• [0]
  • 參考聚英

  • 投稿者:備中處士
 
○參考資料類

【一兵士】
●前篇=當該の十六頁~三十五頁
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=761&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=150
●本篇=一兵士『靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか』一頁~一百三十八頁
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1164&forum=1&start=0

【備中處士】
●議論=備中處士『靖國神社に、清淨と静謐の環境を!』
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1106&forum=9
●改稿=備中處士『靖國神社考』
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yasukuni-kou.htm
●其他=備中處士『論考類』
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hozonpage6.htm

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  • [15]
  • 日本民族のいのち息づく、川出麻須美翁の哥。

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2016年 1月30日(土)16時04分8秒
  • 編集済
  • 返信
 
●第七高等學校造士館教授・從三位・川出麻須美翁遺稿『天地四方』(夜久正雄・廣瀬誠等編・昭和四十七年五月・遺稿集刊行會刊)から、敬みて抄すなり(翁は、三河國・縣社莵足神社の世襲神職の家に生る。令甥は、川出清彦掌典なり)。

──故郷のゆふべ(明治篇)
○羽根をれて つちにおつとも 生けるまは 光れほたるこ あめのまにまに

──辭書
○火をよせて 辭書よむたのしさ くさぐさの 命みなぎる やまとのことば
○厚き書(ふみ)に たたまることば くりひろげ 國のおほ歌 つくる人なきか
○ふる言を 死せりといふか 祖(おや)たちの いのちのしるし 死せりといふか
○ふる言に こもる力の とこ清水 汲めどもつきず ふる言あはれ

──秋田(大正篇)
○平田翁の み墓やいづく ゆき國ゆ 火ふく翁は あれましにけり

──伊勢神宮遷宮祭を奉拜して(昭和四年)
○ことそぎて 心こもれる いにしへの 道よみがへる み民われらに
○たえだえに つゞく樂の音 きゝてあれば 心消えつゝ 神代戀しも
○はやちかも 捲き起れると 思ふまで 森をとよもす かしは手の音

──日本(昭和五年)
○おしよする 浪うちくだき とこしへに 立てるいはほか 大和島根は(御題謹詠)
○あめりかと ろしあの力 とり統べて 立ちあがる日本の 神を信ぜむ

──滿洲事變を聞き感を起してよめる歌(昭和六年)
○個人主義 地になげうちて みんぞくの 全的活動に をどりこまなむ
○大きなる 危機にむかへり 内に外に くづれんとする み國のいのち
○内に外に 火おこれるを よそごとに 醉ひしれてある 個人主義者ら
○神をすて み國わすれし てんばつの 今くだるなり 國民のうへに
○このうれひ 共に語らむ 人なきか かたりて苦しき こゝろ休めむに
○あらゆる苦難 下したまひて 怠れる こゝろをさまし 救はせたまへ
○たへかぬる 不安のうちに 浮びくる 「おほやまとは神の國なり」の一語
○日の本の 神をひたひに 押し立てゝ 悔なきいのち われは終へなむ

──謹みて皇太子殿下御降誕をことほぎ奉りて(昭和八年)
○すめ神は み子下しませり 清き故に なやむみ國に み靈そふべく
○おほやまと あぐる歡呼を よもの國 聞きつゝ今し 何を思ふらむ
○古へと 來む代とを今に とり統べて わき興るみ國の 姿うれしも

──二、二六事件[事件當時、浮ぶまゝに、手帳に走り書きしたもの](昭和十一年)
○不祥事の 號外見つゝ かぎりなく 沈む心を せむすべもなし
○我が國は いかになるらむ 内そとの 憂いよいよ かさなりくるに
○國おもふ 心かはらじ あひ憎み 事こゝに至る 罪たれにあるか
○み民吾ら あひいましめて すみやかに 叡慮を安め 奉るべし
○大君を 誰まもりまつる 將校ら 銃劔とりて 人を殺すとき
○み民吾ら 事の眞相を 見きはめて 物はいふべし かるはずみせず
○みいくさと あるべきものが かゝる事 なすに至りて 民安ぜず
○宸襟を なやましまつる その罪を 彼らいかにして 償はむとする
○國民は 正しく批判す マルクスの はげしき主義は 日本に適せず
○上に立つ 人かへり見よ 若き者の 心知らざれば 危かるべし
○一新の 業はかゝる 人により かゝる手段にて 成らむと思はず
○自決して 兵を救はず 降人と なりて生くるか 近代武人は
○奉敕の 命もきかざりし 心のおく 思へば吾は 戰慄を感ず
○大君の ほとりに刃 かざしたる 増長逆徒 ゆるすべからず
○軍隊は 私兵となりて 忠良の 民をおどせり 輦轂のもとに
○軍隊の 一部赤化し 急速に ひろがりゆきて 民と乖離す
○軍民の 間裂くべく のぶる手を 目をあきて見よ のぶるその手を
○皇軍と 人いふなかれ 暫くは たゞ陸軍と いひてあるべし
○ひとしくこれ 陛下の赤子ぞ おのれのみ 恩に誇らば 危かるべし
○きのふまで 信ぜし軍を 國民は けふ豺狼と おそれ且つにくむ
○政党の かさねし罪に まさる罪を 軍はをかせり 國民の前に
○乃木將軍 いましたらばと 國民は 涙のめるを 軍は知らざるか
○土地により 海にみそぎし 山に登り 雲に罪はらへ 全陸軍は
○のがれ得ぬ この重罪を 大君に 謝し奉りなむ 民らこぞりて
○畏しや 昭和のみ代の 民となりて このあやまちを 吾ら犯しき
○畏くも 君ゆたまはりし 兵器もて かよわき人を うつとは何ぞ
○思ふだに 畏き極み 大前に 仕へまつらふ 臣もなくして
○近衞の兵 御所守りまつると 聞くだにも 恐懼身を置く 所を知らず
○一切の 作爲つゝしみ 自ら 吹く神風に たつべきものを
○人として 堪へがたきことを 堪へてこそ 守らせ給へ すめ大神は
○つゝしみて おのもおのも 業をはげみ 大御心を やすめまつらむ

──行幸を仰ぎ奉りて
○あめつちは 今か創まる 城山の さかぢ下らす みくるまの音(行幸直前)
○まなびやに 滿つるみ光 うれしさに ことわりもなく 涙す吾は(行幸)
○とこしへに いませと祈る み民吾ら 今こそ呼ばへ 山もとどろに(萬歳奉唱)

──返し(夜久正雄宛)
○物みなの なやみ集まる 現し身を 投げ出(いだ)し生く 天のまにまに
○世にあるも なきも同じぞ たまきはる 命はかよふ 萬代までに

──神風號(昭和十二年)
○空のまもり 地上のまもり 外交の 八十綱かけて みくにまもらな

──出征の兵士を送りて
○大君の みことかしこみ 人活かす つるぎ手握り われらたゝかはむ
○てるくにの 社をもとに くり出す 直くたゞしき わがいくさびと

──詠史
○世の人の かゞみといはず 童心を もちつゞけしを たふとまむとす(豐臣秀吉)
○とこしへに 大和の民の 好まざる さがと生れて 君はねむるか(徳川家康)
○生れながら うた人なりき 死を急ぎ いなづまのごと 消えし君はや(織田信長)
○矢叫びの 聲をきゝつゝ 書きとめし ふみは凍れる ほのほに似たり(北畠親房)

──紀元二千六百年紀元節によめる歌(昭和十五年)
○橿原の ひじりの御代を 現しくも 今大御代に あふぐたふとさ
○大海原 全(すで)におし靡べ みやばしら 太知りましぬ 國のもなかに
○天地は 今ぞ創まる ひむがしの 洲(くに)べとゞろく かちどきをきけ
○信ぜよと いふもはかなし わが影と たゝかふ國は さてあらしめむ
○くるしみは 光にぞある ふり注ぐ 光かゞふり ふるひすゝまな
○おほやまと 溢るゝ命 くむまゝに いよゝあふれて 萬代までに

──太平洋の地圖を見つゝ(昭和十七年)
○ちよろづの 島はあれども とりわきて 神集ひます 大和島根か
○祀られぬ はらからの魂 泣きぬれて 我がみいくさを 迎へけむかも
○綿津見の 國のかよひぢ ひらけ來て 神代を今に あふぐかしこさ

──折にふれて
○事はみな 成すにはあらず 神ながら 成るといふことを つゝしみ思はむ

──よろこび
○つたへ來し 命のまゝに 若がへり 花咲くけふぞ 嬉しかりける
○若がへり 若がへりつゝ 大君に つくす命は よろづ代までに

──伊勢大神宮御親拜の御事を漏れ承りて
○かしこきや すめらみことは 神風の 伊勢の大宮に まうでさせ給ふ
○すめかみに 御世いのります 大御心 たゞにし泣かゆ たみくさわれら
○大神の 嚴の雄建び かしこまず またや撃たれむ あはれえみしら

──アツツ島
○鬼神も 泣かざらめやも 人はなれ 我はをろがむ 一人いつまでも
○せきとして 聲なき二千 將兵の かばね思へば 血涙あふる
○新しき 神となり給ふ ますらをら なほも守るか 北の島根を
○人類の 歴史清むる 日本の 悲しき命 神みそなはせ

──敵、伊勢神宮をけがし奉りし由きゝて(昭和二十年)
○あめりかが 終に世界の 敵となる 日の始まりぞ この日この時
○大前に うづくまりつゝ 重ね來し 身の怠りを 御わび申さむ
○天地の 神ことゞゝく 憤り この禍津神 こらし給はな

──八月十五日、大詔を拜して
○命生きて かゝる悲しき 大みこと 頂かむとは 我思はざりき
○聲あげて 泣くべくなりぬ みさとしの み言のふしぶし 胸につまりて
○東洋の 民を導く 力なしと 神のさばきは くだるかしこめ
○大君に 身の怠りを おわびして 心あらため 立ちあがらなむ
○力入らず 強く正しき 心なく 事こゝに至る たれをとがめむ
○めざめては 夢かと悔み いねかぬる 夜はつゞくなり おもひかへせど

──朝、とく麥畑をみめぐりて(昭和二十一年)
○あめりかの 大き惱みは 我國を やぶりし時に 始まるらむぞ
○かにかくに 言ひ行へど 底ふかき 大和心は 變ることなし
○おほつちに 耳あてきかば 我國の 歴史の足音(あおと) きこえ來むかも

──雨ふりつゞく夕ぐれ、ひとり離れの机に向ひて
○戰ひて 死ぬるにまさる 苦しみに 幾世へぬべき 吾らにかあらむ
○外つ國の 人にまつろひ 飯こへる 國のすがたを 正目にも見るか
○大君の みことかなしも 國民と 共にしありと 仰せられたり

──政治(昭和二十八年)
○現代語 古語を用ふる 可否などは 昔のことなり 使へ勝手に

──今の世の歌を
○息つまる 心くるしき 世のうたは 我に用なし 行かむ我が道

──日記より(昭和四十一年)
○世はいかに 變り行くとも 變らざる 大和心を もち齋(いつ)かなむ

──辭世の歌(昭和四十二年五月二十四日・壽八十四)
○「明るく」(メーヤ・リヒト)と ゲーテはいひき チヤーチルは 「もう澤山」(アイアム・ボアド・ウイヅ・イツト・オール)と 我は「ねむたし」か

──墓碑銘の歌(昭和三十八年)
○極まれば またよみがへる 道ありて 生命(いのち)果てなし 何かなげかむ
 

  • [14]
  • 承詔必謹

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月26日(日)18時59分29秒
  • 編集済
  • 返信
 
 或る御方より、小生は深刻なる埀示を賜つたことがあつた。それは、「國體の護持が出來ぬとするならば、大東亞戰爭に於て敗戰するよりは、一億玉碎の道を歩むべきであつた」と云ふものであつた。學生時代の事であるが、生れて初めて聞いた、生の言葉であつた。戰中派の御方の血涙あふるゝ、悔恨きはまる言葉に、一瞬たぢろぎ、爲す事を知らなかつたのである。


●關東軍作戰參謀・陸軍歩兵大佐・宇山草地貞吾翁(靖國會第六代總代)『草地貞吾囘顧録――八十八年の哀歡』(米壽記念出版・平成四年五月・光人社刊)に曰く、「

 大東亞終戰時におけるご聖斷と承詔必謹の結果が、日本現在(戰後)の繁榮といふよりも、存在そのものの基礎・原點をなしてゐると、私は信ずるので、このことについて、左に率直な私見を述べる。

 終戰の發動は、一つに「聖斷」による。曠古の聖斷によつて、ポツダム宣言の受諾がきまつた。そこで、終戰の大詔が渙發される。玉音放送となる。陸・海全軍に、即時停戰の大命が下る。思へば、昭和二十年に入り、大東亞の戰局は加速度的に惡化した。硫黄島・沖縄は失陷し、敵の空襲は日増しに熾烈となる。七月二十六日、いはゆるポツダム宣言が、聯合國側によつてなされる。わが國は強氣に、これを默殺する。八月六日、廣島に世界史上初の原爆が投下された。同じく九日、ソ聯は中立絛約を破つて參戰、滿洲・北鮮・樺太・千島に侵攻して來る。本土決戰態勢を固めつつあつたわが國は、まさしく「前門の虎・後門の狼」的窮状に追ひこまれた。とは言へ、本土にはまだ三百萬に餘る陸・海・空軍を擁し、被爆は止むなしとするも、未だ皇土に敵軍を上陸させてはゐない。ドイツは完全に武力を失ひ、その首都を占領されて降伏したが、わが國は、なほ戰意を高揚しつつ、戰爭遂行中であつたことを思はねばならない。

 さればこそ、最後の御前會議も、國體問題を中心として議が二つに分かれ、容易にまとまることがなかつたのである。萬策盡きた鈴木貫太郎首相は、畏くも聖斷を請ひ奉ることによつて、僅かに輔弼の重責を埋めようとした。考へやうでは、これは天意であつた。神慮であつた。今や、天上天下御一人の陛下には、聲涙ともにポツダム宣言の即時受諾を決裁せられた。もともと明治憲法下には、「聖斷」などといふ言葉も現實もなかつた。國家が順當正常に機能してゐるかぎり、補翼の國家機關・臣僚が、そのつかさつかさをつかさどり、天皇は統治・統帥の元首として、鎭座ましますだけで十分であつた。だが、この今といふ今はちがふ、超危篤の場合である。生きとし生ける日本國家全體の生命本能が、おのづから廣大無邊なる御稜威の下にひれ伏した、とみるべきだ。されば、聖明なる今上天皇には、皇祖皇宗の神靈と感應照鑑せられつつ、萬世不磨の聖斷を下され給うたのである。

 當時、關東軍は、不法にも滿洲・北鮮に進入して來たる極東ソ聯軍に對し、あらかじめ計劃せる防衞戰を全面的に發動してゐた。戰況は、まさに波亂萬丈の白熱状態で進行中であつたが、昭和二十年八月十五日正午、突如として終戰に關する「玉音放送」を、戰場の各所で拜聽する。新京の關東軍總司令部では、山田乙三總司令官以下、天を仰いで慟哭した。やがて停戰・武装解除の大命に接する。次から次へと非常不測の事態が續出したが、關東軍中樞部の意圖は、論議の末、山田乙三大將の決裁で、「承詔必謹」に一決した。天皇の大詔に承順し、「必謹奉公」、萬策を盡くして、停戰目的の完遂を期すといふのである。それはほかでもない。聖斷による玉音放送と天皇の命令といふ、ただその一事によつてであつた。萬が一にも天皇の命令でなかつたならば、關東軍は決して戈を收めてゐない。實際のところ、玉音放送や大命があつたに拘はらず、作戰續行、徹底抗戰の電報が、各方面から頻々として舞ひこんで來たのである。「日本で一番長かつた日」といふ映畫の現實があつたことを、改めて想起すべきだ。

 かうして大戰に終止符を打つた。作戰から停戰といふ百八十度の轉囘ではあつたが、そこには一貫不動の根基がある。萬古不易の國體原理がある。天皇統率の本義が脈々として生きてゐる。昭和二十年八月十五日は、日本國としては急轉直下の沒落であつたかも知れないが、このときほど筆者が、日本における天皇の存在意義と有り難さを、しみじみと意識痛感したことはなかつた。かくて終戰といふ未曾有の難業は、「聖斷」と「玉音放送」と「大命」と「承詔必謹」といふ、一貫した日本國體原理によつて、危ふく切り拔けることができた、端的には天皇の存在そのものが、あの危急時における日本國家の倒壞破滅を救つたとも言へる。もし天皇がおいでにならなかつたら、あの時點において、日本といふ國は四分五裂したに間違ひない。第一、關東軍自體が、滿鮮の山嶽地帶にたてこもつてする、永久抗戰を計劃準備してゐたのだから。

 日本は天皇と共にあり、天皇は日本と共にある。「國破れて山河あり」といふが、それは他國のことだ。天皇なき日本國はなく、天皇存在する限り日本國はある。天皇は、實に日本國家の中心生命である。天皇ほど一視同仁なるはなく、天皇以上の平和愛好者はない。天皇は眞・善・美・聖そのものであり、自由・平等・博愛のご本尊だ。總國民が、天皇を尊崇敬愛し、和衷協力、もつてよく「承詔必謹」の大道を歩むならば、日本國は千代八千代の康寧と繁榮を續けるであらう」と。


