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贅言三題。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年11月26日(木)22時24分23秒
返信・引用 編集済
  ●渡邉充侍從長『天皇家の執事――侍從長の十年半』(平成二十一年十月・文藝春秋刊)より

一、「(歌會始の儀の)召人として、特に印象に殘つてゐるのは、平成九年の歌會始に召された齋藤史(ふみ)さんといふ女流歌人です。齋藤史さんは、當時、女性の歌人としては、唯一の日本藝術院會員でした。父上は齋藤瀏さんといふ陸軍少將で、佐佐木信綱門下の歌人でもありました。人格者であつたので、二・二六事件を起こした青年將校たちが慕つて、事件を起こす直前にも御宅に出入りしてゐたことから、反亂幇助罪に問はれ、禁固五年に處せられました。齋藤史さんとしては、この經緯について複雜な思ひをお持ちだつたのに違ひありません。

 平成八年の夏、翌年の召人を齋藤史さんにしたいといふ、兩陛下のお氣持ちを受けて、私(渡邉侍從長)は齋藤さんに手紙でお願ひをした上で、お住まひのある長野市までお願ひに行きました。‥‥召人の件も、ご快諾いただきました。この年のお題は、「姿」でしたが、齋藤さんは、このやうな歌を詠まれました。

野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて

 歌會始のあとで、會場の隣の「竹の間」で、召人や選者・披講の所役の拜謁となつたとき、陛下が齋藤さんに、「この歌は、どういふことを詠まれたものですか」とお訊ねになると、齋藤さんは、「一樹といふのは、陛下のことを詠みました。これで、私は、二・二六事件について、心が晴れました。ありがたうございました」とお答へになりました。お側で拜見してゐて、陛下も齋藤さんも淡々としてをられましたが、とても感動的な光景でした。後に、『齋藤史全歌集』(大和書房)の解題に、歌會始の選者として、その場にをられた歌人の岡井隆さんが、陛下のお訊ねに、「史は、りん(愚案、凛ならむ)として聲を張つて、なにかと答へてゐらつしやる。わたしは、このお二人の問答を、ちよつとはなれた所からききながら、『うむ。これは天皇家との長いいきさつの、いはば和解の風景なのかも知れない』と」思つたと、この光景について書いてをられます」と。

 愚案、此の哥、齋藤史氏は、天子の一視同仁なる氣づきしか。然らば「私は、二・二六事件について、心が晴れました」てふは、要らぬ事であらう。渡邉侍從長は、之を無禮と見ず、「感動的な光景」と見る。岡井隆氏の「これは天皇家との長いいきさつの、いはば和解の風景なのかも知れない」と云ふに至つては、言語道斷、こゝにも皇室と臣民を、ともすれば主客對等と見る逆心が見えるのは、小生だけか。「和解」とは、何ぞや。臣民は、只管ら服ろひ從ひまつるのみ。諫むることあると雖も、何故に「和解」てふ言葉を必要としなければならないのか。戀闕に奔る將校を叱り止む能はず、都下騒擾を惹起したるを、唯だ詫びまつり、聖壽の彌長を乞ひ祈み奉るのみ而已矣。
 又た「天皇家」の辭の不可なるは、スレツド『皇室に對する敬稱を學ぶ』第一に掲ぐる、草地宇山翁「『天皇家』といふ言葉の不當性」の警戒を參看すべきなり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/1


一、「十一月二十三日、‥‥新嘗祭が行はれます。‥‥宮中三殿の西隣にある大きな建物(神嘉殿)で、ここでまづ二十三日の夕方六時から八時まで、「夕(よひ)の儀」が行はれます。さらにその後、三時間おいて夜の十一時から翌二十四日の午前一時まで、今度は「曉の儀」があります。つまり一晩に二囘、二時間づつのお祭があるといふことです。陛下は、夕の儀と曉の儀の計四時間、正座されたままで、新穀などを神々にお供へになり、お告文(つげぶみ)を奏上され、ご拜禮になるとともに、ご自分も新穀を召し上がります。二時間も正座を續けるといふのは、よほど正座に慣れた人にとつても、難儀なことです。

 陛下が御所の居間にをられる時、何かの用事で伺ふと、床の絨毯の上に正座をして、テレビをご覽になつゐることがありました。あるとき、新嘗祭のことをお話ししてゐると、「正座してテレビを見てゐるのは、新嘗祭のときに、足のしびれや痛みなどに煩はされず、前向きで、澄んだ、清らかな心で、祭祀を執り行ひたいと考へてゐるからだ」とおつしやつたことがあります。最近では、一年中、テレビをご覽になるときは、かならずさうしてをられるといふことでした。私も正座の練習は隨分しましたが、それは專ら肉體的な苦痛を、なるべく避けたいといふ次元のことであつて、陛下が、祭祀を執り行はれるにあたつての心の問題として、そのことに取り組んでをられるのとは全く違ふといふことを、強く感じました」と。

 愚案、偶々テレビから流れた所功翁の講話を拜見、其の引用せる辭、件の如し。尊き極み、畏み奉るのみ。下つて小生も、深く感佩、神習はんと欲す。蕃風に慣れた身にとつて、常に反省奮起しなければならぬ。


一、「平成十八年の春頃から、宮中三殿の耐震補強工事をすることになり、ご神體を一時的に少し離れたお假殿にお移ししたことがありました。その工事のため、平成二十年の春までの二年間は、お假殿で祭祀が行はれることになりましたが、お假殿は狭いところで、裝束に着替へられたり、三殿と同じやうな形で拜禮をなさる場所もありません。御神體は、明治・大正・昭和それぞれの時代に、お假殿に移られた例がありましたので、それを調べ、結局、陛下はモーニング、皇后さまはご參拜服(裾の長いお洋服)で、お假殿の前で拜禮をなさることになりました。

 かうして二年間は、それ以前とは違ふ形で祭祀が行はれましたので、これを一つのきつかけとして、工事が終はつて、ご神體が三殿に戻られた後も、何らかの形で、兩陛下のご負擔を輕くすることができないかといふことが、宮内廳幹部の間で話し合はれました。ところが、陛下は、「それは、筋がちがふ」とおつしやいます。「この二年間、モーニングで拜禮をしてきたのは、お假殿だつたからで、それがまた本殿に戻るのだから、拜禮のやり方も元に戻すのが、筋ではないか」といふことです。それはその通りで、陛下は筋が通らないことは、絶對に首を縱に振ることはなさいません」と。

 愚案、九重の雲近き邊りから仄聞する所、洵に恐懼して拜聽するのみ。「何らかの形で、兩陛下のご負擔を輕くすることができないか」てふは、宮中祭祀では通らない。感動ばかりで、何故ゑ大御心に沿ひ奉り、其の恢弘宣布に力めぬ。政治家があの樣なれば、宮内廳幹部の方々、頼みますから、しつかりして下さい。
 度び々ゞ引用して氣がひけるが、掌典・鎌田純一博士の尊話を、沐浴の上、拜讀して、最近流行りの似非保守の三文賣文に惑はされること無きやう、幾重にも御願ひ申し上げます。
  ↓↓↓↓↓
http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1710-04kamata.html
 

Re: 閑古鳥とは

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月20日(金)18時46分6秒
返信・引用
  > No.656[元記事へ]

静樣、初めてお聲かけいたします。

へえ、閑古鳥とは郭公の事だつたのですね。存じませんでした。お恥づかしい。
調べてみると、鳴き聲が寂しさうだから、だとか・・。
うーむ・・。さうかなあ・・。私にはあの聲は寧ろ靜寂とか清々しさに聞えるのですよ。ちいとも寂しげには聞えません。

支那由來の方がお話としては面白いです。天下泰平の象徴なら良いことではありませんか。この掲示板はそちらの意味といふ事で。

郭公や 淺間の裾が 雲を出づ(水原秋櫻子)
 

相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年11月20日(金)18時38分42秒
返信・引用 編集済
   平成二十一年九月十一日の塾頭『むすびに至る日々』に、相原修氏『現代の平田銕胤』(不二歌道會『不二』神屋二郎大人追悼集・平成二十年八月號)が掲載されてゐる。曰く、「

 現在、私は、微力ながら氣吹舍本の復刻を續けてゐる。これは『昭和の平田篤胤』と評された影山正治先生の思想信條をより深く理解するには、平田學の究明が必要であるとの、私なりの考へによつたものだが、神屋(二郎)先生はよく激勵してくださつた。今、私の自室には、影山先生の『近詠抄』と題する遺墨が掲げてある。これは神屋先生より、「影山塾長歿後の門人としての大兄へ呈す」と賜つたものである。隣には篤胤翁の肖像畫を掲げてゐる。

 國學を稱するに、世人は本居・平田の學といふ。しかし、私に於ける國學は、平田・影山の學なのである。毎囘刷り上つた復刻本を、塾にお屆けにあがると、『君はよくやるなあ』とおつしやり、神屋先生は常に暖かく勵ましてくださつた。‥‥

 私にとつて神屋先生は、まさしく現代の『平田銕胤』であつた。さうした先生のお姿を、後輩に言ひ繼ぎ語り繼いでゆきたい
」と。



 今日、同血社主・河原博史氏より、圖らずも相原修神主の『伊吹廼舍先生及門人著述集』十四部全十五卷(三袋の組包裝)を賜はつた。河原氏は、「相原修之命の御母堂より、形見分けとして、命が復刻版として世に出した、平田篤胤先生に關する書籍を多く讓り受け、又た生前の相原兄との友情に報いまつらむと、目下、追悼號を作成」してをられる由。洵に尊きかも、うれしきかも。小生は、かつて古本屋にて一つ々ゝ、大壑平田先生の和刻本を購入してゐたが、中には持たぬ御本も在る。美しき影印本、繙けば、墨、匂ふが如し。泣いて鳴謝し、之を寶藏した。こゝに相原神主の勳功を顯して、謹んで紹介の筆を執りたい。

遙かなる 友ゆ賜ひぬ 氣吹舍の 御書(みふみ)たまひぬ 尊きろかも
氣吹舍の 御ふみ弘むる 人は無し いづれ尋ねむ 神の府(みかど)に



■相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』第一集
一、荷田大人啓‥‥‥‥荷田東麻呂「荷田大人創學校啓」・平田銕胤版・平成十九年八月
一、赤縣太古傳成文‥‥平田篤胤・平成十九年十月
一、古史略‥‥‥‥‥‥角田忠行・平成十九年十月
一、古道訓蒙頌‥‥‥‥久保季茲・平成十九年十月
一、千字文‥‥‥‥‥‥渡邊重石丸・平成十九年九月

■相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』第二集
一、新刻・古語拾遺‥‥齋部廣成「古語拾遺」渡邊重石丸版・平成二十年正月
一、説文解字序‥‥‥‥許愼・平田銕胤版・平成二十年六月(柿之舍文庫・中澤伸弘氏藏本)
一、入學問答‥‥‥‥‥平田篤胤・平成二十年七月
一、古學二千文‥‥‥‥生田國秀・平成二十年五月
一、玉鉾百首‥‥‥‥‥本居宣長「讀本・玉鉾百首・附本末歌」・平成二十年六月

■相原修神主復刻『伊吹廼舍先生及門人著述集』第三集
一、靈能眞柱・上‥‥‥平田篤胤・平成二十一年正月
一、靈能眞柱・下‥‥‥平田篤胤・平成二十一年正月
一、天御中主神考‥‥‥渡邊重石丸・平成二十一年正月
一、童蒙入學門‥‥‥‥學則・平成二十一年正月
一、神徳略述頌‥‥‥‥久保季茲・平成二十一年正月

 愚案、相原氏の遺著復刻の義擧に歡び、泪して『童蒙入學門』を訓讀せざらむと欲すも能はざるなり。同行の士に乞ひ奉る、口誦の備へに供されむことを。スレツド『皇室に對する敬稱を學ぶ』第十六參看。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/16



【相原修神主】

 昭和四十五年五月八日生れ。相模國の御民。出雲大社相模分祠神職。平成二十一年九月六日、八甲田神社參拜・八甲田山頂に於ける祖國再建祈願祭・弘前竝龍飛崎に於ける松陰先生足跡巡囘・十和田神社參拜・平田篤胤先生墓所參拜へ、將に行かむとするの途次、不慮の車禍により歸幽。享年四十。
 

閑古鳥とは

 投稿者:  投稿日:2009年11月20日(金)16時37分14秒
返信・引用 編集済
  時計の間に記そうと思ったのですが、閑古鳥を追い払うつもりでこちらへの投稿です。

ネットでベストアンサーに選ばれた方のお答えの引用です。

「中国の伝説上の聖天子堯、舜、禹が、その施政について諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、朝廷の門外に太鼓を設けました。
これを諌鼓(かんこ)と呼びます。
しかし、善政を行ったので太鼓は鳴ることもなく永年の間に苔むし、鶏の格好の遊び場となっていたといいます。
つまり諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっているということで、まさに「天下泰平の象徴」であると言われています。

また調べてみると、閑古鳥とはカッコウのことを指すという話もあります。
古来、日本人はカッコウの鳴き声に物寂しさを感じてたようであり、松尾芭蕉の句にも、「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」というものがあります。
<引用終わり>

私は中国のお話が閑古鳥の由来のような気が致しました。

塾頭様 一日も早く無事にお帰りになるのを静は首を長くしてお待ちしております。
冬来りなば春遠からじ…。

三月には塾頭様の懐かしいお声が聞けることを切にお祈りしております。

備中處士様にもお元気を早く取り戻して戴きたくご回復をお祈り申し上げます。
 

塾頭、御奮鬪

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年11月19日(木)23時15分3秒
返信・引用
  備中樣

塾頭、御奮鬪とのこと承りました。
うむむ。食慾が出ずとなん・・。困りましたね。
私も備中さんの仰るとほり、梅が宜しいかと思ひます。出來るだけ酸つぱいヤツ。
南紅梅とかの食べ易くしてゐるヤツではなく、できれば個人の農家で自家用に干してゐるものが宜しいです。日の神のエキスを十二分に吸收してゐるものを・・。

塾頭はお若い頃、醫學關係に從事されてをられたのですか。軍醫で在られたのでせうか?
でもまあ、そのご正體は神祕のベールで結構です。私が私の本業を公表してないのと同樣に、備中さま始め色々な方も同じで御座いますからね。

さて、確かにこの板、閑古鳥が・・・。ところで閑古鳥てどう泣くのでせうね。カアカアはカラスだし、アホーは屹度アホウドリだ・・。スカースカーですか?
・・そんな鳥いないと思ひまーす!

備中さん、アレルギー性鼻炎ださうですね。それつて寢込む程にもなつて仕舞ふものなのですか?鼻水が止まらないのでせうか・・。想像するだけで辛さうです・・。御慈愛下さりませ。

ところで、もうすぐ祭です。明日も練習だあああ!
塾頭!鬪魂だああ!

以上!
 

七難八苦――塾頭「鬪病日誌」から

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年11月18日(水)16時39分30秒
返信・引用 編集済
   しばらく投稿できなかった。わけがあってのこと。それは疲労困憊で、ダウンしたからだった。

 いやいや、回復への道は甘くはなかった。思わぬ障害がでてきた。拒食症。

 これほどではないが、食欲をもたない。朝昼晩の病院食に、ほとんど箸がつかない。実際は、指の麻痺で箸は持てず、フォークとスプーンで食事を摂るが、摂取量は、ほんのわずかである。味も調理も、見事な病院食なのだが、食べる気が起きない。そのために身体は、栄養もスタミナもつかず、毎日のリハビリ訓練についていけない。

 栄養流動食を採用したが、それでも身体訓練にはついていけない。とんでもない伏兵だった。食欲が損傷をうけているという、致命的な打撃だった。十数人のスタッフが、私のために知恵を絞っている。どうしたら最良のプログラムを作れるか。

 今日のような雨の日(17日)は、殊に憂鬱がまして、体調は最悪となる。春先までには、何とか退院して、元気な姿で復帰するつもりでいるが‥‥。

 今日、私のためのチーム会議が開かれて、今後の最終目標を何処に設定して回復訓練を行うかが決められる。家族共々、出席である。

 退院目標は、二月一杯。食欲増進のために、胃腸薬の投与。右足用の鉄製マイ装具を発注。がんばるしかない。

 最近では院内で、「先生、先生」と、患者仲間に呼ばれている。折に触れ、神話と卑弥呼の違いを説いたり、日本の戦争の話をしたりしているからだ。また、戦後の日本の医学界の発展は、戦争に負けて、世界中の医学者から辱めを受けた先人が必死困苦して、世界に誇る心臓外科手術の粋を明かした榊原教授、麻酔学を構築した世界的権威・東大の山村教授らの奮闘のおかげだ‥‥などなど、看護士やケースワーカー相手に、若き日々に医学界に身をおいて獲得した知識を駆使して、話をしてあげている。

 女性看護士の身の上相談まで始めた。七難八苦のリハビリをよそに、個人的には若い院内の女性に囲まれて、結構楽しんではいる。

 靖國神社は、今はまだこれといった動きは出ていないようです。このまま波風もたたせず、今年は無難に年を越す様子である。

 九段塾も、少々閑古鳥が鳴く雰囲気もあるが、やむをえないでしょう。まあ、皆さん、気長にお待ちください。

 皆さんも、体の健康には十分気をつけて。それではまた。



**********


 久々の塾頭通信。新しい環境下、苦しさの中でも、塾頭は樂しんでをられる御樣子。塾頭、かう云ふ時は、やはり「梅」が宜しいですよ。ご家族に、梅――選りすぐりの美味しいものを持つて來てもらつて下さい。小生は、ひどいアレルギー性鼻炎にかゝり、床に伏してをります。東京に居たときは完治してをりましたが、故山に歸れば舊の如し。今年は特に酷く、症状が重い。「九段塾も、少々閑古鳥が鳴く雰囲気」、皆さんの奮起を御頼み申し上げます。床から這ひ上がつて參りました。本日は「日誌」掲上にて、お許し戴きます。
 

今上陛下在位二十周年をお喜び申し上げます。

 投稿者:kotohogi  投稿日:2009年11月14日(土)18時40分43秒
返信・引用
  天皇・皇后両陛下の御代、弥栄、弥栄に、寿ぎ、寿ぎ申しあげたてまつりまする。  

謹みて 天皇陛下御即位二十年を祝ひ奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年11月11日(水)21時30分37秒
返信・引用 編集済
   明日、午後六時過ぎ、

天皇・皇后兩陛下には、宮城二重橋上に出御あらせられ、畏くも

勅語を賜はり、また國民の

聖壽萬歳を御嘉納あそばさる
由、洵に恐懼の至りであります。


天皇陛下御即位二十年奉祝委員會による、帝都に於ける
天皇陛下御即位二十年をお祝ひする國民祭典は、午後二時三十分より。

 各位には、國旗掲揚の程、宜しく御願ひ申し上げます。

http://www.houshuku.org/

天皇陛下御即位二十年奉祝委員会
 

新天地――塾頭「鬪病日誌」から

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年11月 3日(火)20時04分56秒
返信・引用
   昨日、突然、次の転院先が決まり、5日には都内のリハビリ専用病院へ移ることになった。東洋一の規模を誇る新設備と陣容を誇るといわれているリハビリ病院である。ここへ入院するだけでも難しいらしい。入院希望者が殺到して、何ケ月も待たないと入れない所だと聞いた。

 入院審査もあり、この病院は、最初から私の入院先候補から外していた。保険の効かない個室が病棟の大半で、最低でも一日5万円の室料がかかる。最高は一日18万円という高額個室もある。到底、我々庶民には縁遠いリハビリ病院であった。

 それが一瞬の天界の運で、一人だけ、一般大部屋に空きが出た。その瞬間に、私の担当のケースワーカーが先方の事務方に電話をして、この情報をキャッチ。ただちに入所を希望し、入院申し込みを行った。そして、家族審査などがあって、なんと、転院が決まった。

 まさに御祭神が動いてくださったとしか思えない。

 現在、麻痺は毎日のリハビリと看護士たちの努力で、大分改善された。まったく動かなかった、誰の足だがわからなかった右足が、ある日、突然動いたのだ。

 私の意志が右足に伝達されたのだ。平行棒を両手で握って、ピノキオのような足取りだが、兎も角、二足歩行の真似事が出来たのだ。主治医もびっくり。病棟から何人も看護士がリハビリ室へ来て、「私が歩いている」という実態を見学にきて、大きな拍手をもらった。

 これなら、最終目標を二足歩行に設定できる。年取った身体には新しい筋肉がつきにくいだろうが、根性で、何とか再生してみせたい。

 志を高く持ち、モチベーションをあげていく。これがやはりどのような戦いの中でも忘れてはならないことだろうと思う。つねに自分に言い聞かせている。

 頚椎損傷は、脊髄損傷の中でも、最も重篤な症状をもたらす部位である。単に残存機能をより有効にするリハビリだけが重要なことではないと思っている。鬚の発生が変わったり、毛質がとげのようになったり、血が一気に下がったりすることで、貧血・立ちくらみが多発する。様々な変化を、身体にもたらしている。再生には多くの困難を克服しなければならない。

 転院先では、日曜・祭日関わりなく、365日毎日がリハビリ訓練だという。なんとか、くいついていく覚悟である。

 権太さん、大祭の写真、懐かしく拝見しました。また、なにか紹介してください。

 靖國神社も、この11月で幹部の大異動があったもようで、全部署のシャッフルは、なにか<大変>の前兆のような気がしないでもない。バサラ大名の血を引く京極宮司――権威・伝統を無視するその血筋が、とてつもない地殻変動をもたらすのか。私には興味津々(しんしん)たるもがある。



**********

 塾頭、新天地での鬪病生活、しかも宜しき病院にてのリハビリ、些か安堵いたしました。塾頭以前の御話に因りますと、これより三箇月、即ち新春・紀元節の頃には、蘇つて來られることを確信してをります。

 ご自愛ご專一を懇祷すると共に、パソコン入力が機能改善に宜しいやうでありましたら、是非とも、彌益のご誘掖ご指導を賜はらむことを乞ひ祈み奉ること、切なるものがございます。

 塾頭再起の爲めにも、各位一層の健筆を祈る次第であります。 九拜
 

病ひの效用

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年10月25日(日)21時01分16秒
返信・引用
   塾頭よりの短信に曰く、「

 病院生活をすると、看護士を心から尊敬し、その献身的な看護に対し、心の中で手を合わせてしまうと、大抵の人は言う。私も同然である。夜半、いつどんなときでも、ナースコールを押せば、「どうしました」と駆けつけてくれる。床ずれをなおし、マッサージを施し、安眠へ誘う。麻痺の強い患者には、ベッド上で尿道からチューブを挿入し、溜まった小便を吸引し、大便は尻の穴からビニール手袋をした指を差込み、腸から糞便を掻き出す。壮絶だ。この看護を受けている私の目からは、この光景は、凄絶にさえ思える。それを平然と推し進める彼女たちの姿に、尊敬と畏敬の念を抱かざるを得ない。みな、23〜4歳という、花満開の世代だ。

 現在、私はベッドから、彼女たちの介添えを受けながら車椅子に移り、トイレで自力で小便・大便を排出できるまで機能を回復している。無論、身体は、まだグニャグニャだが、未来に展望は出来る。

 九段塾の皆さんを筆頭にして、様々な人が私のために神社に行き、病気平癒を祈願してくれている。これほどうれしいことはない。何故、私がこのような病気状態に陥ったのか、その本当の所の意味は、まだ見えていない。が、そのうち、何かに思い当たる時が、必ずくる。それが楽しみだ。

 私は負けないし、まだまだやらなければならないことが待っている。
」と。



 塾頭、元氣小康の御由、何より嬉しく存じます。固より比較にならぬものゝ、小生も疲勞あれば、必ず頭痛、又た頸痛あり、塾頭の奮鬪に負けじと、痛みあるときは、祓を修し藥を服して、之に耐ふるに力めてをります。本年は、殊の外か痛み多く、齡ひのせいもありませうが、本來が蒲柳の質、病の種は盡き申さず、病痛と共に樂しみ居ります。ま、周圍が大切にしてくれるので、病も捨てたものでもありませぬ。呵々。
 

害国人参政権に関して

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2009年10月24日(土)12時21分20秒
返信・引用
  塾頭様に於かれましては、
鋭意ご養生にお勵み下さいますよう。
御早いご回復を念じております。

害国人参政権に関しまして、投稿させていただきます。

改めて思うのは、日本の政治家達には国家観。日本民族としての
意識の著しい欠如がある。
教科書問題でもそうだが、自虐史観を問題として、「つくる会」
が新しい歴史教科書を作製、教育の刷新を図ろうとしたのは2000年代に
入ってから、正直この間所謂保守派は、自分達の子供にどういう内容の
教育がなされてきたのか、まったく無関心だったといえよう。

愛国心を叩き込み、国家に忠誠を誓わせ、かつ領土に関しても
きちんと基礎から教える・・・・・こんな当たり前の基本中の基本を
保守派は長年放置し、軽視してきたことになる。保守派が馬鹿だから
選ばれる政治家達も、また馬鹿である。

その最たる者が、小沢一郎であり、金丸信であり、岡田克也であり、
鳩山由紀夫であり、河野洋平であり加藤鉱一、山崎拓、池田大作である。

中曽根康弘もしかり、石原慎太郎も類に同じである。
小泉純一郎も靖国神社を参拝したのは、賞賛するべきだが
皇室典範では、落第点であろう。

大和民族と、野蛮人の違いもわからぬようでは、
必ず日本の将来に禍根を残す。害国人参政権、断固阻止を!

政府・与党、「外国人参政権」で協議に着手 首相「近い将来の課題」
2009.10.22 22:02
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091022/plc0910222203014-n1.htm

鳩山由紀夫首相は22日、首相官邸で記者団に対し、公明党が26日召集の臨時国会に提出する永住外国人地方参政権(選挙権)付与法案に関連して「(政府側は)法案準備ができあがっていない。臨時国会ではなかなか難しいが、近い将来の課題として、提出も視野に入れることはある。われわれも考えていく必要がある」と述べ、政府・与党内で、同法案作成をめぐる協議に着手する方針を示した。早ければ来年1月召集の次期通常国会への提出が念頭にあるとみられる。

 ただ、与党内では社民党が積極的だが、国民新党代表の亀井静香郵政改革・金融相は「在日外国人の比率が非常に高い地域がある」などと慎重論を唱えている。民主党内でも賛成派、慎重派がそれぞれ議員連盟を作って激しく対立してきた経緯があり、今後の調整は難航が必至だ。

 この問題は22日午後に開かれた政府・民主党首脳会議の初会合で取り上げられた。鳩山首相と民主党の小沢一郎幹事長、菅直人副総理・国家戦略担当相、平野博文官房長官、輿石東参院議員会長らが参加し、席上、山岡賢次国対委員長が、永住外国人参政権を巡る公明党の動きを引き合いに「わが党の対応も考えてほしい」と提起した。

 平野氏はその後の記者会見で「衆院の新人議員が140人いるので、これまでの党の検討の経緯を含め、党内でしっかり議論する場面は必要だ」と述べ、政府・与党内での論議が不可欠との考えを示した。
 

国家的危機なのに。

 投稿者:kotohogi  投稿日:2009年10月19日(月)13時08分29秒
返信・引用
  はじめまして。さる方からのご紹介で、書き込みをさせていただきます。

2669年の今年、日本人は自らの手で国家的危機を作り出しました。
これほどの危機は日本の歴史上、稀なのではないでしょうか?

先の大戦でこの国の為に戦い命を捧げた、多くの御柱に、再びこの国の危機を救って頂くよう、希うばかりです。

生きている我々も、いよいよ戦わなくてはなりませんね。
 

明日はいよいよ

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月18日(日)22時34分59秒
返信・引用
  明日はいよいよ私の産土樣、今宮神社の秋期例大祭です。
精一杯やつて参ります!

塾頭に於かれましては、鋭意ご養生にお勵み下さいますやう。
今宮様には塾頭のご快癒、熱祷させて頂きたく存じます。

秋の宮 かけ替へもなき 人祈る(権太)
 

術後半月が過ぎて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年10月18日(日)18時11分48秒
返信・引用 編集済
   塾頭よりの短信に曰く、「

 頚椎損傷の術後経過は、問題なし。後遺症だけだ。損傷したものは、永遠に戻らない。現在、二足歩行は不可能と判断された。あとは仮死状態にある、残る諸機能を、どこまでリハビリで取り戻せるかである。

 今月中にリハビリ病院へ転院。三ケ月間訓練。それで、回復できる機能を拾い出す。そこで治療としては終了。退院というか、放免。きわめてはっきりしている。私は最大限、自宅で生活できる機能だけは取り戻したい。それが不可能なら、看護免許を持つ介護人を、個人的に雇用するしかない。

 ともかくこれから三ケ月間、リハビリ訓練に取り組む。身体からはほとんどの筋肉が失せた。くらげ状態だ。でも、へこたれんよ。もともと逆境には強い。

 身体健全でも、生きて、あと10年。九段塾を完成させるまでは死なない。今の日本を元に戻すために運動できるのは、自分しかいないと思っている。

 青春の話、宮城野の月、御庭番両氏、よかった。権太氏は祭り囃子一本、無法松の一生とも似ている。名前を変えた水夫氏。竹屋光晶氏、200cc乗り氏、静氏、金剛氏‥‥、皆さん、今後の投稿を楽しみにしています。

 すべて左手の人差指の爪だけで書く。九段塾直接の投稿は、未だつらい
」と。



 昨日、出雲大社倉敷教會へ、或る家事の相談に參りました。私事は緊急なもので無かつたのですが、小生も人の親であります故に、家事も爲すべき時は爲さねばなりませぬ。此の相談の爲には、前の晩から參拜して、順番を待たねばなりません。然し氣になるは、塾頭の御事。一昨日の夕べより登拜し、塾頭、如何でございせうかと、幽事を知ろし食す大神の神殿を遙拜し、獨り懇祷してをりました。前の掲示板の時代、塾頭に、小生は、確かに御會ひしてをります‥‥夢でありましたが‥‥。今囘は、御姿を顯はされませんでしたが、必ず音信を賜はるものとの確信は、堅持してをりました所、本日、件の御便りの通りであります。塾頭は、必ず復活し、「九段塾を完成」されるものと、信じて疑はぬ所であります。 九拜


追伸
 十日程前、本屋で、小林よしのり氏『ゴーマニズム宣言NEO2・日本のタブー』を立讀み、田中卓博士の近況が掲載されてをりました。思はず購入。曰く、
「(田中卓博士は)半身不隨で、リハビリ中の先生は、半分どころか、4分の1しか、身體の機能が果たさぬと嘆いてをられたが、その眼光は鋭い!」
「ぜひ會つて、教へを乞ひたい。わし(小林氏)のやうな素人でも、凄い人物から雰圍氣で學べるはずだ。‥‥高森明勅氏に同行してもらひ、伊勢の田中卓博士のお宅に伺つた。‥‥高森氏が、借りてきた猫のやうに萎縮してしまつてゐる。同じ學問をやつてゐる者なら畏れるしかない。わしは專門外の者だから、田中先生も優しいのだ。」
「『東京に歴史學者はゐない!』 田中先生の言葉だ。實際、東京の論壇では、專門外の知識人が、皇室や日本の歴史について、でたらめなことを發言してゐる。わしの直感は、やつぱり正しかつたのだ。」
「田中先生は、そんなこと(わしは先生に、『天皇論』の「大河の淺瀬や澱み」を指摘してもらへると思つてゐたのだが‥‥)には目もくれず、古事記・日本書紀と、古代史の關連を説明し始めた! 考古學の成果とも見事に符合する、完璧な文獻の解讀を聞いた! 自分の研究の成果を、次世代に傳へるために、先生は情熱を燃えたたせてをられる!」
「田中卓先生をなめてはいけない。その文獻解讀の徹底ぶり、考古學の現場を調査して、整合性を探る緻密さ、皇國史觀=惡の戰後大バツシングの中で、平泉澄を守り通した義の篤さ、鬪志のすさまじさ、思想の一貫性、どれをとつても、學者として超一流」と。

 田中博士の近況を通じて、塾頭の御事に思ひを致す。塾頭の御快癒を、只管ら乞ひ祈み申すこと、益々切なるものがあります。
 

薫陶を・・・

 投稿者:御庭番  投稿日:2009年10月14日(水)23時01分0秒
返信・引用
  『夢みることをやめた時 その人の青春は終わる』


それがしは、山国で生まれ育ち、自然とスキーに興味を持ち楽しんでいる内に、ガストン・レビュファの『天と地の間に』という映画に魅せられて、『山岳』にのめり込むようになり夏山・冬山問わず、山登り・岩登り・沢登りと、命を落としそうになったことも度々、やがてヒマラヤの8000m峰『ダウラギリ・8167m』へ行きたいと思うようになりましたが夢と現実の狭間で葛藤をし、33歳の時に3人目の子に娘が生まれて山岳から足を洗いました。

それから40歳くらいの時に、何故か『靖国神社』に足が向き3度目の参拝の時、初めて『遊就館』を訪ねて、あの時代の若者が母に当てて打った電報の、カタカナの辞世の句を見て驚き、その場に金縛りに遭い、ただただ動けず胸が熱くなりました。

『 ヤスクニノミヤ二ミタマハシズマレド オリオリカエレハハノユメジ二 』

その時に参道を歩いて帰る時の思いは、あぁ! 自分の20代は甘かったなッ!! と。


塾頭様の回復を祈念致し、お待ち申して居りまする。
それがし、薫陶を受けし、いまだ足りませぬ故。
 

『青春』

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年10月12日(月)16時23分20秒
返信・引用
  備中處士様

 塾頭様が皆様の青春時代のことを、お望みのようでございますね。
 少しニュアンスが違いますが、私が十代の頃より座右の銘にしていました、サムエル・ウルマンの「青春」をお届けいたします。

 訳は何種類か出ていますが、当時は十代でしたのでこの訳が一番しっくり来ました。
 扶桑のものではございませんので、備中處士様にご判断頂ければ幸いでございます。

     宮城野の月 拝

________________________________________


 「 青 春 」

サムエル・ウルマン 宇野収、作山宗久訳

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときはじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。



**********


宮城野の月樣

 塾頭の希望に應ぜられての御投稿、洵に鳴謝の至りです。塾頭も御喜びの事と存じます。小生も、何より嬉しうございます。

 今後とも御遠慮なく、どしゞゝお寄せ下さい。鶴首して御待ち申し上げてをります。

     備中處士 敬白


【謹告】
−−最下段の「管理者へメール」機能にてメールを下さる方、管理者、或は讀み落としがあるやも知れません。大量の宣傳メールが到來し、小生は殆んど無視、未開封の爲體、全く他意はございませんので、失禮の段がありましたら、何卒、ご海容たまはらむことを。−−
 

塾頭、ゆつくりとご養生を。

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月 8日(木)23時38分41秒
返信・引用 編集済
  備中樣

塾頭のご容態は、備中樣の最初のお報せよりいさゝか嚴しさうですね・・。
まあでも塾頭のことですから、拔け目なく今後の構想を錬つてをられる事でせう。

私にもつと書けとなん。う〜む・・・・・・。何を書けば好いのやら・・・。
青春の日々などと仰られても、私にはそんな日々など御座いませんでした。(呵々)
あつたのは“苦悶”の日々で御座いますよ。今もなほ、その眞つ最中であります。

でも塾頭の仰せですからね、恥を忍んで書いてみませうか・・。(なにを書きやよいのだらう・・・)


青春といふ言葉さへ秋の風(権太)
 

塾頭から

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年10月 7日(水)18時47分24秒
返信・引用 編集済
   本日夕刻、短信あり。

 塾頭には、右手右足完全麻痺。左手左足半分麻痺。しかし頭は、ますゝゝ冴えてをられ、九段塾は、毎朝見てをられる由。圖らずも落涙に及び申し候ふ。

 塾頭、左手人差指一本で打たれたもの。曰く、「

 権太殿、もっともっといろんなことを書いて。私の人生行路。祭りに賭けた青春の日々。

 ほかの人も、私を応援するために、青春の日々を好きなように書いてほしい。

 九段塾、私が出るまでは、青春街道まっしぐらを主題として、みなさんの青春時代が聞きたい。もう疲れた
」と。



追伸
 小生も、こゝ一週間ほど温めたものあり、未完成のまゝ、本日中に書き上げてみます‥‥。山崎闇齋先生に關するスレツドです。後日に校正増補を期します。
 附録として、小生の學生時代の駄文「祖述管見――述べて作らず」を轉載してみます。毎年、一篇は、何か書かうと、努力してをりました。
 塾頭、讀んでやつて下さい。 九拜


 スレツド欄に、
『No.22.崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問
てふ、新スレツドを建てさせて戴きました。

 舊稿に再編輯を加へました。ご高覽たまはれば幸甚です。
 

氷川様に病気平癒

 投稿者:  投稿日:2009年10月 4日(日)08時01分38秒
返信・引用
  一昨日から氷川神社 靖国神社 熊野権現様をまわり、塾頭様の御病気平癒懇願してまわりました。
絶対にご帰還くださいますこと信じております。
涙が流れてこれ以上書けません。
 

Re: 謹 告 ‥‥。

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年10月 2日(金)19時45分1秒
返信・引用
  > No.603[元記事へ]

備中樣、なんと塾頭がそのやうな事に・・。
一年程のリハビリが必要ですか。しかしその程度で良かつたと云ふべきか。
でもまた何があるか判りませんからね、心配は心配な譯で、本當にお大事にしていたゞきたいと思ひます。
一日も早いご本復をお祈り致します。
 

謹 告 ‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年10月 1日(木)23時12分51秒
返信・引用 編集済
   本日、九月三十日附の速達便にて、突然、封書が到來しました。塾頭のご消息が判明いたしましたので、謹んで御報せ申し上げます。御報せ下さつたのは、塾頭の執事の御方でありませうか、洵に憂慮すべき内容でありました。如何に皆樣へ御報告すべきか、暫く惱みましたが、封書の内容を、執事の御方の御言葉を拜借して、備中處士の言葉にて申し上げる事に致しました。豫めご承知おき下さい。 謹白


**********


 先般、申し上げました通り、九段塾塾頭こと一兵士老翁は、九月十六日、ご自宅で倒れられ、胸部急性心筋梗塞の爲めに緊急手術されましたが、術後の經過もよく、退院の日も間近でありましたところ、退院豫定の前日早朝、病院内廊下にて意識を失はれ昏倒、頚椎損傷といふ事故に遭はれました。幸ひ發見その他の緊急處置もよろしく、直近の專門病院に轉院、頚椎の手術を受けられました。意識囘復の後は、頭腦明晰・言語明瞭ではありますが、四肢に麻痺が出現し、術後の機能の囘復訓練も、早速に始められてをられます。

 しかしながら現在、未だ囘復室にて、安靜療養中であります。寢たきりの生活の心配は、一先づ去つたものゝ、腕の動作は出來ても、指先が動かないてふ情況、洵に遺憾ながら、向かふ一年くらゐは、此の麻痺を囘復するリハビリの生活を餘儀なくされさうであります。しかし、そこは塾頭、あらたなる境地に身を委ねてをられるかのやうに感ぜられます。


【塾頭の御話】九月二十九日

『機能囘復訓練の目標は、たとへ一生、車椅子の生活になつても、パソコンが使へ、本が讀めるやうになれば、不滿は無いよ。無論、それ以上に囘復するにこした事は無いが、いい車椅子でも買つて、机の周りで仕事が出來れば、それでよい。むしろこれからは、さうせねばならない、といふ事かな。だから下手に元の體に戻つても、嬉しいとは思はないね。

 以前より、頭腦が明晰になつたらしい。頭から、何かがとれたやうだ。醫學療法士による手足の基本的な囘復訓練を、ベツドで始めてゐるが、かういふ手足の動きが、人間の基本的な動きなんだなと、よく分つた。昨日と今日とでは、痛さが違ふ。昨日よりもよくなつてゐるから、樂しいと云へば、樂しいね。不良な少年少女の非行を直すのにも、かう云ふ方法でやつたら、いいかもね。姿勢を正す、といふ邊りからでも‥‥(さすがは、塾頭のご發想、このやうな事態でも、凡俗とは違ひますね)。

 顔面から轉倒したので、床にはかなり血が流れたらしいが、幸ひ鼻骨をやられなかつた。實は此の鼻骨が重要で、之をやられると、視神經が損傷し、失明してしまふらしい。それで、目の周邊に溜まつた血を拔かれたとき、正裝した軍人が、次々と眼前に現れて來る。山本五十六も居た。一齊に最敬禮をされた。「嗚呼、これで自分も死ぬのかな」と思つた。すると其處に、靖國神社に祀られてゐる從兄弟も出て來た(塾頭は甥と云はれたのですが、從兄弟では無かつたか。以前に九段塾にて紹介された御方の事でせう)。彼だけは甲板での作業服のやうなものを着てゐた。其の彼がこつちを見て、「大丈夫だ。頑張れ」と、言つたんだよ。其の時、自信を持つた、「助かる」、と。うれしかつた。「よし、死ぬまでやるか」、と(塾頭は、此處で涙を流された由)。

 倒れた後の處置も、手術の爲めの轉院も、全てが幸運に惠まれた。是は未だ々ゞ死なないと云ふことかも知れないね。餘計な事は出來なくていい。机の前に居られゝばいい。それで、何でも出來ると思つた。これは「何かしろ」と、英靈から頼まれたのだと思つてゐるよ。九段塾の皆さん、それまでは、よろしく頼むよ‥‥』。


**********


 塾頭は至つて元氣ですが、何にせよ、體が思ふやうに任せない。然し此のもどかしさはあるものゝ、いらだたれる風でも無く、醫師や看護婦、その他スタツフの方々と、愉快に、此の難關を乘り切つて行かうとされてゐるかのやうであります。先づはご安心いたゞても宜しいかと存じ上げます。

 何せ、九段塾・塾頭の事ですから、いづれ指一本でも、パソコンを操作して、病院から「どうだ、黄泉がへつたぞ」と、投稿される日も近いかと存じ上げます。執事の御方も、塾頭の傳言を御報せ下さるとの事でありますから、各位には、塾頭ご復歸まで、暫く御待ち願ひます。九段塾掲示板は、何度も申し上げますやうに、塾頭あつてのもの、靖國神社内堀に住まふ塾頭が、大事に々々ゝ育てゝ下さつた掲示板であります。塾頭の暫くの不在は、寂寥感あつて、意氣消沈でありませうが、こゝは一番、塾頭の許へ、聲よ屆けとばかりに、益々のご投稿ご維持の程、何卒よろしく、幾重にも懇祷申し上げる次第であります。何卒、々々‥‥。 備中處士 九拜



 塾頭、此の九段塾掲示板、見てやつて下さい。一日も速かなるご恢復ご復歸、血涙もて祷祈し、塾頭に神明の御加護あらむことを、只管ら請ひ奉ると、爾か云ふ。
 

Re: 祈塾頭本復

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月30日(水)17時23分54秒
返信・引用 編集済
  > No.600[元記事へ]

金剛樣

 本道に、それはゝゝゝ、ご無沙汰でありました。ご多忙の御由、亦た祝着に存じます。

 塾頭の御病ひ、不安が募つて參ります。病床のパソコン、壞れたのかな〜、と。此の杞憂を吹き拂はうと、小生は、パソコンに向つてをる次第です。

 しかし金剛樣、彦星・織姫では無いのですから、せめて毎月の滿月の交には、何でも宜しいので、御聲をお聞かせ下さい。那須の権太樣が、「金剛樣は、どうされたのですかね。あのお方のお話も、私は好きでしね」と、『過去完了形』で云はれますもんですから、御氣を惡くされたのではと、氣を揉んでをりましたところです(笑)。

 小生も、「金剛さま〜」と叫ばうと思つたのですが、大人げ無いので、我慢してをりました。でも、金剛樣の來駕を心待ちにしてゐる一人です。 匆々拜具


**********


 本日、不二歌道會に御頼み申し上げてゐた、『不二』の「神屋二郎代表の歸幽と葬祭概記」・「神屋二郎大人命追悼集」(平成二十年七月・八月號)の御惠送を拜受しました。中に、神屋二郎翁『影山塾長と大東塾――「古事記精講」について』(平成十年七月の口述原稿)があり、其の筆に「平泉澄先生」の文字を發見して、平泉先生を慕ひ、其の末席を汚す者として、とても嬉しく思ひました。曰く、「

 七十數年といふ人生を歩み來つて痛切に思ふことは、人の縁の不可思議さである。影山塾長は、神縁を説かれた。その神縁が最初に訪れたのは、私(神屋翁)が中學二年生の時、久保田收先生といふ、東大史學科を出たばかりの若い先生が赴任されてきたことであつた。久保田先生は、高名な平泉澄先生の門下である。日本の道に關心のある者なら、誰でも平泉先生の名前は知つてゐると思ふが、戰後、唯物史觀が日本の歴史學界を占めて以來、平泉先生は皇國史觀の元兇として排斥されてゐる。ともあれ、我々戰前の日本の道を學ぶことに志を向けた若者にとつて、自信を以て指針を示された方の一人であつた。その高弟である久保田先生に、物心ついた一番初めに學ぶことを得たのは、幸せであつたと思ふ。私の全人生は、ここから出發したのである」と。
 

祈塾頭本復

 投稿者:金剛  投稿日:2009年 9月30日(水)02時12分39秒
返信・引用
  備中處士様

ご無沙汰いたしております。
塾頭のことが気になりますね。
すぐに退院されるとのご様子でしたが、いかがでしょう。
退院のお知らせだけでもあると、安心ですが。

ところで、今日、あるところで手にした先週発売の「アエラ」を見ましたら、私は政治家にはうといのですが、民主党に神風英男という議員がいて、その人は、女系天皇には反対の意見の持ち主と書かれてました。
(ネットで検索すれば読めるかも知れません)
「2660年続いてきた」歴史を尊んでいるかのようなことも言われてたとか。
もう皆さまは、ご存知なのかも知れないが、私は、このかたがどういう人かまったく知りません。
しかし、こういう考え方を表明する国会議員がいるのか、とあらためて名前にも目がいきました。

もし「英男」が「英雄」だったら。まったく仰天の名前ですが、男も雄も同義だから、やはりこの方の名前はすごい。
民主党に在籍し、民主党の天下になったからには、とにかく名にし負う働きをしてもらいたいものだなどと、ご本人のことをろくに知りもせずに、思った次第です。
しかし、「神風・じんぷう」という姓があるとは知りませんでした。

妙なマニュフェストを掲げた政権が取ってかわり、ましてこれは由々しきこといたましきことですが、大東塾の壮士たちに艱難あり、またいまここに塾頭の安危あるがごとし。
新しい秋の風の香りを嗅ごうとするも、仲秋の名月を仰がんとするも、心晴れぬ日々ではありますが、今日はなにやらゆかしい人の名を見つけ、心あらたにかしこき神のはかりごとに、心を致すものです。
行雲流水ゆきてかえらずと聞けば、元始に回復するは容易ならざることとは知りながらも、ただ、神のまにまに、さきへさきへと進みに進み、皇運を扶翼しまつるの決意をあらたにせざるべからず。

花をめでるも勤王、月を読むも勤王。
一陣の風のさゆらぎをうけとめる帆布を心にひろげ、しばし鎮魂に怠りなく、いでや出航の朝には、元気いっぱいに吶喊の声をあげましょうぞ。

備中處士さまの、ご紹介の玉稿の数々。いつもいつも心洗われております。

前に、お呼びかけ下さいましたお方にも、ご無沙汰の段、おゆるしください。
小生、多事ながら元気旺盛であります。

あらためて塾頭さまのはやいご復帰を、お祈り申します。

では、また静かに小屋に引っ込みます。
 

贈從三位・山崎闇齋先生の學問。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月28日(月)23時56分11秒
返信・引用 編集済
  ●拾穗書屋主人・紹宇・近藤啓吾先生『山崎闇齋の研究に志す學徒に贈る辭』(『神道史研究』平成十二年四月號。『小野鶴山の研究』平成十四年四月・神道史學會刊に所收)に曰く、「

 山崎闇齋の學問思想を學ぶに當たり、最も大切な心得は、闇齋の究極の志(目標)は何であつたかといふ問題、そしてその志にどのやうにして到達したかといふ經緯の解明であり、ついでその志が、その門下門流の誰れにどのやうにして繼承せられたかといふ問題を心に込め、これをみづからの問題として、認識しようとすることである。闇齋はその思想を、今日の學問のごとく、分析體系づけて説明しようとする學者ではなかつたので、その厖大な箚記類を渉猟檢討することによつて、學者みづからが、みづからにこれを明らかにする外に、闇齋の本質面目を知る道はない。

 しかも闇齋を知らんとして更に困難を覺ゆるものは、その學問思想に於ける轉囘が、極めて激しかつたことである。闇齋のどの時點に於ける立言が、その思想の表明であつたかを明辨することなく、その立言のすべてを一枚の平盤の上に竝べて、それをそのまますべて闇齋の思想として認めるならば、闇齋は轉囘も反省も苦惱もない、無生命の形骸のみとなつてしまふ[闇齋が朱子の學問思想を平盤に竝べることを退け、その説に、定・未定があり、前後あることを判定し、朱子の語であつても、それを取上げるに、嚴重な取捨選擇を加へた態度こそ、闇齋を學ばんとするものが學ばねばならぬ問題である]。このことに氣づかず、すべての立言を平等に見て闇齋を考へて來たのが、從來の闇齋研究の態度であつた。

 もし以上のことに氣づくならば、從來唱へられて來た、佐藤直方・淺見絅齋・三宅尚齋をもつて崎門の三傑とし、闇齋の學統門流を、この三人のいづれかに結びつけて來たことが、いかに空虚なりしかを知るであらう。闇齋の門下は、自分の入門從學した時點に於ける闇齋を、全闇齋、闇齋そのものと考へた。そしてその故にその後の闇齋の激しい思想の轉囘を理解追隨してゆくことができず、却つてそれを闇齋の墮落とし變心として、否定するにさへも至つた[‥‥]。佐藤直方・三宅尚齋は、その尤である。しかも彼等は、闇齋が餘りにも偉大であつた爲め、その知るところの時點に於ける闇齋像を、一段と巨人化せしめることにより、それに連なるものとして、みづからを權威づけんとした。『靖獻遺言』の著者として知られる淺見絅齋すら、正直にいへば、師の學問思想の究極を十分に理解し得てゐたとはいひがたい。その門下に若林強齋があり、彼れにより師の學問を純化して、闇齋晩年の志に歸せしめようとする努力がなされる。もしこの努力がなされることがなかつたならば、絅齋は剛氣不屈の儒者ではあつたが、その域を越え得なかつたであらう。いはゆる崎門の三傑といふものの實體は、かくのごときものであつたのである。

