知りても爲さず、自ら罪ありて他人を引き、方術(學術)を壅塞し、聖賢を□[言+山]謗し、道徳を侵陵し、飛ぶ鳥を射、走る獸を逐ひ、蟄(かく)れたるものを發(あば)き、棲(やど)れるものを驚かし、穴を填め巣を覆(くつがへ)し、胎(はらめ)るものを傷(やぶ)り卵を破り、人の失有らむことを願ひ、人の成功を毀(そし)り、人を危くして自ら安んじ、人を減して自ら益し、惡しきを以て好(よ)きに易へ、私を以て公を廢て、人の能を竊み、人の善を蔽ひ、人の醜を形(あら)はし、人の私を訐き、人の財貨を耗(へら)し、人の骨肉を離し、人の愛する所を侵し、人の非を爲すを助け、志を逞しうして威(いきほひ)を作し、人を辱めて勝つことを求め、人の苗稼を敗り、人の婚姻を破り、苟(かりそめ)に富むも驕り、苟に免れて恥づること無く、恩をば己に認めて、過ちをば人に推し、禍を嫁し惡を賣り、虚しき譽れを沽買ひ、險しき心を包貯へ、人の長ずる所を挫き、己の短なる所を護り、威に乘じて迫り脅かし、暴を縱(ほしいまゝ)にして殺し傷つけ、故ゑ無くして帛(きぬ)を剪り裁ち、禮に非ずして烹宰(肉を料理)し、五穀を散らし棄て、衆生を勞(つか)らし擾(みだ)し、人の家を破りて、其の財寶を取り、水を決(き)り火を放ちて、以て民の居宅を害し、規模を紊亂して、以て人の功を敗り、人の器物を損じて、以て人の用を窮せしめ、人の榮貴なるを見ては、其の流貶せられむことを願ひ、人の富有なるを見ては、其の破散せむことを願ひ、人の色の美しきを見ては、心を起して之に私せんとし、人の財貨を借りては、其の人の死せむことを願ひ、干求めて遂げざるときは、便ち呪ひと恨みとを生じ、人の不運を見ては、便ち其の過ちを説き、人の體相の不具なるを見ては之を笑ひ、人の才能の稱す可きを見ては之を抑へ、蠱(毒蟲にして、人を害する爲めの禁厭に用ふ)を埋めて人を厭(まじな)ひ、藥を用ひて樹を殺し、師と傅とに對して恚怒りを起し、父と兄とに對して觸れ逆ひ、強ひて取り強ひて求め、好みて侵し好みて奪ひ、虜掠(とりかす)めて富を致し、巧みに詐りて上位に遷らむことを求め、賞と罰とを平かにせず、逸樂すること節に過ぎ、其の下なるものを苛み虐げ、他人を恐嚇し、天を怨み人を尤(とが)め、風を訶(しか)り雨を罵り、鬪合爭訟し、妄りに朋黨を逐ひ、妻妾の語(ことば)を用ひて父母の訓へに違ひ、新しきを得ては故(ふる)きを忘れ、口には是とするも心には非とし、財を貪り冒して、其の上を欺き罔(し)ひ、惡語を造作して、平かなる人を讒毀し、人を毀りて直と稱し、神を罵りて正と稱し、順なるを棄てゝ逆なるに傚ひ、親しきに背きて疏きに向ひ、天地に指さして以て鄙しき懷を證し、神明を引きて猥りなることを鑑みしめ、施しを與へて後に悔い、假借して還さず、分より外に營み求め、力より上に施し設け、淫欲は度を過ぎ、心は毒にして貌(かたち)は慈に、穢き食もて人を□[食+委。やしな]ひ、左(よこしま)の道もて衆を惑はし、尺を短くし度を狹くし、秤を輕くし升を小くし、僞りをもて眞に襍(まじ)へて姦利を採取し、良民を壓して賤民と爲し、愚かなる人を謾(あざむ)き驀(しの)ぎ、貪婪にして厭くこと無く、呪詛して己を直とせんことを求め、酒を嗜みて悖り亂れ、骨肉忿り爭ひ、男は忠良ならず、女は柔順ならず、(夫は)其の室に和せず、(妻は)其の夫を敬はず、(夫は)常に矜(おご)り誇ることを好み、(妻は)常に□[女+戸。ねた]み忌むことを行ひ、(夫は)妻子に對して行ひ無く、(妻は)舅姑に對して禮を失ひ、祖先の靈を輕んじ□[女+曼]り、君上の命に違ひ逆ひ、無益のことを作爲し、懷に外心を挾み、自ら呪(のろ)ひ他を呪ひ、偏りて憎み偏りて愛し、井(ゐど)を跳り越え、竈を跳り越え、食物を跳り越え、人を跳り越え、子を損じ胎(はらごもり)を墮し、多く隱僻のことを行ひ、晦臘(一月の終・一歴の終)に歌ひ舞ひ、朔旦に號び怒り、北(天帝の位。北極星)に對(むか)ひて涕し唾し及(ま)た溺(いばり。小便)し、(以下の戒は、我が神道に無し)竈に對ひて吟咏し及た笑ひ、又た竈の火を以て香を燒(た)き、穢れたる柴(たきゞ)にて食を作り、夜起きて裸を露(あらは)し、八節(冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬の日)に刑を行ひ、流星に唾し虹□[虫+兒。にじ]を指さし、輒ち三光(日・月・星)を指さし、久しく日月を視、春に燎(や)きて獵(かり)し、北に對ひて惡罵し、故ゑ無くして龜を殺し蛇を打つ。是の如き等(たぐひ)の罪をば、司命(司過神)は、其の輕きと重きとに隨ひて、其の紀と算とを奪ふ。算、盡くるときは、則ち死す。死して餘責あるときは、乃ち殃ひ、子孫に及ぶ。

 又た諸れ横(よこしま)に人の財を取る者は、乃ち其の妻子家口を計りて以て之に當て、漸く死喪するに至らしむ。若し死喪せざるときは、則ち水火、盗賊、器物の遺亡、疾病、口舌の諸事ありて、以て妄りに取りたる直(あたひ)に當つ。又た枉げて人を殺す者をば、刀兵(武器)を易へて相殺さしむ。非義の財を取る者は、譬へば漏脯(雨の漏る所に在りたる乾肉)もて飢ゑを救ひ、鴆酒(毒鳥の羽を浸したる酒)もて渇きを止むるが如し。暫く飽かざるに非ずと雖も、死も亦た之に及ばむ。

 夫れ心、善に起こらば、善は未だ爲さずと雖も、而も吉神(司命神)は、已に之に隨はむ。或は心、惡に起こらば、惡は未だ爲さずと雖も、而も凶神(妖魔)は、已に之に隨はむ。其れ曾て惡事を行ひたること有りしものも、後に自ら改め悔い、諸々の惡をば作すこと莫く、衆々(もろゝゝ)の善をば奉行(積善陰徳の實踐)せば、久々にして必ず吉慶を獲む。謂ゆる「禍を轉じて福と爲す」者也。

 故に吉人は、善を語り、善を視、善を行ふ。一日に三の善有らば、三年にして、天、必ず之に福を降さむ。凶人は、惡を語り、惡を視、惡を行ふ。一日に三の惡有らば、三年にして、天、必ず之に禍を降さむ。胡んぞ勉めて、之を行はざらんや。
 

  • [16]
  • 皇大御神は、諾册二柱大神の懇祷に生産れ給ふ。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年12月23日(月)00時11分11秒
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~承前~

●越後國魚沼郡川合神社祠官・青鸞山本徳右衞門比呂伎翁『伊吹狹霧五十鈴廼川波』(明治二十七年七月刊)

第七章 皇大御神は、諾册二柱大神の懇祷に生産し給ふを釋す

 伊邪那岐・伊邪那美二柱の大神の、天照皇大御神を生産し給ふ、おほん理由は、‥‥前立ちて先づ皇大御神を生産座さでは、皇極建たざるのみならず、且つ末世に到りて、倫理紊亂、秩序錯雜し、人々、自主の權力を爭ひ、互ひにのゝしり合ひて、上下の差別もなく、各自が向き々ゝに標準を立てゝ、彼に傾き是に流れ、利の極端に走り行きては、放縱(ほしひまゝ)に法律を作り、眞誠の基本たる所を行ふべき由なく、平等・自由の論に墜り、己々が心まかせの説のみ廣まり、果ては不平を釀し、競爭となり、放伐と變態して、甚(い)と安からぬ世と成り行かむ事を、御祖二柱大神の、神代の未發に知ろし召して、皇大御神を生産し坐せばなり。さればこそ、遠き神代の始めに、天神の大詔を受けて、大八嶋を修理固成(つくりかためな)し給ひしも[地質の軟柔を固め成させたまふ所以は、其の中に幾多の動物を住ましめ、其の安寧を計り給ふ御寄さしとこそ知られたれ。されば其の國中の衆物に付いて、主宰を持別け定め、又た大統の大君をも産み奉る可き運びなれこそ。徒らに土地をのみ固むる事と見たらむは、古典を見るの甲斐やはある]、なほ萬斯不變、天地統一の大主宰存在(ましま)して、唯に一時の愛情にのみすがり成り立つ典故は虚禮にして、無窮に萬生を護持し難きを見晴らし、此に大主宰、生産ざらめやと、深く思ほし立たせたまひてぞ、皇大御神の生産し給ふにはありけめ。是ぞ我が惟神、大道磐垣の、萬邦に獨り拔け出て、堅固に粹立する、天眞煥然なる神業には有りけり。先づ二柱大神の御心を碎き給ひし御功業より説き起こし、‥‥蓋し神業は奇毘(くしび)なりといふも、決して義理の外なるものにあらざれば、神理・神靈の上をも悟り得らるゝ限りを悉して論らひ見む、と思ふなり。

 扨て諾册二柱の大神の、八百萬神・千五百萬の物を生成化育し給ふにも、天神より命ぜさせ給ふ修理固成(つくりかためなす)の御言寄(みよさし)を、千萬に遂げ全ふすること能はずと、厚くも思ほし振立ち坐すは、上下に論ふ如く營み終ひたまへし事の、吾が皇國の眞粹なる大基礎となれるものにして、神道惟一の掟なれば、外國の如き、何事も天に托し、或は博愛主義として、朝君暮臣の革命を傳へ、帝王と雖も、姦雄の爲めに駆馳せられ、瞬時も安からぬ國状と成り行く類にくらべては、雲泥の差別(けじめ)あり。そも外國は、修理固成に類せる神典もなく、徒らに才智のみに偏倚し、合集體組織に成り立ち、輕躁浮薄なる空(む)な國柄になむ。されば吾が二柱御祖神は、かゝる患苦を、はやく千よろづの昔に知ろし食し、天壤無窮の大主宰を生成し給ひ、上下の差別を正定し、萬古大御寶の安寧を思ほし給ひぬる大慈祥の大御うけびに、感動神化せしなるべし[不幸(ふさは)ぬ神を生産し給ひてすら、天上に登り、御議り給ふ抔、言へる事は知らねども、かく無上至尊を生産し給はむとの至重なる事は、徒らにせさせ給ふべきにあらず。先づ御占にもうらべ給ひ、亦た身禊祭式をも、おごそかに行はせられて、天神の御教のまにゝゝなし給ふや、明らけし。神典に「何ぞ天下の主者を生まざらんや歟。是に於て共に日神を産みたまふ」とあるに、心をつけて熟考するに、「何」字に、深く力あり。又「是に於て」の下に、事ありげなる文勢にて、自ら祭式身禊等の神式を執り行はせられたる。易簡なる神文の味をも覺り得べきものになむ。なほ委しくは、下に云ふべし]。

 さて其の御計畫の典禮は如何ならむと、推し考ふるに、二柱の大神の、至誠懇祷、千載一貫の御精神を凝固し給ふ上から、先づ一速く身禊の式に取り懸り給ふなるべし。然はあれど此度びは、常ならぬ神事なればとて、緩急中正、日向ふ位置等まで、いと懇ろに探り給ひ、初め速吸名戸を求(ま)き給へども、こも御心に不祥(ふさは)じとして、終ひに筑紫の日向の立花の小戸の檍原に到り給ひて[筑紫に、種々の説あり。昔時、人を取り盡す暴神有るよりの名。又た□[号+鳥。けう。梟]鳥、一名「づくし」、國形の似るよりと云ふ説あり。近來は、姫神達、彼の國に鎭まり坐しますより、「うつくし」の約まりなりともいへり。比呂伎は、此の嶋、一孤嶋たれど、昔時、穴門の續きたるより、つゝき嶋の略語と思ふなり。後の人、よく考へてな。さて日向の義は、字の如くなるが、日向の意義は、前にも述べたる如く、皇基の根幹、神道の大則、是より尊く大なる盛典なし。橘守部大人は、「立花の水の立走る泡の義なり」といへり。檍は、『東雅』に、「□[木+丑]なり。今の山萩」と訓みたり。比呂伎、此の言の葉のがゝり匂ひを考ふるに、此ぞ朝日・夕日の照り匂ふ所にて、こゝに御志す所の望み立ちつるより、いざや、穢れを剥ぎ祓はめと、御心を狹め、所謂る小心翼々と愼み給ひぬるが、御心に契り通ふ名稱と考へつるは、餘り理りに過ぎたるや、如何ならむかも]、言擧げし給ひつらく[神典に、「言擧げす」とあるは、徒事にはあらず、深き由ある處にのみあるなり]、「上つ瀬は、瀬早し。下つ瀬は、瀬弱し」。此に於て中瀬におりかづき、御心を盡し給ふ甲斐ありて、此處は、朝日の直さす中正なる處と、いたく喜び給ひしなるべし。これぞ、天津日に向ひまして、天地元氣衷和すめる望みの處を探り得、言あげ給ひし文勢なりける。誠に是れ祓戸祭祀の式は、皇國無上至要の神式源縁にして、教の由りて生ずる所なり[中古の宏儒と聞こゆる人々すら、徒らに「道は中和の道」とのみいへれど、日に向ひて清め、神威の尊きを專一と爲し給ふこそ。又た殊にめでたく、上なき尊き神業にして、本邦自然の惟神の道なりけれ。日向の事の由は、大和魂の源則なれば、猶ほそれにいへば、併せ見るかし]。かく言ひ以て往く時は、『古事記』を誤りにかと言ふに、然にはあらず。聊か傳の紛れたるのみなるべきか。その事、下に言ふべし。徒らに豫母津國の穢れをのみ祓潔(きよめはら)ひ給はむとならば、何れの海邊、いづれの川邊にても、禊除のわざは足りぬべきを、殊更に國々を求め撰びまして、其の所を得て、いと懷に悦び、覺えず大呼し給ふ一聲のために、天と長く地と久しさ、感格を萬生にあたひし餘響の、今に耳朶に觸れ、迷夢の頓に覺めぬる、比呂伎は心地して、驚ろ々ゝ畏こくなむ。深き御謂れの有りてならじやは。

