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靖國神社を政爭の具にする勿れ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 7月23日(日)20時07分24秒
返信・引用 編集済
   平成二十九年七月二十二日、靖國會第九代總代に、田母神俊雄氏がなつたさうだ。復た又た政治家共と仲のよい氏のこと、靖國神社境内の清淨と靜謐が破られようとしてゐる。氏は、俄か保守の典型にして、彼の政治ゴロとも仲がよかつたし(最近、喧嘩別れし、訴訟沙汰にもなつた由だが)、山本七平や渡部昇一の如き、邪蘇を奉ずる者の歴史書を下敷きとして論文を書き、俄かにマスコミに登場して來た人である。

 靖國會は、平泉澄先生の門下・草地貞吾翁も總代であつたが、松平永芳・大野俊康兩宮司の遺言を悉く否定する總代湯澤貞氏の後繼とあつては、無視も出來ない。かつて小生は、次の如く書いたが、全く修正の必要を認めない。曰く、

「田母神氏の論文を拜見して思ふに、大東亞戰爭の言あるは當然としても、元號の表記は全く無い。これは何うしたことか。敢へて申し上げたいが、戰後世代にとつては、元號とは、一體、何であるのか。自衞隊關係者にとつて、影山正治翁なぞ、全く關係ないのは判るものゝ(影山翁の最近の弟子も、師に叛旗を飜して、西暦を用ゐて憚らぬ時代、小生は其の門下では無いが、之を悲しむ)、せめて我が國に於ける記事論文の筆法として、我が元號を用ゐて戴きたいものである。元號とは、時間・空間を支配せるもの、吉野時代以降、論説する者の思想傾向を見るに、奉ずる所の暦法は、缺くべからざる要素である。西暦を奉ずるてふ事は、精神的放浪、往いて歸らざる者、或は邪蘇の軍門に降ると云ふ事、之に因り、敵か否かを判別し得る程の、至重至大の問題である。人、小生を變人奇人として、或は嗤へば嗤へ。獨り堪へるのみ。此の已むことの無い怒りは、俄か保守には、決して理解して戴けないであらうが、小生の悲しみは洵に深い。

 戰後政治家に愛想をつかして長い小生であるが、戰後の歴代首相に對して、靖國神社參拜を求める御方の氣持ちが、小生には、實は全く解せぬのであります。何故ゑ人氣集票のみに苦慮して、皇國の名譽に關はらうとしない政治家に、靖國神社の參拜を懇願して、此の一點に對し、現代の民族派・保守家の人々は、一致團結して之を求め得るのか。皇國中興の御志を有たぬ者にとつて、靖國神社は、何等かゝはりは無い所でありませう。寧ろ靖國神社の一切から、戰後政治家の一掃を懇望して、靖國神社の清淨と靜謐を守りたい。平素に於いて黨派の政諍流行に忙しい政治家・保守家は、一部の民族陣營を含めて、靖國神社を利用してゐるのに、全く氣が附いてゐないのでは無いか。小生は憂鬱を抱き、反吐が出て頭が劇しく痛み、且つ懊惱する。故に筆が進まない」と。



【松平永芳大人遺文】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/l50

【塾頭遺文──「國民服喪の日に、ピンクの胸の徽章を付けて、靖國神社參道で演説する、『來賓』とか云ふ無禮者『田母神閣下』を、何故、ひきづり降ろさない。この日は祝賀會か。誰か教へてやれ、總理でも『特別參拜者』と呼ぶ。祭神の御前に、祭神より偉い來賓なんか存在しない」──】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/193
 
 

神道界の憂鬱‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 6月26日(月)23時40分33秒
返信・引用
   「天の怒りか地の聲か、そも只ならぬ響あり」とは、かつて謠はれし所、現代に於いても、上は幕府執權から、下は神道界隈に至るまで、何處も同じではないか。諸共に喪せて可なり。「いまは亡き 悲願の人の 悲願を繼ぐ」大惡人、「只一人 亂世の雄出でよと 海にいのる」のみ。嗚呼、已んぬるかな。



http://diamond.jp/articles/-/132516
  ↓↓↓↓↓
週刊ダイヤモンド編集部/平成二十九年六月二十一日
神社本庁で不可解な不動産取引、刑事告訴も飛び出す大騒動勃発』から、轉載させて戴く。上記には、相關圖あり。乞ふ、御照覽を。

**********

 大半の国民にとつて神社と言へば、初詣や七五三・結婚式等、人生の節目々々で、神に祈りを捧げる場だ。ところがそんな明鏡止水の場の裏側で、今、ある不可解な不動産取引をめぐつて、大騒動が起きてゐる(週刊ダイヤモンド編集部・ダイヤモンドオンライン編集部『瓦解する神社』取材班)。

瓦解する神社

 「神社界の『中枢』にゐる全員が、疑心暗鬼に陥つてゐる。誰が敵で、誰が味方なのか、分からない」──。

 日本最大の信者数を誇る宗教である「神道」。その中で、全国約八万社の神社を『包括』する組織が、宗教法人「神社本庁」(東京都渋谷区。以下、本庁)だ。安倍政権の伸長に絡んで、昨今、注目が集まつてゐる政治団体「神道政治連盟(神政連)」の実質的な母体組織でもある。そんな本庁で、目下、ある疑惑をめぐり、「全国の神職を巻き込んだ騒動が勃発してゐる」と、本庁関係者は明かす。といふのも、本庁の一部幹部たちが「怪文書」や「名誉毀損文書」と呼ぶ、複数の匿名文書が、全国の神職関係者の間で飛び交つてゐるからだ。さらに今月、業を煮やした本庁首脳が、これら匿名文書に対し、被疑者不明のまゝ、名誉毀損で刑事告訴に踏み切るといふから、穏やかでない。争ひ事、ましてや法廷闘争とは無縁に思へる神社界で、一体、何が起きてゐるのか。

 「事情を知る本庁職員や有力神社の神職は、神社界における『森友学園問題』と呼んでゐる」と自嘲するのは、本庁の役員会関係者だ。本庁は、週刊ダイヤモンド編集部の取材に対し、騒動のあらましこそ認めたものゝ、「顧問弁護士に一任してゐる」と、口をつぐむ。その顧問弁護士は、「宗教法人内部の財産処分の話なので、外部に話すことはない」とだけ答へ、受話器を置いた。だが、複数の本庁関係者や、神職などに対する取材を進めると、「本庁の実権を握る一部の幹部が、特定の不動産業者と癒着し、貴重な本庁の財産を損なつてゐるのではないか」といふ、疑惑が浮上してきた。

最終的に三億円超になつた不動産を、一億八千四百万円で売却

 事の発端は、一昨年の平成二十七年十月までさかのぼる。

 本庁の議決機関で、全国の神職などから選出される「評議員会」において、本庁が所有し、二十世帯以上が入る職員用宿舎「百合丘職舎」(川崎市)を、新宿区の不動産会社「デインプルインターナシヨナル」に売却することが承認された。その額は、一億八千四百万円だつた。ところが、売買契約日の同年十一月二十七日、本庁からデインプルへ売却されるかたはらで、同じ地方銀行の別室において、もう一つの不動産売買契約が交はされる。デインプルから、東村山市の不動産会社A社への『即日転売』だ。「デインプルに売られる」とだけ説明されてゐた本庁の役員会は、ふたを開けてびつくりしたといふ。その上、A社への売却額は、デインプルへの売却額一億八千四百万円よりも高い、「二億円を大きく超える金額だつた」と、別の本庁関係者は明かす。

 この取引について、不動産取引に詳しい弁護士や不動産業者は、「経緯を見る限り、『三為(さんため)契約』を使つた、典型的な『土地転がし』だらう」と指摘する。三為契約とは、民法の「第三者のためにする契約」の略称で、簡単に言へば、三社の間で不動産を転売する際に、要件を満たせば、途中の登記を省略することができるといふもの。だが、「買値よりも二から三割の金額を上乗せして転売するケースが多い」(不動産関係者)ため、合法ではあるが、各地で問題となつてゐるスキームだ。たゞ話がこれで終はれば、「不動産取引に疎い宗教法人が、不動産会社に合法的に手玉に取られた」といふ話。ところが、だ。昨年五月、今度は、A社が、さらに大手ハウスメーカーB社に不動産を転売、その価格が、一気に三億円超に跳ね上がつたといふから、ひつくり返る。

原則売却禁止の基本財産を、随意契約でたゝき売り

 そもゝゝ今回、対象となつた百合丘職舎は、本庁の「基本財産」だ。基本財産とは、「本庁永続の基幹となる財産」(神社本庁規)であり、やむを得ない事情がある場合を除いて、原則「処分することはできない」(同)とされてゐる。たとへ事情があつて、処分が認められたとしても、三者以上の競争入札で行はなければならないと、規定されてゐる。たゞし競争入札が、「特に不利、または不可能な場合」(神社本庁財務規程)に限つて、初めて随意契約が可能となるなど、基本財産の処分には、幾重もの制限がかけられてゐる。それも、そのはず。基本財産を取得する『原資』の多くは、過疎化にあへぐ地方の神社を含めた、全国の神社から吸ひ上げた、言はゞ『上納金』だ。さらにそのおほもとをたどれば、地元の氏子や参拝者たちから、コツヽヽ集めた大切な浄財。地方になればなるほど、地域コミユニテイに参加するための『税金』の色彩が強くなり、それゆゑ本庁の財産は、おいそれと売却してはならない、とされてゐるわけだ。

 基本財産目録に記された百合丘職舎は、簿価ベースで、土地建物合はせ七億五千六百十六万円。もちろんこれは、減価償却をしてをらず、現在の資産価値ではない。それでも本庁の基本財産のうち、かなりの部分を占める『虎の子』だつた。実は、本庁は百合丘職舎の売却案が内部で出た当初、当時の財務部長(前任)は、競争入札を行ふべく、大手信託銀行などに相談してゐた。その過程で、相談先からは、「三億円前後の値がつくだらう」といふ評価を受けてをり、また実際に内々に、「三億円近い買ひ取り額を提示する買ひ手もゐた」(当時の事情に詳しい本庁関係者)といふ。それが、内規で原則禁じられてゐるはずの随意契約により、一億円以上低い金額でたゝき売られたことになる。

 では、なぜ随意契約による一億八千四百万円といふ売却額が、評議員会で承認されたのか。デインプルとの随意契約に後ろ向きだつた前財務部長が『更迭』され、氏が財務部長に変はると、話は一気に進む。評議員会や役員会で説明を求められたK氏が、売却の経緯や金額の根拠を説明した議事録(神社業界誌掲載)によれば、「入札に至るまでの時間的制約により、随意契約的な内容で契約を取り交はした」。また「不動産鑑定評価書に示す価格(中略)など、総合的に検討した結果、提示価格は適正の範囲内であると判断した」とある。まづ入札にかけられないほど、緊急の時間的制約があつたのかだが、「不動産の価格は流動的で、デインプルに即座に売らなければ、値下がりするかもしれない」などと、デインプルとの契約を推し進めた幹部たちは説明したといふ。「そんな理由がまかり通るなら、不動産売買全てが、随意契約でしか行へないことになる」と、さらに別の本庁関係者は呆れる。実際、即日転売で二億円を超え、さらにわづか半年後には、当初の想定してゐた売価三億円を超える値で買ひ手がついてをり、何とも苦しい。また売価の根拠として、真つ先に挙げられたこの不動産評価鑑定書は、実は、購入者であるデインプル自身が持ち込んだもの。そこには、鑑定時の同行者として、ご丁寧にもデインプル社員の名前まで記載され、その評価額は一億七千五百万円となつてゐた。

 これを本庁側が、本当に信用したのか、その真相は分からない。しかし三為契約の舞台となつた地銀は、A社のものになつてゐた百合丘職舎の土地・建物に、計三億円の根抵当権を設定してゐた。無論、根抵当の額は、必ずしも資産価値を担保するものではないが、B社の買ひ取り額を見ても、安すぎることは間違ひないといへる。B社担当者は言ふ。「われゝゝも不動産のプロ。実勢価格などを精査し、三億円超の価値があると判断したが、常識的に考へて、わづか一億八千四百万円といふ額には、『ちよつと待つてくれよ!』と、文句を言ひたくなる」。

売却益で、幹部職舎に高級マンシヨン危機管理名目にも、疑問の声

この話には、二つの『オチ』がつく。

 まづ神社本庁が百合丘職舎の売却益で購入した『モノ』が、問題視されてゐる。複数の本庁幹部と役員関係者は、異口同音に眉をひそめる。「危機管理用の新たな職舎といふ名目で、渋谷区代々木の中古の高級マンシヨンを購入。その入居予定者が、なんとデインプルへの早期売却を推し進めた、本庁の幹部二人だつた」(前出の本庁関係者)からだ。つまり職員用宿舎から入居者を追ひ出して得たカネを使ひ、一部の幹部が住むための家を買つてゐた、といふわけだ。この「二人の入居予定者」とは、百合丘職舎の売却時、本庁総務部長だつた小野崇之氏と、当時は秘書部長で、現在は小野氏の後任の総務部長に『出世』した(愚案、眞田宜修)氏。本庁人事において、実質的な権力を握る二大ポストが、この総務部長と秘書部長だ。だが昨年二月、小野氏が伊勢神宮に次ぐ有力神社の一つで、全国八千社の八幡神社の頂点、宇佐神宮(大分県)の宮司に栄転。それが影響してか、当初は二戸購入する予定だつたものが、総務部長(つまりS氏)が入る一戸に減らされた。

 これには、末端の本庁職員も、一様に苦笑ひだ。
「緊急時の危機管理対応用と言つておきながら、入居予定者が、外部に栄転したら買はないとは、そもゝゝ始めから一戸は必要なかつたのでは、と言はれても仕方ない。S氏は、秘書部長当時、『秘書部長は、役員との連絡係だから、緊急時に備へて、宿舎が必要だ』と言つてゐたが、役員には携帯で連絡すればいゝし、自分が総務部長になつた途端、秘書部長用の宿舎を買はないのは、それまでの説明と矛盾してゐる」。
「緊急時に実働する職員たちの大半は、百合丘職舎より遠い郊外に住んでゐる。緊急の事態に、総務部長一人だけが駆け付けて、一体、何ができるんですかね? ましてや、今回購入したマンシヨンは、それまでの危機管理対応宿舎よりも遠い。本当に危機管理対応が目的なのか、と言ひたくなる」。
かうした声が、あちらこちらから上がつてゐるが、現総務部長のS氏が入居したマンシヨンの購入価格は、中古ながら都心の一等地に建つてゐるだけあつて、なんと七千二百六十万円にも上る『超高級物件』だ。

 そしてもう一つの『オチ』が、三億円超を出して『バヾを引いた』格好の大手ハウスメーカーB社が、今年二月までに、「百合丘職舎の躯体(柱など構造的部分)に、購入後、大きな瑕疵があつた」(B社担当者)と指摘したことだ。B社は、元々リノベーシヨン物件として再販するために百合丘職舎を購入したが、この瑕疵により、いまだ着工できない状態にあるといふ。B社は、現在「買ひ戻してもらふか、損害賠償を請求するか検討してをり、売主(つまりA社)にクレームを入れてゐる最中だ」(同じ担当者)。

 こゝで、更なる疑惑が浮上する。さらに別の本庁関係者は言ふ。
「神社本庁の一部やデインプル社が、実は瑕疵を隠して売つたのではないかといふ疑惑が出てゐる。もしさうなら、一億八千四百万円といふ売価は、腑に落ちる。だがさうなると、詐欺に該当し、刑事事件に発展する可能性もある」。
かうした疑惑の根拠となつてゐるのが、先の議事録。財政部長のK氏は、売価が安くなつた理由の一つに、問はれてもゐないのに、「売却後の瑕疵による経費発生の有無」を挙げてゐるのだ。不動産評価鑑定書に、「瑕疵」についての記載は、一つも見当たらないにもかゝはらず、である。

デインプルの社長と神社界『大物』の浅からぬ関係

 では、なぜデインプルが「随意契約的な内容」で、百合丘職舎を手中に収めることができたのか。「デインプル社長の(愚案、髙橋恆雄)氏は、小野氏と懇意な関係にある神社界の『大物』と、かねて繋がりがある」と、複数の本庁関係者は、ため息を漏らす。ある本庁関係者は、「本庁の人間なら、誰でも知つてゐることだが‥‥」と、前置きした上で言ふ。

「デインプル社長のT氏は、実は『日本メデイアミツクス』といふ会社の社長も務めてをり、その取締役に、日本レスリング協会長を務める福田富昭氏が就いてゐる。その福田氏は、本庁の元幹部である神政連会長の打田文博氏と懇意にしてゐる。そして打田氏は、本庁の総長である田中恆清氏と盟友といふ関係。かうした流れで、デインプルは本庁との関係を深めてゐた。また小野氏は、打田氏の腹心で、その後継者が、現在の総務部長S氏だ。小野氏は、本庁の関係財団の過去の土地取引で、デインプルと密接な関係があつた」。

 ちなみに日本メデイアミツクスは、「日本で唯一の『皇室』専門誌」と謳つて、「全国の神社が、半ば強制的に買わされてゐる」(ある神職)といふ季刊誌『皇室』(扶桑社)の販売会社だ。実際、デインプルと本庁との関係は古い。平成十二年に、本庁の関係財団が、神職養成機関である國學院大学に土地を売つたことに、端を発する。この売却益を元手に、関係財団が、本庁に隣接するビルを購入。そのビルを三ケ月前から所有してゐたのが、デインプルだ。当時、本庁の財政部長で、この関係財団の事務局長を兼務してゐたのが、小野氏である。そして二十四年には、本庁の所有する中野職舎(中野区)と、南青山のマンシヨンも、デインプルに売却されるなど、同社は、本庁の不動産取引に深くコミツトするやうになつた。なほこの二物件とも、百合丘職舎と同じく、即日転売されてゐる。

 百合丘職舎をめぐる一連の取引について、小野氏は弁護士を通じ、書面で「神社本庁の問題であり、現在、神社本庁において、しかるべき調査が進行中と聞く。(小野氏が宮司を務める)宇佐神宮の問題ではないため、回答すべき事項ではない」とした。またデインプルから、百合丘職舎を三為契約で購入した不動産会社A社担当者は、「(瑕疵の存在は)知らなかつた」とする一方、「何も話すことはない。社長も、さう言つてゐる」とした。そしてデインプルのT社長は、期限までに取材に応じることはなかつた。だが本庁関係者によれば、瑕疵が発覚した今年二月以降、T氏は、数度にわたつて本庁を訪れ、「百合丘職舎が解体されてゐれば、問題はなかつた」とし、「『随意契約ではない』、『三億円の価値はなかつた』と言ふやう、約束してほしい」などと、本庁幹部に迫つたといふ。

 不動産取引をきつかけに、揺れる神社界の中枢である神社本庁。田中総長は、今月、「司法の場での判断に委ねられるやうな問題」として、名誉毀損による刑事告訴に向けて動き始めた。片や、百合丘職舎の契約に疑問を抱く小串和夫・本庁副総長は、調査委員会を立ち上げ、今月から真相解明に乗り出してゐる。つまり「本庁首脳間で、ねぢれ現象が起き、分裂状態にある」(前出の本庁関係者)わけだ。「一連の出来事を、をかしいと感じてゐた人たちも、一部にはゐたが、ほとんどの神職は性善説に立ち、争ひを好まないため、事務方の決定を踏襲するだけだつた。それが、今回の問題を生んでゐる」(本庁役員会関係者)。

 神社界の疑惑は、どこまで白日の下にさらされるのか、関係者は固唾を飲んで見守つてゐる。

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【周防國熊毛郡の四代正八幡宮の慘劇】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2285
 
 

之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず ── 教育勅語を仰ぐ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 3月12日(日)22時37分37秒
返信・引用 編集済
  ■『教育に關する勅語』漢譯(『漢英佛獨・教育勅語譯纂』明治四十年・文部省刊)

 朕惟、我皇祖皇宗、肇國宏遠、樹徳深厚。我臣民、克忠克孝、億兆一心、世濟其美、此我國體之精華、而教育之淵源、亦實存乎此。

 爾臣民、孝于父母、友于兄弟、夫婦相和、朋友相信、恭儉持己、博愛及衆、修學習業、以啓發智能、成就徳器、進廣公益、開世務、常重國憲、遵國法、一旦緩急、則義勇奉公、以扶翼天壤無窮之皇運。如是者、不獨爲朕忠良臣民、又足以顯彰爾祖先之遺風矣。

 斯道也、實我皇祖皇宗之遺訓、而子孫臣民之、所當遵守、通諸古今、而不謬、施諸中外、而不悖、朕庶幾、與爾臣民倶拳拳服膺、咸一其徳。

 明治二十三年十月三十日。

御名御璽。




■明治天皇聖喩『教學大旨』(明治十二年。元田永孚謹記。森清人翁『みことのり』平成七年六月・錦正社刊)

 教學の要、仁義忠孝を明かにして、智識才藝を究め、以て人道を盡すは、我が祖訓國典の大旨、上下一般の教とする所なり。然るに輓近、專ら智識才藝のみを尚び、文明開化の末に馳せ、品行を破り、風俗を傷ふ者、少なからず。然る所以の者は、維新の始め、首として陋習を破り、知識を世界に廣むるの卓見を以て、一時西洋の所長を取り、日新の效を奏すと雖も、其の流弊、仁義忠孝を後にし、徒らに洋風、是れ競ふに於ては、將來の恐るゝ所、終ひに君臣父子の大義を知らざるに至らんも、測る可からず。是れ我が邦教育の本意に非ざる也。

 故に自今以往、祖宗の訓典に基づき、專ら仁義忠孝を明かにし、道徳の學は、孔子を主として、人々、誠實品行を尚び、然る上、各科の學は、其の才器に隨つて、益々長進し、道徳才藝、本末全備して、大中至誠の教學、天下に布滿せしめば、我が邦、獨立の精神に於て、宇内に恥づる事無かる可し。




●梧蔭井上毅子『元田永孚に與ふる書』(明治二十三年十月二十二日)

「愚見にては、内閣の政事に混雜せずして、一に聖主の親衷より斷ぜられ、内閣大臣の副署なき勅語、又は御親書の體裁にして、廣く公衆へ御下げに相成り候ふ方、然る可きか歟。‥‥若し副署ある一の政令となりて發せらるゝ時は、國會にて啄を容るゝ所の内閣、責任政略の一と看做され、後日に政海の變動と共に紛更を招くの虞れあるべく、却て千載不滅の聖勅の結果を薄弱ならしむべきか歟、御熟思、之れ有り度く冀ひ奉り候ふ」と。



●東野元田永孚男『内閣總理大臣・山縣有朋に與ふる書』(明治二十三年十一月三日)

「囘顧すれば、維新以來、教育の主旨定まらず、國民の方向、殆んど支離滅裂に至らんとするも、幸ひに聖天子、叡旨の在る所と、諸君子、保護の力とを以て、扶植矯正、今日に至りたる處、未だ確定の明示あらざるより、方針に迷ふ者、少なからず。

 然るに今般の勅諭にて、教育の大旨、即ち國民の主眼を明示せられ、「之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず」、實に天下萬世、無窮の皇極と云ふべし。彼の不磨の憲法(大日本帝國憲法)の如きも、時世に因りては、修正を加へざるを得ざるも、此の大旨(教育勅語)に於ては、萬世に亙りて、復た一字も易ふ可からず矣」と。



●田中卓博士『教育勅語を仰ぐ』(『日本』昭和四十二年十月號。日本思想史研究會『教育勅語を仰ぐ』昭和四十三年十一月・皇學館大學出版部刊に「日本教育のバツクボーン」として所收)

「教育勅語の飜譯は、單に英語・ドイツ語のみではない(戰後の獨逸にては、教育勅語の價値を失はず、例へばアデナウアー元首相は、其の官邸に獨譯を掲げたりと云へり)。實はフランス語も支那語もある。そしてその飜譯者は、他ならぬ日本の文部省であつた。明治四十年、文部省は、教育勅語の英譯を公にした。そしてそれには、教育勅語發布の由來書まで附載した。その後、漢語譯(愚、上記を拜記す)ができ、引きつゞいてフランス語譯・ドイツ語譯ができたのでこれをあはせて一卷とし、明治四十二年、文部省より『漢英佛獨・教育勅語譯纂』と題して公刊された。

 すなはち教育勅語は、その發布後二十年間に、日本國民の精神をつちかひ、日清・日露の戰勝を經て、大いにわが國威を發揚せしめたが、政府は、さらに文字通り「之を中外に施して悖らず」といふ信念をもつて、外國譯に飜譯し、精神的にも日本の道義を海外に宣布しようとしたのである。いはゞ千二百餘年前、日本の歴史を漢文で書き、『日本書紀』と題して唐人に示さうとした父祖の態度と同じである。何とすばらしい氣概、堂々たる識見であらうか。あゝ、『明治の精神』。この精神、なかんずく教育勅語を復活することこそが、明治維新百年を迎へての眼目でなければならぬ」と。



 愚案、かつて東野元田永孚翁『聖喩記』を、蘇峰徳富翁の書から拜抄して、同憂の士の清覽に供せしことあり。目的の爲めなら手段を撰ばざる所の、何某記念小學院の創立にかゝはつて騒擾する折柄、こゝに再掲して、教育勅語の、宇内に神聖たる所以、また古今に普遍たる所以を高唱し、
代々木大神の大御心より發せらるゝ所にして、世界皇化の大眼目なる可きを喚起すと云爾。
  ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/genda.htm



