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崎門道義の學を宣揚せむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月13日(日)19時59分2秒
返信・引用 編集済
   皇御民の任は、如何樣にしても、皇天の正嫡に坐します、天津日嗣、天皇陛下を扶翼し奉るに在り矣。生きて扶翼し奉ることが出來るならば、斷じて生くべく、死して扶翼し奉ること叶ふならば、勇みて死すべし。

 然るに「去」つて己を潔くし、隱れて逸るゝの道は、皇國の道義に非ず。況んや「名」を擧ぐる爲めの行藏をや。義理の至當とは、何ぞや。崎門の崎門たる所以、遂に我が神道と幽契す。目を瞠つて見るべきなり。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/13



●若林強齋先生『藤房卿遺址に題す』(『強齋先生遺艸』卷二)

内外なく 君が御國と 人とはゞ 何とこたへて いづちゆくらむ



●強齋先生『強齋先生雜話筆記』に曰く、

「日本では、君臣の義が大事。君臣の義が根になりて、教も立つ、學もこゝに根ざしたもの。こゝを外した學は、益に立たぬぞ。何程、傑・紂の樣な君でも、あなた樣をと、戴き切つてをる心でなうては、益に立たぬ」(卷六)と。

何程、惡しきことも、 勅命と云へば、違ふことならぬ。日本正統相續いで、君臣の義の正しき處ぞ」(卷十)と。



●強齋先生『楚辭講義』(享保二年開講)に曰く、

朱子の序「皆、□[糸+遣。以下☆と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)、自ら已む能はざるの至意に生ず」

 「☆綣」は、絲のくるりゝゝゝと結ぼれて、解いても々ゝゝゝほどけぬことを云ふ。譬へば棄てられた女の、夫を慕ふ情の、忘れうとしても、忘れられず、理で合點せうとしても、合點ならず、どうほどいてみても、ほどかれぬ樣なことを云ふ。

 「惻怛」は、痛々しう胸にこたへること。此の四字が、忠臣の心の眞味を知る處ぞ。『楚辭』を讀みて、屈原の屈原たる處を見るかねは、こゝにあるぞ。此の心から、あれも出でたり、怨んでも出たり、激しても出たり、怪しうも出たりするが、其のなりが、「皆、☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生ず」ぞ。

 「至意」は、どう云ふに云へぬ、餘義ない思はくを云ふ。此の心(いとしうてならぬ本心)でこそ、忠臣孝子と云はるゝぞ。此の心が無ければ、境界が順なれば、幸ひに背く跡は見えぬが、何時でも狹間くゞる心は持つてゐるぞ。絅齋先生の『靖獻遺言』の第一に、これを載せらるゝも、これが忠義の骨髓で、此の心なりが、三仁(微子・箕子・比干)ともなり、(諸葛)孔明ともなり、文山(文天祥)ともなりたものぞ。此の心を得るで無ければ、忠の字の話はならぬぞ。



●強齋先生『神道大意』に曰く、

 あの天神より下された面々の、此の御靈は、死生存亡の隔ては無い故、此の大事のものを、生きては忠孝の身を立てゝ、どこまでも君父に背き奉らぬ樣に、死しては八百萬神の下座に連なり、君上を護り奉り、國土を鎭むる神靈となる樣に、と云ふより外、志は無いぞ。
 
 

再び奧八兵衞翁の懊惱。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月12日(土)12時26分56秒
返信・引用 編集済
   神式の御火葬、抑々存在し得るものか。火の中より出で坐しゝ神もあり、火の中より神上らせ給ふ神も坐しまさむか。御新儀は未來の先例、神職の研鑽を乞ひ奉る。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/889



●贈從四位・鐵石藤本眞金先生の哥(安政三四年頃――魚屋八兵衞を讚する歌――後光明天皇崩御の御大葬の際、其の火葬にてなさるゝと聞きて、御魚屋八兵衞翁は大いに悲しみ、御所の門外に於て、終日おらび泣いた。遂に雲井に響くやあらむ、爲めに朝議、斷然穢らはしき火葬を廢され、神式にて斂葬されし御故事を詠みしものなり)

なきどよむ ねむころゝゝゝゝに 雲の上 日の高宮も 動きましけむ



●影山正治翁『忠靈神葬への祈り』(『影山正治全集』第七卷・平成二年六月・刊行會刊に所收)に曰く、

「魚屋八兵衞とは、慶安・承應の頃、禁裡に出入してゐた一介の御用商人であつたが、後光明天皇御崩御に際し、廟議、舊例に基き、御火葬に傾きつゝあるを聞き、大いに歎き悲しみまつり、朝夕、御所の門前に號泣拜伏して熱祷、遂に廟議を動かして、古代の儘なる御土葬に附しまつることとなつたのである。この事は、深く幕末烈士の心魂をうち、諸烈士、多くこの草莽八兵衞の熱祷を讚仰して止まなかつた。‥‥

 上代にあつては、神代のまゝに、御遺骸を御土葬に附しまつり、民草の遺骸も、この大御手振りに神習ひまつりて土葬に附したのであるが、佛教渡來後暫くして、神州の風儀衰廢し、多く印度流の火葬に遷移したのである。至尊御火葬の御ならはしは、第四十一代・持統天皇に始り、第百七代・後陽成天皇に終つて居られる」と。



●影山正治翁『忠靈公葬神式統一祈願祭文』

明津御神と、天ケ下治ろしめし給ふ、天津日嗣天皇の大宮の大御前に、草莽の臣ら、謹み恐み拜(をろが)み奏(まを)しまつる。

先きつ昭和十六年十二月八日、神ながらも天降し給ひし大詔のまにま、神敵米英撃攘の大御戰、海・陸(くが)・空をかけて、四方に擴ごり進み來れる所、國民草の祈り足らはずして、國内の汚れ諸々、今に拂はれず、大御稜威、中空に遮り沮(はゞ)まるゝこと多く、爲に仇共、次第にその暴威を加へ、今や、皇軍(みいくさ)、しきり惱みて進むことを得ざるなり。

まこと大御嘆き、日々に深くましまさむと、臣等、悲泣、思ひ參らせるに耐へざるなり。

茲に紀元の嘉節を卜し、臣等、潔齋恐懼、大御前にかく參ゐ集ひて、聖戰貫徹、維新促進の血願を籠めまつり、併せて聖戰眞義明徴上の急務たる、忠靈公葬・神式統一實現の熱祷を捧げまつるなり。

仰ぎ願はくは、この御道開きの御尾前(みをさき)として、大みいのちの邊に、いのちさやけく捧げまつらむとする御民吾らが微衷、あはれと聞召し給へ。又そがうけひの證(しるし)として、各も各もになり代り、醜の○○○○○○○○○○、供へまつる樣を、相諾(うべな)ひ臠(みそなは)し給へと、畏み恐みも奏す。

 昭和十九年二月十一日

  大東塾塾長・新國學協會代表 臣 影山正治
 
 

淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月10日(木)00時40分8秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 次の司馬温公の論は、天下萬世の惑ひを開き、大いに來學に功あるぞ。□[龍+共。以下◎と表示]勝は、かたの如く好い人なれども、眼のあかぬ者は、之を惡く云ふ故、それを辨ぜられた。以下、王莽の時の名節の士を擧げらるゝ。此の竝べ方が面白い。前に揚雄をつぶし、これこそ忠臣ぢやとて、之を擧げられたから、雄の恥が、いよゝゝ能く見える。



 司馬光の曰く、王莽、◎勝の名を慕ひ、沐するに(湯を浴びせる樣に)尊爵厚祿を以てし、劫(おびやか)すに(大かさになりて嚇すに)淫威重勢を以てして、必ず之を致さんとす。勝、逼迫に勝へず、食を絶ちて死す。

[漢の◎勝、名節直言を以て著はる。哀帝崩じ、王莽、政を秉(と)るに會ひ、骸骨を乞ひて(隱居)、郷里に歸老す。莽、既に國を簒ふに及び、使者を遣はし、即ち勝を拜して、講學祭酒(學校の總頭)と爲す。勝、疾と稱して應ぜず。後ち莽、復た使者を遣はし、勝を迎ふ。使者、郡太守・官屬・諸生、千人以上と、勝が里に入り、詔を致す。使者、勝をして起ち迎へしめんと欲す。勝、病ひ篤しと稱す。使者、入りて勝に謂ひて曰く、「聖朝、君を待ちて政を爲さんとす」と。勝、對へて曰く、「命、朝夕に在り、道を上らば、必ず死せん。萬分を益無し」と。使者、印綬を以て、就きて勝が身に加ふるに至る。勝、輒ち推して受けず。使者、勝の子及び門人等の爲に言ふ、「朝廷、心を虚しうして君を待つに、茅土の封(知行)を以てす。疾病と雖も、宜しく動移して傳舍に至り、行く意有るを示すべし。必ず子孫の爲に、大業を遺さん」と。門人等、使者の語を白す。勝の曰く、「吾、漢家の厚恩を受く。以て報ゆること亡し。今ま年老ゆ矣。旦暮、地に入らん(明日か晩に死ぬ)。誼(義)、豈に一身を以て、二姓に事へ、下、故主を見んや哉。因りて敕(古は之を君臣ともに用ふ)するに、棺斂・喪事を以てし、衣は身に周らし(身體を隱しさへすればよい)、棺は衣を周らし、俗に隨ふこと勿れ」と。語り畢りて、遂に復た口を開き飲食せず、十四日を積みて死す。時に七十九なり矣]。

 班固、薫膏の語を以て、焉れを譏る[『漢書』◎勝傳の末に云ふ、「老父有り、來りて弔ひ、哭すること甚だ哀しむ。既にして曰く、『嗟□[虎の上+乎](あゝ)、薫は香を以て自ら燒け(香氣がよいから燒かれる)、膏は明を以て自ら銷(き)ゆ。◎生、竟ひに天年を夭す。吾が徒に非ざる也』と。遂に趨りて出づ。其の誰なるかを知ること莫し」と]。未だ爲めに之を辨する者有るを聞かざる也。大いに哀しまざる可けんや歟。

 昔者、紂、不道を爲し、四海を毒□[病埀+甫]す。武王、天下の困窮に忍びずして之を征す。而るに伯夷・叔齊、深く之を非とし、義、周の粟を食はずして餓死す。仲尼(孔丘の字)、猶ほ之を稱して仁と曰ふ(本心の止まれぬ、隅々から出た故ゑ仁と謂ふ。『論語』述而)は、以て其の節を殞さずと爲すのみ而已。況んや王莽、漢の累世の恩に憑り、其の繼嗣衰絶に因りて、詐僞を飾つて之を盗み、又た清士(◎勝)を誣□[三水+夸。こ。汚]するに、其の臭腐の爵祿を以てせんと欲し、甘言諛禮、必致を期し、智を以て免がる可からず(如何樣の智でも、斷りの云ひ樣が無い)、義を以て讓る可からざる(筋道でも遁れられぬ)に於いては、則ち志行の士、死を舍(す)てゝ、何を以て、其の道を全うせんや哉(死なねば存分が立たぬ)。

 或る者、其の芳を黜(しりぞ)け、明を棄てゝ、其の天年を保つこと能はずと謂ふ。然らば則ち虎豹の□[革+郭]、何を以て犬羊の□[同上]に異ならん。庸人の行ひ、孰れか此の如くならざらん。又た其の詭辭曲對、薛方が若く、然らざるを責む[漢の末の清名の士、齊に薛方有り。莽、國を簒ふに及びて、安車を以て方を迎ふ。方、辭謝して曰く、「堯・舜、上に在り、下に巣・由(巣父・許由。箕山に隱る)有り。今ま明主(王莽)、方(まさ)に唐・虞の徳を隆んにす。小臣(薛方)、箕山の節を守らんと欲す也」と。使者、以聞(いぶん。上奏)す。莽、其の言を説(よろこ)び、強ひて致さず]。然らば則ち將に未だ諂ひに免れずとす。豈に能く賢と曰はん。故に勝、無道に遭遇する、此に及びて窮まれり矣。

 節を失ふの徒[班固を指す也。漢の竇憲、外戚を以て權を專らにす。後ち遂に逆を謀る。和帝、之を誅す。固、憲の客爲るを以て、亦た獄中に死す]、忠正を排毀して、以て己が非を遂げ、察せざる者、又た從ひて之に和す。太史公(司馬遷)の稱す、「伯夷・叔齊も、孔子有らざれば、則ち西山の餓夫、誰か之を識知(し)らん」と。信なるかな矣哉。



 「詐僞を飾つて之を盗む」は、龜の甲へ朱で、天命が莽に歸せしめたと、『符命』を書いて、これが獵師の網にかゝつてなど云つて、天下を盗んだ。

 「或る者」は、志行の士の、命を捨て義理を立つるを見て、「ぬらりくらりして、天命を保つがよい」と云ふ。虎豹の皮は見事なれども、之を揉み革にすれば、犬羊の革と異ること無し。芳を黜け明を棄てたらば、上毛を拔いだもの故、忠義の人やら、不義の人やら分らぬ。

 「太史公の稱す」は、千載、論定まつて、伯夷の伯夷たるを知らぬ者も無いが、それは、孔子の極めが付いたからの事。

 次の文は、漢の武帝は明君であつた故、世を取ると、學校を立てられた。學で無ければ、人道が立たぬと思はれし故なり。夫れからして、名を立て節義を勵み合うた。『(張)南軒文集』に、「名節論」あり。朱子の語にも、「名節一變せば、道に至らむ」となり。日本の武士は、其の場で立つることもあるが、後漢のは、平生立て合うて居る。それを讒人共は、「徒黨を組合ふ」と云つて、賢者も此の中へ入れて追拂うた。それで東漢が亡びた。後世で、これを餘りに勵み過ぎたとて、東漢の名義を惡う云ふ者ある故、朱子が辨ぜられた。



 朱子の曰く、今の世人、多く道(い)ふ、「東漢の名節、事に補ふことなし」と。某の謂ふ、三代よりして下、惟だ東漢の人才、大義、其の心に根ざし、利害を顧みず、生死も變せず、其の節、自から是れ保つ可し。未だ公卿・大臣を説かず。且に當時の郡守、宦官の親黨を懲治するが如き、前なる者、既に治する所と爲ると雖も、來る者、復た其の迹を蹈み、誅・殛・竄・戮、項背相望み、略ぼ創(こ)るゝ所ろ無し。今ま士大夫、顧惜畏懼、何ぞ其の此の如きを望まん。平居暇日、琢磨淬厲するも、緩急の際、尚ほ退縮を免れず。況んや游談聚議、習うて軟熟を爲す。卒然(俄かに)警(一大事)有れば、何を以て其の節に仗り、義に死することを得んや乎。大抵、義理を顧みず、只だ利害を計較するのみ。皆な奴婢の態、殊に鄙厭(下卑た事)す可し。



 「誅」は、其の場で殺す。「殛」は、酷く當つて殺す。「竄」は、流し者。「戮」は、なぶり殺し。

 「項背相望む」は、うなじと背中と相望むと云ふことで、前の郡守が辭めらるれば、又た後の役人が來て、引きも切れぬ事。

 次の文は、東漢の荀彧は、忠臣に紛るゝ故、朱子が論ぜられたるなり。荀淑から言うて來たのは、「祖父は忠臣であつたに」との意なり。温公は、彧を正道ぢやと云はれたが、一生の大誤り、朱子『通鑑綱目』には推し出して、謀反人のあしらひなり。



 又た曰く、荀淑、梁氏の事を用ふるの日に正言して[順帝崩じ、太子幼し。梁の太后、朝に臨む。太后の兄の大將軍・梁冀、事を用ひて跋扈す。時に日食・地震の變有り。淑、策に對して、貴倖(君の御氣に入りの高位の人)を譏刺す。冀の忌む所と爲り、遂に官を弃てゝ歸る]、其の子・爽、已に跡を董卓、命を專らにするの朝に濡す。

[范曄の曰く、「董卓の、朝に當るに及びて、爽及び鄭玄・申屠蟠は、倶に處士を以て召さる。蟠・玄、竟ひに屈せず、以て高尚を全うす。爽、已に黄髮(老人)なるも矣、獨り至る焉。未だ十旬(百日)ならずして卿相を取る。意(おも)ふ者は、其の趣舍(義につき、不義を棄てる。出處進退)に乖(そむ)くを疑ふ。余(范曄)、竊かに其の情を商(はか)りて、以爲らく、「跡を濡して(已むを得ず仕へ)、以て時を匡せるか乎。然らずんば則ち何爲れぞ貞吉に違ひて、虎の尾を履める焉」と(荀爽に對する辯護論)]。

 其の孫・彧(ゐく)に及びては、則ち遂に唐衡(宦官)の壻・曹操の臣と爲り、而して以て非と爲すを知らず矣[彧は、爽の兄・□[糸+昆]の子也。□[同上]は宦官を畏憚して、乃ち彧の爲に、中常侍・唐衡の女を娶り、後に曹操の謀主と爲りて死す。中常侍は、宦者の官名なり。朱子、又た『尤延之及び潘叔昌に答ふる書』に於いて、詳かに彧の身を失するの本末を斷ず矣]。蓋し剛大直方の氣(荀氏の精神)、凶虐の餘に折れて、漸く身を全うし、事を就(な)す所以の計を圖る。故に其の淪胥(手に手を引いて、溝へはまつた樣)して、此に至るを覺らざるのみ耳。想ふに、其の當時、父兄師友の間、亦た自ら一種の議論、文飾蓋覆して、驟かに之を聽く者をして、其の非爲るを覺らずして、眞に以て是れ必ず深謀奇計、以て萬分有一の中に、國を治め民を救ふ可きもの有りと爲さしむる有らん。邪説の横流、洪水・猛獸の害より甚しき所以、孟子、豈に予を欺かんや哉。




 朱子が推量するに、さすが荀氏は後漢の名家なれば、初めより節を曲げて、不義の人にならうとしたではあるまい。毫釐の差は、千里の誤になる。僅かに弛みがあると、宦官の婿となり、亂臣賊子の曹操が謀主となる。『三國志』では、目が闇くて騙された樣に云うてあれども、それ程な男でも無い。

 強齋先生の曰く、此の樣に、節義を失つて、知らぬ者を思ひやるに、其の時分、それらが父兄師友等の間で、一つの了簡をつけて、「宦官の婿になつて居たもよい。何を云ふも、君の御爲ぢや」と云ふ樣に、上つらを見事に言ひ飾つて紛らかして、己の節義を失つた事は隱して、一寸聞いては、「いかさま、是も尤もぢや。定めて深い分別のかはつたよい思案でもあつて、それで萬に一つも、國を治め民も救ふやうな事があらうず」と思はするぞ。その樣に云へば、義理の暗い者は、つひ夫れに陷るによつて、洪水・猛獸の害より、邪説の害は甚だしいこと、信に孟子の仰せられた通りぢや、とある事。

 次の黄氏の論は、朱子と異なる。こゝは、朱子の説はあげられぬ。黄説は正なり、朱説は權なり。後漢には宦官と黨錮と、二つに分れて、宦官は賢者に頭出しをさせぬ樣にしかける。賢者は宦官に唾はきして、惡み切つて居るぞ。時に陳寔が、張讓と云ふ宦官の、父の喪を送つた。それを宦官共が嬉しがつて、黨錮を許し置いた。これは善類が絶えぬやうとて、かうされたであるまい。善類の憂き目を見るが、氣の毒であるからの事であらう。陳太丘の心には、義・不義の考もあるまい。嫂溺るれば、手を引いて助くる樣なもの。朱子の曰く、「陳仲弓、宦者の葬の如き、仲弓の志し有れば則ち可、仲弓の志し無ければ則ち不可」と。案ずるに、程説、朱子と異なる。程子の曰く、「陳寔、張讓を見る。是れ故舊は、之を見て可なり。然らずんば則ち非。此れ所謂る太丘、道廣し」と。



 黄□[幹の左+八+木。かん](勉齋)の曰く「陳太丘(名は寔、字は仲弓。太丘の長と爲る。漢末の名士なり)、張讓[宦官の名]が父の喪を送る。人、以爲らく、「善類、頼りて以て全活する者、甚だ衆し」と。前輩も、亦た以爲らく、「太丘、道廣し」と。嘗て竊かに之を疑ふ。此の如くなれば、則ち尺を枉げて、尋(八尺)を直くして、而も爲す可きか歟。士君子、己を行ひ身を立つる、自ら法度有り、義有り、命有り。豈に宜しく以て法と爲すべけんや。天地、此の如く其れ廣く、古今、此の如く其れ遠く、人物、此の如く其れ衆し。便ち東漢の善類をして、盡く宦官の殺す所と爲らしむるとも、世、亦た曷(なん)ぞ嘗て善類無からんや哉。若し是れ眞丈夫ならしめば、又た豈に宦官の禍を畏れて、太丘、此の如くの屈辱に藉(よ)りて、以て其の身を全うせんや哉。吾人、此等の處に於いて、直ちに須らく見得て分明なるべし。然らずんば、未だ坑(あな)に墮ち、塹(ほり)に落ちざる者有らざる也(うかゝゝと行くと、思ひがけなう、不義に落ちると云ふ意)。

 右、類に因て、後に附録す。後、皆な此に傚へ。




 強齋先生の曰く、「直ちに」と云ふは、大義の立つ處の大根を、眞直に見ぬいたがよい、と云ふ事。かう云ふ譯の、どう云ふ譯のと、云ふ入りわりは、こゝではいらぬ。其の樣な事は除けて、こゝはかうぢやと云ふ大義を、眞直に見ぬくがよい、と云ふ語意。



 淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之一、拜記すること、件の如し。實に大義の嚴しきを知るべく、正に吾人の道義錬磨に資する書であります。最も短い卷ゆゑに、些か工夫して、披露させて戴きました。一卷、以て全卷の梗概が窺ふ事が出來ませう。「甚だ解する」こと能はずと雖も、道義討議の雰圍氣は判明するかと、今は恐懼してをる次第です。此の縁故を以て、有志の一人でも、『靖獻遺言』を繙いて戴けたら幸甚であります。

 日夜、心を潛めて、『靖獻遺言』を拜讀すれば、道義の至當を究むることが出來、難に當つて毫も恐るゝ所なく、進んで天下の綱常を扶植せんとの志氣が、勃然として興起するを覺えるでありませう。それにしても、伯夷・叔齊兄弟の出づるあつて、初めて支那に道義が立つたと謂はねばなりませぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1535

 もつとも絅齋先生は、我が國の忠臣義士の傳を編まれたき存念でしたが、其の生きた時代が、之を許さず、忠臣義士の模範を、已むを得ず、隣國の支那に求められたのであります。皇國と支那との國體の相異を踏まへつゝ、絅齋先生の微意を、何卒、御汲み取り戴ければ幸甚です。



【靖獻遺言目録】
一、屈 平『離騒懷沙の賦』‥‥拜記し畢ぬ
一、諸葛亮『出師表』
一、陶 濳『史を讀みて述ぶ、夷齊の章』
一、顔眞卿『移蔡帖』
一、文天祥『衣帶中の贊』
一、謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』
一、劉 因『燕歌行』
一、方孝儒『絶命詞』
 
 

似て非なる奸賊を討つ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 7日(月)21時24分11秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 朱子、又『反離騒』に敍して曰く、『反離騒』は、漢の給事黄門郎・新莽(王莽)が諸吏中散大夫・揚雄の作る所ろ也。雄、少くして詞賦を好み、司馬相如が作る所を慕ひて、以て式(手本)と爲す。又た屈原の文、相如に過ぎたるを怪しみ、『離騒』を作りて、自ら江に投じて死す容(べ)からざるとするに至り、其の文を悲しみ、之を讀みて、未だ嘗て涕を流さずんばあらざる也。以爲(おもへ)らく、「君子、時を得れば則ち大いに行ひ、得ざれば則ち龍・蛇(時を得ざれば淵に蟄し、雲を得れば天に昇る)、遇・不遇は、命也。何ぞ必ずしも身を湛(しづ)めんや哉」と。廼ち書を作り、往々『離騒』の文を□[手+庶。ひろ]つて之を反し、□[岷+日]山より諸れを江流に投じて、以て原を弔ふと云ふ。

 始め雄、學を好みて博覽、勢利に恬なり。漢に仕へ、三世、官を徙さず。然るに王莽、安漢公と爲る時、雄、『法言』を作り、已に其の美を稱し、伊尹・周公に比ぶ。莽、漢を奪ひ帝號を竊むに及んで、雄、遂に之に臣たり。耆老の久次を以て、轉じて大夫と爲る(何の手柄なくても、奉公久しうした老人をば、官を進める)。又た相如が『封禪文』(『史記』・『文選』に所收)に放(なら)ひ、『劇秦美新』(秦を激しく譏り、新を譽める。『漢書』・『文選』に所收)を獻じて、以て莽が意に媚び、書を天祿閣(天子の文庫)の上に校することを得たり。

 劉尋等、『符命』を作るを以て、莽が誅する所と爲るに會ひ、辭、連なりて雄に及ぶ。使者、來りて之を收めんと欲す。雄、恐懼し、閣上より自ら投下し、幾(ほと)んど死す。是より先き雄、『解嘲』(所著『太玄經』を嘲るに因り、其の嘲りを言ひほどく書)を作り、「爰に清、爰に靜、神の廷(には)に遊び、惟だ寂、惟だ莫、徳の宅を守る」の語有り。是に至りて京師、之が爲に語して曰く、「爰に清靜、『符命』を作り、唯だ寂莫、自ら閣より投ず」と。雄、因りて病免す。既にして復た召されて大夫と爲り、竟ひに莽が朝に死す。其の出處の大致本末、此の如し。豈に其の所謂る龍・蛇なる者か耶。然れば則ち雄、固より屈原の罪人他爲りて、此の文(『反離騒』)は、乃ち『離騒』の讒賊(讒言を入れた故)なり矣。他、尚ほ何をか説かんや哉。


 『反離騒』は、屈原の死なれいでも大事ないに、と云ふことを書いた辭。揚雄、字は子雲、『揚子方言』・『法言』・『太玄』と云ふ書を作りて、世にもて囃され、韓退之の如きは、『孟子』と竝稱し、司馬温公は、之を『論語』に比べられた。けれども大義を誤りし儒者の紛れ者故ゑ、朱子は、その『反離騒』を敍して、別して之を辯ぜられた。

 強齋先生の曰く、司馬相如よりも、屈原の文は、格別すぐれて上手であつたに、其の志行は違うて、江に沈んで死せられた故、何ほど窮したにしても、死せずとも苦しう無い、堪へられふ事ぢやに、と云うて、屈原の文を讀みては、涕を流して悲しんだぞ。

 「漢の給事黄門郎・新莽が諸吏中散大夫」の筆法は、はつきりと二主に事へたことが見える。漢の官と新の官とを擧げて、はつきり雄が、二心を見せた。

 「相如が封禪文」は、天下、大いに治まつた時、天子は、その徳を天に告げん爲に、泰山に登り、土を築いて壇を作つて(封と云ふ)、天を祭り、泰山の下の小山の上の土を除いて(禪と云ふ)、地を祭り、以て天地の功に感謝する儀式の文。相如は、一生、志を武帝に得ずして難儀せる故、何ぞ子孫の爲にせんとて、武帝に媚び、此の文を作り、「我が死後、若し天子の、何ぞ求めらるれば、之を」と遺言せり。後ち果して詔ありて、之を奉る。

 「符命」は、神告などの樣に書いた未來記。これは莽を惡んで、「やがてにも亡びん」と書かれしなり。

 「京師」は、京師の人の惡口するには、「心、清靜なりと云へど、『符命』を作りて榮達を求めんとし、心、寂莫なりと云へど、自ら閣より投じて、死を畏れた」と。面目なさに、病氣にして、役義を免ぜられた。

 「他、尚ほ何をか説かんや哉」は、是れ一つで、尚ほ他に何んの云ふ詞があらうぞ。結局、龍・蛇ですら無い。

 淺見絅齋先生『楚辭師説』に曰く、屈原は、宗國の爲めに死なれた人ぢやに、之を左樣いへば、屈原の罪人ぞ。外の事は云ふに足らぬもの故、何を説かうやう無い。華美な文章を書くことは、司馬相如に次いでは、是ぞ。後世も揚雄と云うて、韓退之はじめとして、口にかけられる。司馬温公ほどの大賢でさへ、『孟子』は尊ばずして、揚雄を尊んで、『太玄經』の註までせられたぞ。それで、程子の、揚雄が書を著はし、色々の文章がある故、人が褒めるさうなが、役に立たぬ者ぢや、と云はれたぞ。然れども漢の爲めに不忠の者ぢやと云ふ、罪を正すは、朱子からの事ぞ。



 愚案、彼の揚雄なる者は、我が國に於いて申せば、吉野の朝廷に仕へ、逆賊足利高氏にもついた、夢窓疎石の如き茶坊主のやうな者なり。又た大西郷も抄(『手抄言志録』)した所の佐藤一齋、實は慕ふ門人を見捨てゝ、幕府に媚び、保身の腐儒――森銑三翁、之を證せりと雖も、今ま猶ほ人氣あるは、不可思議千萬と云はんか、遺憾至極なるべし。人物は皮相に仰ぐのでは無く、よくゝゝ覆審吟味が必要なり。

 如何ほど立派な文章を書いても、大儒と崇められても、あれではなあ~。谷秦山先生『靖獻遺言講義』に曰く、「凡そ忠義と云へば、主人の善惡にかまはず、我が身の持前の義理を盡すより外ない。逆賊などに仕へて忠を盡せば、忠義は忠義なれども、謀反人ぞ。然るによつて、出處と云ふことが大切なことぞ。何程忠義が正しうても、出處が惡ければ、何んの役に立たぬ」と。信なるかな哉、此の言。天網恢々、疎にして漏らさず、「皇天上帝、眼、分明」(謝枋得の詩)、人をして白日の下に明かならしむ矣。「神は見てをる」。
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けん綣惻怛、至誠、自ら已む能はざるの心。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 6日(日)17時59分36秒
返信・引用 編集済
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~承前~

■楚の屈平『離騒懷沙の賦』(雪窓沼田宇源太翁『靖獻遺言講義』・紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』に據るも、些か編纂を加へたり。許し給はらむことを)

 貶されて浪人になられた故、官は書かぬ。楚と云ふ字をかぶせたは、浪人になりても、楚を忘れぬ、[糸+遣。以下☆と表示]綣惻怛(けんゝゝそくだつ)の心を見せたもの。屈平と、名で呼んであるは、名分の大事なり。尊ぶ旨ならば、字(あざな。支那の通稱。[註])で稱する(屈原)ものなれども、此の書(『靖獻遺言』)は日本で出來たこと故、此の國から、あの方の人を呼ぶに、尊んで云ふ譯はない。司馬温公でも、「司馬光の曰く」と云ふてある。

 若林強齋先生講義に云ふ、「☆綣惻怛の心」、こゝが靖獻の旨、『遺言』一部の眼目と云ふは、こゝぞ。(愚案、皇國に於いて、一言を以て申さば、「戀闕」てふ言葉に當るべし矣)

[註]愚案、皇國にては、呼稱、異なれり。生きては通稱を云ひて、諱(忌み名・實名)を文字通り忌み、死しては雅號ないし官名、不明ならば諱を申すが古風にして、後人が通稱を申すは、餘りに憚り多くして、時には當に居傲と謂ひつべきなり矣。人はどうあれ、小生は、呼稱の古風、或は轉じては『靖獻遺言』の筆法、やうやく廢れたるを悲しむこと、頗る大なり矣。
 例へば「赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩」てふ先哲を、赤城先生と申して、彦九郎と呼捨てすること能はざるが如し。一方、漢文ないし支那風ならば、高山仲繩と申せば、敬を籠むる謂ひ也。韓愈を韓退之と云ふが如し。高山子・韓子と申すは、更に尊びて申す也。
 又た吉田松陰先生は、松陰と申して、橋本景岳先生は、左内と呼び捨てる。平仄の合はざること千萬なり。左内の稱を流行させし者の罪、免れず。況んや其の顯彰會「景岳會」あるに於いてをや。元景岳會々長は、松平永芳靖國神社宮司、即ち是なり。

 「離騒」は、遭憂、忌々しい憂愁に遭ふこと。沙石を懷抱し、以て自ら沈むを言ふ也。『離騒』の中には、屈原の辭多けれども、別きて此の賦は、屈原が石を懷にして、身を投げ死せんとするになりても、君を忘れぬ、止むに止まれぬ☆綣惻怛の心が、懷沙の賦となりて出た故、別して忠義の心が見える程に、此の辭を取られた。

 強齋先生の曰く、『離騒』の中にも、段々屈原の辭多けれど、別きて此の『懷沙の賦』は、屈原の石を懷に抱いて、身を投げて死なるゝ、其の臨終に發せられた詞で、身を水に沈むる程になつても、未だ君が忘れられぬ、さう云ふなりより外ない忠義の、已まれぬ☆綣惻怛の心が、『懷沙の賦』となつて出た故ゑ、別して忠義の心が見ゆる程に、この辭を採られたぞ。



浩浩たる□[三水+元]湘、分流、汨たり兮。
――廣々とした二水は、幾筋にも分れて、どんゞゝ流れ行く

脩路、幽蔽し、道、遠忽たり兮。
――長く續く道は、こんもりと樹々に蔽はれてゐて、行く手は定かでない。

曾(すなは)ち傷み、爰に哀しみ、永く歎喟す兮。
――楚國の將來を傷み悲しんで、思はず永い溜息をついた。

世、溷濁し、吾を知ること莫し。人心、謂(かた)る可からず兮。
――思へば、世は亂れ濁つてゐて、私の心の裡を知つてくれるものもなく、この心を語ることも出來ない。

質を懷き、情を抱きて、獨り匹(たゞ)さん無し兮。
――飾りない眞心を抱きながら、私の態度が無理かと、人に正すすべもない。

伯樂、既に沒す、□[馬+北+異]、焉んぞ程(はか)られん兮。
――伯樂が死んでしまつた今日、駿馬とて、誰がそれを品定めしてくれようか。

民生、命を禀け、各々錯く所ろ有り兮。
――人がこの世に生れると、各人、その分、運命が決まつてゐるものである。

心を定め、志を廣めば、余、何ぞ畏懼せん兮。
――されば心を落ち着け、志を廣く持つならば、何の懼れることもない。

死の讓る可からざるを知りぬ、願はくは愛しむこと勿からん兮。
――死が避けられぬものなることを知つた以上、この生命を惜しむことはすまい。

明かに君子に告ぐ、吾、將に以て類(のり)と爲らんとす兮。
――世の君子よ、私は死して忠臣の模範とならうと思つてゐる。



 強齋先生の曰く、俺が、私には死なぬ。拙者が存念は、天下萬世、君子が、我を忠義の類とせうと存ずるとあること。此の類と云ふは、君子の是に類し、是にのつとる樣に類するから云ふ辭。




●『靖獻遺言』に曰く、

 平、字は原。楚と同姓、懷王に仕へて、三閭大夫と爲る。三閭の職、王族の三姓を掌る(善惡を司どる)。昭・屈・景と曰ふ。平は、其の譜屬を序いで(系圖のつゞきを次第する、即ち一國の秩序の根本也)、其の賢良を率ゐ、以て國士を□[勵の左。はげ]まし、入りては則ち懷王と政事を圖義し、嫌疑を決定し、出でては則ち群下を監察し、諸侯に應對し、謀行はれ職修まる。懷王、甚だ之を珍とす。同列の上官大夫、其の能を妬害し、因りて之を譖毀(そし)る。懷王、平を疏んず。平、讒を被むり、憂心煩亂、愬(うつた)ふる所を知らず。乃ち『離騒』を作り、上は唐(堯)・虞(舜)・三后(三代の君。夏・殷・周)の制を述べ、下は桀・紂・羿・澆の敗を序いで、君の覺悟し正道に反りて、己を還さんことを冀ふ也。

 強齋先生の曰く、「遷己」は、屈原の自身の爲めではない。屈原の用ひられねば、小人どもが、いよゝゝ熾んになつて、眞實の忠を、こゝらで一つ見事だて云うて、もう爵祿に望みは無い、跡のことは知らぬと云うて、君を顧みぬは、忠では無い。こゝが、忠臣の情の、已むに已まれぬ、☆綣惻怛の心なりに、かう云うたら人が笑ふの、さもしがらうかの、と云ふ樣な計較の意は無い。只だ君を愛し國を憂ふる心が、已まぬによつて、自然にかうあるぞ。

 是の時、秦、張儀をして、懷王を譎詐せしめ(連衡策)、齊の交り(蘇秦の合從策)を絶たしむ。楚、大いに困しむ。後ち儀、復た楚に來り、又た弊を、事を用ふるの臣・□[革+斤]尚に厚うして、詭辯を懷王の寵姫・鄭袖に設く。懷王、竟ひに復た張儀を釋(ゆる)し去らしむ。時に平、既に疏んぜられ、復た位に在らず。齊に使ひし、顧反(かへ)つて、懷王を諫めて曰く、「何ぞ、儀を殺さゞる」と。懷王、儀を追ふも、及ばず。秦、懷王を誘(あざむ)きて、與倶(とも)に武關に會せんとす。平、又た懷王を諫め、行くこと勿からしむ。聽かずして往き、遂に脅かす所と爲り、之と倶に歸り、拘留して遣らず。卒ひに秦に客死す。而して子・襄王立ち、復た讒言を用ひ、平を江南に遷す(流し者にする)。平、復た『九歌・天問・九章・遠遊・卜居・漁父』等の篇を作り、己が志を伸べ、以て君の心を悟さんことを冀ふ。而れども終ひに省みられず(目を留められぬ)。其の宗國の、將に遂に危亡せんとするを見るに忍びず、遂に汨羅の淵に赴き、石を懷きて、自ら沈んで死す。

‥‥(前記の、司馬遷『史記・列傳・屈平』)‥‥

 朱子の曰く、原の人爲る、其の志行、或は中庸に過ぎて(規矩に外れて)、以て法と爲す可からずと雖も、然れども皆な君に忠し國を愛するの誠心に出づ。原の書爲る、其の辭旨、或は跌宕怪神、怨□[對+心]激發に流れて、以て訓と爲す可からずと雖も、然れども皆な☆綣惻怛、自ら已む能はざるの至意に生(な)る。其の北方に學びて、以て周公・仲父の道を求むることを知らずして、獨り變風・變雅の末流に馳騁す。故を以て醇儒・莊士、或は之を稱することを羞づと雖も、世の放臣・屏子・怨妻・去婦をして、下に□[手+文。ぶん]涙□[口+金]謳し、而して天とする所の者をして、幸ひにして之を聽かしめば、則ち彼此の間、天性民彜の善に於いて、豈に以交(こもゞゝ)發する所ろ有りて、夫の三綱・五典の重きを増すに足らざらんや。此れ予の毎に其の言に味ふ有りて、敢へて直ちに詞人の賦を以て、之を視ざる所以ん也。

 屈子は吟味のかゝる人なれども、それを載せたは、朱子の説(『楚辭集註』の序)にて見るべし。朱子も大いに用ひらるべきを、讒人の爲めに退けられ、死ぬ二三年前に、『楚辭』の註をなされた。それ迄は『楚辭』を、詞の高いばかりにて、常の詩賦の如くに見られたを、朱子に至りて、始めて詞人のものと同一でないことが分つた。『如何樣にしても、君を助くる筈。楠の討死も、殘念な事ぢや』と、絅齋先生が仰せられたも、是なり(愚案、絅齋先生の謂ひは、皇國と支那との國體の相異から來る、臣民道の在り方は、自ら相異する。皇國は盛衰あるも、興亡なければ、「生死は問ふ所に非ず、如何樣にしても、皇天の正嫡たる天子を扶翼すべし。生きて扶翼できるなら生くべく、死して扶翼できるなら死すべし」となん)。

 「跌宕」は、踏みなじり、蹴散らかす樣な氣味。憂ふる心の、やる瀬なうて、何もかも言ひ破る意。常規を逸脱した不羈の樣を云ふ。「怪神」は、奇怪神祕なことに事寄せて、君をのゝしる。

 「怨□[對+心]」は、うらみ不足のある樣なこと。「激發」は、高まつた感情が外に發する。

 「□[糸+遣]綣」は、心にむすぼほれて、忘れられぬこと。其の君と固く結ぶ也。民が其の君を忘れようとしても忘られぬこと。「惻怛」は、傷み悲しむこと。

 「變風・變雅」は、『詩經』に風と雅とある。本法の正しき性情を歌うたものを、正風・正雅と云ひ、中庸を外れたものを云ふ。

 「放臣・屏子・怨妻・去婦」は、君に逐はれて臣・親に退けられた子・夫に出された妻・舅姑に惡まれた婦。

 「□[手+文]涙□[口+金=吟]謳」は、涙をおし拭ひ々ゝて、節をつけて歌ふこと。

 「天とする所の者」は、君は臣の天、父は子の天、夫は婦の天なり。彼此は、彼は天、此は臣・子・婦を云ふ。

 「民彜」は、民の常、人が生れつき有する所の徳を云ふ。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五典」は五常、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信、是なり。一以て言へば、道義、人たるの道。人間を「ヒト」として抽象的に考へず、三綱五常として、具體的關係に於いて考へ、各々の場に於いて、最善の道を盡くさうとするのが、東洋道徳の本質である。

‥‥(前記の、『漁父の辭』)‥‥



【參看・淺見絅齋先生】
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 愚案、淺見絅齋先生『靖獻遺言』の、後世への影響は甚大であることは、能く知られてゐるが、こゝに一例を加へたい。

●太田天亮翁『河上彦齋言行録』(荒木精之翁『定本・河上彦齋』昭和四十九年七月・新人物往來社刊より)に曰く、

「彦齋(稜威幸神・高田源兵源玄明――河上彦齋翁)の書を讀むや、甚だ解することを求めず。その字音の如き、敢てこれに關せざるなり。常に好んで『靖獻遺言』を讀む。跋山渉水の際と雖も、必ずこれを携ふ。蘿月松風の下に到れば、乃ち奇石に踞し、懷よりこれを出し、以て朗讀す。讀し卒れば、大呼して曰く、『快甚だし、快甚だし』と」と。

 甚だ解することを求めざるも、口に出だして朗讀幾囘すれば、其の大要、自から知るを得て、道に迷はざるに至る。亦た宜しからずや。
 
 

述而不作。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 5日(土)01時01分20秒
返信・引用 編集済
  ■贈從四位・眞爾園竹屋大國仲衞藤原隆正翁の哥(明治三年。自筆軸)

この國に もとつ教へは あるものを など外つくにの みちもとむらむ  七十九翁隆正



■『論語』述而第七に曰く、

「子(孔丘)の曰く、述べて作らず、信じて古を好む」と。



 日本學協會『日本』平成二十四年六月號を拜讀してゐたら、照沼好文翁『栗田寛博士の學問と恩愛』に、從四位・栗里栗田寛(ひろき)博士(賀茂百樹靖國神社宮司の師なり)の、皇國の「正學」に於ける、史家の心得・學問の意味について、重要なる遺文數條の紹介があつた。摘記して、後學の求道研鑽の資とさせて戴かうと存じます。
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●栗里栗田寛博士『大日本史・志類第一神祇志の序』に曰く、

苟しくも載籍(典籍)の存する所、謹んで其の説を擇び、述べて作らず、以て稽古(古書を讀んで、昔の物事を參考にして、理義を明かにすること)に備ふるは、史氏(歴史家)の當に務むべき所ろ也」と。



●清水正健翁『大日本史の編修について』(『水戸學講座』所收)に曰く、

「抑々余(清水翁)ら、彰考館に入るの始め、先師・栗田栗里、戒諭して曰く、『本館は、西山義公以來、天朝の御爲め、中正確實の史を修めて、忠奸順逆の別を正し、是非善惡の迹を詳かにし、 以て義公の誠を致すべき所なれば、校讎刊定に就いては、一小瑣事と雖も、苟且模稜に附すを許さず、片言隻語と雖も、其の考證に誤謬あらば、痛言極論、辨難攻撃を加へられよ。徒らに師匠たるの故を以て、之を憚り、之を避け、腹非面從は、在館者の最も戒むべき所なり。是れ、本館(彰考館)傳統の心法なり』と」と。



●栗里博士『講演記録』に曰く、

「(學問といふものは、)先づ自分の國のことを能く心得て、夫れから外國の事に及んで、我が國の助けとする所の學問である。學問も、自國の事を差し置いて、外國のことを專らにすると云ふ學問であつてはいけない。道義・倫理を本として、それから自國の風俗、或は習慣、これらを精しく知ることが、學問の意味である」と。



●栗里博士『三浦周行に告ぐ辭』(三浦周行博士『日本史の研究』新輯二)に曰く、

「今日の學者、國家の爲めにせむと欲するものなきが如し。而して徒らに外面の事を脩めて、斷つて蘊奧を極めるものなし。此の如くにして已まば、代りて斯學を繼ぐものなきに至らむ」と。



●栗里博士『日本美術の誤りを正す』(『天朝正學』栗田先生述志録)に曰く、

「世の學者と云ふ者も、多くは淺薄の見識にて、今日、美術學など云ふこと流行する上より云ふときは、佛寺あるを以て美術あり、美術あるにより、日本尊ぶべし、日本の尊きを、萬國に示すは、此の佛寺なり。然れば佛寺あらずんば、美術なく、美術なければ、日本尊からじなど云ふ、愚俗を欺くの説も起るべけれど、天地の大道より見を起すときは、決して左樣のものにあらず。日本あるが故に、佛寺あり、佛寺あるが故に、美術も存するにて、其の根源は、萬古一系の天子おはしまして、古風を棄て玉はず、風俗淳樸なり。 風俗淳樸なるが故に、善惡ともに保存するの勢なり。 是れ、佛寺に古來の美術が存せるの譯なり」と。



●『阿部愿履歴』(自筆稿本)に曰く、

「(栗里)先生、常に云く、『人は、決して面責すべからず、また面責すべきものにあらず』と。兄弟、塾(輔仁學舍)に在ること、五年の久しきに及び、過失、甚だ多かりしかど、遂に先生の呵責を蒙りたることなし。先生は、至つて性急なるよしなれども、毫末もその容を見ることなく、常に惰容なり。苟且にも坐を崩せしことなく、いかなる盛夏といへども、袒裼せしことなし」と。
 
 

『靖国神社の真実』増刷出來。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 3日(木)17時31分37秒
返信・引用 編集済
   『九段塾塾頭・一兵士翁こと 泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』を、増刷いたしました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1509

 無代頒布を致してをりました第一刷は、御蔭樣を以ちまして、有志の方々、ご希望の各位へ御渡し出來、既に在庫も盡きましたので、こゝに増刷に踏切りました。

第二刷】 平成二十四年壬辰 四月二十九日

 今囘は、洵に申し譯ないのですが、「増刷協贊費」として、一册につき、

一、金 貳千圓 也

を戴きたう存じます。何卒、ご賢察ください。

 増刷の協贊を賜はる御方、ご希望の御方は、在庫を確保してをりますので、下記の頒布取扱先まで、ご連絡ください。送附して戴くやう、御願ひ申し上げてをります(册數・郵便番号・送附先・芳名・電話番號を通知ください)。

**********

【 連 絡 先 】
  ↓↓↓↓↓

洛風書房

郵便 604-0912
  京都市中京區二條通河原町東入 京都書店會館二階

電話 075-241-3849

電送 075-241-2193


**********



【『靖国神社の真実』第二刷の正誤表】

●頁・段―― 行‥‥ → 

四一○  ――  六‥‥頒價 壹千圓 → 協贊費 貳千圓

 初刷の誤植は、訂正濟です。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/99



 増刷に協贊して戴ける御方がをられましたら、是非とも「洛風書房」樣へ御願ひ申し上げます。無代では氣がひけるてふ奇篤なる御方(苦笑)も、どうぞ宜しく御願ひします。

 又たDVD『凛として愛』は、下記にて、御取扱ひされてをられます。共々御願ひ申し上げます。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

 濟南事變の日に、備中處士、恐懼、敬つて白す。
 
 

嗚呼、屈平を弔はんかな。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 2日(水)23時40分21秒
返信・引用 編集済
   五月五日は、楚の屈平、字は原が、汨羅の淵から、石を懷にして身を投じた日である。小生の高校時代、漢文の授業で、『漁父の辭』を讀み習うたことを想出す。素讀幾囘、口に甘うした爲か、横山大觀畫伯「屈原」の繪と共に、殊に懷しい。然し古文の時間には、苦手な文法のみで面白くなかつた。「しむんずざりし、ましまほし、するはしだなら、らるさすは、しだなら以外に、りはサ變」。何の事か、今は忘れてしまうた。誰か教へてたもれ。先生は、地方では有名な詩人の由。此の先生、風邪にて休まれた折、校長先生が來られて、特別講義「徒然草」。黒板に、一氣に空にて書き給へり。『徒然草』は、全て暗記してをられた由。手紙を書かれるのにも、卷紙にてすらゝゝ。戰前の師範學校出は、小生輩とは炳かに違ひ、凄すぎた。

 閑話休題。楚の屈平、御蔭樣にて、大夢翁『青年日本の歌』の歌詞も理解出來たし、絅齋先生『靖獻遺言』卷の第一を拜讀するに入り易かつた。此の漁父(老莊)よりも、屈平(孔朱)に軍配を上ぐるは、小生、歳老いた今も、少しも變らぬ。『靖獻遺言』を讀んでは、尚ほ更らなり。端午の節句、遙かに屈平を弔はむも、亦た宜しからずや。



●屈平『漁父の辭』(『楚辭』所收。沼田雪窓翁編『靖獻遺言講義』を以て補ふ))に曰く、

「屈原、既に放れて、江潭に遊び、行々澤畔に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁せり。

 漁父、見て之に問ひて曰く、「子は、三閭大夫に非ずや與。何の故に斯こに至れる」と。

 屈原の曰く、「世を舉げて、皆な濁り、我れ、獨り清めり。衆人、皆な醉ひ、我れ、獨り醒めたり。是を以て放たれたり」と。

 漁父の曰く、「聖人は物に凝滯せずして、能く世と推移す。世人、皆な濁らば、何ぞ其の泥を□[三水+屈。にご]して、其の波を揚げざる(世俗に合はす)。衆人、皆な醉はゞ、何ぞ其の糟を□[食+甫。くら]ひて、其の□[酉+離の左。しる]を□[綴の右+酉+欠。すゝ]らざる。何の故に深く思ひ、高く舉がりて(高潔にして同調せず)、自ら放たしむるを爲すや」と。

 屈原の曰く、「吾れ之を聞けり。新たに沐(洗髮)する者は、必ず冠を彈(はじ)き、新たに浴する者は、必ず衣を振ふ。安くんぞ能く身の察察(潔白)たるを以て、物の□□[三水+文。もんゝゝ。汚穢]たる者を受けんや乎。寧ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らるゝとも、安くんぞ能く皓皓の白きを以てして、世俗の塵埃を蒙むらん乎」と。

 漁父、莞爾として笑ひ、枻(えい。舟縁)を鼓(たゝ)ひて去る(堅苦しい男ぢや、相手になれぬと去る也)。乃ち歌ひて曰く、「滄浪の水、清まば兮、以て吾が纓(冠の紐)を濯ふ可し。滄浪の水、濁らば兮、以て吾が足を濯ふ可し」と。

 遂に去りて、復た與に言はず」と。


○司馬遷『史記・列傳・屈平』(『靖獻遺言講義』から引き、又た之を以て補ふ)に曰く、

「(淮南王の云く)夫れ天は、人の始め也。父母は、人の本也。人、窮すれば、則ち本に反る。故に勞苦倦極、未だ嘗て天を呼ばずんばあらざる也。疾痛慘憺、未だ嘗て父母を呼ばずんばあらざる也(誰に云はう樣も無い時は、父母を思ひ出す)。

 屈平、道を正し行を直くし、忠を竭し智を盡し、以て其の君に事へ、讒人、之を間す。窮すと謂ひつ可し矣(竭・盡の二字を見よ。屈子のやるせない心が見える。頼み切つた君を、讒人が隔てる。窮すと云ふも、これ程のことは無い)。

 其の志、潔し。故に其の物に稱すること(志のなりが言に發する故に)芳し。其の行ひ、廉なり。故に死して容れられず(了簡のならぬ)。濁穢の中に蝉蛻し、以て塵埃の外に浮游し、世の滋垢を獲ず、□[白+爵。淨白]然として泥して滓されず(水晶の泥中に在る樣に、汚さうとしても穢れぬ)。此の志を推すに、日月と光を爭ふと雖も、可也」と。



●高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、

「端午は初五の意であり、月の初めの五日と云ふことで、初五は毎月ある筈のものであるから、五月五日は五五、重午・重五などと云つた例もある。今は端午とだけで、五月五日のことに通用せられてゐる。『續日本紀』に、

「聖武天皇・天平十九年五月に、昔は五日節に菖蒲を縵としたが、近ごろすたれてゐる。今後は、菖蒲縵をせぬものは、宮中に入るを禁ずと仰せられたこと」

と記してあるから、古い由來のものである。菖蒲は藥草で、食へば長生をするとか、一切の惡を除くと云ふので、邪を祓ふ爲に用ひる。『公事根源』には、「天皇、武徳殿に出御、群臣に酒をたまふ。人々、あやめのかづらをかけ、典藥寮、あやめの御案(おつくゑ)をたてまつり、群臣に藥玉を賜ふ。五色の絲を臂にかければ、惡鬼を祓ふと云ふ」と記してある。酒は菖蒲酒で、菖蒲を切つて酒に漬け、或は雄黄を少し加へる。又た菖蒲を縷とし屑として、酒に泛べたこともあるが、近世は、酒瓶に菖蒲の一切れを漬けただけである。

 鐘馗は、唐の玄宗皇帝の夢に現れ、天下虚耗の□[薛+子。わざはひ]を除くと奏したと云ふ傳説により、邪鬼を祓ふ神像にあつかはれてゐる。大晦日に用ひられたのが、後には五月五日に用ひられるに至つたのであるから、正月と端午の行事の相似を示してゐる。鐘馗は、實は素戔鳴尊であると云ひ、畫家も素戔鳴尊をかくものがあり、大蛇退治の酒を、菖蒲酒に云ひ傳へてゐる人もある。

 民間で五月人形を飾るのは江戸時代以來のことで、始めは厚紙に人形をほり、薄い紙で冑を作り、眞菰の葉で作つた馬、木で作つた鎗長刀を、幟や旗と共に屋外に埓を作つて立てたのが、後には屋内に飾るやうになつたのであり、鯉の吹流しを立てるのも、近世のことである。

 粽を端午に用ひるは、『延喜式』にも出てゐるが、柏餅は萬治以來のことである。蘇民將來の子孫が、五月五日に粽を食して疫病を免れたと云ふ傳説もある。‥‥

 かく考へてくると、端午も正月や盆の行事と同じ趣があつて、先づ菖蒲を軒に葺いて齋屋とし、縵をかけて我が身を淨め、菖蒲酒を飲み粽を食べて體中を清め、眞菰の馬を作つたり、幟や旗を立てるのは、神迎への形である。‥‥

 又『伊勢物語』などにも記してあるが、端午に知人の間に粽を贈答したことや、殊に室町時代以降、幕府から朝廷に粽を獻上してゐたことなどは、正月や盆の行事に贈答が伴ふのと同一の趣であり、又た平安朝の頃、衞府から菖蒲を輿に入れ、諸殿を葺く料として、禁中に奉られたことも考へ合はされる。この菖蒲輿は、『西宮記』・『枕草紙』などによると、花瓶をおき十本入れて、南庭に竝べることになり、更に變化して、菖蒲御殿と云ひ、屋形形のものに入れて奉ることにもなつた。‥‥

 屈原が、五月五日に、汨羅に投じて死んだのを哀しみ、楚の人が、毎年この日に、竹の筒に米を入れて水に投げ入れて祀つたのが、支那の祭の起源だと云ひ、‥‥屈原と限つたことでなく、供物を川に投じて靈を祭る習俗のあつたことを示すものと思ふ。

 かく考へて來ると、三月の雛祭と同じ起源に辿りつくのである。よつて端午の節句に、綺羅びやかな人形を飾り立てるよりも、軒に菖蒲を葺き、藁の馬を作つて靈を迎へ、粽を供へて祭ればよいやうに思ふ。近頃、端午の人形の派手なのが行はれてゐるが、徳川時代にも、度々制壓されたもので、華美に流れて奢に耽けることは避くべきことであり、儀式は、常に清素を尚ばねばならぬ。‥‥度々禁令が出てゐる。この主意は、今も後も、世運を思ふものゝ忘れてならぬ心得である」と。
 
 

中澤伸弘博士『みちのさきはひ』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 1日(火)17時50分53秒
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   本日、はからざりき、柿之舍の翁より、御ふみ『みちのさきはひ』を賜ひぬ。あな、うれしきかも。うなねつきぬき、ゐやたてまつる。



■柿之舍中澤伸弘博士『本居宣長翁・玉鉾百首講義、本居大平翁・倭心三百首抄講義――みちのさきはひ』(平成二十四年四月發行)の「はしぶみ」に曰く、

「さくゞしろ鈴の屋のうしの、玉鉾百首はしも、わが神ながらの道のことわりを、みそあまりひと文字に詠みたまへるものにて、この道にわけいらむとする人の、いとも尊きみをしへなるを、大人神去りましゝより、はや百と數へては二めぐりあまりの、あまたの年月のふるまにゝゝ、見む人、讀まむひとも少なくなりて、わがちはやぶる神代のむかしの傳へすら、天つ狹霧のまがわざに知らですぐす、みくにの國たみの多きを、むらぎもの心やすからずおもひゐたるを、いにし年に若きらがまゐきて、この玉鉾百首なむ教へたまへかし、すめらみくにの物學びせましと、ねもころに願ふを、因幡の山のいなとも言へず、その熱きこゝろざしにほだされて、月にひとたびの御國まなびの集ひをまけて、その折々に拙きときごとをしへまゐらせしが、數つもりて、ふたとせあまりして、この百歌をば説きをへぬ。

 また大人のあと嗣ぎましゝ藤垣内の翁の、詠みたまへる倭心三百首をも、次々にこうさくせしも、あまたとなりぬ。かれ教へ子どもの、このふたつをば刷り卷にして、世にあまねくわかてば、鈴の屋うしのをしへは言ふもさらなり、わが神代の傳へをはじめとして、神ながらの尊き國がらをまなぶよすがになるべしと言立てするを、おほけなきしれわざにこそと聞きもせでありければ、いかでゝゝゞと朝夕べに言ひおこせるを、去ぬる彌生のおほなゐによりて、ひむがしの縣あがた町村に、あまたのそこなひのいできて、人ごころ癒えることなきほどに萎えしぼみしを、こはいかにせむ、さらば日の本のもとつ御國のたてなほしに、やゝに力そふべきなかだちにもならまほしと思ひて、こたびさくら木ににほはせて、みちのさきはひと名付けて、おほけなくも世に弘むるは、たゞゝゞにたまちはふ神代の道のさきはひを祈るがゆゑにこそ

 平らかに成るてふ大御代の二まり四つのとしの はるあさきころ

 かく言ふは 柿の舍にふみよみもの書く すめらみくにの國つみたみ みつぐりの中澤ののぶひろ」と。



 愚案、『漢書』成帝紀・隆朔二年九月條に曰く、「詔して曰く、古の大學を立つるは、將に以て先王の業を傳へ、化を天下に流さんとする也。儒林の官は、四海の淵原なり。宜しく皆な古今に明かにして、故きを温ねて新しきを知り、國體に通達すべし。故に之を博士と謂ふ。否らざるときは則ち學者、述ぶること無し焉。下の輕んずる所と爲る。道徳を尊ぶ所以に非ざるなり」と。
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 中澤伸弘博士は、現代の皇學者に坐して、博士も衆き中、國體に通達せられ、眞の「博士」の一人でありませう。なほ柿之舍にて、下記を頒布されてをる御由であります。住所等は、敢へて省略させて戴きます。

一、國學研究會講義録『みちのさきはひ』 送料共 一千八百圓
一、考證隨筆『柿の落葉』 送料共 一千五百圓
一、自撰歌集『柿の下枝』 送料共 一千五百圓
一、平田篤胤翁『毀譽相半書・このてかしは』 送料共 三千圓
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一、錦正社刊『徳川時代後期出雲歌壇と國學』
一、ナツメ社『圖解雜學・日本の文化』
一、展轉社刊『宮中祭祀』
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一、戎光祥出版刊『やさしく讀む國學』
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第一章 「國學」入門
第二章 國語の成り立ち
第三章 國學者が夢見た「日本」の姿
第四章 對立する宗教と靈界のはなし
第五章 日本文化へのまなざし
第六章 現代社會に生きる國學思想
 愚案、該書は、國學の入門書とは申せ、實によくまとまつてをり、通俗本と違ひ、勉強させられること多大、同好の士の一覽を乞ひたいと存じます。たゞ所謂る神風連の總帥・林櫻園大人の項目が立てられてゐないのが、洵に殘念ですが‥‥。また『柿の落葉』は、平泉澄博士にも同名の私家版著作『柿の落葉』――寒林自敍傳・平成二年二月刊あつて、小生には些か複雜な思ひもございます。
 
 

楠公・赤城の志を繼承するとは、常在不斷に名を正して、大義を立つるに在り。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 5月 1日(火)17時38分37秒
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  ~承前~

 「今楠公」と呼ばれた眞木紫灘先生は、夙に有名であるが、「今高山」と稱せられた人に、贈從四位・靖國神社祭神・有馬新七(武麻呂)平正義先生がゐる(『殉難録稿』に云ふ、「(正義は)幼きより勤王の志を抱き、常に幕府の所爲を憎みて、之を罵詈する事、毫も忌憚なかりしかば、人、皆な今高山と稱せりとなん」と)。

 「(天保)十年己亥の歳に、初めて『神皇正統記』・『保建大記』を讀みて、我が皇國の大道、有るべき由を略ぼ考へたり」てふ、崎門埀加の人・有馬正義先生(『自敍傳』)は、高山赤城先生を傳べするに缺かすことが出來ない。久保田收博士の所論を聽きたい。



●久保田收博士『有馬正義先生』(昭和十九年・至文堂刊。『有馬正義先生遺文』昭和四十五年三月・藝林會刊に所收)

「(有馬正義)先生の正之崇敬を語る一は、正之の傳記編纂のことである。正之の傳記として先生の編纂に係るものが二部存してゐるが、その一は、杉山忠亮著『高山正之傳』に、先生が註を附せられたものである。不幸散逸して、その一部を殘すに過ぎぬが、その中、「余も亦た甞て常陸に遊ぶの日、小沼實の藏する所の正之の肖像を觀るに」云々とあるから、安政五年、常陸周遊の後、恐らくは六年、歸麑(麑=鹿兒島)の後の著述であらう。先生は、杉山の本文の所説を、鹽谷世弘(宕陰)の著『正之傳』・頼山陽の『正之傳』・柴野栗山の『正之を送るの序』・正之の『富士山紀行』などに基づいて再檢討し、附註において之が斷を下されたもので、附録として右の諸文を附載されてゐる。この先生の附註はかなり詳細緻密であるが、その中に、正之の最期の條下に、

『抑も正之、一匹夫を以て四方を遊歴る。其の志は、一筋に皇室を復興し奉り、大義を天下に明かにし、名分を正すに有り。其が忠義誠確の心、凛乎として須臾も朝廷を忘れ奉らず、幕府のために忌諱せらるゝ、宜べなり。依つて幕府より探索ること、甚と密なりしなるべし。豈に正之、此れを聞いて、既に捕はれに就くに至らむとする物から、日乘等をも燒去て自殺せられしなるべし。依つて嘉膳(思齋森敬庸)に、「忠義と思ひしも、今ま皆な不忠不羲云々」と云はれしなるべし』

と述べ、更に筆を進めて、鹽谷世弘の所論に及び、世弘が、「正之、幸ひにして寛政・享和、至平の世に出で、文明の運に會ひ、其れをして節を折り道を學び、刻苦、以て其の□[口+彦]に克たらしむれば、則ち或は大に世用に適はん。然る能はずして、辛を甞め苦を食し、徒らに脾肉を撫し、以て強死に至る。亦た怜れむべきなり」と云つたのは、先生より見るとき、『深く正之が心腑を知らざるが故』であつて、これ、儒者の通弊といふべきであるとし、更に、

『世の儒者ちふ者は、動もすれば己が崇尚る學び以て、我が皇國の忠臣義士を非議るが、常多き習ひにて、深く事情を考へず、己れ實事を經歴せず、紙上にのみ眼をさらし、今日の事に迂闊き類ひ、往々皆な是なり。獨り世弘のみにはあらずかし』

と述べ、儒者がその事とする學問の性質より、自然、支那を尊崇し、日本の國體を忘れ、從つて國史の實態にふれることなく、徒らに抽象的思辨を事とすることを、痛く排議せられた。この世弘の所論に對しては、吉田松陰が、安政四年の『幽室文稿』(卷三)中、『鹽谷の文を讀む』といふ一文において、「是れ、神州の爲に言を立つる者に非ざる也。亦た高山仲繩その人を知る者に非ざる也」と論破したが、先生が世弘の説に推服し得ず、神州の爲に、また正之その人を知る者として、俗儒を批判せられたことと、その揆を一にするものといへる。

 正之傳のその二は、國文による傳記である。‥‥殘るところ僅少に過ぎぬため、内容を詳細にすることはできぬが、前書の附註に參照せられた諸書を以て、新たに先生自身の力を以て正之傳を編し、その『專ら大義を明かにし、名分を正すを以て自らの任と』せられた人であることを闡明せられたのである。

 先生の正之崇拜を示すものは、右に止まらない。安政四年、江戸滯在中の覺えである『遊歴中偶録竝草稿文留』を見ると、正之が楠公追善の爲め『中庸』を講じたといふ逸話を傳へ、鎌倉・浦賀旅中の作に、

『東人いかにやいかに大君の しらせますべき御代としらずや』

とあるのは、正之の「薩摩人いかにやいかに刈萱の 關もとざさぬ御代としらずや」の歌に出づるものであり、『雜録』を見ると、安政五年、常陸笠間でみた正之の歌が記されてをり、『安政擧義記事』には、間中與右衞門(諱宜之、號雲帆)の名をあげて、『正之の剃髮所持にて、墓石建立之賦、長島仁翁話にて候ふ事』とあり、安政六年の『擧義要録』には、正之の人物を記した草稿があつて、

『高山正之、天資英邁、早く朝廷を崇敬し、忠肝義膽、金石を貫き、名分を明かにし、大義を正し、既に將に廢れんとするの綱紀を維持し、至誠感得、靈龜獲られ、宸極の餘光を拜し、慷慨悲憤、尊氏(ママ)の墓を鞭うつ。其の四方を周遊する、蓋し亦た微意あり焉。不幸にして其の志、未だ遂げず、幕府の忌諱する所と爲り、自盡して逝く矣。然れども天下萬世をして『春秋』の大義を知らしむ。其の鼓舞作興の功、豈に魯仲連が輩の及ぶ所ならんや乎。嗚呼、亦た偉なるかな矣哉』

とあり、その大義名分を明かにして、忠肝義膽を深く敬慕されてゐることが伺はれる。更に安政六年四月、土浦の長島仁右衞門(諱尉信、號二齋)より得た、正之が祖母に送つた書簡を、友人平山清寧に與へて、その書簡の後に記して、この書簡に、正之の孝敬の心の深きことを見得ると述べ、かつ、

皇室振はず、名分明かならざるの秋に當りて、正之、特に南朝忠臣の裔を以て、慷慨大志を懷き、一匹夫を以て四方に周遊し、挺然、身を顧りみず、皇室を翼戴し、邦國を靖んずるを以て己が任と爲し、孤忠を奮ひ、誓つて將に名分を正し、大義を天下に明かにせんとす。嗚呼、亦た偉なるかな哉。其の平素、魯仲連の人と爲りを慕ふと雖も、英邁卓越、天下の忠義の心を鼓舞するに至りては、則ち仲連を過ぐること也、蓋し遠し矣

と云ひて、先生の正之を仰ぐ所以を明かにし、

後の觀る者、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て念と爲すべし。乃ち其の王を尊びて名分を正し、禮義を崇びて人倫の實を明かにするに於いては、其れ亦た將に慨然興起して補益する所ろ有らんとす矣

とて、正之を仰慕するのは、直ちに尊皇の大義へ挺身するに外ならざるべきことを強調せられたのである。

 以上の如く、先生の高山正之に對する敬仰は極めて強く、楠公崇拜と相俟つて、先生の精神の純化形成に資益してきたのであつて、楠公を繼ぎ、正之を承けるを己が任として、その志業を推進せしめられたのであつた」と。



●仲田昭一翁『高山彦九郎――天明二年・江戸日記』(平成二年十二月・茨城縣立歴史館史料部史料室複製)に曰く、

「高山彦九郎は、簗又七次正(後ち正記)[寶暦二年~文政十二年。中津藩軍學者で、中津藩・水戸藩の指南役]と親交があり、彦九郎の自刃後は、殆んどの遺品が、次正に預けられた。

 その後、簗紀平[又七の甥]が、高山彦九郎の遺品を引き繼いだが、紀平が、幕府の儒學者で民政家でもある林鶴梁[文化三年生。尊王家でもある]の門下生でもあつたことから、鶴梁は、簗紀平宅の彦九郎遺品を見て請ひ、これらを讓り受けた。鶴梁の盟友であつた櫻任藏(諱眞金、號月波)[文化九年生。父は、江戸の相良氏より眞壁町醫・小松崎氏の養子となる。尊王家で、相良一雄とも稱す]は、鶴梁に懇願して彦九郎の遺品を讓り受け、また自らも上州へ赴き、遺品を收集してゐる。

 任藏の親友であつた長島尉信(二齋)は、高山彦九郎遺品の多くを、任藏から讓り受けたと思はれる。それらの一部が、更に岩倉具視・有馬新七・松浦武四郎・藤田東湖・藤森天山らへ讓られてゐる。‥‥

 また尉信が、櫻任藏より讓り受けた高山彦九郎の遺髮は、天保十一年五月二日に、水戸藩士・杉山千太郎(諱忠亮。號復堂)に預けられたが、杉山の死後、藤田東湖の推薦もあつて、尉信の手を介して、高山彦九郎崇拜者である猿島郡岩井の間中雲帆へ讓られ、その後、谷干城(隈山)へ渡り、更に山内家へ渡つたとされてゐる」と。
 
 

名分を紊るは、誰人がするや。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月28日(土)17時23分34秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 吉田松陰先生を導いた人に、宇都宮默霖翁がゐる。其の默霖翁の、高山赤城先生を説ける一條あり、こゝに紹介したい。

【贈從五位・湊川神社權宮司兼權中講義・史狂王民宇都宮眞名介源雄綱――默霖翁】
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●宇都宮王民翁『二十一囘烈士(吉田松陰)に復する書』(安政三年八月二十六日~九月一日の間。川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』第二十二――國學研究叢書・昭和四十七年七月・錦正社刊――『吉田松陰全集』卷二「講孟餘話[實は講孟箚記と申す也。考證の不足なり]附録第八・默霖書撮抄一條」)に曰く、

「山陽・山陰・四國・九州、諸侯、何人ありや。一人どもは、朝夕、天家を遙拜する國君あるか。江戸に往反の間、畿内を過ぎるときに、京都を拜する人あるか。輿(かご)に坐し馬に騎して、王室をば目下に見て過ぎる程の大名、何ぞ王室に復する志を抱かんや。侍儒にも、一人も夫れを勸むる人はあるまい。終日、その君の惡をすゝむるやうなる儒生多し。何ぞや。偶々明賢の邦君ありても、儒生より時勢々々と、時勢ごかしにして、なにもかも時勢と云うてすめる。左樣の志ある人は、往昔の天子の失徳も、口に信(まか)せて譏(そし)るなり。今の史學家の論を見玉へ。豈に臣たる人の心ならんや。今迄の事は、みなゝゝ禍を王室に嫁してすめる心なり。學問は、いかやうなる事を教へたるぞ。願ふにそれを知らぬは、人に非ず。却つて道を枉げる事、天下の通弊となれり。今時の儒生の多き事は、日本開闢以來の盛なるありさまなり。名分を紊るは、誰人がするや。一人紊したるを、次第々々に繼いで行き、‥‥此の如くなり行きし事なり。

 しかればこれより後に興れる伯(=覇)者の時には、前轍を履んで、儒生の論は今時より盛に媚びるなり。これ、勢なり。伯者三四人更はれば、必ず自ら天子に比するやうになる勢なり。これらの事は、少々王室に志を傾けたらむ人は明知する事なり。しかれば筆誅せねば、後は繼いで筆誅するものもなきやうになる。武臣、竊權より一千年にならぬ。然るに此の如くなり行きし世のありさま、中々腸を斷つほどなり。今、千年二千年せば、いかなる儒生の論をなすやらん。いとゝゝ恐しき事なり。それも、天子の位も三種の神璽も外にわたし、革命の國と見たらば、筆誅には功なき事なり。筆誅の本懷を明かに人に察せらるゝ事は、我が本心に非ず。とてもそれに與する事はならぬ世なり。

 嘗(こゝろみ)に蒲生(君平)と林子平との爭をみよ。又、林平が中山公に詰りし事をみよ。子平が、高山(赤城)が顛末を惡んだる事を見よ。その時には、皇家には、御難題山々なり。中山卿(准大臣正二位・中山愛親)、中年時より惡まるゝ事なり。六十歳斗(ばかり)の時に、一勇を振ふ。もしかの時に、君命を辱めたらば、蒲生・高山・諸同志を引き來て、正名の軍を張る心なり。勢は不可なれども、その志は感泣するほどなる事なり(所謂る尊號一件)。江戸には、全く大貳(山縣柳莊)などにもこりてあり。故に蒲・高を、益々好まず、その上に、二子を感じて謁見を許せる諸侯多ければ、江戸には内をもおそれたる心もあり。且つは公卿の器量をも、これにて見定めんとなり。徳大寺のやうなる人あらば、宜しかるまじとなり。もし五説(寛政四年、後櫻町天皇の幕府に下されたる御詠に對し奉り、幕府が朝廷に上りし五箇條の難題、是れ也)に、之に當るの答なくば、その後は江戸より自在に、王家を指揮せんと云ふ心なり。その危き事、累卵とやいはん。天子の御心を、少々察し見てくれよ。徒らに昔の事を言うて談話する心では、高・蒲や中山の大忠の心いきは、よもしれまじ。人、木石に非ず。なにとて、御叡慮が察せらぬやらん。我には血熱斗にて、誰にか之を吐かんや。平生、怏々たり。しかれども神明あり。二十一日斷食して、『僕が議論、もし公道を害し候はゞ、速かに命を斷ち玉へ。もしその論、公案ならば、守護して、その志を助け玉へ』と誓ふ。その事、誰にもしられたき心なし。義卿(吉田松陰)にも云ひたくなし。他人に説く勿れ」と。