 次に祭典の事に、御心を盡し給ふことの、無上の御神業なるは申すまでもなく、その祭式も、必ず二柱大御神の、嚴重に執り行はせ給ふなるべきも、遠き神代の初めの事實の、委しき事の漏れて傳はらぬこそ、遺憾なれ。天の石窟戸の祭式も、神々、深智を盡し給ふは、元より論なけれど、豈に憑る所なからまじやは。大略、此の時の神事の式禮を根據としたまひしや、うづなかるべし。代々、朝廷の祭式も、素より此に基源し、確例とこそ、なし來にけめ。いでや、其の神業を言はむに、祭式は、必ず神籬立て、榊木を根こじにこじて、千座八百座に供物を置高なして、瓊・鏡・白・青の和幣(にぎて)等を採りしで給ふ事の神式なりけらし。古傳に、「伊邪那岐命の曰く、『吾が御子、多なりと雖も、未だ若此く靈異の子は有(ま)さず。宜しく此の國に留めまつるべからず也』と。即ち其の御頸珠の玉の緒を、□[王+倉]々然(もゆら)に取りゆらかして、天照大御神に賜ひて、之に詔りしたまふ。『汝が命は、高天原を知らせ矣』と事依さして賜ひき也。故れ其の頸珠の名を、御倉板擧之神と謂(まを)す云々」と。さて此の頸珠の事は[‥‥]、造化大元神の御心をとり動(ゆら)がし、感格し得べきものは、此の胸懸の寶珠なり。主と榊木の上枝に取り懸くる神式と了るべきになむ。後に此の御珠を、皇大御神に懸け奉り給ひしも、一條傳統の神授の御璽にして、深き神理とこそしられけれ。此の靈珠を、『古史傳』に、師の説とて、「祖神の賜ひし重き御寶として、天照大御神の御倉に藏め、その棚の上に安置し奉るを以て、崇め祭りたまひし故の御名なるべし」と。此の説も、あながち頼みがたし。こは、後の事を以て名に負はせては違へけばなり。總べて神の御名は、其の神の功績の傳にて、神の運(はたら)き・御事業を以て、やがて御名に稱へ奉る國風なるは、前に述べし如くにて、此の大祭を執り行ひ給ふにつき、千座八百座に、種々の供物を置き足らはし、幾棚となく整列せるが中に、主と奉るは、此の珠鏡なり。故に此の頸珠の神運・靈魂の活きに依りて、皇大御神を感應醇化、生産し給へる御馨徳より、御倉棚神と稱へ奉る起源にして、魂は、珠に同じき言葉の成立なりと悟るべし[珠の用たるや、魂にて、造化大元神の御魂を、此の珠に托憑し奉り賜ひ、伊邪那岐の大神に授け奉れる珠にして、大元神の御魂を祈り奉る。感動主一の靈器にして、常の器にあらず。御招玉の解は、橘守部大人の『難語考』に云はれき。合はせ見るべし]。此を以て造化大元神の和魂の、化生し坐しゝ皇大御神なるを、代に表章示顯し、諸神に嚴重に欽聽せしめむとして、もゆらに鳴り動かし給へる御手振り也。後世、號令の爲めに用ゐて、鈴を振り驚かすも、蓋し是等に基因するならむか歟。是れ皆な天照大御神の御上に係る祭祀の神證なる事を伺ひ奉るべきなり。

 次に榊木の中津枝に、眞布津鏡を取りつけ給ふ[「ますみ」とは、眞澄の義。明鏡を稱へ奉るなり。「まふつ」は、天神の和魂を分け下し賜ふ所の神理。登布神の釋と見合はして知れ。「登」は心。「布」は心の用。振らむ振りの心の活用、左に振りゆらがしの義より、麻布津の鏡と名を負はせしにて、二の活用たり。上に釋きたる普ねき意をも了知すべし。或る説に、「ふつ」の言魂に、切斷の音よりの義なりと言へるは、漢音にて、寔は「ふ」のふくみ、「つ」に續くにて、化成し給ふ一證なり]。なほ其の眞理を進めて言はゞ、造化大元神の御魂の、玉に移り現顯(あらは)れまして、その靈鏡に凝り附き給ひし神蹤の、萬古に存在すべき神謀りにして、天石窟の段に、皇大御神の御心の御鏡に憑托(よりつ)き坐すべく、計り給へると同じ御し業にて、天神の御魂の、此の珠の動くまにゝゝ、御神體の、きらとゆらゝゝ現れ、化醇生産せるを、此の鏡に移し止め奉るの神業にて、化工妙用の神則になむ。『書紀』の一説に、「宙を御めす珍子を生まむとのたまひて、乃ち左の手に、白銅鏡(ますみのかゞみ)を持ちたまふとき、則ち化出りませる神有す。是を大日□[靈の上+女]尊」とあり。是れ即ち根こじにこじて奉る榊木の中津枝に、取り掛くる御鏡を、左にさゝげ振り賜ふ祭式に生れ給ふ證文にて、嚴の御魂の御名の解などに云ふを見合はせて知るべし。是ぞ、諾册二柱の大神の丹誠感應の至れる處、遂に造化大元神の御魂の、祭祀に御生れまします緊要なる神傳にて、則ち心化の皇大御神にますを表證したる神證神訣なる事、よくゝゝ了解すべくなむ。

 亦た「左りの眼に成り坐せり」と有るにても、悟るべきぞかし。そは如何にと言はむに、心化と氣化とありて、心化は、性情の凝結勇進、感通和應して、化生しませる事は、神書の通理なれど、徒らに眼を洗ふに生産し給ふとのみ思ふは、淺はかなり[大舜の彈琴して、南風を化成し、齊孀の怨を帶びて、六月飛霜も、皆な心化の致す事。代に數ふ可きにもあらず]。「五臟六腑の精氣、皆な上り、目に注ぐ、之を精と爲す」と。又た『韓詩外傳』に、「目は、心の府也」と。『神相全篇』にも、「目は、心田也」など稱へる眼目なる所は、心化に成れりと云ふに同じく、心に屬する事を了るべし。目と云ふも、目は心の精華の集まる所なればなり。心を目にかけて云ふぞ、古來よりの神訣の一例にして、「みとのまぐはひ」は、或る説には、心の相通ひあふに釋くもあり。思はざる可からず。此に形化は、鼻に關する事なるは、こも亦た神典の一例なれば、『古事記』に、「鼻に洗ひませるによりて生れませる神の御名は、建速須佐之男命と稱す」と。本『紀』一書に、「廻首顧眄之間(みるまさかり)に、則ち化出の神有り。素盞鳴尊と謂ふ」とあるは、專ら情と體とに因れるを、「廻首顧眄」の四字を當てたるに心を付くべし。所謂る鼻と云ふは、妹□[女+夫]婚交(いもせとつぎ)の形氣に生産し給へるを申す神訣にして、則ち『揚子法言』と申す書に、「鼻は、始め也。[中略]人の生るゝ所、之を首と謂ふ。梁益の間、鼻を謂ひて初めと爲す。或は之を祖と謂ふ。又た人の胚胎するに、鼻、先づ形を受く。故に始祖と謂ひ、鼻祖と爲す」とあり。芥子園の曰く、「凡そ人の百骸、未だ具はらず。鼻、準へて先づ生ず」。和漢、其の理を同じくす。形化に、鼻と稱す。鼻の「は」は、先に現はるゝ。花また葉・齒等の音義なり。扨ては國津神猿田彦大神は、大土の御祖に坐すを、御鼻にかけて神徳を論ふ密訣に、心を潛めて考ひなば、自ら悟りも早かむめり。さて鼻は、地氣の上りて、山の象を成し、動かざるは、則ち形體の象。建速須佐之男大神の御上、是なり[此の大神は、自ら地球主宰たる神理靈奇の妙旨を、始めより備へ給ひつれども、自ら退去し給ひし事は、また幽理の止む事を得ざるよりして、神典の綾に奇しく、皇孫の天降り給ふ惟神の道あるを、深く遠く仰がざらめや]。かく言ひ解き行かば、眼と鼻とより化生し給へる差別は、『易』の化醇と化生と判ちたると同じく、二典の編者の、古傳のまゝに移し書ける妙訣には有りけり。

 さてまた「左眼を洗ひ給ふに生産ませり」と云ひ、又た「鏡を左に觸り給ふに化成す」ともいへるは、共に左に寄りたる言葉なりとして、心附く人、いと少なけれど、畢竟、左は皇國の殊に重みする所、神道の尊ぶ所、是より基原せざるはなし。故にこは、伊弉諾尊の、專ら先動勇進の精神に成りませる状を伺ひまつらるゝ文勢にして、右に化成し給ふ事は、伊弉册尊の祐助保和の精神の先進するが、主たるべき神訣也[然れども一神にて化成と、な思ひ違ひそ。妹□[女+夫]の御心の相和み通ひ逢うて生みますや、うづなし]。かくて左の言義を茲に言はゞ、「ひだり」の意義は、天津日の東に生ひ足り、剛明晉上して、其の御にほひの滿ち足らひ行く、即ち日足(ひたり)の義ならむとぞ思ふなる。「みぎり」の釋に、三つの按へあり。一は、朝日の足り匂ひ昇り給ふに、まゐ向ふを、日むがしの言葉とせば、南の方は右手(めて)と成り、「め」・「み」、脣音相通ひて和らぎうるはしく、中に仁慈溢れ、外に「き」音の剛明晉上、光温發射して、「り」音の活き助字に組みては、右りの言詞と成り、天傳ふ日の南に射向ふ御影には、萬の物の、まさやけく影に隱れを置ず、「みなみる」言葉は、萬事整ふ「き」音と理會するを見れば、「み」・「き」とは稱すべし。東し又は日足の義に對しては、南は則ち右手の方なるより、「みぎり」の言魂と成るも知る可からず。又た西の方は背後(そびら)にて、顧盻(みさかり)して見るべし[「みさかり」のさかの約まり、「き」にして、又みぎりの言魂也]。此れはた身を振り切りて見るものから、身切(みぎり)の言魂と成りつるなむ。さらば諾册二柱の大神の大婚禮式を執り行ひ給ひつるをりに起れる、名稱言詞なるべし。二は、伊佐那美の美、女の象にして、「め」と相通ひて、陰(め)の象。「日に千頭を縊り殺す」とある[「くびり」の約まり、「きり」となる]。秋冬肅殺の氣を指して名づくるにて、陽(を)の殖え行き足り榮ゆるに反して、切りそぎ行く天地の順環、氣候上より起る。唐くさき説どもなり。三は、月豫美の「み」にして、月日の旋廻より起る言魂にて、月は一月一たび囘轉しながら、右にしそきつゝ、天津日を切り退(そ)く天象なれば、美切の言魂と成り立てるにや。とてもかくても自らもこちたき説事と考ひぬれど、別に思ひ當れる釋もなければ、強ひてかくなむ。後の人、考の端緒とも思ひて、試みに言ふにはあなり。さて何れにしても、左右の序次は、禮秩の基本にして、春ははり秋は明き、天地自然の象にして、聊かも移し換ふる事を許さゞるは、皇國の大典にして、夫唱ひ婦和し、男女先後、君臣の大別、親子の秩序は、左は左とし右を右とし、君々たり臣々たるの法則は、些かも差別を亂すことなきぞかし[斯く禮敬秩序有るが故に、國は萬千秋長五百秋の君子國などの美名もあるなり。夢にも自由主義など唱ふ類と、齒ひすべからず]。

 さて『古事記』の身潔の段に、「左眼を洗ひ給ふに成りませり」と稱ふるは、いさゝか紛るゝやうなれど、祭祀は、祓を本とする理義に基づく。故に如此く傳へ來しならむか歟。又た一説の祭祀執行の事は見えずして、只に白銅鏡を左右し化成し給ふと説くは、いとも言少にして、足はぬ心地はすれど、大御名の撞榊木稜威御魂と稱へ奉る。如何にも御祭の状なる事、まさやかなり。よくゝゝ心を付けて見る時は、三典を集めて一條の懇祈大祭、事業を經營し給ふ、勿論いやちこなり。かく二柱の大神の、深く心を勞し厚く思ひを凝らし給はでは、如何で無終の大主宰を化生し給ふべき。此の御鏡を左右すると有るを、後來の遺風を以て推察するに、祭式の原式に非ずして何ぞや。前にも言ひし事を、かくいく度も重ね云はむは、予すら頭の痛む心地のせらるれば、餘所目には、いかばかり五月蠅からむと思はるれども、皇道の基礎にして、萬古に宇宙を維持し、準じて皇風を無窮に興起し給ふ、國粹の根ざす所なれば、心にせきあへずて、返す々ゝ釋くになむ[後に天石窟戸の大祭に、神實(かむざね)として鏡を造り獻るも、此の時の式に準らへ給ふも、うべなゝゝゝ。『大祓』に、「千座置八百座に置き足らはし」と遺文のあるも、實は此の時の古實が濫觴なるべしと思ふ由あれども、事長ければ、此にははぶきつ]。

 抑々天地無窮の大主宰とます、質性(みあれのまにま)の光輝無邊、靈徳徹裏の皇大御神を化生し給ふは、容易ならざる至大樞要のことにして、化工自在の諾册二柱大神すら、禊祓祭禮、懇祷して化生し給ふ神代の風の、今に著明(いちしる)きを伺ひ奉る事は、偏へに『古事記』と『書紀』の二書の殘れりし餘恩なり。比呂伎、甞て皇典に種々異同の説あるを深く憂ひ、何れを眞とし何れを僞とせむと、千度百たび胸突くごと煩らひし事の有りしも、かく考ひの緒を尋ね、綱手引きはへ道知るべし。山口を得て掻き別け登るに、いかに麓の道はおほくとも、攀ぢ登りて視たらむには、一つ峯(ね)にこそ輻輳(とりあつま)りしつらめ。今や、其が高峯より見晴らかしては、遠ちこちの隔てなく、大かひ小かひも尾上に續き、同じ峯に纏まりて、雲も遮ぎらず霧も曇らず、面白く、あなさやけくてなむ。



○【註四】落合直文翁の曰く、

「天祖御出生のことは、古典中、きはめてたふときところ、國民たるもの、よく考究せざるべからず。をのれ、容易に君(山本比呂伎翁)の説に從ふこと能はず。されど『書紀』の本書・一書および『古事記』の三傳をあはせて、かれこれ、よくゝゝ彌縫せられたるなど、感ずるにあまりあり。殊に「神業は奇毘なりとて、義理のほかなるものにあらざれば、神理・神靈の上をも、さとり得らるゝかぎりは論ひ見む」といはれたるところ、古典を讀む人のためには、いみじき教とやいふべからむ」と。



○【註五】川合清丸翁の拜評して曰く、

「かけまくも畏こき、伊弉諾・伊弉冉二柱の大神の、『吾は、已に大八洲國および山川草木を生みき。何ぞも天下の主(きみ)たる神を生まざらめや』と詔りたまひて、吾が皇祖天照大御神を生れましゝことは、『書紀』の正書に傳ふる所にて、古傳の最も正しきものなるを、其が上に、日向の橘の小門の檍原の大身滌は、其を天津神に祷りたまはむための大御祓にて、左の御手に白銅鏡を持ち給ひしは、やがて天津神に祷りたまひし大御祭の神事なるを、『古事記』にも『書紀』の一書にも、おのゝゝ其の片端のみを取りて、或は其の大身滌に生れましゝさまに語り繼ぎ、或は其の御鏡によりて化りましゝさまに言ひ傳へたるものなりとは、是れなむ、山本比呂伎翁が此上(こよ)なき卓見にて、まことに古人未發の卓説にはありける。是れにて『古事記』・『書紀』の異(け)しき傳へも、一筋につらぬきとほりて、また疑はしき隈もなし。世の古典を伺ひ讀まむ人等は、斯く明亮(まさか)に讀み破りてこそ、千よろづ歳の神代の事實も、眞實の状は知るべかりけれ。但し其の他の論ひの中にて、いかゞぞやと思はるゝ節も有るなれど、されど此の論のすぐれたるに愛で、贊成の一言を書きつけて返し參らすになむ。明治二十六年六月一日」と。