 しかし闇齋の門流の、江戸にあつて永く中心的な働きをなして來たのは、直方を祖とする派であつた。その結果、その派の働きをもつて、即闇齋のそれと見ることがあつたことも否定できず、從來の崎門學の理解に於ける誤りが、往々これより生じて來た。また闇齋の門下門流を系譜づけ、或はその傳を編集することに努力を惜しまなかつたのは、尚齋を祖とする流れであつて、『日本道學淵源録』・『崎門學脈系譜』は、その努力の成果を示すものである。しかしそれは、崎門の三傑といふ意識に鞏固に拘はれた編纂であるから、數多い同派の學者を、強ひてこの三傑に結びつけんとしてをり、これをもつてしては、各學者の面目を正しく把握することはむつかしい。

 江戸時代以來、世間で一般に考へられて來た、いはゆる崎門學派といふものの實體は、一言でいへば大體右の通りであつた。しかも明治以降に於いても、これに反省檢討を加へんとすることなく、わづかに三傑の學風に存する異同出入を取上げて説くのみにして、そのいづれをも闇齋を祖とするものと、平易に承認されて來たのである。

 しかるに闇齋門流の働きを、事實に即して檢すれば、この三派に屬せぬ闇齋派の學者もあり、その學者こそ、却つて闇齋晩年の思想を受けて活躍してゐることを知るのである。仙臺の遊佐木齋、土佐の谷秦山、水戸に仕へた栗山潛鋒等が是れである。しかもその人々、秦山には幸ひにその子孫に谷干城將軍あつて家學を奉じ、殊にその遺文集『秦山集』を刊行して世に公にしたが、潛鋒は水戸の史官として、その功績は顯著なるも、その學が闇齋に出づるものであることは長く忘れられてをり、木齋に至つては、全く忘却されてゐたといつてよい學者であつた。この三人の學者の學問思想および人物に注目し、その學勳を顯彰するとともに、それによつて明らかにしがたき闇齋晩年の志を、初めて明確にされたるは、平泉(澄)博士である(『萬物流轉』昭和十一年十一月・至文堂刊。五十八年六月・皇學舘大學出版部復刊)。そしてその博士自身に於かれても、また學界全般に於いても、從來の崎門學と總稱されて來た闇齋およびその門流に對する認識のうちに内在してゐた以上のごとき諸問題に、初めて反省檢討を行はんとする機縁となつたものは、昭和七年十月、有馬良橘大將提示せられ、平泉博士その嘱を受けて實現された、東京帝國大學に於ける闇齋二百五十年祭の齋行である。從來、三派それぞれの門流にあつて、その學者が細々と行つて來た調査發表や祭典が、ここに初めて一堂に會して盛大に行はれ、そして各學派の學者や、學者の子孫に守られて來た文書著書の數々が類別展覽せられたことによつて、闇齋の學問および門流の全體を、高所より俯看して考へ得ることとなつたのである。木齋・秦山・潛鋒も、初めてその正當の地位を得、強齋の評價も確立せられた。同時にいはゆる崎門の三傑・三派と稱せられて來たものの實體も露呈せられた(平泉澄博士編著『闇齋先生と日本精神』昭和七年十月・至文堂刊)。

 ここに闇齋學派は、長き三傑といふ束縛から脱して、正しく考へ得るに至つたのである。鳥巣通明氏の崎門三派の成立についての考察(『崎門三傑論に關する一考察』――『史學雜誌』五十三の五・六、昭和十七年五・六月)、井畔秋芳氏の望楠軒創設の經緯と意義に關する研究(『望楠軒の創設に關する研究』――『史學雜誌』五十二の九、昭和十六年九月)も、平泉博士の誘掖のもとに、この祭典の氣運のうちより生れ出で來つたことであつた。祭典の齋行あつて、崎門に對する認識評價判斷は、全くその内容一變した。かつここに明らかになつた崎門先學の、生死を堵しての求道の姿は、明日の運命いかなるや知りがたき若き學徒の心を深くとらへ、彼等によつて、闇齋・絅齋・強齋・秦山・式部(竹内羞齋)等に關する論考が相繼いで公表せられた。彼等は、これ等の先學の問題を、單に先學の事として見ず、みづからの問題と見、やがて筆を投じて銃を執るに至るや、その學問の命ずるところに從ひ、多くの戰場に散つて、また歸り來ることがなかつた。

 されば當時、これ等の若き人々によつて崎門に關する論考が相繼いで發表されたからといつて、これを崎門の學が世間より盛大に評價せられたと速斷してはならない。世間一般に於いて見れば、依然として闇齋に對する理解は低く、その研究も微々たるものであつたのである。但、その氣運に便乘して數多くの崎門に關する著述が刊行されてゐることは否定できないが、それはいはゆる際物であつて、闇齋の魂にみづからの魂を觸れしめんとしたものでなく、多くは解説書・啓蒙書の域を出づるものでなかつた。さればこれ等の書物は、敗戰と同時にその姿を沒して、二度と現はれることがなかつた。嘗てそのうちでは名の通つた解説書を著した某氏が、自著を廢刊した理由を語つて、「これからは、闇齋は、はやりませんからね」といつた事實は、よくこの眞相を示してゐる。

 さきに記した如く、井畔氏を初めとする學徒の多くは、戰場よりまた歸り來ることがなかつたが、生還するを得た學徒のいく人かは、敗戰後、研究も發表もままならぬ悲境のうちにあつて、志を變へることなく、その教へに沈潛を深め、更に今日に對する道を、そのうちより得んとして來たのであるが、その辛苦を知らずして、今日、やうやく一部の間より崎門評價の言が出で、それに關する發表(愚案、日本思想大系『山崎闇齋學派』岩波書店刊に見られるが如き一派)もあるのを見て、これをもつて崎門學研究再興の兆しと説くがごときは、同學繼承の實際を知らざる輕率の言といはねばならない。

 繰返していふが、崎門の學の研究は、その目標、闇齋最晩年の志の解明にしぼらねばならぬ。しかし闇齋の微意(愚案、覇府全盛の秋に在つて、『神皇正統記』・楠公精神の繼承、禁闕奉護・王政復古の志)、その數多い著書を通覽しても、これを明らかにすること、極めてむつかしい。ここに於いて、その志を把握し、その具現に一身を賭したる門人門流は誰々であつたかを究め、その人々の志と行ひを通して、闇齋の志を推察するを、闇齋研究の手順とする。而して究極に於いては、その教へらるるところ、導かるるところに從ひ、今日に於いて我等に遺されたその悲願を具現することを、我等自身の志とせねばならない。この決意がなければ、闇齋およびその正統門流の眞實の姿を、微言のうちより汲み取ることは不可能である。乃ち闇齋を研究せんとするものは、闇齋を紙上に求めんとするのでなく、みづからの身に求めねばならぬのである。この決意なくしての闇齋の研究は、血のかよはぬ赤の他人の外からする評論であり、闇齋の魂の光に觸れることはできない。かつて江戸に於いて直方の學派が勢力を持ち、その説が盛行したることをもつて、即闇齋學が盛行したとした誤りを、今日、再び繰返すことがあつてはならぬのである。

 闇齋を初めとし、その志を正しく繼いだ先學は、世の評價の多寡を問題とすることなく、自己の業績を誇ることもなく、ただ默々と、その學の示すままに道の維持に生命を堵して來た。世人の注目度のいかんのごときは、この學と毫も關係するところなかつたのである。關係論文數をもつて、この學の盛衰を卜せんとするがごときは、迷惑に外ならなぬのである。ただその學人が憂ふるところは、その人々の志を解し、その志を繼がんとする若き學徒が、今日、將來、存するか否かといふことである。

 崎門埀加の學に身を投じて六十年、今年八十歳になつた老書生が、遺言の思ひをもつて、その心情を吐露すること、以上の通りである」と。



 愚案、水戸義公・山鹿素行先生、また平田大壑先生・藤田東湖先生、はた平泉寒林先生も、皆な精神の沈潛・懺悔・轉囘・飛躍があるが、一以て貫くものがあつた。件の近藤紹宇先生の辭を拜讀する度びに、古人先賢の辛苦懊惱を自らのものとして體得し、其の學問思想、其の志を繼承せんと欲するは、洵に至難の業である。

 轉んじて、靖國神社の正統護持も、亦た同じであらう。松平永芳宮司の師は、實に平泉澄博士でありました。彼の松平宮司の精神を祖述し、靖國神社の正統を恢弘するは、抑も誰ぞや。「憂ふるところは、その人々の志を解し、その志を繼がんとする若き學徒が、今日、將來、存するか否かといふことである」の一文、正に血の涙、腑肺を抉ると共に、更なる覺悟を要すると謂はねばならない。

 各位には、塾頭の、血に啼く、其の聲を聞き給ふや、否や。益々に學問に勵み、更に之を深め、塾頭の志と同じうし、之を繼述演繹しようではありませんか。倶に共に之に從事いたしませう、いざ。
 

相原修神主『神奈川縣護國神社再建を祈る』

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月25日(金)23時07分17秒
返信・引用
   不二歌道會代表・神屋二郎翁の講演『昭和維新運動の原點――渥美勝先生を中心として』(昭和二十年五月十八日)のDVDを拜聽したく、御依頼したところ、講演會主催の河原博史樣より、圖らずも『天地無邊』てふ機關誌も、併せて惠投されました。其の中に、相原修神主の玉稿を發見し、河原樣へ轉載させて戴けないかと御頼み申し上げた所、「有り難き御申出に對し、相原大人命も、嘸や喜んでをることでありませう。夫れは某にとりましても嬉しきこと、此の上も」無い御旨、快諾を得ました。相原神主の遺志を恢弘し、其の顯彰を圖らむと欲するものであります。謹んでご紹介申し上げます。

 なほ一部の「靖國」は『靖國神社』、また「英靈たち」は『英靈』と書くべきではありますが、敢へて原文の通り拜書させて戴きます。

 相原修神主の御靈、御照覽たまはらむことを。而して現界の同志を叱咤し、我々を覺醒せしめ、靈導を埀れ給ひ、倶に靖國神社正統護持に冥助あられむことを。 九拜


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●相原修神主『神奈川県護国神社再建を祈る――わが県民の「靖国」問題』(同血社中央本部・河原博史氏編集発行・平成二十年四月十日『天地無辺』第十五号所収)に曰く、「

 神奈川県護国神社は米軍の空襲により焼失したまま、未だ再建されず今日に至っている。
 この問題で米国を批難するのは当然のことであるが、しかしそれよりも先ず、戦後かくまで年月を経たにもかかわらず再建できずにいるということ、これを神奈川県民は恥じとせねばなるまい。
 ところで、靖国神社に問い合わせると、神奈川県出身で靖国神社に合祀されている英霊はその数、約四万六千柱であるという。
 ちなみに広島県護国神社の場合は、核爆弾投下によりあとかたも無く焼失したにもかかわらず、戦後県民の努力により再建に成功し、みごと 天皇皇后両陛下の御神拝を実現している。
 ただ、まだなぐさめとなるのは、右翼民族派の中に皇憂楠心塾のごとく、既にこの護国神社問題に実際に着手しようとしているひとらがあるということだ。この紙面をかりて未見の同志・皇憂楠心塾の方々に敬意を表したい。
 さて、近時支那人が作製した「靖国」という映画についての取り組みや、はたまた従来の八月十五日に首相が靖国神社に参拝するか否かをとりあげてそれを運動とすること、そのことにあれこれ異を唱えるつもりは毛頭ない。断固としてわが県民も靖国の神聖護持に努力すべきである。
 だが、他県にはすべて郷土出身の英霊たちを自らの手で祭祀する護国神社が鎮座するのに、この神奈川県のみが護国神社をもたないという事実に向き合うそのとき、わたしは例えようの無い空しさに襲われる。
 他府県に英霊祭祀をゆだねたままで、みずからの郷土ではそれをおこなわずにいるという現実があるのだ。
 かつて、戦後六十年を記念し、全国護国神社は、天皇陛下より幣帛を賜ったと聴く。大御心はかくあったのだ。
 では、はたして護国神社をもたない神奈川県に対し、その際の幣帛は下賜されたのであろうか。わたしは残念ながらそれを知らない。
 なるほど、神奈川県内にはおよそ千三百の神社がある。それらの神主に事をはかれば再建実現も不可能であるまいと期待するひともあるやも知れぬ。
 そこで敢えていう。期待するだけ無駄であろう。
 神宮の分祠(伊勢山皇大神宮)を営利目的に利用し、ホテル経営・チャペル建設とムチャな商売を続けたあげく、ついには破産させるような神主連中に、今更何を求めても無駄である。
 もっとも、他を批判するのに急であって、みずからを顧みない愚かさをわたしとて知らないわけではない。
 天皇陛下と神奈川県出身の四万六千柱の英霊たちとに対し奉り、神奈川県神職のひとりとして、まこと慙愧に耐えない。わたしの力はあまりにも微力、非力すぎる。
 さりとて黙視すべき問題ではないのだ。
 だからこそ、恥を忍んで右翼民族派諸君に訴えたい。
 昭和一七年七月、横浜市三ツ沢西町に、護国神社創建の計画が内務省より許可された。
 社殿の新築がすすめられ、工事は順調に行なわれた。翌年十一月には上棟祭を無事執行、あとは鎮座祭をむかえるのみという段階まできた。
 ところが昭和二十年の大空襲によって新築社殿は焼失、完成に至らず八月十五日をむかえたのである。
 その後、土地は横浜市に譲渡され、今のごとき公園・競技場となったのだ。
 現在、跡地には慰霊塔二基と安置堂とが建立され、県ゆかりの戦没者慰霊行事が営まれてはいるが、それは妥協の産物であり、とても有志・具眼の士らが納得ゆくものでないことは自明である。
 なぜ広島県民にできたことが、わが県民にはできないのであろうか?
 となりの東京に靖国神社があり、そこで祭典が奉仕されているから、神奈川には必要ないとでもいうのであるか?
 では埼玉、千葉、静岡、山梨等には護国神社は存在しないのであるか?
 どの県にも立派な護国神社がある!
 沖縄にだってある! 北海道には三社もある! 二社あるところも少なくない。神奈川だけに無いのだ!
 これでよいのか! わが同志の諸君!
 この問題は他県のひとらが抱えてはおらぬ、わが県民のみの、いわば「靖国」問題なのである!
 反米愛国を口にするのもよいだろう。尊皇攘夷を叫ぶのもまたそれもよし。されど、郷土の神聖をかくも冒涜蹂躙されたままで、それを放置、まるで見向きもしないというありさまでは、その熱烈至純なスローガンも、ただのパフォーマンスにしかすぎなくなるのではあるまいか?
 敬神の念無き攘夷思想なぞ、わが皇国に存在しないのである。
 敬神無き攘夷、反米思想なぞ、左翼がやることであり、憂国の士、尊皇愛国のひとが着手すべきことではないのだ!
 これはやってできぬことではない。
 他県にできて、わが県にできぬことはない。
 同志諸君!
 護国神社再建は必ず為されねばならぬ。この祈りこそが郷土の維新につながるのだ!
 まず神事、後に他事、これがわがくにびとの正しい在り方である。
 英霊をないがしろにして、何の愛郷、愛国だろうか!
 真に維新をこころざす者は、この問題を看過できないはずだ!」と。
 

お知らせ

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月19日(土)12時46分22秒
返信・引用
   塾頭は、只今、入院中であります。九月十六日、ご自宅で倒れられ、胸部急性心筋梗塞の爲に緊急手術をされましたが、既に大部屋へ移動、今は囘復期にあられます。醫師も、其の囘復の速さに驚いてをる樣子。九段塾のことを氣にかけられ、未だ神は死なせないはずとの御確信を堅持されてをられます。今囘は内臓疾患で無かつたことが、せめてもの幸ひでありました。

 ご退院は少し先になりますが、九段塾掲示板は、閲覽されたご樣子です。ご縁の各位には、心配されませんやうに、敢取ず御報告申し上げておきたいと存じます。塾頭の一日も早いご快癒を、そしてご靜養を懇祷申し上げます。 九拜
 

我が國に於ては、努(ゆ)め「革命」と云ふべからず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月18日(金)23時34分2秒
返信・引用
  ●根本羽嶽博士『讀易私記』(門人九鬼盛隆翁編纂『根本通明先生・周易講義』大正十年五月・荻原星文舘刊に所收)に曰く、「

 易の書たるや也、天地を以て君臣の象と爲す矣。天外の地有る無ければ、則ち臣、豈に君を離れて逃るゝの道有らんや哉。『尚書・皐陶謨』に、「帝曰く、臣は朕が股肱耳目たり。皐陶曰く、元首明かなる哉。股肱良いかな哉」と。君臣を以て一身と爲せば、則ち股肱耳目、豈に其の元首を離るゝを得ん乎。湯武革命(愚案、殷の湯王による夏の放・周の武王による殷の伐)有るより以來、君道陵夷、復た君を視る、天の若くすること能はず。『禮記・曲禮』に曰く、「人臣たるの禮は、顯諫せず。三たび諫めて聽かざれば、則ち之を逃る」と。此れ湯武革命の後、周の未だ衰世ならざるの言也。大に君臣の道に悖り、『周易』・『尚書』の義を失ふ也。

 夫れ君臣の道たる也、百たび諫めて聽かれざるも、逃れて去るの道無し矣。而(しか)るを況や天子一姓、皇統相繼ぐの國に於てをや乎。君道の隆んなること、天子一姓の國より盛んなるは莫し矣。君命、一たび之に下れば、則ち難を犯し死を視ること、猶ほ歸るがごとき也。難に臨んでは、則ち之に死する能はざるを以て耻と爲す矣。之に死する能はざる者有れば、則ち父母も子と爲さず、妻も夫と爲ず、朋友も齒ひを爲ざる也。曰く、建國以來の君臣に非ずや耶。汝、獨り汝が祖、奕世勤王、忠を盡くせるを念はざるか乎。何ぞ其れ死せざる焉、と。故に天子一姓、其の兵、天下に敵無し。『(周易)蹇の卦・六二』に、「王臣蹇蹇、躬の故に匪ず」と。蹇とは難也。君の蹇難を以て、我が身の蹇難と爲し、而して躬を以て之に當る也。匪躬とは、我が躬を以て我の有と爲さゞる也。則ち身を殺して、以て忠を成す者也。‥‥

 革の卦(愚案、曰く、「天地革まつて四時成る。湯武革命、天に順ひ人に應ず。革の時、大なるかな矣哉」と)たるや也、人臣を以て、而して變じ君と爲る也。‥‥天下の變、革命より大なる者莫し矣。聖人の憂患、革命より深き者莫し矣」と。



●眞木和泉守『竊かに人を薩に遣はし、(南洲)西郷吉之助に贈る書』(文久三年十月十一日附)に曰く、「

 全體兩間の勢、三百年已前とも違ひ、西洋夷賊、萬里の涛を渉り候ふて、諸國呑噬仕り候ふ世界に相成り候ふては、皇國も彌々以て平城已前に復し、朝鮮・滿清は勿論、南海諸島一般に、我の指揮に從はさせ申さず候ふては、國威を四方に輝かし候ふ事、相成り申さず。國威四方に輝かし申す可く候ふとならば、禮樂征伐、天子より出づるに之れ無く候ふては、名正しく言順なる出來申さず。極意、皇化を海外に敷き候ふに及び候ふては、夷狄も國内に置き候ふ事、之れ有る可く、左樣、之れ無く候ふて、禮樂も興らず、華夷雜糅候ふては、天子の尊ぶ可き譯も、自然と消散致す可き道理に御座候ふ。儒學者正敷き者にてさへ、君臣父子の道、古代の純粹、取失ひ候ふ事に御座候ふに、西洋の僻學流行仕り候はゞ、内、自ら夷に相成り、神代已來、屹度、由緒、之れ有る帝室も、革命の風に陷り候ふ樣にも相成る可く、是等は過慮にも之れ有る可く候へ共、夷風の懼る可き事は、實は君子の意外に出で候ふ事、一に非ず候ふ」と。



●黒龍會長・大日本生産黨初代總裁・硬石内田良平翁『國體變革の天皇機關説』に曰く、「

 我が國家には、肇國があつて、建國が無いのである。建國は人爲的に成るものなれば、革命崩壞等の憂あれども、肇國は神造なるを以て、其の憂が無い」と。



●平泉澄博士『革命と傳統』(昭和三十九年十一月・時事通信社刊)の「自序」に曰く、「

 革命! 革命とは何ぞや。それは本質的に如何なるものであるか。進歩か、反逆か。幸福か、苦惱か。必要か、無用か。將來に光榮を約束するものであるか、それとも只だ破滅へ導入するものであるか。つまり、それは、光であるのか、それとも闇であるのか。此の至大至重なる根本問題の、徹底的究明なくして、漫然と此の語を使用し、輕々に評論する事は、責任を重んずる者の、爲すべき態度では無い。

 今日一般の風潮は、此の根本の究明を怠りつつ、革命の語を亂用して、あだかもそれは、清新爽快、歡迎すべきものであるかのやうに取扱ひ、曾て我等の父祖が、之を忌む事、蛇蝎の如くであつた事を忘れ去つてゐるのである。しかるに私は、近世革命の代表的なるもの、否、むしろ其の本源ともいふべきフランス革命のあとを精査し來る時、一般史家の、特に我が國に於ける西洋史家の、革命を是認するもの、滔々風をなすに拘らず、宣傳と欺謾とを除却し去れば、事實は別個の樣相を示して、いはれなき憎惡、恐るべき無秩序、無上の慘劇、凡そ人間として最も恥づべき獸性の跳梁を當時に露呈し、而して其の結果として、癒すべからざる瘡痍、縫ふべからざる切斷、調和しがたき分裂を、長く長く後世に殘して居るのを見逃し得なかつた。

 たまたま昭和五年の冬より翌年の春にかけて、フランスに滯在し研究する便宜を與へられた私は、乏しきフランス語の知識に拘らず、敢へて此の問題と取組み、、しかも之を、左の二點にしぼつて究明した。
一、フランス革命は、果たして世間普通にいふが如く、自由・平等・博愛を旗印とし、その實現の爲に、發起せられ、遂行せられたものであるか(實は、所謂七月革命の頭初から掲げられたるものに非ず、自由は一七八九年から、次いで平等は一七九二年から見られるが、博愛が付け加へられたるは一八四八年・二月革命による動亂から登場せり)。
二、フランス革命は、フランス國民に、いかなる害毒、いかなる創痕を殘してゐるか。

 第一の問題に就いては、當時の根本史料の點檢によつて、通説に重大なる誤謬の存する事を、明快に實證し得た。本書の上篇は、即ち其の概要である。當時、私は、之を以てフランス史學界の最高權威三氏に質した。セイニヨボーSeignobos・サニヤツクSagnacの兩氏は、反對であつた。しかしマテイエ氏Mathiezは、私の説を肯定し、ひとり肯定してくれたのみならず、之を補足してくれられた。ロベスピエール派といはれる革命主義者マテイエ氏が、此の問題に關するかぎり、私の味方であつた事は、皮肉といはざるを得ない。

 第二の問題に就いては、幸にしてポール・ブールジエ氏を知り、其の指示に從つて、ルプレー、テーヌ、バルザツクを讀む事によつて、明快なる解答を得た。それは、世間普通の判斷に、眞向から對立し、挑戰するものであつた。其の大略をまとめたもの、即ち本書の下篇(フランスに於ける傳統主義)であつて、是れのみは、昭和十六年に出版した『傳統』に收めて世に問うた事があるが、上篇(自由・平等・博愛の研究)の方は、曾て東京帝國大學に講述したまま、長く公表の機會を得ず、むなしく篋底に藏してゐたのであつた」と。



 愚案、贈正四位・靜修菴蒲生君平秀實翁の曰く、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と。古來、我が神州に在つては、「革命」の辭、大忌謹戒、恐れ憚る所、吾人が父祖の血を嗣ぐ御民は、「革命」の辭、殊に留意し、俗論僻説に惑ふこと無く、これが使用は、愼重にしたいものである。皇國の恢復は、改新であり、中興であり、復古であり、慕古であり、歸一であつて、革命あるいはレボリユーシヨンRevolution(佛蘭西革命以來)なぞでは決して無い。若し然らずして、革命と云ふ者あらば、鼓を撃ち攻めて可なるべし。眞に知る、「革命」とは、「歴史を亡ぼし、國家の命脈を斷つもの」(平泉博士『革命論』――『先哲を仰ぐ』所收)なるを。
 

祝、創立1周年

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2009年 9月16日(水)21時09分48秒
返信・引用
  塾頭様、備中處士様、常連の皆様

九段塾掲示板、創立1周年を迎えられましたこと、
誠に喜ばしく思います。

貴掲示板の益々のご発展と、皆様方のご健勝を
お祈り申し上げます。

本日は誠におめでとうございます。
 

祝 一周年

 投稿者:  投稿日:2009年 9月14日(月)12時07分49秒
返信・引用 編集済
  塾頭様 皆様方

創立一周年をお慶び申し上げます。

かって保守に櫻掲示板ありき、而して九段塾の登場は
乱立する保守系掲示板の中でもひときわ研ぎ澄まされた爽やかさを持ち
今後は必ず大きな影響力を増してゆく事、確信して応援させて
いただいております。

塾頭さまはじめ皆様のご健勝をお祈りいたします。

箙 拝
 

祝 創立1周年

 投稿者:  投稿日:2009年 9月14日(月)10時50分52秒
返信・引用 編集済
  塾頭様

備中處士様
皆々様


創立1周年
おめでとうございます。
このようなお祝いは不似合いな掲示板とは思いますけれども、一層の御発達をお祈り申し上げます。私の感謝の気持ちで御座います。
いつもいつも拝読させて戴いております。

塾頭様にはくれぐれもお身体を御大切になさってくださいませ。
御健康でありますようにお祈りしています。

追伸
前に「静御前」で投稿させていただいたのですが、ご指南を受けまして「静」に名前を変えさせていただきました。大変、失礼を致しました。
 

任重くして、道遠し。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月13日(日)12時49分36秒
返信・引用
   本『九段塾・掲示板』は、昨年九月十三日以來、塾頭(舊號・一兵士樣)主宰の下に、既に一年を迎へることが出來ました。スレツド二十一室を併せ、先の「加藤哲史」樣のご投稿にて、管理人たる備中處士を含め、凡そ二十名を超える參加を賜はり、感慨無量、先づは祝着至極、洵に難有うございます。

 本日は乃木神社祭、此の日、本掲示板は、第二年目に入ります。益々充實に力むる所存でありますが、皆樣には愈々發奮協力を戴きまして、「靖國神社正統護持の爲に」、大いに働いて戴き度く、伏して懇祷申し上げます。又た至らぬ管理人ではございますが、倍舊のご支援ご鞭撻を賜はらむこと、切に御願ひ申し上げます。

 此の九段塾へご參加いたゞきました方々、或は未だ見ぬ同志を始め、益々活發なるご投稿ご發言、或はスレツド建立を賜はりますやう、幾重にも御願ひ申し上げます。  頓首、敬つて白す


【ご參集たまはりました方々】
掌雲 樣
吉田不兼好 樣
那須の権太 樣
ばか象 樣
安岡浩二 樣
解法者 樣
憂児 樣
200cc乗り 樣
金剛 樣
竹屋光晶 樣
愛国主義者 樣
備州 樣
御庭番 樣
猿藤悟郎 樣
最上寶刀 樣
実存主義者 樣
静御前 樣
かって桜に投稿せし者 樣
箙 樣
加藤哲史 樣
 

相原修氏歸幽を通じて、大夢翁門を思ふ

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 9月12日(土)14時39分22秒
返信・引用
  これは備中さんがー多分、私の投稿文に遠慮して、時計の間に投稿したもの。
訪問者が読まぬかも知れないので、こちらの表通りに私の判断で転載します。



靖國神社月次祭の今日(9月十一日)、表に塾頭の、惰夫をして蹶然起たしむる投稿『むすびに至る日々』を拜し、舊稿を掲げるを赦されたい。



●中村武彦翁『戰後維新運動と五十年目の決意』の曰く、「

 無黨派層と呼ばれる廣汎な國民大衆は、頼むべきもの、新しきものを切實に求めてゐながら、所謂右翼に對しては、何の期待も示さない。山口二矢――三島由紀夫・森田必勝――影山正治――野村秋介、頭を冷やしてこの系譜に注目し、沈思したいと思ふ。ほかにもをられるが、これは戰後、自らの鮮血を以つてその精神を表現し、爲政者と國民同胞に訴へた維新者の系譜である。理屈ではない。その生命をかけた聲を聽きとり、眞情を理解する心のない者が、いくら國事を談じ維新を論じても、まことに空しい」と。



 赤魔攘祓、皇國護持、皇政復古、神國顯現、萬有和合、世界靈化を志すに、まつりごと一新の望むべくもあらず、はた己が力のつたなきを如何ともすべからず、某古書目録に、大夢翁の、

大いなる道夏草の丈なせる  三上卓

てふ句ある寫眞を見、いとゞ悲しく、今はゝや、天地の神祇に懇祷し、天關打開、一日もすみやかなるを乞ひ祈(の)み奉らんが爲めに、たゞ懺悔禊祓に生き、神々の恩頼にすがりまつるほか、道は無しと諦め、繼ぎて詠める

大いなる 道夏草の 丈なせる
   いきどほろしも たゞ祈るなり


 大夢三上卓翁には、佳句おほし。

國を興す 大惡人出でよ 雲は灼け
野火赤く 人渾身の 惱みあり
言の葉は 了りぬ梅花 凛々と
夏草の 一筋の道を 來りけり

[昭和四十六年九月十日付、大悲野村秋介宛書簡・近什五十句の末句(大夢翁遺作)]
只一人 亂世の雄出でよと 海にいのる

 殊に第二句は秀逸、時より口ずさむ所であります。其の大夢翁の道統を嗣ぐ野村秋介氏に、「千葉刑務所出獄の朝」と詞書する哥があります。

先驅けて 散りにし人の 悲しみを わがものとせむ この道をゆく



●大悲野村秋介烈士の句抄(『銀河蒼茫・野村秋介獄中句集』昭和六十三年七月刊より)

[三島由紀夫・森田必勝自決]
茫然と轟然と秋の夕日墜つ

[三上卓先生死去(愚案、昭和四十六年十月二十五日)の報に接す]
不覺なる泪が菊に散りにけり
白菊の白が溢れてとどまらぬ
傷痕の深き山河の露しぐれ
白露の玉が碎ける頬に手に
轟然と秋の落日宙にあり

[三上卓先生百日祭獻句]
在すごと夜の白梅またゝきぬ
寒梅を見し夜の夢に師の寡默
憤怒とはかくも靜けき夜の梅
寒梅の毅然なりしをわれも祕む

[淺春寒き日、毛呂清輝先生苦心の「三上卓追悼號」差入れさる]
哭くまじと思へど春の雪に濡れ

[三上先生を偲ぶ]
夕顔のもの云ふ白さ亡師と居る
茫然と失語の銀河埀らしゐき
われも行かむ夏草茂る道なるを

[連合赤軍、仲間を大量虐殺する]
唯物思想とはかくも凄じ寒風ぞ
凩の吼えて猛るを如何にせむ
祈りすらなき冬砂塵默するのみ

[昭和五十二年三月三日、經團聯事變前夜、毛呂清輝翁に]
悔ひなしと思へど雪の淡さかな

[八月十五日]
われに憤怒あれども凉し紺朝顔

[夜半に獄窓から天を仰ぐ]
見よやこの銀河蒼茫たる祖國


昂然とゆくべし冬の銀河の夜
沖天に獄の寒月亂世近し
冬三日月祖國は何處へゆかむとするか
俺に是非を説くな激しき雪が好き
寒月に一殺多生といふ祈り
いまは亡き悲願の人の悲願を繼ぐ
悲願一途いまも雪富士はるかなり
十年を獄にあれども寒椿
しづかなる憂憤としづかなる寒梅と
涙に非ず飛雪に非ず頬が濡れ
わが愛す山河渺々として枯れる
凍てし天地祖國の怒り寂寞と
雪の祖國自刃の如き光りの束
日本何處へゆくのか荒涼たる枯野
祖國滅ぼしてはならじ寒梅咲く
溷濁の世をゆく決意寒椿
大悲といふ道に大悲の春の雪
唯なけてなけてならない櫻の空
誰もしやべるな櫻が散つてゐるから
櫻の空仰ぐと誰もゐなくなる
祖國のなみだのやうに櫻が散る
泣蟲の俺かな花の吹雪くにも
葉櫻の風の言葉は獨り聽く
世の虚妄青葉光るを信ずるのみ
祖國いま切に危ふし風芙蓉
祖國依然こんとんとして雷鳴す
この雷鳴ただごとならぬ國危し
いわし雲祖國の涙誰に告げむ
嗚呼祖國菊の白さを疑はぬ
爲すすべもなき混迷の月下なり
はかなきと知りつつもゆく青葉道



**********

●野村秋介氏『黎明の中で』(『影山正治大人追悼集』昭和五十五年五月二十五日・編纂委員會刊)に曰く、「

 あの時、不思議なことがあつた。影山先生が御自刃の場へ臨まれた同時刻に、私は異常な胸騒ぎを覺え、しつかりと目覺めてゐたのである。信じて頂けないかもしれないが、誓つて事實のことである。大體私は、夜半に目覺めることの少ない質で、一度寢ついたなら、ほとんど小用にもいかない。冷え込みの嚴しい獄中生活で、夜半に小用にゆかない癖をつけるのは、一つの生活の智惠でもあつて、私は長くこの習慣を守つてゐる。その私が、この時、ふつと目を覺ました。何となく胸騒ぎがするのである。獄舍は肅然と鎭まり返つてゐて、鐵窓にはまだ黎明の匂ひもなく、唯々漆黒の闇がみなぎつてゐる。私は「何時頃だらう」と呟いて、珍しく[實に珍しく]小用に起つた。再び床に入ると、何度か寢返りを打つてみた。しかし妙なことに、一向に眠氣がささないのみか、躯中がピーンと張りつめ、頭の芯はしんゝゝと冴えわたるのである。普段かういふことのない私だけに、この時のことは克明に記憶にある。まさかこの時刻に、影山先生が御自刃の場に臨んでゐるなど思ひも及ばぬことであつたが、私は不思議なことに、その眠れぬ悶々の中で、影山先生のことを思つてゐた。何の脈絡もなく、青梅の大東農場は、この府中からは指呼の間ではないだらうかと思つたのである。‥‥

 かなり長い時間を經て、夜が、白々と明けてくると、徐々に、實に徐々に、まるで匂ふやうな紺碧の空が姿を顯はして來た。見るとはなく眼を窓外へ轉じると、青葉のうねりが當然のことながら、しーんと靜まり返つてゐる。唯いつもと違ふのは、その光景が實に莊嚴で、遠くに見える山なみも、獄庭に立つ一本一本の樹木も、否、その一葉一葉の青葉さへもが、まるで光でも放つかの如く、私には神々しく見えるのである。空の色といひ地の色彩といひ、實に目を瞠る、それは莊麗さであつた。私は暫く無心に、その光景を眺めやつてゐたが、いつとはなしに合掌し、深々と頭を埀れたのである。

 この朝の不思議な體驗が、たんなる偶然とは、どうしても思へない。影山先生の御魂が、何らかを私に語り遺されようとした、一つの靈感だつたのではあるまいかと、時間の經過につれ、私は確信するやうになつて來てゐる。影山先生の意識に、私のことが有つたか否かは、私にも分明ではない。しかし、よしんばまつたく意識されてなくとも、いま神去らんとする先生の靈と私の魂が、かなり深いところで響き合つたといふ事實だけは、私はけつして疑はない。いづれにもせよ、私はこの時の生涯忘れ得ぬ感銘を、胸深きところに□[火+奧]火として埋め込み、いつまでも先生が遺されようとした御言葉に耳を澄まして、今後を生きてゆきたいと念じてゐる」と。
 

むすびに至る日々

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 9月11日(金)15時32分9秒
返信・引用 編集済
  昭和10年生まれの野村秋介という右翼がいた。今の人でもこちら側にいる人ならたいていは名前ぐらいは聞いているだろうと思う。
戦前右翼の大東塾神屋二郎さんに、この人も私淑していた。
神屋さんも野村秋介が大好きだった。遊侠の徒と右翼は紙一重のように見えるが、その一重の間には大義をもつかどうかで決まる深い長い隔たりがある。

野村秋介氏は朝日新聞応接室で、応対した役員の前で拳銃自決する前に檄文を書いているー。

(前文省略)
「私は(野村秋介)寺山修司の
  「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
     身捨つるほどの祖国ありや」
 という詩と十数年にわたって心の中で対峙し続けてきた。そして今「ある!」と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は「ない」と言った。私は「ある」と言う。それ故に、細川護熙の発言を断じて許せないのである。これは、私一人の思いではないと思う。
 ちなみに、神風特攻機は二千八百四十三機飛び立ち、二百四十四機が敵艦に突入したと記録にある。英霊よ、安らかに眠れ。いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう。
  さだめなき世なりと知るも草莽の
       一筋の道 かはることなし




…このことを、私は何故か、八甲田山に祖国再建祈願祭に向かう途中で、命を結ばれた出雲大社相模分祠神職の相原修氏のことで思い出した。

昨日、秦野で葬儀が行われた。
平成二十二年に秦野で第六十一回全国植樹祭が開催される。
そのために天皇皇后両陛下行幸啓の道順にあたる道路の整備工事が急ピッチで行われている。美麗な道路が続いている場所であった…。

多くの朋友知己が参列した。いずれも関係する右翼団体が多いのは当然である。
○○のない人、××のない人が目立つ。仕方がない。

野村秋介氏同様に、相原修氏を可愛がった神屋二郎さん。
その神屋二郎さんが昨年帰幽。
「神屋二郎大人追悼集」号が大東塾から出ている。
その中に、相原修氏の追悼文がある。

これを全文掲げさせして戴く。
神屋二郎さんがどのような男を愛したか、そして相原修氏とはどのような右翼であったのか、その一端を知ることができると思って。

イザという時には「至誠盡忠」を天下に示せる方だったとー思っていた。
一つの右翼の系譜にやがては入るだろうと考えていたのだがー。

『小生は愛国党員でありますが、影山正治先生の「維新者の信條」を読み身が震える思ひが致しました。就いては塾へ参上致し、ご指導を仰ぎたく存じます。又、現在刊行中の「影山正治全集」購読を希望します。
うむ。わかった。先ずは青山に来なさい。私は神屋だ。まってるぞ!
平成三年秋―当時まだ私は二十歳。この電話でのやりとりが神屋先生と私との最初の出会ひであった。

その後、神屋先生は未見の私に対し、さっそく「全集」の既刊分全部をお送りくださり、そこには、来塾を楽しみにしてゐるとのお手紙までわざわざ同封されてあった。
しかし、私は塾へ参上することが出来なくなってしまった。
その理由は、翌年二月に私がとある事件を起こした為に、当局に身柄を拘束されるはめとなったからだ。
その拘束中の折、あれは麹町警察の留置場にゐたときであったろうか。神屋先生が面会に訪れてくださったのである。

どうだ。元気か。君の来塾を待ってゐたぞ。
申し訳ありません。こんなぶざまな行為をさらした私の為に…
神のみこころのまにまにだ。一生懸命やったことだ。あとは今後どうするかだ。
影山先生の著書を座右とし、しっかり勉強して参ります。

その後、私は懲役四年の実刑判決を受け、東京拘置所、川越少年刑務所、奈良少年刑務所と、それぞれの地で独房生活をすることとなった。
元来、刑務所に於いては、宗教書、辞典類の他は、特別な申請をしても、さう長くは手元に同じ書籍を所持出来ないことになってゐたが、たまたま私の担当警務官が國學院卒業者であったことが幸ひしたのか、何の障害もなく「影山正治全集」は宗教書と認められ、常に私の座右にあった。したがって、服役期間中に私が手にした書籍はといえば「影山正治全集」のみであったといってよい。

平成七年―やがて出所の日を迎えた私は、服役中に帰幽した祖父の墓参をするなどして数日を過ごし、しばし体調を整へたあと、やっと念願の大東塾へ参上することに決したのであった。
それに先立ち私が神屋先生に差し上げた手紙には、次の歌を書きしるした。

 武蔵野にくき落ちてあれど今さらにより来し子をも哀れとは見よ

これは鈴屋大人生前の門人となれなかったことを生涯に亘り痛恨事とした平田篤胤翁が、鈴屋大人の歿後、その後継たる太平大人に差し出した歌である。

篤胤翁の歌に、私の影山正治先生景仰の情を託したのである。
初めて参上した塾には、鈴木代表、川田さん、森岡さん、杉田先生などがをられたやうに記憶する。
私は神屋先生に感謝の意を表さうと、かつて愛国党書記長・筆保泰禎氏より頂戴した赤尾敏総裁直筆で「感謝」とある色紙を持参し差し上げたことであった。

影山先生の著述に接し、神道国学の道に心ひかれ、何とかして神職となることが出来ないだらうかと、親類の國學院出の教師に相談し、國學院受験を考へたりしたが、國學院某教授より、お前のやうな前科者がなれるわけがないと一蹴され、やはりさうしたものだろうかと、あきらめてもみたが、その思ひの消し去り難く、神屋先生にご相談申し上げたところ、鈴木代表から何とかなるだらうとのお返事を頂戴した。

種々の事情により、國學院受験は適わなかったが、大東塾の方々に八方手を尽くして戴き、出雲大社が運営する大社国学館へ入学。
二年の研修期間を経て神職資格を取得。爾来、十数年後の今日に至るまで、何とか神職として神明に奉仕してゐる。

現在私は、微力ながら気吹舎本の復刻を続けている。
これは「昭和の平田篤胤」と評された影山正治先生の思想信条をより深く理解するには、平田学の究明が必要であるとの私なりの考へによったものだが、神屋先生はよく激励してくださった。

今、私の自室には影山先生の「近詠抄」と題する遺墨が掲げてある。
これは神屋先生より「影山塾長歿後の門人としての大兄へ呈す」と賜ったものである。隣には篤胤翁の肖像画を掲げてゐる。

国学を称するに、世人は本居・平田の学といふ。
しかし、私に於ける国学は、平田・影山の学なのである。
毎回刷り上った復刻本を、塾にお届けにあがると「君はよくやるなあ」とおつしやり、神屋先生は常に暖かく励ましてくださった。

先達て、富士の裾野にある「渥美勝乃命碑」移転奉告祭を、塾の皆様方のご指導を賜り奉仕する機会に恵まれたが、神屋先生最後の部外に於けるご講演が、渥美先生に関することであつただけに、実に感慨深いものがあつた。

顧みれば、高校を中退後、陸上自衛隊に入隊するも任期中途で除隊し、すぐに「右翼」団体に加盟、その日より共産党議員に暴行を加えたり、社会党副委員長を幟竿で殴るなどしたり、逮捕拘留は当たり前で、遂には服役にまで至つた粗暴極まりない私を、かうして神職となるまでにお導きくださった神屋先生のご厚情に対し、私は万一にも報いるところがあつただろうか。
今日私があるのは全く神屋先生のお蔭なのである。

先生は最後の最後まで謙遜し、ご自身のことを語らずにをられたといふ。
されど、先生のご指導を受けた者のひとりとして私は、先生より賜ったご厚情のひとつひとつを、周囲に対し語らずにはをられない。
私にとつて神屋先生は、まさしく現代の「平田鉄胤」であつた。
さうした先生のお姿を後輩に言ひ継ぎ語り継いでゆきたい。
恩師・神屋二郎先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。』(終り)

影山正治大人、神屋二郎大人がどうしても欲しかった人物だったのだろう。
相原修氏はこの世における命をむすばれたに過ぎない…。

(相原修氏は靖國神社に入りたかったらしいが適わなかった。助勤で靖國神社には奉仕している)


ー大東会館新入生歓迎会の最中に、突然、神屋二郎さんが激怒!

「我が大東塾一統には、後輩に煙草を買ひにやらせる流儀はない!立てい、歯を食い縛れ!」といい、ビシッビシッと平手打ちが飛んだかっての体験談を語る展転社の藤本隆之社長が盟友相原修の遺影の前で号泣した…。この日、男たちが泣いた。
 

むすびの思想は安寧をもたらす

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 9月 9日(水)20時53分29秒
返信・引用 編集済
  「死ぬ」とは一つの結びなんですね。
この世のことでの結びがあるだけで、あちらの世界でも活躍するんですね。
とてもわかるような気持ちです。なんで、あんな善い人達が死んだのか、わからなかった。でも、この御文章を読みまして、納得しました。
もしかしたら、あちらでどうしても「来い」と言われて、この世を結ばれて逝かれたのかも知れませんね。「おお、来た来た来た。待ってたぞ。こっちでもすぐにやってもらいたいことがあるんだ」と、言われているのかもしれません。

大東塾寮生交通事故を知って、御一人から電話を戴いた。

備中さんが書き置いてくれた「幽顯一貫の覚悟」
これを読んで「御遺族の方々も、これを読みましてほっとしてくれるといいのですけれども。私はおかげさまで心の苦しさが解けました。有難うございます」

そういう電話であった。この方は「むすび」の話をこう捉えられた。
すべからく「神のまにまに」であろう。

昨日の八日には伊達市霊山町で足立徳史権禰宜の通夜が行われた。
明日は秦野で相原修氏の葬儀が、鹿児島でも山下貞一氏の葬儀が行われる。

思えば、山下貞一氏は東京海洋大学ーかっての海軍兵学校と並び称される英才が集った東京商船学校ーに通学していた。何故、海洋に己を求めたのかー私は聞いていない。
ただ、「二不」歌壇に 東京海洋大学帆走実習に際しての歌を披露している。
「海神(わたつみ)の力に畏れをののけどなほ奮ひ立つ海の男子は」
そして、今年の六月には、明治天皇東北御巡幸乗船明治丸を拝して
「大君の召させ給ひし明治丸真白き姿永久に朽ちぬかも」



…しかし、幽顯一貫とはいいもいいたり。
「むすび」の思想は心の安寧をもたらす。
誠に善き掲示板であることを感じたり。九段塾は。
 

幽顯一貫の覺悟

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 9月 8日(火)21時02分4秒
返信・引用 編集済
  ●磐山友清歡眞翁『靈の世界觀』(昭和十六年十月刊)に曰く、「

 人間の普通の意味における「死」といふものはないのである。私は「死は神變なり」と言うて居るが、つまり生活の環境に對する「むすび」(産靈・結靈)の變化に過ぎないのである。だから死を怖れるとか、死を悲しむとかいふのは意味をなさぬのである。もつともこれは本來のありさまについていふのであつて、人情としては死は悼み、悲しむのが當然である。人情を無視した神道なるものはない。親しきものに對する所謂死別の悲痛な感情は、尤も千萬のことで、それを嘲る理由は毛頭ない。まことにこれほど同情すべき事件はない。どんな修養のできた人でも、親しきものに對して、所謂死別の悲嘆を感じないものあらば、其れは神姦であり妖怪である。けれども、本來のありさまから申せば、死とは只だ神變のみであり、冬から春になつて綿入をぬぐ位ゐのことである。それにつけても、「善きむすび」こそ望ましいことである。「善きむすび」によつて、より良き環境へと進みたいものであり、それが幽顯一貫の生活の眞意義である。「善きむすび」には、内的なものと外的なものがある。内的なものとは、つまり善い心がけや善い行ひである。外的なものとは、種々の因縁である。

 わたくしは茲においてか、いつも思ふのであるが、靖國神社に合祀せられた御方の遺族の方々の認識や信念についてである。それが無上の光榮であることは、國民一統、みなよく拜感して居るところであるが、これは單に光榮の儀禮に浴せられたといふだけのことではないのであつて、天照大御神の人間世界における顯現であらせられる天皇陛下の大御心にもとづいて、神と齋ひまつられるといふことは、死後の實際生活の上に、これほど幸福なむすびはないのであつて、單に光榮の儀禮に浴せられたと申す位ゐのことでないのである。‥‥

 善惡と禍福との關係についても‥‥、平田篤胤翁が『古史傳』で力説した居られるところから、私の考へは一歩も進んで居らぬ。要するに正しい立派な道徳的な家庭でも、いろゝゝの災害のやうなものがつゞいたり、あまり感心いたしかねる人が、順境で萬事好調といふやうな例は極めて多いが、それは此の人間世界だけを眺めての話で、お互ひの生命は、誰でも無量壽であり、天神地祇の攝理に寸分の狂ひも記帳洩れもないことを斷言しておく。神界の實相と死後の生活の模樣を知り、その萬古不動の信念で、本當の徹底した御奉公も一層の輝きを生じてくるのである」と。



 塾頭の曰く、「哀悼を捧げるべきかどうか‥‥逡巡している」と。洵に深く感じ入りました。大東塾門下の「神變」は、何か天の意を思はざるを得ません。幽顯、境を異にすと雖も、「祖國再建」に、鋭意靈導を埀れ給ふでありませう。顯世に在る吾人も、ぼやぼやとしてはをられません。「萬古不動の信念で、本當の徹底した御奉公」、即ち黒木少佐の遺血たる「擧族殉皇」、楠公の指示す皇國の臣道に近づくべく、幽顯一貫の覺悟を固め、至純の熱祷を捧げたく存じます。



●影山正治翁『歸還、感有り』

神意、深甚、測る可からず、
默默、只だ期す、再建の業。
山河、語らず、人もの言はず、
薫風、萬里、青一色。


●影山正治翁『偶成』

笑殺す、顯官要職の徒、
國歩、艱難、大計無し、
君見ずや、古來、囘天の業、
多くは是れ、草莽無名の力。
恥ぢず、浪浪一介の臣、
求めず、嘖嘖身後の名、
挺身、難に赴いて、生死無く、
一貫す、尊皇大義の道。
 

大東塾関係者交通事故

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 9月 7日(月)23時03分59秒
返信・引用 編集済
  先ほど、「時計の間」にも書いたのだが、この掲示板にも少し、書いておきたいことがあるので。

6日の午後、岩手県の東北自動車道で八甲田山に向かう途中の大東塾関係者ー寮生・職員・元寮生など八人の乗るミニバンが中央分離帯に衝突、三人が亡くなられた。

新聞報道の記事を「時計の間」の方には転載しておきましたが、亡くなったのは相原修さん、足立徳史さん、それに「20歳代男性」と新聞記事には出ていた。
何故、もう一方だけが「20歳代男性」という表現なのか不明。
多分、現場が混乱して、氏名がわからなかったのだと思うのだが。

この20歳代男性というのは、鹿児島から来られている大東塾寮生山下貞一さんです。今年、二十歳を迎えられる人。

大東塾学生寮では例年、全国の霊山に登拝して祖国再建祈願祭を行っている。
今年は八甲田山であった。6日の早朝六時頃に、青山の大東会館前を出発したようです。

詳細は仔細を聞いていますが、私が話すべきことではないので、新聞紙上で山下貞一さんの氏名が記されていなかったことが気がかりで、もう新聞報道では名前は出ないだろうと思って、私の方から記した方がよいと判断して書きました。

たまたま、手元の大東塾不二歌道曾発行の今月号「二不」(八月号)に、紅顔の山下貞一さんの歌が「歌壇」に掲載されている。
今年の八月十五日に際してー

「靖国の斎庭にききぬ君が代のいつにもまして心にしみいる」

また、五月二十五日の影山正治大人之命三十年祭で「献詠代読をした山下貞一君に」と、山田貞蔵という会員の方が歌を進呈している。

「薩摩隼人声高らかに献詠を誦(しょう)しまつりき大人にとどけと」

鹿児島薩摩隼人の山下貞一さん。御尊父も神職。惜しい人が亡くなった。切に思う。

伴に亡くなった足立徳史さんは、福島県の別格官幣社霊山神社神職。御尊父が宮司。
ご承知の通り、南朝ー吉野朝に従われた北畠顯家、北畠親房、北畠顯信、北畠守親公を祀られている。昨年は、此処へ祖国再建祈願祭に訪れている。その足立先輩も逝かれた。

もう一方の相原修さんは、戦前からの最後の右翼と言われた大東塾故神屋二郎さんに私淑、その強烈な活動はネットでも知ることが出来ます。行動右翼の典型的な本物の右翼でした。神屋さんがずーと面倒を見ていた人です。
相原さんは、今後、いざという時が至れば、必ず「至誠盡忠」を見せる方でしたので、実に残念で仕方がない。天を仰いで慨嘆。後に続く人がいるのかー。

備中さんが、時計の間でー黒木博司少佐が七日午前四時に殉職と書かれていたが、なるほど、大東塾一行が事故にあったのが六日を考えると、私は殉職ーという気持ちを心の底に持ちたい。
祖国再建を日夜祈願していた若い人たちの死を大切なものとして、今は考えたい。

哀悼を捧げるべきかどうか…逡巡している。
 

連絡事項ー産土神社と新たな展開知らせ

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 9月 4日(金)14時02分3秒
返信・引用 編集済
  昨夜、備中さんのスレッド「産土大神」を読んでいたら、「帝都九段の鎭守の神樣は、何處の神社でありませうか。何方か御示教たまはれば、幸甚に存じ上げます。」と書いてあったので、それへの答えです。
おそらく大鳥居からすぐ近くの「築土神社」が九段周辺の産土神社であろうと思います。
無論、靖國神社の祭祀には関係のないことですが。

ところで、昨夜遅く、時計の間にも書いたことだが、今、現在、「靖國神社の正統」がほとんどまったく、世の中に知れ渡っていないので、発作的に「国体の本義」に触れようと昨日は書いたのだが、やはり、まず第一に「靖國神社の正統とは何か」これを広範に至らしめないことにはどうにもならないなーと今朝には思い至った次第。

以前の桜の掲示板には「その正統とはなにか」を書いたが、新しい訪問者は読まない限り、この九段塾を訪問しても「なにが正統なのか」を「まとめて書いてあるところがないので」知ることが出来ない。ただ、九段塾に断片的に書いてある小論を読んで、あとは想像を逞しくして理解するしかない。それでは閲覧者も困るし、こちらも困る。

やはり、「靖國神社の正統とは何かを」すぐに理解できる「書き物」が必要だ。
桜の頃から閲覧している人でも、あるいは、掻け落ちている「正統」があるかもしれないので、もういちど、「ハナカラ」靖國神社の正統とは何かをーこの「表通り」で語っていくことに決めた。

その大要のほとんどは桜で投稿しているので、それを再度検討しなおし、最終的には出版することを考えて、今、新たに、この九段塾に書き直し、掲載していきたい。

それを、順次、「靖國神社の正統を伝える」新たなスレッドを備中さんに作成してもらい、そこへ転載し、いつでも誰でも、スレッドを見れば「靖國神社の正統がなんであるか」をまとめて閲覧できるようにしたい。(まだ、新スレッドは必要ありませんよ。第一項が掲載される時期に新設してくれれば結構ですから)

そのための作業をこれからする予定です。

先には私は「幕末動乱から大東亜戦争までの祭神の戦いを」映像化するための概略ー靖國神社忠魂史を基にした「祭神の雄々しき戦い」を構想しましたが、今は「太平記」を先行させたために、一時ストップしています。

今度は、「靖國神社の正統を伝えるために」必死作戦を遂行した皇軍将兵の戦いと楠公の精神ーそれに「太平記」を組み合わせた「九段塾版太平記」執筆を心がけしていたが、それも一時、中断して「本論としてのー靖國神社の正統とは何か」を最優先することに決めました。本当に、くるくるとよく変わることだと思います。

更に、昨日の夜中に「時計の間」に書いた「国体の本義」解説も…今朝は後回しにすることにしました。

どうも、錨がしかっりしないで、ふわふわ、思いつきで頭脳がめくるめき、混乱が自身に起きているようでみっともないことは承知しているのだが。

とりあえず、「靖國神社の正統を伝える」ことに視点を注ぐことが先だーと朝まで起きて結論しました。

これも大変な作業で。桜に書いたことが大要下敷きになるので、何を書いたか、もう一度読み返して、順番を構成しなければならず。その量も膨大なもので。

まあ、仕方がありません。一度、レールを敷けば、あとはずんずん進むはずです。
私が消えても、残した書きものが整理されていれば「靖國神社の正統がなんであるかは」勉強できると思いますのでーまず、それをやろうと…今現在はそう考えておりますので、よろしく応援を願います。

なに、応援と言ってもたいしたことではなく「頑張ってください」みたいな言葉だけで、栄養は充分なのです。

以上ですが、これは、事務連絡的なことなので、やがて、削除いたします。
 

『青いリボンの頑固者』土屋たかゆき遂に決起!