●蘇峰徳富猪一郎翁『増補・元田先生進講録』(昭和九年六月・民友社刊・普及版)に曰く、

「聖喩記・明治十九年丙戌十一月五日・元田永孚謹記

 十一月五日午前十時、例に依り參内、既にして皇上出御、直ちに臣(元田永孚)を召す。臣、進んで御前に侍す。皇上、親喩して曰はく、

「朕、過日、大學に臨す[十月二十九日]。設くる所の學科を巡視するに、理科・化(學)科・植物科・醫科・法科等は、益々其の進歩を見る可しと雖も、主本とする修身の學科に於いては、曾つて見る所無し。和漢の學科は、修身を專らとし、古典講習科ありと聞くと雖も、如何なる所に設けあるや、過日、觀ること無し。

 抑も大學は、日本教育高等の人材を成就すべき所なり。然るに今の學科にして、政治治要の道を講習し得べき人材を求めんと欲するも、決して得べからず。假令ひ理・化・醫科等の卒業にて、其の人物を成したりとも、入つて相となる可き者に非ず。當世復古の功臣、内閣に入つて政を執ると雖も、永久を保すべからず。之を繼ぐの相材を育成せざる可からず。然るに今、大學の教科、和漢修身の科、有るや無きやも知らず。國學・漢儒、固陋なる者ありと雖も、其の固陋なるは、其の人の過ちなり。其の道の本體に於いては、固より之を皇張せざる可からず。

 故に、朕、今、徳大寺侍從長に命じて、渡邊總長に問はしめんと欲す。渡邊、亦た如何なる考慮なるや。森文部大臣は、師範學校の改正よりして、三年を待つて地方の教育を改良し、大いに面目を改めんと云つて、自ら信ずると雖も、中學は稍々改まるも、大學、今見る所の如くなれば、此の中より眞成の人物を育成するは、決して得難きなり。汝(永孚)、見る所、如何」。

 臣(永孚)、謹んで對へて曰く、

「陛下の言、此に至る、皇國生民の幸なり。臣、曩(さき)に命を奉じて、徳大寺と共に大學を巡視し[十月十八日]、竊かに感覺する所あり。徳大寺、先に既に反命するを以て、臣、未だ敢へて陳せず。謂へらく、臣、敢へて言はずと雖も、陛下、一たび臨御せば、必ず叡心に覺る所あらん」と。

 今、宸勅を奉ずるに、果して臣が見る所の如し。臣、嘗つて大學々科の設けを聞くに、修身の學科なし。和漢の學は、文學科に和漢文ありと雖も、僅かに和漢の文章を作るのみ。哲學科に東洋哲學ありと雖も、是れ亦た僅かに經書聖賢の話を述ぶるのみ。加之(しかのみならず)、僅かに時限を以て、匆々に經過すれば、和漢修身の學も、僅かに名のみにして、其の勢、將に廢棄せられんとす。其の教科にある教官は、物見高見・島田重禮等、僅々たる一二員にして、其の餘は、皆、洋學專修の徒、而して此の人々たるや、大抵、明治五年以來の教育に成立したる者にして、西洋の外面を摸彷し、曾つて國體君臣の大義、仁義道徳の要を聞知せざる者共なり。彼の某等の著書を一見しても、其の放言する所に依て、其の思想の赴く所を概見すべし。此等の腦髓を以て生徒を教導せば、後來の害、實に恐る可きなり。今にして此を停止せざれば、復た挽囘すべからず。

 今、陛下の眞衷より發し、徳大寺を遣はされ、渡邊總長に詰問賜はらば、皇道の興張、果して此より生るべき也。臣、誠恐、深く陛下の此の言に感仰欽敬す。臣、敢へて一身を顧みず、唯だ陛下の命ずる所、森大臣・渡邊總長に向つて問難する所あらんとす。然れども臣、竊かに自ら量るに、臣が漢學者流にして、陛下の左右にあるは、衆目の視る所なり。故に臣が言を出さば、陛下眞衷の勅語も、故は臣が上言して作爲する所と、疑を容れんも知るべからず。是れ臣が、謹んで敢へて自ら任ぜざる所なり。

 抑も教育の重大なる、夙に陛下の深く慮る所、『幼學綱要』の欽定ありしより、漸くにして米國教育の流弊を救正し、世上、再び忠君愛國の主義に赴き、仁義道徳を唱ふる者あるに至りしも、去去年より、又た復た洋風に傾き、昨今に至つては、專ら洋學と變じ、和漢の學は、將に廢絶に至らんとするの勢、有志の士、皆、大いに憂慮する所なり。但だ國學・漢學の固陋なるは、從來、教育の宜しきを得ざるに因る。其の忠孝道徳の主本に於いては、和漢の固有なり。今ま西洋教育の方法に由つて、其の課程を設け、東洋哲學中に、道徳の精微を窮るに至るの學科を置き、忠孝廉恥の近きより進んで、經國安民の遠大を知得することを務めたらんこと、眞の日本帝國の大學と稱すべきなり。今の設けの如くしては、聖喩の如く、名醫は多人數成就するも、政事は執ることはなるまじく、法學にて、君徳の輔佐も充分ならず、理科・植物・工科等にて、其の藝に達したりとも、君臣の道も、國體の重きも、腦髓に之れ無き人物、日本國中に充滿しても、此を以て日本帝國大學の教育とは云ふべからざるなり。

 自今以往、聖喩に因つて、和漢の學科を更張せんには、其の道に志ある物集・島田等の如き、聊かも國學に僻せず、漢學に泥まず、西洋の方法に因つて教科を設け、時世に適應して、忠孝道徳の進歩を生徒に教導せんこと、何の難きことあらん。其の風氣の及ぶ所、必ず國學・漢學者中に奮發して、國用に供する者出で來るべき也。當世の風潮は、面々各々、其の辯を振ひ、其の腕を伸ばし、唯だ進んで取ることを要するの時に際しては、自分一歩も退くべからず。素より彼等に抵抗するにも及ばず。唯だ地歩を占めて進む時は、一歩も拔かさず、吾が道徳仁義を進入せしむるを以て、當世の著眼となすべきなり。是れ臣が平生の見る所、深く陛下の勅喩を敬承贊美し、速かに徳大寺に命ぜられ、渡邊總長に下問あらんことを希ふ所なり。更に宜しく伊藤大臣・吉井次官等にも、聖意の在る所を御示喩あらんことを欲す。

 右、謹んで上言する處、聖顔、喜色麗しく、更に又た反復懇喩あり。一時間餘にして退く」と。



○自在・公平か、自由・平等か。
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明治御一新百五十年。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 3月 4日(土)11時32分3秒
返信・引用
   本年は、「明治維新百五十年」なり矣。

 五十年前の昭和四十二年には、神道界に於いて、「明治維新百年祭」が齋行された。然し俗流の蔓延る所、翌四十三年の百周年が採用され、且つ「維新百年」では無く、「明治百年」とされた。

 更めて問ひたい。

一、抑も「明治維新百五十年」なのか、「明治百五十年」なのか。

一、殊更に維新百五十年を想起せむと欲するならば、本年の「百五十」なのか、來年の「百五十周年」なのか。

を。下記は、かつて掲記した所、默し難きものあつて、再掲するを許されたい。即ち我が神道界およびそれに連なる陣營は、本年こそ、「明治維新百五十年」であつて、之を想起し、之を祭り、之を顯彰されむことを、固より確信し、確く信じたい。



●保田與重郎翁『年の始め』(『全集』第二十七卷に所收)に曰く、

年の始めといふ、「とし」といふ言葉は、米のことである。人の齡ひを「とし」といふのも、米がもとである。米がもとといふことは、食つた米を意味し、人が社會において共同生活をしてゐるといふことをもととしたうへで、米作の年度をかぞへるのである。かぞへ年は、だから簡單にいふと、一年に一度とれる米を一とし、それをいくつ食べたかといふ勘定である。この點、滿年齡とは、考へ方として、まつたく異なるものである。かぞへ年は、共同生活をもとにして考へられたものだが、滿年齡は、個人の生きた日數といふものに立脚する。つまり個人主義の考へ方である。米にもとづき、米作りといふ共同生活にもとづく年の考へ方からして、共同生活の一年を無事おくり、また新しい出發が、よみがへりとして始まる、この永遠の泰平といふ觀念に、年の始めの「めでたさ」がある。

 米をつくり、それによつて生きてゆく生活といふものが、人生において「永遠のもの」と考へたとしても、今だつて反對できないと思ふ。米を玄米のまゝ食ふときは、パンの生活とちがつて、ほゞ完全食に近いといふことも、今日の榮養學で、實驗の結果として出てゐる。麥、すなはちパンの生活では、必ず家畜と牧場が必要だつた。牧場が必要だから、廣大な土地を支配するといふ繩張りの必要と、侵略排他の考へ方が、生活の必要からして起つてくる。人一人がまともに暮らして、耕作できる水田は、五段[五十アール]で十分、欲ばつても、一人で五町[五百アール]は作れない。この米作りを基本とするとき、民族の生命に無常といふものはない。個人の諸行は無常でも、ふるくからの神話的生活は永遠である。この永遠の生活を守るものが、神を祭る主體であり、國體の實體といふべきものとして、永遠につゞくと信じたのが、日本のふるくからの考へ方だつた。明治以來、よくいはれた「國體の精華」は、つまり「米作り」に、その基礎があつたのである。‥‥

 日本の神話では、いはゆる天孫降臨といふ、高天原から皇孫命が天降(あも)りされるとき、神聖な稻穗を、天上の神から「こと寄さされた」。そのとき神敕があつて、この米を作つてくらしのもととするなら、地上においても、また、天上の神々と同じくらしの風儀ができる。地上の國も、みな、天上の神々の國と等しい神國となるだらう、と教へられた。この責任を神に負ひ給ふのが、皇孫である。すなはち、天皇陛下である。‥‥

 高天原で米の種をいたゞいて地上に降り、これを地上でつくるなら、地上でも神々の生活、天上の生活ができるといふのが、日本の神話の根本だつた。これが實現されたのが、神武天皇の肇國である。その肇國の實體は、土地を拓いて米を旨とした農耕を成就し、その成果を、神の大前に上つて、大孝を申されたことにある。この大和櫻井の鳥見山で行はれた祭りが、肇國の大嘗祭だといふことは、封建末期の國學者も、大よそは知つてゐた。わが國の歴史時代を通じて、天皇の御位は、大嘗祭を行ふことによつて、名實具はるとしたのは、この神武天皇肇國の故事にならふからである。このとき「大孝を申す」と、『日本書紀』にしるされてゐる點に注意せねばならない。この語義は、ふるいむかしから、御祖の教へに從つた由を奏上されたとよんできた。天降りの時の神敕を、つひに實行しましたといふ證を立てられたわけである。

 このことから、わが國の天皇は、つねに一つであり、つねに皇孫であるといふことが理解される。つまり天皇は、天降りのときの神敕を實現する中心であつて、代々をへても、つねにこの意味で一つなのである。このつねに一といふことが、永遠の證である。神話の生活の實現の中心として、その存在は唯一である。このことが、いはゆる「萬世一系」といふことばの意味であり、同時に「天壤無窮」の意味でもある(愚案、上御一人の、人格を建てない、絶對唯一の皇孫)。くだいていふと、米作りを生活の根本とし、その生活から生れる道徳によつて生きてゆくといふことが、萬世一系・天壤無窮の實證的な意味である。いつさいの權力も榮華も欲望も無常だつたが、「米作り」は、萬世一系の永遠のものであるといふ考へ方である。米作りの生活は、牧畜の生活と異なつて、本質的に爭鬪や侵略や殺生を伴はない、平和の原理生活である。つまりこの世の中で、平和の根柢となる觀念は無數にあつて、平和だけが實現しないが、平和の根柢となる生活は、たゞ一つしかない、日本の神話の米作りといふ、天上生活を地上に實現することである。これが國體の觀念であることは、皇大神宮の祭祀を見てもわかるし、天皇陛下の最も根源的な年中行事を拜してもわかることである。天皇は、天降り神話を、この世に實現しつゝ、現實に米作りをなされることが、その御本質なのである。米作りは、祭りの生活なのである。

 かういふ意味で、天皇は「働く」ことを實行遊ばされるが、「所有」といふことは、絶對無關係なのである。天皇は財産をもたれないといふことは、國史上の眞實であり、天皇の御本質を申す時の第一項だつた。天皇は所有權と無縁で、神話を地上に實現される中心の御存在である。これが祭りの主宰といふ意味だつた。しかも神話の實現といふのは、米作りといふ素朴な生活を意味してゐる。これがわが神話であり、わが國で「道」といはれるのは、この生活である。このやうな平和な神話をもつ民族は、日本以外、どこも存在してゐまい」と。
 
 

野中祭寫眞

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 3月 1日(水)22時07分10秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 平成二十九年野中祭にて、小生、初めて寫眞をスマホにて撮らうと試みたものゝ、まごつき、其の機を逸してしまつた。然し參列の或る御方が、親切にも小生に寫眞を送つて下さつた。掲示して謝意を表したいが、投稿可能なフアイルサイズは、最大四MBの由。掲示せむと欲して能はざるを、何卒、御許し下さい。



追伸。

 復た「はゆまつかひ」樣の温情を戴きました。何時も感謝に勝へません。然し小生も頑張つて、試してみます。上手く掲示出來るかな。
  ↓↓↓↓↓
 パチパチ‥‥出來ました。
 
 

天壤無窮 ── 野中四郎命八十二年祭齋行。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月27日(月)18時48分39秒
返信・引用 編集済
   平成二十九年二月二十六日、野中四郎命の八十一周年、即ち八十二年祭が、吉備國に於いて齋行された。
  ↓↓↓↓↓
http://koudoupress.net/%e3%80%90226%e3%80%91nonaka81/

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 本年の祭典は、珍らしく暖かく、體調を崩してをつた小生も、此の日だけは無事に參加するを得た。道縁に感謝。或人の曰く、「百年祭までは、何としても‥‥」と。胸に迫る。
 
 

袋背負ひの心は、赤猪抱きを辭せず矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月19日(日)23時03分18秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 阿部國治翁の曰く、

「この(大國主命の)『赤猪抱(あかゐだき)』の示してをることは、當り前のこと、正しいこと、世の中のためになることを行ふ者は、すぐには世間から、譽められたり認められたりはしないものであるといふことであります。それどころか、良いことをすると、そのためにかへつて憎まれて、惡口を言はれたり酷い目に遭つたりするものであります。

 『ふくろしよいのこゝろ』を持つて仕事をしていくと、赤猪を抱かねばならぬ場合があります。『ふくろしよいのこゝろ』の窮まるところは、死の覺悟であります。道に合ふことを實行するに當つては、何人に認められずとも、あるいはまたさらに進んで、そのために憎まれ嫌はれて、死なねばならぬことも、默つて進んで行かなければならぬこともあつて、かういふいろゝゝなことを、お諭しになつてゐるのであります。‥‥

 先の見える人や、ものゝ眞相の見える人は、他人から何と言はれても、「かういふことは、せねばならぬ」と信ずることは、率先して實行したり、人に教へようとするわけです。さうすると、一般の人からは、「物好きだ」と言はれり、「氣違ひだ」と言はれたり、ときには迫害をすら受けることになりますが、これも一種の『あかゐだき』であります。

 したがつて昔から、本當の仕事をするときには、「神さまを相手にせよ」とか、あるいは「天を相手にせよ」とか申します。このやうに「神さまや天を相手に仕事せよ」といふことは、「人間のことを考へるな」といふことではないのであります。結局、人間を相手として、人間のためにする仕事ですけれども、「當面する人々の氣持ち・主張を取り上げてをつたのでは、本當の仕事ができない場合がある」といふこと、つまりこの赤猪抱きのことを教へてゐるのであります。

 かういふことを、こゝに書くのはどうかと思ひますが、『あかゐだき』をはつきりわかつてもらふのに、まことによい材料になると思ひますから申し上げます。筧克彦先生などは、世間の人々が、神道とか國體とかいふことに、まつたく無關心の頃から、そのいちばん酷かつた頃を通して、三十年以上も長い間、あらゆる障害をものともせずに進んでこられました。そのために、「神さまををがむ先生だ」、「それも柏手を打つて、神さまををがむ先生だ」と言つて、大學教授(東京帝國大學)の仲間からも、學生からも、嘲笑はもちろんのこと、氣違ひ扱ひにされてきました。一頃は大新聞や大雜誌に、先生の噂話が出ると、決まつてもの笑ひの種としてゞありました。

 日本歴史の上に例を取つてみますと、楠木正成公のことが、すぐ思ひ出されます。正成公の湊川での戰死は、立派な『あかゐだき』であります。西郷さんは、島津藩侯による島流しがありましたし、勤王僧・月照との心中事件・十年戰爭(西南の役)など、何囘も何囘も、『あかゐだき』をやつてをります。吉田松陰の生涯も、『あかゐだき』の連續でありました。このやうに教へてきますと、日本歴史の上で、立派な日本人として傳へられてゐるやうな人は、例外なく、『あかゐだき』を實行してゐると言つてよいと思ひます。‥‥

 だからこそ、「立派な人になつて、歴史に名を殘すやうになりませう」と言ふよりは、「必要とあらば、『あかゐだき』をやりませう。そして『うるはしきをとこ』となつて、出て歩きませう」と言ふはうが、われゝゝ日本人には、はつきりと響くはずであります」と。



 愚案、靖國神社祭神は、此の「赤猪抱き」の實行、即ち大國主大神の精神、換言すれば大和魂を發揮し給うたのであります。故に輝かしき國史の上に於いて、皇神の恩頼により、遂に蘇り來つたのであります。また一人の門弟に因つて、筧克彦博士も、其の面目が明かにせられました。先哲賢人の精神は、其の精神を繼承する者に因つて、復た見事に蘇るのであります。我々も、ぼやゞゝしてをられませぬ。



**********


●阿部國治翁著・栗山要氏編『新釋古事記傳』全七卷(平成二十六年四月・致知出版社刊)

○第一集
第一章・ふくろしよひのこころ(袋背負ひの心)
第二章・あかゐだき(赤猪抱き)

○第二集
第三章・へみはらひ(蛇撥ひ)
第四章・しらみとり(虱取り)
第五章・うきゆひ(盞結)

○第三集
第六章・すくなさま(少彦名)
第七章・おまつり(齋奉り)

○第四集
第一章・なきいさち(啼きいさち)
第二章・まゐのぼり(參上り)
第三章・いつのをたけび(稜威の男建び)
第四章・うけひ(受け日)

○第五集
第五章・あめのやすかは(天安河)
第六章・あめのまなゐ(天之眞名井)
第七章・いふき(氣吹き)
第八章・やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま(八尺勾瓊之五百津之美須麻琉之珠)
第九章・みこのりわけ(子詔別)
第十章・かちさび(勝佐備)

○第六集
第十一章・のりなほし(詔直し)
第十二章・みかしこみ(身畏み)
第十三章・おこもり(天岩屋戸籠り)

○第七集
第一章・かむつどひ(神集ひ)
第二章・おもひかね(思兼)
第三章・とこよのながなきどり(常世長鳴鳥)
第四章・かがみ(鏡)
第五章・たまつくりのこころ(玉作りの心)
第六章・うらへ(占合へ)
第七章・いほつまさかき(五百津賢木)
第八章・やまたのをろち(八俣遠呂智)
  
 

阿部國治翁『新釋古事記傳』全七卷

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月18日(土)23時04分27秒
返信・引用 編集済
  ■橘曙覽大人の哥

神々に 一人おくれて 負ひ給ふ 袋にこもる 千の幸はひ



 最近、Twitterにて、何方かが、阿部國治翁『新釋古事記傳』全七卷を紹介してをられ、今、あらためて確認しようとしたが、當該呟きが見當らぬ。然し大いに氣になり、思ひ切つて購入した。御紹介の御方に、深く感謝したい。冗長な所が些か氣にはかゝるものゝ──驚いた、平明なる文章と見事なる解釋。眞の名著として、大人にも子共にも、強く推奬する。早速、我が愚なる妻子にも讀ませたい。

 「私(阿部國治翁)は、筧克彦先生によつて、魂の目を開いていたゞきました。そしてまた『古事記』の味はひ方に、本道のあることを悟らせていたゞきました。それ以來、いつもゝゝゝ『古事記』と取り組んでをります。『古事記』を味はひながら、あるときは泣き、あるときは喜びつゝ、日常生活の指導原理を、全部『古事記』の中から汲み取つてをります。いはゞ『古事記』は、汲んでも汲んでも汲みきれることのない泉のやうな、『たましひ』の糧なのであります」と。此のやうな御本は、ハード本では無く、是非とも文庫化して、『古事記』入門の契機としてもらひたい。



●阿部國治翁著・栗山要氏編『新釋古事記傳』全七卷(平成二十六年四月・致知出版社刊)

○阿部國治翁の書(昭和十三年三月三十日筆)

切散八俣遠呂智──切り散(はな)つ、八俣遠呂智
負帒爲從者率往──袋を負(しよ)ひ、從者(ともびと)と爲りて率往(ゐき)き

○栗山要氏の解説

 意譯すれば、「八俣遠呂智(八岐大蛇)を遠ざけて、袋を背負ひ、從者となつて、人生を歩いていかう」といふことにならうか。

 『日本書紀』には、八岐大蛇について、「頭と尾が、それぞれ八つあり、眼は赤酸奬(あかほおずき)のやうである。松や柏が背中に生へ、八つの山・八つの谷の間いつぱいに廣がつてゐた」と書いてある。そして前後の記事から推察すると、「若い女と酒が大好きだつた」やうである。言つてみれば、周圍を睥睨する權力者の象徴であらう。「その八俣遠呂智のやうな權力者の生き方と決別して、大國主命のやうに、袋を背負つて、世の中の下積みになるやうな仕事をしていかう」といふのが、筆者の決意だつたに違ひない。

 事實、筆者は、東京帝國大學法學部英法科首席卒業といふ榮光を擲ち、疲弊にあへぐ農民救濟のために、地下足袋を履いて、全國の村々を歩いてゐる。そのまゝ進めば、東京帝國大學法學部教授、官界に入れば、高級官僚への道が約束されてゐたであらう人生を、自ら拒否して、『袋背負ひの心』に徹したのである。
 
 

神武開國

 投稿者:はゆまつかひ  投稿日:2017年 2月11日(土)12時04分24秒
返信・引用
  本日は天壤無窮の祝日なり。

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/26

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t31/35


 

明日は、紀元節なり。祝ひ奉らむ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月10日(金)19時11分12秒
返信・引用 編集済
  ●靖國神社宮司・賀茂百樹縣居宿禰眞定大人の哥「神武天皇」(昭和九年。『中今亭雜歌』昭和十四年九月・中今亭刊)

人の世の 國の始めの 推(おさへ)とて 天壓神と たゝへたりけむ

萬代の 國の押へを 守ります 天壓神の みいづかしこし

肇國の 天壓神の 大御稜威 いかにかしこく 尊かりけむ

天の下 押し竝めましゝ 壓神の みいづはいかに かしこかりけむ

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/273



 平成丁酉の紀元節を祝ひ奉らむと欲するに、賀茂葵園翁の瑞歌を以てす。
 
 

明日は節分。邪氣は外。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 2月 2日(木)22時02分9秒
返信・引用
   「國語が一字も無い、意味不明の異國語」なるスパム投稿、今日だけでも、只今、八件。

 非表示にしても、執拗千萬、益々襲ひ來れり。投稿意欲を殺ぐのが、其の目的なのか。そろゝゝ堪忍袋の緒が切れさうだ。

 teacup.管理者殿の玄人にして、手に負へぬのか‥‥。そもゝゝ相手にもしてくれぬのか。寒い‥‥。寢る。
 
 

三宅萬造翁の寫眞。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月27日(金)18時09分48秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

援軍、當に來れり。是れも神縁なる可し矣。不器用なる小生の爲めに、「はゆまつかひ」樣が、三宅萬造翁のPDF寫眞を、九段塾用に變換して下さつた。
感激鳴謝。謹みて掲げて、翁を偲びまつらむ。

「都羅山人三宅萬造翁」は、モネの繪畫「睡蓮」(倉敷なる大原美術館所藏)が、甚く御好みでした。翁の晩年、恩顧を賜ひしてふ、伸風流吟詠會正吟館總本部宗範・白神綱風女史の撮影『三宅萬造翁』。翁は寫眞嫌ひの由なれば、稀少の一葉なり(倉敷紀念病院福壽莊に於いて)。
  ↓↓↓↓↓
 

ひとすぢの草莽の道、貫きて ── 嗚呼、三宅萬造翁。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月18日(水)19時32分12秒
返信・引用 編集済
  ●齋主・神谷俊司翁『三宅萬造大人命葬祭詞』(平成八年六月十五日。岡山國民文化懇談會・倉敷文化懇談會『まほろば──追悼・三宅萬造大人命──ひとすぢの草莽の道貫きて』平成八年八月・第百十七號に所收。祭主・三宅將之氏。齋員・高森明勅氏)

 道の長手を前後(さきあと)嚴かに固めつゝ、御供仕へ奉りて、此の齋庭(ゆには)を、暫しの御座所(みましどころ)と、御柩舁据(かきすゑ)奉る。言はまくも由々しき、三宅萬造大人命の御靈の御前に、齋主・神谷俊司、謹み敬ひも白さく。

 あはれ、顯身(うつしみ)の人の壽命(いのち)許り、頼み難き物は有らざるべしと、豫ねて思ひ定めし事乍ら、汝大人命や、此の三年程(ばかり)、御病重く惱ませ給ひてより、醫師(くすし)の術(わざ)の及ばむ程の看護(みとり)の法(すべ)を盡しゝかども、幽界(かくりよ)の神の奇靈(くしび)に定まれる御壽命(みいのち)の限りにや有りけむ。此の六月十二日と云ふ日(影山正治塾長の誕生日)、午後一時四十八分、御病、遂に革(あらたま)り、御齡(みよはひ)の程、八十六歳を一世の限りと身罷り給ひしこそ、哀しくも亦た口惜しき極みなれ。

