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ひとすぢの草莽の道、貫きて ── 嗚呼、三宅萬造翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月18日(水)19時32分12秒
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  ●齋主・神谷俊司翁『三宅萬造大人命葬祭詞』(平成八年六月十五日。岡山國民文化懇談會・倉敷文化懇談會『まほろば──追悼・三宅萬造大人命──ひとすぢの草莽の道貫きて』平成八年八月・第百十七號に所收。祭主・三宅將之氏。齋員・高森明勅氏)

 道の長手を前後(さきあと)嚴かに固めつゝ、御供仕へ奉りて、此の齋庭(ゆには)を、暫しの御座所(みましどころ)と、御柩舁据(かきすゑ)奉る。言はまくも由々しき、三宅萬造大人命の御靈の御前に、齋主・神谷俊司、謹み敬ひも白さく。

 あはれ、顯身(うつしみ)の人の壽命(いのち)許り、頼み難き物は有らざるべしと、豫ねて思ひ定めし事乍ら、汝大人命や、此の三年程(ばかり)、御病重く惱ませ給ひてより、醫師(くすし)の術(わざ)の及ばむ程の看護(みとり)の法(すべ)を盡しゝかども、幽界(かくりよ)の神の奇靈(くしび)に定まれる御壽命(みいのち)の限りにや有りけむ。此の六月十二日と云ふ日(影山正治塾長の誕生日)、午後一時四十八分、御病、遂に革(あらたま)り、御齡(みよはひ)の程、八十六歳を一世の限りと身罷り給ひしこそ、哀しくも亦た口惜しき極みなれ。

 夜もすがら仕へ奉りし、殯(もがり)の一夜は明けつ。動搖(どよ)みたる心も、漸々(やゝ)に靜まれば、今し盡きぬ名殘りを惜しみ奉らむ禮代(ゐやしろ)と世に坐しゝ折節に、稱へ給ひし種々の味物(ためつもの)置き足らはして、熟々(つらゝゝ)在りし日の事共、思ひ偲び奉れば、大人命は、明治四十四年八月九日、岡山縣淺口郡連島村西之浦の里に、三宅金兵衞大人・惠以刀自の愛子(まなご)と生(あ)れ出で給ひ、御性(さが)も直く正しく聰く坐して、健けく生長(おひた)ち給ひ、西浦尋常高等小學校を卒業(ことお)へ給ひしより、大阪に在る那須藤商店に入社、織物卸の商ひに從事し給ひしが、軈(やが)て獨立して、布帛加工業に專ら勞き給ひ、漸く岡山に進出し給ひて在りしも、時、恰も聖戰(おほみいくさ)の經緯(ゆくたて)に伴ふ統制により、其の經營も、漸々に難(けは)しく成りもて行けば、遂に故郷に歸農し給ひぬ。

 斯くは在り經(ふ)る程に、道念(みちおもひ)、默(もだ)し難く、夙(はや)くより同人誌等に據りて、其の志を伸べ給ひてしが、昭和十七年、凝成塾々長横田左輔大人の指導に依りて、大東塾々長影山正治大人と相識り給ひてよりは、立てし心の一筋に、神の道こそ、誠の道と戴き持ちて、御國護りの鋭心(とごころ)振ひ起し給ひ、大東塾々外生として、新國學歌道誌「ひむがし」に據りて、敷島之道を學びに勤しみ給ふ歳月を重ね給ひて、昭和二十年、如何なる禍神の爲業(みしわざ)にや、身は岡山空襲に罹災して、生死の間を彷徨(さまよ)ひたるも束の間にて、御國の上に在りては、聖戰を遂に失ひ、國史(ふみ)の上にも、例(ためし)なき由々しき状と成りぬれば、堪へき思ひは有れど、終戰大詔(おほみことのり)を直(ひた)に畏みて、戰後の歩みを歩み初め給ひしが、八月二十五日、霹靂(はたゝがみ)の鳴り動搖もすが如き、大東塾十四烈士自刃の報に接し給へば、豫ねてより道の友と、深く結び給ひてし芦田林弘(もとひろ)烈士の遺族を護り扶(あなゝ)ひ、直ちに上京し給ふものから、長谷川幸男塾監より、十四烈士分骨の奉齋を委嘱せられてよりは、斯の烈士等の高く尊き御志の程こそ、國民の心に示標(しるべ)し給ふ、祖國再建の大き據り處と思ひ定めて、大和心の丈を高み學び給ひし事の盡々(ことゞゝ)打ち傾け注ぎ給ひて、人に説き自ら勞き、草莽の間に伊都の雄叫び踏み建て給へば、道の友、相寄り合はす歳月の祈りは、昭和二十五年には、十四烈士顯彰碑、其の後、若宮道場の建立に顯現(たちあら)はれ、昭和五十五年に、蒼穹道場の竣工、昭和五十七年には、影山塾長歌碑に凝りて、今に都羅山上に聳え、目覺ましき大人命の御功績(みいさをし)かも。

 更に道の上に在りては、數次に亙る宮中勤勞奉仕團・神宮參拜植林奉仕團を結成實施し給ひ、又た御遷宮募金活動・紀元節・靖國神社國家護持法制定請願運動・憲法改正運動に携りつゝ、長く不二歌道會岡山縣支部長・大東神社總代の重き務めに勤み勞く旁ら、昭和四十九年には、歌集「草かげのいのり」を上梓(三宅萬造歌集・十二月刊。又た『三宅萬造全歌集』平成十八年六月刊)する等、久方の天行く月日の、清き明き御心に、人と在る道を、直く正しく踐ませ給ひしかば、知る人、是れを讚へて止まず。天地の神々も愛で給ふものから、次々高き神の御位に進み給はん事、明白(しる)くこそあれ。