 投稿者:加藤哲史  投稿日:2009年 8月29日(土)10時22分9秒
返信・引用
  皆様既にご存知の通り、民主党板橋区選出・東京都議会議員、土屋たかゆき先生が、
オピニオン紙『WiLL』十月号において、『民主党政権を内部告発する』と題した
論文を発表、除名を覚悟して、鳩山亡国政権誕生に対して、決然として反旗を翻し
ました。
土屋都議は、このまま黙って流れに身を任せていれば、都議会議長の椅子が約束され、
天皇皇后両陛下へのお目通りが叶う、宮中晩餐会にも出席できる身分が保障されて
いたにも関わらず、その椅子を敢えて蹴り、意を決して立ち上がったのです。

『国旗切り張り事件』に見られる様に、極左勢力に執行部を支配された、現在の
民主党が政権を取った場合、鳩山らが行うであろう一連の政策は『徹底した国体
の破壊』であります。
『外国人参政権付与法案』は、その典型的は象徴と言えるでしょう。そして、
その国体破壊を目論む『民主党鳩山亡国政権誕生』は、間もなく現実の事となります。
民主党亡国政権誕生に当たり、民主党内部の保守系国会議員から、多くの偽装を抱えた
マニフェストや、『国旗切り張り事件』そして、亡国的政権公約に異論の声が全く上が
らない中、座して自ら禄を食む民主党が、国体破壊の元凶となる事を、看過するに忍び
得ず、土屋たかゆきは漢として立ち上がったのです。

私は土屋たかゆき都議を『青いリボンの頑固者』と、陰で呼んでいます。
それは彼が一度こうと決めたり、あるいは思いこんだりするとテコでも動かない、
格闘家の『赤いパンツの頑固者』田村潔司の様な偏屈者だからであり、今一つは
『拉致被害者奪還救出の象徴』ブルーリボンバッチが、これほど似合う人物は
いないからです。
しかし、頑固で偏屈であるが故に、土屋都議の祖国日本に賭ける想い、情熱、
愛国心も並たいていのものではありません。
どんな脅しがあろうと、あるいは宥められようと、初志を貫徹されるでしょう。
(既に某国会議員から圧力を受けているとの事です)

民主党政権が来年瓦解するのか、あるいは四年後まで続くのか、それは誰にも
分かりません。
しかし只一点はっきりしている事、それは鳩山民主党政権の誕生をもって、日本は
一旦終わる、と言う事です。
台湾において、馬英九国民党政権が誕生し、独立国台湾が終焉したのと同じ様に、
日本も一旦終わるのです。
(この解釈は私の親友から頂いたメールよりぱくらせてもらいました)
幸いにして、日本は台湾と違いシナから距離があり、彼の国に併呑されるまで、
まだ時間的余裕がございます。
我々は残された余裕を目一杯使い、やれるだけの事を徹底的にやり、失った物を
再構築して行かなければなりません。
鳩山亡国政権が次々に出して来るであろう、国体破壊法案阻止、そして鳩山亡国
政権を打倒する為に、徹底的に闘うのです。
その為の闘いには、何としても土屋たかゆきの様な人物が必要です。

昨日、土屋さんに電話にて言われました。
『加藤ちゃん反政府運動をやろうじゃないか!』と。
土屋たかゆきを旗手に反政府運動を行うには、差し当たって政界再編が起こるまで
は、彼に民主党内部に留まってもらい、党内をひっかき回してもらうのが一番効果
的です。土屋たかゆきを除名処分に付させてはいけません。
民主党本部に電話一本入れて『土屋都議の除名を絶対に許さない』と、一言言って
頂くだけで効果はあると思います。
日本の為に自らのポストと首を賭けた漢、土屋たかゆきにご支援の程、よろしくお願
い申し上げます。

加藤哲史   拝

民主党本部・代表電話番号 03(3595)9988


急告!
来たる三十一日、午前11時半民主党本部前において、
在特会主催『国旗切り張り事件に抗議する街宣活動』実施決定。雨天、
政権誕生の有無に関わらず決行
 

死んで、死んで、一族一億国民皇統を護る

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月24日(月)13時13分59秒
返信・引用 編集済
  備中さんが、深耕している黒木少佐のスレッドにある一文を、私の判断で、九段塾掲示板に転載させて戴く。

  ※黒木慕楠少佐『急務所見』(昭和十九年五月八日)である。※


諸士、悉く読んでもらいたいためである。
黒木少佐がどのような方であるかは、説明を要しないであろうが、平泉博士のお話を冒頭に掲げる。

■平泉澄博士『悲劇縱走』(昭和五十五年九月・皇學舘大學出版部刊)の第七十一章「黒木少佐」其二に曰く、

「此の『急務所見』のしたためられたるは、昭和十九年の五月八日、黒木博司海軍大尉、かぞへ年二十四歳、原本は幅一尺一寸四分、長さ實に二丈一尺二寸五分、徹頭徹尾、血書であつて、墨で書かれたものは一字もなく、しかも筆勢は雄渾、湧くが如く、迸るが如く、大尉の精神躍動して、鬼神を泣かしめるものであります。

 かやうに云へば、讀者は黒木少佐に就いて、いかなる風貌、いかなる性格を想像せられるでありませうか。實は斯の人、紅顔、花の如き若武者であり、温和、春風に似る、やさいし性質でありました。この人ほど美しく、この人ほどやさしい人は無いとさへ思はれます。父母に對し、兄妹に對する至純の愛情は云ふまでも無く、師友に對し、上司同僚に對しても禮儀正しくして、しかも温情に滿ちてゐました。「下呂の母から送つてくれましたから」と云つて、あの食糧の恐るべき空乏の時に、柿を二三個、栗を十數粒、わざわざ小包で、東京へ送つてくれられた好意を、私は涙ながらに囘想するのであります。

 或はまた讀者の中には、少佐を以て熱情の青年、感激の高い文學青年の如く思はれる人があるかも知れませぬ。實は極めて沈着冷靜であつて、毫も感情に溺れる浮薄の氣風を見なかつた事は、昭和十九年八月、少佐の歎願、遂に海軍首腦部を動かし、「囘天」兵器として採用せられ、いよいよ出動迫つて來て、その練習に專念中、九月六日、海荒れて浪高く、少佐の同乘指導した囘天第一號、不幸にして海底に突入し、離脱浮上不可能となり、遂に殉職の悲運に際會した時の態度によつて明瞭であります。その海底沈座は、六日の十八時十二分、最期は七日の午後二時となつてゐますが、少佐の絶筆は○四○五とあつて、意識のあつたのは、午前四時までと推定されます。つまり絶望の状態に在る事、十時間の長きに及んだのであります。これが短時間であれば兎も角、十時間の長い間、死に直面しつつ、次第に呼吸の困難の加はる時、常人であれば、感情は高まり心緒は亂れるであらうと思はれるのに、黒木少佐は極めて冷靜に、事故の實状、その經過、自分の執つた處置、今後警戒すべき點、用意すべき點、設備すべき點、其の他參考事項を記録に留めたる後、神州、必ず體當り戰法に徹し、明日より速刻實行する事を確信し、『神州不滅を疑はず』、『欣(よろこ)んで茲に豫(かね)て覺悟の殉職を致すものに候ふ。天皇陛下萬歳。大日本帝國萬歳。帝國陸海軍萬歳』と、皇國の將來を祝福すると共に、後事を仁科(關夫)中尉を始め同志の諸士に委嘱し、更に『恩師平泉先生を始め先輩諸友に、生前の御指導を深く謝し奉り候ふ』とまで書き殘されたのでありました。諸葛孔明の出師表や、文天祥また謝枋得の詩は、異國の人であり、數百年乃至千數百年前の事であつても、猶ほ我等をして泣かしめずしては措かないのであります。而して今、黒木少佐の『急務所見』や『日記』及び海底の『遺書』の如きは、その忠愛の至情に於いて、其等とその本質を同じうし、その光彩を競ふものと云ふべきでありませう」と。


●黒木慕楠少佐『急務所見』(昭和十九年五月八日)に曰く、「

 紀元二千六百四年五月八日
     海軍大尉 黒木博司

   急務所見

 大日本は、神國なり。皇國の大義、萬古、神勅に定り、大義の國體、千歳、忠烈を生むと雖も、臣民、茲に感奮して、自ら義烈に力むるになくんば、焉ぞ能く皇國の無窮を保せんや。今日の危急、言ふべからず。明日の變轉、察すべからず。未だ聖慮を安んじ奉ることを得ざる、嗚呼、臣か罪、誅に當る。臣、既に死すべし。囘天護國の道、神明、唯だ此の處に嘉し給はらん。草莽の淺學なりと雖も、至誠盡力の事、地に俟つべからず。便ち微衷靖獻、以て左の四項を記す。

   第一 死の戰法に徹底すべき事

 現下、戰局の歸趨は、皇國存亡の決する處なり。病躯の夫、仇敵刀を擬するに、焉ぞ醫藥を煎ずるの暇あらんや。攘夷撃滅は、正に今日の至大事なり。時に夷狄、膨大の物量を以て臨むに、我、力及ばず、量足らず、遂に滿身創痍、身に寸鐵を帶びざるに至らんとす。呼、神州明日の變、測り知るべからず。我、何を以てか、之を制せん。他なし、『吾が國の外國と異なる所以の大義を明かにし、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確固たらば、何ぞ諸蠻を恐れんや』(愚案、吉田松陰先生『講孟箚記』)と。之れ心切忠死を希ひ、臨むに必殺の策を以てして、始めて可なり。夫れ必死必殺の死の戰法に徹せんか、用ふる兵器は易々として、以て量を補ふに足り、用ふる道は、豁然として戰果、測り知るべからず。一度、其の威を振はんか、夷狄、慄然として爲すなけん。是れ神州の武、皇國の義なり。唯だ用ひざりしのみ。或は上官、切々の情ありと雖も、大義に死せしむるは、臣たるの義、子を生かしむるは、將たるの責なり。焉ぞ一己の心責を以て、皇國の安危に換へんや。宜しく速かに皇國の神武たる死の戰法により、皇國を護持し、以て一日も早く聖慮を安んじ奉るべきなり。姑息の弄策、荏苒の一日、以て神州を千歳に誤らんことを懼るなり。

一 航空機に於て、速刻徹底すべきこと

 今日、航空機の偉たる、論を俟たざる處なり。然るに彼の膨大と良材と超巨大機に應ずるに、我れ亦た航空機と彈丸を以てせば、遂に支ふる能はず。唯だ攻守共、死の戰法に依らんのみ。則ち自爆々撃機及び體當り戰鬪機を以て、彼が生産地を覆滅し、又た其の巨大機を必墜して、一の逃走なからしめば、制空の權、必ずや我が掌中に歸せん。唯だ明日の變、測り知るべからず。有志、齊く待機す。要は之が發動の速刻なるに在り。

一 人間魚雷を完成採用すべき事

 主戰力、一に航空機に在りと雖も、然も之を補ふに潛水艦を以て第一となす。然共も帝國が國力を以ては、遙かに其の量を充す能はず。故に急速、人間魚雷を完成し、徹底的連續攻撃を敢行し、以て敵が海上勢力を完封すべきなり。巧妙の技術、可なりと雖も、其の域に限度あり。獨り士魂は然らず。宜しく速かに英斷を下すべき機なり。

一 空輸挺身隊を徹底的に活用すべき事

 搦手攻撃は、戰術の要諦なり。陸戰及び海洋基地に於て、空輸挺身隊を以て之を敢行せば、その戰局を左右する處、極めて大なりと思考す。吁、皇國の興廢、唯だ正に死の戰法に徹すると徹せざるとに在り。然して其の司の士に在り。

   第二 天下の人心を一にすべき事

 天下の事、人心を一にするより大なるはなし。孫子曰く、『兵者、不知人和』。松陰先生、更に曰く、『天下、難あれば、億兆の臣民、皆、當に之に死すべし。億兆の臣民、皆、死すべからざれば、則ち皇統は天壤と共に窮りなけん』と。然るに皇國の大體、神州の聖民にして、猶ほ一ならざるは何ぞや。即ち百説相剋、利徒跋扈し、夷心蠻風、得々として風靡す。或は軍民、漸く相離れんとし、又た陸海、既に相容れざるや甚だし。嗚呼、天皇は聖明たり、國體は優美たり、然して之に背かしむるものは何ぞや。

一 尊皇を純化徹底すべき事

 松陰先生曰く、『天朝を憂へ、因て遂に夷狄を憤る者あり。夷狄を憤り、因て遂に天朝を憂ふるものあり。然共も其の孰が本、孰が末なるか、未だ自ら信ずること能はざりき。向に一友に啓發せられて、矍然として始めて悟れり。從前、天朝を憂ひしは、皆、夷狄に憤りを爲して見を起せしなり。本末、既に錯れり。眞に天朝を憂ふるにはあらざりしなり』(愚案、松陰先生『又讀七則』)と。思ふに、吾人に亦た此の錯りあるにあらざるや。之れ有りては、遂に尊皇も徹せず、人心、一なる能はざるなり。況んや要路に、斯かる士の蟠居するに於てをや。義明かなる處、人、必ず赴く。即ち尊皇の純化徹底を計らんとせば、政府は先づ權謀奸策の不徳の士を芟除し、態度敬虔、操志堅確、國體明徴の士を登用すべきなり。政道は教學より大なるはなく、教學は上に其の人を得ざれば、遂に成るなし。他の弄策、復た論ずるに足らざるなり。

一 國家教學に其の人を得べき事

 國家の患、教學、正道を得ざるより大なるはなし。今日の患、一に夷學・雜學に因る。宜しく速かに皇國の正學に據らざるべからず。即ち敬虔、以て先哲を學び、愼重、以て傳統を稽へ、忠死、以て皇國を護持せんとの學ならざる可からず。然るに今日の學は、皆、夷學・雜學、傲然として私見を立て、敢然として傳統を排す。爲に百家百説、民心、一に歸するなし。獨り正學は然らず。皇國の忠臣巖然として、爲に志向する處、更に別途なし。便ち國民、肅然として、民心、分れず。‥‥

一 君臣の名分を正し父子の情義を養ふべき事

 皇國の事、君臣の名分を正すより先なるはなし。近年、天皇御親政の實、聊か國の内外に明徴ならざるものあり。之れ舊態の然らしむる處、今日、一擧に改むべからず。唯だ皇族を奉戴して總宰に仰がば、時態拾收、以て御親政の實、國の内外に明かならん。然る後、國民肅然として順ひ、萬邦靡然として仰がん。國難囘天の業、以て始むるを得ん。又た忠臣は、必ず孝子の門より出づ。宜しく家庭を養ひ、孝子は厚く之を賞用し、子、罪あらば、父兄を以てすべし。抑々一夫樂みて百屋生邑なく、權勢の富豪に許して、誠實の貧困を窮せしむることあるべからず。國歩艱難、民心荒蕪なるに於ては、愈々人心を茲に撫育繋止するを要すべし。

一 軍の宜しく自肅すべき事

 我等は、陛下の御股肱なり。『凡そ王土にはらまれ、忠を致し命を捨つるは、人臣の道なり。必ず此を身の高名と思ふべきに非ず』(愚案、北畠准后『神皇正統記』)。銃後、猶ほ克く前線に謝すと雖も、亦た極めて困窮の境に在り。或は軍の一斑を見て、軍民、漸く相離れんとす。之れ最も戒むべし。抑々軍は教育徹底し、物慾に亂るゝなしと雖も、庶民は然らず。宜しく軍は、速かに簡衣粗食に卒先すべし。軍、卒先せば、何者か足らずと言はん。之れ軍の國家鎭護の一斑なり。

   第三 陸海軍一致すべき事

 現戰局不振の因、陸海軍の不一致による處、極めて大なり。畏れ多くも陛下御股肱の御信任に對し奉り、皇國將士、何の顔ある。之れ即刻に悔い改むべきなり。抑々之が因て來る所は何ぞや。思ふに、陸軍は陛下の御股肱を以てし、海軍は戰鬪第一を以てす。即ち前者は精神を重んじ、後者は技術を輕んぜず。弊利得害、各偏見より至る。今日、正に大丈夫の襟度を示すべきの秋なり。況んや陛下の御股肱たるに於てをや。然共も之が積年の弊、深く原因する處あるべし。則ち道義の根底に於て結ばれざるべからず。然るに學無くんば義暗く、學同じからざれば、遂に義同じからず。宜しく速かに正學の軍に於て講ぜらるべきなり。之れ陸海軍の根底に於て一致するの要諦なり。

   第四 緊要の策を速刻斷行すべき事

 囘天緊急の策たる、即ち之を遠慮深謀し、速刻斷行すべきなり。緊要の策、今日、左の如きものならんか。

一 玉碎兵器を徹底増産すべきこと

 特に慮るに、左の二點あり。
 イ、戰局の如何に拘らず、終始、死の戰法を徹底すべき事
 ロ、時限的増産を以て、常に決定兵力たらしむる事

一 補給線を確保すべき事

 特に對潛兵器の如何は、今日、國家の命脈に拘るべし。對策を要す。

一 化学戰に一歩先んずべき事

 近き將來に於て、熾烈なる化學戰たるべきは、必至なり。宜しく皇國の無窮を念じ、之が愼重切實の對策に力めざるべからず。而して左の三種、最も心すべきものか。
 イ、殺人光線
 ロ、毒ガス
 ハ、人造肥料

一 食糧を確保すべき事

 民生を厚くするに、食より大なるはなし。食足れば、便ち衣・住足る革命騒亂は、充ち足りて猶ほ起ることなし。   [終]」


※備中さんの黒木少佐スレッドには、黒木少佐作の戯曲「大楠公」も敬書されているが、その中に大東亜戦争終盤における皇軍の戦い熾烈なる精神、銃後の国民の覚悟ーその神髄が示されている。名越先生がよく喫茶店で言うていた「楠公精神」もこのことを指していた。
「死んで、死んで、死んで、死に盡すーそれがあの時代、誰もが思っておったことですな」と。

即ちー楠木正成が、湊川の戦に臨み、子息正行を帰す「櫻井の駅の別れ」である。

正成「さればぢや。汝に頼む。父・正成は、既にこの爲に、此の悲しみの爲に、討死して果てるのぢや。されば汝、正行も、又た兄弟も、皆心を一にして、此の悲しみ、此の無念の爲に死んでくれ。叔父も、甥も、一族郎黨、この無念の爲に死んで、死んで、皇統を護り、二心なく、屈せず、一族、死を以て仕ふるならば、彼の惡逆の者と雖も、必ずや感ずる所あり、皇統のみは、天壤と共に窮りなきことを得。何時の日か、復た正しき御代にかへることを得るであらう。然し天下、亂臣賊子の世、御間違ひなく、皇統をお護り奉るさへ、中々難しい事ぢや。」

海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、空行かば雲染む屍ー


「死んで、死んで、死んで、死に尽くす日本大民族の大東亜戦争の大義がここにある」

靖國の宮に鎮まれる祭神のいさおしを伝えなくてはならない

それを私はし遂げたい。

そのための映像製作をー三百億、五百億をもかけて、世界中で上映したい。
今をときめく米英仏中の有名俳優を駆り出し、わが国の有望なる俳優をもって作製したい。黒澤監督なくも、誰か手掛けられる監督に頼みたい。

「これが大日本帝国の戦争だったー」という世界を相手にした極東の国を紹介したい。
これは夢の又夢とは思っていないのだが。※
 

血圧が上がる話はダメ

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月23日(日)12時05分55秒
返信・引用 編集済
  さて、しばらく様子を見ていたが、不浄の桜の映像が来る日も来る日も冒頭にあるので、これに触れて、掲示板を清浄にする。

実存主義者がどのような意趣でこれを持ってきたのか、よくわからないが、まあ、桜を見ていない人には、水島なり、桜の面々がどのように底流で蠢いているのかを知らしめるにはよいのかも知れんが、まあ不愉快な映像である。

不愉快なのは、勿論、田母神に質問した外国人ではなく、この水島、田母神に続く桜の面々である。異様だ。

この騒動は、ピエールとかいう外国人が起こしたものでないことは、常識人が見ればあきらかだろう。水島と、その取巻きがかってに騒動して、謝罪文まで書かせて喜んでいる。

みっともない話だ。箱根の山道で山賊に遭遇したようなものである。身ぐるみはがさして喜んでいる。幼児そのものだ。
このビデオが海外に出されたら、靖國神社が迷惑だし、正統保守が迷惑だ。

ここで由々しき問題は、いつの間にか水島が、英霊にこたえる会に入り込み、中央集会に入り込み、靖國神社にも入り込み、用心棒を始めたことである。

この男は、八月十五日の終戦の詔勅を「敗戦の詔勅」と宣伝しまくった国賊に近い男である。なのに、群れる保守が後も切らない。何故なのか?
現今の保守を名乗る人間に「学問」がない。これが最大の原因だろう。

そして、昔から言う「左では食えないが右では食える」
靖國神社を参拝する代議士連中は、がやがや笑いながら大体が拝殿に向かう。
いつも遅れて一人で参拝する議員もいる。女性に多い。姑息であることを祭神は見通しでしょう。

こんなものでもバッジをつけているから宮司は議員バッジに対して出迎える。
そうすると、この連中は、エライサンになったことを実感する。
それまでは、神社に来ても宮司はいちいち会わんからね。
こういう代議士は、今度の選挙で落選してくれることを私は願っている。

現今「おれは保守だ!」を名乗る著名人は、大半がヘンテコだよ。
それを言うと、「冗談じゃねえ」とすぐに怒るが、じゃ、どの程度「靖國神社」を知っているかといえば、コンビ二知識のようなものしかない。

靖國神社に集る学者、ジャーナリスト、なんとか、なんとか、は要は有名になりたい、名士になりたいという、名誉、権力、有名。これが欲しい。

水島が桜でデビューした頃は、鼻も引っ掛けなかったが、その内、力を付けてきて、総理まで出演してきた。テレビという媒体を持っている。それ行けーと「集ってくる」

皆んな、世間から忘れられるのが怖いんです。それと、原稿の依頼がマスコミから減って生活が潤滑でなくなるから。それで寄り付く。水島が正統でないことは多分わかっている筈だ。利用するだけ利用する腹だろう。

今、世間では民主が強いという。これも結構だ。
それならそれで、いったん民主党が国を奪って、俄か保守連中を一掃してくれればそれも天の助けだ。

また、どういう人間が寝返るか、その「寝技や弁論も」見聞したい。
民主党が政権をとったら、国立追悼施設を作るという。これはやりそうだ。
それも結構なことだ。

どのような論理で、施設を作り、どのような展開をなしていくのかー死ぬまでにどうやら見ることができそうだ。

それで、国民が動き、靖國神社が寂れても、別にどうということはない。
寂れているのは今も一緒だ。
靖國神社は変わらないよ。

いつか、話したがー一旦、靖國神社が寂れてくれるも悪くはないね。
神門は昼も夜も閉じてしまう。こういうのも悪くない。

負の論理ではあるが、現在の魑魅魍魎が巣食う社頭風景であるならば、八月十五日の意味も知らず、国民服喪を失念した日本国民であるならば、祭神もまた、私と同様の感慨にあるのではないかと推察する。
いや、祭神は、とっくに今の参拝者を見限って、日本国民を見限って、伊勢神宮、明治神宮、皇城の上空のみを旋回し、お守りしているかも知れない。
靖國神社創建の聖旨を考えれば、それで充分でしょう…という感慨は成立する。

以下は、一旦書いたが、考え合って削除した私の気持ちだが、一応、載せておく。
(じゃあ削除したことにはならんがね。姑息な作戦)

水島には、柄の悪い用心棒の如き風体を見せて、靖國神社の参道で「でかい面」を晒すなと言いたい。

靖國神社は、どなたでも参拝していい神社だ。また、見学に来ても文句はつけない。
右翼、サヨク、どちらも来る。土台、奉納芸能でエレキギターをかきならし、キリストを讃えるような歌さえ歌う奴もいる。

参道で「ちょこっと」質問したぐらいの外国人で大騒ぎを起こしたいのなら、遊就館の歴史解説をサヨク化させた靖國神社の幹部に文句をつけろ、付き合いの多い広報課長に文句をつけたらどうだ。

宮司室に怒鳴り込んだって悪くない。
八月十五日に遊就館の前で、旗ざしモノを出して、缶コーラなどの販売を何故、許可したか文句を言え。みたま祭の延長か!とね。

社報にくだらない記事を書く広報課課長に何故、文句をつけないんじゃ。

この国民服喪の日に、ピンクの胸の徽章を付けて、靖國神社参道で演説する「田母神閣下」を何故、ひきづり降ろさない。この日は祝賀会か?

たかが一人の外国人が、話し終えた田母神に「質問」したぐらいで、半島人のように「怒鳴る必要が」どこにあるか!
貴様達が出て行けばいいのだ。靖國神社は用心棒を必要としない神社だ。
ああ、少し、血圧が上がってきた!

大体、靖國神社に祭られる祭神が通る「参道」にテントなんか広げやがって、涼しい顔で「来賓面」するのはどういう了見だ!このばか者!

靖國神社に「来賓」というのはないんだよ!知ってんのか!お前達は!
総理でも「特別参拝者」と呼ぶ。祭神より偉い「来賓」なんかいないんだよ。
靖國神社をなんだと思っているんだ!

「来賓ズラ」して演説などするな!
主催者がー黛さんが生きていたらピンクの徽章なんか激怒するよ!−例え主催者に渡されたとしても、そんなものを付けるな!
いいかね。祭神の前に「来賓」という存在はないんだよ。

戦後生まれだから仕方ないが、少しは自分が軍人であるなどと考えたけりゃ、胸にピンクの花など付けるな!
八月十五日は祝日ではない。頭を冷やして出直して来い!
(どうも同じことを何度も叫ぶ癖が最近は顕著になった)

この私のコメントを読んだ者で、田母神と親しいなら教えてやれ!
ちゃらちゃらした格好で、靖國神社を闊歩するな!と。

ついでに水島にも言っとけ!言わなくても本人が読んでいるから、言うに及ばずだった。
「私の言う通り、黒服を着てきたのはいいが、この黒服はヤクザの黒服とは違う。葬式の黒服でもない。身を慎むという意味の黒服だ。英霊の葬式に参列しているわけでもないし、親分の葬式に顔出しているわけでもない。少しは身を慎め。手下にも派手な小汚い格好で、マイクなどでしゃべらせるな!どうしてもしゃべりたけりゃ、飯田橋の駅前でやってこい!用心棒の真似事などやめときぃ」とな。

ええと…あとー何かいいたいことあったっけ?
ああ、大高とか、レロレロの解説者とか、派手な姉ちゃんのかっこうしたり、身体を曲げて「靖國」「靖國」というな!

あとは何だっけ。そうだ、高森が靖國神社を国家に返すなどど演説しておったが、国に帰してどうするんだ!こいつも本当にダメな男代表だ。

以上が、塾頭らしい荒れ言葉なので、本性がばれるとまずいので削除しました。

ともかく、実存主義者も、こういうくだらん映像をわざわざ持ってくるな。親切心でしてくれたのかもしれんが、血圧があがって仕方がない。
私を殺すきか!!

ともかくもー今日は暑い。もうこのくらいでいいだろう。

実存主義者は悪いやつではない。私は嫌いではない。が、案外とオッチョコチョイだ。
だから、九段塾でも可愛がられるのだが、もう少し、精進して欲しい。
以上。おわり。

この映像に関する話がしたければ、「時計の間」でどうぞ。
この本通りでは不要。委細、承知して下さい。
 

(無題)

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 8月22日(土)00時12分55秒
返信・引用
  某掲示板で見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=YO4DEOhkWYw

田母神元空爆長ごときの平和主義的な発言で、「ドイツなら逮捕される」らしいです。

可笑しなことを言う毛唐ですね、このピエールくんというカナダ人は。

それともドイツではまたナチスが台頭し、平和主義者は弾圧されると言うことでしょうか。そういうことでしたら良く解かります。
 

捨石として御身砕かれてー

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月21日(金)01時50分45秒
返信・引用 編集済
  今、深更に目が覚めてー夕方から先ほど前まで熟睡しておりました。

権太さんー大山さんの話、権太さんは彼に申し訳なさそうに謝っていましたが、なに、そんなに心配しなくたっていいんですよ。
こうやって、たまには世間で批判を受けないと、自分が何をしているかが気がつかない。
大山さんもそろそろ五十になるのか?な。

世間に顔を晒せば、恥じも批判も受けて当たり前です。
こういう、権太さんの手を通じて、自分の書いた文章が九段塾に掲載されて、私から批判されて、世間もそれを納得するーこれも、いわば英霊の「達し」なんですよ。

今後の大山さんの活動にも「自省」を与えることで、権太さんはむしろ「いいことを」したと思ってください。福寿を大山さんに与えたんですから。

権太さんは英霊から「選ばれて」あなたの手で、この「書き物」を九段塾に投稿させたんです。このように考えて下さい。

大山氏もこの九段塾を読んで反省はしているでしょう。

中略した部分でも、新しい京極宮司に対して、「時を得て早期に御参列のことであろう。」なんて、上からの「モノ言い」で書いているでしょう。
こういう処がだめなんだよね。
自分を少し高みにされげなく置きたいんだろうが、もっと、へりくだって書かないと、京極宮司が馬鹿みたい、常識に欠ける人物みたいな印象を与えてしまう。

土台ですね、外部に「遊就館資料課長」の肩書きを付けて書くんだったら「である」調をもって文章を書くこと自体が問題なんです。
「です」調で書かないと、見識すら疑われてしまう。

>「京極宮司も、時を得て早期に御参列のことになると思われますー」
という平坦な文調で何等問題なく、むしろ格調の高さを紙面に現すものなんです。

私が「上から」言うのとは「違う」ことを理解しないといけないんです。

もともと、大山さんはそんなに文章が上手くないんだが「自分では上手いと思っている」そこに問題があるんだけどね。
要はね「プロ」だと自分を勘違いしている所が「上達を」阻害しているんですよ。

権太さんは、もしかしたら、大山氏とかトム岸田氏などと「刀剣を」通じて、既に知り合っている仲なんですか?ふと、感じましたが。

ま、いずれにしても、そんなに大山氏に申し訳なく思う必要はありませんよ。

私に言わせればまだまだ大山さんは「ぼんぼん」なんだ。
世間の風にさらされて、批判されないと、自分の欠点がわからない。
大野宮司が在職中は、自分に不都合不似合いあれば、腹を切る覚悟を持って奉職していた至誠盡忠を見習って欲しい。

靖國神社の神職は世間の厳しい目に常に晒されている事を自覚し、だからこそ、内にあっては間違いのない「言動」を自覚し、外にあっても間違いのない「言動」に気をつけるーそういう覚悟が本人の精進につながるし、靖國神社の格式、尊厳を伝えていくんです。

…ということが今回のことで大山氏はわかっただろうと思う。

それより権太さん、これに懲りずに、またいろいろな情報があれば披露して下さい。
こういう叱咤を靖國神社の神職は「外部」から受けることも、大きく言えば「正統のため」「靖國神社のため」なんですから。

権太さんも「心を鬼にしてー」靖國神社正統を伝えるための捨石として、御身を砕いてくだされば、塾頭として嬉しい次第です。

なお、以上をもって、この「刀剣」の話はこの「九段塾本通り」ではオワリとします。
なにかあれば、後は「時計の間」でお話しましょう。

閲覧者の皆さんも「靖國神社正統を今日に、また後世に伝えるための捨石となって」御身を砕いてくだされば、塾頭として嬉しい次第です。
 

Re: 靖國刀奉納さる

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月20日(木)18時57分39秒
返信・引用 編集済
  > No.511[元記事へ]

先に私が轉載した、大山氏の刀劍美術への寄稿文に、中略部分を加筆致しました。これが全文です。私が中略などしなければ良かつたのかもしれませんね。大山課長樣には大變失禮を致しました。
(上のリンクでご覽下さい。)
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月20日(木)12時49分34秒
返信・引用
  塾頭のご指摘、御尤もだと思ひました。

先の拔粹文には中略部分がありましたので、全文掲載したいと思ひます。でないと大山氏にも失禮だと思ひますので。
でも今は職場から晝休みを利用して書いてますので、歸宅後に掲載したいと思ひます。失禮しました。
 

Re: 靖國刀奉納さる

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月20日(木)11時59分57秒
返信・引用 編集済
  > No.511[元記事へ]

これは、表に書こうか、時計の間に書こうか迷ったんですが、でも、やはり、大事なことで、何が靖國神社の正統かーを考える際に、閲覧者が気をつけなければならない…というよりもつい、うっかりして見逃してしまう…そういう心の隙間を埋めていただければと、思って、那須の権太殿の投稿で少々苦言を。

苦言そのものは「刀剣美術」に書いた靖國神社遊就館資料課長の大山晋吾。

那須の権太殿が、何も投稿文が書かれていない九段塾を慮ってか、普通、一般人では目にしない「刀剣美術」という専門誌に掲載された靖國神社への刀剣奉納の記事を転載してくれた。

こういう所に遊就館の大山氏が記事を書いていることを私も初めて知った。
そういう意味では、大変ありがたい転載でした。
こうした記事は権太殿でなければ、到底、我々の眼には入らぬ情報。今後とも、鵜の目鷹の目で情報を教えてくだされ。

では、なにが、苦言を呈しなければならないのか。

この大山晋吾氏は、以前は社報の編集者を任され、「靖濤」の担当者として毎号書いておられた。その視点のつけどころが靖國神社神職らしからぬ書き物が多く、幾度か文句を桜の時に書いたと思う。

この人本人はそんなに悪い人間とは思えないのだが、ちょっと「ぽっぽチャン」みたいなところがあって、エサを与えるとすぐ飛びついて上調子にすべるところがある。ただこの人の話を聞きたいということで、遊就館に訪ねてくる人も多いことは多い。外部に一種の人気がある人だ。
それだけに、今回のような不謹慎な文言を書き連ねた大山氏の執筆態度は、問題視しなければならないし、閲覧者も気をつけて読まなければならない点なのである。

一体、塾頭は「何を言おうとしているのか?」

それは、ここだ!
>去る六月二十七日、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司大野俊康氏(靖國神社元宮司)、同神社宮司大野康孝氏、研師藤代興里氏、写真家トム岸田氏以下六名が靖國神社を訪れ、御創立百四十年を記念して靖國刀「靖繁」一振を奉納された。

この記事を読んで、何処がおかしいかわかりますか?

この刀剣奉納をされた方は、第七代靖國神社宮司大野俊康氏であって、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司という方ではないーということです。
元靖國神社宮司大野俊康氏は熊本のーというより天草にある先祖伝来の本渡諏訪神社に戻られて、確かに名誉宮司としておられるのは間違いないが、こういう紹介を大山氏は何故したのか?
こういう所が大山氏の「正統に欠けている資質」なのだ。

>去る六月二十七日、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司大野俊康氏…という文章を読者が読めば、読む人の頭の中には「熊本県の本渡諏訪神社の名誉宮司である大野俊康さんと言う方」というコメントがまず最初にインプットされます。

それが次に()付で靖國神社元宮司―とあれば「ふーん。靖國神社の元宮司か。へえー」でオワリだ。

しかし、
>去る六月二十七日、靖國神社第七代宮司大野俊康氏(現在熊本県本渡諏訪神社名誉宮司)が靖國神社を訪問されて…云々書けば、「おおう、第七代目の大野宮司さんはまだお元気でしたか!」と読者からも感嘆の声もあがろうし、また、読んだ瞬間から「第七代靖國神社宮司―」とあれば、粛然たる想いが読者の頭の中に浸透する筈だ。
()の中に書かれた現在職よりも、冒頭の「第七代靖國神社宮司」という称号が際立つ、磐石の重みとして読者の胸に響いてくる。

即ち、それは言い換えれば、「靖國神社」という称号が読む人の胸に、巨きな響きを与えるのです。権威、尊厳、英霊…。それほどの称号なんですよ。靖國神社という名称は。
これを()で括る大山晋吾がいつまでたっても「ダメな男」の理由なんです。
靖國神社宮司職というものを貶めていることに気づかない。ひいては「靖國神社」も貶めているんです。正統が理解されていない。

靖國神社では宮司が退職しても「名誉宮司」という称号はないので、大野宮司が靖國神社を退職し、故郷の本渡に帰った時、伝来の神社は息子の康孝氏が宮司職を継がれていたので、氏子さんたちが「名誉宮司」という称号を奉ったもので、これは神社本庁でも承認していること。

だからと言って、大野宮司には頻繁なる教えを受けた大山氏が、靖國神社元宮司を()の中に括り(靖國神社元宮司)とは、なんたる蓮っ葉なことをしてくれたかーなのです。

大野宮司は、何度か松平宮司に叱責を受けた方だが、それでも、松平宮司の教えを直截にうけて、常に短刀を懐に入れて宮司職を全うされた宮司です。
鎮霊社も公開してはならん!と厳命するほど、明治天皇聖旨を大事に護られた正統を受け継ぐがれた「大野前宮司」をこのような紹介をするとは、とんでもない失態。

失態ではない。迂闊でもない。根に正統の魂が臨在していないから、こういう文章を書くことになるんです。
(ちなみに大野宮司の息子の大野康孝氏は知る人ぞ知る九州でも一、二を争う大右翼)

「刀剣美術」に掲載された文章を大野宮司が目にしたらどう思われるのかー落胆よりも深い悲愁の溜息をつくのではないだろうか。そのことが気がかりだ。

それとね、この島根県の「日刀保たたら」はこの当時、靖國神社内でも話題になったことで、大山氏は「自分が御供をしたと」書いているが、うろ覚えだが、大野宮司に随行したのは大山さん一人だけではなく何人かがいた筈だよ。少し自信はないが。

この記事だと、大山さん一人だけが御供したような印象を与えていて、なんとなく大野宮司の趣味のような感じを受ける。

こういう際には、出来る限り、大野宮司の靖國神社における功績を巧みに紹介し、また、靖國神社が何故、火入れにまで宮司が参列するのか、その有意義を簡明に織り込むという心が必要なのだ。もしかしたら、権太殿が中略した箇所にそのことが書かれているのかもしれないが、大事なことは冒頭で触れなければダメなんです。

そうした心の発露が出ないから、最初の文章から単なる「刀剣」だけの話しで膨らみも情緒性も崇高さも権威も感じられない…ヤフーニュースみたいな文章になる。
要は格調がないんだね。

折角の「刀剣美術」が泣きますな。

もう少し正鵠な文章を心がけないと誰が読むかわからないのだから。
これを今度、遊就館へ行ったら、権太さんから厳しく大山氏に言ってあげなさい。ついで、刀剣の話をしてくればいい。
入り口で、刀剣の話をしたいーといえば、大山さんは多分、会ってくれると思うので。

私が言いたいのは、大山氏への苦言もさることながら、要は、「この文章には正統らしからぬ書き方をしている」「この記事には黙って見過ごせない書き方があるー」という、そういう視点を閲覧者全員が養っていってくれればなお幸甚であるーという思いで「小言半兵衛」の塾頭が書いた次第。

少し、昨日より元気が出てきた。権太殿のおかげです。これからもいろいろなお話を宜しく願いますね。

暑さが少し和らいだ感じがあるので、これからまた太平記を調査します。老骨とはまったく自分では思わないが、体力維持のためにセサミンEという薬を勧められて、昨日から飲みだした。九段塾のためである。

どうでもいい事を書くこと自体、頭が弱ってきたかもしれん。
 

感懐

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月19日(水)19時19分57秒
返信・引用 編集済
  昨日の午前中に、休養先から戻ってきました。
せっかくの休養も、家に帰って来ると、どっと疲れが出るような気がする。何処にも出かけずに家でゆっくり休んでいた方がよかったかなとも思う。

さて、八月の十五日。靖国神社。

昨夜は、遅くに時計の間で一休みして、ぶつぶつ小言を呟いて終わったが、朝になって、思いを駆け巡らせてみれば、涼しげな風が高窓から部屋に吹きつけてくる。
これが神の加護でございましょう。涼風の中で、しばらく靖國神社のことを考えた。

八月十五日の靖國神社の九段下光景は、実存主義者が書いていた通りの淫猥をきわめたものであり、大手水舎の横で、ピンクのジャンバーを羽織ったチャンネル桜のスタッフが撮影していたのも、出演者も含め、すべてが国民服喪を知らぬ昨今の者ばかりでは文句をつけても仕方がないと思うしか手がない。

昔、戦後すぐにガード下で見かけたような派手なワンピースを着用した女性キャスターがいたのも服喪がわからなければ仕方がない。
しゃべる背中に神門の半旗があるが気にもしていないだろう。

参道の真ん中に張った邪魔な白テントの中で、真っ赤な花の来賓記章を胸に付けた元幕僚長達が、祭神顕彰を高い壇上から話すというのも既に形骸化した式典であれば致し方なし。

己らだけが強い日差しを避けるテントの中で居座り、涼しげに「英霊に感謝することが大切」と、それしか言えない…自分の不甲斐なさに腹が立っているのかどうか知らんが、そんな挨拶でも拍手をして盛り上がるという不思議な集会だ。これを形骸といわずなんというのか。

おいおい機会があれば彼らの愚かしさを書いてもいくが、今はその馬鹿さを書く気が起こらない。
時代が違ってしまった。

ただ靖國神社の清浄、静謐という伝統が、野盗の如き集団に踏み潰されてしまったことだけが残念だと感じた。

伝統、清浄というものは脆いものなんです。宝物のように守ってあげないとすぐに壊れる。

壊れたら、もう二度と伝統も文化も戻ってこないんです。それがわからなくなった日本人が増えてきたということでしょう。

このような惨状が、靖国神社の境内に充満する時代となったのも、一人、彼等だけにあるのではなく、靖国神社の宮司、権宮司以下の幹部職員に、賀茂宮司、鈴木宮司、松平宮司の想いを、遺沢を継承してこれなかったー来なかったーむしろ、あえて踏みにじった神職しか現れなかったーという現象があると思う。
これも祭神の考える思慮遠謀なのか。


その以前に原因を求めれば、敗戦後の生き残った日本人の処世の生き方にあるのかもしれない。

あと数年で私も終えるかもしれない。

国立追悼施設の話がまた出てきているようだ。
作りたければ作らせればいいことで、それで靖國神社が廃れればそれはそれで仕方がない。正統を継ぐ者がいれば、靖國神社はいつかまた中興する。二百年三百年必要かどうかはわからない。

ともかくも、今必要なのは、靖國神社の正統がなんであるのか、何を正統というのか、それを書き残し、語り、次の世代に繋いでくれる人を探し出すことだ。備中さんを支えていける人たちだ。

靖國神社の伝統、静謐、清浄がなんであるのかーそれへの教えが衰弱しているために、衰えているがために、野盗の如き保守団体を跋扈させ、ぺんぺん草をはびこらせてしまった。

荒廃の原因は、衰えた尊皇の志操に求められる。

餓鬼がグルグル走り回る淫猥なる団体に多くの日本人が踊らされているのも志操の衰えだろう。

錦旗がたなびかない時代だ。

少しでも、我々が松平宮司が、賀茂宮司が、鈴木宮司が語った正統とは何かをー語り、書き綴り、あるいは映像をもって辻説法をしてでも志操を広げるしかない。

邪悪な保守を押し戻すしかないだろう。

水戸光圀の如き尊皇の志操を発掘する者が現れ、靖國神社を中興してくれる志士が出現してくれる時代を待つしかない。

楠木は南にあるという。その南に九段塾のニワはある。そう考えて、明日を考えていこうと思った。

これが今年の八月十五日の感懐である。
もっと長く書こうと思ったが、ここらで終える。
 

靖國刀奉納さる

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月17日(月)23時36分31秒
返信・引用 編集済
  去る六月二十七日、靖國神社において刀劍奉納式が擧行されました。