 夜もすがら仕へ奉りし、殯(もがり)の一夜は明けつ。動搖(どよ)みたる心も、漸々(やゝ)に靜まれば、今し盡きぬ名殘りを惜しみ奉らむ禮代(ゐやしろ)と世に坐しゝ折節に、稱へ給ひし種々の味物(ためつもの)置き足らはして、熟々(つらゝゝ)在りし日の事共、思ひ偲び奉れば、大人命は、明治四十四年八月九日、岡山縣淺口郡連島村西之浦の里に、三宅金兵衞大人・惠以刀自の愛子(まなご)と生(あ)れ出で給ひ、御性(さが)も直く正しく聰く坐して、健けく生長(おひた)ち給ひ、西浦尋常高等小學校を卒業(ことお)へ給ひしより、大阪に在る那須藤商店に入社、織物卸の商ひに從事し給ひしが、軈(やが)て獨立して、布帛加工業に專ら勞き給ひ、漸く岡山に進出し給ひて在りしも、時、恰も聖戰(おほみいくさ)の經緯(ゆくたて)に伴ふ統制により、其の經營も、漸々に難(けは)しく成りもて行けば、遂に故郷に歸農し給ひぬ。

 斯くは在り經(ふ)る程に、道念(みちおもひ)、默(もだ)し難く、夙(はや)くより同人誌等に據りて、其の志を伸べ給ひてしが、昭和十七年、凝成塾々長横田左輔大人の指導に依りて、大東塾々長影山正治大人と相識り給ひてよりは、立てし心の一筋に、神の道こそ、誠の道と戴き持ちて、御國護りの鋭心(とごころ)振ひ起し給ひ、大東塾々外生として、新國學歌道誌「ひむがし」に據りて、敷島之道を學びに勤しみ給ふ歳月を重ね給ひて、昭和二十年、如何なる禍神の爲業(みしわざ)にや、身は岡山空襲に罹災して、生死の間を彷徨(さまよ)ひたるも束の間にて、御國の上に在りては、聖戰を遂に失ひ、國史(ふみ)の上にも、例(ためし)なき由々しき状と成りぬれば、堪へき思ひは有れど、終戰大詔(おほみことのり)を直(ひた)に畏みて、戰後の歩みを歩み初め給ひしが、八月二十五日、霹靂(はたゝがみ)の鳴り動搖もすが如き、大東塾十四烈士自刃の報に接し給へば、豫ねてより道の友と、深く結び給ひてし芦田林弘(もとひろ)烈士の遺族を護り扶(あなゝ)ひ、直ちに上京し給ふものから、長谷川幸男塾監より、十四烈士分骨の奉齋を委嘱せられてよりは、斯の烈士等の高く尊き御志の程こそ、國民の心に示標(しるべ)し給ふ、祖國再建の大き據り處と思ひ定めて、大和心の丈を高み學び給ひし事の盡々(ことゞゝ)打ち傾け注ぎ給ひて、人に説き自ら勞き、草莽の間に伊都の雄叫び踏み建て給へば、道の友、相寄り合はす歳月の祈りは、昭和二十五年には、十四烈士顯彰碑、其の後、若宮道場の建立に顯現(たちあら)はれ、昭和五十五年に、蒼穹道場の竣工、昭和五十七年には、影山塾長歌碑に凝りて、今に都羅山上に聳え、目覺ましき大人命の御功績(みいさをし)かも。

 更に道の上に在りては、數次に亙る宮中勤勞奉仕團・神宮參拜植林奉仕團を結成實施し給ひ、又た御遷宮募金活動・紀元節・靖國神社國家護持法制定請願運動・憲法改正運動に携りつゝ、長く不二歌道會岡山縣支部長・大東神社總代の重き務めに勤み勞く旁ら、昭和四十九年には、歌集「草かげのいのり」を上梓(三宅萬造歌集・十二月刊。又た『三宅萬造全歌集』平成十八年六月刊)する等、久方の天行く月日の、清き明き御心に、人と在る道を、直く正しく踐ませ給ひしかば、知る人、是れを讚へて止まず。天地の神々も愛で給ふものから、次々高き神の御位に進み給はん事、明白(しる)くこそあれ。

 又た御家に在りては、昭和九年、トヨ子伊と夫婦の契り合はせて、今日の祭主將之伊を始め、男(ひこ)三人(みたり)・女(ひめ)三人(將之・章文・昭三・教子・桃子)を得給ひて、庭の訓(をしへ)もすがに、呉竹の性のすくゝゝと、各々世に立ちて在るも、大人命・トヨ子刀自命の御慈愛(みいつくしび)の賜物と、偲び奉り仰ぎ奉ると、是の由、告げ奉れば、御心に行末頼母しく諾ひ給へかし。

 今は敢果(はか)無き大人命の、其の上(かみ)の事共、思ひ綴れば、思ひは盡きず。然れども斯く樣にて、徒らに時を過しも敢へねば、世の常の法(のり)の隨(まにま)に、御遺骸(みなきがら)を火葬場(ひはふりのには)に移し奉り、火具土神の御徳(みいづ)に委ね奉りて、幽界に歸し奉らむ。葬儀(みはふりのわざ)仕へ奉らくと、親族・家族を始め、遠近(をちこち)より齋場(ゆには)も狹(せ)に參來列竝(つらな)める會葬(みおくり)の人等(たち)が、最後(いやはて)の御別れと進(たてまつ)る榊葉の露の玉串、執々(とりゞゝ)に匂へる花を手向くるにも、尚ほ散りゆく花に盡難(つきがて)の思ひして仕へ奉らくを、御心も穩(おだ)ひに享(う)け玉ひ、飽かぬ御別れに御心殘し玉ふ事無く、御跡も輕く、天翔り國翔りつゝ、御祖の神の御許に參上り、明(あか)な々ゝに鎭り坐せと、白妙の神掻き合せて、恐み恐みも告げ奉らくと白す。



●岡山縣愛國者協議會・岡田則夫翁「獻詠」

かげながら 通夜つとめんと 神前に 古事記卷頭 祈りてさゝぐ

おもかげを したひてこよひ 神前に 祈りさゝげる 古事記卷頭

ふつゝゝと 日ごとにまして 悲しみの 心の傷は 廣がりて行く

心の師 ゆきて日ごとに わが心 元氣の魂(たま)は くづをれてゆく

師の君の 聲朗々と 聞こえくる 古事記卷頭 わが胸を打つ

流れくる 古事記卷頭 師の君の 御聲きゝつゝ ひとり涙す

流れくる 古事記卷頭 師の君の 御聲きゝつゝ 涙流れき

都羅山に 惡衣惡食 恥づるなかれと 力をこめて 説きし大人はや

ぼろ着ても 常に清潔 つとむれば 恥づべき事は なしと大人説く

師の君の 言の葉重く せまりきて われのこゝろは くだけてちりぬ

葬儀終へ 空にひとすぢ 流れゆく 飛行機雲は 去りゆく大人か

師を思ひ みつめる白き その雲は 流れ消えゆき つらさいやます

心友の 深きなげきに 及ばねど 我もかなしむ 先師慕ひて

道行きに 迷ひし時に すくはれし 任じて立ての 大人の一言

志 ちひさけれども やさしさの あふるゝる教へ 背負ひて行かむ

わが寶 先師の手紙(ふみ)を とりいでて 讀みつぎゆけば 元氣滿ち張る

こよひまた 友のかなしみ 思ひつゝ 心はいたむ 深きなげきに



●岡田則夫翁「追悼文」

 御父上は、愚生にとつては、日本の富士山と同じでした。御話はしなくても、御會ひしなくても、在ると云ふ事だけで、それだけで、最期に頼れる、たゞ一人の方でした。平常、意識しなくても、幾度戴いた御手紙に、心はげまされたか知れません。スクラツプに入れて、いつも讀めるやうに、机のそばに置いてゐます。

 「(岡山縣愛國者協議會)通信」に對する返書の中でも、最もうれしかつたのは、御父上から戴く感想でありました。

 六月の月例會終了後、上田大兄より、御父上の病状の御樣子をお聞きしましたが、どうしても御見舞に行けませんでした。愚生の心の中には、元氣な御父上の姿しか殘せなかつたのです。

 訃報に接して、愚生の心の中にしめる、御父上の比重の重さを思ひ知らされました。



【三宅萬造翁・芦田林弘烈士】
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 小生は、下記の女史の縁故にて、五草庵主三宅萬造翁に面謁が叶ひ、奇しびなる道福を得ました。且つ翁の神葬祭に參列させて戴くことが出來、翁が如何に敬慕されしかを目の當りに見たことを、今の如く覺えてをります。病床に在つては、毎朝、廣瀬武夫中佐『正氣の歌』を吟じてをられた御由。
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 而して平成二十八年十二月三日、三宅萬造翁の愛弟子の岡田則夫翁も、また「愛協會の月例會は止めますが、匹夫の志は堅持いたします」との言葉を殘して、昭和五十年來、四十二年間、累々として續けて來つた講席を閉ぢられた。岡田翁の人徳を慕ふ者は、我が陣營に於ける「岡山縣の良心なり」と云ひ、末席に連なる小生、鳴謝して已まないのであります。



●三宅萬造翁の晩年、恩顧を賜ひしてふ、伸風流吟詠會正吟館總本部の宗範・白神綱風女史の撮影『三宅萬造翁』(倉敷なる大原美術館のモネ繪畫『睡蓮』の前に於て。翁は寫眞嫌ひの由なれば、稀少の一葉なり)
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(PDFの寫眞からの掲示は不能。技術力なく、遺憾ながら斷念、獨り之を掲げて拜す)

●岡田則夫翁、竝びに岡山縣愛國者協議會に集ひし方々(平成二十七年十月三日。月例會の後)
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御茶椀殿へ、参らせ候ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月15日(日)21時33分34秒
返信・引用
   現在は、投稿くださつた御方は、そのまゝ「即時に掲示」される設定にしてをりますが、此の爲體だと、管理者たる備中處士の「確認後に掲示」の設定にせざるを得ないか~。躊躇逡巡、頗る迷つてをります‥‥。

 「スパム投稿」てふ、世の中には、不可思議なる獸類もゐる由。何とも解せませぬ。此のちつぽけなる掲示板に迷惑かけて、何になるの。

 Teacup管理者殿、問合せ中、そろゝゝ何とかして賜れ。頼みます。御貴殿の沽券にもかゝはりませうに‥‥。

 

愉快犯の狙ひは、何。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月 6日(金)02時10分1秒
返信・引用 編集済
  遮斷しても、削除しても、祓つても‥‥やつて來る。此の管理者である、備中處士が罪・穢れの如く。

それはさておき、貴殿、一體、パソコン、何臺、持つてるの。
 
 

御目汚し、御詫び申し上げます。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月 4日(水)12時11分24秒
返信・引用
   年末から、變な者の投稿が連續してをり、
御閲覽各位には、御迷惑をおかけ申し上げてをります。

 此の弱小掲示板に、何用あつて闖入するのか、全く以て解せませぬ。
世の中には、暇人も衆いと云はねばなりません。

 無駄なことを爲すよりは、世の中の爲めに精力を使つて戴きたいものですなあ。
暫くは、堪忍くらべでありませう。呵々大笑。
 
 

大御代の新年を、謹みて賀し奉る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2017年 1月 1日(日)09時13分30秒
返信・引用 編集済
  天降紀元五○一七年
中興紀元二六七七年
平成の第二十九歳丁酉 元旦
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●靖國神社宮司・葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定大人の哥(『中今亭雜歌』昭和十四年九月・中今亭刊)

○中今(昭和十年)
大御代を はてなきものと 知りてあらば 今を終りと いふことやある

○陳志(昭和十三年)
天地の さかゆる御世に 生れあひて すめら御民と あるはうれしも



 大祓を經て、産土神社・吉備國一宮への初詣を畢へ、謹みて、
聖壽の萬歳を祝ひ奉り、竹の園生の彌榮を懇祷し、
大御代新春の御慶び、芽出度く申し納め候ふ。

 更めて御閲覽各位の福壽無量を、只管ら祝祷申し上げ候ふ。門前、雀羅を張る掲示板を耻ぢ候ふ間、本年、有志倍舊の御誘掖御教導、幾重にも懇祷いたし申し上げ候ふ。

     九段塾管理者・備中處士、敬みて白す。
 
 

奉祝・天長節。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月22日(木)18時31分34秒
返信・引用 編集済
   明日は、天長節なり矣。明治天皇御降誕に際して、

天照らす 日嗣の皇子の 尊ぞと 深く思へば 泪し流る

とは、佐久良東雄大人の哥なり。畏し矣。謹みて國旗を掲げ、皆共に言壽ぎ奉らむ。



●靖國神社宮司・葵園賀茂百樹縣居宿禰眞定大人の哥(縣居大人七世孫なり。『中今亭雜歌』昭和十四年九月・中今亭刊)

○天長節に(大正十二年)

君が代を 千代萬代と 祝ふ日は くむ盃も かさねられつゝ

○十二月二十三日、今朝五時、皇子御出生遊ばされ、歡喜無極、御降誕奉告祭執行後、御所及び大宮御所へ參賀奉仕。靖國神社へ奉告祭仕へ奉りて(昭和八年)

年久に 仕へ奉れど 今日ばかり うれしき告詞 奏上(あげ)しことなし

○參賀せし時

大宮は とゞろゝゞゝに ゆるぐなり 歡言上(まを)す 臣參ゐ續き

○二重橋前に、人々群集して、祝ひ奉るをみて

萬歳の 聲いよせ來て 百敷の 御堀の浪も 今日は岸うつ

○皇太后宮へまゐる道すがら

民草の なびき喜ぶ 眞心は 軒の御旗に あらはれにけり

○御降誕の御事を、宮内大臣、ラヂオにて謹話せらるゝを聽きて

天地と 相榮えむと 日の皇子は 時行きかへる 今日ぞあれます

○十二月二十三日は、冬至の翌日なれば、かく詠めるなり

天地の 依合ひの極み 榮ゆべき 命受けます 日の御子尊
立ち走り 子らも喜ぶ 鄰より 萬歳呼ばふ 聲も聞ゆる
朝日よく きく一聲に 失ひし 民の力は 更生(よみがへる)らむ
日の御子の 生れ出でまして 日の本の 國の光りの そふこゝちすも
御民らの 心は強く なりそひぬ 皇子の命の 光り仰ぎて

○新聞紙を見て

喜びの 聲は八島の 外までも ひゞき渡ると 新聞紙(にひぶみ)の告ぐ
萬歳の 聲起るちふ 外つ國の 大和の人の 住まぬ里にも

○皇太子のあれ出でましゝことを祝ぎて唱歌

一、
朝日と共に 現(あ)れ出でまして 天地あかるく いや晴れわたる 生(あ)れましながらの 輝く日の皇子 鏡の御徳 かしこくたふと

二、
初(うぶ)の御聲の をゝしき響き 國の力は いや立ちまさる あれましながらの 武(たける)の大皇子 劒の御徳 かしこく尊

三、
瑞の御おもの 饒しき御笑(みゑみ) 民のよろこび いや涌き起る あれましながらの 平和の珍皇子 玉の御徳 かしこく尊



●獺祭書屋主人正岡子規越智常規翁の哥

○天長節

天の下 しらす日の御子 その御子の あれましゝ日は 常晴(とこはれ)にして

山ゆるぐ 筒の音すなり 九重の 二重の橋を 御馬驅るらしも

草の戸に 御姿掛けて 菊活けて わが祝ふらくは 千代にいませとぞ

ひさかたの 天とこしへに あらがねの 土うるほひて 菊開く國

○明治三十三年十一月三日の佳辰に遇ひて、天長節

かけまくも あやに畏き 吾大君 今のみかどの 生(あ)れましの 其日を今日と 青山の 習しの庭に いくさ君 いくさ整へ 角(くだ)の音を い吹き鳴らせば 拔き放つ 八千の劒は 稻妻の 草に散るごと 勇み立つ 駒の足掻は 久方の 雲居をか行く 假御座(かりみくら) いづの御前に 歩(かち)人は 銃さゝげ持ち 駒人は ひづめ立て竝め 砲(つゝ)を引く 砲人ともに 畏みて よごと申せば 天の下の 青人草も よろづ代と 三度呼ぶかも 唐山の 草木靡かひ 高麗の海の いろくづ來寄り 食國(をすくに)の 國の貢と とことはに 仕へまつらん 君が世の いくさ見の式 見ればゆゝしも

大君は 神にしませば から山の 高麗(こま)の海(うな)びも もろ敷きいませ(反歌)
 
 

林房雄翁を偲ぶ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月20日(火)22時55分33秒
返信・引用 編集済
  ●林房雄翁の遺詠

不知火の 大阿蘇の野に 友ら集ひ 國の命を 語りけるかな(昭和四十年代作)

足摺の 黒潮の瀬は 愛(かな)しかり 風立たぬ日も 白く渦卷く(『浪漫』昭和四十八年四月號より)



●林房雄翁『勤皇の心』・『維新の心』
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●靖國神社權宮司・池田良八翁『慰靈祭祭詞』(昭和五十一年一月二十四日、於東京・九段會館ホール。追悼行事實行委員會編『林房雄大人追悼行事報告書』昭和五十一年三月刊に所收)

 新玉の年立ち返れど、庭に野に梅の蕾はまだ固く、北風は身に沁み渡る、睦月末の四日の今日しも、此の九段會館の大室屋を、嚴の齋場と齋ひ定め、暫し招奉り鎭め奉る、林房雄大人命の御靈の御前に、今日の齋主仕奉る、靖國神社權宮司・池田良八、謹しみ敬ひも白さく。

 往水の流れは速く、咲く花の生命短く、かにかくに現世の相は常なき中に、別けても人の生命ばかり、果敢なきものはなく、運命のまにゝゝ、如何ともせん術なきは、實に哀しく痛ましき事なるかな。

 あはれ偲び奉る、汝大人命や、明治三十六年五月三十日、豐後の國は大分市に、父・後藤瀧太郎大人、母・ヒデ刀自の一人眞名子として生れ出で坐して、御名を壽夫と言ひ、幼き頃より、御性質賢しく、家人等の深き慈愛を、御身一つに受け、將來に大き望みをかけられ給ひ、縣立大分中學校、第五高等學校、次いで最高學府の譽も高き東京帝國大學と、學問の道をひた進む中に、社會主義に意染り、林房雄と號して、勞働運動に身を潛め、度々獄舍に捕はれ給ひしが、明治維新の經緯を究明する裡に、肇國天下知食す天皇の遠世この方、承繼がひ來し大和國風に、魂觸れてよりは、底つ磐根に太敷き立つ、我が日本の國民と目覺め給ひ、秋、恰も皇國を廻る四方の海、次第に波立ち騒ぎ往きて、支那事變、更に古今にその例なき大東亞戰爭と、擴ごり往く時にしあれば、只管大和魂、砥ぎ澄ましつゝ、御著書『西郷隆盛』を始めとして、數々の警世の文卷を著述し、世に送り出し、昭和二十年八月、畏き大御心もて、大き戰の終りてよりは、天下、邪惡なる思想はびこり、國民の心、苅菰の紊れ荒びて、御國の状、いよゝゝ危ふき秋にしも、如何ともして、元の御國振りに立返さんものと、更に國内至らぬ隈なく遍巡り給ひ、或は數々の書を著はして、尊き御國の眞理を説き明かし、國體の尊嚴を教へ訓し給ひ、我が國民の往くべき道を示して、憂國の同志の心を結び成し給ひ、別きてもその名も高き『大東亞戰爭肯定論』に顯れ出でたる、汝大人の憂國の情に、感動けぬ者はなく、かにかくに束の間も撓まず緩まず、赤き心一向に、御國の爲に、伊曾はき給ひし、偉はしき汝大人命なれど、昭和四十九年頃より、御身勝れ給はず、數多の醫師の優れたる醫術の限りを極め、夫人・御子等の看護の業を盡し給ひしその效も空しく、去にし年の十月九日と言ふ日に、御齡七十二歳(ママ)を一世の限りと、幽世の本津御座に歸り給ひしは、巨き星の落ちしが如く、天下の人々、常夜なす憂ひに沈みしは、實に口惜しき極みには有れど、凡そこの日本に生を享け、樣々に迷ひつゝも、遂には直く正しき御國人となり、世にこの人ありと稱へられ、萬世に朽ちせぬ御名を殘し給ひしは、男子の本懷、これに勝るものなしとや言ひつべし。

 故汝大人命を、深く悼み慕ひ奉る諸人等には、如何でかも大き功績を仰ぎ奉りつゝ、百日の御祭をも兼ねて、御靈慰めの御祭仕へ奉らんものと、遠き近きを呼び交し、八十日日は有れども今日を撰び、この祭の場に、御前も狹らに參列なり、御寫眞かゝげ奉り、心盡しの御饗津物、又時自久の花をも供奉り、奏で奉る樂の音も、忍び々ゞに玉串捧げて拜み奉る状を、御心も平穩に聞食し給ひて、奇しき御靈は、天翔り國翔りまして、御遺族の上は申すも更なり、皇國の往手、げに事繁き世界状勢にありて、汝大人命の精神を心とし、勤み勵む諸人等の上を守導き給ひて、萬世の爲に太平を開かんと宣らせ給ひし、天皇の大御心に、こたへ奉らしめ給へと、乞祈み奉りつゝ、謹しみ敬ひも御祭治奉らくと白す。



●影山正治翁『昭和維新と林房雄』(同上に所收)に曰く、

「昭和十一年、二・二六事件による轉向、昭和十二年、支那事變による、更にその前進。さういふ當時の林房雄氏の轉向だけでは、私はまだ駄目だと考へた譯であります。即ちそこで、私が強く申したのは、意味の上から申しますと、

「單に赤旗を捨てゝ、日の丸に歸るといふだけでは、駄目なんだ。これは平面的轉向に過ぎないんだ。だから、もつと立體的な轉向に徹しなければ、あんたは、本當に日本に囘歸し復歸し、日本の益良雄として、眞の『文の士』としての、日本の文人として大成することは出來ないぞ。だから、頭だけの、理論だけの形式轉向、平面轉向でなく、『天皇陛下に、眞つ直ぐ歸る』といふ、その轉向に徹すること、『神に歸る』といふ、そこに徹しなければ、あんたの轉向は、またいつか、あんたの性格からみると、元に戻るぞ。それが證據には、あんたは、宮城皇居の前を通る時に、自ら頭が下がるか、頭を下げて居るか。こゝで、本當に、いのちがけで『ミソギ』と『祈り』と『行』を、からだでやつたらどうだ。だから、例へば眞つ直ぐに、明治神宮に行つてお願ひをして、一週間なら一週間、默つて斷食祈願をするといふやうなことを、まづしてみたらどうだ」

といふ意味のことを骨子として言ふた譯であります。

 この強烈な私の提言に對して、林房雄氏は、とぼけたり、そつぽを向いたりせずに、それを直面して受けた譯であります。そこに私は、「林房雄の本質」があると思ふ。昨日までマルキストで、共産主義者で、日本の叛逆者で、唯物主義の無神論者であつた本人が、七歳の年少者の、一介の浪人である影山正治の言ふことを、全うに受け止めたといふこと、これは大變なことです。私は今でも、さう思ふ。その意味において、私は「林房雄の本質」を信じたい。色々紆餘曲折や、行きつ戻りつや、ジグザグはあつたが、である。そこで林房雄氏は、直ちに文藝雜誌『新潮』の(昭和十三年)七月號に、『美と力の詩人』といふ一文を書いて、

「最近、私は、影山正治といふ、何ら今迄交りのなかつた、年少の一青年から、これゝゝの公案を受けた。私は、これに對して直面したい。事實、私は、皇居──宮城の前を通つて、自ら頭が下がつたことがない。考へてみれば、頭を下げたこともない。然し頭の下げる林房雄にならなければ駄目なんだ、といふことが、私にも判つた。そして今の私には、明治神宮に、眞つ直ぐに行つて、一週間の斷食祈願をすることは出來ないが、然し必ず、この眞劍な提言に對して、身をもつて應へる覺悟である」

といふのが、その骨子であります。更にそれを受けて、私の書いたのが、『續・林房雄論』(『怒濤』昭和十三年五月號の『林房雄に與ふ』──林房雄論の續編)であります。そこで、林房雄氏と私、及び私どもとの魂、生命の道の交りが出來た譯です。私どものやつて居つた日本主義文化同盟には、間もなく倉田百三氏が、更にそれに續いて、淺野晃・保田與重郎・尾崎士郎・三浦義一等々の諸氏が入つて來てくれました」と。



●田中忠雄居士『林房雄の思想』(同上)に曰く、

「林さんの奧樣から聞いた話ですが、臨終の時に、とめどもなく涙を流してをられたさうです。『泣かない人だつたのに』と、奧さんは語られました。皆樣も、泣いた林さんといふのは、知らないでせう。作品を讀んでもお判りと思ひますが、林さんは、大豪傑なんです。にも拘らず、臨終の床で、ポロヽヽ涙を落してをられたので、奧樣とお孃樣が、『どうしたのですか』といはれたさうです。さうしたら林さんが、かすれた聲で、『あゝ、もう俺は、かうなつてしまつて、日本の爲に、何もできなくなつた』といつて、涙を流されたさうであります。『あゝ、もう何もできない』‥‥。私共は、この話を聞いて、凝然として言葉が出ませんでした。息を引取られる最後の最後迄、林さんは、全生命を熱燒し盡したのであります」と。