【別天神──天照日坐皇大御神──地球主宰・今上天皇】
  
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  • [15]
  • 越後小千谷・山本比呂伎翁の神道。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2013年12月13日(金)23時52分57秒
  • 編集済
  • 返信
 
●越後國魚沼郡川合神社祠官・青鸞山本徳右衞門比呂伎翁『伊吹狹霧五十鈴廼川波』(明治二十七年七月刊)

蒼海副島種臣伯の題字「光華明彩照徹六合」

海舟勝義邦伯の題字「晩成」

渡邊忠翁の序言



「緒言

 つらゝゝ近時、宇内の形状につきて、皇國の後來を推し思ふに、太平洋の名のなだらに、不二山の姿の向も背(そびら)もなく、正しく廣直く保ちもて往かむ事、いとゝゝ難きことになむ。今や、我が國は、四海關鑰の開けてより、茲に二十有餘年間、百般の事物、悉く其の媚をてらひ、無數の教、其の眞を紊し、一得一失、利害の相友なふは、蓋し氣勢の止むこと能はざる理數なるが故に、洋潮の漲(はびこ)り溢れ來り、腥き風の東の天(そら)を覆ひ、舊物と新物と化合的の親和力を失ひ、衝突して交々相競戰するが如き現象あり。されば今の世の最急(いやはや)に取構へむとする點(ふし)は、一にして足らずなる有りける。就中、陸海軍備の如き、或は物産・殖民・工業・航海・商業に、又は政費節減に、其の他、學脉精粹に、税權囘復等、數ふるに遑あらず。是れ皆な我が帝國の最大樞要なる事業たるは勿論なれども、これ等の有形的事業を成就せしむる者は、即ち無形的人心の和合的の力に基因らざるべからず。然るに二千六百年來、涵養し來れる、神國の氣象は、流行病に感染し、後來、難治に立ち到らむと成り往くこそ、いとうれたき限りなれ。

 夫れ皇國の神民は、太古より天地自然の秩序備はりて、之に薫陶せられつゝ、人爲的教化の力をからずして、忠孝義勇の風、自ら盛んなりき。中昔已降、士風と云ふものあり。以て國家の元氣を維持し來れりと雖も、畢竟、是等を要するに、因習の力は、十中の七八を固有せるなり。然るを近來、其の元氣、絲の如くにして絶えるに埀んとす。加ふるに外には、英鷲・魯獅・佛虎・獨蛇の、四境を窺ひ、内には黨派の軋轢よりして、氣□[焔の右+炎]□[火+噴の右]廢(ほとばしり)て、萬代山・吾妻山等の變有らむと疑はれつ[是れ蓋し其の黨の小義を盡すの至りより、國家あるを忘れしむ。國家有りて、黨派あり。黨派有りて、國家有る者に非ざるなり。何ぞ、思はざるの甚だしき]。吁嗟、斯くの如くなれば、假令ひ百萬の豼貅を養ひ、幾千の艨艟を浮ぶとも、豈に千載東洋は、浦安の名に安むず可からず。正に細才千足の名との實を擧げざるを得ず。試みに思へ、維新以來、都鄙痒序の設あり。普天の下、恩惠を被り、學校設立、知識發達、隈々至らざるはなし。然れども忠孝義勇、地を拂ひ、片々散去する、是の悲風の折にあひて、卒然顯れ來れる者は、最も欽拜すべき『教育の勅語』に非ずや。爾後、日淺し。而して是を口に云ふ者と、身に行ふ者と、其の量、何れか多數なるや。今や、我が國の民情、義を後にし利を先にするの習俗と成り、是をその儘に放任し去らば、假令ひ英邁なる人の、後日に傑出すとも、如何に詮すべなからむ。之を矯正せむとするは、教育の力、よく其の功を奏すべしと雖も、その大和魂の氣象は、素より國家の元氣固有の物にして、輸入的教科などの、能く盪し得べきものにあらず。故に須らく内に存する所を發揮(ひきおこ)して、天地自然の人性なる理數(めぐりのことわり)を知らしむにあるなり。その所謂る人性の理數なるものは、即ち惟神の大道を云ふの外ある事なし。其の大道の源則を知るは、大御神の御上を、一速に辨ふるにあり。そは、是れ迄で皇學を推し擴め給ふ大人達の説も有り、と。按ふに、絶對の(ことばのおよばぬ)邊に至りては、餘りにおほらかに説きなし、道理もなく、ひたすらに信ぜよとのみにては、かゝる理窟世界には、信を置く人の少なきものと推し思ひぬれば、比呂伎、晩學を顧みず、管見を憚らずして、國家の忘れ難くて、本編を著述して、博雅の君子に質す。

 噫、夫れ我が日本帝國は、皇祖皇宗、極を立て統を埀れ、叡聖神智と坐す、皇上、繼々萬世に照臨ありて、今や、憲教の二敕は、四維八荒、至らざる隈なし。而して此の二敕の由來する所、遠く建國の昔にありて、宏模を紹述し給ふに外ならず。故に是を欽拜明知し、またよく國首の神理より、敬神忠孝の序次を逐ひ、前途の急務樞要は、求めずして得べし。上、皇祖の神靈、及び至尊の制裁に適へなば、自ら下、萬民の調和融暢せむこそ、頗る要點なれ。茲に比呂伎、負けなくも思ふ所ありて、神國の繼織は、外國と異なるを知るにあり。其の種々有るが中に、一速に知るべきは、畏くも皇祖、即ち天照大御神の御盛徳と御恩頼は、五十鈴の川霧に氣噴(いぶ)き絶ゆる事なく、川波清き誠の大道を知るにあり。

 夫れ大御神は、宇内の大主宰に坐す。幽顯の神則を辨知せざる可からず。そは萬國の上古史、皆な造化の大神を主一とす。夫れ如何にも天地を鎔造し給ふ御偉業の大徳は、いと然るべき事は更なるが、幽に現れ幽に隱れ、幽現の大活機は、諸々の命もちて、悉々と諾册二柱大神の托(かづ)けましゝゝ、「隱御身矣」と、古史に見えたる理由ならむが、茲を以て諾册二柱大神は、統緒を次ぎ、化工鎔造の事に心力を盡し給ひたりしが、幽現兼備、宇宙無窮の大主宰を生産し、修理、常しへに固成の道を全ふせんと、神量りに量り、至誠懇祷の祭禮によりて、大御神の生れ坐し給ひければ、二神は、更に大權を大御神に讓りまして、高く安く日の少宮に御魂を鎭め、現世には、亦た御身を隱し給ふも、萬斯を維持し給ひぬるは、神則の自然の運機にゆるに外なければなり。皇國は、建國の眞理、此に基礎し、公明無窮なる惟神の大道、之に根據し、正しく朗らかに、皇統の無窮、之によりて保ち、外邦の侮り、跡を絶ち、浦安國の名を博くするも、國初に、天地の大主宰、萬代無窮の至尊と、大御神を仰ぎ奉る神律の、培生鞏固なる習ひなればなり。其の眞理等は、まぐはしく拜して、くはしく知るの難きものから、下に條件を立て、説き明さむとす。茲に此の釋を成すに當りて、宇宙天然の形象を、聲音と、神理と、天壤無窮なる皇國の組織に準據し、畏けれど萬代かけて動きなき、天の御柱と建て搆ひ給ふ、道の瓊矛の靈運活機(あやしきはたらき)傳より、天津日を敬慕する、ならはせの伊勢の大御神を、無二の至尊と齋き奉る皇國の國體、又た天性のまにゝゝ神さがに率由する、自然適の縁由より、釋け分け起し、繼ぎて日球の不動位と、御光の靈徳と、外宮の恩惠と、齋宮は一速く建つ可き理由とにひき及ぼし、恐けれど、大御神の御盛徳を陳述するになむ。

五十鈴川 清きながれの 水上は 氣噴のさぎり わけてこそ知れ」と。



總論

第一章 皇道は、惟神なる瓊矛の靈運(くしび)の活機(はたらき)の隨意(まにゝゝ)成立ぬるを釋す

第二章 神國の道は、天津日に向ふを標本と成すを釋す

第三章 皇道は、性情のまにゝゝ成立ぬるを釋す
 評・逸見仲三郎
 評・村山惣作、謹誌【註一】

第四章 外宮の御神徳を釋す
 評・武居 保

第五章 齋宮の事を釋す
 評・落合直文【註二】

第六章 皇道は、天象のまにゝゝ則りとるを釋す
 評・宮地嚴夫、稿【註三】

第七章 皇大御神は、諾册二柱大神の懇祷に生産し給ふを釋す
 評・落合直文【註四】
 評・川合清丸、拜評【註五】

第八章 皇大御神の御名を釋す
 評・山田裕足、謹白
 評・磯邊舘親愛、拜識



○【註一】村山惣作翁の曰く、

「凡そ天地の間、感情より貴く、且つ盛んなる物は、蓋しある事なし。都べて萬物の成立も、大なる功も、魂幸ふ神の氣噴になり出でて、人の感情に發達を促し得らるればなり。そも感情は、愛を專らとすなるが、そが端緒の、いとみるべきは、親子・男女の交情より越ゆるなきものはなかるべし。此の親愛よ、紫のよかり色い、よく匂ふと否とによりて、麗はしき花とも咲きいで、また醜き實をさへ結ぶものなれかし。かくて各國の榮枯盛衰よりして、社會にいかなる状況を及ぼし、如何なる變遷を與へたりと見たらむより、きはやかなるはなかるべし。そも外國創始の情勢は、一時の榮花を全ふするに止まりて、遠く厚き至情に非ず。約り薄弱輕浮と云ふの外なかりき。皇國は、橿の實の、ひとり拔きでて、天地の初め、諾册二柱大神の、相愛し相和し給ふ。御心の綻ぶると同時に、そが親愛を萬古にふさね保たしめむと、神はかり謀り、天瓊矛を標柱と、下津磐根に太敷きたて、左右唱和の禮節を糾し、千代を振ひて感動を與ひ給へしより、産の子の八十續き、ひとしく直く、順致涵養せられ、古今に相通じて、本に報ゆるの志、厚くなむあなる。此の道や哉、發しては祭祀孝敬と顯れ、政綱と繋れ、遠くは天傳ふ日向の典故に應じ、近くは神賜なる性情の大源を流暢すなると、是の釋言なむ。恰かもよし、是の粹然至醇なる感情に、咲き匂ふ花實を、一貫に集めて、三津の大綱と、世に引き渡されたる師翁(山本比呂伎翁)の文は、若草の、いやめづらしくかも」と。



○【註二】落合直文翁の曰く、

「齋宮再興のことは、おのが、かねてよりの論なり。今、君(山本比呂伎翁)の論をよみて、そのこゝろ、いよゝゝ切なり。一日もはやう、この論の世におこなはれむこと、國家のためのうましうなむ、ねがはしぞなむ」と。



○【註三】宮地嚴夫翁の曰く、

「山本比呂伎主の、天象に基く皇道を釋すと題せられたる此の論は、予に於ても、最も同感する所ろ少なからず。‥‥大陽を以て、此の宇宙の中心とし、君主とし、經とし、又た其の大陽系中の諸遊星が、其の周圍を輪轉運行しつゝ有るを、其の隷屬とし、臣僕とし、緯とするに於ては、又た更に間然すべき所ろ有ること無し。因て今ま之に一言を添へむに、抑々大陽は、恐れ多くも生れ坐しながら六合に照徹するの大神徳を具有し給へる、我が天照大御神の主宰し給ひて、宇宙に照臨し給ふ一神域にして、即ち天の中心・君主の位に安んじ、自轉して止むこと無く、又た彼の水星・金星・地球・火星・木星・土星、及び天王・海王等の、吾人人類の、既に測量し得らるゝ限りの諸遊星が、各々多少の衞星を率ゐて、遠くも近くも其の距離を違へず、自轉して、日光に對する方は晝となり、背く方は夜となり、又た公轉運行して、譬へば臣隷の、君主を圍繞し守衞して止まざる如くなるは、縱令ひ億萬斯年を經過するも、決めて變易すること無き、此の天體の現象なり。此の現象に依りて之を推すに、君主は常に君主にして、臣隷は常に臣隷たるべきは、實に眞理の燦然たるものに非ずや。

 思ふに、我が皇祖天照大御神の、皇孫邇々藝尊を降して、下土に君臨せしめ給ふや、其の立極埀統の始めに當りて、即ち此の天體の現象に基きて、皇孫尊を皇位に即け奉り給ひしより、君臣の大義定まり、上下の名分正しくして、『寶祚の隆、天壤と共に無窮なるべし』と宣ひし神敕の、今日に至るも更に變易すること無きは、是れ即ち我が皇道の淵源にして、皇道は、此の天象の眞理に基く所なること、火を見るよりも明かなりと云ふべし。若し之に反して、彼の海外諸國の如く、屡々革命有るを以て眞理とすと云はんか、宇宙の現象に於ても、時として諸遊星の内、或は一種特別の運行を起し、然も大陽の如き光明を放ちて、宇宙の中心に侵入し、以て大陽に代りて、其の君位に主たるものも無からざるを得ざるべし。而して斯くの如きことは、決めて有るべきの理なきを以て、又た決して有ること無し。其の決めて有ること無きは、即ち其の無きを以て、眞理とすればなり。然れば臣民が勢ひを得るに任せて、君主を放逐、若しくは殘害して、弑逆簒奪を行ひ、以て之に代ること有るが如きは、決めて眞理に背きたるものにて、天象に基かざる無道の所爲たるを免れざるを知るべし。是れ既に無道たらば、前に述べたる我が皇道の、天象に基きたる眞理なること、又た何ぞ疑はむ。是れ余が此の論説の後に、此の一言を添ふる所以なり」と。



【大御名の奉唱】
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【日本最初の公立小學校──小千谷小學校──創立者・山本比呂伎翁】
  ↓↓↓↓↓
http://www.city.ojiya.niigata.jp/yasho/rekisi.htm
 

  • [14]
  • 世界皇化の聖業翼贊こそ、皇民の使命なり。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年10月22日(月)23時08分41秒
  • 返信
 
●今泉定助翁『國體原理』(昭和十年・立命館出版部刊)に曰く、

「天壤無窮の國體とは、唯だ徒らに一系連綿として、天壤無窮なる意味でないことは、屡々力説した通りであるが、我が國家が、國體の上に宇宙の眞理を顯現し、其の組織が、宇宙の眞理そのまゝであると云ふことが、若し日本一國の爲めにのみ、かゝる特典を與へられたものとすれば、神は日本のみ私せられたものと云はねばならぬ。至公至平なる神が、如何にして一民族にのみ私すべきや、斷じてかゝる筈はない。然らば何故に我が國にのみ、天壤無窮・皇統一系なる天津日嗣を顯はされたのであるか。是れ他なし、天津日嗣の天皇をして世界を統一し、人類の平和を確保せしめらるべき使命を埀示せられたからである。

 世界の統一は、十代や二十代の短期に出來得べき事でない。百代も二百代も徳を積み恩を埀れて、神人一體の境地に立たせられ、世界人類の仰ぎ望みて、心服し來るものでなくてはならない。天津日嗣の天皇の世界統一とは、武力や財力や政治・宗教などを以て攻略したり、征服したりする意味ではない。武力・財力・政治・宗教などの統一は、外形の統一であつて、よし一度は統一しても、決して永續すべきものでない。征服者と被征服者との合體するものでない。怨恨の心があつては、心服するものでない。唯だ力足らざるが爲めに屈從するに過ぎない。こゝに云ふ世界統一とは、我より進んで攻略・征服するのではない。彼より、我が徳を慕ひ風を望み、我が威嚴を仰いで助成を乞ひ、我の擁護を求めて統一を望み、我に心服し、我に同化し來るものを、統一主宰する意味である。