『刀剣美術』八月号 第六三一号(日本美術刀剣保存協会刊)より拔粹いたします。


>>
  靖國神社御創立百四十年を記念して刀剣奉納さる
                                  大山晋吾

 去る六月二十七日、熊本県本渡諏訪神社名誉宮司大野俊康氏(靖國神社元宮司)、同神社宮司大野康孝氏、研師藤代興里氏、写真家トム岸田氏以下六名が靖國神社を訪れ、御創立百四十年を記念して靖國刀「靖繁」一振を奉納された。
 当日は午前十一時から到着殿菊花の間に於いて奉納式を執行、京極高晴宮司より感謝状並びに記念品を贈呈。その後、同到着殿榊葉の間に於いて直会を供した。
 大野俊康氏は、靖國神社元宮司(第七代)であり、現在八十八歳。平成八年正月には筆者(権太注・大山氏)が御供を致し、はじめて島根県奧出雲の「日刀保たたら」火入れ式に参列、宮司自ら作業衣に着替えられ、種鋤で初種を炉に入れられた。
 そして、その感激を「祈りつゝ 吾も種砂 入れにけり 良き玉鋼と なさしめたまへ」以下二十首の和歌に詠み、日本美術刀剣保存協会へ寄せられた。本誌『刀剣美術』第四七〇号には、故鈴木嘉定会長が「御存知の通り靖國神社と当協会は『たたら』を通じて最も深い関係にあります。靖國神社としては『日刀保たたら』に引き継がれてから初めての御参列」と記されている。
 その後は、毎年靖國神社より神職二名が参列、その間に宮司は湯澤貞宮司、南部利昭宮司と代を重ねたが、いずれも火入れ式に参列されている。勿論、本年六月就任の京極高晴宮司も、時を得て早期に御参列のことであろう。
 この靖國神社大野元宮司の御子息が、刀剣に造詣深き大野康孝氏であり、今回父君の意を体して御所蔵の靖國刀の中から、最も優れた一振を選び奉納された。奉納の「靖繁」は、トム岸田著『靖國刀』英語版二十頁に掲載されており、長さ63・5センチ、反り1・75センチで、備前長船長光、景光辺りをねらった直刃小乱れの、誠に上品な作である。

                          (靖國神社遊就館部資料課課長)
<<


・・・う〜む、“備前長船長光、景光辺りをねらった直刃小乱れ”とか・・。見てみたい・・。(権太)
 

Re: 國民服喪の八月十五日

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 8月16日(日)15時00分35秒
返信・引用 編集済
  > No.507[元記事へ]

塾頭殿、備中處士様

実存主義者です

昨日は昇殿参拝ではなく、一般参拝者に混ざり拝殿にて参拝を済ませてきました。三年ぶりの拝殿前参拝です。

混雑を避けようと早めに出たのですがそれでも神門付近から拝殿まで一時間ほど掛かりましたが、真夏の陽射しの下、背筋を伝う一筋の汗と共に粛々と順番を待つというのも戦死者へのささやかなる「行」と思えば何の苦でもありません。

見上げた空は青い。あの日の空も今日と同じだったのかと六十四年前に想いを馳せながら、第三鳥居を過ぎた頃十二時丁度の黙祷を捧げ、参集殿の方から流れてくる伴奏に合わせ君が代を歌いソロソロと前に進みます。

目の前には、太い銀のネックレスをした若い男、更にその前にはタンクトップ姿でこともあろうか尻を拝殿に向けたまま連れの男とぺちゃくちゃお喋りをする若い女二人。

これも小林何某といった漫画家の影響なのでしょうが、これも世の流れと半ば諦めつつも目的のためには手段を選ばずといった、今のプチナショナリズム的風潮にはほとほと嫌気がさします。

しかしふと、こういう若者達と先ほど田安門付近でチラシを撒いてた各種団体とを比べた場合、いったいどっちが常民(common.man)で、どっちが大衆(mass.man)かと考えた場合、塾頭の仰せになる「国民服喪の日」に自分らの主義主張を喧伝し、それで満悦している自称保守団体よりも、多少行儀が悪かろうとも照り付ける真夏の太陽の下、参道に並び参拝順番を待つ、先ほどの若者のほうがひょっとしたらまだ「常民」に近い感覚を持っているのではないかという気がしました。

少なくとも彼らは「無私」です。しかし、当然参拝を済ませてからやっているのでしょうが、あの連中(ビラ撒き連中)には、社会のため、国家のため、英霊のため、といった驕りがある。俺はそうした運動に参与している「公民」なんだという慢心がある。まったくどうしようもありません。九段下の駅の階段を昇り終わるや否や、あたかも縁日のテキヤのごとく道の両側を埋め尽くすビラ撒き団体の数々。祭りと勘違いするなと言いたいですね。

日章旗を持ったどこかの年配者が、そうした連中の内、木陰の縁石に腰を下ろし休んでいる一人に向かって、「お前何をしている。この先におわす英霊は休みたくても休めなかったんだぞ」と吐き捨てるように言った言葉が印象的でした。

残暑も暫く続きそうです。どうか皆様ご自愛くださいますよう。それではこの辺で失礼致します。
 

國民服喪の八月十五日

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 8月16日(日)01時25分4秒
返信・引用 編集済
  愛国主義者樣

 重ねての鄭重なる御挨拶、本道に難有うございます。靖國神社ご參拜、洵に御同慶に存じ上げます。深夜ではございますが、一言、御禮を申し上げたく、敢へて筆を執つた次第です。 頓首

**********

 塾頭の舊稿を再掲し、八月十五日の意味を確認したいと思ひます。



●塾頭『新たなる復古主義、極右集団の創出を』に曰く、「

 平成十九年九月号の社報『靖國』の「靖濤」を読む。社報の編集人の氏名が印刷されている。宮澤佳廣氏である。神社本庁から、確か去年、移って来た人だ。遊就館の資料課長から、今年の二月ごろに、広報課長に異動された。この人が編集人になってから巻頭の「靖濤」が、突然、ヘンテコになりだした。ほとんど靖國神社とは関係があるようで関係ない話が、陸続として書かれ続けている。靖國神社に縁薄いせいもあるだろう。別段、松平宮司・大野宮司の薫陶を受けたわけでもない。靖國神社祭神、あるいは事歴に詳しいわけでもない。戦前の賀茂宮司・鈴木宮司に心酔しているわけでもない。単なる――と言っては言い過ぎになるが、本庁という場所から移って来た神職――というか、まあ、「人」である。本庁出身の現靖國神社権宮司を始め、総代にも、本庁の人間が座りだした。そしていきなり中枢に座った宮澤氏と。本庁から、ヤケに人が靖國神社に集まってきた感がある。‥‥何か考えていることがあるのか‥‥。今までなかったことだ。

 この宮澤氏が「社報」をいじるようになって、社報の性格ががらりと変った。靖國神社広報課は、執行部直属にもなる、重要なセクションである。靖國神社が、現在、どのような考えの下で運営をしているか、また執行部の考えはどのようなものであるか、外部に示す発表機関でもある。社報を見ていれば、現在の靖國神社がどのような所を目指しているか、起用する執筆人をみても、大体がわかる。いわば神社の顔である。とりわけ「靖濤」は、靖國神社の現在の志操を公にする、発表の場でもある。だから「社報を」編集する広報課長は、その時の執行部信任の神職が起用される。従って宮澤氏が編集する――あるいは執筆する文章は、執行部の志操そのものとなる。

 今年の二月ごろから、編集人が宮澤氏に代わってから「靖濤」は、ふやけた話ばかりが書かれている。例大祭のポスターもおかしくなった。プロレス興行と例大祭が、同格に扱われだした。執行部の考えである。ホームページを見ても、これまでの祭事が、以前にも増してイベント性が強調されている。祭祀を貶めだした。遊就館の歴史記述変更といい、靖國神社の祭祀を否定する鎮霊社――公開を禁止していた先々代宮司通達を破り、堂々と公開して、混乱をわざと起こしたり、「平和を祈願する神社」とパンフに書き出したり、靖國神社は、明確に、しかも巧妙に変化しだしている。それが、最近は露骨になりだした。靖國神社そのものに関心がまったくない、「靖国ファン」にはわからぬことだ。みたま祭をイベントと思っている連中だから、仕方がない。もともと保守の原質をもたぬ連中だから、求めても無理である。

 最近の「靖濤」に書かれる記事は、靖國神社の国家との関係や皇室の祭祀という意味を「わからなくし」、忠魂の実在感を薄めていこうという意図の下に書いたような文章ばかりである。共産党的サヨク主義者の常套手段が、靖國神社社報にはっきりと現われている。神職の中にも、実際、もう気づいている人もいる。‥‥だが、口を開けない。簡単に馘を切られるからだ。地方の神社に異動させられる。だから、批判は出来ない。‥‥仕方がないだろうと思う。

 九月号の「靖濤」は、更に最悪である。八月十五日のことが書いてある。話にならない文章。それを象徴するのが、社報表紙に掲載された、当日の神門前付近の写真説明文だ。『八月十五日参拝者で賑わう御社頭』と書いてある。この一行の文字に、カッカしている神職が大勢いる。「ふざけやがって!」である。唇を噛む若い神職は多い。学生もいる。当然であろう。

 国民服喪の八月十五日に、ビラ配りした連中や、そのビラ配りに何の違和感も持たぬ――どうでもよい浮かれ参拝者――また旗ざし物を連ねて境内を闊歩した代議士や地方議員連中にも、なんでこの『八月十五日参拝者で賑わう御社頭』という説明で、「本物の崇敬者や神職がカッカ」したかわかるまい。

 到着殿前に姿を現した小泉元総理や石原都知事を見て、日の丸の小旗を振って、「ばんざーい」を叫ぶ、アホタレ連中にもわかるまい。ケツを蹴っ飛ばして、池に沈めてやりたい。神門・遊就館・靖国会館に半旗が垂れている意味がわからない連中ばかりだからだ。国民服喪の意味がわからないからだ。今、このスレッドを読んでいる閲覧者の中で、どれほどの人間が、『八月十五日参拝者で賑わう御社頭』と書かれた説明文を見た瞬間――「なんだ、この野郎!」と、腹の底から激怒するか――それが‥‥リトマス試験紙の役目をする。「参拝者が、本当に、心の底から靖國神社を想い、正統を、伝統を、尊厳を、皇国を大切に考えている人間かどうか」の検査になる。口先だけの感謝だの慰霊だの、英霊に代わってどうだとか、父祖のナントカがなんだとか、ごっこ遊びをしている連中と、同種同様の人種かどうかの分れ道だ。

 夏の「みたま祭」がイベントなら、八月十五日も「真夏のフエスティバル」になったようだ。小泉総理が参拝を始めてから、靖國神社も劇場になった。今から思えば、大迷惑なことだった。小泉総理の後ろに、こんなひどい「身勝手でしかない靖国ファン」が現われるなんて、ホントに、それまでの崇敬者は、誰一人考えもしなかったろう。この連中さえ来なければ、八月十五日は、国民服喪の日として、八月十五日の境内は、「半旗垂れる」日であった。

 街宣右翼も、この日は黒服一色の喪服を着て、汗を最中に滲ませても、背広を脱ぐ奴はいない。今年のこの日も、喪服を着て、あの猛暑の中で、背広を着たまま参拝の順番を待っていたのは、皮肉なことに街宣右翼ばかりが目立った。

 「靖濤」は書いている。「‥‥八月十五日の参拝者数が、一年を通じてとりわけ多くなるのは、『終戦の日』であるこの日が、『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』として、国民の間に確と定着しているからだろう」と、今頃‥‥トンチンカンに、真面目クサッテ書いている。お笑いだ。八月十五日、神門前付近に参集した人々の姿に、前代未聞の『参拝者で賑わう御社頭』と書いた編集人である。祭礼縁日になってしまった。もう、靖國神社の執行部も、幹部も、参拝者の多くが、「八月十五日」がどういう日だか、忘れてしまっている。口先で言うのは、もういい、結構だ。‥‥それこそ、実践であろう。「国民服喪」の実践だよ。政府は、何度も国民に広報をしている。

 『先の大戦における全戦没者に対し、国を挙げて追悼の誠をささげるため、昭和五十七年四月十三日の閣議決定「“戦没者を追悼し平和を祈念する日”について」に基づき、政府主催の下に、平成十九年八月十五日、日本武道館において、全国戦没者追悼式を行います。
一、当日は、各省庁及びこれらの出先機関並びに国立施設において、半旗を掲揚するとともに、正午から1分間の黙とう(愚案、黙祷)を行います。なお国会及び裁判所にも、協力を依頼しました。
二、地方公共団体の庁舎等における半旗の掲揚及び黙とうの励行については、各都道府県知事及び市区町村長に協力を依頼しました。
三、学校・商工会議所・農業協同組合・会社・工場等については、関係団体を通じ、協力を依頼しました。
‥‥
五、その他
当日の正午には、都道府県庁・市区役所・町村役場・寺院等において、鐘・サイレン・チャイム等を鳴らし、また当日の午前中にボーイスカウト・遺族会等による戦没者墓地等の清掃、供花等が行われるよう、各都道府県知事に措置を依頼しました。』

 これを「国民服喪の日」と、以前は呼んだ。そのために、靖國神社神門・靖國会館・遊就館には、半旗の日章旗が掲揚されている。この日章旗をみて、「靖國神社には半旗が似合う」と書いたバカがいたそうだ。「服喪の半旗」が、社頭の装飾になってしまった。そう思う奴が出てきている。いい年をした連中がである。

 戦争を知らない世代‥‥痛みを知らない世代が、戦争を語る‥‥そういう時代を、初めて日本は体験する時代に突入した。ありとあらゆる尊厳が、伝統が、音を立てて崩壊していく。やはり‥‥想像した通りだった。みんな、もう誰も、この日が「国民服喪の日」だなんて、思っちゃいやしない。正午に黙祷するのも、フェスティバルの一つだぐらいにしか考えていない。「服喪」の日だということを、腹の底から認知していないから、到着殿前で「万歳」を何度も叫んで、拍手したりバカ騒ぎをする。悲しくて笑っちゃうしかない。この八月十五日が、どういう日だか、誰もわかっちゃいない。「範」をしめさなけれなならない団体が、「範」を示さない。自分達の主張だけである。「せめてこの日だけは慎もう」という、まっとうなリーダーが出てこない。

 八月十五日は、「靖國神社の祭礼縁日」だ。大勢の人が繰り出す、「賑わいの神社」としか映っていない。ヘリクツばかりが横行する。かつて‥‥覚えているだろうか。昭和天皇崩御の日。十九年前だ。政府は国民に対し、宮中におかれては大喪に服せらるにつき、歌舞音曲を控え、繁華街の殷賑も自粛されることを要請した。国民は、言われる前から自粛した。店を閉める商店が、全国に出た。テレビで、それまで天皇の戦争責任を舌鋒鋭く追及していたサヨクの大島監督ですら、談論の会に出ていながら、「今日は天皇の話は口には出来ない。不謹慎である国民にはなりたくない」と言った程だ。国民服喪であった‥‥。

 この八月十五日、天皇皇后両陛下は、武道館への追悼式には行幸されるが、その後は宮中で、終日おつつしみである。各宮家でも同様である。御謹慎されている。「英霊が」、「父祖の名誉が」どうだを演説する前に、慎みを持つことを、この掲示板に集まる人すべてに伝えたい。殷賑を極めているのは、あんたがただ‥‥ということを、誰かが教えなければならない。それで書いている。靖國神社境内に見えることが、「総て正統ではない」ということを知りなさい。祭祀は、縁日ではない。いつまで「靖国ファン」を続けるのか。

‥‥

 この「靖濤」では、またこんな言葉を使って書いている。『(このように終戦の日に人が大勢集まるのは、)靖國神社が、我が国における戦歿者慰霊顕彰の中心的施設として在り続けることの証左でもある』と。‥‥情けない。サヨクならまだしも、靖國神社の神職が、自ら奉職している神社をして、『我が国における戦歿者慰霊顕彰の中心的施設』だと書く神経。もう、末期だろう。『中心的施設』‥‥か。『施設』。明治天皇の思し召しによる創建の神社も、百三十年経過すると、『施設』になってしまった。もう、こういう表現が、神社自身が、一番ぴったりする感覚になっている現われであろう。「靖國神社の正統は‥‥」なんて、書くことが、もう一兵士は厭いてしまったのだ‥‥。もう、ぶっ壊すしかないのでは‥‥。

 そして、愛媛玉串料訴訟の話――。昔、神社新報がよく書いていた話が、また書かれている。一体、この書き手は、祭神の話を、尊厳の話を、いつ書き出せるのか? この書き手のオタンコナスは、三権の長の一つである最高裁を、公然と機関紙で批判していることだ。だから松平宮司は、「政治の渦中に神社を投じない」とし、「何も言わない不言の方針」を貫いたのだ。靖國神社が、「国家を敵に回して」、どうするんだ! 靖國神社は「国家の規範そのものを示し」、三権の長が例大祭に参列することを、式次第に規定している。安易に裁判ごとなど、保守の安価な手に乗り、あらぬ方向に波紋を広げるような発言をするな‥‥である。

 書き手が、まったく靖國神社の人間でないから、尊厳を伝統を護る意思が希薄だから、こんな文章しか書けない。他人事なのである。『これからも終戦の日、靖國神社には、多くの国民が参拝に訪れることだろう。そしていつの日か、かかる国民良識が、最高裁の判例をも覆すであろうことを、固く信じて疑わないのである』。この文章を読めば、いかれた人間が神社に侵入してきていることがよくわかるだろう。頭が毒素で犯されているにちがいない。やはり書き手には、「神社新報」が似合っている。本庁にもう一度推薦しなおして、戻ってもらったらどうか? 靖國神社には、「似合わない神職」である。こんな文章が続くなら、『靖濤』はやめるか、「社報」も一時廃刊したらどうか‥‥。

 それとも最初に書いたように、執行部に、なにか魂胆があって、わざと靖國神社を貶め、国家と離反させ、天皇との関係を希釈させるために書かせているのか‥‥。松平宮司は、広報課長を始め、課員と「社報」の紙面づくりのために、深夜まで及ぶことはざらであった。当時の在職者なら知っていることだ。課長の書く文章にも、何度となく赤を入れる。寸分も怠惰な文章、隙だらけの文章を嫌った。心が貫徹される言葉を選び、推敲した。松平宮司に、「遊び」はなかった。

 筑波宮司に慣らされた職員は、松平宮司が煙たかった。堂々と面と向かい、その「頑な」な姿勢を批判する幹部もいた。昇進すべき人間が昇進しないことに腹を立てた別の職員が、自宅まで行き談判したこともある。決してみなが皆、松平宮司を迎えたわけではない。その中で、松平宮司を陰のように支える職員、顧問的な立場の元軍人の方もいた。確か長野の人だった。名前が出てこない。以前にも少しこの方のことを書いたと思ったが。旧遊就館の歴史記述は、ほとんどがこの方が、松平宮司と相談し書いたと思った。松平宮司の陰の顧問だった。また元軍人の総代も、強力にバックアップされた。それもあって、松平宮司は孤軍奮闘が出来た。境内から酒を追放したのも、松平宮司だったと思う。戦友会からうらまれたこともある。しかし、動じない。若手の神職が、松平宮司を盛り立てた。松平宮司を「靖國神社中興の祖」として尊称、崇める若手神職もいた。その言葉が、今もマスコミに使われている。

 現在、神社本庁に関係する「神道青年全国協議会」の中にも、松平宮司の志操を奉戴する、熱烈な青壮年神職が、案外いる。彼らに言わしめれば、「靖国ファン」などの実態を知り‥‥首をふる。一兵士のスレッドを読んでいる。まるで神道がわからない者に、靖國神社を奉戴護持などは出来ぬ。固く信じている。極右に近い人が、結構いる。一兵士の仲間が、新宿の寄合場所で、数時間論議した。‥‥結局、最後は、神職しか頼りになる者はいない‥‥と、仲間が言う。一般人は‥‥無理だといわざるを得ない。日常生活でも和服を着る――紅白の餅は、最初に「赤」から喰いつく――此処から始める。極右の人間しか、頼りにならない。剣道は、皆、出来る。中には杖術・空手を並行して修得する者もいる。女子も同様である。仲間の家では、みなそうだ。ほとんどが師範だ。武道は大切である。むちゃくちゃに「復古主義」を、ともかく主張する。そこからはじめる。靖國神社崇敬奉賛会に、「極右集団」を組織する。その集団に、国学と国典研究させる。それに基く思想・精神・正統を持たせる。それしかないか‥‥。それが「神風連」だ。

 松平宮司は‥‥やがて、境内を埋め尽くした元軍人たちが消え、遺族さんが消えていく。そういう現実を認識していた。その時、靖國神社を支える人たちは、「靖国ファン」であってはならない。「靖国ファン」はいらないと‥‥今、御存命ならば、間違いなく口にしたろう。

『靖國神社に參拜する時は、今日の日本の平和と繁榮に對して、御靈方のおかげで、ありがたうございます、といふ感謝の祈りと同時に、平和であるけれども、萬が一の時には、皆さんと同じやうに國に一命を捧げますといふ誓ひをするべきだ――』

 松平宮司の言葉だ。そのような参拝者を育てなければ、靖國神社の社稷は保てない。参拝者を教化するべきだと‥‥。

 靖國神社の正統は、戦前、賀茂宮司が、鈴木陸軍大将宮司が、頑なに護り続けてきた。松平宮司は、宮司の定年制を打ち出しながらも、定年過ぎても、なおも宮司であり続けた。「まだ退けない。まだ退けない」と。少なくなる軍人・遺族さん。神社経営が困窮するのは、目に見えている。だからといって、「靖国ファン」はいらないのだ。自立できる基盤整備の為に、松平宮司は、招魂斎庭の桜木を伐採し、駐車場を作ることを提案した。批判が宮司に集中した。しかし、宮司は押し通した。招魂斎庭の役割は、もう終わったものとして‥‥それでも、宮司は祭壇部分を残して、鳥居を残して縮小。あとは総て植樹された桜木を伐採し、駐車場にした。今日、おかげで、年間七千万、八千万の財源を確保出来ている。

 靖國神社の正統は継承しなければならない。それだけが、松平宮司にある。「あなたがやめたら、もう来ませんよ」、そう語った三笠宮寛仁殿下。「そんなことおっしゃらずに、若い宮様を誘われて、お越しください」。‥‥松平宮司も宮様も、今後、この靖國神社がどうなっていくのか‥‥末が見えていたのか‥‥しかし、そんなことは、口が腐っても言えない。松平宮司の心を知っていたのは‥‥宮様だけだったのか。

 松平宮司の葬儀。宮内庁からの祭祀料をはじめ、生花や玉串料の類いは、すべて生前に辭退された。ただ三笠宮寛仁親王からの生花だけが供えられていたという。そして‥‥ご自身の身体は‥‥献体された‥‥。かつて賀茂宮司は、靖國神社宮司就任の命を受けた時、『靖國神社に一命を捧げます』と、神前で誓われた。だが、病気のために退職した際、自分で捧げた肉体を、結局、最後は自分で賜ってしまった‥‥という慙愧の念を述べている。

 参拝者は神前で、『現在は平和であるけれども、萬が一の時には、皆さんと同じやうに國に一命を捧げますといふ誓ひをするべきだ‥‥』と、参拝の仕儀を口にした松平宮司。生前に‥‥献体を申し出られた。昭和殉難者を合祀し、宮司の一人や二人、切り捨てられても‥‥やるべきことはやらねばならない‥‥その御覚悟。あらゆる非難の嵐も、黙って受けられた。最後に「身一つを国家に捧げられて」、この世を去っていかれた。‥‥これが松平宮司の仕儀であったと思う。国家に忠義を捧げた方の仕儀であると、一兵士は考えております。

 秘かに慟哭した。靖國神社を既に退職した者で、遥かに遥拝して地べたに伏したという、関西在住の元職員のことも聞いた。‥‥松平宮司が退職する前年の暮れだったか。ペルシャ湾の機雷除去のために派遣されていた海上自衛隊の掃海派遣部隊が横須賀に帰って来るのを、松平宮司は痩身に外套を羽織って、神社職員と出かけた。同行した職員の中には、女性職員も数人混じっていた。既に退職したAさんは、この日の松平宮司を、今でも涙の粒の向こう岸で、揺れる海軍軍人松平永芳を、「初めて見た――」と、以前、話してくれた。岸壁に送迎用のランチが到着すると、松平宮司は、脇で身体を支えていた女子職員の手を振り切るようにして乗り移った。そして走り出したランチの舳先に、不動の姿勢で立った。七十七歳の御高齢である。遠く岸壁から、松平宮司のご様子を心配げに見ていた女子職員らは、普段とは違う宮司をそこに見ていた。寒風吹きすさぶランチに立ち尽くす宮司の外套が、風に膨らんでバタバタとはためく。女子職員は「何故か、涙が滲んできたんです。あのような姿の宮司さんを、私は見たことがなかった‥‥あれが本当の宮司さんの姿なんだと。きりっと背筋が伸びていて‥‥カッコウ良かった」。‥‥帝国海軍軍人の姿を見たと言う。そして‥‥港内にゆっくりと入港してきた自衛艦と並行するように走る、遥か彼方のランチの上で、松平宮司は直立不動の姿勢で、挙手の敬礼をされたそうだ。揺れるランチの上で、しっかりと、いつまでもいつまでも敬礼していた‥‥その姿が忘れられないという。自衛官の敬礼とは違う‥‥そう話した。「あれが松平宮司の本当の姿なんだ。やっぱり宮司さんは軍人だった‥‥」と、感想を述べた女子職員。一兵士は、この話を伺った時、うつむいてしまった。不覚にも涙がこぼれた。

 今、書いていて思ったが‥‥孤軍奮闘された松平宮司。靖國神社は正統に戻さねばならないと。外部ではない。内側から。松平宮司の言葉。『‥‥靖國御社頭での祈りとは誓ひだ、御靈と同じやうに、いざといふ時は、國に命を投げ出します、といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御滿足は得られない‥‥』。賀茂宮司も言った。鈴木宮司も言った。数少ない、正統の継承者。それでも、絶やしてはならないと思う。

 少し外れるが、地震などの災害地訪問で両陛下が、体育館の床に膝をついて、被災者とにこやかにお話している姿を、テレビニュースで拝見するたびに、つらい思いをする。皇后陛下の膝にまとわりつく子供がいたりすると、子供を叱り飛ばしたい! 松平宮司の、社報『靖國』に書かれた「謹愼謙虚」といふ話が、胸にコタエル。

『岩倉公が亡くなる少し前に、明治天皇が岩倉邸に見舞ひの行幸をなさつた。もう自分では起き上がれず、令息夫人に背中を支へられて身を起こしてゐる岩倉公に對して、天皇さまは、軍服姿で直立不動の姿勢でおられる。これが王者の見舞ひです。王者には王者の見舞ひの態度があるんです。こゝで天皇さまが腰を屈めたり、疊にひざをつけたりしてしまはれたら、王者としての繪にならない。‥‥皇室のお立場では、開かれるべきといつても、限度があり、國民と同じ床でお振る舞ひをなされゝば良いといふものではないんです。』

 この松平宮司の話も、「なにがいけないの? いいじゃないの。開かれた皇室だよ」と言い出すのが、「靖国ファン」だろう。この開かれた皇室。天皇が被災者の前に膝をつかれた姿が‥‥実は、現在のこの国をおかしくしているのではないか。そう思わざるを得ない。

 明治維新は、天皇を国民一人一人が仰ぎ奉って成就した。そういう時代を作り、骨格を形成し、近代日本を作ってきた。その骨格は‥‥敗戦後もかなりあった。感じられた。だが、いまはもうない‥‥感じにくい。靖國神社ですら、「骨格」が揺らいでいる。ましてや国民は、「骨格」など求めていないようにも見える。現に「皇室ファン」・「靖国ファン」が、正統を押しのけて、尊厳を笑い飛ばし、肩で風を切って歩いている。年寄りは消えろと、野次っている。極右が求められる。回天である。誰が理解できるか。どの程度、理解できるか?」と。
 

靖国神社参拝、お疲れ様でした

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2009年 8月15日(土)22時26分59秒
返信・引用
  本日無事、靖国神社に参拝
してまいりました。

靖国神社参拝された方々、
暑い中参拝お疲れ様でした。
 

靖国神社参拝、お疲れ様でした

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2009年 8月15日(土)22時17分14秒
返信・引用
  皆様

本日の、靖国神社参拝お疲れ様です。
湿度は少なく、参拝しやすいだったですね。

残念だったのは、麻生総理が、参拝しなかった事でしょう。
これで総理大臣の靖国参拝が、行われなかったのは3年目です。

保守派は、懸念すべきです。

そして、民主党のハトポッポが、あの国立追悼施設の建設を
再び画策し始めたこと。
まったく、鳩山一郎は、何を倅と孫に教えてきたのだろうか?

無宗教の施設?ほほう?結構ではないか!
ということは、鳩山家の墓はもちろん、無宗教であるべきだと
考えるし、墓など必要あるまい?
祖父。父、そして親戚一同の墓も全て排除するということかね?

やってみてくれたまえ、はとぽっとと、岡田君。
 

明日は靖国神社へ

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2009年 8月14日(金)20時10分14秒
返信・引用
  塾頭様、一兵士様、備中處士様

いつもお世話になります。

明日は靖国神社へ参拝に参ります。
みな様も、暑い日になると思いますので、
熱中症等に警戒し十分に水分等を取られ、
お体と交通安全に気をつけて下さい。
 

宣伝工作に加担するべからず

 投稿者:竹屋光晶  投稿日:2009年 8月12日(水)22時35分18秒
返信・引用 編集済
  今回の靖國神社での出来事について、塾頭様は何もお書きにならないであろうと予測しておりました。このような暴漢ごときよりも、もっと本質的で重大かつ深刻な問題に我々は直面している、、、参拝者のこころの問題、、、この九段塾で学べば、自ずから明らかなことです。しかし、私の予測は外れ、我々の身を案じられるお言葉を頂戴することとなり、まことに感じ入りました。

連中は本物の「台湾人」ではありません。背後に何者がいて、どのような工作を狙っているかは知れたことですが、その宣伝に加担しないためにも、握りつぶすのが最良の対応かと存じます。
 

日本の男子の誓い

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月12日(水)21時37分31秒
返信・引用 編集済
  まったく書くつもりがなかったが、知りあいから数本の電話を貰って、書く気になった。
台湾デモの騒動だ。
少し、閲覧者に注意を与えておこうと思って。
それと、産経新聞や他の保守系掲示板にだ。

この程度の「揉み合い」をいちいち報道するな!ということだ。それこそ、握り潰せ!

これから八月十五日が来る。六十四年前、前線の軍人、銃後の国民一億が慟哭した日です。

この日は現在の日本国民が喪に服する日だ。
このことを今のバカ保守連中は誰もわかっておらん!

神門には半旗が出る。天皇皇后両陛下もこの日は御慎みられる。

参拝者は鎮魂の気持ちを持って参道を歩くことが決められている。
これを誰が現在、守っているのか!
バカばっかしだ。わけのワカラン旗を立てて参道をがやがやと行進してくるオッチョコチョイこそ、たたき出さねばならないのだ。
見ていて御覧なさい。政治家の団体に多い。靖国神社を単に利用している連中だよ。

昭和天皇がポツダム宣言を受諾。
国民に「将来の道をお示しをするための」詔。あの八月十五日の詔勅。
一億国民の誓いの日だ!

その日がまもなく来るというのに、なんというバカが多いことか。

台湾の反日デモがなんだってんだ。こんなことぐらいで騒ぐな!

靖国神社には、この程度の騒ぎはしょっちゅうある。
だから、私も書いていない。握りつぶしたからだ。
それを新聞各社が書く。騒動を盛り上げるためだ。産経はー知らん顔してりゃいいんだよ。

ユーチューブだの、掲示板で大騒ぎする。保守系が騒ぐ。馬鹿か。
騒いで一体、何の得がある。
興奮するんじゃない!頭を冷やせ!と怒鳴りたい!もう怒鳴っているがね。

これで、十五日はいつもより街宣右翼は張り切るに決まっている。左翼も乗り込んでくるだろう。騒ぎを相乗させる。
そういう日ではないんですよ。15日は。

右も左も靖国神社のことなんか何も考えちゃいない。
「反日台湾を境内からたたき出せ!」「靖國は日本人にとって聖地だ!」「俺達が守る!」だのガキドモが騒いでいるが、こういう連中がガムを噛んだり、ジーパンを履いてきたり、ピンクの背広なんかでインタビューに来る民間テレビ局も出てくるんだ!
バカモノ共!お前達が靖国神社をゴミだらけにしているんだ。
ビラを配ったり、チラシを撒いたり、それで、一丁前のゴタクを並べるなといいたいんだよ!

いいかね。台湾のデモ隊はー突然来たわけじゃない。前以て神社に通知している。
このグループの抗議は恒例だよ。
ただ、今回は少し違った。訪問時間が。

昨日は午前10時から月次祭だ。ほとんどの神職は本殿でお祭り中。朝の境内は参拝者もいない。それに第一、右翼団体は午前中は来ていない。右翼団体は午後から出勤してくるのを確かめたようだ。彼らがいては、デモ抗議は難しい。
大体、これまではあからさまのデモ抗議は境内で騒ぐ前に街宣右翼が門前で完璧にシャットする。だから浸入できない。今回はそのいない留守を狙ってきた。

ほとんどの神職は月次祭で本殿に集っている。誰もいない、参拝者もいない、右翼団体もいないーこの日、この時間をわざわざ狙ってきたのだろう。
それでなければプラカード持って拝殿前まで行き着けない。
なんとか、拝殿前で抗議をしたかったのだろう。
それが、衛士が集り、社務所から残っていた神職が駆けつけ、プラカードを取り上げた。
そこから、あの台湾人らは血が頭に昇った。女が金切り声で叫ぶ。神職が「誰か日本語を話せる人はいるか!」と叫んだが、日本語のわかるやつはいない。
それで、益々混乱。もともと躾の足りない台湾人だ。
拝殿の柵を乗り越えようとした。そこで、若い神職たちが手を広げて阻止しようとした。「絶対に手を出すな!」という達しが出ている以上、衛士も手を出すことは出来ない。

ユーチューブの画像を見たが、これは彼らのパフォーマンスだろう。初めてプラカードを持って拝殿前まで浸入できた喜びが彼らを興奮させ、つい、勢いあまって拝殿の柵を乗り越えようとした。それを神職や衛士、駆けつけた警官が阻止する。押し戻す。若い神職の袖はびりびりである。
もし、彼らが柵を乗り越えたら、拝殿に泥足をかけたらどうなるかーーーーアッという間に投げ飛ばされて、台湾グループは大怪我をするに違いない。
「拝殿に足をかけたらー」オワリだ。「斬り捨ててもいい」と私は内心では思っている。

それは彼らもわかっているよ。だから、突入はしていない。
現在の衛士は大半が元自衛官。大柄だ。いつでもどんなことでも対応できるよ。
しかし、境内にいる間は手を出さない。
神職にも「剣道、空手、棒術」何段も持っている猛者がいる。
素人の参拝者が出る幕ではない。だから、大騒ぎするな!といいたい。
この程度の騒ぎでも新聞沙汰、ユーチューブなどにでると、素人は血が上る。
ま、神社側もこれほど50人も来るとは思っていなかったんではないか?
4〜5人の代表が社務所に抗議に来ると考えていたようだ。それが甘かったといえば甘かったか。

いいかね、靖国神社に突入するなら、最初から鉄パイプ、木刀を用意してくる。
この台湾グループはそんな腹はない。50人という仲間で意気が上がっただけ。だから警察官には誰も殴りかかっていない。それをやれば簡単に出国出来ない。デモツアーに来ただけの連中だ。…女が警察官の指を噛み切ったらしいが、台湾の女は猿みたいにキーキー騒ぐからね。これはお国柄で仕方がない。

いいかね、これだけ「騒いだよう」にみえるが、本殿で「御祭り」をしていた神職は誰一人、この拝殿前の騒動には気づいていない。
誰も知らないんだよ。
いいですか。これが靖国神社なんですよ。
これしきのことで「ぎゃあぎゃあ」騒ぐなということ。

現代、手を出したら神職でも衛士でも「引っ張られる」
棒切れ、プラカード、木刀で殴りかかり、相手を大怪我させたら刑務所だって放り込まれるよ。私の知人にはそういうのもいる。
警察に一晩泊まるだけなんて思ってたらとんでもないことになるから、あなたがたはこういう騒動があっても「すぐに飛び込んで行ってはダメですよ!」
これが云いたかった。それと、ささやかな騒動は握りつぶせ!
本当に靖国神社を思うならだよ。

最後に、しつこいが「15日は国民服喪の日だ」
この日を騒がしくしてはいけない。

「英霊は俺達で守る」みたいな書き込みを見たがーこういうのが多いから世話が焼けるんだ。

いいかね、15日は決して騒ぐんじゃないよ。
靖国神社に参拝するんだったら、暑くても黒服で来なさいよ。汗を流して記憶に留めなさい。
それがいやだったら、半そででもいいから、地味な服装で、黙って祭神にお声をかけなさい。
「いざとなれば、私も武器を取り、国を守ります」と。
それが後に生まれた日本の男子の誓いだ。

もう、今夜からは書きませんよ。夕方に出発する予定が延びてしまった。
それでは18日まで。もう出てきませんよ。
 

事務連絡

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月12日(水)11時45分50秒
返信・引用 編集済
  今年は、ずーと東京にいる心算でしたが、やはり、誘われて、今日から18日まで、少し、出かけてきます。
15日の靖国神社参拝は致しますが、書き物はお休みします。
閲覧者の投稿はどうぞ続けてください。

また、初めての訪問者の方々には本掲示板の最初から、じっくりお読み下さい。
それと、備中さんの作られているスレッドが沢山ありますので、先人、先哲の言葉をよく知識して勉学に励んでください・

また、「時計の間」の方へもお顔をお見せ下さい。

それでは、一週間失敬します。暑さに気をつけてくださいな。
 

野村玉枝刀自『雪華』

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 8月11日(火)11時58分18秒
返信・引用 編集済
   外より歸り來れば、圖らずも小包み一つ。やうやく野村玉枝刀自の第一歌集『雪華』(昭和十六年四月・湯川弘文社刊)を得たり。泣きつゝ讀めば、夜も白みぬ。其の歌の師匠なる竹柏園主人・佐佐木信綱博士の曰く、「聖戰五星霜、その間、殉難せられた將士諸氏の遺族は、おびただしい數に上るであらうが、その國を思ひ、親を思ひ、夫を思ふ切々たる情緒を、詩歌に現はすことの出來る人は、尠いであらう。玉枝ぬしの此の歌集は、さういふ意味から、譽の遺族全體の心を代表せられたものといふも過言ではあるまい」と。戰前の御文は、やはりいゝ。赤き心あふれて、嘘、飾り、後ろめたさが微塵も無い。謹み抄しまつりて、清鑑に供すと爾か云ふ。



●野村玉枝刀自『雪華』抄

○昭和十年三月二十六日、野村家に嫁ぐ
この家ぞ我が終(つひ)の家とこの庭に咲ける櫻の木かげによりぬ

○昭和十二年九月△日、我が夫に召集令状下る
今は我が夫(つま)にあらず大君の御旗の下(もと)の一人と思ふ
家もなく妻も子もなく天つ日の赤きに燃えて征きませ我が背

○出發の前夜
かへるとはかねて思ふな家をたのむたのむとのらすわが面見まして
よき母となりて子を守れただそれのみと吾が背はのらす

太刀佩きて今し出で征くますらをを見ればたのもし夫とし思ふに

○毅と命名す
母のみの手に育つともつよかれと父が門出につけしこの名ぞ
大陸に戰ふ父ありとものいはぬ子をだきしめにけり

泣かざりき君が征く日も後の日もながさぬ涙頬をつたひ落つ
これの世に生れ合せて日の本の國のこころにひたとわが觸る
乳飲ますこのたまゆらも聖戰(みいくさ)のことにぞふれて物思ふ我は

○高嶺に散る夫
大き息一つつき軍刀を振りかぶつて重圍の中に突入する夫の姿を胸に描く
ああその名も明窩瑙(めいくわなう)なる山の嶺をあけに染めつつ散りたまひしか
明窩瑙その岩が根を永遠に枕(ま)きねむり給へる君ぞとおもふに
子が無くば追ひ及(し)き死なむ我と思へど子らをし見れば死なれざりけり
坊やゆるせ一度父樣に抱かれたかつたでせう泣くではないぞさむらひの子は
大いなる母のその道妻の道歩みつづけむたふる日まで
日の本の武人の妻はいつの日もかくてぞ強く生きおふしたり
命令の聲もつき果て心すみてさけびましけむ天皇陛下萬歳と
天もなく地もなくそこに人もなくただ萬歳のありしのみならむ
天地にただ一人なる子の父を聖戰なればささげまつりぬ

○無言の凱旋
泣くなかれ君が別のその言葉身にいひきかせ喪服をまとふ

○遺骨を迎ふ
きさらぎの雪華落つる驛頭に今し下(お)り立たす白木の箱は
ああこれが神となりましし夫(つま)かもと悲しみならぬ涙わきくる

○影法師
忘れ得ぬ人なりされど大君に捧げし故にくらからぬかも
君がため生くる生命(いのち)と思ふ時惜しまるるかなこの一日さへ

母と我は竝びて豆を植うれども鍬とらす父はただ一人なる
默默と田を耕して働かす父はのらさず君のあらぬを
み祖先(おや)よりかしこみ受けてまもるべき此の田の土を我がひとりふむ

○靖國神社に參拜すべき遺兒
やうやくに歩み初めたるこの遺兒がかくして父に逢ふはいつぞも

○勳章をいただく
この家に金鵄たまはる子を出だし父と母とはよろこび泣かす
涙ながし勿體なさに泣く父母を妻も御たまもみそなはすらむか

○旭日章
「お父ちやんの勳章にお日樣がいらつしやるのね」と聲はずます子を抱きしめにけり

○消されゆく名
そのかみのをみなら羨(とも)し槍とりて夫に隨ひ戰ひて死にき

○上京の朝、ただちに靖國神社に參拜す
青銅の鳥居にそそぐ春の光あふげばただに涙こぼるる
手を合せぬかづきまつる敷石の上にはらはら涙こぼれつ

○天長節
皇軍(みいくさ)も此の朝明けば東の御空を仰ぎほぎたまふらむ

○靖國神社參拜
きざはしを今しづしづと拜殿に昇らせたふわが皇后陛下
陛下今還らせ給ふかしこくも遺族我らに會釋たまひつ
人も我も頭あげ得ずたなそこに落ちては光る涙のしづく
氣がつけば右も左も遺族皆は泣いてゐるなり御還啓のあとを
九段下乘りし電車は大人も子どもも遺族章つけし人ばかりなる

○君が忌日
君が血をたみちて育つ珠二つ珠といはしめよまもりてゆかむを
ちちのみの父のこころをたましひを我ならでそを誰がつたへむや
君あらば何の要ある妻われぞ君なくてこそ要あり妻我

○三年の秋
大いなる國の命にとけ合ひて生くるといふに何を泣く我

○紀元二千六百年奉祝
萬歳は潮のごとく大宮の御前(みまへ)廣庭(には)とよもして湧く

○奉祝の提燈行列
大君の夜の都はこよひしもくれなゐの燈の海となりぬる

○十一月十二日夜、市民の熱誠溢るる提燈行列にこたへさせ給ふを、はるかに拜しまつりて
かしこしな大内山の木の間よりこたへて振らす提燈のゆれ

○昭和十五年十二月三日、皇后陛下の行啓を仰ぎ奉る
君が代は千代に八千代にいやさかにみさかえあれとをろがみ歌ふ
わたくしの我らにたまふ光榮(はえ)のみか幾萬の遺族に埀れ給ふ大御心
大前にちかくさぶらひ大御姿あふぎまつるに尊くもあるか

○御下賜の御菓子を、亡き夫の冩眞に供へて
紅白のにほひめでたき菊の花かしこみ見ませわが亡き夫よ
みいくさに身はささげつつ今日の日を妻なる我にのこしたまひき
身は遠く界隔てて生くれども今日がこころは寄り合ひて泣く
 

やましき沈黙

 投稿者:  投稿日:2009年 8月11日(火)11時52分49秒
返信・引用
  塾頭 様

知らぬ事が多い初心者でございます、ご指導をよろしくお願い申します。

水交社で行われた戦後の海軍反省会と題したNHKの番組の続きを見ました、
昨夜は「特攻」についてのテーマでしたが、「やましき沈黙」という切込みには
首をかしげる気持ちがありました。

曰く、
特攻の計画は早い時期から海軍軍令部では計画されていた、
曰く、
特攻は命令であり編成であった、
曰く、
やってはならない作戦であった等。

だが当時の軍令部を責める気持ちにはなれません、
昭和19年に至り彼我の戦力は10倍いや20倍もの差が開き、
昭和20年に入りては有効な攻撃力を失ったわが国が巨大に立ち塞がる敵国に対する
戦争継続は特攻、一身を捨て体当たり攻撃以外にほかに何の術があったでしょうか。

ドイツにおいてすら飛行機による体当たり攻撃は行われております、
彼我の立場が逆転すればアメリカですら日本に対するに特攻を行った可能性は
捨て切れません。

昨日今日出来上がったいい加減な国家ならいざ知らず、伝統も栄光も無い烏合の軍隊
ならいざ知らず、皇軍不敗を受け継ぐ帝国陸海軍が出来る事は、死をとして国を護る
気概のみが残された唯一のものであったと思います。

国家存亡の際にあっては過っての九軍神を引き合いに出すまでも無く、
陸軍の爆弾三勇士も一死奉公には変わりなく、後の南洋島嶼、マキン、タラワ、
からサイパン、硫黄島、沖縄、そのほかの戦場においても一死をもって護国の盾に
ならんとする精神は官民を問わず当時深く日本民族の血流にあったものだと思います。

終戦間際の特攻と開戦初頭及び玉砕戦を比べますと、甲標的と回天との差異の
ごとく別なものでありますが、精神世界は非常に近いものがあり、兵士自らの発想
による一死護国の精神は戦局の如何に関らず、軍人の行き着く究極であったろうと
想像いたします。

軍令部をはじめとする軍上層部の命令、強制は組織を維持するために
行われた可能性は大いにあり得ますが、自ら自己の意思においての純粋な特攻志願も
多くあった事は疑いが無きことと思われます、
どちらか片方のみではあれほど多くの若者が飛び立つことは無かったでしょう。

人の命という事を繰り返し番組では主張しておりましたが、戦後の考え方と
当時の考え方の大きな違いは個人の命を上に置くか皇室、国体、国家を上に置くかで
異なります、当時の日本人にはこの番組で繰り返されたほど個人の命の部分をことさら大きく考える思考は無かったのではないかと思います。

なお戦後になって特攻を命じる側に対する下級のものの物言いが粗暴になる等は
人間の自然であり、会社を辞めたら以前の上司に対して物言う態度も変わるのも人間の
自然であり、殊更に特効を命じたものが悪辣であったとするには無理があります。

終わりに今日の番組で一つだけ救われた思いがいたしましたのは、あの源田實大佐が
戦後ひたすらに部下の位牌の前で手をあわせていたという事実が示された事です、
ならば私の心の中のわだかまりはすっかりと払われました。

投稿の機会をいただけましたこと有難く御礼申し上げます。
浅薄な知識ゆえのご無礼はお許しください。

箙 拝
 

仲間からの話

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月11日(火)09時37分15秒
返信・引用 編集済
  ※中途、加筆せし※

昨夜のNHK。仲間からのメールが来ていた。
やはり、彼も「第一回に比してずいぶん違った印象」とあった。
「毎回、違うスタッフが作るんだろうか。とも思ったくらい、やはりテーマからくる印象の違いだろうか。」
デキはよくなかった。という評価。

仲間が気にしていたのは、番組最後の言葉のようだ。

「反省会の記録から学ぶことができる、唯一のことは、人の個々の命にかかわる問題については、やましき沈黙は許されない、ということだ」みたいな、まとめ方。

つまり、もはやあの戦争の歴史観にかかわるような問題は、NHKも避けてきたかーと感じたという。
と同時に、「はたして、反省会400時間の中味にはどんなものが詰まっているのか」その内訳を全部知りたいと思ったという。
これは私も同様だ。全部、聞きたいものだ。
どんなテーマに何時間費やしたのか。
400時間のテーマが一貫して、人の命の問題だったのかーとは思えない。

そして、やはり仲間も「人の命」の連発に???を持ったようだ。
「いやしくも、兵学校出の海軍将校たちが使う言葉か?」と。

この反省会が始まったのはたしか昭和56年頃。
ダッカのハイジャック事件で、福田赳夫が「人の命は地球より重い」といったのが、昭和52年。
「人の命は当時の流行語」だ。
テロリストの脅迫に屈した、と国際的な批判を浴びて、存分に世界に恥をさらした時期に、老兵となった彼等は「人の命」を語っている。
どういう状況なのか、もっと知りたいと思った…と書いてきている。

つまり、エリート士官だった当時の佐官級が400時間しゃべった内容を知りたい。
もしかしたら、戦後生まれの若いスタッフでは重要度の判断が出来ない重要な証言が分別できず、埋もれたままになっているのではと思う。

証言テープの中で「おい、鳥巣さんよ、あんたがそんな席に座っていいのかよう!」みたいな席順の位置に怒りをぶつけていた階級下の聲があったが、こういうのは戦友会ではよく見かける風景だ。

でも、今現在ではもうみかけなくなった風景だ。
「やましき沈黙」をもうみんな「善し」と判断するようになったからでしょう。
波風はもう立てても仕方ない。もう、みんな死んでいくんだからーという考えがあるからだろうと思う。「もう」という感慨ですね。

※生き残った者は、これからただ、死んでいくだけだ。
家族の思いでの中で何ヶ月間か、何年か生きていくだけ。
その内、全ての人間に忘れられてしまう。

だが、靖国神社に祭られる祭神は、永遠不滅であり、常に多くの見知らぬ人たちから手を合せられ、尊崇を受ける。
魂を忘れられることはない。至誠は語り継がれる。
参拝する国民から忠義忠魂の抽(ぬき)んでることを自噴することを願っている。
ただ、勘違いしては困るのは、英霊は国民そのものを守っているわけではない。

天皇御座所である皇城をお守りしているのであること。
伊勢神宮、明治神宮、そして宮城を巡回飛翔しているーそう考えて戴きたい。


「そう。もう、みんな死んでいきますからねえ」
この気持ちはよくわかります。ただし、わかるというだけです。
 

神武たる死の戰法は、神州の武、皇國の義なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 8月11日(火)00時25分49秒
返信・引用
  ●黒木博司海軍少佐『急務所見』(昭和十九年五月八日。當時大尉)に曰く、「

第一、死の戰法に徹底すべき事

 現下戰局の歸趨は、皇國存亡の決する處なり。病體の夫の仇敵刀を擬するに、焉ぞ醫藥を煎ずるの暇あらんや。攘夷撃滅は、正に今日の至大事なり。時に夷狄、膨大の物量を以て臨むに、我が力及ばず、量足らず、遂に滿身創痍、身に寸鐵を帶びざるに至らんとす。呼、神州明日の變、測り知るべからず。我れ何を以てか、之を制せん。他なし、『吾が國の外國と異なる所以の大義を明かにし、臣は君の爲に死し、子は父の爲に死するの志、確固たらば、何ぞ諸蠻を恐れんや』(愚案、吉田松陰先生『講孟箚記』)と。之れ心切忠死を希ひ、臨むに必殺の策を以てして、始めて可なり。夫れ必死必殺の死の戰法に徹せんか、用ふる兵器は易々として、以て量を補ふに足り、用ふる道は、豁然として戰果、測り知るべからず。一度、其の威を振はんか、夷狄、慄然として爲すなけん。是れ神州の武、皇國の義なり。唯だ用ひざりしのみ。或は上官、切々の情ありと雖も、大義に死せしむるは、臣たるの義、子を生かしむるは、將たるの責なり。焉ぞ一己の心責を以て、皇國の安危に換へんや。宜しく速かに皇國の神武たる死の戰法により、皇國を護持して、以て一日も早く聖慮を安んじ奉るべきなり。姑息の弄策、荏苒の一日、以て神州を千歳に誤らんことを懼るなり」と。



 愚案、塾頭の仰せに因り、NHKを拜見いたしました。小生の如き、何をか云ふべき言葉もありませんが、たゞ上官、戰後に生き、其の風潮に流され、西洋流の所謂人道に惱むもの、「特攻は戰法に非ず」と。何ぞ知らん、黒木少佐の如き血の言靈こそ、皇國軍人のあるべき言葉と愚考します。是れ現代に於て沈默せざるを得ざる所以にして、「やましき」沈默に非ざる所以であります。「戰爭を知らざる者は、控へをれ」と云はれるは、是れ甘受するものであります。拜見しての素直なる意見、何卒ぞ無禮あるは、御寛恕のほどを。
 

NHKスペシャル

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月11日(火)00時20分26秒
返信・引用 編集済
  今夜のはたいしたことがなかった。
昨夜のは見ていないので、判断できない。
要はNHKスタッフの取材不足、資料不足であろう。
ただ、私が見たことがなかったのは「天皇の裁可法令で「特攻術」が制式化された」書面だった。まあ、これだけは相当の人でも知らないんでは?
これぐらいですねNHKの取材力を感じたのは。

佐官クラスが「しきりに「命」を語っていたが、これは少し、おかしいなと思う。
あの時代、「命」にそんなにこだわっていたかな?と思った。ここら辺りが、55年代まで生き残った責任官であった人たちの感覚かな?