●枝島賢二こと中島一光翁HP『彌榮』の「珠玉の言の葉・承詔必謹」に曰く、「

 日本を壞滅の危機から御救ひ戴いたのは、天皇樣の御聖斷であるが、この御聖斷のもとに、整然と矛を收め得たのは、「承詔必謹」の一語のお陰であつた。‥‥天皇樣の深い深い御心による「御聖斷」さへも、君側の奸による策謀として無視されかねないその時に於て、あのやうに整然たる降伏(某教授の言とは異なり、戰へる氣構へを持つた状態での、名譽ある形での降伏)が、どうして出來たのであらうか。これこそ、「承詔必謹」といふ、ただ一語のお陰である。

 たとへ君側の奸の策謀であると思つたとしても、ひとたび天皇樣の詔が下つた以上、臣下たるものは、「ハイ!」と言つて、素直に從ふのが武人の、いや日本人のすべての道である。何かと理屈を付けて從はないことは、最も不名譽(といふよりもむしろ、不遜)であるとされて來たのだ。智力を傾けた建策が採り上げられず、死地たる湊川に敢然として赴いた大楠公の精神こそが、まさに「承詔必謹」そのものである。大楠公に限らず、全ての日本人が「承詔必謹」の心を持ち續けてゐたからこそ、御聖斷の御主旨に沿つた降伏が行はれ、日本のその後の復興のための力となり得たのである。

 都合の惡いことに對し、「君側の奸の云々」と言ふことは、單に承詔必謹といふ日本人の道に反するだけでなく、「天皇さまが、側に居る奸物に容易に騙されてしまはれる御存在である」と言つてゐることと同じであり、この上もなく不忠不遜の考へである! 我々臣下より、はるかに深く、そして廣い眼で、日本を、そして世界を御覽になられてゐる天皇樣の御氣持から發せられたのが詔である。例へ文章の詳細は、他の人達につて書かれようと、あくまでも天皇樣の御心に沿つて書かれたものであるから、天皇樣の御意志そのものであり、異をとなへることは許されることではない」と。


●中島一光翁『紀元二千六百五十年を目前にして』(平成元年一月『さきもり』第二十四號)に曰く、「

 去る二月二十一日に、日本防衞研究會主催で、湊川神社の酒井利行先生を御招きして、大嘗祭に關しての講演會が行はれた。‥‥

 日本の眞の姿を極める命題として、假に横暴非道な天皇樣が立たれた場合、臣下として日本人として如何に爲すべきか、といふものがある。大多數の人は、「日本にはシナのやうな放伐といふ思想は無い」といふ點で一致してゐると思ふが、それ以上問ひ詰められると、言葉が詰まつてしまふのでは無からうか(かく申す私も、その一人であつたが)。

 この命題に對して、酒井先生が明解な答へを出して下さつたので、感激の思ひを込めつつ、御紹介させて戴く。それは「そのやうな場合、日本人總てが近くの神社に集り、そして祈り、祈つて祈つて祈り拔き、最後の一人も祈り死にするまで、祈り拔くことである」と言ふ主旨の御話しであつた。「何だ、唯だ祈り拔くだけの話ではないか」と言はれる方もをられると思ふが、この命題について考へに考へ拔いてきた私にとつては、これだけで十分である。この上、どんな言葉をも付け加へる必要が無い程、十分に解らせて戴いた」と。


●吉田松陰先生『評齋藤生文・天下非一人天下説』(丙辰幽室文稿卷三)に曰く、「

 評。天下は一人の天下に非ずとは、是れ支那人の語なり。支那は則ち然り。神州に在りては、斷々、然らざる者有り。

 謹みて按ずるに、我が大八洲は、皇祖の肇めたまふ所にして、萬世、子孫に傳へたまひ、天壤と與に窮り無き者、他人の覬覦す可きに非ざるなり焉。其の一人の天下たるや、亦た明かなり矣。

 請ふ、必無の事を設けて、以て其の眞に然らざるを明かにせん。本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらば、億兆の民、唯だ當に首領を竝列し、闕に伏して號哭し、仰いで天子の感悟を祈りまつるべきのみ而已。不幸にして天子、震怒しまたひ、盡く億兆を誅したまはゞ、四海の餘民、復た孑遺あること無けん。而して後、神州亡びん。若し尚ほ一民の存する有らば、又た闕に詣りて死す、是れ神州の民也。或は闕に詣り死せずんば、則ち神州の民に非ざる也。

 是の時に當りて、湯武の如き者、放伐の擧に出でば、其の心仁なりと雖も、其の爲すこと義なりと雖も、支那人に非ざれば、則ち天竺、歐羅人に非ざれば、則ち利漢、決して神州の人に非ざる也。而して神州の民、尚ほ何ぞ之に與せん哉。

 下、邦國に至りても、亦た然り。今、防長兩國は、一人の兩國也。一人にして在らば、則ち兩國在り焉。一人にして亡びなば、則ち兩國亡びん。不幸にして一人、其の人に非ずんば、則ち兩國の民、當に皆な諌死すべし。若し或は死せず、去りて他國に往かば、兩國の民に非ざる也。山中に隱耕するは、兩國の民に非ざる也。萬一、支那の所謂る君を誅し民を弔ふ若き者あらば、虎狼豺犀、決して人類に非ざる也。

 故に曰く、天下は一人の天下なり、と。而して其の一人の天下に非ずと云ふ者は、特だ支那人の語のみ耳。

 然りと雖も普天率土の民、皆な天下を以て己が任と爲し、死を盡して以て天子に事へまつり、貴賤尊卑を以て、之れが隔限を爲さず。是れ則ち神州の道也。是れ或は以て一人の天下に非ずと爲るや耶。

 又た憤然として曰く、目を開いて神代兩卷を讀み給へ。吾々の先祖は、誰が生んだものか、辱くも二尊に生んで貰うて、日神に教へ且つ治めて貰うて、天壤と窮りなきものが、俄かに君父に負く事、勿體なくはないか。最早や是きり申さゞる也」と。


 愚案、書を讀みて、はつとさせられ、懺悔反省させられる事がある。或人の書を、こゝに節要して曰く、「

 次の嚴然たる鈴屋大人の正論こそ、我が神國日本に、必ず無かるべからずして、僅かに存する所のものであつた。

●本居宣長大人『古事記傳』卷四十三に曰く、『

 君のしわざの甚だ惡しきを、臣として議ることなくして、爲し給ふまゝに見過ごすは、さしあたりては愚にして、不忠(まめならざ)るに似たれども、然らず。君の惡行は、其の生涯に過ぎざれば、世の人の苦しむも限りありて、なほ暫しのほどなるを、君臣の道の亂れは、永き世までに、其の弊害、かぎりなし。‥‥

 御行爲、惡しく坐し々ゝゝによりて、藤原基經大臣の、下し奉られしは、國のため世のため、忠なる如くに聞ゆれども、古への道に非ず。外つ國のしわざにして、いとも畏る可く、此れより‥‥漸くに衰へ坐して、臣の勢ひ、いよゝゝ強く盛りになれるに非ずや』と。

 皇國だけに在つて、宇内の何處にも無い、これこそ神國日本としての考へ方である。近代の學風で教養された人々から觀ると、鈴屋大人の考へ方は、或は世界に通用せぬものとして、奇異に感ぜられるかも知れないが、神國日本としては、此處が正邪の別れる大事なる分水嶺、此の明確なる信念が無ければ、神祇が此の國土を守護せられる上にも、靈氣の波長の格合が、實際的に困難となる虞れがあるのである」と。

  • [13]
  • 八紘一宇

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月14日(火)21時34分23秒
  • 返信
 
●蓮田善明陸軍中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、「

 日本精神は何かとか、日本の思想は何かとか、儒佛教や西洋思想を見本として、日本の中に探し廻ることの矛盾と空しさが、もう氣づかれていゝ。最も大きな最もたしかな事實たる「神ながら」、これが嚴として、あらゆる「からごころ」に迷へる者の前に存する。これ以上の思想も事實もない。宣長は、この一事をはつきり指してみせたのである。それを己の中に指し、又た世の「しるべ」ともしたのである。この唯一の「しるべ」を確立したところに、宣長の偉大さがある。宣長の後には、「先づからごころを清くはらひて、やまとたましひを固め」るといふ唯一事を念とすることによつて、國史の鬱結をひらくことが出來たのである。「攘夷」とは、さういふ尊嚴な神ながらの歴史に基くことであつた。この一事によつて、他に思想の統一とか、統制とかもいらなかつた。又た攘夷を徳川政府の鎖國主義と同視して偏狭視するならば、それこそ猜疑に馴れた異國の心を以て論を立てゝゐるのである。變な大乘主義や抱擁主義の襟度は困る。そんな人間のはからひによる國際主義的友好主義から、好ましい文化の創造された例はない。而もわが國の道は、それが清嚴に保守される毎に、みごとに大きないのちを振ひおこしたのである。こゝにも古道の保守といふことが、又た他の國の人の言ふ「保守」と、全く樣子の異つたものであることが分る。

 よその國で言へば、保守主義といへば、死滅したものに執着して、新しい生氣を喪つたものを意味するが、それはつながるべき古風と斷絶して、舊約聖書の所謂「死」を中に隔てゝ人間があるからである。日本に於ては、いのちは今こゝにあるのでなく、神ながらにあるので、最大のいのちを振ひ起すこそ、その神ながらの自覺に於て、その古風を保守する時にある。日本人が言痛(こちた)き「からごころ」を攘拂して、日本の古道を保守する時、それは歴史の無窮の隆昌を大いにひらくものである所以も、こゝに明かである。宣長のいふ「古道」とは、正に又かくの如きものにほかならなかつた。

 しかもこの無比の「古道」は、かくの如く日本に本然にそなはつて無窮であるが、しかし歴史の保有といふことは、世界人類の最も至難とすることであるやうに、決して坦々と容易なものではない。宣長は、「然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意(からごころ)にのみ移りて、眞心を失ひはてたれば、今は學問せざれば、道はえ知らざるにこそ有れ」(『玉かつま』卷一)とも、痛ましく述べてゐる。今日、國學を言はれ、日本精神を言はれるのも、實に此の宣長の痛ましい反省につながつてゐるものである。日本を省みることさへ、決して容易ではないのである」と。


●蓮田善明大人『皇國人の忠誠心』(外地の人々への放送、昭和十九年六月『忠誠心とみやび』日本放送出版協會刊)に曰く、「

 日本人が忠義の心に厚いといふことは、實に尊いことなのである。これはただ忠義の心が厚ければ、從つて國につくす、即ち國のためになるからいゝといふやうな、たゞさういふ都合がいゝといふやうな、そんな忠義の心ではない。外國人などの考へる忠義は、大體そんな程度の、せいゞゝ犠牲的精神といふ程度の考へを以て、日本人の忠義の心の厚いのをば羨ましくも思ひ、或は恐ろしいものに考へたりしてゐるやうである。

 もちろん、このやうに世界に類の無い忠義の心があるために、世界無比に絶對に強く、且つ國運も隆々として榮えるのであるが、我々日本人の忠義は、たゞお役に立つとか、犠牲的精神とかいふ以上のものがあつて、外國の人の知ることの出來ない、絶對持ち合せてゐない立派な美しい神髓があるのだ。その美しい立派な心持から、眞實に國家に役立ち、最高の犠牲的精神も燃え出で、世界無比の忠義の心が出てゐるのである。‥‥

 私ども日本人の忠誠の心は、全く天皇陛下といふ一事に發してゐる、特別の心である。外國人の考へとまがひ易い、國家のため、といふ言ひ方とも、氣をつけて區別したいくらゐに、たゞゝゞ天皇陛下に結ばれた心持であつて、軍人勅諭にも拜せられるやうに、「忠節を盡すを本分とする」といふ、この忠節を盡す、の一事に盡きるのであつて、勇猛に戰ふその勇敢なはたらきも、たゞ御稜威により、否、御稜威そのものとしか思はれぬ境地なのである。さてその天皇陛下の御稜威と申し、肇國の大御心と申すのは、「六合を兼ねてを開き、八紘を掩ひて宇と爲さむ」とある、神武天皇のみことのりに拜する通りである。こゝには「六合を兼ねてを開く」との御言葉を、特にお話し申したい。これはどういふわけかと、謹んで拜察致すのに、一言にしていへば、世界中を「みやこ」にするといふ大御心である。これは實に非常な御言葉であつて、私ども後世の臣民や外國人など、到底直ちには伺ひ奉ることの出來ないほどの大きな、そして豐かな美しい御言葉である。

 「みやこ」と申すのは、「宮處」といふことで、天皇のまします處である。これは今日いふ都會とか都市とかいふものとは、心の違つたものである。昭和十八年七月一日から、東京市が東京都になつたが、市といふのとは違ひ、天皇陛下の御膝もとといふ心である。敢て何かと名をつけて申さなくとも、唯「みやこ」と申しただけでも、絶對他にまぎれのない、わが大君のいます處なのである。ところが神武天皇は、世界中を都とすると仰せ給うてあるのであつて、實に非常な仰せごとなのである。が、かの北畠親房卿(愚案、准后なれば「公」と謂ふべし)は、神皇正統記の中で、はつきりと「大日本嶋根は、本より皇都也」と言つてをられ、ちやんと神武天皇の大御心を傳へてをられるから、天皇のしろしめすところ、これ「みやこ」といふのが、私ども祖先からの思ひである。その證據は他にもあるのであつて、萬葉集などを讀むと、「遠の御門」といふ言葉が使はれてゐる。どういふことかといふと、普通いふ「みやこ」を遠くはなれて、地方に出て行つてゐる「みこともち」、即ち地方官達が、その國に於て、そこを「遠の御門」と申し、それは壹岐・對馬のやうなところから、當時朝鮮などについても、さう言つてゐる。「御門」とは御門(ごもん)のことで、天皇のことを「みかど」と申し奉る通り、天皇の皇居を申すのである。そして大伴旅人の歌にもあるやうに、「やすみしゝ吾が大君のをす國は、大和もこゝも同じとぞ思ふ」といふ、大君のしろしめすところは、どこもみなすべて同じ「みやこ」であり、みかどであるといつてゐるのである。

 それでは「みやこ」にするといふ、さういふ「みやこ」とは、どんな姿かといへば、今日普通いふ都會、即ち商工業都市といふやうのと違ひ、また單に行政的首府といふのとも異り、皇神の都であり、そこはすべて所謂「みやび」たる、人の心も、人の住居も、すべて生活が最も花の匂ふやうな、うるはしく壯んな心高い所を申すのである。天皇は、さういふ「みやび」の本原であらせられる。そして神武天皇が六合を兼ねて都を開くと仰せ給うたのは、實に世界をこのやうなうるはしいところとするとの大御心である。外國人の世界に對する心持などは、唯だ自己のために他を犠牲とし、征服して植民地化して搾取し、そのためには被征服者を奴隷化し、世界をわが商略の市場とする考へであることは、既に事實が示してゐる。彼等の野心に侵された土地の民族は、ひたすら未開野蕃に落されて、なるべく目ざめないやうにさせられるのである。それ故、一つの戰爭目的使命も、日本と外國とでは、全く方角違ひで、私どもは遠い祖先以來、以上のやうな、神武天皇以來の、比類ない美しい、大きな大御心を仰ぎまつり、一つにはその天皇のみことのりを奉じて、世界を「みやこ」とするため、行き進みつゝ、その行くところ、すべて「みやこ」と信じ、その大使命に生命をつくすことを、最も「生けるしるしあり」と喜び、即ち言ひ換へるならば、そのいづこをも、大君の御下、即ち「大君の邊」と固く思ひ、その「大君の邊にこそ死なめ」と、心に誓ひまつり、天皇陛下萬歳と唱へて、莞爾と死につくのである。これ私ども日本人の忠義が、比類ない、高い志であると共に、この大使命に立つが故に、あくまで強く勇ましく、且つ敵をしてさへ、神として拜せしめる所以である。またかういふ「みやび」の心をもつ戰である故に、昔から代々の天皇をはじめ奉り、將軍も、兵士も、戰場に門出する時も、戰場に於ても、またその最期にも和歌を詠ずるといふ風流を失はず、またそれを武人のたしなみともしたのも、その祖先以來の心の一つのあらはれであつて、たゞ世間の文學趣味と違ふ、歴史的な深い意味のあることなのである。

 以上の意味に於ても、外地に生活される人々の立たれるその土地は、昔ながらの「遠の御門」であり、その使命もまた一に神武天皇以來の最も美しく尊い日本人の使命の上にあることを、而してこの精神に於て、忠義も全うし得るものであることを、いさゝかなりとも御諒解を得たならば、私の望外の幸とするところである」と。


●藤田東湖先生『桑原毅卿の京師に之くを送る序』に曰く、「

 宇宙の大、萬國の星布、其れ多し矣。而れども國體の重き、未だ神州に若くものは有らざる也。神州の廣き、國郡縣邑、勝げて數ふ可からず。而れども至尊至嚴、未だ京師に若くものは有らざる也。京師は天皇の都したまふ所、神器の在します所、億兆の仰ぎまつる所、蠻夷戎狄の望みて服しまつる所なり。京師の宇宙に在るは、譬へば猶ほ北辰の天に在るがごとき也。