 天津日嗣の天皇は、宇宙萬有・生成化育の神と御一體であらせらるゝといふ事を忘れてはならぬ。日本の武力は、神武である。全世界に於ける破邪顯正の地位にあらねばならぬ。故に絶對の威力を備へねばならぬ。領土慾や侵略主義などの氣分は、寸毫もあつてはならぬ。領土慾や侵略主義的の思想行動があつたならば、それは全然、我が天津日嗣の天皇の大御心に背くものといふべきである。天津日嗣の天皇は、宇宙に於ける生成化育の神の境地に立たせらるべき御方であることは、何時も忘れてはならぬ。全世界に道義を確立し、全人類をして其の理想を實現せしむることは、たゞ天津日嗣の天皇のみが成し給ふ天業であらせらる」と。



●今泉定助翁『世界皇化の聖業』(昭和十七年一月五日・ラジオ放送。同年・皇道社刊)に曰く、

「聖戰とは、どう云ふことであるか、所謂『シラス』の御精神・八紘一宇の御精神に外ならぬのであります。‥‥日本の天皇は、世界人類の平和・幸福のためにしろしめされる。これが、八紘一宇の大御心の擴大である。八紘を掩ひて家となすと云ふ大御心は、そこで始めて實現するのであります。それですから、しろしめす大御心は、決して遠慮する必要はない。唯だ低い侵略とか占領とかいふやうな外國流に考へますから、遠慮しなければならぬやうな氣分がするのでありますが、決してさうではない。天皇の大御心は、宇宙の神に代つて、人類に平和・幸福を與へ給ふと云ふ、しろしめす親心であります。でありますから、眞に「シラス」と云ふ大御心が、彼等によくわかれば、向ふから皇軍をお迎へすることが當然のこととなるのであります。

 從來、外の歴史を見ますれば、世界統一を企てた者もありますけれども、それ等は單に武力を以て世界を統一しようと思ひ、或は政治・經濟を以て、或は宗教の力を借りて統一を圖つたりして居りまするが、皆な失敗に終つて居ります。かゝる單純な事で世界統一を謀つたならば、過去に於て失敗に終つて居るばかりでなく、未來と雖も、必ず失敗に終るであらうと思はれます。‥‥

 日本天皇のしろしめす御精神・八紘一宇の大御心は、決してそんな簡單なことではありません。政治・法律に於ても、經濟・産業に於ても、軍事は固より、外交でも教育でも、その他一切のものが、悉く世界の中心となり淵叢となり、特に徳育を盛んにして、學問に於ても事業に於ても、世界の中心となるやうに、こゝまで積み上げなければならぬのが、しろしめす八紘一宇の御内容であります。

 この心持ちなしに、唯だ口先きのみで云ふ、しろしめす【註】とか八紘一宇とかであるならば、何の意味もないのでありますが、さうではありません。實行の上に於て、政治・經濟でも産業でも外交でも、一切のものが、人間一個の利慾などと云ふことを離れ、人類の平和・幸福を目的としたものでなければならぬのであります。この心持ちを忘れてやりますれば、外國の侵略とか占領とかいふことと一緒になつてしまふ。この心持ちでは、日本天皇の大御心を達成するといふやうなことは出來ないのであります。爲政者をはじめ各部門を擔當する國民の、深く心掛けなければならぬ點であります」と。


【註】天皇の統治を表はす語としての「知ろしめす」は、自他一體關係を表現する動詞。「知る」の延音であるが、宇宙全一神の根源的・主體的境地を表はす語で、一切を知り盡くし、一切の生成發展を、とことんまで見屆ける意に用ゐられる。「士は己を知る者の爲めに死す」とか、「子を見ること、親にしかず」とか云ふ場合の「知る」・「見る」は、右の意義で、人についても萬有についても、其の生涯の責任を持つと云ふのが、「しろしめす」の眞義であり、此の天皇の「しろしめす」を眞實にする所に、臣民の「マツリゴト」がある。



 愚案、何も申すべき言葉も無いでありませう。吾人は、たゞ大御心に沿ひ奉らんと、只管ら庶幾ふのみ而已であります。是こそ、皇民の道、日本人の執るべき道でありませう。吾人は、日夜、沈潛反省すると共に、我が行藏は、大御心に沿ひ奉るものであるかどうか、猛く問はねばならぬ。私意私見を捨て、稜威に順はんのみ。一人ひとりの猛省あつて、自己維新の極まる所、不動、搖がざる皇國の復古覺醒があるのでありませう。
 

  • [13]
  • 今泉定助翁の神學に於ける天皇論。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年10月18日(木)22時42分10秒
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■幡掛正浩翁『帝王學の壯觀――北畠親房卿と今泉定助先生』(日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』全一卷・昭和四十四年九月・同所刊)に、今泉神學に於ける天皇論(天皇の御本質論)を要約して曰く、「

一、宇宙は、空間的に無限の擴大、時間的に永恆の存在であり、且つ不斷の統一的活動體である。日本民族は、その統一活動の根源的中心を、天御中主大神と稱へ、この根源的中心の延長顯現たる森羅萬象を、八百萬神と呼んだ。中心は分派を顯はし、分派は中心を現はす、中心分派不二一體、一即多、多即一を、宇宙の實體的消息とみる。

二、萬有を外觀すれば、自然法則あり、内觀すれば、生命精神がある。然も萬有は、何れも唯一絶對の中心より發顯せるものなるが故に、其の生命・精神・原理・原則を一にする。然るに他方、萬有は、何れも同中心より延長せるものなるが故に、其の位置・境地・天分・使命は同じきことを得ず、各々差別を有す。かくて宇宙間のもの、普遍と特殊は、一體の表裏に相即する。

三、宇宙造化(生成化育)の靈力は、産靈(むすび)と呼ばれる。産靈は結靈であり、蒸す靈である。天御中主大神が作働に即して呼ばれたものが、高御産靈神・神産靈神である。兩産靈は、内容的に生魂・足魂・玉留魂であり、八神(高御産靈・神産靈・生産靈・足産靈・玉積産靈・大宮賣・事代主・御膳神)であり、九神(大直毘)であり、十神(天照大神)である。その發顯・充足・完成の過程に、萬物は無限に生成・化育する【八神殿論】。

四、宇宙中心は、これを裏觀すれば、天御中主大神であり、表觀すれば、天照大御神である。然るに天照大御神は、宇宙の主宰者たると共に、又た人生の統一者たる皇祖であらせらる。從つて天津日嗣の皇孫は、天照大御神直系の靈嗣として、天御中大神・天照大御神・天皇、三位一體の理に於て、天ケ下を知らし給ふ。こゝに於て宇宙事實は、人生原理として主體的に生かされる。天皇の御統治とは、祭政一致・顯幽兩界を包んで意味する。

五、天壤無窮の神敕は表であり、齋鏡・齋穗の神敕は裏である。天皇は、齋鏡・齋穗の神敕をかしこみ、これを祭祀として、日夜に履習遊ばすことによつて、天壤無窮の皇運を全う遊ばされつゝあるのである【三大神敕論】。

六、就中、天皇の御本質は、天皇が天皇にお成り遊ばす折の儀禮を拜して分明である。それがとりもなほさず、即位大嘗祭である。この御儀によりて、天皇は、心身ともに天照大御神に成らせ給ふのである【大嘗祭論】。

七、宇宙創造の原理を、そのまゝ國體とする日本は、天皇が中心であらせられると同時に全體である。天皇即國家、國家即天皇であるから、天皇は絶對であり、天皇に對立するが如き、如何なる機關・勢力もあり得ない。

八、かくて日本天皇の聖なる御使命・天業といふものは、地上に於ける天照大御神として、眞實にして終極的なる平和世界を修理固成遊ばすことである。

 大體、以上の如くに要約せられるであらうか。洵にこれは、堂々たる天皇神學である。まさに帝王學の壯觀と言はねばならぬ。今泉先生は、『御國體の實相』(昭和十三年・大日本運動本部刊)の中で、

「(陛下は)斯ういふやうに、絶對に對立することのない御方であらせられ、何等、人と競爭する念慮の絶對にない御方が、百二十何代も御繼ぎになつて居らつしやるのであるから、常識で判斷しても、日本の天皇といふ御方は、大したものである。是は當り前の人間ではないといふことは、誰が考へても直ぐ分からなければならぬ。

 是はもう常識の問題であるが、もつと進んで大嘗祭といふ上から、天皇を拜しますと、是は何としても神樣に御成りにならなければならぬのであります。唯それは、八神殿とか、大嘗祭とかいふ大精神を説かぬと、分かりませぬ。‥‥八神殿と大嘗祭の意義・精神といふことを詳しく申し上げれば、天津日嗣の天皇といふ御方は、人間ではあらせられず、慥かに神樣でなければならぬといふことが明らかになるのであります。人間であらせられないといふことがはつきり分かりますれば、國體も大半分かりますから、日本の飛躍は、天皇の神樣であらせられるといふことを、日本國民全體が自覺する所にあると思はれます」

と述べてをられるが、これは、先生の神學が、竟ひに現人神を説き、皇道を説くことに極まることを、簡潔に表白せられたものであつた。先生が、宇宙の生成化育を論じ、三大神敕を論じ、八神殿を論じ、大嘗祭を論ぜられるのも、すべてその形而上學的背景を述べんとされたものであつて、その宇宙論的理趣も、世界觀哲學も、極まるところは、國體皇道莊嚴の理を説かんとするにあつた。

 然も先生が、此の理を説かれるに當り、一たん深く川面神學の堂奧に參じながら、そこから再びよく解脱脱化して、國歩すでに艱難なる現實國家の經綸の中に還歸出路してをられることである。川面(凡兒)先生は、宇宙の玄妙理を説いて、まことに重々無盡、巨いなる蜘蛛の口より絲を出だすが如き感があつたが、今泉先生は、その川面學の理論の殻壁を噛み碎いて、中なる腦漿をことゞゝく吸ひつくしながら、しかも自らの理論構成に於て、これを思ひ切つて單純化せられた。天御中主大神を説くにあたり、『大天照太御神』を以てするが如き表現は、もはや今泉先生に於ては、竟ひにこれを、いづれの著書にも見出すこと出來ぬのである。

 天皇神學は、筧(克彦)博士を一の例外として、まさしく川面先生に於て全開花した。それは、それまでの佛教的・儒教的・國學的神道の説いた、單純な天祖血脉説に、深遠にして博大なる哲理と信仰の基礎を据ゑた。しかしそのあまりにも煩雜深遠な理論構成は、つひに今泉先生の出現を待つて、實踐的帝王學として、再展開せざるを得なかつた。

 今泉先生が、川面先生に深く汲みつゝも、よくこれを脱化し、一箇獨自の面目をもつた倫理的・政治的な皇道論を展開せられたことは、私には、准后北畠親房が、度會家行に學びつゝ、つひにこれを超出し、千載の下、更に莊嚴なる帝王學を樹立したことを、しきりに連想せしめる。先生の晩年に於ける國事への東奔西走、席温まることなき健鬪を追想しつゝ、この思ひを一入深くするのである。それは、まさしく帝王學の壯觀とも言ふべき雄姿であつた」と。
 

  • [12]
  • 「志」の學――今泉定助翁の皇道學。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年10月13日(土)15時49分31秒
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●葦津珍彦翁『今泉定助先生を語る――その思想と人間』(日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』第一卷・昭和四十四年九月・同所刊に所收)に曰く、

「一般國學者の側にも、川面(凡兒)門下直流の側にも、今泉(定助)先生の論を、川面説そのまゝのものゝやうに誤認してゐる人が少なくないが、それは誤りである。この兩者の著述を精讀すれば、その間に、異説異論は、いたるところにある(註)。川面・今泉先生は、その修學・修業の經歴が異るので、その學問の態度・性格そのものにも、自らに異色の生ずるのが當然である。川面先生は、自らの神道を『祖神埀示』の神道であると宣言された。その意味を端的に云へば、川面先生の神道は、『みそぎ』により、その宗教的體驗により、祖神から直接的に埀示を受けたものだとの自負が強い。古典を讀み、内外の神學・哲學を利用して、その埀示を理論づけ解説されるのには努力されるけれども、この川面神學の『祖神埀示』の自負は、當然に中世いらいの諸流の神道學説を無視し、あるひは否定する意識の強いのは、理の當然である。そこに川面神學獨自の特徴がある。

 ところが今泉先生の方は、もとゝゝ中世いらいの神道學説を專門的に研究して來た上で、川面神學の長所をみとめた人である。‥‥先生は、伊勢神道[度會神道]・吉田神道・吉川神道・埀加神道・伯家神道および賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤の神道について、それゞゝに特徴的な文獻を解説しつゝ、その何れに對しても先生獨自の批判を加へながら、何れに對してもその歴史的な功績と價値とを、はつきりと高く評價されてゐる。とくに興味をひくのは、先生が文獻學的な知識發展の上では、賀茂・本居・平田の業績をもつとも高く評價されてをりながら、神道學者としては、むしろ埀加の山崎闇齋先生を――その國學的・知識的缺陷の存在を明示しながらも――これこそ『學者の範として、眞に學ぶべき態度』として、最高の敬意を表されてゐることである(日本大學皇道學院に於ける講義録『神道の歴史と將來』――『研究全集』第三卷に所收)。先生が、學問・學者といふものゝ本質をいかに考へられたかを暗示するところ、すこぶる深いものがある。先生の學者・學問評價においては、その知識の優劣よりも、その志の優劣こそが、第一義とされたのである。‥‥

 人間の思想にあつて、もつとも大切なのは、、その思想の志にある、その情感にある。思想を分析すれば、志[意思]あり、感情あり、知識――論理もある。川面先生の志が、敬神尊皇にあることはいふまでもないが、その志は、すべての學派を超えて、あらゆる神道人に共通の志ではある。だが川面先生には、その志がとくに強く、敬神尊皇の精神をもつて日本國を救ひ、世界人類を救ふとの雄志を立てゝ、神道の理論づけのために盡力された。この理論づけのためにも、多くの工夫と業績を積まれてゐる。これは思想の知的な側面である。この知的な側面は、多くの人の努力が積み重ねられて、一歩また一歩と進んで行かねばならない性質のものである。大まかに云へば、人間の思想の中で、志[意思]の側面や感情の側面では、人間は時代條件の制約なしに高い水準に到達しうるが、知的側面では、後代は先代よりも進歩し、より高い水準に達するのが當然である。川面先生の思想の中に、大きな積極的意味をみとめ、これを力説しようとされた今泉先生にとつては、川面神道の知的側面の部分的缺陷などを、こまゞゝと批判することは、その積極的價値を高揚するためには、むしろ有害にして無益だと思はれたらしかつた。

 これは、まことに思想的鬪將らしい考へ方であつた。だがこのやうなことのために、世間では、『あれほどに國學正統の教養を積んだ今泉氏が、川面神道を無批判的に支持するのは、いかにも不可解だ』といふ國學者も少なくなかつた。また『今泉説は、川面説そのまゝにすぎぬ』との批評もあつた。しかし憂國慨世の念禁じがたく、神道を理論的に武裝して、救國の大業をなさねばならぬとの實踐的雄志に燃えた先生から云へば、それはたゞ『燕雀、なんぞ大鴻の志を知らんや』といふべきものであらうか。先生の古典解釋は、たゞ好事家が知的興味をもつてする研究なのではなくして、天壤無窮の皇位を守つて、世界を皇化せねばならないとの雄志にもとづいての講説なのである。この雄志に注目せずしては、先生の講説は、全くその意を解することができない」と。