全体的に薄っぺらい。資料、人物を探し出す能力の問題ではないか。

結局、NHKの現況スタッフの力では、これ以上の特攻作戦への突っ込みは出来ないだろうと思った。
細かいことは、あとで、書いてもよいが、気分が乗れば書く。
番組後半で登場してきた長束元少佐は、桜花の試作機開発に携わった人で、まあ、この方は海軍航空工廠にあった時から、「必死兵器」には反対だったが、下からの熱意に負けたことを戦後も随分しゃべっている。

私の見た感じでは、取材がまだまだだと感じた。特攻がスタッフにわかっていないと思った。
番組プロジューサーみたいな人が最後に落ち着いた口調で想いをしゃべっていたが、なるほど「少し、いままでのNHKタッチ」とは少し違うなと感じた。
ただ、この人もまだ、本当の歴史を掴んでいないので、駐在武官の言葉を引用して「やましき沈黙」という所に落とし込んでいたが、これはだめでしょう。
「やましき沈黙」は何処の世界でも「あるし」また、「時にそれも必要」なこと。多少の矛盾は承知しても遂行しなければならない「本義」というものがある。殊に戦争にはある。

まあ、全体としては「たいしたこと」ではない。

そうねえ。やはり、九段塾で、「特攻」というもののドキュメントか劇ドラマとかいうのもを企画・原案してもよいかなと思った次第。
またまた、仕事が増えてしまった。

※(追加)見たら、私の後ですぐに備中さんが書いていた。その通り。
  「神武たる死の戰法は、神州の武、皇國の義なり。」
これでいいでしょうね。

靖国神社にもう少し、NHKは資料を見せてもらうか人物を紹介してもらうかしないと、この程度で「スペシャル」となってしまう。
見せられる国民が可哀想だなと思った。

多分、昨日の方がデキはよかったのではないか。

※明日のは、まあ、あまり期待が出来ないな。やはり題材によって、質が異なる。

ついでだが、先ほど、桜の掲示板を見ようとしたら広島でのあのチャラオ幕僚長の講演の一部が公開されていたので、見たが、笑ってしまった。いい商売をしている
ー靖国神社の御神楽に制服着用で出席してくる「大バカモノ」の資質は変わっておらん。

大体、胸に勲章代わりに花を付けていたが、こんなものを付けて軍議をしゃべる感覚が理解できん。道路工事完成の祝賀会じゃないんだから、こういう点一つとってもオタクの素質なんだね。名士になってどうするんだね。少しは先人の汗でもナメテこいといいたいよ。

彼がしゃべっている間は、「日本は平和だ」と思ったね。こんなものに大騒ぎする「保守」だからオタクだといわれるんです。

三島が防衛庁に乗りつけた時、一体、この人は何処で何をしていたのかー聞いてみたいよ。
今頃ノコノコ出てきて、気楽なもんだ。
実存主義者が言っていたが、「こんなのが保守だと思わされたら」日本の将来は「お笑い国」になってしまう。

日本の保守は…もう幼稚すぎて話しにならんよ。

その原因は「頭がバカ」だからだ。もっと学問をしろといいたい。
国民一人一人の志操から変えていかなきゃ戦争なんて出来んし、穴掘り一つ、命令に従わない兵隊ばっかりになってしまうよ。
 

Re: NHKスペッシャル

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月10日(月)18時57分35秒
返信・引用
  > No.489[元記事へ]

> NHKの本当の意図は知らず、
> ただこのような反省会の記録を見つけ出し大きな番組に作り上げた彼等の力量には
> やはり敬意を表すべきだと思います、
> 番組は見る者が解釈をすればよし、非常に左翼的な偏向の多い昨今のテレビ局やマスコミ
> ですが、私はこのような番組を提供してくれたNHKがあればこそ、いやそうでは無いだろう
> と逆作用の思考も生み出す利点もあるようにも思います


箙さんという方が投稿された。この通りである。

しかし、これはこれは大変な名前の人が訪問されてきました。
「箙」とは、常人ではつけがたいお名前。その名前の通り、まことに昨今、目にし難い確かな文面。
こういう方が、世の中にはいるんだと…驚いております。

今後も是非、投稿願いたく思います。管理人の備中さんが大感激されると思います。

仲間の話だとどうも水交会の事務所で反省会を開いたようだと云っていた。
まあ、戦後35年経過して、戦後の空気も吸っている中での談話。
「私の聞いた話では…」という証言内容の確かさは確認しようもないが、しかし、ご本人がどのように考えていたかは知る手がかりとなる。そして、「証言」にあるような内容が取り沙汰されていたんだーと「当時」を知ることは貴重です。

NHKの語り口などに「ギャーギャー気を向けたり」「上っ面な」部分だけしか見ないような鑑賞眼は棄てて、しっかりと、閲覧者は貴重な史料を見る心算で、今夜の番組を見るべしだろう。400時間の証言は伊達ではないだろうと思う。

誰がどのような証言をするのかー普通では絶対に聞けない証言だろうと思う。

桜のように「NHKはやっぱりダメだ」みたいな見かたではなく、史料を見る心算だよ。
元軍人たちが、非常に興味を抱いて、今夜も見るんではないか。

改めて「箙」さん、今後も投稿を期待しますよ。
 

NHKスペッシャル

 投稿者:  投稿日:2009年 8月10日(月)15時30分41秒
返信・引用
 

始めて投稿させていただきます、
昨日のNHKスペシャルについて塾頭様のご意見に近い感想を持っております。

前線の将星と後方の若い秀才たちの机上のプランとの差異は海軍に限らず陸軍の参謀本部作戦課でも同様な軋轢があったものと想像いたします。

興味深かったのは軍令部総長(当初部長)を9年間務めた伏見宮の功罪に触れた
元少将の発言でした、開戦にいたるキイパーソンが彼(宮)であったとは思いませんが、
開戦を迷う海軍首脳部に対してここまで来たら仕方ないだろうという旨の開戦プッシュの
発言が宮からあったとの他の書物にも記録もありますが、
果たして宮の一言が開戦への後押しであったかどうかは想像の域を出ません。

宮が国運を損なう対米戦争を意図的に後押ししたとは到底思えませんが、
あの時代の狭い海軍の内部に身を置き、帝国海軍の威容をより高めようとする愛国心
として解釈すれば宮に限らず前任者の東郷元連合艦隊司令長官にも同様の考え方は
普遍的に存在したのではないかと思うものです。

また宮の威光を利用して正規の手続きを踏まずして物事を推し進めてゆく等、
若き軍令部のエリートたちがいたとしても当時でも現代でも官僚や会社に於いて格別に
不思議な事でもない人間の条理だと思います。

興味深かったのは永野軍令部総長が開戦を躊躇えば右翼と陸軍との板ばさみになり
内乱が起こりうる、そうすれば時期を逸した形で不利な状況で日米開戦を迎える可能性も
あり、あの時の対米戦の決意は時代の大勢であったと言ったという証言がありました。

これは成るほどと頷ける部分でもあり、結局誰も国家を損なおう等、画策したものはなく
国家も国民も陸海軍も真面目過ぎた故の負の結果がはからずも敗戦であったと思うしだい
です。

ミッドウエイにつきましては、時期を一ヶ月遅らせれば、これは全く後付の発言であり、
当時そのような意見があったという指摘がよく飲み込めず、言わずもがなの部分であった
と感じております。

NHKの本当の意図は知らず、
ただこのような反省会の記録を見つけ出し大きな番組に作り上げた彼等の力量には
やはり敬意を表すべきだと思います、
番組は見る者が解釈をすればよし、非常に左翼的な偏向の多い昨今のテレビ局やマスコミ
ですが、私はこのような番組を提供してくれたNHKがあればこそ、いやそうでは無いだろう
と逆作用の思考も生み出す利点もあるようにも思います。

本日の特攻についての番組も見るつもりです、おおよその趨勢は見当がつきますが、
肉声を聞き発言の事実を知るだけでも現代の我々には一つの資料であり、ましてやそれが
海軍のエリート集団の発言であれば、なお更に一見の価値あり、而して後にいや違うだろうという議論を巻き起こす原動力にもなろうかと愚考いたします。

掲示板をお汚しましたこと、まことに失礼をいたしました。
このスレッドを応援しております。
箙 拝
 

NHKスペシャル

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月10日(月)10時01分39秒
返信・引用 編集済
  昨日の夜9時から始まったNHKスペシャル「海軍400時間の証言」
《何で戦争になったのか、その責任はどこにあるのか。
国民を悲惨に追い込んだのは誰か》
こういう視点のスタンスからは、抜けられないのは自明だとしても、それを無視しても見る価値はあったーと、仲間から連絡がありました。

私は、これを昨日の段階で、何故か「今日の放送」だと勘違いして、見損なった。
今夜は夜の10時から始まる「NHKスペシャル」是非、見てくれーと言ってきた。

新聞を見ると、今夜は特攻作戦が主軸のようだ。
「日本海軍400時間の証言 第二回特攻 やましき沈黙」という。
題名からして、嫌な感じを受けるが、仲間によれば昨日のデキはさすがはNHK「侮れない、力はあるー」と言ってきました。

呉の大和ミュージアムが関係しているので、なかなかしっかりしていたそうだ。
ジャパンデビュー何とかとは一線を画していると。

海軍軍令部の実像をわりあいよく描いているという。貴重な番組ではないかーとまで云っていた。

あの戦争への皇族とのかかわり、参謀たちの動静ーそして、連合艦隊と軍令部との確執。
更には、第一線の将星が、かっての後方の参謀たちへの怨嗟は聞くに値するものとか。

私は残念だが、見ていない。しかし、仲間は私を越す皇軍史観。
その仲間が言うのだから、見るに値するようだ。
但し、今日のはどうかはわからない。主題によって、うまくいく時もあれば失敗することもあるのを、よくテレビで見ていますから。


「特攻作戦がどのような経緯で生まれたかー大西中将は独断で特攻作戦をしたわけではない」その背景には、既に「桜花作戦」に天皇の承諾があったことなど…そういった組織的な軍令部の話が語られるのではないか…。無論、単なる予測。
問題は将官たちの証言でしょう。誰が、どのようなことを「証言」しているのか。400時間の膨大さはそれだけのものがあろうと思う。

是非、みなさんも見てください。「NHKの視点は従前と変わりはないだろうが」それは無視して、中味を見てみましょう。私も見ますので。
 

時計の間

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 8月 5日(水)18時18分32秒
返信・引用
  塾頭 硯北
那須の権太 樣

 本日は「友引」ですが、天運、芳ばしからず、何と「三隣亡」であります。小部屋と雖も、收容人員は甚だ大きく、總檜づくりの大廣間の由、備中國では、大工さんの休日です。管理人は、無理も申せず、至つて遠慮深いもので‥‥。本道に殘念至極。

 「権太さんは、この『時計の間』で、こつそり燒酎を飲みたさうなので」、明日は芽出たく九段塾休憩室の竣工が叶ふ豫定です(笑)。塾頭の仰せならば、ひと眠りして、明日の午前一時の交に起き、柱を建てゝ下さる由、起きること能はざれば、御免なさいとの事、皆さんには、せいゞゝ、ご活用ください。
 

Re: 事務連絡→時計の間

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月 5日(水)14時05分3秒
返信・引用
  > No.457[元記事へ]

> 権太殿は、この休憩室でこっそり焼酎を飲みたそうなのでね。

あ痛たゝゝ・・・。塾頭、眞つ向唐竹面打ち一本。ま、參りました。

・・といふわけで備中樣、塾頭の條件付き御裁可がおりたやうですので、よろしくお願ひいたします。
 

時計の間の設置思想

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月 5日(水)00時29分19秒
返信・引用 編集済
  那須の権太殿。結構ですよ。

喫茶室、酒場は困りますが、皆さんが、塾の講義を聞いているだけでは疲れるでしょう。
私も以前から、気楽にみなさんがお話を出来る「休憩室」みたいなものを作ったら、案外、いろいろなことをおしゃべりできていいかなとは思っています。

酒の「話だけ」なら構わないが、持ち込みは厳禁です。
お茶とお菓子ぐらいで、あとは手弁当を食べるぐらいはいいでしょう。
あくまでも「九段塾の休憩室です」から。居酒屋ではありませんよ(笑)

そこで「時計の間」という部屋をスレッドの中に、備中さんにつくってもらいましょう。

「時計の間」の意味は、休憩室ではあるが、常に柱には「時計」が架っていますので、いつまでもグダグダ、この休息の場でだべってばかり、寝そべっていては困るという話です。「事務連絡」は事務連絡で従来どおり。

焼酎の話でも、孫の話でも、世間話でも、それは一向に構わないと思いますが、それでもこれから天下に名を馳せようと考えている九段塾ですから、あまり品位の無い話はまずいでしょう。

政治の話、神社の話し、時世の話、日常の話、旅の話し、よもやま話ー九段塾の掲示板では少し、不似合いな話。
それはなんでも自由でいいでしょう。あくまでも皆さんの休憩室。講義の間の休憩室です。そこらへんは皆さんなんですから、善く飲み込んで理解して下さい。
「九段塾の常識の範囲で」


喧嘩は絶対ダメですよ。つい、激論、激昂にはしりそうなメンバーもいそうなので、塾生同士の喧嘩は絶対にご法度。

「時計」がありますから、あくまでも時計を眺めて、お話を適度にされて。

…それと、これは私の気持ちだが、あまり、食い物と飲み物の話ばかりというのは、私は好きではない。

歳をとると、(若ければなおさらだが)必ず「どこそこの酒はいいとか、名物はいいとか」話し出す。
昔、大先輩より云われた言葉があって、「人間、食い物、酒の話の自慢話をやるようになったらおしまいだ」というのがあります。
それはプチ人間になるからです。
やはり、食い物が無くて困った生活をしている人たちが世間には沢山いるし、自分もそういう経験をしてきている。
みなさんはそれなりの生活を作ってきているのでしょうけれど、自分たちだけが幸せな話をされるのは、私は好まない。

「たまには、すこしは、いいでしょうが、あまり食い物、酒の話をするのは困ります」
これは私の性格で、もともと酒宴が嫌いなもので、申し訳ない。食い物にもあまり興味が無い。なんでもあれば食べるので。どれがおいしい、まずいを云うと怒られる。今でも。

「なんでもおいしいおいしい」と食べるのが普通ですからね。

それと…結構、うるさいですが、「今日は俺がおごるとかごちそうするとか」の会話。

これも好きではない。申し訳ないね。なんだかんだうるさくて。
「じゃ、ちっとも自由にしゃべれないじゃないか。そんなら休憩室はいらねえよ」とは言わないで下さいよ。

九段塾ですからね。そこらここらにあるもんじゃない。
××社を始め、多くの正統保守が見ている掲示板ですから。そこはそれ。お願いします。私が死んだら、後は備中さんが受け継いでくれるでしょうから、(正統は基本的には誰にでも継承することが出来る)そしたら、じゃんじゃんやってもいいですよ。あ、こんなことを云ったら備中さんに叱られるかな。

それだけです。それでよければ、「時計の間」を備中さんにスレッドの中に作ってもらいましょう。備中さんもああ見えていて九段塾では謹厳実直を絵に描いていますが、結構、くだけた話が好きなようですので、備中さんも喜ぶと思います。

権太殿。お茶とお菓子と弁当で。
なんとか間を持たせて、休憩して下さい。

焼酎の話だけならいくらでも結構。焼酎の造り方とか、杜氏の話とか…

でも権太殿には酒の話より剣術、刀剣のよもやま話が聞きたいね。

それじゃ、備中さんに早速作ってもらいましょう。
備中處士さん、宜しくお願いしますよ。

「さ、、あんたも一杯、飲みねえ呑みねえ」はご法度ですよ。
ということで。
しつこいのが塾頭の性格です。

権太殿は、この休憩室でこっそり焼酎を飲みたそうなのでね。
 

Re: RE: 興廃継絶なり

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月 4日(火)23時08分40秒
返信・引用 編集済
  > No.442[元記事へ]

竹屋光晶樣、御聲をかけていたゞきながら、ご返事が遅れまして御無禮を致しました。
あちらではほんの少し御相手いたゞけましたこと、洵に有難う御座いました。

>>・・・また忽然と世に現はれたものども」もおりました。

洵にそのとおりですね。この發想は私にはとても・・・・。御聞きしてハッと致しました。正しくそのとおりだと思ひました。どうも私はにぶいです・・、はは。こちらでもよろしくお願ひ申し上げます。


ところで備中處士樣、提案なのですが、もちろん塾頭の御決裁が必要ですが、その・・何と云ひますか、氣輕に皆樣とおはなしが出來る場と云ひますか、かう、茶でも呑みながら(私は燒酎がよろしいのですが・・)話ができるやうな部屋は作れないものでせうか。この掲示板の隅っこの方でよろしいので。事務聯絡てきなこともそこでやれると思ふのですが・・。
淺はかでせうかね。いや、ほんの思ひつきです・・。

<追伸>
あれ?もしかして「事務聯絡」といふスレッドがそれに當るのでせうか・・。
うーむ・・、さうだとすると、名前、變へませんか?「喫茶室」とかなんとか・・。
九段塾らしくありませんかね。ん〜、どうなんでせう。
 

御羽車

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 8月 4日(火)22時24分27秒
返信・引用 編集済
  ●野村玉枝刀自『第二歌集・ひとすぢの道』(昭和二十年四月・八雲書店刊)から

○御羽車
晩春の 夜はくだちたり 葉櫻の 葉かげに坐して 御羽車を待つ
幾萬の 遺族の中の 一人とし つゝしみて坐す これの神域に
高々と 靈を呼ばす 御聲は 春の深夜の 庭にひびかふ
一瞬に 百のかがり火 皆消えて 地上にあらず ぬば玉の闇
にぎみたま あらぶる靈 春の夜の 星の大空を あまがけりきませ
ぬばたまの 闇のそこひゆ 清くきよく 流れて胸に とほる樂の音
ぬば玉の 夜目にも白く まなかひに 近づきませる 御羽車のかげ
これの世に ふたたび君と めぐり合ふ 葉櫻の上に 星うるむ夜を
白々と 風のごとくに 音もなく 我がまなかひを ゆきすぎ給ふ
父母も すこやかにます ここにして よろこび泣かす みそなはしたまへ
「お父樣」と 毅(つよし)は聲を いだしつゝ 父を呼ぶなり 御羽車にむけて
御羽車の 上より見ませ 頬もかく まろろに長けぬ 暉美(てるみ)を見ませ
界こそ へだてまつれゝ 子らの上を まもらせ給へ 惠埀れたまへ
數しれぬ 英靈のかげに 身は生きて 皇國(くに)のみたみの 感激に泣く
右左 前も後も 我も人も 泣くばかりなり たゞ泣くばかり

  歌集雪華を獻納す
數しれぬ 御ささげものの そのかげに わが捧げまつる 雪華一卷(ひとまき)
山と積める 紅白の餅 神酒の樽 そのかげにさゝやけき 雪華一卷

  昇殿參拜
きざはしを 今しよちよちと 昇りまつる 四歳(よつつ)の毅 六歳(むつつ)の暉美

○靖國神社
  十一月二十九日、參宮の旅よりかへりて靖國神社に參拜す
參宮の 旅のおもひの くさぐさを 告げまつらくと 九段にまゐる
靖國神社の 公孫樹(いてふ)の黄葉(もみぢ) ことごとく 地に散りしきて 又冬が來し
たたずみて わがもの思ふ たまゆらも 散りしきるなり 公孫樹のもみぢ
新しき ねがひに家を いでしより 二歳の日は めぐりけるかも



●塾頭の曰く、「

 あなた方は戦前の靖国神社が、現在のように平民が、誰でも毎日好きな時に神門をくぐって、石畳を踏んでお参りできると思っている。現在は昨年の工事ですっかりはがしてしまいましたが、神門から続く石畳は、外地に出征する皇軍兵士が踏みしめ、出征していった石畳です。その石畳の上を歩けるのは、大元帥陛下と皇軍兵士だけです。」と。

 又た曰く、「靖國神社神門に、何故、菊花の紋章がつけられているか、みなさん、わかりますか――もう、血の涙がこみ上げてくる――この門を招魂された英霊をお乗せした御羽車が通られるからです。天皇陛下親覧を得、英霊は粛然と、本殿に向かう。神門は靖國神社の正門であり、内陣への大王道である。その真ん中は、国民は歩くことが出来ない。天皇の指し示す辺地・外地に赴き、皇国の守護奉らんがために、戦場で伏した将官・将兵の凱旋である! 迎える皇族・元帥・大将・中将・武官、悉く頭を垂れる中を凱旋する、声なき英霊之門。それが靖國神社神門である。現在においても、例祭日には、天皇陛下のお使いである勅使が、この神門を通過する」と。



●昭和十五年四月二十三日、臨時大祭[招魂・合祀祭]に於る日本放送協會ラヂオアナウンサーの全國實況中繼(中村直文・NHK取材班『靖國――知られざる占領下の攻防』平成十九年六月・日本放送出版協會刊に所引の「放送臺本」より)に曰く、「

 盡忠報國の一念に燃え、身を鴻毛の輕きに置き、國難に殉ぜし御靈、齋き祀る御儀、行はるゝ、こゝ九段靖國神社齋庭は、神苑そのもの。たゞ星のみ輝き、神域は靜寂のうちに若葉の香りがよどみ、また流れて行きます。‥‥

 招魂齋庭から本殿近く、延々數町の間を、筵の上に隙間もなく竝んだ遺族の方々の中には、腰の曲がつた年寄りも交じつてをります。遠くは北は北海道から樺太、南は沖繩、朝鮮の果てより訪れて、此方久しきこの晴れの對面に心躍らせて、子が孫が、あるいは夫が父が、今ぞ護國の神として齋き祭られんとする、そのときを待ちつゝ、肅然として大地の上に列座し、山中の湖水の如く、默々として靜まり返つてをります。‥‥

 低く流れる警蹕の聲、流麗たる軍樂の音が、深遠なる神域の闇の内に流れ始めました。行列は靜かに參進し始めます。先頭の二人の憲兵に續いて、烏帽子淨衣の社掌が二人、そのあとに警蹕が續き、更に軍樂隊の「水漬く屍」、いとも悲しくもまた緩やか奏でられ、宵闇に流れて行きます。係官・隨員の從へるあとには、忠魂一萬二七九九柱といふ尊き靈璽をお祀りせし御羽車が、恐れ畏み、靜々と參進して行きます。

 今ぞ忠魂、九段に歸るの時、殉國の英靈、永久へに靖國の御社深く、齋祀られるの時であります。沿道肅然と聲をのみ、靜かに遺族席の前に、今、樂の音は奏でられてまゐります。

 夜目にも白いハンカチ・手拭ひ、誰一人として泣かない者はない。筵の上に顔を伏せて聲を忍ぶ妻、したゝゝと感動の脣を抑へる。哀れ冷たい玉砂利も、今宵はどんなにか熱い涙を流すことでございませう。‥‥筵の上に跪いてゐる二萬五○○○の遺族は、尚も伸び上がり伸び上がり、涙に頬を濡らしながら、闇に消え行く御羽車を見送つてをります。

 御羽車は、やがて闇の中に鎭まり、神域は莊重深遠と申すよりほかございません。宮司、恭しく本殿に參進し、一萬二七九九柱の新しき英靈を、本殿奧深く齋祭るのであります」と。


**********


愛国主義者樣

 貴兄には、益々ご勇健、今の度びは暑中御見舞まで頂戴し、忝く存じ上げます。

 岡田克也氏、かやうな人ならば、ご參拜に來られなくても、宜しいぢやありませぬか。かやうな信條ならばこそ、靖國の神々は、其の參拜を拒んでをられるのかも知れませんね。親のしつけが惡いのでせう、縁なき御方と謂はねばなりませぬ。敬白
 

見逃してはいけない反逆者の暴言

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2009年 8月 4日(火)20時26分29秒
返信・引用
  塾頭様、一兵士様、備中處士様

ご無沙汰しております。
暑い日が続いておりますがお体の加減は、
いかがでございますでしょうか?
8月に入り、靖国へ参拝する時期となりました。
さて、その件に関しまして怒りを禁じえない、暴言を
吐いた愚物のことをお知らせしなければなりません。


レコード支那から岡田克也の情報です。
この報道が事実なら、やはり岡田克也は日本人ではない。
いや、人間ではなかろう。

日本国家のために命をささげた英霊を罪人と称する、
この異常性、さらに著しいまでの支那に対する媚びへつらい。
まさに岡田が只のでくの坊、狂人であることをまざまざと
主張してくれた訳である。

保守派はこの、売国、非国民発言を見逃してはならない、
岡田克也を政界から完全抹殺しなければならない!

報道の出所は支那系ではあるものの、昭和陛下に対して、
退位すればよかった等の不敬なる発言を
過去にしている狂人。かの如き叩き発言を、
したとしても不思議ではあるまい。

決して愛国心ある保守派は、見逃してはいけないと心得ます。

民主党幹事長、政権交代後は「首相の靖国参拝と内政干渉は行わない」―中国紙
8月4日14時30分配信 Record China

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090804-00000017-rcdc-cn

2009年8月3日、民主党の岡田克也幹事長は都内で中国メディアの合同取材を受け、今月末の衆議院選挙で民主党政権が誕生すれば、首相の靖国神社公式参拝や中国への内政干渉は一切行わないと述べた。中国新聞網が伝えた。

岡田幹事長は、「民主党は結党以来、一貫して日中関係を重視してきた。鳩山由紀夫代表や小沢一郎代表代行を始めとする党幹部たちは各々の政治活動において常に日中関係重視の姿勢を示してきた」と述べ、政権交代が実現すれば日中関係はより一層発展すると強調した。同幹事長自身も年に1度は訪中しており、すでに15回の訪中歴があるという。

また、第2次大戦中のA級戦犯が祀られている靖国神社に日本の首相が公式参拝することに中国が強く反発している問題については、「A級戦犯は先の大戦の罪人だ。首相が公式参拝すべきではない」と述べ、チベット問題やウイグル問題については「中国国内の事情だ」とし、「中国への内政干渉は行うべきではない」との見解を示した。(翻訳・編集/NN)
 

皇軍招魂抄

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月 3日(月)21時42分53秒
返信・引用 編集済
  > No.452[元記事へ]

>>
>  スレツド欄に、
> 『皇軍招魂抄
> をスレツド建て致しました。


これはいい。殊に山川弘至少尉の話は、喜ぶ人が多いと思いますよ。
岐阜の郡上市にある山川弘至記念館は今年増設して、更に訪れる人に国風の守護を歌い広げておるそうな。
機会があれば、是非、閲覧の方々も一度訪問されることをお勧めします。

今後、尊皇の思想を語る上でなくてはならない人として名をだしてくるのではないかと思う。

島崎藤村、土井晩翠、佐藤春夫、川端康成、斉藤茂吉、太宰治、柳田国男氏など、戦前文壇、詩壇の人々と交誼を深めた様子。

生きておられれば、戦後保守の旗頭として、衰える国風を詠い続けて、戦前精神の高さを、日本人の至誠を語り続けたであろうと思う。
今も、京子夫人はご健在の御様子です。

皇軍招魂抄ー更に充溢させてください。

そして竹屋さん、またまた「深いい話」
光晶というお名前が似合う投稿です。

そうそう、今夜は、これから10時にBS4でいつかお話した「日本・こころの歌」でまたも軍歌を少しやるそうなので、ちょっと見て、それからまた勉強です。
 

RE: 興廃継絶なり

 投稿者:竹屋光晶  投稿日:2009年 8月 3日(月)15時58分12秒
返信・引用
  塾頭様
那須の権太様

「大忠臣楠木正成公の死と共に忽然と地上から姿を消した小龍景光は、正に明治の御代の直前、あたかもこの時を待つてゐたかのやうにまた忽然と世に現はれ、聖上のお側に侍ることとなつたことは、いかにも楠公景光の名にふさはしい物語ではないかと考へてをります。」

非常に象徴的なお話しだと思います。また、楠木公の佩刀だけでなく、「あたかもこの時を待つてゐたかのやうにまた忽然と世に現はれたものども」もおりました。この時とは一瞬であり、草莽とは何世代にも渡ってその時を待ち続けるという試練に耐えられる存在であろうと愚考しておりました。
 

興廃継絶なり

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月 3日(月)09時15分6秒
返信・引用
  那須の権太殿
まさに、あなたのおっしゃる通り、
「大忠臣楠木正成公の死と共に忽然と地上から姿を消した小龍景光は、正に明治の御代の直前、あたかもこの時を待つてゐたかのやうにまた忽然と世に現はれ、聖上のお側に侍ることとなつたことは、いかにも楠公景光の名にふさはしい物語ではないかと考へてをります。」

これでよろしいでしょう。これが光圀の言う「興廃継絶」の顕現とも一致。
重ねて御礼申し上げます。
また、次に何かあれば、お尋ねいたしますので、その節にはまたよろしく。

暑さはこれからが本番。暑気あたりは危険。自分も、冷え冷えタオルを贈られて、朝から
首に巻いて、危険を回避しております。
それでは失礼します。
 

Re: 大感謝なり

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月 2日(日)17時20分24秒
返信・引用 編集済
  > No.439[元記事へ]

塾頭、過分なる御言葉、洵に恐縮です。

この景光の楠公由來の故事に付きましては、實は文獻的記録が何もないのであります。あくまでも“さういふ傳承がある”といふことです。例の“河内の農家”にそのやうに言ひ傳へられてゐたものです。ですから、塾頭御尋ねの、造られた經緯や楠公に贈られるまでの顛末などは、全く不明なのであります。中には、この景光を發見した件の刀劍商の、この太刀に箔を付ける爲の創作話しではないか、などと穿つた見方をする向もあるやうであります。

しかしながら、私としては楠公由來は決して有り得ない話しでは無いと思つてをります。景光作の太刀、短刀には、鎌倉末期、延慶から建武までの年紀が確認されてをり、これは大楠公の生涯にぴたりと重なることから、正に同時代を生きた二人であつたことが判ります。

小龍景光は、紛れもなく景光作の中でも最高傑作とされるもので、それがゆゑに現國寶にも指定されてゐるものです。景光の頃の長船派はすでに相當の名聲を得てをり、當時としてもこれ程の名品をどこぞの馬の骨になど造る筈もなく、やはりかなりの邊りからの注文品ではなかつたかと考へられる譯であります。
從ひまして、楠公景光由來は大いに信憑性のある話だと私は考へてをります。

ただ、江戸享保年間、徳川八代將軍吉宗公が本阿彌家に命じて、當代名刀を纏めさせた「享保名物牒」には、この太刀の記載がないことも事實で、徳川に傳はつたとされる部分については、信憑性は薄いと思はれます。

大忠臣楠木正成公の死と共に忽然と地上から姿を消した小龍景光は、正に明治の御代の直前、あたかもこの時を待つてゐたかのやうにまた忽然と世に現はれ、聖上のお側に侍ることとなつたことは、いかにも楠公景光の名にふさはしい物語ではないかと考へてをります。

それと、小龍景光そのものを題材にした小説につきましては、私も寡聞にして存じ上げません。御役に立てず申し譯ありません。
 

大感謝なり

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月 1日(土)23時04分5秒
返信・引用
  > No.438[元記事へ]

那須の権太さん。どうもありがとう。助かりました。


> 表裏に棒樋(ぼうひ)を掻き、ハバキ元の表に「眞(しん)の倶利加羅龍(くりからりゆう)」を上手に彫る。この倶利加羅龍が號の由來である。

私の興味関心を惹き付けたのは「倶利伽羅龍」の彫りです。不動明王黒龍の怒髪天を衝く憤怒が刀身に絡みつき、呑まんとする構図。

景光は、どのような思いでこれを彫ったのか。誰かの依頼があって彫ったのか…。

「太平記」ではお馴染みの中納言萬里小路藤房卿が大楠公に贈つたとーありますが、公達は、この刀を何処から揃え、河内の住人楠木正成公に贈ったのかーそういう経緯が知りたいが、そういうものは現在は残っていないんでしょうね。太平記に書いてあったかどうか、記憶が定かでない。

しかし、賊徒を退治する楠木正成公には誠にふさわしい名刀。

この刀のーというか倶利伽羅龍を彫った景光の話を小説にして書いた人がいるのかどうか、あるいは、「小龍景光」を小説にした話があるのかどうか、権太殿はご存知ですか?。

いえいえ、これ以上ご足労をかけるわけにはいきませんので、あとは、少し、調べてみます。調べてわかるものなのかどうか、それすらもわかりませんが。

もし、権太殿の方に、なにかご存知の件があればお伝え願います。

もしも、そういう話を調べたいとしたら、権太殿以外に、あとは、どういう処へ調べに行ったらわかるものなのか、それとも「なにもわからないものなのか」


>    さして行く笠置の山を出でしより
>
>              雨が下には隱れ家もなし
>
> 帝が思はずその心細さを吐露されたとき、
>
>    いかんにせん頼む陰とて立ちよれば
>
>              なを袖ぬらす松の下露
>
> と歌で答へられたのがこの中納言藤房卿であつたと云はれる。
>
悲愁胸を痛むシーンです。

ふと、顔をあげた藤房卿「…(呟く)あの小龍景光。渡したは河内の住人楠木の者。いかで
この天下を変えてくれるものか。頼むぞ楠木…」
帝が振り向く「楠木は自害しぬと聞きやるが」
「いえいえ。楠木の右手には倶利伽羅龍の御刀がありましょう。死を軽んずることはあるまいとおもいまする。きっときっと兵を起こし、再び、主上をお迎えに参らんと」
「おお、それはたのもしき武士。朕がためになお事を謀るという忠臣楠木…正成か」
     ×    ×    ×
激しい雨中を馬腹を蹴って走り去る楠木正成の高く上げた右手の血刀に「倶利伽羅龍」が
憤怒と化して、火炎の如く火を放ち、悪陀を呑み込んでいく姿が雲龍に巻き上がってー

楠木「正成一人いまだ生きてありと聞こしめしあれば、御聖運尽き申さず。天誅必ずやこの剣を持って成し遂げると思し召し候へ」
「いざ」と一鞭あてて、崖を駆け下って行く楠木一党。激しい風雨に吹かれて空中に舞いあがった菊水の旗が幾重にも重なって、怒涛の連なりとなって雲海に消えて行く。

…と、まあ。こんな風に佩刀の物語を作ることが出来るので。

まことに那須の権太殿。お疲れ様でした。有難う御座いました。
 

小龍景光

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月 1日(土)18時12分21秒
返信・引用 編集済
  小龍景光(こりゆうかげみつ)

刃長七十三.九三糎。佩表に「備前國長船住景光」、裏に「元亨二年五月日」とある。

太刀姿は腰反り高く踏ん張りがあり中切先で、鎌倉武士によく似合ふ豪壯な造りである。
鍛へは、小板目肌(こいためはだ)がよく詰み、亂映り(みだれうつり)が鮮やかである。
刃紋は、丁子(ちやうじ)に互の目(ぐのめ)交じりが淺く灣(のた)れて、總體に逆ごころ、頻りに足、葉(やう)を交へて華やか、匂口(にほひぐち)締つてよく冱える。
表裏に棒樋(ぼうひ)を掻き、ハバキ元の表に「眞(しん)の倶利加羅龍(くりからりゆう)」を上手に彫る。この倶利加羅龍が號の由來である。

現存のものは、本來「太刀拵」であつたものを後に「打刀拵(うちがたなこしらへ)」に造り直した際、莖(なかご)部分を切落し寸づめにした、所謂「磨上(すりあげ)」であるが、それでもなを往時の姿を彷彿とさせるに充分な迫力がある。
また、磨上られたことにより、拵へを付けるとハバキの上から小龍が首を出してゐるやうに見える仕樣となるため、「覗き龍景光」の異名を持つ。

現在、東京國立博物館所藏。國寶である。

備前長船と云へば鎌倉中期、歴仁年間に「光忠」を祖として興つた、のちに名刀の代名詞とまで云はれるやうになる、我が國刀劍史上に燦然と輝く一大名門鍛冶集團であり、景光は、その長船派の三代目を繼いだ名手である。また、これも現國寶である「大般若長光」の號のある大業物の作者、「長光」を父に持つ。

小龍景光は、後醍醐帝の側近、中納言萬里小路藤房卿が大楠公に贈つた太刀とも傳へられる爲、「楠公景光」の別名を持つ。後醍醐帝が笠置山を後にされるに當つて、隨從したのが藤房卿、季房卿の兄弟であつた。

   さして行く笠置の山を出でしより

             雨が下には隱れ家もなし

帝が思はずその心細さを吐露されたとき、

   いかんにせん頼む陰とて立ちよれば

             なを袖ぬらす松の下露

と歌で答へられたのがこの中納言藤房卿であつたと云はれる。

そして、大楠公、湊川の戰で壯烈なる戰死を遂げたのち、この小龍景光の行方も杳として知れなくなるのであるが、如何なる遍歴の末か後に天下人秀吉公の所有するところとなり、その後家康公に贈られたと傳へられるのである。

ところが、江戸幕末、なんとこの楠公遺愛の景光、大阪の刀劍商によつて河内の農家の藏から發見されることになるのである。この刀劍商、早速江戸へ出て刀劍鑑定の家元であつた本阿彌家へ鑑定を依頼するが、なんと本阿彌はこの刀を贋作と判定してしまふのである。このころの本阿彌は鑑定力がかなり落ち、ほとんど名跡だけの存在と成果ててゐた。

その後どういふ曲折か、代々幕府の介錯人を務める「首切り淺右衞門」こと山田淺右衞門がこの景光を買上げることになるのであるが、淺右衞門も職業柄、相當の刀劍目利きである。この景光を本物と判斷した淺右衞門は、明治の世になつてから時の東京府知事大久保一翁を通して、明治大帝に獻上することになるのである。無類の刀劍好きであられたと傳へられる明治大帝陛下は、この景光をサーベル樣式の軍裝拵へになさり、常に御手許に置かれて、楠公を忍ばれ鑑賞されたと聞きます。

小龍景光は大東亞戰終結まで、御物として常に聖上のお側に侍り、陛下をお守りしたのでありました。

寫眞を掲載しておきますが、小さいので倶利加羅龍の擴大寫眞はこちらの東京國立博物館リンクでご覽下さい。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?&pageId=E16&processId=01&col_id=F130&img_id=C0012572&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________62___&Q5=&F1=&F2=
 

まだ、夢想中だがー

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 8月 1日(土)10時31分1秒
返信・引用 編集済
  仮題「帰れ一億の民よ
      戦士いま再びの戦いへ」

九段塾版太平記をアニメ作品(実写と合成する新基軸?ともかく話題づくりをする)として、今、現在思案中。
題名は少し、俗っぽいが、これは自分の気持ちの高揚を表わしているだけです。

本当は、こんなこと書いて大丈夫かという心配がある。
しかし、書けば、途中でやめることが出来なくなる。それを自分への「ムチ」とするために
あえて、何もまだ具体的話が何一つないが、「書け」と啓示があったように、記している。

幕末、藤田東湖の「回天詩」の一節に
苟明大義正人心 皇道奚患不興起
という詩句がある。
「苟(いやしく)も大儀を明らかにして人心を正せば、皇道 奚(なん)ぞ興起せざるを患(うれ)へん」
かりそめにも君臣における大義というもの、即ち人の踏み行こなうべき道義を明らかにして、人心―即ち世の中の人々、民の考えというものを正していけば、天子によって敷かれる聖徳の教えである皇道―即ちわが国の本来の道というものが、なんで興起しないと憂う必要があるだろうか。何も心配することはない。必ず興起するに違いないのだ。

これが、私の思考の根底にある。
そしてー
水戸光圀公は、「興廃継絶」(こうはいけいぜつ)という言葉を挙げている。

即ち、 廃(すた)れたるを興(おこ)し、絶(た)えたるを継(つ)ぐ=
この言葉が、やがて百八十年後、明治維新を起こす起爆剤となった。
あの桜田門で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士は、この「興廃継絶」を頭蓋の内にめぐらせ、必至回天の時代を目指し、雪を蹴散らし、大老の駕籠に殺到したのである!

絶えたるを継ぐーという字句が少し気なるが…。

いま、南北朝動乱時代に作者不詳、誰ともわからずに書かれた「太平記」を基にして、新たなる構想をもって描く「日本の壮大なる尊皇の歴史大作アニメーション」
『彼は生きて生きて死なず』を巖頭の志操として書きたい。

…ま、そういうことでして。血圧があがるので、このくらいでやめておきます。
そのうち、閲覧者の方々に、いろいろお願いすることがあるでしょう。

これを作品として発表し、一般企業、映画プロダクションなどに募集をかけて、
映画製作をしてもらおうと思っています。

あるいはまず、劇画として出版社にもちこんでもよいかなと。
素人考えだから、夢のような思考ですが、「風を吹かすには」動くしかない。

※スペイン無敵艦隊を迎えて、イギリスは到底勝ち目はない。逃げるか降参するしかないと思っていた時、ただ一人エリザベス女王は「私でも嵐が呼べるんだ」と叫んで(もしかするとー私でも風を吹かすことができるーと云ったかも知れない)、叱咤、臣下に戦いを決意させた。この映画を見た時、私は思ったのだ。

そうだ、我が国の天皇もまた、激しく、叱咤激励して兵を動かし、賊徒撃滅に立ち上がったのである。
元寇の乱で、神風を吹かせた亀山上皇、そして、鎌倉幕府を討たんとした後鳥羽上皇。そして、後醍醐天皇。忠臣楠木正成、新田義貞を引き連れての南朝のあくなき戦い。
更には、明治天皇、大正天皇、昭和天皇と、「戦いの賦」を日本の歴史に刻み込んでいる。
私は、天皇の戦う姿をも描きたい。
御簾を撥ね退けて、「いざ、出陣だ!兵よ迷う事無く従え!」
と、戦いの指揮を執られたー

それを国民に知らせたい。残したい。
平和を望むその奥の心には、常に「戦いの祈り」を有している。
それがこの国の歴史であることも伝えたい。

少し言葉足らずだが。

また、その時は、皆さんにアイデアを募集します。

では、那須の権太殿、お願いします。
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2009年 8月 1日(土)01時21分11秒
返信・引用
  塾頭、承りました。
身體はなんとか大丈夫です・・、といふか、實はいさゝかキツイのですが・・・。
まあ、でもナントカなりますので・・、あはは。

でも、少しお時間くだされたくお願ひ申し上げます。
この休日を利用して纏めてみたいと思つてをります。

えー、その前に塾頭に確認です。御容赦賜はりたく。

先の御投稿のなかに「楠木中將」とありますが、わたくしの拙い知識に於いては、
楠木中將と云へば、左近衞中將楠木正綱公といふ認識しかないのでありますが、それで宜しいのでせうか。

「小龍景光」は大楠公の佩刀と云ふことに、私の知識ではなつてをりまして、小楠公正行公の御子息である左近衞中將殿との關係は、あまり聞いたことがありません。

もっとも、刀劍の由來と云ふものは、まあ、ガセネタ始めいろいろ御座いますので、私の知識の範圍内と云ふことで御了承いたゞきたくお願ひ申し上げます。
 

草莽の志

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 7月31日(金)20時38分22秒
返信・引用 編集済
  ●山川弘至命の哥

日の本の みちの正みち 明らめて 永久(とは)にしづめむ 大和心を



 本日は、我が産土神社の大祓・輪潛り、眞に清々しい氣分でありました。小生には、夏越大祓が三囘もある。即ち太陽暦の大祓(六月三十日)、我が産土神社の大祓(七月三十一日)、そして太陰太陽暦の古儀大祓(今年は閏月の關係で八月十九日)、是である。此の腐臭袋たる小生には、難有いことです。其の都度、心魂が蘇ります。神州に生れたる幸せ、之に勝るものはありません。

 竹屋光晶樣も來られた、那須の権太樣も來られる筈、ワクワク‥‥。

 山川弘至陸軍少尉の『日本創世敍事詩――新譯古事記』(平成二十一年三月・オフイスワイワイ蜜書房刊)が復刻されてゐる。誰も教へてくれない。先般、やうやく知つて注文、本日、落掌した。以前に少尉の「日本創世敍事詩序文」を紹介させて戴いたことがあるが、感慨さらに新たである。閑暇を得て、塾頭の山川少尉紹介文と併せ、別にスレツドを建てさせて戴かうと思ひます。此の敍事詩は、「古事記全篇を、語部の口に乘つて居た、以前の敍事詩の姿に還」(折口信夫博士「はじめに」)したもの、「國をおもふ若者の魂を太らせる鎭魂歌」(保田與重郎翁「序文」)である。「天地の初發の時」から「天孫御降臨」に至る大長篇にして、志ある士は、必ず手に取つて戴きたいものであります。山川少尉は云ふ、「

 この書(『日本創世敍事詩』)を草するに當り、我が心頭に去來したものは、かの北畠親房卿が、はるかに常陸の小田城にあつて、南風競はざる日に、烈々忠誠の大義を述べ、畏くも神皇正統の理を闡明し、神國日本の本義を明示して、あの中世における民族精神の危機の日に、毅然として皇國の危ふきを支へた悲壯の生涯であつた。おもふに卿が兵馬倥偬の間にあつて、常に生死の境に身をさらしつつ、尚ほ念々その神明に誓つて之を行つたものは、實に皇統の護持と國體の闡明であつた。文武一如、常にこのために身を挺し、果敢な生涯を終始して省みなかつたのである。かの神皇正統記こそは、實にその生と死が境を接し、念々その日常が、明日を知らぬ戰ひのさなかにあつて、純忠至誠、比なき憂國の至情をもつて記した、血涙の書に他ならなかつた。

 私は今、私の信仰なり思想なりの立場より、卿の思想を批判しようとするのではない。卿の志が、つねに萬國に比なき我が國體への獻身と護持とにあり、その生命が、つねに皇統護持の悲願のために燃燒しつづけたといふことに、今の己の立場より省みて、激しい感動を禁じ得なかつたのである。そして之は現在の私の志にもつとも通じ、私らの悲懷にもつともふれるものあるを、切々として感ずるのである。私はおほけなくも、昨今の己の心情にひきくらべて、卿の、かの日の心情をおもひ、感涙禁じえぬものがあつたのである。おもふに我らの皇國に生をうけしこと、すべてはこの萬國に比なき我が國柄への獻身と、その崇高な神授のみちの護持といふことをおいては、他に何物もないといふことを、昨今、特に身にしみて思ふのである。そして我ら數にも入らぬ一介草莽の微臣の心情も、又かかつてここに存する以外の何ものでもないのである。卿の悲願がかつて此所に存したごとく、我が悲願も又つねにここにあることを、今やしきりに思ふのである」と。



 愚案、「一介草莽の微臣」、深く心に刻まねばならぬ。草莽の志とは、何ぞや。我々にも、嚴しく問はれてゐるのであります。



●影山正治翁『草莽の心』(昭和十七年三月『文化維新』所載。『増補・維新者の信條』昭和四十七年七月・大東塾刊に所收)に曰く、「

 草莽の心に立たない、勤皇の心を考へることは出來ない。草莽の心に立たない勤皇とは、政策としての勤皇、看板としての勤皇にほかならない。かゝる勤皇は、勤皇ではない。‥‥我々は清麿公の上に、大楠公の上に、彦九郎・松陰・南洲先生らの上に、まことの勤皇、まことの草莽の心を仰ぐ。地位や身分を言ふのではない。大臣・大將にも草莽の心を有するものがあり得るし、平官吏や一兵卒・勞働者にも草莽の心を有しない者が多い。‥‥眞に維新を純粹に奉行するもの、そはたゞ草莽の心。眞に維新を純潔に護るもの、そは名も無き民草の祈りである。‥‥

 人智人力は、その最高所に於てすら、空しくはかなき限りであることを痛感するが故に、我々はひたすら神に祈り、神のまにまにあらうとするのである。このことは物部一族が行じ、神風連の一黨が歩いた道である。佐久良東雄が、「尊くうれしく悲しくありけり」と詠じた「朝霜蹈みて行く道」である。北に向ふ心であり、湊川に向ふ心である。この心を無視しては、遂に神智は生じないし、神策は立たない。そして又た絶對に天忠組の精神はわからず、神風連の魂は考へられない。