 愚案、父が戴いて來た、平泉澄博士『少年日本史』を拜讀してゐた小生は、早速、書肆にて、林房雄翁『神武天皇實在論』を手にし、忽ち翁に熱狂し、『浪漫』の定期購讀者となつた。此の雜誌中の「白井明」は、翁ではないかと臆測して、的中させたほど、大好きだつた。然し其の謦咳に接することは、遂に叶はなかつた。翁の逝去を知つて‥‥、涙した。而して林房雄翁から、幸ひにも友清磐山大人の名を知るを得、また磐山大人からは、宮地水位大人『異境備忘録』の拜讀てふ縁故を戴き、神道の道奧を垣間見ることが出來、平田大壑先生の神道の何たることの萬分の一かを知るを得た。小生は、本道に道福者だ。小生の若き折の、拙いものゝ、愛しき想出である。
 
 

再警告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月17日(土)18時37分57秒
返信・引用
   「愛国主義者」なる者の投稿は、既に遮斷したが、投稿機器を變更して、執拗にも繰返して來る。

 貴殿の高尚なる御意見は、頼むから、貴殿の御仲間の居る他所へ行つて開陳してくれ給へ。閑古鳥の鳴く、此の掲示板には不向きです。

 また管理者としての小生は、貴殿の投稿に對して、頗る不愉快であるし、加へて初老の身、機器の操作に難澁して、甚だ迷惑であります。幾度び申し上げれば、御理解を戴けるのでせうか。
 

謹告。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月16日(金)22時02分13秒
返信・引用
   「神宮・皇室等、畏き邊りに對し奉る不敬な言擧げは、嚴禁」とある。九段塾頭の許可・遺訓を得て、此の掲示板は運營されてをります。

 故に本掲示板に於ける「愛国主義者」の闖入は、之を許さず、永久に追放する。本掲示板は、尊皇の志操を涵養せむと欲するもの、論爭の爲めの掲示板ではありませぬ。貴殿の歴史觀の披露は、他の掲示板にて行つて戴きたい。

 眞に不敬千萬、皇國の先哲に對して、申し訣もございませぬ。かやうな俗事が續くやうなら、本掲示板の閉鎖も考へたい。以上。
 
 

君臣の義、講ぜざること七十餘年なり矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年12月14日(水)22時18分30秒
返信・引用 編集済
  ■吉田松陰先生『松下村塾記』

 抑も人の最も重しとする所は、君臣の義也。國の最も大なりとする所は、華夷の辨也。今ま天下は、何如なる時ぞや也。君臣の義、講ぜざること六百餘年、近時に至り、華夷の辨を合せて、又た之を失ふ。然り而うして天下の人、方且に安然として計を得たりと爲す。神州の地に生れ、皇室の恩を蒙り、内、君臣の義を失ひ、外、華夷の辨を遺る。學の學爲る所以、人の人爲る所以、其れ安ぞ在らんや哉。




 畏友・河原博史翁から、いつも御手製の封筒にて、澤山の情報誌を戴いてゐる。備中の田舍者にとつては、此の上なく難有い。其の中から、吾が腹悶を醫やしてくれる玉文を得た。嬉しさの餘り、些か紹介して、諸賢に供したい。



●志賀智仁・日本實踐奉仕團代表『大殿下薨去と讓位について』(『芳論新報』平成二十八年十二月號所收)

 日本は、云ふまでもなく、皇國である。つまりは内政や外交が、少々行き詰まりを見せようとも、街頭において左右の陣營が衝突を起こさうとも、それは小さからざる問題ではあるけれども、決して國家を搖るがすに至り得ないのである。神意が働く時、畏きあたりが動く時、それこそが、唯一、祖國が激動に直面するサインなのである。我々は、その感性でもつて、事に處さなければならない。‥‥

 有識者會議のメンバーもヒアリング對象の專門家も、保守系としてならした人物が、大勢をを占めてゐる。ところが蓋を開けてみれば、その論議が憲法違反だの、特別法で對處するだのと、天○機關説論者も眞つ青の不敬ぶりである。第一、御自ら讓位の意向を滲ませてをられるのにも拘はらず、認めるとか、認めないとか、いつたい君臣の別を、何と心得てゐるのか。本來は讓位の御心を拜して、如何にしてそれを翼贊するかを論議するべきなのであつて、今日のそれは、不敬千萬、本末轉倒として、冗談にもなりはしない。

 今さら云ふまでもないが、有識者會議、またヒアリング對象となつた專門家に、期待は禁物だ。頭腦の明晰さは、確かに見上げるべきだが、今般の問題に限つて、それよりも重要なのは、敬神尊皇の精神であり、政府に助言するに値する經驗で云へば、その志操である。つまりこのメンバーに、神道界の人物が、誰ひとりとして人選されてゐないことをみても、この論議が、國體を重んじる結論を導き得ないのは、火を見るより明らかと云はざるを得ない。

 ある人物は、かつて小泉純一郎が、皇室典範の改正を企てた時、男系男子を堅持すべきと論陣を張つたが、その論據にDNAを持ち出し、血統を守れと云ひだした。他國の王樣について論じてゐるならいざ知らず、なぜ、皇統・靈統の概念が持ち出せないのか。また別の人物は、攝政をおくべきだとして讓らない。今上天皇の御心に、攝政はないのに、である。これは一見、尊皇の志ゆゑと勘違ひしがちだが、實のところ、大帝と暴君を認めることと同義なのである。斯樣に他の連中の意見も、大同小異、とても萬世一系を奉戴する有爲なる人々の言とは思へない。先日、この状況について、近所の名もなき神職と意見を交はしたが、「學者は、ダメですよ」と、ぽつりと漏らしたことが、今でも忘れられない。‥‥

 いま我が陣營は、法的な解釋や、さりとて同情や人權と云ふ不敬でもなく、たゞゝゞ御心を拜戴する姿勢を以て、内外に君臣の別を闡明にしなければならないのである。天皇が讓位と仰せならば、一も二もなく、讓位ではないか。
 
 

でもおかしいですよね

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月24日(木)19時25分14秒
返信・引用 編集済
  身分もわかりますが、しかし宮内庁の次長の発言となれば
正直、無責任ではないかなと怒りを覚えますね。

各宮家に男系親王が多数いらっしゃる状況なら
いざしらず、公務員として皇族を護るという気概と
責任感が無いのでは?

これこそ、安倍総理大臣が宮内庁の人事に介入するべきである。
万が一が起きてからでは、遅すぎる。傍観者であっては
ならないと感じております。

昨今の宮内庁職員のなんというか、職務に対する使命感の
無さには、いささかあきれるものがある。
 

天皇の御爲めに、心を盡す可し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月24日(木)18時58分30秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下の玉音を無みする政治家・高官は、神明の赦さゞる所にして、「尊皇は先、利民は後」の定理を覺つて、速かに反省し、鋭意、盡忠奉公の本道に立ち返る可きなり。或る神仙の、常に宣り給ふは、

現世にては、天皇は、諸社の神より尊し。然りとて官人等の、天皇の命を僞り、神社の神位を、我が心任せにして、神の尊卑を談じ、貴神を墮して賤神に贈位するなどは、幽冥界に入りては、其の罪重し。親に不敬をする等の罪は、之より輕きと、又た重きとの二つあり。されど天皇を輕蔑し、高官として命令を僞り作りたるは、神の赦さゞる處にして、其の罪科、尤も重し。‥‥現世、天皇の御爲め、次いで人民の爲めには、心をも盡すべし」と。



 平成二十八年十一月十八日、横濱總鎭守・伊勢山皇大神宮に於て、邪教「創價學會」撲滅成就祭擧行さる。

 此の學會なるものは、昭和十八年六月、治安維持法違反、及び不敬罪の疑義にて檢擧されてをる、問題の頗る多き新興宗教であり、夙に時局對策協議會から、嚴しく糾彈されてゐる神敵であるが、今度び有志相集ひて、撲滅祈願が執行された由。所謂る佛魔の中でも、跳梁跋扈の甚だしきものにして、既に政府與黨は軍門に下りつゝあつて、其の魔力は、強大にして深刻なりと謂はねばならぬ。此の佛魔拂攘に勇む有志同朋、若し些かの油斷あらば、釋魔の玩ぶ所となるは必定、畢竟、相手は邪靈の憑依物の集合體なれば、身には緋縅の鎧を纏つて、鋭意、質實剛健、敬肅謹愼に力められ、
皇神皇尊の大御稜威の下、日常的に『大祓』奏上を缺かすこと無からむを、特に幾重にも御願ひしておきたいと存じます。



**********

 謹みて神界におはします神々に奏上申し上げます。

 吾人は、「我等は 天皇尊の股肱なり、我等は銃後の近衞兵」と云ふ信念の下、戰後體制打倒・神世復古成就を使命とし、復古中興運動に挺身してをります。吾人は、本津教たる惟神大道を旗印に、破邪顯正の神劍を振ひ、皇國體に叛逆する邪教を、徹底的に撲滅し、一億 皇民、悉く神洲清潔乃民たる大自覺を取り戻さむとの決意であります。

 殊に日乃本一の邪教たる創價學會を撲滅せねばならぬの大事は、吾人が使命であります。本年は、淫祠俗惡邪教創價學會が創立され、八十六年になります。然し神敵池田大作率ゐる邪教創價學會は、國内では立正安國の實現の爲に、「總體革命」と稱し、各界に學會員を送り込み、亦た「廣宣流布」と稱し、全世界を佛國土に改變しようとする愚を悔い改めぬどころか、野心旺盛、依然として神罰を恐れることを知りません。淫祠俗惡邪教創價學會を撲滅せずして、神世復古、竝びに世界皇化の大願を成就する事は叶ひません。故に吾人は、橘曙覽先生の和歌、「大皇に 背ける者は 天地に 入れざる罪ぞ 打つて粉にせよ」との攘夷貫徹の大精神を肝に銘じ、果敢に淫祠俗惡邪教創價學會撲滅運動に挺身する所存であります。

 吾人が所屬する大日本愛國團體聯合・時局對策協議會は、福田素顯大人創設以來、一貫し、淫祠俗惡邪教創價學會撲滅の大旗を掲げ、一騎當千の運動を行つて參りました。先覺烈士の志操に相聯なり、以て神國日本、復古中興に挺身する事を、神前に誓願申し上げます。

 神界にまします神靈に於かれましては、吾人が微衷を諒とし、神佑冥助の御加護を下し玉はりますことを、只管に冀ひます。謹み畏みて、小林弘典、申す。

平成二十八年十一月十八日

 民族派有志聯帶運動
  愛 倭 塾  小林 弘典
  盛道烈士會  竹本 大樹
  大 地 社  木下 厚
  同血新聞社  下山 陽太
  日本のこゑ社 大岩 優輝
 
 

皇室に於ける身分。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月22日(火)22時17分10秒
返信・引用 編集済
   今度の宮内廳職員の不祥事件は、洵に殘念なる事でありました。今後、愈々緊張感を以て、事に當つて戴きたいと懇祈いたします。

 曰く、「皇室の警備態勢については、兩陛下や皇太子ご一家が車で出かけられる場合、前方を白バイなどが先導、後方に警備車輛が續く。通過する一般道の信號を全て青信號にし、高速道路も交通規制するため、澁帶に卷込まれることは無い。一方、宮家の皇族方には、後方に警察の車輛が一臺配置されるだけで、交通規制も敷かれない。皇位繼承順位第二位の秋篠宮樣、第三位の悠仁親王樣がをられる秋篠宮ご一家であつても、例外では無い」と。

 秋篠宮樣および若宮樣にかゝはる御事は、皇室に於ける「身分」の問題でせうから、如何とも爲し難く、戰前・戰後を通じての皇室の御慣例の御由を、宮内廳次長が語つたのでありませう。次の塾頭の文が、或は參考となりませう。
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t36/15
 
 

宮内庁次長の精神構造

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月22日(火)20時20分6秒
返信・引用
  この西村なる宮内庁次長の精神構造をいぶかしむ。
安倍総理はこの次長クラスの人事異動に介入するべきではないか?
この事故で明らかになったのは、筆頭宮家に対する警護の無さである。
皇位継承2位と3位の親王がおられるのに、何も手を打たないそうである。

万が一の場合が起きた時は、この次長はどうするつもりなのか?
たんに首を飛ばされて天下りなのか?保守政治家たちや皇室崇敬者は
この西村なる君側の奸を批判するべきではなかろうか??



宮内庁次長「警備態勢見直しせず」 紀子さま、悠仁さまご乗車の自動車事故で

産経新聞 11/21(月) 17:08配信

宮内庁の西村泰彦次長は21日の定例会見で、秋篠宮妃紀子さまと悠仁さまが乗られた車が20日に追突事故を起こしたことについて「運転手の前方不注意が原因」との認識を示し、「警備態勢を見直すことは考えていない」と述べた。

 西村次長によると、事故が起きた相模原市の中央道下り線は渋滞中で、前方の車が急ブレーキをかけたため、運転手の宮内庁職員も急ブレーキをかけたが、間に合わずに追突した。当時、霧も発生していた。

 秋篠宮ご一家をはじめ宮家の皇族方の警備態勢については以前から見直しを求める声が出ていたが、西村次長は「今回の事故が警備態勢を強化しなければいけない事態ではないと認識している」と釈明した。

皇室の警備態勢については、両陛下や皇太子ご一家が車で出かけられる場合、前方を白バイなどが先導、後方に警備車両が続く。通過する一般道の信号を全て青信号にし、高速道路も交通規制するため、渋滞に巻き込まれることはない。

 一方、宮家の皇族方には後方に警察の車両が1台配置されるだけで、交通規制も敷かれない。皇位継承順位第2位の秋篠宮さま、第3位の悠仁さまがおられる秋篠宮ご一家であっても例外ではない。

西村次長は「お車の運転は大変重要な職務で、
安全運転についてはしっかり指導をしていく。再発防止を徹底したい」と強調した。
 

皇室警護の在り方

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月20日(日)15時25分39秒
返信・引用
  皇室崇敬者や保守派はこの事故を軽く見てはいけない。

事故の内容を見ると、まあおそらくブレーキをかけるタイミングが
遅くて、相手方に軽くぶつかったというもの。多少バンバーがへこんだ程度
で済んだらしいが、もしお互いにスピードが出ていた場合、結果は想像もした
くはない。プライベートとはいえ、警護の警察はいなかったのか?

悠仁親王殿下は、皇位継承3位の御方であり、第一優先的に
御守しなければならないはず。軽い事故だから安心でした。
などと楽観的に捉えてはいけない。やはり皇室警護と交通の整理は必要である。


紀子さまと悠仁さまをお乗せの車が追突 けがなし 相模原の中央道

産経新聞 11/20(日) 12:55配信

20日午前7時35分ごろ、相模原市緑区与瀬の中央道下り車線で、
秋篠宮妃紀子さまと長男の悠仁さまが乗られたワゴン車が、渋滞の
最後尾に並んでいた乗用車に追突した。宮内庁によると、紀子さまと
悠仁さまはけがをされていない。

警視庁高速隊の調べでは、ワゴン車は30代の宮内庁職員が運転し、
計6人が乗車していた。ワゴン車には前部バンパーに亀裂と
擦った痕があり、追突された車はバンパーがへこんでいたという。

宮内庁によると、紀子さまと悠仁さまは、悠仁さまのご友人親子と
私的に山登りに出かけられる途中だった。事故後、
別の車に乗り換え、予定通り登山をされたという。

高速隊は車両の損傷程度からスピードはあまり出ていなかったとみており、
事故の詳しい原因を調べている。
 

悠仁親王殿下ののった車が事故

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月20日(日)14時42分29秒
返信・引用
  幸い、紀子妃殿下と悠仁親王殿下にお怪我は
無かったようだが、これがテロであった場合や万
が一の事があれば、皇統の危機ではないか!
プライベートっとはいえ、悠仁親王殿下の御身を護ることが先決。

宮内庁職員も渋滞に気が付くのが遅れたなどと、
言い訳をしているが、こんなやつに運転させてことが
間違いでもある。時代が権威に対して緩くなっている
とはいえ、危機管理意識を高めていただきたい。
警護は一体どうなっているのか??


秋篠宮妃・紀子さまと悠仁さまらが乗った車が事故

テレビ朝日系(ANN) 11/20(日) 11:48配信

中央自動車道で秋篠宮妃・紀子さまや悠仁さまら6人の
乗った車が追突する事故がありました。

20日午前7時半すぎ、神奈川県相模原市の中央自動車道下り線で
「乗用車の衝突事故があった」と通報がありました。警視庁によりますと、
渋滞中の車列に乗用車が追突したということです。この乗用車には相模湖方面に向かっていた秋篠宮妃・紀子さまや悠仁さまら6人が乗っていたということです。プライベートで山登りに行く途中で、紀子さまや悠仁さまにけがはありませんでした。乗用車を運転していた宮内庁の職員の男性は、「渋滞に気付くのが遅れた」と話しています。.
 

右翼・・・・

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年11月 8日(火)19時27分14秒
返信・引用 編集済
  街宣右翼などは、ほとんどが在日朝鮮人
といわれている。いわゆる似非右翼であろう。

日曜日の昼下がり、穏やかにわが子に乳を与え、
すやすやとわが子をあやし、ねつかそうとしている矢先に、
突如の日本軍歌の大音量!窓を開ければ、菊の御門入りの黒塗り
ワゴン車が道路を所狭しと走りまくり、中から出てきたのは
暴力団と見間違えるような風貌の『自称・尊皇の志士』

それでも、反日組織の門前にての、荒事であるなら理解至極だが
全く関係も無い団地や、他人の敷地に勝ってに入り込み、怒声や
罵声・暴力沙汰を起こすのはしばしば・・・

彼らの行動の結果、日の丸・君が代に嫌悪感を抱く一般人も
少なくはない。彼らがしていることは、愛国者の足を引っ張るものである。

そして靖国神社に来るときには、なぞの特攻服で片手に
不釣り合いなまでの巨大な日章旗を掲げ、みんなそろって記念撮影!!
何時の頃かは不明ですが、かなり前から靖国神社にはヤクザ風・右翼団体風
の、いかにもその筋の連中が入り込んでこれるのも事実でありましょう。

的屋と暴力団の境が難しく、神社側でも統制できない???
そういう実情もあるんでしょうが、毎年来ている連中で風体が
おかしければ、社に入れない措置くらいは取るべきですね。

この種の輩を排除しなければ、靖国神社もいわれなき
非難を受けよう。街宣右翼は日本人にあらず!
 

天皇不在の尊皇、神なき祭の蔓延を憂ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月 7日(月)21時52分8秒
返信・引用 編集済
   大地社の木下厚氏が、『芳論新報』平成二十八年十一月號に、「曾子曰、吾日三省吾身」と題して特別寄稿され、殊に豬狩史山翁『日本皇室論』や泉水隆一翁『靖國神社の眞實』を引用されて、大いに氣炎を吐いてをられる。尊く嬉しい氣持が湧いて來り、小生も反省多きが故に、些か紹介したい。曰く、



「今日の右翼陣營において、尊皇・敬神崇祖こそが大義であると膽に銘じて、運動に挺身してゐる活動家は、どれ程ゐるのか──。これは、我らに對して心情的共鳴を寄せる一般人の、多く關心の抱くところである。いくら言葉や文章では、尊皇を叫んでゐても、宮城の一般參賀へ赴いては、畏れ多くも天皇陛下にカメラを向け、我先にとSNSに、御眞影を投稿掲載して憚らず、或は神聖にして靜謐たるべき宮城付近で、大音量を流す輩が強辯する「尊皇」に、一體如何程の説得力が存してゐるといふのであらう。‥‥

 靖國神社に關しても、實際に境内に赴けば、今日の右翼カブレした自稱愛國者の意識が、どれだけ低いのか、否が應でも垣間見る事が出來る。いつから靖國神社は、街宣右翼の休憩所や賀詞交換會の會場になつたのか‥‥、いつから街宣右翼優先駐車場になつたのか‥‥。‥‥

 街宣車で軍歌を大音量でかけ乍ら、靖國神社へ參じては、英靈を語る。英靈が、今日の日本を見て悲しんでゐるに違ひない、英靈は我々の運動を喜んでくれてゐるに違ひない‥‥、さういふ身勝手且つ尊大な會話が、お茶屋の側の喫煙所では飛びかつてゐる。自分の感性で、靖國神社を、そして英靈を語るやうな人達が、一體どうしたら、靖國神社の正統護持など出來ようか。

 抑も戰爭を知らぬ世代が、好き勝手に自分の感性で英靈を弄び、あらうことか靖國神社を、政爭の具に陷れて來たのではないか。所謂保守系と呼ばれる人々は、英靈を大東亞聖戰の主役として語り、英靈が如何に可哀想であつたかと熱辯する。亦た明治御新新も、勤皇志士が主役で、彼等が自らの意志で行動し、皇國中興を成し遂げたかのやうに語る。保守系の論には、天皇が存在しない。偶々存在したとしても、「神聖」は皆無である。‥‥

 保守系の人々の事情はわからぬが、少なくとも右翼陣營には、朝鮮が嫌いだとか、支那が嫌いだからといふ輕薄な理由だけで、足を踏み入れた者は居ないと信じたい。然し乍ら現状は、朝鮮や支那、政治家への不滿が、右翼を動かす燃料といつた状態である。もう少し言へば、『産經新聞』や『正論』なる媒體、人物で言へば、櫻井何某・小林何某といつた者達のラジコンに過ぎなくなりつゝある。陣營に身を置く多くの人が、大義を忘却してしまつた爲であらう。天皇不在の尊皇、神なき祭が蔓延し、その結果、今日のスローガン重視の右翼が産まれたのだ。

 このまゝでは、平成中興の實現はおろか、保守系やネツト愛國者だけではなく、世間の嘲笑を浴び、誰からも相手にされなくなるだらう。日韓・日中國交斷絶、そして現行憲法「破棄」が、我等の目標ではない。これらのスローガンは、戰後に初めて唱へられたのであつて、日本及び日本人は、わづか七十餘年の歴史しか有さないものではないのである」と。



 小生も叫びたい、靖國神社から、參道正中に陣取つて憚らず、齋庭を私物化せんと欲する奴輩を摘み出せ、と。
 
 

銀杏殿へ、參らせ候ふ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年11月 4日(金)17時33分7秒
返信・引用 編集済
  銀杏殿、いと悲し。もう少し耐へ給へ。
歐米唯物思想、祓除せられて、
皇都の景觀、必ずや蘇らむ。
  ↓↓↓↓↓
https://www.change.org/p/100%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%A1%97%E8%B7%AF%E6%A8%B9%E3%82%92%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AE%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E4%B8%8B%E3%81%95%E3%81%84/u/18329792?tk=lvXcPLX01JE1MZQHPcpyfYlgiSwiih79DM-P-pxK3YQ&utm_source=petition_update&utm_medium=email

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/2499
 
 

からだ、だわるな。是れ我が指針なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月23日(日)19時54分3秒
返信・引用 編集済
   ●平泉澄博士『三徳の記』(昭和二十五年七月記。『日本』六十一年十二月號「市橋保次郎翁の盛徳──歳寒の記・三徳の記」所收)私抄

 修徳のうち、特に三つの點に就いて述べたいと思ふ。

一、禮儀
 そもゝゝ我が國が禮儀の正しい國として、外國より尊敬せられたのは、由來、久しい事である。唐の人、我が國の使節を見て、「人民豐樂、禮義敦行の君子國が海東にあるとは、かねて聞いてゐたが、今、あなたを見るに、まことに其の噂に背かない」と云つたとは、『續日本紀』にいふ所であり、殊に唐の玄宗が、我が遣唐副使に與へた國書に、「日本は、禮義の國、神靈の扶(たす)くる所」と記されたとは、『文苑英華』の傳ふる所である。近くは明治初年に福井に來た米人グリフイスの如きも、その名著『ミカドス・エムパイヤ(皇國)』に於いて、日本人の禮儀の正しく、禮讓の厚いのを、深く歎賞してゐる。しかるに戰後は、一國の人、殆んど狂せるが如く、社會の風潮は、俄かに激變した。即ち其の態度は、横柄にして驕慢、其の言語は、野卑にして不敬、互ひに輕んじ、互ひに疑ふに至つた。古語にも、「禮は人の幹なり。禮無くば、以て立つこと無し」とあるが、禮を無視する事は、自他の人格をふみにじる事である。自分の人格も棄てゝ顧みず、相手の人格もふみつけて構はないのであるから、人に融和なく、世に平安なきは、當然であつて、こゝに相尅の世、危亂の時が現れた。

一、勇氣
 禮儀から、忽然として勇氣へ移つては、人、或はその變化に驚くであらう。普通には、禮儀と勇氣とは縁の遠いもの、寧ろ反對のものとさへ考へられるからである。しかるに深く考へて見ると、禮儀は、實に勇氣より發するのである。何故かと云へば、自己の慾情を規制し得て、初めて禮をふみ行ふ事が出來るのであり、若し之を抑へ得なければ、放縱・專恣・怠惰・驕傲に流れ、即ち禮にそむくからである。『論語』に「克己復禮」とあるは、實に之をいふ。勇氣の中でも一番強い力を必要とするのは、己の慾情と戰ひ、之を抑へつける時である。山中の賊を討つは易く、心中の賊を平ぐるは難い。從つて心中の賊を討ち、己の慾情にうちかつ人は、之を大勇大剛の人といはなければならぬ。

一、正直
 禮の本が勇にある事は、既に述べたところであるが、勇の源は、正直であらう。若し不正直であれば、眞の勇氣の湧いてくる筈がなく、一切の徳の生ずべき由がない。正直は、蓋し神を信じ、神を恐るゝより發する。之を「せいちよく」とよまずして、「しやうぢき」とよむ點から考へれば、この言葉は、佛教より出たものであつて、『法華經』の方便品に、「正直捨方便、但説無上道」とあるもの、恐らくその出典であらう。かやうに言葉としては佛典より出たものであらうが、教としては、專ら神道に於いて重視せられて來た。即ち有名な『三社の託宣』のうち、天照大神の神教として、「正直は、一旦の依怙(えこ)にあらずと雖も、終ひには日月の憐を蒙る」とある。一旦の依怙云々といふのは、正直者は、一時的には不利であるやうに見えても、終局に於いて神助を期待し得るといふ意味である。これが神道、殊に伊勢神宮の神教として尊ばれて來たのであつて、さればこそ、謠曲の『御裳濯(みもすそ)』にも、「夫れ人は、天下の神物たり。かるが故に正直をもつてさき(先)とす。日月はししうを照すといへども、分きて只だ正直のかうべにやどり給ふ」と歌はれてゐるのである[「ししう」は四衆であつて、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四つを指し、即ちすべての人の意味であらう]。

 初めは之を別々のものとして、横に竝べて見てゐたが、そのうちに内部的相關から、縱に配列すべきもの、即ち相互の間に本末始終の關係があると考へ、以上のやうに順序を立てたのである。さてかやうに順序を立てゝくると、それは期せずして橘曙覽先生の『遺訓三箇條』に合致し、たゞ其の順序が、丁度裏返しになつてゐるのに氣がついた。遺訓にいふ、

うそ いふな
もの ほしがるな
からだ だわるな


「うそいふな」は、即ち正直である。「ものほしがるな」は、克己心であり、即ち慾情を制する勇氣である。「からだだわるな」のだわるは方言であるが、語脈は遠く『古事記』の「山の多和」、源順の『家集』の「ねし黒髮のねくたれのたわ」、『後撰集』の「垣根もたわに咲ける卯の花」などの「たわ」と通じ、撓むの「たわ」と同じく、緊張の反對、即ち弛緩・屈曲・倦怠・怠慢・疲勞・無作法を意味し、從つて「からだだわるな」は、懈怠を戒め、勤勉を説いたものであるが、同時に無作法を戒め、禮儀を正しくするやうに諭したものと解して差支へないであらう。見來れば先哲後賢の揆を一にする、驚くべきである。



【忠孝と義勇との關係──平泉澄博士による谷秦山先生『炳丹録序』講義──『萬物流轉』險難の一路に所收】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/4



 愚生の病弱なる、年來、書を讀めば頭痛の劇しき、業に動けば疲勞の重き、如何ともし難き身なれども、さして病名のつく程では無く、所謂る未病のうちに手当經過するが故に、愚生の宿病は、蓋し懈怠にして勤勉ならず、無作法に在るのであらう。橘曙覽先生の、隱逸にしてなほ「身體、弛緩倦怠する勿れ」の嚴烈なる遺訓、謹みて拜戴するものであります。
 
 

「生前退位」は「歴史の書物にない表現」

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年10月22日(土)11時16分25秒
返信・引用
  依然として捏造用語を使用する反日マスメディア。
時事通信あたりはようやく『譲位』という言葉を、
出し始めているがほかのマスコミは訂正する気配はない。

原因はやはりNHKだった!
国会でこれを追及する議員はおらんのかね?
保守派は正式に抗議の声を上げるのが筋ではないか??