 昔者、大道の行はるゝや也、徳化、内に洽く、稜威、外に宣ぶ。聖皇明弼、相ひ踵いで起り、既に上古神聖の跡に遵ひ、以て天常民彜を植ゑ、更に西土周孔の教を資り、以て我が固有の道を培ふ。上下の分、内外の辨、嚴乎として其れ越ゆ可からざる也」と。

  • [12]
  • 山海致死

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月14日(火)20時52分31秒
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●聖武天皇『陸奧國より黄金を出せる時に下し給へる宣命』(『續日本紀』十七・天平二十一年四月朔日條)
 又た大伴・佐伯宿禰は、常も云ふ如く、天皇が朝(みかど)守り仕へ奉る事、顧みなき人等にあれば、汝たちの祖どもの云ひ來らく、海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、王の邊にこそ死なめ、和には死なじ、と云ひ來る人等となも聞し召す。是を以て遠天皇の御代を始めて、今、朕が御世に當りても、内兵(うちのいくさ)とおもほしめしてなも遣はす。故れ是を以て子は祖の心如(な)すいし、子には在るべし。此の心失はずして、明き淨き心以て仕へ奉れとしてなも‥‥。

●中納言從三位兼春宮大夫陸奧按察使鎭守府將軍・大伴宿禰家持公『陸奥國より金を出せる詔書を賀ぐ哥一首并に短歌』(『萬葉集』卷十八・四○九四から七・天平勝寶元年五月十二日、越中の國守の舘に於て之を作る)
 葦原の、瑞穗の國を、天降り、知らしめしける、皇祖(すめろぎ)の、神の命の、御代重ね、天の日嗣と、知らし來る、君の御代御代、敷き座せる、四方の國には、山河を、廣み厚みと、獻る、御調(みつぎ)寶は、數へ得ず、盡しもかねつ、‥‥大伴の、遠つ神祖(かむおや)の、其の名をば、大久目主(天忍日命、道臣命)と、負ひ持ちて、仕へし官(つかさ)、海行かば、水漬く屍、山行かば、草生す屍、大皇の、邊にこそ死なめ、顧みはせじと、言立てゝ、丈夫の、清き其の名を、古よ、今の現(うつゝ)に、流さへる、祖の子どもぞ、大伴と、佐伯の氏は、人の祖の、立つる辭立て、人の子は、祖の名絶たず、大君に、從(まつろ)ふものと、云ひ繼げる、事の官ぞ、梓弓、手に取り持ちて、劒大刀、腰に取り佩き、朝守り、夕の護りに、大王の、御門の守り、我を置きて、又た人はあらじと、彌や立てゝ、思ひし益(まさ)る、大皇の、御言(みこと)の幸を、聞けば貴み。
 反歌三首
丈夫の 心おもほゆ 大君の 御言の幸を 聞けばたふとみ
大伴の 遠つ神祖の 墳墓(おくつき)は 著(しる)く標(しめ)立て 人の知るべく
天皇の 御代榮えむと 東なる 陸奧(みちのく)山に 黄金花咲く

○蓮田善明陸軍中尉『花のひもとき――古文學の栞――』(昭和十九年十月・河出書房刊)に曰く、「
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の邊にこそ死なめ
和(のど)には死なじ
 この闊達にして決意の美しき清泉の如き歌は、天平勝寶元年四月朔日、聖武天皇、東大寺に幸して廬遮那佛の開眼に當り、このたび陸奧國小田郡から我國に初めての黄金を出だして、此の大佛の莊嚴を完成し得た御喜びに添へて、御世重ねて仕へ奉る諸臣を賞し賜うた中に、大伴・佐伯の氏を賞し給うた宣命に、畏くも引き出でて仰せられてある氏の古傳承であつた。‥‥
 この光榮について、大伴氏の當代大伴宿禰家持は、「陸奥國より金を出せる詔書を賀ぐ歌一首并に反歌」を作つてゐることは、周知の通りである。その長歌の中には、最後の句の「和には死なじ」が、「顧みは爲じ」となつてゐる。
『‥‥大皇の、邊にこそ死なめ、顧みは爲じと言立て、丈夫の、清きその名を、古ゆ、今の現に、流さへる、祖の子等ぞ‥‥』と、家持は昂ぶる心を歌ひ上げてゐる。この「海行かば」の歌は、天皇の歴史に、臣の己なく仕へ奉る志が、まことにしらべ深く、たけ高くうたはれてゐるのであつて、寶祚の隆昌に奉仕する最大の讚歌となつてゐる。『‥‥祖の名絶たず、大君に、奉仕(まつろ)ふものと、言ひ繼げる、言の職ぞ、梓弓、手に取り持ちて、劍大刀、腰に取り佩き、朝守り、夕の守りに、大王の、御門の守護り、我をおきて、また人はあらじと、彌立て、思ひし増る云々』と、家持は歌ひつづけてゐる。
『丈夫の 心思ほゆ 大君の 御言の幸(さき)を 聞けば貴み(忝くての意)』
 この「幸」とは、不用意に考へるやうな幸福無恙の意ではなく、さかんなるの意であることは、筆者が少しく考證したことがある。大御言の言靈のいきほひのさきはひを受けて、臣はさきはふのである。神武天皇紀に、「赫哉(さかりなるかも)」と仰せられてあり、神勅に、「行矣(さきくませ)」とある。勇進こそ「さき」であり、「さかり」である。すべてかかるふることのさかんさを知つて、日本の古典、日本の文學の道統はわかるのである。今日の文學表現の觀念などが、如何に勇氣のない、弱い、じめじめしたものであるか分らう。
 さて萬葉集は、かかる道統を保守する大伴家持の撰する所ともされてゐる。萬葉とは、萬代の意である。萬代無窮に高揚するやまとだましひのふるさとが、實にわが萬葉集である。又、萬葉集は、その卷一・卷二のあたり、勅撰とも稱せられ、また初め葛城王にして、後、橘宿禰の臣姓を賜うた橘諸兄卿に、
『降る雪の 白髮までに 大皇に 仕へまつれば 貴くもあるか』(三九二二)
の歌が、卷十七に載つて存してゐる。後代、誠忠楠木正成は、この卿の末裔といふ。われらがふることの道は、又かくて亡びぬのである」と。


●稱徳天皇『群臣に下し忠誠を以て仕へしめ給ふの宣命』(『續日本紀』三十・神護景雲三年十月朔日條)
 復た勅りたまひしく、朕が東人に刀を授けて侍(さもら)はしむる事は、汝の近き護りとして、護り近(つ)けよと念(おも)ひてなも在る。是の東人は、常に云はく、額(ひたひ)には箭を立つとも、背には箭は立たじと云ひて、君を一つ心を以て護る物ぞ。此の心知りて、汝つかへと、勅りたまひし御命(みこと)を忘れず。此くの状悟りて、諸々の東の國の人等、勤(つゞ)しまり侍(つか)へ奉れ。

○蓮田善明陸軍中尉『花のひもとき』に曰く、「
 稱徳天皇の宣命の中に於て、聖武天皇の、稱徳天皇にのたまへる勅語の一部である。アツツ島にて玉碎せし山崎中將は軍人。遠き上つ代に、掛けまくも畏き、天皇の大御言もちて宣へる、この忠勇御嘉信のちかひを、ここにまたあまりにも明かに現じられたのである。この東人の常にいへる言葉は、大伴氏の言立とともに、詔勅の中にうつして、いくさびとの必死の忠を、大御言もちてのたまへるもの。大御言ぶりの御高さと、猛きもののふの搖がぬ覺悟と、それをゆるびひるみなく傳へませる宣命である。
 畏けれど、この古き大御言のまま、アツツ島の忠魂二千の英靈にたてまつる。
 佐久良東雄の歌に、
『額には 箭をば立つとも 背(そびら)には 矢をば立てじな 東男子は』
の一首がある。常に天地に滿ちて諷詠した東雄の氣概が、古心に通つてゐる」と。


●下野國火長・今奉部與曾布(『萬葉集』卷二十・四三七三)
今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ我は

○保田與重郎翁『日本語録』(新潮叢書・昭和十七年七月刊)に曰く、「
 「しこ」とは何かと云へば、今日一般に「醜」の字をあて、身をへりくだつて「しこ」と云つたと云うてゐるのは、當らぬのである。第一、大君に身を比すといふことはあり得ぬことだからである。古人はさういふ冒涜的な考へ方をしなかつた。またさうした解釋では、「かへりみなくて」と「しこの御楯」といふ意識の關係が創造的でなく、極めて理性的になる。大國主命の別名を葦原醜男神と申し、この醜は勇武の意味だと、本居宣長は解釋し、高木市之助は、やはり「しこの御楯」の「しこ」はこの意味で、「みたみ吾」といふ意識の如く、立派なつよい楯といふ意味だと云うた。しかしこの葦原の「しこ」も、萬葉集に「醜の醜手」などとある「しこ」も、神の意志で生ひしげるもの、人間の意志で何ともならぬ、かたくななるものを云ふのである。人の考へ方や力では、何ともならない大きな力で動き、われながら驚くやうな育ち方をするものの力を云ふのである。だから今のことばに當てるなら、勇猛邁進するやうな神の力の、人につくことが、「しこ」のはたらきである。葦原の「しこ」といふのも、葦原のありさまと將來のはたらきの方からきて、それを神の性として見るとき、勇武といふことにもなるのであらう。もとの意味は、葦原の五穀草木がさかんに茂ることを、「しこ」と考へたのである」と。

○一兵士翁の曰く、「
 「醜の御楯」とは、戰ひで勇戰することではなく、文字通り、天皇の楯となり、敵の矢を受け、覆ひ來る敵の刃を受ける、即ち自分の命は楯として「使ひ捨てて下さい」と、命を差し出す覺悟を言ひます。その想ひを顯はしたのが「醜の御楯」だと、小生は「聞きに來る者」あるときは、常に答へてゐる。戰場に向かふ兵士は、戰ふことが重要なのではなく、命を捧げる誓約が大事です。一應「命令ですから、戰場には行きますが、自分の命が無くなつたら怨みますよ」では、戰爭は出來ない。將官は兵を「駒」のやうに動かせない。「命はいりません。どうぞ、使ひ捨てて下さい」、これが「醜の御楯」であり、日本の戰爭である。だから精強皇軍といふ。妻や戀人の爲に、恣意的に戰ふのではなく、天に代はりて不義を討つのが皇軍なのである」と。

  • [11]
  • 皇統と神器

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月12日(日)16時19分22秒
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 明治十九年、憲法取調の命を帶びて、元老院議官・默聲海江田信義子爵と共に墺國に赴きたる磐之屋丸山作樂翁は、碩學須多因博士の問に應へて、我が國體の尊嚴を説明した。

●栗里栗田寛博士『神器考』に曰く、「

 スタイン問うて曰く、貴國は萬世一系の皇統にて、世界に珍らしき御國柄なる事は、豫ねて聞及びたるが、何か他に異なる千古絶世の遺風遺物はなきや。

 丸山氏答ふ、千古絶世の遺物は、君臣の大義、終古變らぬが第一にて、其の證跡とすべき遺物は、三種の神器なり。

 彼曰く、其の三種の神器とは、後世の作物にはあらざるか。

 丸山、少し怒氣を帶びて曰く、我が國人民、いかに愚かなればとて、後世の僞器に、數千年來、瞑着せらるべきにあらず。現に靈鏡は伊勢神宮にまし、寶劔は熱田神宮に崇めて、誰知らぬ者もなき事なり。且つ神璽の如きは天皇の大御許に在つて、歴代御即位の時は、授受の大禮あり。上古以來、變る事なし。

 スタイン、感歎して曰く、世界萬國、いづれの民たりとも、各其の身の幸福を欣ばぬはあるべからず。然るに人世、不幸中の最不幸は戰爭なり。故に我輩、學術・政治に志す者、常に世界に戰爭の起らぬ事を企望するなり。それには世界萬國を統御すべき宗國を立て、志ある各國、之を補佐し、互ひに國境・人民を相侵さゞる一大憲法を制し、若し之に背く國あらば、他諸國、擧つて之を征する事に至らざれば、其の事行はれざるなり。これに因て西洋各國を通觀するに、何れも開闢以來の寶器ある事なし。さる同等の國柄を立て、宗國としたればとて、他國人民の服從すべきにあらず。東洋諸國を顧るに、印度は古國なれども、今の形勢にて論に絶たり。支那は大國なれども、今の清朝の祖は韃靼より出て、掠奪したるなれば、自國の人民すら心服せずと聞けば、他國人民の伏從すべきにあらず。唯だ日本は小國なれども、天子は天神の裔にて、開闢以來の神器を有ちたまひ、千古一系の皇統を奉戴して、全國人民が君臣の大義を紊さぬとは、いかにも珍らしき御國柄なれば、必ず證跡となる事あらむと、貴國より航海せらるゝ人に遇ふ毎に、尋問せぬは無かりしかど、孰れの人も、我が國は未開野蠻の風俗のみ多くして、さる物ある事なし、唯だ萬古一系の皇統あるのみ、其の他は語るも耻しき事のみなりと答ふるによりて、甚だ失望し居りたるに、今日始めて解説を聞きて、大に從來の望に叶へり。此の事を歐米各國の人民が聞傳へて知る事とならむには、必ず貴國に伏從する事とならむ」と。


●齋部廣成大人『古語拾遺』に曰く、「

 神代の事、説、盤古に似たり。氷を疑ふ意(こゝろ)には、信を取ること、寔に難し。然れども我が國家は、神物靈蹤、今に皆な見存し、事に觸れて效(しるし)有れば、虚とは謂ふ可からず」と。


●本覺國師・虎關師錬禪師『元亨釋書』卷第十七に曰く、「

 彼の支那は、大邦と號し土地曠遠なれど、受命の符は、皆な人工にして天造に非ず。‥‥

 夫れ物の自然なるは、天下、皆な之を尊び、其の造作なるは、世、未だ之を重んぜず矣。吾れ國史を讀むに、邦家の基は、自然に根ざす也。支那の諸國は、未だ嘗て有らざるなり矣。是れ吾れの吾が國を稱ふる所以也。其の所謂る自然とは、三神器也。三器とは、神鏡也、神劍也、神璽也。此の三は、皆な自然天成に出づる也。‥‥

 支那は劔璽を傳ふると雖も、十數姓を更ふるは、豈に其の寶器の人工たる所以なるか乎。我が國一種、系連綿として、邈かに窮り無きは、天造自然の器の致す所なるか乎。是に因て言はゞ、千萬世の後と雖も、擾奪の虞れ有らざるなり矣。豈に其の天造の神器は、侘氏異冑の玩弄する所ならんや乎。‥‥

 昌(さか)んなるかな哉、我が國、皇裔五十餘世、年暦二百萬載、一種遞代して、四夷擾(みだ)ること無し。その間、或は戎羯の覬□(門に兪、きゆ)有れども、皆な盡く西鄙に糜爛して、乃ち帝畿に近づく無し乎。夫れ國を有ちて以來、蠻夷の擾奪に嬰(かゝ)らざる者、未だ吾が國の純全たるが如きは有らざるなり矣」と。


●紹宇近藤啓吾先生『吉田松陰と靖獻遺言』(平成二十年四月・錦正社刊)に曰く、「

 栗山濳鋒の『保建大記』の眼目とするところは、皇位と神器との一體たるを説く論である。當時、水戸の史官の間にも、皇位と神器とを別なりとし、神器を奪つて所持してゐても、神器を有するならば、これを天子と認めるのかと論じ、正統は神器の存否によつて定めるものでなく、義にあると説く三宅觀瀾のごときがあつた。これに對し、神器は、天照大神の御神靈の宿らるゝところ、まさに天照大神の御子孫である天子とは、一體不離のものであるから、天子は身をもつてこれを守られるとして、皇位・神器の一體たるを説いたのが、濳鋒の『保建大記』であつた。

 しかしながらこの論は、後に至るも議論已むことなく、頼山陽も、『楠氏あらずんば、三器ありと雖も、將にいづくに託して、以て四方の望みを繋がんや』と述べて、觀瀾と同旨の説をなしてゐるのである。これに對し、我が國の歴史を囘想して、皇位の絶えざるは、君臣とともにその責務の實踐に、不斷の努力を爲し來りし故であるとして、こゝに我が國の國體を明確にして、
『神器の在る所は、必ず正統にして、正統の在る所は、必ず神器あるなり。神器と正統とは、別に見るべからず。三宅(觀瀾)、恐らくは神器と正統とを、別に見たるべし』
と、濳鋒の意を祖述して、明確にこの問題に斷を下したるが、松陰であつた。但だ松陰は、
『故に是を即位の初めに正しうし、是を在位の間に守り、是を讓位の終りに愼む。是れ、萬世帝皇の大法なり』
と述べて、三器に對する嚴しき戒めをも添へてゐる」(『講孟箚記』附載「保建大記を讀む」)と。

  • [10]
  • 國體とは何ぞ

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月12日(日)16時16分32秒
  • 返信
 
【國體】――最も重き意味「國家の本質」に於て使用されてゐる場合の出典[寒林平泉澄博士『國家の命脈』昭和四十五年十月講演。四十六年六月・外交知識普及會刊。『先哲を仰ぐ』昭和四十三年五月・日本學協會刊の増補三訂版・平成十年九月・錦正社刊に所收等より]

