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昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の英斷

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 6日(木)18時29分57秒
  通報 返信・引用 編集済
  ~承前~

 今の度びの賊軍合祀に關して、「宮司の判斷」につき、其の論據として、昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の名を擧げてゐるやうなので、舊稿と重複するが、確認の意味で、今、こゝに自由民主黨の、卑劣なる責任轉嫁、救ひ難き不見識を暴いておきたい。時には、松平宮司の「祕密裡の獨斷」のやうに、貶める理由に使はれるからである。現代の政治家、眞に姑息なりと謂ひつ可し矣。

 松平永芳宮司は、靖國神社中興の祖と仰がれる大人にして、寒林平泉澄先生の内弟子である。次は、松平宮司、義憤の肉聲。宮司徳川康久は、松平宮司の爪の垢でも呑むがよい。靖國神社宮司職を拜命した以上、松平・大野兩宮司の如く、靖國神社の事歴を、徹底的に調査研究してから物申す可く、不見識なる政治家・評論家の言動に惑はされてはならぬ。



前稿【注】昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の英斷──陸軍省合祀基準に則つて、軍務嚴修。有志に乞ひ奉る所は、松平精神、即ち靖國神社正統護持の雄叫びを恢弘せられむことを。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/4
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7

靖國神社が、政治問題の渦中に卷き込まれることを避けること、このことは宮司の私が、常に心を碎いてきてゐるところである。二百四十六萬柱の神々を背に負ふ身としては、これは當然の心得であつて、マスコミに對してコメントしない理由は、『ジャーナリストは、言つた通りを傳へない』といふ不信の念が根柢にあるのは勿論だが、それ以上に、私の發言が元になつて神社が騒々しくなつては、祭神に對して申譯が立たないといふ氣持がはたらくためである。

 したがつて昨年の大晦日に朝日新聞が、『A級戰犯合祀の意向、靖國神社宮司が示唆』の見出のもとに、あたかも私がインタビユーに應へたかのやうな記事を掲載したが、根も葉も無いつくりごとで、そのやうな事實は全く無い。年が改まつて正月六日の讀賣新聞朝刊は、『A級戰犯合祀取りやめ、自民、靖國に要請、神社側は拒否』といふ記事で一面を飾つたが、これも事實ではなく、靖國神社が、自民黨とかゝる取引をしたことや相談に應じたことなど、一切無い。たゞし自主憲法期成同盟の清原事務局長が、自民黨の金丸幹事長の使者に立ち、『A級戰犯を、祭神から外すことはできないか』と、權宮司の許に言つてきたことが一度あつた。勿論、『そんなことはできない』と答へた。神道の本來の考へ方からいへば、一度靖國神社に祀られた上は、御靈はそこに留りますのであり、たとへお移し申し上げても、それは分靈に過ぎないからである。この讀賣の記事は、卒讀すると、神社と自民黨に裏交渉があるやうな印象をあたへるが、事實無根といふほかはない。『火の無いところに、煙は立たない』と俗にいふが、こと靖國神社に關する限り、火の無いところに煙の立つてゐるといふのが、現在の情況である。このやうにいはゆる『A級戰犯』の合祀についての論議はやかましいことだが、これは自民黨のトツプ筋が、無分別なことを口にするために、世間一般が混亂してゐるに過ぎず、靖國神社は正式な手續にのつとつて、『A級戰犯』の合祀を行つたまでのことである。

 講和條約發效後の昭和二十八年五月十八日から八月十日に亙る期間、第十六國會が開かれたが、この國會において、『東京裁判受刑者等に關する特別措置』が審議された。これはいはゆる『戰犯』(役所の呼稱では『法務死亡者』)も、戰沒者と全く同樣の取扱をするといふ議案の審議で、七月二十三日の衆議院厚生委員會で決議され、この決議に基いて、恩給受給資格を持ついはゆる『戰犯』に對しては恩給法により、それ以外の『戰犯』に對しては遺族等援護法によつて、それぞれの遺族に對し、戰沒者遺族に對する場合と變らない待遇がはかられるやうになつた。この體制によつて、厚生省は戰後を開始したのだ、と言つてよいだらう。『法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法および恩給法の適用について』といふ、昭和二十八年九月十五日付の京都府民生部から送られてきた通知が、資料として私の手許にある。その内容は要するに、昭和二十八年四月一日の時點に遡つて、『戰犯』の遺族にも恩給あるいは年金が下給できるはこびとなつたから、『厚生大臣宛に、遺族年金請求書をお出しなさい』といふ内容の通知で、同樣な公文は、各地方自治體から管内に居住する『戰犯』遺族の許に、それゞゝ屆けられたに相違ない。この立法措置により、いはゆる『戰犯』は、戰沒者と同等の資格をもつに至つた。この立法と行政の措置に沿つて、靖國神社は對處してゐるに過ぎない。