「生前退位」は「歴史の書物にない表現」
皇后さま、違和感表明 NHKの反応は…

楊井人文  | 日本報道検証機構代表・弁護士
2016年10月22日 7時8分配信

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20161022-00063507/

皇后さまは10月20日、お誕生日の談話を宮内庁を通じて発表した。その中で、7月中旬に
「天皇陛下が生前退位の意向を示された」と一斉に報道されたことについて、「新聞の一面に『生前退位』と
いう大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接し
たことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感が
あったことを明らかにした。天皇陛下が意向を関係者に示されたときに実際に使った言葉は「譲位」
だったことが明らかになっている。しかし、
現在も各メディアは天皇陛下の意向を「生前退位」という表現で報道しており、見直しの動きは出ていない。

NHKは7月13日午後7時のニュースで、「独自 天皇陛下『生前退位』の意向示される」と字幕をつけて第一報を流した。この後、主要各紙や放送各局も一斉に後追い報道したが、全てのメディアが「生前退位」という表現を使っていた。

ただ、「生前退位」という表現には、当初から疑問の声が一部の識者などから出ていた。宮内庁関係者が「天皇陛下は生前退位という言葉を使われたことはない」と指摘していたとされる。6年前に天皇陛下からご意向を聞いていたという東京大学名誉教授の三谷太一郎氏が「天皇陛下は『譲位』という言葉を使われた」も証言している。

日本報道検証機構は、皇后さまの談話を受け、受け止めや「生前退位」という表現が適切だったかどうかについて、NHKをはじめ主要新聞各社に質問した。NHK広報部からは「国会の答弁等でも『生前退位』『退位』という言葉が使われており、視聴者に意味が伝わりやすいよう、この表現を使っています。ニュースの文脈に応じて、『譲位』という言葉も含め、適宜使い分けています」との回答があった。今後も使い続ける方針かどうかも質問したが、明言しなかった(新聞各社の回答が出そろい次第、追記予定)。


<視点>「生前退位」は「真意」を反映した表現だったか ~スクープ記者の寄稿を読み解く~

7月中旬以降、この国のメディア空間には「生前退位」という四字熟語が連日のように駆け巡ってきた。当初からこの表現に違和感をもった人もいと思う。…そもそも「退位」という言葉自体に「生前」の意味は含まれているから、「生前退位」は屋上屋を重ねた不自然な表現である。「生前」は「死」を、「退位」は「断絶」を想起させ、不吉な予感を与える。…

しかし、メディアで当たり前のように繰り返し使われ、違和感が薄れつつあったかもしれない。そんな状況のもとで、皇后さまの談話は一石を投じられた。少なくないメディアも、「生前退位」という言葉を新聞1面で見た時の「衝撃」「驚きと痛み」に注目して報道した。

談話の英文をみると、その思いはより直接的に表されていた。


It came as a shock to me, however, to see the words seizen taii (in Japanese, literally, abdicate while living) printed in such big letters on the front pages of the papers. It could have been because until then I had never come across this expression even in history books that, along with surprise, I briefly experienced pain upon seeing those words.


出典:宮内庁

この皇后さまの率直な心情吐露に、報道関係者も「痛み」を感じなかっただろうか。

もちろん、皇后さまはそれに続けて「私の感じ過ぎであったかもしれません」(Perhaps I might have been a bit too sensitive.)と付け加えておられる。ご自分の言葉が報道の自由への干渉にならないようにと、慎重に配慮されたと思われる。しかしそれでもあえて、強い表現で違和感を表明された事実は、重い。その事実からは、皇后さまだけでなく、天皇陛下の思いもそれに近いものであったのかもしれないとの想像が働く。もし「生前退位」という表現が真に「ご意向」を反映したものであれば、皇后さまがこんなことを記されるはずがないからである。
 

「支那」は、差別語に非ずして、贊美の稱なり。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月21日(金)17時48分42秒
返信・引用 編集済
  ●『神皇正統記』孝靈天皇御條に曰く、

「凡そ此の國(皇國)をば、『君子不死の國』とも云ふなり。孔子、世の亂れたる事を歎きて、『九夷に居らん』との給ひける。日本は、九夷の其の一つなるべし。異國には、此の國をば東夷とす。此の國よりは、又た彼の國をも、西蕃と云へるが如し。四海と云ふは、東夷・南蠻・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば蟲を從へ、西は羊をのみ飼ふなれば羊を從へ、北は犬の種なれば犬を從へたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大、弓を從ふと云へり」と。



 「異國(支那・諸越・漢土)には、此の國(大日本)をば東夷とす。此の國よりは、又た彼の國をも、西蕃(『新撰姓氏録』)と云へるが如し」とは、名言ならずや。男兒なら、一遍、言つてみろ。

 支那の呼稱の正当なる所以、皇國人が支那を「中國」と云はねばならぬとする不當なる所以、其の基礎を深めなければならぬ。支那と云ふ言葉は、何時から用ゐられてゐるのか、皇國の人が何故ゑ支那の要求に、唯々諾々として從ふのか、誰が喧傳したのか等、研究すべきことは少なからず。

 それを踏まへた上で、人によつては「中國」と云はねばならぬと考へる人も、或はあらう。先づは正攻本法で行くべし。權道は、策畧家・工作員の仕事。其の權道も、基礎がなければ、途中で腰が碎けよう。小生が元號に拘り、西暦を駆逐せよと叫ぶのは、西暦の使用を當り前と考へ、疑問すら有たぬ人が、餘りにも多い爲めに他ならぬ。西暦を使はなければならぬ時も、或はあるかも知れぬが、それは飽くまで權法であつて、決して皇國人の正しい道とは考へない。正名は、皇國中興の關鍵である。

**********

 「支那」と云ふ言葉は、千五百年以上も前の印度で、現在の支那の邊りを「シナ」、或は「シナスタン」と呼んでゐたのが起源。「スタン」は、土地・地域の謂ひ。今日でもアジア中部には、パキスタン・アフガニスタン・トルキスタン・カザフスタン等、スタンの付く所が多くあるが、これらのスタンも、皆な地域の意である。支那の佛教飜譯僧は「支那・至那・脂那」等とし、シナスタンは「震旦・眞丹・振丹・神丹」等と表記した。

 我が國に「支那」の語が入つて來たのは、蓋し平安時代以前に溯る(『榮花物語』・『今昔物語』等)。それに比べて、「中華」・「中國」は、「支那」とは比べ物にならない程、差別的な語源を持つ言葉、侵掠主義・覇權主義の象徴(中華思想)である。支那に關する學問を、京都帝國大学教授内藤湖南博士以來、「支那學」と云つた。若し「中國」と云ふ者があれば、戰後、世間に媚び諂つて文を賣らむが爲か、祖國が支那と思つてゐる反日革命家か、無自覺者であらう。健全な日本人が從ふ必要は、毫も無い。

●出典
「支那」=虎關師錬『元亨釋書』・『濟北集』。北畠親房公『東家祕傳』等。
「震旦」=『榮花物語』・『今昔物語』。北畠親房公『神皇正統記』等。
「神丹」=承陽大師『正法眼藏』等。

●『元亨釋書・王臣傳・論』に曰く、「彼の支那は、葱嶺の東、數十の邦、咸(み)な法度を取り、推して中國と稱し、又た文物國と言ふ」と。

●『飜譯名義集』に曰く、「衣冠文物の地なるが故に、讚美して支那と言ふ」と。

●新井白石『西洋紀聞』に曰く、「按ずるに、其の人(邪蘇教宣教師の伊人シドツチ)の言に、チイナと云ふは、即ち支那なり」と。

**********

 「中國」とは、支那人が自稱するのは構はない。現在の革命王朝名は、大陸「中華人民共和國」ないし臺灣「中華民國」である筈で、「中國」とは、支那人の略式自稱に限定される。それでもなほ支那人が、或は之に同調するマスコミが、日本人に對して、「『支那』は差別語だ。『中國』と呼べ」と云ふなら、我が日本も、その呼稱に相當する言語で呼んでもらひたい。「よし、解つた。貴國を『中國』と呼んでつかはさう。但し我が日本を『神國』と呼び給へ」と。

 亦た「中國人」を原語の發音主義で呼べば、チヨンコオレンだらうが、何時の間にか、チヤンコロになつてしまふでは無いか。これこそ、問題であらう。かく申すマスコミ、天氣豫報に、毎日、「南シナ海」と曰つてゐるが、支那に對して、どう言ひ訣してゐるのか。英米が支那を「チヤイナ」、佛西が「シーノ」等、即ち「シナ」の方言を使つてゐるから吉いのか、世界の公的機關が認めれば吉いのか。「ユーラシア大陸」は、欧州・支那大陸の略稱であらうが、これは問題ないのか。こゝら邊りの差別語論者のいゝ加減さ、小生は、頭が惡いので判らない。何、「支那の政府が嫌がるからだ」と。然らば日本海は、韓國人の仰せの通り、「朝鮮海」と改稱するか。其の變はり、我が國は太平洋を、幕末の地圖の如く「大日本海」と改稱しようではないか。

     吉備の中國の土人・備中處士、謹白



●寒林平泉澄博士『東家祕傳の識見』に曰く、

「凡そ我が國に關する限り、支那といふ稱呼そのものが、輕蔑の意味をもつてゐた事は、曾て無かつたのであります。支那といふ稱呼が、惡意に滿ちてゐるといふ事は、我々日本人の夢想もしなかつたところであります。かやうな解釋は、それこそ惡意に滿ちた宣傳であつて、かゝる惡意の宣傳が、東洋の平和を亂した事は、かへすがへすも殘念なりとしなければならないのであります」と。
 
 

靖國神社HP劈頭から、聖旨が消えた。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月14日(金)22時19分16秒
返信・引用 編集済
  ■慶應四年三月二十日、紫宸殿に於ける軍神祭(天照大御神・大國主大神・武甕槌之男神・經津主神の四柱を神籬に招請されての祭祀)の祭文。

隨從ふ大丈夫武雄は、恆に利心振り起して、山行かば草生す屍、海行かば水附す屍、君の御爲め、國の御爲めに、顧み无く、天津雄々敷き言立ての隨に、今も仕へしめ給ひて、天之波志弓引末賀那ひ、天の眞鹿兒矢千尋射渡し、悉に伐ち罸め、言向しめ給ひて、大八島國中、悉、石根木根立草の片葉も言止の安國と平けく、八絃の琴の調べとゝのふ言の如く、鎭撫めしめ治めしめ給へ



●泉水隆一翁『靖國神社の眞實』(平成二十三年十二月・洛風書房刊)に曰く、

「今、日本中が、『靖國神社は、日本軍や日本を守るために、戰場で死んだ軍人・軍屬を祀つてゐる』と考へられてゐます。そこに大きな問題があるのです。靖國神社は、日本軍を祀つてゐるのでは無く、『皇軍兵士の武勳を祀つてゐる神社』なのです。つまり『天皇の軍隊の神社』なのです。ですから、坂本龍馬や吉田松陰が祀られてゐるのも、日本軍ではなく、勤皇のために非業の最期を遂げられたので祀られたのです。皇軍兵士・勤皇兵士以外は祀ることが出來ないのです。自衞隊員を將來は祀らうと云ふ話もありますが、それは、『靖國神社が、日本のために戰死した人を祀る神社』と云ふ、誤つた考へがあるから、そのやうな發想になります。もう、お分かりですね。自衞隊は、天皇の軍隊でも、皇軍でもありませんから、自衞隊員を祀ることは出來ないのです。この一點を、よくお考へ下さい。空襲で死んだ平民は、殘念ながら皇軍兵士でないので、お祭り出來ません。

 もう一つ、皇軍兵士が戰場で死んだから、お祀りしてゐるのではありません。額に矢じりは受けても、後ろには受けない草莽の兵士の勇武・武勳をお祀りするために、神社があるのです。單に死んだからではありません。『皇軍兵士として譽れ高く戰場に伏した潔さを、天皇が愛でて、神として顯彰する』のです。この解釋が、今の靖國神社では發言できません。左翼の一齊攻撃を受け、神社を猛火に包ませるから言へません。たゞ日本は、今次大戰で敗れました。皇軍兵士の武勳を大聲で稱へることが出來ないので、『慰靈祭』と云ふ呼稱が生まれました。戰前は負け知らずの皇軍ですから、當然、慰靈祭と云ふのはありません。但し『靈祭』と云ふのはありました。この慰靈祭と云ふ呼稱も、昭和二十四年頃では、『神となられた方々に、慰靈祭とは何事か!』と、苦言を呈じる舊軍人の方々がをられました。今は盛んになつた『みたま祭』も、最初の頃は、反撥する軍人が多くゐたのです」と。



 遂に政治家が動く。靖國神社執行部は、如何。久しぶりに靖國神社のホームページを開いたが、何と、彼の劈頭の、明治天皇の聖旨・御製が消えてゐるではないか。これは、何としたことか。誰だ。かつて宮司湯澤貞は、菊の御紋章を、參集所(参集殿)から剥ぎ取つた。今度は、宮司徳川康久の所業か。是れが答か、許せぬ。

 靖國神社崇敬者は、如何。是れが許せるのか。小生は、許すこと能はぬ矣。



**********


●NHKニユース「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら(平成二十八年十月十二日)

 龜井靜香衆議院議員や石原元東京都知事らは、十二日、靖國神社を訪れ、『西郷隆盛や白虎隊など、明治維新前後の戰ひで敗れた人たちも、近代日本のために志を持つて行動したことは認めるべきだとして、神社に合祀するやう』申し入れました。

 申し入れを行ったのは、龜井衆議院議員と石原元東京都知事のほか、自民黨の平澤元内閣府副大臣と民進黨の原口元總務大臣の四人です。四人は、『戊辰戰爭で敗れた白虎隊や新選組、それに、西南戰爭で敗れた西郷隆盛などは「賊軍」とされて、靖國神社に祭られてゐないが、近代日本のために志を持つて行動したことは、勝者・敗者に關係なく認めるべきだ』として、神社に合祀するやう申し入れました。

 このあと、龜井氏は記者團に對し、『神社側は、「直ちに承知するとは言へない」といふことだつたが、いろゝゝ皆さんと相談されると思ふ。靖國神社は、日本人の心のふるさとのやうな所だ。この問題には、右も左もなく、國民の中にも理解が廣がつていつてるので、われゝゝは、さういふ聲を、靖國神社に屆けたい』と述べました。


**********
 
 

靖國神社外苑の銀杏竝木を伐る者は、誰ぞ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月11日(火)23時36分56秒
返信・引用 編集済
   或人の曰く、「千代田區で見られる街路樹の銀杏竝木は、大正十二年の大震災後の復興、都市再生計劃で植樹されたもの。その竝木の出發點は、大正七年、既に植栽が始まつてゐる靖國神社外苑の銀杏竝木です。更に言へば、當時、青山に明治神宮外苑が整備され、聖徳記念繪畫館前に、銀杏竝木が作られたことに倣つてゐます。つまり今、東京都の木になつてゐる銀杏の竝木は、明治維新によつて成立する首都東京の基盤風景だと云ふことです。それを何の議論もなく、伐採するとは‥‥。

 帝都復興がなり、中でも最大の工事と云はれて改修された九段坂の兩側には、靖國神社外苑の銀杏竝木に連續して、若い銀杏が十メートル間隔で植ゑられました。それが、九段下から神田一ツ橋・永田町の國會議事堂周邊に及んでゐます。今、東京都の紋章になつてゐる銀杏は、靖國神社の英靈も然り、帝都の地に伏して歸らざる、數多のみたまが蘇生した木です。たゞの風景では無い。夕べ、日比谷圖書館からの歸り道、既に伐採準備で下枝を皆な打ち落とされて、電信柱のやうになつてしまつてゐる所に通りがかり、こみあげてくるものがありました。どこにでも見かける銀杏ですが、銀杏は、自生地が未だ確認されてゐない絶滅危惧植物です。好きに植ゑて、好きに伐つてよい木ではありません」と。



 亦た或人の曰く、「靖國神社に植ゑてある銀杏・山桃・珊瑚樹・ユズリハ等は、いづれも火災・火炎に強い樹木です。色々考へて植樹されてゐます」と。



 都廳・千代田區役所・經濟界は、富を弄び、傳統・佇まひを思ふ心、絶えて無し矣。嗚呼、悲しいかな夫。乞ひまつる、有志、起つて、明治神宮・靖國神社有縁の銀杏竝木を守護すべし、と爾か云ふ。



【千代田の街路樹を守る會】
  ↓↓↓↓↓
http://chiyodatrees.wixsite.com/trees

【百年の街路樹を、五輪開發から守つて下さい! 贊同の御署名を乞ひまつる】
  ↓↓↓↓↓
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靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する、天皇の神社なり。政治家、必ずしも來るを要せず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 7日(金)23時21分12秒
返信・引用
  ~承前~

 下山陽太氏は、靖國神社正統護持につき、めでたき御文を書かれてゐる。靖國神社は「天皇の神社」、敕許なくば、何も出來ないことを、一言以て喝破せられた。曰く、

「靖國神社は、明治天皇の宣らせ給ふた『安國』の聖旨を以て、創建された天皇尊の神社である。幕軍を合祀したければ、新たに宗敎法人を作り祀れば良いだけの事であつて、天皇尊の神社たる靖國神社に祀る必要は無い。亦、幕軍合祀の話が出ると云ふ事は、帝都不祥事件(俗に云ふ二・二六事件)の賊徒も祀るべきだと云ひ出す人士も、將來的に現れる可能性が非常に髙い。だからこそ、云ひたいのは、靖國神社には、個人の情念は必要無い」と。



 泉水隆一翁の曰く、

靖國神社は、軍人が軍人を祀り、軍人が奉慰顯彰する神社です。遺家族や國民にも參拜させるのは、天皇陛下の思食しによるものにすぎない」と。


 松平永芳宮司の曰く、

http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/8
「靖國神社に參拜する時は、『今日の日本の平和と繁榮に對して、御靈方のおかげでありがたうございます』といふ感謝の祈りと同時に、『平和であるけれども、萬が一の時には、皆さんと同じやうに國に一命を捧げますといふ誓ひをするべきだ』と、私は思つてゐます。宮司時代の祝詞も、神社外で行ふ祭典で奏する祭文も、すべてそのやうな氣持ちで奏しました。一例をあげますと、毎年、私が祭主となつてやつてゐる、橋本景岳先生の墓前祭(愚案、景岳會主催の景岳祭)での祭文は、かうです。『謹みて景岳橋本左内先生の靈に告げ奉る』で始まり、日本の情勢はかうだと述べて、『以て祖國の精神復興‥‥に寄與挺身せむことを誓ひ奉る』とし、最後は『冀はくは先生、我等が志を壯なりとし、嚴烈なる批判を下し、以て道義を重んずる傳統國家復活への活動を守護したまはらむことを』と、結ぶやうにしてゐます。單なる苦しい時の神頼みではいけない。結びは自分の誓ひを述べ、それを『見守り守護したまはんことを』と、終るべきなんです。だから靖國御社頭での祈りとは、誓ひだ。御靈と同じやうに、『いざといふ時は、國に命を投げ出します』といふ誓ひのない祈りでは、御祭神の御滿足は得られないと、私は思つてゐます。

 ところが、御遺族を票田にしてゐる政治家諸氏の參拜は、必ずしも純粹であるとは思へないのです。私が宮司に就任したときの總理は福田さんで、それから中曾根さんまでの總理は、春秋の例大祭に必ず來られてゐたんですが、總理を辭めたら來られない。一度總理をした方で、その後、參拜に來た方は、殆んどをられません。そこがをかしい。總理を辭めても、國會議員ではあるんだから、『みんなで靖國神社に參拜する國會議員の會』の先頭に立つて來られゝばいいんですが、『俺はもう元老で、雜魚どもとは一緒には行かない』とばかりに、來なくなる。だから參拜は、心からのものではなく、自分の點數稼ぎのため、御遺族を票田にしてゐるだけなんだと言はれても致し方ないでせう。

 もつと無禮なのは、代議士方の大半が參集所まで來て、參拜しないことです。どこゞゝの遺族會は何時に昇殿參拜をすると、前からの申込みで分かつてゐますから、その豫定を聞きたゞし、地元の代議士がやつて來るんです。北門を通つて遊就舘の前に車を置いて、參集所に集まつてゐる御遺族の前で一席ぶつて、さあ參拜となると、忙しいからと、そのまゝ歸つてしまふ。御遺族の先頭に立つて昇殿參拜をするのが原則だけれども、ご多忙の先生方だから、これはまあ許せますが、せめて參集所を出た時に、五十メートルほど歩いて、御社頭でおじぎぐらゐしてから、車に乘つて歸つて頂きたいのですが、そんなことをされる先生なんて、殆んどゐない。御遺族を利用しようといふ方々ばかりなんです。親分が來ない時には祕書が來て、代理で挨拶して歸つてしまふ。戰前派だつて、そんな程度なんです。傳統國家護持のため、一命を捧げられた御祭神の御心を蹂躙して憚らない。そんな指導者・政治家たちを、十四年間見て來ました。悲しいことでありました。

 さういふ政界の實態を見てきましたから、私の在任中は、天皇陛下の御親拜は、強ひてお願ひしないと決めてゐました。天皇さまに、公私はない。『天皇陛下に、私的御參拜も公的御參拜もない。陛下は思召しで御參拜になられたんだ』と言へば、それで濟むんですが、總理も宮内廰長官も侍從長も、毅然とした態度で、『天皇陛下に、公私はないんだ』といふ、それだけのことをキツパリと言ひ切るとは思へない。そこでモタヽヽして變なことを言はれたら、かへつて後々の害となる。變な例を作つてしまふと、先例重視の官僚によつて、御親拜ができなくなつてしまふ恐れがある。それで私が宮司の間は、絶對にお願ひしないことにしてきました」と。
 
 

昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の英斷

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 6日(木)18時29分57秒
返信・引用 編集済
  ~承前~

 今の度びの賊軍合祀に關して、「宮司の判斷」につき、其の論據として、昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の名を擧げてゐるやうなので、舊稿と重複するが、確認の意味で、今、こゝに自由民主黨の、卑劣なる責任轉嫁、救ひ難き不見識を暴いておきたい。時には、松平宮司の「祕密裡の獨斷」のやうに、貶める理由に使はれるからである。現代の政治家、眞に姑息なりと謂ひつ可し矣。

