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林房雄翁を偲ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月20日(火)22時55分33秒
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  ●林房雄翁の遺詠

不知火の 大阿蘇の野に 友ら集ひ 國の命を 語りけるかな(昭和四十年代作)

足摺の 黒潮の瀬は 愛(かな)しかり 風立たぬ日も 白く渦卷く(『浪漫』昭和四十八年四月號より)



●林房雄翁『勤皇の心』・『維新の心』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/8



●靖國神社權宮司・池田良八翁『慰靈祭祭詞』(昭和五十一年一月二十四日、於東京・九段會館ホール。追悼行事實行委員會編『林房雄大人追悼行事報告書』昭和五十一年三月刊に所收)

 新玉の年立ち返れど、庭に野に梅の蕾はまだ固く、北風は身に沁み渡る、睦月末の四日の今日しも、此の九段會館の大室屋を、嚴の齋場と齋ひ定め、暫し招奉り鎭め奉る、林房雄大人命の御靈の御前に、今日の齋主仕奉る、靖國神社權宮司・池田良八、謹しみ敬ひも白さく。

 往水の流れは速く、咲く花の生命短く、かにかくに現世の相は常なき中に、別けても人の生命ばかり、果敢なきものはなく、運命のまにゝゝ、如何ともせん術なきは、實に哀しく痛ましき事なるかな。

 あはれ偲び奉る、汝大人命や、明治三十六年五月三十日、豐後の國は大分市に、父・後藤瀧太郎大人、母・ヒデ刀自の一人眞名子として生れ出で坐して、御名を壽夫と言ひ、幼き頃より、御性質賢しく、家人等の深き慈愛を、御身一つに受け、將來に大き望みをかけられ給ひ、縣立大分中學校、第五高等學校、次いで最高學府の譽も高き東京帝國大學と、學問の道をひた進む中に、社會主義に意染り、林房雄と號して、勞働運動に身を潛め、度々獄舍に捕はれ給ひしが、明治維新の經緯を究明する裡に、肇國天下知食す天皇の遠世この方、承繼がひ來し大和國風に、魂觸れてよりは、底つ磐根に太敷き立つ、我が日本の國民と目覺め給ひ、秋、恰も皇國を廻る四方の海、次第に波立ち騒ぎ往きて、支那事變、更に古今にその例なき大東亞戰爭と、擴ごり往く時にしあれば、只管大和魂、砥ぎ澄ましつゝ、御著書『西郷隆盛』を始めとして、數々の警世の文卷を著述し、世に送り出し、昭和二十年八月、畏き大御心もて、大き戰の終りてよりは、天下、邪惡なる思想はびこり、國民の心、苅菰の紊れ荒びて、御國の状、いよゝゝ危ふき秋にしも、如何ともして、元の御國振りに立返さんものと、更に國内至らぬ隈なく遍巡り給ひ、或は數々の書を著はして、尊き御國の眞理を説き明かし、國體の尊嚴を教へ訓し給ひ、我が國民の往くべき道を示して、憂國の同志の心を結び成し給ひ、別きてもその名も高き『大東亞戰爭肯定論』に顯れ出でたる、汝大人の憂國の情に、感動けぬ者はなく、かにかくに束の間も撓まず緩まず、赤き心一向に、御國の爲に、伊曾はき給ひし、偉はしき汝大人命なれど、昭和四十九年頃より、御身勝れ給はず、數多の醫師の優れたる醫術の限りを極め、夫人・御子等の看護の業を盡し給ひしその效も空しく、去にし年の十月九日と言ふ日に、御齡七十二歳(ママ)を一世の限りと、幽世の本津御座に歸り給ひしは、巨き星の落ちしが如く、天下の人々、常夜なす憂ひに沈みしは、實に口惜しき極みには有れど、凡そこの日本に生を享け、樣々に迷ひつゝも、遂には直く正しき御國人となり、世にこの人ありと稱へられ、萬世に朽ちせぬ御名を殘し給ひしは、男子の本懷、これに勝るものなしとや言ひつべし。

 故汝大人命を、深く悼み慕ひ奉る諸人等には、如何でかも大き功績を仰ぎ奉りつゝ、百日の御祭をも兼ねて、御靈慰めの御祭仕へ奉らんものと、遠き近きを呼び交し、八十日日は有れども今日を撰び、この祭の場に、御前も狹らに參列なり、御寫眞かゝげ奉り、心盡しの御饗津物、又時自久の花をも供奉り、奏で奉る樂の音も、忍び々ゞに玉串捧げて拜み奉る状を、御心も平穩に聞食し給ひて、奇しき御靈は、天翔り國翔りまして、御遺族の上は申すも更なり、皇國の往手、げに事繁き世界状勢にありて、汝大人命の精神を心とし、勤み勵む諸人等の上を守導き給ひて、萬世の爲に太平を開かんと宣らせ給ひし、天皇の大御心に、こたへ奉らしめ給へと、乞祈み奉りつゝ、謹しみ敬ひも御祭治奉らくと白す。



