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靖國神社境内から、政治家を叩き出せ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 5日(水)21時02分34秒
  通報 返信・引用 編集済
   同志・下山陽太氏より、電話到來。癡呆の靖國神社宮司、遂に祭祀大權を犯し、反逆を圖らむとす、と。仰天情報『週刊ポスト』の記事を紹介せられたり。

 國立國會圖書館調査及び立法考査局『新編・靖國神社問題資料集』(平成十九年三月・國立國會圖書館刊)の第一に掲ぐるは、『癸丑(嘉永六年)以來、唱義精忠、國事に斃るゝ者の靈魂を慰し、東山に祠宇を設けて、之を合祀せしむ』(太政官布告・『法令全書』第三八五・明治元年五月十日・京都東山招魂社創建の御沙汰書)である。明治天皇には、何と仰せ出だされしか、能く見られたい。曰く、

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 大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ばされ度く、既に豐太閤・楠中將の精忠英邁の御追賞、仰せ出だされ候ふ。就ては、

癸丑以來、唱義精忠、天下に魁けして、國事に斃れ候ふ諸子、及び草莽有志の輩、寃枉、禍ひに罹る者、少なからず。此れ等の爲す所、親子の恩愛を捨て、世襲の祿を離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨、四方に濳行し、專ら舊幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或は搢紳家を鼓舞し、或は諸侯門に説得し、出沒顯晦、萬苦を厭はず、竟ひに身を抛ち候ふ者、全く名義を明かにし、皇運を挽囘せんとの至情より盡力する處、其の志、實に嘉みす可し。尚ほ況や國家に大勳勞有る者、爭(いかで)か湮滅に忍ぶ可けんや

と、歎き思し食され候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、且つ其の忠魂を慰めされ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等の靈魂を永く合祀致さる可き旨、仰せ出だされ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事。


**********



 また『靖國神社誌』(天覽・台覽を賜ふ。明治四十四年十二月二十六日發行・四十五年六月五日改訂再版。平成十四年八月、神社本廳教學研究所より「近代神社行政史研究叢書Ⅳ」として復刻影印)に收むる所の『關東鎭臺日誌』明治元年六月二日──諸道戰死の者、招魂合祭、千代田城大廣間に於て修行され、其の『祭文』に曰く、



**********


 懸卷くも恐き令旨を以て宣はく、天皇が大命にませ。宣はく、

鷄が啼く吾嬬の國に、仕へ奉らず、不禮なる(徳川)慶喜が罪を問はせ

と宣り賜ひて、大總督竝びに道々の軍の總督に任し賜ひ、日月の大御旗を降し給ひ、將士を依し賜へば、隨へる皇御軍は、倭手纏(しづたまき)、身も棚知らず、勇み健らひ、山往かば艸生す屍と、荒山の嶮岨き坂も、駒の爪岩根さぐくみ、海往かば水漬く屍と、八重浪の逆卷く灘も、大船に眞梶繁貫、進みに進めば、梓弓射向ふ者なく、武藏野の原の、薄の吹く風に、靡くが如く、其の首魁慶喜は、兼ねて恐み恐れて罪に伏しぬれば、江戸の大城に入りしかども、道知らず醜の奴の、五月蠅なす騒ぎ競ひて、大雪の亂るゝ如く、浮雲の散亂(あら)くる如く、東の國、諸々の道、此處の隈、彼處の岳に、屯み集ひて、尚ほ皇御軍に害なひ奉らむとす。

 故れ其の形を聞食して、更に御軍を班ち遣し、彼の山のそぎ、此の河の瀬に、追ひ拂ひ討ち窘めて、速けく功成しぬれども、亦た道々の御軍の中に、命過ぐぬる人等有りと聞食して、悔しび賜ひ和び給ひて、宣はく、

「恐き將士等の、身も棚知らず、いそしみ仕へ奉りしに依りて、此如く大きなる業は成し得し物と、歡び勇み御座しましつゝも、今、將士等の命過ぐぬる事を所思し食せば、古へ、楠のあそ(朝臣。正成公)が、國の爲めに仕へ奉りし勞きにも竝びぬべく思ほしめしつゝ、歎き賜ひ悲しみ賜ひ、御音哭かし賜はく