 それにも拘らず、若年議員ならいざ知らず、自民黨のトツプ・レベルのお歴々が、靖國神社の獨斷的行爲であるかのやうな口吻を洩らすに至つては、言語道斷、一體、何を仰言つてゐるのか、もう少し勉強願ひたいと言ひたいところである。靖國神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時點を以て、『戰犯』として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである。その際、『戰犯』に冠せられたA級・B級・C級といふ形容は、總て聯合國側が向ふで勝手にランキングしたものに過ぎず、當方には、何等かゝはりのない事柄に屬する。

 靖國神社は、然るべき法的根據によつて、『昭和殉難者』を合祀申上げた。こゝに昭和殉難者と呼稱するのは、新聞ジヤーナリズムが『A級戰犯』と呼び、公文書では『法務死』と呼ばれる、東京裁判で亡くなられた方々のことである。戰犯などといふ心ない言葉を、神社は、到底許容することができないし、法務死といふ言葉も、官廳間の用語としてはそれでよいだらうが、當方で使ふにはどうも落着きが惡い。そこで色々思案した擧句、明治維新の際、國に殉ぜられた方々を幕末殉難者・維新殉難者と呼稱してゐる當社記録に徴し、昭和殉難者とお呼びする旨、昭和五十三年十一月二十三日の『宮司通達』で、社内に徹底させた。

 この昭和殉難者十四柱の御靈を含めて、計百七十六柱を合祀申上げたのは、昭和五十三年、秋の例大祭の時であつた。昭和二十八年四月から、然るべくお祀り申上ぐべき方々を、この時點まで放置してゐた理由は、當初は「東條さんの名前は、國民感情に、相當刺戟が強いだらう」といふ、靖國神社と厚生省の配慮に基いたもので、それで合祀が暫く見送られてゐた。私が宮司に就任したのは、昭和五十三年七月のことだが、その八年ほど前の昭和四十五年六月三十日に、靖國神社の總代會で、ある方が、『東條さん以下の方々の御靈を、いつまで放つておくんだ』と發言し、それに對して、當時は靖國神社國家護持運動の盛んな時であつて、時期が適當ではないから、然るべき時期を見計らつて合祀する旨、前任の筑波宮司が、總代會に囘答をしてゐる。

 はからずも宮司を拜命することになつて、私は過去の神社記録、總てに目を通した。この議事録を見るに及んで、宮司預けになつてゐる事柄だし、國家護持法案も流れて、機を見る必要は何も無いから、就任早々三ケ月、秋の例大祭で昭和殉難者の合祀を、總代會の了承を得て斷行した。就任早々で、いさゝか荷が重かつたが、その時の氣持は、今やつてしまはないと、二・三年經つて合祀申上げたときに、『お前は就任以來、その間を、どういふつもりで運營してゐたんだ』と問はれたときに、答に窮するであらうと思つたからにほかならない。新聞は、半年後の春の例大祭にこのことを知り、クリスチヤンの大平首相の參拜と絡めて、『A級戰犯を、ひそかに祀つてゐた』と報じたが、戰前であれば、『官報』によつて合祀の神々を報じたわけだが、戰後にはさういふ手段は無い。合祀後、遺族に通知を差上げることで、御了承いたゞいてゐるのが現状であり、『ひそかに、どうかう』といふ性質のものではない」と。



「いはゆるA級戰犯合祀のことですが、私は就任前から、『すべて日本が惡い』といふ東京裁判史觀を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考へてをりました。それで、就任早々書類や總代會議事録を調べますと、その數年前に、總代さんのはうから、『最終的にA級はどうするんだ』といふ質間があつて、合祀は既定のこと、たゞその時期が、宮司預りとなつてゐたんですね。私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいたゞいたのですが、今でも慣習によつて、上奏簿を御所へもつていく。さういふ書類をつくる關係があるので、九月の少し前でしたが、『まだ間にあふか』と、係に間いたところ、『大丈夫だ』といふ。それならと、千數百柱をお祀りした中に、思ひきつて、十四柱をお入れしたわけです。巣鴨で絞首刑になられた東條英機(元首相・陸軍大將)・板垣征四郎・土肥原賢二・松井石根・木村兵太郎(以上、陸軍大將)・武藤章(陸軍中將)・廣田弘穀(元首相)の七柱。それに囚はれの身や、未決のまゝで亡くなられた梅津美治郎(陸軍大將)・小磯國昭(元首相・陸軍大將)・永野修身(元帥海軍大將)・平沼騏一郎(元首相)・松岡洋右(元外相)・東郷茂徳(元外相)・白鳥敏夫(元駐イタリア大使)と、あはせて十四柱。