 又た御家に在りては、昭和九年、トヨ子伊と夫婦の契り合はせて、今日の祭主將之伊を始め、男(ひこ)三人(みたり)・女(ひめ)三人(將之・章文・昭三・教子・桃子)を得給ひて、庭の訓(をしへ)もすがに、呉竹の性のすくゝゝと、各々世に立ちて在るも、大人命・トヨ子刀自命の御慈愛(みいつくしび)の賜物と、偲び奉り仰ぎ奉ると、是の由、告げ奉れば、御心に行末頼母しく諾ひ給へかし。

 今は敢果(はか)無き大人命の、其の上(かみ)の事共、思ひ綴れば、思ひは盡きず。然れども斯く樣にて、徒らに時を過しも敢へねば、世の常の法(のり)の隨(まにま)に、御遺骸(みなきがら)を火葬場(ひはふりのには)に移し奉り、火具土神の御徳(みいづ)に委ね奉りて、幽界に歸し奉らむ。葬儀(みはふりのわざ)仕へ奉らくと、親族・家族を始め、遠近(をちこち)より齋場(ゆには)も狹(せ)に參來列竝(つらな)める會葬(みおくり)の人等(たち)が、最後(いやはて)の御別れと進(たてまつ)る榊葉の露の玉串、執々(とりゞゝ)に匂へる花を手向くるにも、尚ほ散りゆく花に盡難(つきがて)の思ひして仕へ奉らくを、御心も穩(おだ)ひに享(う)け玉ひ、飽かぬ御別れに御心殘し玉ふ事無く、御跡も輕く、天翔り國翔りつゝ、御祖の神の御許に參上り、明(あか)な々ゝに鎭り坐せと、白妙の神掻き合せて、恐み恐みも告げ奉らくと白す。



●岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁「獻詠」

かげながら 通夜つとめんと 神前に 古事記卷頭 祈りてさゝぐ

おもかげを したひてこよひ 神前に 祈りさゝげる 古事記卷頭

ふつゝゝと 日ごとにまして 悲しみの 心の傷は 廣がりて行く

心の師 ゆきて日ごとに わが心 元氣の魂(たま)は くづをれてゆく

師の君の 聲朗々と 聞こえくる 古事記卷頭 わが胸を打つ

流れくる 古事記卷頭 師の君の 御聲きゝつゝ ひとり涙す

流れくる 古事記卷頭 師の君の 御聲きゝつゝ 涙流れき

都羅山に 惡衣惡食 恥づるなかれと 力をこめて 説きし大人はや

ぼろ着ても 常に清潔 つとむれば 恥づべき事は なしと大人説く

師の君の 言の葉重く せまりきて われのこゝろは くだけてちりぬ

葬儀終へ 空にひとすぢ 流れゆく 飛行機雲は 去りゆく大人か

師を思ひ みつめる白き その雲は 流れ消えゆき つらさいやます

心友の 深きなげきに 及ばねど 我もかなしむ 先師慕ひて

道行きに 迷ひし時に すくはれし 任じて立ての 大人の一言

志 ちひさけれども やさしさの あふるゝる教へ 背負ひて行かむ

わが寶 先師の手紙(ふみ)を とりいでて 讀みつぎゆけば 元氣滿ち張る

こよひまた 友のかなしみ 思ひつゝ 心はいたむ 深きなげきに



●岡田則夫翁「追悼文」

 御父上は、愚生にとつては、日本の富士山と同じでした。御話はしなくても、御會ひしなくても、在ると云ふ事だけで、それだけで、最期に頼れる、たゞ一人の方でした。平常、意識しなくても、幾度戴いた御手紙に、心はげまされたか知れません。スクラツプに入れて、いつも讀めるやうに、机のそばに置いてゐます。

 「(岡山縣愛國者協議會)通信」に對する返書の中でも、最もうれしかつたのは、御父上から戴く感想でありました。

 六月の月例會終了後、上田大兄より、御父上の病状の御樣子をお聞きしましたが、どうしても御見舞に行けませんでした。愚生の心の中には、元氣な御父上の姿しか殘せなかつたのです。

 訃報に接して、愚生の心の中にしめる、御父上の比重の重さを思ひ知らされました。



【三宅萬造翁・芦田林弘烈士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/840
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/874
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2003



 小生は、下記の女史の縁故にて、五草庵主三宅萬造翁に面謁が叶ひ、奇しびなる道福を得ました。且つ翁の神葬祭に參列させて戴くことが出來、翁が如何に敬慕されしかを目の當りに見たことを、今の如く覺えてをります。病床に在つては、毎朝、廣瀬武夫中佐『正氣の歌』を吟じてをられた御由。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t15/13

 而して平成二十八年十二月三日、三宅萬造翁の愛弟子の岡田則夫翁も、また「愛協會の月例會は止めますが、匹夫の志は堅持いたします」との言葉を殘して、昭和五十年來、四十二年間、累々として續けて來つた講席を閉ぢられた。岡田翁の人徳を慕ふ者は、我が陣營に於ける「岡山縣の良心なり」と云ひ、末席に連なる小生、鳴謝して已まないのであります。



●三宅萬造翁の晩年、恩顧を賜ひしてふ、伸風流吟詠會正吟館總本部の宗範・白神綱風女史の撮影『三宅萬造翁』(倉敷なる大原美術館のモネ繪畫『睡蓮』の前に於て。翁は寫眞嫌ひの由なれば、稀少の一葉なり)
  ↓↓↓↓↓
(PDFの寫眞からの掲示は不能。技術力なく、遺憾ながら斷念、獨り之を掲げて拜す)

●岡田則夫翁、竝びに岡山縣愛國者協議會に集ひし方々(平成二十七年十月三日。月例會の後)
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