(註)例へば、『今泉定助先生研究全集』第一卷所收の、幡掛正浩翁『帝王學の壯觀――北畠親房卿と今泉定助先生』・中西旭翁『今泉定助翁による皇道思想の展開――とくに川面教學との關係において』參看。



 愚案、山崎闇齋先生を高く評價された今泉定助翁の論を拜して、小生は之を喜ぶと共に、今泉翁にしてなほ「國體學者」に「三宅尚齋」を掲ぐるは、甚だ誤解を招くものであるので、些か注意を促しておきたい。

 崎門埀加の學は、王政復古と共に其の影を濳め、昭和初期から戰中に於いて一時だけ光り輝いたが、これは平泉澄博士および其の門下(井畔秋芳翁・鳥巣通明翁など)の研鑽成果多きに依るものであつて、一に若林強齋先生の發掘に因ると云つてよい。それまでは、淺見絅齋先生・佐藤直方・三宅尚齋を以て「崎門三桀」と稱へてゐたが、直方・尚齋は、我が國體に反して自ら純儒として立つ者にして、全く闇齋先生を理解する能はざる者、其の名稱に耻づるものに外ならぬ。直方は、固より奸計を弄する小人。たゞ尚齋門流には、山縣柳莊等のあつて、後代を大いに惑はせたが、尚齋は、遊佐木齋先生・谷秦山先生によつて、其の正體が暴露されてゐる(『神儒答問』――平泉澄博士『萬物流轉』後編・不易の道)。

 而して崎門學は、戰後に其の書籍は荒繩で縛られて二束三文、再び神仙の帷につゝまれるに至つた。顧みる者が無いわけではないが、岩波思想大系の『山崎闇齋學派』等の如く、復た「崎門三桀」の名を呼び戻して、味噌も糞も一緒にして、再び貶められてしまつた。幸ひに近藤啓吾・谷省吾兩翁の地道な研究により、崎門埀加の學は、其の孤壘を守つてゐる爲體であつて、世の理解は、まだゝゞ低い。

 崎門の道學は、陽明學が實態以上に稱揚されるに伴なつて、朱子學が「御用學」扱ひにされ、朱子學そのものが振はず、遂に頑迷固陋と云はれる始末、亦た埀加神道は、一般に「儒學神道」として一括されて、「俗神道」として顧みようともされない。山崎闇齋先生は、正に水戸義公・平田大壑兩先哲と共に、皇學思想の巨人、壁立萬仭、容易に近寄ることを許さないが如くである。然し闇齋先生の復活する秋は、皇國の正氣の中興するときであること、小生は、固く信じて毫も疑はないのである。

【拾穗書屋主人紹宇近藤啓吾先生『山崎闇齋の研究に志す學徒に贈る辭』・『平泉博士と崎門學』】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/1
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/22

【備中處士『崎門道義の學に於る祖述主義について』】
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  • [11]
  • 絶筆「世界皇化」――或る神道人の臨終。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 9月26日(水)21時51分7秒
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●高橋昊翁『今泉定助先生正傳研究――その國體論と神道思想史上の地位』(日本大學今泉研究所編『今泉定助先生研究全集』第一卷(昭和四十四年九月・同所刊)に、岩崎秋藏氏の「手記」を引用して曰く、

「(竹廼舍今泉定助先生の病は、昭和十九年八月)二十二日は、前日よりやゝ惡化せる模樣に見受けられましたが、翌二十三日は、殊に惡化し、眞に重態の模樣が見受けられました。午前十時頃、藤井(貞)先生が注射され、寸時にして小靜を得ますと、先生は、『紋服を出せ』と命ぜられました。其の態度に、如何に申してもきかれさうもない氣配が見えましたので、藤井先生の許しを得て、體を病床に起して上げ、奧樣の出された紋付羽織を着せて差上げると、病床より疊にすべり降りて、宮城に向かつて端坐され、二拜二拍手し、兩手をやゝ前方に付き、何事か申しつゝ、終りの方に、『誠に申し譯御座んせん』と落涙され、すゝり泣きの聲さへ聞かれました。一座肅然たる中に、奧樣が『どうなさりましたか』とお尋ね致しますと、先生は、

私の力が足りないため、國體を十分明徴になし得ずに死なねばならない。誠に申し譯ないから、大神宮と天皇陛下にお詫び申し上げたのだ

と云はれました。遙拜を終へられるや、先生は『絶筆を書く』といはれる。止むる由なく、家人の手に體を支へて居りますれば、心臟の鼓動に波打つ手に大筆を執り、一氣に

世界皇化

と大書し、而かも署名し、其の傍らに『絶筆』とまで書き添へられました。

由來、絶筆なるものは、大概の場合、病床に入る前に、其の意なくして執筆せるものが、病床に伏し、偶然に絶筆となれるものと聞くに、之れは亦た危篤の中に、わざゝゞ執筆せるものにして、これこそ眞の絶筆ならむと思はれます。終つて先生は、『まだ何か書くのだ』と申されましたが、藤井先生が御止めした。私は、『先生、何を書く心算なのですか』と尋ねますと、

聖壽萬歳」だ

と云はれました。其の中に、先生は病状、殊に惡化し、『夢中に「聖壽萬歳」を書くのだ』と申し乍ら、仰向けに寢たまゝ、空に手を差し延べて、さながら執筆をなさるが如き態でありました。今にして思へば、今日あるを御自覺になられた先生の希みであらせられた「聖壽萬歳」を書かして差上げたらと、悔まれてなりません。‥‥

其の日(二十四日)の午後三時過ぎと思はれます。眠つて居られると思はれました先生が、突然に目を開いて、

大嘗祭の事を、御上(昭和天皇)に申し上げなければ、云々』と仰有つた。‥‥

九月十一日は、御歸幽の日であります。午前十一時頃、先生は昏睡の中より

「ぬほこ」を振れ

と仰有いました。修理固成の矛を振れ、と仰有るのであります。午後一時五十分、先生の御樣子は、殊に惡化しましたが、藤井先生が注射しようとすれば、何時ものやうに手を出され、藤井先生が、『舌を御出し下さい』と申せば、御出しになる。實に最後の最後まで、はつきりして居られましたので、藤井先生も後で、『斯樣にはつきりして居られるのは珍らしい』と云はれました。先生は、下腹に力を入れる時にする態度で、

うむ

といつて、息絶えられました。實に先生にふさはしい御臨終でありました」と。



【天皇中心論】
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  • [10]
  • 一心階下、天眞を仰ぎ奉る。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2012年 3月10日(土)01時52分0秒
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 かつて幡掛正浩翁の「天皇本尊論」を紹介せり。天照大御神の、地上人間世界の具體的表現は、即ち天皇御一人に坐しませば、天皇本尊とは、換言すれば、天照大御神を以て本尊と爲し奉るの謂ひに外ならぬ。再び轉語して曰く、天照大御神を以て本尊と爲し奉るとは、即ち天皇を以て本尊と爲し奉ると同義である。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1361

 而して「日神本尊論」の淵源の一つを、幸ひに大神貫道翁『養神延命録』に見る。
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●攝津國東成郡上之宮神職・龍雷神人山口日向守大神貫道大人『養神延命録』(明和九年刊)の「日拜餐霞篇第八」に曰く、

「日拜は、大陽日神の出御を窺ひ、拜、法式の如く修し、神恩を報謝し、長生不死を祈念し、昇天妙果を心願し、心神赫然として、日中に寬坐することを、觀想するの神法なり。‥‥神道修行、惟だ日神を以て本尊と仰ぎ奉り、清旦出御を窺ひ、祓修行して、長生不死、昇天妙果の大願を祈念し、其の法式に隨ひ、日精を吸ひ、紫霞を餐するときは、天日と心火と同氣相感じて、これを臍下に降下し、妙合一貫するときは、久ふして薫習熟得して、自然と元神・元氣・元精の三大藥、和合して一粒の神丹を煉り成す。これを積んで胎神を現す、是れ誠の我が眞身なり。これを眞父母所生の身と云ふ。不死不老の妙體なり」と。



 また高山赤城先生と同じく、宮城に向ひ奉りて平伏拜禮する人、西野文太郎烈士あり。「立つて最敬禮する法もあるのに、態々高山彦九郎みたいな事をして、着物を汚さなくてもよいぢやないかと云はれたといふ」。
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●佐々木望翁『ぬかづくといふこと』(神道史學會『神道史研究』昭和六十年一月號――平泉澄博士と神道)に曰く、

「(昭和十年大晦日、寺田剛先輩は、例年、)『(平泉澄)先生は、曙町の御自宅から、歩いて(明治神宮へ)お參りになるのです』といはれた。そのあと、私(佐々木望翁)は、燃え上がる焰や舞ひ散る火の粉を眺めながら、曙町から明治神宮まで、どの道を歩いてこられるのだらうと、考へたりしてゐた。山手線や當時の市電は、終夜運轉をしてゐる。自宅が近い人は別として、この多數の參拜する人々は、これを利用してゐるのである。曙町から神宮まで、東京の道は紆余曲折してゐるから、少なくとも約三里。まづ三時間前後はかかるだらう。もとより歸りも、歩いてお歸りになる。そのころ東京といつても、街路燈は少なかつた。まさに暗夜寒夜を、先生は歩いて參拜してをられたのである。

 ある時、先生が、直接私にお話し下さつた事がある。
『‥‥私は、大晦日には、その年の日記を讀みかへします。そして努力の足りなかつた所はないか、悔ゆる所はないか、と反省します。‥‥』
これが、先生の大祓の一つであつたのだ。そしてそのあと歩いて、年頭に明治天皇の御神靈に祈りをこめられてゐたのである。‥‥

 (東京帝國大學)國史學科第二學生は、年末の休暇に、關西の修學旅行が行はれる。‥‥その第一日、伊勢皇太神宮の參拜の時である。五十鈴の清流で、手を洗ひ口を漱ぎ、砂利を踏んで、御神殿の前に出た。大學生であるから、別に列をつくつてゐるわけではない。三々五々、先生について行くわけだが、案内役的立場の私は、松本(純郎)副手とともに、先生のすぐ後にゐた。

 神殿前の門から中は、玉砂利。そこに進まれた先生は、片手に持つてをられたオーバーと帽子を、横に置かれた、と思ふと、靴を脱いで、これも横に置かれた。そして、玉砂利に、土下座されたのである。私は、あわてた。屋外では、立禮だと思つてゐたからである。いそいでオーバーと帽子を置き、靴を脱いで、先生の後に土下座した。先生は、しばらく神殿を仰ぎ、やがて二揖して、深く頭を下げて、玉砂利に、まさに額づかれたのである。あわてながらも、私もこれにならつた。拍手は、先生にあはせる事ができたが、他の連中がどうしたのかは、分らない。立ちあがつて退いた時に、數名がいつしよに門を出たから、この人々は先生に從つたのであらう。あとの連中は、門の外で、うろうろしてゐた。當時の學生も、そんなものである。

 屋内ならば、神樣でなくても、禮儀を知る人々の間では、ひれふし、ぬかづく事は、古來から今に至るまで、自然當然として行つてゐる。しかし今日において、土にひれふし、ぬかづく事は、よほどの例外を除いて行はれない。先生は、内宮において、自然にこれを行はれた。

 その後、修學旅行では、吉野の後醍醐天皇塔尾陵や吉野神宮・千早神社・後村上天皇檜尾陵などを參拜したが、先生は、すべて立禮であつた。ここに私は、至高の神に獻げる感謝と祈りの具體的な在り方を、まさに先生から身をもつて教へていただいた。

 後に、山崎埀加先生の、老齡の御兩親とともに、内宮に參拜された時の詩に、

『‥‥一心階下、天眞を仰ぐ‥‥』

とあるのを拜したとき、埀加先生も、玉砂利にひれふして額づかれた姿が、彷彿として瞼に浮んだ。古來からの自然の姿であるはずであるが、今日、あの數多い參拜者の中で、はたして何人が實行してゐるのだらう」と。
 

  • [9]
  • 神皇の恩頼を稱へまつる詞。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2011年11月11日(金)23時44分52秒
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■出雲國造第八十代・千家杖代彦出雲宿禰尊福大人『稱贊神徳皇恩詞』

 高天の原に神留り座し坐す、天之御中主大神高皇産靈大神神皇産靈大神[愚案、天津眞北之高天原、別天津神界に坐す]、諸々の命以ちて、神伊邪那伎・伊邪那美命に、是の漂へる國を修理り固め成せと、天の瓊矛を事依さして賜ひき。

 故れ伊邪那伎伊邪那美命、其の瓊矛を指し下ろして、鹽こをろゝゝゝに畫き鳴し給へる國に、天の御柱・國の御柱と見立て給ひて、八尋殿を化作(みた)て給ひ、妹妋(いもせ)二柱、所就(とつ)き給ひて、御子等を生み給ひ、生みの最後(いやはて)に生出(う)み坐せる貴の御子に、特別(こと)に天地を治らせと、事依さし給ひき。

 故れ撞賢木嚴御靈天照日大神は、百千足る日の大宮に、天地の底ひ、い照り徹らし、久方の天津國[天津日之高天原、太陽神界に坐す]を知ろし看し、熊野のかむろ建速須佐之男大神は、青海原・鹽の八百路の八鹽路の鹽八百會ひ[大地上及び月に坐す]を、天の壁立(かきた)つ限り、徑歴(かけめぐ)り治め給ひき。

 故れ其の大御業を、御子の命、八雲立つ出雲の國、八百米杵築の底津岩根に宮柱太知り、高天原に冰椽高知りて、鎭まり座し坐す、大國主大神、受け持ち給ひて、いつ速振る荒振る神を、坂の尾毎とに追ひ伏せ、河の瀬毎とに追ひ拂ひて、狹き國は廣く、嶮しき國は平けく造らせる國に、天の益人、彌や益々に蕃殖(うまは)り行く爲めに、神皇産靈大神の御子、少彦名神共に、神議り議り給ひて、醫藥(くすし)の術と呪禁(まじなひ)の法(のり)とを始め給ひ、撫惠(めぐ)み給ふ、高き貴き御稜威を以て、蘆原の國、盡々に治ろしめしき[地上教導]。

 然かはあれども正荒夫が取りて射放つ漸々(やうゝゝ)に、幽世(かくりよ)・顯世(あらはよ)、明亮(まさや)かに分判(わか)れ往く可き、惟神らなる道理(ことわり)にし在れば、皇御祖、天照大御神の命以ちて、豐葦原の瑞穗の國は、皇御孫命[瓊々杵尊]の、千五百秋の長秋に治らせる國と、事依さし給ひて、天降し給ふ隨々(まにゝゝ)、顯事(あらはにこと)、事避り奉り、百足らず八十隈手に隱りて、大地官(おほとこのつかさ)を治ろしめし、公民(おほみたから)諸々が靈魂(みたま)をし取り攝さねて、顯國魂神と成り給ひ、皇美麻命を、垣葉に常葉に守り給ひ、仕へ奉る公民等をば、該(そ)の産土神等共に鑑はし給ひ幸へ給ひて、玉櫼入彦嚴事代主神を、神の御尾先として仕へ奉らしめ給ひき。