 贈正四位・靜修菴蒲生君平秀實翁は、「孝子の情、終身の喪有り。忠臣の心、革命の時無し」と申された。然るに明治「御一新」を、現代の史家・文人は、「革命」と云つて憚らず、嗚呼、何たる言靈ぞや。抑も我が國には、絶えて革命の亂逆を見ざるなり矣。然るに輓近、人心浮薄にして邪説横行し、國勢陵夷して、遂に未曾有不敬の言辭を弄ぶに至れり。豈に慨歎に堪ふべけんや哉。

 また同血社主人『一艸獨語』に、『山陵志』の紹介あり。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/16917357/
http://sousiu.exblog.jp/16922717/



 愚案、川上喜藏翁『宇都宮默霖・吉田松陰――往復書翰』は、正に「大義」答問であつて、有志には、是非とも研鑽を乞ひたき書ゆゑ、古書を探索し、八方、手を盡して、何としても座右に置いて戴きたいものであります。錦正社、何故ゑ再版せざる、眞に遺憾千萬なるべし。

【參考・春風文庫】
  ↓↓↓↓↓
http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/hakubutu/hakubutu.html
 
 

赤城先生遙拜の姿は、斷哭絶慟の悲しみを顯せしものなり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月28日(土)00時14分50秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 下記は、雀里新井小一郎正道翁の編纂する所の『高山芳躅誌』、書肆に注して、やつと到來。此の雀里翁は、上野國伊勢崎藩の儒臣にして、幕末には函館御雇奉行に拔擢、明治御一新後は、一宮貫前神社權宮司となりしも、幾ならずして之を罷め、郷里に南淵塾を開き、地方の育英に盡されし人なり。此の篇は、雀里翁が、弱冠の時、躬親から高山赤城先生の令妹・錦子刀自、及び親交ありし浦野神村翁を首め、岸昌榮・關睡□[山+同]・長尾西山の如き、學徳共に地方の師表たる諸老の舌端より出でたるもの、洵に珍重の書と謂ひつ可し矣。赤城先生の悲しみは、不臣たる懺悔から來り、遂に決意となる、而してそれを貫くもの、戀闕のこゝろ、即ち是なり。



●新井雀里翁編『高山芳躅誌』の「高山君略傳」(大正十五年四月・雀里會刊)に曰く、

「君(赤城先生)、人と爲り、慷慨奇節の士にして、精悍倔強、好んで氣を使ひ、人の惡を疾むこと深かりし故に、郷黨、之を畏憚して、相親しむ者、少なかりしと云ふ。其の人と交接の際、然諾を重んじ、能く師友の諫を容れ、過を悔い善に與する、流るゝ如く、毫も吝惜の意なし。獨り王覇隆替の形勢を論ずるに至つては、其の身、布衣の分に在り乍ら、王家を奉戴して、尊崇敬肅するの形容、其の身、親しく朝廷に仕へて、至尊に咫尺し奉るものゝ如し。覇府を嫉視し、叱咤憤懣する、恰かも不倶戴天の仇に似たり。毛膚に浹り、骨髓に徹せる、又た其の太甚だしきを見る、と。其の奇幹突兀として、口吻、都て人表に閃發せり。

 書を讀む、電覽一過するのみなれども、能く其の大義を發揮す。又た好んで詠歌すれども、造詣を覓めず、眞率、獨り情を遣るのみ。曾て撃劒を學びしかど、殺活の機、只だ一撃に寓せりと云つて、遂に習熟を要せざりし、と。

 夙に遠遊を好み、西は肥薩を究め、東は羽奧を探り、北は二越に憩ひ、南は房總に客たり。各國所在の名山大川、縱横跋渉せざるなく、足跡、海内に遍ねし云ふ。然るに其の志の存し、意の注する處は、吉野・隱岐・佐渡・讚岐・土佐など、天皇巡狩、親王遷徙の遺蹟に在つて、其の地に至るや、必ず洒掃して塵を淨め、草華を捧げ、俯伏流涕、佇立低囘、其の情の濃やかなる、宮人の舊恩を感じて忘るゝ能はず、之に泉下に隨はんと欲する者の如し。

 君、曾て云ふことあり。『吾、京師に遊ぶ、數囘なり。九重の宮闕を拜する毎に、雲霧を披いて青天を望むが如く、人間世界に、此の如きの愉快を覺えねども、又た忽ちに數石の血涙、滿面に漲り來り、斷哭絶慟を促す。此の悲み、如何』と。

 最後に再び西遊して、肥薩の故人を訪はんと、筑後の久留米に至り、同國御井郡櫛原村の閑士、森嘉膳と云へる人の宅に寓し、終ひに屠腹して歿す。實に寛政五年六月二十七日也。享年四十有七。久留米寺町・眞言宗遍照院中に葬る。僧、諡して松陰以白居士と云ふ。

 嗚呼、君が家を忘れ、身を擧げて國に許し、山を裂き海を屠らんと欲する、勤王の志氣、遂に達せず、海内、又た一人の相傳ふなくして斃る。然りと雖も其の正大の氣、宇宙に□[石+旁]□[石+薄]たり。豈に百載の下、之れが志を繼ぎ、感發勃興せしむるなからんや」と。


●『高山芳躅誌』に曰く、

「君の妹氏(伊與久嘉吉政明の室・高山氏錦刀自)云ふ、兄の死する、其の故あるを覺ふ。兄、遠遊より歸る毎に、怏々として樂しまず。『文士・儒生、恬熙宴安の人より、却つて遊侠・賭博の徒には、約を信にし、諾を重んずる者少なからず、然して文士・儒生は、皆な名教の流なり。賭博・遊侠は、多く刑餘の儔なり。其の人、得難きを悲しむ』と云はれしが、一日、幕政大いに改正し、兄の志を同じうし、相謀る新善なる友、冤枉に罹り、死刑・流罪に行はれたる者六七人、是を聞いて、『吾が志、休みぬ矣』と云つて、衾を擁して打伏すること十餘日、漸くに起き出で、西遊を志すとて、暇乞に來られしが、いつもより氣勢無く、相訣れたり。此の行、遂に永訣と成りし、と。

 君の遺墨、今尚ほ其の家に存する者數種、中に就て、左の數首、尤も其の志操を見るに足る。因て之をこゝに寫す。
神風になびくや廣き天の下 民の草木の數ならぬ身も
君につかへ神につかふる心もて なきあと問へよ人の世の中
君を思ふ心の人をたづぬるに 親を養ふものにぞありける
我をのみ思ふばかりにあめつちの めぐみも露ぞ知らぬ民草
同じきは親をば思ふ心にて 誰もかはらぬものにぞありける
願ふ事の惡しきは止めよ道ならば 叶はぬものあらじと思へ」と。
 
 

忘年の交――英雄、英傑を知る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月26日(木)23時36分23秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●幽谷藤田一正先生の詩

○「上野高山君[彦九郎]王母八十八初度を賀す[壽し奉る]」幽谷先生十三歳の作

階庭の玉樹、紫蘭に肥ゆ。孫子、觴を稱げて、北韋に獻ず。
膝下の醉歌、塵外の興。香風、時に捲く、老來の衣。

 一正、嘗て高山君の奇節を聞き、未だ見ゆるを得ざるを以て憾みとす。この頃、赤水先生(長久保氏)、其の王母の壽詩の求め有るに因つて、聊か蕪章を呈し、併せて之を賦して奉呈す。

○「高山君に詩を呈す」

聞く、君が高節、一心の雄。奔走、賢を求めて、西、復た東。
遊學、元より懷く、奇偉の策。正に知る、踏海魯連の風。



●復堂杉山忠亮翁『高山正之傳』に曰く、

「(寛政元年秋)一正、萬(立原翠軒)に隨つて江戸に在り。正之、見て甚だ驩ぶ。一正に謂つて曰く、『我れ天下を遊歴し、人に閲すること多きも、未だ足下の如く卓越せる者を見ず。足下、自愛せよ。言に因れば、足下、多病なり、と。講學の餘には、宜しく武藝を試みるべし。劍は一人の敵と雖も、而して陣に臨んでは、衆に先んず。身に精藝無かるべからず。且つ以て身體健やかに、亦た勤學に益有るなり』と。‥‥『我(赤城先生)、遊學を以て事となす。今日の行、萬死、固より甘んずる所なり。身後の事、復た念慮に關はり無し。但し君(長久保赤水)に託すべく、一事有り。某に息女(せい)有り、天下の名士を得て、これに與へんと欲す。藤田子定(幽谷)は、國士無雙、若し君によりて、これを箕帚の妾と爲すを得ば、死するも結草たるべし』と」と。



●赤城高山先生『北行日記』寛政二年七月朔日條に曰く、

「藤田熊之助一正を尋ねける。早や予(赤城先生、四十四歳)が來るべしとて、待ち迎へたり。與助と名を替へたり。親を與右衞門と號す。よろこび出でて、冷麺に酒を出だす。夜半に及んで立つ。‥‥一正と、大義の談有りける。一正、能く義に通ず。存慮の筆記を見す。『同じくは、公(あなた。幽谷)、よろしからん』と示しけるに、忽ち筆を取りて改めける。才子にして、道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける。‥‥藤田一正へ、詩箋十枚を寄せける」と。



●頼山陽外史『高山彦九郎傳』(『山陽遺稿』所收)に曰く、

「高山正之は、上野の人也。字は彦九郎、家、世々農なり。正之、生れながらにして俊異、喜(この)みて書を讀み、略ぼ大義に通ず。人と爲り、白皙精悍(★)、眼光、人を射、聲、鐘の如し。奇節有り。

 母(實は祖母)死りて、冢の側に廬すること三年。□[食+亶]粥も給せず、骨立すること、枯木の如し。事、聞す。官、之を旌(あらは)さんと欲す。其の郷俗、博弈・健訟を喜び、素より正之の爲す所を嫉み、吏に誣告して、之を獄に繋がしむ。獄胥、之に食はしむも、食はざりき。

 已にして出づるを得たり。即ち家を辭して四方に遊び、豪俊奇傑の士を求めて之に交る。江門の人・江上關龍(司馬之介武秀。揚心古流柔術第三世)、豐前の人・梁又七(正記。中津奧平藩士。水戸家指南役兵學者。小野派一刀流)が輩、最も親善なり。天明四年、歳、饑ゑ、所在、盗、起こり、上野も亦た靖からず。正之、袂を奮ひ起ちて曰く、『吾が郷をして、此の不良の事、有らしむ可からず』と。往いて之を理(をさ)めんと欲し、關龍に辭す。關龍、之を援けんと欲す。正之、欲せず。贐(おく)るに衷甲(鎖帷子)を以てす。之を受けて獨行し、板橋驛に至れば、時、已に夜なり矣。二男子有り、橋上に在りて、相ひ嚮(むか)ひて臥す。兩尻高くして、頭凹(くぼ)めり。正之、念へらく、□[足+日+羽。ふ]まずんば、行く可からず、と。之を患ふ。已にして曰く、『是れ官道也。彼れ之を塞ぐは無状なり。□むも可なり』と。凹みし處を□みて過ぐ。其の人、蹶起し竝び呼びて曰く、「誰か吾が頭を□む者ぞ」と。刀を拔き鋒を連ねて追撃す。正之、顧みて睨みて曰く、『喝』と。其の人、辟易して敢へて迫らず。遂に往く。未だ其の郷に至らずして、一旅店を過ぐ。喧嘩して飲酒する者有り。則ち關龍と又七と、徒を帥ゐ途を殊にして先づ往き、事の平ぐに會ひ、會飲せる也。正之を呼びて同醉し、倶に還りぬ。後に官、劇賊の渠帥を獲たり。自ら語るに、「平昔、未だ嘗て難當漢に遇はず。嘗て板橋に在りて、人を要して劫を行はむとし、一眇小丈夫(★)に遇ふ。目を瞋らして我を呵せり。之を憶へば、今ま猶ぽ股栗する也」と。

 關龍、劍を善くす。毎に正之に謂つて曰く、「子、氣を以て人を服すと雖も、武藝に熟せず。眞の英雄に遇はゞ、乃ち窮せん矣」と。正之、服せず。關龍、罵りて曰く、彦九は、無用の男子、能く死せば我を斬れ」と。正之、憤然として刀を拔かんと欲す。關龍、手を以て刀□[木+雨+革+月。は=柄]を壓へ、笑うて曰く、「止めよ焉」と。正之、□[口+音。いん]□[口+惡。を]するも、終ひに拔くこと能はざる也。是に於て節を折り劍を學び、毎夜、自ら試みること千遍に至りて、乃ち寢ぬ。

 正之、又た喜みて文學の士と交はる。人の孝子・義僕の事を説くを聞けば、遠しと雖も、輒ち往いて之を問ひ、轉じて之を人に述べ、殷殷として涙、聲に隨ひて墮つ。古今の君臣順逆の跡を談ずれば、慷慨して、己、與に時を同じうして、其の事に關はるが如し。

 少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、『皇居は何れの方にかまします』と問ふ。人、之を指して示す。即ち地に坐して、拜跪して曰く、『草莽の臣、正之』と。行路、聚まり觀て、怪みて笑ふも、顧りみざる也。京郊に遊び、足利高氏の墓を過ぎ、其の罪惡を數(せ)め、大いに罵り、之を鞭うつこと三百なりき。

 故に平時、人の惡を見れば、之を疾むこと仇の如し。一權人、利を專らにす。中外愁怨するも、敢へて言はず。正之、同志と語り、涕を攬(ぬぐ)ひて曰く、『噫、公上(將軍)、百、知らざる也。今ま故紙を接ぎて幟を爲し、山廟・門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得可し。豎子を誅するに於て、何か有らん』と。聞く者、耳を掩ふ。其の後、弊事、悉く革まり、一號令の出づるを聞く毎に、喜び、色に形はる。

 正之、游道、極めて廣し。公侯、時に之を招致すれば、辭せず。嘗て一侯(松平定信)の政路に與かる者に抵(いた)る。兩童子、澣濯の衣袴褶を穿ち、食を饋(おく)ること甚だ謹めり。侯、指して曰く、「是の小兒輩、長者の之を教誨せんことを欲す」と。正之、之を聞きて逡巡す。侯の曰く、「然かすること勿れ。余と雖も、闕失有らば、之を聞かんことを願ふ也」と。正之、拜して曰く、『然らば則ち敢へて言ふ所ろ有らん。往年、某處の民、兄弟、父が讎を復せし者あり。之を護送するに、囚徒と同じうす。是等の事、風教に關はれり。願はくは意を加へたまはんことを焉』と。侯、謝して曰く、「一時の指揮、到らざりき。後ち當に之を謹しむべし」と。其の世の重んずる所と爲りて、己に直く阿らざること、此の如し。

 然れども正之、東に在りて意を得ず。西游して筑後に至り、一關を過ぐ。關吏、呵して止む。正之、館に歸りて、自ら刺す。館の主人、驚きて故を問ふ。答へず。曰く、「吾れ子を館し、子、自刃す。死して他證無く、又た其の故を知らざれば、吏、來りて尸を檢せんとき、何の辭か之に答へん。願はくは殊(絶命)する勿くして、以て待て」と。正之の曰く、『諾』と。刀を腹に剚し、與に劇談して、夜分に至る。吏、來り、燭を秉りて之を檢し、又た故を問ふ。答へず。固く問ふ。曰く、『狂發せしのみ而已』と。乃ち刀を□[手+堰の右。ぬ]き、突き入ること尺餘にして、即ち死す。死に臨み、館主、言はんと欲する所を問ふ。正之の曰く、『語を海内の豪傑に寄す、好在なるのみ而已』と。

 正之、既に死し、事、三都に傳はる。其の死せし所以を知る莫し。或は曰く、「關吏の辱めを受け、慙憤して死せし也」と。關龍の曰く、「吾れ數々(しばゝゞ)人を罵りて之を試みしも、眞に我を斬らんと欲せし者は、獨り正之のみ。渠れ已に人を殺すに果なり。故に亦た自ら殺すに果なるのみ耳」と。又七、之を聞きて曰く、「否、否。彦九は、蓋し夢寐の中に感ずる所ろ有りしのみ爾、渠は夢むと雖も、猶ほ能く死する者也」と。

 外史氏の曰く、予(頼山陽翁)、幼きとき、先人(尊父・春水翁)の、善く彦九郎を談ずるを聞けり。先人も亦た嘗て數々三都の間に相逢ふ。記せば、其の郷貫は、新田郡細谷村の人に係る。先世、蓋し南朝に屬せし者なり。其の義を好むこと、自る所ろ無しとせずと云ふ。

 嘗て客と語り、元弘帝(後醍醐天皇)の伯耆に逃れたまひし事に及び、其の地名の訓讀を爭ふ。正之の曰く、『吾れ嘗て再び伯耆に赴き、土人に訪ひて之を識る』と。客、復た爭ふこと能はず。其の人の確實なること、此に類せり。先人、嘗て之れが傳を爲(つく)らんと欲して果さず。近ごろ或は正之が事を書せるを讀むに、疑ひて不軌の民と爲すは、冤なり矣。予、故に略ぼ聞く所を敍すること、此の如し」と。



 愚案、高山赤城先生を、山陽翁「白皙精悍・一眇小丈夫」(★)と云ひ、齋藤拙堂翁「短小精悍、皙きこと女子の如し」と形容するも、それは水戸の徂徠學派・立原翠軒の肖像を見誤りしものにして、前に引用せる菅茶山翁『筆のすさび』、亦た柴野栗山翁『高山仲繩を送る序』・池大雅翁寫生の「肖像畫」、竝びに雀里新井小一郎正道翁編纂『高山芳躅誌』(大正十五年四月・雀里會刊)に、

「伊勢崎の醫員・岸昌榮と云ふ者、曾て君(赤城先生)と甚だ親善にして、君、伊勢崎に來るや、必ず投宿す。其の宿する、大に人と異なり。寒暑を論ぜず、覓むる所、必ず定規あつて、蒲團一枚・机一隻・燈一□[火+主]を借るのみ。家人、深更に其の室を窺へば、蒲團上に端坐し、燈下の机上に對し、看書、又は運筆するを見るのみ。來り投ずること數十囘、皆な一樣なり。

 或る時、深夜、婢、厨下に火口を捜索すれども無しと云ふ。家人、明日を待ち買はんと欲す。君、乃ち婢を呼び、色を正して、『片時も無くて叶はぬもの、至大なるものにては、天皇、至小なるものにては、火口なるぞ』と云ひつゝ、行李より火口を取出し與へしとぞ。

 昌榮、偶々君の容貌を話するを聽くに、身の長け高く、總髮にして、眉毛太く長し、眼鋭く、鼻隆く、肩怒り、脣厚く、口大に、頬骨荒れ、顔色赭く、鬚髯美しく、音聲遠く響き、情義、極めて懇切なれども、何となく怖ろしき容態あり。雙刀・衣服とも儉素にして、禮義、究めて鄭重なれども、自から昂然として、凡人とは見えざりし、と」

とあるを確實とすべく、其の錯誤を明かにしておきたい。最近、美少年たる九郎判官義經公、實は出齒にして不細工なる男なりと喧傳する者もあるが、これも亦た同時代の、其の名も「山本九郎義經」の肖像畫を見誤りしもの、識者、之を指摘するも、如何ともする能はざるの勢なり。

 往昔、漢の張良は、力士をして百二十斤の鐵椎を擲たしめ、秦の始皇帝を博浪沙に撃ちて、天下を震駭せしめたるも、其の容貌、婦人好女の如くなりきと云ひ、亦た幕末の橋本景岳先生は、其の識見、古今に卓越し、果決よく亂麻を斷つの力量ありて、而も身丈、僅かに五尺、白皙纎妍、一瞥すれば、殆ど婦女子に似たりと傳ふ。震天動地の大事を能くする者、必ずしも魁梧奇偉の豪傑たるを要せず、所謂英雄首を囘せば即ち神仙と云ふものであらうが、圖らざりき、赤城先生こそは、實は豪傑中の豪傑、小男優男に非ずして、二メートルを超える偉丈夫なりき矣。

 又た盗賊の親分の咄は、赤城先生に付きものであるが、其の場は、或は板橋宿と云ひ、或は木曾山中と云ひ、一定ならず。一説に、短小に見ゆとの盗賊の言を正見とするならば、蓋しそれは、赤城先生の守護せし童子眷族の類にして、賊を股慄せしむる程の大喝を發せしに非ざるか、得て知るべからざるなり。
 
 

草莽のこゝろ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月22日(日)23時01分36秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●平泉澄博士『明治天皇の聖徳』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、

「高山彦九郎は、上野(群馬縣)の人、十三歳にして『太平記』を讀み、慨然として志を立てました。家の系圖に、先祖は新田十六騎の一であつたとあるを見ては、感奮、禁ずる能はざるものがあつたのでありませう。備前兼光の刀と、菊一文字の脇差とを帶びて、ひろく天下を周遊し、仁人義士を尋ね、國體の明かならず、皇威の衰へた事を歎‥‥寛政五年六月二十七日、久留米に於いて自決して果てました。流浪、四十七歳の一生は、當時の常識から見れば、只だ奇人としか思はれず、或はむしろ狂人に近いかと疑はれたでありませう。しかるに明治十一年九月、北陸巡幸の途中、群馬縣に入らせ給ふや、明治天皇は、高山彦九郎の玄孫・孫四郎を行在所に召され、拜謁を許されたのでありました。曾て三條の橋に平伏して、泣いて御所を遙拜した高山の忠誠を御嘉納あらせられたのであります。その人、逝いてより八十五年の後、天恩、枯骨に及んだのであります」と。



●森銑三翁『高山彦九郎』(『森銑三著作集』第九卷――近世畸人研究――昭和四十六年五月・中央公論社刊に所收)

「奇士とか、奇人とかいふところからして、彦九郎を以て、常軌を逸した、奇行ばかりを演じてゐる、奇人傳中の人のやうに思ふならば、それは大きな誤で、むしろ反對に、行の正しい實直な人だつたのである。旅行の折などにも、行く先々で歡迎せられたことは、「適(ゆ)く所として愛敬せられざる莫し」と、『續近世叢語』に記されてゐるほどで、彦九郎は、世間的な、いはゆる奇人などいふ人々とは肌合ひを異にした、信頼するに足る人物だつたのである」と。



 愚案、先の『大日本人名辭書』と重複しないやうに、もう少し、赤城先生を傳べしたい。「(彦九郎)其の人、鼻高く、目深く、口ひろく、たけたかし。總髮なり。‥‥其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚だしき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一も誤らず」とは、菅茶山翁『筆のすさび』に云ふ所、先生は、將に我が國史が生んだ、皇御民であつた。事、皇室の御事に話が及べば、はらゝゝと涙を流す光景は、小生の學生時代、帝都青々塾に於てよく目にしたものであり、珍しくは無いものゝ、其の源流の近き一例を、赤城先生に見るのである。



●名越時正翁『日本學入門――その形成と展開』(昭和五十四年四月・眞世界社刊)に曰く、

「彼は、皇室の御衰微に悲泣し、徳川幕府、とくに田沼の弊政に憤激し、大義のために奮起する人を全國に探し求めた。彼は、明和元年、十八歳の時を最初として、數囘、帝都に上つた。都に入る時は、必ず三條橋のたもとに土下座して、皇居を拜し、『草莽の臣、高山彦九郎正之』と挨拶することを常とた。それは日記にも見えることだが、天明二年十一月十六日條(『上京旅中日記』)には、

禁門を拜し奉らむと、先づ、仙洞御所の御門前を經る。時に地上に稽首し奉る。日の御門をば向ふて拜し奉り、南門より公卿御門をば經るまゝに稽首し奉る。恐れみ恐れみ敬み謹み奉りて、帝位の尊きを仰ぎ奉りて、歸りて袴になりて他出す』

と記され、その戀闕のほとばしりを伺ふことができる。またその翌年正月元旦には、御所内に入つて御節會の大禮を拜觀することが許されたが、彼は、『仰げば、天象明かに星の位正しく、是れぞ皇統綿綿、寶祚長久のしるしと嬉しく、手の舞ひ足の踏む事を知らずぞありける』(『京都日記』)と記してゐる。まして寛政三年三月、四囘目の入京の時、光格天皇が側近に、『高山彦九郎といへるものを知れるや』とのお言葉があつた。このことを聞いた時の、

われをわれとしろしめすぞや 皇(すべらぎ)の玉の御こゑのかゝる嬉しさ

と、狂喜して詠んだ歌は、實感をもつて察することができよう。その頃、彼はたまゝゝ緑毛のある龜を手に入れ、これを瑞兆として朝廷に獻上し、天皇・上皇はじめ、皇族・公卿にお見せしたことは、王政復古を願ふ彼の念願の表はれと考へられよう(皇室と國民との關係は、幕府のめぐらした垣を越えて復活し、接近してゆく)。

 彼は天顔を拜することができたが、一介の草莽の臣が、どうして御所中に出入りし、お姿を拜し得たのか、それは一見不思議な思ひを懷くであらう。時は寶暦事件から、いくらも經つてゐない。當時、竹内式部の講義を聞いた公卿廷臣は、まだ少なからず存命してゐた。中でも彦九郎を最も厚遇した伏原宣條は、かつて崎門學を、桃園天皇に進講した一人であり、今は明經博士として、光格天皇の侍講であつた。彦九郎が正月の御節會拜觀を許され、その案内をしたのは、宣條の子・宣光であつた。また彼が、天皇に拜謁を許されたのは、寶暦事件で處罰された岩倉尚具の孫・具選の奔走によつたものであつた。式部を失つたあとの公卿たちが、高山彦九郎の出現をどれほど喜んだか、察することができよう。

 このほか、中山愛親は、正親町實連から埀加神道を學び、幕府の横柄を憎んだ硬骨派の公卿で、後には尊號事件で、幕府の處罰を受けた人である。また芝山持豐は歌人でもあつて、本居宣長と親しい間柄の公卿である。彦九郎は、これらの公卿廷臣からも、喜んで迎へられた。彼は、また大坂の中井竹山と、京都に學校を興す運動に奔走したが、竹山とは意見の相違もあり、このことは實現を見なかつた。

 彼は、天明六年八月、祖母が歿してから、墓の側に廬を建てゝ、叔父とともに三年の喪に服したが、その期間以外は、ほとんど毎年、席の温まる暇なく旅行し、しかも詳細な日記を作つた。備後の菅茶山は、彦九郎の來訪を受けたとき、『其の話、中古より王道の衰へし事を嘆きて、甚しき時は涕流をなす。歴代天子の御諱・山陵まで暗記して、一つも誤らず。亂世には武者修行と云うて、天下を周遊するものあり。今、治世なれば、徳義學業の人を尋ねありくも、少年の稽古なりとおもひて、六十餘國を遊觀せんと志し』たと言ひ、そして人を尋ねるのは、『忠孝の事より外にては候はず』と語つたと記してゐる。彼は旅行するに當つて、ほとんど金錢を使はず、一枚の袷衣に大刀を差し、夜は野宿を常とした。たまゝゝ山中で盗賊に遭つたとき、唯一渇を加へただけで、賊を震へ上らせたといふ。その交つた人物は、地位・身分・學派等には拘はらなかつたやうだが、志の通じたのは、やはり崎門と水戸學派が多かつた。

 京都では、望楠軒の西依成齋、久米訂齋、谷秦山の孫・伴兄、その伴兄と會つた家の主人・玉木愼齋も、崎門であらう。谷川士清の門人で、安藝の神官・唐崎常陸之介との出會ひは餘りにも有名で、その交はりも深かつた。甲州では、加賀美櫻塢と會ひ、山縣大貳の話を聞いて景慕してゐる。また柴野栗山・皆川淇園・頼春水・細井平州・荒木田久老・岡田寒泉等とも交はつた。彦九郎は、かねて水戸義公を景慕し、江戸の水戸邸にも出入りしたが、最も早くから交つたのは、地理學者・長久保赤水である。但し赤水は、彦九郎から『義公以來、水戸家は名分を正すと、兼ねては聞けり。徂徠・春臺を法とする事なかれ』と、手痛い忠告を受けた。また赤水から神童・藤田幽谷のことを聞くと、寛政元年六月、江戸で面會して大いに激勵したが、翌年、水戸を訪れて、幽谷の宅で、大義の談をなしたといふ。

 彦九郎は、かねてロシヤの蝦夷侵入を憤つて、自ら彼の地に渡らうとし、この年、水戸から北上して三厩に達したが、船の便を得ず、斷念して引き返し、途中、仙臺で、林子平・藤塚式部を尋ね、年末に京都に着いた。

 彦九郎は、寛政三年九月以降、九州各地に遊歴して有志を尋ねた。そして五年六月、三たび久留米に來て、十九日以來、櫛原の森嘉膳の家に滯留したが、その二十七日、携行した文書類を全て引き割いて水に溶かした上、突然、切腹自刃を計つた。嘉膳の手記には、切腹した後に、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひしこと、皆、不忠不義のことになれり』と述べ、端然と坐して、帝都と故郷の方を拜し、やがて絶命した、と記してゐる。年、四十七歳であつた。

 彦九郎の謎の自刃は、尊號一件(★)を聞いたためであらうと、今日は推察されてゐる。彼の最期は、これを聞いた人々、ことに彼と親交を結び、彼の激勵期待を受けた人々に、言ひやうのない深刻な衝撃を與へた。彼との再會を一日千秋の思ひで待つてゐた藤田幽谷は、涙ながらに彦九郎を祭つて祭文を讀み、唐崎常陸之介は、直ちに久留米に駈けつけて墓前に號泣し、歸國して同志を集めて運動中、幕府の探索を受け、寛政八年十一月、竹原で割腹した。爾來、高山彦九郎は、勤王家の熱烈に仰望するところとなり、世を導いた力は、生前・死後の別がなかつた。

 彦九郎が、天明七年に、祖母の墓前で詠んだ、

おのがまゝしげりし草も夏を經て 朽行く秋のはじめとはなる

は、後水尾天皇の「葦原やしげらばしげれ」の御歌を意中に置いたものであらうが、幕府の滅亡を祈つた彼の念願を汲みとることができよう。

(★ 光格天皇は、御父・閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊號をたてまつらうとお考へになり、これを幕府に傳へられたので、松平定信は前例を調査したところ、御即位なくして太上天皇と稱することは、國體名分上、正しくないと判斷して反對した。これが意外にも朝幕間のもつれとなり、寛政五年三月、中山愛親・正親町公明兩前大納言の處罰といふ事態に至つて、やうやく落着した)」と。
 
 

平成の高山彦九郎になりきる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月22日(日)00時21分21秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)に曰く、

「本書は、百年前の先師、高山彦九郎の眞姿を傳ふることのみを目的としない。史傳の眞諦は、千歳を貫いて、更ゆべからざる『生命』(いのち)の傳承脈絡にある。故に本著の使命は、『高山彦九郎』の生命を信解し、心讀し得る讀者の一個半個が、躬から昭和の高山彦九郎になり切ることにある。然らば『高山彦九郎』は、溌剌として、昭和の聖代に生きるであらう。‥‥

 皇政復古へ! 烽火は、既に二度(寶暦・明和兩事件)も掲げられた。かうした時代に、凡ゆる封建的約束を無視して、『天皇の赤子』として行動すべく生れ出でたのが、我が高山彦九郎、その人であつた。

 先生が、生れながらに啓示された使命は、全國の山澤巖穴の間から、時を同じうして湧出する、高山彦九郎的義人の總結集と、朝廷公卿有志との連絡、やがては寶暦・明和・安永の三事件による犠牲者の靈を弔ふに足る一大勢力を提げて、討幕の義軍を興し、陣容堂々、建武未遂の遺業を完遂せんとすることに在つた。

 そして此等の高山彦九郎的義人達は、山縣大貳の『柳子新論』に於ては、「英雄豪傑、忠信智勇の士」と形容され、頼山陽の『高山彦九郎傳』に於ては、「今、故紙を接して幟とにし、これを山廟門外に樹てゝ號召せば、立ちどころに千許人を得べし」と傳へ、高山先生の自作の和歌によれば、「てらす日の本の神々三千あまり 道をば守ることゝこそ思へ」とあつて、三千の神々によつて守護された、三千有餘の義人が地底に雌伏して、討幕の妙機を窺つて居ることを暗示してゐるやうである」と。



 愚案、高山赤城先生の「死する所以を推究」し、天下に闡明したるは、實に、備中の碩儒・川田甕江翁の『高山仲繩祀堂記』であつた。

 然るに明治の精神、やうやく崩れ、赤城先生の名のみ高くして、其の眞姿は忘れられ、而して戰後以降、三再び湮滅して、單なる旅行・探檢家になりつゝある其の秋、平成の小高山、出でよ、出でて、大高山を奉じて、明治維新の遺業を完遂せしめよ、との血の雄叫びを、小生は確かと聽いた。高山赤城先生の眞志を、現代に甦らせるもの、三上卓翁一卷の書、即ち是である。併せて之を表出し、有志の喚起を促すと云爾。

【參考・「青年日本の歌」史料館】
  ↓↓↓↓↓
http://www.taimukan.com/
 
 

赤城先生顯彰とは、名分を正し、大義を明かにする實踐に在り矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月20日(金)21時28分12秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■赤城高山彦九郎平正之先生『高山彦九郎日記』第二卷に曰く、

「日本は、君臣の禮、正し。武將、威勢ありといへども、人臣、安んじ居る。然るを近世の俗儒共、文章の飾りに名分をみだる、大不敬也。先生(長久保赤水、豐臣秀吉公を『豐王』と稱することを)、改め給へ。義公、水戸家は、名分を正すと、兼ねて聞けり。徂徠・春臺等を法とする事なかれ」と。



●仲田昭一翁『高山彦九郎と常陸の人々』(『水戸史學』平成三年五月號)に曰く、

「高山彦九郎が、京都を中心に皇道の振起に努めると共に、水戸を訪れては、藤田幽谷らを激勵して、水戸の學問の興隆にも大きく影響するところがあつた。しかも彦九郎の歿後、その遺書等が蒐集されることによつて、その精神を體得し、實踐する尊王運動を喚起していつたことは注目されるところである。

 それが、常陸においては、杉山忠亮・藤田東湖・櫻任藏・加藤櫻老・長島尉信らが競つて蒐集し、水戸の尊皇會に於いて互ひにそれらを示し合ひ、勤王精神を鼓舞したのである。それはやがて眞木和泉守や有馬新七・矢嶋行康ら、他藩の者にも大きな影響を與へ、彼らをして幕末尊王運動に挺身させることになつた‥‥。

 このやうに、遺書など史料の蒐集は、重要な意義を持つものであり、單なる好事家のものであつてはならない。これについて林鶴梁は、蒐集にやつて來た矢嶋行康に對して、

『夫れ仲繩は、忠義の人也。足下外は、仲繩に深しと雖も、内は或は忠義に淺からんか乎。則ち家に萬卷を藏するも、何ぞ天下に益せんや哉。苟くも天下に益無きは、仲繩の喜ばざる所以ん也。然れば所謂る忠と義とは、古今の人々の爲し難き所ろ也。僕、老いたり矣。爲す能ふる無し焉。足下、 毎に仲繩の書を披けば、輒ち果して能く仲繩の人と爲りを庶幾せん。以て誠實摯篤の行に從事せば、則ち仲繩、復た今日に生くる也。 知らず、足下、以て如何と爲さん』

と述べ、常に彦九郎の書を披いて、忠義心を厚くし、天下に貢獻せよと教誡した。

 同じく有馬新七も、『高山彦九郎が手跡の後に書す』(長島尉信より彦九郎の書翰を得て、安政六年)の中で、

『抑も其の手跡を慕ふは、乃ち其の人を慕ふ所以ん也。後の觀る者は、宜しく正之の志を體し、皇室を翼戴し、大義を立つるを以て、念ひと爲すべし。乃ち王を尊びて名分を正し、禮儀を崇びて、人倫をの實を明かにするに於ては、其れ亦た將に慨然興起して、補益する所ろ有るべし矣』

と述べ、手跡を慕ふことは、その人物の志を體して實踐することであると力説してゐる。

 それ故に矢嶋行康(愚案、平田銕胤大人門。上野高山神社祀官。『玉廼御聲』百卷・『高山朽葉集』八卷編纂)も、次のやうに決意を述べ、高山彦九郎の顯彰を實踐して行つたのである。

『予は、高山正之を只だ信ずるにあらず、正之の生を捨てし、その大義をとる。「正名分、明大義」の六文字をとるのみ‥‥。高山遺墨の蒐集は、徒らに物を集めんとする蒐集欲に出でたるにはあらず、其の純忠至誠の一點の、私心無く、生涯を勤王運動の實踐に徹したる、その高風遺徳を慕ひ、後世、勤王運動の龜鑑たる典籍を著し、尊王運動の思想の鼓吹と臣道實踐の大道を明らかにするにある』(矢嶋憲三郎氏『矢嶋行康と高山彦九郎』)」と。



 愚案、高山赤城先生の志は、藤田幽谷先生、最も能く紹述し得て、彼の『正名論』と成り、水戸學中興の礎を爲したのである。赤城先生逝いて二百二十年、平成の御代に於いて、先生を顯彰するとは何か、小高山たる者、各々深く省察する所あらねばならない。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/10

【參考・興亞思想】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asia2020.jp/japan/htakayama.htm

【參考・高山彦九郎記念館――データフアイル】
  ↓↓↓↓↓
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/
 
 

仰げば彌々高し、赤城先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月14日(土)21時29分14秒
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  ~承前~

●贈正五位・醉古館木村下野介源謙翁『高山子吟』(『□[石+監]詩集』に所收。寛政二年七月六――八日)

高山子、高山子。東山の壯士、氣翩々。
七尺の形躯、三尺の劍。一箇の行李、半肩に在り。
天下の山川、躋攀し盡し。堰蹇口吟す、遠遊の篇。
行々鐵杖、長蛇を驅り。懷中の明珠、海天を照す。
自ら言ふ、四海、皆な兄弟。愁ひず、郷國の山川を隔つるを。
秋風、先づ到る、白川の上。眞人の紫氣、關邊に滿つ。
關尹、相豫して來往を占し。留め得たり、道徳、玄の又玄。
風塵俗物、誰か讀むを得ん。賓篆一字、直(あた)ひ十千。
天下の野人、醜男子。相見て笑談して、夜、年の如し。
天厨、饌を薦めて、君が爲に供し。玉液滾々、炊煙に對す。
座間、鮮を割いて、肉、堵の如く。樽前の大杯、酒、泉に似たり。
醉中、孝を談じて、奇癖を同じうし。尋問す、本朝の孝子傳。
人世の高行、誰か羨まざらん。君と同好、亦た自ら然り。
今日相逢うて、今日別る。惜しむ可し、再遊、已に愆多し。
老を忘れて、一時意氣豪なるも。鬢上□[參+毛]々、二毛を奈(いか)んせん。
吁(あゝ)、高山子、高山子。天下の要道、君が曹に屬す。
草鞋、虎の如く、雲霧を開く。知んぬ、君が至徳、高山、仰げば彌々高きを。



 三上大悲翁の曰く、「この長詩は、晩年の(赤城)先生旅行中の風格性行を能く寫し出して居るが、『天下の野人、醜男子、相見て笑談して、夜、年の如し』の二句に、兩快男子の面目躍如たるを見る。高山彦九郎と云へば、多血質の激情家の代名詞の如く思はれてゐるが、何ぞ圖らん、當時の知人達からは、屡々支那南方の古聖人老子に喩へられたものである。説かずして説き、説いて道學先生らしからざるところが、魁偉脱俗の風貌と相俟つて、『道徳經』五千言を殘して、遙かにペルシヤに向つて去つたと傳へられる、虚靜無爲の思想家老子を彷彿せしめたのであらう。

 木村謙、‥‥近藤重藏守重に從つて蝦夷地を視察し、エトロフ島に大日本國標を建てゝ、遙かに京都朝廷に向つて、拍手跪拜して祈念したと云ふ。藤田東湖の遺文には、『人となり、外狂簡に托し、内に忠義を存す。慨然として大志あり』とある。高山彦九郎的人桀の一人(愚案、吉澤義一氏『天下の豪傑・木村謙次』昭和六十三年二月・水戸史學會刊に詳かなり)‥‥

 先生の風貌は、その性行と相伴つて、一見して人に非常なる感銘を與へたらしく、當時の知人同志達は、先生を擬するに、或は老子を以てし、或は魯仲連・王猛・伯夷叔齊・荊軻等の戰國策士、豪傑または義人・刺客を以てし、或は漠然と英雄・神仙・奇士等を以てして、之を畏敬した」と。



●大西郷『偶成』(沖永良部島在囚中)

天歩艱難、獄に繋るゝの身、
誠心、豈に忠臣に耻づる莫からむや。
遙かに事跡を追ふ高山子、
自ら精神を養うて人を咎めず。



●大悲三上卓翁の詩(『高山彦九郎』卷末)

佯狂屠腹、斯の身を殺す。
豈に是れ尋常過激の人ならんや。
遺烈、長へに萬民をして起た教(し)む。
皇運を扶持して、日に維れ新たなり。



●保田與重郎翁『日本語録』に曰く、

「京都三條橋上より皇居をふし拜み、『草莽の臣・高山正之』と唱へた、この傑人の志は、天下に志ある人士の生命の原理となる思想を、白日の如くに表現したといふことが、今日では一段と明白になつた。わが國の臣の志を述べた思想として、又た文學として、高山彦九郎の、この一句より深いものはないのである。彼が何を思ひ描いた末に、草莽の臣と唱へて慟哭したか、この點を今日考へるがよい。

 この瞬間に、我が國民の草莽の志の中に、一本の筋金の如くに、神ながら、わが大君より傳る光は、貫流するのである。わが大君と、みたみわれの中間には何ものもないといふ自覺、神ながら、わが心に鎭り坐すといふ自覺こそ、あらゆる創造と、その表現と、その激しい行爲の根源である。我々の生命の原理は、こゝにあるのである。それは教へることも、説く必要もない、それをいのちの原理として生きるのが、わが古の道の教へのまゝに、君に仕へ國に報いうるのである。もしその契點を失つたとき、彼らは、わが自我を根柢とする時務の愛國論を、たとへ説き得ても、それは命の原理を了知せぬゆゑに、すでに死した精神の言擧に他ならぬのである。

 我々が『草莽』であるといふ深奧な思想の自覺を教へたのは、高山正之であつた。これほど偉大な思想の行爲は例のないことであつた。彼の志は、今日も生きてゐるのである。勤皇の思想と行爲の中で、最も明らかにそのまゝに生きてゐるものは、この純粹な高山正之の精神である。高山彦九郎の出現こそ、近世勤皇史の、嚴密な意味では第一頁におくべきものであつた。今日も我々は、高山彦九郎を思ふとき、感動と嗚咽を思ふのである。彼の志と精神こそ、今日の我々の生命の原理である」と。



 愚案、我が忠良臣道の龜鑑にして儀表、高山赤城先生を思ふとき、感動と嗚咽を覺えざる者、即ち「わが自我」を根柢とする時務論を展開して已まない所謂保守は、畢竟、君臣父子の大義に透徹すること能はず、皇國の歴史の組立てに與かることを得ないものとして、之を諦めなければならぬ。而して自ら任じて、赤城先生の精神に生きんと欲する者こそ、此の平成の聖代に、「維新」を唱道することが出來るのである。其の責任は、また重いと謂はねばならぬ。
 
 

高山赤城先生傳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月11日(水)21時22分27秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■高山赤城先生傳抄――『大日本人名辭書』(昭和十二年三月増訂・講談社刊)より。(云々)は、愚案なり。

 高山彦九郎。勤王家。字は仲繩、正之と稱す。上野新田郡細谷村の人なり。其の先、遠江守某(愚案、平重遠)、建武の亂(ママ。變と謂ひつべし。雲上の御計劃に、亂とは何事ぞや)、新田氏に屬す(義貞公馬側十六騎の一)。新田氏滅ぶるに及びて、其の裔、遂に微にして民間に在り。然れども其の郷里の舊姓たるを以て、猶ほ常に雙刀を佩ぶ。官、また之を禁ずることなし。父を良右衞門(正教)と曰ふ。膂力、人に過ぐ。毎に出づるに、必ず僕をして弓矢を負はし、數々(しばゝゞ)山野に遊獵して、猛獸を挌殺す。時人、其の勇を稱す。正之、幼にして孤となり(實は正之二十三歳の節、父横死すと云ふ)、祖母の爲めに鞠(やしな)はる。年、甫めて十三(寶暦九年)、『太平記』を讀みて、中興の忠臣、志業の遂げざるを見て、慨然として憤りを發し、頗る功名の志あり。

 年十八にして京都に遊び、書を讀むこと二歳、乃ち出でて都下の書生を見、交通、日々に廣く、名聲、藉(し)くこと甚だし。高門・巨室、多く布衣の交を爲す。名卿中山大納言(愛親卿)も、亦た其の人と爲りを奇として、善く之を遇す。是に於て正之、劍を杖いて四方に周遊し、至る所、必ず賢豪長者と交はる。此の時に當りて田沼氏(意次)、政を江戸に執り、風俗、大いに敗れて、侈靡、日に甚だし。識者、竊かに之を憂ふ。正之、上野に歸る。

 正之、長け八尺餘にして、鬚髯、神の如く、高邁にして奇節あり。議論英發、忠誠にして人を動かす。嘗て室直助(鳩巣)、論ずる所の著を見て、其の楠公、召に應じて、直ちに笠置に造(いた)るを以て、度量足らずと爲し、諸葛亮、三顧して乃ち出づるの事を引き、以て之を議するに至りて、憤然として罵りて曰く、

『腐儒(室鳩巣)、何ぞ事を論ずるの迂なるや。夫れ元弘の時、三國(支那の魏・呉・蜀)と年を同じうして論ず可けんや。漢の末、天下分裂して、豪傑竝び起る。此の時に當りて劉玄徳は、故(も)と履を販り席を織るの人、自ら稱して漢室の冑と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや。また猶ほ今世の奴婢輩の、號して源・平と稱し、以て自ら誇る者の如し。孔明の三顧して盧を出づるは、我が心に於て、猶ほ以て速かなりとす。百顧・二百顧を累ぬると雖も、猶ほ未だ緩と爲さず。楠公の如きは、則ち異なり。

 夫れ我が國體なる天朝は、神(「器」字の缺か)の在る所、六合の仰ぐ所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳ふ。普天の下、率土の濱、孰れか皇民に非ざらんや。而して楠公は、即ち廷臣(橘諸兄公)の裔、近畿の民なり。召命なしと雖も、豈に國家の難を見て、恬然、自ら安んず可けんや。天皇、塵を蒙ると聞き、奮然、袂を投じて起つ。安んぞ彼れ諸葛輩の爲すに倣ふことを得んや。書を讀む、是くの如くなれば、百萬卷と雖も、何の益かあらん』と。其の書を取りて、之を堂下に投ず。

 天明季年(八年正月晦日)、京都災す。正之、之を聞き、晝夜兼行して、馳せて京に赴く。夜、木曾山中を過ぐ。賊、數人あり。刀を拔いて、正之を脅かさんと欲す。正之、目を瞋らして叱して曰く、『汝、上野の高山彦九郎を知らざるか。今、天闕、災ありと聞き、馳せて之に赴く。汝輩、豈に我が刃を汚さんや』と。賊、皆な慴伏す。後ち巨賊、大阪の獄に繋がれ、自ら語りて云ふ、「平昔、未だ嘗て恐怖せることあらず。嘗て木曽山中に在りて、人を要して劫をなす。一丈夫の、目を瞋らして我を叱するに遇ふ。之を憶へば、いま尚ほ股慄するがごとし。彼れ自ら呼ぶ、高山某、と。豈に所謂天狗なる者ならんか」と。

 此の時、田沼氏、既に罷め、白川侯(樂翁松平定信)、之に代りて政を執り、改正する所ろ多し。之より先き正之、嘗て祖母の憂に遭ひ、鞠養の恩あるを以て、再期の喪に服せんと欲す。其の兄(專藏正晴)、之を止む。正之、聽かず。叔父長藏(劍持正業)と共に、冡側に廬すること三年。郷邑、之を稱し、事、江戸に聞こえ、有司、之を旌さんと欲す。會々正之を害せんと欲する者あり。兄に友ならずと誣告す。有司も亦た其の人の異常なるを以て、召して之を詰りて曰く、「庶民、刀劍を帶ぶるは、國に定制あり。汝、□[田+犬]畝の中に在りて、雙劍、身を離さざるは、抑々何の義ぞや」。正之、對へて曰く、『某、高山遠江守より以來、二十餘世、未だ嘗て一人の帶劍せざる者あらず』と。有司、其の言を奇とし、且つ其の磊落、他なきを憐み、因て之に謂つて曰く、「汝、仕官を欲するか。業とする所は何技ぞ。撃劍か、將た儒學か」。正之、曰く、

士は貧賤なりと雖も、身を以て人に許すこと、豈に容易ならんや。君子の仕ふるや、其の義を行ふなり。道の行はれざる、豈に一毫だも爵祿を獲取するの徳あらんや。且つ學は、人倫を明かにする所以なり。士の道に志す者、豈に盡く儒のみならんや。某、平生、書を讀む。然れども初めより未だ嘗て文士を以て、名あるを欲せず。故に書生の章句を治むるに倣はざるなり。また幼にして撃劍を好む。然れども技藝を以て身を立つるは、固(も)と欲する所に非ず。故を以て、肯へて仕へざるなり(赤城先生、天朝にのみ仕ふるの志あり。是れ處士たる所以なり矣)』

と。有司、微笑して曰く、「汝の言ふ所を以てするに、汝、亦た未だ仕へざる者は、唯だ之を求む可からざるの日に求めざるのみ。汝、文學者流に非ずと雖も、亦た道を以て自任す。儒と謂ふ可し。試みに『大學』を講ぜよ」と。正之、之を講ず。有司、曰く、「果して其の言ふ所に負かず」と。竟ひに之を釋す。是より正之、遂に家を辭して、日に遊歴を事とし、將に以て齒(よはひ)を沒せんとす。

 是より先き露人、屡々蝦夷に往來して、邊海を窺□[穴+兪]す。正之、深く之を憂ひ、躬自ら北地を歴視して、竊かに敵情を探らんと欲し、庚戌(寛政二年)の夏、遂に意を北游に決す。時に長久保玄珠(赤水)、江戸に在り。往いて別れを告ぐ。玄珠、之を壯なりとし、酒を置いて之を餞す。玄珠、家に鎭神露鐸を藏す。建武中、楠木河内(楠公)、奉獻する所の物なり。紋に玄武神あり。正之をして之を拜せしむ。正之、大いに喜びて曰く、『我れ將に北行せんとし、祖道に當りて此の神を拜す。吉、孰れか焉れより大ならん』と、盥嗽して禮服を着し、拜して感泣するに至る。

 竟ひに去りて水戸に至り、立原萬(翠軒)・藤田一正(幽谷先生)及び他の有名の士を訪ひ、留まること數日、乃ち發す。下野の人・蒲生秀實(贈正四位・修靜菴)も、亦た素より正之の人と爲りを慕ふ。其の北游を聞き、追ひて陸奧石卷に至る。及ばず。適々後醍醐天皇の塔婆の下に出づ。蓋し南北の亂に、官軍、嘗て陸奧に鎭す。故を以て今に至るまで、天皇の爲めに之を供養すと云ふ。秀實、彷徨遲囘して、一樵夫に遇ひ、問うて曰く、「汝、偉人を見ざるか」。對へて曰く、「小人、前きに一士人の爲めに傭せられ、水を荷ひて此に至る。其の人、即ち水に浴して禮服を着し、塔婆の下に就いて跪拜し、懷中の文を出して之を讀み、一字終はる毎に、歔欷して禁まず。今を去る、既に十日。君、問ふ所は、或は此の人か」と。秀實、其の竟ひに及ぶべからざることを慮りて、乃ち返る。正之、南部・津輕を經て松前に至り、竟ひに蝦夷の境に入る。奔走累日、頗る足力を極む。既にして忽ち囘顧の志あり。乃ち松前より海に航す。風帆、飛ぶが如く、三日三夜にして中國に達し、京に留まること數月、明年辛亥(寛政三年)、京を辭して西海に遊ぶ。是の歳三月、夷舶、紀伊大島浦に至り、また筑前・長門の邊海に出沒す。幕府、令を下して備を嚴にせしむ。壬子(寛政四年)夏、露人、我が漂民を送りて、禰牟呂に到る。明年、幕府、石川將監等を遣はして、事由を按檢せしむ。正之、西海に在る、凡そ三年。是に至りて、遂に京都に歸る。

 是の歳、中山大納言、詔を奉じて、江戸に至る。其の事祕して、世に其の實を知るもの莫し。是より先き(寛政三年)正之、京に在りて、嘗て鴨川の湄を過ぐ。童子の龜を捉へて、之を玩ぶあり。甲上に文あり。尾毛□[參+毛]々、所謂緑毛龜なるものなり。正之、見て之を奇とし、乃ち金若干を與へて之を得、伏原正二位(清原宣條卿)に謁して覽に呈す。二位、また以て祥瑞と爲し、即ち天覽に供す。叡覽、焉れを嘉賞す。蓋し竊かに宸極の餘光を瞻仰するを獲ると云ふ。正之、布衣羇旅の士を以て、其の志、常に皇室を尊び、夷狄を攘ふに在り。其の天下を跋渉して、人心を激勵し、義者を鼓動する所以、未だ嘗て其の至誠に出でざるはあらず。其の寶龜を得る、人、以て精誠の感ずる所と爲す。其の後ち之を久しうして、正之、遂に意を當世に得ず。居ること、常に怏々として樂しまず。再び西海に遊びて、筑後久留米藩士林嘉膳(實は森氏。思齋)の家に至り、居ること數日、忽ち病む所あるが如し。

 一日、齎らす所の日乘を出し、寸裂して之を水中に投ず。嘉膳、驚いて其の故を問ひ、且つ曰く、「積年の盡力、一期にして之を失ふ。豈に甚だ惜しむ可からずや」と。正之、曰く、『我また之を愛惜するを知らざるに非ず。然れども百事、已みなん。況んや此の鷄肋、何ぞ深く惜しむに足らん』と。嘉膳、曰く、「足下の所爲を以て、後世、或は不良の事を爲すと疑はば、其れ何を以てか、之を解かん」。正之、即ち止む。嘉膳、既にして退く。須臾ありて、正之、刀を拔いて腹を屠る(白晝の刻)。嘉膳、驚き見て問ひて曰く、「何爲れぞ、此の如きに及ぶ」。正之、曰く、『我れ常に國家に報いんと欲し、其の忠を爲し義を爲す所以のもの、今、不忠不義の事と爲る。已むべし、我が智の及ばざるなり。是れ天、我を殺すのみ。幸ひに我が爲めに、天下の人に謝せよ』と。嘉膳、曰く、「國に法あり。願はくは、子、治療を加へよ」と。聽かず。嘉膳、曰く、「我れ子を館して、子、自殺し、若し治を加へざれば、我が違法の罪も、亦た逃るる所なし。願はくは、子、之を諒せよ」と。正之、之を許す。

 頃之して東方を指して問ひて曰く、『帝都、及び故國は、此れか』。嘉膳、爲めに東北を指示す。正之、拍手再拜して、嚴然端坐し、談話、平生の如し。既にして醫、來りて之を視、吏、來りて之を檢し、故を問ふ。正之、曰く、『發狂のみ』と。其の郷貫を問ふ。曰く、『上野新田郡細谷村』と。是に於て問ふこと屡々なれども、また答へず。吏、乃ち正之齎らす所のものを閲す。毫も疑ふ可きものなし。唯だ天下、名山・大川・勝區の圖書、及び忠臣孝子の行状・諸名家送る所の詩文あるのみ。曉に至りて、正之、竟ひに絶す(辰の中刻)。年四十七。實に寛政五年六月二十七日(實は二十八日)なり。久留米侯、聞いて之を憐み、乃ち命じて新田領主に告げ、其の貯ふる所の物件を封じて郷里に送還し、正之を府下遍照院に葬る(髮長、諡して松陰以白居士と曰ふ)。

 正之、既に死して、數月を後れて、其の墓下に自死する者あり(西道俊、即ち是れ也)。世、其の所以を知ること莫し。其の人、状貌魁偉、蓋し唐崎常陸介(贈正四位・赤齋先生。安藝竹原の人。曰く、「首は宮闕に向ふ」と)なり。唐崎も、亦た慷慨の士、正之、初め其の名を聞き、未だ其の面を識らず。一日、聖護院法親王に詣り、一士人に遭ふ(實は寛政三年六月二十九日、若槻幾齋の家)。骨相、非常なり。正之を見て曰く、「高山殿に非ざるか」。正之、曰く、「君は唐崎殿か」と。因りて手を執りて、相泣いて曰く、『天下の事、何爲れぞ、此の極に至る』と。卒ひに相與に結んで、膠漆の交を爲す。適々正之の死を聞き、豈にまた相感ずるに非ざるなからんや。

 明治十一年(三月八日)、正四位を贈り、(十二年十一月)上野太田町に、高山神社を建て、正之の靈を祀る(十三年三月二十二日、縣社に列す。大祭三月十五日)。『事實文編』。


**********


【――寛政事件(尊號問題)にて、七士憤死し、皇政復古を俟つ――】

一、高山赤城、屠腹。寛政五年六月二十八日歸幽。
一、山本以南、投水。寛政七年七月二十五日歸幽。
一、唐崎赤齋、自刃。寛政八年十一月十八日歸幽。
一、權藤涼月子、斥藥。寛政十年八月十日歸幽。
一、西道俊、刎首。享和二年五月二日歸幽。於赤城先生墓前。
一、富田大鳳、自病。享和三年二月二十五日歸幽。
一、龜井南溟、投火。文化十一年三月三日歸幽。

 三上大悲翁の曰く、「以上の七士は、尊號問題を契機として遂行されんとした、皇政復古・維新事件――吾人の所謂寛政事件の犠牲者である。しかも此の七士が、何れも幕府の爲めに刑戮せられることなく、符を合した如く自殺の道を選んだところに、此の事件の深刻な骨格を見るのである。

 さもあらばあれ、高山先生及び此の六士の忠死は、徒爲でなかつた。‥‥先生等の滿身の碧血は流れて、全日本の山澤巖穴に浸透し、やがて五十年の後、明治御維新に起つた、澎湃たる尊王討幕の大風濤と化した。唐崎常陸介が、有馬主膳へ傳へた埀加神道の傳書奧書に、『永く斯道に矢(ちか)つて、忽焉たること勿れ』とあるによつても、明白なる道統血脈の連結は、士民を問はず、簇々として生起する討幕の義士達の懸命の誠忠となり、遂に幕閣を倒覆して、克く明治維新の大業を翼贊し得たのである。藤田幽谷が、先生を弔ふ文に、『志士の世を憂ふるや、瞻言百里、識慮の深長なる有り云々』とある。

 嗚呼、多きは人、少なきも亦た人。高山先生も、亦た在世の時、屡々此の長嘆を發したことであらう。嗚呼、少なきは人。更に少なきは、人の『むすび』、眞人の血盟である」と。
 
 

嗚呼、囘天創業の首倡者・高山赤城先生。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月10日(火)18時27分15秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■明治天皇御製

國のため こゝろ盡して 高山の いさをもなしに はてしあはれさ


□照憲皇太后御歌

ながらへて 今世にあらば 高山の 高きいさをゝ たてましものを


□有栖川宮熾仁親王御歌

高山の いさを思へば 大方の 人にこえたる 人にぞありける


□有栖川宮妃御歌

大御代に 心つくして 高山の いさをは世々に 鏡とぞなる



●赤城先生の哥抄

○寶暦十四年詠
東山 上りて見れば 哀れなり 手の平らほどの 大宮どころ

○寛政三年三月十五日、恐れみ畏れみ敬み謹みてよめる。同一月十九日、琵琶湖にて得し緑毛なる瑞龜を天覽に奉りし時、聖護院の人となりて參入り、龍顔を伏拜みけるに、光格天皇には、高山彦九郎なる者を知れるやと問はせ給ひける由、承りぬるを嬉しみ忝み奉りて
われをわれと しろしめすか[一作、ぞ。或作、と]や すべ[め]らぎの 玉の御こゑの かゝるうれしさ

○寛政四年詠(鎌田忠助・雜録)
薩摩びと[薩摩潟] いかにやいかに 苅萱の 關もとざさぬ[關の戸さゝぬ] 御代と[御世を]知らずや

○寛政五年六月二十七日、心に思ひ定むる事ありて
まつざき[松の木]の 驛(うまやぢ)[厩(うまや)]の長(をさ)に 聞い[問ふ]て知れ 心つくしの 旅のあらまし
朽ちゝりて[朽ちはてゝ] 身は土となり はか[墓]なくも 心は國を 守らんものを

○久留米來客中、故ゑ有り、屠腹辭世(執行俊風に遺す)
さはがしき この雲風は いつはれて さやけき皇(きみ)の 御代となるらん

○赤崎海門に託せし辭世(西山拙齋翁遺文)
あふ事の おぼつかなみの わかれ路は いとゞ名殘の 惜むとぞ知れ



●赤城先生『長子儀助に與ふる訓戒』に曰く、

「其許(儀助)、學問に志し候ふ上は、能々心掛くべき肝要の事、是あり候ふ。章句に拘り實事を研究せざるは、學文の何たるを知らざるものに候ふ。人倫の大道は、修身・齊家、專一に候ふ。然る上は、天下も治め得らるゝものに候ふ。益なき詩文を作り、學文を文(かざ)るは惡きに候ふ。必ず實直に學文する事、肝要に候ふもの也」と。



●『高山芳躅志』に曰く、

「神村(伊勢崎藩儒・浦野知周)、曾て門人に對し、『論語』を講ずる時、君(赤城先生)、偶々訪ひ來り、門人と均しく列次し聽き居たりしが、「景公、政を問ふに對へたまひ、君々臣々父々子々たり」の一段に及ぶ。君、潸然と流涕し、終に聲を放つて號哭せり。門人、傍らより「此の講談、左程に悲しきものにや」と云ふ。君、忽ち膝立直し劍を按じて、『景公の如き錦衣玉食の、世情に疏き公子さへ、「君子、名分を正す」の聖語に感激し、「食を絶ちて死なん」とこそのたまふに、かゝる講談を餘所に聞流すことの情けなさよ。畢竟、汝等は、皇國の糟粕、亂臣賊子(將軍徳川)の奴僕なるべし』と罵り、猶ほ數行の涙を拭ひしとぞ」と。



 愚案、高山赤城先生は、燈涙を剪つて學に勉むる讀書子であると共に、何より至孝の人であつた。其の熱祷は、神祇伯吉田二位卜部良倶卿に請願して、祖父母の神號・壽號「伊賀鎭(いがし)靈神・鎭得靈神」の宣授にも成功してゐる。殊に敬神崇祖は、其の行旅に祖神の靈儀を體携して、常時供饌菓果を薦め、出入、必ず之に拜禮することを例とした。且つ其の式事、禮拜稽首の度數に於いては、或は何萬何千を算することもあり、赤城先生、此の孝心の根柢あらばこその、「忠魂一貫」(今泉定助翁の贊)・「至誠動天」(頭山立雲翁の贊)の、無位の「眞人」(近衞文麿公の贊)である。



●赤城先生『京日記』寛政二年十二月二十五日條(高山彦九郎先生頌讚會編『高山彦九郎京日記』昭和六年三月・參龍閣刊)に曰く、

「昨夜、寢る。事ありて、すぐに起きて、早朝に行水し、麻上下になりて、謹みて鎭得靈神(赤城先生の祖母・大槻氏りん子刀自)を拜し奉り云々。七萬九千百六十拜に至れり、及び十萬餘の拜と、‥‥早朝より夜に入るまで、座せるまゝ動かず云々」と。



●赤城先生『楠公の墓前に於いて敬録す』
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 なほ時間が許すならば、『大日本人名辭書』より、赤城先生の傳の筆寫を期したい。また大悲三上卓翁『高山彦九郎』(昭和十五年八月・平凡社刊)は名著なれば、是非とも清覽を乞ふものである。「囘天創業、是れ斯の人」(大西郷の贊)、高山赤城先生、何としても現代に蘇つて戴かねば、戰後の闇は照らされぬ。

 服部栗齋も曰はずや、「昔は芭蕉ありき。松島や、あゝ松島や、松島や、と。今は余は、あゝ高山や、高山や」と。
 
 

三條戀闕の志を繼ぐ者。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 4月 5日(木)21時38分51秒
返信・引用 編集済
   平成二十四年三月二十四日、「三條の會」發足の御由、洵に同慶の極みなりけり。命名者・祝詞奏上者は、大行社青年隊長・木川智氏なり矣。

 贈正四位・縣社高山神社祭神・赤城高山彦九郎平正之、字は仲繩先生、「少(わか)くして平安に入り(寶暦十四年、先生齡十八)、三條橋の東に至る。『皇居は、何方ならむ』と問ふ。人、指して之を示す。即ち地に坐し、拜跪して曰く、『草莽の臣、正之』と。行路、聚りて觀、哭きて顧みざるを恠しむ也」とは、頼山陽外史の文にして、赤城先生は、等持院に到り、足利高氏の古墳を見、弗然として曰く、「汝(高氏奴)、國賊よ、皇朝連綿たる不磨の歴史を傷つけ、私しに累代不易の帝位を左右し、徒らに皇謨の綱紀を紊し、所謂る北朝なるを立てゝ後ち、天朝を攻め奉るに到る。其の暴悖、厭く所を知らず、洵に其の專横逆激の状、允す可からず矣。汝、來りて速かに罪を天下に謝せよ」と、暫し瞑目、忠涙、滂沱として滴る。忽ち鐵鞭を執つて、其の墓碑を擲つこと、數次たりと傳へたり。
  ↓↓↓↓↓
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http://sousiu.exblog.jp/17354100/

○橘曙覽翁「高山彦九郎正之」(『松籟艸』所收)

大御門 そのかたむきて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 眞心たふと

○眞木紫灘先生「草莽臣高山彦九郎正之を詠める」

高山の 大人なにひとぞ 人ならば よぢてもみてん 我何人ぞ

○平野國臣先生(安政五年十月一日詠、赤城の墓を奠し、石燈一基を獻ず)

一筋に おもひしみちは さりながら まだき時よは せんすべもなし
よしやその 時こそ至らね 益荒雄の 捨てし命は 大きみのため
苔の下に なほ魂あらば 大御爲 つくす我身に 添ひて守れや

○西郷南洲翁「彦九郎を詠める」

精忠純孝、群倫に冠し、豪傑の風姿、畫圖に眞なり。
小盗、膽驚く、何ぞ恠むに足らむや、囘天、業を創むるは、是れ斯の人。

 「三條の會」、一人でも多くの御方の贊同を得むことを‥‥、只管ら懇祷す。其の發足、餘りに嬉しくて、些か赤城先生を抄せざらむと欲すと雖も能はざるなり。



【參看『宮城遙拜詞』・『宮城參拜詞』、竝びに作法】
  ↓↓↓↓↓
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 愚案、吉田松陰先生『松下村塾規則』に曰く、「一、晨起盥梳、先祖を拜し、‥‥東にむかひ、天朝を拜する事、假令ひ病に臥す共、怠るべからず」と。戀闕者の已む能はざる所、松陰先生の嚴命する所、日々遙拜、有志相共に、之に從事せむ。



●日岳富田大淵藤原大鳳先生『高山仲繩を送るの序』・『晩秋、祇山に上つて感あり、賦して諸生に示す』
  ↓↓↓↓↓
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/2



●森嘉膳翁手記『高山彦九郎自殺の事を記す』(福井久藏博士『高山朽葉集』卷之七・昭和十九年七月・日本書院刊に所收)に曰く、

「(赤城先生、屠腹、遺言して)曰く、『余が日頃、忠と思ひ義と思ひし事、皆、不忠・不義の事になれり。今にして吾、智の足らざる事を知る。故に天、吾を攻めて、斯の如く狂せしむ。天下の人に、宜しく告ぐべし』と云々。‥‥

(赤城先生)東方を指し、問うて曰く、『帝都、竝に故國は、此の如きや』と。(森嘉膳・永野十内)答へて曰く、「丑寅へも當る可きか」と。此に於て(赤城先生)席を改め、柏手を打ち、心念じ終つて、又た談話、初始の如し。端座嚴然として、容を亂さず。其の夜、戌の刻許りに至つて、氣力衰へ、倒れ伏す」と。



●幽谷藤田一正先生『高山處士を祭る文』(菊池謙二郎翁『幽谷全集――幽谷先生遺稿』昭和十年六月刊に所收)に曰く、

「維れ寛政六年、歳は甲寅に次る、三月戊子の朔、越えて十一日戊戌、水戸の藤田一正、謹んで清酌庶羞の奠を以て、上野の高山處士(赤城先生)の靈に告げて曰く、

 嗚呼、吾れ子(赤城先生)と別れて、一日三秋、豈に圖らんや、不幸、自ら大憂に遭ひ、孤廬に泣血せんとは。再期、未だ周らず。側(ほの)かに聞く、處士の暴(には)かに西州に死するを、夢みるが如く覺むるが如く、驚嘆、休まず。一たび之を思ふ毎に、人をして悸を病ましむ。喪(幽谷先生の尊父)、既に服を除し、月を閲すること凡そ四たび(四箇月)、乃ち始めて酒を取り、祭哭して位を爲す。

 鳴呼、子よ、奚を以てして、暴かに死せるや邪。豈に誠に已む能はざる有りて已むか邪、將た已むを得て已まざらんとするか邪。獨り夫の先哲、身を守るの義を聞かずや邪。假使ひ衾を啓き簀(病床)を易へ、以て全歸せざるも、何爲れぞ乎、腹を割き腸を屠し、以て死に就けりや。西海と東海と、風馬及ぶ莫し。傳へ聞く、之が紛紛たるを、曷んぞ異議を免れん。人、堯・舜に非ざれば、誰か能く善を盡くさん。

 鳴呼、子よ乎、吾れ其の變に處するを悲しむ。惟だ子の、王母(祖母)に供養し兮、湯藥に侍して倦まず、喪に服し冢に盧すること三年兮、實に今世の鮮しとする所、兄弟の撰(兄上の專藏翁と赤城先生の行ひ)を異にする兮、人心の面におけるが如きを奈んせん。既に棣萼の芳を聯ぬる(兄弟愛)無く兮、鶺鴒の原に在るを嘆ず。其の祖妣に於けるや、孝敬、斯に至る。豈に獨りの同胞のみ、友愛存する莫からんや。噫、彼の小人は、好んで人の惡を成す兮。爰に郷議の愈々喧なるに罹り、西の方に遊び、志を桑孤に償はんと欲す兮。宅一區(資産)、寧んぞ身を田園に終へんや。

 嗚呼、子、匡章に類する有るか(『孟子』離婁篇三十章の齊人)。自ら吾が賢の、孟軻に非ざるを痛み、隷貌交接、他日、之が冤(郷里を捨てし不孝)を雪がんと欲す。獨行異調、固より時俗の能く和する所に非ず。況んや乃ち生死の路を殊にする、千秋□(貌+之繞)乎として、山河を隔つ。昔、予(幽谷先生)、師(立原翠軒翁)に從ひ江戸に宦學し、始めて子と蓋(盃)を傾けて、晤言(對面親語)するを得たり。久しく□(人+周。てき)儻の高節を想像し、忽ち奇偉の盛論に激昂す。吾れ何を以てか、大兒、忘年の交(年齡を問はぬ交流)を辱くするや。獨り禰衡(後漢の人)の偃蹇(驕慢)たるを愧づ。疾めば則ち藥を餽り、歸れば則ち行を送る。子の東するや(寛政二年)、又た余が門を顧みる、堂に上り親しみを拜して、已に數歳、音容、目に在つて□[言+爰。わす]る可からず。

 嗚呼、子、夙に高尚の質を懷き兮、魯仲連の人と爲りを慕ふ有り。難を排し紛を解く、戰國の策士に非ずと雖も、世を輕んじ志を肆まゝにし、太平の逸民と爲らんことを庶ふ。能く王を尊び、而して覇を賤しむを知る。豈に啻に當年の秦を帝とせざるのみ(魯仲連、秦に屈せず)ならんや。□(士+宕+木=袋。たく)中の裝、一錢無く、而して□□(萠+刂。糸+侯。かいこう。祖末な劍)を彈じて、以て津を問ふ。書は纔かに名姓を記するに足り、而も劒は身を防ぐに餘り有り。身、國に爵位有るに非ず。仕へずして、乃ち朝廷に心す(是れ其の「處士」たる所以なり)。赤狄(露奴)の北陲を蠶食し、而して神州を窺□[穴+兪。ゆ]するを聞き兮、其の後世、天下蒼生の害とならんことを恐る。上下宴安、方に鴉毒に耽る兮。子、獨り慷慨、命を受けずして、以て私かに行き、陽つて浪客となり、而して山水を漂遊し兮、陰に國家の爲に虜情を偵探せんことを欲す。衣冠禮樂の文物(歴史傳統)をして、被髮左衽の羶腥(夷狄の風俗)に變ぜざらしめんことを期す。豈に萬里の外に封侯し、以て一身を富貴の榮に取らんと云はんや。杞人は天地を憂ヘ、而して孀(やもめ)は緯を恤へず(天下國家を憂へり)。知らざる者は、誣ふるに狂名を以てす。一別の後、杳として消息無し。或は其の北海より、直ちに帝京に入ると傳ふ。豈に關防嚴禁、其の要領を得る能はざるか邪。

 抑も黠賊の濳謀、未だ狡計の其の形に見はるゝ有らず。志士の世を憂へるや、百里を瞻言し、識慮の深長有り。偸惰、自ら喜び、快を一時に取るは、乃ち愚人の常のみ。爾後三年、果して北使の事(露ラツクスマンの根室來港)有り。關を叩き塞を欵き、而して互市□(手+寉。かく)場(通商貿易)を請ふ。既已に甘言重幣、以て我を誘ひ、加之のみならず虚聲恫喝、以て其の富彊を誇る。彼れ將に還つて我が國を股掌の上に玩び、以て其の志を得んとす。何ぞ我が國勢の陵遲せる、而して威武は張らず、中行の説に伏し、而も其の背に苔うたず、遂に醜虜をして、我が東方を輕視せしむ。廊廟、豈に策を獻じ纓を請ふの士乏しからんや。徒らに草茅の人(庶民)をして、筆を投じて心傷ましむ。是の時に當り、子、其れ何くにか在る。劒に倚り、而して子を長天の一涯に望む。它日、國家、或は子を得て之を用ひば、死を視ること、歸するが如く、水火に赴いて、而も辭せず、當に惰夫をして敵愾の志を立たしめ、古人をして蹈海の奇を專にせしめざらしむべし。