と宣る。又た宣はく、

恐き臣等の如く、如此く身を捨て勞き仕へ奉れる事をば、朝夕・夜晝と无く、歎き賜ひ悲しみ賜ひ、辛み痛み御座ますに依りて、いかで、其の魂の往方を、後輕く心も安穩に思ひ、安息まるべく慰め賜ひ治め賜はむとして、此の殿内を、假の靈床と祝ひ定め、神籬指し榮し、備へ奉る物は、青海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狭物、大野の原に生る物は、甘菜・辛菜・毛の和物・毛の荒物に至るまで、横山の如と雜へ取り備へ、此の千代田の片山に生ひ立つる五百枝榮木を折り取りて、明る和幣・照る和幣を取り付け、うづの太玉串と持ち添へて、備へ賜ふ大御幣帛を、足幣帛の豐幣帛と、請ひ給へりて、今日の此の御行事の床に、招ぎ奉りたる兵士の幸御魂・奇御魂、天翔り國翔り、天皇が御代をば、常磐に堅磐に守らひ幸はひ、仕へ奉る臣等を始めて、此の大城に集ひ侍らむ御軍の内にも、喪なく事なく、平けく安けく、彌や勤めに勤め、彌や猛びに猛ばしめよ」

と宣り給ふ、令旨を宣る。


**********



 靖國神社創建の聖旨は、靖國神社宮司・徳川康久、及び其の一味によつて、今、當に踏み躙られようとしてゐる。「討つ者も、討たるゝ者も、心せよ、同じ皇國の、人と思へば」とは申せ、抑も敕宣の大御言により、皇御軍を祭祀する齋庭が、別格官幣社・靖國神社である。

 徳川幕府・明治内戰の賊軍を慰靈す可からずとは、誰人も云はぬ。會津の悲劇は、孝明天皇の信頼し給ふと雖も、當今天子の日月錦之大御旗に抗し奉つた罪は、遂に免れざる所である。大西郷を崇敬すること、小生も人後に落つる所では無い。最近の研究では、大久保甲東は奸物小人にして、有馬義正先生を讒言、田中河内介を瞞着、之を謀殺して出世(西郷南洲顯彰會『敬天愛人』第三十四號・平成二十八年)し、且つ刺客を遣はして大西郷の殺害を圖り、大久保追討の擧に至らしむと云ふではないか。洵に皇國の悲劇、之に過ぐるものは無いと謂はねばならぬ。

 然し賊軍を慰靈祭祀する庭が、靖國神社では無いことは、聖旨の依つて來る所、明々白々である。此の道理が、何故ゑ分らぬか。「日本の爲め」ならば、皇師に反して、錦之御旗に抗するも已む無しとせば、國民道徳、何を以て樹てむとするか。夫れ靖國神社合祀の規準は極祕にして、陸軍省の内規に基づき、戰後も其の軍務を繼續嚴修する所にして、合祀基準を見直さんか、彼方は如何、此方は如何と、收拾は着く可からず、俄かフアンの政治家や呆けた新米宮司の出る幕では無い。

 靖國神社存立の危機、當に迫らんとす。常識的に見て、靖國神社總代會は、賊軍合祀を受付けぬと確信するが、何しろ「鎮霊社」の再開を認めた總代會だ。油斷はならぬ矣。幕府軍に、勤皇の志士を殺しまくつた新撰組まで、靖國神社に祀れとは、不見識極まりない──これら戰後人は、小説・漫畫の讀み過ぎにして、呆れ果てゝ言葉も失ふ。

 「日本の爲め」、「近代日本の爲めの志士」と申し、聖旨を無視して、私見を逞しうするならば、幸徳秋水は如何する、二二六の將校は如何する。「癸丑以來」も擴げて、「紀元以來」にするか。高山赤城先生は、物部守屋大連は、如何する。ついでに最近人氣の賊將、平將門・足利高氏も祀るのか。答へてくれ給へ。合祀は、本殿なのか、「鎮霊社」なのか、新しき祠なのか、教へて賜れ。

 靖國大神には、諾ひ給はざる所、亦た尊皇の亡魂も、聖旨を畏み奉つて、合祀を遠慮される所なれば、靖國神社正統護持を掲ぐる者、いかでか之を默視すべき。當に「保守の敵は保守」(松平永芳宮司)である。宮司徳川某や政治家共を、靖國神社から叩き出せ。私見我慾の爲めに、靖國神社を利用する者、或は調査研究もせず、不見識者に同調する者、決して之を許す可からず。文章亂れて不通、怒りが込み上げ、泪が溢れ來つて、筆が全く進まぬ。乞ふ、愚が微意を汲んで、此の義憤を共にせられむことを。血涙不具。



**********


●『靖國神社百五十周年、西郷隆盛や幕府軍の合祀計畫が急浮上』(『週刊ポスト』平成二十八年十月十四・二十一日號)