●『漢書』成帝紀・隆朔二年九月條に曰く、「
 詔して曰く、古の大學を立つるは、將に以て先王の業を傳へ、化を天下に流さんとする也。儒林の官は、四海の淵原なり。宜しく皆な古今に明かにして、故きを温ねて新しきを知り、國體に通達すべし。故に之を博士と謂ふ。否らざるときは則ち學者、述ぶること無し焉。下の輕んずる所と爲る。道徳を尊ぶ所以に非ざるなり」と。

●十竹佐々介三郎宗淳翁『澹泊安積角兵衞・顧言中村新八に復する書』[元祿九年六月十九日]に、薨・卒・死の用法を論じて曰く、「
 悉く異邦の史のごとくに書き申したきとては、國體をつくりかへねばなり申さず候ふ。朝廷の恆典を私に改め申し候と、異邦の史法に合ひ申さず候ふとは、いづれを輕重とすべきや、言はずしてしれたる事にて候ふ」と(名越時正翁云ふ、年月の明白なるものゝ初出ならむ。愚案、十竹翁・澹泊翁は、即ち所謂る助さん・格さん、是れ也)。

●森嚴塾翁『二十四論・序』[元祿十一年三月]に曰く、「偏へに唐風に從ふ時は、則ち吾が邦體を損ず。亦た畏る可し」と。

●栗山潛鋒先生『保建大記』[改訂版]に曰く、「
 示國體於遐爾[谷秦山先生『保建大記打聞』云く、日本國の立つ貌]。大典を闕き、國體を損ずること、焉より大なるは莫し[同云、國の大體]」と。

●河村秀根翁『書紀集解・序』[天明五年]に曰く、「書紀に深ければ、則ち國體に達す」と。

●藤田幽谷先生『大日本史を進る表』[文化七年十一月五日]に曰く、「苟くも世に傳はらば、國體に係る有り」と。

●水戸烈公『弘道館記』[天保九年三月]に曰く、「國體、之を以て尊嚴」と。


●吉田松陰先生『講孟箚記』(盡心下・第三十六章)に曰く、「

 道は天下公共の道にして、所謂る同なり。國體は一國の體にして、所謂る獨なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友、五者は天下の同也。皇朝君臣の義、萬國に卓越する如きは、一國の獨なり。‥‥

 國體の最も重きこと知るべし。然れども道は總名也。故に大小精粗、皆な是を道と云ふ。然れば國體も亦た道也[國俗と國體とは、自ら別なり。大□[抵の右]、國、自然の俗あり。聖人の起つて其の善を釆り、其の惡を濯ひ、一箇の體格を成す時は、是を國體と云ふ。匈奴のことの如きは、國俗の陋惡なるものなり。今ま皇國君臣の體に比して云ふは、頗る不倫に似たり。然れども是れ特に獨・同の別を顯すのみ。況や體・俗、自ら別なりと云へども、其の原、亦た一致なるを以てなり]。

 然るに一老先生(明倫館學頭山縣太華)の説の如く、道は天地の間、一理にして、其の大原は天より出づ、我と人との差なく、我國と他の國との別なしと云つて、皇國の君臣を漢土の君臣と同一に論ずるは、余が萬々服せざる所也。況や孟子、已に其の理あることを論ずること明々なるをや。大□[抵の右]、五大洲、公共の道あり、各一洲、公共の道あり。皇國・漢土・諸屬國[朝鮮・安南・琉球・臺灣の類]、公共の道あり、六十六國、公共の道あり、皆な所謂る同なり。其の獨に至つては、一家の道、隣家に異なり、一村一郡の道、隣村隣郡に異なり、一國の道、隣國に異なる者あり。故に一家にては庭訓を守り、一村一郡にては村郡の古風を存し、一國に居ては國法を奉じ、皇國に居ては皇國の體を仰ぐ。然る後、漢土聖人の道をも學ぶべし、天竺釋氏の教をも問ふべし[訓と云ひ、風と云ひ、法と云ひ、體と云ふ、合せて是を云へば道なり]。皇國の事は云ふ迄もなきこと也。水府の論の如く、漢土の實に日本と風氣相近ければ、道も大に同じ。但し歐羅巴・米利堅・利未亞諸洲に至つては、土地隔遠にて風氣通ぜざる故にや、人倫の大道さへも、其の義を失ふことあり。況や其の他の小道に於てをや。然れども彼に在つては、亦た自ら視て以て正道とす。彼の道を改めて我道に從はせ難きは、猶ほ吾の萬々彼の道に從ふべからざるが如し。然るに強ひて天地間、一理と云ふとも、實事に於て不通と云ふべし。獨・同の義を以て、是を推究すべし」と。


●橋本景嶽先生『參政中野靱負(雪江)に送りたる照會書』(安政三年四月二十六日)に曰く、「

 但だ國是と申す者は、國家祖宗の時、既に成り居り候ふ者にて、後代子孫に在りては、其の弊を救ひ候へば、宜しき義に御座候ふ。子孫の代に在りて、別段、國是を營立すると申す例しもなく、道理もなし。祖宗とても、別に深智巧慮して御編み出し被成れ候ふにては之れ無く、但だ天地自然一定の理に御基づき被遊れ、時勢人情を御斟酌被爲在られ、衆人の心、一同趣向致し候ふ處を御考合せ被成れ、國是御立て被遊れ候ふ也。‥‥

 元來、皇國は異邦と違ひ、革命と申す亂習惡風、之れ無き事故、當今と申し候ひても、直に神武天皇の御孫謀御遺烈、御恪守御維持被遊れ候ふて、然る可き義と存じ奉り候。但し右申上げ候ふ通り、時代の沿革と申す者、之れ有り候得ば、神皇の御意に法り候ふ事、肝要にして、其の作爲制度に至り候ふては、些少換改潤色、之れ無く候半んでは、叶ひ申さず候ふ。然れば神皇の御孫謀御遺烈と申し候ふは、即ち人、忠義を重んじ、士、武道を尚び候ふ二箇條に御座候ふ。此れ即ち我が皇國の國是と申す者に御座候ふ也。此の二箇條、皇國の皇國たる所にして、支那の華靡浮大、西洋の固滯暗鈍に比し候得ば、雲泥の相違、神皇の御遺烈、必ず尚武重忠の四字に限り申し候ふ。‥‥

 實に尚武の風を忠實の心にて守り候はゞ、風俗も益々敦重に相成り、士道も益々興起仕り、國勢國體、萬邦に卓出仕る可く候ふ事、目前に御座候ふ。決して唐樣を慕ふにも及ばす、和蘭陀の眞似をするにも及ばざる可く存じ奉り候ふ。既に東篁(師の崎門學者吉田翁)論中にも之れ有り候ふ通り、忠實の二字は萬世の龜鑒、百行の根本、此は寢ても醒ても忘却す可からざる義に御座候ふ。幸ひ此の忠實の二字も、我國の得手物に候へば、此の得手物を棟となし、彼の尚武と申す得手物を梁に致し候はゞ、如何なる大廈も建營申す可く、隨分、五大洲に武徳を輝し候ふ事も出來申す可き也。況や彈丸黒子の北地(露西亞)に雄峙致し候ふ位は、論ずるに足らずと存じ奉り候ふ。國是の論は、此の外、一言も申し上ぐ可き事なし。右の趣、反復御考斷被下る可く候ふ。‥‥大丈夫、憂ふる所は國家の安危、撰ぶ所は義の至當と不當とのみ耳、其の他は論ぜざる所なり」と。


●寒林平泉澄博士講演『國體と憲法』(昭和二十九年六月三十日、岸信介會長の自由黨憲法調査會の招きに應じ、首相官邸に於て政治家達に對しての講演、原題「日本歴史の上から見た天皇の位置」。『先哲を仰ぐ』所收)に曰く、「

 藤原氏が攝政・關白となつたこともありますし、武家が幕府を開いたこともありますし、政治は往々にしてその實權下に移りましたけれども、それはどこまでも變態であつて、もし本來を云ひ本質を論じますならば、わが國は、天皇の親政をもつて正しいとしたことは明瞭であります。これは歴史上の事實でありまして、議論の問題ではございません。‥‥

 わが國は民主の國ではございませんで、あくまで君主の國であつて、ただその君主の目標が民本の政治をおとりになつた、これが實に重大なる點であります。而してこれはわが國の歴史に現はれてをるところであり、御歴代天皇の思召しがここにあつたのでありますが、それが法文の上に明記せられてをりますものが、即ち明治天皇の欽定憲法にほかならないのであります。歴史の事實の上から見ますと、すでに欽定憲法に、日本の歴史は壓縮されて現はれてをる、その精粹が、ここに明記せられてをると考へられるのであります。更に大義名分を論じますときには、現行のマツカツサー憲法なるものは、御承知のやうに、外國の暴力による強制でありまして、これは内容の是非善惡を問ふ必要もなく、これを日本國の憲法とすることは、すこぶる恥づべきこととしなければならないのであります。‥‥

 われわれが個人個人の感情を述べ、意見を通して議論をいたし、構想を練らうといたしますならば、各人各樣の意見が出まして、到底まとまるものではあるまいと思ひます。‥‥國體とか國是といひますのは、今日は憲法とか國家の大方針とかいふ意味でありますが、これは歴史がこれを決定してをるものであつて、後世子孫のときになつて、勝手にこれを構想すべきものでないといふことを言つてをるのであります。‥‥

 世間にはマツカーサーの憲法を用ひましても、國體は變らないと説かれる方もだんだんとあるやうであります。それは恐らくやはり、皇室のために憂を抱き、日本の國を愛する誠意から出てをるのであると思ひます。私はさういふ方々の誠意を疑ふわけではございません。しかし私ども學者の末端に列する者として、恐るるところなく事實を直視いたしますならば、かくの如き考は、耳を抑へて鈴を盗むの類でありまして、若しマツカーサー憲法が、このまま行はれてゆくといふことでありますならば、國體は勢ひ變らざるを得ないのであります。民主主義はこれを強調する、天皇はわづかに國の象徴となつておいでになる、歴史は忘れられ、家族制度は否定せられてゐる。現在のみが考へられて、歴史は考へられず、家族制度は無視されて、個人のみが考慮せられ、人權はほとんど無制限に主張せられ、奉仕の念といふものはない。その限りなく要求せられる個人の權利の代償としては、ただ納税者の義務のみが明らかに規定せられてをる。忠孝の道徳の如きは、弊履の如くに棄てて顧みない。かくの如き現状において、日本の國體が不變不動であるといふことは、萬あり得ないところであります。‥‥

 日本國を今日の混迷より救ふもの、それは何よりも先に日本の國體を明確にすることが必要であります。而して日本の國體を明確にしますためには、第一に、マツカーサー憲法の破棄であります。第二には、明治天皇の欽定憲法の復活であります。このことが行はれて、日本がアメリカの從屬より獨立し、天皇の威嚴をとり戻し、天皇陛下の萬歳を唱へつつ、祖國永遠の生命の中に喜んで自己一身の生命を捧げるときに、はじめて日本は、再び世界の大國として立ち、他國の尊敬をかち得るのであります。憲法の改正は、之を考慮してよいと思ひます。然しながら改正と云ひますのは、欽定憲法に立ち戻つて後の問題でありまして、マツカーサー憲法に關する限り、歴史の上より之を見ますならば、日本の國體の上より之を見るならば、改正の價値なし、たゞ破棄の一途あるのみであります。

 以上は、日本の歴史より考へ、日本の國體より考へ、日本の命脈より考へ、日本の道徳より考究して得た結論であります。然るに若し更に視野をひろめまして、世界史的見地に立つて、各國興亡盛衰の跡より考察し、殊にフランス革命・マルキシズム・アメリカンレボリユーシヨンの跡に思ひをいたしますならば、ここに述べましたところは、これに十倍し百倍する重みを加へまして、われわれにこの信念を確固たらしめるのであります」と。


●田中卓博士『天皇親政の論――日本の歴史を正視しよう』(『浪漫』昭和四十八年九月號)に曰く、「

 日本歴史を顧みて、結果的に天皇を「象徴」と解することは誤りではない。しかし發生的に見れば正しくないのである。正しい見方よりすれば、天皇は「親政」を本質として、その「みいつ」(稜威。その具體的な發現が、幽界統治の「祭祀」と顯界統治の「親政」)によつて「象徴」の成果が生れたといふべきである。「象徴」を「象徴」たらしめるものは、實に「親政」に他ならないのだ。「親政」が根であり、「象徴」は花である。花の美しさだけをみて、根を忘れ、切斷してしまへば、一切が喪はれることを覺悟せねばならない。‥‥

 日本の歴史‥‥の傳統は、「天皇親政」によつて護持され、光彩を放つのである」と。

  • [9]
  • 百二十年ぶりの石清水八幡宮行幸

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 9日(木)22時49分21秒
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●石清水八幡宮宮司・田中弘清翁『石清水八幡宮ご親拜の大御心』(『今上陛下を仰ぐ――平成の御代に生きる國民として』平成十六年三月・日本青年協議會刊・『祖國と青年』論文選集Ⅱ所收)に曰く、「

 好天に惠まれた平成九年八月十九日午前十時三十分、天皇皇后兩陛下のお乘りになつた御料車は、ここ男山山上に御到着になつた。‥‥

 そもそも、天皇陛下が當宮に御親拜になるのは、明治天皇の明治十年五月十日以來、實に百二十年ぶり、皇后陛下の御親拜は、貞明皇后の大正五年四月八日以來、八十一年ぶりのことである。さらに天皇皇后兩陛下お揃ひでの御參拜となると、貞觀二年の御鎭座以來、初めてのこととなる。‥‥

 明治十年の前には、慶應四年三月二十一日に、やはり明治天皇が、當宮に御親拜遊ばされてゐる。注目されるのは、明治陛下の行幸が、兩度とも國家危急の最中に行はせられてゐることである。まづ慶應四年の一囘目は、「五箇條の御誓文」を仰せ出された直後のことで、江戸城は未だ開城されてをらず、世は戊辰戰爭の眞つ只中といふ情勢下での御親拜であつた。そして二度目の明治十年五月十日は、西南戰爭の最中における御親拜である。

 さらに時代を溯ると、孝明天皇の文久三年四月十一日、史上名高い「文久の石清水行幸」に行き當たる。この文久の行幸は、當時としても、後村上天皇の正平七年閏二月十九日以來、實に五百十一年ぶりの八幡行幸であつて、しかも幕末の不穩な情勢下、攘夷か開國か、勤皇か佐幕かと、日本全體が大いに搖れ動いてゐた時期であつたから、この時は當宮の周邊も、大變な騒ぎであつたらしい。

 後村上天皇以前、御歴代の當宮への行幸は、凡そ七十度の多きを數へるが、實を申せば、それは何れも嚴密な意味での「御親拜」ではなかつた。即ち天皇は山麓の宿院に坐しまして、勅使たる上卿をして、山上本宮の神前に拜禮せしめたまふ慣例であつたから、天皇が御親ら山上に登られ、神前に御親拜遊ばされたのは、文久三年の行幸が最初である。‥‥

 これに對し、上皇の御幸は、行幸とは異なり、その多くが山上の本宮神前において、御親ら御拜禮なさつてをられることを付言しておくべきであらう。そして上皇の御幸においては、神前に金銀の御幣を奉るのが通例であつた。文久三年の孝明天皇が、山上に御親ら登られ、神前に金銀御幣を奉つてをられるのは、天皇の御親拜としては全く前例のないことであつたが、往古の上皇御幸の事例を踏襲されたものと見れば、成程と頷けよう。恐らく孝明天皇が範とされたのは、文永十一年と弘安四年、蒙古襲來といふ未曾有の國難に際し、數度に亙つて當宮に御幸・御參籠になり、敵國降伏の御祈願を捧げられた龜山上皇の御事例ではなかつたかと拜される。

 顧みれば、私が初めて今囘の御親拜に關するお話を承つたのは、去る五月七日のことであつた。今囘の京都府への行幸啓は、公式には國際天文學會開會式に御臨席のため、といふことであつたが、漏れ承るところでは、兩陛下には、以前から當宮への御參拜を希望してをられ、今囘は特に強い思召しによつて御豫定が組まれたもの、とのことであつた。

 ただし地元の人々に迷惑が掛からぬやうにとの御配慮から、當宮への行幸啓は、あくまで「非公式行事」であるとされ、そのため當宮としても直前まで公表を差し控へ、奉迎準備なども祕密裡に行ふこととなつたのであるが、宮内廳からは、行幸啓は非公式であつても、神前への御親拜は、正式の儀式としてお考へいただくやうに、との御内意が示されてゐた。さうした中、天皇陛下の御拜禮には、「金銀御幣」を御用意するか、それとも「御玉串」を御用意するか、といふ點について、内々の問ひ合はせがあつた。

 實のところ、この宮内廳からの問ひ合はせを受けるまで、當宮では金銀御幣のことなどは、全く念頭になく、當初は兩陛下とも御玉串を以て御拜遊ばされるものと思案してゐた。何となれば、我々が參考にしたのは、當然のことに前囘の例、即ち明治十年における明治天皇の御親拜式であり、その砌には、御玉串を以て御拜遊ばされてゐたからである。