 嗚呼、晝夜の道、死生も、亦た大なり矣。太山鴻毛、輕重、各々其の時有り。羞惡の義は、天性に根ざす兮。道行く餓夫も、亦た猶ほ磋來(無禮)の食を屑しとせず。唯だ豪傑の士は、能く忍ぶこと有つて、大謀を成す兮。胯を出て履を取るの辱、皆な之を爲して疑はず。惟だ子の羇旅するや、備さに險阻の艱難を嘗む兮。千辛萬苦、其れ誰にか語らん。麑島の行・筑州の寓、豈に節を屈し、以て心思を拂亂する有らんや。惜しいかな夫、身を以て君父の急に殉ずる能はず、空しく劍鋩に伏して、以て鮑焦(周の隱士)の徒と、歸を同じうす。絶に臨み、從容として天下の人に謝す兮。萬里、之を聞いて、我が心をして悲しましむ。英魂招くも返らず兮、彼の白雲を仰げば、而して神馳せ、寤寐の間に耿々たり兮。猶ほ其の雄偉の氣と、魁岸の姿とを見るがごとし。吾れ既に兒女子の態を作し、而して子を弔するを欲せず兮。風に臨んで悵然、獨り涕涙の相隨ふを覺えず、疇昔を感念し、哀しみを一奠の詞(弔辭祭文)に寄せり。惟れ子の知る有らば、髣髴として來つて、此の巵(盃)を擧げよ。尚くは享けよ」と。
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●復堂杉山忠亮翁『高山正之傳』に曰く、

「(赤城先生)嘗て室直清、論著する所(室鳩巣『駿臺雜話』)を見、楠公を論じ、召に應じて、直ちに笠置に造るを以て、度量足らずと爲し、諸葛亮、三顧して、乃ち廬を出づるの事を引きて、之を議するに至つて、憤然として罵つて曰く、

『腐儒、何ぞ事を論ずるの迂なるや。夫れ元弘の時、豈に三國と年を同じうして論ずべけんや。劉漢の末、天下分裂し、豪傑竝び起る。此の時に當り、劉玄徳なる者は、故と履を販り席を織るの人、自ら稱して「帝室の冑」と曰ふ。豈に能く其の眞妄を辨ぜんや。亦た猶ほ今世の奴僕輩、源平を號稱して、以て自ら誇る者のごとき也。孔明の三顧して出づるは、我が心に於て、猶ほ以て速しと爲す。百顧・二百顧を累ぬと雖も、猶ほ未だ緩しと爲さず。楠公の如きは、則ち是に異る。赫々たる天朝、神器の在る所、六合の仰ぐ所、開闢以來、神聖相承け、皇統一姓、之を無窮に傳ふ。普天率土、孰れか皇民に非ざらん。而して楠公は、則ち廷臣の裔にして、畿内の民也。召命無しと雖も、豈に國家の難を視て、恬然として自ら安んず可けんや。天皇、蒙塵したまふを聞かば、奮然として袂を投じて起つべし。安んぞ彼の諸葛輩に效ふことを、之れ爲すを得んや。書を讀むこと、是の如くんば、百萬卷と雖も、何の益かあらんや』と。

 其の書を取りて、之を堂下に投ず」と。



●紫灘眞木保臣先生『高山處士五十年忌辰祭文』に曰く、

「嗚呼、公(赤城先生)や、果は義たり、而して勇は仁たり。識見高邁、風節超然、凛乎として寒松の墓山に立つが如し。公、尊皇攘夷を以て自ら任じ、蝦夷に事有るを聞くや、獨り大刀を提げ、晝夜兼行、怒浪を蹶り、鯨鼈を叱し、以て深く不毛を究む。其の京師に在るや、禁闕の蕪を視、以て朝典の衰を慨し、痛心疾首、涙、常に衣を濕す。而して□[手+晉]紳の徒、此に奮起す。公、竊かに焉れを知る有り。晩に遂に天下を周遊し、觀風察俗を以て事と爲す。東西南北、至らざる所ろ無し。深山大川、艱勞避けず、所在、孝を勸め、過ぐる所、義を起す。而して異學を斥け、世教を敷き、其の功、孟子と異ならず。一日、義に感ずる所ろ有り、慷慨、我が地に客死す。

 嗚呼、公や、其の才徳、天、實に之を生じ、而して之をして位を得せしむること能はず。地、實に之を育し、而して之をして榮に居らしむこと能はず。然れば則ち其の之を生育する所以の者は、何ぞや。世衰へ、倫喪ぶに及べば、則ち天、有徳を生じ、以て之を匡正せしむ。公、蓋し其の任に當り、而して庶□[王+民]を木鐸する者也。公の世に在るに方つてや、其の意を知る者は、數人に過ぎず、而して今や、五尺の童子も、其の名を稱し、以て其の誠を仰がざるは無き也。公は今を距ること五十年、古碑、榛荊に委すと雖も、精氣の世を蓋ふや、赫々乎として、雷霆の蒼黄を動かすが如し。乃ち知る、天地の之を生育する所以は、此に在つて彼に在らざるは明けし。

 今年壬寅(天保十三年)六月二十七日、實に公の正辰に當る。乃ち同志とともに、敬しく薄奠を陳べ、以て厚志を表す。予、公の義を慕ふや深し。時、此の日に刄る。感勵の至に堪へず、泣いて以て酒を薦む。神、尚くば思へ。眞木和泉守平保臣、外か同志一同」と。



●甕江川田剛翁『高山仲繩祀堂記』に曰く、

「夫れ仲繩は、曠世の偉人にして、先儒、其の事を録する者、前には則ち淇園(皆川)・栗山(柴野)・石梁(樺島)・茶山(菅)、後には則ち幽谷(藤田)・復堂(杉山)・山陽(頼)・拙堂(齋藤)、序あり、傳あり、祭文・碑銘あり、多くして且つ備はる。顧みるに獨り未だ其の死する所以を推究せず、或は目して病風喪心の致す所と爲す。今ま竊かにこれを憾みとす。

 蓋し仲繩の忠義は、天性に根ざし、而して其の先も、また節を南朝に殉ず。嘗て『太平記』を讀み、大いに感憤する所あり。此の時に當り、光格天皇、妙齡英發にましたまふ。佐くるに一條(關白輝良公)・中山(大納言愛親公)の諸公を以てす。而して幕府は、則ち大將軍浚明公(家治)、田沼意次を寵任し、群小、柄を弄し、綱紀、大いに紊る。仲繩謂へらく、『以て王權を復すべきなり』と。乃ち名を文事に託して、四方を周遊し、地形を觀、民情を察す。人に遇ふ毎に、輒ち正閏・王覇を論じ、以て陰に同志を募る。既にして公薨じ、文恭公(家齊)、繼ぎて立つ。意次を黜けて、松平定信を用ひ、衆賢茅茄、百弊、頓に革り、徳川氏の業績、復た興る。是に於て仲繩、自ら其の時機、未だ至らざるを知り、身を殺して、以て其の跡を滅す。‥‥

 もしそれ遲疑して生を偸まば、府吏の逮捕する所と爲り、則ち承久・元弘の變、立ちどころに待つべし。何ぞ其のあやふきを見ることの早くして、且つ明かなるや。或は其の敕を受けずして、妄りに動くを議するものあるも、是もまた過てり。何となれば、事成れば、則ち功を朝廷に歸し、成らざれば、害を一身に止む。又いづくんぞ其の敕あると否とを問はんや。且つ夫れ九重深嚴にして、尊卑懸隔す。而して仲繩は、東鄙の一匹夫を以て、交を公卿に納め、嘗て竊かに天顔を窺ふことを得たり。則ち其の密旨を奉じて、以て義故を募るも、亦た未だ知るべからず。然らずんば其の將に死なんとするとき、手記を寸裂して、以て水中に投ずる者は、何ぞや。其の東に向ひて、遙かに帝都を拜する者は、何ぞや。其の語を海内の豪傑、好在せよと寄する者は、何ぞや。嗚呼、仲繩の死は、上は公卿流竄の禍を當時に救ひ、下は志士勤王の端を後日にひらく」と。
 
 

泉水隆一監督の至願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月31日(土)19時19分53秒
返信・引用 編集済
   櫻花の季節を迎へようとしてをります折節、或る「靖國神社研究家」と稱せられる御方から、實は『靖国神社の真実』の骨髓とも謂ふべき論評を賜はりました。曰く、

靖國神社論・靖國神社史を書く後學の諸賢には、隨一の出典となる新論ばかり、戰後のフイルターを除去して、一擧に靖國神社の眞姿を目の當たりにするの思ひを抱懷せしめる貴重の書です」と。

 然うなんです、御氣づきでせうが、本書には、誰も聞いたことも無い、書くことが出來なかつた、

靖國神社の事歴

が書かれてをるのです。現代「保守」の醜態は、それはそれで貴重でありますものゝ、所詮、一座の泡沫にして、我が光輝ある歴史の組立てに與かること能はざるを證したものに過ぎず、寧ろ我が塾頭が書かれた、靖國神社精神の歴史にこそ瞠目すべく、諸賢の精讀熟覽を乞ひたいと存じます。

御羽車
合祀祭
諸霊祭
みたま祭
鎮霊社
昭和殉難者合祀
‥‥

 明治天皇の聖旨に基づく、此の大精神史、祭祀の本義を、我が塾頭は、一體、何方から聞かれたのでありませうか。其の論究の成果だけでは、決して無いでありませう。洵に貴重なる「歴史の證言」と謂はねばなりません。

 『靖国神社の真実』を讀まれて、目が醒めた、感激したとの仰せは、幾人もをられました。本道に嬉しい事であります。願はくば、此の掲示板でも、或は他の媒體でも宜しいので、書評・感想を賜はりたいと存じます。

 『靖国神社の真実』初版九百册、増刷三百册(未版)、計一千二百册――泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭・福井金城翁「血の雄叫び」を、どうか、滿天下に恢弘宣傳して戴き、靖國神社正統護持、引いては皇國護持、皇室翼贊の誠を捧げて戴きたいと存じます。
 
 

贈書に祈りを籠めて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月30日(金)19時21分41秒
返信・引用 編集済
  ■淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷三「史を讀みて述ぶ、夷齊の章――晉の處士陶濳」に曰く、

「韓愈『伯夷の頌』に曰く、

 士の特立獨行は、義に適(かな)ふのみ而已。人の是非を顧みざるは、皆な豪傑の士、道を信ずること篤くして、而も自ら知ること明かなる者也。一家、之を非とするも、力行して而も惑はざる者は、寡(すくな)し矣。一國一州、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、蓋し天下に一人のみ而已矣。若し擧世、之を非とするも、力行して而も惑はざる者に至つては、則ち千百年に、乃ち一人のみ而已耳。伯夷の若き者は、天地を窮め、萬世に亙りて、而も顧みざる者也。昭乎たる日月も、明かと爲すに足らず、崒(しゆつ)乎たる泰山も、高しと爲すに足らず、巍乎たる天地も、容(い)るゝと爲すに足らざる也。

 殷の亡び周の興るに當りて、微子(殷の紂王の庶兄)は賢也、祭器を抱きて、而して之を去れり。武王・周公は聖人也、天下の賢士と天下の諸侯とを率ゐて、而して往きて之を攻めしに、未だ嘗て之を非とする者有るを聞かざる也。彼の伯夷・叔齊なる者は、乃ち獨り以て不可と爲せり。殷、既に滅び矣、天下、周を宗とせしかども、彼の二子なる者は、獨り其の粟を食ふを恥ぢ、餓死して而も顧みず。是に繇(よ)りて言へば、夫れ豈に求むること有つて、而して爲さむや哉。道を信ずること篤くして、而して自ら知ること明かなる者なれば也。

 今世の所謂る士といふ者は、一凡人、之を譽むれば、則ち自ら以て餘り有りと爲し、一凡人、之を沮めば、則ち自ら以て足らずと爲す。彼れ獨り聖人を非として、而も自ら是とすること、此くの如し。夫れ聖人は、乃ち萬世の標準也。余れ故に曰く、「伯夷の若き者は、特立獨行して、天地を窮め、萬世に亙つて、而も顧みざる者也」と。然りと雖も二子、微(な)かりせば、亂臣賊子、迹を後世に接(つ)がむ矣、と」と。



 愚案、先に、謝疊山『初めて建寧に到りて賦する詩』を拜記し、靖國神社遊就館に於いて、橋本景岳先生の掛軸を拜觀したことを記した。此の詩は、淺見絅齋先生の『靖獻遺言』に依つたのであるが、其の典據は、多く、中山菁莪・落合東堤兩翁遺著・雪窓沼田宇源太翁編『靖獻遺言講義』および紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』である。殊に紹宇先生の講義は精微を極め、『靖獻遺言』を學ばむと欲する者の巨燈と申してよい。紹宇先生の序を謹記し、江湖に紹介して、有志が再び『靖獻遺言』を手に執つて戴く契機をつくりたい。

 蘇れ、古書先賢。期す、日本中興。



●紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』の「序」(昭和六十二年九月・國書刊行會刊)に曰く、

「初めて『靖獻遺言』を繙いてから、四十餘年になる。從軍中、常に携へてゐたのは、慶應紀元乙丑年新刻といふ刊記のある、薄葉一册の小形本であつた。敗戰復員後に得ることができて精讀したのは、沼田宇源太氏編輯に係る、中山菁莪・落合東堤遺著と冠した洋裝本の『靖獻遺言講義』である。いく度か繰返した講義も、この本によつたことなので、手澤滿紙、綴ぢ絲も切れてしまつてゐる。

 『靖獻遺言』に收められてゐる韓退之『伯夷頌』と『唐宋八大家文讀本』に收めてゐる同文との間には、わづかであるが、文字に異同がある。そのことに氣づき、その理由を調べたことは、絅齋の、『遺言』成就に、四年かかつたぞ、といふ辛苦の跡を如實に知る契機となつた。また、たまたま手に入つた原刊の一本の書入れを精査することによつて、谷秦山が本書の初刻本を見て、その記述の上に、いく個所かの疑問を持ち、絅齋がその質疑によつて訂正を加へるところがあつたものが、現行本の本文であることを知つた。そしてこれ等の事實を知つたことは、本書の全卷にわたつて、その記述の依據とした原典をすべて明らかにし、それによつて絅齋の取捨の跡を知りたいといふ氣持をかき立てた。

 しかし絅齋は、依據とした原典の名を全くといつてよいほど記してゐないので、漸く探し出した、これと思はれる書物があつても、『靖獻遺言』の文と照してゆくうちに、大きな異同があることがわかり、あらためて原典を探さねばならなくなつたことも、少なくなかつた。しかし努力の末、ともかくも記述の殆んどといつてよい部分の典據を探し出し得たが、そのために二十數年を要したことであつた。

 『靖獻遺言』には、絅齋みづから本書を講じた『講説』・『講義』の外に、若林強齋・谷秦山・西依墨山等、門下門流の學者の講義も、その筆録が存してゐる。その寫本も次第に弊架に收めることができ、それによつて絅齋の本書編纂の意も、次第に明らかになつて來た。

 このやうにして知ることができたことは、家藏本の行間に書入れたり、專帖に箚記しておいたので、それはいつしか厖大の量となつて來た。そこでわたくしは、それを整理し編集して、一書としておきたいと考へるやうになつたが、なかなかその機を得ずにゐたところ、それを知つて、一日も早く成就してほしいと激勵し、かつその協力まで申出られたのは、かつてわたくしの講義を聽いた一人である、金本(愚案、靖獻堂金本正孝學兄。廣島縣三原の人。故人――『かたくなにみやびたる人――蓮田善明と清水文雄』・『強齋先生語録』・共編『淺見絅齋集』竝びに遺著『評傳・乃木希典』あり)兄であつた。わたくしはこの言に激せられて、昨年十月、『山崎闇齋の研究』を脱稿したことを機とし、引續き『靖獻遺言講義』の完成を志し、爾來、舊い書入れや箚記を整理し、新たに本文の現代語譯や語釋を書加へて、今年八月、一應、その稿を書上げたのである」と。



【參考・崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50



追伸。

 『靖獻遺言』は、竹内羞齋先生、かつて之を堂上に講じて處罰せられたる書なりと雖も、幕末の志士、之を讀みて志を益々堅うし、亦た平泉澄先生、戰後、攻撃重圍、辛苦艱難の中に在つて、能く支へたる一卷であつたと云ふ。

 中山菁莪(平田篤胤大人の舊師)・落合東堤兩翁遺著・雪窓沼田宇源太翁編『靖獻遺言講義』は、先般、我が友に贈つた。今、紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』を、小生は未見の友に送らうとしてゐる。恙なく屆き、幸ひに嘉みして之を披繙し、將來の糧と爲してもらへればよいが‥‥。祈りを籠めて、之を贈る。
 
 

『靖国神社の真実』初版の誤植訂正願ひ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月26日(月)00時18分59秒
返信・引用 編集済
   下記、自ら氣がついたり、或はご指摘がありましたら、隨時、増補してをります。本書のご訂正を賜はれば幸甚です。

 謹みて御詫び申し上げます。亦たご指摘いたゞきました方、幾重にも御禮申し上げる次第であります。

 各位には、偶にクリツクして戴きたいと存じます。



【『靖国神社の真実』初版の正誤表】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/99
 
 

靖國神社偕行文庫へ、『靖国神社の真実』を獻本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月25日(日)01時30分44秒
返信・引用 編集済
   三月二十四日、上京、宮城遙拜の後、靖國神社參拜。懸案だつた偕行文庫へ、九段塾藏版『靖国神社の事実』二册を、恙なく獻本いたしました。其の後、遊就館拜觀。橋本景岳先生の「雪中松柏愈青青云々」の掛軸を拜して、一昨日、拜記したばかり、感慨一入でありました。

 午後は、河原博史同血社主の講演あると聞き、こつそり聞いて、帝都を辭す心算でしたが、運惡く講師に遭遇してしまひました。然し講演は、東西來會、洵に盛會、熱氣あふれるものでありました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/255

 河原講師は、「維新」の眞義を「尊皇・敬神・崇祖」の有無に求め、維新てふ言葉の獨歩きに懸念憂慮を示すと共に、右翼民族派の奮起を促し、支那の王道・西洋の覇道、皇國の皇道の相違に及んでは、我が日本の、神國・皇國たる認識を深く護持することを求め、吉田松陰先生の書翰(『(水戸藩士)堀江克之助に與ふる書』安政六年十月十一日)、

神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる也。

を紹介して、皇國は盛衰あるも興亡なし矣、神洲の決して滅びざる所以を闡明すると共に、神國に生れ、育ち、死んで行くことに感謝するが故に、維新運動の意義を見出し、而して戰後、昭和天皇の、

五十年で日本再建といふことは、私は困難であると思ふ。恐らく三百年はかかるであらう。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/874

との仰せを拜承しては、維新は一朝一夕に成らざれば、只今の時勢に頓着すること無く、「尊皇・敬神・崇祖」の基礎を涵養して、將來へ襷を渡すことの重要性を強調された。

 講演前後、陣營の先輩諸氏や、『靖国神社の真実』の「遺響篇」に玉稿を賜はつた若き俊英烈士とも、初めて會し、洵に有意義な一日でありました。皆樣、禮儀正しく、求道心篤く、且つやさしい方々ばかりで、右翼は恐ろしいてふ世間の評判は、眞赤な嘘僞りであることを、身を以て知ることが出來た次第(はじめから自明のこと)です。所謂保守と呼ばれる連中のはうが、餘程、下品で、輕佻浮薄、不敬頑迷、中にはゴロツキも居ると感ずるのは、小生だけでありませうか。御蔭樣にて、歸宅は午前樣、有り難う樣でございます。
 
 

雪中の松柏、愈々青々。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月22日(木)20時04分52秒
返信・引用 編集済
   下記は、大野俊康靖國神社第七代宮司の『宮司就任の辭』であります。見事と申し上げる外、言葉を知りません。どうか熟讀されて、吾人一同、靖國神社奉贊の資と爲すべく、存養留意の程、只管ら歎願いたします。

 然し大野宮司の唯一の失敗は、後任に其の人を得なかつたことであります。千慮の一失と申せませう。「松平永芳宮司を尊敬する」と云ひながら、彼の面從腹背の人によつて、松平・大野兩宮司の方針は、次々に踏みにじられて行きました。無念です。俗流の權力や權威に弱き者では、靖國神社正統護持は、到底、之を望むべくもありません。後は急轉直下、戰後世代によつて、現状の爲體であります。之に媚びへつらふ應援團も後を絶たず、異樣な風潮を釀し出し、祭祀は荒れ果てゝをります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/21
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/22
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/23

 庶幾くば、松平永芳・大野俊康宮司の時代へ、速かな復古を、痛切に悃祷します。九段塾・塾頭血涙の聲を、『靖国神社の真実』から、どうか、お聽き取り下さい。靖國神社正統尊崇奉贊の聲を擧げることから、其の第一歩を進めねばならぬと恐察いたします。

 靖國神社の祭祀の嚴修を‥‥、熱祷を‥‥、

 境内から、民主主義を奉ずる政治家・文筆家の排除を‥‥、

 境内外に、清淨と静謐を‥‥、

 遊就館に、泉水隆一監督『凛として愛』再上映の聲を‥‥。



●大野俊康翁『職員に對する宮司就任の辭』(平成四年四月一日附『宮司通達』第一號。『特攻魂のままに――元靖國神社宮司大野俊康講演集』平成二十四年二月・展轉社刊に所收)に曰く、

「前宮司・松平永芳宮司の後任として、本日ただ今、靖國神社の第七代宮司に就任させて戴きました、大野俊康でございます。先程、宮司就任奉告祭を御丁重に御齋行戴き、感激も一入なものがありますが、靖國神社宮司といふ重職に、いかにお答へしていくか、改めて責任を感じてゐる處であります。

 歴代の宮司各位は、まことに高位高官、名門の御出身であられました。私は地方から出てまゐりました、一介の田舍神主であります。熊本縣天草島の總鎭守・舊縣社ですが、本渡諏訪神社の社家・大野家の第十八代宮司として、四十五年間奉仕してまゐりました。又、昭和六十一年十一月より五年五ケ月、熊本縣神社廳長も務めさせて戴きました。

 昨年春、靖國神社の宮司といふ御話を戴きましたが、歴代の社家でありますので、生涯他所へ出ることなど、全く考へてみたこともなく、まして靖國神社宮司に、私ごとき田舍神主ではと、固くお斷り致しました。しかし私の恩師・石井壽夫先生と、日頃格別の御指導を戴いてをります、靖國神社責任役員・森田康之助先生よりも、強い御勸めがありました。ことに松平宮司樣の三顧の禮を盡くされての御要請に、遂に不肖を顧みず、宮司の重職を御受けさせて戴きました。何卒、今後とも宜敷くお願ひ申し上げます。

 私は、大正十一年五月二十日生まれで、來月でちようど七十歳となります。風光明媚な天草に生まれ、田舍ではありますが、人情豐かな天草に育ち、良き氏子の方々に圍まれて、大變な幸せに惠まれた、一介の田舍神主として奉仕して參りました。

 昭和十八年、神宮皇學舘大學豫科を終了、學部の祭祀專攻科に進みましたが、大東亞戰爭が熾烈となり、その年の十二月一日、學徒出陣によりまして、熊本の陸軍歩兵部隊に入隊しました。大隊砲といふ、日本の軍隊で一番小さな大隊砲小隊でした。しかも次々に入隊してくる補充兵は老兵ばかりでありまして、その樣な部下を率ゐて戰地に向ふよりは、一人で潔く、思ひ切り戰鬪機に乘つて、少しでも御國のために役立ちたいと決意し、陸軍航空特別操縱見習士官に轉屬いたしました。しかし一人前の飛行將校となることができず、つひに敗戰となりました。

 神宮皇學舘大學も、神道指令のために廢校となりましたので、九州大學に轉校致しました。昭和二十二年二月、未だ在學中に父が急逝しました。父は、實に立派な神主でありました。當時、占領政策により、戰死者の御葬儀も、公葬は禁ぜられ、まことに御氣の毒な時代でしたが、氏子の方々は、立派な氏子葬を營んでくださいました。私は、この樣な氏子に對して、少しでも御恩返しのできる立派な神主にならねばと決意しました。それと同時に、父の立派な氏子葬に對して、戰歿者の方々は、公の葬儀も出來ず、まことに御氣の毒なことで、心から申し譯ないと思ひました。

 ことに熊谷飛行學校で、私の指導教官は、沖繩決戰に特攻隊員として出陣されましたが、その最期の別れに、手をしつかりと握られ、『大野、後は頼むぞ!』と言つて飛び立たれました。その最後の御言葉、手の感觸は、未だに忘れることはできません。また竹馬の友・學友・知己と、數多くの人々が戰死。二つ年下の實弟も、遠くシベリアのイルクーツクで戰病死しました。その樣なことで、英靈の慰靈鎭魂と、御遺族の御慰めのために、神主として出來得る限りの御奉仕をしなければならぬと決意しました。私の神主としての出發は、實にこの二つの決意に立つものであります。

 翌二十三年のお盆には、淨衣を着けて、御遺族の家を一軒一軒御參りして廻りました。氏子の家は、大方が佛教。その佛壇の前で、神道にての慰靈鎭齋を奉仕したことが、大いに感謝されたのでした。そして翌二十四年、境内に御靈(みたま)神社を創建し、氏子戰歿者の御靈を合祀申し上げ、靖國神社秋季例大祭の十月十八日を例祭日と定め、今日まで慰靈と顯彰の御祭を續けてをります。

 それから、昭和六十年、終戰四十年記念にと、本渡町遺族會の申し入れで、『靖國の碑』を境内に建立することになり、松平永芳前宮司樣の御揮毫を頂戴し、八月十五日に除幕式を嚴修し、爾來、八月十五日に、終戰記念祭を齋行致してをります。また、昭和五十年と昭和六十三年の二度、本渡諏訪神社大神樂の「天草太鼓」を御社頭にて奉奏、御神前に御奉納致しました。

 又、社報の『靖國』にも御縁があります。天草招魂祭での祭員代表の挨拶文を、四十六年五月號に、『靖國のこころ』として御掲載戴きました。さらに六十三年春、遊就館で『やしの實』を拜觀し、感激のあまり、拙い筑前今樣十七節『奇跡のヤシの實』を作詞して獻納申し上げた處、昭和六十三年七月號に御掲載くださいました。又、熊本縣神社廳天草支部長に就任後、支部神職にはかり、神職全員四十名で、『熊本縣神社廳天草支部靖國講』を結成いたしました。恐らく神職だけの靖國講は、全國でも數少ないものと存じます。

 この樣に、私の歩いてきた神主としての道をふり返つてみますと、靖國神社とは深い御縁で結ばれてをりますことに、私自身が改めて氣が付いた次第であります。まことにおこがましいと存じますが、今では、靖國神社の神々が、私を御呼び戴いたのではないかと、畏んでゐる次第であります。本日午前十時の月次祭に參列。引き續き正午に、宮司就任奉告。ついで十二時半、古屋(哲男)總代樣より、宮司の辭令を頂戴致しました。一介の神主として、これ以上の感激はありません。ことに初めての月次祭での感激は、筆舌に盡くせぬものがありました。十餘名の神職と三名の仕女が、古儀のまにまに誠心誠意の御奉仕に、御祭神もいたく御感應遊ばされ、その靈氣に強く打たれるものがありました。まさに「祭祀の至極」と、感涙にむせびました。この樣な立派な祭儀を、戰後も一貫して今日まで御續け戴いたことに、心から感謝申し上げ、心から厚く御禮申し上げる次第です。

 戰後の占領政策に惑はされ、日本精神を骨ぬきにされて、靖國の神々への感謝を忘れ去るもの多き中、默々として、この「至極の祭祀」が見事に遵守されてをればこそ、靖國の神々が、今日の日本の繁榮を成就されたものと、改めて肝に銘じた次第であります。『神は非禮を受け給はず』。假にも靖國神社の祭祀が亂れ、衰微する處があれば、立ち處に靖國の神々の御怒りを買ひ、祖國は滅亡の一途を辿るに相違ありません。私は、この祭祀の嚴修を旨とし、御祭神の慰靈・鎭魂に全身全靈を捧げ、松平前宮司の目標『國民總氏子運動』(註一)に、皆さまと一體となり邁進しなければと、決意を新たにした次第です。

 また先ほどの辭令交付式に當り、森田總代樣より、『雪中の松柏たれ』(註二)といふ、まことに有り難い御言葉を賜りました。靖國神社をとりまく現状が、いかに困難を窮めても、「大雪の中にあつても、常に青々と榮え繁る松や柏の樣に、榮えある靖國神社の宮司たれ」との仰せと畏みました。私もその覺悟で奉仕致します。何卒、皆樣も、この『雪中の松柏』となつてください。私と一緒に一致團結、この靖國神社にお仕へ申し上げませう。

 最後に、特にお願ひ申し上げたいことは、前宮司松平先生は、人格識見、統率力等、全てに傑出された御方であります。先生を百點滿點とする時、私は三十點以下です。そのマイナス七十點を埋めるためには、皆樣方の御協力を得なければなりません。これまで皆樣方は最善を盡して御奉仕してをられますが、あと一%、さらに百尺竿頭、一歩を進めての御協力をお願ひ申し上げます。百十名の方々が、この拙い私を助けて戴き、更に今一歩の御努力を戴いたならば、何とか、松平前宮司時代に追ひつけるのではないかと存じます。私も、宮司を拜命した以上、懸命に務めさせて戴きます。何卒、皆樣方も、この拙い宮司を、『自分が助けるのだ! 一緒にやるのだ!』と、いま一歩の御務めを戴きまして、榮えある靖國神社が、國の鎭めとして、さらに榮えて行く樣に、御協力のほどを、切に御願ひ申し上げます。

 又、私は人格的にも至らぬ點が多いのですが、何か不屆の點がありました時は、御遠慮なく御指摘をお願ひ致します。私も九州男兒の端くれです。腹の中は、からつとしてをります。御遠慮は無用です。どうぞ、靖國神社第七代の宮司・大野俊康を、皆樣の御力添へで、御祭神に對し奉り、恥かしからぬ宮司たらしめて戴きたく、切にお願ひ申し上げ、就任挨拶と致します」と。



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●註一・松平永芳宮司の申送り『國民總氏子運動』
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■註二・疊山謝枋得『初めて建寧に到りて賦する詩』(淺見絅齋先生『靖獻遺言』卷之六)

魏參政、執拘して北に投ず。行くに期有り、死するに日有り。此の詩を爲(つく)りて、其の門人・故友に別る。

 中山菁莪翁・落合東堤翁増補云、これが序なり。「執拘」は、無理にとらへること。

雪中の松柏、愈(いよゝゝ)青青。
綱常を扶植するは、此の行に在り。


 若林強齋先生云、孔子の「歳寒くして然る後に松柏の彫(しぼ)むに後るゝことを知るなり」(『論語』子罕)と仰せられたから、云はれたぞ。「愈」とあるが、別して孔子の餘意まで發せられたぞ。孔子の「松柏後凋」と仰せられたが、雪中でも操をかへず、愈々青々として見える。節義を守る者は、常から人には越えて見えるものぢやが、亂世で、愈々忠義の程が見える。三綱・五常の大節義を扶け立つるは、此の度びのことぢや。

 菁莪云、昔から忠義の人の詩も多いが、これ程、よく揃うた詩は無い。よくゝゝ暗誦すべし。疊山の行かるゝ時も、丁度、雪中ぞ。「愈々青々」、この愈の字が肝要ぞ。普段、青けれども、雪中になりて、愈々色が増す。平生しらけた枋得ぢやが、此の時になりて、愈々ぞ。「扶植」、扶け立つる事。「此の行に在り」、俺が、此の度は一大事ぢや。

 「三綱」は、君臣・父子・夫婦の道。「五常」は、三綱に、兄弟・朋友の道を加ふ。道義。人たるの道。

 愚案、此の「青々」は、平泉澄先生の塾名「青々塾」の出典なり矣。色は、現代一般に云ふ青に非ずして、緑なり。間違ふこと勿れ。此の「九段塾」掲示板の背景の色、即ち是れ也。

天下久しう無し、□[龍+共]勝が潔。
人間、何ぞ獨り伯夷のみ清からむ。


 淺見絅齋先生云、「天下久しう無し」、忠義仲間がさみしい。

 強齋云、さゝへて久しう□[龍+共]勝の樣な忠義の仲間が無うて淋しかつたが、されども拙者が居るからは、何の伯夷ばかりが清からふず、とあること。忠義のなりを任じた語意ぞ。前の「綱常を扶植する、此の行に在り」と云はれた氣象は、こゝで見えるぞ。

 菁莪云、忠義の人も多い中に、此の兩人を擧げられたは、忠義の爲に餓死した人々、自分の事實に叶ふ故なり。久しく無いから、此の度び俺がする。孟子が、「伯夷は、聖之清なる者也」(『孟子』萬章下)と云はれたが、今、俺が其の連れになりて死なう。

義高うして便ち覺る、生の捨つるに堪ゆるを。
禮重うして方に知る、死の甚だ輕きを。

 強齋云、「義高くして便ち覺る、生、捨つるに堪ふるを」、義のなりにかへられず、義なりに高い場になつては、命ほど大事なものはなけれども、何とも思はれぬ、惜しい氣はない、とあること。「禮重くして方に知る、死、甚だ輕きを」、子としては孝、臣としては忠と云ふなりに、身を盡すが禮。其の禮なりに、かへ樣もなく、大事な時に至りては、死はものの數とも思はれぬ、禮にくらべてみれば、甚だ輕いことぢや、とあること。

 菁莪云、生の、捨て易きを知つた。

 『孟子』告子下に、「生を舍てゝ義を取る者也」と。『孟子』告子下に、「禮と食と、孰れが重き。曰く、禮重し云々。曰く、禮を以て食めば、則ち飢ゑて死す云々」と。禮は、人の人たる世界を構成してゐる秩序。即ち子として孝、臣として忠を盡くして、それが筋目に違はず、具現されてゐるを謂ふ。

南八男兒、終ひに屈せず。
皇天上帝、眼(まなこ)分明(ぶんめい)。


 絅齋云、「屈せず」、俺があるもの。

 強齋云、南霽雲、忠義な者で、遂に節義なりに身を屈せず死した。天道の能く見すかしてござるではないか、とあること。

 菁莪云、かゝる時に當つて、嘗て忠・不忠の人の評判は、證據にならぬ。どこ迄もたしかな證人は、天道ぢやに因つて、あなたは分明に見てござる、あなたが證人ぢや、とのこと。

 南霽雲は、南氏の八番目の男子、「南八」と排行で呼ぶと、親しみの意が籠もる(愚案、我が八郎と云ふが如し)。唐の張巡の部下の將。皇天上帝は、單に天といふに等しい。宇宙を主宰統括してゐる至上の神を謂ふ。


【參看出典】
○遠湖内田周平翁校・雪窓沼田宇源太翁編『中山菁莪・落合東堤遺著・靖獻遺言講義』明治四十四年九月・昭文堂刊
○寒林平泉澄博士編・解説『日本學叢書』第三・九・十三卷・佐々木望翁校訂註釋『淺見絅齋・靖獻遺言竝講義』上・中・下・昭和十四年三月・十五年七月・十五年九月・雄山閣刊
○紹宇近藤啓吾先生『靖獻遺言講義』昭和六十二年九月・國書刊行會刊



 友、有り。來る二十四日、講演を爲す、と。因つて『雪中の松柏』の詩を贈り、之を激勵すと云ふ。
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もう一つの『凛として愛』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月19日(月)22時52分23秒
返信・引用 編集済
   久方ぶりに、凛氏『凛として愛』を訪れた。『靖国神社の真実』も、何と紹介して下さつてゐるではないか。再開されたやうだ。有り難い。無理せず、氣長に書き續けて欲しいと願ひます。

 此の凛氏、もしかして‥‥。あ、道理で‥‥。「泉水隆一監督の語り部」でしたか‥‥。

 此のブログに在る「泉水隆一監督のお手紙」(平成十四年九月)は、『靖国神社の真実』にも引用させて戴いたもの、小生は之により、我が塾頭を發見したのでありました。
  ↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/rintositeai/



 件に曰く、

「泉水隆一監督は、若い人たちの靖国神社への参拝についてや、今の保守の活動について、色々と思うところがあったようです。監督が、「アレは、ダメだ」と言われた事を、私も知らずにやっていたので、監督に、「みんな、知らないだけだと思います。そういう話は聞いた事もないし、知れば、きっと変わります」と申し上げたら、

そうか。では、君の言葉を信じて、文句を言うのではなく、教えよう。私は、すぐにそんなことも知らないのか!と思ってしまうんだよ。本当に変わると信じて、教えよう

と、笑顔で話されていました」と。



 愚案、聽く耳を持つ素直な人もをれば、長老に食つてかゝる者もゐる。民主主義の世代も、十人十色だ。監督は、「反日をばさん」にも優しく接し、其の本心を聽き出したと云ふに‥‥。あ、しまつた、憶ひ出してしまつた――、何處ぞの「保守」とやらの言葉を‥‥、敵はんなあ~~、嫌だ々ゞ。お休みなさい。
 
 

緊急告知、『靖国神社の真実』増刷について。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月17日(土)16時26分54秒
返信・引用 編集済
  ご閲覽の皆樣へ

緊急告知

 今の度び、或る御方のご希望により、九段塾藏版『靖国神社の真実』を【増刷】することに致しました。

 ご閲覽各位には、此の増刷の機に、もし【頒布の希望、或は追加】がございましたら、ご融通申し上げたく、

 至急本掲示板へでも、或は『靖国神社の真実』四百九頁の連絡先へでも、ご一報たまはりますやう、御願ひ申し上げます。

 泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭の遺志恢弘――「靖國神社正統護持」に奉贊する爲めでありますから、遠慮は全く要しません。

 なほ、現在、小生の在庫若干分のある限りは無代(送料着拂ひを御願ひすることもあります)、

 今の度びの増刷分につきましては、一册當り「一、金一千圓」(送料着拂ひを御願ひすることもあります)を賜はり、不肖備中處士と共同企劃とさせて戴きたいと、取り敢へずは考へてをります。ご賢察ください。

 ただし頒布希望の期限は、勝手ながら、【三月二十五日】とさせて戴きます。以降、増刷は致しかねますので、豫めご諒承ください。

     備中處士 謹白
 
 

嬉しい悲鳴‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月 7日(水)18時50分59秒
返信・引用 編集済
   九段塾藏版『靖国神社の真実』、取り敢へずは好評のやうで、更に「増刷」も考へねばならぬ事態と相成るかも知れません。本道に有り難いことであります。本書は、誰も云はず、何處にも書かれてゐない、文字どほり、「靖國神社の眞實」が書かれてをりますので、一部には敬遠されるでありませう。

 然しさゝやかなる此の上梓は、小生が、一に、泉水隆一監督、即ち九段塾塾頭への報恩感謝の爲めと、而して何より其の志を紹述せんと欲して企劃したものであります。滿天下、識見ある方々の御目に留まつて、何卒、塾頭の本志を恢弘して戴きたいと、切に懇願して已みません。

 九段塾塾頭・金城翁の本志とは、抑々何ぞや。賀茂百樹――鈴木孝雄――松平永芳――大野俊康宮司の精神を繼承し、恢弘し、且つ復古すること、即ち是であります。此の至願は、遙かに明治天皇の聖旨に應へ奉り、今上天皇の神業を翼贊し奉ることに外ならないのであります。

 而して最も恐るゝ所は、「何處も同じだなあ、困つたものだ」で、終はつてしまふことであります。抑々靖國神社は、天皇の神社、明治神宮と密接なる關係あつて、皇國護持の所據であります。尊皇戀闕の有志は、深く肝に銘じて戴かねばなりませぬ矣。
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm

 なほ一言、申し上げておきますが、本書は無代、即ち非賣本であります。奧附には、なるほど「頒價」の文字がありますが、これは、或る御方が形の上からも入れろ、との仰せに、迂闊にも挿入したもの、今になつては悔いてをります。之を信じて金子を封入して來られた御方がをられて、小生は困惑、謹んで返送させて戴きました。續編を熱望されましたが、それは寶籤でも中りましたら(苦笑)、鋭意、考へたいと存じます。

 本書を熟讀された有志――遺響篇の執筆者・九段塾參加者および見守つて下さつた御方、また本書を落掌した未知の方々は、あらためて讀後の感想や自身の御志を、是非とも此の九段塾へ投稿して戴きたいと存じます。塾頭の箴言・名句、頗る多くして、今後に於ける奉皇報國の所據ともなりませう。九段塾は、塾頭ご照覽の掲示板であります。たとへ短文であらうとも、塾頭の御靈、必ずや、御嘉納たまはるものと確信してをります。期日は申しません、どうか、ゞゝゝ、宜しく御頼み申し上げます。

 本書は、謂はゞ靖國神社正統護持の爲の序論であつて、本掲示板所收の「最終講義」が、塾頭渾身の雄叫び、教化の本論であることは云ふまでもありません。續いて御高覽たまはれば、小生の喜び、之に過ぐるものはございません。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/

 下記は、本書を謹呈した御方から賜はつたもの、其の一部を紹介させて戴きます。



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「送っていただいた『靖国神社の真実』、さっそく拝読しております。すでに掲示板で読んでいる内容ですが、あらためて書物として読み進めてまいりますと、実に切実なる感想を覚えます。九段塾塾頭の声が、まさによみがえってまいります。愉快、痛快なるあり、また真に沈思黙考せざるを得ない口演もあり、憤懣やるかたなし、もあり。

 また、あまりにも膨大なる掲示板の投稿であったことにも、いまさらのごとく驚いております。やがて、人々の手にわたり、ネット上の掲示板ではなく、書籍の形態なるがゆえに、あらたなる読者をえて、故塾頭の志操が広まりゆくことと思います。本書の刊行が、これからの情勢にどのような反響を呼ぶかは、はかり得ぬも、見識を持つ方々には、見過ごせないものとなるのは間違いないと思います」と。

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【參考『一、一兵士翁、掲示板に登壇』(『靖国神社の真実』十七頁から五十六頁)――『二、靖國神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか』以前の文章――からの摘記】

一、靖國神社は、額に矢じりは受けても、後ろには受けない草莽の兵士の勇武、皇軍兵士の武勲を祀っている、天皇の軍隊の神社である。誰一人、後ろ傷を持つ兵士は祀られていない。賊軍の会津藩士も、天皇の軍隊でもない自衛隊隊員は、祀ることが出来ない。英霊の武勲をいただき、それを社会に役立てる、これが顕彰であり、英霊参拝の意義がある。

一、武器弾薬なくも、自決もしないで餓死するまで、皇軍兵士は戦ったことを誉れと、なぜ思わないのか。餓死は恥ではなく、誉れである。戦争は、戦いは勝つか負けるかではなく、突き進むこと、向い続けることが正義であり、常に正義のためにある。「転進」は、靖國神社に祀られることが第一義なために、皇軍兵士の名誉を守るために、大東亜戦争で生まれた用語である。しかし戦争には、絶対勝たなければだめである。

一、靖國神社の祭神は、未だ皇軍兵士の精神と矜持を維持したまま居られる。兵士を可哀想だと思わないで下さい。よくぞ戦って下さったと思って下さい。勇猛果敢な皇軍兵士の神々に、慰霊はおかしい。靖國神社は、御霊を慰めるためではなく、皇軍兵士の雄渾、武勲の魂をお祀つりしているのであって、戦死者を祀っている訳ではない。靖國神社を、今次大戦の戦没者を祀る「慰霊の場所」などと、得心なさらぬように。吶喊の声をあげて鴨緑江を駆け参じ、額に敵弾を受けて真っ先に伏された草莽の兵士の御霊は、凱旋帰国して、靖國神社に祀られている。その方々に「慰霊」などと口にすれば、たちどころに「無礼者」と、社殿に額づく皆さんでも足蹴りされて、「下がれ」と言われるかもはなく、間違いなく言われることを覚悟せよ。

一、遺書に「護国の鬼となって、皇国を護る」とあったら、絶対に遺骨を捜してはいけない。護国の鬼は、地中深くに立ったまま、文字通り「鬼」として、未来永劫、無限の果てまで祖国日本を護り続けている。

一、日本人は現地人を馬鹿にはしたが、「差別」はしなかった。現地人に恐れられたのは、関東軍が現地人を殴るときは拳骨だったからであり、関東軍に対する恐怖心は、国民党にも中共軍にも浸透している。

一、歴史は実感なんです。その時の国民が、どう実感したかである。「日本が敗戦したから」、悲惨な目にあったのです。戦争だから、悲惨なのではない。

一、敵を殺すのではなく、一人でも多くの敵を倒し(殺すのではなく倒すのである。殺すより倒したほうがいい。傷を負わせれば、救助のために戦闘員が割かれ、能力が低下するからである。地雷は、まさにそのための兵器。即死では敵の兵力が一人減っただけでしかない)、一分でも長く戦闘が出来る兵を作り上げるために、「しごく」のである。それは自身の命を守るための訓練である。

一、皆さんが、靖國神社を想い、英霊を顕彰し、本当に心から祭神を尊いと思うなら、酒を飲みながら靖国護持だの、英霊の話をするのはおやめなさい。タバコをくゆらせ、酒を酌み交わし、英霊のことを話すなどは厳禁。また「英霊たち」・「兵隊たち」・「彼らは」・「ご英霊」・「横文字のシャツ」・「酒席での議論」、これだけは禁止事項にされることが望みである。「靖國神社」と、必ず正式名称を呼称して下さい。真性に靖國神社を尊ぶ者は、「靖国」などと、呼び捨てには出来ない。小生が、もし暗黒の時代になり、どれが味方かどうかを審議するなら、まず、「靖国」と呼び捨てにする者は、例え宮司であろうが、「斬れ」と命じる。裏切り者だからである。

一、「表裏」「表と裏」などの言葉は禁句である。帝国軍人に、「うら・おもて」はない。常に自分を諌め、己を慎み、軍人精神に徹することが、皇軍兵士の真髄であり、正道と思い至らしめることにある。

一、英霊を尊ぶなら、遺書を使うなら、遺族の了解を取り付けてからにして下さい。

一、祀られている英霊は、「世界が、皇国が平和であることは願った」が、平和を祈って戦ったのではない。

一、日本は、天皇の国であり、皇土を守護するのは、皇軍兵士である。皇軍が降伏したことは、日本が降伏したのである。皇軍兵士に、条件付き降伏はない、皇軍軍紀の神髄は、命令絶対服従というのが鉄則である。無条件降伏だから、兵士は号泣し、天皇陛下に申し訳なく、慟哭した。軍人は栄誉・潔さを重んじる。国家のために命を差し出す。「日本は無条件降伏していない」という論は、皇軍兵士の名誉を貶めるものと思って下さい。

一、英霊のことを書くのであれば、身を引き締めろと、小生強く言いたい。英霊は、天皇統率の下に、純白の正義を保ちて、そのままに陣中に没しておられ、神として祀られている。いま靖國神社に行かれれば、あなたを見ている英霊は、紅顔の青年ではなく、唇を引き締めた皇軍兵士である。峻厳端正、光輝ある英霊を侮るようなことは、絶対にされないように、身を膝下において、英霊を常に仰ぎ見ていれば、失態は絶対に起こさないはずである。あなたと小生の話を、英霊は聞いているかもしれない、そいう発想を、常に持ちなさい。

一、英霊を守るために身を捧げた松平永芳宮司も、生前、ひそかに口にしていたのは、「敵は左翼ではなく、保守だ。これに気をつけにゃいかん」と、話されていた。当時の広報課長馬場さんが、松平宮司に「旧宮家」の威風を吹かせたので、松平宮司に嫌われたのが、あの恨みの「コノヤロー」となった。

一、「一部将校」の方々も、英霊として目と鼻の先に祀られているにも関わらず、なぜ、「関東軍の一部将校は」などと、なじる歴史を「遊就館内」に書くことができるのですか。

一、。靖國神社は、戦争を肯定している神社である。だから「靖國神社」たりえる。間違っても「平和を祈る神社」などと、思わないように。皆さんの感性で神社を理解するのではなく、時代の中に遡及して理解されるように。

一、関東軍が「やった」というのではなく、「やったに違いない」が、「やった」の歴史になっただけである。それは全て「告白」・「日記」・「メモ」・「証言」などで構築された、戦後人による「日本近代史」でしかない。命令書とか、公文書で明らかになった歴史ではない。

一、天皇陛下のご発言メモとしたら、情報が正確に伝達されていないことである。誰が天皇陛下に情報操作を行っているのか、それが重要。あのメモに書かれていることは、嘘の情報なのである。真実は違う。

一、第一鳥居が汚れているのは、神々に不敬であると申されて、一晩中かけて、たった一人で、あの大鳥居を洗われた方がいる。英霊にこたえるためには、理屈が必要なのです。実感が必要なのです。論理が必要なのです。感性だけでは、こたえることが出来ない。

一、若いうちは恥を掻くのも、修行の一つです。お励みなさい。

‥‥‥‥
 
 

御内裏樣への祈願‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 3月 1日(木)00時03分9秒
返信・引用 編集済
   帝都では、桃は咲かねど、太陽暦三月三日、太陰太陽暦では三月二十四日、關西では月遲れの四月三日。然り、御雛樣である。

 御内裏樣、即ち天子樣へ、祈ぎ事を奏す人あり(武藤嚴男翁編『肥後先哲遺蹟』明治二十七年二月・普及舍刊に見ゆ)。
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●荒木精之翁の哥

「ひなまつり」――三月三日、雛壇をつくる。時に肥後の勤皇家・富田大鳳先生のことをしのぶことあり。或る年、先生、三月の雛祝に招かれて、奧の座敷に雛見にとて立ちゆきしが、いつまでも歸らず、主人ゆきて見るに、先生は内裏樣の方を向き、小聲になりて、『御氣遣ひめさるな、この大鳳が一生の間には、如何樣とぞ、御恢復のことはかり奉るべし』とて、落涙せられゐたりとぞ――

女の子ふたり わが家にありて ひなまつり まつるとすれば ひとのおもほゆ



 愚案、かつて左右、孰れか尚きか、論ぜしこと有り。
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 童謠に曰く、「御内裏樣と御雛樣、二人竝んで云々」と。然れども熟々考ふるに、天皇陛下は、宇宙に於ける北辰の如く、固より絶對唯一に大坐します御方にして、昭和の御大典に於る天皇・皇后兩陛下出御の御立ち位置を以て、以降、尚右とすることは出來ないのではないか。高御座は、飽くまで中央に座し、皇后の御帳臺は、其のやゝ左に退つて置かれてゐることからも判る。

 雛飾りの飾り方、昭和御大典以降の關東方式に習ひ奉るにしても、御内裏樣は出來るだけ中央に、御雛樣は、御内裏樣より奧に少し退いて、向つて右に御飾り申すべきでは無からうか。然しこれは理屈であつて、推奬は出來ますまい‥‥(苦笑)。小生も何を申してゐるか、支離滅裂の爲體‥‥。然しながら天子樣の一寸した御行動にて、數千年來の樣式に變更を來たすこと、之れ有り。是れ、稜威の大なる、臣民は、其の影響に驚く所あらねばならぬ。



●稻村眞里翁『雛祭の祝詞』(『國民の祝日・年中行事・新作祝詞選集』昭和二十六年五月・京文社刊――占領下の出版ゆゑに、工夫の程が偲ばるゝ)

――清祓の後、「雛祭に雛人形を拜む詞」。
この壇(うてな)に坐します雛の君たち、この家(や)の童兒(わらべ)らに、平らけく安らけく和やかに齋かれ坐しませと白す。――

この神床に鎭まり坐す、掛けまくも畏き大神たちの大前に、恐み恐みも白さく。

掻き數ふ四つの時のうち、心(うら)樂しきは、春の時(ほど)に優るものなく、春のうちにも、心落ちゐて樂しきは、桃の花咲く時にこそあれ。

三月の三日の日は、遠き古へは、上巳(じやうみ)の節句とて、大宮人たちは、遣水(やりみづ)の流れのほとりに、觴(つののさかづき)を浮かべ、漢詩を謠ひ交はし、また物合せなどして遊べりと、物などには記したれど、今には倣ふ者もなし。

たゞ中昔に始まれる雛遊びは、いともゆかしき風雅(みやび)わざにして、殊に少女(をとめ)の祭といひはやして、天の下の家といふ家は、甘き白酒など釀して供へまつるは更なり、緑なる蓬の餅(もちひ)・紅き白き豆の菓子(このみ)・美はしき草花などさへ取添へて、御祭する慣習(ならはし)にしあれば、

この○○の家にも、今日の生日の足日に、ねもころに雛祭することを、愛(め)ぐし欣(うむが)しと諾ひ看そなはしまして、生ひ先こもれる少女の齡(よはひ)、いよゝ永く、立居・振舞ひ、いよゝ風雅に、艶(ゐや)やかに人とならしめたまひ、家族・親族、睦び和(にぎ)びつゝ、家門高く廣く、彌遠永に、立ち榮えしめたまへと、

産土大神の宮司○○○○、乞ひのまにゝゝ、嚴(いか)し桙、仲執り持ちて、恐み恐みも白す。



●高原美忠翁『日本家庭祭祀』(昭和十九年六月・増進堂刊)に曰く、

「三月上巳の雛祭を、女子の遊びとのみ解してゐる人が多いが、この日を戰の祝と云ひ、菱餅は、實は鏃の形であるとし、男子は竹の弓矢を持つて、歌ひ乍ら遊ぶところがある。歌は『じやんゝゝゝめつこかいめつこ、節句の團子、引つちぎつて來い』と云ひ、お供への團子は、必ず引きちぎつた。弓矢は神を迎へるものであり、矢を射るは、魔障を祓ふのであり、團子を引きちぎるのは、神を送るのであらう。このあたりでは、雛は家々の火の番だと云ふが、恐らくは古意は、火の神・家つ神であつたらうと思ふ。これは甚だ古い形を殘したものと思ふが、‥‥

 雛人形の由來を考へる時、思ひ出されるのは、天兒(あまがつ)である。上古から天兒と云つて、幼兒の形を作つたものがある。兒女の身に副へておくもので、平安時代には、出産の時、子供の枕もとに、必ず置いた。三歳になるまでは、必ず兒の枕もとにおき、お守りとした。小供の災厄は、この天兒が負ひ、子供が健康に育つやうに守つてもらふのである。後にはこの人形に衣裳を着せて、十歳迄の子供の遊び友達ともした。‥‥天兒這子から轉じて、立雛が出來、神雛・紙雛などとも云つた。室町頃には、座した雛も出來た。江戸時代に入り、綱吉將軍の頃、三月三日に行ふこととなり、其の後、段々發達して、今日のやうになつたのであるが、本來は祓の人形や天兒から起きたものであり、更に溯れば、神の憑代である。『ひな』と云ふ言葉は、小さい意味とだけ解してゐるが、雛は火の番だと云つてゐる所の用法から考へても、神と云ふ意味を含んでゐる言葉だと思ふ。

 室町時代には夫婦の雛を飾り、桃酒・母子餅を供へた記録があり、内裏雛・五人囃などは、徳川時代に入つて出來たものである。古來の沿革に考へ、本義を考へて、今日、雛祭を如何にして行へばよいかと云ふに、今のやうに多くの人形を飾るよりも、立雛二體に、桃花柳の枝を折りそへて、供へ物をして、神を祭ればよい。家の作法としては、鏡餅に菱餅・熨斗鮑を添へ、桃の花を折りそへて供へてゐる例もある」と。
 
 

徳、必ず隣あり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月27日(月)18時19分7秒
返信・引用
   中島一光翁のご紹介にて、或る遠方の御方より、下記の書を戴きました。

「泉水隆一監督の作品をコピー、拡散を続けております。

 映像に『今から援軍をおくる』というナレーションがあります。泉水監督の遺志を継いで、台湾・ブラジルはじめ、あらゆるご縁・機会をとらえ、全国に拡散の波動を広げる運動をおこなっております。現在2000枚配布したところで、息の長い拡散運動になるかと存じています。

 各地で心ある方々により自主拡散が始まっています。小生、戦後生まれではありますが、英霊の志しに感謝し尽すことはない、という思いでおります。

 DVD『戦艦大和主砲音1分/凛として愛67分』――大和は、小生が付け加えました」と。



 愚案、映畫『凛として愛』は、日本青年社・東條由布子刀自・愛国女性の集い花時計が、擴散・配布されてをられます。又ユーチユーブでは、クルーンP・よーめん兩氏がアップ(後者は英語字幕附)されてをり、誰でも見ることが叶ひます。今、お一人、件のやうな御方がをられる事を知りました。映畫『凛として愛』の力量の所爲もありませうが、天下は、實に廣い‥‥。我が九段塾の志も、孤ならずと謂はねばなりません。有り難く、洵に喜ばしい事であります。
 
 

塾頭、ご照覽を‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月26日(日)22時33分26秒
返信・引用 編集済
   暘廼舍河原博史同血社主も、泉水隆一翁『靖国神社の真実』出版を喜んでくれてゐる御方である。河原兄の無かりせば、書中の「遺響篇」は幻に終つたと申してよい。各分野の方々、長老俊英に、八方、聲をかけて戴き、各位の追悼文を得、我が塾頭の志に華を添へることが出來た。小生は感激したが、それよりも編輯中、何度も激勵を戴いた。此の書の成る、眞に暘之舍主人の賜である。
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/17242360/

 塾頭の最晩年、相原修神主の歸幽を告げられた。小生は、直ちに相原神主の書を得んが爲めに、暘之舍主人に連絡、それ以來、眷顧を忝うしてゐる。其の直後、塾頭は入院、やがて顯幽、界を異にされた。塾頭が、小生に對して暘之舍主人を紹介、導いて下さつたと、獨り勝手に思つてゐる。河原兄も、亦た塾頭を慕ふお一人である。然し『靖国神社の真実』の上梓を喜んでばかりではをられない。其の遺志の繼承は、始まつたに過ぎぬ。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/568
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/573


同血社主人の一艸獨語
  ↓↓↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/
 
 

泉水隆一翁『靖国神社の真実』紹介。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月26日(日)15時39分51秒
返信・引用 編集済
   小生が敬慕する御二人の大先輩より、泉水隆一翁『靖国神社の真実』出版につき、温かい御紹介を賜はりました。我が塾頭の御靈、さぞや御悦びの御事と拜察します。小生も、亦た本道に嬉しうございます。兩翁に對し、謹みて深く御禮申し上げます。



 『靖国神社に参拝しよう』(平成十八年四月・栄光出版社刊)の著者であり、何時も目にかけて戴いてをる、オロモルフ博士からは、圖らずも『靖国神社の真実』書影の掲示を戴きました。装幀は、洛風書房の魚谷哲央翁に御任せしたもの、氣に入つてをります。
  ↓↓↓↓↓
http://8227.teacup.com/ysknsp/bbs/12232


オロモルフ翁のホームページ
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/



 草地宇山翁の門下にして、『尊皇・愛國のホームページ「彌榮」』を主宰されてをられる、中島一光(枝島賢二)翁より、玉翰と玉章を拜戴いたしました。曰く、「泉水隆一監督の御略歴を拜見し、小職と同世代であることが解り、何か通ずる思ひが有るのではと感じました。終戰時に、まだ幼兒、まさに御靈に護られた世代なのです」と。之を拜して、我が塾頭を想ふこと、切なるものがあります。又た「『御靈に護られた』との思ひを綴つた」文章も賜はりました。謹みて御披露申し上げます。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Motoyouji.htm


中島一光翁のホームページ
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/
http://www1.ocn.ne.jp/~kazumitu/
 
 

九段塾藏版『泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』頒布。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月23日(木)18時27分35秒
返信・引用 編集済
   泉水隆一翁『靖国神社の真実』頒布、長い間、お待たせ申し上げました。數日中には、「遺響篇」の玉稿を賜はりました方々、頒布を希望された方々の御手許に屆くかと思ひますので、ご嘉納ご閲覽たまはれば幸甚であります。ご協力、本道に有り難うございました。なほ失禮不備の段もあるかとは存じますが、自費出版に免じまして、何卒、御海容の程、只管ら御願ひ申し上げます。 九拜



■□■靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版

『「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』
■□■


一頁は、三十二字×二十五行×二段の縱書きにして、全て四百十六頁なり。
四六版(152ミリ×220ミリ)・淡クリーム菊判、塾頭原稿の文字、實に五十萬餘字なりき。
出版社は、京都なる「洛風書房」(代表・魚谷哲央翁)、即ち是れ也。
發行日は、平成二十三年辛卯十二月八日なり矣。
なほ此の自費出版における内容責任は、全て、編輯者たる不肖「備中處士」に在り。



***************

【 扉 】

―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社なり ――

我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、
是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、
映畫『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。
塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、歸幽。享年七十。
謹みて此の書を、塾頭の靈前に捧げ、ご照覽を乞ひ奉る。


本書は、一兵士翁が、戰後の人々に、或は靜かに滾々と、或は荒び迸り、
或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、
「靖國神社の眞實」の記録、
そして、
「靖國神社の正統を、次代者はどう受け繼ぐべきか」の覺悟を問ひ、
皇猷神算を翼贊し奉らむと欲するものであります。
ご閲覽の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聽き取り下さい。



【目  次】

一、年 譜 篇  九段塾塾頭・福井金城翁事歴抄 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥   一

二、本 篇 一  一兵士翁、掲示板に登壇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  一七

三、本 篇 二  靖國神社の正統を次代者はどう受け繼ぐべきか ‥‥‥  五七

四、遺 響 篇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 三六九

五、參考文獻・跋 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 四○八


 就中、【四、遺響篇】の内容――本文・敬稱省略/五十音順

一、真の歴史観を伝へた「凛として愛」
   全日本愛国者団体会議最高顧問 靖國會特別顧問 国民協議会名誉顧問 阿形 充規

一、日本を失ってはならない
   女性塾幹事長 伊藤 玲子(元・鎌倉市議)

一、映画「凛として愛」を観て
   日本ネイビークラブ理事長 大橋 武郎(元・空将補)

一、保守による大衆運動を
   大東亜青年塾々生 岡本 美麗

一、日本人は今こそ「萬邦萬人 天皇歸一」の大理想を成就せよ
   神奈川縣維新協議會政策實行局長 海法 文彦

一、翁見えずとも、其の言や今猶ほ生命躍動す
   同血社會長 河原 博史

一、泉水隆一氏の遺文集に寄せて
   大行社本部青年隊長 木川 智

一、天皇の神社
   九段塾參加者 見目 和昭

一、泉水監督の作品に想を馳せ
   青年意志同盟青水塾々長 坂田 昌己

一、現代を生きる私達があの戦争の真実を伝える援軍になりたい
   ジャーナリスト 佐波 優子

一、映画「凛として愛」に思う
   ミュージシャン 實吉 幸郎(實吉安純海軍軍醫中将の令曾孫)

一、泉水隆一監督の遺稿輯發刊にあたり
   原道社代表 鈴木田 舜護

一、靖國神社を語る重さ
   靖国神社清掃奉仕有志の会代表 維新政党・新風代表 鈴木 信行

一、英霊が残したあるべき未来――「凛として愛」泉水隆一監督に捧ぐ
   株式会社カルチャージ代表取締役 東條 英利(東條英機首相の直系令曾孫)

一、英霊の為に生き 英霊の為に逝く
   時局對策協議會議長・防共新聞社主幹 福田 邦宏

一、映画「凛として愛」普及に協力したい
   大東塾 福永 武(不二歌道會代表)

一、泉水隆一監督の思い出
   愛国女性のつどい花時計代表 藤 真知子

一、「凛として愛」に思う
   大東亜青年塾東京本部青年部長 森川 俊秀

一、映画「凛として愛」を鑑賞して
   公益財団法人水交会――慰霊顕彰・援護委員会委員長 山口 宗敏(山口多聞海軍中将の令息)

一、大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり
   大東亜聖戦大碑護持会顧問 山本 邦法(山崎幸一郎日本民族覺醒の會々長の令従甥)

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 「九段塾」ご參加ご閲覽各位にて、『靖国神社の真実』頒布ご希望の御方は、
芳名・送付先・册數を、遠慮なく、本篇掲示板の最下段なる「管理者へメール」
にて、ご一報たまはれば、在庫がある限り、無代にて御送付申し上げます(但し郵送代は、着拂ひとさせて戴く場合もございます)。

     眞金吹く吉備中つ國なる玄月書屋に於いて、備中處士、謹みて白す。



*** 靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書 ***

【第一輯】――今囘の自費出版『靖国神社の真実』の元原稿――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/


◎ 以下は、小生の夢にして、容易に期す能はざるもの、些か開陳して、我が心を慰めむと欲するも、亦た可からずや。


【第二輯】――第一輯續篇・本「九段塾掲示板」の塾頭遺文/未版――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・金城翁最終講義』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50

【參考/泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』臺本】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50

【第三輯】――未版――
■靖國神社宮司賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』覆刻
昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm

【第四輯】――未版――
■九段塾藏版『靖國神社宮司松平永芳大人遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50

‥‥‥‥
 
 

戀闕の悲願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月18日(土)23時06分28秒
返信・引用 編集済
  み濠(ほり)べの 寂(しづ)けき櫻 あふぎつつ 心は遠し わが大君に

 三浦義一翁の哥である。小生の最も好きな哥の一つにして、幾度び詠んでも飽くことは無い。靜寂ではあるが、激しい情熱が滾つてゐるを見る。將に「戀闕」の歌、千古の絶唱と申すに相應しい。謹誦するごとに、吾が心は、遙か大内山に至る。國手の術、事無きを得つゝある御由、少しく安堵すると共に、天皇陛下の、ひたすらなる御平癒御平安を祈り奉る。

 「戀闕」とは、眞木紫灘先生『南遷日録』卷五・萬延元年九月二十六日條に、

「日暮れ、北筑の人・平野國臣、東火の人・松村深、來訪。國禁を以て焉を辭す。焉を強ふ。竊かに面す。國臣は、戀闕第一等の人也。而して曾つて午年の禍に係り、今ま人に忌まるところと爲り、薩に入らんと欲して、關、硬くして入る可からず、東火の間に逡巡すと云ふ。」

と見ゆ。此の「戀闕」とは、紫灘先生獨特の辭とも云はれるが、其の淵原は定かでは無い。定かでは無いが、其の響きから、皇國ならでは發し得ない辭と申してよい。贈正四位・獨醒軒月廼舍平野二郎大中臣國臣先生は、京都六角獄中にて、日々怠ること無く、同じく捕縛されし志士達に對して、『神皇正統記』を講義したと傳へられる。頭山立雲翁は、「國臣平野次郎先生は近代の人にして、而して古代の人なり」(『平野國臣傳』序文)と云ひ、大川周明博士は、「明治維新の志士、雲の如し。而も其の純情の無垢の點に於て、予は最も國臣の人格に傾倒す」(『純情の人・平野二郎國臣』)と云ふ。

 平泉澄先生からも、「人は『純粹』で無ければ、話にならぬ」との教へを戴いてゐる。此の「純粹」なる者が、或は自覺特立に因るか、或は教育影響に基づくかは知らねども、「戀闕」の至情が迸り、畏くも大内山の大御心に沿ひ奉らむとするとき、自己維新は成り、而して衆ければ、必ず平成維新は成るのである。



●影山正治翁『天皇論への示唆』(維新叢書第一輯・昭和四十六年九月・大東塾出版部刊)に曰く、「

 實は、「天皇」と申し上げることに、僕(影山正治翁)などは、少なからず躊躇を感じるわけです。本來、日本の庶民は、「天皇」と申し上げることに、非常にはばかりを感じてゐた、したがつて申し上げなかつた。「天皇樣」とか、「天子樣」とか、「天朝樣」とかいふふうに申し上げてゐたわけです。「天皇」といふ言葉そのものに、本來は深い尊敬の意味がふくまれてゐるわけですが、一般的には、さうでない、即ち愼みと尊敬の念のうすい使ひ方に、戰前に於いてもなつてゐたし、特に戰後に於いては、極度にさうなつて來て居るわけです。しかし今は一つの「學術語」といふ意味を主として、僕自身も「天皇」と申し上げて話を進めたいと思ひます。大體に於いて僕は、「すめらみこと天皇」とか、「あまつひつぎ天皇」とか申すことに出來るだけして、そこに、愼みと尊敬の思ひを、ひそかにこめようとしてゐるわけです。‥‥

 日本古來の言葉でいふと、「戀闕」といふこと、即ち切なきまでに、生命の底から、「天朝・天子を戀ひ慕ふ心」‥‥。「戀闕性」といふことは、單的に云へば、「ほれる」といふことなんです。「天子さまにほれる」といふことです。「ほれる」といふことは、無條件であるわけです。論理を越えることなんです。理屈を越えることなんです。それはもう、「詩の世界」であり、もつと云ふならば、「宗教的な境地」に近いわけです。で、天皇の本質を探究してゆくためには、「理」を主體とした理論的な探求の仕方の半面に、「情」を主體とした戀闕的な探求の仕方が、切實にないといけないわけなのです。といふのは、天皇の御存在を、我々の外にだけ見て、これをあちらから見たり、こちらから見たり、上から見たり、下から見たりして探求して行く面だけでは、「天皇の本質」の全體的把握といふのはできないわけです。なぜかといふと、(松永材教授『日本主義の哲學』には)「超越性と内在性の合體」といふ表現をしてゐるやうに、それは「現人神」であり、「明つ御神」であるから、「人の面」は客觀的・理論的な分析や研究でつかめるけれども、「神の面」がつかめないわけです。その「神の面」をつかむ爲には、禪の方でいふと、「直視人心」と云つた、論理を超越して、直接に「ものの實相」を突きぬいて直入してゆく、さういふ直観力といふか、信仰といふか、論理を超越した「ほれる」と云ふ言葉がよく示してゐるやうな、さういふ觸れ方、つかみ方といふものが、半面になければつかめないわけです。このことは、「天皇の御本質」を探究してゆく上に於ける根本の一つの重要ポイントであるわけです。

 ですから、「すめらみこと天皇」を、我の外にだけ見ると思ふことではつかめない。「天皇は、我の外に在ると共に、我の生命の中にをられるんだ」といふことが、實感としてつかめてこなければわからないと云ふことなんです。そして日本の庶民は、それをおのづからしてつかんでゐるんです。非常なナイーブな形、うぶな形であるけれども、それをつかんで居るんです。

 たとへば‥‥、戰國時代から江戸時代にかけて、皇室の式微といふもの、衰微といふものが極度に達してゐた時、現在諸君が考へても、到底わからない程に式微してゐたからこそ、高山彦九郎といふ存在が、きは立つたわけです。三條大橋の上から、御所の燈が見えたといふことは、皇居があばら屋になつてゐたからです。そこで、三條大橋の上に土下座して、伏拜して泣きふした。そして「將來、必ずや維新を成しとげて、御皇室(愚案、マヽ。「皇室」とあるべきなり)の御囘復をはかり、み心を安んじたてまつるであらう」と誓つた。しかし遂にそのことが出來ず、「我れ狂へり」とだけ云つて、みづからの命を絶つわけです。その彦九郎の「戀闕の悲願」といふものが受け繼がれて、明治維新といふものになつて行く譯ですが、その高山彦九郎が「寛政の三奇人」の一人として傳へられてゐる。「奇人」といふことは、常識からはずれてゐる人、變り者であるといふことです。當時の人々は、さういふ意味で、幕府・將軍あるを知つて、皇室・天皇あるを忘れて居るやうに見える世相の中にあつて、「奇人だ」と云ひながら、その心の底で、「氣慨は高山彦九郎」で、彦九郎に同情し、ひそかに拍手を送つてゐたのです。さういふ時代だから、當時の支那思想を濃厚に研究して居つた伊藤仁齋などは、天皇を稱して、「山城王」と呼んでゐた事實があるわけです。日本國の國王ではなくして、日本國六十餘州の内の一つである山城の國の國王であると呼んだ事實までがあるわけです。‥‥明治維新は、そのやうな日本の名もなき庶民、民草の心の中の「戀闕の思ひ」が背景になつてでき上つたわけなのです。‥‥

 天皇を我の外にだけ、特に皇居の中にだけ見るといふのではなく、我が内にも見るといふこと、むしろ僕は、これが根本だと思ふわけです。明治維新の時の本流の先輩達は、その線を行つた人々です。彦九郎先生の線の先輩達は、みんなさうなんです。さうでない人々、いはゆる外にだけ見た人々、これは、いはゆる「天皇機關説」です。‥‥戀闕派の西郷と天皇機關説派の大久保では、最初から本質的には、非常に違ふんです。さうして大久保利通の方は、合體すべくして、合理主義・實利主義・近代主義・西洋主義の福澤諭吉と合體したわけです。この系列が、近代日本といふものを、ずつとひつぱつたわけです。明治七年から十年にかけて、西郷黨の人々は全滅しましたからね。しかしこの人々の悲願といふか、眞意といふものを、一番よく理解して居られたのが、明治天皇であられたわけだと思ひます。そのことは、純粹な日本の歴史眼をもつて、明治史をじつと奧底まで洞察すれば、よくわかることです。さういふ明治天皇のお心を、一番よく體感してゐたのが、西郷黨の系列に立つ戀闕派の頭山滿とか、内田良平とかいつた人々を主體とする、明治のすぐれた浪人たちであつたわけでせう。

 この點は、三島事件の見方にも現はれてくるのですが、三島由紀夫といふ人は、『文化防衞論』の中で鮮明に申してゐるが、「私は政治ではないのだ。文化なんだ」とね。「政治」をどう解するかといふことには問題がありますが、要するに三島由紀夫といふ人は、「戀闕」といふことを云はうとしてるんです。「天皇陛下萬歳」で生死を決するわけで、滿十年前、昭和三十五年秋の山口二矢君を繼いだわけです(――影山正治翁は、三島氏の國學的傾向の始まりを、昭和三十八年の『林房雄論』以降とするも、四十一年の『英靈の聲』は「亡靈の聲」と斷じ、支那的革命思想の磯部が怨靈からの脱却を試み、遂に四十五年の「天皇陛下萬歳」絶叫の自決を以て、國學の本義、即ち天皇の御本質に直結した、と見てをられる――)。簡單にいふならば、明治維新の正統派の人々の行き方をついだわけで、あるいは神代以來の日本人の正統をついだわけですが、しかし大久保利通の現實的な天皇観といふもの、さういふ天皇觀を持つた人々を、これを全面否定したりするのは間違ひだと思ふ。たゞ問題は、かういふ人々に方向を與へるといふこと、これが必要なのです。これが、やはり「天皇の御存在」であるわけです。明治天皇は、西郷一統の眞情を十分に御理解されながら、しかもこの大久保利通的やり方に方向づけをしてをられたといふことなのです。大日本帝國憲法の欽定や、義戰としての日清・日露兩戰の實施などが、それです。

 しかし方向づけが、日露戰爭に於いて限界性がきた。この限界性がきたといふことを、率直に表現されたのが、人々は全くそれを讀みとらなかつたが、明治四十三年に發せられた『戊申詔書』であるわけです。「維新ノ皇猷ヲ恢弘シ」と申されてゐます。幸徳秋水の「大逆事件」の起きた年のことです。