 松平永芳宮司は、靖國神社中興の祖と仰がれる大人にして、寒林平泉澄先生の内弟子である。次は、松平宮司、義憤の肉聲。宮司徳川康久は、松平宮司の爪の垢でも呑むがよい。靖國神社宮司職を拜命した以上、松平・大野兩宮司の如く、靖國神社の事歴を、徹底的に調査研究してから物申す可く、不見識なる政治家・評論家の言動に惑はされてはならぬ。



前稿【注】昭和殉難者合祀に於ける松平永芳宮司の英斷──陸軍省合祀基準に則つて、軍務嚴修。有志に乞ひ奉る所は、松平精神、即ち靖國神社正統護持の雄叫びを恢弘せられむことを。
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http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/4
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/6
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t3/7

靖國神社が、政治問題の渦中に卷き込まれることを避けること、このことは宮司の私が、常に心を碎いてきてゐるところである。二百四十六萬柱の神々を背に負ふ身としては、これは當然の心得であつて、マスコミに對してコメントしない理由は、『ジャーナリストは、言つた通りを傳へない』といふ不信の念が根柢にあるのは勿論だが、それ以上に、私の發言が元になつて神社が騒々しくなつては、祭神に對して申譯が立たないといふ氣持がはたらくためである。

 したがつて昨年の大晦日に朝日新聞が、『A級戰犯合祀の意向、靖國神社宮司が示唆』の見出のもとに、あたかも私がインタビユーに應へたかのやうな記事を掲載したが、根も葉も無いつくりごとで、そのやうな事實は全く無い。年が改まつて正月六日の讀賣新聞朝刊は、『A級戰犯合祀取りやめ、自民、靖國に要請、神社側は拒否』といふ記事で一面を飾つたが、これも事實ではなく、靖國神社が、自民黨とかゝる取引をしたことや相談に應じたことなど、一切無い。たゞし自主憲法期成同盟の清原事務局長が、自民黨の金丸幹事長の使者に立ち、『A級戰犯を、祭神から外すことはできないか』と、權宮司の許に言つてきたことが一度あつた。勿論、『そんなことはできない』と答へた。神道の本來の考へ方からいへば、一度靖國神社に祀られた上は、御靈はそこに留りますのであり、たとへお移し申し上げても、それは分靈に過ぎないからである。この讀賣の記事は、卒讀すると、神社と自民黨に裏交渉があるやうな印象をあたへるが、事實無根といふほかはない。『火の無いところに、煙は立たない』と俗にいふが、こと靖國神社に關する限り、火の無いところに煙の立つてゐるといふのが、現在の情況である。このやうにいはゆる『A級戰犯』の合祀についての論議はやかましいことだが、これは自民黨のトツプ筋が、無分別なことを口にするために、世間一般が混亂してゐるに過ぎず、靖國神社は正式な手續にのつとつて、『A級戰犯』の合祀を行つたまでのことである。

 講和條約發效後の昭和二十八年五月十八日から八月十日に亙る期間、第十六國會が開かれたが、この國會において、『東京裁判受刑者等に關する特別措置』が審議された。これはいはゆる『戰犯』(役所の呼稱では『法務死亡者』)も、戰沒者と全く同樣の取扱をするといふ議案の審議で、七月二十三日の衆議院厚生委員會で決議され、この決議に基いて、恩給受給資格を持ついはゆる『戰犯』に對しては恩給法により、それ以外の『戰犯』に對しては遺族等援護法によつて、それぞれの遺族に對し、戰沒者遺族に對する場合と變らない待遇がはかられるやうになつた。この體制によつて、厚生省は戰後を開始したのだ、と言つてよいだらう。『法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法および恩給法の適用について』といふ、昭和二十八年九月十五日付の京都府民生部から送られてきた通知が、資料として私の手許にある。その内容は要するに、昭和二十八年四月一日の時點に遡つて、『戰犯』の遺族にも恩給あるいは年金が下給できるはこびとなつたから、『厚生大臣宛に、遺族年金請求書をお出しなさい』といふ内容の通知で、同樣な公文は、各地方自治體から管内に居住する『戰犯』遺族の許に、それゞゝ屆けられたに相違ない。この立法措置により、いはゆる『戰犯』は、戰沒者と同等の資格をもつに至つた。この立法と行政の措置に沿つて、靖國神社は對處してゐるに過ぎない。

 それにも拘らず、若年議員ならいざ知らず、自民黨のトツプ・レベルのお歴々が、靖國神社の獨斷的行爲であるかのやうな口吻を洩らすに至つては、言語道斷、一體、何を仰言つてゐるのか、もう少し勉強願ひたいと言ひたいところである。靖國神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時點を以て、『戰犯』として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである。その際、『戰犯』に冠せられたA級・B級・C級といふ形容は、總て聯合國側が向ふで勝手にランキングしたものに過ぎず、當方には、何等かゝはりのない事柄に屬する。

 靖國神社は、然るべき法的根據によつて、『昭和殉難者』を合祀申上げた。こゝに昭和殉難者と呼稱するのは、新聞ジヤーナリズムが『A級戰犯』と呼び、公文書では『法務死』と呼ばれる、東京裁判で亡くなられた方々のことである。戰犯などといふ心ない言葉を、神社は、到底許容することができないし、法務死といふ言葉も、官廳間の用語としてはそれでよいだらうが、當方で使ふにはどうも落着きが惡い。そこで色々思案した擧句、明治維新の際、國に殉ぜられた方々を幕末殉難者・維新殉難者と呼稱してゐる當社記録に徴し、昭和殉難者とお呼びする旨、昭和五十三年十一月二十三日の『宮司通達』で、社内に徹底させた。

 この昭和殉難者十四柱の御靈を含めて、計百七十六柱を合祀申上げたのは、昭和五十三年、秋の例大祭の時であつた。昭和二十八年四月から、然るべくお祀り申上ぐべき方々を、この時點まで放置してゐた理由は、當初は「東條さんの名前は、國民感情に、相當刺戟が強いだらう」といふ、靖國神社と厚生省の配慮に基いたもので、それで合祀が暫く見送られてゐた。私が宮司に就任したのは、昭和五十三年七月のことだが、その八年ほど前の昭和四十五年六月三十日に、靖國神社の總代會で、ある方が、『東條さん以下の方々の御靈を、いつまで放つておくんだ』と發言し、それに對して、當時は靖國神社國家護持運動の盛んな時であつて、時期が適當ではないから、然るべき時期を見計らつて合祀する旨、前任の筑波宮司が、總代會に囘答をしてゐる。

 はからずも宮司を拜命することになつて、私は過去の神社記録、總てに目を通した。この議事録を見るに及んで、宮司預けになつてゐる事柄だし、國家護持法案も流れて、機を見る必要は何も無いから、就任早々三ケ月、秋の例大祭で昭和殉難者の合祀を、總代會の了承を得て斷行した。就任早々で、いさゝか荷が重かつたが、その時の氣持は、今やつてしまはないと、二・三年經つて合祀申上げたときに、『お前は就任以來、その間を、どういふつもりで運營してゐたんだ』と問はれたときに、答に窮するであらうと思つたからにほかならない。新聞は、半年後の春の例大祭にこのことを知り、クリスチヤンの大平首相の參拜と絡めて、『A級戰犯を、ひそかに祀つてゐた』と報じたが、戰前であれば、『官報』によつて合祀の神々を報じたわけだが、戰後にはさういふ手段は無い。合祀後、遺族に通知を差上げることで、御了承いたゞいてゐるのが現状であり、『ひそかに、どうかう』といふ性質のものではない」と。



「いはゆるA級戰犯合祀のことですが、私は就任前から、『すべて日本が惡い』といふ東京裁判史觀を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考へてをりました。それで、就任早々書類や總代會議事録を調べますと、その數年前に、總代さんのはうから、『最終的にA級はどうするんだ』といふ質間があつて、合祀は既定のこと、たゞその時期が、宮司預りとなつてゐたんですね。私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいたゞいたのですが、今でも慣習によつて、上奏簿を御所へもつていく。さういふ書類をつくる關係があるので、九月の少し前でしたが、『まだ間にあふか』と、係に間いたところ、『大丈夫だ』といふ。それならと、千數百柱をお祀りした中に、思ひきつて、十四柱をお入れしたわけです。巣鴨で絞首刑になられた東條英機(元首相・陸軍大將)・板垣征四郎・土肥原賢二・松井石根・木村兵太郎(以上、陸軍大將)・武藤章(陸軍中將)・廣田弘穀(元首相)の七柱。それに囚はれの身や、未決のまゝで亡くなられた梅津美治郎(陸軍大將)・小磯國昭(元首相・陸軍大將)・永野修身(元帥海軍大將)・平沼騏一郎(元首相)・松岡洋右(元外相)・東郷茂徳(元外相)・白鳥敏夫(元駐イタリア大使)と、あはせて十四柱。

 その根據は明白です。昭和二十年八月十五日に、天皇樣のご命令によつて、われゝゝは一切の交戰行爲をやめた。しかし『むかうが撃ち込んできたときは、應對せよ』といふ、但し書がついていたんです。ソ聯が十五日以降に千島列島に上陸したので、應戰したのはその例で、相當な戰死者が出てゐます。九月二日に、ミズーリ號での調印があり、占領行政が始まる。そして二十六年の九月八日に、サンフランシスコで平和條約の調印がある。その發效は、翌二十七年の四月二十八日、天長節の前日です。ですから、日本とアメリカその他が、完全に戰鬪状態をやめたのは、國際法上、二十七年の四月二十八日だといつていゝ。その戰鬪状態にあるとき行つた東京裁判は軍事裁判であり、そこで處刑された人々は、戰鬪状態のさ中に敵に殺された。つまり『戰場で亡くなつた方と、處刑された方は同じなんだ』と、さういふ考へです。

 そして翌二十八年の十六國會では、超黨派で援護法が一部改正されました。それで、『いはゆる戰犯死亡者も、一般の戰沒者と全く同じ取り扱ひをするから、すぐ手續きをしなさい』といふ通知を、厚生省が出してゐるんですね。それまでの、いはゆる戰犯の遺族は、まつたく惨めな思ひをしてゐたんです。あまり知られてゐませんが、財産も凍結されてゐて、家を賈つて糧を得ることさへもできなかつた。それを、終戰直後の國會には、婦人議員が多かつた關係もあり、彼女たちが先頭にたち、超黨派で改正されたわけです。

 國際法的にも認められない東京裁判で戰犯とされ、處刑された方々を、國内法によつて戰死者と同じ扱ひをすると、政府が公文書で通達してゐるんですから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、『靖國神社は、僭越にも、御祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか』となつてしまひます。

 役所用語でいふと、戰犯で處刑された方は「法務死亡者」といふのですが、從來からの「維新殉難者」・「幕末殉難者」と使つてゐるのにあはせて、『昭和殉難者』とお呼びしようといふ『宮司通達』を出しました。

 十四柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると豫想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後、全く言はないと、これまた文句を言ふ人が出てくる。そこで合祀祭の翌日、秋季例大祭の當日祭と、その次の日においでになつたご遺族さん方に報告したわけです。『昨晩、新しい御靈を千七百六十六柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に』――ここを、前の晩、ずいぶん考へたんです。『東條英機命以下‥‥』といふと、刺激が強すぎる。戰犯遺族で結成してゐる『白菊會』といふ集りがありますので――『祀るべくして、今日まで合祀申し上げなかつた、白菊會に關係おありになる十四柱の御靈も、その中に含まれてをります』。さういふご挨拶をしたんです。すると、白菊會の會長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待つていらして、『今日は寢耳に水で、私が生きてゐるうちに合祀されるとは思はなかつた』と、非常に喜ばれた。

 それから半月後に、十四柱のご遺族すべてに、昇殿・參拜いただきたいといふ通知を出し、お揃いでご參拜いただいたと、かういふ經過でございます。そのころは、新間は知らなかつたのか、一切騒ぎませんでした。半年後の春季例大祭の直前に、大平クリスチヤン首相の參拜と抱き合はせで、いはゆるA級合祀をマスコミが大々的に取り上げ、大騒ぎいたしました」と。



「心すべきば權力への迎合。それでも、その翌年も、中曾根(康弘)さんは公式參拜したいと思つたけれど、取り止めたんだといふ。さうしたら、中曾根さんに近い讀賣新間から出てゐる『THIS IS』誌に、『靖國神社宮司に警告す』といふ一文がのつた。それも卷頭言としてです。光榮の至りといふべきでせう(笑)。讀んでみます。

『靖國神社當局は、政府も知らぬあいだに勝手に合祀し、國の内外の反發を呼んだ』――先ほど申しましたやうに、勝手にではなく、國會で決めた援護法の改正にしたがつて合祀をした。しかもそのとき、中曾根さんは、ちやんと議員になつてゐるんです。續いて『外交的配慮と靖國の合法的參拜の道を開くため、首相の意を受けた財界の有力者が、松平宮司に對し、A級戰犯の移轉を説得したが、頑迷な宮司は、これを間き入れなかつたので、首相は參拜中止を選擇した。』

 頑迷固陋は自覺してをります(笑)。が、『A級戰犯』といふ東京裁判史觀をそのまゝ認めたうへ、邪魔だから合祀された御祭神を移せといふ。とても容認できることではありません。參拜をやめたのも、官司が惡いからだと、ひとのせゐにする。

『靖國神社は國家機關ではなく、一宗教法人であつて、政府の干渉を排除できるといふのも一理ある。だが、それなら、首相や閣僚に公式參拜を求めるのは、越權・不遜である。』

 そんな人々には、案内出してませんよ(笑)。昔は權宮司が敬意を表して、總理に案内状をもつていつた。しかしある時期から、止めさせたんです。だからこの時點では、そんな案内を出してゐません。同誌の結論は、かうです。

『頑迷な一人の宮司のために、靖國間題で國論を分裂させたのは許しがたい。かうした不合理を正せないなら、早急に適當な土地に、戰沒者と公共の殉職者を祀る公的施設を建設し、靖國神社による戰沒者獨占をやめさせるべきだ。その建設費のための國債の發行には贊成する。』

 『戰沒者獨占』なんて、御靈を何だと考へてゐるのか、まるでモノのやうに思つてゐるんでせうか。そんな腹立たしい例は、きりがありませんが、もう一つ紹介しますと、元外務次官で國策研究會理事長の法眼晋作氏の書いたものです。法眼氏は中國の公使に、『滿洲事變・日中戰爭は、わが國の貴國に對する侵略だから、貴國の青年諸君が詰るのは文句をつけない。しかし戰歿者を祀る神社を、首相以下が公式に參拜して、何が惡いのか』と話問したところ、中國の公使は、『同神社には、戰犯が祀られてゐるからだ』と説明した。それで、

『調べてみると、戰犯の人達は、昭和の殉難者として合祀されてゐる。これは筆者にとつて、大きい驚きであつた。一つには、筆者は、同神社は戰歿者のみを祭神としてゐると信じてゐたからであり、二つには、戰犯達は被害者ではなく、加害者であるからだ。中曾根首相は中國との紛爭を避けるため、戰犯者の合祀を止めるやう要請したが、同神社の宮司は、それを峻拒したといふ』。

とありまして、法眼氏は、さらに『東京裁判は國際法違反だから認めない。しかし戰犯は、日本を戰爭へ驅りたてた軍の横暴を阻止しえず、むしろ助長した』。さう述べたあと、

『日米戰爭も充分避けえたのであり、米國の要求した中國からの撤兵・三國同盟の無效化・南部佛印進駐の北への引き揚げは、すべて實行出來た筈なのだ』――つまり『ハル・ノート』の言ふ通り、アメリカの言ふがまゝにできたはずだ、と。『また交渉が行きづまつた場合、直ちに米國攻撃へ直進する必要もなかつた』――眞珠湾になだれ込む必要もなかつた、といふわけです。

 しかしこれは、結果の出た後代だからこそ言へることであつて、果して當時の状況で、本當にそんなことができたのかどうか。またアメリカの言ふ通りにしてゐたら、本當に大東亞戰爭は避けられたのか。あるいはもつと悲惨な事態になつてゐたかもしれません。アジアは依然として西歐の植民地だつたかもしれないし、逆にアジア全域が共産化してゐたかもしれない。歴史がどちらにどう動くかなんて、誰にも判らないことでせう。結果として、武運つたなく敗れたにせよ、おのゝゝの立場で國を思ひ、責を負つて、國のため命をささげた人々です。それを敵國が貼つた『戰犯=戰爭犯罪者』といふレッテルをそのまゝにして、あゝもできたはずだ、かうもできたはずだ、加害者だと、一方的に後代から裁く。それはあまりにも反史學的で、同情心のない見方だと思ひます。

と、こんなことを言ふからでせう、法眼氏は最後に、『靖國神社の間題の宮司を含み』――問題の宮司‥‥(笑)、『日本には、他にウルトラ・ナシヨナリスト(超國家主義者)乃至シヨービニスト(熱狂的愛國者)が多數存在する‥‥』。結局、私はウルトラのシヨービニストにされてしまひました、東條さん以下を合祀したといふことで。

 これまで述べたやうなことで、少し分つていただけたかもしれませんが、靖國神社といふのは、決して平穩な神社ではありません。政治的に非常に壓力のかゝる神社です。それは左からの壓力だけではなく、さうでないところからもかゝつてくる。一見『愛國』・『憂國』を裝つた形でもかゝつてくる。だから、ともかく『權力に迎合したらいけない、權力に屈伏したら、ご創建以來の純粹性が目茶苦茶になつてしまふ。權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない』といふことを、次の宮司(大野俊康宮司)への一番の申し送りにいたしました。

 祖父の春嶽松平慶永は、時の大老井伊直弼と對決したのが、『安政の大獄』の引金となり、結局隱居、護愼處分を受けながらも、己れの信念を曲げなかつた。そんなことも時に思ひ出して過してきた、この十四年間でございました」と。
 
 

靖國神社境内から、政治家を叩き出せ。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 5日(水)21時02分34秒
返信・引用 編集済
   同志・下山陽太氏より、電話到來。癡呆の靖國神社宮司、遂に祭祀大權を犯し、反逆を圖らむとす、と。仰天情報『週刊ポスト』の記事を紹介せられたり。

 國立國會圖書館調査及び立法考査局『新編・靖國神社問題資料集』(平成十九年三月・國立國會圖書館刊)の第一に掲ぐるは、『癸丑(嘉永六年)以來、唱義精忠、國事に斃るゝ者の靈魂を慰し、東山に祠宇を設けて、之を合祀せしむ』(太政官布告・『法令全書』第三八五・明治元年五月十日・京都東山招魂社創建の御沙汰書)である。明治天皇には、何と仰せ出だされしか、能く見られたい。曰く、

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 大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ばされ度く、既に豐太閤・楠中將の精忠英邁の御追賞、仰せ出だされ候ふ。就ては、

癸丑以來、唱義精忠、天下に魁けして、國事に斃れ候ふ諸子、及び草莽有志の輩、寃枉、禍ひに罹る者、少なからず。此れ等の爲す所、親子の恩愛を捨て、世襲の祿を離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨、四方に濳行し、專ら舊幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或は搢紳家を鼓舞し、或は諸侯門に説得し、出沒顯晦、萬苦を厭はず、竟ひに身を抛ち候ふ者、全く名義を明かにし、皇運を挽囘せんとの至情より盡力する處、其の志、實に嘉みす可し。尚ほ況や國家に大勳勞有る者、爭(いかで)か湮滅に忍ぶ可けんや

と、歎き思し食され候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、且つ其の忠魂を慰めされ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等の靈魂を永く合祀致さる可き旨、仰せ出だされ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事。


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 また『靖國神社誌』(天覽・台覽を賜ふ。明治四十四年十二月二十六日發行・四十五年六月五日改訂再版。平成十四年八月、神社本廳教學研究所より「近代神社行政史研究叢書Ⅳ」として復刻影印)に收むる所の『關東鎭臺日誌』明治元年六月二日──諸道戰死の者、招魂合祭、千代田城大廣間に於て修行され、其の『祭文』に曰く、



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 懸卷くも恐き令旨を以て宣はく、天皇が大命にませ。宣はく、

鷄が啼く吾嬬の國に、仕へ奉らず、不禮なる(徳川)慶喜が罪を問はせ

と宣り賜ひて、大總督竝びに道々の軍の總督に任し賜ひ、日月の大御旗を降し給ひ、將士を依し賜へば、隨へる皇御軍は、倭手纏(しづたまき)、身も棚知らず、勇み健らひ、山往かば艸生す屍と、荒山の嶮岨き坂も、駒の爪岩根さぐくみ、海往かば水漬く屍と、八重浪の逆卷く灘も、大船に眞梶繁貫、進みに進めば、梓弓射向ふ者なく、武藏野の原の、薄の吹く風に、靡くが如く、其の首魁慶喜は、兼ねて恐み恐れて罪に伏しぬれば、江戸の大城に入りしかども、道知らず醜の奴の、五月蠅なす騒ぎ競ひて、大雪の亂るゝ如く、浮雲の散亂(あら)くる如く、東の國、諸々の道、此處の隈、彼處の岳に、屯み集ひて、尚ほ皇御軍に害なひ奉らむとす。

 故れ其の形を聞食して、更に御軍を班ち遣し、彼の山のそぎ、此の河の瀬に、追ひ拂ひ討ち窘めて、速けく功成しぬれども、亦た道々の御軍の中に、命過ぐぬる人等有りと聞食して、悔しび賜ひ和び給ひて、宣はく、

「恐き將士等の、身も棚知らず、いそしみ仕へ奉りしに依りて、此如く大きなる業は成し得し物と、歡び勇み御座しましつゝも、今、將士等の命過ぐぬる事を所思し食せば、古へ、楠のあそ(朝臣。正成公)が、國の爲めに仕へ奉りし勞きにも竝びぬべく思ほしめしつゝ、歎き賜ひ悲しみ賜ひ、御音哭かし賜はく

と宣る。又た宣はく、

恐き臣等の如く、如此く身を捨て勞き仕へ奉れる事をば、朝夕・夜晝と无く、歎き賜ひ悲しみ賜ひ、辛み痛み御座ますに依りて、いかで、其の魂の往方を、後輕く心も安穩に思ひ、安息まるべく慰め賜ひ治め賜はむとして、此の殿内を、假の靈床と祝ひ定め、神籬指し榮し、備へ奉る物は、青海原に住む物は、鮨の廣物・鮨の狭物、大野の原に生る物は、甘菜・辛菜・毛の和物・毛の荒物に至るまで、横山の如と雜へ取り備へ、此の千代田の片山に生ひ立つる五百枝榮木を折り取りて、明る和幣・照る和幣を取り付け、うづの太玉串と持ち添へて、備へ賜ふ大御幣帛を、足幣帛の豐幣帛と、請ひ給へりて、今日の此の御行事の床に、招ぎ奉りたる兵士の幸御魂・奇御魂、天翔り國翔り、天皇が御代をば、常磐に堅磐に守らひ幸はひ、仕へ奉る臣等を始めて、此の大城に集ひ侍らむ御軍の内にも、喪なく事なく、平けく安けく、彌や勤めに勤め、彌や猛びに猛ばしめよ」

と宣り給ふ、令旨を宣る。


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 靖國神社創建の聖旨は、靖國神社宮司・徳川康久、及び其の一味によつて、今、當に踏み躙られようとしてゐる。「討つ者も、討たるゝ者も、心せよ、同じ皇國の、人と思へば」とは申せ、抑も敕宣の大御言により、皇御軍を祭祀する齋庭が、別格官幣社・靖國神社である。

 徳川幕府・明治内戰の賊軍を慰靈す可からずとは、誰人も云はぬ。會津の悲劇は、孝明天皇の信頼し給ふと雖も、當今天子の日月錦之大御旗に抗し奉つた罪は、遂に免れざる所である。大西郷を崇敬すること、小生も人後に落つる所では無い。最近の研究では、大久保甲東は奸物小人にして、有馬義正先生を讒言、田中河内介を瞞着、之を謀殺して出世(西郷南洲顯彰會『敬天愛人』第三十四號・平成二十八年)し、且つ刺客を遣はして大西郷の殺害を圖り、大久保追討の擧に至らしむと云ふではないか。洵に皇國の悲劇、之に過ぐるものは無いと謂はねばならぬ。

 然し賊軍を慰靈祭祀する庭が、靖國神社では無いことは、聖旨の依つて來る所、明々白々である。此の道理が、何故ゑ分らぬか。「日本の爲め」ならば、皇師に反して、錦之御旗に抗するも已む無しとせば、國民道徳、何を以て樹てむとするか。夫れ靖國神社合祀の規準は極祕にして、陸軍省の内規に基づき、戰後も其の軍務を繼續嚴修する所にして、合祀基準を見直さんか、彼方は如何、此方は如何と、收拾は着く可からず、俄かフアンの政治家や呆けた新米宮司の出る幕では無い。

 靖國神社存立の危機、當に迫らんとす。常識的に見て、靖國神社總代會は、賊軍合祀を受付けぬと確信するが、何しろ「鎮霊社」の再開を認めた總代會だ。油斷はならぬ矣。幕府軍に、勤皇の志士を殺しまくつた新撰組まで、靖國神社に祀れとは、不見識極まりない──これら戰後人は、小説・漫畫の讀み過ぎにして、呆れ果てゝ言葉も失ふ。

 「日本の爲め」、「近代日本の爲めの志士」と申し、聖旨を無視して、私見を逞しうするならば、幸徳秋水は如何する、二二六の將校は如何する。「癸丑以來」も擴げて、「紀元以來」にするか。高山赤城先生は、物部守屋大連は、如何する。ついでに最近人氣の賊將、平將門・足利高氏も祀るのか。答へてくれ給へ。合祀は、本殿なのか、「鎮霊社」なのか、新しき祠なのか、教へて賜れ。