 故れ高天の原に事始め給ひし天津宮事を以て、天津政議(みはかり)の任々(まにゝゝ)治め給へと、負ふせ給ひし廣き厚き大命(おほみこと)を受け賜はり、恐み坐して、樛(つが)の木の彌や繼々に傳へ座し、天の下を撫で給ひ齊へ給ふとして、神倭伊波禮毘古天皇[神武天皇]い、茜刺す日向國薦枕高千穗の宮より、たゞなづくあをかさやまこもれる、やまとの畝傍の橿原の宮に遷り幸で座し、荒ぶる神を言向け平和(やは)し、伏ろはぬ人を退撥(はらひたひら)げて、皇神等を、嚴の神籬、樹繁(たてはや)し祝ひ祭り給ひ、大朝廷(おほみかど)の御手風(みてぶり)を新ため、一(はじめ)て公民が利(くぼさ)を興こさしめ給ひ、

 磯城の瑞垣の宮に天の下しろしめしゝ、御眞木入日子印惠天皇[崇神天皇]い、震極光臨(あまつひつぎしろしめす)は、豈に一身(ひとはしら)の爲めならめやと、詔り給ひて功勞(いたづ)き給ひ、天つ社・國つ社を定め奉り給ひ、群卿(まへつぎみたち)を、四方の道に遣はして、教憲(みのり)を知らしめ給ひき。

 故れ海外(わだのと)の異俗(くにゞゝ)に至るまで、參入り侍らひて、人民(おほみたから)富み榮えつるを、こゝだ年月來徑往く間(ほど)に、いな醜めき穢き心を起こして、人民を苦しむる者出で來にければ、劒太刀尾張の國、御心を熱田の宮に大座します、日本武命い、御力を筑紫の崎より、物の部の竹の水門に至る迄に、打つ墨繩の速やけく、幡荻き屠ふり分け、言向け平和し給へる、復命(かへりごと)をし事竟へ給はずて、天翔り給ひし、靈(あや)しき雄々しき、神の御魂や、添はり坐しけむ。

 御子の命の皇(おほ)き后息長足姫命[神功皇后]い、若艸の手弱女には坐しつれど、皇神等の御教への任々、御髮を解かし、みゝづらに纏かして、そびらには靱を負ひ、亦た竹鞆を取り佩はして、弓腹(ゆはら)振り立て、栲衾(たくふすま)新羅の國を御馬甘(みまかひ)と爲、百濟の國を渡(わた)の屯宅(みやけ)と定め給ひき。

 然かりしより次降(このかた)、海外の往き來ひ、彌や益しに開けて、天退かる支那・印度(いむじや)・西洋(にしのはて)なる國々の、教への法さへ參ゐ渡りき。

 故れ是こに該の國々の、神代語りを憶ひ度りて、該の國風の隨々、其の國人の智力(ちから)に應(あは)せて、宗と立てたる教への法の趣きを、御饌の勘養(かむか)ひ考へ合はせ、天の眞魚喰ひ取り竝べて思ひ渡せば、恐きや遠皇神祖(とほすめろぎ)の、天の瓊矛を以ちて畫き鳴し給ひし、御手の運びの御力の餘りに、埀(したゝ)る鹽の散ふれたりけむ。大空の星の光の、且つ々ゝに我が古事の傳はりつる、物にし在らむを、月艸の移ろひ往ける隨々、水派(みなまた)の彌や分かりて、狹けき淺けき苦(う)き瀬に落ちては、患(かな)しみ惑へば、其の源を、尋ね知るべき物としも思はずて、百千々の川の流れの末竟ひに、大海原の溢(たゝ)ふる如く、八尺の眞輝玉(まがたま)の五百津の美須麻流の珠を、纏き持たらむが如く、榮(さや)けき明かき、惟神らの道の、廣けき隈なき物故(か)ら、中々に大船の緩(ゆた)のた緩に漂居る者、將(は)た多かるを、

 物皆の榮ゆる時と、鷄が鳴く東の京に、久堅の天つ日嗣の高御座、天壤の共(む)た、動く事無く變る事無く、垣石に常石に平けく知ろし看す、此の新た代の嚴御世の、最や初めより、初國知らしゝ神祖の、大御心を御心として、皇神等を祝ひ給ひ、教への職(つかさ)を設け給ひ、皇神等の、永久へに賦與(さづ)け賜へる、眞白玉、靈しき魂を、穢す事無く放ふらす事無く、心の及ぶ限り、力の至る極み、妙へに奇(あや)しき人の功(いさを)を想ふが隨々、立てしめ給ふとして、諸々の學びの術を、彌や盛えに興こさしめ給ひ、又なゆ竹の靡びかひ、とをよる國人をば、憐助(たす)け給ひ、嚴速び荒び射向ふ人をば、討ち罸め給ふが故に、陸海(うみのくぬか)の軍の省(つかさ)を設け備へて、遠き國は、三つ搓りの綱打ち掛けて引き寄する事の如く、大海原は棹柁干さず、船滿て續けて、和み參ゐ來る中今の世の御手風は、竝み立つ山の盛りの花に、朝日の豐逆か騰る隨々、薫らひ照合(てら)ふ事の如く、清く雄々しく知ろし看す事をし、熟々に惟へば、天地の剖判し時、遠皇祖の神の、修理り固め成し給へる、大御業を依さし給ひし、皇神等の御功徳(みいさを)を受け傳へ給ひし、遠つ神、我が大君[千代田之高天原に坐す天皇陛下]の御功の、洩るゝ事無く脱つる事無く、廣き厚き恩頼を蒙ぶりて在る縁ゑ由を、たしに窺ひ得てば、

 とほしろき神世の跡も、唯だ目前在(まのあたりな)る惟神らの道の御蔭をし、おほろかに思ひ、邪(け)しき道に相率(あひまじこ)りたりし事を、悔い驚きて、入り紐の同じ心に相助け、野のそき、山のそき、島の碕々、磯の碕落ちず、有り經る人の、有りの盡々、靈合ひて、玉作部が御祈玉(みほぎたま)、辭祝ぎ磨き璞(あらたま)の靈の柱を、天の御柱・地の御柱と、築き固めて、取り結べる心の葛目(つなめ)、百結び結び、八十結び結びて、千尋栲繩(ちひろたくなは)、唯だ一篠(ひとすぢ)に神習ひて、大君を見れば畏く、父母を見れば貴く、妻子見れば惠く悲しき理りに違ふ事無く、玉菨鎭石(たまもいづし)、出雲の底津御寶、甘美(うまし)御鏡と持ち齋く大社の教への會(つどひ)を、谷模(たにぐく)の狹渡る極み、鹽泡(しほなわ)の至り止まる限り擴(おしひろ)めて、惟神ら成る眞の道を、天地の間に蔓延(はびこ)る雲の、滿ち足らはす御教へに從ひ奉りて、千五百之濱の長濱の、濱の眞砂の一つだに、皇神等の大御徳みに報い奉り、皇ら朝廷の大御意に相副ひて、大き功を立つる名の千名の五百名を、後の世に言ひ繼ぐ人も、萬づ世に語り嗣ぐべく、

 功(こと)成し竟へ、現世(うつしよ)を罷れる後は、産土神等、事執り給ひ、幽事(かみごと)知ろし看す大神[大國主大神]の寵榮(みうつくしみ)を蒙ぶらしめ給へと、

 恐み恐みも、稱へ辭、竟へ奉らくと白す。



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/407



●『玉襷』(昭和十九年十二月・青葉書房刊)に收むる所の、山田孝雄博士の「解題」に曰く、

「(平田篤胤先生『玉襷』第一卷・第二卷は、)亂臣賊子、曲學の姦儒、惰弱不忠の廷臣等に對しては、峻嚴なる筆誅を加へ、忠臣烈士、正義固執の志士仁人に對しては、特筆して之を讚稱し、すべて嚴乎たる褒貶を加へたり。而してその褒貶の規準たり基礎たるものは、皇神の傳へ給ひし眞の大道、即ち所謂古道なりとす。之れ平田學の根本精神の露呈にして、以て平田學の職とするところを知るべきなり。

 更に一言すべきは、史實の由縁を考ふるに當りて、神意・神慮・神量・幽契・冥慮に基づくものとして説けることなり。之れ即ち所謂顯明界の事象と幽冥界の事象との因果・連契・糾合を探りたる結果なりとす。(平田)先生、自ら曰く、『顯世・幽界を貫き考ふるが、平田神史學の眞訣なり』と。さればこの一篇(解題一篇、即ち『玉襷』第一卷・第二卷、是なり)も、亦た平田學の根本態度たる明暗顯幽を貫到討究する神史學の眼光に照して得たる史論なりとすべし」と。
 

  • [8]
  • 物部大連守屋公は、神道の藩屏干城なり矣。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 7月20日(火)22時54分59秒
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■『日本書紀』欽明天皇十三年十月條
 物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏(まを)して曰さく、「我が國家(みかど)の天の下に王(きみ)とましますは、恆に天地社禝百八十神を、春夏秋冬に祭(いは)ひ拜むことを事(わざ)と爲したまふ。方今、改めて蕃神(となりぐにのかみ)を拜まば、恐らくは國つ神の怒りを致しまつらむ」と。天皇、「宜しく情願はむ人に付(さづ)くべし」と曰ひて、(蘇我)稻目宿禰に試みに禮(ゐやま)ひ拜ましめたまふ。

■『日本書紀』敏達天皇十四年三月一日條
 物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰さく、「何の故にか、肯(あ)へて臣(やつこ)が言を用ひたまはぬ。考(かぞ)の天皇より陛下(きみ)に及(いた)るまで、疾病(えやみ)流(あまね)く行はれて、國民絶えつ可し。豈に專ら蘇我臣が佛の法を興し行ふに由るに非ずや」。詔して曰はく、「灼然(いやちこ)なり。宜しく佛の法を斷(や)めよ」と。

■『日本書紀』用明天皇二年四月二日條
 物部守屋大連と中臣勝海連と、議りて曰さく、「何にぞ國つ神に背きて、他(あだ)し神を敬(ゐやま)ひたまはむや也。由來(もとよ)り斯くの若き事を識らず矣」と。

■『倭姫命世記』
(雄略)天皇即位廿三年己未二月、倭姫命[生れまして貌容(みかほ)は甚だ麗し。幼けなくよりして聰明(さと)く叡知(さか)しくます。意(みこゝろ)貞かに潔く、神明に通じ給へり。故に皇御孫尊の御杖代と爲して、皇太神を頂き奉る]、宮人及び物部八十氏等を召し集へて宣はく、「神主部・物忌等(荒木田・度會兩氏人)諸々聞け。吾に久代(そのかみ)、太神、託宣ましましき。
『心神は則ち天地の本基、身體は則ち五行の化生なり。肆(かる)がゆゑに元を元として元の初に入り、本を本として本の心に任せよ。神は埀るゝに祈祷を以て先と爲す。冥は加ふるに正直を以て本と爲せり。夫れ天を尊び地に事へまつり、神を崇め祖を敬ふ則(とき)は、宗廟絶えず、天業(あまつひつぎ)を經綸(をさ)む。又た佛法の息(いき)を屏(かく)して、神祇を再拜し奉れ。日月は四洲(よものくに)を廻り、六合(くに)を照らすと雖も、須らく正直の頂を照らすべし』と。詔命たまふこと明かなり矣。己(なむたち)、如在の禮を專らにし、朝廷(みかど)を祈り奉らば、天下泰平にして、四民安然ならむ」と。‥‥
 倭姫皇女、大神主物忌等に託て宣はく、「天照太神は、日月と共にして、□[ウ+禹]内(あめのした)に照らし臨み給へり。豐受太神は、天地と共にして、國家を守り幸ひ給へり。故に則ち(雄略)天皇の御宇に、二柱の尊靈(オホムカミ)、神風の地を訪(と)ひ、重浪の國を尋ねて、天降り鎭まり坐し給へり。凡そ伊勢二所皇太神宮は、則ち伊弉諾・伊弉冉尊の崇めたまふ神、宗廟社禝の神、惟れ群神の宗、惟れ百王の祖也。尊きこと、二つと無く、自餘(そのほか)の諸(かたへ)の神は、乃ち子、乃ち臣、孰れか能(あへ)て抗(たぐら)へんや」と詔ふ。
 吾れ聞く、「大日本の國は神國なり。神明の加被に依りて、國家の安全を得、國家の尊崇に依りて、神明の靈威を増す。肆がゆゑに神を祭るの禮は、神主・祝部を以て、其の齋主(まつりぬし)と爲す」と。茲に因りて大若子命・弟若子命、同じく殿(みや)の内に侍ひて、善く防ぎ護ることを爲して、國家を祈り奉らば、寶祚の隆えんこと、當に天壤と窮まり無かるべし矣。亦た聞く、「夫れ悉地(ねがひ)は則ち心より生ず。意は則ち信心より顯る。神明の利益を蒙ることは、信力の厚薄に依る」となり。天下四方の國の人夫等に至るまで、齋(まつ)り敬ひ奉れ焉。



●『大日本史』卷之一百十・列傳第三十七に曰く、「

 物部弓削連守屋は、尾輿の子也[『公卿補任』]。父に繼ぎて大連と爲る。

 敏達(愚案、宜しく「天皇」の御字を挿入すべし矣)の朝、佛法、漸く世に行はれ、大臣蘇我馬子宿禰、首として之を崇信す。守屋、心に之を喜ばず、頗る規諫する所ろ有り。十四年、人民、多く疫死す。守屋、大夫中臣勝海連と倶に奏して曰く、「先朝より以て陛下に逮ぶまで、疾疫流行して、生民、將に絶えなんとす。此れ豈に蘇我臣が首として佛法を唱ふるに由るに非ずや歟。請ふ、宜しく禁絶したまふべし」と。詔して之に從ひたまふ。守屋、躬自ら寺に往き、胡床(あぐら)に踞(よ)り、塔宇を毀ち、佛像を燒き、餘燼を難波堀江に棄つ。是の日、雲無くして雨ふる。守屋、雨衣を被(き)て、馬子及び其の徒の佛を信ずる者を責め、佐伯造御室を遣はして[本書の註に、一名は於閭礙とあり]、馬子が崇信する所の三尼を逮(とら)へんとす。馬子、啼泣して之を出せば、吏人、其の納衣を奪ひて、海石榴市に撻(むちう)つ。馬子、堪だ之を恥ぢ、是に由りて怨を構ふ[本書の註に、一説に曰く、「物部弓削守屋・大三輪逆君・中臣磐余連、謀りて寺塔を燒き、佛像を棄て、佛法を滅ぼさんと欲するに、馬子、爭ひて從はず」と]。守屋、嘗て穴穗部皇子と相善かりき。皇子、陰かに異志を抱きて、守屋をして兵を率ゐて三輪逆君を攻めしめしに、守屋、往きて之を斬る。馬子、歎じて曰く、「天下の亂れんこと、久しからじ矣」と。守屋の曰く、「汝ぢ小子が知る所に非ざる也」と。