 その根據は明白です。昭和二十年八月十五日に、天皇樣のご命令によつて、われゝゝは一切の交戰行爲をやめた。しかし『むかうが撃ち込んできたときは、應對せよ』といふ、但し書がついていたんです。ソ聯が十五日以降に千島列島に上陸したので、應戰したのはその例で、相當な戰死者が出てゐます。九月二日に、ミズーリ號での調印があり、占領行政が始まる。そして二十六年の九月八日に、サンフランシスコで平和條約の調印がある。その發效は、翌二十七年の四月二十八日、天長節の前日です。ですから、日本とアメリカその他が、完全に戰鬪状態をやめたのは、國際法上、二十七年の四月二十八日だといつていゝ。その戰鬪状態にあるとき行つた東京裁判は軍事裁判であり、そこで處刑された人々は、戰鬪状態のさ中に敵に殺された。つまり『戰場で亡くなつた方と、處刑された方は同じなんだ』と、さういふ考へです。

 そして翌二十八年の十六國會では、超黨派で援護法が一部改正されました。それで、『いはゆる戰犯死亡者も、一般の戰沒者と全く同じ取り扱ひをするから、すぐ手續きをしなさい』といふ通知を、厚生省が出してゐるんですね。それまでの、いはゆる戰犯の遺族は、まつたく惨めな思ひをしてゐたんです。あまり知られてゐませんが、財産も凍結されてゐて、家を賈つて糧を得ることさへもできなかつた。それを、終戰直後の國會には、婦人議員が多かつた關係もあり、彼女たちが先頭にたち、超黨派で改正されたわけです。

 國際法的にも認められない東京裁判で戰犯とされ、處刑された方々を、國内法によつて戰死者と同じ扱ひをすると、政府が公文書で通達してゐるんですから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、『靖國神社は、僭越にも、御祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか』となつてしまひます。

 役所用語でいふと、戰犯で處刑された方は「法務死亡者」といふのですが、從來からの「維新殉難者」・「幕末殉難者」と使つてゐるのにあはせて、『昭和殉難者』とお呼びしようといふ『宮司通達』を出しました。

 十四柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると豫想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後、全く言はないと、これまた文句を言ふ人が出てくる。そこで合祀祭の翌日、秋季例大祭の當日祭と、その次の日においでになつたご遺族さん方に報告したわけです。『昨晩、新しい御靈を千七百六十六柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に』――ここを、前の晩、ずいぶん考へたんです。『東條英機命以下‥‥』といふと、刺激が強すぎる。戰犯遺族で結成してゐる『白菊會』といふ集りがありますので――『祀るべくして、今日まで合祀申し上げなかつた、白菊會に關係おありになる十四柱の御靈も、その中に含まれてをります』。さういふご挨拶をしたんです。すると、白菊會の會長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待つていらして、『今日は寢耳に水で、私が生きてゐるうちに合祀されるとは思はなかつた』と、非常に喜ばれた。

 それから半月後に、十四柱のご遺族すべてに、昇殿・參拜いただきたいといふ通知を出し、お揃いでご參拜いただいたと、かういふ經過でございます。そのころは、新間は知らなかつたのか、一切騒ぎませんでした。半年後の春季例大祭の直前に、大平クリスチヤン首相の參拜と抱き合はせで、いはゆるA級合祀をマスコミが大々的に取り上げ、大騒ぎいたしました」と。



「心すべきば權力への迎合。それでも、その翌年も、中曾根(康弘)さんは公式參拜したいと思つたけれど、取り止めたんだといふ。さうしたら、中曾根さんに近い讀賣新間から出てゐる『THIS IS』誌に、『靖國神社宮司に警告す』といふ一文がのつた。それも卷頭言としてです。光榮の至りといふべきでせう(笑)。讀んでみます。

『靖國神社當局は、政府も知らぬあいだに勝手に合祀し、國の内外の反發を呼んだ』――先ほど申しましたやうに、勝手にではなく、國會で決めた援護法の改正にしたがつて合祀をした。しかもそのとき、中曾根さんは、ちやんと議員になつてゐるんです。續いて『外交的配慮と靖國の合法的參拜の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が、松平宮司に對し、A級戰犯の移轉を説得したが、頑迷な宮司は、これを間き入れなかつたので、首相は參拜中止を選擇した。』