○「賊軍」も合祀なら、靖國神社の意義も一變

 來る平成二十九年に、創立百五十周年を迎へる靖國神社が、歴史的な大轉換點を迎へるかもしれない。靖國に祀られるのは、「國のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた當時の「國=明治政府」に刃向かつた幕府軍・會津軍や、西南戰爭で敗れた西郷隆盛らは、「賊軍」となるため、祀られる「資格」がない。

 だが、彼らの合祀を求める會を、國會議員らが立ち上げ、靖國神社に申し入れをするといふのだ。發起人を務める保守派の重鎭、龜井靜香・衆院議員が言ふ。

「日本は戊辰戰爭・西南戰爭といふ内戰を經て、近代國家に生まれ變はつた。當時は、薩長と幕府・會津が二手に分かれて對立したが、敗者がゐるからこそ、爭ひが鎭まつた。明治維新から百五十年も經つのに、内戰の死者が、『賊軍』として祀られないのはをかしい。そこで有志に呼びかけて會を立ち上げ、靖國神社に合祀を求める申し入れをすることにした。」

 歴史を繙くと、靖國神社のルーツは、明治二年に建てられた「東京招魂社」に遡る。戊辰戰爭・士族の亂などで命を落とした薩摩・長州軍らを、「官軍」として慰靈顯彰し、明治維新を偉業として後世に傳へるための社だつた。そのため官軍と戰つて破れた幕府軍・會津軍らは、「賊軍」とされ祀られなかつた。明治十二年に、社號が「靖國神社」に改められて以降も、「賊軍史觀」は變はつてゐない。

 これに一石を投じたのが、現在の靖國神社宮司・徳川康久氏である。第十五代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ徳川宮司は、徳川家康を祀つた芝東照宮に奉職した後、靖國神社の宮司となつた。「賊軍の長の末裔」が、「官軍を祀る神社のトップ」に就任したのである。

 二十五年一月の就任時、「幕末の動乱期、曾祖父の慶喜は、身を挺して朝廷と御所を守つた」と發言して注目された徳川宮司は、今年六月に、共同通信のインタビユーで、自らの「明治維新史観」を一歩進めて、かう語つた。

「文明開花といふ言葉があるが、明治維新前は、文明がない遲れた國だつたといふ認識は間違ひだつた、といふことを言つてゐる。江戸時代はハイテクで、エコでもあつた。」

「私は賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。ただ價値觀が違つて戰爭になつてしまつた。向かう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になつた。」

 「公式見解」を覆す、靖國神社の根幹にかゝはる大膽な發言だつたが、記事は一部の地方紙にのみ掲載されたのみで、反響は少なかつた。しかし本誌『週刊ポスト』七月一日號が、「徳川宮司『明治維新といふ過ち』發言の波紋」とのタイトルで、大々的に報じると、状況は一變し、靖國關係者や政界關係者に、大きな波紋を呼んだ。

○宮司は、「私も、さう思ふ」

 龜井氏も、本誌報道に影響されたと明かす。

「私は、以前からこの問題に關心があり、ポストの記事が出た後、徳川宮司に會つて、『それでは、具體的に靖國合祀を呼びかけますよ』と話した。三年ほど前、徳川宮司に、『賊軍が祀られてないのはをかしい』と尋ねると、『私も、さう思ふ』と言はれたことがあつて以來、ずつと構想を練つてゐた。」

 靖國神社への『合祀申し入れ書』は、すでに作成濟みで、こんな文面となつてゐる。

白虎隊や新選組・西郷南州(西郷隆盛)・江藤新平などの賊軍と稱された方々も、近代日本のために志をもつてゐたことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸靈が、靖國神社に祀られてゐないことは、誠に殘念極まりないことです。

有史以來、日本人が育んできた魂の源流を、今一度鑑み、未來に向けて憂ひなき歴史を繼いでいくためにも、靖國神社に、過去の内戰においてお亡くなりになつた全ての御靈を合祀願ふやう、申し出る次第です。

 龜井氏によると、今囘の申し入れには、森喜朗氏や福田康夫氏ら首相經驗者、二階俊博・自民黨幹事長ら與黨幹部、さらに野黨議員など、七十人を超える政治家の贊同を得てゐるといふ。

「山口(長州)出身の安倍首相にも、『申し入れ書』は渡してある。政教分離の原則があるから、立場上、『やれ』とは言へないだらうが‥‥。多くの政治家に受け入れられてゐるが、自民黨の日本會議系議員の何人かは、反對のやうだ。彼らは皇國史觀に立ち、『なぜ今さら、賊軍を祀るのか』といふ考へ方なので、話にならない(苦笑)。」