 どうも我々には、明治維新を挟んで、その前と後は全く異質な世界であるかのやうな思ひ込みがあり、維新前の事例などは、到底參考に爲し得ないであらうといふ先入觀があつた。しかし、むしろ宮中においては、時代の垣根を越えた歴史の連續性といふものに重きを置いてをられるやうであり、この點に關しては、私自身、甚く反省せられもした。‥‥

 兩陛下には、社務所書院でご休憩の後、參道兩側に參集した約四百名の當宮關係者が肅々とお迎へ申し上げる中、侍從長・女官長以下の供奉員を從へられ、御本殿へと進ませられた。御本殿では、始めに兩の御手に、金銀御幣三串をお執りになつた天皇陛下が御拜遊ばされ(文久三年の御事例に倣はせ給ふ)、次に御玉串をお執りになつた皇后陛下が御拜遊ばされた(立玉串。近代の御事例)。兩陛下の神明に對する、洵に恭しき眞摯な御姿を御側近く拜し奉り、私は只々恐懼するばかりであつた。

 かくして、御親拜式を滯りなく終へられた兩陛下は、居竝ぶ奉迎者に、親しく御會釋を賜りつつ、參道をお進みになり、再び書院の御座所に入御された。その後、私はお召しにより只一人陪席を許され、謁を賜つたのであるが、その時の色々なお話の中に、やはり龜山上皇と孝明天皇の御親拜に關する御下問があり、また勅祭石清水祭について、斯かる傳統祭祀が、今後も末永く繼承されるやう希望する、との優渥なるお言葉を賜つたのである。

 宸襟を推量し奉るのは甚だ畏れ多いが、兩陛下には、私共が想像する以上に、我が國の現況を深く憂慮してをられるのではあるまいか。とすれば、今囘の行幸啓において、兩陛下が神佛や皇宗に、國家安泰の熱き御祈念を籠められたであらうことは想像に難くないが、そこには、又、我々國民に對する重大なメツセージも籠められてゐたやうに拜されるのである。それは、まさに今こそが、文永・弘安の役や幕末動亂の時代に匹敵する國難の秋であるとの、文字に非ざる『詔』ではなかつたか」と。


●葦津珍彦翁『かくれたる民の心を』(新人物往來社『現代維新の原點』昭和五十一年七月刊に所收)に曰く、「

 陛下は「かくれたる民の心」をもとめられてゐる。國平らかに民安かれと祈られる陛下としては當然である。忠誠の民は、その赤心を、陛下に申し上げるがいい。しかし敗戰後の現在の陛下の御立場を深く考へれば、陛下には、すべての國民の意思を申し上げ、國民の意の存するところは御存知いただいても、現在の陛下の御仕事である御儀式のこと、御祭のことなどは別として、「國政上」のことで、國民の間の政治對決が、陛下の御立場に累を及ぼすことは、嚴として愼むべきであらう。陛下は、その御祭・御儀式において、國民の精神的指標をおしめしいただくだけでいい。

 政治的に對決は、國民の間で相討議し、必要とあれば相戰つても、勝つも敗れるも、おのれが責任として、いさぎよく進退せねばならない。陛下の御名を利用して、勝ちをもとめ、有利の戰ひをしようとする者は、假にその心事が忠誠であつても、累を天朝に及ぼすおそれがあり、愼まねばならない。陛下には、すべての民の心を知り、國情を知つていただいて、國論の大勢が決し、新しく國是が定められる最後の段階で、その最高の精神的權威づけをしていただき、國の基礎を固めていただくことが大切なのである。政治的に勝敗を爭ふ者は、天皇に決して御すがりしてはならない。しかしその戰ひの目標において、つねに「天皇の御存在」を、最高の基礎條件としての信をつらぬかねばならない。これが私の唯今の心境である。

 これは建武中興や明治維新の先例と、いささかニユアンスがちがふ。建武中興では、忠誠の士は、初めから勅旨をいただいて政敵を打つ行動に出た。だが明治維新では、かなり違つてゐた。しかし討幕派も佐幕派も、いづれも往々にして天朝の政治権威に御すがりして、戰ひを有利にしようと試みたあとも見える。

 だが、明治の維新後は、大きく變つた。

 維新の徹底を追求して戰つた西郷南洲は、自らの忠誠の志は表明したが、決して陛下に御すがりして、有利の戰ひをしようとはしなかつた。帝國憲法ができてのち、政治對決において、陛下に御すがりしようとする者は、逆に君側の奸とされた。西南の役いらいの政治對決の新しいルールは、われわれの先人たちが、悲壯なる數萬の犠牲を積み重ねて、天朝の精神的權威の高さを、より明白に徹底させるために、生命をささげて築きあげて來た路線である。この公正堂々たる先人の路線を、私は決して後退させてはならないと信じてゐる。

 ただ天皇の御存在そのものを根底から否定しようとする者に對しては、これはここで稱する政治對決ではなく、より深い精神對決である。天朝の敵・賊敵の名をもつて討たねばならないこともあり得る。

 天皇陛下は、民安かれ國平らかなれと祈りつつ、光榮ある日本國の傳統の恢弘のために、「かくれたる民の聲」をもとめられる。われわれはこの御心に應へて、あらゆる民の聲を上聞に達しよう。しかしそれは國民の間の見解のあらゆる對決を、陛下に御すがりして、自説にとつて有利に解決しようといふのではない。國民自らの力によつて解決の大道を開き、やがて陛下の御裁可を得て、天皇國日本の光榮恢復の道について、正々堂々と御裁可をあおぐのである。われわれは、日本民族の前途に、天皇精神の光榮が光りかがやくことを切望する。しかしそれは決して陛下に、政治的な累を及ぼすものであつてはならない。これが忠誠なる民の道であらうと、私は思つてゐる」と。


○愚案、天皇陛下行幸は、一に雲上の御事に屬して、皇民たる者、祭祀大權に容喙呶々する事は、斷々乎として之を許されない。然しながら已むに已まれず、敢へて行幸を仰ぎ奉らむとするならば、其の前に、我々は、靖國神社の廣前を祓ひ清め得たのか、何うなのか、上下一致、奉皇護國の誓願が出來てゐるのか、國内外の情況は、行幸を仰ぎ奉るに於て問題は有るのか無いのか、雲深き邊りに御迷惑を御掛け申し上げる事は無いのか、我々は懺悔反省してゐるのか、覺悟は何うなのか、激しく深く問ひ直すべきであらう。敢へて言擧げ申し上げる次第である。

  • [8]
  • 戀闕‥‥大君がいとしうてならぬ、至誠惻怛の心

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 8日(水)23時27分1秒
  • 編集済
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 年來、小生の愛唱して已まざる歌がある。それは、三浦義一翁の哥にして、「『「萬朶の櫻』――特別攻撃隊、九軍神の忠烈を深く偲びて。景行天皇、日本武尊に詔りして曰く、『――猛きこと雷電の如く、向ふ所前無く、攻むる所必ず勝つ。即ち知る、形は即ち我が子にて、實は即ち神人なり――』と。輝く皇軍の傳統を思ひ、この一章に至る。則ち熄み難くしてうたふ」との詞書き(歌集『悲天』の「草莽」より)がある中の一首である。最近、『近代浪漫派文庫・大東亞戰爭詩文集』(平成十八年八月・新學社刊)にも收められてゐる。

○み濠(ほり)べの 寂(しづ)けき櫻 あふぎつつ 心は遠し わが大君に


●松陰先生『又讀七則』(安政三年十一月二十三日・丙辰幽室文稿)に曰く、「

 天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者有り、夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふる者有り。余、幼にして家學を奉じ、兵法を講じ、夷狄は國患にして憤らざる可からざるを知り、爾後、□[彳+扁=遍]く夷狄の横(ほしいまゝ)なる所以を考へ、國家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非ざるを知れり。然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。

 向に八月の間、一友(案ずるに宇都宮默霖)に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂へしは、竝な夷狄に憤りを爲して見を起せり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるに非ざりし也。‥‥

 朝廷、上に尊く、幕府、下に恭しといふ。果して言ふ所の如くんば、則ち今ま又た何をか憂へん。唯だ其れ然らず。志士の悲憤する所以ん也」と。


●鳥巣通明翁『戀闕』(昭和十九年九月・朝倉書店刊/平成九年四月・青々企劃覆刻)に曰く、「

 あるいは先哲志士と仰がれる、それらの人々の思想的立場を繼述することによつてのみ、はじめてわれゝゝも、亦すめらみたみの道をゆきゝゝてゆきつくすことができる、と云ふのがわたくしのかねての信條である。山崎闇齋先生にはじまる埀加神道の流をくむ人々は、これら先人の歩いた純正日本人の道を『ひもろぎの道』と稱し、それは「皇孫を始め奉り、萬々世のすめみまを守護することの名」であり、「日本に生れたからには、何のかのと言ふ論なしに、天子樣へ忠を盡し」、生命のあらんかぎり、「朝家の埋草ともなり、神になりたらば、内侍所の石の苔になりともなりて、守護の神の末座に加はる」べしと説いたが、明治維新の志士達は、そのやうな立場を端的に明示するものとして、『戀闕』なることばを、しばゝゞ用ゐたのであつた。‥‥

 安政三年の八月を境として、それ以前には匡國と強國について、本末顛倒の誤謬を犯してゐたと云ふのである。松陰のこの反省は、當時の攘夷論一般に對する鋭い警策でもあつた。尊皇攘夷論者と云はれる人々は、何れも内政改革を説いてゐる。しかしそこには、攘夷のための内政改革論と、攘夷と關聯して説かれる内政改革論が竝存してゐたのは、確かな事實であるからである。攘夷のための強國の必要よりして、匡國即ち尊王を説くのは、時勢に重點をおく人々であり、國體の闡明は、彼等にとつては國難打開の手段にすぎず、絶對第一義のものではなかつた。それ故に、外國の勢力が豫期以上に強力であるのを知つた時、内部は放擲しても、外からの國難排除に全力をつくさむとする公武合體論に轉向する可能性が十分にあつた。‥‥これに對して、匡國を本とし、天朝のもとに國を匡すといふ一點に全力を注ぐ人々にあつては、尊王即攘夷、尊王と攘夷とは分離すべからざる問題であり、また分離することができぬものであつた。‥‥

 一時外敵の侮辱に甘んじても、國家の生命を維持存續せしめんとする開國論、國の存在價値を、「國體の立つと立たざると」によつて決定せんとし、いやしくも國體を危くするものは、あらゆる打算をはなれ、自國の生命をかけても排除せんとする攘夷論、兩者の相別るゝは、遂に最後の核心に於いて、國體觀の相違にもとづくと云ふことができるであらう。‥‥

 叡慮にこたへたてまつり、叡慮を安んじまつること、尊攘の立場は、遂にこゝに歸する。この點に對するふかい眞の理解共感を缺くかぎり、志士の悲懷に觸れたとは云ひ難いであらう」と。


●平野國臣先生の哥(紫灘眞木和泉守の曰く、「國臣は、戀闕第一等の人也」と)
○君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりけんものを
○大内の 山の御かまき 樵(こ)りてだに 仕へまほしや 大君の邊に
○斯くばかり 惱める君の 御こゝろに 休めまつれや 四方の國民


●中島一光翁『尊皇・愛國のホームページ「彌榮」』→「珠玉の言の葉」
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Syugyok0.htm
の最下段「戀闕(れんけつ)」は、是非とも參看されたい。


●徳富蘇峰翁『神兵隊事件公判廷に於る證人陳述』(『國史會』第五十二號)に曰く、「

 頭に白髮が生えた時、‥‥丁度私が三十四歳のときであります。而して私も初めて是等の考へは間違つてゐた。それで私も、自分は再び生れ變つてやり直さうと、かう考へた。‥‥三國干渉以來、私の考へ(自由主義・日本的リベラリズム)は、絶對に政治的にも變り、又た思想的にも變つた。で、日本の歴史を考へてみますると、他所の國は、人民あつて君主、若しくは大統領がある。日本は、天皇あつて、初めて國民あり國家がある。それで、日本の歴史は、皇室を除去すれば、歴史は書けない。‥‥

 維新の歴史を讀みまする度び毎に、若し日本に皇室がなかつたならば、幕府はフランスの力を借りたらうし、薩長はイギリスの力を借りたらうし、或者はロシヤの力を借りて來るといふやうなことで、日本は覿面に印度の覆轍を踏む。然しながらあの場合に於ても、皆な總べてこれを忘れて一致したといふものは、全く皇室の御存在、天皇が上に照覽しておいでになるからのことであるといふことを、深く感じたのである。それで私の皇室中心主義は、あらゆる荊棘の道を辿つて、ヘトヘトになつて、漸く行き着いて、一息ほつと吐いたのでありまして、まあ、此處が私の安心立命の所。この皇室中心主義を、私が世の中に宣揚して死んだら、私の生存したる甲斐もあると思つてゐる次第でございまして、どうかこれだけは、(御座なりの政友會と)同一のものと御覽下さらないやうに、私は謹んで御願ひする次第である」と。


●林房雄翁『勤皇の心』(昭和十八年四月・創元社刊)に曰く、「

 神の否定、人間獸化、合理主義、主我主義、個人主義の行きつく道は、當然「神國日本」の否定である。日本の現代文學者は、半ばは無意識に半ばは意識しつゝ、この道を歩いた。かくして青年をあやまり、國をあやまつた。この罪は、何によつて贖ふべきか。何によつてつぐなふことができるか。

 罪深き我等は、死ぬよりほかに道はないか。ないかもしれぬ。だが、日本の神は國民に、その罪の故に死ねとは仰せられぬ。罪と穢れの夜見の國に迷ひ入つた國民に對しては、夜見よりかへれ、よみがへれ、而して國の傳統の清冽なる流のただ中に禊せよと仰せられる。このありがたき御聲に從ひ、神と天皇の前にひざまづき、我が罪業の深さを自覺するとき、我が胸、我が腹、我が四肢五體のすみずみより、ほのぼのと葦芽の如く芽生え出るもの、これぞ、この心こそ、勤皇の心である。

 岩間に湧く清水の如く、清冷にして透明なる心、地底に燃ゆる火の如く、渾一にして激烈なる心、私なく人なく、ただ神と天皇のみ在はします大事實を知る心。單なる愛國ではない。單なる憂國でもない。勤皇の心を知らざる愛國者と憂國家は、いつでもその逆のものに轉ずることができる。我が罪業の深さを知り、個と私の一切を捨てて、日本の神の前にひざまづいた境地に生れた勤皇、その心のみが、まことの愛國者、まことの憂國家をつくるのである。


●林房雄翁『維新の心』(『勤皇の心』所收)に曰く、「

 維新の心といふものは、非常時の心ではありません。日本人の平常心であります。これを失へば、日本はたちまち衰へる。維新の心といふのは、我が國體を一點の曇りなからしめようとする精神、そのことのためには我が生命を捧げる心、一言にして申せば、勤皇の心であります。天皇の道、すめらみことの道を、ますます光あらしむるために身を捧げる、これが維新の心であります。この美しい激しい心が、草莽の間に存し、時に臨んで發露したが故に、日本は度重なる危機を征服して、輝かしい前進の途を辿つて來たのであります。‥‥

 私は日本人を信じてをります。これを信ずることが出來ないために、永い間、思想上の放浪を續けて來ましたが、今は心から信じてをります。日本人は、この大和島根が危機に瀕しましたら、必ず擧つて立ち上がり、國を護る國民であります。これは單なる愛國心ではありません。愛國心なら、世界の總ての國の國民にあります。だが、日本人の愛國心はちがひます。それは神代よりつながる、勤皇の心であります」と。


○參考
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/renketu.htm

  • [7]
  • 招魂式の全國中繼

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 3日(金)20時23分13秒
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●昭和十五年四月二十三日、臨時大祭[招魂・合祀祭]に於る日本放送協會ラヂオアナウンサーの全國實況中繼(中村直文・NHK取材班『靖國――知られざる占領下の攻防』平成十九年六月・日本放送出版協會刊に所引の「放送臺本」より)に曰く、「

 盡忠報國の一念に燃え、身を鴻毛の輕きに置き、國難に殉ぜし御靈、齋き祀る御儀、行はるゝ、こゝ九段靖國神社齋庭は、神苑そのもの。たゞ星のみ輝き、神域は靜寂のうちに若葉の香りがよどみ、また流れて行きます。‥‥

 招魂齋庭から本殿近く、延々數町の間を、筵の上に隙間もなく竝んだ遺族の方々の中には、腰の曲がつた年寄りも交じつてをります。遠くは北は北海道から樺太、南は沖繩、朝鮮の果てより訪れて、此方久しきこの晴れの對面に心躍らせて、子が孫が、あるいは夫が父が、今ぞ護國の神として齋き祭られんとする、そのときを待ちつゝ、肅然として大地の上に列座し、山中の湖水の如く、默々として靜まり返つてをります。‥‥

 低く流れる警蹕の聲、流麗たる軍樂の音が、深遠なる神域の闇の内に流れ始めました。行列は靜かに參進し始めます。先頭の二人の憲兵に續いて、烏帽子淨衣の社掌が二人、そのあとに警蹕が續き、更に軍樂隊の「水漬く屍」、いとも悲しくもまた緩やか奏でられ、宵闇に流れて行きます。係官・隨員の從へるあとには、忠魂一萬二七九九柱といふ尊き靈璽をお祀りせし御羽車が、恐れ畏み、靜々と參進して行きます。

