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> No.600[元記事へ]
金剛樣
本道に、それはゝゝゝ、ご無沙汰でありました。ご多忙の御由、亦た祝着に存じます。
塾頭の御病ひ、不安が募つて參ります。病床のパソコン、壞れたのかな〜、と。此の杞憂を吹き拂はうと、小生は、パソコンに向つてをる次第です。
しかし金剛樣、彦星・織姫では無いのですから、せめて毎月の滿月の交には、何でも宜しいので、御聲をお聞かせ下さい。那須の権太樣が、「金剛樣は、どうされたのですかね。あのお方のお話も、私は好きでしたね」と、『過去完了形』で云はれますもんですから、御氣を惡くされたのではと、氣を揉んでをりましたところです(笑)。
小生も、「金剛さま〜」と叫ばうと思つたのですが、大人げ無いので、我慢してをりました。でも、金剛樣の來駕を心待ちにしてゐる一人です。 匆々拜具
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本日、不二歌道會に御頼み申し上げてゐた、『不二』の「神屋二郎代表の歸幽と葬祭概記」・「神屋二郎大人命追悼集」(平成二十年七月・八月號)の御惠送を拜受しました。中に、神屋二郎翁『影山塾長と大東塾――「古事記精講」について』(平成十年七月の口述原稿)があり、其の筆に「平泉澄先生」の文字を發見して、平泉先生を慕ひ、其の末席を汚す者として、とても嬉しく思ひました。曰く、「
七十數年といふ人生を歩み來つて痛切に思ふことは、人の縁の不可思議さである。影山塾長は、神縁を説かれた。その神縁が最初に訪れたのは、私(神屋翁)が中學二年生の時、久保田收先生といふ、東大史學科を出たばかりの若い先生が赴任されてきたことであつた。久保田先生は、高名な平泉澄先生の門下である。日本の道に關心のある者なら、誰でも平泉先生の名前は知つてゐると思ふが、戰後、唯物史觀が日本の歴史學界を占めて以來、平泉先生は皇國史觀の元兇として排斥されてゐる。ともあれ、我々戰前の日本の道を學ぶことに志を向けた若者にとつて、自信を以て指針を示された方の一人であつた。その高弟である久保田先生に、物心ついた一番初めに學ぶことを得たのは、幸せであつたと思ふ。私の全人生は、ここから出發したのである」と。
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