 頑迷固陋は自覺してをります(笑)。が、『A級戰犯』といふ東京裁判史觀をそのまゝ認めたうへ、邪魔だから合祀された御祭神を移せといふ。とても容認できることではありません。參拜をやめたのも、官司が惡いからだと、ひとのせゐにする。

『靖國神社は國家機關ではなく、一宗教法人であつて、政府の干渉を排除できるといふのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式參拜を求めるのは、越權・不遜である。』

 そんな人々には、案内出してませんよ(笑)。昔は權宮司が敬意を表して、總理に案内状をもつていつた。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時點では、そんな案内を出してゐません。同誌の結論は、かうです。

『頑迷な一人の宮司のために、靖國間題で國論を分裂させたのは許しがたい。かうした不合理を正せないなら、早急に適當な土地に、戰沒者と公共の殉職者を祀る公的施設を建設し、靖國神社による戰沒者獨占をやめさせるべきだ。その建設費のための國債の發行には贊成する。』

 『戰沒者獨占』なんて、御靈を何だと考へてゐるのか、まるでモノのやうに思つてゐるんでせうか。そんな腹立たしい例は、きりがありませんが、もう一つ紹介しますと、元外務次官で國策研究會理事長の法眼晋作氏の書いたものです。法眼氏は中國の公使に、『滿洲事變・日中戰爭は、わが國の貴國に對する侵略だから、貴國の青年諸君が詰るのは文句をつけない。しかし戰歿者を祀る神社を、首相以下が公式に參拜して、何が惡いのか』と話問したところ、中國の公使は、『同神社には、戰犯が祀られてゐるからだ』と説明した。それで、

『調べてみると、戰犯の人達は、昭和の殉難者として合祀されてゐる。これは筆者にとつて、大きい驚きであつた。一つには、筆者は、同神社は戰歿者のみを祭神としてゐると信じてゐたからであり、二つには、戰犯達は被害者ではなく、加害者であるからだ。中曾根首相は中國との紛爭を避けるため、戰犯者の合祀を止めるやう要請したが、同神社の宮司は、それを峻拒したといふ』。

とありまして、法眼氏は、さらに『東京裁判は國際法違反だから認めない。しかし戰犯は、日本を戰爭へ驅りたてた軍の横暴を阻止しえず、むしろ助長した』。さう述べたあと、

『日米戰爭も充分避けえたのであり、米國の要求した中國からの撤兵・三國同盟の無效化・南部佛印進駐の北への引き揚げは、すべて實行出來た筈なのだ』――つまり『ハル・ノート』の言ふ通り、アメリカの言ふがまゝにできたはずだ、と。『また交渉が行きづまつた場合、直ちに米國攻撃へ直進する必要もなかつた』――眞珠湾になだれ込む必要もなかつた、といふわけです。

 しかしこれは、結果の出た後代だからこそ言へることであつて、果して當時の状況で、本當にそんなことができたのかどうか。またアメリカの言ふ通りにしてゐたら、本當に大東亞戰爭は避けられたのか。あるいはもつと悲惨な事態になつてゐたかもしれません。アジアは依然として西歐の植民地だつたかもしれないし、逆にアジア全域が共産化してゐたかもしれない。歴史がどちらにどう動くかなんて、誰にも判らないことでせう。結果として、武運つたなく敗れたにせよ、おのゝゝの立場で國を思ひ、責を負つて、國のため命をささげた人々です。それを敵國が貼つた『戰犯=戰爭犯罪者』といふレッテルをそのまゝにして、あゝもできたはずだ、かうもできたはずだ、加害者だと、一方的に後代から裁く。それはあまりにも反史學的で、同情心のない見方だと思ひます。

と、こんなことを言ふからでせう、法眼氏は最後に、『靖國神社の間題の宮司を含み』――問題の宮司‥‥(笑)、『日本には、他にウルトラ・ナシヨナリスト(超國家主義者)乃至シヨービニスト(熱狂的愛國者)が多數存在する‥‥』。結局、私はウルトラのシヨービニストにされてしまひました、東條さん以下を合祀したといふことで。

 これまで述べたやうなことで、少し分つていただけたかもしれませんが、靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見『愛國』・『憂國』を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく『權力に迎合したらいけない、權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない』といふことを、次の宮司(大野俊康宮司)への一番の申し送りにいたしました。

 祖父の春嶽松平慶永は、時の大老井伊直弼と對決したのが、『安政の大獄』の引金となり、結局隱居、護愼處分を受けながらも、己れの信念を曲げなかつた。そんなことも時に思ひ出して過してきた、この十四年間でございました」と。
 
 
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