 我々は高山彦九郎のかなしみを、昭和の先人・渥美勝に於て見るが故に、常に彦九郎と共に渥美勝を、心の燈として仰いで來た。こゝも最も純粹な草莽の微臣の心が、かなしきまでに深く尊く流露して居る。『われ狂へり』とのみ言ひのこして憤死せる草莽・彦九郎の悲心、『自然死か不自然死か、自ら知らず、唯だ神の召還の命のまゝに逝くに際し』とのみ書きのこして窮死せる草莽・渥美勝の悲心、そは現實主義のみに生きようとする政策論者には、遂に永久に無縁であるだらう。昭和三年に死んだ渥美勝は、早く大正期に於て、『自分は今にして神政復古を懐ひ、又た神政維新を想ふ。微力魯鈍を盡して同行の士の後に附して、一分の御神輿擔(かつ)ぎと成り得むことを願ふ』と言へる人であつた。さればこそ、生涯『頑冥不靈な御幣擔ぎ』を以て自ら稱し、昭和維新の夜明け前の長鳴鳥となつたのであつた。

 鳥羽伏見の一戰以後は、萬人すべて勤皇派となつた。當然である。遡つて第二囘征長役に於ける幕軍敗北後には、續々勤皇派が輩出した。これも當然である。更に遡つて文久三年八月、大和行幸の勅命渙發以後に、多くの新しき勤皇家が出た。これも不可能ではない。しかしながら寺田屋事件以前、更に櫻田義擧以前、更に更にペルリ來航以前に勤皇家たるは、難中の難、少數派中の少數派であつた。かゝるかなしき長鳴鳥としての草莽・少數派先人の悲願を思ひたい。特に今の世の勤皇大流行の戰勝時に於て、この點を思ひたいのである。

 頃來、維新陣營内部に、『草莽の心』寥々たり。一般世人の間に於ても、また然り。痛心止みがたきものあり。いさゝか心懷を吐露して、同憂同志の赤心に訴へんとする次第である」と。


●影山正治翁『草莽の志』(昭和十九年五月『ひむがし』所載)

人こぞりて之を奇狂と云ひ
世をあげてこれを神憑(かみがゞり)と嗤ふ
然り
我らまさに敢てその
奇狂神憑の徒たるべし

こころみにおもへ
かの彦九郎は堵腹
ただただ狂へりとなし
かの頼三樹三郎は斷頭
自ら敢て古狂に任じ
かの高杉は憤死
常に一狂生を自稱したりしにあらずや

まこと古人多く奇狂頑愚の評下
大君の邊に
ただに
祈り死したるなり

さればげに
わが國史の正流は
おほむねかの奇狂神憑の徒の
血祷悲願よくこれを支へ
遂にかのさかしき常人才子の
手腕力量
よく支ふるところにあらざりしを

狂賊の名これを甘受すべく
頑愚の譏(そしり)これを信受すべし
若し道に狂し義に狂ひ
神これに憑ることなくんば
如何ぞ
神州非常の際
非常絶對の勤皇行に
全我を沒してよく
烈々不拔たり得むや

さもあらばあれ
世評人言の如何
滅却す
功名手柄の道
我等ただ心魂を潔淨ならしめ
神明照覽のみ前に畏み立たむかも


●塾頭の曰く、「

 草莽崛起とは、衰へた皇威の挽囘を期して、はびこる賊徒を切り結び、山を動かす尊皇のことである。刺殺である。暗殺である。野に寢て、山に伏して、敵の首領の首を掻くことだ」と。
 

けいひち

 投稿者:竹屋光晶  投稿日:2009年 7月30日(木)01時36分24秒
返信・引用
  塾頭様

警蹕など おし といふ声聞こゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきな ど、いみじうをかしきに、、、という一節を思い出しておりましたが、馬鹿者!とお叱りを受けそうで、思わず背筋を伸しました。いやはや、一人恥じ入るばかりでございました。何百回、神社に参拝に行ったとしても、基礎をきちんと学ばねば、それは浅い祈りにすぎない、ということを実感しました。まずやるべきことが分かりましたので、感謝申し上げる次第です。
 

Re: 正統に足蹴する異端を討つ

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 7月27日(月)23時31分55秒
返信・引用
  > No.423[元記事へ]

静御前様

ご賛同のお言葉を賜りながら、御礼が遅れまして誠に失礼致しました。

以前に、岡田資(たすく)中将のお話を九段塾で書かせて頂きましたが(投稿はこのページの下のほうにありますからよろしければご覧下さい)、中将のようなああした実直さを持った日本人が本当に少なくなってきました。

おそらく塾頭ぐらいの年代が最後でしょう。映画にしても昔の人は例えばですが小津安二郎が撮るような、エンターテイメント性よりは、人情とか風情といったものを巧みに表現するものを好んだのでしょうが、何でもショービジネスにしてしまうのが流行の戦後は、我らが父祖の名誉を回復せんとする目的の映画まで娯楽化させてしまうのでしょうね。これもアメリカニズムの影響でしょう。

私の好きな武藤章中将などもイメージとはおよそかけ離れた描写で撮られ、随分とがっかりさせられましたよ。たぶんですが、武藤中将はあんな情感たっぷりな話し方はしなかったのではないか、という気が致します。

今後ともよろしくお願いいたします。

> 塾頭様、初めて投稿をさせていただきます。
>
> 実存主義者様の投稿を拝読させていただきました。
> 私も、チャンネル桜に対して同意見でございます。
>
> 実は私、チャンネル桜が立ち上がった当初、「やっと保守の番組が出来た」と大変うれしくまた期待もしていました。
> 最初は番組を始めたばかりの緊張感と先生方の対談がちょっと不慣れな感じが「頑張って」とつい口に出してしまいそうな初々しさがあって、またお話もとっても面白かったように思います。
> がしかし、「南京の真実」の映画のころから私の心は離れてしまいました。
> 昭和殉難者のご祭神をあのように描くのは左翼の映画なら兎も角、とても考えられません。
> 「それが狙いだ。」とおっしゃるのかもしれませんが、不謹慎極まりない。
>
> 今現在行っているNHK攻撃もまさに左翼的発想のもといやがらせとしか思えません。
>
> チャンネル桜の皆様へ
>
> チャンネル桜の方々も、九段塾をご覧になって、ちょっと思考を変えてはいかがでしょうか。
>
> これからも、もっともっと勉強をしたいものですから、塾頭様ほか皆様、靖国神社の正統
> について、書いて下さい。お願いいたします。
 

己自身との戦いをしなさい

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 7月27日(月)20時34分1秒
返信・引用 編集済
  実存主義さん、もうそんなに私を困らせるな。

たいした話ではない。
あなたの若気の気性が、
「言葉の実体こそは消滅したにせよ、一度具象化された観念は未だ残っている訳です。私の推察(掌雲氏の投稿内容)が事実だとしたならその内容を確認せずして、このまま黙って見過ごすという訳には参りません。」

こういわせるのだろうが、それは、即ち、「こだわり」という「若気のいたり」だよ。
十年経ったら、見せてあげるよーと、言っても、私の手元にあるわけじゃないがね。

私が書いたでしょう。
「勝敗は時のウンではなく総帥を包む天気、運気が決定するものーといつも私は考えている。ですから、掌雲さんの批判を投稿者が目にしたかどうかーそれも、投稿者の運気、天気が決めてくれます。と。

これは「深い〜〜〜〜〜〜」話なんです。

即ち、あなたの運気、天気を司る神が、「まだ読むに至らぬことがよい」と判断されたので、読まさなかったのだろう。そのあなたの運気。天気を重要視しなさい。

「このまま黙って見過ごす」という精神に耐えろ!という天の神よりの指令だと思って、堪えなさい。こらえなさい。

「その内容を確認せずして、このまま黙って見過ごすという訳には参りません。」
という血圧の高まりはー実存主義さんの「心に棲まう邪気が」あなたを試すために活動しているに過ぎん。

邪悪な神気に負けてはだめだよ。

「いまがこらえ時だ」
これで、納めなさい。これが塾頭としての答えです。

あなたは、こういうことで絡まっていると折角の大樹が伸びないよ。
あなたの内面の試練だよ。

武蔵も百万巻の書を読んで、若気を脱したと吉川英治は描いている。
あなたにはこれから幾度も幾度も試練が襲う。己自身が己自身の邪気と戦わねばならない。

常人では乗り越えられない。皆が捕まってしまう。俗人と化す。
「乗り越える」ことをあなたに期待したい。

このまま黙って引き下がるわけにはいかないーという啖呵を自分自身に向けて、精進しなさい。

十年経ったら、備中さんは生きているだろうから見せてもらいなさい。
だが、私の黒い目の間は見せん。
それで、納得しなさい。

ここが「男、実存主義者の男気の見せ所だ」
あんたの分岐点だよ。ちっちゃな分岐点だけどね。
 

塾頭への懇願

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 7月27日(月)19時30分40秒
返信・引用
  塾頭の訓示を元に、備中處士様が新たに定めた九段塾規則に基づき直に塾頭にお願い申し上げます。

先の塾頭のお書き込みから拝察しますに、掌雲氏によるご投稿内容は、私、実存主義者への批判文ではないのでしょうか。もし私の推察が誤りでないなら、私には掌雲氏のご投稿内容を知る権利があります。何故なら、私はこの目でそれを確認していないからです。

再度確認させて頂きたいのですが、この度起きたこととは、ある投稿者から他者に対して為された何らかの意見表明が、当人(つまり私)の目に触れることのないまま、投稿者の手により一方的に削除されたということでしょうか。確かに具象としての文字はそれで消えますでしょうが、一旦モニターに焼き付けられた不可視的、抽象的観念までが消え去ることはありません。

つまり、靖国神社の名を冠した神聖なる掲示板上におきまして、言葉の実体こそは消滅したにせよ、一度具象化された観念は未だ残っている訳です。私の推察(掌雲氏の投稿内容)が事実だとしたならその内容を確認せずして、このまま黙って見過ごすという訳には参りません。

むろん、批判されたこと自体をどうこう言いたいという訳ではなく、私が知りたいのはその内容です。それが納得できる原理から生まれ出た正統なる批判でしたなら私も甘んじて受け容れる所存ではおりますし、逆にそのことによって掌雲氏のお人柄なり、思想なりに対する私の理解が、新たな認識へと発展する可能性もあるでしょう。

私は何も、波風立てたくてあのような(ch桜に対する批判)投稿をしたという訳ではありませんし、恨みも何もない掌雲氏と一悶着起こしたくてこのようなお願いを塾頭にするということでもありません。どうか、先の掌雲氏のご投稿の骨子だけでも構いませんので再掲して頂きたく、ご無礼を承知の上でお願い致します。

尚、私の要望が貴塾の和、秩序を乱すというご判断であるならどうかご遠慮なくその旨を御達しめ下さい。元より破門は覚悟の上です、何も言わずに黙って塾から消え去りましょう。但しその場合、一言「塾の気風に沿わない者につき破門とす」とだけお申し付け頂きたく存じます。一廉のとまでは申しませんが、私にも確たる思想信念がございますので。

尚、以前にも申し上げたかと記憶しておりますが、塾頭並びに備中處士様の物事に対する考え方や感じ方に、私は基礎的次元におきまして賛意を抱く者であるということを一言申し上げておきたいと思います。生意気な物言いで誠に申し訳ありませんが、先の私の願いをどうかお聞き入れ頂きたく、重ねてお願い申し上げます。

実存主義者拝
 

削除いたしました

 投稿者:掌雲  投稿日:2009年 7月27日(月)09時28分41秒
返信・引用
  塾頭様

大変失礼しました。投稿の方は削除いたしました。

掌雲拝
 

批判は塾頭に集中させること。これが九段塾法規1

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 7月27日(月)09時01分50秒
返信・引用 編集済
  ※只今、掌雲さんがご自身の投稿を削除されたので感謝する次第です。
しかし、今現在、訪問してこられた閲覧者は、何のことだかさっぱり仔細がわからぬだろうと思います。本来ならば、私の投稿も削除してもいいのだろうが、掌雲さんは大事なことを投稿していたので、このまま、私の投稿は続行します。

要は、掌雲さんは九段塾の将来、今後のことを心配して、投稿者に直接、ご自身の考えを批判としてぶつけられたが、内容は「是」とするものの、そうした直接的な批判は、九段塾の雲気を乱気に変えるものとして、塾頭からの遮りがはいりました。
掌雲さんが何をしゃべったかを何も知らない閲覧者は知りたいでしょうが、それはなしとして、私が何を語っているか、そちらを重要視して、これも塾頭の教えだと思って、読んでください。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※なお追加です。
掌雲さんはいわば、九段塾のお目付け役みたいな方です。大久保彦左のような所があって言われる所は正論ですが、岩根のまま、ぶつけてこられるので、普通人には慣れていないので堪えます。
それを遮る私が正しいか、最初に言うかーどちらが正しいかはわからない。
これは、「戦を仕掛けるより、今は一旦退くべき」とするか「いや、今、出陣してこそ効果はある」とするかーそれを取捨選択する総帥の運気が決める。
勝敗は時のウンではなく総帥を包む天気、運気が決定するものーといつも私は考えている。
ですから、掌雲さんの批判を投稿者が目にしたかどうかーそれも、投稿者の運気、天気が決めてくれます。と、私は考えている。

しかし、掌雲さんのように「石を投げつけてくれる人がいて、初めて塾頭も冷静に判断できる」つまり、掌雲さんのような批判は重要であり、今後もまた、自由に、どしどし遠慮なく,悩む必要もなく、どなたでも塾頭を通して批判をして下さいな。それが九段塾のためでもあるのですから。
以上、掌雲さんを賞賛することを忘れていたので。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
うーん。困りましたね、掌雲さん。
でも、いい機会だから、九段塾塾頭としての意見ではなく、今後の方針をお伝えしときたいと思います。

この九段塾では、この掲示板に投稿してくる方への直接的なる批判、あるいは塾生同士の掲示板上での喧騒はやめていただきたい。これを法規化します。

投稿してくる人に対して私が無言であるということは、私が許しているということなんです。これをまず、掌雲さんにも皆さんにも承知して下さい。

目に余ることがあれば、私が言いますので、塾生―という言葉はあっても、一体誰が塾生であるかわからないので、だから、暗黙の諒解の下で、塾頭と塾生という関係を私は無想の中で成立させています。

そういう意味で、塾生同士の言い争いの種となる雲気が湧いてきそうになれば、私はすぐに「小さいうちから摘み取ります」

これが、一つの集団を纏めていくための最適の手段であることを、私の長い間の経験から培った自論です。

ただ、そうはいっても、人には、どうしても「気に入らない人への意見」というものを口に出さないと気がすみません。
ですから、雲気が乱れる。

掌雲さんは九段塾のことを考え、また、将来、今後のことも考え、「矛盾は小さい内から摘めと」言われる。
それは、恐らくあなたの人生における何らかの修行が、そのような先鋭的な硬骨を求めていることから来る考えだろうと思う。無論、それは厳しさそのものが修行なのだうと思います。ですから少しの矛盾も掌雲さんも許しがたく思われるのでしょうが、それは決して悪いものではありません。
ただ、モノノ言いようもあるので、普通人は「頭ごなしにいわれれば」「なんだこいつ」ということになり、喧乱に至るだけです。

私の場合は、少し違っていて、矛盾は大きくなったら切ればよいーという考え方です。ですから、目に余れば叱責するし、少しの矛盾ならば、じっくりと、自分で気づかせ、排除していくようにもって行くーそういう教育をしてきている。

つまり、早い話が、この九段塾では「批判は、まず、塾頭である私個人に言って欲しい」
すぐに、直接、該当者に、塾生が問詰しないで欲しいということです。

乱気が生じることは極力、早いうちから摘み取るが、「矛盾」は小さい内なら自分で取り除かせるように教育していくーというのが私の方針ですので、今後、どのくらい塾生が増えるかはわからないが、集団の秩序が崩壊するのは、会員同士の批判が主原因であるので、これを私は何としても排除します。力ずくでも黙らせる。

実存主義さんが実際はどのような人だか私は知らないし、備中さんも知らないでしょう。
この方が破目を外せば私は怒鳴るし、注意もするが、それは塾頭だから投稿者も「よしとしてくれる」

従って、塾頭以外の人が投稿者を批難する事は許可しないという法規をこの九段塾では今より、実施いたします。

掌雲さんの気持ちはよくわかる。ただ、それを投稿者に直接向けるのでなく、批判ならまず、私に伝えて欲しい。
直接、投稿者に言われると、言われた方も「お前なんかに言われたくない」という気持ちが派生して、喧騒を招くだけです。

この九段塾における批判は「塾頭批判」「塾頭の思考」批判だけが許される塾だということを、今後、決めておきたい。

どうしても投稿者の意見が気なるのであれば「投稿者はこのように話しているが、塾頭はどうお考えですか。云々…」と、まずは私のところへ持ってきてください。

掌雲さんもこれを飲み込んで下さい。

従って、掌雲さんの投稿を読んで不快になられた方も、一旦、その乱気は納めてください。掌雲さんを今、私がたしなめたことを持って、緊迫した心を解放して下さい。

掌雲さんの意見は大変厳しい。

それと、「静御前」確かに、御前というのはどうかと思いますが、掌雲さんのようにいきなりでは対手がかわいそうだ。どうも、初めての女性の投稿者のようです。私はこの女性の投稿者を逃したくない。真剣にそう思っています。甘い言葉を使ってでも引き止めたい。

少々の矛盾は、自分で気づくようになるまで、こちらが清輝を吹き込み、清浄を教え、やがては常識、正統を教え、もういいだろうという段階に達して「初めて意見をする」そこで、相手も納得して気づく。そういう形にしたい。

まあ、同じ事をくどくど説明するのが私の癖だが、もうこれでわかったでしょう。

ともかく、掌雲さん、あなたの意見はわかりましたので、後で消去して下さい。お願いします。

こうした忌み的なるものは、掲示板に残しておきたくないのです。乱気の芽は摘むのが私の方針です。

塾生同士、あるいは「塾頭」を越えての直接の批判喧論は今後一切厳禁です。

乱気を生むだけです。承服して下さいね掌雲さん。

あなたの波乱に眠気も飛んで慌てて書いています。

掌雲さんの投稿を読んだ方が、これに「反論」することは許可しませんので、それも承服して下さい。

それと、「静御前」様。あなたももう、今朝は読んだのかも知れませんが、掌雲さんの言っていることは間違いはないので、まあ、私に怒られたと思って我慢して下さい。

どうか、「静」だけのほうがこれは「よい」「ふさわしい」と思いますので、今後の投稿あれば「静」だけでお願いします。どうしてその方がいいのかは、そのうちあなたが熟成してくればわかると思いますので、とりあえず、あなたも承服して下さい。お願いします。

それともう一つ、神武戦史研究会という貼り付けも私は許可している。これは九段塾の宣伝のためである。ここの会員がもしかすると、九段塾を知るきいかけとなるかもしれない。そう思っています。

私はこの九段塾の宣伝を全国に広げたい。チャンネル桜に代わる存在として広げたい。チャンネル桜を死滅させるためには、それに代わる「正統」を打ち出していくほかない。
楠公の精神でしょう。
尊皇の意識、戦前回帰の志操を広げる。そのための映像製作もよろしいかなと思っている。
そのためのものなので、これも「塾頭の考え」
ですから、批判はすべて「この塾頭」に向けてください。

私は、長い間、ある種の集団を締めてきた。
様々な人間を一つの目的に集約させるには「会員同士の批判は小さい内から詰め」というのが正論として私の自論になっている。

ですから、批判は投稿者ではなく「まずそれを許可した塾頭」にして下さい。
以上です。

※この結果、掌雲さんは九段塾のことを考え、ご自身の投稿を気持ちよく削除されました。改めて感謝する次第です。
 

Re: 正統に足蹴する異端を討つ

 投稿者:静御前  投稿日:2009年 7月27日(月)00時42分32秒
返信・引用 編集済
  > No.422[元記事へ]

塾頭様、初めて投稿をさせていただきます。

実存主義者様の投稿を拝読させていただきました。
私も、チャンネル桜に対して同意見でございます。

実は私、チャンネル桜が立ち上がった当初、「やっと保守の番組が出来た」と大変うれしくまた期待もしていました。
最初は番組を始めたばかりの緊張感と先生方の対談がちょっと不慣れな感じが「頑張って」とつい口に出してしまいそうな初々しさがあって、またお話もとっても面白かったように思います。
がしかし、「南京の真実」の映画のころから私の心は離れてしまいました。
昭和殉難者のご祭神をあのように描くのは左翼の映画なら兎も角、とても考えられません。
「それが狙いだ。」とおっしゃるのかもしれませんが、不謹慎極まりない。

今現在行っているNHK攻撃もまさに左翼的発想のもといやがらせとしか思えません。

チャンネル桜の皆様へ

チャンネル桜の方々も、九段塾をご覧になって、ちょっと思考を変えてはいかがでしょうか。

これからも、もっともっと勉強をしたいものですから、塾頭様ほか皆様、靖国神社の正統
について、書いて下さい。お願いいたします。
 

正統に足蹴する異端を討つ

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 7月26日(日)22時39分34秒
返信・引用
  正統に唾する異端を討て

塾頭から身に余るお言葉を頂戴いたしました。あの団体に対する批判投稿は「本スレッド」におきましてはこれを以て最後とし、後は折りをみて備中處士様にご相談させて頂くことにします。しかし、あのカルト集団が靖国神社の正統に足蹴し、英霊の御霊を侮辱する「タイトル」を映画につけるような真似事を繰り返すようであるなら、良かれ悪しかれ社会的影響力を持つであろうチャンネル桜批判はこれからも続けていかねばならないでしょう。

さて、塾頭並びに備中處士様の御心眼には私の正体は既にお見通しでしょうが、かつて桜掲示板の「靖国神社の正統を護持する」スレッドにおきまして、マルセル・デュシャンの「小便器」を喩えに出し、映画南京の真実の副題に宛てた「七人の死刑囚」を私は厳しく批判しました。マルセル・デュシャンという人物は簡単に言いますとアナーキストのような自由主義者でして、「それが美しいと感じたからだ」という理由で、「小便器」を美術展に芸術として出品した人物です。つまり、「個人が美しいと思えばそれだけで十分じゃないか」といった伝統という絶対を放擲した価値相対主義者な訳です。昭和殉難者に「死刑囚」という言葉を宛がい、平然としている水島氏の姿勢そのままではありませんか。

近頃チャンネル桜に対し、「保守性の欠片もない」という批判を浴びせる方を良く目にするようになりましたが、そうした見方は正しくないでしょう。あの団体は紛れもなく左翼団体ですから発言や行動が左翼的であって当然であり、整合性の見地で言えば何ら矛盾はありません。

彼らが手にする日の丸はただ単に自分らの国籍(日本国籍を有す東洋人)を周りに知らしめるためのものに過ぎず、保守する対象はアメリカの腰巾着である現左翼政権であり、行動は伝統の枠組みを度外視し、生者の理性にのみ依拠する近代主義者どもです。グル(教祖)である水島氏は絶対であり、信奉者である信者はあたかも脳髄がマラリアに侵された熱病患者のごとく無条件にそのカルト教教祖を礼賛する。

それは伝統という確かな判断基準を持たない価値相対主義者が陥る典型的な例であり、「精神の形」という伝統の枠組みをとっ払った個人の自由と技術的合理でしか何事も判断することができない不気味な機械人間の集団がチャンネル桜、およびその取り巻き連中なのです。西洋におきましては、科学理性に人間社会が支配されるとカルト宗教が勃興し始めると言いますが、正にあの団体などはある種のドグマを狂信し、真善美の価値基準を計る物差しを失い、邪教によって熱狂した精神は一切の批判を受け入れず、かつてリンチと粛清に明け暮れた連合赤軍と寸分違わぬ狂気で街中を練り歩き、地域社会にそのペストの毒を撒き散らかしているのです。

水島氏の近々の発言をみてみますと、「日本国民全体に認められることではない」とか「これまでの常識を覆したい」といったものがありましたが、これなどは正に噴飯ものと言わざるを得ません。何故なら、常識(コモン・センス)とは長い時間によって醸成され、およそ妥当な見識であると認定された歴史の英知であり、コモン(共通する)センス(感覚)とも言うべき国民に根付いた良識だからです。それをいとも簡単に覆すなどと言われても困ってしまいますね。覆すのなら常識でなく悪識でしょう。

言葉とは過去から受け継いだ相続財産です。日本人であるなら日本語は正しく使って頂きたい。それと、国民に認められるためではない云々という発言は、この水島という男の発言者としての死を言語化したものといって過言ではないでしょう。国民とは歴史物語にせよ、価値観にせよ、共有する感覚なり感情で束ねられていなくてはならないということをこの男はまるで解っていないのです。

水島氏はおそらく大東亜戦争は、政府の独断でなされた戦争であるという認識でいるのでしょう。国民の賛同など期待しないと言っているのですから。冗談ではありませんよ水島さん。あの大戦争はおおよその国民が有す歴史的常識によって決定されそして実行されたものなのですよ。あなたのような方の言説が戦後日本人の国民意識から、悪しき政府と善良な国民といったように、国民と政府の二分論をいつまで経っても払拭できない最大の原因となっているのですよ。少しは恥を知りなさい、恥を。

それから、直近の桜掲示板で、ごく真っ当なご意見を書かれていた投稿者に対し、「靖国神社に参拝し、身と心を清められよ」などと偉そうに言ってましたが、昭和殉難者の方々を「死刑囚」と表現し、灰皿の設置していない箇所においてタバコをプカプカとふかすスタッフを、叱責するどころか「いったい何が悪い」と開き直るようなあなたこそ、その醜い心身をどこかの神社で徹底的に清めて貰ったほうがいいだろう。但しその際は、靖国神社を選ぶのだけは止めて頂きたい。あの団体だけには靖国神社の神門を一歩たりともくぐらせてはならないでしょう。仮に団体員を見かけたら即刻叩きだしてやるぐらいの所存でおります。「ここはお前達サヨクの来る場所ではない、国難に殉じた英霊に心から敬意を表す者だけが来訪を許されているのだ」と。

塾頭からまた、「まだまだ修行が足らん」と怒られそうな投稿をしてしまいましたが、チャンネル桜なるカルト集団は、これからの靖国神社の正統や、日本の伝統を継承していかなくてはならない若者達にとって「有害」な存在であるとしか言いようがありません。あのような狭量な人物が指揮をとる団体などが、「正統な保守である」という誤った認識が、「時効の成立した伝統」となってこの国に根付いてしまうということだけは何としてでも防がなくてはならないでしょう。そうした強い思いから、書かせて頂きましたことを何卒ご理解賜りたいと存じます。
 

痴呆強欲

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 7月24日(金)19時43分11秒
返信・引用
  おそらくですが、チャンネル桜の掲示板管理人は、社長である水島氏本人でしょう。「料理は味だけでなく、見た目が大切」などとご立派なことを言うのであるなら、あなた自身も少しはお痩せなさい。

何でも、NHK職員による中国での買春事件の隠蔽疑惑を報道したch桜が、逆にNHK側から名誉毀損で訴えられそうだとかいったことを小耳に挟みました。その動画をチラリと観ましたが、正にホイジンガーが指摘した現代病のピュエリリズム(文化的小児病)そのものであり、観るに堪えない低俗かつ下劣な内容でとてもじゃないが直視できる代物ではありません。

太陽と死は直視するな、と俗に言いますが、言葉を変えてここは、太陽とch桜は直視するなとでも言って置きましょうか。何が醜いかと言って、時折見せる水島氏の人を嘲るような、顔面筋が引き吊った薄笑いほど醜いものはありません。当の本人はああした態度をとることにより自信を表しているつもりなのでしょうが、おそらくは元来小心者なのでしょう、心の動揺が画面を通じひしひしと伝わってきます。

品性豊かなユーモアなら許せますが、ああした人をおちょくったようなシニカルな態度では、視聴者に対し真剣さを伝えることなどできないのだ、ということがまるで解っていないのです。横にいるアシスタントの女も水島に合わせて嘲笑をカメラに向けながら、然もありなんといった調子で小さく頷いている。バカではないのかこいつらは。

怒りが高じてつい感情を露にしてしまいましたが、それほどあのメディアの報道姿勢は酷いということです。そもそも、アメリカの荷物運びに甘んじている自衛隊のスポークスマンごとき放送局に日本の伝統文化を復興し云々などと言って欲しくありませんし、そもそも伝統とは一体何ぞやということが水島氏に解っているかどうかは甚だ疑わしい。

所詮は吉田ドクトリンに始まった戦後体制の保守に汲々とするだけしか能がない団体などが、吉田松陰先生の名を軽々しく口にするなと言いたいですね。幕末の志士たちとは正反対に、水島氏の口から戦後体制への批判の声など一度たりとも聞こえてきた試しがありません。典型的な戦後保守(つまり親米左翼)ですから現体制が親米政府である以上、アメリカ批判など逆立ちしてもできないのです。

思考が戦後民主主義のど真ん中にありますから、わが国の自立と自尊よりも安全と生存、つまり生命や今の暮らしを第一と考えますから、そのためには真の日本の独立よりアメリカの軍事的庇護を受ける半属国でいっこうに構わないのです。水島支持者も同じような戦後民主主義者ばかりでしょう。だから、ch桜の報道内容や運動があれほどまでに日本の国柄や伝統とかけ離れたものであっても離れずについていくのです。もっとも、単なる暇潰しという者も少なからずいるでしょうが、そうした者などは口に出すだけで穢れてしまいます。

NHKという巨大な組織に勇猛果敢に立ち向かうch桜などとノー天気なことを言っている者もいますが、NHKは巨大組織というだけで安全なのですよ。国家権力を振りかざしたり、暴力を振るう組織ではないと解っているから彼らはああしたことができるのです。民衆の判官贔屓を期待するなら、逮捕も暴力もされないNHKに矛先を向けるのではなく、放送権を与えている管轄省庁に向けるべきでしょう。そうしたやり方であるなら、判官贔屓による民衆の賛同も得られるというものです。

しかし、おのれら自身がお上から放送免許を授かっている身分である以上、絶対にそれはできません。彼らの目的とは一体何であろうかと考えた場合、保守を売り物とした営利団体としか考えられませんね。思想も何もない大衆から金を騙し取り、公言した映画づくりはそっちのけ(第二部は近々クランクインするそうですが)で、NHKといった巨大な弱者ばかりを相手とする、ビジネス保守の見本のような団体です。水島氏の一体どこが知行合一なのでしょうか。こんな者には痴呆強欲といったレッテルでも張りつけてやれば十分でしょう。
 

歴史を正そう(神武天皇の東征記)

 投稿者:神武戦史研究会  投稿日:2009年 7月24日(金)10時47分4秒
返信・引用 編集済
  夏季講演会:神武天皇の東征記

日時:平成21年7月25日(土)
   16:30−18:30

場所:福岡市 アーバン・オフィス天神

講師:宮内瑞生(田母神論文と自衛官の名誉を考える会・代表)

講師プロフィール:1936年東京生まれ。1959年防衛大卒、元航空自衛官。ミヤウチトレーディング&ネットコム社長。

講演内容:神武東征の跡・百箇所を訪ね歴史の疑問(神武天皇と卑弥呼の関係)をひも解く。

会費:無料
   講演会終了後に中洲の夜景を見ながら納涼会(こちらは3000円)

主催:九栄会 TEL092−714−4341 FX092−725−3190
 

無題

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 7月24日(金)00時45分40秒
返信・引用 編集済
   実存主義者樣、ご靖安、何よりであります。先には塾頭警世の玉稿、又た今の度びは実存主義者樣覺醒の文章、洵に祝着至極、深く拜受し、小生も大いに啓發させられました。

 水島総氏こそは、言辭「參道闊歩」を容認し、「ビラ配り」に謝意を表して、畏怖謹愼を知らず、一二囘なら鼻に付かぬものゝ、老若男女に寄附を促す執拗なる泣き戰術を弄して、耻づるところ絶えて無く、諫言指彈すれば、始めは穩健阿諛を裝ひ、やがて開き直つて罵詈中傷に努め、剰へ保守ゴロ・狂信者を唆嗾して、論敵の揶揄追放を劃策する、且つ如何なる理由づけを行ふにせよ、殉難者を「死刑囚」と呼ばはつて憚らず、況んや死刑囚を着せた俳優に、寫眞合成なら未だしも、實地に大鳥居を濳らせる不敬不遜。流石は西暦署名の俄か保守、穩健中正を僞裝せる偏狭なる獨善増上慢、否、保守を騙る○師だけのことはあると、感心しきりであります。洵に御話にもなりませぬ。光陰、矢の如し、君子の近付くを、容易に許しません。件は、小生の水島氏に對する、彼等の云ふ所の「腦内妄想」に違ひありません(爆笑)、きつとね。

 水島氏は、己が放送局の舊掲示板の挨拶文に於いて、西暦署名(現在はどうしたことか、削除)の御仁ゆゑ、如何に三島氏を語らうとも、昭和六十三年には、『日中國交正常化十五周年・日中平和友好條約十周年記念の東寶映畫「パンダ物語」』の脚本を、共産支那人と共に執筆、今は「日本の傳統文化の復興と保持を目指し、日本人本來の『心』を取り戻すべく設立された、日本最初の歴史文化衛星放送局」の社長ださうです。寔に機を見るに敏、正眞正銘の俄か保守、故に元號に固執する時代錯誤の小生心底からの叫びは、得て知らぬのでありませうし、何の價値も見出せないのでありませう。況んやかつて有爲の御民が元號法制化に、どれだけ心魂を傾け盡したかを、想像だに出來ぬのでせう。此の人だけには、「日本が足りない」なぞ云はれたくないものです。抑も敵を相手に訴訟に及ぶは、是れ左翼の戰術にして、戰後民主主義者の本領を發揮せるもの、糊塗するに、已むに已まれぬとは、よくぞ放言したり。三島氏と共に蹶起せる烈士は、訴訟に與せず、默々として罪科に服し、上訴もしなかつた心情も知らないのではないか。そのうち、先生と崇める西尾某と共に、畏き邊りに、示威活動を仕掛けかねない‥‥。

 又た現在の彼の掲示板管理人と水島氏とは、一心同體と見なければならぬ。然し彼の醜態は、一體全體、何なんでせうね。亦た我々のスレを見ては、管理室の皆で嗤つてをつた由‥‥。皆とは、誰なのでせうね。案外、二人だつたりしてね。兎にも角にも、塾頭仰せの「警蹕」・「月」發言に、圖らずも顯在してゐるやうに、水島氏の御見識には、驚くと申さうか、恐れ入ると申さうか、愛想が盡き果てるとは、本道に此の事であります。警蹕事件は、笑話で濟みませうが、最新の月發言については、左うは參りませぬ。聞いてびつくり、見て無慘、日本人に非ざる心底を確認させて戴きました。

 又た何度と無く繰返され來つた道、即ち掲示板管理人のsakamoto樣に對する仕打ちを見、我が事のやうに身につまされた次第です。氏も、これでは浮かばれますまい。管理人の名儀を以てする、執拗なる罵詈雜言(唯一稱すべきは、事、誹謗中傷の一事にかけては、正に我國有數の遣ひ手と謂ひつべきかな)に面喰ひ、其の品格の無さを悲しみ、識見の低きに怒り、最後には塾頭の仰せのやうに、嗤ひ飛ばすしか、術は無いでありませう。彼の穢い言葉は、彼の團體の實體を表して、餘す所がありません。學生時代、先輩からよく聞いた言葉、「米軍基地の砲臺は、何時、此方に向ふかも知れない、膽に銘ぜよ」と。



●會澤正志齋翁『新論』に曰く、「

 謹みて按ずるに、神州は、太陽の出づる所、元氣の始まる所にして、天日之嗣、世々宸極を御したまひて、終古易らず、固より大地の元首にして、萬國の綱紀也。誠に宜しく宇内に照臨し、皇化の□[既+旦。およ]ぶ所、遠邇有ること無かるべし矣。而るに今、西荒の蠻夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸國を蹂躙し、渺視跛履、敢へて上國(愚案、皇國)を凌駕せんと欲す。何ぞ其れ驕れるや也[地の天の中に在るや、渾然として端無く、宜しく方隅無きが如くなるべき也。然れども凡そ物には、自然の形體有りて、存せざるは莫し焉。而して神州は、其の首に居る。故に幅員は、甚だ廣大ならずして、其の萬方に君臨する所以の者は、未だ嘗て一たびも姓を易へ、位を革めざれば也。西洋の諸蕃は、其の股脛に當る。故に舶を奔らせ、□[舟+可]を走らせ、遠しとして至らざる莫き也。而して海東の地、西夷の名づけて亞墨利加と曰ふ者に至りては、則ち其の背後也。故に其の民は愚□[■+■。たう]にして、爲す所ろ有る能はず。是れ皆な自然の形體也]。是れ其の理、宜しく自ら隕越して、以て傾覆を取るべし焉。然れども天地の氣には、盛衰無きこと能はず。而して『人、衆ければ、則ち天に勝つ』(『史記』伍子胥列傳)は、亦た其の勢の已むを得ざる所ろ也。苟くも豪傑の奮起する有り、以て天功を亮くるに非ざるよりは、則ち天地も亦た將に胡羯腥□[月+壇の右。せん]の誣罔する所と爲りて、然る後に已まむとす矣。

 今ま天下の爲めに其の大計を論ずれば、天下の人は愕然として相顧みて、驚き怪しまざる莫きは、舊聞に溺れ故見に狃るれば也。兵法(『孫子』九變篇)に曰く、『其の來らざるを恃むこと無く、吾が以て之を待つ有るを恃む。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むべからざる所ろ有るを恃む也』と。然らば則ち吾をして治化洽浹し、風俗淳美に、上下義を守り、民は富み兵は足り、強寇大敵と雖も、之に應じ遺算無からしめば、則ち可也。若し猶ほ未だしならば、則ち自遑自逸を爲す者は、果して何の恃む所ぞや也。而るに論者は皆な謂ふ、『彼は蠻夷也。商船也。漁船也。深患大禍を爲す者に非ず焉』と。是れ其の恃む所は、來らざる也。攻めざる也。恃む所は彼に在りて、而して我に在らず。如(も)し吾の之を待つ所以の者と、攻む可からざる者とを問へば、則ち茫乎として之を能く知る莫き也。嗟あ、夫れ天地の誣罔より免るゝを見んと欲するも、將た何れの時に之を期せんとするか乎。

 臣、是を以て慷慨悲憤、自ら已むこと能はず。敢て國家の宜しく恃むべき所の者を陳ぶ。一に曰く、國體、以て神聖、忠孝を以て國を建てたまへるを論じ、而して遂に其の武を尚び民命を重んずるの説に及ぶ。二に曰く、形勢、以て四海萬國の大勢を論ず。三に曰く、虜情、以て戎狄□[豈+見]□[兪+見]の情實を論ず。四に曰く、守禦、以て富國強兵の要務を論ず。五に曰く、長計、以て民を化し俗を成すの遠圖を論ず。是の五論は、皆な『天、定まりて、人に勝つ』(同上・伍子胥列傳「天、定まりて、亦た能く人を破す」と)を祈る所以ん也。臣の自ら誓ひて身を以て天地に殉ずる者、大略、此の如し矣」と。
 

猥らな妖怪の宴

 投稿者:実存主義者  投稿日:2009年 7月23日(木)19時43分22秒
返信・引用
  暫らく書き込みを自粛していましたが、そろそろ謹慎処分も解けた頃と思いますので少し書かせて下さい。また、備中處士様に対しましては不快な気分にさせてしまい大変申し訳ありませんでした、深くお詫び致します。

さて、先の塾頭のお書き込みを拝読し、正にわが意を得たりの心境でおりますが、その一方で例のチャンネル桜が今正に興している醜悪としか言いようのない行動に対し、少々ペシミスティックな言い方ではありますが、ついに保守はここまで腐り果てたかと嘆くばかりです。あれはもはや保守性の一欠けらもないどころか、左翼(この場合、連合赤軍に典型をみる反抗左翼)そのものでしょう。

塾頭のご意見と重複しますが、一人のアジテーターの扇動で熱狂した思想なき烏合の衆が徒党を組み、公共放送の周りを集団で取り囲み、奇声を発し、カルト教団顔負けの不気味な替え歌を大音量で流し、老若男女を問わず揃いの黒シャツを着て山手線内を徘徊し、何かに憑かれたようにゾロゾロと銀座を闊歩する異様な光景。

かつて鶴見俊輔や小田実らが指導したべ平連に、卑しさと醜さを加えシェイクしたような左翼市民運動です。いや、鶴見らにはまだ純粋性があった分、思想的誤謬に満ち溢れていたにせよ何にせよ、自分たちの立場をきちんとわきまえているという点においてはまだ許せるものがあるでしょう。

しかし、あのデモ隊の客観的な様相のみならず、精神性においても純度100パーセントの左翼市民運動であるにも関わらず、ハイエナに似た醜い顔相でこともあろうか祖国日本の日の丸を振りかざし、草莽クッキの幟を高らかに掲げるその行為は、能楽堂で西洋オペラを上演するような、あるいは支那兵が民間人の服を剥ぎ取り、非戦闘員に成り済ました便衣兵そのままの卑劣な行為と等置すべきものです。

そこには日本人としての矜恃も美も何もかもありません。正に「日本が足りない」どころか熟頭が仰せのように「日本がない」、もっと言うなら「日本が赤字である」というべき行為でしょう。しかし、逆説的ではありますがあの団体が滅ぶことは決してありません。一人の人間なり集団なりが滅ぶのは美を追求するからであって、自堕落で人は滅ぶことはできません。永遠に死ねない生ける屍として死肉を喰らい、その醜い精神から腐臭を放ち、ふしだらな足取りで身過ぎ世過ぎを永遠に彷徨い続けるしかないのです。

かねてより、あの団体には半島系の統一キリスト教教団との繋がりの噂が絶えませんが、煙のないところに火の粉は上がらないの喩えどおり、何がしかの疑わしき関係があるのではないかということは全否定できないでしょう。あの団体に対する批判は一切認めないというそのドグマティズムは正にユダヤシオニズムのそれです。あの団体が運営する掲示板において反米を唄う者はことごとく追放され、イルミナティ世界制覇論やユダヤ陰謀論を展開する者は冷遇される。

アメリカにおけるネオコンの多くは、トロツキストであり世界革命論のトロツキーはユダヤ人でした。陰謀論は私の好むところではありませんが、アメリカを支配したユダヤ・トロツキストが、世界革命の一貫としてチャンネル桜という保守を偽装した媒体を通じ、日本人の思想侵略を謀っているのではないかという仮説を、単なる空論で済ませる訳にはいかないでしょう。

現に、ユダヤ資本によって数多くの日本産業が食い潰され(M&A等により)、ユダヤ・エスタブリッシュメントの政治と金の力によってわが国の制度が次々に改革されているのですから(年次改革要望書)。次なるターゲットを国民に差し向けたとしても何ら不思議ではありません。

例え相手が死ねないゾンビであっても、我々真の日本人の精神に宿る「魂の日本刀」であるなら、その魑魅魍魎を一刀断ちにすることは可能です。輿論による桜への深い懐疑の表出は、靖国神社の祭神の慟哭がついに今、怒りの声に変わったということでしょう。「七人の死刑囚」という呪われた言葉が祭神の怒りを招いたのです。憐れなるチャンネル桜の救済の途はもはや残されていない。
 

破邪顕正を旗印に

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 7月22日(水)15時30分58秒
返信・引用 編集済
  さて…今日は、少し、気分の悪くなる話であるが、あまりにも眼に余る行為が目障りになってきたので、例の団体の話を少し書くことにした。相当長いものになったようだ。
エンターティメントの団体だから、ふざけるのは仕方がないとしても、そこに日の丸が翻ったり、草莽崛起の文字が、連なるのは、あまりに傷ましく、苦々しいばかりだ。

日教組、労組、麻原彰晃のオウム真理教信者が舞い戻ってきたかと見間違うばかりの、「NHK捏造替え歌合唱」とか山手線の「グルグル祭り」だの、銀座ホコテンでの夢遊病者の如き黒シャツを着た男女が、行ったり来たりしている姿は、それが普通人、一般人だけに不気味である。
私は本当にオウム真理教の選挙活動を彼らの、得体の知れない行動を見るにつけ思い出した。
日本が何処か狂いだしたとしか思えない。
この団体は、旧来の秩序を破壊する団体である。
「日本が足りていない」どころではない。「日本がない」不逞の輩である。


…本当は、この団体のことをー今、九段塾に書くことには抵抗がある。
私がこの団体名である○○桜という名前を書かないように、今しているのは、この団体名を書いただけで、穢れを感じてならないからだ。
これは本当だ。
この団体のいい加減さ、毒々しさ、馬鹿馬鹿しさは際限が無く、それをあげつらっていると、いつのまにか私の周辺に悪の権化の如き気流が渦巻き、魑魅魍魎が跋扈するが如き、醜穢な臭気がめらめらと立ち昇り、そのために気分が悪くなり、胸が塞がれてくるのだ。
祓えども祓えども、襲ってくる。それが耐えられないので、書くことを忌み嫌う。

だが、今度は一度だけ書いておこうと思った。

知人がどうしても書いてくれーと連絡してくる。大切な知人だし、彼によって何度も助けられている。恩義に報いたいと思った。無論、それだけではない。
先日もお話したように…これはまた別の知人から私の所に持ち込まれた一枚の「南京の真実」CD版。
知人のお父さんが、生きている時に南京映画支援の為に金を振り込み、亡くなった後に故人宛に届けられた『南京の真実 第一部七人の「死刑囚」』
そのCD版を家族は見たくないといって、よりによって私の所に「いりませんか?」と届けてこられた。
これがなにか私に「書け」と命じていると思ったこともある。

話を戻そう。
あの不気味な団体の活動だ。

NHKの大罪騒動だ。NHKの体質が問題あるのは、今に始まったことではない。
だからと言って公共放送をなくしてしまっていいなどとは欠片も思っていない。

それは別にして、彼らの闘争姿勢だ。
私は、彼らに煽動されて引き出された大衆の姿を見て…NHKの大罪と書かれた黒シャツを着込んだ集団がうねうねと列を動かし、その一団が、替え歌を合唱し、渋谷の繁華街を歩き、山手線に乗り込む姿を見て…あの忘れられていたぺんぺん草が今、この日本の大地に、次第に勢いを得て、芽を出し、ジワジワと全国に広がっていくおぞましさのようなものを見ている感覚を覚えた。

醜悪な動物が、地上から這い出てきたような思いもする。
やがて、このぺんぺん草にも似た節操を忘失し、秩序を破壊する群衆が、なお勢いを増していけば荒廃しかもたらさないだろう…身震いする思いで彼らの流す映像を見つめていた。

彼らの眼には光があるようでない。操られている者の姿があるだけに思える。贋物の替え歌を一生懸命に唄う婦人の姿が、あのオウム真理教の信徒を思い出さした。

真夏に近い太陽がじりじりと注ぐ渋谷の焼け爛れた町に、おぞましい光景が出現したと私の目には映った。

彼らこそ、「伝統と文化」に対する破壊者だ。国家の敵である。

保守という隠れ蓑を利用して、大衆を利する新たな集団である。

保守が失ってはいけない毅然さ、清浄を逸脱したー「大義」を持たぬ集団である。

…突然だが、私は同じ保守でも、主権回復を目指す会の西村さんの行動を「いさぎよし」と見る。

相楽総三とは比較できないが、西村さんの行動には「悪党」呼ばわりされても構わぬ覚悟が見受けられる。

西村一家の行動を非難する声があるが、それも当然だろうと思う。だが、それよりも「祖国のため」と誓った悪党相楽総三は生きている時は断罪された。が、しかし、後にその尊皇の行動は理解されて叙勲をもって名誉回復している。

それは何故か。相楽総三には「大義」があったからだ。自らが悪になって、火付け盗賊ともなった。それに西村さんが近いというんではないが、似たような感触を私は好意的に持つ。
つまり、主権を目指す会は西村一家でもある。これがいい。名誉、営利栄達を目的としている風情が見えない。
乱暴は仕方ない。右翼とはそういうもんだ。常に大衆とはかけ離れた所で、戦う。人気取りはしない。仕込み杖一本でどこへでも乗り込んでいく。

だが、サヨクは大衆を煽動する。大衆を利する。これが、○○桜の主導者に感じる。

彼らの破壊行為は、既に「南京大虐殺」を否定するという「映画製作」という名目で、全国から金を集めだした所から始まる。

草莽崛起という維新大業の旗印を彼等は、看板にした。
草莽崛起とは衰えた皇威の挽回を期して、はびこる賊徒を切り結び、山を動かす尊皇のことである。刺殺である。暗殺である。野に寝て、山に伏して、敵の首領の首を掻くことだ。
裁判所に訴えたり、インターナショナルの歌の如き合唱をしたりするのが好きならそれはカッテだが、草莽崛起の志操とはまったく乖離したものだ。その名を利用する特攻服姿のあんちゃんとなんら変わりはない。

草莽崛起とはソリが合わぬ「エンターティメント」なる映画会社を作り、マスコミを招いて派手にぶち上げた「南京の真実」なる大仰な映画製作。
その宣伝ビラを、彼等は躊躇する事無く、靖國神社境内地でばら撒きだした。
道路使用許可を取っているーという日教組的発言を繰り返し、金集めのビラを参拝者の懐目当てに来る日も来る日も手渡した。

靖國神社の百三十年余の静謐、清浄を踏みにじることに何のためらいも無く、彼らの金の集金場化とさせた。
無残である。
無頼の徒に勝てる術はない。

大衆の中には、熱狂的に支援する者もいるだろう。そうさせる文言が宣伝ビラには巧妙に書かれているからだ。
大衆は不逞を無頼の徒を見分けられることが出来ない。ただ信じただけだ。

保守を支援する高齢者のこの純真さを彼等は利用したと私は今ではそう思っている。

更に、彼らの不逞なる神経は、なんとその映画題名にも現れた。

敵国裁判で無法にも戦勝国に「戦争犯罪人」と刻印されて断頭台に立った七人の主導的立場にあった人たちが、靖國神社では「昭和殉難者」として御祭りされている。
それを彼等は知っていた筈だ。

安政の大獄を始め、幕末の内戦などで一命を捧げた尊皇の人々を、靖國神社では「幕末殉難者」、或は「維新殉難者」と呼稱していることから、時の松平宮司が大東亜戦争終結後の、戦犯刑死者・引責自決者等を「昭和殉難者」と呼稱することを宮司通達した。
このことは昭和天皇にもご報告され、天皇も諒解されていることだ。

即ち、祭神を「○級○犯」の如き、敵国の呼稱を一切使わせない。自虐史観など踏みつける大局の宮司通達である。これに違反する者は国賊とみなす。
それが靖國神社の宮司通達である。

それを…この男…水島総という男は、なんと祭神を呼んだか!「七人の死刑囚」だ。
国賊以上のものであろう。
この男の腹の底に靖國神社への畏み心など一片たりともあるまい。

あれば、靖國神社大鳥居付近で宣伝ビラはカッテに配るまい。
畏れ多くてそういう発想は出来ない筈。
更に昭和殉難者を「死刑囚」などと呼ぶことに至ることはまず考えられない。
それが容易に出来るのは、彼の腹の中が…つまり、地がアカだから出来ることだ。

この男は映画のためだとか言って、七人の死刑囚という題名を固執した。そして、「昭和殉難者」などと、いかにもそれらしく言葉を使って反論をしてきた。お笑いである。彼らが口にしても似つかわないのだ。それが証拠に、彼は、彼のエッセイで、ちゃんと普段言い慣れていることが予測できる「○級○犯」という言葉を使っている。
いかにいい加減かをそれこそ喝破できるのだ。


正に、太平記で後に賊徒となる足利尊氏が、時勢の動きを見て、恩顧の北条家を寝返ったあとで、後醍醐天皇にお味方する。
そして、京の篠村にある新八幡宮で挙兵の祈願をするが、その時―この賊徒高氏は何を願ったか。
神前に誓ったのは後醍醐天皇による中興ではなく、皇威森厳に興ることではなく、足利一党だけの好運であった。我が家の繁栄だけを願って、それだけを挙兵に臨んで祈願したのだ。

自らの利益、営利の為に、後醍醐天皇にお味方然とした足利尊氏がやがて賊徒となるは明々白々のことであろう。
これと似たことを、私は、この水島という男の挙動に言動に感じてならない。

かの「南京映画」は、靖國神社に不敬を積み重ねていた時の南部宮司が、なんと祭神の遺徳をしのばせる遊就館内で、多くの反対者があるのを押し切り、強行上映させた。

松平宮司が魂魄の願いをこめてお祭りした昭和殉難者を、たかだか、一介のチリ芥にも等しい民間団体の映画を、それも昭和殉難者を貶める「七人の死刑囚」なる新たなる雑言の題名をつけた映画を上映するという愚挙を致した。

これを泉下の松平宮司が怒らぬわけはない。
とうとう、南部宮司は、昭和天皇陵参拝に出かける直前に宮司室で手折られた。
帰幽に至る。夢のお告げでは、松平宮司に呼ばれたと、南部宮司ご自身が語られている。

話を続けよう。
この団体は一時経営難があったようだ。これは至福のことなりと思えば、二千人委員会というものを新たに立ち上げて、息を吹き返した。
まさに、楠木正成、新田義貞が幾度、賊徒足利尊氏を京から追放しても、悪運強く、何度たりとも息を吹き返し、遂には忠臣楠木を新田を死滅させ、後醍醐天皇を壁外においやった。
世は常に悪が栄え、正義は衰える。これを今、この忌まわしき団体に見る。

以上が、私が何も考えなく、前後の脈絡もなく、まず、一気呵成に現在の腹にある臓物をさらけだした言葉である。これからじっくり、この団体のことを書いていく。

先日書いた、「南京の真実」映画製作のうさんくささを指摘したくだりの部分が、主権回復を目指す会の掲示板に誰かが転載した。
すると、それを受けてのことか、先方の団体掲示板の「南京映画支援スレッド」に《一体、いつ第二部を製作するんだ!まさか、製作はもうありませんよーということにはならないでしょうね》と、少し嫌味を含めて投稿してくれている人がいた。それを仲間が先週、知らせてきた。大いに結構なことである。

この質問に対して、例の管理人が出張って来て言うことには
「この秋には第二部を発表する予定だ」と威張り腐って放言していた。

まず、投稿者に映画完成が大幅に遅延していることを謝罪し、それから遅延理由を述べるべきだが、「日本が足りていない」からそういう挨拶は出来ない。罵声に近いものを投げつけてくる。
投稿者が我慢するしかない。

ともかくもこの投稿者のおかげで「今年の秋には第二部を発表する」ことを管理人に答えさせた。これでいい。団体のテレビでは発表していたようなことを言っていたが、そういうことなら産経新聞を使って、全国の支援者に告知しろと言いたい。それぐらいの誠意は金集めした側の配慮だ。

3億までの金を集めるといいながら、だらだらとまだ集金している。こういうやり方に私は胡乱を感じるし、多くの正統保守人に共通する感覚ではないか。

「いさぎよさ」とは無縁の団体だ。

第一部を作って以来、音沙汰無いのは、やる気が無い証拠か、資金を使ってしまって無いかのどちらかだろうーと疑られても仕方あるまい。
第二部の発表が今年の秋では本当は「遅すぎる」筈だ。では、最後の三部はいつ完成するのかーそれくらい、管理者は言うべきだが、これも無い。
次はどなたかがあちらの掲示板に「第三部はいつ発表するんですか。金はとっくに約束の3億円が集っているのですから、もっとさっさと作れないもんか」ぐらいは聞いて戴けたら幸甚なり。

それと、集めた金の使途明細ですね。
これも一本製作するたびに一円まで発表して戴きたいものです。もう精算は出来ているはずですから。そのまま発表してくれればいいんです。その金の使い方で、この主導者方の腹にあるモノを探りたい。この精算の件も、返事も聞いて欲しかったですね…。

集めた支援金は概略第一部でどのくらい使い、あと、どのくらい残っているのかぐらい、彼等は発表するべきでしょう。
全国の善意のお年寄りから集めた金だ。みんな、この団体の代表者の言葉を信じて金を出している。
金を集めた人間としての誠意でしょう。
一円まで収支は発表すると言ってたんだからそれを実行しないのは、不正を隠していると思われる。
今まで、第三部が完成するまで、支援者にはCDは配布しないと断言していたものを、何かの事情で突然、配布しだした。こういうことも私は何かうさんくさいものを感じてならない。

ようく調べたら、第二部は実証篇で第三部はまたしても劇映画で「アメリカ篇?」らしい。なんでアメリカ篇が出てくるのかわからんが、これで、中国の言う「南京大虐殺」を否定する三部作になるのだろうか。
第一部が出来た段階で、支援していた著名な保守が一斉に頭を抱えた話は私の所にも伝わっている。
それでも多くの支援者が誉めているのだ。けなすことは出来まい。
個人的な趣味のような第一部の映画で、世界の誰が、南京大虐殺を否定する気になるだろうか?
それはともかく、何故、すぐに第二部、第三部を作らないのか?