 靖國大神には、諾ひ給はざる所、亦た尊皇の亡魂も、聖旨を畏み奉つて、合祀を遠慮される所なれば、靖國神社正統護持を掲ぐる者、いかでか之を默視すべき。當に「保守の敵は保守」(松平永芳宮司)である。宮司徳川某や政治家共を、靖國神社から叩き出せ。私見我慾の爲めに、靖國神社を利用する者、或は調査研究もせず、不見識者に同調する者、決して之を許す可からず。文章亂れて不通、怒りが込み上げ、泪が溢れ來つて、筆が全く進まぬ。乞ふ、愚が微意を汲んで、此の義憤を共にせられむことを。血涙不具。



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●『靖國神社百五十周年、西郷隆盛や幕府軍の合祀計畫が急浮上』(『週刊ポスト』平成二十八年十月十四・二十一日號)

○「賊軍」も合祀なら、靖國神社の意義も一變

 來る平成二十九年に、創立百五十周年を迎へる靖國神社が、歴史的な大轉換點を迎へるかもしれない。靖國に祀られるのは、「國のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた當時の「國=明治政府」に刃向かつた幕府軍・會津軍や、西南戰爭で敗れた西郷隆盛らは、「賊軍」となるため、祀られる「資格」がない。

 だが、彼らの合祀を求める會を、國會議員らが立ち上げ、靖國神社に申し入れをするといふのだ。發起人を務める保守派の重鎭、龜井靜香・衆院議員が言ふ。

「日本は戊辰戰爭・西南戰爭といふ内戰を經て、近代國家に生まれ變はつた。當時は、薩長と幕府・會津が二手に分かれて對立したが、敗者がゐるからこそ、爭ひが鎭まつた。明治維新から百五十年も經つのに、内戰の死者が、『賊軍』として祀られないのはをかしい。そこで有志に呼びかけて會を立ち上げ、靖國神社に合祀を求める申し入れをすることにした。」

 歴史を繙くと、靖國神社のルーツは、明治二年に建てられた「東京招魂社」に遡る。戊辰戰爭・士族の亂などで命を落とした薩摩・長州軍らを、「官軍」として慰靈顯彰し、明治維新を偉業として後世に傳へるための社だつた。そのため官軍と戰つて破れた幕府軍・會津軍らは、「賊軍」とされ祀られなかつた。明治十二年に、社號が「靖國神社」に改められて以降も、「賊軍史觀」は變はつてゐない。

 これに一石を投じたのが、現在の靖國神社宮司・徳川康久氏である。第十五代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ徳川宮司は、徳川家康を祀つた芝東照宮に奉職した後、靖國神社の宮司となつた。「賊軍の長の末裔」が、「官軍を祀る神社のトップ」に就任したのである。

 二十五年一月の就任時、「幕末の動乱期、曾祖父の慶喜は、身を挺して朝廷と御所を守つた」と發言して注目された徳川宮司は、今年六月に、共同通信のインタビユーで、自らの「明治維新史観」を一歩進めて、かう語つた。

「文明開花といふ言葉があるが、明治維新前は、文明がない遲れた國だつたといふ認識は間違ひだつた、といふことを言つてゐる。江戸時代はハイテクで、エコでもあつた。」

「私は賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。ただ價値觀が違つて戰爭になつてしまつた。向かう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になつた。」

 「公式見解」を覆す、靖國神社の根幹にかゝはる大膽な發言だつたが、記事は一部の地方紙にのみ掲載されたのみで、反響は少なかつた。しかし本誌『週刊ポスト』七月一日號が、「徳川宮司『明治維新といふ過ち』發言の波紋」とのタイトルで、大々的に報じると、状況は一變し、靖國關係者や政界關係者に、大きな波紋を呼んだ。

○宮司は、「私も、さう思ふ」

 龜井氏も、本誌報道に影響されたと明かす。

「私は、以前からこの問題に關心があり、ポストの記事が出た後、徳川宮司に會つて、『それでは、具體的に靖國合祀を呼びかけますよ』と話した。三年ほど前、徳川宮司に、『賊軍が祀られてないのはをかしい』と尋ねると、『私も、さう思ふ』と言はれたことがあつて以來、ずつと構想を練つてゐた。」

 靖國神社への『合祀申し入れ書』は、すでに作成濟みで、こんな文面となつてゐる。

白虎隊や新選組・西郷南州(西郷隆盛)・江藤新平などの賊軍と稱された方々も、近代日本のために志をもつてゐたことは、勝者・敗者の別なく認められるべきで、これらの諸靈が、靖國神社に祀られてゐないことは、誠に殘念極まりないことです。

有史以來、日本人が育んできた魂の源流を、今一度鑑み、未來に向けて憂ひなき歴史を繼いでいくためにも、靖國神社に、過去の内戰においてお亡くなりになつた全ての御靈を合祀願ふやう、申し出る次第です。

 龜井氏によると、今囘の申し入れには、森喜朗氏や福田康夫氏ら首相經驗者、二階俊博・自民黨幹事長ら與黨幹部、さらに野黨議員など、七十人を超える政治家の贊同を得てゐるといふ。

「山口(長州)出身の安倍首相にも、『申し入れ書』は渡してある。政教分離の原則があるから、立場上、『やれ』とは言へないだらうが‥‥。多くの政治家に受け入れられてゐるが、自民黨の日本會議系議員の何人かは、反對のやうだ。彼らは皇國史觀に立ち、『なぜ今さら、賊軍を祀るのか』といふ考へ方なので、話にならない(苦笑)。」

 この十月初旬にも、龜井氏・森氏、そして民進黨の原口一博・衆院議員の三氏が、靖國神社に赴き、徳川宮司に文書を手渡す豫定だ。

○會津は「戊辰戰爭の總括を」

 政界重鎭たちによる申し入れは、無視できない重みがありさうだが、そもゝゝ靖國神社への合祀は可能なのか。靖國神社は、この動きについて、「存じてをりません」とした上で、「當神社は、明治二年の御創建から終戰に至るまで、當時の國の合祀判斷に基づき、その都度合祀が重ねられてまゐりました。當時に遡り、その基準を變更することはございません」と、否定的だ。

 だが戰後、靖國神社は、國家機關から民間の宗教法人となつた。そのため、合祀の可否は、神社の最高責任者である宮司の判斷に委ねられる部分が大きい。昭和五十三年十月には、當時の松平永芳宮司の判斷【注】で、A級戰犯十四人が合祀されてゐる。龜井氏は、自信を見せる。

A級戰犯とは異なり、中國も文句は言はないだらう。神社と一體となつて事業を行なふ靖國神社崇敬奉贊會の理解が必要なので、同會の扇千景會長(元國交相)にも根囘しを進めてゐる。ただし最終的な權限は宮司にあるはずなので、徳川宮司の背中を押したい。

 今囘の申し入れについて、當事者の受け止めは樣々だ。明治維新後、司法卿として司法制度確立に盡力した江藤新平は、征韓論を唱へた西郷隆盛に同調して下野した後、「佐賀の亂」を起こして敗れた「賊軍」だが、佐賀縣選出の原口一博・衆院議員(民進黨)は合祀に贊同し、提出者を買つて出た。

「『亂』といふ表現は、支配者サイドからの觀點であり、佐賀縣民は、江藤の反亂を『佐賀の亂』ではなく、『佐賀の役』と言ひます。支配者側の一方的な見方ではなく、日本の夜明けのために命を失つた方々を、改めて評價するのは重要なことです。英靈を鎭魂する場である靖國に敗者を合祀することで、平和への祈りにもなるはずです。」

 一方、戊辰戰爭の「賊軍」代表、會津出身の小熊愼司・衆院議員(民進黨)は、「合祀には贊成」としつゝも、複雜な思ひをのぞかせる。

「戊辰戰爭では、會津側の戰死者が、長期間、放置されるなど、非人道的行爲もあつた。元治元年の蛤御門の變では、會津と薩摩が御所を守り、長州が御所に發砲した賊軍です。それなのに、維新後、その長州で維新への功績もない人物までが祀られたのは、明らかにをかしい。單なる官軍と賊軍の戰ひといふ見方を改めるためにも、合祀の前に、戊辰戰爭の總括が必要です。」

 會津藩が、戊辰戰爭で降伏した九月二十二日に、會津で行なはれる會津戊辰戰爭慰靈の集ひでは、さつそくこの話題が上がつたといふ。しかしながら合祀は、靖國神社の意義を揺るがしかねない問題を孕む。『靖國誕生――幕末動亂から生まれた招魂社』の著者で、歴史家の堀雅昭氏が指摘する。

「靖國神社は、紛れもなく明治維新の官軍對賊軍といふ戰ひの延長線上にある神社です。西郷以下、西南戰爭を戰つた面々は、鹿兒島の照國神社に祀られてゐる。それゞゝの故郷で祀られ、語り繼がれることで、賊軍として戰つた意味や、維新の『負の側面』が語り繼がれます。安易な合祀は、賊軍の行爲まで蔑ろにしかねない。なによりこれを認めたら、靖國神社が依つて立つ歴史的基盤が、をかしくなつてしまひます。

 贊否兩論が渦卷く靖國合祀。當の龜井氏も、敗者側の複雜な思ひを認める。

「新たに合祀する側の遺族の意向は聞きません。なかには、複雜な感情を抱へて、『もう、觸れないでくれ』といふ方もゐるだらうが、これまでも、合祀に遺族の了承は取つてゐない。われゝゝが崇敬の心をもつてお祀りするといふこと。合祀については、あとは宮司の對應を待つのみです。

 折しも平成二十八年の大河ドラマが「西郷隆盛」に決まり、賊軍側に注目が集まつてゐる。靖國神社の歴史觀と自らの信念の間で、宮司は、どのやうな判斷を下すのだらうか。


**********


【注】は、次稿にて、更めて述べてみたい。
 
 

御讓位の濫觴。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 3日(月)23時30分35秒
返信・引用
  ■『日本書紀』

 伊弉諾尊、神功、既に畢へたまひて、靈運當遷。是を以て幽宮を淡路之洲に構り、寂然かに長く隱りましき。亦た曰く、伊弉諾尊、功、既に至りぬ。徳、亦た大きなり。是に天に登りまして、報命したまふ。仍りて日之少宮に留り宅みましぬ。‥‥



■『古事記』

 天照大御神、高木神の命以ちて、太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に詔りたまはく、「今、葦原中國、平け訖へぬ、と白す。故れ言依さし賜へりし隨に、降り坐して知看せ」とのりたまひき。爾に其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命の答白したまはく、「僕は降りなむと裝束せし間に、子、生れましつ。名は、天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命、此の子を降すべし」とまをしたまひき。



●伊藤博文公『皇室典範義解』

 恭みて按ずるに、皇室の典範あるは、益々其の基礎を鞏固にし、尊嚴を無窮に維持するに於て、缺くべからざるの憲章なり。‥‥將來、已むを得ざるの必要に由り、其の條章を更定することあるも、亦た帝國議會の協贊を經るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は、祖宗に承け、子孫に傳ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。又た臣民の敢て干渉する所に非ざるなり。‥‥

第六十二條。將來、此の典範の條項を改正し、又は増補すべきの必要あるに當りては、皇族會議及び樞密顧問に諮詢して、之を敕定すべし。

 恭みて按ずるに、皇室典範は、天皇、立憲を經始したまへる制作の一として、永遠に傳へ、皇室の寶典なり。本條、其の紛更を愼しむの意を致すなり。抑々憲法に據るに、其の條項に改正を要することあるときは、之を議會の議に付し、特に鄭重なる方式に依り議決せしむ。而して皇室典範に於ては、獨り皇族會議と樞密顧問に諮詢するに止まり、憲法と同一の軌轍に依らざるは、何ぞや。蓋し皇室の事は、皇室、自ら之を決定すべくして、之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり。



 愚、謹みて案ずるに、今の度の玉音放送、天皇陛下には、昭和天皇の攝政時代の御囘想を親しく聞召され、或は香淳皇后の御晩年を經驗され給うた上の叡慮に坐しました(『文藝春秋』平成二十八年十月號)。非理法權天なり。畏し矣。

 皇室典範起草に當つた法制家の柳原前光伯、或は井上梧陰子は、「至尊と雖も人類」として、讓位あるが望ましい(皇室典範原案)と述べ、戰後進駐下に、憲法と皇室典範が變更された時も、貴族院に於いて、南原繁議員(東大教授)と佐々木惣一議員(京大教授)の二人が、讓位を認めるべきだと論じた記録が殘つてゐる(市村眞一博士『平成二十八年の秋に思ふ──陛下の「おことば」を拜聽して』──『日本』平成二十八年十月號)由。

 「御意向は、天皇としてのお務めを長年にわたり、全身全靈をもつて果してこられた御體驗をもとに、日本の神々に最も近き座にをられ、人の上に立たれる天皇のお立場について、熟慮を重ねてこられた御省察によるものと拜される。御高齡ゆゑに、『讓位制適用』の御希望を示唆された今囘の御提起は、事柄の性格上、天皇のお立場にあられるお方にしか出來ないことであつた。‥‥退位して、陛下の御一身が樂になるといふためではない。國にとり、國民にとり、また陛下のあとを歩まれる皇族方にとつて、『高齡天皇の御讓位』といふ對策案が、『最も望ましい天皇御在位の在り方』には、必要不可缺と思はれるが故の、率直な大御心の表明であつた」(大岡弘翁『天皇陛下の「讓位の御意向」に想ふ──今上陛下への讓位制の適用について』──『國民同胞』平成二十八年九月十日)。

 天皇陛下には、畏れ多くも「國民の理解を得られることを、切に願つてゐます」との玉音を下し給へり。國民、之を謹まずんば、何をか謹しむ可き。萬が一、此の御「切願」を奉らざることあらむか、皇國の存在意義は、音を立てゝ崩れ、國民精神は、復び興ることはあるまい。
 
 

『御皇室』は不敬、『御英靈』・『英靈達』は誤用なり矣。改めざる可からず。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年10月 2日(日)01時42分34秒
返信・引用 編集済
   近年、「御皇室」なぞと申し上げる御方、殊に宗教關係者に多く見られるが、年來、些か可笑しいのではないかと、獨り存じ寄つた所、かつて九段塾塾頭・泉水隆一翁の言擧げに曰く、

「英靈を口にする時、丁寧語のつもりで『ご』をつけて、『ご英靈』と云ふ風潮がありますが、をかしいからやめなさい。『お社長』と云ふやうなものです。『英靈』が尊稱です。それと『英靈たち』と云ふ、『たち』と云ふ言葉は俗語と竝列語なので、これもやめなさい。『英靈』は複數形なので、『たち』をつける必要もなく、また失敬にあたります。確かに合祀祭の祝詞奏上の一文に、『英靈たち』と云ふ言葉はありますが、それは神々に對して、人間側の卑稱として使はれてゐます。小生らにしてみれば、聞き苦しい。靖國神社の廣報でも、ずいぶん注意してゐますが、やはり若い神官が多いので、つい『たち』をつけてしまひがちです。皆さんが正道にもどして下さい。東條由布子さんが、テレビなどで『ご英靈』とよく口にされてゐるので、正しい呼稱のやうに思はれてゐますが、『英靈』と直裁的に口にするのは、ご婦人には言ひにくいので、東條さんは『ご英靈』と言はれてゐるのでせう。あの方は言葉がきれいなので、耳障りが良く聞こえますが、それでも間違ひは間違ひなのです。戰前は、ご婦人方が英靈のことを口にするのは憚かれるきらひがありましたから、なかゝゝ難しいんですね。とりあへず下々の一般人である皆さんが、『英靈たち』・『兵隊たち』・『彼らは』・『日本軍』・『ご英靈』、これだけは禁止事項にされることが望みです。‥‥松平永芳宮司が、最も嫌つたこと、『ご皇室』は無禮。皇』の前に出る言葉は、日本語にはない」と。

 洵に然り。小生は、「御説の通り、『御英靈』は、『御皇室』等と共に、宜しからずと存じます。『御』の一字は氣をつけたいものですね」と應じました。小生が、泉水隆一翁に御挨拶申し上げた、これが當に最初の出會ひでありました。『御皇室』・『御英靈』については、翁の口酸つぱく仰る通り、過ぎたるは及ばざるが如し、却つて慇懃無禮にして不敬と存じます。如何してもと云ふ方には、『皇大御室』・『英御靈』をお勸め致します。然し此の漢語呼稱は、一般に不通ですね。

 敬語の復活こそ、喫緊の課題であります。是れ、皇室の尊嚴を守る所以に他なりませぬ。然し松平永芳宮司は、「『御皇室』てふ日本語は無い」と仰つた。泉水隆一翁は、「『皇』の前に來る字は無い」と申された。かやうな苦言忠告は、聞いても耳に入らぬやうな御方は、一度、伊勢の神宮に拜趨して、彼の大御札を拜戴し、目を瞠つて能く見るがよろしい。さう云へば、「御皇室」なる辭、平泉澄先生の書で、かつて一度も見たことはありませぬ。

 本日、岡田則夫翁より、柿之舍中澤伸弘博士『一般敬語と皇室敬語がわかる本』(平成二十八年七月・錦正社刊。國學院大學にて、神職を志望する學生に向けて行つた講義をまとめたものが基と云ふ)を拜戴した。曰く、

「この頃、『御皇室』・『御皇族』などと、皇室用語に、やたらと『御』を付けることが目立ちます。使用する側は、敬意を表したつもりなのですが、これは誤用です。そもゝゝ『皇』の字は、古代支那において、天帝を意味する重要な字で、容易に使へる文字ではありませんでした。我が國でも鎌倉時代に、伊勢の内宮と外宮の間で、この字の使用をめぐる『皇字沙汰文』などと言ふ爭ひが生じたのも、このためです。『皇』の文字そのものに、恐れ多い敬意がありますから、こゝに『御』をつける必要がありません。その字が、古代支那において、天帝などと關連する敬意のある語の場合は、『御』はつける必要はないのです」と。

 洵に然り。當に援軍、溜飲を下げる思ひであります。亦た最近に目にし、皇民に對して、殊に注意を喚起したいものを、こゝに掲記しておきたいと存じます。



■文部省・昭和十七年六月『標準漢字表・簡易字体』(小池和夫氏『異體字の世界──舊字・俗字・略字の漢字百科・最新版』平成二十五年九月・河出文庫刊に所引)に曰く、

一、皇室典範・帝國憲法・歴代天皇の御追號・詔勅を印刷または書寫する場合には、簡易字体を使用しない」と。



【參考/國語問題協議會編『皇室敬語』(平成二十一年八月刊)】
  ↓↓↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1069
 
 

有識者会議の人選について

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年 9月26日(月)20時03分37秒
返信・引用
  目下気になるのは、今上陛下の譲位を検討する『有識者会議』。

座長が経団連で、メンバーの中に女系天皇推進論者の御厨がいる。
それ以外の人選で、保守系や皇族方、皇室にゆかり
のある学者・人物が含まれていない。
このメンバーで果たして問題はないのだろうか?


生前退位 菅義偉官房長官、有識者会議設置を発表


 菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で、天皇陛下がご意向を示された「生前退位」への対応に関し、同日付で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設置すると発表した。会議設置の目的について菅氏は「天皇陛下が82歳とご高齢であることを踏まえ、天皇の負担軽減について、予断をもつことなく議論を進める」と話した。

 会議のメンバーは経団連の今井敬名誉会長、東京大の御厨貴名誉教授と山内昌之名誉教授、千葉商科大の宮崎緑教授、慶応大の清家篤塾長、上智大法科大学院の小幡純子教授の計6人で構成する。来月中旬にも初会合を開き、安倍晋三首相も出席する方向で調整している。

 6人の有識者を決定した理由に関し、菅氏は「高い識見を有すると同時に組織の経営、管理や会議の取りまとめに経験豊富な方々だ」と説明。有識者会議の進め方については「憲法、歴史、皇室典範などさまざまな専門的知見を有する方々からヒアリングすると同時に、課題や問題点を整理して国民に伝えて議論を深め、提言を取りまとめる」と述べた。
 

徳川宮司は『明治維新は過ち』と発言したのか?

 投稿者:愛国主義者  投稿日:2016年 9月26日(月)19時46分31秒
返信・引用 編集済
  備中處士様

ご無沙汰ぶりです。昨年以来ですが
少し気になりましたので、投稿させていただきます。

記事を見る限り徳川氏の言葉に、
どこも明治維新が過ちなどという言葉は無い。

徳川宮司が、靖国神社の宮司であり、違った視点からの異論を
話しただけなのに、まるで徳川氏が『明治維新は過ち』と発言してる
ように印象操作している。その『本のタイトル』に『明治維新の過ち』
と記載してあるだけではないか!

本人が発言していないのに、あたかもそういう趣旨で発言し
たように読者に混乱を起こさせている。

確かに、明治維新にも見直さなければならない部分もあろう。
当時のお抱え外国人である、ドイツ人のエルヴィン・フォン・ベルツ
氏も明治のインテリ・エリート層が自国を卑下し、西洋に迎合している
様をみて当惑し・不快感を抱いていた。

そういう趣旨で見直す分野においては十分に行うべし。

>「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。

そんな動きはありません。明治維新を否定的
にとらえた書物が2冊出版された程度ではないか!

例えば近頃やたらに『田中角栄』を誉めそやす
番組が出ているのと同じ流れかな???
 

安倍民主幕府の不逞不忠。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 9月26日(月)18時11分20秒
返信・引用 編集済
   天皇陛下には、先月八日、御讓位の大御心を宣明あそばされた御事に關して、風岡典之宮内廰長官は、「これから主に内閣官房での檢討になるが、出來るだけ優先的に對應して戴きたい。速かに檢討が進むことを願つてゐる」(平成二十八年九月二十一日・定例記者會見)と述べた。

 安倍晉三「日本國總理大臣」は、之を容認すること能はず、今、目を疑ふべき次の記事に遭遇した。若し事實とすれば、一葉の落つるを見て、天下の秋を察するに足り、一斑を見て全豹を卜するに足れり。首相とは、内奏が可能であるし、畏れ多きことながら更なる大御心の眞意を伺ひ奉る立場であつて、草莽の我々とは違ふ。安倍首相には、其の勇氣も識見も、固より無いと云ふことか。

 所謂るオフレコか否かは知らぬが、「お氣持ち表明に關し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」とか申すゴロツキ、「陛下が思ひとどまるやう、動くべきだつた」とか嘯く不敬の徒輩を明かにせよ。傲然たる態度が見てとれる。之を聞かせ給はゞ、天皇陛下には、如何に思召さるゝや。

 法律は、權・天に勝たず。非理法權天の大旆、高くはためくは、或は近きに在るかも知れぬ。聖上の大御心を遮る者を、君側の奸と謂ひ、明かなる敕語に從はざる者を、逆賊と謂ふ。鼓を撃ち、攻めて可なり矣。



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●時事通信・平成二十八年九月二十五日

 宮内庁長官の風岡典之氏が二十六日付で退任し、山本信一郎次長が長官に昇格、後任の次長には、西村泰彦内閣危機管理監が就任する。

 天皇陛下のお氣持ち表明に至る過程で、宮内廰の對應に不滿を持つた首相官邸が、人事で「てこ入れ」を圖つたやうだ。

 宮内廰幹部の異動は春が通例で、風岡氏も、當初は來年三月末まで務めるとみられてゐた。政府關係者は、退任が早まつた理由について「お氣持ち表明に關し、誰かが落とし前をつけないと駄目だ」と語つた。

 陛下の生前退位のご意向が官邸に傳へられて以降、杉田和博官房副長官らは、退位の自由は憲法上認められてゐないと判斷し、負擔輕減策の檢討を進めてゐた。さうした中で、陛下のお氣持ち表明の動きが表面化した。官邸は宮内廰に對し、「陛下が思ひとどまるやう、動くべきだつた」(關係者)と、辛口評價だ。

 宮内廰次長には、事務次官經驗者が、各省の顧問などを經て就任する例が多く、西村氏の「官邸直送」は異例。警察出身者の起用は二十二年ぶりで、同じく警察出身の杉田氏の意向が反映されたとの見方がもつぱらだ。西村氏は、來月から始まる「天皇の公務の負擔輕減等に關する有識者會議」の事務局に、宮内廰を代表して參加する。


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戰後保守の僭上、遂に大權干犯に至る。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 9月 5日(月)22時01分22秒
返信・引用
  『「靖國神社」の内紛──「歴史修正」と訴訟沙汰で大搖れ』(『選擇』平成二十八年八月號)

 徳川(康久。慶喜公曾孫)宮司は、「自らの主張は個人的なものにとゞめて、戊辰戰爭をめぐる靖國神社の見解を修正するやうなことはしない」と明言してゐる。ところが、護國神社關係者によれば、今年の職員に對する年頭挨拶で、「理念を見直すことも必要」と、公言したされる。神社關係者の間には、「今後、發言を重ねることで、『歴史修正』を圖らうとしてゐるのではないか」との疑念が募り始めてゐる。

 事は、それだけで收まらない。神道政治連盟國會議員懇談會の龜井靜香衆院議員が、「官軍と同じやうに國を思つてゐた徳川軍や會津軍、西郷南洲翁を祀つてゐないのはをかしい」と、「賊軍」も合祀するやう、徳川宮司に直接要求すると、徳川宮司は、「私もをかしいと思ふ」と、同調したといふ。しかもこの懇談會の會長は、安倍晉三首相その人である。

 龜井氏は、さらに石原愼太郎元東京都知事を卷き込んで、雜誌『月刊日本』八月號の「靖國神社は西郷ら賊軍を祀れ」と題する對談記事で、持論を繰り廣げた。幕府軍・會津藩はじめ、奧羽越列藩同盟・西郷隆盛翁らに觸れて、「彼らも國を想ひながら戰つたことに變はりはない」と、徳川宮司とまつたく同じ見解を示した上で、「恩讐を超えて、全ての犠牲者をお祀りすべきだ」と力説したのだ。‥‥