罪あらば 我をとがめよ 天つ神 民は我が身の 生みし子なれば

のお歌は、この大逆事件のことをおききになられて、お作りになられたものと傳へられてゐます。またそれは、「日韓合邦」の年でもあるのです。いふなれば、戀闕の先輩達の手によつて、朝鮮のアジヤ主義的同志とともに進められた「日韓合邦」、樽井藤吉さんの『大東合邦論』の純粹路線で進められ、明治天皇によつて裏づけられて進められた「日韓合邦」が、忽ちにして「韓國併合」の植民地主義的路線におちていつたといふことの時代的意味が、『戊申詔書』をすこし深く讀むと、すぐわかるのです。「このまゝでゆくと、明治維新は崩壞する、なくなる。こゝでもう一度、明治維新にかへるべきだ」といふことをいふてをられるのです。その意味での「第二の維新」の宣言が、『戊申詔書』であるわけです。

 昭和維新といふことで云ふならば、昭和維新の明治に於ける民間的出發點は、明治七年から十年にかけての西郷一統の蹶起なのです。これは、「第二維新」をやらうとしたのです。‥‥天朝・天皇の面からいふと、明治四十三年の『戊申詔書』といふものが、昭和維新の一つの原點であるわけです。さうして大正時代、大正十二年の關東大震災の後で發せられた、現(愚案、今上)陛下の攝政の宮の時の『國民精神作興の詔書』などに、この『戊申詔書』の御精神が受けつがれてゐるわけです。「今ニ及ビテ時弊ヲ革メズムバ、或ハ前緒ヲ失墜セムコトヲ恐ル」と申されて居るのです」と。



【「戀闕」――大君がいとしうてならぬ、至誠惻怛の心――備中處士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/8
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/renketu.htm

【肥後勤王黨の源流・富田大鳳先生の「戀闕」――備中處士】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t32/2
 
 

大内山立ち覆ふ、暗欝しき雲・霧‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月16日(木)21時52分7秒
返信・引用 編集済
   「はゆまつかひ」樣には、稻村眞里翁『聖上陛下御惱御平癒奉祷の祝詞』のご紹介を賜はりました。洵に難有うございます。

 有志の御方には、一人でも多く、諸共に、或は宮城の大前に於いて、或は神社の廣前に於いて、或は神床の御前に於いて、謹みて、且た熱祷もて奏上して戴きますやう、伏してお願ひ申し上げる次第であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/18



【 參  考 】
  ↓↓↓↓↓
●稻村眞里翁『明治天皇御惱御平癒奉祷の祝詞』(稻村眞里翁著・稻村徳氏校註『新註・稻村眞里諄辭集』昭和二十九年十二月・稻村眞里先生米壽祝賀會刊――題辭は佐佐木行忠翁、題簽は石川岩吉翁、序文は鷹司信輔・石川岩吉・高山昇・今泉定助・塚本清治・宮地直一・鳥野幸次諸翁、後序は稻村眞里翁、跋文は川合茂樹・矢田部盛枝諸翁――に所收)

この小床を、嚴(いつ)の眞屋と祓へ淨めて、神籬(ひもろぎ)挿し立てて、招(を)ぎまつり坐せまつる、掛けまくも畏き、天つ神・國つ神・八百萬の大神たちの大前に、齋主[姓名]恐み恐みも白さく。

掛けまくもあやに畏き天皇、‥‥、大御心地(おほみここち)、例(つね)のごと坐しまさず、この頃、篤しく不豫(やくさ)みますと、承り畏みて、天の下、悉とに慨(うれ)たみ惑ひつつ、せむすべのたづきを知らず。

故(かれ)○○○○ら、これの○○○○に來集へる、○○○○ら、諸々相議りて、天つ神・國つ神・八百萬の大神たちを、一柱も漏れ遺ちたまふことなく、これの眞床に招ぎまつり齋(いは)ひまつり、

別きて○○○○らが、日にけに持ち齋(いつ)き仕へまつる大神たちを拜(をろが)みまつりて、禮代(ゐやじろ)の御饌・御酒・諸々の物を獻奉りて、齋(ゆ)知り嚴(いづ)知り御祭り仕へまつらくを、平らけく安らけく諾(うづな)ひたまひて、

掛けまくもあやに畏き天皇の大御體(おほみま)、速(すむや)けく舊(もと)のごと、清々しく癒えまさしめたまひ、大内山立ち覆ふ暗欝(おほほ)しき雲・霧を、科戸(しなど)の風の、忽ちに息吹き拂ひ退(そ)けたまひ、ただ一つ心に慨たみ惑ふ、天の下の青人草の心を安からしめたまへと、乞ひ祈(の)みまつることのよしを、彌高々に聞こしめせと、集侍(うごな)はれる○○○○ら諸々に代りて、恐み恐みも白す。



【『宮城遙拜詞・宮城參拜詞』】――平成二十四年二月十七日、『宮城參拜詞』追記
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紀元節に哭く。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月11日(土)12時55分57秒
返信・引用 編集済
   紀元節を祝し奉るに、こゝに舊稿を掲げ、些か修訂を以てす。亦た可からずや。

 神武天皇紀元以前に、悠久積年の歴史あり。我が「すめらみこと(天皇尊)」の起原は、固より天上、即ち天津日の高天原に存す。而して皇位の淵源大宗は、其の主宰・天照坐皇大御神(あまてらしましますすめおほみかみ)に在り。何となれば、抑々皇祖と申し上げる所以は、其の血統上の御事もさることながら、則ち「天下の主たる神」として、本來、御生れになり給うたが故ゑなればなり。

 神武天皇には、此の大地、即ち地球を治めさせ給ふ地神として、即ち第六代の現津御神に坐しませり。中今に仰ぎ奉る所の今上の天皇陛下には、人皇第一百二十五代の大君にして、第一百三十代の地神に大坐します矣。畏しとも、畏き極みなりけり。

 平成二十四年壬辰歳は、皇紀2672年、天降(或は中興)5012年なり矣。「天地も昔に變らず、日月も光を改めず。況んや三種の神器、世に現在し給へり。極まり有るべからざるは、我が國を傳ふる寶祚也。仰ぎて貴び奉るべきは、日嗣を受け給ふ『すべらぎ』になん、おはします」(『神皇正統記』)。



■『日本書紀』卷一・第五段・四神出生章・本文に曰く、

「伊弉諾尊・伊弉冉尊、共に議りて曰く、『吾れ已に大八洲國、及(ま)た山川草木を生めり。何にぞ、天の下の主(きみ)たる者(かみ)を生まざらむや』[御紀卷一・第五段・一書第一『吾れ、宇宙之珍子(あめのしたしろしめすうづのみこ)を生まむ』とのたまふ]と。是に共に日の神を生みます。大日□[靈の上+女]貴と號す。

 此の子、光華明彩、六合の内に照り徹らせり。故れ二神、喜びて曰はく、『吾が息(みこ)多なりと雖も、未だ若此(かく)靈異(くしび)なる兒は有さず。久しく此の國に留めまつるべからず。自ら當に早く天に送りまつるべし』とのりたまひて、天上の事を授けまつりき」。



●北畠親房公『神皇正統記』天忍穗耳尊條に曰く、

「吾勝尊、降り給ふべかりし時は、天照大神、三種の神器を傳へ給ふ。又た後に瓊々杵尊にも授けましゝゝに、饒速日尊は、是を得給はず。然れば日嗣の神にはましまさぬなるべし。天照大神・吾勝尊は、天上に留り給へど、『地神』の第一・二に數へ奉る。其の始めは、『天下の主たるべし』とて、生れ給ひし故にや」と。



●古愚軒栗山柴野邦彦先生の詩(寛政四年)

遺陵[神武天皇]、纔かに里民に問ひて求む、
半死の孤松、數畝の丘、
聖神ありて、帝統を開きたまはずんば、
誰か品庶をして、夷流を脱せ教(し)めむ。
厩王[聖徳太子]の像設は、金閣を專らにし、
藤相の墳塋[大織冠の多武峯十三層堂塔]は、玉樓を層にす、
百代の本支、麗(かず)、億ならず、
誰か能く此の處に、一たび頭を囘らす。

――平泉澄先生『少年日本史』に、意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、やうやくの事でお參り出來たが、來て見ると、小さい丘の上に、枯れかかつた松が、一本立つてゐるだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導し、そして『日本』と云ふ國家を建設して下さらなかつたならば、日本民族は、いつまでもバラバラに分散して、低級な生活から脱出する事が出來なかつたであらうから、神武天皇は、我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は皆、神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千數百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の數は、幾億人と云ふ多數にのぼつてゐる。即ち神武天皇は、我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかへりみる人が無いと云ふのは、何と悲しい事では無いか」と。



●『水鏡』に曰く、

「神武天皇‥‥位につき給ひし辛酉のとしより、嘉祥三年庚午の年まで、千五百二十二年(愚案、實は千五百十年)にやなりぬらん」と。


●藤田東湖先生『囘天詩史』邦家隆替非偶然條に曰く、

「其の説、以爲らく、神武天皇、辛酉元年より今に至るまで、二千四百九十餘年なり。近年庚子の歳(天保十一年)、將に二千五百に盈たんとす。宜しく斯の時に及びて、山陵を修め、以て忠孝を天下に明かにすべし」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、正しく皇紀2672年なるべし矣。


●藤田東湖先生の詩(「庚子新年」即ち天保十一年)

鳳暦、二千五百の春、
乾坤、舊に依りて、韶光、新たなり。
今朝、感を重くするは、何事にか縁る、
便ち是れ、橿原即位の辰。


○古義軒醜翁鹿持雅澄翁の哥(山齋短歌集)

大君の 宮敷きましゝ 橿原の 雲飛(うねび)の山の 古おもほゆ


○獨醒軒月廼舍平野二郎國臣先生の哥(文久元年、肥後松村大成の家にありて元旦を迎へ)

いくめぐり めぐりて今年 橿原の 都の春に あひにけるかな


○神祇道學師・神習舍薑園佐久良東雄大人の哥

死に變り 生き反りつゝ 諸共に 橿原の御代に かへさゞらめや

――天皇、御位につかせたまふの日、この御式のあとをろがみて、かたじけなみ、たふとみおもひまつるあまりに、かしこかれど、かうなん、おもひつゞけはべりし――
いつはりの かざり拂ひて 橿原の 宮のむかしに なるよしもがな



■『日本書紀』神武天皇御紀に曰く、

「天祖の降跡りまし自り以逮(このかた)、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳」と。


●『倭姫命世記』に曰く、

「天津彦彦火瓊瓊杵尊、筑紫日向高千穗槵觸の峯に天降り到り給ひて、天下を治しめすこと、三十一萬八千五百四十三年。彦火火出見尊、天下を治しめすこと、六十三萬七千八百九十二年。彦波瀲武鸕草葺不合尊、天下を治しめすこと、八十三萬六千四十二年」と。

――愚案、然らば、御紀の「餘歳」は、七年なること、疑ひ無し。


●平田大壑先生『弘仁歴運記考』に曰く、

「決め難(か)ねつれば、毎もかく苦しき瀬には行ふ如く、久延毘古神(天勝國勝奇靈千憑毘古命――飛行自在の神通を得たる谷神なり)に祈りて寢たるに、夢現の間に、『萬の大數を捨て、千の小數を取れ』と告ぐる聲、しきりに響き聞えたり。此は實に天保二辛卯年の九月朔日の夜の事にて、素より神の照覽はし給ふ所なり。

 此の事のみに非ず。己が考へには、往々かゝる夢想の事あり。『管子』の内業心術などの篇に、「之を思へ、之を思へ、又た重ねて之を思へ。之を思ふて通ぜざれば、鬼神、將に之を通ぜむとす。鬼神の力に非ず、精氣の極み也」と云へるが、かゝる事にや。‥‥

 本文の小數たる二千四百七十餘歳(『帝王編年記』云、神武天皇御宇七十六年、或は七十九年。『天神祇王代記』云、天祖の天降以來、神武天皇に至り、合せて壹百七十九萬二千四百七十九年)は、天祖降臨辛酉年より、神武天皇の崩御までを數へたる實數の古説なること疑なし」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降4996年ならむ。


●平田大壑先生『春秋命歴序考自敍』に曰く、

「余、雅(もと)より謂ふ、士君子、知己を千載に待つ、豈に善價を今日に求めむや哉。苟も帝道唯一の學を奉じ、顯幽無敵の道を學ぶ者有らば、則ち將に一目撃して、思ひ半ばに過ぎむとす。彼の凡庸の徒は、耳を提げて之を曉すと雖も、之をして遂に之を信ぜしむること能はざる也。我れ惟だ我が宗とする所を宗とす。亦た豈に信を不信の人に求めむや哉。昔に太昊(大國主大神)、甲暦を作る甲寅歳よりして、四千八百四十年。天保四年」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降5019年ならむ。


●眞爾園竹屋大國仲衞藤原隆正翁『新眞公法論』に曰く、

「平田翁の大數・小數の説によりて、『日本書紀』にみえたる百七十九萬二千四百七十餘年の數に從ひながら、これを天孫下世よりの年數とせず。大數を爾前にとり、第一別天五神はさしおき、第二神世七代より、第三天照大神の神代、第四大汝・少彦名の神代までの年數とし、小數二千四百七十餘年を、伴信友の説をとりて、二千四百七十六年とし、その間を日子火火出見尊、一名にて凡百代あまり、二千四百七十六年とし、神武天皇の十八年を、二千五百年と定め(中興紀元――『馭戎問答』)、同十九年己卯のとしを二千五百一年として、かぞへゝゞゝて、先帝の安政六年己未のとしを、天孫下世よりの五千一年とし、このとし、江戸よりとりはからはれし異言の國條約を、天上よりあやどりたまへる、五千年革運のはじめとおもひしるべきなり。これを神慮にあらじとおもふは、まことの神慮をしらぬものなり」と。

――愚案、然らば、平成二十四年は、天降5154年ならむ。


●熱田神宮大宮司贈從四位・鎭石室角田由三郎紀忠行翁『古史略』(文久二年七月)に曰く、「

○第一、天御中主大御神‥‥初年甲寅歳より、渾りて在りしほど、一萬八千歳。

○第二、高皇産靈大御神・神皇産靈大御神‥‥天地分判の初年甲寅歳より、天地と成し定り終る間、一萬八千歳。

○第三、伊邪那岐命・伊邪那美命‥‥自凝島に坐して世の中の事始め給へる元年甲寅歳より、報命白し給ひて日少宮に留宅り給ふに至りて、一萬八千歳。

○第四、健速須佐之男命‥‥蕃國しろし看し給ふ元年甲寅歳より、大國主大神に其の御業を讓りまして夜見國に行幸し給ふ癸丑歳に至りて、三千三百歳。
(愚案、『神祇譜傳圖記』に、「素戔鳴尊。一書に曰く、天下を治しめすこと、一萬八千五百三十二年」と)。

○第五、大國主大神‥‥御世繼ぎ給へる元年甲寅歳より、皇美麻命に國土を避り奉らしめ給ふ庚申歳に至りて、千六百八十七年。

○第六
 天津日高日子番の邇々藝命は、大國主神の千六百八十七年庚申歳に、大地(おほくに)の大君主と定り給ひて、翌る天降元年辛酉春、天照大御神の高御座にして、天津日嗣受け繼ぎ給ひ、鏡・劍・玉の三種の神器[此は天津日嗣の御璽として賜へるなり]、大國主神の奉る國むけの尋ね、種々の寶物、及び大御神の齋庭の稻穗を賜はり、[此の時、天皇命、いと稚く坐ませれば]眞床覆衾に裹(つゝ)まれ給ひ、天兒屋根命・天太玉命・天宇受得賣命・伊斯許理度賣命・玉祖命[以上、五柱を五部長の神と稱す]・天手力雄神・萬幡豐秋津比賣神・登由宇氣神・若御魂神を御側に陪(したが)へ、猿田毘古大神御啓行し、天忍日命、背に天磐靭を負ひ、臂(たゞむき)に稜威の高鞆を著け、手に天梔弓を持ち、天波々矢を手挾み、八目の鳴鏑を副へ持ち、頭槌の劍をはき、天靭負部を帥て、御先陣仕へ奉り、天村雲命、太玉串を取り、天忍雲根命、天津諄辭を宣り祓ひ清めつゝ、天磐船に乘り、天八重雲を排し分けて、筑紫の日向の高千穗のくしふる峯に天降りまし、吾田笠狹長屋竹島に都し給ひて、大地球(おほくに)知ろし食し給ふ。天村雲命は、御井を定めて、朝夕の御饌に仕へ奉る[是れ主水司・内膳司の始なり]。此の年、かの賜はりし齋庭の穗を、御田に作りて、その十一月中卯日に、大嘗祭あり。總ての御政事、みな天上の御儀に準ひ給ふ。‥‥この天皇命の御世は、元年辛酉より、ことし辛卯に至りて、千五百三十一年なり[此のあくる壬辰より、火遠理命の御世なり]。天皇命崩御せり。日向の埃の山陵に葬(かく)し奉る。

○第七
 天津日高日子穗々手見命[則ち火遠理命なり]は、壬辰年に、高千穗宮に坐まして、天津日嗣受け繼ぎ給ふ。‥‥この天皇命は、壬辰元年より、ことし辛未年に至りて、五百八十歳、大御代知ろし食し給ふ。崩御まして後、日向の高千穗山の西、高屋の山の上の陵に葬し奉る。

○第八
 天津日高日子波限建鵜草葺不合命、高千穗宮に坐まして、壬申歳より、天津日嗣受け繼ぎ給ふ。‥‥この天皇命は、壬申元年より、ことし庚申歳に至りて、二百八十九年、大御世知ろし食し給ふ。崩御まして後、日向の吾平山の上の陵に葬し奉る。


●友清磐山大人『靈學筌蹄』に曰く、

「神仙界に傳はる『年代記』[註イ]によると、
天降天皇は、大歳元年(辛酉)から辛卯に至りて、千五百三十一年御在位、
次ぎに彦穗々出見尊は、翌壬辰年から辛未に至る、五百十八年御在位[註ロ]、
次ぎに鵜草葺不合尊は、翌壬申年から庚申年に至る、二百八十九年御在位となつて居る」と。

――愚案、註イ=神仙傳『年代記』は、角田忠行翁『古史略』と、ほゞ同じ紀年の御由であるが、『古史略』には、彦穗々出見尊の壬辰年から辛未に至る、「五百八十年」御在位とあり、十八と八十と、或は誤記ならむか、或は誤算ならむか、得て知るべからざるなり。

――註ロ=田中洗顯翁云「干支から計算するに、實は五百二十年、先師(磐山大人)の誤算」と。又た田中翁『天孫降臨』云、「天孫降臨五千年は、平成十二年なり矣。天降三千年を西暦の紀元と爲す、西暦には、或る程度の神縁があるが如し。先師は、所謂る新人を人間と認むるが如し。猿人は勿論人間に非ず、舊人も亦た人間に近くなつて來てゐるものゝ、未だ人間とは謂ふべからず」と。是れ丁度六十年の差あり。

――然らば、平成二十四年は、天降5012年ならむ。而して今、之を採れり。
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●或は云ふ、

「書紀の紀年法が不正確であると云ふ學説には、必ずしも反對せぬも、神武(天皇)紀元を、二三百年または五六百年も値切らんとする各方面の學者の考へには、輕々しく贊同いたしかねる。不實なるものを改めて實とする事には、異議は申さぬが、甲の不正確に代るに、乙の不正確を以てする程ならば、妄りに古傳を更改しない方がよろしい。現行紀年法は、少くとも千年以來、我が國土の上に凝り固つて、大きな靈氣となつて居る。‥‥

 又た神武(天皇)紀明記の月日干支等も、後世、支那暦渡來後に逆算され記述されたもので、且つ出鱈目のものと見る學説が通用して居るが、我が國には太古以來、天上傳來の暦法もあつたもので、大年神の御子『聖神』と申すは、日知(ひじり)神にして、天時暦法に精通せられた神であり、大年神と共に、農民から至大の尊敬を受けられたものである」と。



●眞木紫灘先生『經緯愚説』に曰く、

「太祖(神武天皇)も、中興なり。然れども草昧の運、洪荒の世に、筑紫より中州へ入りたまひ、皇化を敷きたまひしは、創業なり。中宗(天智天皇)も、中興なり。然れども封建の弊、出でて修むべからざるを察して、新たに郡縣にかへたまへるは、創業なり。‥‥

 太祖の中州に入りたまへる、暴風にて稻飯命を失ひたまひ、流矢にて五瀬命を失ひたまひ、御軍も幾度か利あらざりき。されども少しも御志をかへさせたまはず、終ひに大業を成就したまひぬ。‥‥創業の主の、事を起す始め、死ぬばかりうき目を見ぬはなし。‥‥

 然らば此の際に於ては、何事も打破り、遠く古へに立ちかへり、天智天皇以上、神武天皇の神代の例をのみとり行ひ給ふ樣にあらまほしき事也」と。


●『岩倉公實記』下卷に曰く、

「(玉松)操、屡々(岩倉)具視の門に出入し、機事を計議す。(慶應三年)九月、具視は、中山忠親・正親町三條實愛・中御門經之と共に、王政復古の大擧を圖議するや、忠能等、建武中興の制度を採酌し、官職を建定せんと論ず。具視、以謂らく、『建武中興の制度は、以て模範と爲すに足らず』と、之を操に咨問す。操の曰く、『王政復古は、務めて度量を宏くし、規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、當に神武帝の肇基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機の維新に從ふを以て、規準と爲すべし』と。具視、之を然りとす。是に於て新政府の官職制度は、操の言に從ふて、之を建定すと云ふ」と。



 愚案、然るに神皇舊臣扶桑眞人梅廼舍矢野茂太郎平玄道大人、詠みらく、

橿原の 御代に返ると 思ひ[一作、頼み]しは あらぬ夢にて 有りけるものを

と。嗚呼、此の絶唱を朗誦する、こゝに幾度びぞ。此の夢を繼がんと欲して、中興の大業翼贊に自ら任じて立つ者、果して滿天下に幾人ぞや。紀元節を迎ふるごとに、今日滿天の怪雲愁雨の、如何ともする無きに哭き、筆を呵して書す、と云爾。
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我が國と、何故ゑ申さぬ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月 7日(火)23時44分48秒
返信・引用 編集済
   先日の勉強會での話。岡田則夫翁は、怒つてをられた‥‥。

 最近は、司馬遼の影響かどうかは知らないが、我が國を、「此の國」と云ふ者ばかり。特に保守と稱する輩に多い。今では、右翼も言ひ出してゐる。嘆かはしい‥‥許すこと能はぬ、と。

 然り。小生も、腹に据ゑかねてゐる。小生は決めた、西暦を云つて元號を申さぬ奴、靖國神社を靖國と呼捨てゝ憚らぬ者、我が國を此の國と稱して耻ぢぬ輩、これら「謀叛豫備罪を犯す」不敬不義の醜原の書いた物は、もう、讀まぬ。
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●戸田義雄博士『よみがえる三島由紀夫――靈の人の文學と武と』(昭和五十三年十一月・日本教文社刊)に曰く、

「『故忠』とは、『孤忠』や『獨忠』と同じ意味の言葉である。人の力をからず、獨り忠義を盡すことが、『故忠』の元々の意味であるが、かうした故忠・孤忠・獨忠の意味に加へて、終始變らずに、長い間、忠節の心を持ち續けるといふ意味があるやうである」と。



●平泉澄先生の哥

青々の子等 皆緋縅(ひをどし)の 鎧着て 今日のいくさに 馳せ向ふらむ

丈夫(ものゝふ)は かへりみなくて 一筋に けはしき道も ひとりこそ往け

滿洲の 曠野に立ちて 祝詞よみ やまとの神に 乞ひのみ申す

天津日の 光かゞやく 世となさで 益良雄なんぞ 朽ち果つるべき

鍬執りて 七年八年 荒れし手に 今ぞ掲げむ 日の丸の旗

爲すわざの 一つ一つに 祈りあれ 祈らば國は またも興らむ

丈夫は 寂しきものか さしてゆく まことの道の 友まれにして

單騎なほ 千里行くべし しかあるを 友あり同じ 斯の道を行く

怒り無し 怖れあらめや 我は只 いにしへの道 今にふむのみ

白山の 神のしるしの 杉の木の 直ぐなる道を 行かむとぞ思ふ[白山、平泉澄、九十才。遺詠]
 
 

寸楮拜呈。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 2月 3日(金)20時54分10秒
返信・引用 編集済
   本日は節分、鬼やらひの日であります。
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靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版
「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――

は、既に本文は刷上がり、製本豫定の由、些か遲れましが、二月中には送本、「遺響篇」執筆いたゞいた各位、また希望された方々の御手許に屆く豫定であります。今ま暫く御待ち下さい。
  ↓↓↓↓↓
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――――――以下、「扉」より

本書は、一兵士翁が、戦後の人々に、或は静かに滾々と、或は荒び迸り、
或は教化しようとして、誰も聞くことのなかつた、
「靖國神社の真実」の記録、
そして、
「靖國神社の正統を、次代者はどう受け継ぐべきか」の覚悟を問ひ、
皇猷神算を翼賛し奉らむと欲するものであります。
ご閲覧の御方には、翁の血涙の雄叫びを、どうか、お聴き取り下さい

―― 靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顕彰する神社なり ――

我が「九段塾」塾頭・一兵士翁は、
是れ、詩吟大和流宗家第二代・金城福井忠翁にして、
映画『凛として愛』の監督・泉水隆一翁、即ち其の人なり矣。
塾頭は、平成二十二年庚寅七月十六日、帰幽。享年七十。
謹みて此の書を、塾頭の靈前に捧げ、ご照覧を乞ひ奉る。


■□■□■□■□

     寸楮拜呈、敬つて白す。備中處士、九拜

 

景仰、平安神宮。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月30日(月)22時21分7秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 孝明天皇祭に當り、御父仁孝天皇の宣命を拜記し、亦た孝明天皇の詔敕を謹録して、其の聖徳の一端を偲び奉らむ。



■仁孝天皇『故徳川光圀に權大納言從二位を追贈し給ふの宣命』(天保三年五月七日『常磐神社記録』)

 天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと、故權中納言從三位・源朝臣光圀に詔(のりたま)へと、敕命(おほみことのり)を聞し食さへと宣りたまふ。

 義(たゞしきことわり)を嗜むの至れる、身を修むるの潔(きよ)さ、行ひ瑕玷(きず)なくして、學(まなびのわざ)古今を通せる、闕廷(みかど)の尊きも久しく徽烈(うるはしきいさを)を感(かま)けたまひ、里閭(むらざと)の鄙しきも永く流風(てぶり)を仰げり。本朝(わがくに)の典籍(ふみ)を研究(きはめたゞ)して著述(かきあらはすわざ)の盛んなる事、大いに成しとげ、古へを稽へることの精力(ちから)を覃(の)べ及ぼして、緒餘(あまりのわざ)の遺迹(あと)、益(くぼさ)有り。此の先賢を禮し、其の舊き勳を賞せむと、故れ是を以て、權大納言從二位に上げ給ひ贈り賜ふ天皇が敕命(おほみこと)を、遠(はろ)かに聞し食さへと宣る。
  ↓↓↓↓↓
【更に正一位を贈らせ給ふ。勤王之倡首・復古之指南たり矣】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/15



■孝明天皇『和氣清麿に護王大明神の神號を贈り、且つ正一位を追贈し給ふの宣命』(嘉永四年三月十五日『孝明天皇紀』四十一)

 天皇が詔旨らまと、贈正三位行民部卿兼造宮大夫・和氣朝臣清麿に詔(のりたま)ふと、敕命(のりたまふおほみこと)を聞し食さへと宣りたまふ。

 奈良の宮の御宇に、淨く貞かに明らかなる心を以て仕へ奉りしが、宇佐に詣でし時にしも、猶ほ正しく直き眞事を以て請(う)け問ひ奉るに、大神も相うづなひ愛しみ大坐して、貴く畏き御教言を以て、悟し給ひ慈(めぐ)み給ひしに依りて、君と臣との道、驗(しる)く立ちぬ。此の時に當りて、汝(いまし)微(な)かりせば、下として上を凌ぎ、上として下を欺くことの有りつらむに、身の危きを顧みず、雄雄しく烈(はげ)しき誠の心を盡くせるは、古への人の云ひて在るらく、危きに臨みて命を致せるものなり。また云へらく、至忠に至正にして、能く道を以て君を濟ふと云へるは、汝の事ならむ。

 然るに世に顯るる事の足らざることを歎き給ひ愍み給ひ、彼れ是を以て吉き日・吉き辰(とき)を擇び定めて、護王大明神に崇め給ひ尊び給ひ、又た御冠(みかゞふ)り位を、正一位に上し給ひ治め給ひ、從四位上行神祇少副兼淡路守・卜部朝臣良祥を差し使はして、御位記(しるしのふみ)を捧げ持たしめて、出だし奉り給ふ。

 此の状を平けく安けく聞し食して、天皇朝廷(すめらみかど)を、堅磐に常磐に動(ゆる)ぎ無く、夜の守り日の守りに護り幸へ給ひて、天下泰平に、いかし御世の足らし御世に、護り恤(めぐ)み給へと、恐み恐みも申し給はくと申す。



■孝明天皇の宸翰(徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十一日。『孝明天皇紀』百七十七所收「山階宮國事文書」)

 嗚呼、汝、方今の形勢、如何と顧(み)る。内は則ち紀綱廢弛、上下解體、百姓塗炭に苦しむ。殆んど瓦解土崩の色を顯し、外は則ち驕虜、五大州の凌侮を受け、正に併呑の禍ひに罹からんとす。其の危きこと、實に累卵の如く、又た燒眉の如し。之を思うて、夜も寢ぬる能はず、食も咽を下らず。

 嗚呼、汝、夫れ是れを如何と顧る。是れ則ち汝の罪に非ず、朕が不徳の致す所、其の罪、朕が躬に在り。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ゆることを得んや。由つて思へらく、汝は、朕が赤子、朕、汝を愛すること子の如く、汝、朕を親しむこと父の如くせよ。其の親睦の厚薄、天下挽囘の成否に關係す。豈に重きに非ずや。

 嗚呼、汝、夙夜、心を盡し、思ひを焦がし、勉めて征夷府の職を盡し、天下人心の企望に對答せよ。夫れ醜夷征服は、國家の大典、遂に膺懲の師を興さずんばある可からず。然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕、其の可否を論ずる詳悉、以て一定不拔の國是を定むべし。

 朕、又た思へらく、古へより中興の大業を爲さんとするや、其の人を得ずんば有る可からず。朕、凡百の武將を見るに、苟しくも其の人有りと云へども、當時、會津中將・越前前中將・伊達前侍從・土佐前侍從・嶋津少將等の如きは、頗る忠實純厚、思慮宏遠、以て國家の樞機を任ずるに足る。朕、之を愛すること子の如し。願はくは汝、是を親しみ、與に計れよ。

 嗚呼、朕、汝と誓つて衰運を挽囘し、上は先皇の靈に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして成功なくんば、殊に是れ朕と汝の罪なり。天地鬼神、夫れ是を殛すべし。汝、勉旃(つとめよ)、勉旃。



■孝明天皇の宸翰(再び徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十七日。『孝明天皇紀』百七十七所收「議奏役所文書」)

 朕、不肖の身を以て、夙に天位を踐み、忝くも萬世無缺の金甌を受け、恆に寡徳の、先皇と百姓とに背かんことを恐る。就中、嘉永六年以來、洋夷、頻りに猖獗來港し、國體、殆んど云ふべからず。諸價沸騰し、生民塗炭に困しむ。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。

 嗚呼、是れ誰の過ちぞや。夙夜、是を思うて止むこと能はず。嘗て列卿・武將と、是を議せしむ。如何せん、昇平二百餘年、威武の以て外寇を制壓するに足らざることを。若し妄りに膺懲の典を擧げんとせば、却つて國家不測の禍ひに陷らんことを恐る。幕府、斷然、朕が意を擴充し、十餘世の舊典を改め、外には諸大名の參覲を弛め、妻子を國に歸し、各藩に武備充實の令を傳へ、内には諸役の冗員を省き、入費を減じ、大いに砲艦の備へを設く。實に是れ朕が幸ひのみに非ず、宗廟・生民の幸ひ也。

 且つ去春、上洛の廢典を再興せしこと、尤も嘉賞すべし。‥‥然りと雖も、皆な是れ朕が不徳の致す處にして、實に侮慙に堪へず。朕、又おもへらく、我の所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比すれば、未だ慢夷の膽を呑むに足らず、國威を海外に顯すに足らず。却つて洋夷の輕侮を受けしか歟。故に頻りに願ふ、入りては天下の全力を以て、攝海の要津に備へ、上は山陵を安んじ奉り、下は生民を保ち、又た列藩の力を以て、各々其の要港に備へ、出でては數艘の軍艦を整へ、無□[食+孚。へう]の醜夷を征討し、先皇膺懲の典を大にせよ。

 夫れ去年は、將軍、久しく在京し、今春も亦た上洛せり。諸大名も亦た東西に奔走し、或は妻子を其の國に歸らしむ。宜べなり、費用の武備に及ばざること。今よりは、決して然る可からず。勉めて大平因循の雜費を減省し、力を同じうし、心を專らにし、征討の備へを精鋭にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱しむること勿れ。

 嗚呼、汝、將軍及び各國の大小名、皆、朕が赤子也。今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す。民の財を耗(へら)すこと無く、姑息の奢りを爲すこと無く、膺懲の備へを嚴にし、祖先の家業を盡せよ。若し怠惰せば、特(たゞ)に朕が意に背くのみに非ず、皇神の靈に叛く也、祖宗の心に違ふ也。天地鬼神も、亦た汝等を何とか云はんや。



●徳富蘇峰翁『近世日本國民史・孝明天皇御宇終篇』序文(昭和十四年・明治書院刊)に曰く、

「何れの時代も、前代に對しては債務者である。然も別けて明治時代の孝明天皇御宇に對する債務は、更に格段である。明治天皇の盛徳大業は、固より日本歴史の最高峰である。然も其の基礎工事の殆んど全部は、皆な孝明天皇時代に成就し、然らざれば準備せられ、計企せられ、用意せられたるものである。別言すれば、孝明天皇時代を閑却しては、到底、明治天皇時代を諒解することは不可能だ。‥‥

 而して世の史家たるもの、須らくこの孝明天皇御宇史と明治天皇御宇史との間に、至緊至密の關係ある事を會得して、其の連絡、接續の經緯・曲折を研究し、闡明せねばならぬ。明治天皇御登遐の際に、明治神宮建立の事を江湖に向つて唱説したる著者が、更にこの數年來、孝明天皇の神社建立を絶叫したるも、畢竟、如上の理由がある爲めだ」と。



 愚案、後鳥羽天皇の御製、

奧山の おどろが下も ふみわけて 道ある世とぞ 人に知らせむ

亦た後水尾天皇には、

葦原や しげればしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず

と詠ませ給うた。孝明天皇の、件の「葦原の頼む甲斐なき武藏野の原」の御製は、之を踏まへさせ給うたものに他ならず、慟哭を禁じ得ないのである。孝明天皇には、かくも懇篤親切なる敕書を、再三に埀れ給うた。之に應へ奉らざる者は、遂に倒れざるを得ない。かつて徳富蘇峰翁は、「維新の大業を立派に完成した其の力は、薩摩でもない、長州でもない。其の他の大名でもない。又た當時の志士でもない。畏れ多くも明治天皇の父君にあらせられる孝明天皇である」と云はれたが、承久・建武以來の御悲願は、孝明天皇によつて果されたと申し上げてよい。

 昭和十三年五月一日、孝明天皇には、平安神宮の祭神・桓武天皇と相竝び坐して鎭り給うて、祭神とならせ給ひ、日夜、神徳を仰ぎ奉ること、誠に畏き極みである。
 
 

『養神延命録』

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月29日(日)23時17分45秒
返信・引用
  幽瀛觀遯人 樣

 初めまして。

 攝津國東成郡上之宮神職・龍雷神人山口日向守大神貫道大人の『養神延命録』のご紹介、有り難く拜受いたしました。ご勞作、後日、ゆつくりと拜讀させて戴きます。

 『至道物語』にも、大人の事が、黒住宗忠大人と共に出て參りますね。然し「明和九年壬辰」との御表示直後に在る括弧内の紀年、大人には沒交渉の紀年法にして、大人には悲しまれると存じ上げます。

 こゝは、靖國神社正統護持の爲の掲示版ですので、此の話題の更なるご發言は、スレツド「時計の間」の方へ御願ひ申し上げます。懇請、敬つて白す。
 
 

龍雷神人 大神貫道大人『養神延命録』

 投稿者:幽瀛觀遯人メール  投稿日:2012年 1月29日(日)21時55分58秒
返信・引用
  突然失礼致します。
以下のブログに明和九年壬辰(1772)刊の大神貫道著『養神延命録』の原文を一部不完全(返り点など)ながら拙文禄に掲載しましたので、こちらにてご案内させて頂きます。

この『養神延命録』は、現在日本の神仙道の嚆矢とされる平田篤胤大人の『仙境異聞』に先立つことちゃうど五十年、埋もれたる日本神仙道最初の書でありまして、いやしくも日本神仙道を奉じるものであれば一度は眼を通して置くべき貴重な書と愚考いたします。

併せて埋もれたる大神仙家・大神貫道大人の顕彰にもご助力の程宜しくお願申上候。

http://iueikwan.blog.fc2.com/

 

明治天皇の敕諭を仰ぎ、靖國大神を想ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月27日(金)21時46分58秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 舊稿を再び掲げて、明治天皇の聖徳を偲び奉り、其の聖徳に應へ奉り、勇武を九段の玉垣に留めた、靖國神社祭神の恩頼を乞ひたいと存じます。



■明治天皇の宸翰(慶應四年三月十四日。『岩倉公實紀』所收。「明治維新の宸翰」、或は「國威宣布の宸翰」と云はれる)

 朕、幼弱を以て、猝(には)かに大統を紹(つ)ぎ、爾來、何を以て萬國に對立し、列祖に事へ奉らんやと、朝夕、恐懼に堪へざる也。竊かに考ふるに、中葉、朝政、衰へてより、武家、權を專らにし、表は朝廷を推尊して、實は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるや、云ふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯だ名のみに成り果て、其が爲に、今日、朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますゝゝ)衰へ、上下相離るゝこと、霄壤の如し。かゝる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。

 今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、今日の事、朕、自ら身骨を勞し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始めて天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし。往昔、列祖、萬機を親らし、不臣のものあれば、自ら將として、これを征し玉ひ、朝廷の政、總て簡易にして、如此(か)く尊重ならざるゆゑ、君臣相親しみて、上下相愛し、徳澤、天下に洽く、國威、海外に輝きしなり。然るに近來、宇内、大いに開け、各國、四方に相雄飛するの時に當り、猶ほ我が國のみ、世界の形勢にうとく、舊習を固守し、一新の效をはからず、朕、徒(いたづ)らに九重の中に安居し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂ひを忘るゝときは、遂に各國の凌侮を受け、上は列祖を辱しめ奉り、下は億兆を苦しめん事を恐る。故に、朕、こゝに百官諸侯と廣く相誓ひ、列祖の御偉業を繼述し、一身の艱難辛苦を問はず、親ら四方を經營し、汝億兆を安撫し、遂には萬里の波濤を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かんことを欲す。

 汝億兆、舊來の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし、神州の危急をしらず、朕、一たび足を擧ぐれは、非常に驚き、種々の疑惑を生じ、萬口紛紜として、朕が志をなさゞらしむる時は、是、朕をして君たる道を失はしむるのみならず、從つて列祖の天下を失はしむる也。汝億兆、能々朕が志を體認し、相率ゐて、私見を去り、公義を採り、朕が業を助けて、神州を保全し、列聖の神靈を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。


 右、御宸翰の通り、廣く天下億兆、蒼生を思し食させ給ふ、深き御仁惠の御趣意に付き、末々の者に至る迄、敬承し奉り、心得違ひ之れ無く、國家の爲に、精々其の分を盡すべき事。
 三月       總裁
          輔弼。



●平泉澄博士『明治天皇の宸翰』(『明治の光輝』昭和五十五年五月・日本學協會刊に所收)に曰く、「

 「國是五箇條」は、之を天地神明に誓はれたのでありますが、それと同時に、國民全體に宸翰を賜はつたのであります。しかるに『五箇條の御誓文』のみ喧傳せられて、誰知らぬ者は無い有樣でありますのに、國民全體に呼びかけさせ給うた宸翰の方が、殆んど忘れ去られた事は、不思議でもあり、申譯の無い事と云はねばなりませぬ。‥‥

 さて此の宸翰の中に、「汝億兆」と仰せられた所が、前後二箇所にあります。これは『教育敕語』に「爾臣民」と仰せられたのと同樣、全國民を對象とし、全國民に親しく呼掛けさせ給うたからであります。それでは何をお呼掛けになつたのであるかと云ひますと、‥‥其の中に極めて重大なる政治の原理原則が示されてをります事は、注意し、審思していただかねばなりませぬ。それは「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば」と仰せられた點であります。此の一句には、至つて深い意味が籠められ、至つて高い原理が示されてゐるのであります。かやうな原理は、不幸にして今日、世界のどの國に於いても考へられず、況んや實行せられてゐないのであります。今日、ある國々に於いては、多數決が政治の原則となつてゐます。若し其の多數が正しい時には、結果的にいへば、それはそれで良いやうに見えますが、其の多數が正しからず、却つて少數が正しい場合には、正しいものが、少數なるが故に、踏潰されるのであります。またある國々に於いては、名目は民主主義を唱へ、委員會を稱するにせよ、實質は少數幹部の專斷強制によつて、政治が行はれてゐるのであります。そこには異議を唱へ、異論をさしはさむ餘地は無く、もしそれを敢てすれば、鐵槌は直ちに下されるでありませう。然るに今、明治天皇のお示しになりました政治の原理原則は、「天下、一人も其の所を得ざる者、無からしむるを期す」といふのであります。是に於いては、多數も少數も、強者も弱者も、一樣に正道の批判の前に立たされるのであります。

 此の如きは、ひとり明治天皇の御理想であつたばかりでなく、御歴代天皇の常に目指し給うた所であつた事は、たとへば後醍醐天皇の御事蹟から考へても明かでありますが、言葉の上に先蹤をたどりますと、仁明天皇の敕の中に見出されます。仁明天皇の承和九年、橘逸勢は、謀反の罪に問はれて伊豆へ流され、配所へ赴く途中、遠江の板築に於て病歿しました。その孫・珍令(よしのり)、祖父に隨つて伊豆へ下らうとしてゐましたが、はからずも祖父の死にあひ、幼少の身の置きどころ無きを苦しみました。その時、仁明天皇、之をきこしめして、

罪人の苗胤と雖も、猶ほ一物の所を失ふを悲しむ。よろしく更に追還して、舊閭に就かしむべし

と、敕せられたのでありました事、『續日本後紀』に見えてをります。あゝ、ギリシヤの古代に於いて理想とせられたる哲人政治、その高遠なる理想は、我が國に於いて、御歴代天皇によつて實現せられたと云つてよいでありませう。

 これに就いて深い感銘を示されたのは、近衞文麿公でありました。昭和十二年正月、國會議事堂の新築落成の際、貴族院議長として祝辭を述べられる事になりました近衞公は、その草案の作製を私(平泉澄博士)に求められました。よつて即刻筆を執りました私は、その草案の中に、次のやうに書きました。

――――――

「この堂々たる新建築に對しまして、我々の反省いたします所、反省して深く責任を感じます所は、尠なくないのであります。こゝには、その中の最も重大なる一つに就いて、申し述べようと思ひます。

 一體、議會を考へます時に、我々の頭に、直ちに浮かんで參りますものは、明治の初めの『五箇條の御誓文』、就中、その第一條に掲げられました所の、「廣ク會議ヲ興シ、萬機、公論ニ決スベシ」との御言葉であります。いふまでもなく、此の御誓文は、萬人周知の事でありますが、しかしながらこの第一條の意味は、一般には餘りに簡單に、また餘り淺薄に考へられてゐるのではないかと思ひます。即ち之を只だ多數の意見に從ふやうにとの御趣旨にのみ解しまして、多數決であれば事がすむやうに考へてゐるのではないかと思ふのであります。しかしながらこの萬機公論に決すべしとの御言葉は、只だ多數決といふやうな簡單な機械的な意味ではないと拜察いたします。何故ならば、當時賜はりました御宸翰に、「天下億兆、一人も其の所を得ざる時は、皆、朕が罪なれば」と仰せられてゐるのであります。もし多數決で物がきまつて、少數が否決せられるといふ事であれば、少數の意見は、常に其の所を得ないのであります。しかるに明治天皇は、一人も其の所を得ざる時は、朕の罪なりと仰せられてゐるのであります。して見れば、萬機公論に決すべしとの御言葉は、之を只だ多數決といふ風に、機械的に解釋し奉る事は出來ないのであります。

 こゝに思ひ當りますのは、同じ御宸翰の中に、「汝億兆、能々朕が志を體認し、相率ゐて、私見を去り、公義を採り、朕が業を助けて、神州を保全し」云々と、勅せられました事であります。即ち「萬機、公論に決すべし」との御言葉は、此の「私見を去り、公義を採り」との御言葉と相照應するものであります。して見ますれば、我々は、只だ多數で物をきめてゆけばよい、といふわけではない。形の上からいへば、いかにも多數で物がきまるのであるが、しかしそれだけでは、聖旨に副ひ奉る事は出來ないのである。どうしても我々は、私見を去り、公義を採らなければならないのであります。私見を去り、公義を採る事によつてのみ、第二條に仰せられました所の、「上下、心を一にして、盛んに經綸を行ふ」事は出來るのであります。而してかやうに上下心を一にして、盛んに經綸を行ひます事によつて、初めて第三條に仰せられましたやうに、天下の人心を倦まざらしめる事が出來るのであります。而してかくして、初めて舊來の陋習を破り、天地の公道に基づき、また智識を世界に求め、大いに皇基を振起しようとの御叡慮にそひ奉る事が出來るのであります。天下億兆、一人も其の所を得ざるものなきを得るのであります。

 新築せられました議事堂に對して、色々感ずる所が多いのでありますが、その一つは、實にこの私見を去り、公義を採らなければならないといふ事であります。」

――――――

 此の草案をお屆けしました時に、近衞公は、すぐに之を一讀せられましたが、腑に落ちかねる御樣子で、「此の明治天皇の御宸翰は、何に載つてゐますか」と訊ねられました。「『岩倉公實記』に載せてあります」とお答へしますと、公は、その正確さに安心せられて、再度之を讀みかへし、いかにも感嘆に堪へざる如く、大きく目を見張つて云はれました。

「是れは宸翰と呼ばずに、敕語と申し上げるべきものですね。そして『教育敕語』と竝べて、全國民の服膺すべきものですね。」

その時、示された近衞公の深い感動を、私は今に至つて忘れる事は出來ませぬ。

 ‥‥宸翰を拜して受けられた感動は、近衞公の胸に深く刻み込まれて、大政翼贊の根本理念となつたに違ひありませぬ。それは、昭和十五年九月二十七日に下されました詔書に、

惟ふに、萬邦をして、各々其の所を得しめ、兆民をして、悉く其の堵に安んぜしむるは、曠古の大業にして

と仰せられてあります事、また同日締結せられましたる日獨伊三國條約の前文にも、「萬邦をして、各々其の所を得しむるを以て、恆久平和の先決要件なりと認めたるに依り」とある事によつて明かであります。輔弼の重臣として考へます時、近衞公純忠の貴い精神と、聰明にして深い洞察力とには、頭が下がる事であります」と。



●内閣總理大臣・近衞文麿公『大命を拜して』(昭和十五年七月二十三日夕のラヂオ放送。平泉澄博士『日本の悲劇と理想』昭和五十二年三月・原書房刊に所引)に曰く、「

 蓋し國内に種々の意見が對立して、互ひに相爭ふといふ事でありましては、摩擦相剋して力を外に專らにし得ず、左顧右眄して勇斷の機會を失ふからであります。思ふに從來、政黨の弊害は二つであります。その一つは、立黨の趣旨に於きまして、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社會主義をとりまして、其の根本の世界觀が、既に國體と相容れないものがあるといふ點でありまして、これは今日、急速に轉囘し、拔本的に改正しなければならない所であります。其の二つは、黨派結成の主要なる目的を、政權の爭奪に置く事でありまして、かくの如きは、立法府に於ける大政翼贊の道では、斷じて無いのであります。

 以上、二つの弊害を去りまして、すべて國體に則り、大御心を仰いで、一億一心、眞實の御奉公を期しなければならないと思ひます。隨つて私の考へます新體制は、決して從來の黨派の離合集散によつて、新たに一個の新黨の成立を企てるといふのではなく、實に無黨を期するのであります。これは國體の本義から申しまして、當にしかあるべき事と信ずるのでありますが、幸ひに各方面の贊同を得、協力を得ました事は、私の深く欣快とする所であります。‥‥

 それは變轉極まりなき國際情勢の中に在つて、國家防衞の手段を確保して、國家永遠の繁榮を期すると共に、皇道の發揚によつて、世界の情勢に新生面を開發し、新理想を賦與し、之を正しきに指導するものでなければならないのであります」と。
  ↓↓↓↓↓
【近衞文麿公『大命を拜して』全文】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/367

【近衞文麿公『英米本位の平和主義を排す』】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/248



 愚案、近衞文麿公は、明治天皇の宸翰、即ち『教育敕語』と相竝ぶべき、極めて重大なる敕諭に驚歎して、國民の全てに、即ち外ならぬ我々に御下賜遊ばされた事に想ひを致して、明治天皇の聖徳を景仰し、やがて八紘一宇の眞諦を、此の謂ひに於いて理解された事は、今日に在つても、我々の大いに繼述しなければならない理想と考へます。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/190
 
 

神たる天皇陛下‥‥嗚呼、一視同仁の聖徳。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月25日(水)19時10分20秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 今日より五日の後は、大内山の孝明天皇祭の日であります。孝明天皇の聖徳を仰ぎ奉ると共に、昭和天皇の聖慮、平成の天皇陛下の龍徳を偲び奉りたいと存じます。



●木下道雄侍從次長『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』(昭和四十三年二月初版・新小説社刊。平成十年一月新編・日本教文社刊――些か假名を漢字に變換させて戴きました)に曰く、

「昭和の初めの頃の話であるが、‥‥個人の名譽に關することであるから、その人の姓名や事件の起つた時期を、こゝで明らかにすることは避けるが、とにかく私(木下道雄翁)が侍從として、陛下のお側にをつた、或る秋の夕暮の頃のことである。

 そのとき、内閣書記官が、あはたゞしく侍從職に馳せつけてきて、一個の上奏箱を私に手渡していふには、「この箱の中には、一刻を爭ふ内閣總理大臣の至急の上奏書が入つてゐるから、速やかに御裁可を仰ぐやうに、特に配慮していたゞきたい」とのことであつた。私は、その箱を受け取つて、直ちに陛下のお室(へや)に參り、陛下のお机の上にある鍵箱から鍵を拜借して、これを開いた。これは通例のことで、上奏箱は、この鍵でなければ開くことが出來ないのである。

 箱の中から出て來たのは、たゞ一通の上奏文書であつた。「何某起訴處分の件。右、謹んで裁可を仰ぐ。年月日。内閣總理大臣・何某、印」といふ表題の上奏紙の裏に、數枚に亙る司法大臣の起訴理由書が綴つてあつた。當時の慣例として、正三位・勳一等といふやうな身分の人が、犯罪の疑ひを以て起訴される場合には、陛下のお許しがなければ、手を付けることが出來ない内規があつたので、大至急、そのお許しを得るための上奏であつたのである。

 この事件は、既に新聞がやかましく報道してゐた汚職事件であるが、何分にも火中の人物が政治上の權力者であるので、首相及び司法大臣が、果たして起訴を斷行する勇氣ありや否やが、世人の注目の的であつた。私は、この上奏書を一見した瞬間、總理もいよゝゝ決心されたかと、いさゝか痛快な氣持ちで、これを陛下のお机の上に差し上げた。

 汚職といへば、陛下の最も忌み嫌はれる問題であるから、すぐ裁可の印をお捺しなるだらうと思つてゐたところ、意外にも、陛下は、その書類を一見遊ばすや否や、非常にご當惑の御態度をお示しになつた。困つたな!といつたやうな御樣子である。これを拜見した瞬間、私の胸中では、「はて、何故だらうか」といふやうな、かすかな疑問が湧いたが、陛下は、上奏書に附屬した司法大臣の起訴理由書を、繰り返し々ゝ々ゝご覽になり、なかゝゝ裁可の印をお捺しにならうとはなさらない。

 段々時が經つにつれ、お側に立つてお待ちしてゐる私も、色々考へ始めた。自分は、陛下より十以上も年上の男でありながら、先刻來、いさゝかなりとも痛快味を覺えたことは、何と淺ましく、恥づかしいことか。陛下は、我々と違つて、何時、人とお會ひになつても、對立感といふものを、少しもお持ちにならない。それだから、汚職そのものは、徹底的にお嫌ひだが、汚職をした人を憎いとは、お思ひにならないらしい。たゞ汚職の行はれる世の中を、いとも悲しと觀じておいでになるのではなからうか。我々は、人と會へば、直ぐ持ち前の對立感に捉はれて、この人は自分より身長(せい)が高いか低いかから始まつて、果ては馬鹿か利口かに至るまで、あらゆる比較を腹の中でするものだが、ほんとのところ、神樣の眼から見れば、お互ひに五十歩百歩の違ひに過ぎないことは、とんと氣がつかない。あゝ、何と恥づかしいことかと、恥ぢ入る他はなかつた。

 稍や暫くして、とうゝゝ陛下は、上奏書に裁可の印をお捺しになつた。これで起訴は決定した譯だ。何某氏は、今夜にでも逮捕されることになつたのである。私はその書類を戴いて、箱に入れ鍵をかけ、一刻も早く私を待つてゐる内閣書記官に渡さうと思ひ、一歩、お室を踏み出さうとしたところ、私をお呼び止めになつたから、何か別の御用かと思ひ、お側に近づいたところ、たゞ一言、沈痛なお聲で、

私が惡いのだよ。

と仰つて、考へておいでになる。

 この時、私は、本當に、何ともいはれぬ、つらい思ひに胸を傷めた。我々の仲間の犯した過ちが、かほどまでに陛下のお胸を傷めるのか、相濟まぬことだと思つてゐたら、つとお椅子から立つて、椽側(えんがは)においでになつたから、私も無言のまゝ、お伴をして椽側に出た。この椽側は、今度びの戰災で燒失してしまつたが、明治神宮の繪畫館に掲げてある數多の油繪のうちの一つ、「教育敕語下賜の圖」といふ大きな額面に描かれてゐるお二階――御學問所と呼ばれる――の椽側が、それである。

 非常によく晴れた秋の日暮れ、夕陽がお庭の松に照りそつてゐたが、天を仰いで仰しやるには、

私が惡いのだよ。どうすれば、政治家の墮落が防げるであらうか。結局、私の徳が足りないから、こんなことになるのだ。どうすればよいと思ふか。

と、お尋ねになる。このお尋ねを受けても、つひ先ほど、持ち前の對立感から、いさゝかなりとも痛快味を覺えた私ごとき者に、何とお答へが出來よう。溢れる涙を抑へて、たゞ無言でお室を退出したことがあつた。この時の記憶は、餘りにも鮮やかで、今でも秋の非常によく晴れた夕暮れ、空を仰ぐと、時々、このことが思ひ出される」と。



●敕語(平成十六年十月二十八日、赤坂御用地に於る秋の園遊會)

  米長邦雄東京都教育委員會委員
    「日本中の學校にですね、國旗を擧げて、國歌を齊唱させると云ふのが、私の仕事でございます。」

天皇陛下「あゝ、さうですか。」

  米長「今、頑張つてをります。」

天皇陛下「やはり、あの、あれですね、その、強制になると云ふやうな事でない方がね、望ましい、と。」

  米長「あゝ、もう、勿論、さうで‥‥。本當に、素晴らしいお言葉を戴きまして、有り難うございました。」



 愚案、政治家と云ひ、教育者と云ひ、其の職を汚すもの、古今、少なからずと雖も、雲上の「神樣の眼から見れば、お互ひに五十歩百歩の違ひに過ぎ」ず、大内山の畏き邊りに於かせられては、對立相克の着眼は、抑も無いのである。一視同仁とは、父母が子に對する眼差しに他ならぬ。そこには、一方に「してやつたり」てふ痛快感はおろか、亦た一方に與力同調する對立感さへも、絶えて無い。

 孝明天皇の宸翰(徳川家茂に與ふる敕書。文久四年正月二十一日。『孝明天皇紀』百七十七所收「山階宮國事文書」)に、

是れ則ち汝の罪に非ず、朕が不徳の致す所、其の罪、朕が躬に在り。天地鬼神、夫れ朕を何とか云はん。何を以て祖宗の地下に見ゆることを得んや。由て思へらく、汝は、朕が赤子、朕、汝を愛すること子の如く、汝、朕を親しむこと父の如くせよ。其の親睦の厚薄、天下挽囘の成否に關係す。豈に重きに非ずや。‥‥

 嗚呼、朕、汝と誓つて衰運を挽囘し、上は先皇の靈に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして成功なくんば、殊に是れ朕と汝の罪なり。天地鬼神、夫れ是を殛すべし


と謂ひ、明治天皇の宸翰(慶應四年三月十四日。『太政官日誌』五)に、

天下億兆、一人も其の處を得ざる時は、皆、朕が罪なれば

と謂ひ、大正天皇御即位大禮の當日、紫宸殿御儀に於いて賜りたる敕語(大正四年十一月十日。官報)に、

爾ぢ臣民、世々相繼ぎ、忠實、公に奉ず。義は則ち君臣にして、情は猶ほ父子のごとく、以て萬邦無比の國體を成せり

と謂はれる所以、こゝに御民、天降りの正嫡を仰ぎ奉り、皇國に生れたる道福恩頼に鳴謝すると共に、八紘一宇の大宏謨の、由つて興らざるを得ざる所以である。而して、大君の爲には、何か惜しからむ、斯くばかり惱ませ給ふ大御心を、必ずや休め奉らむとの義心が、勃然と溢れ來り、血涙を以て、天朝を戀ひ奉る至情が、自然と湧いて來るを、御民吾は、如何とも爲し難いのである。
 
 

神床の御前に、『古事記』を口誦し奉らむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月23日(月)20時14分45秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 天武天皇の御企て坐しまして、御試撰遊ばされし神典『古事記』が、贈從三位・太朝臣安萬侶公によつて、奉敕謹録して、今日より五日の後が、丁度、一千三百一年、一千三百周年の日に當ります。此の佳日、萬障を排して、口を灌ぎ、謹みて『古事記』を誦し奉りませう。こゝに掲ぐるは、本居宣長大人『訂正古訓・古事記』に據ります。

 我が塾頭の遺訓の一つに、「日本が日本であるために、大和民族のふるさとへ還れ――神國日本へ――」と、ありました。神國日本へ復古する爲めには、『古事記』への研鑽囘歸は、必要、缺く可からざるものと謂はねばなりません。遺訓繼承の志を奉じて、太陰太陽暦の元日に、其の警笛を鳴らしたいと存じます。




■天武天皇御試撰――稗田阿禮の口誦する所――太安萬侶の謹録する所の『古事記』卷頭奉誦

【古事記(ふることぶみ)上つ卷、序を併せたり】

 臣・安萬侶、言(まを)す。

 夫れ混元、既に凝りて、氣象、未だ效はれず。名も無く爲(わざ)も無し。誰か其の形を知らむ。然れども乾坤、初めて分れて、參神、造化之首を作(な)し、陰陽、斯(こゝ)に開(あ)けて、二靈、群品之祖と爲る。所以(このゆゑ)に幽顯に出入して、日・月、目を洗ふに彰れ、海水に浮沈して、神・祇、身を滌ぐに呈(あら)はる。故れ太素杳冥なるも、本教に因りて、土を孕み嶋を産みたまひし時を識り、元始は綿邈なるも、先聖に頼りて神を生み人を立てたまひし世を察(あきら)かにす。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて、百王相續ぎ、劔を喫み蛇を切りて、以て萬神蕃息することを與。安の河に議りて天下を平け、小濱に論ひて國土を清めき。是を以て番仁岐命、初めて高千の嶺に降りたまひ、神倭天皇、秋津嶋に經歴したまふ。化熊、山を出でて、天劔を高倉に獲、生尾、徑を遮り、大烏、吉野に導きき。儛(まひ)を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏す。即ち夢に覺りて神祇を敬ひたまふ、所以に賢后と稱す。烟を望みて黎元を撫でたまふ、今に聖帝と傳ふ。境を定め邦を開きて、近つ淡海に制(をさめ)たまひ、姓を正し氏を撰びて、遠つ飛鳥に勒(しる)したまふ。歩驟、各々異に、文質、同じからずと雖も、古を稽へて、以て風猷を既に頽れたるに繩(たゞ)し、今を照らして、以て典教を絶えむとするに補はずといふこと莫し。

 飛鳥の清原の大宮に、大八洲御(しろ)しめしゝ天皇の御世に曁(およ)びて、濳龍、元を體し、洊雷、期に應ず。夢の歌を聞いて業(あまつひつぎ)を纂(つ)がむことを想ひ、夜の水に投(いた)りて基を承けむことを知ろしめす。然れども天の時、未だ臻(いた)らず、南山に蝉のごとく蛻(もぬ)けたまひ、人事、共に洽くして、東國に虎のごとく?みたまひき。皇輿、忽ち駕して、山川を凌(こ)え渡り、六師、雷のごとく震ひ、三軍、電のごとく逝く。杖矛、威を擧げて、猛士、烟のごとく起り、絳旗、兵を耀かして、凶徒、瓦のごとく解けつ。未だ浹辰を移さずして、氣沴、自から清まりぬ。乃ち牛を放ち馬を息へ、愷悌して華夏に歸り、旌を卷き戈を戢(をさ)め、儛詠して都邑に停りたまふ。歳、大梁に次(やど)り、月、夾鍾に踵(あた)りて、清原の大宮にして、昇りて天つ位に即きたまふ。道は軒后に軼(す)ぎ、徳は周王に跨えたまふ。乾符を握りて六合を摠(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまふ。二氣の正しきに乘じ、五行の序を齊へたまふ。神理を設けて、以て俗を奬め、英風を敷きて、以て國を弘めたまふ、重加(しかのみにあら)ず、智海、浩瀚として、潭(ふか)く上古を探り、心鏡、煒煌として、明かに先代を覩(み)たまふ。

 於是(こゝ)に天皇、詔りしたまはく、「朕、聞く、諸家の賷(もた)る所の『帝紀』及び『本辭』、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふ、と。今の時に當りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾(いくばく)の年を經ずして、其の旨、滅びなむとす。斯(こ)れ乃ち邦家之經緯、王化之鴻基なり焉。故れ惟れ『帝紀』を撰録し、『舊辭』を討覈して、僞を削り實を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむとす」とのりたまふ。時に舍人有り。姓は稗田、名は阿禮、年は是れ廿八。人と爲り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳を拂(ふ)るれば心に勒す。即ち阿禮に敕語(みことのり)して、『帝皇の日繼』及び『先代の舊辭』を誦み習はしむ。然れども運(とき)移り世異(かは)りて、未だ其の事を行はざりき矣。

 伏して惟ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して、徳は馬蹄の極むる所に被り、玄扈に坐して、化は船頭(ふねのへ)の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮びて暉を重ね、雲散りて烟に非ず。柯(えだ)を連ね穗を并すの瑞(しるし)、史、書すことを絶たず、烽(とぶひ)を列ね譯(をさ)を重ぬるの貢、府、空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠(まさ)れりと謂ひつ可し矣。

 於焉(こゝ)に『舊辭』の誤り忤(たが)へるを惜しみ、『先紀』の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣・安萬侶に詔して、稗田阿禮が誦む所の敕語の舊辭を撰録して、以て獻上せしむといへれば、謹みて詔旨に隨ひ、子細に採り摭(ひろ)ふ。然るに上古の時、言(ことば)・意(こゝろ)、竝びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字に於いて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞、心に逮ばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣き、更に長し。是を以て今、或は一句の中に、音・訓を交へ用ひ、或は一事の内に、全く訓を以て録(しる)す。即ち辭の理、見え叵(がた)きは、注を以て明かにす。意況、解り易きは、更に注せず。亦た姓の日下に、「玖沙訶」(くさか)と謂ひ、名の帶の字に、「多羅斯」(たらし)と謂ふ、此の如きの類ひは、本に隨ひて改めず。

 大抵、記す所は、天地の開闢より始めて、以て小治田の御世に訖る。故れ天御中主神より以下(しも)、日子波限建鵜草葺不合尊以前(まで)を、上つ卷と爲、神倭伊波禮毘古天皇より以下、品陀御世以前を、中つ卷と爲、大雀皇帝より以下、小治田大宮以前を、下つ卷と爲、併せて三卷を録し、謹みて以て獻上す。臣・安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月廿八日、正五位上・勳五等・太朝臣安萬侶、謹上。



【天地の初發の段】

 天地の初發(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、竝(みな)獨神(ひとりがみ)成り坐して、身(みゝ)を隱したまひき。

 次に國稚く、浮脂の如くして、くらげなすただよへる時に、葦牙の如と、萠え騰る物に因りて、成りませる神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。此の二柱の神も、獨神成り坐して、身を隱したまひき。

 上の件り、五柱の神は、別(こと)天つ神。


【神世七代の段】

 次に成りませる神の名は、國之常立神。次に豐雲野神。此の二柱の神も、獨神成り坐して、身を隱したまひき。

 次に成りませる神の名は、宇比地邇神、次に妹須比智邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃辨神。次に淤母陀琉神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。

 上の件り、國之常立神より以下、伊邪那美神以前、併せて神代七代と稱(まを)す。


【淤能碁呂嶋の段】

 是(こゝ)に天つ神、諸々の命以ちて、伊邪那岐命・伊邪那美命、二柱の神に、「是のただよへる國を修理(つく)り固め成せ」と詔りごちて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき也。故れ二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下して畫きたまへば、鹽こをろゝゝゝに畫き鳴して、引き上げたまふ時に、其の矛の末(さき)より埀落(したゞ)る鹽、累積(つも)りて嶋と成る、是れ、淤能碁呂嶋なり。
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●本居宣長大人『古事記傳』二之卷に曰く、「

 敕語は、天皇の大御口づから詔(のたま)ひ屬(つく)るなり[有司をして傳へ宣(のら)しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ敕とはいへども、そは敕語とはいはず]。‥‥

 もと此の敕語は、唯に此の事を詔ひ屬けしのみにはあらずて、彼の天皇[天武]の大御口づから、此の舊辭を諷誦(よみ)坐して、其を阿禮に聽取らしめて、諷誦坐す大御言のまゝを、誦みうつし習はしめ賜へるにもあるべし。もし然るにては、此の記は、本と彼の清御原の宮に御宇しめしゝ天皇の、可畏くも大御親ら撰びたまひ定め賜ひ、誦みたまひ唱へ賜へる古語にしあれば、世にたぐひもなく、いとも貴き御典にぞありける」と。



●平田篤胤大人『古史徴』一之卷春・夏(「序」の解説は、夏に在り)に曰く、「

 天武天皇紀に、「十年三月丙戌、天皇、大極殿に御し、以て川島皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上野君三千・忌部連首・安曇連稻敷・難波連大形・中臣連大島・平群臣子首に詔ちて、『帝紀』及た『上古諸事』を記し定めしめたまふ。大島・子首、親ら筆を執りて録す焉」と見えたるは、大極殿に御して、詔ち給へると有るを思ふに、嚴重き公事の命になも有りける[此の時の詔命は、御紀に漏れたれど、『古事記』の序に、「是に天皇、詔りしたまはく」といへるより、「後葉に流へむとす」と云ふまで、七十五字、かならず此の時の詔命なるべく所思えたり。‥‥]。‥‥

 熟案(つらゝゝおも)ふに、こは、彼の十年三月に、川島皇子等十二人に命(おほ)せ給ふへる度(とき)の大御言なりけむを、彼の紀には記し漏らされたるを、偶々に此の序文に傳へ記されたると知られて、甚(い)とたふとし[其は大極殿に御(いま)して、詔おほせ給へるは、最(いと)も重き公事と聞ゆれば、斯ばかり深く所欲(おもほ)し看し起ちませる御擧ならむと、思ひ合はさるればなり]」と。



●蓮田善明中尉『古事記學抄』(昭和十八年十二月・子文書房刊――「『天地初發之時』について」・「古事記撰修の經過事情」・「眞福寺本古事記書寫考」・「古事記展覽會記」の論文を收めたり。いづれも秀逸、感佩すること久し矣)に曰く、「

 天武天皇は、十年三月に、川島皇子以下十二人に修史の事を下詔あらせられた。然るに事は遲々と運び惱んだが、それは種々諸臣家との關係等に問題もあつたからである。そこで結局、天皇に請ひ奉つて、規準的な一試撰と親修遊ばされることを願ひ得、天皇は稗田阿禮を命じて、口づから、又或は或書の或部分等を指して纏めつゝ、御代筆の代りに暗誦させながら纏め上げ給うた。併し遂に最初の企畫の修史者達の撰修は、餘り進捗せず、そのうちに天皇も崩御あそばされ、修史も頓挫した。三十年程經つて、元明天皇は、先の天武天皇親撰のものを録し定め置くべきを痛感遊ばされて、太安萬侶に命じて、阿禮の暗誦してゐるものを録定せしめ給うた。安萬侶は、謹んで文字に寫し取り、取り急ぎ四ケ月の後に獻上した。‥‥

 とまれ、かくて成立した『古事記』が、表面こそ御試撰とはいへ、皇國史を親ら治らしめたまひ、統べたまふ天皇の御撰史が、ここにあらはれたといふ、誠にかしこい事實となつたのである。『古事記』が、まことに古傳の趣を傳へたまうてあることの尊さは、申すべき言葉もないほどである。たゞそれが、本居宣長の指摘するやうに、當時の漢夷思潮の中に、この天武天皇御撰のものは、御試撰であるといふことが知られてゐたものらしく、遂に右の思潮の中に蔽はれて行き、天武天皇の法典撰修の御企てが、持統天皇の御世の令、養老・大寶の律令と成つて行つたやうに、天武天皇御發企の修史も、養老の『日本書紀』といふ形で完成していつたと見られる。

 かくて天武天皇に起されたる皇國の「ふること」が、一つには『古事記』となり、一つには『日本書紀』となり、殊に古事記が漢夷心をまじへぬ、明く淨き古傳の趣を以て『日本書紀』の上にかがやき、又『日本書紀』は、ともかくも博く、幾多の古史の資料をとりあつめて、所謂「旁摭群書」をなしてゐる點、相竝んで尊く仰がれる次第である」と。



●蓮田善明中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、「

 宣長も、『古事記傳』の總論に於て、『古事記』が非常な不遇の中を經て、而も遂に滅びることなく傳り來つた由緒を、大變心深くかへりみて、「今の世までも傳はれるをおもふべし」と言つてゐる。私はこの一言を讀むだけで、宣長に於ける『古事記』が何であつたかゞ味ははれて、感動させられるのを常とする。まことに『古事記』は、千年餘の長い間を、まことに心細く傳はつて來てゐる。而もそれが、遂に傳はり貫いたことを、宣長は、「古への正實(まこと)を記せるがゆゑなるべし」と信じてゐたやうである。

 このやうに『古事記』が「古への正實」を傳へてゐることと、苟しくも一つの上古の古典が困難を凌いで、千年以上も傳はつてゐたといふその傳承とは、恰も日本の歴史そのものゝ生命を諷してゐるかにさへ思へる。それは却つて『日本書紀』のやうな漢ぶりの史書でなく、日本風であつたために不遇であつたとさへもいひ得よう。坦々と傳はつてゐたものは、『日本書紀』の方であつた。しかも遂にその日本風が、千年を凌いで傳はりぬいた所以でもあつて、實に尊いのである。しかしてこの事情は、『古事記』の撰録當初から、否、それ以前の傳承の初めから、『古事記』の負うてゐる運命のやうなものであつたことを、我々は今氣づくのである。

 『古事記』撰録の起りは、天武天皇の叡慮に出づるところであつた。『古事記』の序によれば、天皇は、海の如き廣大な御叡慮(愚案、「叡慮」に「御」は不要なり。敢へて申し上げたい。蓮田中尉、許させ給へ)と、明鏡の如くかゞやく大御心を以て、ふかく上古を探り、明らかに先代を覩たまうて、當時傳承されてゐた諸家の古傳(『帝紀』及び『本辭』)が、正實に違つて虚僞をさへ加へてゐることを御知りになり、「今の時に、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年を經ずして、其の旨滅びむと」してゐる。そもゝゝこの古傳は、「邦家の經緯、王化の鴻基」たるものである故に、正實の古傳を撰んで、後代につたへんと欲し給うたのである。我々は既にこゝに古傳の危機を想察することができる。そして天皇が、これを國の大事として重大に御考へ遊ばされたことをゆかしく、まことに恐懼し拜しまつるのである。

 さて天皇は、「年は是れ廿八、人と爲り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒す」といふ一人の舍人、稗田阿禮を召され、「阿禮に敕語して」、古傳を「誦み習はしめ」たまうた。かくて深い御志と行屆いた方法とによつて、着々と出來てゐた御事業も、未だ完成に至らずして、天皇は崩御遊ばされ、この尊い大事な御事業は、こゝに又そのまゝ滅びようとした。

 それから約三十年經つて、天皇御みづから傳へ給うた、唯一の傳承を保有してゐる稗田阿禮も、早六十歳に及んでゐるその頃、元明天皇は、天武天皇の御遺志を繼ぎ給うて、阿禮を召し出で給うて、彼が口に誦みうかべてゐるものを、太安萬侶に文字に書き寫さしめ給うたのである。安萬侶は、此の古い言葉で傳へられた傳承を、漢字を以て寫す事が、いかにあやまち多いものであるかを自覺してゐた。しかもそれを寫すには、漢字を以てするよりほか無い。そこで非常な苦心と工夫とを以て、之を文字に書き寫した。その情況は、『古事記』序に具さに記されてゐる所でもあり、又本文について、眞淵・宣長以後、學者によつて研究發見され、屡々驚異されつゝあるところである。‥‥

 宣長の胸中には、『古事記』に於て、正しい傳への道といふものが、じつと想ひ描かれてゐる。宣長も自らその大註釋書に、『古事記傳』と命名したのは、その志がどこにあつたかを察せしめられる。宣長に於いて、「古事」(ふること)とは、「誰が云ひ出でし言(こと)ともなく、たゞ上つ代より語り傳へ來つるまゝなり」と思はれてゐる。たゞ上つ代より傳へ來つるまゝなりとは、實に強いものを、その中に述べてゐる。それは漢意漢風の史書などのやうに、「理」(ことわり)や「潤色」(かざり)を「言痛(こちた)くうるさきばかり」に盡して、「事備は」りたる樣にして權威づけ、幸福な保存を強ひようとするものが、遂にその努力の空しさがあらはれて、まことの悠久性に缺くる所の大きいのに比べて、此の『古事記』は「潤色なく、たゞありに記して」ゐるし、「漢の國史などの體とは、いたく異なる物なれば、もし誤り多からむには、さしも漢籍好みましし世に、はやく廢(すて)られて、とり見る人も有るまじく、まして後の代までは傳はるまじき物なるに」、遂に「千年の後までも傳はり來つる」ことは、全くさうした「さかしらを」、いさゝかも加へない「上つ代の清らかなる正實」であるに由縁するのである。たとひ『古事記』が、假に『日本書紀』にとられた資料の「中の一つにして、重き公の書典にはあらずと」しても、「尚び用ふべき」所以を、宣長は知つてゐた。況や『古事記』が「淨御原宮に、御宇しめしゝ天皇の、厚き大御志より起」つた、あの嚴かな意味を「思へば、いよゝますゝゝ尊び仰ぐべき」ことを知つたのである。