 用明帝の二年、帝、不豫なり。詔して佛に歸せんと欲し、群臣をして之を議せしめたまふ。守屋・勝海、又た奏して曰く、「國神に背きて蕃神を敬ふことは、臣等が未だ知らざる所ろ也」と。唯だ馬子、之を贊し、豐國法師を引きて宮中に入る。守屋、大いに怒りて睨視せしに、押坂部史毛屎、密かに守屋に告げて曰く、「今ま群臣、君を圖りて、將に路に要せんとす」と。守屋、乃ち退きて阿都の別業に居り、兵を聚めて自ら衞りしに、勝海も亦た兵を聚めて之に應じ、彦人・竹田の二皇子の像を作りて、之を厭(まじな)ふ。既にして勝海、事の成らざらんことを知り、水派宮に適(ゆ)きて、彦人皇子に歸す。舍人跡見赤檮(いちひ)、其の宮を出づるを伺ひて、撃ちて之を殺す。守屋、人をして馬子に謂はしめて曰く、「竊かに群卿、我を謀らんことを聞く。我れ故に退ぞけり焉」と。而して馬子、益々其の黨を招集して、日夜警備す。

 帝の崩じたまふに及び、守屋、諸皇子を舍(お)きて、穴穗部皇子を立てゝ嗣と爲さんと欲し、淡路に獵するに託して、穴穗部皇子と相謀りしに、事、泄(も)れたり。馬子、兵を遣して、穴穗部皇子と宅部皇子とを殺さしめ、柏部・竹田・豐聰耳(愚案、所謂る聖徳太子、是れ也。下の★參看)・難波・春日の諸皇子、及び紀男麻呂・巨勢臣比良夫・膳臣賀□[木+施の右。かた]夫・葛城臣烏那羅と倶に、師を率ゐて守屋を攻め、大伴連□[口+齒。くひ]・阿部臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣を遣はし、志紀郡より澁河の家に抵(いた)る。守屋、親ら子弟及び家兵を率ゐ、稻城を築きて拒(ふせ)ぎ戰ふ。兵勢、甚だ壯(さかん)なり。守屋、樹に登りて雨のごとく射れば、諸皇子の軍、恐怖して三たび退く。豐聰耳及び馬子、兵を整へて進み攻め、跡見赤檮、射て守屋を墮し、遂に守屋竝びに其の子を殺しければ、軍、潰えて、其の衆、舉りて□[梍の右。さう]衣を被(き)て、廣勾原に獵(かり)する爲(まね)して遁れぬ。子男・親戚、或は姓名を變へて逃匿せる者有り。時人、謂ひて曰く、「蘇我大臣の妻は、物部大連の妹也。大臣、妄りに妻の計を用ひて、舅家を亡しぬ」[『日本紀』]と。

 捕烏部萬は、守屋の資人也。馬子が守屋を攻むるに當り、兵一百を將(ひき)ゐて、難波の宅を守りしが、守屋が死せることを聞き、夜に乘じて潛かに逃れ、茅渟有眞香邑に抵りて、其の妻と訣れ、遂に山中に匿れぬ。朝廷、議すらく、「萬、逆心を懷けば、當に盡く族誅すべし」と。會(たまゝゝ)萬、身に敝衣を被て、弓・劍を執りて來りければ、有司、衞士數百を遣はして之を圍ましむ。萬、叢篁に隱れて、繩を以て竹を繋ぎ之を搖(うご)かし、人をして己の在る所を謬らしめければ、衞士、疑惑したるを、萬、連射して數人を倒せり。衞士、恐れて敢へて近づかず。萬、遁れ走る。衞士、追ひて射れども、皆な中つること能はず。一人有り、疾く馳せて河上に伏し、萬を射て膝に中つれば、萬、其の矢を拔き、弓を張り箭を發ち、乃ち地に倒れ、號呼して曰く、「萬、將に天皇の盾と爲りて、其の勇を效(いた)さんとす。何ぞ其の故を問はずして、窘迫すること、此こに至れる。吁、汝等、來り前め、願くば我が罪を聞かん」と。追兵、競ひ馳せて之を射るに、萬、連りに飛矢を截(き)り、三十餘人を殺しぬ。既にして弓・劍を河に投げ、刀子(かたな)を以て、自ら其の首を刺して死しぬ。

 河内國司、状を奏す。朝廷、符を下し、斬りて八段と爲し、八國に分ち陳ねんとす。斬る臨み、雷鳴り大いに雨ふる。萬に畜狗(かひいぬ)有りけるが、屍を繞りて吠え、遂に其の頭を啣(ふく)み、收めて古□[塚の右]に置き、其の側に臥し、食せずして死せり。國司、之を奏しけるに、朝廷、符を下して曰く、「此の事、後に觀(しめ)す可し」と。其の族をして收め葬らしむることを許す。是に由りて雙墓を有眞香邑に築き、萬及び狗を葬れり。國司、又た言く、「是の役や也、餌香川原に戰死せる者數百、身首、處を異にし、姓名を辨じ難し。唯だ衣色を認めて之を收めしが、櫻井田部連膽渟が養へる所の狗有り、能く其の主を識りて、身・首を接續し、側に伏して之を守り、人の其の屍を收むるを待ちて去りぬ」と[『日本紀』]」と。



★學習院輔仁會編『乃木院長記念録』(乃木大將言行録。大正三年十月・三光堂刊。五年七月縮刷版)に曰く、「

 聖徳太子といふ名について――院長(乃木希典大將)、甞て一教授に向つて曰く、「聖徳太子とは、僧徒に附し奉れる名には非ざるか。然らば則ち後人、之を御名に代へて稱し奉る事の可なる所以を見ず」と。院長の日本主義より來れる注意は、往々かゝる微細なる稱呼の點にまで及べるなり(教授島野幸次氏記)」と。



 愚案、平田大壑先生『玉襷』卷之六・前段を拜讀して、感泣に勝へざる所、國體に困學する神道人たるもの、物部守屋公の尊靈を解き放ち、之を大いに祀る可し矣。其の悲願、現代に之を想ひ、之を紹述繼承すべきかな哉。亦た、
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t30/5
參看されたい。

  • [7]
  • 川合清丸翁『日神教自序』。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 7月13日(火)20時52分25秒
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●山陰道士川合清丸翁『日神教の自序』(川合保正敬翁遺旨・清丸翁紹述。全集刊行會『河合清丸全集』第三卷・神道即國體門・下・昭和七年七月刊)に曰く、「

 昨年(明治三十七年)三月十四日は、吾が父の三十年祭に當りぬ。されば六歳になりぬる嫡孫をも從へて郷に歸り、久しく怠りつる墓所の掃除をも勤め、當日には親族・家族を會して、靈祭り仕へまつらむものと、豫ねては思ひ續けたりしが、吾が貧血の痾(やまひ)、漸く進みて、一昨年の冬より、脉の斷續(たちぎれ)さへ加はりければ、是れ良からぬ兆候なり。暖地に寒を避くるこそ善からめと、醫士の勸むるに任せて、一月下旬より、駿河國富士郡今泉村なる道友・杉山歸一氏の許に寓しぬ。されば家の靈祭りは、故郷なる妹等夫婦に依頼し遣はして、吾は夜と無く晝と無く、ひたすら父の膝下に侍りし昔の事どもを、つらゝゝ憶ひ出だして、追慕の念を遣りぬるも、亦た人情の免かれ難きすさびなるべし。

 父、曾て兒に告げて宣はく、「父は少年の時、非常の弱質にて、老の坂を越えなむことは、思ひも寄らずと覺悟したりしに、京都に遊びける時、或る先生に、日神の御教へを承りて、いと尊く覺えて、謹みて修行し侍りしに、意氣、始めて剛壯になりぬると共に、身體も亦た健康になりもて來て、四十の年に、初めて汝を設けたり。爾來、病める事も無くて、此の身に斯く老の波を寄せぬること、偏へに修行の御蔭にこそ」とて、其の道の趣を説き聞かせ給ひしこと、度々有りき。

 されば吾れ、「日神とは、孰れの神ぞ」と問ひ侍りければ、誨へ給はく、「日神は、太陽の御精神、太陽は日神の御形體にて、天照大御神とは、其の大御光の、宇宙を照臨し給ふ御功徳を稱し奉れる尊號なり。されば日神は、即ち日の精神にて、天地を活かし働かし、萬物を生(お)ふし育てゝ、片時も息み給はざる造化の大御徳、是れなり。我が神代の初めに方りて、此の太陽の御精神を己れ尊の御精神と遊ばし、伊弉諾・伊弉冉大神を御父母と遊ばし、歴世の天皇を御子孫と遊ばして、我が皇國に御降誕ましませる皇祖大日留女貴尊をも、亦た天照大御神とも、日神とも尊稱し奉る。是れ即ち天なる日神の御申子に坐しませばなり。我が皇國は、現在、此の大御神の生れ坐し給へる大御國なるが故に、日の本の國と云ふ。歴世の天皇は、現在、此の大御神の大御位を嗣がせ給ふが故に、天津日嗣と稱し奉る。されば皇祖は、即ち地上に坐しませる太陽、太陽は、即ち天上に坐しませる皇祖にて、皇祖の御精神と太陽の御精神と、全く御同體なり。其は啻だ皇祖の御精神と太陽の御精神と、全く御同體なるのみならず、我等が精神も、亦た太陽の生々化々の大御徳を稟け得て生れ出づるものなれば、穢き人間の念想をだに棄てゝ、清淨なる日神の御精神をだに受用せば、其の精神、復た日神の御精神と、更に隔違有ること無し。故に我が國言にては、我等人類を稱して、人と云ふ。人とは、日の友の義なり。又た人の子・人の女を稱して、彦・姫と云ふも、亦た日子・日女の義にて、日の分身分靈の謂ひなり」と。

 是の時、吾は少壯の客氣盛りにて、好みて漢籍に讀み耽りたる頃なりければ、さしも心を傾けずして、徒らに聞き過ぐしぬるこそ、いとゝゝ淺量(あさはか)にして、罪深き業なりけれ。其の後、明治六年に、吾れ、大神山神社權宮司に任ぜられて赴任しける時、父、甚(いた)く歡び給ひ、吾を一室に召して告げ給はく、「汝は父が子ながら、父にも優りて、君と國とに忠勤を盡さるゝ身となりぬる事の嬉しさよ。父、復た何をか憂へむ。但だ別れに臨みて告げ置く事あり。汝、手洗ひ口漱ぎて來よ」と命ぜられければ、吾れ即ち命のまにゝゝ、身を清めて膝下に進みぬ。是の時、父、威儀凛然として、吾に左の訓戒を讀み聞かせ給ふ。

 日神の御造化に因りて、日神の御本國に生るゝ、之を人間最上の冥加となす。
 日神の御正統を戴きて、日神の大道を修行する、之を人間最上の幸福となす。
 日神の大御心に合して、日神の最愛の友となる、之を人間最上の尊榮となす。
  人、其れ此の訓を守らば、活きながら天地神明の侶(とも)となるべし。

 日神の御本國に生れながら、御國恩を思はざる、之を人間最上の不義となす。
 日神の御正統を戴きながら、御皇恩を思はざる、之を人間最上の不忠となす。
 日神の大御光に活きながら、御神恩を思はざる、之を人間最上の不孝となす。
  人、其れ此の誡に背かば、活きながら畜生魔鬼の群れに入るべし。

 是れ、日神教の要旨なり
」と。

 是の時、吾れ肅然として誓言すらく、「是は尊き御誨へを承はる事かな。兒は此の訓誡を肝膽に銘じて、生涯護持し侍るべし。父よ、御心を安め給へ」と。父、之を聽き畢りて、喜色、面に溢れて、更に誨へ給はく、「父、竊かに汝が意を推すに、汝は學問ばかり、世に大切なる物無しと思へり。されど學問は智識を生じ、智識は才氣を生じ、才氣は慢心を生じて、なかゝゝ道と背き行くものぞ。されば眞實に道を修行する者は、倭も漢も天竺も、學問・智識・才氣・慢心を打ち棄てゝ、始めて道に相應するの習ひなり。看よ、天地神明には、學問・智識・才氣・慢心無し。而して四時行はれ、百物生ずることを。我が神道には、之を神隨らと云ふ。神隨らとは、毫も人爲・人作を加へざるの謂ひなり。聖經の謂はゆる誠は、勉めずして中り、思はずして得るもの、佛經の謂はゆる無念・無住・無修・無證なるものなり。道の至極は、斯くぞ有るべき。父は是等の大要を書き付けて、汝に與へむと思ひしかども、師の言に、『道の事は、其の器に非ざれば、容易く人に語るべからず。又た猥りに書に筆すべからず。死物となりて、人の侮りを來たし、異説となりて、世の惑ひを起すの懼れあればなり』と、戒め置かれし故、終ひに文字には寫さゞるなり。父は一生、此の戒を守りぬべし。汝、氣の付きたらむ日には、父が言を思ひ出でゝ、修證一番、必ず天地神明の侶となるべし。是れ忠と孝との最大なるものにて、聖人の謂はゆる孝の終りなるもの、佛子の謂はゆる九族昇天するもの、豈に此の外ならめやも。ゆめ疑ふこと勿れ」とぞ誨へ給ひき。後に思へば、是れなむ、父が最後の遺命にぞありける。

 今ま此の遺命を憶ひ出だせば、其の聲、朗々として耳に在るに、歳月を數ふれば、□[炎+欠。えん]忽として三十年、其の間、之を忘るゝには有らねども、唯だ心を國家の時事にのみ奪はれて、遺命の事は、なかゝゝ等閑に過ぎ來しことの畏こさよ。今ま家を離れて萬事を放下し、此の世界の名山たる芙蓉峰下に、養生三昧の身に成りぬること、正に斯の道を修行すべき好期なりけれ。若し此の期を逸しなば、復た何れの日をか待つべからむ。乃ち遺命を憶ひ出でゝは、之を心に工夫し、神典を讀み去りては、之を身に反求し、之を會心し、之を躬行しつゝ、進み行くほどに、師より承りつる事ども、縷々として浮び出でゝ、訓誡の注脚となり、行路の記程とはなりぬ。されば其の栞のまにゝゝ、經過すること滿一年ならざるに、醫士の危ぶみつる脉の斷續は更なり、此の十數年間、常となりたりし八十以上の脉搏も、いつと無く平脉に復し、蒼白かりし肌へも、漸く淺(うす)紅を漲らし、懶(ものう)かりし氣も、今は勤しみの情と變り、斯の道の身内に落居すると同時に、十數年の宿痾は、身外に退居して、喜神陰魔、交代に轉換せしこそ、不思議なれ。父が「少年の時、非常の弱質なりしも、斯の道を修行せし以來、健康、人に劣らずなりぬ」と宣ひしもの、吾れ正に證明し畢る。されば喜びの餘りに、縱令ひ父の遺命には滿たざるも、爭(いか)でか實踐の迹を留めて、三十年來の懈怠の罪を謝せざらめやも。況んや父の歿し給ふや、微音、僅かに兒の耳に存すること三十年、一旦、兒逝かば、此の絃、全く絶えて、此の音、永く滅ぶるをや。されば未熟を忘れて、此の書、内外二篇を著はし、内篇六章(事天之章第一・調息之章第二・養氣之章第三・誠意之章第四・正心之章第五・安神之章第六。愚案、未定稿と云へり。内篇三箇章のみを發表して中絶す)は、神と人との交通を論じて、此の身、進みて神人となるの一路を開き、外篇六章(皇祖之章第一・國體之章第二・神寶之章第三・神武之章第四・忠孝之章第五・倭魂之章第六)は、神と國との關係を論じて、此の國、進みて神國となるの一路を通ず。

 夫れ先進の國は神國となりて、後進の國を風化し、先覺の人は神人となりて、後覺の人を教化し、天の覆ふ所、地の載する所、遍く日神の大御教を、大御光と共に被らしめむことは、その御本國に生れ、其の御正統を戴きて、其の大御蔭を蒙りたる、我等同胞の大任に非ずや。是れ吾が敢へて瘠馬に一鞭を加ふる所以なり。其の大擧の如きは、他の英雄豪傑の士を俟たむのみ。父、姓は川合、名は正敬(まさよし)、通稱は保(たもつ)。文化六年四月朔日に生れ、明治七年三月十四日に歿す。伯耆東伯郡成美村の人。