国内での映画試写会などに監督がイチイチ挨拶などする必要はない。映画を黙ってみてもらえばいいことだ。口で説明するなら映画など作る必要もなかろう。演説して廻ればよかったのだ。

そんな暇があるなら、第二部第三部の完成に、全力を尽くすべきを、しないで今日まで放置していることは何を言われても仕方あるまい。

少なくともエグゼクティブプロジューサーも兼ねる監督なら、舞台挨拶などに跳び回るのは無駄な経費を消耗させているとしか思えない。こうした監督の契約費用はどうなっているのか、拘束料も派生しているだろう。金の扱いは全部水島社長が独自決裁で決めているのか、どうなのか。映画監督費、プロジューサー費、脚本費。これを全て水島氏が担当しているが、いくら、給料以外に水島社長には支払われているのか。

最近では、この団体を信用しない私は、こういう金の使い方にも聞きただしたいという気持ちになっている。
舞台挨拶で飛び回る費用は社長としての業務上の必要経費なのか、それとも監督としての個人に支払われるギャランティの中に含まれていることなのかー専門家ではないのでわからないが、こうした細部の話まで、彼らは一応支援者に早い段階で話すべきである。
「一円まで報告する」と言っていた以上、それを実行すべきである。
NHK大罪など後回しである。台湾の人や永山さんに任せいておけばいい。

人の金で映画を作った以上、道義的には「きれいな所」を見せてほしいものだ。
水島本人だって、それを意識して「きれいな金できれいな映画製作をする」みたいなことを何度も言っていた筈だ。

掲示板の管理者は「水島が忙しくて、今はNHKの捏造報道の件で身体が取られているので…」と弁解していたが、支援者に失礼な話である。
つまり、こういう所に、本性が見え隠れしてくるのだ。

日本が近い将来、なくなるようなことを水島は言っているが、本気でそう思っているのかも知れない。そうすれば、後の第二部第三部など作る必要がない。
まあ、これは「からかい」だが、あれほど騒いで約束の映画を完成させなければ、何を言われても仕方あるまい。

それと、ついでだからこれも話しておこう。
最も、これは聞いた話だ。
この南京映画の刑場の撮影の時、スタジオに若い神職を招いて「スタジオ祓いと警蹕」をお願いしたようだ。
だが、なんと、この水島なる男は日本の国旗を、神職に祓わせたそうだ。国旗を祓わせるとはこの男、生粋の日本人なのかーと思った。
更に警蹕(けいひつ・けいひち)の声を…警蹕とは祭神出御の際、本殿御扉を開く前に「オオオオオオオ…」という声を警蹕役が発声する。これは尊貴の方の出御の前に辺りを畏みさせるための先駆の声で、大名行列で「下に下に」という先駆と似たものであるが、それをこの水島は、なにを勘違いしたのか「悲しそうに、哀切をこめて呼んでほしい」と神職に依頼したのだ。だが、神職は「警蹕はそのようなものではありません」といい、何度もお願いする水島の願いを断固断ったそうだ。当たり前である。

水島は、多分、御霊を呼ぶのに、哀切なる声で呼ぶーつまり、神事の厳粛なる先駆の声を、なにか、「おーーーーーいおーーーーーい」と遺骨収集で戦友を探す声ぐらいに理解していたようだ。だから、「哀しそうに、もっと悲痛に声を出して呼んでほしい」などと依願したのだろうが、神職はそうしなかった。
水島は確かに「警蹕」がなんであるか知らなかったのだ。これは私も断言できる。

私の所に回ってきた南京映画の台本にもプロローグの所に「哀しそうに、悲痛にオオオオオオオ…と呼ぶ」(警蹕)などと「ト書き」というのか説明書きがなされていたのを目にして、私は噴出したことがある。

それもどこかの宮司に依頼するなどと書いてあったかしゃべっていたか、忘れたが、まるで神事のことを知らなさ過ぎる男だと思ったもんだ。
それにしても国旗を祓ったり警蹕を愚弄したり、天罰が降りても不思議ではない。

映画を見たら、「オオオオオ…」という声が小さく入っていたが無論―何の効果にもなっていない。無様である。

靖國神社の幹部から「見ろ見ろ」と無理やり言われて、若手の神職、女子職員の幾人かが映画を見たが「ひどいー」と思わず息を詰めたシーンや映像があまりに多く、神社内ではさんざんの評判である。というより、実際に見た人は少ないだろう。「どう?」と聞いても「え?ああ」とあいまいな返事で、苦笑いして去ってしまう。

水島総なる男の巻頭エッセイというのを知人が読んでみろというので、この団体の表紙にある「水島総のページ」という所から進入し、「暗き道にぞ入りぬべき」とかいう題名のものを読んだ。
皆さんも一度、読んでみるといい。この男が生粋の保守ではないことが理解できる筈だ。

私も仲間も、このエッセイを読んで、吐き気がした。気分が最高に悪くなった。読むに耐えないくされ話だ。

天皇を「月」のような存在とか得意げに話しておった。
また、《天皇と皇族が、万葉の昔から詩人であったことは象徴的である。芸術家は「月」であるからだ。》などと、天皇が詩人で、芸術家などと、膿み爛れた痴れたような脳で弄んでいる。

水島はーもうこの男を私は今回、呼び捨てにしている。
敬称をつけるに値しないサヨクであると断定したからだ。
保守を隠れ蓑にしたサヨクだと判断している。

天皇を「月」だと表現し、太陽を否定した男だ!
天皇を「月」と言った後で、末尾でこういうことをこの男は書いている。

《男は、他の時はともかく、酒を飲むときだけは、女が「月」になってくれることを
望んでいる。多分、それは「文化」と言っていいものたろう。》
これで、怒り心頭に達しない右翼はいないだろう。
天皇を「月」だと言ったあとで、女が「月」になってくれることを望んでいるーと書いている。それも「酒を飲むときだけは」と注釈つきだ。何をこの男はイワンとしているのか!不敬を通り越している。

更に何かといえば、外国人の名をあげて、その男を尊敬するみたいなことを書く。
《私は最も尊敬するドイツ文学の大家トーマス・マンが、芸術家の存在とはと自問した小説を書いたことを思い出した。「トニオ・クレーゲル」という小説である》。
日本の伝統や文化がどうだああだいう人間が、いつも、外国人の名をあげて得意然としている姿が不思議でならない。
トーマス・マンがなんだって?

最後は「画家パウル・ゴーギャンの手紙から日本人は自覚せよ」みたいなことを書いている。これでは松陰先生も可哀想だね。
柱にかかった草莽崛起の看板がほれ、床に落ちたぞ。

ともかくも、こういう男を、現代保守陣営は生み出した。神輿を担ぐものがいる。
かっては総理大臣を務めたものでさえ、朋輩の如く近くに寄って来る。
そういう「日本が足りない」時代になってしまったことを痛切に私は感じる。
だが、これは一面、致し方ないであろう。
誰も戦前回帰を願う者がいないからだ。
菊水の旗がはためいていない。「非理法権天」の旗も何処にも見えない。

あるのは俗物ばかりの活躍が目に付く。
この水島なる男は、日本が足りない…日本が足りない…と、年中口にしているようだ。
団体と掲示板全体が「日本が足りない病」に罹っているのは、おそらく彼らが「日本が足りない」からだろう。自らが発散させている悪臭に彼らが気がつかず、絡め取られているに過ぎない。

もうこのくらいにしておきましょう。

ともかく、この団体からは今後、眼を話さないように見張っていたいと私は思うようになった。

次に、先日終わった靖國神社みたま祭の惨状についても話そうと思ったが、もう書きつかれてしまった。

あの、sakamoto氏くらいの体力があれば、いいのだがそうはいかないので。

そうそう、sakamoto氏で思い出したが、彼の思想を語るあちらのスレッドで、私のことや備中さんのことを、好意的に一行だけ書いてあったのを読んで(ああ、こんなことをしてくれなくてもいいのに。私の名前は天敵だろうから、きっと襲撃されるだろう)と思っていたら、案の定、少し足りない門番小僧に突かれていた。(笑い)
本人もははは笑っているだろうが、彼も掲示板を去ったら、もう此処も荒廃であろう。

Sakamoto氏は彼らの掲示板では、乗りに乗って筆が何故か走っている。
書き続けることで、一つ、山を越えたような感じがした。

それではまた。
 

皇城奉護の靖國神社神職の學則

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 7月18日(土)16時49分20秒
返信・引用 編集済
   塾頭の講話を拜聽して、塾頭の舊稿を想ひ出す。‥‥


●塾頭『変わり果てた正月の靖國神社境内』より

 ‥‥昔、中核派が暗躍してた頃、靖國神社に助勤できていた坊主頭の國學院学生が、本殿の裏の方で、爆発音があがると、「おお、あっちだー」と叫びながら、一斉に境内を白袴を翻し、裸足で疾走して行った。警戒に来ていた警察官がウロウロする間を、走り抜けていく彼らの左手には、いつ掴んだのか、遣い慣れた木刀が握られている。四方八方から、木刀を引っさげた二十歳代の若者が、白袴を翻し、血を滾らせて走っていく姿は、興奮させるし、かっこーよかったねえ。中には、どういうのか、白鞘を握った者もいた。まるで、勤皇浪士もこんな風ではなかったかと思えるような、血がどっと吹き上がるような興奮を覚えたものである。小生も、追跡したい衝動に駆られたものだ。かーっつと血が頭にあがったら、死ぬの恐いのなんて思いは浮かばない! タタッキル! これしかない。

 女房、子供も関係ない。敵の凶器など眼中にない。皇軍兵士は、「敵は幾百万」あろうとも関係ない。命令がなくとも、突撃したくてしたくて仕方がないんだ。その血は、あの若者達にも繋がっている。青白い顔をした、普段は頼りなさそうな青年だと思っていたが、あの「チクショー!」と叫びながら、能舞台あたりから本殿の裏手に、木刀を握って走っていった若者たちを思い出した。今、走馬灯のように思い出される。あの青年達も、一人去り、二人去っていった‥‥。現在、小生が見て、頼りになる神職は、五指もいない‥‥。


●塾頭『徒然のままに』より

 松平宮司は、靖國神社「社報」紙面づくりに、どれほど精魂を傾けたか――夜遅くまで、広報課長と討議・推敲して、推敲して原稿を作られていた。それはまさに「もう一つの祭り」の執行であった。それほど「社報」を重要視していた。‥‥いま、靖國神社では、松平宮司を直接知る人は僅かになった。この人たちも、あと十年でいなくなる。薫陶を受けていなくとも、精神を継承してくれる‥‥やはり若い神職が待たれる。靖國神社再興を祈るばかりだ。國乱れれば忠臣が現れるというが、もう、靖國神社は乱気である。早く、忠臣よ出でよ。祈るのみである。古い職員がそっと、仲間に呟いたらしい。「あと十年は持たせたい」と。

 ある日、突然、靖國神社は、「わかりました。昭和殉難者は降ろします」と言い出すかも知れない。あるいは「わかりました。靖國神社を国にお返しいたします」と言い出すかも知れない。それでなくとも、最近、南部宮司は、ことあるごとに「いつか、神社を国にお返ししなければならない」と言い出している。今の日本国は、六十年以前に靖國神社が厳修されていた、あの時の国家ではない。

 雨が降る窓外を見ていた。ふと、脳裏に走った。昔、人がいた、靖國神社に。素晴らしい人だったという。「いつか、必ず、靖國神社の大幹部となり、宮司にもなれる逸材だった」と語る人が大勢いた。大東塾出身、靖國神社勤務は、わずか二年だけ。しかし、大変な逸材だったようだ。その人を知る同期は、まだ今の靖國神社にもいる。だが、この方は、既に逝った。昭和五十年五月十七日に亡くなった。昭和二十一年八月十五日誕生の二十八歳。時の筑波宮司は、この方を同日付で、宮掌から二階級特進の主典に任ずる「辞令」を発した。

 この方の逝去を惜しんで、『鳥居考』という遺稿追悼集が、その後に出版されている。筑波宮司・池田良八権宮司をはじめ、大東塾塾長影山正治氏・樋口清之國學院大学教授など、錚々たる人々が筆を寄せている。この方のお名前を出してもいいだろう。大東塾学生寮生で、國學院から靖國神社神職に奉職。二年間の奉仕で逝去。

日下部勲之命。

 現在、青梅市の大東塾霊園内に、神式をもつて眠られている。昭和七年の「血盟団事件」・「五・一五事件」に次いで起きたのが、昭和八年の右翼玄洋社・黒龍会系が中心となった「神兵隊事件」。この事件の首謀者と目されたのが、影山正治氏。後に大東塾を設立。大東亜戦争で、中国に出征、昭和二十年敗戦。影山塾長の留守を守っていた塾生十四名は、敗戦を「天皇陛下に申し訳ない」として、代々木練兵所にて集団割腹自決。今、青梅市の大東霊園に、十四烈士として祭られている。

 戦後右翼の重鎮として、大東塾塾長影山正治氏の名を、そして十四烈士のことを知らぬ者は、この世界にはおらぬ。その影山正治氏は、昭和五十四年「元号法制化」の法案成立を望んで、五月二十五日、青梅市大東農場にある大東神社近くの杉林の中で、白装束・黒紋付紺袴の正装で割腹後、散弾銃で自決。傍らにあった遺書に、「一死以て元号法制化の実現を熱祷し奉る」とあった。辞世に、「民族の本つ命のふるさとへはやはやかへれ戰後日本よ」とある。空にヘリコプターが、一日中響き渡った大東農場であった。

 大東塾は清貧を本管として、現在も青梅の農場で自給自足の生活を続けている。戦後『不二歌道會』を主宰した。その信条は「深く国学の道統を信奉し、厚く歌道の風雅を尊重。敬神尊皇を以て、大道不二、求道一貫。剣を修練し、低劣を排し、醜悪を討ち、萬有維新の天業に参ぜん」とする。まさに戦前から戦後、現代まで連綿と続く、大右翼の塾である。

 現在、「不二歌道會」は、神屋二郎氏が代表を勤めている(愚案、昨年六月、歸幽)。鶴のように痩身小柄な方だが、神屋氏が通る所は、最近の遊侠右翼団体は無論、公安も身を引いて道を開ける。既に八十五才を超える。先だって亡くなられた名越先生とは、気が逢うていたようだ。戦前から生きた、最後の正統右翼であろう。一兵士も何度と無く話を交わし、青梅の農場にも幾度と無く訪ね、親しくもさせていただいている。豊臣秀吉に茶を講じ、石見銀山を開拓した九州の豪商・神屋宗湛の子孫である。

 少し、大東塾の紹介に時間を費やしたが、この大東塾塾長影山正治氏が、日下部勲之命に追悼の辞を贈られた。その中に印象的な詞がある。

「いわば愚直なまで、かなしきまでに、一心不乱に、『昭和維新を祈り念じつづけて、うら若くして斃れていった』思想の戦ひ、信仰の戦ひの上での清冽純たる戦死者の一人と云ってよいであろう。したがって、本質的な意味に於いては、日下部君のみたまは、靖國神社の一般御祭神たちと同様の、ある面に於いては、それ以上にきびしく、はげしい護国の清霊、靖国の英霊であると云ってよい」と。

 まさに絶大の送辞であろう。今日は少し、個人的になるが、日下部勲之命の話をする気になってきた。‥‥一兵士は、若き者たちに渇望する。

神に奉仕したい」。

 これが日下部勲之命が、靖國神社に奉職する決心の心であった。昭和四十八年に、靖國神社に勤務。中学時代の友人に宛てた手紙に、「神國日本ノ為、一草莽ノ臣トナツテ頑張ルツモリデアル」と書いている。國學院学生時代は学園紛争で、構内を牛耳っている民青・革マル派など、左翼学生に我慢ならずと、民族派を結集させ、『ひもろぎ会』を結成、「国史の道統と日本文化の伝統を伝授すべき國學院大學に於いて、その伝統を否定し、そして神殿に放火するような学生に対し、天誅を下すべきである」と、大音声で説き、決起した。構内で開く左翼学生の集会に突撃、流血を飛ばしながらも粉砕した。学内正常化の先頭に立った活動家でもあった。大変な色男であり、女子にはもてたそうだ。写真をみれば、嘘ではないことがわかる。

 眉目秀麗。若鷲。妙な例えだが、牛若丸。紅顔の美少年のイメージを持った。「ランドリーの上行性麻痺」と呼ばれる難病・奇病によって、日下部勲之命は、昭和五十年四月一日、突如襲われた。現在でもギラン・バレー症候群と呼ばれる難病で、下肢から上肢・頸部・胸部呼吸筋へと麻痺が上行する病気らしく、効果的な治療法が見つかっていない。四月一日に倒れ、四十七日間、病魔との壮絶・凄愴な戦いをして、黙された。友は追悼に記す。

「神の前では、清潔そのものの人であった。靖國神社に奉職し、國の為に斃れた英霊の為に、実に誠実に奉仕してこられたことは、彼の生き方を根源的に支えていたものが何であったかを物語っている。」

「いかに天の摂理とは申せ、前途洋々たる兄にして、未だ青春半ばで幽世に旅立たれたことは、返す返すも残念であります。然はあれ、顕幽一体の大道にあっては、あの世もこの世も奉皇あるのみ。しかも聴く所によれば、兄は死の直前にあって、皇城奉護の一念に、生命の最期の炎を燃やしたという。これ正に兄の七生報国の誓約に違いありません。」

 日下部勲之命が、大学時代に提出した単位論文がある。『我が神道教化の方法』(昭和四十七年)という。抜粋したい。まず、現在の日本人の神道に対する考え方という中で、こう書いている。

‥‥なんといっても学校教育で『修身』を教えられなくなったことが、現在の個人主義の人間を生み出す原因となったとおもいます。戦後の混乱期で、家庭教育・社会教育・職場教育が、国家神道を否定する立場をとっただけに、学校教育で正しい日本人の道を教えられなかったのは残念です。現在の大方の日本人は、神の存在を意識せず、感謝の念も持たず、国体護持についての危機感を持っていず、個人の幸福ばかりを願う人々だとみて、さしつかえないでしょう。

 そして、一般の人々に神道の教化をするべきであることを力説する。日下部勲之命の家は、神社ではない。社家ではない。まだ学生で、神社奉職の経験もない身でありながら、日下部勲之命は、「自分の考える神道教化」はこうすべきであると、高論を述べる。なんと素晴らしいことか。現在の靖國神社総ての神職に読んで戴きたい。靖國神社に奉職する前の、学生時代に書いた「聲」である。

教化するには、そのことについての完全なる知識が必要である。完全といっても、この場合は奉職している神社についての由緒より始まって、御祭神に関すること全般であろう。いわゆる神道学は、基礎的なことだけは必要であって、それよりも高等的なことは、教化をしながら、自分もともに学んでゆきたい。
 次に心から神さまのことを敬いおもわねばだめであろう。それを信じきることである。ここに少しでも懸念が出れば、人を導くことは無理だと思う。
 次に己から範をたれねばいけない。
 具体的に方法を述べよう。
 神徳を広めることと共に、教育勅語を使用する。使用といっても、教育勅語を、もっと解しやすくして教えようと思う。私は、教育勅語は真の日本人になるのにふさわしい教えであると考える。教えといっても、これは道徳であって、あたりまえのことをすればよいのである。究極の国民道徳は、これだと思う。
 次に神社を(社殿・付属物)、氏子の人々の共同のものであると自覚させる。この為には、自ら進んで社殿清掃をして、人々に積極的に手伝ってもらう。自分達の手で美しくし、又、修理などをした神社は、特別の念がわくであろう。少しでもよいから、身体でもって奉仕をしてもらうことである。
 これは金銭の寄付よりも大事であろう。
 このことでわすれてならないことは、神社の厳かさを失わないことである。あまり開放的にならないことである。
 我々皆の神社なのだという自覚が出れば、神道教化は、ほとんど出来たと同然であろう。
 『敬神婦人会』や『氏子青年団』などを作らずとも、人々は神を敬い、道義をわきまえ、立派な日本人となるであろう。
 國の役に立つ立派な日本人となるようにすることこそ、教化の目的ではないであろうか。

――結論として――
 神主一人一人が、自分の信念を氏子の人々に伝えて、啓発をうながすことである。真の国体の精華と云うものを教えるべきであろう。他人の目を恐れてはならない。
 私は、神道こそ、日本人を導く大道と思っております。『敬神崇祖』、これこそ我々の教えです。
 今後も、皇国の再建に挺身する覚悟であります。


 なんと見事な、平易な「教え」であり、「聲」であろうか。日下部勲之命が、昭和二十一年八月十五日に生まれたというのも、奇異といえば奇異。敗戦一年目の誕生。日下部勲之命は、「皇国再建」を使命と考えていた。「皇城」に身を奉らんとしていた。そして、神社はおごそかに、あまり開放的にならぬことを旨とし、教化の方法を考えていた。いま存命していれば、権宮司にはなっていたでしょう。あるいは、松平宮司の右腕となり、大野宮司の左腕となり、今日、宮司として、靖國神社の社稷を護持し奉っていたことは想像に難くない。現在の靖國神社を食い物にする者どもの浸入は、一切、拒絶されて無い筈であった‥‥。



●『靖國神社誌』百七十四丁表[明治三年四月四日『沿革記』拔萃]に曰く、「

 今般、「招魂社祭典取調所」御設置相成り候ふに付ては、別紙『學體』に法り、學科の通り、社司一統に、學術研究致され度く候ふ。此の段、御許可相成され度き樣、願ひ奉り候ふ也。
   大久保忠尚・富士亦八郎・桑原眞清
兵部省御中

「別紙」願ひの趣き、聞き屆け候ふ事。

【學體】

 是れの日出づる本つ御國の大道は、天地と久しく常しへに變易(かは)るべからざる大道にして、現世界(うつしよ)に[五大洲及び百萬の島嶼を謂ふ]、在りと在らゆる事・物の義理(ことわり)は、凡て此の大道にこそ包ね藏めたれ。そが大道を習ひ學ぶべき次第(つぎて)は、言卷くも恐こけれども、上つ代に、寶祚の隆えまさんことは、天壤と窮み無けん矣と、詔り給ひ仰せ給へる、大御詔の由縁(ゆゑよし)を、神世の御典(みふみ)に讀み明し考へ究めて、先づ神習ふに始むべし。

 然かはあれども、八百萬・千萬歳を經し今の世と成りにたれば、打細(うつたへ)に神代の御典をのみ讀みてやは止みぬべき。風の音(と)の遠皇祖の大御世に、奉貢(たちまだ)せる唐土(もろこし)の戎(から)の書籍(ふみ)は更なり、繼ぎ々ゞ今の御世に至るまで、月に日に考へ競ふ四方八方(よもやも)の御奴國(みやつこくに)より、奉り捧げ持ち來る、百の技藝(わざ)・萬の規則(のり)の八千種も、彼の大道の大御規則に符ひ叶ひぬべき、味(うま)し所業(わざ)は、きらふ事なく捨つる事なく、取り學び考へ盡して、愈や益に鹽土翁神の幸を請け廣むるに在りぬべし。

 然れば此の招魂社(たまをきのやしろ)の學校(まなびや)も、專ら此の大道を修學(をさ)むべき設(ま)けにし在れば、其の教への次第に隨がひ、愈や益に學ばざらめや。勉めざらめや。

學科

一、本教
一、文章
一、歴史」と。



 愚案、窮すれば、宜しく本に歸るべし。枝葉末節に拘ること無く、其の原初本根に復歸し、將來の飛躍を期さねばならぬ。かつての靖國神社には、「祭典取調所」ありて、神職・職員の學院があつた。今の靖國神社神職の御方は、今一度び本源に立歸り、先人の足跡を辿つて戴きたい。我が皇國の改新・中興・維新は、國史の明證する所、古へに復れば則ち足る。蠻夷の改革は、人知の附加累疊があつて、世の進歩を謳ふも、たゞ混迷を極むるのみ。我が道の奧は慕古復古、寔に至簡至要なり。神州の道福、想ひ見るがよい。
 先づは神職・職員の爲に、件の「靖國學院」の復興を熱望したい。おほけなくも言擧げする、神職の本立たざれば、教化なぞ及びもつかぬ。何が正統か否か、申すまでも無い。松平永芳・大野俊康兩宮司を想ひ起し、賀茂百樹宮司を呼び起こして、更に靖國神社創立の精神に復ることである。戰後精神を超克して、國體を明徴し、皇國魂を覺醒することである。有志數人から、先づは始めて戴きたい。靖國神社神職の方々倍舊の奮起を、血の涙もて御願ひ申し上げたい。
 又た大東塾の御方の、九段塾掲示板のご閲覽を乞ひ、靖國神社正統護持の御爲め、一層の奉贊協力を懇祷申し上げ、我々靖國神社に集ふ者の教導を仰ぎたい。幾重にも乞ひ奉る次第であります。謹白
 

竿灯の一つとなれ

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 7月14日(火)13時32分37秒
返信・引用 編集済
  昨日の続きに入る前に、書き落としたことがある。
備中さんが紹介していた三重縣川俟神社々掌・鈴木武一翁の言葉を、テーマスレで参照して欲しいとあったが、大切な言葉なので、表に出した方が、眼に入る。

幾度と無く、備中さんが紹介引用していた話ですが、繰り返し読んで、頭の中に忍ばせておくことが大事です。
どんなに優秀な頭脳でも、情報過多で奥へ奥へ押し込まれて、忘れてしまうもの。
誠に、鈴木武一翁の言葉は、私の心中を平易に著したる秀逸な教えです。

『交通機關の發達は、可成り遠隔の地に住居せる者でも、一夜にして伊勢神宮へ、或は出雲大社へ、といふやうな具合に、全國各地の名社大社へ、隨時御參拜の出來る事は、神州民族の一員として、何とも感激に堪へない次第であります。
併し乍らいつの時代にも弊害は伴ふものでありまして、あまりに容易に參拜の出來るところから、動(やゝ)もすれば狎れくづれて、參拜と遊覽とを混同し、尊き神域に入りながら、何等敬虔の念もなく、まるで遊山氣分でぶらりぶらりと歩いてゐる人々を、往々に見受けるのは、誠に歎かはしい次第であります。
交通の不便なりし時代の我等の祖先が、參宮といふことを、如何に感激を以てせられたかを思ふべきであります。昔は困苦缺乏の中をも厭はず、殆んど一生に一度の大誓願を以て、伊勢參宮をされし人が無數にあつたのでありまして、此の心意氣こそは、今人にも是非共あらねばならないのであります。
之れは一面、旅行季節を捉へて汽車や電車の乘客を増さんが爲の政策から、參宮と物見遊山とを混同され易いやうな宣傳をして、旅心をそゝる當局者にも罪があるのであります。神々の御神徳をいたゞくには、その參拜者の心掛けによりて大きな差ひのあるものであります。
參宮の序でに他を見物させていたゞくといふのならば結構でありますが、見物がてら參宮をするといふのでは、行爲は同じやうであつても、心掛けに雲泥の差があるのでありまして、隨つて其の人に授かる御神徳にも、雲泥の差があるのであります。‥‥』

いかがですか。読んでウーン参ったと思う教えではありませんか。

靖國神社の「みたま祭」は最早参宮の敬虔なき愚集に果てている。
プログラムを見れば、今夜の内苑能舞台で行われる奉納歌謡ショーグランドフィナーレは水前寺清子の三百六十五歩のマーチを日本歌手協会参加者全員で合唱―というていたらく。これを新宮司はどんな眼で見るかーそれが試金石。

私は鈴木武一翁の言葉を借りて、本当は全国津々浦々で、辻説法をやりたい。だが、現実的にはもう無理。
だから、「神道の時間」「靖國の誉門」などのテレビ講座を作りたい。
既設のテレビ局から全国ネットでやりたい。あるいは、ドキュメントとして、ある四国のタコ漁師の物語―など、適当な材料を取り上げて、その中で鈴木翁の話を盛り込んで見せていくー前回紹介した会津の四世代家族の話なんかは最高の素材だ。
…そうではなく、もっと、直接的に、太平記を始めとして皇軍将兵戦いの譜を、堂々映像で描き出してもらい、テレビで放送出来るような仕様を考案して誰かにやってもらう…それができないのであれば、自分でやりたい…

まず、全国児童父兄への教育から興し始めることだ。

いいんですよ。実現不可能でもまず、理想を樹立させる。
キリマンジャロの氷河の頂に一頭の豹が死んでいたのは、誰にも見えない豹だけが見えた理想、思想の実現を求めて、峯を攀じ登り、そこに辿り着いた。だから、満足してそこで死に絶えた。それはそれでいい。彼の役割を終えた。問題は次の世代だ。

神風連の神道人は、刀槍だけで近代兵器の官軍に突入し微塵に粉砕された。昭和維新を旗印に官邸に突入、帷幕の臣を問答無用で斬り捨てた青年将校の瀝々たる熱血は青泥に堕ちたままで果てた。頑悪を斬除して車駕を還すことが出来なかった。

それは致し方なし。ただ、常にその幾重なる峯も雲も我が志操で踏破する強靭な構え、心根が大事。
虎視眈々と間隙を縫っていつか回天の時世を現出するー
これが私が未だに死なぬ理由であり魂魄の思想でもある。
それがなければ、延々万里の波濤を越えて、あるいは北寒の蛮地に賊旗を追い、叱咤して御稜威の剣を奮った皇軍将兵になんとお詫びできるかー。九段塾関頭の誓いでもあるーと思っている。

もう少し、鈴木武一翁の言葉を読んでみよう。
『近時、寫眞術の發達、就中テレブイジヨンの出現以來、今夕の出來事も、居ながらにして翌朝の新聞紙上に於て、直ちにその實景が見られるなど、蒙る文化の恩惠は多大なるものがあり、殊に草莽の身として伺ふだに許されざる、高貴の御方々の御動勢が、事ある毎にお寫眞を以て拜し得らるゝ事は、誠に昭和聖代に生れあひし身の一大光榮にして、感激措く能はざる次第であります。
然るに之等のお寫眞があまりにも廣く普及されるところから、動もすれば不敬のお取扱ひをなし、敢へて意に介せざる者を見受けられますのは、誠に恐れ多い次第であります。昔の人は、高貴なる御方々のお寫眞は容易に手に入らないどころか、拜することすらも稀なほどでありまして、隨つてお寫眞に對し奉りては、假初めにも疎かにはしなかつたものであります。
昔も今も、この精神に變りがあつてはならないことは申す迄もないことであります。

筆者の知る某老人は、一年二年と讀み貯めた新聞紙を屑屋へ賣却する時、必ず高貴の御方々のお寫眞の掲載の有無を、克明に調べて擇(よ)り分け、掲載されてある新聞紙は、決して賣る事をなさず、然るべく炎上申し上げることを、十年一日の如く實行して居られました。誠に奇特な方と申すべきであります。

右のやうな譯で、陛下の御尊影、皇族・神社・皇居等の御寫眞が掲載されてある新聞雜誌等は、必ず之を切拔きて、假初めにも不敬のなきやう御保存申し上げ、あまりに山積したる場合には、然るべく炎上申し上げることもよろしからんと拜察する次第であります。
又た店頭のウインドに飾る速報寫眞の如きも、上下の區別を知つて、假りにも高貴の御方々のお寫眞の上に、俳優の寫眞を掲げたり、御同列申し上ぐるが如きことのなきやう、注意すべきであります』と。

このことを参照して、私は靖國神社社報「靖國」も同様に、丁寧な扱いをして戴き、埃をかぶらないように、日に焼けぬように保存していただくように、してもらえればよろしいかと思います。
以上が昨日書き落としたこと。

さて、ここからが昨日の続きです。
社報の第一面にある「靖濤」に書かれた不埒なコメントの数々を紹介しましょう。
この駄文の筆者もひそかにこの九段塾を読むでしょうから、ご自分で自分の文章を見て、いたく反省していただければ幸だ。

『二月上旬のある朝、参道で一人の女性にこう尋ねられた。「ここでお百度参りをしたいのですが、迷惑にならないでしょうか?」−おそらくお子さんの受験があったのだろう。もとより参拝の用に供された境内地ゆえのこと「決して迷惑なことはありませんよ」とお答えした。その女性はそれから三時時間半ばかりかけて、神門との間で熱心に「お百度」を踏んで帰って行かれた。
親子関係について考えさせられる出来事が多い昨今、この光景に心温められもし、また、靖國の英霊には、この女性の祈りが直截に伝わったようにも感じられた。国家危急の秋に臨み戦地に赴いて行った我が子を案じ、縁の神社に幾度もお百度参りして祈った「母の心」を熟知しているのは、他ならぬ靖國の英霊であろうことは疑うべくもないからである。
『昭憲皇太后』は明治三十九年、靖國神社に行啓されて「神がきに 涙たむけて をがむらし かへるをまちし 親も妻子も」と詠ぜられた。思えば戦後、「神道の弁護士」と評されたある神道人が、日露戦役後の「生還」を待ちし親と妻子の情の痛切さをお詠みになったこの御歌を引きつつ「これがありのままなる靖國神社の祭りの心である」と喝破してから久しい。
「みたままつり」が近い。七月十三日から十六日までの間、靖國神社の境内には三万灯を超える提灯が掲げられるが、それら「みあかし」の一つひとつに灯される明かりは淡く優しい。夏祭りの風情を味わいながら、親子の情と「ありのままなる靖國神社の祭りの心」を感得できる四日間である』

…どうですか?ひどいものである。
靖國神社の神職が、昭憲皇太后を、英霊を、みたま祭を、はたまた参拝者を腕組して、平然と観察者風情に成り下がっている話だ。

鼻毛だって抜いているかも知れぬ不敬極まりない執筆姿勢である。
いっぱしのコラムニスト気取りが「チャラ男」と呼ばれる由縁である。本人は知らないだろう。
学問が有る無しではなく、教養が有る無しでもなく…常識がある無しでもなく…池の蛙と同じであるーポッチャン〜〜〜〜〜〜という比喩が一番的を得ていると言えるのではないか。

今度の新宮司に直訴して、この「靖濤」書き手を追放していただくように国民運動を起こしたいものだ。

まず、この話が本当かなと?いう疑問が湧く。適当に話を作っているのではないかという疑問をオボユルノダ。

靖國神社の神門から拝殿前までは、往復で約150メートルある。お百度を踏むにはかなり長い距離だ。
お百度を踏むということは百回の往復である。

即ち、計算すればこのご婦人は15キロメートルを歩いたことになる。
普通に考えて一回の往復に二分前後はかかるだろう。
拝殿前の手を合わせてのお祈りは、吾が子の受験合格とならば普通の参拝者以上に熱心に祈念したに違いない。そうなると、到底、往復二分では収まらない。三分を越すかも知れない。
まずもって到底、三時間半では収まりきれないと私は思うのだが。
しかし、筆者は時計を見ていたのだろう。三時間半と言っているから、それが間違いないとならば、かなりの早足だ。このご婦人が三時間半で15キロを速足したというのは驚愕である。まさに難行苦行であったに違いない…。最後はおそらくへとへとで倒れそうではなかったろうか。

まあ、それはそれでいいとして…筆者はこのご婦人の百度参りは「お子さんの受験のため」と書いている。実際にそう判断できる会話が二人の間であったに違いない。即ち、このご婦人は吾が子の受験合格のためのお百度を靖國神社で踏もうとしたのだ。
本当はこのこと自体が問題だ。

「ここでお百度参りをしたいのですが、迷惑にならないでしょうか?」とご婦人が聞いて来た段階で、本来なら「ここは受験合格を祈願する所ではありません。こちらには皇国の御為に戦場に一命を捧げられた多くの神霊がお祭りされています。参拝するなら、国が危機を迎えた節には祭神の御意志の後を継いで、必ず自分も武器を取り御奉公する心算ですーですから、今はご安心してお休みくださりませ」と祈念する所です…と話してもらいたい所だ。それが靖國神社における正統な参拝仕儀であろう。
即ち、参拝者を教化する絶好の機会だったが、彼は違った。

「…もとより参拝の用に供された境内地ゆえのこと「決して(お百度踏みは)迷惑なことはありませんよ」と答えている。
「おおうつけ」というしかない。

まさに、以前、例の掲示板でお抱えの撮影スタッフが靖國神社取材の合間に煙草を吸っていたことを批判したら、「靖國神社の境内は公共の場所だ。煙草を何処で吸おうがカッテだ」とかいう意見があったり、神社が用意した灰皿で吸って何が悪いーとか反省なき連中と同類に近い頭の中である。

ただ、ようく考えれば、現在の靖國神社は「国家安泰」も「家内安全」祈願もイッショクタにして扱う神社に成り下がっている。
その祈願案内のポスターが飯田橋の駅構内には貼ってある。これを見れば、靖國神社だろうがなんだろうが、祈願なら何でもありの神社だ。普通の神社だと思われても止むを得まい。ご婦人を責めるわけにもいかない。

では現状ではどうしたらいいか。
そこで、靖國神社の神道人としての常識を働かすのだー!

即ち「この内苑でお子さんの受験合格のお百度を踏むというのは、国家鎮護の参拝者には迷惑なことですからお辞め下さい」とはっきりといわなければならないのだ。

それでも、どうしてもというなら、「誰も来ない夜に、大鳥居から神門まで五百メートルを歩かれてお百度を踏みなさい」ぐらいは話してもよいだろうとおもうが…しかし、こうして考えてみると、やはり、靖國神社は軍人を祭る神社として本来の姿を取り戻さねばならない。
賀茂宮司が、鈴木宮司が、松平宮司が参拝者を教化したように「いつでもご祭神の後に続く覚悟があることを祈念する」
それが靖國神社たる由縁なのであることを標榜しなければ、国民は教化できない。

家内安全、社運隆盛、交通安全祈願などは、よその神社に任せるべきだろう。
神社経営がまずあるのではなく、創建趣旨を遵守することが第一義の筋である。

神社経営を全うするためには宣徳課員を先頭にして、全職員が奮迅して全国崇敬者を掘り出し、奉納金を集める努力をすればいいことである。
それを今度の宴会は何処でやるか、職員旅行の行く先は何処にするか、野球の試合のための練習とかゴルフ練習に熱を上げすぎだけが目立つ。

笛太鼓舞の修練さえ怠る昨今の職員風聞。
日本の中興には欠かせないのが、やはり靖國神社の正統の復興であろう。

もう少し、この靖濤の筆者を責めたい。澱んだ根性を叩きのめしたいからだ。

《国家危急の秋に臨み戦地に赴いて行った我が子を案じ、縁の神社に幾度もお百度参りして祈った「母の心」を熟知しているのは、他ならぬ靖國の英霊であろうことは疑うべくもないからである。》
…なにをこの筆者はよた話を書いているのだろうか。
まさにサヨクの言い分であろう。

戦場に赴いた吾が子の無事だけをいかにもすべての母が願ってお百度を踏んだかのようなことを示唆し、その母の心をダシにして、それと、国家危急とはまるで無関係のただの合格祈願とを同一視するというていたらく第二部である。祭神への敬虔の無さは隠しようもない。

更に昭憲皇太后を御引き合いに使われるという不敬。
その上、なんだかわからぬ戦後の神道人を引っ張り込んで(多分葦津珍彦氏)《「これがありのままなる靖國神社の祭りの心である」と喝破してから久しい。》などと一人悦に入っている。

それにしても、この筆者の眼は三つも四つもついているからか、話の筋が破綻しているし、言葉使いもおかしい。
「靖國の英霊には、この女性の祈りが直截に伝わった」とか
「母の心」を熟知しているのは「他ならぬ靖國の英霊であろうことは疑うべくもない」とか
「喝破してから久しい。」などなど。
「直截」「疑うべくも無い」「喝破」がそれぞれ、使うべきところでない処に使われている。

その場の雰囲気と合わぬ漢字使い、言葉使いである。神聖、格調が何一つ伝わってこない。

ご本人はいたく満足げで
《「みあかし」の一つひとつに灯される明かりは淡く優しい。夏祭りの風情を味わいながら、親子の情と「ありのままなる靖國神社の祭りの心」を感得できる四日間である』》
と終わっている。つまり、こういうのを昔は「ナンジャラホイ文」と呼んだのである。

昭憲皇太后も、お百度踏んだ方も、下卑たコラムニストもどきのネタにされてしまった。
神社、社頭、英霊、みあかし、お百度、と畏む字句は並んでいても、少しも祭神の威徳が示されず、筆者本位のつれづれ草にしかなっていない駄文。

これを読んだ私の知り合いが、
「ひどいねえ。いつから靖國神社のコラムニストは英霊の観察者になったのかね」と憤慨しきりである。

そろそろ話は変えよう。あともう一つ。京極宮司のことである。
京極宮司はもう、伊勢神宮、熱田神宮には挨拶には出向かれたことでしょう。
挨拶を重ねるたびごとにー靖國神社宮司の重職さがひしひしと感じられたことだと思うが、正念場はこれからが先です。

事は明治天皇御創建による靖國神社。

「格物致知」という言葉を挨拶に用いられた新宮司です。

靖國神社正統を学問されて、その深潭を極めて頂き、且つ、そのことを実践されれば、「格物致知」を用いた宮司ご自身が正統の継承者となる。
十代目にしてもしかしたら、松平宮司以来の正統の灯火が入るかもしれない。
そういう期待を私は今現在、抱いている。

南朝の時代をバサラに生き抜いてきた京極家の既存の権力に抗う血筋が、あるいは靖國神社の正統を復興させるかどうかー少しは期待を持ちたい。

ついつい長々と書いてしまった。

太平記も大方読み終えたので、では、九段塾版「太平記」の構想に入りたい。
また、しばらくは投稿が控えるかも知れませんが、訪問してなにもの投稿なければ、備中さんのテーマスレッドをよく御覧になって下さい。
別段塾生というものはないが、閲覧者が尊皇のシャワーを浴びていただければ、それが竿灯の一つとなります。
 

ていたらく第一部

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 7月13日(月)19時32分7秒
返信・引用 編集済
  昨日は、しっかり調べもしないで、「南京映画」のことを書いたが、今朝は、じっくり主催団体の掲示板を見た。

が、今年三月の段階で、出演者訃報告知の中で、「製作中の第二部・検証篇云々…」という話が書いてあったのを見つけた。どうやら映画製作を忘れているわけではないようだ。ただ、いつまで完成させるとかは明記されていなかった。

第一部では事詳細に記者発表、ダイジェスト版公開、本編公開とびっしり予定を組んでいた話が、第二部以降はその気配がほとんどない。

予定の組まれない映画製作というものがあるのだろうか。
嫌味で云えば、製作資金はたっぷり余っている筈。まだ一億二億は残っているでしょに。
何故、すぐに続編を作らないのか?

掲示板にあった南京映画を支援するスレッドも見たが、めぼしい記事は書いてなく、誰も立ち寄っていない雰囲気で、何と無しに空き家の感じ。どうしたのだろうか?
早い話―映画製作はほったらかしの模様。

こんなんで、映画支援に寄付した人たちは、なんとも思っていないのだろうか?
私が、まだ、あそこの掲示板にいたら、バシバシ追求してあげるのだが、先を見越して私をシャットアウトしてしまった。
しかし、なんであれほど高まった映画製作なのに、誰も触れないのだろうか?