 今ぞ忠魂、九段に歸るの時、殉國の英靈、永久へに靖國の御社深く、齋祀られるの時であります。沿道肅然と聲をのみ、靜かに遺族席の前に、今、樂の音は奏でられてまゐります。

 夜目にも白いハンカチ・手拭ひ、誰一人として泣かない者はない。筵の上に顔を伏せて聲を忍ぶ妻、したゝゝと感動の脣を抑へる。

 哀れ冷たい玉砂利も、今宵はどんなにか熱い涙を流すことでございませう。‥‥

 筵の上に跪いてゐる二萬五○○○の遺族は、尚も伸び上がり伸び上がり、涙に頬を濡らしながら、闇に消え行く御羽車を見送つてをります。

 御羽車は、やがて闇の中に鎭まり、神域は莊重深遠と申すよりほかございません。

 宮司、恭しく本殿に參進し、一萬二七九九柱の新しき英靈を、本殿奧深く齋祭るのであります」と。

  • [6]
  • 五一五關係先歿者の御靈鎭め招魂祭

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 3日(金)18時37分32秒
  • 編集済
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●大悲三上卓翁『昭和三十二年五月十五日・五一五事件招魂祭々文』(花房東洋氏編『民族再生の雄叫び「青年日本の歌」と三上卓――謹んで三上卓先生の英靈に獻ず』島津書房・平成十八年十月刊に所收)に曰く、「

 薫風、天地に滿つる皐月半ば十五日、新緑の色さやかなる、こゝ靖國神社の招魂祭場に、五一五關係先歿者各位の御靈を招ぎまつりませまつり、愼しみ畏み、みたましづめの祭典を嚴修致します。

 英靈よ、こひ願くば、髣髴として吾等のいのりとうけひを亨け給へ。

 謹みて昭和七年五月十五日、永田町の總理官邸に於て、かなしくも斃れ給ひし、木堂犬養毅之命、官邸護衞の警視廳巡査田中五郎之命の英靈を招きまつり、おろがみまつる。

 謹みて此の日の一大事に參加して後、或は戰死し或は病死して、今はなき友どち、○○○○之命‥‥を始めまつり、これにつらなる有縁・無縁の數へ難き多くの靖國の先輩・同志・同胞のみ靈を招きまつり、おろがみまつる。

 昭和七年五月十五日、世に謂ふ五一五事件行はれてより、星霜すでに廿五年、頭を囘らせば、往時茫々として、逝く水の遂に還らず、かなしくも洋々として大海原に注ぐに似たるものがありますが、惟ふにこの日この時、日本の歴史に刻まれた一條の精神、一片の赤心は、猶ほ凛然として存すべきであります。こゝに私共は、唯々ひたすらに頭を埀れて、吾が誠の足らざりしことを、なげきかなしむのであります。

 今日この日この處において、諸英靈を祭るに當り、唯だ祈るところは、すめらみ民の不滅の精神をもつて、幽明ともに相むすび、天翔ける御靈も、生き殘れる私共も、恩讐を超え生死を超え、ひとしく昭和維新の實現と祖國日本の恢復と亞細亞大同の悲願のために、ま心の限りをさゝげ、いのちの限りを盡すべきであります。‥‥

 この驚くべき國家内外の危機を根底より打開して、民族の生氣を囘復する方法は、悲しいかな、よく一人のなし得る處ではありません。悲しい哉、合理主義・合法主義の及ぶ處ではありません。力のない私共は、骨身をけづる思ひをこめて、やむを得ざる直接行動に訴へ、敢て不忠不義の臣となり、この初一念を透して民族の奇蹟を實現したいと、念ずるより他ありませんでした。

 時の宰相は、犬養木堂翁、老骨をさゝげて何物にも屈せず、救國濟民の一念に生きる憲政護持の尊い先驅者でありました。この尊き老宰相に對して、いさゝかの憎しみも憤りもなく、その故にこそ、たゞやむにやまれぬ昭和維新の尊き人柱たれかしと、乞ひ求めたのは私共でした。最も忠實果斷に、命もて官邸護衞の任務を果された田中五郎の命の、たふとき犠牲をおろがみまつたのも私共でした。

 痛ましいかな、なべて等しき國の子のおもひ遂に空しく、「すめらみくに」の正しき姿に引返すべき術もなく、亂れ行きたゞよへるまゝに、年移り友失せて二十有餘年、先輩よ、同志よ、御靈たちが命もて、乞ひ希ひし昭和維新のみ業も未だならず、その中に祖國は恐ろしき大東亞戰爭に突入して萬策盡き、遂に無條件降伏をしてしまひました。この責任は、申す迄もなく私共にあります。無限の悲痛、骨髓に徹して申上げる言葉を知りませぬ。今や敗戰後十餘年の混迷と虚脱と媚態の惡循環を經て、民族不滅の生命は、かすかに蘇りつゝありますが、獨立への道はなほ遠く、隷屬と腐敗の根は拔き難く、赤化亡國の危機は深刻であります。‥‥

 この樣な内外危殆の現状に對し、最も痛烈に反省し憤發し蹶起すべき吾が國の民族主義・愛國主義的諸勢力は、敗戰後、その精神的支柱たりし天皇權威の失墜と米國製日本憲法の行使以來、民族的大自覺に達せず、分裂抗爭・朋黨比周、未だにボス反動の域を出ません。かなしいかな、思へば右翼も左翼も、遂に祖國を亡ぼすものと謂はねばなりません。相ついで國難に斃れし先輩同忠の萬靈に對し、まことに恥しい限りであります。
  おくれてもおくれても又君達に誓ひし言葉われ忘れめや
祖國再建の初一念、斷じて忘るべからず。悲願の繼承、道統の實踐は、生き殘り死に後れた者の、避けることを許されない任務であり責任であります。

 茲に私共は、若き日本民族・亞細亞諸民族の名譽と生命をかけて期する處を、先人烈士のみ靈の前に誓約し、發進すべき大いなる時節が到來したことを、御報告しなければなりません。それは飽くまでも純粹無雜の青壯年を中核とする一大國民運動の展開であり、その磐石の基礎工作であります。右翼・左翼の何れにも偏向せず、純潔中正の大組織の全國青壯年を、先づ確實に組織化することです。若しも祖國日本の中に、封建幕府的亡國勢力が存在するならば、私共は斷じてこれを討ちます。亞細亞の中に、そして世界の中に、萬世のため開かるべき太平を阻害する國があるならば、私共は誓つて之と鬪ひます。私共は生死を超えて、あく迄も國體を守り、國賊と鬪はざるを得ません。そしてさゞれ石の巖となりて苔むす迄も、正しきもの、まことのもの、うるはしきもの、かなしきもの、遙かなるものどち、人も國も相共に、仲良くむすび合ひ勵まし合ひ助け合つて、祖國日本と亞細亞の精神を護り拔かねばなりません。
  益荒夫のかなしき命つみ重ね積みかさね守る大和島根を
今日只今、いまし等の御前に、私共がお約束申上げ得ることを、唯々この事あるのみであります。

 ま心の道一すぢに大御心を奉じ、戰歿諸靈の悲願を抱きしめ、この數ならぬ敗殘の身を、誓つて祖國再建、亞細亞開眼のうめ草にさゝげ盡さむとする私共のねがひとうけひを、乞ひ願はくばあはれとみそなはし、靖國のみ靈達よ、永久に守らせ給ひ、この志を果さしめ給へ。もしこの誓願に背き仇し心を抱き、きたなき道に踏み迷ふ者、一人だにあらば、たち處に天罰を下し給へ、天誅を加へ給へ。

 今や、すめらみくにのとことはの命に歸一し給へるみ靈たちを、靖國の神と仰ぎつゝ、恭々しく祭文(まつりのことば)たてまつる。請ひ願はくば、天かけり國かけりまして、莞として亨け給へ。祭主三上卓、謹み畏みて白す。

 昭和三十二年五月十五日午後二時半。

[編者解説・爽やかな五月晴れの日でしたが、風の強い日で、祭文を書いた長い卷紙が翩飜とひるがへつて居たのと、それを繰りひろげる祭主三上先生の白い手袋が鮮やかで、今も眼に殘つて居ます]」と。

  • [5]
  • 出雲から

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 3日(金)18時28分42秒
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●出雲大社教第四代管長『桐廼舍千家尊宣大人祭詞集』(昭和四十九年九月・神道學會發行)に曰く、「

【戰歿者慰靈祭祭文】

 是の祖靈社を、今日の齋場と祓ひ齋廻り、神籬刺立て、注連引廻し、招奉り坐せ奉る、日清の戰以來、大東亞戰爭に至る迄に、皇國の爲に身命を捧げ給ひし、英靈の命の御神靈の御前に、出雲大社教管長千家尊宣、謹み敬ひも申さく。

 あはれ、汝命等はしも、掛卷も恐き天皇の大御楯、我が日本の鎭護なる、陸海又た空の御軍と仕奉らし、海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍と、言建てし歌の心を心とし、鐵溶かす夏の日の暑さを冒し、或は潮さへ凍る冬の寒さを凌ぎて、篠を亂して降る雨なす火砲の彈丸の散交ふ中に健び戰ひ、憂しと云ふ萬の憂さを堪へ忍び、苦しと云ふ千々の苦みを押排け、險しさを憑める敵の大城・小柵を攻め破り、堅きを誇れる大艦・小艇を撃沈めて、海に陸に將た又た空に、如何でか御國の爲に大き功績を樹てまくと、只管らに勞き盡し給ひしに、あはれ、或は北滿洲の冬の朝の霜と消え失せ、或は南國の荒野の夕陽に屍を曝し、或は又た大海の鹽の八百會の底つ藻屑と身失せ給ひ、更に又た痛手負ひ惡しき病に罹りて、敢なくも身退り給ひし事等は、素より益良武夫としては、常の御心構の事とは云ひ乍らも、思へば寔に果なく悲しく、又いとをしき事の極みになも坐しける。

 斯くて忘れも得やらぬ、昭和二十年八月十五日と云ふ日に、畏くも天皇命の宣らせ給ひし終戰の大詔と共に、戰爭、漸くに畢りてよりは、次々に歸り來ませる人等、澤なれども、あはれ、汝命のみは、遂に再歸り來坐さず、永久永遠に其の御容姿に逢見奉らむ由無く、其の御聲を聞き奉らむ術も無く、留守居守らしし父母の君等、又た妻子等の御心の中こそ、今更に悲しとも憂痛しとも云はむ術無き事なりけれ。

 故れ斯く諸人諸共に惜しみ悲しみ、又いとをしみ奉る心々に限りは有らね共、更に又た立歸りて思ひ奉れば、我が日本の國の榮を守らむと、雄々しく勇ましく健び戰ひ、遂に御生命を捧げ給ひて、永久に、靖國神社に、神とも神と齋ひ祀らへ坐す事は、寔に尊しとも尊く、百千の里人、誰やし人か仰ぎ奉らざらむ。千年・五百年後、掛けて孰れの時か、其の御名を稱へ奉らざらむ。

 されば今は、顯世と幽冥と隔てて、呼び返へし奉らむ術は有らね共、せめては神靈を慰め安め奉らばやと、今日を生日と選び定めて、此の祭典仕奉るにより、今ま斯く親族・家族の君等を招ぎ集へて、御前を治め奉る事の状を、あはれ、天翔り國翔り寄來集はす神靈等い、欣しとも懷しとも、御心足ひに相諾ひ享け給ひて、今日より後は、一入に、幽冥大神の御慈を受け給ひて、顯世に坐しし折の御心乍らに、愈々益々我が日本の國の榮を守り幸へ給へ。又た御跡に殘り坐しし御親族の君等の御行末をも、朝夕と見守り坐しつつ、御神靈は永遠に安らかに鎭り坐し坐せと、禮代の御饗の物を供へ進めて、恐み恐みも拜仕奉らくと白す」と。


●桐廼舍千家尊宣翁『神道出雲百話――皇室をめぐる日本の心――』(昭和四十三年九月・日本教文社刊)に曰く、「

 日本の考へ方には、西歐社會でいふ「原罪」といふ思想がありません。‥‥また佛教でいふところの死、つまり靈魂が肉體から離れたときには、地獄におちるといふ思想も、日本には本來無い。死んだならば、皆きれいになつて、幽世に還り、その世をお護りなさる神さまのもとへ行き、そこでまた神さまの一族になるのだといふのです。ことにカミゴトを知ろしめすのは、出雲の神さまであると、『古事記』や『日本書紀』に、ハツキリと出てゐるといふことは、出雲の神さまは、死後の人間の靈魂をも護つて下さるのだ、といふ信仰が表明されてゐるといふことです。

 ですから、明治天皇樣は、内親王樣がお二方お亡くなりになつたとき、すぐに私の祖父、初代管長千家尊福を出雲からお召しになつて、葬儀を扱ふやうに仰せられたのでした。これといふのも、古代から傳はつて來た信仰から、かういふ仰せ言となつてきたワケだと思ひます。‥‥

 日本人の死後の靈魂觀は、つまり死んだら無くなつてしまふのではなくして、まだ神のお側へ還つて行き、われわれ生きてゐる人間の營む國造りの應援指導をなさる、といふやうに考へてをります。眼に見えない世界から護つていただく、從つて私は、各氏神さまの御境内には、氏子たちの先祖の靈を祀つたお宮=祖靈社が、ぜひほしいと思ひます。‥‥

 日本以外の宗教では、かういふ悲觀的厭世觀(末法思想)を必ず伴つてゐますが、日本の神道には、少しもペシミズム的な要素はありません。この世の中が良くなることにおいて、死後の世界にゐても、また安心してをられるのだ、といふのが、神道の精神であり、葬儀の根本であります。ですから、出雲大社教の初代千家尊福が、「身のかぎり國にまことをつくさなん、魂(たま)は出雲の神にまかせて」と詠んでゐます。生のあるかぎり、國のために一所懸命に働きぬかう、自分の魂といふものは、出雲の神さまにすべておまかせしてあるのだ、といふのです。ここに安心立命が在るのであります。‥‥

 日本人は、かうして死んだ後は、インドの釋尊のもとへ養子に行く(戒名を見よ)のでは決してないと、皆して思つてゐた證據は、大東亞戰爭で出征するときに、ひとりひとりが昔の天寶錢のやうなものを持たされた。それに兵籍番號が書かれてあつた。兵隊たちは、この天寶錢のやうな認識票を、靖國神社の入場券だと言つてゐたのであります。つまりこれさへ持つてゐれば、戰死してのち、靖國神社へ行くことができるのだといふ、かうした自然の氣の持ち方のあらはれなのであります。

 死んでインドの釋尊のところへ行くといふのは、佛教が渡來して以來の、つまり神佛習合以來の政治による教育の結果であつて、今、大マジメにさういふことを考へてをる人が多いか少ないか、といふことは想像できます。しかし佛教の戒名をうけるといふのは、長い間の國民の習慣ですから、各自がよほどハツキリした理念をもつてゐるのでなければ、謬ると思ふのであります。

 明治天皇樣は、さすがにかういふ點は、ハツキリとつかんでおいででありました。維新前までは、宮中の御葬儀は佛葬でした。ところが、天皇樣は、『爾今、宮中では一切佛葬はやめて、神葬に戻す』と申されて、それまで宮中にあつたところの、世にいふ位牌を燒きすてようとなされたのです。

 そこで京都の泉涌寺が宮中に頼みこんで、そのお下げわたしを願つた。『これは位牌ではないぞ、タダの木の切れだが、それでもよいか』といふと、「木の切れでよろしゆうございます」といふことになつて、泉涌寺がいただいて歸つたのが、今もその寺にあるワケです。その前は宮中に御位牌が竝べてあつたのを、今は皇靈殿で、神道式でお祀りになつておいでであります。これに倣つて、維新のときに大名や公卿で、神式に改葬する家が多くなつたといふワケです。明治天皇樣の、このやうなシツカリした御認識があつて、世の中の葬儀觀もスツカリ變はつたのです。‥‥

 國を擧げて國運が勃興する時は、ひとりこの世のことだけにとどまらず、死後の魂もまた一緒になつて、いはゆる死して護國のオニにならうといふ氣持になるのでありまして、それが葬儀の姿などにもよく現はれてくるのだと思ひます。私はこの意味から、靖國神社を現状のままでおくといふことを、非常に遺憾に思つてゐるのであります。‥‥

 靖國神社は、道徳とか或いは學問とかいふものではなくして、どちらかと言へば、もとより宗教の範疇に入るものでありませうが、しかしそれは普通のキリスト教や佛教といふものとは違ふのであつて、國のために生命を捧げた人たちの御魂を祀るのでありますから、國としては、これに對する道義的責任といふことが、當然出て來ねばならぬはずです。これが國としての日本の正しい在り方であると共に、かうして道義に立つといふことが、今後の日本を榮えさせる所以のものだと確信します。これだけはハツキリ言へることであつて、單に宗教といふ十把一からげの名前の中に入れてしまつて、靖國神社を國家でお世話するのがよろしくないなど言ふのは、これは言ふ方に偏りがあるのではあるまいかと、このやうに私は一日本人として、固く思つてゐます。‥‥