 このやうに古道とは、それ自身に悠久を嚴に保存する正實そのものであつた。神ながらなるものであつた。單に遠い過去のみに理想の時世があつたといふやうな、支那の尚古主義などとは、全く異なるものであつた。支那に於けるその尚古主義は、易姓革命思想を支援する論理の一つにすぎないものであつた。それは一つの人爲の潤色と言ふこともできる。古事の正實としては、別に論ぜられるべき、餘りに見えすいたものであつた。

 しかし、わが神ながらなる古事は、人爲の潤色とは異つて、神ながらなるものとして、「誰が云ひ出でし言ともな」いのであつて、而も神ながらなる故に、別におのづから「文」(あや)があり、「いと美麗(うるは)しきもの」であつた。決して所謂上古は、唯だ素樸ではなかつたと、宣長は眞に古事の美しさを見出でてゐる。『古事記』の序の中に、太安萬侶が「上古の時、言・意、竝に朴にして」と記してゐるのは、後に『日本書紀』の撰者ともなつた漢文學者としての安萬侶の目を以て評してゐる所で、實際今、我々が『古事記』を讀んでも見出す、あの古言・古事の美はしさ、いさましさは、安萬侶には既にくらいものであつた。日本の歴史には、嚴密な意味で、蒙昧野蠻な原始時代といふものはなかつたのである。さういふ我が「古事」の神ながらの悠遠さ、美しさを閉し塞へようとする、ゆるしがたい「さかしら」なものが、實に「漢意」(からごころ)であつた」と。
 
 

孝明天皇の聖徳を仰ぎ奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月18日(水)21時31分32秒
返信・引用 編集済
   來る一月二十七日は、明治天皇には、初めて靖國神社へ行幸を賜ひ、畏くも御宸筆の御製を賜はりました。

我國の 爲をつくせる 人々の 名をむさし野に とむる玉かき

 また二十八日には、『古事記』撰録一千三百一年、一千三百周年の日を迎へます。

 『古事記』序に、「和銅五年正月廿八日、正五位上・勳五等・太朝臣安萬侶」とあり、或は民部卿に至つた『太安萬侶墓誌』に、「左京四條四坊・從四位下・勳五等・太朝臣安萬侶、以(養老七年)癸亥年七月六日卒之。養老七年十二月十五日乙巳」とありますやうに、贈從三位・太安萬侶公が、今を去る一千三百一年前に、『古事記』を奉敕撰録して、元明天皇に獻上したのでありました。

 而して三十日は、孝明天皇の例祭であります。

 孝明天皇には、外夷襲來動亂の時節に際會して、「神州の國體に瑕瑾なく、國民を損せざるやう」てふ、只二つの政治指導の眼目を打出させ給ひ、天下に號令を發せられ給うたのであります。こゝに我々は、孝明天皇の無私無慾、純粹清明、眞に神の如き大御心を仰ぎ奉るのであります。志士忠臣は、感激の餘り、鋭意、之に應へ奉らむとして、殉國奉公の誠を所在に捧げ盡したことは、餘りにも當然の事に外ならなかつたのであります。大義に勇む先哲に學び、之に習はむことを期したいと存じます。
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■孝明天皇御製

あさゆふに 民やすかれと おもふ身の こころにかかる 異國の船

この春は 花うぐひすも 捨てにけり 我がなすわざぞ 國たみのこと

國のこと ふかく思へど いましめの 雪のつもるか 園のくれ竹

こと國も なづめる人も のこりなく はらひつくさむ 神風もがな

ねがはくは 朝な朝なの 言の葉を あはれみうけよ 神ならば神

あづさ弓 ま弓つき弓 としをへず 治まれる世に ひきかへさなむ

國のかぜ 吹きおこしても 天つ日を もとの光に かへすをぞ待つ

あめつちに みつる寒さの 厚ごほり あつくもおもひ つくす願よ

あぢきなや 又あぢきなや 葦原の たのむかひなき むさし野の原

ほことりて 守れ宮人 九重の みはしのさくら 風そよぐなり




●寒林平泉澄博士『孝明天皇の聖徳』(昭和四十一年十一月『神道史研究』孝明天皇と平安神宮特輯號)に曰く、「

 細部末端の事は、之を幕府の機關に委任してよいが、國體の根本に關する國策の大本は、天皇の御指導によらねばならぬとするは、道理に於いて當然の事でありながら、嘉永・安政の當時にあつては、驚くべき革新と思はれた。それを早く弘化三年より始めて、嘉永・安政と、ひきつづき決行あらせられたのが、孝明天皇であり、而して下々に於いて、同じ精神を以て、めざましき運動を展開したのが、橋本景岳であつた。

 抑も孝明天皇の御代は、英傑の士、數多く輩出して、國史の中に於いても、特に光輝ある時代であつたが、その中にあつても異彩を放つ者は、橋本景岳と吉田松陰とであつて、此の兩士の亡くなつた後に於いては、眞木和泉守であらう。以上の三桀は、いづれも孝明天皇の御代に活躍して、孝明天皇の御代に一生を終つたのであり、しかも其の死は、尋常一樣の最期ではなく、實に一命を孝明天皇に獻じ奉つたのであつたが、就中、景岳は天保五年に生れて、孝明天皇御踐祚の年、十三歳であり、松陰は天保元年に生れて、孝明天皇御踐祚の年、十七歳であつたから、此の二人の一生は、その幼少の時代を除却すれば、孝明天皇の時代に終始したものと云つてよい。

 さて其の景岳は、世界の大勢を洞察達觀して、開國進取の國策を立て、而して強豪の列國に對抗して國家を護持せんが爲には、國體の本義によつて天朝を尊崇し、敕命を仰いで政治の基本を確定し、天下有爲の人材をあげて要路に立たしめようとした。そして其の祕策實現のために、安政五年、上京奔走したが、その報告を讀めば、當時二十五歳の景岳が、いかに愼重に行動し、いかに適切に人物を鑑定し、いかに巧妙に人々に入説していつたかが分つて、只々感歎の外は無いのであるが、その中に恐れ多い事ではあるが、孝明天皇を評し奉つた所がある。

 主上御義は、御壯年にもあらせられ、御英名の御沙汰は伺ひ居り候へども、内實は如何と、恐れ多くも疑ひ居り候ふところ、實に驚状し奉り候ふ事ども、數件御座候ふ。此の節、世上取沙汰の事ども、一々御耳に入り居り候ふよし、此の節は、夜分、御忍びにて(侍從も知らざる位)、内侍所へ御日參遊ばされ候ふよし、過日は東坊城(傳奏)、太閤(鷹司政通)に恐れ、賄賂を取り、あまつさへ恐れながらも、今度關東(幕府)の申す如く成されざる時は、承久の後鳥羽帝の事、恐るべしなど申し候ふところ、大に御笑叱、「其は間違なり。彼は武家に歸したる權を御所へ御取返しの御趣向、今度は皇國の御一大事故、皇國人心の歸する所にて處置致し候ふつもり(當時正論家の眼目、此の一語に盡き居り申し候ふ。列侯の存御尋も、此の邊の見込に御座候ふ)、依つて相考へ候へば、彼は内地にて公武の爭、此の度は皇夷の爭に候ふ。必ず承久度の事これなき間、安心申すべし。それにても強ひて其の事を行ひ候はば、其の時は畏るるに足らず」と、御埀論遊ばされ候ふよし、此の御一語の御徳音、實に鳳鳴龍吟、我が神州の爲め、光を増し候ふ事萬々、吾儕、一命位は、實に惜しむに足らずと存じ奉り候ふ。

 景岳の報告は、此の後、天皇が九條關白(尚忠)を鞭撻して、鷹司太閤を恐れず、正路を進ましめ給ふ事、傳奏ではとかく賄賂に流れる弊風あるについて、毎々直接に御叱り遊ばされる事、此の節は深夜まで舊記を御研究遊ばされる事、御酒も御減しか、又は御止めの由承る事、鷹司右大臣(輔煕)より「海外貿易を御許しになれば、時計などは澤山輸入されますから、自由に手に入るやうになります」と申し上げたところ、『時計の爲に國策を決定する事は出來ぬ』と仰せられた事など、いろいろ記してあるが、孝明天皇英明の御徳は、景岳の一語、「一命、惜しむに足らず」との感嘆に現れて明瞭であつて、一々の實例を細敍するには及ばないであらう。

 次に吉田松陰を見る。松陰は、嘉永六年十月朔日、京都に入り、翌二日朝、御所を拜した。そして感激を詩に托して曰く、

山河襟帶、自然の城、東來日として、帝京を憶はざるなし、
今朝盥嗽して、鳳闕を拜し、野人悲泣して、行くこと能はず、
鳳闕寂寥にして、今ま古へに非ず、空しく山河有りて、變更無し、
聞説(き)くならく、今上聖明の徳、天を敬ひ民を憐みたまふこと、至誠に發す、
鷄鳴乃ち起きて、親ら齋戒し、妖氛を掃つて、太平を致さむことを祈りたまふ、

從來英皇、不世出、悠々機を失す、今の公卿、
人生萍の如く、定在無し、何の日か、重ねて天日の明を拜せむ。

松陰は、公卿の門に出入して、朝廷の内情を精通する點に於いては、景岳に遠く及ばなかつた。しかも哲人の達識と、忠臣の至情とによつて、孝明天皇不世出の高徳を感得し、かくの如き聖明の天子をいただきながら、今の公卿のだらしなさ、皇國興隆の理想をいだかず、あたら千載一遇の好機を、爲すなくして漫然と看過してゐる事を歎いたのは、流石に松陰と、驚歎せられる。

 次に眞木和泉守は、文化十年の生れであつて、景岳・松陰より、遙か先輩であるが、その殉國が兩人よりは五年おくれて、元治元年であつたから、今三人を序列するに、殉國の前後によつたのであるが、和泉守は、弘化四年九月、孝明天皇御即位の大典を拜せむがために、はるばる九州より上京し、野宮定功の殊遇を得て拜觀すると共に、三條實萬にも謁する事が出來た。この時の感激が、後年の建白の中に現れてゐるが、ここに其の一例を示せば、安政五年六月、野宮定功に宛てた上書に、

かねて至尊御英偉にあらせられ、御列位の御方々御達識の程、僻壤に於いても嘖々相唱へ、感喜罷りあり候ふ。さて幕府にては、外夷の恐嚇に相怖れ、姑息の計のみに打過ぎ、人氣沮喪仕り候ふ處、天朝に於いては、夷情御洞察遊ばさせられ、堂々正義を押立てさせられ候ふにつき、天下の人氣、稍以て振起仕り候ふ樣、相見え候ふ段、誠に以て有り難き仕合に存じ奉り候ふ。

とある。かくて和泉守は、此の聖明の天皇を奉じて、皇國中興の大事を成さうとするのである。その幽囚中の詩に曰く、

一朝、忽ち奸人に忌まれ、天下、すでに足を容るるの地無し、
數畝の山園、猶ほ求む可し、如何せむ、聖主中興の事。

和泉守は、その水田幽囚十年の間に、聖主を奉じて皇國を中興すべく、萬般にわたつて思索考究し、大計成つて水田を脱出し、やがて兵をひきゐて上京し、會津・桑名の諸藩と戰ひ、戰やぶれて天王山に自決し、

大山の 峰の岩根に 埋めにけり 我が年月の やまと魂

の辭世の一首に、無限の感慨を托したが、しかも其の立案大計は、間もなく明治維新を招來し、そして明治の大政を指導したのであつて、その意味よりいへば、明治の指導者として、首座を占めるべき人物である。その和泉守の考は、すべて天朝の聖意を奉じて動かうとするものであつて、蓋し孝明天皇の聖徳を仰ぎまつつての感激が、その根本の力となつてゐるのである。

 眞木和泉守と同じく、元治元年の秋、國事に殉じた人に、平野國臣がある。殺されたのは、七月二十日、和泉守に先だつ事、一日であり、殺された事情もちがふが、その志は、全く同一であつた。そのよんだ歌、

大内の さまを思へば、これやこの 身のいましめの うきは物かは
我が胸の もゆる思に くらぶれば 煙はうすし 櫻島山
かかる世に 生れあはずば 大丈夫の 心をつくす かひなからまし
君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守と なりけんものを
これやこの おのがさまざま 樂しむも みな大君の めぐみならずや

等、いづれも其の志を見るべきであるが、殊に孝明天皇の御製、

すみの江の 水に我が身は 沈むとも 濁しはせじな 四方の國民

といふ一首を、謹んで書寫し奉つて、その奧に書き添へた、

かくばかり 惱める君の 御心を 休めまつれや 四方の國民

に至つては、孝明天皇の聖徳が、いかに正しく強く國臣に反射反映してゐたかを明示してゐるのである。

 その平野國臣を、いはば立會人として、安政五年十一月十六日、西郷隆盛と相抱いて、薩摩の海に身を投じたる月照に、

大君の 爲には何か 惜しからむ さつまの瀬戸に 身は沈むとも

といふ歌があれば、不思議にその時、息を吹きかへして、島に流された西郷隆盛には、

朝に恩遇を蒙りて、夕に焚坑せらる、人生の浮沈、晦明に似たり、
縱(たと)ひ光を囘らさざるも、葵は日に向ひ、若し運を開く無きも、意は誠を推す、
洛陽の知己、皆な鬼と爲り、南嶼の俘囚、獨り生を竊む、
生死、何ぞ疑はむ、天の附與なるを、願はくは魂魄を留めて、皇城を護らむ。

といふ詩がある。月照にしても、隆盛にしても、その境遇は絶體絶命の悲境でであり、期する所は、只一死あるのみである。しかるに彼等は、その死が、孝明天皇に奉仕する所以である事に、限りなき滿足をいだき、そして死後も魂魄を留めて、天朝の護衞に當りたいと願ふのである。

 曾て韓退之は、『拘幽操』を作つて文王の心を解明し、臣道の極致を宣揚した。それは正に臣道の極致であつて、その場合、君徳は問題の外に在る。いはばそれは、一方的であり、片務的である。臣道としては、それを極致とし、規準とするのであるが、然しそれは痛ましき人生の悲劇たるをまぬがれない。しかるに今、孝明天皇の御代に於いては、天下英傑大才、ことごとく天皇の聖徳を仰ぎ見、一見一家を棄てて、天朝に奉仕しようとしたのである。ここには、國體の護持と國民の安寧幸福との爲には、敢へて御身をかへりみ給はざる孝明天皇の聖徳と、その聖徳を仰ぎ、聖徳に感激して、すべてを捧げて奉仕しようとする臣民の至誠との、世にも美はしき諧調を見るのである。

 孝明天皇の御代に起る幾多の事件、安政の大獄といひ、櫻田門の變といひ、坂下門の變といひ、やがて禁門の變といひ、つづいて長州征伐といひ、悉く此の君徳臣道より發し來り、而して一途に維新囘天の大事を目指して進むのである。君臣の關係、水魚の如しといひ、天地覆載の如しといはれるが、その最も美しき發露を、孝明天皇の御代に見る事が出來るのは、まことに國史の壯觀であり、國史をかへりみる者の、大いなる喜である」と。



 愚案、かつて小生は、「天皇陛下ご即位二十年に際しての勅語」(平成二十一年十一月六日)を拜承して、謹んで掲げ奉つたことがある。



 皇位繼承の制度にかかはることについては,國會の論議にゆだねるべきであると思ひますが、將來の皇室の在り方については、皇太子と、それを支へる秋篠宮の考へが尊重されることが重要と思ひます。二人は長年、私と共に過ごしてをり、私を支へてくれました。天皇の在り方についても、十分考へを深めてきてゐることと期待してゐます。
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 然るに現代、今上天皇の敕語を、謹んで拜承する者は、殆んどゐない。私見私論の囂々たる、何と云ふ無樣な世相なるかな哉。かつて大御心を覆ひ隱すもの、徳川幕府が在つた。今は民主主義政權てふ幕府が、壁立萬仞、明かなる敕語さへも、傲然、顧みようともしない。孝明天皇の御代には、忠臣義士が存したが、今は無い。「承詔必謹」てふ言葉は、死につゝある。之を復活せしめ、世に喧傳する者こそ、正に靖國神社祭神の遺裔と謂ふべく、靖國大神の神徳を仰ぎ奉ること、彌々深く、益々切なるものがある。



●相原修神主『葬祭と墳墓の奪還――平田篤胤の神道論』(第三囘「草莽崛起の集ひ」講演・平成十六年五月二十三日・於神奈川縣民センター。河原博史氏『草莽崛起の集ひ――相原修大人命追悼輯』平成二十一年十二月・同血社刊に所收)に曰く、「

 國體の闡明、國體の護持と、口で云ふのは簡單だけれども、自分自身は如何なんだ?と。「天皇樣に御祀りだけしなさい、皇太子殿下・妃殿下に、外交なんかやらないで、宮中祭祀に徹せれば良い」と、御意見を抱く――申し上げるんだつたら、家の御祀りを神式で行ひなさい。其れもせずして、宮中に御意見申し上げるてふことは、不遜不忠の極み。

 よく明治時代、明治天皇樣が相撲を良かれとしてゐるのはいけないてふ事で、當時の豪桀な明治天皇樣を投げ飛ばした、さう云ふ事を例に喩へる(愚案、意見者は之に喩へて、忠義面してゐる心算との謂ひならむ)。或は頭山滿先生や内田良平先生やが、宮中に於て何かあつたら、宮内廳達に對して、「それはいかん」と云つてやる。しかしね、其れは全て白裝束を着てゐるんですよ、皆が。平民である我々が、宮中に對して、何事か申し上げる時は、死ななければならない。これは三島由紀夫も云つてをります。行動は一度限り。さう云ふ意味では、野村(秋介)先生が云ふのも、さう云ふ事ではないか、と拜察致します。其れ位、嚴しい問題です」と。
 
 

皇神たちは、佛道を嚴しく嫌はせ給へり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月12日(木)22時11分51秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 「僧尼より進る所の物は、之を奉らず」とは、尼や僧(ほうし)は、よし何かなる貴人の出家にも有れ、佛法の人にて、抹香くさく、其の佛法は、天照大御神の嚴しく嫌ひ給ふが故に、其の道に汚れ付きたる尼や僧の手より進れる物をば、何かほど珍しき物にまれ、神へは奉らぬ御定めなり。大御神の佛法を嫌ひ給ふことは、著明かなる事なるに、世の人おほくは、神佛一體など云ふ。僧徒の説に欺かれ居れば、因みにその惡(きら)ひ給ふ證文を一つ二つ云はむに、まづ菅家の御撰みありし『類聚國史』の、嵯峨天皇の弘仁七年六月丙辰日の處に、「伊勢大神宮司從七位下・大中臣清持、穢れを犯し、并びに佛事を行へること有り。神祇官、之を卜ふに、祟り有り。大祓ひを科せ、任を解かる」と見え――[この清持と云ひし人、大中臣と有れば、天兒屋根命の神孫にて、神家の歴々なるに、況して伊勢大神宮司と在りながら、佛法の事を行へる故に、神の御祟りあり。其の事、神祇官の御卜(みうら)によりて露はれしかば、大祓を成されて、其の穢れを清められ、其の官をも召し放し給へるなり]――、宇治左大臣頼長公の『台記』に、近衞院の天皇の天養二年三月七日の所に、「左馬權頭顯定、來つて云く、左大將雅定、伊勢の敕使にて精進(ものいみ)の間、他處に渡ると雖も、衣裳雜具等、猶ほ中の院の第に在り。仍りて佛經等は、家の中に置かず。而る間、中の院の寢殿に、煙り有り。件の煙、屋の上に見ゆ。鄰里、驚き放火の由を存し、天井を放ち之を見るに、繪像の佛色旗等有り。件の物を門外に出すの後、煙り散じ盡く」とあり――[これは、左馬權頭顯定と云ひし人、頼長公の許に來て、左大將雅定卿の、伊勢大神宮への敕使を承はりて、精進せられし間、かゝる御祟りの有る由を語られしを、其のまゝに記るされし物なり。此は師の『玉勝間』にも記るし置かれたり]――。また高倉院の天皇の治承元年三月に、三條内大臣實房公、伊勢の公卿敕使たりし時の日記に、十五日の處に、「去る夜、僧侶を夢みたり。佛經の類に於ては、先の日、併(み)な取り去り了んぬ。然して夢の告に驚き、捜り求めしむるの處、居の廊の長押しの上より出で、楊柳觀音一體を見出でたり。則ち以て取り退け了んぬ。信心、彌々凝り、謹愼、殊に重くす。恐る可し、恐る可し。又た障子の色紙形の畫圖に、僧法師等有り。或ひと云く、是の繪像、佛と仝じ事也と。強ひ事と雖も、取り退け了んぬ。敬神の至り、重くするを以て先と爲すの故也」と見え――[是れまた敕使を受け賜はりて、物忌みにこもり居たまふ間の事なり]――、あくる十六日の處に、「去る夜、夢相に、又た僧侶、眼前に謁談の由を見る也。佛像は併な取り去り了んぬ。之を如何に爲ん、と。倩々(つらゝゝ)之を思へば、裡(うら)錦の護り等は、憚る可からざるの由、先日、兼康に聽く所ろ也。仍りて予が朝夕、懸る所の護り、神事に奉ずるの後は、之を懸けず。只だ寢所の枕の上に置く也。若し是等の佛像の所見なるか歟。今夜の告を相試みむ爲めに、併な他所に渡し了んぬ。小女の護りも、仝じく以て渡し了んぬ」と記るされ――[此の文を見れば、常に懸け給へる護りには、多く佛像を著(し)るせりしこと知らる。裡錦の護りと云ふも、佛像ありしとは聞ゆれど、此はさしも多くは無かりけむ故に、憚り有るべからずと、兼康は申されけむ。此の兼康は、今の神祇權大副吉田殿の先祖なり]――、其の翌日の處に、「去る夜は、僧徒に謁するの夢無し。知る、去んぬる兩夜の夢相、彼の護り等の所見なることを歟。毎度嚴重なり。彌々信を成す者也」とあり。天照大御神の、佛を惡ひ給ふこと、何かに著明かなるに非ずや。――[猶ほかゝる類ひの證文多かれど、然のみ引き出でむも煩はしければ、中に尤(けや)けき二三條を引き出でたり。]――

 然れば眞の道に志さむ人は、是らの故實をよく覺え居て、伊勢參宮などせむにも、其の守袋までに心をつけて、佛臭きこと無かるべく、用意すべき事なり。神は誠に寛仁大度に坐しまして、下ざまの卑しき者などは、然しも嚴しき御罰めはなしと見ゆれども、佛臭き事ありては、御心よくは思し召さず。その拜禮を受け給ふまじき道理なればなり。――[然るは我ら神職ならねば、謂ゆる忌みがたきなど言ふ筋にて云ふに非ず。また謂れなく佛を忌々しく云ふにも非ず。古への道を學びて、其の學び取れる故實を、人々の心得になれがしと思ふ信心(まごころ)より、かく言ふなり。夢々あしく聞くこと勿れ。]――

 然れば古へより神宮には、統べて忌詞といふ有りて、『延暦儀式帳』、また『延喜神祇式』にも載せられたるが、寺を瓦葺、塔をあらゝぎ、佛經を染紙、齋(とき)を片膳(かたしき)、僧を髮長、尼を女髮長、佛を骨とも中子とも立てすくみとも云ひ替へて、佛語をいみ、伊勢の神宮には、僧尼の拜所とて、宮前より遠く傍(かた)へにまうけ置きて、法親王と申せども、其の所にて御拜あり。――[近ごろ或る諸侯の法體し給へるが、參詣あらむと爲けるに、其の由を申ししかば、還俗して詣で給ひ、或る法親王の參詣し給へる時も、神官さゝへ申ししかば、僧尼の拜所にて拜み給へりと聞ゆるなど思ふべし。]――

 また大嘗會・新嘗會を始め、朝廷の重き神事の時には、寺々の鐘を撞くことを止(とゞ)められ――[但し鐘つく事を止めらるゝ事は、鐘の、元より佛法の物なることは更にも云はず、僧家の説に、かの『過去現在因果經』といふ物の、「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅爲樂」といふ四句の語音に響くと云ふを以てなり。其はいたく取り下したる説には有れど、『道成寺』といふ謠曲に、「初夜の鐘は諸行無常と響き、後夜の鐘は是生滅法と響き、入相の鐘は生滅々已・寂滅爲樂と響く」とやうに作れるを以ても知るべし]――、諸大社の神事および堂上方の物忌にも、「僧尼及び不淨の徒(とも)がら、門内に入るべからず」と禁札を出だされ、神宮への敕使發向の時は、路次の道端なる立てすくみに類せる物をば、觀音・地藏に至るまでも、菰包みとなし、或は取り去(す)てもして、途を清むる御例(みさだ)めなり。――[猶ほくさゞゝの事ども有れど、中々にこゝに説き盡すべくも非ざれば、まづ是らを以て、佛法の、神事に忌々しき事の大概を知るべし。猶ほ次々に論ふを待てよ。]――

 さて、天照大御神の、然しも佛法を惡ひ給ふことは、凡人の心をもて、如何なる由緒ならむと云ふこと知りがたきに似たれど、篤胤、はやく佛法の謂ゆる一切經どもを、普ねく見て考へ得たる説(ときごと)あり。――[但し大御神の、佛法を忌みたまふ事を、ふるく法師らが説に、大神宮の三寶を忌むことは、昔、この國、未だ成らず、大海の底に、大日の印文あり。天照大神、鉾をもて是を探れば、其の滴り、露の如し。第六天の魔王、はるかに見て以爲らく、「此の滴り、もし國と成らば、必ず佛法流布して、人、生死を出づべし。此れを破るべし」と。時に大神、魔王に謂ひて云く、「我れ三寶を近づけじ。必ずその名を稱へじ」と。魔王、即ち歸りぬ。此の約に因りて、僧を傍へに近づけず。經を染紙といひ、佛を立てすくみと云ひ、僧を髮長といひ、堂をこりたきと云ふ。外は三寶を忌むと云へども、内は三寶を守ると云ふこと、『元亨釋書』を始め、數たの書に記るせれど、此は、彼の行基・最澄・空海などが造言せる妄説なること、『巫學談弊』に、既に委しく説き辨へたるを見るべし。]――

 然るは御國に、今行はるゝ僧法の趣はも、世に見馴れて、然しも異かる法の如くは覺えぬ物から、總じて僧の行状は、其の道の本を有りのまゝに云ふときは、人の人たる道に外れたる所行ひなる故に、嫌ひ給ふ事と思はる。其は佛祖釋迦氏の立てたる道の本義及びその起原は、『印度藏志』と云ふ書を著して、其れに委しく記るせば、‥‥

 さて、御國に立て置きたまふ佛道は、現人神の御心と、寛裕大度に宥めまして、然しも辛苦ならず定め給へる故に、佛祖が立てたる趣きとは、甚く異りて、行ひ易けれど、其の道の有りの任(まゝ)に云ふときは、右の如く忌々しく、其の行ひ、人の道に外れて、天つ皇祖神たちの、世の人を生成蕃息せしめ、愛惠しみます御心に背(たが)ふが故に、天照大御神は、甚く惡ひたまふ事と所思ゆるなり。‥‥

 抑々我が皇神の道の趣きは、清淨を本として汚穢れを惡ひ、君親には忠孝(まめ)に事へ、妻子を惠みて、子孫を多く生み殖やし、親族を睦び和はし、朋友には信を專らとし、奴婢を憐れみ、家の榮えむ事を思ふぞ、神ながら御傳へ坐せる眞の道なる。‥‥然る正道を傳へ給ひし皇神たちの、其の御旨に違へる佛法を、あに嫌ひ坐さざらむや。



【皇大神宮内宮三禰宜・薗田將監荒木田守夏翁『神拜式條』】
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【縣居賀茂眞淵大人七世孫・中今亭葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定宮司『僧侶の參拜云々に就いて』他】
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●寒林平泉澄博士『神佛關係の逆轉』(昭和二年七月)に曰く、

「近時世間に現れたる論説の傾向を見るに、一部の間に於いては、神佛關係の歴史に對して明察を缺き、近世三百年の努力を無視して、再び中世の混沌雜駁に復歸しようとする傾向を見る。いはれなき逆轉と斷ぜざるを得ない。‥‥近時この問題について世に現れる論説は、多く明治維新の當時の處置のみについて論難し、その歴史的背景に言及する事なく、而して或は明瞭に之を以て足れりと斷言してゐる。‥‥この近世三百年の間の思潮が、やがて明治維新を機會として神佛分離を徹底せしめたのであつて、之は決して一朝一夕の事ではなかつたのである。‥‥

 神佛分離あるは、神佛習合にあるによる。習合を究めずして、分離を説く事は出來ないからである。‥‥しからば神佛習合とは何であるか。神佛習合は、神と佛との調和である。然り、名は調和である。しかし實は神を佛に隷屬せしめる事であつた。即ち神佛習合の基調をなすものは、本地埀迹の思想であつた。これは佛を本地とし、神を埀迹とするものである。‥‥神を佛の埀迹と見、權現と考へ、その本地が佛なるによつて、初めて神の權威を認めたのであつた。即ち本地埀迹の思想にあつては、神は單に佛の影であるにすぎない。いはゞ神は、こゝに佛に從屬してゐるのである。神を以て佛に從屬せしめ、從屬の關係に於いて、初めて神の權威を認めようとするが如き思想は、いかにして可能であるか。その爲には、先づ佛教が壓倒的勢力を有たなければならない。しからずんば神道をそのうちに包含し、その下に蹂躙する事は出來ないのである。第二は神道が、その力を失つて居なければならない。しからずんば神道は、佛教の下に屈服し隷屬する筈はない。而して神道がその力を失ふ時は、いかなる時であるか。即ちこれは國民が歴史を忘却した時である。‥‥

 延喜・天暦の前後よりして、本地埀迹の思想は起つて來たのである。それよりして後、急激にこれが發展し、非常な勢ひを以て氾濫していつたのである。しかるにこの延喜・天暦の前後は、一體いかなる時であつたか。この時代は、我が國の歴史に於いて、最も重大なる變轉期の一つである。即ち從來支那大陸との間に、前に隋、後に唐との間に、國使の往來があつたのが、この時代に至つて止められた。これは外國關係の上に非常に重大な變化であつて、いはば一種の鎖國状態に入つたものであるが、それと共に國民の間に、外國に對する注意がうすらぎ、從つて國家觀念が薄弱になり弛緩して來たのである。それと共に深く考へなければならないのは、歴史編纂の事業が、この時より止んだ事である。從來日本書紀より續日本紀・日本後紀と、つぎゝゞに作られて來た國史が、醍醐天皇の延喜六年に三代實録を作られたのを最後として、以後全く止んでゐる。これは外國關係の斷絶と深い關係があるものと考へられる。即ち外國がなくなつたので、國家觀念が弛緩し、國家としての自覺がうすらいだ爲に、國史を編輯する氣力を失ひ去つたのである。恰もこの時である。恰もこの時に、本地埀迹の思想が起り、神佛の習合が成熟して來たといふのは、何を語るか。まさにこれ國民が歴史を忘却し、我れ自らを放下し、神道その力を失つた時、佛來つて神にとつて代るといふ、前述の論理を如實に示すものではないか。而して又た恰もこの頃よりして國家の統制力のうすらいだのに乘じて、私寺の建立が甚だ盛んとなり、佛寺所在に遍滿して、佛教の勢力が甚だ盛んとなり、而してそれらの寺院が、又た國家の規定の亂れに乘じて、多くの莊園を私有して、その俗的勢力を愈々盛んならしめたのであつた。‥‥

 佛教の勢力の衰微は、中世の末、近世の始めに起つた。上代の末より非常の權威を有し、朝廷すら之を奈何ともする事の出來なかつた比叡山延暦寺が、織田信長の爲に一朝にして燒き拂はれ、全山灰燼となつて了つた事は、佛法衰微の時節到來をつぐる鐘聲ではなかつたか。信長一度び出でゝ延暦寺は燒かれ、興福寺は慴伏し、本願寺は討たれ、高野山は圍まれた。これは上代・中世を通じて、未だ曾て見ざる大變革であつて、世運の推移を明瞭に物語るものである。而して思想界には、佛教攻撃の論が相ついであらはれた。‥‥

 もとより勢ひの激する所、或は破壞にすぎ、或は壓迫を事とした所もあらう。寶塔忽ち摧破に遇ひ、靈佛一朝にして灰燼となり、斷礎の間、徒らに草の離々たるを見る時、誰か心を傷ましめないものがあらう。しかも己を虚しうして歴史の大局を達觀すれば、神佛分離は國民的自覺當然の歸結であつて、其の間、些かの疑惑を容れない。しかもこの理は年と共に忘却せられ、今や囂々非難の聲をきく。神佛の關係は、一部の間に於いては、殆んど逆轉せんとしつゝある。而してこれは歴史の正しき認識の缺如より起るものであり、今や歴史の光によつて是正せられなければならないものである」と。



 愚案、明治以降の御代に於ても、神敵たる島地默雷の暗躍、鈴木大拙の變節、天牌(聖壽萬歳の祈祷)の廢儀、佛徒の政界跋扈等を見るにつけ、悲しみ益々深く、藥、瞑眩せざれば、其の疾ひは癒えず、佛教に天誅が降ること幾きに在り、現代に於いて廢佛毀釋論の再び起こる、亦た當然と謂はねばならぬ。
 
 

先づ神事、後に他事。――『禁祕御鈔』謹解。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月11日(水)23時22分1秒
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  ■順徳天皇『禁祕御鈔』

 凡そ禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無し。白地(あからさま)にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず。萬物、出で來るに隨つて、必ず先づ臺盤所の棚に置き、女官を召して奉らる。或は内侍の如き、參つて之を奉る。



 川出清彦掌典『大嘗祭と宮中のまつり』(平成二年六月・名著出版刊)には、順徳天皇御著『禁祕御鈔』の義解があつて、本道に重寶であるが、こゝには、平田大壑先生の『玉たすき』を引いて、祭政一致と謂はうか、否、祭儀の推本優先の大御教へを仰ぎ奉りたい。



●大壑平田篤胤先生『玉襷』一之卷(――[云々]――は、割註なり。一部省略)に曰く、

 天皇の御祖神を御崇敬まし坐す御定めは、天照大御神より四十九世、神武天皇より八十四代の帝、順徳院の天皇の、御自から記るさせ給ひて、『禁祕御鈔』とも、『建暦御記』とも題(な)づけ給へる御典(みふみ)の開卷第一に、

 凡て禁中の作法、先づ神事、後に他事。旦暮、敬神の叡慮、懈怠無く、白地(あからさま)にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず。萬の物、出で來るに隨ひ、必ず先づ之を奉らる。僧尼及び憚る人の許(もと)より進(たてまつ)る所の物は、之を奉らず。――[こは、御文のこゝに要とある所のみを引き出でたり。委しくは本書によりて拜見すべし。]――

 かく讀み申す我等こそ卑しけれ、この讀み上げたる御文は、いとも畏き遠つ神、現人神の綸言なれば、各々愼みて承はるべき事なり。――[そは、凡て神皇の御事實を記し奉れる御典どもは更なり、かゝる綸言・令式の類ひなる御書ども、學問上達し畢りて後に、その義を注解する時の議論は暫くさし置き、その讀み上ぐる時は、正にその神語・令式を傳へ承はる心になりて、恭拜敬讀し奉り、また其れに就きては、岡部大人・本居大人など始め、先生たちの、神典古傳説に依りて釋き著されたる書をも、拜讀の意(こゝろ)ばへを忘れず、讀み學ばむこと、勿論なり。今の世に古學者と云ふ徒(ともがら)、いと多かれど、斯くの如き事までに心をつけて言ひ教ふる人は無ければ、かく云ふを聞きて、嗤(あざ)み罵るも有るべけれど、其は漢籍をのみ讀みふけりて、實學なく、句讀を授け詩文を教へて口を糊する徒の、風を見習へる惡弊なり。其れに替りて僧徒は、その奉ずる道こそ異(けし)かれ、謂ゆる經論注疏の類ひを讀むに、身を清め香を燒(た)き机を掃ひ、戴き捧げて讀誦を爲し、白地にも人の蹈む席(むしろ)の上に措かざる倫ひも、しかすがに多かり。其が中には、僧徒の例の方便に、容體づくりて、愚人に信を取らむと構ふる倫ひもなきに非ねど、實にしか崇敬する者も、はた無きに非ざば、其の徒にも恥ぢて、古學の徒は、眞心に拜讀拜聽あらま欲しきわざにこそ。此は、敍でなれば云ふなり。]――

 さて、御文の意は、すべて禁中の御作法の多端なるが中に、何事よりも、まづ神事を第一と成され、夫れより他の事を行ひ給ふ御事ぞ、と宣たまへるなり。「旦暮、敬神の叡慮、懈怠無く」とは、旦暮(あけくれ)に、天神地祇を御崇敬ある叡慮の、懈怠(おこたり)なき樣に御勤めある由なり。「白地にも神宮并びに内侍所の方を以て、御迹に爲したまはず」とは、右の如く神祇を御崇敬ある御事ゆゑに、假初めにも伊勢の大神宮の御方、及び内侍所の御方をば、御後とし給はぬが、天皇の御行ひぞ、と宣たまへるにて――[白地とは、かりそめにもと云ふが如し。]――、内侍所と申すは、伊勢の大御神の御靈を、禁中に祭らせ給ふ御所の名なり。天皇の大御祖神を御崇敬ある御有趣、これにて窺ひ奉るべし。其は只に天皇御一己の御謹信のみに非ず、天下に有らゆる人民(おほみたから)を、眞福(まさき)く平穩(おだひ)に在らせまほしと所思し召す御心より、かく爲たまふ御事なり。――[然れば此の事のよしは、神の道の講説の中にも、やごと無き事なれば、各々きつと愼しみて心にしめ、彼の謂ゆる馬の耳に風吹きたる如く、うつかりと聞くこと勿れ。]――

 其の由は、まづ此の世界の始まりは、『靈の眞柱』に説きたる如く、天つ御國、謂ゆる高天原に御坐(おはしま)せる男女二柱の皇産靈大御神、まづ天地の基本(もとゐ)を成し給ひ、伊邪那岐・伊邪那美二柱神に詔命(みことの)らして、この大八嶋國を生ましめ、嶋の八十嶋・外つ國々をも造らしめ給へるは、其の時の御語に、「この漂へる國を、修り固め成せ」とのみ有れども、要(むね)とは、人種(ひとくさ)を生み成せとの御語にぞ有りける。其は國土を造り堅むる御事は、人民を生み成し住ましめ給はむとの御心ならずは、何の用とかせむ。――[こを譬へば、家を造ることは、必ず住ましむべき人あるを以て、造ると同じ道理(ことわり)なること、能く思ふべし。]――

 是を以て伊邪那岐・伊邪那美二柱神、その大御心を御心として、國土を生み成してのち、直ちに青人草を生み殖やし、然して後に、その青人草の蕃息(ふえひろご)り榮ゆべき事をし、種々に物し給へり。其は風・火・金・水・土の神等を始め、數多の神たちを成し給ひ、月の神・日の神を生し給へるも、言ひもて行けば、實には人草のために成し坐せりと申さむも、強ひ言に非ず。――[この妙なる道理は、古今の學者の、かつても言はざる大義なるを、委くは『古史傳』に就きて見るべし。]――。

 是を以て伊邪那岐・伊邪那美二神の御語に、「然かしてば、青人草のために惡しからむ。斯くしてば、青人草のために善けむ」とやうに宣りまたひ、また其の御言に、多く「うつしき青人草」とは宣たまへり。此は、愛(うつ)くしみ惠み給ふ青人草と宣たまへる御言にて、珍(うづ)の御子・愛くしき吾が名兄命・愛くしき我が那邇妹命などある「うつ」と、同じ義(こゝろ)の言なり。さて、青人草としも云ふは、古説に、人の蕃息るを、青草のしげるに譬へたる語なりと云へるは、天の益人とも云ふを思ふに、實に然も有るべし。斯くて伊邪那岐大神、のちに天照大御神を生み給ひ、天つ日の御國を治ろし食さしめ給ひ、御自身は、天上(あめ)なる日の少宮と云ふ御所に靜まり坐せる後に、天照大御神・皇産靈大神の御心として、天の下に蕃息れる人民を御治め有るべき爲めに、大御神の御孫、天津日高彦火邇々藝命を、天上にて、天皇命の御位に即け奉り給ひ、天の下の大君と定めて、此の御國へ天降し奉り給へり。――[これ、天子の始めにて、此の邇々藝命より、當今の天子まで、百二十四代にならせ給へり。偖しか天の下の萬民を統べ治ろし看す尊にます故に、スメラギとも、スメラミコトとも申すと、古人の説なるが、此は誠に然るべし。]――

 抑々この邇々藝命と申し奉るは、大父神を天忍穗耳命と申して、その稚なく御坐せる時は、天照大御神、つねに御脇に懷き坐して御愛みまし、此の忍穗耳命の后神は、皇産靈大神の御女、栲幡千々比賣命とまをす神の生み坐せる、玉依毘賣命とまをす神にて、其の御間に生み給へりし、邇々藝命に坐す故に、天照大御神には御孫にまし、皇産靈大神には御曾孫に坐すなり。――[上代に、ヒコと云へるは、謂ゆる孫なり。後世、この稱へを誤りて、孫をマゴと云ひ、曾孫をヒコと云ふ。然れどマゴとは、眞子の義にて、我が生みの子より次々の子孫までを廣く云ふ言にて、孫をのみ云ふ語に非ざるなり。]――

 さて、此の邇々藝命の御事をし、天照大御神は、「我がうつの御子」と詔たまひ、皇産靈大神の御愛しみ坐せる事は、神代紀に、「皇産靈神、特に鍾憐愛(めぐし)と以(おもほし)て、崇養(すたてひた)したまひき焉」と有るにて知るべし。――[此の御國は、四方の蕃國(みやつこぐに)の陋(いや)しきに比べては、殊に勝れては有るなれども、天つ御國の、また異に卓越れたるに比べては、劣れること云ふも更なるが、然る天上の卓れたる御國より、此の國土へ天降し給へりし二柱の神慮は、如何にと想ひ奉れば、彼の愛しき青人草の蕃息れるを、取りすべて御治め坐すべき、御系の尊く正しき、大君の御坐さでは、猾亂(みだり)がはしく、平穩なるまじき事を所思し食して、其の人民を惠み鎭め治め給はむ爲めに、降し奉り給へる御事なり。その天降し給ふ時に、邇々藝命に、天照大御神の詔たまへる御語に、「豐葦原中國は、汝の知るべき國なり」と詔たまへるは、青人草を治め給ふことの要とある御語なる事を、熟く思ふべし。其は人草の無かりせば、國を治むると云ふも、徒ら事なること、思ひを深めて能く辨ふべし。]――

 畏けれど、世の凡人(たゞびと)の上を以ても知るべく、孫(ひこ)は生みの子よりも愛(めぐ)く、曾孫(ひゝこ)は孫よりも愛しと、誰も云ふを、天・地・人・物の本つ御祖神と坐す、天都神たちに坐せば、殊に御慈愛の深くおはし坐すこと申すも更なり、各々が心に準へても、想像り奉るべし。斯くてその天降し給へる時は、邇々藝命、いと幼稚く御在しませしを、天上に在せる神たちの、殊に卓れたるを盡く附屬(そへ)たまひ、眞牀衾と云ふを覆ひ奉りて、御許を放ちて天降し給へりし神慮は、と申せば、青人草を平穩に治め給はむとの神慮より外なし。――[邇々藝命の天降りませる時は、なほ御幼稚におはし坐せること、神代紀の一書に、「始めは其の御父、天忍穗耳命、天降り坐すべき議定にて、既に降り坐さむと爲ける時に、その雲路にして、邇々藝命生れ坐せるを、父神に替へて天降し給へり」と有るを以ても辨ふべし。]――

 また邇々藝命、幼稚く御坐しましつゝも、其の御祖神たちの御言のまにゝゝ、其の御許を離れて、見もしろし召さざる、此の御國へ天降りませる事は、天照大御神・皇産靈大神の大御心を御心とし給ひ、天の下の人民を惠み治め給はむとの御事なり。――[天照大御神の、青人草を愛しみ給ふことは、穀物(たなつもの)の種ども御覽はせる時に、「此の物等は、うつしき青人草の、食ひて活くべき物ぞ」と詔りたまへる一事をもても悟るべし。此は只に食ひて活くべき物ぞと宣たまはむには、御身づからの上にかゝれど、青人草のと宣たまへるにて、其の大御心、いと著明かに知られたり。]――

 かくて世の青人草の成り出でしもとは、皇産靈大神の御靈に頼りて、伊邪那岐・伊邪那美神の生み成し給ひ、天照大御神に屬(ことよさ)し給へるを、また其の詔命に依りて、邇々藝命より次々に、天皇命の知り治め給ふなれば、實には國土・人民ともに、天照大御神の御物にて、天皇命は、其を治め給ふ御職に坐すこと著く、かつ國土・人民の天皇命に御坐すを、國々の侯(きみ)は、そを持ち別けて領り治むる道理にぞ有りける。――[西戎(もろこし)の國の古き語に、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下也」と云へるは、我が上つ代の意ばへの傳はれるにて、君たる人には、實に然るべき語なるを、下として上を覬覦する者どもの口實とするは、甚く道の意に背けり。]――

 さて、邇々藝命の天降ります時に、御祖神たち、此の國土を治め給はむ御政事の方(さま)も、委曲(つばら)に諭し給へるが、其の趣(さま)、何かに有りしと言ふに、世にある事は、盡く天神地祇の御靈に資(よ)ることなる故に、神祭りの事を專(むね)と御傳へまし、まづ荒ぶる神は、祭り和めて祟りあらせず、諸神たちを、夫れ々ゝに齋ひ祭りて、その御惠みの、いや益々に加(そ)はるべく御定めませり。其れみな天の下の青人草をまつろへ、惠み給ふ御態(みわざ)より他の事なく、外つ國風の小賢しき教へ語は、更に無し。――[然れば祭事、やがて御政事の本なる故に、天下を治め給ふ事に用ふる政の字を、即(やが)てマツリゴトと訓むといふ古説も、實に然る説にぞおぼゆる。]――

 かくて邇々藝命より次々、御代々々の天皇命にも、その御由緒(みいはれ)の如く御行ひありて、神事を第一になし給ひ、まづ上古には、天皇御みづから神事を成されて、天の下の人民の衣・食・住に安然かならむ事を御祈り坐して、年ごとの六月と十二月との晦日には、天の下に有らゆる人民の枉事・罪穢れを拂ひ給はむ爲めに、大祓ひと云ふ神事を成され、其の時に集まれる諸人に讀み聞かしめ給ふ御文を、『大祓詞』といふ。――[俗に此の御文を「中臣祓」と云ふは誤りなること、岡部翁の『祝詞考』、師の『大祓詞後釋』などに辨へられたるにて知るべし。]――

 さて、後の世に、漸々に外國風の事も交へ用ひ給ふ御世となりしかど、右の由緒によりて、朝廷の禮儀作法を記させ給へる御典ども、みな神祇に關(あづ)かる事を先と爲られ、まづ『令義解』と云ふは十卷ありて、令條の御典なるが、其の第一は神祇令とて、神祇にあづかる御令を載(し)るされ、『延喜式』と云ふは五十卷ありて、式條の御典なるが、其の初卷より第十卷までを神祇式とて、神祇に關かる御式を載るされ、あと四十卷も、云ひもて行けば、神祇の事に約(つゞ)まる程の事にて、其の八卷めは、諸々の神々を祭らせ給ふ時の祝詞どもを載(の)せられたるが、第一にある祈年祭の祝詞より、いや末に有る大祓詞まで、盡く天の下の人民のために爲し給ふ神祭りの御文にて、更に天皇御一己の御祈りに非ず、天の下の事を祈り給ふに付けて、御自らの御事にも及ばせる御文なり。――[もろゝゝの祝詞に、深く心を用ひて、孰く此の旨を心得べし。]――

 さて、其の九卷め・十卷めは、神名帳とて、朝廷より御祭りある國々の神社の名を載せられたるが、其の數、三千一百三十二座、社の數、すべて二千八百六十一處あり。こを、延喜式の社と云ふ。――[なほ此の外に國史に見えたる式外の社、また國史に洩れたる御社の、朝廷より祭らせ給ふも、いと多かり。こを、官知の社と云ふ。また未官知の社とて、朝廷の御祭りに洩れたる社の數は、今委しくは尋ね知るべきに非ず。そは、各國の神階記に載せたる社の多きに准らへて思ふべく、諸書に、或は大社・小社、一萬三千七百三十餘社とも、或は神宮二萬七千七百十三社、成宮の神二千七百五十社、不成宮の神一萬九千社とも、或は大小の神祇三千七百餘處、上には一萬三千社、下には粟三石の數など有るを以ても、其の社數の多かる事を辨ふべし。]――

 源親房卿の『職原鈔』にも、神祇官を第一に擧げて、「當官を以て、諸官の上に置く。是れ神國の風儀、天神地祇を重んずる故也」とも、「祭官の職は、上古の重任也。又た神國の故に、當官を以て太政官の上に置くか乎」と記るされたるは、能くも古の道をかき傳へたる文なり。信に此の語の如き、神世の由緒なるが故に、天下を治め給ふ御政事に、神事を先と爲たまふ事、やがて皇産靈大神・天照大御神の、青人草を愛しみ給ふ大御心を御心と受け行ひたまふ、天皇命の御職におはし坐すなり。――[然れば此の由緒に違ひ坐して、神事を第一に爲給はざらむは、恐こけれど御過失と申さむも非が言に非ず。そは如何となれば、天つ皇祖神たちの神敕の御旨を麁略かにしたまふ道理なればなり。]――

 『禁祕御鈔』の開卷第一に、かくの如く「先づ神事、後に他事云々」と載るさせ給へるは、御先代の天皇命たちに、神事を麁略かにし、佛事を專要とし給へるが有りしより、神世の御故實の廢れもて來し事を所思し食したるにて、其は古く孝徳天皇の御世に、天の下の人民を治むる道を問ひ給へるに、臣等みな、「先づ以て神祇を祭り鎭め、然して後に政事を議す應し」と奏せる旨をも所思し食せるにや。然るは御文、いと能く似たればなり。――[師の『玉かつま』に、「風雅集に。後宇多天皇は、大御歌、『天つ神 國つ社を 祝ひてぞ 我が葦原の 國はをさまる』 是ぞ道の意には、能く叶へる大御歌なりける。他の國のごと、くさゞゝ言痛(こちた)きわざは、爲させ給はざりしかど、只だ神を齋き祭り給ひて、天の下の、いと能く治まりつるは、神の御國の勝れたるにて、上つ代は、まことに然かこそ有りしか」と云はれ、また宇治左大臣頼長公の『台記』に、鳥羽院の天皇の大御言に、「如かず、禮佛の勤を闕いて、敬神の忠を全くせむ矣には」と宣たまへるをも擧げて、「こは、佛事の御をり也しに、神事をやごと無くおぼし召されたる詔の、尊くおぼえ奉るまゝに記しつ」と有り。]――

 さて、「萬づ物の出來るに隨ひて、必ず先づ之を奉らる」とは、何に依らず、其の初穗を奉らるゝ由なり。「必ず先づ」と記るさせ給へるに、心をつけて拜讀すべし。――[闕く如となく、必ずきつとまづ其の初穗を奉り給ふ由にて、「必ず先づ」の字、おほき力あり。序でなれば云ふ、神にいち早く物を奉ることを初穗といふは、舊説に、稻の初穗を奉るより出でたる語なりと云へるは、然も有るべし。また若しくは穗のごと拔き出でて進むる故に、云ふならむも知るべからず。]――
  
 

鹿兒島灣上の聖なる夜景。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 6日(金)21時41分56秒
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  ~承前~

 明日は、宮中昭和天皇祭であります。

 塾頭も仰せの如く、神社祭祀は、宮中祭祀を溯源儀表と爲す。殊に官國幣社は、國家の生命にして、此の聖域を、「闊歩」乃至「ビラ配布」を行ひ、「遊戲場」或は「交際場」と爲すは許されず、祭祀の本義を常に念頭に置き、大内山に神習うて、嚴肅謹愼を要し、清淨・靜謐を護持しなければならぬ。神社の俗化猥雜は、國民精神の頽廢を招來するを知るべきである。

 柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀』に曰く、「先帝祭は、御先代の天皇の崩御當日に、御追慕の思し召しで、皇靈殿及び山陵で行はれる大祭です。現在では、先帝の昭和天皇の崩御當日の一月七日に、皇靈殿で、天皇陛下御親祭のもと齋行され、皇后陛下・皇太子同妃兩殿下が御拜禮されます。また武藏野陵に、敕使を參向されて奉幣なさいます。夜は皇靈殿の前で、御神樂の儀が深夜まで行はれ、御父昭和天皇の御靈をお慰め申し上げます。宮中の御神樂は、年に數度行はれますが、兩陛下をはじめ皇族方は、この御神樂が終了したとの連絡があるまで、御所でお愼みになられておはしますと承ります」と。

 君民一體の國體の片鱗として、人口に膾炙してゐることであるが、木下道雄翁『新編・宮中見聞録』を謹記して、昭和天皇の聖徳をお偲び申し上げたい。此の祕話に因つて、我が皇國日本に覺醒した方々も衆いと仄聞する。斯く申す小生も、高校生の時であつたか、其の初版本を拜讀して、泪が止まらなかつた經驗を有つ。正に君臣一如、義は乃ち君臣、情は父子、信に異國に絶えて無き、我が國體の精華と仰ぎ奉る。



●木下道雄侍從次長『新編・宮中見聞録――昭和天皇にお仕へして』(昭和四十三年二月初版・新小説社刊。平成十年一月新編・日本教文社刊――些か假名を漢字に變換させて戴きました)に曰く、

「昭和六年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、陛下は、往路は汽車で熊本までおいでになつたが、お還りは演習終了後、汽車で鹿兒島へ、鹿兒島からは軍艦榛名(はるな)で、横須賀へ向はせられたことがあつた。當時、私(木下翁)は行幸事務を主管する大臣官房總務課長として、お伴のうちに加はつてゐた。忘れもせぬ、時は十一月十九日、日沒と同時に、榛名は供奉の驅逐艦四隻を隨へ、縣市民の盛大なる奉送裡に、煙噴く櫻島を後に、いま靜かに鹿兒島灣を南下しつつある。

 艦上に立つて見上げると、ゴツゴツした小山のやうな巨艦の檣頭には、天皇籏が翩翻とひるがへり、忙しく立ち働く水兵たちは、みな喜色滿面。自分たちの艦に、天皇籏を掲げるといふことは、譬へやうもない喜びなのである。御召艦と決してからの、傳染病豫防のための長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、皆これ今日の榮ある日を迎へるためだつたのではないか、喜ばずにをられようか。

 艦内に於ける陛下の御生活は、何時も極めて御愉快であり、御自由である。陸上に於けるが如き警戒・警衞は、一切ない。全艦、皆これ國家の干城、ひとりの狂者もをらぬからである。作業に勤しむ水兵たちの群がる中を、おひとりで割つてお入りになる、そのお樂しみ、肩と肩との擦れ合ひ、若者たちの熱氣のうちに、われ國民と共に在りの御氣分を滿喫されるからであらう。

 榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは、後甲板(こうかんぱん)の眞下の司令長官室であつた。お室の入口の直ぐ近くに、長官專用の階段が上へ通じてゐるから、何時でもご自由に、後甲板においでになることができる。この後甲板は、陛下の最もお好きな場所で、雨が降つても心配がないやうに、上にはズツクの覆ひが一面に張つてある。夜は廣い甲板の中央のところに、電燈にたつた一つつくだけで、薄暗いところではあるが、夜でも、よくここにおでましになる。折たたみの輕いズツクの椅子が數脚、それから、陛下はタバコをお吸ひにならないが、他の者のために、火繩のついた大きな灰落としの眞鍮の壺が二、三あるだけで、裝飾は何もない。ただ遠望の御用のために、脚付の望遠鏡が、右舷にも左舷にも、ところどころに備へつけてあるのと、海圖の机が一つ。この海圖には、擔當の將校が鉛筆で、艦のコースを書き入れてゐる。これを見ると、鹿兒島灣の幅は約二○キロ、鹿兒島市から灣口までの距離は約八○キロ、艦のコースは、丁度灣の中央線を眞つ直ぐに灣口さして南下し、それから太平洋を黒潮の流れに乘つて、横須賀へ向うことになつてゐる。見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、右舷、薩摩半島の山々も、共に十餘キロの彼方、夕闇のうちに、薄暗く見えるだけである。

 間もなく、六時の夕食の時刻となつたので、われわれは艦内に降りて、士官の食堂で食事にとりかかつた。航海中、陛下の御夕食には、艦長以下、上級將校が代る替はるお相伴に召されるのを例としてゐたが、このときは出港直後のことであり、艦長以下一同、業務多忙のため、陛下は御居室で、お一人で御食事中であつた。

 丁度六時半頃であつたか、私は皆と食事中、フト、昔の記憶が頭に浮んできた。それは、大正十四年の夏、陛下が、まだ皇太子であらせられたときのことであるが、軍艦長門で樺太に御旅行になつたことがある。或る日、樺太の南端にある大泊から、西海岸にある本斗・眞岡の方へ囘航の途中、その夜、長門は海馬島といふ絶海の孤島の島影に假泊する豫定になつてゐたので、夕食後、われわれは、陛下を中心に、後甲板で涼しい汐風に吹かれながら、黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、段々近づいて來るのを、物珍らしく眺めてゐた。當日は風波がかなりあつたので、艦は丘の風下にあたる靜かなところに泊まるために、速力を落とし徐行して、ぐるつと島を廻つてゐる、そのとき、突然、夜闇の波の間、艦の直ぐ近くに、何やら泣くやうな、叫ぶやうな大聲が聞えてきた。舷窓を漏れるあかりに照らし出されたところを見ると、日の丸の旗を舳先に立てた一艘の小舟が、荒波にもまれながら艦と竝行して、六人の若者が一生懸命に櫓を漕いでゐる。左手に、しかと、とも櫓を握つて指揮をしてゐるのは、一見、六、七十の老父のやうであつたが、紋付・羽織・袴に、右手に山高帽を高々と差し上げながら、何か叫んでゐる。風が強いため、その言葉は聞き取れなかつたが、嬉し泣きに泣いてゐることだけは、よく判る。

 私は一ケ月前、下檢分で、この島にも立ち寄つたので、島の事情は知つてゐた。昔から、ここの島には、百人餘りの日本の漁民がゐて、ここを根據地として漁業を營んでゐるのである。今日の夜、殿下の御召艦が、ここに假泊することは、皆知つてゐたので、恐らく島の人たちは、總出で船を出して、沖で殿下をお迎へする積りでゐたのだらうが、日が暮れて、波荒れ狂ふ夜闇の海上で、そのうちの一艘が、やつと長門の艦影を發見し、少しでもお側に近づかうとして、えいえいと漕いでゐたのである。われわれは後甲板の上から帽子やハンカチを振つて挨拶をかはしたが、艦がいくら徐行してゐるとはいへ、二つの船の速力には格段の違ひがあるので、一瞬の間に別れてしまつた。私は、もしほんとに手が屆くなら、抱き合つて一緒に喜びたいと思つたが、まことに殘念なことであつた。

 このことを、私は食事の最中に思ひ出し、ここも波の靜かな鹿兒島灣内のことであるから、何時、何處から、船が來ないとも限らない。今は陛下もお食事中であらうし、われわれも皆食堂にゐる。後甲板には、いま誰もをらぬだらう。もし船でも來たら、相濟まぬことになると考へ、皆より早く食事を終へ、大急ぎで後甲板に驅け上がつた。

 艦内は非常によく照明されてゐて明るいが、後甲板の上は、まことに暗く、電燈の下ならともかく、少し離れたら、人の顔も、よく見わけのつかぬ有樣であつた。ところが誰もをらぬとばかり思つて飛び出した私の眼に映つたのが、右舷の手すりのところに、西を向いて立つてゐる、ひとりの人の後ろ姿であつた。望遠鏡から手を離し、擧手敬禮の後ろ姿。ハテ、今ごろ誰が、と思つて、近づいてみると、こは如何に、陛下ではないか。

 さては、奉迎船が下に來てゐるなと、私は直ぐ右舷に馳せ寄つて下を見たが、船らしいものは見えない。ハテ、何を望遠鏡でご覽になつたのかなと思つて、私も近くの望遠鏡に眼を當ててみたが、明るいところから急に暗いところに來ると、眼が慣れてゐないので、なかなか見えない。ジーツと我慢し覗いてゐると、そのうちに段々と目が慣れてきて、薩摩半島の山々のが、ぼんやりながら見えてきた。時刻から推測して、指宿の沖合あたりかなと思つた。そのうちに今度は、海の色と陸の色との區別がつくやうになり、水陸の境目、つまり海岸線一帶に、延々果てしなく續く赤い紐のやうなものが見える。ハテ、これは何だらうかと考へてゐたら、次に見えてきたのは、この赤い紐の上、小高いところに、幾百メートルかの間隔をおいて、點々と燃え盛る篝火。これで、私は萬事を了解した。

 當夜は月もなく、星も稀な、曇りがちの空模樣で、陸からは軍艦の姿は見えないが、時刻から考へて、今頃は、陛下のお船が沖合をご通過になるときだと語り合ひ、薩摩半島の村々に住む人々、老いも若きも、提燈や松明を持つて海岸に立ち竝び、また若者たちは山々に登つて篝火を焚き、半島に住む村人、こぞつて陛下をお見送してゐるのである。陛下は、いま、望遠鏡で、これを發見遊ばされ、薄暗い甲板の上から、ただおひとりで、沿岸一帶の奉送の燈火に對し、遙かに御挨拶をなさつておいでになつたのである。この光景を、思ひがけなくも私が拜した次第であつた。

 ああ、これこそ、本當の日本の姿と、私は思つた。何とか連絡を取つて、今、あすこでお見送りをしてゐる半島村々の人たちに、今、陛下は、艦上からあなたがたのお見送りの燈火に對して、ご挨拶をしておいでになりますよと、知らせたい氣持ちで胸一杯の私は、その方法のないのに、悶へ苦しんだ。無線で打電しようかとも思つたが、今、あの山の上で、篝火を焚いてゐる人たちの耳に、到底、今夜のうちに屆くとは思はれない。フト、そのとき一案を思ひついた私は、すぐさま艦長室へ走つた。艦長に事情を話して、探照燈を全部つけて貰ふことを頼んだところ、艦長も感激して、直ぐ、つけませう、といふ。私はお願ひしますの一語を殘して、また直ぐ後甲板に引き返したところ、そのときは、もう六ケの探照燈の光芒が皎々と、左は大隅半島、右は薩摩半島の空や山や海岸一帶を、隈なく撫でまはしてゐた。遙かに、ワツ、と上がる両岸の歡聲を想像しながら、私はほんとに嬉しかつた。


――海上、聖夜の讚――

 月なく星も稀な夜空の下、默々と鹿兒島灣を南下する軍艦榛名の、薄暗き後甲板は、人なく聲なく、只ひとり、陛下おん擧手の尊影を仰ぐ。

 御會釋を賜る者は、そも誰か。肉眼に之を求めて之を得ず、わづかに望遠鏡のレンズのうちに、薩摩半島沿岸一帶、遙かに見ゆる奉送の燈火。盛んなるかな、山々には篝火、岸邊には提燈の群れ、延々と果てしなく續く。

さらば、陛下、いざさらば、
 おんすこやかに、おかへりませ。
ありがたう、
 皆も、元氣でね。

 げに闇をも貫くは、まごごろの通ひ路。海波、遠くへだてて、君民無言の、別れのかたらひ。ああ、誰か、邦家萬古の傳統を想はざる。時は、これ昭和六年十一月十九日。

――――


 昭和三十九年の或る日、私は指宿の地を訪れたことがある。ここには九州大學の植物園があるが、その園長さんが、永年指宿に住んでをらるるといふことを聞いたので、植物園の園長さんをお訪ねした。
「あなたは、昭和六年には、この地にお住まひでしたか。」
「ハイ、住んでをりました。」
「然らば、その年の十一月十九日の夜、提燈を持つて、海岸にお立ちになりましたか。」
「ハイ、立ちました。県廳から豫め注意があり、當夜はあひにく月がないから、軍艦の姿は見えないだらうが、軍艦には、夜間、燈火が一つづつつく、御召艦と護衞の驅逐艦四隻、合計五ツの燈火が見える筈、第一の燈火は先導の驅逐艦、第二の燈火が御召艦のそれと心得られよ、とのこと。よつてわれわれは、遙か沖を通る、その第二の燈火に心を籠めてゐたところ、突如、その第二の燈火のところから、われわれに向つて、皎々たる探照燈が照らされ、一同、思はず歡聲を上げ、その光の中に互ひに手をとり合つて歡んだことでした。」
といふお話を聞いて、私も心中、大變嬉しかつたことがある」と。



【昭和天皇御製】昭和二十年八月・四首――『宮中見聞録』に所收――

爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

國がらを ただ守らんと いばら道 すすみゆくとも いくさとめけり

外國(とつくに)と 離れ小島に のこる民の うへやすかれと ただいのるなり

 
 

神代在今。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 4日(水)01時06分58秒
返信・引用 編集済
   『古事記』序文に、「元始綿邈たれども、先聖に頼りて神を生み、人を立てたまひし世を察かにす」と。最近は、天孫降臨の歴史を語らなくなつて久しい矣。何でも、神武天皇以來ばかり‥‥、小生の遺憾とする所であります。

 抑も皇位の尊嚴は、天上高天の原に存し、神道祭祀は、宮中祭祀に基づけり。仰ぐべきは、畏くも一に「天壤無窮の神敕」にぞ在りける。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/401


 宮中祭祀の專問書は暫く措いて、下記の書は、必ず讀まれたい。本道は、行を修むる神職にしか分らないのだが‥‥、否、宮中祭祀に限つては、掌典長にしか分るまい、否々、上御一人のみが知らせ給ふ御祕儀である。祕儀は知る由も無く、また知る必要も無いが、然し公刊書から、少しでも神習ひし拜承する研鑽努力は、皇民として生きむと欲する者の務めであらう。

一、井原頼明翁『増補・皇室事典』(昭和十三年六月初版・冨山房刊。十七年四月増補版。五十四年五月覆刻)

一、髙谷朝子内掌典『宮中賢所物語――五十七年間皇居に暮らして』(口述筆記。平成十八年一月・ビジネス社刊)

一、所功博士『天皇の「まつりごと」――象徴としての祭祀と公務』(NHK出版・生活人新書。平成二十一年五月・日本放送出版協會刊)

一、柿之舍中澤伸弘博士『宮中祭祀――連綿と續く天皇の祈り』(平成二十二年七月・展轉社刊)

 殊に中澤博士には、此の掲示板に書込みを戴いたこともある。曰く、「この本(『宮中祭祀』)が広く多くの方に讀まれて、宮中祭祀の何たるか、天皇陛下の御本質についてお考へいただければと存じます」と。歳首の祭祀の一端は、所博士『天皇の「まつりごと」』の記事が最も詳細であるが、こゝは中澤伸弘博士『宮中祭祀』から拜承したい。



「宮中では、新年は祭儀から明けます。まづ四方拜の儀があります。これは年のはじめに、天皇が神宮をはじめ四方の神々や御陵を遙拜され、この年の平和と國民の幸福を祈念されるものであつて、平安時代の中期にには確定してゐた祭儀です。古くは寅の刻(午前四時ころ)に出御されてゐましたが、現在は午前五時半に、神嘉殿の南庭の御屋根に設へた御拜所に、脂燭の燈りのもと、御劍[註一]とともに出御になります(大祭には、必ず御劍と神璽とを、小祭には御劍のみを伴はれて出御になります。これが重要なことなのです)。天皇陛下は、これ以前に綾綺殿にお出ましのうへ、御束帶にお召し替へになります[註二]。御拜所は薦(こも)を敷いた上に白布を敷き、その上に眞薦・蘭薦を敷き、御拜座の厚疊を設け、燭臺二基を立て、その周圍を御屏風二雙で圍つたものです。そこで庭上下御、兩段再拜といふ御丁重な御作法(祭りのしかたの祭式を見ても、皇室の祭祀には、神前で手を打つ柏手がありません。陛下・勅使が神社に御親拜なさる時には、神前で深く一禮をされるだけです。また神社に奉られる玉串も、一般神社での作法とは違ひ、その捧げ方は、立てて奉奠される「立て玉串」です)で、神々を御拜なさいます。元旦の早朝は邊りは暗く、星が輝く、肌をさす寒さの中での年始の御祭儀であります。‥‥

 天皇陛下が屏風の中の御拜座で、どのやうな所作をなさるかはわかりません。御召し物の衣擦れの音が聞こえるだけとのことです。この御所作は、天皇のみが口移しで傳へられる御口傳です。古い儀式書には、神宮・四方の神々・先帝の御陵などと書かれてゐます。また屬星[愚案、北斗七星]を拜すともあり、何か呪文があつたやうです[註三]。應仁の亂で中絶しましたが、それ程期間をおかず、後土御門天皇の文明七年に再興し、今日に至つてゐます。その場所は時代の變遷があり、京都御所の時代には、清涼殿の東庭に出御になつて行はれました。また東京にお移りののちは、賢所前庭で行はれたこともありました。‥‥年の初めに、御歴代の天皇は、このやうな御祭儀を修されてきたのです。天皇陛下が喪中や御不例にわたらせられる時には、設へをしたことにより出御があつたと見なし、代はりの者による代拜はありません。この御儀は、天皇一人だけしか御出來になれない點に、その重みがありませう。その後、天皇陛下は引き續いて隣接する宮中三殿の歳旦祭(小祭)にお出ましになります。そのころ、邊りが明るみはじめます。

神殿へ すのこ上を すすみ行く 年の始めの 空白み初む(今上天皇御製)

 歳旦祭は、年の初めをお祝ひして、その年の平安を祈念される祭儀で、全國の神社でも行はれます。天皇陛下は、御劍とともに、賢所・皇靈殿・神殿の順に玉串を以て御拜禮されます。續いて皇太子殿下が同樣に御拜禮なさり、その後、親王殿下ほか參列者が拜禮します。小祭には、皇后陛下や皇太子妃殿下の御拜禮はありません。翌二日・三日には、日頃の日供をご丁重に奉られます。元日だけ御拜禮がありますが、この三日を、かつては「三箇日賢所・皇靈殿・神殿御祭典」とも稱しました。

 三日の元始祭は大祭で、三殿にて行はれます。年初に皇位の元始を祝ひ國家の安泰を祈るもので、明治五年に行はれて以來の御祭儀です。元始の名は、『古事記』の序文から取りました[註四]。これは大祭で、天皇陛下の御拜禮ののち、皇后陛下・皇太子同妃兩殿下の御拜禮があります。大祭は御親祭ですので、天皇陛下が御自身で御告文を奏せられます。また御鈴の儀があります。

 四日には、奏事始が、皇居の鳳凰の間で行はれます。陛下はモーニングをお召しになり出御、掌典長から昨年の神宮に於ける祭典、また宮中の祭祀が滯りなく修された旨をお聞き取りになられる御儀であります。このとき、天皇陛下は御起立遊ばされると漏れ承ります。古くは一月十一日に、神宮奏事始と稱して行はれ、徳川時代には、陛下は前日に御潔齋をなされ、當日は石灰壇で、殊に神宮を遙拜されてからお聞き取りになられました。明治初年には、賀茂奏事始・氷川奏事始なども行はれ、御敬神の思ひの深さがわかります。

 一方、平安時代には、政治が行はれてゐましたが、中世以來杜絶し、それを明治二年に再興し、天皇親臨のもと、政治向きのことをお聞き取りになられ、その中で宮内大臣が、神宮の祭儀のことを申しあげました。大正十五年には、皇室儀制令により、この時に第一に内閣總理大臣が神宮の御祭儀について奏上することとなりました。しかし戰後は、このことが廢止になつたため、あらたに神宮の奏事始として行はれてゐます。年のはじめに、まづ神事のことを御優先あそばされるお心と拜します」と。



[註一]永積寅彦掌典長『八十年間お側に仕へて――昭和天皇と私』(口述記録。「あとがき」は所功博士。平成四年二月・學習研究社刊)に、「『日の御座』しの御劍だけを、平常の御祭典では侍從が捧持してお供をするのですが、四方拜の時も御屏風の外に控へてゐます」と。

[註二]永積寅彦掌典長の曰く、「御旬祭だけはお直衣ですが、小祭以上は黄櫨染御袍で、新嘗祭だけは純白の御祭服です」と。

[註三]永積寅彦掌典長の曰く、「庭上と申しても、地面と殆んど高さの變らない板敷のところがありまして、一面に白布を敷いてあります。その上に眞薦を敷き御座所を置き、一雙の御屏風をもつてお圍みしてあります。東京からですと、南西の方向(神宮の方位)に御屏風を少し開けてあります。そこに御着座になりまして、まづ南西の神宮の方向に御拜禮になり、次に右囘りに四方を御拜禮なさいます。その一つ一つの御拜が、兩段再拜といふ丁重な拜禮でいらつしやいます。また御屏風の中には、掌典長だけがお供して入りますので、お裾をお囘りになる通りにおさばきせねばなりません」と。

[註四]『増補・皇室事典』に、「元始祭の意義は、明治五年、太政官布告に定むる『官國幣社竝府縣社元始祭式』の前文に、「是れ天日嗣の本始を、歳首に祀り給ふ義なるを以て、之を元始祭と稱す」と、明らかにされてゐる」と。



【鎌田純一掌典『皇室祭祀と建國の心』】
  ↓↓↓↓↓
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/888
 
 

元始祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2012年 1月 2日(月)23時20分12秒
返信・引用 編集済
  謹みて聖壽の萬歳を祝ひ奉り、閲覽者各位の御清祥を祷上候。

毎年1月3日は、年のはじめにあたり、宮中三殿におひて天皇陛下が天津日嗣の元始を祝ひ奉るお祭り(元始祭)を執り行はせられるにつき、御民われらも天孫降臨に始まる國の大元 を壽ぎ、皇位の無窮をお祷り致しませう。

小學唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/s2_gansi_sai.htm

祝祭日唱歌 『元始祭』
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/m_shou_izawa/m_gansi_sai.htm
 