 石原氏も、「戊辰戰爭・西南戰爭の犠牲者。だつてみんな仕方なしに戰つたんだ。さういふ人たちを慰靈しないのはをかしい」と、首肯してみせた。‥‥平仄を合はせた龜井氏と石原氏の對談が、靖國神社で浮く徳川宮司にとつて、追ひ風に働いたことは間違ひなく、靖國神社の存立の礎を、その根幹から變容させる、強力な援軍になり得るのだ。‥‥

 歴史觀や教義などの形而上的な問題ではなく、徳川宮司が被告となつてゐる、地位確認請求訴訟といふ、極めて通俗的な問題も、この社の背に重くのしかゝる。訴訟は、職員に對するパワーハラスメントを理由に、神職から事務員に降格された元權禰宜が、懲戒處分の無效と權禰宜の地位にあることの確認を求めて、東京地裁に訴へたものだ。‥‥

 裁判は、六月から始まつてゐるのだが、事情を複雜にしてゐるのは、この元權禰宜と徳川宮司が、國學院大學文學部神道學科の同級生であること。しかもその縁で、芝東照宮の權禰宜を務めてゐた徳川氏が、靖國神社の宮司に招かれたといふ經緯があるからだ。いはゞ元權禰宜は、本來なら徳川宮司の側近中の側近であるはずだが、パワハラを理由に降格と譴責といふ、嚴しい懲戒處分を受けたのだ。

 さらには、そのパワハラの内實が、昨年十月、秋季例大祭に參列した皇族に供するお菓子を、掃除中の女性職員が、擔當でもないのに受け取り、これを目撃した元權禰宜が叱責したことなのだといふ。皇族の口に入る食品の安全確保といふ、危機管理の觀點からすれば、今後、同樣のことがないやう注意を促すのが當然だが、元權禰宜だけが處分された。さすがに靖國神社内にも、この扱ひを疑問視する聲が噴出したといふ。

 處分を主導したのが、元權禰宜と疎遠だつた幹部職員であつたことから、「徳川宮司といふトツプを挾んだ權力鬪爭の結果」といふ見立てのほか、「神社のあり方と運營方針をめぐる對立・混亂の象徴」との解説まで囁かれてゐる。眞相は、まだ藪の中だが、この不可解な處分の背景にある神社内の確執が、裁判を通じて表沙汰になる公算が大きい。


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 愚案、靖國神社創立の由緒、即ち明治天皇の聖旨である「理念を見直すことも必要」と嘯く、徳川康久宮司。「『わが國の眞の自立と再生』をキヤツチフレーズとする民族系の保守雜誌として、右派の關係者に愛讀されてをり、その影響力は看過できない」と云ふ『月刊日本』。共に其の識見、其の志向を知るに足る。

 抑も此の戰後保守共、一體、靖國神社を何だと思つてをるのか。何でも吼えれば、己が思ひ通りになるとでも‥‥。何なら、何處ぞの宗教法人でも乘取つて、「新たなる崇敬神社」でも創めては如何。別格官幣社たる靖國神社には、關はり無いことである。
 
 

大御心を仰ぎ奉らば、直ちに御應へ申し上げる道を講ず可し矣。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 8月11日(木)18時46分20秒
返信・引用 編集済
  平成二十八年八月八日の玉音

 戰後七十年といふ大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎へます。私も八十を越え、體力の面などから、樣々な制約を覺えることもあり、こゝ數年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思ひを致すやうになりました。

 本日は、社會の高齡化が進む中、天皇もまた高齡となつた場合、どのやうな在り方が望ましいか、天皇といふ立場上、現行の皇室制度に具體的に觸れることは控へながら、私が個人として、これまでに考へて來たことを話したいと思ひます。

 即位以來、私は國事行爲を行ふと共に、日本國憲法下で、象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつゝ過ごして來ました。傳統の繼承者として、これを守り續ける責任に深く思ひを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあつて、日本の皇室が、いかに傳統を現代に生かし、いきゝゝとして社會に内在し、人々の期待に應へていくかを考へつゝ、今日に至つてゐます。

 そのやうな中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加へて高齡による體力の低下を覺えるやうになつた頃から、これから先、從來のやうに重い務めを果たすことが困難になつた場合、どのやうに身を處していくことが、國にとり、國民にとり、また私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考へるやうになりました。既に八十を越え、幸ひに健康であるとは申せ、次第に進む身體の衰へを考慮する時、これまでのやうに、全身全靈をもつて象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じてゐます。

 私が天皇の位についてから、ほゞ二十八年、この間、私は、我が國における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして來ました。私はこれまで、天皇の務めとして、何よりもまづ國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考へて來ましたが、同時に事にあたつては、時として人々の傍らに立ち、その聲に耳を傾け、思ひに寄り添ふことも大切なことと考へて來ました。天皇が象徴であると共に、國民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が國民に、天皇といふ象徴の立場への理解を求めると共に、天皇も、また自らのありやうに深く心し、國民に對する理解を深め、常に國民と共にある自覺を、自らの内に育てる必要を感じて來ました。かうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は、天皇の象徴的行爲として、大切なものと感じて來ました。皇太子の時代も含め、これまで私が、皇后と共に行つて來た、ほゞ全國に及ぶ旅は、國内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同體を地道に支へる市井の人々のあることを、私に認識させ、私がこの認識をもつて、天皇として大切な、國民を思ひ、國民のために祈るといふ務めを、人々への深い信頼と敬愛をもつてなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齡化に伴ふ對處の仕方が、國事行爲や、その象徴としての行爲を限りなく縮小していくことには、無理があらうと思はれます。また天皇が、未成年であつたり、重病などにより、その機能を果たし得なくなつた場合には、天皇の行爲を代行する攝政を置くことも考へられます。しかしこの場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまゝ、生涯の終はりに至るまで、天皇であり續けることに變はりはありません。

 天皇が健康を損なひ、深刻な状態に立ち至つた場合、これまでにも見られたやうに、社會が停滯し、國民の暮らしにも樣々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に當たつては、重い殯(もがり)の行事が、連日ほゞ二ケ月にわたつて續き、その後、喪儀に關連する行事が、一年間續きます。その樣々な行事と、新時代に關はる諸行事が同時に進行することから、行事に關はる人々、とりわけ殘される家族は、非常に嚴しい状況下に置かれざるを得ません。かうした事態を避けることは出來ないものだらうかとの思ひが、胸に去來することもあります。

 始めにも述べましたやうに、憲法の下、天皇は國政に關する權能を有しません。さうした中で、このたび我が國の長い天皇の歴史を改めて振り返りつゝ、これからも、皇室が、どのやうな時にも、國民と共にあり、相たずさへて、この國の未來を築いていけるやう、そして象徴天皇の務めが、常に途切れることなく、安定的に續いていくことを、ひとへに念じ、こゝに私の氣持ちをお話しいたしました。

 國民の理解を得られることを、切に願つてゐます。


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●『梅松論』卷六「天下一統の事・元弘三年」に曰く、

「古に興癈を改めて、(後醍醐天皇には、)『今の例は、昔の新儀なり。朕が新儀は、未來の先例たるべし』とて、新なる敕裁、漸く聞えけり」と。



●廣瀬豐海軍大佐講述『松陰先生士規七則』に曰く、

「吉田松陰先生は、後年、幕府が敕命に從はずに、米國と通商條約を結びましたときに、長州藩の役人どもが、『今にも天皇樣の思し召しがお變はりになるかも知れないから、しばらく天下の形勢を見てゐたらどうだ』といふ意見がありましたときに、先生は、『たゞ今は、たゞ今の敕命を奉じてをればよい。もし後で思し召しがお變はり遊ばされたならば、またその通りに行へばよい。これが日本人の第一義である。なにも躊躇する必要はない』と、意見を上申されてをります」と。

 愚案、『要路の役人に與ふ』(安政五年七月十三日。全集第四卷に所收)に曰く、

「(叡慮)改まり候ふ共、叡慮に隨ひ候はゞ、道義において、何の不可あらんや哉」と。

天皇陛下には、固より法律に超然たり。叡慮遵奉、是れ皇國の道義、皇民の基礎なる可し矣。



 テレビも新聞も、「生前退位の意向」と大書せり。何だ、この言の葉は──。これが進駐日本語なるものか。何故ゑ、「御讓位の叡慮」と書かぬ。歴史的用語、敬語を知らぬ訣ではあるまい。故意に、汚き言靈を撒き散らして憚らぬ、癡者共なるかな哉。呆れ果てゝ、五内、爲めに裂かんとす。

 明治天皇には、不磨の憲法典を定めさせ給うた。昭和天皇には、進駐憲法の破棄せられざる中、皇國の再建に當らせ給ひ、今上天皇、亦た「象徴」てふ新しき在り方を探らせ給ふ。明治天皇、皇室典範を埀訓し給へり。然れば平成の天皇陛下、讓位の舊制を復興させ給ふこと、如何でか成し能はずと云ふこと無からむ矣。神さびたりとも、神さびたり。

 小堀桂一郎は、かつて己の意見が通らねば、所謂南北朝の再來を先導せむと放言せし逆賊。「何よりも、天皇の生前御退位を可とする如き前例を、今敢へて作る事は、事實上の國體の破壞に繋がるのではないかとの危惧は、深刻である。全てを考慮した結果、この事態は、攝政の册立を以て切り拔けるのが最善(平成二十八年七月十六日・産經新聞)とは、不敬が過ぎて、耄碌も甚だしいと謂ひつ可し。夫れ「太上天皇」の濫觴は、伊弉諾尊の「日之少宮」御隱棲に在り。宇内統治の大權は、天皇陛下、之を執らせ給ふは、伊弉諾尊の御依任を承け給へる、至高至貴の天照大神に同じい。

 案の定、チヤンネル櫻の政治ゴロが吼えてゐる。何でもかんでも、女系云々に結びつけ、謀略と妄斷して、保守を僞裝しながら、世を扇動して已まぬ。又候ろ、デモもやりかねない勢ひ。西尾と云ひ、小堀と云ひ、水島と云ひ、此の類、どうにかならぬか。如何に言葉を飾らうとも、不敬至極、實に憎む可し。吁、腹悶、醫し難し。

 水島総等の曰く、「陛下の御心を忖度すべきでは無い」と。ほんとかね。皇國の大事に關することは、遙かなる大御心を思ひ、小生は之を考へることにしてをるのだが‥‥。彼奴等は、蓋し天○機關説の連中だから、私見が何より優先なるべし。私見、即ち「從我の心は、何より起ると尋ぬるに、私欲のみ」(『講孟箚記』)。また一歩を轉ずれば、則ち謀叛の萌芽なり。未然に討つて可なり。
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 『正論』平成二十八年九月號に、八木秀次なる者の投稿。「天皇陛下は、ご自身が在位して頂くだけで十分にありがたい」として、「公務の輕減が、陛下のご意向にかなふのではないか」と、獨り勝手に推論し、あまつさへ「別なテーマでもご意向が示されることがあるとすれば、皇室の尊嚴が傷つくことにもなりかねない」さうだ。何だ、これは。法律馬鹿の機關論者、御仲間が、何と衆きことよ。

 安倍晉三首相は、第二囘目の夏季休暇にて、ゴルフに興じ、更に歸省を圖る由。大御心を仰ぎ奉らば、直ちに御應へ申し上ぐべく、直ちに命令を發す可きに、天皇陛下の御下問に對し奉り、言を左右にして、公論世論の動向を待つ爲體。時間を措いたら、「憲法に抵觸する」ことを免れる由。笑止千萬、何をか曰はんや。此の識見からしても、全く期待することは出來ない。

 「萬機、公論に決すべし」。是れ即ち明治天皇の、有り難くも示され給うた大原則だ。昭和天皇、畏くも紹述され給ふ。然し、だ。知らずや、宇内には、此の公論にも優先される大事あつて、新たなる大御法となることを。大御心を、只管ら仰ぎ奉れ。大御心には、皇大御神の經綸が沿はせ給ひ、新儀・先例となる矣。「承詔必謹」、此の四大字、是れ有るのみ而已。畏くも發せられ給ひし「」なる叡慮に對し奉り、皇民たる者、直ちに御應へ申し上げる道を講ず可きなり。
 
 

泉水隆一監督を御偲びして‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 7月12日(火)23時50分35秒
返信・引用 編集済
   今から數へて十五年前、平成十四年の「七月十三・十四日」は、靖國神社遊就館に於いて、泉水隆一監督作品『凛として愛』が上映されましたが、「十五日」には、總代の小田村四郎等の策謀に因つて中止させられました。有志には、泉水監督の肉聲を、是非とも御聞き下さい。
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【ニコニコ動畫】
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【九段塾版筆記】
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■泉水隆一翁『靖國神社製作「凛として愛」撮影ご協力頂いた皆様方へ』
【九段塾版筆記】
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 而して平成二十二年七月「十六日」に歸幽、今から七年前の事であります。復び遊就館に於いて、『凛として愛』が上映される日は、果して來るのであらうか。否、只管ら其の日を期し、祭神の導く所、熱く御待ち申し上げたいと存じます。

 現在の靖國神社宮司は、「官軍」を「西軍」と稱し、敢へて歴史の改竄を犯すのみならず、遂に「聖旨」を、明確に否定するに至りました。宮司の思惑の如何にかゝはらず、理の趨く所、遊就館の閉鎖も‥‥。當に靖國神社「祭祀の危機」と謂はねばなりませぬ。一人でも多くの御方が、今こそ、九段塾々頭・泉水隆一監督の志を繼承し、且つ恢弘されむことを、懇祷して已みません。敬白
 
 

絶望的だからこそ‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 7月 9日(土)13時44分11秒
返信・引用 編集済
   本日、岡山縣愛國者協議會の岡田則夫翁より、荒魂之會『會報あらたま』平成二十八年七月十日發行第百五十九號(千葉市の駒井鐵平翁主宰)を郵送して戴いた。本間一誠氏『「あらたま刊行四十周年」の囘顧』より、

「四十年以上前の荒魂之會發足以來、ずつと變らない緻密な年間計畫を以て、現在も營々と會が運營されてゐることには驚嘆するばかりで、強い信念と使命感なくして出來ることではない。例會における年間の課題圖書として、毎年提示されてゐる書物を見ても、そのレベルの高さと志操の一貫性には、脱帽の他はない。それに比べれば、ろくな勉強もせず、殆ど空しく流れた己の數十年が悔やまれるが、今更仕方がない。‥‥

 昭和五十七年六月、東京で福田恆存氏を圍む、あらたまの懇談會があつた。席上、福田氏は、『正假名遣については、もう絶望的でせう』と發言された。それを聞いて、咄嗟に、『私どもは、先生の『私の國語教室』を讀んで覺醒したのです。當の先生が、さう仰有られても困るのですが』と、愚かなことを言つてしまつた。忽ち福田氏の面上に、嚴しい色が表れ、

絶望的だから、いいんです。絶望的だからこそ、人生は生きるに値するんです

と、強く叱責された。あの時の恥づかしさは、今に忘れられない。今年、小學校に入學した初孫の國語教科書を見た。學年別漢字配當もそのまま、文章の幼稚さも、四十年前と、何も變らない。何も、である。あの時の福田氏の激語が、耳朶を打つ」と。



 昨日、高校の同窓生より電話あり。何してゐるのと問へば、何と、元空軍一佐の由。親米與黨に一票を、と。世は、選擧一色、絶望感が漂ふ‥‥。共○黨や公○黨と與む者、邪蘇教徒に、入れる心算は、固より無い。

 穗積八束博士『憲法提要』に曰く、 「皇位と國家とは、合して一體と爲す。其の合一する所以は、天皇の意思、即ち國家意思を爲すことに存す。略して之を言へば、天皇、即ち國家たり」と。然し天皇即國家論は、「日本のため」と、皆な云ふ現代では、誤解を招く。事には、本・末、前・後あり。第一義は、尊皇に存し、國益・利民は、其の次だ。先づは尊皇の大義、國體の闡明を掲げよ。

 千家尊福大人の曰く、「上は天皇陛下の御爲め、下は國家・國民の爲め、幸御魂・奇御魂を鮮明にし、忠誠を以て、皇基を擁護すると同時に、和衷共同、以て事に當られんことを」と。國家・國民の事は、暫く措け。上、第一義が確固たらば、下、自から成らむ。第一義を高く掲げぬ者、小生は、之を信用しない。
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艸木もの言ふ、此の現の世に生きて‥‥。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月24日(金)19時02分13秒
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  ~承前~

●佐久良東雄大人の哥

かゝる時 心のどかに ある民は 木にも草にも 劣りてあるべき



 『週刊ポスト』平成二十八年七月一日號を拜見。

 徳川康久宮司の曰く、「私は、賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。たゞ價値觀が違つて、戰爭になつてしまつた。向かふ(明治政府軍)が、錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が、賊軍になつた。この問題を、堂々と提起していく」と。

 此の「こちら」と云ふ物云ひ、ありもしない「西軍」の稱の改竄‥‥、當に公私混同、靖國神社宮司として不適格の證でせう。「向かふ」である祭神は、如何に思召されたであらうか。慶喜公は公爵の榮を賜はり、名譽囘復はされてをります。此の上に、何を御望みですか。曾祖父公の如き謹愼は、片影も窺はれず、なほも「堂々と問題を提起」されるさうです。此の放言、此の爲體、日々の祭祀は、嚴重敬肅となり得ませうか。何方か、明治天皇の聖旨を、大御心を、御傳へ申し上げて下さい。
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 大原康男氏の曰く、「官軍・賊軍は、當時の見方にすぎず、歴史には、その時々の觀點がある。宮司は、歴史解釋の見直しや、幕府側戰死者の合祀を望んでをらず、特段の問題はない」と。

 大原先生、變られましたなあ。萬物、流轉して已まざるものゝ中に、不易の道を求めることは、もう、諦めましたか。徳川宮司への諂ひにも似て、見苦しいですぞ。此の言葉、祭神に向つて申し上げられますか。「合祀」は望まずと雖も、「鎮霊社」とやらの施設で、「幕府軍戰死者」を呼び込んでをられます。大きなる「問題」ではありませぬか。
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 なほ安倍晉三首相は、會津に於いて、「先輩が迷惑をおかけしました」と挨拶した由。世の中、此の手の部類が衆いのでせうね。それにも拘らず、首相は、迷惑をかけた先輩を祀る「靖國神社を參拜したい」と。ちと、平仄が合ひませぬなあ‥‥。政治家特有の二枚舌、或は八方美人でせうか。誠と云ふものが、全く見えません。參拜は遠慮されむことを、強く切に御勸めいたします。

 靖國神社宮司が、創建の御趣旨に、堂々と問題提起すると云ふ、耳を疑ふが如き靖國神社存立の危機に對して、吾人は、更めて聖旨を拳々服膺し、あくまで松平永芳・大野俊康兩宮司の精神に立ち復るべきであります。此の精神に復らむと欲するの間には、色々なる艱難辛苦がありませうが、少しも之を恐れず、日々嚴肅に、且つ快活に、各々の本分を盡し、謹んで聖旨を奉戴し、大御心に應へ奉ることを御誓ひ申し上げようではありませんか。
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靖國神社宮司不適格の發議を。

 投稿者:備中處士  投稿日:2016年 6月20日(月)22時10分14秒
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   靖國神社、遂にこゝまで來たか、の感を深うする。

 泉水隆一監督『靖國神社の眞實』(平成二十二年十二月・二十四年四月・洛風書房刊)を讀んで下さつた方々は、既に御承知の筈。泉水隆一翁の豫言が、遺憾乍ら、的中してしまひました。本道に無念です。

 泉水隆一監督の曰く、「いづれの宮司も、覺悟信念は、尋常ではなかつた。それが、靖國神社の正統を繼承し續けて來た。それが、今は絶えようとしてゐる。俗化したからである。覺悟を祕めた宮司、不在のためである。松平・大野宮司退任以降、俗塵が舞ひ上がる一方である。神社が俗なら、集ふものも俗人ばかりとなる。次の宮司は、誰か──。まさか、南部家に繼いで、徳川家にゆかりの者でないことを願ふばかりである。神聖神域に、ほど遠くなりつつある現在の靖國神社を、嚴肅正統に復歸させる。明治天皇の聖旨に從ふべき道筋に戻すには、尊皇一筋の者でなくてはならないが、果たしてそのやうな者が、現今、ゐるものかどうか」と。

 松平永芳・大野俊康兩宮司の悲願を否定して來つた、湯澤貞・南部利昭・京極高晴・徳川康久の歴代宮司の罪は、萬死に價する。「鎮霊社」を公開した以上、今日の宮司發言の出づる所以は、蓋し既定路線でありませう。「怨親平等」とか、中子の教義を靖國神社に持込んだ、「神佛分離令」を批判する總長を戴く神社本廳の意圖を感じざるを得ませぬ。

 明治天皇の聖旨を否定し、私見を逞しうする靖國神社宮司‥‥。「公私混同」は現代の流行ださうだが、宮司になるべからざる御方は、固より宮司職を拜辭すべきでありました。吉田松陰先生『講孟箚記』に曰く、「天子の命を奉ぜずして、敵國相征するは、何程の正義に依ると云ふとも、義戰にあらず」と。「價値觀の相違で、戊辰戰爭になつてしまつた」と云へば、大義名分は立たぬではないか。皇國の教學は、何處に在りや。相對價値の個人主義者では、靖國神社宮司は勤まるまい。總代會の臨時開催を、強く希望したい。

 靖國神社第十一代宮司・徳川康久氏は、徳川慶喜公の令曾孫と云ふが、其の「血統」は傳へ得ても、義公以來の水戸學の「道統」は繼承してをられぬやうだ。遊就館に寶藏される「錦旗」は、畏れながら、代々木大神樣へ奉還されるが宜しいか、と。
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靖國神社の徳川康久宮司「明治維新といふ過ち」發言の波紋 /平成二十八年六月二十日

 靖國神社が搖らいでゐる。來る平成三十一年に迎えへる創立百五十周年に向けて、徳川康久宮司が語つたインタビユー記事の發言が、波紋を呼んでゐるのだ。

 記事は、共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(靜岡新聞六月九日付、中国新聞六月十日付)に掲載されたのみだつた。ところが、地方でしか讀まれないはずの記事が、各界の識者の注目を集め、にはかに論爭へと發展してゐる。

 徳川宮司は、靖國神社が抱へる課題や、神社の將來像について語つた後、「明治維新を巡る歴史認識について發言してゐますね」といふ質問を受けて、自らの「明治維新史觀」を開陳した。以下が、宮司の發言だ。

『文明開化といふ言葉があるが、明治維新前は、文明がない遲れた國だつたといふ認識は間違ひだ、といふことを言つてゐる。江戸時代はハイテクで、エコでもあつた。』

私は、賊軍・官軍ではなく、東軍・西軍と言つてゐる。幕府軍や會津軍も、日本のことを考へてゐた。ただ價値觀が違つて、戰爭になつてしまつた。向かふ(明治政府軍)が、錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が、賊軍になつた。

 一連の發言が波紋を呼んだのは、靖國神社創建の「原點」に關はるからだ。靖國神社のルーツは、明治二年に建てられた東京招魂社に遡る。

 明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と、徳川家や會津藩が中心の「幕府軍」が爭ふ「戊辰戰爭」が勃發。勝利を收めた明治政府軍が「官軍」、敗北した幕府軍は「賊軍」とされた。

 この時、明治維新を偉業として後世に傳へ、近代國家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰靈顯彰するため、明治天皇が創建したのが、東京招魂社だ。明治十二年に、社號が「靖國神社」と改められて、現在に至る。

 それゆゑに「賊軍對官軍ではなく、東軍對西軍」とする發言は、靖國神社の歴史觀を搖るがしかねないと受け止められたのだ。

 靖國神社にある遊就館に展示されてゐる「錦の御旗」には、「戊辰戰爭で、官軍の象徴として使用された」との解説があるやうに、靖國神社の見解は、あくまで「明治政府軍=官軍」だ。

 發言の背景には、徳川宮司の出自が關係してゐる。徳川宮司は、徳川家の末裔であり、「賊軍」の長であつた十五代將軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀つた芝東照宮に奉職した後、靖國神社の宮司になつた。「賊軍の末裔」が、「官軍を祀る神社のトツプ」に立つたわけである。

 「明治維新史觀」の見直しは、最近のムーブメントだつた。昨年一月に發賣された原田伊織氏の『明治維新といふ過ち──日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)が、ベストセラーになつたことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋經濟新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立つた歴史觀を見直す論考が、相次いで發表されてゐる。

 その流れで、徳川宮司の發言が飛び出したことで、騒動が擴大してゐるのだ。著書で、「薩長史觀」を鋭く否定した原田氏は、徳川宮司に同調するかと思ひきや、意外にも「發言は中途半端」と手嚴しい。

「明治維新當時、東軍・西軍といふ言葉は、ほぼ使はれてゐません。徳川家や會津藩に賊軍といふレツテルを張つたのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問はず、當時、ありもしなかつた言葉に置き換へて流布するのはをかしい。また靖國の持つ歴史觀を見直さないのは、欺瞞です。「官も、賊もない」と言ふならば、まづ靖國神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」

 そんな意見が飛び出すほど、今回の發言は衝撃だつた。波紋が廣がる徳川宮司の發言について、靖國神社は、「創建の由緒から鑑みて、『幕府側に對する表現や認識を修正すること』を、神社として行なふ考へはなく、今後も同樣の考へが變はることはないとの發言と、理解してをります」と囘答した。

 宮司は、百五十年間封印されてゐた、パンドラの箱を開けてしまつたのか。

※ 週刊ポスト/平成二十八七月一日號
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http://news.livedoor.com/article/detail/11663872/

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