まあ、考えてみれば、こうなったのも靖國神社大鳥居への不忠非道が、はねかえっているのだろうと思う。

この団体の主導者及び、集ってくる保守連の根っこにー土台、伝統とか神意に対して畏みの志操もなければ、眼に見える尊皇もないから、人心を耕す方策が発想できない。

ほぼ思いつきで騒動のタネを搾り出すだけのように私には見える。

こういう形になると、ブームを作り続けるしか生き残る道はないだろうと思う。
これはつらいだろうと思う。
演技をし続けていくしかない。ブームはすぐに熱が冷める。次の動乱のネタを捜し求めなければ団体の生命は成り立たない。

…当初、「情報戦には情報戦」と花火を打ち上げて、この南京映画支援にズラリと横並びした高名なる保守連中、代議士連中は、今は、まだ、映画が三部完成していないという不始末に対して、どう思っているのか。もう知らん振りなのか?産経新聞もみんな沈黙したままだ。
しかし、まだ、映画製作支援金を募集しているという現状を見ると、やる気が少しはあるのか…よくわからん。

中国人監督が作った「靖國」をサヨク映画だなんて騒ぎ立てる唐変木連中ばかりだから仕方がないといえば仕方がないか。

アッチウロウロ、こっちウロウロする最近の保守動向。
まさに太平記に蠢く明日は勤皇、今日は賊徒の「わが父祖」のていたらくと同様だ。

ついでだから、もう少し言うと、キャスターとして就職したような高森氏をはじめ、この団体の映像に登場する若い者が「天皇」「天皇」と言葉を発し、将棋の駒みたいに扱っているのを見て、あきれ返えりもし、不愉快この上ない。ならば「見なけりゃいいだろう」という問題でもないだろう。

これをもって保守でも右翼でもなしと断言するしかない。
家に神棚はあるまい。
あっても…あるというだけだろう。堕ちたもんだと思う。
土台、高森さんは、まだまだ修行時代の人なのに、(いまや風は俺に吹いている)風情でしゃべっているのを見ると、哀れを感じる。
まさに我流が横溢した談論ばかり。どこまで、本物がついてくるか?

横道ついでにもう一つ。
掲示板にも、「天皇」を主題にした話が飛び交っていた。もう、ネタ切れで、話が発展仕様がないので、スレッドは休眠状態だったが、まさに○○○○の跋扈する所だった。
私がいれば、たちどころに叱り付けるスレッドが多かった。
もうこの掲示板は終焉を迎えていると感じた。

私がいた頃の掲示板とは違い、知っている名前はほとんど無かった。
あっちこっちめくって、やっとSakamoto氏が一人、気を吐いていたのが、目立つぐらいで、みんな何処かへ行ってしまったようだ。

それにしてもsakamoto氏はよく書き続ける。これはたいしたことだ。
並みの体力ではない。書くというのは、オーバーに言えば志操を吐露することだ。
腹をねじり、ねじり切って書く。その精力、底力は相当のものだ。
こういう唯我独尊は悪くない。そのうち、何年もすると悪質がやがて個性になる。そうなればいい。

私は「山桜に風」という人が今でも頭の中に残っている。
一度しか私のスレッドに来たことがなかったが、話す言葉に、あの掲示板には似つかない「知性―インテリジェンス」を感じた。
そのハンドルネームから、直ちに吉野か白河ノ関の桜をイメージした人だ。
40歳前後だと推量したが、何処を探しても見つからなかった。
もうあそこには来ていないようだ。この人も確か「南京ビラ」を配っていた人らしいが。尊皇に浸れる人だと思った。科学者的な感性も見えた。惜しい人だ。

さてー靖國神社のことだ。

備中さんが、社報の第一面の表示に毎号「御製(拜殿掲示)」が書かれ、裏面には「祭神遺書(社頭掲示)」が書かれていることが
《畏きものを掲げるのは、小生なんぞには、些か抵抗がある。畏れ多いと云ふこともあるが、埃を被り日に燒け、又た汚れるかも知れない兩面に、畏きものを掲げると云ふのは、何とも申し訣なく思ふのである》と。

なるほどなるほど。
備中さんの憂いはとても大切な事である。
一理も二理もある話だと言えるでしょう。

こうした感性が閲覧者全員に、日本中に備わってくることが日本中興の第一歩だと思います。まずは人間精神の耕しから入ることが肝要です。

靖國神社は戦後の昭和二十二年十月に「昭和二十三年靖國暦」を発行し、遺族・崇敬者に頒布し、以降毎年発行、現在まで続けている。

そして、昭和二十六年の四月一日に社報「靖國」が発行された。
遺族・崇敬者と神社との緊密を促進するための発刊で、当初は年四回の季刊だったものが、昭和三十四年からは毎月一回の発行となり、今日に至っている。
初期の紙面がどうであったか…今にはっきりと覚えがない。
大きさも現在のようなB5判でなくB4判のような大きい紙面であったと思う。
今、手元に当時のものがないので判然としないが、それでも御製は記されておったと思う。それが第一面だったかどうか自信がない。

備中さんの指摘、憂慮はよくわかるものの、社報の第一面は表紙ではなく、新聞同様の第一面なので、備中さんの言うように、畏きものを記すとしたら、第一面に御製を示すしかないのでは?と…私は思うのですが…。

では、埃の被りにくい二面はどうかというと、今度はめくっての次の頁に御製があれば「格下げ」という雰囲気、よろしからなぬ位置になってしまう畏れもある。

最近、小林よしのりが、「天皇論」というものを出したが、その「帯」に天皇陛下の肖像が小林のマンガで載せられている。こういうのを本当は少し○○さないと、世の中からどんどん尊崇が消えてしまう。

右を向いても左を向いても稼ぎの為にネタにしている連中ばかりである。
なんとか九段塾を表舞台に登場させて、注目を浴びせてから、中興の志士を募りたいと私は最近思うようになってきているが、その話はまた次の機会に。

この社報「靖國」は、かつて「神道文化会」から「神道文化賞」という賞を受賞したこともある神社界屈指の格調高かいものだった。
それが、今では、かしこき御製の真下にある「靖濤」は、下賎なー時には下卑たコラムと成り果てている。書き手のせいである。

更に、裏面の祭神遺稿の下には、商品やらイベントやら、会員募集やらが掲載されて、編集者が祭神や遺稿になんら敬虔も畏れもなくなったことを暗示するかのような惨憺たる有様となっている。

最悪なのは昨年の八月号に「南京の真実―七人の死刑囚―」の宣伝広告を掲載したことだ。
この醜悪な映像宣伝を祭神遺書の真下に掲載することを許可した当時の南部宮司は、これで神霊の怒りを蒙った。決定的だろうと私は思った。

やがて松平宮司のお呼びがかかって南部宮司は霊界に逝かれたのは、閲覧者は既にご承知だろうと思う。

そして、今も、くだらない話を「靖濤」に書き続ける編集者がいる。
毎月8万部―年間で100万部も社報は発行されているが、くだらない記事が遺族や崇敬者の手元に、垂れ流され、膨大な紙の無駄遣いになっている。

それが現在の靖國神社「社報」の現実だ。

大体、この社報が私達の手に届くのは、月が改まって四、五日目だ。
ところが、巻頭にある今月の祭事紹介に「一日(水) 月次祭(午前十時)」と書いてあっても、もう既に終わっているというお粗末な話だ。発送の手抜かりか神社の怠惰だろう。

そして、今月号の「靖濤」に、またまた、不謹慎な話を筆者はーおそらくいつもの書き手が性こりもなく書いている。

話はこうだー。今日は複写が疲れるが全文掲載しよう。いかに駄文を書き連ねているかを諸氏にも知って戴こう。
しかし、今夜は長くなりそうだ。どうするか。ここらで一応終わりとして、残りは明日に回すか…。そんなにいい話ではないので、読み手が不快になることばかり。
穢れの話は読むのも疲れる。…そうだ。
明日にしましょう。原稿は出来ているので、明日のお昼過ぎには乗っけておきましょう…という予定にしてもらって。
それでは。
 

神霊の思惑

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 7月12日(日)18時05分32秒
返信・引用 編集済
  また、しばらく投稿が隔たってしまった。
暑い季節になると、やはり、身体がこたえる。
靖國神社は明日から「みたま祭」が始まる。今回は休日が入らない日程になってしまった。どの程度、人が集るか。参拝者はどの程度か。担当者はヤキモキすることでしょう。
これも神霊のお考えかな。

二年前だったか、「南京の真実」とかいう映画製作の宣伝ビラを靖國神社大鳥居付近を占拠して、この映画支援を名乗る連中に、大量にばら撒かれた頃のことを思い出した。

主催団体の掲示板を先ほど見たら、まだ、映画製作の資金調達のための支援募集が続いているようだ。
第一部の発表があっても、その後が全く続いていないような気配。
もう、彼らの掲示板を覗いていないので、詳細を知らないが、あとの続編はどうなったのだろうか?もう既に発表されてしまったのか?
なんで、突然、こんな話を持ってきたのか…いつぞやの南部宮司の夢を見たご婦人の話をした時と似たような話が、また、私の所にもたらされたので、書く気になった。

私の知人のお父さんが、一年前に亡くなられて、先月が一周忌。
都合があって、私は出席できなかったのだが、数日前、その知人に呼び出されて会った。

「これ、いりますか?」
と渡されたのが、映画製作団体から送付されてきた「南京の真実」のCDパッケージだった。

「ええっ?なに?どうしたんですかこれは」
「送ってきたらしんですよ父のところへ。何ヶ月か前ですかね」
「え?お金、払ってたんですか?」
「私は払っていないですよ。その、父が、どうも家族に内緒で、お金を送っていたらしいんですよね」
「あ〜あ」
私は溜息をついた。
「父はこの映画を見ていません。その前に逝ってしまったんでね」
「そうですか…亡くなった後に届いたCD作品か。なにか象徴的ですねえ」
少し、沈黙が二人にあった。

「…私も、母も知らなかったんですよ。お金を払っているなんて。CDが送られてきて初めて知ったんですよ」
「そうなの。それで、なんでこれを私に?」
「うちでは、これ、誰も見ないので。もうあなたが観たのは知っていますが、もしかしたらいるかなと思いまして。一応、お聞きしようかと」
「ははは。いらないよ。折角だから観ればいいのに。なんで家では見ないの?」
「母がー気持ちが悪いって言うんですよ。この表紙の絵が」
パッケージの表紙を指差した。
なるほど、気味の悪い図案の表紙だ。能面が不気味である。
知人の母は、まるまる右翼である。毎年、参賀には日の丸の小旗を持参して宮城へ行く。
その母上が「気味が悪い」という表紙。
この映画が何故、ダメかがー表象されている図案だ。

私はまともに表紙も見たことがなく、映画だけはしぶしぶ観た。
ともかく私は心を閉じて、しげしげとパッケージを見た。

南京の真実 第一部七人の「死刑囚」と表題が書かれている。本当に嫌な題名だ。怖気がする。こんなものを遊就館で上映した南部宮司が、泉下の松平宮司に呼ばれたのは当然のことだろう。

キャッチコピーみたいなのが小さな字で書かれていた。

<七人の殉国者が私達を振り返らせる。あれは…日本の夜明け?それとも…黄昏?>

瞬間、血が沸騰した!ふざけやがって!よくもまあ殉国者だなんて発想ができるもんだっ!と思わず口に出た!
知人がびくっとしたのがわかる。
「ああ、ついね」

水島氏のネタにされてしまった昭和殉難者…
…神霊がどう思うかだな。今後の話だ。

知人の父上は確か、内地で終戦を迎えたはずだった。完成した映画を観ずに歿された。
観覧してどう思うか?得心がゆくとは思わない。
何処にも「南京大虐殺の反論」などありやしない。

この作品は「本当は三部目の作品だった」らしいが、困り果てた末の突貫工事みたいに一ヶ月で作り上げた作品のように私には見えたが、もう、内容はほとんど覚えていない。

それより、この後の二部、三部はどうなったのか?

知人の父上は、もしかしたら三部作を楽しみに待っているのかもしれない。
今、書いている最中に仲間に問い合わせたら、「二部三部をまだ作っていない筈だ」という答え。

この「南京の真実」という映像製作に関わる非道不敬問題―靖國神社境内ビラ播き、題名―を私は追及したことで、結局、彼の掲示板を私は放擲することになった。
それが事で、この九段塾も立ち上がっている。

水島氏は「映画製作の収支は一円も洩らさず、発表するー」と宣言していたはずだが、第一部の映画製作費用の収支は未だに発表されていないらしい。(おぼろげな情報だがね。もしかしたら発表したのかも知れないが)

それに、肝心の中国側の「南京大虐殺」を否定する「第二部」「第三部」も未だに公開は無い。

あそこの掲示板管理者に私はこう言明されている。(確か)「文句がいいたければ、映画が出来てから言えー!」と。

三部が全部出来たら、文句をいうつもりだが、昨年辺りには全部出揃っているのかと思ったが、まだまだのようだ。
こちらは三部が出来るのを待っているのだが、一体いつ、完成するのだろうか。

あそこの掲示板には私のスレッドがまだ残っているので、書き込んでもいいのだが、謝罪しない限りは、一言半句の投稿もシャットアウトする〜〜〜とか激昂青筋立てた管理者が立ちはだかっているので、投稿したくても出来ない。
それで九段塾にこうして書くことになる。

早く二部、三部を製作してくれないと、私もいつ逝ってしまうかも知れない。

彼等は、聞くところによればNHKの大罪とかで、またもや柳の下のドジョウを狙っているようだが、その前に、靖國神社境内でばら撒いた「ビラ」で高齢者から集めた多額の金の使途明細と(もし未公開ならば)南京の真実第二部第三部を製作発表しなければ、その運動の真意が疑われる。

本当は何に幾ら使っただの私にはどうでもいいことだが、水島さんが何度も「そうする」と言ってたようだからね。約束は護らんと、詐欺ではないかーと私は疑ってしまう。

あの時、三部作が完成するまでは「何年もかかりますから」ーと最初に宣言していたかどうかがあやふやなので。それとも「いつかまでは必ず作るー」と言っていたのかどうか?私に明確な記憶が無いので、トンチンカンな話になってしまうのかも知れないが、一応、疑問を書いておく。

どうも、私は今では、この団体がうさんくさいもののようにしか見えていないので、うるさく言うが、NHK大罪を騒ぐ前に、自分達は「大罪」を冒していないかー主導者は机の中をよく掃除して、あの時、何をしゃべったか、何を約束したか、よく精査してもらいたいものだ。

…なにも今更、「南京の真実」の話題でもないだろうと閲覧者は思うかもしれないが、知人の手から私の手に入ってきた「映画のCD版」
何かのめぐり合わせーというよりも、神霊からの何かの伝達であろうと思ったので、話題にしたまで。

…ということで、南京の話は終わり。次は靖國神社「社報」の件。

備中さんが、7月号の社報に掲載されていた京極宮司の履歴紹介と社報一頁の御製、裏表紙の遺書掲載に疑問を示されている。

本当はそれよりも「靖濤」の中味がとんでもない話をまたまた例の筆者が書いているので、これを弾劾しなけりゃいけないのだが、なかなか批判はしにくでしょう。

それで、私がこのあと書くつもりだが、所定の約束があって、これから出かけますので。また明日には必ず続きをかきますのでよろしく願います。
 

畏きものゝ取扱ひ

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 7月 8日(水)18時51分12秒
返信・引用 編集済
  ■□■靖國神社第十代宮司・京極高晴氏■□■

 京極高晴氏は、昭和十三年一月十八日生る。近江佐々木源氏・京極高三流たる但馬國豐岡京極家第十五代當主にして、社團法人霞會館・宇多源氏宗族會・日本傳統俳句協會の會員たり。

 宮内省式部官兼主猟官(昭和十二年〜二十一年)・貴族院議員・舊豐岡藩一萬五千石藩主第十四代當主・京極高光子爵(杞陽と號す)の次男。母堂は、舊大和郡山藩主・柳澤保承伯爵の長女昭子刀自。兩親共に俳句を能くし、高濱虚子「ホトトギス」同人たり。母方の叔母は、昭和十八年八月二十一日、セレベス島方面にて戰死されし海軍少佐伏見博英伯爵(伏見宮博恭王第四王子)の夫人。なほ高次流の舊讚岐國丸龜藩五萬一千石藩主子爵家に、京極獸醫科診療所長・京極高晴氏あり、同苗同名の由。

 昭和三十六年、東京大學法學部卒業後、日本郵船株式会社に入社し、事業部長に至る。平成三年、氷川丸マリンタワー株式会社(横濱市)に移り、七年、社長に至る。十一年、關東曳船株式会社社長に轉じ、十七年退社。二十一年一月七日、南部利昭宮司の急逝を承け、六月十二日、靖國神社の最高意思決定機關たる崇敬者總代會・宮司推薦委員會にて推擧され、十五日、靖國神社第十代宮司に就任。推擧に方り、「御創立百四十年に當る此の年に、宮司の大役を仰せつかることとなり、身の引締まる思ひで一杯です」との談話を出せりと云ふ。



 愚案、本日、靖國神社社報『靖國』平成二十一年七月・第六百四十八號が到着。本號には、京極宮司「就任挨拶」を收められてゐたので、「宮司小傳」を増補させて戴いた。
 『靖國』には、毎號、「御製(拜殿掲示)」と「祭神遺書(社頭掲示)」が掲げられてゐるが、本號は第一面の表紙に「明治天皇御製」、第十面の最終頁に「遺書」あり。これは慣例なのかも知れないが、英靈遺書を最終頁てふ裏面に掲げるのは、如何がなものかと、常に苦々しく思つてゐる。かつて御製も卷末に掲げてあり、これには、少なからず衝撃を受けた。表面や裏面に、畏きものを掲げるのは、小生なんぞには、些か抵抗がある。畏れ多いと云ふこともあるが、埃を被り日に燒け、又た汚れるかも知れない兩面に、畏きものを掲げると云ふのは、何とも申し訣なく思ふのである。
 スレツド(今の度び「テーマスレ」改稱の由)「皇室に對する敬稱を學ぶ」第五に、鈴木武一翁の文を掲げてをります。是非共、ご一讀ください。謹白
 

豫言・宇内一帝の原理

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 7月 3日(金)18時03分11秒
返信・引用
  ●大壑平田篤胤大人『靈能眞柱』に曰く、「

 この御國は、大國主神の國主と治ろし看し坐しますを、此の天照大御神の御詔に、『豐葦原の水穗國は、吾が御子の治らす國なり』と御詔依さし賜へること、誰も心得がてにすることなるにつけて、熟々考ふるに、深き謂れの有ることなりけり。いで、その謂れは、そもゝゝこの國土は、伊邪那岐大神の畏き御依しに因りて、建須速佐之男命の、廣く永く治ろし看すべき國土なるを、その大御母の坐す根堅洲國に罷らまく欲(おもほ)しけるも、いと止む事なき御謂れの坐して、彼の國に罷り坐しゝを、その罷り坐さむとする時、天上に參ゐ上り坐して、天照大御神と御誓(みうけ)ひの中に、御子生み坐し、さてこの國土に降り坐して、種々の大功を爲し給ひ、遂に根國に入り坐しゝかど、その御後をば、大國主神の繼ぎたまひて固め成したまひ、さて皇御孫命の天降り坐す時、大國主神は隱り賜ひぬ。

 斯かる事のはこびに因りて考ふるに、かの御誓ひの中に生れ坐しゝ御子は、師翁(鈴屋大人)のいはれたるごとく、『天照大御神は御父のごとく、速須佐之男命は御母の如く』の謂れにて、この御國を治ろし看すことは、始めに伊邪那岐命の、速須佐之男に依さしたまへりし國土を、承け續ぎしろし看す理になむ有りける。斯かれば大御神の、『豐葦原の水穗國は、吾が御子の治らす國なり』と宣たまへる御言も、こゝを以て詔りたまへる御言と、畏こけれども量り奉らるゝなり。この理に因らずば、『吾が御子の治らす國なり』と詔り賜へること、その謂れの詳(さだか)ならず。

[なほおもふに、速須佐之男命の、夜見國に入り坐さむとする際に、かの御劒を天上に奉り上げたまへるを、八咫鏡にならべて、天日嗣しろし看す御璽の神寶に賜へること、上件の御謂れによることゝも思ひ合はされ、はたかの二種の中に、一つは伊邪那岐命に屬き坐す日神の御璽、一つは伊邪那美命に屬き坐す月神の御璽たる理にて、やがて伊邪那岐・伊邪那美命の御正統を承け續ぎ治ろし看す御謂れに相契ふ理もあるを、よく思ふべく、また伊邪那岐命に屬き坐す日神は御父のごとく、伊邪那美命に屬き坐す月神は御母の如くに坐すも、悉に深き由あることなるべし。]

 然れば大御神の御言に、『豐葦原の水穗國』とのみ詔へるは、その都し坐します地を以て宣へるこそあれ、實は速須佐之男命に、『青海原潮の八百重を知らせ』と、伊邪那岐命の依さしたまへる御言もこもりて、畏こしなど申すもさらなる大御詔にぞありける。此を思ふにも、我が天皇命はしも、産靈大神・天照大御神の御孫に坐すが上に、かゝる御謂れの坐すなれば、青海原潮の八百重の留まる限り、この國土に有りとある百八十の國々を、悉に治ろし看すべき大君に坐しますこと、彌々益々灼然(いちじる)し。

 見よ々ゝ、今はなほ外國々の酋長ども、王(こにきし)がほにうしはき居れども、上の件りの謂れもありて、大名持・少御神の、その國々を、皇國によりて仕へ奉らしめむと侍伺(さもら)ひ幸ひたまふなれば、終ひには理の如く、千萬國の夷狄の酋長ども、殘らず臣と稱して、い這ひをろがみ歸命(まつろ)ひ奉り、百八十船の棹梶干さず、滿ちつらなめて貢物獻り、畏こみ仕へ奉るべき理、明かなるものぞ。あなあはれ、樂しきかも、歡ばしきかも、時の往ければ、その芽(きざし)の既に萌(めぐ)み來ぬるを、あなあはれ、人は知らずも[そもゝゝ世には、五月蠅なす學者どもの甚と多く、それら悉(み)な外國々の妄説どもに惑ひ溺れて、皇大御國の、かばかり尊き謂れを尋ねむとはせず。たまゝゝもかゝる説をきゝては、驚き怪しむのみならず、かへりて云ひ破らむとのみ、心は進むめる。此は、そもいかなる曲心ぞも。されば予、かく云ふとも、信(うけ)がふ人も、今はをさゝゝ有るまじけれど、今より千歳の後世人の、既(はや)くも文化の頃に、先見して云ひ置けるよと思ひ合はせて、其の時なむ、始めて驚きてむ。吾は其を冥府(かみのみかど)に待ち見むかし]」と。



一、幽顯不二の主宰は、
○先天的には、天之御中主大神、高天原に坐す。
 兩皇産靈大神は、天地を造り坐しゝ御功あり、殊に、
 高皇産靈大神は、神事の中の顯事を掌り坐し、皇孫尊に關係し、
 神皇産靈大神は、神事の中の幽事を掌り坐し、大國主大神に作用す。
○後天的には、天照坐皇大御神、天津日之高天原、また伊勢五十鈴の大宮に坐す(天下之主たる者として生れたまひしも、天上の日御國を知らせとの伊邪那岐大神の神勅に因る)。宇内一帝の源流になむ、坐しましける。
 伊邪那岐大神は、日之少宮に坐し(天瓊矛を賜ひ、修理固成との天神の神勅のまにゝゝ、天照大御神へ委任)、
 伊邪那美大神は、根堅州國に坐す(菊理姫の仲介に因り、伊邪那岐大神との默契あり)。

一、幽界の主宰は、
○先天的には、皇弟たる神素戔嗚大神なり。妣國根堅州國、また月夜見國に坐す(地上の青海原を知らせとの伊邪那岐大神の神勅に因る)。
○後天的には、地祇たる大國主大神なり。出雲の天日栖宮に坐す(大國主神と爲れとの素戔嗚大神の神勅に因る。後ち神事を治すべしとの高皇産靈大神が幽顯分任の神勅に因る。親ら大地官となれり)。
 少名彦那大神は、大國主大神と共に、外國を拓開したまふ(大國主大神と兄弟と爲りて、國を作り堅めよとの素戔嗚大神の神勅に因る)。

一、顯界の主宰は、
○先天的には、皇孫たる天津彦彦火瓊瓊杵尊、筑紫日向高千穗宮に天降りたまふ(顯露之事を治すべしとの高皇産靈大神が幽顯分任の神勅、三種神器を授かり、天照大御神が天壤無窮の神勅に因る)。
○後天的には、現人神たる今上天皇なり。地上之高天原、即ち武藏千代田の宮城に坐す(日向・大和・山城・武藏)。天津日嗣の高御坐は、萬億歳、々々々。

一、道之中・筑紫洲に降り坐す道主貴大神は、皇孫を幽冥奉助す(天孫を助け奉れとの天照大御神の神勅に因る)。

一、皇孫守護と坐す大國主大神の分魂・大物主神は、八十萬神を率ゐ給うて北面し(神事を治す可し・永るに皇孫の爲に護り奉れとの高皇産靈大神の神勅に因る)、同じく分魂・顯國魂大神は、更なる分魂・産土神と共に、皇土を鎭め奉り(宇都志國玉神と爲れとの素戔嗚大神の神勅に因る)、禁闕守護と坐す事代主神は、神之御尾前として百八十神と共に、宮城を近衞するなり(大國主大神の神勅に因る)。

一、思金神・天兒屋命・太玉命・天鈿女命等は、又た殿内禁中に侍ひて、祭政一致、天上の儀の如く仕へ奉るなり(天照大御神・高皇産靈大神の神勅に因る)。

一、高皇産靈大神の神勅によりて、顯幽は分治せられ(顯幽兩界分居)、
大山祇神の言靈によりて、皇孫尊の御壽命に影響し、
石長姫神の言靈によりて、青人草の命は短くなり、
豐玉姫神の言靈によりて、海陸の交通杜絶す(海陸兩界分居)。

一、天照大御神の御子と坐します天皇尊には、天神地祇八百萬神、一柱も漏るゝこと無く、畏こみ敬び尊みて、仕へ奉らむ、神の御代かも。あな、尊と。

 我が古典を拜讀し、神勅を仰ぎ奉れば、件の説の如き集成を、自然と見ることが出來るのである。是れ、小生の只管ら尊信する所にして、我が歴史觀、國體觀の所據、允に仰ぎ尊ぶべきは、古事記・日本書紀・延喜式祝詞・萬葉集・風土記・古語拾遺等の、神典にぞ有りける。眞木和泉守『經緯愚説』中、經の第一は、「宇内一帝を期する事」なり。宇内一帝は、固より神代皇天二祖の大御詔に定まりて、天地の常經、古に亙り今に亙りて、□[手+眞+頁。てん]撲、破れざる者なれば、申すだに畏し。たゞ一途に天津神の經綸を仰ぎ奉り、只管ら天皇尊に仕へ奉るのみ。然れども破邪顯正、其の一日も速からむことを期すは、我々皇民の使命・責務なり。努むべきかな哉、御民吾れ、生ける驗、こゝに在り矣。



●佐久良東雄大人の哥

大王に まつろふこゝろ なき人は なにをたのしと 生きてあるらむ

皇(きみ)の爲 命死すべき 武夫(ものゝふ)と なりてぞ生ける 驗(しるし)ありける
 

血の慟哭が始まっているのではないか

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 6月30日(火)00時19分45秒
返信・引用 編集済
  …ここのところ、
改めて、「太平記」全巻を、時間があれば一頁一頁読み進めている。

次々と朝敵も御身方も、戦いの利なければ、何十人、何百人の将士が一同に座して、腹を刺し、切り開き、死んでいく。忠臣楠木正成もこらえることなく命を絶っていく。
そういう場面の連続である。
壮絶というよりも、今の時代とは違う死に所に、ついつい感慨に耽る時間が長くなり、重く深い溜息をつくことしばしばである。

今夜は、もう休もうと、机の上をそのままにして、疲れた部屋の空気をほぐすためテレビのスイッチを入れ、洗面所で顔を洗っていると、突然、歌声が流れてきた。
水道の蛇口を止めて耳を澄ますとー

『干戈交ゆる幾星霜 いさおの陰に涙あり…』

軍歌だ。
テレビで流しているのか?私は慌てて居間に戻ってきて、テレビ画像を見た。
6人の男性コーラスがシンプルな背景だけで、姿勢を正し歌っている。
私は、顔を拭くのも忘れて、テレビを凝視し続けた。

『花も蕾も若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは…』
今度は「ああ紅の血は燃ゆる」を彼等は歌いだした。
なにか、突然、涙が吹きこぼれそうになってきた。

昭和三十年、四十年代ではなく、今の時代に「国の大事に殉ずるは〜」という言葉がテレビから流れ出すとは思いもしていなかった。
金縛りにあったように、私は6人の男性コーラスの歌う軍歌に聞き入っている。
歌は二番目に入った。

「後に続けと兄の声…勇みたちたるつわものぞ…なにをすさぶか小夜嵐、神州男児ここにあり…」
慌てて、傍にいた者に「なんだこのテレビは!?なんという番組なんだ、これは」と私は叫んでいた!

次から次へと軍歌が流れ出した。同期の桜、暁に祈る、露営の歌、月月火水木金金、りんごの歌、朝は何処から、と戦中戦後の軍歌、歌謡曲が一時間、切れ目無く歌い流れた。

今夜の10時からの一時間番組。BS日本テレビの「こころの歌」という番組だった。
BSならいいのかー?
こういう軍歌を流すことが出来るのか?皇軍、御国、国の使命。

こういう言葉が次々とテロップで歌にあわせて流れる。
その漢字をみれば、今の時代の人でもある程度は意味がわかるはずだ。

番組スポンサーの社長は著名な保守陣営の人だ。はっきり言って右翼である。

そうか、こういう作りなら、今の時代でも軍歌は流せるのだーそれもBSなら可能なのだーと思った。
一つの燭光をみたような気がする。

本当に出来るのかどうかは、無論、私にはわからないが、しかし、現実に一時間、軍歌が流された。それも皇国史観に染まった軍歌ばかりである。

私は、いつのまにか直立して聞いていた。
心のもやもやがどんどん溶けていく。
代わってどくどくと赤い血が流れ出していることを意識しだした。

なんの解説も無いままに、黙って軍歌と歌詞が流れるだけだったが、この大型ハイビジョンの画像で、茶の間に軍歌が流れるのは迫力もあり、美しく、そしてなにより気持ちがよかった。歌詞の内容がである。
軍歌だけでも特定の視聴者はいる筈だった。

この歌の合間合間に、私自身がテレビに出て解説をしたい気持ちについつい駆られてしまった。

「暁に祈る」では、唄う男性コーラスの6人が「輸送船」がどういうものだかよくわかっていない唄い方だった。
南方に戦いに行く兵士を、ツワモノを載せた輸送船だ。
大東亜の夜明けのために波濤を越えて征く聖戦を支える将兵だ。
もっと力強く、勇壮に。叱咤激励したかった。

つまり、私が発想したのは、こういうことが出来るのであれば、皇国史観に溢れた中で、「太平記」を語りだけでもっていけないかー映像的には実写の笠置山とか赤坂の城跡とか、あるいは図像などを駆使して…まあ、細かい所は専門家に任せるとして、ともかく、尊皇思想を映像で描くことも可能だし、それを茶の間に「歴史絵巻」として紹介していくことも出来る。

軍歌を基にしても「戦前」を描くことは可能だろうし、現代人に「戦前の思想」を伝えることも出来る。
軍歌と歴史物語をセットにしたものでもいいし。

ともかくもテレビを通じて、戦前の教育、家庭、社会、しつけ、思想などをしっかりと、真正面から語り、それを伝播させることは可能なのではないかー。そう思った次第。

つまり、既存のマス媒体を使って、放送する道も一つあると考えた。
あとはスポンサーの説得である。

至純、至誠。これが全編に溢れた映像なり、解説なりで作り、全国にオンエアしていくーともかく清潔でなければならない。不純な雰囲気は一切排除した画像。
ある団体のテレビ画像を見ると、話すキャスターの姿勢が大体悪く、猫背で、着ている服もだらしがなく、普段着のままという感じ。風体からして普段の生活を想像できるだらしなさだ。場末の人間を感じてならない。使う言葉も悪いし、しゃべり方も汚い。烈風清風を感じさせない。
日本の右翼がこんな程度だと誤解されるのが迷惑だ。

こういう人間がいくら日本文化だの我々父祖のなんたらどうかだのしゃべっているのを見たら二度と見たくないーと普通の視聴者なら思うのではないか。
忠義、誠忠とはかけ離れた所にいる存在だ。

皇国史観の根底は姿勢である。姿勢を高めること。
それを国民に伝えたい。
…そういうことが発想として思いついたので、とりあえず、書いておこうと思った次第。

無論、なにもわからぬ者の思いつきだが、この発想でいけば、靖國神社の正統とはなにかーも、テレビで、放送することも出来るのではないか…。

先日のTBSの放送した「日本の原風景。4世代の家庭」に見るように、本当は今、国の底辺で「規律、至誠、至純」を求める日本人の血の慟哭がはじまっているのではないか…と思った。
試行錯誤していきたい。
 

贈正四位・櫻山下野守藤原盛政入道茲俊公の遺勳

 投稿者:備中處士  投稿日:2009年 6月26日(金)18時00分7秒
返信・引用
  ●『太平記』卷三

○笠置軍の事

 (元弘元年九月)十一日、河内の國より早馬を立て、「楠兵衞正成と云ふ者、御所方に成りて旗を擧ぐる間、近邊の者共、志あるは同心し、志なきは東西に逃げ隱る。則ち國中の民屋を追捕して、兵粮の爲に運び取り、己が館の上なる赤坂山に城郭を構へ、其の勢五百騎にて楯籠り候ふ。御退治延引せば、事、御難義に及び候ふなん。急ぎ御勢を向けらる可し」とぞ、告げ申しける。

 是をこそ珍事なりと騒ぐ處、又た同じき十三日の晩景に、備後國より早馬到來して、「櫻山四郎入道、同じき一族等、御所方に參つて旗を揚げ、當國の一宮(備後吉備津神社)を城郭として楯籠る間、近國の逆徒等、少々馳せ加はつて、其の勢、既に七百餘騎、國中を打靡け、剩さへ他國へ打越えんと企て候ふ。夜を日に繼いで討手を下されず候はゞ、御大事出來ぬと覺え候ふ。御油斷ある可からず」とぞ、告げたりける。前には笠置の城強うして、國々の大勢、日夜責むれども、未だ落ちず、後には又た楠・櫻山の逆徒、大いに起つて、使者、日々に急を告ぐ。南蠻西戎は已に亂れぬ、東夷北狄も又た如何あらんずらんと、六波羅の北方駿河守(北條常葉範貞)、安き心も無かりければ、日々早馬を打たせて、東國勢をぞ乞はれける。

○櫻山自害の事

 さる程に、櫻山四郎入道は、備後國半國計り打從へて、備中へや越えまし、安藝をや退治せましと案じける處に、笠置城も落ちさせ給ひ、楠も自害したりと聞えければ、一旦の付勢は、皆な落ち失せぬ。今は身を離れぬ一族、年來の若黨二十餘人ぞ殘りける。此の比こそあれ、其の昔は武家、權を執つて、四海九州の内、尺地も殘らざりければ、親しき者も隱し得ず、疎きはまして憑まれず、人手に懸かりて尸を曝さんよりはとて、當國の一宮へ參り、八歳に成りける最愛の子と、二十七に成りける年來の女房(齡ひは錯誤あるべき由)とを刺殺して、社壇に火をかけ(實は城に火を放つた火が、社殿に延燒せるものと見るべし)、己が身も腹掻き切つて、一族・若黨二十三人、皆な灰燼と成つて失せにけり。



 愚案、田中義成博士『南北朝時代史』(大正十一年・明治書院刊。講談社學術文庫・昭和五十四年一月再刊)に曰く、「楠木正成の義兵を擧ぐると同時に、櫻山慈俊・兒島高徳の兵を起して、遙かに笠置に應ぜし事、『太平記』に見ゆ。但し慈俊の事は、この外、別に徴證すべきなし。『禮山志料』(愚案、禮山は福山の誤植なるべし。菅茶山翁編纂)載す所の考によれば、備後一宮、即ち吉備津神社に關係ある人にて、宮氏なるべしといふ。櫻山に居るを以て、櫻山と稱せしならん。城跡は、備後品治郡宮内村にあり。一宮の記録を檢するも、徴すべきなし」と。又た虚心黒板勝美博士の謂ふ所の「楠・櫻二公は、建武中興の發起人」たるは、瞠目留意を要する所である。

 櫻山茲俊公(或は慈俊に作る)は、明治十六年八月十六日、正五位追贈、三十六年十一月十三日、更に正四位を贈らる。備後國蘆品郡綱引村櫻山神社(吉備津神社境内)、大和國官幣大社吉野神宮の攝社・船岡神社(兒島高徳公と竝祀)、武藏國品川建武神社(建武諸忠臣と竝祀)の祭神たり。


一、『大日本史』卷一百六十八・列傳第九十五は、全く『太平記』の漢譯を抄すに過ぎず、亦た頼山陽翁『日本外史』も、卷五に「正成、是に於て赤坂に城き、將に以て乘輿を奉ぜんとす。而して賊兵、已に行在を圍む。三河の人・足助重範、善く拒ぎ、備後の人・櫻山茲俊、兵を起して之に應ず。‥‥(赤坂落城)櫻山氏の兵、之を聞いて潰散し、茲俊自殺す」と云ふのみ。

一、公の父祖は、藤原北家・小野宮殿流の公卿にして、公の時代、武臣に下りたり。大塔宮護良親王、日野資朝・俊基兩公とも、或は相識にして、夙に參劃ないし連絡あらむも得て知るべからず。なほ備後古族に宮氏あるも、公の宮氏と名乘るは、小野宮を修して、單に宮と稱せしならむ。

∴ 小野宮關白太政大臣清愼公實頼――參議齊敏――權中納言懐平――大納言資平――權中納言資仲――參議顯實――中納言資信――資重――河内守資兼――尾張守資政――武藏守季政――光季――左馬助滿政――宮盛政(一に正信。四郎・左馬助・下野權守・下野守。從五位下。應長元年五月二十八日、備後守護職となり、備後國宮内に下向し、一宮吉備津神社に南接する櫻山に城を築く。入道慈俊。亦た金勝院本太平記に「茲俊」に作る)――下野守宮平太郎盛重‥‥宮氏(世々下野守を稱す。天文二十年、志川瀧山城に於て毛利氏に滅ぼさる)。

一、裔孫たる比婆郡久代山城主家・宮久代氏、後醍醐天皇の宸翰を所有せり。

一、『阿蘇惟武軍忠状』に、櫻山公擧兵の當時、惟武は筑紫から備後の鞆に來り、後醍醐天皇の詔勅を拜受して歸ると云へり。

一、備後の傳説口碑に、公の腹心なる蘆田郡山守村近江山城主・光成新三郎興家、赤坂城へ派遣されたりと云ふ。

一、楠公の臣たる丹下與兵衞(大楠公から小楠公を託されし人)、備後に來り、公裔の宮氏に屬すと云へり。

一、『福山志料』に曰く、「櫻山氏の事、『太平記昌益聞書』と云ふものゝ中に、「櫻山は、もと宮氏也。城地の號によりて、太平記には櫻山入道と記す。實名慈俊とは、陰徳記に見えたり」、「櫻山氏は、備後吉備津宮の神主なりしならむ」と云ふ。櫻山城の背後に、鳶尾山城あり。蓋し公擧兵時の本據なるべし。其の鳶尾山城主にして吉備津宮祠官たる有木小次郎俊次は、公が隨從の忠臣たり。

一、『吉備津宮略記』に、「備後國義士・櫻山四郎入道慈俊、厩戸王(聖徳太子)の軍要を傳へ、而して鬼一(鞍馬山大天狗)・義經(源九郎判官)の祕する所を得、楠正成と友として善し」と。



●淺見絅齋先生『箚録』三十一に曰く、「

 日本の軍書の内、『古へ義經、鬼一法眼が虎之卷を得たり』と云ふは、「二相悟道の傳」と云ふ。次第々々に傳來して、櫻山入道が手に渡り、それより楠に傳受したりと云ふ。世に『楠木全書』と云ふ軍書あり。中に拙き詞あれど、二相悟道の正脈、その内に残りたることあり。世に『吉野軍記』とて、義經の書にて相傳はるあり。これ皆、その遺法也。是等も八陣を學ばずして、暗に符合したる旨あり」と。



 愚案、後醍醐天皇の笠置行幸は、元弘元年八月二十七日なれば、京都への早馬、六波羅注進の月日から勘案するに、櫻公擧兵は、蓋し楠公擧兵と同日なる、九月十日の頃なるべし。而して笠置城の落城は、二十九日、赤坂城の落城、楠公韜晦は、十月二十一日にして、此の時、天下廣しと雖も、忠旗の飜へる所、備後國に一の櫻山城あるのみ。櫻山公の自刃は、翌二年一月二十一日、時に六十一(小野宮系圖)なり。然れば櫻山公、後醍醐天皇の綸旨に應じて、勤王の先驅を爲したるは明かにして、楠公の偉勳は論ずるまでも無いが、櫻山公の、吉備の孤城に大義を宣布すること、實に五箇月、而して天下に獨り屹立すること、凡そ三箇月、且つ壯烈無雙なる自刃は、亦た殊勳拔群、殆んど菊池肥後守武時入道寂阿公と竝ぶと謂ひて可なるべし。然るに櫻山下野守公盛政入道茲俊公の遺勳、世人の忘失して顧みず、顯彰の未だ全からざるは、洵に千載の悔恨事にして、面壁に思ひを凝らすに、涕泗、自ら頬を濕すこと多年、こゝに筆記して顯彰する、亦た已むを得ざるものあり。嗚呼、悲しい哉。
 ↓↓↓↓↓
○參考・備中處士「皇國傳統の家に於ける精神」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ie2.htm

 靖國神社御創立記念日を前にして、飜りて惟みるに、建武中興の發起人たる楠櫻兩公に學び倣ふは、不學不力の我が身と雖も、亦た靖國神社正統護持を掲ぐる者の務めでなければならぬ。兩公は、天下に先驅けて、皇民當然當爲の道を率先、範を埀れてをられる。大義宣揚を叫んでをられる。我々國民は忠烈節義の心を涵養して、義勇、公に奉ずることに、些かも躊躇逡巡あつてはならぬ。是れ、歴世無窮の皇恩に報いる所以に他ならない。何の爲めにか、現在只今、生れて來りしか、又た生きてをるのか、生かして戴いてをるのか。靖國神社の内堀から來る塾頭の叱咤は、だらけきつたる現代に於ける紙礫、正に皇國中興の魁けである。
 

中興こそ九段塾の狙い

 投稿者:塾頭  投稿日:2009年 6月24日(水)13時04分36秒
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  昨夜―たまたまであったが、TBSで放送された(東京では…だが、地方ではどうなのか不明)三代か四代の家族十一人が一緒に暮らす農家を一年間取材した様子を二時間ほど流していたのを前半だけ見た。「キミハ・ブレイク 日本の原風景 里山で暮らす4世代11人家族」


用事がなければ全部見たかったが、なかなかのものだった。
登場人物がである。

福島県二本松の山奥。数軒が寄り集まった集落がある。
山の斜面に建てられた家々までは新聞配達人は上がってきてくれない。
そのため街道のバス停の所に合同ポストを用意して、そこに入れてもらう。そういう山地に住む大家族の話である。

例によって、小うるさいきゃんきゃん泣くガキドモが、乱雑な部屋の中を暴れまわる中で奮闘する肝っ玉母さんの話かと思っていた。見た瞬間―5秒で違うと判断した。

咄嗟のインスピレーションで、私のイメージした理想の具現化があると察した。

野の淵で、水の神様にお祈りする子供達の姿が写った瞬間であるーわずか2〜3秒である。
フラッシュ映像というのだろうか、話が始まる最初の段階で、これから紹介する映像の断片が短く紹介されるーそういう場面だったが、一瞬に瞼に焼きついた子供達の「祈りの姿」は「本物」だった。
(これは本物だ)

たった一つの映像―生活の断片を切り取った画面だろうが、それで、この一家の総てが理解できた。祈りの姿に、この一家ーというより一族の生き様、長い慣習、染みとおる教え、家風に教化された伝統のふるまい…

さーっと清流の飛沫を全身に浴びるような心地よさに私は見舞われた。
用事で訊ねてきていた婦人に私は、声を発した。
「これは凄いぞ。本物だ」
井戸の水の神様に感謝する子供達の姿に、この家の、いや、大仰に言えば、日本の正統をかいま見た思いである。
やはり、まだ「いたかー」と思った瞬間である。

尊崇、敬虔、崇敬、敬神。
この十一人家族の一年は、この言葉で仕切られている。
普通の感覚で、普通の家族であるが、自然を受けれ、自然の猛威を日常で感じ、実に礼儀正しく、秩序正しく、生活している。
ちょっと言葉で表しにくい。あまり褒めると嘘になりそうで。

この番組をTBSは何度も再放送してもらいたい。

一番上のおばあちゃんが93歳。この一代目を中心にして、一家の一年の日々の生活をされげなく紹介した番組。そんなにドラマチックではない。が、内容は劇的だ。この一家の出勤、登校、洗濯、掃除、談話、あらゆる生活の隅々まで、尊崇、敬虔、謙譲、敬神が染み通っているのだ。見ていて感動の連続である。

ここに戦前の生活があった。
ごく普通に山ノ神、土地の神、農の神に感謝し、水の神、畑の神に感謝する姿がさりげなく、日常の生活の中に溶け込んでいる。

三女が高校受験の勉強を、家族が集る居間で深夜まで一人勉強するが、頭の上には、誠に見事な、今迄みたこともないような大きな神棚があり、天照大神、大国主命、産土神が祭られている。

この女学生は合格するだろうということがすぐにわかる。
子供達は、親の働きを助け、農作業を輔け、一番下のヤンチャ坊主でさえ、上の者を見て、自分も真似る。
これならいつの間にか人格者に成長していく理屈になる。日々の神が微笑んでいるのがよくわかる。

朝、登校する時は、必ず、93歳の一代目のおばあちゃんに挨拶してから出かける。
ごく自然に「行ってくるでー」と言葉は気楽だが、わざわざ、おばあちゃんの所へ寄って、足を向けて「声かけて」出かけるシーンは圧巻だった。この番組を作ったディレクターもプロジューサーもこのシーンをわざわざ中盤に持ってきたのは、おそらく、現場で感動したからだろう。

私にはそう見えた。

雪が道の両側に残る山道を駆け下りていく。その姿が不精を感じさせない。

映像では出なかったが、学校でも素晴らしい立ち居振る舞いを自然に行っていることを思わせる。
きちっとした生活が、娘達を美しくさせている。二本松少年隊の歴史が本物だと思わせるに充分であった。

春夏秋冬に感謝する姿が、父母に感謝する姿が、朗々と描かれていく。
決して、その姿を描いているわけでなく、笹の葉で作った煤払いや米の収穫では子供たちが泥水に漬かり両親を助ける。
漬物のつけかたを二代目のお婆ちゃんから教わる母親の姿を。まじまじと見ている子供達。家族全員が集る居間の周辺の整頓、清潔さがこの一家の本物さを表現している。

民家の伝統文化の継承が当たり前のように行われている。
その飾らない日々の映像を単に見せているだけだが、語りかけてくるものは日々の尊崇、敬神の充溢した生活であった。正月三が日が明けてー父親が畑の神様に榊と供物を捧げ、頭を下げる姿は、慄然とするものがある。これほど敬虔な祈りを見たのは久しぶりだ。
高台から遠景で父親の拝跪する姿は光り輝いていたように見えた。

此処にーなにか、九段塾が求めているーいや、塾頭としての私の求めている、日常の理想があると感じた。
解説は無かったが、仏壇には海軍将校姿の遺影がちらりと写っただけだったが、あって当然だろうと思った。

冬は寒気物凄く、零下の気温では農作業は不可で無収入となるので、一家の大黒柱である三代目のご主人は建設仕事のアルバイトをしなければならない。
子供達が四人も五人もいるので国から補助が少しは出ていると思うが、こういう家族をもっと国は楽にさせてやりたいーと思ったものである。
昔の日本が戻ってくるきっかけになる。

子供達は、親を敬い、祖母を敬い、家を敬い、神を敬い…言うことなしである。
戦前の家族そのままだった。それで、かたぐるしさはなく、子供達はいきいきと新鮮な童として少年少女期を過ごしていく。

撮影スタッフの声が画面外から聞こえてくるが、このスタッフすらいつのまにか感化教化されて、年下の子供達を尊敬していることが、言葉のハシハシに感じられた。
スタッフが礼儀正しくなっている。浄化されていく。

この形―此処に還るのが私の願いだ。
なんとか、此処へ戻る手段は無いものだろうか。
この家族が日本の核だ。
この家庭、この家族、この恩師、恩愛、恩顧、敬神、崇敬―此処が一つの理想だ。

私は、一つの理想を見た。具現化する手がかりを得た思いである。
この地盤が無くては尊皇勤皇は流れ出ない。
戦争は出来ない。
日本の正統は伝承できない。

まず人づくりだ。そのために学問が必要だ。
この一家には、家風に尊崇と謙譲が備わっている。
生活の中に怠惰、ふしだらを排する教えがある。
なんとか、日本中をここへ戻したい。

娘達も学校を卒業すれば、街へ都会へ働きに行くのだろう。
そこで、身についた躾、習慣も次第に流出して、やがては流浪する現代人になってしまうのだろうと…思うとやりきれない。

ところが、既に、17歳で働きに出ていた長男が正月に帰ってきた。19歳である。
電力会社勤務で、電線架設の作業員だ。
帰省したその姿は、ほとんど変化していなかったように感じた。父親と夜遅くまでしゃべっている。家族としゃべっている。19歳だという。

この青年が、いつまでもこの家族で家風で身につけた習慣、恩愛の精神を現代社会でも流出しないで生きていけるには、同じ躾を受けた人々が社会にいればいいのだ。

泥水に一滴の清流を落としても、泥水は綺麗にならないが、その一滴が次第に多くなっていけば悪貨を駆逐して、やがては泥水が後退して、清水になるー
エントロピーの法則か。
やがて均一化する。熱湯を冷水に流し込み続ければ、熱が伝播し、冷水温度が変わる。

「日本を元に戻す」具体的な方法の一つの手がかりになると思った。

明治維新では上から入った。
今は、上からまだ入れない。下から入るしかない。
浸透である。変化ではなく、中興である。

そのために学問である。学問が人を育てる。

「ちゃらお」「おたく」がいくら集っても「中興」は不可能である。
NHKをいくら叩いても自然は戻らない。正統は作れない。尊崇は生まれない。
「ちゃらお・おたく王国」には似合いのオモチャなのだろうが、やるべきことが違っている。

昨日のTBSのこの番組を遊就館で一日中流せば、相当感化する人間は増えるはずだ。

南朝の天子を語る時、この一家なら黙って最後まで聞いていることだろう。

そういう家族を、家庭を日本中に増やすことである。
枯れた根を再度立ち上げるー中興が必要だ。
そうすれば、靖国神社の正統は黙っていても国民が理解する。

そのために、今回の南朝の天子の物語は必要の一つだと思っている。
 

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