拜承謹記。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 1日(日)08時52分38秒
返信・引用 編集済
  【敕語】平成二十四年一月一日
  ↓↓↓↓↓
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h24.html



【天皇陛下御製】平成二十三年御抄――年當にあたり宮内廳午前五時發表


――東日本大震災の津波の映像を見て

黒き水 うねり廣がり 進み行く 仙臺平野を いたみつつ見る


――東日本大震災の被災者を見舞ひて

大いなる まがのいたみに 耐へて生くる 人の言葉に 心打たるる


――東日本大震災後相馬市を訪れて

津波寄すと 雄々しくも沖に 出でし船 もどりきてもやふ 姿うれしき


――共に喜壽を迎へて

五十餘年(いそよとせ) 吾(あ)を支へ來し 我が妹(いも)も 七十七(ななとせなな)の 歳迎へたり


――假設住宅の人々を思ひて

被災地に 寒き日のまた 巡り來ぬ 心にかかる 假住まひの人




【皇后陛下御歌】


――手紙

「生きてると いいねママ お元氣ですか」 文(ふみ)に項傾(うなかぶ)し 幼な兒眠る


――海

何事も あらざりしごと 海のあり かの大波は 何にてありし


――この年の春

草むらに 白き十字の 花咲きて 罪なく人の 死にし春逝(ゆ)く



http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gyosei/pdf/gyosei-h23.pdf
   
 

今上天皇第二十四年、獻壽歳旦。

 投稿者:備中處士  投稿日:2012年 1月 1日(日)02時45分14秒
返信・引用 編集済
  平成二十四年
紀元二千六百七十二年
天孫降臨以來五千十二年
天皇正月、歳、壬辰に次る、元旦を壽ぎ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、併せてご閲覽各位の道福靈健を祝祷申し上げます。



■今上天皇御製

波立たぬ 世を願ひつつ 新しき 年の始めを 迎へ祝はむ


■大正天皇御製『遠州洋上の作』

夜、艨艟(軍艦)に駕して、遠州を過ぐ。
滿天の明月、思ひ悠悠。
何れの時か、能く遂げん、平生の志。
一躍、雄飛せん、五大洲。




●吉田左兵衞佐卜部兼好翁『徒然草』第一段に曰く、

 御門(みかど)の御位(おほんくらゐ)は、いともかしこし。竹の園生の末葉(すゑば)まで、人間の種(たね)ならぬぞ、やんごとなき。



●嶽東岩崎行親翁『國體篇』(大正十年八月。『正氣集』昭和五年三月・日本中學校校友會刊に所收)――鹽澤健翁抄

邈かなり兮、二千六百秋、
日東の肇國、神籌に基く。
國體之優、風土の美、
宇内萬邦、匹儔無し。
豐葦原之瑞穗の國は、
是れ我が子孫、君臨の域なり。
行け兮、爾ぢ就でまして之を治らせ、
寶祚は、天壤と窮極無し。

神訓、炳乎として、日星の如し、
之を萬世に施して、民心寧し。
三種の神器、君道を教ふ、
之を無窮に傳へて、帝徳馨ばし。
我が皇の神孫、姓氏無し、
日本を家と爲し、君を父に比(たくら)ぶ。
億兆、齊しく仰ぐ、一家君、
義は乃ち君臣、情は父子。
親に孝ならんと欲する者は、須く君に忠なるべく、
國を愛せんと欲する者は、須く君を愛すべし。
忠孝一致、君國一なり、
我が國の憲法、古文を存す。
嗚呼。
美なるかな哉、日東の君子國、
上下、心を同じうして、其の徳を一にす。
嗚呼。
優なるかな哉、萬世一系の君、
列聖、相承けて、功勳を埀れたまふ。



 古人の曰く、「稜威(ミは美稱、イヅは嚴。イはユ齋と同言)とは、吾々日本國民が有つ美しい崇嚴な言葉であるばかりでなく、現人神にあらせ給ふ陛下の、實質的な神氣の御發動を意味するものである。このことは堀○○○先生が、最も力をこめて膝をすゝめて、私に説かれたことで、實例を擧げて謹嚴に説明せられ、それ以來、私は心身の清々しい日に、宮城を遙拜する氣分が、一層嚴肅になつて來たのである。――私は心身の清々しからざる日は、恐れ多いから遙拜しない」と。

 愚案、元旦こそ、大祓ひを越えて、天も地も人も、擧國、最も清々しき、神祇感應の季なれば、夫れ宮城遙拜の好恰時節なり矣。顯界を主宰し坐します、現御神の大稜威、宇内に光輝して遍し、最も懇切謹愼、遙拜望祈すべし。皇國の御民は、信不信に拘らず、既に已に現人神の臣子たる、無上至高の光榮に惠まれり。嗚呼、畏し、畏きかな哉。
 
 

大祓の日を控へて。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月30日(金)18時41分52秒
返信・引用 編集済
  ■今上天皇『玉音放送

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html


■昭和天皇御製

峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり



 九段塾ご投稿ご閲覽の皆樣には、本年も、大變お世話に相成りました。衷心より御禮申し上げます。

 大神意と考へざるを得ぬ東日本大震災の發生、これに惹起せられたる福島第一原子力發電所の爆發事故と、本年は未曾有の大災害が襲來し、就中、故郷喪失てふ方々も出來した、餘人には云々するも憚らねばならぬ、悲劇の一年でありました。大御心を遙かに恐察し奉るだに、たゞゝゞ恐れ多き極み、一に國民の反省懺悔と、一日も速かなる産土復興を祈祷申し上げます。

 顧みれば、我が塾頭・福井金城翁が逝去されたことを、小生が知つたのは、本年節分を越えた二月五日の事であり、名状すべからざる衝撃を受けた次第でありましたが、此の日、實を申せば、小生、悲しみに暮れてゐる刻は無かつたのであります。

 六日、肥後國熊本より、或る憂國の士が、何と、單獨自轉車にて帝都に上り、遊學すると云ふ。其の途上、備中國を過ぎるとて、急遽、其の應接に追はれ、何はともあれ、邂逅懇談、翌日、岡田則夫翁を紹介、敢へて悲歎を棚に上げざるを得なかつたのであります。此の若き友人には、其の應待に疎漏が無かつたかと、内心忸怩たるものあつて、洵に相濟まぬ事もあつたかと、反省しりきでありました。

 然し友を見送つて、ふつと我に返れば、襲つて來るものは、やはり塾頭不在てふ悲しみと落膽であつて、暫くは放心状態、やつと氣を取直して、九日、九段塾掲示板に、「招魂――泉水隆一監督」の一文を掲ぐるを得たのでありました。幸ひに九段塾ご參集の各位、或は見目和昭兄、河原博史兄、藤真知子女史の協力も仰ぎ得て、塾頭遺文『靖國神社の眞實』の編纂を畢へ、上梓が叶ひつゝあるは、小生の欣快とする所であります。

 塾頭の坐さぬ、此の九段塾は、本道に寂しいものがございますが、塾頭が遺志繼承の爲めにも、ご閲覽の皆樣、彌益のご戮力ご健筆を乞ひたいと存じます。今後とも、塾頭の九段塾に閑古鳥が啼きませぬやう、鋭意、ご發言ご投稿、幾重にも御願ひ申し上げる次第であります。

 本年最後の投稿に方つて、皆樣の道福修學を御祈り申し上げ、九段塾管理者として、ご挨拶とさせて戴きたう存じます。 九拜


權利てふ 民の曲物 擧げて皆な 還し奉れよ 我が大君に

言論の 自由を守れと くなたぶれ 號(おら)ぶ枉人 息吹き祓ひてむ

大君を 惱しまつる つかさ人 息吹き祓へと たゞ祈るなり


   眞金吹く吉備の中つ國都宇郡なる玄月書屋に於て、備中處士、懇祷、敬つて白す。
 
 

訃報、花うさぎ・安仲徹男さん‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月28日(水)20時57分55秒
返信・引用 編集済
   下記、「花時計」樣よりメール到來、謹んで轉送させて戴きます。

 「花うさぎ」さんこと、安仲徹男氏は、泉水隆一監督、即ち九段塾・塾頭遺文『靖國神社の眞實』を送るやうに仰つて、之を讀むのを樂しみにされてをられました。洵に驚愕、殘念の極みであります。未知の御方でありましたが、上梓の曉には、必ず送らせて戴きます。御嘉納たまはらむことを‥‥。

**********

 花時計を応援してくださっていた保守ブロガーの花うさぎさん(本名:安仲徹男氏)が、12月27日、18時17分に逝去されました。

 花うさぎさんには、何かあると、いつも助けてもらっていました。今は本当に悲しいです。

 花時計が拡散活動に力を入れている「凛として愛」を知るきっかけも、花うさぎさんのブログでした。いつも花うさぎさんは、「この映画は、NHKで放送すべきだ!」と仰っていました。数十回も見ていて、すべてセリフも言えるほどでした。

 「凛として愛」だけでなく、花うさぎさんは、本当に沢山の情報を、ブログで多くの人に拡散していました。花うさぎさんのブログは、多くの保守活動をしている方にとって、情報源だったと思います。花うさぎさん、本当にありがとうございました。

 葬儀・告別式が、30日・31日に行われます。

お通夜:12月30日 午後6時~
告別式:12月31日 午前11時00分~
式 場:コムウェルホール高円寺
住 所:東京都杉並区高円寺南2-2-2
    丸ノ内線 東高円寺駅2番出口徒歩5分

 花うさぎさんが大好きだった、映画「凛として愛」の泉水監督の葬儀・告別式が行われた同じ場所です。きっと泉水監督と、「凛として愛」について、また今の保守活動についてなど語り合って、もりあがっておられるのではないかと思います。

 花うさぎさんのご冥福を、心よりお祈りいたします。花うさぎさん、今までありがとうございました。
  ↓↓↓↓↓
http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/archives/3217700.html



【花うさぎ「世界は腹黒いⅡ」】
  ↓↓↓↓↓
http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/
 
 

幽冥の照覽、豈に恐れざる可けんや哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月26日(月)22時22分30秒
返信・引用 編集済
   本日早朝、報道に依れば、靖國神社神門に放火があつた由。魑魅魍魎の類の所爲ならんか。

 古人の曰く、「人、陽善を爲せば、人、自ら之に報い、人、陰善を爲せば、神仙、之に報ゆ。人、陽惡を爲せば、人、之を治め、人、陰惡を爲せば、神仙、之を治む。故に天、人を欺かず、之を示すに影を以てす。地、人を欺かず、之を示すに響を以てす。善を爲すも、惡を爲すも、天、皆な之を鑒む矣。善惡の報は、影の形に隨ふが如く、物の響に應ずるが如し。是れ皆な、天地自然の法則なり。信・不信に關せず、誰人なりと雖も、斯の法則より免るゝことを得ず。幽冥の照覽、豈に恐れざる可けんや哉」と。

 神驗著明、幸ひにして大事に至らざると雖も、神職・奉贊氏子、諸共に、戒愼用心なかる可からざるなり矣。恐懼、畏し。



■九段塾塾頭・福井金城翁の曰く、

「靖國神社神門は、葦津耕次郎・珍彦父子が、滿洲事變大成功で沸き立つ全國民の後押しを受けて、第一徴兵保險會社が奉納した楼門、即ち靖國神社神門を作り上げたのである。建築相談役が葦津耕次郎、工事請負は葦津珍彦が代表を務める合資會社社寺工務所である。昭和八年、神門と變更、九年に竣成祭。奉納許可したのが、當時陸軍省の牛島滿副官。竣成祭には、事變で名を擧げた林銑十郎陸軍大臣を始め、錚々たる人々が列席。宮司は賀茂百樹殿。此の神門には、日本最大の大きさを誇る菊花の大紋章が輝いてゐる。「天皇の神社」、「天皇の神門」と謂はれる所以である。

 神門は、靖國神社の正門であり、内陣への大王道である。その眞ん中(正中)は、國民は歩くことが出來ない。天皇の指し示す邊地・外地に赴き、皇國の守護し奉らんが爲めに、戰場で伏した將官・將兵の凱旋である。迎へる皇族・元帥・大將・中將・武官、悉く頭を埀れる中を凱旋する、聲なき英靈之門、それが靖國神社神門である。現在に於いても、例祭日には、天皇陛下のお使ひである敕使が、此の神門を通過される。神門は、殉國の英靈が凱旋する門である。「屍を山野に晒すは、固より軍人の覺悟なり、遺骨の還らざることあるも、心に留めおけ」と、妻子に、家族に言ひ殘し、出征した兵士・將官が、戰野に斃れ、手足をもがれ、頭を吹き飛ばされ、腹を抉られ、五臟六腑を撒き散らされし英靈が招魂されて、漆黒の深夜に、靖國神社に祭神として合祀される時、正に此の神門を御羽車に乘られて歸還・凱旋する門、十六菊花天覽の下、聖域入る神門である。その神門の前には、「下乘」と云ふ制札があり、門を濳つて、更に奧の拜殿の手前には、「皇族下乘」とある」と。
 
 

荒雄の大神。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月25日(日)22時08分44秒
返信・引用 編集済
   蓮田善明中尉の歌は、清烈にして、何より平明、必ず聲を出して詠むべかりける。詠めば、四邊も祓はれて、こゝろ清まり、いよゝ研ぎ澄む心地して、樂しきかも、嬉しきかも。

 嗚呼、蓮田中尉、昭和二十年八月十九日、自決。享年四十二。

 大祓ひの日、夫れ近し矣。



【蓮田善明陸軍中尉の哥】

●『おらびうた』(古川叢書『陣中日記・をらびうた』昭和五十一年七月・古川書房刊)から

――門出に――昭和十八年十月下つ方
――敕題「海上日出」を
大海原 豐榮のぼる 朝日影 天足らしたり 國足らしたり

――皇居を拜してのかへるさ
妻よ この大前に敷かれたる
さゞれ石のうるはしからずや
汝が手に一にぎり
拾ひて
われと分たん
また稚子(わくご)らにも分てよ」
さゞれ石
あゝ大前のさゞれ石
手にみれば
うすあをくまたしろく
赤きもまじれり
六粒七つぶ
つぶらかに しづけし」
愛ぐしとて 子ろはあちこち
ひろひまはり
いくさ路にいそげる父を忘れたり
ああ そをかへりみで
征かむとてきほへる父ぞ」
妻よ
この大前に
今ぞ別れ行かな



――熱田にて
神劍(みつるぎ)乃 座します處 夕闇に 著(しる)くし知りて 拜みまつる



歌の祖(おや)と とほときかみは 八股大蛇 はふりたまひし 荒雄(すさのを)の神
十拳劍 かすかに闕けて くすし劍 大蛇の尾より とりいでましつ



歌の祖と いつきまつれる 建速の 荒雄神は 神祖(ろぎ) いざなぎ神の 日向の 橘の小門の あはぎ原に 醜まがの 汚穢なげうて 大御身の みそぎして はらひたまへる いやはてに 左の御目を あらひたまへば さやけく 生れ出ましける 高光る 日の大神の 弟御子と 祖神の 御鼻かみける その機し 生れたまへば 御子ながら いすゝみまして 汝は 海をしらせと 言寄さし たまへるものを きかずして 八拳鬚 心前に 至れるまでに 啼きいさち をめきたまへば 青山は 枯山なし 河海も 啼き乾したまひ わざはひは おこりこぞれば いぶかしみ その泣く故を 何どとかも たづねませるに 吾は妣の こひしく泣くと いらへます みこときくより 火照りて 怒りきためて 汝はここにな住みと 神やらひ やらひたまへり ここをもて 日の大神に 申し告げ 去ぬべく思ひて 日の宮に まゐりたまへば 山川も 鳴りとよもし 國土も 悉々動(ゆ)すり ゆゆしきを うたがひまして 姉神の 問ひたまへば うけひして あかき心を あらはしし その勝さびに さる性の 己れとめ得ず あしきわざ きたなきことの しきまして つひのしわざと ぶち駒を 逆剥ぎ剥ぎ 神御衣の 機屋の屋ゆ 墮したまへる そこを怖ぢ 日の大神も 岩戸を かたくさしこめ 天地に 常闇往くを 八百萬の 神集ひまし 八心 思兼神の 神はかり かしこくまして まつりもの さはにととのへ 太のりと 太くのらしめ 常世の 長鳴鳥 集へ鳴かしめ 天宇受賣 神あそびして 高天原 ゑらぎゆすれば 大神の 心とかして ややのぞき 見ます岩戸を 手力の 男神ひきあけ 御手とりて いだしまつるに おのづから 天地照り明り まがつびも い隱るなべに 須佐之男ノ 神をとらへて 鬚爪また 千座の置戸 置かしめて 逐ひたまふを その途に 大食津比賣の たてまつる 御食汚(をしけが)しと 御くびを きりはねませる 建速の すすしきわざは やみがてに 怒りましつつ 出雲の 肥の川上に 天降(あもり)つき 川上ゆ 箸の流るる 見したまひ 人あるべしと まぎ往まし 會ひたまへば 乙女の 一人を中に 老人の 手とりもち 頭うだきて 泣き居るに 我こそは 高天原に 天照す 大神の弟ぞ いましらが 斯く泣く故を ききたまひ はかりたまはん 語れよと 促しますに 僕(あれ)らこそ 大山津見之 神の裔 足名椎 手名椎神 八乙女の もとはありしを 高志の 八股大蛇 年毎に 來ては食ひ 今は早 一人殘れる 末つ子の 櫛名田比賣 此の子又 とりに來べきを 手力の 弱き翁嫗が せんすべも なくて泣き居つ そのたけき 八股大蛇は 八頭の 八尾のけだもの 頭には 青苔生ひ 背毎に 檜杉生ひ しが目は 赤かゞちなし 腹は 常に血あえて 八尾をこえ 八豁をわたり はひもこふ 畏き神と 申すこと つぶさにきゝて 然あらば その末つ比賣 わが妻と かしこみまつれ また己れ はからふ樣に なしてよと 教へたまひて その比賣を 五百箇(ゆつ)つま櫛に とりなして みづらにさし 老翁らに 教へたまひて 八さずき 門に設け 門毎に 酒槽据ゑ 槽毎に 酒滿ておき 待つときに 大蛇きたりて 八鹽折の そのうま酒に 八つの首 ともにさし入れ 現なく 醉ひ伏す時に 切りはふり はふりませるに 肥の川も 血變(な)して流れ その腹 割き見給へば み劍の 刃先き少しく かけしかば あやしみまして さきたまふ 大蛇の尾より つむがりの 靈(くす)しき劍 一振ぞ 顯はれければ 是は是 天つ御神の しりたまふ 物とのらして 天照 御神のもとに かしこみて さゝげまつれば あやに 心清(さや)けび をとめと 血を覓ぎ 出雲の 須賀に到り 宮立つと 見さけたまへば 四方より 雲立ちのぼり つまごみと 八重垣なせば あそばしし 大御歌はも 神代より 歌のはじめと かみごとに 傳へ來れる みやびの 極みもしらず やまとの 歌の祖は 建速須佐之男神と まなびきたれる 古ことの こころたづねて 習ひて行かな

――反歌
みやびをば かくこそあれな 荒雄の 神ぞくすしく あらはしませる



やすみしし わが大君の 明らけく しらさん御世と 安らけく をさまる御世と みめぐみの のどけき波は 八汐路の きはみなきまで しき波の しげくませるを よこしまの えみしがともが 島とある 島のことゞゝ 國とある 國のことゞゝ むらくもに 蔽ひかくして しがほしき 心のまにま むさぼりは いよいよまして おごりたる さがのみたけり あしきわざ うたゝやまねば いはまくも ゆゆしきかも 大御心 いたみたまひて ねもごろに をしへたまへど やむ時の つひにあらねば 神風の いぶきはらへと 大みこと のらしたまへる かしこさの 泪しながる 今日の日ごとに

――反歌
百なひと 人はいふとも くなたぶれ 血原なすまで うちつくしてむ



海行かば わたつみの神 陸(くが)行かば 國つ神たち 明らけき こころあらはし あとさきに つかへまつらふ あたし國は かくあらめや 皇神の 國のみ斯くと 尊さの 身にしあまりて み民の こころ振起し みいくさに 海原わたる 朝ごとに みかどのあたり はるけくも をろがみまつり 泪しながる

――反歌
すめがみの 大みいきほひ かゞぶれる われとかしこみ 泪し流る



劍太刀 身にとりはきて みいくさの いよゝさかれと いでたつ今日ぞ
牙(き)かみ たけぶほかなしと叫び おらびたる 佐久良雄うしが うたぞわがうた
朝ごとに みやこのかたを をろがみて 大御諭を 誦むがたぬしさ
夕ごとに さかり行けども みやこべは をろがむごとに かしこさまさる
わが軍(いくさ) 千人(ちたり)死せば えみしらを よろづはきりて 道連れにせむ
えみしらが 碧き目玉の 白むまで わがつるぎ刃を 耀かしてむ
朝夕に 神ほぎまうす いやはてに 妻子(めこ)らのことも ねぎまうすなり
あたらしき 言を用ゐず ひたすらに 古言のみを しのび歌よめ
あたらしき 言な競ひそ ふることの ゆるきうつりに 皇國を知れ
敷島の やまとのうたは 皇(すめろぎ)の 大御すがたを よむにぞありける
皇は 神にしませば 天に足り 國に足らして みやびせすかも
人ごころ あらはすよりも 天足らし 國足らします 神をよまなむ
大君は 北にいますと つはものに をしへてをがむ 今日の船路は
大君を 思ひまつれば 大海の たけび死なまし 生きを思はず
皇の 神のみことは この勝を いかさまばかり めできかすらむ
大君の きこしめすらむ この捷を 思へばゆゆし 泪しながる
大君は 神にしませば 疾風(ち)なし あたをはらへと うべのらしたり
この島を 凡にな踏みそ もののふの つるぎにかけて ことむけはせし
天つ柱 國つ柱と 級津彦 龍田ノ神の 島はかためし
精矛 千足の國の もののふが たけきいさほ(ママ。を)は 萬代までに
大君の 先驅(さき)路つかへて たまきはる いのちさゝげむ 太刀のさやけく
枯野の 速ぶねもがな やすみしし わが大君に みつぎまつらむ
みいくさの あとはしるけし 萬代に たけきいさをを 語りつぐがね
みいくさの あとはさやけし 萬代に 心しふらば かたりつぐべく
大君の さづけたまへる 軍(いくさ)旗 みちびきまつる まけのかしこさ
大君の みことかしこみ たけびつつ すゝむいくさに いとまあらめや



――昭和十六年十二月七日、曉明に、靖國神社に詣づ。嚴寒霜厚く、氣凍る。すでに神拜者、また少國民の清掃に奉仕するもの多し。その翌朝、交戰に入るの報道をうけ、感慨、殊に深甚なりし。
皇は 神にしませば 言さへぐ 夷向くべく 大のらしたり
みいくさの たけくあれと 祈るなり 神ののらしし みことのまにま



――宣戰の大詔を奉讀して兵に示す
いくさらは 物いふ言(こと)は ことごとく 雄たけぶごとく を(ママ。お)らび物いへ



――天皇、大神宮御親拜の日なり。晨旦、口漱ぎ、例の如く遙拜。體操・木刀振り、みそぎす。空しづかにはれわたり、百鳥の聲にぎはひ、のどかなり。
かけまくも あやに尊く ゆゆしきことぞ 天照 日ノ大神の 大御前 清めたまひて やすみしし 吾大君の すゝみたまへる 神さびて つげますことの 神からと ねぎますことの 言はむすべ せんすべしらに ゆゆしく 畏きろかも

――反歌
大君は 神繼ぎませば 御民は 身をたなしらず いはひ仕へつ



――豫てよめる迎年のうた
あたらしき 年のはじめに 八汐路の 汐にかづきて みそぎせむ我



●『陣中詩集』(同上)から


○倭寇賦

彼らは拗(す)ねたる大和の民なりき
彼らは涯り無き海を渡り
大いなる陸を望みて
情(こゝろ)寂びしく遠征せる民なりき
彼らは「八幡大菩薩」の幡を押し立て
言語(ことは)通ぜぬ國々を掠めたりき
彼らは心、物の慾に拘泥(かゝづら)はざれば
寶を供へて賞(め)で迎ふるものを愛(いつく)しみ
財を惜しみて抗ふものを腹立ちて伐ちたりき
彼ら、摩訶不思議なる群どもはかくて大陸を
南に北に掠め廻り
或は昔佛の住みたまへる花鳥異(あや)しき天竺を襲ひ
或は長江を遡りて老仙天がける崑崙を探りしかば
大明國驚き騒ぎて防ぎ肯(あ)へず
日本將軍に請ひて討滅せんと欲し
不逞なる虚名を奉り
貢物山と積みたりしも
遂に將軍之を鎭め得しことを聞かず
彼らはいつしか己れと水に死に行きき
唯ひとり山田長政なる者
暹羅(シヤム)國に王者の勢を恣(ほしい)ままにし
毒を盛られて最期を遂げしと
青史にその遠征を惜しまれぬ


○倭建命の御歌に追和し奉る
――にひばり 筑波をすぎて いく夜か寢つる(命)
――かゞなべて 夜には九夜 日には十日を(火燒翁)
――古事記――

たたかひの 幾日(いくか)すゝみて
幾山を 幾夜か寢(い)ねし
日々(かゞ)竝べて 八日か來つる
今日未明(まだき) また進み往く
群山(むろやま)の 群嶺(むろみね)の上(へ)に
いと高き 山見えそめぬ
 
 

十二月二十五日は大正天皇例祭

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2011年12月24日(土)22時18分41秒
返信・引用 編集済
  明日、十二月二十五日は大正天皇例祭

皇靈殿で毎年小祭、式年大祭が斎行され、また、多摩陵にも勅使が参向させられ、奉幣の儀がある。

遥拜詞

 掛けまくも畏き
 多摩陵(たまのみさゝぎ)の大前(おほまへ)を慎み敬(うやま)ひ遥(はる)かに
 拜(をろが)み奉(まつ)らくと白(まを)す
 

Re: 玉の御声に泪し流る

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月23日(金)22時49分19秒
返信・引用
  > No.1462[元記事へ]

○ 戀 闕

鷄が鳴く 東の便り 聞くからに 深く思へば 泪し流る

大君の 遙か彼方に 坐しますと 思へばすゞろに 泪し流る

すべらぎの 大き宮居を をろがむも たゞものゝふは 泪おちけり
 
 

玉の御声に泪し流る

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2011年12月23日(金)20時30分46秒
返信・引用 編集済
   毎年の例のまにまに二重橋を渡り、秘詞を密奏して皇室の御安泰と彌栄を祈念し奉る。

 同憂の語るに、出御と同時に宮殿上空の雲が凄まじき速度で散じ、この奇瑞に驚く人、
 幾人か声をあげたと。

 冷たき強風も宮城参賀の間は全く吹きませんでした。
 

(無題)

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年12月23日(金)01時10分20秒
返信・引用 編集済
     おほけなくも朝拜仕ります。  

朝拜詞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月22日(木)22時04分36秒
返信・引用 編集済
   明日は、天長の佳節、國旗を高く掲げて、祝ひ奉らむ、たゞひたすらに祈み奉らむ。

あまつひつきの みさかりは あめつちと きはみなからんものそ



●神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥

草も木も 我が大君の ものなりと ふかくおもへる 人もあらなむ

朝夕に 禮(ゐや)を申さむ 何事も 神と君との 御蔭々々と

飯(いひ)食ふと 箸をとるにも 吾が君の 大御惠みと なみだし流る



●蓮田善明中尉『朝拜詞』(『おらびうた』――始め「をらびうた」ちふを、自ら改めたりと云ふ――所收)

神ながら 窮みなき世と すめらへは いやさかえます 大君は 高しらします ふりさきて 仰ぎまつり うなねつき をがみまつれば 泪しながる

いはまくも あやにとほとく かけまくは かしこかれども 天照らし 照らしいまし みいつに い吹きいます 神風の 伊勢の大神 朝ごとに 拜みまつれば 夕ごとに ねぎまつれば 泪しながる

祖の子の 子の孫(うみのこ)の いやつぎゝゞ 父母兄姉(ちゝはゝあにね) 己れ妻子(めこ)ども 大君の めぐみ思へば 泪しながる

うまし汁(またハ肴、その時により) うまし飯にそへ たかだかに たぶる身思へば 天つ神 國つ御神の みたまのふゆ いはむすべしらに 泪しながる
 
 

皇神の道を以て、宇内をして皇化に浴せしめむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月17日(土)22時23分24秒
返信・引用 編集済
  ■本居宣長大人『馭戎慨言』に曰く、

天皇を、かしこくも倭王などとおとし申し奉れるは、いはんかたもなき禮無きなれば、其の書(隋國王の書)、さらゝゝに受入れ玉ふべきにあらず、ほど知らぬ申しざまぞと、きびしくとがめて、使をもすみやかに追ひかへして、かたく御むつびを絶ち給ふべきわざなり」と。



 小生の愛讀書の中でも、平泉澄博士および其の門下の方々は暫く措くとして、特に忘れ難いものは、淺野晃翁『楠木正成』と、蓮田善明中尉『本居宣長』である。何度、讀み返したか判らぬが、深き感銘を今も堅持し愛しみて、些かも色褪せることが無い。これらの書を見なければ、小生も、今少し現代の風潮に棹さして、要領よく世を渡ることが出來たかも知れぬ。公務員の一族の中に生れながら、昂然と曰く、乙酉以來の政府に仕へず、と。然し我が人生を決定づける書に巡り合つてしまつたのだから、愚癡を申しても仕方が無い。恩頼道福に感謝して、斯の道、即ち皇大御國の道を進まねばならぬ。天壤無窮の大神敕のしるべする所、八紘爲宇の大御旗は、絶えて倒さるべきでは無く、皇神ご照覽の下、別天津神の大經綸として宿命づけられてゐる所、何人も之より逃れること能はぬのである矣。

 なほ蓮田善明中尉の最晩年は、本居宣長大人の女々しき所あるを超えて、賀茂眞淵大人の丈夫振りに、斷々乎として進んだやうである(月刊誌『浪漫』最終號――蓮田善明特集――かつて友に貸して歸らず、確認不能なるは遺憾なるべし)。



●蓮田善明陸軍中尉『本居宣長』(日本思想家選集・昭和十八年四月・新潮社刊)に曰く、

「安永六年十二月(四十八歳)、宣長は『馭戎慨言』(からをさめのうれたみごと)四卷を書き上げた。これは古代から徳川初期に至る對外折衝史といふべきものであるが、皇國を本位とする強烈な自覺の下に、つぶさに批判を加へ、卑屈な尊外的弊風を、豁然打破した空前の著述である。この書は、在京時代の醫術の師・典醫武川幸順に送られ、幸順の斡旋により、攝政九條尚實の一覽を得、更に光格天皇の叡覽を忝うした。‥‥宣長が、眞に卓然椽大の筆を揮つて、和漢の史料を驅使して、皇國の尊嚴と「馭戎」の正意を、史實の上に論じたものとして、『馭戎慨言』は、その白眉たるものである。なほ、かういふ時、一般に尊内外卑といふ言葉が昔から使はれてきてゐるが、私は、嚴密にはその言葉がもつ、未だ相對主義的な敵本的國粹論の匂ひを好まない。宣長はそれ以上に出て、眞に皇國が世界の本位たる、眞の國粹の由縁を以て立言してゐるのであつて、單に尊内といふよりも、率直に國粹とか、本位とかといつた方が當る。以下、國粹といふ文字を用ひる。

 「馭戎」とは、所謂漢戎・唐戎を馭めならすといふ意である。こゝに唯「排撃」などといふ文字を用ひてゐないのに、注意を要する。單なる敵愾的な國粹論でないのである。勿論迎合などではない。皇國の道を以て、まことは道なき彼の國を馭めて、亂りがはしい國ぶりを我にならはせようとの心と見られる。そして、さういふ見識のある國としての皇國論となつてゐるものである。これを『古事記』・『日本紀』等の古言を以ていへば、「言向和平」(ことむけやはし)と言つてもいゝ。わが道を慕つて「まつらふ」ものは之をならし、未だ暴ぶるものは討つて鎭め、ことごとく皇神の道に、率直に浴化せしめんとするのである。そしてそこに皇國の眞姿を浮彫にしてみせたのである。

 「天つ日の大御神の御子の尊の、所知し食す此の大御國に、外つ國もろゝゝのまつろひ參る事の始めをたづぬれば」といふのが、『馭戎慨言』の書出しである。こゝには現代風の國際主義的外交論などは露ほどもない。外論といふよりも、今日敢然「八紘爲宇」の大詔をかゝげて發足した國風に於て始めてあらはれた、國粹治外論ともいふべきものである。即ち言ひかへれば「馭戎」である。これこそ歴史の淵源に遡り、歴史の跡に尋ねて、つぶさに批正の論を加へ、神國の治外馭戎の大本の思想を、明亮に打ちたてたものとして、正しく今日の先覺である。否、或は今日、尚ほ不徹底なる或る外交思想を百尺竿頭、更に一歩を進めしめ、眞に雄渾無礙の皇國の意氣と使命とを覺知せしめるもの、此の書に出づるものはない。而も單に文治的思想ではなく、宣長が本書中最大の讚辭を呈してゐる豐臣秀吉をさへも凌ぐ武略論さへ示されてゐる。

 しかし本書は、唯だ治外の論述ではない。この雄渾な馭戎論は、おのづから國粹治外論として、國内に於ける主客顛倒せる漢意(からごころ)を徹底的に粉碎したのである。當世當面の漢意の論者を論駁するといふやうなことは、こゝではもはや餘技にしか見えない程である。謂はゞ歴史に於ける漢意を討つたのである。その書の趣旨は、概ね豐前國中津の八幡社司・渡邊上野介(藤原重名)の記した、次の序文に明かである。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/17

 又、尾張の鈴木朖の序にも、「中寓に臨みて、百戎を馭すとは、天皇之事也。本居先生、布衣の身を以て、慨きて之を言へり」とある。‥‥

 宣長は、‥‥日本魂に出でず、或は却つて日本魂を知らずして閉塞をはかる戎心を討ちまつろはせようとし、未だその明かならざるを筆をつくして慨み、正大の評論をうち立てようとしたのが、『馭戎慨言』であつた。これは他の文化論的な著述と趣を異にするため、從來あまり世の宣長論者が取り上げないものであるが、皇國の意氣をあらはに直截に述べた評論として、少くとも宣長の心の一端を示すものとして注意されねばならない。又た幕末の尊皇攘夷論の進路を豫示したものとしては、必ずしも私は此のあらはな評論をのみ選ぶものではないが、もし人が尊皇攘夷の心を探りたければ、この書に就くことを、先づは勸めなければならぬ。更に又今日の聖戰の中にあつて、國の尊嚴と決定的勝利の氣魄と心構へとを知り、何がそれをやぶるかの原因を見んとする者も、此の書を手にすべきである」と。



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嗚呼、清水澄博士。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月16日(金)22時28分29秒
返信・引用 編集済
   遠き熊本なる友人のブログに、「大東亞戰爭開戰から七十年目の今月八日、石川縣護國神社において、金澤大學四年、杉田智(さとし)さんが割腹自決をされました。自決された場所は、大日本帝國憲法に殉死を遂げられた清水澄博士の石碑の前でした」と。小生も衝撃を受けること、甚だ大きいものがあります。謹んで紹介させて戴くと共に、舊稿を掲げて、清水博士をお偲び申し上げたい。即ち是れ、杉田青年の志を顯す一端ともならうかと存じます。
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■清水澄博士の哥

「紀元二千六百年を迎へ、和氣清麻呂公を偲び奉りて」
國の爲 荊(いばら)からたち ふみそけて 正しき道を 歩みつる君

「雨」(『心の花』昭和二十二年七月號)
しめやかに ふる春雨の 音寒み ねざめの床に 國のゆくて思ふ

「秋季皇靈祭の日」(『心の花』昭和二十二年十二月號――佐佐木信綱博士「清水澄博士」に所收)
西のそら 雲きれそめて 夕日さし 筑波の山は くれなゐに見ゆ



■帝都港區青山墓地「清水澄博士墓碑」に曰く、

「清水澄は、明治元年八月十二日、加州金澤に生れ、昭和二十二年九月二十五日、八十歳をもつて薨ず。其の生涯は、公職を以て終始し、内務省・學習院・行政裁判所及び樞密院を通じ、在職五十有三年に及べり。而して官は、行政裁判所長官・樞密院副議長を經て、樞密院議長に至り、帝國藝術院長を兼ねたり。位は、正二位に進み、勳一等旭日大綬章を授けらる。正に人臣を極むるにちかし。然れどもその本領とせる所は、前職に在らずして、一學者たるに在り。その世に重んぜられたるゆゑんは、手腕力量に在らずして、人格學識に在りあり。

 明治三十一年、歐洲に遊びて、國法學及び行政學を專攻し、留ること三年、歸朝するや、その代表的著作たる『憲法篇』を公にして、識者の認むる所となり、明治三十八年、法學博士の學位を授けられ、特に憲法學をもつて、世に著はるゝに至る。すなはち爾後、本職の外、東京帝國大學及び各大學に講ずること多年、また高等文官試驗委員を嘱せららるゝこと三十餘年、さらに大正十五年、帝國大學學士院に列せられたり。然れどもその本懷とし、光榮としたるは、至尊に對する進講の任にして、大正四年以降、大正天皇に、大正九年以降、今上天皇(昭和天皇)に、常時進講すること十餘年に及び、帝王の師として、深く自らを謹しめり。けだしその生涯は、君國に對する忠誠の念をもつて終始し、抱く所、私心なかりしは、人の認むる所なり。

 新憲法實施の年の秋、月夜、伊豆熱海の波濤に身を投じ、遺すに『自決の辭』を以てす。その趣旨とする所は、日本國及び天皇制の將來につき、憂慮すべきものあるも、微力匡救、道無きをもつて、楚の名臣・屈原に傚ひて水死し、幽界より我が國體を護持し、天皇制の永續と、今上天皇の在位とを祈願せんといふに在り。もつてその志を知るに足れり。

 その私生活においては、身を持すること嚴にして、自ら愉樂を求むることすくなかりしが、明治三十一年、大審院長・貴族院議員・三好退藏長女辰子と婚して、三男子をあげ、その生を終ふるまで五十年、伉麗(夫婦)相携ふるを得たるは、生涯の幸たり。先人、去つて既に四ケ月、温顔、今なほ髣髴として、眼前にあるがごとし。

 昭和二十三年一月二十五日、嗣子・清水虎雄、誌す。

佐佐木信綱・千葉胤明・下村宏各翁の追悼歌四首」と。



●平泉澄博士『續々・山河あり』(昭和三十四年九月。三十六年六月・立花書房刊。平成十七年三月・錦正社復刊『山河あり』に所收)に曰く、

「無條件降伏となれば、我が方は手をつかねて俎上にのぼり、眼をつぶつて彼の料理を待たねばならぬ。その時に當つて、生殺與奪の權は彼の手にあり、我が方としては一言の抗議もゆるされない。是に於いて、降伏は萬やむを得ないとしても、國體の根本だけは動かさないといふ保證、最小限度に於いて是れだけは取得して置かなければならぬ。これが當時、最も純粹に君國の前途を憂ふる人々の切なる願であつた。一方、事態は急迫して、一刻一時の猶豫も許されぬ。最小限度の保證を要求するすら、既に手遲れである。寧ろ直ちに無條件を以て降伏し、あとの事は擧げて先方の裁量にゆだねてよい。かやうに考へる人々があつて、而して廟議はそれを採用し、之に決定した。之を採用し、之を決定するに當つて、ひとり事態の急迫して如何ともすべからざるより判斷したのみでなく、そのかげには、先方の心中を推測して、その善意好意を期待し信頼する氣持が、暗々のうちに存してゐたのである。之に反して、國體の前途を憂へて、最小限度の保證を求めようとした人々は、漠然として彼れの善意好意を期待する事は危險であるとした。されば今廟議、無條件降伏に決するや、是等の人々は前途が眞暗になつた心地で、悲しみの極まるところ、その心狂せざるを得なかつた。近衞師團の悲劇は、是に於いて起つたのである。その中心人物の一人、畑中少佐の如きは、純情にして清廉、最も學を好み道を重んじた人であつて、その所爲は暴擧といふの外は無いが、事は君國の將來に對する深刻なる憂慮より發したのであつた。

 暴擧は成らずして、やがて畑中少佐等の自決となり、阿南陸軍大臣までが、陸軍不統一の責をとつて、潔く自刃して果てられた。流石に阿南將軍に對しては、何人も此の明朗にして、心中一點の塵を留めざる純忠の名將に、非難の聲を投げる者は無かつた。たゞ畑中少佐等にむかつては、あらゆる罵詈が、雨霰と降りそゝいだ。しかも無條件降伏の後に、既に陸軍を解散し、海軍を失ひ、丸腰となつた無抵抗の身の上に、漸次迫り來つたものは、決して期待せられたる如き善意好情では無くして、冷酷苛急の要求であつた。前には戰後處理のよき相談相手なるかの如く、手を握つて應待した近衞公を、巣鴨の獄に拘禁して戰爭裁判にかけようとしたのは、かくの如き裏切りの一例であり、適例であつた。近衞公が、死を以て之に抗議せられたのは當然であり、見事であるといはねばならぬ。最も重大なるは、憲法の問題である。近衞公は、はやくより此の問題を憂慮し、日本國自ら改正に着手しようとせられた。しかるに占領軍司令部は、おのれの手に於いて全く別種の憲法を作製し、之をわが國の政府と議會とにおしつけて、わが國獨自の發案として決定發表するやうに強制した。既に一兵を有せざる無防備の國家に、此の強制を拒否する力があらう筈はない。いはゆる日本國憲法は、かくの如くにして成立し、昭和二十二年五月三日、施行せらるゝに至つた。

 樞密院議長・法學博士清水澄(とほる)、もとゝゝ温和寛厚の人であつた上に、齡を重ねて既に八十歳であつたが、新憲法の無理強ひを見、またわが國の高官といひ、議員といひ、學者といひ、唯々諾々として之を承順するを見て、慨然として死を決した。自決の辭にいふ、

新日本憲法の發布に先だち、私擬憲法案を公表したる團體及び個人ありたり。其の中には、共和制を採用することを希望するものあり、或は戰爭責任者として、今上陛下の退位を主唱する人あり。我が國の將來を考へ、憂慮の至りに堪へず、併し小生微力にして、之が對策なし。

 依て自決し、幽界より我が國體を護持し、今上陛下の御在位を祈願せんと欲す。之れ小生の自決する所以なり。而して自決の方法として水死を擇びたるは、楚の名臣・屈原に倣ひたるなり。

  元樞密院議長・法學博士・八十翁、清水澄。
 昭和二十二年五月、新憲法實施の日、認む。


 博士は、念を入れて、遺書を數通したゝめられた。文は長短多少のちがひはあるが、趣旨は同一であるから、今はその一をこゝにかかげたのである。其の文末に記されたやうに、これは二十二年五月三日、即ち浮薄の徒、乃至心無き人々が、旗を立てゝ祝賀する其の日に、執筆せられたものである。博士の志は、既に決定した。あと殘るは、その日時と場所の選定である。かくて其の年九月二十五日、熱海の魚見崎より身を投じて、忠君憂國の至情を、碧海の波濤にゆだねられたのであつた。

 たまゝゝ老病を熱海に養つて居られた徳富蘇峰翁(時に八十五歳)は、此の報を耳にして愕然として驚き、一書を裁して、博士の靈前へ供へられた。それはいはゞ博士の傳の贊に當てゝもよいものである‥‥。

謹啓、卒爾ながら恭しく一書を裁し、清水博士先生の御靈前に、弔意を表し奉り候ふ。近年は老生も退隱、殆んど人事と沒交渉にて、その爲め先生の音容に接する機會もなかりしが、先生の未だ大學に生れたる此(ころ)より、相知の間柄に之れ有り。平生、先生の穩健篤厚の人格には、敬服罷り在るものに候ふ。然るに九月廿六日朝、偶然の用件にて、人を附近の若竹漁場に遣し候ふ處、意外の事を承り、扨は先生、審思熟慮の上、御決心相ひ成り候ふ事と拜察、竊かに悲痛と共に嘆讚いたし候ふ。やがて御遺書の大略にて、いよゝゝ老生推察の誤らざることを認め、今更ながら老生が先生を見ることの、尚ほ足らざるものあることを、慚惶いたし申し候ふ。

 老生の鄙見にては、今囘の御最期は、實に臣道の實踐、學徒の志趣、殘るところなく、剩すところなく、御遂げ成り、寔に々ゝ見事なる、申し分なき御最期と感嘆いたし申し候ふ。老生は草莽の野人なれども、皇國の國體の擁護者として、天皇制の堅持者としては、何人にも讓らざる抱負これあり候ふ處、先生の今囘の御所決に對しては、實に中心より、且つ感激し、且つ慚怍し候ふ儀に御座候ふ。就ては直ちに拜趨、御靈前に燒香致すべきの處、老病にて進退自由ならず、餘儀無く、略式ながら楮上を以て徴志を披瀝申し上げ候ふ。若し拙簡を御靈前に御供へ成下され候はゞ、老生の本懷、之に過ぎず候ふ。


 まことに是れ知己の言といふべきである。同時に、恐らくは其の生前には、博士と特別の親交は無かつたであらうが、博士入水の報を聞いて、博士の爲に之を悲しむと共に、皇國の道義の爲に、深く之を喜んで、數篇の詩を作られた人がある。長崎縣針尾島の寒村に、災後の老體を寄せられたる岡彪邨翁、その人である。翁は當時八十四歳、老衰といひ、貧窮といひ、まことに痛ましい限りであつたが、報を聞いて慨然としてよまれた詩は、次の通りであつた。

一、神代維降、大典新たなり。天皇明徳、賢臣を任ず。前人乃木、眞に其の友。忼慨一瞑、至仁を求む。
(清水博士は、乃木靜堂大將の知遇を得たり。帝都赤坂の乃木神社にて、清水澄博士の慰靈祭、今日なほ行はれてをる由――『八十翁清水澄投身の悲懷――大日本帝國憲法と運命を共に』――不二教職員連絡會・淺野晃翁編『殉國の教育者――三島精神の先驅』昭和四十六年三月・日本教文社刊に所收)。

二、平日眞心、五倫を重んず。三朝に歴任して、臣爲るを致す。典章今日、人の守る無し。東海仁を求めて、那んぞ仁を得む。

三、當今左道、豈に訝るを須(もち)ひむ。君請ふ論ずる休めよ、擧世然りと。周武暴兮なり、權政を擅にす。嗚呼箕子は、朝鮮に往けり。

四、典章の泰斗、研精を見る。人は説く、皇州第一の賢。中心を竭盡して、今ま已んぬ矣。他日誰か立てむ、藎臣傳。


 岡翁は、それより四箇月の後に亡くなられたのであるが、自ら作られた其の墓の銘は、その最後を、「嗚呼、臣民之職責、死後も皇國を護らむ」といふ、壯烈なる宣言を以て結ばれた。清水博士の自決の辭と、文字は異なるが、趣意に於いて同一轍といはねばならぬ。即ち是れ共に藎臣傳中の人、長く歴史の光輝であり、道義の指標といふべきである」と。



○虎文齋彪邨岡次郎直養翁「平泉澄博士宛て書状」(昭和二十二年三月五日)に曰く、

「拜啓、御手紙被下れ、嬉敷く捧誦仕り候ふ。先づ以て先生(平泉博士)御無事、御躬耕之由、御芽出度く存じ上げ候ふ。當今、富貴に居るは一生の恥辱、躬耕、貧賤に暮らすは千年の名譽、今更に御高踏之仙蹤、慕は敷く存じ上げ候ふ。小生も燹後、全家無傷無病、疎開仕り、此の上へ無く幸福に御座候ふ。但し日増しに老衰仕り、平素、存養之學足らず、御恥に御座候ふ。然り乍ら此の上、御勉勵被下れ度く願ひ上げ候ふ。瞑目の時迄、學問は放擲すまじく候ふ」と。
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●福井市立郷土歴史博物館長・松平永芳大人『屈原の心境か?――市川團藏翁と清水澄博士の入水』(日本學協會『日本』昭和四十六年五月號)に曰く、

「三島氏の事件は、惰眠を貪る昭和元禄の世に大きな衝撃を與へ、多くの波紋を卷き起こした。新聞・雜誌・テレビ等は、月餘に亙つて各界の論評・反響を掲げ續けたが、これ等論評の内、眞に讀むに堪へ、傾聽に價するものは少なかつた。しかし、それは當然のことで、三島氏の如く、眞に祖國の前途を憂へ、信念の爲には一命を捧げて悔なしとする人物が筆を執つて居ない爲であらう。

 又、この事件で遺憾とする所は、益田總監の一身を按ずるの餘り、總監部が三島氏等の要求に易々として應じ、隊員に集合を下令したこと、集合した隊員の中に、三島氏等の、死を決しての切々たる訴へに(行動の贊否は別として)、感應する力もなく野次を飛ばせた者の多かつたこと、更に又、防衞廳のスポークスマンが、集合した隊員が野次を飛ばせたことを以て、「自衞隊が外部からの呼び掛けによつて左右されない健全性を確立して居る」かの如き口吻を以て、自己辯護的な態度をとつたことである。

 なる程、人命は貴い。しかし國の組織と言ふものは、總監の一人や二人、斬つて捨てられても、筋違ひの人間の言ふが儘に動いてはならない嚴しさがなければならない。今日のわが同胞は、人命より貴いもののあることを忘れ去つて居るのではなからうか?

 曾て陸上自衞隊に奉職し、市ケ谷臺で十年近く勤務したわが身にとつては、あの事件には人一倍強い衝撃を受け、改めて同地在勤當時の囘想に耽つたのである。當時、隊員に對する思想・精神教育が不充分であることを痛感した私は、自分の隊に對しては何とかしたいと考へ、最後に勤務した部隊に於ては、十日目毎に必ず一編の精神教育資料を印刷頒布して、退職迄の滿二箇年間に、八十編に及ぶ時事問題、隊内問題、歴史・思想・教育・躾問題等に關する私の考へを投げかけて、一同の思考錬成に努力した。‥‥

 以上、屈原の如く、自ら入水して碧海の波濤に身をゆだねられた方々の、美しくも清らかな死を説いたのであるが、諸官は如何に感じ、如何に考へられるか? 萬事ソロバンをはじいて己れの進退を決するを宜しとする人、人生の目的を物質生活の豐冨と快樂のみに求める人、かう言つた人々にとつては、屈原の死も、清水博士・團藏翁の死も、「いのちあつてのもの種」であらうから、一顧の價値も認められないかも知れない。しかし私は、何事にも眞劍な態度を以て、これに當り、その事に殉じ得る人を貴しと考へ、このやうな先人にこそ、あやかりたいと考へるものである。‥‥

 尚、三島氏の死に對する論評が、論ずる人の思想・人格によつて異る如く、清水博士の死についても、同樣であつた。昭和三十九年の『文藝春秋』十一月號に、博士の嗣子虎雄氏(當時東洋大學教授・憲法學)が、表題「明治憲法に殉死した憲法學者」、副題「父は信ずるところに死んでいつた」として、一文を投じ、詳細に當時の事情を述べられて居るが、その文中に、

『父の死後直後に弔問された穗積重遠博士が、「先生は、明治憲法に殉じられたのでせうね」と言はれたのは、自決の辭を動機として直感したのであらう。岡田啓介大將の囘想録中にも、「舊憲法に殉じたのであらうと考へてゐる」と記されてゐる。しかし、後に觸れるやうに、父の五十餘年の親友であり、私の恩師である美濃部達吉博士を、父の死の直後訪問した時、博士は、「私には、君のお父さんが死ななければならなかつた理由が、どうしても分らない」と、嘆息するやうな調子で言はれた。』

と記述されて居る。

 一方、徳富蘇峰先生は、博士急逝直後の九月三十日附書を以て、博士の御遺族を弔慰せられ、『寔ニ寔ニ見事ナル、申分ナキ御最期ト感嘆イタシ申候』と、繰り返へし述べられて居る。一方は、死なれた理由は了解に苦しむとされ、他方にあつては、見事な御最期であつたと遺族を弔慰される。人各々の感じ方・考へ方は、斯くもその思想・人格、學問の深淺によつて異るものである。三島氏の死の眞意も、眞劍深刻に國家の前途を憂へ、身を以て傳統國家の命脈を護持しようと決意する人々以外には、所詮理解出來ず、野次を飛ばすか、興味本位に扱ふか、はた又商魂の材料とするか、かう言つた受け止め方しか出來ないのである」と。



【參考・國史を顧みざる者の齎した所の無慘なる現實】
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畏命の臣從。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月12日(月)23時50分31秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

■『古事記』熊曾建の段――景行天皇御卷

 是に天皇、其の御子の、建く荒き情を惶みまして、詔りたまはく、「西の方に、熊曾建二人有り。是れ、伏はず、禮无き人等なり。故れ、其の人等を取れ」とのりたまひて遣はしき。此の時に當りて、其の御髮、額に結はせり。爾に小碓命、其の姨・倭比賣命の御衣御裳を給はり、劍を御懷に納れて幸行しき。

 故れ、熊曾建が家に到りて見たまへば、其の家の邊りに、軍、三重に圍み、室を作りてぞ居りける。是に「御室樂(うたげ)せむ」と言ひ動みて、食物を設け備へたりき。故れ、其の傍りを遊行きて、其の樂する日を待ちたまひき。爾に其の樂の日に臨りて、其の結はせる御髮を童女の髮の如と梳り埀れ、其の姨の御衣御裳を服して、既に童女の姿に成りて、女人の中に交り立ちて、其の室内に入り坐しき。爾に熊曾建兄弟二人、其の孃子を見感でて、己が中に坐せて、盛りに樂げたり。故れ、其の酣なる時に、懷より劍を出し、熊曾が衣の衿を取りて、劍以て、其の胸より刺し通したまふ時に、其の弟建、見畏みて逃げ出でき。乃ち其の室の椅(はし)の本に追ひ至りて、其の背を取らへ、劍以て、尻より刺し通したまひき。

 爾に其の熊曾建、白言しつらく、「其の刀を、な動かしたまひそ。僕れ、白言すべきこと有り」とまをす。爾れ、暫し許して、押し伏せたまふ。是に白言しつらく、「汝が命は、誰にますぞ」。「吾は、纒向の日代宮に坐しまして、大八嶋國知ろしめす、大帶日子淤斯呂和氣天皇の御子、名は倭男具那王にます。おれ、熊曾建二人、伏はず、禮無しと聞こし看して、おれを取殺れと詔りたまひて遣はせり」と詔りたまひき。爾に其の熊曾建、「信に然まさむ。西の方に、吾れ二人を除きて、建く強き人無し。然るに大倭國に、吾れ二人に益して、建き男は坐しけり。是を以て、吾れ、御名を獻らむ。今より後、倭建御子と稱へまをすべし」と白しき。是の事、白し訖へつれば、即ち熟瓜の如と振り折きて、殺したまひき。故れ、其の時よりぞ、御名を稱へて、倭建命とは謂しける。




 愚案、やはり本居宣長大人の訓は、現代注釋者のものより、敬語の遣ひ方も、大いに宜しく、拜讀するに音讀を以てして、本道に氣持ちが好いですね。なほ倭建命、即ち日本武尊は、文字の用法、天皇に準ずる扱ひです。
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●保田與重郎翁『日本語録』(昭和十七年七月・新潮社刊)に曰く、

「日本武尊は、御生涯を征旅の中に終へられた。尊は、最も高貴の皇子に生れましたが、皇朝廷の臣のふみ行ふべき道を、御身御自らでお教へになつたのである。

 初め出雲から九州・山陽の賊を平げられたが、熊襲建兄弟をうつときは、この日本の丈夫といふ丈夫のうちでも、神の如くに雄々しい君は、一箇のやさしい少女の姿となつて、強敵をたふされたのである。

 尊の御生涯を誌した古事記の部分は、古事記の中でも、最も重要な部分であり、悲劇といふ形式の文學としては、どこの國の作品にも匹敵するものがない。普通の悲劇は、英雄と運命の鬪ひを描いてゐる點で、文學の中の最高のものであるが、尊の御傳記は、大君のみことを、わが生命の原理として生きた、最も偉大な英雄の姿が描かれた點で、比較がないのである。尊の御物語の場合には、歴史の傳統があるが、運命はないのである。こゝに於て悲劇は、忽ちに抒情詩として描かれるのである。

 尊は、どのやうな勝利さへ、勝利と考へられない。これは最も雄渾な、わが古典の精神を示されたものである。尊は、御墓を三度移られ、最後には白鳥となつて天へ昇られてゐる。戰ひに生涯を終へて、數多の強敵を限りなく倒されつゝ、しかも勝利といふことを知られなかつたのである。神の思召しのまゝに、大君のみことのまゝに、戰へと命をうけて戰はれた時、戰ひといふものは、臣の生き方として、どういふものであるかといふことを、我々に十分に教へられたのである。

 だから尊が熊襲の建を刺されるとき、建が少し待つて下さいと懇願して、尊の御勇武をたゝへ、尊こそ日本の一等すぐれた勇者だから、日本武といふお稱へをさゝげたいと云つた。尊は、この名を、心よくおうけになつた。しかも熊襲建を許す代りに、これを徹底的に誅伐せられた。これは古典の思想の激しいところであり、こゝには大衆小説的な憐憫心理(あはれみのこゝろ)の思ひ難い激しさがある。さうしてこれこそ、敵を遇する一つの精神であり、尊はつねに敵を敵として認められたから、この激しさがあらはれたのである。古代の風懷が、神のさながらでなければ、この至烈の誠心は、人間に現れぬのである。彼の稱へた御名だけをうけて、彼を許すといふことは、思想として成立たないと考へるところに、上代の生命觀と歴史觀があらはれるのである」と。



●友清磐山大人の曰く、

「須佐之男神が、八俣の大蛇を斬り給ひし時に得給ひし天劔は、後に天葺根命をして、天照大御神に奉られた。大御神は、其れを御覽じて、『これは、我が劔なり、吾が岩屋に屏りし時に、近江國伊布伎山に落しゝ劔なり』と、詔へりと傳へられてある。其の時、この大地の邪氣の結晶ともいふべき大蛇(實は伊布伎山に住める多々美比古命、亦の名・夷服岳神といふ荒ぶる神の化神)が、其の尾に竊しもち、出雲國まで出かけて、人をも取り喫うて居たのである。

 然るに世をへだてゝ、後に又た日本武尊が伊吹山の魔神の邪氣に打たれ給ひて、甚だしき苦痛をあそばされて上天し給へりといふことを考へてみると、今更らながら産靈紋理(むすびかため)のくしびさを痛感せざるを得ぬ。日本武尊が、其の天劔を、熱田なる宮簀姫命に授けて、伊吹山に向はれたことも、神ながらの筋書の進行であつたであらう。大地の邪氣の結晶たる八俣の大蛇は、須佐之男神によつて退治せられたけれど、其の靈は、尚ほ地上を遊行して、因縁の地たる伊吹山で、日本武尊を害し奉つたのである。蜂が人を害して自らも終る如く、此れを以て此の邪靈は能力を失つたのである。日本武尊が、五十猛神の化身とすれば、此處でも須佐之男神は、其の御子の苦しみを以て、地上萬民の苦しみをあがなひ給ひしわけであらうと思はれる」と。



 愚案、詔書・敕命の至重至嚴、正に「承詔必謹」の四文字を、更めて痛切に思はねばならぬ。是れ、掲ぐる目標、叫ぶ標語に非ずして、必ず己が骨髓に填み得て、初めて覺悟實踐が出來るのである。若し萬が一、之を謹まざること有り、或は之に快からぬこと有るは、即ち國體の明徴ならざる證にして、こゝにこそ、學問が必要となるのである。

 亦た友清磐山大人の説は、平田篤胤先生『玉だすき』五之卷を承くるものにして、「尾張の熱田宮を拜む詞」條の「此の王(倭建命)の身實は神にて、須佐之男神の御靈の分かりて生れ坐せる現身ならむ」等とあるを能く見て、研鑽を重ねたいものである。

 神代に於る國讓り・大御政の奉還の由來につき、地上(出雲)から觀た所の、愛でたき斷案を、舊稿の一部であるが、こゝに引きて、「畏命の臣從」の源流を示し、併せて後世の師表も顯し、諸賢の考ふる所、奮勵の資としたいと思ふ。



●千家尊福大人『出雲大神』(大正二年十二月・大社教本院刊)に曰く、

「天夷鳥命は、建御雷神と共に降り來て、出雲國五十田狭の小濱に到りける時、建御雷神、突然に(大國主)大神に問ふに、『此の國を大神に奉らむや否や』と申しければ、大神は聞き怪みて、『汝二神は、我が許に來坐せるに非じ。諾はじ』と答へたまへり。かく怪みたまひしは謂れあることにて、曩に穗日命に申し告げたまひし事もあれば、其の事にかゝる次第を語らざるに依れるなるべし。然らざれば勇武を以て任じませる建御雷神の、唯だ一言を聞きて、天上に還り上ることは非ずと窺はる。

 其は此の國作りには、須佐之男神より大任を受け、又た神皇産靈神の御言さへ蒙りて、幾百年の間、御心を碎き御力を盡したまひて、雨風を侵し艱苦を嘗めて、漸くに大造の績を建てませるに、此の大業に參與ませる御子神は百八十一柱坐し、部下にも亦た八十萬神あれば、故なく避け奉らむには擾亂なきことを保し難く、若し思ひ惑へる者出來むには、皇孫命の御爲に善からじと、遠く深く思ひはたせたまふ至誠の神慮ましませばなり。‥‥石見國人・高子常石の説に、

『世に傳ふる所にては、建御名方神は、天使に反抗せられし如くなれども、全く然らじ。是は、建御名方神の武勇は天下に知られて比類なきが故に、先づ自ら反抗の態度を示して、後ち終に建御雷神には及ばざることを國神に知らしめんと、殊更に謀りたまひしものにて、所謂誠忠の極、此の苦忠に出でたるなるべし。然らざれば反逆の神にして、朝廷の尊崇、此の如くあるべき由なきことをも思ふべし。古史に傳ふる所、往々半面の事實のみに止まれることあるを思ひさとりなば、此の神の苦忠の、世に知られざることも思ひ得べし』

と。此の神は、信濃國諏訪神社に鎭り坐して、今は國幣中社に齋きまつれり」と。



●畏命の臣從――大楠公
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現人神の御子。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月10日(土)18時20分39秒
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  ~承前~

■『古事記』日代宮の段――景行天皇御卷

 天皇、小碓命に詔りたまはく、「何とかも汝の兄は、朝・夕の大御食に參ゐ出來ざる。專ら汝、ねぎ教へ覺せ」とのりたまひき。如此く詔りたまひて以後、五日といふまでに、猶ほ參ゐ出たまはざりき。

 爾れ天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何ぞ汝の兄、久しく參ゐ出來ざる。若し未だ晦へず有りや」と、とひたまへば、「既にねぎつ」と、答へ白したまひき。又た「如何にかねぎつる」と、詔りたまへば、答白したまはく、「朝署に厠に入りたりし時、待捕へて、つかみ批ぎて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とぞ、まをしたまひける。




 岡山愛國者協議會の岡山月例會では、神典『古事記』の朗讀を、平成二十年四月五日から、必ず勵行してゐる。これは主宰・岡田則夫翁の志であつて、小生は、二十二年三月から參列させて戴いてゐる。先週、つひに「倭建命の段」に至つた。

 小生は、此の段、初めて拜讀した高校時代、倭建命の、敕命を畏み、直ちに大御心に深く添ひ奉りたまひし御行藏に、いたく感銘した。普通には、親切に教へ諭すの「ねぐ」と、暴力的な「ねぐ」との取り違ひとして解釋される所(今日でも「かはいがる」が、優しくすると、逆に痛めつけるの謂ひに使はれるが如し)であるが、やがて帝都に在つて、三島由紀夫氏の自決によつて中絶したてふ遺し文を讀み、強く膝を打つた次第であります。



●三島由紀夫氏『日本文學小史』(昭和四十七年十一月・講談社刊)に曰く、

「私は、倭建命の挿話のみをとりあげて、神人分離の象徴的な意味を探りたいと思ふ。實際、この挿話は、全篇のほぼ半ばに位し、神と人との中間に置かれて、その悲劇性は、下卷の「輕太子と衣通姫」の悲劇性と、遠く照應してゐるやうに思はれるのである。

 景行天皇の敍述のほとんどが、倭建命の事跡に占められてゐるのであるが、皇太子倭建命は、いつも天皇に准ずる敬語で扱はれ、『日本書紀』にも、「是の天下は、則ち汝が天下也。是の位は、即ち汝が位也」といふ、景行天皇のお言葉が見られる。そして就中見落してはならないのは、同じく景行天皇が、倭建命を斥して、「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」と言つてをられることである。『日本書紀』によれば、それは、倭建命が「身體長大、容姿端正、力能く鼎を扛ぐ。猛きこと雷電の如く、向ふ所に前(かたき)無く、攻むる所ろ必ず勝」つからであつた。しかし、そればかりではない。天皇は我が子に對して、何かこの世のものならぬものを感じてをられたのである。

 そして『古事記』の景行天皇の一章は、本來の神的天皇なる倭建命と、その父にして人間的天皇なる景行天皇との、あたかも一體不二なる關係と、同時にそこに生ずる憎惡愛が、象徴的に語られてゐるやうにも思はれる。命の悲劇は、自己の裡の神的なるものによつて惹き起されるのである。

 その神的なるものの最初の顯現は、兄宮の弑殺であつた。その純粹素朴な怒りが演じた殘虐行爲は、景行天皇に恐怖を與へた。これが、ただ、我が子の人竝み外れた腕力と、感情の率直さに、父が恐怖を覺えたといふのでは足りない。天皇は、おそらく我が子の裡にあるものを、御自身の裡に見られたのである。天皇における統治の抑制が、十六歳の王子の行爲に震撼され、自己の裡にたわめられた「神的なるもの」の、假借のない發現を、王子の行爲に認められたのである。景行天皇のなさつた行爲は、三野の國造の祖・大根王の女、名は兄比賣・弟比賣の、二人の乙女に戀着されたことだけであつた。御子・大碓命に命じて召し上げようとされたのを、大碓命は、この二人の乙女をわがものにしてしまひ、他の乙女を求めて奉つて、父帝をたばかつた。天皇のなさつたことは、いつはりを知りながら默して、ただその乙女を冷然と扱はれただけであつた。大碓命が罰せられたといふ記述はない。

 天皇は、弟宮にして皇太子なる小碓命(倭建命)に、「朝夕の大御食に、兄宮が出て來ないのは何故か。お前からよく言つておけ」と、家長の抑制を以て穩やかに言はれた。しかるにただちに、倭建命は、用便中の兄を襲うて、その四肢を引き裂いて殺したのだつた。この行爲に接したとき、天皇が、あれほどの穩便な命令を倭建命が逸脱したといふよりも、むしろ、命が父帝の御顔色を察して、その行爲によつて、逆に父帝の内にひそんでゐた神的な殺意を具體化し、あますところなく大御心を具現した、といふことに、慄然とされたにちがひない。命は、神的な怒りをそのまま、電霆の行爲に現はしてしまつたのであつた。しかもその心情、その行動に、一點の曇りもなく、力あるものが力の赴くままに振舞つて、純一無垢、あまりにも適切な大御心に添うたことが、天皇をいたく怖れさせたのである。「形は、則ち我が子にて、實は則ち神人なり」といふ發見は、これを意味したと私は考へる。

 これがおそらく政治における神的なデモーニツシユなものと、統治機能との、最初の分離であり、前者を詩あるいは文化の役割を擔はせようとする統治の意志のあらはれであり、又、前者の立場からいへば、強ひられた文化意志の最初のあらはれである、と考へられる。‥‥統治機能から、もはやはみ出すにいたつた神的な力が、放逐され、流浪せねばならなかつたところに、しかも自らの裡の正統性(神的天皇)によつて無意識に動かされつづけてゐるところに、命の行爲のひとつひとつが運命の實現となる意味があり、そのこと全體が、文化意志として發現せざるをえなくなつたのだ。神人分離とは、ルネツサンスの逆であり、ルネツサンスにおけるが如く、文化が人間を代表して古い神を打破したのではない。むしろ、文化は、放逐された神の側に屬し、しかもそれは批判者となるのではなく、悲しみと抒情の形をとつて放浪し、そのやうな形でのみ、正統性を代表したのである。命は神的天皇であり、純粹天皇であつた。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であつた。詩と暴力は、つねに前者に源し、前者に屬してゐた。從つて當然、貶黜の憂目を負ひ、戰野に死し、その魂は白鳥となつて昇天するのだつた。

 景行天皇は、その皇太子の、このやうなおそるべき「神人」的性格を見拔いたとき、命には「傳説化」・「神話化」の運命を課するほかはないと思はれたにちがひない。それは又、文化意志を託することでもあつた。すなはち詩と政治とが祭儀の一刻において完全無缺に融合するやうな、古代國家の祭政一致の至福が破られたとき、詩の分離のみが、そして分離された詩のみが、神々の力を代表する日の來ることを、賢明にも豫見されたにちがひない。自分の猛々しい王子は、史上初の、そのやうな役割を擔ふべきである。それはそれ自體が悲境であり、生身の人生を詩と化することであり、孤獨であり、流浪であり、敗北でさへあるが、そこにこそ神々にとつての最後の光輝が仰ぎ見られ、後世、自分および自分まおだやかな子孫が統治をつづけるべき國において、それだけが光榮の根源として無限に囘歸せらるべきもの、それを正に倭建命において實現させたい、と思はれたに相違ない。それはもはや景行天皇御自身によつては實現されえないものであることを、天皇は知つてをられ、「それを實現せよ」と意志されることは、天皇の御命令だつたのである。文化意志は、かくて隱密な敕命によつて發したのだつた。一方からいへば、敕命こそが、このやうな史上最初の文化意志の發生を扶けたのである」と。



 愚案、日本武尊は、「嘗し西に征ちし年、皇靈之威に頼り、三尺劔を提げて、熊襲國を撃ちしに、未だいくばくも經ざるに、賊首、罪に伏しぬ。今ま亦た神祇之靈に頼り、天皇之威を借りて、往きて其の境に臨み、示すに徳教を以てせむに、猶ほ服はざること有らば、即ち兵を擧げて撃たむ」と奏上、「吾は、是れ現人神(景行天皇)の子」と言擧げされたが、「幼くして雄略の氣有り。壯に及びて、容貌魁偉、身長一丈、力、能く鼎を扛げたまふ」(『日本書紀』卷第七。『漢武帝内傳』に、天仙は「皆な長け一丈餘」とあるが、因みに支那漢代の一丈は2.31m、皇國明治以降の一丈は3.03m)。神宮神御裳祭に於いて、祭神に衣裝を奉納しますが、其の大きさは、一丈位の身長の御方が身につけて、丁度良い大きさとなる由であります。
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●薫園物集高見翁『人界の奇異と神界の幽事』(大正十四年十月・嵩山房刊)に曰く、

「總て上代の人は、人身、極めて長大にして、日本武尊も御身長一丈と申し、また御叔母・倭姫命の小袖を借着し給ひきといへば、叔母君の御長も同じ程なるを知るべし。また日本武尊の第二の皇子・仲哀天皇も、御身長一丈と申しゝなり」と。



 愚案、固より祝詞・古事記・日本書紀を、「神異史實」として仰ぐ小生にあつては、日本武尊の白鳥昇天や武内宿禰大臣の白晝昇天は、古人の目の當たりに見た事實として、之を信ずるものであることは、申すまでも無い。高皇産靈大神の神敕によりて、顯幽は分治せられ(顯幽兩界分居)、大山祇神の言靈によりて、皇孫尊の寶算に影響し、石長姫神の言靈によりて、青人草の壽命は短くなり、豐玉姫神の言靈によりて、海陸の交通杜絶(海陸兩界分居)したのは、勿論、悠久神代の御事に屬し、而して神武天皇以降、應神天皇以前(『古事記』中卷の御宇)は、神仙の帷に未だ深くつゝまれて、神と人と、やゝ分離せざる時代であつたやうである。然りと雖も現代、人皇の御代、現人神を仰ぎ奉る中今に於ても、神驗著在、靜かに沙庭(審神)を嚴肅にして、神眞の恩頼、皇神の大御經綸を想ふべきである。神さびたりとも、神さびたり。あなゝゝ、畏こき極みなりけり。
 
 

歴史の極意とは‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年12月 4日(日)17時39分17秒
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  ~承前~

 件の小林秀雄翁の言の出典は、昨日、岡田則夫翁の岡山例會にて戴いた。小林翁畢生の大作てふ『本居宣長』を前に、鈴屋翁『遺言状』から説き起こす所論に歡んだが、讀み進めるうちに、やうやく興味を失した想出があり、小生は、小林秀雄翁のよき讀者では無いものゝ、歴史を説く姿勢に異論は無い。紹介させて戴き、有志參考の資としたい。



●占部賢志氏『甦る歴史のいのち(一一○)小林秀雄ノート(十一)――承前・「質疑應答」といふ思想劇』(『祖國と青年』平成二十三年十一月號)に曰く、「

 何時の時代も、歴史ブームが再來する時、皮相な人間観が流行つては、早晩廢れて行く。諸君、そんなものは歴史ではない、氣をつけ給へと、小林は注意を喚起した事がある。これも合宿教室における質疑應答での一齣だつた。この時の質問者は、實は筆者(占部氏)で、無知な若造が問ふたのは、歴史の學び方であつたが、小林は當時の歴史ブームに、ずばり釘を刺した。まづロマンテイツクな歴史、すなはち大衆小説に見られる歴史觀は駄目なのだと、容赦なかつた。

太閤秀吉は、テレビに出て來たやうな、あんな男ではありませんよ。あの人は、現代の俳優などが演じられるやうな男ではありません。だから、テレビにのるやうな歴史は信じてはいけません。

 おそらくこれは、NHK大河ドラマとして、昭和四十四年に放映された「太閤記」を指してゐると思はれる。當時としては高い視聽率を誇つた作品だが、當節の俳優などが演じられる人物ではないと、小林は言ふのである。

 秀吉像は、とかく庶民派としてもてはやされたり、一種のサクセスストーリーとして扱はれる事か多い。かつて田中角榮が首相に就任した時、新聞に「今太閤」の見出しが躍つたやうに、世俗に迎合した人間像が演出される。一方で、朝鮮出兵などといふ非道な侵略行爲を思ひつくなど、愚かしい男だといふ見方も根強い。事程左樣に、持ち上げたかと思へば、罵倒するといつた風で、未曾有の戰國時代を生きた傑物の歴史的意義を仔細に檢討しようとする態度は、大衆小説やテレビドラマには微塵も見られない。あれは歴史を描いてゐるのではなく、娯樂ドラマに過ぎない。さう、小林は戒めたのである。