 ただ今(昭和四十二年)、靖國神社は、夏のみたま祭りの最中だが、その靖國神社法案が發表されたのを見ると、第一條に、
「國に殉じた者に對する(中略)感謝と尊敬の念を表はし、(中略)偉業を永遠に傳へることを目的とする」
とある。それでありながら、第五條には、
「祭祀を禁止する。(中略)賽錢受けの施設を設け、又は保有してはならない」
とある。神社新報七月一日付け第千七號には、
「萬一にも、創建以來の祭儀が行なはれないやうなことにもなれば、精神的には、國が靖國神社を亡ぼすことになる。それでは國家護持ではなくて、逆の結果になる」
と述べてゐる。名説である。この法案は、憲法のいはゆる「政教分離の方針に基づく考へ方」によるものであらう事は理解出來るが、もう一歩踏み込んで、この法案の目的が、靖國神社にまつられた人々の「功績と偉業を永遠に傳へる」ことにあるならば、その、「感謝され、尊敬される功績の内容」に對する報本反始の實、即ち「まつり」が無くして、どうして永遠に傳へることが出來るであらうか。「まつり」とは、「まつられるモノ」の境地に還つてゆくことであつて、「感謝すること」は、「感謝されるモノの精神を受け繼ぐ」ことによつて完成される。祭祀は感謝に出發する神意繼承であり、「國に殉ずる」といふことは、「國をみとめ、國を愛する」からのことである。故に靖國のみたまが、「國に殉じたみたま」である以上、政府が國の繁榮する政治をしようとするならば、國自體が、當然、靖國のみたまをまつるべきである。‥‥

 ところが、こんどの靖國法案は、教への筋も、歴史の違ふ外國のモノを、ナマで採り入れ、日本固有のモノを縛らうとする處に、根本的間違ひがある。「孔子さんが攻めてきたら、スグ降参します」と答へて、山崎闇齋に、「汝等、孔子の教へを、イマダワキマヘズ」と叱られた門人のあやまちや、戰後、日本の惡口をいふことで、「進歩人」と氣取つた、ある種の人々の間違ひを、この靖國法案でやつてはならない。「靖國のみたまのみ心を承け繼いで、日本の發展に盡くすことが、みたまを慰め安めることで、それが一番大切だ」といふ、根本問題の理解された法案、そしてその爲には、國が祭主となつての祭祀こそ、靖國神社を生かす事であるといふことが實現された法律が、本當の「國家護持」であつて、國から維持費さへ出したら、それでよいといふ法案は、やがて靖國神社そのものを衰亡させ、更にやがては日本國を衰滅に導くものである。私は日本人の一人として、この事を確信し、且つこの法案について深く憂慮するが、更に私も長子を比島で國に捧げた遺族の一人として、他の遺族の方々や愛國の人々と共に、どうか靖國神社を生かす法律をつくつてもらひたいと、衷心お願ひせざるを得ない」と。

  • [4]
  • 皇國護持・祖國再建を誓ふ日

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年10月 3日(金)18時23分47秒
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●田中卓博士『祖國再建』下卷に曰く、「

 最近の日本國内において、この「ソ聯史觀」(「太平洋」戰爭終戰日は九月二日)と呼應するかのやうに、「八月十五日、終戰の日」説を輕視し、これは當日の玉音放送を利用して、それにお盆を重ねた國内的な鎭魂、或いは癒しの日にすぎず、國際的に認められる「終戰終結」は、ミズリー號で降伏文書に調印した「九月二日」だ、といふ論説が、論壇の一部で主張され始めました(佐藤卓己氏・保阪正康氏)。若しその通りなら、ソ聯の背信・侵略を辯護する結果となるわけです。

 しかし忌憚なく云へば、それらの論者は、終戰時にまだ生まれてもゐないか、或いは五六歳で、歴史の實情を知りません。特に敗戰後の被占領時代の嚴しさを體驗してゐないのが、決定的な違ひです。そのため、特に新鋭佐藤氏が、メデイア中心の雜多な文獻資料を丹念に漁り、巧みに解説・構成されてゐる努力は十分に評價しますが、實際の歴史を體驗してゐる私共とは、全く判斷を異にします(佐藤氏は「八・一五=終戰記念日」をめぐる問題は、玉音放送を直接耳にした戰中派だけが、「特權的に語るべき性格のもの」でないと言ひ、その指摘は尤もですが、‥‥多くの資料を踏まへてゐる點で、一見「實」證的であり、それ故、私は敢へて「机上の空論」とは申しませんが、正統史學研究の立場から言へば、「實」を基にしながら、單に事實を整理考證するだけでなく、更に統合して「眞」に迫る、廣い視野と深い見識が必要なのです)。

 ‥‥「一億の號泣」(高村光太郎氏)――この言葉も、もし「實」にこだはれば、本當に「一億」の國民すべてが、聲をあげて泣いたか、といふ恍けた反論が豫想されますが、――この詩こそ、歴史の「眞」の響きがあります(‥‥主權在民の現憲法下で、「象徴天皇」論に慣らされた戰後派には、天皇陛下の「聖斷」といふことも、單なる爲政者の議事採決の際に投ぜられた一票程度に考へて、その「重み」といふものは、恐らく理解されますまい。占領軍の檢閲をへたメデイアの記事からは、「聖斷」や「玉音」といふ歴史の「重み」が判らないのは、當然です。そしてその「重み」が理解されませんと、戰中派の「八月十五日終戰」の號泣も、承詔必謹の決斷も、判る筈がないのです。私が「眞」といふのは、この點なのです)。

 當時の日本人が、玉音放送によつて八月十五日を「終戰の日」と受けとめたのは當然であり、「お盆を重ねた鎭魂の日」などといふのは、後智慧にすぎません。また一部のメデイアの勝手な「やらせ」でもありません。まして戰中世代の反米感情(トラウマ)が、「九・二降伏記念日」を忌避して、「八・一五終戰記念日」を作爲した、といふのでもありません。

 もともと日本側で、「降伏記念日」などといふ呼び名はありませんでした。元來「記念日」といふのは、「降伏」とは縁のない言葉です。‥‥自分の國の降伏といふ「悲劇の日」を、「記念日」にする國民はありますまい。‥‥「ポツダム宣言受諾の記念日」→「降伏三周年の記念日」→「終戰記念日」と變化していつたこと、そしてそれらが、占領政策統治下において形成されたこと、さらに「終戰」を「新日本の誕生日」・「民主化五歳の誕生」といふ意味で、「佳節の日」――つまり「舊日本が埋葬」された開放記念日――、もつとはつきり言へば、「革命記念日」として祝福しようとする左派論説者(朝日新聞社)の意圖があつて、敢へて「記念日」の用語を使ひだしたこと、等が理解されるでありませう。

 「八月十五日」は、もともと公的には、「全國戰沒者追悼式」(昭和三十八年八月十五日、政府主催)の日とされてゐたのでして、それを「戰沒者を追悼し平和を祈念する日」と呼ぶやうになつたのは、昭和五十七年四月十三日の鈴木善幸内閣の閣議決定からであります。‥‥正式名稱の「戰沒者の追悼」と「平和の祈念」とは、内容的に通底するところが、殆んどありません。「平和」は、人間として當然の願ひですから、「終戰の八月十五日」に、併せて將來の日本や世界の平和を祈念することに異存はありません。しかし國家・國民を護るために、戰陣に斃れた戰士に對して、「平和」の達成を祈つたり、「不戰の誓ひ」をするといふのは、明らかに場違ひで、祈られた祭神は、戸惑ひするでせう。ここは廣島の原爆の碑と同じく、「過ちは繰返しませぬ」といふ意味がこめられてをり、‥‥これで果たして英靈の追悼になりませうか。‥‥

 古來、「神は非禮をうけ給はず」といひます。正しい「八月十五日」の祈念は、主として大東亞戰爭で國家のために殉難された英靈を偲び、その忠魂に敬意と感謝を捧げ、その遺志をうけついで、皇國の護持、祖國の再建を誓ふことに眼目がある筈です。その趣旨を端的に表明できず、「平和の祈念」といふ美辭を添加することによつて、内外の一部から、國家主義・軍國主義と非難されまいとする政府の意圖が透けて見えるところに、私は釋然としないものを覺えるのです。‥‥

 (不思議なことに、戰後は誰も口にしませんが、戰前、私共の絶えず耳にしたのは、「持てる國と、持たざる國」といふ言葉でした。「持てる國」とは、大きな領土・植民地や資源を所有する國、「持たざる國」とは、それらの乏しい國を指したのですが、大東亞戰爭を境に、植民地が獨立した代りに、「持つ」内容が一變して、原子爆彈・核兵器になりました。そしてこれらを持つ戰勝國が、國聯安保理の常任理事國を獨占します。この大量無差別殺人兵器を「持てる國」と「持たざる國」といふ不平等を解消して完全放棄しない限り、今後も世界の平和はありますまい。北朝鮮の拉致事件は論外で、その非道は鼓を鳴らして攻めるべきですが、核問題に關する限り、金正日の主張も一理ありと認めざるをえないのは、歴史の皮肉です)」と。


●高村光太郎氏『一億號泣』(陸奧國鳥谷崎神社境内碑、昭和五十七年八月十五日再建)に曰く、「

綸言一たび出で一億號泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花卷町の鎭守
鳥谷崎神社社務所の疊に兩手を
つきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をう
たる
五體わなゝきてとどめあへず
玉音ひゞき終りて又音無し
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶殆ど失語す
たゞ眼を凝らしてこの事實に
直接し
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざ
らん
鋼鐵の武器を失へる時
精神の威力おのづから大ならんとす
眞と美と到らざるなきわれらが
未來の文化こそ
必ずこの號泣を母胎としてその形
相を孕まん
 昭和二十年八月十六日
 花卷にて
  高村光太郎 印

裏面・昭和三十五年九月・花卷觀光協會建之・今藤清六謹刻」と。



【嗚呼、昭和二十年八月十五日】

●一記者謹記『朝日新聞』(昭和二十年八月十六日)

 溢れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙。あゝ、けふ昭和二十年八月十五日、「朕ハ帝國政府ヲシテ、米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨、通告セシメタリ」との大詔を拜し、大君の在します宮居のほとり、濠端に額づき、私は玉砂利を涙に濡らした。唇をかみしめつ、またかみしめつ、道行く兵隊の姿を見ては、胸かきむしられ、「作れ飛行機」の貼紙を見ては、宮城への道々を悲憤の涙を流し續けて來た私であつた。胸底を抉る八年餘の戰ひのあと、歩を宮城前にとどめたそのとき、最早や私は立つてはをられなかつた。抑へに抑へて來た涙が、いまは堰もなく頬を傳つた。膝は崩折れて玉砂利に伏し、私は泣いた、聲をあげて泣いた。しやくりあげ、突き上げて來る悲しみに唇をかみ得ず、激しく泣いた。男子、皇國に生を享けて、またいつの日か、かくも泣くときがあらう。拭ふべき涙ではない。抑へるべき嗚咽ではない。泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、寂として聲なき淨域の中に、思はず握りしめる玉砂利、拳を握つて、私は、「天皇陛下‥‥」と叫び、「おゆるし‥‥」とまでいつて、その後の言葉を續けることが出來なかつたのである。

 玉砂利に額を押しつけて、きのふまでの輝しき民族の歴史、けふは悲しき民族の歴史の日を慟哭する赤子われ、大東亞戰爭は終つたのだ。さあれ、一億國民は、戰爭終る日の宮城前に、どのやうな光景を眼にせんことを思ひ、苦しき一日一日を、この樂しい夢を追ひ、希望に胸を膨らませて戰つて來たことか‥‥提燈行列、旗行列‥‥歡聲‥‥笑顔‥‥あゝ、聖上の白馬に召させられて、二重橋上に出で立たせ給へば、百雷の萬歳、天地に轟きわたる‥‥夢寐にも描きし榮光の勝利のその日は、我れも我が子も、遂に見んとして見得ざることとはなつた。いま二重橋上、聖上の御姿も、拜せんとして拜されず、宮城の奧深く宸襟を惱まさせ給ふ、わが大君の尊き御姿のみ拜察せらるゝ畏さ、皇國の歴史、書き誌されてよりこの方、思へば未だ曾つてこのやうなことはなかつたのである。「今ヤ自存自衞ノ爲」と、米英に對する宣戰の大詔を下し給ひてより、こゝに三年八箇月、朝に夕に、民草の上に厚き大御心を埀れさせられ、遠き戰野に戰ふ將兵の上を思し召されては、侍從武官を御差遣あらせられたこと、幾度ぞ。空襲に民傷くと聞し召されては、また幾度か側臣を現地に御差遣し給うた。さらに去る三月十八日には、帝都焦土の一角に立たせられて、民の苦を御親らの苦しみとし給ひ、この戰勝たではの御覺悟を固めさせられたのである。その間、緑濃き大内山に劫火の狂ひしこと、一再ならず、しかし畏くも、天皇陛下には、國民、難を避けて地方に疎開するなかにも、皇城に踏み止まらせられ、政務をみそなはせ給ひ、幾百萬の皇軍を統帥し給うたのである。

 大東亞戰爭、日に我れに不利、遂に民族の保全、一億赤子のことに御軫念あらせられての御聖斷、「朕、何ヲ以テカ、億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ」との大御心を拜察し奉りては、正坐する身を、またも嗚咽に伏せる私であつた。この大君のもと、わが忠勇の將兵は、身を鴻毛の輕きにおいたのである。最期のその時も、「天皇陛下萬歳」を奉唱して、散りしいていつたのである。とは言へ、いま九段の社に神鎭まる護國の英靈に、我れ何の顔をもつてまみえよう。勝つと信じた戰ひであつた。あの昭和十二年七月七日より、「天に代りて不義を撃つ」と、高らかにも歌ひ、歡呼の旗の波に送られ、大陸を血に染めた若者、ガダルカナル・タラワ・マキン・アツツに、「皇國の必勝と安泰を祈念しつつ、全員壯烈なる總攻撃を敢行す」と、硫黄島に玉碎した栗林忠道大將以下の將兵、近くは沖繩に、三千年の歴史を穢さしめじと、牛島大將を陣頭に、醜の楯と斬り込んで果てたわがつはもの達、我も我もが勝利を祈り、必勝を信じて、最後の血の一滴までを、大君に捧げ奉つたのである。さらにまた若く可憐なりし特攻隊員よ、思ひは千里に馳せて、涙はなほもとめどもなく袖を濡らす。今着る私のこの服も、かつて從軍のその時、あの兵隊たちと共に進軍を續けたときのもの、常に勝利の喜びと共にあつた。生きながらへてこの日に際會し、悲涙を啜つて濡れる運命の戎衣、それを身にして、宮城前に額づくけふの我が身、英靈を偲び遺族を思つては、「五内、爲ニ裂ク」との御言葉に、身の震へはとどまらぬのである。英靈よ、許せ、我らは戰つた。戰ひ鬪つて、しかも忠誠なほ足らず、遂に聖斷を仰いで、干戈ををさめねばならなくなつたのである、胸を灼く無念の痛恨、しかも大君は宣はせ給ふ、「時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」と、無邊の聖慮、身にしみて、自づから埀るゝ頂‥‥すゝり泣く聲あり、身を距たる數歩の前、あゝ、そこにも玉砂利に額づいて、大君に不忠をお詫び申し上げる民草の姿があつた。私は立ち上がつて、「皆さん‥‥」と叫んだ。「天皇陛下に申し譯ありません‥‥」、それだけ叫んで、聲が出なかつた。だが、私は一つの聲を聞き、二つの聲を耳にした、「わかります」、「私も赤子の一人です」、「この上、どんなことが起らうとも‥‥」、この聲はそれだけ言つて、もうあとは嗚咽にかき碎かれた。日本人、あゝ、われら日本人、上に萬世一系、一天萬乘の大君の在します限り、われらの心は一つ、如何なる苦しみにも耐へぬき、いつかの日、けふこの日の歴史の曇りを拭ひ去り淨め掃ひ、三千年の歴史を再び光輝あるものたらしめるであらう。天皇陛下には、畏くも、「茲ニ國體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ」と仰せられてゐる。あゝ、聖上を暗き世の御光と仰ぎ、進むことこそ、我ら一億の唯一つの道ぞ、涙のなか、その喜びに觸れて、私は「やりませう」と、大きな聲で叫んだ」と。


○愚案、此の日の「朝日新聞」は、天皇陛下の御机にもひろげられてゐた由であります(侍從長・前明治神宮宮司・藤田尚徳海軍大將『侍從長の囘想』昭和三十五年十月・講談社刊より)。

  • [3]
  • 靖國神社に奉る祭文

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月21日(日)18時23分37秒
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●皇學舘大學名譽教授・田中卓博士『祖國再建・わが道を征く六十餘年』下卷(平成十八年十二月・田中卓評論集第四卷・青々企劃刊)に曰く、「

 その(田中博士主宰の「國史研究會」)解散を前にして、私共は揃つて靖國神社に參拜し、吉田松陰先生と全英靈の神前に、左の祭文を捧げて、互ひの覺悟を改めて誓ひ、神靈の照覽を祈つたことでした(因みに祭文は、神主の祝詞とは別に、誰でも奉ることが許されますので、小泉首相の靖國神社參拜に際しても、この祭文を捧げ、眞意を堂々と奏上することができます。首相の參拜に難癖をつける外國があれば、自らの祭文を公表して、この祈りのどこが惡いのか、開き直れば、理非曲直が明瞭となりませう)。