●影山正治翁『昭和維新と林房雄』(同上に所收)に曰く、

「昭和十一年、二・二六事件による轉向、昭和十二年、支那事變による、更にその前進。さういふ當時の林房雄氏の轉向だけでは、私はまだ駄目だと考へた譯であります。即ちそこで、私が強く申したのは、意味の上から申しますと、

「單に赤旗を捨てゝ、日の丸に歸るといふだけでは、駄目なんだ。これは平面的轉向に過ぎないんだ。だから、もつと立體的な轉向に徹しなければ、あんたは、本當に日本に囘歸し復歸し、日本の益良雄として、眞の『文の士』としての、日本の文人として大成することは出來ないぞ。だから、頭だけの、理論だけの形式轉向、平面轉向でなく、『天皇陛下に、眞つ直ぐ歸る』といふ、その轉向に徹すること、『神に歸る』といふ、そこに徹しなければ、あんたの轉向は、またいつか、あんたの性格からみると、元に戻るぞ。それが證據には、あんたは、宮城皇居の前を通る時に、自ら頭が下がるか、頭を下げて居るか。こゝで、本當に、いのちがけで『ミソギ』と『祈り』と『行』を、からだでやつたらどうだ。だから、例へば眞つ直ぐに、明治神宮に行つてお願ひをして、一週間なら一週間、默つて斷食祈願をするといふやうなことを、まづしてみたらどうだ」

といふ意味のことを骨子として言ふた譯であります。

 この強烈な私の提言に對して、林房雄氏は、とぼけたり、そつぽを向いたりせずに、それを直面して受けた譯であります。そこに私は、「林房雄の本質」があると思ふ。昨日までマルキストで、共産主義者で、日本の叛逆者で、唯物主義の無神論者であつた本人が、七歳の年少者の、一介の浪人である影山正治の言ふことを、全うに受け止めたといふこと、これは大變なことです。私は今でも、さう思ふ。その意味において、私は「林房雄の本質」を信じたい。色々紆餘曲折や、行きつ戻りつや、ジグザグはあつたが、である。そこで林房雄氏は、直ちに文藝雜誌『新潮』の(昭和十三年)七月號に、『美と力の詩人』といふ一文を書いて、

「最近、私は、影山正治といふ、何ら今迄交りのなかつた、年少の一青年から、これゝゝの公案を受けた。私は、これに對して直面したい。事實、私は、皇居──宮城の前を通つて、自ら頭が下がつたことがない。考へてみれば、頭を下げたこともない。然し頭の下げる林房雄にならなければ駄目なんだ、といふことが、私にも判つた。そして今の私には、明治神宮に、眞つ直ぐに行つて、一週間の斷食祈願をすることは出來ないが、然し必ず、この眞劍な提言に對して、身をもつて應へる覺悟である」

といふのが、その骨子であります。更にそれを受けて、私の書いたのが、『續・林房雄論』(『怒濤』昭和十三年五月號の『林房雄に與ふ』──林房雄論の續編)であります。そこで、林房雄氏と私、及び私どもとの魂、生命の道の交りが出來た譯です。私どものやつて居つた日本主義文化同盟には、間もなく倉田百三氏が、更にそれに續いて、淺野晃・保田與重郎・尾崎士郎・三浦義一等々の諸氏が入つて來てくれました」と。



●田中忠雄居士『林房雄の思想』(同上)に曰く、

「林さんの奧樣から聞いた話ですが、臨終の時に、とめどもなく涙を流してをられたさうです。『泣かない人だつたのに』と、奧さんは語られました。皆樣も、泣いた林さんといふのは、知らないでせう。作品を讀んでもお判りと思ひますが、林さんは、大豪傑なんです。にも拘らず、臨終の床で、ポロヽヽ涙を落してをられたので、奧樣とお孃樣が、『どうしたのですか』といはれたさうです。さうしたら林さんが、かすれた聲で、『あゝ、もう俺は、かうなつてしまつて、日本の爲に、何もできなくなつた』といつて、涙を流されたさうであります。『あゝ、もう何もできない』‥‥。私共は、この話を聞いて、凝然として言葉が出ませんでした。息を引取られる最後の最後迄、林さんは、全生命を熱燒し盡したのであります」と。



 愚案、父が戴いて來た、平泉澄博士『少年日本史』を拜讀してゐた小生は、早速、書肆にて、林房雄翁『神武天皇實在論』を手にし、忽ち翁に熱狂し、『浪漫』の定期購讀者となつた。此の雜誌中の「白井明」は、翁ではないかと臆測して、的中させたほど、大好きだつた。然し其の謦咳に接することは、遂に叶はなかつた。翁の逝去を知つて‥‥、涙した。而して林房雄翁から、幸ひにも友清磐山大人の名を知るを得、また磐山大人からは、宮地水位大人『異境備忘録』の拜讀てふ縁故を戴き、神道の道奧を垣間見ることが出來、平田大壑先生の神道の何たることの萬分の一かを知るを得た。小生は、本道に道福者だ。小生の若き折の、拙いものゝ、愛しき想出である。
 
 
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