 小林にとつて、秀吉は、實に不思議な存在として映つてゐた。近世以降の日本を考へる場合、その轉換期は、應仁の亂である。あの時、日本の身代は、すつかり入れ替はつてしまふ(愚案、内藤湖南博士の論は、夙に有名である)。その荒野の中から、新たな日本を創り出す傑物が出現する。それが、秀吉の擔つた歴史的役割である。

 因みに秀吉の如く先例のない人物が、學問の領域に現れたのが中江藤樹である。藤樹の言葉、「天地の間に、己れ一人、生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば、外人(愚案、他人の謂)に頼る心なし」との覺悟は、寄る邊なき荒涼たる世界から身を起した者のみが釀し出す凄みが感じられる。徒手空拳で道を拓いた豪傑、この二人の出現は、小林を強く捉へた。『本居宣長』のなかで、横道に逸れながら、彼らが生きねばならなかつた時代を、『武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなつてゐた』と、簡潔明瞭に敍して、『日本の歴史は、戰國の試煉を受けて、文明の體質の根柢からの改造を行つた』のだと觀る。さうした亂世に一應のけりをつけたのが、秀吉だつた。このやうな秀吉を、單純でロマンテイツクな物語を好むテレビドラマが描けるわけもない。歴史ドラマを裝ひながら、實は茶の間に合はせた現代の物語であつて、それを歴史と混同してはならぬとの教へは、今も筆者の物學びの指針だ。

 文祿・慶長の役にしても、單純な朝鮮侵略を目論んだものではない。結果として甚大な被害をもたらしたが、そもそもは中國への侵攻を企てるスペインの戰略を知つた秀吉が、東北アジアの防衞策として、先に中國を豫防占領すべく、朝鮮半島を途上しようとして起きた騒擾が發端である。この事實は、高瀬弘一郎氏の勞作『キリシタン時代の研究』(岩波書店)に翻刻された、當時のキリシタンによる軍事占領計畫文書に明らかである。キリシタンによる明の征服計畫は、信長時代に知られてゐたらしく、これが實現すれば、ひいては日本にも牙は向けられる。そこで信長のあとを引き繼いだ秀吉は、キリシタンの動向に細心の注意を拂ふ。いはゆるバテレン追放令を出したのも、彼らの意圖をいち早く見拔いたからである。秀吉がスペインの據點マニラに、降服勸告の使者を派遣したのも、列強による侵略を排除するための布石だつた。これだけの遠大な防衞策を構想し得た人物を、テレビ番組に仕立てることなど、出來はしない。スケールが違ひ過ぎる。

 かくて小林の教示は、歴史ドラマや歴史小説から、筆者を遠ざけた。同世代に比らべて、司馬遼太郎などの小説家の作品を讀む經驗が乏しい理由は、そんなところにある。

 さらに小林は、現代流行の考古學的な歴史觀にも、痛烈な矢を放つ。『神武天皇なんて嘘だ、といふやうな歴史。嘘だといふのは、今の人の歴史に過ぎません。歴史は、みな信じられたものです。信じられた通りに信ずることができなければ、歴史は讀まない方がいいのです』と。長い文業の果てに、小林が辿り着いた対象、本居宣長は、古事記に傳承された神話を讀んで、みなあの通りだと信じたといふ。それが神話時代の歴史なのだから、信じられないとしたら、神話など讀む必要はないと斷言した口調は、印象に殘つてゐる。こんな言ひ方だ。

國生みといふ事が信じられてゐたといふ、その事が歴史ですけれども、そんな馬鹿なことはない、實はかうであつたといふ、新井白石流のやり方。新井白石が、この頃評判がいいのは、現代の歴史家は、みなあれをやつてゐるからなのです。本當はかうであつたといふ歴史。これは考古學であつて、本當の歴史にはふれない。だから、歴史を己れの鏡にするといふことは、非常にむづかしいことです。昔の人が信じた通りに、自分もそれを經驗することができなければ、歴史など讀まない方がいいのです。

 此處に見るやうに、考古學と歴史とを峻別するのが、小林の歴史觀である。やたらにあちらこちら掘り起こして、間違ひなく此處に藤原の都があつたのだと、實證出來れば安堵する。さうした仕事は考古學であつて、歴史とは一線を劃する。歴史は『自分も、それを經驗すること』であつて、知的な實證が出來れば、それで濟むものではない。‥‥

 歴史は形骸を認識するだけでは、畫龍點睛を缺く。かつて其處に存在したといふ事實を知つて、それで君は滿足か。君の心に、千年前の人々が、生命が誕生するやうに甦つて來なければ、いつたい歴史を讀む意味があるのか。小林は念を押すやうに語りながら、イタリアの歴史哲學者ベネツト・クローチエも引いて、かう結んだ(愚案、クローチエを日本に紹介したのは、實は平泉澄博士であつた。其の譯を書いた新進の羽仁五郎氏の紹介文も書いてをられる)。

さういふ點で徹底してゐるのは、クローチエです。歴史といふのは、みな現代史なのだと、クローチエは言つてゐるのです。現代の人が、ある史料を持つて過去に生きることができるのなら、歴史家と言へるのです。けれども貝殻を生きることはできないぢやないか。だから、考古學的歴史といふものは、みな空虚なものです。みな空虚とは言へないまでも、まあ、一種の學問なのです。

 けれども昔から、僕らは歴史を鏡と言つたのです。鏡の中に、自分自身が映るのです。讀んで自己が發見できないやうな歴史は駄目なのです。歴史は、どんな歴史も、みな現代史であるといふことは、現代のわれわれが、歴史をもう一ぺん生きてみることができるといふ、さういふ經驗をさしていふのです。‥‥君の顔が見えなければ駄目なのだ。君の顔が見えれば、歴史は君のためなにるぢやないか。日本の歴史は、諸君のためになるぢやないか。

 けれども『古事記』の言つてゐることは、どこまで本當で、どこまでが嘘だなどといふことを研究しても、それは一種の學問ではあるけれども、僕の言ふ歴史ではないのです。歴史といふ言葉が一番はやつてゐるくせに、今一番忘れられてゐるのは、鏡としての歴史です。『増鏡』とか『今鏡』とか、昔は歴史のことを鏡と言つたのです。昔の人がどういふ精神で歴史を書いてゐたか、さういふ人の心持を、今の人が忘れてしまつたことがいけないことなのです。


 自己が發見出來ないやうな歴史は駄目なのだと、小林は繰り返し教へた。すなはち「鏡」としての歴史だ。遺跡を發掘して裏付けをとる。それはそれで必要なことだ。しかし、私の言ふ「歴史」ではない。それは一種の「學問」の世界の話だ。僕は貝殻を發見する道など、興味ないな。貝殻を生きることは出來ないから‥‥。今もそんな呟きが聞こえて來るやうな氣がする。筆者は、ここで思ひ出す。岡潔を相手に、小林が特攻隊について語つた言葉である。

特攻隊といふと、批評家はたいへん觀念的に批評しますね、惡い政治の犠牲者といふ公式を使つて。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になつてみるといふ想像力は、省略するのです。その人の身になつてみるといふのが、實は批評の極意なのですがね。』(『人間の建設』)

 特攻隊を出撃せざるを得なかつた背景と事情を仔細に分析して、實態を解明する。しかも、あらかじめ「惡い政治の犠牲者といふ公式」を用意して。それは批評ではないと、小林はきつぱりと言ふ。この「批評」を「歴史」と置き換へても差し支へあるまい。すると、歴史に肉迫する極意も、「その人の身になつてみる」といふ事にならう。小林が歩いたのは、かういふ道だ。たしかに、その人の身になつてみるためには、想像力が要る。しかし、その想像力だけで十分なのかと、不安を覺えた學生の一人が質問に及んだ時、小林は言つた。

十分です。ただ想像力といふ言葉を、よく考へてください。想像力といふのは、空想力ぢやないんです。空想力といふのは、でたらめなことを空想する、だけど想像力といふものの中には、理性がある。そこには、感情も理性も直覺も、みな働いてゐる。さういふ充實した心の働きを、想像力といふのです。

 學生は、もう一度確認した――「自分の想像力を信じてよろしいのでせうか」。小林は、和やかな表情を浮かべて應じた、『ああ、いいですとも』と」と。



 愚案、此の文には、豐太閤の歴史的意義も見える。豐太閤こそは、近代に於ける大西郷や日本主義者・興亞主義者の源流だと、小生は、常日頃から密かに思うてゐる。鈴屋翁『馭戎慨言』は、もつと讀まれるべき書である。然し、それのみでは無い。豐國大明神は、「はゆまつかひ」樣も漏傳くださつてをるやうに、實は高位の神仙のお一人であつたのだ。神僊なればこそ、其の眞姿を知る者は鮮い。
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 況んや一視同仁、不偏無私に坐し、何より現御神に坐します、天皇の演劇・映像化など、之を許すことは出來ぬ。我が塾頭・泉水隆一監督作品『凛として愛』には、天皇陛下を拜し奉るに、御肖像畫を以て表現し奉つてゐるのみ。幡掛正浩翁も云ふ、

「『明治天皇と日露大戰爭』といふ映畫は、貴君も知つてるだらう。僕も觀客席のくらがりで、ひそかに感動の涙をぬぐつた一人であることを告白するが、一方で、僕の心のすみでは、臣下である俳優が、お上に紛して、お上を演ずるといふことに、どうしても許しがたい本能的な拒絶感があつた。これは、單に僕がもうふるい型の人間だからといふだけでなく、もつと深いところで、喪つてはならぬ大事なつつしみの臣道感覺とでも言つたものと思ふが、それには、それの根本的な理由がある。

 そもそも大御心といふものは、上御一人だけのものであり、これはもう、陛下といふ上御一人をもつてよりほかに體現されようのないといふ、きはめて簡單な『御位の事實』について考へてほしい。陛下が御位を嗣がせられる際に、大嘗祭といふ、神祕神聖な祭儀が行はれるが、端的に言つて、この祭儀は、新しい帝が、皇祖天照大神の御魂を、御自らの中に鎭めたまふ祕儀として傳へられてをる。だとすると、そのたつた一つの御位から發するはたらき――大御心といふものは、頗る宗教的なもので、とても餘人をもつて『演ずる』などのこと、かないつこない、嚴肅な神業なのだ」(『神國の道理』昭和五十二年三月・日本教文社刊)と。
 
 

甚だしい違和感を共有できるか。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月27日(日)22時43分13秒
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   本日は、「日本心の集ひ」に參加。講師の岡田則夫翁より、資料を戴いた。是非とも紹介し、其の違和感を共有して、警世反省の資としたい。



●西川泰彦翁『甚だしい違和感』(『葦附だより』平成十四年五月號)に曰く、「

――御歴代を比較し、又、天皇陛下と臣下とを比較するとは――

 小誌の「大正天皇御製詩拜讀」を讀んだ友人が參考資料として、有名なA先生が某月刊誌に執筆した、大正天皇に關する一文を紹介して呉れた。内容は敬愛の念を以て書かれた、好感の持てる文章であつた。たゞその文中、私としては甚だしい違和感を覺えざるを得ない箇所があつた。それは先づ次なる筆者が引用した對談の部分であるが、肯定的に引用してあり、筆者も同樣な考へであると見て差し支へなからう。その對談の中で、T氏曰く、

『大正天皇は、書が素晴らしい。歴代の帝王の書の中でも、最もいいもののひとつではないでせうか云々。』

とあるが、T氏は、百二十五代にも亙る御歴代の書を、一體、何割程度拜見したのであらうか。抑々御歴代の宸筆のうち、果してどの程度が現存し、しかもそれら全てが拜見可能なのであらうか。そしてたとへ御歴代の宸筆全てを拜見し得たとしても、それらを比較し優劣を論ずるなど、いかゞなものか。對談の内容からすると、T氏は皇室に好意を持つ人であらうことは疑ひない。しかし先に引用した文の「云々」の中には、「不思議な魅力のある人ですね」ともある。何も「現人神・あらひとがみ」と申し上げよと迄は言はぬが、少なくとも私には、天皇陛下を「人」などと表現する感覺は無い。あまりにも輕率と言ふべきにあらずや。

 次の別の部分には、これは傳聞であるやうだが、

『ある人が、大正天皇の宸筆が、西郷隆盛ほか明治維新の英傑らの名筆能書と一緒に展示されてゐるのを拜觀し、諸士の中で最も雄大の感を湛へた西郷の達筆さへも、大正天皇の書の前には微小に思はれたと感想を述べてゐる云々。』

とある。天皇陛下と臣下とを比較するといふ神經は、私の理解の範圍を超えてゐる。大正天皇の宸筆が「規模宏大にして、一點の澱みも穢れもないさまは、息をのむばかり」(A先生の言)であれば、さう言へば、事足りる。臣下の書と比較する必要など、更々ない。宸筆に湛へ給ふ神韻を畏み奉る言葉と共に、別次元に在る忠臣・元勳の書も正當に稱贊する、それで良いのではないか。

 尤もA先生やT氏を責めるのは酷なのかもしれない。試みに『讀史備要』を繙くと、その「名稱一覽」の部の「二聖」(二人の書聖の意)といふ所には、「嵯峨天皇・僧空海」と列擧されてゐる。又「三筆」の方には、「嵯峨天皇・橘逸勢・僧空海」とある。『讀史備要』は、東京帝國大學史料編纂所が、その必要に迫られて作成したもので、第一類「歴朝一覽・大名一覽」等。第二類「皇室御系譜・諸氏系圖」等。第三類「公卿索引・寛政重修諸家譜索引」等が、その内容であり、昭和八年初版である。東京帝國大學史料編纂所の權威をそれなりに認めるのは吝かではないが、少なくとも、上御一人と臣下とを同次元に扱ふなどは、不見識の謗りを免れぬ。心すべきことにこそ。

 御歴代を比較し、又、天皇陛下と臣下とを比較したり、同次元に扱つたりするなどの事には、たとへ惡意は無いとは言へ、私にはたゞたゞ甚だしい違和感を覺えるのみである」と。



 愚案、討議の場では、色々意見交換があつた。
曰く、「不思議な魅力のある人」の「人」」が、「御方」だつたら、如何だつたであらう。違和感はあつたか。讀み過ごしたかも。
曰く、「不思議な魅力」とは、抑々如何なる意か。
曰く、「魅力」とは、餘りに俗過ぎる辭では無いか。
曰く、「三筆」への違和感は、正直、迂闊であつた。
曰く、うつかりと讀み過ごして、甚だしい違和感を共有できなかつた、此の己を恥づ。
曰く、映畫・NHK大河ドラマ等で、天皇を演ずる者あり。無私の天皇は、本來、演ずる能はざるもの、段々國家を擧げて不敬となつた。
曰く、かつて太閤記あり。小林秀雄氏、之を喝破して云ふ、豐太閤は、非常に大きなる人物、一俳優の、到底、之を演ずる能はざるもの、所詮虚構にして、本道の歴史に非ず、興味は無い、と。或は云ふ、考古學や考證學はあつてもよいが、考古學はあくまで考古學であつて、歴史では無い。古事記をそのまゝ信ずる、是れ歴史なるべし、と。

 大東塾の都羅山人三宅萬造翁の道統につながる岡田則夫翁が、獨人で主宰される「岡山縣愛國者協議會」の岡山例會は固より、倉敷にて開催される「日本心の集ひ」例會も、共に、切磋琢磨の道場てあり、反省討議の研修場であり、各々「日本心(やまとごころ)」を築き堅めむと、必死懸命である。地方に在つても、戀闕の心は熱く、絶えることは無い。



**********



■東湖藤田先生『桑原毅卿の京師に之(ゆ)くを送る序』に曰く、「

 宇宙の大、萬國の星布、其れ多し。而れども國體の重き、未だ神州に若くものは有らざる也。神州の廣き、國郡縣邑、勝げて數ふ可からず。而れども至尊至嚴、未だ京師に若くものは有らざる也。京師は天皇の都したまふ所、神器の在します所、億兆の仰ぎまつる所、蠻夷戎狄の望みて服しまつる所なり。京師の宇宙に在るは、譬へば猶ほ北辰の天に在るがごとき也。昔、大道の行はるゝや、徳化、内に洽く、稜威、外に宣ぶ。聖皇明弼、相ひ踵いで起り、既に上古神聖之跡に遵ひ、以て天常民彜を植ゑ、更に西土周孔之教を資り、以て我が固有之道を培ふ。上下之分、内外之辨、嚴乎として其れ越ゆ可からざる也」と。


●神祇道學師・大坂坐摩宮祝部・神習舍薑園佐久良東雄平健雄先生の哥

あきつかみ わが大君の おはします みさとの土は 踏むもかしこし

日の本の やまとの國の 主にます わが大君の みやこはこゝか



 愚案、大阪市長選擧は、所謂「大阪都」構想を掲げる某が壓勝したと聞く。主權在民とやらの世、どうでも勝手にやればよいが、「大阪都」と申すは、斷々乎として之を許すこと能はぬ矣。「都」とは、天皇の坐します所を謂ふ(「神都」とは、伊勢を申し上げる)。東京都は戰時中より云ふと聞くが、制度はどうあれ、假令へ獨立すると雖も、呼稱は、斷然「大阪府」と爲すべきである。

 かつて江戸を「江都」と云ふは、腐儒の、幕府(天子樣より殺生與奪の權を賜ひし征夷將軍の府)に媚びて大不敬を犯す所、同じ過誤は繰返してはならぬ。再言す、皇都は宇内に一のみ而已矣。呼稱「大阪都」は、須らく遠慮すべきもの、「二都一道一府四十三縣」となる僭上は、必ず避くべし。夫れ名分は、之を正さねばならぬ矣。
 
 

遂に出現、『凛として愛』臺本の原本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月25日(金)23時05分9秒
返信・引用 編集済
   「花時計」にて、小生も拜記させて戴き、スレツドを建てた所の『凛として愛』臺本の原本が掲示されました。泉水隆一監督の「語り」としての別號は、「花椿一心」なるを認むなり。
  ↓↓↓↓↓
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/dvd.php
の左の「台本」をクリツク

【花うさぎ樣】http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/entry/2520417/

 藤真知子代表が聞かれた、泉水隆一監督の言葉に曰く、「『凛として愛』のナレーションを考えているときに、自分ではないような感覚があった。自分では思ってもいない言葉が、次から次へと出てきた。ナレーションには、英霊の気持ちが反映されている」と。

 此の臺本(誤植も些か之れ有り)と實際のナレーシヨンとに、相異まゝあり。此の臺本を元としたナレーシヨンなるか、或はナレーシヨンの清書が此の臺本なるか‥‥。有志の御方は、其の相異を明かにして、之を樂しむ、亦た可からずや。是れ「凛愛學」の、其の一なるべし矣。

 又た『凛として愛』は、所謂る保守派の掣肘に遭うて、表現を抑ふる所あり。然らば夫れは、何處なるやを究明する、其の二なるべし矣。

 而して一兵士、或は九段塾塾頭として、『凛として愛』を超える識見を打出すに至つた、其の晩年定論を闡明にする、其の三なるべし矣。例へば『凛愛』に使用されてゐた辭、曰く、散華、曰く、日本軍、等々、之を否定するに至る。其の志操の深化を尋ね、其の由て來る源を知らねばならぬ。

 更に塾頭の悲願を天下に訴へて、靖國神社正統護持の實を擧ぐ、其の四なるべし矣。

 任重くして、道遠しと謂ふべきも、自ら任じて立つ有志の士を待つこと少しとせず、共に切磋琢磨、力むべきか、鋭意、之れ努むべきなり矣。
 
 

吉報。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月24日(木)18時20分52秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下には、本日午後、ご退院の御由、愁眉を開きました次第、御同慶至極、寒天を仰ぎつゝ、大内山の御平安を、只管ら御祈り申し上げます。



 或る地方に御住ひの、泉水隆一監督をよく知るてふ御方より、某掲示板での「靖国神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか」を拜見したと、御便りがございました。塾頭の眞面目を云ひ當てゝをられると感佩して、紹介させて戴きます。曰く、

監督は、いつも膨大なおしやべりをする方でした。然し一方的にまくしたてるのではなく、常に相手に相槌なり、反論なりを求めてをられたやうに思ひます。熱意をもつて、全靈をかたむけて話してゐるのに、相手の反應が無いと、監督は寂しさうにもされてゐました。相手を論破するのが好きと云ふのでは無く、異なる意見には、その異見の存する所以を確認したいと云ふやうな探究心‥‥、それによつて自論の正論たる所以を確固としたものにする、と云ふやうな言動であつたと思ひます。

 御承知のやうに、監督はやさしい人でしたから、他者をいつも受け入れて、それでゐて、相手を感化するの不斷の努力を傾注する人でした。また相手の言葉に觸發されて、己の志操を更に展開する、と云ふこともよくありました
」と。



実存主義者樣

 然し此の監督、即ち我が塾頭を以てしても、何うにもならなかつた連中も、此の世の中には存するやうですね。どうも世代間における意見の相違のみでは片づけられないやうです。先般ご紹介させて戴いた、郡順史翁の文章『今あらためて「後に續くを信ず」』に、其の一端が示されてをりませう。あれほど諄々と、懇切丁寧に、「靖國神社の正統」を語られても、馬耳東風、糠に釘、擧句の果てには、嫌味嘲笑、罵詈雜言‥‥、我が塾頭も、遂には見放されましたこと、遺憾千萬でありましたが、畢竟、其の「眞の目的」が違ふのでせう、或は相手にするだけ光陰の無駄か、とも。

 「意見の衝突」ぐらゐで、「たってのお願い」なぞと申される御遠慮は、全くございません。上梓の節には、喜んで送らせて戴きます。最終原稿を、本日、洛風書房に御渡し致しました。暫く御待ち下さい。それと「遺響篇」は、実存さんも御存知の、河原博史兄ご盡力の賜、共に歡んで下さい。

 でもね、実存さん。「よろしくお願い」されても、住所・宛名が判らねば、御送りしようにも‥‥、小生、困つた、々ゝゝ‥‥。此の掲示板の最下段に、「管理者へメール」がありませう。此のボタンを押して、御知らせ下さい。
 
 

たってのお願い

 投稿者:実存主義者  投稿日:2011年11月24日(木)15時25分4秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

ご無沙汰しております。

水戸学の系譜を巡っては(徂徠学の影響があるかないかで)備中さんとは少々意見衝突しましたが、桜掲示板以来塾頭に対しましては私はずっとシンパの立場を崩してきませんでした。

私も「靖国神社の真実」を一部所望したいと存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。
 

京都で「凛として愛」上映会

 投稿者:藤 真知子メール  投稿日:2011年11月21日(月)21時00分6秒
返信・引用
  お知らせさせて頂きます。

~京都で「凛として愛」の上映会が行われます~
「凛として愛」という映画を知っていますか?
明治開国以来、日本人は戦い続けてきた。武器を取り一丸となって戦うことで、
独立した国家としての日本と日本人を守ってきた――その歴史を70分にまとめた渾
身の名作が「凛として愛」(平成14年)です。靖国神社創立百三十年記念事業の
一環として2年の歳月をかけて制作されたこの映画は保守陣営の圧力等により、
たった2日半で上映中止に追い込まれてしまいました。

「この映画を見た人が、大和民族の魂に触れて、勇気を持って映画館から出て
行って貰いたい」と語った故泉水監督の思いに応えて、1人でも多くの方にご来
場いただければ嬉しいです。皆様お誘いあわせのうえご参加くださいますようお
願いいたします。


【開催日】
平成23年11月23日(水・祝)

【時間】
午前 9時30分開場
午前10時00分上映開始

【場所】
京都市子育て支援総合センターこどもみらい館4階第2研修室A

【費用】
会場協力金として、お一人様 500円をお願いいたします。
尚、高校生以下は無料とさせて頂きます。

【主催】
誇りある日本を取り戻す会
http://nippon55.exblog.jp/

【アクセス】
地下鉄 丸太町駅(5番出口) 徒歩3分
市バス 烏丸丸太町下車 徒歩3分

※地下に駐車場がございます。30分200円
※定員は24名です。消防法の規定上、24名を越えた場合は入場をお断りさせてい
ただきますので予めご了承ください。

http://www.hanadokei2010.com/

 

『九段塾塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』自費出版豫告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月21日(月)19時24分50秒
返信・引用 編集済
   『靖國神社の真実』の自費出版にあたり、河原博史兄より、「有志の寄書きを附載したら」とのご提案、小生、之を喜んでをつた所、兄には、其の縁故を紹介して、忽ち二十氏を超え(二十四氏)、小生の懇請する所も併せ、そのうち二十篇を得ました。即ちこゝに「遺響篇」として、塾頭遺文に添へることが叶ひましたこと、洵にご同慶の至りであります。

 玉稿を賜はりました各位には、謹みて御禮を申し上げます。各位の論文を拜し、更めて本書・塾頭遺文が、其の晩年定論であつて、現代必讀の書であることを、痛切に再認識するに至りました。是れ一に、我が畏友・河原博史兄の盡力に因るもの、其の塾頭に對する想ひと其の友情に鳴謝しつゝ、塾頭の靈前に捧げ奉り、懇ろに報告いたした次第であります。



***************

■□■靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書第一輯・九段塾藏版

『「九段塾」塾頭・一兵士翁こと泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』
■□■

一頁は、三十二字×二十五行×二段の縱書きにして、凡そ四百三頁なり。
四六版(152ミリ×220ミリ)・淡クリーム菊判
塾頭原稿の文字、實に五十萬餘字なりき。
出版社は、京都なる「洛風書房」、即ち是れ也。裝丁等は、其の代表・魚谷哲央翁に一任せり。
發行日は、平成二十三年十二月八日と決すも、實際は越年するかも得て知る可からず、豫めご承知おき下さい。
なほ此の自費出版における内容責任は、全て、編輯者たる不肖「備中處士」に在ります。


【目  次】
一、年 譜 篇・九段塾塾頭・福井金城翁事歴抄 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥   五
二、本 篇 一・一兵士翁、掲示板に登壇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  二一
三、本 篇 二・靖國神社の正統を次代者はどう受け継ぐべきか ‥‥‥  六一
四、遺 響 篇 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 三六三
五、参考文献・跋 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 四○一


 就中、【四、遺響篇】の内容――本文・敬稱省略/五十音順

一、真の歴史観を伝へた「凛として愛」
   全日本愛国者団体会議最高顧問 靖國會特別顧問 国民協議会名誉顧問  阿形 充規
一、日本を失ってはならない
   女性塾幹事長  伊藤 玲子(元・鎌倉市議)
一、映画「凛として愛」を観て
   日本ネイビークラブ理事長  大橋 武郎(元・空将補)
一、保守による大衆運動を
   大東亜青年塾々生   岡本 美麗
一、日本人は今こそ「萬邦萬人 天皇歸一」の大理想を成就せよ
   神奈川縣維新協議會政策實行局長  海法 文彦
一、翁見えずとも、其の言や今猶ほ生命躍動す
   同血社會長  河原 博史
一、泉水隆一氏の遺文集に寄せて
   大行社本部青年隊長  木川 智
一、天○の神社
   九段塾參加者  見目 和昭
一、泉水監督の作品に想を馳せ
   青年意志同盟青水塾々長  坂田 昌己
一、現代を生きる私達があの戦争の真実を伝える援軍になりたい
   ジャーナリスト  佐波 優子
一、映画「凛として愛」に思う
   ミュージシャン  實吉 幸郎(實吉安純海軍軍醫中将の令曾孫)
一、泉水隆一監督の遺稿輯發刊にあたり
   原道社代表  鈴木田 舜護
一、靖國神社を語る重さ
   靖国神社清掃奉仕有志の会代表 維新政党・新風代表  鈴木 信行
一、英霊が残したあるべき未来――「凛として愛」泉水隆一監督に捧ぐ
   株式会社カルチャージ代表取締役  東條 英利(東條英機首相の直系令曾孫)
一、英霊の為に生き 英霊の為に逝く
   時局對策協議會議長・防共新聞社主幹  福田 邦宏
一、映画「凛として愛」普及に協力したい
   大東塾  福永 武(不二歌道會代表)
一、泉水隆一監督の思い出
   愛国女性のつどい花時計代表  藤 真知子
一、「凛として愛」に思う
   大東亜青年塾東京本部青年部長  森川 俊秀
一、映画「凛として愛」を鑑賞して
   公益財団法人水交会――慰霊顕彰・援護委員会委員長  山口 宗敏(山口多聞海軍中将の令息)
一、大東亜 おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり
   大東亜聖戦大碑護持会顧問  山本 邦法(山崎幸一郎日本民族覺醒の會々長の令従甥)

***************



 また「九段塾」ご參加ご閲覽各位にて、『靖国神社の真実』ご希望の御方は、

芳名・送付先・册數を、遠慮なく、本篇掲示板の最下段なる「管理者へメール」

にて、ご一報たまはれば、無代にて御送付申し上げます(但し郵送代は、着拂ひとさせて戴く場合もございます)。上梓・印刷數の都合もありますので、至急、宜しく御願ひ申し上げます。

 靖國神社月次祭の日に、

     眞金吹く吉備中つ國なる玄月書屋に於いて、備中處士、謹みて白す。



*** 靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書 ***


【第一輯】――今囘の自費出版『靖国神社の真実』の元原稿――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・一兵士翁遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/


◎ 以下は、小生の夢にして、容易に期す能はざるもの、些か開陳して、我が心を慰めむと欲するも、亦た可からずや。


【第二輯】――第一輯續篇・本「九段塾掲示板」の塾頭遺文/未版――
■九段塾藏版『九段塾塾頭・金城翁最終講義』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50


【參考/泉水隆一監督作品・映畫『凛として愛』臺本】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50


【第三輯】――未版――
■靖國神社宮司賀茂百樹大人遺文『明治神宮と靖國神社との御關係』覆刻
昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm


【第四輯】――未版――
■九段塾藏版『靖國神社宮司松平永芳大人遺文抄』
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50


‥‥‥‥
 
 

言靈・見神‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月18日(金)18時41分19秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

●日本郷友連盟理事長・廣瀬榮一翁『紅葉は秋だよ』(戰中派の會編『吾が子 わが孫よ――戰中派の遺言』昭和五十三年八月・櫂書房刊に所收)に曰く、「

――天皇陛下萬歳――

 昭和六年冬、二十歳の私は、陸軍砲兵少尉で滿洲事變に參加した。私は自分が死ぬときは、その瞬間に、魂は肉體を殘して飛び出さう、默つて死んで行かうと考へてゐた。

 ところが、昭和七年秋、決死隊に出され、夜暗に敵の縱隊を突破した際、敵の十字砲火を受け、隊員の一人平中一等兵は、銃彈で背中から首を貫かれた。私は物の言へない平中一等兵を抱きつゝ、平中は死の瞬間、何か言ひたいかを考へ、若しかしたら『天皇陛下萬歳』を唱へたいのではないかと思ひ、私は苦しむ平中の耳もとに、『お前に代つて、天皇陛下萬歳を唱へるよ』とさゝやき、大聲で『天皇陛下萬歳』と叫んだ。すると、今迄苦しんでゐた平中は靜かになり、昇天した。この光景に、私は強い衝撃を受けた。それは『天皇陛下萬歳』といふことが、お芝居ではないといふことである。曾て聞いた言靈といふことの意義である。‥‥

――頭山滿翁――

 禊(陸士第四十三期の同期・北白川永久王殿下のお勸めで、夏は淺間山の二度上に、冬は片瀬の海の禊)で悟れない私は、早朝、明治神宮に日參した。或る朝、拜殿前の石疊の上に、土下座してゐる老人がゐた。不思議な參拜の仕方をする人もあるものだと思つた私は、階段の下で、件の老人の立ち上がるのを待つた。暫くして立ち上がつた老人は、寫眞で知つた頭山翁である。

 どうしてさのやうな態度をとられるのかと、不思議に思つた私は、頭山翁に近しい人に、そのことを伺つた。その方曰く、『頭山翁の明治神宮參拜は、明治天皇にお目にかゝるのである。翁が神前に進むと、天皇のお姿が現れる。すると、翁は、その場にひれ伏し、天皇のお姿が消えるまで、その姿勢を變へぬのだ』と。私は強く心をうたれた。‥‥」と。



 愚案、郡順史翁が「戰中派の會」代表委員となつて編纂したてふ『戰中派の遺言』を取寄せ、讀んでゐる。一番に目に飛び込んで來た文章を、紹介してみたくなつて筆を執つた次第です。『戰中派の遺言』の帶に曰く、

子よ、孫よ、若者よ!! 心をすまして聞いてくれ!! 凄絶な戰中を、荒廢の戰後を、たゞ默々と生きぬいてきた戰中派世代が、今こそ三十餘年の沈默を破つて、叫んだのだ。生き乍ら綴つた戰中派の遺言集」と。

 言靈「天皇陛下萬歳」を以て、『中臣祓』に於ける「天津祝詞の太祝詞」(太諄辭・神咒)と比定する人あり、中らずと雖も遠からず、強力なる清祓詞の一つに相違ない。神さびたりとも、神さびたり。

 頭山立雲翁の見神は、戀闕の凝る所かとも思考したが、或る人から神仙の一人と仄聞すれば、道理で‥‥、やうやく納得した次第であります。あなゝゝかしこ。
 
 

後に續くを信ず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月13日(日)17時27分53秒
返信・引用 編集済
  ●郡順史翁『今あらためて「後に續くを信ず」』(日本民族覺醒の會『覺醒』平成十一年一月・新春號――此の機關紙は、河原博史同血社會長を通じて、森川俊秀大東亞青年塾東京本部青年部長より拜戴いたしました。難有うございました)に曰く、

「平成十一年、つひに戰後五十四年目を迎へることになつた。そしてこゝ數年來、皆樣も、現在における日本人及び日本社會が、政財面はもとより、殊更に倫理道徳の、いはゆる精神面における興廢・墮落ぶりは、つひにその極に達してしまつたと、よくお耳にし、且つお口になさつた事と存じます。ある人は、『最早、日本には、國としての明日はない』と、極言さへしてゐます。更には『日本人は、完全に變質した。最早、手のほどこしやうがない』とも。

 たしかに現在の日本及び日本人の在り樣は、私の四十數年の歴史時代小説を書いて來た、淺い歴史觀から見てさへも、倫理・道徳・生活・感情など、人間としての基本理念といふか、姿勢が、狂つてしまつた。或は變質してしまつたと思はざるを得ません。たとへば戰國亂世の時代は別にしましても、史上最も『人心亂倫し、道義退廢の極みに至れり』と言はれた、徳川時代の、元祿・文化文政・天保とかいつた時代と比較しましても、現在の状態は、その上をいつてゐるやうに思へます。なるほどこれでは、天保から三十餘年にして幕府が瓦解した如く、『日本に明日はない』と言はれても仕方がないかもしれません。

 この事は、職業年齡に關係なく、全日本人、老人・壯年・若者まで同じです。かつて『今時の若い者は』といふ言葉がありましたが、現今は通用しません。大人も若者も、一緒に狂つてゐるからです。私には、さう思へます。もつとも年齡が下がるに從つて、すなはち若年になればなるほど、自己中心的な傍若無人な傾向が濃厚となつていきますが――それだけに、愈々『明日の日本』が危ぶまれます。では、何故日本人は、こんな風になつてしまつたのでせうか。かつての日本人には、廉恥・惻隱の情、國を愛する心が豐かに在り、自分の生きる指針として來ました。そして世界の人々から、『正直で禮儀正しく勤勉で働き者』との評をもらつてゐました。さうした日本人は、一體どこへ行つてしまつたのでせう。やはり戰後、日本人の多くは變つてしまつたのでせうか? 變つてしまつたのです(【注】)。

 私はその責任の大きな部分は、少々強烈な言ひ方ですが、いはゆる戰中派世代に在る、とかねゞゝ考へてをります。その理由を述べます。但しこの場合の戰中派とは、戰爭に征つた世代、即ち大正年間に生まれた者、と限定します。敗戰と同時に、遲速はありますが、戰中派の人々は、續々と復員しました。そしてその大部分の人は、内地の地を踏むと同時に、『俺の味はつた辛酸苦勞は、もう俺だけで澤山だ。俺の子供にはのびゝゞと、苦勞のない生活を送らせてやる。その爲には、俺は身を粉にして働くぞ』と決意したものでした。

 いはゆる今日的表現でいふ『戰爭否定』・『平和』志向です。むろんそれは情緒的決意であり、願望であつたわけで、その根底に、いまはしい思想的轉囘があつたわけではありません。現在考へても無理はない、當然とも言へませう。しかしこの單純素朴な情緒的決意ないし願望は、物の見事に完膚無きまでに、マツカーサー占領軍ならびに國内にうごめきはじめた革命指向家たちに乘ぜられ、利用されたのでした。『自由・人權・平和・戰爭反對』といつた、甘い餌に食ひつくやうにさせられたのです。その餌の撒き方・食ひつかせ方のたくみさは、敵ながら天晴れ巧妙と言ふ他はないものでした。この事は、今でこそ當時のことが書かれた書物などを讀み、後追ひ體驗によつて、『さうか』と識ることが出來ますが、當時としては素朴そのものゝ戰中派世代は、實に巧妙に化かされ、いや、化かされてゐるとも意識せず、敵の掌の中で踊らされてゐたのでした。例へば――憲法の變改、東京裁判の斷罪、日本の傳統と文化・歴史の否定などゝゞです。かくて戰中派世代は、いつの間にやら、『人權・自由・平和』の、あゝ、もう一つ『民主主義』の美句のみを腦天に植ゑつけられ、政治・軍事・教育までもが敵の掌中に奪はれてしまひ、日本に非ざる日本國及び日本人造りに荷擔させられてしまつたのでした。殊に教育の主導權を奪はれたのが、今日に至るも大いなる禍根として遺つてしまひました。

 だが、當時の若者、日本復興の中堅を荷つたゐた戰中派世代も、全部が全部、この敵の謀略に氣付かなかつたわけではありません。心ある目覺めた人たちは、三十年後半に至つて、丁度安保騒動の餘波をうけた頃、『今の日本は、少しおかしい。このまゝでは、日本はダメになつてしまふ』、『あの時、我々が、「さらば祖國よ、榮えあれ」と必死の願ひをこめて死地に赴いた祖國の姿は、こんなおかしな姿ではない』、『その通り。我々が先頭に立つて同志をつのり、眞の新しい日本を再建しよう』と、戰中派世代の先輩たちが、林房雄さんら戰前派の多くの識者の應援を得て、昭和四十年に入る早々、『戰前派よ、集まれ! 團結して、眞正新日本の建設に立ち上がらう!』と、全國の戰友會などを通して呼びかけました。結果、全國から十萬を超える人々が會員として加はりました。そして十二月七日の發會式には、五千を超える戰中派が集ひ、大いに氣勢をあげました。むろん私も、若手の一人として末席に加へさせて戴きました。

 しかしこれは、はかない線香花火にすぎませんでした。戰中派の人々の中にも、すでに占領軍の日本人弱體化政策に、革命勢力の心身衰弱の毒素に、體の半分を腐らせてゐる人がゐたのです。即ち或る人は、この一大勢力を自分の政治組織に、或は商賣に利用しようと、結成早々から露骨に動きまはるのです。中にはもつとひどく、集つた金を不明に消費する人まであらはれました。この爲め『戰中派の會』は、結成ほどなく解散の止むなきに至りました。

 が、その中で心ある人々は、『この儘ぽしやらせたのでは、死んだ戰友に相濟まぬ。生ある限りこの運動を續け、心あらたにお國の爲に盡さう』と呼びかけ合ひ、七人の代表委員をえらび、靖國神社社頭において再起を誓つたのでした。一方、關西では、津村忠臣さんが中心になつて、『關西戰中派の會』を設立、今日も隆々と活動してをられます。だが、再建は難しく、結局、京田民雄を柱に、入江孝一郎・郡順史の三人が代表委員をつとめ、四十八年十月、學徒出陣三十年祭、あるいは『戰中派の遺言・男女篇』の出版、靖國神社の國家護持、四島返還、憲法改正などゝゞ、それなりの活動を致しましたが、平成二年、つひに解散のほか道はなくなつたのでした。けつして戰中派世代として、やるべき事が無くなつたからではなく、會員も年ごとに加齡、病氣・死亡などによつて減少、十二月八日の總會にも、五十名集まるや集まらぬ状態となり、會として形をなさなくなつたからでありました。いはゞ野埀死に、と言つてよいかと思ひます。『たつた一度の敗戰で――』と、口惜しくもありましたが、その反面、野埀死にするまで死力を盡したのだ、といふさゝやかな誇りと自己滿足もありました。さりながら私は今でも、時々あのとき諸々の卑しい人が出ないで、十萬の會員を擁して、戰中派一丸となり、新しい日本再建のために、あらゆる分野にわたつて活動・運動してゐたなら、今日の日本の樣相も、少しは良い方に變つてゐるのではないかと、にがい悔恨をふくんでの感慨をおぼえてゐます。

 ともあれ、この半身不隨的戰中派世代によつて育てられた子供たちが、今、四十代・五十代を迎へて、社會の中堅・トツプの席にて活動してをります。彼等は、たしかに物・食において何不自由なく成長し、體格も親世代をはるかに超えて大きく立派になりました。しかし日本破壞派の教育をうけて、思ひもよらぬ精神のバランスを失つた大人になつてゐました。そしてその子たちが、即ち戰中派世代にとつての孫らが、いま大學生・高校生の年齡となり、あたかも異人種の如き振舞ひに及んでゐるわけであります。我々が彼等を異人種と見る如く、彼等は我々戰中派世代を、少し前までは『軍歌世代』・『靖國族』と呼んでゐましたが、最近は『化石』・『戰爭お化け』と、陰口をきいてゐるさうです。これをもつてして、時代の流れ、歴史的な變化と言ふのでせうか。私には納得出來ません。なぜならば、餘りに人爲的なゆがみの結果からだと思ふからです。

 しからば如何にしたら、日本人及び日本社會を、戰前の如く世界の人々から賞讚されたやうな、清く美しい姿をとり戻すことが出來るのでせうか? こゝまで書いて來て、大變申しわけなく無責任のやうな話ですが、私にはいくら考へても、起死囘生の妙案は思ひつきません。

 でも、これだけは言へると思ひます。日本の男には、ぎりゞゝ決着に至れば、必ず性根を發揮するだらう、と言ふ事であります。これは單なる夢の如き願望でもなければ、空頼みでもありません。日本の男の腹の底の底には、それだけの輝かしい傳統と歴史があるからでございます。たとへば一つの例として、先にかゝげた徳川の元祿の時代、男の魂のもつとも腐敗した時代、武士が刀が重いとて、竹光を差したり、女風の服裝や振舞ひが流行し、武士も士道も終りかと言はれた時代、山鹿素行とか、大道寺友山、葉隱の山本常朝といつた人々が、男の復權を雄叫んで、武士道書を著し、士道を鼓吹しました。そして赤穗浪士をうみ、見事世の中を立直らせました。これが日本の男の底力であり、美學の再認識でありませう。私は、この事を信じたいと思ひます。いえ、信じます。『後に續くを信ず』と叫んだやうに、戰中派世代の一人として、體力おとろへ、行動力の無くなつた今、それなりの力を、それなりの道に全力を致しながら、もう一度、振りかへつて、後人に向ひ、さう叫び、さう願ふ次第であります」と。



【郡順史翁】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/25
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/14
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/183

【注「占領憲法下では、國體は勢ひ變らざるを得ない」――昭和二十九年に於ける平泉澄博士の豫言】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t1/10



 愚案、「戰中派の人々の中にも、すでに占領軍の日本人弱體化政策に、革命勢力の心身衰弱の毒素に、體の半分を腐らせてゐる人がゐたのです。即ち或る人は、この一大勢力を自分の政治組織に、或は商賣に利用しようと、結成早々から露骨に動きまはるのです。中にはもつとひどく、集つた金を不明に消費する人まで」現出するに至り、戰前・戰中派世代は、無念のうちに斃れ、今や、幽顯、境を異にしようとされてをります。松平永芳宮司も、既に亡く、我が塾頭も、已に玉樓中の人となられました。我々戰後派世代に、「後に續く」事を託されたのであります。艱難辛苦は、往年に百倍してをりますが、各々出來ることを、幾世代に亙つて自ら任じて立ち、楠公の如き師範を俟つて動かねばならないのであります。

 かつて平泉澄博士は、痛烈なる鐵槌を下してをられます。曰く、「年月は流れる如く過ぎ去つて行くが、人は自ら奮勵すること無く、徒らに時を待つ。新春から三十日、假にお尋ねするが、この間に、どういふ事が出來ましたか。いや、未だ何も出來てゐません。出來ないのでは無い、しないのでせう。君子たる者、自ら欺いてはならない」(『新春講話』――『日本』平成二十一年二月號・あとがき所引)と。
 
 

Re: 鈴屋翁『古訓・古事記』

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年11月10日(木)22時53分12秒
返信・引用 編集済
  > No.1395[元記事へ]

備中處士樣

>岸本弘翁再編『朗読のための古訓古事記』三卷一册――底本は、享和三年版。昭和十九年 >の幸田友成博士編岩波文庫改訂版。平成二十三年十月刊。

  早速注文させていたゞき、本日手許に屆きました。
  うん!うん!素晴しい!實に上品な仕上りです。和綴ぢがなんとも堪りませんね。いにしへの稀書を手にするやうな趨きです。藍の表紙に赤の綴ぢ紐がなんとも素晴しき品格を釀出してゐます。大きめの活字に正假名振りです。

  御閲覽の皆樣!來年三月までは會員價格で宜しいさうですぞ。是非とも御手許にどうぞ!
 

鈴屋翁『古訓・古事記』

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月 5日(土)22時47分2秒
返信・引用 編集済
  ●秋津彦美豆櫻根大人・鈴屋翁平宣長先生の哥

上代の 形よく見よ 石上 古事記(ふることぶみ)は まそみの鏡


●青垣掻隱伊豆凝爺・志濃夫廼舍橘曙覽先生の哥

廢れつる 古書どもゝ 動きでて 御世あらためつ 時のゆければ



 本日、岡田則夫翁の月例會に出席、珍しき書を戴きましたので、紹介いたします。鈴屋翁『訂正古訓・古事記』の、見事な和本仕立て、字も大きく、印字闡明、正假名遣、總振假名です。但し憾むらくは、新字體なるを如何ともする無けん。

 「國典に通ぜずんば、何を以てか正を養はむ」とは、乃木靜堂大將の學則なり矣。就中、神典古事記を拜誦せずんば、國體を闡明すること能はざるなり。若し叶ふならば、幼童より習熟するを要して、飽くこと無かる可し而已。拜誦百編、意、自づと通ずるは、抑も大和言葉なればなり。日本中興するに、古事記を以てす、是れ平成維新の第一門にして、宇内皇化の基礎たるを、大聲提唱したい。疑ふこと勿れ矣。

 皆樣にも是非とも座右に置き、神典拜誦、切磋琢磨に御役立て下さい。



■岸本弘翁再編『朗読のための古訓古事記』三卷一册――底本は、享和三年版。昭和十九年の幸田友成博士編岩波文庫改訂版。平成二十三年十月刊。
   ↓↓↓↓↓
http://homepage3.nifty.com/taisi_rindoku/ts-01.html



 岡田則夫翁の歎きて曰く、

『世に「還暦」は、滿六十歳を云ふ。數への六十一。正解なり。然るに皇后陛下の「喜壽」、御歳七十七を祝ひ奉る記事を目撃す。實は數への御歳七十八なり。是れ如何。

 又た(荒魂之會・駒井鐵平翁の記事を引きて)「周年」と「囘數」との混同、國を擧げての錯誤、亦た解消すること無し。本年平成二十三年八月十五日前後の首都圏六紙の、終戰の日に關する記事に於ては、終戰の日の囘數を、六十七囘では無く、何れも一囘を減じた六十六囘の文言を以て、新聞見出しに示せり。實は本年、夫々の日は、六十七囘・六十六周年なりき。報道の錯誤矛盾、或は無知から來るや否やを、得て知る可からず。

 又た皇室に對し奉る敬語の、甚だ薄き、或は全く無きを憂ひ、又た元號法成立するも、其の行はれず、空文化せる世の趨勢を歎く』と。
  
 

思い出3

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年11月 1日(火)18時24分16秒
返信・引用 編集済
   「愛国女性のつどい花時計」代表の「藤真知子」樣より、『泉水隆一監督の思い出』の玉稿を賜りました。塾頭晩年の貴重な證言であります。『靖国神社の真実』の附録「遺響篇」に掲載させて戴かうと存じます。藤代表、本道に有り難うございました。



思い出1
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1285

思い出2
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1363

思い出3

九段会館で「凛として愛」の上映会を行った後にいろいろと活動について、いま
の日本人についてお話しをしました。
泉水隆一監督は「私はあと10年も生きていない。だからそれまでに知っている事
をすべて教えたい」とおっしゃっていました。
そこで私たちは監督から歴史を教わる事になりました。

まずは10人程度からと思っていたので、
上映会に携わった約30人の方の中から参加希望者を募りました。
そこで16人の方が希望してくれました。

監督に伝えるととても喜んでいました。
歴史の勉強は「少年日本史」(平泉澄著)で行う事になりました。
勉強会を始める前に監督が送ってくれたメールがあります。
その中に下記の文章がありました。


~ここから監督のメール~

一億国民に崩壊の危機。
●日本が日本であるために

大和民族のふるさとへ還れー神国日本へー
------------------------
汝臣民は父母に幸を尽くし 兄弟弟妹仲良く 朋友互いに互いに信義を以って交わり
人々に対し慈愛を及ばすようにし、知識才能を養い、善良有為の人物となれ
そして万一国家に緊急の事態おこらば大義に勇気を奮い起こてし一身を捧げて皇
室国家のために尽くせ。
------------------------
あらたな教育勅語を以って  日本は神の国に還る

尊王の国 勤皇の国として 皇祖皇宗の子孫として日本国民1億は遥か悠久の大
義の昔に引き返す。
------------------------

~ここまで~



年があけてから歴史勉強会が始まる予定でしたが、
監督の体調がすぐれなくて延期となりました。
監督に会いに行くと、勉強会の事や映画製作の事など構想を練っていて
映画はあと2本つくりたいと言っていて、俳優も誰にやってもらうか考えていま
した。
話を聞いているとこちらも楽しくて、勉強会もすごく楽しみでした。

それから4カ月たって平成22年6月にご家族の方から監督が危篤だと連絡がありま
した。
病院は偶然にも私の家から歩いて5分ほどの場所でした。
すぐに病院に向かい、勉強会に参加予定の方たちがメールで送ってくれた
勉強会への意気込みのメールや「凛として愛」を見た方たちが送ってくれた感想
メールをもっていきました。
そのメールを耳元で読んで、その日は帰りました。
翌日も感想のメールをまとめて病院に行き、
耳元で読みました。その翌日も。

病院の先生も奇跡的だと言っていたのですが、危篤状態だった監督が元気になっ
たのです!
きっと「凛として愛」の感想を聞いていて、
あと2本映画製作したいと言っていた気持ちがさらに湧きあがったのだと思います。
監督は「凛として愛」という名作を残してくれました。

泉水監督は平成22年7月16日に逝去されました。
8年前の此の日、僅かに二日半で上映中止され絶望の淵にあった日でした。
泉水氏の告別式は式場の関係で26日に行われましたが、この日こそ、泉水監督
が反日思想がはびこり、総理大臣も靖国神社に背を向ける日本の現状を憂いて、
靖国神社に、渾身の思いを込めて書かれた、映画制作への珠玉の趣意書を出され
た日でした。

泉水監督は、国家のために尊い命を捧げられた数多の英霊に報いるには、「凜と
して愛」が日本全国に広まり、一人でも多くの日本人が先人がたに対して感謝と
哀悼の思いを持つことだと生前、切々と話されていました。
故泉水隆一監督の崇高な思いを心に刻み、私たちは「凛として愛」が一人でも多
くの国民の目にふれることを願って止みません。



http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/
 
 

元號大權――天皇の御民として生きる。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月29日(土)12時57分41秒
返信・引用 編集済
  ■改元の詔(明治元年九月八日)

 詔。太乙を體して位に登り、景命を膺(う)け以て元を改むるは、洵に聖代之典型にして、萬世之標準也。朕、否徳なりと雖も、幸に祖宗之霊祇に頼り、祗(つゝし)みて鴻緒を承け、躬、萬機之政を親らす。乃ち元を改め、海内億兆と與に更始一新せんと欲す。其れ慶應四年を改め、明治元年と爲す。自今以後、舊制を革易し、一世一元、以て永式と爲せ。主者、施行せよ。


□元號法――昭和五十四年・法律第四十三號(六月十二日)
一、元號は、政令で定める。
二、元號は、皇位の繼承があつた場合に限り改める。
附則
一、この法律は、公布の日から施行する。
二、昭和の元號は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。


□元號を改める政令――昭和六十四年・政令第一號(一月七日)
 元號を、平成に改める。
附則
 この政令は、公布の日の翌日から施行する。



●瀧川政次郎博士『元號考證』(昭和四十九年六月・永田書房刊)に曰く、

「『元號大權』といふのは、私の新造語である。これまでに、このやうな語を用ゐた人があるかも知れぬが、寡聞にして私は聞かない。元號大權といふのは、天皇が元を建て、元を改められる權利であつて、この權利は、臣下の者の干犯を許さない、天皇の專屬せる權利なるが故に、あへてこれを大權と名づけたのである。天皇が有せられた元號大權は、昭和二十二年五月の新皇室典範の施行によつて消滅したかに見えるが、濳在的には、天皇はなほ元號大權を有してをられると思ふ。

 日本天皇のもつ元號大權は、古代中國(愚案、支那)の帝王が有した授時大權に由來する(祭天大權ならびに建元大權――改元大權+頒暦大權+授時大權――)。上古三代の中國の帝王が、領土を支配すると同時に、時をも支配するものと考へられてゐたのは、太古において帝王が日蝕を左右する呪術者であつたことに由來すると思はれる。中國最古の史書ともいふべき『春秋』が、魯の國(山東省)に起つた日蝕を克明に記録してゐることは、このやうな想像を可能ならしめる。春秋の時代には、周王のみならず、諸侯の覇主までが、正朔を頒つた。正朔を頒つといふのは、正月元旦と毎月の朔日とを定めた暦を、人民に頒布して、その暦日を遵奉せしめることを謂ふのである。暦を頒ち與へて、人民をしてこれを奉ぜしめることは、帝王の權利であると同時に、義務でもあつたのである。この正朔(年)の元に、吉祥の文字を附して、何々の元の年としたものが、すなはち年號であつて、年號の始まりは、前漢武帝の建元元年である。

 爾來、中國歴代の帝王は、みな元を建て、元を改めたが、隋・唐の間、その思想と制度とは日本に傳はり、日本の天皇は、大化以後、中國歴代の有した授時大權を受け繼ぐに至つた。その授時大權は、漢の武帝の時以來、年號を建て、年号を改める權利となつてゐたから、日本においては、これを元號大權と呼び改めた方が適切であると思ふ。

 大化より大寶に至る半世紀間には、年號の缺けた年もあつたやうであるが、大寶以後、現代に至る千二百七十餘年の間、年號は歴代の天皇によつて建てられ、一度も斷絶したことがない。その改元には、瑞祥によるもの、災異によるもの、辛酉革命、甲子革令、三合等の暦法上の凶年によるもの等があつたが、御代始めに行なはれる即位改元は、一二の例外を除いて、必ず行なはれた。故に御歴代の中には、後醍醐天皇のやうに、御一代のうちに、九の年號を建てられた天皇もあつたが、明治元年九月、一世一元の制が定められ、即位改元以外に、年號を改めることはなくなつた(愚案、從つて今日では、元號とは、天皇御在位の御稱號であり、其の亂用私物化は、之を愼しまねばならぬ。皇室式微、陰陽寮退轉の後、暦は、「神の朝廷」と稱せられた伊勢神宮に於いて造られ、御師によつて全國に頒布)。

 この制度は、明治二十二年二月十一日、帝國憲法と同時に公布された皇室典範によつて確認せられ、改元の手続きは、皇室典範の附屬法である登極令において、
元號は、樞密顧問に諮詢したる後、之を敕定す。
元號は、詔書を以て之を公布す。
と定められ、改元が天皇に專屬する大權事項であることが明言せられた。しかし、天皇の御意思によるにあらざれば、年號を改めることはできないといふのは、大化以來の不文法であつて、攝關・武家の專權時代といへども、この天皇の大權は、かつて犯されたことがないのである。故に我が國においては、唐末の五代十國時代のやうに、年號が同時に二つも三つもあるといふことはなかつたのであるが、鎌倉時代に、皇統が大覺寺流・持明院流の二流に分かれ、大覺寺流の後醍醐天皇の時代に、持明院流の皇子が、足利尊氏(ママ、高氏)によつて擁立せられ、天皇の位に即かれたから、國に二王を現じ、年號も北朝年號と南朝年號との兩建となつた。これ正に我が國における年號異變の最大なるものであるが、百代後小松天皇の御代に至つて、皇統、一に歸し、年號も歸一するに至つた。

 大化以後、大寶年代に至つて、唐帝の授時大權に伴ふ種々の制度は、唐の律・令・格・式を通じて、日本に受け繼がれた。その主なるものは、天皇の時の支配權に服することを誓ふ元正朝賀の式であるが、この儀式は、奈良・平安の時代を通じて、毎年、嚴かに行なはれた。また唐帝が授時を行なふためにおかれてゐる太史局に傚つて、我が國においては、陰陽寮なる官司が設けられ、暦は陰陽寮の暦博士によつてつくられ、一日の十二時は、陰陽寮の漏刻博士によつて報ぜられ、日蝕その他の天文の變は、天文博士によつて觀測せられた。それらの制度が、國民の生活に及ぼした影響は甚大であつて、その民俗となつたものは、今に行なはれてゐる。‥‥

 天皇が元號大權を有せられたことは、古代中國の帝王の屬性を受け繼がれた天皇が、アキツミカミであると同時に、時を支配する皇帝であらせられたことを知ることによつて、初めて納得せられることである。故に元號は、天皇制(ママ)と關係がないどころか、天皇制そのものであつて、‥‥

 新年は、天皇の定め給うた新年であるから、謹んでこれを賀し奉らねばならない。『賀正』とのみ書いては不敬にあたる(『謹賀新年』の眞義は、こゝに存す)。『一九四七年』などと、異國の年號に近いものを書くのは、天皇の時の支配權を否認するものであつて、謀叛豫備罪にあたると、深く信じてきた私にとつては、昭和の年號を廢して、西暦に一元化せよといふ論者の説を聞くことは、大なる苦痛である。『それでも、お前は日本人か』と、罵倒してやりたいやうな衝動に驅られる。‥‥

[序言]‥‥大寶・養老の『律令』の儀制令の一篇には、
凡そ公文に年を記すべき者は、皆、年號を用ひよ。
とあつて、公文書には、朝廷の定め給うた年號を書かねばならないことが明定せられてゐる。公文書を作つた官吏が、もし干支のみを書いて、年號を書くのを忘れたとすれば、どうなつたかといふに、その官吏は、
凡そ令に違ふ者は、笞五十。別式は、一等を減ず。
といふ雜律の條文によつて、笞五十に該當する官吏の閏刑贖銅五斤を科せられたに相違ない。もしそれが天皇の統治權に服することを拒否する意圖を以て、故意にその年號を削つた場合には、次の賊盗律の條文によつて、謀叛豫備罪に問はれる。
凡そ謀叛は、絞。已に上道せらば、皆、斬。子は中流せよ。(中略)即ち山澤に亡命して、追喚に從はざる者は、謀叛を以て論ぜよ。
山澤に亡命して、追喚に從はざる者は、帝王の空間的支配圏の外にゐようとするものであり、天皇の定め給へる年號を奉ぜざる者は、帝王の時間的支配圏の外に逸脱せんと欲するものである。空間・時間を異にすといへども、天皇の統治權の外にありたいとする點では、兩者異なるところはない。故に年號を奉ぜざる者の罪は、山澤に亡命する者の罪に準ぜられるのである」と。



 愚案、東洋に於ては、人倫の道に缺くる所があれば、詩歌書畫の佳品と雖も、糞尿の如く見なす傳統がある。例へば王維の詩、趙子昂の書畫、精絶なりと雖も、採るべけんやとて、之を重んじない。道義出處に悖る所があれば、學藝に秀でると云つても、所詮一藝者に過ぎない。出處進退の疑はしき者、即ち二王に仕ふる者は、其の書法、正朔を奉ずるか、奉ぜざるかを見れば、直ぐ判る。淺見絅齋先生『靖獻遺言』を繙いた人、或は吉野時代を知る人は、之を諒解するはずだ。現代では、殊に書の序・跋の署名を見れば、大半は判る。塾頭は、「靖國神社を靖国と呼び捨てにする者の意見は、聽く必要が無い」と申されたが、其の定理を援用すれば、「元號を奉ぜざる者の意見は、讀む必要が無い」。

 小生の大學一年の時であつたらうか、『祖國と青年』とか云ふ雜誌に、其の編輯の手傳ひをしてゐた先輩に乞はれて、其の讀者欄に、「西暦を使用を憂ふ」てふ一文を投稿したことがあつた。僞古文であつた爲であらうか、しつかりと口語譯されてはゐた(苦笑)が、懷かしき想出の一つである。「元號を奉ぜざる者は、天皇の支配に服せざる者である」との認識が、小生にはある。爾來、終始一貫、洵に要領の惡い人生を送つて來たのであるが、此の信念は、死して猶ほ搖ぐことは無い。即ち「天皇の御民」として生きんと欲する者は、元號を奉ずること、當然當爲の行にして、謹みて須らく奉行して戴きたいのである。元號を奉ずることが出來てこそ、初めて皇紀も併用したい。
  ↓↓↓↓↓
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 元號法制化に生命を賭した御方も、此の世の中には嚴存した。大東塾の影山正治翁である。然るに最近は、衆寡敵せずと謂ひつべきか、此の年號を以て括弧にくゝり、西暦を主とする門下生も輩出したと聞く。本末顛倒、慨歎に勝へないと共に、悲しい限りだ。

 平田大壑先生『赤縣太古傳』三皇紀三に、「清虚元年とは、太一の元氣發動して、天神たち世間成立の事を行へる初年の義なり。歳、甲寅に起ると云へる年を謂ふ。此の餘にも、神眞界の年號多く所見(みえ)たり。そは路史に、三皇經に云く、天皇は平初元年を以て出治。地皇は太始元年を以て出治、と。按ずるに、道書に、元景・延和・赤明・延康・康泰・龍漢・開皇・無極等の號有り、と云へり。なほ此の外に、見覺えたるも、上皇・中皇・天漢・天景・上靈・元始・開光・清濁・清漢などあり。抑もかゝる年號はも、盤古・三皇などの當昔(そのかみ)に、實に有りし事には非ず。後に神眞たちの上古の事を語る時に、假に紀號と爲したる物と見えて、諸書を參考するに、多く其の例なり」と見え、或は古神道の傳承では、幽界にも年號あつて、出雲杵築の閟宮より出づと云ふ。然れば元號・年號は、顯幽一貫の風俗にして、忽せには出來ぬ至重至大のもの、殊に顯界に在つては、天皇の大權であること、申し上げるまでも無いのである。
 
 

遁辭としての「王家」

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月25日(火)19時02分46秒
返信・引用 編集済
  ●大西郷『湊川感懷』(明治八年以降)

王家、萋棘、古も猶ほ今のごとし、遺恨なり、千秋、湊水の潯(ふち)。
願はくは青螢と化して、墓畔(楠公墓邊)に生れ、香骨(楠公精神)を追隨し、吾が心を快(よろこ)ばしめむ。
  ↓↓↓↓↓
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 來年のNHKの大河ドラマで、雲深き邊を「王家」と呼稱して、一部顰蹙を買つてをる由。此のNHK、或は言ふであらう、「『王家』とは、當時の呼稱でもあり、亦た『尊王』と今でも使ふ所、何が惡い。西郷さんも、斯く詠つてゐるではないか」と。

 然し、其の心ばへが違ふのだ。雲深き邊であるが故に、敢へて憚つて「王家」と云ふ。尊王の文字は、支那周代の言葉から來つて、我が國の斷章取義する所にして、これも畏き所を憚つて用ゐしもの、其の心情は、炳かに指し奉るを遠慮したものである。伊勢の外宮に在つても、「皇」字を憚らざるを得ざるものあり。小生も、尊皇を稱ふるに、此の身を慚ぢて、「皇」の尊字を憚り、敢へて「尊王」と書し奉ることも數々ある。

 もつとも韓國の俗論が、我が皇室を呼稱するに、「日王」を以てするは、固より言語道斷、鼓を鳴らして之を撃つべきであるが、NHKが、韓國事大の思想から來つて表現するもので無い以上、殊更ら問題は無い。つい最近まで、「佛法、王法に對坐す」と、禪坊主も、偉さうにほざいてゐたでは無いか。

 抑も藝人俳優てふ一國民が、皇族を演じ奉ることこそ、大いに問題とすべきもの、況んや譬へ名優が奉贊宣傳の意を込むと雖も、宇内唯一、無私絶對の天皇を、映像にて表現し奉ること能はず、不敬と紙一重、辭退するが至當である(已むを得ざるときは、かつては御簾を以てし、或は肖像畫を以てし奉れり)。

 再言す、演目が雲深き邊に關はるならば、NHKが、中華事大の思想から來つて表現するもので無いならば、せめて「これは虚構小説であつて云々」の斷りの一文を挿入し、遁辭として「王家」と申し上げる方が、却つて穩健至當と謂ふべきかも知れない。件は、NHKに對して、勿論、強烈なる皮肉も籠めてゐる心算ではあるが‥‥。

 然し此のNHK、かつて太平記を扱つたドラマで、楠公自ら七生報國を否定してゐた。たかがドラマと、云ふ勿れ。これこそ、正に我が國史の捏造であり、吾が國體への挑戰である。斷々乎として、之を許すこと能はぬ矣。批判すべき秋に、之を批判しなかつたが故に、NHKは、之に味をしめたのである。恐れることは無い、何でも出來る、と‥‥。

 抑も我が大君、即ち天然なる天津日繼の尊を以て、人工異國の皇帝・法皇(徳望や覇力や神祕力を以て成り上がりし者)と比較する者もゐるが、それ自體、絶對無姓を相對有姓に貶め、不敬極まる痛恨事たるを知るべきである。また歴史ある「王家」の呼稱より、寧ろ「天皇家」と稱する方が、異國familyの謂ひを含んで、大いに問題だ。かう云ふ連中に限つて、「邪蘇」暦を頻用し、「21世紀」とか云つて、何より謹愼を知らない。
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 更に「倭の五王云々」には、之を默殺し、或は承久の變ないし御計劃を、君臣の分も辨へず、「」とか云つて憚らず、或は支那ではあるまいに、「南北朝」と大書して、後醍醐天皇の大權を干犯してゐるのも氣づかない。かういふ方々は、萬葉集の原文や、佐久良東雄先生の哥を繙いて、「王」字の多きを見れば、實際、卒倒するのではなからうか。標記、大西郷の詩も、僞作と云はれかねない勢いだ。NHKを責めるにも、「皇室に對し奉つて、敬語を丁寧に申せ」と、他の批判苦情の方が重且つ大であらうに‥‥。

 敬語の復活こそ、喫緊の課題である。皇室の尊嚴を守る所以に他ならぬ。然し松平永芳宮司は、「御皇室」てふ日本語は無い、と仰つた。塾頭は、「皇」の前に來る字は無い、と申された。かやうな苦言忠告は、聞いても耳には入らぬやうだ。一度、伊勢神宮に拜趨して、彼の大御札を拜戴し、目を瞠つて能く見るがよい。さう云へば、「お社長」とも云ふべき「ご皇室」なる辭、平泉澄先生の書で、かつて一度も見たことは無い。

 序でにもう一つ。皇紀を用ゐて、元號を使はぬ者がゐる。皇紀は、云はずと知れた、神武天皇ご即位の紀元だ。之を誇る餘り、「世界最古の國」と稱して、それ以前に、皇國は、遙か悠久の積年あるを知らぬ者もゐる。皇紀では、ソロモンを始祖とするエチオピア皇帝の公稱三千年(我が昭和四十九年、革命)の長きに劣るでは無いか。何か間が拔けてゐる。紀年法は、元號が大本であり、正朔を奉ずる眞義の深きを知つて戴きたい。書いてゐて、段々怒りが込み上げて來た。いかん、筆を措く。
 
 

草莽之臣の述志――青螢の至願。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年10月 2日(日)13時01分51秒
返信・引用 編集済
  【參考・楠公傳】
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【參考・大西郷「願はくは青螢と化して、楠公墓畔に生れなむ」】
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 昨日、西郷南洲顯彰會『敬天愛人』第二十九號(平成二十三年九月二十四日)を戴いた。本年五月一日より十二月二十八日まで、鹿兒島市立西郷南洲顯彰館にて、湊川神社・廣嚴寺・如意輪寺・大阪府千早赤阪村の協力の下、『尊王精神の繼承・一・楠公と西郷隆盛』てふ特別企劃展が開かれてゐると云ふ。本號には、冠に、其の圖録(館長・高柳毅翁筆。五十八頁)が掲げられてをり、大楠公の、大西郷外へ影響と繼承の趾が、歴然と分明されてゐる展示である。二三紹介したい。



●『楠公壁書』自戒十九條(大楠公六百年記念・昭和乙亥之歳、穰洞仙史書)

君の爲に身を捨つる、忠と云ふ。
親の心に背かずして、良く仕ふるを、孝と云ふ。
老いたるを敬し、士卒を撫育し、國民を憐れむを、仁と云ふ。
一度び諾して變ぜず、始終全きを、義と云ふ。
謙退辭讓を、禮と云ふ。
籌策を帷幄の中に運らして、勝を千里の外に決するを、智と云ふ。
苟も虚言を構へず、信を失ふべからず。
遠き慮なき者は、必ず近き憂あり。
萬事に愁へず、屈せず。
過ぎては改むるに憚ること勿れ。
邪曲輕薄人と交るべからず。
大酒は失多し。
色情は身を失ふ。
僻(ひが)むは、嫉妬偏執の深きなり。
儉約を專とし、奢侈を愼み、人の非を見て、我身の行を正すべし。
 我(楠公自身)、愚なる故に、壁書して愼とするのみ。



●大西郷の私學校に祭られし「楠公木像――雲の臺(うてな)の上の立像――右手に二本の矢・左手に弓・胴着の菊水紋・毛皮の具足の甲冑の御姿」の由來

水戸義公の、醫王山廣嚴寶勝寺(建武中の勅願寺)に奉納せし三體の一(他の二體は、昭和二十年の神戸空襲にて燒失)。大楠公・楠木正季公兄弟および南洲の遠祖である菊池武吉公の自刃の場所は、此の廣嚴寺の域内の庵であつた(民家に非ず。現在は湊川神社境内)。
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薩摩國伊集院郷石谷の熊野神社
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安永六年、鹿兒島・町田久甫の家に遷祀。
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文久元年九月四日、有馬正義先生、再び石谷に楠公神社を建てゝ祭る(精忠組の盛大なる祭典)。
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文久二年、町田民部久成の家へ。春秋二季の大祭・毎月二十五日の賑ひあり。
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明治、伊集院地頭・坂木六郎、地頭假屋に遷し、表座敷に奉祀。
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明治三年三月中旬、大參事・西郷隆盛、主唱して、鹿兒島軍務局に遷祀。「御軍神樣」として、毎月六日に大祭を營み、知事公以下、文武官および一般に及ぶ參詣あり。武運長久を祈り、忠節を勵むを例と爲せり。軍務局では、將卒一統に神酒下されの儀あり。四年四月、西郷の擧兵上京の際には、楠公祠の前にて、兵士全員整列、拜禮の後に出發と云ふ。
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六年秋、西郷下野の後、私學校(鶴丸城厩跡)へ引取り、「守護神」として祭る。
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九年十二月(一説・十年一月)、宮之城區長・邊見十郎太、宮之城屋地(現・さつま町)へ遷祀。


○南木明神の木像(大阪千早赤阪村の石川水分神社の攝社・南木社――『南木誌』に、長山鈞の謹寫せし『左中將楠公肖像』として所收)

『楠公肖像記』に引く所の『退私録』に云ふ、「河内石川水分社は、楠氏の世々崇奉する所、左側に楠公の祠有り。奉祀の木像は、束帶儼然、當時の遺影にて、南木明神と稱す。正平帝(後村上天皇)、號を賜はる所なり」と。



●高山赤城(彦九郎)先生『楠公の墓前に於いて敬録す』に曰く、

「嗚呼、南朝の忠臣・楠氏。嗚呼、北朝の國賊・足利氏。我が祖・高山遠江守、南朝に奉仕す。大いに勤王國策を唱へ、尊氏(ママ。高氏)を難苦すと雖も、終ひに尊氏を滅盡する能はず。實に百代の遺憾有り。憤怒、停まる時無し。則ち正成の墓前、砂上に尊氏の首を描き、其の首一百囘、鞭打つ。以て楠公に謝し、勤王の素志を表はさん矣。天明二年壬寅孟春初七日、楠公の墓に謁して敬みて録す。草莽之臣・高山正之」と。


○頼山陽外史『高山彦九郎傳』(天明二年十一月十八日)に曰く、

「少くして平安に入り、三條橋の東に至りて、皇居は何れの方かと問ふ。人、之を指示す。即ち地に坐して、拜跪して曰く、『草莽之臣・正之』と。行路聚まり觀て怪笑すれども、頼みざる也。京郊に遊び、足利高氏の墓を過り、其の罪惡を數(せ)めて大いに罵り、之を鞭うつこと三百なりき」と。


○大西郷の哥

馬子(蘇我)らが 草むす尸(かばね) 得てしかも 切つて屠(はふり)て はぢみせましを


○逆賊・足利の首を梟して、志を述ぶの心、凡俗の知る所に非ず、「草莽之臣」たる所以なり。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1314


○慘たる哉、逆賊の建てし物件の現状――逆賊の棲處は、魑魅邪鬼の凝集する、理の當然なり矣。
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●雲井のさくら(琴曲の歌・楯山檢校の調)

 ちれとをしへし さくらゐの ふかき心を くみしりて わかれし父の おふせこと そむかじものと 君のます よし野の山の 宮どころ かたくまもれと しばゝゞも 北ふく風の 吹つのり 雲井のさくら うつろはむ けしきみゆれば いまはとて おもひさだめて 年はまだ わか木の花の さかりなる 朝ながらも 青柳の みどりの髮を 切すてゝ 手にとりならす あづさゆみ 引かへさじの ことの葉を 殘おくこそ あはれなれ 大峰おろし はげしくも 北ふく風を 吹かへし すゝみゆけば 仇ともは 秋の紅葉の ちりゞゝに 亂れしあとも いかにせむ 飯盛山の ふもとなる 四條なわての あたりにて 父のをしへは この時と つひにはかなく なりはてし ますら健雄の まごゝろの あかきこと たれかめでざらむ  七十齡・彈琴翁
   
 