【祭文】

 維れ昭和四十七年十一月十一日、國史研究會の同學、各地より參會し、靖國神社の本殿に於いて、謹んで吉田松陰先生の神靈を祭り、併せて皇國護持の道に散華したまへる英靈を迎へ、われらの決意を披瀝して、照覽を乞ひ指南を仰がんとす。

 顧みるに、昭和乙酉の大難、國家顛覆の危急に際會してより、早くも二十有七年を經たり。その間、敗戰の屈辱を忍びつゝ、大詔を奉戴して、堪へ難きを堪へ、祖國の再建を誓ひしわれら同胞は、互ひに相勵まし相扶けて、今や經濟産業の面においては、空前の繁榮を將來せり。これ一重に神助冥々の加護として、深く感謝の誠を捧ぐ。

 然しながら一たび眼を精神思想の分野に轉ずれば、所謂戰後のヤルタ・ポツダム體制の魔酒に醉ひ癡れた浮薄・虚僞・卑怯の風潮は、一世を覆ひ、堅實・正義・勇氣を尊ぶ日本傳統の精神は、影を沒するに至れり。ましてや占領政策基本法といふべき日本國憲法の主權在民・奴隷偸安の思想は、尊皇殉國の大義を湮滅し、忠臣義士の歴史を抹殺すると共に、自主獨立・國家防衞の氣概を喪失せしめ、遂には不當なる武威に屈し利欲に迷ひて、國際信義を忘却する醜態を露呈せり。嘗て先生は、『抑も人の最も重んずる所は、君臣の義也。國の最も大いとする所は、華夷の辨也』と道破され、兩者の共に失はれたるを痛嘆したまひしが、當今の世情、また百有餘年の昔日の如し。

 われら菲才なりと雖も、幸に恩師の誘掖を得て、先生の高教を仰ぎ、皇國の再興を期すること、歳あり。遂に昭和四十二年十一月十八日、在京大學の學生・有志の青年と相會し、こゝに國史研究會を創立せり。願ふところは、祖國の歴史と傳統を正しく繼承して先哲に學び、道義の指し招くところ、險難の一路を辭せず、皇國命脈の護持に一切を捧げんとするにあり。よつて發會の日に、われらは先生の『士規七則』を拜讀祖述して、これを本會の準則と定めたり。

 嗚呼、『忠』と『孝』と、『義』と『勇』と、われら微力なりと雖も、今後益々決意を新たにして、先生の嚴訓を恪守し、『死して而後ち已む』の四字に對面して、恥なからむことを期す。先生の神靈、冀くは、更に鐵槌を下して、われらを切磋したまひ、護國の英靈、またわれらを善導して、過誤なからしめたまへ。後學田中卓、再拜敬つて白す」と。


○愚案、「因みに祭文は、神主の祝詞とは別に、誰でも奉ることが許され」る由。

  • [2]
  • 靖國神社祭神

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月21日(日)16時46分12秒
  • 編集済
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●所功博士『「靖國祭神」の要件と合祀の來歴』(藝林會『藝林』平成十八年十月・第五十五卷第二號)に曰く、「

 いはゆるA級の方々については、長い年月を要した。そのいきさつを、神社から提供された記録などにより、少し詳しくみておかう。まづ昭和四十一年二月八日、厚生省援護局調査課長から、靖國神社調査部長あて「靖國神社未合祀の戰爭裁判關係死沒者に關する祭神名票の送付について」と題する文書が送られた。その内譯は、「東京裁判關係(A級)死沒者・十二柱」(刑死七柱・獄死五柱)を筆頭に、軍人・軍屬(B・C級)内地刑死者が五十三柱、同内地獄死者が二十九柱(講和發效前十三柱と發效後十六柱)、非軍人・軍屬の外地死沒者五十五柱(刑死・病死四十三柱と未決死沒十二柱)など、合計二百五柱である。

 そこで、神社としては、いはゆるA級の方々も、B・C級と同樣に合祀すべきところ、この前後から「靖國神社國家護持法案」の實現に向けて、日本遺族會や國會議員有志などの動きが活發になり、おそらく世論(國民感情)に配慮して、A級のみ先送りせざるをえないことになつたのであらう。

 たとへば、靖國神社創立百周年の昭和四十四年、やうやく六月に國會へ上程された同法案が、八月に一旦廢案となつたことをふまへて、九月の崇敬會總代會(十名)では、「未合祀の東京裁判受刑者十二名(刑死七名・獄死五名)、内地未決中、死亡者十名(病死六名・自決四名)の取扱につき諮り、將來は合祀すべきものと考へてゐるが、現段階に於いては、暫く其の儘として、‥‥差支へない」といふことで、「全員の意見一致」をみてゐる。

 ついで、翌四十五年六月の總代會でも、ある總代から、「A級だけ合祀しないことは、極東裁判を認めたことに‥‥なると思ふ」と、合祀促進の意見があり、別の總代から、「宮司が決定すべきでないのか」との意見が出された。それに對して、宮司(代表役員)の筑波藤麿氏が、「時期は愼重に考慮し、(總代會の)御方針に從ひ、合祀することとする」と返答してゐる。そして同四十九年に、五度目の靖國法案が廢案となつた後も、先送りされ、結局、同五十三年三月に、同宮司が病沒するまで(總代會の方針内定から九年間)、實行されなかつたことになる(注十九)。

 このやうな延引措置は、「靖國祭神」合祀の基本的・慣例的な在り方と、著しく異なる。合祀對象の祭神選考(要件確認)は、戰後も一貫して國家(厚生省)が、都道府縣の協力により行つてきたのである。そしてその公的な「祭神名票」(昭和四十六年からは、神社からの照會依頼に對する囘答資料)を送付された靖國神社では、私的な判斷をすることなく、それに基づいて速やかに合祀するのが當然(だから勝手に分祀するやうなことも不可能)とされてきたのである。

 そこで、同五十三年七月、第六代宮司として就任した松平永芳氏は、從來のいきさつを調べて、關係者に手順を確かめ、十月六日の崇敬者總代會で、「A級戰犯十四名の合祀については、昭和四十五年六月三十日の總代會で、時期を見て合祀する旨、決定されて居り、今囘これを合祀することとした」と報告し、總代全員の諒解をえた。ついで、早速、翌七日には、「來る十七日、新祭神合祀の儀、上奏。翌十八日、勅使御差遣申請のため、池田權宮司、宮内廳侍從職及び掌典職へ出向す」と、『社務日誌』にみえるとほり、例年のごとく、新しい「合祀者名簿」を、宮内廳の侍從職と掌典職へ持參してゐる(注二十)。

 その上で、十七日夜、「支那事變・大東亞戰爭、合計千七百六十六柱」の中に、A級の十四名を含めて、その靈璽簿が奉安され、やうやく合祀されたのである。そして翌十七日の「秋季例大祭當日祭」終了後、松平宮司が挨拶の中で、「昨夜、靈璽奉安祭、即ち未合祀の神靈を合祀申し上げる祭典が執り行はれ、‥‥その中の十四柱の神靈は、白菊會(A・B・C級殉難者遺族會)關係の方々」である旨を説明してゐる(松平永芳大人『「靖國」奉仕十四年の無念』平成四年・靖國神社々務所刊に所收の付載資料「昭和五十三年十月十八日・秋季例大祭當日祭に於ける宮司挨拶」)。‥‥

(注十九) この筑波藤麿氏は、‥‥東大文學部の國史學科を卒業して、同期の坂本太郎博士等と「六國史索引」等の作成も手がけ、昭和二十一年から三十二年餘り、靖國神社の第五代宮司を務めた。その間の數多い事績で、大變ユニークなものが二つある。
 一つは、創立九十周年の同三十四年十月、從來「臣下」の「軍人・軍屬」を、全員「靖國大神」一座に祀つてきた靖國神社で、それ以外に、「北白川宮能久親王」(明治二十八年、臺灣に近衞師團長として出征中、薨去)と、その直孫「永久王」(昭和十五年、駐蒙古軍參謀として出征中、薨去)の、「皇族御二方」を、「新たなる御靈代(神鏡)に招魂申し上げ、内々陣左側に一座を設け」、合祀したことである。
 もう一つは、同四十年七月、本殿に向つて左奧の「元宮」脇に、「鎮霊社」を建立し、「嘉永六年以降、幾多の戰爭・事變に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命斷ちにし命等にして、靖國神社に祀られざる諸命の御靈」一座と、「西暦一八五三年以降、幾多の戰爭・事變に關係ひて、死歿にし諸外國人の御靈」一座とを併せ祀つてゐる(共に無名不特定の集合靈であつて、本殿の「靖國大神」とは、全く異なる)。

(注二十) 徳川義寛氏口述『侍從長の遺言・昭和天皇との五十年』(平成九年[二月]・朝日新聞社刊)によれば、「靖國神社の合祀者名簿は、いつもは十月に神社が出して來たものを、陛下のお手元に上げることになつてゐたんですが、昭和五十三年は、遲れて十一月に出して來た」とある。しかし、これは完全な記憶違ひか、思ひ込みであつて、十月七日に、池田權宮司が、宮内廳侍從職と掌典職を訪ね、「合祀者名簿」を持參してゐることは、文中に引いた『社務日誌』に明らかである。
 なほ、聞き手の岩井克己記者が加へた解説の末尾に、「天皇は、昭和五十年十一月二十一日を最後に、靖國神社には參拜してをらず、春秋の例大祭には、他の皇族が出席してゐる。天皇が『今後、參拜せず』の意向を示したのは、A級戰犯合祀が報道され、内外の批判が出る前からだつた、と證言する元宮内廳幹部もゐる」とみえる。これは、「富田メモ」の信憑性を檢討するにも、重要な『證言』であらう。私も、昭和天皇は、『終戰三十年』(昭和五十年)を區切りとして(その親拜が、國會で公式か私的か論議されたことも配慮され)、『今後、參拜せず』と考へてをられたものと拜察する」と。


●所功博士『靖國神社みたま祭の成立と發展』(平成十九年十一月・『明治聖徳記念學會紀要』復刊第四十四號に所收)に曰く、「

 時間的にも空間的にも無限定に近い、氏名のわからない無數の戰沒者は、靖國神社本來の「靖國大神」(幕末維新期から大東亞戰爭までの、氏名明白な招魂・合祀ずみの戰死者)と、全く異なる。また「みたま祭」の前夜、臨時に招かれ慰靈されてきた「諸靈」(大東亞戰爭で亡くなつた、上記以外の一般戰沒者)とも、著しく異なる。それにも拘らず、これらの「御靈」を二座にまとめて、「鎮霊社」といふ常設社殿に鎭齋した以上、そこに年中毎日お供へを差し上げ、毎年七月十三日に例祭を營むことになつたのである。これは、戰後、一宗教法人になつても、明治創建以來の「聖旨」を奉ずる靖國神社の在り方として、かなり異質の冒險といはざるをえない(注二十)。‥‥

(注二十) この社殿で、「萬邦の英靈をも合祀」(筑波宮司の言葉)するといふやうなことが、神社神道の教義上、本當に可能なのであらうか。管見によれば、靖國本來の「英靈」と範疇を異にする、國内外の一般的な「戰爭犠牲者」の“みたま”を靜かに慰めるところと解される。さうであれば、むしろ古來の佛教的な「怨親平等供養」に類する慰靈のひとつとして意味があらう」と。



○「鎮霊社」については、別テーマスレ【靖國の祈り】第三に、夙に一兵士樣の解説があります。

  • [1]
  • 行幸・勅祭の榮譽

  • 投稿者:備中處士
  • 投稿日:2008年 9月21日(日)16時05分52秒
  • 編集済
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【勅祭社】

 天皇陛下の思召により、特に勅使を差遣して、祭祀・奉幣をらしめらるゝ御事を勅祭、之を拜受する神社を勅祭社と申し上げる。平安末期以來の二十二社の如き、即ち是なり。御一新以降では、明治元年十月二十八日、武藏國一宮氷川神社へ行幸親祭せられ給うて以來、漸く其の數を増し、何れも其の例祭に當つて、勅使を賜り、奉幣せしめらるゝに至る。なほ勅使御下向は(伊勢の神宮が年三囘を別とすれば)、靖國神社は年二囘、其の外の勅祭社は年一囘、中には七年ないし十年に一囘の由。

○官幣大社=賀茂別雷神社・賀茂御祖神社・石清水八幡宮・春日神社・氷川神社・熱田神宮・出雲大社・橿原神宮・明治神宮・(朝鮮神宮)・鹿島神宮・香取神宮・近江神宮・平安神宮
○別格官幣社=靖國神社
○臨時奉幣=官幣大社宇佐神宮・官幣大社香椎宮


【御歴代の靖國神社行幸】

【明治天皇】都合、八囘(内、御名代一囘)。
明治七年一月二十七日午前十時
同八年二月二十二日午前十時
同十年十一月十四日午前十時
同二十八年十二月十七日午前十時三十分
同三十一年十一月五日午前十時三十分
同三十八年五月四日(御名代として伏見宮貞愛親王を御差遣)
同三十九年五月三日午前十時
同四十年五月三日午前十時

【大正天皇】都合、四囘(内、御名代二囘)。
大正四年四月二十九日・臨時大祭
同八年五月二日・鎭座五十年記念祭
同九年四月二十九日(御名代として閑院宮載仁親王を御差遣)
同十年四月二十九日(御名代として東伏見宮依仁親王を御差遣)

【昭和天皇】都合、二十八囘(御名代は無し)。
昭和四年四月二十六日・臨時大祭
同七年四月二十七日・臨時大祭
同八年四月二十七日・臨時大祭
同九年四月二十七日・臨時大祭
同十二年四月二十七日・臨時大祭
同十三年四月二十六日・臨時大祭
同十三年十月十九日・臨時大祭
同十四年四月二十五日・臨時大祭
同十四年十月二十日・臨時大祭
同十五年四月二十五日・臨時大祭
同十五年十月十八日・臨時大祭
同十六年四月二十五日・臨時大祭
同十六年十月十八日・臨時大祭
同十七年四月二十五日・臨時大祭
同十七年十月十六日・臨時大祭
同十八年四月二十四日・臨時大祭
同十八年十月十六日・臨時大祭
同十九年四月二十五日・臨時大祭
同十九年十月二十六日・臨時大祭
同二十年四月二十八日
同二十年十一月二十日・臨時大招魂祭
同二十七年十月十六日
同二十九年十月十九日・秋例大祭
同三十二年四月二十三日・春例大祭
同三十四年四月八日・鎭座九十年臨時大祭
同四十年十月十九日・終戰二十年臨時大祭
同四十四年十月二十日・御創立百周年記念大祭
同五十年十一月二十一日・終戰三十年臨時大祭

【今上陛下】平成二十年九月現在、行幸は拜し奉らずと雖も、春秋例大祭の年二囘、畏くも勅使御差遣あそばさる。


●掌典・川出清彦翁『祭祀概説』(昭和五十三年五月・學生社刊)に曰く、「
 實に(天照)大御神は、わが國の祭祀を祭祀たらしめた方であり、一方、神祇關係の確立、神それぞれの神徳を尊ばれて、その位置をあたへられたことは、誠に偉大なる神徳と拜さざるをえない。また地上の大己貴命に對して、神としての位置、いや、祭られる神としての位置を與へたことは、今日、靖國の神が、陛下よりその位置をあたへられ、陛下より祭祀される神となられることの、遠い縁由をなすもので、ここにも、大御神の神徳の一の表れを拜する次第である」と。


○愚案、靖國神社勅祭以來、行幸を賜ること、都合四十囘の多きを拜し奉り、恐懼至極の御事と謂ひつべきなり矣。然し靖國神社行幸は、凡そ三十四年間、絶えて無く、而して世間は喧しい。待て、思ふがよい。石清水八幡宮の如き御祖神にあられても、行幸(平成九年八月十九日)は百二十年ぶりと仄聞し奉る(石清水八幡宮宮司・田中弘清翁『石清水八幡宮ご親拜の大御心』(『今上陛下を仰ぐ――平成の御代に生きる國民として』平成十六年三月・日本青年協議會刊・『祖國と青年』論文選集2所收))。實に然り、行幸を賜るてふ御事は、實に難有い御事であり、靖國神社は護國之神靈の坐す磐境なりと雖も、臣下の神靈であつて見れば、畏くも行幸を賜りなば、靖國之大神(鈴木孝雄元宮司の喧傳する呼稱)、如何に忝なみ喜び給ひなむ。

 日本の神社祭祀は、天皇陛下の祭祀大權に基づくもの、臣民・草莽の吐々するを許さゞるものであり、殊に靖國神社は、明治天皇特段の思召しによつて祀らるゝ神社である。松平永芳元宮司は、其の在任中、深刻なる反省遠慮を以て、現在の状況下では、「行幸を絶對にお願ひしない」(『讓ることのできない傳統の一脈』)と申された。只管ら行幸を懇祷し、御待ち申し上げるはよろしいが、天裁し給ふのは、あくまで雲上であらせらる。我々は百年でも五百年でも、只管ら御待ち申し上げてをればよいことなのである。穴賢こ、穴尊と。


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