 この十月初旬にも、龜井氏・森氏、そして民進黨の原口一博・衆院議員の三氏が、靖國神社に赴き、徳川宮司に文書を手渡す豫定だ。

○會津は「戊辰戰爭の總括を」

 政界重鎭たちによる申し入れは、無視できない重みがありさうだが、そもゝゝ靖國神社への合祀は可能なのか。靖國神社は、この動きについて、「存じてをりません」とした上で、「當神社は、明治二年の御創建から終戰に至るまで、當時の國の合祀判斷に基づき、その都度合祀が重ねられてまゐりました。當時に遡り、その基準を變更することはございません」と、否定的だ。

 だが戰後、靖國神社は、國家機關から民間の宗教法人となつた。そのため、合祀の可否は、神社の最高責任者である宮司の判斷に委ねられる部分が大きい。昭和五十三年十月には、當時の松平永芳宮司の判斷【注】で、A級戰犯十四人が合祀されてゐる。龜井氏は、自信を見せる。

A級戰犯とは異なり、中國も文句は言はないだらう。神社と一體となつて事業を行なふ靖國神社崇敬奉贊會の理解が必要なので、同會の扇千景會長(元國交相)にも根囘しを進めてゐる。ただし最終的な權限は宮司にあるはずなので、徳川宮司の背中を押したい。

 今囘の申し入れについて、當事者の受け止めは樣々だ。明治維新後、司法卿として司法制度確立に盡力した江藤新平は、征韓論を唱へた西郷隆盛に同調して下野した後、「佐賀の亂」を起こして敗れた「賊軍」だが、佐賀縣選出の原口一博・衆院議員(民進黨)は合祀に贊同し、提出者を買つて出た。

「『亂』といふ表現は、支配者サイドからの觀點であり、佐賀縣民は、江藤の反亂を『佐賀の亂』ではなく、『佐賀の役』と言ひます。支配者側の一方的な見方ではなく、日本の夜明けのために命を失つた方々を、改めて評價するのは重要なことです。英靈を鎭魂する場である靖國に敗者を合祀することで、平和への祈りにもなるはずです。」

 一方、戊辰戰爭の「賊軍」代表、會津出身の小熊愼司・衆院議員(民進黨)は、「合祀には贊成」としつゝも、複雜な思ひをのぞかせる。

「戊辰戰爭では、會津側の戰死者が、長期間、放置されるなど、非人道的行爲もあつた。元治元年の蛤御門の變では、會津と薩摩が御所を守り、長州が御所に發砲した賊軍です。それなのに、維新後、その長州で維新への功績もない人物までが祀られたのは、明らかにをかしい。單なる官軍と賊軍の戰ひといふ見方を改めるためにも、合祀の前に、戊辰戰爭の總括が必要です。」

 會津藩が、戊辰戰爭で降伏した九月二十二日に、會津で行なはれる會津戊辰戰爭慰靈の集ひでは、さつそくこの話題が上がつたといふ。しかしながら合祀は、靖國神社の意義を揺るがしかねない問題を孕む。『靖國誕生――幕末動亂から生まれた招魂社』の著者で、歴史家の堀雅昭氏が指摘する。

「靖國神社は、紛れもなく明治維新の官軍對賊軍といふ戰ひの延長線上にある神社です。西郷以下、西南戰爭を戰つた面々は、鹿兒島の照國神社に祀られてゐる。それゞゝの故郷で祀られ、語り繼がれることで、賊軍として戰つた意味や、維新の『負の側面』が語り繼がれます。安易な合祀は、賊軍の行爲まで蔑ろにしかねない。なによりこれを認めたら、靖國神社が依つて立つ歴史的基盤が、をかしくなつてしまひます。

 贊否兩論が渦卷く靖國合祀。當の龜井氏も、敗者側の複雜な思ひを認める。

「新たに合祀する側の遺族の意向は聞きません。なかには、複雜な感情を抱へて、『もう、觸れないでくれ』といふ方もゐるだらうが、これまでも、合祀に遺族の了承は取つてゐない。われゝゝが崇敬の心をもつてお祀りするといふこと。合祀については、あとは宮司の對應を待つのみです。

 折しも平成二十八年の大河ドラマが「西郷隆盛」に決まり、賊軍側に注目が集まつてゐる。靖國神社の歴史觀と自らの信念の間で、宮司は、どのやうな判斷を下すのだらうか。


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【注】は、次稿にて、更めて述べてみたい。
 
 
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