思い出2

 投稿者:藤 真知子  投稿日:2011年10月 1日(土)00時21分12秒
返信・引用
  九段塾のみなさま。
ご無沙汰しております。
前回の続きです。


「凛として愛」のナレーションは泉水監督がされているのですが、
ナレーションを考えているときに自分ではないような感覚があったそうです。
自分では思ってもいない言葉が次から次へと出てきたと、
ナレーションには英霊の気持ちが反映されていると言っていました。

また「凛として愛」の中にはフィルムが逆回しになっている部分があります。
逆回しでなければ映らないものがあるそうです。
私にはその逆回しにすると映るといわれているものが見えませんでしたが、
見える方には見えるそうです。
それに監督が気付いて、映画にも逆回しでその部分を使ったそうです。

あと1か所、最初のほうに出てくる兵士の遺体の部分で
監督がいれていない映像が入っている部分もあるそうです。

映画を作っている時は靖国神社に泊まり込んでいたそうなのですが、
その時に何人もの英霊と会ったりなど不思議な体験を何度もしたとお話されていました。


九段会館で上映会を行う前に泉水監督が「今回のこの九段会館での上映会は『凛として愛』の凱旋だ。上映中止になった靖国神社のすぐ目の前での上映会。これは凱旋だ。」と言われました。


この九段会館のイベントは9月中旬頃に何か年末にイベントをしようということになり、
内容が決まらないまま、会場探しをしました。
大きな会場はほとんどがとれずに、9件目に電話をしたのが九段会館でした。
もうダメだろうなと思いながら電話をしたのですが、
12月27日があいているという事ですぐに仮予約をいれました。

この時点では何をするか決まっておらず、
そこから企画が始まりました。

色々と企画を考えましたが、コレというものがなく、
色んな方に相談をしました。
私が相談した方の中で「日本の心をつたえる会」会長のねずきちさんが
九段会館なら大型スクリーンで「凛として愛」が見たい。と言われました。

「凛として愛」はブログ「花うさぎの 世界は腹黒い」で夏頃からずっとお勧め動画として
youtubeの動画が紹介されていて知っていました。
花うさぎさんにも協力して頂き企画内容をまとめあっという間に上映会が決まりました。

youtubeでクルーンPさんが「凛として愛」を紹介していて
その動画を花うさぎさんがブログで紹介
ねずきちさんがその映画を九段会館で見たいと話し、
九段会館の会場をかりて、平成21年の年末に上映会が行われた。

現在はブログ「この国は少し変だ!よーめんのブログ」のよーめんさんが英語翻訳版をyoutubeで紹介してくれています。

~続きます~

http://www.hanadokei2010.com/

 

天皇爲本の大道。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月28日(水)00時17分42秒
返信・引用 編集済
  ●僅存居主人幡掛正浩翁『君は千代ませ――改題・天皇――聖和合人』(『新勢力』昭和五十年十一十二月合併號・十二月補。『神國の道理』昭和五十二年三月・日本教文社刊に所收)に曰く、「

 神社本廳の講師懇談會の席で、ある時、「神社神道で、本尊といふものを考へるとすれば、それは、天皇でなければならぬ」と言つたら、一せいに反撥が返つてきて、「そこまで言ふのは、言ひ過ぎだ」と、座がざわめいた。是非さういふものを考へねばならぬとすれば、せいぜい、天照大神とすべきだといふのが、大方の意見のやうであつた。

 私は爭はなかつたが、承服はしてゐない。多分、諸先生がたにとつては、人身をそなへられた天皇を、信仰とか宗教とかの對象としての本尊とすることに、心中に抵抗を覺えられたものと思ふ。だが、私には、かういふ感覺自體を、もういつぺん疑つてみる必要を感ずる。率直に言つて私には、かういふ感じ方は、近代人間主義(ヒユーマニズム)にイカれた、一部宮廷官僚のセンスと同じだとしか思へない。天子樣を、現人神・明津神と申しあげることは、天皇と日本人社會との生成に由來する構造上の稱呼であつて、それ以外のものではない‥‥、人身を備へたものは人間で、神とか佛とかいつたものは、何となく目に見えぬものでなければならぬ――といつた子供じみた議論では、どうしやうもないのである。

 天子樣も、風邪を引かれれば、熱が出るに違ひない。藥も召し上がるであらう。生物學や醫學の對象としては、天子樣も人間であることは、三ツ子でも知つてゐる。さういふ肉體をそなへたものは、崇拜の對象にはなつても、信仰の對象にはならぬ、それが宗教といふものだと言ふのなら、喜んで宗教の仲間から外してもらつていい。

 もう少し言はせてもらふなら、歴史上の天皇は、多く佛教にも歸依せられ、また御自ら神々に幣を奉られた――だから人間ではないかと言ふところだらうが、まさにその通りの御存在であるといふことを肯定した上で、私は、敢へて天皇を御本尊と仰がうとするのである。神社神道とは、さういふものだといふことを、もう私は早くからきめてゐるのである。

 第一、『古事記』や『日本書紀』を大事な所依の經典としながら、どうして天皇が本尊でないといふことが言へようか。私も宗教とか信仰とかいふ用語を假りに使ふが、それはあくまで假りの約束であつて、言ふならば神社とか神道とかいふものは、最も宗教くさくない、最も信仰くさくない宗教・信仰といふ程のものであつて、本尊が目にみえようが見えまいが、そんなことには、一切無關係である。‥‥

 さういふ假りの約束で、宗教・信仰といふ語を使用する時、神社神道とは、「天孫降臨」といふことを信仰の中心に置く宗教と言ふことが出來る。記・紀をすなほに讀めば、このことは、何人も否めまい。斷つておくが、あれは神話だといふ程度の常識なら、唯物史觀の信奉者でも、何やら學會の狂信徒でも肯なふ筈。さういふ程度の昔語りとして「天孫降臨」を受けとめるのではなく、その降臨の神統(本尊)が、今の現(うつ)つに、このわが日本社會の構造上の眞唯中に照臨ましましてゐるといふ感激に生かされて、はじめて神社神道が信仰となり、宗教となる。

 それに、もう一つ大事なことは、この天孫降臨といふハイライトに隨從された、天兒屋命・太玉命が、高皇産靈尊から、自分も神籬・磐境をたてて、皇孫の爲に齋ひまつるから、汝し命らも、宜し天津神籬ほ持つて、葦原の中ツ國に降り、また皇孫の爲に齋ひ、奉れよ、といふ神敕をいただかれ、これが神社の起源、同時に本質を爲してゐることである。伊勢の足代弘訓は、「天つ社 國つ社は あまたあれども 君を千歳と 守らぬはなし」と詠んだが、つづめて言へば、神社とは、もともと日本流のゴツド・ブレス・ザ・キングの祈りの場であつたのである。

(天皇本尊論は、神社界の某方面で、惡評を買つてゐるさうである。‥‥私とて、一見突飛な、人の意表をつくやうな「天皇本尊論」などいふ表現を用ゐて得意がつてをるつもりはない。「本尊といふ言葉が嫌いなら、やめてもよい」と、はつきり斷つてある筈である。だが、なぜ私が、それにも拘らず「本尊」といふコトバを使はねばならなかつたかといふことは、文脈全體を熟讀してもらへば判る筈だ。それは、人の耳なれぬ言葉であり、決して最適とも、本心思つてゐるわけではないが、實體の本質を、一度適切に合點させる爲には、時にかういふ表現を借りることも不可でなく、また捷径と考へたが故にほかならない。願はくば、批評にあたつては、「本尊」といふ表現を思想の文脈から切斷し、その適不適を論ずるといつた低次元の議論だけはやめいほしいといふことである)」と。
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 備中處士案、「天皇本尊」論は、かつて日蓮宗の一部にもあつた由であるが、彼の「法華曼荼羅」の、天照大神の御配置を見るにつけ、惡寒頭痛を催さゞるを得ず、固より小生の與かり知らぬ所である。幡掛正浩翁は、後に伊勢神宮少宮司となられた神道人、小生にあつても、元來、天皇を「本尊」と仰ぎ奉る者、天皇お坐しまして、初めて萬象悉皆が所を得るのである。杉本中佐『大義』の禪臭は、小生の嫌ふ所なりと雖も、「天皇は、天照大御神と同一身」に坐しますは、神典に神祕の漏傳ある所にして、天皇爲本の大道、即ち神道の骨髓である。之に因らざるものは、私見妄説たるを免れず、日本人たる者、宜しく「天皇歸一」の自覺に復らねばならぬ。私見に理屈をつけた論説は、小生、既に飽きた。祝詞・記紀・萬葉を拜讀して、靜かに「天皇爲本」(或は本尊)と云ふくらしの仕組みと古道の旨を聞け。萬古、天皇を仰ぎ奉れ。

 時あたかも、はゆまつかひ樣には、「宮城遙拜詞」のご紹介にあづかつた。有志の集會には、必ず國民儀禮あり。是非とも、主催者には先導し、嚴かに奏上あられたい。
  ↓↓↓↓↓
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■宮城遙拜詞

 最敬禮

掛けまくも畏き

天皇命(すめらみこと)の皇居(おほみやゐ)を謹しみ敬(ゐやま)ひ

遙かに拜(をろが)み奉らくと 白(まをー)すー


 最敬禮

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●從五位勳四等功四級・杉本五郎陸軍歩兵中佐の遺著『大義』第一章・天皇(昭和十三年五月・平凡社刊。平成十二年九月・大義研究會復刊。十八年三月・皇國史觀研究會復刊)に曰く、

天皇は、天照大御神と同一身にましゝゝ、宇宙最高の唯一神、宇宙統治の最高神。國憲・國法・宗教・道徳・藝術、乃至凡百の諸道、悉皆、天皇に歸一せしむるための方便門なり。即ち、天皇は絶對にましゝゝ、自己は無なりの自覺に到らしむるもの、諸道・諸學の最大使命なり。無なるが故に、宇宙、悉く天皇の顯現にして、大にしては、上三十三天、下奈落の極底を貫き、横に盡十方に亙る姿となり、小にしては、森羅萬象、天皇の御姿ならざるはなく、垣根に喞(すだ)く蟲の音も、そよと吹く春の小風も、皆、天皇の顯現ならざるなし。釋迦を信じ、キリストを仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の眞理・具現者、天皇を仰信せよ。萬古、天皇を仰げ。

 日本臣民は、自己の救濟を目的とせずして、皇威伸張を目的とせざるべからず。勿論、自己は、皇威に於て救はる。然れども救はれんがために、皇威伸張を念願するにあらず。天皇の御前には、自己は無なり。君民一如の自己、尊きにあらず。自己に體現せられたる、天皇の尊きなり。天皇への修養、即ち忠は、飽く迄も、天皇其れ自體のためならざるべからず。悉皆無所得、悉皆無所得、天皇は、人生のためのものにあらず。人生、天皇のためのものなり。 大楠公の歌へる、

身のために 君を思ふは 二心 君のためには 身をも思はじ

 天皇は、國家のためのものにあらず。國家は、天皇のためにあり。此の大自覺は、世上的價値を倒換して、永遠悠久の天皇に、唯一最高の價値を認むる時、單純、極めて明白に現れ來る。魂の救ひ・永遠の幸福が究竟の目的ならば、天皇は手段・方便にして、最高の存在に非ず。自己の學殖・職業、乃至生活程度によりて、尊皇の程度に上下あらば、其は自己中心の人物なり。唯々心身を捨て果てゝ、更に何物をも望むことなく、只管に、天皇に歸一せよ」と。
 
 

塾頭、ご照覽あらむことを。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月22日(木)19時37分20秒
返信・引用 編集済
   秋季皇靈祭の前日、こゝに、

スレツド『「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

を拜書し畢りました。「靖國神社正統尊崇奉贊準備會叢書・第二輯」であります。ご清覽たまはれば幸甚であります。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/l50


 ご閲覽、或は有縁の皆樣には、塾頭に捧げる文章がございましたら、是非とも、ご投稿いたゞきますやう、幾重にも御願ひ申し上げます。

 平成二十三年辛卯九月二十二日  備中處士 懇祷九拜
 
 

事務連絡。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月17日(土)11時23分27秒
返信・引用 編集済
   昨夜來、スレツドを亂立せる偏執狂が出來、今までは何方でも建立出來ましたが、已む無く、「管理者たる小生にのみ作成可能」と、變更いたしました。其の節は、連絡して下されば、即「誰でも可能」に戻します。ご賢察の程を。

 消せば建て、これで四囘目。かう云ふのを、「キモツ」て申すのでせうね。膽は大にして据わるを要す。さも無くば、宜しくホルモンにして喰らふべし。
 
 

泉水隆一監督「凛として愛」臺本。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月12日(月)19時07分4秒
返信・引用 編集済
   此の仲秋十五夜、スレツド欄に、

泉水隆一監督「凛として愛」臺本

てふ新スレツドを開板させて戴きます。と、申しても、これから謹記いたします。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t38/l50



 此の臺本は、「愛国女性のつどい・花時計」代表・藤真知子女史より、『九段塾』に賜はりしもの、蓋し天下の孤本なり矣。極めて珍重、ご高覽たまはれば、小生の喜び、之に過ぐるものはありません。

 困つたときは、

藤 真知子 さん

河原 博史 道兄

 何でも、ご兩所へ。此の田舍者にとつて、本道に頼りになります、してゐます。とにかく人脈が凄い‥‥。今後とも御見捨て無きやうに、何卒、ご指導ご誘掖を賜はらむことを。

 而して本日は、『九段塾』掲示板創立第三周年の吉日なりけり矣。泉水隆一監督、即ち「九段塾」塾頭・福井金城翁、降り坐して、此の開板を愛でたまふなり。神さびたりとも、神さびたり。
  
 

頼神祇之靈、借天皇之威。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 9月 3日(土)00時35分11秒
返信・引用 編集済
   『靈的國防』とは、畏れ多くも「天津神・國津祇の恩頼(みたまのふゆ)に頼り、皇尊の稜威(みいきほひ)を借」りまつり、皇民たる者、眦を決して猛然と謹行ずべき神業である。先般、河原博史樣の、好個の論文を拜見させて戴いた。



●河原博史氏『靈的國防を恢復せよ』(『不二』平成二十三年八月號)に曰く、

「國民精神が溌剌とするといふことは、物質的にや經濟的に惠まれてゐるといふことではない。寧ろ物質的に滿たされてゐる時こそ、精神は得てして衰弱に向かうてゐる。無論、軍備があるかないかでも無い。よつて國防體制の充實を望むのであれば、思想的國防・信仰的國防の萬全を念頭に置くものでなければならない。爲めに我れら有志は、神州の正氣が國内に充滿されることを、何よりも熱望してゐるのである。‥‥

 思想的國防・政治的國防・軍事的國防等を充實させることは勿論のことであるが、これだけでは、惡念惡謀を持つ周到なる強大國の猛攻に抗じきれるものではない。靈的國防の結界を張り巡らせ、天佑神助を賜はらむと、吾人は信仰的國防に就て、深く一顧する必要があるのだ。

 巷、憲法第九條改正の聲、逞しくある。日本の保守を自稱するほどの人らが、何故に軍備なきのみを憾みとするのか。彼れらの淺はかな改憲論に觸れる度び、野生は、維新と云ふも、戰後體制脱却と云ふも、その實現には、猶ほ遠くあることを思はざるを得ない。靈的國防・信仰的國防を蔑ろとする保守派が跋扈する中で、我れらは御先祖や靖國神社に祀られる二百四十六萬柱の御靈に、今日の情況を報告する際、遺憾乍ら、遺憾乍らと、幾度も遺憾乍らを前置きしなければならない。

 此度びの震災では、自衞隊の活躍目覺しく、今後、自衞隊の法的立場に就て、遲蒔きながら議論されるであらう。改憲論者は水を得た魚の如く、之を追ひ風として、一層の氣勢を上げるに違ひない。それが宜しきことであるのか、惡しきことであるのか、野生は返答に苦しまざるを得ない。何故なら、尊皇なき軍隊を欲し、政體を護持する可くの國防を求める天皇機關説者の亞種‥‥、かうした者らを保守派と呼んで、聊かも遲疑しない日本の風潮を、野生は戰後體制と看破するのである。噫、憲法第九條改憲論者と呼べる者、みな、野蠻國や衆盲國の軍事力にばかり目を奪はれ、神州の眞面目に氣付かざるは、何故であらう」と。



 小生にあつても、「靈的國防」を懇祈しつゝあり。
  ↓↓↓↓↓
『日本學の再興』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/69
『大御名奉唱』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/832

 而して「靈的國防」について、畏友・掌雲樣からは、嚴しい反省と忠告も拜受した。
  ↓↓↓↓↓
●掌雲樣『神徳私論』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/65

 又、はゆまつかひ樣には、磐山友清歡眞大人が靈著の披露を戴いてゐる。此のスレツドは、幾度も拜讀して戴きたい玉文である。例へば曰く、「靈的國防といふことは、何も奇異なことでも、珍らしいことでもなく、神國日本に於て上代以來行はれて居るところのものであって、手近なところでいへば、國民學校の兒童が、産土神社に参拜して、皇軍武運長久を祈願するのも、靈的國防の行動であるといへるのである。‥‥日本人の天佑神助の信念は、人力を怠つて僥倖を期待するものではない。人力の限りを盡して、全力を全舉して、尚ほ且つ神祇の感格を祷祈するものである。これが、靈的國防の意義である」と。
  ↓↓↓↓↓
●はゆまつかひ樣『靈的國防の本義・拾遺』
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t28/l50

 更に最近、「唯々、天皇陛下の『聖壽萬歳・玉體安穩』をひと筋に祈り、日本國と皇室の安寧のための神業を貫き通し、純粹無邪の生涯を終へた稀有の神人」小泉太志命大人の紹介も偶見した。
  ↓↓↓↓↓
●奈良泰秀氏『小泉太志命大先生』
http://nippon-bunmei.cocolog-nifty.com/nara/2011/07/post-1d21.html

 然しながら、此の至重至大の要事「靈的國防」ほど、難しいものは無く、至信不動の信念、道骨を要して、道遠きことに歎息せざるを得ぬ。小生の神拜は、素人の域を出ぬ、他愛もないにものに過ぎず、掌雲樣仰せの「觀念の遊戲」に終るを恐れるものであるが、それでも、神代以來の本道の神業を目指して、只管ら神縁を乞ひ奉る熱情だけは堅持してゐる心算である。

 現代中今に於いても、神人と呼ばれる御方も居られるに相違は無いが、其の神人ならにび其の神人を語る門下(自稱・他稱を問はず)の眞僞貴賤――「審神(さには)」は、固より容易では無い。畢竟、分相應なる道を、武骨愚直に、獨り往くのみであるが、同時に、神縁恩頼を仰いで已まないのである。而して神縁恩頼を拜受せんが爲には、日々の修祓・神拜が不可缺であり、且つ先哲・同學の教導を必須とする。小生が審神の武器は、此の先哲先賢の教へである。先哲遺文を拜承することによつて、單なる妄信や凝り神道から逃れることが叶ふと思つてゐる。某眞僊の曰く、「神通は、信と不信とに在り矣」。河原氏のめでたき論説に感佩して、筆を執つた次第であります。
 
 

足利三代木像梟首の述志。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月30日(火)21時48分11秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 福井久藏翁・平野彦次郎翁編『勤王文庫』第五編・詩歌集(大正十年五月・大日本明道會刊)は、

『興風集』・『興風後集』・『風簷遺草』・『雄魂雜書』・『精神一注』・『殉難前草』★・『殉難後草』★・『殉難續草』★・『殉難遺草』★・『殉難拾遺』★・『四英獄窓唱和集』・『都氣能雄久志』・『近世殉國一人一首傳』☆・『有節録』・『近世報國志士小傳』☆・『行餘集』・『歎涕和歌集』★※・『彰功帖』・『□[立心+隱の右]玖蒐岐集』・『振氣篇』☆・『嗚世餘音』・『大日本中興先賢志』・『風雲際會繪傳』・『慨士遺音』・『殉難士傳』・『勤王烈士傳』・『防長正氣集』・『維新志士遺芳帖』・『俟采擇録』

等より、王事・國事に關するものを撰擇編輯せるものにして、實にめでたき書なりけり。之を主として、「足利三代木像梟首事件」に於ける志士の詩歌を、こゝに拜記して、其の志操の梗概を、謹みて諸賢に供へ奉らむ。殊に此の義擧の本志は、師岡正胤翁の長歌に、平明に且つ鮮やかに謳はれてゐる。音吐朗々、唱詠されたい。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/886

【參考】
一、宮内省(圖書寮)藏版『修補・殉難録稿』(明治四十二年十二月成功。修補版・昭和八年十一月・吉川弘文館刊。題字は徳富蘇峰翁。序文は虚心黒板勝美博士)
一、影山正治翁『志士詩文集』昭和十七年十月・小學館刊
一、★藤田徳太郎翁『志士詩歌集』昭和十七年十二月・小學館刊に所收
一、淺野晃翁・竹下數馬翁『尊皇歌人撰集・勤皇烈士篇』昭和十八年四月・文松堂書店刊
一、淺野晃翁・竹下數馬翁『尊皇歌人撰集・勤皇學者篇』昭和十八年七月・文松堂書店刊
一、☆藤田徳太郎翁『維新志士・囘天詩歌集』昭和十九年七月・金鈴社刊に所收
一、田中卓博士『維新の歌――幕末尊王志士の絶唱』昭和四十九年五月・日本教文社刊
一、※近代浪漫派文庫一『維新草莽詩文集』平成十九年六月・新學社刊に所收

等、類書の甚だ多きを數ふるも、今の度びは、『勤王文庫』を以て主と爲せり。何となれば、則ち此書にしか無き歌、多ければなり。

 『修補・殉難録稿』に曰く、「癸丑・甲寅以來、尊攘の論、世に行はる。されど尊王と攘夷とは、一致して二途あり。尊王を主とする輩は、外患より内害を嫉む事甚し。内害とは、鎌倉以來、武家の王權を奪ふもの、是なり。仙石・長尾輩が、足利木像の首を斬りしは、其の所爲、粗暴なれども、其の志は愛すべし」と。

 而して、ふと、北崎勝史神主を想ひ出すこと、頻りなるものあり。未知の御方であるが、此の純乎たる魂の積み重なる所、神祇の照覽を得、其の大成を期するのである。尊皇攘夷の志士のみが有つ所の純魂こそ、夫れ國の寶である。
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一、三輪田綱一郎大神元綱
○人に示す
いざ子ども たはわざなせ 大丈夫に 生れ來し世に 又もあるべき
○題しらず
賤が屋の 蘆火のけぶり 一すぢに 心をくだく 世にこそありけれ

一、師岡豐輔正胤
○題しらず
天皇を たふとみ思ふ こころこそ えみしをはらふ 弓矢なりけり
○守の人の、我がいたく歌作る事を好むさまに云ふ
歌好む 我れとやおもふ 籠居の 爲すわざ有らぬ ことをしらずて
○三月十一日、加茂の神宮へ行幸ならせ給ふ由を洩れ聞き奉りて
聞きてだに いともかしこし 見奉らば 如何にか有らん 賀茂の行幸
○囚居の窓より月の影、哀にさし入りたるを
籠り居る 囚屋のまどを もる影も あはれにかすむ 春の夜のつき
○六月晦日
皇國を 汚す戎夷を はらはずば 祓除のわざも しるしなからむ
○おもふ事ありて
まことなき 歌作等が つくり歌 我れはこのまず 世のつくりうた
○寄夢述懷
さびしきは 深山に勝る こもり居に 世の憂き事の など聞ゆらん
○長尾武雄が馭戎雙六を物せしを見て
手ずさみの はかなき物も 國のため 戎夷をうたむ 事のみにして
○道すがらおもふむねあり
尺□[虫+獲の右]の かがむは延びむ 爲なれど いまのうき身は 何にたとへむ
○陳志
云ふやよき いはぬや好けむ 山川も 耳敏耳無し 有る世なりけり
すめろぎの 御爲に死ねと 教へてし 父のこと葉を なに忘れむや
國のため 死なむと思ふ 心こそ 神のたまへる たからなりけれ
國のため つくして死なば 我が魂は 神の御許に 行かずとも善し
○或時、思ひつづけたる
君のため 家をも身をも かへりみず つくす心そ やまとだましひ
○文久三年二月、足利三代の木像を梟首せし時の長歌、竝びに短歌
天地の 廣きが中に 國はしも 多しといへど 日の本の これが正路は 君臣の しな(品)定りて 天皇の 詔かしこみ もろもろの まへつ君たち まめやかに 仕へまつりて 萬代に 動くことなく 大道は 正しかれども まがつ日の 神のしわざと 大みこと 背きまつりて 天皇を 惱ませまつる 醜臣の 稀にはあれど たぶれらは 世にも出づれど 神直日 神の心と 醜臣を 罪したまひて たぶれらを きたむる中に 眞管よし 蘇我の馬子と 足利の 三世の醜臣 事なくて 世を終りきと 年久に うれたみありしを 思ふどち 我につどへて 世のさまを 語らふ時は たぶれらの 事におよびて 今し世に 蘇我の馬子は 其の罪を 責めんよしなし いでやいで 都の西の 何がしの 寺にすゑたる 足利の 世々の醜臣 木の像の 首ひきぬきて 五百年の むかしを今に ます鏡 うつし傳へて 其の罪を 糺すはいかに こころよき 事ならずやと 諸ともに 勇みたけびて わたる日の 暮るるを待ちて 風まじり 雨はふれども 雨まじり 風は吹けども その寺に い往き到りて 竝み立てる 木像に向ひ 雄たけびに たけびいへらく 高氏の 醜の親子は 天皇に 叛きまつりて 諸人を さわぎなやませ ためしなき 國の罪人 くなたぶれ ねじけ義滿 異國の 首長に乞ひて 我が身をば 臣と降して 皇國を 汚す罪人 其の外の 世々の醜臣 後の世の 弊を釀し 世の中の 亂れをおこし 罪のなき 人しもぞ無き 其のもとは ねぢけ高氏 事なくて その世過ぐとも いかでかも ゆるし置くべき 其の罪を 糺さむものと い競ひて 木首ひきぬき しかばねを うちくだかむと たけびつつ きそひかかれど あなしこめ 首はぬけども かかむりを 綾のみけしは 朝廷に おそれしあれば 形代に 手をばふれじと 壯士は 雄たけびしつつ 戰ひに 勝ちしさまして 降りしける 雨もいとはず 吹きすさむ 風もいとはず 鴨川の 河瀬にいたり 三芳野の かたををろがみ 鎌倉の かたに備へて たぶれらの 三つの木首を 板の上に ならべすゑ置き 其の罪を 板にしるして 見る人は 語り傳へよ 讀む人は しるし傳へよ 秀でたる 將軍の君の そのかみは いむかひかねし 高氏に われかち得たり たぶれらの 首を得たりと ほこりかち 言擧げしつつ 諸ともに 勇み喜び 家にかへりぬ
五百年の 昔にわれの 生れなば そのうつし身を 斯くしてましを

一、長尾郁三郎平武雄
○折にふれて
あはれ世に ことあら磯の 浪立たば 水づくかばね 我が願ふこと
○題しらず
忠やかに つとめましつる 年月の いさをあらはる 君のたまもの
もののふの 思ひこめにし あづさ弓 いま引くかたに 任す身の上
○獄中詠
君がため 死なむとおもひ 定めては ひとやの中は ものの數かは
はし鷹(一本作・わしたか)の たけきこころも 籠なれて あはれはかなく 送る月日か

一、大庭恭平景範
○題しらず
なみあらき 外の濱邊は しほかれて 秋さへかすむ 月を見るかな
罪なくて 見ばやと人の ねがふらん ひとやの中の 月を知らずや
○護送されるとき、紙筆を乞うて詠みし哥(『七年史』)
心なき 野邊の花さへ あはれなり 今年限りの 春と思へば
○獄に下る途中の作
君恩、深きこと、海に似たり。臣命、一毫、輕し。
復た心に關する事無し。檻車、夢を戴せて行く。
○獄中の雜作
鼎□[金+獲の右]、飴の如し、豈に敢て辭せんや。狂夫の心事、鬼神知る。
朝々只だ讀む、文山集。賦せんと要す、從容、死に就くの詞。
○又
三十三年、一夢の如く。平生の大志、遂に伸び難し。
言に寄す、天下の英雄の士。總べて從容、死に就くの人と作れ。
○又
身は獄中に落ちて、再び逢ひ難し。三間の板屋、晝、朦朧。
想ふ、君が醉後、時務を談ずるを。臥して見る、東山の臥容に似たるを。
○又
家山遠く隔つ、路、三千。身は縲紲と作りて、徒らに自ら憐れむ。
今日、衣を見るは、母を見るが如し。朝朝、著し得て、東山を拜す。
○又
誰か言ふ、忠孝、兼ね得難しと。一死、國に酬ゆれば、即ち兩全。
萬事、平生、人後に落つ。今年、初めて祖鞭の先に著く。

一、仙石佐多雄隆明
○武藏の六郷の渡を過ぐる時
後の世の 名をこそ惜しめ 玉川の ながれも清き ゆくすゑを見て
○川崎驛にて父母を思ひ出て
歎くにも なほあまりある 父母に これや別れの 限りとおもへば
○辭世
よしや身は いづこの浦に しづむとも 魂はまもらむ 九重のには
(一本作・たとひ身は いづこのはてに さらすとも 魂は都の 空にとどめむ)

一、角田由三郎紀忠行
○帝道唯一
すめろぎの 道にちまたは なかりけり 人のまことを 一すぢにして

一、石川一源貞幹
○折にふれて
大皇の 御こころ休め まつらむと 露のいのちも ながらへにけり
○述志
大君の みためとつくす(一本作・すめみこに 心つくせし) 大丈夫に 神のめぐみの なからましやは
○刑に臨みて
芳ばしき 名をやとゞめん 武夫の 世にさきがけて 花は散れども

一、梅村眞一郎眞守(『修補・殉難録稿』)
○櫻田義擧の烈士が靈を祀りて
消えて無き 後の名すらも 君が代の 護りと爲れる いさを雄々しも
薫る香を とめて散り行く 人よりも 後れて忍ぶ 身こそつらけれ
○師平田銕胤翁が都に上るに從ひ行くとて、從弟等にのこす
四方八方の くなたぶれらも 言止めて いそしき神の あとあるを見よ
知ると言はゞ いざこと問はん 石の上 古野の原の 道はいかにと
出てゝまた 歸らじと思ふ 武夫の 心の花を かゞみとも見よ
○鹿島の宮に詣でて
天の下 攘ひ清めし 古事を 今の此の世に 見んよしもがな
○香取宮にて
かくまでに 愚なる身を かゝる世に 何に爲んとて 神はうみけん
よしあしは 神に任せて ますら雄の 心のたけを 今や盡さん

一、伊藤益荒藤原嘉融(『修補・殉難録稿』)
○文久四年、思ふ旨ありて東に下る時
思ふ事 爲して成らずは 梓弓 ひき廻さじと 誓ふ都路
○辭世
春雨に みの覆ふべき 方もなく 今は笠間の 露と消ゆなり

一、水郡善之祐紀長雄
○吉村寅太郎に示す(『修補・殉難録稿』)
今よりは 互になれて 大丈夫の いづれ猛しと 磨かざらめや
○辭世
皇國の ためにぞつくす まごころは 知るひとぞ知る 神や知るらん

一、大樂源太郎弘毅
○放言十五首之一(内田伸氏『大樂源太郎』昭和四十六年四月・風説社刊。五十三年五月・マツノ書店復刻)
詔を奉じて、賊臣を誅す。大義、鬼神を泣かしむ。
遺風、餘烈の美。今、窮陬の民に在り。



**********

附載【靖國神社第二代宮司・賀茂水穗翁の哥】――『勤王文庫』所收

○題しらず

えみし討つ 勅言を待つも 年久し 老いぬさきにと 思ひぬる身は

**********
 
 

逆賊の首。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月25日(木)21時08分49秒
返信・引用 編集済
  【後醍醐天皇・御遺詔――『太平記』延元四年八月十六日】

 たゞ逆賊、平がず、四海、未だ安からず。たゞ此れを恨みとなすのみ。太子、位に即かば、それ賢を任じ能を使ひ、(新田)義貞・義助の功を録し、務めて恢復を成し、以て朕が志を稱(かな)へよ。身を南山に□[病埀+夾土、うづ]むと雖も、しかも神(たましひ)は、常に北闕を望まむ。もし命を墜すものあらば、子は繼體に匪ず、臣は□[サ+盡]忠に乖かむ。



●角田忠行翁の哥――梟首事件詠歌二首

しこの首 きりて晒して みよし野の 君と臣とに 今はたむけん
いましよに ほてるたふら 心せよ このしなくさを おのが身にして



 「等持院足利將軍木像首斬り事件」とは、文久三年二月二十二日夜、京都北野天滿宮の西、衣笠山の萬年山等持院に在つた、足利氏三世、即ち等持院高氏・寶篋院義詮・鹿苑院義滿の塑像の首と位牌が引出され、翌二十三日未明、三條大橋(鴨川河原)に梟首された事件であつて、草莽の平田派國學者による義擧と云ふ。久坂秋湖(玄瑞)先生の曰く、「會津、若し捕縛の處置に出づる有らば、浪士等、皆、我が藩邸に來る可し、能く庇保せん」と。小生、年來、快哉すべき此の擧を注目してゐたのであるが、先般、菊池明氏『幕末天誅斬奸録』(平成十七年四月・新人物往來社刊)を落掌したるを機に、其の概略を筆記したい。

 此の事件の影響する所、頗る大きく、亦た取締る者(吉川神道――京都守護職)の思想信條を知ることが出來る、好き手がかりともなる。松平容保の曰く、「かゝる尊貴(高氏等)を辱しむるは、即ち朝廷を侮辱する者、殊に其の暴行たる、屍を鞭うつに同じ。速かに之を逮捕して嚴刑に處せざれば、國家の典刑、立ち難し」(『京都守護職始末』)となん。其の陋見、憐れむべし矣。何ぞ、朝廷を侮辱する者とは。惡逆無道を祀る、何ぞ神祇の赦す所ならむや。武士と云ふは、抑も誰が臣ぞ。天朝北面の古武士觀に還り、之に目覺めたる者、楠公祠を野晒しにして、醜奴足利の足を拜むこと、堪ふること能はず、七生報皇の至願の凝る所、斬奸梟首、吉野神宮ご祭神に奉獻するもの、固より已むを得ざるの至誠に出づるなり。快哉、々々。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/22

 然るに竹屋光晶樣の報告によれば、京都時代祭に、何と、足利高氏の復權を見たと云ふ。現代の闇は深くて長い。快哉を叫んで、今ま復た悲しみに沈む、腹悶、醫し難く候ふ也。
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●『修補・殉難録稿』・『京都風聞書』――三條大橋西詰の制札場「罪状書」――仙石隆明の筆

  逆賊・足利十五代

 此の者共の惡逆は、既に先哲の辯駁する所、萬人の能く知る所にして、今更ら云ふに及ばず。因て此の影像を斬戮せしむ。就ては贅言乍ら、聊か其の罪を示すべし。

 抑も此の大皇國の大道、只々忠義の二字を以て、其の大本とす。是れ神代以來の御風習なるを、賊魁・鎌倉の頼朝、世に出て、朝廷を惱まし奉り、不臣の手始めを致し、尋いで北條・足利に至りては、其の罪惡、實に容る可からず。是れ天地神人、共に知る所なり。然りと雖も當時、天下錯亂、名分紛擾の世、朝廷御微力にして、其の罪を糺し給ふこと克くせず。遺憾なり。豈に悲泣す可からざらんや乎。

 今、彼等の遺物を見るに至りても、眞に憤激に堪へず。我々不敏なりと雖も、五百年往古の世に出でたらんには、生首、引き拔かんものをと、握拳切齒、片時も止むこと能はざる事なり。今や、萬事復古し、舊弊一新の時運、追々不臣の奴原、罪科を糺す可きの機會也。故に我々申し合はせ、先づ其の臣賊の大罪を罸し、大義名分を明かさんが爲め、昨夜、等持院に在る所の、尊氏始め、其の子孫の奴原の影像を取り出し、首を刎ねて、是を梟首し、聊か舊來の蓄憤を散ずる者也。

 文久三年癸亥二月二十三日

 大將軍織田公に至り、右の賊統斷滅す。是れ些か愉快といふべし。然るに夫より爾來、今世に至り、此の奸賊に、猶ほ超過する者あり。其の黨、許多(あまた)にして、其の罪惡、足利等の右に出づ。若し夫れ等の輩、眞に舊惡を悔い、忠勤を抽て、鎌倉以來の惡弊を掃除し、朝廷を補佐し奉り、古昔に復し、積罪を贖ふの所置無きに於ては、滿天下の有志、追々大擧して、罪科を糺す可きもの也。

 右は、三日の間、晒し置く。若し取り捨て候ふ者は、急度、罪科を行ふ可き者也。



●『官武通紀』

一、逆賊 足利尊氏
一、   同 義詮
一、   同 義滿

 名分を正すの今日に至り、鎌倉以來の逆臣、一々吟味を遂げ、誅戮致す可きの處、此の三賊、巨魁たるに依りて、先づ其の醜像へ誅を加ふる者也。

 二月二十三日



●『東西紀聞』

 三條と四條の間に、河原に晒し之れ有る首の下の札は、等持院の飾牌にて、黒塗りにて、金にて認め之れ有る上を、はりがねにて下げ之れ有り。‥‥等持院御靈屋番人六人、之れ有るを、拔き身にて追ひ拂ひ、役僧一人に案内致させ候ふ由。



【首謀者および實行者三十餘】――「*」(不明を含む)以外は、平田銕胤先生の門下、即ち平田大壑先生沒後の門人なり――

[捕縛]
一、三輪田綱一郎元綱(氏=大神/伊豫久米郡/處分=百日押込・當分京極飛彈守預け/外務權大丞・大山祇神社宮司)
一、布志乃舍・節齋・師岡豐輔正胤(武藏江戸/遠島・當分松平伊賀守預け/松尾大社大宮司・宮内省御用掛)
一、竹廼舍・宮和田勇太郎胤景(平/下總相馬郡・名主/洛中洛外追放・當分土方智千代預け/東京深川八幡神社神職)
一、鼎齋・青柳建麿高鞆(源/下總香取郡・豪農/遠島・當分藤堂佐渡守預け/鹿島神宮少宮司・實行教權大教正)
一、建部建一郎(常陸・牛久藩士/遠島・當分藤堂佐渡守預け)*
一、長尾郁三郎武雄(平/京都・綿商/永牢/贈正五位・靖國神社祭神)
一、長澤眞事文敬(陸奧/遠島・當分西尾謙之助預け)*
一、含章齋・野呂久左衞門直貞(備前・岡山藩陪臣/洛中追放・當分小笠原左衞門佐預け/彈正臺大巡察)
一、武廼舍・龜洲・西川善六吉輔(平/近江蒲生郡・肥料商/山城國中構ひ・江戸十里四方追放・當分親類預け・押込/日吉大社大宮司・生國魂神社宮司)
一、松齋・大庭恭平景範(陸奧・會津藩士・御聞番/遠島・當分松平伊賀守預け/司法省判事)*
一、仙石佐多雄隆明(武藏江戸・因幡鳥取新田藩士/自刃・靖國神社祭神)
一、高松超之助信行(信濃更級郡・豪農/鬪死/靖國神社祭神)

[以下、轉進]
一、伊吹舍・鎭石室・角田由三郎忠行(紀/信濃佐久郡・岩村田藩士/熱田神宮大宮司・贈從四位勳六等)
一、小室理喜藏信夫(丹後宮津・生糸縮緬商/貴族院議員)
一、可庵中島永吉錫胤(阿波・徳島藩士・京儒中島椋隱の養子/男爵・貴族院議員)*
一、岡元太郎敦(備前・岡山藩陪臣)
一、北村善吉義貞(播磨飾東郡・豪農/姫路藩士)*
一、榮齋・梅村眞一郎眞守(肥前・島原藩士/靖國神社祭神)
一、伊藤益荒嘉融(藤原/肥前・島原藩士/靖國神社祭神)
一、石川一貞幹(源/武藏江戸・因幡鳥取鹿奴藩士/贈正五位・靖國神社祭神)
一、水郡善之祐長雄(紀/河内錦部郡・大庄屋・水郡神社祀官/贈正五位・靖國神社祭神)*
一、中村愼吾(常陸・郷士・豪農)*
一、野城廣助信哉(上總市原郡・庄屋)
一、西山・大楽源太郎弘毅(長門萩・萩藩陪臣)*
‥‥



――乞、ご示教を。――

 件は、國學院大學竝日本文化研究所編『和學者總覽』平成二年三月・汲古書院刊、他を參看せり。誤謬・遺漏の多きを恐る。博雅の士の増補・訂正を求むるなり。願はくば、只管ら批正を乞ひ奉ると云ふ。

 なほ『勤王文庫』第五編・詩歌集・大正十年五月・大日本明道會刊に、志士の哥詩多し。三輪田綱一郎大神元綱翁は、『幸安仙界物語』第二卷が後記を書きし人、亦た角田由三郎紀忠行翁は、『古史略』を編み、神代史の年代を定めし人、いとゞ床しく思ふなり。
  
 

建武中興‥‥、明治中興‥‥、そして、平成中興‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月24日(水)22時45分3秒
返信・引用 編集済
  【吉野時代と所謂南北朝正閏問題】
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yoshino.htm



 こゝに先師に據る、一代の碩學の斷案あり、亦た之を繼承せる先師の定論がある。謹みて拜記するは、即ち是れ現代我等の問題と捉へるからに外ならず、諸賢の參考に供したい。



■虚心黒板勝美博士『南北兩朝正閏論の史實と其斷案』(『日本及日本人』明治四十四年三月特輯號に所收)を、寒林平泉澄博士が、其の要領の大體(『悲劇縱走』昭和九年條。昭和五十五年九月・皇學館大學出版部刊に所收)を書して曰く、「

一、みだりに激昂せず、感情に走らずして、先づ事實を究める事が大切である。

二、事實が定まつて後に、初めて大義名分が論ぜられるのであつて、大義名分があつて後に、事實が出て來るのではない。

三、「問題は、すでに『大日本史』で決定してゐる。今更ら之を改める必要が無い」といふ論者もあるが、それは最近史學の進歩を無視したものだ。一例をあぐれば、笠置山陷つた時、光嚴天皇に御渡しになつた神器を、『大日本史』は『増鏡』によつて僞器であらうと推斷したが、それは誤りであつて、實は眞器であつた事が、今日確認せられるに至つたのである。

四、歴史を教育に應用するに當つて、取捨はよろしい。事實を曲げてはならない。教育上、都合のよいやうに曲げるのは、歴史の權威を無視するものだ。

五、「正閏の論は、事、皇室に關し、臣子の分として口にすべきでは無い」と論ずる人もあるが、正成が忠臣なりや、尊氏(備中處士案、ママ。「高氏」と書すべし)が逆臣なりやを定める爲には、正閏が先決であり、兩方とも正しいなどと云ふのでは、歸趨に迷ふ事となる。

六、皇位繼承の問題は、關連する所、非常に複雜であつて、之を詳述解明する事、容易でないが、とにかく私見を述べよう。

七、兩統迭立といふは、後嵯峨天皇崩御の後、遺詔によつて、後深草天皇(御兄)には、所領を多く御讓りになり、その代り、龜山天皇(御弟)には、惣領として皇位繼承の權を與へられた。その御兄の御系統を持明院統といひ、御弟の御系統を大覺寺統といふ。しかるにやがて幕府が介入して、大覺寺統の後宇多天皇の次に、持明院統の伏見天皇が御立ちになる事になり、後嵯峨天皇の御遺詔とは違つて來た上に、その伏見天皇の次には、後伏見天皇の御即位となつた爲、大覺寺統の不平は高まり、再び幕府の介入があつて、後伏見天皇の次には、大覺寺統の後二條天皇が御立ちになる事になり、それよりいはゆる兩統迭立の形をなすに至つた。幕府としては、是れが朝廷の勢力を弱める爲の巧妙なる政策であつた。つまり迭立といふ事は、幕府の介入によつて起つたのであつて、朝廷に於いて初めから定められた方針では無かつたのであります。

八、やがて文保元年、又もや幕府の介入があつて、後醍醐天皇御即位の後には、やはり大覺寺統の邦良親王を御立て申し上げ、次には持明院統の光權院を豫定される事になりました。之を「文保の御和談」と云ふ。このまゝ進めば、後醍醐天皇は非常に不利な立場に御立ちになり、その系統は、皇位繼承に無縁とおなりになるおそれがありました。

九、元亨元年、後宇多上皇、院政を御やめになり、後醍醐天皇の親政となりました。

十、是に於いて天皇は、北條氏を討伐して幕府を倒し、政權を朝廷に取戻さうと企てられました。それは皇位繼承問題のみでは無く、百弊を一新して、日本國を正しい姿に戻す所以である。

十一、討幕のいくさ敗れて、笠置の陷つた時、幕府は光嚴天皇を擁立するのであるが、後醍醐天皇が之を承認し給うた形迹は、一つも無い。

十二、笠置の敗れた時、御渡しになつた神器を、『大日本史』が新器とし、栗田寛博士の『神器考證』にも、そのやうに論じてゐるが(平泉博士の曰く、「『先師の説を撃つは、遠慮すべきことなるが』と、特に斷つて居られるのは、美しい態度と、ゆかしく思ふ事であります」と。)、『花園院宸記』によれば、正に神器であつた事、疑を容れない。然しそれは強奪せられたのであつて、御讓りになつたのではない。

十三、建武の中興やぶれて、延元元年、尊氏、九州より攻上つた時、尊氏は、光嚴院の院宣を申し下して、賊名を避け、そして光明天皇を擁立した。即ち北朝の第一代と稱せられ給ふ御方である。後醍醐天皇が、尊氏の強請により御渡しになつた神器は、かねて用意された模造品であつて、眞正の神器は、御身に附けて、吉野にお入りになつたのである。

十四、當時、主權は何處に在つたかといへば、元亨元年、後宇多上皇の院政廢止以後、主權は完全に後醍醐天皇に存したのである。此の點が、此の問題の解決上、最も大切である事を忘れてはならぬ。

十五、皇位と神器とが、密接にして離るべからざる事は云ふまでも無い。然し一考すべきは、神器の所在のみに依りて、皇位の正閏を定むるの可否である。壓迫によつてやむを得ず、神器を渡された場合、御讓位の御意志が無ければ、それは無效である。

十六、北朝論者と南朝論者と、それぞれの立場に於いて主張する所があるが、當時の爭、かはるがはる立たれて、其の順位を爭はれたので、正閏を爭はれたのでは無い。問題は、主權の所在である。元亨以後、主權は、絶對に後醍醐天皇に在つた。文保の御和談も、幕府の強壓も、天皇の絶對主權を曲げる事は出來ない。その後醍醐天皇が、光嚴天皇・光明天皇を認められなかつた以上、いはゆる北朝は、決して正統とは云へないのである。

十七、南北分立の間、正閏を論ずれば、南を正統としなければならないが、後に南北合一の議成つて、後龜山天皇より、神器を後小松天皇に傳へ給ふに及んで、後小松天皇は、完全に正統を御繼承になつたのである。南北の對立を、臣下より見れば、強弱の問題であるが、皇室から云へば、北朝に於いても、初めより終りまで、いさゝかの御惡意は無く、迭立の慣行上、當然の順序を受けようとし給うただけの事である。況んや合一以後に於いては、南も北も、今は無く、一點の曇りも無き、萬世一系の尊嚴を仰ぐのみである」と。



■寒林平泉澄博士『建武中興の本義』を、自ら書かれた概略(『悲劇縱走』昭和九年條に所收)に曰く、「

一、「當時、鎌倉幕府衰へて來たから、討伐を思ひ立たれたとする説」は誤りであつて、九州探題自害の時、殉死二百四十人、六波羅探題自害の際、殉死四百三十二人、鎌倉陷落の日、高時に殉ずる者、一族二百八十三人、從兵八百七十餘人、其の他六千餘人といふを見れば、鎌倉武士、勇武義烈の氣象は、猶ほ衰へてゐなかつた事。

二、「嘉暦元年三月、皇太子邦良親王薨去の後、後醍醐天皇は、御自分の皇子を皇太子にしたいとの御希望であつたのに、幕府の介入によつて、持明院統の光嚴院が皇太子に立たれた爲、天皇は討幕に踏切られたとする説」は誤りであつて、それより二年前の正中元年九月、天皇御討幕の計劃漏れて、土岐・多治見等は殺され、日野資朝は佐渡へ流された事。

三、護良親王は、後醍醐天皇の第一皇子であつたのに、文保二年二月二十六日、梶井門跡に入つて僧侶となり、やがて叡山をひきゐて、官軍を指揮し給うたが、此の梶井御入堂の日は、後醍醐天皇御踐祚の日であるから、こゝにすでに重大なる御決意がうかゞはれる事。

四、後醍醐天皇と申し上げるのは、崩御の後の御謚では無く、御生前御自ら名乘らせ給うた御稱號である事は、延元元年六月の日光の銅□[金+宛]の銘によつて明かであり、それが醍醐天皇・延喜の御代を目標として、日本國の中興を志し給うたからである事は、『元亨釋書』上表によつて察せられる事。

五、更に溯れば、後醍醐天皇をして、醍醐天皇の再來再生たらしめようとの御考へは、御父後宇多天皇に、すでに窺はれ、元亨元年十二月九日、後宇多上皇の院政を廢して、後醍醐天皇の親政とし給うた時、建武中興は、すでに約束せられてゐたとすべき事。

六、その討幕及び中興の御計劃は、頗る雄大且つ深遠であつて、一例をあぐれば、楠木正成をして城を常陸の瓜連に築いて、此處に代官を置いて守らしめ、又た出羽國屋代庄の地頭職を正成に與へて、此處にも其の代官を配置せしめ給うた事。

七、「中興の事、一たび成功するや、天皇は驕奢遊宴に耽り給ひ、その爲に國費窮乏して、人心離反したとする説」は誤りであつて、建武元年九月、石清水行幸、ついで東寺の塔供養の際の御願文には、中興の希望であるから、節儉の法令を出だし、衣服等すべて粗品を用ゐしめたとあるが、之に對して東寺の人々、大いに驚き、その法令の緩和を願ひ出た程である事」と。



●寒林平泉澄博士『建武中興の本義』(昭和九年九月・至文堂刊。五十八年五月・日本學協會水戸支部復刊)に曰く、「

 王政復古を目指す幕末の志士、安政の大獄に倒れ、櫻田門外及び坂下門に散り、五條また生野に敗れ、敦賀に斬られ、更に禁門に躓いて、大事も今は最早や是迄と思はれた時、二十六歳の青年にして、單騎身を挺して、囘天の偉業に口火を切つた高杉東行は、その直面する時機を洞察して、「是れ此の時、日本の日本たらんと欲する日也」と喝破した。まことに明治維新の大業は、これ日本の日本たらんとする大理想の實現であつたのである。しかるに日本の日本たらんとする大理想は、之に先だつ事數百年、後醍醐天皇によつて掲げられ、楠木正成を始めとして幾多忠烈の士の、生命を捨て家を失ひ、一切を犠牲にして之を護りし爲に、暴風雨の中にも空高く飜る事數十年、しかも時、利あらず、その大旆は遂に倒されて了つたのであつた。明治維新の志士は、この一度倒されたる大旆、日本の日本たらしめんとかる大旆を、再び高く中天に掲げんとしたるもの、即ち特に具體的にいふならば、正成の遺志を繼承せんとしたのであつた。曠古の雄圖、「宇内一帝を期し」たる眞木和泉守が、病中血を吐いて、しかも猶ほ五月二十五日、楠公の祭を怠らざりしもの、よく之を證するではないか。即ち見る、建武の中興は、日本の日本たらんとする大苦修、大試練、前には上代憧憬の情に包まれて大化の改新をかへりみ、後には七生報國の志の遺して明治維新を望み、承前起後の偉大なる働き、まことに日本歴史の中軸をなすものといふべきである。‥‥

  建武中興は、かくの如くして起り、かくの如くして成つた。それは決して幕府の衰微に乘じ、皇室の御私情の爲に起されたものではなかつた。又それは決して大勢に隨ひ、世論に追從する人々によつてなされたのではなかつた。即ちそれは日本をして眞の日本たらしめんとする大理想の下に、強敵怖れず、百難屈せず、君は君として、臣は臣として、まつしぐらに日の本の道を進み給うたものに外ならぬ。建武の中興、その目ざさるゝ所は、まこと皇國日本の中興に外ならなかつたのである。‥‥

 是に於いて建武中興失敗の原因は、明瞭となつた。即ちそれは天下の人心、多く義を忘れ利を求むるが故に、朝廷正義の御政にあきたらず、功利の奸雄足利高氏、誘ふに利を以てするに及び、翕然としてその旗下に馳せ參じ、其等の逆徒、滔々として天下に充滿するに及び、中興の大業、遂に失敗に終つたのである。こゝに我等は、この失敗の原因を、恐れ多くも朝廷の御失政、殊には後醍醐天皇の御失徳に歸し奉つた從來の俗説を、大地に一擲しなければならぬ。否、我等の先祖の、或は誘はれて足利につき、或は義を守つたとしても、力乏しくして、遂に大業を翼贊し奉る能はざるのみならず、却つて聖業を誹謗し奉る事、六百年の長きに亙つた罪を懺悔し、陳謝しなければならぬ。建武中興の歴史は、まことに懺悔の涙を以て讀まるべきである。しかも懺悔の涙を以て讀むといふを以て、單なる追想懷古と誤解することなかれ。建武の昔の問題は、實にまた昭和の今の問題である。見よ、義利の戰、今如何。歴史を無視して、己の由つて來る所を忘れ、精神的放浪の旅、往いて歸る所を知らず、國體を閑却し、大義に眛く、奸猾、利を求め、倨傲、利に驕る、これ何人であるか。滔々たる世の大勢に抗して正道を求め、眞の日本人として己の分をわきまへ、一意、至尊を奉戴して、その鴻恩に報い奉り、死して大義を守らんとする、果して何人であるか。問題は、こゝに、六百年前の昔より、六百年後の今日に、飛瀑の如く急轉直下し來る」と。
 
 

「九段塾」塾頭・最終講義。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月15日(月)23時20分4秒
返信・引用 編集済
   スレツド欄に、本掲示版に於ける塾頭遺文を抽出せむと欲し、

「九段塾」塾頭・金城翁最終講義

てふ新スレツドを、些か期する所あつて、建てさせて戴きました。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t37/

 一日一枠、同學相共に、ご高覽、或は再勉強たまはれば、之に過ぐる喜びはありません。

 先づは、靖國神社遊就館に於いて、我が塾頭、即ち泉水隆一監督作品『凛として愛』の再上映を期したいものであります。是れ「靖國神社正統護持」の爲めの、さゝやかな第一歩であります。然し此のさゝやかなる義擧の果たす所、其の意義、其の影響は、眞に甚大にして、皇國の正氣を覺醒せしむることになるに相違ありません。
 
 

生年月日考證。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月12日(金)21時19分25秒
返信・引用 編集済
   大げさな表題であるが、小生、これでも苦慮いたしました。

 我が塾頭歸幽日は、

http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1714862/
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平成二十二年七月十六日、行年六十九。

此の享年は、小生が常識としては、數へ歳であるからして、先づは生年は、昭和十七年壬午と推定。しかし待てよ、關東では、或は滿年齡で云ふのか知らんと、疑念が湧く‥‥。まさか‥‥。坊主が滿年齡で云ふものか‥‥。そこで、藤真知子女子にお聞きしたら、「普通、滿年齡ですよ」となん。嗚呼、我が國俗、享年の數へ方も、遂に「個人主義」に犯されてしまつたと云ふことか。悲しみは、暫く措く。兎も角も我が塾頭は、昭和十六年辛巳に生れたるなるべし。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1070

 後は月日。これは皆目、判らない。藤女史の曰く、
塾頭は、どうしても年齡を仰せにならない。誕生日だけでも教へ下さいと御願ひしたら、四月十二日である由」と。暦を繰れば、陸軍大學校開校日なり。然し塾頭は、海軍畑、これは些か牽強附會でした。

 福井金城翁の生年月日が、これにて遂に決定された。

昭和十六年辛巳四月十二日、禀生。

 然し數へ歳七十とは、我々の豫想を遙かに裏切る若さでありました。塾頭の文章から、年齡を窺はせるもの二三あるも、最後まで‥‥韜晦‥‥。長い間、小生は、塾頭は大正生れと確信してをりました。然れども再言す、「塾頭は、身も心も、どうしても『戰前の人』でなければならなかつたのだ‥‥」と。小生が五十半ばだと云ふに、二三年前までは、四十前にしか見えぬと云はれたのとは、大きい相違なり。小生も、七十歳に見られる貫禄をつけねばならぬ。
 
 

あな、嬉しき哉。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月11日(木)00時12分40秒
返信・引用 編集済
   御忙しい中、「花時計」藤真知子會長から、此の九段塾に投稿くださいました。本道に有り難うございます。

 藤會長は、最晩年の塾頭の動靜を知る御方、そして『凛として愛』を頒布して下さつてをられます。今の度びは「泉水隆一監督の想出」を語つて戴ける由、九段塾としては、歡喜して御迎へ申し上げたいと存じます。
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http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

 かつて塾頭の曰く、「今、若い女性と付き合っています。これが元気のもとか」と。



追記。
 藤會長には、『凛として愛』の脚本の消息を知られませんでせうか。若し天下に一本でもあれば、拜記して九段塾のスレツドに掲げたく、是非とも御周旋、宜しく御願ひ申し上げます。



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/58
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 塾頭の曰く、「名越二荒之助前高千穂商科大教授が、去る(平成十九年四月)十一日、呼吸不全で亡くなられた。今日(十四日)、午前十一時、目黒正覚寺で葬儀・告別式。ごく親しい人だけに訃報は知らされて、今朝まで内密にされていた。ソ連に抑留された経験から、『ともかく長いものに巻かれても、生き拔くことが最先決だ』と云う信念を、秘かに持ち続けて来られた先生でした。生き抜かれたことで、復員後、捻じ曲げられた歴史の修正に、生涯を賭けられることが出来た。貴重な考え方だと、小生は思った。何度か親しくお話したことがあった。小生を先生は、『自分より三つぐらい、年上かと思っていましたよ』と、以前言われたことがある。『じっと我慢する』ことも必要なんです――と、小生にはよく言っていた。「一兵士」で書いていることは、先生は、多分、知らなかったろう。ご冥福を心からお祈りします。人生、古より、誰か死無からん、丹心を留取して、汗青を照らさん‥‥」と。



 愚案、名越二荒之助翁、大正十二年、備中國笠岡生れ。享年八十五。然らば塾頭は、翁より大正九年生れに見られてゐたことになる。塾頭は、生前に其の周圍にも、自らの生年を容易に漏らさずと、藤真知子女史から聞くも、實は昭和十六年生れ、翁より十八歳も若ければ、其の老成、見るべきである。蓋し塾頭は、大正生れなるを祕かに渇望自任し、病身のこともあつて、かく振舞はれてゐたのだらうか。‥‥塾頭は、どうしても「戰前の人」でなければならなかつたのだ‥‥。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/65



http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1075
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 泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』(平成十四年九月十八日)に曰く、

「現在、私は靖國神社に祀られる英霊そのものは、大切にしたいと考えておりますが、現在の靖國神社執行部である、湯澤(貞)宮司・三井(勝生)権宮司・山口(建史)総務部長の三人を信じてはおりません。又、神社に上映中止を迫ったと言われる阿南(惟正)総代(阿南惟幾大将の遺児)・小田村四郎総代(拓殖大学総長)、他に小堀桂一郎氏などの一連の著名な学者・研究者も、私は信じていません。彼らが、今後、英霊に対してどのような崇敬の言葉を吐いたとしても、私はそれを腹で嘲笑し、軽蔑します。全て偽善者であると、私は断定するからです。‥‥

 本作品(『凛として愛』)の完成後、同時進行していた真珠湾攻撃の真実を描いたアニメ併用の『太陽に向かって翔べ』や『大東亜戦争の真実』の二作品も、編集を中止しました。

 『太陽に向かって翔べ』の作品では、スタジオに、真珠湾攻撃に出撃した三十隻の縮小艦船模型に、潜水艦部隊三十数隻(縮小模型は龍角散社長よりお借りする)、また航空部隊の三機種の模型を準備し、三日がかりで、その威容を撮影。そして真珠湾攻撃に参加した空母加賀の雷撃隊のお一人のインタビューや、ハワイまでロケ、真珠湾攻撃を直接目撃した日系二世の元米軍将校のインタビューなどで構成、真珠湾攻撃の真実の姿を描く予定でしたが、これも中断せざるを得なくなったこと、誠に残念です。ご協力頂いた方々には、申し訳ないの一言です。

 『大東亜戦争の真実』では、戦後、初めてカメラの前に立たれたアッツ島生き残りの元兵士の貴重な証言、山崎大佐の遺児・山崎保之さんのインタビュー。また日赤の従軍看護婦の方、島根県の山村で戦後の日本の歩みを批判する人々の話、あるいは玉砕の島ペリリューに十日間ロケ、彼らは、どのように執拗に闘ったか――その雄渾の姿を描くつもりでしたが、これも中止という運命になりました。

 私は、靖國神社執行部に対して、今後、どのような形で戦いを挑んでいくか、目下熟慮中です。今の靖國神社の体制を崩さないかぎり、英霊は浮かばれません(ママ。愚案、「浮かばれない」とは‥‥。塾頭、餘程憤慨せしならむ。晩年の塾頭には、考ふべからざる表現なり矣)。ただただ英霊が、彼らの私利私欲のために利用されるだけです。先人が「靖國神社で逢おう」といった言葉は、あくまでも日本国民全てが認めていた、戦前の靖國神社です。今の靖國神社ではないということを、どうかよくお考えになって下さい。その上で改めて、靖國神社というものを考えて下さい。決して彼らの表面ごとの言葉やポーズに騙されてはいけません。『凛として愛』をふみにじったものたちが、靖國神社の中枢にいることが、現在の日本の不幸であり、真実の歴史の扉の前に立ちふさがっています。敵は左翼ではなく、まさに本能寺にあったのです。獅子身中の虫という言葉が、私の胸の中で煮え繰り返っています」と。



 愚案、『太陽に向かって翔べ』と『大東亜戦争の真実』と‥‥、此の二作品は、何處へ消えてしまつたのであらうか。靖國神社の倉庫に、或は其の斷片が存在してゐるのかも知れない。其の關係協力者は、何處へ霧散してしまつたのであらうか‥‥。塾頭の誠心は、インタビユー・取材を通して、已むを得ず、反國家を裝はざるを得ぬ人をして、其の穢れを祓ひ、其の眞實の聲を引出したと云ふ(『凛とし愛』囘天の件りに出る老婆等)。其の散逸は、惜しみても餘りあるものと謂はねばなるまい。
 
 

思い出

 投稿者:藤 真知子  投稿日:2011年 8月10日(水)23時24分16秒
返信・引用
  九段塾のみなさま、初めまして。
藤真知子と申します。
思い出話しを書き込ませて頂きます。

塾頭こと泉水隆一監督とは平成21年の年末に「凛として愛」の上映会を行った時に知り合いました。
それから色んなお話をしました。

最初に監督と連絡を取った時に
「凛として愛」の上映会を企画はしたものの、予算はほとんどなくて許可してもらえるのか、とても心配でした。
でも連絡をしたら「どうぞご自由に」とのお返事で、
条件など聞いたらそういうものは何もないという事でした。

初めてお会いした時はリハビリセンターに入院中で、
そこのビル内にある喫茶店に入り、2~3時間お話をしました。
今の保守に呆れている事や「女性はデモや抗議などに参加するのではなく
女性にしかできない事をやりなさい。子供の教育の事などに力をいれたほうがいいよ。」というような事を話されていました。

それから何度かお見舞いに行くたびに1時間から2時間、色んな話をしました。
お見舞いに行くと帽子やマフラーを身につけたりしていてとてもオシャレをしていました。
監督は「私はネットはほとんどしない」と言っていたのですが、
行くと一生懸命パソコンに向かっている事がありました。
きっと九段塾に書き込みをしていたのかもしれませんね。

パソコンのそばには「少年日本史」という歴史の本があり、
沢山の付箋がはられており、書き込みも沢山してあって、
「次回の映画の構想をねってる」と言っていました。

足が不自由だったのでリハビリをしていたのですが、
九段会館での「凛として愛」の上映会が決まり、壇上に立つ事になった時に
九段会館の壇上へは自分の足で歩いてあがりたいと言われ、
九段会館の階段の段数、階段の幅、高さを調べて、
上映会までの約1カ月、リハビリセンターで同じサイズの階段で同じ段数を毎日あがってリハビリをし
九段会館では自分の足で階段をあがり、壇上に立ちました。


~まだ続きます~

http://www.hanadokei2010.com/

 

自衞隊が皇軍になる日。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 8月 7日(日)09時51分40秒
返信・引用 編集済
   謹みて、中島一光翁の『自衞隊が皇軍になつた』を紹介させて戴きたい。
  ↓↓↓↓↓
http://www5.ocn.ne.jp/~iyasaka/Kougun.htm



 愚案、「自衞隊が皇軍」となつたならば、其の殉職者は、靖國神社に合祀されることが叶ふが、隊内に於いて、未だ「邪蘇暦」で教育されてをるやうでは、眞の皇軍たるを得まい。「國民の生命・財産を守る」所の國軍では、「愛する家族・戀人」しか守ること能はぬ。此の西暦で國史の論文を書く最高幹部も、かつて存在した。元號の敕裁は、天皇大權の一つであるが、之を奉ずる者(大御政の下に生くる民)、眞に鮮し矣。關係各位の覺醒を乞ひ奉る。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/106
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/146
  
 

皇民吾人の志操を、更に深化徹底せしめよ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月29日(金)22時13分1秒
返信・引用 編集済
   最近、「英霊にこたえる会」企劃制作による映畫『君にめぐりあいたい』(平成十二年・五十三分)が、ユーチユーブに掲上された。申すまでも無く、我等が塾頭・金城福井忠翁の監督・ナレーシヨンによるもの、其の張りのある、燻し銀の肉聲を、お聽きください。

 然しながら『凛として愛』の感動に比ぶれば、啓蒙的にして、且つ感傷的であつて、其の慟哭は、遠く及ばない。金城翁は、平成十二年の『君にめぐりあいたい』完成から、直ちに『凛として愛』の企劃制作に取りかゝつてをられるわけであるが、其の差異は、此の二年間に於ける、翁の研究・志操の深化に因るものと謂ふべきものであらうか。或は「英霊にこたえる会」企劃制作に厭き足らず、翁自らの企劃制作に向はれたものと理解すべきでであらうか。

 『君にめぐりあいたい』には、地の文に「西暦」を見、亦た「愛する家族・戀人の爲めに戰つた」との、金城翁のナレーシヨンが、小生をして九段塾に紹介せしむるに、躊躇逡巡させる‥‥。もつとも翁に於ける研究の深化、論述の先鋭化と云ふよりは、金城翁の「志操の深化」と申すべく、其の覺醒、深化徹底は已むこと無く、松平永芳宮司の精神を明確に打出す所の、櫻および九段塾掲示板の雄叫びこそ、ぼんやりとせる保守人をして驚愕せしめたる大論、吾人が靖國神社正統護持の所據にして、塾頭「晩年の定論」と謂ふべきものであります。塾頭は「散華」・「日本軍」と云ふを嫌ふまでに、其の志操は深められ、遂に神代囘歸の本意を洩らされるに至りました。まさに天皇絶對、擧族殉皇、古學復興を唱道して、所謂る國學の立場を鮮明にされたのであります矣。即ち是れ小生が、福井金城翁遺文ないし泉水隆一翁遺文と曰はず、敢へて「九段塾塾頭(金城翁)遺文」と申す所以であります。


●ユーチユーブ動畫『君にめぐりあいたい』

一、http://www.youtube.com/watch?v=tVkZufA_2Do

二、http://www.youtube.com/watch?v=ddxvcdUy1jk

三、http://www.youtube.com/watch?v=5A2KYw-WnX8

四、http://www.youtube.com/watch?v=Jr5jLr3AejA



 塾頭遺文『靖國神社の真実』出版は、一昨日、或る方面からの「待つた」がかゝり(獨り涕泣する小生、之を聞かれても、明言いたしませぬことを、何卒、御容赦ください)、無念斷腸の思ひでありますが、已む無く、自費出版に切替へざるを得なくなりました。期待たまはりました各位には、こゝに、謹んで御詫び申し上げます。

 これも、悲しき神定めと諦觀し、前向きに考へて參らうと存じます。なほ本年中には、必ず自費出版を遂ぐる所存、九段塾ご閲覽各位の、塾頭を敬慕される同志には、固より無代にて御頒け申し上げますので、其の折には、遠慮なく、册數・送付先を連絡ください。又た此の自費出版『靖國神社の真実』につきましては、當然のことながら九段塾管理者たる「備中處士」が、全責任を負ふものであります。謹白
 
 

中村一仁氏編『淺野晃詩文集』。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月16日(土)17時30分30秒
返信・引用
  中村一仁樣 硯北

拜復

 懇篤なる玉翰、難有う存じます。『淺野晃詩文集』(平成二十三年三月・鼎書房刊)を拜戴して、感激してをります。

 小生の學生時代、淺野晃翁に私淑してをりましたので、明治神宮會館に於ける大東塾の講演にて、翁の謦咳に接し得ましたことは、小生にとりまして、忘却する能はざる想出であります。福永眞由美刀自より、御若い御方の、大變な力編と御聞きしました。早速、貴編の大册を披繙するに、辛苦の程が偲ばれて、獨り靜かに泪し、且つ喜んでをります。

 淺野晃翁と申せば、戰前に名著が多くあり、殊に『楠木正成』は、小生の感泣して已まざるもの、能ふべくんば、中村樣の御力にて、是非とも覆刻して戴き、弘く讀まれむことを希望します。皇國の御爲め、現今必要なるものは、大楠公の復活と愚考してをります。

 今の度びは、圖らざる御訪問を賜はり、洵に恐縮いたしました。幾重にも御禮申し上げます。九拜

     玄月書屋にて、備中處士、謹みて白す。
 
 

ご紹介ありがとうございます

 投稿者:中村一仁  投稿日:2011年 7月16日(土)13時46分10秒
返信・引用
  > No.1268[元記事へ]

備中處士 様

『淺野晃詩文集』を編集した中村一仁と申します。
掲示板でのご紹介と懇篤なご感想に厚く御礼申し上げます。
心あるご友人に、本書をおすすめしていただければ幸甚です。
8月15日までに、一冊を靖国神社に献呈したいとも考へてをります。
今後とも、よろしくお願ひいたします。
 

Re: 「金城祭」を明後日に控へて‥‥。

 投稿者:那須の権太  投稿日:2011年 7月14日(木)19時15分27秒
返信・引用
  備中處士樣

  十六日午前零時三分。金城祭、承りました。
  なほ、この日は當地、八坂神社天王祭の佳き日でも御座います。
  新小松流五段囃子、謹みて塾頭に捧げ奉ります。

    那須の権太 九拜
 

「金城祭」を明後日に控へて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月14日(木)00時03分16秒
返信・引用 編集済
  九段塾ご閲覽の皆樣へ


謹啓 暑中御見舞ひ申し上げます。


 明日の深夜、正確に申し上げれば、明後日の七月十六日午前零時三分、泉水隆一監督、即ち我が九段塾・塾頭一兵士こと、金城福井忠翁が身罷られて、丁度、一年と相成ります。十六日の其の時刻には、小生が陋屋の神前にて、獨り「金城祭」を齋行しようと存じます。有縁の方々には、七月十六日午前零時三分ごろに、共に各々神床の廣前にて御祭りをされますやう、或は默祷をして戴きますやう、伏して御願ひ申し上げる次第であります。


 顧みれば、金城翁の歸幽も知らず、洵に不甲斐なき管理者でありますが、御教へを拜受した者として、感慨の深く、敬慕の切なるものがございます。せめてもの償ひとして、本年中には、

「九段塾」塾頭・一兵士翁――泉水隆一監督遺文『靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために』

が出版の運びと相成り、江湖の書店に竝びますことは、不肖小生の、深く喜びとする所であります(現在、鋭意、校正中)。


 復た金城祭の翌日、十七日には、「愛国女性のつどい・花時計」(橘まゆみ・藤真知子兩會長)樣により、

泉水隆一監督作品『凛として愛』上映會

が、帝都にて開かれます。翁と親交あつて、『凛として愛』の擴散を長年續けて來られた、東條由布子刀自の協力の下による開催と聞いてをります。當日には、東條刀自により、映畫の事や監督についての想出も語られる由。ご都合の付く御方は、是非とも足を御運び下さい。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1265


 炎威赫灼の候、皆樣には、益々ご自愛ご靈健の程、只管ら懇祷いたします。


 平成二十三年七月、靖國神社みたま祭第一夜祭の日に、眞金吹く吉備中つ國にて、備中處士 百拜謹白



 金城翁有縁の方々には、今一度、塾頭の肉聲を御聽きの上、我が塾頭を御偲び下さい。
  ↓↓↓↓↓
【ニコニコ動畫】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9239223
 
 

力めて皇民たらむと欲す。

 投稿者:備中處士  投稿日:2011年 7月11日(月)19時43分6秒
返信・引用 編集済
   塾頭の曰く、「備中處士さん、やはりあなたが、いろいろ先哲の言葉を適宜蔵出ししてもらった方がよろしい。ハタと膝を打つことが多い。お願いします。スレッドはスレッドで完成させたにしても、あぶり出」せ、との仰せ。

 下記の、塾頭の「知人」の御方の言葉を想起するたびに、泣けて仕方が無いのである。然し泣いてをつても詮無きこと。此の九段塾掲示版の塾頭遺文を抽出し、再讀熟覽せられむことを。只管ら熱祷す、靖國神社正統護持を庶幾する「天皇の民」よ、出でて靖國神社に參拜し、小さきこと、些細なことでも、皇業翼贊の一端になることは、鋭意、努められむことを‥‥。懇祷して已まない。不幸にして、「天皇の民」たる自覺が無くんば、力めて「天皇の民」と爲るべく、小生と共に勉勵せよ。
  ↓↓↓↓↓
【天皇の民でなくなつた日本國民の罪】
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/186



【明治神宮と靖國神社との御關係】
  ↓↓↓↓↓
賀茂百樹宮司『明治神宮と靖國神社との御關係』昭和九年十二月・有備會本部刊(大正九年十一月三日述「明治神宮と靖國神社との御關係」、竝びに大正十二年七月十二日述「大御心」を收む)
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/meiji_yasukuni.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ohomikokoro.htm
  ↓↓↓↓↓
 此の遺文、即ち賀茂葵園宮司の本文を、有志には、是非とも轉記擴散せられむことを。


●中今亭葵園加茂百樹賀茂縣主眞定大人
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kamo_career.htm
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t8/l50
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t4/l50



【痛恨、慘たり矣哉――靖國神社の現状――】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/170
 
 

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