  明治三十八年三月十四日  嫡男・清丸、謹みて序す」と。

  • [6]
  • 川合清丸翁の神道。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2010年 7月10日(土)18時56分51秒
  • 編集済
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●伯耆國河村郡太一垣神社祠官・國幣小社大神山神社權宮司・日本國教大道社長・無々道人川合清丸翁『神道を論ずる書牘――渡邊重石丸翁に寄する書』(明治二十九年一月十日。全集刊行會『河合清丸全集』第三卷・神道即國體門・下・昭和七年七月刊)に曰く、「

(豐城渡邊重石丸翁『大祓の説』――『闇夜の燈』明治二十八年十一月號所收を、京都に養痾中に一讀し、精神爽快にして痛快限りなく、乃ち一翰を裁するに、)十二月二十五日附を以て、縷々の御返翰を下され、早速、薫手拜讀、頗る御同歎の情を引起し申し候ふ。併し先生は、曾て神道を世に押立てゝ、儒佛の二道をば排斥成され候ふもの、小生は、曾て神儒佛の三道を押立てゝ、世に擴張する者に候へば、卒然高説に贊成を表し候ふては、或は己を枉げて人に諂ふやの嫌ひも之れ有る可き歟。是れ芳翰に、『今般、意外の芳音に接し、言ふ所を知らず候ふ』と仰越されし所以かと存じ奉り候ふ。然れども小生が儒佛を擴張するは、其の眞味を擴張する者、先生が儒佛を排斥成され候ふは、其の弊害を排斥成され候ふ者にて、譬へば「酒飲まぬ人をし見れば、猿にかも似る」と歌ひしは、酒は百藥の長たる所を稱贊せしもの、「世の中に酒ほど惡しきものはなし」と詠ぜしは、酒の百害の本たる所を教戒せしものにて、此の兩義の世に偏廢すべからざるが如く、儒佛の眞味を擴張する者と、儒佛の弊害を排斥する者とは、竝び行はれて、少しも相悖らざるものと存じ奉り候ふ。言を易へて云はゞ、忠君愛國の大和魂に、一點の缺目さへ之れ無く候はゞ、其の魂より運び出し候ふ事は、何等の事柄にても、諺に所謂る細工は流々にて、決して斯道に外れ候ふ事は之れ有る間敷く候ふ。

天地の 神に耻ぢすば なすわざは おのがまにゝゝ おのがまにゝゝ

之に反して、其の大和魂に一點の私氣を帶びて、其の私氣を帶びたる根性より運び出だす事柄に候はゞ、假令いか程なる公明正大の言論を吐き候ふとも、又いか程なる殊勝奇特なる事業を執り候ふとも、是は所謂る僞君子・擬才子の輩にて、吾等が肺肝を吐露して、斯道を談じ合ひ候ふ磊々落々の士には之り有る間敷く候ふ。

塵だにも 心に耻づる わざあらば ますら男の名は われはゆるさじ

 爰に先生とは、未だ曾て肺肝を吐露して、斯道を談じ合ひ候ふ事は之れ無く候へども、竊かに平素の御擧動を伺ひ候ふに、失敬乍ら前なる者と存じ奉り候ふに付き、敢へて雷同は仕らず候へども、常に私淑罷り在り候ふ事に御座候ふ。又た先生も、小生が遣り方をば、後なる者に非ずと思召され候ふにや。今囘の芳翰に、『兼々高風を慕ひ罷り在り候ふ』と仰越され候ふ。然れば後來、此の邊りの御交際を願ひ上げ候はゞ、支那人が醴(れい)の如しとか云ひし部類にはあらで、所謂る淡然たる君子の交り歟と存じ奉り候ふ。此の邊り宜敷く御含み下され度く候ふ。

 扨て芳翰中、『吾が皇國の人民にして、古より内外の區別を誤るものゝ、天下に充滿したる事の』御憤りと、『近世、古學開けて以來、本居先生風の學者は歌文章に流れ、平田先生風の學者は空教に流れたる』の御慨(うれた)みとは、頗る御同感に之れ有り候ふ。『之に依つて、此の二大弊を矯正するには、神典を經とし、政事に注目して、道を説くに非ざれば能はざる事と存じ、‥‥晩蒔きながら今より、道を蒔くを目的と致し、迂遠の毀(そし)りを顧みず、後の風を聞きて興起する者を待たむ』との思召しの旨、御尤もに存じ奉り候ふ。且つ此般の義に付き、心付けも之れ有り候はゞ、遠慮無く申上ぐ可き旨、是れ亦た承知仕り候ふ。就ては少しく冗長に亙り候へども、小生が兼ねての卑見、左に書き取りて、電覽を汚し候ふ。

 小生、兼ねて思へらく、神道には、神隨らの神道と、制作の神道との兩樣之れ有り。先づ其の神隨らの神道とは、春は花、秋は紅葉、夏は繁り、冬は凋み、寒暑改まり、四時行はれて、萬物、其の間に生々蕃息するの類に之れ有り候ふ。是等は、聖人・佛陀が何と申し候ふても、科學者・哲學者が何と致し候ふても、少しも増損することなく、古今に通じ、内外に亙りて、唯だ斯くの如くに行はれ候ふ故に、古人は之を神隨らの道と申し候ふ。次に制作の神道とは、神代の神祇、上古の聖皇達が、彼の神隨らの道を地盤として、皇統國體の爲め、世道人心の爲めに、組織遊ばされ候ふもの故、小生は之を制作の道と名付け申し候ふ。

 扨て彼の神隨らの神道は、全く天然に出でゝ、少しも人爲を加へざるが故に、時世は何如樣に遷り易り候ふとも、更に盛衰汚隆は之れ無く候へども、制作の神道は、人爲を加へて裁制遊ばされ候ふもの故に、其の神猷聖謨を奉じて、時に隨ひ世に應じつゝ、本を正し末を治めて扶植する者之れ無き時は、必ずや時と共に變遷し、世と共に陵遲して、終ひには衰亡に歸し申す可く候ふ。されば古昔、神聖の猷謨を繼ぎて、之を裁制し、之を世に應用しつゝ、之を扶植し、之を護持するの英傑、世に輩出致し候はゞ、斯道は必ず欝然として勃興隆起致す可く候ふ。

 扨て此の神道は、吾が皇統國體を保維し、吾が世道人心を綱紀する上に必用ありて、古昔神聖が制定遊ばされたるものに候へば、之が衰亡に屬する時は、皇統國體も、世道人心も、之と共に衰亡に歸して、國民、悉く其の禍に罹り申す可く候ふ。之に反して之が興隆に屬する時は、皇統國體は益々尊嚴を加へ、世道人心は益々文明に進みて、國民、擧りて其の慶に頼り申す可く候ふ。是れ制作神道の眞意眞面目と、小生は信じて疑ひ申さず候ふ。併し斯く説き來り候へば、制作の神道と神隨らの神道と、全く別々なるもの哉の疑ひ之れ有る可く候へども、決して然らず。其の上古の神聖は、神隨の神道を地盤として、其の上に制作遊ばされ候ふ故、神隨らの神道は根本なり。制作の神道は花實なり。花實は以て根本の性を顯はし、根本は以て花實の美を成して、其の實、二にして一、一にして二に之れ有り候ふ。是れ即ち神人一體の道、祭政一致の政の由つて立つ所以と存じ奉り候ふ。

 然るに小生、つらゝゝ今の世上を看廻はし候ふに、神隨らの神道の根柢を看取り候ふ者之れ無きゆゑ、隨つて古昔神聖が斯道を組織遊ばされ候ふ制作の神道の大體に達するもの之れ無く、稍や其の一斑を學取して、神典を講ずる者之れ有り、語學を説く者之れ有り、詞章を弄する者之れ有り、宗教を談ずる者之れ有り候へ共、是れ譬へば眼科・耳科・鼻科・齒科等の專門醫が、一局部丈けの科業を修めて、人體の組織・人身の生理に通ぜざると一般に候へば、各々一家の墻壁を構へて、殆んど榮螺(さゞえ)の集會然たる有り樣に相見え申し候ふ。併し其れにても正直正路に、己が學び得候ふ處を信じ、己が信じ居り候ふ處を講じて、其の道を樂しみ居り候ふに於ては、假令ひ大體に益する所なくとも、一局部に損する事は之れ有る間敷く候へども、中には其の學によりて、秩祿を得むとか、福利を貪らむとか云ふが如き野心を挾みて、主唱致し候ふ故に、詞章家は、或は無節操の腰拔者と成り果て、宗教家は間々破廉耻の山子者(やまこもの)と成り下り、折々は内務・文部・宮内等の官吏の門に、耳を低(た)れ尾を搖(うご)かして、憐れみを乞ふが如きの醜態なきに非ず哉にも承り及び申し候ふ。

 凡そ此の輩の臟腑を、聊か士君子の氣格を具へて、平生把持する所ある者の眼より見下ろし候ふ時は、無下に穢(きた)なく、むさくろしく候ふて、共に齒(よはひ)致しがたく、少しく潔癖ある人は、爪彈きして、風下にだに置く間敷くと存ぜられ候ふ。況(ま)して今日の上流に位する人等は、痩せても枯れても一時の人桀にて、少しく油斷すれば、忽ち獰獅の牙に觸れ、□[獸偏+廣。くわう]鷲の爪に□[手+嬰。か]けられ候ふ現場に、至尊を補佐し奉りて、國威を殞さず、即ち活きたる神道を、實際に運轉致し居り候ふ人等に候へば、其等の人の眼光より、彼の神道家の人物を照らし見られ候はゞ、如何なる樣にか見え申すべき。

 徒らに先輩の學説の頭を取り足を取り、其れに尾を添へ鰭を添へて、發明らしく珍重(もてはや)す國學者も之れ有る可し。又た敕撰集・物語書等の類を講じて、定家・家隆等の咳唾を珠とし、香川景樹抔の口調を喜びて、歌讀み出づる歌學者も之れ有る可く候ふ。又た隱れたるを索め怪しきを行ひ、鬼面を被りて小兒を嚇し、異説を唱へて愚民を誑かす宗教家も之れ有る可く候ふ。凡そ斯かる神道家は、在るも國家に益なく、無きも天下に損なき者に候へば、此の國家多事の際に當りては、之を度外に置きて、相手にせざるの優れるに如かずとの感を與へ候はむ事、無理ならぬ義と存じ奉り候ふ。是れ今日の神道が、國家に見捨てられ社會に見放され、遂に神聖制作の叡旨をして、殆んど湮晦に付し去られむとする所以に之れ有る可し。實に慨き事の至り、畏き事の限りと存じ奉り候ふ。

 小生、之を佛者に聞く、「正人、邪法を説けば、邪法も正法となり、邪人、正法を説けば、正法も邪法となる」と。吾が神道も、在りて益なく、無くて損なき、小人原の手に落ち候ふ時は、皇統國體の上に於て、須臾も離るべからず、世道人心の上に於て、片時も闕くべからざる大道も、在りて國家に補ひなく、無くて天下に差支へなき小道と成り下り候ふこと、敢へて怪しむに足らざる義と存じ奉り候ふ。然れば今日の要務は、先づ神隨らの神道の本源に徹して、斯道の神髓を極め、次に制作の神道の大體に達して、古昔神聖の斯道を組織遊ばされ候ふ骨髓を掴み、即ち今日の上流に立ちたる人達よりは、心も高尚に、志も遠大に、人物も一層大粒なる英物を出し、所謂る皇統國體の上に於て、須臾も離るべからず、世道人心の上に於て、片時も闕くべからず、況して軍國機變の際に在りては、最も打置くべからざる神道の要領を、雲霧を排して、天日を拜するが如く、理非分明に説き明かし、之を上流の人物より、中等の士庶までに披露致し候はゞ、神聖制作の叡旨、始めて世に明かに成り來りて、國民、再び其の慶を頼ることを得申す可き歟。今は異端邪説の行はるゝ世には候へども、又た一方より看れば、中等以上の人士は、大抵、物の邪正を鑑識するの眼力を具へ、事の是非を識別する腦力を有し居り候ふに付き、畢竟、邪説の横行するは、大道を闡明する英物の之れ無き咎歟と、小生は竊かに吾が身を責め居り申し候ふ。

 其の故は、斯道は生々化々の活道に候へば、徒らに死理窟を論じ、古模樣を談ずる如き、古物學者の與り知るべきものに之れ無く、又た斯道は公明正大の大道に候へば、之を以て名利の餌とする如き、輕薄然たる才子原の與るべきものに之れ無く、去りとて又た之を悲憤慷慨して、一隅に割據するが如き、□[石+經の右。かう]々然たる小人輩の知るべきものにも之れ無きが故に御座候ふ。之に依つて小生が神道を講じ候ふは、古人の所謂る天地を以て書籍とし、日月を以て證明とし、小生が所謂る神隨の神道を經典として、強ちに神典の異同に拘泥仕らず、又た吾れより古人を爲すの覺悟にて、深く先哲の學説に執著仕らず、唯だ其の要は、吾が心の神隨らの道と合體致し候ふを、斯道の神髓を看たる證明とし、吾が見の制作の道と吻合致し候ふを、神聖の骨髓を得たる證據として、自から學び、躬から修め來るまにゝゝ、聊か手應へも之れ有り候ふに付き、是よりこそは、神聖に御奉公申し上げ、同胞にも忠誠を盡さむ身なれと、竊かに奮發罷り在り候ふ處、不幸にも一昨年來、精神過勞の咎に由りて、虚性腦充血の症に罹り、此の有爲貴重の好歳月を、徒らに山紫水明の古帝郷に閑臥致し居り候ふ事に御座候ふ。併し乍ら其の攝養の效に由りて、腦力も漸次快復仕り、新年來は是れ式の筆を執り候ふとも、さして充血を引起さぬまでには養ひ立て居り候へども、奈何せむ、小生は極めて薄福の身に候ふ故、到底、此の事業を仕遂ぐる程の資力を有せず。思ひ起せば、是れのみ終天の遺憾に御座候ふ。

 小生が斯道に抱負する所の微志、大略、斯くの如くに候ふ條、先生に於ても、此の上に御氣付きの事在らせられ候はゞ、何卒、御埀誨下され度く、偏へに願ひ上げ奉り候ふ。扨て小生が先生の成され方に對する卑見は、昨夏、當地へ出立の前、御門生・大宮兵馬氏參られ候ふに付き、同氏へ告げ置き候ふ間、此の義は疾く御聞取りに相成り居り候ふ事歟と存じ奉り候ふ。

 又た芳信中、『世上には、輕躁の青年輩のみ、蔟々挺生し、老實の學者は、晨星落月の如く、慨歎に堪へず候ふ』との御歎息は、誠に御同樣の至りに存じ奉り候ふ。斯かる折柄に候へば、先生、成るべく御加餐ありて、經國の文章を續々裁せられ、幾久敷く闇夜の燈を御挑(かゝ)げ成さる可く候ふ。

岩根木根 草のかき葉も こと問ひて あらぶる御代ぞ つとめませ君」と。



【參考】氣吹舍塾頭・京都皇學所御用掛・下總國香取神宮少宮司・大講義・道生館主・鶯栖園隱士豐城渡邊重石丸國前直重任翁
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/253
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/255
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t29/2


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